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杏子「あたしの恋はベリーハード」【前編】
第八章 激動
「ばっかもーん!!」
クウカイとの合併交渉に失敗し、手ぶらの帰社をした穴子に、耳がキンキンと痛むほどの波平の叱責が襲いかかった。
「穴子君、君は一体何をしに京都まで行ったのだ? 寺でも観てきたのかね?」
穴子は脂汗に溺れそうになりながら、
「申し訳ありません…」
震える声で謝罪した。
「クウカイとの合併が白紙に戻った今、わしが社長在任中に、ローションを抜く手立てはあるのか?」
なじるような波平の質問に、穴子は内心、そんな事知るか、と思いながらも、
「…全力を尽くす所存です…」
あくまで低姿勢で応じた。
「だいたい、我々より格下のサークル杏に合併話を持っていかれるなど、どういう事なんだね? 京都であった事を説明したまえ!」
波平が興奮を抑えこむように腕を組み、革張りの椅子にふんぞり返りながら、言い放った。
「いや、もう、どんなに圧力をかけても、ただのらりくらりとかわし続けられ、ある日突然合併はサークル杏とすることになったと言われ…」
「ばっかもーん!!」
穴子のしょうもない報告に、また波平がぶち切れた。
その後、30分以上に及ぶ波平の小言を聞き流しながら、穴子は京都で自分が舐めた屈辱の味を反芻していた。
…
穴子がクウカイ本社に到着して感じたのは、この企業を説き伏せるのはちょろいものだろうという楽観であった。
経営が行き詰まっているクセに、どこにも緊張感が感じられなかったのである。
それは問題が解決したか、ただ単に企業自体が無能の集まりであるかのどちらかであることを示している。
勿論問題が解決したなどという情報はどこにもなく、クウカイという会社の成り立ちを考えると、
日本全国にあり、壇家から無尽蔵にカネを搾り取る寺がバックに付いているという一見、安定型の体制であった。
それに甘えきり、無能の集まりになっているからこそ、
経営は火の車であり、同業他社が吸収の機会を狙っている状況にあるのだということが、恐らく飲み込めていないのであろう。
「マミリーマート、専務取締役の穴子です」
「よう来はりましたなあ、粗茶でもいかがどす?」
応じたのはクウカイの専務、智泉3世であった。
「お茶なんか出している余裕がおありですかな?
聞いたところによると、あなた方のチェーンの経営はかなりの行き詰まりを見せているとかで、
もうそろそろ、我々のような大会社の軍門に下ることも、念頭においておいたほうが賢明であると言うことですがねえ」
穴子の脅しとも言える忠告であった。会談ののっけからこのような重い話題を浴びせかけると、大抵弱い会社はグロッキーするのである。
しかし、
「まあまあ、そうビジネスの話ばかりではお疲れになりますやろ。
宇治茶の上質なのがありますよって、
今、たてて差し上げましょ。 しばしお待ちいただけませんですやろか?」
智泉3世は穴子を茶室に案内し、手順に従ってゆっくりと抹茶をたて、穴子が一気に飲み干すのを待ってから、
「それでは私は所要がありますので」
と言って、次回の会談の日程と場所を一方的に押し付け、居なくなったのであった。
それからは、寺巡りであった。
珍念とか言う案内の坊主と、智泉3世とが穴子を会談と称して著名な寺に連れ出し、
珍念のガイドで、まるで観光さながらであった。
穴子がビジネスの話を持ちかけると、
「そんな話より、この大層美しい庭をみてみなはれ――」
と、そんな具合であり、一向に話は進まないのであった。
そんな時である。 サークル杏社長となっていた野比と出会ったのは。
「これはこれはマミリーマートの穴子専務。 サークル杏の野比です」
苔寺とか言う、ジメジメした寺を観光していたときのことであった。
穴子は同業他社の社長が直々に京都入りをしていたことに驚いたが、何とか平静を取り繕って、
「おやあ…サークル杏の野比社長、あなたもクウカイを欲しがっているのですかな?」
聞いたのだが、
「僕はただの観光ですよ」
あっさりと流されたので、毎日の寺巡りでストレスが溜まっていた穴子は、格下の会社をいじめてやろうと、
「そういえば君のところはあの杏子ちゃんとか言うガキを社長から下ろしてから、ずいぶんマトモになったみたいじゃないかねえ?
僕達もうかうかしていられないよねえ…さっさとクウカイを吸収して、無謀にも見滝原に進出するという君たちサークル杏を迎え撃つ体勢を取らなきゃあねえ…」
嫌味たっぷりに牽制をしてやった。
穴子は自分たちのところが手こずっているのだから、格下のサークル杏がクウカイをモノに出来るなどとは、露程も思っていない。
それにサークル杏の母体はキリスト教系の新興宗教団体であり、
仏教系であるクウカイとは、最も近付きづらい組織であるという考えもあった。
「ほう、あなた方がクウカイを吸収するのですか! それは羨ましい限りだ! 僕達じゃあ、吸収なんてとてもとても…!」
今になって考えて見れば、野比は大袈裟に驚いた格好をし、そう言ったのだが、大規模な企業の後ろ盾を得、有頂天になっていた穴子は、
「ハハハッ、サークル杏とは規模が違うよ、君ぃ!」
傲頑に笑い飛ばし、言い放ったのであった。
野比はマミリーマートさんにはかないませんなあ…とか言って恭しく一礼し、消えていった。
穴子は格下の会社を虐め、交渉が全く進まなかった今までの鬱憤が少しでも紛れたのに気を良くし、
寺を見物してから、帰路の車内で吸収を断るなら倒産しかないと坊主を脅し、ホテルに帰ったのであった。
ホテルに付いて、シャワーを浴びていたら、携帯が鳴った。
「もしもし、穴子だが」
「穴子専務ですか? クウカイ吸収合併の話ですが、どうなっています?」
久兵衛であった。 彼らしくもなく、焦っているようであった。
「まあ、京都流の、のらりくらりと結論を伸ばすやり方にてこずってはいるが、どうしたんだい? そんなに慌てて…」
「サークル杏が、クウカイとの合併を画策しているらしいんです…」
穴子は、京都に来ていた野比のことを考えて背筋が凍るような思いをしたが、藁にもすがる思いで、
「そんな事ってあるのかね? キリスト教系の奴らが、仏教系のクウカイと合併などと、馬鹿な事が…」
ひきつる顔を何とか作り替え、形ばかり笑い飛ばしたが、
「どうもこの合併話に、鹿目常務が一枚かんでいるらしいのです。
見滝原進出の見返りに、クウカイと結びつける…ありえない話ではないと思います」
トドメのような久兵衛の言葉に、穴子の血の気が引いていくようであった。
その後、すぐに車を飛ばしてクウカイ本社を訪れ、社長である弘法3世を問い詰めると、彼は当たり前のように、
「合併はサークル杏さんとすることにいたしましたわ。
彼らはあんたがたと違い、新しい店舗名にクウカイの名を残してくれはるし、
なにより京都、奈良など我々のお膝元の店舗は、サークル杏の名前を出さずに、
今まで通りクウカイとしてやっていけるとまで言ってくれはったんやから、ありがたい事ですわ」
穴子は、目の前が真っ白になっていく己の視界に、平衡感覚をぐらつかせ、その場にヘタリ込んだ。
「おやおや、お客さん、お茶でもいかがどす?」
ぶち切れた穴子は、場所もわきまえずに「要らん!!」と叫んで、ホテルに戻り、
「くおおおおおおっ!! 畜生!! 畜生!! ちーくしょーう!! 鹿目えええええっ!!」
合併がうまく行かなかったのは自分が完全体では無かったからだと、キャラ違いの自責にかられ、
自室で転げ回りながら、詢子への怨嗟を呻き通したのだった。
穴子は見滝原に帰ると、社長に会いに行く前に、すぐさま久兵衛と接触を持った。
「情報が遅れてしまい、申し訳ありませんでした」
久兵衛は狼狽しきっていたが、穴子は彼を叱責する気にもならなかった。 それより気になっていたことは、
「僕はこの失敗で降格になるのかね?」
と、自らの保身であった。
「それに付いては僕や河豚田専務が根回しをしておきます。 それより鹿目常務の事は、社長には言わないようにしたほうがいいでしょう。
彼女への報復は、今夜料亭で、僕らの秘密会議で話し合うのです」
「当然僕もそのつもりだよ。 会社の決定事項は料亭での秘密会議後に、漸くあの老害に下ろすことにしているんだ。
身内が他社に塩を送ったなどと言うことを社長に話すと、大袈裟に騒ぎ出したりするかも知れない。
そんな無様なところや、役員から裏切り者が出るような社内の状況を新聞記者なんかに嗅ぎつけられたら、
我が社の株価はどうなるか分かったもんじゃないからね」
それだけ確認をすると、久兵衛は頷いて、穴子を社長室に押しやったのであった。
「久兵衛さんですね?」
穴子との話し合いを終え、今回の事態の火消しに走り回っているとき、
後ろから自分を呼び止める声に振り返ると、最初に視界に飛び込んできたのは警察手帳であった。
「おやおや、可愛い刑事さんが、僕に何の用だい?」
「見滝原署性犯罪担当の暁美と言います。 少しお話がしたいのですがよろしいでしょうか?」
久兵衛は穴子の保身のため必死だったが、気を取り直し、警官に声をかけられている状況に有り得ない程のリラックスモードで、
「デートのお誘いなら、喜んで」
陰茎を勃起させ、ニヤニヤしながらそう答えた。
「デートでもなんでも構いませんが、質問に答えていただけますね?」
ジョークの通じない女刑事の顔を見、久兵衛は歳に似合わぬその冷たい目から、この女は人を殺したことがあるな、と、気が付いた。
性犯罪担当の若い警官が人を殺したとなると、その相手は変態紳士しかいない。
捜査の手が回ってきたのだと、久兵衛は思ったが、だからどうなるものでもなかった。
「はいはい、何ですか?」
久兵衛は余裕をぶっこいてあくび混じりにそう答えた。
「マミリーマートでの常軌を逸した時間外労働と、労働者が服用しているジーエス、と呼ばれている薬剤についてお聞きしたいのですが」
「僕は知らないね」
ポーカーフェイスで即答した久兵衛だったが、
「滝ノ台中条店の店長から、あなたが20時間労働の契約をアルバイト店員と交わし、錠剤を渡していたという供述を得ておりますが」
暁美巡査も無表情で応答した。
久兵衛は滝ノ台中条店の、気の弱そうな店長の顔を思い浮かべ、
今夜にも、リンチした後おもりを付け、港に沈めてカニの餌にしてやろうと思った。
「全く身に覚えが無いねえ…僕みたいなスーパーバイザーは、雇われ店長どもにずいぶん忌み嫌われているからね。
連中、何かマズイ事があるとすぐ僕らの名前を出すんだ。
僕らも本社では下っ端扱いでねえ、ずいぶん苦労しているっていうのに、酷い話だと思わないかい?」
同情を誘うように言った久兵衛の言葉を無視し、暁美巡査は、
「とにかく、詳しく話を聞きたいので、署まで同行願います」
任意同行を求めたが、久兵衛は、
「僕も忙しくてねえ…署まで来て欲しいんだったら、ちゃんとした令状なり書類を揃えて来てくれよ。 それが出来るなら、だけどね」
余裕たっぷりにそう答え、悠々と歩いて行った。
ほむらはその様子を見、コイツが一枚かんでいるに違いない、と確信した。
変態紳士はほむらが殺処分した3例目からぷっつりとその出現を途絶えさせていたが、
3例を調査し、その全てがマミリーマートのアルバイトであることを突き止め、
ほむらが独自に動いた結果、滝ノ台中条店店長がゲロし、今日、久兵衛にたどり着いたという次第だった。
「暁美君、君、今日マミリーマートの社員に任意同行を求めたそうじゃないか」
ほむらが署に戻るなり、ボスに呼びつけられ言われたのがこの言葉だった。
ほむらは、ついさっきのことを何で知っているのかと、不気味な不自然さを感じた。
「変態紳士の事件に当該社員が関係していると思い、話を聞いてみようと…」
「熱心なのはいいが、そう言うのはねえ…謹んでもらわないと」
ボスは責めるような口調と態度を持って、ほむらを圧した。
「しかし――」
「こういう捜査はね、腰をすえてやらねばならない。
我々も裏付けを進めていたのだが、今日君が独断で動いてしまったことにより、それが相手に知られてしまったかも知れないんだよ」
反論を遮られ、叱責された内容に、ほむらは一理あると思った。
ボスに対する、申し訳ない気持ちと、自分の軽はずみな行動を後悔する気持ちが混ざり合い、
ほむらは自分が小さくなっていくような気分だった。
「申し訳ありませんでした。 以後、このような事が無いよう、気を付けます」
「まあ、君が熱心なのはいい事だ。 問題はそれが行きすぎてしまったという所にある。 つまり、誰も悪くないのだ。
というわけで今後は、きちんと足並みを揃えるために、捜査に関しては僕の指示意外では動かないようにして欲しい。 いいね」
なにか処分があるかと肝が冷えたが、寛大なボスの言葉に、ほむらは彼に対する尊敬の念が温かく胸の内に生じるのを感じていた。
「了解しました。 今回の件を報告書にまとめてありますので、ご一読下さい」
ほむらは報告書のデータが入った記憶媒体を、ボスの机に置いた。
「分かった。 これからも頑張ってくれ。 君には大いに期待しているからな」
ほむらはこみ上げる嬉しさに、顔が綻ぶのを必死に堪えながら一礼し、ボスのデスクを離れた。
マミは、マンションに帰るとすぐ、紅茶を淹れ、独りぼっちで飲み始めた。
しかし、焦りのような、緊張のような、胸を締め付ける悪い予感に味も香りも相殺され、一口すすった後は、
ただただ、その琥珀色の温もりが次第に冷めていくのを眺めているだけであった。
潰れそうな胸に溜め息で抗うが、そのたびにのしかかる重苦しい沈黙と虚しさに、夕暮れ時の外の景色のように、心が暗く沈んでいく。
今日、久しぶりに本社の監視員が店の様子を見に来たが、それは久兵衛ではなかった。
その時胸に植えつけられた何かが、マンションに帰り、独りになった瞬間に芽を出し、胸を締め付けながら成長していくようであった。
久兵衛はどうしたのだろうか?
――転勤? ――配置換え? それとも――何?
誰も答えることが出来ない疑問は、心を沈める重みとなって沈殿していく。
そして自分が久兵衛のことを全く知らないのだという事実が、さらなる重みとなって、のしかかる。
寂しいのは、いつもだった。
家に帰れば、いつも独りだったからだ。
しかし久兵衛が居なくなってしまったかも知れないという事実がそれに加わると、
世の中そのものに捨てられたような、孤独以上の、絶望が襲ってきたのだった。
それは親戚に体を売るように言われたときの、あの絶望と等質であった。
マミは昨日、看板娘を辞める手立てを見出した。 それを今日、来るはずだった久兵衛に伝えようと思っていた。
さやかの友達で、鹿目まどかと言ったか――彼女こそ、看板娘にふさわしい逸材だった。
人事のことは店長に相談すればいい筈だったが、何故か言えなかった。 久兵衛でなければいけない気がした。
契約の時、久兵衛が言ったのだった。 男っけがあると、看板娘としてはあまりよくないと。
それは器用な方ではないマミにとって、看板娘で居続ける限り、異性とは付き合うことが出来ないという事に等しい条件であった。
だが、代わりが見つかった――そう伝え、異性との付き合いが可能になった自分を見て、久兵衛がどういう反応をするのか、見てみたかった。
見てどうするのかはわからなかったが、とにかくそうしたい衝動がマミの中に凄まじかった。
しかし、久兵衛がいないとなれば、それは叶わないのか――そう思うとまた、急速にすべてがヤケクソに堕するような絶望に襲われる。
――でも、と思う。
でも、明日は来てくれるかも知れない。 何事も無く、いつもの久兵衛が、ひょっこり現れるかも知れない。
今日来られなかったのもきっと、風邪を引いたとか、そんな理由だろう。
どうして今日、久兵衛の代わりに来た監視員にそれを聞かなかったのだろうと思う。
そして明日、店長に久兵衛のことを聞いてみようと思う。
それを聞いたら、安心出来るはずだ。
マミは、いつの間にか流れていた涙を拭って、冷めた紅茶を飲み下した。
夜、いつもの料亭で久兵衛を除く役員達が、会合を開いていた。
「久兵衛君は、何故遅れているんだい?」
「野暮用、って言っていたけど…」
社長から叱責され、その怒りが尾を引いている穴子の問いに甚六が答えたが、その後はまた、沈黙が場を支配した。
彼らもまた、久兵衛を待っているのであった。
彼が来ないと、話が進まない。 最早久兵衛の存在感は、そこまでになっていたのであった。
障子の開く、音。 一同の視線が吸い寄せられた。
「やあ、待たせたね。 始めようか」
「久兵衛君、今日の遅参は――」
噛み付くような、穴子の問いを遮り、
「今日、刑事にいろいろ聞かれてね、その後始末さ」
久兵衛の放った言葉に、一同が緊張した。
「事情聴取されたのかい?」
甚六が、ありえない、というふうに問うたが、久兵衛はまあそれはおいおい、と言って、話題を変えた。
「まあそれはおいおい…伊佐坂常務、一連の動きについて、説明をお願いしますよ」
甚六が、一息付いてから、報告を始めた。
「サークル杏進出について、それからあそこがクウカイと提携したことについて、
それらはすべて、鹿目常務の手引きであることが判明してしまった」
それを聞いた一同は、苦虫を食わされたような顔つきになった。
「鱒雄さんに調べてもらったところ、鹿目詢子が常務昇進を果たした一昨年からとりあえず去年まで、彼女が休暇を取った日を精査したところ、
その理由に家族旅行、とあるのが6日分あったが、
見滝原中学校に問い合わせたところ、彼女の長女はいずれの日も登校していることが判明した。」
「つまりズル休みだったということさ」
鱒雄がいつもの調子で、ニコニコと注釈を入れたが、それが場を和ませるには、雰囲気は悪すぎた。
「それでね、僕の方で鉄道会社から防犯カメラの映像を、
警察経由で借り受け、チェックしてみたところ、どんぴしゃり、鹿目常務が写っていたんだ。
彼女は一人で京都行きの新幹線に乗り、京都駅で降りているところまで確認出来た。
なんと彼女は、ズル休みを使って、泊り込みで1回、日帰りで3回、京都に行っている事が判明したんだよ!」
甚六が興奮気味に続けようとしたが、それを勝雄が遮り、
「僕の方でサークル杏を探ってみたところによると、見滝原進出も、合併話も、うちの役員が手引きしたという事だった。
その時応対したのは当時専務だった野比のび助ただ一人で、
彼と接触したといううちの役員については彼以外誰も知らないみたいだったけど、もうそれが誰なのかなんて考える必要も無いよね」
腹立たしさを顕に、言った。
「それは僕の方で調べた事柄とも一致し、すぐに京都出張中の穴子専務に情報を流したんだけど、
結局、既にサークル杏とクウカイは合併に関する話し合いを完了させていて、専務には無駄足をさせてしまいました。
先の会合の際、専務がカンを働かせ、鹿目常務が怪しいとおっしゃったとき、
彼女を拉致監禁し、リンチしてでも吐かせていたら状況は違ったものになっていたかも知れないのに、
僕の中にも、まさか身内がそこまでするはずがないという甘い考えがあり、こんなことになってしまった。
これは僕のミスでもあり、穴子専務には多大な迷惑をかけてしまった。 それについて、深くお詫びいたします」
久兵衛がそう言い、深々と、穴子に頭を下げた。
「それで、これから一体、どうするのだね?」
穴子も、自分の保身のために動いてくれた久兵衛には辛く当たることが出来ず、興奮を抑えつけるように言うと、久兵衛は面を上げ、
「その前に、少し話題が脱線しますが、よろしいでしょうか?」
問うたが、穴子はその無表情を一瞥し、取り繕うような威厳を持って黙殺した。
久兵衛はずぶとい神経でそれを肯定と受け取り、穴子に謝っていた先程とは打って変わったおぞましい表情を作り、続けた。
「実は今日、可愛らしいデカに任意同行を求められましてねえ…
何でも滝ノ台中条店の店長がぶっ続けとグリーフシードについて、その女刑事にゲロしたらしくてですねえ…
適当にあしらって、その後天下りの社員に連絡して、見滝原署の方に釘を刺してもらっておいたから何とか大丈夫でしょうが、
流石にこう言う事はちょっと困るので、伊佐坂常務、今度からは口の堅い人間に店長をやってもらうようにしないと、困りますよ」
久兵衛から脅しを掛けられた甚六は、緊張した面持ちになり、
「ああ、分かった。 滝ノ台中条店の店長にも、よく言っておく――」
「その必要は無いね」
話を遮られ、えっ? と、停止した甚六に、ニヤリと不気味に顔を歪めた久兵衛が続ける。
「滝ノ台中条店店長ね――彼、もう居ないから」
一同の顔が、青ざめて引きつった。
「…どういう事かな…?」
何とか口を動かし得たのは、勝雄であった。
「今頃は港の底で海の生き物達の餌になっているんじゃないのかな?」
その一言に、再び冷たい緊張が広がった。
先程久兵衛に対し、尊大に構えていた穴子すら、土のような顔色に、脂汗の玉を浮かべている。
久兵衛は事の重大さを、役員達が飲み込んだのを確認してから、また語りだした。
「いいかな、僕達は、はっきりとヤバいことをやっているんだ。
天下りを受け入れたから大丈夫とか、そういうデタラメは、もうやめたほうがいい。
僕の方でグリーフシード代謝物質の解毒剤を開発し、今のところ発狂する社員は居なくなったが、
解毒剤使用後の個体は体が弱っているのか働きは鈍くなるんだ。 それに非正規労働者は使い捨てが一番だから、
サークル杏の事が一段落したら、この解毒剤、使うのを止める事にするよ。
そうなった時、警察がいつ、牙を剥いてくるか分からない。 今日のデカみたいのも居るしね。
さっき天下りパイプを通じて情報を仕入れたところ、あのデカはよほど嗅覚がすごいらしくてね、だいたいのスジは掴んでるみたいなんだ。
天下りどうこうと言っても、証拠を押さえられてしまえば、パクられるしか無いからね。
何が言いたいかというと、グリーフシード関係の組織は会社から離し、僕の方で一手に引き受けるようにする、ってことさ。
僕ならカタギじゃないから、警察のあしらい方も慣れているからね。
その上で、会社はそのサポートという形で、天下りなり、何なりで警察や役所をなだめておいて欲しい」
一息付いて、久兵衛が座をぐるりと見渡すと、静寂の中に各員がゴクリと唾を飲む音が聞こえた。
確認するように穴子に顔を向けると、小さく頷いて、久兵衛がグリーフシード関係を一手に引き受ける話を、肯定しているようだった。
会社としても、スキャンダルの種を抱えているより、久兵衛のような一個人に押し付けてしまえるならそうしたい話だった。
抑えていたはずの警察が動いたとなれば、尚更である。
「異論は無いようだね。
それでは、天下りの人脈を活用し、発狂者の駆除だけは、警察にやってもらえるよう、お願いしてもらえるかな?」
それを聞いた甚六が乾いた声で、分かった、と言った。
「それで、本題なんだけど――」
一同が、久兵衛にヒリついた視線を向ける。
「――鹿目常務の事は、我慢の限界だ――」
久兵衛はそう言って、ニッコリと微笑み、彼女に対する報復の決定を、おぞましい言葉にし、周囲にばら蒔いた。
今更ながらに実感した、自分たちの罪に圧倒されている役員の誰もが押し黙り、彼に対して異論を唱えるものは、一人として居はしなかった。
次の日、杏子は見滝原に到着して、すぐに雑居ビルの一室に構えている現地事務所に顔を出し、数名の社員たちに演説をぶちあげた後、
来年早々にオープンする予定の、店舗の建設を視察していた。
「すごい…もうほとんど完成しているのね」
妹が寝不足の、色の悪い顔に精一杯の喜びを浮かべ、言った。
「おう、本来は3店舗で協力し、マミリーマートの客を分散させる方針だったが、
設置可能なのが1店舗だけとなると、他店と少し離れている、緑ヶ丘店と競合するこの場所しか無かった。
ぐるりと車を巡らせてみたが、利便性はマミリーマート緑ヶ丘店より、このサークル杏見滝原店の場所のほうが断然いい。
何とかいい勝負になるとあたしは踏んでいるんだがな…」
杏子は腕を組み、自らが発案した最良の方針である3店舗同時進出は出来なかったものの、与えられた条件の中でアイデアを振り絞り、
その結果、決定したこの1店舗で、充分な勝負ができる筈だろうという不確かな自信を、何とか裏打ちし、自分に言い聞かせるように言った。
「いやあ、なんだろうね、この宗教っぽい色使い…この街の景観とは相容れない、おかしな建物が出来上がるみたいだねえ…」
周囲の人間に聞かせるような、大げさな声が上がった方を見ると、色白な、あくどい顔をした青年と目が合った。
彼は杏子たちを確認するなりニヤニヤしながら近寄ってき、
「君たちかわいいね。 僕と契約して、マミリーマートのアルバイト店員になってよ」
杏子の事を知ってか知らずか、ぬけぬけと言った。
「あたしら、あんたの言うこの宗教っぽい色使いのおかしな建物の関係者でね…」
杏子が妹をかばうようにし、その男を睨みつけ、押し戻すように言うと、男は大げさな身振りで驚愕を表し、
「ほーっ! それじゃあ君が、この見滝原に進出するという無謀な決断を行ってサークル杏社長を下ろされた蛮勇、佐倉杏子氏だね?
いやはや、経済誌の写真で見るよりさらにお美しかったものだから、気づかなくてねえ、申し訳ありませんでしたねえ…」
杏子の無能っぷりをその美貌と対比させ、周囲に披瀝するように大声を出した。
「うるせえ! 無謀かどうかは、結果を見ねえとわからねえんじゃねえのか?」
思わず大声を上げた杏子に、胸に久兵衛というネームプレートを付けたその青年はまた大げさなジェスチャーで身を縮め、
「ヒイ! 怖い怖い…社長を下ろされて、イライラしているのは分かるけど、八つ当たりされちゃあ敵わないねえ…」
そう言って、こそこそと逃げていった。
「何だ、あの胡散臭そうな野郎は…」
杏子はそう言って視察を続けたが、一介の平社員でしかなさそうな久兵衛に、
まるで重役のような存在感が感じられるのが不気味でならなかった。
「お姉ちゃん…私あの人…怖い……なんか、ヤクザみたいじゃない?」
杏子は妹のその言葉を黙殺したが、その脳裏には、昔、さくら会が小さな新興宗教団体でしか無かった頃の記憶が蘇っていた。
教会に逃げこんでくる人々――その多くは、金銭の悩みを抱えており、彼らの後を追うように、決まって借金取りのヤクザ者が教会を訪れた。
杏子の父は、ヤクザを決して中に入れず、借金まみれの者たちを匿い続け、
彼らに施しを与え続けていたから、みるみる教会は貧乏になり、杏子の一食がリンゴ半個の時もあったほどであった。
空腹に加え、昼夜を問わず押しかけてくるヤクザの荒々しい声に、杏子も妹も疲れ、怯えきっていたのだった。
妹も、その時のことを思い出しているに違いなかった。
いつしか杏子の感じていたそのひもじさや怯えは、怒りとなって弱い者いじめをするヤクザ者たちに向けられていったのである。
「あんなのが跳梁跋扈している状況なら、マミリーマートが悪の企業だってのも頷けるな。 ことさら許せねえぜ。 全力でぶっ潰す」
「お姉ちゃん…」
心配そうな視線を向ける妹に、杏子は安堵を促すように微笑みかけ、
「さくら会は、いつも弱い者たちの味方だったじゃないか。
そのさくら会が母体となったあたしらサークル杏が、悪の企業を打ち砕かなくてどうするのさ?
あたしらが見滝原を見捨て続けていたら、さくら会までもが冷たい団体だって思われちまう。
だからあたしらはここに来るしか無かったのさ。 野比達は単なる商売人だから、そこら辺が分かってねえ。
あいつらが進めているクウカイとの合併もいいけどさ、その前に、サークル杏最後の仕事として、この進出だけは、何とか成功させなきゃな」
キッパリと、自らの想いのほどを宣言した。
「うん、頑張ろうね」
妹は表情をほころばせてそう答えたが、内心では正義にこだわりすぎ、社長の座を追われ、ヤクザ者の脅しを受け、
荒れ狂う風圧にたった独りで揉まれているような姉が痛々しく、どこまでも心配であった。
第九章 報復
ほむらは、先程パトロール終了の報告をし、今日も独り、まどかの家を電柱の陰から監視中であった。
「まどか…良く見えないわ。 今日は何をしているのかしら?」
部屋の中に居るまどかは、時々動いているのがカーテン越しの影となって確認できるが、
覗きに使うカーテンの隙間は狭く、位置取りが少しでもズレると、
このようにもぞもぞ動く影だけでは何をしているのかわからないのであった。
隣の電柱に移動し、角度を変えてカーテンの隙間からまどかの行動を確認しようと、ほむらが動きだそうとしたその時、
黒塗りのセダンが鹿目家前に停止し、中から素早く、黒ずくめの男2名が飛び出してきた。
「…何かしら!? お客さんにしては変だけど…」
男が二手に分かれ、一人が裏口に向かったとき、ほむらはゾクリと冷たい感覚に震え、駆け出したい衝動に駆られたが、
『もう家には来ないでくれるかな』そう言った鹿目知久の言葉がほむらの筋肉に制動をかけ、彼女は一瞬、行動を遅らせた。
男の一人が玄関のチャイムを鳴らした。 ほむらはそれを見て、漸く駆け出した。
男がインターホンのマイクでなにやら言っているのが見える。
すぐに扉が開き、出てきたのが知久だったのを見、ほむらの動きがまた、鈍った。
男は懐から何かを取り出し、知久は唖然とそれを眺めていた。
ほむらの中の、嫌な予感が形を作った。 冷たい、鉄の形。
間に合わないと判断し、「危ない!!」と、ほむらが叫んだ瞬間に、
プシュッ、とガスが抜けるような音に、シャコーン、と、ブローバックの機械音が重なりあう、
サイレンサー付き自動拳銃の発砲音が響き、知久は支えを無くした人形のように倒れこんだ。
ほむらはホルスターから、変態紳士駆除用に支給された、サイレンサー付き自動拳銃を取り出し、
彼女の声に驚いたように振り返ったその黒ずくめの男に、躊躇なく鉛弾を撃ち込んだ。
「お、お巡りが居るなんて、聞いてねえぞ!!」
その声に振り返ると、黒セダンの運転手であろうチンピラが、ヒイ! と言ってそのまま車を発進させ、逃げていった。
言い争うような声がし、ほむらがしまった、と思い、急いで鹿目家に侵入したとき、ダイニングルームから、
サイレンサーに火薬音を消され、ブローバックの音だけになった発砲音がカシャン、カシャンと二発、聞こえた。
ほむらがダイニングの扉を開け放つと、仲間だと思ったのか、黒ずくめがニヤリと彼女を見上げた。
その顔がほむらを認めて引きつった瞬間、彼女の体に響く反動とともに、黒ずくめは絶命していた。
「お義母さん!! タツヤくん!!」
ダイニングでは詢子と、タツヤが血みどろで倒れている。
生存が絶望視されるとほむらが判断した時、倒れた詢子がううっ…と、転がるのが見え、ほむらは彼女の方に駆け寄った。
「お義母さん! 大丈夫ですか!?」
詢子は薄目を開け、震えながら血に濡れた胸を抑え、ぎこちなく呼吸をしていた。
「…タツヤは…」
「タツヤくんは、大丈夫ですよ!」
とっさに衝いて出た嘘であった。 詢子はそれをはっきりと感じ取ったらしく、
「あんた…嘘が下手だねえ…」
最期の力を振り絞るように、引きつった笑顔を作った。
そして、首にかけられていたペンダントを引きちぎり、震える手で、それをほむらに差し出した。
それが何かはわからなかったが、ほむらは反射的に両手で詢子の手を包みこみ、頷いた。
「…あんた…警察だろ…? ホントは…信用出来ないけどな…嘘が下手な奴に…悪い奴は…居ない…から…」
詢子はそう言って、大きく溜息を吐いた後、
「まどか…」
娘の名を呼び、ゴボリと血を吐いてこと切れた。
「…まどか!」
ほむらは署と救急に連絡して2階に駆け上がり、まどかの部屋の扉を叩き、
「警察です! 大丈夫ですか!? 開けてください!!」
そう叫んだが、一向に返事はない。
ほむらはまた寒気に震え、それに抗うように、思い切って扉に体当たりを掛け、開け放った。
「…まどか…!」
まどかのベッドが膨らんで、震えている。
ほむらは駆け寄って、布団を被っているまどかを優しく撫でたが、彼女はビクっと体を硬直させ、さらにガクガクと震えだした。
「まどか…私よ…暁美ほむらよ…あなたを助けにきたの…」
ほむらが優しく語りかけると始めて、まどかは涙に濡れた顔を恐る恐る布団から覗かせ、
「ほむら…ちゃん…?」
と、反応してくれた。
「そうよ、暁美ほむらよ。 警察官になって、あなたを助けに来たのよ」
安心させるようにそう言うと、まどかは無念そうに目を閉じ、涙を頬に追いやって、うっうっ…と嗚咽し、
「ほむらちゃん…パパが…パパが…」
と、また泣き出した。
ほむらはまどかのその様子に、見てしまったのか…と、辛い気持ちに襲われた。
自分が、楽園追放事件の事にこだわって行動が遅れたせいで、知久始め、まどかの家族が死なねばならなかったのかも知れないと思うと、
ほむらは自分を責める意外に気持ちの整理のつけようを知らなかった。
「ママは…? タツヤは…?」
ほむらは、まどかの問いには答えられず、ただただ、震えるその体を抱き寄せる事しか出来ない自分を呪った。
「酷いよ…こんなのあんまりだよう…」
そしてまどかは、そんなほむらの様子にすべてを察知し、また、悲しみをぶちまけるように、ほむらの胸で泣き声を上げた。
「嫌だあ…もう嫌だよ…こんなの…うわあああああん…」
ほむらはまどかを抱きしめる、その手に力を込めることしか出来ない自分の無力を重ねて呪い、いつしか、その顔は涙に濡れていた。
まどかを保護し、署に戻ったほむらは、すぐさまボスに呼び出された。
「何故君は事件があったとき、その場にいたんだね?」
一家惨殺事件に居合わせ、殺されていたかも知れない娘を保護したというのに、そんな自分を責めるような苛立たしげなボスの言葉を聞き、
ほむらは猛烈な違和感に眉をひそめ、以前感じた尊敬の念はその違和感の中に、瞬時に掻き消えた。
警察は信用が出来ない、と言った詢子の最期の言葉が蘇ってくるようであった。
「あそこは、旧友の家でしたので、仕事帰りに寄ってみようと…」
「まあいい、君はパトロールの後でもあることだし、疲れているだろうから今日は一旦帰りたまえ。
また明日、状況について詳しく聞く事にしよう」
まるでほむらが居続け、捜査に加わると邪魔であると言わんばかりの口調であったが、
署に連れてきたまどかの事を考えると、自分ばかりが仕事を続け、彼女をほったらかしにしておく訳にも行かなかったので、
「了解しました」
と言って、引き下がることにした。
「まどか、帰りましょうか」
ほむらの声に反応し、向けられたまどかの顔は、未だ涙に濡れ続けている。
「おうちに、帰れるの?」
ほむらは首を左右に振り、待合室の長椅子に腰掛けていたまどかに視線の位置を合わせるように屈み、
「まどかのおうちは今、捜査が行われている最中だから帰れないの。
だから不便だと思うけど、しばらくは私のおうちであなたを保護することにしたわ。 もしあなたがよければ、だけど」
そう言って、確認するようにまどかを見やると、彼女は視線を重ね、小さく頷いて了承してくれた。
「じゃあ、帰ろっか」
ほむらがまどかの手を取り、彼女を立ち上がらせようとした時、
「ねえ、罰なのかな…これって」
まどかが小さく、そう呟いた。
「きっと私が怠け者で、働かないで家でお嫁さんごっこなんかしてたから…罰があたちゃったんだ…」
自分を責めるまどかの声は、ほむらの胸にグイグイと食い込んでくるようであった。
「それは違うわ!」
ほむらは自らの無力を振り払うように、はっきりと言った。
「まどかのせいなんかじゃないわ。 悪い奴がいて、みんなそいつらのせいなの。
捜査が進めば、真相がきっと暴かれるわ。 まどかのせいなんかじゃないの…だからそんなに自分を責めたりしないで…」
まどかは泣きながら、うん…うん、とか細い声で返事をし、頷いていたが、その声の響きは、はっきりと自らを責めており、
ほむらはまどかが声を上げる度に、その胸を強く打たれた。
久兵衛は、鹿目家皆殺しが失敗したことを知り、突沸する感情に突き動かされ、手近にあった壁を思い切り殴りつけた。
「なんでいるはずのない警察官が現場にいたのかなあ!?
しかも聞くところによると、またしてもあの暁美ほむらだと言うじゃないか!!」
普段は表情を動かさない彼であったが、サークル杏関連で失敗が続き、そのピークを迎えていた苛立ちが、ここに来て爆発したのだった。
彼に事の成り行きを報告した、黒セダンの運転手のチンピラは震えながら、
「で…でも生き残ったのは未成年の長女ただ一人って言うし…大丈夫じゃないですかね…」
そう気休めを言ったが、久兵衛は彼を鬼のような形相で睨みつけ、
「そんな事言わなくても分かっているさ! だけど僕はね、自分の思い通りに事が運ばないと、とてもイラつくタチなんだよ!」
怒鳴った。 チンピラは最早、何も喋ることが出来ず、ただただその場で震えているばかりである。
久兵衛は、サークル杏に嫌がらせをすることによって何とか苛立ちを抑えようと、脳みそをフル回転させ、その方策を考え始めた。
「さあ、入って」
ほむらはまどかを連れ、ほむホームに帰宅していた。
まどかが涙に濡れた声でうん…と言って玄関に入り込むのを確認し、ドアの鍵を下ろしたその時、
――まどかを閉じ込めたわ!
己の悪魔の部分の囁きがはっきりと胸の内に生じるのを聞いたが、ほむらはその心に生じたボヤをすぐさまふみ消した。
ほむらは勝手がわからずおろおろしているまどかをとりあえず居間に連れていき、
「今、お布団を用意してくるから、ここで待っていなさいね」
と言ってソファに座らせると、寝室に直行し、オナニーの為にそこに置いてあるまどかの写真を片付け、布団を敷いて居間に戻った。
ほむらが戻ると、まどかは失った家族の名を呼びながらむせび泣いており、
それを見たほむらは再三、その悲しみがまるで自分の事のように心に染みこんで刺激するのを感じた。
「…今日は疲れているから、もう寝ましょうね」
コクコクと頷いて、ほむらに抱き起こされて立ち上がり、力なく歩き出すまどかを見ても、
ほむらの中の変態的な欲望は封じられていた。
ほむらは寝室に着くなり、まどかを自分のベッドに寝かしつけた。
「…ほむらちゃんのベッドじゃないの…?」
「まどかはお客様だから、そこでいいの。 私はお布団に寝るわ」
「でも…涙でシーツが汚れちゃうかも…」
「洗えばいいことよ」
そう言ってしまった後で、どす黒い自分の内面が、「洗う気なんて無いクセに…」と、囁くのを聞いたが、
ほむらはその声をまた胸の中で圧殺した。
「少しお仕事をしてくるわね」
まどかがベッドに入り込むのを確認し、ほむらはそう言って立ち上がり、寝室を出た。
ほむらはホッと胸をなでおろした。
今はまどかの悲しみに当てられているから大丈夫だが、少し落ち着いた後、自分の中にどんな恐ろしげな欲望が生じるのか、
それを考えただけでほむらは恐怖し、その場におれなかった。
悲しみをたたえたまどかの泣き声が、寝室から漏れ出している。
それは、ほむらを寄せ付けないバリアーのようで、彼女はいたたまれなくなり、逃げるように自室に入っていった。
「ん…?」
何気なくポケットに突っ込んだ手に、金属の感触が触れた。
取り出してみると、死に際に詢子が自分に託したペンダントであった。
「お義母さんの形見だもの…後でまどかに返さなくちゃね…」
そう言いながらも、そのペンダントのヘッドがフタ付きの、中に物を入れるタイプのものであったことが、ほむらの興味をそそった。
気づくと彼女は、半ば反射的にそのフタをこじ開けてしまっていた。
中にあるのは家族の写真か何かだと思ったが、小さく切ったテープに貼り付けられたそれは、記憶媒体のようであった。
「これは…」
ほむらはそれを取り出し、次の瞬間、迷わずパソコンに挿入していた。
データの内容は、マミリーマートの社内秘で、グリーフシードと呼ばれるクスリによる20時間労働と、
その結果生じる発狂者について細かく記されており、警察や、厚生労働省からの天下り社員の名前と絡めて、
マミリーマートが事件のもみ消しを図っていることなどまでかなり詳細に記されており、
絢子がそんな社風を何とかしようと、サークル杏をクウカイと結びつけ、見滝原に誘致しようとしていたこと、
そしてその結果、会社を追われてしまうかも知れない、という内容の手記まであった。
彼女も殺されるとまでは思っていなかったのだろうと、ほむらは居たたまれない気持ちに襲われた。
そのデータの中で、久兵衛という平社員が、役員達を利用し、様々な悪の組織を作っているのだという事実に、ほむらは目を止めた。
全てはほむらの予測したとおりで、詢子のデータは、それよりさらに一歩、踏み込んだ内容であった。
なにより恐ろしかったのは、天下りなどの関係構築を通じて、警察もこの事件に加担しているということだった。
ボスの事件に対する曖昧な態度と、余裕たっぷりであった久兵衛の様子…
そして変態紳士の殺処分がすんなりと通り、サイレンサー付きの自動拳銃がすぐさま支給されたことは、
詢子の最期の言葉――警察が信用できない――それに集約されているのだった。
詢子は、嘘が下手であったほむらの人柄を予想し、それに賭けてこの資料を託したのだった。
しかしほむらは、真実を前にして、そしてそれを包み込む組織の強大さをまじまじと感じ、我を忘れ、肉体も精神も、しばしその身動きが取れなくなった。
翌朝、ほむらは鼻をくすぐる朝食の匂いで目を覚ました。
目をこすり、しばし放心した後、漸く自分があの後、自室の机で寝てしまったことに気が付いた。
慌てて下に降りると、まどかがスクランブルエッグを作ってくれていた。
「ほむらちゃん、おはよう。 キッチン勝手に使っちゃった」
「お…おはよ…」
ほむらが寝ぼけた脳を持て余し、泣きはらした目のまどかを見ていると、
彼女はてきぱきと料理を皿に盛り付け、ダイニングのテーブルに運んでくれた。
「ほむらちゃん、どうぞ、召し上がれ」
「えっ…ああ…いただきます…」
起きたらすぐに食事の用意が出来ている、という今までに無かった状況に思考を停止していたほむらは、
まどかに言われて、初めてスクランブルエッグを口に運び、
「美味しいわ!」
反射的に、感嘆の声を上げてしまっていた。
「…私、こんな事くらいしか出来ないから…」
まどかはそんな事を言っているが、あまりの美味に、瞬時に頭が冴えてしまい、
今の状況を了解してしまったほむらは、顔を赤らめて俯き、黙りこくってしまった。
――これじゃあ、まどかが私のお嫁さんになっちゃったみたいじゃない!!
その考えがスイッチとなり、暴れ始めた欲望を抑えつけるため、ほむらは脳内に生じたその言葉を、脳の片隅深くに封印した。
警察署に着くと、すぐに昨夜のことを聞かれたが、ほむらは聞かれたことにだけ、最低限の返答をした。
まどかの一家を襲った事件は、単純に物取りの犯行と言う事で話が進められているようであり、
グリーフシードによる変態紳士の事件も、3例とも、別個の事件として、容疑者死亡でだらだらと捜査が行われている。
それらの事件の関連性を知ってしまったほむらであったが、警察は信用ができない、という詢子の最期の言葉を胸に、
素知らぬ顔で、捜査状況を見守っていた。
その行為は、家族を失って涙にくれるまどかの姿をフラッシュバックさせ、ほむらを苦悩させた。
だがしかし、迂闊に動いてしまえば自らがまどかの家族のように消されてしまいかねない状況であり、
真相を知る自分が居なくなってしまうことは、避けなければならぬ状況でもあったし、
なにより、今自分が居なくなるということは、まどかを、今度こそ本当に孤独の闇に放り込む行為なのであった。
優秀な警官であったほむらは、今、組織を観察し、どうやって捜査の方向を真実に向けていくかを考えるべきだとふみ、
まどかの泣き顔を思い出し、焦りそうになる自分に何とかブレーキを掛けながら、
雌伏の時を、歯を食いしばりながら過ごすことに決めたのであった。
まどかの家族の通夜、葬儀の準備を手伝うため、ほむらが早退の準備をしていたとき、
「やあ、暁美刑事。 暇しているかい?」
気安そうなその声の方を振り返ると、すべての黒幕であるその男が、ニコニコしながら立っていた。
「あなたは…」
その男――久兵衛は、はっきりと睨んでいるほむらの目付きなど物ともせず、
「今マミリーマートではね、『お巡りさんありがとう運動』ということで、新鮮なお弁当を届けるサービスをやっているんだけど、
何か他に、僕達優良企業にお手伝いしてほしいことがあったらなんなりと言って欲しいんだよね。
というわけでご意見、ご要望をこの紙に書いて、あちらに目安箱を設置しておくから、それに入れておいてくれるかなあ」
昨夜人を殺させたであろうことなどおくびにも出さずにしゃあしゃあと営業活動に勤しんでいる。
ほむらは腹の底から殺意が燃えたぎってくるのを感じていた。
「あなた方に、何かしてほしいだなんて思っていないわ」
ほむらは突っぱねるように言ったが、久兵衛はそれを意にも介さず嫌らしく歪めた顔をグイ、とほむらに近づけて、
「冷たいねえ…君とはもっと仲良くしたいんだけどねえ…」
脅しのような口調で言った。
睨み返すと、冷たい視線同士が交錯し、パチッと火花が散ったようであった。
「なかなか威勢がいい感じだけどねえ…お役所仕事ってのは、そんなふうだと長続きしないよ。 まあせいぜい頑張ることだねえ」
久兵衛はそれだけ言って、帰り際にすれ違った婦警の尻を触り、おっと失礼、とか言いながら消えていった。
ほむらは、これから始まるであろう久兵衛との長い戦いを予見し、急に目の前が真っ暗になる様な気分に襲われたが、
まどかの悲しそうな顔が脳裏を走り、その顔を、笑顔に戻す為ならどんなに長期戦になろうとも、と、戦い抜く決意を新たにした。
年が変わり、それから2ヶ月ほど経ったその日、杏子は下部暮市にあるサークル杏本社内の、
小会議室を利用した彼女のオフィスにあるスチール製執務机にて、ロッキーを咥えながら放心していた。
サークル杏見滝原店は、惨敗に終わった。
それも非常にえげつないやり方で。
それは、サークル杏見滝原店が開店したその日から、既に始まっていたのだった。
…
その日、杏子は開店したばかりの見滝原店を視察していた。
「くそう! お客が来ねえじゃねえか…」
すると、爆音と共に大量のバイクが駐車場に押しかけてきたのである。
「来た!!」
歓喜して杏子が外を見ると、様子が少し違っていた。
旭風防やロケットカウル、シボリハンドル、段付きシート…そしてそんな下品なマシンに乗っている人間はすべてがノーヘルであった。
暴走族達は、駐車場にデタラメに単車を止めるなり、バーベキューや鬼ごっこ、
ビリーズ・ブートキャンプ、そして囲碁など、思い思いの時間を過ごし始め、一般客が入って来られない様な状況を作った。
「な…なんだあいつら…おい、警察だ!!」
杏子がそう言うやいなや、暴走族が店内に入ってき、
「わしらはお客じゃけんのー。 警察とは何やあ?」
と言い、ティロルチョコやうんまい棒など、安い商品を手に取り、しかもそれをレジに持っていくでもなく店内をうろつき、
次第にエロ本コーナーに固まっていき、立ち読み防止のテープを勝手に破り、読みながらセンズリまでもを始める次第であった。
「てめえら、あたしらの店で何やってるんだ! 止めろ!!」
杏子が必死に暴走族たちにつっかかって行ったが、
「なんじゃあ、オネエちゃんが相手してくれるんかあ?」
と、暴走族達は勃起した陰茎を顕に、杏子を犯そうとするのを店員たちが必死で守り、這々の体でホテルに逃げ帰ってきたのだった。
ホテルの部屋に着くと、妹がベッドに寝転がっていた。
「おい、昼寝なんかしてる場合かよ!」
杏子は妹を叩き起こし、
「暴走族が見滝原店を乗っ取りやがった! 悪質な嫌がらせだ!
さっき警察に通報したが、どうもうちには協力したくない感じらしい! きっとマミリーマートが汚い手を使ってやがるんだ!
さくら会見滝原支部に頼んで、自警団を結成してもらおう! 手配を頼む!
あたしは本社に戻って事後の対応を協議するから、戻るまでこっちで窓口役をやってくれ」
一息にそう命じたが、妹は立ち上がろうとし、ベッドから転げ落ちた。
「おい、寝ぼけている場合じゃねえっての!」
杏子がそう言いながら妹の手を取った瞬間、
「あちっ!!」
湯を沸かしたヤカンのようなその体温に、杏子は思わず手を引っ込めてしまった。
「おねえちゃん…」
妹はよろよろと立ち上がろうとしたが、
「ひでえ熱じゃねえか! 救急車呼ぶから寝てろ!」
杏子はそう命じながら、畳み掛けるように悪化する状況に、
体中に浮かび出る冷や汗によって自らの体温がみるみる下がっていく気がしていた。
「おねえちゃん…ごめんね…ごめんね…」
ベッドで仰向けになりながら泣き出した妹の顔は、熱があるくせにロウのように血の気がなく、
頬はそげ、まるで死にゆくもののそれであった。
そして弱々しく涙に濡れて吐き出される悲痛な謝罪は、杏子の胸に深く抉り込まれ、かき乱すようであった。
「もう喋るな!! 寝てろって!!」
思考が動転していた杏子は、とにかく耳障りなその口を塞ごうと、大声を出し、直後、冷たい後悔に打ち震え、沈黙した。
妹を病院に送った後、杏子は自分が空っぽになったかのような虚脱感にさらされた。
しかしすぐに我に帰り、現地の社員たちを招集し、対応を協議したが、
店に暴走族が入り込んだ時のショックに重ね、妹が居なくなった事実が喉元を締め付け、
溺れたような感覚に、最早何をやってもダメなのではないかと、弱気になっている自分をひしひしと感じていた。
そしてなにより彼女に引導を渡したのは、本社に報告に戻ったとき、父親に言われた言葉であった。
『人を倒れさせるまでこき使うとは、正義などと大層な事を言いながら、お前がやっているのはマミリーマートと同じ事ではないか!』
ずしりと、重たかった。
そしてその重みに従うように、杏子は転げ落ちていく己を感じていた。
それは暴走族やヤクザ、浮浪者などが連日詰めかけ、アルバイトも逃げ、
店長もノイローゼになっていったサークル杏見滝原店の凋落と、あたかも連動しているかのようであった。
かようにして、サークル杏見滝原店は開店後2ヶ月を待たずに撤退を余儀なくされたのである。
…
唾液を吸ってもろくなったロッキーが、杏子の口元で折れ、机に落ちた。
視界に映る天井の模様が涙で滲み、照明の明かりと混じり合う。
自分さえも溶けていく気がする。 すべてを涙にとかしてしまう投げやりな気持ちに、傾きそうになる。
杏子は立ち上がった。 これからどうしようかという方策があるわけではなかったが、とりあえず立った。
涙を拭うと、室内のすべてがはっきりと目に入った。
溶けていたのは、ぼやけていたのは自分だけだと、気が付いた。
部屋を出て、廊下に歩みだした。 力強く、歩を進めた。
向かう先は、社長室だった。
秘書に在室を確認し、社長室に入室すると、
「待っていましたよ」
現社長である野比のび助の、静かな声に迎えられた。
「今回は無茶をして済まなかった…いや、すみませんでした…」
彼の前に歩み寄るなり、杏子はそう言って深く、頭を垂れた。
「いい顔つきになりましたね。 それで、ご用件は?」
杏子は一瞬、口詰まったが、
「…会社を、辞めさせて欲しい」
何とか、小さいが、はっきりとした言葉を紡ぐことが出来た。
「いいでしょう、その前に、今回の失敗を分析し、事後、どのように経営に生かしたらいいのか、それを報告してください」
杏子はしばし黙した後、
「その必要はないだろ。 あたしは会社から居なくなる人間だ」
そう言って、野比を見上げた。
「あなたはこの会社からはいなくなります。 しかし来季より、新会社サークル杏クウカイがスタートしますね?
あなたにはそこの社長をやってもらいたいのですよ」
「…何だって…!?」
野比の言葉に、杏子は驚愕し、絶句した。
「あなたはさくら会でシスターをやるような器の人間ではないのですよ。
今回の負けを取り返すまで、辞めてもらうわけにも行きませんしね。」
「新会社の、初めての仕事が、見滝原進出だと言っても、あたしに社長を押し付ける気なのか?」
野比はその言葉を聞いて、予想通りだな、と思った。
物取りの犯行と見せかけてはいたが、どう考えても会社組織に消されたとしか思えない詢子に対しても、良き餞になるであろう。
「役員会で通りさえすれば、どうぞ、お好きなように」
野比は、漸く自分には違和感があり、重すぎる社長の地位から退くことが出来るという安堵に、温かい溜息を吐いた。
杏子が決意を新たにしていた頃、マミリーマート見滝原店近くのファミレスでは、ささやかなお茶会が開かれていた。
マミは本音を言えば自分のマンションに呼び、自分で淹れた紅茶と手作りのケーキを振る舞いたかったのだが、
お茶会メンバーのさやかもまどかも、帰りが遅くなるといけないというので、内心泣く泣く近くのファミレスで妥協したのであった。
「いやあー、サークル杏もぶっ潰したし、最高にいい気分ですねえ!」
「さやかちゃん、そんな言い方って、無いよ」
紅茶を飲み、ケーキを頬張りながら、雰囲気を賑やかにしてくれているさやかとまどかの二人に、マミは優しく微笑みかけ、
「でも美樹さんも、すごく頑張って働いてくれるから、助かるわ」
語りかけると、さやかは、
「そうだぞ―! あたしが恭介のために一生懸命働いているから、あのサークル杏を愛の力で撤退に追いやることに成功したのだー!
だーかーら、何つうかな、自信? 安心感? ちょっと自分を褒めちゃいたい気分つーかねえ…。
まあ、舞い上がっちゃってますねえ、あたし。
これからのマミリーマート見滝原店の売り上げは、この労働少女さやかちゃんが、ガンガン働いて、上げてっちゃいますからね!」
調子に乗って自らも、どこまでも上がっていきそうな雰囲気であった。
そんなさやかをやんわりと無視し、マミはそれより…と、小声でまどかに話しかけ、
「それより、鹿目さんはバイトとか、しないの? もしよかったら、一緒に働かない?」
久兵衛よろしく巧みに勧誘を開始した。
「え…でも…私…人の役に立てるような事って…何も無いし…」
まどかは、口詰まりながら一緒に暮らしているほむらの事を考えていた。
理由は教えてくれないが、彼女は大のマミリーマート嫌いであったのである。
死んだ母は、マミリーマートの役員であった。
家族の死と関係しているのではないかと、一度それとなく聞いたことがあったが、
ほむらの顔がみるみる恐ろしくなり、それ以上探ることは出来なかった。
働くにしても、自分が世話になっているそんなほむらに一度相談してからでないと、恐ろしいことに繋がりそうな気もするまどかであった。
「あっ…! もうこんな時間! 帰って恭介のご飯作らなきゃ!」
さやかが安っぽい腕時計で時間をチェックしながら立ち上がり、多少大袈裟に帰宅する旨をマミに伝えたとき、
すかさずまどかも立ち上がり、
「私もほむらちゃんが心配するから帰らなきゃ…マミさん、また今度…」
そんな事を言いながら、二人連れ立ってさっさと帰ってしまった。
二人を精一杯の笑顔で見送ったマミであったが、独りになると、裏切られたような、虚しい孤独感を覚え、
気持ちはまだ日暮れの早い外の闇ように、暗く沈んでいくのだった。
マミは店を出、独り寂しく帰宅を開始した。
靴音は、孤独に触るように響いた。 孤独を踏みしめながら、歩いているのだと思う。
ふと、マミは20メートルほど前を歩く背広の後ろ姿に目を止めた。
孤独感に押され、マミはその背中に向かって、反射的に駆け出していた。
「久兵衛さん!!」
後ろ姿まで、あと10メートルほどのところで、マミは力いっぱい叫んでいた。
誰か自分を知っている人間と話したかった。
自分と、社会とのつながりを、確認したかった。
「久兵衛さん!!」
二度目に叫んだ時、えっ? と言って振り返ったその顔は、久兵衛のものではなかった。
マミは堕ちていくような絶望に脱力し、減速した。
「あ…ごめんなさい…人違いでした…」
そしてがっくりと項垂れ、その勢いで、力なく謝罪した。
男が視界から消えるのを確認してから、マミはふらふらと歩き出した。
久兵衛とは、気まずい別れ方をしてから、随分会っていなかった。
不安がマミを追い立てる。
冷たく、足を急がせる。
マミは走りだしていた。 温かい照明の漏れる自分のマンションに向かって。
自動ドアが開いて、明かりの中に歩み出たとき、いけないな、と思った。
エレベーターのボタンを押し、扉が開き、その中に誰も居なかった時、自分の中に巣食う寂しさが、
つうん、と、その情動を体中にほとばしらせた。
また、いけないと思った。 自分の部屋のある階のボタンを押し、途中でだれも入ってこないように祈りながら、長い時間、待った。
減速の重みがかかり、扉が開くと同時に、マミは走りだした。
自分の部屋。 鍵穴がもどかしいのは、視界がぼやけてきたからであった。
漸く扉が開き、その中に入った瞬間、マミは声を上げて、泣いた。
締め付ける孤独に、搾り出されるように声を上げ、涙の時間が絶望を滲ませるまで、彼女は喘ぎ通した。
久兵衛は専務である穴子と一緒に、見滝原市郊外にある、国会議員、美国久臣の邸宅を訪れていた。
「おお、よく来たねえ」
美国議員はゆったりと浴衣を着込んだ、くつろいだ姿で座椅子に腰掛け、土下座をしている二人に声をかけた。
「日頃、先生には当社に格別のお引き立てを賜り、誠にありがたく存じております」
穴子がうやうやしく挨拶をするも、美国は、
「ああ、長ったらしいのはいいから、本題だよ、本題」
と、制したので、
「それでは本題に入らせていただきます。 実はここにいる久兵衛君が、とても公に出来ない製薬工場をつくろうと言うことで、
それならば裏口から先生にお認めいただけるよう、お願いしようと、参上つかまつりました次第でございます」
と、穴子が挨拶するのを待ちわびていたように、久兵衛は「ギフト」と安っぽく印刷された長方形の紙箱を、美国の手前にすべらせた。
「ほう、なんだろうね」
「お気に召すものかわかりかねますので、一応、お手に取ってその質感なり、何なりをお試しください」
久兵衛の言葉に、美国は箱を開け、
「タオルの詰め合わせねえ…。 君ぃ、これは一番もらって嬉しくないギフトじゃあないかねぇ…」
ブツを見て、顔をしかめる美国に対し、久兵衛は更にうやうやしく、
「何も言わず、一度お手に取って…」
と言い、怪しげな含み笑いをすると、美国もわかった、と言わんばかりにビニール包装を破り、タオルを手に取った。
やはり安物の質感であったが、美国の目はタオルではなく、それを取り出した後の、箱の底面に釘付けとなった。
「ふうむ…まあいいだろう」
薄っぺらいタオルの下には、福沢諭吉の肖像がずらりと並んでおり、美国が持ち上げてみると、その箱はずしりと重たかった。
久兵衛は更にたたみかけるように、
「先生にこのような安タオルを長く愛用していただくのも忍びないので、工場の売り上げから毎月、新しいものを送り届ける所存であります」
その一言で、海川グループの製薬工場から移転させ、今度久兵衛が組織を別にし、
規模を拡大して作るグリーフシードと合成麻薬の工場は、誰からも咎められることのない聖域になったのである。
久兵衛と美国、そして穴子は、ニヤリと同じように歪められた顔を合わせ、秘密の約束を沈黙の中に交わしたのであった。
第十章 初夜
「あのね、ほむらちゃん!」
お茶会から帰り、食事時も、入浴時も悩み続けていたまどかは意を決し、ソファでくつろいでいるほむらに切り出した。
「…何かしら?」
「私…ほむらちゃんのお世話になってばかりなの、よくないかな…と思って…それで、私ね、働こうかなって…思うの…」
「その必要はないわ」
ほむらは目も合わせずに即答した。
「ねえ…ほむらちゃん…」
「何?」
「ほむらちゃんてさ…私のこと…嫌いなのかな…?」
思いがけないまどかの言葉は、冷たい感触となってほむらの背筋を走った。
まどかの方を見やると、涙をうるませ、言葉をつないでいる。
「私…ほむらちゃんのおうちに、なんか馴染めていないし…今日だって、ほむらちゃん、目も合わせてくれないし…」
ほむらは、自らの欲望を制するため、一つ屋根の下に暮らしてはいたものの、まどかへはあまり接近しないように心がけていたのだった。
そう、ほむらは自らの変態性を抑えこみ、同棲を始めてから、今の今までまどかに指一本触れていない賢者であったのだ!
しかしその自制が、まどかをここまで追い詰めていたとは、思っても見なかったほむらでもあった。
「私…あまり役に立って無いよね…負担だよね…だからもう、独りぼっちでもおうちに帰ろうと思うの…」
「ダメよ!」
ほむらは立ち上がった。 いけないと思いつつも、まどかの方に近寄っていく。
「おうちになんて、もう二度と、帰さないわ」
言いながら、ほむらは、まどかの動きを封じるように、力強く彼女を抱きしめていた。
ほむらは、自らが欲望の化身に、瞬時に変化したように感じた。
それは、欲望がまどかを包み込んだまさにその瞬間であった。
「ほむら…ちゃん…?」
まどかは、自らを抱きしめる並々ならぬほむらの膂力に微かな恐怖を感じた。 しかし、もう遅い。
「嫌いなんかじゃないの、その逆よ! 私、隠れまどかファンだったんだもの!!」
ほむらのトチ狂い気味に興奮し始めた様子に混乱を覚えたまどかは、
身を捩ってその拘束から逃れようとしたが、力が違いすぎ、それが敵わない。
「ほむらちゃん、どうしたの? なんかおかしいよ!?」
「(*´Д`)ハァハァ、ずっとあなたを見守っていたの! 私ね、レズストーカーだったんだよ!
私が警察官になったのも、あなたを守りたかったからなのよ!
来る日も来る日もあなたを見におうちまで通って…
あの事件があった日も、まどかを見におうちまで行っていたから、殺し屋から助けることが出来たのよ!」
「ほむらちゃん…ちょっと待って…落ち着いて…」
まどかの感じている恐怖は、さらなるほむらの豹変に、みるみる具体性を持ってくる。
「ごめんね! わけ分かんないよね…気持ち悪いよね…だけど私は…私の本当の気持は――」
目の前で人間がこれほどまでに変貌するという珍事を、まどかは今までに一度も体験したことがなかった。
「まどか! 愛しているわ!」
ほむらは、まどかの精一杯の抵抗を物ともしない自分に、果てしない優越を感じ、
それが、同棲開始から封じ込められ続けていた彼女の欲望を、一挙に体表に導き出したかのようであった。
ほむらはまどかをソファに押し倒し、涙を流して何事かわめこうとしているその唇に、自らのそれを押し付け、塞いだ。
「んんーーっ! んっ…んう…っ…」
ほむらの舌が、まどかの口中を這い回った。
舌を絡め、歯茎まで犯し尽くす間に、まどかの抵抗が弱くなっていく。
名残り惜しむように二人の舌先が離れたとき、まどかの抵抗は完全に沈黙していた。
「キス、初めて?」
接吻によって欲望の一端を消化し、にわかに落ち着きを取り戻したほむらの言葉に、
まどかは潤んだ瞳に肯定の色を乗せ、小さく頷いた。
初めての唇を自らが奪ったのだという事実は、沸き起こる満足感に続いて、ほむらの中に更なる欲望を生じさせるに充分なものであった。
ほむらは無言でまどかの服を脱がしにかかった。
「ほむらちゃん! ダメ! これ以上は…!」
まどかは脱力した手で、何とかほむらの手首を掴んだが、その手はてきぱきとブラウスのボタンを外していく。
そしてブラジャーを跳ね上げ、控えめな乳房が顕になると、ほむらは眩暈のような欲望に突き動かされ、
瞬時に、膨らみの中央にある桃色に吸いついていた。
「嫌っ! ほむらちゃん! ダメ! おっぱいダメだよ! 止めようよ!」
まどかはほむらの額を掌ではねつけ、必死の抵抗を試みたが、ほむらはそれを物ともせず、右の乳首を吸い、甘噛みし、
右手は当然のように左の乳房を揉みしだき、乳首をなぶり、こね回している。
ほむらの指先や、舌、歯の与える刺激に、まどかは身を捩り、声を上げる。 左様に多彩な反応を示すのを見、
ほむらは美しい音色を示す楽器を吹奏しているような、うっとりとした気分に引きこまれていくのだった。
「もうダメ…もう許して…」
ほむらが乳房から顔を離すと、まどかの肌は汗ばみ、桜色に艷めいていた。
その顔に目を転じると、充血して潤んだ瞳から、涙の線が頬を這いずっており、
その痛々しさに、ほむらの中の良心が、罪の響きを教える警鐘を胸中に打ち鳴らした。
「ごめんね、まどか。 びっくりしちゃったね…怖かったね――」
ほむらはそんな罪悪を感じつつ、囁きながらまどかの顔に近づき、その頬に接吻をし、涙の道をなぞるように舌を這わせた。
そして口を耳元まで持って行き、耳たぶを優しくかじりながら、ほむらは言ったのだった。
「――でも、止められないの。 許してね」
まどかの筋肉が強ばるのを、ほむらは触れ合う肌を通して感じ取った。
耳元から、舐めるようにまどかの顔を見ると、これまで感じたことが無かった、卑猥な刺激に対する恐怖が蔓延しているようであった。
ほむらは、またゾクリと罪悪感にその身を縮めた。
しかし今までまどかをいやらしく愛撫していたのだという満足感と、これから自分が感じるであろう快楽との板挟みとなり、
それらで充満したほむらの脳内において、罪悪感などは所詮、それらを更に引き立たせる一匙のスパイスに過ぎないのであった。
ほむらは無言のまま、まどかの下半身を侵略にかかった。
まどかはスカートをきつく押さえ、抗っているが、ほむらはそれに構うこと無くグイグイとスカートを下ろしに掛かっている。
「嫌…! 嫌…! やめて…やめてよう!!」
まどかは自らの劣勢を悟ったのか、首をふるふると横に振り、髪の毛を振り乱しながら、か細い声を上げ、
同情を誘う形でほむらの行動を何とか抑えこもうとしているらしいが、それは更にほむらを昂らせるだけの、逆効果でしか無い。
ほむらは更にスカートを下ろすその手に、力を漲らせた。
スカートの下から手を侵入させればいいものの、それをしなかったのは当のほむらの思考も動転していたからであったが、
最早そんな事は関係の無いことであった。
ズリッ、とスカートが力任せに腰を滑り、パンツの淡い色が視界に捉えられたとき、ほむらの興奮度は本日の最高記録を難なく更新した。
ほむらの進軍を遮るものは、最早パンツ一枚――それは何も無いものと同じ事であった。
「ハアハア…イタダキマス!!」
ほむらは瞬時に、その布に吸いついていた。
まどかの恥部を直接に覆い、その味も香りも沁み込ませた柔らかな布は、恥部そのものにも相当する逸品であった。
それはあの楽園追放事件の際、ほむらが想像の中に感じ、絶対の刻を見たときの味であり、その香りがするものなのだ。
それだけに留まらず、ほむらの耳には悲痛なまどかの悲鳴までもが染み渡ってくる。
ほむらは宇宙のスケールをも凌駕するそれら知覚の衝撃波をまともに食らい、
前後不覚になりながら、それでも本能に従うようにまどかをむさぼり味わっていた。
浅ましいことである。 そしてそのような行動には、決まってペナルティが控えている。
ほむらは、パンツに染み込んだ自らの唾液に、まどかの味も香りも薄められてくるのを感じた。
不快である。
自らの業が豊かな味わいを損なう。
その不条理は神の与えた大いなる罰であり、ほむほむに対する、もうそろそろやめましょうねという警告でもあるはずであった。
しかしほむらは止めなかった。 止めよう筈がないではないか!
敵城攻め入るまたとない好機に、軍を引き上げるのはただに愚将の兵法である!
好機到来の今に、臆病者の行為をあえて選択し、実行するのは臆病者以下の存在である!
なぜなら臆病者には、いつ如何なる時も臆病以外に選択肢などないからである!
だがどうだ! また邪魔をする! まだ居たのか、矮小なるわが良心よ!
私は2ヶ月以上、まどかと一つ屋根の下、耐えに耐えた! そう、忍耐の時は去ったのだ!
見るがいい、目の前のまどかを!
その比類なき美を前にして、良心の呵責だの、何だのとぶつくさ文句をたれ、何もせぬのは最早人間ではない!!
そう、美に正しく感動をし、生じる欲望は、人類だけの特権ぞ!
それを遮るおのれは、邪魔者でしか無いと知れ! 愚かなる良心よ!
しかし、ほむらの小さな良心は、ちっぽけなその体をいっぱいに広げ、彼女の欲望をなんとか薄めんと抵抗する。
だが、声がする。 体を動かす衝動が伝えてくる。
いいか! 歴史を見てみよ! 世に名を残している偉人共に、欠片でも良心などというものがあるのか?
彼らの多くは偉大なる殺戮者であろう?
何事かを成し遂げんとする者の前に、立ちはだかる良心は偉大への前進を妨げる己の凡庸である!
良心至上主義者の凡愚共はいつもそれを大事にする。 他人に勧める。
だがな、暁美ほむら! 誰かがそれをぶち壊さねば、何も変わらぬ。 変えようという意志が無くなるからだ!
そして変えようという意志がなくなれば、現状を支える力さえも骨抜きになり、色あせ、崩れゆくのだ!
現にまどかは、ウジウジと何の行動もしなかったお前に嫌われていると思い、家に帰ろうとしていたではないか!
目の前の美を見よ! 帰していいのか? 手放していいのか?
これを手放すという事はだ、誰か他の者に譲るということであるぞ? どうだ? 譲るか?
この美が他の誰かに穢されるのを、またいつぞやのお前みたいに、電柱の影から覗きみるのか?
嫉妬と絶望との最大値が精神を犯し尽くすのを感じ、お前の人生の可能性が修羅の道一つになってしまうことが、正しい選択か?
今一度言う。 良心はときに変革の敵であり、自らを滅ぼしさえする怠け者の概念である。
良心至上主義は、世を凡庸で埋め尽くし、管理しやすくせんとする為のシステムの一部である。
お前はそれに管理され、まどかを手放すのか?
管理する方としては、それでいいのだぞ? レズなど社会のゴミでしか無い。
お前が良心に従ってくれれば、そのゴミが生まれ出るのを防いでくれる、そういう管理システムだからなあ…
ホムラチャン、ダメダヨ! ソイツノイイナリニナッチャダメ! リョウシンハ、タイセツダヨ――
ばちり!!
ほむらはその空想の中で、己に残った虫けらほどの良心を踏み潰し、トドメを刺した。
そしてほむらはまどかのパンツを引っ張り下ろし、興奮に開花し始めていたその蕾と、自らの唇との、ハイブリッドな接吻を行った!
「ダメっ!! 汚いよ、ほむらちゃん!! ああっ!!」
女性器を刺激し、味わい尽くすほむらの舌先に抵抗するまどかの手段は、自らの股間に貼りつくほむらの頭蓋を押し戻す両の手と、
否定を吐き散らすその言語とであったが、
両の手に付いては次第に力をなくし、言語に付いても次第に退行を示し、赤子の喚き声同様になっていった。
そしてそれらの力が無に帰した事を確認したほむらは漸く舌による執拗な責めを止め、
まどかの全体像をその視界に捉える位置まで己を上昇させた。
紅潮していた。
美しく、花開くように。 あるいは果実の甘く熟すように。
そしてこのまどかの体に、それら変化を巻き起こしたのが、紛れもなく自分であるという自負――ほむらは狂喜した。
刺激に神経がかき乱され、何が起こったのか知らず、ただただ昂った体を震えさせているまどかに、蛇のように己を絡めながら、
ほむらはまどかの耳元に再び口元を持って行き、囁いたのだった。
「まどかのあそこ、とっても美味しかったわ」
恥ずかしさのあまり、まどかはぷい、と横を向いた。
なんと哀れな抵抗か! そのようなことでほむらの毒牙から逃れられると思っているのであろうか!
ほむらは、まどかが視界から振り切ったその顔に余裕の笑みを浮かべながら、先程まで口を付けていたそこに己の指を接地させた。
「あっ!!」
ほむらの指は、まどかの神経に直接電流を流し、その体を仰け反らせたかのようであった。
「もっと、気持よくするわね」
ほむらの言葉に、まどかの体が、またも刺激に備えて強張った。
ほむらはその抵抗とも言えなくなった抵抗の欠片を、愛おしいと思った。
そしておもむろにまどかの女性器を激しく掻き回し、くちくちと卑猥な音を立て始めた。
「ほら、聞こえる? まどかのここ、いやらしい音を立てているわ!」
まどかの耳元に、直接に恥辱を注ぎこむように囁きかけるほむらは、自らも快楽を欲し、まどかの太腿に股間をこすりつけている。
恥辱に彩られた刺激に責められて、まどかは最早叫ぶしか出来ないようであった。
悲鳴である。 怖いのだ。
強大すぎる神経の興奮によるそれは、受け皿である体が順応しきれない今、快楽ではなく単に刺激として知覚されるしか無い。
それら刺激に、体も、脳も漂白され、乗っ取られようというときに、感じるのは恐怖しかありえない。
しかしその一方で、その単なる刺激の先に、快楽の予感を見、
それを追い求めようとしてしまう恥ずかしい自分がいることも、まどかは感じていた。
恐怖の中に、快楽の喜びが混じり合ってくるのだ。
そしてそれをほむらに、第三者に見られているという事実。
恥辱。 僅かな、残りかすのような理性が警告するそれ。
少女であるまどかが、大人への脱皮をする際の断末魔のような、それぞれ別個の感情に引き裂かれんとするその悲鳴を浴びて、
ほむらは狂喜の中に、沸き起こる狂気を重ね、まどかの刺激が快楽へと変遷するその時まで、
その腕の筋肉を酷使し、刺激を与え続けるのであった。
「ああああああッ!! らめええええええええッ!!」
まどかは陸に打ち上げられた魚のように大きく仰け反り、その股間に当てていたほむらの手に、温かい液体がほとばしった。
ほむらは間髪を置かず、最早抵抗の術が無くなったまどかの股を開き、自らの股間と合わせ、レズセックスの奥義、貝合わせへ移行した。
お互いの体が、快楽によって繋ぎ合わされた瞬間、全く同時に、二つの体が同じように、
まるでスイッチが入ったかの如く痙攣し、
「あっ!」
と、小さな声が漏れた。
それはその心は別として、二つの体が、初めて同じ領域を見た瞬間であった。
ほむらはその腰を動かし、快楽をまどかにこすりつけた。
「あっ…まどか…っ!!」
「うあああっ…ほむら…ちゃん!!」
粘膜同士がこすれあう音と、それに連動するかのような快感の波が、ジンジンと理性を削りつぶし、欲望のみを加速させる。
やりたいことが、いやらしいことが、めまぐるしく、次々矢のごとく過ぎていく。
結果、取り残された体はしたい事が分からず、ただただ、肉体を凌駕した快楽に酩酊し、
その身を駆け巡りながら、体の許容を超えて溢れでた余剰の快楽をも掴み取ろうと、更に腰を使い、
うねうねと原初の感覚の海に、沈んで行くほかないのである。
「ほむらちゃん! ほむらちゃん!」
まどかも、気がつけばその理に身を委ね、快楽を貪る貪欲な自分をさらけ出していたが、
「まどか…まどかああ!!」
脳天まで痺れ上がるほど、なみなみと快楽を与えられたほむらには、こすれ合う花弁の感触さえも怪しい。
それは、相手のことを無視して快楽に溺れている所作の結果によるものではない。
それは、快楽に結び付けられたその二つの体が、快楽によって同化しているというわけであった。
二人は今、同じ時間軸において、全く同じものを感じているという道理であるのだ!
それは交わる、という言葉の意味そのものである。
「まどかあああああああ!!」
そして二人は、交わったまま――
「ほむらちゃああああああん!!」
――絶頂を、迎えた。 同性において、愛の成立した瞬間であった。
良心を退けた欲望が、愛情へと遷移したのである。
ほむらは、まどかの胸に崩れ落ち、何度か大きく息をついた後、
ぬくもりを与えるように彼女を抱き寄せ、その耳元で愛の言葉を唱え続けた。
愛情の、刷り込み。
それは、彼女の懺悔であった。
突沸する感情に煽られ、まどかを犯してしまった彼女の、後から追いついてきた本当の気持ち。
伝わらないかも知れない… 嫌われてしまったかも知れない…
それでも、伝えなくてはならないその気持ちを、ほむらは白く滲んだ頭の中から必死に手繰り寄せ、まどかに伝え続けた。
「…ほむらちゃん…ありがとう」
ほむらの胸で泣く、まどかの震える声が、その心を直接に触れたようであった。
「…まどか…」
「私、おうちに帰らないことにするね。 ほむらちゃんの、お嫁さんに…なるから」
ほむらは、まどかをその胸に力いっぱい押し付けるように抱き、自らも、慟哭した。
…
「イイハナシダナー…」
杏子は熱っぽく語り終えた後のほむらを見、溜息を吐いた後、そう感想した。
「まあ、これが私とまどかの馴れ初めね」
「それで?」
ほむらは、聞き返してきた杏子の真剣すぎる表情に、違和感を覚えた。
「それでって?」
「グリーフシード事件さ、どうなったんだい?」
恋の話から、すぐさま仕事の話に乗り換えようとしている。
ほむらはこの無粋が、さやかを離れさせている要因ではないかと思った。
「あなたねえ…」
「うん?」
杏子は、ほむらの心配の意味が分からないらしい。 ほむらも本人同士で解決すれば良いことだと思った。
「まあ、いいわ」
…
第十一章 再発
まどかとほむらが、愛にまみれた初夜を過ごしてから半年ほど経った頃、再び変態紳士が見滝原の夜を騒がせた。
駆除したのは、またしてもほむらであった。
ほむらは、憔悴しきった顔で、静かにほむホームの扉を開けた。
「ほむらちゃん!」
寝ているはずのまどかが、玄関に居た。
ほむらの心臓が縮み上がり、脳天から冷たい嫌な予感が降りてきた。
「どうして寝ていないの!? 早く寝なさい!!」
焦りすぎ、思いがけず大きな声が出てしまったことに、後ろ暗さを感じたとき、
まどかの頬を涙の粒が這い降りるのが見え、ほむらはその後暗さが後悔の文字を形作るのを見た気がした。
「ほむらちゃんが、危ない目にあっているような気がして…眠れなかったの…」
ほむらの心臓が、またひやりと反応をした。
「私なら大丈夫よ。 こうして元気に帰ってきたじゃない。 もう遅いから寝ましょう」
ほむらは取り繕うように言ったが、まどかは引かなかった。
まどかの中にも、その嗅覚を通して悪い予感が徐々にその形を作っていく。
「ほむらちゃんと、キスしてから寝る」
「今日は疲れているのよ」
「いつもは疲れていてもしてくれるのに、どうして今日はだめなの?」
もしかして、今してきた事を――変態紳士駆除という名の『殺し』を――まどかに感づかれたのかも知れない――。
ほむらは、冷たく脳を走る予感と、言う事を聞かないまどかへのもどかしさが化合し、怒りが生成されていくのを阻止できなかった。
「いい加減にしないと、怒るわよ!」
だがしかし、ほむらが昂ぶるたびに、まどかはその芯の強さを後ろ盾た冷静を深めていく。
まどかは気がついていたのだった――
「ねえ、ほむらちゃん、私、怖いの」
「何が怖いのよ! 全部気のせいだわ!」
「ほむらちゃん、どうして出かけたときと、服が変わっているの?」
――ほむらから、火薬の匂いがすることを。
そして、彼女が危険な任務についていることも、薄々。
「…まどか…」
一番触れられたくない疑問を浴びせられ、立ち尽くすほむらに、素早くまどかが抱きついた。
真新しいスーツの奥から滲み出す、火薬とは別のその匂いに、まどかはただ、恐ろしくなった。
「今日ね、お買い物行ったとき、交番のお巡りさんの鉄砲見てみたの…ほむらちゃんの鉄砲と、全然違った…
ねえ、ほむらちゃん、一体どんなお仕事しているの?
怖いよ! もうお巡りさん辞めようよ! 私ほむらちゃんが居なくなっちゃうの、怖いよ!!」
ほむらは観念したように、静かにまどかを抱き寄せた。
まどかはそんなほむらを見上げる際、ブラウスの襟についた小さなシミを見つけ、ギクリと動けなくなった。
それは先程、ほむらに抱きついたとき鼻に触れた匂いのするものの、シミのようであった。
「分かったわ。 大好きなまどかがそこまで言うなら、今のお仕事、変えてもらえるようにお願いしてみるわね」
「本当? 約束だよ?」
「ええ、約束するわ。 だからもう寝ましょう」
ほむらは、嘘を付いている自分に寒くなった。
上層部はほむらを異動させたがっていたが、変態紳士駆除のベテランであり、現場が彼女を必要としているという事実と、
ほむら自身の希望だけが、それを押しとどめていた。
つまり、ほむらが異動の希望をしてしまえば、上層部の思惑通り、それは簡単に通る筈なのであった。
まどかは、なんとなくだが、確信があったわけではなかったが、ほむらの約束は嘘だと直感した。
まどかはもう一度、ほむらの襟についたシミ確かめるようにはっきりと視界に捉えてみた。
やはり、血のシミであった。
――返り血を浴びたスーツは、警察署で処分をして正解だった。
ほむらはまどかを寝かしつけた後、シャワーを浴びるため、脱衣所で服を脱ぎながら、そう考えていた。
だがしかし、ブラウスを脱いだ時、ふわりと血の匂いが立ち上ったのを感じ、ほむらはまた、その動きを止めた。
――まどかが、この匂いに気がついてしまっていたら――。
そう考えた瞬間、ほむらの目に、襟についた赤い斑点が飛び込んできた。
冷たく、時間が凍りついていく感じがした。
ほむらは急いで自分の部屋に戻り、タンスの中から同じブラウスを取り出し、シワを付け、血のついたそれとすり替えた。
――翌朝、まどかが何事もなかったかのようにふるまってくれているのを見、ほむらはホッと、胸をなでおろしたのであった。
その朝、3日ぶりに恭介が起き上がったので、さやかは嬉しさのあまり目頭が熱くなってくるのを感じていた。
「恭介…よかった…」
「さやか…僕は一体…?」
長い眠りから覚めたばかりの恭介の脳は、生まれたばかりのそれに酷似した状態にあったが、
「恭介ったら、変なクスリを沢山飲んだ後、3日間も眠り続けていたんだよ」
掻い摘んで説明したさやかの声を聞くなり、
「そうだ! さやか、クスリは?」
恭介は今、一番大切なものを思い出した次第であった。
しかし、さやかは黙りこくっている。
「さやか、早くあのクスリを出してくれよ! 僕をシャキッとさせてくれよ!」
追い詰めるような恭介の言葉に、さやかはその重い唇を動かし、
「恭介、あれね…捨てちゃったの」
何とか報告をしたのだが、
「( ゚Д゚)ハァ? 何を言っているんだい、さやか?」
恭介は、そんなさやかに激しく詰問をした。
「ねえ、恭介。 あのクスリ、やめよう? あれ、絶対よくないよ。
あたしインターネットで見たよ。 あれMDMAっていう、麻薬の一種なんだって…
ねえ恭介、やめようよ。 麻薬なんて恭介らしくないよ…」
必死のさやかの説得は、ガツンというお星様が見えるほどの衝撃によって中断された。
恭介を見上げ、その右手が握り締められているのを確認して漸く、さやかは彼に殴られたのだと了解した。
「き…恭介…」
自分の愛する男が、自らを殴ったなどということは、認めたい事実とはあまりに距離がある。
戸惑いながら恭介を見続けていると、
「どうしてさやかは僕をいじめるのかなあ?」
なじるような言葉を浴びせかけられた。
「い…いじめてなんか…あたし、恭介の為を思って…」
「何が僕のためなんだよ! 僕はね、あのクスリがないと音楽がわいてこないんだ!
何がMDMAだよ? あれはラムネ菓子の高級品だって言っているじゃないか! にわか知識で適当なこと言わないでくれよ!
全く、僕から音楽を取り上げるなんて、いじめじゃなきゃあ一体何なんだよ? 言ってご覧よ、さやか!!」
「ごめん、恭介…本当に、ごめんね…」
さやかは、自らの説得を聞き入れられなかった無念と、恭介の責めるような声の調子にきつく挟み込まれ、嗚咽し始めた。
恭介はそんなさやかを見、こうかはばつぐんだと踏んだあとはにわかに優しい表情を取り繕い、
「…分かってくれたんだね、さやか」
薄気味の悪い猫なで声を発して、さやかの方に掌を差し出し、
「じゃあ、僕の音楽の為に、おクスリ代を出してくれるかい?」
ただの一片も恥じることもなく言ってのけた。
「うん…恭介の為だもんね…あたしも頑張るから…そのお薬、いくらなの?」
さやかは貧しい財布をまさぐりながら問うた。
「2万円」
「えっ?」
「2万円だよ。 早く」
「でも…今月はもう…」
さやかはあと2万3千円で二十日間を暮らし、その中から5千円以上は貯金したいと考えていた。
しかしそんなことも知らないし、考えない恭介は、
「クスリ、2万円! 僕の音楽的才能、プライスレス!」
と、相変わらずさやかを攻め立てる。
さやかは乏しい貯金を切り崩す事を泣く泣く決心し、恭介に2万円を渡す約束をした。
「それでこそだ! さやか、愛しているよ!」
――そして翌日、さやかが金を下ろして持ってくると、
恭介は形ばかりさやかを抱きしめ、その頬に接吻をした後、クスリを買いにボロアパートを駆け出した。
部屋に独り残されたさやかは暗澹とした気分であった。
アルバイトを始めたばかりの頃は、こっそり貰ってくる廃棄品の弁当で何とか持ちこたえることが出来たが、
今はそれがどこかに横流しされているらしく、手に入らなかった。
もしかしたら、給料の前借りしか無いかも知れない――さやかは、そんな自分の無力にただただ涙した。
久兵衛は、美国久臣の了承を経て小さなビルを借り切り、その中に作った製薬工場でニンマリしていた。
「やっぱりクスリは儲かるねえ。 一度やってみたかったんだ。
でもクスリは始めるのに色んな所に挨拶しなきゃいけないから、個人ではとてもいけない。 マミリーマートに入社して本当によかったよ」
製薬工場では、工場長と呼ばれている小指のない、気味の悪い男以外、3名の従業員しか居らず、
しかもその3名は何を作っているか知らされて居なかった。
勿論知ろうとする者は、容赦なく港に沈められ、カニの餌にされてしまう。
「ヒヒッ…こう不景気じゃあ、こんな事くらいでしか儲けることが出来ませんでねえ…」
工場長は、久兵衛に出来たばかりのグリーフシードを渡しながら言った。
「工場長、あのMDMAの純度の低い奴、飛ぶように売れているよ。
安くて手軽にキメることが出来るのが魅力みたいだね。」
工場長はヒヒヒッと、得意げに笑い、
「ヒヒヒッ…あれは最高傑作ですわ。 純度が低くて末端価格が従来の約20分の1に出来る上、
ラムネ菓子の味をつけているので、バカな連中がぼりぼりとお菓子がわりにやるんで、どんどん中毒者が増えているんですわあ」
久兵衛に大ヒットの訳を説明した。
「最高にクールじゃないか! この街の奴ら、みんなジャンキーにしちゃえよ!」
久兵衛のご機嫌は最高潮であった。
警察沙汰にかこつけて、マミリーマートからグリーフシードの製造権を掌握し、リスクを引き受ける代償にと、
合成麻薬の製造も認めさせ、その利の6割は久兵衛の財布に入るのであった。
彼はもう、会社から貰う給与明細を見るのが阿呆らしくなっていた。
賢明な読者諸君はお気づきの事と思うが、恭介がキメているのはこの久兵衛の製薬工場で作られた合成麻薬である。
さやかが愛のためにと汗水たらして労働した貧しい対価が、
巡り巡るまでもなくそのまま久兵衛の懐に入るという、血も涙もない経済が回転していたという残忍たる事実は、
なまじおかしなつくり話より悲劇であった。
サークル杏クウカイ社長となっていた杏子は、見滝原再進出の準備を着々と進めていた。
「それでは来年度早々の開店を目指し、サークル杏クウカイ見滝原店の計画を進めるということでよろしいでしょうか?」
専務取締役に退いた野比が、社長室で杏子に確認をした。
「そうだ。 それでな、一つわがままを言わせて欲しい。」
「なんでしょう?」
「店舗位置は、あたしが直々に決定したい。 見滝原に腰を据えて、現地をくまなく偵察してな。
見滝原は発展を続けている街だから、経年劣化する地図で見るより、現地を見たほうがコンビニ需要のある地域が分かりやすいしな。
それで、マスコミに嗅ぎつけられないように、一番安い部屋を借りてくんねえかと思ってな」
「見滝原にお住まいになるとなりますと、出勤に差し支えますが?」
一番痛いところを突かれ、杏子は拝むように両手を合わせ、
「その間は頼むよ社長代理。 あたしの見滝原進出にかける熱意は、あんたが一番良く知っているはずじゃないか」
目の前の男を神に見立てるように、嘆願したのだった。
それは、杏子の運命を変える決定でもあったのだったが、この時の、当の本人にそのことが分かろう筈もなかった。
ほむらは、まどかの携帯を機種変更させ、キッズケータイを買い与えた。
「…なんかこれ、恥ずかしいよ…」
まどかは変質者対策の防犯ブザースイッチを兼ねたストラップをいじくりながら、訴えるようにほむらに問いかけた。
「最近物騒だから、それが一番いいのよ」
変態紳士事件の再発に伴い、まどかをそれらから守るための処置であったが、
ほむらはまどかと、可愛らしいキッズケータイとの組み合わせを見、自らの性的趣味の開発がまた一歩、進むのを感じた。
――可愛い!! まどかが、私のお嫁さんだけでなく、私の娘にもなってくれるとは!!
両親を失ったまどかの悲しみに当てられて、停滞していたほむらの欲望は、それが復活したあの初夜以来、留まるところを知らなかった。
それからというもの、ほむらは毎日、暇さえあれば携帯のアプリを起動し、
GPSでまどかを追跡し、その行動を、仕事をしながらストーキングすることに性を出すようになった。
そして、その日がやってきたのだった――
――まどかの反応が、家から一歩も出なかった日。
「まどか、今日はどこにも行かなかったの?」
「えーとね、今日はさやかちゃんのお店に寄ってから、お買い物に行って、帰ってきてお掃除をして、ご飯の準備をしたんだよ」
ほむらは、自らの監視結果と食い違う証言が、何故起こるのかという事に、始めから気がついていた。
「まどか、あなた今日、携帯を家に置き忘れたわね?」
まどかはあっ…と、口詰まり、それから小さくごめんなさい…と謝罪して、項垂れた。
「あの携帯は、あなたが危ない目にあったときのために、私が買ってあげた物でしょう? どうして忘れて家を出たりするの?
途中で気づいたりしなかったの?」
怒気を含めて問い詰めると、まどかは泣きそうになりながら、
「さやかちゃんのコンビニで気がついたけど、後はお買い物するだけだったし…大丈夫だと思って…」
(ノ∀`)アチャー、気づいていたことを告白してしまった!
嘘を付けばいいのに、それをしないまどかを見て、ほむらはいとおしさが胸に沸き起こるのを感じたが、
同時に気づいていながら、自分が買い与えた携帯を家に置いたままであったという事実に対し、猛烈な怒りも込み上げてくる。
ほむらはまどかを寝室に引っ張り込み、激情にかられて、新たなる性癖の入り口とも言えるその言葉を口走っていた。
「どうやらお仕置きが必要なようね、まどか!」
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
ほむらはまどかの服を脱がせ、その背中を露出させ、ぺたぺたと何かを貼りつけた。
「ほむらちゃん! 怖いよ! なにするの!?」
ほむらは、まどかの目の前でライターをカチッ、シュボっと鳴らし、火をつけて怯えさせてから、
「お灸よ。 とっても熱いの」
と、ドスの効いた声で脅しかけ、
「少しでも動いたら、お灸の数がどんどん増えていくわよ」
念を押すように言った。
まどかの背中に貼りつけたお灸に火をつけ、そこから奇妙な香りのする煙が出て居るのをじっと観察していると、
「熱い! 熱いよ、ほむらちゃん、熱い!」
熱が伝わり始めたのか、まどかが泣きはじめた。
ほむらは一瞬、罪悪感に、もうお仕置きはやめようと体を動かしかけたが、甘やかすのはいけないと、何とかそれを思いとどまった。
まどかは、ヒィーヒィー泣きながら、たまに、フーフーと、背中に届くはずもないのに、枕に向かって熱い物を冷ますような息遣いをし、
「熱いよう…もうしないから、許してよう…」
と、ほむらに訴える。
「まだよ! 火が消えるまで、続けるの! 反省しなさい!」
ほむらはそう言った後の、まどかの絶望の表情に胸を鋭く抉られたように感じた。
しかし、紅潮させていく体を動かせずに、ああ、とか、ううっ、とか、声だけで必死に悶えているまどかには、
なんともいえぬ美しさが漂っていることも事実であった。
そう言った視点に気づいてしまうと、苦しむまどかを見たときの罪悪感でさえ、手繰り寄せていけば快楽に通じている気がしてくる。
「アアーッ…フウ、フーっ…ヒィーっ、熱い、熱いよう…ほむらちゃん、もう許して…ウウッ…ウウーッ…フー、フー…アアーっ…」
ほむらは気が付くと、次のお仕置きは何にしようか、と思案し始めていた。
それからしばらく、まどかはずっと良い子にしており、ほむらは本末転倒と知りつつも、
お仕置きをしたくてたまらない自分を持て余していた。
まどかはお灸が余程効いたのか、全くボロを出さない。
ほむらは、とうとう我慢ができず、夕食後、居間でテレビを観ているまどかに…
「ねえまどか」
「何、ほむらちゃん」
「日本一小さな淡水魚って、なーんだ?」
いきなりクイズを出すというトチ狂った暴挙に出た!
まどかは、突然のクイズに、豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしている。
「時間が無くなるわよ! あと5秒! 4,3,2…」
しかし、ほむらが非情なるカウントダウンを始めると、にわかに焦り始め、
「ええーっ、わかんないよぉ…」
考え込む振りをするが、どうにも分からないらしい。
ほむらはそのまどかの様子に、既に興奮を感じていた。
「ブブーっ! 時間切れよ。 答えはメダカ」
ほむらは、へえ、そうなんだ…とか何とか言って感心しているまどかの腕を掴み、一片の情すらも消え失せた表情で、
「クイズが分からなかったまどかには、お仕置きが必要ね」
まどかの顔が青ざめるその様を見、優越に打ち震えながら言ったのだった。
そしてまたある時はお風呂で…
「まどか、体を洗ってあげるわ」
「えっ…いいよ…自分で出来るよ…」
ほむらは、彼女の好意を峻拒するまどかを睨みつけて、
「ひっ…こわいよ、ほむらちゃん!」
動けなくしてから、
「さあ、いい子にして体を洗わせなさい!」
ヘチマタワシでゴシゴシとその体を洗ってあげ始めたのである。
そのままで終わってくれれば、通常の恋人同士の洗いっこなのであったが…
「あっ! ほむらちゃん、そこ、だめだよ!」
ほむらは当然のように、まどかの体をひと通りゴシゴシした後、その女性器を侵略にかかったのである。
「ああんっ…ううっ…ほむらちゃん…ダメっ!」
刺激を受けたまどかはその体をよじりながら、当然その女性器を花開かせ、そこからは蜜が垂れてくる。
「コラ、まどか! あそこからぬるぬるを出すのを止めなさい!」
無理に決まっているじゃないか!
ほむらはそんなまどかのあそこを、クチュクチュと執拗なまでに、優しく手で刺激をし続ける。
「ダメっ! ダメっ! あんっ! ああん!!」
「あなたがぬるぬるを止めない限り、あそこは永遠に綺麗にならないわよ!」
ほむらはこの辺りから、まどかの女性器の、ある一点を執拗なまでに攻め始めていた。
「ああーっ!! そこダメっ!! だめえええええっ!! ほむらちゃんやめてえええええっ!!」
耐えられなくなったまどかの股間から、温かい液体が噴出した。
そう、二人が始めて会ったあの日から、夢に見てきたまどかのおしっこ!
あの保健室での一件を思い出し、ほむらはあべこべになった立場に優越感を乗せ、まどかに宣言をするのだった。
「おトイレとお風呂の区別がつかないまどかには、お仕置きの必要があるわね!」
とまあこんなふうに、まどかがボロを出すのを待つのではなく、ほむらはいけないことと知りつつも、
積極的にお仕置きをするように持っていくのが常となりつつあったのである。
…
「お仕置き、ねぇ…」
杏子は椅子にふんぞり返って、天井を見上げながら、ポツリと言った。
「そうよ、大好きだからって甘やかしすぎては、いけないの」
ほむらはそう言って、目の前で恋人を無視し、まどかと卓球に興じているさやかを睨みつけた。
杏子はうーん、と、考え込んだが、自分がさやかにお仕置きをするというシチュエーションを、どうやっても妄想することが出来なかった。
妄想の中で、気の強いさやかが拒絶してしまうと、すぐに自分が謝ってしまうのだ。
「とにかく、このままではいけないと思うのなら、いろいろ動いてみることね。
何もしないで事態が好転するなど、無いと思っていたほうがいいわ」
「…それより、グリーフシード事件の話だったろ」
せっかく自分が話題を恋の方に持っていったのに、逃げるように事件の話題に振り返す――。
ほむらは、ここまでヘタレなら、杏子の恋はもうだめなのかもしれないと思った。
…
それからまた月日が経って、その年の秋も深まって来た頃、ほむらは堕落の底の住人と化していた。
水面下でほむらが捜査の方向を誘導し続けた甲斐があって、夏の終わりにグリーフシード事件の捜査本部が置かれることになり、
勿論ほむらはその一員になった。
しかし有能な人間は圧力を掛けられ、見る見るうちに捜査本部を抜けていき、
代わりに来るのは定年まで安泰に行きたいと願う、つまり警察官生活の消化試合をしにくるジジイばかりだった。
誰もが、自らの生活を優先させ、正義に命を掛けようなどという警察官が、自分の仲間が、どこにもいないという事実――。
まどかの母の敵を討つため、そして自らの正義のため、ほむらは再三の、異動の勧めにも従わず、捜査本部に居座り続けた。
それは、組織というものに対する、抵抗の意味も含まれていたのかも知れない。
上層部も、ほむらを異動させるのを諦め、彼女を徹底して飼い殺す方針に転換したようだった。
いや、本当は最初から異動させる気がなく、
どこまで真実を知っているか分からない彼女を捜査本部に封じ込め、監視するのが狙いだったのかも知れない。
しかし、捜査に関する書類を作成しても、どこかに難癖を付けられ、突き返され、
毎日を無為に過ごし、とっくに気持ちが折れていたほむらにとって、そんなことは最早どうでもいいことだった。
「やあ、暁美刑事。 無駄な仕事をしているね。 そんなんで国民の税金である給料をもらって、恥ずかしくないのかい?」
久兵衛が定期的に挨拶に来るのも、ほむらの心を折った。
「君たちに、この事件は解決できないよ。
早いとこ異動させてもらわないと、せっかく有能なのに、警察官としての君の未来は一体どうなるのか、僕はそれが心配でならない」
組織で動かないと、自分一人の力だけでは何も出来ない…そして自分と一緒に動いてくれるその組織は、どこにもないのである。
ほむらは犯人が目の前にいても指一本触れることの出来ない自分の無力に苛立ちながら、
帰宅後――まどかの顔を見ることが出来るその瞬間だけを待ち望んで、ただただ時間が過ぎるのを待つだけの「仕事」を続けるのだった。
警察署に挨拶に行った後、久兵衛は久しぶりにマミリーマート見滝原店の様子を見に行ってみた。
「やあやあ、ご無沙汰しちゃって」
「あ、久兵衛さんじゃないですか! 久しぶりですねえ…長期出張でもされていたんですか?」
店長が、明らかに怯えたように応じると、エロ本を整頓していたさやかが反応して久兵衛を一瞥し、チッ、と舌打ちをしてそっぽを向いた。
レジにはマミが立っており、その視線がくすぐったかったが、長らく会っていないと話しかけづらく、
また特に話すこともないと思い、久兵衛は目も合わせず無視を決め込んでいた。
「まあ色々とね、この店舗の成績はとてもいいから、そんなに怯えることはないよ」
「いやあ、ありがとうございます。 これも久兵衛さんのお陰ですよ」
ありきたりなお世辞に心底うんざりした久兵衛は、じゃ、僕は近くに来て寄ってみただけだから、と、足早に店を出た。
「ちょっとちょっと、久兵衛さん!」
店を出、久兵衛を取り巻く雰囲気が外のそれに置き換わった時、店の一部が彼を追いかけ、呼び止めてきたので、
久兵衛は何かな? と、振り返ると、店長がいやらしい顔をして小走りで駆け寄ってきた。
「久兵衛さん、帰るのが早すぎですって…」
「まあね、僕は忙しいし、ちょっと寄っただけだからって、言ったじゃないか? 何か用かい?」
本社の人間は店に不要な緊張をもたらすので、帰るならさっさと帰ってほしい相手であるはずなのに、呼び止めるとはこれ如何に?
久兵衛は不気味に思った。
「ちょっと、巴君に話しかけてあげてくださいよ」
「マミに? なんで?」
久兵衛がマミ、と名前で呼ぶと、店長の顔が、何かを悟ったかのように更に卑猥に歪んだ。
「久兵衛さんてば、ここ半年以上顔見せなかったじゃないですか?
その時巴君はですね、久兵衛さんはいつ来られるんですか?久兵衛さんはどうしたんですか?
って、毎日毎日僕や様子を見に来る本社の方に聞いたりして、それはそれは痛々しかったんですからね」
久兵衛は、ゴクリとつばを飲み込んだ。
「久兵衛さん、困りますよ。 女の子泣かせたりしちゃあ。 巴君は日に日に弱ってくるし、もう大変だなこりゃって、思ってましたよ。
そんな時、久兵衛さんが来てくれたと思ったら、すぐ帰っちゃうなんて言って…それどんなプレイですか?
巴君はずっと久兵衛さんを待っていたんだから、少し位話しかけてあげてくださいよ。 彼女、ノイローゼなっちゃいますよ」
話を聞きながら、久兵衛の陰茎はムクムクと勃起を始めていた。
そういえば最近、女を抱いていないな、と、久兵衛は思い、チンポジを直しながら店に戻っていった。
一度出た店に再び入るのは、少し気が引ける。
店内にメロディーが響き渡り、いらっしゃいませ、とさやかの声がし、そっちに目を向けると視線が衝突し、あからさまに嫌な顔をされた。
久兵衛はその時、いつかこの美樹さやかに「ぶっ続け」をやらせ、クスリの副作用で発狂させて、ほむらに処分してもらおうと思った。
「いやあいやあ、そういえばタバコを切らしていたんだったよ」
久兵衛はマミのいるレジに滑りこむなり、わざとらしく独り言を言った。
マミは嬉しさの滲ませた顔を隠すように俯かせ、ぎこちなく、朗読するように、
「どのタバコでしょうか?」 と聞いた。
「チェリー」
久兵衛はマミの背後にある棚に置かれた、赤と白のパッケージを指差し、言った。
「…あ、これですね。 410円になります」
久兵衛は五百円玉をカウンターに置き、マミがお釣りを手渡してきたとき、わざとその指先に触れてみた。
マミの手は電気が通ったかのように引っ込み、彼女はお釣りを床にぶちまいてしまった。
幾つもの澄んだ金属音は、マミの神経を大いに引っ掻き回した事であろう。
「す…すみません…」
顔を真っ赤に染めたマミは、レジカウンターから飛び出してきて、久兵衛の前にしゃがみ込み、お釣りの小銭を拾い始めた。
久兵衛は、背中に店長の焦りまくった視線が刺さっているのをくすぐったく感じていた。
それに加え、目の前で小銭を拾うマミを見下ろしているとなれば、少しいたずらをしてみたくもなろう。
久兵衛の残酷な欲望が走りだした。
「巴君! 君は何年勤めているのかな? お釣りを落とすのが許されるのは、3週間目までだよ」
マミ、と名前で呼んでいた自分が、久しぶりに来たと思ったら、巴君、と呼び方を変えている…
とっさに久兵衛を見上げたマミの顔は絶望に染まっており、久兵衛はそれを見て射精しそうになった。
いじめがいのある泣き顔である。
コロコロと変化する表情――この女は誰が好きなのかと思っていたら、まさか自分のことだったとは――
久兵衛は、目の前の、悪くない女が自分の事を好いているという事実に、震えるほどの優越を味わった。
――この女は、脳内にどんな僕を作り上げているのだろうか?
その「僕」をぶち壊したとき、どんな顔をして絶望するのだろうか――
――見たい!
久兵衛は近いうちに、マミを犯すことを決心した。
「本当に、すみませんでした」
久兵衛が店を出るとき、マミは外まで見送りに来て、ペコペコと頭を下げ続けていた。
「気にしなくていいんだよ、マミ」
マミ、と呼んでやると、表情に希望が浮かび上がる。 久兵衛はこの女が自分に気があるという確信を更に深めた。
久兵衛はマミにウインクをし、
「僕のお釣りの取り方が悪かったんだ。 ワザとさ。
あの時の店長の顔、見たかい? 傑作だったよ。
時々ああいうお芝居をして、雇われ店長たちの気を引き締めてやるのも僕らの仕事なんだ。 だから君が引け目を感じる必要はないのさ」
と、優しく語りかけてやると、マミの表情はすっかり晴れ渡っているではないか。
久兵衛は泣かせてやりたくなったが、何とかこらえた。
「…あの、私…」
久兵衛は身構えた。 告白だと思ったのである。
女を何人も潰してきた久兵衛であったが、付き合い始める前から相手に好かれていたなどという経験は、これが始めてであった。
いや、もしかしたら誰も久兵衛を愛してなど居なかったかも知れない。 彼も、女を愛したことなど無かった。
「…何だい?」
言葉を、待った。
「見つけたんです。 私の代わり」
「君の、代わり?」
久兵衛は拍子抜けをしたが、興味のある話題でもあった。
マミは看板娘を辞めたがっていた。 その代わりの事であろう。
客引きの清純派少女は貴重な人材である。
「鹿目まどかさんって言うんです。 美樹さんの親友で」
「…鹿目…?」
久兵衛は、その苗字にぴくりと反応した。
「ええ、鹿目さん。 ご存知なんですか?」
「いや、知らないが…鹿目ねえ…」
久兵衛は口詰まりながら、どこかで聞き覚えのあるその苗字を脳内に検索し続けていた。
だが、
「うん、やっぱり知らないな。 知っていると思ったのは僕の気のせいだね」
久兵衛は思い出せなかった。
鹿目――それは彼が以前、ヒットマンに殺害させた、マミリーマートの常務取締役の苗字であったが、
彼にとって消した人間など最早ゴキブリ以下の存在でしかなく、 すぐに忘却してしまっていた。
「その娘、さやかの友達って言ったね? あんな風じゃつとまらないよ? 大丈夫なんだろうね?」
「ええ、美樹さんとは全然タイプが違います。 毎日美樹さんに会いに来るんですが、とってもいい子ですよ」
「ふうん、毎日来てくれるのか。 なら僕も、来れたらだけどなんとか時間を作って様子を見に来ることにするよ。
それでもし会えたら、契約できるか聞いてみよう。 でも、最近忙しくってね…それじゃあ!」
久兵衛はマミに手を振り、足早に駆け出した。 今日は政治家に挨拶に行く日であったのだ。
――その後久兵衛は、鹿目まどかを確認し、そのあまりの可愛らしさに驚愕したとき、看板娘を交代させることを決め、
マミを犯そうと心に決めたのだった。
しかもまどかの可愛さは反則的で、彼は契約したら急接近し、すぐにでも犯そうと考えてしまった。
だが、何故かマミと付き合った後は、まどかを犯す事は次第にどうでも良くなっていったのだった。
それがマミに対する自分の純粋な気持ちによるものだと気がついたときには、すべてが手遅れになっていたのであった。
定時を迎えるとすぐに、ほむらは警察署を出た。
早くまどかに会いたい、そう思って、少し駆け足気味に歩道を蹴っていく。
最近、とにかく疲れる。 何もしていないのに、クタクタだ。
でもそんな時、帰ってまどかに会えば、疲れは吹っ飛んでしまうのだ。
ほむホームに到着した。 ベルを鳴らして、カギを開ける。
扉をひらくと、まどかが駆けてくる足音が心地良い。
「おかえりなさい、ほむらちゃん!!」
抱きついてくるまどかを、しっかりと抱きとめ、両腕を力いっぱい使って、抱きしめる。
――ほら、あの人よ、例の事件に関わっている…
――ああ、あの解決しない事件かい…
自分に後ろ指を指す、警察官たちの心無い言葉が蘇ってくる。
きっと組織と戦っていた詢子も、同じような苦しみを背負っていたのだろうと、思う。
しかし、まどかを抱きしめていると、脳裏に浮かんでくるそれらが不思議と痛くないのだ。
唇を重ね、絡みあう舌の感覚が溶けていく。
今日一日、感じた辛い思いも溶けていく。
――あの人に関わると、上から目を付けられてろくな事がないわよ…
――とっとと異動すればいいのに、空気が読めないって、ああいう人のことをいうんだよね…
嫌な思いがすべて溶けると、明日もそれらに耐えられるだけの自信が湧いてくる。
それを得て初めて、ほむらはまどかの唇から、自分のそれを離すのだ。
「…今日はサンマが安かったから、たくさん買ってきたの」
「いい匂いだわ。 残さず食べるわね」
まどかが食卓を整えようとしたとき、玄関のチャイムが鳴った。
「あっ、お客さんかな――」
「いいわ、私が対応するから、まどかは食卓を準備して」
ほむらは、玄関に向かって歩き出した。
玄関の覗き窓を覗くと、若い男が立っているようであった。
ほむらはそれを確認して、対応の仕方を決定した。
この家に男が来ること自体、いいことでは決して無い。
「…何かしら?」
ドアチェーンをかけたままで玄関をほんの10センチほど開け、来客を、変態紳士を殺傷するときの眼で睨みつける。
これで大抵のまねかれざる訪問者は逃げていくのだが、この男はそうではなかった。
ヒッ、と驚いたものの、帰ろうとせず、要件を語り始めた。
「私、マミリーマートの者なんですが、ここに故、鹿目常務のお嬢さんが保護されていると聞き、伺った次第でありまして…」
ほむらはこの男を、はっきりと追い返すべきであると決めた。
「帰って頂戴」
しかし男は帰らず、ほむらの視線に当てられて脂汗みどろになりながらも、続けるのだった。
「いやあ、その、僕は鹿目常務にずいぶん可愛がられたクチでして、
お嬢さんがもし困っているなら、当社への就職を支援させていただこうと…」
――お義母さんに可愛がられた? だから何だというの?
お義母さんが命を狙われているときに助けることも出来なかった連中が、
そして殺された後ものうのうと組織に従って今まで生きてきた奴が、今になってまどかを連れ去ろうとやって来る…。
ほむらは、組織を構成するエゴの最小単位を、玄関の扉越しに見た気がしていた。
そしてそれは、警察官たちの、組織に寄り添うエゴたちの、ほむらに対する不快な言葉を、再び彼女の脳内に浮かび上げた。
――誰も正義を行わない、そのくせ建前だけは重要視する。
今もコイツは、まどかを建前の道具に使おうとしているに過ぎない。 だったら、私は――
「帰れと言っているのが聞こえないのかしら? 警察を呼ぶ、と言いたいところだけど、私自身が警察官なの。
ブタ箱に宿泊したいのなら、今すぐ手続きをしてあげるわ」
男は、ドスの利いた声を聞いて、何かを新聞受けに突っ込み、今度こそ逃げるように帰っていった。
ほむらがそれを取り出してみると、「株式会社マミリーマート 就職説明会案内」と書かれていた。
ほむらはそれをくしゃくしゃに丸め、ゴミ箱に捨てた。
だがそれは、まどかに契約を迫るその白い悪魔は、その後幾度も、まるで嫌がらせのように新聞受けに入れられる事になるのであった。
「さっきの人、なんだったの?」
まどかは、食卓についたほむらに、心配そうに訪ねてきた。
「なんでもないわ。 ただの悪徳セールスマンよ」
サラリと流したほむらの態度に安心したのか、まどかは、
変な人が最近多いんだね、と、ほむらの買い与えたキッズケータイを見ながら言い、「いただきます」と、食事に手を合わせた。
ほむらはそんなまどかの動きを、手振りで制し、ちょっといい? と、聞くと、まどかは手を止めてほむらを見た。
「まどか、あなたに就職支援を約束して、取り入ろうとする者が現れても、決して言いなりになっては駄目」
「え…就職?」
「そう、あなたは私が養うから、働く必要はないのよ。 ずっと家で私のお嫁さんをやっていて頂戴」
組織に消された詢子――。
組織に疎まれ、飼い殺されている自分――。
そして、組織に利用され、正しい事にさえ目を向けられないその他大勢――
――まどかは絶対、そんな風にしない、まどかは絶対、働かせない。 すべての必要なお金は、私が稼ぐ。
そして今まで通りの、幸せな日々を――。
ほむらが、決心を固めた夜であった。
…
杏子はそれを聞き、全てに合点がいったようであった。
「そうか、だからあんた、あたしがまどかを働かせようとしたとき、あんなに怒ったんだな」
「そうよ、あなたはしてはいけないことをしたの」
「でも、さやかが危なかったんだぞ!」
ほむらはまどかと卓球をしているさやかを睨みつけた。
そして気持ちが変わっていない事を確認し、
「別にあの時死んでくれていても、よかったと思うわ」
杏子に、言葉にしたそれを叩きつけた。
「てめえ!」
杏子が吠えたが、ほむらは余裕を持って、
「あなたはいいの?」と、問うと、杏子は、その言葉の意味を知ってか知らずか、「…何がだよ?」と、怒りを鎮めた。
「美樹さやかとの関係よ。
ギクシャクしたまま放置していると、そのうちあなたも、
あの時彼女を見殺しにしていたほうが良かったと、後悔することになると思うけど」
杏子はそれを聞くなり動けなくなり、反論も出来なくなった。
第十二章 迷い
卓球が終わり、夕食までの間を自由時間とし、ほむらはまどかと部屋でくつろごうと思っていたのだったが、
さやかがのこのこと部屋にまで付いてきたので、ほむらはイライラしながらまどかとさやかの会話を聞く羽目になった。
「いやあー! ここは楽しいねえー! また来年も来ようよ、まどか!」
「うん! みんな一緒にね!」
ほむらには、さやかの言葉が、ここにいない杏子がいなくても十分楽しい、と、言外に行っているような気がし、ハラワタが沸えくった。
杏子との関係が終わってしまえば、またワープアに戻る筈であり、
そうなったらこんなグレードのホテルにはとても来れるはずがないのだが、
一体どういうプランでここに来年も来ようとしているのだろうか?
ほむらは、まどかを独占されていることに加え、何の考えもなくモノを言っていそうなさやかをくびり殺したい衝動にかられていた。
ワープアであるさやかが、杏子に見初められて、まるでシンデレラのような待遇の変化を享受しているというのに、
それを邪険に扱っているのはどういう了見なのか、ほむらは理解に苦しんでいたのである。
「美樹さやか! あなたは恋人をほったからして、一体どういうつもりなの?」
ほむらはとうとう堪忍袋の緒をぶち切れさせ、さやかを謗ってしまっていた。
「はあ? 恋人? あんた何言ってんの?
あたしと杏子は公では上司部下だけど、私ではただの友達であって、恋人とかそんなんじゃないし!」
ほむらはさやかの言葉に、絶望にも似た衝撃を受けていた。
――どういう事なの、杏子!? あなたナメられているわよ!!
二人の想いがここまで食い違っているのであれば、杏子の恋の難易度はただごとではなかろうと、ほむらは思った。
ほむらは、この悪すぎる状況を何とかしなければならないという義務感のような情動に突き動かされ、
杏子の部屋に向かって走りだしていた。
ほむらがノックすると、すぐに勢い良く扉が開き、「さやか!」と、嬉しさに弾けるような声と共に杏子が顔を出したが、
目の前にいるのがほむらだと確認できた瞬間、はっきりと分かるほど落胆した表情になったので、ほむらは更に神経をイラ付かせた。
「杏子、美樹さやかの認識が大変なことになっているわよ!」
ほむらは叫んだ。
しかし、さやかに飢えているのだろう杏子はその言葉に相応の反応を示す事ができぬほど弱りきっており、
まあ、入れよ、と、息絶えそうな声で言って、ほむらを招き入れたのだった。
「何よ、この部屋!? あなたレズをナメているわね!!」
ほむらは、ベッドの形状を確認するやいなや、落胆の混じった高い声を上げた。
その部屋は、ツインベッドルームであった。
ほむらたちの部屋は勿論、ダブルベッドルームである。
「――で、さやかの認識がどうしたって?」
ほむらを部屋に招き入れるなり、杏子はベッドの上に膝を抱えて、縮こまるように座り込んで、言った。
いつもの「空海?」がないということは、さやかに無視され続け、余程精神をやられているのであろう。
その様子は先程までとはまるで別人のように痛々しい。
ずっとこんな風にして、さやかを待ち続けていたのだろうと思うと、ほむらにしても人事とは思えず、その胸がズキズキと傷んだ。
「美樹さやかは、あなたの事をただの友達だと言ったわ。 あなた分かっているの?」
「…ああ、そうさ。 あたしたちはまだ、ただの友達だよ」
ほむらは、耳を疑った。
「何言ってるの? あなた美樹さやかが好きなんでしょう? 何故友達なんて、そんなに平然と言えるの?」
ほむらのなじるような言葉を聞きながら、杏子はそれらが傷口に触れたかのように、表情をよじっていく。
「勘弁してくれよ。 あたしらにはもう少し時間が必要なんだ」
「悠長なこと言わないで頂戴! 私だって今、まどかを美樹さやかに独占されているのよ!
いい? あなたの相手は迷惑なの! 主人であるあなたが責任をもってしつけなさい!!」
杏子は泣きそうになっている。 まるで大人に叱られている子供である。
「ちょっと待ってくれよ…やっとの事でさやかと友達になれたんだからさ…それでいきなりレズっぽく襲いかかったら、
せっかくここまで来れたのに、さやかに嫌われてしまうかも知れないじゃんか…
もう少し時間をくれよ…さやかを怖がらせないように、じっくりと腰をすえてかかろうと思っているんだからさ…」
要は、これ以上接近しようとすれば、関係を壊してしまうのではないかという危惧が恐ろしくて前に進めず、
友達関係に妥協し甘んじて、ぬるま湯に浸かっているのですと、ほむらには聞こえるのだった。
なんというヘタレ! ほむらは煮え切らぬ態度の杏子に怒りを爆発させた。
「…じゃああなたは美樹さやかの友達ね。
美樹さやかに好きな男ができて、その男と彼女が寝るようになっても、友達なら祝福出来るわけね?
美樹さやかはヴァイオリニスト崩れのチンピラと付き合ったことのある穴あき娘だから、
また男に走ることは容易に想像できるわ! その時、私と一緒に美樹さやかの恋を応援しましょうね! 友達なら出来るでしょ?」
杏子は泣きながらムキになり、
「祝福なんかしねーもん!! 男なんか近づけねーもん!! さやかに付く悪い虫は、あたしが全員ぶっ潰す!!」
まるで小学生である。
「…あなたそれじゃあ最低だわ。 美樹さやかの、最低の友達」
哀れむような、それでいて容赦のないほむらの断言に、とうとう反論が出来なくなった杏子は泣き崩れ、
「もうどうしたらいいかわかんねえんだもん…助けてくれよ…あたし、このままじゃダメになっちまう…」
ベッドを掻きむしりながらおいおいと嗚咽混じりに叫ぶのだった。
ほむらは全国展開しているコンビニチェーンの社長とは思えない、その情けない姿に胸を締め付けられ、
「…分かったわ…私もレズの先輩として力になってあげるし、きっとまどかもそうしてくれるはずよ」
打って変わって優しくそう、語りかけた。
杏子は泣き崩れた顔を上げ、
「本当か…助けてくれるのか…?」
涙にふやけた声を震わせた。
「ええ、私は真面目に頑張るガチレズの味方で、現状に甘えて前に進めないヘタレの敵。 あなたはどっちなの? 佐倉杏子」
杏子は袖でゴシゴシと涙を拭い、
「あたし、頑張るよ! 絶対さやかとラブラブになる!!」
と、決意を新たにした。
「じゃあ、今まであった事を話してみなさい! その中にきっと、美樹さやかがあなたを避ける理由があるはずよ!」
杏子は、しばしの沈黙の後、ポツポツと、今までの経緯を語り始めた。
「…ねえ、さやかちゃん…」
まどかは、隣に座り、黙り込んで何かを考えているさやかの意識に、自分の声を滑りこませるように、聞いた。
「…何? まどか」
かすれた声で反応したさやかは、先程ほむらが出て行った後から、ずっと黙り通し、今やっと口を開いた次第であったのだ。
まどかは、親友の、沈黙の理由を探り確かめるように、
「杏子ちゃん、ずっと寂しそうだったよ…」
ぽつりと、言葉を浮かべた。
――沈黙。 まどかは、さやかの無言の返答に、その原因の中核に杏子が鎮座していることを、今はっきりとつかみとった。
「…もしよかったら、話してくれないかな…?」
まどかの問い掛けが重いのだろう。 さやかは更に項垂れ、苦い表情になった。
「あたし達、もう駄目なんだ…」
さやかは、苦しみに言葉を詰まらせながら、ポツポツと語り始めた。
…
間一髪で変態紳士化は避けられたものの、グリーフシードの影響で体が弱りきっていたさやかは、
さくら会系列の病院に、3日ほど入院していた。
そしてその、退院の日――。
「…色々とありがとうね、杏子。 入院費、絶対返すから」
「…これからどうするんだい?」
心配そうな杏子の問いに、さやかは精一杯の笑顔を作り、
「まあ独りならなんとかなるっしょ。 警備員でもやるよ」
答えて、手を降った。
「じゃあね、杏子」
早く帰ってほしいと、さやかは思った。
ああは言ったが、本心はこれからの生活に対する不安で、押しつぶされそうになっていたのだった。
杏子を見ていると、その温もりに縋りつきそうになる自分の弱い部分が、その潰れそうな神経を撫ですさるのだ。
しかし、杏子は帰らなかった。 あろうことか、近づいてくる。
――ダメ。 あたし杏子に頼っちゃうよ…駄目なあたしをさらけ出しちゃう…
さやかの思考の中に、その悲痛な叫びが弾け、不安にも似た知覚が染み渡ったその余韻に、新たに滴下された言葉の雫――
「さやか。 あたしと一緒に来てくんないかな…?」
言葉と共に、握り締められた手の温もり――
「…もしよかったらさ、あたしの秘書になってくれよ。 あんたに、支えて欲しいんだ。 側にいて欲しいんだ」
さやかの視界は、徐々に涙で霞んでいった。
「…無理だよ…あたし、秘書なんて、なにしていいか分からないし…それに、働く気力も、やる気みたいなものも、今何も無いの…」
涙で何も見えなくなった視覚の代わりに、包みこむ温かな感触が、
さやかに、杏子がきちんと手を握りしめてくれているという事実を知らせ続けていた。
「大丈夫だよ。 あたしの側にいてくれよ。 仕事は、一年前まで秘書をやってくれた妹を付けるから、教えてもらうといい。
実務をやりながら勉強して、資格を取るんだ。 頑張り屋のさやかなら出来るよ」
「…こんなあたしでもいいの? コンビニ店員しか、やったこと無いんだよ?」
「…大丈夫だって。 お手伝いみたいなもんだからさ…」
杏子は、妹が倒れてから心を入れ替え、あまり物事を人にやらせず、自分でやるようにしていた。
「でも…向こうで住むところとか…」
それを聞いて、杏子はハッとして固まった。
そして欲望の絡んだアイデアを注意深く取り出し、邪な考えを抜き取るように、言葉を繋いだ。
「あたしのマンションに、開いている部屋があるから、そこを使うといいよ。
えっと…そう、ルームシェアだよ! 欧米では一般的なんだ!」
杏子は、同棲という言葉をかみ殺して、人当たりのいい言葉に置き換え、取り繕うように言った。
「…なあ、来てくれるかい?」
「…でも…なんか悪いし…」
「来て欲しいんだ!」
逡巡していたさやかではあったが、杏子の強い言葉に、頷くしか無かった。
さやかは思った。
こんなに自分を必要としてくれているなら、もう一度頑張ってみよう。
杏子のために、働いてみよう。
さやかは涙をぬぐって、はっきりした視界の正面に、杏子を捉え直して、言った。
「じゃあ、あたし頑張るよ。 だから少しだけ、杏子を頼るね」
杏子はそれを聞いて、照れたように俯き、
「頼っているのは、あたしの方さ」
と言って、笑った。
その日から二人の生活が、そして次の日から、さやかの秘書見習い生活が始まった。
それは、二人の関係を阻む、問題の始まりでもあった。
「おはようございます!」
「おはよう、美樹さん」
元気の良いさやかの挨拶に答えるのは、彼女の補佐をしている杏子の妹ただ一人である。
秘書課員達は、当初からさやかに冷たかった。
カリスマであり、会社のアイドルでもある杏子の秘書を務めることは、秘書課員たちの希望のようなもので、
誰もが激務を覚悟した上で自分がなりたいと思っているのに、そこに秘書検定も取っていない、中途採用の得体の知れない女が入ってき、
その栄光の役職を掠め取ったなどという人事は、絶望を与えられることにも等しいあり得なさであった。
しかもその補佐に、社を退いていた杏子の妹まで付けるというVIP待遇である。
秘書課員達の疑念と嫉妬の炎が、容赦なくさやかいじめという形を持って燃え盛り始めたのも、むべなるかなである。
「美樹さん、あなた新人のくせに出社が遅いわねえ、さっさと掃除して頂戴な」
お局と呼ばれる秘書課長のババアが、さやかの遅参を詰りながら自在ぼうきをほうり投げた。
さやかはもっと早く出社したかったのであるが、杏子がなかなか彼女を手放さず、出社が遅れたのだった。
そんな言い訳は勿論出来ないので、さやかはすみません、と謝って掃除を開始した。
「アーッ! ラーメンこぼしたあ!!」
声のする方に目を向けると、カップの味噌ラーメンを食っていた秘書課員が、明らかにワザと、床にスープを注いでいた。
杏子の妹が急いで雑巾を取りに行こうとするも、
「コラ! 佐倉さん! お掃除は下っ端の美樹さんの仕事でございますよ!」
お局がこれを阻止するのであった。
さやかは朝っぱらから、雑巾の絞り汁と味噌ラーメンのコクのあるスープとが入り交じった香りを、
床に這いつくばった姿勢で、汗をかきながら嗅ぐことになったのである。
そして漸く床が綺麗になったと思ったその刹那――
「アッ、ゴメン!」
目の前に再度、スープが注ぎこまれ、床にたたきつけられたその飛沫が、容赦なくさやかの顔に浴びせかけられた。
さやかが涙を堪えて、床を再度拭き直していると、
「美樹さん! いつまで床を拭いているの!!」
お局の叱責が飛んでき、さやかは「スミマセーン!」とそれに大声で応じなくてはならないのだった。
――負けるもんか! 負けるもんか!
さやかは熱を入れ、雑巾がけを超速で行っている。
杏子の妹は、そんな健気なさやかと、執務机にふんぞり返っているお局とをおろおろと交互に見、
何も出来ずにただただ固まっているのだった。
杏子の妹と秘書課を出、社長室に向かう頃には、さやかは既にクタクタになっていた。
「…ごめんなさいね、美樹さん…」
杏子の妹はうつむきながら、申し訳なさそうに謝ったが、彼女が悪いわけではないので、さやかは、「大丈夫! 気にしてないって!」
と、カラ元気で応じた。
「…お局さんも、他の人達も、あんな風じゃ無かったの…みんなお姉ちゃんの秘書になりたくて、頑張ってきたのに、
美樹さんにその役目を取られたから、ヤキモチを妬いているんだと思う…」
「…そっか、そうなんだ…」
杏子妹は、そう言ったさやかの顔を見て、軽率な言葉を発した事を後悔した。
「あたしが入ったことで、会社の中が乱れているんだ…なんか気が引けちゃうな…」
さやかには、何気なく発した言葉が、時間が経つにつれ、自らを締め付けていく鎖のように感じられるのだった。
「あっ…でも、美樹さんが悪いわけじゃないと思うな! お姉ちゃんが悪い! 私、後でお姉ちゃんに注意しておきますね!」
取り繕うような妹の調子にも、さやかは乗ってこなかった。
自分を責めて、沈んだままだ。
「…杏子は悪くないよ…あたしの命の恩人だし…仕事も、あたしが杏子に頼ったようなもんだし…」
妹はさやかの言葉を聞いて、「ごめんなさい…」と、謝る事しか出来なかった。
しかし、これではよくないと思う。
なんとかさやかを気持よく働かせないと、それが自分の役割なのだから…妹は、話題を探した。
「…あの…お姉ちゃんとは、どうですか?」
言ってしまった後で、妹はまた後悔をした。
「…どうって?」
さやかの返答を聞いて、変なこと聞いちゃった、という後悔が具体性を帯びてくる。
妹は、すべてを放り出し、その場から逃げてしまいたくなった。
「そ…その…不躾な姉なので…失礼な事とか…無いかなと思って…」
姉がレズであることを知ってしまっていた妹であったから、その同棲相手であるさやかを前にして、
モノを言うたびにそれがタブーのような気がしてきて、仕舞いには思考まで動転してくる有様であった。
「…あのう…変なこと聞いて…ごめんなさい…」
そんな妹の配慮を見て、杏子がレズであることを感づいていたさやかは、
自分と杏子、二人の関係に対する周囲の認識を見た気がし、複雑な思いに言葉を詰まらせた。
実際杏子はさやかにエッチな事は何もしていなかったし、ただただ普通にルームシェアをしていただけだったから、
それだけに想像の先行するこう言った他人の感じ取り方は、さやかを必要以上に追い詰める結果になってしまうことは致し方ない。
「あ…あの…あんな姉ですが…とにかくよろしくお願いします!」
社長室の前で、深々と頭を下げられ、そう嘆願されたが、一体どこまでお願いされているのだろうか?
さやかは考えるたびに深みにハマっていく自分を感じながら、
そんな霧のようにかすんだ自分と相手との認識の隔たりに対する歯がゆい思いを振り切るように作り笑いを浮かべ、
「うん」と返すのが精一杯であった。
「さやか!!」
社長室に入ると、喜びの溢れでた杏子の表情に迎えられ、複雑に傷のついたさやかの心は、多少癒されたような気がした。
妹は部屋に入るなり、台に置かれていた花瓶を持ち、最初に花を取り替えるんです、と、さやかに伝え、部屋を出て行った。
さやかがそれを追いかけようとすると、杏子が袖を掴んで引き止め、
「さやかはあたしの側にいてくれよ」
と、甘えてきた。
「でもお花取りに行く場所とか、あたしわかんないよ? ちゃんと仕事覚えて、杏子の役に立てるようにならなきゃ…」
といったものの、杏子はさやかを離さず、
「そんなの後で場所だけ聞いときゃいいじゃねえか! とにかくさやかはそこにいてくれ。
さやかが居ないと気が気じゃなくて仕事が捗らねえんだ!」
と、こんな調子であった。
さやかが仕方なく、社長室の掃除を始めようとすると、花瓶の水を換えてきた妹が社長室に戻ってき、
「これからお花を取りに行くので、付いてきてください」
と、さやかに一緒に来るように行ったので、さやかが付いて行こうとすると、
「おい、花くらいでさやかを使うんじゃねえ!」
杏子が妹にキレた。
「何よ! お姉ちゃんが、美樹さんに仕事を教えてくれって私に頼んだんじゃない!!」
「うるせえ! 連れていくことねえだろって言ってんだ! 教えるならここで、口頭で教えたらいいじゃねえか!!」
姉妹喧嘩が始まり、険悪なアトモスフィアがさやかの心に沁み込んで、胸を押さえつけ始めた。
「…あのさ、あたし、お花取りに付いて行くよ。 口頭じゃよくわかんないと思うし…ごめんね、杏子」
さやかがそう言って恐る恐る杏子を見たとき、彼女は突然穴に落ち込んだようなあっけに取られた表情をし、
その後、明らかに嫉妬に満ち満ちた目付きで妹を睨んでいた。
「ごめんね杏子、すぐに覚えて、出来るようになるから、だから喧嘩しないで、あたしに勉強させてよ、ね」
さやかは自分の存在が、秘書課やこの姉妹の仲など、
多くのものに亀裂を生じさせる要因になっていることに、恐怖にも似た不安を感じていた。
「別に怒ってねえけどさあ…」と、杏子が言いかけたとき、妹が、
「時間が惜しいので、早く行きましょう、美樹さん」
と言って、さやかの手を取り、社長室を足早に出た。
妹に手を掴まれたとき、チッ、という杏子の舌打ちが部屋に響いたのを、さやかは聞き逃がしてはいなかった。
花をもらってきて、花瓶に生け直すと、さやかは杏子の下に走り寄り、
「ちゃんと覚えたからね。 明日からは一人でできるから」と、報告すると、
「そうか、そうか」と、杏子もデレデレとしながら応じてくれ、さやかは杏子の機嫌が治っただろうことに深く安堵した。
「次は、部屋の中を掃除します」
しかし妹のきっぱりとした声がすると、杏子の顔がムスッと豹変し、それを見て焦ったさやかが、
「ちゃんと覚えるから! そしたら明日から一人でできるから! ね!」
と、いちいちフォローしてやらねばならず、大変であった。
二人が部屋の掃除を始めると、杏子はなにやら書類を広げ、確認しながらペタペタとハンコを押していたが、すぐに放り出し、
さやかの後に付いて「そうそう、上手い」とか言いながら掃除の指導を始めた。 すると、
「お姉ちゃん! 仕事しなよ!」
当然のように妹がこれにキレた。
「うるせえ! お前がさやかにベタベタするから、気が散って何も出来ねえんだよ!」
「ベタベタなんてしてないでしょ! 私は教えているだけ!」
姉妹喧嘩は一気にその火種が燃え上がり、危険な状態に遷移した。
「ちょっとちょっと、喧嘩は駄目だって!」
さやかが間に入ってなんとか止め、収まったものの、完全にそれが消えるわけはなく、
さやかは痛いまでの杏子の視線を背中に浴びながら、社長室の清掃を終えたのだった。
次は、スケジュール管理を教わった。
「愚姉のスケジュールです。 時間が押しているので掻い摘んで…」
「おい、誰が愚姉だよ! ふざけんな!」
妹は吠える杏子を完全に無視してかかっていた。
しかしさやかは杏子の機嫌が気になって仕方がなかった。
「十時から役員の方が来られるんですね」
「ええ、そうです。 戦略、広報担当の骨川常務が業務報告に来られるので、ご案内しなければいけません。
それにその前に、今やっている書類の決裁を終えてもらいたいんですけどね…」
そう言って、妹が嫌味っぽく、遅々として進まぬ仕事が広がっている杏子の執務机を一瞥した。
「うるせえな、今やっているじゃねえか!」
杏子がペタリと判を押した。 しかし、未決済の書類はまだ山積しており、とても十時まで終わりそうにない。
さやかはピンチを感じ取った。
「杏子、頑張って!」
さやかが応援の言葉を送ると、杏子の書類を確認するスピードがにわかにアップしたようであった。
今度は判を押さずに、机の隅に書類をすべらせる。
何かが気になり、決裁出来なかったのだろうとさやかは思った。
ただハンコを押すだけが仕事では無いのである。
「頑張れ! 頑張れ!」
「おっしゃあ! 燃えてきた!」
さやかの声援に答えるように、杏子は猛スピードで書類を片付けていく。
妹は、呆れたような表情でそれを眺めていた。
「さやか、終わったぞ!」
「やったね、杏子!!」
終了したのは、十時二分前であった。
それからは、役員や部長級の社員達が代わる代わる社長室を訪れ、その度に杏子は指示を出したり、
一緒になって考えたり、書類を突き返して担当者を社長室に呼び付けたりし、
その結果杏子の所要が増えると、妹がさやかを近くに呼んで、スケジュールを組み込む要領を教えた。
杏子のスケジュールは何かがあるたびに増えていき、管理が大変そうであった。
さやかはこんな事が自分に出来るのかと、不安を感じ始めていた。
そしてそんな不安の中、スケジュールと時計とを交互に見ながら昼休みがやってきたが、
時計が正午を指していることをいくら確認しても、さやかの頭は休み時間に切り替わらず、なんだか変な気分であった。
杏子は邪魔な妹を社員食堂に追いやって、さやかと二人、レストランで昼食をとっていた。
「どうだい? 仕事は」
「うーん、めまぐるしすぎて、何が何だか分からないや…」
杏子はエスカルゴのなんとやらを口に放り込み、咀嚼し飲み込んでから、
「まあすぐに慣れるって」
と、楽観論を展開した。
「うん、頑張るよ」
さやかも、そう思わねばやっていけなかった。
不安をそうするようにエスカルゴを噛み下し、笑顔を作ると、杏子は顔を赤らめ、俯いて「ヘヘヘ…」と照れ笑いをした。
「どうしたの、杏子?」
「な…何でもねえよ…」
杏子は、まるでデートみたいだ、と思って、ひとり舞い上がっていた。
午後は会社から出、車で銀行や商社、そして食品会社などを巡り、商談やら挨拶やらをして、社に戻ると6時を過ぎていた。
「あたしはもう一仕事するけど、さやかは疲れたろうから帰っていいぞ」
さやかは杏子の好意を受けることに迷いを感じていた。
付いていくばかりで何も出来ていなかった自分が、その上先に帰るなどと、許されることではない気がする。
「そうですね、もう秘書の仕事はないので、先に帰っていてもいいと思います。
あ、念のため、明日のお姉ちゃんのスケジュールだけは、明日の業務開始までに頭に入れておいてくださいね。」
しかし妹もそう言ってくれたので、さやかは好意に甘えて帰ることにした。
「じゃあ先に帰っているね。 杏子は何時に帰るの?」
「あと1時間もあれば帰れると思う」
「そう、じゃあ晩ご飯作っておくよ。 何がいい?」
さやかの申し出に、杏子は戸惑いながらも、嬉しそうな表情を浮かべ、
「さやかの作るものなら、何でもいいよ」
と、答えた。
それはさやかが同じ問い掛けをしたとき、いつも恭介がする答えと全く同じで、
さやかはその言葉の中に不安の種を見た思いがしたが、それを振り払うように、
「じゃあ、オムライスでいいかな?」
笑顔を作って、言った。
オムライスはかつて恭介によってたぬきの餌にされた料理であった。
何でもいい→オムライスの流れは、さやかにとってトラウマであったが、彼女はそれをあえて試し、克服したい気持ちになったのだった。
「さやかー! ただいま―!」
杏子が帰ってくると、さやかが出来上がった料理をテーブルに並べている最中だった。
「あ…ごめんね、お出迎え出来なくて」
「いいって、いいって、それより腹ペコだ! 早く食べよう!」
普段、小腹が空いたときはお菓子やジャンクフードでそれを満たす杏子であったが、
今日はさやかが手料理を作ってくれるということで、耐えに耐えていたのであった。
「いただきます! ひゃあ、うめえ!!」
杏子は息継ぎのように賞賛を唱えながらオムライスを瞬く間に完食し、おかわりまでする始末であった。
杏子の胃袋は幸福で満タンであった。 さやかの手料理を満腹になるまで食うことが出来たという、幸福である。
さやかはそれを見て、オムライスをたぬきの餌にされたトラウマが克服できたような気がし、素直に嬉しくなったのであった。
さやかは、食器を片付けたあと、自室で杏子の明日のスケジュールを確認したあと、秘書検定の勉強を始めた。
しかし、始めて十分も経たないうちに、部屋の扉がノックされ、
「さやかー、あそぼうぜー」
と言って、杏子が入ってきた。
「ええー、あたし、いま勉強中なんだけど…」
さやかがそう言って渋ったが、
「明日でもいいじゃんか。 居間でテレビ見ようぜ。 それともゲームすっか?」
と、杏子は、「少しだけだからね」と言うさやかを居間に引っ張り出し、ソファに並んで座り、テレビをつけた。
しかし杏子はどんな番組をやっているのか分からない。
体のセンサー全てがさやかに釘付けだからである。
杏子は、だんだんと思考がさやかで飽和していく自分を感じていた。
そして勇気を振り絞り、体を少し、さやかの方にスライドさせ、寄り添ってみた。 さやかは黙ってテレビを観ている。
杏子はうっとりとさやかを見つめながら、自分の中にエッチな衝動が泉のように湧き出すのを感じている。
女性器が熱く興奮して、さやかを求めて花開いていくのが分かる。
杏子はそれをどうしていいか分からずに、腿をもじもじとすりあわせ、持て余しながら、
己の中に蓄積されていくさやかへの情動に、なんとか抗っていた。
「…どうしたの、杏子?」
突然声をかけられて、あまりの驚愕に杏子のすべてが制動された。
「えっと…あのさ…」
そして動転によってかき回され、もつれた毛糸のようになった思考が紡いだ言葉――
「手、繋いでいいかな?」
杏子は自分が言ったことの真意を分からずに、浴びせかけられたかのような冷や汗の存在を肌に感じたが、隣のさやかは、
「べつに、いいよ」
と、あっさりと応じてくれたのだった。
杏子はジリジリと右手を動かし、さやかの左手に近づけながら、猛烈な違和感を覚えていた。
そう、違和感としか言い表せない、しかも二人の関係の、どこに違和感を覚える要因があるのか分からない、もどかしい知覚だ。
そんなことを考えながら、杏子の手が、さやかのそれに触れたその瞬間、
さやかの体が瞬時にこわばったのが、触れ合った肌を通して杏子にも感じ取れた。
――さやかを怖がらせちまったかも知れない!
杏子の腹に、冷たく重い、鉛の網のような後悔が広げられた。
しかしすぐに、繋いだ手から伝わるさやかの温もりが、近くにあるその顔が、それらさやかのすべてが入り込んで、
その鉛を溶かしながら杏子の体中を駆け巡り、鼓動を高め、加熱させていった。
――どういう事だオイ、ドキドキし過ぎて体が動かねえじゃねえか!!
気がついたら杏子は手を繋いだまま、固まってしまっていた。
彼女の精神と肉体とを留めているのは、あの違和感であり、手を繋いだ時感じた後悔でもあった。
そのままさやかに最接近をかけても、あの手を繋いだ時の彼女のこわばりが拒絶してくる気もするし、
このまま離れてしまったら、自分を怖がったさやかがどこか知らないところに逃げて行ってしまい、二度と近づけない気もしてくる。
結局杏子は手を繋いでいるだけという、いわば子供の距離に己を留め、猛烈な違和感に囲まれながら、
しかし昂ぶる心に、今自分がさやかを独占していると言う満足感を配色した幸福にそれらすべてを溶かし込み、
このままでいいのかも知れない、幸せだし――と、動けない自分を肯定し始める次第であった。
杏子のヘタレが萌芽を見た瞬間である。
そしてそのヘタレは、さやかに対する彼女の行動方針を決定する際、必ず意見し、
二人の関係が動き出そうとするとき、それを平行線に留める緩衝剤の役割を果たすのであった。
それから一週間して、さやかも仕事の基本をひと通り覚え、杏子の妹もりんご園に帰っていった。
仕事中は、業務というただ一点においてそれぞれの行動を決定すればよかった二人であったが、
家に帰った後は、相変わらず二人とも相手との距離をどのくらいに設定したらいいのか全く分からず、
そんな日常の積み重ねが二人の関係を更にぎこちないものにさせていった。
「――社長、本日のスケジュールは以上です。 よろしいですか?」
「…あのなあ、よろしいですかじゃねえっての!」
さやかには、杏子の求めている事が分かっていた。
だけど、にこやかに笑って、素知らぬ顔で、それをかわしている。
「ふたりきりの時は、杏子って呼んでくれって、言ったじゃねえかよ、さやか!!」
さやかはそれを聞いて、フフッと笑い、
「すみませんでした、社長」
と、冷たく返すのが半ば日課のようなものとなっていた。
さやかは仕事中、杏子を「社長」と、役職名で呼ぶことにしていた。
そうでないと杏子が仕事中にもかかわらずさやかにデレ過ぎ、堕落してしまう事がなんとなく分かり始めたからである。
杏子は、いつでもさやかに甘えたがる。 自分の距離に、さやかを置きたがるのだ。
しかし結局、杏子のヘタレた性格により、その距離というのは友達以上にはどうしてもならない。 中途半端なままである。
さやかは杏子を役職名で呼ぶことによって、仕事中という事を暗に知らしめ、二人の距離を仕事用のそれに保つ術を身につけたのであった。
そして結果、距離が明確な仕事中には、杏子も頼もしい上司であり、さやかも彼女に全幅の信頼を置くことが出来ている。
だがしかしこの方法は、かように上手く行っている二人の関係を、
家に帰って仕事という前提が取り払われた後、更にギクシャクしたものに変貌させてしまうと言う不幸も重ねて誘発していた。
さやかにしてみても、仕事中に杏子と事務的な距離をおくのは辛い選択であったのは否めない。
この一週間以上、杏子のスケジュールを管理してきて、さやかは杏子が他人や組織との関係にまみれて生きていることが分かってきた。
恭介のことで実家を追い出され、その恭介にも裏切られ、最早頼るべきが杏子しか居なくなっていたさやかとは、正反対である。
つまり、杏子の気持ちを疑いたくは無いのだが、杏子にとってのさやかは、
杏子の保有する多くの関係性の中のうちの、たった一つなのであると言う厳然たる事実を、考えないわけにはいかなかったのである。
だから、近づけるときには、より杏子と近づいていたいというのが、さやかの偽らざる心境であったのだ。
しかしその一方で、仕事中の、しっかりとお互いの距離を確定させた杏子との関係が、
ギクシャクした家でのそれより格段に楽であると言う事実も、さやかの中にその実感を深く刻み込んでいるのであった。
さやかは空っぽになりたいと思っていた。
いうなれば、影に。 杏子の秘書としての自分だけに。 もどかしい事を何も感じなくていい存在に。
しかしそれは、自分の人間性というものを、押し殺す行為に他ならない。 だが、さやかはあえてそれをしたかった。
もどかしかった。 自分の、人間というものを形作るその何かが。
さやかはその日、自分のその人間の、醜い部分を感じなくてはな らないということを、なんとなく分かっていたのだった。
「そういえば今日さ、15時からフリーじゃねえか!」
――始まった。 さやかは胸の内に、冷たく呟いた。
「さくら会本部教会に寄るか! さやか、車を手配してくれ」
自分は影だと言い聞かせる。 影に、感情はないのだと。
「分かりました――」
さやかはぐっと拳を握りしめた。 車の手配をうっかり忘れてしまえば、本部教会へはいけなくなるかも知れない。
行きたくない。 だけど――
「――社長」
――影は、その主である肉体には逆らえないのであった。
会社での業務を為し終え、杏子とさやかを乗せたセンチュリーは今、下部暮市中心街を、さくら会本部教会に向け走っている。
ビルの合間を縫って、静かに車が走っている。
時々、ビルの影に飲み込まれる。 太陽が隠れて、暗くなる。
自分はこの部分なのだと、言い聞かせる。 暗くて、空気がちょっぴり重い部分。
影をつくっている部分には、そのビルには、たくさんの人がいて、いろいろな作業をこなして、
それ自体が有機的な組織を形作っているというのに、その影は、冷たく無機質で、その輪郭を真似ているだけだ。
あれが、あたし。 杏子の裏返しの、空っぽの輪郭。
車がビルの影を抜け、さやかは姿を表した太陽のあまりの眩しさに目を細めた。
杏子はきっと、眩しくないのだろうと思う。 杏子はいつだって明るいところにいるから。 あたしは、影だから眩しいのだ。
車が減速して、右折した。 ビルが見えなくなる。 郊外の道は、常に太陽が見えて、さやかには辛い。
さくら会本部教会は、すぐそこであった。
その事実も、さやかには辛かった。
杏子が車から降りる前から、沢山の教会関係者が並んで、彼女を迎えている。 さやかがいても居なくても、対応は同じだろう。
ここもまた、杏子の持つ多くの関係を、さやかに知らしめる場所であった。
しかし、こんな神父やらシスターやら信者たちやらは、上辺だけの付き合いで、目ではない。
一番おぞましい相手は、別にいるのだ。
車のドアが開け放たれ、杏子が降り立った。
車外に出て、彼らのいる空間に晒された杏子に急接近してくる小さな影を見て、さやかは自らの心に深い影の生じるのを感じた。
「逢いたかったよ! キョーコ!!」
この声を聞くと、いつもさやかはイライラする。 キョーコじゃなくて、杏子だっつうの、と思う。
「おお、ゆま。 元気にしてたかー」
――千歳ゆま。 変態紳士に両親を殺害され、さくら会見滝原支部に保護され、本部教会の孤児院に入所してきた孤児である。
杏子はしゃがみ込み、目線を同じくしたゆまの頭を、優しく撫でた。
こうなったとき、杏子は自分と同じ目線を喪失したのだと、さやかは思う。
「キョーコ! 肩車して!」
――だあめ、甘えるんじゃないの! さやかは心のなかでゆまを叱った。
「おお、いいぞー。 よっこらせ」
しかしそんなさやかの気持ちを知らない杏子は、気前よくゆまを肩車してやった。
それを見たさやかは努めて無表情を作り、歩き出した杏子の後を、まるで影のように付いて歩くのだ。
「わーい! 高い、高いよ、キョーコ!」
ゆまは杏子の目線より高くなった己のそれに興奮し、はしゃいでいた。
しかしおもむろにさやかの方に振り返り、肩車で杏子に気づかれないのをいい事に、
さやかに舌を出し、表情を様々に歪め、彼女を嘲るための顔芸を披露し始めたのである。
杏子はそんなことは知らず、「ゆまもたくさん食べて、大きくなるんだぞー」とか言いながら歩いている。
ゆまは、出会った当初から杏子を独占しようという気迫に満ち満ちており、動物的なカンで、杏子がさやかを想っている事に気づき、
その結果として、このように徹底的にさやかを嫌っていたのである。
子供であるという気安さを最大限に利用し、時々自らを睨みながらベタベタと杏子にまとわり付くゆまを見て、
さやかは自分が影であると、人間的な感情を捨てた仕事の道具なのだと何度も自分自身に言い聞かせねばならなかった。
さやかが感情をこらえながら歩いていると、沢山の信者やら協会関係者やらが、杏子さん、杏子さんと杏子に詰めかけ、
さやかは熱狂し始めたその人ごみに杏子が埋没していくのを、空虚な感覚を持って眺めていた。
ここでは、杏子は仕事の時でもない、家でさやかとのぎこちない関係に陥っている時でもない、全く違う杏子になってしまう。
さやかは、杏子との関係が、どんな距離で接したらいいのかが、分からなくなる。
そして知らぬ間に、こうして杏子が見えなくなるまで、お互いの距離が遠くなってしまうのだ。
自分から、杏子が見えなくなるまで遠くなったその時も、ゆまは杏子にベッタリとへばりついているのだろうと思うと、
さやかはどうしたら良いかわからなくなるほど打ちひしがれてしまうのであった。
さやかは孤独を持て余し、ブラブラと教会の庭を散策し、
普段ゆまの世話をしている中年のシスターが、花に水をやっているのを見つけるなり、
「千歳ゆまちゃんの引取先は見つかったんですか?」
と、急かすように聞いてしまっていた。
「ああ、ゆまちゃんはねえ…なかなか決まらないのよねえ…」
シスターはゆまの引き取り手を探すのを、半ば諦めてしまっている感じがする。
ゆまは両親に虐待をされていたらしく、その痕が生々しく体に残っているのである。
そういう子供は、引き取りに来る里親からも敬遠されがちなのであった。
まるでペットショップで売れ残っている動物だと、さやかはゆまを哀れむ一方で、
自分に向けてあらん限り多種多様な変顔をして見せるそのひねくれた性格を考察するに、
誰からも愛されないのは当然の報いであるとも思ってしまう。
しかしさやかは、ここに来るたびにあんなのがいるのは冗談じゃないと思って、
「あきらめないで、頑張ってゆまちゃんを引きとってくれる里親さんを探しましょう!
あたしも、会社でそういう人が居ないか聞いてみますから!」
と、シスターを勇気づけるように力を込めて言うのであった。
話が切れると、シスターはペコリとお辞儀をし、さやかも会釈を返して歩き出した。
気がつけば太陽は遠くの山並みに隠れ、その輝きだけで空をかろうじて照らしている。
独りに戻ると、ゆまがどこか遠くへ居なくなって欲しい、と願っている自分の浅ましさを恥じる気持ちが急速に形を作り、
「あたしって、嫌な女だ」 と、さやかは独り呟いていた。
自分の影は霞んで見えなくなった。 こうやって、自分もいつか杏子のそばから消えてなくなってしまうのではないかと、不安になる。
「美樹くん、美樹くん」
「あっ…どうも…」
声のする方に振り返ると、こそこそと手招きしているのはさくら会宗祖であり、杏子の父その人であった。
「君に、ちょっと相談があるんだけどねえ」
「…何でしょうか?」
さやかが反応を示すと、杏子の父は手招きをして教会の一室に消えていった。
杏子の父の後を追い、建物の一室に入ると、彼は机に幾つかの写真を並べ、
「実はね、杏子にお見合いをさせようと思っていてね」
と、切り出した。
それはさやかには衝撃的な内容であったが、なんとか表情の変化を抑えこみ、
「杏子が、お見合い…ですか?」
平静を装って聞き返すことが出来た。
杏子父が、そんなさやかの表情を探るように見てから、続ける。
「杏子は男勝りな性格というかだねえ、私が縁談を勧めてもあんまり乗り気じゃあ無くてねえ…心配で夜も眠れないんだよ。
もしよかったら、秘書の君から、この資料を渡してお見合いを勧めてくれないかなあと思ってねえ。
きっと君が勧めてくれると、杏子もその気になってくれると思ったんだ」
と言って、お見合い写真と資料を封筒に入れ、「杏子の為に、協力して欲しい」と、さやかに渡してきた。
父は、杏子がレズであることを、そしてさやかを好いていることを知っていたが、それを認めたくない彼は、
さやかにお見合いを勧めさせ、杏子との関係を終わらせようと踏んでいたのである。
さやかが、杏子に他の者との関係を勧めるということは、二人の関係を終わらせる意思があることを意味する筈であるから。
さやかは女の勘で杏子父のその残忍たる謀に感づき、すべてのものが急速に自分から遠のいていくような、眩暈にも似た知覚にさらされていた。
「さやか、こんなところに居たのか!」
不意に背後から杏子の声がし、背筋が反り返るほど驚愕したさやかは、
次いで反射的に杏子父から渡されたお見合い資料をかばんに突っ込んでいた。
「もう、探したんだ…ん? 何してんだ、さやか?」
「え、なんでもないよ」
さやかは何事もなかったかのように、かばんを手に持ち、杏子の方を振り返った。
すると杏子ははっきりと父を睨んでおり、
「さやかに変なことしてねえだろうな」
と、ドスの利いた声を浴びせかけていた。
さやかは自分を守ろうとするそんな杏子の態度が、妹との喧嘩を始め、多くのトラブルを巻き起こす要因であるのを十分承知していたから、
「別になんでもないんだよ、杏子! お父さん、杏子の事いろいろ心配してくれているんだから、そんな風に言っちゃ駄目じゃない!」
と、父をかばうように杏子を押しとどめていた。
しかし杏子はそんなさやかの気遣いも知らず、
「おい親父、二度とさやかに近づくんじゃねえぞ」
ガンを飛ばしながら吐き捨てたのだった。
「杏子! 駄目じゃない! お父さんに謝りなって!」
杏子は、さやかの注意を聞かず、
「いいのいいの。 さやか、帰ろう」
さやかの手を取り、父から離れさせようとするように力強く、出口の方に引きずっていく。
さやかはとっさに杏子父のほうを向いて頭を下げたが、その時彼の視線が、嘆願するような重みを含んでいるのが感じ取れ、
鞄の中のお見合い資料が気になって、体の内側がムズ痒くなった。
「…さやかさあ、親父と何話していたんだ?」
帰りの車内で、杏子が探るように発した言葉に、さやかは、
「別に、普通の事だよ。 杏子の仕事はどうかとか、無理してないかとか、ちゃんと食べているかとか、そういう話」
平然を装って嘘を言いながら、必要以上に神経が乱れていくのを感じ、取り繕うように笑顔を作ったが、
それがただの顔面のこわばりのように引きつったので、そこから自分の内面を勘ぐられはしないかと気が気ではなかった。
「ならいいんだけどさあ…」
感づかれてはいない。 さやかは一つ仕事を為し終えたような安堵を感じた。
既に外は暗くなっていて、そのおかげかも知れないと、さやかは暗闇に感謝したい気分にもなった。
「親父はあたしらが一緒にいることが、面白くないらしいからさ、なんか変なこと言われたんじゃないかって、心配でさあ。
あいつがなんかおかしな事言っても、さやかは気にしなくていいんだぞ」
さやかは、やはりそうなのか、と思った。 杏子父は、杏子がレズなのを知って、意図してさやかと杏子を離れさせようと画策し、
さやかにお見合いを勧めさせる気なのだ。
さやかがそんなことを暗澹と考察しながら聞いた、杏子の言葉は、しかし、彼の謀以上の毒を含んだそれであった。
「全くさあ、あたしたちはただの友達だろ? 変なことなんて何もしていないってのに、何勘ぐってんだろうな」
杏子はある種誤魔化すような明るさを持って、運転手にそれを聞かせ、アリバイを作るように宣言したのだった。
それはさやかにとり、聞き捨てならぬ言葉であった。
ただの友達――それはある種の安堵も感じさせる言葉であったが、
また一方である種裏切られたかのような違和感も、さやかの胸に強く抉りこむ言葉であった。
さやかは、杏子がレズなのを知っていた。
その杏子が、さやかに告白した二人の関係が、「ただの友達」だという事実は、強く拒絶されたにも等しい衝撃を持ってさやかを襲った。
友達、と聞いて、さやかは親友であった仁美のことを連想した。
ある日仁美はさやかを喫茶店に呼び出し、留学させるからと一方的に恭介を奪っていったのだった。
親友であった仁美が、ある日突然手のひらを返したと言う経験は、
ただの友達と言う杏子との関係が、更にもろいものであると言う予感を生じさせるに充分なものであった。
さやかの中に、杏子に対する不信感が蒸留されていく。
むやむやと鬱積してきた何かが、「ただの友達」と言う告白に炙られ、そこから純粋な不信感が分離精製されてくる。
「ただの友達」と言うその薄っぺらい響きは、思い立ったその時にすぐ、関係を終わらせることの出来る便利で儚い絆のように、
さやかには感じられるのであった。
さやかは今、杏子に手のひらを返される自分を、危機感にも似た焦りを持って、明確に想像することが可能になっていた。
そして、レズであるのにその欲望を抑えこみ、杏子がぎこちなく続けてきたさやかとの生活と、
杏子を取り巻く様々な、自分以外の数多くの関係というものが符合し、そこにお見合い資料を渡したときの杏子父の言葉が降ってくる。
――杏子の為。 そう、さやかとの中途半端でぎこちない生活を続けることは、はっきりと杏子の為にならない筈だ。
さやかの入社で、雰囲気が悪くなった秘書課員達――
仲違いした杏子と妹――
千歳ゆまに、杏子の父、そしてさくら会の信者や関係者達――
さやかには、杏子を取り巻くすべての関係が、自分と杏子が離れることが杏子の為であると考え、
その時が来るのを待ち望んでいるような気がしてくるのだった。
車が、二人の住むマンションの前で、滑らかに停車した。
あのぎこちない関係が始まるのかと思うと、さやかの肺には溜息の素が詰まってくるようだったが、なんとかそれを吐き出さずに耐えた。
運転手に礼を言い、見送ってからマンションに入り、エレベーターに乗り込む。
狭い空間の中、二人はただただ押し黙っている。 もう始まっているのだと思う。
いつものあの、ぎこちない関係の再構築がである。 そしてそれは、二人の暮らすあの部屋に入ったとき、きっかりと完了するのだ。
エレベーターの扉が開く。 廊下は照明に照らされて明るくなっていた。
さやかは自分の影を探してみた。
見つけたのは、天井からの照明に照らされた体から、微かに伸びる、薄くて、まるで蠢く棒のような、
太陽に照らされたときに生じるそれとは全く似ても似つかない歪な形の影だった。
それを見て、今の自分そのものだと、さやかは思った。
「もう遅いけどさ、なんか食べよっか」
さやかがぎこちなく問うと、杏子も、
「もう疲れているから、カップ麺でも作ろうぜ」
演じるように聞き返した。
さやかは、杏子の好きな「赤いケツネ」を取り出したが、粉末スープとお湯を入れ、5分待つだけで完成するそれは、
薄っぺらな人間関係の象徴のように思え、彼女は恐ろしくなってそれを戻した。
「ねえ杏子…オムライス、作っていいかな?」
「えっ…でもさやかも、疲れているんじゃないのか? 無理しなくていいんだぞ」
気遣いが、二人の間に鎮座している。 距離を孕んで。
「いいの、作らせてよ。 あたしが作りたいの。 十分もあればできるから、いいでしょ?」
さやかはそんな気遣いを振り払うように、半ばムキになって、フライパンを用意していた。
杏子は、出来上がったオムライスを、ガツガツと無言で掻き込んでいた。
「ねえ、美味しい?」
「え?」
食べるのに夢中であった杏子は、そよ風のようなさやかの言葉の内容が聞き取れず、食事の手を止め、聞き返した。
「最初の頃はさ、美味しい美味しいって、言いながら食べてくれたよね」
「美味いよ、さやかの作る料理は、なんでも美味いよ!」
さやかには、杏子の言葉が既に言い訳にしか聞こえなくなっていた。
「もういい! 知らない!」
さやかは強くテーブルをぶっ叩き、その反動で乱暴に立ち上がった。
「ちょっ…さやか…」
「あたし、勉強するから…それじゃ」
さやかは食べかけのオムライスと杏子をダイニングに残して、独り自分の部屋に戻っていった。
自室に入るなり、さやかは激情にかられて辞表を書き始めた。
しかしどんな事を書いていいのか分からず、結局、
「一身上の都合により、退職します」とだけ書いて、「辞表」と書き込んだ封筒に突っ込んで、それを鞄に放り込んだ。
その後は、何もすることが無くなった。
いずれ辞めるのであれば、秘書検定の勉強など、意味が無いことであるからだ。
さやかは、自分のベッドに寝転がった。
独りだけのベッドである。 これも恐らく杏子の気遣いなのだろうということは分かる。
この部屋には、二人の住まいには、気遣いが充満している。
ふたりの距離を図るとき、必ず気遣いが間に割り込んでくる。
さやかには、それら気遣いのすべてが、杏子がいつか自分を突き放すときの手掛かり足掛かりの為のものであると、思えてしまうのだった。
さやかは、部屋の隅に置かれた、自分の鞄を一瞥してみた。
杏子のお見合い資料と、自分の辞表とを孕んだその黒い鞄。
――あれらもまた、気遣いが形になったものなのだろうか?
さやかは自分の鞄が、この世で一番重たい物質に思えてきて鬱陶しく感じ、目をそらして天井に向き直った。
杏子は今、何をしているのだろうと考える。
いつもはご飯を残すと、「食い物を粗末にするな」と言って怒るのに、今日は何も言ってこない。
それも気遣いなのかも知れないが、もしかしたら、自分を見捨ててしまったから、何も言いに来ないのかも知れない。
いつもならこうして別々の部屋にいると、杏子の方から、「さやかー」と、甘えてくるはずなのに、今日は来ない。
それも気遣いなのかも知れないが、もしかしたら、もう自分が必要でなくなったから、来ないのかも知れない。
さやかは、距離を置こうと思った。
裏切られるより、裏切るほうが楽だと思った。
仁美や恭介が杏子に置き換わって、そこに彼女を取り巻く様々な関係が染みこんでいって、すべてが自分を拒絶する感じ。
それに対抗するには、自分が拒絶するしかないのだと、さやかは結論した。 明日から、家の中でも仕事の距離で接しようと思う。
一番楽な距離で。 そして、だんだんとその距離を遠くしていって…それが一番いいと思った。
気が付くと、視界が涙でぼやけ始めている。
一番楽な選択をしたのに、何故――さやかはそう思っていた。
終章 夜
「さやかちゃん、辛かったんだね」
話しながら泣き出していたさやかの背中を、まどかは優しく撫でさすりながら言った。
「辞表と、お見合いの資料は、まだ渡していないの?」
さやかは、まどかの問いに、更に苦しむように
「今もバッグの中に入ってる。 渡そうと思うんだけど、渡せないの」
鳴き声と共に搾り出すように言った。
「それ、渡さないほうがいいと思うよ」
「でも…もう駄目なんだよ…あたし、居なくなったほうが杏子の為なんだよ…」
「そんなことないよ。 杏子ちゃん、さやかちゃんと仲良く出来なくて、とっても辛そうだったもん」
まどかは、素直に自分の見てきた事実の感想を述べた。
そしてそれは、客観性という最も公平な物の見方をそなえた、つまり正確な意見でもあった。
「杏子が辛くったって、杏子の周りの人達、みんなそれで喜ぶんだよ? きっと杏子も、そのほうが幸せだよ」
しかし、その一方でこのようにさやかの観点から導きだされる物の見方があることも事実であった。
「そうやって全部さやかちゃんが背負い込んじゃだめだよ。
それは杏子ちゃんの問題なんだから。 本来は杏子ちゃんが、どっちを取ったら幸せか考えなきゃいけないんだよ」
「でも…でも…」
「さやかちゃんが悩んできたこと、勇気を持って、杏子ちゃんに話そ? それで二人が離れていくなら、それでいいと思うんだ。
だけど、今のままだったら、二人の関係を築く前に、さやかちゃんが勝手に逃げたことになっちゃうんじゃないかな?」
まどかの言葉に、さやかは黙すしか無かった。
「さやかちゃん、杏子ちゃんに嫌われるのが怖いんでしょ?
だから自分から、離れていこうとしている。
でも離れるなら、自分の気持ち、全部ぶつけてからにした方が、後悔がないと思うんだ」
「分かった。 あたし杏子にちゃんと伝えるね。 頑張ってみるね」
さやかが決意した瞬間であった。 ヘタレな杏子では、やはりこうは行くまい。
「うん、もうすぐみんなでご飯食べに行く時間だね。 それが終わったら、杏子ちゃんと二人きりになれるようにするから、頑張ってね」
まどかは、さやかの涙をぬぐってやりながら、
「ほら、さやかちゃんも泣き止んで。 さやかちゃんのそんな顔見てたら、また杏子ちゃん辛くなっちゃうよ」
と、優しく言ってやると、さやかも「うん、そうだね」と、湿った顔を飛び切りの笑顔に作り替えるのだった。
「呆れた! あなた全然美樹さやかのことが分からないんじゃない!」
質問しても、「分からない」を連発されて怒りが頂点に達したほむらが罵ると、杏子は項垂れたまま「うん…」と、力のない返事をした。
「何がうん、よ! あなたがウジウジして美樹さやかと距離を取り過ぎているから、向こうの気持ちがさっぱりわからなくて、
こっちもアドバイスの仕様がないっていっているのよ!」
杏子はまた、うん…と、最期の息遣いのような返事をした。
ほむらは二つの寝床が離れているツインのベッドを指さして、
「こんなふうにね、最初からお互いが離れていたら分かるものも分からないに決まっているでしょう?
あなたは恋をナメているのよ! 気遣いと優しさを押し出して、後は待っていれば手に入ると思っているんでしょう?
それは大いなる間違いだわ!」
ほむらに叱責され、とうとう杏子は声を上げて泣き出し、
「あたしの恋はベリーハードだああ…」
絶望を言語に昇華させ、鳴き声に交えて部屋中にばら蒔いた。
「ベリーハードなんかじゃないわ! 始まる前から終わっているのよ!
あなたが直面しているのはね、スーパーマリオの最初のステージで、始めに出会ったクリボーが怖くて先に進めないまま、
時間切れを迎えようとしているに等しい愚かな状況なのよ!」
ほむらも最早、彼女を慰める気さえなくなっていた。
おいおいと声を上げて泣いている杏子を見て、後はどう諦めをつけるかだけが問題だな、と、ほむらが思っていると、
不意に部屋の扉がノックされた。
廃人化寸前の杏子の代わりにほむらが扉を少し、あけてみると
「ほむらちゃん、晩ご飯食べに行こ」
まどかと、その隣に俯き加減の、決まりの悪そうな顔をしたさやかが立っているではないか!
ほむらは腕時計を確認し、もうそんな時間なのか、と思いながら、
「ちょっと待っててね、支度するから」
とだけ言って、扉を閉めた。
「杏子、御飯の時間よ! 泣き止んで頂戴!!」
ほむらはそう言って、ベッドに突っ伏していた杏子をたたき起こし、
「早く、顔洗って!!」
と、洗面所に引きずっていき、洗面台に無理くり杏子の顔を突っ込んで蛇口を全開にし、水攻めにした。
「ガボガボ…苦しい!!」
洗面所で溺れている杏子を見て、自分がにわかに焦りすぎていたことを知ったほむらは、杏子を水攻めから開放し、
「美樹さやかが、あなたに会いに来ているわ。 だからその涙の痕跡を今すぐ完全に消し去りなさい!」
力強くそう言った。
「あたし、さやかになんてもう会えねえよ…」
しかし弱気になっているヘタレ杏子に、ほむらは、
「美樹さやかは、あなたに会いたいと言っているわ。 これは起死回生のチャンスよ!
分かったら笑顔を作って一緒に御飯を食べるの! いいわね!」
嘘をついて食卓に誘導しようとする有様であった。
本当はまどかと二人で食事を取ることが出来さえすればいいほむらであったが、
みんな一緒に、仲良く食事を取らないと、肝腎のまどかが悲しむのである。
それだけは避けたかったから、脅してでも杏子には笑顔で食卓に付いてもらわねばならなかった。
それからしばらくして、重苦しい通夜のような夕食が終わり、ほむらはその怒りを杏子にぶちまけようと、
当然のように彼女の部屋についていこうとしたが、
「ほむらちゃん、お部屋に帰ろ」
まどかにそう言われてしまえば、もう杏子のことなどどうでも良くなってしまうほむらであった。
見ると、さやかも杏子に付いて行くではないか! ほむらはまどかが自分に返還されたことを知って、驚喜した。
そしてその込み上げてくる嬉しさは、ほむらに余裕をもたらしもした。
「あの二人、放っておいていいの?」
ほむらの余裕が、まどかに聞かせた言葉である。
しかしまどかも知らんぷりをして、
「もう、ふたりだけの問題だよ」
と言って、ほむらの手を引き、自分たちの部屋に戻っていったのだった。
さやかが扉を閉めると、二人の部屋は気まずさで飽和したように感じられた。
「ねえ、杏子」
さやかは、そんな雰囲気を無視し、言葉を繋いだ。
「あたしね、あんたともう、別れようと思うの」
言い終わると、堰を切ったように杏子の鳴き声が響き渡った。
「なんでだよ! 理由を教えてくれよ! あたしそんなの嫌だよ!なあ、さやかぁ!」
「あたしね、ずっとずっと、辛かった…」
さやかは、まどかに話したのと同じ内容の事を、杏子の涙にしみこませるように、ゆっくりと語りだした。
自分の中途採用が会社を乱してしまったと感じたこと――
姉妹喧嘩の原因になってしまったのが、辛かったこと――
自分には何も無いのに、杏子の周りは沢山の人がいて、自分はその中の一つでしか無いのではないかと思ったこと――
「そんなことねえよ! あたし、さやかのこと大好きだよ!!」
杏子は、今になって初めて知る、さやかの苦悩を、自分がずっと知らぬままであったという事実に驚愕し、
その自らの情け無さに涙しながら、そう叫んだのだった。
「そう、あたしのこと好きなんだ。 じゃあ見せたいものがあるんだけど…」
さやかはそう言って、バッグの中から杏子の父から託されたお見合い資料を取り出して、杏子の前に並べた。
「何だよ…これ…?」
「杏子のお父さんがさ、あたしに寄越したんだ。 杏子のお見合い相手だってさ。
あたしと居るより、こういう男の人と居たほうが、杏子も幸せなんじゃないって、お父さん言ってたよ。 あたしもそう思うし」
さやかが突き放すように言うと、杏子は泣きながら狂ったように、
「ヤダ、ヤダ! さやかがいい!!」
と、さやかに抱きついてきたのである。
その杏子の必死な様子に、本当に覚悟が備わっているのかを、さやかは試そうと思った。
そして会社を離れれば友達という関係であるとはいえ、一応上司であるのに、
そんな杏子を試すなどと大それた立場にいる己に、違和感がまるでないことをさやかは不思議に思った。
「じゃあさ、キスしてよ」
「えっ?」
さやかの言葉に、杏子は彼女の意志で動かせる物すべての動きを停止させた。
心臓の鼓動が聞こえてくる。
それが鼓動して血を送り出すたびに、さやかが体中を駆け巡っているように感じられる。
さやかに抱きついている今の状態でも、ばかになってしまいそうなのに、キスなんて…
しかし他に選択肢のない杏子は、勇気を振り絞り、さやかの顔に自らのそれを近づけて行き――
――やった! キスできたよ!!
唇がさやかの肌に触れ、その弾力を持った感触が、実感として体中に沁み渡り、
痺れ上がった杏子の体はキスの出来た満足に、そこで力尽きたように動きを止めた。
後は固まったまま震え、動けなくなるいつものヘタレトランス状態が待っているのだ。
「こんなんじゃだめだよ」
しかし放たれたさやかの言葉は、残忍極まるものであった。
「ほっぺにチュウなんてさ、子供のすることじゃん。 こんなんじゃだめ。 キスとは認めません」
浴びせられた言葉がそのまま蓄積されていくかのような、杏子の従順に落胆していく様にさやかは打ち震え、
今、自らが杏子を統べる立場にいるのだということが更にはっきりと実感させられた。
さやかは自らに抱きついている杏子をひっぺがし、ああ…と、悲しげな声を上げている彼女を、そのままベッドに押し倒した。
「いい? あたしが教えてあげる。 どうやったらキスになるか、一回だけ教えてあげるからね」
さやかは目を閉じたと思ったら、一息に杏子の唇に自らのそれを吸い付かせていた。
杏子は、戸惑った。 心の準備がまだ出来ていなかったのだ。
しかし、さやかの舌が口中に侵入し、杏子のそれに触れ合い、絡み、その粘膜同士が愛しあう感覚に、
体中を痺れさせ、それが体表の感覚を失わせ、さやかが触れているその部分だけが興奮するような接触感を訴える状況に、
すぐさま杏子の戸惑いは溶け、今まで二人の関係に挟まっていた違和感までもが消失していく気がし、
杏子は自分が生まれ変わっていくように感じていた。
もっとさやかを感じていたい! キスしていたい!
杏子がそのまっすぐな欲望を認め、されるがままではなく、自らも舌を絡め、さやかを味わおうと決心したその時、
さやかの舌が杏子の口から抜き取られ、唇も引き剥がされてしまった。
「ひゃうう…さやかぁ…もっとぉ…」
杏子はその脳内をさやかに犯され埋め尽くされ、一桁の足し算も出来ぬほどのばかになってしまっていた。
「これがキスだよ。 わかる? さっき杏子がやったのは、子供の遊びなんだよ」
さやかが吐き捨てるように言って、杏子から離れようとすると、その袖を掴まれ、
「さやかぁ…もっとキスぅ…」
杏子がキスでくたくたになった体を必死に使って引き止めてきた。
それを見たさやかの中に、愛おしさに触媒され、ゾクリと残忍な欲望が沸き起こる。
さやかは杏子の耳にフッ、と息を吹きかけ、体中が性器になったかのような敏感なその体を痙攣させてから、
「もうしてあげないよ。 一回だけって言ったじゃん。
教えてあげただけだから、もう二度と、あんたにキスなんてしてあげないんだからね」
残酷なその言葉を拾うと、杏子はむせび泣きながらベッドの上をのたうち、
「やだやだぁ…そんなのやだあ…さやかぁ…ゆるしてよぉ…」
駄々をこねる子供のようになった。
自分に対する愛おしさに理性を漂白され、赤子のようになっている杏子に対し、さやかの欲望が更にその成長を加速させる。
しかし、今まで自分にちゃんと向き合ってこなかった杏子に対するお仕置きは、まだ終っていないのだった。
「許すも何も、あたしたちって、ただの友達なんでしょ? ただの友達が、さっき教えてあげたような恋人同士のキスなんかする訳ないじゃん。
それとも何? 友達同士のキスして欲しいの? さっきあんたがやったみたいな、ほっぺにチュってする、子供みたいなキスを」
自分に対する最大の失言を持って、さやかは杏子を責め始めた。
杏子はそれを聞いて、
「ごめんよぉ…ごめんよぉ…さやかが好きなんだよぉ…だけどそんなこと言ったらどうなってしまうのか、こわかったんだよぉ…」
さやかの服に縋りつき、後悔を泣き叫んだ。
「じゃあさ、そんなにあたしが好きなんだったらさ――」
さやかはお見合い資料を杏子の眼前に示した。
「――これをお父さんに突き返してさ、あたしの事が好きだって、あんたが言いなさいよ。 はっきりと」
「いう! いう!」
「そんでさ、あんたと関係のある人たちみんなに、あたしの事が好きだって、
あんたらなんかよりずっと、あたしのことが大事だって、言いなさいよね」
「いう! いう!」
杏子はさやかのキスの感覚に未だ酩酊しており、全財産をよこせと言っても肯定しそうな勢いであった。
「さやかぁー…キスしてよぉ…お願いだよぉ…何でもするからさぁ…」
さやかは、性的な興奮にやられて、ベッドに横になって体をいやらしくくねらせている杏子に、
「じゃあ起き上がってさ、あたしんとこまでキスしに来てよ」
ベッドに腰掛けている姿勢のまま、這いずっている赤子を待ち受ける母親のように形ばかり手を差し伸べ、残忍に言い放ったのであった。
しかし杏子は、体を動かそうとするたびにいやらしい刺激が電撃のように体を駆け巡り、
「ひっ!」とか、「あはぁ!」とか言いながら悶え、結局さやかのスカートを、震えながら必死に掴むことしか出来なかったのである。
「だめだぁ…ちからはいんねえよぉ…さやかぁ…あうう…」
さやかはそんな杏子の痴態を見、
「あんたって、ホントに情け無いんだから…」
そう言って、エッチな予感に溺れている杏子に顔を近づけ、
「お願いしますって、いいなよ」
ご主人様の要求をしてしまった。
「おねがいします! おねがいします!」
しかし、上司であるはずの杏子は、あろうことかふたつ返事でおねだりをしてしまう。
さやかと杏子の、むき出しの、本来の関係が顕になったのである。
これが、この二人の魂に刻まれた、出会った時から運命づけられた本当の序列であるのだった!
そう、杏子が能動的にさやかに働きかけ、掌握しようとしていた事自体、とんだ間違いなのであった!
「あたしのこと、好き?」
「すき! すき!」
「フフッ…じゃあ、目、閉じて…」
さやかは杏子を焦らせまくり、おねだりをさせ、好きと言わせ、ようやく接吻をしてやったのであった。
杏子の体の、細胞一つ一つに到るまでが、その瞬間を待ちわびており、一斉に驚喜したかのような感覚に震えた。
先程さやかがキスを終えてからというもの、杏子は喪失感に晒され続けていたのであった。
それが今、また唇同士が触れ合い、吸いつき、舌同士が愛のやりとりを始めると、喪失感が補完されていくかのような、
一体感でもあり、安心感も含んでいそうな、そんな自らが完全に近づいたような、神々しいまでの感覚に満ち溢れていくのである。
不意に、キスをしながら、服の上をさやかの手があやしく撫で回し始めた。
身につけた布を隔ててもなお、その肉の感触が、体に電流のような刺激を与えながら這いずり回る感覚に、
杏子の体はオーバーヒート寸前にまで、瞬時に昂った。
そしてその手が、杏子の胸を捉えたとき、彼女は歯を食いしばり、刺激に備えていたが、
下腹部に、さやかのもう一方の手の感触が来たと思ったとき、杏子のすべてが違う次元まで飛んでいき――
「へえ、キスして、ちょっと体触られただけでイッちゃうんだ…」
さやかは愛撫を始めたとたん、体を急激に仰け反らせ、がくがくと痙攣をしながら脱力していった杏子に、感嘆の声を上げた。
杏子は放心しながら、ブルブルとその体を震わせている。
「でもねえ杏子…まだ始まったばかりなんだよ?」
さやかは言いながら、杏子の服を脱がせ始めた。
「ひゃっ! らめっ!」
「…じゃあ止めていいの?」
「やめないでぇ!」
前後不覚になっている杏子の服をようやく脱がせ、ブラジャーを取る時、素肌にさやかが触れてしまうと、
「ひうっ! らめっ!」
杏子の体が瞬時にはねるので、服を脱がせるだけなのに余計に時間がかかる有様であった。
かようにただただ服を脱がせているだけにもかかわらず、布が肌を擦ったり、さやかの指が触れたりするたびに、小さな声を上げ、
杏子の体がピクン、ピクンとベッドをはねるのが、さやかにはたまらなく愛おしく感じられてくるのだった。
「それじゃあ杏子、パンツ脱がすよ? いい?」
「ひっ…ひっ!」
杏子は最早、上手く喋ることの出来ぬまで助平に大脳を支配しつくされているようであった。
さやかがベチョベチョになった杏子のパンツを脱がせると、
「わあ…何これ? すっごい!」
興奮しきって充血している杏子の性器がじとじとに湿っており、それが部屋の明かりに照らされてぬらぬらし、
そこから甘酸っぱい匂いが熱気を孕んで立ち上っている。
それを見たさやかの脳内には、性欲よりも先に、単なる好奇心が走っていた。
「ねえ、触っていい?」
言い終わるか終わらぬかのうちに、その体の一番熱い部分に触れた瞬間、
「ぴいいいいいいっ!」
と杏子がおかしな叫び声を上げ、そこからピュッピュッとなにやら液体を吹き出しながらまた絶頂を迎えた。
「わっ! 何これ!? 水鉄砲みたい!」
「ひいっ…ひいっ…」
さやかは、自分への想いから、そして体に触れてもらったうれしさからか、
珍妙な反応を示すまでに興奮しきった杏子に対する愛おしさが胸の奥から沸き起こるのを実感していた。
「あんたって、なんかすっごく可愛いんだけど…
ねえ、抱きしめたくなっちゃった…あたしも、おかしくなってきたみたい…」
さやかは何かに突き動かされるように服を脱ぎ始め、その最中、上手く脱げなくて、もどかしさを感じた自分に驚いた。
自分に服を脱ぐよう促していたのは、はっきりと愛欲であった。
「ああ、可愛い! 杏子、あんたってこんなに可愛かったんだね!
今抱きしめてあげるからね! ぎゅうって、してあげるからね!」
肉体の加熱が精神の許容を超え、杏子は快楽以外に、自分が自分でなくなる恐怖だけを感じる状態であった。
「さや…まってえ…おかしくなるう…」
その恐怖がさやかを制動しようとしたその言葉は、かすれて不明瞭であり、さやかはそんなうわ言を無視して杏子に抱き付くと、
「あああああっ! ひぃぃぃいいいくぅうううう!!」
その肌と肌が触れ合った瞬間にも杏子は体をこわばらせ、悲鳴を上げて痙攣しながら再び絶頂した。
「杏子、またイッちゃったの?」
「ひっ…ひっ…ひえええええん…」
杏子はおかしくなりすぎた自分が恐ろしすぎ、とうとう声を上げて泣き出してしまった。
快楽に飲み込まれたまま、体がもとに戻らなくなるのではないかと危惧したのである。
しかしまだ気持ちよくなっていないさやかは…
「ねえ、あたしもそんなふうにしてよ。 気持よくしてよ。 あんたばかりずるいでしょ?」
容赦なく杏子の性器に、自らのそれを押し付けたのであった。
「ひぃぃぃいいいっ! いやあああああやめてえええ!!」
思わず逃げ出しそうになった杏子であったが、
「ちょっと、自分だけ気持ちよくなって、逃げようったってそうはいかないぞ~!」
性的興奮に運動神経を骨抜きにされ、クニャクニャになっていた彼女は、さやかにいとも簡単に拘束されてしまう。
「あっ! いいっ! 杏子、んっ!」
そして、さやかによって熱くなった部分同士が擦り合わされ始め…
「ああああああああああっ!! あああああああああああっ!! むっ!!」
杏子はシーツを掻きむしり、手元にあった枕にかじりついた。
「むぅうううううう!! むぅうううううう!!」
杏子は枕を唾液でびとびとになるまでかじりながら体を暴れたように痙攣させ、
「ああっ…ふぁっ…ちょっと杏子、暴れないでよ! あんっ!」
それを拘束するさやかを手こずらせ続けた。
そしてさやかがそうなるまでに数えきれないほど絶頂し、
あまりの興奮に過呼吸気味になり、行為を終えた後、さやかが介抱をせねばならぬ有様であった。
さやかは杏子に水を飲ませ、落ち着くのを待ってからシャワーを浴びせてやり、体液に染まっていない自分のベッドに杏子を寝かしつけた。
杏子は「側にいてくれ」とか、「行かないでくれ」とかうわ言のような言葉を発しながら、
次第に睡魔にまどろみ、疲れきった体をようやっと休めたのであった。
さやかは杏子が完全に眠りの世界に行ってしまったことを確認してから、ベッドから立ち上がり、
カーテンをずらして外の景色を見た。
月が煌々と照って、凪いだ海をキラキラと浮かびあげている。
ガラス越しに外の音は聞こえてこなかったが、寄せては返す波の音が、さやかの頭の中で明瞭に想像できた。
――夜。 その時、それは影なのだと、さやかは気が付いた。
太陽が地球の反対側を照らしているときの、影になっている部分が夜なのだ。 あたり一面が、影になっている。
自分は、影だと思う。 杏子について歩くだけの、空っぽでちっぽけな存在。
昼は、そんな存在でいいと思う。
さっきはああ言ったけど、人前で自分たちの関係を、ただの友達だと断じなくてはならないことも、あるのだろう。 建前として。
杏子の気持ちがわかった今、他人との関係において、自分たちのことを杏子がどうタテマエようが、さやかは気にならない気がした。
どんなに薄くなろうとも、小さくなろうとも、影は体から離れない。 その絆だけを感じていれば、いいと思った。
ただしである、夜は、その空間自体が影なのだ。 あたしに、杏子が包まれるのだ。
さやかは、自分たちの関係の隅々に感じていた違和感のすべてが無くなっていることに気が付いた。
さやかは杏子との距離をどうしたらいいのかを、完全に理解した。
影がのびたり、縮んだり、濃くなったり薄くなったりするように、不器用な杏子との距離をあたしが調整しなくてはならないのだ。
そして二人きりの夜は、思い切り包んであげる。 あたしが、杏子の全てになる位に。
さやかは、カーテンの隙間に浮かぶ月に、自らの手をかざしてみた。
影になった。 手の形の、影だ。 今杏子が起き上がったら、あたしの体は月明かりに浮かぶ影に見えるのだろう。
ふと、杏子は理解したのだろうか、と、思った。
振り返ると、さやかが開いたカーテンの隙間からの月明かりに、
杏子の肌が、先程まで興奮しきっていたのが嘘のように白く照らされている。
杏子はきっと知らないだろう、と思う。
あたしが影であることを。 昼間はちっぽけで空っぽでも、夜になればあたしが杏子の全てを包み込む程大きくなるのだということを。
どうやったら知らしめることが出来るのだろうと考える。
言葉では言いたくない。 影は何も言わないからだ。
夜は影。 あたしはあんたの影。
ただそれだけのことを伝えるのに、どうにももどかしいことを考えるものだと、さやかは自嘲し、
カーテンを閉めて、ベッドの杏子の隣に滑り込んだ。
杏子の寝息が聞こえる。
「明日からは、あたしがちゃんとリードしてあげるからね」
さやかは杏子の髪を撫でながら言って、またカーテンの方を見た。
この部屋は、カーテンの影なのだと思った。
すると、さやかはハッと気がついて、起こしていた体を横たえ、ぴったりと杏子に並ぶ形で寝転がった。
明日、杏子より先に起きよう。
そして、カーテンをいっぱいに開けるんだ。
それで起きなかったら、「杏子、起きて!」って叫んだりして。
すると突然の陽の光に当てられて、まだ夜が忘れられない、夜が恋しい杏子は、
太陽を遮るように覗き込むあたしを、影になったあたしを、はっきりと見るだろう。
…
エピローグ 朝
気持ち良い朝だったが、ほむらは憂鬱であった。
また昨夜の夕食のように、ぎこちない二人を交えて食卓を囲むなど、考えたいことではなかった。
しかしまどかがみんな一緒でないとだめだというので、また朝食も一緒に取ることになっておるのだ。
――もう来年は、あのカップルを連れてこないことにしよう。
――いや、来年は別れているか!
ほむらがそんな打算を脳内に浮かべていると、「あっ! 来たよ!」と、向に座っているまどかの声が聞こえた。
二人は、仲良く手を繋いで、微笑みながら現れた。
ほむらがあっけに取られていると、二人はテーブルに向い合って腰掛け、目を合わせて、お互いフフッと照れ笑いをした。
――何よあれ! どういう事なの!? ほむらは違和感を覚えた。
ほむらが混乱をしていると、彼女の隣に腰掛けた杏子が、
「昨日は色々ありがとうな、あたし達、恋人になれたんだ」
と、耳打ちしてきた。
杏子のその様子はしおらしく、杏子がさやかをモノにしたのではなく、さやかが杏子をモノにしたのだと言うことが、
ほむらにもなんとなく理解が出来た。
それはほむらを更に混乱せしめる状況であった。
「よかったね、二人とも。 仲直りできたんだね」
まどかがそう言うと、さやかと杏子はまた、見つめ合ってフフッと笑い、
杏子が運んできた朝食を箸に取り、さやかのもとまで持って行き、
「くうかい?」 「あーん」
とか、
「あ、杏子のほっぺにご飯粒が付いている。 食べちゃお」
などと、正視に耐えない恥戯の限りを公衆に披露し始めたのである。
――何? このバカップルの骨頂は!?。
それを見たほむらは、同席している自分らまでもが恥にまみれてしまっているかのような不快感に眉をひそめた。
「まどか、あなた何かしたんでしょう?」
ほむらが問い掛けたが、
「二人が頑張ったんだよ。 テヘッ」
まどかは話をはぐらかし、いたずらっぽく笑みを浮かべるだけであった。
ほむらは更にワケが分からなくなり、独りだけ置いて行かれたような状況に、からかわれているような怒りが込み上げてくるのを感じた。
「一体なんなのよ? 何がベリーハードよ? 馬鹿馬鹿しい!」
ほむらは、やはり来年はこの二人を連れてこないことにしよう、そう思った。
杏子「あたしの恋はベリーハード」 完
続き
杏子「あたしの恋はベリーハード」【番外編】