魔法なんてどこにもなくて、変態がいて、働いて、時には笑い、時には泣く。そんなどこにでもある日常。
株式会社サークル杏クウカイ社長、佐倉杏子は、
秘書見習いである美樹さやかとすれ違いばかりの切ない同棲生活をしながら、そんな日常を多忙に過ごす一人。
今回、彼女はレズ友達の暁美ほむらに誘われ、休暇を利用して、海の見えるプール付きのホテルでバカンスを楽しんでいる真っ最中。
そこで語られる、ほむらの過去とは…。
それは、彼女の想像を絶するハードな恋――
そして、新たな変態物語の始まり――
※これは架空の物語である。
過去、あるいは現在において、たまたま実在する団体、アニメキャラ、出来事と類似していても、それは偶然に過ぎない。
※この作品はクズ変態系ドス黒SS、さやか「さやかちゃんイージーモード」
http://ayamevip.com/archives/41005038.html
と併せてお楽しみください。
※18さいみまんのおきゃくさまはほごしゃのかたといっしょにおよみください。
元スレ
杏子「あたしの恋はベリーハード」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1309433201/
プロローグ プールサイド
「不満そうね。 怖い顔だわ」
隣にいる暁美ほむらから発せられたその声に、
今まで遠ざかっていたすべての音が、形を持った知覚として佐倉杏子の神経を一斉に震わせた。
水音とはしゃぎ声が絡みあい、屋内プールの中で反響している。
視線の先でその音を生み出しているのは、ほむらの恋人、鹿目まどかと、杏子の想い人、美樹さやかだ。 二人は親友同士だった。
「別に不満なんか感じてねえよ」
言い訳じみていると、自分でも思う。
杏子はそれを誤魔化すように、目の前で水をかけ合い遊んでいる二人から目を逸らし、
プールサイドのビーチチェアに寝そべったままテーブルに手を伸ばし、
冷たく汗をかいたグラスからソフトドリンクをすすり始めた。
「じゃあまどかをそんな嫉妬に満ちた眼で睨まないで頂戴」
そんな杏子のすべてを見透かしているほむらは、自分が求める事だけを言葉にし、ピシャリと杏子に浴びせかけた。
その態度には、余裕が感じられる。
今まで胸に鬱積してきたもろもろに、それをほむらに気取られているという事実が沁み渡り、
胸のつかえが震え出すのを感じた杏子は、それを何とか沈めようと冷えたソフトドリンクを胃袋に流し込み続けた。
「あなた、まだ美樹さやかを自分の掌握下に置くことが出来ていないのね」
図星を指された杏子が思わず視界に入れてしまった隣の顔は、恋人が他の女とはしゃぎ合っているというのに、
眼前のガラス越しに広がる澄んだ空の青か、凪いだ翡翠の海か…そのどちらで例えようかというほど穏やかである。
杏子にとっては恨めしいまでの境地に、ほむらは達していたのである。
「あんたはあの娘が他の女と楽しそうにしていても平気なのかよ?」
追い詰められて直球のような質問しか出来ない杏子を一瞥し、ほむらはグラスを手に取り、
その淵をなぞるように、液面から突き出たストローを一周させ、ドリンクの中の氷を鳴らしながら言った。
「当たり前じゃない」
ストローを止めると、少し遅れて氷の触れ合う音も止んだ。 それを確認し、ほむらはほんの一口、ドリンクを吸った。
グラスの中の液面が僅かに下がる。
「まどかは完全に私のものだから」
余裕を孕んだ言葉を生み出した、その唇が笑みを湛える。
杏子は目を逸らし、またストローに吸い付いた。
ズズズ…と、空気の混じった音がして、杏子はその時始めてグラスに多少水分を絡みつかせた氷しか入っていない事を知った。
ほむらのグラスはまだその容積の三分の二以上、ドリンクで占められている。
杏子にはテーブルの上の二つのグラスの中身が、そのまま二人の余裕の違いを表しているように思えてくるのだった。
「前にも聞いたっけな…あの娘とどうやってカップルになったのかって――」
ほむらは、表情を動かさずにまどかを見つめている。
杏子は、その視線を追うようにじゃれ合う二人に向き直った。
「聞きたい?」
杏子が視線を横に向け直すと、ストローがドリンクに染まり、グラスの液面がまた少し、下がるのが見えた。
「ああ、聞きたいね」
胸に巣食うもやもやしたものが、レズの先輩であるほむらの体験談によって無くなるかもしれないという淡い期待を含んだ予感――
杏子はそれに縋りつくように、ほむらを凝視した。
「少しばかり、長くなるわよ」
そう言って、ほむらはまた喉を潤した。
杏子は唾を飲み込んでほむらに集中する。
ほむらはまたゆっくりと、ストローをグラスの中で一周させた。
氷の音が二人の間に響き渡る。
杏子にはその音が、自分たちを過去の世界に誘う合図の鐘のように聞こえた。
第一章 転入
「あ、あの…あ、暁美…ほ、ほむらです…その、ええと…どうか、よろしく、お願いします」
いじめてオーラ全開の自己紹介をしたのは、この日見滝原中学校に転校してきたばかりの、まだメガほむと呼ばれていた頃のほむらである。
「暁美さんは、心臓の病気でずっと入院していたの。
久しぶりの学校だから、色々と戸惑うことも多いでしょう。 みんな助けてあげてね」
担任の早乙女がクラスにそう語りかけ、和やかな雰囲気でほむらの学校生活は始まったかに思えたが、
それから数十分して、世の中はそんなに甘くないことを彼女は知ることになる。
授業に、全くついていけないのだ。
今まで闘病に生活のすべてを費やしていたほむらは、同年代の生徒たちに比して勉学に遅れを取ってい、学力が極端に低かったのである。
何を聞いても受け付けない、そしてその状況を打破するための策すら浮かぶことのない自分の脳に絶望し、不甲斐なさに萎縮する。
休み時間が来ると、休む間もなくクラスメート達がほむらを取り囲み、矢継ぎ早の質問で彼女を攻め立てた。
そしてそれらの質問にさえ上手く答えることの出来ない自分に、ほむらは更に絶望と苛立ちとを深めていくのだった。
「暁美さん?」
物珍しさに取り付かれた、クラスメート達の質問攻めをストップさせたその声の方に振り返ると、
優しそうな表情をたたえた女生徒がほむらに微笑みかけていた。
「保健室、行かなきゃいけないんでしょ? 場所、分かる?」
「え?…いいえ…」
「じゃあ案内してあげる。 私、保健係なんだ」
ほむらが蚊の翅音のような礼を述べようとしたその間に、その女生徒はほむらを取り囲んでいたクラスメート達に、
「みんな、ごめんね。 暁美さんって、休み時間には保健室でお薬飲まないといけないの」
と、ほむらに代わり説明を終えてくれていた。
ほむらには、苦痛を伴う質問攻めから自分を解き放ってくれたこの女生徒は女神に思えた。
しかし連れ立って歩き出すと、話題の見つからないほむらはただただ黙って彼女について歩くことしか出来ない。
ほむらは自分を気の利かない奴だと責め、きっと案内してくれているこの娘もそう思っているに違いないと思い始めていた。
永遠に届くことはないと知りつつも、心のなかで目の前の後ろ姿に謝り続ける。
「ごめんね。 みんな悪気は無いんだけど、転校生なんて珍しいから、ハシャイジャッテ!」
「いえ、その…ありがとうございます…」
そう言った後で、折角話しかけてくれたのに会話としてそれを発展させることが出来ない自分をほむらは更に嫌悪した。
そしてこれではいけない、と思った。 が、どうすればいいのかは分からない。
「そんな緊張しなくていいよ。 クラスメートなんだから」
しかしそんな事は気にしていないというように、女生徒は自分に笑顔を向け、話しかけ続けてくれる。
「私、鹿目まどか。 まどかって呼んで」
「え? そんな…」
いきなり名前で呼ぶのは気安すぎると思う。
自分などに呼び捨てにされて、嫌な気分になったりしないかと、不安になってしまう。
だがまどかは、やはり一向にそんな事を頓着していない様子だ。
「いいって。 だから私も、ほむらちゃんって呼んでいいかな?」
ほむらは、まどかが自分の事を下の名前で呼ぼうとしているのだと知り、少し気持ちが陰った。
そんな自分の内面は他人の好意を無下にしているようで、更に罪悪感が積もってくる。
「私、その…あんまり名前で呼ばれたことって、無くて…すごく、変な名前だし…」
自分の名前は好きではない。
出来るなら苗字で呼んで欲しかった…だがそれをはっきりとは言えず、
ところどころ詰まった言葉を発する度に、ほむらの話は要領を得なくなってくる。
これではいけない、またそう思った。 朝から何度同じことを考えたか、分からない。
「えー? そんなことないよ。 何かさ、燃え上がれーって感じで、カッコイイと思うなあ」
まどかは、やはりそんな事は一切頓着していない。
悪気は全くないのだ。 ほむらの名前に対する感想も、嘘偽りのないまっさらなものだろう。
それが分かるだけに、ほむらは更に辛く追い詰められていくのだ。
「――名前負け、してます」
モヤモヤと、いくつも言いたいことが複雑に頭の中を巡っているが、結局それしか言葉に出来なかった。
「そんなのもったいないよ。 せっかく素敵な名前なんだから、ほむらちゃんもカッコよくなっちゃえばいいんだよ」
その声の調子に吸い込まれるように、ほむらはそうかも知れない、と、同意をしかけて、
出来もしないことに心を動かしている自分に驚いた。
そして自分の冷えた心をほぐしてくれたその声の主を見上げ、
視界いっぱいの優しい笑顔に、思わず顔を赤らめて、ほむらは硬直してしまった。
もし…もし私がカッコよくなったなら、この笑顔は私の側にずっといてくれるのだろうか。
ほむらはそんな事を考えている自分に、再び戸惑った。
保健室で薬を服用している最中から、ほむらは胸の内に冷たい不安が溜まっていくのを感じていた。
この学校の構造はよくわからないし、建物の中はどこも似たような調子で、ここが何階かも分からない。
ドジな自分は休み時間が終わるまでに教室に戻ることが出来ないかもしれない…
授業に遅れたら、教室に入った途端に、クラス中の視線が私の弱り切った心を押しつぶすだろう。
ほむらは不安に胸が締め付けられ、孤独に痺れて泣き出しそうになりながら保健室を出た。
「終わった? 教室、帰ろっか」
ところが廊下に出ると、まどかの笑顔がほむらを迎えてくれた。
不案内なほむらの事を考えて、待っていてくれたのだった。
その優しさに、ほむらの胸がキュンと詰まり、体中が熱くなったようだった。
彼女の異常な恋は、この時既に動き出していたのであった。
数学の授業が開始されて数十分後、ほむらはせっかく治ったばかりの心臓が停止するかと思った。
そしてその危機は今以て継続中である。
全開の鼓動に、いつこの慣らし運転中の脆弱な血流ポンプがぶっこわれるのかと不安になる。
何が起こったかというと、授業中に指名され、クラス中の視線を浴びる位置に引っ立てられたのである。
「じゃあ、この問題やってみようか」
目の前に映し出された問題は何を意味しているのか全く分からない。
ほむらはとりあえずペンを持ち上げ、書こうとする格好だけをつけてみたが、それで状況が変わるわけでもない。
「ああ、君は、休学してたんだっけな。 友達から、ノートを借りておくように」
震えながら立ち尽くすほむらに、慌てて教師はそうフォローをしたが、
転入したばかりなのに…友達って、誰よ? そう考えながらその公開処刑にも似た仕打ちに、ほむらの眼には涙が溜まっていった。
泣き出しそうな顔を俯かせて席に戻る。
まどかにノートを貸してもらえるよう、頼もうと思ったが、声が震えそうなので止めた。
こんな自分は、カッコ悪い、そう思った。
午後の体育でも、ほむらは晒し者になっていた。
みんなが一生懸命汗を流している気配を感じながら、独り外れて木陰に蹲り、休んでいる。
「準備体操だけで貧血って、ヤバいよねー?」
「半年もずっと寝てたんじゃ、仕方ないんじゃない?」
自分の事を嘲るように話している女生徒の会話が冷たく耳に入ってくる。
もしかしたらそんな会話に、あのまどかも加わっているんじゃないかと恐れて、ほむらは話し声のする方を見ることも出来なかった。
やはり、自分はカッコよくなんてなれないのだと、ほむらは思っていた。
授業が終わると、外階段掃除の当番に任ぜられ、ほむらは男女一名ずつの後ろについて校舎裏の暗がりに導かれてきた。
「ここの当番は天国ですわ」
ところが女生徒の方は清掃区域に着くやいなや、そう言って掃除用具を放り投げた。
「えっと…あの…掃除しないんですか?」
恐る恐るそう聞いたほむらに、口を歪めて女生徒は語り始めた。
「いいんですの。 ここは空気の流れがとてもよろしくてゴミがたまりにくい上に、
先生方もめったに訪れないので最高のサボりスポットなのですわ。
それに私や上条くんのような貴族階級に属するものが、掃除などという卑しい作業なんかそもそもできない相談ですの」
「やっぱり志筑さんはよく分かってるなあ」
上条くんと呼ばれた男子生徒はそう言い、ニヤニヤしながらほむらの後ろに回りこんできた。
ほむらが嫌な雰囲気を感じ取ったと同時に、上条は無言で彼女を羽交い締めにし、その動きを封じた。
その左腕には包帯が巻かれているが、今はそんな事を気にしている場合ではない。
「ひっ…な、何をするんですか…!?」
「へへへっ…なにするんだろうね…?」
「ご安心下さいまし。 とっても楽しいことですわ」
身動きの取れないほむらの眼前に、美しい顔をガチャピンのように醜く歪めた、志筑さんと呼ばれた女生徒が迫ってくる。
何か恐ろしいことが待っているのだと思う。
そしてそれに抗うことの出来ない自分の無力に、ほむらは絶望する事しか出来なかった。
今日一日で、そして行く行くはこの惨めな人生を終えるまで、一体何度絶望をすればいいのだろうか?
ほむらは自分の身に振りかかるであろう途方も無い絶望の総和を予感して身を震わせた後、小さな嗚咽と共に涙を落とした。
「あはは、この娘、既に泣いちゃっているよ。 志筑さん、やっぱり許してあげようよ」
上条は冗談でも言うように、笑い混じりにそう言った。
許してやろうなどとは露程も思っていない物言いだ。
「やめて下さい…許して――」
ほむらが許しを乞うための言葉を紡いでいる最中、目の前のにやけガチャピン顔が一瞬で引き締まった。
「ひうっ!!」
腹に食い込む衝撃に息が止まり、そのまましばらくほむらの呼吸が停止した。
衝撃で下を向いた視界に、腹に当たった志筑の握りこぶしが映り、
ほむらは動転する思考で腹パンを食らったことだけは何とか了解をした。
「志筑さんは、本当に腹パンで他人をイジメるのが好きだよねえ…」
息が詰まって絶命の予感すら覚えているほむらの必死とは裏腹に、のんびりとした口調で上条が喋っている。
「何も知らない動物並の男の子達は、すぐにおっぱいとかお尻に眼をやりがちですが――」
志筑が演説をぶち始めた辺りで、ようやくほむらの体が呼吸の仕方を思い出した。
一度遠ざかりかけた命を引き寄せるように、ほむらはゼエゼエと一生懸命呼吸をし続けている。
「本当に気持ちの良い感触を得られる部分は――」
溢れる涙をまぶたの外に追いやったとき、視界の中の志筑の顔がまた力を溜めて引き締まり、それを見たほむらの背筋が冷えた。
「うぐう!!」
「お腹ですわっ!」
衝撃に狂ったほむらの体が、また呼吸を忘れた。
必死にその動作を取り戻そうとするが、口から「あ…あ…」と、砂粒のような声が漏れるのが、ほむらの精一杯であった。
そうやって苦しみに溺れていると、不意に、自分の体を支えていた拘束が解け、ほむらは地面にうつ伏せに崩れ落ちた。
「僕もパンチしたいや…志筑さん、代わってよ」
「この娘のお腹、病みつきになりますわよ」
真っ暗な視界の中に、二人が言葉を交わし、ハイタッチする音が響き渡った。
「いっ…痛い!」
ほむらの長い三つ編みの髪が引っ張られ、感じる痛みを何とか和らげようと、そのベクトルに従うようにほむらは顔を上げた。
「ほら、しっかり立ち上がってくださいまし」
だが志筑によって、更に髪は引っ張られ続けている。
ほむらは生まれたばかりの小鹿のように、ふらふらしながら漸く立ち上がることが出来たと思ったその矢先――
「おぶっ!!」
先程とは比較にならない衝撃がほむらの腹部を襲った。
脳天まで痺れ上がるような怖気が体中に満ち溢れ、それが腹の奥に集約し、次いで喉元までこみ上げてきた。
「おえええええっ」
ほむらは嘔吐し、その吐瀉物の上に腹を抱えて倒れこんだ。
「まあ、とても汚いですわ!」
「ごめんごめん、ついつい力み過ぎちゃったよ」
上条の愉快にはしゃいだ声が聴こえるが、ほむらは体の内にあるすべてを吐き出さんとする生理に抗うことも出来ず、
ただただ痙攣しながら苦しみの中に横臥していた。
「…恭介ーって、うわっ! 何これ!? どうしたの!?」
別の女子が来て、自分の惨状を見つけたようだ。
助けてくれるのか、それともこの女子も加わってもう一度ボディーブローをされるのか、五分五分だな、と、ほむらはかすれた脳内に予感した。
「さやか、大変なんだ! 掃除をしていたら暁美さんが突然お腹を押さえて吐いたんだ!
保健委員の鹿目さんを呼んできてくれるかい! 大至急だ!!」
「お願いいたしますわ!」
「分かった、まどかを呼んでくる!!」
さっきまでとは打って変わった二人のうろたえ芝居がほむらの耳に届いてきて、彼女は漸く命の危険が去ったのだと安堵した。
そして暗転した世界の中、声だけ聞こえたさやかという女生徒にほむらは深く感謝した。
「ふう、危なかったね。 さやかはああいう性格だから、こう言う事をしているとがみがみとうるさいんだ。」
「間一髪でしたわね…しかしこの娘、入院生活が長いと聞いた時から目を付けておりましたけど、
予想通りパンチしがいのある脆弱なお腹ですわねえ…堪りませんわ」
「そうそう、腹筋が乏しいお腹は、手に取るように分かる内臓の感触がとてもいいよね。
いやあ、事故で手がこんなになってしまって、毎日がイライラの連続だったんだよ。
さやかは病院にまで押しかけてきて僕を虐めるしさあ…
腹パン遊びを教えてくれた志筑さんには、本当に感謝しているよ」
「腹パンは貴族のたしなみですわ」
走り去るさやかの足音を見送って、漸く漏れた二人の本音はどう考えても悪魔の言葉であった。
そして少しして、ほむらはゆっくりと抱き起こされた。
まどかが呼ばれて来るにはまだ早いと思ったが、とりあえず何かに縋りつきたかったし、
まどかに蹲ったままのカッコ悪い姿を見せるのも嫌だった。
「か…鹿目…さん…?」
漸く開く事の出来た視界の先には志筑のガチャピン顔が立っていて、それを見て絶望したほむらの腹に再び衝撃が突き刺さった。
「ほむらちゃん! 大丈夫!?」
あれから3発食らってダウンしていたほむらのもとに、切羽詰った声と共にまどかが駆けてきた。
そしてすぐに背中を撫でるまどかの掌を感じ取り、ほむらは今度こそ危機は去ったのだと感じた。
「ほむらちゃん、お腹痛いの!? 今保健室につれていくからね!!」
「ていうかこれ、救急車呼んだほうがいいんじゃない?」
さやかの放った救急車、という言葉がほむらの心に重くのしかかった。
これ以上、目立つことをして晒し者にされることは耐えられない。
ほむらは必死にまどかの制服を掴み、
「大丈夫…だから…」
何とか、そう伝えることに成功した。
ほむらが動けるようになるまでまどかは背中をさすり続けてくれた。
そして吐瀉物で汚れたほむらの制服を自分のハンカチで拭いてくれ、地面にぶち撒かれたそれも綺麗に片付けてくれた。
ほむらはその様子をただ呆然と見ていることしか出来ず、自分は死んだほうがいいのかもしれない、そう思っていた。
「大丈夫? 立てる?」
確認をしながら、まどかはほむらに肩を貸し、ゆっくりと立ち上がった。
この時腹パンの2名は、既に居なくなっていた。
「ありがとう…鹿目さん、ありがとう…」
「すぐに保健室に着くからね。 頑張って、ほむらちゃん」
まどかにもたれかかりながら、ほむらはゆらゆらと力なく歩き出した。
制服越しに、まどかの温もりが伝わってくる。
ほむらはまたまどかにカッコ悪いところを見せてしまった自分の情け無さを噛み締めながら、
それでも高まってくる胸のときめきを、持て余していた。
「さやかちゃん、ここまで付き合ってくれて本当にありがとう。
私はもう少しほむらちゃんの様子を見てから帰るから、先に帰ってていいよ」
保健医が不在であった保健室で、まどかがそう伝えると、さやかはお言葉に甘えまして、と言って颯爽と保健室を出て行った。
まどかとふたりきり!
ほむらの心臓は、すぐに過負荷運転を開始した。
それは病み上がりの心臓を持つほむらにとって生命の危機でもあるのだったが、
彼女はまどかで昂った心臓が原因でなら死んでもいいと思った。
「まだ、お腹痛い?」
異常なまでの緊張状態で、言葉を発すると裏返った変な声が出そうな気がし、
ほむらはまどかの問いに対し、俯いた首を左右に振る事だけで精一杯だった。
「なんか顔が赤いみたい…熱があるのかな?」
躊躇なく、まどかはほむらにその顔を近づけてきた。
それを見て、未知の体験への期待と恐怖に頭が白っぽくなってゆくほむらは、戸惑いながらそれを見つめているのみだ。
どうすればいいか分からないが、このまままどかが近づいてくれば、非常に恐ろしいことが起こってしまいそうな気がする。
息遣いまで感じられる距離にその顔が近づいたとき、ほむらの中で何かが壊れた気がした。
そして決定的だったのは、おでことおでこが触れ合ったその瞬間だった。
「ひゃあああああっ!!」
額から高圧電流のような衝撃が体中を駆け巡り、体とは別にあるはずの精神までもが痙攣をしたような気がした。
そして一気に、それら全てが溶け崩れたように弛緩し、ほむらの知覚は快楽で飽和した。
ほむらは浮いている自分を感じていた。
温かい空気に包まれて、手を離した風船のようにどこまでも、どこまでも昇って行きそうな感覚。
こんな快感が、この世に存在したのかと思えるほど、それはほむらにとって未体験ゾーンであった。
ほむらは思った――
こんな感覚が味わえるのならば、たとえ絶望の中にであろうとも、もう少し生きているのも、いいかもしれない。
「きゃあっ!! ほむらちゃん…!!」
だがその時、まどかが張り裂けるような悲鳴を上げてほむらから離れた。
快楽の虜になっていたほむらには突然何が起こったのか知れなかったが、ワンクッション置いた後、
下半身にありえざる感覚を見出して急速にすべてが冷めていくのを感じた。
「…え…ええっ!?」
ぐしょぐしょに濡れた下半身からは人肌の熱気が立ち上っており、
腰掛けている椅子からは、ぼたぼたと雨垂れのように、下半身を濡らしているその液体が床に滴り落ちている。
暖かく臭うそれはまさしく、ほむら自身の尿であった。
――失禁。
ほむらがその言葉を脳内の辞書に求めたとき、まどかは逃げるように保健室を出て行った。
――人生、終了のお知らせ。
ほむらは自らの尿にまみれながら、すべてがどうでも良くなってしまった自分をまるで他人事のようにヘラヘラと笑っていた。
しばらく呆けていると、不意に保健室の扉が開いた。
誰が入ってきたかは知らなかったが、ほむらは自分を殺して欲しいと頼むつもりで、扉に顔を向けた。
「ほむらちゃん! 大丈夫!?」
まどかだった。 ほむらは眼を疑ったが、まさしく、鹿目まどかだった。
「ほむらちゃん、立てる?」
ほむらは、脇にあったベッドにもたれるように、なんとか立ち上がった。
「これに着替えて! 汚れた制服は、この中に!」
まどかはそう言って、体操服とポリビニール袋とをほむらの眼前のベッドに置いて、
持っていたバケツから雑巾を取り出し、絞ってほむらの尿をせっせと拭き出した。
ほむらが体操服に着替え終わったとき、床と椅子の尿は綺麗に拭き取られていた。
しかしそれでも部屋中に尿の臭いが立ち込めている。
まどかは換気扇をフルパワーにし、椅子と床とに消毒用のアルコールスプレーを丹念に吹きかけ、
もう一度それを拭うと大分臭いはましになった。
「これでよし…と」
まどかは額に浮き出た汗を拭うと、尿の混ざった雑巾の絞り汁を流しに捨て、雑巾を水洗いし、
自らの手もレモン石鹸を用いて丹念に洗った。
「誰も来なくてよかったね。 これで大丈夫だよ」
ほっと溜息をついた後の、大事を為し終えたまどかの笑顔を見て、ほむらの涙腺は一気に決壊した。
「鹿目さん…ごめんなさい…私…私…」
泣きじゃくりながら謝罪を繰り返すほむらの肩を、まどかは優しく撫でながら、
「ほむらちゃんは病み上がりだから、まだ体が弱っているんだよ。 だから仕方ないよ。
クラスのみんなには、絶対内緒にするからね」
そう言って、またとびきりの笑顔をみせてくれた。
「ほむらちゃん、一緒に帰ろ。 家まで送って行くから」
自らのそれと繋ぎ合わせるために差し出されたまどかの手から、ふわりと嗅覚に触れたレモン石鹸の香りに混じって、
しぶとく染み付いた自分の尿の残り香が、ほむらの胸中に罪悪感を呼び起こした。
そしてその罪悪感の中に、中核たる何かの予感のようなものが組み込まれているのを感じたほむらは、
その正体を見極めようと罪悪感の中を必死に探り始めた。
まどかと手を繋いで校舎を出、再び胸の高まりを覚えたほむらの脳内で、興奮と直結したその予感が急速にその内容を再生し始める。
それはいく度か、教育番組で見たことのある内容だった。
動物は、自らの所有物を示すとき、尿で匂いづけをするのだという半ば常識とも言える雑学である。
呼び起こしてはいけない予感だったことに気が付いたが、了解してしまった今において、それはどうすることも出来ない。
手を繋いで並歩するまどかを見るたびに、匂いづけをした対象に対しての動物的な独占欲が疼くのに、ほむらは耐えねばならなくなった。
「じゃあ、また明日学校でね」
まどかは変わらぬ笑顔と共に別れの言葉を口にした。彼女を見送った後、ほむらは尿意を覚えて自宅のトイレに入った。
便座に腰を落ち着けると、自分の尿をせっせと拭いてくれていたまどかの姿が脳裏に浮かび、
身震いをした後にほむらは心地良く放尿した。
尿の臭いが鼻を突くと、レモン石鹸の香料では隠しきれていなかった、まどかの手に染み込んだアンモニア臭がフラッシュバックして、
ほむらの思考はまどかと自分の尿との堂々巡りの様相を呈した。
その邪な考えを断ち切る様に水を流し、
自分の尿の混じった水が渦を巻いて便器に吸い込まれていくさまを見ていたほむらの思考は、まどかの、とまたまどかを続けていた。
まどかのおしっこを、その匂いをいつか私にも付けてもらわなければいけないのではないか?
いや、そうであるべきだ! これはきっと運命なのだろう!
ほむらは、この日一日で、まどかとの出会いで、人外の領域への道へ、そして二度と引き返すことの出来ない道へ、
一歩、その足を踏み出してしまっていた。
第二章 転換
昨夜はまどかの事を考えながらのオ○ニーにのめり込み過ぎ、2時間ほどしか睡眠をとることが出来なかったが、
ほむらはまどかへの欲望を精神力に転嫁し、何とか居眠りをせずに一時限目の授業を乗り切ることが出来た。
しかし、相変わらず授業に付いていけなかったのは言うまでもない。
ほむらは焦り始めていた。
「あ…あの…鹿目さん…」
保健室に薬を飲みに行く途中で、ほむらは意を決してまどかに話しかけてみた。
「どうしたの、ほむらちゃん?」
まどかは昨日と全く同じ優しい笑顔で応じてくれた。
昨日の吐瀉物と尿の記憶がフラッシュバックして申し訳ない気持ちに打ちひしがれたが、
一方で鼻を利かせ、昨日付けた尿の臭いがすっかり落ちてしまっている事を知り、
残念な気持ちになっているおぞましいもう一人の自分がいることを、ほむらは感じ取っていた。
「すみません…休み時間を潰してしまって…」
本来ならば保健室の場所を覚えてしまえばまどかは付き添わなくてもいい筈だったが、
昨日の嘔吐事件でほむらの体調を危険視した担任の早乙女が、不慮の事態に備え、
しばらく保健委員であるまどかにほむらへの付き添いを命じたのはまさに怪我の功名というものであった。
ほむらは腹パンの苦しみと引き換えに、休み時間にまどかを独占する権利を獲得したのである。
「別にいいんだよ、これが保健委員のお仕事だし。 それにほむらちゃんの体のほうが私の休み時間より大切だよ」
やはりまどかは女神であった。
ほむらはその無垢な笑顔と善意とを目の当たりにし、
昨夜、このまどかの痴態を妄想して数時間に及ぶ変態的なオ○ニーをしてしまった自分の悪を呪った。
「…もう一つ、お願いがあるのですが…」
だがしかし、ほむらはまどかとのつながりを更に強固なものにするため、昨夜考えた作戦を実行に移す事としたのである。
「なになに? 私に出来ることは少ないかも知れないけど、言ってみて!」
まどかは、人の役に立てることが嬉しくて仕方ない、といった風に応じてくれ、
それは欲望に染まったほむらの背筋を罪の意識で容赦なく冷やしまくった。
「…えっと、あの、ノートを、貸していただけたらと…」
ほむらは後ろめたい打算を打ち消すかのように、勇気を振り絞って言った。
それを聞いたまどかは眼を輝かせ、
「うん、いいよ! 私のでよければ、ドンドン使ってよ!」
そう、言ってくれたのだった。
ほむらはその胸の内に、よっしゃ、と、ガッツポーズを取った。
最早後ろ暗い気持ちを知覚する彼女の善の部分は消し飛んでしまったようだ。
まどかのノートを手に入れるということは、
まどかの筆跡、こびりついたまどかの匂い、その両者を仮にとは言え自らの手中に収めるばかりか、
「ここ、わからないから」などと言葉巧みにまどかを勧誘し、ふたりきりのお勉強会や、
それを踏み台にし、更にその先の関係にまで発展させることが可能になる事を意味するのである。
ほむらは昨日、全く働かなかった不甲斐ない脳が、まどかへの欲望というきっかけを得、
それに関する事となると異常なまでに回転を高め、素早く正確な知恵を搾り出すようになった事に自分事ながら驚愕していた。
「ほむらちゃん、帰ろっか」
今日もまどかと一緒に帰ることができる。
しかも、まどかの家まで付いていくことが出来るのだ!
それは聖典(ノート)を借りに行く約束をしたからであった。
ほむらは、自分の計算通りに事が運んでいく様を、喩えようのない高揚感に打ち震えながら見つめていた。
だがしかし、不慮の事態は起こるものであった。
「よーし、今日はまどかと一緒に帰っちゃうもんねー! …あれ、今日も転校生と一緒なの?」
張り裂けんばかりの大声と共に、二人の間を引き裂くように割り込んできた声の主は――
「うん、今日はほむらちゃんにノートを貸してあげる約束なんだ」
「へええ、そうなんだ」
――美樹さやかであった。 ほむらは奈落の底に落ち込むような落胆を覚えた。
「ノートを取ってくるから、ちょっと待っててね」
ここがまどかのおうち!
現代風の瀟洒な一戸建て住宅は、その場所は、ほむらの脳内に聖地として記憶をされた。
家の中は、どんな匂いがするのだろうか…?
そしてまどかの部屋にはどんな物が置いてあるのだろうか…?
妄想に妄想を重ねても、実際には決して及ばない事を悟り、ほむらは目の前の聖なる屋敷を自ら探検したい衝動に駆られた。
そして、もしかしたら中の様子を見たことがあるかも知れない人物に、自然と眼が向いていた。
「…何よ?」
ぶっきらぼうに自分に向けられた短い言葉の後の、気まずい沈黙。
美樹さやかはまどかのように、自分に優しい人間では無いらしい、と、ほむらは思った。
「え…と…あの…み、美樹さんは…そのう…」
その沈黙を何とか破ろうと、ほむらは人見知りの口下手を抑えこんで、何とか言葉を紡ごうとした。
しかし、なかなかうまく行かない。
ほむらが必死に、要領を得ない言葉の破片を並べていると、だんだんとさやかの顔には苛立ちが募って来るようだった。
そしてそれを確認したほむらは、更に言葉に詰まっていき――
「ちょっとあんたさ、もっとはっきりモノを言いなさいよね!!」
とうとう、さやかの堪忍袋の緒がぶち切れた。
「ご…ごめんなさい…」
「ごめんなさいじゃないでしょ! ちゃんと聞きたいことをはっきりと、言ってみなさいよ! そしたら答えてあげるからさ!」
「えっと…あの…」
「だからさあ、聞こえないんだってば!」
地獄の責め苦のような会話に耐えかねて、ほむらの眼にはじわりと涙が溜まっていった。
「お待たせ! ノート、持ってきたよ!」
大量のノートを抱え、二人のもとに戻ってきたまどかは、漂う異常な空気をすぐに察知した。
「どうしたの、ほむらちゃん?」
ほむらは眼をこすりながらしくしくと泣いており、その近くにいるさやかはまるでお手上げといったふうである。
「なんかさ、会話しようとしたら泣き出しちゃった」
まどかは、ほむらの肩を優しく抱き寄せて、
「ほむらちゃん、どうしたの? 具合、悪いの?」
そう、聞いてくれた。
美樹さやかとはエライ違いだと、ほむらは思った。
自分を押しつぶすようなプレッシャーを感じなくなると、何とか、言葉がつなげるようになった。
「美樹さんに…その…鹿目さんの、家に、入ったこと…あるか、どうか…聞いて、みようと、思ったの…
あの…えっと…だけど、私…緊張して…上手く…その…喋れなくて…」
「うんうん、ちゃんとほむらちゃんの言ってる事、分かるよ。 さやかちゃん、私の家に入ったことあるか、だって」
まどかが通訳を済ませると、さやかは溜息をついてから、言った。
「そんなの当たり前じゃない。 あたしとまどかは親友同士なんだから――」
――親友。
その言葉を聞いて、ほむらの中を冷たいものが走った。
そしてそれは血流に乗って体中を駆け巡り、ほむらの隅々に嫉妬というものを教えてまわった。
「――って言うかさ、あんたノート借りたりする前に、日常会話から練習した方いいんじゃないの?」
胸に突き刺さる言葉。
そこから、赤い血潮の代わりにどす黒い怒りが噴き出しそうになり、ほむらは止血をするように強く胸を押さえて、それに耐えた。
「もう、さやかちゃん、酷いよ!
…ごめんね、ほむらちゃん。 さやかちゃんね、悪気はないんだよ。
ただちょっとハッキリものを言い過ぎる性格なだけだから、気にしないでね…」
「う…うん…」
「ていうかさ、用事、終わったんだよね? まどか、早く行こ」
さやかは、まだほむらの方に向いているまどかの手を握り、自分の方に引き寄せながらそう言った。
ほむらは連れ去らせそうになっているまどかを見、慌てて、
「ど…どこかへ、おでかけ…ですか?」
と、聞いた。
「さやかちゃんの家で、映画のDVDを見るんだ。 もしよかったらほむらちゃんも一緒に…」
「まどか、駄目じゃない!」
ほむらを誘おうとしたまどかの言葉を遮り、さやかが放った言葉。
「転校生は、これからまどかが貸してあげたノートを使って遅れを取り戻すためのお勉強をするんだよ!
あたしらは邪魔しないように、ここでお暇しなきゃ!」
邪魔者を切り捨てるように、さやかは言った。
まどかは、ほむらが見ている前で美樹さやかに連れ去られた。
惨めな敗北感に打ちひしがれ、涙で滲んでいく視界でそれを見送ったほむらの中に、複雑な変化が起こっていた。
まどかの家まで付いていくことが出来、有頂天になり、熱く昂った気持ちが、美樹さやかによって一気に冷まされた。
それは怒りに炙られ、嫉妬に叩かれ、苛立ちに研磨され、鋭利な形を作っていく。
ほむらは、心のなかに冷たく鋭い刃を得た。
――美樹さやかを、いつか、まどかの側から排除しよう。
どんな手を、使っても――。
胸の中に生じたものの冷たさに、ほむらは身震いをして我に返った。
そして自分が考えていたことの恐ろしさに絶息するほどだった。
――殺意。 ほむらの、美樹さやかへの感情はまさしく、その形をしていた。
その後、ほむらがどんなに自分の中の冷たい部分を抑えこもうとしても、
腹パンから救われた時に感じた、さやかへの感謝の気持ちが、再び彼女の心によみがえることはなかったのである。
それから少しして、まどかとのぎこちない友人関係を続けていたほむらは、彼女との関係に違和感のようなものを感じ始めていた。
「ぐへへえ…まどかがどれくらい成長したか、見てあげるもんねー」
「きゃっ! さやかちゃん、やめて! くすぐったいよ!」
時を経るごとに、ほむらのさやかへの怒りは募っていく。
今も、さやかは後ろからまどかに襲いかかり、まるで変態オヤジのようにその成長途中の乳房を揉みしだいている。
「み、美樹さん、そう言うの、良くないと思います!」
自分も同じことをしてみたいのだという嫉妬の気持ちは棚に上げ、ほむらは勇気を振り絞って、さやかを叱りつけた。
「何よ、転校生。 まどかはあたしの嫁になるんだから、別にいいじゃないのさ」
セクハラに熱中しているときのさやかは、このようにふてぶてしき事この上ない。
まどかを自分の玩具か何かだと思っているのだろう、と、ほむらは思う。 そしてそれはとてもうらやまけしからん事であった。
「鹿目さんは、女の子ですから…えっと、美樹さんの、お嫁さんには、なれないと、思います。」
自分こそが、本気でまどかを嫁に欲しいのである。
ほむらは正論を言うたびに追い詰められていくような気がしていたが、そんな自分の事はやはり棚に上げていた。
「転校生はまどかの事になるといちいちうるさいんだから……あーあ、なんか興醒めしちゃったなあ…」
さやかはそう言いながら、もう飽きたとでも言うようにまどかを開放した。
まどかがほむらに駆け寄ってくる。
その様子は、ほむらの胸に温かいものを注ぎこみ、その心がくすぐられるような高揚感を与える。
「ほむらちゃん、助けてくれてありがとう!」
まどかの謝礼に、身が震えるほど嬉しくなる。
まどかを、美樹さやかの毒牙から私が守ったのだという自負――。
それは、ほむらとまどかの間に、澱のように蓄積し続け、凝り固まった違和感を一瞬にして溶解せしめたのだった。
ほむらは気が付いた。
自分にありがとうと言った、この同級生のか弱さを――
周囲の女子よりも幼くさえ見える彼女の、魅力の正体を――
――守って、あげたくなるのだ。
庇護の対象として、まどかはこれ以上無いほどしっくりとハマっているのである。
そんなまどかに、ほむらは今まで頼っていた、守ってもらっていた。
違和感の正体は、まさしくそれだった。
それを了解したほむらは、自分を変えようと決心した。
まどかに守られる私じゃなくて、まどかを守る私になりたい!
それはほむらの人生の、最大の転換点であった。
…
「――違和感」
杏子は種々雑多なものから、自分にとって真に必要なものを見つけたかのように、
ポツリとほむらの話から得た、そのキーワードを復唱した。
「そうさ、違和感だ」
ほむらは自らの過去語りから、何かを見出したであろう杏子に、無言で眼を向けた。
「あたしも感じているんだ…仕事をしているときは大丈夫なんだけど、家に帰ってさやかと二人きりになったとき、
そばに行って手を繋いでみたりさ、抱きついてみたりするんだけど、その後どうしたら良いかわかんなくなってさ…
体が震えてきて、動けなくなって…結局何も出来ないんだ…
そんな時、感じるんだよ、とてつもない違和感を!」
杏子は、自分とさやかの間にわだかまるものを、打破するための答えを得られるような気がして、
血走らせた眼をほむらに向け、
「それで、その後どうなったんだい?」
と、聞いた。
しかしほむらは、
「人と人との関係は、そう簡単じゃないのよ」
そう言って杏子に冷静を促し、淡々と続けるのだった。
…
まどかとの関係を変革させるため、その日からほむらは血の滲むような努力を始めた。
日課となっていた、まどかをイメージしてのオナニーを一日一時間まで短縮し、代わりに勉強時間の上乗せを一時間、
そしてストーキングを兼ねた、自分の家と鹿目家とを往復する三十分以上のジョギングを新たに日課として追加し、
学力、そして体力…すなわち学生としての資質を、充分に涵養することに集中し始めたのである。
そして、その効果はめきめきと現れていく。
「それじゃあ、この問題、出来る者…」
30名ほどの教室に、チラホラとしか手が上がらないほど難しい、数学の問題が眼前のボードに映し出されている。
だがその手を上げているチラホラの中に、彼女の姿はあった。
「じゃあ、暁美くん」
「はい」
ほむらはボードまで歩み出、難解な問題を一片の逡巡もなく解き終えた。
教師は唖然とそれを見、クラス中に嘆息が飽和した。
ほむらは自分を見る多くの視線の中から、まどかのそれを選り分けると、
私、カッコイイかも――そう思い、満足して席についた。
あれほど憂鬱だった体育の時間も、ほむらにとって惨めな時間ではなくなっていた。
今日の体育は3000メートル走である。
トラックをぐるぐる回るだけのつまらなくて、それでいてキツイ嫌な時間だったが、ほむらはその中に密かな楽しみを見出していた。
だらだらと走るクラスメートの群れから、眼鏡越しに、ふらふらと走る周回遅れのまどかを発見したほむらは、
獲物を見つけたチーターのように彼女目がけて加速した。
「鹿目さん、大丈夫?」
並走してその様子を観察すると、まどかは汗だくになって紅潮した顔で、必死のランニングフォームをとっている。
「あ…ほむらちゃん…」
あえぐような息継ぎに自分の名前を絡めたまどかの様子を見、ほむらは胸の内に性的な欲望の隆起を見た。
「もう少しだよ、一緒に走ろう」
「うん…ありがとう…」
今の私ってやっぱりカッコイイ!!
そう思った後、ほむらは今夜のベッドの中に持っていくため、まどかの汗の匂いと共に、その様子を強く、脳裏に刻み込んだ。
「最近ホント、すごいよね、ほむらちゃん…」
一緒に帰る道すがら、まどかは力なく、そう切り出した。
え? と、ほむらがその顔を向けると、
「お勉強も、運動も、転校してきたばかりの時とは全然違うもんね…
なんか、ほむらちゃんが遠くに行っちゃったみたい…」
その言葉と、夕日に照らされたまどかの寂しそうな笑顔は、ほむらの背中に滲んで、そこから彼女の内面をじわりと冷やした。
「遠くに行ったなんて…そんな事ないわ! 私たち、友達じゃない!」
そんな力強いほむらの言葉にも、まどかはうなだれたまま、うん、と、相変わらず力なく答えた。
「うん…だけどね、私最近考えるんだ…今の私に、ほむらちゃんの力になれることって、あるのかなって…
ほむらちゃん元気になっちゃって、保健委員として力になってあげることもなくなっちゃったし、
お勉強だって…今はほむらちゃんのほうがすごいし…」
「みんな、みんな…鹿目さんの、お陰だよ…」
「うん…私ね、ほむらちゃんの力になれて、嬉しかった…お掃除の時、吐いてたほむらちゃんを助けることが出来た事、
そしてその後、保健室での事――
そして、ノートを貸して欲しいって、言われた事も、すごく嬉しかったの…」
ほむらは、まどかの辛そうなその声に、我が身を抉られるような思いに絶句した。
「ごめんね…本当はほむらちゃんがいろいろ出来るようになって、一緒に喜ばなきゃいけないのに…それが友達なのに…
もう自分が、何もしてあげられないって思うと、なんだか寂しくなっちゃって…
ごめんね…私、ダメな娘だね…ごめんね…ほむらちゃん…」
ほむらは、自分を責めるように喋り続けるまどかの手を握り、
「人生は勉強や運動だけで出来ているんじゃ、ないと思うの。
私に出来なくて、鹿目さんに出来ること、まだたくさんあると思うわ。」
そう、伝えた。
涙ぐんで自分を見上げるまどかを見、ほむらの中に巣食ういやらしい部分が躍り出した。
こんな時に、何を考えているんだろう…
ほむらはそう思ったが、勝手に口が動き出す。
「私、あなたと、もっと仲良くなりたい。 もっと親密になりたい。
そうすれば、もっとあなたの事が分かるようになれば、あなたに頼るべき部分も、たくさん見つかるはずだと思うの」
「ほむらちゃん…」
「あなたのおうちに、二人きりで遊びに行けるような…美樹さん以上のお友達に、なりたい」
下心を隠す真剣な眼差しを向けて語られたその言葉に、まどかはクスッと笑い、ほむらは一瞬、その調子を狂わせた。
「お友達に、以上も以下も、無いよ」
「そ…そうね(汗」
ほむらは、一本取られた、そう思った。
「でも、そういえば今まで、ほむらちゃんを家に招待してなかったね…ごめんごめん」
いつもの笑顔が、まどかに戻ってきたのを見、ほむらは安堵した。
そしてその一瞬だけ、彼女は下心を忘れることが出来た。
「その顔が、私の頼るまどかよ。 その笑顔に、何度救われたかわからないわ」
「えへへ…ほむらちゃん、やっと名前で、呼んでくれたね!」
ほむらは自分の顔がみるみる紅潮していくのを感じていたが、
頬を照らす夕日の色合いが、それを誤魔化してくれるはずだと固く信じ、臆すること無くまどかに最高の笑顔を向けた。
…
「そうか、二人の関係に違和感があるからって、自分だけが変わっちゃあ、相手に更なる違和感を与えてしまうわけか。 難しいな…」
「そうよ」
「でもいい話だったじゃないか…晴れて仲良くなれて、そのままゴールインって、訳だろ?」
ほむらはまた一口、ドリンクを飲んでから、落ち着いた様子で、
「甘いわね」
とだけ、言った。
「…なん…だと…?」
杏子は、もう一波乱あるのかと、暗い予感を重ねて驚嘆した。
その中に、レズの恋というものの難しさを見る思いがする。
「終わりを迎えたのよ。 私の間違いが原因でね」
波乱どころでは、なかった。
杏子は、自分の事を考え、本当に大丈夫だろうかと思った。
今でさえぎこちないさやかとの関係が終わりを迎えたとき、自分だったら彼女との関係を再構築することが、果たして出来るのだろうか?
ほむらは青くなっている杏子を一瞥し、またストローをグラスの中で回転させた。
…
第三章 楽園、追放
まどかの父に挨拶をし、弟と遊ばせてもらい、
そしてぬいぐるみなど、所狭しと可愛い物が並べられたまどかの部屋に迎えられ、ほむらは天国を見ているような気分になっていた。
いや、まさしくそこは楽園そのものであったのだ。
「えへへ…なんだか恥ずかしいな…」
「そんな事無いわ! 素敵な部屋じゃない!」
まどかの部屋を記憶に留めることが出来れば、
日課であるオナニーの際、思い浮かべる事が出来るシチュエーションに、かなりの幅が広がる。
ほむらは何時間か後の、昨日までより妄想の質が向上し、程度の高くなった快感を予測してこの時かなりの興奮状態であった。
その、興奮に粗くなった自らを戒めるように深呼吸をし、気持ちを落ち着けていると、不意にまどかが立ち上がった。
「まどか?」
「ごめん、ちょっとトイレ…」
まどかが部屋を出て行くと同時に、ほむらの目付きが変わった。
腕時計を素早く操作し、ストップウォッチを作動させ、人外の目付きでもう一度部屋の中を眺め回す。
最初に目についたのは、もちろんベッドだ。
そして枕元の棚に置いてあるぬいぐるみ…可愛らしい机…ハンガーに掛けられた制服…ほむらはいやらしく舐め回すようにそれらを視姦した。
そして最後に目についたのは、こぢんまりとしたタンスであった…。
あの引き出しの中身は…恐らくまどかの下着!!
それが手中にあれば、私のオナニーライフはどうなってしまうのだろうか…ゴクリ!
ほむらはその小さなタンスの中に入り込み、
小鳥が水浴びをするように「下着浴」としゃれ込みたい衝動に駆られたが、時計を見て、グッとそれを堪えた。
もうすぐ、まどかがトイレから帰還するに違いない。
ほむらがそう思ってから二十秒程で、まどかが帰ってきた。
トイレに立ってから、約三分経っていた。
「まどか、悪いんだけど、私にもトイレ、貸してくれる…?」
尿意はなかったが、ほむらは焦る気持ちを抑え、立ち上がった。
「案内しようか?」
「大丈夫よ、部屋に入るまでにトイレの場所は確認したから」
ほむらは滑るように部屋を出、サーキットを走るレーシングカーのように最短ラインでトイレに突っ込んだ。
深呼吸し、芳香剤の香りから選り分けて、まどかの残り香を味わう。
そう、まどかの痕跡が消える前にと、急いでトイレに駆け込んだのだ!
ああ、まどかの匂い!!
そしてほむらは、先刻までまどかのむき出しの尻が密着していたであろう便座に、下着を下ろして座り込んだ。
ああ、まどかの温もり!!
ほむらは、興奮しきった自らの股間に、その手を持っていった。
「ただいま、まどか」
何食わぬ顔でまどかの部屋に戻ったほむらは、まどかには見えぬよう最大限の注意を払って、
自分の粘液が付着したその手を彼女のベッドに滑りこませ、シーツに擦りつけた。
重苦しさが腹の底に結晶し、それがじわりと背中を冷やす。
自分のした行為に寒くなる。
だけど、それがやめられない自分を、更にエスカレートさせようと脳のいやらしい部分を働かせる自分を、
ほむらは、しかたないわね、と、あっさり肯定した。
全てはこの、まどかの魅力のせいなのだと思う。
まどかさえいなければ、私が変態に目覚めることはなかったのだ。
だから私は悪くない――。
たとえ屁理屈であったとしても、一応の理由付けに、
ほむらは詰まったようなその気分が暖かく弛緩していくのを多少の後ろめたさとともに感じていた。
「そうそう、せっかくお邪魔させてもらうのだからと、おみやげを持ってきたんだったわ――」
ほむらは自分のバッグの中から、多少のお菓子と、ペットボトルの緑茶を取り出した。
――なぜ、緑茶なんて渋いものを、ですって?
――ふふふ、今に分かるわ…
ほむらは持参してきた紙コップに緑茶をなみなみと注ぎ、まどかにそれを薦めた。
「ありがとう、のど乾いてたんだ…」
まどかが緑茶を飲み干すのを確認したほむらは、宴席で上司に媚を売る下っ端のように、間髪を置かずに緑茶を注いだ。
「どう、おいしい?」
「うん」
「まだたくさんあるわよ」
ほむらが執拗に眼で訴えると、まどかはまた少し、緑茶を飲んでくれた。
だが、まだ足りない。
しかし、こんなこともあろうかと、ほむらは次の手を考えていた。
「そうだ、乾杯ごっこをしましょう!」
「乾杯ごっこ?」
「前までいた中学校で流行っていたの。
ビールを乾杯するようにジュースやお茶を飲むと、ちょっぴり大人になった気分が味わえるのよ」
「へえ、そうなんだ!」
そんな意味不明な遊びが、あるわけがないだろうに。
しかし疑問を差し挟む余地を与えないように、ほむらは目の前の緑茶を、ごぶ、ごぶと旨そうにのどを鳴らして飲み下した。
「ふう、おいしい。 まるで緑茶じゃないみたいだわ」
「へえ、どんな風に違うの?」
ほむらはまどかの紙コップにちらりと目をくれ、
「自分で体験してみたほうが早いわよ!」
詐欺師のようなドヤ顔でそう言うと、まどかは好奇心をたたえた眼で目の前の、
何の変哲もない緑茶をまじまじと覗き込み、コップを掴み上げた。
いい、のどごしで味わうのよ。
大量の緑茶を一気に食道に流しこんで、その感触と、のどに沁み込む豊かな味わいを楽しむの。 一気に、たくさん飲むのよ」
ほむらのその言葉に誘われるように、まどかは紙コップの緑茶を一気に飲み下した。
「ぜんぜん違うでしょう?」
「う…うん…」
ほむらはまどかの表情から、違いなど感じてはいないことを読み取っていた。
いや、違いなど始めからあるわけがないのだ。
こんな物、どんな飲み方をしたって、ただの緑茶である。
「そっか、まどかは乾杯ごっこは始めてだもんね。 それじゃあ一気に二杯、行ってみましょうか!
この遊びは元々中ジョッキでやるものなのよ。 慣れていないまどかには、紙コップじゃ量が少なすぎたのね」
ほむらはそう言って、まどかの紙コップに緑茶を満タン、注ぎ込み、血走り始めた眼で、彼女の方をじっと見つめた。
その視線に気圧されたまどかが、紙コップに口をつける。
「一気! 一気!」
ほむらは急かすように、掛け声を浴びせかけている。
その様子はまるで、一昔前の大学生の新歓行事だ!
結局、ほむらは二杯と言っておきながら、何食わぬ顔でまどかに三杯の緑茶を飲ませることに成功した。
そして数分後――。
「ほむらちゃん、ちょっと、トイレ行ってくるね…」
緑茶の利尿作用キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
計 画 通 り !!(ニヤリ
ほむらは、まどかが部屋を出ると同時に、時計を操作して二分半の計測をスタートさせた。
ほむらは素早く、まどかの紙コップをつかみ取り、彼女の口が付いていた部分を舐め回した。
間接キッス!!
そしてベッドの脇に滑りこみ、柔らかな布団の中に顔を突っ込み、存分に深呼吸を繰り返した。
寝床の匂い!!
次に顔を枕まで滑らせ、過呼吸気味になるまで、まるで自分を責めるように匂いを嗅ぎ続け、舐め回し、
唾液が付いた枕をバレないようにひっくり返した。
妖怪、枕返し!!
そしてまるでばね仕掛けの玩具のように立ち上がり、真っ直ぐに壁に掛かった制服に突進し、頬ずりし、匂いを嗅ぐ。
制服、最高!!
ほむらは時計を見た。 二分半まで、あと一分二十秒…
ようし、そろそろ最後のお楽しみと行きましょうかしらァ…。
ほむらはタンスの前に正座をし、まるで仏壇に向かうように手を合わせ、一息に下から三段、引き出しを引いた。
「おお…」
パンツ、ブラ、オーヴァーニーハイソックス…
眼前に広がるそれらはまさしく、天界の花畑そのものであった。
ほむらはブラを取り出し、それをカチューシャのように頭の上に置いた。
そしてニーソをまるでスカーフのようにクビに巻き、
次いでパンツを手に取り、鼻に押し付け、存分にその匂いを吸い込んだ。
パンツからは、洗い上がりの清潔な匂いしかしなかったが、そんな事は問題ではなかった。
それが直接、まどかの恥部に触れたことのある布である、という事実。 それだけが重要なのである。
そうやって、まどかで満ち溢れた自分――それはもう、とてつもなくほむほむなのであった。
ほむらは思った。 まどかを放置しておけば、良くないことが起こるであろう。
きっとまどかで、いつか世界大戦が起こってしまう――
――それを止めるのは、私しかいない!
私がまどかを管理しなくてはならない!
ほむらはこの時、世界を憂うる立場まで、その存在を上昇させたのであった。
二分半――先程、トイレからまどかが帰ってきたのは3分後だった。
そこから安全マージンを30秒取ったその時間まであと一分――。
ほむらはまどかの下着を見にまとい、賢者タイムであった。
落ち着いて、それらを外す。
しかし、いざ手に取ると、その三種の神器を、どうすればいいのかわからなくなった。
そして、生まれ出た衝動は、彼女でさえ薄ら寒くなるようなそれだった。
ほむらは自らのバッグを引き寄せ、ジッパーを開放した。
照明の白色光を拒否するように、黒々と底の見えないバッグの口…
それはまどかを食らわんとしている自らの欲望の象徴のように、ほむらには思えた。
――逡巡。
そんなことして、いいの? あなた人間じゃなくなるわよ。
あなたのやろうとしていることは、泥棒なのよ。
下着泥棒。 分かる? 最も忌むべき犯罪の一つだわ。
あなたが変態なのは分かるけど、超えてはいけない一線というものはあって然るべきなのではないの?
あなたは人間よ。 知恵の木の実という、禁断の果実を食し、楽園を追放されたという、生まれながらの罪を背負った人間よ。
この上、更に禁断の果実を、重ねて食するというの?
それでは待っているのは地獄しか無いわよ!
破滅よ!
考え直しなさい! 暁美ほむら!!
――逡巡。 しかし、それは一瞬のことであった。
人間ですって?
人間として生きようとしていた私が、病気になって、それゆえに遅れた惨めな学校生活をし、虐められ、死のうとまで思った。
それを救ってくれたのは何?
まどかへの欲望じゃない!
その生命の恩人たる、欲望を――
――私の存在を肯定してくれた、今や私そのものになったそれを――
――否定するくらいなら、人間なんて、ク ソ く ら え よ !
ほむらは、三種の神器を自らの鞄に突っ込んだ!
もう、後戻りはできない。
二分半まで、あと45秒。
後ろめたさがつきまとう。 まるで蛇のように、絡みついて、締め付ける。
始めて犯した罪は、あまたあるそれらの中で、最も下等なものだった。
それを振り払うように、ほむらは思った。
――これは違うわ。 こうするしかなかったのよ。
これはまどかの下着類だけど、私が触れてしまった物。
私で汚された物。 これをタンスに戻すと、まどかの下着が全部、汚染されてしまうわ。
それを防ぐために、私自身が回収するしかなかったのよ。
そうやって罪を肯定してしまうと、ほむらの心に生じたのは、新たな罪を求める衝動だった。
それは盗んだパンツで、家に帰ってからでも出来ることであった。
しかしもう一度、自分に汚されていない、パンツで!
あと、40秒。
ほむらの頭の中に、くっきりと欲の形が浮き上がる。
それは昔読んだ、品のない漫画の絵を形作った。
――変態仮面。 パンツをその顔面に装着する事によって、比類なきパワーを得るヒーロー。
まだ時間はある。 自分も、なりたいと思った。 やってみたいと思った。
今、やめておけば、安全にこの変態行為の膜を閉じることが出来る。
だが、やりたい。
まどかパンツを、顔面に!! それは自分に罪をそそのかした蛇に、罪そのものに、更に余計な足を描く行為。 つまり蛇足。
だがあと35秒。 勝てる勝負だと、思った。 いざ――
――装着!! まどかの恥部が直に触れたその部分が、ダイレクトに、自分の鼻に、口に!
ほむらは、神の匂いをかいだ。
それは、天上の空気。 この世には、存在し得ない筈の物。
「ああ、まどか…刻が見える…」
想像を絶するまでの豊かな時。 ほむらは見た。 沢山の金色に輝く光の粒が流れ、尾を引き、万物がそれに流されている。
時の流れ。 それは一定ではなく、時に曲がり、くねり、淀みながら、河のように。
しかし、それに流されているもろもろは、すべて一定の距離を保っている。
だから相対的に、時の流れは一定だと思われているのだ。
あの中で見ている限り、周りのものを観察することによる相対的な時しか、人類は観測できないだろう。
しかしほむらは、その埒外から、絶対を見た。
それは神に触れたとも言える、不思議な体験であった。
流れの中に、人類が勝手に作った目盛りが見えた。
絶対から見れば不均等極まりないそれ。
あと、30秒であった。
――コンコン。
不意にドアが音を立て、ほむらは時の流れの外から、その内側に引き戻された。
えっ…なにが起こったの? 何? ノック?
時間は…あと27秒残っているのに…まどかじゃない?
まさか…
「まどかー。 お菓子持ってきたから、入っていいかな?」
その声は、まどかの父、鹿目知久のものであった。
ちょっと待って――そう、ほむらが発する前に、ドアのノブがガチャリと金属音を立てて回転した。
そう、まどかは年頃の娘とは言え、親に一切の隠し事をしていない、とってもいい娘なのだった。
そんな親子の関係において、ノックはすなわち、入っていいか? という確認ですら無く、
入るよ、という合図でしか無い。
ほむらは脳内に状況を打破するための策を求めた。
しかし、思考の糸が絡まり、解くことはかなわず、切羽詰った時間がその中に染みこんでくる。
――ホワイト・アウト。
ほむらの脳は、転校してきたばかりの、不甲斐ない、役に立たないそれに戻っていた。
ドアが開く。そこから時を固める冷気が侵入し、ほむらを、そして万物を凍らせ始めた。
それに抗うように、何とか彼女は顔面に装着されたパンツを外すことに成功したが、そこで限界であった。
ドアが開き、視線が交錯すると、完全に凍りついた時に挟まれた両者は一瞬、その動きを止めた。
刻の河は、流れるばかりではなく、凍りつくこともあるのね――その時、ほむらはそんな事を思った。
「あのさ…君は、何をしているのかな…?」
知久の、声。
静寂を突き破るその声は、凍りついた時間を溶かすために注ぎこまれた熱湯のようであった。
ほむらはそれを浴び、周囲を取り巻く時とともに凍りついていた自らが、ひび割れる音を聞いた。
知久は眉間にシワを刻みながら無言で部屋に侵入し、テーブルの上に、持ってきたお菓子を置き、
それからほむらが手にしていたまどかのパンツを乱暴に奪い取った。
「ほ、ほむーっ! ほむーっ!」
言葉を忘れるほどの衝撃を受けたほむらの弁明は、最早人語ではなかった。
知久は、ほむらのバッグの口からはみ出たまどかのソックスまで発見し、その中から三種の神器をも奪い取っていった。
急いていて、ジッパーを閉め忘れていたのだった。
そして部屋を出掛けに彼が放った、言葉。
「君、もう家には来ないでくれるかな」
「お…お義父さん…」
ほむらは蛇に足を描く行為により、禁断の果実を奪われ、楽園を追放されたのだった。
「ほむらちゃん、どうしたの?」
それから1分20秒ほど経って、まどかが帰ってきた時に放った言葉である。
部屋の外で、知久とまどかが話しこむ声が聞こえた後に、彼女は部屋に戻ってきたのだった。
ほむらは自らの罪をまどかに吹きこまれたのだと思い、冷たく縮こまっていた。
「…お義父さん、なんか言ってた?」
「洗濯物を持って行くって…おかしいなあ…帰ってきたとき、洗濯物は出しておいたはずなのにね」
「…そう」
知久は、まどかに何も言っていないらしい。
考えれば当然だ。 自分の娘に、友達が変態だったなんて、言えるはずがないのだ。
しかしまた次、ノコノコとこの家に私が踏み込んだら――
次はないだろう。 終わったのだ。
もう、まどかと私は…完全に…。
ほむらは家に帰った後、何度も、何度もその事実を反芻し、そのたび滂沱の涙を流し、慟哭した。
…
「あんた、勝負師だな…尊敬するよ…」
杏子が深い溜息を吐いて、静かに、ほむらにそう語りかけた。
「負けたのよ」
「いや、勝ち負けは関係ない。 立派な勝負だったさ」
「浅ましい勝負だったわ」
ほむらのグラスには、もう氷しか入っていなかった。
杏子はそれを一瞥し、言った。
「勝負に貴賎はない。 あるとするなら、すべてが立派な勝負、その事実だけさ。 あんたは立派に戦ったんだ」
杏子は、ほむらを社員として欲しくなった。
これほどまでの、聞いていて肌がヒリ付くような勝負を、若干中学2年生の若さで、体験してきている――
そんな人材は、そうそういるものではない。
商戦は、その名の通り戦いである。
勝負の種類はどうあれ、そう言った修羅場をくぐり抜けてきた者ならば、商業的な知識を詰め込んでやれば、ほぼ即戦力たりうる。
それにほむらのような人材が貴重なのは、負けを知っているというその事実が大きかった。
会社において負けを知らしめるとなると、それは赤字を伴う。
予め負けを知っている人材は、貴重なのである。
負けを知ると、負け癖が付くこともあるが、現実を見るとほむらはまどかをモノにしている。
彼女は負けを覆して、見事に勝利を収めたのだろう。
話を聞く限りでは、絶望的とも言えるその状況を好転せしめたほむらは、勝負師としては、最高の逸材だった。
杏子は思った。
ほむらほどの勝負師なら、億単位でその損得がある、胃の絞られるような一瞬の勝負さえ、難なくやってのけるであろう。
「ほむらちゃーん」
まどかがプールから上がり、水を滴らせながら駆け寄ってきた。
「私たちもう上がるけど、ほむらちゃんはどうする?」
「そうね、上がりましょうか」
ほむらが立ち上がったので、それにつられるように杏子も立ち上がった。
「さやかちゃんとお風呂に入って、その後卓球をするんだ!」
「そう、じゃあ私たちも一緒に、お風呂に行きましょう…いいわよね、杏子」
「あ、ああ…」
杏子は、まどか達と並んで歩き出したさやかを見た。
自分が上手くリードできないばかりに、ギクシャクした関係にはまり込んでいる、大好きな相手――。
このバカンスで、少しは関係が前進するかと思ったが、
寧ろまどかと遊んでばかりいるさやかは、自分との距離を更に広げたように見えるのだった。
「あんたさ、うちの会社に来ないか? あんたほどの勝負師なら、即戦力として使えそうなもんだし、来なよ」
杏子は浴槽に浸かり、うーん、と、伸びをしながらほむらにそう、聞いた。
「嫌よ」
ほむらの即答に、杏子は顔をしかめて、
「ソッコーで振られちまったなあ、どうしてだい?」
そう聞くと、ほむらは、
「まどかとの時間が短くなりそうだから、私はヌルい公務員でいいわ」
と言って笑った。
だが実際は、グリーフシード事件に付きっきりになり、以前より帰りが遅くなっている事を、杏子は知っていた。
杏子が人材協力をし始めてから、ほむらはまるで執念の塊になったように捜査を再開したのだった。
あの事件は、ほむらが警官になって、始めて捜査を担当した事件なのだそうだ。 格別のこだわりがあるのだろう。
その話はまたあとで聞くとして、と思って、杏子は続けた。
「それで、その後どうしたんだい?」
「…あなたは私を勝負師といったけれど、私はあの後、勝負を投げていたのよ
今まどかと一緒なのは、たんなる運。 棚からぼた餅ね」
「そうなのか?」
「ええ、私はあの後、登校拒否になって、廃人同様の暮らしをしていたわ。
そして学年が上がったとき、まどかと離れ離れのクラスになったことを確認して、
漸く登校を再開し、彼女とは目も合わせずに過ごしたの。
もちろん、毎晩のストーキングは欠かさなかったけど」
「おいおい、ヒデーな。 その時まどかはきっと悲しかったと思うぞ」
ほむらは杏子の言葉から、その当時の自分の心境を思い出し、
「そうかも知れないわね。 でも、そうするしかなかったの」
そう言った。
「…それで? その後は?」
「私は中学を卒業すると、半年の教育期間を経て警察官になり、性犯罪を担当する刑事になったの。
当時見滝原市では、異常とも言える強姦事件がポツポツと起こり始めていてね。
急増したのは去年の暮位からの半年ほどの間だけど、警察の一部ではそれらの事件に、関連性があると睨んでいた。 その事件が…」
「グリーフシード事件か…!」
「そう、それは、今から3年前、つまり私たちが中学3年生の時、第一回目の強姦殺人が起こったことから始まったの」
「私が商業高校を一年で中退して、サークル杏の社長になった年だな…」
杏子も、この事件には因縁めいたものを感じていた。
自分とさやかを結びつけた事件が、まどかとほむらの関係にも、影響を与えていたのか…
そう思って、それで?…と言いかけたとき、ほむらが会話を切った。
「のぼせてしまうから、上がってからにしましょう」
杏子は、それから十数分のお預けを食らうことになった。
そしてその後、卓球台の横で、昔話は再開されたのだった。
…
第四章 マミリーマート
三年前の春、二日後に迫った役員会に備え、久兵衛は料亭で都合の付いた役員たちを接待していた。
「いやあー、久兵衛君はなかなか見どころのある男だねぇー」
「ありがとうございます、河豚田専務」
河豚田鱒雄――。
株式会社マミリーマートの専務取締役であり、商品本部長。それに、物流、品質管理本部長を兼務している。
マミリーマート社長、磯野波平の長女、佐沙江の夫であり、社長の太鼓持ちと揶揄されている、その役職がもったいないほどの小物である。
しかし、小物であり、馬鹿であるほど、久兵衛にとっては利用価値のある大切な人物たりうる。
鱒雄は、久兵衛が最も重用する役員であったが、社長に物を言われると、ころっと自らの方針を覆してしまうのが玉に瑕だった。
「河豚田君の言うとーり。 久兵衛君には、今後ますます働いてもらわなきゃーねっ」
「これはこれは穴子専務、こちらこそよろしく。 今日こそは僕に女の世話をさせて下さいよ。
常務お好みの、いい女、用意してますから――」
穴子某――。
株式会社マミリーマートの専務取締役であり、総合企画部長である。
商社時代からの鱒雄の同僚であり、若本規夫似の渋い声が特徴である。
ほとんどの役員が久兵衛の世話した女に溺れ、その弱みにつけ込まれる形で彼に利用されていたが、
彼は極度の恐妻家であり、それゆえ久兵衛が連れてくる女には手を付ける度胸がなく、彼の意のままに、とは行かない。
しかし鱒雄と仲が良く、彼を使えば何とか動かせるし、酒を飲めば話せる男で、久兵衛と馬も合う、使いでのある役員の一人だった。
誤 「これはこれは穴子専務、こちらこそよろしく。 今日こそは僕に女の世話をさせて下さいよ。
常務お好みの、いい女、用意してますから――」
正 「これはこれは穴子専務、こちらこそよろしく。 今日こそは僕に女の世話をさせて下さいよ。
専務お好みの、いい女、用意してますから――」
スマソ
「そんな事より、君がこうして僕らを接待するということは、何か裏があるんだろう?
まあ、僕の情報網から、大体予想は付いているんだけどね」
「さすがは伊佐坂常務。 常務が居るとお話が早くて助かります。 しかし堅苦しい話は後ほど…今は大いに楽しみましょう」
伊佐坂甚六――。
株式会社マミリーマートの常務取締役であり、システム本部長である。
高校を卒業した後、長らく浪人生活を経て、大学進学を諦め、世捨て人ニートとなった後、
その無駄な時間を利用し見識を高め、現代の孔明と言われるまでの知識人になり、
その能力を買われ、磯野波平に招へいされた異端児である。
システム構築に関しては天才的な頭脳の持ち主であったが、童貞期間が長く、
ハニートラップを用いての掌握は役員の中で最も容易だった。
しかしその知識量から他生小賢しいところがあり、しばしば久兵衛を出し抜こうとする、扱いづらい男でもあった。
「甚六さんは頭を使い過ぎていけないや…僕みたいに楽しめる時は大いに楽しまなきゃ損じゃないか。 なあ、久兵衛」
「ごもっともです、磯野常務。 ささ、一献――。」
磯野勝雄――。
株式会社マミリーマートの常務取締役であり、波平の息子である。
そして見滝原一帯をシメる巨大不動産会社、株式会社花沢不動産の一人娘、花子の夫であり、同社の専務でもある。
甚六のように秀才肌ではないが頭の回転がとにかく早く、まだ二十歳前のくせにかなりのやり手である。
ずる賢く搾り出されるその知恵は、時に久兵衛すら舌を巻くが、
穴子ほどでは無いにしろ恐妻家で、それゆえ女を世話して弱みを握った後、最も久兵衛に従順となった。
中途採用の平社員である久兵衛だったが、
このように専務、常務クラスの役員たちの弱みを握り、彼らを手足のように使いこなし、影の社長と言われるまでになっていた。
「久兵衛君、君の考案した『看板娘システム』は良好だよ! 男客が全体で最大5%増加し、売り上げも4%増えた!」
「ははっ…相変わらず伊佐坂常務は仕事の話ですか…熱心ですねえ…」
久兵衛は、集客力強化のため、伊佐坂に「看板娘システム」の導入を勧めていた。
「看板娘システム」とは、十代の清純そうな娘を各店舗に配置する、という、ただそれだけの、システムとも言えないシロモノだったが、
これによって商品の値段がコンビニに比して安いスーパーなどを無視してまで、
好みの娘がいるマミリーマートに通うスケベな男客が急増し、売り上げを着々と伸ばしていた。
その手柄はすべて甚六のものになっている。
久兵衛は自らが好き勝手やる代わりに、アイデアをこのように各役員に売って、彼らの信用を得ることを欠かさなかった。
「それでさ…君が見滝原店に新しく入れた娘なんだけど…」
久兵衛は、やはりそれか、と、思った。
ロリコンである甚六は、久兵衛があてがう少女たちだけでは満足できず、彼が拾ってきた看板娘を、しばしば欲しがるのであった。
「えっと…巴マミ君ですか?」
「そう、その娘! 中学校卒業したばかりなんだろう? それでいてあの巨乳…堪らないよ!
看板娘なんて辞めさせて、僕にくれよ! ああ、勃起してきた! まるでみくるちゃんだもんな!!」
久兵衛は自らがスカウトし、契約したばかりの、巴マミというアルバイトの事を考え始めた。
…
――その日、久兵衛は看板娘に適当な少女を探すため、街をぶらつき、職業安定所に入っていき、
そして大勢の求職者たちの中から、一瞬でターゲットとなる少女を発見した。
見滝原中学校の制服姿で、慣れない様子で求人広告を見回っている。
久兵衛はすぐさまその少女に駆け寄った。
この手の少女はグズグズしていると、風俗関係の業者に強引にスカウトされてしまうからである。
それは久兵衛が過去にやったことのある仕事でもあった。
近寄りながら、男好きのする安産体型であることを確認し、久兵衛はよだれを垂らしそうになって舌なめずりをした。
「良い求人、全然ないね」
後ろからそう話しかけた久兵衛を振り返った、怯えたようなその顔を見、久兵衛はヒュウ、と、口笛を吹きそうになった。
上玉である。
看板娘としては最高の逸材だと、久兵衛は思った。
「やあ、ごめん。 急に話しかけちゃったから、ちょっとびっくりしたかい?
安心してくれ。 怪しい者じゃないからね。 僕は――」
そう言って、久兵衛は懐から彼の名刺を取り出した。
「――こういう者さ」
少女は名刺というものを初めて見るかのように、恐る恐るそれを確認し、
「…株式会社、マミリーマート…人材スカウト担当?」
と言い、怪しむように久兵衛の顔と、その名刺とを交互に見ている。
「まあ、特に役職はないね。 僕はちょっと特別でね――」
そう言って、今度は社員証を提示した。
「これで、僕が本当にマミリーマートの人間であることが、証明できただろう?」
そう言って営業畑に居たときのスマイルを投げかけてやると、漸く少女の顔から不信が六割ほど、抜けたようだった。
久兵衛は、長らくアンダーグラウンドな世界で生きてきた。
クスリの売人から始まり、次いで誘拐を伴う、半ば強引な水商売の斡旋、そして公に出来ない死体の処理――。
そんな中、当時、マミリーマートの広報担当の一幹部であった波野海苔助という男の、
女関係の火消しを手伝うこととなり、そのツテでマミリーマートに入社。
波野はその横着な性格が災いして失敗を繰り返し、現在は海外赴任という、体の良い本社追放の憂き目に遭っているが、
久兵衛は素早くアングラ時代の人間関係を駆使し、
前述の通り女を使って他の役員に次々と取り入り、現在の地位を獲得したのだった。
「巴マミ君といったね。 もしよかったら、僕と契約して看板娘的なコンビニ店員になってよ」
「看板娘?…コンビニの、店員さんの勧誘ですか?」
久兵衛に連れられて喫茶店まで付いてきてくれたものの、その少女、巴マミはまだ、久兵衛に対してどこかよそよそしい。
「そうとも言えるし、そうじゃないとも言えるね。 普通のアルバイトとの違いはお給料と、ちょっとした条件が付くことさ」
マミは、じっと久兵衛の話を聞いている。
何かおかしな点を見つけたら、即座に質問をしようという決意のようなものをたたえているが、
その表情には自らの先行きに対する不安が滲み出てもいる。
「条件は、そのままの君で居ることだ。 そうしたらアルバイトの時給に120円、上乗せされるよ。
そして仕事ぶりが評価されれば契約社員にもなれる」
「そのままの、私?」
マミは早速、自分に対して放たれた意味不明なその言葉を聞き返した。
久兵衛は珈琲を啜りながら、
「そう、結構難しいんだな、これが」
と言って、ふう、と、溜息を吐いた。
「仰る意味が分かりません。 きちんと説明をお願いします」
マミはたどたどしく、演じるようにそう、聞き返した。
明らかに緊張した物言いであることが分かる。
中学校でかなり高等な教育まで施されるこの時代において、中卒の就職は以前より多くなったが、
それでもまだ、高校まで終了してからの就職が多数を占めていた。
大学は既に、研究機関としての側面がかなり強くなっている。
久兵衛は、中学生であるマミの就職活動という事実が、この不安をたたえた微妙な表情と密接に関連している気がした。
「ちゃんと説明をしてあげるから、そんなに緊張しなくていいよ」
久兵衛のその言葉に、胸の内を見透かされた事を知ったマミは、うっ、と、その表情と言語を詰まらせた。
「失礼な言い方になると思うけど、勘弁してくれ。
女の子はね、好きな男の子ができたりすると、無意識のうちにその相手の好みに合わせて変わろうとするものさ。
君にそういう相手や、付き合っている彼氏が居る居ないは別としてね、そういう変化をお店では出さないで欲しいんだ。
少しでもそういう男っけがあると、看板娘としての魅力が激減して、男客がしらけて遠のいてしまうからね。
要は、君はそのままの君で居ることが、一番魅力的だということさ。 その魅力を集客力に役立てようというのが、僕の方針だ」
「…私の…魅力…?」
そう言って、考え込む格好を見せたマミに、久兵衛は、
「おっと! 深く考えちゃいけないよ!
女の子の魅力というものはね、それを意識した途端に劣化を始める不思議なものなんだ。
魅力を勘違いしてどぎつい化粧をしているビッチになんか、誰も用はないからね。
そのままの君だ。 何も考えず、そのままの君…いいね」
と、釘を刺した。
「…よくわからないけど――」
マミは、俯いて言った。 その声は、はっきりと震えていた。
「――よくわからないけど…私…そう言うの…嫌です…」
「意外だなあ、大抵の娘は、二つ返事なんだけど」
「すみません…私、魅力で人を…とか、そう言うの、絶対嫌なんです…」
マミは、膝に置いた手にグッと力を入れ、体を縮めるようにしながら話し始めた。
それを見た久兵衛は、マミがその発達しすぎた体つきにコンプレックスを持っているのではないかと考えた。
性欲に目覚め始めた男子生徒たちに、ジロジロと見られて嫌な思いをしてきたのだろう。
年齢不相応に憂いをたたえた表情は、既に処女を喪失している証左かも知れない。
それは男に捨てられたときの女の表情に似ていた。
「…普通のアルバイトかパートで、いいんです…私に、普通の、普通の仕事を、させて下さい…」
静かに雨が降るように、マミはそう言って泣き崩れた。
そのあまりの美しさに、魂が、まるで磁石に引かれたように吸い寄せられるような不思議な感覚を、久兵衛は覚えた。
しばらくその泣き様に見入っていた久兵衛だったが、ふと、周囲の視線が自分たちに集中している事に気が付いた。
二十代後半の自分が、中学生と喫茶店で二人きりで、なおかつ相手が泣いているとなると、あらぬ疑いを掛けられる。
「――じゃあ、当初は普通のアルバイトということで契約を進めようか。
それにも一つ、条件を付けさせてもらうけど、いいかな?」
マミは、涙に濡れ、真っ赤になった眼で久兵衛を見上げた。
それを見た久兵衛は、またその心中にゾクリと欲望の高まりを覚えた。
「…条件って…なんですか…?」
震える声質が、久兵衛の胸を鳴らした。
こう言う表情や声が似合う女は、いい。
そしてこの女が、もう少し熟れたらな…と、久兵衛は思った。
「…泣き止んで、もらえるかな?」
「…ごめんなさい」
久兵衛の言葉に顔を上げ、マミはその涙を拭った。
そして雨上がりに、虹がかかった空のような笑顔を作った。
久兵衛はそれを見て残念な気持ちになり、俯いて眼を背けた。
この女が、もう少し熟れたら――
「泣き止んでくれたね。 それじゃあ契約、成立だ」
――僕がめちゃくちゃに、壊してやろう。
マミが壊れていくその様子を想像して、久兵衛はとっておきの営業スマイルを、彼女の正面に向けた。
それから少しして、見滝原店の売り上げが4%程伸びた事を確認した久兵衛は、空いた時間にそこを訪れていた。
「巴マミ君は、ちゃんと看板娘が出来ているようだね。
彼女は普通のアルバイトということで契約したけど、給料は看板娘として、時給120円をプラスしておいてくれ。
それと、来月から契約社員になってもらおう。」
久兵衛のその言葉を聞いて、店長が首を傾げた。
「ケチな久兵衛さんにしちゃあ、おかしい話ですね。
普通のアルバイトなら、無闇に給料を上げるような人事はせず、その時給だけくれてやっていればいいとか言いそうなものなのに…
もしかしたらあの娘に、気でもあるんですかぁ?」
店長は冗談のつもりで言ったようだったが、
久兵衛はそれを聞いて、プライドを素手で撫で付けられるような不快を感じ、一瞬、眉間に皺を刻んだ。
「冗談を言うのもいい加減にしてくれないかな…巴君はまだガキじゃないか?
僕はね、彼女と契約するとき、看板娘になることを薦めたんだ。
ところが彼女は普通のアルバイトにしてくれと言った。
それが僕のカンに触っただけだよ。 僕は自分がこれと思った契約を、成立出来なかったことなんか今までなかったんだから」
久兵衛の能面のような面の下に蠢く怒りを感じ取ったのか、店長は汗をかきながら、
「す、すみませんでした…」
そう言って縮こまった。 本社の人間を怒らせれば、雇われ店長の首など、簡単に刎ねられてしまうのだ。
コメツキムシのようにお辞儀を繰り返す店長を見、久兵衛が、分かればいいんだ、と、帰ろうとしたその時――
「ティロ・フィナーレ!! どーん!!」
久兵衛の背中がどつかれ、危うく彼は前のめりにレジカウンターに突っ込むところだった。
殺してやろうと思って振り返ると、そこには太陽のような笑顔をたたえたマミが立っていた。
「お久しぶりですね、久兵衛さん」
「何だ、巴君か…何だい、そのティロ・フィナーレとかいうのは?」
「私の必殺技です!」
マミは人差し指を拳銃のバレルに見立てて、久兵衛に向けて構えるような格好をし、
「バーン!」と言ってドヤ顔で久兵衛にウインクをした。
やっぱりガキじゃないか、と、久兵衛はそれを見て思った。
「巴君…久兵衛さんにそんな事しちゃ駄目じゃないか…」
そのマミのあまりに無礼な振る舞いに狼狽し、勃起した陰茎の亀頭のような顔色になった店長が、
だらだらと流れる汗をハンカチで拭いながらマミに小言を言っている。
久兵衛はそれを見て、マミの教育がなっていないこいつはクビにしようと心に決めた。
「(君のクビで贖ってもらうから)別にいいよ。 それより巴君、仕事にはもう慣れたのかな?」
「ハイ、とっても楽しく、毎日仕事をさせてもらっています。
このお仕事を勧めてくれて、本当にありがとうございます、久兵衛さん」
始めて出会ったときの暗い表情なんかどこ吹く風である。
その弾けるような笑顔に心底気分を害した久兵衛は、
始めて会ったとき感じた、この娘に対する自分の評価は見立て違いだったのではないかと思った。
そして明るいのは看板娘としてはいいことだが、こんなうるさいガキの相手は真っ平御免だとも思った。
「…久兵衛さん…ちょっといいですか?」
急に、マミが作ったように、笑顔を滲ませたような表情になって聞いてきた。
「何かな?」
「そのう…マミって、名前で…呼んでいただけますか…?
みんなそう呼ぶので、そっちの方がしっくり来るんです…」
そのもじもじとした表情を見、久兵衛は不覚にも勃起をした。
そしてこんなガキに勃起をしてしまったという事実に、彼のプライドは瞬時に色褪せた。
「わかったよ、マミ。 こう呼べば、いいんだろう?」
「…ハイ!」
やはり笑顔が似合わない女だ、と久兵衛は思った。
というよりは、沈鬱な表情のほうが似合いすぎるというところか。
そして泣き顔は、さらに良かった。
そういう顔が似合うのは、幸せになれない女の典型だと思う。
どうせ幸せになれないなら、僕がこの手で、不幸に染めてやりたい。
看板娘としてもう少し稼いでもらい、落ち着きを備えた大人の女になったら、
自分の物にし、いじめ抜いて、そのゾクゾクする不幸な表情を飽きるほど鑑賞して、発狂させて人生を終わらせてやろう。
久兵衛はチンピラ時代から、何人もの女をそんなふうにして人間として終わらせてきた。
クスリ漬けにし、犯し尽くし、中絶をさせ、精神病院に入れたりコンクリート詰めにしてダムに沈めたりしてきた。
女たちの破滅しゆく姿は千差万別で、それぞれ趣があった。
久兵衛はまるで芸術作品を作るように、楽しみながら女たちを壊していったのだった。
このガキももう少し成長したら、その芸術作品の一つになるのだ、それは確定事項だと、久兵衛は思った。
――事実この3年後に、マミは自殺を遂げることになる。
「…また、お店に寄ってくださいね」
「まあ忙しいからね、いつになるかはわからないけどね…」
帰り際、マミの顔に、職安で出会ったときのような憂いがたたえているのを見、久兵衛はゾクリと寒くなり、彼女から眼を逸らした。
その表情は気に入っていたが、何故か見続けていると、良くないような気がしたのだった。
「本当はみんな、巴君、って、苗字で呼んでるんですよ…だけど久兵衛さんには、下の名前で呼んで欲しいんでしょうねぇ…
真面目に働いてはくれるけど、いつもは独りぼっちで寂しそうなんですよ…
それが、久兵衛さんが来た途端に、あれですもんねぇ…」
店長が、マミにそれと気付かれないように、久兵衛にそう、耳打ちをした。
顔を見ると、締まりの無い、なんとも卑猥な表情をしていた。
こいつはやはりクビにすべきだな、久兵衛はそう思った。
…
「――巴君は、入ったばかりですからねえ…もう少し看板娘として稼いでもらって、その後、代わりの看板娘が見つかったら――」
――僕が玩具にして、散々楽しんだその後に、廃人になった彼女を――
「――伊佐坂常務に、お届けしましょう」
「嫌だ! 今欲しいよ! ロリ巨乳は僕のものだ!!」
やはり片時も待てないらしい。
育ってしまえばロリっ子としての魅力が激減するのだろう。
「いや、しかし看板娘は、ビジネスの話でもありますし…
今夜は常務お好みの、11歳処女を待たせてありますので、そちらでご勘弁の程を…」
「そうだね、ビジネスは遊びとは別に考えなくちゃね…僕とした事が、そんな基礎中の基礎を失念していたよ」
11歳処女と聞いて、甚六はカメレオンのように顔色を変えて、ぬけぬけと言った。
久兵衛はゲスな男だと思った。
餌に食いついて釣り上げられた魚が「基礎中の基礎を失念していたよ」
などと格好をつけた物言いをしているのを見ると、滑稽さを通り越して虫酸が走る。
「甚六さんは相変わらずだね。 それより久兵衛、さっさと本題に入ろうぜ!」
本題、というのは、この接待の目的である。
久兵衛は役員たちを、用意した女と引き合わせる前に、かならず仕事上での頼み事をするのが常であった。
だから仕事の話が終わらないと生殺しもいいところで、いつもこのように一番若い、欲望の塊である勝雄が急かすのであった。
「ハハハッ、勝雄君は若いねえ、もう勃っているのかい?」
鱒雄が茶化すと、勝雄は照れ笑いと共に赤面して、坊主頭をボリボリと掻いた。
「そうですねえ、それではみなさん、そろそろ本題に入りましょうか…」
久兵衛がそう言うと、緩みきっていた役員たちの顔が一瞬で引き締まった。
それを見まわし、視線を甚六で止め、
「それでは情報網から概要を掴んでいる、という伊佐坂常務に代弁していただきましょうか」
久兵衛がそう言うと、甚六は待っていました、と言わんばかりのドヤ顔を作った。
「久兵衛君が新しい人件費削減案を出してくれた。 その名も、『ぶっ続け労働』というものだ。
アルバイトないしパートを20時間労働4時間休憩でこき使い、死ぬまでしゃぶり尽くすというものさ。 イカスだろう?」
「なんと、20時間労働…」
「エエーッ! そんな事が出来るのかい!?」
穴子と鱒雄が、即座にその異常性に反応した。
鱒雄の歓声は裏返っている。
甚六は、それらを一瞥し、懐から黒い錠剤の入った瓶を取り出してから、続けた。
「既に緑ヶ丘店で実績があるのさ。
この錠剤を飲ませれば、働く喜びだけを感じる精神状態になって、20時間労働なんて難なくこなしてくれるようになる。
まあ被験体は一ヶ月と8日で発狂して、強姦事件を起こした後、電車に轢かれて死んだけどね」
甚六が掲げ、役員たちに示したその錠剤を見、勝雄が、
「これは、どういうものなんだい?」
と聞いた。
「久兵衛君と愉快な仲間達が開発した、現代のヒロポン、グリーフシードさ!
これで我が社の利益は、鰻登りだ!!」
甚六が、まるで自分の手柄であるかのようにそう言った。
久兵衛は栄達とか、そういうものには興味がない。
だから、甚六のそのような言い方にも、まるで反応はしなかった。
「なーるほど…それで明後日の役員会でこれを社長に認めさせるわけだねぇ」
穴子が、腕を組んでそう言った。
「そう、だけど、そう言うのにうるさい人がいますよねえ…」
甚六がニヤケ面を他の役員たちに向ける。
「そうか、鹿目常務を黙らせて欲しいんだね!!」
やはりこういう時、一番鋭いのは勝雄であった。
「ご賢察のとおりです、磯野常務」
この時始めて、久兵衛が本題に口を挟んだ。
鹿目詢子――まどかの母である。
株式会社マミリーマートにおける末席の常務取締役で、リスクマネジメント・コンプライアンス委員長を勤めている。
マミリーマートが磯野家を中心とした一族企業であるという事実を隠蔽するため、
そして男女を平等に役員にとりたてているというイメージ戦略用の格好をつけるため、
常務に抜擢された名ばかり役員である。
しかしその役職から、法令遵守を声高に叫び、それに呼応した若い社員達の支持を得て、
えげつない商売を進めようとしている久兵衛たちの障害となってき始めた、言わば眼の上のたんこぶである。
「ぶっ続け」を社長である波平に認めさせようとするとき、詢子が邪魔をしてくることは容易に想像できた。
久兵衛は、明後日の役員会での、「鹿目潰し」の為、彼の息のかかった役員達をこの宴席に招いていたのだった。
「なるほどぉ…鹿目君は、最近企業倫理を掲げて青臭いガキ共を扇動し、小さな派閥を作り上げていると聞く。
ここで潰しておかないと、後が厄介だねえ」
穴子が腕を組んで目を閉じ、貫禄に満ちた声でそう言うと、
「いやあ、でも鹿目君は、結構なやり手だからねえ…有能な役員を潰すなんて、会社に対してマイナスにならないかい?」
と、鱒雄がニヤニヤしながら、明後日潰す相手をおだてている。
「これから、贅肉を落としたシャープで利益の上がる会社を作り上げるためには、法令の解釈による行動範囲の拡大、
つまり網の目をくぐるようなやり方が必要で、僕のところでもそういったやり方でシステムを作ろうとしていて、
グリーフシードによる『ぶっ続け』もそうした考えのもと、何とか法律を誤魔化せるように、頑張っているんだ。
既に厚生労働省から、そして警察庁から、それぞれ3人を天下り入社させ、コネクションもバッチリだ。
ここまでしてきて、会議で鹿目君に台無しにされたら、堪ったもんじゃないからね。」
甚六が眼鏡のレンズをキラリと光らせながら、詢子を潰す、という動かぬ決意をたたえて、鱒雄を牽制するように言い放った。
「そうだね、会社の利益のために、鹿目さんには小さくなっておいてもらわなきゃね。
鹿目さんがどんなに有能だとしても、僕達4人掛かりで責め立てられちゃあ、ぐうの音も出ないだろうしね。
明後日は、会社のために、僕ら4人が力を合わせて鹿目潰しをやり遂げ、『ぶっ続け』を父さんに認めてもらおうじゃないか!」
勝雄が、波平の息子らしく、リーダーシップを持って締めくくった。
ヤリたくてうずうずしているのだろう。 久兵衛はパンパン、と、二度、手を叩き、女たちを宴席に招き入れた。
ふすまが開け放たれ、それぞれ違った年齢の女たちが入ってくる。
見滝原高校の制服を着た、高校生は鱒雄用に、
色っぽい、胸のあいたドレスを着た、二十代半ばくらいの女は勝雄用、
一人だけ久兵衛の配下のチンピラに連れられた子供は甚六用、
そして着物姿の、厚化粧をした30過ぎの年増女は穴子用だった。
甚六用の小学生女児は既に泣いていて、手を引いているチンピラに足を止めて抵抗していたが、
チンピラが女児の顔面に寸止めパンチをすると大人しくなり、甚六に連れられて布団を用意してある奥の間に引っ張られていった。
鱒雄は奥の間には引っ込まず、
「ひゃあ! 和香女ちゃんと同じくらいじゃないか!! 興奮するねえ!!」
と言いながら、まるでタケノコの皮でも剥くように、義妹と同い年位の少女の制服を脱がし始めた。
「鱒雄義兄さんは、本当に和香女が好きなんだねえ…」
同じく奥の間には行かず、宴席で女にフェラチオをさせている勝雄が、鱒雄にそう言うと、
「そういう訳じゃないよ、彼女と同い年位って言う背徳感がたまらないのさ」
若い乳房を揉みしだきながら、鱒雄はそんな事を言っている。
久兵衛は、どっちでもいいじゃないか、と思ったが、口には出さず、
芸妓を呼んで自分に酒を注がせ、目の前の痴態を鑑賞し始めると、
甚六が入っていった部屋から断末魔のような女児の悲鳴が聞こえた。
芸妓はそんな事は慣れっこで、酒を注いだり、料理を小鉢にとったりしながら、
景気はどうですやろか? などと穴子と久兵衛に聞いている。
久兵衛は相槌を打ちながら、まだこのような乱交宴席に慣れていないであろう若いお手伝いが、
料理を運んできたまま、唖然として二組の痴態を見ているのを気にしながら、
「穴子専務も、ヤッたらどうですか?」
と、グーに握りしめた人差し指と中指との間に親指を滑り込ませ、卑猥なハンド・サインを作って、
童貞のように汗をかきながら俯いている穴子に、その隣に擦り寄り、彼に酌をしている年増女との性交を勧めた。
「いやあ…やはり僕はやめておこう…きれいなバラには刺があるって言うしねえ…」
そう言ってチラチラと年増女を見やる穴子の顔には、まんざらでもなさそうな雰囲気が漂っている。
久兵衛は、あと一押しだな、と思った。
「刺があるなら、品種改良をしてその刺をなくすことが出来るのも、人間ではないですか?」
そう言って久兵衛は立ち上がり、富士山のごとく盛り上がっている股間を穴子に見せ、
「僕だってしますよ。 それでいて穴子専務だけがしないなんて、ちょっとおかしな話ですよねえ」
と言うと、彼の隣に居た芸妓が、
「久兵衛はんはうちと寝はるんですよねえ」
そう言って擦り寄ってきたが、久兵衛はそれを跳ね除け、
勝雄と鱒雄の痴態をチラチラと見やりながら空いた食器を片付けているお手伝いを指差し、
「そこの君、こっちに来いよ!」
と大声を張り上げると、少女の顔はみるみる恐怖に歪み、それを確認した久兵衛は更に股間を膨張させた。
「こ…この娘はあきまへん! まだ修行中のおぼこですよって…お客様の夜の相手なんて、とても務まりまへん!」
芸妓が久兵衛を必死に説得しようと試みているが、久兵衛は、
「やるといったらやる!」
と、聞かず、マミと同い年位の少女を冷たい視線で射抜き、手招きをした。
少女は久兵衛と、隣の芸妓とを交互に見ながら「お師匠さん…」と、芸妓に助けを求めるような格好で逡巡している。
久兵衛は芸妓の方に目を転じ、
「料亭はここ以外にもたくさんあるよね…あまり固いことを言うと、違う店を贔屓にしたくなってしまうよ?
それでもいいのかい? 僕らみたいな上客をみすみす手放すなんて、馬鹿みたいだよねえ…」
圧するようにそう言うと、芸妓はふう、と、溜息を付いて、
「お客様の相手をおし!」
と、少女に強く命じた。
師匠が弟子を裏切った瞬間である。
その時の少女の絶望の表情といったら! 久兵衛の表情の薄い顔が、ニンマリと卑猥な笑みを、顔中にたたえたほどだった。
いつまでも突っ立っている少女に業を煮やした久兵衛がチッ、と、舌打ちをすると、芸妓が彼女を久兵衛の隣まで引っ張ってきた。
少女はその途中で「お師匠さん、助けて…」と、芸妓に求めたが、彼女は冷たく無表情になり、
まるで罪人を連行するように、押し黙って少女を久兵衛の隣に座らせたのだった。
すぐに、久兵衛の両手がムカデのように少女の体を這い回り始めた。 相手に不快感を与えるだけの、最低の愛撫である。
久兵衛はその愛撫を通して、マミはこの女の一割五分増し位かな、と、卑猥な想像力を働かせていた。
少女は怯えきり、歯の根が合わぬほど震え始めた。
「さあ、穴子専務もひとかどの男なら、ウジウジしないで浮気セックスをしましょう!
奥さんが何ですか!? そんなの糞食らえですよ!!」
穴子は追い詰められて周りを見回した。
「鱒雄義兄さん! 僕のイクところ、ちゃんと見ていてね!!」
「見ているよー、勝雄君」
互いに婿養子状態で相手の実家に住まい、その立場を共感しあっている二人は仲がいいらしく、
こう言う席があると決まって二人でその行為を見せ合っているのだった。
こう言うストレスの発散の仕方もあるのだろう、と、妙に納得する反面、
そこまでの異常行動に駆り立てる要因である結婚というものに、久兵衛はいささか冷めた物の見方をしていた。
隣でワイシャツを卑猥に撫で回している女に勃起しながら、妙に義理立てして震えるほど我慢をしている穴子を見ていても、馬鹿らしいと思う。
そうまでして、結婚などをしなければならないのは不幸である。
久兵衛は子供の頃、水木しげるの、妖怪の本を読むのが好きだった。
そこに書いていた事実で、妙に彼の気を引いたのは、猫は長く生きると、猫又という妖怪になるのだという一節だった。
当時、久兵衛は猫を見るたびに、妖怪になっている個体がいないかよく観察したが、確認をすることは出来なかった。
だが今はそれに確信を持っている。 それは人間の女を見てきたからだった。
女は、時を経ると間違いなく妖怪になる。
醜くただれ、シワを刻み、健全なる精神は健全なる身体に宿るの格言のとおり、そうなってしまった女はその精神までもが醜くなっていく。
それは、既に人ではなく、妖怪だと思う。
妖怪にとっつかまり、蜘蛛に糸を絡められた哀れな虫のように自由を奪われ、魂を吸われゆく過程が、結婚生活なのだと思う。
そんな風に、年を経ると、人は妖怪になるのだ。 なら、猫もそうかも知れないではないか。
久兵衛は、自分が女を次々と破壊していったのは、妖怪をこの世にこれ以上増えるのを抑えるためだったのではないかと考えた。
自分は、妖怪退治の陰陽師だったのかも知れない。 それなら、自分のしてきたことは必ずしも悪ではないな、と、久兵衛は思った。
穴子は、ふう、と、落ち着き払った溜息を吐いた。
甚六が女児と共に入っていった奥の間からは、さっきから、おかあさーん、という女児の叫び声が、間断なく聞こえ続けている。
それを聞いて、久兵衛は、プッ、と吹き出し、
「聞きましたか? おかあさーん、だって。 伊佐坂常務、よくもまああんなガキと出来ますよね」
穴子にそう、話しかけた。 穴子は黙したまま、だんだんとその目付きが変わっていっているようだった。
「みんな、狂ってますよね。 でもそれは、おかしなことじゃあ無いと思うな。
人間以外の生き物なんて、せいぜい十年生きるくらいでしょ? 穴子専務はいくつです? 三十代後半といったところでしょう?
こんなに発達した頭脳を持っている生き物がそんなに長生きして、気が狂わないほうがおかしいですよ。
専務も、狂っている自分をお認めになったらどうですか?」
そして自らが拘束している少女の耳元に、息を吹きかけるように、
「僕達、狂っているんだよ」
と囁くと、少女は涙を落として、「堪忍して…堪忍して…」と、それしか喋る事が出来ない人形のように繰り返すのだった。
「るあああああっ!! ちーくしょおおおぉぉう!!」
不意に、穴子が人造人間セルのような奇声を発し、
「家内がなあんだって言うんだあああ!!」
久兵衛にあてがわれた隣の女を押し倒した。
その声に、久兵衛の拘束の中でギクリと体を硬直させた少女が、耳を抑え、絹を裂くような悲鳴を発した。
「やった!!」
久兵衛がまた一人、役員を掌握した瞬間である。
そして彼は、腕の中で震えている少女の顔を無理やり穴子と年増女の方に向け、
「よく見るんだ! 終わったら、僕達もあれと同じことをするからね」
少女の耳を抉るように、そう吹き込んだ。
「明後日の会議の主役は、穴子専務にやっていただきましょう」
ヤリ終わって、生まれ変わったような顔つきになった穴子に、久兵衛は営業スマイルと共にそう言うと、
穴子は、任せておいてくれ、と、厚ぼったい唇を歪めた。
「いやあ、勝雄君は若いねえ…」
満足したのか、鱒雄は服を着て、久兵衛の隣に座り、そう言って一口、酒を飲んだ。
年上女は飽きたのか、勝雄は鱒雄用にあてがった高校生と絡み合い、汗だくになって腰を動かしている。
三人がその様子を見ていると、奥の間のふすまが開いて、全裸の甚六が青ざめた顔で久兵衛の後ろ隣に走ってきた。
「ハハハッ、甚六君、なんて格好だい?」
茶化す鱒雄を無視し、甚六は久兵衛の耳元で、
「ちょっとまずい事になったみたいだ」
と、焦りの濃く色づいた囁きを吹き込んだ。
久兵衛はそれを聞いて、また面倒なことを…と思ったが、すぐにそれが甚六の新たな弱みとして利用出来ることを思いついた。
これで少しは扱いやすい男になってくれるだろう。
「まずい事って、どうなったんです?」
分かりきった質問を、落ち着いて投げかけた久兵衛に、甚六は紫色に変色した唇で、
「あの娘を気持よくしてあげようと思ってヘロインを使ったら、動かなくなって…呼吸もしてないし、脈もないんだよ…どうしよう…」
と、震えながらに訴えてきた。
少し前から、女児の泣き叫ぶ声が聞こえなくなっていたので、久兵衛はそんなところだろう、と思っていたが、
甚六に脅しを含めるためにわざと深刻な表情を作り、
「それはいけませんね、何とか僕の手のものが処理しておきますけど、最近はこういうこともやり難くなってきたんですよねえ…」
と言うと、甚六は跪いて神でも拝むような姿勢になり、
「ありがとう、恩に着るよ」
と、謝した。
久兵衛は隣で震えている甚六にあてつけるように携帯電話を取り出し、
その罪を植えつけるように大声で、ドラム缶と生コンと死体を輸送する車を用意するように、と、配下のチンピラに指示を出した。
目の前では勝雄がよだれを垂らしながら仰け反って、小刻みに痙攣し、射精したことが久兵衛にも分かった。
そろそろお開きにするかな、と、久兵衛が考えた矢先、甚六が、なあ…、
と、久兵衛に話しかけてき、久兵衛がそちらの方に向き直ると、甚六の勃起した陰茎が目に入った。
その視線の先には、さっきまで久兵衛が犯していた芸妓の卵であるお手伝いの少女が、
股間から血と久兵衛の精液とを垂れ流しながら放心している。
「なあ…あの娘もうダメなら、この娘としても、いいかな?」
「僕のお古ですけど、それでもいいなら…」
久兵衛が言い終わる前に、甚六は少女にのしかかっていった。
全く、コイツには敵わないな、と、久兵衛は思った。
第五章 接触
朝に弱い鹿目詢子であったが、役員会のある今日は珍しく早く起き、まどかに先んじて朝食を取り、彼女が起きる頃に出社した。
本社ビルに入り、役員室のあるフロアまで、エレベーターを使って一気に上がる。
体に重みを感じ、エレベーターの扉が開くと、そこには見知った危険人物の姿があった。
「これはこれは鹿目常務殿。 今日はお早いですねえ」
元チンピラの中途採用者――久兵衛である。
品のない平社員が上級役員室フロアに居る。 それだけで異常な事態であった。
「あんた、なんでこんなところにいるんだ?」
詢子が睨みつけ、詰問すると、久兵衛は、
「そんな風に怖い顔をしなくてもいいのではないですかあ?
僕はあなた以外の役員の方々とは、とても仲良くしてもらっているものでねぇ…」
と、含みを持たせたいやらしい口調で言い、
「いやあ、社長の覚え目出度き鹿目常務殿に叱られては堪ったものではないので、
僕はこれで、足を棒にして各店舗を監視して回る、辛い、辛いお仕事に戻りましょうかねえ」
エレベーターに滑りこんでいった。
久兵衛の後ろ姿を見送って、正面に向き直ると、
いつの間にか穴子、磯野(勝雄)、伊佐坂の各役員が絨毯の敷かれた廊下に出て、ジメッとした視線を詢子に向けていた。
詢子は視線に込められた陰湿な空気に、ゾクリと背筋が冷え上がった。
「おはようございます…」
詢子がそう挨拶すると、三人は頷くようにほんの少し頭を下げて会釈をし、相変わらず冷たい視線で彼女を睨みつけていた。
その視線から逃れるように、詢子は自分の執務室に入っていった。
執務室に入ると、詢子は会議の資料を開き、それを確認し始めた。
緑ヶ丘店で労働基準法を違反した長時間労働が行われ、従業員が性犯罪を起こし、死亡した事件についての資料である。
その異常なまでの労働時間に、詢子は何か恐ろしいものがこの事件の後ろに横たわっているのを、はっきりと感じていた。
あの久兵衛と言う男が、何かをしているに違いない。
マミリーマートは磯野波平を中心とする一族企業ではあったが、まだ彼に影響力のあった以前は、それほど酷くはなかった。
そう、久兵衛が、あの男が来てから、会社はドンドンおかしくなっていったのだった。
それを何とかしようと、念願の常務昇進を果たし、この上級役員フロアに執務室を置く身分になってみて、始めて気が付いたのは、
このフロアは、既に久兵衛と結託した法規軽視派の魔窟になっていた、ということだった。
詢子は気骨のある若い有能な社員を集め、企業倫理を説き、新しい組織づくりのための屋台骨を作ろうとしていた。
今日の役員会で腐敗した経営に一石を投じ、何とかマミリーマートをクリーンな企業に戻さなければ…
詢子は義憤にかられ、何度も確認をしたレポートに再度、眼を通した。
「遅いじゃないか、鹿目くうん!」
20分前に会議室に入ったはずが、既に社長以下、役員達が勢揃いしており、詢子はいきなり穴子に叱りつけられた。
「会議は9時半からではなかったのですか?」
詢子の言葉に、穴子は醜い顔に怒気を含ませ、
「9時からに変更になったのだよ! 通達があっただろう!? 一体君は何を考えているのだねえ?」
と、周囲に詢子の失態を印象付けるように叫んだ。
彼らは意図的に、詢子に時間の変更を知らせなかったのである。
会議前から既に、「鹿目潰し」は開始されていたのだった。
「急な変更だったのだろう? いいじゃないか。 会議を始めよう」
社長の波平が、なだめるようにそう言い、会議がスタートした。
磯野波平――。
株式会社マミリーマート、代表取締役社長である。
材木問屋から発展した中堅商社、山川商事の課長を勤めていたが、
同社が倒産の危機に至った折に縁戚関係を利用し、鱒雄の会社、海山商事との合併を提唱し、これを成功させた。
そして新会社、海川商事の水産物部の部長を経て、取締役、次いで常務に昇進。
その間、大手家電メーカーの豆芝、菓子メーカーのカリブー、殺虫剤メーカー明日製薬、大手ファーストフードチェーンのランランルー、
インスタント食品メーカー日珍食品、そして農協などとの取引を通し、海川商事を総合商社として発展させた。
そして彼は7年前、海川グループがコンビニチェーン、マミリーマートを作る際、社長に抜擢されたのだった。
そして昨年、長男の勝雄が商業高校を卒業するやいなや、
花沢不動産の一人娘、花子と結婚させ、マミリーマート本社のある見滝原市を掌握させた。
波平はかようにして、自らが王として君臨する、一つの街を手に入れたのであった。
しかし今は商業的なカンも鈍り、自らのワンマンな決定で大赤字も出す老害に成り下がって求心力が低下し、
ガタガタになった役員達の間に、久兵衛のような魔物が入り込む余地をも作ったのだった。
波平の月並みな演説の後、切り出したのはシステム担当の伊佐坂甚六であった。
「近頃は愛社精神が向上し、遅くまで残業をしてくれるパート、アルバイト、社員が増加しておりまして、
人件費削減の観点からも、彼らの崇高な勤労意欲を会社のシステムに組み込み、
より無駄のない雇用、残業管理システムを構築したいと考えております。
つきましてはアルバイト、パートを20時間体勢で店内に配置し、
彼らの愛社精神に答える雇用体系を新たに加えようと思いますがいかがでしょう?」
それを聞いた波平は顔をしかめ、
「20時間も働かせるのか?」
と、疑問を呈した。 甚六はすかさず、
「緑ヶ丘店で、勤労意欲溢れる25歳のアルバイト店員が、店の休憩室で寝泊りをし、
平均して一日20時間店内に留まってくれた実績があります。
会社としてはその精神に大いに感服し、
当社開発部の開発したグリーフシードという栄養剤を進呈し、彼の溢れんばかりの愛社精神をサポートいたしました」
ぬけぬけとそう言った甚六に、怒りが突沸するのを感じた詢子は我慢がならなくなって立ち上がり、
「20時間労働なんて、気が狂っています! 当然のことながら労働基準法違反です!
そんな事、コンプライアンス委員会としては、見過ごすわけには行きません!
それに先ほど、伊佐坂常務は緑ヶ丘店の店員の事を報告したようですが、大事なことが抜けています。
その店員は、既に過労により精神を害し、死亡しているのです!」
そう発言すると、波平の丸眼鏡の奥の目が光を放ち、
「死亡とは、それは本当かね、甚六君?」
甚六に、報告を求めた。
「確かに死亡しておりますが、それは当社の雇用とは何ら関係がありません。 言いがかりもいいところです」
甚六は言いながら、詢子を睨みつけた。
「鹿目常務によると、過労ということでしたがこれには根拠がありません。
20時間は純粋な労働時間ではなく、雇用期間内に店内に彼がいてくれた時間の、一日あたりの平均値であり、
実働は残業時間を含め一日平均11時間ほどで、仮眠を含め休憩はきちんと取らせております。
彼は家に帰るのが面倒だということで、店の休憩室で寝泊りをしていたのです。
だから店内にいた時間が、一日20時間という数字になったのです。
従業員達は家に帰る時間も惜しむほどの、企業戦士なのです。 本当に、社長を尊敬し、会社を愛してくれています。」
嘘を散りばめた報告ではあったが、その中で社長を尊敬、と言われると波平もその表情を崩し、それを見た甚六は得意げに続けた。
「彼の死亡について報告いたしますと、死因は轢死。
経緯につきましては、強姦事件を起こし、警察に追われ、抵抗しながらの逃亡の末、海の手線にダイブし、外回り快速にはねられました」
波平は詢子を見、
「鹿目君、我が社のアルバイトから性犯罪者を出した事は甚だ遺憾ではあるが、これはどう考えても過労ではないだろう?
君は何を根拠に過労と発言したのか?」
厳しく詰問した。
「それは…労働時間と、体力、それに伴う精神状態を考慮し…」
「おい、従業員が過労と断定していない状況で、憶測でそんな事を言ったというのかね?」
歯切れが悪くなった詢子に、穴子のヤジが襲いかかった。
「憶測ではなく、緑ヶ丘店の従業員にも話をよく聞いた上で…」
「医師の診断書でもあるのかねえ!?」
穴子の怒鳴り声に、詢子は黙するしかなかった。
それに調子づいた穴子は、立ち上がり、
「恐れ多くも社長の前で、未確認の事項をあたかも確定事項のように報告するとは、役員の風上にも置けん奴だねえ、君は」
と、詢子が役員であることの資質そのものを問う声を上げた。
詢子は冷静に考え、今は緑ヶ丘店での異常な労働時間についてのみ意見をするべきであると踏み、
「とにかく、20時間という異常な拘束時間は法令で認めることが出来ませんので、却下願います」
と、締めくくろうとしたが、
「鹿目君は、法令遵守というものを履き違えているのでは無いのかね? 我が社は営利企業だよ?
法令で自らの行動を縛り付けることのみに腐心する君みたいな役員がいるから、
業界1位のヘブンイレブン、2位のローションをいつまでも超えることが出来ず、3位に甘んじているばかりか、
つい最近中卒の若造がお飾りの社長になったばかりの、宗教団体出資のサークル杏にまで追い上げられているんだ。
当社に勤めているという自負があるなら、法律に縛られるのではなく、法律解釈を利用して、いくら儲けられるか考えるべきではないのかね?
君は当社の利益を法律で削り、経営を圧迫して楽しいのかね?
そんな風で、どの面を下げて当社から役員報酬をかっさらっているのかね?」
たたみかけ、圧殺するように穴子が言う言葉に、他の役員達からチラホラと拍手が上がり、詢子は更に追い詰められた。
「コラ、穴子君、言い過ぎではないか?
毎日法律屋にあれこれ言われて気をもんでいる鹿目君の気持ちも考えんか!」
波平が威厳をたたえて叱りつけるも、穴子は、
「法律屋風情にいいように扱われている鹿目君がいけないのです。
我々は、当社に忠誠を誓い、日夜無駄のない経営を、多くの利益をと、汗を流しているのに、
それを法律屋の言う事を鵜呑みにする鹿目君に、無駄にされ続けているのです。
私は社員たち、ひいてはパート、アルバイトに到るまで、全従業員を代表し、申し上げているのです」
しゃあしゃあと言った。
「いやあ、鹿目君はよくやってくれていると思うけどなあ…女性にしては、有能だしねぇ」
鱒雄が、女性にしては、というところに、ことさらにアクセントをおいてそうおだてると、勝雄が、
「今は女性がとか、そういう事は問題じゃないよ。 今は会社をどう儲けさせ、盛り上げていくかが最重要事項だ。
それを踏まえた上で、採決を取ろうじゃないか」
言外に詢子を批判し、穴子に賛成して採決を強行しようとしている。
つまりは詢子に賛成しないように、と言っているのである。
詢子は、流れるような批判と、採決までの運び方を観察し、事前に役員達が示し合わせているのかも知れないと思った。
そして今朝、久兵衛が役員室フロアにいた事を思い出して、苦虫を噛み潰したような思いがしたのであった。
「ぶっ続け」が採択されるのを阻止できず、役員会後も仕事に追われ、深夜、詢子はクタクタに打ちひしがれて帰宅した。
「ママ、おかえりなさい」
出迎えてくれたのは中学3年生になった、娘のまどかだった。
「ただいま、まどか。 パパは?」
「今、タツヤを寝かしつけているよ」
「そうか」
リビングに上がると、まどかがウィスキーを持ってき、グラスにロックで注いでくれた。
「ありがとう、まどか。 今日は遅いからもう寝な」
「ううん、ちょっとママとお話ししていたいな…」
詢子は、そうかい、と言って、ウィスキーを一口、胃袋に流し込み、言った。
「何か、悩み事でもあるのか?」
まどかは俯いて、うん、と、切り出した。
「うん、進路のことなんだけど…」
「進路?」
詢子は、そういえば娘も、そういう事で悩む歳なのだな、と、しみじみ感じていた。
そしてこの時、漸く会社役員から母である自分に戻ることが出来たような気がし、その心中で彼女はまどかに深く感謝をした。
「…私ね、高校進学…どうしようかな、って、考えているの…
私…得意なことも、自慢できることも、なりたいものも、何もなくて…
だから、高校に行っても、なんとなく過ごして…終わりなのかなって…」
「まどかはさ、本当になりたいもの、無いのか?」
詢子がそう言ってまたグラスに口を付けると、まどかはグラスをカウンターに戻す音を確認してから、
「本当は、ママみたいにかっこ良くなりたかったんだけど…でも、どんなに頑張っても無理で…」
そう言いながら、まどかは2年の時、クラスに転校してきた暁美ほむらの事を考えていた。
最初は弱々しかった彼女は、努力を重ね、まどかを追い越し、どんどんかっこ良くなっていったのだった。
だが、ほむらはまどかの家に遊びに来た日を境に登校拒否になり、
3年生になってクラスが変わってからはまた登校するようになったのか、学校で見かけるようになったが、
まどかと仲良くなったときの明るさはどこへやら、こそこそしてまるで別人のようになっていた。
そしてまどかが話しかけようとすると、決まって逃げた。
何も知らないまどかは、自分があの日、ほむらに何か酷い事をしてしまったのではないかと、気に病んでいたのだった。
「…ごめんね、ママ。 私本当、ダメな娘だね。 ママの娘として、失格だよね…」
詢子は話しながら泣き出したまどかの頭を優しくなで、
「別に仕事ばかりが人生じゃないぞ」
そう言いながら、頭の中に今日の役員会の事がフラッシュバックし、
「ぶっ続け」を阻止できなかった自分は、まどかが言うようにかっこ良くなんてないのだと思った。
そして、まどかを会社組織という妖怪の巣に放り投げることはしたくない、そうも思っていた。
そして意を決し、まどかを抱き寄せ、
「じゃあ、お嫁さんになったらいいじゃないか。
中学校卒業したら、パパと一緒に花嫁修業して、誰よりも素敵なお嫁さんになれるように、頑張れ。
そうしたら、何年後かにあたしが、うんと素敵な男を連れてきてやるよ。
今は女も働く時代だから、逆にしっかりしたお嫁さんは貴重だぞ」
そう言って、心から娘の幸せを祈った。
「ママ…ママぁ…」
まどかは、母の胸に泣きつき、溢れる感情をぶちまいた。
そして疲れて眠るまで、泣き止まなかった。
季節がめぐり、その年の、冬の足音が聞こえてきた頃、詢子はとある料亭でサークル杏の専務取締役、野比のび助と会っていた。
「お忙しいところ、足をお運びいただき、誠に恐縮です」
「どうも」
野比は、茫洋とした表情の中にも、ライバル企業の役員と会っているという緊張感を漲らせた眼で、詢子を見据えた。
「で、今日は一体なんの用です?」
同業他社の幹部同士が密会しているなど、あらぬ疑いを掛けられる恐れがあるため、会談を手早く切り上げたいのだろう。
野比はすぐに本題をと言外に含め、詢子を急かした。
「実はおたくに、見滝原市へ進出してもらいたいのです」
要望をダイレクトに、詢子は伝えた。
それを聞いた野比の眼が、驚愕に見開かれた。
「そんな無茶な話があるかい、君らのお膝元じゃないか!?」
野比は会談を打ち切ろうという雰囲気を見せたが、詢子はそれを引き止めるように、
グリーフシード、ぶっ続け雇用などの情報を包み隠さず、知っている限り話した。
聞いている野比の表情が、変化してくるのを感じながら。
詢子には、サークル杏なら動いてくれるという、確信があった。
サークル杏は、見滝原市の隣、下部暮市にあるキリスト教系の教会が分派して出来た新興宗教団体、
「さくら会」が出資して誕生したコンビニチェーンである。
厳格な教えがバックボーンにある企業体系であるため、企業倫理に反することはしない上、
発足当時から会社に籍を置き、この春、商業高校を中退し、社長に就任した佐倉杏子は、
曲がったことが嫌いで、なおかつ好戦的な性格であるとの情報を詢子は得ていた。
そのため、ぶっ続けや、グリーフシードなどのおぞましい雇用実態を教えてやれば、
彼女なら見滝原市に進出し、自らの正義を示しに来るだろう踏んだのである。
しかしその際、会社の疲弊をおそれ、杏子を抑えようとするであろう人物が、慎重派であるこの野比であった。
「…君はそう言うけどね、我が社だって余裕があるわけじゃないんだよ。
もちろん佐倉にこのことを話せば、彼女のことだ、ぶっ潰す、とか息巻いて進出したがるだろうね。
だがね、信者数が多い宗教が母体になっているからと言って、その企業が磐石だと考えるのは間違いだよ。
確かにさくら会は見滝原市にも支部があり、あそこの信者の数も1万を数えている。 しかしね、逆に考えてみてくれたまえ。
サークル杏は、その信者たちが好意で優先的に利用してくれるからこそ、何とか持っているコンビニチェーンなんだよ。
そして本当は、ビジネスと宗教とを分離し、彼らに頼らない企業組織を作りたいと思っているんだ。 それは佐倉の意志でもある。
今はその地盤を固めている段階であって、見滝原市なんて危ないところに進出するほどの余力はまだないのだよ」
野比は一息にそう言い、立ち上がろうとした。
ここで逃げられたら、もう絶望的だ…詢子はなりふり構わず、野比の袖を掴んで引き止めた。
野比は自らを見上げる詢子に、ハッとするような艶めかしさを感じ、その足を止めてしまった。
「お願いいたします。 このままではマミリーマートはダメになってしまいます。
何とか御社が見滝原市に進出し、健全な雇用体系を地域に示し、我が社が異常なのだということを知らしめて欲しいのです。
だからもう少しだけ、私の話を聞いてください」
詢子のそのなみなみならぬ様子に、野比はふう、と、溜息を吐き、
「ちょっと一服しようと思ってね、別に逃げようなんて思っていないよ」
そう言って、背広の内ポケットから煙草を取り出した。
「喫煙なら、話しながらで結構です」
詢子が灰皿を差し出すと、野比はやれやれ、と言って一本取り出し、料亭のマッチで火をつけ、旨そうに煙を吐いた。
「で、もう少し聞いて欲しいのはどんな内容だい?」
詢子は、サークル杏を進出させるための、最後の切札を脳内で反芻しながら、言った。
「企業としての下地を固めている最中なら、取っておきのご提案があります」
野比は、重大な内容である事を察したのか、早々に煙草を消し、身を乗り出した。
「いったい、どういう案だね?」
「業務提携、もしくは合併です。 そちらがよろしければ、すぐにでも、あるチェーンと合併の話を進める用意があります」
野比は、考え込んだ。 合併と言っても、適当な相手がいなければ、出来ない話である。
彼は、いくら考えてもその相手となる企業を、見つけ出すことが出来なかった。
「一体どこと合併するというのだね?
メガストップは巨大ショッピングセンターチェーンのネオングループだからこちらが吸収されかねないし、
デイリーウロブチ以下は規模が小さすぎて下地を固めるには役不足だよ?」
「もう一社、あるではないですか?」
「もう一社って、君…」
野比は、それだけはありえない話だと、思った。
詢子は続ける。
「クウカイと合併出来れば、コンビニチェーンとしての下地は充分ではありませんか?」
野比は、詢子の口からそれを聞いても、やはりありえない話だと思っていた。
「クウカイって、君ねえ、あそこは仏教系で、キリスト教系であるうちとは毛色が合わなすぎるとは思わないのかね?」
詢子はそれを聞いて、しめた、と思った。
「おかしいですね。 先程宗教とビジネスとは分離したいとおっしゃっていたのに、
合併相手先が仏教系と知るやいなや、毛色が合わない、ですか?」
野比はそれを聞いて、うっ、と、言葉を一瞬、詰まらせてから、
「そんな話、あちらさんが了承するわけが無いじゃないか!」
と、語気を荒げた。 詢子は様子が変わった野比を見て、もう少しだ、あと一押しだ、と思った。
まどかの姿が脳裏に浮かぶ。 自分の事を、カッコいいと言ってくれる娘の姿が。
詢子は思った。 腐った会社に勤めている自分は、カッコよくなんてないのだと。
そして、カッコよくなるには、娘に本当に胸を張れる母親になるには、
自らがおかしくなり始めている会社の分まで、間違った行いをすることによって、組織を正しく変えねばならないのだと。
詢子は、役員という、かろうじてそれが出来る立場に居た。
「クウカイの方は、ビジネスパートナーとして、サークル杏を求めていますよ。
後はあなた方次第です。 あなた方が、本当にビジネスと宗教とを分離して考えることが、出来るかが」
最後通牒を付きつけられ、野比は完全に沈黙した。
クウカイは、仏教の一派が出資して誕生したコンビニチェーンであったが、
最近の無宗派墓地や、自然葬の増加など、所謂寺離れによってその屋台骨が急速にぐらついていた。
弱体化したクウカイは、ヘブンイレブンやローション、ひいてはマミリーマートから虎視眈々と吸収合併の機会を伺われていたのである。
それ故、休暇と偽って詢子が京都に赴き、クウカイ本社を訪れたとき、
とうとう吸収合併の使者が来たかと、社長の弘法3世が泣きながら応じたのだった。
彼が求めたのはただ一つ――
新会社名及び店舗名に、「クウカイ」の名を残す、対等な関係による合併。
そして規模的に考えてそれはサークル杏相手しかありえなかったのであった。
「君は本当にやり手だねえ…しかし、これほどまでに他社に塩を送って、大丈夫なのかね?」
帰り際、野比はたった一時間ほどの会見で疲弊しきった自分を感じながら、しみじみと詢子にそう、尋ねた。
「今、見滝原市ではマミリーマートが独占状態で君臨しております。
そしてそれ故、異常が正常としてまかり通っている現状があります。
そこに御社が入っていただき、健全な競争が促進されるのであれば、必ずしも当社にしてもマイナスでは無いと、私は考えております」
「君はそう考えているだろうけどね、君の会社の他の役員がどう考えているか分かったもんじゃないだろう?
まあ、この話は社内で検討するから、少し返答に時間を要するけど、いいかい?」
「できるだけ急いで――早くしないと、クウカイが同業他社の餌食になってしまうので…
重ねて言っておきますが私の条件としては、見滝原市進出がなければ、合併話は無しにさせていただきますよ。
その際、クウカイは恐らくマミリーマートと…これをみすみす指を咥えて見過ごす手は、ありませんよね」
野比はコクリと頷き、彼の乗ったセンチュリーは、静かに、滑るように走りだして行った。
詢子は、動き出した――そう思いながら闇に溶けていくそのテール・ランプの赤を見送っていた。
今日はここまで。
次回は「第六章 労働少女」
第六章 労働少女
年が開けて冬が終わり、ある日、野比は社長室に直々に呼び出しを食らっていた。
ノックをし、「社長、野比です。 よろしいでしょうか?」と、尋ねると、「おう」という杏子の声がし、野比はドアを開けた。
「まあこっちに来いよ」
そう言った杏子はロッキーを咥えながら椅子にふんぞり返って、一枚の紙を眺めている。
野比が近づくと、
「食うかい?」
と、一袋分のロッキーを差し出されたが、野比は、いえ…と言ってそれを固辞した。
「お姉ちゃん、人と話す時くらい食べるの止めなよ!
…すみません、野比専務。 社長とはいえ、不躾な姉で…」
傍らに立っている社長秘書――杏子の妹が、姉の非礼を謝したが、野比はあまり気にしてはいなかった。
彼女は常に動き回っている杏子に振り回され、日に日にやつれていっており、
野比は杏子の非礼よりその妹の体調のほうが心配であった。
「野比。 本社の意見、要望のメールにこんなのがあったんだけどさあ、これどう思う?」
妹の忠告を無視し、杏子が差し出したメールを見、野比は背筋が凍りつくような寒気に襲われた。
それは匿名のメールで、去年、野比が詢子に聞いた見滝原市でのマミリーマートの雇用体系の概要を暴露し、
クリーンなサークル杏が進出してこの悪の会社を打ち破るべきだと書かれていた。
野比はそのメールの裏に詢子が動いていることをはっきりと感じ取った。
野比はあの後、杏子以外の役員を緊急招集し、見滝原市進出と、クウカイとの合併話を相談し、
その結果、詢子の接触はマミリーマートの罠であると判断し、
この一件を社長である杏子には伏せておくようにしようとの結論を得ていたのだった。
若くて猪突猛進型の杏子は、それなら進出だと言うに決まっているからである。 それは会社を危険に晒すことになるかも知れない。
杏子は有能であったが、多少無謀なところもあり、そのあたりをカバーするために、
こうして役員達が胃に穴の空くような思いで秘密会議を開き、杏子が道を誤らないようにサポートをしていたのである。
それはさくら会宗祖である杏子の父の要望でもあり、秘密会議には彼も同席していた。
杏子は去年、1年通った商業高校を中退していたが、それは1年で学科全過程を習得し、卒業させろといった時、
3年への飛び級しか認められないと学校側が突っぱねたのに彼女がぶち切れたからである。
若すぎる一方で杏子が天才的とも言える商才を持っていた事は、確かであった。
クウカイとの合併については彼女がどういう反応をするかはわからなかったし、
それを教えて反応を見、社長の器を確かめたいといった者もあったが、
詢子によって合併と見滝原市進出はセットであると釘を刺されたため、それはできないことだった。
このメールの意味するところは、待てど暮らせど反応のないのに業を煮やした詢子が、
からめ手で揺さぶってきたというところだろうと、野比は思った。
不幸だったのは、杏子の気まぐれかつ多方面に及ぶ行動力であった。
こんな危険なメールは普通、担当者が握りつぶすのが常であったが、
恐らく杏子が抜き打ちでメールチェックをした際に、見つけてしまったのだろう。
「こんなのはきっとデマでしょう」
ポーカーフェイスを作ってそう言った野比に、杏子は、
「根拠は?」
と、詰め寄ったが、野比も負けじと、
「あまたあるデマにいちいち根拠を求め続けていたら、人生が終わってしまいますよ」
と、軽く流すように応じた。 しかし杏子は、
「あたしのカンでは、コイツはデマじゃあないね」
と言い、またロッキーの包みを開けた。
野比は、彼女の有能さの原泉であるその動物的とも言えるカンを、この時ほど呪わしいと思ったことはなかった。
「それでは百歩譲ってデマではないとしましょう! ではどうするおつもりですか?
今当社がやらなければならない事は、サークル杏をコンビニエンスストアとして各地域に定着させることでしょう!
そのための商品開発、利便性の向上、課題は山積しております!
こんな情報に踊らされ、いちいち動いていたんじゃあ、たまらんのですよ、社長!」
野比は怒気を含めてそう叫び、杏子の執務机を両の平手でバン、と叩いた。
それを見た杏子はニヤリと口元を歪め、
「あんたさあ、分かりやすいんだよねえ…そんな態度じゃあ、コイツがデマじゃあないですって、言っているようなもんじゃないか」
その口がそう言葉を紡いだ時、野比はシマッタ、と思った。
「得体のしれないクスリによる20時間労働…マミリーマートのやり方は、このメールを見る限り最低だ。
そんな会社は、もうあたしらがぶっ潰しちゃうしか、無いよねえ」
野比は、マミリーマートにおびき出され、サークル杏が潰されてしまう結果を想像して、冷や汗が頬を撫でるのを感じていた。
「社長! 簡単にぶっ潰すとかいいますけどねえ、向こうとこちらじゃあ規模が違うんですよ!
一位がヘブンイレブン、二位がローション、三位がマミリーマート、そしてその後に、漸く当社です、そういう強さの順番なのですよ!
食物連鎖という言葉はご存知ですか? 学校で習いましたよね?」
「うるせえなあ、何が食物連鎖だ! 安っぽい悪役みたいな事言ってるんじゃねえぞ!」
杏子は野比の言葉を、鼻にもかけていない様子である。
しかし野比は持ち前の根気で、何とか杏子に分かってもらおうと必死である。
「もし見滝原に進出するなら、どこかと提携なりして、規模を…」
「そんな必要はないね。 悪はあたしらだけで叩く!」
せっかくの野比の提案を無視して杏子はそう言い、
「あたしはね、さくら会の支部があるところには、必ずサークル杏を建てたいんだよ。
そしていつか、さくら会より、サークル杏がある町のほうが、多くなる。
それが、あたしの野望さ。 つまり親父とは、ライバルってこった。
見滝原には約1万の信者がいるけど、サークル杏は一店舗だって有りはしないから、気になって夜も眠れなかったさ。
そんな時、このメールだろう? こりゃあ、神様があたしに行けって、言ってるんだよ、きっと」
と、腕を組み、ウンウンと自分で納得しながらそう言った。
野比は、このままでは最悪の結果しか待っていない…何とかクウカイと合併しなければ、と、思い、
社運が崖っぷちに立たされていることをいまさらながら痛感し、
詢子が接触してきたとき、すんなりと合併話を杏子にしていれば状況も違ったものになっていたかも知れない、
と、また胃が痛み出す程の後悔をも感じていた。
それから少ししたある日、久兵衛は見滝原店に来た新しいアルバイトに、一瞬で失望していた。
「え…本社の人ですか? 美樹さやかちゃんでーす! ヨロシクっ!」
自分が契約したわけではない。
とにかく働かせてくれと、新しく代わった店長に申し込んできたようで、
看板娘としてどうかとその店長から連絡があったので、久兵衛が様子を見に来たのだったが、このザマだった。 無駄足という奴である。
中卒で既に男と同棲をしている、彼はいつかビッグになる男だから、今はあたしが頑張って、彼をサポートする!
と、久兵衛が頼んでもいないのに馬鹿丸出しの自己紹介をし、
こんなクズが看板娘として使えるわけが無いじゃないか、と、彼をして思わしめた逸材であった。
「…どうでしょうか、久兵衛さん…私としては、看板娘を代わって欲しいんですけど…」
マミはそんな事を言っているが、認めるわけには行かなかった。
「あの娘は才能がないよ。 看板娘は、今まで通り君で行く。 いいね、マミ。」
マミは俯いて、そうですか…と、残念そうだった。
「前から不思議だったんだけど、君は一体、どうしてそんなに看板娘を辞めたがるんだい? わけがわからないよ」
久兵衛がそう聞くと、マミは顔を赤らめて更に俯き、
「それは、ええっと…」
と、歯切れが悪くなったので、久兵衛はむかついてその話題を切りやめた。
「まあとにかく、僕はこれで本社に戻るから、しっかり働いてくれよ」
「えっ…もう帰るんですか…?」
マミは泣きそうな顔になり、久兵衛はそれを見てまた勃起をした。
そういえば、一年前より大人びてきている感じがする。 久兵衛はその裏に、男の気配があるような気がし、気分が悪くなった。
看板娘に出来る人材は、マミの代わりはそうそう居るものではない。 新しく捜すのは、面倒なことだった。
「サークル杏が進出してくる気配があるのさ。 花沢不動産からそういう情報が入ってね。
だからそれに対していろいろ作戦を立てなきゃならなくてね、忙しいんだよ」
久兵衛が帰るとき、マミは店の外まで見送りに来た。
「また、寄ってくださいね。 美樹さんのお友達なんかで、看板娘になれそうな娘がいたら、久兵衛さんにお知らせしますから」
やはり何故だろうか、と、久兵衛は思った。
「君はやっぱりおかしいね。 そうまでして高待遇の看板娘を辞めたがるなんて、普通じゃないよ。
差し支えなかったら、理由を教えて欲しいものだね」
また同じ質問をしてしまった、と、久兵衛は思った。
そしてそれを聞いたマミはまた、俯いた。 堂々巡りである。
「その…看板娘は…好きな人が出来て、その人の…好みに合わせて…自分を変えちゃあいけないって、聞いたから…あの…」
やはり男か…久兵衛は、契約したばかりの頃の、マミのガキ臭い笑顔と、目の前の別人の様になった彼女とを脳内に見比べ、
裏切られたような複雑な心境に、吐き気を催す程気分を害した。
「そうか、君には好きな男ができたんだね。 分かった、僕の方でも君の代わりを探しておくよ」
このクソ忙しいのに、また稀少な清純派少女を探さなければならないとは――
久兵衛はそんな苦労も知らずに勝手を言うマミを恨めしく思い、
そして代わりの看板娘が見つかったら、その好きだという男の目の前で散々に犯してやろうと思った。
「その…わたし…あの…別に好きな人が居るとかじゃなくて…」
久兵衛は尚もグダグダと語り続けようとするマミを、ぶん殴りたい衝動に駆られた。
もじもじとしているその態度に不快なのか、なんなのかはわからなかったが、
とにかく腹の底で黒い炎が燃え上がり、胸を焦がしているようで、久兵衛は腹を切り裂いて胸の内を掻き回したくなった。
「あのねえ、マミ、僕は忙しいって言っているだろう? 君の私生活の話なんか、聞いている暇は無いんだよ!
分かったらとっとと仕事に戻ってくれるかな?」
久兵衛は一息にそう叫んで、歩き出した。
こんなにイラついたのは何年ぶりだろうか?
きっとサークル杏が進出してくる準備に忙しいせいだ。
開店したら、数カ月で潰してやろうと、久兵衛は思った。
久兵衛に怒鳴られ、マミは店に戻るなりトイレに駆け込んで、その個室の中で泣いた。
久兵衛がせっかく好意で自分を優遇してくれているというのに、どうしてあんなふうに言ってしまったのだろうか…?
恩を仇で返す行為だと、マミは狂おしいほどの後悔に責められた。
マミは既に両親と死別している。
保険金と、彼らが残した財産とがあったが、
両親の葬儀を取り仕切ってくれた遠い親戚が、自分たちが管理するからと、それらを持って行ってしまった。
そして中学3年の夏、彼らがマミのマンションを訪れ、言ったのは、
もうお金はないから、中学を卒業したら働け、と、その一言だった。
マミは両親から、彼女が高校を卒業するまでの蓄えはきちんとされていると聞いていたので、そんなはずは無いと思ったが、
金銭の管理を彼らに委ねてしまったのでどうすることも出来ない。
困ったマミは、その日から職業安定所に通い始めたが、なかなか思うような求人に巡りあえず、ある日その親戚に相談をした。
彼らは言ったのだった。
体を売れと。 お前ならいい値で売れるからと。
遅ればせながら、その時マミは気が付いたのだった、彼らは最初から売春をさせるつもりで自分の世話を焼いていたのだと。
マミは、嫌だ、と言い、また不毛な職探しを続けることになった。
それは出口のない迷路を、ひたすら歩き続けるような苦行だった。
そんな時、久兵衛に声を掛けられた。
彼は普通の仕事を与えてくれ、今は契約社員として、看板娘として、それなりに良い給料を貰っている。
久兵衛はマミにとって、体を売らねばならぬ状況から、救ってくれた恩人であった。
だけど最近、こうも思うのだった。
自分が恩人と慕う久兵衛にとって、自分は各店舗に一人以上、つまりあまたいる看板娘のうちのたった一人――。
そういう風にしか思われていないのではないか、と。
好きな男が居るわけでもない自分が、
そういう事を理由に看板娘を辞めたいなどと、久兵衛に申し出る必要性は、一体どこにあるというのだろうか――?
それ以上考えると、抜け出せない、厄介な所にハマり込んでしまうような気がし、マミは涙を拭ってトイレを出た。
「マミさん? 大丈夫ですか?」
まだ涙の痕跡が残っているのか、さやかはマミの顔を見ながら、そう聞いた。
「大丈夫よ。 美樹さん、それじゃあお掃除から教えてあげるわね」
始めての、年下の後輩――。
マミは、妹が出来たような気がし、嬉しくなると同時に、猛烈な責任感を抱いた。
「それにしても、あの久兵衛って奴、感じ悪いですよねえ…マミさん、あいつに意地悪されてないですか?」
「本社の人に、そんな事言っちゃあダメよ。 親元に嫌われたら、みんな迷惑しちゃうんだから」
自分で言ってしまった、親元に嫌われたら――という言葉が、冷たい感覚となってマミの胸に入り込んで、絞めつけた。
マミはそれを振りほどくように、精一杯の笑顔を作って、さやかに向けた。
その時思い浮かべたのは、さやかが感じ悪い、と言ったその顔だった。
それからしばらくし、ほむらは、ようやっと私服警官として、見滝原署に赴任したばかりであった。
陰ながらでもいいからまどかを守りたい、そのために警察官を志したほむらだったが、入ってみると警察学校は魑魅魍魎の巣窟だった。
男は陰茎でモノを考えている様なクズばっかりで、彼らに比して数が少ない婦警の候補生たちを、発情期の獣のように取り合っていた。
だからどんな醜い顔をした女子にも、必ず相手がいるという異常な世界であった。
私は安定した公務員であるところの警察官の結婚相手を見つけに来ました! と、誰はばかること無く公言するクズ婦警もいた。
それらを見るたびに、気持ちが折れそうになるほむらだったが、
外出の許可が降りるたびにまどかをストーキングし、何とか挫折せずに乗り切ったのだった。
まどかは、高校には行かず、家で花嫁修業をしているようだった。
それはほむらを安堵させた。 高校なんて行ってしまえば、すぐに男が出来、まどかの純潔が奪われてしまう恐れがあったからだ。
警察学校に拘束されて、ほとんど自由のなかったほむらは、それだけが心配のタネであった。
だから外出許可が降りると常に、まどかを監視に行っていたのである。
しかし晴れて巡査の階級を得、教育を兼ねた交番勤務も終え、拘束が無くなったほむらは、
家に帰ったらまどかをストーキングし放題であった。
「ああ、見ているだけで幸せよ…まどか…」
ほむらは見滝原署の性犯罪担当の刑事として迎えられ、今、深夜パトロールの最中である。
去年、凶暴化した性犯罪者が、警官に追われている最中に海の手線電車にはねられ、死亡する事件があったが、
今年に入り、また一件凶悪な変態による事件があったばかりで、警戒強化中であった。
まあ、言われたルートを巡回した後は、まどかの家に直行し、暗がりから彼女の部屋を監視しているのであったが。
自室のカーテンの隙間から見えるまどかは、裁縫をやっているようだった。
「ピンクの布地に、パッチワークを施して、テーブルクロスを作っているのね…かわいいわ、まどか。
ああ、そのテーブルクロス、出来上がったら私にくれないかしら…
え、いいって、ありがとう、まどか! 大好きよ! そのテーブルクロスを敷いて、一緒にお食事しましょう!」
電柱の陰に隠れ、一人でまどかと会話をしている気になっているほむらであった。
彼女は楽園追放事件の後、まどかと一言も会話をすること無く過ごしてきたのである。 これくらい病んでいて、当然であった。
その時、ほむらの内ポケットにある、携帯電話が着信を知らせた。
「…はい、暁美巡査です」
――暁美巡査か! 今どこにいる?
切羽詰った先輩刑事の声がする。 ほむらは事件だ、と、直感した。
去年の轢死事件と、今年に入っての事件、二つの事件は凶暴化した変態によるものという共通した特徴を持っており、
早くから関連性を疑う声が上がっていた。
しかし2例のみでは憶測の域を出ず、凶暴化は精神疾患の可能性も疑われ、関連性については一部の捜査員が主張しているに過ぎない。
だが彼らは、実際に凶暴化した変態を逮捕しようとした捜査員達は、その異常なまでの性欲や体力を間近に見、
凶暴化した変態を変態紳士と名づけ、殺処分しか無いと声高に主張していた。 そしてその主張は、何故かすんなりと通ったのであった。
「今は巡回ルートA-7ですが」
――見滝原水源公園に来てくれ! 今すぐだ!!
「了解しました! 現場に直行します!!」
プツ。
「――まどか、また来るわね」
ほむらは、名残り惜しむように暗がりの中に消えて行った。
公園に着くと、ほむらは無線機のスイッチを入れ、点検をした。
「えっと、こちらほむほむ、現着、どうぞ…だっけ」
――ほむほむ、こちらジーパン、そちらの感明よし、現在位置を知らせろ、どうぞ
「返信が来た! ええと、現在位置、水源公園、西入口、どうぞ」
――ほむほむ、こちらジーパン、目標は現在、ジャングルジムから、大噴水方向に向け、逃走中、回りこめるか?
ほむらは、入り口に掲げられていた公園の地図を見た。
「ジーパン、こちらほむほむ、可能です、大噴水に向かいます、おわり」
ほむらは、拳銃を構えて走りだした。
だがその時も、自分が銃を使うかも知れないなどとは、露程も思っていない彼女であった。
大噴水に到着したほむらは、ジャングルジム方向を監視できる茂みに隠れ、
「ジーパン、こちらほむほむ、大噴水に到着、どうぞ」
と、報告をすると、
――こちらジーパン、そこから、目標は確認できないか?
無線からの声とダブって、先輩刑事の肉声も闇の中から響いてきた。
「こちらほむほむ、確認出来ず」
――警戒せよ!
見失ったのだと、ほむらは思った。
恐る恐る拳銃を構え、ゆっくりと歩き出す。 音が聞こえるだけでなく、心臓の鼓動が、胸の内に感じ取れる。
のどが渇く。 何もしていないのに息が切れ始めた。
いつもなら、何気なく歩く夜道、その中に、暗くて全く見えない部分がいくつもあることを、いまさらに気がついた。
そのどこかに、目標が、一部の刑事から変態紳士と呼ばれ恐れられているものが、隠れているのかも知れない…。
自分が立てる足音が、もどかしい。
そしてそれ以外の音は、風の音や、公園の外をまばらに通る車の音、そして自分の立てる音にかき消され、聞こえない。
自分の居場所だけが、変態紳士に知られているような気さえする。
「暁美君」
ギクリと体中が収縮したような気がした。
振り返ると、ジーパンと呼ばれている先輩刑事だった。
「先輩…変態紳士は…?」
「見失った…だがまだそう、遠くへは行っていないはずだ。
二手に分かれてさがそう! 応援も呼んだ! 何かあったら無線で!」
「了解!」
ジーパン刑事は、足音をほとんど立てずに暗闇の中に消えていった。
ほむらは、また暗がりの中を独りで歩き出した。
虫の声、頬を撫でる夜風、自分の足音…知覚するすべてがそのどこかに恐怖を絡めている。
息が詰まりそうになって、溜息を吐く。
溜息にすべての音がかき消され、怖くなって周りを確認した。
そして、胸を押さえてまた歩き出す。
…わたしは…
自分の足音がする――道を外れてみる…
芝生――足音がしなくなる…
すると、足音がしないことが、今度は怖くなる。
道に戻る。 足音がする。
…私は…はです…
…! なにか聞こえた…?
振り返る。 何も見えない。 ぐるりと体を回転させて見回す。
暗い。 街灯に照らされた、その部分だけしか見えない。
心臓の鼓動が溢れ出し、そのリズムに体が急かされる。 呼吸もそれにつられるように、早く、激しくなっていく。
息苦しい焦りを断ち切るように、もう一度、大きく深呼吸して歩み出そうとしたその瞬間――
「私はほむほむ派です」
変態紳士――ほむらの思考は、完全に暗闇に飲まれていた。
ほむらは、もつれる足を何とか動かして、走っていた。
息が切れる、というより、体が呼吸を拒否しているかのようだった。
いつぞやの、腹パンを思い出していた。
そしてその時の、もうどうでも良い自分を。
あの時は、本当にどうでも良かった。 苦しくて、死ぬかも知れないな、位しか考えなかった、と、思う。
だが今は、怖い。 死ぬとか、そう言うのよりも、まず怖かった。
何故こんなに息を吸い込めないのだろうか?
何故体がこんなにも重たいのだろうか?
こんなに走ったんだ、もう、振り切っただろう――
――感触。 背中に何か触れた。
追いつかれている!?
もうダメだ、そう思ったとき、ほむらは足をもつれさせ、芝生の運動場にうつ伏せに倒れこんでいた。
「暁美君!!」
その声に振り返ると、暗闇の中に、かろうじてその輪郭を確認できる体の形が、変態紳士に体当たりをかけるのが見えた。
「先輩!!」
ほむらは、考える前にそう、声を上げていた。
目を凝らす、二つの体が、激しくぶつかり合っているのが見えたが、輪郭が闇に溶けて、何がどうなっているのか分からない。
「暁美君! コイツを撃て! 暁美くうううん!!」
「先輩!! 先輩!! 先輩!! せんぱあああああい!!」
助けなくては、と思う。 何かしようと、思う。
だけど何をしていいか分からない。 呼ぶことしか出来ない。
「あけみくん!! あけみくうううん!! あうあああ!!」
音がする。 何の音だか、分からない、考えたくない。
「うぎゃあああああああああああ!! なんじゃこりゃあああああああああああああ!!」
ジーパン刑事の、悲鳴。 最後の方は、うがいのような音だった。
ほむらは逃げた。 腰が抜けていたので、芋虫のように這いずりながら、逃げた。
まただ、息が切れる。 怖い。 もう嫌だ。 こんな仕事、辞める。
やめるから、許して…許して。 ごめんなさい。 ごめんなさい。
這いずりながら、ほむらは言葉の通じないだろう相手に、心のなかで謝り続けていた。
「あおっ…あお…っ」
ずいぶん向こうから、ジーパン刑事の断末魔が聞こえる。
ごめんなさい。 見捨てて、ごめんなさい。私、もう辞めます。 お給料もいらないから――だからおうちに帰してください。
先輩。 私帰ります。 怖いんです。 もういやだから――
「私はほむほむ派です」
「嫌あああああッ!! 怖いよおおおおおおっ!! 誰かあああああッ!!」
すぐ後ろに、気配が感じ取れる。
さっきまでは何も感じ取れなかったのに、何をやっても手遅れな今、それははっきりと感じ取れる。
恐怖が体中を覆っている。 ほむらはありったけ、喚いていた。
怖い。 なぜ怖いのか?
暗いからか、相手が見えないからか…
ほむらは、相手を、見ようと思った。 自分を殺した相手くらいは、見ておきたかった。
ほむらは訳のわからないことをわめきながら、何とか体を反転させた。
らんらんと輝く二つの眼。 体の芯を鋭く抜けていく恐怖。 そういえば腹パンの時、恐怖はなかった。
あの時は、絶望していたから。 そうだ、今は、希望があるから、怖いんだ。
「うわあああああああああん!! こわいよおおおおおおお!!」
希望があるから、怖いんだ。
「まどかあああああああああああああああっ!!」
ほむらは、自分の体の中の、すべてをぶちまけるように、希望を叫んだ。
指に、バネのきいた鉄の抵抗があった。
恐怖を押しこむようにそれを引くと、反動と共にすべての音が消え、聴覚が耳鳴りに飲みこまれた。
顔に、何かがべチャリとひっ付いた。
温かい…この人、生きていたんだな――と、ほむらは思った。
第七章 降格
その夜、久兵衛は花沢不動産社長宅を訪れ、応接間で勝雄と会談していた。
花沢不動産から連絡があったときは、既に遅かった。
新興宗教団体のさくら会見滝原支部が購入した3つの土地は、そのままコンビニの店舗用地として適当な立地と面積とを持っており、
それに気が付いた勝雄が久兵衛に連絡をしてきたのだった。
「磯野常務、これは失態ですよ。
もともと花沢不動産の仕事は、他のコンビニが入って来られないように、立地条件のいいところを押さえておくことなのですから。
これでは格安で3店舗分もの土地をサークル杏にくれてやったようなものじゃあないですか」
「済まない、久兵衛。 さくら会見滝原支部は何度も取引があったお得意様だったから、ついつい気が緩んでいた。
まさかサークル杏がさくら会に土地を買わせるとは思いも寄らなかったんだ…」
久兵衛はその言い訳を聞いて、役員である勝雄に、あからさまに聞こえるように舌打ちをした。
「謝罪の言葉なんて、要りませんね。 問題は、どう落とし前を付けるかということですよ。
さくら会は、この土地にどれほどの値がついたとしても、もう決して手放さないでしょうしね」
「済まない…っ!!」
土下座をしている勝雄の後頭部を見、久兵衛は踏みつけたい衝動にかられていた。
ぺこぺこと安っぽい頭だと思う。
サークル杏の奇襲、それを止められなかった馬鹿な役員。
イラつきが止まらない。
久兵衛はその中に、今日会ったマミの、もじもじとした表情を重ねてしまい、思わず応接間のテーブルを殴りつけてしまった。
ほむらが目を覚ますと、そこは病院のようだった。
「気が付いたか、暁美君」
その声は、ボスと呼ばれている上司の刑事だった。
「…私は…どうして…?」
「君は、変態紳士の駆除に成功したんだ。
応援のチームが現場に駆けつけたとき、変態紳士の死体と共に、君が気を失っているのを見つけてね。
ここまで運んできたというわけさ。 いや、本当によかった」
ほむらは、食物をゆっくりと咀嚼し、飲み込むように事情を了解していった。
そして昨日の記憶が、ゆっくりと形を取り戻していくのも、感じていた。
記憶の中に、真っ先に冷たく蘇ったのは、先輩刑事の叫び声だった。
「あの、先輩は…?」
ボスは、俯いて首を左右に振った。
沈黙が重い。 ほむらは自分の情け無さを反芻し、静かに涙を流した。
「私…なにも出来ませんでした…先輩が危ない時…怖くて…固まってました…私…私…」
ボスはほむらの肩に手を置き、
「誰も、君を責めたりはせん」
しっかりとした口調で、そう言った。
ほむらが黙していると、
「辞めたくなったか?」
ボスの声が、また聞こえた。
「いいえ」
考える前に、答えていた。
「続けさせてください」
言い終わって、脳裏に浮かんだのはまどかの顔だった。
ほむらはすぐに退院し、一日、休みを貰った。
これからもあんなふうに変態紳士と戦うのであれば、格闘中に外れてしまう危険性のあるメガネは不便であったので、
手術を予約し、それまでのつなぎにコンタクトレンズを買い、その後、街を散策することにした。
かようにしてこの世界のメガほむは、ほむほむへと変貌を遂げたのであった。
平日の街は人通りが少なく、代わりに仕事で走り回っている車が多かった。
忙しく動く街を、なにもすることがない身で眺めるのは、なにか変な気分を、そして見えない壁のような周囲との距離感を伴った。
しかし、周囲と自分との距離感は、昨夜の事を反芻するたびに強く形を持った実感としてほむらを襲った。
自分は昨夜、確かに人を殺した。
銃の反動が、生々しく体に残っている。 何度もやった射撃訓練の時のそれとは、全く別の重みを含んだ、全く同じ反動。
発砲したとき、後悔した気がする。
火薬の炎で、相手の顔が浮かび上がった気がする。
一瞬のことで、見たわけでは無いはずだが、何故かはっきりと想像ができる。
左目に当たって、何かが飛び散って、それから何発か、撃った気がする。
声も聞いた気がする。 言葉ではなく、声。
自分の手を見てみた。 そこに拳銃の重みと、冷たさが蘇ってくる。
昨日は確かめる余裕がなかったが、射撃の後、銃は熱くなる。 その熱さが、人を殺せるエネルギーだと思う。
ほむらは自分の体温でも、人は殺せるのかも知れないと思った。
ふと、周りを見ると、信号待ちをしている商用バンが目に入った。
中のドライバーは、ハンドルを叩いてイライラしているようだ。
昨夜人を撃ったクセに、ほむらは今、全く静かだった。 イライラしている人間が、羨ましくさえある。
どうしてこんなにも静かなのかと思うが、そう考えることさえ静寂を破る、いけない行為のような気がして、
結局心は夜のように沈んで動かなくなる。 足だけが進んでいる。
ふと、自分の顔は、今どんなだろう、と考える。
ひどい顔だと言うことは見なくてもわかるが、問題はなにがどう、酷いのかということだ。
見てみたくなった。
見たらあまりの酷さに絶望するかも知れないが、
怖いと分かっているホラー映画を見たくなるときのように、絶望だって、してみたくなることがある。
ブティックのショーウインドウを見てみた。 自分の輪郭が写っている。
しかし、のっぺりと影のようで、表情が確認できる、とまでは行かなかった。
自分がのっぺらぼうだと思うと少し安心し、表情が見えなかった事で少しがっかりした。
自分で見ることが出来ないのなら、今度は誰かに顔を見せたくなった。
「まあ、ひどい顔!」その声を聞いたら、安心するような気がした。
だけどすれ違う人々は、自分を気に留めなかった。
ひどい顔の自分に、昨夜、人を撃ったばかりの自分に、まるで気がつかない。
これじゃあ、未解決の事件が山ほどあるわけだと、ほむらは思った。
明日になれば、人を殺した実感も少し薄れるだろう。 顔もマシになるはずだ。
一週間も経てば、すっかり顔も元通りで、殺人者も周囲に溶けこんで、自分が人を殺したことすら忘れて、みんな元通りで。
でもそんな世の中は良くないと思う。
ほむらは自分の顔を晒すように歩き続けた。
これが殺人者の顔よ! よく見て! そんな風に。
赤信号で、止まった。 横断歩道の向こう側に居る、信号待ちの歩行者を見る。
7・8名といったところか、数えるのも面倒だった。
一人ずつ、見ていくと、不意にほむらの静寂が、破れた。 ザワザワと、体中が騒ぎ出した。
血が巡りながら、血管を擦るその音までも、聞こえるような気がした。
まどかが居た。 信号待ちの、歩行者の中に。
ほむらは、俯いた。 逃げようと思った。 だけど逃げなかった。
賭けをしようと、思った。 ひどい顔の私だ、メガネも外した。きっとまどかは、私と気がつかないだろう。
だからそれに賭けて、思い切ってすれ違ってしまえ!
ほむらはわくわくと躍り出しそうな心の内を、必死で押さえ、信号が変わるのを待ち続けた。
まどかが私と気がつかなかったら、安堵するだろうか、それとも――
ほむらは、絶望してみたい自分を、感じていた。
信号が、青になる。 まどかが歩き出すのが見える。
眼を合わせないように、視界の端にまどかを捉えながら、歩き出す。
うんと近くをすれ違ってやろうと思う。 まどかはきっと私に気がつかない。
気付かれずにすれ違うことが出来れば、まどかへの想いさえも吹っ切れそうな気がする。
仕事上の事とはいえ、人を殺した私は、もうまどかとは別の世界を生きているのだから、まどかを求めては、いけないのだ。
それを自分に刻み付けるために、すれ違って、気付かれずに絶望をする。
それでいい。
まどかが近づいてくる。 もう少し、あとちょっと――
「ほむら…ちゃん?」
顔を上げると、目が合った。 まどか。
「ほむらちゃんだよね…中学の時、一緒だった…」
ほむらは、動転した思考の収集をつけることを保留し、とにかく走りだしていた。
「ほむらちゃん! 待ってよ! どうして逃げるの!?」
そんな事を言いながら追いかけてくる気配は、ほむらの全力疾走にみるみる引き離されて、すぐに感じられなくなった。
後ろを振り返ったとき、まどかは既にいなかった。
せっかく話しかけてくれたのに、どうして逃げてしまったのだろう?
後悔が胸を圧迫し、息苦しいほどだ。
胸のつかえを吐き出すように溜息を吐くと、同時に涙も溢れた。
『君、もう家には来ないでくれるかな』という鹿目知久の声と、昨夜の拳銃の反動が交互にほむらを襲う。
もう、まどかとは会ってはいけないのだと、思う。
だけどこうして逃げるのは、良くないとも思う。
次、まどかに会う日があれば、もう会えない理由をちゃんと説明をしよう、ほむらはそう、決心をした。
だけど一方で、その日は永遠に来ないで欲しいとも、思ってしまうのだった。
「あなたは一体、何をやっているんですか!!」
野比は社長室に入るなり、両の拳を思い切り杏子の執務机に叩きつけた。
「何のことだい?」
杏子はしれっとしていたが、その傍らに立っている妹は、まるで自分が叱責されたように青ざめて縮こまっている。
野比は彼女を気にしながらも、煮えくり返っているハラワタを冷ます術を持たず、
「とぼけないで頂きたい!! さくら会見滝原支部に、店舗用地を3店舗分も買わせたのは、社長、あなたでしょう!!」
怒鳴った後、もう一度、執務机を殴りつけることに相成った。
杏子の妹は、殴られたのは自分であるかのようにギクリと体を硬直させ、震えながら充血した眼球を涙で濡らし始めている。
「ああ、そうさ。 それが?」
居直り強盗のような杏子の態度に呆れ返り、野比はそんな相手と話をしている自分自身さえ阿呆らしく感じ、大きくため息を吐いた。
落ち着いたというよりは冷めてしまっていたが、役員を代表して社長室に来ているからには、きちんと要件を果たさねばならない。
野比は重い唇を動かし、何とか杏子に質問をし始めた。
「…何故、我々に何の相談もなく、用地を購入させたのです?」
杏子は答えるのも面倒だ、という態度で溜息を吐き、
「あんたらに相談しても、あれこれ議論をするだけで、ちっとも前に進みやしない。
社長であるあたしが決めたんだから、会社はそのように動くしか無いだろう? だったらそんな議論させるだけ無駄じゃないか?
それに、これはマミリーマートに対する騙し討ちの奇襲作戦だ。
敵を欺くには、まず味方からってね!」
そう答えた後、八重歯を見せて笑い、得意げにドヤ顔を作った。
「もう、あなたにはついて行けない」
野比は、冷たく突き放すように言った。
杏子は腹心の部下の言葉に、心臓に冷水が掛けられたような寒気を感じたが、それを顔には出さず、
「なら、どうするって言うんだい? 辞表は受け取らないよ」
自分に決定権があるのが、当たり前だと言うように、サラリとそう言った。
「僕は、全役員を代表して、言ったのですよ?」
野比の顔には、憐れむような表情さえ浮かんでいるが、杏子は表情を変えずに、
「そんな事、今更言うまでもないだろう?」
ホワイトロリータを食いながら、しゃあしゃあとそう言ってのけた。
野比はその様子を見、物分りの悪い小学生を相手にした後のような、疲れきった溜息を吐いた。
「分からないのなら、教えて差し上げましょう。 明日、そして明後日、何がありますか?」
「役員会と、株主総会だ。 会社が見滝原市進出を公にする。 総会屋への根回しはいいんだろうな?」
野比は杏子の言葉に、やれやれ、と、オーバーアクションで肩をすくめ、諭すように語り始めた。
「予言をして差し上げましょう。 あなたは明日、役員会で見滝原市進出を提唱し、猛反発を食らい、却下されるでしょう。
そしてあなたは社長を下ろされ、社長室付という肩書きの、一介の中堅社員に成り下がるのです」
その言葉の衝撃を受け、さすがの杏子もポーカーフェイスを貫き通せなくなり、立ち上がって、
「てめえ、黙って聞いていればペラペラとデタラメを喋くりやがって、あんまりなめた口聞いてると、ただじゃ置かねえぞ!!」
と、凄味を効かせたが、野比は一歩も引かず、
「ですから、ただじゃ置かないのはあなたの方なんです」
と、冷静を絵に描いたように応じた。
杏子の妹は震えながらすすり上げ、潤んだ瞳からは涙が流れだしていた。
「おい! めそめそしてんじゃねえぞ!!」
怒り心頭の杏子が怒鳴りつけると、妹は緊張の糸が切れたように、ウェェン…と、声を上げて泣き出した。
「ぴいぴいうるせえぞ!! 便所にでも行ってやがれ!!」
妹が、しゃくり上げ、目をこすりながら社長室を出て行くと、杏子は流石に事の重大さが飲み込めたのか、
椅子に腰を落ち着け、追い詰められた表情になり、野比の方を見上げた。
「秘書に八つ当たりとは、感心しませんな」
話の流れとは関係の無い、余裕のようなものまで感じさせる野比のその言葉は、杏子を更に追い詰めた。
「そんな事はどうでもいいだろ。 教えてくれよ。 何が不満なんだ? あたしの方針が、間違っているはずはないだろう?」
逆転した立場を噛み締めながら、すがるように、聞いた。
野比は妹が退出した後の、急に弱々しくなった杏子の変化を見、
妹の前で叱責したのは間違いだったかも知れないという後悔に、我が身を絞めつけられた。
「何度も申し上げております通り、我が社には見滝原市に進出する余裕がありません。 出すとしても現状、1店舗が限界です。」
「1店舗じゃあ、勝負にならねえじゃねえか!」
「場所を精査すれば、1店舗でも充分です。
社長がこだわっているのは、購入した用地から見て私にも分かりますが、マミリーマートとの真っ向勝負でしょう?
マミリーマート本社近くの、見滝原店、緑が丘店、見滝原2号店に、ぶつける形で用地が購入されていますからね。
しかしこれは、無謀というものです。 3店舗をむざむざ潰しに行くようなものだ!
会社の現状から、行くなら真っ向からの競争を避け、郊外の住宅地もしくはさくら会支部付近に、1店舗。
これで様子見をしてから、徐々に拡充していくしかありません。
一気に3店舗など、予算的に無理があるうえ、あの位置取りじゃあマミリーマートも全力で潰しに掛かってくるのは眼に見えています。」
分かっている事であった。 しかし、と、杏子は思い、言った。
「しかしだな、これは正義の為の――」
「それが、最もよろしくない!」
杏子の言葉を遮り、野比が続ける。
「あなたがそう言い、行動に出るだろう事が分かりきっているから、
マミリーマートがそれを利用し、我々をおびき出し、弱体化させ、乗っ取ろうとしているのですよ!」
「マミリーマートが仕掛けてきた罠だって言う、根拠は!?」
杏子はどうせ根拠のない憶測だ、答えられる筈がない、と思って聞いたが、
「去年の秋、マミリーマートの幹部が私と接触し、社長が踊らされたメールと同じ内容の事を、伝えてきました。」
野比は、スラスラと答えた。 それは、あまりにも重い事実を、杏子に植えつけ、彼女を激高させた。
「どうして、それを今まであたしに伏せていたんだ!!」
「現にそれを知った今、あなたはマミリーマートに踊らされているでしょうが!!」
そう言い切った後で、野比は杏子が悔しさを表情に滲ませ、泣いている事に気がついた。
彼は立っているのも辛いほど杏子の涙に打たれたが、顔を背ける事はしなかった。
「マミリーマートの役員は、僕の心を動かすようにメールと同じ内容の事を話し、
クウカイとの合併を仲介する用意があるとちらつかせ、
進出しれくれないと合併話は無しにすると脅して、再三、進出を急かしました。
僕は正直、その時進出に意見が傾きかけましたよ。
だが、社に持ち帰って、戦略担当の骨川君に相談したところ、
マミリーマートはそのバックボーンである海川グループがその気になれば、
クウカイと合併した我が社をも、見滝原市進出で上手く弱体化させることが出来れば、吸収することが可能で、
それが出来れば業界2位のローションを難なく抜くことが出来る、恐らくそれが狙いだろうと、試算してくれた。」
言葉の合間に野比が見る杏子は、泣きながら、その姿勢が徐々に崩れていくようで、見るたびに彼の胸は抉られるような痛みを訴えてくる。
「相手の裏をかき、自らの利に変える。 商戦というのは、悲しいですが、そういうものなのです。
僕らは、社長の、そういう正義感のあるところが大変好きですが、実際、正義で社員に飯を食わせることは出来ないのですよ。
だから僕は、心を鬼にして、申し上げます」
杏子は、真っ赤に潤んだ瞳を、野比に向けた。
「あなたはまだ社長として、あまりにも未熟だ。
ですから進出の件は、役員会を開き、社長には伏せておくと、内々に決定していたのです。
どうしても、と、言うのなら、あなたを社長室付に降格し、1店舗だけ、新たに設置する権限を与えます。
その権限で、見滝原市進出を、ご自分の手だけで、やってごらんなさい」
杏子はスーツの袖で乱暴に涙を拭い、野比を睨みつけて、
「やってやろうじゃねえか! あんたらが土下座して、あたしに戻ってきてくれと頼みに来る日が待ち遠しいぜ!
あたしは必ず成功する! 必ずだ! 最後に愛と勇気が勝つストーリーってのは、そういうもんだからな!!」
はっきりと、宣言をした。
「あなたが進出するというのなら、接触してきたマミリーマート幹部への一応の義理立ては充分ですので、
そのマミリーマート幹部を通してクウカイとの合併話を進めますよ。 あそこの持っているサービスや自社ブランドは、魅力的ですからね。」
野比は当たり前のようにそう言って一礼し、社長室を出た。
鹿目潰しの為の乱交宴会を開いた料亭で、久兵衛とその手足である役員達が、緊急の会合を開いていた。
その議題は、もちろん――
「おかしいのは、何故この時期に、ヘブンイレブンやローションまでもが逡巡する見滝原市への進出を、
あの業界4位で、我が社に売り上げで大きく水を開けられている筈のサークル杏がやろうとしているかですよ」
久兵衛が発した、この言葉に集約される。
「確かに、不自然だねえ…そしてあの無謀極まりない用地の購入の仕方…まるで我が社に喧嘩を吹っかけているようだよ」
穴子が、訝し気に腕を組みながら言うと、
「正社員から、アルバイトに到るまで、さくら会からの採用を一切していないことに対する報復措置かな?
さくら会はサークル杏の母体だから企業スパイが入り込むことを懸念して、あそこと関係のある人は入社を遠慮してもらっているんだ」
甚六が反応した。 しかし、
「それなら同業他社のすべてがやっていることだから、わざわざウチだけに喧嘩を吹っ掛ける理由にはならないよ」
勝雄がその意見を打ち消すと、各員、ウーン、と黙りこみ、しばしの間、こもったような静寂が訪れた。
「…まあ、サークル杏については、今後その動き方をよく観察するとして、グリーフシードによる3例目の発狂者がでたそうだね」
久兵衛が話題を変えると、すかさず甚六が、
「見滝原2号店の、18歳のアルバイト店員だ。 天下りのパイプを使って警察にお願いをしたら、すぐに駆除してくれたよ。
我が社と警察とのお付き合いはかなり良好になってきていて、
今度我が社から、夜勤の警官に夜食を配達するシステムを考案し、それによって消費期限切れの弁当をスムーズに廃棄しながら、
警察との付き合いを更に良好なものにして行こうというつもりさ。
だから警察沙汰については、各員心配は無用だよ」
警察官が一名殉職したことなど知らせる価値もないと踏んで省略し、得意げに報告をした。
「いやあー、心強い限りだねえ。 援交もやりたい放題じゃないか!」
鱒雄が満足そうに、満面の笑みで頷きながらそう言ったが、久兵衛は何かが引っかかっているような気がしていた。
「もしかしたら、グリーフシードによるぶっ続けをサークル杏が知ってしまったのかも知れないねぇ…
あそこは企業倫理にかーなり厳しいからねぇ…そうなら、ああやって喧嘩を吹っ掛けるように進出してくるのも頷けるんだが…」
憶測でしか無い穴子のその言葉の中の、
「企業倫理」という言葉が、奥歯の間に挟まったような久兵衛の引っかかりを、瞬時に氷解せしめたような気がした。
「企業倫理といえば、鹿目常務ですよねえ…」
一同が、はっとしたように顔を見合わせた。
冷たい沈黙が通り過ぎる。
「…まさかあ、いくら鹿目君でも、そんな事は…」
鱒雄が引きつった顔で笑い飛ばそうとしたが、
「いや、鹿目君ははっきりとぶっ続けを止めさせようという意思に満ち溢れているじゃないか。
現に今も、定期的に役員会で文句を付け続けている。
サークル杏を我々にけしかけ、あそこが馬鹿みたいに法令遵守しているのを見せつけ、
それを役員会でのぶっ続け批判のタネにしようと踏んでいるんじゃないのかねえ」
穴子は、もう詢子がサークル杏を利用していると決めつけているようだ。
「鹿目常務は相変わらず邪魔ですが、確証が持てない今の状態ではいたずらにそう決めつけて動くわけには行きませんね。
彼女と、サークル杏については引き続き監視を継続するということでよろしいですか?
この件に関しては、僕も動いてみますので」
久兵衛がそう締めくくると、
「それじゃあ僕は、鹿目君の周囲を探ってみるよ」
と、鱒雄が、
「僕はさくら会からサークル杏について」
と、勝雄が、
「それじゃあ僕は、天下りのパイプから、警察や政界、官僚たちを通して、業界全体の動きを探ってみるよ」
と、甚六が、それぞれ引き受け、サークル杏や詢子の動きを注視することと相成った。
「穴子専務はこの件、どうします?」
久兵衛が問いかけると、穴子は申し訳なさそうに、
「みんな済まないが、僕の方はちょっと退っ引きならない仕事があってねぇ…コイツに全力を傾注しなければならない。
力になれなくて、本当に、済まないねぇ…」
と、謝したのに反応し、
「それでは、その仕事の内容というのだけ、教えては貰えないでしょうか?」
久兵衛がすかさず問うた。
「社長命令でね、あのクウカイをいつまでもごねさせてないで、
とっとと吸収できる段取りをつけろということで、坊主達を脅しに京都に行かねばならないのだよ。
社長は海川グループ発足当初に、ローションの母体である財閥系商社の六ツ菱商事にずいぶん虐められたことをまだ根に持っていてね、
ローションを抜くことが我が社の至上命題だとうるさいんだよ。 そのためにはクウカイを吸収しちまうのが、一番手っ取り早いんだ」
「そうでしたか…成果の方を、期待しております」
「ああ、久兵衛君も、期待しているよ」
この日は真面目な会合であったので、乱交は抜きで解散となった。
この夜も、鹿目家付近の電柱の陰に、暁美ほむらの姿があった。
「あ、お義母さんが帰ってきたわ。 今日も遅くまで、お勤めお疲れ様です」
ほむらは小声でそう言って、自分に気がついていない鹿目詢子にペコリと頭を下げた。
扉を開けて詢子を出迎えたのはタツヤを抱いた知久と、エプロン姿のまどかであった。
温かい家族の風景が、ほむらには眩しかった。 彼女は既に、孤独の身であったからである。
「まどか…」
まどかが最後に扉を閉め、後はほむらを独り残して、温かい家族の団欒が家の中で始まったようだった。
今日、まどかに話しかけられた。 彼女は自分の事を認識し、同じ世界の住人として、コミュニケーションを取ろうとしたのである。
それは彼女が、同じ世界のものであることを、触れることさえ出来る存在であるということを、ほむらに再認識させた。
その事実は、今までまどかを絶ってきたほむらの忍耐を、その継続の末に構築された壁のようなものを、一挙に瓦解せしめた。
そしてそれらの事実を了解したほむらは、強烈にまどかを欲しはじめたのであった。
しかし、壁を構築してから経た歳月そのものが、その残骸の先に茫漠たる未開の荒野を形成しているようで、
そこに歩み出すことの叶わぬほむらは、ただただ、電柱の陰で忍び泣く意外に自らの行動の可能性を見いだせなかったのである。
昨日までは、見ているだけで幸せであったのが、この先ずっと、見ているだけしか出来ぬことの絶望と、戦わねばならなくなった。
しかしほむらは、逃げることが出来なかった。 戦い続けるしか、方策がなかった。
あの時、賭けた。
まどかに気付かれなかったら、絶望して終りにしようと。 そしてその賭けは裏目に出た。
ほむらは意に沿わず生じた希望に縛り付けられ、次の日もその次の日も、来る日も来る日も、
まどかとの間に広がった距離を噛み締めながら、涙を流す因果を背負ったのであった。
次の日、新社長就任を明日に控えた野比は、再び詢子と会合を開いていた。
「我々はあなたを完全に信用するまでには至らなかった。 それ故、進出は1店舗が限度でした。
我が社の現状と重ね、どうか理解していただきたい」
「いえ、動いて頂けただけでも、ありがたい事だと思っております」
詢子はそう言ったが、当初の案とはかけ離れすぎたサークル杏のアクションに、内心忸怩たる思いであった。
購入された店舗用地は3店舗分。 しかし現実に建つのは1店舗で、杏子は社長の座から引きずり降ろされるという。
野比と彼女との間にゴタゴタがあったのは確かだろう。
そして現実、サークル杏は1店舗を切り捨てることによって、クウカイとの提携という、最大の旨味を得ることが出来る決定を行った。
その立役者たるこの野比という男は、まさしく商売人であった。
しかもその必ず潰されるであろう1店舗は、杏子が自らの責任において設置運用するという。
それはつまり、最悪の場合であるが、見滝原進出失敗の責めを杏子に負わせ、正義感のある彼女を会社組織から追放し、
宗教色の薄くなったサークル杏の企業倫理観がマミリーマートのそれに近いものになるのではないかという懸念が払拭できないのである。
詢子は、してやられたかな、と思った。
「この3つのいずれかの場所に、1店舗のみということでしたが、それでは我が社におけるほぼ最良の店舗群との競争にさらされ、
失礼ですが半年も持たないかも知れませんが、その後はどう言った見滝原市での戦略を持っているのかお教え願います」
詢子は問うたが、
「我が社の戦略を、同業他社の役員であるあなたに言う義理まではないでしょう」
予想通りの返答であった。
詢子は、クウカイ社長の、サークル杏への親書を渡すことをはっきりとためらっていた。
これでは、利用されただけではないのか――
「あなたの倫理観溢れる行動に敬意を表して、一つだけお教えしましょう」
野比の言葉に、詢子はすべての知覚を集中させるように、体中のセンサーを瞬時に彼の方に向けた。
「これから先の戦略、それは僕にも分からないのです」
集中が拡散し、眩暈のように疑問がのしかかって来る。
この男は、何を言っているのか――?
「負けを知った後、当社の佐倉は、再進出か、それとも諦めると言うか…あなたなら、どちらだと思いますか?」
詢子の胸に、希望の温かみが流れこむようだった。
「私は――」
しかしそれを遮って、野比が放った言葉。
「彼女は、負けを一度も知らない人間だ。 手痛い敗北を喫したら、もう立ち直れないかも知れない。
商売人としての側面を成長させすぎ、正義を忘れてしまうかも知れない。
僕にも、こればかりは読めんのですよ。
だけどね、僕は、彼女が負けを知って成長した後、もう一度社長をやってもらおうと思っている。
僕は、自分が社長の器ではないという事は、よくわきまえているつもりだからね」
詢子は、杏子に会ったことがあるわけでは、無かった。 だが――
「私は、御社の佐倉氏を、信じます。 必ず再進出してくれるものと、確信しております。」
詢子は、その思いを託すように、弘法3世からの親書を野比に手渡した。
「何度も言いますが、それはどうか、わからないですよ」
野比の顔から、緊張がほぐれた。 初めて見る表情だと、詢子は思った。
季節が巡り、冷たい風が吹きすさぶようになっていた。
杏子は降格して社長室付となり、数名の部下とともに新店舗設置予定の見滝原と、本社のある下部暮とを往復する日々を過ごしていた。
「社長、クウカイが合併に合意したそうです。 来年度の下半期から新会社サークル杏クウカイが立ち上がります」
杏子の下に配属された若い社員が驚喜して、長らく使われていなかった小会議室にある、彼女の平社員用のスチール製執務机の前で報告した。
「あのなあ…」
「なんでしょう、社長」
「あたし、もう社長じゃあねえんだけど…」
若い社員はうっ、と一瞬固まったが、すぐに勢いを盛り返し、
「社長は社長です! だいたい何ですか、社長室付って? 言いづらいんですよねえ…!
サークル杏の社長は、あなたを置いて他にはいませんよ!!」
さくら会宗祖の娘である杏子は、そのカリスマ性で社員たちから絶大な支持を得ており、未だに彼女を社長と呼ぶ者が後を絶たなかった。
「…じゃあ社長でいいや!」
「その意気です!」
「お前、今日から社長代理な」
「え?」
杏子は立ち上がり、社長代理を命ぜられ、唖然としている平社員を一瞥し、
「あたしは見滝原へ行く! 留守はあんたに任せるからな! 秘書を呼べ!」
命じた。
「い…いや、あの…これからクウカイの役員が本社を訪れ、合併に伴う諸々の調整の為、会議が開かれるのですが…
オブザーバーとして出席したほうがよろしいのでは…?」
「おう、そうか。 社長代理、出席の方をよろしく頼むな。 帰ったら目を通すから概要を報告書にまとめておけ」
「いや…その…あの…私は平社員ですから…役員会議は…そのう…」
「あたしだって社長室付とか言う、あって無いような身分なんだ! その代わりが平社員だろうがなんだろうが関係ないだろ!
それに今のあたしの仕事は見滝原に店舗を作ることだけだ! 分かったら秘書を呼べ!」
「は…はいい!」
期せずして社長代理になってしまった平社員が出ていった後、少しして杏子の妹が入ってきた。
「なあに…お姉ちゃん…?」
「見滝原に行く。 ゲルトルートホテルを、一週間予約してくれ」
妹は、少し咳き込んだ後、
「分かりました…」
弱々しく言った後、出て行こうとしたのを、杏子が呼び止め、
「そうだ、現地の社員たちに激を飛ばすための、スピーチの草稿を作ったから、チェックしておいてくれ。
そんで店舗の建設を視察した後、さくら会でも少し仕事をしよう。 りんご園も見に行きたいから、時間をやりくりしとかないとな。
現地の奴らと調整し、明日までにそれらのスケジュールを組んでおいてくれよな」
「…分かりました…」
妹がふらふらと部屋を出た後、杏子は出張の準備に取り掛かった。
杏子は降格されてからも衰えを見せるどころか、更にワンマンぶりを遺憾なく発揮するようになり、毎日がこの調子であった。
続き
杏子「あたしの恋はベリーハード」【後編】