それは剣道部に入部する4年前の出会い。
それは剣道道場に通う1か月前の別れ。
「ああ……やってしまった、私はなんてことを……!」
河原の橋の下で黒い土を握り締めていた、綺麗な後ろ姿の女性。
さやか「どうかしたんですかー?」
今でも、その出来事は鮮明に覚えている。
駆け寄った私の、半分の心配。
駆け寄り、彼女の顔を見た時、もうひとつの興味半分は、跡形もなく凍てつき、砕け散ってしまった。
「ぁあああッ……私はッ!!」
人が心の底からの悲哀に歪めた表情。
美しい女性なのに、悲しみはここまで人を歪ませてしまうのか。
その日は大切な出会いでもあり、私の中で、大きな何かが変わった瞬間でもあった。
元スレ
さやか「全てを守れるほど強くなりたい」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1344868298/
さやか「全てを守れるほど強くなりたい」2
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1365335464/
「足りない、これじゃあ足りない……」
さやか「あの……」
「間に合いっこない……」
彼女の肩に手を触れそうになった時、さっと振り向いた形相が私を睨み、鋭い目で動きを射とめた。
そして、一瞬だけ口を大きく開いた後、彼女の喉がコクリと鳴って、次の瞬間には、逆に私の両肩が掴まれていた。
さやか「ぁ……」
怖かった。
それが怒りの形相だったから。教科書で見た仁王の顔のようだった。
それがどうして、私に向けられているのか分からなかったから。
また、何よりも。
「美樹さやか……!」
会ったことがないはずなのに、私を知っていた事が、怖かった。
「期待はしない、けど答えて…あなたは今、何年生?」
さやか「よ、四年生……です」
瞬きしない目が私を逃さない。
「…カナメ、っていう子、知らないわね」
さやか「う、うん…知らない」
「やっぱりまだ越してないか……」
そこで初めて、女性は私から目を逸らした。
女性の目は赤く充血し、涙で濡れ、きらきらと光っていて、場違いな感情だとわかっていても、その時確かに私は、“綺麗だな”と感じた。
さやか「あの、なに……なんですか?あなた、誰ですか?」
「……」
女性は伏目で私を胸辺りを見た後に、また目を見た。
さやか(あ、この人――)
「私のお願い、聞いて貰っても良いかしら」
さやか(悲しまないと、怒らないと、こんなに綺麗な顔をしてるんだ――)
「聞いてる?」
さやか「はっ、はいっ!」
「このお願い、どうか受け止めて生きてほしいの……私が今更、貴女へ偉そうに言える事ではないのだけど」
バカな私にも伝わるよう、滑らかに言葉を紡ぐ女性の努力と反して、噛み砕かれた意味は私の頭に届いてはいなかった。
さやか「あ、あの」
だからまずは聞いておきたかった。
さやか「あなたの名前は……なんていうんですか?」
「……」
半分空いた口が、何文字かの息を吐いた気がした。
思いついたように長い黒髪を後ろで束ねた、その後に言葉は紡がれた。
「私のことは、“煤子(すすこ)”と呼んで、美樹さやか」
私はあの時の事を、今でも思い出せる。
煤子さんとの大切な出会いを。
彼女の語らぬ想いを。
だからこそ今、私はやっと後悔をし始めていた。
さやか「剣道部、やめなきゃ良かったな……」
まどか「ん?」
さやか「あ、もしかして今の、出てた?」
まどか「てぃひひ、ばっちし出てたよ、さやかちゃん……」
さやか「あっちゃあー」
まどか「上条君も、さやかちゃんには頑張ってほしいはずだよ?」
さやか「……うーん」
恭介が入院してから1ヶ月が経つ。
それは不運な事故だった。この国の年間で見れば、よくある事故。
けれど、彼の左腕に与えた影響はあまりにも大きすぎた。
温和に、綺麗に微笑んでいた彼の表情に、深い影を落とすほどに。
さやか「うーん……」
ベッドの上で天井を仰ぐ。
すん、と鼻を鳴らせば、顔の隣の、乾いて嫌な臭いが薄れた竹刀が感じられる。
さやか「顧問になんて言おっかなぁー!」
今更なんて言えばいいんだろう。
ものすごい適当な良い訳をつけて退部して、先輩にも迷惑をかけたのに。今更どんな顔で戻ればいいのか。
けれど、私が剣道部をやめるきっかけとなった恭介は、気にせず続けてほしいと言うし……。
でもまた入部すると、恭介のお見舞いにいけなくなるし……。
ああ、見舞いにいかないとしても、顧問になんと言えば……。
さやか「……」
私はベッドの脇を竹刀でばしばし当たった少し後で、ぐっすり寝た。
まどか「おっはよ~」
まどかがやってきた。
仁美「おはようございます」
まどか「えへへ、おはよー」
私はその次にやってきた。
さやか「はぁっ、はぁっ!ごめーん!」
まどか「さやかちゃん、おそーい」
駆け足でようやく二人に追いついた。
昨日、毛布の中で悶々とし過ぎていたのだ。起こしてくれたお母さんには感謝をしなくちゃいけない。
さやか「お?なんか可愛いリボンつけてるねぇ、まどかぁ」
まどか「そ、そうかな?派手過ぎない?」
仁美「とても素敵ですわ」
鮮やかな赤色のリボン。
まどかには良く似合っている気がした。
さやか「女の子は、もっと派手だって良いくらいだよ、まどか!」
まどか「え、えー……そうかなぁ……」
まどかのツインテールをぱしぱしはたきながら、私達は学校へ歩き始めた。
うん、とても良い日和。
まどか「でね、ラブレターでなく直に告白できるようでなきゃダメだって」
さやか「うんうん、さすがは詢子さん!カッコいいなあ、美人だし」
仁美「そんな風にキッパリ割り切れたらいいんだけど…はぁ」
さやか「仁美は優しすぎるんだよー」
私のように、狭く汚い靴箱に託された手紙をその場で破き捨てるくらいでなくちゃ。
まぁ、封をしてない果たし状みたいな手紙なら、開いてやらなくもないけど!
まどか「いいなぁ、私も一通ぐらいもらってみたいなぁ…ラブレター」
さやか「ほーう?まどかも仁美みたいなモテモテな美少女に変身したいと?そこでまずはリボンからイメチェンですかな?」
まどか「ちがうよぉ、これはママが」
さやか「さては、詢子さんからモテる秘訣を教わったな?けしからぁあん!そんな破廉恥な子は~、こうだぁっ!」
頭を掻いたり、脇を責めたり、胸を揉んでみたり。
それにしても、なんて成長しない胸だ!けしからない!
まどか「や…ちょっと!やめて…やめっ」
さやか「慎ましいやつめ!でも男子にモテようなんて許さんぞー!まどかは私の嫁になるのだー!」
仁美「ごほんっ」
さ。学校はもう、すぐそこだ。
早く入ろう。
和子「今日はみなさんに大事なお話があります、心して聞くように」
さやか「ん?」
半分眠りかけた耳に、聞きなれないもったいぶった言葉が飛び込んだ。
和子「目玉焼きとは、固焼きですか!?それとも半熟ですか!?はい、中沢君!」
「えっ!?」
個人的には半熟の方が吸収が良くて助かるかなぁ、ってぼんやり思った。
「ど、どっちでもいいんじゃないかと」
和子「その通り!どっちでもよろしい!」
そっかぁ……。
和子「たかが卵の焼き加減なんかで、女の魅力が決まると思ったら大間違いです!」
和子「女子のみなさんは、くれぐれも半熟じゃなきゃ食べられないとか抜かす男とは交際しないように!」
なるほど、そういえば先生、付き合ってたっけ……。
機嫌が悪いのはつまりはそういうことか。
さやか「ダメだったか」
まどか「ダメだったんだね…」
何度目かなぁ、これ。
和子「そして、男子の皆さんは、絶対に卵の焼き加減にケチをつけるような大人にならないこと!」
先生、次は良い男の人に恵まれますように…と、ひっそり願ってみる。
和子「はい、あとそれから、今日はみなさんに転校生を紹介します」
さやか「そっちが後回しかぁい!」
つい声に出てしまった。
和子「じゃ、暁美さん、いらっしゃい」
ガラス戸が開いたそこからは、ガラス越しで見るよりも艶やかな黒髪を湛えた美少女が入ってきた。
さやか「うおっ……」
とんでもない美人がそこにいた、ってやつ?
きりっとした表情。まっすぐな姿勢。長い黒髪は育ちが良さそうというよりも、ミステリアスさを前面に感じた。
和子「はい、それじゃあ自己紹介、いってみよう」
彼女は緊張のかけらも見せず、ただ凛と流すように口を開いた。
ほむら「暁美ほむらです、よろしくお願いします」
そして、その目はじっと睨んでいた。
まどか「えっ……ぇえ…?」
さやか「?」
ほむら「……」
まどかを睨んでいた。
† 8月3日
運命の出会いの日。
煤子さんは涙をぬぐった後、それはもう、その涙など無かったことにしたかのような強い顔立ちになると、地面にこぼれた黒い砂をかき集めはじめた。
土が混ざってもお構いなし。
とにかく一粒残さず集めようと、地面ごとかき集めては、どこかにあった分厚い袋に詰め込んでゆく。
煤子「いい、手伝わなくても」
手を貸そうとした私に、煤子さんは強く言った。
けれどすぐに“あ”というような顔になって。
煤子「ごめんなさい」
控えめに謝った。
自分でやりたいの、と後付けして、砂を集め終わってから、彼女は立ち上がった。
さやか(あ……)
自分よりもずっと大人に見えた煤子さんの背が、そう高いわけでもなかった事に私は驚いた。
けれど、膝のストッキングについた土を払う仕草は無骨ではない。
不思議な人、と見入るばかり。
煤子「私はね、美樹さやか」
さやか「は、はい」
ちょっとだけ高めの目線が私を見下ろす。
煤子「とても悪い病気に罹ってしまっているの」
さやか「え?」
突然の告白だった。真剣な目を見ては、“そうですか”だけを返すことができなかった。
さやか「どんな病気なの?……です、か?」
煤子「良いわ、硬い喋り方でなくても」
さやか「あ、はぁ……」
煤子「……今まで、無茶なことばかりをやってきたから、そのツケがきたのね」
さやか「つけ……?」
煤子「借金をして、お金が返せなくなって…ボン、もう、どうしようもない」
ふふ、とそれはもう、上品に嗤う人だった。
煤子「道理に背いて、横道それようとした結果よ……予定ではあと一年は生きていけるはずだったけど…」
さやか「え!?」
煤子「今の調子だと……もう、もって数ヶ月、といったところかしらね」
さやか「そんな……」
手元の砂がざぁざぁ鳴る。
煤子「だから私のお願いを聞いて、美樹さやか」
さやか「う、うん!煤子さんのために何か、私にできることがあるなら!」
知らない人でも、不思議と嘘をついているようには見えなかった。
そんな目をしていた。
煤子「……時間がないの、だけど私の今まで生きて、培ってきたことを、出来るだけ貴女に伝えたい」
さやか「……ど、どうすれば」
煤子「聞いてほしい、覚えてほしい、口で言うだけなら、それだけよ」
膝を曲げた煤子さんの目線が私と並ぶ。
煤子「これは貴女の人生の、これからのためでもある……そのつもりで、聞いてくれる?」
さやか「……うん!」
煤子「……ありがとう、さやか」
人が安堵し、柔らかく崩れる顔。
私はその笑顔に応えようと、子供ながらに決心したのだった。
† それは8月3日の出来事だった
――さんって、前はどこの――
――京の、ミッション系――
――とかやってた?運動系?文化――
さやか「ん……」
机に突っ伏した顔を上げる。朝からの眠気は、季節の適温と良く混ざったらしい。
ほむら「やって無かったわ」
「すっごいきれいな髪だよね、シャンプーは何使ってるの?」
顔を前へ向ければ、どうやら転校生の子が質問攻めにあっているらしかった。
コミュニティを作るのが好きな女子数人が、グループにでも入れようかと集っているようだ。
仁美「不思議な雰囲気の人ですよね、暁美さん」
さやか「ねえ、まどかぁ、あの子知り合い?」
まどか「え?うーん……」
目を擦りながら聞くと、どうもぱっとしない答えが返ってきた。
さやか「思いっきりガン飛ばされてたじゃん?」
まどか「いや、えっと…そうなのかな…私が見すぎてたのかも…」
さやか「まさかのまどかがメンチ切ってた説?」
睨むまどかなんて想像もできない。
想像してみたら、ちょっと凛々しくなったまどかが居て、可愛かった。
ぶふっと噴き出すと、まどかがこれまた可愛らしく私に怒った。
ほむら「ごめんなさい……何だか緊張しすぎたみたいで、ちょっと気分が……保健室に行かせて貰えるかしら」
「え?あ、じゃあたしが案内してあげる」
「あたしも……」
ほむら「いえ、おかまいなく……係の人にお願いしますから」
靴音が近づく。
まどか「ん……?」
まどかに影が差した。
ぬう、っと近づいたのは、謎の美少女転校生。
さやか「……」
まどかのすぐ近く。
その距離は殴り合いが起こるか、親友同士の会話が始まるか、恋人同士が愛を囁くか。
いずれにせよ、極端なシチュエーションしか浮かばないような距離だった。
ほむら「鹿目まどかさん、貴女がこのクラスの保健係よね」
さやか「へ?」
まどか「え?えっと…あの…」
ほむら「連れてって貰える?保健室」
まどか「あの、私……」
ほむら「今でないと――」
さやか「保険係は私だけど」
ほむら「……え?」
何故面食らったような顔をするのか、この美少女は……。
ほむら「……そうなの?」
さやか「うん、私が保険係……で、兼、清掃係と、風紀係もやってる!」
ほむら「……」
さやか「まどかは生物係だからねぇ」
まどか「うん」
先生に保険係が誰かを教えてもらったけど、間違えたんだろう、きっと。
さやか「ほいじゃ、ちょちょいとさやかちゃんが保健室まで連れていっちゃいますよー」
ほむら「ちょ、ちょっと」
さやか「行ってくるね」
まどか「うん」
席を立ち、転校生の手を引て教室を出る。
凛々しい美少女の白い手は細く、まどかのそれよりも繊細そうだった。
さやか「さっきの子達、色んなことずかずか聞いてくるけど、嫌な子ってわけじゃないから、誤解しないであげてね」
ただ寂しがりというか、人と一緒にいたい気質というか、そんな面が強いだけなのだ。
鬱陶しく感じられるところもあるかもしれないけど、彼女達の愛情表現の大事なひとつを、誤解してほしくはなかった。
ほむら「あの……」
さやか「ああ!」
ほむら「え……」
そうだ、そういえば名乗るのを忘れていた。
さやか「私の名前は、美樹さやか!よろしくね、転校生!」
ほむら「し、知ってるわよ……」
さやか「え!?なんで!?」
ほむら「……さっき自分のこと“さやか”って言ってたわよ」
さやか「あ!!そっか、言ってたわ」
ほむら「……美樹」
さやか「さやかって呼んでいいよ、転校生」
ほむら「! そう、さやか…」
さやか「んー?」
ほむら「貴女は自分の人生が、貴いと思う?」
さやか「うん」
ほむら「……家族や友達を、大切にしてる?」
さやか「もちろん」
ほむら「即答、するのね」
さやか「当たり前だよ、みんな、何もかも尊いよ」
先行く私は向き直り、歩みを止める。
さやか「逆に、転校生はどう思ってる?」
ガラス張りの渡り廊下。
横から入る陽が、転校生の顔に影を作っている。
ほむら「…私のことも、転校生ではなく“ほむら”って呼んでもらいたいわね」
さやか「ん!了解、ほむら!」
ほむら「……そうね、私はどうかしら…家族や友達は、とても大切よ」
ほむら「けれどそれを守るためなら、天秤にかける自分は遥かに軽い……そんなところかしらね」
さやか「ほぁあ……」
無感情に応えたほむらは、私を追い抜いて先を歩いて行くのだった。
さやか「場所、わかんないでしょっ」
私は黒髪を追った。
不思議だなぁとは思ったけど。
先生「うおぉ……」
ほむら「……」
淀みなくボードを走る電子チョーク。
容姿端麗に頭脳明晰がくるわけか。
不思議女子中学生に拍車がかかるのなんの……。
まどか「すごいね……」
さやか「なんかもう、ずるいね!何教科得意なのよ!」
まどか「何教科だろうね……」
正直、ひしひしと伝ってくる全教科得意の予感に、はやる嫉妬を抑えられない。
それでも、それでもあの体の細さだ…体育だけは、きっと…。
ふわぁ、と細い体は、美麗なフォームで宙を舞うのでござった…。
「け、県内記録じゃないの?これ……」
神童なんて話には聞くけど、現物は初めて見たよ。
というかほむらの体のどこに、高く飛ぶバネが仕込まれているというんだろう。
さやか「…負けてられないね!」
まどか「さ、さやかちゃん?」
さやか「私も県内記録を出す!」
まどか「えー」
まどがの弱気パワーの煽りを貰う前に、さっと一度飛んだバーを正面に据える。
「あら?どうしたの?美樹さん」
さやか「もう一度、飛ぶ!」
「もうやったんじゃ……」
さやか「ほむらのほっそい体で飛べて、私に飛べないはずがない!」
それは私の高らかな宣戦布告である。
周囲で体育座りにかまける軟弱なクラスメイトたちは“また美樹さんだよ”とかなんとか言ってるが、気にしない。
ほむらも少々眼球運動だけが挙動不審だが、本当に驚かせるのはここからだ。
さやか「見てなさい!インターハイに出てやるくらいの記録を出してやるんだからぁああ!」
風を切って駆ける。
学年最速の助走で、一気にバーまで。
ほむら「……インターハイは高校よ、さやか」
バーを蹴っ飛ばしたとき、何かむっとする一言が聞こえたきがした。
ほむら「…今度こそと意気込んでいたのに、何かしら、今回の美樹さやかは」
ほむら「まどかが保健係をやっているはずだったのに、おかしいわね」
ほむら「今まではこんな事は起こらなかったのだけど……」
ほむら「……些細なことに気を取られちゃいけないわ」
ほむら「キュゥべえとの接触を阻止しないと」
ファストフード店内にて。
さやか「わけわからぁん…」
まどか「わけわかんないよね…」
世の中にあんな完璧な人間が実在してるとは思わなかった……いや、むしろ今でも信じたくない…。
頭脳明晰ではなくて、まさか文武両道だったとは。なんとなく嫌な予感はしていたけどさ。
さやか「文武両道で才色兼備……かと思いきや、実はサイコな電波さん」
まどか「本当にそんなこと聞かれたの?」
さやか「ん。まぁ、良い質問だったけどね」
どこか胸の奥にズン、とくる問答だった気がする。
生き方の核心に触れるような、そんな。
さやか「しっかしどこまでキャラ立てすりゃあ気が済むんだ?あの転校生は……萌えか?そこが萌えなのかあ!?」
モテるんだろうなぁほむら。
けど文武両道容姿端麗て、それもはや、狙うとかあざといとかゆーレベルじゃないよな。
仁美「さやかさん、本当に暁美さんとは初対面ですの?」
さやか「あー…そりゃあ」
そりゃあ……ないはず、なんだけど。
さやか「懐かしいような感じはしなくもないなぁ」
仁美「ふふ、なんですか、それ」
グリーンソースフィレオをもりもり齧りながら思い起こしてみる。
会ったっけ、暁美ほむら。いや、ないよな、そりゃあ。
そんな名前の子、知り合ってたら覚えてるもの。
まどか「あのね…?あんまり馬鹿にしないで、聞いて欲しいんだけど……」
さやか「ん?」
仁美「どうされました?」
おずおずと、普段主張のないまどかが控えめな挙手をした。
まどか「昨夜あの子と夢の中で、会った…ような…」
一同爆笑、ってやつですわ。
まどかに電波属性があったことを最大の収穫に店を出て、仁美と別れた。
正統派文武両道のお嬢様は大変なのだ。
……ほむらも何かやってるのかな。古武術とか得意そう。
痴漢に襲われても次の一瞬では手首捻られた痴漢が宙に舞ってホームに叩きつけられてるね。
なんてことを考えている間に、CDショップについたわけです。
さやか(クラシックはこっち)
まどかはまどかで、自分の興味のあるカテゴリのほうに足を向けた。
私は、なんだかんだで聞きかじっているクラシックの試聴だ。
恭介のために持っていってやりたいというのが一つ。
もうひとつは、まあ、単純に私自身もクラシックの沼にはまりつつあるということだろうか。
さやか(ふんふんふうーん)
こうして心を落ち着ける音楽は、剣道部にいた頃も好んで聞いていた。
不思議とクラシックの整った曲調は、剣の動きや呼吸にも活かされている気がしてならない。
私の場合、まあ、型はダメダメだったんだけど……。
『助けて……』
さやか(……ん?)
「助けて……まどか……!」
さやか「まどか?」
ヘッドフォンを外しても、まどかに助けを求める幼げな声は続いた。
さやか(……あ)
辺りを見回して声を主を探していると、同じようにふらりと歩き回るまどかの姿が見えた。
さやか(何だろ)
誰がなにを、何故まどかに助けて、なのか。
良くわからないことに、まどかを巻き込ませたくはなかった。
さやか「聞こえた?まどか」
まどか「さやかちゃん、うん……」
まどかに追いつくと、どうやら本人にも聞こえていたみたいだ。
周りにいるお客さんや店員さんは無反応だけど…。
まどか「どこ?どこにいるの?」
さやか「どうしたー、出てこーい」
声がするらしき方角は、不思議と伝わってくる。
それを頼りに階段を登り、人気のない工事中のフロアへと上がる。
すると突然、真上から激しい物音と共に。
まどか「きゃ!」
埃かぶった何かが落下してきた。
QB「助けて……」
まどか「あなたなの…!?」
さやか「え、なにこれ、猫?じゃない……」
薄汚れた床の上に落ちてきたのは、白猫らしき不思議生物だった。
耳からは謎の肢体が伸び、そこに輪がついていたり、ファンシーな見た目だった。
さやか(いや、というか、なんでこれしゃべるの……!?)
驚きはそれだけに留まらなかった。
じゃらり、じゃらりと、天井から鎖が落ち、
天蓋のパネルが壊され、破片が床に散らばるとそこには、もっと不思議な装いの人間がいたのだ。
ほむら「そいつから離れて」
まどか「だ、だって……この子、怪我してる」
殺気はまどかにも伝わったらしい。
ほむら、らしき人物が一歩踏み出すと、まどかは謎の白い猫を抱きかかえた。
まどか「ダ、ダメだよ、ひどいことしないで!」
さやか「やめなよ」
ほむら「貴女達には関係無い」
さやか「何よそれ、関係あるわよ」
私はまどかへの殺気を遮るように立ちはだかる。
よくよく正面から見てみれば、このほむら。実に奇妙な格好をしている。
なんというか、ひらひらしているスカートとか、服とか、ものすごく派手。
この時はなんともなしにイメージした単語が、魔法少女。それだった。
日曜にやっていた小さな女の子向けのアニメを想起させる。そんな格好だ。
ほむら「あなた達には何の関係も無い、早くその白いのを置いて、帰りなさい」
まどか「だってこの子、私を呼んでた……」
ほむら「気のせいよ、帰りなさい」
さやか「聞き間違えなわけない、私も聞いたよ!まどかを呼んでた!」
ほむら「え?」
コスプレほむらが一瞬驚いてみせた直後、その意外な一面を遮るようにして景色は歪んだ。
さやか「!?」
うねる世界。伸びる有刺鉄線。
まどか「な、なにこれ……」
さやか「……いこう!ここはマズい!」
今の一瞬で何が起こったのかは、私にはわからない。
それでも私はこの場にいけないと思った。
まどかの手を引き、もと来た道へと走り出す。
この景色から逃げるために。ほむらから逃げるために。
改装中フロアは、悪趣味の一言に尽きる空間へと変貌していた。
お化け屋敷デザイナーに劇的ビフォーアフターさせた、その丁度中間のような世界だった。
意図不明のオブジェが立ち並び、遠くの方では奇妙なお髭の綿飴らしき生き物がうろついている。
不思議、それだけでは言い尽くせるものではない、どこか危険な臭いもするメルヘン。
早く抜け出さないと。
さやか「ていうかまどかっ、その生き物!?そいつのせいじゃないの、これ!」
まどか「わ、わかんない、わかんないけど…この子、助けなきゃ…!」
さやか「助けてとは言ってたけど、私達にどーにかレベルじゃないと思うよこれ!」
まどか「けど、」
さやか「まぁなんにもわからないし、見捨てたりはしないけどさ…!」
思わず立ち止まる。
まどか「きゃっ……」
勢いづいたまどかの肩を掴んで、引き寄せる。
すぐ目の前を有刺鉄線の束が通過していった。今のまま走っていたら、これに巻き込まれていたかもしれない。
まどか「あ、ありがと……」
さやか「……ここ、どんどん道が変わっていく」
一歩退く。
さらに二歩退く。
左右を確認する。今目の前を掠めて行った有刺鉄線らしきものが、既に私達の周囲を広く囲んでいた。
さやか(……これって、もしかしてまずいんじゃない)
何かに捕まったという事は、私にも理解できた。
不思議な歌とともに近づいてくる綿毛の生き物。
まどかの抱える猫とは全く別次元の恐ろしげな姿。手元の大きなハサミからは悪意しか感じられない。
まどか「どうしよう……!」
さやか「……落ち着いてまどか、大丈夫、今考えてるから…!」
有刺鉄線の内側に入り、のろのろ近づく奇妙な綿毛達。
どんどん中央へと追い込まれていくけれど、どうしようもない。万事休す。
この状況を乗り切るには、どれか一体を無理やりに蹴散らしてから、根性で有刺鉄線を乗り越えるしか……。
――そうね、私はどうかしら
――家族や友達は、とても大切よ
――けれどそれを守るためなら、天秤にかける自分は遥かに軽い
――そんなところかしらね
あの時のほむらの言葉を、ふと思い出した。
答えを聞いた時はいきなりだったし、「ほああ」とか、「変な子」くらいにしか思わなかったけれど。
心の奥底では彼女と同意見だったことに、ふっと微笑む。
さやか「まどか、落ち着いて聞いて、ここから抜け出す――」
決意を込めた作戦を伝えようとした時、私達の周囲は山吹色の閃光に包まれた。
さやか「あれ?」
まどか「これは……?」
目を半分くらい瞑っていたので全てはわからなかったけれど、一部だけは見ることが出来た。
金色の光が飛び交って、綿毛のお化けを蹴散らし、有刺鉄線を砕いていくその様を。
「危なかったわね。でももう大丈夫」
落ち着いた雰囲気の声の主が階段を降りてやってきた。
それは、ちょっと不可思議な格好はしているが、とても綺麗な女の子だった。
ほむらと同じような……。
「あら、キュゥべえを助けてくれたのね、ありがとう」
九兵衛?
「その子は私の大切な友達なの」
まどか「……」
QB「……」
白い猫を見て彼女は言った。
白い猫はきゅうべえというらしい。
まどか「私、呼ばれたんです、頭の中に直接この子の声が」
「ふぅん…なるほどね」
さやか「私も見えました」
「あなたもね?まあ当然か」
垂れ目が私達の姿をM字に流し見た。
「その制服、あなたたちも見滝原の生徒みたいね、二年生?」
さやか「あなたは?」
「そうそう、自己紹介しないとね……でも、その前に」
「ちょっと一仕事、片付けちゃっていいかしら」
今日は驚くことの連続だ。
白い銃が宙に舞い、そこで列を成し固定される。
さやか(うわー……)
その光景には終始、口を開きっぱなしだったと思う。
それは、大玉の花火を眼の前で何発撃たれても足りない衝撃だ。
今なら材質不明の砂埃が肺に入っても気づかないだろう。
目の前で繰り広げられた巻き毛少女の射撃ショーは、私の人生で遭遇したことのない、ショッキングできらびやかなものだった。
まどか「す、すごい……」
さやか「……空間が戻っていく」
辺りを光弾が一掃したところで、風景はもとの寂れたフロアに戻っていった。
私は、灯りの無い部屋が端まで見渡せないことを思い出す。
「魔女は逃げたわ、仕留めたいならすぐに追いかけなさい」
巻き毛の人が闇へ話しかけると、言葉に応えるように人影は現れた。
仏頂面の転校生、ほむらだ。
「今回はあなたに譲ってあげる」
ほむら「私が用があるのは……」
「飲み込みが悪いのね、見逃してあげるって言ってるの」
言いかけたほむらの言葉を遮るように、女性は強い口調で畳み掛ける。
荒っぽい表現に、二人の関係を示す剣幕さははっきりと浮かび上がってきた。
「お互い、余計なトラブルとは無縁でいたいと思わない?」
ほむら「……」
けれどほむらの顔には、何か別の感情があるように思えてならないのだ。
どこか、どうしても引き下がりたくない感情。
もどかしさが見える。
さやか(……)
けれどほむらの姿は闇の中へと翻っていった。
まどか「ふぅ」
まどかは事態の騒乱に収集がついたことへの安堵。
さやか「はあ」
私は正体不明のやりきれない気持ちを吐き出すために、ためいきをついた。
QB「ありがとうマミ、助かったよ」
マミ「お礼はこの子たちに、私は通りかかっただけだから」
今更かもしれない。けど私は顔を硬直させて驚いた。
猫が喋った!と。
QB「どうもありがとう、僕の名前はキュゥべえ!」
まどか「あなたが、私を呼んだの?」
まどかの順応性は、私にはよくわかりません。
QB「そうだよ、鹿目まどか、それと美樹さやか」
さやか「…え…何で、私たちの名前を?」
QB「僕、君たちにお願いがあって来たんだ」
まどか「お…おねがい?」
助けて、とはまた別に?
QB「僕と契約して、魔法少女になって欲しいんだ」
ほむらの姿や、マミと呼ばれた女の子の姿を見て、そんな連想はしていたけれど。
魔法少女なんて単語が飛び出すなんて、さやかちゃんはこの瞬間まで、予想だにしていなかったのであります。
現実は小説より奇なり、なんて言葉、恭介の時だけで十分だなとは思ったんだけど。
小説よりも広いジャンルで、不可思議な現実は、突如として訪れるのです。
だがしかし、誰が予想できるか、魔法少女。
――僕は、君たちの願いごとをなんでもひとつ叶えてあげる
さやか(なんだろ、それ)
毛布の中で、夕べの会話を思い出す。同じ見滝原中学の上級生、マミさんとの話。
魔法少女という存在。
魔女という存在。
――願いから産まれるのが魔法少女だとすれば、魔女は呪いから産まれた存在なんだ
――理由のはっきりしない自殺や殺人事件は、かなりの確率で魔女の呪いが原因なのよ
――キュゥべえに選ばれたあなたたちには、どんな願いでも叶えられるチャンスがある
竹刀を握った、ベッドからはみ出た右手に力が入る。
昨日の夜からずっとこのままの体勢だ。
つまり、私は寝てません。
一晩ずっと考えていたけれど、いまいち結論は出ない。
何を考えていたかって、それはもちろん魔法少女のことについてなんだけど。
眠気でもあっとした頭では、そんな難しい事は考えられないようであります。
まどか「おはようさやかちゃあ」
さやか「おあよーー」
まどかも同じ感じらしく、少し安心する。
お互いに真面目に考えていた証である。
仁美「おはようございます……あら、二人とも眠そうですね…」
さやか「ははは、今日の英語は寝かせてもらおうかなって……」
仁美「もう……」
QB「おはよう、さやか」
さやか「おはよおー」
仁美「?」
まどか(あ、さやかちゃん!)
さやか「うええ!?」
突然、まどかに囁かれたような感覚に襲われた。
まどか(頭で考えてるだけで、会話ができるんだって)
さやか(なにっ!)
まどか(だから、キュゥべえに普通に話しかけるのは、怪しまれるよ…)
さやか(あ)
QB「やれやれ……」
仁美が不思議そうな目でこちらを見ている。
助け舟を借りようとまどかの方に目配せすると、「えー」と念話で断られた。
「えー」て。念話で「えー」て。
QB「今は僕が中継役になってるから話せるけど、普通は魔法少女にならなきゃ無理だからね……」
さやか『そうなんだ……ふーん、一緒に何人かで魔法少女になれば、カンニングも楽勝だね』
まどか『そういう使い方は良くないよ……』
そう考えてみると、色々な使い道は思い浮かぶ。
カンニングなら百選練磨、クイズ番組でも一攫千金!
携帯代も浮くし、言い事尽くめ!
……ああ、かけられる相手が個人じゃちょっと不便か。
さやか(おっと、いけない)
またやってしまうところだった。
私の悪い癖が出てきてしまったみたいだ。危ない危ない。
まったく、考えると楽しくなっちゃうんだから、魔法少女って怖いよなぁ。
『だからあなたたちも、慎重に選んだ方がいい』
『キュゥべえに選ばれたあなたたちには、どんな願いでも叶えられるチャンスがある』
『でもそれは、死と隣り合わせなの』
『んー……んぅ~……』
『どうしたの?美樹さん』
『あっ、いやぁ、なんていうか、教訓にしてるだけなんですけど』
『ちょっとでも“美味しい”と思えた事には、最大限警戒するようにしてるんです』
『? そうね、よく悩むことに越したことはないわ』
† 8月4日
蝉がよく鳴く、暑い日だった。
約束の場所まで歩いていく途中はゆるい坂道で、先はふらふらと足取りのように揺れている。
煤子「大丈夫?ちゃんと水を飲んで」
さやか「おはようございまあす……」
坂の上の煤子さんのもとにたどり着いた私には、一本のペットボトルが手渡された。
ほどよく塩の足されたスポーツ飲料を半分飲み干し、息継ぎをする。
煤子「少しずつ飲まないとお腹を壊すわよ」
けど私は煤子さんの言葉を振り切り、残りあと指一本くらいのところまで一気に飲んでしまうのだった。
煤子「もう」
さやか「ぷはぁー!」
煤子さんは麦藁帽子を被っていた。シャツに、スカートに、タイツを履いている。
夏だというのに、とても暑そうな装いだ。
けれど不思議と彼女は、汗ひとつかいていない。
煤子さんの乾いた頬を見ながら、腕で額の汗をぬぐい、思う。
そこに存在しているはずなのに、存在していないような人だな。って。
近くの林道まで歩き、まばらな木陰にかかったベンチに腰掛ける。
座り、長い黒髪を掃い、脚を組んでから、煤子さんは話を始めた。
煤子「さやかには、守りたいものってある?」
さやか「守りたいもの?」
煤子「そう、身を呈して、何かを捧げて、そうすることで守りたいものよ」
さやか「……どういうこと?えっと、大切なものは守りたいけど…」
煤子「んー、大切なもの、それでもいいかもしれないけど、ちゃんとそれぞれを言葉に出したほうが良いわね」
さやか「……」
深く考えてしまう。
煤子さんの表情を伺おうとしてみたが、彼女は正面の林をじっと見つめていた。
さやか「……お父さんとお母さんは守りたいなぁ」
煤子「ええ」
さやか「あと友達、たくさんいるよ、恭介と、みーちゃんと…」
煤子「なるほど」
さやか「煤子さんも!」
煤子「ふふ、そう、ありがとう」
煤子「けれどさやか、そうね、たとえ話をしましょう」
さやか「うん」
煤子「私は重篤な末期の食道がんに侵されていて、余命はあと1ヶ月だとする」
さやか「え」
煤子「もちろん違うけど、例えよ」
さやか「なんだぁ」
煤子「……私を助けるためには、現金で10億円が必要なの」
さやか「げえ、じゅ、じゅうおく……?」
煤子「さやかはそんな私を守れる?」
さやか「……ま、もれるの?いや無理…かなぁ…」
さやか「……難しすぎるよ、そんな、私のおうちそんなお金もちってわけでもないし、私もおこづかい少ないし……」
煤子「じゃあこうしましょう」
さやか「?」
煤子「さやかにはお金がない、けれど、10億円のお金を、銀行から借りることができる」
さやか「……え」
煤子「それを使えば、私を助けることができるわ、どうする?もちろん借金は私ではなく、さやかのものよ」
さやか「……う、ぐ」
煤子「難しいわね?」
さやか「……むず、かしい」
煤子「ふふ」
煤子「じゃあ次のたとえ話をするわね、さやか」
さやか「うん」
煤子「……そうね、その前にまず、さやか、あなたの家の玄関には、靴は何足ある?」
さやか「え?……5つくらい?」
煤子「じゃあ他に、靴以外では何があるかしら」
さやか「えーっと、傘でしょ?バットでしょ?あとはスプレーとブラシ……かな」
煤子「なるほどね、じゃあ本題に入りましょう」
さやか「? うん」
煤子「さやかはお父さんとお母さんを、守りたい、と言った」
さやか「うん」
煤子「じゃあ、ある日さやかが家に帰ると、そこには…さやかのお父さんとお母さんを殺そうとする、強盗がいた」
さやか「え!」
煤子「強盗の身長は160cm、小柄な青年、だけど手元には木刀が握られていて、その上剣道を経験したことがある」
さやか「わわわ」
煤子「普通ならお父さんとお母さんが一緒になればなんとかできなくもないけど、二人は既に手と足に怪我をして、身動きはできないわ」
さやか「……」
煤子「強盗の青年は今まさに、玄関の少し先の廊下で両親に木刀を……」
さやか「いや!そんなのやだ!」
煤子「…さやかが手を伸ばせる玄関にあるものには、7足の靴、1本のバット、ブラシ、あとスプレーがあるわ、さあどうする?」
さやか「……」
煤子「というよりも、どうなると思うかしら」
さやか「……私じゃ、なんもできないよ」
煤子「……わかるみたいね?」
さやか「うん……だって相手は私より大きいんでしょ?しかも、木刀なんて持ってるし」
煤子「そう、さやかでは、バットを握っても難しいでしょうね」
煤子「もちろん、こんな状況、そう起こるものではないわ」
さやか「うん……」
煤子「けれどねさやか、私が今抱いている未練はね、悔しい気持ちはね、そういうことなのよ」
煤子「私にもっと力があれば……」
さやか「……」
煤子「10億円があれば……バットで青年に勝てるほど、強ければ……」
煤子「失ってから、自分には何が足りなかったのかがわかる」
煤子「失ってから、何が間違っていたのかがわかるのよ、さやか」
さやか「……私も剣道習えば、良いんだね」
煤子「……ふふ、まあ、そうすれば、今話したことが起こっても大丈夫ね」
煤子「後で後悔しないように、よく備えておくことよ……いつでも落ち着いて、間違えないよう、慎重に」
煤子「甘い言葉や、美味しいと思うような話には、すぐに流されてはダメよ?…良と思える話には最大限に警戒すること…」
さやか「うんっ」
煤子「……はあ、言いたいことって、沢山出てくるものね」
さやか「へへへ、わかるよ!」
煤子「ふふ……リフレッシュしましょうか、少し、暑いけれど走る?」
さやか「うん!私、走るの好き!」
† それは8月4日の出来事だった
さやか「……ん」
「こおら」
ごつ、と教科書が頭へのしかかる。
「最初から居眠りとは、良い度胸だぞ」
さやか「あえ?」
見回せば、クラスメイト全てが私の方を向いていた。
あのちょっと怪しい雰囲気の転校生、暁美ほむらも。
さやか「あひゃぁー、やっひまいまひた」
「涎を拭きなさいっ」
私の授業態度への減点を糧に、教室はちょっとした笑いに包まれた。
念話の途中で居眠りしてしまったらしい。
えっと、まどかやマミさんとどこまで話したっけ。
正直、うつらうつらと空返事ばかりをしていた気がする。内容が曖昧だ。
まどか『もう、さやかちゃん』
さやか『たはー、だって寝不足すぎるんだもーん』
随分と先に進んでしまった板書をがりがりと進めていく。
授業が終わる頃にやっとノートも取れそうなくらいだ。
さやか(……そういえば、ほむらの話をしていたんだっけ)
ちらりと、ボードの手前にいるほむらの後ろ姿を見る。
綺麗な黒髪。
前を走る煤子さんの、揺れる黒いポニーテールを思い出した。
さやか(マミさんはほむらに敵対心を持ってるけど)
さやか(そこまで悪い奴なのかな)
キュゥべえの姿を探そうと見回すと、白いのはまどかのかばんの上で居眠りしていた。
私もそうやって、堂々と居眠りがしたいよ…。
「美樹、じゃあここ、答えなさい」
さやか「え?3と4?」
「……ん、正解です」
まどか「はい」
箸が摘むは、ぷりぷりした美味しそうな卵焼き。
QB「んあむっ」
それを頬張り、咀嚼もなしに一飲みにしてしまう白猫。
美味しそうな料理なのに味わいもしないなんて、罰当たりな。
さやか「まどか、私にもひとつ!どうかひとつ!」
まどか「えー、私も分だよぉ」
さやか「……じゃあ仕方ない!せめて、よく味わって食べてくれぇ…!」
まどか「な、なんでそんな顔するのー!?」
とまぁ、いつもこのような感じで、まどかの弁当を食べているわけです。
さやか「ありがとう、はい唐揚げ!」
まどか「えへへ……」
私があげるのはいつも唐揚げだ。
当然。だって私の弁当には、唐揚げと白米しか入ってないのだから。
まどか「……ねえ、さやかちゃんは、どんな願い事にしたか、決めた?」
さやか「……」
まどかの顔を見て、箸を休める。
まどか「私、昨日の夜ずっと、色々考えてたんだけど……全然浮かばない、っていうか」
さやか「じゃあ、一緒に満漢全席食べよっか?」
まどか「そ、それじゃつりあわないよお」
さやか「そうだよね、釣り合わないんだよね」
箸を唐揚げに刺して、頬張る。
30回噛んで飲み込むまで、まどかもキュゥべえも黙って私を見ていた。
さやか「満漢全席も、世界一のオールラウンドアスリートも、五千年モノのストラディバリウスも」
さやか「考えたけど、やっぱ命のが大事だったよ」
保温機能の高い弁当箱の中で未だに暖かい白米を、がつがつと口の中に掻き込む。
さやか「ぷふぅー」
まどか「…やっぱり、何事も命がけで打ち込めない大人になるのかな、私」
さやか「……」
まどかの表情は、見滝原に来たばかりの頃のそれに戻っていた。
この憂いと陰りのある顔に、何度悩まされたことか。
さやか「心配ないって、まどか」
まどか「……?」
さやか「大人になってから見つけてもいいんだからさ」
そう。
満漢全席もアスリートも、何だって現実で不可能なわけではない。
人間、諦めなければ何でもできるものだと思う。
夢のために命をかけるだとか、そう焦るにはまだまだ早いと、私は思う。
ぴり、と、空気を伝って張り詰めたものが伝わった気がした。
ほむら「……」
扉の方を向くと、ほむらが立っていた。
けど違う、これは……。
さやか「……」
ほむら「……」
顔を横に向けると、隣の棟にマミさんが立っていた。
ソウルジェムを手にこちらを見守っているようだった。
マミ(あら、わかってた?)
さやか(ええ、なんとなくっていうか……)
マミ(ふふ、ここにいるから、安心して)
まどか(はい)
さやか「魔法少女の話?」
一緒にお昼かもしれない。
ほむら「そうよ」
そういうわけではなかったみたい。まぁ当然か。
ほむら「魔法少女の存在に触れないようにしたかったけど、それも手遅れだし」
さやか「魔女の結界だっけ?私たちがあそこにいったから?……あ」
いや、ちょい待ってみよう。
それは少し違うかな?全部間違ってはいないだろうけど。
さやか「キュゥべえと出会ったからってわけね」
ほむら「……そうよ、」
なるほど。あの時私たちを遠ざけようとしたのは、そんな理由があったのか。
マミさんの言ってたとおりってわけね。
ほむら「それで、」
マミさんがモールの近くにいたのは偶然らしいけど、ほむらはどうしてあの場所に居たんだろう。
いや、それはキュゥべえを追っていたからか。私たちを魔法少女にしたくないわけだし。
あれ、なんか違和感あるな。なんだこれおかしいぞ。ん?
ほむら「どうするの?」
ほむらは私たちに魔法少女としての素質があることに気付いていた。それは学校で出会った時からだと思う。
私に意味深な話をしてきたり、まどかに対しても、きっと何かアプローチをしてきただろうから間違いない。
けどやっぱり違和感はある。キュゥべえと契約させないようにするだけなら、脅迫でもなんでもすればいいのに。
そうはせずに、あえてキュゥべえを狙う。随分と私たちにソフトタッチだ。
なぜキュゥべえを?私たちが友達だから?そりゃ考えすぎか。
ほむら「貴女達も魔法少女になるつもり?」
まどか「私は……」
さやか「ねえ、どうしてそこまでして、私達に魔法少女になってほしくないの?」
ほむら「…」
表情は固まったままでわからない。
けれど言葉を受けて、口を閉ざすような奴ではなかったはず。
ほむら「そいつを消して済むのなら……それが楽だから、よ」
さやか「……」
歯切れは悪かったけど、嘘を言っているようには見えない。
けれど答えてもいない。
さやか「私達を魔法少女にしたくない理由は何?」
ほむら「……」
目が泳いだ。私ってばこういうのだけは見逃さない。
……ん、泳いでいたわけじゃなかった。
ほむらは“見た”んだ。隣の棟にいる、マミさんを。
そしてそのジェスチャーがある意味で、気持ちの片鱗を語った。
ほむら「危険だからよ」
きっと嘘じゃない。けどそれだけじゃないことを、私は薄々感じている。
ほむら「ねえ、まど……」
まどか「え?」
ほむら「……いえ」
ほむら「さやか、昨日の話、覚えてる?」
さやか「昨日の……」
――貴女は自分の人生が、貴いと思う?
――家族や友達を、大切にしてる?
そう、こういうことだったわけだ。
だからあえて訊いたのだ。キュゥべえと出会うことを、ある程度想定して。
さやか「それを守るためなら、天秤にかける自分は遥かに軽い、っていう話よね?」
ほむら「……貴女がそうだとしても、今とは違う自分になろうだなんて、絶対に思わないで」
クールビューティの静かな睨み。おお、怖い。
ほむら「でないと、全てを失うことになるわ」
振り返り際に苦虫の脚を食ったような顔を半分見せて、ほむらは屋上から去ろうとする。
まどか「ま、待って」
ほむら「……」
まどか「ほむらちゃんは……どんな願い事で魔法少女になったの……?」
ほむら「……貴女もよ、鹿目まどか」
半分開いたドアへ、ほむらは消えていった。
授業も終わり、待ちに待った放課後。
学校の固い椅子は、さやかちゃんのやわらかヒップには合わないのですわ。
さやか『マミさんの魔女退治見学、いきますか!』
まどか『うん!』
よし、と意気込んで、剣道用具を詰め込んだ鞄を肩にかける。
まどか「……部活?」
さやか「ううん?」
まどか「……」
もってくんだ……と、まどかの顔が優しげに呆れていた。
本当は顧問に謝ろうと思って持ってきたんだけど、勇気が出ないのでやめておいたのである。
仁美「あら、さやかさん、部活へ?また明日」
私の姿を見た仁美は朗らかに手を振って去ってゆく。
一緒に帰れない言い訳をせずに済んでよかったけど、部活復帰しなくてはならなくなったのではないか、これは。
さやか「ま、いっか」
まどか「何が?」
「暁美さん」
「今日こそ帰りに喫茶店寄ってこう」
教室の片隅では、支度を済ませたほむらに再び女子が群がっていた。
やっぱり可愛い子には、何度かのアプローチをかけるようだ。
ほむら「今日もちょっと、急ぐ用事があって……ごめんなさい」
けどもうそろそろ、ほむらを誘うことも諦めそうである。
本人の意思だしとやかく言うことではないんだけど、このままいくと、彼女は孤立してしまいそうだ。
自分からそうなろうとしているんだろうけど……。
さやか(友達想いなんだか、違うんだか)
まどか「さやかちゃん?」
さやか「ごめん、行こっか」
約束の場所は、マミさんと初めて会ったモールのファストフード店だ。
早めに向かって、わかりやすい席で待っていよう。
マミ「あら、来たわね、こっちよ」
ショップに入ると、既にマミさんは座っていました。
ちょっと早くないですか、マミさん。
まどか「遅れてごめんなさい」
マミ「いいわよ、まだ約束の時間でもないしね、私が早く来ただけよ」
さやか「あはは、次からは30分前に来てテーブルを掃除してます」
まどか「体育会系とはちょっと違うんじゃないかな、さやかちゃん……」
小腹満たしに頼まれたバーガーを小突きながら、今日これからの本題へ突入する。
マミ「さて、それじゃ魔法少女体験コース第一弾、張り切っていってみましょうか、準備は良い?」
さやか「おう!」
まどか「は、はいっ」
マミ「ふふ、良すぎるくらいね」
さやか「そうだマミさん、ちゃんとこんなのも持ってきたんですよ、ほら」
鞄からずるりと取り出す、一本の竹刀。
さやか「聖剣ミキブレード」
まどか「本当にセット持ってきたんだね……」
さやか「何も無いよりはマシかなって思って」
マミ「まあ、そういう覚悟でいてくれるのは助かるわ」
けど何故に苦笑いなんです?マミさん。
さやか「まどかもそんなのほほんな顔してるけどー、何か持ってきたの?」
まどか「え、えっと、私は……」
躊躇の表情。
だんまりではなく焦燥。意味はわからないが、何か持ってきたようだ。
まどか「笑わないでね?」
さやか「うむうむ」
マミ「何かしら、ふふ」
マミさん既に笑ってます。
開かれるキャンパスノートならぬ、キャンバスノート。
昨日迷い込んだ魔女の結界とタメを張れるほどファンシーで、パステルな世界が、ここに広がっていた。
そこには魔法少女姿のマミさん、そして……やたらとキュートでプリティな意匠のまどかがいる。
マミ「うふふっ」
さやか「あーっはっはっはっ!」
まどか「えっ、ええっ!」
マミ「ご、ごめんなさい、意気込みとしては十分ね」
まどか「ひ、ひどいですよお」
さやか「あはは、いやぁー、でも良いんじゃないこれ」
まどか「本当に思ってる!?さやかちゃん!」
怒った顔に一切の迫力を感じないところはお父さん譲りなのかもしれない。
さやか「いやぁ、うん、もちろん思ってるって!」
まどか「怪しい!」
さやか「形から入るのは大切だしさ!何だってね!」
まどか「…ぅう」
型を覚えずに剣道をやってきて強くなった私の、心からの本音だった。
形から、っていうのは、意外と大事。
学業から非日常への転換。
休憩と覚悟は終わり、私たちは町へ出た。
先頭にマミさん、その後ろを私とまどかが着いてゆく。
マミ「これが昨日の魔女が残していった魔力の痕跡」
黄色い光を発するマミさんのソウルジェム。
一定間隔で灯りは幻想的に、ぼんやりと明滅する。
マミ「基本的に、魔女探しは足頼みよ」
さやか「……この光が早く点滅すると」
マミ「そう、魔女が近いってわけ」
さやか「うひゃー、大変ですねえ」
ガイガー片手に探しているようなものだ。
広い見滝原を、こんな途方も無い方法で探すだなんて。
マミ「こうしてソウルジェムが捉える魔女の気配を辿ってゆくわけ」
さやか「地味ですね……気が遠くなりそう……」
マミ「ふふ、そうね……でも近くに魔女がいないっていうのは、とても良いことなのよ」
それもそっか。
さやか「光、全然変わらないっすね」
マミ「取り逃がしてから、一晩経っちゃったからね」
もう随分と歩いて、空も茜の気配を帯びてきた。
さやか「まどか、脚大丈夫?」
まどか「うん」
やっぱりまどかも疲れているようだ。
足取りもどこか重く、歩くたびに踵を擦りかけている。
マミ「魔女の足跡も薄くなってるわ」
さやか「まだ遠いのかぁ……」
まどか「あの時、すぐ追いかけていたら…」
マミ「仕留められたかもしれないけど、あなたたちを放っておいてまで優先することじゃなかったわ」
まどか「ごめんなさい」
マミ「いいのよ」
あの時追いかけていれば。ほむらの事もあるのだろう。
彼女がいてもいなくても、私たちはお荷物だったというわけだ。
言い方が悪いか。
さやか「マミさん、あの時は本当にありがとうございました」
マミ「ふふ、改まらなくても」
さやか「いえ、こういう大事なことは、心から感謝したいです」
マミ「……やだ、ちょっと気恥ずかしいわねっ、ふふ」
先を歩くマミさんの歩調が、少しだけ速くなった。
さやか「マミさん」
マミ「何かしら」
さやか「ソウルジェムの灯りだけじゃなくて、他に探す手立てっていうか、目星とか、無いんですか」
マミ「見当をつける、って意味では、探す場所を最初に絞ることができるわ」
マミ「住宅地なんかではあまり見ないけど、人が多い繁華街や、逆に人気の無い廃墟では多いかな」
さやか「繁華街、廃墟……」
マミ「両方とも人の感情に大きく影響される場所だからね」
なるほど。なんとなく、フィーリングでわかったので頷いておく。
マミ「交通事故、傷害事件…人あるところには魔女がいるもの」
マミ「そこがひとまずは最優先になるけど、いなければ人気のない所を探すわ」
まどか「はぁー……」
斜陽が影を伸ばしてゆく。
寂れたビル街には通行人もいない。
工場と小さな廃屋が並ぶ、ちょっと気味の悪い所だ。
見滝原に住んでいても、なかなかこんな場所にまで来ることは無い。
まどか「ここに魔女、いるのかな……」
マミ「反応は強くなってるわ」
まどか「本当だ」
さやか「!」
手の上のソウルジェムを見る。
点滅の強さは劇的な変化だったが、嫌な予感に上を向く。
それは髪と裾を風に揺らす影だった。
人。
屋上に見えた全体像に、見下ろしているわけではないということはすぐにわかった。
さやか「マミさん、上に人が!」
マミ「!」
指で示した先には、若いOLが足元をふらつかせている。
あんな高い場所にいるというのに、目は地平線だけをぼんやり眺めている。
正気の沙汰とは思えない。
まどか「あ、危ない……!」
周りを見る。
コンクリートの地面。オフィスビルは高い。落ちれば即死だ。
持ち物は竹刀、剣道セット、制服、携帯……何も使えない。
。
さやか「マミさん!」
マミ「任せて」
黄金の光がマミさんを包み、輝き収まる前に、魔法の帯はビルへと伸びた。
柔らかなリボンはOLさんの落下を受け止め、緩やかな動きで地上へ降ろした。
まどか「マミさん……」
マミ「大丈夫、気を失っているだけよ」
さやか「……よかったぁ」
眠るような表情。落ちる最中で気絶してしまったんだろう。
さやか「可愛そうに」
髪を撫で、整える。血色の悪い人ではなかった。
さやか「……ん、マミさん、首もとになにか」
マミ「魔女の口付けね、やっぱり」
さやか「魔女の口付け?」
マミ「魔女が人につける、……標的の印、みたいなものよ」
さやか「……」
口付けをさする。
マミ「この人は気を失っているだけ、大丈夫、行きましょう」
さやか「……はい」
この人は、今まさに死にかけた。
私はそのことを噛み締め、廃屋に歩を進めるマミさんの後を追った。
マミ「準備は良い?」
まどか「は、はい」
さやか「……」
まどか「……さやかちゃん?」
マミ「美樹さん、どうかした?」
さやか「あ、いえ、なんでもないっす」
竹刀を握る手に力が入りすぎていた。
いけないいけない、こんな精神じゃ。
常に平静な心を保つんだ。取り乱さず、悲観せず、後悔しない。
そのためによく考え、よく見極め、自己を貫く。
私は大事なことを教わったじゃないか……。
ばちん、と両掌で頬を叩き潰す。
マミ「あう、美樹、さん?」
さやか「さっきのがちょっとショックでした、もう大丈夫……行きましょう」
マミ「……ええ、そうね、早く片付けてしまいましょう」
私はマミさんの後に続き、奇妙な鏡のような空間の裂け目に踏み込んでいった。
まどか(…さやかちゃんはいつも自分に正直で、自分のことをよくわかってる)
まどか(マミさんには、きっとさやかちゃん、不安定なように見えたのかもしれないけど……)
まどか(……きっと、自分に漠然と、鈍感なだけで……私のほうがもっと、不安なんだ)
まどか「ふわぁー……」
赤と黒のマーブル模様が空を流れる。
他にもこの空間を言い表す言葉はいくらでもあるんだけど、中止すればするほど眼がチカチカする……。
さやか「あ」
風景の中に、ひときわ動きの強いものを見つけた。
それは真っ白な体、立派な黒いお髭の……。
さやか「まどか、下がって!」
まどか「えっ!?」
左手でまどかを押しやり、前に出る。
ぐちゃぐちゃの茨の壁の上から、蝶の翅の使い魔が飛んできたのだ。
右手に握った竹刀の先を使い魔の額のやや上に合わせる。
左手を沿え、小指から順に握る。
私の精神はそこで落ち着いた。飛んでくる未確認生物が、ただのボールのようにも思えた。
正面から飛んでくるボールは速球かもしれないし、変化球かもしれない。そのどちらでも構わない覚悟はできた。
精神的には相手をギリギリまでひきつける。反面、体はすり足で前に出た。
相手がいつ軌道を変えるかわからない、ならば早く前へ。
そして叩くならば、より強く。
相手側の五十の速さだけで叩くよりも、こちらが近づく五十の速さを合わせ、百で叩くんだ。
さやか「……!」
私は前へ踏み込んだ。声は出さない。
この激しさはまだ、剣だけに込められる。
踏み込みと同時に竹刀が上へ上がる。
切っ先が、時計回りに正面から来たる相手を避ける。
崩れた右の下段が形作られた時には、髭のボールはカーブ気味に軌道を逸らし、私の左肩を狙っているらしかった。
そこは既に、私の切っ先が届く範囲。
さやか「ハァッ!」
斜め下からの型破りな袈裟斬りが炸裂した。
さやか「……」
手ごたえだけでも、空を斬ったことはわかった。
マミ「無茶をしては駄目よ?」
さやか「あー……」
振り向けば、ジェームズ・ボンドのように自然体でマスケット銃を構えるマミさんが。
さやか「ごめんなさい」
マミ「けど、私が気付いていなかったら……そう考えると、良かったわ、美樹さん」
さやか「……へへ」
竹刀を下ろす。
剣を振って怒られることはいくらでもあったけど、ほめられたのは久しぶりだ。
マミ「けれど、普通の竹刀では2体目で折れても不思議ではないわ……魔女と戦うには、魔法少女の力がないとね」
の黄色いリボンが竹刀をしゅるりと包み込み、輝く。
マミ「気休めにはなるけれど、私のそばを離れないでね?」
さやか「おおっ」
まどか「わぁ」
リボンがほどけた後の私の竹刀は、綺麗な白磁の模造刀へと進化を遂げていた。
さやか「す、すごいすごい!ミキブレードが真の姿にっ!」
金の装飾もゴージャスで綺麗。西洋の偉い騎士が持っている剣よりも、よっぽど強そうに思えた。
マミ「どんどん先へ進むわよ」
さやか「はい!」
まどか「は、はいっ」
強くなった竹刀を意気揚々と強く握り締め、マミさんのあとをついてゆく。
戦うマミさんの姿は、美麗。その一言に尽きた。
長いマスケット銃を取り回し、引き金を引けば、必ず一匹の使い魔を打ち抜いた。
近づきすぎた(それでも3mは外の)敵は、マミさんから伸びるリボンによって切り裂かれる。
昔やったゲームの、ラスボスを倒したときに使えるようになるキャラクターを思い出した。
使えば無敵。そんな光景だった。
マミさんが一体の敵を打ち抜くごとに、私の剣を握る手はどんどん弛緩する。
それは美しい戦いに見惚れているところもあるかもしれない。
けどもう一方で、あまりにも無力すぎる自分に脱力していたのかも、しれなかった。
さやか(……って、バカだよね)
剣を習ってから、この道では一端なりの自信があった。
物理的な強さをある程度舐めたつもりでいたのだ。
事実、いざとなれば、襲い来る悪漢から誰かを守れるくらいにはなっていたのに。
魔法少女、そして魔女。この二つが関わっただけで、私の剣術なんて、とんでもなく無力な存在だった。
どこかで役に立てると、心の片隅で思っていた自分がバカらしくなる。
まどか「さやかちゃん……?」
さやか「ん?どした?」
まどか「ん……なんでもない」
マミ「そろそろ最深部よ、しっかりね」
マミ「見て、あれが魔女よ」
廊下の先には、広い空間が広がっていた。
ここまでの道のりも随分荒れ放題ではあったけど、さすがにここから飛び降りることはできないだろう。
魔女「うじゅじゅじゅ……」
さやか「げっ……」
空間の中央で鎮座していたそいつは、使い魔とは比べようもない巨躯の、どろどろした頭の“何か”だった。
おそよ一言、二言では説明のしようがない、混沌たる姿。
さやか「グロ……」
そんな表現で落ち着いた。
まどか「あんなのと戦うんですか……?」
マミ「大丈夫」
けれど、マミさんの表情は今までとなんら変わらず、何より一層の自信が浮かんでいるように見えた。
マミ「負けるもんですか」
単身、マミさんは空間へと降り立った。
前へ前へ、魔女に近づいていく。マミが歩み寄るにつれ、魔女の体躯の大きさがはっきり見えてきた。
あれは……相当デカい。
私が握る剣でどうにかできるレベルの相手でないことは、本能的にわかる。
まどか「マミさん……」
まどかが私の服を掴む気持ちも良くわかった。
マミ「さあ、始めましょうか?」
靴が小さな使い魔を踏み潰したそれが、戦いの始まりだった。
魔女「うじゅじゅじゅ!」
相手からしてみたら、ちゃぶ台をひっくり返すくらいの労力なのかもしれない。
けど人にとってその“椅子の放り投げ”は、金属コンテナの投擲並みのダイナミックさと、死の気配を感じさせた。
マミ「甘いわね」
私たちの方が心臓を鷲掴みにされた気分だったが、マミさんはこの空間で一番穏やかな心の持ち主だった。
人には不可能な高さで跳び、すばやくリボンを展開してマスケット銃を取り出す。
数は4挺、うちの二本を掴み、手を伸ばすと同時に撃ち放つ。
光弾は緑色のゲル状の頭にクリーンヒットし、その様は高速道路トラックが大きな水溜りを踏みつける場面を想像させた。
さやか(……けど)
マミ「効かないか」
魔女の頭部が再生していく。
ゲル状の頭は、裂傷も刺傷も関係なく修復するだろう
一発目のマスケットを棄てて、二発目を握ったマミさんは、その狙いを近づく使い魔たちに変更。
空中で冷静に狙いを定め、着地と共にすばやく場を変える。
マミ(頭が駄目なら胴体だけど?)
円形の戦場を駆け、魔女からの茨攻撃を避けるマミさん。
その間にも彼女のリボンは、場に張り巡らされていた。
蜘蛛の巣。そう見えた。
マミ「そろそろ私に手番を下さる?」
走るマミさんが、張られたリボンの一端を掴み、引っ張った。
するとどうなっていたのか、連動するようにして空間の天井が崩れ、その真下の魔女へコンクリート片を落下させる。
人間なら即死だったかもしれない落石。けれど魔女はまだ生きている。
さやか(あ、そうか)
違う、それだけじゃない。
マミさんは引き抜いたリボンを、次々にマスケット銃へ変えてゆく。
その数6挺。
マミ「行くわよ」
リボンが4挺のマスケットを真上に跳ね上げる。
銃に気を取られた魔女が、頭を上へ持ち上げる。
全ては計算済みだ。
マミ「そこ」
ドウン、ドウン。
二発は容赦なく、魔女の胴体に叩き込まれた。
頭部とは違い、真っ白な衣のような胴体には、固形の弾痕が刻まれた。
魔女「ビギィイイイイ!」
さやか「効いてる!」
まどか「マミさんがんばって!」
マミ「いけるわね」
激昂する魔女の攻撃の手は強まる。
四方から迫る茨を避け、マミさんは攻撃の隙を伺っているようだ。
だが魔女も魔女。隙を見せなかった。
ゲル状の頭部をマミさんの方向から離さないのだ。
頭を盾に、体を守っている。
最初は露骨な動き隠すために自然体でいた魔女だけど、ついに本性を現したのだ。
魔女「ギィイイイイイッ!」
茨の攻撃は休むことを知らない。
鞭のようにしなり、マミさんのいた空間を強く叩き、床を砕く。
防戦一方のようにも思えた。
さやか(……けど)
マミ「忘れたのかしら、まだ四つも撃ってない」
逃げ回るだけのように見えたマミさんが、不意にリボンを伸ばした。
リボンは魔女の茨を一本を断ち切り、かつ、まだ伸びる。
そうして地のスレスレ、床に落ちかけたマスケット銃4つをキャッチする。
リボンは器用に絡まり、銃を固定し、引き金すらも締め付ける。
魔女「……!」
魔女が顔を動かす前に、光弾はマミさんとは全くの別方向から放たれた。
魔女の体がびくりと跳ねた。
4発全てが胴体に命中。その衝撃によるものだった。
マミ「やったか」
さやか「あ、それだめ……」
一瞬は沈黙した魔女が飛び起きる。
マミ「きゃっ」
それだけで、辺りに飛び交っていた“無力”だと思われていた使い魔たちが群れになり、列を成し、それが黒く細い茨となってマミさんの足元を掬い取った。
宙吊り。そんな、絶望的な体勢。
まどか「マミさーん!」
マミ「なーんてね」
円形の戦場に張り巡らせたリボンが、意思を持ったように動き始めた。
互いに空中で蛇行し、亀甲縛りを形成しながら魔女のほうへ狭めていく。
マミ「未来の後輩に、あんまり格好悪いところ見せられないもの」
魔女「ギッ……!」
さやか「すごい……!」
黄色いリボンのフェンスはあっという間に、容易く魔女を床に拘束してみせた。
マミ「惜しかったわね」
いつの間にか足に絡まる茨を切り離したマミさんが宙で返る。
そしてリボンを手にし、本日最大の大技を展開して見せた。
螺旋を、筒を描くリボン。
光り、形を成す。
それはまさに大砲。
そんなものを空中で、どうやって撃つつもりなの?
マミ「ティロ……」
抱えてる……。
マミ「フィナーレッ!!」
言葉と共に勢い良く落ちたハンマーが魔法の火花を散らし、筒は光線を吐き出した。
光の砲弾はまっすぐ魔女の背中か腹部かを貫き、一瞬それが膨らんだかと思いきや、爆発した。
デフォルメされたバラの花びらが空間を舞う。
砕けた茨が散る。
ティーカップとコースターが落ちた、そこには――
マミ「ふう」
余裕の、一息。
マミ「……ふふ」
さやか「!」
そして、どこまでも優美な笑顔だった。
まどか「すごい…」
さやか「……」
異空間は掠れて揺らぎ、もとの寂れたオフィスへと変わる。
と共に、宙から小さな石が降りてきた。
まどか「これは……」
マミ「これがグリーフシード、魔女の卵よ」
さやか「卵……」
つまりは魔女の大元だ。
マミ「運が良ければ、時々魔女が持ち歩いてることがあるの」
さやか「運が良ければって……」
QB「大丈夫、その状態では安全だよ。むしろ役に立つ貴重なものだ」
まどか「そうなの?」
マミ「ええ、何に役立つかっていうと……」
マミさんが自分のソウルジェムを小さく掲げて見せた。
マミ「私のソウルジェム、夕べよりちょっと色が濁ってるでしょう?」
さやか「そうですね」
どこか黒い色が混ざっているようにも見える。
光の象徴のように輝く黄色の中に沈む黒は、どこか妖しく、不吉だ。
マミ「でも、グリーフシードを使えば、ほら」
さやか「あ、キレイになった」
マミ「ね?これで消耗した私の魔力も元通り、前に話した魔女退治の見返りっていうのが、これ」
ソウルジェムをグリーフシードで浄化、魔力を回復させる。
魔力が無くなったらどうなるんだろう。魔法が使えない?
ひゅ、と、マミさんの投げたグリーフシードが空を切った。
もしやそれも魔法少女に必要な儀式か何かだろうか?とそちらへ顔を向けて、理解する。
ほむら「……」
グリーフシードを受け取ったほむらが、建物の影から姿を出す。
魔法少女の姿は少なからず、私たちに緊張を与えた。
マミ「あと一度くらいは使えるはずよ、あなたにあげるわ、暁美ほむらさん?」
ほむら「……」
マミ「それとも、人と分け合うのは不服かしら」
ほむらは不機嫌そうに眉を吊り、まどかは私の腕にすがった。
マミさんは明らかにほむらを敵視している。
私はほむらの心境を想った。
少しだけ、切なくなった。
さやか「ちょっと待ってください」
考えるよりも先に体が動いてしまった。
やってしまった、と思った。
マミ「どうしたの?危ないわよ、美樹さん」
ほむらとマミさんの間に割って入った私への、真剣な注意だった。
その本気が冷たく、私は嫌だった。
だって二人の間にいることがいけないということは、危ない何かが行われる……かもしれないから。
わかってる。だからこそ嫌だった。
さやか「だって、そんなのおかしいですよ、確かにほむらはマミさんの友達のその、キュゥべえを虐めたかもしれないけど」
QB「事実だよ」
さやか「だけどそれは私達の身の安全を考えてたからこそなんじゃ、ないですか」
ほむら「……」
マミ「楽観しすぎよ……もしそうなら、魔女が現れる前にキュゥべえを攻撃なんてしないもの」
そもそもこの子を傷つけるなんてやりすぎだけどね、と付け加えた。
鋭い目のマミさんは怖かった。その魔法少女の姿も威圧感があった。けれど、私は引き下がるわけにはいかない。
さやか「攻撃しなきゃいけない理由があったんでしょ?ほむら、」
ほむら「……」
さやか「うん……そうだよ、だって私達を魔法少女にしたくないなら、わざわざキュゥべえでなくても、私達自身をどうにかすれば良いんだもん、でしょ?」
ほむら「!」
ほむらのまぶたがわずかに動いた。
反応があるということは!
さやか「ねえほむら、」
ほむら「話すことは何も無いわ」
カチッ
さやか「え!?」
マミ「!」
まどか「あ、あれ?」
忽然と、ほむらの姿は消えてしまっていた。
まるで、そこにいたのが嘘であったかのように。
「……あれ、私は……?」
目を覚ましたOLさんが額に手を当て、熱を探る。
「や、やだ、私、なんで、そんな、どうして、あんなこと……!?」
マミ「大丈夫、もう大丈夫です」
こうして、今日の魔女退治見学は、ハッピーエンドで落ち着いたのであった。
誰も傷つかなくて、本当に良かった。
さやか(けど……)
心残りはある。
孤立したほむらだ。
部外者の私がこんなことをいうものではないけど、それでもどこか切なくなる。
どうしてだろう。
マミ「ちょっと、悪い夢を見てただけですよ……」
OL「ぅぁあっ……私っ……!」
まどか「……ふふっ、さやかちゃん、帰ろっか」
さやか「そう、だね」
一件落着、なんだろうか。
私の胸の奥につかえた違和感は、結局最後まで取れる事はなかった。
……あ。
竹刀、消えちゃったよ……。
部活、もうだめだなぁ……いや、最初からあんまり乗り気じゃなかったけどさ……。
† 8月7日
煤子「はい」
さやか「ありがとうございます!」
煤子さんの待つベンチを訪れる度に、近くの自販機で買ったらしい冷たいジュースをくれた。
夏の灼けた道を歩いてきた私にとっては、今や安っぽいスポーツドリンクも、それまで流した汗を全て補ってくれる命の水だった。
邪推をしてみれば、それは煤子さんが私を呼ぶための理由のひとつだったのかもしれない。
けれどあの時の私は、今の私もそうだけど、決してジュースのためだけに、毎日あそこへ通っていたわけじゃないんだ。
煤子「今日も暑いわね」
さやか「そーですね……」
ぱたぱたとシャツで仰ぐ煤子さんの姿が、何故かとても大人っぽく見えた。
いつか絶対に真似しよう。真似できるようなかっこいい女の子になろうと思った。
さやか「てやっ」
煤子「ふふ、甘いわよ」
ちゃんばらごっこ。
当時は男の子に混じってよくやっていた遊びではあったけれど、煤子さんと出会うことで、それは遥かに高い段階へと昇華した。
煤子さんが用意してくれた軽くて柔らかめの素材でできた木刀を振るい、打ち込む。
煤子「ほら、足がもたついてる、1・1・2よ、さやか」
さやか「うーあー!脚の動かし方よくわかんないよー」
ばっばっと激しく動いてズバッと決めるのが強いの思っていた私の苦悩だった。
当時は小学生だし、それも仕方ない。
煤子「じゃあさやか、次はさやかが私の打ち込みを受けてみなさい」
さやか「?」
煤子「私は1・1・2の動きで攻めていくわ」
さやか「へへん、煤子さんの教えてくれた動きなんて怖くないよーだ!」
煤子「あら、そうかしら?じゃあ今から打つわよ?」
さやか「いつでも来いだ!」
煤子「良いでしょう」
タイルを強く擦る音が聞こえ、私は身構える。
煤子「やッ!」
私は身構えていたというのに、剣も正面に構えていたのに。
煤子さんのその動きは、目で追いきれるものではなかった。
さやか「痛あっ!?」
今日習ったばかりの動きをお手本通りに取り入れた攻撃は、私の脳天へ綺麗に決まったのだった。
安いカップアイスを食べながら、木陰のベンチで一息。
煤子さんの隣は落ち着く。
煤子「習ったことや経験したことは、よく実践しないとダメよ」
さやか「ふわぁい」
煤子「上辺だけで理解してはいけない、無知は罪、共感できないものでも、よく考えないと、自分のためにならないの」
こうしてほぼ毎日、煤子さんは私に対して言葉を贈ってくれる。
半分わかっていなくてもそれを聞くのが、私の日課だった。
ちゃんばらごっこをして、走って、勉強して、お話して。
当時はそれら全てが私を大きく育ててくれるだなんて思っていなかった。
ただただ、お母さんのように優しく、お父さんのように厳しく、真剣に私と向き合ってくれている煤子さんと一緒にいるのが楽しかったんだ。
自転車を押して、煤子さんの背中で束ねた長い黒髪の揺れを見るのが。
時々俯く煤子さんの麦藁帽の中を覗き見るのが。
その年の、ううん、人生の、私の最高の思い出だったんだ。
† それは8月7日の出来事だった。
今日は日曜日だ。
さやか「……」
懐かしい夢を見た。
最近は良く見る、煤子さんとの日々の夢。
どうしてだろう、思い出してしまうのだ。
最近、どうしてかな……。
さやか「お?」
ふと、頭の中で二つのかけ離れたピースが結びついた。
そういえば、煤子さんとほむら、よく似てる気がする。
雰囲気は煤子さんの方が断然柔らかくて、髪も結んでいたけど、似ている。
さやか「……」
煤子さんとは一ヶ月くらい、ほぼ毎日会って、一緒に遊んでもらったり、色々なことを教えてもらっていた。
子供の一ヶ月は長い。その中の出来事全てを覚えているわけではない。
さやか(でもほむらの顔、煤子さんとそっくりだよなぁー…?)
暁美 煤子。
さやか「お姉ちゃんなのかな」
だとしたら?
さやか「……」
煤子さんは病気に罹っていたと聞いた。
別れ、消息を絶ってからは一度も会っていない……。
さやか「……」
もしも煤子さんがほむらのお姉ちゃんなのだとしたら。
煤子さんは……ほむらのお姉ちゃんは……。
毛布を跳ね上げ、パジャマを脱ぐ。
私服に着替えて、……ああそうだ、携帯を開いてなかった。
着信なし。うん、なるほど。
今日の予定は特に無し、ってことだ。
さやか「……煤子さん」
そう。
思えば、煤子さんとほむらは瓜二つ。
接点なんて少しもないかもしれない。
推測なんておこがましい。私のただの想像にすぎない。
さやか「……けど、あの人に少しでも近づきたい」
また会いたい。
会えなくても、彼女の片鱗に触れていたい。
燻っていた心に火が点いた。
さやか「行ってくるっ」
私は走り出した。
あの場所へ行くには、坂を上らなくてはいけない。
その前にちょっとだけ走る必要もある。
小さな子供の基礎体力を作るには丁度良い距離だし、車も通りにくい絶好のコースだ。
それに今更気付いた。
さやか(あれから……)
煤子さんと別れてからは、この道を走っていない。
あの日々では嫌になるほど走った道なのに。
理由はわかる。走るとあの人を思い出し、切なくなってしまうのだ。
だから私はコースを変えたのだ。
背の高い林。
30分に1台の自転車が通る曲がり角の、5人分のベンチ。
さやか「……」
いるはずがないのに、そこへたどり着いた私は落胆した。
誰もいないベンチの上には、誰かが置いていった缶コーヒーがある。
振れば、中身は無かった。
さやか「そりゃ、そっか」
缶をゴミカゴに放り投げて、ベンチの上に横になる。
さやか「…」
日を透かした広い葉。
薄く延びた雲。
まるで、あの頃に戻ってきたみたい。
さやか「……よし!」
ノスタルジックになる前に決心した。
さやか「ここに来ても手がかりなんて無い、ほむらを探そう」
私の中にある唯一の手がかりはここだけ。
あとはほむらのことなど、一つも知らない。
けれど、休日にじっとしていられるほど私は我慢強くない。
99%無駄なことだとしても、1%の無駄じゃないかもしれない事のために行動することも、時には必要なのだ。
さやか「何故なら今日は、暇だからー!」
私は一人笑いながら坂を駆け下りた。
ほむらを思い出す。
自己紹介らしい自己紹介はなかった。
わかるのはその姿と、優秀さと、胡散臭さ。
転校生なんて二日も経てば何かしらわかるはずなのに、好きな食べ物も趣味もわからない。
魔法少女だっていうことくらいしか……。
さやか「あ?」
人気のない道の途中に立ち止まる。
そうだ。ほむらは魔法少女じゃないか。
蛇の道は蛇に聞くべきでしょう。
さやか「……えー、ごほん」
まずは咳払い。
さやか「……きゅーうべー……」
ぼそりと声に出して呼んでみた。
しかし、現れない。
さやか「……願い事決まったよー……」
QB「本当かい?」
さやか「うっひゃあ!?」
さすがに腹の底からびっくりしましたよ。
さやか「す、すす、すごいねキュゥべえ、ていうかどっから沸いたの?」
QB「呼ばれたから来たのに、僕は虫か何かかい?」
さやか「ごめんごめん」
キュゥべえのふわふわな体を持ち上げ、肩の上に乗せる。
猫くらいの重さはあるかな、と思ったけれど、意外と軽い。ハムスターでも乗せているような気分だった。
さやか「悪いねキュゥべえ、ちょっと聞きたいことがあってさ、願い事が決まったわけじゃあないんだ」
QB「なんだ、残念だな」
残念そうな声だけど、顔は相変わらずの無表情だ……。
さやか「ねえキュゥべえ、ほむらがどこにいるか知らない?」
QB「ほむらを呼ぶために僕を呼び寄せたのかい?」
さやか「いやーほんとごめん、通信士だと思ってさ!」
QB「テレパシーの中継役も同じようなものだけどさ……残念だけどさやか、それはできないよ」
さやか「え、なんでー」
キュゥべえを両手に持ち、とぼけた顔を正面に見据える。
QB「僕が通信士というのは良い喩えだよさやか、向こうが僕のテレパシーを受け取ろうとしなければ、何の反応も掴めないんだ」
さやか「着信拒否?」
QB「電源を切っているといっても良いかもね」
さやか「音信不通かぁ……」
行く宛てがないので走るわけにもいかない。
仕方が無いので、無用の呼び出しを食らったキュゥべえと並んで、日曜の閑静な道を歩く。
QB「ほむらと会って、どうするつもりだい?」
さやか「んー?どうするって、話すだけだよ」
QB「あんまりお勧めはしないよ……」
さやか「なんでさ?」
QB「彼女はイレギュラーだよ、僕は暁美ほむらと何の契約も交わしていないのに、紛れもなく魔法少女なんだ」
ん?と、私の上に思考の低気圧が生まれる。
さやか「キュゥべえ、ほむらと契約してないの?」
QB「うん、何故彼女のような魔法少女がいるのか、まったくわけがわからないよ」
さやか「……」
QB「だからほむらには注意したほうが良いよ、さやか」
しばらくは雲を見上げながら歩いた。
上の空で考えるために。
マミ「あら?」
QB「やあ、マミ」
さやか「こんにちは、マミさん」
手がかりひとつ掴めなかった私は、寂れたケーキ屋の手前でほむら捜索を諦めた。
月曜日がやってこないわけじゃないのだ。
当たり前の日々のサイクルを、甘いものと一緒に摂取しようと考えたのだ。
陳列されたケーキを見た私はマミさんの部屋のキッチンにバニラエッセンスの瓶があったようなことを思い出し、そうだマミさんちに行こうということで、やってきたのだった。
そりゃあもちろん、ケーキを見てマミさんの部屋で飲んだ紅茶の味を思い出したということもあるんだけど…。
マミ「うふふ、日曜日はさすがにいいかなとも思ったんだけど、どうしたの?」
さすがにいいかな、とは魔女退治のことだ。
普通の休日にまで気を張ることはないというマミさんの配慮から、今日は魔女退治見学は無しになったのである。
マミ「ん、美味しいケーキね」
さやか「あは、ですね!へへへ」
もんすごくうまい紅茶を啜りながら、美味しいケーキ。
日曜日にピッタリの昼下がりだった。
さやか「細い道にある小さなお店のケーキで、周りのお店に押されて値段が2年くらい前から吊り上がり続けてるんですけど、味は最高ですよ」
マミ「へぇー…見滝原のお菓子屋さんには詳しいつもりだったけど、初耳だわ…」
予想通り、マミさんはデザートが好きらしい。
持ってきてよかったー。
さやか「はい、今日は悪いねぇ」
QB「やった」
というわけで今日の苦労人、キュゥべえ君にも一口おすそわけ。
マミさんは微笑ましく見つめていた。
マミ「暁美さんの居場所?」
フォークを唇に当てて、マミさんの首は傾いた。
さやか「はい、同じ魔法少女として知らないかなって」
マミ「魔法少女同士といっても、わからないわね……魔女の反応をたどっていけば会えるかもしれないけど」
さやか「あ、やっぱり魔法少女同士でもわからないもんなんですね」
マミ「そうねえ、テレパシーの範囲にも限界はあるし、そもそも魔法少女と付き合ったこともそう多くはないから、わからないの」
検証しようと思ったこともないわ、とマミさんは3つめのショートケーキのイチゴを片付けながら言う。
マミ「でも美樹さん、どうして暁美さんに?おせっかいかもしれないけれど、公ではない場所で彼女と接触するのは危険よ」
QB「うんうん、マミからも言ってよ、どうも興味があるみたいで、危なっかしいんだ」
たしなめるような目を向けてきたので、ついつい背けそうになってしまう。
どうしても癖で、しっかり見返してしまうんだけど。
さやか「…んー、マミさん、本当にほむらの事が危なく見えるんですか?」
マミ「見えるわよっ」
QB「きゅぶ」
目の前に白猫が突きつけられる。
さすがにたじろいだ。
さやか「そりゃあキュゥべえがぼろぼろだったのはほむらがやったかもしんないですけど……」
キュゥべえを受け取り、ほっぺをむにむにする。
うにょうにょと皺を作る顔は、表情を持ったようで面白い。
マミ「美樹さん随分と弁護するけど、あれには意味があるっていうの?」
ありそうじゃないですか。なんて口にしたいんだけど、なかなか言える言葉ではなかった。
仕方ないのでガラステーブルの裏面に、皺を寄せたキュゥべえの顔を押し付けてみる。
QB「ぎゅぶぶ」
さやか「チャウチャウ」
マミ「やめなさいっ」
グラニュー糖のスティックでピシャリと叩かれた。
なんとなく、ほむらがキュゥべえをいじめた理由を掴んだ……かもしれない。
マミ「魔法少女は、みんなの日常を守る存在なの」
胸の中のキュゥべえを優しく撫で、マミさんは語った。
マミ「大きな力はつい、振るってしまいたくなるかもしれないけど……それはいつだって、正しい方向で使わなくてはダメ」
マミ「たとえ10回助けられたって、1回の不信を抱けば……守られる側の人は、怯えてしまうわ」
マミ「信用を築くことだって、魔法少女として大切な能力だし……」
逆を言えば、それしか頼れないのよ。
マミさんはそう言った。
命と力に直結する損得勘定。
私は魔法少女の世界での厳しさを知った。
さやか(確かにマミさんの言うとおりだ)
何かある感じがする。きっとそこまで悪い人じゃない。
……そんな曖昧な理由じゃ、背中を見せることなんて、できないんだ。
さやか(じゃあほむらは、一体?)
それはきっと、明日、明らかになるんだろう。
悩みを抱えたまま明日はやってきた。
何の悩みかって?色々あるのです。
部活とか。
まどか「あ、竹刀持ってきたんだ」
教室の中で、一際目立つ竹刀を掲げてみせる。
さやか「うん、予備の一本!これをなくしたらマズイ!」
一昨日の魔女退治に持ち込んだ聖剣ミキブレードは、マミさんの魔法の力によって本物の聖剣へと生まれ変わり…。
そしてなんだかんだで……その、取り残されて消えた。
まどか「剣道部、入るつもりなんだよね?」
さやか「うっ!?その目はなによ!?」
疑わしいと言いたげな、あからさまな上目遣いだった。
けどそれに見透かされているからこそ、私の心は揺らいでいることも明らかなのだ。
さやか「……どうしよっかね、悩んでるんだよ、まだしばらくね」
まどか「どうして?」
さやか「んー……勢いでやめちゃったところもあるんだけど、これからのこともあるしさ」
まどか「あ……」
そう。魔法少女になれば、きっと部活との両立は叶わないだろう。
部活に入りたいとは思う…けど魔法少女になるかもしれないと揺らいでいる以上は、決断をするべきじゃあない。
ならどうして、剣道用具を持ってきたのかって?
……気分です。
音も無く彼女は入ってきた。
ほむら「……」
まどか「あ……」
さやか「うし」
まどか「あ」
長髪をひらりと翻す優雅な様を見て、私の足は勝手に動き出した。
ほむらが自分の席に座ろうとする前に、私もそこへたどり着いた。
ほむら「何」
さやか「いやいや、そんな転校生に圧力かけてるとか、そういうんじゃないから!楽にして訊いてて!」
ほむら「……」
どの道、自分の席の前だ。彼女は自分の席に座りたい。
私は話が長くなるからと座るように促す。
なんとなく、私の話を聞かなくてはいけないモードの出来上がりだ。
ほむら「……聞きたいことって、何」
さやか「んー、ちょっと、ほむらについてなんだけど」
ほむら「部活には入ってないし、シャンプーは普通の石…」
さやか「ああ、そういう自己紹介でするような事でもなくてさっ」
“せっ”というものに多少追求したい気配が感じられたが、後回しだ。
さやか「あのさ」
出したかった言葉。聞きたかった答え。鼓動が早まる。
さやか「ほむらって、お姉ちゃんいる?」
ほむら「はっ?」
珍しい顔で見返された。
素で驚くほむらの表情だった。一瞬、“脈ありか?”とも思ってしまった。
さやか「い、いるの?」
ほむら「いえ……そんなこと聞かれたのは初めてだったから」
さやか「……えっと、ススコ、っていう人、親戚とかでもいない?」
ほむら「ススコ…?いないけれど……」
さやか「そか」
そっか。いないんだ。
さやか「いやぁ、もしかしたらなーくらい思ってたんだけど、勘違いかぁ、ごめんね!」
ほむら「そう……」
いないのか。
他にも、キュゥべえについて聞きたいことはあった。
魔法少女についても、もちろん、ほむら自身のことについてだって、興味は沢山ある。
けど、全ての興味が、根こそぎに流されてしまったんだろう。
私の心に深く根ざしていた、思い出の残り粕と一緒に。
さやか「……」
その日の授業では、ぼんやりと空を眺めていた。
煤子さんのことを考えようとしたけど、理性がそれをやめた。
私の頭の中にかかる霧は晴れず、私の思考回路を迷わせるのだ。
もう、そこへ行ってはならないよ、と。
大人になってしまった子供が、妖精の森に入れなくなってしまうかのように
さやか(……恭介んとこ、いくかな)
ちょっとぶりに、あいつの顔を見に行こう。
買ったCDも聞かせてやらなくちゃ。
今日はマミさんの魔女退治見学。
その前に恭介に会うことにした。
少し遅れると、マミさんには伝えてある。
まどか「上条君喜ぶね」
さやか「うん、だといいんだけどね」
音楽の感性なんて私には備わっていない。
そりゃあちょっとは聞いて耳も慣れたが、恭介に敵う程であるわけもない。
私なんかが選ぶ曲で満足してもらえるかどうか、ちょっと不安だ。
さやか「まあせっかく私が行ってやるんだし!お世辞でも喜んでもらうけどねっ!」
まどか「あはは」
さやか「よっす」
恭介「さやか」
部屋に入ると、来るまでに呆けていたであろう恭介の表情が、少しだけ明るくなった。
荷物をやたら沢山並んでいる椅子のひとつにどかっと乗せ、私は恭介のベッドの端に座る。
恭介「来てくれたんだ、ありがとう」
さやか「そろそろ私が恋しくなる頃かなーって思ってね!」
恭介「あはは、まあね」
さやか「む、そういう大らかな受け止め方されると私が恥ずいだけじゃんか」
それでも朗らかに笑う恭介には内心で安堵し、カバンから例のブツを取り出す。
恭介「これは…」
さやか「そろそろ新曲聴きたいかなって、ね?」
恭介「ありがとうさやか、丁度聞きたいと思ってたんだ」
さやか「嘘ばっかし!」
恭介「ほんとだよ?」
ああ、なんだかんだ。
恭介と一緒にいるのは楽しい。
CDウォークマンのイヤホンを分かち合い、互いに音楽を楽しむ。
視聴したときよりも音質が悪いのは、愛嬌だ。
恭介「……」
さやか「……」
横目に見ると、恭介の目は潤んでいた。
無力感に苛まれている彼の、静かな悲しみが見て取れる。
さやか(恭介の手も、願えば治せるんだろうな)
けど、私がそれを治してどうなるというんだろうか。
恭介が喜ぶ?喜ぶだろう。
でもそれでいいはずがない。
恭介の人生を無闇に操るなんて、そんなことはしたくない。
何よりも、私の願い事は、言っちゃあ悪いんだろうけど、恭介のためだけに使うようなものではない。
使う時が来るとするならば、それは……。
さやか「おまたせっ」
まどか「ん」
前にきつく恭介に言い聞かせてやった言葉がある。
入院して、症状を聞いたばかりの恭介は荒れていたけど、私の言葉で沈静化したと言ってもいい。
けれど最近はどうにも、内に溜めたやるせなさや悲しさが、溢れているようでもある。
さやか「CDじゃ励ましにはなんないよね……」
まどか「? 上条君、まだショックなのかな」
さやか「ショックは和らいだかも、けど受け止めたからこそ、辛いみたいなんだ」
まどか「……そうだよね、冷静になればなるほど、そうだよね……」
音楽に対する考え方を変えようとしても、やはり左手が動かないというのは痛手なのだ。
けど片手では演奏者にはなれない。それが彼の取り組んでいた音楽だったから。
マミ「ティロ・フィナーレ!!」
大砲が魔女を貫く。黒い煙を血の様に噴き出して、魔女は散り散りに消滅した。
まどか「す、すごい」
さやか「どっしぇー……ほんと魔法少女って、見てて飽きないなぁー…」
マミ「もう、見世物じゃないのよ?」
結界は解けて、マミさんは街灯の上から降りてくる。
なるほど、単純な体の丈夫さも飛躍的に上がっているらしい。
さやか「あれ?グリーフシード、落とさなかったんですかね」
まどか「そういえば……」
薄明かりの中、地面にそれらしき物の姿はない。
黒く小さな宝石を捜していると、唐突に白い獣が現れた。
QB「今のは、」
さやか「うわっ、びっくりしたっ」
QB「……今のは魔女から分裂した使い魔でしかないからね、グリーフシードは持ってないよ」
まどか「魔女じゃなかったんだ」
かくいう私も魔女だと思っていた。
魔女か使い魔か。どっちも同じようなもんじゃないのか。その違いは魔法少女にしかわからないのだろう。
さやか「何か、ここんとこずっとハズレだよね」
マミ「使い魔だって放っておけないのよ。成長すれば、分裂元と同じ魔女になるから」
さやか「そうですね」
心の片隅で、人を食べさせれば……と考えてしまったけれど、すぐにやめた。
マミ「さぁ、行きましょう」
マミ「二人とも何か願いごとは見つかった?」
帰り道の質問に、ついぐっと、胸を圧された気がした。
単純な、来るであろう質問なのに。
さやか「んー…まどかは?」
まどか「う~ん…」
我が親友もまだ、願い事を決めかねているらしい。当然だろう。
なかなか決められるものではない。
マミ「まあ、そういうものよね、いざ考えろって言われたら」
まどか「マミさんはどんな願いごとをしたんですか?」
マミ「……」
それは不気味な、きまずい沈黙だった。
空気を重さを悟った私とまどかは、唐突におろおろし始める。
けど何故だろうこの不条理。歩道を歩いてたら癇癪玉を踏んだ気分ってきっとこれだ。
まどか「いや、あの、どうしても聞きたいってわけじゃなくてっ」
マミ「私の場合は……考えている余裕さえなかったってだけ」
遠い目が見る先を幻視する。
マミ「後悔しているわけじゃないのよ?今の生き方も、あそこで死んじゃうよりは、よほど良かったと思ってるし……」
彼女の願い事。私達が決めかね、彼女が叶えようとする違い。
背中を押す“何か”の違いがあったのだろう。
マミ「でもね、ちゃんと選択の余地のある子には、きちんと考えた上で決めてほしいの」
マミ「私にできなかったことだからこそ、ね」
さやか「ねえ、マミさん」
マミ「え?」
魔法少女の先輩に聞かなくてはならないことがあった。
さやか「魔法少女に一番必要なものって、何だと思いますか?」
マミ「一番必要なもの、かあ」
曇り空を見上げて、うーんと可愛らしく考える。
その様は大人っぽいようで、子供っぽいようで、私の中では“おう、いいな”って思った。
マミ「夢を壊すような答えになっちゃうのかな……根気?」
まどか「こ、根気……」
魔法少女というよりも、熱血スポーツのようなテーマだ。
マミ「うーん、やっぱり、長い戦いになるわ……一生を通して、魔女とは戦っていくんだもの…」
まどか「そうですよね……大変そう」
マミ「けど悪いことばかりでもないの、良い事だってあるわ」
さやか「良い事?」
マミ「うん」
可愛らしい笑顔をこちらに向ける。
マミ「人を助けるって、やっぱりやりがいがあるもの……人を助けたい、助ける、その意志が大切だとも、言えるわね」
さやか「ほへあ」
マミ「気の抜けた返事ねえ」
まどか「あはは……」
人を助ける。
うん、私には合ってそうだ。
さやか「……」
自室で竹刀を見やる。
ささくれ一つない、新品のままの二本目の竹刀だ。
さやか「これで何ができる?」
つい蛍光灯に掲げ、影を仰ぐ。
丸くぼんやりとした、およそ凶器には見えないシルエット。
振ってみればその実、突かない限りは人を傷つけることもない無害な武器だ。
これを振り続けて、そこからどうしようか。
私はそれを考え続けていた。
さやか「家に強盗が押し入ってて、両親が襲われてる、なんて」
数年前に気付いていた事も口から漏れる。
そう。守ろうとするものは限られている。守れるのはいつだって、自分が運よく居合わせた時だけ。
一ヶ月前の痴漢も、二ヶ月前の痴漢も、三ヶ月前のひったくりも。悪事を止めて人を守れるのは、私がそこにいたときだけなのだ。
守りたいものがある。
それは両親であったり、親友であったり、友達であったり、私が知り合った全ての人だ。
私は、私が出会った全てのものを愛おしく思う。だってそれら全てが、今の私を形作り、成長させているんだもの。
でもそれら全てを守ることなんてできやしない。
だってそうしたいと願う私は、ここに一人きりしかいないんだもの。
さやか「魔法の剣を握れば、変わるっていうの?」
答えは見出せない。
魔法少女?なんだそれは?と思う自分がいる。
しかし確固たる力を掴む機会がそこに、確かにある。
竹刀の影は揺れっぱなしだ。
ほむら「貴女は無関係な一般人を危険に巻き込んでいる」
マミ「あら……誰かがいると思ったら、暁美さんだったのね」
ほむら「……」
マミ「相変わらず……いえ、やめておきましょうか?」
ほむら「……」
マミ「彼女たちは一般人、だけどキュゥべえに選ばれたの、もう無関係じゃないわ」
ほむら「貴女は二人を魔法少女に誘導している」
マミ「それが面白くないわけ?」
ほむら「ええ、迷惑よ……特に鹿目まどか」
マミ「ふぅん……美樹さんは?」
ほむら「……何?」
マミ「美樹さんは迷惑じゃないって?」
ほむら「……“特に”鹿目まどか、と言ったの。深い意味は無いわ」
マミ「……そ、酷い人ね」
ほむら「?」
マミ「でも、あなたも気づいてたのね。あの子の素質に」
ほむら「彼女だけは、契約させるわけにはいかない」
マミ「自分より強い相手は邪魔者ってわけ?弱い人なら契約してもいいの?……臆病で卑怯ないじめられっ子の発想ね」
ほむら「…貴女とは戦いたくないのだけれど」
マミ「なら二度と私の目の前に現れないようにして」
ほむら(……何、この感じ)
マミ「話し合いだけで事が済むのは、きっと今夜で最後だろうから」
竹刀を振る手が止まる。
さやか「……本当なの」
恭介の病室で、それは告げられた。
他でもない恭介自身からだ。
恭介「ああ、ほんのさっき、言われたよ」
ベッドの上で窓の外を眺めながら言う彼の声には、生気が込められていない。
声帯に空気を通しただけ。そんな声だ。
さやか「どうしても?」
恭介「ここの医者が言うんだ、間違いはないさ」
竹刀を再び振る。振りながら考える。
恭介「もう、治る見込みは無いって、現代の医学じゃあ、到底不可能だって」
強く振る。兜を叩き割るくらいに強く。
恭介「……諦めろって」
涙ぐむ彼の声で、私の竹刀を握る手が止まった。
恭介「……悔しいよ、さやか……全てが恨めしいんだ、何もかもが、この世の全てが敵のように思えてしまうんだ」
さやか「恭介……」
恭介「僕はなんて弱いんだろうね、さやか……僕は、こんな僕は」
さやか「恭介は弱くなんてない」
竹刀を振る。白い壁を睨む。
さやか「……やりきれないのは仕方が無いんだ」
恭介「……」
しばらくの間、沈黙が続いた。
さやか「……これからどうするの?いや」
さやか「恭介は、どうしたいの?」
酷な質問だったと思う。
恭介「何もしたくない」
けど、打ちのめされきった彼は答えてくれた。
さやか「この世に一つの希望も無いっての?」
恭介「なくなった」
さやか「本当に?」
恭介「ああ」
仕方が無いとはいえ重症だ。
さやか「私の命と左手、どっちが大事?」
恭介「……」
竹刀を振る間にも、ベッドの上の振り向く音は聞こえてきた。
さやか「正直に答えてよ」
恭介「……選べない」
さやか「左手でしょ」
恭介「……さやかには嘘がつけないな。軽蔑してくれよ」
さやか「するわけないじゃん」
まだ、竹刀を振り続ける。
恭介「正直、僕は、恐ろしいんだ……きっと、家族でさえ、僕は……この腕のためなら、もしかしたら……」
さやか「それでいいんだよ、恭介、それだけ大切なものだったんだ」
素振りをやめ、竹刀を椅子の上へ乱暴に放る。
恭介「……酷い人間だ、僕は……ごめん、さやか……」
さやか「親友でしょ、構わないって……それに」
額の汗を拭い、恭介の顔を見る。抜け殻のような、血の気の無い蒼白な顔。
さやか「私の夢と恭介だったら、私だって夢を選ぶしね」
さやか「よう、お待たせ」
まどか「おか……って、なんか汗かいてなあい?」
私の額を見て気付いたようだ。これはうっかり。
さやか「あはは、ちょっと素振りしてた」
まどか「もう、静かにしないと、上条君だけじゃない他の人にも迷惑じゃない?」
さやか「あっはっは、大丈夫、あそこ無駄に広いからねー」
まどか「そういう問題じゃ……」
恭介のことは、まだ伏せておくことにした。
腕が治らない。それを言うべきかどうかは、本人の口から確認をとってからの方が良いだろう。
今日だって、話すまでに間があったのだ。躊躇するに違いない。
恭介は、自分の惨めな姿を、あまり見られたくない奴だから。
さやか「……!」
病院の外壁に、それどころじゃないものが見えた。
まどか「あそこ……」
さやか「グリーフシード!」
QB「本当だ!孵化しかかってる!」
まどか「嘘…何でこんなところに」
白い壁に打ち込まれたように存在するそれは、禍々しい輝きを放ちながら壁を侵食している。
ちょっとずつ。けどナメクジの行進なんかよりは比較にならないほど速く。
QB「マズいよ、早く逃げないと!もうすぐ結界が出来上がる!」
さやか「まどか、マミさんの携帯、聞いてる?」
まどか「え?ううん」
しまった。学校で会えるからって失念してた。迂闊だ。私はバカかっての。
さやか「まどか、先行ってマミさんを呼んで来てくれる?」
まどか「うん!けど、さやかちゃんは……?」
さやか「あたしはこいつを見張ってる」
まどか「そんな!」
QB「無茶だよ!中の魔女が出てくるまでにはまだ時間があるけど……」
さやか「何?」
QB「結界が閉じたら、君は外に出られなくなる……マミの助けが間に合うかどうか」
さやか「結界が出来上がったら、グリーフシードの居所も分からなくなっちゃうんでしょ?」
グリーフシードは魔女の本体だ。
本体が動く前にグリーフシードを捕捉しておかないと。病院が巻き込まれてからでは、犠牲者が出るかもしれない。
さやか「放っておけないよ」
QB「まどか、先に行ってくれ……さやかには僕が付いてる」
まどか「うん」
さやか「ダッシュ!」
まどか「う、うん!すぐに連れてくるから!」
彼女はよろけながらも、彼女なりの駆け足で病院から離れていった。
QB「マミならここまで来れば、テレパシーで僕の位置が分かるだろう」
さやか「うん」
QB「ここでさやかと一緒にグリーフシードを見張っていれば、最短距離で結界を抜けられるよう、マミを誘導できるから」
さやか「ありがとう、キュウべえ」
お菓子だらけの空間。
糖分たっぷりの物で溢れ返っているというのに、甘い匂いは一切ない。きっと、ここにあるお菓子は食べられないのだろう。
時々小さな使い魔らしき生き物が、結界の中を歩いている。
その気配を察して物陰に隠れる。
あんな小さな生き物相手に無力だけど、魔法少女でないのだから仕方がない。
何をしてくるかわからないのだから。
QB「怖いかい?さやか」
さやか「え?」
QB「この結界がさ」
さやか「うーん」
QB「願い事さえ決めてくれれば、今この場で君を魔法少女にしてあげることも出来るんだけど……」
さやか「……」
足を止める。そして、思わず微笑む。
グリーフシードの見張り。それはただの方便でしかなかった。
本当は一人になりたかった。
まどかにマミさんを呼ばせ、誰にも邪魔されないように。
何より、私のせいでまどかの決断を焦らせないように。
私はこの時を待っていたんだ。
QB「さやか?」
さやか「キュゥべえ……良いよ」
QB「!」
さやか「契約しよう」
「待ちなさい!」
さやか「ありゃ」
つい、にやけた顔のまま振り向いた。
さやか「ほむら」
ほむら「……さやか……」
少し息を切らせたような、魔法少女のほむらが追いついていた。
私とは少し距離を保ち、私を見ている。
ほむら「……鹿目まどかと、巴マミは?」
さやか「まどかなら、マミさんを呼びにいったよ、まだもうちょっとかかるんじゃない?」
ほむら「……そう」
さやか「ほむらは何しにきたの?というか、どうしてまだ現れてもいない魔女を……」
うっすら浮かんだ汗を指ではじき、再び凛とした、今度は疲れのない余裕の冷静さで、私を見据えた。
ほむら「契約するのはやめなさい、さやか」
さやか「どうして」
ほむら「……魔法少女になってはいけない」
また、この複雑な表情だ。
私にはほむらの意図が読めない。
さやか「私、人の目を見れば何考えてんのか、だいたいわかるの」
ほむら「何……」
さやか「テレパシーでもなんでもないけどさ、それまでの人の性格とか、流れでわかっちゃうんだ」
ほむら「……」
さやか「けどほむらの目を見ても、何もわからない」
ほむら「……さやか」
さやか「目的は隠すし、行動を見ても、なんも読めない」
さやか「正直に、隠していることを話すなら今だよ、ほむら」
ほむら「……?」
ほむらを睨む。空気が一変して、急速に張り詰めてゆく。
さやか「私に契約させるなって、ほむらは言ったよね」
ほむら「……言ったわ」
さやか「ならここで隠している事、すぐに打ち明けてよ」
ほむら「なっ……」
驚きの表情。なんだ、案外抜けてる所があるんだ。
彼女は何かを隠している。言いにくい事を隠している。
さやか「でないと私、この場でキュゥべえと契約して、魔女を倒しにいくから」
ほむら「さやか!それは……!」
さやか「何よ、私が契約するかどうかは私の勝手、本気で止めたいのなら理由を言ってよ」
キュゥべえを正面へ突き出すと、近寄ろうとしたほむらの脚が止まった。
QB「?」
ほむら「……くっ」
キュゥべえと私を見比べて動くことができない。
おどおどと頼りない姿に、私はまた苛立ってしまう。
ああそうか、この苛立ちは。
うろたえる情けないほむらの姿が、似ても似つかない煤子さんとそっくりだからなんだ。
さやか「……そんな顔で、そんな顔するな」
QB「さやか?」
ほむら「何故……」
さやか「何故?何がよ、はっきりしてよ、私はね、」
ほむら「どうして!?さやからしくない!」
さやか「はぁ?」
ほむら「どうして貴女は、私が知ってる美樹さやかじゃないの!」
さやか「……!」
互いの違和感がちょっとだけ触れ合い、私の頭に静電気が走った。
ほむら「何が貴女をそうさせたの!?」
不満?戸惑い?葛藤?
顕にされているにも関わらず、全く読むことのできないほむらの感情を前に、私の思考は停止した。
ほむら「確かに貴女は冷静よ!それは解る、けど全てを受け止められるというの!?そんなのありえない!」
畳み掛けられる言葉。自問混じりの叫びがお菓子の空間に響く。
ほむら「誰も人を理解しようとはしない、誰も、上辺の興味は抱いても、それを認めるわけじゃない!」
ほむら「もう誰にも頼らないと決めたのに、それなのに、……!」
さやか「っ」
叫びに涙も加わった。
狂気だ。私はそう感じた。
少しして涙を拭い、感情を押し殺した目に戻る。
ほむら「……もういい、全てあなたの好きにしなさい、さやか」
さやか「……」
ほむら「ただし、ここの魔女は私が始末する……あなたの出る幕ではない」
ほむらは私の真横を抜け、結界の奥へと駆けていった。
去り際には流し目も無かった。
ただ冷たい目で、動かぬ表情で、私を抜き去っていったのだ。
さやか「なんか諦められた」
彼女は私の何かを見限った。何かって?きっと私自身をだ。
失礼な話だ。言いくるめられてもいないのに、勝手にしろだと。
さやか「怒った、もう本当に怒ったかんね、私」
ただでさえほむらと話していると頭の中に霧がかかるっていうのに。
最後にバカでかい濃霧を吐いて去ってしまうなんて。
そんなの許せる?私なら許せないね!
意味深なYes/Noの質問を30回分岐させられて結果が出ないようなものだ!
上から他人を見下して!何も始まってないのに見捨てられた!
まして、煤子さんとそっくりな、あの顔で!
さやか「キュゥべえ!聞いて!」
QB「言ってごらん」
白いふわふわを両手で持ち上げる。
さやか「冷静になれ、慎重になれ、そうは言われ続けてきたけど……私はどーしても、がんがん突き進むこの癖が直らない!」
QB「何の話だい?」
さやか「抑えつけられても、どうしても曲げられない背骨が一本あるせいで苦労したことも、ちょっとある!」
QB「……」
さやか「けどやっぱ契約する」
QB「ほう」
赤い瞳に、今にも吸い込まれそうだ。
さやか「私って魔法少女になったら強いかな」
QB「今よりは強くなれるよ」
さやか「不安になる言い方だね、それ。あんま強くならないの?マミさんくらいになる?」
QB「マミは最初こそへっぽこだったけど、修練を積んで強くなっていったんだ」
さやか「契約したばっかりのマミさんと契約したばっかりの私、強さの割合でいえば何対何よ」
QB「魔法少女としての素質かい?様々な要因が関わってくるから正確にはわからないけど正直に言うよ、およそ3対1だ」
さやか「ぐふッ」
い、いかん。今のはさすがにちょっぴり決心が揺らぐ。
QB「けど相性っていうのもある、さやかがどのような願い事で契約するかによって、使える魔法の形も大きく変わってくるはずだ」
さやか「ほほう、詳しく聞きたいところ……だけど、願い事はもう決まってるんですね」
QB「言いのかい?」
さやか「私の本質だもんね」
たとえ私が3人束になってマミさんと同等の力しか持たない魔法少女だとしても、それくらいで私の願いは揺るがない。
恭介の左手ほどもね。
さやか「ちゃんと一言も漏らさず聞いて、私の願いを叶えて、キュゥべえ」
QB「いいだろう、君は何を望んで、その魂を差し出してくれる?」
私の願い。なりたかった私。
まるで夢、御伽噺の勇者。教室で言えば数年来の友達も笑うだろう。
けど私は本気だ。漠然とした指標のひとつが、形として成り立つというのであれば。
魂だろうが尻子玉だろうが、喜んで差し出してやるわ。
何を対価に差し出してでも大きすぎる、私の傲慢な願いこそ――
続きます
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