後輩「ですから、『オトコ』ってなんなのかって聞いてるんです」
男「……。えっと、オレは男。キミは女。オッケー?」
後輩「……すみません。ますますわからなくなりました」
男「なにがわからないんだよ?」
後輩「その……『オンナ』ってなんですか?」
男「……」
男(朝起きてから、ずっとイヤな予感はしてたんだ)
元スレ
後輩「オトコってなんですか?」男「は?」
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/internet/14562/1393940313/
男(オレは今朝起きてから、今に至るまで一度も野郎を見ていない)
男(女としか遭遇しない)
男「……性別ってあるよな?」
後輩「『セイベツ』? なんですかそれは?」
男「……あのさ。馬鹿にしてる?」
後輩「ど、どうしてそう思うんですか?
私は先輩の言っていることが本当にわからなくて……」
男(たしかにそうだ)
男(オレは知っている。この子がとても真面目な子だってことを)
後輩「ごめんさい。私、あんまり勉強できないから、なにも知らなくて……」
男「ごめん。しつこいかもしれないけど、もう一度だけ聞く」
後輩「はい」
男「本当にキミは、男も女もわからないんだよね?」
後輩「……ごめんなさい」
男「じゃあ、キミはなんなの?」
後輩「なんなのって……人間ですか?」
男「人間はわかるんだ」
後輩「さすがにそれはわかりますよ。赤ちゃんでも知ってますよ」
男(なのに、男と女という言葉は知らない)
男(ていうか目覚めてから、変なことしか起きてないぞ)
♪今朝
男「んっ……あれ?」
男(おかしいな。いつの間に寝たんだろ……?)
男(課題やってるうちに寝ちゃったのかな……)
男「……いや、ちょっと待て」
男(ここはどこだ? オレの部屋じゃない)
「んっ……」
男「へ?」
「んー……」
男「ええええぇっ!?」
男(オレはベッドで寝ていた。そしてオレの隣には裸の女が寝ていた)
?「……うるさいなぁ。昨日遅かったんだから……もう少し寝かせてよ」
男「あ、あの……申し訳ないんですけど、起きてもらってもいいですか?」
?「なんでよー。休みなんだから、早起きする必要ないじゃん……」
男「そこをなんとか……」
男(ていうか、この女は誰だよ?)
?「あー……なに? もしかして朝からまたしたいとか?」
男「あっ、いや! 布団から出ないで!」
?「なんで?」
男「だ、だってその……全部丸見えになりますよ?」
?「今さらなに言ってんの? だいたい丸見えなのは自分もでしょ?」
男「え……のわぁっ!?」
男(オレも生まれたままの姿だったああああっ!)
男「な、な、な、な……」
?「朝からテンション高いね。なんかいいことあった?
ていうか、髪どうしちゃったの?」
男(女子の裸を見れたからね、とか余裕があったら返したいけど)
男「……ひとつ聞いてもいいですか?」
?「さっきからよそよそしいね。それで?」
男「あなたは誰ですか?」
?「寝ぼけてんの?」
男「いや、これ以上ないってぐらい覚醒してる」
?「ホントに?」
男「むしろそっちのほうこそ、寝ぼけてたりしません?」
?「なんでそう思うわけ?」
男「その……あなたはボクが誰かわかってますか?」
?「は? 昨日、あんなことしておいてよく言うわ」
男「あんなこと?」
?「エッチ」
男「…………えっち?」
?「もしかして本気で言ってる?」
男「いちおう」
男(まるで、病人でも見るような目で睨まれた)
?「あっそ。じゃあ外の空気でも吸ってきたら?」
男「……そうします」
男(なんなんだ、この状況)
♪
男(というわけで、服を着てオレは知らない家を出た)
男(状況がつかめない。しかも……エッチ?)
男(……待て待て待て! オレはセックスしたのか!? 知らない女と!?)
男(バッドコミュニケーションにもほどがあるだろ!!)
男(いや、ちがう。今の問題はエッチをしたかどうかじゃない!)
男(……今一番重要な問題はなんだ?)
男(とりあえずここはどこだろ?)
男(メチャクチャ見覚えはあるけど……あっ)
男(ここってヤマダの家の前じゃん)
男(なんでオレってば、アイツの家で寝てたんだ?)
男(じゃああの女の子は、ヤマダの姉か妹?)
男(いや、でもアイツって一人っ子のはずなんだけど)
男(それにヤマダの姉妹だったとして、なんでオレは知らない女と……)
男(そもそもどうしてオレには、その記憶がない?)
男(そんな素敵な記憶をなくすなんて、ありえないだろ!)
男「……ていうか、今日って学校じゃん!」
男「今は七時か……って、やばい! 急がないと!」
男(とりあえず家に戻って準備しよう)
女「おーい」
男「ん?」
女「おはよう! 朝からこんなところで合うなんて珍しいね!」
男「おっす。たしかに珍しいな」
男(振り返るとクラスメイトの女子がいた)
女「……って、どうしたのその髪?」
男「昨日からなにも変わってないと思うけど」
女「昨日は会ってないから知らないけど。すごく短くなったね」
男「……昨日会っただろ?」
女「会うわけないよ。あたし、昨日もバイトだったし」
女「これからもまたバイトだしね」
男「今日学校あるだろ?」
女「なに言ってんの? 今は夏休みでしょ、勘弁してよ」
男「…………」
女「そうだ、今週空いてる日ない?」
男「土日なら、空いてると思うけど」
女「ホント? じゃあ二人でどっか行こうよ?」
男「いや、その前に……」
女「……私とふたりは、やっぱりイヤ?」
男(うっ……なんだこの上目遣いは!?)
男(今までこんなことされたことないぞ!)
男「うん、たぶん空いていると思うよ」
女「ホント!? 今度は約束きちんと守ってくれる!?」
男「え? う、うん……」
男(そもそも、コイツと約束した記憶なんてないぞ)
女「へへっ。あたし、アリスカフェ行きたいんだ」
男「そう……」
女「予定はあたしが決めるから任せておいてねっ」
男「お、おう。ところでさ……」
女「あっ! いけない! このままだと遅刻しちゃうから行くね!」
男「……わかった。また今度な」
女「うん! バイト終わったらラインするー」
♪
男「おかしい」
男(オレの記憶では、今日は月曜日のはずだぞ)
男(それ以前に夏休みは、二週間も前に終わってるはずだ)
男(もしかしてオレの脳みそが狂ってるのか?)
男「ただいまー」
「お・か・え・り」
男「…………」
男(家のドアを開けたら、エプロンを着用した知らない女性がいた)
「ポカンと口あけちゃってどうしたの?」
男「誰!? まさか、泥棒!?」
「お姉ちゃんになんてことを言うのよ!?」
男「姉なんてオレにはいないよっ!」
「ひ、ひどい! 最近反抗期真っ盛りだからって……そんなのあんまりよ」
男「…………」
姉「だいたい今日も朝帰りだし。昨日も一昨日も……うぅ」
男(なにをこの女は言ってるんだ?)
男(オレには兄ちゃんはいるけど、姉ちゃんはいない)
男(しかも朝帰りとか、反抗期とか無縁そのものだ)
男「ボク、ひょっとして、家を間違えたのかもしれません」
姉「この馬鹿チン! どこの子どもが自分の家を間違えるの!?」
男「……ボクがそうかもしれないんですけど」
姉「お姉ちゃんを馬鹿にしてるの?」
男「してませんっ。ただ……」
姉「ふんっ。じゃあいいです。勝手にしなさい」
男(そう言うと、オレの姉を名乗る女性はリビングに引っこんでしまった)
男「とりあえず、ここからどうしよ……?」
♪
男「あっちぃ……」
男(家にいる気にはなれなかったので、オレはすぐに家を出た)
男(現在徘徊中である)
男「よくよく考えたら、あの女の人は親戚だったのかな」
男(親が離婚してるから、オヤジの方の親戚は把握できてないしな)
男(実は昔に会ったことがある人だったのかもしれない)
男「……そうだとしても、おかしいけど」
男(ていうか、アテもなく歩いてるけど、オレはなにがしたいんだ)
男(……そうだ! スマホあるじゃん)
男(とりあえず、これで色々確認しよう)
男「えーっと…………え?」
男「なんだよ、これ……?」
男(オレの記憶が正しければ、今は九月のはずなんだ)
男(それなのに、スマホの液晶に映った日付は『八月』)
男「……ウソでしょ?」
男(なんだ? このスマホが壊れてるのか?)
男(いや、落ち着け。だったら誰かに電話して確かめりゃいいだけだ)
男(……)
男「アドレス帳も、アプリも全部消えてる……!」
男「ははは……きっと壊れちゃったんだな」
男(ショップに行って見てもらおう。うん、そうしよう)
「手をあげろ」
男「え?」
男(思考に没頭していたら、いつの間にか黒服の女性たちに囲まれていた)
男「え? え? な、ななななんですかこの状況!?」
黒服「騒ぐな、悪いようにはしない」
男「いやいやいや、ボクは基本的に生まれてこの方悪いことはしてませんよっ!?」
黒服「黙れ」
男(意味がわからないどころか、命まで狙われてるのかオレ!?)
「ちょ、ちょっとあなたたち! なにをしているの!?」
黒服「はっ! お嬢様の言いつけ通り、この者を確保しました!」
男「か、確保!?」
「私はそこまでしろなんて言っていません。ただ呼び止めてと言ったのです」
黒服「申し訳ありませんっ!」
「この人にも謝って!」
黒服「……この度の無礼、申し訳ございませんでした」
男「はあ……」
男(黒服五人組が、いっせいに頭を下げた。そろいすぎだろ)
「ごめんね。この人たちも悪気があったわけじゃないの、許して」
男「……誰かと思ったら、お嬢じゃん」
お嬢「今ごろ気づいたの?」
男「だって、いきなりコワイお姉さんたちに囲まれちゃったからさ」
お嬢「本当にごめんね。大丈夫?」
男「うん、特になにかされたわけじゃないしな」
男(金髪色白の『お嬢』。彼女はあだ名のとおり、金持ちのお嬢様)
男「それにしても、この人たちはいったいなんなの?」
黒服「……」
お嬢「この人たちは、私の護衛。でも気にしないでいいからね」
男「これを気にしないっていうのはちょっと……」
お嬢「そんなことより、この近くの公園で涼まない? 日差しが痛いの」
男「……じゃあ、とりあえず行こっか」
♪
お嬢「ふぅ。今日は湿気もそんなにないから、日陰だと涼しくていいね」
男「……うん」
お嬢「どうしたの? 表情がひきつってるよ?」
男「いや、目の前の黒服の人たちがきになっちゃって」
お嬢「だから、気にしなくていいの」
男「無理だろ。目の前に並んでんだぞ」
お嬢「私はあなたの髪型の方が気になる。どうしちゃったのそれ?」
男「なあ……みんなそう言うけど、なにがおかしいんだよ?」
お嬢「すごく短くなっちゃったなって思って」
男「前からこんなもんだよ」
お嬢「嘘よ」
男「本当だよ」
お嬢「また適当なことばかり……!」
男「なにも適当なことを言ってないよ」
お嬢「嘘よっ。いつもそう、私のことなんてどうでもいいんでしょ?」
男「え?」
男(気づいたら、お嬢は涙をこらえてオレを睨んでいた)
黒服「お前……! よくもお嬢様を……」
お嬢「あなたたちも黙っていなさいっ!」
黒服「も、申し訳ありません」
お嬢「……私のこと嫌い?」
男「そ、そんなことないよ?」
男(そもそもオレとお嬢って、そこまで深い関係じゃないし)
お嬢「その言葉は本当? 嘘じゃない?」
男「お、おうっ!」
お嬢「本当の本当?」
男「本当の本当の本当っ」
お嬢「……そう、じゃあこういうことをしても怒らないよね?」
男「……っっっ!?」
男(不意にお嬢に腕を絡まれる)
男(からだが密着する)
男(甘いフルーティーな香りはお嬢の髪からかしてるのか?)
男(そして、薄い衣服越しに伝わる柔らかい感触は……!)
男「お、お、お、お、おおおおおおおお……!」
お嬢「あなたは私にだけあの秘密を教えてくれたでしょ?」
男「ひ、ひひ秘密!?」
お嬢「そう、私とあなただけの秘密」
男(絡む腕の力が強くなる。よりダイレクトになる感触)
男(からだに響いてくる鼓動はオレの? それとも、お嬢のか?)
男(やばいやばいやばいっ! これはダメだ!)
男(脳みそがババロアみたいになっちまう!)
男「お、お嬢!」
お嬢「……なに?」
男「腕をはなして、頼むから」
お嬢「どうして?」
男「えー……熱いからかな?」
お嬢「……ごめんなさい。こんな日にすることじゃないよね」
男(っあぶねえ! マジでとろけるかと思った!)
男「ごめん! ちょっと用事思い出したからもう行くわっ!」
お嬢「まだいいでしょ? ……ダメ?」
男「ダメだダメだダメだ!」
黒服「お前っ! お嬢様の頼みをそんなぞんざいに……」
お嬢「やめて」
黒服「はっ!」
男「本当にごめんっ。この埋め合わせは絶対にするから!」
男(オレはお嬢のもとを全力疾走で去った)
♪
男「はぁはぁ……ここまで全力で走る意味はなかったな」
男「くそっ……あっつい!」
男(いったい今の展開はなんだ。オレって実はモテモテだったのかな)
男(……)
男(いや、そんなわけないわ。ていうか二か月前にフラレたじゃねえかよ!)
男(じゃあ今のは、なんだって話になるけど……)
「先輩?」
男「あっ……」
男(汗だくで喘いでいるオレの前に現れたのは、後輩の『レミちゃん』だった)
後輩「汗だくですけど、大丈夫ですか?」
男「あ、いや、大丈夫。ちょっと朝のマラソンをしてただけなんだ」
後輩「はあ……マラソンですか」
男「そうそう。こう見えてもオレ、中学時代は駅伝の選手だったんだぜ」
後輩「そうなんですか? すごいです!」
男(気が動転して、しょうもない嘘をついてしまった)
男(ていうか、お嬢には聞けなかったことを今のうちに聞けることを聞いておこう)
男「ところで、今日って何日だっけ?」
後輩「――日です」
男「……ついでにもうひとつ。今ってもしかして八月?」
後輩「はい。八月で夏休みですね」
男「それってマジで言ってるよね?」
後輩「……はい。私、なにか間違えてますか?」
男(まさか本当に今は八月なのか?)
男「そのさ、オレの勘違いかもしれないけど、今って実は九月だったりしない?」
後輩「たぶん、九月ではないと思います」
男「……」
男(ヤバイ。頭がクラクラしてきた)
後輩「だ、大丈夫ですか?」
男「な、なんとかね」
後輩「もしかして熱射病ですか? だったら水分を取ったほうが……」
男「いや、そういうことじゃないんだわ。ちょっと動揺しただけだから」
後輩「……本当ですか?」
男「本当だって」
後輩「それだったらいいんですけど」
男「それに、オレは男の中の男だぜ。熱射病なんてならないよ」
後輩「……」
男「どうした?」
男「なんかオレ、変なこと言ったかな?」
後輩「変なこと……というか、よくわからないというか……」
男「ん?」
後輩「オトコってなんですか?」
男「は?」
男(そして、冒頭の会話に戻るわけである)
男(今のところ、オレは全く状況がつかめていない)
♪
男(オレは変な夢でも見てるのか?)
後輩「顔色があまりよくありませんけど、大丈夫ですか?」
男「そういや起きてから、一度も水分をとってないや。なんか飲むか……ん?」
後輩「どうしました?」
男「あ、あれ? サイフがない。どこやったんだろ?」
後輩「貸しましょうか?」
男「でも後輩にお金を借りるのは……」
後輩「遠慮しないでください。それに、倒れられても困っちゃいますから」
男「じゃあお言葉に甘えて」
後輩「はい」
♪
男「ありがと。あとでお金は返すね」
後輩「缶ジュース一本ぐらい、気にしないでくださいよ」
男「ダメダメ。男として情けない」
後輩「オトコとして、ですか……」
男「ぷはっ……やっぱり夏場に飲むポカリはうまいね」
後輩「……」
男「ん? どうした?」
後輩「い、いえ。なんにもです」
男「もしかして喉かわいた?」
後輩「ちょっとだけ。今日は特に暑いですからね」
男「飲む?」
後輩「……いいんですか?」
男「いいもなにも、レミちゃんが買ってくれたんだし」
後輩「えっと、じゃあすみません。いただきます……」
男「はい、どうぞ」
後輩「……」
男「どうしたの? もしかして口の部分になんかついてる?」
後輩「い、いえ! なんにもです、いただきますっ」
男(夢であってくれと思ったけど、この夏場に飲むポカリのうまさ)
男(どう考えても、夢じゃないよな)
後輩「んっ……あ、あの」
男「ああ、飲み終わったんだ」
後輩「はい、ありがとうございます」
男(オレの知ってる人間が、おかしくなってるけど)
男(少なくとも、この子はそんなことはないのかな?)
後輩「……私の顔になにかついてますか?」
男「ごめんごめん、ちょっと考え事してて」
後輩「考え事って、オトコってものについてですか?」
男「まあ、そんなところかな」
後輩「結局、オトコってなんなんですか?」
男「説明しろって言われると難しいんだけど……」
男(一番手っ取り早いのは、パンツをおろすことなんだよなあ)
男『これが『男』だああああっ!』
後輩『きゃああああっ! 変態! さいてー! なんてものを見せつけるんですか!』
男(いや、でも本当に男がなにかわからなかったら……)
男『これが『男』だあああああっ!』
後輩『なんですか、そのソーセージは』
男『これが男の証なのさ』
後輩『え? これって本当についてるんですか?』
男『ほれほれ、触ってみ!』
後輩『失礼します……わっ、動いた!』
男『ハハハハこれが男だ』
後輩『なんか大きくなってる! いやああっ! 股間にエイリアン飼ってるうう!』
男『ハハハハハハ』
男(うん。間違いなくダメだ)
後輩「……先輩?」
男「どう説明しようか考えてたんだけど……」
後輩「ウィキペディアとかには載ってないんですか?」
男「そうか! それだよ、なんで思いつかなかったんだろ」
男(オレはスマホで男と検索することにした)
男「……って、『男』って漢字が出てこないな」
男(まあひらがなで検索すればいいか。検索検索っと)
後輩「先輩?」
男「ごめん、ちょっと待って」
男「ない」
後輩「なにがないんですか?」
男「男って検索しても出てこないんだ……」
後輩「……」
男「そ、そうだ。女って検索すれば…………」
男(指がふるえた。女という漢字が出てこない。ひらがなで検索する)
男「…………」
後輩「…………」
男「は、ははは……どういうことだよ、これ」
男(男、そして女。こんな普通の単語が検索に引っかからないわけがない)
男(じゃあなぜ出てこない?)
男(これはどういうことだ?)
男(そのほかにも『性別』とか適当な単語で検索したけど、どれも引っかからない)
男「ごめん。思いっきりほっぺたつねってもらっていい?」
後輩「……つねればいいんですか?」
男「うん、ちょっと目を覚ましたい。頼む」
後輩「それじゃあ……えいっ」
男「……ごめん、全然それだと痛くない。むしろ少し気持ちいい」
後輩「こうですか?」
男「イテテテテテっ! 痛いっ! もういいっ!」
後輩「ご、ごめんなさい。つい本気でやっちゃいました」
男「ヤバイ! 痛いっ! 夢じゃないぞこれ!」
男(つまり、男っていう存在がいなくなったことで)
男(性別って概念も消えたってことか?)
男(いや、そもそも実は男なんていなかったんじゃね?)
男(でもそうだとすると、オレはどうなる?)
男「……」
後輩「な、なんで私のす、スカートの部分を見るんですか……?」
男「あっ、ごめん。
……悪いけど少し後ろを向いててもらっていい?」
後輩「……? わかりました」
男(股間の息子が家出してたらどうしよう、とか思ったけど)
男(そんなことはなかった)
男「もういいよ。大丈夫だった」
後輩「なにが大丈夫だったんですか?」
男「まあ気にしないで」
男(……って、安心してる場合じゃないっ!)
男(もし本当に人類から男が消えた、としたらどうなる?)
男(『ウハウハハーレム王国』が建設できるってことか?)
男(ハーレム……つまり、男がいない)
男「……男がいなかったら、赤ちゃんってどうやって生まれるの?」
後輩「へ?」
男「だって、女だけだったらセックスなんてできないし……」
後輩「な、なんでそんなことを私に聞くんですか……!?」
男(しまった。つい思ったことをそのまま口にしてしまった)
男(案の定、シャイな後輩は顔を真っ赤にしてしまった)
男(でも……顔を赤くするってことは、そういう行為があるってことだよな)
男「とりあえず検索してみるか」
後輩「……」
男(こっちはきちんと出てきたな)
男(なになに)
男(…………)
男(わかったことを簡単に要約するとこうなる)
男(この世界に『男』はいない。いるのは『女』だけ )
男(いや、性別が存在しない以上『女』というのもちがうか)
男(少し歴史についても調べた)
男(歴史上の人間は、みんな女にかわっていた)
男(では、どうやって人類は繁殖できたのかというと……)
男(よくわからないけど、『受け』とか『攻め』的な遺伝子?)
男(それが『男』と『女』っていう性別の変わりみたいな?)
男(なんかよくわからないけど、この世界でもセックスという行為はある)
男(そして妊娠する確率はだいぶ減っているみたい……人口が少なくなっている)
男(もちろん、オレが調べた記事が真っ赤な嘘だという可能性はある)
男(これじゃあ、世界から男が消えたとかそういうことじゃなくて……)
男(世界の秩序そのものが、変わってしまったみたいじゃないか)
男(そんなことってあるか……?)
男「なあ……」
後輩「はい」
男「朝起きたら世界がおかしくなってる、なんてことあるかな?」
後輩「ないと思いますけど……」
男「そうだよな。普通ないよな」
後輩「どうしてそんなことを……?」
男「……今から少し、突拍子もないことを言っていい?」
後輩「突拍子もないこと?」
男「さっき男ってものについて話したよね?」
後輩「はい。結局オトコってなんなんですか?」
男「えっと……人間」
後輩「人間? 外国人とかそういう感じのものですか?」
男「近い、かなあ? なんていうか、ちょっとからだの部分がちがうんだよ」
後輩「からだの部分がちがう……」
男「そう、オレの胸を見てくれ」
後輩「は、はい……」
男「レミちゃんとちがって真っ平らだろ?」
後輩「……」
男(なぜだろう、またもやレミちゃんは顔を真っ赤にしている)
男(ていうかこれは、普通にセクハラ発言だったか?)
後輩「その……胸がないのが……オトコなんですか?」
男「そうそう」
後輩「でも、胸のない人なんていくらでもいますよ?」
男「あー……ちがいはほかにもあるんだ。ただ、それはちょっとね」
男(さすがにここで、『パオーン』とかやる勇気はないしな)
男(ていうか普通に犯罪だ)
男「それで、オレがなにを言いたいのかっていうと。
世界がおかしくなっちゃったんじゃないのかなあってことなんだ」
後輩「……どういうことですか?」
男「だから、本当は男って存在がいなきゃダメなんだ」
後輩「はあ……」
男「ついでに言うと、オレも男なんだ」
後輩「……」
男(とにかくオレは時間をかけて、男というものについて)
男(そしてオレの知っているはずの世界が、あまりに変わってしまったことを説明した)
後輩「その……なんとなく、わかりました」
男「無理に信じてくれとは言わない。
もしかしたら、おかしいのはオレのほうかもしれないし」
後輩「……正直、私には難しすぎてよくわかりませんでした」
男「オレ、説明下手だからね。理解できないのはそのせいだよ」
後輩「……でも、先輩はこんなことで嘘をつかないとは思います」
男「……信じてくれるの?」
後輩「はい。むしろ……」
男「ん?」
後輩「そういう話をしてくれたってことは、少しは私も信頼されてるのかなって思って。
ちょっと、嬉しかったです」
男「まあ、その……そうだな」
男(この子が今のところ、オレの知ってる連中の中では一番変化がないからな)
後輩「でも、仮に本当に先輩の言っているとおりだとして、どうするんですか?」
男「どうするって、なにが?」
後輩「先輩の言うとおりだとしたら、世界は変わってしまったんですよね?」
男「ああ、そういうことか」
男(たしかにそうだ)
男(女しかいない世界。そんな世界でオレはどうすればいいんだ?)
♪
男「お姉さま」
姉「なに? 帰ってきたそうそう、正座なんてしちゃって」
男「…………」
姉「なあに? 言いたいことがあるなら、はっきり言いなさい」
男「今から奇妙なことを聞いてもいい?」
姉「なによ?」
男「名前を教えてくれませんか?」
姉「誰の?」
男「お姉さまのです」
姉「あ、アンタねえ……! どれだけお姉ちゃんにケンカを売れば……!」
男「ちがうんです! 聞いてくださいっ!」
姉「……なに?」
男「ひょっとしたら、オレ、記憶喪失になったのかもしれません」
姉「え? 本気で言ってるの?」
男「はい。ほとんど記憶がなくなってしまって……。
お姉さんの名前を聞けば、なにか思い出せるかも、と思ったんです」
姉「冗談じゃないのね?」
男「はい」
姉「……私の名前は――よ」
男(うわっ! オレの兄ちゃんの名前と一緒だ!)
男(ていうか、なんでそんな男らしい名前のままなんだよ!)
姉「なにか思い出せた?」
男「すみません、正直全然思い出せないです」
姉「そんな……病院行ったほうがいいんじゃない?」
男「いえ、実はもう病院には行ってるんです」
姉「そ、そうなの? お医者さんにはなんて言われたの?」
男「そのうち戻るから気にするなって言われました」
姉「そっか……」
男(『そっか』じゃねえよ! どこの世界にそんな無責任なこと言う医者がいるんだ!)
男(まあオレの兄ちゃんもたいがい、アホだったからな)
男(……やっぱりこの人は、兄ちゃんが女化したってことなのかな)
男(にわかには信じられないけど)
男(レミちゃんと相談して、とりあえず記憶喪失のふりをすることにした)
男(そして)
男『一度家に戻って状況をおさらいしてみるよ』
後輩『そのほうがいいかもしれませんね』
男『わざわざ話を聞いてくれてありがと。少し気がらくになったよ』
後輩『いえ……あの、もしよかったら、このあと一緒に……』
男『ん?』
後輩『迷惑じゃなかったら……一緒にどこかへ出かけませんか?』
男『そうだなあ。街の様子とかも、なにか変わってるかもしれないしな』
後輩『じゃあ……!』
男『うん。レミちゃんがよかったら一緒に行こうよ』
後輩『はいっ』
男(というわけで、家に戻ってきたんだけど)
姉「自分のこともまったく思い出せないの?」
男「はい。そっちもけっこう忘れてて……ボク、どんな人でした?」
姉「いいのっ! あなたは過去の自分のことなんて知らなくていいの!」
男「いやいや、教えてくださいよっ!」
姉「知ればきっと死にたくなるし、お姉ちゃんも言うのがつらいの」
男「は、はあ……」
姉「心細いだろうけど大丈夫! お姉ちゃんはあなたの味方だから!」
男「ありがとうございます……」
姉「敬語はやめてっ。お姉ちゃんとあなたの仲でしょ?」
男「そうだね……ありがとう、お姉ちゃん」
姉「うぅ……」
男「な、なんで泣いてるの?」
姉「だって……最近は口すらきいてくれなかったから……」
男「オレが?」
姉「うん」
男(いったいオレはどんな人間なんだ?)
男(少なくとも、オレと兄ちゃんは仲良かったぞ)
男「その……よくわからないけど、ごめんね」
姉「許してあげる。今のあなたはとってもいい子だものっ!」
男「のわぁっ!?」
姉「久々に話したらハグしたくなっちゃった……」
男「いや、もうしてるし!」
姉「ふふふっ、嬉しいなあ」
男(や、やばい……『実の姉』なのに抱きしめられると、その……)
男(女性らしい柔らかい感触。甘い匂い。頬ずりされると、もう肌のみずみずしさが……)
男「お、お姉ちゃん?」
姉「なあに?」
男「ちょっとシャワーを浴びたいから、はなれてくれる?」
姉「じゃあ一緒に入っちゃう?」
男「だ、大丈夫だからっ!」
男(落ち着けオレ! この人は、もとは兄ちゃんだったろうが!)
男(実の兄に興奮するとか変態の極みじゃないかっ!)
姉「もう照れちゃって……かわいいんだからっ」
男「ち、ちがうし……! あー、とにかく風呂に入るっ」
姉「はいはい。シャワー代がもったいないから、少しお湯ためておくね」
男「……ありがと」
男(やばい、『兄』が『姉』に変わっただけでこんなに疲れるなんて……)
♪
男「部屋もやっぱり物の配置とかが変わってるなあ」
男(とは言っても、そこまで変化してるわけじゃないか)
男(さっさと風呂入って、家を出なきゃな)
男(着替えは……)
男「あ、あぁ…………」
男(下着の類はタンスの一番上の段に入っている)
男(問題は、そこに入っている下着だ)
男(この世界に男はいない)
男(男物のパンツなんか存在しないのである)
男(つまり、オレのタンスに入っていたのは……)
男「お、お、おパンティー……!!」
男(全部パンティーじゃないかっ、あれもこれも!)
男(実はオレが女性のパンティーの収集癖がある変態、とかだったら)
男(まだマシだったかもしれない)
男(……どうしよう。オレ、これ履かなきゃいけないのか)
男(…………)
男(とりあえず、カットの浅いものを選ぶことにした)
男(ていうか、問題はパンツだけじゃない)
男(上も下も大問題じゃねえかっ!)
男「ジーンズひとつでもこんなにちがうのか……」
男(履いてみればわかる。男物と女物でこんなにちがいが出るとは)
男「うわあ、足のラインがメチャクチャ気持ち悪いし、ピッチリしてる……」
男(Tシャツにしても、ちっちゃいよこれじゃあ)
姉「お風呂たまったよー!」
男「あ、うんっ。今行くわー」
男(男物の服は、今身につけてるものだけ……)
男(このままだと、オレは常にパンティー履いて女装をする変態じゃないか!)
男(……今着てるのは、汗でビチョビチョだしな)
男(仕方ないか)
男(べ、べつに女装したいとか、パンティー履きたいとかじゃねえぞ!)
♪
男「お待たせ」
後輩「あっ……私も今来たところです」
男「お、オレの服変じゃない?」
後輩「なにがですか?」
男「いや、その、服装の話なんだけど……」
後輩「……私もそんなセンスいい方じゃないから、なんとも言えませんけど」
男「いや、なんていうかサイズ的な話なんだよ」
後輩「ちょっと窮屈そうですね」
男「だ、だよねえ」
後輩「…………ぷっ」
男「!?」
後輩「ご、ごめんなさい。あんまりにも先輩の顔が赤かったので……ふふっ」
男「…………」
男(当たり前だ。今のオレは変態そのものなんだ)
男(本来だったら、全員がオレに注目しそうなものなんだけど……)
男(誰もオレの方は見てないよな?)
後輩「それで……どこへ行きましょう?」
男「あー、そうだな。とりあえず服が見たいんだけど、いい?」
後輩「はい。私は今日は先輩に合わせます」
男「ありがと、助かる」
♪
後輩「けっこう買いましたね」
男「うん……ジャージばっかだけどね」
後輩「少し持ちましょうか?」
男「いいよいいよ。オレの荷物だし」
後輩「……次はどこへ行きますか?」
男「あー……」
男(正直服を買うことしか、頭になかったからな)
男(でも、よく考えたらかわいい後輩と一緒にいられるんだしなあ)
男(そういえば……)
男「カフェ行こっか?」
後輩「カフェ、ですか?」
男「すぐそばにあるんだよ。ワッフル専門店なんだけど、どうかな」
後輩「私……ワッフル大好きなんです」
男「おっ、ちょうどいいね」
後輩「はい。行きたいです」
男「じゃあ行こっか」
後輩「はいっ」
男「とは言っても、もう着くんだけどね」
後輩「本当に近いですね。それに……すごいオシャレな感じです」
男「オレもひとりじゃ入れないかな。ときどき、サラリーマンとかも来るけどね」
後輩「……ひとつ、聞いてもいいですか?」
男「うん?」
後輩「その……誰と来てたんですか?」
男(一瞬、レミちゃんの目つきが鋭くなった気がした……勘違いか?)
男「いや……オレって幼馴染がいるんだけど、知ってるよな?」
後輩「……はい」
男「そいつとときどき、来てたんだ。それだけだよ」
男(なんでオレは言い訳みたいなことを口にしてんだろ)
後輩「そうなんですか……」
男「まあそんなことはいいから、入ろうよ」
後輩「そうですね」
プルルルル…
男「ん? オレのスマホか?」
後輩「私のケータイではないですね」
男「誰だろ…………って、番号は出てるけど、誰かわからないな。
はい、もしもし?」
『…………』
男「あのー、もしもーし? 聞こえてますかー?」
『……ろしてやる』
男「は?」
『殺してやる』
男「え?」
プツッ……ツーツー
男「……」
後輩「どうしました?」
男「いや、よくわからない電話だった」
後輩「よくわからない電話?」
男「うん。なんだったんだろ。イタズラかな?」
男(でも、どこかで聞き覚えのある声だった)
男(それに殺してやるって……)
男「……まあいいや。とりあえず、入ろう」
♪
男「メニュー決まった?」
後輩「すみません……私、こういうのすぐ決められなくて」
男「ああ、べつに急かしてるわけじゃないから」
後輩「うーん」
男(メニューとにらめっこして、眉毛を八の字にしているレミちゃん)
男(こんな意味不明な状況じゃなかったら、クラスの連中に自慢してるのになあ)
男(……クラスの男どもはどうなってんだろ)
男「なあ。オレってどんな人間かわかる?」
後輩「……」
男「レミちゃん?」
後輩「あっ、はい! ご、ごめんなさい、メニューに夢中になってました……」
後輩「どんな人間、ですか……?」
男「うん。兄ちゃん……じゃなかった。
姉ちゃんに聞いても、答えてくれなかったんだ」
後輩「そうですね……」
男「もしくは、誰かに恨まれてたりとか。そういうことない?」
後輩「……恨まれてる可能性は、あるかもしれません」
男「ほ、ホントに!? なんかオレ、恨まれるようなことしてるの!?」
後輩「……してるの、かもしれないです」
男(なぜかレミちゃんが顔を伏せる)
男(髪からのぞく耳が、赤くなってるのはなんでだろ?)
後輩「そ、それより! 明日は登校日ですよ?」
男「登校日?」
男「ああ……あの夏休みに学校行かなきゃいけない日ね」
後輩「私の口から先輩のことを説明するのは、ちょっと……。
だから、えっと……お友達に聞いてもらってもいいですか?」
男「なんか言いづらそうだから、そうするよ」
男(いったいこのシャイな女の子が、口にできないことってなんだろ?)
♪
後輩「わざわざ奢ってもらってしまって。すみません……」
男「気にしないでよ」
男(オレの金じゃないしな)
男「それにしても、最近CDショップとか行ってなかったな」
後輩「先輩の好きなB’zのコーナーとかもありますよ」
男「…………え?」
後輩「……?」
男「誰これ?」
後輩「ですからB'zです」
男「これが!?」
男「なんだよこれ……全然声もちがうし、ジャケットも……」
後輩「え? でも先輩が私に勧めてくれたのって……」
男「……そうか、そういうことか」
男(女しかいないんだから、これは当然のことなんだ)
男(男がいなくなった結果のひとつなんだ)
後輩「これも先輩が知ってるものとちがうんですか?」
男「……好きだったグループが別ものになってた」
ユメジャナイアレモコレモー
男(なんてこった……)
男(こんなのじゃあ、聞く気にならねえよ)
♪
男「じゃあ、また今度ね」
後輩「はい」
男「今日は色々付き合ってくれて、ありがと」
後輩「いえ、私も……楽しかったです」
男「それと……メアドの交換してくれる?」
後輩「え?」
男「アドレス帳、全部消えててさ。誰の連絡先もわからないんだ」
後輩「私のでいいんですか?」
男(なぜか目を丸くするレミちゃん。メアドの交換が珍しいのか?)
男「もちろん」
後輩「あ、じゃあ……アドレス言うんで、入力してもらっていいですか?」
男「オッケー」
男(オレはレミちゃんのアドレスをメモした)
男「それじゃあ、またね」
後輩「また、なにか私に協力できることがあったら、言ってくださいね」
男「うん。帰ったらメール送るわ」
後輩「はいっ」
♪次の日
男(そして次の日)
男(学校の登校日である)
男(なぜ夏休みに学校に行かねばならんのか、とか文句を普段なら言うだろうけど)
男(今はそんな余裕はなかった)
男(なにせ今のオレは……)
男(女子の制服を着て、登校しているのだ)
男(しかもウィッグのせいで髪が重いし、なんかムれる……)
男(でも、男状態のまま女子の制服着るのもアレだしな)
男(スカートはなんかスースーするし。女子ってよくスカートを短くできるな)
男(そういうのに抵抗があるのは、オレが男だからか?)
「おい。お前だ、お・ま・え」
男「え? ボクですか?」
「お前以外に誰がいるんだ?」
男(校門の前に立っているってことは、あの教育指導の先生ってことか?)
男(ウソだろ? あのいかついゴリラみたいな先生がこんな美人になるのか!?)
教育指導「なにか言いたげな顔だな?」
男「い、いえ……ちょっと混乱してて……」
教育指導「私もだ」
男「はい?」
教育指導「お前のような素行の悪い生徒は、夏期休業中は学校に来ないと思ったんだが」
男「ボクが……素行の悪い生徒なんですか?」
教育指導「自分の行動を思い返してみろ」
男(オレは頭が悪いって言われたことはあっても、素行が悪いなんて言われたことないぞ)
男(しかも今のところ、学校だって休んだことないし)
教育指導「まあいい。さっさと行け」
男「……はい」
教育指導「今後は真面目に学校来いよ」
男(これは本格的に、誰かに自分のことを聞いたほうがいいな)
女「なんで学校に来てるの!?」
男「うわぁ!?」
女「びっくりしすぎ」
男「声がでかいんだよ。だいたい、登校する日なんだから学校に来るだろ?」
女「普通の生徒はね」
男「オレは普通じゃないの?」
女「だってそうでしょ? 夏休み前なんて、ずっと学校に来てなかったし」
男「……」
女「もしかして、そろそろ出席日数がまずくなったとか?」
男「あー……まあ、そうなのかなあ」
女「ふふっ」
男「なにがおかしいんだよ?」
女「こうやって、一緒に校舎まで行くのって久々だなって思って」
男「そうだっけ?」
女「そうだよ。なんだか、昔に戻ったみたいだね?」
男「……昔? オレとキミって高校からの付き合いじゃあ……」
?「ちょっとさあ、いい?」
男「あのときの……」
男(昨日の朝、起きたらなぜか一緒に寝ていた女)
男(しかもヤマダの家のベッドの上で)
?「昨日は、なんも言わずに勝手に帰っちゃったよね?」
男「あっ……」
男(そういえば。昨日は気が動転しすぎて、なにも言わず帰ったんだ)
?「ったく、人ん家であんなことしておいてさあ。
今度はまたべつの人間と登校って……」
女「あ、あたしはべつにただ、ここでたまたま会っただけで……」
?「ふうん、あっそ。べつにいいけどね」
男「昨日はその、オレもちょっと動揺してて……」
?「はあ? 今さら言い訳なんて聞きたくないっつーの。このクズ!」
男「お、オレがクズ!?」
?「アンタを表す言葉が、ほかにあるなら教えてほしいね!」
男「……」
?「ふんっ。じゃあね、せいぜいほかの人と乳繰り合ってなさい」
男「おい、待てよ!」
女「……行っちゃったね」
男「むぅ……」
女「ねえ」
男「なに?」
女「いったいなにをしたの、ヤマダさんに」
男「……ヤマダ?」
女「そう、ヤマダさんに」
男「ヤマダって……今の子のこと?」
女「ほかにこの会話の流れで誰かいるの?」
男(それじゃあ、あの女の子はヤマダってことか?)
男(男であるはずのヤマダが女化した結果が、あの子ってことか?)
男(そして、オレとあの子はベッドインしてて……)
男(ヤマダはもとからイケメンだ)
男(だから女化するなら、あんなかわいい女の子になるのかもしれないけど……)
女「ねえ。またボーッとしてるけど、大丈夫なの?」
男「考え事してるんだよ」
女「結局、いつもそうなんだから……」
男「なにが?」
女「ここのところ、あたしの話をマジメに聞いてくれたことがある?」
男(たしかに、昨日も状況がつかめなくて、若干上の空だったけど……)
女「昨日も返事してくれなかったし……」
男「返事?」
女「ラインしたのに、返信しなかったでしょ?」
男「……そんなこと言ったっけ?」
女「言いました!」
男「ご、ごめん」
女「むぅ…………って、今なんて言った?」
男「え? だからごめんって……」
女「う、うそ…………あ、あああ謝ってるの?」
男(目玉がこぼれ落ちそうなぐらいに目を見開く彼女)
男(オレが謝るのがそんなにすごいことなのか?)
男(これでもオレは、悪いことをしたらすぐ謝れと親に教えこまれている)
男(だから自分が悪いと思ったら、即座に謝るようにしてるんだけどな)
男「実は昨日から、アプリの調子が悪くて……」
女「ううん、いいの! 謝ってくれただけでも、嬉しいから……」
男「そ、そっか……」
女「今さらだけど、それウィッグ?」
男「ああこれ? やっぱりこのほうがいいかな、って思って」
女「安いの買ったでしょ?」
男「初めてでよくわからなかったんだよ」
女「じゃあ週末の買い物のときに、新しいのを買う?」
男「あー……どうしような」
男(普通に一万とかするからなあ、ウィッグ)
女「今度はあたしと一緒に選ぼうよ」
男「……そうだな。じゃあ、お願いしようかな」
女「うんっ」
男「……」
男(オレ、さっきまで怒られてたんだよな?)
男(天真爛漫、弾けるような笑顔、この子ってこんなに魅力的に笑うんだな)
女「ほらっ、ボーッとしてるとホームルーム始まっちゃうよ」
男「お、おう」
男(そして、手を引っ張られるオレ。冷たい手の感触が心臓を強くはねさせた)
男(まるでこれって、すごい仲良しみたいだ)
男(オレの記憶ではそんなに仲良くないはずなのに)
♪
男「あ、ああぁ……」
女「どうしたの? 早く教室に入りなよ」
男「いや、だって……」
女「?」
男「本当に女子しかいなんだな。あはは……」
女「ジョシ? なにそれ?」
男「なんでもないっ。気にしないで」
女「お嬢、おはよっ」
お嬢「おはよう……って、な、なんであなたが学校に……!?」
男(またこのリアクションかよっ!)
女「よくわかんないけど更生したんだよね、きっと」
男「そう、そうなんだよ。オレは心を入れ替えたんだよ」
お嬢「本当に? なんだか信じられない……」
男(どっちかって言うと、学校に来なくて驚かれるタイプだと思ってたんだけどなあ)
お嬢「これからは真面目に学校にも来るのね?」
男「もちろんだともっ」
お嬢「そっか……よかった」
女「うんうんっ、ホントにね」
男(お嬢の目尻に涙が浮かんでるように見えるのは……気のせいじゃないな)
男(ていうか、昨日もそういえば……って、ダメだ!)
男(あのなまめかしいお嬢を今思い出すのは、いろんな意味でまずい!)
男(さっきからクラスのヤツらの視線が、全部オレに集まってる気がする)
男(……よく見ると、女になっても男のころの面影が残ってるヤツがいるな)
友「…………」
男(女と化したヤマダがすごい睨んでくるけど、オレはどうしたらいいかわからない)
男(おかしいなあ。仲のよかった友達のはずなのに)
男(って、オレが悪いんだよな)
お嬢「先生が来たから席に着きましょ?」
男「うん……」
♪
男(やっぱり、学校には女しかいなかった)
男(校長先生や教頭先生やほかの先生、生徒。全部が全部、女になっていた)
男(そんな中、ひとりだけ女装をした男がいるという状況)
男(女の子に囲まれる妄想をして幸せになれるオレだけど、これはなんかちがう!)
男(そしてもうひとつわかったことがある)
男(クラス内でオレは孤立しているみたいだ……悲しい)
男(彼女はいなくても、友達にだけは恵まれていたと思っていたのに……)
男(でも、みんなの目は怯えてるように見えたしな)
男(よっぽど悪いことをしてたのかな?)
男(……オレが?)
男(悪行と言えば、コーラと醤油の中身を入れ替えるぐらいしかない、オレが?)
男(放課後。すっかり空っぽになった教室でオレは悩むのだった)
女「なあに机に突っ伏してんの? 考え事?」
男「うーん……オレってもしかしてクラスの人に嫌われてる?」
お嬢「嫌われてる、というか怖がられてはいると思う」
女「……そうだね」
男「そうなのか……」
女「てっきり気にしてないのかと思ってた」
お嬢「私も。クラスのみんなのことなんて、米粒ぐらいにしか思ってないのかと……」
男「…………」
女「まあまあ。元気出してよ、なんなら帰りにファミレスでも行く?」
お嬢「私も行きたい。三人でいきましょ」
男「そうだな、とりあえずお腹すいたしな。食べに行こっか」
お嬢「…………」
女「…………」
男「どうしたの?」
女「だって、ねえ……」
お嬢「最近だと、どんなに誘ってもこういうことには来てくれなかったから……」
女「なんだかすごく嬉しいね」
お嬢「うん……」
男(そう言って微笑むふたりは本当に嬉しそうだ)
男(お嬢なんかは、またもや目に涙を浮かべている)
男(やっぱりオレって、どんな人間と思われてるのか気になるな)
男「あのさ、オレって……」
友「まだいたんだ」
女「ヤマダさん……」
男(だあもうっ! またオレが話を聞こうしたタイミングで現れるんかい……!)
友「ったく、アンタの顔なんか見たくなかったから、遅めに戻ってきたのに」
男(すごい嫌われようだ……クラスじゃあ一番仲がよかったはずなのに)
男(ショックで言葉が出てこない…………あれ?)
男(よく考えたら、世界がおかしくなった朝って……)
男(最初に目を覚ましたのは、ヤマダの家だ)
友「ふんっ。結局人の話もまともに聞いてないしね」
男「ま、待って。今考え事してた!」
友「はあ? もう呆れてものも言えないね」
男「ちがうんだよ! 聞きたいことがあるんだよ」
友「私はまず、アンタと口をききたくない。以上」
男(そう言って怒ったアイツは、足早に教室を出て行ってしまう)
男「ごめん!オレ、アイツに用があるから……」
女「もうやめよう」
男「へ?」
男「な、なんで?」
女「今の反応でわかったでしょ? もうふたりの関係は修復できないよ……」
お嬢「……私もそう思う」
男「そっ、そんなことないだろ? 誠心誠意謝れば……」
女「あたしが代わりにキミのこと、慰めてあげるから……ダメ?」
お嬢「え!?」
男「は、はい……?」
男(なんだ慰めるって!? 頭をナデナデしてくれる、みたいな!?)
女「あ、あたしはまだそういう経験、ないけど……でも、いいよ?」
男(潤んだ瞳。熱を帯びた頬)
男(金縛りにでもあったかのように動けないオレに、薄い、けれどもみずみずしい唇が――)
お嬢「ダメです! あなたたちはなにをしようとしているの!?」
男(やばい、あと少しでファーストキスを奪われるところだった!)
女「ご、ごめん…………私ったらなにをしようとしてるんだろうね、あはは……」
お嬢「もう……! こんなところでやめてね」
男(なんか色々と意味不明な状況なんだけど)
男(もしかして、オレはモテモテになりかけている?)
男(極めて意味不明な状況に放りこまれる代わりに、モテモテにしてもらえる、みたいな!?)
男(なんだろう、だんだん全てがどうでもよくなってきたような気がする)
女「とりあえずご飯行こうよ、ねっ?」
男「……だから、それじゃあダメだっ!」
お嬢「?」
男「ごめん。やっぱりオレ、アイツに謝ってくるよ! 聞きたいこともあるし」
女「え……ちょっと……!」
男(オレは全力でふたりから逃げるように走った)
男(あのまま流されたら、危険な気がしたから)
♪
友「……で? なんで追ってきたわけ?」
男「はぁはぁ……それは……」
友「私、言ったよね? 口も聞きたくないって」
男「オレは話したいことがあるんだっ!」
友「つくづく自分勝手なヤツ。どうせ自分の都合しか考えてないんでしょ?」
男「……そうかもしれない」
男(実際、追った理由のひとつは聞きたいことがあるからだし……否定できない)
友「サイテー」
男「……ごめん」
友「……」
男「昨日のことは、オレが悪い……!」
友「あ、謝ればすむと思ってるの?」
男「そうじゃない」
友「……だったらなによ?」
男「イヤなんだよ。オレが悪いのは間違いない。
でも、オレ、お前とは仲のいい状態でありたいっていうか……とにかくごめん!」
友「あ、頭下げればいいってもんじゃないよ……」
男「……ごめん」
友「ふんっ。本当に自分勝手なヤツ。本当に……」
男(そのとおり、なんだと思う。実際昨日、勝手に帰ったオレは悪い)
男(でも、そういうことじゃなくて、友達とケンカしたままっていうのがイヤだ)
男(頭を下げて、オレは目をつぶった。まぶたの裏に出てきたのは……)
友「わかったよ」
男「……許してくれるの?」
友「勘違いしないこと。アンタにずっと頭を下げさせておくのも、なんかアレだし……」
男「ありがと……へへっ」
友「な、なに笑ってんのよ……!?」
男「ごめん。でも、ケンカした状態でいるのがイヤだったんだ、本気で」
友「ふんっ。だったら初めからあんなことするなっつーの……」
男「……ごめん」
友「謝りすぎ。なんか私がイジメてるみたいじゃん」
男「……なんて言っていいか、わからないんだよ」
友「……じゃあ今度、どっかふたりで……行く?」
男「おう、べつにお前とだったら……」
男(って、コイツは今はあのヤマダじゃないんだよな)
男(普通に女の子なんだよな)
男(オレが女とふたりっきりで遊んだことがあるのは、レミちゃんと幼馴染のアイツだけ)
友「……や、やっぱり家のほうが……いい?」
男「え? あ、いや……」
友「そ、その……デートっぽいことしてみても、たまにはよくない?」
男「で、デート?」
友「ダメ……?」
男(頭がこんがらがってくる。コイツは仲のイイ友達のはずだった)
男(でも、今はどうなんだ?)
友「……やっぱり、ダメかな?」
男「ぐっ……!」
男(胸を直接えぐるかのような上目づかい)
男(さっきまで平謝りしてたのはこっちだったはず)
男(なのに、どうして今はオレが主導権を握ってるんだろ)
男「よ、よしっ! どこでもいいから行こうぜ!」
友「……いいの?」
男「当たり前だろ? もともとオレが悪いってところから話が始まったんだし」
友「……ばか。そういう謝罪の気持ちはいらないっつーの」
男「どういうこと?」
友「朴念仁のアンタにはわからないよ。でも……」
男「っ!?」
友「……嬉しいよ」
男(ギュッと効果音がつきそうな感じで、抱きしめられた)
男(鼻の下で、友達が自分の胸に顔をうずめている。太陽の光を跳ね返す黒髪がまぶしい……!)
男(しかしそんなこと以上に、『彼女』のからだの感触が夏服越しに伝わってくる)
男(それはオレの全身の血液を唸らせ、ある部分へ……)
友「なんだか久々に、アンタときちんと話した気がする。嬉しいよ」
男「あ……うん」
男(彼女がオレからはなれる。すごい名残惜しいと思った)
友「じゃあ、また連絡するから、きちんと連絡返してよ」
男「お、おう」
友「バイバーイ」
男「……」
男(オレはしばらく動けなかった。ただ立ち尽くしていた)
男「…………へへっ」
男(なんだこれ? これってやっぱり惚れられてるってこと?)
男(どうしよ、口もとのニヤケが収まらないし……幸せだ)
男(女の子に抱きしめられるってあんな感じなのかあ)
男(あの子がもともとは男だったとか、もはやどうでもいいことなのかも)
男(だんだんこんなわけのわからない状況でも、いいように思えてきてしまった)
男(あの子にオレがどんな人間なのか、聞いてないけどそんなことも気にならなかった)
男「とりあえず帰るか……」
「あら? 珍しくニヤけてるけどいいことあった?」
男「……どなたですか?」
「またまた、そんなこと言っちゃって」
男(なんかまだ頭がふわふわしてるな。……先輩かな?)
「たしかにほとんど話したことはないけど、さすがに顔ぐらいは覚えてるでしょ?」
男「……」
「……なんだかその顔は本気っぽいわね。私が図書委員だって知ってる?」
男「すみません、それ以前にキミが誰か知らない……」
本娘「いちおう、私のほうが先輩なんだけどなあ」
男「し、失礼しました……」
本娘「……今まで無視しかしてこなかったのに、どうしちゃったの?」
男(けっこう派手な感じの先輩だけど、こんな綺麗な人が知り合いだったら)
男(絶対に忘れないと思うし、図書委員っていうギャップでなおさら印象に残りそう)
男(あと胸が……その……デカイですわ)
男「……先輩はボクと知り合いなんですよね?」
本娘「知り合いっていうか、私は知ってくれてると思ってた。
ウチの学校の図書館って蔵書もほとんどないし、人もほとんど来ないから」
男「はあ……」
本娘「ときどき授業終わりに、図書室から出てくるのを見たこともあるし。
放課後に図書館で寝ている姿なんて、何度も目撃しているわ」
男「そうなんですか……」
男(なんかすごい変わった雰囲気の人だ)
男(一言で言うと、エロい)
本娘「ようやく話せたと思ったら、まさか気にもかけられていないなんて……残念」
男「……ボク、記憶力悪いんで、それで覚えていないだけだと思うんです」
本娘「そう。じゃあ忘れられないようにしてあげよっか?」
男「……痛っ!?」
男(先輩に弁慶の泣き所を蹴られた。しかもけっこう強く)
男「なっ、なにするん……いぃっ!?」
本娘「ふっふっふ、どう? 私の押し倒し技?」
男「あ、あ、あ、あわわわわわ……!?」
男(先輩の言ったとおりだった。オレは押し倒されていた)
本娘「どう? 少しは印象に残ったかしら?」
男(押し倒すどころじゃない。彼女のからだはオレのからだと密着していた)
本娘「意外とウブな反応をするのね」
男(顔が……近いっ!)
男「こ、ここここ廊下ですよっ!?」
本娘「知ってるわよ?」
男「だ、誰か来たら……」
本娘「どうしようねー?」
男(なんだこの人……意味がわからない。でも、エロいっ!)
男(もうからだの感触については、柔らかいとしかオレには表現できない)
男(先輩の声は、まるで耳たぶを舐めてくるような甘ったるさに満ちていた)
男(鼻にかかる吐息は湿っていて、唇からのぞく舌の動きに目を奪われる)
男(はだけた制服の胸元。そこからうかがえる鎖骨の陰影が、呼吸に合わせて動くのがやけになまめかしい)
男「あ、ああああのっ……本当に勘弁してくださいっ!」
本娘「仕方ないなあ。今回はこれぐらいにしてあげる」
男「あっ…………」
本娘「あら? 言われたとおりにどいたのに、なんだか残念そうね」
男「そ、そんなことありません……」
男(うそですっ! とおおおおっても名残惜しいです!)
男「ていうか、なんでこんなことしたんですか?」
本娘「うーん、確かめたかったからかなあ?」
男「なにをですか?」
本娘「やたらとモテる理由を」
男「……ボクが?」
本娘「ええ。だって正直そこまで美形ってわけでもないし、かわいいってわけでもないし」
男(地味に傷つけられた! 自覚はあるけど!)
男(でもやっぱり、今のオレはモテモテってことで間違いないっぽいな……へへっ)
本娘「でーも、少しモテる理由がわかったかも」
男「ホントですか?」
本娘「なんとなくだけど、ほかの子と雰囲気がちがうのよねえ」
男「フインキ?」
本娘「うまくは説明できないけど、ほかの人とはちがうなにかがあるのよ?」
男「ちがうなにか……」
本娘「まあ、人間のカンだけどね」
男「あのー」
本娘「んー? なあに?」
男「なんで先輩はボクのこと、そんなに知ってるんですか?」
本娘「自覚がないの?」
男「なんのですか?」
本娘「だって、色んなスキャンダルが勝手に流れてくるのよ?」
男「ボクにスキャンダル!?」
本娘「ええ。クラスメイト全員と関係を持っている、とか」
男「ええっ!?」
本娘「ひょっとしたらセックス依存症なんじゃないか、とかね」
男「えええええっ!?」
男(なんなんだ、セックスに依存するって!?)
男(依存するもなにも経験がまずないぞ、少なくともオレの記憶では!)
本娘「ずいぶんと驚いてるけど、実際のところどうなの?」
男「……なんて言えばいいんだろ」
男(こうなったら、記憶喪失のフリをして話を聞き出すかな?)
男「実は……ボク、記憶がかなり曖昧になってるんです」
本娘「ん? どういうこと?」
男「自分でもよくわからないんですけど、その……」
本娘「口で焦らされるなら、からだのほうに聞いちゃおっかなあ」
男「ま、待ってください! 言いますから!」
男「ある日目が覚めたら、世界がおかしくなってたんです」
本娘「あらら? なんだか急に話が変な方向に行っちゃったけど?」
男「ちがうんですっ。ボクが言ってることは本当なんです」
本娘「いいよ、じゃあ最後まで話してごらん」
男「ありがとうございます。昨日、起きたら意味のわからない状況になっていて……」
本娘「具体的には?」
男(オレは必死に言葉を探して説明した。先輩は興味津々といった感じで聞いてくれた)
本娘「ところどころ、理解できなかったけど。
ようは自分の身の回りの状況が一変していた、そういうことね?」
男「はい。こんなふうじゃなかったはずなんです」
本娘「いるはずの人間がいなくて、いないはずの人間がいる」
男「まあ、そんな感じです」
本娘「私たちにとてもよく似ていて、でも少しちがう人間がいる、か」
男「そうです」
本娘「にわかには信じがたいかなあ、悪いけど」
男「そりゃそうですよね……」
本娘「でもね、ひょっとしたらこんな可能性があるかも」
男「?」
本娘「パラレルワールド、とか」
男「『ぱられるわーるど』って……なんですか?」
本娘「私たちの世界とは、とてもよく似た、でも異なっている世界のことよ」
男「おおっ! なんかカッコイイですね」
本娘「君はその平行世界からやってきた、別の世界の人間という説」
男「な、なるほど!」
本娘「……だったら、ロマンに溢れてて素敵ね」
男「ちがうんですか?」
本娘「あるいは、世界が作り替えられた、とかでもいいわね」
男「ああ、それが一番わかりやすいですね」
本娘「もっとわかりやすく、ありえそうな現象があるわよ」
男「どんなものですか?」
本娘「君が狂っちゃったの」
男「狂った?」
本娘「そう。あるいは正常に戻ったのかもね」
男「すみません、意味が全然わかんないです」
本娘「だから、世界は変化なんてしてないの。変化したのは君」
男「……」
本娘「世界はもとからこういうものなの」
男「もとから……こういう、もの」
本娘「世界を認識している君がもとに戻ったか、あるいは壊れたか」
本娘「そういう類の病にかかっちゃったのかもよ」
男「そ、そんな……」
本娘「大丈夫? べつにいじめる気はなかったのだけど」
男「い、いや……オレがそんな……」
本娘「もしかしたら、狂ったのは私たちの可能性もあるけどね」
男「……」
本娘「私は君がおかしくなった説を唱えちゃうけどね」
男「……どうしてですか?」
本娘「根拠はふたつ。ひとつ目は、私にとっては状況はなにも変化してないから」
男「でも、ボクにとっては変化がある……しかもとっても大きい」
本娘「そう、そのとおり」
男「……もうひとつの根拠はなんですか?」
本娘「その前にひとつ。君の行動に対して、周りがやたらに驚いたりしてない?」
男「!」
本娘「図星、ね」
男「……はい」
本娘「つまり、君の行動に対してみんなが驚くってことは――」
本娘「君が変わってしまったからよね?」
♪
男(そのあと、オレは先輩と適当に話して帰った)
男(狂ったのは世界じゃない。狂ったのはオレなのか)
男(……と、悲観しているのかというと、全然そんなことはなかった)
男(正直、自分がおかしいなんて自覚はないし)
男(それにそんなことがどうでもよくなるぐらい、今日のオレはおいしい思いをしている)
男(それだけじゃない)
男(今のオレは女の子にモテモテなのだ……理由はわからないけど)
男(でも男にとっては、それってすごい嬉しいことだ)
男(それに今日味わった感覚は、間違いなく本物だった)
男(そんな風に楽観的に考えながらも、胸の片隅にこびりついた小さな不安は意識せずにはいられなかった)
♪
後輩「なんだか複雑な表情してますね」
男「そうかな?」
後輩「なんていうか、ニヤけながら悩んでるような、そんな顔をしてます」
男「そうかな?」
後輩「学校はどうでした?」
男「色々ありすぎて疲れたな」
後輩「……そのわりになんだか嬉しそうですね?」
男「あはは、なんだか顔がニヤけちゃうんだよな」
後輩「……女の子とイチャイチャしたんですか?」
男「うっ……」
男「な、なんでわかったの?」
後輩「先輩がモテモテで……その、まあ……色々してるのは知ってます」
本娘『だって、色んなスキャンダルが勝手に流れてくるのよ?』
男(先輩の言葉通りだとしたら、この子がオレの噂を聞いてて当然か)
男「でもオレには、その記憶がないんだよ。
記憶がない、っていうかそんなことをしたことがない」
後輩「知ってます。前の先輩は、こんなことではニヤけたりしませんでしたから」
男「みんなが言うには、オレってすごい擦れた人間だったみたいだけど……」
後輩「そうですね。まさに擦れたって表現がぴったりの人でした」
男「……」
後輩「あ……でも、私はそんなに関わってないんですけど……」
男「たしかに。謝っただけで、動揺されたもんな」
後輩「今の先輩は、別人そのものに見えると思います」
男「それは、オレにも言えるんだけどね」
後輩「先輩の知っていたみなさんとの関係も、色々とちがうんですか?」
男「かなりちがう。仲が悪かったわけじゃないけどさ。
ふたりで遊びに行こうとかは、絶対になかった」
後輩「誰かと遊ぶんですか?」
男「え? あ、うん……まあ…………」
後輩「……そうですか」
男(レミちゃんの表情が心なしか曇った。頭に耳がついてたら、だらんと垂れてそう)
男(この子はオレのことをどう思ってるんだろ?)
男(少なくとも嫌われてはいないと思うんだけどな、協力してくれてるし)
男「あのさ」
後輩「……はい」
男「……」
後輩「先輩?」
男(オレは今、なにを言おうとしたんだ?)
男「ごめん、なにか言おうと思ったけど忘れちゃった」
後輩「……先輩」
男「なに?」
後輩「あの……」
男「……?」
後輩「……すみません、私もなにか言おうと思ったんですけど、忘れました」
男「なんじゃそりゃ」
後輩「……先輩だって忘れたじゃないですか」
男「まあ、そうなんだけど」
男(なんだろ、イマイチこの子とは距離感がつかめないな)
男(一番変化が少ない子のはずなのに)
男「そうだ。図書委員の先輩知ってる?」
後輩「図書委員の先輩?」
男「金髪で髪の長い先輩なんだけど」
後輩「あっ、その人なら知ってます」
男「今日帰るときに、少し話したんだ」
後輩「あの人って色んな人に話しかけてるんですよ」
男「そうなの?」
後輩「ええ。好奇心旺盛らしくて。私も話しかけられたことがあります」
男「へえ」
後輩「その人と、どんな話をしたんですか?」
男「いや……実は全部じゃないけど、オレのことを話したんだ」
後輩「……話したんですか?」
男「うん」
男「なんていうか、上手に誘導された」
後輩「信じてくれたんですか?」
男「よくわかんない。でも、けっこう真剣な表情で聞いてくれたよ」
後輩「やっぱり変わった人なんですね、あの先輩」
男「レミちゃん、自分はどうなるの?」
後輩「……言われてみれば、そうでした」
男「ただ、あの先輩にはこんなことを言われたよ」
男「おかしくなったのは、世界じゃなくてキミなんじゃないか、って」
後輩「けっこうキツイことを言うんですね」
男「うん。でもまあ、気にしてもしょうがない」
男「とりあえず、今は夏休みを満喫するよ」
後輩「……やっぱりなんだか楽しそうですね」
男「そう見える?」
後輩「ええ。昨日までは、なんだか表情も暗かったですし」
男「やっぱり、なに事も前向きに考えるべきだと思うんだ」
後輩「……その言葉、前もどこかで先輩、言ってませんでした?」
男「え?」
後輩「どこかで聞いたことがあるなって思って……」
男「ありきたりな言葉だと思うけど。オレの幼馴染がよく口にしてたんだ」
後輩「聞いたことがあります」
男「あるの?」
後輩「……たぶん」
男(ところどころ、変わってないところはあるんだよな)
男(待てよ。じゃあアイツとオレの関係ってどうなってるんだ?)
男(ひょ、ひょっとしたら……)
後輩「またニヤけてますよ?」
男「ほ、ホント?」
後輩「はい。なんだか締まりがないです」
男「はは……よく言われる」
男(あとでアイツの家に行ってみようかな)
後輩「それじゃあ……また」
男「うん、またね」
後輩「あの……」
男「うん?」
後輩「私に協力できることがあったら、なんでも言ってくださいね」
男「ありがと、また連絡するよ」
後輩「はい」
♪
男(本当にアイツの家に行こうかな)
男(でもなあ……)
男(って、あれ? オレの家の前に誰かいる……って、ヤマダじゃん)
友「……」
男(インターホンをジーッと見てるけど、なにやってんだ?)
男(……もしかしてオレの家に押しかけてきたのか?)
男「おーい」
友「……なんだ、帰ってなかったんだ」
男「けっこう寄り道してたんだ」
友「またほかの人と、イチャイチャでもしてたの?」
男「そういうわけじゃないって」
友「ふーん」
男「その目は信用してないだろ」
友「アンタに信用なんてないっつーの」
男「……」
友「それに、ほかの人間のにおいがするしね」
男「……マジ?」
友「冗談だけど。まさか、アンタ本当に……」
男「ち、ちがうって」
男「ていうか、オレになんか用事があるから家に来たんでしょ?」
友「んー、まあ。これ、アンタが置いていったヤツ」
男「ウォークマン?」
友「これ、アンタのでしょ?」
男「たしかに。色的にオレのヤツなのかな」
友「……本当は学校で返そうと思ってたんだ」
男「そうだったんだ。ありがとな」
友「じー」
男「な、なんだよ?」
友「いや、なんていうか……やけに素直になったなって思ってね」
友「まるで別人になったみたい」
男「……あはは、まさか」
友「なんか顔が引つってるよ?」
男「っんなことはない!」
友「はいはい。……なんかいいね」
男「ん?」
友「べ、べつに。……なんでもない。
それより、そのウォークマンたぶん壊れてるよ」
男「あらら」
友「……言っておくけど、壊したのは私じゃないからね」
男「りょーかい」
友「疑わないの?」
男「なにを?」
友「……私がアンタの、ウォークマン壊したって」
男「なんで?」
友「だって……いつもならそうじゃん」
男(上目づかいで、不安げにオレを見つめる彼女。どうもこのヤマダはオレにおびえている節がある)
男(たぶん、コイツにとってのオレはそういう人間なんだろうな)
男「……ちがうんだよ、前から壊れてたんだよ」
友「そうなの?」
男「おう。きっとそうだよ」
友「きっと?」
男「まあまあ。細かいことは気にすんなって」
友「アンタがそう言うなら……」
男「それよりさ、どっかにご飯食べにいかない?」
友「わ、私と……?」
男「今度ふたりでどっか行くか、って話をしてたじゃん。今日行こうよ」
男(自分でもびっくりするぐらい、言葉がサラッと出てきた)
男(たぶん、今のオレはこれまでの出来事のせいで、すごく気が大きくなっている)
友「い、今から?」
男「うん。せっかくここで会ったんだし」
友「うーん……」
男(なぜか顎に手を当てて悩む。なんでだろ?)
男(てっきり二つ返事で、行こうってなるかと思ったのに)
友「アンタとご飯は、嬉しいんだけどさ……今日行ったら……」
男「ん?」
友「次は一緒に、出かけてくれなさそうな気がして……」
男「そんなことないよ」
友「……ホント?」
男「当たり前だろ。オレとお前は、仲良しの友達だし」
友「……友達。ふーん、友達ねえ」
男(なぜかジト目になるヤマダ。オレは間違ったことは言ってないんだけどな)
男(ああ、そうか。今のヤマダはオレに惚れてるっぽいから、それだとイヤなんだよな)
男(そうだよな。オレもあのときそう言われて、本気でショックだったもんな)
男「……いや、でもただの友達じゃないよ」
友「じゃあなんだよ?」
男「んー……とっても大切な友達?」
友「……」
男(あっ。このセリフは失敗っぽい。露骨に目つきが鋭くなってる)
友「まあいっか。アンタが気の利いた言葉を言ってくれるとも思えないし」
男「むぅ……」
友「ほらっ。さっさと行くよ」
男(そう言うと、ヤマダはオレの腕に自分のそれを絡ませてきた)
男(……やっぱり今のこの状況って、最高に幸せと思っていいんじゃないの?)
♪
友「ふたりで電車に乗るの、久々だね」
男「そうか?」
男(オレとヤマダ(男)はわりとよく、電車に乗って遊びに行ったりしてるんだよな)
友「アンタって電車の中にいるのがイヤって、よく言ってたじゃん」
男「そうなの?」
友「なに言ってんの。電車の中の匂いがきらいとか、言ってたくせに」
男「むしろ、女しかいないんだからよっぽど快適だと思うんだけどな」
友「オンナ? なにそれ?」
男「いや、なんにも。そうか、そんなこと言ってたのかオレ」
男(今のオレなら、通勤ラッシュの満員電車に喜んでつっこんでくけどなあ)
男(女の人に絶対囲まれるなんて最高だよなあ。痴漢とかってあるのかな?)
友「なにニヤけてんの?」
男「気のせいだよ。……たぶん」
友「なんかアンタ、急に顔に締りがなくなったよね」
男「なにを言っている。このとおり、誰よりもきりっとした顔をしているぞ」
友「顔が痙攣してるみたいになってるよ……ふふっ」
男「……やっぱり笑ったほうがいいよ」
友「え?」
男「ヤマダは笑ったほうが…………かわいいと思うよ」
友「な、な、なに言ってんだよ……」
男(自分でもなんてクサイこと言ってんだろうと思った。けど、今のオレはなにを言っても許される気がした)
友「ていうか、アンタってひょっとして二重人格?」
男「いやいや、そんなわけないだろ?」
友「……じー」
男(露骨に顔が近づいた。ヤマダの真っ黒な瞳に映る自分の顔は、少し赤くなっていた)
男(当然だ。オレは女子とこんなに接近したことなんて、体育祭とかぐらいでしかない)
男(しかも、目の前の相手はすごくかわいいし……もと男のはずなんだけど)
男「ど、どうした?」
友「なんでアンタ、顔赤くなってんの? 風邪?」
男「こ、これはお前の顔が……」
友「……今さらこれだけで顔が赤くなるアンタじゃないしね。やっぱり風邪?」
男「た、たぶんちがうよ。なんていうか、これは……」
友「まあアンタって、けっこう意味不明な部分あるしね」
男「失礼な」
友「本当のことでしょ…………っと!?」
男「おうっ、けっこう揺れたな……」
友「あっ……」
男(今の電車の揺れで、彼女がオレの懐に入る形になった。オレの胸におデコがあたる)
男(反射的にオレは彼女の背中に、片手を回していた)
友「あ、ありがと……」
男「お、おう……」
男(で、電車の中でこんなふうにイチャつくなんて……いや、正直幸福そのものなんだけどね!)
友「きょ、今日はけっこう電車混んでるね」
男「なんでそんなに声ちっさいんだよ」
友「……うっさい」
男「まあでも、たしかに珍しいね」
友「……人様のジャマになるし、もう少しこうしてていい?」
男「う、うん……」
友「ふふっ……ありがと」
男(揺れる電車の中。ヤマダの言ったとおり、人はたくさん乗ってる)
男(視線を感じると思うのは、自意識過剰ではないと思う)
男(それでも、オレたちふたりの空間だけ切り取られているみたいな、そんな気がした)
友「なんか……こういうのって、悪くないね」
男「う、うん……」
男(冷房が効いた電車。触れる肌。シャンプーの匂い。ああ……感無量ってヤツ?)
男(お互いに少しだけ汗をかいてるけど、それさえも心地良し、むしろ妙な高揚感を与えてくれた)
男(はたから見ると、こういうのってどう見えるんだろ……ん?)
友「どうした?」
男「なんだか今、すごい強烈な視線を感じた気がして……」
友「……みんな、私たちを見ていたりしてね」
男「そうなのかな……」
男(ちがう。そんな感じじゃない。まるで視線に質量があるような……)
男(オレは首だけを動かして後ろを見た)
男( こっちを見ていたのかもしれない女の人たちが、みんな視線をそらした)
男「あ――」
男(隣の車両の窓から、金色の髪がわずかにのぞいた)
男(不思議なことに、その金髪が自分たちを見ていたとオレは確信した)
友「どこ見てんの?」
男「ぐっ……ちょっ、ほっぺが痛い」
友「アンタがずっと後ろを見てるからでしょ」
男「ごめんごめん」
男(オレの気のせい? でも、今のは間違いなくオレを見ていたような気がする……)
♪
男「いやあ、お互いたくさん食べたな」
友「……ちょっと食べ過ぎたかも」
男「なんかお腹が重すぎて、前かがみになっちゃうな」
友「私はそこまでは、食べてない」
男「……また食べに行こうな」
友「……その約束はきちんと守られる?」
男「うん、守るよ」
友「じゃあ……約束ね。はいっ、指切り」
男「今どき指切りって……」
友「うっさい。はいコレ!」
男「イテテテっ、ちょっと指ちぎれるって……!」
友「約束を破ったら、これ以上に強い指切りをしてあげる」
男「それってもう本当の指きりなんじゃねえの?」
友「さあね」
男「とにかくオレは約束を守る。そしたら、お前になんかしてもらおうかな」
友「……なにニヤニヤしてんのよ。腹立つっ」
男「冗談だって」
友「冗談なの?」
男「いや、そりゃあ……」
友「いいよ」
男「……え?」
友「アンタがまた私と、一緒に遊んでくれるなら……いいよ」
男(正直、調子に乗りすぎたかなと思ったけど、ヤマダの顔を見たら)
男(そんな意識など、跡形もなく吹っ飛んでしまった)
♪
男「ふぅ……楽しかったなあ」
男(ヤマダが男だとか、そんなことがどうでもよくなるぐらい、今のアイツはかわいいし)
男(そして、オレは理由もなくモテている)
男(惜しいのは自慢できる野郎がいないことだけど、そんなのどうでもいいな)
男「ははっ、しかも夏休みも繰り返してるし。いいことずくめだ」
男(アイツとの関係はどうなっているんだろうな)
男(アイツもオレのことを好きになってくれてるのかな?)
男(その可能性は十分あるよな)
男「……って、考えてたら本当にアイツ……」
「……」
男(あの女の子ってアイツだよな?)
男(これはもう行くしかないなっ……!)
男「おーい!」
「……」
男(オレが声をかけると、幼馴染がゆっくりとオレのほうを振り返った)
男「よっ! 久しぶりだな!」
幼馴染「……?」
男「どうしたんだよ? オレだぞー?」
男(困惑した表情。暗くてオレの顔が見えないのか? いや、そうだとしても声でわかる)
男(ここに来て初めてイヤな予感のようなものが、胸を締めつけた)
男「どうしたんだよ、そんな神妙な顔しちゃって」
幼馴染「人違いじゃない?」
男「な、なに言ってんだよ?
いくらなんでも、十年以上の付き合いがあるお前を間違えるわけないよ」
男(そうだ。オレとコイツは十年来の付き合いだ。間違えるわけがない)
男(それにオレは、コイツのことが……)
男(そんなオレに向かって、幼馴染であるはずの女が言った)
幼馴染「――あなたは誰ですか?」
男(今から二か月前。オレは幼馴染に告白をした)
男(でも、オレは見事にフラレた)
男(だけど、今の状態なら幼馴染もオレのことを好きでいてくれると思った)
男(だってほかの女の子は、オレのことを好きになってくれている)
男(だから、そうだったらいいなって期待していた)
男(なのに……)
男「あなたは誰ですかって……幼稚園からの付き合いなのに、今さらなに言ってんだよ」
幼馴染「幼稚園からって……なに言ってるの?」
男(オレが通っていた幼稚園の名前を言うと、彼女は露骨に驚いた)
男「お前が通っていた幼稚園の名前。当たってるだろ?」
幼馴染「なんで知ってるの?」
男「だから、オレとお前は幼馴染なんだから当然だろ」
幼馴染「……悪いけど、知らないものは知らないの。そこをどいてくれる?」
男(聞いたこともないような低い声。敵意のこもった目つき。そして……)
男「ごめん……勘違いだった」
幼馴染「そう。さようなら」
男(オレを見る目と声にはわずかだけど、はっきりと怯えのようなものが含まれていた)
男(フラれたときと同じ、いや、それ以上のショックでしばらくその場から動けなかった)
♪
男「ただいま」
姉「どこ行ってたのよ!? 今日は一緒にご飯食べようねって言ったでしょ?」
男「……」
姉「ちょっと、聞いてる?」
男「姉ちゃん」
姉「どうしたの? 顔色が真っ青だけど大丈夫?」
男「……知らない?」
姉「なにを?」
男(オレは幼馴染の名前を言った)
姉「友達? お姉ちゃんは知らないよ?」
男「幼馴染なんだけど……」
姉「ごめんね。お姉ちゃんにはわからない」
男「……そっか」
姉「その子がどうかしたの?」
男「ううん、なんにも」
姉「ご飯は?」
男「友達と食べてきたから……ごめん。明日からは一緒に食べるよ」
姉「ほんとに?」
男「うん」
男(自分でも予想外にショックを受けていた。誰でもいいから慰めてほしいって身勝手なことを思った)
♪
友『告白する!?』
男『声がデカいっ! ほかのヤツに聞こえたらどうすんだよ!?』
友『お前の声のがうっさい』
男『ああもうっ! どうすればいいんだオレは!?』
友『告る以外、なにするんだっつーの。ていうか相手は誰よ……って、聞くまでもないか』
男『あと二十分もしたら告白しにいくのか……マジでどうしよう』
女『なんの話してるの?』
男『い、いやべつに……』
友『聞いてよ。コイツ、これから隣の組の幼馴染に告白しに行くんだよ』
男『お、おい! なんで言うんだよ!?』
友『こうやって誰かに言えば、もう逃げることはできないでしょ?』
男『はあ? 男の中の男であるオレが、逃げるわけねえだろ』
女『へえ。その告白する女の子って、幼馴染のあの子?』
男『な、なんでわかったの? ていうかニヤニヤしすぎ』
女『だってすごく仲良さそうだから』
友『むしろ気づかれていない、って思ってたんだな』
男『……うるせえな』
女『ちなみにどんなとこが好きなの?』
男『それは……その……なんていうか…………』
友『そこらへんにしてあげてよ。コイツ、頭で考えるの得意じゃないから』
男『ちげーよ。オレはアイツが好きなんだよ。理由なんてどうでもいいぐらいにさ』
女『……』
友『……』
男『ん? どうしたの?』
友『そこまでストレートに好きって言うとは思わなかった。すげえな』
男『……アレ? 今オレ……』
友『うわっ。しかも無意識に言ってたの? ヤバイな』
男『ぐっ……』
女『でもそんなふうに言われたら、私だったら嬉しいなあ』
友『よかったじゃん、嬉しいって』
男『はぁ……とりあえず、ここにいても落ち着かないから、外の空気吸ってくる』
友『なにしに?』
男『精神統一だ。すぅー……はぁ……』
お嬢『ぷっ……ふふふっ、面白すぎて笑っちゃった』
男『お、お嬢?』
お嬢『ごめんね。本当は立ち聞きするつもりなんてなかったんだけど』
友『声がデカイから廊下まで聞こえたんでしょ?』
お嬢『そうそう。声がおっきいから思わず立ち止まっちゃったの』
男『オレってそんなに声大きいの?』
友『声量だけは人並み以上だと思う』
男『声量だけは?』
友『そんな細かいこと気にしてる場合か?』
男『そうだよ! 今はとにかく、告白のことだけを考えなきゃな……』
お嬢『大丈夫? 顔がすごい強ばってるけど』
男『だ、大丈夫。オレは大丈夫だ。オレはやれる……』
女『なんだか私まで緊張してきちゃった……』
友『人がいいなあ。
まあこれだけ応援してくれるヤツがいるんだから、逃げるのはなしな?』
男『あったりまえ! とりあえず今度こそ行ってくるわ!』
お嬢『結果楽しみにしてるね』
男『おうっ!』
友『ハンカチの準備はしといてやるよー』
男『うっせーバーカ!』
男『ったく、自分が情けないな。まさか告白がこんなに緊張するものなんて……』
後輩『先輩、こんにちは』
男『よっ。これから帰り?』
後輩『はい。……先輩、なんだか緊張してません?』
男『やっぱり、そう見えるの?』
後輩『はい。心なしか顔色が、悪い気がします』
男『大丈夫だって。……たぶん』
後輩『あの……』
男『ん?』
後輩『もし困ったことがあったら、私でよければ……相談にのりますよ?』
男『ありがと。でも、ダメなんだ』
後輩『?』
男『これはオレの問題だから。オレが自分でどうにかしなきゃダメなんだ』
後輩『そうなんですか……』
男『気持ちだけ受け取っておく』
後輩『はい。よくわかりませんけど、がんばってください』
男『サンキュー』
♪
幼馴染『どうしたの、こんなとこに呼び出して?』
男『……』
幼馴染『なんとか言ってよ。睨まれても、私、なんにもできないよ?』
男『睨んでない』
幼馴染『睨んでるようにしか見えないんだもん』
男『睨んでるんじゃなくて……み、見つめてる……?』
幼馴染『え?』
男『……今のは忘れて』
幼馴染『なんなの? 男ならはっきりモノを言いなさい』
男『……わかった。オレ、お前のことが――』
♪
男「……っ!」
男(夢、か……イヤな夢を見たな)
男(オレはあのあと、きちんと告白した。そして玉砕した)
男(自分のことながら、なんて女々しいんだ。情けないぞオレ!)
男(ていうか今の夢って……オレの周りが変化する前のものだよな)
男(オレにはきちんと記憶がある。あるけど)
男(『君が狂っちゃったの』だって? じゃあオレのこの記憶はなんなんだよ)
男(なんで朝からこんなにイライラしなきゃならないんだ)
♪
男「おはよ。兄ちゃ……じゃなかった。姉ちゃん」
男(『女』とか『男』って単語はないのに、『姉』って言葉はあるんだよな。変なの)
姉「珍しく早起きだね。もしかして、これの匂いを嗅ぎつけたのかな?」
男「フレンチトーストか、おいしそう」
姉「もうちょっとあとで起きると思ったから、ふたり分は作ってないけど……食べたい?」
男「……あとでいいや。ちょっと走ってくる」
姉「こんな早くから?」
男「昼になったら暑くて走れないから、この時間がベストなんだ」
姉「ご飯食べずに走って大丈夫なの?」
男「三キロぐらいをかるーく走るだけだから、大丈夫だよ。水分だけとっておく」
♪
男「はぁはぁ……!」
男(なにが軽く、だ。オレの理想としては最初の一キロを七分)
男(残りの2キロを10分強ぐらいで走るつもりだったのに……イライラしてるせいか?)
男(これだと3キロ、11分は切るかも……)
男(ヤバイ。足の裏からふくらはぎにかけて痛くなってきた……)
男(でも足を止めたら、間違いなく今よりもっとイライラする……!)
男「……ん?」
男(誰かがついてきてるような……って、あの黒服の人たちって……)
黒服「止まりなさいっ! お嬢様がお呼びです!」
男「ぜっったいに……はぁはぁ……イヤだっ……!」
黒服「は、はやいっ!」
男(さすがに女には負けられないっ!)
男(自分でもなんで走っているのか、だんだんわからなくなってきた)
男(正直立ち止まってしまいたかった)
男(でも走る足は、全く止まってくれなかった)
♪
お嬢「お疲れ様。はい、タオルとドリンク」
男「ありがとう」
お嬢「当然のことをしただけだから。気にしないで」
男「……ごく自然にこういうことをしてくれてるけど、なんでオレの場所がわかったの?」
男(黒服を全力疾走でまいたオレの前に、ママチャリに乗ったお嬢が颯爽と現れた)
男(この子、すごい金持ちだし、変な護衛もつけている)
男(なのにバイトもしてるし、妙に庶民的なものを好んで使っている)
お嬢「どうしてだと思う?」
男「そうだな。実はオレのからだに発信機がついてる……とか言ってみたりして」
お嬢「……」
男「いくら金持ちとはいえ、そんなものはさすがに持ってないか」
お嬢「おしい! 近いけど、ちょっとちがう」
男「へ?」
お嬢「でも、まだ完璧には機能してないみたい。まあまあ誤差があったし」
男「はあ……」
男(いったいなんのことか、よくわからないから適当に相槌を打つことしかできない)
お嬢「でも、もしかしたら私とあなたの間にあるなにかが、機械を故障させたのかも……」
男「ちょっと、なに言ってるかわかんないや」
お嬢「……ごめんなさい。少しはしゃぎすぎたね」
男「あ、いや……べつにそれはいいんだけど」
お嬢「本当に? 鬱陶しいとか実は思ってない?」
男(ヤマダ(女版)を思い出させる不安げな上目づかい)
男(オレの記憶の中のお嬢は、こんな表情を見せてくれたことはない)
男「本当だよ。それに、わざわざタオルとか用意してくれたし」
お嬢「それはいいの。それよりあなたってすごい足速いのね」
男「まあオレもいちおう男だし」
お嬢「オトコ?」
男「あ、いや……とにかくオレは足が早いってことよ」
お嬢「じゃあ陸上部に入ったら? 絶対いい成績とれると思うの」
男「いやあ、今走ってたのはストレス解消のためだったんだ」
お嬢「ストレスがたまってるの?」
男「え? まあ……」
お嬢「たまってるの?」
男「……へ?」
男(どうやらオレも、少しだけ学習したらしい。お嬢の雰囲気の変化にすぐに気づけた)
男(ゆっくりと高くなりつつある太陽の熱気。それに勝るとも劣らずの、お嬢の熱のこもった瞳)
男(いったい今のオレとお嬢の関係って、どんなものなんだろう)
お嬢「……する? 私の部屋で」
男「……する?」
お嬢「うん。いいよ、私は」
黒服「……」
男「いや、あの、ちょっと待って。
全然状況が理解できないし、オレがたまってるのはあくまでストレスだから」
お嬢「どうしてストレスがたまるの?」
男「それは……」
男(幼馴染と知り合いですらなくなっていたから――なんて言っても)
男(今では、お嬢にはおろか誰にも通じないんだよな)
男(もちろん、ほかのやつだってオレ経由でしかアイツのことは知らないし)
お嬢「言いたくないの?」
男「んー、その、言ってもわからないだろうから」
お嬢「……そう」
男(いや……ちょっと待って)
男(オレは誰かに話さなかったか? アイツについて)
男(今は幼馴染ですらないアイツについて、知ってる人間がひとりだけいるじゃないか)
男(ワッフルをレミちゃんと食べに行ったとき)
男(あの子は、オレの質問にうなずかなかったか?)
男『いや……オレって幼馴染がいるんだけど、知ってるよな?』
後輩『……はい』
男(どうしていないはずのオレの幼馴染を――レミちゃんは知ってたんだ?)
お嬢「ねえ!」
男「のわあっ!? な、なんだよ急に……? 」
お嬢「だってずっと私が呼んでいるのに、反応してくれないんだもの」
男「ちょっと考え事してただけだよ」
お嬢「また、そういうことを言って。いつでも考え事してるんだから……」
男(みんなが言っているオレについての記憶は、オレにはないんだよなあ)
男(そもそも、その以前のオレと今のオレっていったいどういう関係なんだろ……)
お嬢「ほら。また考え事してる」
男「だって……」
お嬢「少しはもとに戻ってくれたと思ったのに……どうせ私と前にした約束も覚えてないんでしょう?」
男「約束? オレ、なんかお嬢と約束したの?」
お嬢「ほら、やっぱり。いつか自転車の二人乗りをしてくれるって言ったのに」
お嬢「荷台がついてる自転車じゃないと二人乗りできないと思って、これ買ったんだよ」
男(そう言って唇を尖らせるお嬢が、なぜか急に異様にかわいく思えてきたのはどうしたんだろう)
男(ていうか自転車の二人乗りに憧れるって……)
男(オレも女子との二人乗りって行ったら、アイツとしかやったことがないけど)
男「二人乗りがしたいの?」
お嬢「……うん。でもしてくれないんでしょ?」
男「いいよ、しようよ。オレも二人乗りってあんまりしたことないし」
お嬢「……本当?」
男「おう。でも、その……道路交通法、だっけ? そういうのって大丈夫なの?」
お嬢「それなら大丈夫! 私の家、お金持ちだからっ」
男(よくわからない理論だけど、お嬢の言うとおり、大丈夫なような気がしてきた)
男(ていうか目の輝きが半端じゃない。眩しすぎて直視できない!)
男「じゃあ今からお嬢の家まで自転車で行こうよ」
お嬢「本当? 嘘じゃない? 信じていい?」
男「おう! オレが家まで送り届けてあげるよ」
お嬢「じゃあさっそく行きましょ!」
男「おっけー。オレが軽く自転車漕ぐから、それに飛び乗って……って無理かな?」
お嬢「ううんっ、その方法でいいからやりたいっ。ううん、やらせてやらせて」
男「わかった。……あと、ひとつ言っていい?」
お嬢「なあに?」
男「……あんまり『やりたい』って言うのはその……」
お嬢「?」
男「やっぱりなんでもない。じゃあオレが自転車漕ぐから……勢いよく飛び乗っちゃって」
お嬢「はいっ!」
男(ゆっくりと自転車のペダルを踏む)
男(やっぱり最初から乗ってもらった状態で漕いだほうがよかったかな、とか思ったけどもう遅い)
お嬢「えいっ!」
男「うおおぉっ!? え? ちょっと……」
男(お嬢は見事に荷台に乗ることに成功した)
男(ただし、荷台に飛び乗るというよりは、オレにタックルしたというほうが正しい)
お嬢「やったよ! 乗れたっ! 今私たち二人乗りしてる!」
男「う、うんっ! って、あのあんまり動かないで……!」
お嬢「わわっ……ど、どういう風にバランスをとったらいいかわからない」
男「なんか適当につかまって!」
お嬢「こ、こうでいい?」
男「へ!?」
男(男と二人乗りしていれば、まず捕まったりされることもない。けど、お嬢の場合)
男(あろうことかオレの腹に手を回して、からだを密着させてきた)
男(汗で濡れたオレの背中に、お嬢の柔らかいふたつのものが押し付けられる)
男「お、お嬢!? あの……あんまりしがみつかれると、漕ぎづらい……!」
お嬢「だ、だってどうしたらいいか……こうしないとバランスとれない……」
男「いやいや! 言うほどバランス取るの難しくないから!」
お嬢「むりっ!」
男(回された腕の力がより一層強くなる。当然、胸の感触はさらに素晴らしいことに)
男(しかも回された手が、下腹部よりさらに下に来て……その……)
男(って、ダメだダメだ! 変なことを考えるな! 今はペダルを漕ぐことだけに集中しろっ!)
お嬢「すごいっ! はやいねっ!」
男「オレは二人乗りのプロだからなっ!」
お嬢「あとお尻痛いっ!」
男「それは知らない! とりあえずしっかり捕まってて!」
お嬢「はいっ!」
♪
男「はぁはぁ……」
お嬢「すごい汗……大丈夫?」
男「はぁはぁ……うん、色んな意味でヤバイ……かもしれない」
お嬢「ごめんなさい。私がわがまま言ったせいで……」
男「ああ、大丈夫。そういう体調が悪いとかってことじゃないから」
お嬢「無理しないで。お茶かなにか出すから、あがっていって」
男「いいの?」
お嬢「もちろん。ここまでしてくれたんだもの。……オモテナシさせて」
男「じゃあお言葉に甘えて」
お嬢「なんでそんなに腰を曲げて歩いているの?」
男「うん? いや、ちょっとね。あははは……」
男「それにしても、純和風って感じの家だな。庭もデカイしいいなあ」
お嬢「なんなら毎日来てもいいよ?」
男「それはさすがに……。それにしても、オレ、平屋に入るのって初めてかも」
お嬢「おばあちゃんのことを考えると、平屋の方がいいって話になってね」
男「へえ。たしかに階段がない分、移動がらくそうだな」
お嬢「でも、屋根裏部屋はあるの」
男「へえ。屋根裏って行ったことないから行ってみたいな」
お嬢「私の部屋なんだけどね。それでもいいなら、行ってみる?」
男「お嬢の部屋か。ちょっと興味あるな」
お嬢「本当!? 私の部屋に興味あるの!?」
男「え? まあ……うん、そうだね」
お嬢「嬉しい。私のことに興味を持ってくれるなんて」
男(そんなこんなで、オレはお嬢の家にお邪魔することになった)
♪
男「廊下も長いな。雑巾がけとか大変じゃない?」
お嬢「そういうのは、業者の方におねがいしてるの」
男「ああ、なるほどね。まあこれぐらい建物自体がデカイと掃除も大変だよな」
お嬢「基本的に私も、自分の部屋しか掃除しないかな」
男「屋根裏っていうからすごい天井が低いのかなって思ったけど、意外と高いな」
お嬢「あんまり天井が低いと、部屋が使いづらいからね。……入って」
男「失礼します……うわっ、すごい広い! オレの家のリビングより広いんだけど」
お嬢「ちょっとひとり部屋にしては大きいよね」
男(ていうか、アイツの部屋以外の女子の部屋に入るって初めてだな)
男(なんだろう。この鼻をくすぐる甘い匂い。まさに女子の匂いが広い部屋に充満していた)
お嬢「普段、友達とか呼ばないから座布団とかないの。だからベッドにでも腰かけて」
男「……いいの?」
お嬢「逆に駄目なことなんてあるの? あ、もしかしてイヤ?」
男「ちがうちがう。お嬢がいいなら、それでいいんだ」
男「えっと、じゃあ……失礼します」
お嬢「なにか飲み物用意するね。冷たい飲み物のほうがいいよね?」
男「うん。冷たいならなんでもいいよ。水でもいいし」
お嬢「遠慮しないで。たいしたものは用意できないし」
男「そっか。じゃあ頼む」
お嬢「うん。なんならベッドで寝転がってていいよ」
男(それだけ言うと、お嬢は部屋から出ていった。つまり、今のオレはひとりということだ)
男(落ち着かない。部屋は広いし、なんだか女の子の匂いがするし……なにかよそ事を考えろ!)
男(……そうだ、女子の部屋で思い出した)
男(アイツについてレミちゃんに聞かないと。とりあえずメールだけ送っておくか)
男(女子の部屋か。オレが行ったことがあるのは、アイツの部屋だけ。でもこんなに片付いてなかったな)
お嬢「お待たせ。とりあえず緑茶とお菓子。甘いものって好きだったよね?」
男「おおっ! おいしそう。わざわざありがとな」
お嬢「気にしないで。口に合うかどうかわからないけど……」
男「いただきますっ……んんっ、うまいっ!」
お嬢「……本当?」
男「うん。バームクーヘンでこんなにおいしいもの、初めて食べた」
お嬢「よかった。口にあわなかったら、どうしようって思ってたから。ところで」
男「うん?」
お嬢「どうしてベッドから、わざわざおりて食べてるの?」
男「特に深い考えはないけど。ベッドに食べかすが落ちたらイヤでしょ?」
お嬢「お尻痛くない? 食べ終わったらベッドにあがってね」
男「大丈夫だよ。オレ、よく床に座って物事を……」
お嬢「ベッドに座ってくれないと、お菓子取り上げるよ」
男「……わかった」
男(バームクーヘンを食べ終わって、オレは言われたとおりにベッドに座った)
男(ちなみにお嬢はオレの隣に腰かけている。お互い、腕がむき出しなので肌が触れると……)
男「…………」
お嬢「…………」
男「……クーラーかかってて涼しいな。汗もだいぶ引いてきたよ」
お嬢「逆に少し肌寒くない?」
男「そうかも。急に温度が下がったからかな?」
お嬢「じゃあ温めてあげようか?」
男「……! えっと……お嬢?」
お嬢「……」
男(お嬢の手のひらがオレの手の甲に重なる。不覚にもドキッとした)
男「これって前も似たようなシチュエーション、なかったっけ?」
お嬢「あったかも。覚えてくれてたんだね、公園でのこと」
男「さすがに、あんなにインパクトの強いことは忘れないよ」
お嬢「……嘘よ」
男「いや、こんなことで嘘はつかないよ」
お嬢「嘘よ。だって、あなたってすごく人を惹きつけるもの。なぜかはわからないけど」
男「それは……」
男(ちがう。少なくともお嬢が言っているオレは、今のオレじゃない)
お嬢「ねえ。久々にしよ?」
男「!?!?!?」
男(気づいたときには押し倒されていた。背中が柔らかすぎるベッドに沈む)
男(ああ……これが金持ちのベッドなんだ)
男「え? あ、あの……ちょっと、どういうことかわからないんですけど……?」
お嬢「あなたってずっと、誰かのことを考えている気がするの」
男「なにを言って……」
お嬢「大丈夫。私が忘れさせてあげる」
男(こういうとき、経験がないとどうしていいのかわからないと知った)
男(肩を押さえつけるお嬢の手の力は、予想外に強い。オレは動けない)
お嬢「どうして抵抗しようとするの?」
男「な、流れが急すぎてついていけないんだ……ちょっと待ってよ……!」
男(オレは視線をどこにやればいいのか、わからなかった)
男(なぜなら目線を少しあげると、ワンピースの胸元から覗く、白い谷間が……)
男(白い肌にはっきりと浮いた青い血管が、こんなに艶かしいなんて知らなかった)
男(まさに眼福! オレは今の状況の謎なんかあとにして、神様に感謝するべきなのかも)
男(さらに目線をあげれば、お嬢の潤んだ瞳がオレに熱を送ってくる)
男(なんだろう。もうすべてを委ねてしまったら、いいんじゃないだろうか)
お嬢「やっと抵抗をやめてくれたね。……どうしたの、緊張してるように見えるよ?」
男「実際に緊張しているんだよ……」
お嬢「もう一度言うね。大丈夫だから。全部私にまかせて」
男(オレの肩にかかる力がさらに強くなる)
男(ベッドに沈むからだと一緒に、思考まで沈んでいく。もう全部放り出してしまおう)
お嬢「んっ……なんだか久々だから緊張するね」
男「……」
男(オレにとっては初めてなんだよ。お嬢の言っているオレは……って、ダメじゃん!)
男「やっぱダメだ!」
お嬢「え!?」
男(反射的に跳ね起きってしまった。だって、今のオレはお嬢の知っているオレじゃないんだ)
男(言ってみれば股間にエイリアンを飼っている、異種生命体!)
お嬢「なんで……」
男「ご、ごめん。今日はあの日なんだよオレ! いやあ大変だわー!」
お嬢「な、なにを言ってるの?」
男「……ごめん。こういうのはダメだと思う」
お嬢「やっぱり私のこと、嫌いなのね」
男「ちがう、そうじゃない……」
男(オレはこんなとき、どんな言葉を言えばいいのかわからない)
お嬢「いいの。前からあなたが私といても全然ちがうことを考えてるのはわかってたもの」
男「……ごめん」
お嬢「ここのところはずっと、謝ってばかりだし」
男「……次からは気をつける」
お嬢「決めた。……私をふってくれない?」
男「え?」
お嬢「今みたいな曖昧な状態だから、ダメなんだよね。だから……私をあきらめさせて」
男(唐突すぎる。言い訳させてほしかった。もう少し考える時間をくれと、言いたかった)
男(でも、そんな言葉は喉より上には出てこない。お嬢の顔は真剣そのものだった)
お嬢「私はあなたのことが好きです。大好きです」
お嬢「もしよかったら、結婚を前提に付き合ってくれませんか?」
男「…………ごめん」
お嬢「……ふふっ、また謝っちゃったね」
男「……」
お嬢「ふふっ……どうしてそんなにツラそうな顔をするの?」
男(なにも言えなかった。なにも考えられなかった。お嬢が好きになったオレと今のオレ)
男(オレ自身もわかってないけど、それは別人と言っていい存在のはずだ)
男(お嬢は別のよく似たヤツに告白した挙句、勝手にふられたのだ。こんな馬鹿げた恋があるか?)
お嬢「少し救われた気分なの、今」
男「え?」
お嬢「私をふったあなたがそんな顔をしてるから、かな? ごめんね、こんな茶番に付き合わせちゃって」
男「……」
お嬢「身勝手なおねがいだけど、これからも友達でいてくれる?」
男「……オレなんかでよかったら、もちろん」
お嬢「ありがとう。その言葉でまた私は救われた気がする」
男(なぜかオレが泣きたくなった)
男(もちろん、ここでオレは死んでも泣いてはいけないから我慢した)
♪
男(オレはお嬢の家をあとにして、レミちゃんと公園で合流した)
男(公園の前の団地が工事でもしているのか、少しうるさかった)
男「……ごめん、お待たせ」
後輩「いえ、私も今来たところなんで」
後輩「それで、どうしたんですか?」
男「実はどうしても直接、聞きたいことがあったんだ」
後輩「なんですか?」
男「オレの幼馴染について聞きたいんだ」
後輩「私に、ですか? 先輩の方が詳しいんじゃ……」
男「いいから。とにかく質問に答えてほしい」
後輩「わかりました」
男「オレの幼馴染の名前を言ってくれない?」
後輩「たしか――さん、ですよね?」
男「…………」
後輩「先輩?」
男「は? なんであの子の名前が出てくるんだよ……」
後輩「ち、ちがうんですか? てっきりこの人のことかと……」
男(レミちゃんが口にした名前は、予想外の人物の名前だった)
男(いや待て。そういえばあの子はこんなことを言ってなかったか?)
男(昨日学校に行った時)
女『こうやって、一緒に校舎まで行くのって久々だなって思って』
男『そうだっけ?』
女『そうだよ。なんか、昔に戻ったみたいだね?』
男『……昔? オレとキミって高校からの付き合いじゃあ……』
男「……まさか幼馴染が変わってるなんて……」
後輩「またなにかちがうことがあったんですか?」
男「どうやらそうみたいだな。いや、でも驚くことでもないのかも。
ようは人間関係が変わっただけだからさ」
男(そう言ったオレの声は震えていた。どうしてかはわからないけど)
男(幼馴染のことに続いて、お嬢のことも起きたせいでオレは完全に混乱していた)
男(オレは立ち上がって、公園に立っていた木に向かって思いっきり拳をぶつけた)
後輩「な、なにやってるんですか!?」
男「ううぅ…………い、痛いっ……! パンチってこんなに痛いのか……」
後輩「当然です。なんでそんなことを……」
男「……さっきオレ、お嬢に告白されたんだ」
後輩「!」
男「オレってば、わけのわからないままお嬢をふったんだ」
男「今思えば、もう少し考えるべきだったんだ……だってそうだろ?」
男「お嬢が好きになったオレと、今のオレはちがう人間みたいなものなんだ」
男「それなのにオレは……!」
男(そこまで言って、オレはどうしてここまでお嬢のことが胸に引っかかているのかわかった)
男「ああそっか……フラれた自分と重ねちゃってたんだな……」
後輩「……」
男「オレさ、ある子に告白してフラレたことがあるんだ」
後輩「……ふられてしまったんですか?」
男「うん。色々告白するまで考えてたんだ」
男「告白のセリフから、告白が成功したときのリアクションとか、失敗したときの言葉とか……」
男「でもいざフラれたら、もう頭の中が真っ白になっちゃて」
男「フラれた瞬間って、とんでもなく理不尽なことを言われたような気分になるんだ」
男「怒りのような悲しみのような、よくわからない感情でいっぱいになって……」
男「その上、今好きな人がいるからって付け加えられてさ……本気で泣きたくなった」
男「やっぱりああいう感情って味わいたくない」
男「好きな人に告白してフラれるのは仕方ないと思う。でも、お嬢のはまたちがうケースだ」
男「せめ話が通じないとしても、きちんとあの瞬間に理由を説明するべきだったんだ」
後輩「……先輩って優しいんですね」
男「ちがう。結局オレは、お嬢にフラレた自分を重ねてるだけなんだ」
後輩「……私も告白されて……ふったことがあります」
男「……」
後輩「よくわからないまま、戸惑ってただ『ごめんなさい』ってしか言えませんでした」
男「はは……オレと一緒だよ、それじゃあ」
後輩「はい。でも先輩と一緒なのはこれだけじゃないんです」
男「まだあるの?」
後輩「はい。私もフラれたことがあるんです」
男「……レミちゃんでもフラれることなんてあるんだな」
後輩「私なんて……それに私も同じことを言われました」
男「好きな人がいるからってフラれたの?」
後輩「はい。私、フラれたその場で泣いちゃって……」
男「……そっか」
後輩「……すみません。こんな話をされたらかえって困りますよね?」
男「ちょっとね」
後輩「ごめんなさい。人を元気づける方法っていう本に書いてあったんです。
落ち込んでる人に、似たようなエピソードを話すと効果的だって……」
男「……じゃあ、オレを慰めるために?」
後輩「はい……。これじゃあ困るだけで元気なんて出ませんよね……?」
男(申し訳なさそうに、しょんぼりとするレミちゃん。なぜかオレは唐突にこの子を抱きしめたくなった)
男「……いや、なんか癒されたよ。少し気がらくになった」
後輩「本当ですか!?」
男(今度は一転して表情を輝かせる。大人しいわりにすごい喜怒哀楽がはっきりしている)
男「わざわざ話してくれてありがと」
後輩「いえ、少しでも先輩が元気になってくれたなら、嬉しいです」
男「今日からオレたちは『フラれ同盟』だな?」
後輩「そんなのイヤですよ」
男「じゃあ同盟はオレひとりか……」
後輩「それもう同盟じゃないですよ?」
男「意外とツッコミもいけるね、レミちゃん」
後輩「あ、ありがとうございます。……よかったですか?」
男「うん。オレの漫才の相方としてがんばってほしい」
後輩「私、漫才はちょっと……」
男(正直まだ頭の中を整理できてなかった。
男(それでも、せめてこの子の前では女々しいことを言うのはやめようと思った)
後輩「手を見せてください」
男「手? なに、おまじないでもかけてくれるの?」
後輩「絆創膏です。ほら、指の皮がさっきのパンチでめくれてます」
男「ほんとだ。……慣れないことはしちゃダメだね」
後輩「今後ああいうことはやめてくださいね?」
男「うん……」
後輩「絆創膏貼るから、指を広げてもらっていいですか?」
男「これでいい?」
後輩「はい」
男(レミちゃんの指がオレに触れる。ひんやりとした感触に、なぜか安心した)
後輩「……はい、これで大丈夫です」
男「ありがと。ていうか絆創膏もってるなんて女子力高いな」
後輩「…………よくわからないですけど、ありがとうございます」
男(あっ、そっか。女子力って言ってもわからないのか)
後輩「ぅん……」
男「少し眠そうだけど、夜ふかしでもした?」
後輩「ええ。夏休みってことで、私も例に漏れず……」
男「少しこの公園で休憩する?」
後輩「いいんですか? なにか用事とかないですか?」
男「特にはないし、あのベンチで少しだけ涼もうよ」
後輩「そうですね」
男(オレとレミちゃんは、並んでベンチに座った。レミちゃんのまぶたがじょじょに落ちていく)
男(自然と彼女の体重がオレにかかる。ふとお譲とのやりとりを思い出した)
後輩「あっ……ご、ごめんさない」
男「いいよ、少し寝なよ。肩ぐらいなら貸すから」
後輩「……じゃあお言葉に甘えます。ありがとうございます」
男「どういたしまして」
男(レミちゃんの頭がオレの肩にあずけられる。彼女の髪の感触が心地いい)
後輩「……ちょっと工事の音が大きいですね」
男「あー、たしかにこんなにうるさいと少し眠るのも難しいかも」
男(なにかあったのかな。ヤマダから返してもらったウォークマンがポケットに入っているけど)
男(ヤマダが故障してるって言ってたけど、使えないのかな……って、ついたぞ)
男「周りの騒音が気になるときは、イヤホンで曲を聴くといいらしいよ」
後輩「それ、先輩のウォークマンですか?」
男「うん。ランニングのときは絶対に使うんだよ」
男(壊れてると思ったのに、癖で無意識にポケットに入れてたなんてな)
男「まあオレのウォークマンだから、B’zしか入ってないけど」
後輩「わざわざすみません」
男「『FRIENDS 2』って静かなアルバムにしといたから、これなら多少は眠れるんじゃない?」
後輩「じゃあお借りしますね」
男「おう。曲を堪能しつつ、優雅に眠ってくれ」
後輩「……」
男「どうした?」
後輩「……一緒に聞きませんか? 私が眠ってる間、先輩も退屈でしょうし」
男「いや、オレは今それを聞く気分じゃないっていうか……」
男(残念ながら女バージョンとなったB’zは聞きたくない)
後輩「そうですか、わかりました。……少し憧れてたんだけどな」
男「ん?」
後輩「い、いえ……なんにもです。それじゃあお借りします」
男「どうぞどうぞ」
男(それからレミちゃんは、イヤホンを両耳にはめてゆっくりとオレ肩へと体重を預けた)
男(最初こそ起きていたものの、十分も経つと小さな寝息をたてだした)
♪
男「三十分ぐらいしか寝てないけど、大丈夫?」
後輩「むしろ十分ぐらいしか寝ないつもりだったんですけど……ごめんなさい」
男「いいよ。オレも協力してもらってるし。今も付き合ってもらってるし」
後輩「私も暇を持て余してるんで……」
男(それにしても、これからどうすればいいのかな)
男(もうヒントらしいヒントは、完全になくなってしまったと言っていい)
後輩「先輩はなにか食べたいものってありますか?」
男「そうだな……っと、赤信号だ」
男(人ごみに紛れて、オレたちは立ち止まった。信号が変わるのを待つ。それだけの話)
男(いや、たぶんそんなことすら考えていなかった)
男「えっ……」
後輩「!」
男(誰かにオレは背中を押されていた。転びはしなかった。でも、道路には飛び出していた)
男(誰がオレの背中を押した? ――誰が?)
男(目の前に迫ってくる車を見ながら、オレはそんなことを考えた)
男(まさか自分がこの歳で車にひかれて死ぬとは、夢にも思ってもなかった)
男「――っ!」
男(車がどんどん大きくなっていく。音が消える。そして、遅く。オレは目をつぶった)
後輩「先輩っ!」
男「のわぁ!?」
男(あまりにも強い力に引っ張られて、オレは尻餅をついた。でも全く痛みは感じなかった)
男(目の前を車が通過する。汗が噴き出る。音が急速に戻ってくる)
男「はぁはぁ……い、今のは……」
後輩「……わかりません。けど誰かに押されたみたいに、急に先輩が前に行ってしまって……」
男(道路に飛び出したオレを、レミちゃんが引っ張ってくれたとようやくオレは認識した)
後輩「立てますか?」
男「あ、ああ……」
後輩「だ、大丈夫ですか?」
男「ははは……腰がぬけた」
後輩「肩貸します」
男「あ、ありがとう」
男(レミちゃんに肩を貸してもらうオレは、なにも考えられなかった)
男(一歩間違ったら死んでいた。いったい誰がオレの背中を押した?)
男(オレたちは大勢の人に注目されながら、その場所をあとにした)
♪
男「だいぶ落ち着いたよ」
後輩「まだ足がふるえてますよ?」
男「ちょっとね」
男(オレとレミちゃんは街から少し外れた路地にいた)
男「いったい誰がオレを押したんだ。レミちゃんは見てない?」
後輩「私も気づいたら、先輩が前に飛び出していたんで……」
男「そうだよな。あれだけ人がいたら、人ごみにまぎれることもできるもんな」
後輩「ただ……」
男「?」
後輩「急ぎ足であの場を去った人はいました。たまたま目に入っただけですけど」
男「ほんと!? どんな人か覚えてない?」
後輩「金髪ってことしか覚えてません。
けど、ほとんどの人が私たちに注目して立ち止まったんです。でも、その人だけ足早に去っていったんです」
男「金髪か。金髪なんて珍しくもないしな……」
後輩「ええ。だから、参考にはならないと思います」
男「でも……」
『殺してやる』
男(あの電話。もしオレの背中を押した人間と、あの電話の相手が同一人物だったら?)
男(だとしたら、オレの知り合いの可能性は十分あるんじゃないか?)
後輩「でも、よかったです。先輩が無事で」
男「……」
男「あと少しレミちゃんが、助けてくれるのが遅かったらオレ、死んでたんだよな」
男(どちらかというと小柄な部類に入るのにな。この子がオレを助けてくれたんだよな)
後輩「火事場の馬鹿力っていうんでしょうか。あのときはとにかく必死で……」
男(そう言って胸を撫で下ろして微笑むレミちゃん)
男(なぜかオレの胸によくわからない感情が湧いた)
後輩「でも……先輩が無事でよかったです」
男(一歩間違ったら、この子も死んでいた可能性があるんだよな)
男(それなのに、オレのために……)
後輩「まだ、気分が優れませんか?」
男「へ? あ、いや……さすがにもう大丈夫だよ」
男(どうしたんだオレ? なんかこの感じには覚えがあるような……)
男(なにか別の話題に変えなきゃ……)
男「前にも話したけど、オレって恨まれてる可能性ってあるんだよな?」
後輩「まあ……ありえないこともない、って程度ですけど」
男「オレの背中を押したのが、オレを恨んでいる人間の仕業とかって線はあるかな?」
後輩「こ、殺されほど先輩が恨まれているってことですか?」
男「まあひとつの可能性として、ないこともないんじゃないかな?」
後輩「そこまで恨まれているんでしょうか?
……先輩自身に心当たりはないんですか?」
男「いや、まったく。本当にない……と思う」
後輩「自覚がないってだけで、実はあるんじゃないですか?」
男「え?」
男(そういえば、お嬢みたいなケースはもしかしたらほかにもあるんじゃないか?)
男(女たらしなオレを誰かが恨んで……)
後輩「先輩、顔が引きつってますよ?」
男「いや、本当に自覚がないだけかもしれないと思ったら不安になってきた」
後輩「先輩って意外と、肝っ玉が小さいんですね」
男「うっ……い、いや、オレは今回みたいなことが二度と起きないように警戒を……」
後輩「……」
男(心なしかレミちゃんの目が座っている気がする……なんか悔しい)
男「ああもうっ! いいっ! いちいち気にしてもしゃあない! 今度なんかされそうになったら返り討ちにしてやる!」
後輩「そっちのほうが先輩っぽいですよ」
男「ほ、本当?」
後輩「はいっ」
男「そっか、うん。やっぱりそうだよな」
後輩「それに、今度もなにかあったら私が先輩を守りますから」
男「気持ちは嬉しいけど、それは男としてダメな気がするから遠慮しておく」
後輩「はあ……」
男「むしろオレがレミちゃんを守ってあげるって!」
後輩「……私、誰かに恨まれているんですか?」
男「それは……言われてみればそうなんだけど」
後輩「ふふっ……でも。なにかあったら頼りにしてますね、先輩」
男「おうっ!」
男「いつまでもこんなところでジッとしてるわけにもいかないな」
後輩「どこへ行きますか?」
男「そうだな。どうしような……って、しまった!」
後輩「どうしたんですか?」
男「ヤバイ! オレ、姉ちゃんに軽くランニングするって言って、朝に家を出たんだよ」
後輩「え? もうおやつの時間ですよ」
男「か、帰らなきゃ……!」
後輩「……帰っちゃうんですか?」
男(よく考えたらオレが呼び出したんだった。しかも、命まで助けられたのに……)
男「レミちゃん」
後輩「はい……」
男「今からオレの家に行こう」
♪
男「……」
後輩「……」
姉「へえ、それでいったいこれはどういうことなのかな?」
男「いや、ランニングに行って帰らなかったのは……ごめん」
姉「ふうん。いちおうなにが悪いかは、きちんと把握できているのね」
男「も、もちろんですよ?」
姉「いけないことがわかっているのなら、当然反省すべき点もわかっている。そうね?」
男「そりゃあそうでしょ」
姉「じゃあなんでお客さんがいるのかなあ?」
後輩「す、すみません」
姉「大丈夫よ。悪いのはあなたじゃないから。この子だからね」
姉「でも珍しいね。我が家に人を連れてくるなんて……ま、まさか!」
男「?」
姉「こ、恋人とかだったりする?」
後輩「え?」
男「ち、ちがうよっ! 学校の後輩だよっ!」
姉「ふうん。我が家にお客さんが来ること自体、珍しいから期待したのに……」
男「そういう気分だったんだよ……」
姉「そのわりに、顔が赤くなっているように見えるけど」
男「う、うるせー」
男(なにをオレは動揺してるんだ!? 落ち着け、レミちゃんは後輩。そう、後輩だ)
男(だいたい今のわけのわからない状況で、恋愛なんかにうつつを抜かしている場合じゃない!)
姉「名前はなんて言うの?」
後輩「レミって言います。先輩とは、春の体育祭で知り合って、それから仲良くしてもらってます」
男「……」
男(レミちゃんとオレの出会いは、変わってないのか。まあ全部が全部変化してるわけじゃないわな)
男(実際オレの父さんと母さんは、離婚したままだしな)
姉「ふーん」
後輩「ど、どうしました?」
姉「私のカンなんだけど。なんとなくふたりはお似合いだと思って」
後輩「そ、そうですか?」
男「はいはい、勝手に言ってろよ」
姉「あらら? ちょっとからかいすぎちゃった?」
男(過去に兄ちゃんは、オレと幼馴染を見て同じことを言った。けど、実際は……)
男(兄ちゃんの言葉はアテにならない。むしろそんなふうに言われると、かえってダメな気がする)
男(……って、なんでオレはこんなにイライラしてるんだ?)
姉「ちょっと汗臭いから、シャワー浴びてきたら?」
男「でもレミちゃんが来てるのに」
姉「大丈夫。私とレミちゃんは、仲良くトークしてるから。ねっ?」
後輩「え? あ、はい」
姉「色々聞きたいこともあるしね」
後輩「あ……私も先輩について少し聞いてみたい話とかあります」
姉「いいよいいよ、私がたあっぷり色んなことを教えてあげる」
男「あんまり変なこと言うなよ」
姉「大丈夫だって。将来の結婚相手になるかもしれない子に、印象悪くなることは言わないから」
男「本当かよ」
姉「それよりさっさとお風呂に入ってきなさい」
男「わかったよ」
男(姉ちゃんはレミちゃんに興味津々みたいだった。まあ、怒られるのを回避できたし、よかったかな?)
♪
男「ふう……夏に浴びるシャワーはやっぱり最高だな」
男(オレを押したヤツ。オレの知ってる人なのか?)
男(もしくは、無差別的な行為の可能性もあるのか? たまたまオレだったという可能性)
男(いや……あの電話の件もあるしな)
男(そういえばレミちゃんは、金髪がどうとか言ってたな)
男(金髪なんて確かに、そこまで珍しいわけじゃないもんな)
男(でも、オレの知っている人間ってことで考えたらどうだ?)
男「……ひとりだけ、いるな」
男(ふと思ったけど、オレってウィッグをつけてると意外と女っぽいんじゃないか)
男(兄ちゃんは親父に似てるって、オレが母親似だって、親戚から言われてたよな)
男(今の兄ちゃんはオレ以上に、母さんにすごい似てるな)
男(……って、なに鏡の自分をまじまじと見てるんだ)
男(もしかしたら今のオレは、人類で唯一の男という生き物かもしれないんだぞ!)
男(気持ちだけでも男らしくいかなきゃな)
♪
姉「どうかな? きっと上手くいくと思うよ?」
後輩「……自信ないです」
姉「大丈夫。なんなら私がアシストしてあげるよ?」
後輩「えっと……」
男「あがったー。なにやってんの?」
後輩「なっ……なんにもです。き、気にしないでください」
男「そう言われるとかえって気になるな」
姉「見ちゃダメ。ほんと、こういうところがダメなのよ」
男「なにがダメなんだよ?」
姉「そうやって聞く時点でダメなのよ。わかる?」
男「むぅ……」
姉「とりあえず席について。今、あなたの分のお茶を入れてあげるから」
男「ありがと、姉ちゃん」
後輩「先輩とお姉さん、仲がいいんですね」
男「ん? まあ、そうなのかな?」
後輩「色々と先輩の話聞かせてもらっちゃいました……」
男「……全部は信じちゃダメだよ? 事実とはちがうことを言ってるかもしれないし」
姉「お姉ちゃんがホラを吹くとでも?」
男(実際、兄ちゃんのとんでもない嘘でオレがヒドイ目にあった経験は意外とあるんだよ)
姉「あなたのほうこそ、レミちゃんに聞いたよ。やっぱりモテモテなのね」
男「べつに……」
姉「こういう話になると、恥ずかしいのか機嫌が悪くなるの」
後輩「そうみたいですね」
姉「それに、体育祭で怪我したレミちゃんをおぶってあげたらしいね」
男「それは……まあ……」
後輩「あのときはありがとうございました」
男「いやあ、まあ人として当然のことをしたまでよ」
男(正直居心地が悪かった。オレがレミちゃんを助けたのは事実だった)
男(でも、あのときのことは完全には覚えてないけど、この子は助けた理由は……)
姉「この子ってほめられるとすぐ照れちゃうのよね」
男「……姉ちゃんは、いちいち余計なことを言いすぎなんだよ」
後輩「ふふっ……先輩、顔が本当に赤いですよ」
男(まあでも。彼女が笑っている姿を見られるのは、嬉しいことのように思えた)
男「笑いたきゃ笑えっ」
姉「だって。もっと笑ってあげて。昔は人を笑わせるのが大好きだった子だから、嬉しいはずよ」
男「なんで知ってんだよ?」
姉「お姉ちゃんは、あなたのことをあなた以上に知ってるのよ?」
男「へいへい」
後輩「……よかったです」
男「ん?」
後輩「今日は、先輩の家に来れてよかったです」
姉「そう言ってもられると、私も嬉しいな。これからも、この子と仲良くしてあげてね?」
後輩「もちろんです。先輩、これからもよろしくおねがいしますね」
男(そう言って微笑むレミちゃんに、オレは一瞬見とれた。でも、だから気づいた)
男(その微笑みに、かげりのようなものがあったのを」
♪
男「今日はありがとう。本当に世話になりっぱなしで……」
後輩「私が好きでやってることだから、気にしないでください」
男「それでもさ。なにかあったら言ってほしいんだ。お礼がしたい」
後輩「……じゃあ、ひとつだけおねがいをしていいですか?」
男「なに?」
後輩「……」
男(隣のレミちゃんがオレを見上げる。夕日を背後にした彼女の顔に影が浮かぶ)
男(少しだけ潤んだ瞳が、やけに印象的だった。なにかを訴えようとしてる気がする)
後輩「やっぱり……なんにもです。また今度にします」
男「そう?」
後輩「はい。私ももう少し、考えてみたいんです」
男「そっか」
後輩「あ。それと先輩のお姉さんとメールアドレスの交換しちゃいました」
男「姉ちゃんと? いつのまに……」
後輩「また先輩の話が聞けるかもしれませんね?」
男「勘弁してくれ……」
後輩「ふふっ……冗談です」
男「そうだ。オレからもひとつ言っておきたいことがあったんだ」
後輩「なんですか?」
男「オレを突き飛ばした人に、心当たりがあるんだ」
後輩「……誰かわかったんですか?」
男(オレは少し迷ってから、その人のことを口にした)
【 後編 】 に続きます。