あーあ、なんだかやる気が出ないな、かったるいな。
そんな気分で自宅を抜け出して、近所のコンビニに立ち読みに出かけたのが午後八時。
今日発売の漫画雑誌が置いておらず、不思議に思って店員に訊ねると、
「たしか、先週合併号だったはずですよ」
と驚愕の事実を告げられる。失意のままで他の漫画を読んでみるものの、なんだか気分が乗らない。
そんなとき、チャラチャラした茶髪男とケバケバした茶髪女の二人組が、ツーセット同時に店内に侵入。
四人が迷惑をかえりみずに大声で騒ぐものだから、眉間に皺を寄せたのは俺だけではないだろう。
エロ雑誌を値踏みしていた隣のおじちゃんとか、内心憤懣やるかたない心地だったはずだ。
イライラしていたし、ムカッときたのだ。
元スレ
妹「なぜ触ったし」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1337881798/
妹「なぜ触ったし」.
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1342079828/
でもま、そんなことでいちいち怒ってたら、この世の中は生きていけないぜ、俺。
そんなふうに自分を慰めて、好みの漫画が載っていない漫画雑誌をペラペラめくって、不満をごまかした。
だが結局、俺は居心地の悪くなった店内を早々に離脱することにきめる。
あんまり楽しくなかったのだ。俺は缶コーヒーだけを持ってレジに並び、肉まんを頼んだ。
気の弱そうな女性店員(おそらく学生)がレジに立っていた。
彼女は「いらっしゃいませ、お預かりいたします」の「いたし」のあたりで噛んだ。
照れ隠しのような苦笑が愛らしく、まぶしい(俺は惚れっぽい性格だった)。
「ありがとうございます。またお越しくださいませ」
の声(「おこし」のあたりで噛んでいた)を背中に店を出て、缶コーヒーを軒先で飲む。
季節はすっかり冬めいて、夜ともなるとひどく肌寒い。
少しすると、さっきの四人組がガヤガヤ騒ぎながら店を出てきた。
ひとりの男と目が合う。咄嗟に逸らす。
「何だアレ」
もう一人が、なぜだか俺を指差して笑った。
知らんぷり、できればよかった。
なんかもうすっごくバカバカしい話だが、頭に血が上った。
「ばーか!」
と四人に向かって俺は叫んだ。背を向けて帰路を行く。こんなことをしても現代じゃ追ってくる奴なんていない。
さようなら、義理と人情と愛の時代。こんにちは、古びてしまった超個人主義社会。
怪しい人には「なんなのあれ」と言って、それでおしまい。誰も文句なんて言わないのだ。
「あ?」「なにあれ」「はっ? おい、なんだアレ」「やるか?」「おう」「ちょっと、やめなよ」「行くぞ」
えっ。
――そんなわけで、追われていた。
「待てオラッ!」
いや、たしかに俺が悪かったのだ。うん。他人の迷惑をかえりみないのは別に悪いことじゃない。
第一、最近の人は他人の顔色をうかがいすぎている。もうちょっと身勝手もふるまってもいいのだ。
他人の顔色をうかがってばかりいると顔色を失ってしまうものだ。自分というものはしっかり持つべきだ。
そういう意味では君たちは尊敬に値する。何も悪いことをしていない人間に対して「ばーか!」はない。
俺が悪かった。認める。
だからやめよう、仲直りしよう。科学が人類を幸せにしなかったことは二十世紀が既に証明した。
だが、俺たちには対話の力がある。俺は対話の力を信じている。対話は人をおおらかにさせる。スピリチュアルに。
話し合おう。まじで。頼むから。
「逃げんじゃねえよ!」
男の怒鳴り声が夜の住宅街に響く。ご近所の迷惑になるからやめてください。赤ちゃんがいる家もあるんですよ。
ああ、だが彼らは、人の顔色を気にしないという美徳の持ち主。赤ん坊なんて知ったこっちゃないぜベイベーな方々。
夜泣きが原因で虐待が始まったら悲劇だ。人々は世の母親たちにもう少し優しくしてもいい。
つーか「逃げんじゃねえよ」ってなんだよ。そりゃ逃げるよ。だって殴るでしょアナタ。どう見ても殴る顔してるもの。
なに、殴られるのが分かってて逃げない人っているの? よっぽど特殊な事情だよそれ。DVとか。
泣きたくなる。
俺、怒鳴り声って苦手なんです。
間近で、何かが弾けるような音がした。一瞬遅れて、缶が地面を跳ねる音だと気付く。炭酸が音を立てて夜道に噴き出た。
飲みかけの缶を投げたのだ、こっちに向けて。さっき買ったばっかりだろうに、もったいない。
おいおい、コーラ掛かったらどうするつもりだよ、べとべとになっちゃうだろ。……なんて場合じゃない。
むしろ気にするべきは、「当たったらどうするつもりだよ」である。
そして彼らは「当てるつもりなんだよ馬鹿野郎!」と言うに違いない。
俺が悪かった。
マジで。
普段は小鹿のように無害だから見逃してほしい(鹿って害獣だっけ?)。
慣れないことはするもんじゃない。マジで怖い。
陸上部で鍛えた足がなければ、とっくに追いつかれていただろう。
膝はズキズキ痛むけれど、逃げないわけにはいかないのだ。
「ちくしょう!」
俺は叫んだ。
「俺が悪かったよ! 馬鹿! 馬鹿!」
「何言ってんだてめえ!」
「うるせえ! 大声を出すな染髪プリンどもめ! 赤ちゃん起きちゃうだろ! もうお前ら死ねよ!」
「テメ、いい加減にしろよ、何言ってんだお前! 今大声出したのはオマエだろうが!」
律儀に返事をくれるあたり、意外と素直な人たちらしい。
彼らは息を荒げながら、馬鹿みたいな会話に少しだけ笑ったようだった。
ああもうだめ。足は確かに鍛えたが、俺は短距離ランナーだった。愛すべき瞬発力。花火のように一瞬の輝き。
もう疲れた。俺はアスファルトに倒れ込む。もう、煮るなり焼くなり好きにしてくれ。
息も絶え絶え崩れ落ちた俺の姿があまりに情けなかったからか、男たちは拍子抜けしたようで、何もしてこなかった。
「戻ろうぜ」と片割れが言った。「ああ」ともう片方が頷く。仲いいなぁ、こいつら。
羨ましい。心底羨ましい。
こんな俺に、父ならきっとこう言うだろう。
「だがな、真面目で一生懸命で、他人のことを考えられる人間が、最後には笑うんだよ」
うるせえ馬鹿親父、と俺は思った。最後だけじゃ意味がねえんだよ。
あいつらは真面目にやってないように見えるけど、楽しそうじゃねえか。
あいつらなりに真面目、なんて言葉はいらねえぞ。
そんなこと言い出したら、この世に不真面目な人間なんていなくなっちゃうだろ。
ちくしょう。
最後に泣くことになったって、途中でたくさん笑えた方がいいに決まってるじゃねえか。
馬鹿親父、俺はなんかつらいぞ。
空には星がまたたいている。なんだか星にすら馬鹿にされている気がした。
背中の裏のアスファルトの感触は固く冷たい。吐いた息が白く染まって空に立ち上っていく。
ろくなもんじゃない。
誰でもいいから殴り飛ばしたいような、そんな冬の夜だった。
コタツは戦場である。
領地争いは冷戦めいている。
一見なにも起こっていないように見えても、水面下では争いが繰り広げられているのだ。
漫画を読んでるふりをしていても、テレビを見て笑っていても、意識は爪先に集中しているのである。
うちのコタツは長方形だ。ので、長い辺もあれば短い辺もある。
短い辺から足を突っ込めば、長い辺の分、体が暖かい。
が、さすがにそれでは家族の不興を買う。長い辺から足を突っ込み、他の人間も暖を取れるよう配慮するのがオトナの気遣い。
けれど、それだと足がはみ出てしまう。寝転がらなければいいのだが、コタツでそれは無理な相談である。できうるものなら寝たい。
そう考えると自然、体がコタツの中で斜めになる。ちょうど長方形の辺と辺の接点から接点へ伸びる対角線のように。
まさしく完全にかぎりなく近い解決策。すばらしきかなユークリッド幾何学。
これなら短い辺の入口を残しているので、他の人間の邪魔にもならない。
……と思うのは錯覚である。
実際に長方形を書き、対角線を引いてみると分かる。
すっげえ邪魔である。
かろうじて二か所、足を延ばせそうな場所があるが、寝転がるとなるとやっぱり対角線が邪魔である。
幾何学は敗北した。
人間はもう終わりだ!
……かのように思われたが、人間には、偶然に恵まれるタイミングというものがある。
天啓。ひらめきである。「天才の内訳は九十九パーセントの努力と一パーセントのひらめきである」と、かの発明王エジソンも言った。
いや、言ってないかもしれない。誤訳だという話を聞いたこともある。
実際、エジソンが天才かどうかはわからない。でもま、いいじゃないか、天才ってことで。頭の回転は速そうだし。
ひらめきのない天才など、つまり努力が百パーセントで、ちっとも報われそうにない。
大天才にとってもまた、ひらめきとはかくも大切なものだったのだ。
俺はひらめいたので、ひょっとしたら天才なのかもしれないが、よくよく考えると九十九パーセントの努力が欠けている。
つまり俺の中の天才は一パーセントだけ。そりゃ既に凡人である。
カカオ九十九パーセントのチョコは、チョコじゃなくてカカオだ。
いや、まぁエジソンはどうでもいい。だが、ひらめいたのは確かだ。
うちのコタツは長方形。
短い辺と長い辺の入口があり、体がすっぽり寝転がれるのは短い辺から体を突っ込んだ場合だけ。
で、この短い辺、ちょっと無理すれば二人くらいは入れる。
ここがミソである。
うちの家族は基本的に二名。俺と妹しかいない。父母はなんだか出掛けがち。お仕事。
休みが増えてくるのはせいぜい大晦日が近付く頃だろう。それも一週間あるかないかくらいのはずだ。
それまでは大忙しだと嘆いていた。不景気まじつれーわー、とも言っていた。
まぁ、それはともかく、コタツの話。
俺と妹のふたりくらいなら、短い辺を共有できるのである。
短い辺(できればテレビと対面になる位置)の傍に長めのクッション、あるいはソファを配置。
ふたりともそこに陣取り、こたつに足を突っ込む。
人類は救われた。
それが我が家の冬の起こりである。これはのちにフィンブルヴェドと呼ばれることになる。呼ぶのは俺だけだが。
そんな具合なので、冬になると、毎年自然に妹との距離が近付く。
みかんを食べたりお茶を飲んだり、マリオパーティをしたりマリオカートをしたりスマブラをしたりする。だいたい負ける。
気付けば季節は秋を通り越し、冬である。冬って言ったら寒い。寒くなったらコタツだ。コタツこそが冬であった。
すべてはコタツ神のおぼしめしであった。
つまり、何もかも、コタツ神が俺に与えた幸運な、あ、いや、不幸な事故だったのである。
事故、そう、事故。結果なにが起こっても、俺の意図せざるところであった。
妹は、コタツで学校の課題を済ませてソファに身を預け、眠っていた。そんな夜。
俺はやっていたゲームに飽きて、電源を落とした。テレビを消すと、部屋は耳鳴りがしそうに静かになる。
妹の寝息がやたら近くに感じられる。もし妹じゃなかったら発情している距離だ。
呼吸のたびに、胸が上下する。なんとはなしに眺めていると、妙な気持ちになる。
別に変な意味ではなく、なんとなく、不思議な感覚だ。好奇心に近いが、ニュアンスが違う。
ちょっとした気分で、触ってみた。
胸をね。
これをのちにヨルムンガンドによるビフレストの崩壊と呼ぶ(何がヨルムンガンドなのかは聞くものの想像によるだろう)。
思い返して、どこが事故だ、と今思った。
ぱちり、と、妹の瞼が開かれる。予定調和と、人は呼ぶ。
妹は、寝惚け眼でぼんやりとこちらを見て、俺の頬をはたいた。ぱちりと音がするビンタ。ぱちり、ぼんやり、ぱちり。かわいい音だ。
が、音の割に痛い。
「なぜ触ったし」
と妹は低い声で呟く。
胸に逆鱗があるとは思わなかったからだ、とは言えない。
「ちょっとした事故だ」
俺は咄嗟に言い訳を並べようとした。対話は人類を幸福にすると、俺は信じていたような気がする。
「こういうのは事故とは言わない」
けれど失敗する。どうやら起きていたらしい。
「じゃあ、こういうのは何て言うんだ?」
「……未必の故意?」
「なにそれ」
「いや、分かんないけど」
中身のない会話をしていると、妹は不意にはっとしたように表情を変え、俺の頭を叩いた。
「なぜ叩く」
「なぜ触ったし」
会話が噛みあわない。いかに兄妹と言えど、芯から分かり合えることなんてないのだ。
俺はいいかげん諦めることにした。
「ごめん、つい……」
「つい、じゃないから」
「じゃあなんていえば許してもらえるんだよ!」
「え、なんでこの人、真面目に謝ってもいないのに逆ギレしてるの……?」
対話はやっぱり不毛なのかもしれないと俺が考えかけたとき、妹はソファから立ち上がってコタツを抜け出した。
「寝る」
「もう?」
「もう、って。十二時だよ」
たしかに時計を見ると、日付が変わる頃だった。
妹はリビングを出るとき、不意に大真面目な顔をして、俺の方をちらりと見た。それから少し目を逸らし、
「ねえ、ホントに、どうして触ったの?」
と、真剣な声音で訊ねてくる。
俺はどう答えていいか分からず、
「さあ?」
と首をかしげた。本当に理由は分からない。なんとなく。
いや、なんとなくで妹の胸を触るのは、アホかという話なのだけれど。
そんな冬の夜だった。
以来二週間、妹は俺と口を聞いてくれない。これが世に名高いラグナロクである。
別にどうだっていいような話なのだけれど、俺には友人がひとりしかいない。
ちょっと言葉を交わす程度の知り合いなら少なくはないのだが、友人と呼べるのはひとりだけだ。
俺は彼のことを「モス」と呼んでいて、彼は俺のことを「マック」と呼んだ。
由来に関しては、まぁどうだっていいようなことだ。
中学一年のとき、俺たちは別々のクラスで、初めて話をしたのは五月も半ばを過ぎてからだった。
ちょっとした拍子に出会っただけだったが、モスはそれが当然の礼儀だと思ったのだろう、自己紹介を始めた。
彼がしたのだから、俺の方も自己紹介をするのが礼儀だろう。
だが、なんだか素直に名前を言うのが面映ゆくて、俺は適当なことを言ったのだ。
「きみの名前は?」
とモスは言った(本当なら「きみ」なんて言葉を使う柄じゃない)。
「オサキ」と俺は答えた。
「オザキ?」
「いや、オサキ」
「へえ。下の名前は?」
「マックラ」
「え、マック……なに?」
「マックラ。続けて読むとオサキ・マックラ」
「……あ、そうなんだ。へえ」
真面目に考えることを放棄したような彼の表情を、俺は今でも覚えている。
あとになって冗談だったと弁解したのだが、その頃には彼の方がその名前を面白がってしまい、俺のことを「マックラ」と呼び始めた。
やがて短くなる。マック。
「お前、それじゃあファーストフードの店みたいだろうが、俺がマックならお前は何だ、モスか」
「いいじゃん、それ」
こんな具合で決まったあだ名だ。それが今でも使われているのだから不思議なものだ。
そのモスとの付き合いが、高校に入った今でも続いているというのは、思えばもっと不思議なことだ。
妹が口をきいてくれなくなってから、俺は必死になって妹にちょっかいをかけた。
「学校はどう?」と夕食のときに訊ねてみたり、勉強をしている妹に緑茶を差し入れてみたり。
妹は「んー」と頷いているのか唸っているのかもわからない声を微かに返してくれた。そのことに俺は少し安堵した。
完全に無視しているというよりは、可能なかぎり避けるつもりなのだろう。
その方が現実的でいやなのだが。
どれだけ頑張ってみても状況は一向に改善されず、俺は疲弊し始めていた。自業自得だから、なおさら救いがない。
このままじゃまずい、と思い、誰かに相談することにした。相手はモスしか浮かばなかった。
最近妹に口をきいてもらえないんだよね、と相談すると、モスは苦笑して続きを促した。
「お前んとこ、兄妹仲良いのにな。何が原因?」
まだ早朝と呼んでもいいような時間、俺とモスは教室で話をしていた。
俺たちはいつも朝早くに教室にやってくる。人がいる時間の教室より、人がいない時間の教室の方が好きだからだ。
俺は正直に答えた。
「おっぱい」
「は?」
「いや、だからね、おっぱいが……」
「いや、うん。分かった。分からないけど、分かった。分かったから落ち着こう」
どちらかというと落ち着きを失っていたのは彼の方だったが、俺は仕方なく頷いた。
確かに説明の仕方が唐突だったかもしれない。
俺は丁寧に説明することにした。といっても、説明する事柄なんてそう多くはなかったのだけれど。
なんだか唐突に触ってみたくなったから触ってみた。そしたら口をきいてもらえなくなった。それだけ。
「……バカかお前は」
返す言葉もない。
「で、謝ったの?」
「……どうだったっけ」
「……あのさぁ」
モスは呆れきったように溜め息をつく。彼は几帳面で生真面目な性格をしている。
勉強はできるし人当たりもいい。友達だって多い。何かとクラスメイトに頼りにされる。
そんな彼と、クラスでも浮いている自堕落な俺が友人同士というのは、少し奇妙なことだ。
俺が勝手に友人だと思っているだけなのかも……という可能性は、怖いので考えないことにしている。
「まず謝れよ。真面目に。茶化さずに。ただでさえデリケートな時期なんだから」
「デリケートな時期って言い方、なんかエロいよね」
「真面目に聞け」
「……ご、ごめんなさい」
彼には妙な迫力があった。
「お前はさ、別に悪い奴じゃないんだけど、短気だし、無愛想だし、思慮が足りないし、無神経だ」
モスは言う。お前の言葉が無神経だと言い返そうか悩んだ。が、だいたい合ってる。
割と傷つくものの、事実なのだから仕方がない。
「俺が言うのもなんだけど、お前はもうちょっと考えて行動するべきだよ」
「いろいろ考えまくった結果、何も考えないで生きるのが一番楽だったという、俺なりの高等理論が……」
「いいから聞け」
「あ、はい」
モスは俺のことを考えて、普通なら鬱陶しがられるようなことをあえて言ってくれている。
いかに浅慮と言われようが、そのくらいのことは俺にも分かった。
もし彼が長い付き合いの友人じゃなかったら、同じことを言われた段階で「ばーか!」とキレてる。
そのくらい短気なのもたしかだ。
「俺は別にお前が憎くてこんなことを言ってるんじゃないぞ。お前が損してるって言ってるんだよ。根はいい奴なのに」
良い奴ではないよ、と俺は思った。人に迷惑はかけるし、開き直るし。
でも、彼がそう思ってくれているなら、あえて否定することもないだろう。そこまで卑屈にはなりたくない。
……いや、やっぱりちょっと否定するべきかもしれない。俺はたしかに身勝手に行動しすぎてる。最近は特に。
なんだかむしゃくしゃしているのかもしれない。俺はふと窓の外を眺めた。空は真っ白だった。
校門の近くに人影が見える。もう登校する生徒の数が増え始める時間なのだ。
冷たい校舎に、少しずつ人の気配が増え始めている。
「くだらないことで、他人に軽蔑されていく必要はないだろ、って言ってるんだよ。俺は」
俺はその助言にもう少し耳を傾けていたかったのだが、そこで廊下の方から聞こえる足音に気が付いた。
モスは周囲を気にせずに言いたいことを言ってしまうが、俺は他の人間にこんな話を聞かれたくない。
慌てて話題を変えることにした。
「おっぱいはくだらないことじゃないだろ!」と俺は叫ぶ。
「いや、何言ってんだお前は」
彼は気が抜けたように溜め息をつく。俺だって真面目に聞いているのだ、俺なりに。彼の助言を。
でも、こういう話を他のクラスメイトに聞かれるのは恥ずかしい。なんでかわからないけど。
「おっぱいを舐めるな!」
二度目の叫びをあげたとき、教室の引き戸が開いた。
俺はなんとかごまかせた気でいたが、引き戸を開けたクラスメイトの男子は唖然とした顔でこちらを見ている。
イケメンだ。なんかしらないけどかっこいい男子。妙に人目を引くところがある。
動物で言うと子犬っぽい顔。イケメンというよりはかわいい系なのだろうか。
その表情が、フリーズしたようにこわばっている。
非常にどうでもいい話なのだが、俺とモスの席は前後に並んでいる。
俺たちふたりは話をするとき、いつも片方の席に集まる。
片方が椅子に座り、片方が机に座る。もちろん向かい合って話をしているわけではないのだが、距離は近い。
なもんで、角度によってはかなりの近距離でごそごそやっているように見える。
ついでに言うと、今日は俺が彼の机に座っていた。
くわえて、
「おっぱいを舐めるな!」
である。
やべえ、と後から思った。違う意味に受け取られる。具体的に言うと薔薇的な。
「いや、待て。誤解だ」
状況に気付いたモスが説明しようとしたタイミングで、廊下からいくつもの足音がやってくる。
言い訳している時間はなさそうだった。
俺は咄嗟に子犬系男子を廊下に連れ出して説明をしようとした。
が、教室に入ってきた新しいクラスメイトが彼に話しかけてしまった。俺は声を掛けるタイミングを失う。
教室は徐々に騒がしくなっていく。モスがぽつりと呟いた。
「どうするよ。俺らの学生生活」
俺はうなだれた。
「ほんとうに申し訳ない」
今度ばかりは謝るしかなかった。本当に今度ばかりは。いつだって俺は彼に迷惑を掛けているが、他人を巻き込むパターンはかなり珍しい。
「いや、仕方ない。妙な噂が流れても、ちゃんと説明すれば分かってもらえるだろ。……たぶん」
たぶん。彼は祈るような口調だ。俺は胃が痛くなりそうだった。
廊下を伝って、他の教室からもざわめきが聞こえてくる。
どうやら一日が始まるらしかった。
例の子犬系イケメンは、朝のことを誰にも話していないようだった。
休み時間になるたびに、俺とモスは食い入るように彼の様子を観察した。
彼は居心地悪そうにしていたが、こちらとしてもただごとではないのだから仕方がない。
何度も話しかけようと思ったのだが、短い休憩時間で上手に説明しきれるとは思えない。
そんなわけで、俺は二時限目の業間に少し声を掛けて、
「昼休みに話があるんだけど、いいか?」
とだけ言った。彼は恐ろしい予感に打ち震えるような表情をしていた。
なぜだか悪いことをしている気分になる。でもしっかりやらないと。
誤解をとく努力だけはしなくては。
世の中のいざこざのもととなるのは、奸策や悪意よりも、むしろ誤解や怠慢だ、と誰かが言っていた気がする。
いらぬいざこざを生む前に、上手に説明をしておくべきだろう。
モスは憂鬱そうな顔で授業を受けていたが、時間が経つにつれて気分を持ち直していったようだった。
見られたのが例のイケメンでよかったと俺は思った。
仮に口の軽い相手だったとしたら、あっという間に噂になっていたかもしれない。
想像すると嫌な気分になった。誤解をといたところで、一度ついた印象はなくならないかもしれない。
たしかにモスが言う通り、俺には思慮が足りない。
もうちょっと気をつけよう。……といつも思うのだが、いまいち上手くいかない。
どうにも短慮で短気。
それが俺という人間なのだ、と開き直ることもできるのだけれど、今回のようなことばかりではそうもいかない。
どうしたものか。
昼休み、俺たち三人は中庭で話をすることにした。大きな桜の木を中心に、ベンチが四方に四つ並んでいる。
もちろん木は何もかもを脱ぎ捨てて裸になっていた。外はひどく肌寒い。俺は室内で用事を済ませればよかったと思った。
後悔と不安で気分が落ち着かない。半分泣きたかった。
だが本当に泣き出したかったのは、呼び出された彼の方に違いない。
幾分緊張したような表情で、彼は口火を切った。
「あのさ、俺、誰にも言わないから」
「待て。お前はとんでもない誤解をしている」
俺は咄嗟に止めようとしたが、彼はそれすらも遮った。
「いや、ホントに大丈夫。俺口堅いし! ホント、誰にも言わないから、だから気にしないで」
彼が言葉を重ねれば重ねるほど、俺の居心地はだんだんと悪くなっていく。
「とりあえず話を聞いてほしい。すべて誤解なんだ」
相手の動揺を慮ってか、モスはあくまでも冷静に話を進めようとしている。
「誤解ってなに?」
子犬イケメンは表情をひたすらに緊張させている。俺はだんだん可哀想になってきた。
何もここまで動揺することもないだろうに。
「だから誤解なんだって。悲劇的な。別に俺とこいつはそういう仲じゃないから」
モスが使った"そういう仲"という言い方は、なんだか余計に誤解を激しくさせるような気がした。
子犬イケメンはうなずく。
「いや、うん。分かった。そういうことにしておこう」
こいつ、ひょっとしてかなり思い込みが激しいのだろうか。
俺は段々イライラしてきた。違うって言ってるだろうに、なんだって耳を貸そうとしないんだろう。
とはいえ、さっき指摘されたばかりの短気さを今発揮してしまっては、さすがに救いようがない。
静かに怒りを堪える。子犬の表情は泣き出しそうにすら見えた。そこまでビビるほどのことか?
「だから何でもないんだって」
モスは根気強くイケメンを説得しているが、俺はもう嫌気がさしてきた。
「別に誰にも言わないから気にしないでくれよ、ホントに。何も言わないから」
彼は怯えたように言う。モスは眉間に皺を寄せた。
俺には自制心が足りなかった。やっぱり一言言ってやろう、と思ったとき、
「だから違うって言ってるだろ!」
とモスが怒鳴った。冬の中庭は、一瞬の静寂に包まれる。
モスは「しまった」という顔をした。こいつも案外短気な奴だった、そういえば。ただでさえ不愉快な誤解にイライラしていたのだろう。
俺は咄嗟に取り繕おうとしたが、緊張状態だったイケメンはよっぽど驚いたのか、校舎の方に走り去ってしまった。
重々しい溜め息をついて、モスはベンチに腰かけた。俺は溜め息が出そうなのを堪えた。
責めるつもりはない。元をただせば俺の責任だ。だが、これで事態は更にややこしくなった。
「モス」
これからどうする、と訊ねようとすると、彼は頭を振って遮った。
「分かってる。何も怒鳴ることはなかった。あとで謝りに行くついでに、ちゃんと説明しようと思う。俺ひとりで行くよ」
あんなに聞き分けがないんじゃ、怒鳴りたくなっても仕方ない、とフォローしようかと思ったが、やめた。
最初は俺が原因だったのだから、何を言っても身勝手な気がした。
俺たちは揃って溜め息を吐く。白い息が空に伸びた。なんだか何もかもうまくいかない。
不意に、
「修羅場ですか?」
と声がした。
振り返ると見覚えのある女子生徒が立っていた。
低い身長。藍色のカーディガン。
規定よりはずっと短いけれど、多くの女子生徒よりは少し長いスカート。さらりと肩まで伸びた黒髪。
長い睫毛。
コイツ誰だっけ、と思ってから、一瞬遅れで理解した。
「修羅場ですね?」
彼女は面白がるようにいやらしく笑う。
俺は嫌な予感に身を震わせた。
幼稚園以来の腐れ縁、幼馴染。中学の途中から話をしなくなったけど、その笑顔には見覚えがある。
面白そうなおもちゃを手に入れたような、新しい悪戯を思いついたような笑顔。
背筋がゾクゾクと粟立った。
面白そうなことを見つけると首を突っ込みたくなる癖は、未だになくなっていないらしい。
「誤解だ」
と俺は咄嗟に言った。「修羅場」という言葉の雰囲気は、とてもまずい。
いったいどこから話を聞いていたのかわからないが、その言葉だとまるで――
「三角関係?」
と幼馴染は呟いた。俺は泣きたかった。
「違う!」
焦って声を荒げるが、彼女は驚くでもなく平然と頷いた。
「分かってます。あの人、タカヤくんですよね、三組の」
「……たか、え、誰?」
俺が首をかしげると、疲れ切ったようにうなだれたモスが苦笑した。彼は疲れ切ったようにうなだれている。
「さっきの男子。おまえ、クラスメイトの名前くらい憶えとけよ」
俺は幼馴染の表情をうかがう。コイツはさっきのイケメンと、名前で呼び合うほど仲が良いのだろうか。
名前で呼ぶから仲が良い、というのは少し安易な発想という気もしたが。
「一応言っておきますけど、タカヤが苗字ですから」
と彼女は俺の考えを先読みして否定する。
彼女が鋭いというよりは、俺の方の問題だろう。思っていることがすぐ顔に出るらしい。彼女に言わせると。
「用事があって彼を探してたんですけど、面白そうなことになってましたね。いったいどうしたんですか?」
「――なんでもない」
「嘘ですね?」
俺は嘘をつくのが苦手だった。彼女は俺が嘘をつこうとする理由を考慮してくれない。柔らかな笑みを浮かべて追及する。
無遠慮なのだ。そういう関係性だったとは言えど、今まで距離があったのだから、少しは態度が変わってもいいはずなのに。
彼女の態度は以前とまったく変わらない。こういう奴なのは分かっているのだが。
俺が答えずにいると、彼女は溜め息をついて、拗ねたような顔をする。
「何か問題が起こってるんですよね? 教えてくれたら、協力してあげてもいいですよ」
協力、と彼女は言った。
好奇心は猫をも殺す。そして彼女は猫かぶりだった。
「いらない。平気。ぜんぜん大丈夫」
俺は必死になって断った。
幼馴染に問題を説明するとなると、細かい部分までしっかりと訊き尽くされてしまうだろう。
そうなれば、タカヤの話以上に、妹のことも話さなくてはならない。
さすがに、胸さわったら無視されました、なんて女には言えない。
……いや、逆か? 女にこそ相談してみるべきなのか? 俺は少し迷った。
「ま、話したくないならいいです」
俺が考えているうちに、幼馴染はすぐに引き下がった。だが、あきらめたわけではないだろう。
機会を待つつもりなのだ。
老獪な蜘蛛のように……というのはさすがに言い過ぎだろうか。だが雰囲気はそんな感じだ。
手のひらの上で踊らされているような錯覚。
いくら隠し立てしても、そのうち分かってしまうのだから、という自信が見える。
もちろんそれは俺の思い込みなのだろうが、彼女には何もかも見透かされているような気がする。
モスは放課後にもう一度タカヤと話をしようとしたが、彼は早々に部活に向かってしまい、機会を逸した。
俺たちは溜め息をついて教室に残る。
誰にも言わないというのなら、たしかに害はないのだが……一人だけとはいえ、妙な誤解を受けたままなのは嫌だ。
タカヤに話があったらしい幼馴染も、俺たちの教室にやってきたが、彼がいないことに気付くと溜め息をついた。
俺たちは三人で教室に残って話をした。
「お前の方の用事ってなんなんだ?」
と訊ねると、幼馴染はそっぽを向いた。
「そっちの事情を教えてもらえないのに、こっちの事情を教える理由がないです」
すました顔が子供っぽくて猫のようにかわいらしい。だが、中身は狡猾な蜘蛛。
俺は溜め息をつく。
モスの表情をうかがう。彼はかなり落ち込んでいる。今朝までは普通だったのに。
何かの拍子で、タカヤがうっかりと俺たちの関係(誤解)を誰かに言ってしまったらどうなるのだろう。
誤解は早めに解かなきゃいけない。
「なあ、話してもいいか」
モスに訊ねる。彼は口をへの字にして考え込んでいたが、やがて頷いた。仕方ない、とでも言いたげに。
俺は別に幼馴染の事情に興味があったわけではない。単に助言を仰ぎたかったのだ。
部活終わりまで待って、もう一度話をしようにも、あちらがこちらの言い分を聞いてくれないのでは仕方ない。
俺は妹とのやりとりの部分だけを伏せ、タカヤに誤解を受けていることを幼馴染に伝えた。
すべてを聞き終えると、彼女は困ったように苦笑した。
あまりにくだらない話なので拍子抜けしたようにも見えるし、呆れたようにも見える。
「つまり、誤解を解きたいのに話を聞いてもらえない、と?」
幼馴染はしばらく黙っていたが、やがてくっくと笑い始める。
「笑いごとじゃないよ」
ごめんなさい、と謝りながら、それでも彼女は笑っていた。
「じゃあ、協力しましょうか」
と彼女は言う。
「どうやって?」
「タカヤくんの前でわたしに告白するんです」
「誰が?」
「きみか、モスくんか。どっちでも」
「……はあ。それで?」
「少なくとも誤解はとけるでしょ?」
「別の誤解が生まれるけど」
「わたしは一向にかまいませんよ」
「構おうよ」
頭が痛くなりそうだ。
「第一、タカヤに見えるところで告白ってなると、他の奴の目にも入るかもしれない」
「それが?」
「男側が振られたって噂になるでしょう、それだと」
「なりませんよ。自意識過剰です」
「……いや、まぁそうかもしれないけど」
「別に告白じゃなくてもいいですよ」
「じゃあどうやって」
「タカヤくんを呼び出して、わたしと付き合ってる、って伝えるとか」
「……あのさ、そんな嘘、すぐバレるだろ?」
「どうして?」
どうしてもこうしても、俺と彼女は普段から一緒に行動しているわけでもないのだ。
普通の頭をしていれば、ただのカモフラージュだと気付くに違いない。
第一それでは……彼女の日常にまで支障が出るのではないか?
「いいじゃないですか。それなら誰も損しないし」
本当に平気そうに、彼女は言う。
俺はなおさら気が重くなった。
「ダメだ。やっぱり今日の放課後、タカヤに真面目に話をしてみる」
「いいんですか?」
「どっちにせよ、説明しないことには始まらないだろ?」
「そりゃ、そうでしょうけど」
彼女は不満そうに口をとがらせる。
ひょっとしたら、面白がっていたのかもしれない。
結局、俺とモスはタカヤの部活が終わるのを待った。
幼馴染も、なぜだかそれに付き合ってくれた。
校門近くで待っていたのだが、タカヤはなかなか出てこない。
しばらく待って、ようやく出てきた彼は、俺たちの姿を見つけて表情をこわばらせた。
できれば今日で話を終わらせてしまいたかったので、俺とモスは慎重に彼を呼び止める。
俺とモスの関係はごく普通の友人関係であって、何かあるように思ったなら誤解だということ。
昼休みのときは怒鳴りつけて悪かったということ。そのふたつを告げると、モスは黙った。
タカヤは居心地の悪そうな仕草をした。彼にとっても災難な一日だっただろう。
まだ疑われているような気がしたが、あとは信じてくれることを祈るしかない。
説明だけはできたので、気分は少し楽になった。
第一彼としても、俺たちがノーマルであると思える方が、精神安定上よいはずなのだから。
もうひと押しが足りないような気はしたが。
不安はあったもののどうすることもできず、俺たちはタカヤにもう一度謝って帰路につこうとした。
……のだが、そこで何を思ったのか、幼馴染が俺の腕をとった。
「実を言うとですね、この人、わたしと付き合ってるんです」
俺とモスは息を呑んだ。タカヤは呆気にとられた表情をした。
俺は幼馴染の笑い顔を思い返す。あの悪戯っぽい微笑。
昔見たものと変わらない表情。
こいつ、全然変わってねえ、と俺は呆れた。
「ですから、本当に誤解なんですよ」
ダメ押しのような幼馴染の一言で、タカヤは一層混乱を深めたようだったが、やがてそれも落ち着いたらしい。
彼女の言葉を十分に咀嚼して、意味をくみ取り、ようやく納得したようだった。
失礼な奴だ。勝手な勘違いで不安になったあげく、女の言葉で持ち直すとは。
……いや、原因は俺なのだが。
モスは呆れた顔で溜め息をつく。「好きにしてくれ」とでも言うような顔だった。
俺はふと遠いところに行きたくなった。幼馴染が「どうだ」という顔で正面を見ている。
「……じゃあ、君たちは、えっと」
タカヤの表情はさっきまでとはまったく別のものに変わった。
俺はなぜか、かすかな不安を覚えた。
「いわゆる、交際中、というわけです」
「……ホントに? じゃあ、恋愛経験とか」
「はい?」
ここで幼馴染も、話が変な方向にずれ始めていることに気付いた。
タカヤは俺の表情をうかがう。なんとなく嫌な予感がした。
「あのさ、図々しいこと頼んでもいいかな?」
タカヤは大真面目な表情で言った。
「本当に付き合ってるんだよね、ふたりは」
はい、と幼馴染は素知らぬ顔で頷いた。今更嘘でしたとも言えない。
彼女の表情にも、さっきまでにはなかった戸惑いの色が浮かんでいる。
「じゃあ」
とそこで、彼は俺の顔を見た。
「俺に、女の子の口説きかたを教えてほしい」
何言ってんだこいつは、と俺は思った。
不意に、体に何かがのしかかった。眠りの淵から意識が引き上げられる。
ずんという重みに、ベッドのスプリングが軋んで跳ねた。
「……わたしが重いとでも言いたげですね、このベッド」
その声に、俺は瞼を開いた。
うつぶせに眠っていたせいで、咄嗟には何が起こったのか分からなかったが、部屋に誰かが侵入しているらしい。
首を巡らせると、背中の上に女が乗っているのが見えた。俺は力をこめて自分の体を浮かせる。
幼馴染が俺の背中から転げ落ちた。ベッド脇に積み上げられた衣類の山に、彼女の身体は沈み込む。
「なんなのお前は」
俺は溜め息をつく。
「起こしにきました」
彼女は体を起こして微笑をたたえる。私服姿だった。やたらと丈の長いトレーナーが、腰のあたりまでをすっぽりと覆っている。
ぶかぶかだ。ただでさえ小さいのに、よりいっそう子供っぽく見える。
俺は時計を見た。六時半。デジタル置時計の右上に日付と曜日が表示されている。土曜日。
休日である。
「おやすみ」
俺は枕に頭を預けた。愛すべき惰眠の友。俺と枕との友情は何物にも代えがたい。あだ名も似てるし。
幼馴染は何も言わなかった。俺はじんわりと眠りの中に落ちていく。二度寝。すばらしい。
意識を失いかけたとき、ふたたび背中に体重が乗った。
「ちょっとくらいは構ってください」
「構ってほしいなら九時以降に出直してきてください」
俺は真剣に言った。休日の朝六時に起きる奴は老人だ。若いうちから老いぼれになる必要はない。
まぁ別に、そういった信条があって眠りたいわけじゃないのだが。ただ眠い。とりあえず眠い。
「というか、おまえは何歳だ。馬乗りになるのはやめてください」
俺はなぜか敬語だった。
「馬乗りって、なんかやらしいですよね」
だからこそやめてほしいのだが。
表情が見えなくても、彼女の悪戯っぽい笑顔の気配がはっきりと分かる。
本当に変わっていない。
俺は自分がうつぶせで眠っていたことに感謝した。少なくとも視覚的には何が起こっているのか分からない。
さらに幸いなことに、体勢と服装の関係か、衣服以外の感触はほとんど俺に伝わってこなかった。
冬が寒くって本当によかった。惜しいような気もするが。
思春期少年の頭の中なんてアホなことで埋め尽くされてるんだから、不用意な刺激は本当に勘弁していただきたい。
俺は諦めてベッドを出ることにした。無理矢理体を起こすと、彼女はふたたび衣類の山に転がり込んだ。
別にそこまで勢いよくやっているわけではないのだが、落ちていくのが楽しいらしい。
「何なの、こんな朝早くに」
「ですから、起こしに来ました」
「今日、学校休み。いや、用事があるのは覚えてるけど」
「だって平日の朝はいないじゃないですか。登校するの早すぎです」
「……なんで知ってるの?」
「昨日までの三日間、毎朝迎えに来たんですけど、妹ちゃんにもう向かってるって言われたんですよ」
全く知らなかった。妹も言ってくれれば……いや、口をきいてくれなかったのだった。
それよりも、彼女が迎えにくると一言言ってくれれば、時間をずらすなり断るなりできたというのに。
「驚かせたいじゃないですか!」
話をするといつも思うことだが、こいつはひょっとしてバカなんだろうか。頭が良いように見えるのだが。
何を考えているのやら。
「で、今日はせっかく一緒に出掛ける用事があるわけだし、起こしに来たんです」
「ああ、うん。なるほどね。"せっかく"の意味が分からないけどね」
俺はベッドから抜け出して山積みの衣類から適当に服を引き抜く。幼馴染が「うわあ」という目でこちらを見た。
「片付けましょうよ」
「そのうちね」
彼女は呆れたように溜め息をついた。
「着替えるから、リビングで待ってて」
「別に気にしませんよ?」
「俺が気にするから」
しぶしぶといった表情で、幼馴染は部屋を出た。俺は早々に着替えて部屋を出る。
ドアのすぐそばで、彼女は待っていた。
「リビング行けって言わなかった?」
「そんなに時間かからないだろうと思って」
「廊下寒いじゃん」
「別に平気です」
「そうすか」
妹は既に起きていたようだったが、部屋に引っ込んでしまったらしい。
リビングのコタツにはスイッチが入れられたままになっている。
俺はテーブルの上に置いてあったバナナの房から一本引き抜いて食べた。朝食。
二人分のコーヒーを入れて、片方を幼馴染に差し出す。以前よく使っていたマグカップ。
コタツに入って時間を過ごした。
いくらスイッチが入っていようと、今時間ではまだ室内の空気も冷たい。
「起こしに来るにしても、もうちょっと遅い時間じゃダメだったのか」
「来た時に起きてたらむなしいじゃないですか」
いや、まぁそうなのかもしれないけど。だからといって休みの日の朝にいきなり訪問してくるのは不躾だろう。
「最初は忍び込む気だったんですけど、妹ちゃんが入れてくれました」
叱ればいいのか呆れればいいのか分からない。
だが、まあ以前なら、こんなことは日常茶飯事だったのだ。いまさら常識を説くのも馬鹿らしい。
「まったりしましょう。待ち合わせは十時半だし、時間はまだまだありますね」
俺は睡眠時間として浪費するはずだった三時間を失った。
幼馴染とは、ついこの前でまったく顔を合わせていなかったのに。
空白期間などなかったような顔で、彼女がここにいることに違和感すら覚える。
彼女はあの頃より(身長以外は)成長していた。ふとした瞬間にそのことを実感する。
以前とは違うちょっとしたしぐさなんかが、俺の目にははっきりとわかった。
成長というよりは変化と呼ぶべきかもしれない。なんとなく不安にさせられる。
俺は彼女から目を逸らしてコーヒーをすすった。あーあ、馬鹿らしい。そんな気持ちで。
今日の予定。十時半に駅前のマックで待ち合わせ。相手はタカヤ。
タカヤと会わなくてはならないのだ。
「俺に、女の子の口説きかたを教えてほしい」
というタカヤの言葉に、俺たちはまず唖然とした。
次に混乱し、納得し、最後にまた混乱。
言っていることは理解できた。
けれど、なぜあの状況で、あのタカヤが、しかもこの俺に、そんなことを言い出すのかが、まったく分からなかった。
「いや、まてまて」
最初に声をあげたのはモスだった。俺は動揺して幼馴染と目を合わせる。
彼女は予想外の事態に苦笑していた。
「意味が分からん。女の口説きかたって」
モスの言葉に、タカヤは真顔で返した。
「真剣なんだ」
「どういう意味? 口説き方って。口説きたい女の子がいるってこと?」
「……いや、違う」
違うのかよ、と俺は思った。だったらなんで口説き方なんて知りたいのだろう。
「厳密には、女子との話し方を教えてほしい」
「……話し方?」
「ああ。どうやったら自然と話せるようになる?」
「ちょっと待て。タカヤ、おまえって女子の知り合いがいないのか?」
「いない」
彼はきっぱりと言った。そういえば、見たことがないかもしれない。
評判はいいし、噂も聞く。けれど……事務会話以外で彼が女子と話しているところは、見たことがない気がした。
「いや、でも、女子となんて、普通に話せばいいだろ?」
俺は女子とろくに話ができない自分を棚に上げて言った。
「普通になんて話せない」
タカヤは悲しげな表情で呟く。やたらと似合う表情だった。
憐れになって優しさのひとつでも見せてやりたくなる。子犬系イケメン。
俺の中で羨望の炎が燃え上がる。俺がこいつと同じ表情をしたら、幼馴染はけらけら笑うに違いない。
俺は息を吸い込んで言った。
「まあ、おまえの悩みは分かった。なぜそうなったかは分からないけど。
でも、なぜそれを俺に相談する? 俺だって別に女と話すのが得意ってわけじゃない」
「他に心当たりが居ない」
「彼女持ちの友人とか。それでなくても普通に女子と話せる男子くらいいるんじゃないの?」
「いない」
あ、そうですか。
いつだったかモスに、我が校我が学年のカップルの数は二クラス一組の割合だと聞いたのを、俺は思い出した。
うちの学年は、女子と男子との間にやたらと距離がある。
ふたつ教室があって、そこで昼休みに昼食を取るとする。
すると片方には両クラスの女子が集まり、もう片方には両クラスの男子が集まる。
そういう学年。
タカヤはためらいながらも言葉を続けた。
「一度は相談してみたんだ。友達にも。でも上手くいかなかった」
「なんで?」
「そもそも話を聞いてもらえなかった。なんでか」
容姿がいいからかな、と俺は思った。それか、解決法がわからなかったのだろう。
たぶん後者だ。
話を聞いているうちに、俺はなんだか頭がおかしくなっていくようだった。
手っ取り早くこの話を断ろうとするなら、俺と幼馴染が付き合っていない、俺も女と話すのは得意じゃない、と言ってしまえばいい。
そもそも、付き合ってる相手がいるから女と話すのが得意なはずだ、という考え方も安易な気がするが。
だがそれをバラすと、なぜ嘘をついたのか、という話になる。
そうなれば、とけた誤解がもう一度鎌首をもたげてくるだろう。それだけは避けたい。
考え込んでいると、不意に幼馴染が制服の裾を引いた。
俺は彼女の顔を見て、どうやらタカヤに聞かれたくない話があるらしいと気付いた。
俺たちふたりはモスとタカヤから少しだけ距離を取った。彼女はちらりとタカヤの方を見てから、俺に耳を貸すように指で示す。
彼女は俺に小声で耳打ちした。
「この相談、乗ってあげてくれませんか?」
「なんで」
と俺は当然の疑問を返した。彼女は困ったように眉を寄せる。
「都合がいいから、と言ったらあれですけど」
「どういうこと?」
「とにかく、こっちにも事情が……いや、何かを企んでるとかじゃないですよ」
いくらか慌てたように、彼女は顔の前で手を振った。どうやら本当に、たくらみごとではないらしい。そういうところは正直な奴なのだ。
「ただ、上手いこといけば、彼の悩みも解消できるし、わたしの事情の方も進展します。もちろん、無理にどうこうしたりしませんし」
幼馴染はそっけない口調で話を続けた。
「モスくんはともかく、きみは巻き込むことになると思います。嫌だっていうなら断ってもらってかまわないんですが」
ここで甘えた声を出さない彼女の性格が、俺は好きだった。
「具体的に、俺は何をさせられるの?」
「タカヤくんの相談に乗ってくれればいいです。彼の前では、わたしと付き合ってるふりをして」
「それは必要?」
「必要ではないですが、そちらの方が望ましい感じです。好きな子に誤解されるからいやっていうなら、なしでもいいです」
俺は鼻で笑った。好きな子なんていない。少なくとも学校には。
「時間はどれくらいかかる?」
「場合によっては何週間か。場合によっては一週間以内、だと思います」
「何をするつもりなの?」
彼女は少し逡巡した様子を見せたが、やがて曖昧ながらもしっかりと答えた。
「彼と引き合わせたい子がいるんです」
女か、と俺は思った。タカヤの悩みも進展すると言うことは、つまり“そういうこと”なのだろう。
「一芝居打てって意味?」
「……ま、そうです」
幼馴染は神妙そうな表情になった。俺は溜め息をつく。
嘘をついて人と人との関係をどうにかするなんて、気が進まない。……というほど、俺は人格者じゃなかった。
結局俺は彼の相談に乗ることを決めた。
平日はタカヤの部活があってろくに話ができないため、土曜の午前中に会うことになったのだ。
俺たちがマックについたときには、タカヤは既に店内にいた。
彼の表情はなんだかいつもより不安げだ。それでもやはり様になる。
「おう」
と俺が声を掛けると、彼は「おう」と返事をする。
「こんにちは」
と幼馴染が声を掛けると、彼は途端に動揺して、「こ、こんにちは」とどもった。
単に女と話せないというより、女を前にすると緊張してしまうらしい。
まぁ、別に珍しくもないだろう。俺だって知らない女子が相手だったら(男子でも)緊張する。
タカヤはまだ何も注文していないようだったので、俺たちは最初に適当な食べ物を頼んだ。
俺の財布の中身は食べ物、飲み物に消費される。身の回りには何も残らない。とても悲しい。
「で、だ」
テーブル席に三人で腰を下ろすと、タカヤは途端に口を開いた。
店内は暖房がききすぎていて少し暑いくらいだ。
「どうすればいい?」
俺はそういえば何にも考えていなかったことを思い出した。
幼馴染との打ち合わせでは、とりあえず順序を踏んだうえで、幼馴染が紹介したいらしい友人と引き合わせる、ということになった。
だから多少なりとも、タカヤの相談に真面目に応じてやらなければならない。
……いまさらではあるが、やっぱりだましているようで気が引ける。
実際には相談に乗ったうえで、女の知り合いを紹介するだけ、と言い換えられる程度のことなのだが。
俺は思いつきを喋ることにした。そういえば俺は一%のひらめきに恵まれた男だった気がする。
幼馴染に顔を向ける。彼女は「どうするの?」とでも言いたげにこちらを見ている。お前も何も考えてないのか。
溜め息をつきかけて、やっぱりやめた。
「どうすれば、って言ってもなぁ」
俺は考え込んだふりをする。タカヤは表情を緊張させた。窓の外の空は薄曇り。
「とりあえず、幼馴染と会話してみたら?」
「いきなり難易度高いな」
高いだろう、そりゃあ。別に仲が良いわけでもないし、共通の話題があるかどうかだって怪しい。
それにくわえて幼馴染は、性格がかなり掴みにくい。……ひょっとしたら、練習相手としては最悪かもしれない。
まぁ、とはいえ、普通に女子と話せるようになりたいと思うなら、その程度の不安はつきものか。
……考えれば考えるほど、生来の性格に逆らっているような気分になる。
とにかく試してみようと思ったのか、タカヤは喉を鳴らして幼馴染に向き合った。
幼馴染は平然と視線を受け止める。目をじっと合わせる。時間が経った。十秒。
タカヤが先に目を逸らした。
「ごめん、やっぱ無理」
「タカヤ、誰も目を合わせ続けろなんて言ってないからね」
他人と目を合わせ続けて居心地の悪さを感じない人間なんてどうかしてる。と俺は思う。
「いや、でも何を言えばいいんだ?」
俺にも分からない。
俺は考えるのが面倒だったので、思ったことをそのまま口に出すことにした。
「男子と話すときの調子でいいんじゃねえの?」
タカヤは眉をひそめた。
「……普段どんなふうに話をしてたか、思い出せない」
こいつはたぶん、「聞き型」だ。人から話題を出してもらって、それに乗る形でしか会話できない。
自分から話題を提供できないタイプ。割と多い。俺もだけど。
「適当でいいんだよ、話なんて」
俺だってできないけど。
「じゃあ手本見せるから。見てろ」
俺は幼馴染と向き合って会話をしようとする。こいつ相手ならどうにでもなるだろう。
話題を探す。向き合って顔を見ていると、些細なことが気になりだす。
彼女はこちらに目を向けたままポテトをかじった。何も思い浮かばない。
時間が経つ。目を合わせたまま十秒が過ぎた。
「ごめん、いやこれ無理だわ」
「えっ」
タカヤは目を見開いた。幼馴染が苦笑する。
話そうと思うと何も思い浮かばないものだ。
「悪かった。俺のやりかたがまずかった。というか俺、教えるの向いてないんだよな、そもそも。短気だし」
「短気?」
となぜだか幼馴染が首をかしげた。
「だいたいさ、なんで女が苦手なんだ?」
俺が訊ねると、タカヤは思いつめたような表情で俯いた。別れ話を切り出そうとしている男のようだ。
「なんでってことはないんだけど、今までろくに話したことがないから」
「馴れてないってことか」
「端的に言えば」
端的に言うから話がはずまないのだが。
まぁ、彼の言う通りなら、人格を大改造するまでもなく、女との会話に慣れるだけでマシになるはずだ。
ということはやっぱり実践が手っ取り早い。
今までの会話で幼馴染とタカヤは一度も言葉を交わしていない。幼馴染が口を開いていないせいもあるが。
俺は幼馴染に適当な話をしてもらえないものかと思った。
彼女は自分に向けられた視線に気付くと、こちらを向いて、「わたし?」という顔をする。お前だ。
困ったような顔で溜め息をついてから、彼女は口を開いた。タカヤの顔がこわばる。
「わたしとしては、問題があるとは思わないんですけどね。普通に話せるように見えます」
彼女は一拍おいてストローに口をつけた。
「ただ、表情が緊張でこわばってて、怒ってるように見えるので、話しかけにくいとかはあるかもしれないですけど」
なんだかすごくマトモなことを言っている。
「そもそも、どうして話せるようになりたいんですか?」
「それは……」
タカヤは口籠る。いいから言え、と促してしまいたかったが、個人的な事情にどこまで踏み込んでよいのやら。
「女慣れしてないってからかわれるんだ」
「誰に?」
「……うちの姉貴」
妙に親しみの沸く事情だった。
「つまり、女慣れしたいんですよね? 結局」
「……そういう言い方をするとなんだけど、うん」
幼馴染はタカヤの言葉に考え込んだ。
なんだか、都合のいい方向に話が動いている気がする。
結局のところ女に慣れるには女と話すしかないわけだし、そうなれば女友達でも作るのが手っ取り早い。
それなら幼馴染の友だちとでも会ってみれば? という話に簡単に持って行ける。
なんなら協力してもらう方向にも流せるだろう。
幼馴染がなぜ自分の知り合いをタカヤに会わせたいのかは聞いていない。
だが、自分で直接タカヤに会おうとせず、回りくどい手を使っている以上、だいたいの予想はつく。
これだったら都合のいい展開に話が進むのではないか?
ちらりと横に座る幼馴染の様子を見ると、拍子抜けしたような顔をしていた。
俺はタカヤに適当なアドバイスをすることにした。
俺は人間関係心理学の権威でもなんでもない。ついでに言えば女慣れもしてない。
それでも、上から目線でえらそうなことを言うくらいはできる。誰にでもできる。
「女と話すのが苦手なら、開き直って話している相手に『女と話すのが苦手』ってことを伝えるのも手だろうな」
「それだと、話したくないんだって思われない?」
「だからさ、『苦手だけど、話すのが嫌だと思ってるわけじゃない』って伝えればいいんだよ」
「……えっと」
「上手に話せないかもしれないけど、話したくないわけじゃないからって言っておけば、相手も悪くは思わないんじゃない?」
あくまで理想的に進めばだが。でも実際、会話なんて自分が正直にならなければ弾んだところで意味がないのだ。
苦手だと思っているものを弾ませようとしても無理が出る。
「上手にやろう」とせずに、「下手だけど」と認めてしまったほうが早い。
……いや、どうだろう。咄嗟に考えただけのことだが。
状況にもよるが、沈黙が気まずいときなんかには、そのことを伝えることで相手の印象も変わるんじゃないだろうか。
黙っていては不機嫌なものだと思われかねないし。場合によっては有効だろう。場合によっては。悲しい言葉だ。
「あれ?」
ふと後ろから声がした。幼馴染が、げっ、という表情で振り返る。
けばけばしい茶髪。桃色のそっけないピアス。ショートパンツにタイツにブーツ。黒いジャケット。
俺はその姿に見覚えがある気がした。
「先輩」
と幼馴染が声をあげる。同じ学校の上級生なのだろうか?
「なにやってんの? 修羅場?」
先輩(仮称)はポテトとハンバーガーとチキンナゲットと飲み物のカップが乗っかったトレイを持ったまま立ち止まった。
男二人に女一人では、そういうふうに見えなくもない……のだろうか? ついこないだもこんなことを言われた気がするが。
幼馴染はまずいことになったという表情で先輩の方を見ている。俺は彼女がなぜ動揺しているのか分からなかった。
「特になんでも」
「特に何の用事もなく、あんたが男子と、それも二人と、マックでお食事ですか?」
先輩は小馬鹿にしたように笑う。俺は幼馴染の動揺の意味が少しだけ理解できた。
相手の態度を無視して、好奇心を隠そうともしない。開き直っている。なぜだか厄介な女が多い。
先輩の顔が、記憶の網に引っかかる。彼女とどこかで会ったことがある気がした。
そして、ふと思い出す。俺は俯いて顔を隠した。
「……そっちの」
彼女は俺の顔を見て、何かを言いたげに眉を寄せている(目を逸らしているので見えないのだが、そんな気配がした)。
「人違いです」
と俺は言った。いっそう怪しくなるのは当たり前のことだが、言わずにはいられなかった。
「ああ」
ぽんと手のひらを打ち鳴らして、彼女は言った。
「ばーか! の人だ」
俺は今までに出会ったすべての人々の頭の中から自分と関連する記憶だけを消し去ってしまいたい。
「何の話です?」と幼馴染がこちらに向けて首をかしげる。俺が馬鹿だったという話だ。
「君」
と先輩は俺に向かって言って、幼馴染を示した。
「この子と知り合いなの?」
俺の様子に何かを感じたのか、幼馴染が会話を遮って答える。
「昔からの友人なんです」
「へえ」
にやりと笑う。彼女の微笑には含みがある。幼馴染のものとは種類が違うが、似たような性質を持っている。
俺は妙に緊張していた。
俺たちの許可も取らずに、先輩はタカヤの隣に座った。
突然の見知らぬ女の接近に、タカヤは可哀想なくらい動揺していた。
それすらもおかまいなしに、彼女は平然と食事を始める。
「先輩、ひとりなんですか?」
誰か一緒の人がいるならさっさとそっちに行ってくれませんか? とでも言いたげに幼馴染が言った。
「いや、一人だよ。暇だったからちょっと出掛けてたんだ。服でも見ようと思って」
願いむなしく答えは冷たい。俺は斜め前に座る先輩となるべく目が合わないようにした。
窓の外は薄曇り。通りすがりの息は白い。冬だなあ。
現実逃避。
「んで、何の話してたの?」
「いえ、ちょっと大事な話を」
「恋のお話?」
先輩はおどけて言った。幼馴染はひるまず答える。
「のようなもんです」
ですからあまり立ち入らないでください、という意図を、彼女は言外に込めたつもりだっただろう。
けれど相手は曲者だった。
「話に混ぜてよ」
ずいぶんと図々しい態度だった。
おそらく彼女は、幼馴染が話をごまかしたがっていることに気付いたのだろう。
隠そうとされたことが、余計に好奇心を煽ったのかもしれない。俺はその情緒が理解できた。
「いいよね?」
と先輩は俺に向かって首をかしげた。
コンビニの件があっては、彼女に強く出られない。アホなことをした後ろめたさだけがあった。
俺はタカヤを見た。どうすんだよこれ、という顔をしている。
幼馴染は俺を見た。どうしましょうこれ、という顔をしている。俺が知るか。
タカヤが不意に表情を変える。俺は嫌な予感がした。ここ一週間で何回目か分からない。
覚悟を決めたような表情で口を開く。こいつはどんな顔をさせても似合う。だが今はそのタイミングじゃない。
おいやめろ、と俺は思った。
「実は俺、このふたりに相談事があったんです」
俺は人間関係心理学の権威ではないが、自己開示の返報性という言葉は聞いたことがあった。
自分のことを正直に話すことは、少なからず人間関係にいい影響をもたらす(ことがある)。
「へえ、どんな?」
幼馴染は会話を遮ろうとして、やめた。
表面上はタカヤの相談に乗っているということになっているのだから、ここで止めるわけにはいかない。
そこで止めたら、タカヤが女子と話すことを邪魔したことになる。こちらのたくらみだけを優先できないのだ。
だがこの流れでは……まずい具合に話が動かないだろうか? 俺は幼馴染の表情に焦りの影を見た。
「俺、女の人と話すのが苦手で、なんとかして改善できないかと思ってたんです」
「……はあ。なるほど」
先輩は神妙に頷く。俺と幼馴染は気まずさと後ろめたさで目を逸らした。
「苦手なの? 女子と話すの」
「はい。……というか、話したことも数えるほどしかなくて」
「へえ。あ、じゃあ、女の子に苦手意識を持ってるってこと?」
「そう、ですね。割とそんな感じです」
「ふーん」
先輩は意外そうな表情をしていた。
「でも、今は割と普通に話せてるよね」
「……そういえば、そうですね。あ、いや。今も緊張してますよ」
「まぁ初対面だしね」
先輩は微笑する。俺はタカヤの相談に乗るんじゃなかったと思った。話せてるじゃん。ちくしょう。
これだからイケメンはいやなのだ。本人としては一生懸命がんばっていることが理解できる。そこがなおさら嫌だ。
「そっかー」
と先輩は視線を天井にずらす。考えを巡らせているような仕草。
幼馴染の表情がこわばったのがわかった。
たくらみごとなんてするもんじゃない。いろんなことは正直であるべきなのだ。
裏から何かを画策したところでろくなことにならない。うん。
さあて帰ろう。俺は心底家に帰りたい。
「じゃあさ、わたしも協力してあげるよ」
先輩は言った。
「ホントですか!」
とタカヤが喜ぶ。俺は幼馴染を横目で見た。彼女は頭痛を堪えるように額を押さえている。
思い通りになんていかないものだ。
妹は相変わらず口を聞いてくれず、俺はもう諦めかけていた。
いつまで会話しない状況が続くのか分からないが、もう好きにしてくれという気分だった。
何よりも腹立たしいのは、必要最低限の「会話」は成立することだった。
食事や家事について、買い物についての会話。それらは問題なく成り立った。
会話と言うよりは「やりとり」と言った方が正確かもしれない。
けれど、何か雑談しようと思ってもろくな反応が来ない。
口をきかなくなったというよりは、素っ気なくなった。
俺が悪かった。俺はいつも自分の行動がどのような結果をもたらすかを考えずに行動している。
何度か謝った。真面目に謝罪すると妹は「いいよ」と言った。「この話はここで終わりでいいよね」と言いたげに。
妹の態度は、俺を疎ましがっているというよりは、俺(というよりは俺と関わること)を恐れているように見える。
もちろんあんなことをする兄なんて、怖がられても仕方ないのだが……。
そんなわけで、我が家には対話がない日が続いていたが、学校生活の方は、静かに、けれど大きく変化しはじめていた。
俺はいつも昼休みをモスとふたりだけで過ごしていたが、そこにまずタカヤと幼馴染が加わった。
更にそこに先輩も参加するようになる。一気に二倍以上だ。一番とまどったのはモスだっただろう。
先輩の混じった集団が教室で昼食を取るのは居心地が悪かったので、俺たちは自然と場所を変えなければならなかった。
かといって中庭は肌寒い。屋上も同様。屋外は駄目だろうと思い、校舎内で適切な場所を探した。
でもない。なかなかない。話の内容的にも、落ち着いてゆっくり話せる場所がいいのだが、ない。
「じゃあ、うちの部室は?」
先輩の言葉に、幼馴染はうーんと唸った。まだ何かを企んでいるのだろうか。
それも当然と言えば当然か。このままでは彼女の目的は達成できない。
(あくまでも自然に)タカヤと彼女の友だちを引き合わせたいなら、あまり閉鎖的な場所は望ましくないのだろう。
とはいえ、他にちょうどいい場所があったわけでもなく、俺たちは先輩の言う部室――新聞部室で食事をとることになった。
新聞部の部室には何人かの先輩がいた。普段からここで昼食をとっている人たちがいるらしい。
先輩はいつもひとりで食べているという。なぜ? とタカヤが訊ねると、彼女は照れくさそうに苦笑した。
「わたし友達いないんだよね」
タカヤは意外そうに目を丸くする。本当はいるだろう。本人がそう思っているだけだ。
自分は友人だと思っていなくても、相手からは友人だと思われている。そういう人はけっこういる。
部室に置いてあったパイプ椅子に腰を下ろし、長机で食事をとる。新聞部の部室は広い。
毎年部員数が多いので、広めの部屋を割り当てられているのだ。
部室にはモスもついてきた。彼だってひとりで昼食はとりたくないのだろう。
俺はほとんどやけになっていた。もう知ったことか、と思っていた。
幼馴染は少しでも自分の望ましい方向に話が動くように努力を続けた。
それは悪趣味なたくらみというよりは、達成するべき目標があるから、という雰囲気だ。
実際、彼女は、自分の思い通りに人を動かすことに快感を覚えるような人間ではない。
ただやり口がひたすらに回りくどい。それもそろそろ終わるようだった。
「タカヤくんとは知り合いになれたわけだし、これならいつでも単純な手段がとれますから」
彼女はうんうんと頷いて言った。
たしかに、これで彼女の友人とタカヤを引き合わせることは決して困難ではなくなったはずだ。
だが、彼女はそれ以外の問題を無視している。
俺たちはタカヤに嘘をついている。俺と幼馴染は付き合っている、と。
そうすることで、幼馴染は自然とタカヤに会う機会を増やせたのだ。
タカヤに嘘を暴露することで信頼を失うわけにはいかない。
ということは、一緒に相談に乗ることになった先輩をも騙さなければならないのだ。
さらに言えば幼馴染の目的が達成されるまで、俺たちは付き合っているふりを続けなくてはならない。
「幼馴染を経由して」、タカヤと幼馴染の友人は出会う(予定だ)。
よって、タカヤと幼馴染の友人が会い続けるためには、タカヤと幼馴染の間に交流がなくてはならない。
幼馴染がいなくなっては、「友人」の方はタカヤに会う理由と機会を失ってしまう。
そして幼馴染とタカヤを結んでいるのは、間にいる俺だ。
つまり、俺と幼馴染がついた嘘は、これからしばらくの間「真実」でなくてはならない。
少なくとも、幼馴染の計画が順調に進行させるためには。
だから企みごとなんてしないべきなんだ、と俺は思った。
面倒なことになっちまったじゃないか。でも、これ以上の混乱は起こらないだろう、さすがに。
なんだってこんなに面倒なことになったのか。
俺は今日までに起こった変化の原因を探ってみた。結論はすぐに出た。偶然だ。全部偶然だった。
もう、どうにだってしてくれ、という気分だ。俺は近頃なんだが自暴自棄だった。
別にこれといって理由があるわけではないのだが、なんとなく。まぁいいか、どうなっても。
受け身に流されたところで問題はないだろう。そんな気分だった。
タカヤは先輩と話をしていた。もはや相談に乗る必要なんかないんじゃないか、とすら思う。
けれど、彼の悩みがそんなに早く解決してしまったら――嫌な話ではあるが――困るのだ。
少なくとも、幼馴染の友人を引き合わせるまでは、彼には悩んでいてもらわなくては。
そうでなければ、彼と俺たちが一緒に行動する機会が減ってしまいかねない。
嫌な話だ。込み入っている。ややこしいことになった。俺は幼馴染を責めたてたい気持ちになる。
彼女は彼女で、自分が面倒を引き起こしたことは自覚しているらしく、何度か俺に向けて謝った。
俺にだって責任感はあるし、引き受けた以上はタカヤの相談にも精一杯乗ってやりたい。
だからこそ、後ろめたさは大きかった。
とはいえ、幼馴染ひとりを責められるような状況ではない。
あくまでも、彼女はなにひとつ問題のある行為はしていない。
自分の目的の達成のために状況を利用しようとしただけだ。それが悪いとはさすがに言えない。
俺にも責任はある。だが、この状況を招いたのは特定の誰かの特定の行為じゃない。偶然。
ややこしい、込み入っているとはそういうことだ。
これ以上事態をややこしくしないためにも、幼馴染の友人とタカヤを引き合わせるのは早い方がいい。
その手段も、単純な方がいいはずだ。
けれど、だからといって今日、この瞬間に幼馴染が友人を呼びに行くのは不自然だろう。
早くても明日の昼休み。友人を何の気なしにつれてきた、という形が自然。
……自然だろうか。まあ今日会うよりは……。
まったく、たかだか男と女が出会う程度のことに、どれだけややこしい手続きが必要なんだ?
ただ面識を持つだけでさえこれなのに、恋愛なんてろくでもない。絶対。
まともな恋愛ですらそうなのだ。これがまともじゃない恋愛だったなら――と俺はそこで考えるのをやめた。
……俺たちが勝手に話を面倒にしているだけだ、という可能性に関しては見ないふりをする。
ときどき先輩が、俺と幼馴染に向けて意味ありげな視線を向けた。
あんたたちの考えてることなんて全部お見通しだから、とでも言っているように見えた。
実際、彼女は俺たちの仲をあからさまに疑っているように思える。俺が過敏になっているだけかもしれないが。
「君らふたりって付き合ってるの?」
という先輩の問いに、幼馴染が答える。
「ええ、まぁ」
嘘だと分かっているせいか、その声はなんだか白々しく聞こえた。
「ふうん。全然知らなかったな」
「隠してたんです。気恥ずかしくて」
「じゃ、なんで急に明かす気になったの?」
「わたしたちの愛は隠し立てする必要なんてない! と思いまして」
俺は吹き出しそうになる。似合わないにもほどがあった。あまりに露骨な言い訳だ。
「へえ、青春だねえ」
先輩はにこにこ笑う。俺は泣きたい。
「ま、いいや。君らがそういうなら」
俺は幼馴染とこの先輩の間に交流がある理由がわかった気がした。類は友を呼ぶ。
モスは状況が読みこめていないようだったが、先輩に対して悪印象は抱いていないらしい。
タカヤに対しても、ごく自然に振る舞っている。もともと彼は、大勢の人間と一緒にいるのが苦にならないタイプだ。
タカヤはといえば、一応は緊張しているらしい。
けれど、どちらかといえば、新しい人と出会ったことに高揚している部分が大きいらしい。
ろくに女子と会話をしたことがなかったと言っていたし、先輩と食事をとれるのも嬉しいのだろう。
そういった境遇は俺も同じなのだが、ぜんぜん嬉しくない。俺は機械になりたい。
胃がきりきりと痛みだしそうだった。
それも今日だけだ、明日には多少事態は進展する。ちくしょう、策士策に溺れて掴む藁すらなし。
タカヤと先輩、モスの笑い声が響く。俺と幼馴染の笑いはどこか空々しい。
なんていうか、自業自得である。
問題は先輩に対するタカヤの印象だった。
ただでさえ女性に耐性がなかったからか、それとも先輩本人が持つ性格のせいなのかは分からない。
いずれにせよタカヤは異様な速度で先輩になついていった。
先輩の方もタカヤを悪くは思っていないらしく、そうなれば当然のように距離は縮まっていく。
学校の中ではタカヤと行動を共にするようになったため、俺と幼馴染が相談するためには帰り道で話すしかなかった。
その日、俺たちは自然と一緒に帰ることになった。
「強引にどうこうしようとは思っていないんですけど」
と苦笑しながら、それでも幼馴染は考え込んでいた。さすがに邪魔をしようとはしないだろうが……。
俺は溜め息をつく。
「最初から、おまえの友だちが真正面からタカヤに声を掛けられれば一番よかったんだけどな」
「わたしも最初はそう思いましたけど、タカヤくんはたぶん逃げちゃってたと思います」
たしかに、先輩に対してはともかく幼馴染に対してはいまだに緊張した雰囲気が抜けない。
見知らぬ女子に話しかけられても、まともに対応できないだろう。
「それに、みーの方も緊張しいですし」
「みー?」
「みーです」
友人のあだ名らしい。緊張しいって。なんだってそんな相手とタカヤを引き合わせることになったんだろう。
お節介にもほどがある。
「頼まれたんですよ。話がしたいから機会を作ってくれないかって」
「でも、お前はタカヤとは知り合いでもなんでもなかったんだろ?」
「顔見知りになるくらいなら、ちょちょっとできるじゃないですか」
お前だけだよ、と俺は思った。実際、みーとかいう彼女の友だちは知り合いにすらなれない。
人と人とが関わり合うようになるには、面倒な機会や手続きが必要になるのだ。
「別に、タカヤくんの気持ちまでどうこうしようとは思っていないんですが、このままだと」
「まぁ、惚れるだろうね。タカヤの奴は」
別に先輩だって悪い人じゃない(ように、少なくとも見える)のだが……。
それで結果的にタカヤが女性に免疫を持ち、話せるようになれば、それはそれで喜ばしいことなのだろう。
いや、あのイケメンが女性に免疫を持ったらひどいことになる。主に俺の心境が。
女たらしにはなりそうもないところがよけいに嫌だ。ただの爽やかくんになってしまう。
「先輩の方はどうなの?」
と俺は訊ねる。幼馴染が「何が?」と言いたげに首を少しだけかしげた。
「あの人、どんな人? つーか、どんな知り合い?」
「どんな人って、見たまんまの人ですよ。面倒見はいいですけど、ちょっと計り知れないところがあって」
計り知れない。俺は苦笑しそうになった。日常会話で人間相手に使う言葉じゃない。
「別に誰かに紹介されたとか、何かで会ったとか、そういう知り合いじゃないんですけど、なんとなく話す相手です」
「なおさら邪魔する理由がないなぁ」
「みーには悪いですけど、先輩とよろしくやってもらったほうがタカヤくんの為にはなる気がします」
「まぁ、先輩の方の気持ちがどうなのかっていう問題もあるけどな」
「どう、なんでしょうねえ。あの人からそういう話、聞いたことないです」
「まったく?」
「これっぽっちも。あ、でも、『彼氏つくらないんですか?』って聞いたとき、『いつでも手に入るものに価値なんてない』って言ってました」
冗談めかしてですけど、と幼馴染は苦笑する。俺は冗談じゃなかったとしても笑わないだろうと思った。
先輩が言うには似合いすぎる。彼女は本当に、その気になれば男のひとりやふたりものにできるだろう。
幼馴染が溜め息をつくと、息が白く染まって舞い上がっていった。
俺は裸になった街路樹を眺めながら歩く。こんなふうに誰かと一緒に家路につくのはいつぶりだろう。
「またこんなふうに一緒に帰る機会があるなんて、思いませんでしたね」
幼馴染が言った。俺は頷く。
「中学のときが最後ですかね?」
「話すのが、そもそも久しぶりだろ。まる一年くらいか?」
「もっとじゃないですか? 二年以上だと思う」
「二年と、半年くらい?」
「たぶんそのくらい」
中学に入ってからも、思春期だからと距離ができたわけでもなかったのに、俺たちは話さなくなった。
いや、俺たちはというより、俺自身、誰とも話さないようになってしまったのだが。
幼馴染が不意に立ち止まった。俺はどうしたのだろうと振り返る。
彼女は一瞬目を丸くしてから、くすくすと笑い始めた。
「家、通り過ぎてますよ」
彼女の言葉通り、俺の家はとっくに過ぎていた。俺は考え事に熱中してぼーっと歩いていたらしい。
「送ってくれるんですか?」
「送っていいのか?」
茶化すと、彼女は真剣な顔で首を横に振った。
「寒いから、早く帰らないと風邪ひいちゃいますよ」
「家に入れてコーヒーでも飲ませてくれよ」
「それでも別にいいですけど」
今度は俺が首を振る番だった。
「冗談だよ。もう帰る」
彼女は寂しいような、ほっとしたような表情をしていた。俺たちはそこで別れる。
来た道を戻りながら、俺は中学二年だった頃を思い出した。
俺が陸上部に所属していた頃のこと。別段熱心な部員だったわけでもなく、特別な成績を残したわけでもない部員だった頃。
走ることや体を動かすことは昔から好きだったし、小学校時代は多少の自信もあった。
それでも中学に入れば上には上がいることを嫌でも自覚する。もちろんそれでも、嫌になって自棄になったりはしなかった。
俺は俺なりに自分の成績をあげようと努力していた。
それは必死でも死にもの狂いでもなかったけれど、俺なりのペースで順調に。
陸上部は部員数が多くて友人には困らなかったし、先輩たちもいい人だったし、女子部もあったので異性ともよく話せた。
そして俺は中二の初夏に膝を壊した。別段大した故障ではない。二、三ヵ月安静にしていれば元通りになるだろうと医者は言った。
俺には一週間の安静期間すら耐え難かった。部活動を見学していても、周囲になんとなく馴染めていない感覚があった。
ときどき、「これなら大丈夫かもしれない」と思って走ってみようとしても、膝が痛んでちょっとした距離ですら走れない。
俺はそこで嫌になった。自分がひとりで取り残されているような気分が耐えきれなかった。
その頃から周囲と上手に溶け込めている気がしなくなった。みんなの輪からはみ出している気分になった。
幼馴染と距離が出来始めたのもその頃だろう。
俺は陸上部をやめて帰宅部になった。
顧問は俺を形の上だけ引き留めようとしたが、本心ではやめてもいいと思っているのが目に見えるようだった。
結局俺は陸上部をやめた。
友人たちは驚いた顔を見せたが、「やめちゃったのかよ」と俺の肩を叩いたあと、変わらない様子でグラウンドに戻っていく。
俺はせいせいした気持ちだった。もちろん微妙な喪失感はあったが、これでもう走らなくていいのだ、という安堵もあった。
これからは何をして過ごしてもいいのだと俺は思った。もうぜえぜえ走り込む必要はない。
そこで俺は困った。何もすることがなかった。俺の友人関係はほとんどすべて陸上部に依存していたので、話す相手すらいなくなった。
友人はモスひとりになった。俺はそれでも悲しくはなかったけれど、かなり戸惑ったのを覚えている。
幼馴染に話しかけられても、真正面から答えられなかった。
自然と気難しくなった。徐々に口数が減っていった。いろんな人と距離ができた。
俺は卒業までの間をそうやって過ごしたのだ。
気付くともう一度家を通り過ぎていた。俺はまた折り返して家に帰る。
リビングでは妹がコタツに寝転がっていた。俺はなんだか憂鬱な気分で自室に戻る。
ベッドに寝転がると身体がずきずきと痛んだ。部屋はひどく寒くて、俺は制服のまま毛布にくるまる。
溜め息が出る。どうしてこんなことを今更思い出したのだろう。
幼馴染の態度は変わらないけれど、俺は彼女に対していくらかの罪悪感を覚えていた。
もちろんそれを感じるのは自惚れなのだろうけれど、勝手な劣等感で、彼女と話せなくなてしまったのだから。
いや、まぁいいさ、と俺は思った。別にいまさら走ることなんてどうでもいい。
そもそも俺は熱心なランナーじゃなかった。別に走れなくなったことは悲しくもない。
今でも全力疾走すると膝が少し痛む。まぁ、後遺症なんてそんな程度だ。
走れなかったところで支障なんてない。
そんなことより、問題はタカヤのことなのだ。
もう終わったことを、いつまでもぐだぐだ考えたところでしかたない。
タカヤとの付き合いが始まって以来、幼馴染と俺は一緒に登下校することが多くなった。
毎朝彼女は俺を起こしに来る。妹とちょっとした話をしたり、俺をからかったりして、一緒に家を出る。
彼女は俺と妹とのやりとりを見て、
「喧嘩でもしてるんですか?」
と首をかしげる。俺はなんとも言えずに口を噤んだ。
冬の朝、幼馴染と一緒に道を歩いていると、なんだか不思議な気分になった。
朝の街は冬の寒さに凍えて静まり返っているようで、それでいてかすかな人の気配を感じる。
そうした静謐な雰囲気が街中を包んでいて、俺はなんだか物寂しいような、安らぐような、どっちつかずな気持ちになる。
教室に入ると、タカヤはすぐにこちらに向かって近寄ってきた。幼馴染はクラスが違うので、教室に入る前に分かれた。
「よう!」
彼は明るい笑顔をこちらに向けた。俺は憂鬱になる。
俺が席につくと、モスが声を掛けてくる。
幼馴染と一緒に登校するようになってから、学校に来る時間が極端に遅くなったので、彼と話す時間は自然と減った。
「タカヤ、なんであんなにはしゃいでんの?」
想像力、と俺は思った。普通に考えて、先輩と会話できることに手ごたえを感じているからだろう。
彼がこんなところで満足してくれなければよいのだが、と思って俺はバカバカしい気持ちになる。
自分だって別に女子の友人が多いわけでもないのに。嘘までついて、なんでタカヤの手伝いをしているのだ。
いまさら後悔したって、やめられるわけではないのだが……。
朝の教室でモスとおっぱいおっぱい言い合えていた時間が一番幸福だった。
俺は思う。幸福だった頃を反復してみようと。
「なあ、タカヤ」
「なに?」
「おまえさ、おっぱいってどう思う?」
モスが吹き出した。俺は付近の席の女子が鋭い目でこちらを睨んだことに気付いたが無視した。
「……何の話?」
タカヤはあからさまに怪訝そうな表情になった。無理もない。開口一番おっぱいである。
俺は続ける。なぜか?
つまらない人間だから下ネタ以外にろくなことを言えないのである(下ネタだってろくなことじゃないけど)。
「だから、おっぱいだよ。おっぱいってどう思う?」
彼は戸惑って押し黙る。俺はイライラしているふりをした。
「いいから言えよ。おっぱいをどう思うんだよ!」
「どうって、あの、いいと思います」
いいと思うらしい。付近の女子の目が頬に突き刺さっている。
「じゃあ、どんなのがいいと思う?」
「どんなのって?」
「だから、あれだよ。大きいのがいいのか小さいのがいいのかってことだよ」
「……いや、そういう話はちょっとよく分からない」
「カマトトぶってんじゃねえよ! おっぱい舐めんな!」
俺が叫ぶと同時に、モスが俺の後頭部を教科書で叩いた。
「お前はマジでもうちょっと学習しろ。ホントに。こないだの悪夢をもう忘れたのか」
「忘れてねえよ! あのおっぱいの魔力から生まれた悪夢は現在進行形だ! 未だに口きいてくれねーよ!」
「そっちの話じゃねーよ。タカヤの勘違いの方だよ。あとそのノリ寒いからやめてくんない?」
「うるせえな。大事だろうが、おっぱいの好みは」
「大事だけど」
モスは溜め息をつく。俺の方が溜め息をつきたい。教室はいつのまにか静まり返っていた。
俺は周囲を見回す。冷たい視線、面白がるような視線、よりどりみどりである。
「なんだよもう。いいだろべつに」
俺が言うと、みんなが目を逸らした。なんだこれ。
そのとき、教室のドアが開く。
幼馴染が顔を出した。静まり返った教室の様子に目を丸くしてから、俺たちのところにやってきた。
ようやく教室に騒々しさが戻る。俺は少し後悔した。
一連の流れをモスから聞いた幼馴染は、俺を見て苦笑した。
彼女の表情は、なんだかどうしようもない弟を見守る姉のようで、ひどくつらい。
「なんか、いつもとキャラがぜんぜん違ってびっくりしたよ」
そういえばこいつの前では、こんなふうに暴走したことはなかったっけか。
――いや、最初の遭遇は除くことにして。
「この人はですね」
と幼馴染は俺を示す。
「自分が及び腰になってるな、とか、上手に話が出来てないな、と思うと、勢いに任せて暴走する癖があるんです」
モスが感心したようにうなずいた。俺は気まずくなる。
「あるな、そういうところ。開き直ってるのか自棄になってるのか分からないけど、勢いに任せて暴走して失敗すんの」
やめてくんない、そういう的確な分析。俺は拗ねて窓の外を睨んだ。
「いいじゃん俺の話は。それよりDVD-RとRAMとRWのどれが一番かっこいいかって話しようぜ。俺はRWだと思う」
「こんなふうに突拍子もないことを言い出すのが特徴です」
もういいと言っているだろうに。
「彼女さん、彼氏のことよく分かってるんだね」
タカヤは言った。俺は一瞬誰の話をしているのか分からなかった。幼馴染は気まずげに苦笑して、「ええ、まぁ」と曖昧に頷く。
彼の言葉は不自然なものではなかったが、近くにいた生徒には聞こえたようだった。
付近の女子が俺の方を見ている気がする。自意識過剰だ。
「付き合い長いですしね」
幼馴染が苦笑する。タカヤはなんだか羨ましそうな目でこっちを見た。モスは窓の外を眺めて我関せずの姿勢を貫いている。
俺は鳥になって空を自由に飛びまわりたい。翼をください。できれば黒いのがいい。鴉って渋い。
授業がはじまるまで、四人で集まって話をしていた。なんだってこんなことになったんだっけ。
不思議な偶然ってあるものだ。
昼休みになると、先輩が俺たちの教室までやってきて、新聞部の部室に誘った。
タカヤは俺よりも早く先輩に駆け寄った。女が苦手って話はどこにいったんだろう。
先輩の後ろにはもう一人の女の人の姿があった。見覚えはない。
いったい誰だろう、と思いながら、俺はその姿を長める。先に声をあげたのはタカヤだった。
げっ、という顔をしている。先輩と会ったときの幼馴染の顔に似ていた。
彼は口を噤む。先輩が苦笑を浮かべた。もう一人の女の人のネームプレートを見て、俺は納得する。
「オス」
と女の人は言った。タカヤは絶望的な表情になる。先輩は、謝ってるんだか面白がっているんだかよくわからない顔をした。
タカヤが黙ったままなので、俺が言葉を発しなければならなかった。
「ひょっとして、タカヤのお姉さん?」
「はい」
彼女は俺を品定めするように眺めてから頷いた。
これ以上状況が混乱するはずはないと信じていた昨日の自分を殴りたい。
幼馴染は幼馴染で、新聞部の部室に例の「みー」とかいう友達を連れてきていた。
俺、モス、タカヤ、幼馴染、先輩、タカヤ姉、みー。
七人。
バカか。と俺は思う。七人で昼食って。多いよ。
一気に人数を増やしたってどうせろくなことにならない。俺は溜め息をつく。
人数が増えれば増えるほど、状況は混乱していく。
けれど、俺と幼馴染の目的は一応は達成に近付いている。
警戒するべきなのは先輩の行動だけで、あとは「みー」とタカヤを引き合わせることができれば、それで十分なのだ。
が、姉を前にして、タカヤが素直に女性と話したりできるものだろうか?
その懸念は現実のものとなった。
タカヤは自分の姉を前にして、新しくあらわれた女子どころか、先輩とすらまともに話せなくなってしまった。
姉の方はと言えば、なんだか先輩と話したり、幼馴染と話したり、俺やモスに声をかけて質問してきたりとやりたい放題。
彼女の登場ですっかり影が薄くなった「みー」の方は、なんだか可哀想なくらい緊張していた。
タカヤ姉は弟とは違い、初対面の人間にも一切物怖じした様子を見せなかった。
なんでも、先輩が自分の弟と一緒に食事をとると話のはずみで聞いて、様子を見てみたくなったのだと言う。
先輩はきっと、タカヤ姉に昼食のことを話したのを後悔しただろう。俺なら後悔する。
なによりも、タカヤのふて腐れたような態度が気にかかった。
普段通りの態度でいられたのはやはりモスだけだ。彼はおそらくどんな事態に遭遇しても冷静でいられるだろう。
「きみだよね、最近うちの弟と仲が良いっていう」
と、タカヤ姉は俺に向かっていった。
「この子から聞いてるよ」
彼女は先輩を指差す。
先輩も、タカヤ姉の圧倒的な勢いに対しては戸惑うらしい。
あの先輩が戸惑うのだから、もう彼女のエネルギーにはすさまじいものがあるということだ。
「そっちの子は彼女?」
タカヤ姉は幼馴染を指差す。俺は一瞬ためらったが、タカヤの手前本当のことは言えない。
「はい、まあ」
頷くと、彼女は「へえ!」とひときわ高い声をあげた。
幼馴染が少しだけ戸惑っているのが伝わってくる。気付かないふりをした。
「で、そっちの子は……」
と、タカヤ姉は「みー」を指差す。このタイミングで話がわたしに飛ぶのか、とでも言いたげに彼女は動揺する。
幼馴染は「みー」の代わりに返事をするついでに、彼女を紹介した。
「わたしの友だちです。いつも一緒に食べてるので、誘ってみようと思って」
「へえ。そうなんだ」
芳しい反応を見せたのはタカヤ姉だけだった。
タカヤ本人はかすかに意識を「みー」に向けているようだったが、姉が気になって素直に話せないらしい。
本来なら、タカヤの相談に都合のいい相手として、「みー」を紹介する手筈だったが、タカヤ姉がいてはその話もできない。
タカヤだって自分の姉に、女性に対する苦手意識を克服しようとしていることなんて知られたくないだろう。
あとでタカヤに「みー」について何かを言っておいた方がいいのだろうか。
「みー」本人はひどく物静かな子で、引っ込み思案を絵に描いたような姿をしていた。
口数も少なく、会話に対しても積極的ではなく受け身だ。この調子で何かが上手くいったりするんだろうか。
幸いタカヤの姉は、来るのは今日だけで、明日からは邪魔しない、と明言してくれた。
そのことはいくらか救いになったが、「みー」の第一印象が地味になってしまった感はぬぐえない。
つまり、これからタカヤの中で「みー」の存在を大きくしていくには、さらに面倒な手順が必要になってくる。
もちろんそこまでする義理なんてないのだけれど……なんとなく、引き合わせて、はいおしまい、では少し申し訳ない。
少なくとも、タカヤと普通に話せるようになるまでは進展させてやりたい。
そのためには、「みー」の方とも意思疎通を図らなければならないのだが……。
彼女は幼馴染が言ったように「緊張しい」であるらしく、俺に対してもまともな会話が成立するとはいいがたかった。
結局昼休みが終わるまでに、「みー」は「はい」「どうも」「ありがとうございます」「いただきます」「ごちそうさまでした」くらいしか喋らなかった。
理由は違うが、タカヤの方もまた似たようなものだった。
それよりももっと気になるのは、新聞部の部員のうちひとり、見覚えのある男子が、俺をじっと睨んでいることだった。
気のせいであると信じたいのだが、なんとなく、嫌な予感がとまらない。事態は混迷をきわめていく。
俺はどうせなら猫になりたい。
新聞部の部室で昼食を取るようになって三日が過ぎ、六人の人間はそれぞれがそれぞれに慣れ始めた。
俺は幼馴染と『付き合っている』という設定で振舞うことにも慣れていたし、タカヤも先輩やみーに物怖じしなくなった。
モスもまた普段通りに振る舞い、幼馴染も状況に応じて話に参加できていない人間に気を遣って話しかけた。
「話に参加できていない人物」はもっぱら俺のことだった。
タカヤが徐々に女性陣と話ができるようになるにつれて、俺の影は一層薄まってきた。
これは自然な帰結と言えばそうだろう。もともと社交的な性格でもないのだ。
放っておけば、先輩、タカヤ、モスの三人は勝手に盛り上がり始め、そこに幼馴染がみーを交えて話をする。
俺がそこに混ざろうとすれば話は混乱するし、ややこしくなる。そういう場合が多くあった。
かといって周囲が俺を疎外しているわけでもないし、俺自身際立った孤独を感じているわけでもない。
ただなんとなく、ああ、今、及び腰だなぁと思ったりするだけだ。
それでも勢いにまかせて暴走するためには、みーとタカヤの関係をどうにかしなくては、という気持ちが邪魔をする。
その状況が嫌になったわけではないし、ちょっと無責任かという気もしたのだけれど、ある日、俺は新聞部の部室に行かなかった。
近頃は四六時中誰かと一緒にいて、心休まる時間がない。家に帰ればゆっくりはできるが、別の意味で気疲れした。
風のない日だった。中庭はそれまでに比べると少しだけ暖かく、過ごしやすいと言えなくもなかった。
俺はベンチに腰かけて持ってきた弁当の包を広げる。
十二月のなかばが近付き、冬休みはほとんど目前、というか来週には休みに入る。
俺はそのことを考えて少しだけ憂鬱になった。なんら事態は進展していないからだ。
それなのに授業は学期末の雰囲気になり、期末テストを終えて周囲は浮足立っている。
頭が痛くなりそうだった。溜め息。白い息が立ちのぼる。俺は今月に入ってから何度の溜め息をついただろう。
ぼんやりと考え事をしながら食事をしていると、後ろから声がかけられた。
「なにやってんの?」
振り返ると、タカヤの姉が立っている。俺はまた溜め息が出そうになった。
「なんで一人? 他の人らは?」
彼女は本当に物怖じしない。答えに窮した。別にたいした理由があってひとりでいるわけではないのだが
「まぁ、ちょっと」
と俺はごまかした。彼女は不思議そうな顔で首をかしげる。先輩の方だったなら、ここで更に追及を重ねるのだろう。
タカヤ姉はあまりものごとにこだわらないタイプらしい。
「ふーん」
という一言で、話を終わらせてしまった。
彼女は俺の隣に腰をおろした。もう昼食は終えたようで、暇をもてあましているらしい。
「ね、うちの弟、どう?」
「何の話です?」
「彼女できそう?」
「……なんですか、いったい」
「いやぁ、姉としても心配だったからさぁ」
「タカヤなら、ほっといてもそのうち彼女を作り出しますよ。お姉さんの方はどうなんです?」
「わたしのことはおいといて」
棚に上げた。よもや弟をからかうだけからかっておいて、自分の方も経験が少ないと言う……ありそうな話だ。
「で、きみは彼女とうまく行ってるわけ?」
「……はあ。まあ」
――実際、うまくやっていた。
幼馴染と俺の関係は、誰にも疑われることなく成立している。先輩ひとりを除けば。
隠しておきたい対象であるタカヤにも判明はしていない。
けれど、上手くいけばいくほどに、俺は不安を感じるようになった。
昼食を一緒にとるようになってから、タカヤと俺との関係はごく普通の友人同士と言えるくらいまで接近していた。
もしかしたらタカヤが自分の弱点を克服しきったあとも、付き合いは続くかもしれない。
そのこと自体はかまわないのだが――そうなったとき、俺は幼馴染との関係を、彼にどう説明すればよいのだろう。
タカヤに本当のことを言えばいいのだろうか。それとも嘘を突き通せばよいのだろうか。
いずれにせよ、そこには間違いなく自業自得としか言えないような問題が発生する。
俺自身、タカヤに悪感情を抱いていないことを含めて、ひどく面倒な話になる。
仮にすべてが思惑通りに運んだとしても、『そのあと』のことを考えると、ひどく気が重い。
身から出た錆というのは、こういうことをいうのだろう。だからもう少し考えて行動しろというのだ。
「なんか落ち込んでる?」
タカヤ姉は俺に向かって首をかしげた。かわいい人だ。俺があと五歳若かったら惚れてた。
……あと五歳若かったら小学生だ、俺は。
俺は先輩の仕草に適当に相槌をうって更に考える。
もうすぐ冬休みなのだ。そんな短い期間で、このこんがらがった状態をなんとかできるんだろうか。
そもそも「みー」はタカヤといったいどうなりたかったんだろう?
少し話をしてみたかったのか、仲よくなりたかったのか、いずれにしても場合によっては今回のことはまったく徒労になる。
つまり俺と幼馴染は「みー」の目的に合わせて自分の行動を変える必要がある。
そのためには、彼女とコンタクトをとることが重要になるのだ。
にもかかわらず、俺は彼女と一切対話できていない。幼馴染を経由して多少考えていることが伝わってくるに過ぎない。
俺とタカヤのどちらが「みー」と話しているかと言えば、間違いなくタカヤの方が話しているだろう。
俺は必要ないじゃないか。まったく。嫌になる。
とはいえ、ここでぐだぐだと拗ねていても仕方ない。
俺はタカヤ姉との話を適当に切り上げて教室に戻ることにする。
彼女には申し訳ないことをしたが、俺はそもそもあんまり人の話を聞きたくないタイプの人間だ。
なんだか、頭痛がする。近頃の俺はどうも不調だった。
体もそうだし、精神的にもそうだし、もっと他の、運勢というか、なんというか、そういったものも不調だった。
とにかく不調。その不調がいつから始まったのかは思い出せない。とにかく何をやってもうまくいかない。
なぜだかいつのまにか不調だった。嫌になる。
教室に戻って自分の席につく。チャイムはすぐに鳴った。
帰ってきたタカヤとモスが、俺に一声かけて自分の席に戻る。
俺は窓の外を眺めて午後の授業をやり過ごした。
放課後俺はまっさきに幼馴染の教室へ向かおうとした。幼馴染に会うためではなく、「みー」と話してみるためだ。
俺は彼女の目的を確認し、その目標に自分がどこまで踏み込むべきなのかを確認し直そうと思った。
もちろん、あなたには何も頼んでいない、全部お節介だと言われる可能性もあったが、それならそうでまったく構わなかった。
俺は一刻でもはやくこの混乱した状況を解決し、元の生活に戻りたい。
――元の生活ってどんな感じだったっけ、という疑問はあったものの。
けれど教室に出ようとしたとき、俺の背中に声が掛かった。タカヤだ。
「告白しようと思う」
とタカヤは言った。こいつはいったい何を言い出すんだろう。
モスが盛り上がった声をあげた。俺はどうしようもなく悲しい気持ちになる。
「誰に?」と嫌な予感を噛み殺しながら訊ねた。
「先輩に」
俺の予感はだいたい当たる。
「なんで。絶対振られるぞ」
別に俺はタカヤが憎かったわけではないし、振られて欲しいと願っていたわけでもない。
けれど振られる。どう考えても。彼と彼女が知り合って何週間も経っていないのだ。
そんな相手が、どうしてタカヤと付き合ったりする?
――とまで考えて、俺は先輩の方だってわけのわからない考え方をする人間だったと思い出した。
そういえば、たしかに彼女はその気になれば男のひとりやふたり好きにできるだろうが、告白されたことはあるのだろうか?
ちょっと仲の良い後輩に告白されて、まぁ、いいかと思ってさくっとオーケーしたり……は、しないだろうか?
俺は胃のあたりがむかむかするのを感じた。
開き直ることにする。そういえば俺には何の負い目もないような気がした。
でもたしかに罪悪感がある。これはいったい何を理由にしているのだろう?
俺は順を追って思い返してみた。
タカヤの相談に乗る。偶然、先輩がその現場に遭遇する。仲良くなる。タカヤは先輩に告白するという。
この一連の流れに、俺に負い目がある部分は一切ない。すべて偶然と本人たちの行動の結果だ。
じゃあ「みー」の方はどうか。
幼馴染が「みー」に頼まれて、タカヤと話をする機会を作ろうとする。幼馴染、機会を作る。みー、活かせずにあまり仲良くなれない。
こちらも俺に責任はありそうにない。
そこで俺は、この罪悪感がどこから訪れるものなのかをはっきりと理解した。
俺とタカヤとの関係の一番最初に、俺と幼馴染の“嘘”があるからだ。
だから、俺はタカヤに対しての罪悪感がぬぐえないのだ。
そうまで行動を起こしてしまった以上、「みー」に対して徒労感を味わわせたくないのだ。
けれど実際、タカヤは先輩と出会ってしまい、彼女に告白しようと思う。お前どれだけ惚れっぽいんだ。
でも、これは誰かが悪いという種類の話ではない。
俺は悪くない(言い訳ではなく、事実として)。俺はなんらこの状況に影響を与えていない。
その話の流れに、偶然居合わせたに過ぎない。
じゃあ嘘をついた幼馴染の責任かというと、そうでもない。
幼馴染だって、こんな事態に発展すると思って嘘をついたわけではないのだ。
話を分かりやすく終わらせようとしただけに過ぎない。
結果的に話がややこしくなってしまった感はぬぐえないが。
もちろんタカヤが妙な相談を持ちかけてきたから話が混乱したわけでもない。
タカヤの相談に乗る形で「みー」とタカヤを引き合わせるのも決して困難ではなかった。
ここで先輩とタカヤが会ってしまったこと。これが混乱が発生した理由だろう。
だからといって、先輩を責めるわけにはいかない。あそこで出会ったのはまったくの偶然だったからだ。
さまざまな偶然の結果、なぜだか事態は混迷をきわめている。
もちろん、自分の目に何もかもがはっきりと映るような事態の方が、現実では稀なのだが……。
「みー」のことを考えなければ、タカヤが先輩に告白しようとするのはいい傾向と言えなくもない。
もちろん、「みー」のことがなかったとしても俺は彼の行動を止めようとしただろう。
どう考えても勝ち目が薄いからだ。
そういったさまざまな事情が混乱したあげく、俺はタカヤに対して何も言えなくなった。
何を言っても、裏であれこれ画策していることの地続きにしか思えないからだ。
俺は嫌になる。めんどくせえ、と思う。俺は短気な人間だった。タカヤのことなんて割とどうでもいい。
それでも今まで付き合ってきたのは、なけなしの責任感と罪悪感の影響にすぎない。
俺は短気で無責任で自己中心的な性格なのだから仕方ない。そう開き直ることにしよう。
俺は「がんばれよ」とタカヤを励ました。彼はほっとしたように息を吐く。
教室を出ると胃のあたりがきりきりと痛み始めた。
廊下を歩いて幼馴染の教室を目指す。何も今日告白することはないじゃないか。
俺たちはまだ始まってもいないんだぜ。でもどうしようもなかった。愛はノンストップだった。好きならしょうがない。
知ったことか。俺はもう責任をもたない。ぜんぶ偶然の結果だ。俺は悪くない。
それでも罪悪感で足が重い。俺は泣きたかった。今月に入って何度目か分からない。
なんでなんだろう、と俺は思った。どうしてこんなに事態が混乱しているのだ?
俺にはその原因もすぐに理解できた。それは、俺自身が、自分がいったい何を目的にしているか分かっていないからだ。
俺は幼馴染に協力し、「みー」とタカヤの距離を縮めることに尽力しているのか。
それとも「タカヤ」の相談に乗り、彼の苦手意識を克服することを目標にしているのか。
自分でもどっちを目標としているのか、分かっていないからだ。
幼馴染の教室のドアをノックする。適当に声を掛けて戸を引いた。
教室に入ると幼馴染と「みー」の姿はすぐに見つけられた。俺は少し緊張しながら彼女らに歩み寄る。
呼び止めると、みーは顔をこわばらせた。
幼馴染が間に入る。話があると伝えると、ふたりは緊張した様子でついてきた。
俺はいつからか不調だった。とにかく不調だった。いつからだ?
たぶんずっと前からだ。でも、いまさらどうすればいいのか、分からない。まったくわからない。
何から話せばいいのだろう。ふたりを連れて教室を出たものの、俺はどこに向かえばいいのかわからなかった。
何もかも忘れて眠っていたい。
幼馴染は「どうかしたんですか?」とでも言いたげに俺の顔を見た。
泣き出したい気持ちになる。
とにかく話さなくては、と思うのだけれど、話そうとすればするほど何を言えばいいのか分からなくなった。
場所を変えようと思ったが、適当な場所が思い浮かばなかった。
人気のない廊下の、階段付近に移動して話を始めた。
タカヤの発言について伝えると、ふたりとも「ああ、やっぱり」という顔をした。
勘付いていた幼馴染の方はともかく、「みー」の方も同じ顔をする理由がわからなかった。
なんだか悲しい気分だった。
どうして、と俺は「みー」に訊ねた。彼女はどうして平気そうにしているのだろう?
彼女は、それまで俺と話さなかったのが嘘だったように、すらすらと言葉を並べ始めた。
「別に、いいんです。薄々気づいてました。わたしは視界に入ってないんだろうなって」
「好きだったの?」
俺は無神経を承知で訊ねた。彼女は一拍おいて、答えた。
「――はい。でも、わたしなんかじゃ相手にされないって分かってましたから。
仕方ないんです。わたしがうじうじいつまでも悩んでたから、みんなに手間をかけてしまって」
いつまでも? と俺は思う。別にそんなに長い時間じゃなかった。むしろ「これから」というタイミングだった。
そのタイミングで予定外のことが起こってしまっただけだ。どうして彼女はこんなに自分を卑下するんだろう。
もちろんそんなことは口に出して言えない。表面上はともかく、彼女は傷ついているのだろう、たぶん。
「だいいち、わたしが最初から、真正面から彼に話しかけてみればよかったわけで、面倒な手を選んだりしたから――」
違う、と俺はまた否定したくなる。この結果は彼女の行動が原因じゃない。
彼女とは無関係の場所で起こったことだ。彼女の行動はなにかの原因になったりしなかった。影響を与えたりしなかった。
偶然だった。何もかも。彼女に関しては。
「あのさぁ」
と俺は言った。
「はい?」と彼女は気丈に笑う。
「おっぱい触っていい?」
「……はい?」
俺の言葉を、彼女はうまく聞き取れなかったようだった。
「いや、違う。間違えた」
俺はかぶりを振る。自己嫌悪。自暴自棄。なんかもういいや。めんどくさい。
彼女がいいって言ってるんだからいいじゃないか。別に。つまりこの話はここでおしまいってことだ。結果がどうであろうと。
ひどく気分が重い。
俺が何も言えずにいると、彼女は言葉を重ねた。
「いいんです、本当に。機会をもらっても、上手く活かせなかったと思うから。自分でも何がしたかったのか分からない」
「分からない?」
「仲良くなれれば、何か変わるかなって思ったんです」
「それで……」
「それで、頼んだんです」
幼馴染は彼女のうしろで気まずそうな表情をしている。
俺は何を考えていればいいのか分からなかったので、とりあえず階段脇の消火栓の赤ランプを見つめた。
「ほんとうに、ごめんなさい。ご迷惑をおかけして」
違うだろう、と俺はいいかげん怒鳴りたかった。どうして謝ったりするんだ。
俺はイライラしている。
何にこんなにイライラしているんだろう、と考えて、すぐに思い当る。
それは身勝手な感情だ。俺は怒っている。
彼女は安堵しているのだ。おそらく、タカヤに対して正面からぶつかっていかないで済むことに。
ようするに逃げようとしている。でもそれは彼女の勝手だ。俺が怒りを感じるのはどう考えても筋違い。
俺はこの話に無関係な人間だ。タカヤの事情にも「みー」の事情にも、たまたま巻き込まれただけの。
……そうだろうか。俺は「たまたま」巻き込まれたんだったか?
俺は深くは考えないことにした。いいじゃん、この子が良いって言ってるんだから。
幼馴染はどうしていいか分からない様子でおどおどしている。彼女がこんなふうにうろたえている姿を見たのは久しぶりだ。
俺は「そう」とだけ言ってふたりに背を向けた。幼馴染には少し申し訳なかったが、このままだと叫びだしてしまいそうだ。
廊下をひとりで歩いていて、俺はようやく気付いた。
俺はけっしてこの事態に「たまたま」巻き込まれたわけじゃない。
幼馴染が「付き合っているふりをしてくれ」と言ったとき、俺は自分の意思で頷いたのだ。
そこで俺の意思が発生している。俺は自分の意思でこの事態に関わっている。
だから、俺は「無関係」じゃなかった。この事態の発生に少なからず関係している。
あのとき俺はどうして頷いたんだろう。普段だったら「ふざけんな、俺抜きでやれ」と断っていたはずだ。
俺は面倒なことが嫌いだったし、他人の感情をどうこうしたりするのはもっと苦手だった。
にも関わらず、俺はどうしてタカヤと関わり合いになることを決めたんだっけ。
教室に戻るとタカヤが席についていた。
彼はモスと一緒に何かを話している。俺は気分が優れないまま近付いた。
「どうした?」
と俺が訊ねる。タカヤは椅子に座ったままだ。
「立ち上がれない」
「はあ」
「怖い」
こいつは、ひょっとして今日、この日に、そのまま告白しようとしていたのか。
ものすごい行動力と覚悟だ。そして不発に終わったが。
「もう、先輩も帰ったんじゃないかな」
「……だよな」
タカヤは長い溜め息をついた。こいつもやはり安堵しているように見える。
「みー」の場合とは違い、あまり嫌な感じはしない。
たぶんスタンスの違いだろう。このふたりは「どこまで先延ばしにするか」が明確に違う。
「なんで今日だったんだよ」
と俺は訊ねた。
「おまえ、焦りすぎだよ。別に今日明日いきなり発展しなくてもいいじゃねえか。欲をかくとろくなことにならねえぞ」
タカヤは困ったように眉を寄せた。
俺はまだ迷っている。「みー」を無視して彼を後押ししていいのだろうか。タカヤを止めるべきなのだろうか。
「わかんないけど、タイミングを逃したら一生言えない気がするんだ」
「なんだ、そりゃあ」
一生、という言葉は、俺には大袈裟に聞こえた。
「俺は昔から人一倍臆病で、いままで機会とかそういうものを何度も逃してきたんだよ」
彼はじっくりと言葉を選んでいるように見えた。俺は居心地の悪さを感じる。
「だから、ここだと思うタイミングでは、すぐに行動を起こそうと決めてるんだ。どんなに咄嗟でも」
それは既に臆病とは呼ばないんじゃないのか。思ったけれど、口には出さなかった。
彼は思いついたような表情で、俺に向かって訊ねた。
「そういや、お前は? どうやって彼女に告白したんだ?」
「告白してない」
「されたのか」
「されてもない」
タカヤが怪訝そうな表情になる。俺は無性にイライラしていた。
何に対してだろう。たぶん自分自身に対してだ。モスの表情が緊張したようにこわばった。
かまうもんか、と俺は思った。知ったことじゃない。もう破綻してるんだ。
なにひとつ上手くいかなかったんだ。別にいまさらことが露呈したところでどうにもならない。
「嘘だったんだよ。付き合ってるっていうの」
俺の言葉に、タカヤの表情は硬くなった。やがて状況を判断しようとするように、視線をあちこちに彷徨わせた。
「それは、どうして?」
彼は頼りない声音で訊ねてきた。俺は答える。
「そんなふうに言わないと、誤解がとけなかったからだよ」
「誤解?」
「俺とモスの」
彼は咄嗟には思い出せなかったようだったが、やがて「ああ」と思い出したようだった。
俺はいったい何をやっているんだろう。
「そうか、そうだったんだ……」
彼は吐息のように言葉を吐いた。モスが気まずげな表情になる。
居心地が悪い。逃げ出したかった。
「帰る」
と一言告げて、俺は鞄を持って教室を出た。もうこれ以上はなにも言いたくない。
俺はひさしぶりに一人で帰路についた。冬の街は寒々しくて異様に寂しげだった。
途方もない孤独感が押し寄せる。俺はまちがいなくひとりぼっちだった。
「俺はこの事態の発生に一切関係していない」? そんなわけがなかった。
俺は俺の意思でこの事態に関わることを決めた。結果的に状況をいっそう混乱させた。
それは俺だけの責任じゃなかったかもしれない。でも、俺にも責任の一端はある。
家に帰って、俺はふてくされてコタツを占領した。妹はまだ帰っていない。
制服のまま寝転がっていると眠気が押し寄せてくる。暖房のついていないリビングはまだ寒かった。
眠りから覚めて、眠っていたことに気付いた。カーテンは開けっ放しで、灯りはついていない。
陽はすっかり沈んで、もう辺りは真っ暗だ。俺は起き上がる気になれず瞼を閉じた。
いつからこんなに不調だったんだろう? 鼻はぐずぐずいって気持ち悪い。
咳が出た。俺は起き上がって部屋に戻ることにする。
制服を脱いで、寝間着に着替え、ベッドに倒れ込む。
ふと、玄関の扉が開く音がした。妹が帰ってきたのだろう。
話し声が聞こえる。友達でも連れて帰ってきたんだろうか。
部屋のドアがノックされる。返事をせずにいると、勝手にドアが開いた。
「寝てるの?」
と妹が言った。彼女の声を聞くのはひさしぶりという気がする。
何も言い返さずにいると、妹が誰かと話すのが聞こえた。俺はその声に聞き覚えがある。
幼馴染だ。彼女がやってきたのだ。俺を責めに来たのだろうか?
またやってしまったのだ。何も考えずに感情だけで暴走した。
俺は逃げたい。逃げている。寝たふり。快適だ。体調以外。
「起きてください」
と幼馴染は言った。俺は寝たふりを続ける。起こすな。ギブミーアップ。
「具合悪いんですか?」
彼女は普段通りの声音で言った。俺はあきらめて寝返りを打ち、上半身を起こす。
彼女の後ろで、妹が散らかしたままの俺の制服をかき集めてハンガーにかけていた。
俺の顔色を見てか、幼馴染は早々に話を終わらせようとしたらしく、すぐに本題に入った。
「とりあえず、みーと話してみたんですけど」
彼女はすっとした口調で話に入る。言いにくいことでも、歯切れが悪そうにしたりはしない。
そういう人間性なのだ。
「あの子は、もう何もしなくていいって言ってるんです。こちらから何かを強制するわけにもいきませんし」
それでもやはり、少し後味が悪いような表情で、彼女は言った。
幼馴染は俺に対して感謝と謝罪の両方を告げた。彼女がどうして謝ったのかは分からなかった。
妹が体温計を持ってくる。俺は熱を測った。平熱だった。なんだ、平熱なのか。
だったらなんでこんなに体調が悪いんだろう。
幼馴染は十分も待たずに帰ると言い出した。俺は「みー」についてもタカヤについても何も言えなかった。
「明日も迎えにきていいですよね?」
と彼女は最後に言う。俺は曖昧に頷いて、その場で彼女を見送った。妹がついていく。
幼馴染を玄関まで見送った妹が戻ってきて、何かほしいものはないかと言った。
なんにもいらない、と俺は答えた。
「なにかあったの?」
妹が聞いてきたが、俺は上手に答えられない。
沈黙に耐えきれずに、俺は口を開いた。
「あのね、俺の親父がさ」
妹は一瞬表情をこわばらせたが、静かに「うん」と続きを促した。
「最後に笑うのは真面目で一生懸命な奴だって言ったんだよ」
「うん」
「そんなわけねーじゃんって思ったの。不真面目でも最後に笑う奴はいくらでもいるって」
「うん」
「でもそういえばさ、よくよく考えたら俺は真面目でも不真面目でもないから、あんまり関係ないんだよな」
「なにそれ」
彼女はあきれたように溜め息をついた。俺は彼女が本当の妹だったらどんなによかっただろうと思った。
どうして幼馴染の頼みを引き受けたのだろう、と思って、ようやく気付いた。
俺はいろんな人と「普通」に話せるようになりたかった。
もう一度幼馴染や、そのほかの人たちと、仲良く過ごしてみたかった。
だから、目の前にぶらさがった機会にそのまま手を伸ばしたのだ。そして火傷した。
タカヤと話せるようになりたかった。大勢の友だちがほしかった。今気付いた。馬鹿か。
明日からどうやって過ごせばいいんだろう。俺は眠気にさいなまれながら考えた。
とにかく、もうやらなければならないことはない。
タカヤに嘘をついていたことをばらしたことを、幼馴染はモスから聞いていたようだった。
もう俺がつかなければならない嘘はないし、俺が関わらなくてはならない人はいない。
俺はただしく元通りの生活に戻ったわけだ。
何を落ち込んでいるんだろう? 俺はひょっとしたら、自分の思い通りにことが運ばなかったことにいら立っていたのかもしれない。
なんていう傲慢だ。俺は自嘲した。そして眠る。しばらくは。めんどくさいことを考えずに済むのは幸福だ。
その晩の夢見は最悪だった。
俺は太陽から逃げる夢を見た。とにかく走って逃げるのだ。森も山も湖も越えて、とにかく逃げる夢だ。
太陽は灼熱の光線を触手のように伸ばして俺を追いかける。俺はただ逃げる。
やがて日差しは雲に隠れ、空から太陽の姿が消えた。俺はそれでも走っている。
どす黒い雲からぽつりぽつりと雨が降り出す。それは豪雨となって襲い掛かってきた。
道は泥に汚れ、足はぬかるみにとられる。やがて全身がしびれるように震え、足が棒のように動かしにくくなってきた。
踵に鋭い痛みを覚え始める。やっとのことで雨が上がる。俺は必死になって走り続ける。
膝がずきずきと痛み、呼吸はとうにまともじゃない。鼻水を散らして大声をあげながら、俺は逃げる。
不意に、周囲が静まりかえっていることに気付き、立ち止まる。
俺は後ろを見て、太陽の姿を確認しようとする。するとそこには既に、その姿はなかった。
俺は安堵の溜め息をついて腰を下ろす。そして正面を見て気付く。
真っ赤に染まった巨大な夕陽が、俺の正面に迫っていた。
俺は恐怖で叫ぶ。その先はよく覚えていない。
翌日目をさますと、体調はすっかりよくなっていた。
風邪だけではなく、胸のなかでわだかまっていたぼんやりとした不安すらも、どこかに消えてしまったようだ。
俺はベッドから起き上がって、点検するように体を動かした。
全身で伸びをしたり、両手を前後に思いっきり突き出してみたり、屈伸したりして、肉体が正常に動くことを確認した。
不思議な気持ちだった。こんなに健康なのに、どうして今まで不安だったんだろう。
頭の中が妙にすっきりしていた。カーテンを開けると柔らかな日差しが差し込んでくる。
冬の空は綺麗に透き通っている。十二月の半ばが近付いても、雪は一向に降る気配を見せない。
ふと思う。俺は友達がほしかったのだ。
制服に着替えて学校に行く準備を済ませ、リビングでコーヒーを飲んでいると幼馴染がやってきた。
彼女は俺の姿を見て、少しだけ驚いたような表情になった。
「昨日はすごくつらそうだったのに、どうしたんですか?」
さあ、と俺は首をかしげて、ふと思い出して返事をした。
「琉球神道にはさ、おなり神信仰っていうのがあってさ」
「はい?」
彼女は「聞き間違いかしら?」という顔でこちらに耳を近づけた。
「だから、おなり神」
「……はい?」
「……いや、別にその名前が別の言葉に似てるーって話をするわけじゃないからな?」
俺は名誉のために言った。
話を続けようか迷ったが、幼馴染が呆れたように溜め息をついたので、俺はそこで口を閉ざした。
「コーヒー飲む?」
「いりません」
彼女はつんと澄ました顔で窓の外を眺めている。
別に変なことを言おうとしたわけでもないのに、勝手に勘違いするなんてなんて奴だ。
やがて妹が制服姿でリビングにあらわれ、幼馴染の顔を見て小さく頭を下げる。
コーヒーを飲みながら、俺はタカヤと「みー」のことを考えた。
俺は友達が欲しかった。そのために二人の事情を利用して、交友の幅を広げようとした。
ついでに幼馴染との交流を取り戻したかった。
そういった努力が欠けていた自覚はあったからだ。
けれど俺は結局、受け身で流されるままで、なにひとつ成し遂げることができなかった。
タカヤに謝ろう、と俺は思った。
図々しい話だが、俺は今度こそ本当にタカヤと友達になりたい。そう思っていることをようやく自覚した。
だから、つらかったのだ。タカヤとの間に、変なたくらみごとが挟まっていたのがいやだったのだ。
納得すると、その考えは胸の奥にすんなりと入り込んだ。
ふと思い出して、幼馴染に声を掛ける。
「なあ」
「はい?」
「悪かったな」
「……なにが?」
彼女は怪訝そうに目を細めた。
「いろいろとね」
「……自分の中で勝手に完結する癖は相変わらずみたいですね」
その皮肉は、彼女なりの照れ隠しのつもりだったのかもしれない。
教室につくと、既にタカヤがいた。
俺が歩み寄ると、彼は緊張したように表情をこわばらせる。
「俺を殴れ」
と、最初に言った。
「はあ?」
タカヤはうろたえた。いきなり何を言い出してんだこいつは、みたいな顔をしていた。
「いろいろ悪かった。殴れ」
「……意味わかんないから。ちゃんと説明してくれ」
「だましてて悪かったって言ってるんだよ」
タカヤは、ああ、と気まずそうに頷く。
「いや、うん」
彼はそう言ったきり口を閉ざした。俺は右手の人差し指で自分の左頬を示した。
「……何?」
「殴れよ」
「なんでだよ……」
「俺の気持ちが収まらないんだよ!」
「なんで嘘をつかれた俺の方がお前の精神状態に気を遣わなきゃならないんだよ!」
「知るか! 殴れ!」
「……アホか」
タカヤは苦笑した。
「いいよ。あんまり気にしてないから」
彼はたしかに言葉の通り、少しは気にしていそうな顔をしていた。
殴られなかった俺の左頬が微妙に居心地悪そうにしている。気のせいだけれど。
彼はそう言ったきり、何も言わなかった。
話をどう続けていいのか分かっていないのかもしれない。
「先輩に、告白するのか?」
と俺は訊ねた。タカヤは首を振った。
「いや、なんか……まだ、いいよ。なんだか気持ちが落ち着いてきた」
それは悪い兆候ではないだろうか。
「俺のせい?」
「いや、なんというか、焦りすぎてたのかな、って気分になってきた。みんな思ったより必死なんだなって」
「なにそれ?」
「さあ?」
彼は首をかしげた。俺は釈然としない気持ちを無視して口を開く。
「ところで、タカヤ。図々しいことを言うようなんだけど」
「なに?」
「俺の友だちになってくれないか?」
何言ってんだこいつ、という顔を彼はしていた。
「ダメ?」
「いや、ダメとかダメじゃないとかの話じゃなく、何を言ってるんだ、お前は」
「嘘をついてたわけだし、拒否されても仕方ないかと思って」
「別に良いって。そんなに怒ってないよ」
「そっか」
俺は少し安堵したが、それでも彼が表面上平気なふりをしているだけなのかもしれないという考えはよぎった。
「友達がどうとか、わざわざ言わなくても別に平気だろ。そんなもん」
「じゃあ、俺とおまえは友達か?」
「さあ」
よく分からない、という風に、彼は肩を竦める。どんな仕草をさせても似合う奴だ。
「とにかくお前と、ごちゃごちゃしたややこしいものがない関係になりたい」
「……それ、聞きようによっては危ない発言だからね」
俺の言葉には誤解を生みやすい何かが宿っているのかもしれない。
少しだけ考え込む。こういうとき、どんなふうに言えばいいんだろう。
どれだけ頭を働かせても、上手い言葉は出てこない。
俺はもともと小器用にはなれない性格をしていた。
だから言う。
「タカヤ、俺と友達になれ」
彼は溜め息をついた。
「なあ、俺からもひとつ頼みがあるんだ」
とタカヤは言った。
「なんだろう? あんまり苦労しないようなことなら、ひとつくらい聞こうと思う。詫びの代わりだ」
「お前と、お前の彼女……」
「彼女じゃないって」
「……いや、まぁいい。お前らふたりのことだ」
「なに?」
彼は一呼吸おいて、ことさら気安げに言った。
「付き合ってるふりを続けてくれないか?」
「はあ?」
何言ってんだこいつは、と俺は思った。
タカヤとしては、先輩と会い続ける口実がほしい。
けれどそのためには幼馴染がいる必要がある。
あくまでも先輩は、幼馴染の知り合いとしてタカヤに協力しているからだ。
そして幼馴染は、あくまでもタカヤに協力している体を装っている。
それは俺と彼女が付き合っている、という嘘を前提とした協力だった。
幼馴染と俺は付き合っていない。となると、タカヤは幼馴染に協力を仰ぐことができなくなる(少なくとも可能性はある)。
となると彼としては、何事もなかったように付き合っているふうを装っていてもらった方がありがたいのだろう。
だが、幼馴染が俺と付き合っているふりをしていたのはそもそも「みー」のことがあったからだ。
いくら彼女でも、本人の意にそぐわない行為を続けるつもりはないだろう。
つまり彼女としては、既に俺との嘘をつき続ける理由がなくなっている。
俺はなんだか、話が面倒なまま一向にまとまっていないことに気付いた。
「いやだ!」
と俺は答えた。タカヤは目を丸くした。
「これ以上面倒になるのはいやだ! 嘘をついたりだましたりはうんざりだ!」
「……自分で始めたことだろうに」
それはそうなのだが。
「でも、もう面倒なことになるのはいやだ」
タカヤは「うーん」と考え込むような顔をした。俺はこればっかりは譲れない。
第一、幼馴染の側だってどういうか分からない。
「まぁ、いいや。お前がそういうなら、仕方ない」
彼はあっさりと自分の考えをひるがえした。良い奴だ。
「俺も人を頼りにしすぎたのかもしれない」
「やっぱり先輩のことが好きなの?」
俺は聞いた。彼は気まずげに腕を組む。
「変だって思う?」
「なにが?」
「たいしたきっかけもないのに早すぎるって」
「いや、別に」
「俺は思う」
お前は思うのか。
「でも、好きになったもんは仕方ない」
女とろくに話したこともなかったって言ってたのに、やたらと成熟した(もしくは未熟なのか)恋愛観をお持ちである。
俺個人としては同意しかねるが、まぁそれは今はどうでもよかった。
「でも、お前のおかげで助かったよ」
「なにが?」
「なんとなく、女子と話すの、平気になった気がする」
「俺はなんもしてないけど」
謙遜でもなく本当に何もしていない。
「まぁたしかに」
それでも肯定されると微妙に腹が立つものだ。俺は肩をすくめた。
昼休みに幼馴染が教室にやってきて、俺を呼んだ。
一緒に話していたモスとタカヤはなんだなんだと遠巻きにこちらを見る。
俺は彼女の笑顔に、なんとなく不穏なものを感じた。
「おべんと作ってきました」
案の定彼女の行動は理解不能である。
「なぜ?」
「付き合ってるんだからあたりまえじゃないですか」
彼女の声に、近くにいたクラスメイト達から、やっぱり、という声が漏れた。
「……なんのつもり?」
「いいから一緒にお昼を食べましょう、ふたりきりで」
「……ふたりきりで、ですか」
色っぽい気配がしないのは幼馴染同士だから当たり前なのか、それとも彼女の表情のせいか。
中庭につく。天気は薄曇りだったので、外は肌寒い。
「なんのつもり?」
と俺はもう一度幼馴染に訊ねた。俺たちの嘘はタカヤに露呈して、みーにとっても無意味になった。
嘘をつく相手なんてもういないのに、彼女はどうして茶番を続けたのだろう?
「悔しいんです」
幼馴染はベンチに腰かけると、持っていた包みの片方を俺に向かって差し出した。
「これは?」
「きみの分のおべんとう」
そういえばさっきそんなことを言っていたっけ。
「……前々から、お前の考えていることはさっぱりわからないと思ってはいたものだが」
「顔を見るだけで考えてることを理解しあえる仲なのに?」
「そういうところもあるかもしれないけど」
俺は溜め息をつく。
「悔しいって、どういうこと?」
「何もできませんでした」
「……いや、まぁ、それはね」
何もするべきじゃなかった、という方が正しい。
結局、ひとの色恋なんかに誰かが手出しするものじゃないのだ。
「自信喪失です。このままだと、わたしのアイデンティティーが危ういのです」
「たやすく揺らぐなぁ、アイデンティティー」
俺は空を見上げた。雨でも降りだしそうな雲だ。風が吹いている。
そもそも彼女の中にあったらしいアイデンティティーがどんなものなのか、俺は知らない。
いずれにせよ、人に迷惑をかけるようなアイデンティティーは剥がして捨てるべきだ。
人は社会の中にあってはじめて人なのである。知らんけど。
「あ、おべんと、どうぞ。食べてください」
俺は受け取ったまま動かしていない包みを開けた。水色の弁当箱。彼女の方を見る。桃色。
色違いらしい。どういうセンスだ。
冷食とふりかけごはん。俺は箸をとって食事を始めた。甘い卵焼き。
「こないだはすっかり反省した様子だったのに、まだ何か企もうと言うわけ?」
俺は訊ねた。微妙に呆れてもいた。これ以上俺たちが誰に何をできるっていうんだ。
そもそも俺たちの方向性は最初から揺らいでいた。何を目指していたのか分からない。
話を自分の思う通りに動かしたかったのか? 誰かの力になりたかったのか?
それともまったく関係のない、自分自身の感情のためだったのか?
「企むっていうより」
彼女は口籠る。
「なんか、いやなんです。こう、もやもやするんです」
「いいかい、お嬢ちゃん。世の中っていうのはね、思い通りにはいかないものなのさ」
「そういう価値顛倒的敗北主義者の理屈はどうでもいいんです。努力くらいしましょう」
「かちてん……え、なに?」
「なんでもありません。とにかく、このままでは危ういのです。わたしの自尊心、プライド、自意識が」
「肥大してるね、自意識」
「割と。思春期なので」
俺が黙ったままでいると、幼馴染は言葉を繋いだ。
「きみだってそうなんじゃないですか?」
「俺が? なに?」
「たまってないんですか」
「……聞きようによっては危ないよ、その台詞」
「……いえ、すみません。ですから、フラストレーションです」
「フラストレーション?」
「欲求不満」
それだとあんまり変わってないような気がするのだが。
少し考え込む。思いつくフラストレーション。ないではない。でも、だからといって、それをどうこうしようという気分にはなれない。
「世の中の大半の感情は、ひょっとしたら『一時の気の迷い』なのかもしれないね」
と俺は口に出した。幼馴染が首をかしげる。
「まぁ、たしかに俺にだって、取り戻したい自尊心くらいはある」
俺のプライド。いつのまにかなくなってしまったもの。暴走する力。勢い。ハンマーで窓ガラスを割って叫ぶのだ。
でも俺の勢いは死んだ。昔は濁流だったのに、今じゃせせらぎだ。
諦めてしまった。肥大したまま誰にも相手をしてもらえなくなった自意識。走っていたはずが、いつのまにか逃げていた。
「ただ、取り戻さない方が幸せなんじゃないかって気がするね」
「どうして?」
「『気の迷い』だから」
「なるほど」
彼女は分かったような顔で頷く。いまの抽象的な話のどこに納得できる部分があったんだろう。
とにかく、と彼女は言う。
「わたしは取り戻すのです。そのために努力を重ねるのです」
「具体的には?」
「まだ考えていません」
考えてから口に出してください。
「もうすぐ冬休みだねえ。何して遊ぼうか」
「あからさまに話を逸らそうとしないで、協力してください」
「協力? 何を? どうやって。自尊心の回復に協力なんてできるもんか。ひとりでやるもんでしょう」
「交換条件です」
頭に血が上ると、彼女は人の話を聞かなくなる。効率的な考え方をしなくなる。暴走する。いつもだ。
「わたしも手伝います」
「なにを?」
「きみがなくしたものを取り戻す手続き」
「手続き?」
「手続き」
なるほど、と俺は思った。
……で、具体的に何をするんだろう。
俺は自分が失ってしまったものについて考える。何をなくしたんだろう。
でも確かに、今の自分の生活には何かが欠けているという気がした。何かってなんだ?
だから俺は何かを求めて行動しようとした。タカヤと友達になろうと思った。
いつからだろう? ……走れなくなって、友達がいなくなってから?
俺がなくしたものってなんだろう。なくしたもの。取り戻したいもの。それはそのまま、欲しいものを指す。
俺の中の指向性。俺の中の方位磁石。どこを指しているんだろう?
失われてしまった指向性。身勝手なほどの自己中心性。自分の意思。俺は何がしたいんだったっけ。
方位磁石の針が、気でも触れたようにまわり続ける。一方向にさだまらない。俺が取り戻すべきもの。
「わたしは『みー』の力になりたかったんです。傲慢かもしれないけど」
幼馴染はふと、独り言のように言った。
「でも駄目だった。わたしがダメでした。考えたらずでした。面倒な手段を取りすぎました。あほでした」
知ってる。
「このままでは『みー』に顔向けできません。とにかく、彼女になんとかして謝らないと」
でも、と彼女は続ける。でも、謝ることでなおさら「みー」が苦しんだら?
口ではどうこう言ったって、彼女にだって心の整理はついていないはずだ。
そしてそれは、幼馴染が介入できる問題じゃない。「みー」の問題だ。歯がゆくても見守るくらいしかできない。
彼女には自尊心を回復する手段なんてない。諦めてくれ。そのエゴは投げ捨てましょう。
「これ以上『みー』のことに関われないというのは分かってます。あの子の問題です」
そりゃ、そうだ。そんなにあっさり言われてしまうと、抵抗はあるが。
「あの子から何かを言ってきたら、相談に乗ったり、協力したりはします。いまは待ちます」
俺は、どうとも答えようがない。この話が、彼女のアイデンティティーとどう繋がるのだ?
「その前に、いえ、そのあとでも、なにかを取り戻さないと……」
彼女は呟く。実際のところ何をどうすればいいのか、自分でもまったく分かっていないらしい。
何かをしないことには気分が落ち着かないのだろう。
一度おかした失敗は、別の形で取り戻さなければ気がすまない。その気持ちは分かる。
でも、他人の悩みに関わることだし、慎重にならざるを得ない。その「手続き」は他のものより面倒だ。
彼女のアイデンティティーっていったいなんなんだろう。
俺は溜め息をついた。
「まぁ、場合によっては協力するよ」
「本当ですか?」
「昼飯一食分くらいの労力ならね」
「明日からも作ってきましょうか?」
「いいのか? ……あ、いや、なしだ」
「別に見返りを求める気はないですけど」
幼馴染は不服そうに口をとがらせる。俺は食事を終えて弁当箱を包み直す。
「じゃあお願いする」
「分かりました」
彼女はほっとした顔をしていた。
「でも、付き合ってるのが嘘だったならさ」
と、タカヤが訊いてきたのは翌日の朝だった。
「どうして俺の相談に乗ってくれたんだ?」
「どうして、って」
そういえば、そういう話になりそうなものだ。
ただ誤解を解くだけなら、タカヤに協力する理由はない。
いやむしろ、協力しない方が都合がよかったのだ。
タカヤの疑問はもっともだ。
俺は答えに窮する。タカヤに対して嘘をついたりはしたくない、と言ったものの、ここで本当のことを言ってはまたややこしいことになる。
それに、「みー」に申し訳が立たない。たかだか数人の人間が集まっただけで、どうしてこんな面倒が起こるのだろう。
俺は半分だけ正直に答えた。
「行き当たりばったりだな」
「行き当たりばったり?」
「何も考えてないってことだ」
彼は微妙そうな顔をしていた。
タカヤがしたものと同様の疑問を、俺は幼馴染に投げかけねばならなかった。
「なんで、もう嘘をつく必要もないのに、付き合ってるふりを続けたんだ?」
昨日の昼、俺を誘いにきたとき、幼馴染は当然のように嘘を続けた。
まぁ、別に不都合はないのだ。誤解されて困る相手もいない。
とはいえ、理由は気にかかった。
幼馴染は特段困った様子も見せず、平然と、
「彼氏彼女でもないのにふたりきりでお昼って、なんか変じゃありません?」
「いや、そんなことないだろ」
「というか、そういう言い訳をしておかないと、男子をお昼に誘うのって恥ずかしいです」
俺には恋人同士の振りを続ける方がよほど恥ずかしく思えるのだが、深くは追及しないことにした。
「そういうちょっとしたことから面倒事が起こるって、教訓だったと思うんだけどね、この前の出来事は」
「後悔はしていますが反省はしていません」
頼むから逆にしてほしい。
「もちろん、冗談です」
彼女は言いながら膝の上の弁当を箸でつつく。俺たちは昨日と同じように中庭で昼食をとっていた。
俺たちが参加しなくなっても、先輩はタカヤとモスの二人を昼食に誘っているらしい。
新聞部の部室で、先輩と一緒に食事をとる二人を想像すると、なんだか申し訳ないような気持ちになった。
特に気にかかるのはモスだ。タカヤにとっては都合のいい話だろうが、モスには何の関係もない。
……よくよく考えれば、あいつはどこにいてもそこそこ上手くやる奴だし、大丈夫なのだろうけれど。
そうなると気にかかるのは「みー」の方なのだが、幼馴染からその後のことは教わっていない。
俺は多少ためらったが、どうしても気になって、結局訊ねることにした。
「みーは?」
「なにが?」
彼女はアップルジュースのストローから口を離して訊き返してくる。
「昼。誰かと一緒なの?」
ああ、と彼女がうなずく。
「他の友だちと一緒です」
俺は少し安堵した。まさか幼馴染だって、彼女をひとりぼっちで放ってきたりしないだろうと思ってはいたが。
「みーのこと、気になります?」
深い意図もなさそうに、彼女は訊ねる。
「そりゃあね」
少しでもかかわった相手なのだから、当然のことだ。
幼馴染は少しだけ考えるように視線を宙に向けた。黙っていると美少女に見える。
「恋?」
喋るとアホだ。
「そりゃ安易ってもんですよ」
俺はおどけて答える。実際問題、俺は別に「みー」に対して特別な感情を抱いてはいない。
そもそも出会い方からして、そういう対象じゃなかった。
「もちろん、冗談です」
四六時中冗談を言っているような奴なので、ときどき本気と冗談の区別がつかない。
「余計な手出しをしたら面倒になるって分かってるんですけど」
彼女は戸惑うような声音だった。
「やっぱり、なんとかしてあげたいんですよね」
「なんとかって?」
「……いえ。どうしようもないんですけど。タカヤくんの方の気持ちもありますし」
「まあ、そうだね」
第一自分の身の回りのことだってろくにこなせてないのに、誰かに協力なんてできるものだろうか。
「でも、タカヤくんって、先輩にはまだ告白してませんよね?」
彼女は俺の顔を見上げた。
「なんだかしらないけど、まだいいやって思ったらしい」
「そうこうしてるうちに冬休みでしょうけどね」
そして長期休みには、それまでの交遊関係を無化させかねない魔力がある。
「それだったら結局のところ、以前までと何も変わっていないのと同じだと思うんですよね」
「……俺が余計な報告しなければ、みーも続いてたかも?」
「かもですね」
彼女は余計な気遣いをしない。
「でも結局、あのままなら同じだったと思います。わたしたちだって、先輩と一緒に居たら疲れましたし」
「バッサリ言うなぁ」
「だって先輩、ぜったいわたしたちのこと疑ってましたよ!」
疑われていたところで害があったわけではないのだが、まぁ気分的によろしくはなかった。
先輩だって俺たちが不利になるようなことをしようとはしないだろう。……憶測ではあるが。
彼女は不服そうな顔で俯く。
俺は何も言わなかった。
しばらくして、幼馴染は思い出したように顔をあげ、
「そういえば、妹ちゃんと喧嘩でもしてるんですか?」
と言った。俺はどう答えようか迷った。
前にもこんな質問をされた気がする。
そろそろ話してもいいか、という気分になっていた。
普通に考えれば軽蔑されるだろうが、それならそれで仕方ない。自業自得。俺は楽観的だった。
「実は、このあいださ」
「はい」
「触っちゃったんだよね」
「なにを?」
「……その、胸?」
「というと?」
「妹の」
「……を、触った?」
「魔がさして」
「あ、事故じゃないんですか」
「きわめて意志的に」
彼女は押し黙った。
やがて俯いたかと思うと、肩を震わせ始める。くぐもった息がもれる。笑っていた。
「……笑いごとじゃないんだ。俺にとっても妹にとっても」
「すみません。でも、自業自得」
言いかけて、彼女の呼吸が笑いに乱される。俺は言わなきゃよかったと後悔した。
「たしかに、重大な問題ですね。普通に」
言葉の割には軽い口調で、彼女は言った。
「妹ちゃんとしても、嫌でしょうね、それは」
「そりゃ、そうだね」
「ていうか、それであの態度だったら、優しい方ですよね」
「……うん、まぁ」
「親に報告されて家を追い出されても文句は言えないです」
「……ですよね」
俺は頭を垂れるしかなかった。
「どうしてそんなことを?」
「魔がさした。としか」
「……変に興味本位とか言われるより嫌ですよ、それは」
俺は黙る。
「そりゃ、どうしようもないですね」
「なんとか仲直りできないかな?」
「現状でもマシな方だと思いますよ。どう足掻いたって気まずくなるのは仕方ないです」
彼女の言葉はあくまでも現実的だ。どうしようもない。自業自得。俺はあの日、なんだってあんなことをしてしまったのやら。
思えば、タカヤに妙な誤解をされる原因になったモスとの会話だって、妹とのことがなければ起こらなかった。
そうなれば幼馴染と会って変なたくらみごとをする嵌めにもならず、先輩やみーとも会わなかった。
それを思えばすべての始まりは妹だった。
すべてのはじまりは妹の胸であった!
……馬鹿らしい。
「まぁ、相談くらいになら乗りますよ。協力しようとするとややこしいことになりそうなのでやめておきますが」
それがいい。俺は溜め息をついた。実際問題、どうしたら元通りになれるんだろうか。
ひょっとしたら、それだろうか? 俺が失ったもの。平穏な家庭。壊したのは俺。あほである。
「でも、原因が胸って」
「あきれた?」
「きみたち兄妹らしいと思いました」
……彼女の中で俺たち兄妹の印象はどんなふうになっているんだろう。
訊くのは怖かったので気にしないことにした。
「さて」
と俺が声を出して立ち上がろうとしたとき、不意に首筋に謎の感触が訪れた。
「うおっ」
とマヌケにも声をあげ、俺は立ち上がる。咄嗟に振り向くと、先輩が立っていた。
げっ、という顔を俺はした。したと思う。したはずだ。しただろう。たぶん幼馴染も。
「なに、その顔?」
彼女は挑発するように目を細めた。
妙な笑みを張り付けている。不機嫌そうな、不服そうな笑み。お前ら、よくもやってくれたな、と言いたげな。
俺の全身がこわばった。
「君たちさ、どういうつもり?」
「……と、申されますと?」
圧倒的強者に対して過剰に遜るのはごく一般的な処世スキルである。
今日の先輩は雰囲気がいつもと違う。いつもは冷静でちょっと後ろから周囲を眺めているふうなのに。
今日はなんだか……妙に威圧的だ。
「昨日今日と、わたしとのランチをすっぽかしましたね?」
敬語も、彼女が使うと、遜るというよりは追及するような印象を伴う。
「すっぽかすもなにも、約束があったわけでは」
「しゃらっぷ」
幼馴染の言い訳は封殺された。
「いい? 三日同じことが続いたら、翌日も続けるものなの。それは既に約束なの。決定事項なの。オーケイ?」
いや、まったく納得できない理屈なのだが。
「おかげで今日は、わたし、男子ふたり、しかも後輩と三人で食事だよ? 気まずいってばもう」
そんなことを気にする人とは思えないのだが。というか、キャラが違わないか、この人。
余裕ありげでクールなイメージだったのだが、今はもはや破天荒である。
「……いや、でも先輩、何も俺たちにこだわらなくても、他の友だちと食べればよいのでは」
「一応さ、タカヤくんに協力するって言っちゃったし」
まぁ、彼女の立場ではそうなるのだろう。
面白い話にならないとわかればあっさり離れるだろうと高をくくっていたのだが、案外義理堅いらしい。
俺は小声で幼馴染に訊ねる。
「……この人、こういう人だったの?」
「男子の前では猫をかぶって大人しくなるくせがあるんです」
「……俺、男子なんですけど」
「たぶん余裕がないんでしょうね。一人で男子と話す時はいつも緊張してて、女子がひとりでも近くにいないと不安になるらしいです」
それを分かったうえで先輩を放置していたのなら、幼馴染の性格というものを今一度考え直すべきかもしれない。
「すみません。わたしがいなくなってからも、先輩がふたりと食事を続けるとは思っていなくて」
「だから、タカヤくんの頼みごと引き受けちゃったんだからしょうがないでしょう?」
だったらなんで引き受けたんだ、と思ったものの、本人には言えない。
幼馴染はさらりと続ける。
「本音を言うと、事態をさんざんややこしくされて腹が立ったので、嫌がらせのつもりで放置しました」
老獪な蜘蛛が大人しいカゲロウになっていたかと思ったら、しっかりと頭を回していたらしい。
できるなら知りたくなかった種明かしだ。
「あのね」
先輩は疲れ切ったように肩を落とす。見ていて飽きない変化である。
「でも、それなら他の友だちとかを誘えばよかったのでは? タカヤに協力するって名目も守れますよ」
俺が言うと、彼女はぴくりとこめかみを揺らした。見た目がクールなままだから、いっそう恐怖が際立つ。
わけもわからず俺は怯えた。
「友達とか、あんまりいないし」
……あ、そうですか。
「いや、タカヤの姉さんは」
「あっちが幅広い付き合いを持ってるだけで、わたしが社交的なわけでは……」
たしかにあの性格では、交友関係の広さはあちらの方が圧倒的なのだろう。
タカヤ姉自身が、昼食にはもう関わらないと明言しているので、誘うわけにもいかなかったのかもしれない。
「いうわけで、わたしと昼食をとってくれる数少ない友人諸君」
言っててむなしくならないのか、この人。相手は全員後輩だぞ。
「明日からはばっくれないように。ていうか、こんな寒いところでごはん食べてて、風邪ひくでしょ」
彼女は取り繕ったように冷静な表情になる。面白い人だ。
先輩は言い切ると、俺たちが参加しなかった理由を問い詰めるでもなく去って行った。
「……明日、学校休みなんですけどね」
幼馴染がぽつりとつぶやく。俺は空を見上げる。事態は堂々巡りである。
翌日の土曜日、目を覚ますと午前十時を過ぎていた。
特にやることが思い浮かばずに、ぼーっと過ごしていると、携帯が震えて、幼馴染から謎のメールが来る。
しばらく連絡をとっていなかったのだが、アドレスは変えていなかったらしい。
『壁|д゚)....』
……なんだろう、これは。
面倒だったが、一応返信しておく。
『何?』
間をおかず反応が来た。
『ヽ(*´∀`*)ノ』
だからなんなのだ。
どう返そうか迷っていると、また着信音が鳴る。
『特に意味はありません』
「ないのか」
思わず声が出た。
メールの続きを読む。
『ところで、今日どこか行きませんか? 暇です』
お前が暇だとしても、俺まで暇とは限らないわけですが。
いや、暇なんだけれども。ていうか、会ったところでやることがなければ暇だろう。
俺は唸って考える。別に会ったっていいのだが、正直、
『めんどい』
考えるより先に指が返信を打っていた。俺は送信してからベッドに倒れ込む。
冬だしね。出かけたくないよね。寒いもんね。
すぐに返信が来る。寝転がったまま携帯を開いた。
『そんなこと言わずに! ・゚・(ノД`;)・゚・』
さっきから登場するこの妙な顔文字はいったいなんなんだ。
『どこかってどこ』
『任せます』
任せるな。主体性のない奴だ。
『映画とか?』
『お金も観たいものもありません』
提案は棄却された。でも正直、このあたりで娯楽なんて、映画館くらいしかない。
……ていうか、ちょっと歩けばお互いの家につく程度の距離なんだから、実際に会って話した方が早くないか?
『めーるめんどいからきて』
変換すら面倒だった(予測変換機能はオフにしてあったのだった)。
『女の子を寒空の下に放り出そうだなんて! ヾ(*`Д´*)ノ"』
だから、なんだっていうんだ、この顔文字は。ていうか「女の子」って柄でもないだろう。
『歩くのめんどくさい』という本音が透けて見えるようだ。それなら、なぜどっか行こうなんて言い出すんだ。
『俺がお前の部屋いけばいいの?』
メールを送信してから十分ほど間があった。俺は枕元に置きっぱなしだった漫画を読んで暇を潰す。
一度読んだ漫画って、展開も分かっているし新鮮味もないのに、なんでか時間を潰せてしまう。
やがて携帯が震え、
『三十分後に行きます (*ノωノ)』
とメールがきた。部屋を見せることと、寒さの中を歩くこと、秤にかけていたらしい。
「で、この顔文字はなんなんだろう」
実際、彼女は三十分で来た。
「なんで予測機能をオフにしてるんですか?」
彼女はまっさきに、『めーる』という文字がなぜひらがなだったのかを訊いてきた。
変なことを気にする奴だ。予測オフにしてるからだよ、と答えると、さっきの質問を投げてくる。
俺は躊躇せずに答える。
「モスと猥談メールをしていると、予測変換がとんでもないことになるんだ」
「とんでもないこと?」
「『お』で『おっぱいが』『おっぱいは』『おっぱいの』『おっぱいと』『おっぱいおっぱい』になる」
「……最後だけ明らかに変ですけど」
「おっぱいおっぱい」
「かんべんしてください」
「おっぱいさわらせろー!」
「……冗談でもどうかと思いますよ」
「……ご、ごめんなさい」
我ながら反省しない奴である。
「ていうか」
と彼女は俺を見下ろす。
「すみません。仮にも人が来てるんだから、ベッドに寝たままでいるのやめませんか?」
俺はベッドが大好きなのだ。ボケた頭でくしゃみを一発。
幼馴染は呆れて溜め息をついた。
「眠いんだよ。俺、人類最大の敵って眠気だと思う。眠気を克服すれば、人類もうちょっと進歩できそうじゃない?」
「過労死が増えますね。ていうか、眠いって言ったらわたしだって眠いですよ。きみだけじゃないです」
「『他の人だってつらいんだから』とか言って誰かを追いつめるような人間が嫌いなんだ。つらいもんはつらいんだ」
「ぐだぐだ言ってないで起きてください。ていうか、わたしが来るって分かっててなんで寝間着のまま……」
「そんなところで気を遣うような仲でもないだろう。人の背中に馬乗りになるような奴がなぜそんなことを気にするのか」
「複雑怪奇な乙女心です」
『怪奇』という文字が加わるだけで途端にリアリティが生まれるなぁ。
「眠い」
あくびがとまらない。寝不足というわけでもないのだが、土曜日は起きられない。なぜなんだろう。
「わたしも眠いです」
「じゃあ一緒に寝よう」
「いいんですか?」
「ごめんなさい、かんべんしてください」
「ですよね」
真面目に聞き返されると冗談も形無しだ。
「どっか行きましょうよ」
幼馴染はベッドに腰掛けて俺の身体を揺すった。
「だから、どこ?」
「どっか。連れてってください」
「……あれか? 連休中に遠出したくてたまらない小学生か? お父さんはビール飲んでぐったりしていたいんだ」
「行こうよ、パパ。車出してよ」
誰がパパか。
しばらく無視すれば諦めてくれると思ったのだが、その気配はなかった。
だんだんうんざりしてくる。
「ねえ、パパ」
「俺はおまえのパパじゃねえって」
どうやら楽しみ始めているらしい。
「分かった」
と俺は言う。彼女は少し意外そうな顔をしていた。
「行こう。行先に関しては俺に一任してもらう」
「わーい」
言いながら、幼馴染は俺の背中に馬乗りになった。起き上がろうとしたのになぜ出鼻をくじくのか。
「早く起きてください、早く」
「重くて起き上がれないのだが」
「……割と傷つきました」
じゃあ乗るなよ。
着替えて財布と携帯を持つ。家を出るとき妹に「どっか行くの?」と訊かれる。
一応、会話の雰囲気は元通りになりはじめていた。まだ気まずいし、相変わらず妹は部屋に引っ込むことが多いけれど。
「コンビニ」
と答えた瞬間、幼馴染が不服そうに声をあげた。
「あなたは鬼か!」
「しょうがないじゃん。冬だし、寒いし。肉まん食おう、肉まん」
第一、他にどこにも行けない。足がない。
「……肉まんかぁ」
ひょっとしたら、食い物さえあればごまかしがきくのかもしれない。
「分かりました。おごってください」
「おご……まぁいいけど」
一応、妹にも声を掛けて、欲しいものがあるかどうかを聞いた。
彼女は一言、
「ガリガリくん」
とだけ言った。
「……冬なのに?」
「冬だから」
そーすか。
家を出てコンビニに向かう。最後に行ったのは、先輩と会った夜か。
よくよく考えれば、あのときの三人は先輩の友だちではなかったのだろうか?
まぁ、他校の生徒とか、そういう付き合いなのかもしれないけど。
そもそもうちの学校は真面目な校風なので、先輩みたいに見た目が(比較的)派手だと浮くのかもしれない。
コンビニで、アイスとスナック菓子とジュースを適当に見繕う。
なんとなく悪い予感はしていたのだが、不意に入口からふたりの人間がやってきた。
男女ふたりの片方、女の方が、俺の顔を見て「あ」と声をあげる。
先輩である。
「……な、なんですか。休みの日まで昼食に誘いに来たんですか」
俺が言うと、先輩は苦笑した。
「どう考えても偶然でしょう」
もちろん冗談なのだが。
俺は彼女の後ろの男の人に目を向けた。見覚えのある茶髪。
ああ、そうだ。新聞部の部室で見たのだ。俺を睨んでいた男。
なんでか嫌われているらしい。と思って気付く。
コンビニと、この顔で思い出す。このあいだ先輩と一緒にいた人ではないか。
俺は戦々恐々となった。
「……彼氏さんですか?」
幼馴染が声を掛ける。まさかね、という調子だった。
答える先輩の声も、まさか、という響きを持ってる。
「いや。弟。そっちは彼氏彼女で買い物?」
そういえば彼女の誤解はといていなかった気がする。
「しいていうなら、パパと娘で買い物してます」
「……なにそれ」
先輩の視線が鋭い。幼馴染の冗談は分かりづらかった。
「ですから、この人がパパで」
「頼むから説明しないでくれない?」
俺は懇願した。
間違いなく彼女は俺をからかっている。顔が熱くなるのを感じた。
「尻に敷かれてるね」
「昔からですから」
幼馴染は笑う。その通りなのだけれど、彼女はもう少し俺の外聞というものを気にしてくれてもいい。
いや、気にするような外聞なんてもっちゃいないのだが。
先輩は「ふうん」という顔で俺たちふたりを見ている。
居心地が悪くなって、俺は早々に退散したくなった。
「じゃ、すみません。俺たちもう行くんで」
レジで支払いを済ませて、品物を受け取り、さあとっとと離脱するぞと思っていると、不意に服の裾を引かれる。
「パパ、肉まん、肉まん」
近くにいた店員が、なにこのふたり、という目で俺たちを見た。
「すみません、肉まんふたつお願いします」
「パパ、あんまんも食べたい」
「すみません。あんまんもひとつお願いします。なるべく早めに」
「パパ、パパー」
「おまえまじやめてくんない」
先輩の笑い声が背中に聞こえた。どういう羞恥プレイだ。
家に帰ってから、俺たちはぼんやりと時間を過ごした。
幼馴染は結局夕方ごろまでうちでぼーっとしていた。
俺をからかうのも早々に飽きたらしく、帰る頃にはいつも通りの顔をしていた。
「それじゃ、また明日」
幼馴染は帰り際そう言ったが、明日は日曜日だったので、俺は聞き間違いだと思うことにした。
幼馴染が帰ってから、俺と妹はしばらくリビングで過ごした。
そういう時間を持てたのは久しぶりのことで、俺は少なからず緊張した。
やがて妹は、ぽつりと、
「付き合ってるの?」
と言った。特に思うところのなさそうな言い方だった。
「いや」
否定する。やはり、何かの感情を浮かべることもなく、静かに頷くだけだった。それ以来会話は途切れる。
昔から、こいつは自分の感情を素直に表さないところがある。もう少し素直になってもいい。
……偉そうに兄面できるような立場じゃないにせよ。
その日の夜は雨が降った。バケツをひっくり返したような強い雨だ。
雨音はうるさいのに、睡眠の邪魔にはならない。思えば不思議なことだ。
案の定、翌日の朝も幼馴染がやってきた。
俺はベッドで惰眠を貪る。幼馴染は俺の勉強机を使い、コーヒーを飲みながら読書していた。
なんだか、鼻水がとまらない。風邪をひいたのだろうか。
寝苦しくて、ベッドの中でぼんやりと過ごす。窓の外では雨が降っていた。
幼馴染は傘をさして歩いてきたらしいのだが、そこまでしてどうして家に来たのだろう
何かすることがあるわけでもないだろうに。
「お前もさ、極端だよね」
俺の言葉に、彼女は「何が?」という顔をした。
「ちょっと前まで全然話しかけてこなかったくせに、最近はこれだもんよ」
「……まぁ、きっかけがありませんでしたし」
「きっかけなんてなくても話してたのに?」
「というか、きみの方の態度がひどかったんじゃないですか」
「俺?」
「きみ。触るもの皆傷つける感じでした」
「いつの話?」
「……中三頃?」
「そうだったっけ?」
「そりゃもうひどかったですよ。舌打ち、暴言のオンパレードで」
「そんなアホな。中三の頃と言えば、俺は真面目で目立たない生活を送っていたはず」
「たしかに目立ってはいませんでしたけど」
あ、目立ってはなかったんだ。俺は溜め息をついた。
会話はそこで途切れた。その頃の俺は、彼女が言うような不安定な状態だったのだろうか。
それを思えば、今の精神状態は比較的まともと言えるのか。
本人の実感としては、そんなに変わらないのだけれど。
俺はベッドから起き上がる。窓の外の雨は小降りになっていた。
彼女は結局、どうしてまた俺と行動を共にするようになったのだっけ?
別に俺と一緒になんていなくてもいいじゃないか。
と思って、不意に思い出す。
自意識、自尊心、プライド。それが危うい。取り戻そう、というのだったっけ。
その手助けをしろ、と彼女は言ったのだ。わたしもあなたに協力するから、あなたもわたしに協力しなさい。
で、手助けって具体的になんなんだろう。自尊心ってどうやったら回復できるのだ?
俺の自尊心が傷ついたのは、やはり中学二年の、あのことが原因なのだろうか。
走れなくなったこと。そして生まれたフラストレーション、舌打ち、暴言、自暴自棄。
まぁどうだっていいや、と俺は思う。どうせ今日は雨が降ってて走れないし。降ってなくても走らないけど。
「暇ですね」
と幼馴染がぼやく。そう、暇。暇なのだ。ずっと。
なんでだろう。やることがなんにもない。せっかくの休日なのに。
平日は学校に拘束され、雑事に追われてろくに自由なこともできない。
あーあ、さっさと休みが来ないかなぁと考えながら過ごしている。
けれど実際に休みが来ると、途端にやることがなくなってしまう。
仕方なく暇を潰す。漫画を読んだりゲームをしたりテレビを見たり。
すると時間が潰れている。潰しすぎて、時間が足りなくなる。俺の休みはどこにいったんだ? こんなもんでいいのか?
中三の一学期の終業式の日、担任はこんなことを言っていた。
「若いうちに有意義な時間の使い方を覚えられなかった人間は、休日の少なさを嘆くしか能のない大人になる」
有意義な時間の使い方って、なんなんだろう?
なんてばかばかしい考えごとを、気付くとしてしまっている。ベッドの中にはそういう魔力がある。枕は俺の親友だ。
俺は幼馴染の横顔を眺めた。じっと本を読んでいる。
見慣れた顔だ。こいつが自分の部屋にいると思うと、不思議な印象を受ける。
何を考えているのか、さっぱりわからない。なぜこんなところで本を読んでいるんだろう。
俺の視線に気付いてか、幼馴染がちらりと横目でこちらを見遣った。
俺がそのまま見ていると、読書に集中できないらしく、居心地悪そうにもぞもぞとみじろぎを始める。
「あと少しで冬休みですね」
と、思い出したように彼女は口を開いた。俺は返事をせずに頷く。
それでも視線を動かさないでいると、彼女は気まずそうに俯いた。
まだ見る。
そういえば彼女の言う通り、もうすぐ冬休みなのだなぁと思う。
冬休み。休み。なんにもすることないのに時間だけあってもなぁ。
翌日の月曜日、学校につくとモスとタカヤが教室で話をしていた。
俺が混ざろうとすると、彼らはどこか安堵したような表情になる。口げんかでもしていたのかしら。
「なあ」
とタカヤが俺の肩を叩いた。
「お前、やっぱりあの子と付き合ってるの?」
「あの子って、あの子ですか」
「あの子」
幼馴染のことだろう。
「なんで?」
と首をかしげたところで、自分の教室に荷物を置いてきた幼馴染がやってくる。
俺はうしろを振り向いて幼馴染を見てから、どう説明したものかと考え込んだ。
なんとも説明しがたい。
俺は彼女を憎からず思っている。彼女にしてもそうだろう。
けれどそれは、恋愛感情ではない(というより、俺には恋愛感情と言うものがいまいちよく分からないのだが)。
なんとなく、他の人よりは仲が良いよね、という関係であるに過ぎない。
他に友達がいないからなおさら。少なくとも俺にとっては。
じゃあ異性として見ていないかと言われれば――別に見ていないわけではないのだけれど。
いいかげん、誰かと誰かの関係についてぐだぐだ考えるのは飽き飽きだった。
「ああ、付き合っているともさ!」
と俺は叫んだ。幼馴染は目を丸くする。俺は彼女の肩を抱いた。
タカヤは驚いているのか呆れているのか、嘘か本当かを見極めようとしているのか、名状しがたい表情になった。
周囲が静まり返る。
俺は後悔に襲われた。
「……あ、そうなんだ」「へえ」「まじかよ」「知ってた?」「いや、でもまぁそうかなって」「だよね、そんな雰囲気だもんね」
「まじかよ……」「どうした、何落ち込んでんだ」「いや、別に……」「好きだったん?」「ち、ちげえよ!」
「……」
なんで俺がアホなことを言ったときにかぎって教室は静かなんだろうね。
もう分かってるよ。パターンだよな。これでまた面倒事が起きるんだろ。それで七転八倒誤解を解こうとするわけだ。
んで、なんにも解決できないまま、そのまま事態が風化する。なんとなく成立する。おかしな話だ。
ちくしょう、俺はあほだった。
それも分かっていることだった。
「どうするんですか、これ」
幼馴染は俺の腕におさまったままで訊ねた。げんなりしたような表情だった。
「どうしようか」
俺も彼女の肩を抱いたまま繰り返した。好奇の目が寄せられる。どんな誤解にも不都合なんてないのだけれど。
「いいかげん、思いつきで発言するのやめません?」
彼女はじとっとこちらを睨む。
「俺のせいじゃない。タイミングが悪いんだ。タイミングの野郎、いっつも俺のときだけ空気を読みやがらねえ」
「アホ発言を減らせばよいのでは」
「付き合ってる発言はお前だってしてたし、パパ発言は俺がしたものよりよっぽど悪質だったと思うのだが」
「わたしは周囲を見て発言してますから」
さらりと言う。いいさ別に。ちくしょう。俺は拗ねる。
「誤解されて困るような世間体なんて持ってないんだけどさ」
「まぁ、別に問題のある噂じゃありませんしね」
不意に教室の扉が開く。教室のざわめきが、なぜだかしんと収まった。
扉を開く音が大きかったというのもあるし、開けた人間の髪の色が茶色だったということもある。
先輩の弟さん。……そういえば、先輩の弟ということは、彼は俺たちと同学年だったのか。
彼は俺に目を止める。不機嫌そうな顔をしていた。
「……なんだ、この教室」
自分に集まった注目を払いのけるように、彼は呟く。
俺と幼馴染の方を見て、いっそう眉間の皺を深めた。
「姉貴から伝言」
「はい」
「今日はばっくれんなよ、ってさ」
……そんだけすか。釘を刺されてしまった。
「あ、弟さんも、お昼をご一緒にいかが?」
俺は遜っていた。うしろめたいことがあると人間は遜る。
卑しい人間性。権威主義者は墓を漁る。俺は弱者だ。
彼は皮肉っぽく唇の端を釣り上げ、
「悪いけど、俺はお前みたいな人間が嫌いなんだ」
と言った。
「考えなしで行動して他人に迷惑を掛ける。反省したふりばかりが上手くて、実際には反省なんて微塵もしてない。
一生懸命やってるようで、実際には自暴自棄なだけ。それでなんとなくやっていって、なんとなく周りに許されてる。そういう人間が」
彼はそこで一拍おいた。憤りを堪えるような溜め息だった。
なんで見ず知らずの人にそんなことをいわれにゃならんのだ、と思うが、実際に彼には暴言を吐いてしまったわけで……。
しかも、たちが悪いことに、彼の発言の大半は的を射ていた。どこから俺を覗き見ていたのだ。
図星を指されて気まずい俺は、「なんでお前にそんなこと言われなきゃならんのだ!」と怒鳴ろうとした。逆ギレ。
でもその前に、彼の発言が続く。
「あと、同い年の女子に「パパ」と呼ばせて喜んでるような変態もな」
おい、と俺は思う。彼の表情は悪戯っぽく動く。教室にざわめきが戻った。
モスが「何の話?」と言っている。タカヤが「さぁ?」と肩をすくめた。俺と幼馴染の居心地は悪くなる。
「でも、マックが仲良い同い年の女子って……」
モスの呟き。幼馴染しかいないのだ。情報は伝播する。俺と幼馴染を見る周囲の目が好奇に染まる。
俺は泣きたい。誤解されて困るような世間体は持っていないが、自尊心だけは脆弱でありつつも肥大しているのに。
どちらかと言えば今の発言は、俺と言うより幼馴染に不名誉を与えた気がする。
でも、これに関してばかりは、俺の責任ではない。
「……誰が、周囲を見て発言してるって?」
「……ごめんなさい」
幼馴染は顔を赤くして俯いたが、それがより一層、弟さんの発言に信憑性を与える結果になってしまった。
さようなら、安らかな学生生活。こんにちは、周囲の好奇にさらされ続ける日本的閉鎖社会。
俺たちは変態カップルの名をほしいままにできる。
すっげえ。馬鹿。
教室のざわめきはしばらく落ち着かなかった。俺たちは呆然と立ち尽くす。
不意に幼馴染が顔をあげる。居心地悪そうな表情だ。そりゃそうなのだけれど。
「すみません、そろそろ教室に戻るので」
「うん」
と頷いても、彼女はなかなか動き出さない。
「……いいかげん、肩、離してくれません?」
「……」
誤解の原因は常に自分の行動にあるような気がした。いや、まぁ実際そうなのだけれど。
「復讐だ」
昼休みの新聞部室で、俺は言う。
部室には俺と幼馴染を含んだ五人が集まっていた。
モス、タカヤ、先輩。話をしたこともない部員たちの姿は見えているが、「みー」は当然、いない。
彼女がいないことに気付いた先輩が、
「あの子は? 連れてこなかったの?」
と不機嫌な顔を見せたが、「今すぐ連れてこい」とはさすがに言われなかった。
タカヤやモスの手前、さすがに自重したらしい。
五人で集まり弁当を食う。
幼馴染はまた弁当を作ってきた。よくよく考えれば、こんなことをしていて誤解されない方がおかしい。
「復讐って?」
と、俺の言葉をモスが訊き返す。
「復讐だよ。復讐。俺に恥をかかせたあの男に復讐せねばなるまい」
「あの男?」
今度はタカヤが訊き返した。こいつらいつの間にか仲良くなってないか。
「決まっているだろう、そこの茶髪男だ!」
窓際でスマホをいじりながらパンをかじっている男を指差す。
彼は鬱陶しそうにこちらを睨んでから、すぐにディスプレイに目を戻した。ちくしょう、余裕ありげだ。
「すごいね、君。本人と本人の姉の前でそんなこと言えるなんて」
先輩が呆れた声を出した。俺の怒りは一向に収まらない。
「どうしてくれよう! あいつのおかげで俺の生活はめちゃくちゃだ!」
「いったい何があったの?」
先輩の質問には答えず、俺は幼馴染を見る。彼女は何も言わずに黙々と食事をしていた。
近頃墓穴を掘ってばかりだから、何もしないつもりでいるのかもしれない。
茶髪は窓際から嘲るように言った。
「あるわけねえだろ。あんなことでお前の生活に影響なんて出るかよ。自意識過剰だよ。誰もお前のことなんて気にしてねえよ」
「イラッ」
「いま声に出して言いましたね。「イラッ」って」
「言ったな」
俺以外の人間は妙に冷静である。幼馴染も幼馴染で、どうしてくだらないことには反応するんだ。
茶髪はこちらをちらりとも見ない。スマホをいじりながらにやにや顔である。エロサイトでも見てるのか。
対する俺はあくまでも余裕ありげに、紳士的に対応するのです。
「コホン。……えー、そこの染髪プリン氏。何か言いたいことがあるならはっきりと言ってくれないだろうか?」
「言ったじゃん。俺はお前が嫌いだって」
そういえばそうかもしれなかった。
「ていうか、実際に影響があったんだよ! クラスメイト男子の大半に「パパ」って呼ばれた俺の痛みを知れ!」
「直接からかわれるだけマシですよ。わたしなんてクラスに戻ったらみんなから白い目で見られましたよ。トラウマものですよ、あの目」
幼馴染は不満げに言いながら食事を続ける。思うところは山ほどあるだろう。
他のクラスにまで知れ渡っているあたり、どう考えても俺の自意識過剰ではない。
ふと先輩が顔をあげた。
「なんか喉乾いたなぁ。ジュース買ってこようかなぁ」
彼女は空気を読まない。
「俺買ってきましょうか」
タカヤが口を開く。だめだよタカヤ。それは駄目な提案だよ。「俺も一緒に」が正解だよ。どっちにしろ断られると思うけど。
「いや、いいよ。ひとりでささっと買ってくるから」
先輩は早々に立ち上がる。自由な奴らが多すぎた。
「とにかく復讐だ!」
「具体的に何するんですか?」
「考えてない」
「無計画ですね」
幼馴染が溜め息をつくが、彼女だって具体的なことを考えずに俺に協力を迫ったはずだ。
自分を棚にあげるなんてなんて奴だ、と俺は自分を棚にあげる。
「フクシュウかぁ」
タカヤがぼんやりと声に出す。温和な印象のタカヤが言葉にすると、「復習」の方に聞こえた。
「上履きに画鋲とか?」
「それイジメ」
混同しちゃいけない。イジメを正当な復讐だと錯覚するのはよくできた自己欺瞞だ。
まぁどっちも良いことではないんだけど。
「なんかこう、致命的な不名誉を与える復讐がいいよね」
「たとえば?」
「うーん……」
「コンビニで煙草を万引きしてたとか?」
「それはちょっとシリアスすぎるね」
あくまでもギリギリの線は守りましょう。
「つまり、復讐っていうより嫌がらせか。とんだチキン野郎だな」
茶髪が笑った。
「イラッ」
「また声に出して言った」
「言いましたね」
「おいおい、せめてもの優しさじゃないか。その気になれば君のことなんて三秒で追いつめられるんだぜ」
ていうか何が「とんだチキン野郎だな」だよ。ドラマか何かか。ちょっと笑いそうになった。
「三秒で追いつめられるんだぜ」も大概だが。
「やってみろよビビりくん。いや、パパか」
「イラッ」
「くどいです」
「くどいな。ていうかこの二人、実は相性いいんじゃないの。お互い芝居がかってるし」
モスが言う。俺は溜め息をついて苦笑した。
「何を言い出しますやら。モスさんも人が悪い。冗談はおやめください」
茶髪もまた、モスの言葉に眉をひそめて俺を睨んだ。
「今の言葉が嫌がらせの第一弾か? たしかに致命的な不名誉だ。友人を使うなんて悪趣味だな」
俺のせいかよ。今の会話の流れでどうしてそうなるのだ。
「つーか、君はなんでそんなに俺が嫌いなわけ? 俺たち面識ある? どっかで恨み買った? コンビニ以外で」
「ねーよ」
ないのかよ。ないらしい。ないのに嫌いなのか。なんだこいつ。
「でも、わたしと会ったことはありますよね?」
「あ?」
幼馴染の言葉に、茶髪はあからさまに動揺した。がなるような声。
「ね、ねえよ馬鹿。誰だお前」
「……いえ。このタイミングで「誰」とか言われても困るんですけど」
どもっているので、心当たりがあるらしいことは明白だ。
「何? 知り合いなの?」
「ちょっと話したことがあるだけです。春にちょっとした機会があって」
「機会?」
「秘密です」
おいおい、と俺は思った。
「……まさか、そのちょっとした「機会」を理由に幼馴染に惚れていて、俺に嫉妬しているとか、そういう恋愛脳的な事情では」
「あァ? テメ今なんつった?」
「それはないですよ。あの程度の会話で人に好かれたり好きになったりしてたら、少子化なんて起こりませんもん」
幼馴染の否定の言葉に、茶髪は少しだけ気まずそうに舌打ちした。
俺は気付かないふりをして窓の外を眺めた。今日は空が高いなぁ。現実逃避。
世の中は複雑なようで単純で、単純なようで複雑なのです。
茶髪は苛立たしげに立ち上がる。
「とにかくテメエは気に食わねえ」
ここまではっきりとした態度で人に嫌われることは初めてだった。微妙に傷つく。
「テメエの存在が気に食わねえ」
そこまで言うことないじゃないか、と俺は思う。たしかに嫌われても仕方ないような人間性ではあるのだが。
それを言ったら誰だって、少なからず嫌われるような要素は持っているのだ。
俺は甘ったれで自暴自棄だけど、彼だって十分、粗野で八つ当たり的だ。
……「反省したふりが上手い」というのは、こういうふうになんだかんだで言い訳をつけてしまう性格のことだろうか。
俺は答える。
「俺は君のこと、そんなに嫌いじゃないんだぜ」
「その余裕ぶった態度も気に入らねえ」
是非もなし。俺と彼の間には火花が散っていた。
「そういえばさ、聞いた? 三組の担任の高田っているじゃん。あいつの子供って、俺らと一緒の中学通ってたんだって」
「え、高田って、ひょっとしてわたしたちが三年のときに一年だった子ですか?」
「そうそう。剣道部の女子の」
「へえ。あ、言われてみれば顔似てますもんね。わたしあの子とよく話したんですよ」
モスと幼馴染がどうでもいい話をしている。
こいつらもうちょっと空気読まないかな。とくに幼馴染。
部室の扉が開いて、先輩が戻ってくる。
「欲しいジュース売切れてた」
言いながらパイプ椅子に腰かけ、荒れた息を落ち着かせる。走ってきたのだろう。
俺と茶髪は毒気を抜かれる。なんだか世界は平和だなあ。
昼休みはそんなふうに消化された。
その日の夜、俺は熱を出して寝込んだ。
ベッドの中でうんうんと唸りながら、俺は一心に茶髪を呪う。
あの野郎散々好き勝手言いやがって、今に見てろよ。
熱でぼんやりした頭が思考を拒絶する。俺の身体は俺の思う通りに動いてくれない。いつも。
咳も鼻水も出ないのに、体だけが怠くて熱い。
「風邪、じゃないよね。誰かと喧嘩でもした?」
妹が、俺の体温が表示されているはずの体温計を見ながら呆れ顔で言った。
「……してない」
「したんだ。じゃあそれだ」
どういう理屈だ。Aと答えたらBと答えたことになって、あげくそれが正解なのか。
「昔から誰かと喧嘩するたびに熱出すもんね、兄さん。なんで?」
「知らん。いいからあっちいけ」
「なに怒ってるの?」
「普段ろくに口きいてくれないくせに、具合が悪いときだけやたら構ってくるのは優しさとは呼びません」
「拗ねてるのか」
「拗ねてません。いいさべつに。どうせ俺は嫌われものだよ」
「拗ねてるし」
妹は呆れ顔で溜め息をつく。俺は寝返りを打って壁と向き合った。
頭がぼんやりして、耳鳴りがする。俺はなんだか苦しい。
茶髪、あの野郎、いったい何のつもりなのだ。俺が何をしたっていうのだ。
なんだって見ず知らずの人間に真正面から嫌いだと言われたりしなきゃならないんだろう。
「ていうか、わたしが兄さんと話さなくなったのは、まちがいなく兄さんが原因でしょう」
「……身に覚えがない」
「そーですか」
「ごめんなさい」
素直に受け入れられると正直に答えたくなる。
「どっち?」
「俺が悪かった」
「ですよね」
彼女は溜め息をつく。
「何か飲み物でも買ってくるから」
「いいよ別に」
「いいよ別に。どうせ何かお菓子でも買ってこようかと思ってたところだし」
「太るぞ」
「それは言うな。ポカリでいい?」
「レモンウォーター」
「……まぁいいけど」
彼女は部屋を出て、俺はひとりきりになった。枕は俺の友だちだけど、今日はなんだか白々しい。
茶髪の野郎、茶髪の……俺は茶髪のことばかりを考える。
これが恋か。
怖気がした。
知ったことか、と俺は拗ねる。どうせもうすぐ冬休みだ。みんな俺のことなんて忘れる。
最初から気にもされていないのだ。うん。
……ちくしょう、誰がパパだ。くそう、あの茶髪野郎、そのうち泣かす。
いや待て。
言ってしまえばよいのではないか? 俺は幼馴染と付き合ってなんかいないぞと。
はっきりと分かっているわけではないが、彼が幼馴染に対して何か思うところがあるだろうことは明白だ。
そこで、「俺は彼女と何の関係もありませんよ」と明言してしまえば……。
……なんの解決にもなりそうにはない。
ていうかそんなことをあいつに向かって言うのもなんだか癪だ。
付き合ってることになったり付き合っていないことになったり、話が面倒だ。
どうしてこうなった。
俺のせいか。俺のせいだ。どうせぜんぶ俺のせいだ。
妹が帰ってきて、俺の部屋のドアを叩いた。
飲み物を置いたらそのままいなくなるかと思ったのだが、椅子に座って本を読み始める。
俺は眠りたかったが、なんとなく眠れなかった。
妹の顔を見ると、彼女もまたこっちを見ていた。
何を言えばいいのやら。
俺はとりあえず、
「ごめん」
と謝った。「とりあえず」というところがなんとも自分らしい。
「なにが?」
「……だから、あの。触ったこと、とか?」
ああ、と頷いて、彼女は少し気まずそうな顔をした。
「いいよ別に。そんなに怒ってないから」
妹は視線を本に戻す。
「嘘だ。怒ってなかったら俺を避けたりしない」
「避けてないよ、別に」
「嘘だ!」
「ああもう、うざい!」
割と傷つく。
「気にしてないって言ってるんだから、素直に受け取っておけばいいでしょ」
「でもお前、あれから態度が明らかに変だろうが」
「……自分の落ち度を認めておきながら、ずいぶんと突っ込んでくるね」
いや、まぁ、それを言われると立場はこちらが下なのだが。
「分かったよ。もう訊かない」
俺が言うと、妹は少しだけほっとしたような表情になる。
こっちが悪いことでもしたような気分になる。いや、したのだけれど。
「だいたいさ、真意を聞きたいのはこっちの方だよ」
彼女は横目でこちらを睨んだ。
「なんだったの、結局あれは」
出来心、とか、魔が差した、とか言ってしまいたい。
だが、それだと、普段からそういう願望を持っているように聞こえてしまいそうだ。
だから、
「さあ?」
としか答えられない。
悲しい。頭がぼんやりする。
「わけがわかりません」
妹は呆れたようだった。俺は何も言えない。
「なんかもう、どうでもいいや」
不意に妹は、明るくも暗くも聞こえるような、不思議な声音で言った。
俺は気怠い気分に身をゆだねた。もうどうにでもなれ。
「どうでもいいって、何が?」
「変に意地張るの」
「なにそれ」
俺は苦笑した。
「わたしにもわかんない。感情はいつでもアンビバレンスで、行動はいつでもダブルバインドなの」
「難しいこと言うなぁ」
「非論理的なので上手に説明できないのです。わたしもよく分からないで喋ってるんだけど」
妙なところで似てしまったのだろうか。不思議な話だ。
「兄さんさ」
と、妹は本に目を落としたまま言う。
「付き合ってるの? あの人と」
「あの人?」
「……この前から、やたらうちに来る人」
幼馴染のことだろうか。
昔は仲が良かったのに、今は「あの人」とは、世知辛い。
「この前も答えたと思うんだけど」
「うん」
「付き合ってない」
「付き合っちゃいなよ」
目も合わせないまま、妹は言った。
「とっとと彼女つくってください」
「なんで?」
妹は答えない。俺は溜め息をついて瞼を閉じた。
十二月もそろそろ中ごろだ。雪はいつ降るんだろう。
つけっぱなしのストーブのせいで、部屋はもやもやと暑いくらいだ。
妹が立ち上がって電源を落とすと、マヌケな音を立てて風が止まる。
「具合悪い?」
「全然平気」
俺は心から答える。
「うそつき」
と彼女は言った。
「顔真っ赤。汗すごいよ」
「寝れば治るよ」
「そりゃ、そうだろうけど。薬飲んだ?」
「いや」
「持ってくる」
「別にいいよ」
「いいわけないから」
なんなんだ、こいつの態度は。熱も相まってひどく混乱している。
何を考えればいいのかもわからない。
本当に俺はひとりだって平気なんだから、放っておいてくれてかまわないのに。
むしろその方がよほど助かる。こんなふうに過ごすと、胸の内側がざわざわと落ち着かない。
たまらない不安に駆られる。
妹が薬を持って戻ってくる。俺はひったくるようにそれを受け取って、レモンウォーターで流し込むように飲んだ。
全身がだるい。何も考えたくない。
「もう寝る」
俺は布団をかぶった。妹はすぐには出ていかなかった。俺はじっと身動きをとらない。
彼女は呆れたような溜め息をついてから、
「わかった」
と言って立ち上がった。
「おやすみ、兄さん」
灯りを消し扉を閉めるとき、彼女は最後にそう言った。
おやすみ。俺は頭の中で答える。そして何度も彼女の声を反芻した。
おやすみ。「おやすみ、兄さん」
俺の中の異常な部分。病的な執着。でも今はそんなことはどうでもいい。
いや、どうでもよくはないのだが、そんなことを考えたって仕方ない。
俺は寝る。沈む。スイッチをオフにする。さようなら現実。すべては夢の中にあるのです。
ひどく、寝苦しい。
続き
妹「なぜ触ったし」【中編】