千反田えるは好奇心の亡者である。
俺は千反田との、僅か一年足らずの部活動を通して、早くもそれを実感している。学校の七不思議然り、氷菓事件然り、合宿での幽霊事件然り、その判断材料には事欠かない。帰納法的に正しいと言えるだろう。
だが、帰納法は所詮経験則でしかない。千反田にも好奇心が発揮されない不思議があると考えるのが当然だろう。かつての経験則より、人を容易く判断することに対して俺は慎重だ。決して二度と同じ轍は踏むまいと心に決めている。
誰にだって裏と表がある。見えているものだけで判断するのは、七つの大罪を犯している。
しかし、そこまで考えてなお、俺は千反田に裏があるのか懐疑的だった。いや、確かに千反田はわかりやすいやつではあるのだが、実際のところあいつは自分の感情を表現するのがそれほど得意ではないらしい。
もし千反田の隠された一面、知られたくない一面があるとしたら、それはどういう類のものなのだろうか。
「ホータローが他人の心情を考えるなんて、どういう風の吹き回しだい?」
鞄でもトートバッグでもない、布の袋としか言えないブツを振り回しながら、里志は言った。
1 : ◆yufVJNsZ3s - 2014/12/27 17:01:21.94 bTDiL5Hz0 2/66
氷菓SS、再投稿となります。
なお、本作は第五作「遠回りする雛」との矛盾を孕んでいます。
「失礼な。俺だってそれくらい気にする」
「やらなくてもいいことはやらない、だろ?」
「さすがに気持ちを斟酌するのはやらなきゃいけないことだ」
里志は笑った。お決まりのこいつのジョークなのだ。
「うんうん、安心したよ。いくらホータローでもねぇ」
口元をマフラーで隠した里志のそれを引っ張ってやる。変わらずに笑みを浮かべながら、「やれやれ」と呟いた。
稜線の向こうに消えかかっている夕日は僅かながらに光を残している。橙色の光がゆらゆらと校舎を包む中、吹奏楽団の演奏に背中を押されるように、俺たちは玄関へとたどり着く。
伊原は図書委員の当番、千反田は買い物に行くということで、今日の古典部の活動は野郎二人のみで行われた。というか、行われなかった、という表現が正しい。
千反田は休みだそうだ。摩耶花は図書当番だってさ。帰るか。そうだね。この素晴らしい意思の疎通によって、俺たちは素早く学校を後にすることができたのである。
「お前は用事はないのか?」
総務委員会と手芸部を古典部の他に掛け持っている男だ。おいそれと暇になることがなさそうなものだが。
俺の心理を読んだのか、里志は口角を上げてニヒルに笑う。全く青瓢箪には似合っていない。
「ホータロー、暇つぶしのために用事を入れるのは、僕にとっては本末転倒ってものだよ。僕は楽しむためにのみ楽しんでるのさ。暇も込み込みでね」
「そういうもんか」
「それに、総務委員会は雑務こそあれ、時間をとるほどの議題はない。手芸部は、どうも最近人の集まりが悪くてね」
外靴を履くと、里志が自転車小屋のほうへ向かっていく。
「雪もあるのに自転車なのか」
「普段は歩きだけどね。タイヤを新調して冬用にしたんだ。初乗りの心地よさを味わいたくって」
実にバイタリティ溢れることである。この辺、どうも俺と里志は相容れない。まぁお互いの主義主張を押し付けあうわけでもなし、問題はない。
俺は里志を待つことなく校門へ向かう。
頭を働かせずに歩いていると里志が俺を追い抜いた。チェーンの回る音を響かせながら、手を振って進んでいく。
俺と里志は中学から同じで、一緒にいる期間も時間もそこそこ長いが、どうしてか連れ立って帰ることはなかった。
見る人が見ればその関係は「冷たい」と言われてしまうだろう。
冷たいといえば空気である。冬休みも終わり、あとは春休みを待つだけの身であるが、気温は心情の気楽さを読み取ってはくれない。まだまだ冬の日が続くそうだ。
ただ無為に歩き続けるのも悪くはなかったが、俺はどうせだからと合理性を出してみる。帰路にある本屋へと足を踏み入れた。
街に一つはある、大規模チェーンの本屋である。
平日の夕方でも人はいるものだった。やはり学生が多い。セーラー服に学ランに、ブレザー。
白いセーラー服と学ランは俺が通う神山高校、ブレザーは近所の有名私立高校のものである。
我が天下の神山高校は、地域の大部分の中学生が入学してくる。それは他に高校がないことを意味しない。
それこそ寒村の寺子屋に甘んじない精神の旺盛な、所謂進学校と呼ばれるものも、当然ある。
が、里志曰くの「桁上がりの四名家」のお歴々が揃いも揃って神山高校に籍を置いている辺り、エリート層であっても学問に身を入れようという教育はあまりされてないのかもしれない。
校則が厳しいと噂のブレザーたちでも下校時の道草は許されているらしい。勉強はやらなくてはいけない部類に入るが、だからこそ手短にするべきだ。
彼らの向上心は俺には恐らく縁がない。
入口に入るあたりで、店に入るセーラー服と、出ていくブレザーがニアミスを起こす。スクールバッグ同士がぶつかり、お互いの中身が多少ばらまかれた。
どうやら二人とも口を締めていなかったようだ。
慌てて落ちたものを拾っていく二人。俺も一応手伝おうと小走りになるが、どうやらそこまでひどくはなかったらしい。俺がそばについたころには、あらかたしまい終わっていた。
「あ、すいませんでした」
セーラー服が言うと、ブレザーも頭を下げ、歩いていく。
鞄同士がすれ違う際、お互いのキーホルダーが絡まって云々という話を聞くけれど、今回のこともそういうことだったのだろうか。
いつの間に関わっていた店内の内装を見やりながら、ぼんやりと考える。
新刊の期待もほどほどに、平積みされた本の山に視線を通していく。店内にはポップや店員からのおすすめ紹介などがひしめいていて、実に自己主張の強い場となっていた。
躍る惹句は「春休みの読書感想文にどうぞ! 名作文庫フェア」を筆頭に、学生の長期休暇にちなんだものばかりだ。
他に目につくのは映画化の紹介や万引き防止を促す張り紙。しかし俺が見たいのはそれではなく、今月の新刊一覧である。
結果から言えば、今月は俺の購読している漫画は、新刊が出ないようだった。とはいえすぐに帰るのも何なので、少し店内を散策する。
小説、漫画、雑誌。たまに誰が買うのだか見当もつかないものがある。マッチ棒造形の専門誌などはどのような層に売れるのだろうか。
里志のような人種が何人もいるのだとすると、外の世界はあまりにも広いのかもしれない。
五分ほどそうして、出入り口へと足を向ける。一週間後くらいにまた来てみようか。
と、入り口の自動ドア、その影に落ちている何かに気がついた。携帯電話である。
しゃがんで手に取れば、確かにそうだ。蛍光灯を鈍く反射するメタリックシルバーで、スライド式の携帯電話。麻雀牌の『西』がストラップでついている。なぜこんなものがここにあるのだろうか。
ふと俺が入ってくるときの出来事を思い出す。これは恐らく、あのどちらかのものだろう。
中身を見れば持ち主のプロフィールもわかるだろうが、さすがにそれはプライバシーの侵害だ。自宅の電話番号くらい入ってそうなものだが、はてさて。
店員に渡すのが妥当と判断し、店内へと戻ろうとするが、ちょうど子連れがこちらに向かってくるところだった。母親らしき人物の両隣りに、男の子と女の子。通路一杯の幅を使っている。
半ば押し出されるような形で、俺はなんとなく店外へ出てしまった。なんだか戻るのも躊躇われて、
「まぁ、明日でいいか」
とポケットに携帯電話を突っ込む。携帯電話をなくしたことに気が付いたら、これに電話をかけてくるかもしれない。それならば早いのに。
俺はそのまま家路を急いだ。
俺の学校の生徒が襲われたらしい。
その話を聞いたのは、朝のホームルーム、担任からだ。昨晩、塾から帰る途中のできごとだという。
名前は出さなかったが、場所がとある河川敷であること、女生徒であること、命に別条はないが鞄が持ち去られたことが伝えられた。次いで注意喚起もされた。
強盗とは物騒な話だ。俺は一時間目に提出するはずの宿題を出しながら考える。
神山市はそれほど活気があるというわけではないが、別段治安が悪いわけでもない。その中にあって、学生が狙われるというのは稀有な話だった。
何より特筆すべきは、その強盗は、結局何も盗まなかったということなのだ。鞄は荒らされた形跡こそあれど、財布をはじめとする貴重品はそのまま残されていたという。
ならばただの暴行犯なのかと言えば、最初に鞄を奪おうともみ合いになったというのだから、なおさらよくわからない。単に財布の中身がお粗末だっただけなのか。
「怖いな」と、特別棟四階の端、神山高校の辺境、地学準備室で俺の隣に座った里志はそう言った。
里志は口ではそう言っているものの、表情はにこやかだ。まさか自分が被害者になるわけがないというような。
それはある種一般的な反応だ。俺だってまさか矛先が自分に向くとは思っていない。
「ふくちゃん」
伊原がその表情を窘める。里志はそれを受けて「いや、違うんだよ」と必死に訂正した
「ちょうど切り裂きジャックについて読んでるところで」
云々。大方読んでいる本と似通っているところがあったから、思い出してしまっただけなのだろう。こいつはそういうやつだ。
「高校生なんか狙ったって、たかが知れてるだろうに」
「そうかな。質より量かもしれない」
懲りない奴だった。
「食べるもの決めるのとはわけが違うんだぞ」
「ま、そのとおりだね」
両手をひらひらさせて里志は応えた。伊原は席について腕組みをしている。気にすることはない、いつもどおりだ。
「どうした、千反田」
俺は伊原の隣でかちゃかちゃとやっている千反田に声をかけた。
「あっ、すいません」
話に参加しなくて、という意味だろうか。それとも操作音がうるさくて、か。俺は気にせず先を促す。
「お恥ずかしいのですが、あまり機械は得意でなくて」
千反田は携帯電話を持っている。千反田の小さな掌と同じくらいの、銀色の携帯電話だ。
昨日、こいつが部活を休んだ買い物と言うのは、これのことらしい。
「父親が、持って損はないだろうということですので」
「じきに慣れるって、ちーちゃん。私もすぐに覚えたし」
伊原がこちらを見てくる。意地の悪い笑みとともに向けられた視線の意味がわからないほど、俺は鈍感ではなかった。
無視してやってもよかったのだが、別に伊原と我慢比べをするつもりもない。
「その含みのある視線をやめろ」
「これで文明人じゃないのは折木だけね」
そう、伊原も里志も携帯電話を持っている。学校でこそおおっぴらにしないだけで、他にも持っている学生はたくさんいるだろう。
いや……。そういえば。
俺はポケットからそれを取り出す。昨日偶然拾ったそれを。
「俺も持ってるんだ」
机の上に投げ出されたそれは、銀色の光沢をもつ携帯電話だ。
と、そこで気が付く。千反田のものとまるきり同じデザインじゃないか?
「な、なんてことだ!」里志が大げさに驚く「ホータローが携帯電話を持つだなんて」
「どうせ使いやしないのにね」
伊原の毒は確かに正しい。俺は携帯電話を頻繁に使う用事などない。里志と違って俺はルーティンの中にいるのだ。
まぁ、ルーティンを乱すやつがここに一人いるのだが。
「?」
千反田は俺の視線を受けてきょとんとしている。仕方がない。
「って折木、なんでちーちゃんと同じなの?」
「本当だ。二人がオープンなほうだとは思わなかったよ」
里志のジョークの意味をすぐに千反田は理解できなかったようだ。左に傾げた首を右にもう一度傾げ、そこでようやく合点がいったらしい。手を大きく広げ、
「ふ、福部さん、偶然です!」
「いやいや、いいんだよ。お二人とも、お幸せにね」
「だから、そんなことはなくてですね――折木さんも何か言ってくださいっ」
慌てて弁明する千反田などそう易々見られるものではない。俺はもう少し見ていたかったが、助け舟の要請が来た以上、応じなければなるまい。
「里志」
「なんだい、ホータロー」
「本気でそう思ってるのか?」
「まさか。ジョークだよ」
肩を竦めて里志が笑った。里志は決して禍根を残したりはしない。そうしてしまえばそれは嘘になる。
「というか、このケータイは拾ったんだ」
「ちょっとあんた、ちゃんと返しなさいよ」
伊原が睨んでくる。俺は昨日本屋にて遭遇した出来事を説明した。
「と、いうことなんだ。今日の帰りにでも店員に渡してくるつもりだ」
「ま、そうよね。折木みたいにわびしいやつがケータイなんて持ったところで、わびしい使い方するだけだし」
失礼なやつだ。俺だって決してわびしいだけの男ではないぞ。
……やめよう。言ってて空しくなってきた。
「千反田さん、ケータイの登録はしたかな?」
思い出したふうに里志が言う。
携帯電話の登録? 自転車の防犯登録みたいなやつか?
「何を言ってるんだい。まぁ、持たざる者にはわからないのか」
「その物言いは差別的じゃないか」
「そう思われたくないなら行動を改めることね」
「お前は関係ないだろ」
「あるわよ」無い胸を張って伊原が続ける「ふくちゃんのことだもの」
さいですか。お熱いことで。
里志はと言えば苦笑していた。伊原からの求愛に関しては、里志にも思うところがあるのだろう。コメントを返しづらいに違いない。
もしかしたら、それは伊原なりの嫌味なのかもしれなかった。特にバレンタインディの一件に起因する。
そこまで考えて思考を打ち切る。内面に踏み込みすぎるのは、とりあえず置いておこう。俺は何せ友人の里志のことも、付き合いだけは長い伊原のことも、よく知らないことを知っているのだから。
「あの、福部さん。携帯電話の登録ってなんでしょうか?」
おずおずと千反田が尋ねる。
「総務委員会の仕事なんだけどね。最近はほとんどの学生が携帯電話を持ってるし、持ってきている。もちろん校則違反ではあるけど、先生たちだって見て見ぬふりだ。
ただ、まぁそういう状態は健全じゃない。不必要に持ってくるならまだしも、放課後に塾に通う関係で必要になる人もいる。一律禁止というわけにはいかないのさ。
だから、届け出さえ出してくれれば、ケータイを持ってくることに関して許可を出しましょうと、そういうことさ。教室でおもむろにいじることが認められるわけではないけど」
「へぇ、そんなのあるんだ」
「ケータイは持ってるのに知らなかったのか、伊原」
「うん。別に学校で使うわけじゃないから、家に置いてあるの。漫研の連絡用の部分が大きいし……」
不携帯電話か。しかしそれならば固定電話でいいのでは? それとも電話機能よりもメール機能のほうが重要なのだろうか。
「最近の携帯電話ってのは多機能なんだよ、ネットにつなげたり、カメラもついてる」
「それくらいわかる。バカにするな」
「ごめんごめん。で、千反田さん、登録はしてないみたいだね」
「はい。寡聞にして知りませんでした」
「私も知らなかった」
里志は女性二人の意見を聞いて、肩を竦めた。
「総務委員会の活動をもう少し活発にするよう進言しておくよ」
「それで、どうすれば登録できるんですか?」
「ちーちゃんは真面目ねぇ」
伊原がぼそっと言う。俺もそれには同意できる。
不安げな千反田。真面目な気質があるものだから、登録制度があるのにそれを利用していないのは、少し居心地が悪いのだろう。
どうせばれないんだから気にしなくてもいいのにと思うのは、俺の適当さ加減によるものだろうか。
「大したことじゃないさ。先生から紙をもらって、名前と、ケータイの写真撮って、それを添付して提出するだけだから」
「わかりました。さっそく明日にでももらってきます」
そうして、思い出したように千反田は言った。
「あ、そうです、わたし気になることがあるんですが」
「帰る」
咄嗟に席を立った。最早条件反射といってもよい。
「あ、違うんです折木さん。携帯電話のことで聞きたいことがあって……」
その後の古典部の活動は、千反田に携帯電話の使い方を教える時間となった。メール、電話、カメラといった基本的な事項を教え終わったころ、完全下校のチャイムが鳴る。
「帰ろうか」
誰ともなしに呟いて、俺たちは学校を後にする。
「なんだと」
件の本屋の前で、俺は驚愕していた。なんと夜中の内に、飲酒運転の車が本屋に突っ込んだそうなのだ。「KEEPOUT」の黄色いテープが張られ、当然中に入ることは無理である。
ガラスの破片こそ目立たないが、細かいものは道路に散乱している。シャッターで店内を確認することはできない。恐らく酷い有様なのだろう。
「どうしたもんか」
手の中の銀色を見やりながら言う。このままでは一向に持ち主の元へと戻らない。
待てば電話でも本人から来るだろうと思っていたが、それもない。気づいていないということは考えにくいから、恐らく用事がある也で忙しいのだろうが、早く取りに来てほしかった。でないと俺が落ち着かない。
やらなければいけないことは手短に。拾ってしまったものを今更捨てるのも後味が悪い。これはやらなければいけないことだ。
だが、思ったより手短にできないとは……。
俺は踵を返した。どうしようもないなら、どうしようもないのだ。
次の日、また生徒が襲われた。またも女子生徒で、塾からの帰り道をやられたという。
二人目、しかも連日でとなると、ちょっとした騒ぎどころでは済まない。記者は取材に来るし、全校集会もあった。警察も聞き込みに来ていたらしい。
「物騒ですね……」
放課後の部室で千反田は言った。それは確かにその通りだ。明日は我が身、と言う可能性も十分ありうる。
伊原は図書委員、里志は手芸部でいない。部室には俺と千反田だけがいる。
この時期になると夕暮れは早い。下校時刻にはすでに辺りは宵闇に包まれている。地面も雪にすっかり埋もれてしまっているため、気を付けなければすっ転んでしまう。
「歩きだと家までどれくらいかかるんだ?」
「えぇ、そうですね、大体三十分から四十分くらいだと思います」
「結構遠いんだな」
思い出せば、前に行った際も自転車を使ってそれなりにかかった気がする。
「はい。ですから、これで」
千反田は銀色の携帯電話を俺に見せた。ストラップすらもついてない、味気ない携帯電話だ。
今はちょうど農閑期だ。豪農千反田家と言えども、この時期はある程度まったりしているのかもしれない。俺がそういうと千反田は苦笑して、
「結構みなさんそうおっしゃるんですけど、逆なんですよ。この時期は他の寄合に顔を出したり、農協があったりで、忙しいくらいです」
農家ネットワークのトップにいるのが千反田家だ。考えてみれば確かに、リーダーとしての仕事がこの時期に重なるのかもしれない。
どのような仕事をしているのか、俺には想像もつかない世界だ。農家と言えば年がら年中土と触れ合うばかりのイメージしかないが、それだけで作物が売れるなら、みんな農家になっていることだろう。
「大変だ」
月並みな俺の台詞にも千反田は楚々として笑って、
「はい。だから、携帯電話をせっかく買っても、あんまり使う機会もないんですよね。折木さんは持たないんですか?」
「使いこなせる気がしない」
「持つつもりは」
「当分ない」
「そうですか。……私、友人とメール交換をしたり、夜遅くまで電話で話したりするのが夢だったんです」
千反田の家に行ったこともあるが、広い割には音の響きそうなつくりだった。家柄も厳しそうだし、その辺りは思うようにはならないのだろう。
「伊原とでもすればいいだろう」
なんとなく、俺ははぐらかす。
「まぁ、そうなんですが」
答える千反田の様子もどこかぎこちない。
「……」
「……」
そのまま十秒もたっぷり待って、慌てて千反田が立ち上がった。
「あっ」
「どうした」
「折木さん、私、忘れていました」
相も変わらず説明の下手なやつである。頭はいいはずなのに、意識が前のめりにすぎるのだ。
「何をだ」
「携帯電話の登録書、書いてきたんです。職員室に行ってきます」
早速持ってきたらしい。律儀と言うか、これが千反田えるという人間の片鱗なのだ。
俺は手を振って応えた。鞄を置いているということは、帰ってくるつもりはあるのだろう。
ややあって、千反田が帰ってくる。俺は手持無沙汰に読んでいたペーパーバックを閉じ、
「お帰り」
「折木さん!」
ぐぐい、っと千反田の顔が寄ってくる。近い。ひどく近い。
これは、あれだ。いつもの予兆だ。
くるぞ、くるぞ、あれがくるぞ。
俺が口をふさぐより先に、千反田が言った。
「私、気になります!」
「……何がだ」
最早抵抗する気をなくした俺は、ならば可能な限り省エネにと、進んで千反田の先を促す。
「私はさきほど職員室に行きました。そしたら、福部さんがいたんです」
「……」
「……」
お互い無言だった。埒が明かないと判断した俺は、「で?」と続きを促す。
「『で?』とは?」
「それのどこが気になるんだ」
ようやく千反田は合点がいったような顔をして、
「あっ、すいませんでした。折木さん、私が気になるのは、福部さんには手芸部があったんじゃないかということなんです」
「別におかしいことはないだろう。職員室に用事があったんじゃないか」
「違うんです」
違うと言われて反応しないわけにはいかない。
「なにがだ」
「私が気になるのは、どうして福部さんは渡り廊下を使わなかったのか、ということなんです」
渡り廊下と言えば、特別棟と一般棟をつなぐ廊下のことだ。三階にあって、二つの棟を行き来するには、渡り廊下を使うか一回外に出るしかない。
「福部さんを見たのは私が渡り廊下を歩いているときでした。ふと下を見たら、福部さんが特別棟から出て、外を歩いて一般棟に入るのが見えたんです。私は職員室に行きました。そうしたら、福部さんの姿があって……」
「その時訊けばよかったじゃないか」
「福部さんは大きな段ボールを受け取っていたので、悪いかなと思ったんです。距離もありましたし」
「雪が積もってるとはいえ、外に一回出たとしてもいいんじゃないか」
「折木さん?」
千反田が不思議そうな顔をする。
「折木さんは、職員室がどこにあるかご存知ですか?」
ばかにするな。生徒会長の名前を間違えていた俺であっても、さすがに職員室の場所を間違えたりはしない。
「一般棟の二階だろ」
「はい。では、手芸部の部室の場所は」
「特別棟の……」
「三階です」
俺はそこでようやく千反田が言わんとしていることに気がついた。そして、なぜ千反田が些細なことに気になっているのかも。
「渡り廊下を使ったほうが早いに決まってるな」
そうだ。特別棟の三階から一般棟の二階に行きたい場合、普通渡り廊下を使って降りていけばいい。わざわざ一階まで下りて、外に出て、また階段を上る必要はない。省エネ主義者でなくとも普通はそうする。
俺は暫し考え、思い付きを口にしてみる。
「普通に考えれば、特別棟の一階か、一般棟の一階に用事があったと考えるのが妥当、か」
「はい、私も最初はそう思いました。ですが、よくよく考えてみると、福部さんは渡り廊下で私を追い抜く機会があったはずなんです」
「?」
「福部さんは帰りも渡り廊下を使わなかったんです。往路で一階に用事があったならまだしも、復路に渡り廊下を使わないのは不自然です。」
「お前は渡り廊下を使ったんだよな?」
「はい。ワックスがけだとか、工事だとか、そういうことはしてなかったと思います」
「お前のほうが先にここまで来たんじゃないのか? もしくは里志のほうが先に出たとか」
「私のほうが先に出たのは確かです。そして、一般棟の三階で、私は入須先輩に出会いました。お互いの近況や進路の話をして……そうですね、十分くらいでしょうか。お話をしていました。
福部さんがやってくる時間は充分にあったと思います」
「じゃあ職員室に寄った後、また別のところに行った可能性があるな」
「ですが」
千反田は食い下がる。
「普通、荷物を持ったまま別のところに行きたがりません」
「……まぁ、そうだな」
これまた省エネ主義者ではなくとも自明のことだ。いくつか寄らなければいけないところがあったとして、どこかで荷物をもらうことがわかっているなら、そこは普通最後に回す。荷物を持ったまま歩くのは大変だからだ。
反論するならば里志は荷物をもらうことを知らず、かつ別のところに用事もあった、ということになる。もしくは荷物をどこかに運ぶよう指示された場合。
つまり、こうだ。里志は特別棟の二階以降、もしくは一般棟の一階に用事があった。その時点では、里志は職員室の用事の内容を知らない。
一つ目の用事を済ませたのち、職員室に行くと、教師から段ボールをもらった。それをどこそこに運んでくれと言う用事を言いつけられ、従った。
「これなら里志の行動にも説明がつく」
「そう……でしょうか。そうなんでしょうね」
反応が悪かった。理屈としては、俺の説明は一応筋が通っているはずだ。それに納得がされないとなると、俺はどうも居心地が悪い。
「納得できないか」
「あ、いえ! 決してそういうわけでは……。ただ、特別棟の二階以降か、一般棟の一階にある用事とは、どんなものなのか気になっただけで」
俺は目を瞑って校舎の見取り図を思い出す。特別棟は下の階まできっちり部室になっている。もしかしたらいくつか空いている部屋もあるのかもしれないが、俺は知らない。
一般棟は一階に事務室、玄関、校長室、会議室、保健室、図書室、用具庫、宿直室くらいか。里志の用事があるのだとすれば、保健室か図書室、だろうか。
俺はその時はっとした。一連の里志の行動の理由を、なんとなく理解してしまった気がしたのだ。
伊原は図書当番があるというので来ていない。里志は手芸部の活動があると言っていたが……。
「なぁ千反田」
「はい、なんでしょう」
「伊原の家、お前、どこにあるか知ってるか?」
「存じ上げませんね。私の家と同じくらいの距離だとは聞きましたが」
ということは、三十分から四十分程度かかるということか。暗い中を歩いて、一人で。
「どうかしましたか?」
「いや、なんでもない」
「折木さん」
千反田の大きい瞳が俺のほうを見ていた。
やばい。これは、なんというか、やばい。
「隠し事を暴き立てようという趣味は私にはありません。ありませんが、明らかに怪しい折木さんを見て、気にならないわけでもありません」
いつもよりは幾分か控えめに千反田は言う。それでも瞳は爛々と輝いていて、俺はその視線にいつもからめ捕られるのだ。
椅子に深く座り直し、俺は天を仰いだ。
「里志なぁ……たぶん、伊原を送ろうとしてるんだな」
「送りに?」
「あぁ。手芸部って言ったのは……まぁ、俺たちに対して恥ずかしかったんだろう」
「すいません、折木さん。よくわからないんですけど」
「これは俺の想像でしかないんだが、恐らく、手芸部は今日活動していない」
「な、なんでそんなことがわかるんですか!」
「感動しているところすまんが、前に里志が言ってたんだ。最近集まりが悪い、とな。もちろん今日もやってない保証はないが、まぁ下を見てくればわかることだろう。
で、最近暴行魔が現れている。被害者はどちらも神山高校の生徒で、女子だ。伊原やお前も当然それには該当する。図書委員の仕事が終わる時間はわからないが、それなりにはかかるだろう。最近は夜も早い。女子生徒が一人で歩くには少し危険なくらいには」
千反田は驚いたような、それでいて納得したような表情で俺の話を聞いている。
「里志は渡り廊下を使わなかったんじゃない。あいつはずっと図書室にいたんだ。職員室に行ったのは、まぁ、普通に用事があったんだろうな」
「……」
千反田がぼそりと伊原の名前を呼んだ気がした。それを聞かないふりして、立ち上がる。
「帰るか。暗くなる前に、お前も帰れ」
太陽は両線の向こうに半分ほど隠れている。西日に思わず目を細めるが、空気の澄んだいい天気で、気分はすこぶる晴れやかだ。
ややあってから千反田も立ち上がった。すっきりとした表情で鞄を掴む。
「じゃあ、行きましょうか」
次の日もまた、神山高校の女生徒が襲われた。
何やら恐ろしいものの足音が近づいてくるのを俺は感じた。もちろんそれは俺だけが感じているのではないだろう。
パトカーや警察は存在を明らかにして学校の前や周辺を巡回している。それとは別に、学校も集団下校を実施しはじめた。
とはいえ、中学までなら家もそれぞれ近いが、高校となると難しい。せめてもの対策レベルだ。
狙われたのが全て女子で、かつ下校中であったということから、部活動自粛の動きも出ている。古典部はもともとあってもなくても同じようなものだから、俺としては一向に構わないのだけれど。
「ホータロー、ちょっといいかい」
暗くなる前に帰ろうかというところで、千反田や伊原に聞こえないような声音で里志が耳打ちしてきた。
「どうしたんだ」
里志の表情が思わず真剣だったものだから、俺も自然と声が小さく低くなる。
「襲われた三人の女生徒なんだけど、共通点がある」
俺は耳を疑った。共通点。里志がどこからその情報を仕入れてきたのか、実に不思議だ。データベースの自称は伊達ではないということか。
「それで、どうして俺に」
「もしかしたら用心に越したことはないかと思ってさ」
不思議な前段だった。里志は続ける。
「僕が総務委員会だったからわかったようなものだよ。被害者の三人は全員同じ携帯電話を持ってた」
「同じ携帯電話」
「そう。で、ここからが本題なんだけど、その携帯電話って、ホータローや千反田さんが持ってるやつと同じなんだ」
一瞬里志が何を言っているのかわからなかった。
理解してなお、疑わしい。俺は尋ねる。
「……冗談だろ?」
「だったらどんなにいいか」
俺はポケットの中に手を突っ込んだ。いつぞや拾った携帯電話。持ち主不明のまま、制服の肥やしになっている。
「これか」
「そう。色までどんぴしゃ」
銀色の携帯電話は俺の手の中で鈍く光っている。嫌な予感などどこ吹く風のように。
「杞憂だったらいいんだけどね。もし犯人がその携帯電話の持ち主を狙ってるんだったら……気を付けなきゃいけないのは千反田さんだ」
俺はどきりとした。そうだ、狙われているのは女子なのだ。
犯人がどうやって携帯電話の種類を特定しているのかはわからないにせよ、事実としてそうならば、気を付けるに越したことはない。しかしなぜ俺に。
「まだわからないことを言って、やたらに心配をかけるべきじゃない。だろ?」
「じゃあどうして俺に言った」
「ま、これが僕からホータローへの『期待』の表れだと思ってよ」
よくわからないことをいう男だった。
「ちょっとふくちゃん、なに折木と喋ってるの」
鞄を持ち、帰り支度を済ませた二人が、扉の前に立っていた。里志はごめんごめんと言いながら伊原のほうへと向かっていく。
去り際、里志がこちらに瞬きをした。まったく似合わない。
俺は自室のベッドに横になり、銀色の携帯電話をかざしていた。それなりに使われていたのだろう、角のあたりはメッキが剥がれてしまっている。
里志の言っていたことはどうしても気になった。我慢できず、携帯電話を開く。
幸いにもロックはかかっていなかった。が、プロフィールを見ても名前は載っていない。住所なども然りだ。これでは身元が分からない。
心の中で謝りながら、電話帳を開く。相沢隆、赤沼文彦、上島香、江藤喜一、蟹井諒子……最後まで見ても自宅の電話番号は載っていなかった。
この携帯電話が果たして関係しているのだろうか? 荒唐無稽な話のようにも思えたが、里志は意味のない冗談を言う男ではない。携帯電話という共通点は事実で、それは見過ごせない一致である。
もし関係あるのだとすれば、次に狙われるのもまた、同じ携帯電話を持っている人間である。それも女生徒。
「……」
なんとなく、居心地が悪い。落ち着かないのだ。こんな気分は初めてだった。
その日、俺は夜中の三時まで寝つけなかった。
翌日、俺は疲れた足取りで部室の扉を横にスライドさせた。省エネをするまでもなく、エネルギーの不足を実感している。
こんな必要に迫られた省エネは俺の望むところではないのだが……。
「うわっ、折木、凄いクマできてるじゃない」
「本当ですね。夜更かしでもしたんですか?」
「……まぁな」
千反田の顔を見ないように言う。
今日は襲われる生徒の出ることはなかった。警察が警戒している中で犯行に及んだなら、それは警察の面目丸つぶれだ。それに犯人は決して警察と張り合いたいわけではないように思える。
とはいえ、犯行がもうこれ以上起こらないという楽観もまたできない。警察には一刻も早い解決を期待したい。
それとも……いや、やめておこう。考える先に待っている結論を、俺自身が信じたくない。
古典部は今日もまた集まっていた。三十分から一時間適当に時間をつぶし、暗くなる前に帰る。それが昨日からの流れである。
別に部室に寄らなくてもよいのではないかと思うが、思いながらも来てしまうあたり、俺も随分と立派な古典部員となったものだ。
帰りの時間はすぐにやってくる。伊原も千反田も親が迎えに来てくれるらしい。物騒な昨今、親としては心配なのだろう。そしてそれは俺にとってもありがたいことであった。
二人の他にも親が迎えに来る生徒は多い。バスや電車を使うほどでもない距離の生徒が大半で、俺と里志もそれに該当はする。
伊原の親に乗っていかないかと打診されたが、どちらも首を横に振った。俺たちはこれから少々用事があるのだ。
去る車の後姿を見ながら、里志が俺に切り出す。
「さ、話ってなんだい、ホータロー」
「歩きながら話そう。それくらいの時間は、あるだろ」
俺はゆっくりと歩きだした。里志も隣で愛車のクロスバイクを押しながらついてくる。
白いトレンチコートは随分と長い間着ているものだが、神山市に住み続ける場合、これ一つで冬は十分だった。隙間風も少ないつくりになっている。
さく、さくと足の裏で雪が音を立てる。新雪だ。いつの間に雪が降ったのだろうか。
話す内容は決まっているのに、どう口火を切ったものかと一言目が出てこない。里志はそんな俺を見て苦笑し、
「傷害事件が気になるのかい?」
さすが長年の友人である。感動すら覚えた俺は短くうなずいた。
携帯電話をポケットから取り出す。
「俺はこの携帯電話が事件と関係しているんじゃないかと思っている」
「うん。それは、僕もそう思う。偶然にしてはできすぎだ」
携帯電話を手に入れた近日から、同型の携帯電話を持った生徒が狙われているのだ。関連を疑わないわけにはいかない。
「この携帯電話を手に入れた経緯は話したな?」
「うちの女子生徒とブレザーがぶつかって、だろ?」
「あぁ。この人物が連続暴行事件と何らかのかかわりがあるという前提でいこう。
あの日俺の前で荷物をばらまいた学生は、ブレザーだった。そしてそいつはうちの女子の制服も見ている。ぶつかったうちの女子が携帯電話を持って行った――そう考えてもおかしくはない」
「そうだね」
ここまでは、さっきも言ったように前提だ。ここから手掛かりが激減する。
「じゃあ、なぜ罪を犯してまでこの携帯電話を手に入れたいのか。普通に考えれば、落としてしまったんですと言って電話すればいいだけだ」
「それではダメな理由があるんだろうね、きっと」
「その理由とは」
「このケータイの中に、犯罪の証拠がある、とか」
俺は頷いた。
「そうだと思っている」
犯罪をしてまで手に入れたいものは、それだけの価値があるからに違いない。そして連絡してこないのは、万一拾った相手がその価値に気付いてしまっていては困るから。
たとえばそれが一見してわからない、暗号でカモフラージュされた宝のありかだったなら、一も二もなく連絡してくるだろう。犯人にとってリスクがないのだから。
逆説的に、連絡がないということは、向こうは自らの顔や、それこそ声すら知られたくないに違いない。そしてその事実は、このケータイに隠されているものが、何らかのうしろめたさを伴うものだと示唆している。
「麻薬、援助交際、恐喝……殺人まで行くとドラマめいてるけどな。そういうやりとりをした証拠がこのケータイに入っていたら、当然必死になって取り戻すはずだ。ばれたら身の破滅なんだから」
「じゃあ、とりあえずはメールと、データフォルダかな?」
「でも、メールには何も残ってない」
そう、メールは見たが、これといって意味のありそうなものは残っていなかった。俺が夜更かしをしたのは概ねこのためだ。
数千に届きそうなメールを読むのは実に骨が折れた。いまだに目の奥に重いものが残っている感覚すらある。
何も収穫がないのは残念だったが、無駄足もまた重要な収穫と考えることにしよう。
携帯電話など持たない俺にとって、携帯電話の操作は案外難しいものだった。これでは千反田を決して笑えない。
とはいえ、日常的にパソコンを触っていたお蔭で、最終的にはなんとかなったのだが。
「履歴を消してるのかもね」
「その可能性はある。が、履歴を消しているのだとしたら、慌てて取り戻そうとする必要はない。犯人はこういうイレギュラーを全く考慮に入れていなかったはずだ」
信号が赤なので止まる。障碍者用のBGMさえ今は煩わしく感じられた。
同時に、なぜここまで真剣に考えているのだろうと思う。これは「やらなければいけないこと」ではないのではないか。
そうは思うが、思考は止まらない。
隠語が使われている可能性もあるにはある。とはいえ、それも同じことだ。わざわざ犯罪に手を染める必要などはない。何食わぬ顔で電話をしてきてもいいものでは?。
「ということは。少なくとも、誰が見てもわかるような証拠か、それほどひねっていない証拠があるはずなんだ。巧妙には隠されてはいない何かが」
里志に携帯電話を渡しながら、考えを整理しつつ呟く。思考は言葉に出して初めて実態を持つ。あえて言葉に出すべきこともある。
それが里志を誘った理由だ。
青になった。考えながら歩く俺の速度は随分と緩やかだ。里志は何も言わずに隣を歩いてくれている。時折流し目で微笑みながら。
昨晩、俺はアドレス帳や写真、留守電まで一通りあさってみたが、これと言って意味のありそうなものは出てこなかった。少なくとも一見して犯罪のにおいがあるものは。
アドレス帳はフルネームだったりあだ名だったり名字だけだったりで一貫性に乏しい。仮にこの中に麻薬の売人などが登録されていたとしても、すぐにはわからないだろう。
写真も同様で、風景や情報誌の中身、名店の住所、掲示物などが映っているだけだ。その総数こそ多いが、大半はそういうものばかりで、人が映っていたり犯罪行為と思しきものは何もない。
留守電にいたっては、そもそも何も録音されていなかった。
携帯電話が物的な重要証拠となるためには、二つの条件をクリアしなければいけない。
一つ、携帯電話の中に重要な証拠が残されていること。
二つ、それは誰しもがわかるような形で保存されていること。
前者は語るまでもないが、問題は後者である。携帯の落とし主――名前がないためA君とする――は、すぐに携帯電話を落としたことに気がついただろう。
そして引き返すが、そこには携帯電話がない。すぐに彼は拾われたと気づくはずだ。
携帯電話にはロックがかかっていなかった。当然A君はそれを知っている。落とし主のプロフィールを確認するために、携帯電話を改めるくらいのことは、する人も少なくはないだろう。現に俺はそうだった。
A君は犯罪行為が露出するのを恐れた。なぜならそれは、誰もがそれとわかりうる形で携帯電話の中に証拠が残っていたから。プロフィールが未記入だとして、どこから脚がつくかはわからない。
本来ならば書店に落し物として届けるのが容易だ。携帯電話をなくしたことは、ほどなく彼も気が付いただろう。書店に足を戻したのかもしれない。しかし、そこに携帯電話は届いていない。
「なぜなら、ホータローが持っているから」
そうだ。そのとき携帯電話は俺の手の中にあった。
A君はこう思ったに違いない。あの女子生徒が持っているはずだ、と。
ブレザーを着ているのだから、学校の特定は容易だ。学校に電話をすれば、それほど時間がかかることなく持ち主のあぶり出しは可能だろう。そしてA君はそれを阻止したかった。なんとか内密に自らの手に戻したかった。
携帯電話の中に、見られたくないものがあるから。
しかし、俺たちは今、その犯罪の証拠を見つけられないでいる。A君が暴行傷害という罪を犯すほどには切迫している何かがこの中にあると言うのに、である。
A君が焦ると言うことは、証拠は巧妙に隠されているとは考え難い。ならばどれで、どのような形なのか。
携帯電話の中に証拠があるとすると、それはメールか写真という形式だろう。留守電は入っていなかったし、アドレス帳は一見してこれだとわかるほどの情報がない。麻薬の売人が「佐藤」という名前で登録されていたら、俺たちには判断する術はないのだから。
ならばもっと直接的な証拠。かつ、A君が焦るほどには重要な犯罪のそれが残されているはずである。
だが、どうだろう。俺は頭を捻る。携帯に証拠が残る類の犯罪は、かなり限定される。突発的な殺人や強盗では、ありえない。
それは常習的な、あるいは計画的な何かだと考えられる。それこそ麻薬売買であるとか、売春斡旋であるとかだ。
かわいらしい部類ではカンニングと言う線もありうる。いや、彼がブレザーを着ていたことから考えると、彼は有名進学校の生徒である。
俺たちには縁のない考えだけれど、それほどまでにテストの点数が欲しいのかもしれない。
これは自分でも納得できる仮定であった。教科書などの写真が携帯に納められていて、B君がそれを使ってカンニングをしたのだとしたら? それについてのメールのやり取りを誰かとやり取りしていたのだとしたら?
そうだ。彼は拾った一般人に見られるのを恐れているのではない。学校の教師に見られるのを恐れている可能性は十分にある。
俺は携帯電話を操作し、写真が納まったフォルダを開く。50ほどの写真が入っていて、日付の新しいものから見ていく。
「……」
ない。
いわゆる教科書だとかカンニングペーパーらしきものは見当たらない。
「里志、確認してみてくれ。俺には見つからない」
「その前に、さ。このままじゃ僕はホータローの家にお邪魔することになる」
そこでようやく、里志との分かれ道に差し掛かっていることに気が付いた。集中していて全く気が付かなかったらしい。
無言で近くにあったファストフード店を指さす。
「寒いしな。コーヒーぐらいは奢るぞ」
着いてきてもらっているのだ、それくらいは当然だろう。
里志は唇の片方を釣り上げて、笑う。
「悪いね」
ホットコーヒーを二つ頼んで席に着くと、里志は早速データフォルダを閲覧しだした。
時間にして五分ほど見ていた里志は、顔をあげて首を横に振る。
「だめだね。僕にも見つからない」
「そうか……」
「カンニングの手段としての画像っていう着眼点は面白い。けど、言い訳が効くんじゃないかな? そういう意味では少し発想が行き過ぎた気もするね」
「どういうことだ」
「たとえば、僕が携帯に教科書とかノートの写真を保存していたとして、それを教師が見たら、どう思うかな」
「……なるほど」
確かに、里志の言わんとしていることは最もだ。
携帯電話にカンニングペーパーを保存していたとして、教師が一発でそれをカンペだと看破することはできない。
もし看破できたとして、A君はいくらでも言い訳を言うことができる。
それこそ、「登下校中に復習しようと思って」でもいい。A君が困ることはない。
つまり、ここに来て第三の条件が浮上してくる。言い逃れできないほどにそれは問題の行動であるのだ。
無免許で車を運転している写真だとか、飲酒喫煙の現場だとか、万引き自慢のメールだとか。
けれど、繰り返すが、俺も里志もそんなものは見つけていない。この携帯電話の中にないのならば、A君が必死になって取り戻そうとする理由はない。
この矛盾。前者か後者か、どちらか一方、もしくは両方に穴があるのだ。
答えに詰まった。あと一歩というところまで出ているのに、それからがうまくいかない。
携帯電話の中身を改める。部活関係の連絡。彼女とのやりとり。塾に関係する親との会話。迷惑メール。雪原の写真。ラーメン屋の情報。テスト範囲。どれもこれも決定力を欠いている。
何せどれも日常で、学校、家庭、本屋や公園といった場所のものでしかないのだ。ありきたりすぎて着目点もわからない。
「里志」
「なんだい」
「お前、日常で、後ろめたいことが隠れてるか?」
里志はコーヒーをくいと飲み、またも苦笑した。
「後ろめたいことが本当にあるなら言わないよ。けど、まぁそうだね。ホータローも考えていたけど、やっぱり万引きと、あとは占有離脱物横領とか、かな?」
「占有離脱物横領ってなんだ」
「言うなればネコババだよ」
そんな噛みそうな正式名称なのか。しかしそれなら万引きだって窃盗罪ではないのか?
「そうだね。とにかく、どちらも軽く見られがちな犯罪だと思うよ」
「ネコババに関しては気持ちはわかるけどな。一万が落ちてたら、そりゃ拾うさ」
「学生にしては大金だしね」
「だけど、そのために人を襲うか?」
「襲う人もいるかもしれない。彼の心中を察することは、僕らにはできかねるかな」
それは正論だった。俺は口を噤んで虚空を見据える。
前髪を、なんとなくいじくった。
携帯電話の中にA君にとって問題となる証拠があること。
それは、少なくとも教師ならば見つけてしまえるものだということ。
証拠が見つかった場合、A君は言い逃れできないほど決定的であること。
これまでのやり取り、そして情報から、以上の三つの条件を満たす解は果たして得られるのか?
俺は逡巡し、口を引き絞った。得なければならない。なぜなら――
なぜなら、なんだ?
先ほどから考えていたことがある。まるで他人事のようにも思える、その考え。
どうして里志を引き連れてまで推理を――いや、あくまでもここは、自分のためにも推論と言っておこう。
どうして俺は、やらなくてもいいことをやっているのだ? 首をひねりながら推論を打ち立てているのだ?
それともまさかこの推論が、自ら理解できない範域で、やらなければならないことだとでもいうのだろうか。
焦燥感を隠すようにコーヒーを呷れば、里志が目を細めてこちらを見ていた。腹の立つ笑顔だ。
「……なんだ」
「ホータローが珍しく真剣だなと思ってさ」
「俺はいつだって真剣だ」
「真剣に省エネを貫いているんだろう?」
「そうだ。それのどこが悪い」
里志は肩を竦める。その動作のまたわざとらしいことといったら。
「別にかまやしないさ。ホータローにも守りたいものの一つや二つはあるんだろうしね」
守りたいもの。それは俺にとっては省エネという信条である。矜持というほど立派ではないそれだが、しかし確かに俺は大事にしている。
彼は、A君は、何が守りたいのだろうか。成績か。日常か。己の未来か。
取るに足らないちっぽけな出来事なのか、それとも刑事事件にすら問われる大事なのか。
ちっぽけな出来事なのだと俺は思った。日常的に大事件が転がっているはずはない。一介の高校生の抱く疾しさなんて、大したものであるはずがない。
ならば日常的に起こりうる、悪魔のささやきが示す悪さ。それは一体何か。万引き、ネコババも確かにそうだろう。その類の何か。
いじめ、学校裏サイト、ゴミのポイ捨て、落書き、樹木の無断採取、線路への石置き……些細な悪意のもたらすそれらは、考えてみれば枚挙に暇がない。
そのうちで、現在俺たちの手に握られている銀色の中身から、推論を導き出されるとしたら。
何も刑法に指摘される犯罪でなくてもいいのだ。彼が気にしているのは自らの身柄が拘束されることではない。
内申点、周囲の評価、処罰、そういったものでも十分怯える根拠にはなりうる。
はっとした。ようやく一つの解を得たような気がした。
そんな俺の様子の変化を目敏く理解した里志は、にやりと笑って「で?」と言った。
「その様子じゃ、思い至ったみたいじゃないか」
「……」
里志の様子は癪だが、事実だから仕方がない。俺はため息を一つつき、
「くだらない」
吐き捨てるように言ったのが里志には随分意外に映ったようだ。目をぱちくりさせて俺の続きを待つ。
「こいつがしたのは、電子万引きだ」
里志は一瞬顔を顰めた。そしてそのまま空の紙コップに視線を移し、数秒思考を巡らせていたようであったが、やがて清々しそうに顔をあげた。
その様子を見て俺は少なくとも推論が里志の眼鏡には叶ったのだと理解する。
ふぅ、と里志が深呼吸をする。そうしたいのは俺も同様だった。
「なるほど、なるほど。うん。それは、十分にあり得るね」
それを受けてようやく俺に安息が去来する。
腰を椅子に深く落ち着かせる。プラスティック製の安っぽい椅子は、力によってぎしりと軋んだ。
「携帯電話にはカメラ機能がついている。雑誌の情報をそれで撮影すれば、当然問題だ」
「そうだね。携帯電話の普及に伴って、そういった問題も増えてきてるって新聞で見たよ」
新聞なんてきっちり読んでいるのか、こいつは。データベースを自称するのだからその辺は案外ぬかりないのかもしれない。雑学の豊富さもうなずける。
かくいう俺は推して知るべし。一面を読み、二面を途中で飽き、テレビ欄にスキップする程度の読破量である。
「一応確認だけど、電子万引きは捕まるのか?」
「現行法じゃ捕まらないよ。ただ、ばれたら注意はされる。学校に見つかったら……どうだろう。生活指導の先生に呼び出されるくらいは、あるかもしれない」
携帯電話を操作する。データフォルダから該当する写真を探せば……ざくざくと出てきた。一枚や二枚ではなく、十数枚だ。
最新の日付はなんと俺が携帯電話を拾った日。
つまり、彼はそれが電子万引きだということを自覚したうえで、行為に及んでいたことになる。とはいえそれはある程度予想していたことであった。
自覚がなければ焦りもしないはずなのだから。
写真のうち一つを里志に見せる。
評判の喫茶店の住所、電話番号、おすすめのメニューが保存されている。情報誌に掲載されている記事を撮影したものだというのは明らかだった。
また、写真の隅には、平積みにされた本とPOPが映りこんでいる。これが家で撮られたものではない証拠である。
「A君は自らの行為が非難される行為だと知っていた。だから慎重にならざるを得なかったし、必死にならざるを得なかった」
「そして、どうする気だい?」
真剣みを帯びた表情で里志が言う。その意味は、つまり裏を返せばこういうことだ。携帯電話を返さなければ事件は終わらない。少なくとも不安要素は残る。
警察が警戒していれば問題はないかもしれない。が、それも永遠ではない。ほとぼりが冷めれば、A君も再犯する可能性だってあるだろう。
無論、A君が怖気づいたり、逆に身の安全を感じて携帯電話をあきらめることだってありうる。それが一番よいのは語るまでもない。
しかしそれを理解できない俺にとっては、念には念を入れる必要があるのだ。
これほどまでに自分の推理――推論が当たっていてほしいと思うことは初めてだった。
今までは千反田の悪癖であったり話の流れでそうすることはあっても、こんなことは思わなかったのに。
俺は今一度里志の尋ねに対して思考する。俺はどうすればいいのか。どうすれば丸く収めることができるのか。
そこまで考えて、思考を妨げる壁がせりあがってくるのを感じた。どうすればいいのかという問いを立てたのはいいが、俺がどうしたいのか、 俺自身理解していないことに気が付いたからだ。
「どうしたんだい、ホータロー。さっきから固まってるけど」
「……わからん」
「なにが?」
「里志、俺はどうしてこんなことをしているんだ?」
「いきなりだね、記憶喪失にでもなったのかい」
気軽にジョークを笑い飛ばせる余裕はなかった。自分のことがわからないのは、なんというか、居心地がひどく悪い。
「俺は携帯電話を拾った。そこまではいいだろう。だからといって、俺がここまでする必要はなかったはずだ。警察当局に任せておけば、自動的になんとかしてくれる」
「そのための税金だからね」
「……それじゃあ、俺の行動に説明がつかないぞ?」
里志に向けての問いではなかった。が、里志はそれを受けて困ったように笑い、
「僕に聞かれても困るなぁ。でも……意外だとは思っていたけど、ホータロー自身がわかっていなかったなんてね」
「あぁ、なんとなくでここまで進めていたけど」
「なんとなく?」里志は目を見開いた「なんとなくだって? ホータロー、冗談言っちゃいけない。こと今回の件に関しては、『なんとなく』なんて有りはしないのさ」
その断定があまりに断定過ぎて、思わず面喰ってしまう。里志はここまできっぱりした物言いをするやつだったか?
それとも、まさか。
「お前はわかってるのか?」
「わかってるっていうか、なんというか」
大きなため息をついて、里志は一度虚空へと視線をずらす。俺もそちらをつられて見たが、ファストフード店の蛍光灯があるばかりだ。
「ホータロー。僕はね、摩耶花と付き合うことにしたよ」
唐突に話がS字カーブを描いたので、俺は思わず話のレールから脱線しかける。いや、脱線しかけたのは話の軌道の問題だけではあるまい。
なんだって、伊原と……付き合う?
先日のバレンタインデイの件を思い出す。里志は結局、結論を出せなかった。チョコレートを砕くことで体現したそれは、思考の停止ではなく懊悩だ。
里志と伊原の間の出来事に対して詮索するつもりも首を突っ込むつもりもない。ただ、あの事件は、俺にとってはどうにも意外なものだった。
俺が里志の人間評を見誤っていたというだけと言ってしまえばそれまでだが。
あれから一週間と少し。里志の中で何がどう変化したのか、感情の迷路から抜け出したのかは、里志が語るまで俺は知る由もない。ただ……。
俺は大きく息を吐いた。なぜだか心が楽になった気がした。
「よかったな」
思ったよりぼそりとした賛辞になってしまった。
「あぁ、ほんとにね」
答える里志もまた感慨深そうだ。
「随分大変だったろう」
「大変だった、なんてもんじゃない。大変なのさ」
「だから伊原を送ったのか」
里志は驚きの表情を作ったが、すぐに笑った。「ばればれか」と呟いて。
「送ったのは確かだけどね、だからってわけじゃない。もし答えが出ていなかったとしても、僕は摩耶花を送っていったよ。
ホータロー、これからちょっとクサいことを言うけど、いいかな」
「お前が恥ずかしくないならな」
「手厳しいなぁ。僕はね、摩耶花を守りたいんだ。A君が誰かを傷つけてまで、内申や、進路を守ろうとしたみたいに。
守りたいものは誰にでもあるものさ。ホータローにだって、そうだろう?」
言われて、暫し考える。そうだろうか。俺にとって守りたいもの。何が何でも、背後に置いておきたいもの。
省エネというポリシーは、もしかしたらそれにあたるのかもしれない。しかし里志の示すそれは決して抽象的なものではない。具体的なもので、何か。
「……」
「ホータローがどうしてこんなことをしたのか。折角だから考えてみればいいんじゃないかな?」
里志はトレイを持って立ち上がる。帰るのに否やはなかった。ただ、それでも聞いておかなければいけなかった。
「お前は、わかってるのか? どうして?」
「まったく……」
人差し指を一本立てる里志。
「摩耶花の言っていた言葉をプレゼントしてあげるよ。
朴念仁、だってさ」
千反田は勘違いしているが、俺は推理なんてできないし、していない。ただ推論を積み重ねているだけだ。そのうち一つや二つが偶然当たっていたとしても、下手な鉄砲数打ちゃ当たるという格言のとおりに過ぎない。
里志が摩耶花の帰りを図書室で待っていたというのも、A君の電子万引きも然り。自分のしていることが決して特別なことではないのだと言い聞かせなければ、また「女帝」のときの二の舞を踏む。
そう。あれは苦い思い出だった。おだてられ、のせられ、ポリシーを自ら見失った結果があれだ。
やるべきことは手短に。
認めなければならない。俺はまたしても、ポリシーを見失いかけている。
手短に済ませる手段はいくらでもあったはずだ。警察に渡してしまえばよかった。誰のものかわからない携帯電話をいつまでも持ち続けるなど、それこそ占有離脱物横領罪――ネコババだ。
こんなに自分のことがわからないなんてことは、いまだかつてなかった。もとより自分探しなんてものには縁がなかったから。
ポリシーを守るのは今からでも遅くないと信じたかった。最早何かが致命的に遅れてしまっているのだと、そんな直感に目を瞑りながら、俺は総務委員会室の扉を開ける。
扉をスライドさせる音は思ったよりも大きく響いた。いま、学校に人気は少ない。依然暴行魔は捕まっておらず、そのため殆どの部活や委員会が活動を停止しているからだ。
「……」
女生徒が一人、驚いた様子でこちらを見ていた。総務委員会も他と同じく活動停止中であるとは里志から聞いている。まぁ、一人部屋にいることについて言及するつもりはない。言い訳の一つや二つくりは考えているはずだ。
別に俺は詰問しに来たわけではないのだ。役割は、善意の第三者にすぎない。
警察に渡さなかった代わりに、彼女に渡すというだけ。
「すいません、いま大丈夫ですか?」
白々しい声だと自分でも思った。女生徒は眉をひそめたが、俺の手に収まっている携帯電話を見て、目を見開く。
「これ、落し物なんです。携帯電話って総務委員会なら照会できるって聞いたんですけど」
「……はい、大丈夫ですよ。こちらで預かっておきますね」
「わかりました。ありがとうございます」
携帯電話を渡し、反転。扉を閉めようと取っ手に手をかけたところで、女生徒から声がかかった。
「……ところで、中身は見ましたか?」
「まさか、見てませんよ、『蟹田』さん」
扉が閉まる。
総務委員会室を後にする速度は、いつもより少し速かった。
これで大丈夫だ。
下駄箱に差し掛かったあたりで、そう胸を撫で下ろしている自分に気がついた。出所のわからない笑みが自然と浮かんでくる。
警察はだめだった。それは結果論かもしれないが、今ならそう断言できる。
遺失物が本人の手元に戻るまでには時間がかかる。
あの携帯電話に着信がかかってこなかったところを見ると、A君は警察に届けられた可能性を高く見積もっていたのだろう。電子万引きの動かぬ証拠がずらりと並んだ携帯電話に電話をかけ、のこのこ引き取りにいく選択はとれなかったに違いない。
暴行魔――A君の凶行を止めるには、A君のもとへ携帯を届けてやるしかない。しかし、達成するためには二つのハードルがある。
まず、A君と面会するわけにはいけないということ。事件の流れを考えれば、A君はかなり自己保身が強い性格だ。彼を特定して携帯を返したとして、中身を見ていないことを証明するのは難しい。
候補者を次々と殴り倒す人間だ。電子万引きがばれる原因になりうる存在を、そのまま放っておくとも思えない。
必然、携帯電話を返却する方法は、第三者の手を介すことになる。
同時に俺たちはA君の顔も名前も知らない。どうやって彼の元へ届ければいいか、それが第二のハードルである。
この問題は第一のハードルと密接に関わっている。俺たちはどうしても、A君に「俺たちがA君の身元を知っている」ことを知られてはいけなかった。もっと言ってしまえば、俺たちはA君の身元を知るわけにはいかなかった。
これは矛盾である。返却したいのに、返却先を知ってはならないのだ。郵便物はあて先を書かねば届かない。子供だってわかっている単純な真理だが、俺たちの前にはその真理が立ちふさがっている。
と、そこまで考えて、「俺たち」という思考に思わず苦笑が漏れた。俺と誰で俺たちなんだか。
真理を乗り越えることなど到底できはしないように思われた。一見してできないことに労力を割くのはエネルギーのロスだ。それは俺の好むところではない。
ならばアプローチを変えるべきだろう。もしくは、一旦別の視点から見るべきだろう。
たとえば、どうしてA君は、標的を見つけることができたのか、とか。
神山高校はマンモス校と呼べるほどの規模ではないが、それでも周辺の学生ならば自然と入る受け皿で、その数は決して少なくない。
その中から、女生徒だけに限定するとはいえ、外部の人間が同じ携帯電話を所持している生徒を短期間で洗い出すことなど不可能である。内通者がいない限り。
その内通者も、単なる生徒ではだめだ。携帯電話の種類と持ち主を、一覧で把握できる人物。
携帯電話の管理は総務委員会の仕事である。
里志に尋ねればあとは簡単だった。蟹田諒子。そいつが携帯電話のリストを管理しているらしい。
総務委員であれば誰でも見ることはできると里志は言っていたが、であるなら虱潰しに探せばいいだけだった。一発であたりをひいたのは、まぁ日ごろの行いのなせる業、ということだろう。
とはいえ、彼女が一番可能性は高いと思っていた。何故ならやつは最初の犠牲者のクラスメイトだったからだ。
なくしたその晩に誰かが襲われるというのは少し性急に過ぎる。最初の事件だけが、リストの用いられる猶予がなかった。最初の被害者の携帯電話を知っていたものが、内通者の可能性は高くなる。
蟹田諒子とA君がいかなる関係にあるのか、なぜ犯罪に加担するような真似をしたのか、それは俺が関わっても仕方のないことだ。日本の警察は優秀である。俺くらいが気づくことに気づいていないとも思えない。
「ふぅ」
大きく息を吐いた。
A君は自分の将来を守りたかった。蟹田諒子は、恐らくであるが、A君を守りたかった。
里志は摩耶花を守りたかった。
では、俺は。
俺は誰を守りたかったのだろう。
そもそも、誰かを守りたかったのだろうか。
推論を重ねることによって、助かった人間が、救われた人間が、果たしていたか。
校門を出ようとしたとき、門扉に寄りかかった千反田を見つけた。風になびく黒髪はまるで絵画のようで、卑怯だ、と不思議な感想を覚えてしまう。
「折木さん」
「まだ帰ってなかったのか」
「はい。父親が車で迎えに来てくれるそうなのですけど」
「途中まで送ろうか」
「ふふっ、珍しいですね。折木さんがそう仰るのは」
そうだろうか。俺にだって、このご時勢で女子を一人にさせないくらいの男気はある。
「ご心配ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。これがありますから」
千反田はそういって携帯電話を見せてくる。
銀色に光る携帯電話を。
奇しくも、俺が拾ったものと同機種のそれを。
「……そうか、なら安心だ」
困ったふうにならないように、俺は努めてそう言った。
日差しが思いのほか暖かい。そろそろ春がやってくるのだ。
END
67 : ◆yufVJNsZ3s - 2014/12/27 18:23:55.33 bTDiL5Hz0 66/66――――――――――――――――
おしまい
一年半ほど前にエターなったものの再投稿でした。
ミステリは難しい。人が死なないなら猶更です。バトルばかり書いているから輪をかけて。
読了ありがとうございました。