<注意>
この作品はストーリーの都合上、半オリジナルキャラが語り手となっております。
また、以前創作発表板で投下したものでもあります
この時点で不快感を覚えた方はスレを閉じることを推奨いたします。
構わないという方は読み進めて下さい。
それでは本編を開始いたします。
元スレ
涼宮ハルヒの帰還
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1259479311/
夜の闇は罪の意識を麻痺させる。悪事の多くが夜行われるのはそのせいかもしれない。実際僕は今、世の倫理に照らし合わせれば犯罪と
いえなくもないことをしているが、案外落ち着いていた。
家族はどう思うだろう。正義感の強い兄は僕を殴るかもしれない。対して僕はそれに文句を言える立場ではなかった。
夜の校庭。時計の針は夜十時をまわったところだった。
高台にあることもあって周囲に人気はなかった。街灯もなく月明かりが頼りのためとても暗く、数十メートル先は闇に沈んでいる。風が
吹く。夏の到来をほのめかすような暖かさの中、僕の頬を優しく撫でた。
僕達は教務室の電気が消えたのを確認して学校の敷地内に忍び込んだ。もちろん授業を受けるためではないし、忘れ物を取りに来たとい
うわけでもなかった。肝試しにはまだ若干早い。
僕は白線引きを引き摺り歩いた。車輪がごとごという音が闇に滲みこむ。しばらく歩いて止まり右に折れた。しばらく歩いて止まり今度
は左へ折れた。指示の声が飛んできて、僕は内心溜息をつきながらそれに応じる。先程から歩き回っているので少々疲れていた。
「俺達がやることは実に簡単だ」
キョンさんの言葉を思い出す。
確かに技術のいることでもなかったし、二人という驚異の人手のなさでも十分に出来そうなことだった。
ざっくり言ってしまえば、白線引きで校庭に落書きをする。それだけのことだ。
一人が白線引きを引き、もう一人は朝礼等に使う壇上に上がって細かい指示を飛ばす。ある程度で交代する。
簡単なことだ。バレることを恐れなければ、の話だが。明日起きるであろう大騒ぎの中、もし僕達が犯人だとバレてしまえば物凄く怒ら
れるに違いないし、最悪の場合退学だって有り得た。
それなのに僕は何で手伝っているのだろう。義務を感じているわけでもないし、キョンさんに義理があるわけでもなかった。結局のとこ
ろ僕は流されやすい人間なのだろう。虚しく認めて今度は実際に溜息をついた。
さて、何故僕がそのようなことをしているのか。事を説明するには……そうだな、僕が入学する頃までさかのぼらなければなるまい。
※
太陽の光が存分に降り注ぐ良い天気だった。道の脇に咲く桜は満開で、僕等の門出を祝ってくれているかのようだ。
もっとも、僕にはそれを喜ぶ余裕はなかったのだが。
「っ……」
息を切らしながらこの地獄のような坂道を駆け上がる。既に制服は汗でびっしょりだった。こんな坂道があるなんて想定外だ。学校紹介
にはこんなこと一文も書いてなかった。詐欺じゃないのか?
いや、学校が高台にあるという情報は与えられていた。ならばこのような事態を予測できなかった僕の責任だ。自己責任の世の中万歳!
冗談を考える余裕くらいはあった。だが、まあそれだけだ。入学式当日に遅刻という事態を免れそうにない。
オーバーヒート手前で校門に駆け込んだ。
とりあえず間に合った入学式は、平凡に営まれた。特筆すべきことはない。あえて言えばテンプレートのテンプレートによるテンプレー
トのための入学式であったその点は評価されよう。
教室に戻ってからも特に変わったことはない。担任教師の自己紹介、新入生諸君への激励、これからの簡単なスケジュール確認。続いて
生徒の自己紹介。どの生徒も飛びぬけた自己紹介はしなかったし、僕もその例に漏れない。
良く言えば平穏、悪く言えば退屈な入学初日だった。授業は明日からだし、何かに急かされることもない。生徒達は隣近所や中学時代の
知り合いに声をかけ、新しい環境に新しいネットワークを築こうと各自奮闘している。
僕もボーっとしていたわけではない。話すことは苦手だが、そんなことも言ってられないのでとりあえず両隣、前後の席には挨拶をして
おいた。
中学時代の、本だけが友達というしょっぱい境遇とはさよならしたかった。高校デビューなどというこっぱずかしい真似をするつもりはないが、友達は欲しい。
教室は生徒たちの喧騒に満ちている。心地よいざわめきの中、僕は妙な話を小耳に挟んだ。
「知ってる? この学校って変な部活があるらしいよ」
部活動か。中学時代は帰宅部だった僕も、高校では何らかの部活に入ろうと思っている。
「……えーと、どこが変かって言うと難しいんだけど……。そうね、まず、新入生勧誘は女子がバニーさん姿でやってたんだって。
あとね、活動内容がおかしくてね、野球大会に出たり文化祭には映画作ったり、バンドに参加したり……。そう、つまり何の部活か分からないのよね。……うん、それだけならただのお遊びサークルなんだけど……」
盗み聞きは僕の悪い癖だ。読書が趣味だと変なところが敏感になる。そう思って意識を別に向けようとしたとき、
「活動目的が宇宙人や未来人や超能力者を探して一緒に遊ぶ……だったかしら?」
呆れた。危うく声に出すところだった。
「そうそう、その部活の名前はね――」
今度こそ僕は意識を逸らし教室を後にした。
※
それから話は二ヵ月後に移る。別に手抜きをしたいわけではない。ただ単にあえて取り上げるようなことがなかったということだ。ただ
しその間僕には念願の友達が二、三人出来たので、全く何もなかったというわけではもちろんない。
教室の空気は、入学式の日の、息苦しくも心地よいものから弛緩しただるいものに変わりつつある。勉強もこれから本番とばかりに勢い
をつけ始めていた。
ある日の放課後のことだ。友達に別れを告げた後部室棟に向かった。そろそろ日の光が傾いてくる時刻だ。部活に向かう人々の足音があ
ちこちで響いている。
僕は今日、遅ればせながら部活の見学にやってきたのだった。
何故二ヶ月も経ってからそのようなことをやっているのかというと、簡単な理由がある。僕の家族は入学式の一週間前この町に引っ越し
てきたばかりなのだ。そのごたごたが一段落するまで二ヶ月もかかってしまった。
母は働き者のいい人なのだが何しろ力がない。重い荷物をあちらこちらするには僕達兄弟の力が必要で、僕達兄弟はそれほど働き者では
ない。それゆえまあ、仕方のないことだった。
さて、そんな間にも僕は一階から最上階までを三往復している。それでもなかなかお目当ての部室は見つからない。周囲には人の姿もい
なくなり、音楽室からのピアノの音しか聞こえてこない。
「あの、すみません」
それからまた数分、僕はようやく近くを通りかかった女生徒に声をかけた。
「文芸部は何処でしょうか」
女生徒は丁寧に説明してくれた。だが最後に一言
「今はどうなってるか、分からないけどね」
なにやら不穏な言葉を付け加えて立ち去った。
よくわからないまま、僕はコンピ研の二つ隣のドアの前に立つ。そこでようやくその意味が少しだけ飲み込めた。
ところで僕はちょっとした読書家である。僕が小さい頃から単身赴任していた父の書斎――といってもアパートの一室に過ぎなかったの
だが――は、膨大な量の本で溢れていた。絵本から分厚いハードカバーまで、ジャンルは純文学からライトノベルまで幅広く集めていたよ
うだ。
お父さんっ子だった僕は父の単身赴任が寂しくてよくこの部屋に篭ったものだった。自然、本に手が伸びる。その一冊がかの有名な「百
万回生きた猫」である。
僕は本にのめりこんだ。父の書斎が僕の遊び部屋になった。毎日本を読んで過ごした。
絵本から児童書、児童書から文庫本やハードカバーとランクアップしていき、中学を卒業するまでには――つい最近だが――あらかた読
み尽くしてしまった。その頃には僕は妙な高ぶりを胸の中に見出していた。
僕の楽しみは物語の中を自由に泳ぎまわることだ。あるときは僕は中世の騎士になり、またあるときは未来の探検家になり。様々なスペ
クタクルをバーチャルリアリティとして体験してきた。だが、僕はそれでは満足しなくなった。
僕は僕だけの世界を創造したくなったのだ。
自分で作った世界の中を泳ぎまわりたい。そして、僕の作った世界に他の人々が感動し、喜んで欲しい。そんな野望がいつの間にか心に
居座っていた。
要約。僕は本を書きたくなった。
高校に入った暁には文芸部に入って物語を書き散らしてやろうと思っていた。
さてしかし、ここで僕に問題が立ちはだかる。ドアの上にある表示。僕はそれを読み上げた。
「SOS団」
僕は少し考えた。場所を間違えているということはない。
どれほど探し回っても見つからない文芸部。加えて先程の女生徒の違和感のある言葉。
……文芸部は、ない?
僕は荷物を床に下ろした。また、少し考える。
それからおもむろに荷物を取り上げ、目の前のドアをノックした。
「どうぞ」
応答の低い声。僕はドアを開けた。
男子生徒の姿がある。奥の、三角錐の乗った机についていた。
第一印象はその雰囲気よりも、長めのもみあげだ。適当に短く切ってそのまま伸ばしました的な髪型の中、それが何となく目を引く。僕
のヘアースタイルと似ていなくもない。
顔だちは精悍。全体的にぱっとしないたたずまいの中、その容貌は僕の目を引いた。ほんの少し、羨望を覚えた。
彼は突然の来訪者に向けるものとしては少し大袈裟な表情で、僕の顔を見ていた。
「あの、僕」
「僕?」
最近、一人称を「俺」に変えようかどうかで迷っている僕には少々不愉快な聞き返し方だった。
彼はしばらく間を空けてから首を振った。
「いや、なんでもない。何か用か?」
「あの、文芸部のことなんですけど……」
「ああ」
彼は訳知り顔で頷いた。
「このSOS団の前身が文芸部だ」
「今はこの通り、SOS団の部室となっている。知らないか? SOS団」
質問は無視してしばらく頭で反芻し、僕はうなだれた。つまるところ、文芸部はなくなってこのへんちくりんな名前の部活だかサークル
ができたのだ。僕の野望は早くも潰えかけた。
「と、言ってもだ」
僕の事情を見て取ったのか、彼は声を上げた。
「これが微妙なんだよ、新入生君」
彼は僕の左隣に目を向けた。つられて見ると、本棚とぎっしり詰まった本がある。
「見ての通りここには本が沢山ある。それにだ、実はこのSOS団、人数不足で廃部の危機に瀕している。」
僕は眉をひそめて聞く。
「つまり、どういうことです?」
「文芸部復活も有り得るかもな。良かった良かった」
「はあ……」
どうリアクションしたものか困った。この部室にいるということは、この人はSOS団とやらの所属だ。ならばSOS団の継続を望んでいても
おかしくはない。むしろ、当然のことだ。
「その通り。俺はSOS団を潰す気は全くない」
「そう、ですか」
予想していたこととはいえ、僕は緊張し声を強張らせた。
「君にも協力してもらいたい」
「はあ」
一瞬、反応が遅れた。
「はい?」
彼は席を立ち、歩み寄ってきた。目の前に立つと僕より頭ひとつ分背が高いことが分かる。
彼は聞き返した僕の声を無視して告げた。
「俺のことはキョンと呼んでくれ。よろしく」
これが僕とキョンさんの出会いだった。
※
キョンさんは三年生だそうだ。
「取引しよう」
いきなりすぎて俄かには飲み込めない。
「どういうことですか」
キョンさんは僕の目を真っ直ぐに見た。
「いいか。俺はSOS団を延命させたい。お前は文芸部を復活させたい」
初対面の人にお前呼ばわりされる筋合いはない。そう思ったがこらえた。名前は名乗ったはずなのだが。
キョンさんは雄弁に続ける。
「だから、最初はお前が俺の勧誘活動を手伝う」
「ちょっと待ってください。何で僕がそんなこと……」
話が急だ。それに僕に何かメリットがあるとは思えない。
どうやらキョンさんは、僕が生きてきた中でもトップレベルに変な人のようだ。
「まあ聞けよ。もしもSOS団復活が失敗したら、今度は俺がお前を手伝う」
僕は疑問符を浮かべた。
解説するようにキョンさんは続ける。
「部の設立ってのはな、結構面倒なんだぞ。各種書類を取り揃えたり、教師を説得したり、人数を集めたりな。それを全部俺が引き受ける
。文芸部員の人数合わせに名義も貸す。どうだ?」
「……」
少し考えて、悪くない話だと思った。書類ももちろん大変だが、何より他二項目がコミュニケーション力に乏しい僕を不安にさせた。
彼が一言付け加えるまではそう思っていた。
取引の承諾を告げようとした僕に、
「じゃあ手始めに、お前はSOS団に入ってもらおう」
……やっぱり騙されたような気がした。
取引を破棄しようとした僕は「もう閉めるから」と追い出された。
「明日の放課後にまた来いよ」
いや、僕はまだ同意していないのだけれど。
「またな」
待って!
ドアが閉まった。
僕は部室の外に立ち尽くした。ふと右手を見るといつの間に握らされたのやら、入部届けがあった。
家に帰った僕はだいぶ迷った末、とりあえず取引に乗ってみることにした。落ち着いて考えてみても悪い話ではないと思ったし、キョン
さんは変な人に見えても悪い人のようには見えなかったからだ。
ついでに言えば、SOS団がそう長くは見えなかったからである。新入生で溢れるこの時期、あの時間帯に一人ということは人数には本当に
困っているに違いない。調べたところ、部の体をなすのに必要最低限の部員数は五人。それすらも危うそうだ。
この時期は新入生が仮入部から本入部に移る。帰宅部組もそれを貫く決意をするころである。つまり、SOS団の復活はかなり厳しい。
この取引、僕の勝ちだな。
「僕、部活に入ることにしたよ」
「まさかとは思うけど運動部?」
「SOS団」
「……救難信号? それって何をする部活なのかしら?」
……そういえば、何をする部活なのだろう。
「何もしないぞ」
次の日の放課後。入部届けを受け取ったキョンさんは、なんでもない事のように言った。
「何も、ですか……」
「逆に言えば何でもするってことだけどな」
それはつまり、……どういうことなのだろう。
「普段はただ駄弁っているだけだ。そこにあるボードゲームをするなり、本を読むなりしてればいい。」
「はあ」
「だが、たまに大きなことをやるんだ。前は、そうだな、野球大会に出たな。夏は海に行ったし、文化祭には映画を撮ったりしたな。あと
、ライブもやってたっけ」
どこかで聞いた話だなと考え、思い至る。
二ヶ月前、教室で聞いた謎の部活と合致する。
「一人でですか?」
「違う違う。前はもちっと人数がいたんだ。今はこんなんだけどな」
僕は部室を見回した。それほど広くはない。部室としてはごく標準的な広さだ。ただ、一人では持て余す。
一人でいるには、広すぎる。
「他の部員の方は……」
「……えっとな」
彼はちょっと顔をしかめた。
「俺とお前だけなんだよな、これが」
とりあえず昨日の見立て通りのようだった。
立っているのもだるくなったので、断って適当な席に腰を落ち着ける。ちなみにキョンさんは昨日と同じ奥の席だ。パソコンがついてい
た。
「いや、正確に言えば四人なんだけどな」
二人来ていないことになる。
つまり、
「……幽霊部員、とかですか」
「まあ、そうなるな」
キョンさんはパソコンに目をやった。何処かのホームページを閲覧しているようだ。
「長門有希と、古泉一樹」
ポツリ、といった感じでキョンさんが呟く
「はい?」
「その二人の名前だ」
キョンさんはちらりとこちらを見た。
「二人とも三年生だ。見た目は普通だ。だがな」
なぜかふっと笑う。
「宇宙人と超能力者だ」
いきなり何の話だ。
「はい?」
「いや、なんでもない。ただ、気をつけろって忠告しただけさ。頭のおかしい奴らには関わるなってな」
そして僕の目を見て言う。
「そいつらと会うな。話しても信用するな、疑ってかかれ」
妙に力の篭った目。
ああ、あと、と続ける。
「同じく三年の谷口と国木田、この二人にも気をつけろ。こちらは一般人だが信用ならんぞ」
僕は何のことかわからず、とりあえず曖昧に頷いておいた。
しばらく沈黙が流れた。キョンさんのクリックの音だけが部室を満たした。
所在がなくなって、僕は口を開く。
「あの、僕は何をすれば」
「さっき言ったろ? 自由にしててもらって構わん」
そうですか。
僕は本棚の傍に移動し、適当に一冊抜き取った。分厚いハードカバー。ぱらぱら捲ってみると、どうやらSFらしい。
これを読むことに決めた。
静かな時間が流れた。部屋にはカチカチいう音と、紙を捲る音だけが響く。
悪くないな、と僕は思った。文芸部復活はまだ先だけれど、こんな風に静かに読書できるのなら我慢もできそうだ。
日が音をたてそうなくらいゆっくりと傾いていく。
夕日が窓を赤く染める頃、適当なところで本を閉じた。
――――パタン。
視線を感じた。
逆光の中、キョンさんが不自然に動きを止めてこちらを見ていた。
「どうかしました?」
「……別に」
キョンさんはパソコンに目を戻した。
僕は声をかけてから部室を後にした。
鼻歌を歌いながら、部室に向かう。
入部から三日。僕らは初日から変わらない活動――そう呼べるかどうかも怪しいが――を続けていた。
部室のドアを開ける。
「よう」
「どうも」
キョンさんと軽い挨拶を交わす。
席に着く。
さてここからが昨日までとは違う。
僕は買って来たばかりのまっさらな原稿用紙を机に広げた。
キョンさんが早速興味を示した。パソコンから目を離し僕に声をかける。
「なんだそれ」
「物語を、書くんです」
わくわくする胸をおさえながら答える。
そう、僕はついにかねてからの計画を実行に移すことに決めたのだ。
キョンさんに、僕が文芸部に入ろうと思い至った経緯を熱を込めて話した。
「――そうか、頑張れよ」
が、僕の野望を聞いたキョンさんの反応はそっけない。
少々カチンときたが、他人の夢なんぞ、確かに僕もあまり興味なかった。
一文字目で悩むというのはよく聞く話だが、僕はその例に漏れた。話の書き出しはさらさら書ける方のようだ。
快調な書き出しだ。僕は満足して筆を進める。
そんな時。
「お前、身長何センチ?」
170cmぴったりだ。
「それがどうかしましたか?」
こちらを見るキョンさんと視線を合わせる。
「いやなに……ちょっとな」
なんだろう。僕の身長がどうかしたんだろうか。
それきりパソコンをいじり始めたので、気にせず意識を原稿に戻した。
一時間、二時間。前から温めていただけあってするする進む。どんどん書ける。ようやく十枚ほどになろうというとき、尿意を催した。
「……ちょっとトイレ行ってきます」
思えば、僕はこのときもうちょっと注意しておくべきだったのだ。
次の日。僕は部室に変なものを見つけた。
「……」
テーブルの上にSOS団の宣伝、勧誘のビラが一山。一枚を手に取ってみる。
『SOS団に入ろう!』
ポップな字が目を刺激する。
「『SOS団は、不思議を探索し見つけ出す部活です。世の不思議に興味のある少年少女の諸君! 不思議にまみれた生活をしてみませんか?
また、不思議を発見し、悩まされている諸君。SOS団に相談してみませんか? たちどころに解決して差し上げましょう!』」
読み上げて嘆息する。
「まみれた、って……」
実はこれはまだいいのだ。僕は視線を右にずらした。そこに袋がある。大きな袋だ。その中には。
黒と白のスーツ、清潔なパリッとしたワイシャツ、金のジャラジャラしたネックレス、エナメルの靴、高そうな時計、靴下、なぜか鼻眼
鏡。それぞれ二つずつ。
僕は服飾に詳しくはないが、全てどこぞのブランド物であることぐらいは分かる。鼻眼鏡以外。
「何だこれ?」
テーブルに並べて思案していると、
「黒と白、好きなほうを選べ」後ろから声をかけられた。
「選べって……何ですかこれ?」
遅れて部室に入ってきた彼に言う。トイレにでも行っていたようだ。
「見て分からんか」
見れば分かる。正真正銘の…………ホストスタイルだ。
「いや、聞きたいのは何に使うかです」
「着る以外に何かあるか?」
まあ当然だ。
が、僕が聞きたいのはそういうことじゃない
「何で着るんですか」
彼は心底呆れたようだった。僕ももちろんこの会話に呆れていた。
「勧誘のためだ」
……嫌な予感はしていた。この部活はバニーさん姿で勧誘するようなところなのだ。まさかと思ったが違っていて欲しかった。
「ちょっと待ってください、やりませんよ僕!」
必死で主張する僕に、
「じゃあ取引は無効だな」
僕は一瞬言葉に詰まったが、取引とホスト姿での勧誘を天秤にかけてすぐに判断した。
「分かりました、無効にでも何でもしてください」
「『別にあんたのためにやったんじゃないんだからね!』」
――空気が凍りつく。ぎしり、と音がしたような気がする。僕の顔が引きつった音だ。
「な……んで……」
「まさか今日びこんな台詞使う作家様がいらっしゃるとはね」
キョンさんは笑いながら一枚の原稿用紙を机から引っ張り出した。
僕は本好き少年だ。父の書斎で毎日本を読んで過ごした。例え地震が起こって本に埋もれて死のうとも悔いは残らない。むしろ本望だ。
それぐらい本が好きだ。これは前に述べた通り。
さて、父の書斎には本が沢山あった訳であるが、その中でひときわ目を引いたのが、その…………ライトノベルというやつである。
もちろん純文学やミステリーの方が数段奥が深いし、面白い。だが、何故なのだろうか。僕はライトノベルという奴にいたく惹かれてし
まうのだ。
安っぽい、剣と魔法とSFのめくるめくアドベンチャー。僕はいわゆる小説のB級グルメというやつかもしれない。
萌えもかなりのところで理解しているつもりだ。っていうかいいじゃん、萌え。萌え最高。
と、言うわけで僕が書いていたのは……
「ライトノベル、だな」
言葉を失って口を金魚みたいにぱくぱくさせる僕を尻目にキョンさんは音読を始めた。
「『まずはそのふざけた幻想をぶち殺す――』」
「か、返してください!」
奪い取る。キョンさんは意外にも抵抗しなかった。ただニヤニヤとこっちを見ているだけだ。
「これ、他の生徒にばれたらどうなるかなあ?」
小説を書いていることも僕にとっては何となく恥ずかしいことだが、もっと大きな問題はこれがライトノベルだということである。
ライトノベル。十代の少年少女のための本。
しかし最近では、俗に言うオタクという人種が読むものであると認識されている。
一般的にオタクは世間に歓迎されない。
考えすぎならいい。しかし下手をしたら僕は高校の三年間、偏見の目で見られ続けることになり、やっと出来た友達ともおさらばしなけ
ればならなくなるかもしれない
「……脅しているつもりですか?」
昨日トイレに行っている間に抜き取ったのだろうがしかし、取り返してしまえばこちらのものだ。
「いや別に」
だが、その顔はにやけ笑いを貼り付けたままである。
「で、どうする。やるのか? やらないのか?」
「……」
やるわけがない。
「コピーもあるぞ」
途端、僕はがっくりと首を折った。
薄汚れた床と埃が視界に入る。
「ずるいですよ……」
「団長命令は絶対だ」
キョンさんはニカッと笑った。何処となく似合わない笑い方だな。そう思った。
そして今、僕はキョンさんがネット注文した白いスーツに身を包み、ビラ配りをしている。
「SOS団をよろしくお願いします……」
放課後の校門前、帰宅部の連中が続々と玄関から出てくる。高校生の部活離れが深刻というが、本当かもしれないなと僕は思った。
空はクリーム色で、夕焼けが近いことをほのめかす。
だが、僕には空を眺めている余裕はない。周囲から浴びせられる訝しげな視線にひたすらに縮こまっていた。視線が突き刺さるという慣
用句を今、身をもって体感している。
「幸い、俺も新入生君も見てくれは悪くない。楽勝だろ?」
キョンさんははそう言っていた。それがまあ本当だったとして、しかし鼻眼鏡が全てをぶち壊しにしている気もしないではない。鼻眼鏡
を通して見る風景はえらく煤けて見えた。
ところで考えることを忘れていたが、教師達はどうしたのだろう。こんなふざけた格好で、しかも無許可で勧誘を行っていることが分か
れば黙っているとも思えないのだが。
「世界を大いに盛り上げる涼宮ハルヒの団をよろしく!」
僕の背後から大きな声が上がった。首だけ振り向くと、キョンさんが黒い方のスーツを着て通行人に声をかけているところだった。
キョンさんの方は、この奇異の視線が降り注ぐ中少しも怯んだところを見せない。どれだけ図太い神経か鈍感力を持っているのだろう。ちょっと羨ましくなった。
キョンさんはこちらに気付くと、僕の気分を知ってかしらずかウィンクを寄越した。とても良く似合っているが、気持ち悪い。
僕は努めて現実から目を逸らそうとした。キョンさんのさっきの台詞について考えよう。『世界を大いに盛り上げる涼宮ハルヒの団』。
涼宮ハルヒとは誰か。
SOS団というのは『世界を大いに盛り上げる涼宮ハルヒの団』の略語なのか。
「SOS団をよろしく……」
そんな僕の努力も実らず、声は小さくなる一方だ。
そんなこんなで人が少なくなってきた頃のことだ。玄関から小柄な女生徒が姿を現した。物静かそうな印象で、何処となく僕と同じ匂い
を漂わせている。つまり、読書家特有の雰囲気だ。
「SOS団をよろしくお願い――」
声をかけられるまで近寄ってハッとした。静かな美貌が僕の目を射抜いたからだ。
すべての音を吸い込み、まわり一帯を無音にしてしまいそうな雰囲気。喩えるならば雪。どこか冷徹で、それでも優しい美しさ。派手で
はないけれども、美人には違いない。
彼女は意外にも足を止めて、僕を不思議そうに見上げた。
「SOS団?」
「あ、はい」
変な名前に反応したのだろう。その気持ちはよく分かる。部活名からはその活動内容を推し量ることは難しい。
「その、活動内容はビラを読んでもらえば分かるんですけど」
自分で言っといてなんだがビラを読んでも分かるわけがない。
「もし良かったら見学にでも」
「……」
彼女は僕を探るように見上げてきた。その眼の中に鼻眼鏡をかけた自分を見つけて、僕は居心地を悪くした。そんなに見ないで欲しい。
数秒間見つめあった後、
「……そう」
ビラも受け取らずに行ってしまった。僕はその背中を見送る。不思議な人だ。お互い様だけど。
「あいつが長門だ」
いきなり声をかけられて肩を震わせた。キョンさんが真後ろに立っていた。
足を止めた女生徒一人に先程まで熱弁をふるっていた彼は、難しい顔で僕と長門さんとやらの背中を交互に見た。
考えて、すぐに思い出す。幽霊部員の名前。
「あの人が……」
「見てくれに騙されるな」
キョンさんは頭の上で指を回した。
「気をつけろよ」
「そしてあいつが」
キョンさんは玄関を指差す。
「古泉だ」
玄関から長身の人影が姿を現す。見たところキョンさんよりも更に頭一つ分背が高い。
歩いてくるにつれて。その相貌が明らかになる。
涼やかな目元、高くはないが綺麗に筋が通った鼻、薄い唇、ほっそりした顔の輪郭。何より目を引くのはそのモデルじみた長い手足だ。
「すごい……」
僕は羨望を覚える余裕もなく呟いた。
古泉さんは凝視している僕らの前を通り過ぎていった。俯いていて、僕らには目もくれない。
そのままその背中を見送る。肩をすぼめた、大きくて小さい背中だ。
「かっこいい人ですね」
「頭さえ変じゃなければな」
古泉さんは超能力者、だったか。それが本当ならば、確かに変な人なのかもしれない。
「そして」
キョンさんは再び玄関を指差した。
「タイムアップだな」
ちょうど教師が玄関から飛び出てくるところだった。
「やれやれ、だ」
キョンさんは意外にも素直に退去に応じた。
今は部室で、この数日間で決まった定位置についている。
ビラは半数以上余ってしまった。
「まあ、予想はしていたけどな」
彼は笑いながら言った。じゃあやらせるなよと思う。入学して間もない今、教師に目をつけられるのは正直勘弁なのだ。
「それなら手遅れだぞ」
「は?」
「SOS団は悪名高いからな」
キョンさんはSOS団の過去の武勇伝を語りだした。
いわく、女性陣がバニー姿になって勧誘活動をしただの――これは既に知っている――、備品を各所からかっぱらってきただの、パソコ
ンもそのときのものだだの。
なんということか。僕は知らなかったとはいえ、このような不良集団の一員になってしまったのか。
がっくりきている僕とは対照的に、キョンさんは実に生き生きと語っていた。
「……酷いですね」
「ほとんどハルヒ一人のせいだけどな」
僕はあっと思って聞いてみる。
「勧誘のときも気になってたんですけど、涼宮ハルヒって誰なんですか」
ああ、とキョンさんは頷いた。
「前部長だよ」
「前?」
「……転校しちまったんだよ」
キョンさんの表情が曇った。沈鬱がその表情の上を横切った。
キョンさんには悪いけれど、僕は転校してくれて良かったと思った。キョンさんみたいなのが二人もいては僕の心身が持ちそうにない。
キョンさんはしばらく押し黙った。
西日が窓から差し込んでいる。それほど経たないうちに暗くなるだろう。
今日はそれでお開きになった。
※
勧誘の次の日の昼休み、僕は三年生の教室がある階にいた。キョンさんに時計を返すためだ。
うかつだった。昨日は外すのを忘れてそのまま帰ってしまった。
まあ、放課後に部室で返せばいいのだが、高そうな時計だけに僕は落ち着けない。もし盗られでもしたら弁償できる自信がない。
キョンさんの教室は知らなかった。とりあえずのあてずっぽで教室の一つに足を踏み入れる。
ざっと見回してもキョンさんの姿はない。だが、念のため近くの男子生徒に声をかける。こちらに背を向けて弁当を食べている生徒だ。
「すみません、キョンさんという人を探しているのですが」
本名は知らなかった。何となく聞くのを忘れていた。だからニックネームで聞いたわけだが、通じるだろうか。
男子生徒は振り返って僕を見た。
小さく、はなれた目。低い鼻。緩んだ口元。言っては悪いが頭のよさそうな顔には見えない。
彼は僕を見て硬直した。目を僅かに見開いて僕を凝視する。
「キョン……?」
「? ええ、その人を探してるんです、ご存じないですか?」
僕を見るその目に既視感を覚えた。あれは……なんだったか。
彼はしばらく僕をじろじろ眺め、息をついた。それからなぜか表情を険しくする。
「お前、ふざけてるのか?」
「はい?」
良く意味が飲み込めない。
「キョンならいねえよ、何処にもな」
ぶっきらぼうに言い放って食事に戻った。一緒に食べていたもう一人の男子生徒も訝しげな視線を僕に投げ掛けている。
何だか、よく分からない。分からないが退散した方がよさそうな空気を感じた。僕は元来臆病だ。不穏な空気には人一倍敏感である。時
計は放課後にでも返せばよい。
――階段を下りながらふと思い出した。キョンさんの目だ。先程の男子生徒の僕を見る目。それが初めてキョンさんと出会ったときに僕
を見たときの目と同じだった。
「キョンさんって、誰かに嫌われているとかありませんか?」
「はあ?」
放課後のSOS団部室だ。時計を返し際、聞いてみた。
「心当たりはなくもないな」
「そうですか」
まあ、誰にも嫌われずに生きていける人なんていない。あれがたまたまキョンさんを嫌っている人だったのだ。僕は深く考えるのをやめ
た。
「それはどうでもいいとして、そろそろ僕の原稿のコピー、返してくださいよ」
「取引が終了したらな」
キョンさんはにべもない。
今日の活動は部室での駄弁りではない。キョンさん作のポスター貼りとこの前余ってしまったビラの設置だ。ポスターにはビラとそう変
わらない内容が書かれている。全体的にけばけばしくて、正直デザインの趣味はよくない。
廊下を歩いて掲示板は程なく見つかった。しかし。
「あの、無断で掲示物を掲示しないようにって書かれてるんですが」
「構うかそんなもん。貼ったモン勝ちだろ」
躊躇する僕に構わず、一人でてきぱきとポスターを貼り終える。
「ぼさっとすんな。ほら」
僕もしぶしぶとビラを一山置いた。こういうことに慣れてきている自分を発見する。いい気分はしない。
その後は特に会話もせずせっせと各掲示板をまわった。
翌日。掲示板からはSOS団のポスターだけが綺麗に消えていた。
「まあ、予想はしていたけどな」
勧誘活動の日とまるっきり同じ台詞だ。予想していたなら、わざわざ無駄な労力を使うこともなかろうに。
部室でキョンさんが用意したオセロをしながらの会話である。
「もっといい宣伝方法はないもんかね」
「まだやるんですか……」
「もっと派手で、効果的な宣伝――」
キョンさんは僕の声を無視して思案を続ける。その隙に僕は角に一枚置いた。
「ふむ……」
キョンさんも一枚。考えながらも手は止まらない。
しばらくたった後、キョンさんはいきなり立ち上がった。
「そうだ、あれがあるじゃないか」
あれとは何か。嫌な予感が身体を駆け巡る。
「今日はお開きだ。準備があるからな。それじゃ!」
そう言うなり部室を飛び出していった。
僕は後に残されボードを見た。終盤を迎え駒を置くスペースが少なくなってきたそれは、ほとんど黒一色で覆われようとしていた。
僕は、白だ。
※
「何ですかこれ!」
数日後の青空の下、僕は声を張り上げる。キョンさんは屋上の端から下を覗き込んでいた。
しばらくそうした後、こちらに歩いてくる。
その先、僕の足元。そこには長大な布がとぐろを巻いていた。
「知らないか。良く『祝・甲子園出場!』とか書いてあるやつだよ」
あんぐりと口を開けた。良く垂れ幕なんて用意したものだ。
「そんなもの絶対許可下りませんて」
「許可は得るものじゃない、奪うものだ」
無茶苦茶だ。
そんなことを思っている間にもキョンさんは垂れ幕を抱え上げている。
「ほらそっち持てよ」
「……」
しぶしぶ持ち上げる。弱みを握られているとはいえ、言われるがままというのは非常に情けない。相当に、格好悪い。
端のほうを屋上の隅に固定し、空に投げ放つ。垂れ幕は階下に落ちながら重たげにはためいた。
『SOS団に入ろう!』
これも明日にはなくなっているんだろうな。虚しく確認した。
校舎が高台にある上に屋上だ。町並みがよく見えた。
ふと下を見ると、生徒の何人かがこちらを見上げているのが目に入った。一人は指を指している。
「さ、戻るか」
「……ええ」
垂れ幕は実に三時間ほど校舎にはためくこととなった。
数日後。一人、SOS団に訪問者があった。ただ、キョンさんにとっては残念なことに新入生ではない。
「教師も大袈裟だよな」
チェスの駒をつまみながらキョンさんが言う。
「ちょっと羽目外しただけだって」
駒を置く。
「ほれ、チェック」
「あ」
慌ててキングをつまみあげて安全地帯に逃がす。
「……でも仕方ないですって」
教師だって仕事である。学校の風紀はしっかり護らなくてはならない。
「それより、誰も来ませんね」
閑古鳥が鳴いている。
訪問が全くなかったわけではない。が、そのほとんどは冷やかし目的の客だった。
前二回の宣伝は、一般的な部活に比べだいぶ派手だったと思う。その宣伝効果は計り知れない。しかし悲しいかな、その奇抜さは、人々
の好奇心を刺激はしても、入部を喚起するには至らないのだ。
遠くから見ていると面白いけれど、知り合いにはなりたくない人。どうやらSOS団はそのような立ち位置に収まってしまったらしい。
「あと一押しだな」
……キョンさんは何かを勘違いしているらしい。僕はこっそり溜息をついた。
「あと一押し、何か……」
そのまま考え込み始めた。頼むからへんなことは思いつかないでくれよ。
「……よし、じゃあ、あれだ。」
僕の願いは天に届かなかった。キョンさんは椅子を蹴って立ち上がる。
「待ってください、あれって何ですか!?」
キョンさんは聞いちゃいない。そのまま荷物を持って飛び出していった。
肩を落として盤面に目をやる。後一手でチェックメイト、彼の勝ちだった。
何回やっても勝てない。ついにはクイーンなしのハンデをつけてもらっての敗北である。
窓に目をやった。西日が目を刺激する。僕は目を細めた。
※
「今度は何なんですか」
翌日、再び屋上である。
雲が空を覆う陰鬱な天気だ。だが雨は降りそうにない。
「まあ見てろって」
キョンさんは何処から持ってきたのか、何かのガスボンベを転がしながら言う。
その足元にはビニール製のグニャグニャが、円形に広がっている。紅白に色分けされたそれはどこかで見覚えがある。
キョンさんはあちらこちら動き回り何がしかの準備をしているように見えた。僕も手伝った方がいいのだろうかと問おうとしたとき、
「なあお前」
作業を進めながらふとキョンさんが口を開いた。
「お前は自分がこの地球でどれだけちっぽけな存在なのか自覚したことはあるか?」
「はい?」
キョンさんがこちらを見る。手は止めないままで。
「ある少女が野球場に行ったんだ。そこで今まで見たこともない程の数の人々を見た。この野球場の中に日本中の全ての人々がいるんじゃ
ないかと思ったそうな」
何か語り始めた。僕は片方の眉を上げてみせる。
「へえ」
「まあそんなわけがない。野球場に入る人数なんてたかが知れてる。少女は呆然とする。自分は日本の人口のたった一部の中の、そのまた
たった一人に過ぎないんだと」
「……ありそうな話ですね」
「彼女は気付いた。自分が今世界で一番楽しいと思っている出来事も、日本全国、いや世界においちゃ実はごくごくありふれたことなんだ
って」
ボンベにチューブを繋ぎ、グニャグニャの端っこに取り付けた。
「そこで彼女は考えた。面白いことは待っていてもやってこない。自分で探しに行かないと駄目なんだ、ってな」
キョンさんは満足げに締めくくった。
オチがあると思った僕は、いささか拍子抜けする。
「その話、どういう教訓なんですか?」
キョンさんはぐい、とボンベを立たせた。
「面白い目にあいたきゃ努力を惜しむなってことだよ。……っと終わったぞ」
キョンさんはグニャグニャの上から身体をどけた。僕にもどくように手で合図する。
ボンベの栓を開けた。空気の流れる音が聞こえ始める。
しばらくしてグニャグニャが膨らんでいることに気付いた。どんどんどんどん膨らんでいき、数分後にはまん丸になってしまった。
キョンさんがチューブをはずすとゆっくりと空に昇っていく。その下に、『SOS団に入ろう!』と書いた垂れ幕をぶら下げて。
「アドバルーン……」
「垂れ幕は駄目だがアドバルーンは駄目だとは言われていない」
「そんな理屈がありますか」
僕は苦笑した。そろそろ僕にも免疫が着き始めたらしい。それはもちろん良い兆候ではないのだろうが。
浮揚しきったアドバルーンが曇り空の中、風に揺らめいた。
空の向こうに雲の切れ目が見える。それほど経たないうちに綺麗な夕焼けが姿を現すだろう。
僕達は屋上を後にした。
※
本は神が与えたもうた至宝である。僕は半ば宗教的なまでにそう信じている。
文字を発明して以来、人類はその溢れる英知を余すところなく粘土に、羊皮紙に、紙に書き連ねてきた。その量は膨大にして莫大で、失
われたもの、公になっていないものを含めれば、何度輪廻を繰り返してみても読みきれないほどのものである。
本によって人は学び、知り、人間らしく生きることが出来る。文化の発展も、大部分において本が担ってきたことは動かしがたい事実で
ある。
ならば、それら本の集積地たる図書館はいわば神の御座所なのだ。
以上が僕の持論。
市立図書館を見上げながら胸中で締めくくった。
SOS団入部から三回目の休日である。何故僕がこんなところにいるのか。説明するには前日にさかのぼらねばならない。
「不思議探索……ですか?」
部室でババ抜きをしながら発した言葉である。
「明日、空けておけよ」
開けるも何も前日に言われてはどうしようもない。明日は友人と映画を見に行く予定がある。
「んじゃ、そっちはキャンセルだ。部活動の邪魔になる」
「そんな無茶な」
「『別にあんたのために――』」
はいはい分かってますよ。僕に拒否権はないんでした。
やけくそで引いた最後のカードは、ジョーカーだった。
というわけで今日の朝、駅前に集合したのだが。
「結局不思議探索って何をするんですか?」
駅前からすぐの喫茶店だ。人の入りはそこそこといったところか。
テーブルに着き、コーヒーをすすりながらキョンさんが答えた。
「複雑なことは何もない。二手に分かれて街を歩き回り、不思議を追い詰めるんだ」
つまり、街中をちょっと普通と違った趣向で散策すると。そういうことらしい。
「それは何処を探索しても構わないということですか?」
「まあ、そうなるな」
そんなわけで、僕は図書館にやってきたのだ。
ここに不思議があるかといえば、僕は全然そうは思わない。だからこれはサボタージュという奴だ。
長方体を寝かせた形の図書館は、周りを一周するのに数分を要する大きいものだった。
初めて訪れたがその蔵書量には期待できそうだ。
開館してすぐの図書館には人の姿はまばらである。若者の姿が割に多い。若者の活字離れが深刻というが、僕は半信半疑だ。
僕は文学の棚を物色し始めた。
有名どころはあらかた読んだつもりだが、まだまだ未読本はなくならない。一生なくならないだろう。一生の内に読める本は限られてい
る。残念なことだがこれは仕方がないことだ。
感慨深く本を眺めて数十分が経った頃だろうか。僕はカウンターの近くに変な人を見つけた。落ち着かない様子で行ったり来たりを繰り
返している。
「……」
しばらく観察して、ようやくその人が貸し出しカードを作りたがっていることに気がついた。係員は奥にいるのか、カウンターには姿が
ない。
僕はちょっと考えて――それからきびすを返した。
そのうち係員も気付くだろうし、余計なお節介はするべきでない。そう思ったのだ。
……尻込みしたわけではないというと嘘になる。僅かとはいえ、後ろめたさも感じた。
そのときだ。目の端に見覚えのある顔を見つけたのは。
「あ」
休日にもかかわらず北高の制服。小柄な体躯。揺れるさらさらのショートヘア。
名前は確か……長門。長門有希さんだ。
長門さんは迷わず真っ直ぐにさっきの彼に近づいた。話しかけ、奥の係員に声をかける。それから申込用紙らしきものを彼に渡しててきぱきとカードを作ってしまった。
手伝ってもらった彼は彼女に何度も頭を下げて図書館を出ていった。
僕は溜息をついた。長門さんがやったことといえば、たださっきの彼に声をかけてカードを作る、それだけだ。しかし、僕はそのどこか洗練された所作に一種芸術的なものを感じてしまったのだ。
長門さんはすぐ近くの席に着くと、読みかけらしき本を開いた。
『長門とは会うな。話しても信用するな』
記憶の中の声に首をかしげる。先程の出来事を見る限り、僕には長門さんが悪い人やおかしい人には見えなかった。ならば何故キョンさんはあのようなことを言ったのだろうか。
長門さんの横顔を見つめる。湖面のような静かな無表情で本を捲っている。年齢に不釣合いな落ち着きを持っている以外は不審な点は見つけられない。変人というならばキョンさんのほうがよっぽど変人である。
変人の言う変人。それはつまるところ――普通の人のことではないだろうか。
「あの」
僕は気がつくと、長門さんに声をかけていた。何か考えがあってのことではない。声をかけたことに僕自身が驚いていた。
「……」
長門さんは無言で顔を上げて、色の薄い目で僕を見据えた。瞬間、僕は緊張を覚えた。
「いや、あの、突然声をかけてすみません。その、ビラ配りをしていた僕です。放課後に。SOS団の」
長門さんはしどろもどろに話す僕をひとしきり眺めた。長い睫毛が揺れ、氷柱のように冷たい視線が僕を上から下まで撫でる。僕は知らず冷や汗を流した。美人は好きだが苦手だ。
長門さんは向かいの席を示した。
「座る?」
僕は「ど、どうも」と席に着いた。しかしそこで言葉に詰まる。
そもそも僕は何を話したくて長門さんに声をかけたのだろうか。自分でもわからない。
それでもとりあえず何か言わなくてはなるまい。
「長門さんも、その、SOS団の団員なんですよね」
「……」
長門さんは何も言わなかった。言わなかったが何処となく纏う空気が微妙に変化した。予想するに、これは……警戒の類だ。
「いや! あのですね」慌てて付け加えた。「僕もSOS団団員なんでキョンさんから聞いたんです、長門さんもSOS団だって」
「キョン?」
長門さんが鋭く囁いた。
長門さんの視線が鋭くなった。僕の目をぴたりと見据える。
「……キョンさんがどうかしましたか?」
長門さんは僕の目を見たまま無言を保った。何かを探ろうとしているようにも見える。僕は視線を逸らしもぞもぞと尻の位置を直した。
「彼は」ようやく口を開いた長門さんは幾分警戒の色を収めてくれたようだった。「なんと言っていた?」
「……長門さんを信用するなと。よく分かりませんけど」
「そう……」
長門さんは更に質問してきた。
「彼には変なところはない?」
「いや、全体的に変ですけど……」
「他の団員については聞いた?」
「古泉さんという方のことなら。彼も最近来てないみたいですね」
「……そう」
長門さんは小さく頷いただけだった。
「あの、長門さんとキョンさんって……」
質問の内容が内容なので、僕は何となく唾を飲み込んだ。
「その、仲がよくないんですか」
長門さんは間髪いれずに答えた。
「悪くはなかったと思う」
過去形だ。今はどうなのだろう。二人の間に、もしくは団全体に何かがあったのだろうか。
沈黙が落ちた。長門さんは視線を机の上の本に落として何か思案しているようだった。僕は本棚に目をやり、図書館の角っこを見つめ、沈黙をやり過ごそうと努力していた。
「……あなたは彼に似ている」
突然の長門さんの声に顔を上げると、目が合った。
「……気のせいじゃないですかね」
この話の流れで『彼』とはキョンさんか古泉さんだろう。
しかし、そうだとするとちょっとおかしなことになる。僕は見た目はキョンさんに似ているというほど似ていないし、性格に至っては共通点がまるでない。というか似ていると思われるのは心外だ。僕はあそこまで変人ではない。そりゃ、ライトノベルは書くけども。
では古泉さんはというと、更に似ていない。僕と彼では外見は月とすっぽん、アイドルと凡人だ。性格は知らないので比べようがない。
携帯が振動した。時計を見ると、キョンさんと約束した集合時間を数分過ぎてしまっていた。早く喫茶店に戻らなくてはならない。あまり待たせすぎると、いつ街中に僕の原稿がばら撒かれるか分からない。
「すみません、僕はそろそろ……」
「これを持っていて欲しい」
立ち上がりかけた僕に、長門さんは紙の切れ端を差し出してきた。
「私の携帯番号」
携帯電話を持っているのは意外な気がした。失礼な意味ではなく、文明の俗臭とは無縁な雰囲気を長門さんが持っているせいだ。
「必要になると思うから」
「必要に、ですか?」
「そう」
受け取りポケットにしまう。
「それから」
長門さんは僕の目を真正面から捉えた。
「彼には気をつけて。疑ってかかった方がいい」
キョンさんと同じ台詞を、吐いた。
「それって……どういう」
そこでまたもや携帯が急かすように振動を始めた。僕は舌打ちをして、「それでは」と図書館を後にした。
※
僕にとっては幸いなことに、それから一週間は何事もなく過ぎていった。
キョンさんが変な宣伝を思いつくこともなく、のんびりと原稿を書いたり、勝てないボードゲームに熱中できる。
あまり多くもなかった訪問者もめっきり減った。教師も最近は全く来ない。
SOS団はこのままひっそりと活動を終え、消えていくんだろうな。そう思っていた。
七月に入り数日経った頃、部室にへんなものが現れ始めた。
これは、あれだ。校庭なんかに白線を引く……
「白線引きだ」
キョンさんは満足そうに言った。体育の時間に少しずつ持ち出しているそうだ。
よくバレないものだ。そのうちの一台に触れる。
「それはまあ見ればわかりますけど、これがどうかしたんですか」
「白線引きは白線を引く以上のことは出来ないな」
そりゃそうだ。ならば、何処でどういう風に白線を引くのかが問題となる。
「校庭に文字を描くんだ」
文字?
キョンさんは窓の前に立ち両腕を広げた。
「明日、七夕の夜。我々SOS団は校庭にメッセージを描写する!」
高らかな宣言に、僕はきょとんとする他なかった。
「メッセージ、ですか?」
「織姫と彦星に向けて盛大に、な」
キョンさんは両腕を下ろし、僕の訝しげな視線を無視して続ける。
「明日の夜だ」
大きく頷く。
「明日の夜全てが終わる」
何のことか分からなかった。それよりも、その悪戯が及ぼす僕への被害と、悪戯に加担しないことで降りかかる災難の重さを天秤にかけなければならなかった。
「お前に協力してもらうのもこれで最後になるな」
それは僕の解放を意味する。僕は一瞬、喜んでいいのかどうなのか迷った。キョンさんの手前、気を使ったわけではない。では何故かというと僕にも分からなかった。
もしかしたら――認めたくはないが――僕はこのSOS団を少しだけ好きになってしまっているのかもしれない。
夜、僕は自分の部屋のベッドに寝転んでいた。ボーっとしている。何も考えていない。
『彼には気をつけて。疑ってかかった方がいい』
「…………」
制服のポケットを探って携帯電話を取り出した。
心持ち緊張する指で電話番号を打ち込む。数回のコールの後、電話がつながった。
相手は無言だ。だが、聞いていることを確信して話を始めた。
「お久しぶりです長門さん」
微かに息遣いが聞こえてくる。
「キョンさんが明日の夜、何かやるみたいです」
今日の出来事をかいつまんで話した。
「――キョンさんは何を考えているんでしょうか」
備品の無断持ち出し、グラウンドへの落書き。もしもバレてしまえば部活の取り潰しだけでは済まないだろう。最悪の場合退学を命じられることも有り得なくはない。
「分からない」
もちろん全てを説明してくれることを期待したわけではなかった。だが、何か解説のようなものが欲しい。今回は宣伝ではない。何をするのか正直得体が知れなくて不気味だ。僕は明日の夜、本当に手伝うべきなのだろうか。
「好きにすればいい。シラを切り通せばあなたが加担した事実が明らかになることはない」
「それは、そうですけど……」
「それより教えて欲しい」
長門さんが質問に転じた。
「あなたがSOS団に入ってから何があったのかを」
「何があったって……」
僕は少し躊躇ったが、長門さんに全てを話したしまうことにした。
長門さんも知っている通り、最初はホストもどきの格好をさせられてビラ配りをしていた。次にポスターを無断掲示し、その数日後垂れ幕を設置した。最後はアドバルーンをぶち上げた。
並べてみると、その数は多くはない。しかし、平々凡々な生活を送ってきた僕には少々刺激が強いことだらけだった。出来ればもう遠慮したいような、そうでもないような。
「……そう」
全てを聞いた長門さんは暫し沈黙を保った。
「どうかしました?」
「いや……」
もしかして、と僕は思った。
「……前はそんなことする人ではなかった、とか?」
長門さんは沈黙を保ったままだったが、否定はしてこない。肯定と判断してもよさそうだ。
しかしもしそうだとするととても意外だ。あんなエキセントリックな人種は、元々が奇天烈な性格なのだろうと思っていた。後天的にああいう風になるものだろうか、人というのは。
キョンさんがごく普通の生徒だったときのことを夢想してみた。僕と変わらぬ平凡な学生で毎日を退屈に過ごしているキョンさん。僕の想像の中では、同じ様にSOS団員に無理やりさせられて扱き使われている。
「わたしも明日の夜そこに行く」
ぼんやりとしているところに声をかけられてハッとした。
そのときにはもう電話は切れている。
僕は携帯電話を耳に当てたまま、しばらくじっとしていた。
※
「今夜描くのはこれだ」
キョンさんが黒板にマグネットで貼り付けた紙。それには、絵とも文字ともつかないものが一面に描かれていた。ナスカの地上絵の出来損ないにも見える。
「良く覚えろよ、効率が段違いだからな」
「覚えろってこれ、なんて書いてあるんですか」
昨日言った通りメッセージである以上は、何がしかの意味があるはずだった。
「それは秘密だ」
皮肉げににやりと笑って見せた。
「さ、書き取れ書き取れ」
どうやら模写して覚えろということらしい。
しぶしぶノートに写しながら聞く。
「今夜は何時集合なんですか」
「お、やる気あったんだな」
僕は顔をしかめた。冗談じゃない。
「もし仮に集合するならの話です」
「そうだな――」
キョンさんは顎に手を当てた。
「十時……ってところか」
夜十時。目の前の坂をキョンさんが通り過ぎていった。
その背中が見えなくなったところで僕は物陰から坂道に歩み出た。
「やっぱり……」
「え?」
驚いて後ろを振り返る。同じく物陰に隠れていた長門さんが、儚い幽霊のようにぼんやりと歩いてくるところだった。
「やっぱり、って何のことですか?」
長門さんは答えなかった。キョンさんの歩いていった方向をじっと眺めている。その制服の裾と、薄く発行しているようにも見える綺麗な髪を、涼しい風が控えめに揺らしていた。
恐ろしく整った横顔を眺めるも、長門さんは無言を保ち続ける。
僕は溜息をついた。
「じゃあ、僕はそろそろ行きますね」
「……」
早くも抗議の声を上げ始めた膝にムチを打つ。その背中に、突如声がかけられた。
「あなたは、わたし達の物語に途中参加しているに過ぎない」
振り返る。長門さんの静かな瞳が夜の闇と僕とを同時に映し出していた。
「わたし達にはわたし達の物語がある」
「……どういうことですか」
長門さんは質問には答えてくれなかった。
代わりに一方的に告げてくる。
「次の休日、喫茶店に彼と一緒に来て欲しい。不思議探索の名目ならば難しくないはず」
背を向け坂を下り始めた。
歩み去る背中に叫ぶ。
「待ってください! 僕には訳が分かりません!」
声が聞こえる。僕にぎりぎり届くように抑えられた声が。
「確かめればいい」
長門さんの背中は闇にまぎれて見えなくなった。
僕は呆然と立ち尽くした。
「よう、来たか」
校門前。相変わらずの皮肉げな微笑を顔に貼り付けてキョンさんは言う。
「どうした? 浮かない表情だが。今更怖気づいたか?」
「……別に」
校庭には巨大な闇が鎮座していた。月は出ているが、人工の光に慣れた僕には暗すぎる。
「……」
見上げると、星が綺麗に出ていた。天の川までよく見える。白銀の星星が思い思いに光を地上に投げ掛けている。
「七夕日和だな」
白線引きを引き摺ってきたキョンさんが後ろから言う。その前髪を涼風が優しく撫でていった。
最初は僕が白線引きを曳くことになった。
キョンさんは後方で壇の上から校庭を見渡している。
「俺達がやることは実に簡単だ」
キョンさんは校門を入るときに言ったことを繰り返した。
そう、僕達のやることは、それ自体はそう難しいことじゃない。鼻歌を歌いながらでも出来ることだ。
夜空を見上げる。幾千もの星が瞬いていた。どれが彦星でどれが織姫だったか。天の川の両岸にいることぐらいは分かるが、正確な位置は判然としなかった。
湿り気のある空気はどこか夏の到来を予告するようでもある。そうか、もうすぐ夏なのか。
夏になったら何をしよう。僕の原稿はそのときまでには終わっているだろうか。
そのときにはSOS団はなくなってしまっているのだろうか。
僕は、既に文芸部に入部している自分を思い描けなくなってしまっている自分に気がついた。
「交代だ」
キョンさんが後ろに立っている。時計を見ると既に十分が経過していた。
壇上に座って、ぼーっと校庭を眺める。
あれから一時間をかけて絵文字のほとんどが完成していた。
家族にはコンビニに行くと言っているので、そろそろ怪しまれる頃合だ。
白線引きを曳くキョンさんの後ろ姿を視界に入れる。時々出される僕の指示に従い、白線引きを後ろ手に何も言わずに歩いている。暗闇の中黙々と歩き続けている。
……その背中に僕は何か一抹の、何だろう、ちくりと胸を刺すものを感じた。
思えばキョンさんは僕がSOS団を訪れるまで一人だった。その広すぎる空間で、彼は何を考えていたのだろう。何を待っていたのだろう。
キョンさんが一人になる前、少なくとも四人が彼と一緒にいたはずだった。彼らはそれぞれ何を失ったのだろう。
もちろん、僕の思い込みという可能性もある。彼らは単に慣性によってばらばらになっただけかもしれないのだから。
それでも。
キョンさんの背中が力なく見えたのは勘違いではなかったはずだ。
「完成だ」
キョンさんは静かに言った。いつもと違って、その声に何かを成し遂げた達成感や高揚は全くなかった。
壇上に並んで座って、完成した絵文字を眺める。
校庭をいっぱいに使ったそれは、直線がカーブしていたり全体が妙に歪んで見えたりしているが、まあそれなりのできばえだ。
キョンさんは何も言わない。僕も何も言わない。
風が冷たくなって僕の肌を冷やした。
そのときだ。
「……っ」
視界が白く染まった。
周りを見渡す。ナイター設備が点灯していた。校庭の文字が白く浮かび上がっている。
「これは……」
「俺だよ」
キョンさんが淡々と言う。
「これであっちからはよく見えるだろ」
夜空を見上げる。明るくなったせいで星はよく見えなくなった。だが、確かに空からはよく見えるはずだ。
もし空に彦星と織姫がいるとして、暗闇に沈む街の中、ここだけは白くくっきりと見えているはずだった。
「だから……だからよ」
僕は違和感を覚えて横に視線を移した。
息を呑む。
「帰ってきてくれよ……」
……キョンさんが泣いていた。膝を抱え静かに静かに、泣いていた。
僕は混乱した。この状況で何故この人は泣いているのか。
一体何がこの人を泣かせているのか。
「……どうしたっていうんですか」
キョンさんは僕を無視して、まるでそこにいないかのように涙を流し続ける。唇を噛み締めて手を握り締めて。
「俺はずっと待ってるんだよ……」
噛み締めるようにキョンさんが言う。
「俺は、ずっと……」
呻き声が歯の間から漏れているのが聞こえる。
僕はどうしていいか分からず、おろおろとするだけだった。
※
「お前もう帰っていいぞ」
無表情な声でキョンさんが告げる。
しばらく経ってキョンさんは落ち着いたようだった。
「でも……」
「後片付けは俺がやっておく」
「いや、そうじゃなくて……」
こちらに背を向けて立っているので表情は見えない。
「もう大丈夫だって」
彼は半分だけ振り返って笑って見せた。いつもの皮肉げな笑みだ。
だが、その目は赤く腫れ上がっている。
「……それなら、いいんですが」
僕は仕方がなく引き下がった。家できっと家族も心配している頃だ。
キョンさんは最後に夜空を見上げた。
「ほんとにいい七夕日和だ……」
※
次の日、北高はちょっとしたお祭り騒ぎだった。
教室に着くと、まず、窓際の人だかりが目に入る。きっと誰もが校庭の文字を見ようと押しかけているのだろう。
「なあなあ、誰がやったんだと思う?」
荷物を置くと早速友人の一人が話しかけてきた。
「僕がやったんだよ」等と言えるわけもなく。
「……さあね、暇な人じゃない?」
適当に誤魔化した。
「お前、変な部活に入ってるんだよな。何か知らねえの」
心臓が跳ねた。が、一応予想はしてたので落ち着いて返す。
「今回はウチじゃないよ」
「ほんとかよ」
「ほんとだって」
その後も割合粘り強く問い詰められてしまった。
「――校庭の絵について何か知っている者は私に申し出るように」
朝のホームルーム。
何となく教師の視線が僕に注がれているような気がしたが、幸い僕は別のことを考えていてそれどころじゃなかった。
頬杖をついて思い出す。
『確かめればいい』
昨日の長門さんの言葉。
「……」
確かめること。
僕には確かめるべき事項は少なかった。
それでもゼロではなかった。
僕は昼休みを待って、三年生の教室に向かった。
「あのすみません、探している人がいるんですけど」
三年生の戸口で訊ねる。尋ね人は案外簡単に見つかった。
「――すみません、あなたが谷口さんですね」
見覚えのある軽薄そうな顔が僕に振り向いた。
時計を返そうと訪れたときの男子学生だ。
「お前は、この間の……」
相変わらず何処となく間の抜けた顔。
「ええ。聞きたいことがありまして」
「……死人に口なし。だからと言って悪ふざけは許さねえぞ」
谷口さんは眉間に力を込めて言った。何のことだ?
「それは、一体どういう……」
何の話かは分からない。だが、これは恐らくビンゴだ。僕の心臓は早鐘のように鳴っていた。
※
よく晴れた日だ。窓から注ぐ光が、僕の身体を温めていた。休日だけあって窓から見える人通りは多い。まだ朝早いからこれからどんどん増えるだろう。
開店直後の喫茶店である。人の入りはまばらだ。僕は窓際の一席に腰掛けていた。
ドアが開く音がした。
こちらに歩み寄る人影が一つ。
「よう、待たせたな」
キョンさんは僕を見つけると声を上げた。
――そして目を見開いて動きを止める。なかなか珍しい表情だ。
「……久しぶり。パーソナルネーム、キョン」
僕の向かいに座っている長門さん。その視線がキョンさんを射抜いた。
その眼光はいたく鋭い。
「いや――」
長門さんの声もまた、
「古泉一樹」
鋭い。
「…………久しぶりだな、長門」
キョンさん改め古泉さんは、落ち着いた声で、答えた。
古泉さんは僕の向かい、長門さんの隣に腰掛けた。
僕を見ている。
「……いつから気がついていた?」
「つい最近です。七夕の翌日、谷口さんに話を聞きました」
※
「キョンはいねえんだ、どこにもよ」
谷口さんはしかめっ面でそう言った。
「あいつは死んじまった。何処を探そうとももう会えない」
その目は遠くを見るようだった。肩を落として、声には力がない。
「……でも、部室にはキョンさんが」
「そんなはずねえよ」
彼は頑として否定した。
「そんなことは有り得ない。いるとしたらそいつは偽者だ。キョンじゃあない」
※
「“古泉さん”にも会ってきましたよ。もっとも、彼は偽者でしたが」
「……」
※
「あの、すみません」
長身の人影が振り向いた。涼やかな視線が僕を撫でる。
「何でしょウ?」
放たれた彼の言葉は、イントネーションがおかしかった。
「……失礼ですが、外国の方ですか?」
彼は一瞬笑って口を開いた。
「ええ、分かりますカ? ワタシ、ブラジルから来ましタ」
※
「交換留学生で、四月に日本に来たばかりだって」
「……」
古泉さんは手で顔を覆って聞いていた。
表情は読めない。
「聞かせてください、何でこんなことを?」
古泉さんはしばらく何も言わなかった。
店内のBGMが静かに流れる。
そのまま時計の針だけが進むと思われたが、
「……それを話すにはまず、本当のSOS団のことについて知ってもらわなきゃいけない」
手を顔から引き剥がし、重々しく口を開いた。
※
少女がいた。容姿端麗、才色兼備。神の恩寵を一身に受けたような娘だったが、それだけではなかった。
少女は神そのものだった。
少女は自分の望むことを何でも叶えることが出来た。少女に自覚はなかったが、それは万物を統べる全能の力だった。その力でもって彼女は望む。宇宙人、未来人、超能力者、異世界人に会いたい。会って一緒に遊びたい、と。
果たしてその願いは叶った。彼女の周りには宇宙人、未来人、超能力者が集った。もっともそのことに気付いていないのは彼女だけだったが。しかし、それは仕方のないことだった。彼らは努めて素性を隠していたのだから。
「俺はその一人、超能力者だ」
宇宙人、未来人と違い、超能力者の能力は限定的である。ある条件下でしか発揮されない。
「だから証明は後回しにさせてくれ」
SOS団は、そのような異人達を集めるため彼女によって設立された。目的は単純、彼らと一緒に遊ぶことだ。
※
「その少女というのが……」
「涼宮ハルヒ」
古泉さんは頷いた。
僕は古泉さんを足元から頭まで二回見た。
超能力者、というものの……
「どう見ても普通の人間にしか見えませんけど」
「そりゃ、ベースが普通の人間だしな」
古泉さんは苦笑する。
駅前の通りに場所を移しての会話である。
人の通りが多く三人並んで歩くのには多少苦労する。
「長門なんか宇宙人だぞ」
「……正確には、情報統合思念体が地球に送り込んだ、対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェース」
長門さんが涼しい顔で呟くが、長すぎて半分も頭に入らない。
「未来人と言うのは?」
「朝比奈みくるさんっていってな、今年の春、未来にお帰りになった」
ここまで一応素直に聞いてはいたが、
「……信じ難い話ですね」
「信じてくれというしかない。現に俺達は異人なんだから」
まあ疑うにしたって、古泉さんの言う『証拠』を見てからでも遅くはない。
僕はとりあえず古泉さんが言ったことが本当だと仮定して話を進めることにした。
「――ということはSOS団は以前、四人の集団だったんですね」
「違う。五人だ」
古泉さんの言っていることはおかしい。涼宮さんと宇宙人、未来人、超能力者で四人のはずだ。
「違うんだ。お前は本物の『キョン』を忘れている」
言われてハッとした。
「キョンさんはもしかして、異世界人ですか?」
「彼は不思議なところは何もない、普通の人間だったよ」
喧騒が僕達の会話を酷く聞こえにくいものにしている。人の数は中心部に行くにつれてどんどん増えていく。
ぶつからないように気をつけながら、口を開いた。
「普通の人が何でSOS団にいたんですか。おかしいじゃないですか」
「俺達にも正確なところはわからなかった。が、だからこそ何か重要な意味を持つ、鍵たる人物だと俺達は睨んだ」
若者達が向かいから歩いてくるのが見えた。女性三人と、男性二人のグループだ。
「……でも、亡くなってしまったんですよね」
「……ああ」
若者のグループとすれ違う。遊びのスケジュールを話す声が聞こえた。元気のよい女子がグループ全体を引っ張っているようだ。
古泉さんが眩しそうに目を細めた。
「……俺達もああだった」
彼らの背中が遠ざかっていく。
「涼宮さんが無茶を言って、俺達がそれに振り回されて。目が回るほど忙しかったのに、目が眩まんばかりに毎日が輝いていた。あのときはそれが突然終わっちまうなんて考えもしなかったな」
「彼の死亡……」
長門さんがポツリと呟いた。
古泉さんを見上げる。
「わたしはそのときその場に居合わせていなかった。わたしが彼の死亡を知ったのは全てが終わってしまった後。涼宮ハルヒも程なくして失踪してしまった」
長門さんの声は平坦だ。しかしよく聞くとその中に僅かな起伏を感じ取れる。
長門さんの声には悲痛な響きがこめられていた。
「聞かせて欲しい。あのとき何があったのか」
古泉さんは目を細めて前を見つめた。
※
――……お前、何で俺の家の前にいるんだよ。集合はいつものところだろ?
――たまたま前を通りかかっただけよ。
――お前の家からじゃここ通んないだろうが
――別にいいじゃない誰が何処を通ろうと
――それはもっともだがな、俺は自転車だからな
――あんた何のために自転車に荷台がついてると思ってんの?
――少なくともお前を乗せるためではないな
――……そりゃっ!
――あ! こら勝手に……!
――安っぽい自転車ねえ
――無理やり二人乗りしといて文句言うんじゃねえよ
――まあ、あたしが乗ってやったんだから箔が付くってもんよね
――お前にそんなご利益はない
――いい天気ねえ
――聞けよ
――あ、猫がいたわよ
――黒か。不吉だな
――そんなこと言わないの。かわいそうじゃない
――もうすぐね
――一応時間には間に合うが、あいつらはもう到着してるんだろうな
――当たり前じゃない、あんたとは出来が違うのよ
――お前が自慢することじゃないだろうが
――何よ、自分の団員自慢して何が悪いのよー
――こら、揺さぶ――――
――キョン……! キョン……! しっかりして、目を開けて……!
――……
――何、無視してんのよ……返事なさい、団長命令よ……!
――……
――何で……何で、息してないのよお……
――!? これは一体どういうことですか!?
――古泉君……。キョンが……! キョンが……!
――落ち着いてください、何があったんですか!?
――トラックが……キョンを……
――そんな……
――古泉君、キョンを助けて!
――っ……
――お願い! キョンを助けて! 古泉君!
――大、丈夫です。安心してください。
――お願い、古泉君……。キョンがし……死んじゃったら、あたし……
――大丈夫、ですから……!
――お願い……!
※
「即死だった。俺が駆けつけたときにはもう既に事切れた後だった」
「……わたしがついていれば」
「無理だよ。長門でもあれはどうしようもなかったと思う。それぐらい酷い有様だった」
古泉さんは顔をしかめた。
「でも……俺達にもっと力があれば、違ったかな……?」
僕達は街の中心部に到達していた。古泉さんは手近なデパートに入り、エレベーターに僕らを先導した。
階数表示を見上げながら誰も何も言わない。
程なくして屋上に着いた。
「さて、じゃあ俺が超能力者だってことを証明するぞ。俺の手を取ってくれ」
古泉さんを中心に僕が右、長門さんが左だ。
周りが気になった。
屋上は子供の遊び場になっており、高校生の三人組は少し浮いていたのだ。
「行くぞ。目をつぶってくれ」
仕方なく指示に従って目をつぶり、散歩進む。
周りの喧騒がすっ……と消えうせた。
「……もういいぞ」
目を開ける。
人が一人もいなくなっていることに気付いた。
遊具が寂しく風に吹かれている。
静か過ぎて耳が痛い。
そして薄暗い。空を見上げると一面の灰色が目に飛び込んできた。
「ここは……」
「閉鎖空間、と俺達は呼称している」
古泉さんは「これで信じるか」とニヤニヤ笑いながら僕を見ていた。
確かにこれを見てしまうと、古泉さんが何かしら普通とは違う属性を持っていることを信じざるを得なくなる。
「この空間は涼宮さんのストレスがたまることで発生する、彼女のストレス発散の場だった」
「『だった』?」
「あれを見てみろよ」
古泉さんが指差すほうを見ると、明らかに建造物とは異なるものが聳え立っていた。
街に並ぶビルの間からにょっきりと顔を出しているそれは、青白く発光しているようだ。
その大きさに距離感が狂うが、このデパートから百メートルほど離れたところに立っていた。
このデパートよりも更に大きい。
「神人、という」
神人、といわれてようやくそれが人型をしていることに気付いた。
よくよく見れば、顔と思われる部位も確認できる。
「あれが閉鎖空間内で破壊活動を行って、涼宮さんの破壊衝動を発散させるんだ。そしてその活動が顕著な場合、この閉鎖空間は膨張を始め、外の世界と入れ替わる」
「入れ替わる?」
「世界が改変される」
長門さんが呟く。
それって、とても大変なことなんじゃ……。
「その通り。俺達超能力者の仕事は、あの神人を始末することだ」
じゃあ早いところ仕事してもらわないと困る。そう言いかけておかしい事に気付いた。
「そう、この神人は特別なんだ」
話と違ってこの神人は全く暴れる気配を見せない。じっと立ち尽くしている。
「この閉鎖空間も例外だ。全く膨張の兆しを見せない。だから俺達超能力者の集団――機関というんだが――はこの閉鎖空間を半ば放置している状態だ」
前の不思議探索を覚えているか、と問うてきた。
「あのときもここを見回りにきたが、なんの動きも見せない」
「どういうことですか」
「それは俺にもわからんがな、見ろよ」
古泉さんは神人を指差す。
「あいつな、空を見てるんだ」
「空を?」
長門さんと並んでよく見れば、確かに顔を仰向けて空を一心に眺めていることが分かる。
「……?」
「死んだ人間は星になる」
唐突な言葉に僕と長門さんは面食らって振り向いた。
見ると古泉さんは何食わぬ顔で屋上のフェンスに身体を預けている。
「よく言うだろ、迷信で」
「迷信かどうかは知りませんが、まあ確かに」
「……彼が死亡した後、涼宮ハルヒはよく空を見ていた」
長門さんが青白い光を瞳に反射させながら口を開いた。
「彼を探している。そう考えれば、まあしっくりくるかな」
古泉さんがあとを引き継いだ。
「涼宮さんは行ってしまったのさ。彼を探しに星屑の彼方へ、な」
古泉さんは俯いた遠い目で淡々と言った。
神人を見つめたまま、誰も何も言わなかった。
灰色の薄暗い空間の中、神人の青白い光が僕達を照らす。
僕は一人考え事をしていた。普通ならざる状況の中、僕の頭は少なからず混乱していた。
そのとき、長門さんが口を開いた。
「……あなたの会話パターン。俗に言う言葉遣い」
古泉さんを見る。
「以前と大きく異なっている。一体何故?」
僕も思い出していた。まだ、古泉さんがキョンさんの振りをしていた理由が説明されていない。
「そうだな、笑わないで聞いてくれるか」
古泉さんはちょっとはにかんでから続けた。
「俺は彼を救うことが出来なかった」
古泉さんも必死に手を尽くしたことだろう。しかし、キョンさんが生き返ることはなかった。
万能たる涼宮さんの力を持ってしてもどうしようもなかったのだろうから、それは仕方のないことだった。
「そんなの関係ねえよ。涼宮さんに頼まれた以上、涼宮さんと約束した以上、即死だろうと何だろうと俺はなんとしてでも彼を救わなきゃならなかった」
古泉さんが掴んだフェンスがギシリと音を立てた。
「助けなきゃ、ならなかったんだ」
「……」
「そうすりゃ、きっと涼宮さんだっていなくならずにすんだんだ」
長門さんもさっき言っていた。涼宮さんの失踪。
「……涼宮さんがいなくなったってどういうことですか?」
「そのまんまの意味だ。ある日忽然といなくなっちまった」
「情報統合思念体の探査網にもかからない。涼宮ハルヒは完全に消失してしている」
「でもどこかにいるはずなんだ。少なくともこの空のどこかには」
そういって空を仰いだ。僕もつられて見上げる。灰色の平坦な空が広がっている。
「それで、だ。彼を救えなかった駄目人間は考えたよ。彼はもういない。でも、せめて代わりになる人間を用意しなければならない。彼の代わりになるような人間をな。我ながら馬鹿なことを考えたと思うよ」
彼はフェンスから身体を離してこちらに顔を向けた。
「俺は彼の代わりになることを決意した。言葉遣いも彼の真似。ゲームも強くなるために死ぬ気で勉強したよ。そうすりゃいつかは涼宮さんが帰ってくるんじゃないか、なんてな」
古泉さんは笑う。少し寂しそうに。
古泉さんは待っていた。広い部室でたった一人で。キョンさんはもう二度と取り返せないけれども、涼宮さんだけは帰ってこないかと、そんな淡い期待を抱きながら。
それはきっととても……
「辛くはなかったよ。耐えることには慣れてる」
古泉さんは笑って言う。
しかし僕は忘れてはいない。七夕の夜、夜の校庭で恥も外聞もなく泣き伏していた古泉さんの顔を。
「あれから一年がたった。何も起きない何も変わらない。そんなとき一人の新入生が訪れた」
僕だ。
「いや、驚いたね。本当にびっくりした。俺の悲願が天に届いたかと思ったよ」
古泉さんは楽しそうに笑った。
「お前な、彼によく似てるんだ」
※
教室を去り際、谷口さんが僕の背中に声をかけた。
「お前、あいつに似てるよ」
「なんのことです?」
「お前はキョンに似てる。最初に会ったときあいつが生き返ったのかと思った。それぐらいよく似てるよ」
そういうと谷口さんは僕に初めて笑い顔を見せた。人好きのする、穏やかな笑みだった。
※
「長門がSOS団を去り、朝比奈さんが未来に帰っちまったあと、悲嘆にくれていた俺には天の啓示に思えた。涼宮さんが帰ってくるという予兆にな」
それからは僕も知っての通りだ。キョンさんの振りをした古泉さんは、僕を連れまわしSOS団の宣伝を行った。
「SOS団がまた賑やかになれば涼宮さんが帰ってくるんじゃないかと踏んだんだ。彼女好みの派手な宣伝でな」
もっとも、人も集まらず、涼宮さんが帰ってくることもなかった。
「俺なりに頑張ったんだけどな」
古泉さんはフェンスに寄りかかって俯きながら呟いた。
髪に隠れて表情は読めない。
「『わたしはここにいる』」
長門さんが唐突に言う。
「『待っている』」
長門さんは古泉さんを見ていた。
古泉さんもその目を見返す。
「それが校庭に書かれたメッセージ」
長門さんは一呼吸置いて続けた。
「あなたはよくやった」
労いの言葉。
これまでの奮闘に報いる言葉。
「わたしは諦めた。あの騒がしくも穏やかな日常、それが帰ってくることはもうないと」
長門さんは神人を見上げる。
「五人での不思議探索はもう出来ないと」
長門さんの目線がついと古泉さんへと向かった。
その眼は少し、ほんの少し揺れていた。
「あなたももう諦めていい」
古泉さんも視線を受け止める。
「あなたはもう古泉一樹に戻っていい」
「……」
古泉さんの視線は一旦落ちて、また長門さんの目に戻る。
沈黙だけが長引いた。
「……そう、かも、しれませんね」
ひとことひとこと、思い出すように古泉さんが口を開いた。
そのとき、音が聞こえた。うめくような、何かを呼ぶような音。
低く響いて、それは神人から聞こえているようだった。
長く長く響いて、やがて収まった。
誰もが黙って聞いていた。
※
僕は今日も部室に向かう。
空は今日もいい天気で、グラウンドからは野球部らしき掛け声が聞こえてくる。
開いた窓から流れる風は夏の匂いを運んでくる。
「こんにちは」
「あ、どうも」
廊下の途中で古泉さんと出くわした。
彼は最近敬語で話すようになった。僕は下級生だからその必要はないと言うのだが、それが彼の素というかポリシーらしい。
「僕は古泉一樹ですから」というのが彼の言い分だ。
そしてあの日以来、長門さんが再び部室に居つくようになった。
僕が原稿を書いている横で長門さんは分厚いハードカバーを捲る。
それが最近のSOS団の様相だ。
僕は最近新しい構想でライトノベルを書いている。一人の少年が破天荒な少女に振り回され、変な部活をつくり不思議な体験をするというストーリーだ。
もちろんこのモデルは……
「ぜひともその物語はハッピーエンドでお願いします」
古泉さんは僕に真剣な顔で言った。
「僕達が叶えられなかったハッピーエンドを、どうかその物語の中で……」
僕は快く承諾した。
身に余る大役だが、必ず成し遂げてみせると古泉さんと約束した。
部室のドアが近づいてくる。
昨日と変わり映えのしない、それでも大切な日常がやってくる。
ドアを開けた古泉さんに続いて中に入ろうとして、彼の背中にぶつかった。
抗議の声を上げようとして、違和感に気付いた。
古泉さんの背中がひどく硬直している。
「っ……」
古泉さんが声にならない声を上げる。
古泉さんの陰になって部室の中は見えない。
僕は何があったか問おうとして――
声を聞いた。
「古泉、君……?」
少女の声だ。長門さんのものではない。入部希望者だろうかと思い、古泉さんの反応から違うことに気付く。
古泉さんは背中を震わせ、搾り出すような声を上げた。何も言えなくて、それでも何か言わなくてはというような、酷く掠れた声だった。
「お、かえりなさい……!」
ややあって声が帰ってくる。
「――ただいま……」
長らく放浪を続けた旅人のように疲れきって掠れた、弱弱しい声だった。
それでも構わない。僕は気付いた。
残念ながらキョンさんは永遠に取り戻せないけれど。
SOS団はなくてはならないピースを今取り戻したのだった。
僕が途中参加した物語はこれにて幕引きだ。
ところで、僕の名前は谷川流。
有り得ないけれど、もし僕の物語が有名になったらこの名前を聞くかもしれない。
そのときはどうかよろしく。
そしてどうか、どうか彼らのささやかなハッピーエンドに祝福を。
終わり
それに、もし合わせるなら発覚後も呼び名はキョンさんで統一して欲しかった