【前編】 の続きです。
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三章 我思う、ゆえに


1.六月二十五日


田井中のドラム演奏が始まる。
まずは手始めに、他のパートを加えずドラムだけで。
ドラムの椅子にがに股で座った田井中……、
千反田の姿は新鮮だったが妙に似合っているように思えた。
田井中も部室や教室では自制していたのだろう、あれで。
久しぶりに素の自分を見せられる解放感があるのかもしれない。
無表情に見せかけてはいるが、滲み出る微笑みを隠し切れてはいなかった。


「それでは叩かせていただきますね」


口調だけは千反田のそれを崩さず、
まずは並べられたドラムを順番に叩いていく。
何度か締まらない気の抜ける音がしたが、それは最初の方だけだった。
初めて叩くドラムセットに少し戸惑っていただけなのだろう。
田井中は少しずつ確実に修正していく。
田井中自身が自らの奏でるリズムとシンクロしていく。
音を奏でているのは田井中のドラムだけだと言うのに、
軽音部に集った観客全員に強いリズムを感じさせているようだった。
俺自身も含めて、だ。

俺は音楽にはそれほど明るくない。
たまに気になった曲をレンタルするくらいだ。
本を読む際に音楽を流すこともほとんどない。
だがそんな音楽には完全に素人である俺にでさえ、
田井中のドラムはかなりの腕前であるように思えた。
少なくとも俺では何年かけても田井中のレベルにまで達せる気がしない。
田井中にはこんなことが出来たのか。
軽音部のドラマーだと言う田井中の話を疑っていたわけではない。
それでも正直な話、かなり圧倒されていた。
初めて間近でドラムの演奏を見たことも関係しているのかもしれない。
空気の振動、音が俺の心臓に響き、不思議な昂揚感を俺の全身に満ちさせていく。
これが、ドラムか。

田井中は長い髪を振り乱して、更に腕の速度を速めていく。
普段は過剰とも言えるほど千反田の長髪を気にしていたというのに、
冗談交じりだが髪を切りたいと愚痴ることが何度もあったというのに、
現在の田井中は慣れない長髪など気にしていない、いや、気にならないようだった。
多少の障害など気にもならない魅惑の楽器がそこにあるからだ。
おそらくは田井中の半身と呼んでも差し支えのないドラムがあるからだ。

154 : ◆2cupU1gSNo - 2013/10/12 18:30:14.78 yNk6o9pc0 94/252


不意に気になって、俺は軽音部の部室内を見回してみる。
沢木口は興奮した表情で田井中のドラムのリズムに身を任せていた。
面白半分、いや、完全に面白さだけで見物に来たのだろうが、
予想外の田井中(沢木口にとっては千反田)のドラムテクニックに素直に驚いているようだった。
この調子だと演奏の後に自分も混ざりたいと言い出しそうだ。
それは別に構わないが、願わくは料理と同程度の腕前ではありませんように。

伊原は嬉しそうに田井中を見つめている。
田井中の役に立てたことが嬉しいのか、
それとも千反田のことを考えているのか、そのどちらなのかは分からない。
思い返してみればマラソン大会の「星ヶ谷杯」の頃から伊原は千反田を気にかけていた。
大日向との一件についてまだ思うところがあるのだと思う。
だからこそ伊原は嬉しいのだろう。
こんな形でも千反田が楽しそうにしているのを見られることが。
例えその中身が田井中であったとしても。

入須は無表情ではあったが、その組んだ腕の指先がリズムを取っていた。
気付かれないように軽く動かしているだけのようだが、完全には隠し切れていない。
本当はもっと大胆にリズムに乗りたい。
しかし女帝としての威厳を損なうわけにもいかない。
そんな二律背反と争っているかのようだった。
もしかすると入須はドラムが混じるようなロック音楽を好むのかもしれない。
普段のイメージとは合わないが、イメージだけで人は語れない。
例えばそう伊原が軽音部員に語った千反田の設定、
『厳粛な家庭に育ったお嬢様が家族に隠れてロックに傾倒している』が、
そのまま入須の真実の姿でもなんらおかしくはないのだ。
おかしくはないのだが、確かめるのはやめておこう。
それほど入須に入れ込みたいわけではないし、
真実を知ってしまったが最後、今まで以上に厄介な日常になってしまいそうだ。

数人の軽音部員たちは驚いた顔で相談し合っている。
「ここまでとは思わなかったね」、「後で勧誘してみる?」、
「でも家に内緒にしてるんでしょ?」、
「あー、あのテクニックがもったいなーい!」、
「ちょっと走り気味だけどあの腕なら関係ないよね」、
「ドラムなら俺がいるだろ?」、「ご愁傷様」、「おいやめろよ、不安になるだろ!」。
大体そういうことを話しているようだった。
本気なのか冗談なのかは掴みにくかったが、
とにかく仮に冗談だとしても部に勧誘したい程度の実力はあるようだった。

それも当然かもしれない。
田井中の腕前がどの程度なのかは俺には分からないが、
それでもここにいる軽音部員よりは少なくとも年季がかなり違う。
伊原の友人と言うだけあって、ここに集まっている部員は二年生が主体だ。
俺ですら見かけたことがある同級生が何人もいる。
対する田井中は高校を卒業したての三年生なのだ。
つまり高校の部活のキャリアで言うと、二年近くは差があることにある。
勧誘したくなるのも無理はない。

風の流れが変わった。
一瞬そう感じて、俺は空気の流れに視線を流した。
なんてことはない、部室の扉が開かれただけだった。
誰かが部室の扉を開けただけだったのだ。
いや、誰かではない、里志だ。
どうやら持ち前の情報網で俺たちの居場所を調べ上げたらしい。
だが見慣れた里志が部室に顔を出しただけだと言うのに、数秒田井中のドラムのリズムが狂った。
部室の中に沢木口を見つけた時以上に、田井中が戸惑っているのが一目瞭然だった。
いや、一耳瞭然……か?
とにかく田井中は大層動揺したらしい。
里志が苦笑しながらその手を軽く上げる。

155 : ◆2cupU1gSNo - 2013/10/12 18:30:54.08 yNk6o9pc0 95/252



「気を散らしたみたいで悪かったわね、える」


その声は里志のものではなかった。
聞き覚えのある声色、数日前にもかなり聞かされた声だ。
そいつは里志が部室に入ったのを見届けると、飄々とその後に続いて笑顔を浮かべた。
小さな眼鏡を掛けて、長い髪を三つ編みにした大人びた女子生徒。
思わず溜息をつきたくなる。
下手をすると沢木口を見かけた時よりも重い溜息を。
彼女自身はそう悪い人間ではない。
落ち着いた雰囲気を持っているし、非常に思慮深い。
だが思慮深いだけに非常に理屈っぽく、本心を全く掴ませない。
ある意味で俺の天敵と言える姉貴によく似たタイプと言えるかもしれない。
里志と一緒に姿を現した理由は掴めないが、
おそらくは俺たちの居場所を探る里志を上手く言い包めて付いて来たのだろう。
そこにどれだけのドラマがあったのか、俺は想像したくない。
この前も彼女と話す機会があったが、それはそれは大変だった。


「いえ……、気にしないでください、かほさん」


ドラムを叩く手を緩めないまま、田井中が軽く敬語で応じた。
俺は田井中のこの敬語が千反田を演じているわけではなく、
素で敬語になってしまっているだけだということをよく知っていた。
入須に対してでさえ敬語を使わない田井中ではあるが、彼女にだけは敬語を使ってしまうのだ。
俺も実を言うと、彼女に敬語を使いたい気分があるのを否めない。
彼女にはそういう雰囲気と独特の飄々さがあった。

十文字かほ。
里志曰く「桁上がりの四名家」の一人。
一人で占い研究部をやっているという独特な女子生徒。
彼女の前では千反田はともかくとして、ほとんどの人間がペースを崩される。
苦笑している里志もそうなのだろうし、
まさしく現在膨れっ面になっている伊原もそうだし、
特に俺など彼女の前でペースを保てたことなど一度もない。
さてさて、わざわざ軽音部に顔を出して、十文字はなにをしたいのだろう。
まさかまた俺たちの知らない間に、なんらかの真相を突き止めたのだろうか。
油断はできない。
なんせ結果的にではあるが、俺たちより何倍も速く千反田の異変に気付いた十文字だ。
きっと俺たちに想像もできないなにかを目算しているに違いない。

考えていてもしかたないと悟ったのか、
田井中は十文字から視線を逸らしてドラムの演奏に集中し直した。
なんだかんだと肝が据わっている。
伊達に高校三年間、学園祭でライブをしてきたわけではないらしい。
田井中は普段はともかく、音楽に関しては真摯な奴なのだった。
しかし俺にも分かるほど、ドラムのリズムが狂い気味になっていたのも否めなかった。

161 : ◆2cupU1gSNo - 2013/10/17 19:50:45.27 /SQsbIpq0 96/252



2.六月二十二日


「ふうっ……」


おそらくは百段を超える長い階段を上り終え、俺は大きく息を吸い込んだ。
神山市最大の神社である荒楠神社。
まさかこんな短期間でまた訪れることになるとは思っていなかった。
この前はたまたま陽気に誘われて散歩で足を延ばしてみたのだが、
まさかこんな様々な問題を抱えた状態でまた訪れることになるとは。
気まぐれの散歩ならともかく、それ以外の理由でこの場所を訪れるのはいささか省エネに適っていない。
しかもその理由が誰かからの呼び出しでは、更に気が重くなりもしようというものだ。

階段を上ったことで少しだけ近くなった空を見上げてみる。
放課後だと言うのに空は青々とした姿を見せていた。
気持ちのいい晴天。
疎らに浮かんでいる雲も、アクセントとして空を上手く彩っている。
陽が長くなったものだ。
もうすぐ夏がやってくるわけだ。
夏が嫌いというわけではないが、夏の熱気はそう好きではない。
前に蒸し暑い部室で本を読んでいると、汗を垂らしてしまったことがある。
本を読むだけで汗を掻いてしまうなど、省エネには程遠いことこの上ない。
どうか今年は猛暑でありませんように。

もっとも、今年が猛暑だろうと冷夏だろうと、省エネには程遠い夏になりそうだが。
千反田えるの中に突然顕現した田井中律という人格。
顕現して以来、千反田自身の人格は一度たりとも顔を見せていない。
もしかしたら俺以外の前では違うのかもしれない。
それはそれである意味傷付くが、それでも千反田の残滓が感じられるのであれば悪くない。
そう思って里志たちに訊ねてみたのだが、やはり俺の儚い期待は泡と消えた。
予想通りではあったが、千反田の人格は里志たちの前でも一度も顕現していないらしい。
同性であり俺たちより長い時間を過ごしている伊原相手にもそうらしかった。
四六時中田井中を監視しているわけではないからはっきりとは言えないが、
集められる情報から普通に判断すれば、あの日以来千反田自身の人格は顕現していないはずだ。
分かり切っていたことだが、やはり田井中は単なる多重人格と一線を画しているのだろう。

162 : ◆2cupU1gSNo - 2013/10/17 19:51:12.30 /SQsbIpq0 97/252



「いいことではあるんだよな、きっと」


俺はまだ高い太陽の眩しさに目を細めながらひとりごちる。
田井中の正体が何であれ、それが多重人格でないというのはいいことだ。
多重人格は学術的には解離性同一性障害というらしい。
Dissociative Identity Disorder、略してDID、訳して解離性同一性障害。
なんでも多重人格という呼び方では、
一人の身体の中にいくつもの人格が重なっているという意味になるからだそうだ。
なるほど、確かにそうだ。
現在精神学の科学者は一人の中に多くの人格が重なって存在しているのではなく、
一つの人格がいくつもの人格に分裂して、それで人格がいくつもあるように見えているのだと提唱している。
激し過ぎる二面性といったところだろうか。

とにかく田井中はその解離性同一性障害とは一線を画している。
発現以来主人格の千反田が現れないなんて聞いたことないし、
そもそも田井中は千反田ではない全くの他人の人生を歩んだ記憶を有している。
それどころかその記憶は現在よりも未来の二〇一〇年の記憶だ。
田井中に二〇一〇年の記憶があると告白されて数日、
田井中の知る歴史と俺の知る歴史に違いがないか確認してみた。
俺と田井中の住んでいる世界自体が異なっているかの確認のためだ。
一応、大体のところは合致しているらしかった。
らしかった、というのは田井中の歴史の記憶が中途半端だったからだ。
歴史の授業で習った以上のことを田井中に訊いても分かるはずもない。
しかも田井中の成績は「なぜか大学に受かったんだよな」くらいのものらしい。
「一夜漬けのやり方教えてくれる幼馴染みがいてさ」とは田井中の弁だ。
まあ、しかたがあるまい。
俺だって資料無しに自分の国の歴史を語れと言われたら困る。
分かったことと言えば、田井中の世界でも阪神大震災が起こってるらしいということくらいか。
少なくともかなり近い歴史を歩んでいることは間違いない。
桜が丘女子という高校が俺の世界にはないことを除いて。

なにが起こっているのか、わけが全く分からない。
しかし田井中が解離性同一性障害から生じた人格でないらしいことだけは救いだった。
解離性同一性障害はその名の通り障害なのだ。
しかも幼少期に心的ストレスを抱えたがゆえの。
千反田の過去を知っているわけではないし、深く知りたいわけでもない。
それでも人並みに幸福な幼少期を過ごしていたと考えたかったし、
田井中が解離性同一性障害所以の人格でないのならそれに越したことはない。

だがそうなるといよいよ田井中の正体が分からないのも確かだった。
ここまで正体不明だともっと得体の知れないなにかでも今更驚かない。
例えば前に語り合ったように狐とか。
いや、これはちょうど視界に稲荷が入ったから連想しただけだが。


「お稲荷さんが気になる?」


俺が稲荷を見ていたのが面白かったのだろうか。
可笑しそうな感情がこもった音色の声が響いた。
視線を向けてみると、そこには巫女がいた。
社務所から移動中らしい、眼鏡を掛けている髪の長い巫女。
俺は彼女に見覚えがあった。
と言うか彼女に呼び出されて長い階段を上ったのだ。

163 : ◆2cupU1gSNo - 2013/10/17 19:51:41.44 /SQsbIpq0 98/252



「ちょっと視界に入っただけだ」


「そうなんだ。
それより折木くん、ようこそお参りくださいました」


身体の前に手のひらを重ね、丁寧に頭を下げる。
さすがにもう動揺しない。
これが十文字の芸風の一つなのだろう。
知的で落ち着いた雰囲気ではあるが意外と悪戯っぽい。
長い付き合いではないが、それが俺の十文字かほへの人物評だ。
おそらくそう間違ってはいないと思う。


「十文字……さんはなにか仕事中なのか?」


さすがに呼び捨てにはできなかった。
まだ俺と彼女はそれほど会話を交わしたわけではない。


「仕事って?」


「その巫女服」


「ああ、これ?」


俺が指差すと十文字はその場で一回転して微笑んだ。
かなり堂に入っている。
何度か参拝客に同じ動きをしてみせたのではないか。
そう思わせるくらい綺麗な回転だった。


「そういうわけじゃないんだけど、今日はちょっとね。
折木くんが来るからおめかししてみたのよ」


「おめかしで巫女服を着るとはいかにも神社の娘さんらしい」


「冗談よ」


さいで。
しかしお茶目と言うか悪戯好きと言うか、十文字の性格は本当に掴めない。
「かほさんは少し人嫌いなところがあるんです」とは前に聞いた千反田の弁だが、とてもそうは思えない。
十文字を見ていて思い出すのは姉貴だ。
姉貴は奔放に生きているように見せながらその知識は俺よりも膨大だ。
斜に構えたように振る舞うこともあるが、それでも人生を誰よりも楽しんでいる。
人よりも精神が成熟しているのだろう、おそらく。

164 : ◆2cupU1gSNo - 2013/10/17 19:52:16.95 /SQsbIpq0 99/252



「ところで十文字さん、今日は俺に何の用事があるんだ?」


「あ、それはちょっと待って、折木くん。
先にいいものを見せてあげるから」


「いいもの?」


俺が訊ねるが早いか十文字は社務所に引っ込んだ。
移動中じゃなかったのか?
「まあいいか」と呟いて、俺は稲荷の石畳に腰を下ろした。
罰当たりかもしれないが、ほんの少し休憩するくらいで目くじらを立てる神の加護ならいらない。


「里志も呼ぶべきだったか?」


思いつきをそのまま呟いてみる。
昼休み、十文字からの呼び出しを俺に伝えたのは里志だった。
十文字と里志は一年の頃に同じクラスだった。
二人になんらかの繋がりがあってもおかしくはない。
「一緒に行くか?」と俺は訊いてみたが、奴は苦笑してそれを断った。
なんでも調べものがあるそうだ。
田井中のことだろう。
里志も里志で田井中について調べてはいるのだった。
その経過は芳しくないようだが。


「お待たせ、折木くん」


十文字の声が聞こえる。
どうやら「いいもの」の準備が整ったらしい。
声の方向に視線を向けてみて驚いた。
ある意味で「いいもの」がそこにあった。


「よっ、ホータロー」


聞き慣れた声色、聞き慣れない語調、聞き慣れ始めた口調。
社務所から十文字と出てきたのは田井中だった。
その身に巫女服をまとった。
着慣れない服のはずだと言うのに、田井中は笑顔を見せていた。
それは髪型が関係しているのかもしれない。
巫女服をまとった田井中は前髪を全て上げて後ろ側で纏めていた。
オールバックのポニーテールといったところだろうか。
なるほど、巫女服にはよく似合った髪型だ。
いかにも前髪が額を覆っているのをいたく嫌う田井中らしい。

いや、それよりも。
田井中は今俺のことをこう呼ばなかったか?
「ホータロー」と。
これはまずいのではないだろうか。
十文字は千反田が俺を「折木さん」と呼ぶことを知っている。
その姿は何度も見せている。
しばらく会わない内に呼称が変わったと言い張るか?
それは無理だろう。
十文字とはついこの前、千反田がまだ千反田であった頃に会っているのだ。
呼称を変えるにしても期間が短過ぎる。
ではどういいわけするべきなのか。
そう俺が頭を悩ませていると、十文字がその悩みを全て打ち砕く言葉を口にした。

165 : ◆2cupU1gSNo - 2013/10/17 19:52:46.79 /SQsbIpq0 100/252

「どう、折木くん?
よく似合ってるでしょ、りつの巫女服」


りつ?
りつってなんだ?
えるとりつではそれなりに語感が似てはいるが……。
って、律か!
律。田井中の名前だ。
十文字がそれを知っているということは……。
俺が視線を向けると、巫女服の田井中が苦笑しながら頭を掻き始めた。


「ごめんな、ばれちまった」


一気に力が抜けるのを感じた俺は、また稲荷の石畳に腰を下ろした。

166 : ◆2cupU1gSNo - 2013/10/17 19:53:16.41 /SQsbIpq0 101/252




社務所の十文字の部屋に移動する間、田井中は頻りに俺に頭を下げていた。
さっきまでは苦笑してはいたものの、申し訳ないと思っていたらしい。
しかし冷静になって考えてみれば、
十文字に田井中のことが知れたところでなにか困るわけではない。
むしろ千反田と親しい十文字には、もっと早く伝えておくべきだったのかもしれない。
それを伝えても田井中はまだ申し訳なさそうに苦笑していた。


「つっても、私はホータローたち以外には秘密にしておくつもりだったしさ」


意外に律儀なのだ、田井中は。
名前に律が入っているだけに、と考えるのは単なるこじつけか。
いや、駄洒落だな、これは。


「ホータロー?」


「いや、なんでもない。
それよりもその服装の方が問題だ、田井中。
どうしてお前はそんな恰好をしている」


「なんか十文字が私に着てほしいって言うからさ」


おや、と思った。
千反田と同じ姿の田井中の口から、
「十文字」という呼称が出るのに違和感があったからだ。
千反田と同じ様に「かほさん」とでも呼べばいいだろうに。
いや、だからこそ、か。
田井中はきっと千反田と同じ呼称を使いたくないのだ。
前に俺を「折木」と呼びかけて「ホータロー」と呼び直したことからもそれは明らかだ。
しかし俺はそれを田井中に指摘したりはしなかった。
指摘してはいけないのだと、なんとなく感じていた。
その代わりに別のことを指摘してやる。


「着てほしいって言われたにしても、断ってもよかっただろう。
恥ずかしくないのか、そんな恰好」


「うんにゃ、別に。
ホータローには話してなかったっけ?
あ、話したのは摩耶花にだったっけか。
ま、いいや。

実は桜高の軽音部にさわちゃんって顧問がいるんだよ。
さわちゃんってなんか変わった先生でさ、
妙に私たちにコスプレさせたがるんだよな。
それでスク水や着物ドレスやメイド服、
サンタ服やチャイナドレスなんかも着させられたもんだ。
だから巫女服程度じゃ恥ずかしくもなんともないっつーか」


どういう顧問なんだ。
古典部にも顧問がいるが、そこまで変わった顧問ではない。
いや、そもそもほとんど顔を出さないから、名前もよく憶えていないのだが。
大田……、いや大出だったか?
ともかく田井中が相当に楽しい高校生活を送ってきたようなのはなによりだ。


「律が巫女服着てくれたの、あたしはすごく嬉しかったな。
えるにも何度も頼んでたのに、「恥ずかしいから駄目です」って断られてたもの」


俺たちの会話が耳に入ったらしく、同じく巫女服に身を包んだ十文字が微笑んだ。
千反田にも巫女服を勧めていたのか。
そういえば一度だけローブのような物を纏った十文字を見かけたことがある。
かなり大胆な恰好だが、全く恥ずかしそうな素振りもせずにテントで占いをしていた。
巫女服を仕事着として纏っていると、その程度では羞恥心も働かなくなっているのだろう。

167 : ◆2cupU1gSNo - 2013/10/17 19:53:43.81 /SQsbIpq0 102/252



「どうかしたのか、ホータロー?」


不思議そうに首を傾げる田井中の耳元に口を寄せる。
さすがにこれを十文字に聞かれるわけにはいかない。
考えていたことを耳打ちしてやると、田井中は軽く吹き出した。
そんなに面白かったのだろうか?
俺が首を捻っていると、今度は田井中が俺に耳打ちしてくれた。


「桜高にオカルト研ってのがあるんだけど、
十文字とそのオカルト研の子たちの恰好がほとんど同じで可笑しくてさ。
黒いローブだけならまだしも、眼鏡掛けてることまでその子たちと一緒なんだよな」


それは奇妙な合致点だ。
ローブはオカルト関係の衣装としても、眼鏡は関係ないだろう。
オカルト好きは眼鏡でなければならないという不文律でもあるというのだろうか。
そのオカルト研と十文字を会わせてみれば、気が合うか気になるところだ。
それが叶うかどうかは別問題ではあるが。

171 : ◆2cupU1gSNo - 2013/10/26 18:10:31.81 j42TkFSq0 103/252



「何? 内緒話?」


十文字が眼鏡の蔓を触りながら首を傾げる。
その素振りだけは歳相応に見えた。
俺は「なんでもない」と言ってから十文字の部屋に敷かれた座布団に座った。
田井中が座っていたものかもしれないが、
前来た時にも俺が使った座布団だから気にしないことにする。
幸い田井中と十文字に見咎められることはなかった。
十文字が一息つくのを見届けてから、俺は疑問に思っていたことを口にすることにした。


「十文字さん」


「どうかしたの?」


人を呼んでおいて「どうかしたの?」とはなんともマイペースだ。
少しだけ詰め寄るように前のめりになる。


「一つ訊いておきたい。
どうやって千反田が千反田じゃないってことに気づけたんだ?」


「そんなの簡単よ、折木くん」


簡単……なのだろうか?
俺が首を捻ると肯定するように田井中が苦笑した。


「いやー、私もびっくりしたんだよ、ホータロー。
冬実とあの高い店でお茶した次の日なんだけどさ、たまたま十文字と顔を合わせたんだ。
どうもえるって子が十文字に借りてた本を返す日だったらしいんだよな。
そりゃ焦ったなー。
えるって子の記憶にはちゃんと残ってたけど、言われてやっと気づけたんだから。
簡単に言うと完全に忘れちゃってたんだよな。
正確には私のせいじゃないんだけど、悪い汗がだらだら出ちゃったよ」


そう言いつつも苦笑しているのを見ると、どうも田井中は忘れ物の常習犯のように思えた。
あまり細かいことにこだわるタイプでもないのだろうし、俺の想像は当たっているだろう。
しかし今はもう一つ確認しておきたいことがあった。


「田井中、先に一つ質問に答えてくれるか?」


「おう、別にいいけどなんなんだ?」


「前から思っていたんだが、
その千反田の記憶に残ってたってのがよく分からない。
当然だがお前自身がお前の記憶を思い出してるのとは違うんだろう?
自分じゃない記憶を思い出すってのは、一体どういう状態なんだ?」


「改めて聞かれると難しいな……。
でもなんとなくイメージとして近いものはあるぞ。
例えるんなら、そう、一度観た映画を思い出す感じかもな。
ホータローも映画くらい観るよな?」


「嫌いで仕方がないという程ではないってくらいには観る」


「なんだよ、その微妙な答えは……。
ま、いいや、観ないわけじゃないってことだよな。
なんでもいいからその映画のことを思い出してくれ。
「すげー」でも「つまんねー」でも「ははっ、笑える」でも構わない。
思い出してくれたか?
それがえるって子の記憶を思い出してる時の感覚に近いんだ。

観たことは憶えてる。
起こったことも、その時になにを感じたかも憶えてる。
だけどそれは私自身の身に起こったことじゃないから、
誰かに言われてみないと思い出せないこともたくさんある……、って感じか」

172 : ◆2cupU1gSNo - 2013/10/26 18:11:05.21 j42TkFSq0 104/252



完全にではないがイメージできる。
俺だって今でも入須のクラスのビデオ映画の内容を思い出そうとすれば思い出せる。
なにが起こったのか、観ながらなにを感じたのかも憶えている。
しかしただなんとなく憶えているだけだ。
細部まで憶えているわけではないし、
誰かとあの映画の話にならない限りは思い出そうともしないだろう。
なるほどな、田井中は必要だから千反田の人生という名の映画を思い出しているのか。
だから必要でない時は、積極的には思い出さない。
例えば千反田と十文字が交わした約束などは完全に許容範囲外なのだ。


「あの時の律の様子は折木くんにも見せてあげたかったな」


微笑みながら十文字。
ある意味で超常現象に直面しているというのに、その様子は超然としている。
巫女を務めていると、ちょっとやそっとの超常現象では動揺もしなくなるのだろうか。
もっとも俺もそれを言えた義理ではないが。


「面白い顔だったのか?」


「うん、この前生き雛まつりの写真を見たでしょ?
あの写真に写ってたえるのひどい顔に匹敵にする顔が見られたわ」


「かほさん、それはだめです!」という動揺する千反田の声が響いた。
もちろんそんな気がしただけだった。
俺の脳が勝手にあの時の千反田を思い出しただけだ。
そうだ。ここには千反田はいない。
ここには千反田の姿をした田井中がいるだけなのだから。
「それは見たかった」と返してから、俺は本題に戻る。


「ところでもう一度同じ質問をさせてもらうが、
結局十文字さんはどうして千反田の精神が田井中だって気づいたんだ?
いや、俺たちも田井中の存在には気づけている。
だが最初は半信半疑だったし、それなりの時間もかかった。
十文字さんはなにをきっかけに田井中の存在に気づけたのか、それを訊きたい」


「それが不思議なんだよなー」


田井中が独り言のように呟く。
横目を向けてみると、田井中はあぐらをかいて首を傾げていた。
千反田の姿で、しかも巫女服でそんな姿勢をされると逆に新鮮だった。


「最初は十文字に借りた本の話をしてたんだよ。
私はえるって子の記憶を思い出しながらどうにか話を合わせてたんだけど、
急に十文字が私を廊下の隅に連れてって言ったんだ。
『君はえるじゃないわね』ってさ。
あの時は変な声が出ちゃってた気がする……」


おそらくは「ギャー!」とか「うおっ!」とかだったんだろう。
簡単に想像できてしまう。
いやいや、今はそれはどうでもいい。
今考えなければならないのは、何故十文字がそんなに簡単に田井中の存在に気づけたかだ。
田井中の話が本当であれば、いくらなんでも気づくのが早過ぎではないだろうか。
俺と田井中が視線を向けると、十文字は肩をすくめて微笑んだ。
だが眼鏡の奥の表情は読めなかった。


「えるがえるじゃないのはすぐに分かったわ」


「……何故?」


「だってオーラが違うもの」


「マジかよ!」

173 : ◆2cupU1gSNo - 2013/10/26 18:11:34.16 j42TkFSq0 105/252



叫んだのは田井中だった。
そして叫びたいのは俺も同じだ。
これは神通力か!
やはり巫女である十文字にはなにもかもお見通しだというのか!
人間の精神のオーラの違いまで見通すというのか!

俺たちが言葉を失っていると、十文字がテーブルの上に置いてあったコーヒーに口をつけた。
そういえばこの部屋に連れて来られる前から、そのコーヒーはテーブルの上にあった。
どうやら俺が来るまで田井中とコーヒーを飲んでいたらしい。
そのコーヒーを飲んで、一息ついて十文字が一言。


「あ、霊的な意味でのオーラって意味じゃないわ。
雰囲気って意味でのオーラよ」


一気に力が抜ける。
それはそうだ。
どうやら田井中のせいか最近の俺は超常現象を肯定しつつあるようだ。
これは良くないな、ああ、良くない。
俺の比較的得意分野は筋道を立てて物事を考えることのはずだ。
膏薬と理屈をくっつけるのことのはずなのだ。
いくら千反田と田井中に起こっている現象が理解できないとは言え、
単純に超常現象を肯定するようでは、それは単なる逃避ではないだろうか。
これでは真の意味で田井中の存在と向き合うことからも逃げているようなものだ。
これは、改めなければならない。

ただ少しくらい批難してやってもいいだろう。
俺が睨み付けるような視線を向けてやると、田井中はまた俺に耳打ちした。


「しゃーねーだろ、私だってびっくりしたんだから……!」


「それにしたってだな、田井中。
千反田の記憶を思い出せば、十文字の言葉が本気かどうかくらい分かるだろう」


「だーかーらー……!
えるって子の記憶の中でも十文字は謎なんだって……!」


妙に納得した。
なるほど、田井中の言葉が本当ならば、
十文字は俺たち相手だから捉え所のない言葉を口にしているわけではないらしい。
千反田相手にも、そうなのだ。
そう考えると千反田と十文字の仲の良さにも頷ける。
好奇心の獣である千反田のことだ。
謎の多い十文字にはそれこそ懐いていることだろう。


「仲が良いよね、二人とも。
内緒話は終わった?」


掴めない表情で十文字が微笑む。
俺と田井中は身体を離すと、十文字の方に向き直った。
コーヒーは全て飲み終わっているようだった。
気づいたように十文字が一言。


「折木くんもコーヒー飲む?」


「お構いなく。
それより『雰囲気って意味でのオーラ』の意味を教えてくれないか。
なんとなくは理解できるが掴みにくい」


「分かったわ。
と言っても額面通りの意味よ。
私は律と話していて気づいただけ。
『この子はえるの姿をしているけどえるじゃないな』って。
ただそれだけのことなんだけどね」

174 : ◆2cupU1gSNo - 2013/10/26 18:12:01.14 j42TkFSq0 106/252



ただそれだけのこと。
言葉にするのは簡単だ。
しかし現実にそう思えるのはほんの一握りだろう。
千反田と同じ部である俺たちですら信じるのに数日かかった。
それを十文字は数分でやってのけたのだ。
なんというか底知れないなにかを感じさせる。


「折木くん、今度はこっちが訊いてもいい?」


「ああ、答えられることなら」


「ありがとう。
律に聞いたんだけど、律は単なるえるの別人格じゃない。
君たちはそう考えてるんだよね?」


「そうだな。
確証はないし仮定の積み重ねでしかないが、俺たちはそう考えている。
多重人格と疑うのは簡単だ。
だが様々な状況が田井中はそうじゃないと告げている。
それこそ多重人格を疑うより、頭をぶつけて精神が入れ替わったと考える方が自然ですらある。
そう考えてしまうくらいには、田井中の正体について見当が付かない状態だ」


「多重人格じゃないってあたしも思う。
神社に務めているとね、たまに色んなものを見るの。
狐憑き、悪霊憑き、多重人格……。
その真偽は分からないけれど、とりあえずそうだと主張する人たちを見たことがあるわ」


不思議な話ではない。
前世の記憶を信じ込んで、宛名の無い手紙を投函する同級生の話も聞いたことがないわけではない。
とりあえず霊的な存在を信じられている神社ならば、救いを求める人間も数多いだろう。
十文字の言う通り真偽は別として、だが。


「深くではないにしてもそういう人たちを見てると分かるのよ。
律はそういう存在にしては健康的過ぎる」


「いやあ……」


照れたように田井中が自分の頭を掻く。
別に褒めたわけではないだろうが、それには俺も同感だった。
何故多重人格や狐憑きが問題視されるのかを考えてみれば分かる。
それは害があるからだ。
多くの場合、それらは周囲の人間にも、宿主本人にも害を成す。
だからこそ神社や精神科医が求められるのだ。
だが見た感じ、田井中は大雑把ではあるが実に健康的だった。
むしろ灰色の青春を送っている俺よりよほど健康的と言えるだろう。
俺の考えを読み取っているかのように十文字が頷いた。


「多重人格ではないのはすぐに分かったけれど、
律がえる本人の演技だったりしないことも確かだと思うわ。
根本的な問題として、えるは嘘をついたり演技したりできない子だもの」


同感だ。
千反田は嘘をつかないし演技もしない。
言えないことがある時は、「一身上の都合」として黙秘する。
その千反田がこんな長期間田井中の演技を続けるのは不合理だろう。


「百歩譲って普段のえるの姿も全て演技だと仮定してみる。
そうだとしても、やっぱり律はえるの演技じゃないと言い切れるわ。
律になる前のえると今のえるでは癖や素振りが違い過ぎるもの」


それで十文字は千反田の精神が千反田でないことに気づいたのか。
俺が知っている千反田の癖と言えば、
「わたし、気になります!」くらいのものだが、
長い付き合いの十文字であれば、他にも多くの癖に心当たりがあるのだろう。
俺ですら、千反田と田井中の素振りがかなり異なっていることくらいは分かる。
そうなると一つ気になることが出てもくるのだが。

175 : ◆2cupU1gSNo - 2013/10/26 18:12:58.02 j42TkFSq0 107/252


千反田の家族のことだ。
大切に育てた娘なのだ。
娘の異変に気づいていてもおかしくないと思うのだが。
だが俺が千反田の家族のことをよく知らない以上、なにを推論しても無意味か。
友人には気づけても、家族には気づけないこともある。
近過ぎて分からないこともある。
とりあえずはそういうことにしておこう。


「なあ、十文字」


コーヒーではなく紅茶に口を付けていた田井中が不意に呟いた。
珍しく多少は真剣な表情だった。


「結局さ、私ってなんなんだと思う?」


沈痛な響きに思えたのは俺の感傷だろうか。
「私ってなんなんだ?」とはまた嫌な言葉だ。
「誰なんだ?」の方がまだよかった。
「なんなんだ?」と問うということは、
田井中は自らが人間の人格ですらない可能性も考慮しているらしい。
自分の人格をなにかと問うということは、つまりはそういうことだった。
俺にはそれに答える術がない。
俺たちはこれでもかとありとあらゆる可能性を談じてきた。
それで答えを出せなかったのだ。
こうなると俺は十文字の知識と観察眼に頼るしかない。
俺たち以上の速度で千反田が千反田ではないと見抜いた十文字に。


「これはあくまでよもやま話として聞いてほしいんだけど」


一言断りを入れて十文字が続ける。
よもやま話でも構わない。
俺たちには偽物だとしても新たな光明が必要なのだ。
俺は頷いた。

176 : ◆2cupU1gSNo - 2013/10/26 18:13:46.96 j42TkFSq0 108/252



「構わないから続けてくれ」


「ええ、ありがとう。
律たちは生命体を構成している要素がなんなのか聞いたことある?」


「いや、分からないけどなんなんだ?」


「肉体と霊体と幽体。
生命体はその三要素で構成されているらしいの」


「それはどっちかと言えば仏教じゃないのか?」


俺が問うと十文字が微笑んだ。


「宗教差別はしない主義」


そういえばそうだったか。
しかし自分の専門分野以外にも詳しいとは勤勉なことだ。
いや、よく考えると十文字はタロットカードも嗜むんだったか。
となると彼女はオカルト全般に詳しいのかもしれない。


「肉体とそれ以外は分かるけど、霊体と幽体って同じものじゃないのか?」


「いい質問よ、律。
真偽と詳細はともかくとして、幽体は人間の意識と姿を維持している幽霊。
霊体は人間の意識も姿も持ち合わせていない幽霊のことらしいわ。
もちろん分かりやすく言えばだけど」


一般的な幽霊と人魂の違いのようなものだろうか。
十文字の口から幽霊の話が出るとは思わなかったが、
おそらく彼女はその額面通りの意味で幽霊の話をしているわけではないだろう。

180 : ◆2cupU1gSNo - 2013/10/28 19:41:49.65 m2YujdSL0 109/252



「自分とはなんなのか分かっている幽霊が幽体。
自分の姿すらも分からなくなっている幽霊が霊体。
それを念頭に置いて考えてほしいことがあるの。
人間は脳で思考して動いている生き物だと考えられているよね?
だけど本当にそうなのかな、って折木くんは考えたことない?」


オカルトから急に脳科学の話になってしまった。
どうだろうか。
別に俺は科学的な話に明るいというわけじゃない。
幼い頃は人間の魂の在処について考えてみたこともなかったわけじゃないが。
どう答えたものか悩んでいると、話の続きが聞きたくて我慢できないらしい田井中が口を開いた。


「脳以外に考えられる場所が人体にあるってことか?」


科学には明るくなさそうな田井中の割には熱心な様子だった。
当然か。自分の存在に関わることだからな。
十文字は俺の沈黙を無回答と判断したらしく、
まるで優しい教師のような口振りで田井中に説明を始める。


「これはよく使われている例え話なんだけど、例えばパソコンがあるわよね?
ノートパソコンじゃない、ディスプレイと本体が繋がっている普通のパソコンを思い浮かべてみて。
私たちはディスプレイが本体の処理している画像を写し出す機械だということを知っている。
ディスプレイが壊れても、本体が無事ならデータも無事に残っていることも知っている。
けれどパソコンの知識がない人はどう考えると思う?
律は小さな頃、ディスプレイこそがパソコンの本体だと思っていなかった?」


「あー……、うん、そうだな、その通りだよ。
確かに子供の頃は画面の方がパソコンだと思ってた。
画面に繋げた箱はなんなんだろうって弟と考えてたくらいだよ」


田井中が昔を懐かしむように頷いた。
今思い出すと滑稽だが、俺も幼い頃は同じ勘違いをしていた。
確証はないが、どんな人間でも幼い頃はそうなのではないだろうか。
それはともかく十文字がなにを言おうとしているのか、俺にも少し分かり始めていた。
軽く身を乗り出してから訊ねてみる。


「脳が思考を司る器官ではないかもしれないと言いたいわけか?」


「その可能性もあるってことね。
脳は人体に命令を出すわ。
損傷してしまえば、身体のあちこちに異常が出てしまうことになる。
けれどそれは例え脳がなにかの受信装置でも、同じことじゃないのか。
そういう話は昔からされているのよ」


「脳がなにかの受信装置……ってのは?」


「ここで霊体のことを思い出してみてくれる?
霊体は意識も姿形もない一種のエネルギーと言えるわ。
なんなら魂と呼び換えてみても言いかもしれない。
その霊体を脳という受信装置で受信してこそ、人間は生命活動を始められる……。
例えるなら霊体はリモコンの電波で、肉体はその電波の指令をこなす装置」

181 : ◆2cupU1gSNo - 2013/10/28 19:42:16.77 m2YujdSL0 110/252



なにを馬鹿な。
そう言いたくもあったが俺は口を噤んだ。
俺は脳に詳しくない。
いや、人類自体、脳のことを完全に理解できているとはとても言えない。
脳はまだまだ未知の分野なのだ。
例えば十文字の言うように脳がなんらかの受信装置でも、なにもおかしくはない。


「だったら十文字さん。
それだと今千反田に起こっているこれは、結局一種の憑依現象と仮定しているわけか?
なんらかのアクシデントで千反田の脳が千反田本人ではなく、
田井中律という霊体の指令で動くようになってしまった、とそういうことか?」


俺が訊ねると十文字は胸の前で軽く手を叩いた。
その瞳が若干輝いているように見えた。


「あ、そういう考え方もあったのね」


一瞬にして脱力してしまった。
視線を向けてみると田井中もその場に崩れているようだった。
だったらなんだって言うんだ……。
俺がそう問う前に、十文字が微笑んでから続けた。


「憑依現象……、面白い仮定だけどあたしが言いたかったのはそれじゃないの。
あたしがこの例え話で言いたかったのは、自分ってなんなのかってことなのよ。
一般的には脳で思考している『あたし』が『自分』だと思われているわよね?
だけどこの例え話を真面目に考えてみれば、
あたしの脳にどこかから指令を出しているなにかが『自分』とも言えるかもしれない。
ひょっとしたら人間には魂が存在していて、そっちの方こそが『自分』なのかもしれない。
仮定は色々できるけど、その実はなにも分かっていない。
『自分』って結局なんなのかしらね?」


かもしれない、かもしれない。
『自分』という存在に関しては、確かに分からないことだらけだ。
これもよくある例え話だが、この世界全体が誰かに見せられている幻覚の可能性だってある。


「それって『コギト・エルゴ・スム』だよな?」


嬉しそうに田井中が指摘した。
珍しく入っていけそうな話題だったから、嬉々として会話に入ってきたんだろう。
しかし田井中の口から『コギト・エルゴ・スム』が出てくるとは思わなかった。

182 : ◆2cupU1gSNo - 2013/10/28 19:42:47.32 m2YujdSL0 111/252



「よく知っていたな、田井中」


「おう!
この前やったゲームで出てたからな!」


さいで。
まあ、ゲームに限らず小説でもよく取り上げられているからな。
それだけ人類普遍のテーマだということでもあるのだろう。
どうやら十文字は田井中か俺かのどちらかからその言葉を出させたかったらしい。
満足そうに頷くと、小さな眼鏡を思わせぶりに掛け直した。


「『我思う、ゆえに我あり』、デカルトの第一原理ね。
この世界が幻覚だとしても、何物であったとしても、
その世界を見て思考できている『自分』という『意識』だけは確かに存在している。
それでデカルトは世界は『意識』と『物質』で構成されていると考えたらしいわ。
逆に言えば『自分』という意識が存在しない物は全て物質と考えたのよ。
人間だけが『自分』という『意識』を持っている。
それ以外の物……、例えば動物はその『意識』を持っているようには到底思えない。
その結果、デカルトはなにをしたと思う?」


「いい予感はしないが、教えてくれ」


「動物実験。
動物には『意識』がないから机や椅子や時計と同類だと判断し、
その動物が死んだところで、それは単に機械が壊れただけだと主張した。
それを繰り返して、『自分』という『意識』を持つ人間こそが魂を持っていると確信したの」


「うへえ……」


痛ましい表情で田井中が呻く。
俺も呻きこそしなかったが嫌な気分なのは確かだった。
俺は特別動物が好きというわけでもないが、
意味もなく動物が殺されて無表情でいられるほど諦観に満ちてもいない。
「嫌な話をしてごめんね」と前置きして、十文字が続ける。


「是か非かで考えればデカルトの行動は非だけれど、
あの時代の哲学者たちはそれだけ『自分』が何者なのか知りたがっていたのね。
どう? 律、折木くん、君たちは『自分』が何者なのか明確に答えられる?」


俺はなにも言葉にできない。
田井中に至っては俺以上になにも言えないだろう。
『自分』とは何者なのか。
千反田えるの中に唐突に田井中律という精神が現れたからではない。
もっと根本的な意味で、俺たちは『自分』のことを考えなければならないのかもしれない。
もしかしたら俺もそうと自覚できていないだけで、
折木奉太郎という人間の身体を操っている霊体かなにかでないとも言い切れないのだから。
もちろんそう考えてしまうのは、
神社の中で巫女が語るという雰囲気に呑まれてしまっていたからなのかもしれないが。


「そういやさ」


不意になにかを思い出すように田井中が呟いた。
俺が視線を向けると、田井中は遠い目で頭を掻いていた。
千反田の身体が頭を掻くという光景に、俺はまだ慣れていない。
いや、今はそれはどうでもいいか。
俺は自分の中の違和感を気にしないようにしながら田井中に訊ねる。

183 : ◆2cupU1gSNo - 2013/10/28 19:44:48.60 m2YujdSL0 112/252



「どうした?」


「『自分』ってなんなのかって話をしてたらさ、急に思い出したんだよ。
かなり前……、小学生の頃にあったことを。
いや、私の思い出じゃないぞ、えるって子の思い出だ。
えるって子はさ、その思い出の中で『自分』のことを考えてるんだ。
好奇心の塊みたいな子だもんな、そりゃとんでもなく長く考えてたよ」


あの千反田のことだけにありえそうだ。
なにか思い当たることがあるのか、十文字は静かに押し黙っている。


「それで思い出してて分かんないことがあったんだよ。
私の記憶の中ではえるって子が、私じゃあ考えられない行動を取るんだ。
どうしてそんなことをしちゃったのか、それが分からない。
残念ながらその時の気持ちは、えるって子自身も憶えてないみたいだしな。
ただその行動を取ったって記憶だけが残ってるんだ」


伯父の件で泣いたことを記憶しておきながら、
泣いた理由を完全に忘れてしまっていた千反田だ。
それもありえそうだから困る。
まったく、どうしてあいつはこんな状態になってすら俺を困らせるんだか。


「なあホータロー」


ほらきた。


「どうしてえるって子がその時にそういう行動を取ったのか、お前なら分かるか?」


実に面倒だ。
その答えが分かったところで田井中の正体に繋がるわけでもない。
これは単なる田井中の疑問だ。
答える義理はないし、見る限り十文字には見当が付いているようだ。
おそらく十文字もその千反田の謎の行動に関わっているのだろう。
十文字本人に聞けばいい。
俺が考えてやる必要なんてない。
そう思うのだが。


「……話してみろよ」


心情とは裏腹に俺がそう言ってしまったのは、
大きく目を見開いた田井中の表情が千反田のそれと重なってしまったからだろうか。

191 : ◆2cupU1gSNo - 2013/11/02 18:49:07.23 qiuQlxjo0 113/252




    ・



あれは……って自分のことみたいに話すのも変だけど、とにかく小学五年生の頃の話だ。
私から見ても小五の頃のえるって子は凄かった。
今でこそ多少の好奇心までは抑えられるようになったみたいだけど、
その頃のえるって子の好奇心は本気で尋常じゃなかった。
ちょっとでも気になったら、ありとあらゆる時間を潰してでも好奇心を満たそうとしてたよ。
もちろん訊ねるのは親しい友達とかだけに限るけどな。
今はこれでも治まってるんだよ、えるって子の好奇心は。
……って、『えるって子』って呼び続けるのもなんか変な感じだよな。
今だけえるって名前で呼ばせてもらうことにするよ。

それでえるが小五の頃の、確か秋くらいの季節の話だ。
その頃のえるは十文字の家によく遊びに行くようになってたんだ。
小五になって体力も付き始めた頃だし、
神社前のあの長い階段を軽く上れるようになったのが嬉しかったのかもしれないな。
私もそういう気持ちはよく分かるしさ。
特にえるは身体の成長も人より早かったし、余計そうだったんだと思う。
当然だけどえるは自分の成長を実感したくて神社に行ってたわけじゃない。
十文字に会いに、もっと詳しく言うと、
十文字と話して好奇心を満たすために神社に通ってたんだ。
神社の娘だからか、あの頃の十文字の知識小学生離れしてたからな。
小学生らしからぬ十文字の話を聞く度に、えるはすっごく満足してたよ。

いや、今は十文字の話は置いておこう。
その頃のえるにはさ、十文字以外にもう一人友達がいたんだ。
小学五年生ともなるとえるの家柄を気にしてか、
近寄ってくるクラスメイトも少なくなってきてたんだけど、
遠慮なく物怖じせずに話しかけてくる奴も少しは残ってたんだよな。
その子の名前は、そうだな……、えるはもちろん憶えてるんだけど、
今はプライバシー保護ってことで、仮に『唯』ってことにさせてもらおうかな。
えるとその子の親交はたまにだけど続いてるみたいだし、
もしかしたらいつか会うことになるかもしれないもんな。
どうして唯なのかっつーと、うちの軽音部に唯って奴がいるんだけど、
そいつとその子の雰囲気が結構似てるんだよ、雰囲気とか天然っぽいところがさ。
だから仮に唯って名前でよろしく頼む。


「えるちゃんえるちゃん」


その日も唯は物怖じせずにえるの席に駆け寄った。
放課後になった途端に駆け寄るくらいだから、
よっぽどえると十文字と遊ぶのを楽しみにしてたんだろうな。
その嬉しそうな顔と、私の知ってる唯の顔がぴったりよく被るよ。

192 : ◆2cupU1gSNo - 2013/11/02 18:49:34.72 qiuQlxjo0 114/252



「どうしたんですか、唯さん?」


「今日もかほちゃんのお家に遊びに行くんだよね?」


「はい、そのつもりですよ」


「私も一緒に行っていい?」


「もちろんです、ご一緒してください」


「わーい!
って、えるちゃん、ふふっ」


「急に笑い出すなんてどうしたんですか?」


「やっぱりえるちゃんの話し方ってなんか変なんだもん。
あははっ、変ー」


「そ、そうですか?」


「いいんだよー、えるちゃん。
私はえるちゃんのそういうところも大好きなんだしね!」


「うふふ、ありがとうございます、唯さん」


二人の放課後の漫才……じゃなくて会話は毎回そんな感じだった。
唯の言い方は色々とあれだけど、小学生なんだし分からなくもないよな。
小五って言ったら、習い事をしてない限りは敬語を覚えたてくらいの頃だ。
そんな中で敬語で喋るクラスメイトがいたら、私だって変だって思ってたと思うよ。
ただそれでえるに近付こうとは思ってなかった気もする。
小学生とは言っても、凄い家柄の子相手だとやっぱ緊張しちゃうもんな。
あ、その顔は信じてないな、ホータロー?
そりゃ私にもムギっていうお嬢様の友達はいるけど、
お嬢様と知ってから親しくなるまでには結構時間が掛かったんだぞ?
それを簡単にやっちゃうのが唯の性格で人柄なんだよな。
もちろん今話してる唯と、私の友達の唯は別人なんだけどさ。
えるの友達の唯は今のえるほどじゃないけど髪がかなり長かったし。

それで二人は普段通り十文字の家に遊びに行ったんだよな。
えるは階段を軽々上ってたんだけど、
唯が毎回息を切らしてたのが印象的だな。
当時の唯はえるより小柄だったし、体力も外見通りしか持ってなかったんだろう。
それでもいつもえるの後に続いて階段を上るってことは、
それだけえると十文字と遊ぶのを楽しみにしてたってことなんだろうな。
そんな唯の姿が嬉しくて、えるはいつもハンカチで唯の汗を拭いてあげてたよ。

193 : ◆2cupU1gSNo - 2013/11/02 18:50:06.72 qiuQlxjo0 115/252



「いらっしゃい、二人とも」


階段を上ると巫女服を着た十文字が待っていた。
その頃の十文字は家の事情があるのか、えるたちと遊ぶときにも巫女服をよく着てた。
今考えると巫女服の着付けの練習でもしてたのかもしれないな。
えっ、単なる趣味だったのか?
……冗談だよな?
冗談ですまない先生が私の知り合いでいるんだよ、冗談ってことにしといてくれ。
会うことはないと思うけど、こっちにもその人がいる可能性がないわけじゃないし……。

まあ、ともかく神社には巫女服の十文字がいたんだ。
唯はその十文字を見つけると駆け寄って行ってた。
さっきまで息を切らしてたくせに元気なもんだよな。
私の知ってる唯も、体力がないくせにいざとなるとタフな奴だった。
こっちの唯も同じタイプで、いざという時に非常電源が入る奴だったんだろうな。


「来たよー、かほちゃーん」


「いらっしゃい、唯、える。
お茶の準備をしてるから、まずはあたしの部屋まで上がっちゃって」


「ありがとー、かほちゃん、大好き!」


「どういたしまして、唯」


うーん、激しくデジャヴだな。
いや、唯と十文字の会話を思い出してたら、
私の知ってる唯とその幼馴染みの会話を思い出しちゃったんだよ。
きっとああいう関係だったんだろうな、こっちの唯と十文字も。

それで、だ。
えると唯がお茶を飲んで一息ついた頃、十文字が話を始めたんだ。
それこそえるたちの一番の目的だったんだよな。
えるほどではないにしても唯も好奇心が強い方で、
十文字の話にはいつも目を輝かせて熱心に耳を傾けてたよ。
基本聞き手に回りがちなえるとは違って、
唯は小さなことでも遠慮なく十文字に訊ねるタイプだった。
それが逆に上手くいく秘訣だったんだろうな。
えるは過程を無視して結論から話す癖があるみたいだったから、
たぶん十文字にとっても唯の質問に答えるのは得だったはずだ。
唯の細かい質問のおかげで、えるが先走って結論を出すことを防げる。
まあ、そんな感じかな。


「それじゃ前回のお話の続きからね」


十文字は大体そんな言い回しで話を始めてたな。
その頃、えるたちが夢中だったのは前世と輪廻転生の話だった。
小学生の女の子だもんな、そういう話は大好物だ。
私はそんなに好きってわけじゃなかったんだけど、
幼馴染みの澪がさ、大好きでそういう漫画をよく薦めてきてたんだよな。
おかげで私も前世の話とかにそれなりに詳しくなっちゃったよ。
とにかくその頃のえるたちは前世とかに夢中だった。
神社の娘が話してるって説得力もあったんだろうな。
えるの記憶を思い出してるだけなのに、なんか思い出してる私までワクワクしてくる。
それくらいえるたちが十文字の話にワクワクしてたんだと思うよ。
その時ワクワクさせられた十文字の話はこういう話だった。

194 : ◆2cupU1gSNo - 2013/11/02 18:51:01.29 qiuQlxjo0 116/252



「えるたちは輪廻転生についてどう考えてる?」


「死んじゃった後に生まれ変わること!」


「そうね、唯の言う通り輪廻転生は生まれ変わることよ。
何度も何度も一つの魂が他の形で生まれ変わる。
だけど唯たちはこう考えてみたことはない?
今の人間の数は昔よりずっと多いのに、その魂はどうやって持ってきてるんだろうって。
単純計算でも縄文時代の頃の何十倍以上の人間が今の世界にはいるわよね?
その魂の数はどうやって補っているのかな?」


「言われてみればそうだよね……。
虫とか他の動物の魂を人間の魂に回してる……とかだったりして?」


「悪くない意見ね、唯。
それなら魂の数の問題は解決できるかもしれないわ」


「あの、かほさん、逆にこういう考え方はどうでしょうか?」


「どういう考え方?」


「人間に生まれ変わる順番待ちの魂が、縄文時代の頃からたくさんあったとします。
それならば矛盾がなくなると思いませんか?
人間の数がこれからもどんどん増えたとします。
けれど増えた人間に宿る分の魂はどこかで待っていますから、
どんなに人間が増えても生まれ変わる魂が足りなくなることはない……」


「順番待ち、ね。
そうね、そういう考えた方もあるかもしれないわ」


妙な心霊会議だよな。
いや、心霊とはちょっと違うか?
とにかく三人はそんな感じで放課後を神社で過ごしてたんだ。
答えの出る会議じゃなかったけど、それをえるは楽しんでたみたいだな。
結論ばっかり求める印象があるえるだけど、
その結論に至るまでの過程も大切にしてるタイプなんだよ、えるは。
もっとも結論が出せるのに越したことはないみたいだけどさ。

ああでもないこうでもないと話していると、
いつの間にか十文字の部屋に一匹の侵入者があった。
犬だ。
当時十文字が親戚の事情で預かっていた一匹の犬。
名前は『アミーナ』、小さな豆芝だったよ。
老犬じゃなかったし、今でも生きてるんじゃないかな。
えるも中学三年の頃に一度見かけたことがあるみたいだ。
その見かけた犬が本当にアミーナだったのか確証はないみたいだけど。


「おー、アミちゃん、よしよしよし!」


会議を打ち切って唯がアミーナに駆け寄った。
私の知ってる唯もそうだったけど、えるの友達の唯も犬好きだったんだよな。
そういう点でこの二人はよく似てるよ。
十文字の話が目当てだったのは確かだけど、
この唯はそれと同じくらい犬のアミーナも目当てだったらしい。
アミーナをあやす唯が本当に幸せそうだった様子が、えるの胸の中に強く残ってる。
いい笑顔だったんだよ、本気で。


「アミちゃんにも前世ってあったのかな?」


アミーナの首筋を優しく撫でながら唯が十文字に訊ねた。
会議の続きなのか、それとも気になることがあるのか、その時のえるに唯の真意は掴みとれなかった。
だから首を傾げて十文字に視線を向ける事しかできなかったんだ。

195 : ◆2cupU1gSNo - 2013/11/02 18:57:26.91 qiuQlxjo0 117/252



「どうでしょうか、かほさん?
人間に前世があるのなら、犬にも前世はあるはずとわたしは思いますけど……」


「さっき唯が言った通り、人間の前世が人間だけじゃないとしたらおかしくないわ。
犬が前世の人間、逆に人間が前世の犬がいても不思議じゃない。
ありとあらゆる魂を、ありとあらゆる肉体が共有してるって考え方もあるわね。
そういえば前に読んだ本でこんな話を見たことがあるわ。
『生まれ変わりは時間を超える』って話」


「『時間を超える』……?」


訊ねたのは唯だった。
なんとなくすがるような表情に見えたのは、えるの気のせいだけじゃなかった。
もちろん、それに気づけたのはもっとずっと後のことなんだけどな。
唯はアミーナを抱きしめながら続けた。


「生まれ変わりって時間を超えるの?」


「超えるというか、時間とは関係ないかもって話だったのよ。
例えば五年前に亡くなった人が、十五年前に産まれた人に転生していてもおかしくない。
そういう話ね」

200 : ◆2cupU1gSNo - 2013/11/05 18:38:15.09 3mG2/NeL0 118/252



これも後でえるが知ったことなんだけど、
この時より一年前くらいに唯の可愛がってた犬が死んでたらしい。
だから唯はすがるような表情で十文字に訊ねたんだろう。
死んだ時期が関係ないんだったら、もうその犬の生まれ変わりが生まれててもおかしくないもんな。
それこそアミーナがその犬の生まれ変わりとも考えることだってできる。
唯もさすがにアミーナがその犬の生まれ変わりだって考えてたわけじゃないみたいだけどな。
ただそうだったらいいな、くらいには思ってたみたいだ。
私もそう思うし、それから後のえるもそういう結論を出してる。


「あの、かほさん、ちょっといいですか?」


だけどその時のえるはそこまで考えが回ってない。
その時のえるは十文字の言葉の矛盾している点が気になってしょうがなくなってた。
だから訊ねたんだよ、お約束のあの仕種で。


「いいよ、どうしたの、える?」


「かほさんは生まれ変わりに時間は関係ないかもっておっしゃられました」


「正確には読んだ本の受け売りだけどね」


「はい、それは分かっています。
でも気になるんです。
だってそうじゃありませんか?
五年前に亡くなった方が十五年前に生まれ変わる……。
そんなことをしてしまったら、同じ魂……、いえ、魂なのかは確定してませんけど、
とにかく同じ魂のようなものを持った方が、何人も同じ時代に生きていることになってしまいませんか?
それっておかしくありませんか?
それなのにどういう理屈で時間が関係なんて筆者さんは語られたのか……。
わたし、気になります!」


なるほど、えるの言い分は正しいよな。
輪廻転生に時間が関係ないとしたら、同じ時代に同じ前世を持つ奴がいてもおかしくなくなる。
これはさすがに矛盾になっちゃうよな?
だけどそのえるの質問を予測してたのか、十文字はこともなげに返したんだ。


「える、あたしさっき言ったよね、
輪廻転生の魂はどうやって補ってるんだろうって。
えるは順番待ちの魂がたくさんあるから、魂が足りなくなることはないのかもって言った。
うん、面白い考え方ね。
だけどあたしにももう一つ考えてることがあるのよ。
それがどんな考えか、分かる?」


「……いいえ」


「それはね、魂の共有よ。
この世界には同じ魂を持っている生き物がたくさんいるって考え。
魂が誰にとっても一つだけなんて決まってるわけじゃないでしょ?
それなら同じ魂が何人もの身体に宿っててもおかしくないとは思わない?
そう考えれば魂を補う必要なんてなくなるしね。
同じ魂を何千人、何万人、何億人で共有すればいいの」


「だけどかほさん、それだと……」


えるはそれ以上言えなかった。
単なる輪廻転生の仮定だけど、えるの想像もしてなかった仮定に頭が混乱してた。
ホータローたちも知ってることだと思うけど、えるは筋道立てて答えを出すのが苦手なんだ。
特に勉強で解決できるようなものじゃないことには。
だけどその時にえるがなにを言おうとしてたのかは思い出せる。
えるは本当はこう言おうとしてたんだ。

201 : ◆2cupU1gSNo - 2013/11/05 18:38:45.37 3mG2/NeL0 119/252



『それだと全ての生き物の魂は、一つで足りるということになってしまいませんか?』


もしえると十文字が同じ魂を持っているとしたなら、
えると唯が、唯とホータローが同じ魂を持っていてもおかしくなくなる。
里志も冬実も私もえると同じ魂を持っていてもおかしくなくなる。
突きつめて考えれば、最終的には全ての人間が一つの魂を共有していても不思議じゃなくなる。
もちろん単なる一つの例え話だけどな。
なんとなくその時のえるはそう考えたんだ。
自分と自分じゃない誰かの魂……、心が同じでも不思議じゃないって。


「だけどね、えるちゃん、かほちゃん」


唯がアミーナに頬擦りしながら急に話に入ってきた。
それは唯にしてはとても真剣な表情だった。
アミーナ、える、十文字を順番に物凄く真剣に見つめてた。


「私は生まれ変わりってすっごく素敵だと思うな」


「素敵……ですか?」


「うん、素敵だよ!
アミちゃんが誰かの生まれ変わりでも素敵だし、
私たちが死んじゃった後も生まれ変われるって思えるのは嬉しいな。
それでね、生まれ変わった後にね、
生まれ変わった私が生まれ変わったえるちゃんたちとまた会えたら素敵だよ!
それって運命って感じだよね?
ずっとずっと永遠に一緒の仲間だって感じだよね?」


唯がそう熱弁したのは、やっぱり可愛がってた犬が死んだことが影響してるのかもしれない。
これは私の想像なんだけど、その犬が死んだ時に唯の母さんあたりがこう慰めたんじゃないか?
「唯が良い子にしていれば、いつかはその子の生まれ変わりと会えるかもしれないわよ」って。
私も小さな頃に母さんから同じ様なことを言われたしな。
うん、小学生の娘を慰めるにはちょうどいい言葉だって私も思う。
生まれ変わりが本当に起こるのかは分からない。
それでも起こらないと悲観して悲しみ続けるよりは、もしかしたらに期待して前を向いた方がいい。
私が唯の母さんでも同じ慰め方をするかもしれない。
ないよりはあった方が気分的に悪くない。


「そうですね、唯さん。
そうだったら、素敵ですよね」


「そうね、来世でも会えればいいわね」


えるも十文字も唯のその言葉には笑顔で返した。
アミーナの頭を撫でながら、来世での再会を約束したんだ。
小学生らしい子供っぽい、でも微笑ましい約束。
それでその日の輪廻転生の話は終わって、
後は近く開催されるマラソン大会とかの話をするだけになった。
三人とも笑顔で、楽しい一日を過ごしたんだ。
える自身もその時は本気で楽しかった。
だけど。

202 : ◆2cupU1gSNo - 2013/11/05 18:39:13.61 3mG2/NeL0 120/252



「ばいばい、えるちゃん!」


「はい、唯さん、また明日」


夕焼けの中、元気を取り戻した唯に手を振って別れた後、えるは道の端に駆け出したんだ。
そうして誰にも見えない場所にしゃがみ込んで、涙を流し始めた。
さっきまであんなに笑顔だったのに、あんなに楽しかったのに、泣き始めたんだ。
長い涙だった。
夕焼けがかなり濃くなるまで、えるは声を上げて泣いてた。
その涙の理由が、私には分からないんだ。
あんなに楽しかったはずなのに、どうしてえるが急に泣き出しちゃったのか。
もしかしたらえる本人も分かってないのかもな。
私がどう頑張ってもその理由を思い出せないのは、そういうことなのかもしれない。
える本人にも自分が泣いている理由が分かってなかったのかもしれない。

ただ私が思い出せる感覚は、恐怖……な気がする。
えるは怖かったんだ。
怖くて泣いたんだ。
なにが怖かったのかはもちろん分からない。
私に言えるのは、別に十文字や唯や夕焼けが怖かったわけじゃないってことだけだ。

……どうだ、ホータロー?
これがホータローに訊ねたい私の疑問だよ。
小学生のえるがどうして急に泣き出しちゃったのか、
ついさっきまであんなに楽しかったのに、
なんで急に涙が止まらなくなったのか、ホータロにはその理由が分かるか?

203 : ◆2cupU1gSNo - 2013/11/05 18:39:55.28 3mG2/NeL0 121/252








田井中の話が終わった。
俺の知らない千反田と十文字と唯の話。
おっと、唯というのは田井中が勝手に付けた仮名だったか。
まあ、別に唯のままでいいだろう。


「千反田が急に泣き出した理由か」


呟きながら思い出しのは、千反田の伯父との一件のことだ。
まったく、千反田は落ち着いて見えるが、やはり感情の起伏が激しい性質らしい。
俺があまり感情を露わにしない方だからか、
千反田が俺の前で喜怒哀楽を激しく示すことは少ないのだが。
もしかすると伊原の前ではもっと感情を豊かに振る舞っているのだろうか。
いや、それは今は重要なことではない。


「やっぱりえる、あの後に泣いていたのね……」


昔を懐かしむように十文字も呟いた。
その表情に悲哀の色は見られない。
どことなく昔からの疑問に合点がいったという表情にも見える。
十文字も十文字なりに、当時の千反田の様子に疑問を持っていたのだろう。
一応訊ねてみる。


「なにか心当たりでも?」


「なんとなく、だけどね。
長い付き合いだもの、えるが泣くのを我慢してる時の表情くらい分かるわ。
あの日のことはあたしもよく憶えてる。
いいえ、正確にはあの日の翌日ね。
あの日の次の日、感動する映画を観たからって誤魔化していたけど、
それだけだと説明できないくらいにえるは目の周りを泣き腫らしていたのよ。
嗚咽もかなり漏らしたんでしょうね。
声まで嗄らしてるくらいだったわ。
それでいつもじゃないけどたまに思い出していたの、えるにあの日なにがあったんだろうって」


「泣いた理由について手がかりはあるか?」


「分からないわ。
えるは誤魔化すだけだったし、律の言葉通りならえる自身も分かってない可能性もある。
のり……じゃなくて、今は仮名で唯だったわね。
唯が帰り道でえるをいじめたとも思えないし、
やっぱり原因はあたしたちの輪廻転生の話だと思うけれど、どうかしら?」


十文字の意見は妥当だろう。
俺としてもそれ以外の理由は見当たりそうにない。
実を言うと俺の中では既に一つの答えが固まりつつあった。
もちろん千反田のその時の感情を全て理解できると思い上がっているわけではない。
千反田の感情など、千反田自身にすら完全には分かっていないだろう。
しかし田井中の話を聞いた以上、少なくとも田井中と俺には納得のいく答えを出すべきだった。

心当たりと言えば、まだ千反田の中に田井中が存在しなかった頃の俺との会話だ。
一つは、千反田が俺に伯父の件で相談してきた時の会話。
もう一つは、俺が「やらなくてもいいことなら、やらない」と言うようになったきっかけを話した時の会話。
いや、それ以外にもよく考えれば思い当たらなくもない。
とにかく千反田は、過去をおざなりにしないのだ、良くも悪くも。
それがおそらく答えに繋がるだろう。

212 : ◆2cupU1gSNo - 2013/11/13 21:23:35.15 1chHIkfI0 122/252



「田井中」


俺は小さく息を吐きながら言った。
田井中は静かに俺の方を向いて首を傾げる。
その表情は気になっていること回答を求めていると言うより……、いや、今はやめておこう。
とりあえず質問を続けてみる。


「千反田は怖かったんだな?」


「そうだと思う。
えるの思い出だから正確には言えないけどさ。
ほら、吊り橋効果ってあるだろ?
恐怖が原因のドキドキと恋心のドキドキを取り違えちゃうってやつ。
あの時のえるのそれがそうじゃなかったとは言い切れないしな」


「そういう考え方もあるが、残念ながら神山市に吊り橋は存在しない。
田井中が千反田の感情を恐怖と捉えた。
まずはそれを大前提にして俺の考えを話させてもらうが構わないか?」


「それはもちろん。
つーかホータローにはもうえるの泣いた理由が分かってるのか?」


「なんとなくだよ、確信を持ててるわけじゃない」


「こういう時だけ奥ゆかしいんだよなー、ホータローは」


奥ゆかしいってのはなんだ。
俺は単純に一番可能性が高い仮定を話そうとしているだけだ。
可能性が無限に存在する以上、自分が出した答えが正解だなどと簡単には確信できない。
俺がそれを伝えようと口を開くと、田井中は「それでどうなんだ?」と話の先を促した。
ならば別に俺の信条をわざわざ伝える必要もないだろう。
やらなくてもいいことなら、やらない。
俺は軽く肩をすくめてから話を続けた。


「千反田が泣いている理由で思い当たるのはもちろん前世の話だ。
千反田は前世についてなにか感じ入ることがあって泣き出してしまった。
そう考えるのが自然だろう。
と言うよりも田井中、お前もそう考えていたんだろう?
そう考えていたからこそ当時千反田たちが話したはずの話題から、
前世の話題だけを選りすぐって詳しく思い出して俺に伝えたんじゃないか?」


「バレバレかよ」


悪びれた様子もなく田井中が微笑んだ。
分かり切っていたことだし、俺はそれについて特に追求しなかった。
田井中がポニーテールを右手で軽く流しながら口を開く。

213 : ◆2cupU1gSNo - 2013/11/13 21:24:01.54 1chHIkfI0 123/252



「ホータローの言う通りだ。
私はえるが泣いた理由は前世の話をしたからだって思ったんだ。
えるは前世の話のなにかが怖くて泣いたんだと思う。
他に泣く理由もないもんな。

でもさ、だったらえるは前世の話なんかでどうして泣いたんだ?
前世なんて日常会話のついででも話すようなことだろ?
小学生の頃だったら、余計に日常会話の一部になってるくらいだよ。
えるはそんな日常会話のなにが怖かったんだ?
私にはそれが分からないんだよ」


嘘だな、と感じた。
いや、完全には本音じゃないと言った方が正しいか。
俺がそれを感じ取れるくらいには、田井中の様子は演技臭かった。
多分田井中は千反田が泣いた理由の大体の目安は付けているのだろう。
それでいて俺に答えを出させたいのだ。
田井中自身が納得するために。
ならば納得させてやろう。
それが田井中の望むことなのだし、俺にできる唯一のことなのだろうから。


「確かアミーナとか言ったな、豆芝の名前は」


「そうだけど?」


「そして当時の千反田は与り知らぬことだが、
唯はアミーナが自分の可愛がっていた犬の生まれ変わりであることを願っていた。
そうだったな?」


「それから後のえるがそうじゃないかって考えたってだけだけどな」


「十分だ、田井中。
俺たちにとって重要なのは、唯が本当に生まれ変わりを信じてたのかってことじゃない。
その時の千反田がなにを考えていたのかってことだ。
もう一度確認させてもらうが、確か唯はアミーナの生まれ変わりを『素敵』だと言っていたな?」


「ああ、えるの記憶では確かに言ってたよ」


「それに対して千反田は『素敵ですね』と返した。
そうだったな?」


「間違いないよ。それで?」


「当然ながらこれは俺の仮定でしかないが、千反田のその言葉は嘘だったんだろうな」


「『素敵ですね』って言葉がか?」


「ああ、そうだ。
あいつは予想外に素っ頓狂な反応を見せることも多々あるが、基本的には空気が読める奴だ。
『和を以て貴しとなす』。それが千反田の信条と言ってもいいだろう。
もちろん納得がいかないことを追及する心根がないわけじゃないけどな。
しかしあいつは必要以上に自分の感情を露わにしたりはしない。
あれで名家のお嬢様なんだ。あいつもそれくらいの処世術は弁えている」


「それで唯の『素敵』に頷いたわけか?」


「唯は生まれ変わりを『素敵』だと思っている。
それどころか生まれ変わりと言う現象に縋っているきらいもある。
ならば仮に反対意見を持っていたとしても、千反田は進んで口に出したりはしないだろう。
まず間違いなく胸にすっきりとしない感情を抱えたまま帰路に着く」


「えるならまずそうするわね」

214 : ◆2cupU1gSNo - 2013/11/13 21:24:27.39 1chHIkfI0 124/252



同意したのは十文字だった。
俺たちの中では千反田を一番よく知っている十文字がそう言うのだ。
やはり千反田が生まれ変わりのなにかを快く思っていなかったと考えるのが自然だろう。
ふと気が付くと田井中が真剣な表情で俺の顔を覗き込んでいた。


「えるが本当は生まれ変わりを『素敵』だと思ってなかった。
それは分かったし、私もそう思うよ。
だけどそれならえるが生まれ変わりのなにが怖かったんだ?
ホータローにはそれも分かってるのか?」


「『氷菓』だ」


「文集がどうしたんだ?」


「正確には『氷菓』に纏わる一連の事件だな。
千反田は『氷菓』のことを調べるために古典部に入部した。
その理由はお前にもなぜだか分かっているだろう?」


「伯父さんとの思い出を大切にしたいから……か?」


「持ち前の果てない好奇心、過去をすっきりと思い出せない不安。
様々な要因はあったんだろうが、要はそういうことだったんだろうな。
千反田は伯父との過去を思い出して大切にしたかったんだよ、単純に。
もうすぐ伯父が死んでしまうという焦りもあったんだろうけどな」


「そういえば小学五年生の頃って言えば……」


口元に手を当てて十文字が呟く。
独り言の様だったが、俺はそれを田井中に聞かせるためにもそれに応じた。


「今年で千反田の伯父が失踪してから八年になるはずだったな。
逆算すれば千反田が小学二年生か小学三年生の頃に伯父が失踪した計算になる。
小五と言えばその失踪から二年ほど経っているが、
その程度の期間であいつが伯父の失踪を割り切れたとは思えない。
特に単なる死亡じゃないだけに心のどこかに引っ掛かっていたはずだ。
死んだものと受け止めることもできず、
生きているかもしれないという淡い期待に何度も裏切られて……。
逆に二年経ったその頃の方が千反田の心には重い翳が掛かっていたのかもしれない」


「そんな時に唯が生まれ変わりの話をしたのが泣いた原因なのか?」


「いや、生まれ変わり自体は雑談としてなら問題ない。
お前も言っていただろう?
千反田は前世の話をすること自体には前向きだったって。
千反田にとって問題だったのはおそらく、
身近な存在を何者かの生まれ変わりだと考えてしまうことだったんだ」


「身近な存在……ってアミーナか?」


「アミーナと、それから伯父も連想したんだろう。
伯父がもし死んでいたとして仮に時間も影響しないとしたなら、
この世界に伯父の生まれ変わりが産まれていたとしても不思議じゃないと」


「それは……、えるにとって『素敵』なことじゃなかったんだよな?」


苦々しげに田井中が呟く。
いよいよ田井中が知りたくて知りたくなかった本題に入る。
心苦しくないと言ったら嘘になる。
だが俺は田井中に俺の考えを伝えなければならない。
それが千反田に起こった不可思議な現象に向き合うということなのだ。
俺は深呼吸して天井を仰いだ後、「ああ」と静かに頷いた。

215 : ◆2cupU1gSNo - 2013/11/13 21:24:58.42 1chHIkfI0 125/252



「そうだな、やはり千反田にとって生まれ変わりは『素敵』じゃなかったんだろう。
少なくとも俺はそう思う。
遠い未来で生まれ変わって再会できるだけなら、千反田も悪感情を抱かなかったはずだ。
だがその時の十文字さんは一つ千反田に仮説を話したな」


「『生まれ変わりに時間は影響しない』……」


「ああ、それだ。
その真偽は俺たちには確かめようもないが、現実にもそうだとしよう。
少なくとも千反田がその仮説を信じたと仮定して、
『五年前に死んだ人間が十五年前に生まれ変わる』事が可能だとする。
そうすると一生の間に同じ人間の生まれ変わりに会える可能性は高くなる。
それこそ下手をすると、万単位で何者かの生まれ変わりに会えることもありえる。
一生の内に誰かの生まれ変わりに触れられることが珍しくなくなる。
そうするとどうなる?」


「どうなるってホータロー……、それは……」


「一つ例を出そう。
例えば里志には悪いがあいつが明日くらいに突然死するとする。
そしてその直後に俺たちが里志の生まれ変わりと出会い、
なんらかの理由でそいつが里志の生まれ変わりだということを知ったとしよう。
そんなことが現実に起こったとしたなら、
少なくとも俺はそいつと里志を別の存在だと切り離して見ることができそうにない。
意識的にも無意識的にも里志の面影を捜そうとしてしまうだろうな」


「私だって……、そうだよ……」


「あたしもそうね、福部くんには申し訳ない仮定だけど」


俺の仮定に二人が頷く。
これはなにも俺たちだけに限った話ではないはずだ。
誰だって失った物の面影を追い求めてしまう。
生まれ変わりに限定せずとも、初恋の相手の面影を次の相手に求めてしまうなんてのはよく聞く話だ。
その是非について議論するつもりはない。
議論できるような性格でもない。
だが千反田はその是非について考えてしまうような奴なのだ。


「千反田はそういう想像をしてしまったんだろうな」


絞り出すように続ける。


「言うまでもないことだがアミーナは犬だ。
まだ存命らしいが、少なくとも俺たちよりは遥かに先に寿命が尽きる。
その分、他の何かに生まれ変わっている確率も人間より遥かに高くなるだろう。
千反田がアミーナの生まれ変わりに出会える確率もな。
唯はアミーナを他の犬の生まれ変わりだと『素敵』だと考えていた。
前の飼い犬の面影を投影していた。

前の犬にとっては幸福なことなのかもしれない。
いつまでも唯の心の中に存在しているということだ。
だがそれはアミーナにとっては幸福なことなんだろうか」


「……どうなんだろうな」


「そういえばこんな話を聞いたことがあるわ、折木くん」


「どんな話だ?」


「ペットのクローニング。
死んだペットの遺伝子からクローンを産み出す商売」

216 : ◆2cupU1gSNo - 2013/11/13 21:25:30.96 1chHIkfI0 126/252



十文字が少し苦そうに吐き出した。
様々な宗教を勉強している十文字なのだ。
こう見えて生命倫理には思うところがあるのだろう。
しかしクローンか。
これも現代の科学が実現させた一つの生まれ変わりと言えるのかもしれない。


「折木くんはどう思う?
折木くんなら死んだペットをクローンで蘇らせたい?」


「考えたことはないな。
俺はペットを飼っていないし、おそらく飼っていてもクローンは造らない。
クローンは遺伝子が同じだけだ。
飼っていたペットが生き返るわけじゃない」


「そうね、折木くんの言う通りよ。
クローンは死んだ誰かを生き返らせる技術じゃないわ。
だけどそれは現実に生まれ変わりがあったとしても同じことよね?」


「生まれ変わりは生まれ変わりでしかない……ってことか」


田井中が汗を掻きながら絞り出すように呟く。
暑いのだろうか?
いや、おそらくあの額に光る粒は冷や汗に違いない。
しかしその冷や汗が田井中の本望に思えるのは俺の考え過ぎだろうか。
眼鏡の位置を調整してから十文字が冷徹に続ける。


「前世の話をしていたあたしが言うことじゃないかもしれないけど、
生まれ変わりが現実にあったとしても、それは単なる生まれ変わりよ。
同じ人間が生まれてくるわけじゃないの。
魂が同じ?
魂に刻まれた記憶が同じ?
そんなの生まれてきた新しい命にはなんの関係もないことでしょ?
前世を知っている誰かに、その前世の面影を期待されても迷惑なだけだと思わない?」


そうだ。
それをこそ千反田は嫌がっていたのだと思う。
アミーナはこの世界に産まれ落ちている。
誰の、なんの生まれ変わりなのかは分からないが、とにかく新しい命として産まれている。
だと言うのに、アミーナ自身もよく知らない犬の生まれ変わりだと思われて、勝手に期待されてしまっている。
可愛がってはもらえるだろう。
大切にしてはもらえるだろう。
幸福かもしれないが、しかしそれは悲劇というものなのではないだろうか。
その悲劇について、俺には別にそれほど感傷はない。
世界がそういう仕組みだと言うのなら特に否定もしない。
だがあいつは、千反田えるはそういう悲劇を悲しく思う奴なのだ。
そしてなによりも。


「生まれ変わるのはアミーナだけじゃないからな」


俺が呟くと泣きそうな顔で田井中が顔を向けた。
失言だったかもしれない。
しかし俺たちが向き合わなければならない現実なのも確かだった。
生まれ変わるのは犬だけじゃない。
この世界に生まれ変わりが存在するのなら、俺たちもいつか生まれ変わるのだろう。
そして今の俺たちも誰かの生まれ変わりなのだろう。
もしもその俺たちの前世を知る誰かが現れたとしたら。
その誰かが俺たちの前世の役割を手前勝手に押し付けてきたとしたら。
そんな面倒臭いことは俺だってごめんだ。
大した人間ではないが、俺は俺なのだ。
別の誰かを演じて見せたりなどしたくない。
例え仮に前世の記憶が多少は残っていたとしても。

217 : ◆2cupU1gSNo - 2013/11/13 21:25:57.95 1chHIkfI0 127/252


それは怖いことだ、と俺ですら思う。
前世という概念に囚われるようになった途端、俺たちは俺たちじゃなくなる。
他の誰かの役割ばかりを期待されて、今生きている俺たちという存在が完全に無価値と化す。
今の自分がなんの意味もない存在になってしまうのだ。
感受性の高い千反田ならなおさらそれに恐怖し、泣き出してしまいたくもなってしまうだろう。
だから泣いたのだ、千反田は。
もっともこれは単に俺たちが辿り着いた一つの解答でしかないが。

田井中は黙って汗を拭っていた。
やはり田井中も心の隅ではそう思っていたのだろう。
認めるのが怖かっただけなのだ。
それで俺たちに答えを求めたのだ。
優しい言葉でも掛けて、違う答えを出してやるべきだったのかもしれない。
しかしそれはなんと言うか、田井中にも千反田にも真摯とは言えまい。
軽く田井中と視線が合う。
最後の確認よろしく田井中が呟いた。


「しっかし暑いよなあ……。
これからもっと暑くなるんだろうし髪切っちゃ駄目か?
……なんてな」


「駄目よ、律。
それはえるが子供の頃から伸ばしてる自慢の髪なんだから」


「そっか……、だよなあ……」


それ以上田井中はなにも言わなかったし、十文字も押し黙った。
俺も居心地の悪い気分を味わっていた。
見る限り十文字は田井中と仲が良いのだろう。
会話の節々からもその様子は見てとれた。
だが十文字は田井中に髪を切ってはいけないと言った。
もちろん単なる却下ではない。
これはいつか千反田が元に戻ることを信じての言葉だった。
千反田が元に戻った時、短くされた髪を見て困らないようための言葉だった。
それは同時に田井中の存在の否定でもあった。

田井中が顕現して以来、千反田の人格は表に出ていない。
眠っているのか、どこか別の場所にあるのか、それは分からない。
しかし一つだけ言えることがある。
どうも田井中の人格が消えない限り、千反田の人格が戻りそうにないということだ。
これだけの長い期間、千反田が現れる素振りもないのだ。
千反田と田井中の両者は共存できないと考えるのが自然だろう。
どちらかが消えない限り、どちらかも存在できない。
まるで前世と生まれ変わりの関係のように。

十文字は千反田を選択した。
当然だ、幼馴染みなのだから。
田井中のことは嫌いではなかろうが、二者択一であれば十文字は迷わず千反田を選ぶだろう。
生まれ変わりの田井中よりも、前世の千反田を。

俺は。
俺はどちらを選ぶのだろう。
俺だって田井中のことは嫌いではない。
苦手な方ではあるが、消えてしまえばいいとまで思っているわけではない。
田井中とはそれなりに過ごしてきたし、
同じ問題に向き合っているという少なからずの仲間意識もある。
それなりに田井中を面白いと思えるようにもなってきたのだ。
その田井中の人格が消えるなど、あまり考えたい未来ではない。

しかしやはり俺は選ばなければならないのだろう。
どちらに消えて、どちらに残ってもらうべきなのかを。
すぐの話ではない。
しかしそう遠い話でもない。
先延ばしでしかないことは分かっているが、その決断を下す日はできる限り先であってほしい。
「やらなければいけないことなら手短に」、
今回ばかりはその俺の信条も曲げなければなるまい。

221 : ◆2cupU1gSNo - 2013/11/22 19:53:44.10 yRRc3bFN0 128/252



四章 カレイドスコープ・ホワイトアウト


1.七月五日


授業を終えて放課後。
鞄を抱えて部室に向かうと、入口の前に先客がいることに気付いた。
先客は息を殺して部室を覗き込んでいる。
女子にしては背の高いその体躯。
この前目にした時よりも肌が浅黒く日焼けしている。
髪は幾分か伸びただろうか。
俺はその女子生徒に見覚えがあった。


「なにをしているんだ、大……」


掛けようとした声を彼女の右手で押し留められる。
まさか口元を手で覆われるとは思わなかった。
それほど切羽詰っていたということなのだろうか。
彼女は非常に不安そうな表情を浮かべ、左手の人差し指を自分の口元で立てる。
静かにしてくれということなのだろう。
俺は小さく溜息をついてから了承の意を示すために頷く。
そうしてやっと彼女……大日向は俺の口元から右手を離してくれた。


「お久しぶりです、折木先輩」


大日向が小声で囁いて頭を垂れる。
その程度の声量であれば声を出しても構わないということか。
俺は大日向に倣い、声量を落として訊ねる。


「ああ、久しぶりだな、大日向。
どうしたんだ、急に」


「ちょっと気になったことがありまして」


大日向は微笑んだが、その笑顔は少し寂しそうに見えた。
それでその気になったことがなんなのか、俺にも見当が付いた。
もっとも、大日向が寂しそうな表情を見せずとも分からなくもないことだったが。


「田井……千反田のことか?」


「たい……?」


「噛んだんだ、気にしないでくれ」


「先輩も噛むことがあるんですね」


今度は本当に面白かったのか、その微笑みからは寂しさが消えていた。
しかし危なかった。
最近はあいつを「千反田」より「田井中」と呼ぶ頻度の方が遥かに多い。
思わず田井中の件を知らない大日向の前で「田井中」と口に出してしまうところだった。
それくらい田井中の存在が俺の日常に溶け込み始めたということなのだろう。
是か非かで考えると、恐らくは非寄りの変化だろうが。
「ほっといてくれ」と咳払いしてから、俺は大日向に質問を続ける。

222 : ◆2cupU1gSNo - 2013/11/22 19:54:15.10 yRRc3bFN0 129/252



「それで千反田がどうしたんだ。
なにか急用でもあるのか?」


「いえ、用は……ないんですけど……」


歯切れが悪い。
マラソン大会前後で大日向と千反田に起こったことを考えれば無理もない。
あの件はまだ大日向の胸の中に大きな翳を落としているのだろう。
それに関して俺にできそうなことは今のところない。
俺にできそうなのは、もしも、万が一、ほとんど存在しない可能性だろうが、
またいずれ大日向が古典部に関わろうと思えた時、その背中を軽く押してやることくらいだろう。
大日向にまだその意志がない以上、俺にはなにもできないのだ、まだ。


「用がないのに部室の前にいるってことは偵察でもしてるのか?」


「……はい」


冗談のつもりだったが、大日向は真面目な表情で頷いていた。
本当に偵察だったのか。
だがなんのために?
俺がそれを問うとまた大日向の表情が曇った。
そういえば大日向は表情がよく変わる、そういう喜怒哀楽の激しい後輩だった。


「偵察しているのは、千反田先輩です」


「千反田のなにを?」


「千反田先輩なんですけどね、一年生の間でも有名なんですよ?
ファンも結構いるみたいなんです、男子にも、女子にも。
だから自然と千反田先輩の噂は耳に入ってくるんです。
それに、ほら……」


「そうか、お前のクラスには里志の妹がいるんだったな」


「はい」


里志の妹。
下級生の女子でありながら、里志を遥かに超えた変人。
俺も何度かひどい目に遭わされたが、それは今は重要じゃない。
重要なのは里志の妹と大日向の仲がかなり良いということだ。
おそらくはまだ大日向の中では「友達」ではないのだろうが。
とにかく大日向が千反田の噂を耳にする機会は、
単なる一年生という立場の者よりも遥かに多いだろうことは想像に難くない。


「聞いたんです、あたし」


「なにを?」


「千反田先輩が軽音部でドラムを叩いたって。
それも一朝一夕でできるような叩き方じゃなかったって」


人の口に戸は立てられない。
とりあえず伊原が口止めしていたのだが、やはり誰かから漏れてしまったらしい。
まあ、当然か。
全く情報を与えていなかったはずの里志ですら、その当日に軽音部に顔を出したのだ。
当日から既にあちこちに知れ渡っていたということだ。
千反田がドラムを叩くというある意味センセーショナルな話題を、暇な生徒たちが放っておくわけがない。


「千反田先輩、ドラムなんて叩けたんですか?」

223 : ◆2cupU1gSNo - 2013/11/22 19:55:18.55 yRRc3bFN0 130/252



大日向が上目遣いに俺ににじり寄る。
叩けるはずがない。
習い事は多いようだが、さすがにドラムにまで手を出していたとは俺も聞いていない。
試してもらったことはないが、おそらくは叩けないだろう、千反田の方は。
しかしそれを大日向に一から説明するわけにもいかないだろう。
言葉は悪いが大日向は部外者なのだし、今の彼女にはそれより優先するべき問題がある。
だから俺が大日向に伝えるのはこの言葉しかないのだ。


「叩けたらしい、俺たちも最近知った。
意外かもしれないが人の趣味や特技は千差万別だってことだ」


「そう……なんですか?
千反田先輩も水臭いなあ……。
ドラムが叩けるんだったらアーティストの話とかしたかったのに」


アーティスト?
ああ、そういえば全国ツアーに参加するくらい贔屓にしているアーティストがいるんだったか。
アーティストの名前は教えてもらっていないが、大日向の雰囲気から考えてもロックバンドだろう。
バンドに興味があるのであれば、ドラムを叩く千反田にも興味を持っても不思議ではない。
性格的にも二人ならバンド談義に華を咲かせられそうだ。
大日向と、田井中ならば。


「ドラム」


また呟くように大日向が言った。


「ドラムがどうした」


「千反田先輩のドラムの演奏、どうでした?」


「見事だったと思う。
俺はドラムに関しては素人以下だが、それでも正直聴き惚れた。
軽音部の連中も絶賛してたよ、部員に欲しいくらいだって。
千反田は古典部の活動があるからって断っていたけどな」


「そうなんですか。
……聴きたかったな」


「聴かせてもらえばいい、お前にその意思があるのなら」


意地の悪い言い方だったと自分でも思う。
今の大日向にはそれができないことを分かっていて、俺はそう言った。
しかし大日向は気を悪くしたようでもなく寂しげに微笑んだ。
若干遠い目をしているようでもあった。


「千反田先輩、元気なんですよね?」


「ああ。
お前の基準は分からないが、普段通りという意味では元気だよ。
突然ドラム演奏の趣味を告白するくらいの心境の変化はあったようだが」


「それなら……、よかったんですけど……」


大日向が言い澱む。
大日向がなにを言おうとしているのか、俺にはなんとなく分かっていた。
大日向は突然の千反田の心境の変化を気にしているのだ。
千反田がドラムを叩き始めたのは、時期としては大日向が退部すると言い出した頃の直後になる。
それまでドラムになど興味が無さそうに見えた千反田が、急にドラムを叩き始める。
大日向でなくても関連性を疑いたくもなってしまうというものだろう。

224 : ◆2cupU1gSNo - 2013/11/22 19:55:56.73 yRRc3bFN0 131/252


だがそれは単なる偶然だと俺は考えている。
たまたま時期的に重なってしまっただけだ。
大日向の件では千反田もかなり心を痛めてしまっていたらしい。
会話中、不意に塞ぎ込むことも何度もあった。
それでも千反田はそれほど柔い精神の持ち主ではない。
辛い思いをした過去を受け止めて、前に進むだけの芯の強さを持っている。
少なくとも俺の中での千反田えるはそういう奴だった。
だから俺は大日向に言ってやるのだ。


「単なる心境の変化だよ」


「そうなんでしょうか……」


「お前にもあるだろう。
好きな音楽の傾向が急に変わったり、好きだったなにかを意味もなく好まなくなったり」


「それは、はい、あたしにも覚えがありますけど……」


「そういうことだ。
お前が特に気にするようなことでもない」


大日向は俺の言葉になにかを返そうと口を開いて、しかしすぐにその口を閉じた。
俺がそう主張する以上、大日向はそう納得するしかない。
大日向も分かっているのだ、自分の立ち位置を。

前に大日向が「友達は祝われなきゃいけない」と言ったことがある。
大日向にとって友達は特別な存在だ。
ただ仲が良いというだけじゃない。
心から信頼し合える仲でなければ、大日向は相手を友達とは捉えない。
そして一度友達になってしまった以上、簡単に見捨てるようなこはできなくなる。
大日向友子は、俺の中学の後輩は、俺の古典部の後輩は、そういう後輩だった。

だから大日向は千反田への距離を掴みかねている。
自分に千反田の心配をする権利があるのか悩んでしまっている。
千反田と大日向はまだ「友達」ではないから。
親しい仲ではあったが、「友達」にはなり切れなかったから。
それで大日向は千反田の偵察に来たのだ。
千反田の異変の原因が自分であるのなら、おそらくはなんとかしたくて。
その程度には千反田との件が大日向の胸に残っている。
しかし幸か不幸かそれは大日向の勘違いだ。
千反田の心境の変化と大日向は関係がない。
関係がない以上、大日向はそれまで背負い込むことはないのだ。
人は許容量以上の荷物を背負うことはできないのだから。


「安心しました」


そう言って大日向が微笑みを浮かべる。
本当に安心したのかは分からない。
だが俺はその大日向の言葉を信じるしかなかった。


「部室、顔を出して行くか?」


俺が軽く訊ねてみると大日向は首を横に振った。

225 : ◆2cupU1gSNo - 2013/11/22 19:56:56.08 yRRc3bFN0 132/252



「言いましたよね、偵察だって」


「言ったな」


「そういうことですから、今日は帰ります。
でもいつか……、いつかは必ず千反田先輩に謝りに行きます。
本当のことが言えるかどうかは分かりませんけど……」


「そうか。
それでも千反田は喜ぶと思う。
その気になったらいつでもまた遊びに来てくれ。
里志も伊原も歓迎するだろう、例えお前が入部しなくても」


「折木先輩は歓迎してくれないんですか?」


「歓迎はしない」


「あははっ、冷たいなあ」


「なぜなら面倒臭いからだ。
出戻りの相手を歓迎してやるほど俺は面倒に寛容じゃないからな。
だが前までの応対と同じでよければ、そうするのはやぶさかじゃない」


「先輩らしいですね」


「そうだろうともさ」


俺が軽く笑ってやると大日向も釣られるように笑った。
いつかそうなればいい、とその顔は言っているように見えた。
俺としてはどちらでもいい。
だがせっかくそれなりに活動してきた古典部だ。
また廃部寸前に追い込むよりは、一人でも後輩がいてくれた方が気分的にも悪くはない。

幾分かすっきりした表情で、大日向が廊下に置いていた鞄を手に取った。


「それじゃあ今日は帰りますね」


「ああ」


「あ、忘れてました」


言い様、大日向が鞄の中に手を突っ込んだ。
なにをしているのだろうと一瞬思ったが、
鞄の中から取り出した大日向の手には小さな箱が掴まれていた。
俺に手渡してから大日向が笑う。


「差し入れです、チョコレート」


「差し入れはありがたいが、裏はないんだろうな」


「あ、ひどいなあ、折木先輩」


「前にそれで妙なことに付き合わされたからな」


「そんなこともありましたっけ。
でも大丈夫ですよ、これは純粋な差し入れですから。
前におだんごを奢ってもらったお礼です」

226 : ◆2cupU1gSNo - 2013/11/22 19:57:29.00 yRRc3bFN0 133/252



一本八十円の安い恩だったが、こんなところで返って来るとは思わなかった。
やはり大日向は律儀で貸し借りにはきっちりした奴なのだ。
ならば受け取らない理由はない。
俺は軽く頭を下げてから、そのチョコレートを遠慮なく頂く。
踵を返して去っていく前、大日向がまた律儀に主張した。


「親戚から貰ったお菓子なんで心配しなくていいですよ」


自腹を切ったわけではないから遠慮するな。
という意味ではなく、あの件にちゃんと向き合っていると言いたかったのだろう。
無理に贔屓のアーティストのツアーに付き合ったりはしていない。
誰かの財力に頼ってなどはいないのだと。
もちろん俺はそれを指摘したりはしなかった。
大日向があの件に対して向き合っているのなら、後の全ては大日向次第なのだから。


「それじゃあまた、折木先輩」


「ああ、またな」


軽く手を振って大日向を見送る。
そして手に持ったチョコレートを見ながら思う。
部室の中に誰がいるのかは分からない。
だが大日向が覗き込んでいた以上、千反田……、いや、田井中くらいはいるだろう。
そういえば田井中は毎日部活前にティータイムを取っていたとか言っていたな。
軽音部とティータイムとは妙な組み合わせだが、田井中を見ているとなぜだかそれも信じられる。
ならば田井中もこの差し入れには喜ぶだろう。
俺としても毎日千反田家からお菓子を差し入れされるのには心苦しいものがある。
大日向の様に律儀に恩を返してみるのも悪くない。
そう考えながら俺は古典部の扉を開いた。
後で心底後悔することになる未来も知らずに。

227 : ◆2cupU1gSNo - 2013/11/22 19:58:11.83 yRRc3bFN0 134/252




2.七月六日


伊原に気を遣ったのがこれほど裏目に出るとは思わなかった。
昨日大日向から渡された差し入れを、俺は古典部の連中に見せなかった。
夏に向けてダイエットしていると言っていた伊原が先客にいたからだ。
里志との関係が進んで初めての夏なのだ。
伊原としても夏の海で新しい水着を着て素敵な思い出とやらを作りたいに違いない。
それで俺は差し入れを鞄の中に隠し、大日向とのやりとりなどなにもなかったかのように振る舞った。
これでも伊原とは長い付き合いなのだ。
今後のあいつの幸せを願わないわけではない。
無遠慮にお菓子を見せた時のあいつの罵倒を聞きたくなかっただけでもあるけれど。


「あっははっ! 楽しんでるかあっ、ホータローっ?」


どうしてこうなったんだ……。
田井中に無理矢理肩を組まれながら、俺は大きく溜息をつく。
陽気な田井中の見せる普段以上に陽気な姿。
パーソナルスペースなど存在していないかのように俺に接近し、身体を密着させて大声で絡む。


「ホータローも若いんだからな!
もっとやる気と元気を持って青春しなくっちゃな!」


「はあ……、すみません……。
善処します……」


「声が小さい!」


「善処しますっ!」


「よーしっ!」


満足そうに微笑んで、俺の肩を強く叩く田井中。
こんな横柄な態度の人間を見るのは初めてじゃない。
親父が仕事の関係で無理矢理酒を飲まされて帰ってきた時が確かこんな感じだった。
アルコールは人間から理性や知性や色んな物を奪い去る。
こんなにも簡単に。
俺は成人してもアルコールに手を出さないことにしよう。

とどのつまり酔っ払っているのだ、田井中は。
いや、放課後の部室で堂々と酒盛りをしているわけではない。
色々と複雑な事情があるのだ。
本日の授業が終わって古典部に向かうと、部室では田井中が漫画を読んでいた。
どうやら田井中が子供の頃に読んでいた漫画を伊原が所有していたらしい。
それで全巻借りたとのことだが、漫画のことは今はどうでもいい。
重要なのはその時の部室では俺と田井中が二人きりだったということだ。
ダイエット中の伊原は不在で、伊原に告げ口しそうな里志も他の部活に行っている。
大日向からの差し入れを食べるにはちょうどいいタイミングだったのだ。

だが大日向からの差し入れを開いてみた時、俺は少し迷うことになった。
大日向からの差し入れは確かにチョコレートだった。
チョコレートには違いない。
しかし正確にはウイスキーボンボンだった。
一つの過去が俺の脳内に蘇った。
あれは確か前に沢木口の推理を拝聴させて頂いた時のことだ。
「一二三」での話ではなく、俺たちが沢木口と初対面の時のこと。
つまり入須のクラスのビデオ映画の真相について探っている時のことだった。

あの日の千反田の様子は今でも鮮明に思い出せる。
あの日、千反田の食べたウイスキーボンボンの数は七個。
きつい方とは言え、たったの七個ウイスキーボンボンを食べただけであいつは強く酔っ払った。
妙なテンションで沢木口と意気投合し、最終的には酔い潰れて眠ってしまった。
白い肌が更に真っ白になるのはかなり気持ち悪かった。
そうなる程度にはアルコールに弱いのだ、千反田は。

228 : ◆2cupU1gSNo - 2013/11/22 19:58:55.05 yRRc3bFN0 135/252


そうして俺が躊躇っているのを見て、
田井中もそれを思い出したのか俺を安心させるように笑った。


「私はアルコールに強い方だから平気だって。
みりんや料理酒を使った料理だって普通に作れるんだぜ?」


みりんや料理酒とは話が別だろうが、見たところ田井中が酒に弱そうには見えないのも確かだった。
むしろ勝手なイメージではあるが酒豪そうだ。
仮にも未成年の田井中にそんなイメージを持つのも変かもしれないが。
そもそもウイスキーボンボン程度で酔っ払う千反田が異常なのだ。
もし田井中が酒豪でなかったにしても、前の様な騒動にはならないだろう。
そう高を括ったのが間違いだった。
結論は言うに及ばず。
ウイスキーボンボン七個どころか、たったの五個で田井中は見事に酔っぱらってしまった。

田井中はお菓子食べたさに酒に強いと嘘をついたのだろうか。
いや、違う。
常にお菓子に飢えているように見える田井中でもそこまではしないだろう。
現実にも酒に強い方には違いない。
だが俺は失念してしまっていたのだ。
アルコールを摂取するのは田井中ではなく、千反田の肉体の方だったのだということを。

アセトアルデヒド。
確かそんな名前の成分だったと思うが、
人間が酔いやすいかどうかはその成分を分解しやすいかどうかで決まると聞いたことがある。
それは遺伝的に決まっていることであり、訓練などで改善されるものではないらしい。
つまり千反田の肉体は遺伝的にアルコールに弱いようにできているのだ。
田井中が酒に強いのが事実だとしても、それは田井中の精神が田井中の肉体にあった時の話だ。
身体能力が千反田に準拠する以上、田井中のアルコールへの耐性も千反田並みに落ちて然るべきだ。
現在の田井中の肉体は千反田の物なのだから。


「ほれほれ、ホータローも食え食え!」


などと冷静に分析している場合ではなかった。
顔を赤くした田井中が頻りに俺の肩を叩き、ウイスキーボンボンを俺の口元に運んでいた。
とんでもない酔っ払いだ……。
おそらく田井中自身、ここまで酔っ払ってしまったのは初めてなのだろう。
酒には本当に強かったのだろうし、一応は未成年なのだから、酔い潰れたこともないに違いない。
それで田井中も自分に起こっている初めての現象に対処し切れていないのだ。
嘆息したくなるのを堪えて、俺は箱の中に残されたウイスキーボンボンに視線を下ろしてみる。
正確に数えてみる気にもなれない。
箱の中にはまだ三十個以上のウイスキーボンボンが残されていた。
それを食べ尽くすまでは、この田井中からはどうも解放されそうもない。

三十個。
田井中と半分ずつ分けるにしても残数十五。
それだけの量を食べて酔わずにいられる自信は俺にはない。
そして酔い潰れて伊原あたりに発見される酒臭い俺たち。
伊原はここぞとばかりに今まで聞いたことのない語彙で俺を罵倒してくれることだろう。
これは大問題だ……。


「なあなあ、ホータロー?」


目を据わらせて田井中が囁く。
酔っ払いに逆らうのは自殺行為だ。
俺は背筋を伸ばして素直に反応する。
背中に感じる田井中の、正確には千反田の胸の感触は気にしない。
気にしてはいけない。


「どうしたんだ、田井中?」


「ホータローにはさあ、世話になってるよなあ……?」


「そ、そうか?」


「そうだって……、少しずつだけど謎も解いてくれてるじゃんか……。
私さあ、それには結構感謝してるんだよなあ……」

229 : ◆2cupU1gSNo - 2013/11/22 19:59:24.48 yRRc3bFN0 136/252



声が消え入りそうになっている。
軽く視線を向けてみると少し涙ぐんでいるようだった。
笑い上戸の絡み酒かと思っていたが、泣き上戸の性質も兼ね備えていたらしい。
いや、単にアルコールで感情が昂ぶっているだけか?


「別に感謝は必要ない」


謙遜ではなく、本音で俺はそう応じた。


「やらなければいけないことだからやっているだけだ。
手短にやれないのは俺の本意じゃないが、
やらなければいけないことくらいは分かってるつもりだからな。
この問題はどうにかして解決しなければならない。
千反田のためにも、お前のためにも、俺のためにもだ。
だから別に感謝されるようなことをしてるわけじゃない」


「分かってるってぇ……」


気が付けば田井中はもう笑っていた。
やはり普段以上に喜怒哀楽の変化が激しい。
これもアルコールの効能と言えば効能になるのだろうか。
まあ、泣きそうな表情のままでいられるよりはいいだろう。


「でも助かってるし嬉しいんだよ、ホータロー。
もちろん里志や摩耶花にも感謝してる。
私一人だったら、本当にどうしていいか分からなかったもんなぁ……。
正直な話、ホータローたちがいなかったら、私さ……。
一生えるのふりをして生きてたかもしれない……」


一瞬、背筋が凍る気分になった。
千反田に見えて、中身は千反田とは全く違う。
全くの別人が千反田を演じている。
俺たちにそれをそうと気付かせずに。
それは田井中の精神が千反田の中にあるということを知っているより、余程恐ろしいことに思えた。
そうでなくてよかった、と心の底から感じる。
ある意味では俺たちも田井中の気遣いに救われていたのだ。
俺たちはこの得体の知れない現象からお互いを救い合っているのだろう、それがどんな形であれ。

234 : ◆2cupU1gSNo - 2013/12/01 18:55:54.65 iJQQdZJ00 137/252



「それでさっ!」


田井中の声が明るい音色に戻った。
眩しい笑顔に明るい声色。
俺としてはらしくない考えだと自分でも思うが、これでこそ田井中だと感じた。
よく勘違いされがちだが、俺は別に喜怒哀楽が激しい人間を馬鹿にしているわけではない。
俺には向いていないと単に感じるだけだ。
だからこそ俺は騒がしいこの田井中がそう嫌いではない。
ドラムで鍛えたのであろう手首のしなりで肩を叩くのを除いてだが。


「スナップを効かせるな」


「まあまあ、細かいことは置いといてさ。
私ってつまりホータローたちにかなりお世話になってるわけじゃん?」


「お前がそう思うんならこれ以上否定はしないが」


「そこで私も考えてみたわけだ。
えるも含めて私たちを助けてくれるホータローたちに、私はなにを返せるんだろうって。
一番いいのはえるとホータローたちを会わせてあげること。
それは分かってるんだけどまだできそうにないからさ、私は考えてみたわけだ。
まずはささやかでもこの感謝の気持ちを示そうってな。
それで私は……」


そこで田井中の言葉が止まった。
俺の肩を叩いていたスナップの効いた手首も止まっている。
なにが起こったのかと思って振り返ってみると、田井中は天井を見つめて立ちすくんでいた。
悲しそうにしているわけではなく、遠い目をしているわけでもない。
ただただその場に立ちすくんでいる、そんな感じで。
ん? 一度こういうことがあったような……。
俺の既視感をよそに田井中は呻くような言葉を続ける。


「私は……、ホータローに渡したい物を……、挟んで……」


「挟む?」


「万華鏡」


「まさか」


「万華鏡みたいだ」


その言葉を言うが早いか、田井中はその場に腰から崩れ落ちた。
どうにか頭を床にぶつけるのを俺の手のひらで防げたのは、
前に千反田がそう言い残して酔い潰れたのを憶えていたからだ。
危なかった。
あの崩れ落ちる速度で頭をぶつけていたら、かなりのたんこぶができていたに違いない。
田井中としても千反田の身体にこれ以上傷を残すのを望みはしないだろう。


「しかしどうしたものか」


寝息を立てる田井中の頭を抱えながら俺は途方に暮れる。
俺は酔っ払いの介抱などしたことがない。
かと言って学校の保健室に運ぶわけにもいかないだろう。
そもそも女子にしては背の高いこいつを保健室まで運べるか自信がない。
人を呼ぶべきだろうか。
当てとしては今日も天文部で遊んでいるであろう沢木口だが……。
やめておこう。
彼女に見つかった時点で『千反田える飲酒事件』が学内に広まったも同然だ。

となると里志か伊原、なんなら十文字でもいい。
田井中の事情を知っている誰かが部室に顔を出してくれるのを期待するしかない。
できれば実家が病院である入須が来てくれるのが一番望ましい。
しかし入須は忙しい立場なのだし、そこまで望むのは期待し過ぎだろう。

235 : ◆2cupU1gSNo - 2013/12/01 18:56:25.48 iJQQdZJ00 138/252



「よっ……と」


なけなしの腕力を振り絞って、田井中をどうにか椅子に座らせる。
机に俺の鞄を枕代わりに置いて、その上に田井中の頭を乗せた。
簡易的な寝床ではあるが、とりあえず今の田井中には十分だろう。
不意に思いついて田井中の寝顔を覗き込んでみる。
普段騒がしい田井中からは想像しにくい安らかな寝顔。
その寝顔は前に見たことがある千反田の寝顔とは全く異なっていた。
最も顕著なのは寝息の大きさだ。
田井中の寝息も決して大きい方ではないが、千反田のそれよりはかなり大きかった。
育ちの違いが出たというところだろう。
寝ている時にまでこれほどまでに違いがあるのだ。
改めて俺は田井中の人格が千反田の演技ではないと確信できた。
やはり田井中は俺などでは窺い知れない超常的な現象によって千反田の肉体に宿っているのだ。
と、これ以上寝顔を見ているのも趣味が悪いか。
俺は千反田の向かいの席に座って、小さく肩をすくめた。

さて、これからどうするべきか。
里志も里志で他の部活で忙しいし、伊原もすぐには部室に訪れないだろう。
伊原が不在なのを見計らって田井中にウイスキーボンボンを渡したのだから当然だが。
誰かに連絡を取りたいところだが、生憎俺も千反田も携帯電話を所有していない。
やはり天文部に駆け込んで、沢木口に携帯電話だけでも借りるべきだろうか。
彼女は意外に入須とはそれなりの仲らしいし、入須の携帯電話の番号くらいは知っているだろう。
いや、やはり駄目だ。
沢木口なら携帯電話を借りるという行為だけで、なにかが起こっていることを察するに違いない。
後々のことを考えても、『千反田える飲酒事件』を噂にされるのは色々とまずい。

そうなると俺に取れる選択肢は一つ。
田井中がその眠りから覚めるのを待つことだけだろう。
田井中のアルコール耐性が千反田に準じているのだとすれば、さすがに一晩中眠りこけはしないだろう。
遅くとも夕暮れまでには目覚めるはずだ、俺の希望的な推測ではあるが。
幸い、本なら無駄にある。
俺が持参した本もあるし、田井中が読んでいた漫画も大量に積まれている。
これら全てを読み終える頃には目を覚ましていてほしい。


「待てよ」


まずは俺の持参した本に伸ばそうとした手を止めて、俺は小さく呟く。
酔い潰れる前に田井中が口にしていた言葉を思い出す。
「ホータローに渡したい物を……、挟んで……」と田井中は確かにそう言っていた。
俺に渡したい物とはなんなのだろう。
挟める物と言うのなら、紙か栞の様なものなのだろうか。
もっとも雑誌の付録の様に、立体を無理矢理なにかに挟んでいる例もなくはない。
千反田の言ではないが、気になり始めるとすっきりしなくなった。
少なくとも集中して本を読んでいられる気分ではなかった。

探してみるか。
『挟む』というキーワードもある。
それらしい場所を探していれば難なく見つめられるはずだ。
この部屋にあるという確信はないが、どうせ暇潰しだ。
なにもなくても構わないし、それで時間が潰せるのなら一石二鳥というやつでもある。
タイムリミットは田井中が目覚めるまで。
それで見つからなければ、田井中に素直に訊ねてみればいい。
田井中が酔い潰れる前の記憶を忘れていなければだが。

まず思い立ったのが田井中の持ち込んだ大量の漫画本だ。
正確には伊原に借りたらしい少女漫画だが。
とにかくなにかを挟むとしたならこれほど都合のいい場所もない。
ページ、表紙カバーの間、帯の間まで丹念に調べていく。
しかしアンケートはがきと新刊告知のチラシ以外に挟まれている物は存在しなかった。
多少残念ではあるが、それよりも伊原の奴、丁寧にチラシまで保管しているのか。
元漫研の面目躍如といったところだろうか。
そんな機会はないだろうが、万一あいつに漫画を借りる時は気を付けよう。
折り目でも付けようものなら、万の言葉を駆使して罵倒され尽くされることだろう。

漫画本の中に挟まれていないとしたなら、他の本の中だろうか。
古典部の部室の中に本は多くない。
『氷菓』のバックナンバーが少しに地学の本が数冊といったところだ。
何冊か適当に選んでページの間を調べてみるが、特にこれといった物は見つからなかった。
考え方が間違っていただろうかと考えてみた瞬間、俺は不意にこれまでの田井中の行動を思い出していた。

236 : ◆2cupU1gSNo - 2013/12/01 19:09:42.26 iJQQdZJ00 139/252


初めて会った日から田井中は俺のことを探偵のように扱っていた。
千反田が俺のことをそう捉えていたからなのだろうか。
とにかく田井中が俺を学生探偵だと思っている節がなかったとは言い切れない。
だからこそ田井中は俺にゲームを仕掛けたし、その後も様々な相談を俺に持ち掛けた。
俺を探偵だと考えていたからこそ、だ。
その田井中が俺に単純な方法でなにかを渡すだろうか。
探偵に渡すにふさわしい、捻った方法で渡すと考えた方が自然ではないだろうか。

大体にして『挟んで』という言い方自体がおかしい。
渡したいなにかを挟んで渡す必要などあるはずがない。
『挟む』という行為自体が問題の一つであると考えるべきだ。
もちろん田井中に悪意はないだろう。
俺が謎解きを好んでいると勘違いしてやったことに違いない。
俺は別になにかを解決することに快感を得る人間ではないのだが。
しかしそう思われている以上、解決しないままでいるわけにもいくまい。
こんな形であれ、この問題も含めて田井中の『送りたい物』なのだろうから。

そうなると『挟む』という行為自体を広く考えるべきだ。
例えば布に包んだとしても、間の物は挟まれていることには違いない。
なにかとなにかの間に置かれているだけでも、そのなにかに挟まれているとも言える。
『挟む』という行為は予想以上に幅が広いのだ。
クリップで挟む、ホッチキスで挟む、本で挟む、カーテンの間に挟む……。
さて、これらの『挟む』行為の中で田井中がやりそうなことと言えばなんだ?
難しく考える必要はない。
今まで付き合ってきての結論だが、田井中はまっすぐな性格だと俺は思う。
基本的には自分の感情に素直に生きている。
それゆえに田井中はまっすぐな答えを用意しているはずだ。
まっすぐに捻った答えを。

単になにかに『挟んだ』物が答えであるのなら、それは問題にはならない。
裏の裏を読んで単になにかに『挟む』だけという選択肢もあるが、それは捻り過ぎだ。
まっすぐな性格の田井中ならば、なおのこと普通に捻っただけの答えを用意しているだろう。
例えば『挟んで』いるようで『挟んで』いない。
そんな子供が好むなぞなぞで出せるような答えを。
一息ついてから俺は周辺を見渡してみる。
『挟んで』いるが『挟んで』いない。
もしくは元々『挟む』ような物ではない。
その答えに適当ななにかを探すために。


「なるほどな」


適当ななにかを見つけた俺は、それを手に取って呟いた。
本来『挟む』用途で使われない物が答えだったわけか。
田井中にしてはかなり捻ったと考えるべきか、
それともこれも千反田が前々から用意していたなぞなぞなのか。
どちらでもいい。
俺は指穴に指を入れると、机の上に思わせぶりに置かれていたはさみを開いた。

237 : ◆2cupU1gSNo - 2013/12/01 19:10:10.91 iJQQdZJ00 140/252



『正解おめでとう!』


はさみの刃の両端の間には、
そう書かれた細長い紙がセロハンテープで接着されていた。
どうやら紙は刃の間に器用に畳まれていたようだ。
はさみを使おうと刃先を開いてみて紙の存在に気付く、ちょっとしたトリック。
例えるなら簡易的な扇子の様な物だ。
小学生の頃、伊原が同級生にやられていたのを見たことがある。
子供がやるような他愛のない悪戯でよく使われる手だろう。

ネタが割れてしまうと単純だが、意外とよく考えられている。
はさみは『挟む』物ではない。
なにかを『挟んで切る』物なのだから。
『挟む』物と言われて、即座にはさみを連想する人間はそう多くはないはずだ。
俺がそうであったように。
これが仮に千反田が用意していたトリックだとしても、
このまっすぐに捻ったトリックを選んだのは実に田井中らしい。

それにしてもこれが田井中が俺に渡したかった物なのだろうか。
ちょっとした暇潰しを俺にプレゼントするつもりだったのか?
そう考えながらはさみを裏返してみて気付く。
細長い紙の裏に表とは別の言葉が記されていることに。


『いつもありがとな!』


細長い紙の裏にはそれだけ記されていた。
口で言えばいいことだろうに。
いや、照れ臭いか。
俺自身、その言葉を誰かに素直に伝えられる気はしない。
そうか、だからなのだ。
だから田井中はこんな他愛もない仕掛けを施したのだ。

田井中はおそらく、酔ってさえいなければこの問題を出して帰るつもりだったのだろう。
「ホータローへのプレゼントをなにかに挟んでるから」という問題にでもして。
簡単な問題ではあるが即座に答えに辿り着ける難易度でもない。
普通に考えて、誰でも二分くらいは悩んでしまうはずだ。
田井中はその間に俺の前から逃げ出すつもりだったに違いない。
俺に普段のお礼を伝えたという気恥ずかしさから。

趣味が悪いと思いつつも俺は田井中の顔を覗き込んでしまう。
田井中律。
俺より年上の割に騒がしくてまっすぐなドラマー。
こいつが俺の前に現れてから、余計に穏やかではない日常を過ごさなければならなくなった。
それこそ千反田本人以上に、こいつは俺を振り回している。
正直迷惑ではあるし面倒だが、俺はおそらくは嫌な気分ではない。
楽しくないわけではない。

瞬間、俺の頭の中にはありえない光景が広がった。
田井中と千反田が仲良く会話をしていて、俺が横目にそれを見ている光景。
いつか実際に見てみたい気もする光景。
しかしおそらくは実現し得ない夢のような光景だ。


「キャベツうめえ!」


田井中が意味不明な奇声を出して眠りから覚めるまで、
俺は田井中の寝顔を見ながらそういうことを考えてしまっていた。

242 : ◆2cupU1gSNo - 2013/12/10 19:15:07.18 BNLTa/FH0 141/252





五章 カストルとポルックス


1.七月二十七日


「ですからね、ここはこんな風にすると」


「あ、本当だ! 分かった分かった!」


「やればできるじゃないですか、嘉代さん」


「へへー、よく言われるー」


梨絵が頭を掻きながら笑い、釣られたように千反田が微笑んだ。
いや、今はまだ田井中だったな。
分かってはいるのに見違えてしまう。
まったく見事なものだ。
千反田ならばこうするだろうと俺が考える行動が日増しに上手くなっている。
そういえば学園祭のクラスの出し物の演劇でジュリエット役を演じたとか言っていたか。
よりにもよって『ロミオとジュリエット』の。
「罰ゲームみたいなもんだよ」と田井中は語っていたが、
単に罰ゲームというだけでは学園祭の演劇などは演じ切れまい。
田井中が望もうと望むまいと、それなりに演劇の才を備えているということなのだろう。

一度田井中が部長を務めるという軽音部の部員を演じてもらったことがある。
いや、俺が頼んだわけではない。
演技が上手い田井中に伊原が頼み込んだのだ。
田井中も単に説明するより手っ取り早いと考えたのか、
大袈裟な身振り手振りを交えて、顧問であるという山中という先生の演技までしてくれた。
元々アテレコが特技と聞いてはいたが、どれも見事な演技だった。
もちろん田井中の軽音部の部員の人柄を知っているわけではない。
それでも似ていると感じさせられるのは、ひとえに田井中の人間観察の賜物であろう。
特に田井中の幼馴染みであるらしい秋山澪というベーシストの演技が際立っていた。
部室から出るまで秋山の演技を続ける。
そんな里志の馬鹿馬鹿しい思いつきを、田井中は平然とこなしていたのだ。
口調と身振り手振りが普段の田井中と異なっているというだけではない。
表情や声色まで普段の田井中とも普段の千反田とも完全に異なっていた。
まるで秋山という別の人格が千反田に宿ったかのようだった。
もちろんそんなことはなく、田井中の演技が完璧だっただけなのだが。

とは言え、誰の前でも完璧に演じられるわけでもない。
例えば、


「半分くらい終わったみたいだし、そろそろちょっと休憩しない?」


「そ、そうですね、休憩しましょうか」


ほんの少し眉をひそめて田井中が応じる。
やはり苦手な相手の前ではその演技も鈍るらしい。
休憩を申し出たのは十文字だった。
どうやら十文字と嘉代の方も一段落ついていたようだ。

243 : ◆2cupU1gSNo - 2013/12/10 19:17:23.55 BNLTa/FH0 142/252



「じゃあおやつを用意しましょうか」


「やった、おやつ!」


「お茶淹れるの手伝うね」


「嘉代も行くの? ならあたしも手伝う!」


暇そうに漫画本を読んでいた伊原が立ち上がると、梨絵と嘉代がそれに続いた。
嘉代は純粋に伊原を手伝うために、梨絵はおそらく気分転換のためだろう。
別に手伝う理由に貴賤があるわけでもない。
俺に手間がなければそれで構わない。
田井中も立ち上がろうとしていたようだったが、梨絵たちの行動を見て考えを改めたようだった。


「いってらっしゃい、おやつを楽しみにお待ちしていますね」


ゆっくりと座り直して柔らかく微笑む。
確かにたかがおやつの準備に四人では多過ぎるだろう。


「いってきまーす!」


フレームなしの大きな眼鏡を掛け直してから、梨絵が部屋から駆け出して行く。
会釈だけして嘉代が、それに続いて伊原も部屋を後にした。
三人が去り、俺と田井中と十文字の三人が部屋に残される。
特に話題があるわけではなかったが、俺は田井中に話し掛けてみることにした。
田井中と十文字のぎこちない会話を聞かされるよりも、その方が結果的には省エネだろう。
別に二人の仲がそれほど悪いわけではないとしても。


「梨絵に気に入られてるみたいじゃないか」


「そう見えるんだったら嬉しいけどな」


「少し意外だったがな。
去年の千反田は梨絵より嘉代に懐かれてるように俺には見えた」


「だろうなー、私の中のえるの記憶にもそういう光景があるし。
去年との違いって言ったら、梨絵ちゃんより私の方に原因があると思う。
なんつーかさ、嘉代ちゃんより梨絵ちゃんに構っちゃいたくなるんだよな。
なんかほっとけない感じっつーか」


「確かに嘉代より梨絵の方がお前の波長には合っていそうだが」


「いやいや、波長とかそういう話じゃないんだよ。
雰囲気がさ、なんとなく似てるんだ」


「誰にだ?」


「唯だよ、唯。
小学生の頃のえるの幼馴染みの唯じゃなくて、私の部の部員の方の唯」


言い終わるが早いか、田井中が感傷的な表情を浮かべる。
なるほど、ギターの平沢唯か。
言われてみれば、田井中の演じた平沢と梨絵は似通ったところがあるかもしれない。
天真爛漫で悪気がなくちまちましていて、なにが嬉しいのかよく幸せそうな笑顔を浮かべる。
確か平沢には妹もいるはずだったから、そういった意味でも平沢と梨絵は似ているのだろう。
俺がそれを指摘すると、田井中が今日はポニーテールにした髪を軽くいじった。

244 : ◆2cupU1gSNo - 2013/12/10 19:18:12.93 BNLTa/FH0 143/252



「それもそうなんだけどさ、梨絵ちゃんはちょっと唯と声が似てるんだよな」


「声?」


「ああ、高いんだけど甲高いまでいかないって言うかさ、そんな感じの」


さすがに見知らぬ平沢の声のことまで俺には分からない。
声帯模写に優れているとは言え、田井中とて平沢の声を完全に真似できるわけではないだろう。
しかし田井中がそう言うのなら、二人の声は似ているに違いない。
そうか、平沢は梨絵に似た声だったのか。
そう思うと同時に、らしくなく俺は田井中を不憫に思った。
慣れてきてはいるのだろうが、異邦人である田井中が元の自分の友人の面影を探してしまうのも無理はない。
俺は神山市を長期間離れたことがない。
だから田井中の気持ちを正確に推察することはできない。
それでも思うのだ、体感で二ヶ月弱見知った顔のない土地で生きるのは寂しいはずだと。
いるはずがないと分かっていながら見知った顔を探してしまうのではないかと。

もちろんそんなことを話題にできるはずもなかった。
それ以上声のことに触れないように、俺は話題を変える。


「意外と言えば意外と面倒見がよかったんだな、田井中。
梨絵の勉強を見てやれるとは思わなかったよ、学力的な意味でもな」


「なんだとー!」


頬を膨らませて田井中が反論する。
しかしその目元は笑っていた。


「これでもちゃんと大学受かってるんだからな!
ほら、今回の期末試験も結構いい点数だっただろー?」


田井中が腰に両手を置いてふんぞり返る。
俗に言う「えっへん!」のポーズだ。
多少呆れさせられるが、その田井中の言葉は本当だった。
いや、結構いい点数というレベルではない。
今回の期末試験、田井中は学年で三位の点数を取っていた。
千反田と田井中の二人分の記憶があるとしても、これは驚異的な成績と言えるだろう。
やはり田井中は田井中の世界で名門と言われるだけの大学に受かる程度の学力を有しているのだ。
別に田井中がこの世界で好成績を収める必要性はないのだが。

それでも田井中が好成績を残したのは、おそらくは千反田のためだろう。
いつか千反田の人格が千反田の肉体に戻った時、一年期末の成績の暴落で後々に困らないために。
そのために田井中はわざわざ学年三位の点数を取ってくれたのだ。
どこまでも律儀な奴だと思う。
名前に律が入っているだけある。
いや、これは単なる駄洒落だが。

245 : ◆2cupU1gSNo - 2013/12/10 19:18:48.18 BNLTa/FH0 144/252



「今回の試験はあたしも負けちゃったしね」


十文字がどこか嬉しそうに微笑む。
ちょうど逆光になっていて、眼鏡の奥の目元の様子まではは分からなかったが。


「ふふふ、もっと褒めるといい」


田井中も微笑んだが、俺はなぜか変なことを思い浮かべてしまっていた。
もしかしたら。
田井中は十文字にプレッシャーを与えられてもいたのではないか。
一学期だけでも成績を落とすようなことを、認められなかったのではないか。
もちろん十文字のことだから、それとなく間接的にプレッシャーを与えたのではないだろうか。
つくづく底の読めない巫女だと思わされる。

だがそれは十文字の千反田への想いの重さを物語ってもいる。
十文字は田井中に冷たいわけではない。
深い付き合いではないが、十文字がそういう人間でないことくらいは分かる。
しかし結果的に田井中に冷淡にならざるを得ないのだ。
十文字には田井中より千反田の方が大切なのだから。
二者択一でしかない以上、どちらかを選ぶしかないのだから。
やはり俺も選ばなければならないのだろう、おそらくは夏の終わりまでには。


「成績と言えばさ」


俺が言葉を止めたことが気になったのだろう。
田井中が俺の表情を覗き込みながら続けた。


「ホータローはもっと頑張らなくちゃな。
成績結構落ちてたんだろ?
なんだったら私が勉強見てやろうか?」


「結構だ」


軽く吐き捨ててから田井中から目を逸らす。
田井中の言う通り、俺の成績はかなり落ちてしまっていた。
試験勉強をほとんどしてなかったのはいつものことだが、それでも想像以上に試験の結果が芳しくなかったのだ。
自分で考えている以上に田井中と千反田の問題を気に掛けていたからかもしれない。
単に俺が二年の勉強に付いていけないだけかもしれないが。

だが成績が落ちたのは俺だけではなかった。
伊原も十文字もかなり前年より悪い結果を残してしまっていた。
特に伊原のあんなに悪い成績は初めて見た気がする。
里志の成績もとんでもなく悪かったが、奴はいつものことだから気にするだけ無駄だろう。

それでというわけではないが、俺たちは現在民宿「青山荘」にお邪魔している。
今後のことを見越して「青山荘」で勉強合宿しておきたい、という伊原の申し出があったからだ。
しかも今年も宿泊費は無料で。
今後のことを考えたいのは俺も同様だった。
しかし改装中であったという去年ならいざ知らず、
二年連続で訪問するのはさすがに迷惑なのではないか。
俺ではなく田井中がそう訊ねていたが、伊原は苦笑しながらかぶりを振った。
「二人も改めて勉強を誰かに教えてもらいたいみたいだから」と苦笑して。
二人はもちろん梨絵と嘉代だ。
なるほど、嘉代はともかく梨絵が勉学に優れているようには思えない。
特に中学生の梨絵はそろそろ勉強に身を入れねばならない頃でもあるのだろう。

一年振りに再会した梨絵と嘉代の様子はかなり変わっていた。
主に身長と体格の方面で。
発育がいい方だと思っていたが、嘉代の成長が特に著しかった。
女性的な曲線をかなり帯び、下手をすると伊原を追い抜きかねない体格に成長していたのだ。
伊原もそれは感じていたようで、再会した瞬間に軽く溜息をついていたのを俺は見逃さなかった。
さすがの里志もそのことを伊原に指摘したりはしなかった。
ちなみに奴は「青山荘」を訪れてから温泉につきっきりだ。
仮にも勉強合宿という自覚は奴にはないらしい。
もっとも今更里志に成績を期待する愚を犯す奴は俺達の中にはいないが。

246 : ◆2cupU1gSNo - 2013/12/10 19:19:17.71 BNLTa/FH0 145/252


しかし、と思う。
まさか十文字が同行するとは思わなかった。
軽く伊原に探りを入れてみると、「わたしもよ」と苦そうに言っていた。
荒楠神社でバイトをするくらいなのだから、二人にはそれなりの面識があるのだろう。
だがそれほど親しそうにも思えなかったし、実際にもそうなのだと思われる。
性格的にもあまり相性がいいようには思えない。
それでも十文字がこの場にいるということは、それとなく自らの参加を提言したに違いない。
幼馴染みの千反田のためにはそれくらいのことはやってのける。
とどのつまり十文字かほとはそういう女なのだった。
幸い十文字は嘉代に懐かれたようで、嘉代の勉強を熱心に見てくれているのは幸いだったが。


「嘉代ちゃんのお茶、楽しみだな」


誰に聞かせるわけでもないように田井中が呟いた。
返事は期待していなかったのかもしれないが、聞こえた以上は反応してみることにする。


「日本茶にも興味があるのか?」


「コーヒーよりはなー。
なんかえるの記憶の中ではすっげー美味いお茶だったみたいなんだよ。
それで嘉代ちゃんのお茶が飲めるのが楽しみだったんだよな」


そんなに美味い茶だっただろうか。
熱い茶だった気はするが、俺も味までは覚えていない。
しかし千反田がそう記憶しているということはそうだったのだろう。
例えそれが千反田の嘉代への贔屓目が入った上での判断であったとしても。


「そんなに美味しいお茶なら楽しみね」


十文字が心底楽しみな様に微笑む。
こちらは本気で茶を楽しみにしているのだろう。
和風な雰囲気をまとっていると思っていたが、好みも和風よりらしい。


「ああ、楽しみだよな。
お茶だけじゃなくて、これからの夜のこととかもな。
ふっふっふっふ……」


田井中が奇妙に笑い出す。
こいつがこんな笑い方をするのは、なにかを企んでいる時だ。
なんらかのイベントを。
この前、七月七日も二日酔いを乗り越えて七夕イベントを自ら開催した田井中なのだ。
おそらくは合宿というこの非日常でまたなんらかのイベントを計画しているに違いない。
開催はともかく可能な限り面倒でないイベントであるのならいいのだが。


「お楽しみはこれからだ」


俺の心配をよそに、田井中はまるで古い悪役みたいな台詞を意味深に残した。

253 : ◆2cupU1gSNo - 2013/12/20 18:53:35.72 uEzbOLxz0 146/252



2.七月二十七日


夏虫の声が耳に痛い。
それに蛙や蜩の泣き声まで混じると、大音量のオーケストラを聞かされているみたいだ。
疎らにしか街灯が存在しない薄暗さも相俟って、らしくなく別世界に迷い込んだ錯覚にまで陥る。
神山市も都会というほどではないのだが、やはりそれなりに拓けた都市であったのだろう。
しかし慣れてしまえばこの別世界もそう悪くはない。
永住しろと言われれば悩んでしまうが、たまに訪れる程度なら気分転換に最適だ。
許されるのであれば、一週間ほど逗留していたい気持ちもないではない。


「どうしてわたしがあんたと二人で夜道を歩かなきゃなんないのよ……」


先刻からしつこいほど愚痴をこぼし続けるこいつが隣にいなければだが。
俺の十年来になる幼馴染みだというのに、こいつの毒舌は容赦なく七色だ。
まあ、俺の方としても十年来の幼馴染みに手心を加えようという思いは存在しないけれども。


「いい加減口じゃなくて足を動かしたらどうだ、伊原」


「うるさいわね、分かってるわよ」


さいですか。
分かっているのなら、もう十度を数えそうなくらい同じ愚痴をこぼさないでほしい。
俺だって毒舌だけを聞かされるこいつと二人で夜道を歩きたくはないし、
まさかこんな機会が訪れることになるとは、それこそ夢にも思っていなかった。
修学旅行の夜道で偶然顔を合わせた時ですら、ろくに会釈しなかった俺と伊原だ。
こんな関係性の二人が夜道を二十分以上共にするなど前代未聞だろう。

俺たちが嫌々ながらも肩を並べて歩くことになった元凶は、当然というか田井中だった。
梨絵たちの勉強の面倒で潰して迎えた滞在二日目の夜、怪しげな微笑みを浮かべて田井中が言ったのだ。
「肝試しをしよう!」と。
そろそろ夏休みの宿題にも飽きてきたところだし、その申し出自体は悪いものではなかった。
手間のようだが、いい気分転換はいい省エネに繋がる。
……組む相手が最適な相手であるのならばだが。

伊原と嘉代を除いた各員は概ね肝試しに賛成していた。
俺と同じく勉強と温泉に飽き始めていたのだろう。
十文字が乗り気だったのは意外だったが、霊的な知識に明るい彼女のことだ。
ひょっとしたら組んだパートナーをその知識で怖がらせるつもりなのかもしれなかった。

よくあるお約束ではあるが、肝試しは二人一組で行われることになった。
パートナーの選別方法は田井中の作ったあみだくじ。
もしも梨絵と嘉代のペアになった場合はやり直した方がいいんじゃないか。
と里志が珍しく夜道の安全性を危惧していたが、梨絵はそれを笑い飛ばした。
梨絵曰く、「この辺は庭みたいなものだから、心配なんて全然いらないって!」とのことだ。
それはそうかもしれない。
梨絵たちにとってこの周辺は確かに庭のようなものなのだろうし、
一年振りに再会した二人は想像以上に身長を伸ばして雰囲気も大人びさせていた。
少なくとも親戚である伊原よりも落ち着いた雰囲気に見える。
ならば二人がペアになっても心配はないだろう。
あまり仲の良い姉妹ではないにしても、なにも肝試し一つで仲違いしたりもしないはずだ。

そして幸いながらと言うべきか、里志の危惧は現実にはならなかった。
あみだくじを行ってみた結果、振り分けられたペアは以下の通り。

254 : ◆2cupU1gSNo - 2013/12/20 18:54:12.45 uEzbOLxz0 147/252


里志・梨絵ペア。
十文字・嘉代ペア。
俺・伊原ペア。


「げっ……」


と残酷な結果に俺と伊原が二人して呟いた瞬間、残りの四人に笑われたのは言うまでもない。
ちなみに田井中はあみだくじには参加していない。
もちろん言い出しっぺの田井中が肝試しに怯えているわけではない。
田井中は先の道に潜んで驚かせ役をするとのことだ。
梨絵と嘉代は田井中(二人にとっては千反田)の意外な一面に驚いたようではあったが、逆にそれを楽しんでいるようにも見えた。
それなりに親しくなっているとは言え、千反田と善名姉妹の関係は未だ数日程度でしかない。
意外な一面に違和感を持つほど、千反田のことを知ってはいないということだろう。

肝試しの目的地は山道の裏手にある鳥居。
俺は知らなかったのだが、この近所にある神社から離れた場所に謎の鳥居があるらしい。
いや、謎の鳥居と称するのも大袈裟か。
おそらくはなにかのきっかけで鳥居だけ残った神社の跡地なのだろう。
田舎ではよく見かける風景ではあるが、確かにある意味で謎に包まれていると言えなくもない。
ちゃんと肝試しをした証拠として、田井中お手製の落書きをその謎の鳥居の下に置いて戻ってくる。
重しの石も準備してるから、落書きが風で飛ばされる心配もないそうだ。
こんな時だけ用意周到な田井中である。

伊原から携帯電話を借りた田井中は先に向かい、準備が整った後で里志の携帯電話に連絡してきた。
俺たちの肝試しの順番は最後だった。
肝試しから戻って来た里志と十文字は苦笑していたが、梨絵と嘉代はそれなりに驚いた様子に見えた。
どうやら子供騙し程度には驚かされるなにかを用意しているようだ。
子供騙し程度なら、この世の幽霊が枯れ尾花だと知っている俺には問題ない。
軽く鳥居まで向かって、軽く田井中に驚かされて、それで今夜の気分転換は終了だ。
終了にしたかったのだが。


「それで?」


若干諦め混じりで伊原に訊ねてみる。
不機嫌そうではあったものの、伊原はとりあえず俺に応じてくれた。


「……分かんない」


さいで。
分かんないというのは謎の神社のことだった。
詳しく言うと謎の神社の場所が分からなかったのだ。
もっと詳細に言うと道に迷っているのだ、俺たちは。
それでさっきから伊原は普段以上に愚痴をこぼしていたのだ。
俺は溜息をついてからもう一度訊ねる。


「今まで何度も来てるんだろう」


「来てるわよ、何度も来てるわよ。
何度も来てるけど……」


「何度も来てるけど、なんだ」


「お昼と夜とじゃ道の雰囲気が全然違ってるのよ……。
お昼に一度行ったことがある場所なのに、
夜に行こうとすると道が分からなかったこととかあんたにもあるでしょ!」


確かにあるが。
それにしたって「青山荘」から謎の鳥居まで道程は片道十分といったところだ。
その程度の距離を迷うなんて思うはずがないじゃないか。
いや、この近辺に慣れている伊原に任せておけば大丈夫だろうと考えて、
田井中が見せてくれた地図にろくに目を通さなかった俺にも責任はあるかもしれないが。


「こんなことならたいちゃんに携帯を貸さなきゃよかった……」

255 : ◆2cupU1gSNo - 2013/12/20 18:54:45.30 uEzbOLxz0 148/252



伊原が大きな溜息と一緒に後悔の念を呟く。
そう、それも俺たちにとって大きな問題の一つだった。
怖がらせ役の田井中(千反田)は携帯電話を持っていない。
ゆえに肝試しの準備が完了したことを誰かに伝える術がない。
それで伊原は田井中に携帯電話を貸したのだ、手っ取り早く肝試しを終わらせるために。
手っ取り早く肝試しを終わらせたかったのだ、伊原は。
結果、俺たちに連絡手段がなくなってしまったわけだが。


「やっぱりなにかあるのよ、この村は……」


小声で伊原がそう呟いたのを、俺は聞き逃さなかった。
思い出してみれば、伊原は田井中が肝試しを提案した時から青い顔をしていた。
そんなに臆病な奴だったか、と首を捻ってみようとして思い出す。
そういえば伊原には去年の幽霊事件の真相を伝えていなかった。
こいつは頻りに知りたがっていたが、梨絵と嘉代の不仲を親戚のこいつに伝えるわけにもいかない。
それほど不仲ではないのかもしれないが、その可能性を考えるだけでも身内のこいつには不快だろう。
一応伊原を思ってのことだったのだが、今はそれが完全に裏目に出てしまっているようだ。
それで迷うはずがない距離で迷子になってしまったのかもしれない。


「もしかしたら下手に動かない方がいいのかもしれないな」


不意に思いついたことを俺は呟いた。
本当に単なる思いつきだったのだが、口にしてみるとそれも悪くない気がした。
手頃な大きさの石を見つけると、それに腰を下ろして一息ついた。


「どうしてよ」


頬を膨らませて、伊原が俺に懐中電灯を向ける。
人に懐中電灯を向けるな。


「徒歩十分の距離を二十分以上迷ってるんだ。
そろそろ田井中も俺たちが遅いことに気付く頃だろう。
あいつもああ見えて馬鹿じゃない。
異変に気付けば里志に連絡一つくらい寄越すはずだ。
それで俺たちが迷っていることにも気付いて捜索隊を出してくれるだろうよ」


「そんなの情けないわよ……」


「他に方法があるなら聞くが」


「ないけど……」


「だったらお前も座ったらどうだ?
歩いたのは二十分程度だが、単に歩くのと迷いながら歩くのでは疲労度が全然違う。
かなり疲れてるんじゃないか?」


「……あんたにしては気が効いてるじゃないのよ」


「伊達に省エネを心掛けていない」


「はいはい」


溜息交じりではあったが伊原は苦笑した。
無理に歩く必要がないことに気付いて気が楽になったのかもしれない。
俺から三メートルほど離れた山中の石の上に伊原も腰を下ろした。
三メートル。
伊原にしてはかなり近くに座ってくれたものだ。
普段なら間違いなく五メートルは離れた場所に腰を下ろす。
それが俺と伊原のいつもの距離感だ。
それを前提として考えるのならば、俺たちの関係は飛躍的に改善されたと言ってもいいだろう。

256 : ◆2cupU1gSNo - 2013/12/20 18:55:13.49 uEzbOLxz0 149/252


改善か、とらしくない考えに、今度は俺が苦笑してしまう。
伊原は幼馴染みだがそれほど親しいわけではない。
中学での一件以来、嫌われていると称してもいいほど関係が悪化したこともあった。
それはそれで構わなかったし、俺を嫌うのだって伊原の自由だった。
しかしせっかくの腐れ縁なのだし、多少は普通に接してもいいのではないか。
最近そう思うようになったのは、田井中が秋山という幼馴染みの話を嬉しそうにするのと無関係ではないだろう。
田井中は軽音部の部員の中でも、殊更秋山の話を楽しそうに語る。
秋山と仲良くなったきっかけ、秋山とのエピソード、それらを本当に楽しそうに。
俺はそんな田井中と秋山の関係に憧れているのだろうか?
分からないが、少なくとも険悪よりは安穏とした雰囲気の方が省エネになるはずだ。
一緒にいて険悪さを感じないですむなど、それこそお互いに優しいエコってやつだろう。


「ねえ折木」


伊原がまた俺に懐中電灯を向けながら呟いた。
だから人に懐中電灯を向けるな。


「どうした伊原。
それと人に懐中電灯を向けるな、眩しい」


「あ、ごめん。
それより一つ訊きたいことがあるんだけど」


「駄目だ、今忙しい」


「座ってるだけじゃないの」


「冗談だよ、それでどうした」


「あんた、最近たいちゃんと仲がいいみたいじゃない?」


「そうか?」


俺は首を傾げる。
誤魔化したわけじゃなく、本当に分からなかったからだ。
確かに田井中と行動する機会はかなり増えている。
それこそ自由時間に割いた時間は千反田よりも田井中の方が長いかもしれない。
しかしそれと仲がいいかどうかは別問題だ。
俺たちは田井中と千反田に起こっている現象を調べているだけであって、それと親しさはあまり関係ない。
もちろん田井中と話していて悪い気分にならないのも確かではあるが。

269 : ◆2cupU1gSNo - 2013/12/28 20:48:08.53 QFvy2CWP0 150/252



「お前こそどうなんだ」


俺は伊原に切り返す。
卑怯かもしれなかったが、分からないことをいつまでも考えていてもしょうがない。


「わたし?」


「ああ、俺にはお前の方が田井中と親しくしているように見えるぞ。
この前もプレゼントを渡していたし、かなり初期からあだ名なんぞも付けていたじゃないか」


まあ、伊原は短い付き合いの相手もあだ名で呼びがちなのだが。
俺以外。


「そう、ね。そうかもしれない。
たいちゃんのことは好きよ。
明るくて楽しいし、元気で前向きな子だしね。
ひょっとしたら性格だけならちーちゃんよりも合ってるかもしれないわ。
こんな形じゃなければ、親友になりたかったわよ」


田井中とは友達ではあっても親友ではない。
今後も親友にはなれない。
そういう意味なのだろうと俺は捉えた。
特に伊原は義理堅い奴なのだ。
どれほど田井中と性格が合おうと、千反田を切り捨てることなどできまい。
その点では伊原も十文字と同じと言える。


「あんたは……、ううん、なんでもないわ」


伊原は俺にもう一度問おうとしたが、すぐに口を噤んだ。
だから俺は伊原の言葉には反応せず、軽く夜空を見上げた。
捜索隊はまだ現れそうにない。
田井中はきっと俺たちを怖がらせてやろうとほくそ笑んでいることだろう。
千反田と同じ顔で、千反田とは全く違う表情で。

270 : ◆2cupU1gSNo - 2013/12/28 20:48:59.42 QFvy2CWP0 151/252



「そういえば折木、あんた知ってる?」


「なにをだよ」


「わたし、訊いてみたのよ、たいちゃんに。
わたしの知ってる漫画はたいちゃんの世界にもあるのって。
そうしたらたいちゃんは教えてくれたわ、わたしの知ってる色んな漫画の最終回を。
意外な展開も多かったけど腑に落ちる最終回ももちろんあったわよ。
ちゃんと読み込んでいる人の、その漫画の最終回の感想を聞かせてもらえたの。
つまりたいちゃんの世界にも、この世界と同じ漫画が連載されてるってことよね。
わたしたちの世界から十年先の漫画だけれど」


俺はなにも答えなかった。
田井中と話していれば、その内分かることだ。
俺は田井中から教えてもらったが、伊原は自力でその答えに辿り着いたらしい。
田井中の記憶の中の世界は、この世界より十年先の世界なのだと。
伊原は責めるような視線を俺に向けはしなかった。
ただひとり言のように静かに続けていた。


「ネタバレになっちゃったのは残念だけど、
まだ誰も知らないはずの漫画の最終回を知れたのは嬉しかったわ。
だけどどういうことなのかしら?
こんなの単なる人格の入れ替わりどころじゃないわ、もっと複雑ななにかよ。
全然分かんないわよ……」


俺にだって分からなかった。
田井中から打ち明けられて以来、誰にもその話をすることができなかった。
分からないことだらけで八方塞がりだ。
ほとんどの議論を終えてしまっているというのに、光明の一つも見出せていない。
やはりこんな超現実など、俺たちの手に負えるものではなかった。
しかし手に負えないからと言って、無関係でいられるほど無神経ではないのだ、特に伊原は。
とりあえずは幼馴染みである伊原の悩む姿を見せられ続けるのは、俺の精神衛生的に好ましくない。
慰めるつもりではなかったのだが、気付けば俺は伊原に声を掛けてしまっていた。


「単なる人格の入れ替わりでないことは分かり切っている。
しかしだ、伊原。
田井中の世界が単なる俺たちの世界の十年後でないことも確かなんだよ。
桜が丘女子だったか、そんな名前の学校は俺たちの世界には存在していない。
奴の母校であるという中学も、小学校も存在していなかった。
この調子だと俺たちの世界に、まだ幼い田井中が存在していない可能性もある。
十年先の世界かどうかは関係なく、微妙に違っているんだ、田井中の世界と俺たちの世界は」


「そうなのよね……。
そういえば、たいちゃん言ってたわ。
わたしの好きな有名な漫画のタイトルを知らないって。
それも一作だけならともかく十作くらい。
読んでいるジャンルの違いかなってその時は思ったんだけど、
いくらなんでも国民的な漫画のタイトルを十作も知らないなんてありえないわよね……」


「となると、田井中の世界ではその漫画が存在していない可能性がある。
伝統のある学校が存在していないんだ。
この世界で有名な漫画の十作くらい存在していなくても不思議じゃない。
田井中の世界の時代は十年後ではあるが、俺たちの世界のそのまま十年後というわけでもないってことだ。
前に話したと思うが、それこそパラレルワールドってやつなんだろう」


「やっぱりそうなのよね……」

271 : ◆2cupU1gSNo - 2013/12/28 20:49:26.21 QFvy2CWP0 152/252



伊原が溜息をついて、俺も釣られて溜息をついてしまった。
田井中の住んでいる世界は、俺たちの世界のパラレルワールドの十年後だ。
そこまではいい。
分かって、どうなる?
分かって、どうする?
パラレルワールドが存在するのは構わないが、それで田井中の人格が説明できるわけじゃない。
千反田の人格を取り戻せるわけでもないのだ。


「わたしね」


伊原が不意に続けた。
珍しく視線を俺にまっすぐぶつけて。


「不謹慎な気もするけど思ったことがあるのよ」


「別に俺は不謹慎でも気にしない」


「あんたらしいわね。
それなら言うけど、たいちゃんはちーちゃんの前世の記憶なんじゃないかって思ったの。
よく見るでしょ、前世の記憶が甦って前とは全く別の人格になるって漫画とか。
それならとりあえずの説明は付く気がしてたのよ」


前世の記憶か。
俺も考えなかったわけじゃない。
前世があるのかどうかは知らないが、一番説明しやすい答えではある。
しかし。


「でもね」


伊原も持論の問題点には分かっていたようで、俺の答えを聞くより先に続けた。


「たいちゃんの世界ってわたしたちの世界の十年後なのよね……」


そうだ、そこに問題が生じてくる。
田井中が千反田の前世の記憶としても、田井中が千反田より未来に生きていては本末転倒だ。
やはり前世説はその点で否定されてしまうのだ。

いや、待てよ。
本当にそうだろうか。
この前、荒楠神社で十文字(正確には田井中)は言わなかっただろうか。
「生まれ変わりは時間を超える」と。
「五年前に死んだ人間が十五年前に生まれ変わっていても不思議はない」と。
それらを発展させて考えれば、
未来のパラレルワールドで死んだ人間が、この世界に生まれ変わっていてもよくはならないだろうか。

まったく、我ながら適当な解釈だった。
そうであれば説明しやすいってだけの都合のいい屁理屈だ。
第一、田井中の人格が突然発現した説明が全くできていないじゃないか。
だが俺の中の歯車が一つだけ動いた気はしていた。


「本当は前世の記憶でもなんでもいいんだけどね」


伊原が寂しそうに苦笑した。
そうだった。
伊原は白黒はっきりさせたがる性格ではあるが、それより大切なものを知っている奴なのだ。

272 : ◆2cupU1gSNo - 2013/12/28 20:50:00.92 QFvy2CWP0 153/252



「もう一度、ちーちゃんと話してみたいわよ……」


苦笑を浮かべながらではあったが、それは伊原の悲痛な本音だった。
千反田の人格が現れなくなってかなり久しい。
あいつの微笑み、あいつの表情、あいつの口癖、様々なあいつが遠い記憶の彼方だ。
俺たちはこうして千反田えるを失ってしまうのだろうか。
田井中律という異邦人を得たのと引き換えに。


「……あれっ?」


不意に伊原が素っ頓狂な声を出した。
なにか思い出したことでもあったのだろうか。
それを訊ねてみると、伊原は少し青い表情になって続けた。


「違うわよ。
そうじゃなくて、ほら見て!
あの山の麓、変なものが見えない?」


促されるまま、伊原が懐中電灯で照らす方向に視線を向ける。
特に変なものなど見えな……、いや、確かになにかが見える。
ふわふわと雲のような形の物体が浮いている?
夜目にも視認できるのは、その物体が青白い光を放っているからだ。


「鬼火……か?」


「ちょ、ちょっと折木!
へへ、変なことを言い出さないでよ!」


お前が見てと言ったんだろう。
鬼火という呼称が不満ならしょうがない。
俺は溜息をついた後で、伊原の不満を買わないように言い換えてやった。


「人魂みたいに見えるな」


「あんたって本当に……!」


更に目を釣り上げる伊原。
どうやら呼び方の問題ではなかったようだ。
いや、そもそもの問題はそういうことではないらしい。

鬼火……、いや人魂……、
とにかく青い光は俺たちの位置から約五百メートル先、山の麓辺りにふわふわと浮かんでいた。
炎ではないし、ライトとも違う。
雲のような不定形の形をした青い光を放つ物体。
数は四つ。
ゆっくりとだが移動していることから電灯ではありえない。
そもそもその周辺に光源など存在していなかったはずだ。


「なによ、あれ……」


伊原が怯えたような呻き声を漏らす。
俺にとってはただの光なのだが、伊原には得体の知れない心霊現象に見えているらしい。
去年の梨絵の言ではないが、伊原がこういう現象をここまで苦手だと思わなかった。
もしかしたらホラー漫画なども読めないタイプなのかもしれない。
伊原の珍しい表情を見ていたくもあったが、後でなにをされるか分かったものじゃない。
下手をしたら里志にあることないことを伝えられてしまう可能性もある。
俺は仕方なく伊原を安心させるために言ってやった。

273 : ◆2cupU1gSNo - 2013/12/28 20:50:30.06 QFvy2CWP0 154/252



「田井中だろう。
俺たちを捜しに来たのかもしれない」


「あの青い光でっ?」


「俺たちを怖がらせるために使っていた道具の再利用かもしれないだろう。
サイリウムかなにか青い光を放つ感じの……」


「もしそうだとしてもたいちゃんだけであの数を持つのは無理よ!
四つよ、四つ!」


そうだった。
青い光の数は四つ。
それぞれが不規則に動いて、五メートル間隔は距離を取っている。
両手で二つ持っていたしとても、残り二つの青い光は誰が動かしている?
しかもよく見れば地表二メートルほどの高さを浮かんでいるようだ。
夜の闇で光しか確認出来ないが、誰かが掲げるように青い光を持っているのだろうか。
棒かなにかに括り付ければそれも不可能ではないだろう。
だがその必要性はなんだ?
まさか迷子の俺たちを光で呼んでいるというわけでもないはずだ。
それならばせめて俺たちを呼ぶ声くらいあってしかるべきだ。


「やっぱりなにかいるのよ、この村ー……!」


嫌っているはずの俺の背後に回って怯える伊原。
それほど切羽詰まっているということなのだろう。
結局それから十分後。
俺たちを捜しに来た田井中に見つけられるまで、伊原は怯え続けていた。
伊原の言った通り田井中は青い光を持っていなかったし、
四つの青い光はいつの間にかどこかへ消えてしまっていた。
どこかへ。

別に怖くはない。
だがすっきりしないものが俺の胸に残ったのは確かだった。

282 : ◆2cupU1gSNo - 2014/01/02 19:30:46.26 acCl/zU/0 155/252



3.七月二十八日


「気になるのよ」


無言の朝食を二人で食べ終わった後、
珍しく伊原に呼び止められて言われた一言目がそれだった。
既に懐かしくなり始めた言葉だが、まさか伊原の口から聞くことになるとは思っていなかった。


「なにが気になるんだ」


「折木、あんた分かってて言ってるでしょ。
青い光よ、青い光」


「昨日の鬼火か」


「青い光!」


伊原が唇を尖らせる。
一晩明けても、あの青い光を超自然的な現象だと思いたくはないらしい。
それでいて気になってしょうがないのか。
喉元過ぎれば熱さを忘れるということだろうか。
いや、違うか。
人は未知を恐れる生き物だとよく聞くし、実際にもそうなのだろう。
だから伊原はあの青い光の正体が知りたいのだ。
分からないまま放置しておくよりも、正体を掴んで少しでも安心できるために。

よく見ると伊原のその表情は随分と眠たそうだ。
そういえば朝食の時に何度もあくびを噛み殺していた気もする。
肝試しの後、あの青い光のことが気になってろくに眠れなかったに違いない。
寝不足の不機嫌を俺にぶつけられても困る。
俺は最大限伊原に歩み寄った意見を出してやることにした。


「気になるなら調べればいいじゃないか」


「調べるわよ。
調べるけどあんたも付き合いなさい」


「どうして俺が」


「あの青い光を見たのはわたしとあんたじゃない」


「他に目撃者がいるかもしれないだろう。
遠目にもあれだけはっきり見えていたんだ。
昨日、俺たちを見つけてくれた田井中なら目撃していてもおかしくない」


「他の目撃者のことももちろん調べるわ。
たいちゃんにも今から聞き込みに行くつもりよ。
だけど今のところ他の目撃者を知らない以上、あんたも付き合うのが合理的でしょ?」


非合理だ。
こんなことなら昨日田井中と再会した時に青い光のことを訊ねておくべきだった。
俺の背中で怯えている伊原のことを気遣って仏心を出したのが仇になったらしい。
慣れないことはするものじゃないな。

283 : ◆2cupU1gSNo - 2014/01/02 19:31:47.01 acCl/zU/0 156/252



「俺はお前と一緒に目撃したってだけなんだ。
俺よりも里志に頼むべきだと思うぞ。
結論は出さないかもしれないが、あいつなら最低限必要な情報を集めてくれるはずだ。
後はお前がその情報から納得できる答えを導き出せばいい」


「頼めるもんならもう頼んでるわよ」


「頼めなかったのか?」


「頼めなかったわよ。
どうもわたしたちより一足先に朝食食べた後に、温泉に入りに行っちゃったみたいね」


それは確かに頼めないな。
さすがの伊原でも男湯までは追い掛けられまい。
それにしても里志の奴、どれだけ温泉浸りになってるんだ。
温泉は気が向いた時に浸かりに行くのが作法だと言っていた気がするが、いくらなんでも浸かり過ぎだ。
なにか別の目的でもあるんじゃないかと邪推したくなる。
例えば伊原を怖がらせるためにあの青い光を用意していたとか。
いや、それはさすがに疑い過ぎか。
大方、善名姉妹の勉強を見てやれるほどの学力がない現実から逃げているだけだろう。


「とにかくそういうわけなの。
青い光の調査、あんたにも付き合ってもらうわよ」


有無を言わさぬ口調で伊原が俺を睨み付ける。
こいつには千反田とは違った強引さがあるし、どうやら逃げられそうにない。
もしも逃げ出せたとしても、七色の舌鋒で俺を罵倒してくれることだろう。
仕方がない。
やらなければいけないことなら手短に、だ。
どうせ今日は合宿の最終日でやるべきことはほとんどない。
伊原の伝手でいい景色の見られる旅館に泊まれた。
その恩返しに多少付き合ってやっても、あの鬼火の祟りはあるまい。
青い光の正体に心当たりがないわけでもないしな。
分からないのは犯人と動機だけだ。


「分かった分かった。
そんなに言うなら調査に付き合ってやる。
ただし梨絵と嘉代への聞き込みはお前がやってくれよ。
二人とも俺から聞き込みされるなんてよく思わないだろう。
俺だって子供は苦手だ」


特にナイーブな子供は。
嘉代にはあまり好かれてない気がするし、梨絵ともそう親しいわけではない。
あの二人にしても、伊原と同じ部活の部員としか思っていないだろう。
だが伊原は首を傾げて意外な言葉を口にした。


「そう?
わたしが言うのもなんだけど、あんた意外と二人には気に入られてるみたいよ?」


「まさか」


「本当よ。
あんた相手にお世辞を言ってもしょうがないでしょ。
二人ともあんたがいない時によく訊ねてくるもの。
どんな人なのか、今までどんな事件を解決してきたのか、ってね」


「単なる素人探偵扱いじゃないか。
お前、二人にどんな話をしてるんだ」


「ありのままよ」

284 : ◆2cupU1gSNo - 2014/01/02 19:32:19.09 acCl/zU/0 157/252



まったく、悪びれもしやしない。
しかし伊原のことだから、本当に俺のありのままの姿を二人に話しているのだろう。
嫌われていないらしいのはなによりだが、
俺の知らぬところで気に入られているというのも存外と妙な気分だ。
だが苦手な物は苦手なのだ。
ともあれ俺は聞き込みは伊原がするという約束を取り付けると、
まずは田井中に聞き込みをするために伊原たちが宿泊している部屋に向かった。
善名姉妹の姿は朝になってからまだ見かけていなかったからだ。
二人とも合宿最終日のためになにか準備をしているのかもしれない。


「あら、おはよう」


「よっ、ホータロー」


扉を開けると田井中と十文字が俺たちに視線を向けた。
朝食の時に姿を見ないと思っていたら、どうやら伊原より先に食べ終わっていたらしい。
やはり伊原が眠れたのは夜更けになってからだったようだ。
それで妙に朝食の時間が遅かったのだろう。
俺の朝食の時間が遅かったのは単なる寝坊だが。

それより気になったのは、田井中たちが二人羽織の様な体勢で座っていたことだ。
十文字が前で田井中が後方。
その体勢で密着して、田井中が十文字の手首を握っている。
なにをしているのかは、十文字が握っている物からすぐに推察できた。


「ドラムの練習か?」


「おう。
私が手持ち無沙汰に雑誌を叩いてたら、十文字がやってみたいって言い出してさ」


「そうなのよ。
周りにドラムを叩く人なんていなかったから、ちょっと気になっちゃって。
朝から悪いわね、律」


「いいっていいって。
こうやって少しでもドラムに興味がある奴が増えてくれたら本望ってやつだよ。
目立たないからなー、ドラム……」


田井中が苦笑すると、釣られる様に十文字も苦笑した。
仲が良いのか悪いのかよく分からない二人だったが、
千反田の件を抜きにすれば、それなりに気が合っているらしい。
それには少しだけ安心できた。


「でも目立たないのが嘘みたいに激しい運動よね、律。
叩き方のコツを教えてもらってるだけなのに、もう手首が疲れてきちゃった。
やっぱりドラマーって凄いのね」


「私も最初はそうだったよ。
夏なんて特にドラム死ねるんだよな。
三年で部室にクーラー付けてもらうまで死にそうだったよ、マジで」


「そうなんだ。
でも面白そうよね。
わたしも後でたいちゃんに教えてもらおうかな」


「おう、いくらでも教えてやるぞ、摩耶花。
ドラマー女子が増えるのは万々歳だ!」


疲れ切っていたはずの顔色はどこへやら、伊原が田井中たちの会話に嬉しそうに乱入する。
女三人寄れば姦しいと言うが、放っておいたらこのままガールズトークに華を咲かせそうだ。
それはそれで構わないのだが、ガールズトークの中に男一人と言うのはあまりにもいたたまれない。
それに俺たちには他に目的がある。
俺はわざとらしく咳払いしてから、短い言葉を口にしてやった。

285 : ◆2cupU1gSNo - 2014/01/02 19:35:24.96 acCl/zU/0 158/252



「伊原」


「なによ、折木」


「ドラムを教えてもらうんなら、俺は帰るぞ」


「あ、そうだった、そうだった。
ごめんね、二人とも。
ドラムもいいけど先に二人に訊ねておきたいことがあったのよ」


「なんだ?」


なんとか話を本筋に戻せたようだ。
俺と伊原が部屋に入って昨日の青い光の話を始めると、田井中からあっさりとした答えが返ってきた。


「それなら見たぞ」


「見たの?」


「ああ、昨日はあんまりホータローたちが来ないから里志に連絡してみたんだけどな。
迷子になったのかもって里志が言い出して心配になってさ、ちょっと捜してみることにしたんだよ。
入れ違いになったら二度手間ってことで、里志にはスタート地点に待機してもらうことにしてな。
それで捜し始めて五分経ったくらいだったかな。
あの鳥居がある麓辺りに青い光を見たんだよ、四つ。
なんかふわふわ漂ってるから、街灯じゃなさそうだなとは思ってたんだけど」


「怖くなかったの?」


その時のことを思い出したのか、伊原が戦々恐々といった様子で訊ねる。
田井中は肩をすくめてから首を横に振った。


「いや、別に怖くはなかったなー。
得体は知れなかったけど、変わった街灯かラジコンかなって思ってたし。
まあ、今思い出すとラジコンとかのはずがないんだけどな、夜だし。
でも怖くなかったのは本当だぞ。
あの青い光が怪奇現象なら怪奇現象でよかったし、逆にそっちの方が嬉しいもんな」


「ど、どうして?」


「ほら、私自体がもう怪奇現象みたいなもんじゃん?」


沢木口にでも習ったのか、今日はシニョンにした髪を田井中が苦笑交じりに弄る。
なんとも皮肉な冗談だが、単なる冗談というわけでもないのは俺にも分かった。
あの青い光の正体がもしも本当に人魂であったとする。
それは同時に俺たちのこの世界に人の魂が漂うという現象が存在することになる。
魂という概念が生じるのだ。
ならば田井中が漂う何者かの魂という仮定が立てやすくなるということでもある。
それくらい田井中は自らの正体について飢えているのだ。
自分の人格が怪奇現象から生じたものであっても構わないくらいに。

それきり田井中は笑顔で黙り込んだが、伊原は言葉を続けられないようだった。
伊原も分かっているのだ。
自らの存在に一番悩みを抱えているのは田井中だということに。
もちろん俺に口出しできることでもなかった。

少し気まずい沈黙が部屋の中を包み始めた頃、不意に小気味のいい音が響いた。
軽く驚いて音の方向に視線を向けてみると、十文字がドラムスティックを十文字の形にしていた。
どうやらスティック同士を叩いて音を鳴り響かせたらしい。

286 : ◆2cupU1gSNo - 2014/01/02 19:36:05.91 acCl/zU/0 159/252



「あたしも見たわよ、その青い光」


「お、十文字もか?」


自分が沈黙を作り出してしまったことを後悔していたのだろう。
田井中が十文字の肩を叩きながら明るい声で訊ねた。


「ええ、律は二度手間って言ってたけど、
折木くんたちのことが気になって、少しだけ様子を見に行ってみたの。
生憎あたしは携帯を部屋に置いていたから、ちょっと足を延ばしてみただけなんだけどね。
それで二十分くらい捜したんだけど、折木くんたちの姿はなかったし、
あたしまで迷ったら二重遭難だと思って帰ろうとした時、その青い光を見たのよ」


「どんな感じだったんだ?」


「律たちの言う通りよ。
ふわふわした四つの青い光だった。
もしかしたら長い棒の先に付けられたなにかかもしれないけど、暗くてよく見えなかったわ。
肝試しの小道具かとも思ったんだけど、律も知らないってことはそうじゃなかったのね」


「ああ、あの青い光は私の小道具じゃない。
十文字も見ただろ?
私の用意したのはこんにゃくとホッケーマスクだけだよ」


どういう組み合わせなんだ……。
しかし田井中が俺たちを見つけた時には、田井中はその二つとも持っていなかった。
おそらく神社の周辺にでも置いてきているのだろう。
普通に考えて、誰かを捜そうという時にこんにゃくはさぞ邪魔に違いない。
かさばらないホッケーマスクも置いたのは、伊原を怖がらせないようにするためだろう。


「一つだけ追加情報があるわ」


眼鏡の位置を直してから十文字が続ける。


「あたしが折木くんたちを捜し始めた頃、あの山の麓に青い光はなかったわ。
あたしがあの青い光に気付いたのは、帰り道のことなの。
つまりあの青い光が現れたのは、あたしが折木くんたちを捜し始めてしばらく経った頃ってことよ」


なるほど、それはそうだろう。
俺たちも肝試しを始めた当初はあの青い光を見ていなかった。
気付いていなかったわけではなく、その頃にはその青い光は現れていなかったのだ。
しかし俺たちが鳥居に迷い込んだ後に、突如としてあの青い光は山の麓に現れた。
これはどういうことになるのだろうか。

横目に伊原の表情を窺ってみる。
伊原の目の下には隈ができていて、普段よりその癖っ毛は乱れているように思えた。
まだ本気で怯えているのだろう。
ならばもう少しだけ尽力してやってもいいかもしれない。
これでも幼馴染みなのだし、八つ当たりで被害を被っても困る。

291 : ◆2cupU1gSNo - 2014/01/07 18:55:45.90 KOZ84PWt0 160/252





「お」


思わず声を漏らすと伊原に意外そうな表情を向けられた。


「どうしたのよ、急に」


「いや、梨絵と嘉代が二人でいると思ってな」


「姉妹なんだもの、それくらい普通でしょ」


なにを言ってるの、と肩をすくめられる。
確かに姉妹なら二人でいてもなんら不思議ではない。
しかし俺が多少不思議に思えたのは、二人の距離が普段より近く見えたからだろう。
梨絵と嘉代はそれほど仲の良い姉妹ではない。
少なくとも姉妹間で浴衣の貸し借りができないほどには親密な仲ではない。
そのはずなのだが、今の梨絵と嘉代の様子は俺のその認識を覆すものだった。
梨絵と嘉代がなにごとかを耳打ちし合って微笑んでいる。
自分たちの夏休みの宿題に取り掛かるという、
田井中と十文字を置いて――田井中は俺たちに同行したがっていたのだが十文字に止められた――、
梨絵たちを探していた俺たちを待ち受けていたのがその光景だったのだ。
さすがに面食らった。


「そんなに不思議なの?」


俺はまだ不思議そうな表情を浮かべていたらしい。
伊原が怪訝な表情で諭すように続けた。


「姉妹ってあんなものでしょ?
そりゃあんたのところは姉と弟だから色々違うのかもしれないけどね」


「それはそうかもしれんが……」


姉妹と姉弟では違うことがもちろん多いだろう。
同性間、異性間の肉親関係。
考えてみるまでもなく、多くの差異に溢れているに違いない。
しかしそれを前提に考えてみても、この梨絵と嘉代の仲の良さには違和感があった。

梨絵の方はいい。
梨絵は嘉代に多少高圧的ではあるが、嘉代を嫌っているわけではないはずだった。
姉ゆえに妹より強く振る舞っている、それだけのことだ。
俺の姉貴もそうだからよく分かる。多分。
梨絵を嫌っている、と言うより怖がっているのは嘉代の方だ。
持ち前の内気な性格のせいだろう、嘉代は高圧的な梨絵を恐れている節があった。
それゆえに去年は梨絵の浴衣を借りることができなかったのだろう。

だがこの光景はなんだ?
梨絵と嘉代が微笑み合っている。
梨絵だけならともかく、嘉代の方まで楽しそうに。
この一年で姉妹の間になにか劇的な変化が生じたとでも言うのだろうか。
いや、青山荘を訪れてから、この二人がこれほど仲良く振る舞ったことはなかったはずだ。
となると、もっと短期間で劇的ななにかが起こったのだろうか。

292 : ◆2cupU1gSNo - 2014/01/07 18:56:11.53 KOZ84PWt0 161/252



「二人ともなにしてるの?」


伊原が梨絵と嘉代に声を掛ける。
それでやっと二人は俺たちの姿に気付いたらしかった。
嘉代だけでなく梨絵も少し動揺した表情を見せた。
逆に言えば、二人ともそれほど密談に集中していたということなのだろう。


「まや姉ちゃん、おはよう」


「おはよう、まや姉さん」


わざとらしく挨拶から入る二人。
なにかを隠しているのは一目瞭然だった。
さて、それがあの青い光のことなら事件は即解決なのだが。


「二人で内緒話?」


「内緒話ってわけじゃ……、ねえ、嘉代?」


「う、うん、お姉ちゃん……」


「だったらわたしにも教えられるわよね?」


「えっ、えっと……、うーんと……、あ、そうだ!
それよりまや姉ちゃんたちこそなにしてんの?
朝から二人でデート?」


「こんなのとデートなわけないでしよ……」


伊原がげんなりした様子で呟く。
こんなのとはなんだ。
俺だってお前とデートするくらいなら十文字を選ぶぞ。
……いや、やはり十文字とのデートは想像できんな。
前言撤回。
お前とデートするくらいなら部屋で寝ているぞ、俺は。
別に声に出して言うつもりもない主張だが。


「分かってるよお。
まや姉ちゃん、彼氏ができたんだもんね。
二人でいるところはあんまり見ないけど」


「ふくちゃん温泉に入り浸ってるからね……」


梨絵に痛いところを突かれ、伊原がわざとらしく肩を落とす。
どうやら里志と伊原が交際を始めたことは梨絵たちも知っていたらしい。
親戚で、しかも恋に興味を持ち始める年頃の女の子なのだ。
伊原にその気がなかったとしても、それは根掘り葉掘り詮索されたに違いない。


「まや姉さん、彼氏ができて幸せ?」


遠慮がちに、だが強い視線で嘉代が訊ねた。
俺が初めて見る嘉代の強い視線。
内気な性格ではあるが、いや、内気だからこそ恋の話には真剣なのだろうか。


「なに言ってるのよ、おしゃまさん」


伊原は誤魔化すように呟いたが、その頬は軽く紅潮していた。
交際こそ始まったものの相手はあの里志なのだ。
詮索したことがあるわけではないが、二人の仲はそれほど進展していないらしい。
休日に買い物をする二人の姿を見掛けることが少し多くなった。
俺にとっても、二人の交際で生じた変化はその程度のものだった。

293 : ◆2cupU1gSNo - 2014/01/07 18:56:37.21 KOZ84PWt0 162/252



「ねえねえ、折木の兄ちゃん」


嘉代の伊原への詮索が続くのかと思っていたところに、梨絵のその言葉は予想外だった。
俺は軽く驚いたが、それを表情に出さないように梨絵に応じてみせる。


「どうしたんだ?」


「折木の兄ちゃんから見て、まや姉ちゃんたちってどう見える?」


「伊原と里志のことか?」


「うん」


突然訊ねられても困る。
それほど意識して二人の交際を見守っていたわけでもない。
梨絵の質問の意図は掴めないが、ここは正直に答えておくことにしよう。


「いいんじゃないか?
伊原も中学生の頃から里志にアタックしていたわけだしな。
その念願が叶ったんだから伊原は幸せだろう。
まあ……」


「まあ……?」


「相手があの里志だからな、それが本当に幸せなのかまでは保証できないが」


それは偽らざる俺の本音だった。
そもそも伊原が里志のどこに惹かれているのかも分からない。
里志も悪い奴ではないのだが、かなり浮世離れしたところがあるからな。
常識人代表のような伊原と末永く交際していけるのか、正直保証しかねる。
文句を言われるかと思って伊原に視線を向けてみたが、予想外に伊原は苦笑するだけだった。
里志と交際するようになったはいいものの、想像していなかった苦労に見舞われてもいるのだろう。
理想の交際と現実の交際では天と地ほどの差がある。
そのギャップを埋める作業に苦労しているのかもしれない。
まあ、その作業こそ伊原の望んでいたものなのだろうが。


「そうなんだ……」


小さく呟いて嘉代と顔を見合わせる梨絵。
恋人関係の現実に幻滅したのかと思ったが、そうではないようだった。
なぜなのかは分からない。
だがその一瞬後には、二人ともなにかに安心したように微笑んでいた。
微笑みを崩さず、梨絵が伊原の肩を叩く。


「頑張らないとね、まや姉ちゃん」


「えっ?
うん、まあね……」


「折木の兄ちゃんもね」


俺も?
伊原たちの交際に関して、俺になにを頑張れと言うのだろう。
デートの手伝いとかだろうか。
首を傾げる俺を、梨絵と嘉代は微笑んで見つめるだけだった。
伊原の言う通り、俺は二人には嫌われていないどころか気に入られているらしい。
しかし俺が二人の前でなにかしただろうか。
去年、伊原に頼まれて幽霊騒ぎを探っていたことくらいしか思い浮かばないが。

いや、今はそんなことより、だ。
俺は同じく首を傾げている伊原に視線を向ける。
俺たちの目的をやっと思い出したらしく、伊原は軽く咳払いをしてから続けてくれた。

294 : ◆2cupU1gSNo - 2014/01/07 19:00:09.21 KOZ84PWt0 163/252



「そうそう、そんなことより二人に訊きたいことがあるのよ。
昨日のことなんだけどね……」


昨夜迷子になった時に見た青い光のこと。
その青い光を梨絵と嘉代も見たのか。
その時間に二人はなにをしていたのか。
十文字が様子を見に行ったというのは本当か。
里志はなにをしていたのか。
青い光を見たとして、なにか心当たりはないか。
伊原が大体それらのことを質問すると、まずは梨絵の笑顔が返ってきた。


「まや姉ちゃん、また幽霊見たんだ」


「ゆ、幽霊じゃないわよ!
わたしが見たのは青い光よ、青い光!
幽霊とは決まったわけじゃないんだからね!」


自分に言い聞かせるような伊原の姿が痛々しい。
やはり去年の事件が伊原の中では未解決のままなのが尾を引いているに違いない。
いっそ教えてやれたら伊原も落ち着くかもしれないが、千反田に相談なくそうするのも気が引ける。
結局あの青い光がなんなのかを証明してやるしかなさそうだ。


「そんな青い光なんて見てないよ、ねえ、嘉代」


「うん」


笑顔のままで梨絵が続け、嘉代が頷いた。

295 : ◆2cupU1gSNo - 2014/01/07 19:00:47.57 KOZ84PWt0 164/252



「かほ姉ちゃんが様子を見に行ったのは本当だよ。
十分ちょっとくらいだったかなあ、それくらいですぐ帰ってきたけどね。
福部の兄ちゃんは家の中に入って、明るい所で地図を見ながら携帯でえる姉ちゃんと話してた。
お父さんとお母さんに迷子になりやすい場所を教えてもらってたみたいだよ」


「二人は?」


「留守番してたよ。
下手に動いちゃ駄目って言われてたもん。
かほ姉ちゃんっていつもは優しいけど、あの時は真剣な顔だったもんね。
あんな顔されたら我儘言えないよね」


なるほどな。
田井中は里志と電話中。
十文字は周囲の様子を見に行っていて、里志は善名夫妻と地図を見ていた。
そして梨絵と嘉代は肝試しのスタート地点で留守番していたわけか。

どうやら事態が見え始めてきたようだ。
里志に二、三確認した後で周囲を探れば、いくつか証拠も見つかるだろう。
しかし動機が分からない。
あの青い光を用意する動機だ。
あれは間違いなく懐中電灯の光ではない。
懐中電灯の光は青ではないし、大体あんな高い所に懐中電灯を持たない。
そしてあれが青い光であった理由。
それはもちろん非現実的であったからだろう。
あんな青白い光、現実にはそう存在しない。
それゆえに違和感があるし、伊原のように怯える人間も出てくる。

待てよ。
そういえば肝試しで怖がる理由はなんだ?
納涼のためでもあるだろうが、その一番の理由はペアの親睦を深めるためだろう。
そのために肝試しはよくペアで行われるのだ。
つまりはそういうことだったのか?

なんてことだ。
もしあの青い光の正体が俺の予想通りだとしたなら、非常に困ったことになる。
普段のように千反田に答えを伝えるだけなら問題ない。
だが今回あの青い光の正体を探らせているのは、他ならぬ伊原なのだ。
伊原相手にこの事実を俺の口から伝えなければならないなど、苦行以外の何物でもない。

どうやら俺は珍しく自分の考えが間違っていることを祈らなければならなくなったようだ。
どうか間違っていてほしい。
しかしおそらくは間違っていないだろう。
だから俺はせめてもの抵抗として、誰にも気付かれないよう大きな溜息をついたのだった。

298 : ◆2cupU1gSNo - 2014/01/09 19:20:37.76 TW7f2OoM0 165/252





昨日、迷子になった鳥居の下。
温泉で里志に確認した事を確認した後、俺は別行動させた伊原を待っていた。


「どうしたもんかね……」


らしくなく独り言を呟いてしまう。
途轍もなく気が重い。
まさかこんな真相が待っているとは思ってもみなかった。
どうにかお茶を濁せないかと考えるが、それで伊原を納得させられるとは思えない。
やはり真相を俺の口から語らねばならないのだろう。

不意に足音と話し声が聞こえた。
足音なら分かるが、話し声はおかしい。
伊原は一人のはずだが。
そう思って周囲を見渡してみると、伊原が田井中と話しながら鳥居に近付いて来ているのが見えた。
視線が合うと、伊原は少しだけ頭を下げた。
探索中に田井中に捕まってしまった、という意味だろう。
まあいい。
田井中にも確かめたいことがなかったわけじゃない。


「おいっす、ホータロー」


シニョンを可愛らしく揺らして田井中が楽しそうに微笑む。
田井中もあの青い光の正体を知りたかったのだろう。
千反田と異なってはいるが、その微笑みには好奇の色が強く表れていた。


「まあ、二人とも座れよ」


座るに手頃な大きさの石に促すと、田井中と伊原はその石に腰を下ろした。
俺の考えを口にする前に、とりあえず確認しておく。


「梨絵と嘉代の勉強は見なくていいのか?」


「十文字一人で大丈夫だって。
逆に私がいた方が足手まといっつーか邪魔者みたいな感じなんだよな。
なんか嘉代ちゃんがとんでもなく十文字に懐いちゃってるみたいでさ。
そんな感じで微妙な空気の中で窓の外を見てたら、外でなにかしてる摩耶花の姿が目に入ったんだよ。
これは私もピンと来ちゃったね、そろそろ青い光の正体が分かったんだなって。
それで摩耶花に付いて来たわけだ」


「そうか」


それならそれで構わない。
むしろ田井中がいてくれた方が、どちらかと言えば俺も気が楽だ。
田井中はこれで意外と誰かのフォローに長けている。
青い光の真相を知ったならば、多少のフォローはしてくれるだろう、おそらく。


「それで伊原、どうだった」


「あ、うん、折木の言う通りだったわ」


釈然としない感じで伊原が応じる。
こいつは俺の考えをとりあえず否定から入る。
頭から否定するのなら、俺に助力を求めなければいいと思うのだが。
しかし否定意見を出す伊原の存在も、考えをまとめる時には存外と役立つのも確かだった。
肯定意見だけでは、重大ななにかを見落としてしまうことがあるのは身に沁みて知っている。
一度それで入須に上手く扱われて、大きな失敗をしたからな。
そういった意味では俺は伊原の存在に感謝してしていなくもない。

299 : ◆2cupU1gSNo - 2014/01/09 19:21:54.44 TW7f2OoM0 166/252



「でも、どうして分かったのよ?」


もっとも、伊原はそのことに気付いてはいないだろうが。
照り付ける夏の陽射しに汗を拭いながら応じてやる。


「単純な答えだ。
あれはかなり場所を取るからな、保管場所を選ぶだろうと思っていたんだ。
部屋の中に運べないこともないが、四本はかなり邪魔だし目立つ」


「なるほど、確かにね。
それで青山荘の倉庫に片付けられてたってわけね……」


「なにが片付けられてたんだ?」


田井中が首を傾げながら会話に割り込む。
どうやら田井中は伊原になにも訊ねずにここまで付いて来たらしい。
事前情報なしで俺の語る真相を楽しみたかったということなのだろう。
まったく呑気なものだ。
しかし、なにも考えてない奴に真相を教えてやるのも癪だ。
意地悪をしてやりたいわけではないが、俺は溜息交じりに訊き返してやった。


「お前はなにが片付けられてたと思うんだ?」


「質問を質問で返すな!
って言いたいところだけど、まあ、私も少しは考えなくちゃな。
ホータローたちが今話してるってことは、あの青い光に関係するなにかだろ?
四本……ってことは棒とか長い物か?」


「そう、難しい問題じゃなかったな。
片付けられていたのは、お前の言う通り棒だよ。
ただし単なる棒じゃなく、一メートル以上ある長い棒だ。
それも簡単に振り回せる重さの棒が四本だ。
その棒とは正確にはなんだと思う?」


「普通に四本あってもおかしくない長い棒だろ?
長い棒なんて、意外と四本もないよな……。
おっ、思い付いたぞ、ほうきか?
ほうきなら旅館だし四本くらいあってもおかしくないもんな」


「いい線だが、ほうきだとちょっと重いな。
お前ならほうきでのチャンバラごっこくらい経験あるだろう。
意外に外見以上の重さがあったはずだ」


「勝手な偏見で話すなよ、ホータロー……。
いや、確かにやったことあるけどさ。
ホータローの言う通り、ほうきは結構重いよな。
ってことは、それ以外で四本くらいある長い棒か……」


「ヒントとしては青山荘は旅館で、今は夏だってことだ。
忘れ物として、この時期に保管されていてもおかしくない長い棒……」


「……分かったぞ、虫取り網だな。
そうだろ、ホータロー?」


「ご名答」


頷いた後で伊原に視線を向ける。
俺のその続きの言葉は、倉庫を調べに行っていた伊原が継いだ。

300 : ◆2cupU1gSNo - 2014/01/09 19:23:03.51 TW7f2OoM0 167/252



「折木の言う通りだったわ。
青山荘の倉庫の中には四本、ううん、それ以上の虫取り網が片付けられていたわ。
子供たちって大切にしてる虫取り網をあんなに忘れちゃうものなのね……。

まあ、それは置いておくとして、久し振りに持ったけど虫取り網って軽いのね。
一度に八本くらい持ってみたけど、全然軽かったわ。
子供が使うものだから当たり前なのかもしれないけど」


「それで、虫取り網が青い光とどう関係してるんだ?」


いよいよ好奇の色を隠せなくなってきた様子の田井中が訊ねる。
もったいぶる必要はないし、さっさと教えてしまおう。
青い光の正体は別にそれほど重要ではないのだから。


「その前にもう一度訊かせてくれ、田井中。
お前の見た青い光はどんな感じだったんだ?」


「ふわふわ漂ってた四つの青い光だったな。
街灯かラジコンかなって思ったんだけど、それがどうしたんだよ?」


「どうしてお前は街灯かラジコンだと思ったんだ?」


「高い所にあったからだよ。
地面から二メートル以上の場所にあるなんて、懐中電灯とかじゃありえないだろ?
だから街灯かラジコンか、そうじゃなきゃ怪奇現象に思えたわけで……、あっ」


「そういうことだ」


俺が頷くと、田井中が興奮したように身振り手振りを激しくさせ始めた。
クイズが解けていくような感覚なのだろう。
俺が言うのも変かもしれないが、謎が解けた時の満足感はそれなりのものだ。
ただ今の俺には満足感など存在してはいないが。


「俺もこの目で見たから分かる。
あの青い光は地面からかなり高い所を漂っていた。
そんな高い所を漂えるなんて怪奇現象か、棒かなにかに括り付けたもの意外には存在しない。
しかし怪奇現象で考えるのは安直に過ぎるからな。
それ以外の可能性を辿っていたら、虫取り網の可能性に辿り着いたんだ」


「じゃあなにを括りつけてたんだ?
あんなふわふわした発光する道具なんてあったっけか……?」


「物体自体が光っている必要はないんだよ、田井中。
ランタンや提灯を思い出してみろ、あれらも直接光ってるわけじゃないだろう。
ランタンや提灯の中にある光源が光っているだけだ」


「その証拠の一つがこれよ、たいちゃん」


そう言って、伊原がポケットの中からなにかを取り出した。
確認するまでもないが、俺も田井中と一緒に視線を向けてみる。
伊原の手のひらの上には、真新しいセロテープと青いセロファンの欠片が置かれていた。

301 : ◆2cupU1gSNo - 2014/01/09 19:24:12.27 TW7f2OoM0 168/252



「セロファン……?」


「そう、セロファンだ。
残念ながらと言うべきか、青い光を放つ光源は少ない。
ならばどうすればいいか。
答えは簡単、光源を青いセロファンで覆ってしまえばいい。
ふわふわ漂っている感じに見えたのは、おそらくその上からビニール袋でも被せたからだろう。
光源の正体は大きさから言っても懐中電灯で十分だろうな。
ビニール袋を被せたのは懐中電灯の姿を隠すためか、
それとも独特の浮遊感を持たせて鬼火か人魂にでも見せかけるためか……、
まあ、それは別にどちらでもいいことだ」


「その証拠がこの真新しいセロテープってことね」


青い光の正体を掴んで安心したのか、伊原は苦笑しながらセロテープを手の中で弄んでいた。
その様子からも、セロテープに粘着力が残っているのは一目瞭然だった。


「虫取り網にセロテープなんか貼らないわよね、普通。
しかも倉庫の中にある虫取り網に、昨日今日貼ったみたいなセロテープなんか……」


「おそらくそれはビニール袋を固定するために使ったセロテープだろう。
昨日は暗かったから完全には回収し切れなかったんだろうな。
青いセロファンも取り外す時に端が破れたんだろう。

つまりこうだ。
まず虫取り網の、網がない方に青いセロファンを被せた懐中電灯を固定する。
固定するために使ったのは紐かガムテープか……、
伊原が見つけてないということはビニール紐あたりだったんだろうが。
その後でビニール袋を被せて、袋の口をセロテープで閉じる。
これで青い光を放ちながら高所を漂う奇妙な物体の完成ってわけだ。
それに伊原は怯えていたわけだよ」

302 : ◆2cupU1gSNo - 2014/01/09 19:24:46.19 TW7f2OoM0 169/252



それきり俺が口を閉じると、伊原と田井中も口を閉じた。
青い光の正体は明らかになった。
昨日目にした時から、その正体についてある程度の予想はできていたが。
鬼火や人魂がこの世界に存在しているかどうかは俺も知らない。
だが俺が昨日目にしたのは、いかにもそれっぽい青い光だった。
本当にこの世界に鬼火が存在するとして、俺たちがそうだろうと想像するような。
誰かがそう見せるために模造した人工物のような。
だから俺はあの光が人工物であると仮定して推理を進め、実際にも人工物である証拠を掴んだのだ。

しかしあの青い光の正体がなんであろうと、そんなのはどうでもいいことだった。
重要なのはあの青い光の正体よりも。


「誰なの?
あの青い光を用意した誰かの正体……、折木はもう分かっているの?」


さっきまで浮かべていた苦笑を消し、伊原が真剣な表情で呟き始めた。
幸いながら怒ってはいないようだ。
それでも知りたいのだろう。
これほどまでの手間を掛けてまで、あの青い光を用意した者の正体を。

俺は二人に気付かれないよう小さく溜息を吐いた。
いよいよ触れたくなかった真相を語る時が来てしまった。
語りたくない。
語ってしまえば、これからの伊原の態度が大きく変わってしまうだろうから。
しかしここまで話した以上、誤魔化し続けられるわけでもない。
意を決し、最後で一番重大な真相を俺は語り始める。


「まずはあの光が青かった理由から考えよう。
今更言うまでもないことだが、自然に青い光はあまり存在しない。
だからこそ目立ったんだ、馬鹿馬鹿しいがそのためにあの光は青かったんだよ。
目立たせるために青く光らせて、浮遊物のような形にさせていたんだ。
田井中が一瞬思ったみたいに、街灯やラジコンに誤認されても困るからな。
あの光は目立たなければいけなかったんだ、伊原を驚かせるために」


「やっぱりそうなの?
あの青い光は、わたし一人を狙い打って作られた光だったの?」


神妙な口振りの伊原の言葉に頷く。
なにを考えているのか、田井中は黙り込んだままだ。

307 : ◆2cupU1gSNo - 2014/01/12 18:09:15.15 KFNAy7Qg0 170/252



「更に言えば」


俺は二人の顔を見回してから続ける。


「伊原を驚かせるためにこんにゃくでもなくぬいぐるみでもなく、
若干地味とも言える青い光が選ばれたのは、もちろん遠くからでも視認できるからだろう。
特にあの時の俺たちは迷子だったからな。
どこにいるか分からない人間を確実に驚かせるには、そのための道具を目立たさせるしかない。
難点としては目立ち過ぎてそれほど恐怖感を煽らないということだが、それはあまり重要じゃないんだ。
ほんの僅かでも伊原の心に恐怖が芽生えてくれれば、それで十分だったんだ」


「もったいぶらないでよ、折木。
あの青い光が人工物だってことはよく分かったわ。
人魂でも鬼火でも未確認飛行物体でも不知火でもセントエルモの火でもないことは分かったわよ。
誰なの?
誰がわたしを驚かそうとしていたのよ?」


そこまでありとあらゆる可能性を考慮していたのか、伊原。
謎の発光物について考えられる可能性を、本当に一晩中考え続けていたんだな。
もったいぶっているわけじゃない。
しかし伊原からしてみれば、俺がわざともったいぶっているようにしか見えないだろう。

南中に近い太陽を見上げて目を細める。
わざと太陽の眩しさに目眩を感じてから、その勢いで言葉を続ける。


「さっき温泉にいた里志に確認してきた。
昨夜、里志は田井中に連絡を受けてから、一人で青山荘に戻ったらしい。
もちろんこの周辺で迷いそうな場所を善名夫妻に確認するためだ。
この旅館を経営している二人ならば、観光客が迷いそうな場所くらい分かるだろう。
嘘をついている可能性もあるが、まさか里志もあの二人を抱き込んだりはしないはずだ。
そうでなくても『ジョークは即興に限る』をモットーにしているあいつだからな。
こんな尾を引く悪戯はしないだろう」


「里志が善名のおじさんたちと話していたのは私も保証するぞ、ホータロー。
携帯で迷いそうな場所を教えてもらったのは他ならぬ私だからな。
善名のおじさんたちの声も後ろの方で聞こえてた。
カセットテープに録音したやつを再生してたって可能性もあるけどさ、
それを言ったらホータローたちが迷子になったこと自体が不測の事態だったんだ。
そんなのを用意できるはずないし、用意する意味もないもんな。
里志は間違いなく善名のおじさんたちと一緒にいたはずだよ」


田井中のお墨付き。
これで容疑者から一人除外だ。
残る容疑者は四名。
なんの因果か揃いも揃って女ばかり。


「残る容疑者の中では田井中でもありえない。
あの四つの青い光は、かなり間隔を取って移動していた。
いくら軽いとは言え、右手と左手に二本ずつ持った状態であの動きはきつい。
最低でも二人はいなければ、あの動きは無理だろう」


「じゃあ私が十文字と共犯だったとか?」

308 : ◆2cupU1gSNo - 2014/01/12 18:09:49.98 KFNAy7Qg0 171/252



容疑者の一人のくせに、平然と田井中が訊ねる。
確かにその可能性もあった。
昨夜一人で様子を見に行った十文字。
田井中と落ち合って青い光を漂わせる時間的余裕はたっぷりある。
しかし、だ。
それでは腑に落ちないことが多数残っているのだ。


「確証があるわけじゃないが、犯人は田井中じゃないと俺は考えてる」


「なんでだ?」


「そもそもが肝試しの驚かせ役の田井中だからな、
単に伊原を驚かせいのなら、用意したこんにゃくとかで普通に驚かせればいい。
わざわざ青い光なんて地味な物を用意してまで伊原を怖がらせる必然性がないんだよ。
秘密のサプライズネタにしても、お前なら間違いなくもっと派手な仕掛けを用意するはずだ」


「お、さすがだな、ホータロー。
そうだよ、実はもう一つサプライズネタがあったんだよな。
今だから言うけど、後ろ髪を前に垂らして貞子やろうと思ってたんだよ。
えるくらいまで髪を伸ばしたことがないからさ、一度やってみたかったんだよなー」


さいですか。
それも結構地味なネタではあるが、とりあえず青い光よりはインパクトがある。
俺は若干呆れた表情を浮かべたが、それと対照的に伊原の顔色はみるみると今までより青くなっていた。


「じゃあ……、まさか犯人は……」


それきり伊原が口を閉じる。
残された容疑者は三名。
その内の二名が共犯だと確定しているのだ。
それは伊原にとっては最も疑っていなかった容疑者が犯人だったことを意味していた。
俺はもう一度太陽の眩しさに目を細めて、まずは補足説明から先に始める。


「お前はおかしいとは思わなかったか、伊原?」


「なにをよ……?」


「田井中から連絡を受けた里志が青山荘に戻り、十文字が俺たちの様子を見に行った。
おかしくはないか?」


「……」


「十文字は年下の女の子を置いて、一人で様子を見に行くような人間だったか?
俺でも分かるぞ、夜の闇に女の子二人残すことの危険性くらいは。
もし十文字が血も涙もない冷血女だったとしたら別だが、十文字はそういう女だったか?」


「だったら……、まさか……」


「俺も十文字のことをよく知っているわけじゃない。
だが俺の知っている十文字は嘉代に特に懐かれている落ち着いたお姉さんだった。
少なくとも俺の姉貴よりは、よっぽど姉に相応しい性格だ。
そんな十文字が二人を夜道に置いて、俺たちの様子を見に行ったりはしない。
ここは三人が一緒にいたと考えるべきだろうな。
ならば十文字と善名姉妹はどうしてそんな嘘をついたのか」


「お互いの……アリバイのため……?」

309 : ◆2cupU1gSNo - 2014/01/12 18:10:24.65 KFNAy7Qg0 172/252



「その通りだ。
三人一緒に行動していたと語るよりは、別行動を取っていたと語る方が共犯関係を疑われにくい。
おそらくはそういった発想で嘘をついたんだろうが、
残念ながら俺は十文字をそこまで冷たく見積もってはいない。
確かに十文字は得体が知れない上に取り捨て選択に躊躇がない奴だよ。
だがそれは自分の大切なものを守るためなんだろうし、基本的には義理堅い女だよ、十文字は。
例えば知り合って数日も経っていない女の子の頼みを聞いてやるくらいには」


「言い出したのは、二人の方なの?」


「おそらくな。
共犯関係を申し出たのは、懐き方から考えると嘉代だろう。
この計画自体を思いついたのはどっちとも言えないがな」


「どうしてよ?
どうして二人がわたしを驚かそうとしたの?
わたしって二人にそんなに嫌われていたの?」


辛そうな表情を浮かべる伊原。
この事件の主犯は梨絵と嘉代。
仲の良い親戚の子が自分を驚かした犯人だったのだ。
伊原のその衝撃は計り知れない。
なにもかも裏切られたような気分になっているのだろう。
だが隠された真実はもっと残酷なのだ。
伊原ではなく俺にとって、なのだが。


「安心しろ、伊原。
お前は二人に嫌われているわけじゃない。
むしろ好かれているからこそ、梨絵たちにこんな計画を立てられたんだよ」


「どういうこと?」


「さっき里志にもう一つ確認してきた。
あいつがこの合宿中、温泉浸りになっている理由だ。
里志が温泉好きの温泉マニアってのは確かにある。
だがあいつにはもう一つ温泉浸りにならなければいけない理由があったんだ。
あいつは言っていたよ、『どうもあの二人に嫌われてるみたいでさ』ってな。
飄々しているあいつだが、自分を嫌っているらしい年下の女の子とずっと一緒にいられるほど図太くもないんだよ。
それで温泉に逃げ込んでいたんだ」


「嫌ってる……?
あの二人がふくちゃんを?」


「嫌ってるって言うのは語弊があるかもしれない。
どちらかと言えば好印象を持たれていないと言う方が正しいか。
なあ、伊原。
お前は二人に里志のことをどう説明していたんだ?」


「別に……、ありのままだっはずよ。
バレンタインチョコは受け取ってもらえなかったけど、最近付き合えるようになったって。
ふくちゃんのこと、悪く言ったりなんかしてないわ」


「お前にとってはありのままだったつもりなんだろう。
だがさっき嘉代たちと話した時のことを思い出してみろ。
嘉代はお前になんて言っていた?」


「『まや姉さん、彼氏ができて幸せ?』……」

310 : ◆2cupU1gSNo - 2014/01/12 18:11:05.06 KFNAy7Qg0 173/252



「そういうことだ、二人にはお前が幸せなようには見えなかったんだよ。
その包み隠さない性格が災いしたのかもしれない。
特に今年のバレンタインのことを話したのがまずかったんだろう。
いつまでもお前への答えを保留していた里志。
バレンタインチョコを受け取らなかったくせに、なにを思ったのかお前と付き合い始めた。
過程だけ羅列してみると最低だな、里志の奴……。
だが近くで見ていた俺は、それが笑い話になるような過去だってことは分かっている。
紆余曲折あったが、お前たちにとっていい形に落ち着いたことも知っている。

だがな、たまにお前から話を聞くだけの梨絵たちにはそれが分からなかったんだよ。
特に恋に夢を抱きがちな年頃だから、余計にそうなんだろう。
お前たちには悪いが、お前たちの恋愛模様はあまりロマンチックとは言えないからな。
それで梨絵たちは里志をよく思っていなかったんだ。
しかもこんな時にだけ鋭い里志は梨絵たちから逃げ回って温泉に入り、
誤解を解く機会のないままに里志の悪印象は梨絵たちの胸の中に募っていった。
梨絵と嘉代の中では、お前ではなく温泉が好きなだけの最低な温泉男として写っていたはずだ。
それで二人は今回の計画を思いついたんだ」


「ちょっと待ってよ、折木」


「どうした」


「ふくちゃんのことが誤解されてるのは分かったわ。
思い返してみれば、二人がふくちゃんをよく思ってない節があった気もするしね。
だけどそれとあの青い光にどんな関係があるって言うのよ?」


伊原が強い視線で俺を見つめる。
田井中も俺の続きの言葉を待っている。
俺は大きな溜息をついて、息をしばらく止めた。
今までいくつかの事件の真相に触れてきた。
だが今回ほど語りたくない真実は存在しなかった。
語らずにすませてしまいたったが、この二人の視線から逃げることはもうできないだろう。
腹を括るしかあるまい。
俺は最後に大きく息を吸ってから、一番語りにくかったことを口にした。


「俺と……」


「あんたと?」


「俺とお前を付き合わせるためだろうな」


「なによそれっ!」


その声と同時に近くの樹に止まっていた蝉が一斉に飛び立った。
野鳥も何羽か飛び立って行ったようだ。
伊原の声が山彦のように反響する。
それほどまでの大声だった。
伊原は顔面を真っ赤にさせて涙目になっている。
もちろん照れているわけではなく、怒っているだけだ。
いや、照れられても困るのだが。
とにかく伊原はそんな今にも俺に殴り掛からん表情で肩まで震わせていた。
だから言いたくなかったんだ……。
俺は全く悪くないのだが、自分を弁護するために説明を続ける。

311 : ◆2cupU1gSNo - 2014/01/12 18:11:38.69 KFNAy7Qg0 174/252



「落ち着けよ、とにかく落ち着け。
落ち着いててくれよ……、な?
お前は、ほら、そうだ、吊り橋効果って知ってるか?
吊り橋効果だ、聞いたことくらいあるだろう」


「あるわよっ!
あるけどそれがなにっ?」


「梨絵たちはそれを狙ったんだよ。
去年の事件から、梨絵たちはお前が心霊現象に弱いのを知っていた。
だから肝試し中に得体の知れない光でお前を怖がらせて、ペアの俺に恋心を抱かせようとしたんだ。
昨日肝試しをしようと言い出したのは田井中だったが、
おそらく田井中が言い出さなければ十文字が提案するつもりだったんだろう。
吊り橋効果を提案したのは十文字だと思うが、確証は今のところない」


「くじはっ?
くじも仕組まれてたって言うのっ?」


「おそらくな。
やり方は分からないが、くじを引いた六人中三人が共犯だったんだ。
隠れてくじを交換するとか、いくらでもやりようはあるだろう」


伊原が口を閉じる。
予期せぬ真相に興奮していた伊原だが、俺の説明にも一理あると思い始めてくれたのだろう。
数回呼吸音が聞こえた後、少し落ち着いた口振りで伊原が俺に訊いた。


「なんで相手があんたなのよ……。
そりゃ今は他に相手がいないのは分かるけど、よりにもよって……」


「お前が俺のことを悪く言っていたからだろうな」


「……どういうこと?」


「俺のことをどう語っていたのかはこの際問わない。
どうせいつもぼーっとしてるくせに耳聡いとか、やる気がないくせに説明好きとでも語ってるんだろう。
別にどんな罵詈雑言で俺を貶していても構わない。
だがな、それをずっと聞かされていた梨絵たちが俺の姿を見てどう思うか分かるか?」


「だからどういうことなのよ?」


「いいか、よく考えてみろ。
お前はいつも梨絵たちの前で俺のことを罵詈雑言で貶している。
なのに同じ部の部員とは言え、合宿と言う名の慰安旅行に俺を連れて来るんだぞ?
普段文句ばかり言っているくせに、ちゃんと連れて来てるんだぞ?
まるで小学生が好きな子にちょっかい出してるみたいじゃないか。
『本当に折木の兄ちゃんことが嫌いなのかな?』と梨絵たちが思ったとしてもおかしくないだろう」


「勘違いしないでよ!
除け者にされる折木が可哀想だから連れて来てあげてるだけよ!」


「分かってる……!
勘違いしてるのは梨絵と嘉代だ……!」

312 : ◆2cupU1gSNo - 2014/01/12 18:12:05.52 KFNAy7Qg0 175/252



俺が肩を落とすと、言い過ぎたと思ったのか伊原も肩を落として溜息をついた。
なにをしているんだ、俺たちは……。
恋愛方面で他人に勘違いされることほどやるせないことはない。
中学時代、腐れ縁の伊原との関係を邪推された時から分かっていたことだ。
まさか高二になってまで同じ経験をするとは思わなかった……。


「なるほどな、梨絵ちゃんたちは摩耶花をツンデレだと思ったわけだな」


腕を組んで田井中がうんうんと頷く。
ツンデレ?
聞き覚えのない言葉に俺と伊原が首を傾げると、田井中がなにかに気付いたように手を叩いた。


「あっ、ホータローたちはツンデレって言葉知らないのか。
そうだよな、二〇〇一年だもんな、確かまだそんな言葉無かったよな」


「今更思い出したように未来人みたいなことを言うな。
まあいい、とにかくそのツンデレってのはなんなんだ?」


「人前ではツンツンしてるけど、二人きりの時はデレデレしてるからツンデレだ。
本当は色んな意味合いがあるみたいなんだけど、そういう意味で使われることが一番多いみたいだな」


さいですか。
しかし伊原がそのツンデレか……。
想像してみようとしたが、やめた。
あまりにも気持ち悪かったからだ。
しかし梨絵たちが伊原を同じ様に考えているというのは、俺も同意見だ。

321 : ◆2cupU1gSNo - 2014/01/19 17:35:45.89 7ucZ1Los0 176/252



「どうしてわたしのこと、そんな風に誤解しているのかしら、あの二人……」


分かっていないのは本人ばかりなり。
だがいちいちそれを指摘していても話が拗れるだけだろう。
ツンデレの件にはできるかぎり触れずに、
伊原が知りたがっているであろう残った疑問点について述べることにする。


「俺たちが迷子になったのは、梨絵たちにも予想外だったはずだ。
いくらなんでも俺たちの迷子まで計画に組み込めるはずがない。
俺の勝手な想像だが、青い光のお披露目は肝試しの帰り道にでもするつもりだったんだと思う。
おそらくは嘉代が忘れ物をしたとでも言い出して、嘉代と親しい十文字がそれに付き添う。
里志と田井中は梨絵が誘い出し、俺と伊原が二人残されたのを見届けてから、青い光を照らす。
肝試しが終わっている時間、肝試しの立案者の田井中が帰って来ているというのに突如現れる怪しい光。
恐怖を感じさせるとまではいかないまでも、正体不明な光を目にするという気持ち悪さは俺たちに残せる。
それで伊原と俺の間に吊り橋効果が起これば万々歳だ。

だが今言った通り俺たちが迷子になるというハプニングが発生した。
それで三人は急遽それを利用することを思いついたんだ。
帰り道を歩いている人間よりは、迷子である人間の方が遥かに怖がらせやすいからな。
俺たちがどこを迷っているのかは当然分かっていなかっただろうが、三人には問題なかった。
閑散としていて目立つものがほとんどないこの村だ。
正体不明の青い光なんて目立つ代物、半径一キロ圏内にいる人間なら誰でも気付く。
現実に伊原もすぐに見つけて怯えていたわけだしな」


俺の考えていたことのほとんどを一気に口にすると、急激に喉の渇きを感じた。
どうやら照り付ける陽射しの中で喋り過ぎてしまったらしい。
青山荘に戻ったら、冷たい麦茶でも頂くとしよう。
全てを語ったわけではないが、それらは別に伊原が知らなくてもいいことだ。

不意に田井中が俺に視線を向けていたことに気付く。
どうやら田井中はそれを知りたがっているらしい。
面倒ではあるが、田井中には教えてやっても問題あるまい。
俺が頷いて目配せをすると、田井中はそれだけで俺の意図を汲んでくれたらしい。
唸っている様子の伊原の肩を叩いて優しく微笑んだ。


「なあ、摩耶花」


「どうしたの、たいちゃん……?」


「ショックだったか?
あの青い光を用意したのが梨絵ちゃんたちでさ」


「そりゃショックよ……。
理由があったとは言え、私のことを怖がらせてたのがあの二人だったなんて。
もちろん計画のほとんどは十文字さんが立てたものなんだろうけど、それでも……」


「確かに手段はアレだったよなー……。
摩耶花を怖がらせてホータローとくっつけるなんてとんでもない発想だよ。
でもさ、それはそんなことをしたくなるくらい摩耶花が心配だったってことでもあるよな?
摩耶花のことだから私が言わなくても分かってると思うけど」


「……うん」

322 : ◆2cupU1gSNo - 2014/01/19 17:36:11.79 7ucZ1Los0 177/252



複雑な表情で伊原が頷く。
伊原も分かっているのだ、梨絵たちに悪意がなかったことくらい。
十文字も二人に頼られただけで悪意はなかったはずだ、おそらく。
それでも釈然としないのは、伊原が白黒はっきりさせたがる性格であるからだろう。
この青い光の事件、どう決着させるか答えを出せていないのだ。

だが伊達に女子大生(入学寸前だが)と言うべきなのだろうか。
若干の大人の余裕を見せた笑みで、田井中が伊原の肩を柔らかく抱いた。
その仕種には慣れまで感じさせる。
もしかしたら田井中が部の後輩だと話していた中野とかいうギタリストが、
伊原のような真面目で融通が効かない面倒臭い性格をしているのかもしれない。


「二人は摩耶花に幸せになってもらいたかったんだよ」


「分かってるわ……。
でもね、たいちゃん、わたし幸せなのよ?
二人が考えるような幸せじゃないかもしれないけど、ふくちゃんと付き合えて幸せなの。
たまに寝る前に布団の中で笑顔になっちゃうくらい……」


「だったら、どうしたらいいか分かるよな?」


「二人に分かってもらえるかしら……」


「分かってもらえるまで話せばいいんだよ、摩耶花。
なんなら里志を温泉から引きずり出して、二人で話してやればいい。
『紆余曲折ありましたが、わたしたちは今幸せです』ってさ。
何度も話し合えば、二人もきっと分かってくれるって。
元々空気を読み過ぎた里志が温泉に逃げ込んでたのが、誤解の始まりだったわけだしな」


「そうね……。そうよね……」


伊原が呟きながら何度も頷く。
自分に言い聞かせる様に、自分の幸せをもう一度再確認する様に。
その後で田井中に向けた伊原の眼光は、もういつもの鋭さだった。


「よしっ、じゃあ今から二人と話してくるわ。
ふくちゃんを温泉から引きずり出して、二人と話し合ってくる。
二人は十文字さんと勉強してるのよね、たいちゃん?」


「ああ、勉強しながらお昼のことを話し合ってた。
今日は私たちが帰る前に、二人が小さなパーティーを開いてくれるらしい。
せっかくのパーティーなんだ、最後くらいなにも考えずに騒ごうぜ?」


「そうね、わたしだってパーティーは楽しく参加したいもの」


「あんまり二人を責めないでやってくれよ?」


「分かってるわ、じゃあちょっと行ってくるわね」


温泉の方向に走り出そうとする伊原。
だがその前に俺の方に珍しい表情を向けた。
柔らかい微笑みだった。

323 : ◆2cupU1gSNo - 2014/01/19 17:36:56.47 7ucZ1Los0 178/252



「今回はありがとね、折木」


「あ、ああ……」


急なことに驚きながら応じたが、伊原は俺の返事を聞くより早く走り去ったようだった。
どうやら俺の反応などどうでもよかったらしい。
だが俺に一言でも礼を言う分、伊原にしては格段に柔らかい行動だった。
今から台風でも来なければいいが。
台風で田舎に足止めなど、いかにも安っぽいミステリーだ。


「ありがと、だってさ」


田井中が意地の悪い表情を俺に向ける。
田井中にとっても、田井中の中にある千反田の記憶にとっても、
伊原が俺に礼を言うのは非常に珍しい光景であるようだった。
俺がなにも言わずに肩を竦めると、田井中は僅かだが真剣な表情になった。
伊原がいなくなった以上、あいつの前で話しにくかったことが存分に話せるようになったわけだ。


「それでさ、ホータロー」


「どうした」


「いつから気付いてたんだ、梨絵ちゃんたちが犯人だって?」


「喉が渇いてるんだが」


「後で田井中家特製の麦茶を淹れてやるから我慢してくれ」


「ちゃんと淹れられるのか?」


「失敬な。
私の麦茶は紅茶名人のムギのお墨付きだぞー?」


ムギ……、琴吹紬か。
良家の子女であり、紅茶を淹れるのが得意らしい彼女のお墨付きなら問題ないだろう。
しかしムギお墨付きの麦茶とは、言い得てなんとも妙だ。
別にどうでもいいことではあるが。


「分かったよ、別に時間が掛かる話でもないから教えてやる。
美味い麦茶を振る舞ってくれよ」


「サンキュー、麦茶は任せとけ」


その麦茶の味を想像し、俺は唾を飲み込む。
さっさと田井中の疑問を解消して、涼しい風に吹かれながら麦茶を飲もう。


「梨絵たちが怪しいと思ったのは、あの青い光とは関係ないところだった。
お前の中にも千反田の記憶があるわけだし、多少の違和感はあったはずだ。
お前も思わなかったか?
梨絵と嘉代が想像以上に親しいとな」


「ああ、それは私もびっくりしたよ、ホータロー。
えるの記憶の中では、梨絵ちゃんと嘉代ちゃんに関してはかなり苦い思い出だったからな。
二人は憎み合ってるってほどではないにしても、えるの理想通りの仲良し姉妹じゃなかった。
浴衣の貸し借りもできないくらいの、そこそこの仲の良さの姉妹でしかなかった。
だから私もこの合宿にはちょっと緊張してたんだけどな」

324 : ◆2cupU1gSNo - 2014/01/19 17:37:27.62 7ucZ1Los0 179/252



「だが二人の関係は飛躍的に改善されていた。
それも俺たちが合宿に訪れてから、その傾向は更に顕著になったようだった。
少なくとも俺の記憶の中では、嘉代はあんな笑顔を梨絵に向けたりはしない。
だから思ったんだよ、二人は俺たちが関係しているなにかをきっかけに親しくなったんだろうってな。
それで不意に思い出したんだ、人間が仲良くなる一番の方法がなんなのかって話を」


「あ、聞いたことがある気がするな、それ」


「まあ、聞いたことがなかろうと、誰もが実感してることだろうがな。
人間が仲良くなる一番の方法、それはもちろん共通の敵を持つことだ。
世界中どの国であろうと自然の摂理だよな、それは。
ならば梨絵たちは誰を共通の敵だと考えているのか?
これもよく考えなくても分かることだな。
二人は伊原の親戚で懐いている。
伊原が二人の共通の敵になることはありえない。
千反田にも伊原の友人として懐いているようだから、お前は除外される。
十文字と二人は初対面だからそもそも嫌われるほどの関係じゃない。

残ったのは俺と里志だが、思い出してみればすぐ思い当たった。
今年の梨絵たちは妙に俺に親しげだと思ったが、逆だったんだということに。
里志が嫌われていたから、なにもしていない俺の株が相対的に上がっただけだったんだ。
そこから考えを組み立てていったら、いつの間にか青い光の正体に気付けたってだけの話だ」


「なるほどなー……」


田井中が感心したように頷いていたが、
俺自身はそれほど自分の推理に自信があるわけではなかった。
あの青い光を用意した犯人は梨絵と嘉代と十文字で間違いない。
ただその動機が本当に里志という共通の敵を排除するためであったかは分からない。
人の心の中を完全に覗き込めると思えるほど、俺は傲慢じゃない。

去年、俺は仲の良い姉妹など枯れ尾花だと思った。
だが仲の良い姉妹が枯れ尾花であるのなら、仲の悪い姉妹もまた枯れ尾花に過ぎないのではないだろうか。
それが今年の梨絵と嘉代を見ていて実感したことだ。
違う家庭の姉妹の関係など、他人が見ていて推察できるものではない。
愛情、近親憎悪、親しみ、鬱陶しさ。
家族にはそういう様々な感情を同時に抱いてしまうものなのだから。
あの二人の一面だけ見て、なにもかも分かったつもりになるなど傲慢にも程がある。
しかしあの青い光が二人を強く結び付けたのも、また確かなはずだった。

セントエルモの火。
さっき伊原はあの光をそう呼んだことを思い出す。
悪天候時、船のマストが発光する現象の名称。
前にたまたま下校途中に沢木口につきまとわれたことがあった。
どうやら補習終わりで、普段下校している仲間が全員帰ってしまっていたらしい。
俺ともそう親しいわけではないのだが、沢木口はそういうことを気にする繊細さを有してはいなかった。
その際に天文部らしく沢木口が語ったのだ、セントエルモの火の伝承を。

セントエルモの火は一つ現れることと、二つ同時に現れることがあるそうだ。
一つの場合は「ヘレナ」。
二つの場合は「カストルとポルックス」と称するらしい。
カストルとポルックスは双子座を構成する星の名前であり、それで沢木口も知っていたわけだ。
沢木口が言うには、セントエルモの火は二つ出た場合、嵐が収まるという希望の意味を持つらしかった。
狙ってやったわけではないだろうし、実際には四つの光があったわけだが、
それでも俺はあの二つの光が梨絵たちにとってのセントエルモの火、カストルとポルックスになったのではないかと思えた。
誤解からの行動であれ、なんであれ、あの光をきっかけに二人の仲が改善されたのは間違いないのだから。

332 : ◆2cupU1gSNo - 2014/01/24 18:58:47.12 LlP4ohDu0 180/252



「摩耶花、上手く二人に説明できると思うか?」


田井中が少し心配そうな表情を浮かべる。
誤解から共通の敵を得た梨絵と嘉代の仲は飛躍的に改善された。
その始まりが誤解だっただけに、その誤解が解けてしまえば夢のように二人の仲は崩れ去る。
田井中はそれを危惧しているのだろう。
確かにその可能性はあった。
伊原が余程上手く誤解を解かねば、二人の間にはまず間違いなく遺恨が残るだろう。
だが俺は苦笑を浮かべて返してやった。


「大丈夫なんじゃないか?」


「大丈夫なのか?」


「多分な。
伊原もあれで短慮でなければ馬鹿でもない。
梨絵たちが傷付かないように、気を遣って説明をするだろうさ。
お前にも千反田の記憶があるんだから分かるだろう。
伊原の親しい人間に対する気遣いは大したもんだ。
千反田のずれた発想でさえ頭から否定することはしない。
増してあいつは一応二人の親戚のお姉さんなんだ。
それに誇りを持ってるようでもあるし、お前が心配しなくても伊原は上手くやるさ」


「そっか……、そうならいいよな……」


「ああ」


俺はその田井中の呟きには本気で頷いた。
梨絵と嘉代にはもう会うこともないかもしれない。
里志の誤解を解くことで、相対的に俺の評価が下がってしまうかもしれない。
善名家の家庭の事情に首を突っ込んでやれるほど、俺は情熱的じゃない。
もしまた二人が仲違いを起こしたとしても、その改善に尽力はしないだろう。
だが俺は思う。
せっかくの姉妹なのだ。
仲の悪い姉妹であるより、誤解からとは言え改善された仲の姉妹である方がずっといい。
他人の家庭の不幸を望むほど、さすがにそこまで俺は薄情じゃない。


「にしても、さ」


天を仰いだ田井中が、熱気に汗を拭いながら微笑んだ。
田井中も伊原と善名姉妹を信じたのだろう。
その表情からは既に暗さが消え去っていた。


「なんだ」


「やっぱホータローは凄いよなー、結局あっと言う間に解決しちゃったじゃん」


「あっと言う間じゃない。
朝から付き合わされて結構疲れてるぞ、俺は」


「それでも私にとっちゃあっと言う間だよ。
私も梨絵ちゃんたちの勉強見ながら青い光の正体を考えてはみたけど、全然分からなかったんだもんな。
なのにホータローには光の正体どころか犯人と動機まで分かっちゃうなんてさ。
それだけじゃない。
この前、私が用意したゲームにしたってそうだよ」


「はさみのやつか?」

333 : ◆2cupU1gSNo - 2014/01/24 18:59:36.14 LlP4ohDu0 181/252



「そうそう。
あのゲームさ、それなりに自信があったんだぜ?
頭を捻って、えるの記憶の中から使えそうな知識まで探して、やっと思いついたゲームだったんだ。
それなのにホータローは私が寝てる間にクリアしちゃってたんだもんな。
落ち込むぞ、あれは……。
だからさ、やっぱホータローは凄い探偵力を持ってると思うんだよ。
本気で探偵を目指してみてもいいんじゃないか?」


「たまたま運が良かっただけだ。
それに探偵なんて俺の柄じゃないだろう。
探偵なんて疲れるばかりで面倒な仕事じゃないか」


「言うと思った」


落胆した素振りも見せず、田井中が楽しそうに笑った。
こいつもこいつで俺の行動パターンを読み始めたのかもしれない。
まあ、単純な行動指針を持っている俺だ。
それなりの時間を一緒に過ごしてきた人間なら、俺の行動パターンなど簡単に読めるだろうが。


「だけど本気でびっくりしてるのも本当だぞ?
ホータローってば、数少ない情報から見事な推理を組み立てるじゃんか。
少なくとも私にはできないし、他の大多数の奴等にも無理な芸当だよ、それは。
特にびっくりしたのが怪盗十文字の事件の時だな。
よくあれだけ少ない情報で解決できたもんだよ。

いやー、まさか犯人が眼鏡の会長さんだったなんてな。
確か真鍋だったっけか?」


「田名辺だよ、田名辺。
田名辺治朗。
いや、俺もあれからそんなに会ってるわけじゃないから多分だが」


「そうだっけ?
って眼鏡の会長で真鍋なのは私の友達だったわ、ごめんごめん。
ちなみに私の友達の方の真鍋会長は凄いぞー。
何たって生徒会長なんだからな。
唯の幼馴染みで和って名前なんだけど……」


「別にお前の学校の生徒会長はどうでもいいし、
平沢とその真鍋が幼馴染みだろうとなんだろうと知ったことじゃない。
それよりそろそろ戻らないか?
ムギお墨付きの麦茶とやらを振る舞ってくれるんだろう?
さっきも言ったが喉が渇いてるんだ、俺は」


「おっと、そりゃ悪かった。
んじゃ、そろそろ青山荘に戻るとするか」


言いながら軽く屈伸運動をする田井中。
俺もそれに倣って関節を伸ばそうとして、不意にその動きが止まった。
田井中の奴、今おかしなことを言わなかったか?


「おい田井中」


「なんだよ、ホータロー。
喉が渇いてるんじゃないのかよ?」


「当然喉は乾いてる。
だがそれより先に訊かせてほしいことができたんだ」


「和のことか?
ホータローってえるより真面目な生徒会長の方が好みな奴だったのか?」

334 : ◆2cupU1gSNo - 2014/01/24 19:00:04.38 LlP4ohDu0 182/252



「違う、そうじゃない。
さっきお前は十文字の正体が眼鏡の会長だって言ったよな?」


「だってそうだろ?」


「そうだよ、怪盗の十文字の正体は眼鏡の会長の田名辺治朗だ。
じゃあその動機をお前の中の千反田は憶えているか?」


「うーんと……、
なんたらの順番って同人誌のためだったはずだろ?」


「『クドリャフカの順番』だ」


「あー、それだそれ。
その同人誌のことをちゃんと憶えてるかって、
それを同人仲間に確かめるための事件だったはずだが?」


「ああ、その通りだよ。
やっぱり物覚えがいいみたいだな、千反田は」


「えるの物覚えの良さには、期末試験の時もお世話になりました」


「それはなによりだが、期末試験のことは今はどうでもいい。
千反田が十文字の正体を知っているということが重要なんだ。
なあ、田井中、どうしてお前が十文字の正体が田名辺だと知っている?」


「なに言ってんだよ、ホータロー。
えるの記憶の中にあったからに決まってるじゃんか」


「もちろんそうだろう。
だがそれだと辻褄が合わなくなるんだよ」


「……どういうことだ?」


田井中が神妙に首を捻りながら俺に訊ねる。
どういうことなのかは俺にも分からない。
分からないからこそ、田井中に言ってやらねばならなかった。


「十文字の正体だがな、千反田は知らないんだ。
なんせ俺と田名辺が一対一で話しただけなんだからな。
確かに十文字の正体はお前の中の千反田の記憶にある通り田名辺だが、
盗み聞きした奴でもいない限り、それを知っているのは俺と田名辺本人だけなんだよ。
だから訊かせてくれ、田井中。
お前の中の記憶では、千反田は俺たちの会話を盗み聞きしていたのか?」


「いや、してない。
してない……はずだ。
少なくとも私の中のえるは盗み聞きなんてしてない」


「そうだろうな。
千反田は盗み聞きなんてする様な奴じゃないし、
もしなにかの弾みでしたとして嘘を貫き通せるほど器用でもない。
じゃあお前の中の千反田はどうして田名辺が犯人だって知っているんだ?
それも犯行の動機まで」


「どうして……って、普通にホータローの横で聞いてたんだよ。
えるのその時の驚きも、お気に入りの映画みたいに鮮明に思い出せる。
だけどホータローの中じゃそうじゃなかったんだよな……?」

336 : ◆2cupU1gSNo - 2014/01/24 19:01:30.95 LlP4ohDu0 183/252



田井中の言葉に頷いた俺はシャツの背中が汗で湿るのを感じていた。
夏の熱気からの汗ではなく、若干の冷たい汗で。
この俺と田井中の記憶の齟齬にはなんの意味があるんだ?

俺はこれまで田井中と怪盗の十文字について話したことがなかった。
当然だ。
あの事件は千反田の中では古典部の手痛い敗北の記憶しか残らないものだったからだ。
事件自体に千反田がそれほど関係したわけでもない。
千反田が十文字事件でやったことと言えば、てんやわんやの右往左往くらいのものだ。
その結果訪れた敗北など、相手が田井中とは言え思い出させることではない。
だからこそ俺は十文字事件について全く触れなかったのだ。

しかし田井中は知っていたのだ。
十文字事件の犯人が田名辺であるということを。
しかも千反田の記憶の中では、よりにもよって俺の隣でそれを聞いていたのだと言う。
もちろん田井中のことだ。
こんな意味のないことで嘘などつきはしないだろう。
つまり田井中の中では本当にそうして十文字事件が解決したのだ。

記憶の改竄だろうか。
過去の受け入れがたい記憶を千反田が自分で書き換えたとする。
千反田の記憶をそのまま思い出すことしかできない田井中が、その改竄を真実と誤認したのか?

馬鹿な、支離滅裂だ。
記憶を改竄するにせよ、それにはまず千反田が事件の真相を知っていなくてはならない。
知っているために最も考えられる可能性はやはり盗み聞きだが、千反田が盗み聞きなどするだろうか?
いや、もしかして田名辺の口から漏れた?

違う。
田名辺が自分で事件のことを口にするメリットがない。
そもそも仮に田名辺が事件の真相を千反田に語ったとして、わざわざ千反田が記憶を改竄するか?
十文字事件は千反田の中で苦い記憶であったことは間違いない。
しかしだからと言って、千反田はその苦さから逃げ出すような奴じゃない。


「どういうことなんだよ……?」


田井中が自らに、千反田に問い掛けるように呟く。
当然のことだが返事はなかった。
俺もその疑問に答えてやることはできなかった。

俺と田井中の中にある千反田の記憶との間にある齟齬。
これがなにを意味しているのかは分からない。
だが分からないからこそ、分からないという余地があるからこそ、これにはなんらかの意味がある。
この現象に対するなんらかの突破口になる。
そのはずだ。
それが良き方向にしろ、悪しき方向にしろ、だが。

背伸びをして、真夏の太陽を仰いでみる。
目眩がしそうなほどの熱気だというのに、俺の背中には冷たい汗が流れ続けていた。

【 後編 】 に続きます。

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