季節は巡り、また新しい春がやってくる。
桜は咲き乱れ、風に流され桜吹雪が舞い落ちる。
――そんな春に、俺は彼女と出会った。
あれは俺が大学二年になった春のこと。
進学を機に地元を出て、都内で一人暮らしを始めた俺。
慣れないながらも新生活を始め、そうして大学生活もスタートする。
友達もそれなりにできて、サークルにも入り、そうして学友たちと共にキャンパスライフを、青春の日々を送っていた。
時が過ぎるのはあっという間で、気付けば大学に入って二回目の春を迎えた。
すっかり日々の生活にも慣れて、平坦な毎日は流れていく。
新学期を迎え、学年は上がり、新しい一年が始まった。
――しかし、平凡な日々は突如として崩れ去った。
俺が住むアパートの近くに廃墟があった。
アパート周辺はなだらかな坂道が多く、丘のような形状になっている。
最初は厄介な地形と思っていたけど、慣れた頃には坂道からの風景が好きになっていた。
そんな道を毎日行き来して通学していた俺であるが、ずっと気になっていたことがあったのだ。
なだらかな坂をずっと上っていくと、大きな建物がチラリと顔を覗かせる。
その建物の前を通ると、どうやらそれは廃墟であることが判明した。
丘のてっぺんに寂しく佇む廃墟。
廃墟の入り口は立ち入り禁止の表示と鎖で阻まれているだけだった。
ぼうぼうと伸びた雑草が茂り、全体を覆い尽くすほどの蔦が絡まる建物。
何の施設だったのかは不明であるが、二階建ての大きな廃墟が妙に気になって、その存在が頭から離れなかった。
別に廃墟好きとかそういう趣味があるわけでもない。
自分でも何故なのか分からないけれど、寂しげでどこか美しさも感じる不思議な建物が気がかりだった。
まるであそこだけ時間が止まったような、祭りの後のような―― そんな虚無感に惹かれていた。
――そうして俺は廃墟に侵入してしまった。
ある春の夜。
まるで「スタンドバイミーだ」などと浮かれていた俺は、遂に廃墟の中へ足を踏み入れようと決意した。
冒険心半分、そしてこの心に引っ掛かった何かを早く晴らせればという思い半分。
大学から帰宅して、夕飯をチェーン店で済ませ、そうしてまた帰ってきて準備に取り掛かる。
準備といっても廃墟までは数分ほどで到着するので、持ち物は懐中電灯くらいだった。
やがて俺の目の前にはあの廃墟が姿を現す。
だらりと緩み、錆がかった鎖を難なく跨いで浸入する。
もし誰かに管理されていて通報でもされたら―― そんな危惧は頭になかった。
懐中電灯で照らし出された廃墟は不気味で、どこか恐怖も感じたけれど冒険心の方が勝っていたのだ。
そしてあっけなく廃墟内に侵入し、数分かけて探索に励む。
しかし中はもぬけの殻だった。
当たり前といえば当たり前か。
廃墟になってどれくらい経っていたか分からないが、少なくともここ数日、数年でそうなったわけではないことがどう見ても明らか。
うちっぱなしで亀裂が入ったコンクリートの部屋、床や窓枠から飛び出す草木。
なんだか期待外れで空回りした感じになったけれど、一階の探索を終えて二階へ回った。
二階も一階同様特にこれといって気になるものはなかった。
それでも心につかえた何かは晴れた気がしたので、興ざめした感は否めなかったけれど廃墟を出ようと踵を返す。
――そんな時だった。
二階のとある部屋にいた時、外界の風景がふと目に入った。
なだらかな丘のてっぺんに位置するこの廃墟。
その二階から外を眺めれば、そこにはとても綺麗な景色があった。
そこから見える下界の景色―― 街の明かりがどこまでも続き夜を彩って、空には満月が浮かんでいる。
屋上から見たらどれだけ素晴らしい景色だろうか―― それに気が付いて、やがて俺は廃墟の屋上を目指した。
はやる気持ちを抑えて屋上への階段を上る。
そうして屋上に到達した。
何も遮るものはない、どこまでも続く春の夜空。煌々と浮かぶ満月。
その下にはどこまでも続くミニチュア模型のような建物と、そこから漏れる明かり。
世界の広さと、ちっぽけな自分と、止まった時間――
ぼーっと突っ立って、ただただ景色に見惚れていた。
こんなにも素晴らしい世界があったのか…… その時俺はそんな風に感じていたと思う。
まるで世界を独り占めしているようだった。
そうして景色を充分堪能し、「また後で来ようか」などと決めて廃墟から出ようと動き出した。
――その時だった。
屋上を出ようと踵を返したとき、振り向いたとき――
そこには女がいた。
女が―― 空から降って来た。
これは夢か? いや、そんなはずはない―― それではこの光景は一体何だ?
一瞬で混乱状態に陥る脳内。
とてもじゃないが受け入れることはできない現実。
空から降って来た女の背には、なんと黒い羽が生えていた。
猛禽類のそれのように大きな羽はボロボロで、襲われていたのか羽毛が散乱している。
それはまるで堕天使のように――
その時俺は思わず腰を抜かして尻餅をついた。
当たり前な反応だろう。空から羽を生やした人間が―― いや、人間じゃないかもしれないが、そんな者が降ってきたら誰だってこうなるに決まっている。
そしてどれくらい時間が経ったか―― 俺は勇気を出して立ち上がる。
女は怪我でもしているのか倒れたまま身動き一つしない。
震える足を一歩一歩踏みしめて、その女へ近づいた。
そして彼女の目の前までなんとか近づいてしゃがみ込み、目を閉じて倒れる女をまじまじと眺めてみる。
――彼女は儚げで、妖艶で、不思議で、とても美しかった。
長く艶やかな黒髪と、くっきりとした目鼻立ち。雪のように白い肌と、ツンと上を向いた睫毛。美術品のような面……
空から降って来た天使―― 女は目を閉じたまま身動き一つしない。
もしや死んでしまったのか…… そう思ったけれど、女の胸がその時脈打ったのを確認する。
死んではいない、出血も見られない、しかしどうすれば――
そう思って対応に困っていたら。
――淡いスカーレットの瞳が俺を捉える。
二度目の衝撃―― なんと女の目が開いた。
彼女の瞳はとても綺麗で、澄んだスカーレットだった。
そんな双眸が突如開かれ、俺をジーッと見つめる。
何も言えなかった。
何か掛けるべき言葉があるはずなのに、俺はその瞳に捕えられて何も言えなかった。
そして三度目の衝撃がやってくる。
――女は突然上体を起こし、そして俺に襲い掛かった。
刹那の間だった。
女は目を開けたかと思えば、今度は状態を起こして一瞬で流れるように俺に飛びかかった。
細い彼女の体からは全く予想できないような怪力が俺を襲い、そして一気に倒される。
倒された俺の上に覆い被さる女。
連続で俺を襲う衝撃。
――そして四度目。
女はまるで我を失ったような状態で、荒い呼吸をしながら俺の首筋へと顔を近づける。
俺は何も抵抗できない。金縛りに遭ったように固まった体。
目の前には女の顔―― 彼女は口を大きく開ける。
(まるで吸血鬼)
そんな風に感じた。
大きく開いた口、並び生えた歯。
その犬歯は長く、そして鋭く尖っているではないか。
そう、それはまるで吸血鬼そのものだった。
俺はこの怪物に殺されるのか?
死にたくない、しかし体は動かない。女の顔はもう俺の首元へ――
――五度目。
女が俺の首筋に噛み付こうとしていたその時、俺を押さえつけていた力が急になくなった。
そして、女は気を失って倒れた――
まるで嵐のように、全ては一瞬だった。
何が起こったというのか、事態の収拾がつかない。
女は気絶して、背から生えた大きな翼は淡い光とともに消えて―― 後に残ったのは女の体の柔らかな感触と、仄かに漂う蜜の香り。
――始まりは突然に。
それが俺と彼女の出会いだった。
衝撃のアクシデントから時は流れる。
――あれは一体何だったのか。
夢ではないようだった。
あの夜の出来事は俺の脳裏に焼き付いて剥がれる事はない。
――あの女は俺の前から姿を消した。
まずはあの夜、女が気を失ってからのことを話そう。
気を失った女。俺に覆い被さって倒れた女。
呼吸はしていたので命に別状はないと思った。
しかしこの女をどうすればいいのか―― 俺はその対応に困窮していた。
救急車を呼ぼうか―― しかし見たところ怪我している箇所も見受けられないし、出血もないし。
それが適切な処置だったかどうかは分からない。
俺は女を抱えてアパートへ帰った。
とりあえず部屋に運んで目が覚めるまで待とう―― そういう結論に至ったからだ。
依然として混乱したままであったが、そうして俺は女を部屋まで運んだ。
女を俺の部屋まで運んで、それからベッドに寝かせる。
女の様子を随時確認しながら、俺は平静を取り戻すことに努めていた。
――刻々と夜は更けていく。
それから数時間、女は目を覚ます素振り一つ見せない。
俺は頭を整理する為にシャワーを浴びて、それからまた女が目を覚ますのを待つ。
女の呼吸は実に安らかになっていた。眠っているようにも見えた。
彼女は一体何者なのか?
これが夢であったならどれだけ良かったか―― しかし、これは紛れもない現実。
翼が消えた女は普通の人間そのものだった。
安らかな呼吸で眠る彼女―― 真っ白なTシャツ、薄手の黒いカーディガン、スキニージーンズという、世間一般の女性と何も変わらない格好。
俺はもう一度様子を窺う。
サラリと伸びる黒髪、服の上からでも漂ってくる魅惑的な体つき、珠のように滑らかな肌。
うっかり触れれば壊れてしまいそうな、そんな儚げな雰囲気と吸い込まれるような妖しさ。
俺はいつの間にか彼女へ手を伸ばしていた―― しかし、「駄目だ!」と正気を取り戻して引っ込める。
冷静になりもう一度女を眺めると、彼女の呼吸は俺の睡魔を呼び起こす。
もう今夜は目を覚まさないだろう―― そう感じたので、俺も眠ることにしたのだった。
――そして女は姿を消した。
それから翌朝のことだった。
ソファーで眠った俺…… 慣れない体勢で寝たためか首が僅かに痛む。
キシキシと軋む体を起こして伸びをした時だった。
女がいなくなっていた――
そういえば昨夜、女をベッドに寝かせたんだっけか―― 起きて早々思い出してベッドを一瞥すると、彼女が消えていた。
それからはもう動転して、大慌てで部屋中を探し回る。
ユニットバスにもいない、ロフトにもいない―― そうして玄関に辿り着くと、女の履いていたパンプスが無くなっていた。一度玄関扉を開けて外を確認するが誰もいない。
そう―― 女は俺が起きる前に部屋を出て行ってしまったのだ。
虚脱感、虚無感、喪失感―― ぼーっとして、やがてトボトボとリビングへ戻る。
せめて何かメモでも何でも残してくれたら良かったのに―― 何も言わず帰ってしまうなんて。
そう思いながら再びリビングへ戻ると、違和感が俺に訪れる。
最初は動転していて気が付かなかった。
リビングの床、フローリングの床に空になった缶ジュースが転がっていた。
それは俺がケース買いして愛飲していたトマトジュース。
床に転がる空き缶からは僅かに残ったトマトジュースが流れ出ていた……
俺は昨夜これを飲んでいない、そうなると…… もしや――
――人の家の飲料を勝手に飲んで、そして女は帰って行った。
なんと傍若無人な女だろう。一晩世話になった人間にお礼一つ言わないばかりか、人の家のものにまで手を付けて帰って行くとは―― 全ての事実が明かされるまで、俺はそんな風に憤慨していた。
――ともかく、こうして女は俺の前から消えたのだ。
それからはいつも通りの日々。
大学へ行き講義を受けて、サークル活動に励み、休みには友人と遊んで。
これまでと変わらない青春の日々を送っていた。
あの夜の出来事はそれからも忘れることはなかったけれど、徐々に薄らいでいった。
まあ、ああいうこともあるさ―― そうやって記憶の片隅へ押しやって蓋を閉じた。
そうして日々は過ぎ去っていく。
やがて4月は終わりへと近付いていた。
――あれは運命だったのかもしれない。
いつも通りの一日、あの日の日程は確か四限までだった。しかしその日、その四限の講義が休講になっていたのだ。
そういえば前回の講義で教授がそう言ってたっけ―― とにかく早く帰れることになった俺はサークルもない日だったのでゆっくり過ごそうと思っていた。
友達は皆違う講義があったので、俺は三限が終わると一人で帰った。
せっかく余裕ができて課題もないし、たまには街をぶらぶらするか―― 少しウキウキ気分だった俺はそうして街へ繰り出しふらふらしていた。
暮れなずむ夕刻。真っ赤な夕日が西の地平線へ消えていく春の夕方。
充分楽しんだ後、俺は街からアパートへ戻っていた。
その道すがら、ふと狭い路地に喫茶店を発見する。
その店はチェーン店ではない、個人経営で昔ながらの喫茶店だと思われた。
(コーヒーでも一杯飲んでから帰るか)
何事も経験だ。
俺はその店の雰囲気に興味を惹かれ、そして入ってみることにした。
――まさかあんなことが起こるとは。
喫茶店の入り口扉を開けると、懐かしく感じるようなドアベルの音が鳴る。
中は一人で来た客がまばらにいるだけで、夕時にも関わらず空いていた。
俺はどこの席に座ろうかキョロキョロと辺りを見回す。
そんな時だった。
いらっしゃいませ―― と、涼やかで綺麗な旋律が店の奥から発せられる。
澄んだ綺麗な声に迎えられて、俺はその声がした方へ顔を向けた。
――顔を向け視線を辿った先、そこにはなんと。
俺の目は大層大きく見開いていたことだろう。
口がぽかんと開きっ放しになり、言葉にならない掠れた音が情けなく漏れる。
それは向こうも同じだったようだ。
俺の視線の先には―― どういうわけかあの夜出会った女がいたのだ。
彼女はシックなエプロンドレスを身に纏い、俺と同じように澄んだスカーレットの瞳をこれでもかと見開いて、口をぽかんと開けて、呆然として突っ立っていた。
女はどうやらその店の店員であるらしかった。
こうして俺と女はなんともおかしく運命的な再会を果たしたのだった。
まさかあの女が喫茶店の店員だったなんて――
予期せぬ再開を果たした俺たちは、傍から見ればまるでお笑いのコントそのもののように映っていたことだろう。
今でも鮮やかに蘇る。あの日を忘れることはない。
「あ、あなたは――!」
俺の第一声は確かそんな風だったと思う。
「いらっしゃいませ―― お一人様ですか? お好きな席へどうぞ」
対する女は俺の様子など気にする素振り一つ見せず、最初こそ驚愕していたが、その後は努めて冷静に振舞う。
今でも思い出し顔が綻ぶほどだ。
女はまるで面識などなかったように振舞い、席に着いた俺にお冷を出す。
「あの、あなたは――」
「ご注文はお決まりですか?」
「アイスコーヒー一つお願いします」
「かしこまりました―― 少々お待ちくださいませ」
そうして女は注文の品を持ってくる。
彼女がこちらへ来る度に俺はあの夜のことを尋ねようと何度も窺ったが、女はそれをうまくかわして自分の仕事へ戻っていく。
――なんて女だ。
もしや俺の勘違い、単なる人違いか―― そういう不安に駆られたが、忘れるはずもない…… 艶やかな長い黒髪とスカーレットの瞳、雪のように白い肌、モデルのようなプロポーション。どう見たってあの夜の女その人だった。
せめてお礼だとか謝罪だとか何か一言でも言ってくれればそれで気が済むのに、女は事務的な会話しかせずに、俺が何か尋ねようとすればヒラリとかわしてみせる。
やがて俺はそんな女に対してあの日以来の怒りが蘇ってきた。
意地でも聞き出してやる――
決意して、席から立ち上がった。
「――お会計ですか? ありがとうございます」
しかし―― 俺は完全にかわされた。
女の有無を言わさないような冷たい雰囲気に気圧されて…… 遂に俺は何一つ言及できず敗北して終わった。
あの日の帰り道はそれまでの気分とは一転してどん底状態、絶望していた。
何も勝負などしていないのに負けた気がした。
「このまま負けてたまるか――」
そうして帰宅した俺はある決意を刻む。
今思い出せば単なる笑い話だが、あの頃はとにかく必死だった―― 今までこんな必死になったことなどあっただろうか、という具合に。
俺はなんとしてでもあの女に謝罪させてやろうと心に決めたのだった。
もはや意地になっていた。
やがて―― なんとも奇妙な女との日々が始まった。
あの日々があったからこそ今の俺があるのだろうと、そう思える。
それからの日々を例えるならば―― 映画ロッキーの特訓シーンを思い浮かべてくれれば面白く想像してもらえるのではないだろうか。まさしくあんな雰囲気だった。
それとセットで俺の脳内にはトレーニングのテーマや「Eye Of The Tiger」が流れていたほどだ。
こと細かく話せば長くなるので、順を追って簡単に話していこう。
あの日以来「何が何でも女に頭を下げさせる」と決意した俺は、可能な日は全て喫茶店へ出向いた。
二度目の来店時こそ驚いた様子を見せていた女だが、三度目四度目ともなればさすがに慣れたようで表情一つ変えなくなった。
しかし俺は諦めない。
彼女の口から謝罪の言葉が出るまではこちらからは何も言及せず、ただただ喫茶店へ足繁く通い詰めた。
最早意地と意地の張り合い、根比べだ。
中々上手くいかなかったが、通い詰めることで思わぬ利点が生まれる。
その店の店主、マスターと顔馴染みになって、更に常連客とも親しくなった。
これは予期せぬ幸運だった。
外堀から確実に埋めていき、ゆくゆくは女について聞き出して是が非でも俺に関わらないといけない雰囲気を作り出す―― その為に俺は通い続けた。
――しかし、そうそう上手く事は運ばない。
喫茶店に通い始めてそれなりに経っていたが、俺の資金事情が厳しくなり始めていた。
当初はアイスコーヒー一杯を飲んでからすぐに帰っていたが、通い詰める内にマスターや常連客との関係が生まれて話が弾み、長居するようになった。
そうすると自然に注文数もいくつか増えてくる。
依然としてアイスコーヒー一杯で粘っていたが、ついつい勧められて二杯三杯、果てにはスイーツや軽食までに手を伸ばしてしまう始末となった。
そうして俺の財布に氷河期が訪れる。
就職している社会人ならともかく、一介の大学生の財布事情などたかが知れている。
俺は実家から「月に~万」というシステムで仕送りしてもらっていた。
その生活費の使い道、内訳は想像の通りアパートの家賃、光熱費、ネットや携帯料金、その他交際費や授業で必要な教材費など。
こうなるまでは特に無駄遣いもせずどうしても必要な時以外は極力消費しないで質素な生活を送っていたが、喫茶店にこうも通い詰めているとさすがに馬鹿にならない。
今までは比較的お金に困ることなく生活していたからバイトも必要ないと思ってやってこなかった。だから仕送り以外に俺の収入はなかったわけだ。
――やがて喫茶店に通う回数がグッと減っていった。
財布事情が厳しくなるにつれて週に二、三度から一度、二週に一度…… そんな具合に減っていった。
月が変われば仕送りを新たに送って貰えるので一旦は財布事情も回復するが、女はまだまだ謝る素振り一つ見せない。
こうなってしまった以上、女が何か言葉を発するまでずっと通い続けてやる気でいたけれど、資金問題を考えると心が折れそうだった。
これは由々しき事態。
早急に対策を考えねばならないと思い至った俺は、少ない容量の頭で考え抜いた。
――そうして考え抜いた結果、ある結論に達する。
まあ…… 想像に容易いだろうけど、つまり「バイトをしよう」と思い至ったわけだ。
バイトをしようと決めたが、どんな仕事にしようか悩んだ。
しかし悩んでいる時間がもったいないと感じて、焦燥に駆られるようになる。
それに…… 大学、サークル活動、バイトという生活になればより忙しくなって喫茶店に通う回数も今より減ってしまうだろうし、やがては足が遠のくだろう。
それはなんとしてでも避けたかった。本末転倒になってしまう。
では、どうすればいいか――
俺は考えた。
講義の時間中、サークルの時間中も、部屋にいるときも。
そしてようやく結論を導き出す。
「マスター、俺を雇って下さい――」
暦は5月へと移り変わり、ゴールデンウィークの連休が過ぎた頃。
俺は喫茶店のアルバイトになった。
我ながら理にかなった作戦だと思った。
何度も通い詰める俺に慣れてしまったあの女の目が、再会の時以来大きく見開いたのだ。
彼女の瞳の朱が爛々と揺れていたのが今でもありありと浮かんでくる。
「――ダイチ、です」
五月も中盤に差し掛かろうとしていた頃、俺は通い詰めた喫茶店の客からアルバイト、店員の立場へ様変わりした。
喫茶店へ通い続ける為に資金難を解消する―― その結果思い付いたのがこの作戦。
喫茶店のアルバイトになってしまえば全ての問題は解決できたのである。
女とも関われるし、お金も稼げるし、まさに一石二鳥。
ベストな選択だった。
問題はバイトを新たに雇ってくれるか―― ということだったが、これも通い詰めたことが功を奏してマスターは快く俺を迎えてくれた。
そうして俺は喫茶店のアルバイトになり、サークルがない日の大学終わりから夜までの時間働くことになった。
こうなってしまえば一転攻勢だ。
俺が反撃する番である。
――出勤初日を思い出す。
互いに自己紹介を交わしたあの日。
俺が「ダイチです」と言うと、シックなエプロンドレス姿の女はこう言った――
「私は―― ユリです」
ユリ―― それは女の雰囲気にピッタリな、とても綺麗な響きだった。
あの夜空から降って来た女はユリという名前だったのだ。
喫茶店で働くようになってからは、まるで駆け足のように時は過ぎていった。
大学生活、それからバイト―― この時はとても充実していたと我ながら思う。
そしてあの女―― ユリと本格的に関わるようになっていく。
――事態は意外な展開を迎えた。
喫茶店で働き始めた当初はユリのようにウェイター役をやったり、レジ係や清掃など雑務が主な仕事だったが、慣れてくるとマスターは調理方面の仕事も教えてくれた。
そしてコーヒーメーカーやエスプレッソマシンの取り扱い方、ドリンクの作り方なども教えてくれるようになって、仕事の幅がどんどん広がっていき大変やりがいがあった。
喫茶店は酒類も提供しているらしく、夜になると会社帰りのサラリーマンなどが一杯ほど引っ掛けに来て店は忙しくなり、賑やかになった。カフェバーという様式にもなっているようだった。
なんだかユリに謝罪させる為に働き始めたのに、日々増えていく仕事の慌しさでそんなことはすっかり忘れていた。
――ユリとの関係は次第に近しくなっていく。
意外な展開だった。
てんやわんやで忙しい仕事の中で俺とユリは協力するようになっていた。
そうすると自然に会話は増えていく。
その頃の俺は仕事に注力していてもう謝罪の件については半ば忘れかけていたのだ。そしてどうでもよくなっていた。いつしかあの日の怒りなど消え去っていて、代わりにユリの魅力に惹かれるようになっていく。
最初こそギクシャクした関係だったけど、そういう意識へ変わった俺はユリへ積極的にコミュニケーションを図るようになった。
そして―― 俺はあの夜のことについては一切触れないでいた。
なんだか気まずくて、触れてはいけないものだと思ったからだ。
あそこまで頑なな態度に出るということは、つまりそういうことなんだと思った。
人は誰しも少なからず秘密の一つ二つは抱えているものである。
例え目にしたものがこの世のものとは思えない非現実な光景でも―― だから俺はあの夜の出来事には一切触れずに、その代わりそれ以外の他愛もない会話に励んだ。
固く閉ざされた彼女の心の扉は次第に緩くなっていって、彼女からも話し掛けてくれるようになったのはなんとも嬉しかった。
そうすると彼女、ユリという人間が段々と分かってくる。
あの夜の出来事は何かただならぬ理由があってどうしようもない状況だったのだろう―― ユリの性格が分かってくると、そう思って自然と彼女を許していた。
ユリは表面こそ冷気を帯びたような冷たい感じがあるけれど、それはただの見かけ上のことで内面はその限りではない。
決して触れられない美術品のように感じていた彼女がだいぶ近くなった。
どういうわけか他人と関わることを避けているようなきらいがあったけど、こちらから話しかければちゃんと反応を返してくれるし、人を思いやれるような優しさもあるし、綺麗な笑顔を見せてくれる。
いつしか俺はその笑顔に―― ユリに惹かれて……
――ユリが好きになっていた。
こうなることは自然な成り行きだったのか。
もしかしたら俺は―― あの夜初めて会ったその時から彼女に惹かれていたのかもしれない。
ユリになら俺は―― あのまま殺されても良かったのかもしれない。
なんてことも感じるほど彼女が好きになっていた。
ユリという人間を知れば知るほど、その新しい一面を見られたことに嬉々として、その先を要求してしまう。
しかし彼女という人間を知ったからこそ、あの夜のことも心のどこかにつかえて大きく膨らんでいった。
もう許した、どうでもよくなった―― それは確かだったけれど、しかし彼女を知れば知るにつれてあの夜が鮮やかに蘇るのだ。
床に転がる空っぽの缶ジュース。
他に飲料はあったし、食料もあった。
それにも関わらずユリはトマトジュースを選んだ。
ただ単に彼女の目に最初に映ったのがそれだったのかもしれない。
しかし床に乱雑に転がっていたあの光景を思い出すと―― どうも何か深い事情が、ただならぬ事態があったのではないかと思った。
そして―― ユリは彼女自身のことについては話そうとしなかった。
会話を交わす仲に発展した俺たちであったが、ユリは自身の出身や家族や過去のことについては一切話そうとしなかった。
そういう話題になると「そうね――」とどこかぎこちない微笑みとともにサッと話題を変えてしまうのだ。
いずれ話してくれるのかは分からない、話したくないことなら話してくれなくてもいい。
ただ、話したくても話せないような事情が、悩みがあるのなら―― ユリが重荷を背負っているのなら――
俺はそれを一緒に背負ってあげたいと、いつしかそう思い始めていた。
ユリと出会い、バイトを始め、彼女と親しくなって。
そうして季節は次へと移ろう。
春はすっかり過ぎ去って、いつしかジメジメとした梅雨の期間に入って、それも過ぎると本格的に暑い季節がやってくる。
――暦は7月になっていた。
大学では定期試験やレポートのことなどすっ飛ばして、夏休みの話題でもちきりとなっていた。
友人たちは「地元の仲間と遊ぶ」だとか、「海行こうぜ」だとかすっかり浮かれ気分。
サークルでも「合宿楽しみだね」と皆そわそわしていた。
一方バイトについては―― すこぶる順調だった。
仕事もだいぶ慣れて接客から調理からそれなりに上手くこなせるようになり、マスターもそんな俺を信頼してくれるようになった。
そしてユリも――
好きという感情が生まれて、少し気恥ずかしくて気まずくはなっていたけど、それを悟られぬよう今まで通り接していた。
ユリも俺を信頼してくれているのか、前よりも話しかけてくれた。
そして俺たちはいつしか名前で呼び合うようになる。
今までも名前で呼んでいたが、ユリさんの「さん」が抜けて、自然と俺はユリと呼ぶようになっていた。彼女は大人びているし、一見すると歳上に見えたから大丈夫かなと思ったけれど、ユリは快く許してくれた。
また、ユリも俺のことを「ダイチ君」からダイチと呼んでくれるようになった。
それが嬉しくて、「彼女は俺をどう思っているんだろう」と考えるようにもなる。
――ただ、ユリはまだどこか俺との間に壁を置いているように思えた。
ただの勘違いなら良かったのだが、彼女はまだどこかぎこちなさを見せる時があった。
――そんな日々は新たなる局面を迎える。
ユリに恋していた俺にとって嬉しいことと、そして初めての試練が訪れた。
あれは確か7月の上旬辺りだったか―― 俺が働く喫茶店にサークルの友人たちが来た。
俺は彼らに「バイトを始めた」と話していたし、そうなると「どこで、何を――」となるのは自然の成り行きである。
そうして友人たちはある日、俺を煽りに(様子見に)来たのだった。
それも俺は流れに任せて、もてなして終わった。
友人たちは「また来るわ~」と言って帰っていく。
そこまでは良かった。
問題はその翌日のことだ。
サークルへ参加しに行くと、友人たちの会話は「あの人めちゃくちゃ美人だったよな」という話題でもちきりだった。
なんとなく予想はできた―― 彼らはユリに興味津々だった。
別にそれは悪いことじゃない。彼女のような人目を引く存在がいれば俺だって彼らの輪に加わっていたことだろう。
ここまでは特に気に留めなかったのだが―― やがて俺に試練が訪れる。
友人の一人が、「ユリの連絡先が欲しい」と俺にねだってきた。
ねだってきた友人はいわゆる「イケメン」の部類に入るような人間で、爽やかで女子から人気があった。ただ―― 彼は同時に女性付き合いが多いことでも有名だった。
彼は別に嫌な人間ではないし、むしろそれを除けば完璧な人間で「面白くていい奴」だった。
しかし俺はその時少しもやもやしたのを覚えている―― あれが嫉妬という感情なのだろうか。
俺はユリの連絡先など知らなかったので、その時は正直にそう答えたのだった。
友人はそこで渋々引き下がったけれど、なんと―― 後日一人で店に来るようになった。
まるで以前の俺のようだった。
ただ俺と違うのは―― 彼は客という立場ながらも積極的にユリへコミュニケーションを図っていたことだ。
ユリは以前の俺にしていたように、ただただ事務的な会話で友人のアプローチをかわしていたようだったからひとまず安心した。
――それでも彼は店に通い続けた。
ああ、傍から見れば俺もあんな姿に見えていたのか―― そんな風に思ったけれど、しかし彼は俺とは違って女性に対して一枚二枚も上手だったのだ。
――それはある日の仕事終わりのことだった。
ユリは喫茶店の周辺、俺のアパートからは30分ほどの場所にあるタワーマンションに一人で住んでいるみたいだった。
そしてユリの帰り道は俺のアパートまでの道と途中まで一緒なので、いつしか仕事終わりは二人で帰るようになっていた。
あの日もいつも通り彼女と二人きりで帰っていた。
そんな時、ユリの口から「彼とメールアドレスを交換したの――」という話題が出た。
彼女は「友人が増えた――」と少し嬉しそうに顔を綻ばせていたが、俺はその時真っ白になったのを覚えている。
――彼は、俺に出来ないことを平然とやってのけたのだ。
俺は努めて冷静に「良かったね」と返したが、ユリは「そうね――」とやけに長い間を置いてからそれだけ答えた。
虚空に置かれたユリの視線は、何故か酷く悲しそうだった――
「俺とはメールしてくれないの?」
そう聞きたかった。
だけど―― 俺という存在はユリにとってはただの仕事仲間でしかないのだ。
そして、そんなことを口に出したくなった情けないほど女々しい自分が惨めで嫌になった。
それからといえば―― 俺は冷めた毎日を送っていた。
ユリとはいつも通り接していたけれど、彼女の会話には友人の名が多く出るようになった。
それは俺にとって酷く辛い試練だった―― メールをひっきりなしに送ってくるとか、メールなんて全然してこなかったからどう返していいか分からないとか、こういう時はなんて言えばいいの―― とか。
そればっかりで、俺は無理やり笑顔を貼り付けてなんとか返していた……
やがて俺は―― 気持ちが完全に冷めつつあった。
友人とのことを笑顔で話すユリを見ると、胸が酷く締め付けられて苦しくなる。
もしかしたらユリが抱えているかもしれない秘密や荷物を共有できるのは友人の方なのかもしれない―― いつしかそう思うようになっていた。
そうだ、俺は単なる独りよがりをしていただけだったのだ。
勝手に喜んで、勝手に善人ぶって。
こんな俺がユリともっと親密になりたいなどと考えてはいけないのだ――
そう思って、俺はユリへの気持ちに蓋をした。
今振り返ればあれが最初の試練だった―― あの時はそれが人生最大のものに思えたけれど、その後にもっと大きな試練が待ち構えていようとは、あの時はまるで気付きもしなかったのである。
本格的な夏がやって来た。
ジリジリと焦がすような太陽と、ゆらゆらとアスファルト上で揺らめく陽炎。
人々は夏が来たと高揚し、解放的な雰囲気になる。
そんな周囲とは裏腹に俺の心には寒波が訪れていた。
友人の様子を窺ってみると、どうやらユリとの関係はより親密になってきているようだった。
そしてユリもそんな彼に心を許しているようだった。
俺の想いはただの一方通行で、そして友人のように積極的に行動もしない自分に嫌気が差した。
初めての試練はあの時の俺にとってあまりにも大きすぎた。
――こういう時に限って不幸は連続する。
バイトが終わり、また二人で帰っていた時だ。
「二人きりで出かけることになったんだけど――」
ユリはそう言った。
いわゆる相談というやつだ。
どうすればいいのかな―― 少し頬を染めてそう言う彼女。
俺は「そういうのは向こうがリードしてくれるから心配するな」というようなことを言った気がする。
――ああ、もうそこまで行ってしまったのか。
隣にいるユリが酷く遠くまで行ってしまったように感じられた。
できるだけ悟られないように、俺はなんとか平常心を保ってあれこれ彼女に助言した。
(ユリとはただの仕事仲間だ――)
胸中で何度も唱えて想いを彼方へ押し込んだ。
胸の内で落ち込む俺をよそにユリはやがて来る未来へ思いを馳せる。
彼女の顔は今まで見たこともないような優しいものだった―― 少し冷たい気を帯びた彼女が見せた温かい笑顔。
――だけど俺は見てしまった。
遠く彼方を見つめるユリの優しそうな笑顔―― それが一瞬寂しい笑顔に変わったのを。
何か無常のような―― そんな儚げな笑顔で、そして瞳の輝きは失われていた。
(どうしてだよ―― ユリは嬉しいんじゃないのか?)
それを見てしまった俺は混乱したが、ちょうどそこで分かれ道に差し掛かってしまったので彼女は行ってしまった。
――やがて、俺は自分の想いを完全に消す為にバイトに専念したのだった。
バイトだけではない―― 試験も近かったから試験勉強に、そしてレポート作成に。
試験が近くなるとサークルは一旦休みになり、その分余裕ができた。
レポートは以前から少しずつ進めていたので問題なかったし、試験についてもどうにかなりそうだった。
だから勉強以外はバイトに専念して―― そうやって過ごしていた。
ユリへの想いを消す為に。
加えて試験期間の前には全ての講義が終わるので、試験期間も合わせて日程によっては時間に空きが出るのだ。
だからその分を全てバイトに費やした。
マスターは「学生の本分は学業なんだから無理しないでくれ――」と気を使ってくれたけれど、事実両立できる範囲であったので首を横に振り「大丈夫です」と言った。
ユリも「無理しないで」と言ってくれた。その優しさが苦しく感じたけれど、仕事に集中することでなんとか凌いだ。
試験が終われば夏休みだ。
大学の夏休みは長い。
さっさと全てを終わらせて帰省しよう―― 俺はそう思っていた。
まるで何かから逃げるように。
――そして俺は体調を崩した。
不幸は重なるものである。
しかしこれは自分で招いた不幸だった。
精神的疲労と肉体的疲労が重なったのは明らかだった。
試験期間中からどこか違和感を覚えていたが、そこまではなんとか持ちこたえた。
しかし全ての試験が終わって解放されたとき、気の緩みとともに疲労がドッと押し寄せる。
夏風邪というものなのかどうかは知らないが、熱を出して寝込んだ。
夏休みは帰省して、サークルの合宿に参加して…… そんな風に過ごそうと思っていた。
その矢先にこんな事態に陥って、帰省前に集中してやっておこうと思っていた貴重なバイトを何日か潰してしまう羽目になった。
マスターは「こちらは問題ないし、君の体が第一だからゆっくり休んでくれ」と電話越しに声を掛けてくれて、その優しさが胸に染みて申し訳なくなったのを今でも思い出す。
一人暮らしで体調を崩したことはおよそそれが初めてだったので、家族のありがたみをヒシヒシと感じ、孤独に苛まれた。
とりあえず石のように重く筋肉痛のように軋む体を引きずって近くの病院へ行き、そして薬を処方してもらって、あとは貪るように眠っていた。
――そうして熱を出し寝込んで一日目のことだった。
午前中の開店前にマスターへ出勤できないことを連絡して、そして病院へ行き、そのついでで食料や飲料水など必要なものをコンビニで買いだめしてから部屋に戻った。
部屋に戻って―― それからは何も考えず眠ることにしたのだった。
やがて俺は目を覚ます。
何か夢を見た気がした。
それは恐らく悲しい夢だったと思う。
知らない人間…… 知らない女が一人きりで永遠のように続く闇をさまよっていたことだけは覚えている。
そんな悪夢から目を覚ますと、気付けば長時間寝ていたようで外は日が暮れかかっていた。
あまり冷房はガンガン利かせないようにしていたので、ジットリと汗が浮かび、肌着は体に張り付く。
ベッドから体を起こすと、僅かに頭痛を感じた。
時刻は確か19時近くだったと思う。
遠くから電車の音やヒグラシの鳴き声がやって来て、何故だか感慨深くなる。
今頃みんなは何をしているだろうか…… そんな風にも思った。
シャワーでも浴びようか―― 汗をかいて気持ち悪い体をシャワーで流そうと、そうして俺はベッドから出て立ち上がる。少しふらふらした。
――そんな時だった。
ピンポーン、とベルが鳴る。
それは明らかに俺の部屋のものだった。
誰だろうか―― 宅急便も頼んでないし、この時期に実家から何かが送られてくるはずもないし、何かのセールスか宗教団体か? こんな時に。
そんな風に訝しげになりつつも俺は玄関扉を開けた。
重い体で扉を開けると―― そこには。
――そこには、今頃バイト場で働いているはずのユリがいた。
俺に降りかかった試練と、そして嬉しいこと。
精神的にもだいぶ参っていた俺にとって、それが「嬉しいこと」だったのだ。
まさかユリが来てくれるとは―― 熱で火照り上がった体温が更に上昇したことを今でも覚えている。
ユリはあの夜着ていたような白いTシャツ、そして藍色のジーパン、ヒールが付いたサンダルという出で立ちだった。そして大きなトートバッグを肩にかけて持っていた。
喫茶店で働いているはずの時間に、ユリは何故か俺の部屋にやって来た。
突然の来訪に心の準備などできるはずもなく、バクバクと鼓動は早く脈打つ。
俺にとってそれはとてもありがたいものであったが、しかし同時にどこか辛かった。
彼女を諦めようと思っていたまさにその時―― そんな時に、ユリが現れたからだ。
「熱を出して寝込んでいると聞いたから――」
ユリの第一声は確かそんな風だったと思う。
少し控えめに、顔を僅かに伏せながら。
真夏だというのに彼女が纏う雰囲気は相変わらず涼しげで、そして儚げだった。
「お店は――」
大丈夫なのか―― 対する俺の第一声はそんな感じだった。
「マスターが行ってもいいよって言ってくれたの」
ユリはそう言った。
後に聞いたところでは、ユリは俺のことを大層心配していたらしく、仕事も手に付かないほどだったとか―― それを案じたマスターが彼女にどうしたか尋ねると、「ダイチは一人で寝込んでいるだろうから様子を見に行きたい」というようなことを言ったらしい。
マスターはそれを許可して、そうしてユリは俺のもとへお見舞いに来てくれたということだ(あの夜のことがあったのでアパートの場所は知っていた)。
――そしてユリは俺を看てくれた。
ダイチは休んでいて―― 部屋に入るなりそう言って、そして夕食を作り始めたのだ。
どうやら彼女のトートバッグにはどこかで調達した食材などが入っていたらしく、それを使って部屋の狭いキッチンで料理を作り始めた。
俺の為に、わざわざユリは――
彼女の優しさが身に染みて、そして同時に締め付けられるようだった。
こんな俺に、そんな優しさを向けられたら―― 余計に諦めがつかないじゃないか。
そう思って、ユリが夕食を作ってくれているその間に、俺はそんなもやもやした気持ちを洗い流すが如くシャワーを浴びたのだった。
ユリが作ってくれた夕食はうどんだった。
病人の俺を気遣ってのメニューだと思われた。
そこにヨーグルトや綺麗に切られたリンゴなども加わって、何も腹に入れていなかった俺の食欲は刺激された。
食べさせてあげる――?
ユリはそんなことまで言って心配してくれたが、さすがにそこまでしてもらうのはまずいので、俺は自分で食べられると言った。
ユリの手料理はとても美味しかった。
「そんな…… 簡単なもので作っただけだし、大袈裟よ――」
ユリはそう言って少し恥ずかしげに目を伏せた。
そして「でも―― ありがとう」と付け加え、朗らかに笑った。
携帯食料もしくはインスタントスープで夕食を済まそうとしていた俺にとって、彼女の手料理は素直にありがたかった。
確かに簡単なもので作っただけかもしれない―― でも、ユリの手料理には彼女の優しさが染みていて…… 俺はそんな優しさを向けてくれる彼女が愛おしくなって、そして辛かった。
やがて―― 病院から処方された薬を食後に飲み終えて、それからはまた床に就いた。
俺がベッドに入ってからもユリは傍にいてくれた。
てっきり夕食を作ってくれた後に帰るとばかり思っていたが…… 彼女は帰るような動きを一つも見せなかった。
俺は確か「本当にありがとう、もう大丈夫だから――」と言ってユリを帰らせようとした。そこまでつきっきりで看てもらうのはさすがに気が引けたからだ。
「今夜は―― ここにいさせて」
しかしユリはそう言って俺の言葉を遮った。
そこにどんな意図が含まれているのか分からなかった。
けれど彼女はどこか申し訳なさそうな様子でそう言うのだ。
――それは、同情だと思った。
こんなことを思ってしまうのは最低だろう。
しかし俺は―― もしかしたらユリはあの夜のことに引け目を感じていて、それでその借りを返すために同情心からそんなことを言ったのだろうと思ってしまったのだ。
そして俺は―― 最低な言葉をユリへ浴びせてしまった。
「もしあの夜のことに引け目を感じているなら―― それはもういいから、だから同情でここにいるつもりなら帰って欲しい」
今思い出してみても、本当に最低なことを言ったものだ。
「そうね―― ごめんなさい」
対するユリはそう言って深々と頭を下げた。
そして「お休みなさい」と言ってから部屋を出て行った。
――ああ、俺はもう後戻りできない。
後戻りできないほどの最低なことをしてしまった。
そう感じて、涙が込み上げてくるのを必死に堪えて―― そして彼女が出て行った後に照明を消してふて寝したのだった。
「でも―― これで俺はユリを諦めることができる」
バイトもどうしようか、せっかくだけど辞めてしまおうか―― そんな風に思いながら、そうして俺は目を閉じた。
時間帯で言えば―― あれは深夜のことだったか。
ユリを追い出して、それから眠りについた俺。
いつもより早い時間に寝たためか、ふと深夜に目が覚めた。
――そんな時だった。
俺は何か違和感を覚えて、それで目を覚ます。
目を覚まして、その違和感の出所を辿った。
辿っていった先―― そこには。
――ユリがいた。
ユリは目を覚ました俺をジーッと見つめていた。
冷房はかけっぱなしで、暗い部屋。
僅かに開いたカーテンの隙間から煌々と月明かりが漏れて、それはユリの白く綺麗な顔をそっと照らしていた。
「ダイチ――」
慈愛に満ちた表情で、綺麗な旋律で、ユリは俺の名前を静かに呼んだ。
「本当にごめんなさい」
そして、そう付け加えた。
そう言えば…… 部屋の施錠もせずに寝てしまっていた。しかし――
――どうしてユリが。
あんな最低なことを言った俺のところに、どうして彼女はまた来てくれたんだ。
――もう堪えきれなかった。
ユリが向けてくれる優しさが嬉しくて、だけどとても辛くて。
男の癖に、本当に情けない。
俺は込み上げるものを抑える事ができずに―― 遂にボロボロと泣いた。
ユリは何も言わずに、そっと傍にしゃがみ込んで俺の手を優しく握ってくれた。
どうしてこんな最低な俺にそこまでしてくれるのだろう。
もう俺は涙も、そしてユリへの想いも抑えきれなくなっていた。
やがて俺が落ち着いてくると、彼女はひとりでに―― 語り部のように優しく言葉を紡ぎ始めたのだった。
世界は残酷で、しかしもう一方では美しさも兼ね備えている。
この世には俺たちが想像もつかないような一面がある。
――彼女は、ユリは吸血鬼だった。
「私は罪人(つみびと)なの――」
始めにユリはそう言った。
月明かりに照らされた彼女はとても美しかった。
――なんとなく理解はできた。
あの夜の光景―― 到底信じられないような光景だったけど、けれど俺はそれに遭遇してしまった。だからユリの話は信じることができた。
――ユリは次々とまくし立てるように言葉を紡ぐ。
彼女は吸血鬼になった―― 吸血鬼にされたのだった。
ユリが言う吸血鬼とは…… まずはそのことについて話そう。
昔は昔、遥か昔―― 時代は中世辺りまでに遡る。
そんな時代、欧州のとある国に大層残虐な王がいた。
彼は己の私欲のままに国を動かした。
そしてある日…… 王に娘が生まれる。
王の娘、つまりは王女。その王女は月の女神も意味する「ルナ」と名付けられた。
――ルナと名付けられたその王女は、ユリその人だった。
王は実の娘の誕生を祝福し、そして彼女を溺愛した。
ルナは周囲からの愛を受けて順調に育つ。
ゆくゆくは王族を率いる一人として期待を一心に受けた。
――しかし、そんな彼女に悲劇が訪れる。
ある日を境に王は異常な行動を見せるようになった。
王は研究好きで、その時代流行していた錬金術や黒魔術といった類に興味を持ち始める。そして自身もその研究に没頭するようになっていたのだ。
やがて彼は自身の権力を行使し、民衆を研究の実験体にした。
ユリ曰く、王はその頃から異常性をいかんなく発揮するようになったと言う。
王は民衆を捕え実験体とし、筆舌に尽くし難いほど残虐な実験の数々を行った。
そして、その結果実験は新たな境地に達する。
――王は人間を吸血鬼にした。
その実験が成功したというのだ。
実験の結果生まれた吸血鬼とは―― 老いることはなく、傷を受けても再生するような恐るべき存在だった。
しかし実験はまだ完成とは言えなかったようだ…… 再生能力があっても、それが追いつかないほどの傷を連続して受ければ絶命するということだった。つまり不老であっても不死ではなかったのだ。
従って王は完全なる不老不死の能力を吸血鬼に求めた。
そしてそれを実現させるのは…… 何百何千、大勢の人間の呪い。
大勢の人間に苦痛を与え、その状態を維持してゆくゆくは絶命させる―― それによって誕生した彼らの呪いを一つに集め、やがてそれを一人の人間に掛けることで完全なる吸血鬼にさせる。
王はその結論を導き出した。
そして…… 彼はその実験を成功させる為に国内国外から大勢の人間を拉致し、耐え難い苦痛を与えて最後には殺害した。
かくして大勢の人間の呪いを集めることに成功する。
しかし問題はその呪いを掛ける人間は誰にするか…… そういうことだった。
これだけ多くの人間から集めた呪いを受ければ、並みの人間ではまず適応できずに死んでしまう。
つまり…… その呪いを受けるべき人間は王にとって特別な存在でなければならない。
――それに選ばれたのはルナ…… ユリだった。
呪いに適応できるかはともかくして、王にとって特別な存在といえばユリしかいなかったのだ。
――そしてユリは吸血鬼になった。
狂った王は溺愛する娘に実験の矛先を向けたのだ。
呪いを受けたユリは数日間に渡り生死の境をさまよったという。
そして最終的にユリは息を吹き返す。実験は成功し、ユリは吸血鬼になった。
吸血鬼になったユリは、その能力を確かめるという目的でそれからも数々の実験を受けた。
吸血鬼となった者は人間の生き血を求める。
ユリの前には王の命令で連れてこられた民衆が―― ユリは吸血の衝動を抑えきれず連日連夜、人間の生き血を啜っていった。
吸血された人間は同じく吸血鬼になるか、もしくは吸血鬼が持つ呪いに適応できずにただ死ぬだけだった。
今まで彼女に吸血されて生き延びた人間はいなかったという。
「私は罪人なの――」
ユリの言葉にはそういう背景があったというわけだ。
そうしてユリは王が求める「完全な吸血鬼」になった。
老いることはなく、傷を受けても死ぬことはない。
まさに不老不死という存在になった。
しかし王は更なる高みを求めた。
それは何故か―― 完全なる吸血鬼を創ることに成功したはずであったが、その吸血鬼にも欠点があった。
それは―― 不死に期限があったことだ。
ユリが言うには…… 最初から不老の能力と再生能力が備わっているものの、不死に至っては完全な吸血鬼になってもその限りではないらしい。
不死を実現させるのは、人間の生き血を啜った後の一定期間のみということだ。
その期間の内はどんな傷を連続して受けようが、バラバラにされようが、消し炭にされようが復活するらしい…… しかし期間が過ぎれば再生能力はあるものの、それが追いつかない傷を受ければ絶命する。
不死の期間は明白ではないようで、しかし人間の血を吸えば吸うほど延長するということだ。
そして。
「――だから、私はダイチにも酷いことをしてしまった」
ユリは消え入りそうなか細い声でそう言った。
それは―― 血液を連想させるような赤い食べ物、または飲み物を摂取すれば吸血衝動をある程度は抑えられるということだった。
彼女と出会ったあの時、転がったトマトジュースの空き缶―― それはつまりそういう意味だったらしい。
「あの時は―― 吸血衝動が激しくて、そしてあなたを襲いかけてしまった」
あの夜、ユリは激しい吸血衝動に苛まれ我を失っていたらしい。
それで吸血鬼が持つ特殊な力が暴走し、翼を生やして、それで生き血を求めさまよった後に俺を見つけ、以後はああなった―― そういうわけだ。
吸血鬼にされたユリ。
ユリ―― 王女ルナのその後。
その後は…… 民衆が王の圧政に異を唱え、反乱を起こした。俗に言うクーデター、または革命というやつだ。
革命が起き、それは敵対する周辺諸国の援助も受けて見事達成された。
王は更なる高みを目指して実験を続けていたが、革命によってそれは阻まれ…… そして彼はギロチン台にかけられ処刑された。
民衆の怒りの矛先は当然ながら王族へ向いていた。
民衆は王族をことごとくギロチンに掛けて処刑する。
ユリもその対象にされていたが…… しかし彼女は付き人たちや他の王族に助けられ、亡命を果たした。
亡命を果たした後は世界を放浪したという。
吸血鬼のユリは老いが止まっているから、それで死ぬことはない。
また、吸血せず不死の状態でなくとも再生能力はあるので、ある程度の傷なら再生し生き長らえることができる。
ユリはそうして世界をさまよった。
己の罪を背負いながら、自責の念を抱えながら。
やがて時は流れ、彼女が王女ルナだったことを知る者はいなくなった。
そうして今いる日本という国に行き着き、名前を改め「ユリ」と名乗ってここにいる――
「私は生きていてはいけない怪物なの」
月明かりが差し込む部屋。
それに照らされたユリは立ち上がってそう嘆いた。
――一体どれほどの孤独を、悲しみを彼女は抱えて生きてきたのだろう。
ユリは自身に関するエピソードを全て語り終える。
彼女は吸血鬼になった…… 吸血鬼にされた。
ユリがそうなりたいと願ったわけではない。狂った暴虐の王によって一方的にそうされてしまったのだ。
「今まで何度も死のうと思った―― でも、死にきれなかったの」
しかしユリはそうやってずっと罪の意識を抱えてこの世界をさまよってきた。
「こんな怪物が生きていていいはずがないのに…… 大勢の人間を殺したこんな怪物が!」
静かな部屋に木霊するユリの叫び。
その声は震えて、やがては嗚咽へと変わる。
「――でも、私は生きたいと願ってしまった。私は、私は…… 私は一体何の為に生まれてきたの?」
悠久の時をさまよい、死にたくても死にきれず。
膨大な罪をたった一人きりで、その華奢な体に背負ってきたのだ。
彼女一人に背負わすにはあまりにも不条理な罪、運命。
「私の罪に、運命に他人を巻き込みたくない…… だからできるだけ人とは関わらないように生きてきたの」
ユリの赤い瞳から透明な雫が滴り落ちる。
「もう吸血してはいけない―― だからこれまで必死に衝動を誤魔化して生きてきた」
あの日、部屋に転がっていたトマトジュースの空き缶…… その時あの光景が蘇ったのを今でも覚えている。
「私はあなたと出会ってしまった―― ダイチ」
僅かな沈黙の後、ユリは俺の名を呼ぶ。
「あなたは化物の私に襲われかけたのに、それなのに何も言わないでくれて…… そして手を差し伸べてくれた」
透明な雫はやがて大粒なものに変わった。
「あなたはこんな私に―― こんな私に親しくしてくれた…… とても嬉しかった」
感情が抑えきれずに爆発して…… ユリはとうとう声を上げて泣き出した。
――その時、俺は彼女を抱き締めた。
いつの間にか自然に体が動き出していた。
立ち上がり、ユリの華奢な体を抱きしめる。
彼女の体は柔らかく、そして折れてしまいそうなほどに脆かった。
ユリがどこかへ消えてしまいそうな気がして、恐くなって、俺はこの世に繋ぎとめるように彼女を力強く抱き締めた。
ユリの匂い、ユリの体、ユリの声。
「あなたが私に希望をくれたの…… あなたと出会って、私はやり直せると思った。人間らしい生き方を」
俺は彼女を抱き締めながら、ただただ相槌をうつ。
「人間らしい生き方をしていいんだと、そう思えるようになった―― でもね」
でも―― ユリはその先を行き詰まりながらもなんとか紡いでいく。
「でも…… やっぱり怪物は人間の生き方を望んではいけないの」
そう言ってユリは俺の背に自身の両腕を回す。
「あなたの友人に告白されたの―― 付き合って欲しいって」
ああ…… やっぱりユリは友人と――
「――でも、私は断ったの。彼にそんな感情はなかったし、私のような怪物がそういう感情を抱くことそれ自体が許されないから」
そうしてユリは俺の体に顔を埋める。
「結局私は人間になりきれない―― 私、もう吸血の衝動が抑えきれそうにないの」
なんとかごまかして生きてきた…… 彼女の声が蘇る。
「吸血鬼は人間の生き血がないと生きていけない―― このままだと暴走してあの夜のように誰彼構わず襲い掛かる怪物に成り果ててしまう」
もう限界だ―― つまりはそういうことだった。
「だからその前に―― 私を殺して」
それはユリの切実な願いだと思えた。
「再生する力が備わっていると言っても、あれからは吸血せずに生きてきた…… だからもうその力は弱っていると思うの。確証はないけどそんな気がする――」
だから、今なら間に合う―― 力が弱まっている今の内に、生き血を求め人間を襲う怪物に成り果てる前に私を殺して。
声を震わしながら彼女はそう言った。
「もしくは――」
もしくは…… 言い淀みながらもなんとか言葉にしていくユリ。
「恐らく私はもう長くない――」
長くない…… この先長くは生きていけない、そういう意味だと思われた。
「――どうして?」
俺はそんな風にユリへ尋ねた。
「吸血鬼は人間の生き血がないと生きていけない―― だからそれを長い間絶っていれば生命力は衰えていく…… そんな気がするし、そう感じているの」
生命力を維持する為には人間の血がどうしても必要になってしまう。
だから長年それを絶っていれば当然のことながら求める衝動は強くなる。
衝動が激しくなり暴走してしまう前に私を殺して欲しい―― もしくはこれまで同様なんとか衝動をごまかし、抑え、そうして最後に衰弱死するのを待つ。
要約するならば、ユリの主張はつまりそういうことだった。
「ダイチ―― だから私とはもう関わらない方がいい」
私を殺すことができないのならば―― もう関わらないで。
そう言う彼女は、そんな言葉とは矛盾して俺を強く抱き締めるのだ。
――俺は、どうすればいい?
もうユリへの想いを諦めることなど、抑えることなどできなかった。
彼女はそういう背景があって、だから極力人間との関わりを絶ってきた。自身の運命に巻き込まない為に。
しかし俺と出会い、俺は彼女と親しくなってしまった。
俺と関わる内に自分の存在を少しずつ容認できるようになり、人間らしい生き方をしてもいいのだと、そう思えて…… だから閉ざしていた心を開き新たな友人も作って。それも彼女が望む「人間らしい生き方」の一つだった。
だけど―― 衝動が強くなるにつれて、それを抑えて衰弱していくにつれて…… 彼女は自分がそういう生き方を望んではいけない存在だと感じてしまった。
俺は一体どうすればいいんだ――
どれくらいの時間そうしていただろう―― 俺とユリはそれから長い間何も言わずに抱き締め合っていた。
そして。
「ユリ―― 俺はユリが好きだ」
今まで抑えてきた想いが遂に言葉となって溢れた。
「――ダメよ」
嗚咽に混じりながらもユリはそう応える。
「好きだ――」
「――ダメ」
きつく、きつく抱き締め合う俺たち。
「――好きだ、ユリ」
「私だって……!」
私だって―― その先の言葉はなんとなくだが想像できた。
「でも、私は―― 私は人間じゃないの、人間らしい生き方を望んではいけない」
「君はユリだ―― 人間だ」
「私は吸血鬼なの……! 大勢の人間を殺した怪物なの」
「いや、君はユリだ―― 俺はユリが好きだ」
「ダイチ、あなたが好き―― だけど、ごめんなさい」
その想いに応えることはできない―― 応えてはいけない。
ユリはそう言って俺の胸の中で泣いたのだった。
短い夏は盛りを迎える。
蝉時雨が降り注ぎ、彼らはひと夏の命を燃やす。
そんな叫びは彼女の残り少ない命を表しているようにも思えて、そうすると胸が締め付けられた。
大学の試験が終わり、夏休みに入った。
ユリの告白を受け、彼女の運命を知った。
――暦は八月に入っていた。
ユリの告白を受け、彼女の運命を知り、そして俺は決意した。
――俺はユリが抱える罪を、重荷を共に背負う。
彼女はこのままだと暴走してしまうかもしれない…… そう言っていた。
加えてなんとかそれを抑えることができても、人間の血を新たに摂取しない限り最終的には衰弱して死んでしまうかもしれないということ。
人間の血を吸ってしまえば、十中八九その相手は死ぬ。だから彼女はもうそんなことはしたくないとこれまで抑えてきたのだ。そしてこれからも。
つまりは―― ユリの命はもう長くはないのかもしれない。
俺はそう思った。
だけど俺は彼女が好きで…… 俺にできることはないのかと、あれからは彼女がこれからも生きていけるような方法を探した。
しかし―― どう足掻いても俺が運命を変えることなどできなかった。
ユリは人間らしい生き方を望む。
だから俺にできることといえば―― 彼女に残された時間をそういう生き方に費やしてやることだった。
――八月、世間は盆休みのシーズンへ向かっていた。
俺はできるだけユリの傍にいてやりたいと思って、帰省のタイミングを大幅に遅らせていた。
帰省はしない―― そういう選択肢も思いついたけれど、しかし大学まで俺を送り届けて支えてくれている家族のことを考えるとそれは躊躇われた。
だから帰省の期間をできるだけ短くし、後はユリと一緒にいる…… そういう結論に至った。
また、例年通りサークルの合宿が休み後半に予定されていたが、参加は強制ではないので見送ろうと思っていた。友人たちには申し訳ないが、俺はユリの傍にいてやりたいと、そう思った。
ユリの胸中を明かされたあの夜―― あれから俺は体調を持ち直した。
夜が明け、少しの気まずさを引きずりながらもユリは俺を看病してくれた。
俺の看病をして、そして喫茶店の仕事へ向かい、それが終わって夜になるとまた泊りがけで俺の部屋へ…… 俺の為にそこまでしてくれるユリに頭が上がらなかった。
彼女の看病のおかげで俺は体調を持ち直し、やがて喫茶店のバイトにも復帰した。
それからはいつも通り―― 俺とユリは協力して喫茶店の仕事をこなす。
俺の告白、その返事は結局のところ曖昧なままであったが、前よりも俺たちの距離はずっと近くなっていた。
やがて来る別れ、終焉を知りながらも俺たちは鮮やかな時を共に過ごす。
そして。
――あれは喫茶店の定休日のことだった。
定休日の前日はいつも通りそこで働き、それが終わった夜のこと。
「ユリ―― 海に行こう」
隣で歩くユリへ、俺はそう言った。
「海――? いまから?」
困惑した面持ちでユリは答える。
「そう―― 今から」
それは単なる思いつきだった。
けれど俺はユリとどこかへ行きたかった―― たとえ一時的でも運命から逃れるように。
いきなりこんなこと言われれば却下されるのがオチだろう。
しかしユリは、「海―― 行きたい」と沈黙の後に小さく呟いたのだった。
――俺たちの短い逃避行はこうして始まった。
たった一日余り、悲しい運命への精一杯の抵抗。
やがて俺たちはいつも通り別れて、急いで帰宅し簡単な準備を済ませた後に駅で落ち合った。
目的地は都内某所から一番近い海。
電車があるか心配だったけど、なんとか目的地周辺まで辿り着くことができた。
全ては思いつき―― だけどこのままユリとどこか遠いところまで行けたら…… そう思っていた。
彼女と、そして俺に存在するしがらみを拭い去るようにどこまでも行けたら。
今まで貯めてきたバイト代を手に、短く小さな旅へ――
白い半袖ブラウスと夏を意識した薄手でヒラヒラの青いロングスカート、黒いヒールサンダル、やや大きめのベージュ色をしたショルダーバッグ…… そんな姿をしたユリは涼しげで、魅力的で、とても美しかった。
対する俺はネイビーのポロシャツとベージュのチノパン、スニーカーという出で立ちで、背負うデイパックにはジャージなど簡単な日用品と、それからケース買いして愛飲していた缶のトマトジュースを数本。
――そうして俺たちは極々短い旅に出た。
短く小さな逃避行。
帰宅ラッシュのピークはとうに過ぎ去って、まばらに空いた電車内。
隣り合って座る俺とユリ。
彼女はウトウトと船を漕ぎ出し俺の肩に頭を預ける。
ユリの方に視線を向けると、彼女は俺を優しく見つめていた。
どちらからともなく微笑みあって、やがて自然と手も繋ぎ合わせた。
そうして俺たちは互いの体を預け、少しの間眠った。
やがて俺たちを乗せた電車は目的地周辺の駅に到着する。
海沿いのとある街へ。
駅を出て、移動中にスマートフォンのネットで調べて発見したビジネスホテルへと向かった。
深夜近くでもチェックインが可能なようで、そうして俺たちはそこで一泊することになったのだった。
俺の漠然とした「海へ行く」という希望について来てくれたユリ。
「何で海なの?」
彼女は何かに期待したような表情でそう言った。
何故海へ行こうと思ったか―― 馬鹿げていると笑われるだろうが、その時の俺にはそれが何故だか分からなかった。夏といえば海…… そんな単純思考めいたものだったかもしれない。
俺が「分からない」と言うと、ユリは「――何だそれ」とおかしそうに笑ったのだった。
行楽シーズンでもあったので空き部屋の存在が危惧された。
しかし奇跡的に空き部屋があったので、俺たちはダブルの部屋に宿泊する。
行き当たりばったりの行動だったが、事は上手く運んだ。
それからは外に出て近くのファミレスで夕食をとり、またホテルへ戻って―― 明日に備えて入浴し床についた。
――仕事終わりで疲れていたが…… しかし俺たちは中々寝付けなかった。
俺はその時確か―― これからのユリのことを想っていた。
ユリは何を考えていたのかは分からない…… しかし彼女は俺の名を呼ぶ。
俺も彼女の名を呼んで、やがて互いに体を重ねた。
一時の快楽と、甘美を求めて―― 互いの存在をこの世に刻み付けるように、互いの悲しみを紛らわすように。
決して許されることのない行為、関係―― それは重々分かっていた。
堕落的だと思われるだろう。しかし俺はユリを求め、ユリは俺を求めた。
彼女の白い肌に指を這わせて、優しく撫でて、唇を重ねる。
ユリは嬌声を上げ、俺の体にしがみつく。
そうして俺たちは黒い海へ溺れていった。
彼女の艶やかな体を、長い黒髪を、白い肌を、蜜の香りを。
全てを感じ、一つになり、そうして汚れた楽園へ沈んでいく。
獣のように、しがらみを振り払うように。
いつかは必ず終わりがやって来る。
生物として生まれた俺たちの宿命であり、逃れられない摂理。
しかし俺とユリはそれを忘れるように、何もかも忘れるように―― 何度も体を重ね一つになり、そうして果てた。
「私、幸せよ――」
ユリは俺の胸の中で呟く。
「――今死んでしまってもいいくらいに」
そして「愛しているわ―― ダイチ」と言う。
抱いてはいけない感情。
しかしユリは自身の最期を悟っていたのか、全ての感情をさらけ出した。
そんな彼女に「愛してる」と返して、俺は強く抱き締める。
どうかこの温もりを忘れないように。
ユリがこの世に生きていた証を刻み込むように……
「もし同情でこうしてくれているなら――」
いつか俺が彼女へ投げかけた言葉。
ユリはそれを俺へと返す。
「――同情なんかじゃない」
俺は誠心誠意で、心からそう言えただろうか。
決して偽りなどではない。
そう自分に言い聞かせていた。
俺は彼女を愛していた―― ユリの為ならどうなったっていい。
他の人間がどうなろうと、世界がめちゃくちゃになろうと、俺が死んでしまおうと。
「同情じゃない―― 愛してる」
俺はそう言って、そしてユリと唇を重ねる。
長い間…… 熱く、熱く。
そうして気付けば眠っていて―― 夜は更けていった。
人は永遠を願う。
人生が鮮やかであればあるほどに、その時間がもっと長く続いて欲しいと願う。
しかし―― 永遠などない。
きっと誰もがそれを分かっていた、知っていた。
けれど…… 知らないふりをしていた。
あまつさえそれがあると信じていた。信じたかった。
――それが俺たち人間だった。
俺ももれなくその一人だった―― そして彼女も。
――どこまでも広がる海、青空、焼けるような太陽の光。
波打ち際ではしゃぐユリ。
喫茶店の定休日。
夜が明け、朝食をとって、そして俺たちは海に来ていた。
太陽の光をギラギラと反射して輝く水面。
そんな幻想的な風景に浮かぶユリのシルエットはまるで絵画のようであった。
風になびく長い黒髪と青のロングスカート。
ヒールサンダルを脱いで片手に持って、そうして波打ち際をはしゃぎ歩く彼女は幼子のように可愛らしかった。
砂浜の上は舞踏会場で、そこで舞うようにヒラヒラと戯れるユリは踊り子のよう。
会場前の階段に座りそれを眺める俺は観客だ。
やがてユリは手を招き俺を呼ぶ。
このステージはたった二人、俺とユリだけのもの。
他には誰もいない、誰も見えない。
俺も靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、そうして波打ち際のステージへ向かう。
このままどこまでも行けたら―― 夢のようなこの時間がいつまでも続けば。
ユリは真夏の太陽のように命を燃やす。
彼女は幸せだと、そう言った…… 今死んでもいいくらいだと。
彼女はこの時が永遠に続けばと、そう願っている…… 願っていて欲しい。
「永遠なんて―― つまらないわ」
しかし、風に吹かれながらユリはそう言った。
ああ、そうだ―― 彼女は永遠にも似た途方もない時間の中を一人でさまよってきたのだ。
大きな罪を抱えながら、その小さな体に背負いながら。
「人は永遠を願う―― だけどその永遠は紛い物だわ」
こうも付け加えた。
人は永遠を願う…… しかし彼らが言う永遠とは紛い物だと。
人は死ねば液体と気体に変わりこの世界に溶けていく。
死んでもこの地球を構成する一部分には変わりないのだ。
生と死の違いはそこに意識があるかどうか。
つまり―― 死んでも無意識のうちにこの世界の一部となって、転生して生き続ける。
俺たちは既に永遠を手にしている…… ユリはそう言った。
「だから―― 私はそんな摂理に反した存在なの」
私は紛い物の永遠を手にした偽物―― 彼女はそう言って寂しく笑う。
俺はこの時が、ユリとの時間がいつまでも続いて欲しい。
きっとユリもそう思っているはず…… 思っていて欲しい。
しかし同時に彼女は―― 彼女が言うところの紛い物の人生を終わりにしたいと思っているのかもしれない。
死を願っているのかもしれない…… 自分は生きていてはいけない存在だと、死ぬことで紛い物の存在から脱却できると。
――俺はそれが何よりも恐かった。
俺の隣で微笑むユリの顔がどこか寂しく、儚げに見えて…… 蜃気楼、陽炎みたいで。
もうこの時間が終わればいなくなってしまうと、そう思えてとても恐かった。
――別にユリだけではない。
俺たちは皆、生まれながらに罪を背負っている。
しかしながら誰もそれを直視しようとはせず、目を逸らして生きていくのだ。
そうして最後に、死ぬ間際になってようやく気付く。
俺たちは生まれ、そして死んでいく。
逃れることはできない宿命の中で、誰かを信じ、誰かを愛して…… 最後には一人で死んでいく。
やがて意識はなくなって、気体と液体に変わってこの世界に溶けて消える。
死は終わりではない。
俺たちは死してなお生き続ける―― この世界の一部となって。
――それが嬉しくもあり、悲しくもあった。
逃れられない宿命への精一杯の抵抗―― 短い抵抗、逃避行は終焉を迎えた。
定休日は矢のように過ぎ去り、あっという間に終わってしまった。
ほんの短い間でのことだったが、俺たちは色濃い時間を共に過ごした。
海へ行き、観光スポットを少し周って、そうして電車に乗り自分たちの街へ戻る。
あっという間な時間であったが、俺とユリは想い出を共有できた。
確かな絆を結んだ…… そんな気がする。
――そうしてまた日常がやってくる。
海から戻ってきて、翌日からはまたバイトに行って。
それからマスターに許可を貰って数日間帰省した。
僅か数日間なのにも関わらず、ユリがいない時間はとても寂しくて長く感じられた。
行ってらっしゃいと送り出してくれたユリの笑顔は美しくも悲しかった。
そこで別れればもう会えないのではないか…… そう感じて、恐くて、焦燥に駆られて。
だからできるだけ早く戻った。
両親や家族は「もっといればいいのに……」と溢していたが、ユリを想えばいち早く戻りたかったのだ。
実家から戻って来て―― それからはまたバイトの日々。
そしてユリとの想い出をできるだけ多く作ろうと、いろんなことをした。
――ユリの体は日に日に衰えていった。
計り知れないほどの衝動があったはずだ。
本人でないと分からない辛さ、痛み…… できるならば俺が変わってやりたかった。
想像もつかないほど激しい吸血衝動に苛まれながらも、ユリはもう人を殺めたくないという鉄の意志、覚悟で堪える。
俺もできることはないかと思って、血液を連想させるようなものを彼女にとってもらったけれど、どうやらもうごまかしも抑制も限界が来ていると思われた。
それでもユリは耐えた。
「ダイチ―― もし私が自我を失ったら、あなたの手で私を殺して」
あなたにしてもらえれば、私は幸せ―― ユリはそう言うのだ。
俺はそれに頷いてしまった…… 頷くことしかできなかった。
神様がいたならば…… なんて怠慢な奴だろう。
強引に罪を背負わされた彼女を救いもせずに、他のどうでもいい悪人どもを生かす。
神なんていない―― 何もできない俺が憎い。
苦しむユリを強引に連れ出すという形になってしまったけれど…… それでも俺はユリと色々なことをした。
「無理をしなくても、あなたが隣にいてくれればそれだけで幸せなの」
彼女はそう言った。
その言葉はとても嬉しくて、だけど…… とても辛くて。
――ユリの命の期限は刻々と終わりへ向かっていた。
喫茶店の仕事も満足に出来なくなっていた。
やがてユリは長年働いてきた喫茶店を辞める。
刻一刻と近づく終焉。
俺は最後のその時まで傍にいてやりたいと、マスターには非常に申し訳なかったが少しの間バイトを休んだ。
――その間、俺たちはずっと一緒だった。
ユリとの時間は幻のように儚く、鮮やかに―― 戻ることのない瞬間たちはやがてセピア色へ変わってしまう。
彼女が住む部屋で共に過ごした。
ある日は花火大会にも行った…… レンタル品だったが、ユリの浴衣姿はとても美しかった。
真夏の夜空に咲いた色とりどりの模様、その下で微笑む彼女の姿は絶対に忘れることなどできない。
またある日―― ユリはピアノを弾きたいと言った。
だから俺は彼女と楽器店へ赴いた。
その店には試し弾き用の電子ピアノが置いてあり、買いもしないのに演奏だけするのは気が引けたが、店員に尋ねると快く許可してくれた。
そうしてユリはその電子ピアノでドビュッシーの「月の光」を演奏する。
圧巻だった―― 刻々と弱っていく彼女がその時は全ての苦痛を取り払って息を吹き返したようで、白く綺麗な手は流れるように、滑らかに鍵盤の海を渡り、ゆったりと、そして時に激しく音を奏でていく…… それはまるでユリがこれまで生きてきた途方もない時間と人生を表しているようだった。
月の女神ルナ…… その曲はユリそのものを表しているようにも思えた。
まるで時間が止まったような、別世界に迷い込んだ気がして…… 俺はただ呆然と彼女の姿に見惚れていた。
店員や他の客もユリの演奏に思わず足を止めて聞き入っていた光景を今でも覚えている。
そうして―― 彼女がしたいこと、見たいもの、場所を巡った。
やがて全部出尽くして―― 遂に終わりがやって来る。
「私を―― あの場所へ連れて行って欲しいの」
肩で必死に呼吸しながらユリはそう言った。
――その場所とは、俺とユリが出会ったあの廃墟の屋上だった。
八月は中盤、やがて終盤へと向かっていた。
そんなある日の夜だった。
時刻は深夜近く。
初めて出会ったあの夜のように、夜空には丸々とした満月が浮かんでいて…… その光は闇に覆われた世界を優しく照らしていた。
苦しげに呼吸するユリの肩を組んで、そして途中からは抱きかかえて―― やがてあの廃墟の屋上へ到達する。
屋上の中央辺りまで来ると、彼女は「ここで下ろして――」と静かに言った。
そして下ろしてやると「ありがとう」と優しく微笑む。
月明かりは倒れ伏すユリをひっそりと照らしていた。
恐れていた、目を逸らしていた現実が遂にやって来てしまった。
ユリは自身の死をもって全ての罪を清算しようとしていたのだ。
俺は何もできなかった―― 彼女の罪を、重荷を共有するなどと覚悟を決めておいて、その実何もしてやれなかった。
ユリは強かった。
もう誰も巻き込みたくない―― そういう覚悟で、必死に自分の運命に抗ったのだ。
彼女は自身を偽り、紛い物だと言った。
けれどユリはそんな存在ではなかった…… 己の罪を払おうと最後まで運命に抗った。
吸血鬼という自身の運命を。
彼女は本物だった。
「ありがとうユリ…… ありがとう」
「ごめんね―― ありがとう」
ありがとう、そしてごめんねを繰り返す俺たち。
気付けば涙が滝のように溢れて、流れて。
「好き、大好き…… 愛してる、ダイチ――」
「――愛してる、ユリ」
そうしてユリは屈み込む俺の両手を取って、そして自身の首元へ添える。
「ごめんね―― 私、あなたの血が欲しくてたまらない」
大粒の雫を流しながら彼女は悲痛な面持ちでそう溢す。
嗚咽に混じりながらも、必死にそう言う。
「私があなたを襲ってしまう前に…… その手で終わりにして」
あなたに押し付けてしまって本当にごめんなさい―― ユリは掠れた声で俺に引導を渡す。
「結局あなたも巻き込んでしまった…… 本当にごめんなさい」
ユリはどこまでも優しかった。
こんな時にまで俺を気遣ってくれるのだ。
「もう吸血する力も残っていないけれど…… 万が一のことがあるから、だから――」
その両手で首を絞めて終わりにして欲しい。
それはユリの最期の願い。
彼女の人生とは一体何だったのだろう。
王女として生まれ、狂った王に無理矢理吸血鬼にされて、罪を背負わされて。
その罪に縛られて、孤独な時間をずっと一人でさまよって。
やっと自分を許せるかもしれないと思ったけれど、だけど結局運命を覆すことはできなくて。
「ダイチ、ごめんなさい…… お願い、早く、お願い――」
どうしてだ。
どうしてこんなことになってしまったんだ。
俺はユリを愛している、ユリも俺を―― たったそれだけ、それさえも願ってはいけないのか。
俺はユリを愛している―― なのに、この手には徐々に力が込められていく。
「ありがとう、ダイチ―― 愛してるわ」
やめろ…… この手は何だ。
何で俺は力を込めている。
何でユリは「ありがとう」なんて言う。
やめろ…… やめてくれ。
「私のことは忘れて―― 私のことは気にしないで、あなたの人生を生きて」
何でそんなことを言う。
ユリがいない世界なんて偽物だ。
そんな世界に生きる意味などない。
「――大好き」
やめろ、何でそんな――
俺は何で…… 頼むから離れてくれ。
何で、何で、何で―― 何で力を込める。
「ユリ…… ユリ、ユリ――」
「――ダイチ」
この世界は残酷で―― 残酷で、美しい。
「愛してる―― ユリ」
俺の両手の力は最大を迎える。
――その時、脳裏で想い出の数々が次々と投影された。
初めて会った夜、天使が墜ちてきた夜。
再会を果たした喫茶店。
想いが芽生え、恋焦がれた日々。
運命を知り、愛を育んだ日々。
一つになった夜。
長い黒髪、スカーレットの瞳、白い肌、蜜の香り……
拗ねた顔も、美しい微笑みも、はしゃぐ姿も、波打ち際の幻想も。
想い出の数々が俺に押し寄せる。
「ユリ―― ユリ!!」
やがて想い出は巡って、目の前の彼女が俺の中に刻まれる。
――俺と彼女の短い季節は、夢はそうして終焉を迎えた。
愛してる―― その声がいつまでも鳴り響いていた。
季節は巡り、また新しい春がやってくる。
桜は咲き乱れ、風に流され桜吹雪が舞い落ちる。
「――さてと」
柄にもなく文章を書くのが最近の楽しみになっていた。
誰に見せるわけでもない…… 日記みたいな、心の整理の為の文章だ。
カーテンの隙間から春の陽光が差し込む。
季節は巡り、もう何度目かの春が訪れる。
今朝は彼女の夢を見た気がして、そしていつもより早く目が覚めた。
だから…… こうして文章の続きをタイプしていたわけだ。
ちょこちょこと書き続けていた話も、これで遂に終わりとなった、完成だ。
後でもう一回最初から読み直してみるか―― そう思って文章を保存し、パソコンの電源を落とした。
朝の時間はあっという間に過ぎる。
そうして俺は朝食をとり、身支度を整えて仕事場へ向かった――
「こんな老いぼれの道楽に付き合ってもらって済まないね――」
仕事場に到着して開店準備を進めていると、俺の雇い主が現れてそう言った。
「いえ―― マスター、俺はこの店が好きなんです」
だから―― この店を無くしたくないと、残していきたいと思ったんです。
対する俺はそう返す。
俺の仕事場は…… 学生時代にアルバイトとして働いていた喫茶店だった。
時は流れ―― 俺は大学を卒業する。
結局あれ以来も俺はこの喫茶店でずっとバイトを続けていた。
そうして周囲は企業などに就職していく中で、俺はそのままここで働き続けることを決心する。
マスターは最初こそ冗談だと思ったらしいが、俺の覚悟を聞くとたいへん嬉しがって、それからはまるで息子のように可愛がってくれた。
そして喫茶店の次期主として俺に店を任せてくれたのだ。
しかし経営面など細かい部分はまだまだ分からないことだらけで…… だから今は引き継ぎの為にマスターの補助を受けながらやりくりしている状況だ。
マスターも、「趣味みたいなものだし、動ける内は続けるつもりだから――」と言ってくれたのでとても助かっている…… 昔も今も彼には頭が上がらない。
そんなこんなで、俺は今日も喫茶店で働く。
初めて訪れたその日からこの店の雰囲気が好きだったし、ここを訪れる客も好きだった。
――そして彼女も。
彼女が生きていたこの空間が好きだった。
ここは彼女が生きた証。
だからこれからも、そんな証を守り続けていきたいと思っていた。
ゆくゆくは彼女のように何かを抱えた人間にとっての心の拠り所になれたら…… そんな癒しの空間になれたらいいなと、そう思う。
やがて開店準備は終わり、開店時間となった。
開店まもなくドアベルが鳴って、入り口扉が開く――
「いらっしゃいませ―― お一人様ですか? お好きな席へどうぞ――」
今日も無事に仕事が終わった。
バイトの時と違って今は閉店作業…… 俗に言うクローズ作業も全部行っているから帰る頃には結構な時間になっている―― と言っても、もちろん深夜近くになるほど遅くなるわけではないが。
売り上げの計算、伝票への打ち込み、清掃、後片付け、ゴミ出し、翌日の準備―― そういう作業だ。
「個人経営、自営業だし、根詰めなくていいから、間に合うようにやってくれればいい――」
というのはマスターの言葉であり、そのおかげでプレッシャーもなく充実した時間を送っている。
やがて一日の仕事を終えて帰宅した。
さすがにもう学生の時のアパートではないが、住んでいる街はあの時と同じ、変わりない。
この街も俺は好きだった―― なだらかな坂道が多い、面倒くさいこの街が。
今はそんな坂道の上にそびえ立つマンションの一部屋に住んでいる。
「ただいま――」
誰もいないと知りつつも、つい癖でそんな挨拶を溢してしまう。
玄関扉を開けて、入室し、照明を点ける。
リビングへ入るとふとカレンダーが目に入った。
――カレンダー、今日の日付の数字は丸枠で囲まれていた。
「そうだったな――」
仕事で頭が一杯で忘れかけていた。
「――これじゃ怒られちまう」
彼女の顔を思い出し、自嘲気味に笑う。
そうして俺は―― 帰宅してまもなくであるが、ハンドバッグに懐中電灯、瓶に入った焼酎、酒を割る為のミネラルウォーター、ロックグラス、つまみを少々放り込んで部屋を出た。
傍から見れば不審者で、通報されてもおかしくはないだろう。
春の夜道、時刻は深夜帯へ向かう。
そんな中俺は「スタンドバイミー」を静かに口ずさみながらある場所へ向かっていた――
――目的地は、なだらかな丘の頂上にある廃墟。
なんだか気分が高揚してきて、俺の脳内の音楽プレーヤーはランダムで再生されていく。
次はジーン・ケリーも歌った曲、「雨に唄えば」だ。
別に雨が降っているわけでもないが、俺の気分はこの曲を欲していた。
歌詞がうろ覚えなので、知っている部分はなんとなく口ずさみ、あとは口笛なんかも吹いてみたりして…… 近所迷惑も甚だしいが、しかし今夜だけはどうか許して欲しい。
そうして次は少々湿っぽいシャンソン―― エディット・ピアフの「Tu Es Partout」でも。
意訳は人それぞれだが、俺が曲名を訳すならば―― あなたの面影…… はどうだろうか。
フランス語も喋れるはずがないので、適当に口ずさんで、口笛を吹いて、そうやって廃墟を目指し歩いていく。
――なだらかな坂道を上って行く。
俺が住んでいたアパートを通り過ぎた。
良かった―― この場所はあの時のままだ。
様々な想い出が駆け巡る…… 今でも鮮やかに思い出す。
あの時はセピア色になってしまうのが恐かった。
しかし今でも、数年経った今でもちゃんと色鮮やかに覚えている、大丈夫だ。
――そして、あの廃墟が姿を現した。
ここもあの時と変わりない…… ここだけはどうか変わらないでいて欲しい。
時は流れ、環境も変わり、人の顔も移り変わっていくが―― どうかこの場所の時間だけは止まっていて欲しい。
ここだけは―― ここだけは。
はやる気持ちを抑えて、錆付いた鎖を跨いで、そうして廃墟の中へ――
ここもいずれは自然に呑まれ、崩れ、世界に溶けて消えていくのだろう。
しかし俺の中には、彼女の中にはこれからもずっとこの風景が残っている。
そう、永遠に。
亀裂が入った打ちっ放しのコンクリート、窓枠だったスペースから飛び出す草木、隙間から生える雑草。
何も変わっちゃいない…… やがて二階へと続く階段が姿を現して。
そこを上って二階に辿り着く。
適当に二階を周って、とある一室から外を眺める。
あの夜と変わらない風景。
下界にはミニチュアのような建造物がずっと彼方まで続き、そこから漏れた明かりが夜を彩る…… 空には煌々とした満月。
景色を充分堪能してから、最後は屋上へ――
部屋を出て、屋上階段へ向かう。
鼓動は高鳴り、ドクンと脈打つ。
今、一歩を階段へ―― 続いて二歩目、三歩目……
やがて目前には屋上への扉。
ボロボロになったドアノブに手を掛け、重い扉を開けていく――
――屋上、そこにはあの時と何一つ変わらない光景がある。
遮るものはない春の夜空、吹き抜けるそよ風、優しく降り注ぐ月明かり。
「――ただいま」
帰ってきたよ、ユリ――
ここでは時間が止まったままだ。
彼女と出会ったのはこの場所で、そして最後もこの場所だった。
最後―― 最期か。
ユリは言っていた―― 人は死んでも生き続けると。この世界の一部に転生して生き続けると。
そうだったよな―― ユリ。
長い黒髪、スカーレットの瞳、雪のように白い肌。
俺たちが出会った場所、俺たちが別れた場所、俺たちが――
「――おかえりなさい、ダイチ」
俺たちが―― 再び出会う場所。
――俺はあの夜を思い出す。
ユリと別れたあの夜を。
「愛しているわ―― ダイチ」
「ユリ―― ユリ!」
涙で前が見えない。
俺の両手はユリの首元へ…… やがて彼女の首を絞めていく。
「愛してる――」
その力は最大を迎えて―― そして。
「――駄目だ!」
俺はどこまでも愚かで、卑怯で、罪人だった――
ユリの綺麗な瞳が閉じられようとしていたその時…… 俺は両手を離した。
「ダイチ――」
困惑した表情で目を大きく開くユリ。
「ユリ―― 俺の血を吸ってくれ」
「嫌、そんなこと――」
「お願いだ!!」
俺はユリとこれからも生きていきたかった。
彼女がいない世界なんて、それこそ紛い物だと思った。
愚かだろう、卑怯だろう、許されることのない大罪だろう。
だけど俺はそう願ってしまった。
愛に嘘はつけなかった。
「ユリ―― 俺はユリが抱える罪を共に背負う、これからもずっと。もう一人じゃない、俺がいる」
だから―― 傍にいて欲しい、一緒に罪を背負おう。
俺は死なない…… ユリに血を吸われても、きっと死なない。
だから俺の血を吸ってくれ。
そして二人で生きて…… もう生きるのが飽きたと思えるまで、何年も何十年も何百年も一緒にいよう。
俺はそう言って、自身の首筋をユリの目の前へ近づけた。
「ダメよ――」
ユリは弱々しい声でそう溢した。
目には大粒の涙。
掠れた声で、嗚咽を上げて。
「――ユリ、愛してる。これからもずっと一緒にいよう」
「ダイチ――」
それからはひたすら無言で、長い沈黙が置かれた。
俺とユリはその中で、決して逸らすことはなく見つめ合う。
目と目で会話する。
彼女はやがて顎で呼吸するようになり、本当の最期もすぐそこだと思われた。
しかし俺たちはなおも見つめ合う。
――そして、ユリの呼吸が遂に途切れ途切れになった時。
「ダイチ――!」
俺の名を最後に一つ叫んで―― そしてユリは俺の首筋へ噛み付いた。
もう吸血する力もない…… しかしユリは最後の執念で、生への執着で本能のままに噛み付いた。
ドクドクドク…… 俺の首筋から流れ吸い込まれる血液。
不思議と痛みはなく、逆に心地よいとさえ感じた。
ユリの優しさが俺に注ぎ込まれたようにも思えた。
ユリは俺の血を吸いながら、涙を流し、時に口から吐息を漏らす。
甘美な吐息を耳元で感じて…… やがて俺たちはきつく抱き締め合う。
そのまま俺が上に覆い被さるようにして倒れて、彼女は俺にしがみついて下から吸血した。
何回か固い地面を転がって、今度はユリが上位になって。
そうしてしばらくの間…… ユリは今まで抑えてきた吸血鬼の本能を全て俺にぶつけ、長年の欲求を晴らすように吸血し、ようやく首筋から口を離す。
「ごめんなさい…… ごめんなさい」
何度も謝罪の言葉を繰り返すユリ。
吸血された俺はどこか夢うつつ…… 夢と現実の狭間のようなフワフワとした時間の中をさまよって。
「大好きよ―― ダイチ」
朦朧とした意識の中、ユリが俺の体に覆い被さって倒れる。
俺も世界が真っ白になって―― そして俺たちは互いに気を失った。
やがて全てが終わり、また始まった時―― 俺は吸血鬼になっていた。
「待ちきれなくて、先に来ちゃった」
幼子がいたずらを考えついたような顔で可愛らしく、そして舌先をチロリと出してみせるユリ。
「まったく―― 閉店作業もせずに行っちゃうなんて」
「今日だけよ、いいじゃない」
「そうだな―― 今日だけは」
「今日は何の日か覚えてるよね――? ダイチ」
「――忘れるわけがないだろ?」
俺は吸血鬼になった――
ユリとこれからも生きていきたくて、ユリを失いたくなくて。
あの時咄嗟に思いついた方法がこれだった。
ユリはもう誰も巻き込みたくないと吸血してこなかった…… しかし吸血鬼は人間の血がないと生きていけないのだ。
だから長い間それを絶っていた彼女は日に日に衰弱し、やがて命は途絶えようとしていた。
ユリの覚悟に泥を塗る形になってしまったかもしれない。
だけど…… ユリがいない生活など、人生など考えられなかった。
だから俺は世界を裏切った―― 運命に抗った。
ユリの罪を共に背負い、そうして生きていくことに決めた。
人間の血を吸えばユリは生き返るだろう…… 俺の血を吸えば。
だから俺はユリに自分の血を捧げた。
これは賭けだった…… なんせ今まで彼女に吸血されて生き延びた者はいないと聞いていたから。
だけど―― 俺は死なないと思った。
確証はないけど、自信はあった…… これからもユリと生きていく覚悟があった。
だから死なないと思った。
俺は賭けに勝った。
運命に抗った…… 罪を背負った。
俺は大罪人だろう。
だけどこれでいい―― ユリが生きるのに飽きたと言うその日まで俺は共に罪を背負う。
――そして今日は、俺たちが初めて出会った日。
記念日だね―― ユリは頬をやや上気させてそう言った。
初めて出会った夜を思い出す。
始まりこそ信じられないようなものだったが、今となってはいい想い出だ。
ユリは喫茶店の仕事をあらかじめ報告していた適当な理由で抜け出して、それから俺より先にここへ来ていたのだ。
――俺の血を吸ったユリは息を吹き返した。
そうして現在も俺と一緒にあの喫茶店で働いている。
マスターが「これからは二人の店だな」なんて言ってくれたのが嬉しかった。
しかし「今日も仲がいいねー」だとか、「式が楽しみだな」とか、「私も呼んでくれよ」とか、「早く式を挙げてくれ」とか…… 囃し立てられるのが最近の悩みでもある。
ともかく…… 俺は一人じゃない、マスターやユリの助けでうまくやれている。
先にここへ来ていたユリはコンクリートの地面にシートを敷いて、その上に重箱を広げて俺を待っていた。
傍から見れば常識から逸脱したようなめちゃくちゃな構図だ。
だけど、これが俺とユリの記念日のかたち――
重箱にはおにぎりだとか豪勢なおかずが色とりどり、ギッシリ詰め込まれている。
深夜近く、場所は廃墟の屋上で。
誰かに通報されないように、ひっそりとして記念日の宴会を。
「それじゃ―― はじめましょうか」
俺はロックグラスに焼酎を、ユリも「私も今日は飲んでみようかしら」とのことだったので、彼女のコップにもそれを注いで。
「――乾杯」
前口上もなく、カチリとグラスを合わせる。
静かな記念日。
寄り添って、ただ黙々と。
――言葉はいらない。
千の言葉より、愛を込めた沈黙を。
俺はユリとの日々を出会いから順に追っていく。
きっと彼女もそうやって追憶の中にいるのだろう。
少し憂いを帯びたような―― しかし下界を眺めるユリの瞳はキラキラと輝いて。
「本当に―― これで良かったの?」
涼しげに虚空を眺める彼女はふいにそう言った。
これで良かったのか―― それはきっとユリが選んだ道のことであり、俺がとった選択のことでもある。
これで良かったのか…… 恐らくこれは決して許されるものではない。
「俺は…… これでいい、これがいい」
だけど―― これでいいと思える。
むしろこの道しか考えられない。
愛に嘘はつけない――
俺たちは神に、運命に、世界に逆らう存在。
「ダイチは幸せ?」
けれど――
「ああ―― 幸せだ」
あの選択を取って良かったと、今は心からそう思える。
「ユリは――?」
そしてユリも。
「もちろん、私も幸せよ」
ユリもそう言ってくれるのなら、俺はこれでいいんだ。
ここに来る前はほとんど何も腹に入れてなかったので、そして酒が入ったこともあり、俺はあっさりと重箱の中身をたいらげた。
ユリは「頑張って作った甲斐があったわ」と顔を綻ばせる。これら料理は全てユリの手作りだった。
――そうして俺たちの記念日はゆっくりと流れていく。
料理を食べ終えてからはお互いに一言二言交わして、そして酒をチビチビと煽っていく…… そんな時間だった。
「ダイチ――」
心地よい沈黙の合間、ユリは静かに俺を呼んだ。
「――どうした?」
「愛してる」
そして俺の肩に自身の頭を預ける彼女。
「俺も―― 愛してる」
ユリの顔は酔いが入ったからか、ほんのりと紅潮していた。
それがまた扇情的で、愛おしくなる。
「そういえば、ユリ――」
「――どうしたの?」
そして俺はあることを思い出す。
「あの時の告白の返事、ハッキリしてなかったね」
俺たちは自然と愛し合っていた。
だけど俺が体調を崩して寝込んでいたあの日…… あの夜、俺の告白の返事は結局曖昧なままだった。
「そういえば―― でも、もう私が何て言うかわかってるクセに」
「ありがとう…… でも、改めて聞かせてもらっていいかな?」
それは―― これからも俺たちが長い時間を共に生きていく為に必要な儀式。
「それじゃ――」
言おうとして、しかしハッと何かに気付いたような素振りを見せるユリ。
「――ああ、分かった」
彼女が何を思いついたのか、俺には分かった。
「俺から、いい――?」
「そうね―― でも、ダメよ」
「ダメ?」
「――一緒に、しましょ?」
「そうだな」
やがて俺たちは座ったままで正面を向き合う。
そして抱き合って―― 俺は向かって右側、ユリの首筋へ顔を近づける。
ユリは俺の左側、その首筋へ。
「「愛してる」」
自然と声は重なって、そして――
――俺はユリの血を、ユリは俺の血を。
互いに吸血し合った。
プツリとした僅かな痛みの後、流れる鮮血。
吸血中に痛みはない…… ほんのりと気は遠くなり、快感にも似た電流が体を伝わっていく。
――吸血鬼は人間の生き血がないと生きていけない。
それは確かだった。
俺は吸血鬼になって、そしてユリも吸血鬼……
最初は吸血鬼になったという実感はなかった。
しかしある日「血が欲しい」という衝動に駆られ、その時初めて自分がそういう存在になってしまったのだと感じた。
しかし後悔はない。これは俺が選んだ道だ。
むしろユリの痛みを初めて知ることができたので嬉しかった。
吸血鬼に吸血され、そして生き延びた人間もまた吸血鬼になる―― それは本当で、彼女が言っていた通り。
トマトジュースや赤い物で吸血衝動をごまかすことができたのも本当。
――だけどいつまでもごまかしは利かない。
血を絶てばいずれ生命力は衰え、衝動も激しくなり、なんとか抑えることができても衰弱死する。
――その問題を解決する方法がこれだった。
ユリと考え合って、実行して、新たに分かった事実がある。
それは―― 人間の生き血じゃなくても大丈夫なのではないか、ということだ。
つまり、吸血鬼同士の血液でも代用できるのではないかという結論に至った。
「――いつもありがとう、ユリ」
「こちらこそ―― 大好きよ」
やがて充分に互いの血をもらって、そうして首筋から牙を抜く俺たち。
これが最善策かは分からないが…… しかし今のところ吸血鬼の血でも充分に力を得られているし、目立った体の不調もない。衝動も解消されている。
従って俺たちはこれからも互いの血で生命力を補っていくことに決めたのだ。
これがもし間違った方法だったとしても…… 俺たちはそれで満足だとして、そうやって生きていく方針である。
「それじゃ、もう一度俺から――」
そうしてゆっくりと抱擁を解いて、体は向き合ったまま…… もう一度誓いの言葉を口にすることにした。
「ユリ―― 俺はユリを愛してる、これからもずっと」
「――うん」
「だから、これからもずっと―― ずっと、ずっと一緒に生きていこう」
「――はい」
「ずっと―― ユリがもう飽きたって言うまで、それまでずっと傍にいる。何年、何十年、何百年でも」
「――嬉しい」
「ユリの罪を一緒に背負うから―― だから、これからも俺の隣にいてくれませんか?」
途中から早口のようになってしまったけれど、何とか言うことができた。
「もちろん―― 私からもお願いします」
その時、ユリの片側の瞳から光る雫が頬を伝って落ちた。
やがてポロポロと…… もう片方からも流れ落ちる。
「ありがとう、愛してる」
「――私もよ」
そしてもう一度、きつく、きつく抱き締め合う。
しばらくの間無言で、余韻に浸るように。
「ねえ―― ユリ」
やがてどちらからともなく抱擁が解けて、俺はユリの綺麗な手をとった。
彼女の左手、薬指には光るリングが―― そして俺の左手にも。
「結婚してください」
改めて―― そう、改めてだ。
今日は記念日だし、ユリも許してくれるだろう。
「それ、毎回言うつもり?」
俺がその言葉に頷くと、彼女は笑顔のままで涙を落とした。
「はい、これからもよろしくお願いします―― あなた」
「愛してる」
「私も―― これからもずっと愛してる」
「いつか絶対に式を挙げよう」
「うん―― 必ずね」
でも今はマスターに安心してもらえるようにならないとね―― 優しく微笑みながらユリはそう言った。
「ねえ―― キスして」
そして囁くように懇願する彼女。
「――ああ」
ユリを引き寄せ、そして唇を重ねる。
どのくらい時間が経っただろうか―― 何度も、何度も唇を重ねて。
そうして夜は更けていく。
満月の優しい月明かりだけが、そんな俺たちを祝福してくれていた。
彼女は吸血鬼だった―― 大きな罪を小さな体に背負って悠久の時間をひたすらさまよい歩いた。
やがて俺はそんな彼女と出会った。
名前はユリ。
そして彼女は王女ルナでもあった。
そんな彼女と出会って、俺は恋に落ちて、やがて結ばれる。
ユリの罪を知って、一人で背負うには重過ぎるその荷物を共有しようと、分かち合って生きていこうと決めた。
いずれは終わりがやってくるだろう。
それは生物としてこの世に産み落とされた俺たちの宿命、運命。
しかし終わりは始まりでもある。
俺たちは死んでもこの世界の一部であり続ける―― 永遠に。
だから一人じゃない。
間違った存在だろうと、許されない行為だろうと、俺は彼女とこれからも生き続ける。
終わりの始まりが訪れるその日まで―― 何年も何十年も何百年も、その先も…… ユリが「もういい」と言うその日まで。
「あなた―― こっちは準備できたわよ」
「ありがとう―― それじゃ、今日も頑張ろう」
「うん―― 今日も頑張りましょう」
やがてユリは―― 吸血鬼の花嫁となる。
俺もまたそんな吸血鬼と契りを交わした吸血鬼になった。
都会の片隅にひっそりと佇む喫茶店。
今日もそこには様々な客が訪れる。
あれこれと世間話に花を咲かせる常連客、休憩に訪れたサラリーマン、仲睦まじいカップル、課題に取り組む学生、放課後に溜まりに来た地元の小学生、次々と話題を展開していく主婦…… 何かを抱えて生きる者達。
皆一様に何かを背負って、そして生きていく。
俺とユリは、そんな彼らを癒せるような…… そんな場所を提供していきたい。
いつか終わりがやってきて、そしてまた始まっても―― 誰かの心に俺とユリと、そしてこの店がありますように。
喫茶店「こうもり」は今日もひっそりと営業中。
俺が書いたユリへの回想録―― 吸血鬼回想録は、やがて俺自身の回想録にもなり、二人の生きた証となった。
これからもそんな回想録のページ数は増えていくことだろう――
何かを抱える者達へ―― そして最愛の吸血鬼へこの話を捧げる。
終
119 : 以下、名... - 2015/05/16 00:03:19.88 ULzN2GtU0 103/108以上です
付き合ってくださった方々、本当にありがとうございました
121 : 以下、名... - 2015/05/16 00:46:31.70 ULzN2GtU0 104/108>>120 目を通して下さって本当にありがとうございます
なお、余談ではありますが…… そしていやらしい宣伝になってしまいますが
仕事を辞めた俺は超自然現象対策室に再就職した 最終章・前編
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1425574367/
(→http://ayamevip.com/archives/43062993.html)
こちらのSSも目を通して頂ければ幸いです
もしよろしければ、暇でどうしようもないときのほんのついでで……
そしてもし↑を読んで下さっている方がいましたら、続編投稿が遅れてしまい誠に申し訳ありません
五月中遅くても六月中には必ず投下しますので……
以上、いやらしい宣伝本当に失礼しました
122 : 以下、名... - 2015/05/16 01:38:43.92 7EfBiRKAO 106/108あなたでしたか!
あっちも読んだよー!
気長に待たせていただく所存です
123 : 以下、名... - 2015/05/16 01:47:59.20 bz7aJeKn0 107/108おつかれ
楽しませてもらった
124 : 以下、名... - 2015/05/16 04:21:44.53 PDoyzaN40 108/108>>122
色々構想を練っていまして…… 投下が遅いくせに内容がしょぼかったら&短いと感じたらすみません
なんとか頑張ります ありがとうございました
>>123
読んで下さってありがとうございました!