寮よりの手前のバス停で降りて、買い物をする。
ぽろっとこぼした上条のリクエストで、姫神は肉じゃがを作ってくれることになった。
どう考えてもその日中に同居人に鍋の底まで平らげられてしまうのが悲しい。
「ちょっと晩御飯遅くなっちゃいそうだね」
「いつもよりは、そうだな。遅いってほどじゃないけど、インデックスが怒ってそうだ」
とっぷり日の暮れた道を、三人分の食材を手にして歩く。
同棲でもしていればこんなことは日常になるだろう。
つい、そういうシチュエーションを想像してしまう。
「大学行ったら、同棲とかするか?」
「えっ……えぇっ?」
「いや、ごめん。先の話をしすぎた。忘れてくれ」
「えっと。さすがに急でびっくりしちゃった。でも。ずっと当麻君と一緒にいられるのっていいね。
同棲するとお互いにドキドキすることがなくなるから実は良くないって説もあるけど」
「あー、それは確かにあるなぁ」
「……あの子の事?」
「うん、まあ。それほど長いこと一緒にいるわけじゃないけど、毎日一緒だとさ。
詰まんないことで喧嘩もするし、嫌なところも見えてくるだろ?
掃除しないとか料理作らないとか服を俺のと一緒に洗濯すると文句言うとか」
「やっぱり好きな人のところには通うのが良いのかな」
「……秋沙がうちに来てご飯作ってくれるって、ものすごい嬉しいんだぞ?」
「ふふ。あんまり大したことは出来ないけど、気持ちはちゃんとこめて作るからね」
エントランスをくぐって、エレベータの扉を開く。
きっと出会い頭にお腹すいたと文句が飛んでくるのは間違いない。
代わり映えのしない自分と二人だけの夕食じゃなくて、
今日は秋沙がいるからインデックスも喜ぶだろうと、上条は気楽に考えた。
今日は私と当麻君と三人。あの子はそれをどう思うだろうと、姫神は良くないケースも想定して覚悟を決めた。
かすかな加速度を足に感じて、勢いよくエレベータは登る。
夏には上条を待ちくたびれて玄関先で待っていることも良くあったが、
近頃はめっきり冷えてきてそんな光景も見なくなった。
エレベータから出て、上条は部屋のドアの鍵を開けた。
「ただいま」
「お帰りーとうま。ごはん、ごはん、ごはん!」
「ああ、うん。すぐ作るから」
玄関からはインデックスの姿は見えない。ベッドの上でごろごろしているのだろうか。
控えめに、うしろから姫神が声をかけた。
「お邪魔。します」
「あれとうま。誰か女の人の声がしたんだけど」
「うん。ご飯。作りに来たから」
「えっ? ……あいさ? どうしたの?」
インデックスが不思議そうに顔を覗かせた。
嬉しそうとも警戒しているとも見えないその態度に、人知れず姫神は体を硬くした。
「あいさのごっはん、あいさのごっはん」
普段上条が料理をしているときなんてほとんど興味を持たないくせに、
インデックスは少し離れたところから姫神の包丁の動きを目で追っていた。
上条はその隣で茹でた卵の殻を剥いている。
「とうま。ちゃんと白身を傷つけないように剥いてほしいんだよ!」
「難しいんだよ。文句言うんなら自分で剥け。俺より下手なくせに」
「そんなことないもん!」
「ふふ。いつもこんな調子なの?」
喧嘩っぽい口調で言い合う二人を、姫神はほっとした気持ちで見ていた。
あの子とにらみ合うようなことになっては、食事どころではない。
そういう心配はしなくてすみそうだった。
それに、二人の会話はなんだか兄と妹というか、子供っぽい感じがして、それも安心材料だった。
「ん、秋沙。剥き終わった」
「ありがと。当麻君。鍋に入れてくれる?」
「了解っと」
上条は予想以上にきちんと料理をするようだ。
必要ならみりんと料理酒を自分の部屋から取ってくる気だったが、その必要もなかった。
甘めの味付けがインデックスの好みだということで、砂糖と味醂が多めの、こっくりとした味付けにした。
隣のコンロでさっと青菜を湯にくぐらせて、辛し和えを作る。
鍋一杯の肉じゃがとこれがあれば夕食としてそれなりのものだろう。
「あいさ、まだ?」
「煮物はすぐには出来ないよ。食べるのはあと一時間くらいしてからかな?」
「えーっ! お腹すいた」
「もう」
甘えてくれるインデックスを少し可愛いと感じてクスリとなる。
――その油断がいけなかったのか。
「そういえばあいさ。とうまのこと、下の名前で呼んでるんだね」
「えっ?」
「とうまも、あいさって呼んだ」
「ああ、えっとそれはだなインデックス」
むー、とインデックスに睨まれる。直接睨まれている上条の隣で姫神もたじろいでいた。
「あいさに変なことしたんじゃだめなんだよ! とうま!」
「へへへへへへ変なことってなんだよ?!」
「そ。そうだよ。変なことなんて。別に」
つい数時間前に姫神の胸を吸っていたのは誰だったか、思い出して上条も姫神も真っ赤になった。
「飯炊けたぞー」
「うん。肉じゃがはまだ冷めてないから、このまま出すね」
インデックスはもうテーブルの前に座って、完全にスタンバイしていた。
姫神が鍋を持っていくと、インデックスが恭しくテーブルに鍋敷きを置いた。
かぱりと姫神が蓋を開ける。醤油と味醂で似た牛肉とジャガイモのいい匂いが、ふわっと広がる。
「うわぁぁぁぁぁぁ……」
インデックスは目をキラキラ輝かせてもう待てそうにもない、という表情をしていた。
……なので、上条は自分と姫神の分のご飯をよそってから、最後にインデックスに茶碗を渡す。
「それじゃあ。召し上がれ」
「うん!! いただきます!」
はぐはぐはぐはぐはぐはぐ!
こっちの様子を見てもいない。上条はいつもどおりのインデックスにため息をついた。
向かい合わせに座った姫神に、ありがとな、と伝える。
ううん。と首を横に振る姫神と、どこか、子供を持った夫婦みたいな気持ちを味わった。
「それじゃ、俺も頂きます」
「頂きます。当麻君の口に合えばいいな」
「絶対に大丈夫なんだよ。とうまのご飯の100倍美味しいから」
「作ってもらってばっかりのお前に言われたかねーよ」
「ふふ。喜んでもらえてよかった」
「あいさ! これからは毎日来てくれるの?!」
「えっ?」
驚く姫神を見つめたのは一瞬だった。あっというまに目線を再び肉じゃがに戻して、
もりもりと口に運んでいく。
「毎日。来てもいいのかな?」
「え? なんで?」
「お邪魔じゃないかなって」
「そんなことないよ! とうまは全然遊んでくれないし、あいさがいてくれたら嬉しいもん」
「そっか」
ほっとしたように、姫神が薄く笑う。
上条としても、三人で食事を取れるのは嬉しいし、丸く収まったみたいで良かった、と安堵した。
「おかわり!」
「へいへい。入れてやるから皿貸せ」
「お肉っお肉っ」
「全員平等にだ。お前に肉を全部献上することは断じてありえない」
「わたし全部なんて言ってないもん!」
「全部食いかねない勢いだろーが!」
「ふふ」
上条家の食卓は、いつもこんな感じなんだろうか。
姫神も、自分で作った肉じゃがに手をつけた。
「ごちそうさま」
「ごちそうさま、あいさ」
「うん。おそまつさまでした」
上条家にある最大の鍋は5リットル。
肉も400グラムあったしジャガイモは全部で14個も入れたのに、
目の前の鍋はもうさっと洗えばもう綺麗になる状態だった。
すっからかんとも言う。
「はぁ、コレだけあっても明日の分はないんだもんなぁ」
「もしかして、あったらあった分だけ食べられちゃうの?」
「そうなんだよ! ったく、底なしって言うかこんだけ食べてよく太らないよな」
「ちゃんと成長に使ってるから平気なんだもん!」
「成長ねえ」
どこが、というような話はしない。もうそれはすでにやって、すでに噛み付かれたことがある。
「さて、んじゃ洗い物してくるわ」
「あ。手伝うよ」
「いいって。ほとんど作ってもらってたんだし、片づけくらいはするから。
それよりインデックスのお守りを頼む」
「とうま! 私はべつに遊んでもらえないくらいで怒ったりしないもん!」
「いや毎日怒ってるだろ……」
鍋と三人分の食器を台所に運ぶ。
リビングではインデックスが姫神をベッドサイドに連れて行って、二人でテレビを見始めていた。
「あっ、カナミンの曲だ!」
「カナミン?」
「あいさは見てないの? 超起動少女(マジカルパワード)カナミン」
「私は見てない。これ好きなの?」
「うん! あ……でも」
何かを思い出したらしく、勢いよく好きと応えた声が、急にしおれた。
「ちょっとこないだの回は嫌だったな」
「ふうん。時期的に最終回まではあと二、三話くらいかな」
「えっ? カナミン、終わっちゃうの?」
「それはアニメだから。いつかは終わるものだけど」
水道の音のせいで上条からは二人の会話ははっきりとは聞き取れないが、
仲良く話しているようだった。
食べてすぐの食器は汚れも落としやすいし、何よりご飯粒一つ残っていないので、
洗いものはさっと済んでしまった。
タオルで手を拭いて、上条も二人に合流すべくリビングへ向かう。
上条は、インデックスと姫神が二人並んだ、その姫神側の方に腰掛けた。
インデックスが少し訝しげな表情をしたことに、上条は気づかなかった。
別に自分から番組を変える気もなくて、カナミンのオープニングテーマを流す番組をそのまま眺める。
「ねーねー秋沙。今日はいつまでいるの?」
「えっと。明日に差支えがなければ。何時でもいいんだけど」
「じゃあゲームしよう! 最近これ、よくやってるんだ」
「あ。うん。いいけど……」
インデックスが傍らに置いたボードゲームを広げようとする。
「こっちのゲームでもいいし、テレビ使うほうのゲームでも良いよ。あいさはどれがいい?」
「えっと」
もうゲームをするんだといわんばかりに、インデックスがあれこれと用意をする。
その勢いに飲まれたせいで、姫神は言う機会を逸してしまう。
だが、今日ここに来た目的は、インデックスとゲームをすることではない。
吹寄が少し、姫神から距離を置いてしまったように。
常盤台中学の女の子が、全く縁のなかった自分に隔意ある視線を向けるようになってしまったように。
もしインデックスに、自分と上条のことを言ってしまったら、これまで通りには接してもらえないかもしれない。
そう多いとはいえない友達の一人だし、納得はしていなくても、
インデックスが上条と離れがたい関係にあるのは知っている。
上条の取り合いになって、いがみ合うことになるのは避けたかった。
だがそれ以上に、『恋人』を取り合うことは、絶対に避ける気だった。
そっと手を、上条に絡めた。驚いた雰囲気が腕から伝わる。
インデックスの前で睦みあうことに、上条がどんな顔をするのか、確かめた。
「秋沙」
大好きな恋人の声には、戸惑いとためらいの響き。
チリチリとそれだけで燃え上がる何かがあった。
大切なのは私でしょ。あの子に知られたって構わないでしょ。
「ちゃんと。言わないと」
言いたいことは別だった。
私のことが好きなんだ、って、あの子の前で言って欲しい。
あの子に姫神秋沙は俺の彼女だと明言して欲しい。
私とあの子の立場をちゃんと区別して欲しい。
自分が一番嫉妬している相手はインデックスなのだと、姫神は自覚していた。
だって、こんなにも毎日、上条の傍にいる女の子がいたら。
そしてその子が可愛くて、健気な、いい子なら。
大好きな上条当麻という人が、なびいてしまうかもしれないから。
「あっ、とうま! ……あいさに何してるの」
「へ? え、いやこれは、その、腕組んでるん、だけど」
「次はどこに触る気なの?」
「次ってなんだよ」
「あいさも気をつけて。とうまは油断したらすぐえっちなことするんだから!」
「ひ、人聞きの悪い」
「当麻君」
思わず放しかけた腕を、姫神が手繰り寄せた。
切ない目が上条を見つめる。
それだけで罪悪感が心をざわめかせた。
「とうま……あいさも、どうかしたの? さっきから思ってたけど、今日はなんか二人とも変だよ」
「変か。なあインデックス、その、どうしてそう見える?」
「えっと、よくわかんないけど、とうまがえっちなことをしてもあいさが怒らないし。
それにとうまが女の人と腕組んでるってそれだけで変かも」
「うん。自分で言うのもなんだけど、変だな」
「だから私はそう言ってるんだよ」
ぎゅ、と上条の腕を姫神がきつく抱きこむ。姫神はもうインデックスのほうを見ていなかった。
インデックスはそれで、今日姫神がこの家に着てからずっと薄く感じていた、
なんともいえない疎外感、それをはっきり悟った。
上条と自分の二人の家にいながら、いつもの空気と違う。お客様がいるからではない。
自分と上条と姫神、三人がいて自分だけが「独り」なのだと感じる。
部屋の距離感がおかしくなって、急に上条が遠く見えるような感じをインデックスは覚えた。
「なあインデックス。報告が、あるんだけどさ」
「えっ?」
ドキリと、心臓がテンポを急に変える。
上条との間に何度か遭遇した、ちょっと幸せで恥ずかしくなるような、あのドキドキとは違う。
むしろ嫌な夢から覚めた直後の、まだあれが夢だったと認識するより前の圧迫感に近い。
姫神が自分のほうを見ないのが嫌だった。仲良くした人にそっぽを向けられる、その理由が知りたい。
……いや、知りたくない。理由を知ってはいけないような、そんな気がする。
「俺と秋沙のことなんだけど」
今更、今になってようやく、上条が姫神のことを秋沙と呼ぶことが気に障りだした。
当麻君、なんて呼び方もおかしいのだ。
上条が姫神のことを好きなのも、姫神が上条のことを好きなのも知っていたが、
それでも今までは互いに苗字で呼び合ってきたのに。
自分の目の前で、二人がそっと見詰め合ったのが分かった。
上条が優しい目で姫神を見つめたのが分かる。いたわるような、安心させるような微笑。
……それを見て自分の心の中に処理しきれないような怒りが湧いたのが分かった。
「インデックス、聞いてくれ。ついこの間のことなんだけど。
……その、伝えるのが遅れて悪い。俺と秋沙は――」
呼吸を上手く出来ない。体が急にこわばってしまった。そんな自分を意に介さず、上条が言葉を続ける。
「今、付き合ってるんだ」
「……え?」
科学の話をしたときのような。
インデックスが初めに返した言葉は、自分が知らない単語を聞いたときの、その態度だった。
「付き合う、って?」
「え?」
聞き返したいのは、むしろ上条だった。
インデックスを日本語の分からない少女のように扱ったことなど一度もない。
科学的な知識はさておいて、こういう普通のことに疎い面など見たことがなかった。
「いやだから、秋沙が俺の彼女になるって話で」
「あいさがとうまの、彼女?」
「そうだよ……インデックス?」
「なに?」
「なにじゃねえよ」
上条はどうもよく分かってないように見えるインデックスに、ついつっけんどんになる。
知り合いに彼女が出来たなんて話をするのは照れくさいのだ。
それに、ずっと一緒に住んできた相手、それも女の子に報告するのは、どこか後ろめたかった。
「付き合うっていうのは。抱きしめあったりキスしたりする関係ってことだよ」
誰に目を合わせるでもなく、取り立てて特別でもない説明を、姫神が呟く。
それは上条とインデックスを、ハッとさせるような一言だった。
「だ、だめだよ! そんなの」
「どうして?」
「だってとうまは……えっちなんだもん!」
「エッチだったら。どうして駄目なの?」
「だってとうまはすぐ出合った女の人と仲良くなるし、あっちこっちでそういう人増やすし」
「そうなの? 当麻君」
「え?」
急に話を振られて上条は戸惑う。
ちらと上条を一瞥して、姫神の視線はインデックスに向かった。
「あちこちで知り合った女の人と。キスをしたの?」
「そんなことねえよ。秋沙とだけだ」
「えっ……?」
「ありがとう。当麻君」
困惑を浮かべたインデックスの顔から、瞬間、沢山の感情が剥落した。
「当麻君は。私と他の女の人は別だって想ってくれてる。私は当麻君の彼女なの」
「でもっ……駄目だもん」
「どうして? あなたは。当麻君の何?」
「とうまは私の大切な人だもん!!」
「私が聞いてるのはあなたが当麻君の何なのかだよ」
「そんなの……! とうまに聞いてみればいいよ!」
一転して、混乱と、敵意と言ってもいいような何かをインデックスは浮かべる。
「いや、そりゃ嫌いならこの家に置いたりなんてしないけど」
「私は、当麻の何なの?」
「……何って、まあ、同居人、だろ」
恋人では、なかった。大切な人ではあっただろうと、上条は思う。
でもそれでもやはりインデックスは上条にとって、彼女ではなかった。
自分の大切な、たった一人の女の子。その名はもう姫神秋沙と決まっているのだ。
「とうまは、私のこと嫌いなの?」
「んなわけあるか」
「じゃあ、あいさと比べて、私のこと」
「比べるのはおかしいよ。私は当麻君の彼女で、あなたは違うから」
全ての議論を姫神が遮った。反論の余地のない、バッサリとした断定だった。
上条も、そしてインデックスも、何もそれに言い返せなかった。
インデックスがキッと自分を睨みつけたのに、姫神は気づいた。
自分は取り繕っている気でいるが、あるかないか分からない仮面の下で、
自分もインデックスと同じ表情をしている自覚があった。
だから、なんとなく次の一言も分かった。
「出てって」
「え……?」
驚きに呆然としたのは上条の声。
視線は絶対に逸らさない。まっすぐインデックスを射抜く。
姫神を突き放すように、もう一度インデックスが叫んだ。
「あいさは出て行って!!!!」
「インデックス!!」
姫神とインデックス、二人ともがその怒声にびくり、となった。
こんな風に上条に怒られたことはインデックスは一度もなかった。
だから、怖かった。そして、反射的に覚えたその感情が緩和するにつれて、
別の感情が、じわじわと心を蝕んだ。
事情なんてどうでも良くて、突きつけられたのは自分だけが怒られたという事実。
「そんな言い方はないだろ。誰だろうが、ウチに上げといて出て行けってのは、
それは言っていいようなことじゃないだろ」
「なんで。とうまは私だけ怒るの?」
「なんでって、出て行けって言ったのお前じゃないか」
「あいさだって私と言い合いしたのに!」
「それとこれとは話が違うだろ?」
「私、ずっと一緒にとうまはいてくれるって思ってたのに! なのに……!」
表し方の分からない想いが、絶えかねたようにぽろりと目じりからこぼれる。
「とうまはどうしてあいさの肩を持つの?」
「だから別にそんなつもりないって言ってるだろ!?」
「とうまのうそつき!」
「意味わかんねぇよ」
噛み付いてきたりなんて、インデックスはしなかった。
憎しみというよりは裏切られたような、傷ついたような顔。
ただの二人の喧嘩なら、上条はもっとインデックスを気遣えたのかもしれない。
今はただ、インデックスの感情論に不快感を覚えることしか出来なかった。
「……私。帰るね」
「あ、秋沙」
「ここにいても。こじれるだけになっちゃうから」
「……ごめんな。せっかく、晩飯まで作ってもらったのにさ」
「ううん。気にしないで。それじゃ、お邪魔しました」
他人行儀に、それでも挨拶をした姫神とは対象に、インデックスは目をあわせようともしなかった。
姫神のことも好いていただけに、裏切られたという思いは強かった。
上条が腰を上げてインデックスと姫神を見た。
姫神を送っていくか、それともインデックスをなだめるか。
姫神はそれなりに平静だ。二人の女の子の様子で判断すれば、インデックスの面倒を見るべきかもしれない。
「インデックス。秋沙を送ってくるから」
「あ……」
「すぐ帰ってくる」
上条は、『身内』より『彼女』を選んだ。愛情の多寡ではなく、それは日本的な価値観の発露だった。
だが二人の女の子は、そんな風には受け取れない。
一方は優越感を感じたことに後ろめたさを覚えて、もう一方は捨てられたような気持ちを、いっそう強く覚えた。
「やっぱり。こうなっちゃった」
「秋沙?」
「半分くらいは覚悟してたんだけど。これはもう嫌われちゃったかもしれないね」
「その、ごめんな。あとで言っておくから」
「止めといたほうがいいと思う」
「え?」
「大好きな人が他の女を選んだせいで傷ついてるのに。その人からさらに叱られたりしたら。
どうしようもないくらい傷つくよ。私があの子の気持ちを語るのはおこがましいけど。それは分かる」
エレベータを降りて、エントランスに出る。
そもそもマンションの外に出ないから送るほどの事もない。
ここで別れればいいかと思った上条の手を、姫神が引く。
まだそこまで遅い時間ではない。女子棟のほうへと、上条はついていった。
「秋沙はあいつに怒ってないか?」
「うん。怒られる理由はあるけど怒る理由はないから」
「問題はやっぱインデックスか。仲直り、してくれるといいけどさ」
「うん……」
「やっぱり、三人の時にも仲良くいられるのがいいしな」
「……」
「秋沙?」
階段を上る足をぱたりと止めた。
「3人で恋人同士はできないよ」
「え?」
「あの子は当麻君の何でいたいのかな? ただの同居人でいいのかな?」
「……」
「もしそれで満足できないんだったら。3人でっていうのは。ありえないよ」
インデックスは、自分のことをどう見ているのだろう。
さんざん悪口を言われるが、それは愛情の裏返しだと思える。
ときどき女らしい態度にドキリとさせられることはあるが、
向こうが意識しているわけじゃなくて、年頃の上条が過剰に気にしているだけだと思う。
……今までそう思ってきた。だが姫神の口ぶりは、そうではないのだと言っている。
部屋に帰って、どんな顔をすれば良いのか上条には分からなかった。
「うちに上がる?」
「……いや、一応早く帰ってやろうとは、思うし」
「そっか」
「ごめん」
「気にしないで。私もそのほうがいいと思うから。……でも当麻君」
何かを欲しがる目。今日は沢山愛し合った。だから言われなくても分かる。
カチャ、とドアのノブに姫神が手をついた音がする。
姫神を扉に押し付けるようにしながら、上条は姫神の唇を深く吸った。
「おやすみ秋沙。愛してる」
「うん。当麻君もお休み。大好きだよ」
姫神を送ってすぐにきびすを返し、自宅のドアを開ける。
出しかけたゲームや上条の鞄がリビングに居座っていて、さっきの雰囲気を残していた。
「ただいま」
ベッドの上で体育座りになってインデックスは俯いている。
くしゃりと頭を撫でて、上条は部屋の片づけを始めた。
せめて、周りだけでもいつもどおりを取り繕ってやれるように。
……風呂の湯を沸かしはじめたところで、ようやくインデックスが口を開いた。
「私。出て行かなくてもいいのかな……?」
「え? 出て行くって」
「だって。私はもう、ここにいちゃいけないのかなって」
「なんでだよ」
予想以上に悪い方向に考えすぎているインデックスが心配で、上条はベッドに腰掛けた。
もう一度、頭を撫でてやる。
「とうまに。嫌われちゃったもん」
「その嫌ってるはずの上条さんは今お前の頭を撫でてるんだけどな」
「ねえとうま」
「ん?」
「わたし。とうまの何なのかな」
それは上条に向けての疑問というよりも、自分がその答えを持っていないことへのやるせなさのようだった。
答えるべきか、悩む。ただの同居人だとは答えづらかった。それは確かに上条にとっても正しい答えではないのだ。
ただのルームメイトとは違う、恋人とも違う、兄妹とも違う、そういうカテゴリに当てはめにくい、
世界でも自分達二人だけかもしれない、不思議な関係だった。
「お前はなんだと思うんだ?」
「わかんないよ。とうまにとって私はどういう存在なのか。とうまが教えてよ」
「……お前といると、楽しいよ」
二人とも、カーペットに穴でもあけるようにじっと一点を見つめる。
部屋が明るいのが少し、鬱陶しかった。
「私も、とうまと一緒にいると楽しいよ。遊んでもらえると嬉しいよ」
「……それが答えじゃ、だめなのか?」
「だって、答えじゃないもん。私はとうまにとってこういう人ですって、言葉にしたいんだよ」
だが、答えは出ない。簡単に答えが出ないからずっとそんなことは頭の片隅にやって、ただ、楽しくやってきた。
「明日からも、ここにいていい?」
「当たり前だろ?」
「とうまの傍にいても、いい?」
「聞かなくても良いって。お前が出て行きたいって言うまで追い出したりしねーから、
ウジウジなやんだりなんかせずにずっと笑ってれば良いんだよ。お前は」
「とうま。とうま……っ」
ふぁさりと衣擦れの音がして、インデックスが上条にすがりついた。
急なその動きにあわせられなくて、上条はインデックスを抱えてベッドに倒れこむ。
首に腕が回されて、上条の胸の上にインデックスが鼻をこすりつけた。
かける言葉が上条にはなくて、インデックスは上条のシャツに涙を染み込ませるだけだった。
上条はプールで抱いた姫神の感触を思い出して、後ろめたい思いを感じながらインデックスの髪を撫でた。
姫神の匂いがしない上条のシャツに、インデックスは沢山のものを刻み付けた。
「……落ち着いたか?」
「まだだもん」
インデックスの嗚咽が収まってしばらく。風呂の湯が入ったお知らせが鳴った。
「でも風呂沸いたから、さっさと入ってくれないと」
「うん。あともうちょっとしたら入る」
インデックスは上条の胸に耳を押し当てていた。上条の心臓の音を聞いて、安心しているらしかった。
不意にインデックスが顔を上げる。いつになく間近で、二人は見詰め合う。
「私は。とうまが大好き」
「お、おう。ありがとな」
「……お風呂に入ってくるね」
「ああ……」
インデックスのことが、いつも以上によく分からなかった。
部屋の隅の引き出し、インデックスの専用になったそこからパジャマを取り出し、
上条に見えないように下着をパジャマに包んで隠して、風呂場に向かった。
ピリリ、と上条の携帯にメールが届く。
ぴたりとインデックスは一瞬立ち止まって、振り返らずに洗面所へと入っていった。
ポケットから取り出して覗いた画面には、姫神からではなくて土御門からの他愛もないメール。
返事も面倒でそのまま閉じて、テーブルの上に置いた。
にぎやかしにテレビの電源を入れる。
インデックスが服を脱いで風呂に入る音を聞かないためのマナーだった。
そうやって、殊更に意識してしまうようなことは避けてきた。
いつまでも、今までみたいな関係でいられたらいい。
それが偽らざる上条の願いであり、そんな幻想はもう終わりなのだと、心のどこかで感じていた。
ぼんやり天井を眺めていると、インデックスが風呂から上がってきた。
入れ違いに上条も入って、さっさとお湯を抜いてしまう。
言葉も少なに、いつもより早い時間に寝てしまうことにした。
「ねえとうま」
「ん?」
「今日も、お風呂で寝るの?」
「そりゃそのつもりだけど」
「……ここ、とうまの家なのに。私がベッドで寝たら変だよね」
「い、いや。それなりに理由があってこうなってるわけでさ」
「……そうだね。ごめんね」
「なんだよいきなり。別にいいって」
「うん。それじゃおやすみとうま」
「ああ、おやすみ」
突然にそんなことを言い出したインデックスの真意がつかめなかった。
首をかしげながら風呂場に向かって、電気を消して、
……あまり寝付けずに、長い夜を過ごすことになった。
「とうま、朝だよ」
「ん……」
コツコツと風呂場の扉を叩く音がする。
インデックスも上条も寝起きはいいほうで、どちらがどちらを起こすというほどのこともない。
「起きた? とうま」
「んー。起きた」
扉をガラリと開けて、洗面所に出る。顔を洗ったところで、ふと匂いに気づいた。
香ばしいというか、焦げるところまで若干いってるんじゃないかというようなトーストの匂い。
「あれ、インデックス」
「おはよう、とうま」
「おはよう。トースト焼いてるみたいだけど、どうしたんだ?」
「……とうま、ごめんね。ちょっと焦げちゃった」
「いや、煙が出てないし致命的じゃないのは分かるからいい。自分の分を焼いたのか?」
お腹すいたと文句を言うのが普段なのに。
インデックスが手にした皿は二つ。上条の分も焼いてあるのだった。
「とうまは朝はいつもバタバタだから。私がやってあげたらとうまは喜んでくれるかな、って」
「あ、ああ。そりゃもちろん助かる。すげー助かる」
「そっか。よかった」
ほっとしたようにインデックスが笑う。戸惑いはあるが、なんだか幸せな朝の光景だった。
飲み物と手でちぎるだけの簡単な野菜とハムも用意してあった。
インデックスが自分で出来る精一杯だったのだろう。朝食としてはもう充分だった。
「朝ごはん、これで大丈夫かな?」
「完璧だ。じゃ、頂きます」
「うん。私もいただきます」
いつもより5分早く、朝食を済ませる。その少しの差で朝はずいぶんゆとりを感じる。
ここからは普段なら洗い物をしてゴミをまとめて着替えるところだ。
だが今日は、食べ終わった後率先してインデックスが動いてくれた。
さっと着替えて、洗い物をするインデックスの隣でゴミ袋の口を縛っていく。
「すげぇ……いつもの登校時間まであと10分もあるじゃねーか。ありがとな、インデックス」
「うん。とうまが喜んでくれてよかった」
「にしても、急にどうしたんだ?」
「頑張ろうって思ったんだよ」
「え?」
「とうまにもっと、褒めて欲しいから」
引っかかるものは、ないでもない。なにせ昨日の今日だ。
褒めて、というインデックスの頭を条件反射で撫でた。眩しそうなその表情は、素直に可愛いと思う。
「もう行っちゃうの?」
「急ぐ必要はないけど、別にすることもないしな」
「わかった。とうま……」
突然、インデックスがきゅっと上条に抱きついた。
なんだか今日は突然に新婚夫婦にでもなってしまったみたいで落ち着かない。
彼女が他にいるから、それはなおさら落ち着かない。
「お、おいインデックス。もう行くからさ」
「うん。なるべく早く、帰ってきてね」
「う、わ、わかった」
インデックスがハンガーにかかった上条の学ランを手にとって、さっと広げてくれた。
そのまま、上条が着るのを手伝った。前のボタンを止めている間に、鞄を抱いて待ってくれている。
「いってらっしゃい、とうま」
「ん。行ってくる」
玄関まで見送ってくれるインデックスの顔が曇っているのが、やけに罪悪感を感じさせるのだった。
エレベータを降りれば、きっと姫神が待っているはずだった。
「当麻君。今日は放課後、どうするの?」
「秋沙は行きたいトコあるか? ……昨日と同じとか」
「駄目。あんなの毎日したらおかしくなっちゃうよ」
「おかしくなっちゃう秋沙を俺は毎日でも見たいけどな」
「もう……」
「だって昨日の秋沙はあんなに可愛い顔で」
「駄目! 当麻君ここ街中なのに……。恥ずかしいよ」
時間に余裕のある通学路を姫神と二人で歩く。
放課後の予定を話し合いながらも、どこか上条はそれにのめり込めなかった。
「当麻君。……今日は忙しい?」
「え? なんで?」
「何かを気にしているみたいだし」
「あー」
ガリガリと頭をかく。
姫神は上条がいつもどおりでないことに気づいているらしかった。
「早く帰ってきて、ってインデックスの奴に言われてさ。まあ、いつものことだから気にしなくても良いんだけど」
「……」
「悪い。朝から秋沙に話すようなことじゃなかったな」
「ううん。あの子は。どんな感じ?」
「いつもどおり、とは行かないけど、昨日よりは落ち着いたと思う」
聞きたいのは、インデックスが上条をどう見ているのか。もう、諦めてくれたのか。
だが姫神はそれ以上を聞けなかった。露骨な嫉妬を上条に見せるのを躊躇った。
仮にインデックスが足掻いたとして、自分の『勝ち』は揺るがないだろう。
上条が恋人だと見ていてくれるのは自分だけだから。
そういう理屈で、姫神は不安を心の中に閉じ込めた。
その日、放課後は結局どこにも行かずに二人で寮まで帰った。
「おかえり、とうま」
「ただいま」
扉を開けるとすぐ、パタパタと足音を鳴らしてインデックスが迎えてくれた。
今まではリビングに寝そべったままが普通だったので、戸惑った。
そっと上条の手を握って、手にした鞄を預かる。それを胸に抱く仕草に、ドキッとした。
「な、なんだよ。急にこんなことしてさ」
「とうまが喜んでくれるかなって。まいかが教えてくれたの」
「舞夏が?」
「うん。男の人を落とすテクだって」
ぶは、と上条は噴き出した。アイツ誰に何を教えやがるんだ。
「落とすってお前意味分かってるのか?」
「好きになってもらうって意味でしょ?」
きょとんとした瞳でそう返された。間違ってはいない。
そして昨日までのインデックスなら、やっぱり意味を分かってないのかと決め付けるところだったが、
なんとなく、今朝からインデックスは違って見えるのだった。
「まあ、そうだけど……インデックス。これから買い物行くけど、来るか?」
夕食の準備をせねばならない。
帰り際に買い物を済ませても良かったのだが、献立を考えるのが面倒な日には、
インデックスをスーパーに連れて行くと早く決まって便利なのだった。
当然、行く、という返事を予想していた上条だったが、
「あ、その。とうま、今日はね」
インデックスは何か見せたげな顔をして、台所に向かった。
コンロの上の小さな鍋の蓋を、ぱかりとあける。つられて台所に入ると味醂と出汁のいい匂いがした。
「高野豆腐?」
「うん。あのね、まいかに教えてもらって作ったの」
椎茸と乱切りのにんじんと、高野豆腐の炊きあわせだった。
さすがにインデックスの独力ではないのが分かる。舞夏に感謝すべき出来だった。
「すげぇ! 朝もだけど晩飯も作ってくれたのか!」
「うん! えへへ。味見はして、そんなに変じゃないと思ったから、夜は私が作ったのでいいかな……?」
「味は大丈夫なんだな?」
「むー、とうま、失礼なんだよ。ほら味見!」
味を含めるために冷ましている途中の、ほろぬくい高野豆腐を一切れ菜ばしで摘んで、上条に差し出した。
口をあけてそれを受け入れる。
「――――うまい」
「何点くらい?」
「いやこれは……ぶっちゃけ俺が作るより美味い。満点でいいだろ」
「ほんと!? とうま、あのね、あのね、これだけじゃご飯にならないから、
ほうれん草のごまマヨネーズ和えっていうのを作ったの。
あとはお味噌汁も教えてもらったから、ご飯の前にそれも用意するね」
「お、おう」
「あの、でもね。あんまりお肉が入ってないからちょっと物足りないかもって」
「いやいいよ。これだけ有れば充分だって。……すごいじゃないか、インデックス」
「とうまに喜んでもらえたらいいなぁって」
「スゲー嬉しい。マジ嬉しい」
インデックス専属の家政夫として働いてはや数ヶ月。
ようやくインデックスも家事を覚る気になってくれたらしい。とてもそれは喜ばしいことだった。
「とうま。食べてもらう前だけど……撫でて欲しいな」
子犬みたいにはしゃいで喜ぶインデックスが可愛くて、言われるままにグリグリ撫でてやった。
ちょっと乱暴なその仕草に目を眩しそうにしながら、インデックスは上条に抱きついた。
「インデックスが晩飯作ってくれたとなると、今日は夜まで結構余裕あるな」
「うんっ! だから、遊ぼうよとうま」
「んー、けど宿題やらなきゃいけないし」
「えー……つまんない」
「俺も宿題なんてつまんねーよ」
上条は思案する。別に宿題は今でも寝る前でもいい。ただし寝る前はやる気が極端に低い。
一方インデックスは褒めてもらえたのが嬉しいのか、今からもう遊ぶ気全開、という感じだった。
「宿題って……すぐ終わる?」
「一時間はかかるかなぁ」
「そっか……晩御飯終わったあとのほうが長く遊べるよね」
「だな」
「じゃあ、今は我慢する」
また、違和感。
駄々を捏ねることにかけては子供並みのインデックスが、あっさり引き下がった。
インデックスとの距離が分からない。
これくらいなら言ってもいいとか、許されるという線引きの部分がぼやけてしまっている。
きっとそれが理由で、インデックスも引いてしまうのだろう。
踏み込みすぎれば、嫌われるから。
上条もどこまで追いすがっていいのかわからなかった。
踏み込みすぎれば、傷つけてしまいそうで。
「お茶、淹れてあげるね」
「……おう。ありがとな。ってかそれも舞夏に習ったのか?」
「ちがうもん。お茶は前から淹れられたもん」
軽口はいい。互いの距離を測るいいジャブになる。
きっと両方にとってそれは有り難い会話だった。
薄っぺらい鞄からプリントとシャープペンシルを取り出して、宿題に取り掛かる。
古文の再々々々テストの復習問題だった。もう何度目なのか記憶も曖昧なくらいだ。
しばらくにらめっこをしているとケトルからお湯を注ぐコポコポという音が聞こえた。
「はい、とうま」
「サンキュ」
「ねえ」
「ん?」
「ぎゅって、してていい?」
インデックスが返事を聞くより前に、上条の背中にぺたりと張り付いた。
もうかなり冷え込む季節だ。インデックスの温かみが、嬉しかった。
「明日も、頑張ってご飯作るね」
「いいのか?」
「うん。掃除も、頑張って覚えるから今度教えて」
「……ん」
「部屋の片付けも洗濯も頑張るから」
机に置いた腕の下から、インデックスの腕が胴に回される。
ちょっとシャツが背中に引っ張られる。インデックスが服を噛んだのだろう。
「だから、明日も早く帰ってきてね」
「……」
用事がなければ、そうしてやりたいと思う。ちゃんと家のことをしてくれる人への礼儀として。
ただ、上条は今は、自分の都合を優先したい理由がある。会いたい人がいるのだった。
「とうま?」
「悪いインデックス。明日は、用事がある」
「……どんな、用事?」
「まあその、放課後にさ。秋沙と、ちょっと喋って帰ろうかって」
「……やだよ」
「やだって、その、一応俺と秋沙は」
「嫌なものは嫌なの!」
一層きつく、抱きしめられた。
インデックスの好意に絡め取られるような、息苦しい感じがした。
「私だって。とうまとお話したいんだから! ずっと、家で一人ぼっちは寂しいんだよ?
とうまが帰ってきてくれるのってすごく嬉しいんだよ? 私、毎日待ってるのに」
「そりゃ……その、ごめん」
「まいかとだって時々しか遊べないし、それに」
ぎゅ、と上条のシャツをきつくインデックスが握り締めた。
続きは、一応知っていた。当の本人に聞いたことだから。
――――あの子は。きっと私に裏切られたって。思ってるんだろうね。
「あいさとはもう、遊べないもん」
裏切られた寂しさと失意、それに嫉妬と、怒り。
誰の方向を向けたら良いのかもよく分からないぐちゃぐちゃの感情が、ぽつんと口からこぼれた。
「遊べないって、秋沙はそんなつもりはないって言ってたぞ」
「そんなつもり? ……知らないよ。あいさの考えてることなんてもうわかんないもん」
「そんな言い方ないだろ? 秋沙だって、別にお前を裏切るとか、そんなつもりじゃ」
「じゃあ何で? 放課後はずっととうまは私といてくれたのに、あいさは盗っちゃったじゃない!」
「いや、俺は別に誰にも盗られた覚えはないけど……」
「でもとうまはずっと私といてくれた! 毎日私と遊んでくれたのに!」
上条は、インデックスを少し強引に引き離した。そして、お互いに正面を向く。
感情的で、敵意さえこもったような視線が、上条を見据えた。
それは上条にとっては理不尽な視線に見えたし、実際、理不尽ではあっただろう。
「とうま。明日も私といっしょにいよう? 料理も上手じゃないけど、一杯頑張るから。
とうまに喜んでもらえるためだったら、何でも頑張るから」
「じゃあ明後日は良いのか?」
「えっ?」
「明後日なら、俺は秋沙と遊んでもいいのか?」
「……やだ、よ」
「じゃあ明々後日なら? その次は?」
「やだ」
「つまり俺は、もう秋沙に会っちゃいけないってことか?」
ジクジクと、心のどこかが痛みだす。嫌な奴だなと自分で自覚が上条にはある。
インデックスという女の子は、自分にとって何なのだろう。
それは、インデックスだけではない、上条にとっても考えなければいけない命題だった。
姫神秋沙は、恋人である。
この数日で、どんどんと、姫神の可愛らしさに気づいて、惚れて、もっと知りたいという気持ちに駆られている。
きっと姫神が他の男と仲良くすれば馬鹿みたいに嫉妬する自信がある。
……そしてきっと、自分はインデックスが他の男と仲良くしても、同じような気持ちを抱くに決まっているのだ。
そんな欲張りは許されない。誰かを恋人にするということは、その人以外を恋人にしないということなのだ。
インデックスが、少しの沈黙をはさんで、そっと言った。
「とうまに……ずうっと私と一緒にいて欲しい。秋沙のところに行っちゃ、やだよ」
その言葉に、上条は。
「俺は、秋沙が好きだから。秋沙とだって会いたいし、ずっとお前とだけ一緒にいるわけには、いかないんだよ」
自戒を込めて、そう返事をした。
――――ぼんやりと、インデックスが上条を見つめた。
本当に酷い落胆は、服の色落ちみたいなのだとインデックスは知った。
大切だった色や柄が、くすんでしまうように。
とてもとても幸せだったこの数ヶ月が、まるで劇か何かだったかのように。
大好きだったこの家の何もかもの色が、褪せて見えた。
もう、返す言葉はなかった。それを言われたらおしまいだという言葉を、上条に突きつけられてしまった。
何度だって思ったことだ。自分がここにいることは、決して自然なことではないのだと。
どうしようもなく幸せで手放せなかっただけで、ここは自分の居場所ではないのだと。
すっと、無言でインデックスが立ち上がった。もっと激しく罵られることも、上条は覚悟していた。
だがそんなことはなくて。
部屋のタンスにインデックスが向かう。細々したものをいくつかポケットにしまった。
それは多分、ずっと前からインデックスが持っていたもの。そして、上条が何かの折に贈ってやったほんの少しのプレゼント。
その行為が予感させるものが、上条の心をざわめかせる。
インデックスの表情が、何かを諦めたような表情で、たまらなく嫌だった。そんな顔をさせてしまうことが。
「とうま」
インデックスがリビングの、入り口に立つ。
儚くも、感謝に満ちた行儀のいい微笑だった。
「今まで、すごくお世話になったんだよ。すっごく楽しくて、すっごく幸せだったよ。
でも私の居場所じゃ。なくなっちゃった……っ、みたい、だから。
バイバイ、とうま。ありっ……が」
ありがとうを、インデックスは最後まで言えなかった。
ぐしゃぐしゃの泣き顔で、必死に笑おうとして、最後まで失敗した。
そして、くるりをきびすを返して、上条の部屋から、出て行った。
唐突過ぎた、というのは言い訳だろう。
こんな結末を呼び込んだのが他でもない自分の振舞いで、何を言えばよかったのか、それが分からない自分のせいだった。
躊躇が生んだその数瞬の差。
上条が部屋を出た頃にはもう、エレベータは下に降りきっていて、インデックスの姿は見えなかった。
もういないだろうと分かっていながら、上条はエントランスに降りて、軽くあたりを見渡す。
学生寮から外に飛び出して、あちこち見て回るが、インデックスの影はなかった。
インデックスの行き先に心当たりはそうない。
一年間常宿を決めず、ずっとあちこちを転々としていた少女だ。
その気になれば、上条もインデックスも一度も行った事のない場所まで逃げて、一人で生き延びていくことも出来るだろう。
だから、あえてその可能性を無視する。
まだ、インデックスが上条やその周囲にいる人々とのつながりを捨てられなくて、
上条の知るどこか、誰かのいる場所にいてくれると、そう信じる。
出来ることは、インデックスと今まで行った事のある場所を探すことだけだった。
食事を取らずに出て行ったからと、スーパーを探す。
好きで何度か行った場所だからと、ゲーセンに入る。
ついこの間、上条の財布の中身をさんざんにしてくれたケーキ屋を覗く。
……時間だけは、失敗でもきちんと取り立てられていった。体力も。
「もしもし、土御門か?」
「たしかに土御門なのである。どうかしたのかー? 上条当麻」
「舞夏か。ちょうどいい。悪いけど頼みがあるんだ」
「んー?」
「うちにインデックスが帰ってきたら俺に連絡してくれ」
「まあ別に良いけど。何があったんだ? あれか、修羅場かー? 修羅場なのかー??」
携帯越しに、のんきそうな舞夏の声が響く。
割と耳聡いヤツだし、気は利いてるほうだ。茶化してはいるが、何とかしてくれるだろう。
最後の言葉には付き合わず、コールオフのボタンを押した。
姫神のところには、行かないだろう。風斬はこちらから連絡を取れる相手ではない。
白井と御坂のところにいるとは思えないし、電話は掛けづらい。
……そうやって考えると、インデックスの世界の狭さが、浮き彫りになる。
毎日学校に行って、顔見知りという程度の知り合いなら100人近くはいる上条と、
インデックスが生きる世界にはあまりに広さの差が大きい。
インデックスが持っている世界の中に、上条のいる場所は、あまりに大きいのかもしれない。
どれほど大事でも、ほとんど一番といって良いくらい大きな存在感を閉めている女の子でも、
インデックスが上条の世界を占めている割合は、大きくはなかった。
心当たりなんて、ここが一番有力だった。
親子ほどにも、というと怒られるかもしれないが、小萌先生とインデックスの仲は良かった。
緊急時のために登録された担任の番号。それを、呼び出した。
「はい。月詠です」
「先生。上条です」
「あっ、上条ちゃんなのですか!? 今電話しようとしてたところです。
シスターちゃんが急に泊めてくれって言い出したんですけど一体これはどういうことなんですか?」
「えっと、まあ、言葉どおりの意味だと思います」
「喧嘩でもしたんですか?」
「はい、まあ。その……姫神がらみで」
「あ……」
小萌先生の声が、きゅっとしぼんでいくのが分かった。
「細かい話は後でします。とりあえず、インデックスをそこに留めておいて貰えますか」
「分かりました。それは任せてもらって良いですから」
「よろしくです。すぐ俺も先生の家に行きます」
幸い小萌先生の家までは、そう遠くない。
上条は暗がりの町を駆け足で進んだ。
小萌先生は、古めかしい黒電話を切って、部屋の隅に座ってうつむくインデックスに向き合った。
「シスターちゃん。上条ちゃんが、もうじき迎えに来ますよ?」
「……でも、私はあそこにいちゃいけないから」
「なんでですか?」
「私は要らない子だもん。とうまが好きなのは、あいさだから」
インデックスの隣に、小萌先生は腰掛けた。
年は倍ほども違うのに身長はほとんど代わらないインデックスの頭を、ぽんぽんと撫でる。
「シスターちゃんは、上条ちゃんのことを好きなんですね」
「……うん。大好きだった、けど」
「どんな風に好きだったんですか?」
「え?」
どんなところが、なら言えると思う。
意地悪なところもエッチなところも料理がそんなに上手くないところも、全部好きだった。
でもどんな風に好きなのかという質問は、どんな風に答えたらいいのだろう。
「上条ちゃんとキス、したかったですか? もうしちゃったですか?」
「キ、キスって。そんなのしてないもん!」
「して欲しかったですか?」
「知らない! こもえのばか。とうまとはそんなんじゃ」
「だったら、いいじゃないですか」
がばりと振り返って腕を振って否定するインデックスに、小萌先生は微笑みかける。
「キスしたり、抱きしめあったり、そういう事をしたい好きとは違うんだったら、
上条ちゃんにお付き合いしてる女の子がいても、大丈夫ですよ?」
「え? ……そんなことない。そんなの、やだ」
だから、一緒にはいられないと思うのに。
「シスターちゃんは上条ちゃんの家族なのですよ。妹さんですね。
お兄ちゃんのことが大好きで、ずっと一緒にいたいって思っていても、
兄妹ならキスなんてしないでしょう?」
「とうまはだらしないからお兄ちゃんて感じじゃないもん」
「そういうお兄ちゃんは世の中に沢山いると思いますけどねー。
どうです? 上条ちゃんが家族に思えてきませんか?
兄妹はいつか、お互いに好い人を見つけて、別の家庭を作るんですよ。
そうやって思えば、姫神ちゃんのことを受け入れてあげられませんか?」
姫神、という名前を聞いた瞬間に。インデックスの中でまた、嫌な気持ちがどろりと流れ出た。
どうやっても上条と二人で幸せになる姫神を祝ってあげたいという気持ちに、なれないのだ。
裏切られた、盗られたと、そんな気持ちばかりが吹き出て、姫神が不幸になるのを望むような、
そんな気持ちが、確かに心の中に折り積もっていくのを感じてしまうのだ。
「無理だよ」
「どうしてですか?」
「だって、だって」
その続きが、言葉にならない。自分の中でもそこが曖昧で、だからこんなにも苦しい思いをしているのに、
それを上手く整理して、折り合いをつけていくことが出来ない。
「もし姫神ちゃんを義理のお姉さんみたいに見れないんだったら、
きっとシスターちゃんにとって、上条ちゃんはお兄さんじゃないんですね」
「え?」
「逃げずに、真剣に考えてください。嫌なら先生には教えてくれなくても良いですから。
シスターちゃんは、上条ちゃんにキスをされたいって、思いますか?」
「え……ええっ?」
はぐらかそうと思って左右に揺らす視線を、ずっと小萌先生が見据えている。
学校の先生だからだろうか、小萌先生の無言の要求に、インデックスは抗えなかった。
ついさっきまでいて、もう帰れないと思っていたあの部屋を脳裏に描く。
時間は深夜。寝ているインデックスが目を開けると、傍には当麻がいて、
大好きな優しい笑顔で笑って、頬に手を添えてくれて、そっと、唇を――――
……インデックスは、一瞬でそれだけ詳細に夢想した。理由は簡単だった。
何度も何度も、そんなことを明かりが消えてから上条のベッドで考えたから。
それがもうかなわぬ夢だと知っている。その痛みは、甘い夢のせいでひどく苦い。
「やっぱり、そういう気持ちもありますよね。上条ちゃんはかっこいいですから」
痛ましい目でインデックスを見つめた小萌先生は、そっとインデックスの頭を抱いた。
インデックスの上条を見る目は、上条を恋人として写しているのだ。
人の気持ちなんてスッパリと割り切れるものではないから、きっと家族として写している側面もあるだろう。
だけど、やっぱり。
「シスターちゃんは、上条ちゃんに恋人として愛されたいんですね」
「え……?」
そんな表現を初めて聞いた、と言う顔を、インデックスはした。
幼くて、兄を慕う情と恋心を未分化なままに、上条当麻という人を愛してしまったのだろう。
上条がインデックスを愛していれば、インデックスの想いはそのまま恋人への愛に昇華されたのかもしれない。
だが現実は、家族愛と恋慕の区別をつけられないうちに、恋い慕う気持ちの部分だけが、否定されてしまった。
「キスして欲しいって、抱きしめて欲しいって、自分だけを見て欲しいって、
そういう我侭を聞いて欲しいって、思っているんですね。シスターちゃんは」
「そんなこと、思ってない……」
「じゃあどうして、姫神ちゃんにやきもちを妬くんです?」
「知らないよ。だって、本当にわかんないんだよ」
もう止めて欲しいと請願するような、そんな響きの混じった答えだった。
時間が必要だろう。
少なくとも今日、上条と二人っきりの家に帰しても、もっと酷く傷つくだけだと小萌先生は判断した。
ピンポーン、と乾電池式の安っぽいベルを指で押す。
呼吸はまだ整っていないが、早く、迎えに行ってやりたい気持ちが強かった。
「はいはーい。ちょっと待ってください」
ガチャリと、木製の扉が開く。勝手も知ったる、中を隅まで見通せる部屋だ。
小萌先生に挨拶をするより先に、上条は部屋の中を覗いた。
「あ、こら! 上条ちゃん! 女の人の家を覗き込むのはマナー違反なのですよ!」
「煙草の吸殻なら気にしませんよ先生」
「うっ……そういう意味で言ってるんじゃないんですよ」
「インデックス」
ビクリと、人型に盛り上がった毛布が震えるのが分かる。
そこにインデックスがいることは、間違いなかった。
「帰るぞ、インデックス」
ふるふると頭が振られたように見える。
「上条ちゃん。今日はシスターちゃんはここに泊まりますから」
「え?」
「もう一人面倒を見ている子が帰ってくれば三人になっちゃいますけど、何とか大丈夫なのですよ。
今日は、一日距離を置いて、落ち着いたらまたシスターちゃんと話し合えばいいです」
上条を叱るでもなく、小萌先生は優しく笑ってそう提案してくれた。
今から連れて帰っても、確かに、こじれるだけかもしれない。そんな予感はないでもない。
だが、連れて帰ろうとしないこと自体を、インデックスが何かのメッセージとして受け取るかもしれない。
「ほらほら、もうシスターちゃんとの間でそう決めちゃいましたから、今日は帰った帰った、です」
強引にそう決め付けてくれることが、今はありがたかった。きっと上条の迷いを分かってくれていたのだろう。
「インデックス。お前の忘れてった鍵、持ってきたから。当たり前だけど、いつ帰ってきてもいいんだからな?
……今日の晩飯、お前の作ってくれたヤツ全部食べるよ。ちょっと一人で食べるには多いけどさ。
せっかくインデックスが、心を込めて作ってくれたもんだからな。それじゃあ、俺は戻るわ」
「美味しくなかったら、ごめんね」
「美味いさ。毒でも入ってなきゃお前の作ってくれたものは全部食べきれる」
その冗談に返事は返してくれなかった。
となりで見守っていた小萌先生に上条は挨拶をして、小萌先生のアパートを後にした。
「うーん、今日は結標ちゃん帰ってこないみたいなのですよ。待ってても仕方ないのでそろそろ寝ましょうか」
「うん」
現金なものだ。
上条が隣にいなくても、ちゃんとそれに理由があって、
そして代わりに優しくしてくれる人がいて、おなか一杯ご飯を食べれば。
微笑む余裕が、インデックスにはあった。それは罪悪感を感じることでもあったが。
上条に捨てられてしまったことは死にたくなるくらい悲しいことのはずなのに、
涙を流す以外のことをしてはいけないはずなのに。
「夏にもこういうことがありましたねえ」
「こもえ。あっちにも布団あるんだけど」
「あれは結標ちゃんのですから。先生は別に構わないですけど、
結標ちゃんは自分の布団で知らない女の子が寝てたらどこかにテレポートさせちゃいそうです」
「ふうん?」
まあ、知らない人の布団を奪って寝るのは落ち着かない。
小萌と一緒に寝るほうが、まだ気楽だった。お互いに背丈は小さいので意外といけるのだった。
月詠家は、はっきり言って寒い。隙間っ風がひゅうひゅう音を立てたりすることはないのだが、
絶対に冷気がどこかから入り込んできている。10月なのに早々と毛布が敷かれていた。
「うふふー、それじゃ電気をけすですよー」
カチカチと音がして、部屋が真っ暗になる。
インデックスのもぐりこんだ布団に、小萌が入り込んだ。
「くはぁー、この布団のひんやりした感触が良いですよねえ。
だんだん暖まってくるのが先生は好きです」
「……この部屋寒すぎてそんな余裕ないんだよ。はやく暖まって欲しい」
「上条ちゃんの家のほうがさすがにあったかいでしょうねえ。
今頃、上条ちゃんは何をしてるんでしょうね」
「……」
返事を、インデックスは出来なかった。
咄嗟に思い浮かんだのが、上条が姫神と幸せそうに過ごすシーンだったから。
一番嫌なことを、一番初めに思い浮かべたから。
「考えたくないですか?」
「きっと、とうまはあいさと遊んでるもん」
「そうですかね?」
「そうだよ。だって、とうまはあいさとお付き合いするって、言ってた」
「でも今日は上条ちゃんは、シスターちゃんのご飯を食べてるですよ?」
「食べてないかも。……だって、美味しくないかもしれないし」
「それでも上条ちゃんは食べてると先生は思うです」
「なんで?」
「上条ちゃんはそういう子ですから」
自分の子供を自慢するように、小萌先生は胸を張ってそういった。
「それに事情を知ってたら、姫神ちゃんも上条ちゃんと二人で遊んだりはしてないと思います。
姫神ちゃんもシスターちゃんの気持ちが分かる、いい子ですから」
「あいさは……」
「ふぇ?」
「じゃああいさは、なんでとうまを盗っちゃったの?」
インデックスとて、その表現を正しいと思っているわけではなかった。
それでも、そう言いたくなるくらい、ショックだったのだ。友達だと思っていたのに。
「本当に大事で、誰とも分け合えないものがあって、それを同時に二人の人が欲しいと思ってしまったら。
きっとどっちかは泥棒さんになっちゃうのですよ。もう一方から見れば。でも遠くからそれを眺めたり、
相手の立場からものを見れば、見え方は全然違うのです」
「こもえは、あいさは悪くないって言うの?」
「姫神ちゃんはずるいことをしたですか?」
そんなことは、たぶんない。
いっそ卑怯であってくれたなら、もっとインデックスの考えは変わっていただろう。
「……して、ないと思う」
「それじゃあ、姫神ちゃんは悪いことなんてないですよね」
「でも……」
「シスターちゃんも、同じことをしたっていいんですよ?」
「えっ?」
「姫神ちゃんがどうやってお付き合いするようになったのか、詳しいことは先生も知らないです。
でもきっと、振られたらどうしようって思いながら、
勇気を振り絞って上条ちゃんに好きだって言ったんだと思います。
シスターちゃんも、上条ちゃんに好きだから私だけを見て欲しいって、言ってもいいんですよ?」
「でも、今日とうまにそう言ったら……だめ、だったもん」
「今日、シスターちゃんの話を聞いた限りでは、まだ可能性は有ると思いますよ。
家族としてのシスターちゃんのために、恋人の姫神ちゃんとの時間を削ることは出来ないって、
上条ちゃんはそういう理屈を言ってたです。そうじゃなくて、姫神ちゃんと別れて私だけを見て欲しいって、
そういえば良いです。分かってくれれば、上条ちゃんは、シスターちゃんだけを見てくれますよ?
毎日キスしてくれて、抱きしめてくれて、遊んでくれると思いますよ?」
なるほど、言ってることは尤もだと思う。
姫神と別れて、自分を恋人にしてくれるのなら。
……だが、それをお願いする勇気が、湧きそうにもない。
姫神から上条を奪う、そして上条と幸せになる。
その強い決心が、インデックスの中にはなかった。
上条を独占したい気持ちがある一方で、恋人のような濃密な関係じゃなくて、
毎日何気なく隣にいてくれる人であって欲しいような、家族でいて欲しい気持ちもある。
上条は家族なのか、もっと心ときめく相手なのか。
どちらか一方に帰属させてしまうと、自分の実感から離れてしまうのだった。
どっちでもいて欲しかった。いままでのままが良かった。
「ずうっと、このままが良かったのに」
「でも、上条ちゃんも男の子ですから。大好きなたった一人の女の子が、出来て当然なのですよ。
……ふふふ。命短し恋せよ乙女、なのですよ。精神的向上心のないお馬鹿さんにはならないで下さいね」
「え?」
その引用をインデックスは知らなかった。小萌先生は笑うだけで深くは説明しなかった。
「ようく考えるですよ。シスターちゃん。もう、選ばなきゃいけないです。
正々堂々と姫神ちゃんに宣戦布告してもいいし、上条ちゃんの妹でいても良いです。
でも、良いとこどりはもう、できなくなっちゃったのです」
話は終わりという風に、小萌先生はインデックスの髪を撫で始めた。
撫でるに任せて、インデックスは考える。
自分は、上条の何だろう。何でいたいんだろう。
さっさと眠ってしまった小萌先生の寝息が僅かに聞こえるその布団で、インデックスはずっと考えた。
上条からの、メール返信が帰ってこない。
あの子がいるから、返信の頻度が高くないことは、仕方がないかもしれない。
人によって返信の量は違うものだし、それだけのことかもしれない。
だけど。
夕食前に送ったメールが、もう食事も済んで風呂にも入ろうかという時間なのに、まだ帰ってこない。
……姫神はインデックスが上条家から出て行ったことを知る由もなかった。
「当麻君。何してるんだろう」
不安で不安で、たまらない気持ちになる。上条の隣にはインデックスがいるから。
切実な思いに絆されて、上条がインデックスになびいてしまうんじゃないかと心配だから。
テーブルの上に置いた携帯が、バイブレーションでジリジリと動いた。
寝そべっていたベッドの上からパッと跳ね起きて、手に取る。
――当麻君だ。
「もしもし」
「あ、秋沙か」
「うん。こんばんは、当麻君」
「お、おうこんばんは。なんか電話するの照れくさいな」
「そうだね」
決して遠く離れた場所にいるわけではないのだが、こうやって遅い時間にも電話でコンタクトをとると、
恋人同士になったんだな、なんて感慨が沸いてくるのだった。
「それで。どうしたの?」
「あ、いや。メール返そうかと思ったんだけど面倒だから電話にしたんだ」
「そうなんだ」
「今、まずかったか?」
「ううん。そんなことないよ。えっと。今は何をしてたの?」
恐る恐る姫神は尋ねた。
何があったとしても誤魔化されればわからないのだが、インデックスと上条の間に、
看過できない何かはなかったかと、つい疑った目で見てしまう。
自己嫌悪するような態度だったが、それでも聞かずにはいられなかった。
「あー、実はさ、インデックスが」
ドキン、と心臓が跳ねる。一番聞くのが名前だった。
楽しい話なのか、喧嘩した話なのか、どれであっても無茶苦茶に自分は嫉妬する気がした。
「家出、しちまってさ」
「えっ?!」
「ああ、居場所はもう分かってるんだ。今日は小萌先生の家に泊まるみたいだ」
「そう。なんだ」
姫神にとってもなじみのある家だった。そして家主の性質を考えると、納得の行く展開だ。
「どうして。あの子は家出したの?」
「俺が姫神と付き合ったら、もう居場所はないから、だってさ」
「そっか……」
「秋沙はそう思うか?」
「え?」
「秋沙と付き合っちまったら、俺はあいつを追い出すべきだって、秋沙もそう思うか?」
嫌な嫌な、質問だった。
本心で思っていることを言ってしまったら、上条は困るだろう。
それに嫌われるかもしれない。でも、本音は覆らない思いだから、本音なのだ。
姫神は逡巡して、妥協できる精一杯の答えを返した。
「あの子が。当麻君の恋人になりたいのなら。あの子と私と当麻君が選びたいほうを選べばいいよ」
「え、選びたいほうって」
「もしあの子を選んだら。私はすごく当麻君を恨んで。涙が枯れるくらい泣いて。死にたいって思うと思う。
でも私をそういう風にしてもいいって思うんだったら。もうどうしようもないよね」
「馬鹿。そんなこと考えてない」
「良かった……。でもそれじゃ。あの子は傷つけても平気なの?」
「それは」
上条が言葉に詰まる。
それは、つまりインデックスと姫神なら、インデックスを切るという意思表示なのだろう。
勝った、と姫神は思った。浅ましいことだと自己嫌悪する心よりも、
あの子よりも愛されているのだという優越感のほうが、姫神の心の中で勝っていた。
……今この瞬間の喜びが冷めれば、結局は自己嫌悪に陥るのだが。
「あの子が。当麻君の可愛い妹分でいるのなら」
「え?」
「私にとっても妹みたいな、友達みたいな子でいてくれるなら。私はあの子と一緒にいられると思う。
当麻君の家にあの子がいても、許せると思う。でもちゃんとそうなってくれなきゃ。
今までみたいなあやふやな関係でいられたら。私もきっと疲れちゃうよ」
「……」
「当麻君は。あの子の事をどう思ってるの?」
「そうだな」
ため息を、上条がついたのが分かった。
「妹、ってところかな。アイツは。一人っ子だから本当の妹がどんなのか知らないけど」
それはいまどんな関係なのかという答えではなくて、これからどんな関係でいるつもりなのかという、
その意思の表明だった。
「それで。いいの?」
「いいのかどうかってより、俺とアイツはこういう関係なんだろうさ」
「じゃあ、また仲直りしないとね」
「そうだな。とりあえず明日、アイツと話をしてくる」
「うん」
それでこの話は終わりだった。それから15分くらい、他愛もない話をした。
この電話で成されたのは、3人の有り方を決める、大事な決定だった。
全てはインデックスの、気持ちのありようにかかっていた。
放課後。
姫神は寮への道を一人で歩いていた。
上条は補習中だ。特にその予定はなかったのだが、小萌先生が名指しで呼び出したので、
避けようもなくこってりと絞られているのだろう。どうせいつかは受ける補習だった。
小萌先生がそんなことをした理由も姫神は分かっている。姫神には、小萌先生が早く帰れと言ったからだ。
――――シスターちゃんが上条ちゃんのおうちで待ってますから。
特に知り合いでもない男子生徒が、姫神を振り返る。男子寮の側に女子生徒がいるのだ。
上条の名は知らなくとも、姫神の彼氏にやっかみくらいは感じているのかもしれない。
エレベータの壁に貼られた鏡で、軽く服を調える。
小萌先生は何も教えてくれなかった。
インデックスが折れてくれるのか、それともはっきりと敵対関係になると宣言されるのか。
万が一のときのために、隙だけは見せられなかった。
7階にたどり着いて、上条の部屋のほうに歩き出す。
慣れるほどにはまだ足繁く通ってはいない、上条の部屋。
大してエレベータから離れてもいないそこにたどり着くと、
「あ、あいさ……」
玄関前に座り込んで猫と戯れる、インデックスの姿があった。
「こんにちは」
「うん、こんにちは」
ぎこちない挨拶がインデックスから返ってきた。
いきなり喧嘩腰で罵りあうようなことにはならないらしい。それに少し安堵する。
「ねえインデックス。今日は。あなたが私を呼び出したんだよね?」
「……うん。そうだよ。あいさと、話がしたかったから」
目線が互いに真正面でぶつかった。
今日自分を呼び出した意図は、読み取れなかった。
「とうまに鍵もらってるから。中で話しよう」
「いいよ」
チクリと劣等感を感じて、すぐさま考え直す。
同居しているのだからむしろ鍵を持っていて当然なのだ。
それは、自分とインデックスのどちらが上条に大切に想われているかの差ではない。
事実そういうことを気にしていないのか、インデックスはもったいぶらずにすぐ鍵を開けた。
「ただいま」
「お邪魔します」
その掛け声の差に敏感なのは、自分が意識過剰なだけだとは思う。
「あいさ、お茶飲む?」
「え。いいよ。今日は。あなたと話をしに来たんだから」
「そっか。あ、座って」
「うん……」
テーブルを挟んで、向かい合わせに座る。
インデックスを見つめると、何かを言うのを躊躇うように、視線をあちこちに揺らした。
姫神は急かすことなく、じっと待った。インデックスの出方を窺いたかったからだ。
しばしの時間を置いて、インデックスが修道服の膝のあたりをきゅっと握り締めて、口を開いた。
「あいさ。その……ごめんなさい」
「え?」
「一昨日。出て行けなんて言っちゃって、ごめんなさい」
「ああ……それのことだったんだ。別にいいよ。怒るとかそういうつもりはないから」
「怒ってないの?」
「だって。どうしてあんなことを言ったのかのほうが。今は大事でしょ?」
「……」
言い方をきつくしたつもりはなかった。だがインデックスは辛そうに、目を逸らした。
「こんな言い方したら一方的だってこもえにも言われたけど、
私にはあいさがとうまを盗っちゃう、って。そう思っちゃった」
とる、という響きに盗るという字を当てるべき、そういうニュアンスの「とる」だったことに姫神は気づいていた。
当麻君はあなたのものじゃなかったよね、と確認してやりたい気持ちを抑える。
……それは上条を盗られそうな、自分もそういう危機感を感じていることの表れだからだ。
それではインデックスの言い方が一方的なのと同じだった。
「別に。盗るつもりなんてないよ」
「え……?」
「もしあなたが当麻君の恋人じゃないのなら。私はあなたの居場所を盗ったりはしない」
暗に確認をする。お前は上条の何なのか、と。
それはこの間、追い出されたときには聞かせてもらえなかった答え。
さらさらと、インデックスの肩から髪が零れ落ちる。
深くうつむいたせいで姫神からは表情が見えなかった。
肩が震えるように上下し始める。
その意味が分かっていながら、姫神は答えを催促する沈黙を、頑なに守った。
「……っく。わた、しは」
「……」
「とうまの、家族、いもうと……だよ」
罪悪感が姫神の心の中を広がっていく。自分が勝利を確信して優越感を覚えたのに気づいたからだ。
「それで。いいの?」
「いいんだよ。仕方、ないもん」
「どうして。仕方ないって思うの?」
追及の手を緩めない自分が嫌だった。浅ましい。でも、止められない。
だって、浅ましいなんて思ってる部分は心の表層でしかなくて、自分の本音はまさに行動の通りなのだ。
「だって! とうまが彼女として好きなのは、あいさ……だもん。私じゃ、ないから」
それはどうしようもなく、事実を認める、敗北宣言だった。
上条が好きな女の子が、例えばあの常盤台の子だったりしたら、自分は何をしただろう?
告白しただろうか、横から奪うこともいとわずに、それをしただろうか。
多分答えは否。
インデックスが身を引こうとしている理由は、そう考えてみれば分かりやすかった。
――――自分の好きな人が一番好きなのが、自分じゃないから。
「私が。当麻君と一緒にいてもいいの?」
「……だって、とうまがそうしたいんだったら私なんかに止める資格はないもん」
「……それは。そうだね」
一般論として、確かにそうだった。
「でも、あいさ」
「何?」
「とうまに抱きついても、いいよね?」
「……うん」
この年になって普通とはいえないかもしれないが、インデックスがスキンシップを好む性格なのは知っている。
恋人らしい雰囲気なしに、上条とじゃれあっているところを見たことは何度もある。
だから、それは許すべきだと思った。
「とうまによく怒られるけど、私、噛み癖があるんだ。それも、止めたくない」
「別に。いいよ。でもね」
涙で僅かに赤く腫れた目を覗き込む。決して苛めたいわけではない。
ただ、どうしても許せないところに、線引きはするつもりだった。
「キスは駄目。やっているのかどうかは知らないけど、一緒にお風呂も一緒に寝るのも駄目」
「しないよ。……どれも全部、とうまとしたことないもん」
なあんだ、よかった、と安堵する自分を自覚しながら、姫神はそっけなく「そっか」と呟いた。
陰鬱とした気持ちを打ち払うためだろうか、あーあ、とインデックスは伸びをして、ベッドに倒れこんだ。
「ずっと、今までどおりがよかったのに」
それは紛れもない、インデックスの本音だった。
恋人か家族かなんて、そんなのを分けられないままなら良かったのに。
ご飯を作ってくれて、毎日話を聞いてくれて、そして時々エッチなことをされたり、ドキッとしたり。
そういう、上条との距離感がたまらなく好きだった。
ため息をつく。それは諦めるための儀式だった。
「そのままだったら、あいさにも嫌われなくて済んだのにね」
「……」
言葉の真意を測る。
嫌われたという言葉は、実はインデックス自身が姫神を嫌いだということの裏返しだろうか。
違うと思う。
……私に嫌われたくなくて。否定して欲しくてそう言ってるのかな。
こちらこそ、インデックスに嫌われていると思っていたから、もしそうなら、仲直りできるかもしれない。
「私は。インデックスのことを嫌いになんて。なってないよ」
「え?」
「だって嫌いになる理由がないから」
「でも。とうまのことで、喧嘩しちゃったよ……?」
それは敵対する理由にはなっても、嫌う理由にはなっていなかった。
インデックスは不正を犯したわけではない。
「仲良くは出来ないかも。って思ったけど。だけど嫌いになる理由はなかったよ」
「そっか」
薄く、インデックスが笑った。
あまり友達の数を増やす趣味のない姫神にとっても、インデックスにとっても、互いはいい友人だったのだ。
譲れないものがあるにしても、憎しみあっているわけではないことは、喜び合えることだった。
姫神も、インデックスがいるベッドに腰掛けた。インデックスがすぐさま体を起こして、姫神の隣に座った。
インデックスの背中に手を回す。空いた手で、涙をぬぐってやった。
それは無意味な行為だった。拭いたそばからまた涙が溢れてきたからだ。
インデックスは、姫神の体に抱きついて、嗚咽を漏らした。
抱きつく相手こそが、自分に涙をもたらした相手だというのは本当に皮肉だと思う。
たぶん、インデックスは抱きついた自分に上条を投影して、泣いたのだろうと姫神は思った。
当然のことだが、自分の体は上条よりずっと頼りない。
それでもせめて、撫でる手だけは上条のように優しくあろうとした。
もう、日が沈むのは随分と早い季節だ。
撫でているうちに、すっかりインデックスの表情が見えにくくなっていた。
嗚咽はおさまって、姫神にしがみついたその腕の力も、かなり緩くなっていた。
「そろそろ明かりつけるね」
そっと腕を解いて、姫神はスイッチを付けに行った。
ぱちんという音と共に、部屋が明るくなる。
太陽とは違うその人工の色は、夜の始まり。
インデックスを見ると、目元をこしこしとこすって、いつもどおりの笑顔を少し無理して作っていた。
「あいさ。今日、ご飯一緒に作ろう?」
「うん。いいよ。そうしよっか」
そうできればいいなと、思っていた。自分だけ一人で食事をするのは嫌だった。
それに自分ひとりでご飯を作っても構わないが、二人で出来たらなと、そう思っていた。
「献立とかは、あいさに頼ることになるかも」
「いいよ。冷蔵庫の中身を見て考えるね」
開いてみると、中には大して食べるものがない。買出しが必要だった。
「スーパー行こうか」
「うん。それとね、お風呂は」
「どうしたの?」
「お風呂はとうまと一緒に入る」
「え? ……え?」
それはお伺いとかじゃなくて、宣言だった。
「駄目」
「それで、夜はとうまと一緒に寝る」
「駄目!」
「駄目って言われてもするもん」
「でも。私が当麻君の彼女!」
「知ってるよ。だけど、私がそれを認めるのは明日からだから」
「どうして? そんな。急に」
真意がつかめなかった。
確かに今さっき、自分のことをインデックスは認めてくれたのだと思ったのに。
「あいさにとうまを任せるのは、明日からだから。今日は、いままでの続き」
「駄目。そんなの駄目だから」
「知らないもん。駄目って言うんだったら、私は明日からとうまの彼女になる」
「駄目!」
駄目という言葉は敵意や反感というよりも、混乱の現われだった。
インデックスの目にそういう負の感情があるなら分かりやすかった。
しかし、実際にはどちらかといえば晴れやかな感じのする、微笑みが浮かんでいた。
「どうしても駄目って言うの?」
「だって……」
「じゃあ、一緒にあいさがいても良いよ?」
「えっ?」
「お風呂も、一緒に寝るのも、あいさが隣にいてもいいよ?」
インデックスは挑戦的な笑みを浮かべていた。
それは上条を遠く感じてしまうことの寂しさの裏返し。諦めるための儀式。だから、許して欲しかった。
今日、眠りにつくまで、恋人になれたかもしれない上条に、一方的にそんな気持ちをぶつける。
明日からはもう、妹でいよう。
姫神のことだって好きだし、きっと上条に選ばせたら、自分は選んでもらえないのを知っているから。
……姫神のいない二人っきりじゃなくて、良かったのかもしれないと思う。
きっと上条と二人っきりなら、自分は泣いてしまうだけで何も出来ないのだ。
姫神への対抗心があるから、こんなにも積極的になれる。
お風呂には裸で入ってやるつもりだった。ベッドの中ではぎゅっとしがみつくつもりだった。
全然意識してくれない上条に、せめて今日一杯は、あらゆる手を使って自分を刻み付ける。
心の中でインデックスはそう決意した。
それは明日から想いを絶って妹になろうとするインデックスが、女になった瞬間だった。
「ただいま」
完全下校時刻までたっぷりと絞られて、ようやく上条は帰宅できた。
早く帰りたい旨とその理由を伝えた上条に、インデックスを泊めてくれた小萌先生自身から待ったがかかったのだった。
何よりまず、インデックスを待たせたくなくて、買い物も後回しにして急ぎ足で帰ってきたのだった。
扉を開けると、部屋にはいつもどおりの明かりが点いていた。それだけで少しほっとする。
「お帰りなさい。当麻君」
「あ、秋沙……」
パタパタとスリッパの音をさせて出迎えてくれたのは、姫神だった。
それに戸惑いを覚える。
部屋の鍵は姫神には渡していないから、あけたのは、インデックスのはずだ。
……姫神がインデックスから鍵を奪ったのでなければ。
「あの」
「とうま、おかえり」
インデックスの事を聞こうとする前に本人が台所から現れた。
エプロンの端で濡れた手を拭う仕草が、料理をしていたことを教えてくれた。
家にインデックスと、そして姫神までいる。現状がよく上条にはつかめない。
その隙を突くように、姫神の虚さえも突いて、インデックスが上条の前に近づいた。
そして、ぎゅっと、上条を抱きしめた。
「イ、インデックス?」
「おかえり。あと、心配かけてごめんね」
「いや、それは別にいいけど……」
戸惑いながら姫神を見ると、してやられたような悔しそうな目で睨み返された。
「今日はあいさと一緒に作ったご飯だから」
「お、おう。分かった」
「もうすぐ出来るから手を洗って待ってて――――」
「当麻君」
鞄を受け取ってリビングへ上条を案内しようとするインデックスの横から、姫神が割り込んだ。
多分インデックスに対抗したのだろう、というのは上条にも分かった。充分あからさまだった。
それに対してどうすべきかを逡巡する。そこに、ごく僅かだけ、ついと唇が突き出された。
恥ずかしいと思う気持ちと、したいと思う気持ちと、そして、
インデックスと姫神とを区別すべきだという気持ちが上条の中でぶつかり合って。
「ん――」
「ただいま、秋沙」
「うんっ。当麻君。お帰り」
隣のインデックスを見ないように、姫神に口付けた。
つい昨日それが理由で家出したインデックスに、見せ付けることはためらいがあった。
「はいはい。もー早くとうま行くよ!」
強がり、だろうか。違う気もする。
インデックスは昨日までの見ているこちらも辛くなるような必死さはなかった。
もっと自然と、上条と姫神の関係を認めた上で、不貞腐れているようだった。
「とうま、そろそろ出来るからね」
「当麻君は。座っててくれたらいいから」
「あいさ。お皿はどれが良いかな?」
「深皿が良いんだけど。あ。これがいいかも」
「じゃあこれ運ぶね」
「うん。よろしくね」
分からない。見たままをそのまま言えば、二人は仲直りしたように見える。
事情の説明を求める視線を姫神に送っても、曖昧に微笑まれるだけだった。
どうも姫神自身も混乱しているらしい。
「とうま、テーブルの真ん中空けて」
「お、おう」
インデックスが皿を三人分配って、スプーンと一緒に置いた。
匂いからして今日はカレーだった。
「インデックス」
「なあに?」
「食べてからでも駄目とは言わないけど。こういうのはなあなあに出来ない話、だろ?」
「……そう、だね。それじゃお鍋だけこっちに持ってきちゃうから、それが済んだら、話、しよっか」
一瞬、インデックスの手が躊躇うように手を止めた。
しかし朗らかな口調と、明るい表情を見せることは止めなかった。
姫神が台所からじっと見つめていた。
鍋にたっぷり作ったカレーが、表面を僅かにふつふつさせながら運ばれてきた。
空腹の3人の鼻腔を良い香りがくすぐる。
サラダを持ってきた姫神が後から座って、大して大きくもないテーブルの上に料理がそろい、そして三人が、席を共にした。
「準備できたみたいだな」
「うん」
「じゃあ、インデックス。聞かなくちゃいけないことだから、聞かせてくれ。その、秋沙と仲直り、したのか」
その質問は核心を突くものではなかった。
いやそもそも、核心とはどうやって聞いたら突けるものなのか、よく分からなかった。
問われたインデックスは、戸惑うことはなく、ただ、こう聞き返した。
「とうまは。あいさのことが好きなの?」
「……ああ。好きだ」
「私よりも?」
「比べたことなんて、ねえよ。ただ、俺の恋人なのは、秋沙だけだ」
「私は、違うんだね」
「だって、そうだっただろ?」
「うん。……そうだね。とうまの言うとおり、だったね」
遠くから綺麗なものを見つめるように、インデックスは目を細めて微笑んだ。
「私は血は繋がってないけど、とうまの家族、妹みたいなものなんだ。きっと」
「……」
「何も言ってくれないの? とうま」
何を言ったらいいか、分からなかった。
単純にそうか、と素っ気無く返すことは出来なくて、そしてそれでいいのかと問いただすことも出来なかった。
「いいんだよ。それで」
「本当に?」
「あいさ。……だって、とうまがあいさを選んじゃって、私がとうまの家族であることを受け入れなかったら、
私はこの家から出て行くしかないんだよ。……それは嫌」
「納得、したのか?」
「これからするの。あーあ、今までどおりが一番良かったな。
べったりはくっつかないけど、くっつくことには遠慮がなくて、そういうのが良かったのにな」
寂しそうにインデックスが笑う。
悩む様子を見せず包み隠さず話すインデックスの仕草は、吹っ切れたような印象を上条に与えた。
「だから、明日からは私はとうまの家族だから。今までもそんな感じだったから、変わらないよ」
行為を取り出せば、きっとそのとおりだろうと思う。
変わるのは、意味合いだけ。可能性だけ。
だというのに上条の心中に隙間っ風が吹き込んだような気持ちになる。
たぶん、その喪失感は自分だけじゃなくてインデックスも感じているものだ。
それを振り払うように、インデックスがいたずらっぽく笑う。
「でも今日は。違うから」
「え?」
「今日はあいさのことを、認めない」
「認めない、って……」
「とうまは私に浮気しちゃ駄目なんだよ? あいさだけ見てなくちゃ、駄目なんだよ?」
インデックスが身を乗り出して、ちゅ、と上条の頬に唇を押し当てた。
「はいとうま。あーん」
「当麻君。あーん」
「いや、あの……お二人とも?」
カレーはスプーンで掬う料理だ。そしてスプーンは誰かの口に食べ物を運ぶのに便利な道具だ。
インデックスか姫神か、どちらかが狙ってこの料理にしたのか。
申し訳ばかりに上条の前に置かれたスプーンは、まっさらだった。
……それどころか皿も綺麗なままだった。
全部、姫神かインデックスの皿から、上条の分のカレーは供給されているのだった。
「もう充分でしょ?」
「あいさこそ」
「何度でも言うけど。私は当麻君の彼女だもん」
「今日は、そんなこと知らない」
もうそのやり取りは三度目くらいだった。
そしてインデックスと姫神の間では埒が明かないので、姫神はすぐに上条を見つめるのだった。
線引きをすべきだと上条も思うから、初めは姫神のスプーンからばかり、食べていた。
「とうま、食べてくれなかったら、口移しにするよ?」
「ばっ……馬鹿!」
そう言うのだ。上条がインデックスのスプーンを無視すると。
先ほどはカレーを口に含んで本当にやろうとしたところで、姫神が怒った。
真実は、怒ったというより、焦っただった。
奔放に見えるようで、インデックスが線引きをしているのに姫神は気づいていた。
本当に踏み越えてしまっては、妹には戻れなくなるような一線をインデックスは越えていない。
きっと口移しだって、自分が止めることを計算に入れた挑発なのだ。
姫神は監視の目を強くする。アクシデントだけは、絶対に避けなければいけない。
「じゃあほら、あーん」
「う……おう」
面白くない。すごく、面白くない。
申し訳なさそうな目でこちらを見ても、許してなんてあげない。
明日はたくさんたくさんたくさん埋め合わせをしてもらわなければ、気持ちが治まらない。
インデックスが口をつけたスプーンから、上条がカレーを食べた。
「おいしい?」
「まあ、うん」
「えへへ。まだいる?」
「はい当麻君。あーん!」
「ちょ、秋沙。まだ口の中に」
気にしない。スプーンに一口ならまだ入るに決まってる。
強引に口の中にカレーを入れてやった。
インデックスは、心の中に重くのしかかる寂しさを精一杯無視して、楽しい、と思った。
上条を振り回して、無理向かせるのは楽しい。
時々姫神のほうを向く視線はチクリと胸にさすものがあるが、上条が自分を見てくれた瞬間は嬉しくなる。
もっと振り回したいと、そう思う。
……そうしていないとあと何時間でこの楽しいひと時が終わってしまうのかを数えてしまうから。
見えやすいところに置かれた置時計が、邪魔だった。
面白くない。
大して多くもないが、今しがた使った皿やコップを一つ一つ洗っていく。
姫神は一人で、台所で洗い物をしていた。
チラチラと自分を見る上条の申し訳なさそうな視線に腹が立ってくる。
「えへへ、とうま、とうま」
「あ、おい。服の中に手を入れるなって!」
インデックスは上条の腰にしがみついている。お腹に、直接手を触れたらしかった。
こんな構図になっている経緯は、分かりやすかった。
食べ終わったら誰かが片づけをすることになる。作っていない上条が当然それを引き受けるという。
そしてそうなれば姫神もインデックスも上条と一緒に洗うと言い、三人も入るわけのない台所事情のせいで、
誰かがリビングでくつろぎ、誰かが洗い物をすることになる。
選び方を提案したのはインデックスだった。
別に、取り立てて特殊なルールを提案したわけではなかったが、
じゃんけんで決めようという提案にはそれなりに思惑があったのだ。
それを、姫神は全く警戒できなかった。
「ねえとうま。お風呂まだ?」
「へ? まあもういい時間だけどさ、まだ秋沙だっているし」
そんな会話を遠くに聞きながら、姫神は公開を続ける。
じゃんけんに負けた人が洗い物をする。負けは一人でも二人でもいい。
それが役割分担のルールだった。不公平に姫神は気づかなかった。
インデックスは、上条と何度もじゃんけんをしたのだろう。そして、癖を覚えていたのだろう。
インデックスがことごとく上条と同じ手を出しているのに気づいた頃には、姫神は一人負けしていた。
ルール上、何の違反もなかった。インデックスの記憶力の良さは反則にはならなかった。
「終わったよ」
「秋沙、お疲れ。ありがとな」
「うん」
色々腹立たしいので、うまく愛想良く笑えない。
しかしそれだってインデックスがいることを考えれば、不利益なのだ。
不機嫌な表情の姫神と、楽しそうに自分にじゃれ付くインデックスの、どちらを上条は可愛く思うだろうか。
「当麻君」
「ん?」
「ご褒美のキス」
「……えっと」
「嫌なの?」
「そんなことないって」
濡れた手を拭いて上条の隣に座る。そっと顔を持ち上げられて、キスをされた。
キスをした上条の表情が優しくて、ささくれだった機嫌が少しだけおさまる。
「とうま、次は私」
「駄目」
「あいさには聞いてないもん」
「じゃあ当麻君に聞いてみたら?」
「とうま。ぎゅって、して?」
あくまでキスはねだらない。それは姫神への敗北を意味するはずだが、むしろしたたかな印象がある。
キスをねだって、上条を困らせても、結局欲しいものは得られない。
それよりも上手い妥協案を示したほうが、よほど美味しいのだった。
インデックスはこうして、まんまと上条の胸に抱かれた。
そして安堵したようなため息をつく。インデックスの意識とは関係なく出たものだったが、
姫神を抱いたときと同じ反応で、上条はその吐息にドキリとした。
三人でべたべたとくっつきながら過ごしているうちに、もういい時間になっていた。
姫神がまだ帰らない。
いつ帰るのかと聞くと、帰って欲しいと思っているように受け取られそうで聞けなかった。
「お風呂、沸いたね」
電子音がそれを告げている。
「とうま、お風呂入らないの?」
「いや、秋沙がいるし、さ」
「私。お邪魔かな?」
「馬鹿。違うって。秋沙がいるのにほったらかしは良くないだろ?」
ある程度予想がついていたので、さっと姫神に腕を回して抱き寄せる。
インデックスが積極的なせいで、いつもよりしっかり抱きしめたり撫でたりしてやらないと、姫神が満足しない。
「当麻君」
「ん?」
「一緒にお風呂。入ろっか」
「……水着、どこにしまったっけな」
「要らないよ。当麻君は自分の家で水着を着てお風呂に入るの?」
「秋沙……冗談じゃなくて、本気で言ってるのか?」
「死んじゃうくらい恥ずかしいけど。当麻君が望むんだったら」
ゴクリ、と上条は唾を飲み込んだ。
ついこないだ、かなりきわどいところまで見たところだった。
胸の先端の桜色が、まだ脳裏に焼きついている。
「とうま。私も一緒に入る」
「……」
駄目と、姫神が言わなかった。
上条から見えないところで、インデックスを見つめた姫神の視線が本気の怒りを孕んでいた。
インデックスが目を逸らす。
そうやって、本気で姫神と喧嘩してまで、やりたいことは出来ないのだ。
「インデックス」
「嘘だよ。ほら、あと二人も待ってるんだからとうまは早く入って!」
「あ、ああ……」
戸惑いながらも、上条はせかされて服を携え、風呂場に向かう。
インデックスと姫神はそれを見送る。
「ごめん」
「……わたしこそ睨んでごめん。でも。あれは」
「別にあいさも一緒に入っても、いいのに」
「そういう問題じゃないよ」
裸を見て、上条が暴走しないとも限らない。
自分にその欲望が向くのであれば、程度の問題はあるが、構わない。
だけど、インデックスを上条が意識するのは許せない。
「あいさはとうまに裸を見られるの、嫌なの?」
「嫌なんてことは……ないけど」
「ならいいよね」
「え?」
「別にあいさがいてもいいから。私、今からとうまのところに行く」
嫉妬が、インデックスの心の奥底で燻っていた。
自分とは違うのだというところを見せ付けたいのだろう。
一体何度、姫神は上条にキスをねだって、そしてしてもらったことか。
……その行為を、自分は諦めている。戻れなくなると分かっているから。
だというのに、なぜ姫神は何度も見せ付けてくるのか。
姫神の焦りが、インデックスの強引さを誘っていた。
恋人の一歩手前で止まるはずのインデックスは、
姫神に触発されてその一歩手前という線引きのギリギリを狙ったチキンレースを始めていた。
さっさと体や髪を洗い、上条は湯船に足を突っ込む。
女の子を待たせると碌なことがないのは分かっているからだ。
一応、そういう気遣いをするのがマナーでもあるし。
「ふう……」
少し温いな、と感じた。温度設定を見るといつもより2℃低かった。
こういうことにはインデックスは疎いはずだが、と風呂を入れてくれた人間のスキルを疑うが、
この二日ほどで、インデックスは劇的に家事の能力を向上させたのだった。
その理由を考えると、痛ましい気持ちを感じないでもなかった。
追い炊きしようとスイッチに手を伸ばしたところで、パチ、と明かりが消えた。
「え? 停電?!」
当たりを見渡す。もちろんその行為に何の意味もない。
ついでに言えば風呂の温度を制御するコンソールは明かりを発していた。
そして風呂の扉の外に見えていた明かりが、カラカラという音と共に消えていく。
つまり洗面所も真っ暗で、明るいリビングとの間の引き戸が閉められたということだった。
「ねえとうま」
「インデックス?」
「私も入るね」
「……へ?」
上条の諒解をとるより先に、バタン、と風呂場の扉が開いた。
目も慣れていないし明かりがごく僅かしか入らないのでよく分からないが、
シルエットは、確かにインデックスのようだった。
体のラインでそれが分かった。つまり、風呂に入る人としては自然なことだが、
インデックスは修道服なんて着ていなかった。
「お、おい」
「見えないでしょ? もしかして見えててこっちのほうジロジロ見てるの?」
「そんなことねーよ! 全然見えてない」
「本当に? 当麻君」
インデックスの後ろから、姫神が入ってきた。
こちらはタオルを持っているらしい。巻いているのとは違う陰影に見える。
腰と胸のラインが、インデックスより年上な分だけ、成熟していた。
ついこないだを思い出して、そのシルエットだけで体が熱くなる。
「大丈夫、見えてないから」
大丈夫かどうかを聞くなら風呂に入ってこなければいいのだが、そうできない事情があるのだろう。
「とうま。まだ上がったりしないよね」
「あ、ああ……」
「ここのお風呂。私の部屋と反対の形だ」
「ひゃっ、あいさ! 冷たい冷たい!」
「ごめん」
慣れない風呂に真っ暗なまま入っている姫神が、インデックスの肩に触った。
「ちょっと寒いね。先に体洗う?」
「どっちでもいい……やっぱりだめ。私が先に入る」
「後でもいっしょなのに」
姫神は上条の隣からお湯を汲んで、体に掛けた。
髪を洗う気はないのか、束ねてタオルで包んであるらしかった。
すこしづつ目が慣れて、瞳の潤みと濡れた体の照り返しが見えてきた。
はっきりとは分からないが、上条はその胸元らしきカーブに目線が釘付けになった。
「当麻君。あんまり見ないで……」
「へっ?」
「目線がこっち見てるのくらい。わかるよ……」
成る程、胸を隠す仕草がこちらから分かるくらいだから、逆も然りだろう。
あわてて上条は体ごと目を逸らす。
「……絶対に。こっちを見ないでね?」
理由は分かりすぎるほど分かる。いまから、姫神は足を広げて湯船の縁を乗り越えるのだ。
その行為の最中には隠すべきところを隠せない。それも上条から50センチくらいのところにあるのに。
コクコクと上条が頷くと、姫神が立ち上がった音が聞こえた。
――――ちゃぷ
足のつま先が水に浸かった音がする。
上条は押さえ切れなくなって、そっと、姫神のほうを覗き見た。
太ももから、足の付け根、そしておへそが間近に見える。
とはいえ、真っ暗なので陰影と肌からの照り返しだけで判断してのことだ。
……足の付け根のところは、光の反射がなくてよく分からなかった。
勿論それは、その部分には肌が露出してない、ということを意味している。
「当麻君……」
「な、なんだ?」
「見ちゃ駄目って言ったのに」
「見えなかったから、大丈夫」
「そういう問題じゃないのに。もう」
浴槽の隣でインデックスがじゃばじゃばと水音を立てていた。ふーんだと苛立っているような雰囲気だった。
「当麻君」
「秋沙、その」
広いとは言え所詮は浴槽だ。姫神のスペース確保のために体育座りをしている上条に、姫神が抱きついた。
間違いなく、胸は腕に当たっていた。
「あは。……恥ずかしいけどこうやってくっつくと安心するね」
ばしゃばしゃとインデックスが石鹸のついた体をお湯で洗い流す。
目が随分と慣れてきて、ひときわ白いインデックスの体が、少しずつ闇から浮いてくる。
目のやり場がなくて、困る。
「当麻君。またいやらしい目、してる」
「……見えないだろ?」
「見えてるもん。鼻息荒いし」
「げ」
見えずとも分かる、ということか。
「とうま、自分から入っておいて言うのもなんだけど、あんまりじろじろ見られたら恥ずかしいんだよ」
一応きわどいところを隠してはいるインデックスだった。
だが、隠されたほうが気になるのが複雑な男心だ。
「インデックスの体が気になるんだったら。こっちを見てれば良いのに」
「いいのかよ?」
「だめ。……だけど、いいよ。隠してるから。多分見えないと思うし」
「そっか」
上条は体育座りをして前にかがんだ姫神の、顎を上げ、そして上体を反らせようとする。
そうすれば胸元は丸見えになる。
「あ。ちょっと当麻君。だめ。だめ!」
「見ろって言ったの、秋沙だろ」
「手を出すのは反則だよ。や。だめ。あ」
姫神の片腕を奪って、体を仰け反らせた。たぶん、明るければ乳房の形をはっきりと確認できたことだろう。
……暗がりの中、半分水の中に浸かった胸元は、外形すらもよく分からなかった。
「だめ……! 恥ずかしい」
「……見えない」
「嘘言っても駄目」
「嘘なら良かったんだけどさ」
「うー……とうま!」
「な、なんだ」
「次は私の番だから!」
「何がだよ」
いつの間にか洗い終えたインデックスが、洗い場から身を乗り出して上条を睨んでいた。
胸は隠してあったので見えなかった。
「変な事はしちゃだめだよ。当麻君」
「しねーよ。それよりほら、次は秋沙が体を洗う番だろ? インデックスじゃなくて、俺は秋沙のお尻見てるから」
「馬鹿! ……もう、外に出られないよ」
「あいさが出ないんだったら狭いけど私が入っちゃうんだよ。とうま。
見られないようにするけど、見えちゃうかもしれない。けど、見ちゃ駄目だよ。
とうまが勝手に見ても私は気づかないけど」
「いってる意味がよくわからねーんだが」
ただまあ、男はどうにもこうにも欲望に忠実な生き物で、
見ちゃ駄目だと分かっているのに、ついインデックスの胸元から目をそらせない。
インデックスの肢体は少女らしいラインだと言っていい。
姫神が成熟して丸みを帯びつつあるのに比べて、腰からせり出した骨盤の周りだとか、胸元だとか、
そういう所に未成熟な硬さを感じさせる体つきだった。
どちらかというと姫神のほうが、欲を言えばもう一回りくらい成熟したラインが上条の好みなのだが、
そういう好みとは別次元で、綺麗な女の子の体というのは視線を惹きつけて離さない魔力がある。
「とうま。横、もっと空けて」
「お、おう」
冷静になって考えれば自分がここから出て行くとか、そういう方法も取れるのだが、
上条も動転していて気が回らなかった。
三人入れば明らかにお湯が溢れるであろうそこに、インデックスが入り込もうとしていた。
姫神は上条の余計な一言で外に出るのが恥ずかしかった。
だが、今インデックスが入ると同時に出なければ、下心丸出しの上条はインデックスに釘付けになるかもしれない。
勿論それは怒って、無理矢理視線を逸らせればいいわけだが、自分が逃げている癖に、
上条に文句を言うのもフェアじゃないかと姫神は思うのだった。
……改めて、上条の言ったことを反芻する。
お風呂から上がるとき、上条は自分のお尻を眺めるといった。
それは、恥ずかしい。とにかく恥ずかしい。だけど、それは嫌なことか。そう自問する。
答えはノー、だと思う。強い羞恥心を感じることは、ノーという答えと直結はしない。
少しだけ、心の中のほんの少しだけ、自分の裸で上条が喜んでくれるのなら、見せてもいいかと思う心がある。
上条にほかの女の子を見て欲しくない。
その独占欲を正当化する理屈として、女の子としたい行為は全て自分にして貰う、というのを姫神は心に決めている。
上条が女の子の裸を見たいと思うのは、まあ、たぶん、男子高校生として自然なんだろうと思うし、
それなら自分は、裸を、見せてあげても良いんじゃないだろうか。
これは自分を安く見せることにはならないだろう。
上条の隣には今、もう一人インデックスという女の子がいるのだから。激戦区で商店が客取り合戦をするのと同じだ。
もちろん明るいところなんて絶対に駄目だけど。さすがにそれは恥ずかしすぎて死んでしまう。
「当麻君」
「秋沙?」
「絶対に、見ちゃ駄目だよ」
「……」
少しあざとかったかな、と姫神は自覚があった。
上目遣いで上条を見て、少しだけ、上条に分かるように腰を浮かせた。
胸元のガードもちょっと甘いと思う。
知ったことか。どうせもう上条には、まじまじと見つめられて、それどころか吸われてしまった胸だ。
上条が、横でそろそろと入ろうとしているインデックスより、こちらに注目したのに姫神は感づいていた。
下半身の、前は絶対に見られないようにしながら、姫神はざばりとお湯から立ち上がった。
上条は、目の前10センチのところにある白い肌から、目が離せなかった。
肌を水が滴っていく。膝の辺りから上へと視線を這わせていくと、すぐに、ぷっくりとしたお尻に行き当たった。
どちらかというと姫神はスレンダーな、あまり肉感的ではない肢体をしているほうだと思うが、
それでもお尻のラインはどう見ても女性のそれだ。
水着を見たときから分かっていたことだが、そのラインに物凄く興奮した。
丸みがあって、肉厚で柔らかい感じがして、そして大きく二つに分かれた山のその間の谷が黒々としている。
「とうま、さすがにそれは見すぎだと思う。えっち、って怒る気にもならないよ……」
「ぅえ!? あ、いやこれは」
「当麻君の馬鹿」
「う、馬鹿で結構。秋沙のお尻が魅力的なのが悪い」
「この前から当麻君そればっかりだよ……」
姫神の声が泣き出しそうな響きだった。
「この前って、何?」
「あ、いや。まあなんだ」
「当麻君と、プールに行って水着でいちゃいちゃしたの」
「……ふーん」
ちゃぽん、と上条の隣にインデックスが体を沈めた。
「ねーとうま」
「ん?」
「あいさとどんなことしたの?」
「ぶほ」
上条は直球すぎるその質問に吹かざるを得なかった。
「キス……した?」
「う、そりゃまあ」
インデックスはそれについては確証があった。さっきも目の前でされたところだ。
あれはファーストキスには見えなかった。
「あいさの体の変なところに触ったの?」
「へ、変なところってなんだよ」
「……とうまのえっち」
「いやいやインデックスさん! 話振ったのあなたですよね?」
「でもとうまはえっちだもん!」
変なところってどこだ、と聞いた上条の視線がどこに向いたのかをインデックスは見逃さなかった。
明らかに、自分の腰のほうだったと思う。
お風呂の中だし、隠しているので見えたはずはないと思うが、それでも抗議するのは当然だと思う。
「で。何したの?」
「内緒だ」
「髪に触った?」
「……それは別に普通だろ」
「じゃあ背中」
「それも問題ないだろ」
「じゃあ……胸、とか」
「……」
「触ったんだね」
「黙秘する。そう思うんだったら勝手にそう思え」
「とうまが嘘ついたときとかすぐ分かるよ。今のは肯定の沈黙だった。
お尻には触ったの? ……今のは曖昧だね。服の上から? あ、図星だ」
「あの、お願いだからそれ以上追及しないでもらえませんでしょうか」
黙り込むときの息遣いなんかが正直すぎるのだ、この同居人は。
「じゃあ最後の質問。とうま、あいさの胸、触ったの?」
再び沈黙。
「……もっと答えたくないことがあるみたいだね。触るよりすごいこと……?」
インデックスの想像力では、ピンとこなかった。
触るよりすごいというと、もう、こねくり回すとか、そういう――――
「……胸は何のためについてんだよ」
「それは、赤ちゃんに母乳を、って。まさか、嘘、とうま」
「文句あるか」
「あいさのおっぱい、吸ったの?」
死にたい、と上条は思った。恋人の胸を吸うくらい、普通だと思うのだ。
エロ本などの、そういうメディア各種で学んだ知識が正しいなら、それはごく普通の行為だと思う。
……現に姫神は気持ちよさそうな声を上げていたわけで。
だというのに、インデックスはまるで大の大人がおねしょをしたという話を聞いたような、
そんな、ありえないことを上条がしたかのようにこちらを見た。
「だぁっ、もう、別に良いだろ!?」
「駄目とは、言ってないけど」
インデックスは自分の胸元をそっと見た。慎ましい。さすがに「無い」とは言わないで済むが。
姫神との差は歴然だった。姫神が小萌くらいなら、いい勝負になったのに。
一応、子どもを授かれる体ではあるのだ。今子どもを授かれば、自分は母乳を出せるのだろうか。
無理かもしれないと、そういう気がする。成長した女の人の体というのは姫神のような感じなのだ。
これじゃあ、上条は、興味を持たないのも仕方ないのかもしれない。
「……私の胸じゃ、吸いたいとか思わないよね」
嘆息するように、インデックスは独り言をポツリと漏らした。
姫神と、上条がいるその隣で。
「え、っと」
「インデックス。駄目だからね。絶対に駄目だからね」
「え、何が、って……っっっっっ!!!!! ちがうもん! 私そんなこと考えてないもん!」
どう二人が受け取ったのか、ようやく理解した。
違うのだ。誤解なのだ。
胸を吸うという行為が恋人同士の行いに分類されるらしいというのは今分かったが、
上条に胸を吸わせればお互いがお互いを好きになるとか、そういう事とどうしてもイメージが結びつかないのだ。
だってどう考えたって、胸を吸うのは赤ちゃんだろう。上条はそんな年ではない。
だから、上条に胸を吸われたら、という想像はインデックスの中で、上条を恋人に見立てるようなこととは関係なかった。
「インデックス、お前、結構エッチだったんだな」
「だからちがうって言ってるのに! とうまのばかばかばかばかばかばか!」
「お、おい、やめろって、ごめん! ちょっとやめろいででで! 当たってる!」
インデックスは照れ隠しに、いつものとおり上条に噛み付きにかかった。
……裸のままで。
ぷるんと、胸が上条の手に当たった。
「ごぼごぼごぼごぼごぼ」
「インデックス! 沈むな! 帰って来い!」
「当麻君?」
「違うぞ秋沙、今のは俺の意図どころかコイツの意図も超えて完全に事故中の事故だった!」
「事故なら私以外の女の子の胸に触ってもいいの?」
「そりゃもちろん良くは無いけど」
「……もう。当麻君の馬鹿。隣空けて。私も入る」
「あ、ああ、って、ん――」
画期的な方法を使って姫神は浴槽に入ってきた。
キスをして上条の視界を防いでいる間に入ったのだった。
「当麻君、残念そう」
「いや、だってさ。もう隠しても意味ないから言うけど、秋沙の裸、見たい」
「……また今度。いつか」
「え?」
「お風呂じゃなくてもっと落ち着けるところで。二人っきりで」
風呂以上にくつろげる場所なんて、とっさに思いつくのはベッドくらいだ。
姫神の言葉が、非常にきわどい意味で誘っているようにしか見えなかった。
「でも。当麻君が約束守ってくれたら、だよ。私以外の女の子と、変なことしないって」
「……分かってる」
「本当に分かってるのかな。今だって……」
インデックスに、上条は甘いと思う。
もっときっぱりとインデックスを突っぱねてくれればいいのにと思わないでもない。
ただ、それが出来ているならこんなにこじれることも無かったのだ。
離れがたい理由が、恋人同士だとか、肉体の関係だとか、そういうのがなくてもあったのだろう。
それはそれで、妬ましいことだった。
言葉が悪いが、そういう関係の深さは、寝取ることも出来ない居場所を、
インデックスが上条の仲に作っていることを表している。
「とうま」
「当麻君」
二人は同時に、上条の両手を取った。
姫神の体に触れた腕からは、柔らかい胸の感触があった。
インデックスに触れたほうからは、僅かだけそういう感触があった。
良くないと心のどこかで知りつつ、上条はその両方を振りほどけなかった。
先に二人を上がらせて、随分と長湯をした上条がリビングに戻ると、
インデックスがいつもの薄青のパジャマを、そして姫神が薄赤色のパジャマを身に着けていた。
インデックスの毛先が濡れたのを姫神が拭いてるらしかった。
「秋沙。なんでパジャマなんだ?」
「……今日は。この子が私に遠慮しないみたいだから。私も遠慮しない」
「え?」
「とうま。とうまのふとん、こっちに敷くね」
そういえば机の位置がおかしい。部屋の隅に立てかけられていた。
ゲーム機器もテレビ下のラックに押し込まれ、布団が充分敷ける広さを確保している。
「いやあの、そりゃ秋沙に地べたで寝ろとはいえないけどさ、
さすがにあの寒い浴槽で薄い布団すらないと死にそうなんですけど」
「当麻君。いつもお風呂で寝てるの?」
「ああ、コイツ寝ぼけると自分で鍵開けて人のベッドにもぐりこんでくるからさ、
中から鍵をかけられるあそこで寝るしかなかった」
「ふーん……」
「とうま。今日はお風呂じゃなくていいから」
「え?」
インデックスはベッドに上条の掛け布団を追加した。
もとからあった掛け布団も別に小さくはなかったが、二つあるとしっかりと体に掛けられそうだ。
「今日は、三人で寝るの」
「え? いや、そんな」
「あいさも良いって言ったから」
「良いとは言ってないよ。仕方ないってだけ」
面白くなさそうな顔で、姫神は歯ブラシセットを持って洗面所へ行った。上条もそれに続いた。
「秋沙」
「何かな」
インデックスの死角に入ってすぐ、上条は姫神を抱きしめた。だが姫神の表情はそれでは晴れない。
頬にそっと手を当てて、上条はその唇を吸い上げた。
「ベッドの中で。あの子に変なことしたら駄目だからね」
「しないよ。そういうのは全部秋沙にする」
「……あの子の隣で?」
「したくなったらする」
「変なことは。私にもしちゃ駄目」
「なんでだよ」
「恥ずかしいからに決まってるでしょ」
拗ねたようにそんなことを言う姫神が可愛かった。
耳たぶにキスをしてやる。
「あ」
「したくなったら、するから。秋沙愛してる」
「あ、あ……もう」
それだけ言って上条は話を切り上げた。
長く睦みあっていれば、インデックスが来てしまいそうだから。
姫神が照れ隠しにつんを唇を尖らせて、水道の蛇口を捻った。
歯を磨いて戻ってくると、インデックスがベッドサイドに座って、ぼうっとしていた。
時間はいつもよりは早いが、まあ、もう電気を消してもいい頃だろう。
「もう、寝ちゃうんだね」
「まだなにかすることあるのか?」
「ううん。それはいいんだけど、あっという間だったな、って。今日の遊び」
眠りにつくまで、精一杯に目を開けていて一時間くらいだろうか。
それで、上条に可愛がってもらう夢は、おしまい。
「明日からはまたあっちで寝るんだよね?」
「そりゃそうだろ。お前と同じベッドは、まずいって」
「……そうだね。血の繋がってない妹じゃ、そういうのは駄目だよね」
妹、という響きが出るたびに、上条は違和感を感じていた。
インデックスは妹ではなかった。恋人という響きにも同じ違和感を感じる。
自分たちの関係は、そのどちらでも、なかったのだ。
もう、その名状しがたい特別な関係は、終わってしまったけれど。
それは観測によって状態が収束する量子のようだった。
観測の仕方によって、それは粒子のようにも波動のようにも現れる。
本質はどちらともつかない、曖昧な状態、可能性がどちらにも開かれた状態なのに、
観測してしまえば、どちらかに可能性を収束させなくてはならない。
上条当麻とインデックスという二つの存在を、
学生寮というブラックボックスに閉じ込めていたこの系(システム)は、
姫神秋沙という外乱に干渉された結果、二人の相互作用を兄妹という形に収束させつつある。
それに抗える、最後の時間が今だった。
いや、抗うのとは違う。未収束な状態に最後の夢を見る、そういう時間だった。
シュレーディンガーの猫はもう一つの結末の夢を見るか。
インデックスはきゅっと布団の端を握り締めた。
「ほら、はやくベッドに入ろう?」
「あ、ああ。もう明かり消してもいいか」
「うん……」
姫神がインデックスに促されて、一番壁際に押しやられていた。
そこまで見て、上条は明かりを消した。向かいの家が明るいせいで、真っ暗とは行かない。
「次は、とうま」
「お、おう。おじゃまします」
「ここ当麻君のベッドだよね」
クスリと姫神が笑った。その隣へと、近づく。
ついこないだを思い出す距離だった。そしてあの時よりも布団がある分、暖かい感じがした。
「とうま。狭いからもっと詰めて」
「ちょ、おい」
背中を押される。それで、姫神に密着した。風呂上りで、いい匂いがした。
インデックスの匂いがした。インデックスの使うボディソープを使ったせいだった。
軽く抱き寄せるように、姫神が手を回してくれた。それに従う。
「よいしょっと。えへへ。とうま」
後ろから、インデックスがベッドに進入してきて、上条に抱きついた。
第三者から見れば、上条は黒髪美人と銀髪美人を同時にベッドに連れ込んだ色男そのものだった。
「とうま。あいさばっかりみてないでこっち向いて」
「しなくていいよ当麻君。キスしよう?」
「えっと」
ベッドに入ってすぐ、二人はこんな調子だった。
相手を咎めるようなことはあまり言わない。声のトーンも楽しげな感じ。
ただ、内容は上条を独占するようなことばかり。
「ん。ちゅ。あ……当麻君。当麻君」
「むー!」
インデックスには悪いが、上条はおねだりをされたときは、姫神を優先していた。
女の子とベッドに入るとそう言うことをしたくなるのである。
しかし、インデックスとはキスをするような仲じゃない。となると姫神を優先するのは自然だった。
「秋沙。愛してる」
「当麻君。私も……あ」
前より、姫神からこぼれる声が大きかった。
それに上条はドキドキする。そして実はそれ以上に、インデックスが刺激されていた。
ちくん、ちくんと心を刺すものがある。だけどそれはいい。もう、覚悟していたことだ。
びっくりしてしまったのは、姫神の反応。
上条に撫でられたことなら何度もある。抱きついたことも何度もある。
だけど、自分の体がこんな風になったことはなかった。
腕の動きで、上条が姫神の背中を撫でたのが分かる。
「ふあぁ……」
姫神のその声に、自分の体が反応しているのが分かった。
今、とうまにあんなことをされたら自分はどうなるのだろう。
あんなふうに気持ちよくなるのだろうか。声が、その、出てしまうのだろうか。
くたりと力を失った姫神の腕が上条に絡みついた。
「とうま」
「いででで! 噛み付きすぎだ馬鹿」
「撫でて」
「え?」
「私も撫でて!」
上条が姫神に向けていた体を、仰向けにする。
インデックスは姫神にじとっとした目で睨まれたのが分かった。
牽制するような目というよりも、良いところを邪魔されたのを恨む目のような、そんな風に見えた。
「ほれ、インデックス」
「あ……」
身構えるまでもなく、さすさすと上条に頭を撫でられた。嬉しい。
……けど、それ以上のことはなかった。別に、体に電気が走るとか、そんなことはない。
それがインデックスと、姫神の差だった。
姫神は女として、上条にされたいことがいくらでもある。
言葉にすることは恥ずかしくて出来ないが、上条の手と口で体が昂ぶったことがあるから。
あれこれと期待をして、それが快感に変わっていくのだ。
インデックスにはそれがなかった。何をされたいのか、その答えが自分の心と体の中にない。
撫でられると、嬉しい。それ以上のリアクションを持ち合わせていないのだった。
「当麻君。続き……して欲しい」
「つ、続きって」
「もっと。キス欲しくなっちゃった」
「いや、でも」
あの子の前では恥ずかしい、と言ったのは姫神だったと思う。
まさかねだられると思わなかった上条は戸惑った。
その揺れる瞳を姫神は繋ぎとめるようにじっと見つめる。
続きをして欲しいといった自分の言葉に、半分だけ嘘が混じっていた。
本当は、インデックスを無視して自分を愛撫してくれるという、はっきりとした構図が欲しかったのだった。
「当麻君……して?」
普段ならあざといとさえ思う言葉だと思う。なのに今はまるでそんな気がしない。
上条がインデックスに背を向けた。ベッドをきしませて、自分を見下ろしたのが分かる。
はぁっという吐息と共に、耳に噛み付かれた。
「はぁぁぁん!」
声がこぼれてしまう。そういう体の正直な反応に、身を任せるということを姫神は覚えつつあった。
隣にインデックスがいることを気遣った音量ではなかった。
いあむしろ、隣にいるからこその、声だった。
喪失感と共に言いようのない驚きをインデックスは感じていた。
上条と姫神は男と女で、自分は違うのだという疎外感。恋人らしい側面を持っていた上条を喪失する感覚。
それと同時に、女とはこういうものなのかと、インデックスはまざまざと見せ付けられた。
きっと普通の女の子は、女同士のセクシュアル・トークや女性向け雑誌で仕入れた情報なんかで、
女というものを前知識として知り、そして男の手で身を持って体験していくのだ。
きっと、自分の友達が自分が大切に想う男の人の手で愛撫されている光景を直視することで、学ぶことは無いと想う。
耳という器官は人体の中でも割と複雑な構造をしているほうだ。
その形をなぞるように、姫神の耳を上条の舌が這う。
耳たぶをペロリとされたときだとか、かぷりと耳朶全体を噛まれたときだとか、そう言う瞬間に姫神が甘い声で鳴く。
それを聞きながらインデックスはそっと自分の耳に触れた。
なんとなく、インデックスは分かり始めていた。
姫神がどうして声を漏らしてしまうのか。何を気持ち良いと思ってしまうのか。
二人にばれないように、そっと太ももをこすり合わせた。
インデックスは自覚していなかった。上条は気づかなかった。姫神は逆効果なのを理解していなかった。
自分とインデックスの差を見せ付けようとしたこの行為によって、インデックスは男と女がすることというのを、
酷く具体的に理解し始めていることに。
いや、男一般が分かったかどうかは分からない。
それでも、上条当麻という男がどんな風に女を可愛がるのかを、インデックスは知ってしまったのだった。
「もう、終わりな?」
「えっ……?」
意外な上条の言葉に、姫神は切なくなった。
長いキスを終えて、かなり体に火がついてきたところだった。
「二人っきりじゃないしさ。また今度、な?」
上条としては、やはり落ち着けないのだ。男女の差も有るかもしれない。
愛撫されている間、姫神は理性を飛ばすことも出来るかもしれないが、
上条のほうは割と冷静なままなのだ。隣に見つめる目があると、気になるのだ。
「……わかった」
「ん、ごめんな。秋沙」
キスをして、上条は姫神に覆いかぶさる姿勢を止めた。
再び二人の女の子の間に体を落ち着けた。
「とうま。次は私」
「だめに決まってるでしょ」
「あいさには聞いてないよ。ねえとうま?」
「え、いや……」
「噛み付くくらい、私いつもしてるもん。次はとうまが私に噛み付く番」
「だ、だめだって。そりゃ、まずいだろ」
「なんで? どうして?」
「何でって」
耳を噛むのは恋人のすることだというのだろうか。
「私はもう、当麻に噛み付いちゃ駄目だってこと?」
真剣な声で、インデックスは上条にそう尋ねた。
それはインデックスにとっては自然な愛情表現だった。
恋心が無くてもそれは自然とやってしまう行為だ。
禁じられるのは、納得がいかない。
「別に、駄目だとはいわねえよ。けど、俺からは駄目だ」
「……」
姫神としては色々言いたくなる判断だった。
単なる親愛の情の発露だとしても、上条とインデックスが触れ合うのは嫌だ。
ただ、これを禁じると、全ての協定を反故にして、インデックスが上条を求めてしまうかもしれない。
渋々だが、姫神はこれを認めるつもりだった。
「よかった。私からはしてもいいんだね」
「……変な意図がないんだったら」
「明日からはね。今日は、知らない」
その挑戦的な言葉にカチンとなる。
早速と言わんばかりにインデックスが上条の片腕を封じて、耳に噛み付こうとしていた。
その反対側の首筋を狙って、姫神も上条に噛み付いた。
「ってて! って、秋沙、うあ……」
「とうま可愛い」
たまらず上条は声を漏らした。
ぬるりとした感触が、耳と首筋から同時に這い上がってきたからだ。
マーキングをするように、二人の女の子が自分を攻めていた。
「あ、う……んっ」
ドキドキする。自分の甘噛みで上条がなんだかドキドキしてくるような嗚咽を漏らすのだ。
始めたときは姫神に対する対抗心があったのだが、どちらかというと今は上条の反応を楽しむためにやっていた。
「ぷは、秋沙。もう……」
「私とキス。嫌?」
「そんなこと、うぁ、ないけ、ど」
姫神と会話する上条にちょっとムッとしたので、耳の奥のほうまで舌をねじ込んでやった。
くすぐったがって暴れる上条を、無理矢理に抱きついて押さえつける。
上条にべったりとくっつくいい口実だった。
「とうまって、耳、弱いの?」
「し、知らねえよ……」
ちゅっともう一度耳たぶをついばむ。そろそろ、潮時か。
これ以上やれば本当に姫神が怒る、そういうギリギリの線だった。
「当麻君は。こういうことする女の子が良いの?」
「……いや。どっちかって言うと、俺は秋沙にするほうが好きだ」
「……ふうん」
安心したような、勝ち誇ったようなその返事にインデックスは悔しくなる。
知ってることだ。上条が自分じゃなくて姫神を選んだことなんて。
今夜は、負けると知っていながら足掻く夜なのだ。いや、もう、だったのだと言うほうが良いかもしれない。
ベッドに入って時間もかなり立った。それなりに暴れて、疲れがまぶたにのしかかり始めた。
「……グス」
「インデックス?」
「なんでもない……よ」
嬉しい。
上条は、ほんの少し涙がこぼれて鼻をぐずらせただけの自分に、すぐ気づいてくれた。
嬉しい。
こちらを見つめてくれたその目が、本気で心配してくれていた。
嬉しい。
こんなに心配してくれる人が、これからも毎日傍にいてくれるなんて、なんて幸せなんだろう。
……そして、どうしてこんなに素敵な人を、もっと早く独占しなかったんだろう。
「あ、インデックス」
「おやすみ、とうま。……それとあいさ」
最後にインデックスは、上条にのしかかるくらい体を上条に多いかぶせて、抱きついた。
上条の占有面積で、姫神に勝つ。どうせ今日、これっきりでおしまいなのだ。
最初で最後の一勝だけは、死んでも譲らない気だった。
「……おやすみ。インデックス」
「まあ、寝苦しくなったらどかすからな? お休み」
「離れないもん。とうまが、私のこと嫌いって言わない限り。……おやすみ」
馬鹿、と上条が笑うように言って、ぽんぽんと頭を撫でてくれた。
インデックスはもう、上条の胸にうずめたまま周りを見なかった。
上条と姫神がキスをしたような衣擦れの音は、聞かなかったことにした。
自分が涙で濡らした上条のパジャマの冷たさで、ふとインデックスは目を覚ました。
うつらうつらとしたまま、いつしか寝ていたのだろう。目をこすると、涙の乾いた後がかさついていた。
見上げれば、あどけない上条の寝顔。隣の姫神の顔は髪に隠れてはっきりと見えなかった。
のしかかっていた上条の体から、インデックスは体を下ろした。
意識を手放してしまう直前の、あんなに強かった上条を奪ってしまいたいという気持ちが、
戸惑ってしまうくらい下火になってしまっていた。
まるで祭りの後の会場にいるみたいに、もう終わってしまったのだという空虚さだけが残っていた。
もう諦めろと、姫神にきつく言われたらまた燃え上がれるのかもしれない。
違うのだ。終わってしまったあとの空気は、じわじわと、自分に終わりを悟らせるのだ。思い知らせたりはしない。
三人でかぶった布団の中はどちらかというと暑かった。
上条の腕枕に頭を乗せると、すこし汗ばんだ上条の匂いがした。
夏休み明けの体操着なんかについては、臭いと文句を言ったこともあった。
少なくともこの匂いを好きだとなんて思ったことは一度もない。
なのに、今はこの匂いのする人の腕に抱かれて眠るのが、幸せだった。
どうして、意味合いが変わってしまったんだろう。
上条が寝返りをうとうとして、失敗した。
そりゃあどちらの腕にも女の子が寝ているのだから、当然なのだ。
それで、少しだけ上条がインデックスのほうを向いた。
鼻息がインデックスの手を軽く撫でた。
「とうま。キス、していい?」
声にはしなかった。姫神に気づかれては、いけないから。
上条は寝ているから、もちろん返事はない。
それでいい。起きていれば断られるのは、分かっている。
真っ暗闇の部屋の片隅、ベッドの中で音を立てないように、そっとインデックスは唇を上条に寄せる。
当の上条にさえ知られなくても、もう叶うことのなくなった恋心でも、伝えずには、いられなかった。
音はしなかった。
舌でも絡めないと、音は鳴らないものだ。
どさりと、大きめの音を立てて再び上条の隣に倒れこんだ。
涙が溢れて、止まらない。
吐息が震えて、嗚咽が漏れそうになる。
泣き疲れて再び眠るまで、ずっとインデックスはそうしていた。
姫神は最後まで、何も言わなかった。
朝、いつもよりもいくらかはやく、上条は目を覚ました。
暑いくらいの布団の中、自分の両側から、寝息が聞こえてくる。
一つは姫神で、一つはインデックス。二人とも上条に頬を寄せるようにして眠っていた。
そっと首を動かして、二人の寝顔を見る。どちらも可愛かった。
姫神にだけ、キスをする。
「ん……」
僅かに姫神は反応したが起きなかった。
二人を起こしかねないが、上条はベッドから自分の体を引き抜いた。
どうせ10分もすれば目覚ましが鳴って、朝は始まってしまう。
いつもより人が多い分、手間をかけて朝食を用意するつもりだった。
「とうま、とうま……」
「……ぁ。当麻君」
脱出には成功したのだが、着替えを始めたところでインデックスが目を覚ました。
姫神もつられたらしい。
「おはよう、二人とも。朝飯つくっちまうから、まだ寝てていいぞ」
「うん……」
だがインデックスも姫神も、寝起きが悪いほうではなかった。
姫神は目をこすると、インデックスがこちらをじっと見つめているのに気がついた。
「あいさ」
「どうしたの?」
「おはよう」
「うん。おはよう」
姫神の胸元に、インデックスが滑り込んできた。そのまま抱きしめる。
誰にも見えないように表情を隠して、インデックスはそこから上条に声をかける。
「ねーとうま。何作るの?」
「え? まあレタスがあるしサラダをパパッと作って、あとは目玉焼きかな」
「むー! 私と二人のときはそんなの作らなかったくせに」
「し、仕方ないだろ。朝の時間は限られてるんだから」
「トースト一枚じゃ満足できないんだよ」
「じゃもう一枚焼いてもいい」
「そういうことじゃないの! とうまのばか」
手伝うとは、インデックスは言わなかった。
もうしないのだ。ご飯を作ってあげたりは、しない。
それは姫神か上条自身の仕事だから。
自分が上条に食事を作ってあげれば、またおかしなことになってしまうから。
「それはそうと、秋沙」
「どうしたの?」
「おはようのキス、するぞ」
「えっ?」
姫神は硬直した。だって寝起きの顔を見られるのっていろいろ気になるし恥ずかしい。
だが上条は待ってくれなかった。
インデックスが面白くなさそうに横を向いたのを知りつつ、姫神の腰を抱いて、唇を重ね合わせた。
「ん……」
「ん、今日も可愛いな秋沙」
「もう、急すぎるよ」
「制服はあるのか?」
「うん。必要なものはあるから、あとは替えの服とパジャマを部屋に戻しに行くだけ」
部屋に帰るのは別に放課後でも大丈夫だった。
「そっか、じゃあ朝飯食って、さっさと行くか」
「うん」
寂しそうな顔をしたインデックスの髪を、上条がくしゃりと撫でた。
インデックスは何も言わなくて、そして上条もそれ以上は何もしなかった。
それが今日からの、二人の距離だった。
「早いな、上条」
「あ、先輩」
「仲良く朝から二人で登校か。妬けるな」
姫神と二人でエレベータを降りると、ばったりと雲川に出くわした。
この人の生態などほとんど分からないが、そう真面目に学校に通う性質ではないように思う。
むしろ、朝からこの人が鞄を持って学校に行こうとしているほうが不自然なような。
「……」
隣の姫神が、はっきりとした隔意を瞳に浮かべて雲川を見つめていた。
その理由に思い当たって、上条は居心地の悪い思いをした。
雲川と気安く二人で過ごした自分が、姫神に心労をかけているのは間違いなかったから。
「秋沙」
「何? ……えっ?」
信じられないことを、上条にされた。
朝のエントランス、雲川が見ているその前で、とっても恋人らしい甘いキスを。
「上条……朝からそれとは、さすがに私でも中てられるんだけど」
チラリと横目に見えた雲川の、すっと視線を外す仕草に姫神は優越感を覚えた。
当麻君の恋人は、一番愛されてるのは、私だ。
雲川という人間のことは良く分からないけれど、上条のことを憎からず思っていることくらいは、分かっていた。
「い、行くぞ秋沙。先輩、それじゃ」
「失礼します。雲川先輩」
雲川に取り合わずに立ち去ろうとする上条の隣で、初めて姫神は雲川ときちんと挨拶をした。
長い髪をさらさらと流して折った腰を戻すと、姫神はサッと踵を返して当麻に並んだ。
そして、雲川を残してエントランスを抜ける。
空は秋晴れ。街路樹が色づき始めた街道は、冬の到来を予感させる。
今年の冬は、恋人同士の楽しい時間を沢山作りたい。
「当麻君」
「ん?」
「どうして。あんなことしたの?」
それは、是非とも聞いてみたいことだった。
恥ずかしそうにそっぽを向く上条の顔を無理矢理に覗き込む。
ためらいを見せた後、こぼすように呟いた。
「秋沙となら、どこでキスしたって良いだろ?」
「恥ずかしいよ」
「じゃあ、やらないほうが良かったか?」
「……ううん。当麻君が気遣ってくれたの。嬉しかった」
自分と雲川を区別してくれたのだと、当麻のその糸を姫神は分かっていた。
でも。
「あの。街中でどこでもやるようなのは。恥ずかしいから」
「いや、俺も恥ずかしいよ。そういうのは基本、二人っきりで、だろ?」
「うん。当麻君……大好き」
「俺も大好きだよ、秋沙」
二人は見詰め合って、往来のど真ん中でごく軽いキスを交わした。
昼休みは、ここのところ数日は姫神とは別れて摂っていた。
上条にだって男友達との付き合いがあるわけで、やっぱり男同士で馬鹿話をしたいというのもあった。
放課後は、毎日と言っていいほど姫神と一緒にいるわけだし。
「……悪かったわね、上条」
「いや、まあいいけど。急にどうしたんだよ吹寄」
目の前にいる吹寄は、もちろん男子ではない。
いつもの連中と学食にでも繰り出すか、というところでなぜか吹寄に捕まったのだった。
そして一人、人の少ないこの体育館裏に呼び出された。
つい先日、吹寄と二人で草むしりをしたばかりの場所だ。
たいていの学生はここが未だ背丈ほどもある雑草の密集地帯だと思っているだろうから、人はまず来ない。
「まあ、ちょっと」
歯切れの良さが売りのはずの吹寄が、言いよどんだ。
始末し損ねた雑草の気にするようにザクザクとつま先で土を掘る。
「あの、吹寄さん。上条さんは優雅にお昼ご飯を頂きたかったのですが」
「ごめん。一応、パンはあるんだけど」
手にしていたビニール袋から、二つほどパッケージを取り出して見せた。
……食べると脳内物質の伝播を促進するパン、だそうだ。おそらく通販で買ったのだろう。
そこにはもう突っ込む気もなかった。
「まあ、昼飯が有るならいい。……で、用件は?」
「ん。上条、さ。最近姫神とどうしてる?」
「へっ?」
意図の読み取りにくいぼんやりとした表情で、吹寄は突然にそんなことを聞いてきた。
「噂で、上条が浮気したって話、聞いたから」
「ハァ? 浮気?」
「なんでも三年の先輩とって」
「……」
「実際、ここ数日姫神の雰囲気が落ち込んでたし」
「……別に、浮気とかそんなんじゃねえよ」
思い当たる節が、上条にはあった。
たしかにあの日雲川と夜のパーティを過ごしたことは、姫神を不安にさせた。
そしてきっとスマートではないやり方で、つい今しがた、線引きはしたつもりだった。
「なんで即答しないのよ」
「いや、なんでって」
「後ろめたいことでもある訳?」
「ねーよ!」
「じゃあなんで、即答しないのよ」
詰られるのに苛立ちを覚えて、吹寄を見つめ返す。いつものきつい視線とは違った。湿度のある目線だった。
「何もなかったけど、姫神を不安にさせたのは事実だからな」
「……やっぱり夜、アンタはあの先輩と一緒に」
「え? 吹寄お前――」
「ごめん。なんでもない」
「見てたのかよ」
「……ごめん」
二度目の謝罪は、第三者からの情報らしく装って、実は雲川との逢瀬を発見したのが自分だったことの謝罪だった。
「いや、学校前だったんだからそりゃ見ている人がいてもおかしくはないけどさ」
「うん……」
吹寄は言えなかった。上条を視線が追ってしまった、その結果だということは。
「上条はさ、姫神と付き合ってるんだよね……?」
「え? ああ。前にも一応報告しただろ?」
「うん。聞いた、けど」
「なんだよ、吹寄らしくねーな」
「うん……」
今日はどうやら、本当に吹寄はおかしいらしい。
調子出せよと焚きつけても、一向に火がつかなかった。
と同時に、少し、この場所にいることが気まずくなってきた。
「つーかあんまりここで二人っきりって良くないだろ。理由も無しじゃ。
自分らで草むしりしといてなんだけど、ここ、人が来なくて告白とかに使えそうだし」
「えっ。そ、そうね。よくないわね」
「だから早く用件をだな」
「……わかった。ねえ上条。付き合ってはいるんだろうけど、ちゃんと姫神と仲良くしてる?」
「……」
ああ、そうかと上条は納得した。
コイツは姫神が心配で、それでこんなところに俺を呼び出したのだろう。
「ちゃんと返事しなさいよ」
「仲良くは、してるよ」
「は、って何よ」
「ん、まあ、ちょっと色々あってだな」
美琴のことや、インデックスのこと、そういう事情を吹寄に話す気にはならなかった。
好かれていると思っていなかった女の子や、恋人としては見ていなかった女の子を泣かせてしまった話なんて。
「付き合ってるんだったら、もっと幸せにしてやんなさいよ」
「お、おう」
「一緒にいるときもなんか無理した感じでさ。悩んでるのが顔に出てるし、あの子」
「そうか」
「貴様がそんなんじゃ、振られた女の子が、立つ瀬ないじゃない」
「……悪い」
そういえば。名前も教えてもらえなかったが、上条のことを好きな女の子が吹寄の友達にいたらしかった。
誰かを選ぶということは誰かを選ばないということだ。
選ばなかった誰かのために頑張るなんてのは、恋愛の理由としては成り立たないが、
でも振られた側からしたらカップルが不仲なのは、きっと遣る瀬無い思いだろう。
――――もし、自分が隣にいたら?
それを考えずにはいられないのだ。考えても考えても、きっと傷つくだけなのに。
「ねえ上条」
「なんだ」
「姫神と付き合って、後悔してない?」
「え?」
「そうやって、姫神だけと仲良くしなきゃいけなくなったことを、窮屈に思ってない?」
そんなことは、ないとも言い切れなかった。
やっぱり、一人の女の子以外とは付き合いを制限しなきゃいけないし、
その女の子のためにいろいろと気を使ってあげなきゃいけないというのは、窮屈なところもある。
幸せな窮屈さなのだから、誰しもがそれを喜んで受け入れるべきなのだが。
「別に。秋沙といると楽しいしさ」
「そう」
内心の逡巡を押し隠した上条の返事に、吹寄は素っ気無い返事を返した。
葛藤を読まれたのかと、ドキリとした。
「なら、上条って意外と大人だったのかな」
「え?」
「ついこの間まで、ここで野球ごっこして遊んだじゃない」
「ああ、やったな」
「ああいうバカやってて、上条はやっぱ子供っぽいのかなって思ってたんだけど」
上条とバカをやるときのテンションは好きだった。
姉ぶるほど年上の目線ではないが、吹寄はもっと落ち着いた目線も持ち合わせている。
まだ、恋愛だのなんだのというのに真剣になれるほど、上条は大人じゃないのかななんて思っていたのに。
「子供っぽいつもりはなかったけどな。でも、そうかも知れねーな」
「え?」
「口に出すと恥ずかしいけど。女の子の気持ちっつーのを、ちゃんと理解してやれなかったんだなって」
美琴とインデックスと、吹寄の友達の気持ち。そして姫神の気持ち。
思い返せば、美琴は上条のことが好きだというサインをいくつも出していた。
あれはそうだったのかと、今更になってようやく分かり始めた。
もし、そのサインに気づいていたら、自分と美琴はどうなっていただろう。
「これからは秋沙の気持ち考えて、動ける男にならねーとな。
……俺を呼び出した件への答えって、これであってるか?」
吹寄は上条が姫神を大事にしているのかを問いただしに着てくれたのだと、上条は推察していた。
それは、ある側面では正解であり、しかし完全な答えではなかった。
吹寄は、上条の後ろ、この体育館裏の出口にザッという足音がしたのを聞き届けた。
上条は気づかない。そしてこんな何もない場所に来るのは、きっと自分がメールで呼びつけた相手だけ。
「結局、それで正解になったわね」
「どういう意味だよ」
「未練、かな。上条を呼び出したもう一つの理由」
「未練?」
姫神が、その角の奥にいるから、言えるのだ。上条がそれに気づいていないから、言えるのだ。
不意に吹寄が顔を上げて、じっと上条の事を見た。
その、いつになく女らしい、険のない切ない瞳に、上条は一瞬見蕩れた。
「好き」
「え?」
「私、上条のことが、好きなんだ」
突然のその告白に、上条は、そして物陰にいた姫神は、硬直するほかなかった。
吹寄は今、俺のことを、好きだといった?
なにか信じられないようなものを聞いたような気がして、その言葉に乗せられたはずの重たい意味を、
上条はちゃんと受け取ってやれなかった。
「……なんだ。やっぱり全然気づかれてなかったか。そんなんだから、貴様は姫神を困らせるのよ」
「……」
自分のそういう機微の疎さは、確かに直すべきところだと思っていた。
思っていながら、吹寄の気持ちに疎かったのだと、気づかなかった。
「ごめんね、上条」
「え?」
謝るのは、むしろコッチのほうだろう。
好きだといってくれた気持ちを、上条は受け取らないのだし。
そして気づいてさえ、やらなかったのだし。
「嘘ついてて、ごめん。……姫神にはバレてただろうけど、私にも、虚勢の一つくらい張りたい時があったのよ。
上条が姫神に惹かれてるの分かってて、それを横からどうにかできるくらいの勇気なんてなくて、
上条のことが好きだったのは私だなんていえなくて。……私の友達の話ってことに、したんだ」
「……そうか」
「あーあ、スッキリした」
肩の荷が下りた、というポーズを吹寄はとって、はあっとため息をついた。
上条とて内省はある。女の子の、そういう表には見せない気持ちを、もっと汲み取ってやらないと。
「吹寄。気づいてやれなくて、その」
「だめよ。上条」
「……」
「謝らないでよ。お願いだから。惨めになるのは私でしょうが」
また、やってしまった。そうやって吹寄の虚勢を引き剥がして、素顔を覗き込むような真似をしてしまった。
「吹寄。俺がかけられる言葉なんて、ないのかもしれないけど。また、遊ぼう」
「うん。そうね」
吹寄は、無理だと思いながら笑った。
時間はいつか癒してくれるかもしれない。
だけどもう、もっと親密になれるかもしれないと言う期待を持って上条と遊んだ日々は、戻らない。
その儚い事実が、吹寄の心にじんわりと染みた。そして頬に現れたのは、笑顔だった。
上条はまたも、吹寄に見蕩れた。真面目で芯のある吹寄の柔い泣き笑いは、美しかった。
それ以上何も言わずに、吹寄は上条を置いて体育館裏を後にした。
それを見送って、上条は壁を背に、空を見上げた。
平常どおり空腹感を伝えてくる自分の体のデリカシーのなさに、少し嫌気が差した。
「吹寄が、ねえ……」
可愛いクラスメイトだった。いや、そういう感想はきっと、告白されたから強く抱いているのだ。
もっと、うるさいとか怖いとかお堅いとか、そんな評価を与えていたではないか。
自責とも少し違うやりきれない思いを抱えながら、
充分時間が空いたからと自分も教室に戻ろうかと足を踏み出したところで姫神に出くわした。
「秋沙」
「当麻君」
「聞いてたのか……?」
「吹ちゃんに。メールで呼び出されたから」
「そっか。どういうつもりだったんだろうな、アイツ」
「中身は。心臓が止まりそうな内容だったよ」
「え?」
「『今から上条当麻に告白するから止めたいなら急いできなさい』だって」
それは、確かに無視できない内容だろう。友達のはずの吹寄の、挑発するようなメール。
「それで来たんなら、どうして声かけなかったんだ?」
「だって。私には関係ない」
「え?」
「当麻君と吹ちゃんの関係は。私には関係ないから。当麻君が決めることでしょ?」
「……そうだな」
姫神を、上条は校舎裏に手を引いて連れて行った。そして、ぎゅっと抱きしめた。
「当麻君」
「俺は、吹寄のこと、好きだ」
「えっ?」
抱きしめられたのに反したその言葉に、姫神は戸惑った。
「御坂のヤツのことも好きだ。インデックスも好きだ」
「……当麻君」
「これを言うと、秋沙は傷つくかもしれないけど。なんだかんだ言っても雲川先輩のことも好きだし、
五和の事だって好きだ。……そういう好きじゃ、駄目なのかな」
姫神は、当惑するよりも、上条の普段と違う雰囲気を感じて、それに心を傾けていた。
「寂しいなんていうと贅沢かもしれないけどさ、もっと、バカやってたいだけだったんだけどな」
喪失感。上条が覚えているのはそれだった。気まずくなって、会えない友達が急に増えた。
みんな、好きの意味を変容させた挙句、今までの距離を保てなくなった。
男と女は、難しい。友達でいるというのは、同性なら簡単なことなのに。
上条の言うことがわかって、不思議とこの瞬間は姫神は嫉妬を抱かなかった。
ぎゅっと、抱きしめ返す。
「秋沙」
「なあに?」
「キスして良いか」
「うん。してください」
吹寄が魅力的な女の子であったことなど、姫神は当然知っている。
美琴も五和も、きっといい子だろう。雲川はどうか知らないが、嫌な人間ではないのだろう。
上条と縁のあった女の子の中で、自分が女として突出していたとは、思わない。
けど。好きになってもらったのは自分だし、上条は結局、自分だけを選んでくれた。
ちゅ、と唇が触れ合う。その仕草はもう、随分と慣れ始めていた。
他のカップルがどうか、上条が他の女の子とするならどうなるのか、そんなのは知らない。
自分と上条のキスの形が、ちゃんと出来上がりつつあった。
「当麻君。一番好きな人は。誰?」
切実な響きではなかった。
もう、なんて答えてもらえるかに不安がないから。
上条はそれを見て、なんだか、姫神に惚れ直した気がした。
「一番はさっき挙げた誰かかな」
「え?」
「秋沙は、特別だ」
恋人を他の女の子と同じランクになんて載せられない。
きっかけというのは、そのドラマティックさとは関係無しに、全て『運命』なのだと上条は思った。
神様に与えられただとか、生まれる前から決まっているという意味ではない。
全ての縁(えにし)は等しくただの偶然であり、だからこそ稀有なのだ。
姫神の優しい顔。
目の前に浮かぶそれは、上条のことを信じてくれる笑顔。
キスをすれば喜んでくれて、抱きしめてやれば安心してくれる。
そういう姫神の反応を喜ぶ自分の気持ちを、好き以外の言葉で表現などできるものか。
「当麻君……ん、あ」
軽く舌を絡めて、もう一度キスをした。
「秋沙。至らないところもあるけどさ、愛想尽かさないで、好きでいてくれ」
「変なの。そういうところが。当麻君を好きになったところなのに」
素朴なそんな姫神の笑顔に、またもう一度、上条はキスをした。
「放課後、時間あるか?」
「うん。当麻君と一緒にいるための時間はとってあるもん」
「じゃあまた、二人っきりで」
「……うん」
期待を込めて、恥ずかしそうに姫神がコクリと頷いた。
放課後。
カチャリと、姫神が後ろ手に部屋のカギを閉めた。
帰り道は言葉少なだった。そして人目を気にしながらそっと女子寮に忍び込んで、
姫神の部屋に上条はお邪魔したのだった。
「散らかってるけど。あんまり見ちゃだめだからね」
「いや、どう見ても俺の部屋よりマシだろ」
「うん。まあね」
あは、と笑った姫神の表情が僅かに硬かった。
二人っきりですることといえば、こないだの水着で睦みあったあれを思い出して仕方ないのだ。
全開あそこまで許したと言うことは、今日も、そこまではたどり着くんだろうと姫神だって思う。
そう考えただけでも恥ずかしくなって、頬が火照ってくる。
そして、あの時よりどこまで『先』に行くのか、それが気になることだった。
何せあれから、インデックスに対抗意識を燃やしたせいで、裸で一緒にお風呂に入ったり、
同じベッドでキスをして、一晩一緒に寝たのだから。
「秋沙」
「えっ?」
まだ、リビングにすらたどり着いていない廊下の途中で、上条が軽く姫神を押した。
壁にもたれかかる羽目になり、そして、上条が唇を押し当てた。
「んっ……」
「好きだ」
「ちょっと。急でびっくりしちゃうよ」
「ごめん」
心臓がバクバクいうのが止まりそうになかった。
急に、ベッドにも行かないうちからあんなことやこんなことをされるのかと思ってしまったから。
怒られてしょんぼりした上条の背中に手を回して軽くぎゅってすると、それで機嫌は回復したらしかった。
なんていうか、男の子は現金なものだと思う。婉曲さのない単純な性根は、どこか可愛げがあった。
「あの。当麻君」
「ん?」
「上着。かけるから」
「あ、ああ。サンキュ」
そっと上条の背中に回って、学ランを脱ぐのを手伝う。そして受け取った学ランをハンガーに掛けた。
照れくさい上条の顔を見るのが嬉しかった。自分もきっと、照れているから。
「洗面所に行っても大丈夫か?」
「うん。洗濯機の中だけは覗いちゃだめだからね?」
「し、しねーよ」
まだ洗っていない服が数枚、中に入っている。平日は一日制服だから、主にそこにあるのは、姫神の下着。
見られたら恥ずかしくて死ぬ、というか見ている上条を見たら真剣に怒ると思う。
上条が手洗いうがい以外のことをしないかと聞き耳を立てつつ、少しだけ部屋を片付けた。
そして自分も手を洗ってリビングに戻ると、上条が腰を落ち着けずに立っていた。
「当麻君? どうしたの?」
「あ、なんか女の子の家ってどこに座れば良いかわかんなくってさ」
「当麻君は。どこがいいの?」
「え、っと」
本音を見透かされた気がして、上条は口ごもった。
「……はしたないって。思っちゃ嫌だからね」
「秋沙?」
「ベッドに。座って」
「ベッドって……」
「当麻君。今何を想像したの?」
返事をせずに上条が照れた顔をした。そしてそっと、姫神のベッドに腰掛けた。
そして姫神も、その隣に座って、きゅっと上条に抱きついた。
「こういうの。ベッドじゃないとできないもん」
「……だな。でもベッドなんていわれるとさ、ほら、な?」
「当麻君のえっち」
「文句あるか?」
「……だって。知らなかったよ。当麻君がこんなエッチなこと考えるなんて」
「秋沙の中の俺ってどんなだったんだ」
どんなって、正義のヒーローだったのだ。
もちろん上条がただの人だってことくらいもう分かっている。
だけど、上条に助けられたあの日に抱いた憧れの中には、
上条がエッチかもしれないなんてことはちっとも考慮されていなかったのだ。
「私以外の人には。しちゃだめだよ」
「分かってる。だから、秋沙には一杯するからな」
「うん……」
そっと、見詰め合う。
何度見ても、潤んだ姫神の瞳が綺麗で、そのたびに上条はドキリとなる。
穏やかさが特徴と言えるだろう自分の彼女の表情が、上条は好きだった。
それに合わせる様な表情が、自分にも増えた気がする。
美琴をバカをやっているときや、インデックスといるときに浮かべる表情とは全然違う、
それは姫神といるときだけの上条の顔だった。
勿論それは、姫神にとっても同じ。まだそれは仮初めかも知れないけれど、
恋人はお互いに影響されて、きっとその人にふさわしい人に変わっていくのだ。
「秋沙。好きだよ」
「私も。当麻君のこと大好きだよ……」
そっと上条が姫神の頬に手を当て、上を向かせた。
もうその仕草も初めてじゃない。ごく自然に、姫神の唇が上向いて、そっと上条の唇と重なった。
初めてのキスじゃないから、戸惑いだとか、恥ずかしさだとかはない。
だけど、キスするたびにその行為は新鮮で、瑞々しい喜びを胸の中に広がらせる。
「キス、だいぶ慣れたな」
「うん……当麻君のキスの仕方。覚えたから」
「なんか嬉しい、それ」
「私も。嬉しいよ。だんだん当麻君の色に染められちゃってるんだね」
「もっと染めてやる」
「あっ……」
今度は不意打ちで、キスをしてやった。
「んん……」
舌を滑り込ませると、姫神は抗わなかった。
そしてすぐ、ちゅく、ちゅくと水音が室内に静かに響いた。
「当麻君……」
頭を撫でながらキスしてやると、穏やかな顔をした。
背中に手を当てて、深いキスで姫神の体を倒していく。
そっと、背中がベッドに着いた。
「ベッドからも秋沙の匂いがする」
「もう! 恥ずかしいよ……」
「昨日俺のベッドで寝ただろ?」
「でもあそこで当麻君は寝てなかったんでしょ?」
「まあ……」
嫉妬の炎が軽く燃え上がったのだろう。
拗ねた瞳が可愛かった。
当麻も隣に寝そべって、腕枕をしてやった。
そして楽な姿勢でキスをする。
「ん。ふ……」
深く舌をねじ込むようなことはしない。互いの舌先を絡める程度。
そのかわり、お互いの目を見つめあいながら、キスをする。
時々舌と舌の絡まりに垂れてきて邪魔をする姫神の長い髪のほつれを指で直してやりながら、
何をするでもなく、唇と舌で、姫神と粘膜を交歓させる。
時々背中を撫でてやると、気持ちよさげに目を細めるのが愛らしい。
「可愛いよ、秋沙」
「うん……なんだか。眠くなってきたかも」
「眠い?」
「昨日。あんまり寝付けなかったから」
「そっか。あんなんじゃな」
「当麻君は? よく眠れたの?」
「いや、寝返り打てないと寝にくいもんだな」
「だね」
そして会話の途切れ目に、キスをする。
頭を撫でてやると、なんだか上条のほうも少しまぶたが重たくなってきた。
「今日はこんな感じでいいか? その、もっと激しいのとか」
「……あの。この前のプールみたいなのも嫌じゃないけど。でも。今日は優しいのがいいな」
「ん。じゃあそうするか」
「いいの?」
「え?」
「当麻君は。嫌じゃないかなって」
「姫神の可愛い寝顔で満足する」
「もう……」
「胸、触っていいか?」
「うん……」
啄ばむようなキスをしながら、服の上から胸に手を当てる。
包み込むようにして手を動かすと、やわやわと胸が形を変える。
ブラの感触がもどかしくはあったが、姫神を驚かさないように無理に脱がせることはしないつもりだった。
「ふあぁ……」
静かで深い、姫神の喘ぎ声。そんな響きは、この間は聞かせてもらえなかった。
新鮮な感動に、上条は手を夢中で動かした。
そして、姫神がだんだんと力を失って、快感の海に溺れていくのが分かった。
きっと姫神は気づいていないのだろう。姫神の足が、上条の足に絡んでいた。
「秋沙」
「……え?」
「気持ち良いか?」
「うん。すごく。……ん。ちゅ」
その警戒のなさに、つい出来心が湧く。
姫神のお腹から、セーラーの内側へ手を滑り込ませる。
そっとキャミソールをスカートから引き抜いて、姫神の地肌に手を触れさせた。
「あっ……」
驚いた顔の姫神に、大丈夫だからとキスをすると、それだけで抵抗らしいものはなくなった。
そんな風に受け入れられていることに、上条はやけに満足感を覚えた。
「んっ……」
ブラの上から、胸に触れた。
きっと刺繍が可愛らしいデザインなのだろうと思う。手に触れた感触でそれが予想できた。
だけど姫神の肌の感触を堪能出来なくなるので、今この瞬間に限っては余計だった。
我慢できなくなって、上条は背中のホックに手を伸ばした。
意外と簡単に、それは片手でぷつりと外れた。
「あ。当麻君」
目だけで、良いかと尋ねてやる。
良いよと言う様に、姫神が優しく首を縦に振った。
強い刺激で姫神をまどろみから覚醒させないように、
何も布を介さない姫神の地肌にそっと手を触れた。
「あっ。ん……」
声にならないため息みたいな声で、姫神が悶える。
指で胸の先端をクリクリとしてやると、あっという間に尖りを見せ始めた。
そしてキスをする姫神の息が途端に荒くなる。
「当麻君……」
「秋沙、可愛いよ」
「嬉しい。んっ」
どうしてかは良く分からないが、姫神の胸を弄んでいるとなんだか上条も眠たくなってきた。
女の子の胸というのは、やっぱり触っているとなんだか安心するのだ。
もっと深く体を絡めようと思って、上条は太ももをぐいと姫神の足と足の間に滑り込ませた。
「あっ……!」
「あ、ごめん」
姫神が驚いた顔をした。
しれっと謝っておいて、上条はもうその理由に気づいていた。
太ももが、姫神の足の付け根に触れている。
上条の制服のズボンが、きっと姫神の下着に接しているのだろう。
すごく、そこは暖かかった。
「恥ずかしいよ……」
「無理に動かしたりは、しないから」
「絶対だからね?」
「ああ」
メインはキス。そして胸や背中を撫ぜる手がそれに続く。
上条はそれを繰り返しながら、だんだんと二人で眠りの中に落ちていく。
時々体をゆするときに、太ももを押し当てる強さを変えると、姫神の反応が可愛かった。
そしておやすみの挨拶をするでもなく、いつしか二人は絡まったまま意識を手放していた。
一時間くらいだろうか、ふと上条が目を覚ますと、室内は日が落ちたせいですっかり暗くなっていた。
そして姫神のベッドの上で寝ていたことを思い出す。
ベッドの持ち主はまだ目覚めていないらしく、静かな寝息を立てていた。
起こさないよう、触れたりはせずにそっとその寝顔を眺める。
所有しているという感覚は女性に対してきっと失礼なのだろうが、
しかし上条が隣で眠る姫神の顔を見て覚えるのは、姫神が自分のものなのだと思う、その満足感なのだった。
自分がもう一眠りしてしまうと本格的に遅くなりそうだ。寝顔に満足したら、起こしたほうがいいだろう。
枕もとの時計を見る。あまり遅くなっては、インデックスが気を揉むだろうから。
思えば、この数日は怒涛の展開だった。
まあこの夏からこちら、上条の人生はジェットコースターのように猛スピードであれこれ展開はしているのだが、
色恋沙汰の面で、上条の隣にいてくれる女の子について考えれば、人生でも初なくらいこの数日は劇的だった。
ひょんなきっかけから姫神と放課後を過ごすことになって、どんどんと距離を近づけて。
逆に美琴との距離が開いてしまった。インデックスとも、関係の意味合いを変えてしまった。
吹寄とももう、ただの友達としては遊べないかもしれないし、彼女の姫神がいれば五和だって居心地が悪いかもしれない。
そんな風に、少なくない人と疎遠になった。
代わりに、こんなに近くに、姫神を抱きしめられるようになった。
「ん……」
上条の身じろぎに反応したのだろう、浅い眠りから姫神が浮かび上がってきた。
薄く目を開けて上条を認識して、姫神が眠たげに可愛い笑顔を浮かべた。
「おはよう。当麻君……」
「おう。まあ時間的におはようは変だけどな」
「うん。夜だもんね」
「寝顔、可愛かった」
「もう……いいもん。昨日の当麻君の寝顔も可愛かったから」
そんな仕返しを喰らって、上条は姫神の唇を唇でふさいだ。
「ん。ふ。あ」
眠気を引きずったままの、緩慢なキス。
今このタイミングには、そういうのが合っていた。
「秋沙、好きだ」
「うん。嬉しいよ」
「結婚してくれ」
「えっ? ……うん。いいよ」
本気で言うにはまだ上条も姫神も若い。
だから冗談みたいなものではあったけれど、だけどなんだか照れくさくて、嬉しい。
上条の心音を聞くように、姫神が胸に頭を預けてきた。
「当麻君があったかいから。このまま寝てもいいかなって思っちゃう」
「んー。でも腹減ってこないか?」
「もっと雰囲気を大事にしたこと言ってくれないの?」
「ごめん」
顔を見合わせて、クスクスと笑う。
「今日も一緒に晩飯食べないか?」
「うん。あの子もお腹を空かせてるだろうし。早く行ってあげないと」
「だな」
自然な風に姫神がインデックスの名を出してくれたのをありがたく思いつつ、上条は名残惜しいベッドから身を起こした。
そして姫神を抱きかかえて起こしてやる。
「髪。ちょっと梳くね」
「ああ。……って、手伝っても大丈夫か?」
「え? お願いしてもいいの?」
「おう。でも慣れてるわけじゃないから下手かもしれないけど」
「大したことじゃないよ。根元からさっと櫛を通して整えるだけだから」
姫神から櫛を渡される。姫神の後ろに回って、そっと髪を梳いた。
寝乱れた髪はところどころほつれを作り、そこに引っかかるたびに櫛が止まる。
それを指で一つ一つ解いてやって、長い髪を整えた。
「人に髪を触ってもらうのって気持ちいいよね」
「……俺以外の男でも?」
「もう。美容師さんだったら。そうだけど」
「ああ、それはそうか」
「でも当麻君は別だよ。……このまま頭撫でてもらって。二度寝したいな」
「それでもいいけどな。インデックスをこっちに呼んで、俺はメシを作っとくから」
「あは。駄目な彼女さんだね」
「たまにはいいだろ」
「うん。でも。今日は当麻君の家で私がご飯を作ってあげたいの」
眠気を振りほどくように、姫神は伸びをした。
「それじゃあ、行こっか」
女子寮を抜けるのに少しスリリングな思いをしてから、二人で男子寮のエレベータを上がる。
二人っきりの時間はまたこれで終わりで、すこし、物足りない気持ちもある。
「何を食べたい?」
「んー……難しいよな。だいたいいつも、冷蔵庫の中身と相談して決めるし」
「私もそうかも。それじゃ家に入ってから決めよっか」
「だな。まあ、さっさと作らないとインデックスがどんどん不機嫌になるんだけど」
姫神はそれに応えず、上条の腕をちょっと強めに抱きなおした。
胸の当たる感触が気になる。
「今日。ご飯を作ってあげたい理由はね」
「ん?」
「当麻君に食べて欲しいからが半分で。もう半分は当麻君のご飯をあの子に食べさせたくないから」
つまり、上条とインデックスは恋人ではないのだと三人とも分かってはいるが、まだ割り切れない思いがあるということだった。
「不安にさせて、ごめんな」
「私こそ。勝手に不安になってばかりでごめんね」
「いいって。自覚はなかったけど、俺が秋沙を不安にさせるような生き方してるから、まずいんだよな」
上条は姫神の髪をそっと撫でた。さっき整えた髪は光沢を放っていて、綺麗だと素直に思った。
「そんなこと考えたこともなかったけど、意外と上条さんはもてたってことなのかね」
「自覚がないのが良くないよ」
「って言われてもなあ」
自嘲というか冗談のつもりで言ったはずの言葉に、真顔で返されて上条は困るのだった。
「俺が惚れてるのは秋沙だけだから。ずっと、一緒にいてくれ」
「死が二人を分かつまで?」
「……ああ」
「ふふ。よろしくお願いします」
「ん、こちらこそ」
夕暮れ時の上条の部屋の前で、二人はそっと、軽いキスを交わした。
これからも、ずっと二人が幸せでいられますようにと。
82 : nubewo ◆sQkYhVdKvM - 2011/06/01 03:44:31.65 7hpdMmcko 211/212以上で『上条「もてた」』は終幕となります。
最後までお読みくださった皆様、どうもありがとうございました。
皆様にとって読了感の良いものであればいいなと願うばかりです。
ちょっとした原石としての力を除けば平凡な彼らが、
これからも平凡で幸せな日常を描けるであろうこと、
そういう夢想を皆さんが思い描くためのお手伝いを出来たなら幸いです。
さて、それはそうと。
このSSの未来にある、上条さんと姫神さんが肌を重ねるシーンって読みたいですか?
まあ、熱い希望があればやってみようかなという感じです。
91 : nubewo ◆sQkYhVdKvM - 2011/06/05 12:25:53.07 t0jjKPEqo 212/212上条「もてた」の全編を誤字の修正を行ったうえで、
seisoku-index wikiのほうに掲載しました。
まとめて読みたい方は、こちらからどうぞ。
上条「もてた」本編
ttp://www35.atwiki.jp/seisoku-index/pages/38.html
アフターストーリー
ttp://www35.atwiki.jp/seisoku-index/pages/581.html
イライラしなかったと言えば嘘になるけどこれくらい我がままで丁度いいんかな
成長期に2、3年分記憶抹消しとるしな