上条「約束したよな?例え地獄の底でも、お前を ――― 」【前編】
上条「約束したよな?例え地獄の底でも、お前を ――― 」【後編】
一方通行「いい子にしてたかァ?」【1】
一方通行「いい子にしてたかァ?」【2】
『垣根さん、この前の春コレの衣装とっても素敵でしたわ。私ついつい全部買ってしまいましたの』
――― オイオイ、ありゃあティーン向けのデザインだぜ。10年遅過ぎるだろ。
『あら、素敵な指輪をなさってるのですね。私もおそろいの買ってしまおうかしら』
――― そんなことしてみろ、すぐさまぶっ殺すぞカス。大体コレは飾利とお揃いにしてあるんだよ豚。
『垣根さんってレベル5なんてですってね。どんな能力なのか見せていただけません?』
――― 羽見せりゃ絶対ビビルだろ。まぁ小便チビって命乞いする姿なら是非とも見てみたいけどよ。
『ところで、垣根さんは今お付き合いしてる方っていらっしゃるのかしら?』
――― いる、いる、います。絶賛同棲中だし。つーか、来年辺りプロポーズする予定だし。
『今度ウチでパーティーを開くのですけれど、よろしかったら』
――― 気持ち悪い、手握ってんじゃねぇよボケ。
内面の声とは裏腹に、垣根帝督はにこやかに好青年然とした笑みを浮かべる。
物腰は柔らかく、けれども決して卑屈にはならぬように計算されつくした振る舞いに始終徹底している。
ガラシャツなどではなく、清潔感溢れる白いシャツに、ジャケットを羽織った姿はホストというよりも、青年実業家といった風体である。
六本木ヒルズあたりに会社を構えていそうな感じとは、周囲の女性陣の反応である。
事実、彼は青年実業家であった。
最近人気のブランド『TEITOKU』の代表取締役であり、デザイナーを担っているのだから。
補足しておくと、実質これは垣根と初春の二人で運営しているデザイン事務所である。
一方通行曰く「メルヘンとお花が交差した結果、奇跡の化学反応が起こったってわけだ」である。
羽や花をあしらったデザインはティーン層や、ゴスロリ系を好む幅広く受け入れられている。前理事長の下封鎖的な市制が敷かれていた頃ほどではないとはいえ、未だに学生が七割近くを占める学園都市のニーズに見事に合致したといえる。
成功の秘訣はといえば、初春の少女らしい趣味と垣根のメルヘンチックな趣味(一方通行談)が程よく相互作用した結果だろう。
更にはどう見ても成人を迎えているようには思えない初春と、美琴の娘、想という絶好のモデルがいることが大きい。
そんじょそこらの親の贔屓目の入った美少女モデルなど足元にも及ばぬ美少女をモデルに出来る垣根と、モデル協力した服を只でもらえることに、変なところでケチ臭い一方通行の利害は一致した。
そのような周囲の環境によって、垣根帝督は暗部『スクール』のリーダー⇒帝凍庫君⇒メルヘンホストを経て新進気鋭の人気ブランドの社長という立ち位置に収まったのだ。
そんな彼は、現在お得意様と商談中である。初春と暮らすマンションから車で15分程度の事務所。
相手は親子姉妹そろって垣根のデザインする服、アクセサリーを新作のたびに購入していく。
その都度その都度かなりの金額を落としていくので、垣根としては邪険になど出来る相手ではなかった。娘の方は常盤台出身というだけあり、如何にも世間知らずのお嬢様らしい。
しかし、垣根はうんざりとしていた。意識的に注意しておかなければ溜息を吐いてしまいそうだ。
常盤台といっても、レベルは3。正直垣根からしてみれば、その程度で常盤台だとことあるごとに口にして欲しくはない。
お得意様母娘の話は続いていく。垣根は、どこぞの白い青年とは違い鈍感な男ではない。寧ろ知人の中では敏感な部類に入るのではないだろうかと自負する。
垣根は自分に向けられる好意を正確に汲み取ることが出来るし、自分の外見が他者にどのように受け取られるのかも把握している。
ゆえに、目の前の女が自分に対して好意を抱いていて、あわよくば自分を恋人にしたいと思っていることもわかるし、その隣の母親がレベル5を親族に引き入れて、引いては理事会とパイプを持ちたいという思惑を抱いていることもわかっている。
(あぁ~~飾利と飯食いに行くつもりだったのに……商談ならとっくに済んだんだから帰れってんだよ)
表面上はにこやかにしつつも、内心は愚痴ばかり。今日は大学が午前で終わる初春とランチでもと思っていたのだ。
明日は彼女は学校がないし、自分も仕事がキリ良く終わっている。
ランチの後どこかに出かけて、そのままディナー、そしてほろ酔いの初春とホテルに泊まる、等というプランだって想定していた。
しかしアポ無しにやってきた目の前の親子のせいで全ては御破綻だ。
親子の話の長さを理解している垣根は初春にすぐさまキャンセルの電話。こういう時にメールで済ませると初春は何気に機嫌を損ねてしまうのだ。
実際、相当楽しみにしていたらしい初春は電話越しにもしゅんとなっていた。
その声は、可能であれば今すぐに飛んでいって抱き締めてやりたいと思う程に垣根の胸を締め付ける。
そして思う。一体自分は何をやっているのだろうかと。成金趣味甚だしい金色の指輪だらけの手から目を逸らしながら母親の顔を見る。
笑うと顎がぶよぶよと柔らかいだけで弾力の感じられない顎の皮が二重三重にたわみ、前歯に付着した毒々しい口紅が覗く。
娘も、まだ20代そこそこのはずなのに過剰な化粧に過剰な香水。化学品で固めたようなフレグランスに頭痛がしてくる。
垣根の顔に一瞬軽蔑の色が浮かぶ。さっさと終わらせたい。終わらせて初春に会いたいと切に思う。
薄っすらと甘い花のフレグランスの香り。それは抱き寄せるとようやくはっきりとわかる程度の微かな量だが、それが垣根の心を逆に掻き立てる。
一番強く香る首筋、うなじに鼻を突っ込んで、思い切り匂いを胸に吸い込みたい。
変態じみた欲求だろうか。親子と会話をしつつ垣根はふと思う。しかし、それをやめようとは思わない。
あの小さくて、華奢で、柔らかい身体を知ってしまうと、最早自重などという言葉は空々しくなる。
どうやらロリコンは自分の方らしい。
以前一方通行に「お前の方がガチだよなァ…」と言われた時は反論したが、冷静に考えるとそうかもしれない。いや、そうだ。
(想タン可愛いしな)
初春とも仲が良い、友人の娘を思い浮かべる。
自分がデザインした服がこの上なく似合う少女。自分の羽にいつも擦り寄ってくる少女を見てると素直に可愛らしいと思う。
初春と仲良くしている光景など見ると、こっそり写真に撮ってしまったりもする。
学園都市第一位と三位の寵愛を受けて、元暗部のレベル4の先生にも可愛がられているというのはよく考えずとも凄い。
(途中でチラッと見てくか。暇だし)
一度考えると気になってくる。
前に会ったのはバレンタインくらいの時期だったから一ヶ月以上が経っている。
帰りに保育園に行って、想の顔を見ていくくらいしてもいいだろう。自分に気付いて子犬のように駆け寄ってくる少女を想像して、少しだけ顔がにやける。
親子が怪訝な顔をするので、慌てて顔を引き締めたが、軽い気持ちで決めたことだが、この退屈で、くだらなく、ひたすら疲れる空気に触れていたのだから、浄化してもバチはあたるまいと考える。
その思考は既に半分ロリコンに足を突っ込んでいるという自覚もなく、垣根はマンションに向かう途中の迂回ルートを頭の中で設定しはじめた。
◇
御坂想は途方に暮れていた。
幼いながらも、彼女の気持ちに名を付けるとすればまさしくそれだ。
胸に抱いた猫がみゃおう…と心細げに鳴く。泣きたいのは想とて同じだ。
視線をゆっくり、おそるおそる下に向ける。
地面との距離はおよそ二メートル弱。
大人からすれば大した高さではなくとも、五歳につい先日なったばかりの少女からすれば眩暈のする高さだ。
それでも泣かないように唇をきゅっと結ぶのは胸に抱いた猫を怯えさせないようにするため。そして、母親譲りの負けん気の強さゆえでもあった。
彼女は今、木の上にいた。
よじ登り、降りれなくなっているのだ。
勿論、普段少女はこのような失敗はしない。大人が見ていないところでの木登りは危ないと一方通行や絹旗にキツく言われている。
美琴に至っては、擦り傷一つで大騒ぎしかねない。
そんな心配性というか、過保護な大人に囲まれながら、少女は自分自身の危険さよりも彼等を心配させないために危険から遠ざかるようにしていた。
しかし、今日は普段とは勝手が違った。
視線を向ける先には、想の通う保育園が見える。彼女が今いるのは保育園の直ぐそばの街路樹である。
腕の中に抱いた猫。この猫を偶々見かけた彼女は、ついつい興味を引かれて追いかけてしまった。
真っ白な足袋を履いたような茶色の小さな猫は、母親に似て可愛い動物が好きな彼女の心をすぐさま掴んでしまった。
ててててと後を付いて行ったのは、少しだけ撫でたり抱っこさせてもらいたいから。
その時の彼女にあったのはそれだけであった。
ただ、不運なことの一つとして、そんな想の行動を偶々目を離していた絹旗がまったく気付かなかったこと。
絹旗は先生として、想ばかり見ているわけにもいかない。園児の数、行動力、はしっこさに対して、絹旗一人では帳尻が合っていないのだ。
そして、もう一つの不運なこと。それは、追っていた猫が木に上り、そして下りられなくなってしまったことだ。
自分で上っておきながら心細げに鳴き始めた猫の声が、想には助けを求めているように聞こえた。
か細い声に、幼いながら庇護欲が刺激されたのだ。
「だいじょーぶだよ~こわくないよ~」
そう言って猫を怯えさせぬように、慎重に近付き、木の枝の先で震えていた白足袋猫を胸に抱いた瞬間の達成感。
しかし、それが過ぎ去り、いざ戻ろうとして想は初めて気付いた。
木が高過ぎて自分でも降りられないということに。
そして、今に至るまでまだ気付いていないのか、はたまたこの場所にいる事に気付いていないのか、絹旗が来る気配はない。
不意に冷たい三月の風が街路を吹き抜け強く木々を揺さ振った。
「ふにゃぁ!!」
抱き締めた猫と一緒に、洩れる幼い悲鳴。
もう直ぐ春だというのに、吹き付ける冷たい風と、がくがくと揺れる足場が少女の残り少ない余裕を更に削り取っていく。
目尻に浮かぶ涙を、袖で拭くと、想は温もりを求めるように猫を抱き締める腕に力を込める。
力が強過ぎたのか、みゃうと抗議の声を上げる猫。しかし、想には最早そこに気遣える余裕はなかった。
「あーくん…」
思わず呟いたのは、大好きな人の名前。父親のような兄のような、想の王子様の名前。
「あーくん……あーくん……」
心細さが、彼女の意識を飛び越して自然と会いたい人の名を呟かせる。
まるで助けを求めるような弱々しい声。自分が上げた声だというのに、その声で遂に我慢していた不安や恐怖が胸の中をじわじわと広がっていく。
まるで和紙の上に広がる墨のように。
「ママぁ……ひっぐ……ままぁ…せんせえ…きぬ…えく…ぅ…きぬはたせんせぇ……ふぇ…」
鼻を啜る。
涙がぽろぽろと遂に零れてしまった。
少女が木に登ってから、時間としては30分も経ってはいない。
けれども、少女にとって、それは何時間にも思えるほど気の遠くなるような時間であった。
腕の中の温もりが辛うじて慰めになっているものの、絶えずぎしぎしと揺れる木々の上で寒風に曝されることは少女の心を孤独に、不安に陥らせていく。
「あーくん……こわいよぉ……あーくん…」
ぐしぐしと零れる涙を袖で拭っていく。
力を入れすぎて、お餅の様な肌が赤くなる。
みぃと猫が涙に濡れた想の頬を優しく舐める。
「いたいよぉ……えへへ、ごめんね」
ざらざらとした鑢のような舌が痛い。
それでも、猫のつぶらな瞳、ふわふわの毛、柔らかな体。
そして腕越しに伝わってくる心音。それらが辛うじて想の心を落ち着けてくれる。
「ゴメンね。ねこさんもこわいんだもんね。想ばかり泣いちゃった」
恥ずかしそうに頬染める。
彼女の中では、腕の中の猫は自分の妹分なのだ。
お姉さんである自分がぽろぽろ泣いてしまうなど幼い少女の中では恥ずかしいことだった。
猫と温もりを分け合うように、ぎゅっと抱き締め、揺れる枝の上で、想は目をぎゅっと閉じる。
少しでも怖くないようにするために、下を見ずに済むように。
そんな少女の耳朶を、優しい音色が撫でる様に包んだ。
「どうしたの?降りれなくなっちゃのかな?」
あまりにも優しく、柔らかな声に、想は目を開いた。
視線を思わず、怖くなるとわかっていたはずなのに下に向ける。
そこに立つ一人の女の姿に幼い少女は目を奪われる。
日の光を浴びて、銀色に光る美しく滑らかな髪。
水晶か、或いは宝石を散りばめたような碧い瞳。
蕩けてしまいそうな甘い輪郭は、大理石の如く白く仄かに輝く。
すぅっと迷い無く引かれた鼻梁から顎へのライン。
そしてルージュなど付けていないにも関わらず薔薇のように鮮やかに色めく唇。
「おひめさまだぁ…」
呟いた想の言葉はまさしく真理を指しているようだ。
想の呟いたのは煌びやかという意味だけではない、まるで童話にしか出てこないような『お姫様』がそこにはいた。
女の美貌だけではなく、その身に付けた衣装の効果でもあった。
普段街中で目にする機会の無い不思議な服。映画で見たハリーポッターにでも出てきそうなゆったりとした服。
プラチナブロンドをさらさらと揺らしながら、姫君に例えられた女性はころころと笑う。
「ふふふ、ありがとう。でも、貴女もとても素敵なお姫様だよ?さ、ちょっと待っててね今降ろしてあげるから」
そういって、女神のような女性は、後ろを見る。
つられて見た先には、フードを被った人影。
恰幅、身長から見て、男だろう。背は一方通行くらいだろうか。
フードを被っていた男は、おもむろに木に近付き、両の腕を伸ばす。
一瞬想の身体が初対面の人間に対して往々にして抱く警戒心に包まれる。
しかし、意に介すこともなく、男は口元を和らげる。
「さ、降りておいで。大丈夫だからさ」
優しい声だと思った。
一方通行のような、囁くような甘さではなく、テレビで耳にする穏やかなナレーションの声のようだ。
ホッとする優しい男の声に、想の警戒心は緩み、おそるおそる枝から身体を男の方へと傾ける。
体重の移動に耐え切れず、ミシミシと枝が音を立てる。
「きゃっ!」
折れかけるや否や、想は弾かれるように男の方へと跳び上がった。
「おっと」
男の腕は、重力と加速が加わった五歳児の身体をいとも容易く抱きとめた。
男に抱きかかえられながら、想はそっと男の顔を見上げた。
「エライなお姫様。ちゃんと猫を守ってるなんて」
腕の中の猫に優しい目を向けると、男が感心の声を上げた。
少しタレ目がちのその目元に、想は何処か見覚えがあった。
それが一体どうしてなのか、幼い少女が考え込む間にプラチナブロンドの女がゆっくりと側に来る。
少女の目の高さにまでかがむ。
「大丈夫?怪我は無かった?」
絵本のヒロインを目にしたように、想は緊張に顔をリンゴのように赤くする。
そんな愛らしい少女の仕草に目を細めると、女はそっと子猫のような想の紅茶色の髪を撫でる。
傍らの男は、思い出したように少し慌てた仕草で腕時計を見る。
「そろそろ戻らないとヤバイな」
「そうだね。かおりも心配してるかも……それじゃあ私達は行くからね。もう危ないことしちゃダメなんだよ?」
「うん」
こくんと頷くと、女は「可愛い」と言って想を抱き寄せた。
甘い香りが想から緊張を消していく。
変わりに、とろんと、そのまま身を任せて眠ってしまいたいような不思議な安心感が沸く。
想の髪を何度かなでると、女は少々名残惜しそうに立ち上がる。
名残惜しいのは想も同じであった。
「バイバイね」
「うん。ばいばい。ありがとうね、お姉ちゃん。それから………おじちゃんも」
手を振る女の隣で、男がショックを受けたように微かに身体を仰け反らせる。
女が、男のそんなリアクションを見てくすくすと笑った。
「そ、そんな…俺はまだ25歳なのに……」
「ちっちゃな子から見ればオジサンなんだよ」
少女に手を振ると、女は男の腕に悪戯っぽく腕を絡めた。
男が慌てたように「お、おい。こんな街中で…」と小さく呟く。
女は意に介した様子も無く、想に微笑みかける。
思わず見惚れてしまうような綺麗で幸せそうな笑顔だった。
「はぁ……おじさん…か……」
男がどこか煤けた背中でぼそりと呟く。
そんな男の脇を肘で軽く突きながらプラチナブロンドの女が楽しそうに笑う。
「ふふふ。いつまでもしょげてないの。さ、行こ ――――
―――― とーま」
まるで童話に出てくる美しく神秘的名お姫様と無骨な騎士のような二人だ。
想は、垣根が通りかかるまで、童話の登場人物のような二人の後姿を眺めていた。
その出会いが如何なる縁の巡り合せであったのか。
その男に抱いた奇妙な既視感は一体なんだったのか。
その意味に想いを馳せることすらせずに、幼い少女は、ただぼんやりと二人の背中が少女の花びらのように小さな指の爪よりも小さくなるまでずっと見ていた。
垣根帝督は己が手を見つめる。
彼の前には、ちんまりとした小さな少女の背中。
想の顔でも見ようと立ち寄った保育園では、絹旗が泣きそうな顔で想を探していた。
保護者の帰りを待って遊んでいる子供たちの面倒を見ている隙に出て行ってしまったようだ。
想を探す途中、垣根は奇妙な圧迫感を覚えた。
それは今彼が立つ通り一帯についてである。
普段ならば、気乗りがしないと方向を変えるところであった垣根の気を変えたのは、『あーくん…』と風に掻き消えてしまいそうな子猫のようなか細い声だった。
そして、圧迫感を堪えて通りに踏み込むと、垣根の目に木の上に登って降りられなくなったよく見知った少女の姿。
見た事の無い男女の二人組みが、想を木から下ろそうとしているとわかると、垣根は胸を撫で下ろした。
それでも、少女が落ちてしまわないように、少女の身体を支える手助けをとさり気無く未元物質を風に乗せたところで垣根は目を疑った。
少女に、正確には、少女を抱きとめようとする男に向けた未元物質が消えたのだ。
綺麗さっぱり消失してしまったのだ。
幸い、想は無事に男に抱きかかえられたのだが、強い力で相殺されたわけでもなく、ただ、消失したという不可解な出来事に暫し垣根は動けなかった。
目の前では、少女は立ち去っていく男女に向かって勢い良く手を振っている。
勢いが良過ぎて、頭に重心がいきがちの幼児の身体が僅かによろける。
後ろから転んでしまわないうちに垣根は少女に近付くと頭に手を乗せる。
「ていとくんだ~!」
不意討ちに驚く風でもなく、少女はにっこりと振り向く。
満開の花のような笑みに、つられて笑みになる。
「オッス想タン。っていうか、良く俺だってわかったな~」
手触りの良さにかけては、初春をも凌駕するふわふわの髪の感触。
それを堪能するようにわさわさと撫でていく。
普段は学園都市一怖い保護者が、『ていとくンはァ~~妥協しても一秒しか撫でちゃいけませン~』等といって、頭なでなでといった狼藉は決して許してくれないのだ。
その学園都市最強の守護者を持つ少女は垣根の体にぴとりとくっ付くと、垣根の顔をじっと見上げる。
「うん。なんとなくわかるの。あーくんとかね、きぬはたせんせいとか、あとママとかしずりんが近くてもわかるの」
「へぇ~そいつはスゲェな」
「で、想タン保育園はどうした?」
「あッ!」
すっかり忘れてしまっていたようだ。
おそらく、それはあの想と話していた一人の女のせいだろう。
抜けるような輝くプラチナの髪を風になびかせる姿は、心に決めた女性のいる垣根であってもしばし見惚れてしまう。
遠目からでも目を引くほどの美貌の女であった。
間近でそれを見た少女にとってはきっと童話の世界から抜け出てきたお姫様のように映ったのであろう。
(ま、飾利には劣るけどな)
そして、女に比べると、男の何と印象に残らぬことであろうか。
未元物質を消失させられたことが無ければ存在すら忘れてしまいそうだ。
顔など思い出そうとしても思い出せない。
(記憶力には自信あるんだけどなぁ…)
しかし、浮かぶのは不思議と輪郭だとか、無骨な手くらいであろうか。
まるで、狐に抓まれたようだ。
しかし、いつまでもそんな事を気にしていても仕方が無い。
垣根は想の不安げな顔にすぐさま切り替える。
「絹旗相当心配してたぞ?」
「あううう……」
しゅんとなる少女の頭を、垣根はわしゃわしゃと荒っぽく撫でる。
「素直に謝れ。わけ話してな」
「……うん」
一応納得はしたのか、俯いていた顔を上げる。
そのまま、想は、もじもじとしながら垣根を見つめる。
一瞬怪訝な顔をした垣根だが、すぐに察する。ジッと見上げてくるのは、肩車をねだる時の少女の仕草だ。
それを熟知してる垣根は想の両脇に手を差し込むと、軽々と抱き上げる。
ぬいぐるみを椅子に座らせるように、ホストのような青年の肩に幼女が収まりよく座る様子は些かシュールである。
日常生活において杖を使用している一方通行には出来ない芸当である。
勿論、能力を使えば可能であるのだが、少女はそこまでして自分のわがままを彼に聞いて欲しいとは思っていない。
ゆえに、想は時折垣根や浜面に肩車をねだる。そして、それを目にした一方通行がしばらく黄昏てしまうことも一連の流れとしてよく見受けられるが、この場においては余談である。
「おっ…想タン少し重くなったか?」
勿論、これは褒め言葉である。
垣根は、成長したなというニュアンスで言ったに過ぎないのだが、どうやら彼の肩に跨っている少女はお気に召さなかったようだ。
垣根の頭上で舌足らずの声が拗ねたように響く。
「お、重くないもん!」
「い~や、重くなったね、こいつは」
「ていとくんイジワル」
「あの馬鹿の飯食べ過ぎてんじゃないのか?」
「あーくん悪くないもん!!」
「食べ過ぎは否定しないわけね」
お菓子作りすらマスターしつつある一方通行は、主夫たる足場を磐石なものにしつつある。
そして、あの馬鹿と言われて一方通行をすぐさま引っ張り出してくる想。
その辺りに、普段二人がどのような会話をしているかが直ぐに伺える。
『 ―――――― ゃーん!』
「ん?」
「ふぇ?」
想を肩車した垣根がそのまま保育園の方へと歩き出すと、何処からであろうか。
遠雷のように、或いは山彦のように聞きなれた声が二人の耳に届く。
二人は顔を合わせて、気のせいだろうかと首を傾げる。
しかし、それは決して気のせいではなかった。
遠雷でもなければ、それは山彦でもない。
遠雷かと思ったものは地鳴り。猛烈な速度でコンクリートを蹴り砕きながら突き進む足音。
山彦かと思ったものは叫び。切実かつ悲痛な声で、可愛い可愛い少女を呼ぶ叫び声。
「そ~~~~~う、ちゃーーーーーーーーん!!!」
「あべしっ!?」
「ひゃうっ」
上から順に説明すると、窒素ジャンプヤクザキックを繰り出した絹旗先生の叫び。
次が、その窒素ジャンプキックを顔面キャッチした垣根帝督君の悲鳴。
最後が、その勢いによって空中に放り出された想の可愛い驚きの声。
垣根の世間的に見て高水準の整った顔に躊躇の一切存在しない蹴りを見舞った絹旗は、そのまま着地と同時に空中に投げ出された想のちまっこい身体をキャッチ。
想は暫し呆然としていたが、すぐさま大好きな先生だとわかると全身で喜びを示すようにぎゅっと抱きつく。
どこぞのロリコンホストが想を連れ去ろうとしているのだと早合点した絹旗の華麗な飛び蹴りをくらった垣根は三回転、四回転と綺麗な弧を描いていく。
円が、十回目を描いたところで、地面に触れ、錐揉み状に縺れた。
遠心力たっぷりにぶん投げられた水拭き用の雑巾をイメージして頂きたい。
動きやすさを重視したスニーカーでよかったと思ったのは他の誰であろう、冷たいコンクリートに横たわった垣根であった。
この速度とパワーの蹴りをもしサンダルやパンプスで受け止めていたらと思うとゾッとする。
本当にスニーカーで良かったと、靴底のメーカーのロゴまでくっきりと刻み込まれた垣根帝督は心から思った。
心配で仕方が無かった少女が見つかった安堵感と、可愛らしい少女の仕草に絹旗は少女の身体を抱きしめ返す。
絹旗の目尻に涙が浮かんでいるのを見て、想はようやく自分が悪い事をしてしまったのだと、実感を抱く。
「もう!!想ちゃんどうして勝手に出ちゃったんですか!!超心配しましたよ?」
想を下ろしてやると腰に手を当てて、絹旗は声を荒げた。
口調は怒鳴るというには柔らかい。しかし、その語気の荒さは、普段の彼女であれば想に向けたりはしないだろう。
想はびくりと肩を震わせる。腕に抱いていた猫はとっくに何処かへと走り去っている。
「あのね…ネコさんがね、おりられなくなってたの…」
「あ~あ……」
「それでね、ネコさんこわがってたの……だからたすけてあげたかったの…」
降りられないとはおそらくは木のことであろう。絹旗には大体の事情を察することが出来た。
木から降りれなくなった猫を捕まえようとして、自分も木から下りられなくなった、そんなところだろう。
心の優しいこの少女は、加えて可愛い動物が大好きである。
美琴や打ち止めであれば、木に登るところまで追いかける前に諦めて引き上げたであろうが、この少女は違う。
母親と違って電気が出ているという事も無いから、動物に好かれもする。
「それで想ちゃんが木から落ちて怪我しちゃったらどうするんですか?」
少女の小さな身体が鞠のように木から落ちてぐったりと横たわる光景が過ぎり、絹旗の声が自然と険を帯びる。
想は、絹旗の言葉に怯えながらも、大きな瞳を不思議そうに揺らして見つめ返す。
「でも……じゃあ、せんせいはネコさんが下りられなくなってもいいの?」
真っ直ぐな瞳に、絹旗は一瞬声に詰まった。
さて、と絹旗は想を見下ろしながら、脳裏では困ったなと思う。
此処で叱るべきは、木から落ちそうになってしまったこと。
つまり、危険な振る舞いをしたことである。
猫を助けようとしたことは褒めてあげてもいいくらいだ。
ただ、それと木から下りられなくなった事は別の話しである。
反発心から出た言葉であればぴしゃりと叱りつければいいだけの話だ。
しかし、想の瞳は純粋に疑問を映している。
我が身可愛さに、猫を見捨ててしまっても良かったのか?
猫と人間とでは命の重さが全く違うなどとどこぞの馬鹿親の言うような愚かなことは間違っても言いたくない。
しかし、命が平等だとも言いたくない。
絹旗などは特に人間がゴミ同然に死んでいく世界を知っている、その言葉の愚かさ、空々しさは百も承知だ。
しかし、出来れば想には怒られるのが怖くて悪い事をしないという考えを持って欲しくない。
何という言葉が一番この少女にとって響くのだろうか。
そう思い、暫し思考を巡らせてみると、やはりというべきか浮かぶのは美琴と一方通行の顔である。
卑怯だな、と自嘲しつつ絹旗はしゃがみこんで想と同じ高さの目線になる。
「じゃあ想ちゃんは、もしね?もし、あーくんが想ちゃんみたいに猫さんを助けてあげようとして大怪我しちゃったらエライねって褒めてあげます?」
「……え?」
一瞬何を言われたのか、わからないと言いたげに幼い瞳が絹旗を見返す。
つぶらな子犬のような瞳が、既に潤いを帯びていくのを、ちくんと胸が痛むのを堪える。
「木から落ちちゃって、それで、あーくんが痛い痛いって泣いてたら、想ちゃんはそれでも猫さんを助けようとしたから嬉しいですか?」
絹旗は自分の言っていることの残酷さをよく理解している。
幼い少女には、「怪我をしたら痛いでしょ」と叱り付けてやるだけで十分なのかもしれない。
おそらく、他の保育士であればそう言うであろうし、相手が想ではなかったら自分もそうしただろう。
けれども、目の前の少女は違う。
利発なこの少女におためごかしは用いたくない。
少女は、涙を滲ませながらもフルフルと首を振る。
「いやなの………あーくん泣いちゃったら、想イヤなの」
既に少女の瞳は涙に濡れてしまっている。
透明な雫が、大きな瞳から丸い涙の結晶となって零れるさまは、それだけで胸が痛む。
想像するだけで、こんなにも泣いてしまえる少女の純粋さに、愛しさが込み上げる。
「そうですね。先生も超嫌です」
絹旗は少女の瞳をハンカチで拭ってやる。
「想ちゃんは今凄く悲しかったですよね。あーくんが怪我するなんて、考えるのも嫌ですよね。でもね、想ちゃんが怪我をしたら、今の想ちゃんみたいに泣いちゃうんですよ?
想ちゃんのママも、あーくんも。想ちゃんは、二人を悲しませてもいい?」
少女が小さく「いや」と呟く。
絹旗の口元に小さな笑みが浮かぶ。
「………ごめんなさい…せんせい」
絹旗は答える代わりに、にっこりと笑って少女を抱き締める。
絹旗はあえて『正解』を出さなかった。
大切な人を悲しませてはいけない、つまりはそれだけのことだが、それは言葉にしてしまえばすぐさま薄っぺらなものになる。
正確には、この問いに正解は無い。
小さなモノの命を尊び、身を犠牲にしてでも助けたことを賞賛するのもまた一つの答えだ。(絹旗はそんな答えを口にする人間を信用しないが)
ただ、少女には自覚を持って欲しかった。
自分を愛する人がいるという事の意味を。
それは可愛がってくれるというだけの意味ではない。
自分の起こした行動によって、深く傷つき、嘆くこともあるということを。
幼い少女にその物事を一から十まで理解させることは勿論難しい。まだ五歳の子供にだ。
しかし、本質を、漠然とではあるが把握させることは不可能ではないと思っている。
事実、今絹旗の腕の中ですんすんと鼻を啜り、泣いてる少女は十分過ぎる程理解しているようだ。
「ホントに……しょうがないですね」
きっと、想像力豊かな少女の中では、絹旗が見た事もないような光景が繰り広げられているのだろう。
つまり、一方通行が涙を流して泣いてるイメージだ。
不謹慎ながらも、少しだけそのイメージを覗いてみたいと絹旗は思った。
余談であるが、顔面に靴跡付けたホスト風イケメンの存在を二人が思い出したのは二人が保育園に戻ってからである。
◇
とある学園都市のとあるホテル。
VIPにしか滞在することを許されない高級が頭に三つ付いてもおかしくは無いレベルのホテルである。
ミシュランでは星三つを獲得したというが、正直神裂にとっては科学の檻。
落ち着かず、ただ広いばかりのこの部屋に、これから二週間も滞在ストレスが溜まりそうだ。
「まったく貴女方は自分達の立場をわかってるのですか!!」
神裂火織は頬を紅潮させて声を張り上げる。
彼女が見下ろすのは、想を先ほど助けた二人組。
ビロードの滑らかな絨毯の上に二人組みは仲良く肩を寄せ合って正座していた。
片や並みの女優であればすぐさま引退記者会見を開いてもおかしくない美貌を誇る銀髪の女。
片や黒いパーカーにジーンズというカジュアルな井出たちの青年。
女は、見事な凹凸の身体から若々しさと匂い立つような色香を放っている。
それに対して、男は整ってはいるが女に比べると目を引く派手さに欠ける。女に比べるとあまりにありふれた容貌だ。
記憶したそばから、直ぐに脳裏から消え去ってしまいそうな印象に残り辛い顔である。
「ご、ゴメンねかおり。もとはるが行っても大丈夫だって……それにとーまには術式かけてあるし」
恐る恐る言い訳を口にしたのは銀髪の女である。
傍らの男は、ただただ、しきりに必至に頷く。
「まぁまぁ、ねーちん。一応いくつか人避けの結界も張っておいたから心配しなさんな」
「その言葉……信じられるのですか?」
アロハシャツに厚手のジャンパー姿のサングラスの男がからからと笑う。
神裂は疑わしげに男を見返す。
今の派口からでまかせなのではないだろうか。また何か企んでいるのではないだろうか。
不審が視線となって男を刺していくが、男は意にも介さない。
人に真意をつかませないことにおいて、神裂はこの男程の者を他には知らないのだ。
「そりゃあ、コッチも色々『事情』があってその辺りは万全なんだぜい?」
「事情?」
「ま、後で教えるんだにゃー」
そう言うと、土御門は男の方を振り返る。
「ところで………そろそろ『それ』取っちまったらどうだ?コッチも何だか落ち着かないんだぜい。誰と話してるのか不安になってきて」
土御門の言葉に、男は忘れていたとばかりに短く声を上げると、右手をおもむろに顔に当てる。
そのまま、顔を拭うようにつるりと撫でると、ぱきんと乾いた音が何処からともなく立つ。
ただそれだけの行為によって、記憶に残らない冴えない顔立ちの筈が、強い意思を瞳に秘めた青年へと代わる。
明確な変化など何も無いはずなのに、その表情に先ほどまでの落ち着かなさはない。
「六年ぶりの学園都市はどうだったんだにゃー?カミやん」
「ああ……浦島太郎の気持ちがよくわかったよ」
銀髪の女の傍らにいる青年 ―――― 神浄討魔は微かに寂しさを含んだ笑みを浮かべた。
390 : ◆d85emWeMgI - 2011/04/01 00:35:44.55 46g8rs+U0 291/791補足:神浄さんはファンデーションのようなアイテムで顔に術をかけてたという設定です。
顔を隠すと不自然なので、見た人が皆後から思いだそうにもまったく思い出せないような。
効果範囲は顔と声だけです。
蛇足でした。
窓の無いビルと呼ばれている其処は科学サイドの本拠地であり、魔術サイドの人間にとっては万魔殿のように噂されていた。
実際には親船最中が統括理事長に就任した際に行われた大規模改築によって、外見上は普通と何ら変わりのないビルと化していた。
故に、神裂が感じている圧迫感は此処に嘗て存在していた男のイメージとそこで行われていた数々の所業に対する彼女の抱く嫌悪感によるところが大きいのだろう。
そっと視線を傍らに送ると柔らかい微笑と目が合う。
腰まで伸びた眩しい銀色の髪の美しい女だ。
サイドをやや色の褪せた羽のヘアピンで留めた女は、神裂の抱いている圧迫感、不快感を察しているのだろう、心配などいらないとでも言うようにほんのりと、淡い笑みを浮かべる。
神裂は自らの至らなさをすぐに思い知る。
守るべき存在である己の主を本来ならば安心させてやるべきなのに、気遣わせてしまった。
「お待たせしました」
赤みを帯びた、長い髪をした女が気配も無く突然現れる。傍らにはスーツ姿の男。
腰まで伸ばした髪を一括りにしたパンツスーツ姿の女と、男は文字通り突然その場に出現した。
一瞬刀に手を伸ばしそうになるのを堪える。どうにも慣れない。空間移動というものは。
銀髪の女と、彼女の傍らに寄り添うように付き従う男、神浄が苦笑を浮かべる。
「もう、火織ったら」
「申し訳ございません最大主教」
気恥ずかしさと気まずさに、頬が熱い。
パンツスーツの女は、刀に手を掛けそうになった神裂を一瞥すると、すぐに最大主教に深々と頭を下げる。
女に同行していたスーツ姿の男もそれに倣って頭を下げる。
男は、面識だけならば神裂にもあった。
随分と年若い、まだ二十台そこそこのような幼い顔立ちの実直そうな青年だ。
「それでは最大主教。親船の方はあちらの部屋にてお待ちしております。僭越ですが私は案内をさせて頂きます結標と申します」
「ありがとう。結標……貴方が第八位の?」
「ご存知だったとは光栄ですわ」
学園都市八人のレベル5の内の一人である結標淡希に、最大主教は驚いたように神浄に目を向ける。
神浄も目を見開いて驚きを露わにしている。
伝え聞いてはいたが、追加されたレベル5とは目の前の女のことであったのかと神裂もまじまじと見る。
結標は向けられた視線に気分を害するわけでもなく、淡いパールピンクが引かれた唇に笑みを浮かべる。
「それで、事前に頼みました護衛のことですが」
「ええ、親船の方も構わないと。親船の護衛には私が付くことになりますが構いませんか?」
親船はまだ年若い最大主教の受けるプレッシャーを鑑みて、護衛をつけることに一も二も無く了承した。
しかし、親船本人の軽い即答に対して、周囲がそんな安易な決定を認めなかった。
彼女の下に集い、統括理事を務める面々が、親船という存在の重さを、親船本人以上に重く、そして的確に理解していた。
なるほど、と神裂は納得する。
聖人とレベル5。
それぞれが一人ずつ護衛をつけることで帳尻を合わせようというのだろう。
しかも、空間を自在に行き来する結標であれば、必要とあらば親船を避難させることも出来る。
信頼しようという意識と、絶妙な猜疑心の結果の措置とも言える。
「勿論です」
「失礼ですが、同行を許可出来る護衛の方は一人だけですので…」
視線が神浄と神裂を見比べる。
神浄が、最大主教と結標の間に立つように一歩前に進み出る。
「俺が同行させてもらいますよ」
最大主教に確認の意思を求めると、彼女もさも当然のように頷く。
神裂もそれに特に異を唱えることはない。事、守ることにおいて、神浄程相応しい者は居ない。
それに、初めて足を踏み込む学園都市中枢において、最大主教の心労を鑑みれば神浄が側にいてくれる方が彼女とて安心であろう。
「それでは神裂さんには待機して頂くということで宜しいでしょうか?」
「ええ、そちらがお邪魔でなければ」
「でしたら、休憩室の方にご案内いたしますが?此方の方で警備の者は用意させて頂きますけれど」
「いえ、私は此処で十分です」
やんわりとした意思の固持に、結標の表情に一瞬の変化が浮かび上がる。
神裂の行為は、ある意味では科学サイド、学園都市を信用していないとも取られるものである。
事実、結標の神裂を見る目は油断ならない者を見る目であった。しかし、それは決して嫌悪という悪感情ではない。
強いて言えば見直したとでも言いたげな目である。
結標から見るとどうにも魔術サイドから訪れた三人は人の好さというか呑気さが何処か漂う。
それだけに、自ら警備に臨むという神裂の姿勢は結標には不信の顕れではなく、プロに徹していると好意的に取れるものであった。
「わかりました。でしたら、此方の者を共に当たらせます」
結標は傍らの男に目を遣る。
「重ね重ね此方の我が侭を聞き入れて頂いて申し訳ございません」
―…***…―
親船統括理事長の控えているであろう理事長室へと通じる回廊。
その、先ほどまでいた者の余韻がまだ残る空間は、白々しい静けさに見舞われていた。
見渡すと、一体他の職員は何処にいるのだろうかと尋ねたくなるほど見当たらない。
年若い男と二人きりになったという事実に、今更ながら神裂は落ち着かなさを覚える。
神浄やステイル、土御門などと二人で行動することこそ多いものの、彼等は既に神裂の中では仲間であり、家族に感覚的に近いものがある。
馴れ合いという意味ではなく、信頼関係と気安さという点においてだ。
しかし、今共にいるのは、面識がある程度の男だ。そっと男を盗み見る。
幼さの残る整った顔立ちに、精悍に結ばれた口元。
真っ直ぐな意思の伝わってくる瞳に、細くも硬くしなやかに引き締まった身体がスーツ越しに見て取れる。
一目で神裂はその青年が何も武術などの心得が無いのだと察する。挙動の一つ一つに無駄が見て取れる。
一言で言ってしまえば、隙だらけなのである。
では、頼りない護衛だと神裂が思ったかと言うと、それは違う。
隙だらけで、武術の心得など何も無いと察すると同時に、それ以上に強烈な確信が神裂の中に生じていたからだ。
その確信とは、『この青年は強い』ということ。
それも、並みの強さではなく、自分と同等か、或いはそれ以上に。
「なぁ…」
「え、はい」
思わず声が上ずる。盗み見ていたことがバレたのかとも思ったが、青年はそんな気配など見せない。
油断なく周囲を見回していた視線を神裂に向ける。
「最大主教って若そうに見えたけど、実際はスッゲー年だったりするのか?」
「は?」
オールバック気味に前髪を上げたスーツ姿から想像も付かないざっくばらんな喋り方に神裂は思わず面食らう。
高校生が同級生に話しかけるような、そんな気安さが緊張感が空気に溶け込んでしまっているこのビル内でとてつもない違和感となっている。
それに戸惑いながらも、神裂は質問の意図を探るように青年に怪訝な目を向けると、青年は何か不味いこと聞いちゃったのか?とにわかに焦る。
「いや、最大主教ってさ、魔術関連を仕切ってるんだろ。あんな若そうに見えて魔術かなんかで若返ってるだけで実際はウチの理事長みたいな年なのかって思ってさ」
「最大主教は見た通りの御年齢です。20歳になられたばかりですが」
そっけなく答える神裂を気にする風でもなく、青年は「二十歳か」と呟く。
「すっごく若いんだな…てか10代に見えた」
「それが何か?」
神裂の瞳に剣呑な光が浮かぶ。声には自ずと棘が生じる。
このような事は初めてではなかった。
最大主教の年齢を知り、彼女を小娘と嘲るものなど枚挙に暇が無い。
しかし、だからと言って仕方が無いことだと諦め、或いは聞き流せるほど神裂はクールに人間が出来てはいない。
そう言って侮り陥れようとする者、或いは利用しようと付け入って来る者を神裂、そして神浄は悉く叩き潰してきた。
少しでも彼女が背負っている重圧を軽くする為に惜しむ労力など神裂達には存在しなかった。
そして、神裂の険のある視線は今目の前の青年に向けられている。
この男もまた、若き主を侮り、愚弄するというのだろうかという探る視線で。
しかし、青年はそんな神裂の思惑とは別の言葉を口にする。
「す…」
「す?」
「スッゲー!!」
「………は?」
純度100パーセントの感激が籠もった声が、静謐な回廊に木霊する。
あまりに響いた為に、神裂の方が思わず慌ててしまう。
青年は瞳を輝かせて神裂を見る。
「いや、ホント、スゲーな。アンタのところの大将」
「あ、え、いや、その………どうもありがとうございます」
思わず感謝の言葉を言ってしまう神裂。
「あんなお人形さんみたいに綺麗な女の子が魔術連中の頭を張ってるなんて…ホントスゲーよ。うんうん」
一人何かに納得したように頷く。
「あの……」
「ん?」
「いえ、馬鹿にしないのですか?」
「馬鹿にする?何がだ?」
「ですから、上に立つには若過ぎると」
「馬鹿にして欲しかったのか?」
「まさか!」
「じゃあいいじゃん。それとも、あんた等が無理やりあの子を担ぎ上げてるのか?」
「違いますよ!」
神裂は青年が心から感激していることに、困惑する。
青年の表情に一片の嘲弄も軽侮も見られないことが、にわかに信じがたかったのだ。
「あの子が覚悟決めて頭張ってるんだろ?覚悟を決めるのに若いも何も関係ねー。つーか、寧ろスゲーよ。とんでもねー根性だ」
「こ、根性ですか?」
「アンタも根性あるよな。そんなもう穿けないくらいボロボロのジーンズを穿いてるくらいなんだから」
「これはそういう仕様なんです!」
年齢的に少々キツイものがあるとは自分でも理解はしている。
それを指摘されればキレる神裂であるが、このような見当違いの賞賛も困りものである。
「あ、けど根性ならウチの理事長も負けてねーぞ。俺が知る中で一番根性のある婆ちゃんだからな」
鼻息荒く、青年は対抗心を見せる。
まるで、無邪気に祖母の自慢をする孫のようだ。
自分のことのように得意げな青年に、神裂は不覚にも可愛いなと思ってしまう。
「貴方は本当に統括理事長をお慕いしてるのですね」
「おう。どうしようもねーこの街を根性のある街にしようってする根性のある婆さんだ。守らないわけにはいかないだろ」
神裂に、青年はからっとした笑みを向ける。太陽のような、そんな陳腐な表現が似合う笑顔だ。
神裂の頬が知らず知らず朱色に染まる。
この年になっても男慣れのしていない彼女に、整った顔立ちの青年の笑顔は少々刺激が強い。
「そ、そうですか」
「どうした?顔赤いぞ?」
「何でもありません!」
無邪気とも言える笑顔から、神裂は目を逸らす。
どうにもこの系統の笑顔には昔から弱い。
無邪気で、真っ直ぐな笑顔。それに、この青年は顔もいい。
神裂とて一人の乙女である。顔の良い男に微笑まれると年相応に嬉しくもあり恥ずかしくもある。
頬の熱が引くのを一心に念じながら、神裂きはちらっと青年を横目に見る。
きょとんとした顔の青年と目が合い、また顔を逸らす。
「あ、その、今更ですが」
もじもじと指先を合わせて神裂は自身の動揺を悟られまいと誤魔化すように上ずった声を上げる。
「まだお聞きしてませんでした。教えて頂けますでしょうか……貴方の名前」
「おっと、悪い。名乗ってなかったな。結標のヤツ紹介してなかったのか」
改まって名乗るのが照れくさそうに青年は頭をかく。
「軍覇。削板軍覇っていうんだ。よろしくな、根性あるねーちゃん」
削板がずいっと手を差し出す。
神裂も、つられるように、彼女にしては珍しくハッキリとした笑みを浮かべてその手を取る。
「神裂です。神裂火織です」
「そっか。よろしくな、神裂」
そう言って、八人のレベル5の一人、学園都市第七位、削板軍覇は歯を見せて笑った。
もろに真正面からその笑顔を向けられた神裂の頬が一層の赤みを帯びる。
神裂火織、そろそろ年齢的にアレな女教皇。戦闘能力はレベル5クラスであるが、恋愛レベルは未だレベル1であった。
あり合わせのもので適当な昼食を終えた一方通行が、しかかりの論文を書き終えたのは午後三時を回るところであった。
想や美琴が居ない部屋では、驚くほどこの男はずぼらになる。
基本的に世話焼きな反面、自身のことには無頓着なのだ。
鎖骨が丸出しの胸元まで開けたワイシャツに、黒のスキニーパンツ、そして裸足というラフ極まりない格好。
この男は、この格好でサンダルをつっかけてコンビニに足を伸ばす。
嘗ての、イチイチ外出するときにはキッチリ上下ともブランドで固めていた少年時代とは大きく異なる。
椅子に背を預け、猫のように思い切り身体を伸ばす。
ただでさえ鈍っている身体であったが、机に齧り付いていたせいですっかり強張ってしまった。
成人男性としては華奢な部類に入る彼の身体は、捻る度に音が鳴る。
飲みかけの温い珈琲を胃に流し込むと、一方通行は青のヘアゴムを外した。
頭をしゃっきりさせる為に軽く振ると、白い髪が窓から差し込む日を浴びて薄銀色に輝く。
気が抜けたせいか、彼らしくもない間の抜けた欠伸が洩れる。
何だかんだとこの二日間、彼は殆ど眠っていなかった。
想が見ている前では決してしないが、机に足を乗せ一方通行は背もたれにだらしなく寄りかかりながらブラブラと身体を揺らす。
「クッソ…あのゴスロリ妖怪……」
腕を頭の後ろで組んで天井を眠たげな目で見上げる。
「次から次へと人に厄介事を」
彼が二日で書き上げた論文は、通常であれば数日で書ききれるものではない。
量としても、内容としてもである。布束が送る資料、研究結果を一読してから一気に書き上げるという芸当は彼にしかそもそも出来るはずもない。
学園都市有数の頭脳の持ち主、布束砥信の送って寄越す資料や研究内容を数時間で読み取り理解するという時点で大抵の人間が挫折する。
『アナタは嫌いかもしれないわねbutアナタと私にはこの研究の行く末お見届ける義務がある…beside妹達の遺したものを無駄にしないためにもね』
「わかってンだよ…ンな事ァ」
一方通行は、モニターのメールの文面を胡乱な目で追う。
モニターの向こうで、あのギョロ目がどんな顔でこの文章を打っていたのか、容易に想像が付く。
いち早く妹達のあり方に疑問を抱いた女、彼女は妹達に感謝されこそすれ、然程罪悪感を抱く必要があるのだろうか。
妹達の学習装置を手がけた女が、自分と同じ罪悪感を抱くなど、最早自傷行為に等しいのではないだろうか。
そこまで考えてから、一方通行は椅子から降りてベランダに出る。
シャツの胸ポケットからアークロイヤルの箱を出すと、指先でとんとんと軽く叩く。
頭を出した一本を口に咥えると、真昼の学園都市を見下ろす。
「好きにすりゃァいい話だな」
結局はそれが結論。火を付けると、ゆっくりと吸い込む。
紫煙を細く口から吐き出すと、未だに春の足音すら聞こえない冷たい午後の風に乗って煙はすぐさま溶けて行く。
それを目で追いつつ、ゆっくりと甘い香りの煙を燻らす。
甘い香りのする、想が煙たいと拒むことが無ければ特に銘柄には拘らなかった。
バニラの香りが好きだと、美琴と想が言っていたから。
ただそれだけの理由で何となくブラックデビルかアークロワイヤルを吸うようになっていた。
そして、いつしか習慣となっている。
論文を書き上げると、無性に煙草が吸いたくなる。
キーを叩く音が喫煙欲求を刺激するのか、強張った身体が有害な煙を欲するのか。
それとも、陰鬱な記憶を呼び覚ますような論文の内容に、知らず知らず打ちのめされたからだろうか。
一方通行は布束砥信と共に長点の研究室にいた。
彼女と研究に打ち込んでいたのは最早五以上も前の話だ。想が生まれる前のことである。
妹達の話を、実験する側の立場として出来る相手は布束だけであった。
打ち止めや番外個体は勿論、美琴であっても、そこには被害者と加害者という関係性があった。
それがある以上、一方通行は彼女達の前で弱音を吐くことも、苛立ちを見せることも出来なかった。
芳川も、家族というカテゴリーに当てはめてしまってからは、一方通行は滅多なことを口にしなくなった。
あの時期、自分は研究の進度と妹達に植え付けられた『時限爆弾』によって命を落としていく速度との隔絶とした差に打ちのめされていた。
苛立ち、怒り、嘆き、憤り、絶望していた自分は、あのわかりづらい優しさを秘めた奇妙な女がいなければ呆気なく崩れ落ちていたかもしれない。
罪悪感と無力感、自己嫌悪を超えた自己憎悪の連鎖に、強迫観念にも似た『守る』という意識。
守る、守りたい、が『守らなければならない』と歪められていくに連れて、妹達の存在全てに対する理不尽な怒りが一方通行の中に生じていた。
自分の心を磨耗させ、追い込んでいく彼女達の存在が堪らなく疎ましく、息苦しい重荷に感じていた。
そんな思考回路をしている時点で碌な精神状態ではなかったのだが、当時の一方通行は自分の手でそれに気付かずに自分自身をじわじわと追い詰めていた。
辛うじて持ちこたえられたのは、当然支えてくれる家族、友人 ――― 彼が光の世界で得ることが出来た ――― の存在であったが、同時に生々しくも事実として存在する要因があった。
追い詰められ傷ついたやり場の無い心の残骸から溢れ出る膿の掃き捨て場。
鬱屈するストレスのやり場。苛立ち、憤り、焦り、やり場の無い孤独感を何かで補填せずにはいられなかった。
それを手っ取り早く解決するのは、人の肌の温もりであり、肉の齎す快楽へと耽ることであった。
断言してもいいが、愛情と言うものは存在しなかった。
人としての好意、研究者としての敬意、そして共犯意識はあっただろう。
異性間の友情も或いは存在しているのかもしれない。しかし、専ら親愛、恋愛という類の感情など持ち合わせてはいなかった。
それは、五年経った今、振り返ってみてもそうだ。
自分の気持ちを、あの頃よりは冷静に鑑みる事が出来る年になって、当時の自分の感情を、潮干狩りの如く丁寧に一つ一つ探り当ててみても見つかることの無い感情だ。
些細な切欠からそれを知った打ち止めは、年頃であったこともあり、酷く軽蔑し、嫌悪の念を向けもした。
しかし、それでも一方通行はあの関係はある意味必然だったと思う。それは互いにとっても。
関係は何となく、どちらから言うわけでもなく、気が付いたら消えていた。
うず高く積もっていた雪が音も無く、気が付けば過程も記憶には残らずに溶けて消えてしまっているように。
それでも、互いに何となく言葉に出来ない気持ちがあるのだろうか。
それが、今の一方通行と布束の、研究論文の依頼という形で残っているのだろうか。
「今更だなァ……」
らしくもなく、感傷に浸っていた。昔を思い返すことなど、ここ最近ではなかったというのに。
どうして今日に限って五年以上も前の事を思い返しているのだろう。
「今度飯に誘ってみるか」
口に出してから、一方通行は唇を歪めた。
今度なんて、来ない。
わかっていて呟いたのだと、言葉に出した自分の声の白々しさを耳にして気付いたからだ。
灰皿に煙草を押し付けると、杖を手にする。
そろそろ迎えに行く時間だ。
五年前の事を不意に思い出し、僅かに怪訝な顔をする一方通行は、同じ空の下で、大切な少女が一つの出会いをしているとは彼には知るはずもなかった。
一方通行にとって、想の迎えに行くことは、一日の終わりであり、始まりを意味している。
基本的に、一方通行は自分一人ではとことん無頓着且自堕落な生活を送る。
それが、一人の少女の為に様々な献立を考え、丹念に下拵えをした手料理を作り、部屋を掃除し常に清潔に保とうとする程に生活態度を一変させるのだ。
少女を面倒見ることによって、彼はある意味ようやく人間らしい生活環境を維持しようと心がけるようになるのだ。
同時に、この役割は一方通行の彼自身が気付かない満足感を満たすことにも貢献している。
想を迎えに行くことは、すなわち少女の母親、御坂美琴に信頼されている証である。それが、密かに彼の中に燻り続ける罪悪感を和らげてくれるのだ。
故に、保育園までの道のりを杖を突いて歩く道のりは彼にとって些かも苦痛ではなかった。
苦痛であるどころか、寧ろ彼にとっての癒しであるとさえいえた。
――… *** …――
「………なァ~ンで垣根クンがいるンですかァ?」
「開口一番に挨拶じゃなくてそれかよ。想タンの教育に悪いぜ?」
「垣根クンは存在自体が悪影響なンだよ。メルヘン臭がコッチにまで漂って…クサッ」
癒しの場を思い切り台無しにされたと、顔中に浮かべた一方通行は、巻き舌気味に目の前の男に絡む。
「お前ホント酷いよな!?チミっ子達が真似するだろーが!!」
鼻を抓んで一方通行はいかにも異臭がするとばかりに手をうちわのようにして扇ぐ。
ものめずらしげに周囲で二人のやり取りを伺っていた幼児たちが、気が付けば一方通行の周囲に集まって真似をするように手で扇ぐ。
「クサッ、メルヘン臭」
「くさ、めるへんしゅう」
「めるへんしゅう」
子供たちが面白がってきゃっきゃと笑う。
メルヘンという言葉の意味はわからずとも、このお兄さんはどうやらいじっても良い人種だということはわかるようだ。
それは子供のみが持ちうる順応性、特殊な獣じみた嗅覚ともいえる。
彼等はいじられキャラを即座に嗅ぎ付ける能力に秀でいている。
「ほらみろ!ほらみろ!!チミっ子たちが真似しちゃった!!親御さんたちも止めてくださいよ」
「あらあら、楽しそうね」
「ホント。最近の若い人には珍しいのね、子供好きだなんて」
「ウチの旦那にも見習わせたいわ」
「いっそトレード出来ないかしら?」
「ちょ、親御さん!?」
保護者はイケメン二人のじゃれ合いを目の保養とばかりに眺めるばかりで止める気配など毛ほども見せない。
それどころか、「想ちゃんのところの保護者さんも素敵だけどたまにいらっしゃるお友達もイケメンよね」「御坂さんが羨ましいわ」等と手を口に当てておほほなどと笑っている。
終いには「あら、奥様。イケメルヘンって言うそうですわよ」「絹旗先生が仰ってましたの」「若い人の間で流行ってるのかしら?」等と世間話に本格突入しようとしている。
最後の情報をリークした人間が、どうにも園児達の先生らしき名前だと思ったが、垣根は気のせいだと思うことにした。
「ていとくんイジメも終わったことだし、帰るか想 ――― その目、どォした?」
彼はふと少女の目下が赤くなっていることに気付く。一方通行の視線に気付いたのか、想が顔を逸らす。
顎を指先で掴むと、一方通行は無理矢理少女の顔を自分に向けさせる。
紅い瞳が、少女の赤く腫れたと間近で見つめ合う。
逸らそうにも、一方通行の指ががっちりと少女の小さな顎をロックし、息が触れる距離でジッと覗き込む。
「うん……想ね、うんとね、きぬはたせんせいにないしょでね」
想が話し始めると、一方通行は指を少女の顎から外す。
「ネコさんがいてね。それでね、おいかけていったの。そうしたらネコさん木にのぼっておりれなくなったの」
指先で白いブラウスの袖をいじりながら口を開いていく。
たどたどしく言葉を捜して組み立てようとしているのが落ち着かない仕草からもわかる。
チラチラと時折、不安げに青年を見上げる想の目は微かに潤んでいる。
普段であれば、少女のそんな目にすぐさま折れてしまうが、一方通行の目は言い逃れを許さない厳しいものになっている。
「でね、想もおりられなくなっちゃったの……それでね…それで………」
それで、それでと、言葉を続けようにも最早少女の花びらのようなぷっくりとした唇からは短い言葉の破片しか零れては来ない。
たどたどしいが、一方通行は大まかに状況を把握したのだろう。
もっと気の利いた言い訳でも言うかと思えば、少女は生憎そのように器用には出来てはいない。
頭が良いくせに、言い逃れ、言い訳、おためごかし、嘘、そういった方向についての悪賢さには働かない。
母親譲りの仕様だろうか。
一方通行はちらりと絹旗に視線を向ける。
「あんまり怒らないであげてください。さっき私から超叱っておきましたから」
想の頭をなでながら、絹旗がしゃがむ。
目線の高さを合わせ、想の頬をぷにぷにとつついてやる。
「想ちゃん、超反省しましたもんね」
「……うん……ごめんなさい」
ぺこんと頭を下げる想の隣りで、絹旗が「ね?」と笑って一方通行を見上げる。
「ったく……危ねェ真似すンなっていつも言ってンだろォが…」
「うん…」
「落ちたらどうすンだよ」
「ゴメンね、あーくん」
「馬鹿。次同じことしやがったら尻百叩きだからな」
少女のアホ毛が悲しげにしゅんと垂れているのをそっと見下ろすと、一方通行は力なく溜息を吐いた。
自分のパンツをぎゅっと握る少女の頭を軽くこつんと叩くと、「馬鹿」ともう一度呟く。
吐き捨てるのではなく、優しく窘めるような響きの声に、想がぴとりと一方通行の足にくっつく。
絹旗の目から見ても、一方通行のからだからは不機嫌な空気がすっかりと消え去っているのがわかる。
子猫のように全身で甘えてくる少女に、結局この男は弱かった。
「でもね、でもね、あーくん」
くいっくいと想が一方通行のズボンを引っ張る。
「想のことね、たすけてくれたの」
「あン?垣根がか?」
幼児達と打ち解けて「バーリア!」「バリア切った」「バリア繋げた!」という昔懐かしい遊びをしているガッカリメルヘンを見る。
あれがこの街で二番目に頭が良いという設定は、今からでも修正が利かないものだろうか、と一方通行と絹旗は本気で悩む。
「違うの。あのね、あのね ――― 」
――… *** …――
「シスター?」
一方通行は怪訝な顔で垣根の顔を見返す。
垣根は、想を肩車したまま時折その場をクルリと回っては想をはしゃがせている。
普段であれば、危ないことするなと自転パンチの一発は食らわしているところであるが、想を元気付けようとしているのがわかるだけに今は何も言わない。
仲睦まじい様子に、一方通行のこめかみが微かにひくりと動くのは、せめてものご愛嬌だ。
「ああ…多分だけどな。修道服っつーの?白くてローブみてぇな…ロード・オブ・ザ・リングに出てくるようなヤツ」
「………学園都市にシスターねェ…」
(まさか…)
美しい、白い、シスター。
これらの単語から導き出される人間に一人しか一方通行は心当たりが無い。
親船の言葉を思い出す。
日程はあの時は決まっていなかったが、もしや此方に来ているのだろうか。
考え込む一方通行を他所に、垣根と想の能天気な声が響き渡る。
「それも飛び切りの美人!胸もでかかったしな」
「想の前でくだらねェ事言ってンじゃねェよ…」
「でもおっきかったの。るいるいくらい」
「だよなー」
一方通行から数歩前を歩きながら、垣根は想に同意を求めるように顔を上げる。想は頷くと、垣根の髪をいじる。
ふわふわの猫毛の一方通行とも、細い絹糸のような美琴の髪質とも異なった、手入れを欠かさないこしのあるしっかりとした垣根の髪が珍しいようだ。
「マジでスッゲー美人だったな。プラチナブロンドっていうんだろうな。初めて見たぜ」
「うん。お姫様みたいだったの」
「おお~そうそう。ありゃあシスターってかお姫様みてぇだったな。まぁ飾利ほどじゃないけど」
「それは別に聞いてないの、ていとくん」
「想タン、手厳しいな!?――― おい、どうしたんだよさっきから黙りこんで?」
「あーくん?」
怪訝な顔をする想と垣根の声が聞こえていないのか、一方通行は俯きがちにして、口元に手を当てている。
考え事をする際の彼の仕草だ。いつしか自分が足を止めていたことに気付き一方通行は慌てて顔を上げる。
「おい、メルヘン。そのシスターは一人っきりだったのか?」
「いや。彼氏なのか、よくわかんねーけど、もう一人いたな。タメ年くらいだと思ったけどよ…顔は思い出せねぇ」
「ツラ見なかったのか?」
「いや、そうでなくて。顔を見たはずなんだけどよ……不思議なくらい記憶にかすってもいねぇんだわ」
一方通行の記憶では、あの男は決して美形ではないものの、整った顔をしていたはずだ。
冴えないとは思っても、少なくとも不細工だと感じたことはない。
記憶に残りにくい薄味の顔立ちかもしれないが、垣根程の頭脳で、全く思い出せないことなどありえるのだろうか。
想がきょとんとした顔で垣根を見下ろす。
「おねーちゃん、お名前いってたの」
「そうだったっけ?聞いてなかったわ。男の名前とか興味ねーしな~」
「もう。そんなんだからかざりんが“ダメルヘン”って言うんだよ?」
「ははははは………想タンほんとキツイな~……」
恋人が少女に毒舌を伝授してるのではないだろうかという疑念を垣根が抱いているのを他所に、想は嬉しそうに笑う。
「想のことだっこしてくれたの。とってもやさしいお兄ちゃんだったよ。えっとね、お姫様のお姉ちゃんね……『とーま』ってよんでた」
――… *** …――
土御門元春は用済みとなった媒介を握りつぶす。
人払いのルーンを増幅させる効果を持つ天草式の術式だ。
親切心と(悪戯心から)気晴らしにと最大主教と神浄に提案した散歩で、よりにもよってあの少女と出くわそうとは。
土御門は重たい溜息を吐く。
これも“あの右手”が招いた不幸だとでも言うのだろうか。
幸いなことに、二人とも“少女の正体”には気付かなかった。
最大主教は元々記憶力が鮮明過ぎて常人にとっては些細なものとしてしか認識されないところまで大きな相違として違和感を覚える傾向が強かった。
それは、嘗てクローンでありながら外見の年齢差故に、結びつけることが出来なかった点にも現れている。
まして、教主が最後に目にした時、“彼女”は16歳という最も大人へと向かって大きく変貌する過渡期であった。
その一方で、少女はまだ五歳を迎えたばかりの幼児。
それも、父親の面影を残してる分、相違点は余計に彼女の目を曇らせたに違いない。
神浄に至っては愚鈍さには今尚定評がある。
それでも人払いの結界を念の為に保育園周辺に張っておいたのは正解だった。
もし、仮に何処かで見ていた「こちら側の人間」にあの二人を親子だと勘付かれては面倒である。
明後日には、学園都市統括理事長、親船最中と最大主教「ローラ=スチュアート」の会談が嘗て“窓の無いビル”と呼ばれた場所で行われる。
揉め事のタネは増やしたくない。
本来であれば神浄を外出させるべきではないということは十分理解している。
しかし土御門が珍しく私情を持ちこんだのも、神裂も結局それを認めてしまったのも、彼に対する巻き込んでしまったという拭えない罪悪感が少なからずあるからである。
勿論、現状は神浄自身が選択したことだとわかっている。
しかし、わかっていても、彼がこの世界に入る要因になっているのは確かなのであるから。
会談の内容は完全に秘密裏とされているが、土御門にとっては正直何を今更という感想しか無い。
内容とはおそらく今後の友好と発展を願っての提携強化だろう。
周囲の緊張に比べて、魔術サイド、科学サイドの両者のトップの意識はずっと平和的で穏便だ。
勝手に緊張し、警戒し、疑う周囲を宥めることの方が両陣営のトップには余程頭痛の種だろう。
今回の護衛にしてもそうだ。
ローラ・スチュアートは神浄だけで十分だと言っていたし、親船に至っては護衛など不要だと言っていた。
結局のところ、物々しい数に任せてヘタに緊張感を煽るよりも人数を絞っての護衛という形を取った。
最大主教は聖人二人を護衛に付け、統括理事長はレベル5二人を護衛に付けた。
戦力的にも同等であろうが、内実を知る者からすれば、辻褄合わせの茶番に過ぎなかった。
それにしても皮肉な話である。
嘗て学園都市の闇に最も深く絡め取られていた者達が揃って裏から去り、最も縁遠い男が統括理事の傍らにいるのだから。
「それにしても……子姫ちんにはちっとばかり怖い思いさせちまったぜい」
自分の張った結界のせいで、誰一人通らず、そして、少女の先生も木に上っている彼女に気付かなかった。
随分と心細い思いをしていただろう。
機を見て助けるつもりだったが、よりにも寄って少女を助けたのが神浄であった時には正直嫌な汗をかいた。
結局二人は気付かなかったのだが。
御坂想の能力測定の結果は「レベル0」である。
レベル5の娘だからといって、レベル5クラスにはならないことを、土御門も一方通行もある程度は予測していた。
彼女本人の遺伝子をそのまま使ったクローンでさえもレベル3なのだ。
想だけではなく、浜面夫妻の子供も、レベルは1程度であった。
故に、学園都市に『能力は遺伝しない』という説が定着しつつある。
仮に高い数値が出ていれば一方通行と裏に手を回して書き換えることも辞さぬつもりだっただけに、胸を撫で下ろしたものだ。
しかし、『神上の娘』というだけ十分に利用価値を見出してしまう馬鹿共は未だに少なからず存在する。
そんな馬鹿共の愚行に愛らしい少女が巻き込まれるのは土御門の本意ではない。
会談が終わるのは五日後。
土御門はカレンダーに目をやりながら、嘆息する。
「それまで何事もなきゃいいんだがな」
しかし、言葉とは裏腹に、土御門は期待に満ちた声を出す。
もし仮に、神浄 ――― 上条と一方通行が出会ったとしたら果たしてどうなるのだろうか。
ふと過ぎった好奇心が彼の声を自ずと弾ませていた。
「お、何だ珍しいじゃねぇの」
息子を寝かしつけ、晩酌をしようとしていたところで鳴ったチャイム。
夫婦共にこんな夜遅くにと眉を顰めることもないのは、夜遅くの来訪者に慣れているからであった。
そして、夜遅く彼等を訪ねる者といえば、当然対象者は絞られる。
晩酌の準備をしている理后に代わり夫の浜面がパジャマ代わりのジャージ姿でドア越しに確認してみれば、予想通りの相手。
「よォ。今大丈夫か」
「丁度晩酌しようってところだったんだ。お前も飲んで行けよ」
浜面がドアを開けた先には、彼等夫婦上の階に住む腐れ縁、実質親友となっている白髪頭の青年、一方通行の姿があった。
一方通行は片手に持っていた袋を軽く掲げる。
数本の缶が入っているようだ。ビニル袋越しに覗く缶のパッケージに浜面は内心ガッツポーズを取る。
今夜は発泡酒ではなく、きちんとしたビールが飲めるようだ。
――… *** …――
「熱かったら言って下さいね、とミサカは万が一にも想ちゃんにやけどなどさせることの無いように報告の必要性を伝えます」
「うん、だいじょうぶだよお姉ちゃん」
「それでは」
御坂妹 ――― 個体番号10032号と呼ばれていた女は洗面器一杯の湯をゆっくりと少女の頭にかけてやる。
少女の気持ち良さそうな声が水の落ちる音に被るのを聞く度に、妹は自然と唇を緩める。
すっかり泡が落ちるのを確認すると、少女はぎゅっと瞑っていた目を恐る恐る開く。
真正面から見下ろす妹とつぶらな瞳がぱちりと合うと、嬉しそうに笑顔の形に細くなる。
妹はその笑顔だけで胸の辺りに温かなものが込み上げてくるのを感じる。髪から顔に流れる水を手で拭ってやると浴槽に入る。
少女が妹の上に、まるでソファーに座るように遠慮なく乗る。元々小柄なこともあって、水に漂う五歳児の身体は然程重みを感じさせずに圧し掛かる。
ぽこんと丸みを帯びたお腹に腕を回してやると子供特有の柔らかさが手に心地良い。
目の前には自分によく似た、けれども全く同じというわけではない亜麻色の頭頂部がある。水にふわふわと揺れる細い髪が、澄んだ川の底にたゆとう水草のようになだらかに映る。
「はうぅ~~」
少女の口から感極まったような声が漏れ、小さく噴出す。
小さくても大きくても、お風呂が好きな人間のリアクションというものは変わらないものだとつくづく思う。
生まれた頃から知っている少女だが、本当にこの少女はお風呂が好きなのだ。それも誰かと入るのを特に好む。
想は、小さな頭を御坂妹の胸に預ける。母親と違いそれなりのサイズである胸を枕のようにして、想は全身を委ねる。
子猫がまるで警戒心も無くお腹を見せるのに似ている。御坂妹が頭を撫でてやると、想がはにかむ。
「えへへへ、お姉ちゃんとお風呂ひさしぶり」
「そんなに喜ぶようなことですか?とミサカはマシュマロほっぺをつんくつんくしてみます。つんくつんく」
つつけばぷるんと弾力のある頬っぺたが心地良い。想は嫌がる風でもなく、寧ろそれを心地良さ気に受け入れる。
根が甘えん坊なのだろう。おそらくそれは母親譲りの甘えん坊っぷりだ。
「うん。とってもうれしいよって、みしゃかはお姉ちゃんにおとまりしてってほしいなっておねがいしてみる」
妹達の口調を真似ておねだりしてくる想があまりに可愛らしく、御坂妹は胸にぎゅっと抱き寄せる。
(何なのでしょうかこの可愛らしい生き物は)
この少女は甘えるのがとても上手い。自然と甘えているのだ。
特別世話焼きではないと思っている自分ですら、ついつい構ってやっている。如何にこの少女が大切にされているのかがわかる。
甘やかされるのに慣れているのではない。それはただの我が侭な子供を作りだすだけだ。
この少女は我が侭ではない。
一方通行、御坂美琴が慣れないながらも周囲の助けを借りて愛情たっぷりに育てたこの少女は、甘やかされるのではなく、大切にされることに慣れているのだ。
勿論、御坂妹とて例外ではない。
この少女は姉の娘であると同時に遺伝子的には娘でもある。
それだけでも愛しいと思う理由は十分なのだが、それ以上に妹達にとっては初めて目にした“まっとうな生まれ方”をした命なのだ。
そう言うと、クローンがまっとうではないのか、と口角泡飛ばして噛み付く輩が居るが、まっとうではない。
存在する命を否定するつもりは妹達には無いが、生まれ方が異常であることは明らかである。
それは、まっとうではない生まれの彼女達だからこそはっきりと自覚するのだ。
それゆえに彼女達は憧れる、お腹を痛めて母体から生まれた命そのものに。
想という少女は、妹達の存在を受け入れてくれた姉のたった一つの宝物であると同時に、二万人の妹達の『憧れ』なのだ。
そして、彼女達に償うべく日々を送っている男にとっては、救いの象徴なのかもしれない。
「まぁ、一方通行はそんなこと口が裂けても言わないでしょうけど」
「あーくん?」
アホ毛をピコピコとさせ、少女が振り返る。一方通行の名にはこの少女はとても敏感に反応する。
背中まで伸びた髪がふわふわと、少女の動作に遅れるように漂う。
一方通行専用のレーダーの精密性は幼き日の打ち止めに匹敵する。
「ええ、あーくんは想ちゃんが可愛くて仕方が無いんだなって言ったんです」
「えへへへへ」
頬に手を添えてはにかむ少女を可愛いと感じる。
「いつもは一方通行と入ってるのですか?」
「うん。ママがおそくなる時はいつもいっしょなの」
「その時もこうやって?」
「だっこしてもらうの。でもね、あーくん固いの。お姉ちゃんみたいに柔らかくないの」
「固い…だと…?ま、まさか…」
少女の発した言葉に、何を思ったのか顔色を変えて御坂妹がそれでも無表情を装いながら想の顔を見る。
「か、固いというのは、その、なんというか長細い…いえ、細いのではなくて、寧ろ膨張した…熱膨張した…」
「るいるいときぬはたせんせいが一番おっきくて柔らかいの。わーすとのお姉ちゃんも」
「――― ですよねー。そういうなんていうか3Dスティック的なもじゃなくて、バストですよね。ええ、ミサカ最初からわかってましたとも」
「でね、ママは余り柔らかくないの……」
「……それ、お姉さまには言っちゃダメですよ?あの人未だに諦めてませんからとミサカは小指を差し出して指切りを求めます」
「う?うん。ゆびきり~」
幼い少女は時として残酷だ。
持たざる者に平気な顔で「君、持ってない人ですよね」等と聞くのだ。
ちなみに、女性部門(美琴除く)で想がお風呂に一緒におふろには入るのが好きな人間のトップ3は美鈴、佐天、絹旗となっている。
これが一体何に基づいている順位なのかは言わないのが仏心であろう。
――… *** …――
「お前がこんな時間に来るなんてどうしたんだよ」
「別に……何となくな。迷惑だったなら帰るが?」
「ばーか。そんなわけねぇだろ。折角ビールにありつけたんだし、追い返したらバチが当たるって」
ビールのプルタブを開け、僅かに零れる泡を慌てて啜ると、そのまま直に飲む。
理后は用意したコップに注ぐと、一方通行の缶にかちんと当てる。
「うさぎさん、かんぱい」
「おう」
昔ほどではなくとも、やはり何処かずれている理后に、今更呆れたりはしない。
この二人は、夫の浜面がヤキモチを焼くくらいに中の良い茶飲み友達なのだ。
既にエプロンは外しており、食卓には紙に包んだまだ温かい焼き鳥の他、チヂミやら枝豆の皿が並ぶ。
がさがさと包み紙を開けると、一層強く香ばしい焼き鳥の香りがリビングに広がる。
その内の一本を無造作に取り出すと、浜面は勢い良く食らい付く。
「中々ウメェな」
レバーの串を平らげた一方通行が少し感心したように焼き鳥の串をしげしげと眺める。
お世辞を言わないこの男が褒めるということは、そのまま事実なのであろう。
ビールを二口程飲んでから二本目に手を伸ばした浜面は少し得意げな顔をする。
「ウチの社長がお気に入りの店のやつでさ。これは貰いもん。買い過ぎたって」
「仕事は忙しいのか?」
「忙しいっちゃぁ忙しいな。範囲は学園都市内だけどよ、何せ人手が少ねぇからな」
「仕方ねェだろ。取り扱ってるブツがブツだ」
「そうなんだよな。気軽にバイト募集、ってわけには行かないんだよ」
浜面は現在運送会社に勤めている。
取り扱っているものは主婦が通販で購入した利くのかどうかわからないダイエット器具や、独身男性が購入した人には言えない恥ずかしい用具など様々である。
しかし、それらと同じように扱われているのが、能力開発研究関連、学園都市の根幹を為す物品の運搬である。
浜面が運ぶ中には、能力者の力を増幅させる試作品(当然違法である)なども存在する。
故に、悪用しても意味のない無能力者、それでいて学園都市の闇に一定の理解と認識がある浜面は適任であった。
『一方通行』と『原子崩し』の保障つきの腕っ節も採用された一因である。
「愚痴ンなよ。稼ぎはいいンだろォ?」
「人が少ねェし、その上取り扱ってるモンがアレだからな。中卒だけど、多分そこらの一流企業の大卒者よか貰ってると思う」
「その割りに、結構ケチ臭ェ生活してンな。マイホームの資金か?」
「ん~~…まぁ、な」
理后の空いたグラスにさりげなくビールを注いでやっている浜面は、苦笑する。
一方通行は半分以下に減ったビールの缶を置いて枝豆に手を伸ばす。
「歯切れ悪ィじゃねェか」
「ケチじゃないよ」
くぴくぴとマイペース且何気にハイペースでビールを空ける理后が1ターン遅れた返答を口にする。
勿論、一方通行も浜面も今更驚きはしない。
肴には一切手を付けずに、浜面からの二杯目を殆ど空けると、理后はもう一度、今度は少し拗ねたように言う。
「ケチじゃないよ。節約してるだけ」
「知ってンよ。お前がやり繰りしてンのは。そンな生活の知恵なンざこの馬鹿にあるわけねェ」
「酷い!」
「コイツがいなかったらチャーハンと焼きソバのヘビーローテじゃねェかボケ」
「しあげのお仕事っていつまでもやれるお仕事じゃないから、お金は貯めれる時に貯めておきたいの」
空いたコップの底を見つめながら、理后はいつもの眠そうな顔を、幾分か曇らせる。
微かに寄せられた眉に、愛妻家の浜面は心配そうに見遣る。
「もっとお給料安くてもいいから、安全なお仕事に就いてもらいたいし。しあげが私やあの子を守ろうって頑張ってるのはわかるんだけど、その為に身体を壊すなら、そんなしあげ応援できないもん」
「理后…」
浜面がそっと理后の手を握る。
見詰め合う二人の頬が赤いのは酒気のせいではないだろう。
一方通行は、一目を気にせずに惚気るこのバカップルに火を点ける様な質問をしてしまったことを後悔する。
――… *** …――
「まま~」
「あ、こら。まだ髪が濡れていますよとミサカは…」
ててててと下着姿のまま母親の下に一直線に駆けていく想の後を、同じく下着姿の御坂妹が追いかける。
水色のボーダーショーツ ――― 縞パンだったのは今は昔。
出るところは出ているバランスの良い肢体が薄紫のレースを穿いて走る姿は刺激的である。
この場に男がいれば目を剥かずにはいられないであろう。
しかし、現在この場は女率が十割である。キッチンに立っていた美琴は愛娘をキャッチすると、妹に呆れた目を向ける。
「はしたない格好しないの!アンタも想のこと言えないでしょ」
火を止め、想を抱っこすると、美琴は妹を伴ってソファーに座る。
パジャマを妹に取ってこさせると、美琴は想に手渡す。
三歳の頃までは着替えを手伝ってあげていたが、今はもう着せてやるのではなく、あくまでも想が自分で着るのを見守ることに徹している。
手伝ってあげたいのは山々だが、それではいつまで経っても成長しない。
「うんしょ、うんしょ」
長い髪が邪魔をして、中々襟から頭を出せずに想が可愛らしい声を上げる。
「にゃ~ん…可愛い……」
「お姉さま、にやけすぎです…」
決して、そんな愛娘に萌えているわけではない。決して。
想の着替えを確認すると、美琴は洗面所に行ってドライヤーとタオルを取ってくる。
片方のタオルを妹に投げる。
「アンタも髪まだ濡れてるから拭きなさい。想ちゃんはママのお膝の上」
「あい!」
「うむ、良い返事じゃ」
想をひょいっと膝の上に乗せると、手にしていたもう一つのタオルで頭を優しく拭き始める。
御坂妹は、美琴に借りたパジャマの胸元がきついなという感想を脇に置きながら親子を眺める。
母親の膝の上が嬉しいのか大人しくちょこんと座っている。
お風呂ではしゃぎ過ぎてエネルギー切れを起こしてしまっただけなのかもしれないが。
御坂妹は髪を丁寧に拭いていく手付きがふと気になった。
「お姉さま、随分と拭き方が丁寧になりましたよね、とミサカは以前までのわしゃわしゃを思い浮かべます」
その言葉の通り、美琴は背中まである亜麻色の髪をタオルで挟むようにして一房一房拭いていく。
昔から短い髪だった彼女は、元々の不器用さも相まって想の髪を拭くことがお世辞にも上手いとは言えなかった。
髪を伸ばすようになった打ち止めや番外個体ら妹達の方が余程上手く拭くので、誰か知り合いが泊まっていく場合、想の髪を拭く役が美琴に回ることはまず無い。
そんな疑問が表情に出ていたのか、あらかた水気を取り終えたタオルを籠に放り込みながら美琴が得意げに笑う。
「どうよ?美琴さんの手並みも中々のもんでしょ?」
ドライヤーを当てると、想が「ふぁ~」と気持ち良さそうに目を細める。
「正直、ぶきっちょクイーンのお姉さまには似つかわしくない手付きですねとミサカはドライヤーを冷風と温風を使い分けている細やかさに驚きをかくせません」
「ま、私が本気を出せばこんなもん朝飯前っていう ――― 」
「あーくんに教えてもらってたもんね~」
「ちょ、想ちゃんシッ!」
「ああ~~彼の指導ですか……」
「もうね、アイツ容赦無いのよマジで……『十分拭いてねェのに何ドライヤーかましてやがンですかァ?ああァン?
つーか至近距離からの温風ってナメてンのか!!想のキューティクル全滅させる気ですかァ美琴ちゃァン』って……もう…」
容易に目に浮かぶ。きっとスパルタ指導だったのだろう。
以前一度してもらったが、確かに一方通行の乾かし方の手並みは半端なかった。
「そして、さり気無く美琴呼びなんですね」
「ち、違うわよ。ああいう時だけ呼ぶのアイツは。からかう時か怒る時だけ」
「ふつかよいでねこんだときもあーくんプンプンだったね」
「想ちゃん、それ内緒だって!」
「あっ……うん、ないしょなの。お姉ちゃんもないしょね」
口の前に指を当てて、「しーっ」と想が上目遣いに御坂妹を見る。
その愛らしい仕草に、御坂妹はにっこりと、彼女にしては非常に珍しい笑みを浮かべる。
「ええ、妹達にしか言いませんから…」
「それ二千人以上に流布するっていってるようなもんじゃない!!」
「ついでに美琴呼びも流布しておきます、とミサカは未だに恥ずかしくて一方通行の家のお風呂に入れないお姉さまを生暖かい目で見つめます」
「うぇっ!?何でアンタそれ知ってるの?」
「いえ、有名ですよ。『アイツの入ったお湯なんだこれ……』とか、『アイツ今、私が浸かってたお湯に入ってるんだよね……ンンッ!!』
とかなっちゃうんですか?とミサカは
「アンタ本当は20000号でしょ!?ねぇ、そうでしょ?」
――… *** …――
「理后のヤツ……あそこまで俺のこと考えててくれたなんてな……」
しみじみとした口調で浜面が膝の上の理后の頭をそっと撫でてやる。
既に酒が回ったせいか、理后は微塵も起きる気配など見せずに心地良さ気に夫の膝枕で寝息を立てている。
一方通行は最後の焼き鳥を食べ終えると、部屋から持参したワインをグラスに注ぐ。既にビールはあらかた飲み尽くしてしまっていた。
浜面は注がれたワインを唇を湿らせる程度に飲む。
「テメェには出来過ぎた嫁だな」
「大丈夫だ、自覚はある」
「ていとくんネタはいい。コイツ結構心配してンだぞ?」
お茶を飲みながら時折理后の相談に乗るのは一方通行の役目だった。
本来は絹旗や麦野、美琴と親しいのだが、如何せん日中家に居るのは家で論文を書くことの多い一方通行くらいである。
専業主婦の理后と一方通行が親しくなるのは自然の流れかもしれない。
加えて、二人はよく料理を教えあったりもする。相談の一つや二つはしていてもおかしくはないと浜面は頭を擡げようとする嫉妬心を宥める。
そんな浜面を気にするでもなく、一方通行がふと視線がリビングの一点に留まる。
“それ”は手を少し伸ばせば届くところにあった。
しげしげと眺める一方通行の手にしたものを見て、浜面が懐かしいなと呟く。
「コレ…まだあったンだな」
「人気シリーズだから二年目突入してるんだよ」
一方通行が手にしたのは、ロボットの玩具。
学園都市の男の子を中心に人気のあるロボットアニメ、その主人公が乗るロボットの玩具であった。
アニメを忠実に再現しているというのが触れ込みだったと、浜面から聞いたことを思い出す。
「新機体に乗り換えもせずに戦い続ける昔気質のロボットアニメ。親としてもありがたいよ正直」
一個買えば暫くはもつしと続ける浜面。
一方通行は玩具の前、後ろ、更には逆さまにして眺めすかす。そして、ようやく目当ての部分を見つける。
僅かにロボットの肩のパーツ、背中側の見えずらい部分が欠けていた。その部分をそっと指でなぞる。
「……結局買い直さなかったのか」
一方通行の指でなぞる部分を目にして、浜面は彼がどうしてそれを手に取ったのかを理解した。
「………別に買い直すほどじゃねぇだろ」
「弁償するって言ったろ」
「いいって。それにあれはウチのチビも情けない話だろ」
――… *** …――
それは一年以上前の話になる。
想を迎えに行った一方通行は、其処で軽い人だかりが出来ているのを目にした。
近付いてみれば、人だかりの中心には迎えにいく相手である少女がいた。傍らには友人の息子。
友人の息子はロボットの玩具を胸に抱き、少女は泣き腫らした目でもって気丈に相手を睨んでいた。
場違いにも、一方通行は怒った顔をするとますます母親そっくりだなと感心した。
少女達が睨みつけているのは泣き喚く男の子と、それを抱き寄せた母親の姿だった。
母親の方も、生意気に睨んでくる少女が気に入らなかったのか、大人気ない眼差しを向けている。そして何かを想に向けて言おうとした瞬間に、一方通行の姿を目にして、慌てて口を閉ざした。
一方通行は、少女の肩に手を置いてやっている絹旗に視線を向ける。彼女の視線は後で話すと物語っていた。
しかし、一方通行には詳しい事情を説明されずとも、大体の予想が付いていた。
「向こうのガキに怪我らしいモンが無かったのがまだ救いだったな」
事の顛末はこうだった。
想と浜面の息子は幼馴染ゆえに仲が良い。
泣き虫で気の弱い母親譲りの女顔の少年を、天真爛漫で愛らしい少女が振り回すという構図だ。
二人はいつものように絵本や画用紙を開いて遊んでいた。
普段と違ったのは、その日、男の子は父親に買ってもらった玩具を嬉しそうに女の子に見せていた。
そこに一人の男の子がちょっかいを掛けにきた。
理由としては、一つは男の子が持っている玩具が羨ましかったことである。
そしてもう一つ、此方が主な理由であるが、男の子は想がいつも同じ男の子と遊んでいるのが気に食わなかった。
男はいくつであろうとも可愛らしい女の子が好きである。
結局は、嫉妬であり、小さな子特有の好きな子に素直になれない性故に、ちょっかいは瞬く間に口げんかとなった。
ここまでは幼児の可愛らしいケンカで済んだのだが、そこからが問題となった。
『おまえのところさ、いっつも白いにいちゃんがくるよな』
『あーくんのこと?』
『パパじゃないのに、なんでむかえにくるんだよぉ』
『かんけいないもんそんなの!!あーくんは想のあーくんだもん!』
『な、なんだよ。ママがいってたぞ。パパじゃないのにいつもいっしょなんておかしいって』
『おかしくないもん!かぞくだからぜんぜのかしくないってママいってたもん!!』
『うっそだー!かぞくじゃないだろ。パパでもにいちゃんでもないないんだろ。ちがつながってなかったらかぞくじゃないんだってしらないのか~』
『かぞくだもん!!あーくんとママと想はかぞくだもん!!』
『へっへっへ~ママいってたぜ。みさかのママはいやらしいって。けっこんもしてないのにおとこのひとといるのはへんだって』
『へんじゃないもん。ママは想のママはいちばんだもん』
『じゃあ、へんなのは白いヤツだ~』
『ちがうもん!!あーくんへんじゃないんだもん!!想のあーくんだもん!!ひどいこといわないでよ!!』
おそらく男の子の方は自分の言ってることの大半は理解出来ていなかったのだろう。
母親が言っている言葉を聞いていただけだ。しかし、言葉に一方通行や美琴を貶める内容が含まれていることは理解出来ただろう。
だからこそ、気を引くための意地悪の延長として男の子はそれを口にした。
この年頃の子供の記憶力はビデオで録画したかのように最早記録とさえ言えることがある。
故に、男の子の言葉は意味は理解出来ずとも、その言葉には大人特有のねっとりとした陰湿さが滲んでいた。
想は、それを感じ取れる程に敏い少女だった。大好きな母親と、そして『あーくん』が馬鹿にされたのだとすぐさま理解する。
母親譲りの気性 ――― 自分の事以上に、自分の大切な者を傷付けられ、馬鹿にされる事が許せないという少女の気性が脊髄反射のように行動に反映された。
少女は、手近なものを男の子に向けて投げつけた。
それは、幼馴染の少年が持っていた玩具。それが何かを確認するには、幼い少女は完全に頭に血が上っていた。
少女は敏く、そして賢い子だった。
しかし、それによって起こす自分の行動がどのような結果をもたらすかにまで思い巡らせるには幼過ぎた。
男の子は火が付いたように泣き出し、また、帰りの時間だったことが災いしたせいで人が群がるようになった。
子供は、時に周囲の反応を見て泣く度合いを測ることを無意識に行う。
有体に言ってしまえば、慰めてくれる人間、味方をしてくれる人間、構ってくれる人間、それらが周りに多いときほど、勢い良く、長い間泣き止もうとしない。
結局少年は母親が迎えに来るときまで泣き続けた。
事は、美琴が少年の家に謝りに行くことで収まった。というよりも収まらざるを得なかった。
少年側の母親にそもそも疚しい部分があることもだが、それだけならば『所詮は片親か』と居直ることも出来る。
問題は、その陰口を叩いた相手が、学園都市で最も名の知れた超能力者であるという点である。
世界規模で有数の学園都市の大学で研究に身を置いているレベル5。
社会的ステータスにおいても、そして、暴力という点においても少年の母親が居直ったところでどうこうなる相手ではなかった。
――… *** …――
「つーかありゃあ、完全に向こうの母親の嫉妬が招いたことだろ」
「だろォな」
浜面はワインを一方通行のグラスと自分のグラスとに順に注ぐ。
言葉にしたことはないが、浜面は少し向こうの母親の気持ちがわかる。
学園都市では片親は珍しくも無い。置き去りという言葉が広く浸透する程であるから、今更片方がいないから何だという話になる。
学生が大半を占めるが故に、学生結婚や出産さえもざらである。
そのような環境だったからこそ、美琴は外部の同じ環境下にいる少女と比べて周囲の理解と協力を得て子供を産むことが出来たのだ。
しかし、一方で学園都市という環境がマイナスに働くこともある。
『超電磁砲』
学園都市のアイドル、口さがないものに言わせるとことの客寄せパンダであった少女は、その他のレベル5と比べて格段に有名だ。
勿論、それは常盤台時代が全盛期である。外部からの流入が増えている近年は、そうそう騒がれることはない。
しかし、それでも、彼女のステータスが変わることはない。
美貌、才能、そして社会的地位。それらを完備しているだけでも嫉妬を煽るというのに、傍らには中性的な美貌を持つ男が居るのだ。
退屈と倦怠感を持て余している主婦にとって、格好のゴシップの材料になるのも無理も無い。
そして、得てしてそのような人間は考えない。
嫉妬の対象となる人間もまた、傷つき、痛みを覚えるという単純なことに。
だからこそ、子供の前ですら、平気で心無い言葉を口に出してしまえるのだろう。
「ウチの息子も情けねぇよ。好きな女の子一人庇ってやれないんだからな。甘やかし過ぎたかな」
愛する少女の為に、たった一人、レベル5に立ち向かい、そして勝利を収めた男である。
どんなに勉強や運動がダメでも構わないが、好きな女の子の陰で泣くことだけは許せなかった。
「あの時は想が何も話さなかったからな」
「それはあの子がお前が傷つくってわかってるからだろ」
「チッ………ガキがくだらねェ気遣いしやがって……情けねェ……」
「情けないって、お前…優しい子じゃねぇか」
「情けねェのは俺だよ。そンな気ィ遣わせちまうくれェ頼りないのか」
そうではない。浜面は少女の心情を慮る。
きっと、幼いなりに少女はこの男を、その心を守ろうとしていたのだろう。
理后や絹旗がよく口にするが、この学園都市最強は、何処か母性を擽るのだという。
黄泉川や芳川といった大人の女だけではなく、まだ10代そこそこの少女らにさえそんな気持ちを与えるのだ。
幼い打ち止めでさえも、この男に対して時折母親のような眼差しを送っていたのを思い出す。
「なァ……浜面」
「うん?」
「やっぱりよ……父親ってのは必要なのか?」
「――― お前は十分過ぎる程父親役やれてると思うけど」
「役じゃねェ。父親そのものだよ」
それが本題か。浜面は一方通行が此処に来て、話したかったことをようやく理解する。
随分長い前置きだった。
喉を潤すべく自分のグラスにワインを注ぐと丁度空になった。
「一児の父親としてはいらねぇとは言えないよ。けど、必要なのか?そもそもアイツは……」
「わかってる……わかってるけどよ」
一方通行は空き瓶を脇に置いて、グラスを一気に煽る。
「結局浜面宅から戻りませんね、一方通行」
「そうよ、折角夕食作ってあげようって思ったのに」
想を寝かしつけた姉妹は同じ顔を突き合わせて酒を飲んでいた。
美琴の好きな赤ワイン。
御坂妹はテーブルに並んだメニューの数々を見る。
グラタンにガーリックトースト。
白身魚のムニエルにトマトのサラダパスタ。
一方通行ほどではないが、十分に上手いと言える。
「お姉さま気合入れすぎです……研究が終わったことを彼と祝いたいというのはわかりますがと、ミサカはお姉さまの年甲斐も無い乙女心を慮ります」
「年甲斐も無い言うな!!大体、乙女乙女って馬鹿にするけど、私は一児の母よ?大人の女なんだから」
「そうですね、上条当麻以来まったくエッチの経験もなく、そろそろ膜再生してんじゃね?とか妹達の間でまことしやかに噂になってますが、そうですね……って痛い痛い」
「ちょっとアンタ達の教育方針についてアイツと話し合わなくちゃいけなくなりそうね」
妹の顔を握り潰さんばかりに手に力を込める。
万力の如き握力に、妹の頭蓋が嫌な悲鳴を上げる。
「ギブギブですお姉さま」
「全くもう…」
本気で怒るつもりはなかったのか、すぐさま解放してやると、美琴は、使われる事のなかった、一人分の皿を見る。
自然と美琴の口から切なげな溜息が漏れた。
「お姉さまどうされましたか?」
「何かさぁ、アイツ最近どうも様子が変なのよね」
「変とは?」
「妙に思いつめた顔してるんだわ。今まで大体のことは話してくれたくせに、今回は何でもねェの一点張りだし…」
また溜息が一つ漏れる。
グロスの塗られた唇が艶やかに震える。
伏せられた瞳に幕のようにかかる睫が、そっと大人びた影を落とす。
その表情に御坂妹は何処か見覚えがあった。
そうだ、それは完全に ――――
「一つ質問したいのですが」
「何?」
「あの人は未だにお姉さまがあの人を好きなんだとでも思ってるのでしょうか?」
「……かもね。っていうか多分そうだわ」
変なところで女に幻想を抱いているあの男ならありえる話だ二人はそれぞれ同じことを思う。
美琴としては、上条当麻は既に過去でしかない。
それは、確かに初恋であり、想の父親であるが、それは今の生活にどうでも良いことだ。
夢があり、娘がいて、そして、支えてくれる者がいる。
時折、あの日の夢を見ては泣きながら目が覚めることもあるが、それはその頃の自分に感情移入して泣いてしまっているに過ぎない。
未練が夢という形となっているかもしれないが、少なくとも美琴としては「ああ、そういえばあったなそんな事」という程度の話だ。
おそらく、上条当麻についてきっちり考えることがあるとすれば、想が大きくなり父親の事について尋ねてきた時だろう。
「男ってどうして、いつまでも女が惚れてるもんだと思えるのかしら」
「同感です」
――… *** …――
浜面宅を出て、一方通行は酔い覚ましに、エントランスを抜け、付近の公園に足を伸ばす。
今日は確か研究が一応の終了を迎えたという連絡を受けた。
妹と今頃飲んでいるのかもしれない。
自分の部屋ではなく、今日は彼女の部屋に居るはずだ。
本当は酔いを覚ましたらすぐさま向かおうと思ったが、気が付いたら公園のベンチに座っていた。
時計を見れば既に20分くらいそうやってぼうっとしていたようだ。
早く行こうかと思い、ふと携帯を手に取った。
アドレス帳をスクロールさせると、目的のアドレスで止まる。
一瞬の逡巡の後、一方通行はコールボタンを押す。
二回のコールの後で通話状態になる。
『もしもし?どうしたんですか一方通行?』
微かに上ずったような絹旗最愛の声が受話器から通る。
一方通行は、二、三口を開きかけては閉じるを繰り返す。微かな沈黙。
「なァ、絹旗」
『はい』
「いきなりこンな事聞くのはおかしいと思うかもしれねェが、答えて欲しい」
『………どうしたんですか?』
いつもの一方通行だったら、「答えろ」と有無を言わさないはずなのに。
そのことを内心疑問に思ったのだろう、絹旗の声に怪訝の色が浮かぶ。
「お前よ……両親に会いてェって思ったことあるか?」
唐突な質問だなと、一方通行は自嘲するように短く息を吐いた。
浜面の答えでは何が不服なのだろうか。
必要かもしれない。それは自分でもわかってる。
けれどもと、言葉を濁した浜面。上条当麻の事情を知る一人。
御坂想と滝壺理后を守るという目的の下、同じマンションに住む仲間の言葉だ。
それは何よりも一方通行の望む、或いは相応しい答えのはずだった。
けれども、踏ん切りが自分の中で付かないのだ。一体どうしたいのだろうか。
『正直昔は会ってぶち殺してやりたいって思ってましたよ』
置き去りと呼ばれる子供だった絹旗らしい答えだ。
苦笑が浮かぶ。
しかし、絹旗は続ける。
『でも今は少し違います』
「違う?」
『殺さない程度に超殴る前に、いえ、後でも良いですかね。話を聞いてみたいと思ってます ――― どうして私を超捨てたのか、と』
絹旗が短く息を吸う音がやけにはっきりと聞こえた。
『やっぱり実の親ですものね』
「 ―――― ッ ――― 」
『まぁ、私がそう思ってるだけで、向こうは話したくもないかもしれませんし。第一、生きてるかもわかりませんが……一方通行どうしましたか?』
「いや、何でもねェ。ありがとよ」
『あ、ちょ、一方通行どう ――― 』
絹旗の声を聞かずに電話を切った。
結局自分は躊躇していたのだ。
怖くて。
上条の事情などと言い訳をして、本当は怖かったのだ。
実の親という存在が。
けれども、自分が怖がっていることが理由になるのだろうか。
「ならねェよ……」
もしかしたら想は会いたいのかもしれない、実の父親に。
美琴も会いたいのかもしれない。
一緒に暮らすのは無理かもしれないが、何らかの方法で繋ぐことが出来るかもしれない。
本当の家族の絆を。
真に、不自由さや障害、そういった要素があって、完璧ではないにしろ、本当の家族の絆を作ってやれるなら、それに勝る幸福など無いのではないか。
自分の自己満足による世話など必要としない、本来の幸福を、美琴も想も手に出来るのではないだろうか。
だとすれば、そこに自分の執着や、恐れなど立ち入る要素など何処にあるのだろうか。
「そんなモン、まるっきりクソみてェなモンじゃねェか」
そう、有りはしない。あの母娘の幸せの障害にしかならないのならば、自分の躊躇など紙屑以下だ。
一方通行は立ち上がり、アドレスを再び開く。
掛ける相手は決まっている。
食えない男であるが、あの男の居場所を把握しているに違いない。
一方通行は笑おうとして、引きつるだけの自分の表情には気付いていなかった。
息を弾ませながら女は青々とした芝生を歩いていく。
青々とした芝生の絨毯が徐々に薄紅色に染まり出す。
足を滑らさないように注意するあまり、俯きがちになっていた視線を上げると、目の前に飛び込んだ景色に感嘆の息を呑む。
毎年目にしているというのに、どうにも圧倒されるの。
視界一杯に広がる桜の並木。
途中強い風に吹き付けられ、咄嗟に手にした花束をしっかりと抱き締める。
風は瑞々しく、僅かに潮の香りを含んでいる。風が冷たいのは海が近いせいだろう。
並木の桜が潮風で散ってしまわないかが毎年この季節の一番の心配事であるが、どうやらそれは杞憂であるらしい。
この土地の管理者がしっかりと手入れをしているようだ。毎年見事な桜の花びらで丘は薄紅色に染まる。
大した斜面ではないというのに、息がすっかり上がってしまった。もう自分も若くはない。若いつもりでいるにしてもそろそろ限度がある。
桜色の春物のカーディガンを着ている姿はどう見ても海を眺める為に足を運んだお嬢様にしか見えない女は、そんな外見に反したことを思う。
確かに、彼女は事実決して若い少女などではない。
20代にしか見えないとお世辞抜きで言われるものの、孫を持つ友人がいる年齢であることは事実なのである。
女は息を整えながら徐々に視界に広がる海に、彼女の表情が明るくなる。
そこは海の見える小高い丘。
海の見えるその場所にはひっそりと立つ慰霊碑がある。
慰霊碑の前には既に先客がいた。肩膝を突き、ジッと慰霊碑を見ているようだ。
見覚えのある後姿に、女は小走りに駆け出した。
気配を感じ取ったのか、先客はゆっくりと立ち上がり、振り返る。
「あーく~~ん!」
手を振りながら、大声で先客の名を呼ぶと、慰霊碑の前に立つ青年は困ったように、眉を寄せた。
「その呼び方は止めてくれ……」
「あら、いやだわ大人ぶって」
「だからもう大人だってンだよ」
青いゴムで縛った尻尾状の髪を指先で居心地悪げにいじる。
「うふふふふ、ゴメンなさいね」
「………フン…」
女はにっこりと、世間知らずのご令嬢のように無邪気な笑みを浮かべる。
彼女は青年の困ったようなその顔が好きだった。
白い髪は太陽の日を浴びてキラキラと輝いている。まるで絵画の天使のようだ。
『若くて美しい男は、それだけで価値がある』とは、彼女の友人が以前酔った時に口にした言葉である。
なるほどその通りかもしれない。手にした花束を慰霊碑の前に置くと、彼女の捧げた花以外何も無い事に気付く。
ちらりと青年を見上げれば、青年は鼻を鳴らして、海に視線を向けた。
どうやら今日、自分と彼は目的が違うようだ。少なくとも、彼は友人を悼む為にこの場にいるわけではないらしい。
そっと視線を慰霊碑に戻すと、女は刻まれた名を指でなぞる。
ひっそりとした小高い丘に立つ慰霊碑。
其処に刻まれている名の大半が外国人名であることが、この場所が人気の無い理由なのかもしれない。
名目上打ち立てられてはいるものの、所詮は知る者の名が刻まれては居ない慰霊碑。
足を運んだとしても、それは水平線を見渡せる丘からの眺めか、或いは、目も眩むような桜並木が目当てなのだろう。
「……その方がいいのだけれどね」
「何がだよ」
声に出して呟いていたらしい。
白い髪の青年が、怪訝そうに赤い瞳を細める。しかし、何処かその表情に気遣う色が浮かんでいるのを目にして、笑みが零れる。
優しい子だ。それを表わすのが下手なせいか、誤解されてしまうだけで。
女はかぶりを振る。
「ううん。大したことじゃないの。ただ、静かな方が落ち着けていいなって」
「……腰落ち着けるようなところじゃねェだろ……」
「そうね…ええ、そうよね。じっとしてても意味なんて無いものね」
女はもう一度指でなぞる。
「どれだけ思いを馳せても……当麻さんは生き返るわけじゃないものね」
慰霊碑に刻まれた、たった一人の彼女の息子の名を。
上条詩菜は、顔に掛かった髪をかき上げる。一段と風が強く吹いてきたようだ。
詩菜の寂しげな笑みから、青年が目を逸らす。この女性が、彼はどうにも苦手だった。
嫌いであるわけではない。寧ろその逆と言える。
記憶の中に輪郭すらあやふやな母親の姿の上から上書きしていた何時のころかに抱いていた幻想。
こんな母親がいたらという、幼い日に彼が抱いた姿に似た詩菜であるからこそ、寂しく笑う彼女を前にどうすれば良いのかわからなくなる。
「あーくんは優しいのね」
「はァ?」
しゃがみこんだまま、慰霊碑から視線を逸らさずに、詩菜が独り言のように呟く。
「毎年私が此処に来るたびにどうにかして元気付けようとしてくれてるでしょ?」
悪戯めいた瞳が、青年、一方通行を見つめた。
「……別に…」
口を尖らせて、ようやくそれだけ返す青年に、くすりと詩菜は笑う。
亡き息子の友人だったというこの青年が詩菜は好きだ。
年頃の娘が彼を見た時に抱くような好意では当然無い。息子ほど離れた男に今更ときめくことなど皆無と言えば嘘になるが、滅多にあるものではない。
顔立ちの美しい青年だが、詩菜は寧ろ、この目の前の学園都市最強の悪魔を可愛いと感じる。
今のように時折見せる彼の年相応のぶっきらぼうさや、時として、年不相応に幼い表情が好きだった。
そして、この青年は息子の当麻に似ているところがある。
それは強さであったり、優しさであったり、それから、少しばかり感情の機微に疎いところだ。
――― 人の好意に。
―…***…―
「さてと、そろそろ帰ろうかしら」
此処に来て当麻を偲ぶ時間が減ったな、と詩菜がふと思ったのは腕時計の文字盤が目に入ったから。
慰霊碑の前に座ってから、時間は30分を過ぎたところであった。
以前であれば、気が付けば二時間が経っていた、などということもざらだったのに。
風が冷たくなってきた。空を見上げれば抜けるような青空。
天気はすこぶる良い。ただ、気温だけが、忘れ物のように残っていた冬の訪れのように場違いに冷たい。
身体を抱くように腕組みをしてから、詩菜は足元の影に気付いた。
見上げれば、一方通行が詩菜の側に何食わぬ顔をして立っている。一歩、彼から離れるように踏み出すと、途端に肌を刺す寒気が増す。
足を止めて、もう一度青年を見上げれば、やはり彼は遠い目で海を見つめている。しかし、詩菜は気付く。
自分が慰霊碑の前で物思いに耽っている間、ずっと風除けになっていてくれたのだと。
二人は、丘を降りるべく、どちらからともなく歩き出した。
途中、黒い衣装に身を包んだ年若い神父が歩いてくる。日本人だ。
神父は詩菜を見ると微かに眉を寄せてからぺこりと会釈をする。慰霊碑に思い当たったのだろう。詩菜も会釈で返す。
慰霊碑の方へと歩く神父の姿を見てから、ふと思った。
息子を偲ぶ時間が減ったのは気のせいではない。
当麻が死んでも、自分の世界は存在し続ける。
日々は続き、新しい出会いや別れ、そして大切な繋がりは生まれる。
息子が死に、息子の恋人だった少女が父の知れぬ子を産んだ。
愛らしい、見ているだけで蕩けてしまうような女の子だ。
父親は、詩菜は息子だったのではないかと内心思っているが、本人が口にしないことを根掘り葉掘り尋ねるつもりはなかった。
息子の友人だという青年は、息子と違ってまるで警戒心に凝り固まった猫のような青年で、どこか放っておけない子であった。
少女の母、詩菜の友人のお気に入りで、実の娘よりも話題に上るのは彼なのだとすぐに理解した。
新しく生まれた繋がりは、詩菜から過去を偲び泣く時間を少しずつ奪い、代わりに今の時を楽しむことを与えた。
その事に、詩菜は罪悪感を抱く事もある。
しかし、それをくよくよ悩むほど、彼女は若く、清廉な人間ではない。
詩菜は一方通行の腕に、自分の腕を絡める。
「オイッ!?」
「いいじゃない。オバサンも若い子と時にはスキンシップを取りたくなるの」
「美鈴さンだろォがそういうキャラは」
「気にしない、気にしない」
舌打ちをしつつも、一方通行は腕を振り払わない。
半ば強引に腕を確保した詩菜は白ずくめの青年と桜並木を歩く。何となく、学生だった頃を思い出した。
初恋の人、初めて付き合った人と、こうして桜の木の下を歩いたのだ。
結局あの頃はいっしょに登下校をするだけで付き合うということの意味すらわからない子供だったのだが。
何故そんな事を思い出したのだろうかと、隣の、頭一つ背の高い青年を見上げる。
照れくさそうに、そして、何処か嬉しそうに頬を染める青年。その表情に理由がわかった。
触れられている腕から伝わる緊張。初々しく微笑ましい一方通行の表情が、彼女の心を刹那、昔日の思い出に飛ばした。
勿論、朱色に染まった頬を見て、自分に気があるのではないかという期待など特に無い。
彼の生い立ちを知っているだけに、紅潮した頬の訳もわかる。
息子の友達は、想像以上に息子に似ており、詩菜は時折こうしてからかってみたりする。
からかうだけが目的ではない。見上げねばならないくらいに成長した息子とこうして歩くことなど詩菜には出来なかった。
学園都市に移り、少年から青年へと変わる頃にはこうして穏やかに二人で歩けるような平穏はやってこなかった。
詳しくはわからないが、何か大きな揉め事に巻き込まれ続けていた息子は、結局、そのまま大学へと進み、そして帰らぬ人となった。
彼はこうして母親と歩いたことがあるのだろうか。
詩菜は杖を器用に突いて、あわせる必要の無い歩調の青年の横顔をじっと見上げる。
「着いたぜ」
ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、ハスキーボイスが穏やかに響く。
丘の入り口まで、二人は気が付けば降りていた。
石段を降りた先に広がる小さな駐車場には、二三台と点在する車。
その内の一台の前には、冴えない風貌の男が車のドアに寄りかかり、僅かに背筋を丸めて立っている。
吹き付ける風に、身を縮めて、それでも男が待つのは自分だろう。
夫の少し情けなくも、人の好い姿にほわりと相好を崩すと、一方通行に視線を戻す。
「ありがとう、あーくん。そうだ、あーくんも乗っていく?車じゃなかったらだけど」
そう言って、駐車場の刀夜を指さす。
一方通行はゆるゆると首を振ると、丘を見上げた。
「折角の申し出だけどよ、もう少し俺は此処にいるわ」
「そうなの。折角だからお昼一緒にどうかなって思ったのに」
「それは…まァ、また機会がありゃァな」
そう言っても、この青年から誘ってくることはない。
此方が呼んでようやく来るのだ。彼はいつもそうだ。
詩菜の目が、一方通行の髪、その上の空へと向けられる。
潮風に乗った桜の花びらがシャワーのように舞い散る中、白銀の髪に、薄桃色の花びらが折り重なる。
そのたびに、詩菜の目にそれらは季節はずれの雪のように映った。
「あーくんの髪の毛…ホントに綺麗なのね」
そっと手が伸びた。
猫のように柔らかな毛に指先が触れると、一方通行の身体が僅かに強張るのがわかった。
それは微かな変化だったが、詩菜はそれを見逃さない。見逃さない上で、気付かぬフリをする。
「ほら、逃げないの。花びらが絡まっちゃってるわよ」
「あァ ――― うぅ」
言葉になりきらない声が、短く漏れる。
小さく笑って詩菜は花びらを優しく払ってやる。
「どォも」
子供のようなお礼の言葉に、詩菜はまたしても笑ってしまう。
一方通行は拗ねたように瞳を伏せる。
「それじゃ、刀夜さん待たせてるから行くわね」
「ああ」
「今度は想ちゃんと一緒に遊びに来てね。ああ、絶対想ちゃんも連れてきてね。着せてあげたいお洋服が沢山あるの」
「あんまり甘やかさないでくれよ。貰い癖が付く」
「大丈夫よ。それくらいちゃんとあの子はわかるわよ」
「どォだか」
相変わらず素直じゃない言葉を吐く。
呆れてしまうが、幼い少女を誰よりも慈しみ、可愛がっているのは彼だ。
それを認めることが照れくさいのだろうか。
「じゃあね、あーくん」
手を振って、石段を降りて行く。
駐車場と車の丁度中ほどまで歩いて、もう一度振り返る。
一方通行は唇の端を微かに和らげ、小さく手を振っていた。
既に小さくなった青年の表情まで見ることはかなわない。その表情が柔らかいと思ったのは、詩菜の想像でしかない。
けれども、それは確信にも似ている。優しくて、不器用な青年だ。
一方通行は、背を向けると再び石段を上り始めた。
その背は力強いはずなのに、何処か脆い。
あの青年が守ろうとしているものが、詩菜には何となくわかる。
きっと息子の残していったものだということが。
あの華奢な背に背負っているものの大きさを、彼女はおぼろげにではあるが把握している。
当麻に似ている。強さと、優しさと、不器用さがとても似ている。
二人目の息子のようにすら思っている。
六年の付き合い。その年月がたったなのか、もうなのかわからない。
けれどもその中でわかったことがある。
彼は、当麻にとても似ている反面、正反対だということだ。
大樹のように、しっかりと根付き、そして決して崩れない強さを生まれながらの才能のように持っていた息子。
それとは正反対の強さ。固く、美しく、鋭く、そして脆い。ガラスで出来た刃のような強さ。それが一方通行と呼ばれている男の子の強さだ。
―…***…―
『ねぇ、猫って飼ったことあります?』
いつかの酒の席で、酒気に染まった顔で美鈴がぽつりと呟いた言葉だ。
いいえ、無いわね。そう答えた。当麻が自分の右手が招き寄せる不幸を気にしてペットを飼いたがらなかったのだ。
美鈴は「当麻君らしい」と言って、喉を震わせて小さく笑っていた。彼女は孫娘の父親を余り気にしている素振りを見せない。
ただ、お気に入りの白い青年が孫娘を可愛がってくれていることに感謝をしているのは知っていた。
『ウチはね、美琴ちゃんが動物大好きで。私も大好きだから、よく野良猫とか拾って来てたんですよ。あの頃は能力なんてなかったから、静電気で寄り付かないってこともなかったし』
美鈴は、グラスに注がれた小さく揺れる琥珀色を見つめながら、長く優美な睫を微かに瞬かせた。
『猫……っていうか、猫に限った話じゃないんだけど、人に叩かれて育った猫ってね、撫で様とすると耳を横にするんですよ』
イカみたいにね、そう言って美鈴は両手を頭の上でパタパタと耳に見立てる。
子供染みた仕草に、つられて笑った。
『頭の上に手が来れば叩かれると思って身体を固くして。大声で呼べば怒鳴られると思って震える。抱き上げようとするとパニックになって引っ掻く。
餌が目の前に置かれても、どうせ取られちゃうんだって、警戒しまくりで………』
美鈴は目を細めた。
琥珀色の先に何が見えているのだろうか。
―…***…―
一方通行を見ていると、あの華奢な背中を見ていると、詩菜はいつも泣きたくなる。
怒られるのを待っている子供のような目をする。
申し訳なさと、寂しさを湛えた子供の目だ。
頼ってもいいのよ。
甘えてもいいのよ。
泣いてもいいのよ。
そう思っても、かけてあげたい言葉は全て上滑りしていく。
きっとあの子は聞き入れはしない。
折れて砕け散った己の姿を見ても、きっとそンなモンだろと鼻で笑ってしまうのだろう。
まるで他人事のように自分自身の残骸を軽蔑の眼差しで見下ろして。
『きっと……あの子は自分が撫でられるなんて考えたこともないんだろうな……』
―…***…―
上条詩菜を送ってから一方通行は再び慰霊碑の方へと向かっていた。
数ヶ月ぶりに会う詩菜は相変わらず年齢という概念をどこかに置き去りにしたような容姿をしていた。
御坂美鈴もかなりのものだが、詩菜に至っては最早若作りというレベルを超えていた。
からかい混じりに腕を組まれても、振り払うことは出来なかった。
想とも、美琴とも絹旗とも違う香り。甘くて何処か安心する香り。
いつもあの笑顔を向けられると抵抗するべき反抗の言葉は全て解けて消えてしまう。
これではいけないと一方通行はその度に自分に言い聞かせる。
居心地の良さに甘えてはいけない。暫定的に自分がいるに過ぎない場所だ。
そして、同時に思う。会うたびに、詩菜は何処かに影がある。自分を見る目に何か憂いが見え隠れする。
それを、一方通行は亡き息子への母親の愁えだと感じ取る。
そして、その度に、やり場の無い怒りが込み上げる。
あんな母親に。幼い頃思い描いていた姿そのままのような、自分が欲しくて仕方が無かった母親にあんな顔をさせる男への怒りだ。
あの愁えた顔を見る度に、思い知らされる。捨てたものの重さを。
今まで、捨てることの重さが一方通行にはわかっていなかった。
捨てる程何かを手にしていたことが無かったから。
慰霊碑が見えた。
その前には、一人の男が佇む。
先ほど擦れ違った神父だ。
彼は何かを確認するように、慰霊碑をじっと見下ろしていた。
その背後の、二メートルも離れていない場所で立ち止まる。
「墓参りか?」
「ええ、知り合いの」
「生憎そこには何もねェぞ」
「知ってますよ」
神父の声に、微かに自嘲の響きが混じる。
「知り合いってなァどンなヤツだ」
「どう……救いようの無い馬鹿な男ですね」
「奇遇じゃねェか。俺の知り合いもそォなンだわ。……もっとも馬鹿さ加減じゃ俺の方が重症だけどな」
「そんなことはないでしょう」
「あるンだよ。なンせ、今更テメェで後押しした結末にいちゃもん付けようってしてンだからな」
「それは…」
神父の声に、僅かな困惑が生じる。
一方通行はゆっくりとチョーカーに指を伸ばす。
「で、いつまでその気持ち悪ィ喋りかた続けやがンだ……なァ、オイ ―――― 上条」
「………いつから気付いてたんだよ……」
「最初からだよ。土御門にな」
「………アイツ……」
神父が右手で顔を覆う。
嘆いているようにも、辟易しているようにも見える仕草。
枯れ枝を圧し折ったような音が何処かから響いた。まるで何かを砕いたような音だ。
それが一体何なのか、具体的にはわからずとも、誰が行ったのかは一方通行にはわかっていた。
若い神父がゆっくりと振り返る。
「久しぶりだな、一方通行」
上条当麻が六年ぶりに会う友人に口にしたのは実にありきたりな言葉であった。
かちりと、プラスチックの乾いた音が潮騒に絡め取られた。
チョーカーに手を当てたことで、上条の顔に警戒の色が浮かぶ。
その行為が何を意味するのか、それを十分過ぎる程熟知しているからだ。
目の前の華奢な青年を、学園都市最強の怪物へと変えるスイッチであると。
羽織っていたコートに、上条はゆっくりと手をかけた。
しかし、一方通行は杖を収納した手甲を軽く撫でながら、世間話を切り出すように視線を海へ向ける。
「なァ…御坂、御坂を覚えてるか?」
「…御坂…?」
「ああ、御坂美琴だ」
コートに手を掛けた拍子に上条の左手の袖がめくれる。
七分袖から覗く左腕に無数に刻まれた傷。
一方通行は一瞥するだけで納得する。
それは上条が戦い続けていたということを意味していた。
あの日、自分が送り出したこの男は確かに言葉を違えることなく、あの白い少女の為に命を懸けてきたのだろう。
満足感にも似た思いを抱きながら、一方でこみ上げる苛立ちに気づく。
「覚えてるに決まってるだろう?付き合ってた恋人の事を忘れる男なんていねぇよ」
「そして、テメェが捨てた女だ」
煙草を持ってくれば良かった。
一方通行は小さな後悔をした。
こんな話、煙草でも吸いながらでないとやっていられない。
苛立ちをぶつける道具がなければ、こんな胸糞の悪い話。
「それは…」
「いや、その事はもういい。どうにもならねェことだ。第一テメェらの問題だ、俺に言う資格もねェ」
コートに掛けたままの手を持て余していた上条は、そのままコートを脱ぎ去った。
一方通行の言葉のどこかに不穏な気配を覚えたからだろうか。
「けどな…一つ、テメェが知らねェ…知っておかなきゃならねェことがある」
これを言う資格は有る、けれども言うべきではない。
そんな事一方通行はわかっていた。
けれども、言わずにはおれない。
それによって、この六年間積み重ねてきたモノが崩れることになっても。
―――― やっぱり煙草を持ってくれば良かった。
一瞬、脳裏に場違いな後悔がよぎった。
「アイツはな…テメェがイギリスに渡った後だったかな、妹の奴が電話してきてよ、わざわざ研究室にだぜ?
『お姉さまが最近ずっと吐いてばかりいるどうしたらいいのかわからない』って電話口で泣きやがるンだ。
あのクローンが俺なンざを頼るなンて余程のことだ。調べたらアイツは妊娠してた」
「子供…」
「ああ…父親は?なンてトンマな質問するなよ?わかってンだろ」
心当たりならあった。
頻繁に美琴と性交渉を行いはしなかったが、つきあい始めた頃、自暴自棄であった自分はずいぶんと勢いでその行為に耽っていた。
思い返すだにあまりの短慮さに怒りがこみ上げたものだが、上条にはそれが原因だと既にわかっていた。
「ああ…」
「この前の誕生日…五歳になった。アイツに…お前には打ち止めの方がイメージしやすいか?結構似てるンだぜ」
クローンではないから、そっくりだとは言えないがと小さく付け加えた。
「女の子か…可愛いんだろうな、御坂の娘なら」
「…甘ったれで手を焼いてる」
くくくっと一方通行は笑った。
一方通行の脳裏には、この五年間もっとも大切に守ってきた少女の顔が浮かぶ。
美琴や打ち止めに比べて少し垂れ目がちの、甘えん坊の顔。
下がり眉のせいで、少し困ったように見える子犬のような少女。
待ってろよ、と小さく心の中でつぶやいた。
――― もうすぐ本物の親父に会わせてやるからな。
「上条」
一方通行は上条をまっすぐに見つめるとゆっくりと膝を付く。
地に手を付け深く頭を下げた。
「頼む。アイツ等に会ってやってくれ。一緒に暮らしてほしいだとか言うつもりはねェ…ただ、会って、アイツ等を抱きしめてやってくれ…
突然何ほざいてやがるって思ってるかもしれねェけどよ、けどよ、本当にアイツ等に必要なのはお前のはずなンだよ。偽物なンかじゃねェ…」
頼むと、一方通行がこれほど下げたことがあったであろうかというまでに深く頭を垂れた。
真っ直ぐな言葉に、彼の真っ直ぐな心が込められていることが、対峙する上条にはわかった。
「……悪い。それは出来ない」
その上で、上条は…神浄はその真摯な願いを切り捨てた。
「理由は…言わなくてもわかってるだろう?」
言い訳をしないことが、上条にとってのせめてもの返礼であった。
「くっ…」
頭を下げたまま、一方通行の口から小さな声が漏れた。
それは悔しさを込めたものではない。
「くく…くくかかかかか…」
皮肉と自嘲の結露。
ややハスキーな、高い哄笑知らず知らず一方通行から漏れた。
「だよなァ…きひゃはははははははははは」
本当はさほど期待はしていなかった。
「テメェの頑固さは骨身に沁みてわかってるよ。テメェなら断るってな」
互いに背負っているもの、取り巻く環境、流れていった時間、そして住んでいる世界そのもの、
すべてが二度と交わらぬ本流と傍流のように分かれている。
「ああ…わかってたンだよ」
それでも聞きたかったのだ、たった一言「会わせて欲しい」と。
あの母娘の存在が、上条の積み重ねてきた覚悟を揺るがすのを確かめたかったのだ。
「わかってたのになァ…」
陽炎のように、白い影を靡かせるように立ち上がる。
上条がゆっくりと両足を肩幅に広げた。
それを見て、一方通行の口の端がつり上がる。
前傾気味に姿勢を変えながら、一方通行は何処か冷静に自分の行動にあきれる。
きっと上条にはいい迷惑だろうと。
それでも思い知らせてやりたい。
お前がみすみす捨ててしまったのは、こんなにも綺麗なものだったのだと、思い知らせてやりたいと、何処かで思っていたのかもしれない。
「一方通行…」
「だがな。それで納得なンざ出来ねェンだよ!!」
―…***…―
「お~お~おっ始まったぜよ」
土御門が薄暗い部屋で、歓声を上げる。
目の前にはミニシアター程のスクリーン。
「さっすが学園都市最新鋭の衛生中継。超絶高画質だぜい」
「……ずいぶんと悪趣味だな土御門」
画面では、一方通行のひと蹴りで、巻き上がった土砂が散弾銃のように上条を襲う。
それを紙一重のタイミングで横に飛んで交わす上条。
猫科の動物を思わせる俊敏さだ。
煙草に火を点けながら、赤い髪の神父が不快そうに眉を寄せる。
「そう言うな。これも仕事のうちだにゃ~」
「仕事?」
「そそ。魔術サイド最強の盾と科学サイドの最強の矛の対決。他の連中も固唾を飲んで見守るはずだぜい」
「他?」
「学園都市最新鋭の衛生中継を盗み見出来る程度の技術と腹黒さを兼ね備えた連中だにゃ」
「そこに、上の連中も含まれているのかい」
「当然。確認したいんだろうぜい。イギリスに渡った最硬の盾と学園都市に残った最強の矛。戦力の均等化を計っての取引が果たして等価交換だったかどうか」
「ふん…圧倒的な差があれば、不公平だとごねるつもりか上は」
土御門は感情の読めぬサングラスの奥の瞳を微かに細めながら画面から目を離さない。
一方通行が腕を払う度に、見えない何かが青々とした丘を芝生ごと抉っていく。
それを、隙間を縫うようにくぐっていく上条。
「統括理事も、最大主教も努力はしてくれてるがにゃー」
「で、実際どうなる?昔になるが、アレイスターを葬った時の記憶で行けば、悔しいことに、あの二人の住む領域は僕には想像も付かない」
「そこまで大規模なものにはならねぇぜ。それに結果は最初から見えてる……」
画面の中では、土砂の散弾銃と、空気の鞭を捌ききった上条が右の拳を繰り出すところだ。
しかし、一方通行はその瞬間を狙いすましたかのように、上条が右腕を突き出した、その外側を一瞬の内に回り込む。
突き出した自分自身の腕が、上条にとっては完全な死角となる。
一方通行の動きの素早さに、俯瞰から見てすら目で追い切れぬ速度に、ステイルが息をのむ。
しかし、土御門は驚くそぶりすら見せずに、溜息を吐く。
ごッ。
鈍い音が丘に響く。
画面越しに、音は聞こえないが、ステイルはその音を聞いた気がした。
白い頭がゴムボールのように弾かれ、埃を巻き上げながら華奢な身体が転がっていく。
殴りとばされたのは、背後を取ったはずの一方通行であった。
「カミやん……神浄討魔に、一方通行は勝てない」
砂にまみれながら、一方通行は混乱しかけた頭をどうにか立て直そうと自分を詰る。
腕を付いて立ち上がろうとすると、手の甲に赤い滴がぽたぽたと落ちる。
顔に広がる熱以上に、一方通行を混乱させていたのは、殴られたという事実だった。
一方通行は立ち上がりながら、ゆっくりと上条の手を見る。
自分を殴りとばした拳。
それは左手だった。
自分が殴られた手は左手。
一方通行は鼻から流れる血を拭うと、口の中に溜まった血を吐き捨てる。
青い芝の上に、血だらけの唾液が跳ねる。
もう一度試してやる。
奥歯を噛みしめ、一方通行はベクトルを操作する。
一歩踏み出すと同時に、常人には視認しきれぬ速度で矢のように飛び出す。
迎撃すべく、右腕を突き出す上条の動きを見極め、再び背後に回る。
その瞬間、突き出したままの勢いに合わせて、上条の身体が反転する。
梃子のように上条の左手の甲が弧を描いて一方通行の頬に迫る。
バックハンドブロー。先ほどと同じだ。
反射。
そう心の中で再確認すると同時に、一方通行の白い頬に深々と上条の左手の甲が食い込んだ。
今度は、覚悟をしていたおかげか、先ほどのように派手にとばされず、一方通行はとっさにベクトルを操り倒れるのを防いだ。
そして、一方通行は動揺の隠せぬ瞳で上条を見る。
一方通行は確かに見た。
反射の壁を察知したように、上条の左手が反射の膜に触れる瞬間、微かに腕を引き戻しにかかっていたことを。
(木原と同じことを…)
―…***…―
「一方通行はカミやんに勝てねー。理由その一。潜ってきた修羅場の数が違いすぎる」
六年間、一方通行は決して争いと無縁だったわけではない。
想と美琴を守るために戦っていた。
しかし、相手は彼にいわせれば三下以下のちんけなチンピラである。
それに対して、上条は違う。
常に得たいの知れない、恐ろしい魔術師達と戦い続けていた。
魔術の世界は広い底なし沼と同じだ。
表に出ない無名であっても、フィアンマレベルの魔術師というのは、不思議と何処からか現れる。
息を潜めて、アレイスターが破滅する時を虎視眈々と待ち続けていた者、閉鎖的な地域にいたために名が知られていない者。
理由は様々である。
それらを相手に、上条神浄は戦ってきた。
「反射の膜を破るのなんて、右手に頼るまでもね~んだぜ、一方通行。それに…」
土砂の散弾に先ほどまでさらされていた上条は、頬や腕に微かな傷があるものの、致命的な傷はない。
勿論、彼自身の俊敏さ、たぐいまれな回避能力が大きな要因だ。しかし、それとは別に、もう一つ、上条が手傷らしい手傷を負っていない理由があった。
土御門は、二つ目の理由を口にする。
「一方通行は出来るだけカミやんを無傷で抑え込もうとしてる。ベクトル操作はバリエーションが豊富だが、無傷でそれに、周りに被害が出ない方法となるとやることは一つか二つだ」
「あの神浄を相手にかい?」
「そうだ。血塗れの父親を引き合わせる訳にはいかねーだろ」
「…」
「一方通行にとって、勝つことは問題じゃねー。如何に無傷で姫ちんと子姫ちんのところにつれていくかが問題なんだ」
捕まえて、即座に昏倒させる。
そのためには触れる必要があった。
「カミやんもそれに気づいてるだろうさ」
土砂を避けながら、おそらくは一方通行の狙いに気づいただろう。
彼の最終的な狙いが、自分に触れるということに。
「それに合わせてカウンターをかます。カミやんにはそうそう難しいことじゃないぜ」
―…***…―
右手に注意を向ければ左の拳が一方通行の頬を掠める。
左手へ警戒を傾ければ即座に右手が反射の膜を打ち消す。反射の膜を解除することは少なくとも出来ない。
一方通行は足元のベクトルを集め飛びのく。
少なくとも、左手で殴られても能力が無効化されることはない。
上条が飛びのいた一方通行を追捕するべく距離をつめる。一歩踏み出しただけだというのに、間合いは瞬時に詰められる。
「クソッ」
振るった風のベクトルは、即座に右手に掻き消され、返す刃が一方通行の顎を掠めた。
かつんと、軽く小突かれた感触とは裏腹に、一方通行は不味いと直感的に悟る。
直後、彼の足が主の指令を無視するかのように膝から崩れる。
右腕が一方通行の首根っこを掴む。細首は鉤爪のように掴み上げられ、一方通行は顔を顰めた。
しかし、顔を顰めたのは痛みのせいではなかった。
ドンッと鈍器で殴ったような重い音が一方通行の耳の奥で響く。
微かに彼の華奢な身体が浮かび上がる。二度、三度、四度。上条の左の拳が一方通行の薄い腹にめり込む。
「げ、ほっつ、がァ、が、ハ…ッ」
断続的に洩れる苦悶の声。
能力を無効にされている青年の身体に、鍛え抜かれた傷だらけの拳が幾度も突き刺さる。
頭の奥から何度もハンマーで殴られているような痛みが走り、意識が途切れかける。
「俺は……あの日の選択を後悔したことなんてない」
一瞬、拳が動きを止める。
しかし、万力のような力で首を掴まれている一方通行はそれを地力で引き剥がすことが出来ない。
くの字に身体を曲げ、視界一面に荒れた丘の地面ばかりが広がる一方通行は、それでも上条の声を拾い上げてしまう。
「それは、テメェが、捨てたモンのデカさを知らなかったからだ」
「だろうな」
再び拳がめり込む。ぼんやりとした視界には、規則正しく、振り子運動のように繰り出される拳。
そこには切り傷、擦り傷、ケロイド状の皮膚、無数の抉れた傷に果ては弾痕まで覗いていた。
手首あたりの傷跡だけでこれなのだ、おそらく傷は全身に行き渡っているだろう。
それだけで、上条がこの数年間如何なる修羅場を潜ってきたかが伺い知れる。
繰り返されていた拳が止み、一瞬空白が出来る。
おや、と思った直後、溜めを経て打ち出された膝が一方通行の腹を抉るようにめり込む。
「でもそれで良かったと思ってる」
「テメ…ッ―――――― ッッ」
声も、息すら吐き出すことが出来ず、苦悶の形に一方通行の唇が歪む。
全く容赦の無い攻撃に、一方通行は何処か清々しささえ覚える。
崩れ落ちた一方通行は、追撃を免れるべく、瞬時に地面を平手で打つ。それだけで、彼の身体は羽毛のように舞い上がり、上条から離れる。
それを目で追うだけで、上条は追い討ちをかけようとはしない。一方的な暴力に、躊躇したわけではない。
単に深追いをすまいと注意を怠らなかっただけだ。
呼吸を整えながら、一方通行は六年という月日を思い知る。
嘗ての上条は、我流と言うよりもがむしゃらに拳を振るう姿ばかりが印象に強く残っていた。
数々の戦いを潜り抜けた結果、喧嘩慣れは一般の高校生の比ではなく、また幻想殺しの扱いにも長けていたが、それでも、彼の戦いは不恰好で愚直だった。
それは、今の上条の姿からは想像も出来ない。
おそらくは基礎から学んだのであろう体術。
経験から培った冷静な判断。
そして何よりも容赦の無さ。
『もうやめよう。こんな事意味ねぇだろ!!』
昔であれば、こんなセリフをのたまっていただろう。少なくとも、上条に自分と戦う理由は無いのだから。
一方通行自身自覚はある。これが自分の八つ当たりだと。
まるで、ロシアだ。
二度目の敗北を思い出す。
あの時も、自暴自棄になった自分はこの男に叩きのめされた。
揺るがないこの男に、揺らぎ崩れかけていた自分は完膚なきまでに叩きのめされたのだ。
迷いの差。二人の間には常にそれが存在する。
しかし、それだけだろうか。
一体何がそこまで明暗をこうも分けているのだ。
「別にどうでもいいから捨てたわけじゃねぇよ」
上条が己の拳に視線を落とす。
「ただ、インデックスの側にいる為に捨てなきゃいけなかったからそうした。アイツを守りたかったからそうしただけだ!」
いっそ清々しい程に言い放たれた我が侭。一方通行はその姿に納得する。この男は変わったのではない。
全く変わっていないのだ。
変わったのはおそらくは自分の方だ。
この男は昔からこうだったのだ。
最初は、上条には守るものがあるから強いのだと思っていた。
しかし、それは一方通行とて同じであった。打ち止めを守り、妹達を守る。そう誓った彼にとって、それ以外はどうでも良かった。
だから、呆れた眼差しで上条を見たものだ。あんなに背負い過ぎていて身動きが取れなくなるのではなだろうかと。
しかし、違っていたのだ。根本が。
この男は誰も背負っていない。
彼はあくまでもきっかけに過ぎないのだ。その名の通り、ふざけた幻想をぶち殺しているだけ。
そこに、一方通行や浜面仕上のように、勝手に助けられたことを救われたと思い、その背に勝手な幻想を新たに作り出し、そして追いかけた。
結果、彼に続く形になる人の群れ、想いを見て、勝手に背負っていると勘違いしていたのだ。
彼が真の意味で助け、救い、背負い続けている者は今も昔も変わらずにただ一人だけ。
「デカイから捨てるのを躊躇するとか決めたんじゃねぇ。そもそも等価交換なんて端から期待してなかった。レートなんて割りに合わないことは承知の上だ」
「………割食ってンのは他の連中じゃねェか。俺達二人が勝手に納得したことに散々振り回されてるのはあいつ等じゃねェか!!」
自分もまた共犯者なのだ。
そんな当たり前の事実に、一方通行は目を背けたくなる。
実の父親が居ないことに、引け目を感じているのではないか。そう何度不安になったことだろうか。
今も不安は消えない。美琴や想が自分には見せないところで、どれ程苦しんできているのか。
一方通行には想像するしか出来ない。
「テメェも俺も救いようのねェ馬鹿だったンだよ。今もそうだ。何も見えちゃいなかった。テメェはアイツしか見えてなかったから。俺があの日テメェに言った言葉覚えてるか?」
「ああ…」
―――― 『テメェが捨てて行くモン、全部、全部、俺が背負ってやンよ』 ――――
「くくく…馬鹿だよな…何もわかってなかった…背負うってよ。そンな資格ねェってンだよ。居心地が良くてよ、勘違いするンだ。わがままなのはわかってるよ。
俺がテメェに言った言葉…この六年、その通りにしてきたつもりだ。少なくともな。けど、ダメだな。背負うにつれて拭い切れねェンだよ……どうしようもなく考えちまうンだよ。
なンで俺なンかがよ、こンな目にあってンだろォってな」
怪訝に眉を顰める上条に気にせず、一瞬自嘲するように一方通行が視線を伏せた。微かに。
絹旗が言った言葉。何度も何度も感じる不安。
一方通行の抱くそれは彼女の抱く不安など比べるまでも無く、根深く、重い。
のうのうと何故生きているのか。思わぬ日など無い。それでも手放したくないと思うのに、刹那、相手は離して欲しいと思うのではないかという恐怖が過ぎる。
「俺には綺麗過ぎるンだってなァ……勘違いしそうになンだよ…ッ…だからよォ…」
紅の瞳が滾るように揺れる。
「もう背負ってられねェンだよォォォ!!!!」
それは、衝動的なものではなかった。
六年という歳月の中、ゆっくりと一方通行の中に降り積もり、重なり、固まってきていた感情。
それらが、上条当麻という存在が再び現れた事をきっかけとなって吹き出した。
「一方通行!」
「ガァァァァァァァァァーーーー!!!!!」
いつしか背負う者が増え、身動きすら取れなくなった男は吼える。
一方通行を責め苛んでいたもの。
それは、本当の父親に会わせてやりたい、などという献身的な感情などではなく、幸せや喜びへの「罪悪感」だった。
一方通行の蹴り飛ばした破片を、上条は紙一重で交わす。
その隙を突くように一方通行が前へ飛ぶ。上条は瞬時に右の手を繰り出す。反射の壁が躊躇にたわむのが“視える”。
右手につかまれる前にベクトル操作で地を蹴って逃げようという流れを読み、交代するように右手を引き、左手を伸ばす。
くぐもった声と共に、勢い良く吹き飛んだ。
「く…」
今度は吹き飛ばされたのは上条の方であった。
上条は鼻腔から溢れる血を抑える。真っ直ぐに突き出された一方通行の拳は何の駆け引きもなく上条の鼻梁を叩いた。
「ガァァァァァァァァーーーーーーーーーーー!!!」
咆哮に応えるように、一方通行の背から黒い翼が出現する。
幾百もの刃となり、黒い翼が上条を襲う。此処にいたり、既に無傷という考えは一方通行の脳裏からは綺麗に抜け落ちていた。
上条は右手に一瞥くれるのみで、瞬時に振り払う。
自身に迫り来る翼を薙ぎ払い、掴み、そしていなす。
数十の黒い刃を、まるで無造作に縛るように、一つに束ね、引きちぎっていく。
それは嘗ての極寒の地で彼が見せた以上の光景である。
しかし、こじ開けた空間に身を滑らせた上条は待ち構えていた白い拳に打ち据えられる。
「がっ…」
殴り返そうとする右腕は、黒い翼の迎撃ですぐさま塞がる。
無防備になった上条の頬に、鼻梁に、鳩尾に、次々と一方通行の骨ばった拳が刺さっていく。
「わかってンだよ!!八つ当たりだってよ!!」
上条の頬を拳が捉える。
「そンなモン、俺にだってわかってるンだよ!!」
黒い翼が右手に掻き消される隙間を突く様に拳を振るう。
「テメェで招いたことだ。背負ってやるなンて大見得切って、守るつもりになってたよ」
非力であっても、大の男の拳は、上条の頬を打ち据え、晴れ上がらせる。
「あいつ等といると忘れられるンだよ!!」
先ほどまでの借りを返すように、幾度も打ち込む。
「やらかしちまったことも、全部…全部な!!!」
泣きじゃくるように吼える。
詩菜の笑みが浮かぶ。
上条が捨てた親の悲しげな笑み。
「最初ッからそンなこと無かったみてェに思えるンだ」
美鈴の自分をからかう屈託の無い笑い声が甦る。
自分が犯した罪を知っているくせに。
「悪い夢でも見てたンじゃねェのかって。妹達はホントは死ンでねェって、笑って暮らしてるって、マジに思いそうになるンだ」
自分にあれほど凄惨な目に遭わされたというのに、それにも関わらず友人に接するように当たり前の口調で話しかけてくる妹達。
「想が笑いかけてくれるたびに、調子に乗って浮かれちまってたンだよ。そうされる価値があるンだって、勘違いして」
全ての好意を乗せたような甘い蕩けるような少女の笑み。
無防備に自分に抱きついてくる小さくも確かな温もり。
「アイツが許してくれたつもりになって、勝手に家族ツラしたくなってたンだ。身の程も考えねェでよォォォーーーーーーー!!!!」
美琴の信頼しきった瞳がくすぐったくも心地良いと思うようになっていた。
彼女と想がいるのが、自分の極当たり前の日常のように感じられた時、ふとした恐怖が必ず過ぎる。
好意が恐くて仕方が無かった。
やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。
やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。
やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。
やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。
やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。
やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。
やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。
やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。
頼むから、やめてくれ。
そんな風に笑いかけないでくれ。
「家族になれるモンならなりてェよ!!!アイツ等の側にいて、幸せにしてやりてェェよ!!!けどよ、俺じゃダメだろォが!!ダメに……決まってンだろォォがァ!!!」
腫れあがった瞼の奥から見つめる一方通行は泣きそうに顔を歪めていた。
まるで子供が泣きじゃくっているように、悲痛で哀れだ。
「俺にはそンな資格あるわけねェェだろォォォォォォォがァ!!!」
白い髪を振り乱して、血を吐き出すように、ありったけの感情を搾り出した。
それは学園都市最強の怪物ではなく、幸福に対して絶望的に不慣れな子供の姿でしかない。
自身の感情に振り回され、黒翼の動きがぎこちなくなる。
その一瞬を逃さず、上条は黒翼を捻り、一方通行の体勢を崩す。
バランスを崩した一方通行の顎を、上条の右拳が跳ね上げる。
「何勝手に自分の事を貶めてるんだよ。お前がこんなになってまで守ろうとしてることを、何でお前が認めてやれねぇーんだよ!!お前が許さないで、誰がお前を許せるんだ!!
いい加減テメェ一人、かわいそぶってるんじゃねぇ!!」
倒れこんだ一方通行の上に馬乗りになると上条は犬歯も露わに叫ぶ。
胸倉を掴み上げると、上条の腫れ上がった顔が、間近に迫る。
叫ぶがままに、振り下ろされる拳。
黒い翼を出す間も無く、間隙無く拳が一方通行を打つ。
瞬時に逆転された形勢に、不思議と焦りは無い。
それは、上条になら倒されても仕方が無いという一種の確信のせいだろうか。
「そんなにお前に想われてて、御坂達が幸せじゃないわけねーだろ!!!」
「―――― !?」
しかし、拳と共に浴びせられた上条の言葉に、一方通行の瞳が不意に強さを帯びた。
それは、上条にとっては一方通行を励ます為の、或いは、目を覚まさせるための言葉だったのかもしれない。
だが、一方通行にとってその言葉は看過できるものではなかった。
幸せじゃないわけがない。 ―――― 何を持ってこの男は断言したのだ。
美琴がどれだけ辛い思いを抱えて子を産み、育ててきたのか。
想がどれほど寂しさを堪えて、笑ってきたのか。
あの二人が、どれほどの涙を流してきた結果今笑っているのか、この男が知るはずも無い。
それは、当たり前のことである。
上条が知る由などあるはずも無い。
冷静に考えれば、それは当然のことなのだ。
しかし、一方通行の思考は既に冷静さなど一片たりとも残してはいなかった。
故に、爆発する感情のままに力を解放する。
「ガァアァァァアァァァァァァァァァァァァァァーーーーーーーーーーーー!!!!!」
「―――――― ッ!?」
組み伏せられた一方通行の左拳と、上条の右手がぶつかった。
―…***…―
土御門は真っ白に染まった画面の前で、伝う汗を拭いながら言葉に詰まる。
ステイルは咥えていた煙草がいつの間にか落ちていることにも気付いていない。
それでも、既に回転を再開し始めている土御門の脳裏には、今の瞬間に起こった事が再生されていた。
天使化した一方通行は、その力を意識的、もしくは無意識的に左の拳に圧縮し、そして上条に放った。
殺すとか殺さないというレベルの話ではない。
「……まぁ、それでも、だ。それでもカミやんには」
―…***…―
叩き付けられ粉々に砕け散った慰霊碑を尻目に、痛みで痺れた身体をゆっくりと上条は起こす。
慰霊碑のおかげで海に落ちずに済んだ様だ。
立ち上がると、鋭い痛みが肩に走る。右肩を素早く指で探れば、ボコンと不自然に突き出た骨の感触。
一つ溜息を吐くと。上条は周囲を見回す。一本の桜の木に目をやると、歯を食い縛る。
「ぐッ!」
身体ごと木に肩をぶつけ、外れた骨を元に戻す。
激痛に、喉の奥から押し潰されたカエルのような声が漏れる。
痛みが残る肩を押さえながら視線をめぐらせる。
「……咄嗟に『竜の顎』出してなかったら影も残らなかっただろうな」
それでも威力を殺しきれずに、このザマだ。
そう漏らす上条の視線の先には、肩で息をし、膝を突いた一方通行の姿がある。
傷の深さで言えば、上条の方が大きいだろう。
身体に走る痛みを精査すると、すぐにわかる。
あちこちの骨が軋みを上げ、中には確実に何らかの損傷を受けているものもある。
しかし、それでも上条は立っている。
一方通行を見下ろす形で。
一瞬の逡巡の後に、上条は既に力が入りきらなくなっている右拳を握り直す。
自分を見上げる一方通行の瞳にはまだ力が残っている。
それを刈り取らない限り、この場は収まらないと判断したからだ。
しかし、一歩足を踏み出した時上条は背筋にぞくりとする感触を覚える。
数限りなき戦いに身を置いていた故の経験がもたらす反応に、上条は忠実に応える。
咄嗟に、寒気を抱いた方へと右手を伸ばした。
『 ォ――――――――――――――――――― ンッ 』
その瞬間、耳をつんざく放電の音、そして、網膜を焼こうとせんばかりの眩い白光。
草木の焦げる匂いが鼻を突く。
上条は、自分を襲った閃光の方へと目を向ける。
白煙に塞がれら視界から、一つの影が飛び込んできた。
「あーくん!」
「へ?」
小さな人影は大きな瞳いっぱいに浮かべた涙をぽろぽろと零しながら上条を擦り抜け、蹲った白い青年に一直線に駆けていく。
少女は一方通行の胸に勢い良く飛び込んだ。
「あーくぅん!ふぇぇ…」
「想…?どォして…」
戸惑い、目を丸くしながらも少女をしっかりと抱き止めた一方通行は何かを感じ取ったのか、顔をすぐさま上げる。
上条も同様に、少女の走ってきた方視線を固定したままだ。
やがて、晴れていく煙の向こうに、一人の女が立っていた。
すらりと伸びた足に黒いレギンス。華奢な身体を包み込む白いワイシャツ。
短く切られた亜麻色の髪から仄かに青白い火花を散らし、意思の強さをそのまま形にしたような真一文字の唇。
そして、日の光の加減によって琥珀色に輝く瞳。
「まったく、この真っ白しろすけってばホントどうしようもないんだから…」
指でコインを弾きながら、上条の目の前に現れたのは、六年の歳月を経て美しくしなやかに成長した嘗ての恋人。
「どうせうちの白いのが吹っ掛けた喧嘩なんでしょ?悪かったわね。でもさぁ…」
嘗て常盤台において、電撃姫と呼ばれた少女。
「これ以上私の家族を殴ろうっていうなら……私が相手になるわよ?」
『超電磁砲』、御坂美琴はコインを構えると躊躇無く上条に指先を向けた。
口元に不敵な笑みを浮かべて。
「あーくん…いたくない?」
紅葉のような手が、そっと一方通行の赤く腫れた頬を撫でる。
小さな指が切れた目尻から流れる血に汚れる。一方通行はすぐさま引き剥がそうとするが、少女はいやいやと首を振る。
離されまいと、一方通行の唇を撫でていく。彼の顔に浮かぶ傷跡一つ一つを確かめるように。
少女の瞳は泪に濡れ、そして揺れ動いている。初めて目にした傷だらけの顔。
保育園の男の子同士が喧嘩をするのを目にしたことはある。鼻血を出して泣いている子を絹旗や他の保育士が慰めている姿も。
けれども、それはあくまでも子供の喧嘩だ。じゃれ合いのような喧嘩しか知らぬ少女は、本気で殴りあう光景も見たことが無い。
当然、それによって痛々しく腫れ上がった傷など目にすることもない。
それも、少女の中では最も暴力から程遠いこの青年の顔が傷つき、血に染まることなど想像だにしなかった。
少女の前で、一方通行は決して能力を使いはしなかった。
せいぜいが垣根とのじゃれあいのような喧嘩である。少女は、この青年が学園都市最強の怪物だということさえ知らない。
それゆえに、少女は怯え、戸惑っている。
いつも自分を沢山の愛情と優しさでくるんでくれている青年が、見ず知らずの男に殴られている光景に。
震える指先から、一方通行にはそれが痛い程伝わってくる。
少女は、青年の痛みが少しでも和らぐように、祈りを込めるように腫れた瞼をなぞっていく。
熱を持った傷口に、柔らかな指先の温い体温が心地良い。
想は、一方通行がようやく微笑んでくれたことに安堵の息を吐くと、少女にしては珍しい程に強い光、否、敵意を浮かべて振り返る。
「あーくん、いじめるな!!バカ!!大っきらい!!」
少女が、小さな身体をいっぱいに広げて、白い青年を背に庇うようにして立つ。
睨みつける先には、神父服に身を包む青年。
青年は右肩を押さえながら、気圧されるように、ただただ少女の瞳を見下ろしていた。
そんな勇ましいわが子の姿に、美琴は小さく唇を緩める。
「……ったく…」
荒れ果てた丘を腰に手を当てて美琴は見渡す。
よくもまぁ、こんなにも暴れたものだと言わんばかりに、その表情には呆れと感心が入り混じっている。
青白い火花が収まると同時に、コインを握り締めゆっくり歩く。パンプスが砂利を蹴る。
美琴は上条の目の前を通り過ぎ、蹲る一方通行の前に立つ。
「オイ、こら。何勝手に突っ走ってるのよ」
腰に手を当て、困った子供を叱る母親のように、眉を釣り上げつつも何処か困ったように美琴は白い頭の青年を見下ろす。
想を抱きかかえたまま、一方通行は決まりが悪そうに顔を逸らす。
まるで子供が不貞腐れている仕草そのものだと、小さく嘆息する。
「絹旗先生と詩菜おば様に感謝ね」
「……なンでだよ」
「先生から聞いたのよ。『様子が超変です』って。それでアンタの後を付けて来たの。本当はすぐにでも駆けつけたかったけど……」
顔を盛大に腫らした一方通行を見下ろし、こめかみを軽く押さえる。
頭痛を堪えるように、これから何を言ってやろうかと頭を悩ませるようにも見える。
「でも、おば様に止められちゃった。男の子の喧嘩に、女の子は口出ししちゃダメよって……」
あの人らしいと、一方通行は妙に納得する。
一体どの時点で気付いていたのだろうか。そっと上条を見れば、一方通行と同じく目を見開いている。
魔術の変装を見破られることは無い。無いはずだ。
そう自問自答する上条を尻目に、美琴は想に視線を向ける。
一方通行もつられて少女を見る。
「それに…『あーくんが殴り合ってる姿なんて想ちゃんに見せちゃダメ』だって、ね」
「………」
美琴の言葉に、一方通行は罪悪感と悔しさに口を引き結ぶ。
拍子に、切れた唇の傷が広がり鋭い痛みが走る。
「まったく……頭が下がるわ、あの人には…聞いてる?馬鹿男共」
上条に鋭い視線を向ける。
上条は何かを言いかけて、口を噤む。
自分が捨てた母親に、拭いきれない孤独と悲しみを与えてしまった母親に、何かを言う資格など無い。
上条自身がそう理解し尽しているからこそ、彼は言葉を飲み込む。
そんな上条の心情を知ってか、知らずか、美琴は一方通行に張り付いている想の手を握る。
「想ちゃん、ちょっとあーくんから離れててくれる?」
「…うぅ…」
「これからね、ママ、ちょろっとあーくんにメッてしないといけないの」
美琴はメッと指を想の鼻先に向ける。
悪い事をした子に、叱る時に使う定番の言葉に、想は納得したのか小さく頷く。
「……うん」
「うん、いい子ね」
美琴は想の頭をひと撫ですると、一方通行の腕を掴む。
にっこりと笑って美琴は一方通行の顔を覗き込む。
「フラフラじゃないの、モヤシのあーくんてば。もしかして立てない?」
「チャラけたこと抜かしてンじゃねェぞ。タコ」
からかう口調に、一方通行は眉間に皴を寄せる。
本音を言えばそんな体力も気力も無いが、この場において、それを主張することもましてや反論することも憚られた。
舌打ちをすると、一方通行は美琴の腕を払い、疲労に震える膝に最後の力を込める。
「余裕なンだよ、これくれェ」
「おお、ちゃんと立てたわね。エライエライ……」
一方通行の頭をくしゃくしゃと撫でる美琴の手を、煩わしげに一方通行は振り払う。
小さく漏らした舌打ちどは裏腹に、その目には苛立ちや怒りは浮かんではいなかった。
居心地の悪さ。いけないことをしてしまったと自覚しているバツの悪さ。
そして、怒られることに怯える子供のような弱々しさがただただ浮かんでいた。
それを美琴は静かな瞳で確認すると、小さく息を吸う。
「…じゃあ、歯ぁ食い縛りなさい」
「………あァ?」
にっこりと微笑みを浮かべたまま、渾身の勢いで振り抜かれた美琴の拳が一方通行の頬に突き刺さった。
「あーーくん!!」
派手な音を立てて倒れこんだ青年に想が慌てて駆け寄った。
殴られた方の一方通行は頬を押さえながら目を見開いている。
痛いというよりも、あまりの展開に呆然とした視線を美琴に向け、憎まれ口の一つ、文句の一言も出来ずに硬直していた。
殴った拳が痛かったのだろう、美琴は右手を胸の前でプラプラと振っている。
「どう?目が覚めた?」
「何?」
「最初はアンタがヤバそうだったら加勢しちゃおうかなって思ってたんだわ。おば様には悪いけどさ。でもね、あんまりアンタが寝言ばっかり言ってるからさ……段々ムカついてきちゃってね~
しかも想ちゃん泣かせるもんだから美琴さん、ちょろっとブチキレちゃった」
舌を出して、しれっと笑う。
想は、母親が一方通行を殴ったということの事態そのものが飲み込めずに、目を白黒させ二人の間を見比べている。
上条に至っては、容赦の無い美琴の拳に、口に手を当てて萎縮すらしていた。
美琴は座り込んでいる一方通行の眼前にしゃがみこむと、顔を彼の間近まで近づける。
30センチも離れていない距離に、美琴の苛立ち混じりの瞳と、紅潮した頬が映る。
「まったく……なぁんなんですかぁ~~?」
美琴がわざと一方通行の口調を真似る。
「なぁにが 『家族になれるモンならなりてェよ!!!』 よ。なぁにが 『俺にはそンな資格あるわけねェェだろ』 よ」
わざとらしく、大仰に溜息を吐く。
甘い美琴の香りが不意に一方通行の鼻腔を擽る。
美琴の指先が、一方通行の眉間に触れるかどうかという位置につき立てられる。
「何勝手に私達の家族になる為の資格検定なんてしてるのよ。私達の家族になる資格があるかどうかなんて、私達が決めるんだから」
それに、と美琴は頬を一際紅潮させる。
「大体さ、なりてェ、じゃないでしょ。アンタとっくに家族なんだから。今更アホみたいな絶叫かましてんじゃないっての!!」
「 ――――――――――― ッ」
ぺちんと、美琴が一方通行の額を指先で弾く。
弾かれた額を押さえながら、一方通行が目を見開く。
与えられた言葉の意味がわからない、と言うように。
一方通行は俯いた。自分にそんな言葉をかけられる資格があるのか?資格などあるはずが無い。
自虐的且、事実を見つめる彼の思考が冷静な判断を下す。
自分が何をしてきたか覚えているのだろう。クローン?18万?実験?正当防衛?関係無い。
自分自身が言っていたではないか。無能力者と変わらないと。そして、その無能力者を自分はどうした?
贖罪の為に戦った?自己満足だろう。自分で好き勝手にやったことで帳消しにするつもりか?
寿命を直す研究は?間に合わなかったではないか。一体何人の妹達が間に合わずに死んだと思っている?
たった二千人の妹しか救えなかったのだ。一万人を殺し、五千人を見殺しにした。その帳尻が二千人?
この期に及んでも自問自答をやめることなど彼には出来ない。
向けられる好意が恐くて、そして、彼は再び臆病彼の心が逃げたいと叫ぶ。
この居心地の良い、温かいモノから逃げ出したいと。
けれども、そんな一方通行の腕に小さな手がぎゅっと掴む。
「……想?」
「あーくんじゃなきゃイヤなの!」
まるで、逃げようとする彼を、離すまいとするように。
その手には小さな意思が込められていた。
「チッ…」
「あーくん?うきゃうッ」
可愛らしい悲鳴と共に、小さな少女の身体がすっぽりと収まる。
一方通行は、歯を食い縛り、小さな少女を抱き締めた。
ミルクの香りのする柔らかな髪に顔を押し付ける。
そうしなければ、きっと泣いていただろうから。
自分が撫でられることすら考えたことのない野良猫。
美琴の脳裏にある日の母親達の言葉が過ぎる。
呆然とした一方通行の顔を見ながら、胸が締め付けられるように痛い。
美琴は、そして、一方通行の側に駆け寄っていた想は、年不相応に幼く呆けている青年を見つめる。
そして、母親達は更にこう続けた。
『だったら、そういう困った猫ちゃんはわかるまで撫でてあげないといけないわね』
くすくすと、育ちの良いお嬢様のように詩菜が口元に手を当てて笑う。
『そうよ、詩菜さんの言うとおり。どんだけ嫌がっても、撫でて撫でて撫でまくってやるのよ。そうすれば、いい加減猫だって気付くはずよ』
赤ら顔で美鈴はからりと笑った。
―――― 自分は案外捨てたモンじゃないかもしれないって ――――
―…***…―
「悪かったわね、さっきから放置気味で」
娘を抱き締める青年の姿に、納得したように頷くと、美琴は上条に向き直る。
上条は、ただただ黙ってにその光景を眺めていた。静かな湖畔の如き瞳には、感情の色は伺えない。
「で、どうする?」
まだ続けるか?そう問う美琴に上条は苦笑を浮かべて首を振る。
「止めておく。三対一の時は勝てないから撤退する。これ昔から決めてるルールだから」
「賢明な判断だわ」
上条は肩を竦めると、ちらりと一方通行と想に目を向ける。
僅かに、上条の瞳に感傷めいたものが浮かぶ。
「………いい子だな。それに…アイツも…」
美琴は、一片の躊躇も、未練も匂わせることなく、少女の頃から変わらぬ勝気で無邪気な笑顔を浮かべた。
それは、神浄でさえも、一瞬見惚れてしまう程、晴れ晴れとした笑顔だった。
「当然でしょ?自慢の家族だもん」
879 : ◆d85emWeMgI - 2011/04/16 00:44:14.64 F5txVs/g0 366/791描写不足です。詩菜さんは当麻だとは気付いてません。
が、一方通行が一人で抱えて、何かやらかすということは感づいてました。
みたいなつもりです。
神裂火織は歯噛みする。勿論それは己の至らなさにである。
窓の無いビル、そう呼ばれていたのは今は昔。
彼女の主がこの街の女王と会談の席を設けいているのは嘗てこの都市の神に等しき男の座していた場所だ。
実質この世界の行方を握る二人の人間、彼等を敵に回すことは即ち世界そのものを敵に回すことに等しい。
だからこそ、彼女は油断していた。
油断などしているつもりは無かったが、無意識に気が緩んでしまっていたのだろう。
目の前に居並ぶ薄暗い法衣を纏った男たち。
(何と迂闊な…)
隣の男と共に護衛に付くべく、ドアの前に立った瞬間、神裂達は強制的にビルの外に排出されていた。
眩い光に包まれた瞬間、天草式の転移術式が脳裏を過ぎった。
身体を磁石で吸い寄せるような感覚には覚えがあったのだ。
噛み締めた歯が軋みを上げる。傍らの男へ目を向ける。男は見慣れぬ奇妙な服装に、きょとんとした表情を浮かべている。
未だにこの状況が飲み込めないようだ。
この都市においては奇矯な、神裂にとっては見慣れた服装の彼等を“魔術師”と呼ぶ。
その数はざっと見渡しても、100人を超えている。
神裂は振り返る。背後にある主たちを納めているビルを。
魔術師たちよりも数歩前に立ち、ふてぶてしい薄笑いを浮かべているのは二人の男だ。
彼等を取り仕切っている指揮官なのだと一目でわかる。しかし、仮に大群の中に埋もれていたとしても、すぐさま神裂は気づくことが出来るとわかる。
肌で感じ取ることが出来るほどの彼等の力量が、その他大勢の魔術師たちの中に埋没することを許さないのだ。
「天草式。実に面白いスタイルです。日常の何気ないものに術式を絡めておく。歴史的背景を鑑みれば当然の帰結とはいえ、理にかなっている」
二人のうち背の高い男が薄笑いを浮かべる。
右目が赤、左目が青のオッドアイの男は、心から感心したように神裂に語りかける。
「しかし、魔術を扱う人間の思考とは行き着く先は案外似通うものです」
「そうさ、君たちだけの専売特許だとは思わないことだね。僕等だってこれくらいの術を仕込むことは出来る」
オッドアイの男よりも頭一つ分背の低い少年がせせら笑う。
一見すれば少女のように見える美しい顔を歪ませて、美貌の少年は醜い笑みを浮かべる。
「君の主もバカだよね。神浄を側から離しちゃうんだもん」
「なぜそれを!?」
「フフフフ……僕等の情報を甘く見ないことだね。ま、せいぜい指を咥えて見てればいいよ。君たちの大切なご主人様がぐちゃぐちゃのミンチになっちゃうところを」
―…***…―
「貴方は…誰?」
親船最中と向かい合い、紅茶のカップを手にしたまま『ローラ=スチュアート』は問い掛ける。
目の前に現れた闖入者に静かな眼差しを向け。闖入者はローラの声を心地良い音色を聞くように笑みを浮かべ聞き入る。
閉じていた瞳をゆっくりと開くと、まるでダンスにでも誘うかのように、恭しく一礼をする。
「お初にお目にかかります。最大主教。私は一介の名も無い魔術師…」
「嘘は良くないわ。“この部屋”にこんなにも容易く進入出来る者が一介の魔術師のはずがないでしょ」
顔を上げた男は、穏やかに笑う。
ただし、その瞳は笑みの形に細められているだけに過ぎない。
「いやはや、それはまた随分な評価。面映いばかりです。私、恥ずかしながらちょっとした魔術結社を立ち上げておりまして。名を ――――
―…***…―
「僕達は『黄金のリンゴ』。そうさ、人類の敵、世界の味方。新たな世界の呼び水」
少年がすらすらと歌うように口ずさむ。
うっとりとした視線は虚空に向けられている。
自分の言葉に、自分で酔っている者特有の表情に神裂は吐き気を催す。
経験上、そんな人間にはロクな者はいないと知っているからだ。
「そして君達欺瞞に満ちた者達が塗り固めた平和を打ち壊す者さ」
少年は優越感に満ち満ちた表情で、神裂と、そして傍らの削板にねっとりとした視線を向ける。
「ねぇ、薄汚い学園都市の女王の飼い犬君。君は知ってるかい?」
嘲るように、少年が口の端を釣り上げる。
神裂は、傍らの青年に向けられたその嘲笑を切り裂いてやりたくなる。
こんな連中と同じ世界に住むとは思われたくない。刀を握り締めた手に力がこもった。
「この世界は絶えず争いが起こっている。今は、とりあえず名目上平和ってことになってるみたいだけどさ。上っ面ばかりだよ。貧困、差別、疫病。人々を憎しみ合わせる要素は後を絶たない。
戦争を引き起こすキーワードは何時の時代だって民族、資源、そして……」
「宗教さ」
オッドアイの男が後を引き継ぐように言う。
「人々の心を救い、ひとつに纏めるための信仰のはずなのに、いつしか信仰そのものが争いと差別を生み出す温床になってしまっている」
遮られる形になった少年が不服そうに男を見るが、意に介することも無く、穏やかな物腰を崩さない。
神裂は言い返そうにも、言っていることが事実であるだけに、唇を噛みながら言葉を呑み込む。
男の演説めいた言葉は続いていく。
「しかし、君は今こう思ってるはずだ。『好きで誰も戦争をしてはいない』と」
削板は言葉も無く、ただじっと男を見つめる。男は鼻で笑う。
「世界をどうにかしたいと願うのは誰であっても同じであるというのに、世界は一向に争いを消すことが出来ない。それが何故か、わかるかい?神裂君、君ならわかってるのではないかな?」
「………」
神裂は答えずに、男を睨みつける。
男は肩をすくめて、苦笑する。これだから子供の相手は疲れる、とでも言いたげに。
「世界を変えようとする者を指示する者と敵対する者。どれだけあらゆる要素を排除しても、最後には必ず一つの対立が生まれるように世界は出来ているのだよ。
『変革を望む者』と『望まない者』との対立がね。口では世界に不満を撒き散らしていたはずなのに、いざという時に変化を恐れる人間は世界に腐るほどいる。
もしかして、変革を望まない者が敵対しているのは変革そのものではないかもしれない。ただ同じ人間に導かれなければなら無い事が気に入らず敵対しているのかもしれないね。
ただ、人間というものは争わずにはいられない業の深い存在なのだよ。ならばどうすればいいか?実に簡単なことだよ」
いよいよクライマックスに近付いたのか、男は両手を広げ芝居がかった口調で叫ぶ。
「人では人を公正に等しく導くことも、ましてや裁くことも出来ない。ならば、裁いて頂くのさ。人を公正に見定めることの出来る者達によってね」
「……天使?」
神裂の言葉に、男は大仰に頷く。
正解をきちんと答えることの出来た生徒を褒める教師のように。
少年が得意げに、そして小馬鹿にしたように厭な笑みを浮かべる。
爬虫類を思わせる笑みに、神裂の背筋に怖気が走る。
「そう。あの方々に下りて来て頂くのだ。人間を進化させるなどと回りくどい事をしていたアレイスターと我々は違う。天界とこの世界をただ繋げてしまうのさ」
「そんなことをすれば……世界は…」
「そう、黙示録さながらの光景になるだろうね。もっとも……」
魔術師たちの群れが、一瞬身じろぐように蠢いた。
神裂が手にした刀の柄に手を掛ける。
「君達はそれを目にすることも出来ないだろうがね」
二人の魔術師が一歩ゆっくり歩を進める。
神裂には瞬時に二人の魔術師の並々ならぬ力量が感じ取れる。
100人以上の魔術師と、彼等二人を相手に出来るのだろうか。
彼女の背筋を冷たい汗が流れる。不意に、隣の青年に目を向ける。
一言も口を開くことのなかった青年。
(無理もない……)
科学の都市に住むこの青年には目の前の魔術師の語った言葉など荒唐無稽な妄言にしか聞こえなかっただろう。
天使だとか、天界だとか、黙示録だとか。そんな単語は彼等にとってはゲームに出てくる用語と大差ないことなのだ。
しかし、どれだけ理解が及ばずとも、実存する。そして、魔術は容易に科学の人間にも牙を向ける。
神裂はこの青年をその牙に触れさせたく無いと思った。
自分や『彼女』のことを侮らず、純粋に凄いと言って笑ってくれたこの優しい青年を、自分の世界に巻き込みたくなかった。
「……削板……貴方は逃げてください。これは私達の問題です。貴方は…」
「無駄だよ。神裂火織」
少年が、右腕に巻いていた包帯をゆっくりと焦らすように解いていく。
直感が神裂に告げる。
“あの右腕には気をつけろ”と。
「目撃者は全て消す。事情を知る者も全て消す。それが鉄則だからね」
「勝手に彼を連れてきておいて……」
「フフン。薄汚い学園都市の連中なんて知らないよ。それに、そんなに人の事気にしてる余裕あるのかな?言っておくけど君がいくら聖人だからって、僕の…このメアリー=スーの魔術の前には無力だよ」
少年を取り巻く空気が張り詰めたものに変わる。
神裂の顔色が変わった。
細かな針で体中を打たれたような痛みにも似た圧迫感が彼女の背筋を粟立たせる。
これから始まる死闘を、或いは神裂は無意識に感じ取っているのかもしれない。
呼吸一つでも読み違えれば、それが死を意味するような、本当の死闘だ。
相手の魔術を見極め、いつ七閃を放っても良いように、指先に感覚を集中していく。
「そうそう、魔法名をまだ名乗ってなかったね。僕の魔法名は ―――
すごいパンチ!!
「ぎにゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」
一切の躊躇無く繰り出された空気を読まない七色の爆発と共に吹き飛ばされた魔術師メアリー=スー。
ドップラー効果で空へと絶叫の尾を引き人間砲弾も真っ青な速度で飛んでいった魔術師メアリー=スー。
神裂を無力化するという魔法どころか魔法名すら披露する間もなくぶっ飛ばされた魔術師メアリー=スー。
「エエエェェェェェェェェーーーーーーーーーーーー!!!」
刀に全神経を集中させていた神裂が別の意味で絶叫を上げる。
「き、貴様!?まだメアリーが魔法名を名乗っていなかったのに…ッ」
既に学園都市の空を逆行していく流れ星。夜ですらないというのに、流れ星。
オッドアイの男がそんな場違いな流れ星になった嘗ての仲間を見上げながらこれ以上無いくらいにうろたえる。
後ろに待機していた100人超えの魔術師達の間にも動揺がこれでもかとばかりに広がっているのが神裂にもわかった。
「いいだろう。どうやら先に死ぬ事を御所望のようだね。この私の魔術は言っておくが学園都市のレベル基準で言うところ、
レベ 「すごいパーーーーーーンチ!!!」ぎにゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」
一切の躊躇無く繰り出された空気を読まない七色の爆発と共に吹き飛ばされたオッドアイの男。
ドップラー効果で空へと絶叫の尾を引き人間砲弾も真っ青な速度で飛んでいったオッドアイの男。
自分の名前も名乗る暇もなく、レベルにすると幾つなのかわからず仕舞いで星になったオッドアイの男。
彼は赤い目と青い目が悪魔と天使の混血児であり、それゆえに幼い頃から迫害されいた為人類全体に深い憎しみを抱いていた。
魔力を全開にすると黒い髪が金色に変化し、背中からは悪魔の翼や天使の翼が生えるというとてつもない強さだった。
メアリー=スー共々、よくよく話を聞けば悲しい過去が幾らでも出てくるような、そんな連中であった。
しかし、そんな情緒も一切解することの無い、知ったこっちゃ無い無粋な七色の爆発が全てを消し飛ばしてしまった。
そして、一瞬にしてリーダー二人を失い、烏合の衆と化した100人の魔術師に対して、削板軍覇は説教するわけでもなく、勝利宣言をするわけでもなく、ただ返す刀を振りかざして叫ぶ。
「すごいパァァァーーーーンチ!!!×100!!!」
100人超の「ぎにゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」が虚空に溶けて行くのを見上げながら神裂はただただ眺めることしか出来なかった。
彼等の不幸、それは削板軍覇という男と敵対してしまったこと。彼の行動理念はいつだってたった一つ。
根性の無い奴をぶっ飛ばすこと。ただそれだけだ。そして、それだけだからこそ、彼は強い。
彼こそが、学園都市第七位。戦闘能力だけならば、一方通行よりも強いのではないかと囁かれている男。
レベル5、削板軍覇だった。
いい汗かいたとばかりに額を爽やかに拭うと、削板は神裂の方を振り向く。
「ところで、あいつ等は何だったんだ?」
どうやら黄金のリンゴ辺りから話を聞いてなかったらしい。
ふんすと、胸を張って何故か得意げな青年、見ようによっては少年にすら見える男に溜息を吐く。
神裂は呆れつつも、理屈や道理、理想や野望など一切意に介さない馬鹿馬鹿しい強さに一種の爽快感を覚える。
感銘すら受けているのかもしれない。
「知らずに殴ったんですか……」
「根性なしだってことならわかってるぞ」
「根性なし……アレでも世界を憂えている連中なんでしょうが」
根性なしの一言で彼等の御大層であろう理想はぶっ飛ばされたわけだ。七色の爆発によって。
削板は眉を吊り上げ、負けん気の強い顔をむっつりさせる。
「天界ってのが何処の国なのかはよく知らねーけど、他のヤツに全部押し付けるってのは根性なしの言う言葉だ。俺達の世界に不満があるなら、俺達の手でどうにかしなきゃいけねー問題だろ。
争いが無くならないなら無くなるまで根性出す。やることはそれだけなんだからよ」
「 ――――― ッ」
ぐちゃぐちゃとした理屈の一切を跳ね除けるような削板の言葉に、神裂は暫し呆気に取られる。
ハッキリと言い切られてしまった。
神裂は思う。結局はそれが答えなのだ。最初からわかっていて、あえて触れられない答え。
方法論を幾ら論じてみても、根本にあるのは諦めずに立ち上がることだ。その前提があって初めて方法論は存在する。
削板の言葉は単純である。しかし、それだけに真理のみをはっきりと突いた言葉だ。
「……まったく……貴方という人は……」
「ん?どうしたんだ?神裂のねーちゃん」
「いいえ、何でもありません。それより削板、急ぎましょう」
「そうだな、ばーちゃんが心配だ。それに、ローラのねえちゃんも」
「………ええ、そうですね」
一瞬神裂が浮かべた複雑な表情に削板は気付かなかった。
―…***…―
「無事ですかい、親船理事」
土御門はへらへらと緊張感の欠片も無い顔で、会談の場となっている会議室に足を踏み入れる。
彼の視界には、穏やかに談笑する老婦人と、貴婦人というには些か幼さが残る麗々しい女の姿があった。
「あら、土御門」
「どうも、理事長。そして最大主教」
紅茶を飲み終え、ゆるりとした仕草で最大主教『ローラ=スチュアート』は怒ったように土御門を見上げる。
「土御門……貴方、こうなるって知っててわざと神浄を送り出しましたね?」
「そんなに睨まないで欲しいにゃー。敵を騙すにままず味方からっていうのが定番ですにゃ」
「貴方の場合は悪ふざけも入ってるでしょ」
親船はシュガーポットから角砂糖を一つ紅茶に落としながら、冷めた口調で言葉を差し込む。
ローラの眉がぴくりと動く。
「まぁ、おかげで結果オーライだにゃー」
偶々、最大主教が聖人二人のみを護衛に付けて来日したという情報が流れ。
偶々、常日頃から魔術サイドの掌握のため、或いは兵装として最大主教を狙う過激派と呼ばれる近年名を馳せてくるようになった新興魔術結社がその情報を握って。
偶々、今日、最大主教の傍らに居続ける伴侶であり守護者である神浄討魔が護衛から離れることが
彼等に流れ。
偶々、科学サイド最強の人間兵器一方通行と戦い始めたおかげで、両サイドの切り札が両サイドのトップから離れ。
偶々、そこに、知人を訪ねてきた魔術師や果ては元聖人が居合わせた。
偶々、彼等の完全な不意を突くような、待ち構えていたような形で戦いが勃発した。
偶々、土御門の高校時代からの友人がレベル5だったので、能力者も引っ張ってきた結果、新興魔術結社は為す術も無く壊滅した。
「それに幹部連中をとっ掴まえることもできたんだぜい」
土御門は小さく笑うと、視線をローラの足元の床に転がっているものに目を向けた。
薄暗い部屋において、置物か何らかの塊としか認識し辛いそれは、男であった。
子供のように膝を抱えて蹲り、聞き取れないほど小さな声で男は何事かをブツブツと呟いている。
胡乱な目には、虚空しか映ってはいない。
近寄って、目線を合わせようとしゃがみこむ。
しかし、先ほどまでの余裕、慇懃無礼な立ち振る舞いなど幻のように、男は怯えた目を見ず知らずの男に向けるだけだ。
「黄金のリンゴの教主……っていってもまぁ、無様なものだにゃー」
「ひっ…いぃぃ…い」
厄介なのは、この男であった。名も知られていないが故に、予測不能の魔術師。
ただ、世界に20人といない聖人の一人であるという噂だけがようやく掴むことの出来た情報であった。
この男を逃がしていたら、再び立て直す危険性は十分にあった。
しかし、土御門の期待通り、予想以上にこの男の抑え込んでいた自己顕示欲は強かったのだろう。
ノコノコとこの場に自ら赴いてくれたのだから。
結果、烏合の衆と化した魔術師達は、必要悪の教会の敵ではなかった。
「まんまと食いついてくれたにゃ~神浄が居ないってことに、そんなに安心したのかにゃ~?思わず浮かれてノコノコ来ちまうくらいに」
土御門は、軽蔑の眼差しをサングラスの奥に隠して、昏く笑う。
この男が、馬鹿みたいな虚栄心と自己顕示欲に突き動かされて自らやってきてくれたことに心から土御門は感謝していた。
「けど、これでわかったかだろう?神浄討魔という“安全弁”の無い『禁書目録』の恐ろしさが」
土御門は、何事も無かったように呑気にクッキーを頬張るローラ=スチュアートを見る。
10万3000冊の一体何を使ったのか、土御門には見当もつかない。
或いは、何もせずにただ、この男が魔術書に干渉しようとするのを止めなかっただけなのかもしれない。
しかし、神に捧げられる子羊であった少女ではなく、今の彼女は、神の子を側に付き従える姫君なのだ。
「チンケな魔術結社のトップ如きがうちのお姫様をどうこう出来ると本気で思ってたのか?」
最強の矛と最硬の盾を科学と魔術の世界でそれぞれ所持する。
そうすることで互いの戦力を均等化、或いは膠着状態にする目的があった。
しかし、それはあくまでも表向きの話しである。
インデックスと呼ばれた少女に嘗てあって首輪。
それは、彼女の安全を保障する一方、彼女が存在することに対する安全を保障するものであった。
そして、それが失われた時、当然上がった声がある。
彼女の殺害。
その為の打開策として、土御門元春が提案したことが上条当麻の『幻想殺し』を制御装置として『禁書目録』に付けるということ。
いつでも抑えることの出来る存在を側に置くことで、初めて白い少女の身の安全は保証されることとなった。
土御門は、インデックスという少女の為にそうしたわけではない。
考えなしの、臆病なだけの老人達の浅慮によって少女を殺めることがもたらす波及効果を憂慮したに過ぎない。
魔術サイド、科学サイド両陣営に深く根差した存在である彼女が仮に理不尽に殺されることになれば、最悪、学園都市に塁を及ぼしかねない。
そして、すなわち、それは彼の最愛の人にも危険性が及ぶことを意味する。
ドサクサに神の子を伴侶として側に置くという二人の婚姻関係を暗に成立させる為の屁理屈を承認させたのは彼のせめてもの罪滅ぼしである。
(ま、事実を知ってもカミやんは同じ事をしただろうがにゃ。寧ろ自分以外にその役はやらせねーって言いかねーぜ)
薄暗い空間に、軽快な歌が突然流れる。
土御門はスーツの内側を探り、携帯を手に取る。
『ひどいで!ツッチー!!魔女っ子達が僕と大乱交パーティーしたがってるって言うから来たのに』
「いやぁ~すまねぇすまねぇ~大乱闘パーティーの間違いだったにゃ~」
『絶対嘘や!ヒゲのガチムチのオジサンが火とか出したかて全然萌えへんよ!!』
「でも、その調子だと終わったみたいだにゃ~流石第六位」
『“元”って付けたってよ。というか現役の六位にこういうのは押し付けてほしいわ』
「強い方に頼むのは当然ってやつだぜい。ま、ツッチーお手製のメイド服を来た幼女の写真で手を打って欲しいにゃ~」
『あ、じゃあ僕、あの子がええ。超電磁砲ちゃんの娘。ついでに猫耳も付けて欲しいわ』
土御門の頬が引きつる。
脳裏に白髪鬼の顔が過ぎった。
「…………親御さんに殺されるかもしれねぇけど…頑張ってみるぜい……」
携帯を切ってから溜息を吐く。
上条にも事情を知らせなければならない。
この作戦は、上条が知らないことが前提である。知れば彼は必ず反対するだろう。
彼女の愛しい姫君を囮に使うのだから。
土御門を口先だけで登り詰めた者だと蔑む者は多い。
手段を選ばず、他者を平気で利用する姿勢を卑怯だと罵る者も少なくはない。
しかし、土御門はそれらの声を一笑に付す。
土御門は一切の手を禁じ手としない。
使えるもの利用できるものは全て使う。
虎の威を借る狐と馬鹿にする者は多い。
しかし、躊躇など彼には羞恥など無い。そして恐怖も無い。
手段に拘り、体裁を取り繕った結果、守れなかった時こそが、彼が恥ずべき時だ。
「ま、俺がカミやんにしこたま殴られるくらいで話が済むなら安いもんだぜい」
守りたい者の屍を抱いて泣き伏す事だけが、彼がこの世で恐れるものだ。
何処か狭くてのっぺりとしている星空を見上げながら上条は白い息を吐く。
頬を刺す風はまだ冷たく、三月だというのに冬の残滓は十分過ぎる程に存在感を主張してくる。
学園都市の風はイギリスのそれよりも何処か冷たく感じるのは気のせいだろうか。
掴んだ手すりにもたれかかる。
「よ」
不意に掛けられた声に驚くことなく振り返る。
腰に手をあてた御坂美琴が薄っすらと微笑みながら立っていた。
その手には二本の缶コーヒー。
「御坂……」
「何辛気臭い顔してるのよ。って、アンタ昔っからそうだったわね」
「余計なお世話ですぅ~」
美琴から缶コーヒーを受け取りながら口を尖らせる。
銘柄はイギリスでも見かける有名な飲料会社のモノだ。
ブラックは余り好きでもないのだがな、とは口にせず上条は礼を言って一口飲む。
熱いコーヒーの喉を滑り落ちる感覚に、小さく身体が震える。
自分自身気付かぬ内に冷え切っていたようだ。
「アイツは?」
「特に異常無し。ってか、本人は大袈裟過ぎンだよってブー垂れてたけどねえ」
「上条さんの方が重症でしたよ。骨に罅入りまくりだし」
「アイツは脳に大怪我したことがあるでしょ?心配してし過ぎってことは無いのよ」
入院なんてご免だと怒っていた一方通行は、結局御坂母娘と、その後駆けつけた絹旗、打ち止めを加えた四人の上目遣いのお願いに根負けした。
今はコアラのようにくっ付いた想と一緒に憮然とした表情でベッドに居る。
最も、憮然としているのは照れ隠しだということには誰もが気付いていた。
色白というのは、どうにも不便なものだ。
実に鮮やかに赤色が浮かぶのだから。
くすくすと笑って美琴はブラックコーヒーを呷る。上条はそれを目にしてふと違和感に気付く。
「お前ブラック飲めなかったんじゃないのか?」
缶コーヒーを掲げて首を傾げる。
美琴は一瞬きょとんとするが、すぐに照れくさそうに笑う。
「何かと徹夜することが多くてね。まぁ、後はブラックばっかり飲んでるヤツが居ると自然とね」
「ふぅん。そういうもんか。……うん、そういうもんだよな」
何か思い当たるところがあるのか、上条は小さく頷いた。
二人は肩を並べて星空を見上げる。
学園都市の夜空は作り物めいている。のっぺりとして、すぐ近くに、触れられそうな位置に感じる時が上条にはあった。
そして、作り物めいてるだけに、とても美しく映る。
星々とその中央に位置する満月。
まるで天体を模したステンドグラスのようだ。
「あのさ……ごめん、ホント」
「何がだよ」
「アンタにとってはかなりとばっちりだったよね」
手の中で缶を転がしながら美琴が俯く。
頬に掛かる一筋の髪が、彼女の横顔を一層艶かしくする。
嘗て自分の側に居た少女が、自分が居なくなってから過ごした年月をその横顔から上条は感覚的に受け取る。
結局傷付けて捨ててしまった少女。知らなかったとは言え、子まで身篭っていたのだ。
選択を変えるつもりは毛頭無いが、過去に戻ってその決断を早く促してやりたいとあの頃の自分への後悔と怒りが込み上げる。
「でも、アンタはきちんと説明してわかれた。私だって意地張ったけど、納得したつもりになってた……なのに今更蒸し返すみたいに」
「そんなことねぇよ。そんなことない。多分、必要なことだったんだ」
「うん、私もそう思ってる本音は。想ちゃんのこと知ってもらうこともだけど……それ以上に」
子供が居ることを知ったことも必要なことであったが、もう一つ、上条も美琴も見落としていたことがある。
「アイツの気持ちをしっかり受け止めてあげることだった」
あの日、上条は最低な自分を曝け出し、そして、一方通行に何度も殴られた。
それは、しかし上条にとってはある意味救いであった。
誰かにハッキリと詰られることで、彼はその罪悪感を幾分か和らげることが出来た。
そして、彼が背負ってやると言ったことによって、開き直ることも出来た。
「私ばっかりぶつけて…受け止めてもらってた」
泣き叫んで、何度も電撃をぶつけたあの夜。上条の前では曝さなかった本音。
どうしても繋ぎ止めておきたかったという気持ちと、それ以上に上条の前でみっともない姿を見せたくないという強がり。
最終的に美琴は見栄を取った。かっこ悪く、惨めたらしく縋りつく女であるよりも、毅然とした態度で綺麗な別れを演出することを選んだ。
それは、上条への愛情よりも、自分自身への愛情が勝ったことを意味していた。
そのことが美琴を絶望に叩き落したのだ。
そして、その絶望と自分自身への軽蔑が八つ当たりとなって一方通行にぶつけられた。
そうする権利が自分にあるとして。何度も何度も。
「私ばかり救われてたんだ」
最低な自分、最弱な自分。
曝け出して、全て吐き出せば、後には奇妙にすっきりとした自分が残った。
そういえば、あの日からだ。自分の中に澱のようにこびりついていた一方通行への嫌悪感、憎悪を感じなくなり始めたのは。
「俺だってアイツに押し付けちまったよ……アイツは勝手に背負ったンだって言いそうだけど」
上条とて、この六年をただ愛しい少女との蜜月に費やしてきたわけではない。
血反吐を吐くことは数え上げたらキリが無い。
何度も傷つき、死線を彷徨い、最早上条の身体でメスの入っていないところなど何処にも無い。
それでも、彼は時折思う。
今頃自分が残したものを、あのぶっきらぼうな白い青年は言葉の通り拾い上げているのだろうと。
傍らにいる愛しい少女を見つめながら何度も思った。
おそらく、彼もまた上条の愛する少女に惹かれていただろうに。
「だから、今日は良かった。アイツとぶつかれて」
「今日は良かったわ。アイツの本音が聞けて」
上条と美琴は同時に呟く。顔を見合わせて二人は苦笑する。
「なぁ御坂」
「何よ?」
「もしさ、俺がお前とあの子を迎えに来たんだって言ったらどうする?」
空になった缶を弄ぶ上条と、背を鉄柵につけて空を見上げていた美琴の間に一瞬沈黙が下りる。
冷たい三月の風が美琴の亜麻色の髪を揺らし、木々のざわめきが白々しく耳に届いた時。
沈黙が途切れた。破ったのは美琴だ。
熱い息を吐くように、濡れた月明かりを浴びてしっとりとした唇がゆるりと開く。
「うれしい…… ―――――― 」
そっと、美琴が上条の頬に手を伸ばす。
「……なぁんて言うと思ったのか?このボケナスがぁ!!!」
思い切り上条の頬を張り飛ばす。
実に良い塩梅に乾いた音が星空の下に響いた。
「ッ痛ぇぇーー!!冗談で言ったのに……」
「言って良いのと悪いのがあるのよ、ボンクラ!」
真っ赤に腫れた頬を押さえながら涙目になる上条。
尚も文句を言おうとするのを、美琴はひと睨みで黙らせる。
上条を張り飛ばした手を、汚れでも払うように手を打ち鳴らせてから美琴は嘆息する。
「あの子を生んだ頃くらいだったらグラついたでしょうけどね」
美琴は寂しげに笑う。上条はその笑みに息を呑む。
強さと寂しさと、そして、今ある幸福によって支えられた女の笑みだった。
その美しさに彼はガラにも無く見惚れる。
同じ笑みを、彼は知っている。最も彼が愛し、守り抜くことを誓った少女の笑みに似ているのだ。
そして、同時に納得する。
つまり、美琴は ―――
「でもさ、困ったことに、今アンタに言われて欠片もときめかなかったんだよね~」
あははは、とやせ我慢ではなく、心から可笑しいことのように美琴が笑う。
そう、つまり美琴は ――― 今、幸せなのだ。
今が幸せであるからこそ、過去を振り返って切なくなれるのだ。
あの時は悲しかった、辛かった、寂しかったと、そう見直すことが出来るから。
「だって、アンタと居るよりもずっと居心地の良い場所……もう出来ちゃったもん」
「そっか」
「だから、さっきのが冗談じゃなくても…断ってたわ。即答でね」
頬をかいて、はにかむ姿は不意に、中学生の頃の美琴を想起させる。
あり得ないことであるが、仮に、上条が心変わりをして本気の愛を美琴に捧げると言ったとする。
親子三人で暮らそうと、真摯な態度で申し出たとしても、“今の”美琴はそれを躊躇無く突っぱねる。
六年前の御坂美琴と、今の御坂美琴はその心の在り様からして全く異なる女の子なのだと、上条は納得する。
そして、彼女を変えたのが誰なのかも理解する。
「そうそう、当麻。アンタに一言言っておきたい事があったのよ」
「言っておきたいこと?」
美琴が頬を染めて、照れくさそうに笑う。
「ありがとう。想ちゃんを私に会わせてくれて……本当にありがとう」
上条は言葉を失う。
「それから……」
美琴が頬を赤くする。
「多分こっちもアンタが切欠だからさ。その…アイツのことも…だからもう一つありがとう。私に掛け替えの無い家族を……二人もくれたから」
何て。
何て綺麗に笑うのだろう。
何て。
何て嬉しそうに笑うのだろう。
何て。
何て幸せそうに笑うのだろう。
美琴が右手を差し出す。
上条は考えるよりも先に右手で握り返す。
「ありがとう。それから ――― 」
美琴は上条の手をじっと見る。
自分を救ってくれた手。
自分を絶望に落とした手。
自分に新しい希望を残してくれた手。
今ある自分を造るのに、不可欠だった優しく、無骨な右手だ。
けれども、もう美琴にはこの右手は必要など無い。
もうではない。既に。とっくに。それが彼女の『今』なのだ。
この右手を握っている暇など彼女には無い。
不器用で、撫でられることを信じきれない困った野良猫が居る。
その馬鹿猫をこの手で撫で手やらなければならないのだ。
何度も何度も。手が足りなければ他にも呼びかけてやろう。
皆でもみくちゃにしてやろう。
観念して、甘えることを覚えるまで。何度でも。
だから、これは一つの儀式なのだ。
「さようなら、上条当麻。御坂美琴は、ようやく本当に貴方から卒業出来ます」
上条は言葉を失う。
それは、今まで見た中、記憶にある彼女の笑顔の中で、最も美しかった。
不意に上条は目の奥につんとした痛みを覚える。
理由ははっきりとわからない。けれども彼は無性に泣きたくなる。
ただ、実感したのだ。これが本当に最後だと。
母との。
友との。
恋人との。
そして、娘との。
自分が捨てたもの達との本当の、あの日何処か有耶無耶のままにしてしまった本当の決別なのだ。
けれども、この場において、決別の涙を零す権利は上条には無い。
故に、彼は、御坂美琴のよく知る、優しく力強い笑みを浮かべる。
「此方こそ…ありがとう。 ―――― さようなら御坂……美琴」
病院の屋上に二人のシルエットが描かれる。
月明かりが、上条と美琴の上に優しく降り注ぐ。
まるで互いの出発を祝っているかのように。
―…***…―
翌日、上条は ――― 神浄討魔は愛する白い少女の下へと戻った。
会談が実際には何時まで続き、そして、彼が何時“帰国”したのか美琴は知る由も無い。
二人の日常は、交差し得ないものなのだから。
そして、日々は続いていく。
以前と変わらず。
いや。
少しだけ変わったのかもしれない。
どうやら、猫はしつこく撫で回してくる様々な手に対して、抵抗するのに疲れてきたらしい。
―…***…―
雨が降る直前の空気が好きだった。
鉛色の息苦しくなるようなどろどろとした空。
アスファルトが微かに蒸されるような、独特の香り。
髪が湿っぽくなり、肌に張り付くような感覚は決して良いことなど無いはずなのに。
それでも自分は雨が降る直前の空気が好きだった。
あえて理由を考えてみる。多分ではあるが、一つだけ思い当たる節があった。
それはきっと、わくわくするからだろう。
雨が降り出す瞬間。
空が、空気が、風が、道路が、道行く人々が、瞬く間に色を変えていく。
リズムを叩くように降りしきる雨粒の音。
雨に染まり、藍色から黒に染まっていくアスファルト。
跳ね返った雨が視界を塞ぎ、霧状の雨は街の輪郭を曖昧にしていく。
傘を忘れたと、頭の上にカバンを置いて駆け出す学生達の慌ただしい姿。
お母さんに買ってもらったと、口々に言いながら嬉しそうに色とりどりの傘を差す幼い女の子達。
音が増えたはずなのに、喧騒が大きくなったはずなのに、雨が降り始めると街が少し息を潜めている気がする。
その変わり様を自分は楽しんでいるのかもしれない。
―…***…―
煙草を一本吸い終えて、一方通行はパン屋の店先、テントの下から本格的に降り出した空をぼんやりと眺める。
当分雨は止む気配を見せない。
天気予報を信じれば、既に晴れていても良いはずだ。
朝方から崩れた天気は雨雲が南西に流れていき、昼過ぎには太陽が拝めるだろうと言っていたというのに。
しかし、そんな無責任な予報とは裏腹に、一方通行の目に映る空はどうにもまだまだご機嫌を直してくれる気配は無い。
煙草の箱をトンと叩くと、二本目を咥える。
嘗ての彼ならば忌々しいと吐き捨て、敵を射殺すように空を睨みつけもしただろうが、生憎今の彼は天気に八つ当たりをするほど切羽詰った生活を送ってはいない。
ただ、面倒臭いと思うだけだ。
杖を持って更に傘を差す事の煩わしさを思えば、呆けたように煙草を吸っている方が幾分か生産的なことのように思えた。
あくまでも彼の精神衛生上の話であるが。
紫煙がじっとりとした空気に混ざり、心なしか視界を深い鉛色に変えていく。
勿論、そんなものは一方通行の気のせいであるが、それは彼自身がよくわかっている。
排気口から流れてくる香ばしいパンの匂い。けれどもパンを食べたい気分ではない。
雨の日に食べたくないものを上げろと聞かれたら、一方通行はパンとコーラを上げる。
雨を眺めながら冷たい炭酸飲料など飲みたくはない。
パンにいたってはしけったパン、カビたパンが勝手に彼の中に連想され、食欲を著しく奪うのだ。
煙を吸い込みながら、どうでもいいことを考えてる自分に呆れる。
要は、思考を弄びたいだけなのだ。
特にすることも無いから。
こういう時、喫煙者で良かったと思う。
手持ち無沙汰の人間がぼうっと雨空を眺めている光景はマヌケだが、少なくとも喫煙者は煙草を吸うという行為をしているように見える。
それだけで幾分かマシな気がしてくるのだから、不思議なものだ。
やがて、彼の視界に、白い影が浮かぶ。
影は、徐々にその輪郭をハッキリと形作り、遂には一方通行の前にまでたどり着く。
白いワンピースに、ミントグリーンのカーディガンを着た少女だ。
「ちょっと入れてね」
「ン」
少女の為に、もたれ掛かっていたショーウィンドウから背を離し、一方通行はかっちり一人分のスペースを作ってやる。
小柄な少女はすっぽりと収まると蒼みがかった銀色の髪から雫をぽたぽたと落としながら、スカートの端を軽く絞る。
傘を忘れてしまったのかとも思ったが、少女は奇妙なことに、その手にしっかりと傘を握っている。
水色の、少女の白いワンピースにとても良く映える色だ。
すぐに一方通行は少女が濡れている理由に気付く。不自然に膨らんだ傘。おそらく骨が折れてしまったのだろう。
「もう…これ気に入ってたのに」
少女が頬を膨らませて溢す。
一方通行は小さく噴出した。
「……笑わないでほしいんだけど?」
返事の代わりに紫煙を少女の顔に吹きかけた。
「ちょ、ゲホッ…甘い?」
涙目になりながらも、甘い香りに戸惑う少女を尻目に、喉を震わせて笑みを押し殺す。
どうやら彼女の周りには甘い香りの煙草を吸う人間はいないようだ。
些細な発見に、少し嬉しくなっている自分に気付く。浮き足立った感情を知られまいと、責めるように睨みつけてくる少女の前で、わざとらしく細く長い煙を吐く。
少女は諦めたのか、それとも、彼がこういう振る舞いをする人間だと知っていたのか、溜息を吐くと、彼と同じく空を見上げる。
そして、少女がぽつりと、口を開いた。
「久しぶりだね……あくせられーた」
「ああ……久しぶりだな……インデックス…」
六年ぶりにあった白い少女 ――― インデックス。
既に二十歳を迎えたというのに少女という表現が似つかわしい。
淡い光を放つような白い肌、ただ頬だけは微かに、まるで桃色のように鮮やかに色付いている。
六年という月日をかけてこの少女もまた見違えるほどに美しくなっている。その美貌の横顔を、一方通行はそっと見る。
一方通行の方に視線を向けず、空を見つめたままだ。
「ありがとうね…」
何が?とは聞かない。一方通行は自嘲交じりに小さく笑うのをあえて聞かないフリをする。
煙草を挟んだ指が微かに震える。ガラにも無く緊張しているのか。
隣の少女に気付かれてないか、一方通行は誤魔化すように灰皿に煙草を捻り込む。
「本当はね、凄く恐かった。とーまが私の前からいなくなっちゃったらどうしようって、そう思うと」
感づいたのか、それとも聞いたのか。
敏い少女だ。賢い少女だ。そして、優しい少女だ。
いずれにせよ、心穏やかではいられないはずだ。
「とーまにもう一度、本当は考え直してもらおうって思ってたの。捨ててしまったものを見つめなおしてもう一度って。
でも、送り出してから凄く恐くて仕方が無かった。イギリスに行った頃はあんなにとーまが来るのを嫌がってたのに…寂しいけれど、本当に来ちゃいけないって思ってたんだよ。
でも…ダメだった。もう身体がとーまのこと、覚えちゃったから。だからもうダメ。あの時みたいに、とーまときっぱりサヨウナラなんて出来ないんだよ…
だから、とーまが帰ってきてくれた時は嬉しくて泣いちゃいそうだった……自分で送り出しておいてね……」
――― ワガママだね ―――
小さく、消え入りそうな声で呟いた。
「それ…まだ付けてたンだな」
「え?」
少女の白銀の髪を留めている色褪せた羽のヘアピンを見遣る。
見覚えならあった。選ぶ手伝いをしたのは自分だ。
気の利いたプレゼントを、と泣いて縋りつく上条に辟易して、そして根負けした。
けれども、いざプレゼント選びの時になって、乗り気になった自分と、任せるといいながらも自分のこだわりをしっかりと持っていた上条の意見は悉く対立した。
そして、ふと目に付いたのは青い羽。
『幸せの青い鳥』という童話を、上条は思い浮かんだようだった。
一方通行も打ち止めに読んでやっていた童話の一つだったとすぐに思い出した。
平行線だった二人は、何かに引かれるように、このヘアピンを選んだのだ。
「いいンじゃねェの?我が侭で。どうせ誰も彼も幸せになンて出来ねェンだ。だったらまずテメェ自身を幸せにするところから始めろよ。
それに、テメェ自身の幸せってのを考えらンねェ野郎にはきっと誰も幸せになンざ出来やしねェンだよ。テメェはあの野郎を幸せにしてやりたくねェのか?」
少女はゆるゆると首を振る。
一方通行は安心したように、微かに口元を緩める。
「じゃあ、そのままあでいろよ。我が侭言って、あの馬鹿を振り回してやれ。存分に甘えてやれ。
それから……それから、馬鹿みてェにアイツの側で笑ってろよ。それがあの野郎の幸せだろ」
煙草を吸うわけでもなく、手の中でジッポを転がしながら一方通行は苦笑する。
お前が言うな、と誰かが怒鳴る声が聞こえた気がしたからだ。
少なくとも、ついこの前までの自分が言っていいセリフではない。
『自分の幸せ』などという言葉など、一方通行から出てくるはずの無いものであった ――― 嘗ては。
「オイ」
「うん?」
「お前は今幸せか?」
規則正しく振り堕ちる雫を紅の瞳に映しながら問う。
「うん。とっても幸せ」
少女は天使のように微笑む。
彼女の住む世界には地獄しか無い、彼女の住む場所は地獄しかないというのに。
それでも少女は笑う。心から。自分が今いる地獄の底が、本当に幸せだというように。
その笑顔を生み出しているのが誰なのか、一方通行には確認するまでも無かった。
「ハハッ……そォか…」
どうやらあの男はしっかりと約束を守っているようだ。
「ねぇ、ねぇ、あくせられーた」
甘い舌足らずの声が、一方通行の自嘲気味の思考を打ち切った。
「あくせられーたは今幸せ?」
小さく、息を呑む。
投げかけられたのは無邪気で、そして残酷な言葉。
一方通行にとってそれはある意味最も苦悶を強いる言葉だった。
けれども、苦悶の果てに、彼は見つけ出した。
見つけたのではない、既にあった答えだ。
とっくの昔から手にしていて、気付かぬフリをしてきただけの答え。
受け止めることに勝手に怯えていただけの、シンプルな答え。
「ああ…悪くねェな」
囁かれたハスキーボイスがあまりに優しく、甘く響いいたせいだ。
一方通行らしからぬ柔らかい声に導かれるようにインデックスは隣に立つ男の横顔に視線を向けた。
そこには子供が、母親に褒められて照れくさそうにする時に浮かべるような不器用で、幼い笑みがあった。
「そうなんだ」
「そォさ」
一方通行は、煙草の箱を取り出すと、一本口に咥える。
火を点けると、ゆっくりと吸い込む。
「こンな風に呑気に煙草ふかしてられるくれェには平和だからな」
―――― 少なくとも、眩しくて、焦がれていた少女が幸せだと心から笑って言う姿を目にすることが出来たのだ。
本音はしまい込み、本気とも冗談とも取れない言葉を舌の上で転がす。
―…***…―
雨が止む。
少女は再び自分から離れ、上条の下へと行く。
その背を眺めながら、一方通行は小さな確信を抱いた。
これで報われたのだと。
ようやく報われたのだと。
安堵にも似た気持ちで納得する。
きっと、これは燻り続けていた彼の想い。
愛ではなかった。
それは恋であっても、決して愛ではなかった。
育む術を知らず、ただ、ずっと仕舞い込んでいた行き場の無かった恋心だ。
それが、今、やっと報われたのだ。
あの笑顔を見て。
吸い終えた煙草を灰皿にねじりこみ、空になった煙草の箱を小さく指先で千切っていく。
紙吹雪のように風に乗せて放ってやる。
あの少女は同じだ。
甘い香りを残して、口の中には微かな苦さを残していく。
一方通行は小さく笑う。
多分、これで本当に自分は前に進めるのだ。
「さてと……そろそろ帰らねェとな」
今日は珍しく美琴がお迎えに行っているはずだ。
自分の部屋に直行して、食事の準備をするだけの時間は十分にある。
雲間から差し込む光の梯子を見上げてから、雨の残滓の残る街の中へと踏み出す。
上条編 終了
次回:
一方通行「いい子にしてたかァ?」【4】小話編


上条当麻と一方通行。
常日頃、自分自身の幸せを度外視する合わせ鏡。
読み終えるまで幾度泣いたか分からない。
この二人と、二人の周りの人間の幸せを願う。
あと8人目のレベル5と、神裂火織の今後が気になる。