『プロローグ』
校内が受験ムードに包まれた高校三年生の冬、
俺と言えばあいつらの協力助力のおかげで早々と推薦による大学進学の権利を獲得し、
惰性にまみれた日々を謳歌していた。はずだったのだが、
やれやれ我らが団長様はこんな時期でもその活動を自重するつもりはないらしい。
「SOS団に休止の二文字はないのよ!」
と、いう鶴の一声により、通常勉強に活用されるはずの冬休みは
鶴屋家その他で行われたイベントでその全てを埋められたのである。
まぁ俺は別に構わなかったのだが、国立進学を目指す古泉は少し辛そうだったな。
もっともハルヒも少しは成長したのか、
あるいは同様の境遇にある自分のためか、
不思議探索と称した図書館における勉強会も何度か行われたことを付け加えておく。
長門? あいつなら毎日不思議探索があっても東大に受かるだろうよ。
元スレ
キョン「似合ってるぞ」
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1264171755/
さてそんな冬休みが明けたが、我々三年生はいわゆる自由登校期間に入っている。
もはや受験する必要がない俺は、ハルヒに呼び出されでもしない限り自宅にいてもいいのだが、
悲しいかな人間の習性というものが毎朝俺を学校に導くのである。
つまり、2月も10日余りを過ぎた現在、俺は無駄に学校に来て部室で暇を持て余しているということだ。
「長い前フリでしたね」
問題を解き終えたらしい古泉が相変わらずの微笑を浮かべて言った。
うるさいな、お前は勉強していればいいんだよ。
「キリもいいので休憩しよう思いまして」
「そうかい。それでどうなんだよ、勉強状況の方は。受かりそうなのか?」
「えぇ、おかげさまで。最近は閉鎖空間に駆り出されることもほぼありませんから」
と、言うかここ一年こいつからは閉鎖空間の話題を聞いた試しがない。
最後に聞いたのは佐々木一派とのイザコザの時だったかな。
これについては忘れられそうもない。いや、忘れるわけにはいかないんだ。
ちなみに今日ハルヒは滑り止めの私立を受けに行っているため、
ここには俺、長門、そして古泉の三人しかおらず、実に久しぶりの暇なのだった。
言うまでもないが、ハルヒが受けている滑り止めは
俺が進学する大学より2ランクほど上位の大学である。
神様ってやつはつくづく不公平で不平等だよ、まったく。
「あなただって、一般受験を狙えばもっと上位校に行けたでしょうに」
「それは買い被りってやつさ。俺は俺が凡人であるということをよく認識しているつもりだ」
ハルヒの力が働かない限りまず無理なことであり、
またハルヒがそんなことを望むはずがない。それはお前だってわかっているだろう。
そう言うと古泉はやれやれといわんばかりに肩をすくめた。
お前のその仕草もそろそろ飽きてきたところだよ。
「良いではないですか。変化が無いということは安定しているということです。
あなたが最も望んでいることだと思っていましたが」
「何の話をしているんだ、何の。それに安定を望んでいるのはお前ら機関だって一緒だろう」
「えぇ、ですから現在の我々は、すこぶる良好な状態にあるということです。しかし――」
そこで古泉は言葉を切った。続きはどうした、気になるじゃないか。
「涼宮さんの心情は、それほど穏やかではないだろうと思われます。
もちろんそれは、我々を取り巻く受験のプレッシャー以外で、という意味でね」
それは何だ――と野暮なことはもう言わない。俺だって少しは成長したのさ。
だいたいこう毎年何かしらの事件があれば、いくら俺といえど忘れたりはしない。
三度目の正直というやつだ。
そう、本日は2月13日である。この時期、世の男児は例外なくどこか落ち着きがないものであって、
あるいは女性たちは甘く淡い想いを物理的に届けるために画策しているのかもしれない。
まだるっこしいな。
つまりこういうことだ。
「2月14日は、バレンタインデー」
ここまで一度も口を開かなかった長門がここぞとばかりに俺の台詞をもって行きやがった。
聞いていたのか。
「そう」
「そうか」
ここで長門が再び視線をハードカバーに戻す前に、古泉が問い掛ける。
「今年も何か計画ないし企画しているのでしょうか。
僕たちとしましても、やはり気になるところなのですが」
確かにな。残念ながら期待せずにはいられない。こればっかりは重労働をさせられても文句は言わないさ。
それから、金策的な面でも事前情報がほしい。
しかし長門は少し思案した後、こう言った。
「秘密」
「……おやおや」
楽しそうだな、お前ら。
「ただ、ひとつだけ。今のところ涼宮ハルヒから何か言われているわけではない」
「つまり、お前個人としては何か考えているわけだな」
「……秘密」
長門はしまったといった表情を貼り付け悔しそうにしていて、
古泉はそれを見て慈しむような微笑を浮かべている。こいつらも随分表情豊かになったもんだよ。
――あぁ平和だ。本当にそう思った。
いや、思っていたんだ。世界は平和で、このまま何事もなく卒業までの日々は流れていく、と。
季節は冬、ある晴れた日のこと。どうやら俺は、少しばかり平和ボケしていたみたいだ。
夕方に差し掛かろうという頃、バタバタという足音が聞こえたかと思うと、
ドアが壊れるんじゃないかという勢いで開かれた。
もはや何も言うつもりはない。
「たっだいまみんなー!」
「おや、お早いお帰りで。いかがでしたか、試験の方は」
「楽勝よ楽勝! だいたいあたしが本命に落ちるはずないんだから、
滑り止めなんて受ける必要なかったのよ。有希、お茶もらえる?」
言うが早いか、いつの間にか長門は立ち上がり急須でお茶を注いでいた。
ついでに言えば、パイプ椅子に置かれている本もいつの間にか物理の教科書になっている。
こいつもハルヒの前では受験生らしくしているようだ。
「どうぞ」
「ありがと!」
どう見ても熱々のはずのお茶を相変わらず一気で飲み干し、
機材周りがさらに豊かになった団長席に座る。
この光景も見慣れたものだな。
いつ朝比奈さんから習ったのか、あるいは独学なのか知らないが、
長門の淹れるお茶は朝比奈さんが淹れてくれていたそれとほぼ同じ味をしていた。
ちなみに、彼女は卒業と同時に未来に帰るだろうと思っていたのだが、
今でもこの時間軸に留まっていて、時々部室に顔を見せにやって来る。
「私の役目はまだ終わっていませんから」
というのは去年卒業式の時に朝比奈さんが言っていた台詞だ。
よく考えれば当たり前のことなのだが、この時ばかりは俺も声を上げて喜んでしまったよ。
ある程度覚悟していたとはいえ、マイエンジェルがいなくなるのはやはり寂しいと思っていたからな。
話を戻そう。
団長席のハルヒは、去年コンピ部から譲り受けた(強奪じゃないぞ。もらってきたのは長門だしな)旧型のプリンターで何かを印刷している。
だいたいこういう時は俺たち、いや主に俺そして朝比奈さんが多大なる損害を被ることになるのだが、
今回はそういうわけではないらしい。
印刷された紙は一枚だけで、しかも俺たちに見せるでもなく鞄にしまいこんでしまった。
何だそれは。
「あんたにはっ……そのうちわかるわよ」
ハルヒは複雑そうな表情で後ろを向いてしまった。釈然としないが、ハルヒを理解しようと努めるのは
まったく無駄な作業であるとこの3年間でよくわかっているし、このまま捨て置くことにしておこう。
前を見るとニヤニヤしながら古泉がこっちを見ていた。何だよ、気持ち悪い。
「心外ですね。まぁ、あなたが気に病むことではないと思いますよ。それよりどうです、一局」
どういう意味かは知らんが、お前勉強しなくていいのかよ。休憩にしては少し長いんじゃないか。
「正直申しますと、もうあまりやることが無いんですよ。いえ、正確に言えば出来ない、と言ったほうがいいでしょうか。
僕だって緊張で気が高ぶってしまうこともある、そういうことですよ」
そんなもんかね。まぁハルヒでさえ昨日はいつも以上に落ち着きがなかったしな。
それじゃあ久しぶりに相手してやるよ。悪いがお前がどんな状況にあろうと手加減する気はないぞ。
「これは手厳しい。しかし今日は負けませんよ。そろそろ勝ち星を拾わないと、僕の借金が返済しきれない額になりそうですからね」
古泉の借金が一高校生には返済しきれない額に到達したのを見計らってか否か、
パタンという音が団活の終了を告げた。
もうそんな時間かと思い時計を見ると、なんと7時じゃないか。何故教員たちは見回りに来なかったのだろうか。
「じゃ、今日は解散!」
「それでは、また明日」
「また」
二人はさっさと帰っていった。去り際、古泉がチラリとこっちを見ていた気がするが何だろうね。
……俺も帰るか。そう思い上着に手をかけた瞬間である。
「キョン」
「何だ」
ハルヒが窓を見つめたまま俺を引き止めた。その表情はわからないが、声が少しハルヒらしくない。
なんというか、この言葉で「声」を形容するには適当ではない気もするが、「神妙な面持ち」といった感じだ。
不信に思い窓ガラスを鏡代わりに使ってみたが、反射するそれはハルヒの表情を映してはくれなかった。
「おい、どうしたんだよ」
しかしハルヒは振り向かない。外では風が金切り声を上げている。
数秒後、意を決したかのように――実際どうだったかは知らん――ハルヒがこっちを向いた。
喉下を変な音が通り抜ける。お前……何だよその顔は。
いつものように俺の言葉を無視して、ハルヒは鞄から封筒を取り出した。
何だこれは。
「日付が変わったら開けなさい」
「いや、だから」
「じゃあ帰るわよ」
やはり無視される俺の言葉を少しは労わってくれないか。これでも一年前までは結構色々苦労してたんだぜ。
もちろんあの三人には遠く及ばない程度だがな。
結局、帰宅途中ハルヒが口を開くことは一度もなかった。
だが微妙な雰囲気の中、俺といえば一年生の頃を思い出していたのさ。
そう、朝倉探索の帰り道も、ハルヒはこんな顔をしてたっけ。
あの時の問いに、今なら答えられるかもしれない、そう思っていた。
「キョンくんおかえりー、遅かったね」
「はいはい、ただいま。お前もそろそろ兄に抱きつくのをやめたらどうだ」
ついでにその呼び名もどうにかしてくれたら嬉しい。
「なんでー?」
「とにかく、部屋に行くから離れなさい」
この不毛なやり取りも何度繰り返しただろうか。とうとう岡部まで俺をキョンと呼び出したのは
三年生に進級してすぐのことである。もはや皮肉も出て気やしない。いや……恨むぞ、妹よ。
夕食を終えて風呂に入っていると、妹が今度は俺宛の電話を持ってやってきた。
ありがたいんだがノックくらいしなさい、それからもう少し恥じらいをだな。
「キョンくんお父さんみたーい」
随分と傷つくことを平然と言い捨てて妹は去っていった。俺のガラスのハートが砕け散ったらどうしてくれる、
もう俺を癒してくれていた朝比奈さんにはあまり会えないんだぞ。別に長門のお茶に不満があるわけじゃないが。
と、電話だ電話。
「もしもし」
しかしその返答はくつくつという笑い声だった。
「佐々木か」
「よくわかったね。妹さん共々元気そうで何よりだよ」
「あぁ、お前も元気そうで何よりだ。……久しぶりだな」
「うん、何せ明日で一年だからね。本当に久しぶりさ」
そうだな、明日がバレンタインデーなんだからちょうど1年ぶりということになる。
思えば早い1年だったな、あまり事件らしい事件もなかったし。
「事件か……」
「……いや、すまん」
「気にすることはない。それにしてもキョン、君はこの1年で少しは成長したみたいだね。
女性に対する気遣いというものがわかってきたようだ。もっとも、
それをもっと自然にかつ不用意な発言をする前に自重できるようにならなければいけないがね」
わかってるって、俺だって精進しているつもりだよ。
「しかし、どうやら若干失敗してしまったようだ」
「何をだ?」
「何でもないさ」
そうかい。それより、こんな話をするために電話してきたわけではないだろう。
「ふむ。実は要件はついでで君と他愛もない話がしたかっただけなんだが、致し方ない。
では言おうか。明日の朝、配達業者が怠慢しなければという条件付きだが、君宛にある宅配便が届くだろう。
その中身が何か、ということについて、日付からしてある程度予測できるだろうが、期待してくれて構わない」
それだけだよ、という佐々木の言葉を残して電話は途切れた。
どうでもいいがこの電話が切れた後のツーツーという音はやけに寂しさを駆り立てると思うんだがどうだろう。
おかげで風呂にいるというのに名撫し難い切なさが心中を渦巻いている。
もちろんこの不愉快な音のせいだけじゃないがな。
1年前、か。
風呂から上がった俺を待ち受けていたのはまたしても電話だった。
しかも出来れば出たくない相手からの、である。
なぁ古泉よ、俺は深夜手前の男からの電話で喜ぶ趣味はないぞ。
「あなたの皮肉も慣れたものですよ。僕としましても、僕からの電話にあなたが
嬉々としてもらっては反応に困るのですがね。まぁそれはともかくとして、ひとつお聞きしたい事が」
もったいぶらずにさっさと言え。
「それでは単刀直入に申し上げます。ぶしつけな質問になりますが、『あの後』、
涼宮さんと何かあったのですか?」
『あの後』、つまり古泉と長門が帰った後の部室で、だろうな。
まぁあったともなかったとも言い難い。
「どういうことでしょうか」
「封筒を渡された。まだ内容は見てないがな。団長様の命令で、あと10分程しないと開けちゃならんそうだ」
それを聞いた古泉はしばらく押し黙ったままでいた。
どうした、まさか閉鎖空間が発生したとかいうんじゃないだろうな。
俺はともかくとして、この時期の古泉にそれは酷ってもんだぜ、ハルヒよ。
「いえ、まだそういうわけではありません」
「まだってことは、発生の兆しはあるってことだな」
「えぇ。ですが正直なところ、これは想定の範囲内の事ですからそれほど驚いていませんし、
機関としても対策は完璧ですから、僕が呼び出されることもないでしょう。ご心配ありがとうございます」
それはまぁいい。だが、それならお前は今何を考えていたんだ。
そしてなぜこれが想定の範囲内なんだ。
一昨年のハルヒは確かにメランコリックだったが、別に閉鎖空間を発生させたわけじゃなかったし、
去年の事を言えばハルヒのせいじゃない。
「それこそやぶさかってものですよ。ただ言わせて頂ければ、
あなたは高校卒業間際になっても女性の気持ちというものがわかっていないようですね」
随分な言い草だな、おい。さっき佐々木から全く逆のことを言われたばかりなんだが。
「佐々木さんから電話があったんですか?」
「あぁ。もっとも、これもお前の台詞を引用させてもらえば、想定の範囲内ってやつだがな」
「と、言うと」
「それに答えることは出来ん。秘密だ、秘密」
「なるほど、それもそうですね。これまたぶしつけな質問でした」
それもいいとして、話が脱線しすぎだろう。お前は黙りながら何を考えていたんだ?
閉鎖空間でなくとも、おそらくハルヒの事だろうが。
「その通りです。今回の件に関して、涼宮さんの意図が図りきれない、といったところでしょうか。
どうやら僕の推測していたものとは異なるようですので。そう、ズバリ言いますと封筒の内容です」
「そういうことか。そうだな、正直俺もまったくわからん」
もっとも、ハルヒの思考などこの3年間で一度も理解できなかったがな。
……と、もう0時を回ったようだ。開封しようと思うが、お前も知りたいか?
「好奇心を否定することはできませんが、これはあなたと涼宮さんの問題と言うべきでしょう。
僕が関わるべきではありませんね。万が一僕が必要な案件であれば、いつでもご連絡下さい」
それを最後に、古泉との電話は切れた。人のことは言えないが、あいつも実にまわりくどい。
知りたいなら知りたいと素直に言えば、別段隠すべきことでもなかろうに。
バレンタイン前夜という事を鑑るに、おそらく似たような内容が明日あたり古泉に伝えられるだろうからな。
どうせまた肉体労働さ。
しかしその内容は、そんな安易な俺の見解を粉微塵に砕いてくれた。
一昨年は穴掘り、去年は校内宝探し。
肉体的な仕事が二年続いたところで、今年は四六時中頭を悩ませるような謎々でも吹っかけてくるかと思っていたのだが、
まぁ間違ってはいないか。俺の頭を悩ませる内容には相違ない。
ただ、それは今となれば内心微笑ましいものだったとさえ思える前例を見事に裏切り、
決して肯定的な意味ではなく俺の頭をパンクさせるものだった。
『SOS団 団員その一 キョン
本日2月14日づけであなたを我がSOS団より除名します。
SOS団 終身名誉団長 涼宮ハルヒ』
『第一章』
深夜中当人含む4人に電話をかけ続けた結果、俺には朝を待ち学校に行くという選択肢しか残されていないことがよくわかった。
なぜなら、俺からの発信には四人が四人とも着信不能の音声で応えたからである。
ハルヒはともかくとして、その直前まで話していた古泉とも繋がらないなんていうのは異常事態としか思えん。
それゆえ、今日も俺はこの地獄坂をせっせと登っているのである。
徹夜明けの身体には堪えるが、頭はすっきりと冴えていた。SOS団への想いが睡眠欲を上回ったといわざるを得ない。
俺があの環境をどれだけ大切に思っているかなんて、もう今更確認する必要もないことだった。
例の消失事件、昨年初夏の事件、そして去年のバレンタインデーが、それを嫌というほど教えてくれたんだからな。
「よう、キョン。何だその顔は、まるで一晩中悩み事のせいで眠れませんでしたって言いたげなツラだぞ」
谷口か。俺の症状をピンポイントで言い当ててくるのは成長したと言ってやってもいいが、
生憎とお前に構っている時間は微塵もない。
バンッ、という音と共に開かれたのは元文芸部室の扉である。古泉は俺とハルヒの問題だと言っていたが、
一晩考えても解決策、いやその意図さえ理解できなかった凡人である俺は、
結局誰かに頼るしかないのさ。そしてこんな時真っ先に頼るべきは一人しかいない。
心苦しいし悔しいがな。
「長門!」
俺の存在に気付いた瞬間、長門はサッと何かを隠したように思えた。
何だそれは?
「何でもない。それよりあなたは、どうして」
「そうだった。これを見てくれ、長門」
俺は鞄から例の封筒を取り出し長門に手渡した。なぁ長門、これがどういうことかわかるか。
「涼宮ハルヒからあなたへの退団命令」
「そういうことじゃない」
はっきり言って俺には除名される理由が一欠片も思いつかん。
確かに事ある毎にあいつに対して小言を述べていたが、今更それがこう帰結するとはとても思えん。
「私には涼宮ハルヒの思考をトレースすることはできない」
「つまり?」
「わからない」
……そうか、そうだよな。いやすまん、そんな申し訳なさそうな顔する必要ないぞ。
だいたいハルヒを理解しようなんてのは初めから不可能なんだ。それが出来たら毎度毎度苦労することはなかっただろう。
「ただ、」
長門が何かを言いかけたところで、再びドアが開かれた。
何だお前か。朝っぱらからどうした。
「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ。本日はいつにも増してお早い登校で。どうかされましたか?」
「あぁ、実はな……」
「なるほど、そういうことでしたか。しかし……」
「お前にもわからんか」
「えぇ、申し訳ございません。もっとも、涼宮さんが本気でこんな事をされるとは思えませんから、
何らかの意図が含まれていると考えるのが相当かと思います」
何の超自然的能力を持たない一般人だ、卒業前に本当にクビにしてしまえと考えたのかも知れんぞ。
「それはありえませんね」
断言してくれるじゃないか。なぜだ?
「そうですね……あなたがここにいるのは偶然だとか、涼宮さんの気紛れだとか、そういうことではないからです。
あなたもまた、彼女に選ばれたからここにいるんですよ」
「どういうことだ?」
「2年前、あなたは朝比奈さんと共に過去の涼宮さんに会いに行きましたよね。
そして彼女にこう言った。『ジョン・スミス』と。ジョン・スミスの挙動に興味を示した当時の彼女は、
北高の制服とその偽名を頼りに探し続けましたが、とうとう見つからず探索を諦めた。
しかし彼女の想いが完全に失われたわけではなかったということは、例年の七夕の様子から明らかです」
わかっているさ、毎年バレないかヒヤヒヤしてたぜ。まぁ暗闇で顔は見えてなかったし、
入学してからのハルヒはSOS団に忙しくてそれどころじゃなかったんだろうけどな。
「そうですね、かつての涼宮さんを知っている身としては、現在その精神状態がいかに安定しているか
本当によくわかりますよ。さて話を続けます。燻っていた想いは、高校入学直前まで、
そして今も残されていると考えます。ズバリその想いとは」
ピンと前髪を指先で弾くお馴染みの仕草で一呼吸置いてから、古泉は続けた。
「『ジョン・スミス』に逢いたい。そして実のところその願いは果たされているのです。
無論、涼宮さんの意識上で実現しているわけではありませんがね」
「つまり、お前はハルヒがジョン・スミスに会いたいと願っていたから俺が北高に入学し、
SOS団に巻き込まれたと言いたいのか」
それは俺も考えたことがあるし、卵が先か鶏が先かという問題は残されているが、
一番辻褄の合う推理だと思っている。
しかしそれじゃ俺の問いに対する模範解答とは言えないな。
確かに最初ハルヒが俺を引っ張り込んだ説明はそれでつくかもしれんが、
これだけの期間俺がSOS団に残された理由の説明にはならん。
所詮俺は一般人に過ぎないということを、ハルヒはよくわかっているはずだ。
「いいえ、違いますよ。涼宮さんにとって、あなたは一般人としてのあなたですが、
深層心理においてはジョン・スミスでもある。つまり我々と同様、超自然的な属性を持つ存在なのです。
一般的・普遍的な高校生は過去に飛んだり、異次元空間に侵入したりしませんしね」
……まぁ、間違っていると切り捨てることも出来ないな。
お前はその理論に従って、俺がクビにはならないと断言できるんだな。
「そういうことです。もっともそれだけではありませんが」
「言ってみろ」
「それは、あなただってわかっているのでは?」
さて、何の事かわからんな。
――あぁ、そういえば忘れてた。実は昨夜この封筒を開けてからずっと
お前らに電話を掛け続けていたんだが、着信はなかったんだろうな、多分。
「えぇ、ありませんでしたよ。しかし……なるほど」
そう言った古泉は何やら長門に目配せし、珍しい事に長門もそれに応えるように頷いた。
最近ではその上下運動が1cmを越すようになってきたおかげで、俺以外の人達にも認識出来るレベルだ。
で、何かわかったのか?
「たいした事ではありません。相変わらず涼宮さんの意図するところはわかりかねます。
ただ、その封筒を開いて以来外部との連絡手段が途絶えたということは、涼宮さんは今回の件について、
あなた一人の力で解決してほしいと望んでいるのでしょう。誰にも頼ることなく、あなた一人で、ね」
そういうことなら納得もいくってもんだ。しかしハルヒは重大なことを忘れているな。
俺はあいつや古泉、長門ほど頭が切れるわけではなく、分析力に欠けるということだ。
「そうではありません。涼宮さんはあなたの能力ぐらいわかっていますよ。
それでも今回のような事態が生じたということは、これはあなた一人で解決できる問い掛けだということ、
そして、どうしてもあなた一人の力で解決してほしい、ということでしょうね。それに――」
何だ。
「今この瞬間、僕と長門さんに会えているということ。恐らくこれはあなたという人間を見越した上でのヒントなのでしょう。
多分、これ一回切りの、ね」
「……わかった、わかったよ。いや本当は初めからわかっていたんだ、そんな事は。
わざわざあいつがこんなやり方で俺を指定してきた、その時点でな」
そうだ、これはハルヒが無意識に行ったことじゃない。昨日の部室、いやそれ以前からあいつがずっと考えて、
考えてやったこと、言うなればハルヒ自身の意思により設定された問題だ。
だからこれは、必ず俺が解けるようになっているはずなんだ。
腐っても三年。涼宮ハルヒってのがどういう奴かくらい、わかっているつもりだからな。
「おっしゃる通りですね。僕たちが一緒に過ごしてきた時間は、
決して短いものでも薄いものでもありませんでした。
そして願わくば、これからもそんな時間が続いてほしいと僕は思っています。あなたはどうでしょう?」
愚問だな。そうでなけりゃ毎日足しげく部室に来たりしないぜ。
「その答えを信じていました。それでは、本件については全てあなたにお任せします。
また明日を共有できることを期待していますよ」
仕方ないな。行ってくるから、お前は勉強していていいぞ。
ここで、部室から出ようとする俺の袖に若干の付加がかかった。
「どうした、長門」
「私も」
ん?
「私も、期待している」
――あぁ、任せておけ。
大見得切った以上解決せねばならんが、正直まったくわからん。
何度も言うように俺はあくまで平々凡々な一般人であり、それ以上でも以下でもない。
現実を超越した事件に携わってこられたのは俺の力じゃないしな。
だが、逆に言えばハルヒが自分の意思で行ってきたことに対しては、
一定の解決策を提示することが出来ていたように思える。というか、
俺以外に誰もあいつの暴挙を止める奴がいなかったせいで、その辺りのスキルはかなり鍛えられているはずだ。
ちなみに、ハルヒが現在北高にいないという確認はとってある。
いるわけないと思ったが、灯台下暗しという言葉もあるし、一応な。それに去年の例もある。
「仕方ないな。おいハルヒよ、俺が出来る事は
人間の限界というものに収まる範囲内の事までなんだからな」
誰に言うわけでもなく呟く。
そう、人類は壁にぶち当たった時、いつも特定の方法をとり、
そこから新たな発想を生み出すことによって解決してきた。
すなわち過去に似たような事例がなかったか振り返り、その原因や反省点、現状との相違点を分析し、
導き出される方策を用いて解決してきたのである。
だから俺も先人たちに習い、過去の類似例を振り返ってみようと思う。
まずは二年前、一年生の時だな。あの時は大変だった。朝比奈さんが二人いて、
しかもより未来から来た方の朝比奈さん(みちる)が誘拐され、あろうことかそれが
俺を除くSOS団員の敵対組織による犯行だったと言う次第だ。
おかげでバレンタインなんてものは頭の片隅にも残っていなかったが、むしろそれが功を奏し、
サプライズ的な演出になっていたな。
続いて去年、二年生の時。これを数行で語り尽くす事は失礼な気がする。だからもう少し具体的に反芻してみようと思う。
それに俺のモノローグにも、そろそろ飽きてきた頃だろう?
そう、あれはこんな感じだったんだ――。
『第二章』
「はい注目!」
部室に入ってくるや否や、ハルヒが大々的に叫んだ。
こんな狭い部室でそんな大声を出す必要はまったくないのだが、言って聞く奴ではないし、
言っただけ小言を零されるのでまさに百害あって一利なしである。
だから俺は、ただそれに応えてやればいいのさ。
「何だ」
「これ、読みなさい!」
そう言ってハルヒは俺と古泉に一枚のA4用紙を配った。
朝比奈さんと長門には配らないのか?
「読めばわかるから、早く読みなさいよ!」
わかったからそう大声を出すな。
『先日私たち三人は、北高のどこかに6つの宝物が隠されているという情報を入手しました。
本日はバレンタインデーということですから、本来は女性が積極的に行動すべき日なのでしょう。
しかし、我々SOS団は恒久的に存続し、この世の不思議を発見・発表することを目標とした存在であって、
そのような常識に捕われるようであってはなりません。
そこであなた達二人に私たちから命令します。この隠された宝物を見つけ出し、
午後6時までにSOS団室まで持ってきなさい。遅刻は罰金よ!
SOS団団長 涼宮ハルヒ
団員その二 長門有希
団員その三 朝比奈みくる』
……そういえばバレンタインだったな。確かに朝も昼も谷口が騒いでいた気がするが、まったく聞いてなかったぜ。
登校したら靴箱にチョコと手紙が、なんていう夢のような展開も勿論なかったしな。
「なるほど、つまり僕と彼で、ここ北高に隠されている"らしい"宝物を見つけ出し、
午後6時までに皆さんに提示すればよろしいのですね」
つまりも何もそのまんまじゃねぇか。
おいハルヒ、方法はどんなでもいいのか?
「手段は問わないわ! この時刻までにここに持ってくること、条件はそれだけよ!」
「ちなみにヒントか何かはございますか?」
「私たちが入手した情報は、『北高に宝物がある』ということだけ。ヒントなんてあると思う?」
「確かにその通りですね、これは失礼しました」
おいおい。この広い校舎内をノーヒント、しかも二時間足らずで探し出せっていうのか。
流石のトレジャーハンターも泣いて慈悲を請うぜ。
「そうねぇ、あくまであたしの推理によると……『隠された』ってことは誰かが隠したってことなんだから、
その張本人の癖や性格を考えてみるといいかもしれないわね」
と、いうわけで締め出されたわけだが、どうしたもんかね。
「先程のヒントを考慮する必要はあると思いますが、あの三人の事ですから、
一筋縄では行かないでしょう。特に涼宮さんと長門さんが隠した宝物には苦労することが考えられます」
「俺も同意見だな。じゃあここは、いっちょ一番やりやすそうな朝比奈さんから攻めるとするか」
しかしこれが失敗だった。ヒントを頼りに三年生の教室、花壇、果ては書道部の部室なんて場所まで探したが、
まったく見つかる気配がない。今日に限っていえば、
全校生徒に迷惑をかけているのはハルヒではなく俺と古泉である。
残り40分となったところで、嫌な汗が背中をつたう。とっくに全身汗だくだから関係ないといえばないがな。
しかし本当に間に合うか怪しくなってきたぞ、これ。一番やりやすいなんて言ってごめんなさい、朝比奈さん。
「おやおや、キョンくんと古泉くんじゃないか! どうしたんだい二人とも、
そんな汗ダラッダラに流して。走り込みでもやってたのかい?」
背後からかけられたこの天真爛漫な声を間違うわけがない。
振り返るとやはり、長い髪をはためかせたその人がいた。
「鶴屋さん、どうもお久しぶりです。補習帰りですか?」
「そうさっ。いやー、なかなか受験生って身分は大変さね!
毎日過去問や参考書と睨めっこで、お姉さん頭が破裂しちゃいそうだよ!」
見れば確かに若干のやつれが見受けられる。あの鶴屋さんを悩ますほど、
受験ってのは大変なんだろうか。嗚呼、ハルヒじゃないがずっと高校生をやっていたいよ。
「あなたが受験される大学の話を聞き及んでいますよ。さすが、と感嘆せざるを得ません」
「そんなことないさっ。それよりそれより、君たちもなかなかに苦労してるようだね。どうしたんだい?」
「実はハルヒのやつが……」
俺は一通りの経緯を掻い摘んで説明した。
「ふむふむ。さすがハルにゃん、面白いこと思いつくねー!
私も受験がなければもっと協力したところなんだけど、悪いね!」
その協力がどっちに対してなのかによって、俺の意見も左右されますよ。
正直鶴屋さんがハルヒ側についたら見つけられる気がしないぜ。
下手すると探索範囲が校内から市内まで拡張されそうだ。
――あれ、何だろうこの違和感は。
「ま、全部終わったらまたみんなで花見でもするにょろよ!」
そう言い残して、鶴屋さんは帰ろうとする。
いや待て。帰らせちゃダメだ。そうだ思い出せ、今の会話を、ハルヒの言葉を。
「待って下さい!」
俺の声に振り返った鶴屋さんはにやりと笑っていた。やっぱりな。
「どうなさったのですか?」
「わかったのさ、朝比奈さんの宝物がどこに隠されているのか」
一歩ずつ鶴屋さんとの距離をつめる俺を、古泉は額の汗を拭きながら見つめていた。
「鶴屋さん、あなたが朝比奈さんから預かったものを出して頂けますか」
俺がそう言うと、鶴屋さんは鞄から小さな箱を二つ取り出した。
そして向日葵みたいな笑顔で、
「だいせいかーい! さすがキョンくん、よく私が持ってるってわかったね!」
「僕も聞かせて頂きたいですよ。なぜわかったのですか?」
鶴屋さんはさっきこう言っただろう。「受験がなければ"もっと"協力できた」ってな。
つまり少なからず関わってるってことだ。あとは朝比奈さんの性格だよ。
あの人の場合、校内のどこかに隠すと無くなるんじゃないかって不安に思いそうだからな。
「まったくその通りだよ! 実は一昨日みくると話してる時、何か悩んでそうだから相談にのってあげたのさっ。
そしたらハルにゃんからこれを隠せって言われたけど、
他の人に見つからなくって無くなったりしない場所が思いつかない、って塞ぎ込んでてね」
「なるほど、それで鶴屋さんの方から預かると申し出たということですね。
これは御見それしました、僕はまったく気付きませんでしたよ」
「この辺がキョンくんの凄いところだね。ハルにゃんが選んだだけあるにょろよ」
凄くなんてありませんよ。気付けたのも偶然ですし、
鶴屋さんだってヒントのつもりで述べた発言でしょうからね。
「おや、バレてたのかい! これはお姉さんもまだまだ精進しなきゃならないねっ」
あっはっは、と一頻り豪快に笑ったところで、今度こそ鶴屋さんは帰っていった。
残りふたつ。あと30分、か。ギリギリってところだな。
「まぁここだよな」
「そうですね、正直ここになければ完全にお手上げです」
はっきり言おう。校内で長門に関係ありそうな場所といえば、元文芸部室、
コンピ研部室、そしてここ図書室くらいしか思いつかん。かれこれ三年弱の付き合いになるってのに、なんてこったい。
「しかし、ここから先も困難な事にはかわらん。学校の一区域に過ぎないとは言え、
一冊一冊を調べている時間なんぞない。何かアテはあるか?」
「アテはありませんが、走っている間にひとつ思い付きました。少々お待ちして頂いてよろしいですか?」
俺の返事を待たずに古泉は図書委員のもとに向かい、一言二言会話を交わしたあと何かを受け取って戻ってきた。
それは何だ?
「長門さんの図書カードですよ、最新のね」
「あいつならもうとっくに図書室の本をすべて読破しているだろう」
「えぇ、もちろん。しかしだからこそ意味があるのですよ」
古泉が掲げたそれは、予想通りボロボロだった。最新といっても恐らく一年以上前のものだろう。
ふと思ったことがあるが、あいつは俺が『あの時』部室で本を読んで待っていてくれと言ったからその通りにしたのか、
それとも溢れる知的好奇心が長門を本へと向かわせたのか、どっちなんだろうな。
なんて自惚れか。単純に後者だろう。あいつにだって興味を持つものがあるなんてことはとっくにわかってることだし。
「感傷に浸っているところ申し訳ありませんが、裏面を見て頂けますか」
モノローグを読むんじゃない。で、裏面だと?
「……なるほどな」
そこには、2月11日付けの貸出印が押されていた。三日前。そしてそれ以前となると、
上述の通り一年生の時のものが並んでいる。つまり、その時までに長門はすべての本を読破しているにもかかわらず、
つい最近になって突然既読の本を借りにきていたということだ。
そしてその本は、2年前、初めて長門に呼び出された時、あいつが俺に貸した本である。
未だ部室にもあった気がするので、おそらく同じ本が図書館にもあったということだろう。
「この本はすでに返却されているそうです。向かいましょう、どうぞこちらへ」
なぜ古泉がこの本の在り処を知っているのか多少疑問に思ったが、この際どうだっていい。
連れられて辿り着いた場所には確かにそれがあったんだからな。しかしそこにあったのは本だけで、
箱あるいはそれに類似する何かは存在していなかった。もっともこの程度は予測の範疇である。
長門の出した問題がこんな簡単に解決するはずがない。
そこで本を手に取り開いてみると、やはりあの時と同様栞が挟まっていた。
「しかし内容は異なるようだな、まったくわからん。ハルヒが書いた宇宙文字に似ているような気はするが。
お前は読めるか?」
「さすがに地球に存在しない言語を読むことは出来ませんよ。ですが、そうですね……長門さんなら、きっと」
古泉は思案顔を見せたあと、栞に向かって小さく呟いた。
「『同調』」
その瞬間、俺たちの手の平にそれぞれ小さな箱が出現した。朝比奈さんのと同様のものである。
意外とあっさりだったな、なぜわかった?
「こういうことです」
一本指をピンと立てながら、若干楽しげに古泉は解説を始めた。長くなりそうだ。
「長門さんは、僕たちとはベースが根本的に違います。僕たちはどんなに非現実的な属性を持っていようと、
あくまで人間ですからね。一方の長門さんは情報統合思念体という有機的媒体を持たない存在から作られたインターフェイスです。
涼宮さんを監視するという目的からすると、それ自体に何の問題もなかった。
しかし、SOS団での活動を通じて、長門さん自身の中で矛盾が生まれます」
それはなんだ。
「『なぜ自分は人間ではないのか』。長門さんは自身が一端末にすぎないと言うことに疑問を抱くことはないでしょう。
ですが、僕たちと共に過ごすうちに、自分が我々人類のいうところの『感情』を理解できないことに憤りを感じた。
人間になりたいわけではない。でも、僕たちと共有する時間を、僕たちと同じ感覚で生きていきたい。
最近の長門さんを見ていると、なんだかそんな気がしたんです」
俺たちと同じ感覚、ね。それで『同調』ってわけか。だが長門はまだまだわかってないな。
そんな風に考えるって事自体、どんどんあいつなりの『感情』が生まれてきているってことなんだよ。
「その通り。『感情』を持たない存在は悩んだりしませんからね。
あるいは彼の朝倉涼子も、
人間の中で暮らすうちに変わっていっていたのかもしれません。
彼女が長門さんに覚えたものは嫉妬でしたから」
そうだな。あいつにも同情の余地はあったのかもしれん。復活してほしいとは露ほどにも思わんが。
と、あと10分か。何とか間に合いそうだな。
「ですが急ぎましょう、時間的余裕があるわけでもありません。
涼宮さんに関しては、先刻から目星がついています」
「奇遇だな、俺もだ。もう走り回るのはこれで簡便してほしいが、急ごう」
時刻は5時54分。ギリギリだったが間に合ったようだな。
俺は呼吸を整えて、眼前の扉をノックした。
「入りなさい」
部室に入ると、ハルヒ、朝比奈さん、そして長門の視線が一点に集められた。
そんなに見なくたって、ちゃんとお望みのものは持ってきたよ。ほら。
俺たちは集めた4つの箱を机の上に並べた。
「何よこれ、足りないじゃない。命令違反は死刑よ、死刑!」
「最後の一組は、お前が持っているんだろ?」
そう、思えばハルヒがこういった類のものを手放すはずがないのである。
何でもかんでも自分の手元になければ暴れだすやつだからな。もっとも、
たまたま朝比奈さんの宝物が似たような方法で隠されていたからわかったものの、
それがなかったとしたら一生思い付かなかった自信がある。
ウッ、という表情を飲み込んで、ハルヒは渋々とポケットから2つの箱を取り出した。
「……正解よ。あーあ、キョンなんかにバレるなんて屈辱だわ。せっかくいっぱい罰ゲーム考えてたのに」
恐ろしいことを真顔で言うんじゃない。まぁ朝比奈さんのおかげだよ。
「ふぇ? どういうことですか?」
「朝比奈さんの宝物は、鶴屋さんが持ってましたよね。
それで人が持っているって可能性に気付いて、あとはハルヒの性格です」
「なるほどー。あ、お茶です。二人ともお疲れ様」
「ありがとうございます」
嗚呼、肉体労働のあとのお茶は本当に美味い。二度とやりたくないがな。
見ろ、古泉ですら脱力した表情でお茶を味わっている。
ここのところ閉鎖空間も無くて身体が鈍ってやがったな。
「ちょっとみくるちゃん! ネタが被っちゃダメじゃない!」
「そそそそんなこと言われても~」
こっちが和んでるというのに何をしてるんだ。それからハルヒ、
お前は見つけてほしかったのかほしくなかったのか、どっちなんだよ。
「……ふん! いいから開けなさいよ、それ」
心なしか色々な方向から視線を感じる。長門、本を読むのはやめたのか?
朝比奈さん、コンロのお茶が沸騰していますよ。
なぁハルヒ、こんな時くらい仏頂面をやめたらどうだ。
それから古泉、何でお前まで見ているんだよ。開けるべき人間は俺だけじゃないぞ。
「おっと、そうでしたね。では開けましょうか」
箱の中には、それぞれから俺、そして古泉宛のメッセージが残されていた。
何だか照れ臭いのでここでは割愛させてもらうが、
昨年と比較すると段違いに親しみの深いメッセージの数々だったとだけ言っておこう。
俺たちが三人に俺たちなりの礼を告げている間も、ハルヒは終始こちらを向こうとはしなかった。
だからこそだ、俺は不覚にもこんな感情に陥ってしまったのさ。
ホワイトデーにはハルヒの望む物を買ってやってもいいかな、なんて。
四季折々とはいうが、今年もどうやらホワイト・バレンタインになることはなかった。
神様もこういう時くらい気を利かせてくれたって構わないだろうに。
って、この世界で神様は俺の前方を行くこいつなんだがな。
午後6時30分頃、我らSOS団はいつものように集団下校に入っていた。
ハルヒと朝比奈さんを先頭に、長門、そして俺と古泉が最後尾を進む。
いつもの風景だ。
しかしそのいつもの風景が続いたのも校門までだった。なぜなら校門を背もたれにした形で、
俺たち(特に俺)のよく知る人物が待ち構えていたからである。
「やぁキョン。久しいね、大晦日を君たちとご一緒させてもらって以来だ。元気にしていたかい?」
ご存知、佐々木である。初夏の事件以降、
SOS団と佐々木一派は共に行動を取ることが何度かあった。ハルヒが佐々木を気に入ったせいなのだが、
俺を含む三人以外の異能力組が若干気まずそうにしていたのは言うまでもない。
「まぁな。お前はどうしたんだ、わざわざこんなところで」
「言うまでもないだろう、君を待っていたのさ。ねぇ涼宮さん、
ちょっとキョンを借りていっていいかな?
ただ、今日は返せないだろうけど」
俺はお前の所有物でなければハルヒの所有物でもないのだが、
言ったところで意味を成さないのは前述の通りである。
しかも佐々木の言葉には、拒否を許さない空気が纏わり付いていた。
「わざわざハルヒの了承を得なくても、お前が言うなら俺はついていってやるよ」
「ありがたいね。でもこれは、涼宮さんの了承を得るべき行動なのさ」
意味がわからん。
数秒後、ハルヒはまるで青汁を一気飲みした後のような顔で了承を返した。
またしても俺に対して周囲の視線が集中していたが、これまた意味がわからんな。
まぁ集団下校を離脱しなきゃならんのは若干申し訳なく思わなくもないが、
それはハルヒの命令ってわけでもないだろう?
佐々木に連れられて辿り着いた場所は、数年前まで毎日通っていた校舎だった。
なんだか懐かしいな。妹はもう帰宅したのだろうか。
「もう19時を随分と過ぎている。君の妹さんが何らかの部活に精を出しているのかどうかは知らないが、
冬ということを考慮すると既に帰っているだろうね」
「まぁそうだろうな。ところで佐々木、散々はぐらかしてくれたが、
そろそろ俺をここに連れてきた理由を説明してくれないか」
「そう急かさないでくれたまえ」
佐々木は一歩、また一歩と足を進める。おそらく生徒は誰もいないであろう校舎内。
感慨を覚えないでもないが、やけに小さくなったような気がするのは俺が成長したということなんだろうな。
無言のまま俺たちが向かっていたのは、かつて俺たちが使っていた教室だった。
知らない誰かが俺の机を使っているというのは変な気分だ。
「不法侵入だぞ、佐々木」
「では君は共犯ということだね、キョン。それに安心したまえ。
卒業生ということなら多少の説教で勘弁してもらえるさ」
佐々木はかつて自分の席であったその場所に腰掛けて、独特の微笑を見せた。
制服姿のお前がそこでそうしていると、まるで時間が巻き戻ったみたいだよ。
「そう、君にそう思ってもらいたいがために僕は君をここに連れてきたんだ」
「どういうことだ?」
「君は時間が平等に流れていると思うかい」
佐々木は俺の言葉を無視して問いかけてきた。
ふむ。そうだな、そう思う。この世で唯一絶対的に平等なのは、時の流れる速度じゃないのか?
「なるほど、確かにそうだろう。しかし僕はそう思わない。少なくとも主観的な意味ではね。
例えば、君にとって授業というものは退屈で仕方ないものであるから、そろそろ終了だろうと思ったのに
まだ数分しか経過していないなんて経験は数え切れないほどあったものと思われる」
監視してきたかのように的確に当ててくれるじゃないか。
「一方で、SOS団を通じた活動は、君にとって1時間が1分程度に思えるほど
充実した時間だったに違いない。たとえ肉体的・精神的疲労を伴う事柄ばかりだとしてもね」
「……」
「総合して考えてみると、君のこの2年間は実に有意義なものだったのではないかな」
……あぁ、否定はしないさ。俺は昔から、宇宙的、未来的、あるいは超能力的な事件が
この世に存在してほしいと考えていたんだからな。
まさにそのままを経験してきたんだ、つまらなかったはずがない。
「そう。この数ヶ月、何度か君らと共に過ごしてみてそれがよくわかったんだ。
そして同時に、何故僕が日常的にその場にいないのかと悔しかったよ」
「これからもお前らが巻き込まれるであろうイベントは盛り沢山なんだ、すぐに取り返せるさ」
だからそんな寂しそうな顔をするなよ。何なら俺を呼び出してくれてもいい。
俺に出来る限りの事という制約はあるが、お前の頼みなら聞かない理由はない。
「感謝する。でも、そういうことじゃないんだよ、キョン」
黒曜石のような瞳が黒板を見つめている。昔から思考が読めない奴だったが、
今はこれまで以上に何を考えているのかわからないな。
そして、溢すように佐々木が口を開く。
それは俺に対してではなく、自分自身に語り聞かせているように思えた。
「僕が感じた寂寥感は、君たちが過ごす『青春』という日々に覚えているものだと思っていた。
毎日進学校へ通い、勉強のための勉強を繰り返す僕は、果たして生きているといえるのだろうか。
そんな疑念が浮かんでは消え、また浮かんでは消える。
君たちに出会うまで、僕はずっとそう考えていたんだ。君たちと共有した日々は、
そんな僕の想いを少しずつ溶かしてくれた」
「だが、それでも何かが足りない。足りないものなんて何もないはずなのに、
こういった感情を覚えることは理解し難かった。
しかし自身で創り上げた迷路の中で、僕はようやく答えを見つけることが出来たんだよ、キョン。
それはかつて精神病と断言し、存在すら否定したはずの懐かしい感情だ」
佐々木はゆっくりと立ち上がり、俺を真っ直ぐに見つめた。
さすがの俺だって、この先に紡がれるであろう言葉が何かはわかる。
だけどそれは、この時、俺が聞くべき言葉だったのかはわからなかった。
「あなたが好きよ、キョン。私はSOS団との日々に充実を得ていたわけじゃない。
キョン、"あなたと"過ごす日々に安心や満足感、幸福を感じていた。どんなに取り繕っても、
どんなに特別視されても、私は唯の高校生だから。
卒業してからずっと寂しかった。足りなかったのは、あなただった」
度肝を抜かれるとはこの事である。佐々木の一世一代の告白に、
俺は唯々唖然とするしかなかった。おそらく、佐々木が俺に対して
女口調で語りかけたのはこれが初めてだったんだからな。
反応することが出来ない俺の様子を見て、佐々木はいつものようにくつくつと笑った。
「……期待通りの反応で満足したよ。しかし、これが等身大の僕であって、
すべてに偽りはない。僕のすべてを君に伝えた。だから、これを受け取ってほしいと思っている」
ポケットから取り出されたのは丁寧に包装された四角い物体であって、
それが何であって受け取ることが何を意味するのか、などと問い質す気もおきない。
……思えば佐々木とも長い付き合いだ。何せ中学3年生の頃からだからな、
1年ほど音沙汰のない期間があったとはいえ、SOS団よりも長いといえば長い。
そんな佐々木は、いつか俺を親友といってくれた佐々木は、では俺にとってどんな存在なのか。
拙いトートロジーで誤魔化すつもりはない。そうすることは失礼と考えるべきだろう。
そう、俺にとって佐々木とは。
「すまない……俺はお前の気持ちには応えられない。何故ならお前は、
俺にとって誰よりも尊敬すべき人物であり、
それよりも何よりも、俺はお前を親友だと思っているからだ」
だから、それを受け取ることはできない。
――俺の言葉を聞いた佐々木は、それでも目を離すことはなかった。
むしろ俺が気圧されそうだ。
静寂が広がる。暗い校舎内、布の摩擦音すらしない。まるでこの世界に俺と佐々木だけが取り残されたようで、
こんな時だっていうのに俺はかつてハルヒと閉じ込められたあの閉鎖空間を思い出していたんだ。
ふいに佐々木の視線が俺から外れる。
「そうだね……僕たちは親友だ。僕がそう言ったんだ。悩ませてしまってすまない、
そんな顔をさせたかったわけじゃないんだ」
その瞬間、佐々木はこれまで一度も見せたこともない柔らかな笑みを魅せた。
それはまるで銀面の世界に一時の温もりを与えるかのようで、
……眩暈がした。
「ふむ。君はその決断を後悔するだろう。何せ、僕の手作りチョコなんて金輪際食べる機会がないだろうからね」
あぁ、確かにそれは食ってみたいな。年末に作ってくれたお前の手料理は、
ハルヒに負けず劣らず美味かったよ。
「褒め言葉として受け取らせてもらおう。しかし、やはり君は……」
だが佐々木は二の句を告ぐことはなく、左右に小さく首を振ることで台詞を終わらせた。
「何だ?」
「たいしたことじゃないさ。気にしてないでもらえると嬉しい。
さて、用も終わったので僕は先にお暇させてもらうよ。」
ふと教室の時計を見ると、午後8時半手前だった。もうこんな時間か。
「付き合わせてしまってすまなかったね。しかし、出来ればもう少しこの場に留まって欲しい。
そうだな、僕が校門を出たであろうというタイミングまで、ここを動かないでくれないか」
さっきも言っただろう。お前の頼みなら俺に従わない理由はないのさ。
「……ありがとう。では、またいずれ会おう。次はSOS団と僕らで、という名目でね」
そう言い残して、佐々木は教室から去っていく。その瞳が再び俺を捕らえることは最後までなかった。
――そして15分後、慣れ親しんだ中学校をあとにした直後のこと。
見計らったかのように珍しい番号から電話が掛かってくる。
それは、閉鎖空間の発生を告げる一報であった。
『第三章』
だいたいこんな感じだったな。すべてを語ったわけじゃないが、ここから先は
思い出すたびに胸が痛むので勘弁してくれ。それに、大切にしておきたい事でもあるんだ。
話は戻って、俺は現在鶴屋山の例の場所にいる。俺と古泉で散々掘り起こした場所であり、
また後日オーパーツが発見された場所でもある。先例に従ってやってきたのだが、
予想通りというかなんというか、やはりハルヒの姿は見当たらなかった。
「どこにいるんだよ、ハルヒ」
学校、自宅、駅前、喫茶店とあらゆる場所を捜し歩いたが、ハルヒどころかその気配すら見つけられない。
ノーヒントじゃ一流のトレジャーハンターも逃げ出すと言ったはずだろう。何処で何してやがる。
「腹減ったなぁ……」
現在時刻、午後6時半手前。もう日も沈んだというのに、
思えば朝飯を食って以来何も口にしていない。空腹を感じるのも当然である。
水分だけは適時摂取していたが。
そこで鞄を漁ると、見慣れない物体が姿を現した。
それは朝方ポストに入れられていた、佐々木からのバレンタインプレゼントだ。
開くなら今この時を除いて他にない。俺は躊躇なくその封を解いた。
ご多分に漏れず、中身はシンプルなチョコレートである。
そして、箱の裏面にはメッセージカードが附せられていた。
『君の幸せを願っている』
……ありがとな佐々木、去年は食えなかった手作りチョコ、美味いぞ。
おかげですっかり空腹が満たされたのを感じた頃、
箱の底にもう一節メッセージが書かれていたのを発見した。
『PS.
君はもう少し女性に気配りが出来るようになるといい。
そうだな、例えば女性という生物は、
君が考えるよりも思い出を大切にするものだ』
おいおい、昨日言っていた事と話が違うじゃないか。
――思い出ねぇ。しかしこれ以上回るところはないんじゃないか?
SOS団の活動範囲は大凡歩き尽くしたし、夏の孤島や雪山なんてさすがに一日じゃ巡れないぜ。
いくらハルヒだってそこまでを俺に求めているわけじゃないだろう。
「お手上げなのか……」
その時、沈む夕日に照らされた鶴屋山に不似合いな携帯の音色が鳴り響いた。
我が麗しのエンジェル、朝比奈さんからの着信である。
「もしもし」
「キョンくん、お久しぶりですぅ。あのあの、部室に誰もいないんですけど、
もしかして今日は集まってないんですかぁ?」
朝は古泉と長門がいたはずなんだが、もう帰ってしまったのかな。
「ふえぇぇぇ、どうしよう……キョンくんは今どこにいるの?」
「実は……」
俺は簡潔に概要を説明した。
しかし、何故か朝比奈さんは楽しそうである。
「うふ、涼宮さんも、いよいよですね」
何がいよいよなのだろうか。むしろまたかと言わざるを得ないほど身体は疲弊しているのですが。
「SOS団のバレンタインデーは、男の子が苦労する日なんですよ?」
全くもって仰せの通りである。
ただし普段から俺も古泉も大いに苦労しているということを忘却してはならない。
特に古泉だ、つい先日まで氷河期の恐竜のような顔をしていたからな。
「キョンくん」
なんでしょう。
「これから私は独り言を言います」
……ふむ。
「私ね、涼宮さんに部室に連れられて行った日のことを今でも覚えてる。
キョンくんに私が未来人だってことを言った、あの日のことも。だってそれが、
私にとってSOS団始まりの日だったから」
懐かしき誘拐事件。そして初の不思議探索。並木道。
「女の子はね、男の子が思っているよりずっと、思い出を大切にするの。
忘れないでね、涼宮さんと、キョンくんの思い出を」
はて。数分前、これと同じような忠告を頂いた気がする。
「私の独り言はこれでおしまい。涼宮さんに怒られたらどうしよう。……それじゃ、またね。
みんなに会えなかったのは残念だけど、チョコは冷蔵庫に入れておくから、食べてね」
その言葉の後には、あの侘しさすら感じる機械音が木霊するだけであった。
佐々木も朝比奈さんも同じことを言うとはね。
俺のこの18年間を鑑るに、直感的に物事の核心を貫くことに関しては圧倒的に女性の方が
優れているという結論に達している。ハルヒしかり、鶴屋さんしかりな。と、いうことは、だ。
今回の二人の台詞も、きっと的を射るようなものであるに相違ない。
「思い出ねぇ……」
俺とハルヒが出会った日のことなら覚えている。あの強烈なインパクトを忘れようがないし、
誰も知らないはずだし言いたくないことだが、カレンダーに印までつけているんだからな。だがそれは入学初日、
教室での事であって、そこにハルヒがいないなんてのは確認済みである。
俺が思考の迷宮から脱出できなくなりそうだったその時、
雷が落ちたかのような衝撃、
あるいは女性的第6感が俺の全身を駆け巡った。
「――そうか」
俺は一瞬の後に立ち上がり、木の枝で制服が擦り切れるのも構わず野に下り始めた。
完全に記憶の彼方だった。なぜ忘れていたのか、思いつかなかったのかもわからない。
ハルヒの神的能力が働いていたんじゃないかと勘繰りたくなるくらいだ。
俺とハルヒが初めて出会ったのは教室で間違いない。もしもそれ以前に出会っていたなら、
あの人間台風を忘れるはずがないもない。
だがそれが正答であるのは、俺の認識、時間軸の上で、の話だ。
古泉曰く、ハルヒにとっての俺は、一般人であると同時に
ジョン・スミスとして捉える存在でもあるとのことだ。何度も言うように、
一般人としての俺がハルヒと初対面を迎えたのは約三年前、北高入学日でのことである。
しかし、ジョン・スミスは違う。ハルヒが初めてジョン・スミスに会ったのはあの七夕の日、
入学よりずっと以前のことだ。俺が俺であるのかジョン・スミスであるのかなんて知ったこっちゃないし
今は無関係である。少なくとも、この件に関して前者が不正解であるということは既に公表された後だしな。
「待ってろよ、ハルヒ」
だから、俺は行かなければならない。
ハルヒが初めて俺――ジョン・スミスを認識した場所。
東中の、グラウンドにな。
「来たわね」
俺がここを訪れるのは約2年半ぶりである。正確な時の流れから換算すると、
プラス3年といったところだがな。こいつや谷口の出身校である東中、
あの時と同じ模様が描かれたグラウンド、その中心に涼宮ハルヒは立っていた。
腕を組んで仁王立ち、まさに威風堂々って感じか。
「遅いわよ。あたしが風邪なんか引いたら死刑だからね、死刑」
それは俺の台詞だろう。もはや完全に陽は沈んでしまっている上、
走り回ったおかげで全身汗だく。
冬の夜にこれは少々厳しいものがあるぜ。
「それでも来たってだけであんたとしては勲章ものね。よくわかったじゃない」
「まぁな」
もっとも、一人ではとても無理だっただろうが。
俺は呼吸を落ち着かせながらハルヒに近づいた。そんな俺を見ても、ハルヒは微動だにしない。
「早速だが聞かせてもらおうか。この手紙はどういうことだ」
「どうもこうもないわよ。あんたはクビ。本日付けでSOS団から退いてもらうわ」
「そういう意味じゃない」
俺が聞きたいのは、こんな内容の手紙を俺によこした理由だ。換言すれば俺をクビにする理由である。
お前だって、わざわざここで待っていたってことは、説明する気があるってことだろう?
「……そうね」
暗闇のせいで、そう小さく呟いたハルヒの表情はわからなかった。
「キョン。あたしね、昔ここで、同じような状況で、ある人に会ったのよ」
寒気がした。それは吹き荒ぶ冷風のせいではない。
「そいつは北高の制服を着ながら、まるで普段から宇宙人や未来人、
そして超能力者に会っているかのような口ぶりだったわ。異世界人とはまだ面識がなかったみたいだけど」
事実その通りなんだから仕方ないな。
「それで?」
「それで、もちろんあたしはそいつを捜したわ。だけど見つからなかった。一日中北高を張っても見つからなかった。
本当の名前さえ知らなかったし、暗くて顔もよく見えなかったから、仕方ないといえば仕方ないんだけどね」
存外変な奴だな。
「そうね、あたしもそう思うわ」
「だから今日、わざわざ同様のシチュエーションを作り出したのか? そいつに会うために」
「違うわ」
ハルヒが2、3歩俺の方にやってきた。この距離なら少しだけ表情が伺える。
あの100万ワットの笑顔はないが、昨日みたいな深刻な雰囲気でもなさそうだ。
少し緊張が緩まる。
「清算するためよ」
「どういうことだ?」
ハルヒは心底めんどくさそうに話を続ける。
「あたしはね、キョン。今までも、そしてこれからも不思議を探し続けるわ。絶対に諦めたくない。
でも、このつまんない世界が嫌いじゃない。ううん、少なくともこの3年間、あたしは全然つまんなくなかったわ。
むしろ楽しかった。SOS団のみんなで活動するのが、本当に楽しかった」
……そうだな。きっとお前もそう感じていると思っていた。事実、
もうずっと古泉から閉鎖空間の発生を知らされてはいないからな。
小言は相変わらずぶつけられるが。
「あんたのおかげよ、キョン」
ハルヒは顔を伏せながらそう言った。珍しい事もあるもんだ。
だがな、俺は何もしてやいないさ。SOS団を結成したのはお前だし、
獅子奮迅の活躍をしていたのは長門や古泉だし、癒しと潤いを与えてくれたのは朝比奈さんだ。
俺がした事といえば、せいぜいお前が迷惑をかけた相手に謝って回ったり、
お前が無茶しないよう説教したり、その程度だよ。
「そうね。でもね、あんたがいちいち文句を言いながらもついてきてくれるから、
あたしは無茶出来たのよ。そもそもあんたがいなくちゃ、
自分でこの世界を何とかしてやろうなんて思わなかったかもしれないわ」
……今日はやけに殊勝じゃないか。どうしたっていうんだ。
「うるさいわね、話の腰を折るんじゃないわよ。
団長が素直に雑用なんかに感謝の意を述べているんだから、あんたも素直に聞きなさい」
「わかったよ。で、結局お前は何が言いたいんだ」
「だから、つまりあたしが言いたいのは……」
顔を逸らしたまま、ハルヒはさらに歩を進めた。もはや俺の手の届く位置にいる。お前、こんなに小さかったっけか。
と、ここでハルヒはようやく俺を見た。
そして次にこいつが口を開いた瞬間、俺はおよそ一年ぶりに機能停止に陥ったのである。
「あたしはあんたが好きなのよ、キョン」
全世界が停止した。
罰の悪そうな顔をしながら、ハルヒはさらに話を続ける。
「ホントはとっくに認めてた。だけど受験の事とか、SOS団の事とかを考えると、
あんたに伝えるわけにはいかないと思ってた。ただ卒業なのよね、もう。
こんな気持ちを抱えたまま本受験も卒業も出来ない。
かといって団長自らがSOS団の風紀を乱すわけにもいかない。だからあんたをクビにすることにしたのよ。
そうすればあんたはSOS団とは関係なくなって、障害は無くなる。これが手紙の理由よ!」
最後の方は完全に奇声と化していたが、なるほど、ようやくわかったよ。
「……悪かったな、ずっと気付かなくて」
「ホントにね! もう、何であたしがこんな事言わなきゃならないのよ!
いいからあんたは黙ってこれを受け取りなさい!」
そう言うと、ハルヒはポケットから簡素な小包を取り出した。
言うまでもなく、その中身はチョコレートのはずである。
「……今年は義理じゃないわ」
消え入りそうな声で呟いた。
やれやれ。こんなストレートに当たってこられちゃ、指物俺も真剣にならなくちゃならんだろうが。
「なぁハルヒ――」
礼を言うべきは俺の方なんだ。お前がSOS団を結成し、俺を引っ張り込んでくれたおかげで、
この3年間少なくとも退屈を感じる事など皆無だった。それにお前は、
知らず知らずのうちに俺の幼き夢を叶えてくれていたんだよ。サンタクロースを諦めきれない、
本当に子供じみた夢を、な。
そんな俺の夢が定期的に実現されていた高校生活、本当に信じ難い多くの事件があったが、
俺は古泉みたいに世界を守るなんて仰々しい動機で動く事はできなかった。俺はただ、
俺の大切なものを守りたかったにすぎない。そして誠心誠意、
まぁ時には世界崩壊の危機を招いたこともあったらしいが、俺なりに俺として俺らしく対応できていたはずだ。
そう、これまでもこれからも、俺は俺の守りたいものを、俺なりの手段で守っていきたいんだ。
だからな、ハルヒ。
「俺は、お前の気持ちに応える事は出来ない」
冷たい風が一層強くなる。止まっていた時間が再始動を始めたようだ。
「……なんでよ」
「どうしてもだ」
俺はハルヒの目を見ることが出来なかった。
「すまない」
「謝罪なんかいらないわよ。……わかった。でもどちらにせよ、
あんたはSOS団をクビよ。決定は覆らないわ」
抑揚のないトーンでハルヒは言葉を紡いでいく。
「いい加減寒いし、用も済んだし、あたしはもう帰るわね。
あんたも風邪引かないようにさっさと帰りなさい」
ハルヒはサッと踵を返し、足早に東中を後にした。どうでもいいが、
このままほったらかしにしていたらまたミステリーサークル出現なんて見出しの新聞が発行されちまうぞ。
しかし俺は、この宇宙文字を消し去る事も、ハルヒの後を追うことも出来なかった。
なんともなしにデジャヴを感じたからだ。いやそれ以上に、感情の動きひとつ表に出さないその背中に、
何と声をかけていいか、かけるべきなのかわからなかったんだ。
『第四章』
東中を出た俺はどうしても帰宅する気になれなかったが、どうやらその必要はなかった。
なぜなら、確かに俺の背後には中学校がそびえている筈だったのだが、ふと気付いた時歩いていたのは
北高の中庭だったからだ。眼前には、いつかハルヒが寝そべっていた木が聳え立っていた。
――灰色の空。閉鎖空間か。
すまんな、古泉。
「謝られる必要はありませんが、これは少しばかり想定外ですね」
振り向くと奴がいた。今日は赤玉ではなく制服に身を包んだ実体である。
早い到着だな。
「今回は侵入したわけではありませんよ。記憶の限りでは、
僕は機関の一室で受験勉強をしていたはずですから。いつの間に閉鎖空間にいたのかもわかりません」
「どういうことだ」
「つまり、今回の招待客はあなただけではないということですよ」
その時、気配などまったくなかったのだが、俺の右袖が引っ張られたのを感じた。
長門、お前もいたのか。
「そう」
「この様子では朝比奈さんも何処かにいらっしゃるでしょうね」
「そうだな。長門、朝比奈さんの居場所はわかるか?」
「不明。この空間内では情報統合思念体とのアクセスが拒絶されているため、
現在私が行使できる能力は私というインターフェイスが有する限度にすぎない」
なるほどな。じゃあ、まずは朝比奈さんを探すか。
やれやれ、今日は人を探して歩いてばっかりだよ。
ひとつ聞いていいか、古泉。
「なんでしょう」
「この閉鎖空間は、世界崩壊を導くような規模の閉鎖空間なんだろうか」
「閉鎖空間自体がそもそもそのような性質を有するものなのですが、
そうですね。これはかつてあなたと涼宮さんが閉じ込められたような、
世界滅亡の序章を告げるようなものではありません。」
なら、それ程危機感を覚えることもないのか。
「それがそうもいかないようです。この閉鎖空間は通常のそれと異なり、僕たち超能力者でも侵入できません。
その点で言えば『あの時』と同様ですが、何よりも気になるのは、
この閉鎖空間は拡大する気配もなく、また神人が出現する気配もないということです」
「そうなのか?」
しかし俺の問いに答えたのは長門だった。
「そう。ここは外界から次元的に隔離された空間。そもそもここは、古泉一樹らが閉鎖空間と呼ぶものではない。
言うなれば、涼宮ハルヒの創生した第二世界と呼ぶのが相応しい」
「どうやらそのようです。先刻から試していたのですが、ここでは僕の力も使えません。
神人を倒す必要がないからかと思っていましたが、長門さんがおっしゃる通りのようですね。
ここは閉鎖空間ではない。僕も唯の人にすぎません」
……そうか。
しばらく歩くと、ようやく見慣れた舎が姿を現した。何の評決を取ることもなく向かっていたのは、
やはり元文芸部室である。習性が完全に犬猫と同じであるがもはや何も言わなくていいだろう。
風の音ひとつ聞こえない。真冬だというのに寒さも感じなかった。
扉の前に着いた時、古泉がいつものニヤケスマイルを携えて言った。
「僕もひとつお聞きしてよろしいですか」
何だ。
「涼宮さんの告白を断った理由です」
なぜ知っている、などとは言わなかった。
「……それは、答えないといけないのか?」
「いえ、あくまでプライベートですから。これは僕個人からの質問です」
その時、ガチャリ、と珍しく良心的な方法で扉が開かれる。
開けたのは俺たちのお目当ての人物だった。
「キョンくん! 長門さん、古泉くんも!」
「こんばんは、朝比奈さん。お久しぶりですね、お元気そうで何よりです」
「えぇ、本当に。……涼宮さんは?」
朝比奈さんの問いに、古泉は小さく頭を振った。
もしかしたらここで朝比奈さんと一緒にいるかと思ったが、希望的観測に過ぎなかったようだ。
長門は何事もないかのように向かって左奥のパイプ椅子に座り、俺と古泉が対面で座る。
するともはや機械的に朝比奈さんがお茶を淹れだした。いつもの光景である。
しかし、この光景をいつも通りと言えるのは今この時まで、だ。仮にこの第二世界から抜け出し、
日常を取り戻せたとしても、今後俺がSOS団の雑用としてこの部屋に来ることは永劫ありえない。
何せ団長様の決定だからな。
「……僕は、あなたと涼宮さんが付き合えばいいと思っていました。機関としても、副団長としても、です」
どうやらまだ会話を続ける気らしい。
「そんな事言われてもなぁ」
「私もです。そもそもキョンくんは鈍すぎます。涼宮さんはずっと、
ずぅっと前からアプローチしてたのに、全然気付かないんだもの」
「鈍いかどうかはわかりませんが、ハルヒは昔、恋愛は精神病の一種だって言っていましたよ」
「人類は日々進歩、成長する存在。涼宮ハルヒがそのように考えていたのは今は昔のこと」
朝比奈さんに長門まで加わってきた。
まるで尋問だな。
「仲の良い学生同士がよくやることですよ。高校生活最後、青春の1ページ。いいじゃないですか」
お前のその胡散臭い微笑は高校生らしさに欠けるがな。何処の政治家だよ。
「こんな話してる場合じゃないだろう、古泉。ハルヒを見つけてさっさと現実に帰ろうぜ」
「そのためにこの会話が必要なんですよ。この第二世界発生は、
あなたが涼宮さんの告白を断ったことに起因しているのは間違いありませんから」
「そうは言ってもな、俺はハルヒと付き合うことは出来ない。ならば原因を解明しても結果は同じじゃないのか?」
「事態の解明にはまず根本から洗い直すという選択がベターでしょう。そうしたからこそ、
あなたも今日、涼宮さんのいる東中学校に辿り着けたのではないでしょうか」
ええい、ああ言えばこう言う奴め。だいたい俺が古泉に口で敵うはずがなかったか。そもそも団内で俺が口で勝てる相手などいないのだがな。
観念しろということか。
「……念のため先に言っておくぞ。これからする話は、俺がこれだけはお前たちに言いたくなかったことだ。
隠す理由があるんだ。それでも聞くというんだな?」
「そうですね。そうしなければ、僕たちは一生ここに幽閉されたままでしょうから」
長門も、朝比奈さんも。いいんですね。
「うん、教えて欲しいな。キョンくんは涼宮さんが好きなんだと思っていたもの」
「……」
長門は無言でコクリと頷いた。心なしか、普段の3割増の反応に思える。
わかった、わかったよ。
「――なぁ古泉。お前、そもそも何故俺がハルヒをフッた事を知っているんだ?
俺はあの後すぐこの空間に閉じ込められたのであり、その間お前に連絡をした覚えはない」
「そのご質問にどのような意味があるのかはわかりかねますが、今日という日付、
あの手紙、そして第二世界の発生から容易に推測できることですよ」
「なるほどな。では、何故俺がSOS団思い出の地を巡り、最終的に東中に辿り着いたことを知っている。
与えられたヒントだけでは推測できないし知り得ないことだよな」
古泉は多少思案した後、困り顔で俺の問いに答えた。
「以前も何度かお話していると思いますが、涼宮さんには機関の監視がついています。
鍵であるあなたにも。そして、僕には機関からの定時連絡がありますから」
「対策は万全、ってのはそういうことか。じゃあ長門……は聞くまでもないな、
情報統合思念体が知り得ないはずがない。朝比奈さんも古泉と同じですか?」
2人ともゆっくりと頷いた。
俺は気付かれないように小さくため息をつく。ここからだ。俺は絶対にこの話はしたくなかった。
と同時に、いつかこんな時が来るとわかっていたのかもしれない。熱い湯もいつかは冷めてしまうのだから。
「長門、朝比奈さん、古泉。3人とも、俺が本当にハルヒの気持ちに気付いていなかったと思っているのか?
この3年間で、一度たりとも考えなかったと思うのか?」
「え? え、えぇ?」
朝比奈さんの可愛らしい声が聞こえたが、古泉は途端に真顔を貼り付けた。
「……続きを」
「気付いていたさ。そもそも白雪姫よろしく、あの時のアレで気付かないはずがどうかしていると思わないか。
俺だって一介の高校生、もしかしたら、と思ったりもする。
そして一度そういった視点であいつを見てしまえば、すぐにわかることだったよ」
「では!」
ダンッ、と古泉が机を叩いた。
「失礼。……ですが、それならばあなたは、気付いていながらもわざとこれまでのような態度を取っていたと?
意識的に涼宮さんを傷つけていたと言うのですか?」
そんな怖い顔するなよ、似合わんぞ。
朝比奈さんなんか今にも泣き出しそうな表情だ。
「茶化さないで下さい」
「……お前の言うとおりだ」
今度はパチンッ、という音が部室内を通り抜けた。朝比奈さんが俺を引っ叩いた音である。
「ひどい……ひどいよ、キョンくん」
顔をあげると、朝比奈さんは涙を流して座り込み、長門は無言の圧力を伴って俺を見つめていた。
「何故そんな事をしたのか、その理由を私は知りたい」
なんというプレッシャーだろうか。刑事尋問ってのはこんな感じなんだろうな、きっと。
俺みたいな一般人にはとても耐えられそうにない。まだハルヒに詰め寄られる方がマシだ。
「――古泉、もしお前が俺の立場にいたとして、ハルヒと付き合えるのか」
「どういうことですか」
もはや古泉の言葉には柔らかさの欠片もない。
俺も後には引けなかった。
「宇宙的、未来的、そして超能力的集団から四六時中監視を受け、プライバシーなどまるで存在せず、
さらには腫れ物のように周囲から扱われる。あいつが願望実現能力を手にしてしまったのは
あいつのせいでないにもかかわらずだ。凡そ人間扱いされていない」
お前はそんな人間と恋愛関係に至ることが出来るというのか。
俺のこの台詞を皮切りに、部室内には一気に緊張感が張り詰める。
「そんな……そんな理由で、あなたは」
「そんな理由だと? いじめっ子の理論だな。いじめられる立場ってものを
考慮したことなど全くないからこそ出てくる台詞だ」
「しかし……」
「それだけじゃないぞ。あいつが監視されるということは、すなわち周囲の人間も監視されるということだ。
俺がいい例だろう。部室や教室にも監視カメラと盗聴器が仕掛けられているな。それから、
監視させるにしたってもっとやり方ってものがあるだろう。特に最近は毎日異なる時刻、
タイミングで登校するにも関わらず、同じ奴の姿を見掛けるってのはいかがなもんだろうか」
風が出てきたようだ。窓ガラスが震えている。その向こうで木々も揺れていた。
古泉は何も言えずにいる。残りの2人もだ。しかしもはや俺は止められない。
ふと、古泉が搾り出すような声で呟いた。
「涼宮さんの気持ちを……考えたことがあるのですか」
「お前がそれを口にするのか!」
怒声を上げたのは俺である。
「ハルヒの気持ちだと! だったら、この事実をハルヒが知ったらどう思うだろうな!
世界改変で済めば御の字だろうよ!」
「それでも! 世界の崩壊を未然に防ぐためには仕方ないことです。あr」
「ある程度の犠牲は、か。当事者なのに犠牲者ってのもない。機関はあいつを神様と崇めることで、
自分たちの行為を正当化してきたに過ぎない。差し詰め神に仕える従者ってところか? もはや宗教団体だな」
だがな、あいつはまだ高校生なんだ。唯の女の子なんだよ。
機関がしている事は、そこらのストーカーがするそれと何が違うっていうんだ。
「……しかし、そこまで冷静かつ現実的な判断が出来るのであれば、本件におけるあなたの決断には首を傾げる他ありません。
下手を打てば閉鎖空間の発生、世界崩壊の危機を招く、などということは予測できたのではないですか?」
話を逸らしてきたか。だが、それも無意味だよ。
「断らなければ、監視の目は俺どころか俺の友人、家族、家族の友人、そしてまたその家族と加速度的に増えていくだろうな。
もはや何処にいても、誰といても気が気じゃない。俺はいいさ、監視の事実をとっくに知っているんだからな。
だが、世界と第三者の人権を天秤に掛けろというのか?
ここで安易に肯定したら、あまり好意的でない未来人組織と同じところまで堕ちるぜ、機関も」
ヒッと朝比奈さんが息を呑む音が聞こえたが、俺は無視することにした。
ドス黒い感情が胸いっぱいに広がる。
古泉も、もう止められないようだった。
「 "機関"として答えるならば、それでも肯定せざるを得ませんね。それにやはりあなたは涼宮さんの気持ちを
考えてなどいないようだ。知らなければ傷つくことなどないのですよ。現にこれまでもそうだったでしょう」
古泉。一般的に恋人ってのは何をするか知っているか?
「どういう意味でしょうか」
恋人となれば、最終的に性的行為に及ぶのがむしろ当然だ。そしてその行為も機関、
未来人組織、果ては情報統合思念体まで突き抜けになるんだろうな。俺にはそれが耐えられない。
ハルヒの知られたくない部分、見られたくない部分。大切にしておきたい部分。
それがあいつの知らないところで、周囲の誰もが了知している。とても耐えられん。
「だから俺は、いつか全てをハルヒに話してしまうだろうよ。その時あいつはこう思うんだ。
"裏切られた"、"仲間だと思っていたのに"ってな」
俺が正しいとは思っていない。だが。
「俺たちの利害は絶対に一致しないんだよ、古泉」
こうするしかなかったんだ。
「……あなたは、」
しかし古泉の囁きは窓ガラスの割れる音に掻き消された。
いや、割れるなんて生易しいじゃない、砕ける、あるいは破裂するという表現の方がしっくりくるな。
全員の視線がその方向へ集中する。
「まさか、神人か?」
「それはありえない。ここは閉鎖空間とは根本的に性質を異にする。
仮称神人が発生することもなければ、拡大し世界を覆い尽くしてしまうこともない」
殆ど黙ったままだった長門がその出現を即座に否定した。とは言え、
このまま部室に留まるのは危なすぎるな。
どんな空間なのかが把握しきれない以上、何が起こっても不思議じゃない。
まして家主はあのハルヒだ。予測どころか予想も出来ん。
ヒートアップしていた頭が一気にスッキリしてくる。
やはりああいう話は好きになれんな。
「行こう。さぁ朝比奈さん、立って下さい」
朝比奈さんは若干戸惑ったが、結局は俺の伸ばした手を取り立ち上がった。
兎にも角にも、逃げなければな。
次々と悲鳴をあげる校舎の窓やら何やらを背にしながら、俺たちは只管に走り続けた。
何処へ行けばいいのかはわからん。しかしここは危険すぎる。
先頭を行く俺の少し後ろを古泉が併走する。振り向くと、朝比奈さんの手を長門がしっかり握っていた。
が、旧校舎を抜け渡り廊下に差し掛かった頃、その長門が突然立ち止まった気配がした。
「どうした」
肩で息をしながら長門に問いかける。
「第二世界から仮称閉鎖空間への移行を確認。それに伴い、情報統合思念体との接続が復帰」
「……そのようですね。来ます」
傍らで古泉がそう呟いた直後、青白い発光が俺たちを照らした。
神の人、神人。
出やがったか。
「行ってください。僕はあれを対処しなければなりません」
「しかし……」
その時、またも長門が俺の袖に付加をかけた。
「何者かのこの空間への侵入を確認。人数は1名、しかしパーソナルネームを確認できず。
何処からか妨害されている」
何だと? 誰だそいつらは、閉鎖空間に侵入できる人物なんて限られていると思うが。
しかも、長門の目から逃れて。
「機関の人間かもしれませんね。……あなたにお願いがあります」
「何だ」
「涼宮さんを見つけて下さい。僕は行けません。この空間は通常の閉鎖空間と異なり、拡大するわけではなく縮小しています。
アレを放置しておくと、おそらく僕らはこの空間から締め出されてしまうのでしょう」
「なら、問題ないんじゃないか? 別に世界を崩壊させるものでもないんだろう?」
古泉は息を整えながら、小さく頭を振ってみせた。
「縮小していく世界で、最後に残るのは何か。それは、その世界の家主です」
「……じゃあ、まさか涼宮さん……」
「えぇ、聞こえていたのでしょうね。自分が作った団の団員が、よくわからないけれども自分の話題で口論している。
彼女は聡明な方ですし、責任感も強い。世界ではなく、自らを現実から消滅させることにしたのだと思います」
あの台風一過は、普段は全部俺たちに丸投げするくせ、肝心なところは全部自分で背負い込もうとしやがる。
だからバカなんだ。
だが、俺はもっと大バカ野郎だ。
「ですから、あなたにもう一度お願いします。いえ、これはSOS団副団長としての命令です」
「……言ってみろ」
赤い発光体を身を纏いながら、古泉はゆっくりと浮上していく。会話をしているうちに
神人の数はどんどん増えていたようだ。灰色の世界に明るさを与えるそれらは、
さながら闇夜にぽっかりと浮かぶ満月のようだった。
「自己嫌悪の迷宮に囚われたお姫様を探してきて下さい。……あなたの意図はわかっているつもりです。
あなたは一度として僕ら個人を指して責め苦を発さなかった。つまりそういうことなのでしょう?
ならば、最後まで責任を取るべきです。僕は僕の使命を果たします。SOS団副団長としての使命を」
なんだ、やっぱりバレていたのか。まぁ古泉や長門を相手にするなんて土台無理な話だったか。
あぁ、朝比奈さんも最近鋭いから無理だな。つまりこの団に、俺が勝てる相手は誰一人いないって事だ。
だが、それで構わない。
「よし、その命令了承した。行こう、長門、朝比奈さん」
「私は行くことは出来ない。朝比奈みくるもここに残るべき」
これから文字通り一致団結して、という時に出鼻を挫かれた。
何故だ。
「私はここで古泉一樹のサポートに専念する。この数を一人で相手するのは非常に危険。
この個体がアレに直接ダメージを与えることは出来ないけれども、サポートならば出来るはず。
私も私に出来ることをする。それに――」
それに?
「バレンタインは、まだ終わっていない」
あぁ……そうだった。今日はバレンタインで、ここでの時間が進行しているのか止まっているのか知らんが、
いずれにせよバレンタインという今日に、ハルヒを見つけなければならないのは俺の役目だ。
わざわざ団長直々の手紙を頂いたくらいだからな。
「よし、わかった。俺が行く。朝比奈さんもここに残って、二人のサポートをお願いします」
「あ……わかりました。精一杯頑張ります!」
その言葉を皮切りに、古泉は神人の方へ飛んでいった。
実はな古泉、俺、そうやって巨人との闘いに赴くの、密かに憧れてたんだぜ。
だってまるで特撮のヒーローみたいじゃないか。
しかも今は、たった一人で、たった一人の女の子を守るために闘いに行くんだ。
誰も否定できない、お前はまさにヒーローだよ。
だから、死ぬんじゃねぇぞ、古泉。
俺は走った。唯、走った。ハルヒを探して。
部室棟にいないのはわかっていた。さっきまで俺たちがそこにいたんだからな。
だから俺は、アテもなく走り続けた。いや、実を言うとアテはある。
少なくとも、ハルヒは校舎の何処かにいることは間違いなかった。なんのことはない。
この校舎は、"俺"とハルヒが初めて出会った場所だからだ。
"今"、ハルヒが求めているのはジョン・スミスじゃない。俺だ。
「うおっ!?」
突然俺は何かに衝突した。しかし眼前には何もない。廊下が広がっているだけである。
つまり、これはあれだ。以前ハルヒと二人で行った閉鎖空間にもあった、見えない壁というやつだ。
改めて触れてみると、そこには確かに弾力ある何かがあった。
「この先じゃないのか……?」
俺が現在向かっていたのは屋上である。残念ながら教室にハルヒの姿は見当たらなかった。
そんな気はしていた。ならばもう俺が行くべきは屋上しかない。あそこなら全てが見渡せる。
光り輝き暴れまわる神人も、その周囲を旋回している古泉も、情報操作を駆使し古泉を守っているであろう長門も、
もしかしたら何か未来的兵器を用いているかもしれない朝比奈さんも。
だが、ハルヒは俺がこの先に進むことを許さなかった。
場所が違うのか、それとも拒絶されているのだろうか。
「いや、この先であっていると思うよ。この障壁は涼宮さんの最後の砦なんだろう。
今、彼女は迷っている。僕にはその気持ちがよくわかるよ。……仕方ない、僕が壊そう」
不意に背後からかけられた声と、伸ばされた手。その手が見えない壁に翳されたかと思うと、
パリンというガラスが割れるような音が鳴り響いた。
伸ばされた手の正体が誰かなんて、振り向くまでもなく声でわかる。
「佐々木! 何でここに」
「まるで僕がここにいちゃいけないような物言いだが、まぁいいだろう。次元の歪みを感じたからね、
橘さんに頼んで僕の閉鎖空間と接続したんだ。したがって、ここは涼宮さんの空間でもあり、僕の空間でもある。
もっとも、僕のは器に残された水滴程度の力しか持たないが」
器に残された水滴。
それはつまり、初夏の事件で一度佐々木へと移行したハルヒの力の名残、ということなんだろう。
「さて、久しぶりの親友との再会だ、充分に楽しみたいところだが、どうやら無駄話に興じている暇は無さそうだ。
王子様は、幽閉されたお姫様を救いに行かなければならないようだからね。
――昨年の約束を今果たそう、キョン」
あぁ、行こう。
舞台は移って上階。なおも俺は走り続けた。佐々木と一緒に、ハルヒを探して。
すると目の前を何かが通り過ぎた気がして、思わず足を止める。
「ハルヒか!?」
「いや、違うよキョン。あれは……そう、まさに名残というやつだ」
その影もまた屋上へと向かっていた。後を追う。
佐々木とこの高校を駆け抜けるなんて初めてのはずなのに、何故だか懐かしい感じがした。
「名残?」
「そうだよ。言っただろう、ここは僕の空間でもある、とね」
どういうことだ、と、俺が問い質す前にその正体がわかった。
『待て佐々木!』
『嫌! 来ないで!』
あれは、俺だ。そして佐々木である。
一年前の、佐々木の閉鎖空間で起こった出来事。逃げる佐々木を追いかける俺。
悲しい、でも大切な、そして俺の一連の行動に関するきっかけとなった事件である。
『どうして逃げるんだ!』
『逃げるだって? 逃げているのは君じゃないか!』
そう、逃げていたのは俺だった。昔からずっとそうで、高校生になってからもそれは変わらなかった。
記憶の限りで、俺は正面きって何かと対峙したことが一度もない。
本心を隠して。弱い部分を隠して。のらりくらいとかわしていたにすぎない。
「胸が痛いな」
「それは僕の台詞だろう、まったく。冷静さを欠いた自分自身を見るなんて羞恥以外の何ものでもない」
苦笑を携えて佐々木(現)が言う。
「コレ、お前の能力で消せないのか? ここはお前の空間でもあるんだろう」
「不可能だね。実を言うと、僕は涼宮さんの閉鎖空間に僕の空間を上書きするつもりだったんだ。
だがそれは失敗した。水滴程度の力では、強引に介入して接続することが限度らしい。
よって、僕の思い出であるアレに対しても消滅申請はできない」
そうか……。
ん? だが待てよ、さっきお前は見えない壁を消してたじゃないか。
「それとこれとは話が違うんだよ、キョン。さっきの障壁は、涼宮さんの心の壁だったんだ。
しかも迷いながら創った壁だ。拒絶と期待の両者で成り立っていたアレは、脆く、
それでいて他者の介入を受け入れやすいものだった」
……うむ、よくわからんな。とにかくあの影を消すのとはわけが違うということらしい。
しかし、なんでこいつはこんなに走っているのに息ひとつ上がっていないんだろうね。
俺はもうヘトヘトだ。
「そりゃあ、今日はSOS団の男性が苦労する日だからね」
何故知っている。
「答える必要はないな。ほら、もうすぐだよ」
ようやっと屋上へと直結している階段が見えてきた。
割れるガラスや軋む床をかわしながら走っていたせいで、やけに時間がかかってしまった。
思うに、高校なんてものをここまで広大にする必要はないだろう。
おかげで教室移動の時はいつも時間ギリギリである。
あの二人の影は、まだ俺たちの眼前で口論していた。
『いい加減認めたらどうなんだ。君の気持ちも、彼女の気持ちも。
君は理屈をこねくり回して逃げているにすぎない。
あの時、あの初夏の事件で、君は僕ではなく彼女を選んだ。限りなく低い可能性に賭けた。
ならば、いい加減男らしくしたらどうなんだい?』
俺がこれに応えるのはもう5分ほど後のことである。
しかし、それを聞く前にどうやら目的地へと辿り着きそうだ。よかったのか、どうなのか。
「くつくつ」
「笑うなよ」
「いや、すまない。しかし君が素直になったことは、親友としては喜ばしいことに違いない。
たとえ当の本人を破滅に導くかもしれない手段だったとしてもね。なかなか君も悪どい」
言うな。と、言うかお前もこの案に賛成してきただろう。
「……やれやれ。やはり君は、女心というものがわかっていないようだ」
「わかっているとかわかっていないとか、どっちなんだ」
「どちらでもあり、どちらでもないのさ」
そう言うと佐々木(現)は歩を止めた。
気付けば屋上への扉の目の前にいて、あの二人の影もいつの間にか姿を消している。
おい、どうした。行かないのか?
「僕はここまでだよ。言っただろう、お姫様を助けに行くのは王子様だ。
それに、親友はその親友に対して発破をかけるのが役目だからね。僕の役目は終わった」
「……」
「行きたまえ。彼女が待っている。僕はこのまま帰るよ。……失望させないでくれ」
佐々木――。
わかった。ありがとう佐々木。
「行ってくる」
眠り姫を、叩き起こしにな。
屋上の扉を開くと、まさにその人、涼宮ハルヒがそこにはいた。
だが、それは俺のよく知るハルヒであって、ハルヒではなかった。
「そんなところで何してるんだよ、ハルヒ」
扉から見て左隅、ハルヒは体育座りをしながら顔を隠し蹲っていた。これは誰だろう。
少なくとも、SOS団団長として日々俺を悩ませ続けているハルヒではないし、
ましてや神に準ずる存在として、非日常的事象の只中にいるハルヒでもない。
俺にはこれが、傷つき塞ぎ込んだ唯の女子高生にしか見えなかった。
「……」
俺はハルヒの横に腰を下ろした。何を言おうとうんともすんとも応えやしない。
ハルヒを説得するのは俺の唯一の得意分野でありお手の物なんだが、一介の女子高生を説得するのは
今回が初めてであり未知の領域だ。断言しよう。まだ超常現象を相手にしている方がやり易い。
「今日はお前を探して走り回ってばっかりだよ。見ろ、この汗。
団長なら団員を労わってくれてもいいんじゃないか?」
「……あたしの……」
一人問答すること3分ほど、ようやくハルヒが口を開いた。
か細くて聞き取ることも困難である。
「どうした?」
「あたしには、願いを叶える力があるのね。そして、
みんなはあたしのその力を求めて集まって、言い争いになった。
そうなのね」
天才は1を聞いて10を知るというが、まさにこいつはその典型である。
俺たちが願望実現能力について明確に言及したのは一度きりだったはずで、しかもその内容について
細かく言った覚えはない。それでもこいつは、俺たちの会話から全てを読み取った。
「そうだな、お前には願いを叶える力がある。古泉や長門、朝比奈さんは、
お前が超能力者や宇宙人、未来人に会いたいと願ったから集められた。
この空間も、お前が創ったんだ」
いったいどうしたらこのお姫様を立ち直らせることが出来るのか、皆目検討もつかない。
一説によると、自己嫌悪に陥った相手を安易に否定することはよろしくないらしいので、
それに従うことにしておいた。
「そう。……あたしは、どうしてキョンがあたしの告白を拒否したのか知りたかった。
ただ単純に嫌いとか好きじゃないって言ってくれたら、それでもよかったのに。あんたは何も言わなかった」
第二世界はそのために存在していたのか。だから俺たちの会話がハルヒに筒抜けだったんだな。
「でも、知らなきゃよかった。こんな能力、いらない……あたしなんて、いなければよかったのに。
そうすれば、みんなが口論になることもなかったのに」
それはそうなのかもしれない。発足当初のSOS団はあらゆる超自然的存在が衝突し合って、
そんな中で妥協し合って、ギリギリのバランスを保ちつつ、まさに一触即発だったに違いない。
だが。
「そうは言ってもだな、お前の能力がなければあの3人が集まることは無かった。そうすると、
SOS団はお前と俺の二人だけだったのかもしれないぞ。
お前はSOS団が楽しかったと言っていたじゃないか。それも否定するのか?」
俺の言葉に、ハルヒは大きく頭を振った。しかし未だ顔を上げない。
なんだか今日は、あまりハルヒの顔を見ていないような気がする。
「そんなことない。あたしは楽しかった。でも、みんなはそうじゃなかったのかもしれない。
こんな能力のために、仕方なく楽しいフリをしていたのかもしれない」
これについても俺は否定できない。俺だって、世界を守るためだとかいって
嫌々付き合っていた頃もあったからな。組織とかいう存在に縛られていた他の3人の苦労は計り知れない。
しかしそれも、あくまで発足当初の話だ。
「そういう時期もあったのかもしれない。だが少なくとも、今はそんなことないぞ。
俺が説明するより見た方が早い。ほら、顔を上げろ」
俺たちの眼前では、グラウンドを破壊し続ける神人の群れと、その周囲を攻撃を避けつつ旋回し、
隙を見てカウンターを狙う赤玉との攻防が繰り広げられていた。
「まさにスペクタクルだな。下手なB級映画より面白いぞ、何せ全部実写だ」
「……あれ、古泉くん?」
俺が指差す方向を見つめるハルヒの目は、赤く充血していた。
ここでどれだけの涙を流していたのだろう。
「あぁ、あの趣味悪い赤い玉が古泉だ。多分下のほうに長門と朝比奈さんもいるぞ」
俺はハルヒの手を引いて立ち上がり、屋上からグラウンドを見下ろした。
神人の攻撃があたらない位置取りで、長門と朝比奈さんが何やら会話をしている。
佐々木は、もう帰ったのだろうか。
「どうやら長門はバリアーらしきものを張っているらしいな。ほら、あの発光体、
あれは神人って言うんだが、神人の攻撃が古泉に届く前にブロックされているだろう。
どんな原理か知らんが、あんなことが出来るのは長門しかいない」
むしろ原理なんて存在しないのかもしれないが。
朝比奈さんは何をしているのかと思えば、その長門が朝比奈さんに対して手を伸ばした。
朝比奈さんは一瞬戸惑った後、その手を掴んだ。
震えている。
朝比奈さんではなく、長門が、だ。
「有希……」
ハルヒもそれに気付いたらしい。
「あの神人をほったらかしにしとくと、この空間は収束して消えてしまうらしい。お前もろとな」
「……」
「だから古泉は、アレを倒すことにしたんだ。お前を守るために。SOS団を、守るために」
「……でも」
「長門は率先してあそこに残った。古泉を守るために。朝比奈さんも残った。長門を守るために」
もう何も考えられん。言葉が溢れてくるだけだ。
「古泉は俺に言った。お前を連れて来いと。これは副団長命令だと」
それでも、
「それでもお前は、あいつらが今も、嫌々SOS団に付き合っていると思うのか?」
「……思わないわよ。あたしはバカじゃないわ」
神人が一体崩れ落ちるように消滅した。しかし、倒す速度と生まれる速度に差がありすぎる。
このままじゃジリ貧だ。いずれ古泉の消耗が限界に達し、この世界は収束してしまう。
ハルヒも古泉もいない。そんな世界、俺はいらん。
俺は意を決してハルヒに向き直り、言った。
「帰ろう、ハルヒ。SOS団は未来永劫永久不滅なんだろ。
その団長様がこんな状態じゃ、おちおち昼寝も出来ないぜ」
「……だったら答えなさいよ」
「何をだ」
「答えなさいよ!」
あぁ、なんだそれか。そんな事、お前はわかってるんじゃないのか――とは言えない。
多分、直接聞きたいのが女心ってやつなんだろう。
「それは、あっちで言ってやるよ」
繰り広げられる俺の逃げ口上とハルヒの有無を言わさぬ視線とが数秒間戦いあった結果、
どうやら俺が勝利したらしい。諦めたが納得できないハルヒの仏頂面が、
アヒル口でそっぽを向く独特の仏頂面が、なんだか嬉しくて泣きそうになった。
「わかったわよ。あんたの意図に従うなんて癪だけど、考えようによってはあたしは
あんたの願いを叶える神様なんだから、崇められてると思えば悪くないわね」
まさにその通りお前は神様なんだがな、現状では。
「いいわ。あんたの願い、叶えてあげる。
その代わり、あっちでは覚悟しときなさいよね!」
『最終章』
俺は不意に無重力下に置かれ、反転し、左半身を嫌というほどの衝撃が襲って、
あぁ何だか懐かしいデジャヴだなぁ、このモノローグは前にも言ったことがあるなぁと思いつつ上体を起こして目を開くと、
視界に飛び込んできたのはやはり見慣れた天井だった。
そこは部屋。俺の部屋。しかし前回と違うのは、着ているのは制服だという点、
まだ日付変更まで余裕があるという点、そして予想していた通りに携帯が鳴り響いたという点だ。
「もしもし」
「どうも、無事帰還したようですね」
左半身を貫くこの痛みを無視するのであれば、無事と言えるだろうよ。
「急な話ですが部室に来て頂けますか? もう皆さんお揃いです。積もる話もあります」
「わざわざ言わなくても、既に準備を始めている。まぁ待っていてくれ」
俺は電話を切りながら玄関の扉を開き、なぜか戻ってきていた自転車に跨って家を後にした。
どうでもいいが、何で俺を電話で呼び出すのは大概古泉なんだろうか。
たまには朝比奈さんの甘い声で呼び出されたいぜ。
卒業前に止め具を直さなきゃならん部室のドアを開けると、宣告通り全員が揃っていた。
ハルヒも含む、全員がである。
ただし、そこに佐々木の姿は無かった。
「遅い! 罰金!」
「無茶言うな、これでも史上最速で到着したんだぞ。
だいたい何で俺だけ家に帰したんだ、直接部室に帰還させればよかっただろうに」
「おや、あなたは今日がどのような日であるかをもうお忘れで?」
それとこれとは別問題な気がするし、それを言うと古泉も該当するような気がするが、まぁいい。
それで、どうなったんだ。
「結論から言います。涼宮さんの願望実現能力は消滅しました。それに伴い、
現在機関も解体の方向で話が進んでいます。もう少し言いますと、
上層部の方々が関連する全ての記憶を失っているので、もはや組織として成り立たなくなっています」
なるほど、頭を潰せばなんとやら、ってやつか。考えたな。
「元々非友好関係にある政界や経済界のお偉方が集っていたものですからね、
共通の利益を忘却してしまった以上、手を組むどころか一触即発状態ですよ」
日本社会に悪影響を及ぼさないよう切に願う。
「情報統合思念体は今なお存在している。涼宮ハルヒが願望実現能力を失った今、
この星を監察する意味はなくなったかに思えるが、主流派はそう考えていない。
それは人類と共存することにより変化した我々端末の情報を解析すれば、容易に想像できること。
進化の可能性は未だ失われていない」
よくわからんが、長門、お前はこれまで通り宇宙人と考えて構わないのか?
「その認識は正しくも間違ってもいない。私が端末であるということに変わりはないが、
思念体とは別個独立した自由意志を有しているから」
そうか。
なら、俺が認識していたままの長門なんだな。
「……多分、そう」
「未来も変わりなく存在しています。いえ、時空ごと切り取られない限り、
未来が消失するということ事態ありえないんだけど……。ただ、私に強制帰還命令は下っていません。
多分、変数の固定化には、絶対的に涼宮さんの能力が必要だったわけではないから」
そういえば、かつてハカセ君を助けた時や亀の事件はハルヒと無関係だったような気がする。
いやまぁ、ひき逃げ未遂犯が橘たちだった事を考慮すると、厳密には関連していたと言えるのか……?
どうもこの辺りはよくわからん。こういった考察は長門や古泉に任せて、
俺は朝比奈さんがまだ留まっているということ、
朝比奈さんの故郷が無くなったわけじゃないということを素直に喜んでおこう。
「それは、未来において、朝比奈みくるがこの時間軸にこれからも存在していたということが
確認されているためと推測される」
「というと?」
「現時点から換算すると、朝比奈みくるがより未来の時間軸から訪れているということは事実。しかし、
その時間軸から歴史を遡ると、我々SOS団に朝比奈みくるが所属していたということもまた事実だから。
もっとも、それがいつまで続くのかは依然として不明」
うむ、わからん。
まぁそれは追々古泉辺りに解説されるだろうから今は置いておこう。おい、
そんなソワソワしたって俺はまだ聞く気がないぞ。正直とっくに脳みそが臨界点を超えているんだ。
古泉が残念そうに頭を垂れたところで、団長席で黙ったままふんぞり返っていたハルヒが口を開いた。
「こうやって聞くと、みんな随分面白そうな事してたのねー。なんか変だな、と思ったこともあったけど、
まさか本当に宇宙人、未来人、そして超能力者がいるなんて考えもしなかったわ」
いつだったか、俺は喫茶店でお前にすべてバラしているんだがな。
「そんなのあんたの妄言だと思うに決まってるじゃない」
そうかい。
ふと、これまでそれぞれがそれぞれの状況を捲くし立てていたにもかかわらず、部室に突然の静寂が訪れた。
そして何故か視線が俺に集中している。あれか?
この団は話題がなくなると俺を見るように訓練でもされているのか?
そんなに期待されても、俺はそれに応えられるようなユーモアのセンスを持っているわけではないし、
説明しなきゃならんような近況の変化も生じていないぞ。
「何だよ」
「ねぇキョン。みんなの話を聞いて、ちょっと気になってたんだけど……」
ハルヒが団長席から身を乗り出して俺に話しかけた。珍しいことに語尾を濁しつつだ。
「言ってみろ。もうお前に隠すことなんかないから、何でも答えられると思うぞ」
ただし、俺の尊厳に関わること以外という条件付きだ。
「みくるちゃんは未来人だった。つまり時間移動が出来るのよね。そしてもちろん、
未来だけじゃなく過去にも行ける。あんたはそれをずっと前から知っていた。そうよね?」
「その通りだ」
「じゃあ……七夕の時のあいつは、やっぱり……」
あー、そういうことか。これ、もう言っていいよな?
そんな気持ちを込めて周囲を見渡すと、三者三様の反応で肯定してくれた。
「『世界を大いに盛り上げるための、ジョン・スミスをよろしく!』。
ちなみにあの時背負っていた突発性なんちゃら病の姉というのは、もちろんこの朝比奈さんだ」
俺の言葉を聞いたハルヒは、嬉しいんだか悔しいんだか気恥ずかしいんだか、
様々な感情が入り混じったよくわからない表情を貼り付けつつ、最終的に溜息をついてこう言った。
「はぁ……確かに似てるなぁ、と思う事もあったけど。
まさか散々探し回った相手があんただったなんてね。屈辱だわ」
随分な言われようである。
「でもそうだとすると納得も出来るわ。だってそうじゃなきゃ、
このあたしがあんたみたいな平凡の悟りを開いたバカを相手にするはずないもの」
お前は俺をバカにしないで喋ることは出来ないのか?
「痴話喧嘩は後でやって頂くとして、あなたの懸案事項についても述べておきます。
機関は解体されますので、当然ながら涼宮さんやあなたへの監視は一切無くなります」
聞き捨てならない言葉が文頭にあったような気がするが、まぁいい。
「私たちも、時空の歪みでなくなった涼宮さんに監視を配置することはありません。
それについて先程命令が下ったことを確認しています」
「情報統合思念体主流派は、進化の可能性をより広義に捉えることに成功した。これ以降、
監察対象は人類すべてに及ぶ。ただしそれは、人類にとって目視できない彼方からの目ではなく、
我々各端末が有するインターフェイスとしての目で行われることになる」
つまり?
「私が、あなた達を見守っていく」
長門にしてはわかりやすい説明である。
しかし、そうか……よかった。
すると古泉は立ち上がり、ハルヒに向かって神妙な面持ちで話しかけた。
「涼宮さん、本当に申し訳ありませんでした。機関を代表して謝罪させて頂きます」
「私も……すいませんでした」
「……」
3人がハルヒに向かって頭を下げている。何ともシュールな光景に見えるが、
そうだよな、俺よりも当事者であるハルヒに謝るべきだ。
「いいわよ別に、みんながやりたくてやったことじゃないってわかってるから。だから、顔を上げて?」
ハルヒの言葉を受けて、3人は再び元の位置に着席した。
朝比奈さん、どうか泣かないで下さい。
古泉、魂が口から飛び出しそうになってるから早くしまえ。
長門……お前も緊張していたんだな。お得意の無表情が今にも崩れそうだぞ。
ところで俺が言うことじゃないし、話を蒸し返したいわけじゃないが、あっさりすぎやしないか。
「団長たるもの、団員の過ちを許すのも懐の広さってものだわ。
それとも、あんたはこれ以上この揉め事を続けたいとでも言うの?」
「それは勘弁願いたい」
「じゃあいいじゃない、何も問題ないわ」
そうなんだが、俺が決死の覚悟で発した内情だったと言うのに、
ハルヒが絡むとこんなにも早く解決するのか、と思ってな。
「器の差ってやつよ、あんたも見習いなさい。もっとも、
あんた程度がそう簡単にあたしの真似事が出来るはずないけど。
――それに、本はと言えばあたしが原因なんだし」
「だからそれは違うと、」
「いいのよ。SOS団は連帯責任。誰かが悪いことした時はみんなで被る。
もちろん、良いことした時もみんなで喜ぶのよ!」
それなら不思議探索における俺の遅刻(厳密には遅れていない)についても、連帯責任で
罰金免除にしてもらえると助かるんだが、ハルヒは"不思議"という言葉が聞こえた辺りで思考を停止させたらしく、
今後も俺の財布が日常的にすっからかんであり続ける事は変わりないようである。
しかし俺は、まったく不本意ながら、ハルヒの器の大きさに感動してしまっていた。
SOS団はどいつもこいつも責任感が強すぎるきらいがあるから、もしハルヒのこの台詞がなかったとしたら、
最悪の場合いつか誰かが自殺でも起こしかねない。
しかもそれはSOS団への想いが強ければ強いほど高度の蓋然性を有する。
結局、ハルヒがいてこそのSOS団であり、ハルヒがいなければSOS団は成り立たない。
そんな事はとっくにわかっていたが、今改めてそれを実感した次第である。
「あ、忘れてました!」
朝比奈さんは突然そう声を上げると、パタパタと冷蔵庫に向かっていき(可愛い)何かを取り出した。
「直接渡せてよかったです。キョンくん、古泉くん、どうぞ」
何を隠そう、それはバレンタインチョコである。目まぐるしく展開する話題にすっかり忘れかけていたが、
そもそも始まりはここだった。それならば終着点もここであるべきだ。
「ありがとうございます。毎年の事ながら、
これを受け取る瞬間に勝る緊張と喜びはありませんね」
古泉がまた歯の浮くような台詞をサラッと言いやがったせいで、
今年も俺は礼を言うタイミングを逃した。少しは自重しやがれ。
「どうぞ」
「うぉ! ……長門、隣に来るときは一声かけてくれないか」
いったい何時の間に移動したというのか、まったく気配などなかった。心臓に悪いぜ。
「さぷらいず」
その単語はこういう時に使うべきものではありませんっ。だが、ありがとな。
ところで古泉には渡さないのか? もう何も持っていないようだが。
「僕なら今朝、既に頂きましたよ。あなたが部室を去った直後です」
何?
「もしかして、長門さん?」
何故か朝比奈さんは顔を耳まで真っ赤にしながらソワソワしている。
そしてハルヒは古泉よろしくのニヤニヤ顔をし、長門はその古泉を見つめていた。
おい、ちょっと待て。どういうことだ古泉、場合によっちゃお前を体育館裏に呼び出さなきゃならん。
「どうもこうもそういうことですが、僕は閉鎖空間や機関で鍛えられていますからね。
そう簡単に負けませんよ?」
「俺だって団活でお前と同等程度の肉体労働はしているんだ、ナメてもらっちゃ困るな」
「バカな事言ってるんじゃないの、団内の喧嘩は禁止!
やりたかったらあたしの目の届かないところでやりなさい。
それにしてもキョン、あんた全然気付いてなかったのね」
そういうお前はもしかして気付いていたのか。
「今日渡したことは知らなかったけど、普段の二人の様子を見てればバカでもわかるわよ」
……おかしいな、俺は鈍い奴を演じていただけのつもりだったんだが。
仮面を被りすぎてペルソナになったか? いやいやそんなはずはない、
実際気付かなかったのはこいつらの件だけだったし。
「それは、あなたの瞳には特定の人物しか映っていなかったからですよ」
「……」
どういうわけか適切な反論が思いつかず、俺は黙秘権を行使することにした。
しかし沈黙に陥ったのは俺だけではなかったようである。
おいハルヒ、何か言え。
「さて、これ以上夫婦漫才に付き合う気はありませんので、僕は早々に立ち去らせて頂きます」
「私も」
「あ、私も帰りますね。今日は鶴屋さんのお家にも寄ることになっていたんでした。
色々ありましたけど、みんなに会えてよかったです。涼宮さん、キョンくん、またね」
バタン、という木の衝突音が一瞬部室を支配した後、俺とハルヒだけが取り残された室内には静寂が訪れた。
しかも全然居心地が良くない。
あぁ、気まずい。
「……あたしたちも帰りましょ」
「そうだな……」
気まずいのはこの空間のせいではないのだから、帰宅を選んだところで
状況は何も好転しないのだが、またしてもそれ以外に適切な文章が思い浮かばなかった俺は、
素直にハルヒに従うことにした。
あぁ、気まずい。
季節は冬、2月14日、時刻は午後10時半を過ぎたところ。
地獄坂を下り終え互いの家への分岐路を通り過ぎた俺とハルヒは、この糞寒い中何故か未だ一緒にいた。
ちなみにその間の会話は一応あったのだが、内容を思い出そうとしても何も生産的な話をしていないので
思い出す意味がない。そもそも会話が成立していたのかどうかも怪しい。
そして現在、とうとうその非生産的なやり取りも底を尽きた。
「……ハルヒ、何か言えよ。黙っているお前は気味が悪いぞ」
「あんたこそ何か言いなさいよ。……あ! そういえば、」
せっかく何らかの話題が展開しそうだったのだが、当のハルヒがそこで会話を区切ってしまったので
未遂に終わった。何だよ、中途半端はお前の嫌うところじゃないのか。
「……夢の話よ」
「夢だと? それは何の、」
だが俺はそこで気付いてしまった。そして同時に激しく後悔した。
何故ハルヒに無理に聞き出そうとしてしまったのかを。
「夢じゃなかった、のね……」
「……あぁ、夢じゃない。あれはお前が創った閉鎖空間内での話であって、
異次元ながらも現実であることに違いはない」
言ってる俺も顔から火が出そうである。
従って俺は強引に話題を変えることにした。
「ところで、俺の除名の件は撤回してくれないのか」
「そうねぇ……簡単に撤回しちゃうと団長の威厳に関わるんだけど、
そうすると有希と古泉くんも除名しなきゃならなくなるわ。団内恋愛は禁止だし」
そんな事をしたらSOS団は名簿上お前と朝比奈さんの2人だけになっちまうな。
もはや団活どころの騒ぎじゃない。というか、元々あそこは文芸部室であって、文芸部部長は下級生がいないおかげで
未だ長門であるのだから、真の占有者を排除して活動を続けるなんてことはさすがに黙認されないだろう。
「そうなのよ。だから……」
不意にハルヒは足を止め、コートのポケットから何かを取り出しこう言った。
「これ、受け取りなさい。そうしたら除名はなかったことにしてあげるわ」
小さな掌に乗せられていたのは、数時間前に見たものと同様のものである。
ハルヒの顔は暗闇でもわかるくらい真っ赤で、きっと俺も同じ顔をしているに違いないと思った。
もはや取り繕う気もしない。
「答えなさいよ」
ハルヒが求めているのは、第二世界で濁した最後のアレに間違いない。これを受け取ってしまうとすなわち
そういう事になってしまうからいちいち言わせる必要もないように思えるが、
女性というものを理屈で理解しようというのは愚の骨頂であり、いやそもそも人間が理屈だけで測れるかといったら
そんな事はありえない。それは誰より俺がよく知っている。
さて、ではどうしたものか。俺にとってのハルヒ、なんてものは3年前にもつい数時間前にも
熟考したものであるから今更構わないだろう。だが問題がある。いや、問題が無くなってしまった事が問題なのだ。
そう、模範解答などとっくに出ていたのである。しかし俺はそれを現実というもので覆い隠し、
深く狭く暗い地下牢へと隔離した。ところが、現実という敵は『感情』という理想を身に纏い、
塩を送るが如く地下牢の鍵を開けてしまった。
よって、現在俺と模範解答を遮断する壁は一切無くなっているのである。
だから、俺は模範解答へと手を差し伸べてやることにした。
「なぁハルヒ」
「なによ」
ついでに、佐々木と朝比奈さん曰く女性は思い出を大事にするらしいので、
「俺、実はポニーテール萌えなんだ」
「……知ってるわよ」
それも考慮してやることにした。
「もう一度、お前のポニーテールが見たいんだが」
「……バカじゃないの」
俺は掌に乗ったチョコレートを受け取ると同時に、ハルヒを抱き寄せ強引に唇を重ねた。
こういう時は目を閉じるのが作法なので俺はそれに則った。ゆえに、ハルヒがどんな顔をしているのかは知らない。
しかし、ハルヒもきっと目を閉じてくれているような、そんな気がしていた。
ふと、背中にハルヒの手が回されるのを感じたので、俺もハルヒの後頭部に回っている手に力を込める。
しばらく離したくないね。
とは言え、その間僅か数秒足らず。唇を離した俺たちは即座に顔を逸らし、
またも場に気まずい静寂が流れる。だが何故だろう、悪い気はしない。
「これで俺の除名は取り消しか?」
「……そうね。仕方ないから許してあげるわ。でも一度は除名された身なんだから、
しっかり弁えなさい。あんたはまた雑用からよ!」
以前と何ら変化ないじゃねぇか。
「ごちゃごちゃ言わない! さ、帰るわよ。いい加減親も心配するし」
歩いてきた道を振り返り逆走するというのは何とも滑稽であり、羞恥に耐え難いのだが、
たった今道のド真ん中でやっていた事からすると羞恥と呼ぶのもアホらしいので、
開き直った俺たちは堂々と分岐路まで戻ることにした。
「おっ」
「……雪ね。あーぁ、もっと寒くなりそう。このままじゃ凍えちゃうわ」
ようやくやってきたホワイト・バレンタイン。神様が創生権を取り戻した記念に、
気を利かせてくれたのだろうか。
雪の帰路をさっきと同じように二人並んで歩く。ただ、ひとつだけ違うことがあった。
それは俺も、ハルヒも、身体の一部分に何とも幸福な温もりを感じているということだ。
俺のコートのポケットで繋がれた、その手に、な。
『エピローグ』
その後の話を少しだけしよう。
翌日の事である。
冬空の下待つこと10分少々、お目当ての人物が俺の前に現れた。
「やぁ、キョン。君が遅刻しないなんて珍しいじゃないか」
「……そもそも普段から遅刻などしていない。だが、どいつもこいつも来るのが早すぎるおかげで、
ハルヒという法律の下に罰金という制裁を食らっているだけだ」
ちなみに、現時刻は俺が伝えた集合時間の5分前である。
「くつくつ、そうだったね。さて、この寒風を浴びながら語るのもある種の風情があるのかもしれないが、
僕としては御免被りたい。何処か入ろうじゃないか」
「まったく同意見だ。早く行こう」
頼んでいたコーヒーを飲んで、一息つく。昨日とは違った雰囲気の服を着ている佐々木は、
改めて見ると、なんかこう他人に優越感を覚えるような、そんな感じだ。
「いきなり浮気とは感心しないね。しかも相手が僕とは。これを涼宮さんに言ったら、
果たして君はどうなることやら。願望実現能力の有無など、この点において無関係だ」
「待て、早まるな」
「ふむ。ならば、ここを奢るということで涼宮さんには黙っておいてあげよう」
何だそんな事か。それなら一向に構わん、もともとそのつもりだったしな。
お前には感謝してもし尽くせん。
「それこそ、"そんな事"なんだけどね。僕は僕のやりたいようにやっただけだよ」
それでもな。今回の件は、お前に発破をかけられなければまず起こせなかったし、
お前の協力がなければ成功し得なかった。一歩間違えたら何もかも失ってたんだし。
「まさしく。そんな作戦を実行に移した君には感嘆すると同時に呆れるしかない。
まさか本当にやるなんて、ね」
「素直になれと言ったのはお前だろう」
「……やれやれ」
俺の常套句を奪った佐々木は、苦笑しながら手元のコーヒーを口に含んだ。
俺もそれに倣う。
「美味いな」
「あぁ、美味しいよ。コーヒーというものはとても身体にいいとは思えない。
しかし、何故か飲みたくなってしまう。
特に冬に飲むコーヒーは格別だ。身も心も温め、癒してくれる」
そうだな。
「ところで、僕に何か話があったんじゃないのか? 一通りの顛末については電話で聞いているからね、
わざわざ呼び出したということは、直接伝えたい事があるということだろう」
その通りなんだが、まぁ、なんだ。
これはお前に言っていいことなのかよくわからないし、かといって、言わないのも道義に反する気がして
板ばさみだったんだ。何より俺はもう少し素直になった方がいいらしいし、胸に溜め込んでおくのは夢見が悪い。
だから。
「ありがとう、佐々木」
俺は精一杯の感謝を込めて、結局最も簡潔で単純な言葉を発した。
こいつにならこれでも伝わってくれるだろうと信じて。
「……ふむ」
佐々木はカップから手を離し、腕を組んで何やら考え込んでいる。
沈黙が流れたが、俺が口を開くべきじゃないんだろうな、きっと。
「君は涼宮さんを選んだ」
窓の向こうを、大型のトラックが通過する。
今日も雪が降り出しそうな天気だ。
「悲しくないと言えば嘘になるのかもしれないが、もう清算した話だ。
涼宮さんの願望実現能力が失われると同時に、僕からは水滴どころか器すら失われた。
だからどんな小さな願いでも願うだけで叶えることは出来ないし、そのつもりもない。
よって、今君と相対している僕は、君の親友としてこの場にいる」
もう一度、佐々木はカップに手を伸ばし、その中身を一気に飲み干した。
「でも、今この瞬間だけは、それを忘れて聞いて欲しい」
その時佐々木が魅せた微笑は、"あの時"にも勝る、この冬空に陽の光を与えるような微笑で。
これから先の未来を約束する、そんな優しさに溢れていた。
「あなたの幸せを、願っているよ」
また別の日のことである。
「じゃ、また昼になったら集合ね。ちょっとキョン! マジ、デートじゃないんだからね!」
「男性二人に対して女性一人じゃダブルデートにもなるまい」
本日は三月に入って初の不思議探索である。長門と朝比奈さん要するSOS団自体既に
不思議そのものなのであって、それをハルヒも知っているのであるからもはや探索する意味もないように思われるが、
結局ハルヒは不思議探索と称してみんなで遊びたいだけという事もわかっているので、
今更無用なツッコミはしない事にした。
さて、午前の部は俺、古泉、朝比奈さん組と、ハルヒ、長門組に分かれることと相成った。
あの二人がどんな会話を繰り広げるのか気になるところだが、まぁ、それは無粋というものだろう。
「どうしましょうかね。何かご提案はございますか?」
特にないな。朝比奈さんはどうです?
「そうですねー。……今日は、のんびりしたいかな」
「では、僕の行きつけのスイーツカフェで雑談するというのはどうでしょう」
古泉が単身そんな店に通いつめている妄想が展開しそうだったが、よく考えると考えるまでもないことだった。
"僕の"、ねぇ。
「その辺りの詮索はご容赦して頂きたいところです」
「まぁいいさ。朝比奈さんに異論がなければ、俺はそれでいい」
「私も是非行ってみたいです」
よし、行こう。色んな意味で興味深いしな。
そんなこんなで、今は皆がそれぞれの注文したケーキを食べ終え、
満腹感と満足感で穏やかな空気が流れているところである。
ちなみに俺が注文したガトーショコラは絶妙な甘さ加減で美味かったといわざるを得ない。
古泉はこういう事に関してはつくづくマメというか、なんというか。
機関が解体されたにも関わらず様々な情報を持ってきてはハルヒを喜ばせ、俺に溜息を付かせている。
ちなみにのちなみにで、この喫茶店、平日には何とケーキ食べ放題もやっているそうで、
こいつらが常連となっている理由がわかった気がした。
「しかしお前も長門も、受験を直前に控えているくせにこんな店の常連になっていていいのか」
「勉強をする上で糖分の摂取は重要ですし、むしろここで勉強をしているので、何も問題はないかと」
まぁこいつらが落ちるとも思えないし、大丈夫と言っているなら大丈夫なんだろう。
そういえば、ひとつ気になっていたことがある。
「機関が解体された今、お前の身元やら何やらはどうなっているんだ?」
「その機関を通じて親しくなった大物の方々にお世話になっていますよ。ですのでご心配は無用です。
ただ、高校を卒業したら実家に帰るつもりですがね。その方が大学へのアクセスがいいので」
「……そうか」
この三年間で初めて古泉の口から実家という言葉を聞いた気がするが、
今は深く問い質すのはやめておこうと思う。そのうちこいつから詳細を言ってくるだろうしな。
「キョンくんは、大学生になったら一人暮らしするんですかぁ?」
「いえ、俺も何とか実家から通えそうですから、このまま後4年は世話になるつもりです」
うちには仕送りをする金もないしな。バイトでもして少しでも親に金を返すか。
「それでしたら、とても待遇の良い仕事をご紹介できますが」
「あー……考えておく」
「えぇ、是非」
古泉は見る者全てを篭絡しそうな笑顔で頷き、手元のコーヒーを飲み干した。
心なしか、バレンタイン以来こいつの裏表がはっきりしてきた気がする。確かに必要以上に隠すべき事など
もはや何もありはしないはずなのだが、長門の影響だったらいいな、と俺はそう思っていた。
長門に裏表は存在しないからな。よく言えば素直、悪く言えば……なんだ?
「僕もひとつ気になっていたことがあるのですが」
何だよ、改まって。
「聞かせて頂きたい。一連の展開に関して、いったいいつ頃から考えていたのですか?」
古泉は少しだけ声に真剣味を含めながら、そう訊ねてきた。
ふと横を見ると、朝比奈さんの大きな瞳も俺を見つめている。可愛い。
「……さぁ、どうだったかな」
――そう、全ての始まりは一年前、佐々木の閉鎖空間からだった。
あいつにボロクソに言われようやく俺の気持ち、あるいはハルヒの気持ちってやつを認めた俺だったが、
同時に直面しなければならん問題があった。それは所謂現実というやつで、
試行錯誤の末、ようやっと何もかも解決したという次第である。
ただ、それでもやはり聞かねばならんことがあった。
「なぁ古泉、朝比奈さん。この件に関して、俺は誰かの思惑など一切無視して事を進めてきた。
そして結果はこの通りだ。俺にとって都合の良い作品であって、
自己中心的なシナリオから導き出された答えなんだが、お前らはこれでよかったのか?」
もっとも、もはやどうしようもないんだが。
「私たちの組織内部では何も混乱が起きている様子はありませんし、対応も迅速でしたから、
きっとこれも規定事項だったんだと思います。だから気にしないで、キョンくん」
「こちらはカオス状態ですが、まぁ、良いのではないでしょうか。
森さんや新川さんなど一部とはまだ親交もありますし、何よりもう僕は自由です。
閉鎖空間を対処するため真夜中に起こされることもない。
機関という柵から、あなた達と対立することもない。それに――約束でしたから」
約束。一度だけ、機関を裏切り、SOS団につくという約束。
こいつ、まだ覚えていたのか。
「むしろ、涼宮さんを中心とした不思議世界が以降は構成されないという点で、
あなたこそ心残りがあるのではありませんか?」
そうだなぁ。それも若干の気がかりではあったんだが、まぁいいさ。
「そう」
おわ、長門! ハルヒも!
何でここにいやがる。
「失礼ね、有希がお勧めのケーキバイキングを紹介してくれるっていうから来てみたのよ。
でもそこにあんた達もいたってことは、ねぇ古泉くん?」
苦笑を携えた古泉は、ハルヒにネクタイを引っ張られてケーキが並ぶショーケースのスペースへと拉致されてしまった。
合掌。
「あなたが取った行動は、我々としてはむしろ賞賛すべきこと。私という媒体を通して、
情報統合思念体は自律進化の可能性へとさらに近づいた。
あるいは未知だったことが既知となったことは、もはやひとつの進化を遂げたと言っていいのかもしれない。
いずれにせよ、それはあなたが今回のような行動を取らなければありえなかったこと。感謝している。
それに、」
何だ?
「私も、あなたに会えた事で大切なものを見つけられた。
……ありがとう。あなたがいてくれてよかった」
普段あまり喋らないやつが不意にこういうことを言うと、その、なんだ。照れるんだよ。
だから俺は長門のその言葉に対して、ただ頷くことしか出来なかった。しかし長門には伝わったと思う。
それにしても、古泉とハルヒが聞いてなくてよかったぜ。あやうくアンティークな雰囲気漂う喫茶店が一気に戦場と化すところだ。
ふと窓の向こうを見ると、深々と雪が降り積もり始めていた。ショーケースの前ではハルヒが古泉に尋問をしていて、
目の前には長門と朝比奈さんが座っている。平和だ。これこそが俺の待ち望んだ平和であり、
もはやハルヒは願望実現能力を失ってしまったけれども、元神様ということで聞き入れてはもらえないだろうか。
願うことなら、この平和が末永く続きますように、と。
再び例の喫茶店に戻った時、古泉と朝比奈さんは集合時間直前に用事があるとか言い帰ってしまったので、
辿り着いた俺の組は俺一人きりだった。しかもどういうわけか長門も集合時間直前に用事で帰宅してしまったので、
結局午後の部は俺とハルヒ二人っきりで開催されることになった。
さらにどういうわけか、トイレから戻ってきたハルヒの髪型が集合時とは明らかに異なっていたという次第だ。
こうやって見ると、若干髪が伸びたことがよくわかるなぁ。前々年度比1.5倍だ。
「みんな用事なんてねぇ……まぁ有希と古泉くんは受験だし、
みくるちゃんは大学生だし、忙しいだろうから仕方ないわよねぇ」
内心ぜんっぜんそう思っていない口ぶりである上、受験生という点を言えばこいつも同様であって、
俺としては今すぐこいつを追い返し机に向かわせるというのが道義的に正しい行為であることは間違いない。
「それで、どうするのよ」
と、言うと。
「この後よ、この後。あんたとあたしだけなんだからくじ引きするまでもなく自動的に組決定だわ。
分かれて行動するのもバカらしいしね」
確かにそうだな。
……現時刻、午後0時10分。適切な時間とは言えないが、冬には冬にしかない生物もいるし、
悪くはないかな。もっとも、この団長様が賛同してくれるなら、の話ではあるが。
「水族館にでも行かないか」
「……公私混同するなって言ったでしょ」
その公はもう帰ってしまったんだがな。
「水族館に不思議がないと言い切れるのか?
お前は知っているはずだ。不思議はありえないと思う場所に存在するってことをな」
例えば、自分が治める集団的組織の内部とか。
あとはそうだな、自分自身実は不思議そのものだったなんてことも。
「もう、わかった! わかったわよ。じゃあ水族館に行きましょ。
あんたが言ったんだから、料金はあんたが払いなさいよね」
お安い御用さ。
「じゃ、さっさと行くわよ。あんまり時間もないんだから」
そう言うと、ハルヒはまた例の如く伝票を俺の手に押し付け、颯爽と喫茶店を出て行こうとした。
「なぁハルヒ」
「何よ」
しかし、ハルヒはいつかのようにそっぽを向いたままである。
眉根をよせるしかめっ面は俺に言い包められたせいか、それとも女性なりの何かなのかは解らない。
だが、ポジティヴシンキングがこの世を上手く渡るコツだとこの3年間で学ばせてもらった俺は、
ハルヒのそれを後者と捉えることにしておいた。
だから俺は、その横顔にこれまたいつかのように言うことにした。
これは現在の俺としては大変羞恥を覚えるものであり、言ってしまった後に人生を
やり直したいと悶絶することは誰でも予想できるものであるが、
言わなかった場合にも古泉ばかりか長門、
朝比奈さん含むSOS団総出でバッシングを食らうことは確定的なので、
周囲の目というものはこの際一切無視して伝えてやろうと思う。
「ハルヒ」
「だから、何よ」
せっかくこいつが約束を守ってくれたんだしな。
「似合ってるぞ」
「……当たり前じゃない!」
fin
251 : 以下、名... - 2010/01/24(日) 10:58:53.64 lc2Y0bKG0 124/125まだ残ってる…だと?
古泉長門については、
> 俺の存在に気付いた瞬間、長門はサッと何かを隠したように思えた。
> 何だそれは?
>「何でもない。それよりあなたは、どうして」
とか
過去編で長門のチョコを古泉がすぐに見つけた点
とか
> 震えている。
> 朝比奈さんではなく、長門が、だ。
とかで、一応複線貼ってるつもりでした
もうちょっと露骨にやるべきだったか
あとキョンがハルヒをフッた理由は、
セクロスもそうですが
根本的に願望実現能力を消してハルヒを監視から解放するため、
閉鎖空間を創ってもらうという自作自演のつもりでした
伝えるのは難しいな
会話文だけでSS書ける人って天才だと思う
252 : 以下、名... - 2010/01/24(日) 11:50:57.00 NotBiGkXO 125/125おもしろかった
一気に読んでしまったぜ…
長古はそれがフラグだったのか~
純愛すぎてなんかニヤついてしまったwww