御坂美琴は想起する。
“絶対能力進化実験”の時。
実験に関わっている研究施設を片っ端から撃滅していた時。
一度だけ『彼女』と出くわした。
後々知った事だが、彼女は麦野沈利。学園都市の第四位らしい。
その能力名が『原子崩し』。
という事は、
「察しが付いてると思いますが、この銃器は学園都市製。第四位の能力をベースにした対戦争用兵器です。
本来は後一段階巨大で、駆動鎧(パワードスーツ)に付属なのですが、この通り駆動鎧が無くても扱えるようにコンパクト化されています。
その分のデメリットとして、威力や規模、射程距離や範囲は格段と劣りますが……」
ジャキ、と銃口の矛先を御坂美琴に向けて、00000号は告げる。
「さて、お姉様。もうお気付きですね? 科学は常にどんな時も進化を遂げています。今この兵器を見たからと言って、明日同じ物が見れるとは到底有り得ません。
憶測に過ぎませんが、明日になれば超電磁砲と原子崩しが同時速射される兵器が開発される可能性も否めなくは無いのです」
科学は毎秒ごとに進化する。
今触ってる最新の機械が一秒後、最新では無くなってるという事。
例え、LEVEL5がモチーフだろうと関係無い。それが『学園都市』の世界。表舞台には決して出ない、裏のやり方。
と言っても、と御坂美琴は思念する。こんだけ悟った所で、学園都市の片鱗にしか過ぎないのだろう。
覗いたら出るわ出るわの盛り沢山なのだ。もっと、もっともっともっと深淵なる“闇”が存在するに決まっている。
「元々は行使する予定では無かったのですが……不思議ですね。
これが『憤り』なのでしょうか? ミサカに感情はインプットされていないのは間違いありません。ですが、お姉様のお言葉により躊躇いが消えました。感謝します」
「……そりゃどうも。こっちも、やっと活路を見出す手段を見付けたわ!!」
「その活路とやらは実現は不可です。ミサカに軍配は上がりますので」
言い終えた途端、ズバァッ!! と銃口から原子崩しが射出。
御坂美琴は00000号を中心に円を描くように、横に駆け出した。
その動きに00000号は眼を細める。彼女が回避や弾く動作でなく、“突撃の構え”としての回避に転じたからだ。
何か彼女の引き金を引いたのか。
原因は些か不明だが、あちらが真っ向から立ち向かうと言うのなら、こちらは迎え撃つのみ。
御坂美琴は思考する。
煽りに煽った甲斐があったと。
00000号は自分の言葉を過剰に反応を示し、怒りを露わにした。
これでいい。おかげで確信を持てる事が可能になった。
以前上条当麻に橋梁で同じセリフを言われた時、自分は激情を抑えきれず激昂した覚えがある。
端的に言えば、今この瞬間は『あの時』の立場とそっくりなのだ。
上条当麻は自分で、御坂美琴は00000号。
ならば00000号は自らの明確な動揺を否定しているはず。
そんなはずはないと。
決して有り得ないと。
だからこそ自分がそうだったように、彼女の怒りの矛先は目の前に居る自分に向かう。
八つ当たり以外何物でもない。
でも受け止めよう。
『彼』も受け止めてくれた。
『彼』が教えてくれたから、今度は自分が我が妹を受け止める番。
御坂美琴には解る。
00000号は、自らの姉を“わざと”窮地に追い詰めて、精神を崩壊させた上で―――理性を失った姉に殺されようとしている事を。
何故確信出来るか? だって00000号が自分から言ったではないか。
“躊躇いが”、と。
“元々は行使する予定では無かった”、と。
確信足る理由はそこ。
彼女も知らず知らずの内に発した言葉だ。本心なのは間違い無い。
このセリフの裏側は、少しでも姉を殺すのに逡巡していたという事。
彼女は殺すと明言したのにも拘わらず、だ。
最初から殺害する気満々ならば、出会い頭直後に行使すれば一発で終わっていただろう。
だからこそ、00000号に殺す気は無いと推測した。
御坂美琴という姉を出来るだけ追い詰めて追い詰めて、最後に砕け散る。
彼女の運命は「死」しか迎えない。この戦闘に勝っても負けても、引き分けでも行き先は「死」。
生きる道は元から閉ざされている。ならばせめて、我が姉に殺されよう。
出来るだけ姉を精神的に苦しめて。何も無しに呆気無く己が死んだら、姉が一生後悔に悩む。
姉は強がっているだけで、実は脆く弱いから。
だから、精神的に追い詰め理性のタガも外れてしまえば、僅かながら己の所為にする事が出来る。
……そんな、報われない思いが、心の奥底、扉で閉められた場所に有るのだろう。
御坂美琴は歯を強く食い縛り、歯軋りする。
我が妹の胸中を漸く理解した彼女は、憤りと共に決意を示唆。
(必ず、この子を救ってみせる!!)
学園都市が仕組んで扉を閉められたなら、自分が無理矢理にでもこじ開けてみせる。
00000号は再度、原子崩しを姉へ撃つ。
瞬く閃光は猛々しく視界を覆い、一発でも喰らえば肉だろうが骨だろうが金属だろうが消し飛ぶ威力。
美琴は手を翳し、原子崩しの軌道を変えて直撃を逃れる。
(厄介ね……。あの子より優先した方が良さそうだわ)
タイミングを見計らい、電撃の槍を放ち銃器を破壊した方が無難。
00000号も電撃使いだ。そう容易く事が進展するとは思えない。
無闇に放ったって軌道を変えられるか相殺されるか、どっちかだろう。
ここは虚を突くように隙を狙い……と、美琴の思考は中断される。
何故なら―――頭上で又もやガシャガシャと動力音が響いたからだ。
それも、一ヶ所からではない。
動力音は左右の耳から違ったタイミングで聞こえてくる。
つまり、―――設置された機関銃は『二つ』。
御坂美琴は考える間も無く、磁力を使ってなるべく遠い壁へと吸い寄せられるように急発進。
直後、
――――ッッッッ!!!!!!!!!!!!
再び、機関銃が牙を剥く。
御坂美琴へ向けた、圧倒的な掃射。
それも、先刻の二倍の破壊力。
「本気でシャレになんないっつーのッ!!」
応戦する形で、電撃の槍を機関銃に放ち、二機連続で破壊。
あんな物一発でも喰らえば、速射の餌食。人間一人ぐらい軽く消し飛ぶ勢いだ。
おちおち00000号の相手もしてられない。天井にも気を配らせながら戦闘が可能な程、緩い相手ではないというのに。
―――ジャキッと、側頭部に銃器を押し付けられる触覚を感受する。
強引に胴を捻り、銃口から出来る限り逸らすように体を反り返す。
その矢先、ズバァッ!! と閃光が御坂美琴の頬を掠め、髪の先端を消した。
「―――っ」
息を飲む。僅か数秒単位でも回避に転じるのが遅ければ、首から上は消滅していただろう。
まさか能力の副次物であるレーダーを掻い潜って接近するとは、到底思わなかった。
閃光は00000号が携えていた銃器の原子崩し。ならば急接近を逆手に取って銃器を破壊する!
……が、彼女が行動に転機する寸前、頭を乱暴に鷲掴みされた。
00000号の片手。その成す意味、理解に時間は要らない。
妹は自分と同じ電撃使い。故に、
「が、ァァァああああああああああああああああああッッッ!!!!!!」
―――電撃以外に何があろうか。
00000号の腕を通して御坂美琴に直流された放電は、彼女の命を蝕み削り取る。
室内に響き渡る雷鳴と、少女の音色。虚空に奏でる悲劇の合唱に介入する者は儚くも、存在しない。
「……頃合いでしょうか」
電流が止み、余韻が占める。
常盤台の制服も焦げて、所々崩れ始めた。勿論、対象は自分のではなく御坂美琴。
00000号は現状把握するため、空虚な瞳が御坂美琴を射抜く。
我が姉はピクリとも動く気配を見せない。未だ頭を鷲掴みされているのにも拘わらず、手を払う動作や生き延びようとする抵抗すら皆無。
だが、
「息は……辛うじて機能していますね。本当にタフなんですね、お姉様は」
微弱ながらも、呼吸はしていた。
生死の間を彷徨う状態に陥ったのだろう。
それにしても、十億未満とは言え電流を直接流し込んだのに、姉は生存。
ただ運が強いだけなのか、若しくは純粋に体が丈夫なだけか、定かではない。しかし……どうでもいい。
「…………」
ジャキ、と。銃口を御坂美琴の心臓部分に宛行う。
後は引き金を引くだけ。それだけのはずなんだが……、
「この期に及んで、抵抗を示しますか? お姉様」
「……っ、あん、たは……私が、……助け……るん、だから……っ!!」
鷲掴む手を、彼女は掴む。
力がもう入らないのだろう。手首を払うだけで退けそうな程に弱々しく、衰弱しきっていた。
「残念ですが、何度も言うようにお姉様では不可能。断言します」
「……っ」
姉は一度、強く歯を食い縛ると、こう、呟いた。
「―――缶バッジ、覚えてる? 私、達の……思い出」
ドクンと、心臓が高鳴りを告げる。
「缶……バッジ……?」
―――ミャー……と鳴く四足歩行生物がピンチです。
そう、
―――グッジョブです! とミサカは惜しみない称賛を贈ります。
それは、
―――半分コしましょう。
とても暖かい、
―――いやいやねーだろ、とミサカはミサカの素体のお子様センスに愕然とします。
一日の出来事。
―――お姉様から頂いた初めてのプレゼントですから。
銃器が手から滑り落ち、頭を鷲掴みしていた手を離し、両手で自らの顔を覆い隠す。
「あ……あぁ」
―――こ、こ……ッ、コラァアッ!! 何スカートまくり上げてんのよーーっ!?
「ミ……ミサカは……っ」
―――アンタはあれか? 腹ペコキャラってやつか?
「あぁ……ッ」
―――うん! 鏡で見るより分かりやすいし客観視できるわね。
「……ッッッ!!!!」
―――やっぱ返せーっ!!
「あああああああああああああああああああああああッッッ!!!!!!」
00000号の全身から電撃が放電される。一種の『能力暴走』に近い現象だった。
天井を焼き払い、地を薙ぎ払い。
LEVEL5と同等以上の力を持つ暴走だ。近付こうものなら巻き込まれて命の保障はされないだろう。
……『彼女』以外は。
「大丈夫よ」
御坂美琴は暴走する妹を、微笑みを浮かべながら優しく抱き締める。
そっと包み込む様子は羽毛を撫でるかのように。泣きじゃくる子供をあやすかのように。
「大丈夫。何時だって、私はアンタ達の味方だから」
そして―――パキンと。
00000号の脳と心臓から、何かが壊れる音がした。
……。
…………。
………………。
何秒、何分、何十分、何時間が経過しただろう。
放電は何時の間にか治まり、半壊状態になった実験用の空間がそこにあった。
もはや天井に備えられた機関銃がマトモに機能しない程。黒焦げで、滅茶苦茶に破壊されているのだから。
二人の体勢は依然と変わりは無い。随分と手間がかかった願いが、かなり遠回りしながらも漸く叶ったのだ。
―――そんな時だ、引き裂くように壁を突き破って乱入者が来たのは。
「「!!」」
二人の姉妹は目視する。
それは駆動鎧。
カマキリを彷彿させる図体。
一機だけでなく、一機に呼応するように二、三、四……十機以上。
しかし二人が釘付けになっている部分は全体ではない。
カマキリの羽を収めるための腹部側面に刻印されたアルファベットに、凝視した。
FIVE_Over.
Modelcase_"RAILGUN".
おそらく、自分の能力の機構を機械的に再現するために作られた駆動鎧。加えて弾は全部『超電磁砲』といった所か。
先刻の機関銃のように掃射で。
御坂美琴は00000号から離れる。
もう自分には能力を使う体力も戦闘用に残していない。有っても逃走のため。
「……逃げるわよ。こんな機械ぶっ壊してやりたい所だけど、一旦退いて―――」
トン、と。
美琴は押された感覚を得た。
同時に足場が無くなって宙に浮く感覚も。機関銃で空けた巨大な穴に放り込まれたのだ。
押した張本人はこの中で一人しか居ない。
「お姉様は逃げて下さい。ここはミサカが時間を稼ぎます。そこに入れば一階へ通じるはずですので」
「ちょっと!! アンタ……ッ!!」
「お姉様があの人に言いましたように、ミサカもお姉様に言います。―――それでもミサカは、きっとお姉様に生きて欲しいんだと思います」
『最後』に見た00000号の表情は、無感情とは思えないくらいに―――満面の笑みだった。
「イヤァァァアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!!!!!!!!」
こうして現実を打ち破った二人目の少女は、涙に溺れ、後悔にふける。
―――学園都市という、憤る場所で。
一方、とある病院玄関前。
浜面仕上は第0位との闘争に苦戦していた。
野郎達と路地裏で学んだ喧嘩術を繰り出す浜面に対して、『学習装置』の入力で、拳だけで殺す技術を完璧に繰り出す第0位。
第0位からしたら浜面の技法は、ド素人極まりない。
それでも渡り合える時点で、十分浜面仕上に宿っている潜在する力は計り知れないのだが……。
まあいい。現在の状況で明確なのは浜面が劣勢だという事。
数々の死線を潜り抜けてきた彼も、今回ばかりは容易に対処できる程、甘く無いのだろう。
暗部の抗争を代表とする。
三度に渡る麦野沈利との死闘。
学園都市から逃走して巻き込まれた第三次世界大戦。
ラインの確定を策略した『新入生』の騒動。
多くの勝利を収めてきた浜面。
時に逃げに徹し、時に攻めに徹する。逆手に取って予想外の攻撃を仕掛ける事も有れば、巧みに欺く事だって有る。
彼は様々な手段を用いて、絶好のタイミングと絶妙な境目を見極め、敵を負かし勝利を掴んできた。
一般人がこなすには到底不可能。
例えば、浜面曰く車の運転に必要なのは免許カードではなく『技術』と公言するように。
要は『センス』の問題。野郎達との数多なる喧嘩、暗部やLEVEL5と激戦を繰り返していれば、嫌でも精鋭に研かれていく。
……その頃には、既に『一般人』では無くなっているかもしれないが。
考え方の優先、咄嗟の判断力。
これらを臨機応変に発揮して上手く有効活用する。
それが浜面仕上。
しかし第0位には悪戦苦闘。
彼は全て『演算』と『第六感』で挑んでいると、浜面は推し量っている。
敵の攻撃。どの方向から来るか、どんな状況の最中に特定手段を行使するか、拳か蹴りか頭か膝か肘か若しくは技を決めてくるか、顔色の様子や指一本の動きまで全部、『演算』で計る。
自分の防御。どの判断が一番最良か、どんな手段を用いたら良いか、いなすか受け止めるか反らすか転がるかステップを踏むか若しくは空間移動か、状況に相応しい適切な回避が好ましいか全部、『演算』で計る。
だが残念な事に、演算では理解不可能な不特定手段が存在するのだ。
良い例が“不意打ち”。
平たく言えば、目で察する事が出来なかったり、耳で感知出来なかったりと、“五感”に情報が入らない場合の事柄。
背後から急に殴り掛かってきたら、避けようが無い。それこそ第三位みたいな能力が有していれば、レーダーを活用出来るのだが、無い物ねだりしたって仕方無い。
そこで、有利に働くのが『第六感』。
殆ど直感に過ぎないではないかと、一言でバッサリ切りたくもなるが、実際に第0位は会得し自分の物にしているので、文句の付けようが無い。
浜面は過去を振り返る。
初めて駆動鎧を着用して、モデルは異なるが同じく駆動鎧を着用した『新入生』と拳を交じり合った時。
身体こそ絶対付いていけるはずも無いが、当時の感覚と記憶は残っているまま。
今後のためにも、どうにか習得出来ないかとイメージトレーニングをしたもの。
……その光景を絹旗や麦野に目撃され、揶揄や罵られたのも、また一つの思い出。
口元から垂れる血を拭わず、浜面は第0位の顎を目掛けてアッパーカット。駆動鎧の時を意識して、見様見真似に繰り出す。
振り抜いた拳は第0位にあっさりと片手でいなされた。
すると、第0位のもう片方の手が、浜面に牙を剥く。
上から振り下ろすように拳を打つ。鈍器の如く迫る拳を、浜面は彼と同様に片手でいなす。
ズン……ッ、と流す直前に感じる重量は拳の威力を表している。
一撃一撃の重さ。力や筋肉が強いから重くなるのではない。勿論筋肉も必要だが、闇雲に振るうだけでは宝の持ち腐れ。
それ以上に必須条件が『型』。
型の呼吸をマスターするだけで、威力は断然と違う。例え細身の人間だろうと、型を覚えれば瓦の一枚ぐらい拳で割れると言う。
結局、一撃の重さも二人の違いもそこにあるのだ。
浜面は筋肉の動かし方は、駆動鎧の見様見真似で拳を打つのに対し。
第0位は学習装置で全部頭の中にインプットされてるため、型を使った拳を打つ。
彼らの拳と拳が衝突し合った場合、衝突したまま僅かな静寂が訪れるのか、どちらかの拳が弾かれて軍配が上がるのか……言うまでも無いだろう。
一撃の重さ。この戦いでまた一つ学んだ浜面である。
拳をいなした直後、第0位は地面を蹴ってバック。その様子に浜面は訝しむ。
今まで息を忘れるほど、局面の拳の打ち合いを交わしていたにも拘わらず、今更一旦区切りを導入するという事は……何かしら理由が出来たか、勝機への導きを得たか。
「……成る程。上層部が危険因子と危惧視する事情を理解。見事なものだ、浜面仕上」
「……誉められてる気がしねえけど、ありがとよ」
これが浜面仕上。
負け犬が見せる、底力。
「しかし残念だ。今回に限っては運が悪かったとしか言いようがないな」
告げると、第0位は指を突き立て、指し示す。
それも指の向かう先は浜面にではない。浜面の“背後”に向けているのだ。
だが浜面は取り合わない。
寧ろ古典的な手段を選抜した第0位に肩透かしを喰らうほど。
わざわざ距離を置いたのは、この為か? ……いや、違う。
(もっと違う目的があるから間合いを取ったんだ。じゃあ、背後に何か意味が……?)
「はまづらっ!!」
―――その声で、自分の余裕を失われるのを感じ取る。
慌てて振り向けば、病院玄関に自分の愛する人。
駆け付けて来たのか、肩を上下に揺らして息遣いは少々荒く、顔色は心配や焦りの色を窺えた。
浜面は深夜だとか病院だとか考える余地も無く、声を荒げる。
「滝壺ッ!!?」
滝壺理后。
恋人である彼女が、そこに居た。
「はまづら、血が出てる……」
駆け寄ってきた滝壺は、ポケットからハンカチを取り出し、彼の口元から垂れる血を拭う。
滝壺の好意を対照に、浜面は彼女へ説得するように怒りをぶつける。
「滝壺っ!! 隠れてろって言ったじゃねえか?! ここは俺が食い止めるから早く逃げろっ」
「ダメ」
彼女は僅かに横へ首を振り、否定した。
つぶらな瞳が、浜面を射抜く。
「はまづらが頑張ってるのに、私だけじっとしてるなんて出来ない。私も戦う」
「……っ」
彼は歯を食い縛る。
こうなるなら看護婦や先生に見張っててもらうよう懇願しとけば良かったと、今更ながら後悔。
今回の敵が敵なだけに滝壺を守れるかどうか定かではない。
現在の所は徒手空拳で衝突しているが、何時あちらが能力を行使するか解らない。
(……そういえば、結局何のために退いたんだ……?)
ふと、考える。
距離を置いた意味と滝壺が姿を現した意味は、決して繋がらない。
浜面は再び、第0位を射抜く。
肝心の彼は仮面の砕けた所から覗かせる空虚な瞳を……瞑る。
「一度だけチャンスを言及する。……滝壺理后と逃避を行え」
―――あまりにも、予想外の言葉を告げられた。
「元々の標的は『一方通行』で『浜面仕上』ではない。貴様を殺した所で自分の利益は皆無。
それで一方通行を誘き出す事柄が可能ならば、比喩無きに八つ裂きにするが……どうやら違う者を誘き出すようだしな」
肩を竦めて見せ、瞼を開けて浜面を視界に入れる。
「次は絶無。否定の場合、武器と能力を用いさせてもらう。手加減は無用だ」
先刻とは比べ物にならない程、殺気が浜面の身体を襲う。
人間が出せる範囲を容易く超越した、深い深い底の冷たい恐怖。
背筋にイヤな汗が噴き出る感触。少なくとも、今後戦闘を続行しても時間は稼げないと理解する。
おそらく、この機会を逃したらもう無いだろう。
だから、浜面は断言する。
「どかない」
せめて、一方通行が回復するまで譲る気は無いと、確かな意志を持って第0位に……宣言した。
「あくせられーたには、私もお世話になってる。だから、戦う」
追随するように、滝壺も言う。
非力ながらも浜面と共に戦う、と。
「……二度目は無いと忠告はした。全力で行かせてもらう」
懐から拳銃を取り出し、装填。
浜面も呼応するように、半蔵から譲り受けたレディースの拳銃を構える。
その瞬間―――ゴッ!! と。
決して銃声の音ではない、鈍器を人体に殴打した鈍い音だった。
響いたのは第0位から。彼は血を迸らせて、何故か宙を舞っていた。
「は……?」
浜面は目の前の光景の理解に苦しむ。何が起きたかも整理が付かない。
彼にとって微かに漏れた疑問が全て。
視界に映るのは新たに割り込んできた『人間』。
背は180は越すだろう長身の大男。
月明かりに反射して煌めく耳のピアス。
手には血がベットリと付いた金属バット。
そして、外見の中で一際目立つであろう……『青い髪』。
大男は第0位がノーバウンドで五メートル以上飛ばされて行くのを確認して、浜面に振り向く。
「早よ行き。ここはボクが引き受けたる」
口調は些か怪しい関西弁。
金属バットを肩に担ぎ、大男は浜面達に逃げろと言った。
「あ、あんたは……?」
「質問に答えてるヒマ無いで。それに、あのまま戦っても勝てる見込み無かったんやろ? 奴さん、本気出すみたいやしな」
「で、でもよ!」
「言い方変えよか?」
大男は飄々とした態度で、線のように細い目が僅かに開き、鋭い目つきで浜面に告げる。
「第一位の警護を頼むわ。せやから行ってくれると助かるんやけどな~。早よせな奴さん、復活してまうで?」
「そういう事か。……死ぬなよ」
「ハッハッハッ! 心配はご無用ッ。ボクはこう見えて丈夫に出来てんねん」
浜面は踵を返し、「行くぞ」と滝壺を促して彼女のスピードに合わせて院内へ消えていく。
大男……青髪ピアスは二人の背中を見送り、感嘆する。
「はーっ、ええなぁええなぁ。
彼女持ちは毎日がパラダイスやろうに」
彼は金属バットを無造作に横に振るう。―――刹那、ガァン!! と硬質音が辺りを奏でた。
片は金属バット。
片は裏拳。
青髪ピアスの顔面目掛けて放たれた裏拳と、振るった事で盾になった金属バットが衝突して響いた音だ。
「―――見えとるで?」
時が止まったような錯覚のさなかで、青髪ピアスは不敵な笑みを浮かべる。
錯覚は一瞬。金属バットを振り抜いて、裏拳を弾き飛ばした途端に時は動き出す。
「……オリジナルの記憶から摘出。通称『青髪ピアス』と判明」
仮面が完全に砕けて素顔を晒した第0位が、額から流れる血を拭いつつも、口に出して状況把握。
「問いを一つ良いか?」
「んー? ええよ。因みに萌えバナなら大歓迎や!」
「貴様……何者だ?」
そのセリフを切っ掛けに青髪ピアスが凍り付く。表情からおどけた色が消え、ただひたすらに無表情。
瞳を僅かに開け、鋭い目つきで第0位を射抜く。
「『バンク』には無能力と記されている。しかし、先刻の一撃は常人では不可能の打撃力。
加えて接近した時に見せた移動速度。死角からの奇襲をも対応。
無能力者の一般人が出せる身体能力を優に凌駕している。上記を述べた上で再度問わせてもらおう。―――貴様は何者だ?」
言い終え、暫くの静寂が訪れる。
青髪ピアスは何も発しない。
ともすれば微動だに動きもしない。
第0位は彼が口を開けるまで、同様に何も発しなければ動作も見せない。
辺りは静寂が占める。
無言無風の中、彼らを見守るのは夜空から顔を出す、月だけ。
やがて、青髪ピアスは痺れを切らしたのか、思いっ切り盛大に「はぁぁ~」と溜息を吐く。
片手をひらひらと振り、諦めたような口調で喋り出す。
「何もあらへんよ。正真正銘の無能力者で、ただの一般人。平凡な高校に通って、つっちーやかみやんと莫迦やって楽しんどる何処にでもおる高校生や」
そんなはずが無い、と第0位が言う寸前に、……目の前から青髪ピアスが消える。
「ただな」
耳元から声。
視線を移せば、目と鼻の先に消えた青髪ピアス。
アッパーカットを構えた体勢で、彼はまたもや不敵の笑みを浮かべていた。
第0位が危険を察知して、空間移動を引き起こす前に青髪ピアスは拳を振り抜きながら、囁くようにこう告げた。
「―――曰く付きの、『一般人』や」
第0位は二撃目を喰らい、再び宙を舞う。
「残念やけどボクの親友は二人だけやねん。にゃーにゃー言ってるつっちーと、不幸だ不幸だ言ってるかみやんの『二人』だけ」
金属バットの先端を第0位……上条当麻のクローンに向け、「せやからな~」と畳み掛ける。
「善用ならええけど、悪用された親友の『クローン』は要らへん。
それに素体のかみやんさえも悪用されてると知ったら、流石のボクも“オフザケモード”では居られへんわ」
顔色から、仄かに怒りが宿る。
「悪く思わんとってや。手加減は無しやで」
何も無かった。何も解らなかった。生きていることさえも解らなかった。
何も解らなくて、記憶すらも無くなっていた。恐怖が、全てを忘れさせていた。自分を忘れさせていた。
自分の名前? 名前って何?
考えるって何? 動くって何?
怖いって、何? 忘れるって、何?
何って、何?
腕を動かした。動いた感触はあった。
何をしていたのか解らなくて、何を見ているのかも解らなかった。
ただ、白い世界。
―――何かが動いた。
自分ではない何かがあったけれど、何かは解らなかった。
自分が解らないからどこに居るかも判らなくて。
自分が何をすればいいのか知らないから、考えることも判らなくて。
動いた“何か”に目を向ける。
『…………』
人が居た。幼い男の子が居た。
どこかで、見たことがあった。
何故そう感じたか解らないけれど。
白い世界に、居た。
誰だろう? ぼくは、なにをしているのだろう?
“ぼく”って、なんだろう?
判らない。判らないということが判らない。
――――。
音がした。強い音。何も無い白い世界に、響いていた。
ふふ。はは。あはは。
音だった。沢山の音。温かくて、優しい音だった。不思議な何かの音。
『…………』
ぼくは、それが、わらいごえだと、しっていた。
目の前の“ソレ”が、わらっている。
目の前の“ソレ”が、よろこんでいる。
何かを楽しむことを喜んでいる。笑っている。
“ソレ”は近付いてきた。
足音は響くことはなく、まるで空中を歩いているように見えた。
“ソレ”はぼくの目の前にきた。
その目がぼくを見る。
ぼくもその目を見る。
だ。
れ。
だ。
ぼくは、そんな音を伝えたかった。
だ、れ、だ。……その音が、何か判らないけれど。
近くにいる“ソレ”に、伝えたかった。白い世界で、言いたかった。
わらっていた“ソレ”が、“誰”というモノであることをぼくはまなんだ。
『君は……どうしたいの?』
音が、聞こえる。何かが、繋がる。
声が、問い掛けであることを知る。
―――白い世界の僕は、何かを気付いていた。
記憶には残らない。記録にもできない。
今の景色には、何の意味も無い。
覚えていることも出来ない。
ぼくが俺であることも。
誰かが“何”であることも。
何を思って。何をしたくて。何を忘れているのかも、忘れてしまう。
けれど、湧き上がる何かがあった。
『善か悪かなんて意味がないこと、わかった?』
耳に触れる音を。
目の前にいる誰を。
佇んでいるその存在を。
何をすればいいのかも判らない。
何がしたいのかも判らない。
何を思っているのかも判らない。
行為も解らず、望みも解らず、思いも解らない。
何も解らないけれど、湧き上がる何かに従うべきだとということだけは解っていた。
『……応援してるよっ』
手を差しのばしてきた。
それが何を意味するかは解らない。けど、掴むべきだと、そう確信した。
根拠なんかない、保証さえもない。それでも、手を伸ばした。
『君ならきっと、あの人に追い付けると思うから』
何が、言いたいのか? そう思う頃には、意識が遠ざかっていた。
『頑張れ』
目に映る景色は、真っ白い天井だった。
若干霞む視界が邪魔くさかったが、それ以上に胸の空白が苦しかった。
一方通行は意識を覚醒させる。
「…………」
覚えていたかった何かがあるのに、何も思い出せなくて。
それでも、たった一つだけ、焼き付いていた。
ぬくもりの中で、忘れた一瞬の中で、聴いたような気がしていた。
頼りなさげで、けれど『頑張れ』と微笑む、強い誰かの声。
たった三つの言葉が、胸に刻み付けられていた。
寝起きが悪いと自ら認めている彼だが、何故か今は随分と思考がクリアで、サッパリした穏やかな気分に浸る。
上体を起こせば、まず目に入ったのが番外個体。
彼女は自分が寝ているベッドに上半身だけ身体を寝かせ、椅子に座ったまますやすやと寝息を立てていた。
次に辺りを見回す。
どうやら病室の様子。
そして気付く。外が騒がしい。
ベッドから床に足を着き、窓から外を覗く。
玄関前の広場にて、青い髪の男と見覚えのあるツンツン頭の男が、互いに得物を有して戦闘を繰り広げていた。
(……あの動き、第0位か)
暫く眺めていた一方通行は迅速にツンツン頭の男の正体を見破る。
しかし、自然と驚きは薄い。何処かで己は感付いていたのかもしれない。
正直、今の彼は万全の状態じゃない。
左肩は銃弾で撃たれ、腹部は剣で貫かれ、内臓は破裂を引き起こし……戦える調子ではない。
(―――けど)
誰かが、言ってくれた。
言ってくれた人の顔も。声も。
何も思い出せないけれど。
その全ては、眠ってしまうだけで忘れる程……儚いモノかもしれないけれど。
……それでも、今は“憶えて”いる。
「あン……?」
点滴を引き抜き、窓を開けて飛び出そうとした時、気付く。
窓の縁には何やら紙切れがあった。しかもご丁寧に折り畳まれて、『一方通行へ』と書かれている。
『電池は充電しておいたよ。君の事だろうから、すぐに行っちゃうだろうしね? 10分だ。10分でけりを付けろ。判ったね?』
おそらく、あのカエル顔の医者だろう。まるで人の思考を全て見透かしたような言い種。
「……楽勝だ、クソッタレ」
負ける気はしなかった。
根拠は無い。保証すら無い。
だけど、
「頑張れ、か……」
“頑張れ”―――あの言葉だけは、裏切れないから。
「あンなセリフ聞かされたンじゃ、負ける訳にはいかねェよなァ?」
背中に、光り煌めく“白い翼”を携える。
頭の上に、金に輝く天使のようなリング。
点滴を抜いてから、一分経過。
それでも充分過ぎると思う。
決意を胸に刻んだ一方通行は―――再び戦場に赴く。
第0位は思考する。今日一番の化物に出会ってしまった、と。
それは以前戦ってきた彼らを凌駕すると言っても過言ではない。
一方通行よりも。
番外個体よりも。
麦野沈利よりも。
御坂美琴よりも。
浜面仕上よりも。
目の前の男、青髪ピアスは想像を絶する人間だと認識。
総合的な能力で計るならば一方通行の方が遥かに上だが、その他の超電磁砲だろうと原子崩しだろうと、青髪ピアスにかかれば舞い踊るように避けるだろう。
「こっちやで」
二人は百メートル以上間隔を空けていたが、青髪ピアスは一瞬で第0位の懐に潜り込み、金属バッドを顔面目掛けて薙ぐ。
上体を後ろへ反らし、金属バッドが触れるか触れないかの境目、微かに前髪を掠めた。
流れるまま透かさず拳銃を突き付ける。完全に金属バッドを振り抜いた青髪ピアスに。
“BANG”と銃声が轟き、時間がスローモーションのさなか、弾丸が彼の額を穿つ寸前―――姿が“ブレる”。
「っ!!」
第六感が警告の鐘を鳴らす。即座に第0位は空間移動で回避を試みる。
移動先で彼は地に手を付いて、元居た場所を目視。
ソコにはアスファルトへ金属バッドを叩き付けている青髪ピアス。
「うそん、避けられてもうたか……」
ざーんねん、と肩に担いでぼやく。
「……移動速度から計測、秒速三六十メートル以上の脚力。銃弾に対応する反射神経。アスファルトをも砕く腕力。
以上の解析を基に無能力として判断し、全てに匹敵、適合する事柄……唯一存在」
立ち上がり、脳内で青髪ピアスの身体能力を冷静に吟味。
必要無いと感じたのか若しくは携えても無駄だと感じたのか、定かではないが、第0位は懐に拳銃を仕舞う。
血を拭い、空虚な瞳を青髪ピアスへ向けた。分析が完了して、一つの答えに辿り着いた第0位は紡ぐ。
「―――『聖人』か」
神裂火織。後方のアックア。
上条当麻の記憶から同一の人間。
生まれた時から神の子に似た身体的特徴、魔術的記号を持つ人間。
世界に二十人と居ない……その一人。
聖人ならば辻褄が合う。
人間の基本能力の脚力、腕力、耐久力、反射神経、聴力、視力に於いて圧倒的能力を発揮する。
二十メートル級の空中要塞五機分の塊をモーニングスターのように振り回せば。
百メートル級の鉄より重い残骸物質を受け止め。
一蹴りで五十メートルの壁を津波の如く吹き飛ばして。
百分の一秒の領域に対応する反射神経を持ち合わせた怪物。
「その言葉は暫く振りに聞いたわぁ。せやけど、ご明察。
曰く付きの『一般人』とは、何と世界に二十人しか居ない『聖人』だった訳や」
飄々たる口調で片手をひらひら振る青髪ピアス。
些かフザケた態度とは対照的に、決して失せない溢れる殺気と敵意。
線のように細い目から僅かに視認出来る鋭い瞳が、一層濃くする。
「ボクの自己紹介も終わったトコで、そろそろ本気出してや?
学園都市最強を沈めた能力、こんなもんちゃうやろ?」
ニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
余裕の表情。勝利への絶対的な自信。相反するような侮りや油断は無いと感じ取れる。
それはただの煽りでしかない。
何時までも消極的な戦法、本当の能力を隠蔽。これらの行動を徹する第0位。
事態の計算や逡巡の様子を窺えるが、だとしても今の態勢を崩さなければ、張り合いが無い。
「……手順を最終手段へ移行」
第0位は瞳を閉じ、自分に語り掛ける。
空虚な瞳が唯一淡い光を宿す時。
閑寂なる辺り一面が瞬時に変貌する時。
大気が焼き付けるように張り詰める時。
そう、それは合図。
「オリジナルの記憶に基づいて情報データを入手」
形勢逆転への導き。
聖人を超越。
「相手に適切な記録を取り入れる」
正直、時間はもう殆ど皆無。
故に第0位は決意を示す。
惜しんでる場合では無い、と。
「片は魔術を。片は科学を。二つのデータ混合、二重で敵を排除せよ」
彼は、こう告げる。
「発動。―――『ヒューズ=カザキリ』」
右翼に紫電を撒き散らす雷光の如く鋭い翼が数十と生え、
「発動。―――『神の力(ガブリエル)』」
左翼は空気を引き裂いて水晶の如く獰猛な翼が数十と生やす。
時は一瞬。出来事も刹那。
「―――ッッ!!!!?」
背中に迸った嫌な予感と滴る冷たい汗を感じた青髪ピアスは、顔を咄嗟に後ろへ反らす。
直後、“何か”質量の有る物質が横薙ぎに通過した。
聖人の彼は超越した反射神経と視力でギリギリ目視する。
第0位が紫電を纏う氷の『剣』を薙ぎ払ったのだ。
そして振り抜かれた剣に金属バッドが触れた途端―――消滅してしまった。
斬撃だから寸断したとか、打撃だからへし折ったとか、そんな底辺の争いじゃない。もはや児戯。
触れた箇所から先端まで消え去ったのだ。
青髪ピアスが反応を示す隙を与えないまま、振り抜いた剣の余波が彼を襲う。
聖人が対応出来ない速度で急接近且つ剣を振り抜いた事で、凄まじい突風が生じたのだ。
突き抜ける旋風に青髪ピアスは耐えきれず、病院の壁まで吹き飛ばされて衝突。
「予測はしてたんやが、想像以上やな……」
身体に駆け巡る激痛に呻き、得物の消失に悔やむ。
相応の対策を考察する余地も無いだろう。金属バッドを失った事が一番の痛手。
両者肉弾戦ならば勝機は幾らでも見出せるが、自分は徒手空拳で敵は剣。それも触れたら消滅ときたもんだ。
第0位が剣を水平に展開していく。
(マ、ズ……!?)
際立つ悪寒に焦燥が駆り立てられる。
今度は回避を行っても、背後には病院が在る。自分が助かっても院内に居る人達が救われない。
それでは駄目だ。ならどうする?
(……しゃーない。どんや攻撃も受け止めたるさかい、全力でかかってきぃやッ!!)
神経を研ぎ澄ませて、例え剣だろうと翼だろうと、己の持つ渾身の力を振り絞って挑む。
―――そのはずだった。
「―――なんや、この羽根……?」
ひらりと。ふわりと。
青髪ピアスの足下に一枚の“白い”羽根が舞い降りる。
白い羽根は闇夜を照らすように発光。淡く煌めきを放つ羽根は、天使を彷彿した。
彼は気付く。それは一枚では無い事を。淡く輝く羽根は病院玄関前一帯に降り注いでいる事に。
緩慢と空中を漂う無数の羽根は、あまりにも幻想的な風景を描く。
その突如、―――剣が音を立てて砕け散った。
「随分ハシャいでンじゃねェか?」
上空から、白い人間が降臨する。
白い髪。真っ赤な瞳。
背中に生える煌めく白き翼。
頭上に浮かぶ輝く黄金のリング。
―――全体の八割を学生で占める学園都市の中、最強の座を冠する者。
―――掌握する能力はあらゆる向きを操る事が可能な『ベクトル操作』。
―――本名は不明。しかし人々は彼をこう呼ぶ。『一方通行』と。
「……オマエ、あいつのクローンだったンだな」
一方通行は大した驚きも興味も示唆せず、再確認の作業をするような佇まいで呟いた。
「抽象的な表現だが、自分の素体は『上条当麻』。……それが何か?」
「いや、そォだな。一言で表すなら安心した」
「安心……?」
一瞬、肩を竦めて見せると、一方通行は悪戯をする少年のような笑みを浮かべる。
「もしオマエがあいつを“越えていた”なら、俺が目指す場所が無くなるからな」
それは、認めている証拠。
「けど安心した。クローンだからって訳じゃねェよ。もっと深い根本的な部分だ。例え、今のテメェがあいつに挑戦しよォと敗北以外考えられねェな」
自分が上条当麻に憧憬を抱いている、と。
「……一方通行が第三次世界大戦で目撃した、この二つを有していてもか?」
「少なくとも、俺に負けるよォじゃ無駄だな。あいつは俺達の気付かない内に遥か上へ到達してる」
終えるのと皮切りに、最後の戦闘が始まる。しかしそれも瞬く間の僅かな時間。
一秒にも満たない一瞬の中、勝敗は今までの激戦が嘘のように呆気なく結末を迎える。
第0位が、両手に氷の剣と雷光のような剣を携えて突撃。
数百を越す右翼と左翼が一斉に襲い掛かり、一方通行に直撃する―――寸前だった。
……数百を越す翼、二対の剣が、全て同時に白い翼によって引き裂かれたのは。
空中に無数の粉砕された破片が舞うさなか、一方通行と第0位の視線がバチリと交差。
―――コンビニ前の出会い頭から。
―――ビルを越えた激化する空中戦。
―――番外個体を交えた命の取引。
―――そして……今。
過去から現在に至るまでの死闘の映像が、第0位の脳裏でフラッシュバックのように想起する。
「―――ここがテメェの限界だ。天国で俺があいつに追い付く様を、肉塊みてェに無様な姿で眺めてろ」
白い翼が第0位を包む。
視界から景色が消え、後に残るのは―――もう、何も無い。
――――夢を見る。
極一般の家庭に生まれ、何の変哲もない弟と一緒に学校へ通い。
クラスには友達が居て、毎日のように日が暮れるまで外で遊び。
帰宅すると父さんと母さんが弟が先に帰りを待っていて、一緒に夕飯を食べ。
深夜になれば父さんと母さんが、私と弟をを挟んで睡眠を取る。
……そんな、誰にでもある当たり前の日々。そこには必ず“笑顔”が有った。
これは鏡。反面世界。
現実の自分と、幻想の自分。
硝子に亀裂が生じれば現実に強制返還という儚く脆い物だけれども。
現実より貧相で見栄えは無いが、鏡に映る“私”は幸せそうに見えた。
今の私は幸せだろうか?
鏡に映る“私”のように……笑えているだろうか?
――――夢を見る。
果ての無い海。
無限と続く空。
上は壮大に漠然と広がる蒼い空。
下は全てを飲み込む深淵の青い海。
水面に私は浮いていた。
これは分岐点。人生と同じ。
翼も無い私に空を飛ぶコトは不可能。
しかし、海の奥底へと沈むコトは造作もない。
地獄の底から這い上がるコトは難しいが、奈落の底へと堕ちるのは容易い。
私は静寂に深海へ沈む。
助けてくれる人も居なければ。
手を差し伸べてくれる人も居ない。
深海の中は鏡の世界。
沈めば飲み込まれるだろう。
けど、それも良い気がする。
幻想に堕ちる暁に“笑顔”を享受出来るならば、それはそれはとても幸せなコトだろう。
『少しだけお前を救ってやる。もう一度やり直して来い、この大馬鹿野郎!!』
ある、映像と音声が再生された。
『上条さんも矢張り健全な男子高校生で……いやいや駄目だ駄目だ墓穴掘っちオフッ!!?』
何処かで聞いたコトのある声。
私は何時聞いたのだろう?
『狙いが俺ならヴェントに手を出すな。もし、それでも狙うっつーなら―――その幻想ぶち殺すぞ』
―――何故、こんなにも安心感が沸き上がるのだろう?
全く判らない。理解が追い付かない。
どうして急に声と映像が彷彿したのか、意味が判らない。
どうして視聴しただけで、これ程までにも安心感を覚えたのかも腑に落ちない。
……でも、
『テメェなんかにコイツを殺させはしない。指一本触れさせねえ。絶対に護ってやる』
無意識に笑えてる自分がいるコトに、気が付く。
無意識に幸福感を得ている自分がいるコトに、気が付く。
どうしてだろう? まだ現実で生きていたいと思えた。
未練という概念を今この瞬間、理解出来た気がする。
……足掻こう。聞こえてきた声の人のために。精一杯抗ってやろう。
私は水の中を必死にもがく。水上に上がろうと手足をひたすら動かす。
挫けたくない。
この決意を無駄には出来ない。
初めて、……初めて『生きたい』と思えたんだ。
様々な苦難や壁が立ちはだかろうが、構わない。
それでも、それでもそれでもそれでもそれでも―――ッ!!
“アイツ”と生きたいと思えたのは嘘偽り無い真実だから―――!!
ガブリエルが取った行動は先ず距離を置く事だった。
上空へ飛翔して500メートル以上隔てる。大天使は邪悪な陽炎を立つ上条当麻を凝視。
視線を変えて右腕に添えるように生える血に染まった不可視の竜に。
どの手段が有効か、どう破壊すべきか優先順位を定めて考察しているのだ。
『一掃』による数千の裁きの礫は“何らかの反撃”で降り注ぐ事無く、『一掃』は相殺。
目視した故に些か慎重になっているのかもしれない。
ガブリエル自身、上条当麻という人間に危機感を抱いているのだろう。
「ghkntbe」
もぞもぞと口を蠢かしたガブリエルが、行動を示した。
背中に携えた水翼が数百を越す氷の槍となって、ヴェントを胸に抱き寄せる上条当麻へ一律に襲い掛かる。
水翼の一本だけで、空を飛行する学園都市製の超音速戦闘機(時速7000㎞オーバー)を串刺しにして撃墜させる程。
生身の人間が喰らおうものなら、五体満足では済まされない。
最低限、体に穴が空く事は免れないだろう。
上条当麻とて例外では無い。先刻は万全な状態だったし、右手のお陰も有った。
しかし、現在は氷の塔による多大なダメージに加え、ヴェントを両手で抱き寄せているために右手は封じられている。
彼の身を護るものは皆無。迫り来る氷の槍に上条当麻は動かない。
ボソリと。彼はヴェントにしか聞こえない声量で、小さく呟いた。
その時だ。竜が上条当麻を氷の槍から護るように阻んだのは。
氷の槍は止まらず、行く手を遮った竜に容赦無く叩き込む。
……が、氷の槍は竜に触れた途端、パンッと渇いた音が響き渡り、根刮ぎ砕け散った。
全て霧散していくのをガブリエルは注視。眼球が捉えるのは上条当麻ではない。竜だ。
「gbdnk 危険 uqhy」
再度に渡って、水翼が振るわれた。
しかも、一回目のようなガムシャラに降り注がれる様子は絶無。
四方八方あらゆる方向の軌道を描き、氷の槍が上条当麻を狙う。
それは死角を突いて竜から護れなくするため。
背後から奇襲を仕掛けるように、前方を護りに徹するとしたら、必然的に後方はガラ空きとなってしまう。
逃げる余地は存在しない。
「URUOoooooooooooooooooo!!!!」
―――竜が、吼える。
すると氷の槍は一瞬だけ時が止まったかのようにピタッと停止し、ビルの窓硝子が一斉に割れていくのと同様に、けたたましく。
上条当麻は微動だにもしていない。口を動かす様子も見せなければ指一本さえも。
だとすれば今の咆哮は竜の意志。
身を挺して護れないなら、別の手段を行使する。主人に害が及ぼさないための立派な自意識。
「―――」
上条がつい、と顔だけ上空に飛翔するガブリエルへ振り向かせた。
何を発言する訳でもなく無言を貫き通し、視界に入れた大天使を睨む。
信念が宿った瞳が変貌して、淡く邪悪な光を宿す。それは彼の身体から溢れ出す陽炎が、両目に集中した故に起きた現象。
彼が漸く静かに口を開け、何か発しようとした時だった。
「ghmu 物理 qxbe 圧砕 gky」
ドンッッ!!!!!! と。
500メートル上空から雪に覆われた地面へ、瞬時で降り立つ。
更に何らかの力を操作したのか、近辺に有った樹木が十本以上を根っこごと纏めて、地から切り離すように浮かび上がる。
空中に浮かぶ樹木はガブリエルの水翼によって、バットでボールを打つ感覚で樹木が飛ばされて行く。
凄まじい勢いで向かうその矛先は―――言うまでもなく上条当麻。
雪を穿ち地を抉って突き刺さり、周辺の樹木を巻き込んで薙ぎ倒し、瞬く間に樹木が積もって山を作り上げた。
中心には上条当麻が居るはず。
生きていればの話だが。
ガブリエルは樹木の山を刮目する。追い討ち掛けるべきか見限っているのだ。
未だに静まり返った空気の中、上条当麻は一向に動きを示さない。これはもしや本当に死んだのか?
「ghybkfvr」
スッと右手を樹木の山へ翳す。
徹底的に追い討ちを掛ける手段を選んだのだ。
軌道が逸れるような邪魔が入る事も、躊躇いを見せる様子も無い。
死んだのならそれでいい。
生きているならば殺すまで。
言わばソコでしかない。
例え相手が人を庇ってようが、何か決意や想いを秘めて立ち向かっていようが、生存な事に変わりは無い。
逡巡する必要も無い。水翼や剣を行使する理由にそれ以上の事柄を追加は不要。
そして、樹木の山はいとも簡単に吹き飛ぶ。
―――中から飛び出して来た竜によって。
獰猛な牙を剥き出し、疾風怒濤の如く。荒れる気性は樹木を噛み砕き、地を這う。
手の平から射出される前に急接近して来た竜の顎。しかしながらガブリエルは翳した手を下ろさない。
そのまま、ッッジ!!!! と地を這って向かって来る竜に射出。
丘をも吹き飛ばす攻撃が竜の眉間に衝突……だが、パキンと幻想殺し独特の音が響き渡る。
攻撃も衝撃も効力も全て失い、虚空に空しく霧散。
竜の勢いは更に増し、ガブリエルとの差は目と鼻の先まで迫っていた。
大天使は咄嗟に氷の剣を現出させて血を払うように、足下の地面を横薙ぐ。
途端にボゴォッ!! と地面がめくり上げられ、一瞬で10メートルを越す壮大な壁を築き上げ、竜と隔離する。
―――だが、
「GAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!!!」
―――その壁を、すり抜けた。
猛々しい様子は一変せず、めくり上げた壁を障害ともしない。
まるで漫画の幽霊のように通り抜け、ギラギラと煌めく獣の瞳がガブリエルを射抜く。
意表を突かれた大天使は一寸だけ止まる。
……それが、竜に与えた決定的な隙だという事に感付くには、些か遅かった。
結果―――ガツンと。
剣を携えていた片手を、指の先から肩の付け根まで食いちぎった。
元々血が通って無いのか、血が噴き出す様子も無い。
寧ろちぎられた肩は、さながら石像を砕いた感じに酷似。
矢張り地上は危険と感知したのか、ガブリエルが上空へ飛翔する……直後の事。
一瞬にして1000㎞以上に到達する。故に途中余程の弊害が起きなければ止まらない。
だから、『上条当麻が10メートルを越す壁を利用し、空中で先回りしていた』ぐらいでは飛翔を中断する事は出来ない。
「―――ッ!!!!」
邪悪な光を宿した瞳がガブリエルを確かに捉える。
動かなかったはずの右腕も何故か回復。身体の蓄積されたダメージは残っているものの、ガブリエルを殴り倒す事に関しては、造作に無い。
彼は右腕を振りかぶって、狙いを定めタイミングを計り―――ガブリエルの顔面に上条当麻の拳が突き刺さった。
それも、一度ヴェントの協力の下で加えられた一撃。
ヒビが入った箇所へ同様にクリーンヒット。
威力は先刻より著しく凌駕。
振り下ろすように喰らわせたため、ガブリエルは森林に激烈な勢いで突っ込んで行く。
バキバキバキメキメキメキッッッ!!!!
背中に携える水翼が木々を薙ぎ倒す。
水平に氷の翼が伸びているので、ガブリエルが奥へ突っ込んで行くのに伴い、水翼が樹木を巻き込んでいるのだ。
「つ、はぁ……はっ、がはっ!」
着地の体勢なんて知らない上条当麻は、みっともなく10メートルという高さから地面に体を叩き付けられる。
雪が多少なりのクッションになった事が幸いか。骨折には至らない。
冷たい感覚に意識が飛ばされないよう、血が滲むほど強く拳を作って立ち上がろうと己を叱咤。
それでも、蓄積された身体への莫大なダメージが甚だしい様子。
何とか必死に立ち上がるも、足はガクガクだし、息切れも激しい。
しまいには吐血までする有り様。
「げほっげほっ……くそ、長くは持たねえな」
竜も消え、瞳も元に戻り、“何時も”の上条当麻は激痛に悶え苦しむ。
記憶はしっかりと有る。自分が何をやらかしたか明確に理解。
だが意識は絶無。ほとんど無意識に体が動き、口を蠢かせていた。
無意識である事が一番恐ろしい。
自分外の『有意識』で行動を起こしていたとなると、上条当麻の底には何かが存在するという事。
少なくとも、彼は“そういう”のに心当たりが有る。
―――第三次世界大戦だ。
ベツヘレムの星でフィアンマと衝突し、彼の力で右腕が切り離された時。
己自信に語り掛けてきた声。
未だ鮮明に覚えている。
何を言っているか、上条当麻の頭では理解し兼ねなかった。
……だが、自分の意識が『乗っ取られる』気がしたのは間違い無い。
(……いや、今はそれどころじゃない)
彼は邪念を振り払うように頭を横に振る。
確かに今後、無視出来ないほどの事態に陥る可能性は否めない。
だけど、“今”考えるべき事では無いのだ。
幾ら思考を巡らそうと、自分の頭では理解する部分なんて一つも存在しないのだから。
上条当麻は空を仰ぐ。相変わらず広がるのは天空を覆う魔法陣。
それはつまり、一つの事象を提示する。
ボバッ!!!! と森林の奥で轟音が炸裂した。考えるまでも無い、ガブリエルだ。
大空に高く昇り、夜月と重なる水翼が星のように輝き―――上条当麻に降り注ぐ。
一本の氷の翼が何十にも砕けて『刃の破片』となった幾千の刃は、上条当麻を中心に地面を叩く。
彼は咄嗟に右手を空に翳す。
回避は不可能と判断したのだろう。
その直後、容赦無い雨の如く天罰が上条当麻だけでなく、周りにある10メートル以上の壁や雪を覆った地面や樹木を文字通り『叩き潰す』。
地面を抉って飛び散る泥や石ころが上条を襲う。
異能で影響を及ぼした物理的な攻撃は右手も意味をなさない。
避ける事も出来ない今、彼は被るしかない現実。
「―――ッ!!」
一つ一つの破片の衝撃が凄まじい上に、連続で降り続けるので衝撃は重なる。
故に微かだが、確実に足が地面を擦って後退していってしまう。
腕が衝撃の重なりで弾かれそうになるが、左手で押さえて何とか防ぐ。
これで右腕は保障されたが、外部からの異能攻撃は右手で防げなくなった。
降り注ぐ『刃の破片』が止まない限り、右手は使えない。
しかし対抗策を練る余地は上条当麻に用意されない。
何故なら森林の遙か奥で―――ドンッ!!!! と爆ぜたのだから。
「や、ば……ッッ!?」
あんな地震を起こすほど甚大な力量の持ち主なんて、この場にたった一人しか上条当麻は知らない。
視力で確認不可なくらい森林の遙か奥だとしても、ガブリエルならば五秒と掛からないだろう。
―――五、
視線を『刃の破片』に移す。
雨は一向に止む気配を見せない。
上条当麻は奥歯を噛みしめ、コメカミに滴る冷たい汗が焦りの色を窺わせる。
―――四、
右手は『刃の破片』に使用。
防御は必然的に不可能となる。
―――三、
(どうする……何か、何か手立ては……っ!!)
―――二、
ガブリエルは顔面の三分の一と右腕が消失しているも、烈火の如く雪や樹木を薙ぎ払いながら悍ましい速度で迫る。
剣を携えなければ、手を翳す訳でも無い。背中に生える氷の翼を行使する素振りも皆無。
そのまま突っ込む気だろうか?
……若しくは上条当麻を巻き込んで自滅を謀る気か?
―――一、
既に、鼻先まで接近していた。
「……ッッッ!!!!?」
彼は全力で回避に転じようと無我夢中に体を反り返させ、折れたように膝を曲げてガブリエルの突進をかわす。
それでも体は万能に作られておらず、当然の理論で人間は地球に存在する限り重力には逆らえない。
故、彼は尻餅を付いた。
相変わらず右手は翳したままなので、尻餅に伴い高さも変わる。
そして、幸か不幸か、高さが低くなった右手は―――ガブリエルの顔面へ。
瞬間、暴風が吹き荒れた。
雪を払い樹木を吹き飛ばす風の塊がガブリエル一帯で暴発。
案の定、上条当麻という細身の軽い人間程度は、いとも簡単に宙に浮く羽目に。
「なにが……?」
強打した腰を手でさすりつつ、彼はガブリエルを視界に入れる。
大天使の首から上は、もはや口だけしか残っていない。頭部も眼も鼻も耳も後頭部に流れるラッパ状の布も全て消失。
右腕も顔面の半分以上も無くして尚、ガブリエルは行動に移す。
しかし、身体に係る負担が臨界点を越えているのか、全身にヒビが入り始めていた。
―――辺りに、ガブリエルの咆哮が響き渡る。
人間の頭では到底理解の出来ない、だけど単なる爆発音とは明らかに違う、禍々しい感情が込められた絶叫。
全身に入ったヒビの割れ目から漏れ出す閃光。
光は次第に大きく、一面を照らすように強さが増していく。
それは予兆。起こりうる現象はおそらく……大爆発。
上条当麻はハッとして、ガブリエルへ駆け出す。
大天使が今から何をしでかすか、悟ってしまったから。
例え、足がガクガクだろうと。
例え、意識が失いかけだろうと。
例え、体力がもう無いだろうと。
どんな言葉の羅列を並べても、上条当麻の原動力を潰す理由にはならない。
ガブリエルが大爆発によって、ココら一帯を消し炭になる有り様を黙って見てられるほど―――彼は無責任ではない。
大天使を自滅まで陥れた原因は自分。その範囲に周りが巻き込まれるのは御門違い。
己が招いた結果はキチンと始末すべき。
「おおおおおおおおおッ!!」
叫び吼え、ガブリエルを右手で抑え込もうと伸ばす。
触れる直前、―――起爆した。
純白の閃光が炸裂する。全てを呑み込む、純粋すぎて恐ろしい光。
目を閉じていても眼球を焼き尽くすほどの莫大な光が、不自然な夜を真っ白に塗り潰す。
本来であれば、半径数10キロが灰になっていただろう。
単純な爆発とは違う『特殊な力』による爆発だ。それ以外にも、奇妙な副産物が生まれてきてもオカシくはない。
文字通りの不毛の地になっていた可能性だって高い。
だが。
爆発は広がる前に、消去されていく。
跡形も無く消し去り、余波さえも残さない。
上条当麻の右手に宿る幻想殺しが爆発の規模を最小限に抑え込んでいるのだ。
威力も爆風も完全に右手で防がれるも、右手を跳ね返そうと更に力は増量する。
対して彼は弾かれないために左手を加え、必死に抑え込む。
幻想殺しの処理速度は良好。
右手に支障は無い……が、
(ッ!! 弾かれる……ッッ!!!?)
左手を加えて尚、係る衝撃が凄まじ過ぎて右手が跳ね返されるのも時間の問題になってきた。
歯を強く食い縛り、疾うに限界を越えている右腕に力を付け加える。もはや感覚が失っている。
それでも、現状は変わらない。
後数秒。僅か数秒耐えれば良いのに……腕が、反れる。
(ク、ソ……ッ!!!!)
まぶたを閉じる。
彼は決死の覚悟で右手に全身全霊を捧げ、抵抗を止めない。
今後、暫くはマトモに動けない可能性は否めない。
だけど、自分が傷を受ける代わりに平和を取り戻せるなら、迷う必要は無いから。
上条当麻が、命を賭ける理由にしては、十分だろう。
―――そして、
―――彼の右腕は、
―――重圧に耐えきれず、
―――反れる。
―――……はずだった。
上条当麻は、ふと疑問を浮かべる。未だ爆発を防ぎきっている右手に。
何が起きて、何が影響して、何が起因で、……何もかも判らなかった。
怖々とまぶたを開く、一瞬だけ眩い光が視界を奪うが、目を細めて和らげる。
景色は至って変わってない。
己の右手が爆発を抑え込む光景。
反れる事も無く、安定した状態を保っていた。
―――横から伸びている、黄色い布に包まれた腕が、上条当麻の右腕に添えていたから。
感覚を失っていた所為か、腕が添えられている事に気付かなかったのだ。
彼は黄色い腕には見覚えがある。たった一人しか居ない。
しかし今“彼女”は『一掃』を身に受け、気絶しているはず。
視線を横へ移し、腕を辿って行く。そこに―――居た。
何時の間に側まで近寄って来たのか、判らない。
でも彼女は腕を伸ばして、爆発を抑え込もうとする上条当麻に、非力ながらも助太刀していた。
「ヴェント……」
返事は無い。半開きの目。
奥の瞳は虚ろ。
殆ど意識が飛んでいる有り様。
それでも彼女の意志はしっかりと、上条当麻に伝えられていた。
上条当麻。ヴェント。
二人による不屈の精神が奇跡を起こす。
以前は敵同士だった彼らだが、それはもう過去の事柄。
未来を生きるため、互いに背中を預けて力を合わせ、果てしなく聳え立つ壁(幻想)を打ち破る!!
……。
…………。
………………。
視界に映る景色が、硝子を割っていくみたいに一変する。
空も、森林も、雪道も、全て粉々に砕けていく。
荒れた様子も無い光景。薙ぎ払われていた樹木も嘘のように元通りに戻る。
雪や森林を彩る西日が、彼らを照らす。
元の世界に……帰還した瞬間だった。
しばし呆然と夕陽の空を眺めていた上条当麻だが、直ぐ側でドサッと音を聞いてハッとした。
ヴェントが雪道に倒れたのである。
意識が削がれたのだろう。
元々半分は気を失っていたような状態だったのだ。無理もない。
フードは取れ、隠れていた亜麻色の髪が露わになり、ヘアピンも幾つか零れ落ちていた。
「ヴェントっ!!」
上条当麻は早急に彼女の下へ駆け寄り、肩に腕を回す。
生きているものの、傷が尋常ではない。
それは自身にも言えた事だが、彼にとって己は二の次三の次なのだろう。
「何処か……何処か、治療をしてくれる施設を探さないと」
この山奥で? という言葉が頭の中で反芻する。
どの方向が街に繋がるのか判らないし、そもそも仮に辿り着いたとして日本語が通じるのか?
言葉という壁。
距離という壁。
方向という壁。
聳え立つ絶壁を打ち破った次に立つ、小さいが数のある様々な壁。
言語なんて上条当麻には到底乗り越えそうに無い。だけど、
「……じっとしてても、何も始まらない。探すしかねえだろ!!」
ヴェントを抱きかかえて立ち上がる。
所謂、『お姫様抱っこ』。
何時着くかなんて判らない。
けど、何もしないままココで居続けても、待ち受ける運命は吹雪の山奥で凍え死ぬだけ。
ならば上条当麻は動く。
山に無いなら下りて探すまで。
「―――行くかっ!!」
歩み出す、その時だった。
「行く当てが無いなら、俺が面倒を見よう」
背後から雪を踏む足音が聞こえた。
上条当麻は振り返る。
そこに居たのは、奇妙な男だった。
金髪の髪。薄い水色のシャツの上から、ベージュ系のベストを羽織った格好。
とてもこの極寒の中で移動できるような服装ではなかった。
にも拘わらず、彼の表情は変化しない。
「君達の宿と身の安全は保障しよう。代わりに学園都市の状況を聞かせてほしい。まあ何にしても、まずは傷を癒さなくてはな」
「誰、だ……?」
上条当麻は問う。
問いはシンプルなもので、
「オッレルス」
返ってきた回答も、またシンプル。
「かつて魔神になるはずだった……そして、隻眼のオティヌスにその座を奪われた、惨めな魔術師だよ」
ロシアの時刻は『6』を指す。
日本の時刻は『3』を指した。
死闘の鐘を鳴らして、僅か四時間。
彼らは一旦、安息を取る。
……次に訪れる、その日まで。
長い、永い夢を見ていた気がする。
とても温かくて包まれるような、縋りたくなる……優しいぬくもり。
現実と幻想を彷徨うさなか、微かに差した光と『声』だけを頼って。
自分が望んで求める日溜まりを目指し、ひたすらにもがいてもがいて―――漸く、到達した所だった。
頬に触れる感触が甚だ愛おしくて堪らない。
優しく包み込まれる感覚が慈愛に満ちて抱き締めたくなる程に、
(……あん?)
頬に触れる、感触……?
彼女の意識が覚醒した瞬間だった。
明らか風や雪とか自然なモノでは無いし、氷の塊や石といった物理的なモノでも無さそうだ。
肌触りから考察して、このジワジワ伝わるぬくもりは人の温度。
つまり頬に感じるのは、
「…………」
うっすらとまぶたを開けた途端、橙色の光が視界を覆い尽くす。
木材で造られた天井。備え付けた電気が発光して、橙色を彩っているのだ。
何処だ? とか、化物に勝ったのか? 等と数え切れない様々な疑問が頭の中で按ずる。
「気が付いたか?」
だが、それらを全て払拭するように耳の付近で声がした。
タイミングを考えて、自分に向けての言葉。
聞き覚えがあるからこそ、危機感や警戒感は無い。
寧ろ安らかな気持ちになった。
どうしてかは判らないけれど。
目と顔だけ、僅かに横へずらす。
そこには予測通りの男が、至極心配そうな顔色で自分を見つめていた。
「上条当麻……」
「良かった。ホントに良かった」
安堵の息を漏らす。
顔色も緊張の糸がほぐれたように、穏やかな表情が生まれる。
でも、矢張りまだ心配なのか、完全に安心した訳では無い様子。
そして、ヴェントは気付く。
意識が覚醒する原因を必然的に視界に入った事により、呆気なく答えに辿り着いてしまったのだ。
彼女は逡巡せずに、問う。
「一つ、訊いても良いか?」
「ん? 上条さんに答えれるものなら何でも来いですよ」
ピッと人差し指で自らの頬を指し、
「何でアンタの手が、私の頬にピッタリと添えられてるワケ?」
「……あー」
ヴェントは特に反応を示さない。
恥ずかしがる様子も無ければ、驚愕や憤る事も無かった。
更に付け加えるならば嫌がる仕草も示唆しないが、それは野暮と云うものだろう。
逆に反応を示したのは上条当麻の方だった。
若干頬を紅く染め、頭をポリポリ掻く。羞恥を含めた故の素振り。
誰から見ても動揺している事は間違い無い。
「何よ焦れったいわね。後ろめたい事実でも隠してるのかしら?」
「そ、そういう訳じゃねえんだっ!! ただな」
彼はヴェントから視線を逸らすと、
「……お前が俺の名前を呼んで、手を握ってきたんだよ。更には頬擦りするわで上条さん大変でしたよ」
「―――は?」
余りの予想外な回答に、ヴェントの口から素っ頓狂な言葉が出た。
上条当麻のセリフが脳裏で反芻される。
―――私が寝言でコイツの名前を呼んだ?
―――しかも私から手を繋いだ?
―――挙げ句の果てに頬擦り?
人間という者は不思議な生き物で、ある“場面”を文字や言葉で表現された時、頭の中でその“場面”を想像する性質が存在。
故に。
自分のボイスで上条当麻を呼び。
おもむろに彼の手を握り締め。
その手を頬まで持って行くと、頬擦りをする。
この一連の映像が、ヴェントの中で再生された。
そして自覚が伝わるのは甚だしく迅速なもので、
「―――っ!!?」
寝起きの思考が一気に醒めていく。
立場上、優位に立っていたはずのヴェントも、今では顔を真っ赤にした有り様。
何を発して良いか判らず、口は開閉を繰り返す。頬を指していた手もワナワナと震えだし、明確に狼狽。
それでも頬に添えられる上条当麻の手を拒否らないのは、彼女の本音か。はたまた別の事柄か。
「~~~っ」
湯気が出るほど顔を真っ赤にしたヴェントは少々俯き加減で、歯軋りが生じるほど強く歯を食い縛る。
当然彼女の様子を、朴念仁唐変木甲斐性無し完璧鈍感野郎こと上条当麻は別の意味で受け取ってしまう。
例えば先刻の傷が疼き出したとか。
例えば極寒の中に居たから熱で顔が紅潮したとか。
例えば未だ疲れが取れず些か眠いとか。
全国に居るフラグ建築済みの女性陣が頭を悩ます原因の一つ。
「もはや病気ね」と語るのは学園都市の常盤台中学生。
ヴェントは頬に添えられた片手の指一本を掴む。
「どうしたヴェン、とぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおお!!!!??」
メキッ、と。
決して曲がっては駄目な方向に、上条当麻の指が彼女の手によって折れ曲がった。
彼自身が突然奇声を上げた訳では無く、指が折れ曲がった激痛に絶叫しただけなのでご注意を。
「ぎ、ぎ、ギブ! ギブギブ!! 折れてるっ、折れてるからぁーっ!!?」
「砕けろッ!! そして死ね!!」
「おほぉいぃぃぃっ!!!?」
最後の方は既に上条当麻にも何が言いたいのか判らないのだろう。
日本語になっていない。
彼女の言動+更なる激痛から零れたセリフにしか過ぎないのだ。
こんな端から見たらじゃれ合いの光景だが、それで尚、依然と体勢を崩さない偉業を二人は成す。
「目を覚ましたか?」
全くの意識外からの声に二人は同時に停止して、振り向く。
視線の先には別室から現れた金髪の男。
突如現れた男にヴェントは上条当麻と違って警戒心を露わにする。
彼女の様子を察した男は、やれやれと肩を竦めると、
「俺はオッレルス。名前程度なら聞いた事あるだろう? 前方のヴェント」
「オッレルス……成る程ね」
得心したとばかりに口元の片端を吊り上げると、彼女は上体を起こす。
上条当麻が心配の色を含んだ声を掛けるが、ヴェントは発する前に片手で制する。
「世界各国の魔術結社から狙われてる魔術師様が、私達に何の用かしらぁ?」
「……人を助けるのに、理由を一つや二つ作らないといけないのか?」
彼は心底呆れるように溜息を吐く。何を当たり前の事をと、態度で示唆した。
対してヴェントは返答に辟易された訳では無いのだが、眉を顰める。
オッレルスの物言いにすこぶる不満そうな声色で、
「何か、このガキと同類って感じがして嫌ね。初対面で悪いけど、無条件で嫌悪感が全身に走ったわ」
「なんでっ!?」
「てか、俺って相当ヴェントに嫌われてたんだな……」
共に背中を預け合った仲なのになぁ、と幾分落ち込んでボヤく。
間髪容れず反応したのは起因の基であるヴェント。
「アンタが嫌いっつーか……死んでほしい、とか?」
「酷っ!? それに“とか”って何だよ!! お前、俺に対する扱いがぞんざい過ぎねえか!?」
「寧ろ良くなりたいワケ? こんな私に。ってかアンタ年上好きなの? ……それとも熟女が?」
「んな訳あるかあああああああッ!!!! 今っつーか漸く気付いたぜ、例えが極端なんだよコノ野郎!! テメェの思考は極論しか叩き出さねえのかッ!!
どうせアレだろっ?! 今の質問に否定したらロリコンとか幼女好きとか意味判んねえレッテル貼られんだろうがよ!!」
「何マジになってんのさ。顔近い上に必死とか、どれほど拭いたいコトなのよ」
「めんどくせぇぇ!! 何なのこの子!? 急に常識人になっちゃって!! 上条さんはそんな直ぐに冷静になれるスキルは持ち合わせていませんのことよ!!?」
「アンタこそ誰よ。キャラ変わってんじゃない」
……と、話の路線がズレまくった上条当麻とヴェントの会話だが、それは唐突に終わりを告げる。
多少な障害では止まりそうに無い二人の会話の勢い。しかし、
「なかなか愉快な内容だな。見知りの仲、俺様も混ぜろ」
―――時が、止まった気がした。
アックアからどっかのクソ野郎を捜索しろと言われ、未だ二十四時間も経っていないが、振り返れば色んな事が有ったと思う。
サーシャ=クロイツェフに手伝いを要請しに行って断られ。
山奥の雪道では徘徊する山賊を返り討ちしてやったり。
東洋の聖人率いる天草式と共に行動をすれば個性豊かのメンバーに疲れてしまい。
何らかの原因で異世界に放り込まれて上条当麻と劇的な再会をへて。
大天使のガブリエルを撃破するため上条当麻と共同戦線を繰り広げる羽目に。
挙げ句の果てに何処かも判らない場所で世界の魔術結社から狙われているオッレルスと来たもんだ。
捜索開始からまだ一日も経っていない。早速だがもう動きたくないのが本音。
今日が特別なだけだろうが、こうも毎日ドタバタでは正直身体が保たない。
何とあのガブリエルに曲がり形にも出逢ってしまったのだ。これ以上は驚く事柄も無いだろう。
……と、踏んでいた。さっきまでは。
「久しい顔だな。何の音沙汰も無く、こうしてお前と対面するのは何時振りの事やら。
しかし光栄に思え。流石の俺様も驚いたぞ。まさかお前らが一緒だったとはな」
神様、十字教で信仰していた自分が言うのもアレだが、居るのなら一言だけ言わせてくれ。
―――これは流石にねーよ、と。
「……ふん、こちとらオシメの替えも出来ない、どっかの誰かさんの後始末で大変だったのよ。
勝手に散らかせたんだ、ケツぐらい自分で拭いて欲しいわねぇ?」
「ハッハッハッ、何を言うかと思えば、全くその通りだな。
だが残念、『天罰術式』の範囲指定が出来ないお陰で、ローマ正教の身内にまで被害を及ばせたヤツのセリフでは無いな」
ピキ、と。
ヴェントのコメカミ辺りに青筋が浮かぶ。ついでに上条当麻の指を掴んでいた握力も増した。
笑顔が引き吊り、今にも爆発しそうだが、それでも堪えようと自分を抑え込む様子が窺える。
現在の時点で被害は上条当麻だけ。何やら呻き声が聞こえるが、この際無視だ。
「ハッ、相変わらずムカつく野郎ね。性根が腐ってやがる。その喋り方が腹の底から苛立たせるわ」
「どの口が言う。お前の男勝りな性根こそ腐敗じゃないか?
だが……ふむ、これはこれは光栄だな。発動条件として『天罰』は相手に敵意を抱かさせなくてはならない。その“本業”であるお前を苛立たせるとはな。
いやはや、まさか賞賛を称えられるとは考えもしなかった」
ブチッ、と。
今度こそ本当に、取り返しの付かない音がオッレルスが用意した宿の一部屋に響く。
彼女はゆらりと立ち上がり、上条の指を離して、ハンマーの代わりに拳を作る。
眉間を今まで以上に深く顰め、引き吊った笑顔で犬歯を剥き出しにすると、彼女はこう呟いた。
「―――上等だ、ブチ殺す♪」
一瞬だけ、場の温度が下がった気がした。
ヴェントがフィアンマに殴りかかる前に、瞬時に反応した上条が彼女を羽交い締めにする。
両腕を捕らえられ行動を拘束されたヴェントは、火を噴くような勢いで彼に食い付く。
「離せ上条当麻ッ!! やっぱりこのクソ野郎は一遍地獄に葬るべきなのよ!! いや、永遠に眠ってろッ!!」
「落ち着け!! 確かに俺も最初驚いたし、あれ、こんなキャラだったっけ? とか思ったけどさ!!」
「私に否定形は存在しない、だから離せぇッ!! 寧ろアンタも手伝いなさい!!」
「ハハハッ!! 短気な所はお前も相変わらずだな。だがしかし、まず戦力の差を弁えろ。
貴様如きが俺様を葬ろうなど片腹痛いぞヴェント。得物を有さない徒手空拳とは、児戯にもならんぞ?」
「やってみねえと判んねえだろうがあッ!! こんの陶酔ナルシ野郎には粛清が必要なのさ、だからいい加減言うコトを聞け上条当麻ーッ!!!!」
「ふむ、戦争前は幻想殺しと呼んでいて今はフルネーム。随分と心を許したのだな。恋に落ちたか?」
「なっ!? ―――殺す!!」
HAHAHAHAHAHAHAHAHAHAHAHA!! とフィアンマは高笑う。火に油を注ぐ言動なのは間違い無い。
彼も半分はヴェントを囃し立てて楽しんでるのだろう。質問に関しては本気。
二人のテンションが更に斜め上へ跳ね上がり、ヒートアップを遂げようした丁度その矢先、
―――スパァン!! と小気味の良い音が“二回”響いた。
重ねた紙類を結構強めに叩いたような音。切っ掛けに二人は急停止。
それもそのはず。ヴェントとフィアンマの頭頂部で奏でたのだから。
「ったく、大の大人……それも神の右席がこんな所でドンパチやってんじゃないよ。我が家を消し飛ばす気?」
突如現れたのは金髪の女。
額に押し上げたゴーグル、深い色の実用的で分厚い生地のジャケットとズボンの上から、作業用のエプロンを身に着けている。
イギリス製の侍女のような印象。
彼女の名はシルビア。
「やりたきゃ外でやりな。子供じゃないんだ、仲直りは自分達でする事ね」
彼女の片手には白い紙で作られたお手製のハリセンが握られていた。
ヴェントが見る限り、先刻の音はハリセンが起因してるとしか考えられない。
でも構える動作どころか、何時この部屋に入って来たのかさえ感知出来なかった。
頭を叩かれて、幾分冷静になった彼女はポツリと呟く。
「……この家の住人は忽然と出現するのがマイブームなワケ?」
「伊達に魔術師をやってないよ。それで十分。頭が冷えたなら、案内してやるから風呂入って温まって来な。雪被って体が冷えてるだろうしね」
それと、と一度切り、部屋の入り口を一瞥する。
「そこで如何にも逃げようとしてる大馬鹿野郎」
「ひっ!?」
びっくぅっ!! と肩だけでは無く体全体が飛び跳ねるように震え上がった。オッレルスだ。
コソコソと密かに逃げ出そうとしていたらしい。
シルビアは襟首を乱暴に掴むと、鼻先まで引き寄せてオッレルスにしか聞こえない声量で彼女は囁く。
「あんたがこの宿に移動してまで連れ込んで来たんだ。今回ばっかりは勝手に出て行くんじゃねえぞ?」
「わわ、判ってますともっ!! は、はは……」
「なら良し」
微笑んで襟首を離すとヴェントの方へ向き、首を動かして彼女を促す。
「行くよ。遠慮は無用さ」
「……はぁ、ハイハイ」
些か躊躇ったが無駄だと観念したのか、軽く溜息を吐いて素直に従ってシルビアに付いて行く。
辟易されるヴェントも、また珍しいものだと上条当麻は実感した。
「なあ、何時もこんな感じなのか?」
相当痛かったのか、未だに頭を抑えて悶えるフィアンマに上条はこっそりと耳打ち。
声を聞いた彼は、上条と同様に声を潜めて返答する。
「嗚呼。お前も気を付けとけよ。
シルビアは俺様だろうが何だろうがお構い無しだ。この宿で暮らす間、必ず一発は喰らうと覚悟しとけ」
「……肝に銘じとく」
眼前で早速制裁を喰らったヴェントを目の当たりにして、上条当麻には頷くしか道は残されていなかった。
「内密にしてる所すまないが、残念だが全部筒抜けだぞ君達」
恨めしそうな目でオッレルスは二人を睨め付け、意味が無いと察したのか睨むのを止めて緩慢と立ち上がる。
上条とフィアンマの二人と向き合い、若干情けなかった目つきが真剣な物へと一変。
その変貌に僅かに上条当麻は息を呑む。
殺気で恐怖を感じさせる視線とは違う、緊張を迸らせる視線に驚愕を隠せない。
初対面で言われた学園都市の状況についての話題に触れる……つまり本題に移すという事が上条当麻にも把握した。
そんな緊張の中、フィアンマが口を開けた。
「矢張り俺様達が昨日まで居たペンションでは無くココに移動する理由として、上条当麻を匿う事が起因するのか?」
「鋭いね。推測通り、君だけなら多少の弊害が生じようと問題は皆無だったんだが、今回ばかりはそう容易くいける相手ではない」
「……へ? 何で俺が療養のため宿を取るだけなのに、そんな大掛かりなの? まるで上条さんが狙われてるみたいな言い回し……」
「実際お前は捕獲対象さ。言っておくが魔術側では無い、学園都市にだぞ」
「何を言っとりますかフィアンマさんや。LEVEL5ならまだしも、上条さんに希少価値は微塵もありませんのことよ?」
「まあまあ。君の言う通りだとしてもだ。学園都市内の学生、それも能力者をアレイスターが何の施しもせず、みすみす放置なんてしないだろう? 少なくとも回収には来るはず」
「いや、まあ、うーん。そう……なのか? てかアレイスターって学園都市の統括理事長だよな? 何でその人が俺を?」
「じきに解る時は来る。ここで語っても君が理解可能な部分は欠片も無いさ。
今重要なのは君が学園都市に移り住んでからの学園都市の状況及び変化だ。この二つを教えてくれ」
上条当麻は腕を組み、首をうねって悩み逡巡する。
内部の機関とか授業内容、その全てを話すべきなのか。又は限定するべきか。
そう易々と述べて良いものでは無いと思う。
―――しかし、『絶対能力進化実験』と言うフザケた内容を設計し、了承した学園都市を匿ってやる義理も無い。
だけど。だけとだ。
曲がり形にも今まで世話になった街。だからこそ出会った人々が居たし、思い出も結構有る。
裏切るような行為は出来るならしたくない。
(でもなぁ……)
オッレルスの目を一瞥。
瞳は真剣その物。
とても悪用するような人間には見えない。フィアンマの方も何やら改心の様子を窺わせる。
彼は悩み悩み悩みを重ね……そして、上条当麻は決断する。
「……言っとくが、俺は学園都市についてそんな詳しくないぞ。知ってもおそらく片鱗だ」
「構わない。君の知る限りで良い」
世界の魔術結社から狙われている魔術師、オッレルス。
戦争を企てた大罪人として狙われている魔術師、フィアンマ。
学園都市から回収対象として狙われている無能力者、上条当麻。
ここで、三人の密談が行われる。
水の音。今日の疲労を癒やすように丁度良い温度のお湯が、彼女の身体を洗い流す。
肩まで湯船に浸かり、雪や極寒で冷え切った素肌を温める。
思わず声が漏れてしまう程、気持ち良い。体の芯まで癒やす心地好さ。もはや天国の域。
「ふぅ……良いお湯ね」
ヴェントはシルビアに案内された浴場に居た。
しかもご丁寧に洗面所には化粧落としのクリーム。更にはピアスやヘアピンを置く小箱まで。
風呂に入る前提の用意周到並み。
これには流石に感嘆する他無いだろう。
板張りの宿。湯船を満たす桶も木材で造られている様子。
風情が出て良し。後は見晴らしの良い夜景が付けば文句無しの満点。とか何とか考えてしまうヴェント。
ふと、仰いで天井を眺める。
浴槽から湯気が立ち上り、熱気が籠もるも、取り付けた小さな窓の隙間へ逃げていく。
頭に浮かぶ事は……何も無い。
虚無感に覆われ、モノクロの世界に彼女は放り込まれた。
「……」
虚ろな瞳が捉えるのは、空間。
天井ではない。そんな所をヴェントは見ていない。
視線を辿れば天井だが、彼女が見ているのはもっとその先。
瞳に映す板張りの天井はヴェントに何も齎さない。彼女の心を晴らす手立てにはならないのだ。
蟠り。靄。憂鬱。鬱積。葛藤。
様々な感情の糸が、彼女の中で縺れて、解け合う事は決して無い。
糸は心を縛り、身体を呪縛する。
多くの糸は表情さえも奪う。
―――思考に耽る時間が出来て、漸く自覚した。
何本もある糸の正体は、たった一つの芽生えた『感情』。根底に存在する、生涯で初めての経験。
自分は子供では無い。だからこそ別の事柄に置き換える機能は持ち合わせていなかった。
最初は否定した。否定形は無いとか己に掲げているが、知らない。
否定して、否定に撤回に拒否に拒絶に忌避に狷介に謝絶に却下に棄却に反発に反抗に拝辞に撥無を重ね。
あらゆる否定する言葉の羅列を並べ、全身全霊をかけてその『感情』を烏有に帰す。
……しかし、一度芽生え自覚した時点で、もう遅いのだ。
確固たる『感情』は微動だにしない。傷一つ付かなければ、逆に増幅していく現実。
頭に浮かぶのではない。
心に留まり続けているのだ。
あの憎たらしい存在が。
「上条当麻、か……」
―――『恋』という、感情を。
「……~~っ」
チャプンと。肩より深く浸かっていき、口元まで沈んでやっと停止。
仄かに赤みを帯びた頬は、湯船の体温上昇から起因したモノでは無い事が明らか。
蟠り。靄。憂鬱。鬱積。葛藤。
これらの糸は恋からであり、上条当麻から離れて一人になった事で生まれた物である。
―――所謂、『寂しい』というヤツだ。
いつ。何処で。なんで。何処に。
よりによって何故コイツ?
何もかもが意味不明。理解不能。
だけど、
「あのガキが……す、す、す―――酢昆布っ!! って!! 言えるワケねえだろうがああああああああああああッッッ!!!!!!」
両手で髪を掻き毟り、湯船に全身を沈ませる。
ブクブクと暫く泡が湯船に幾つか浮かんだ後、緩慢とした動作でヴェントの顔が水面に覗かせた。
眉間を顰め、先刻より真っ赤になった顔で涙目になりつつも、彼女はボソッと呟く。
「大体、あんなガキの何処が……のわああ畜生クソボケがァッッ!!!!!」
言葉の途中、「でも好きなんだからしょうがない」という文字が頭の中で反芻して言い続ける事が不可能になり、自分でも何が言いたいのか判らないセリフが口から迸る。
結果、狭い浴場で叫んで身悶えて沈んで……同じ動作を繰り返す。
「……ダメだ、これ以上ココに居たら私の体が保たない」
肩を大きく揺らして息切れ。殆ど自滅行為なのだが、致し方無い事。
戦闘や洞察力に長けていても、恋愛には疎い青い果実なのだから。
もはや天草式の五和を見て「下らない」と斬り捨てていた頃が懐かしい。
切実にそう思うヴェントだった。
上条当麻は通路を歩いていた。
さっきまでフィアンマとオッレルスを加えた男三人という、実に華が無い状況で密談を行っていた所である。
“学園都市の変化”と言っても記憶喪失の彼には昔と今で、どう変わり果てたのか全く判らない。
とりあえず、有体に学園都市内部を報告。街の風景だったり技術の進歩、市街に彷徨くロボットなど。
その回答にオッレルスは数分の間、唸り悩む。当然の如く上条当麻はどうしたらいいか困る。
見兼ねたフィアンマが呆れつつ述べたのだ。「風呂に入って疲れを癒やしたらどうだ?」と。
特に懸念もせず、難なく承諾。
指摘されて気付く。体のアチコチから骨が悲鳴を上げてる事に。
ついでに折られた指も。
運が悪い事に折れた指は右手なので、魔術では治らない。
一階に下り、キッチンに居るシルビアに救急箱を借り、仕方無く指を最低限に手当て。
何度も病院へ運ばれている内に、指の骨折程度なら何とか自分で治療を覚えるようになったのだ。
……何だかそれも悲しい気がするが。
「えっと、ここの突き当たりに……有った有った」
スライド式の扉が見えた。
プレートには英語じゃない、別の外国語が書かれている。彼には英語だとしても翻訳出来ないので、無視。
「上条さんにも、漸く休みの一時が訪れましたよっとー」
―――彼はミスを犯していた。
オッレルスやフィアンマと話していたからか、はたまた大天使との疲れが有ったからか。
どちらか定かでは無いが、彼は少なくとも“二つ”、重要な事柄を忘れている。
一つ。己は重度の不幸スキルを所持の上、過去に風呂場で女性の裸を目撃している事。
二つ。僅か数十分前なのに、風呂場へ先に誰かが入っているという事。
疲労が有るとは言え、経験済みなのだから細心の注意を払うべき。
安堵の息が漏らす、その隙を突くように惨事は起きるのだから。
故に、
「―――は?」
「―――へ?」
二人は、邂逅を果たす。
上条当麻は我が目を疑う。
眼前に広がる光景の意味を、理解出来なかった。状況の整理が追い付かない。
人。人が居る。
それも女性。しかも裸。
透き通るような白い肌。
スラリと長くて細い脚。
首までの亜麻色の頭髪。
端正に整った顔。
正直、誰だか判らない。こんな美人な女性がこの宿に居たのかと、暢気に心の中で呟いた。
「え、ちょ、なな、なぁ……ッ!!?」
女性がバスタオルを引っ張り出して前を隠し、瞬く間に全身が真っ赤になっていくのを目の当たりにして、彼の思考は現実に戻される。
更に声色で女性の正体が明確。
彼の頬もまた、赤みが帯びていく。
「ヴェ、ント……?」
何か発しなければと思い、咄嗟に出た言葉がコレ。もう少しマシな事が言えないのかと自分を戒める。
「い、いや! ここここれはワザとじゃなくてだな、うん!! 俺も疲れてたし、お前が先に入ってた事忘れちまってて……」
彼女は俯くと、震える程に強く拳を作った。
歯軋りが耳に届く。歯を食い縛ってるのを瞬時に察する。
「は、早まるな!! 落ち着こうぜ!? ていうか落ち着いて下さいっ。人間話し合えば判り合えるって、きっとォッ!」
両手を前に突き出して、必死に弁明。しかしヴェントは依然と変わらない。
寧ろフフフ、と笑い出しているし、悪化の可能性が大。
当然、上条当麻に動揺の色が溢れんばかりに際立つ。
背筋に流れる汗が奔流のようだ。
これは非常に拙い。
彼女の空気が全く弛緩しない。
「……いいいやっ!! ごめん!! 俺が悪かった、申し訳ありませんでした!! 上条当麻は深く反省しております!! だからお願い許し―――」
「ガタガタ抜かして御託並べる前に、さっさと出て行けこのエロガキがああああああああああああああッッ!!!!!!!!」
その頃、フィアンマ。
「ハッハッハッ、叫んでる叫んでる。途中で流石のあいつも気付くかと思ったが……予想以上に疲れていたのか、若しくはただの鈍感なだけか。
どちらかは定かで無いが、俺様の策略に見事ハマったな。愉快なヤツらだ。揶揄のしがいがある」
今日の勝利者の呟きであった。
―――夜の帳が下りる頃。
あの後、状況を声だけで察したシルビアに揶揄されながらも、リビングのソファーで待機。
ヴェントが洗面所から出て行ったのを見計らい、改めて浴室に赴く。
風呂から上がってリビングに戻ると、二階から下りて来たらしい男組が先に夕飯を済ませていた。
辺りを見渡して、ヴェントが居ない事を尋ねると、彼女は睡眠取るために用意された自室に戻ったらしい。
上条当麻はホッと胸を撫で下ろす。何せ曲がり形にも裸を見てしまったのだ。
気まずい事この上無い。
そんなこんなで彼も夕食を済ませ、再びオッレルスとフィアンマを交えた密談が行われ、夜も更け始めた時。
「ほれ」
シルビアがリビングにやって来るやいなや、上条に向けて何かを放り投げた。
些か慌てつつ、両手でキャッチ。見れば、それは小さな鍵。
上条が鍵を受け取るのを確認し、投げた本人はオッレルスの首根っこを掴みながら告げる。
「自室の鍵だよ。時間も遅いし、寝な。こいつの話に付き合っていたら、朝になってしまうからね」
「え? いや、そっちって拷問部屋だよね!!? た、助けてーっ!!」
終えると、身悶えるオッレルスを無視してそのまま別室に消えて行く。
暫く呆然としていたが、フィアンマが先に席を外すと、促されるように上条自身も席を立つ。
歩きながら再度、鍵に視線を移す。鍵の表面には「M」とマジックで書かれている。
おそらく部屋番号なのだろう。
二階に上がり、各々の部屋に繋がる扉のドアノブには札がぶら下がっていた。
札にはNやL……それぞれ英語の大文字。フィアンマや自分、ヴェントと割り当てているのだ。
「Mは……一番奥か」
今更ではあるが、猛烈に眠い。
体や頭が「睡眠を取る」と決定した途端、急に睡魔が上条当麻を襲い掛かった。
寝る前に思考すべき事は幾らでも有るのにも拘わらず。
完治した場合、どのような手段で日本に帰国しようとか。
その前に一度イギリスへ赴いて、インデックスを安心させてやりたいとか。
電撃を被るのは決定事項な御坂美琴に、ベツヘレム星の時を何て説明して何て謝ろうとか。
まずこの山奥から下山出来るのかどうかとか。
事柄は様々。だがしかし、明日考えようとブン投げてしまう。
睡眠は下位だったが、正に形勢逆転の下剋上を果たし、優先を勝ち取ったのだ。
故に今は兎に角、寝る!
その一心。
ガチャッと扉を開けて、中に入って扉を閉める。
廊下から差し込む光が失われたため、部屋の中の光は窓から僅かに侵入する月の明かりだけ。
それでもカーテン越しなので、視界が家具をしっかりと映さない。
見えない程では無いので、差し支えは生じない。ベッドは安易に捉える事が出来た。
髪をガシガシ掻いて、足を進ませる。
ベッドの下まで近寄り、毛布を掴んで捲ろうとし……気が付く。
はっきり言ってしまえば、上条当麻は漸く気付いたのだ。
―――妙に布団が膨らんでいる事を。
大きさとしては大人一人分。
しかも端っこ寄りで、もう一人分入るぐらい空きがあった。まるでソコに入れと言わんばかりに。
疲れがあったから気付かなかったのか、眠過ぎて感付かなかったのか……そんな些細でつまらない事情はどうでもいい。
ズザザザザザザザザザザザゴンッ!!!! と。
状況を瞬時に理解した上条当麻は、全力で後退して行き、最終的には壁へ吸い込まれるように後頭部が衝突。
なかなか鈍い音を響せた。
(な、何だ何だよ何ですかぁーっ!!? 最近はこんな奇妙に膨らませる技術があるって言うのでせうか……?
いやいやいや、何のためにだよ)
思わず自分でボケとツッコミを繰り広げる程、彼はパニックに陥っている。
兎に角、意味不明極まりない。
彼はそろりと近付いて行き、上体を傾け首を必死に伸ばし、枕元を覗く。
そこには亜麻色の髪をした女性……ヴェントが寝息を立てて熟睡していた。
「……何でヴェントが―――ぶッ!!!?」
不意に彼女がモゾモゾと動き、寝返りを打つのに伴って布団が大きく捲れたのだ。
上条当麻が思わず声が漏れ、露骨に狼狽と動揺を表現してしまった起因。それは彼女の格好。
短パンにキャミソール、以上。
するとどうだろう? ついさっき目撃した、透き通るような白くてスラリと長い脚が露わに。
ヘソチラは勿論。強調される胸。
健全な男子高校生である上条当麻にとって、甚だしく拙い格好なのだ。理性的な意味で。
街を歩けば世の男性が、目のやり場に困る……いや、寧ろ眼福だろう。
それ程の艶めかしいライン。
素晴らしいプロポーション。
普段のヴェントからは想像も付かない。とても女性らしく、色っぽさ満点の姿。
上条は目を凝らす。寝相で緩んだ肩紐の隙間を見るに……ブラが無い。という事はつまり、
「ノーブむっ!」
衝撃の事実を最後まで言い終える前に、彼は咄嗟に自らの鼻を抑える。一瞬、鼻血が出そうになったのだ。
何回か深呼吸を繰り返し、だいぶ落ち着いた所で身を翻した。
「と、とりあえずこの部屋から出ようっ」
声量は最小限にして、若干慌てつつ廊下へ繋がる扉のドアノブに手を伸ばす。
ドアノブに触れ、開けるその直前、
『ぎゃァァああ!!!! ちょっと待ってぇぇ!! 三角木馬が進化してないですかっっ!!!!?? いやっ、やだっ!! それは駄目でしょォォォォ!!? アアアアァァアアァァアアアア―――』
耳にする断末魔の悲鳴。
声はオッレルスのものだった。
ガタガタガタガタッ、と上条当麻の手が尋常じゃないほど震え出して、扉を開ける事が出来ない。
この部屋から出たいのに、体が言う事を聞いてくれない。
更には手汗……いや、全身から汗が噴き出るのを実感する。
怖い恐ろしい。
廊下へ出て行ったら決して、戻って来られないと思う。
そんな気がするのだ。
何故かは判らない。
「……」
彼は振り返り、再びベッドに視線を移す。
矢張り彼女の格好は体に悪い。
理性的な意味で。
寧ろ「崩壊して下さい」と言わんばかりに仕組まれたとしか思えない。
とは言え、宿の中は暖かいが、あの肌寒い服装で睡眠とは風邪を引く。
僅かな抵抗として、腕を必死に伸ばし、毛布を指先で摘んで捲れたのを直す。
何事も無くヴェントに毛布をかけるミッション終了。不幸スキルは空気を読んだらしい。
「……はぁ~、つ……疲れた」
ほんの些細な作業に過ぎないが、精神力の削りが極めて甚だしい。
へなへなと膝が折れてしまい、情けなく崩れしまう。
ふと、ヴェントを一瞥。
彼女の寝顔は以前、大天使の『一掃』を喰らった後に一度だけ、見た事が有る。
その時は過去を思い出していたのか、涙を流し表情も優れなく、魘されていた。
今回で二度目になるが、前回みたいな苦しむ様子は皆無。逆に穏やかで安心しきった寝顔である。
有り様に安堵の息を漏らす。
どうやら、過去の夢で魘されていないらしい。
上条の懸念は無用のようだ。
そして彼は悩む。悩みの種はヴェントが抱える「科学」への憎しみ。
どのような手段を用いたら、科学に対する憎しみは解消されて、彼女は救われるのか。
出来る事ならば協力してあげたい。
余計なお節介とヴェントに罵られる可能性は限り無く高いが、それでも彼女の救いとなるならば手助けをしたいし、活路を見出してやりたい。
(断るんだろうなぁ、ヴェントの事だから。寧ろ殴りかかって来るかもな)
クスッと一笑。
ベッドへ上体だけ乗り出す。
腕を交差させ、それを枕にして頭を預ける。
ココに来て、睡魔が復活を遂げた。心地好い布団に意識が揺らぎ、このまま眠りに付きたい気分。
「う……ヤベ……ねむ。……つーか。げん、か―――zzzzz」
完全に意識がシャットアウト。
無意識に、上条当麻の手はヴェントの手と繋がれていた。
……朝。この宿全体に女性の叫びが轟かせたのは、言うまでも無いだろう。
―――部屋前の廊下。
フィアンマがそこに立っていた。
おもむろにドアノブにぶら下がる札、「S」と「M」を入れ替える。
「……ふっ、すり替えておいたのさ!!」
彼の悪戯はまだまだ続く。
朝日の閃光が差し込み、眩しく思ったヴェントは覚醒した。
―――目を開けると、有り得ない光景が広がっていた。
視界に映る景色が余りにも信じられ無くて、思わず三回ほど瞬きを繰り返し、頬を抓ってしまう。結構痛い。
「…………………………は?」
たっぷりと時間を置き、辛うじて発せられた言葉。
何が起きているか判らず、どういう経緯でこんな事になっているのかも判らなかった。
兎に角、意味が解らない。
それに尽きる。
よし、昨日の記憶を辿ろう。答えのヒントが隠されているかもしれない。
まず頬に違和感により目が覚めて、驚愕の事実で相手の指を折り。
当初の目的であるフィアンマ登場で、話題の路線が間違った方向へ懸け離れて行き。
シルビアに促されて湯船に浸かって疲労を癒し。
一人の時間が出来て思考に耽け、改めて芽生えた感情を思い知って。
洗面所にて用意された衣服に着替えようとした矢先、洗面所に上条当麻が入ってきて益々ややこしい状況に。
さっさと着替えて夕飯を腹に叩き込み、就寝についた。
オッケー把握。
全くヒントが見出せ無い。
大方判っていたが、昨日の出来事に現状の関係性は皆無のようだ。
結局、振り出しに返るしか手段は無い。戻りたく無いのが心からの本音だが……、
「………………」
一切変わっていない。
微動だにしていなかった。
何故か繋がれていた手も。
ドコも変化が生じない。
―――上条当麻の顔が、視界を埋め尽くしている光景。
距離も結構近い。
寝息が自分の鼻に掛かる。
僅かに顔を詰め寄れば唇が重なる程。
(あぁ、成る程ね……)
そして理解した。
これは現実では無い。夢だ、と。
夢なら辻褄が合う。万事解決だ。
おそらく彼の事を考え過ぎて好き過ぎて、夢に出て来てしまったのだろう。
何時もなら恥ずかしいが、夢と判った途端にタガが外れたように冷静になれた。
どうせ夢なんだ。思う存分に堪能しようではないか。
「ん……」
握られている手を顔まで持って行き、彼の手の甲を頬擦り。
スーッと思いっ切り匂いを嗅ぐ。
「やば……」
嗅いだ瞬間、全身が震えた。
心地好い香り。落ち着く匂い。
何時までも嗅いでいたい。
完全にハマってしまったようだ。
好きな男だからか。
理由は定かでは無い。
「……」
ふと、上条当麻の顔が目に入る。
穏やかに眠り、安定した寝息を立てる寝顔。
ヴェントが凝視するのは……唇。
「……良いか。別に夢だし」
モゾモゾと身体を動かし、彼の顔へ自ら近寄って行く。
お互いの唇が重なるまで数㎝。
そう、夢。
結局は夢なのだ。
だから許される。
するなら今の内。
実行するべき。
今を逃したら次は無い。
どうせ現実では叶わないのだ。
夢の中だけでも良い思いをしよう。
目を瞑り。息を整える。
高鳴る鼓動。増大する緊張。
顔が火照るのを感受。
―――そして。
―――タイミングを見計らい。
―――顔を寄せて。
―――二人の唇は重な、
「……って、んなコトあるワケねえだろおおおおおおおおおおッッ!!!!!!」
こうして幸せな一時を終え、彼女の朝が始まったのである。
―――――――――――――――
「……で? これはどういうワケ?」
ベッドに腰を落とし、腕を組み足を組み、目の前で正座する上条当麻に軽蔑の視線を含めて尋ねた。
対して彼は、引き吊った笑みを浮かべて言い分を述べる。
「いや、あの……ですね? これが何とも不思議で上条さんにもさっぱり解らないんです……」
「言い訳にもなってないわよ」
「だっ、だってだな!? 『M』の札がぶら下がった部屋に入って見れば、ヴェントがベッドで寝てたんだぞ!! 上条さんパニック状態ですよ!!?」
「何言ってんだか。この部屋の札は『S』、『M』は隣」
「……何だって?」
両手をわたわたと動かして、必死に表現していた上条がピタリと停止。
信じられないと言った様子。
「いや、ちゃんと確認したし、『M』だろ?」
「馬鹿仰い。頓珍漢は髪型だけにしときなさいよ」
「いーや!! 絶対『M』だ!! ヴェントが間違えたんだろ?」
「『S』に決まってんじゃない!! まるでアンタをベッドで待ち伏せしてたみたいな言い方は止めろ!!」
「誰もそんなこと微塵も言って無いんですけどーっ!!?」
あーだこーだと、二人の争いは止まらない。
それどころかエスカレーター式にヒートアップしていく。
数分間。床で正座の上条とベッドで足を組むヴェントという、端から見たら凄まじく奇妙な光景の中、論争が続いた。
……無駄な事に労力を使っているのは間違い無い。
「よぉ~し。そこまで言うなら、今から確認しに行こうぜ!! もし俺が間違ってたら、言う事一つ何でも聞いてやる!!」
「……言ったわね? イイわ。乗ってアゲル」
共にある一点を一瞥。
視線を追えば―――扉。
漂う二人の気迫。
その気力は無駄な事極まりない。
上条は勢い良く立ち上がり、ドスドスとワザとらしく床を踏み鳴らして廊下に繋がる扉へ進む。
追随するようにヴェントもベッドから腰を上げ、腕を組みながら歩く様は優雅である。
ドアノブを乱暴に掴み、扉を引く!!
「ほらこの通り『M』って……」
カランコロンと。
札が揺れ、扉に何度かぶつかって、回って表裏表裏と繰り返す。
「…………」
「どう?」
―――『S』と、表記されていた。
「ちゃんと確認した? 絶対? 挙げ句の果てには私が間違ってる? ……へぇ~ほぉ~?」
今更言い訳の余地も無い彼に対して、更に追い打ちをかける。
彼は背筋から汗が滝の如く流れるのを実感。
「確か、“何でも言う事を聞く”って言ってたわね~?」
ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ、随分と強調する部分を明確にして述べる。
勿論故意以外に何物でもない。
上条当麻は又しても正座の姿勢を取り、ヴェントと向き合うと、
「誠に、申し訳ありませんでした……」
「……はぁ、もうイイわよ。別にナニされたワケでもないし」
溜息を吐いて、やれやれと首を振る。
だが直ぐに人差し指を自らの唇へ運ぶと、
「でも、罰ゲームはきっちり受けてもらおうかしら」
ビクッと露骨に彼の体が震えた。
そんな上条を余所に、ヴェントは考え込む。
いざ『何でもしてくれる』と言われても、早々に願望何か無い。
有るとすれば―――
「……~~っ」
若干頬を赤く染め、両手で髪を掻き毟りながら豪快に頭を振った。
彼女にとっての幸いは、上条が未だ頭を下げていて今の姿を見られていない事だろう。
深呼吸を繰り返し、心を落ち着かせる。
「……とりあえず この件は保留。猶予を与えたに過ぎないから」
―――どうせ、叶わぬ願いなのだ。
―――彼と自分は住む世界が違う。
―――自分にはそれを願う資格が無い。
―――上条当麻と、共に生きたいなんて……。
木材で造られた宿の外周は樹木で覆われている。
オッレルスによると結界を張っているらしい。自分達以外は宿なんて見えてないとの事。
相当腕の利くか実力が有る魔術師でない限り、絶対にバレないと自ら明言。
「……寒っ」
そんな思考は、衣服の隙間を縫い侵入した極寒に吹く風により、纏めて吹き飛んだ。
上条当麻は現在、外出―――と言っても宿の外周だが―――を散歩していた。
しかし寒い。とても寒い。
暖房が利いた宿の中に居たのだから無理もない。格好が軽装であった事が災いした。
何時も通りの制服にマフラーと手袋だけ。戦争の時も大天使の時も大して気にならなかったが、今になってだ。
……まあ上記に記述した二つの事柄は、どれも寒いとか注意が向かない程に無我夢中だったのだが。
「おっ、居た居た」
ザッザッ、と真っ白に彩られた雪道に足跡を付けながら、宿の正面玄関とは逆の裏側に回り込む。
ソコには適当に切り分けられた木材が積み上げられていた。
おそらく人為的に火を焚いて、湯船の水を沸かすためだろう。
木材の側には休憩用に用意したであろう横へ長い二人分ぐらいの椅子。
丁度真ん中に―――彼女は居た。
「よっ、ヴェント」
と化粧(ピアス込み)はせず、お馴染みの全身黄色い衣服。しかしフードは邪魔だったのか、覆っていない。
彼女は椅子に腰を掛け、顔は若干俯き加減。視線の先に有るのは両足。交互にブラブラさせていた。
声に気付いたのか、眼球だけを動かして上条を一瞥。
だが直ぐに視線を両足に戻す。際に「アンタか……」と沈んだ声色で呟く。
その様子に彼は首を傾けた。
「元気無いな、どうかしたか?」
「別に。何かあってもアンタには無用でしょ」
ぞんざいな扱いと言い回しをされるも、椅子の端に寄って自分が座れる隙間を空けてくれる。
至って無言であるが、遠回しに座れと促しているのだ。
こういう部分を見るに、自分の扱いも以前よりは良くなったのかな? と思う。
彼女の不器用な気遣いと優しさが垣間見える瞬間だったりする。
上条は素直に行動を移し、ヴェントの隣へと腰を掛けた。
つい、と改めて彼女の顔が少しだけ上条に向く。
「……てか、何でココに来たワケ?」
「随分な言い方だこと。いいだろー? 別に」
先刻己が使った言い草を逆に使われて腑に落ちないのか、彼女は上条当麻を睨む。
そんなヴェントの様子に彼はポリポリと頬を掻き、苦笑を浮かべて述べた。
「……いやまあ、実のところは居辛いと感じちゃって出て来たんだけどな」
「居辛い?」
「ほら、フィアンマは何かずっとあんな調子じゃん? 戦争の時とギャップが凄まじくて上条さんも手に負えないんですよ」
「そうね。鬱陶しいコト極まり無いわ」
「だろ? オッレルスやシルビアも……」
突如、何処からともなく男の断末魔の叫びが辺りに轟く。
宿の中から響き渡ったモノだが、外に居る二人にも軽々と届くほど、声量は大音量だった。
「―――あんなんだし」
「……成る程」
お互い同時に頷く。この宿にはマトモな人間が少ないという現実に嘆くばかりだ。
―――――――――――――――
その後もこんな感じで、二人は会話を続ける。
主に話題の主導権は上条。どちらかと言えば彼女は何故か話さないので、無条件で権利を握り締めてるに過ぎない。
戦争前に起きた、今となっては笑える話。上条は絶えず話し続けた。
そんな彼の努力が通じたのか、ヴェントも淡々とした素っ気無い返答を繰り返していく内、ポツポツと自ら上条に話題を持ち掛けるようになった。
嬉しい、と純粋に思う。
彼女の中で自分は嫌われている部類に属する人間。だからこそ、僅かでも心を開けてくれたようで。
結構な時間の間、他愛もない話をし続け、とうとうネタが尽きたのか、両者とも黙りこんで沈黙が雰囲気を支配した。
上条は空を仰ぎ、ヴェントは俯く。
その時、彼の隣からとても可愛らしいクシャミをするヴェントの声が聞こえた。
直ぐに上条を睨み付け、
「……聞いた?」
「言っておくけど、不可抗力だぞ?」
小さく舌打ち。恥ずかしかったのだろう。彼から顔を背ける。
(俺としては、フィアンマに聞かれなかっただけマシだと思うが……)
とか何とかボヤキつつ、上条は手袋とマフラーを外す。
「寒いんだろ? 使えよ」
微笑みを浮かべ、二つの防寒具をヴェントへ差し出した。
唐突な事に彼女は呆気に取られて、ポカンと暫く防寒具を凝視。
復活後も戸惑いを隠せないのか、視線が定まらず泳ぐばかり。
「ば、馬鹿がっ。私はそんな柔に出来てないわよ! 大体、アンタはどうする気?」
「上条さんの事は気にしない気にしない」
ヴェントは黙り込む。辟易された訳では無い。どうするべきか悩んでいるのだ。
暫く防寒具を見つめ、判断と決心が付いたのだろう。こんな事を言い出した。
「……そうね。どうせアレなら、大胆に出てみようかしら」
「ん? 何か言った―――っ!?」
びっくぅ!! と。全身が飛び上がるほど驚きを露わにする上条。笑顔さえ引き吊る始末。
視線を下ろし顔も下げる効果音が、ギギギギと機械の動力音が鳴り響きそうな有り様。
その様はさながらロボットのよう。
上条当麻の視線の先には片手。
まだそれは良い。自分の手だ。
数秒前と何ら変わりない。
しかし今は―――彼女の手と繋がれていた。
所謂『恋人繋ぎ』と謂われるものを。
再度、ギギギギと。
顔と視線が真正面に戻り、頬を紅く染めたヴェントへ。
彼女は上条から視線を背けていた。
「えええ、えーっと……ヴェント、さん……?」
「……なによ」
「な、なにゆえ、このような事をしていらっしゃるんでせうか?」
「産物より、人肌の方がイイって言うじゃない」
「いやっ!! そうかもしれないけどだな!?」
純情ウブ少年こと上条当麻は露骨に狼狽。
対するヴェントは何処か吹っ切れたような澄んだ様子。今の彼女に躊躇いは皆無だ。
……その後、結局夕方になるまでこのような光景が繰り広げられていたらしい。
物陰に潜み、一部だけ見ていた青年F氏はこう語る。
「流石の俺様も、あの状況にズカズカと入り込んで茶化すような野暮な人間ではない。自粛させてもらおうか」
―――――――――――――――
日は流れ、宿の生活も一週間が経つ。そして、
「……うん。傷は完治してる。明日には帰れるね」
オッレルスが上条にそう告げたのは、凡そ一時間前。
夕飯を済ませ、風呂から上がった所で、彼は明言。
心の奥から沸き上がる嬉しさと、この生活が無くなる寂しさの半々と言う遣る瀬無い感情に囚われつつも、今夜最後の宿での睡眠を取るため自室に向かう上条。
「ここで間違えてヴェントの部屋に入ったのもまた良い思い出、かな~」
鼻歌でも言い出しそうな上機嫌で、自室の扉を開ける。
―――月夜が映し出す、ベッドに腰掛ける女性。
「ヴェント……?」
背景に満月を挿頭す。
夜光を浴びて、闇に佇む。
身体を覆う月光は、まるで衣のよう。
彼女は声に気付いたのか、窓から覗かせる満月から自分へ顔を向ける。
視線が交差して数秒後―――ヴェントは、優しく『微笑んだ』。
上条当麻。
宿生活最大の、幻想とぶつかる事になる。
何処か、別世界に放り込まれた錯覚。人々を魅了して惹き付ける神秘的光景。
呼吸すら忘れ、全ての意識がベッドに腰掛けるヴェントに奪われる。
月光を帯びる彼女は、まるで夜空を佇む姫のよう。
宿生活で初めて見た“微笑み”が、その光景をより一層濃くした。
余りにも呆然と眺めていたのか、“何時も”の様子でヴェントが嘲笑う。
「なに腑抜けた顔してんのよ。
予め言っとくけど、アンタは部屋を間違えて無いから安心しな」
ハッと現実に戻り、改めて現状を把握した上条当麻は若干たじろぐ。
言葉から推測するに、彼女はワザとこの部屋に入ったという事。
正直、嫌な予感しかしない。
不幸センサーが過剰に反応を示唆。
一週間の宿生活中でも、ヴェントに関わる時は大抵何かしらイベントが発生する。
彼女はインデックスや御坂美琴のように年下で妹的要素など含まれていない。
なので、手を繋ぐとか風呂場で鉢合わせとか夜這い行為もどきをしてしまったとか、大人の女性である彼女に平気で居られるはずが無いのだ。
……別に、インデックスや御坂美琴なら平気だとか、そういう訳では無いのであしからず。
「ま、座んなさい」
ポンポン、と自身の隣を叩いて催促。
彼女の表情はこれと言って、何か企んでそうな悪い笑みを浮かべてはいない。
その全てに上条は益々訝しむ。
怪しい。怪し過ぎるのだ。
彼女が自ら進んで自分の部屋に待ち伏せなんて、必ず何かイベントが発生するに決まっている。
「……はぁ」
だが、何時までもココで突っ立ってる訳にもいかない。
辟易では無いが仕方無く、本当に仕方無く部屋に入って扉を閉め、決心したようにズカズカと歩いてヴェントの隣に躊躇わず座る。
我ながら雄々しい動作だったと賞賛を称えたい程だ。
「で、ヴェントさんは上条さんに何の用でせうか?」
「……傷、完治したらしいわね」
彼女のこの発言で、大体察せれた。そしてヴェントに対して怪しいと怪訝した自分の気持ちや行動を戒める。
上条当麻は相変わらず驚異の回復力で一週間で完治。明日の朝は帰国予定。
しかしヴェントはまだ療養中。
言うなれば居残り。
おそらく会話出来る機会は今だけ。朝は話せるか判らない。
だから自分の部屋で待ち伏せしていたのだろう。ならば納得がいく。
「全く。私より化け物と戦ってたのに、アンタの方が先に完治だなんて馬鹿げてるわね」
「上条さんは日本でも大体が入院生活で埋め尽くされていましたからねー。回復能力が特化されてるんじゃねえの?」
「自慢にならないわよ、それ」
「返す言葉もございません……」
自分で振っといて勝手に落ち込む。
極めて払った代償が甚だしい上で会得したスキルなのだ。特に出席日数とか出席日数とか出席日数とか。
留年するのかな俺……、と若干自虐モードに浸り、ブツブツと呟く崖っぷち少年上条当麻。
「……元々はさ、アンタを捜すためにロシアを歩き回ったワケじゃないのよねー」
ポツリと。憂いを漂わせる顔色で、ヴェントは物寂しげに口を動かす。懐かしい記憶を思い出すように。
その物言いと雰囲気に、上条当麻は神妙に耳を傾ける。
「本当はフィアンマのクソ野郎を連れ戻せって言われたから。正直な話、放っときゃイイじゃないとか思ったわ。
まっ、元ローマ教皇の命令でも有るから蔑ろに出来なかったワケ」
ケラケラと笑う。
両足をブラブラさせ、上条に顔を向ける。
「アンタの噂。気持ち悪いほど広まってたわよ? 私の行くトコ行くトコ、上条当麻上条当麻って名前が挙がってたし」
「……マジで?」
「マジも大マジ。サーシャ=クロイツェフにアニェーゼ部隊の同行を加えた……あー、天草式だっけ? 後、変態癖の有る露出狂聖人とか。
全員キャラの濃い連中ばっか。あん時は流石に気が滅入ったわね」
(変態癖の有る露出狂聖人って多分……神裂、だよな)
上条当麻は苦笑を浮かべる他無い。
義理堅いが良いヤツなのは間違い無いので、何をやらかしたかは知らないが誤解である事を願い、晴れる事を祈ろう。
そんな神裂へ……合掌。
「てか、結構俺の事考えてくれてる人居たんだな。上条さんビックリ」
「まあ、その時の私からしたら嫌で嫌で堪らなかった。殺したくてしょうがないヤツの名前が毎回挙がるのよ? 拷問かっつーの」
「は、はは……」
引き吊った笑いしか出ない。本人を前にして言うセリフでは無いのだから余計。
待ち伏せの理由も今ココで殺すためじゃね? とか何とか思考する始末。
……止めよう。冗談に聞こえない。ヴェントならばやり兼ねないからだ。
「今は別に。殺したい何て微塵も無い。だからそんな怯えてくてイイわよ」
「そ、そうか。なら良かった」
ほっと胸を撫で下ろす。
兎に角、命の保証はされた。
これ以上に安心出来る事は無いだろう。
―――しかし、次のセリフと行動によって別の意味で驚愕する羽目になる。
「寧ろ今は完全に逆ね。物にしたいって思うようになったわ」
「………………へ?」
ボスン、と。
気が付けば天井と、ヴェントの顔だけしか視界に映っていなかった。
彼女は意地の悪い笑みを浮かべて、自分を見下ろす。頬は仄かに赤みを帯びて。
状況の理解に時間が掛かる。
何が起きて何をされているんだ?
天井? ヴェントの顔?
―――ヴェントに押し倒された?
全ての辻褄が一致。現状を理解。
止まった思考が覚醒していき、何か発言しようにも却って言葉が出なく、口を開閉を繰り返す有り様。
「初めてこの宿に来た日、私に向かって言ったでしょ。極端とか極論しか出さねえのかって」
クスッと鈴が鳴るかのような小さな微笑。
彼女の表情から何処か“吹っ切れた”様子が窺えた。
「つまりはそういうコト。色々考えるのは面倒だ。だったら極論叩き出して割り切ればいい。
こんなだから私には情報収集とか性に合わないんでしょうけど」
一息置いて……彼女は紡ぐ。
「どうやら私は、アンタのコトをどうしようも無いほど好きみたい」
「…………っ」
息を詰まらせる。
人生初めての経験で何を発すればいいか、どんな顔をしていればいいか至って判らない。
心臓が打って高鳴る鼓動がもどかしくて、邪魔くさくて仕方無かった。
そんな上条の様子を知らない彼女は、放置して饒舌に続ける。
「本当は言うつもり何て更々無かったけどね。アンタと私は住む世界が画然と違う。
好きだからって科学を赦したワケじゃないし、未だに憎んでる。潰してやりたい程に。
だから告白する資格なんて無い。持ち合わせていない。何もしないまま、自然消滅でもすればいいやとか軽く見限っていたワケ」
そんな事無い!! と上条が乗り出して彼女へ怒鳴る直前。
人差し指を唇に押し当てられて何も言えない。
“落ち着け”と示唆しているのだ。
「けど、現実は容易くなくてね。体は嘘を吐きたく無いみたい。
だから、六日ぐらい前に宿の裏側で二人で居た時、手袋よりアンタの手を選んだってコト。
で、明日になれば離れると判った瞬間、タガが外れた……って感じね。判ったか?」
問われた上条は何も発せない。
ただ聞くだけに留まる。
何か言うべきなのに、口が動いてくれない。心の中にもやもやが果てしなく広がるばかり。
よもやヴェントから告白の言葉を貰うと誰が予想しただろう。
あれほど科学に憎悪を抱いている彼女が。科学側に属する自分に好意を抱くなんて。
それならインデックスが告白して来る方がまだ現実味が存在する。
スッと上条の頬に片手を添えて、ヴェントが顔だけを緩慢とした動作で下ろしてきた。
―――……瞳を閉じて。
彼は一瞬で感付く。その動作のなす意味を。彼女が止まった時、結果どうなるかを。
ヴェントは本気だ。嘘偽り無い覚悟で上条当麻に挑んでいる。
このままでは駄目だと感じたのだろう。上条がココに来て漸くマトモに体が機能して、今更ながらも抵抗を試みる……その寸前、
「ヴェ……―――んっ!?」
唇と唇が―――重なった。
漫画でも頻繁に見掛けるファーストキスはミント味とか、在り来たりな場面。
だが今の彼に、ファーストキスの味を確認する余地など与えられない。
ただ、彼女から伝わる唇の感触。
ふわりと仄かに香る女性の匂い。
心臓がこれまで以上の速度で鼓動を打つ。
当然の如く緊張はヴェントも変わらない。
それでも彼女は上条当麻の続く言葉を吐き出させず、吐息を停める。
一瞬だけ。
そう、ほんの一瞬で構わない。
唇に、自分の熱を送る。
心を支配するように。
魂を舐るように。
彼を慈しむように。
一瞬を永劫に永劫を一瞬へと変える魔法(幻想)を。
唇の先に感触を残したまま……二人の顔が離れていく。
「返事は……聞かないでアゲル」
上条から顔を逸らした。
矢張り彼女も恥ずかしいのだろう。
それでも、自身に宿る勇気を振り絞って視線を合わす。
「俺、は……」
「もし、私の傷が完治したら……必ず、会いに行くから。その時に、返事を聞かせて……?」
「……判った。約束する。絶対だ」
返答を聞き終えると彼女は、上条当麻が見て来た中でも、群を抜く満面の笑みを浮かべ、
「―――ありがとうっ」
―――宿生活最高の笑顔を彼に放った。
更に数日が経った。
激戦を潜り抜けて生き残り、それぞれの思いを胸に日々を過ごす少年少女。
彼らを少し、覗いてみよう。
―――――――――――――――
―――とある病院の一室。
「そろそろ本当に何があったか話して欲しいなー? ってミサカはミサカは瞳をうるうるさせながら懇願してみたり」
「別に。ガキが心配するよォな事じゃねェよ」
「もー!! ずっとそればっかりーっ!! ってミサカはミサカは露骨に憤慨を表現してみたりぃ!!」
「……つーかよォ、番外個体から記憶引き出せンだろ? 何でわざわざ俺に吐かさせる訳?」
「言ったじゃん。ミサカは第三製造計画だから頭の回路が違う。悪意の思考や感情を抽出可能でも逆は全く。
まあ、回路だけじゃなく成長促進剤も別物だからこんな胸がデカくなったり身長が伸びたんだけど」
「またおっぱいの話っ!? ってミサカはミサカは勝機を導き出せない話題にたじろいでみたり」
「うるせェ。ってか寝かせろ」
病院のベッドはどれも一人用である。にも拘わらず三人が一つのベッドに乗っかかるというのもまた奇妙な光景。
アホ毛が目立つ小さい少女こと打ち止め何かは、本来病人扱いである一方通行のマウントポジションを取る程。
彼の幸運は病室が個室だった事。
何故なら五月蠅いし喧しい。
迷惑極まりないだろう。
そりゃこの部屋に“七人”も集まれば、自然にそうなるのは仕方無い事かもしれないが。
―――“七人”と聞いて怪訝を露わにする人が続出だと思うので、補足説明しておく。
一方通行。打ち止め。番外個体。
これでは数が全く足りない。
つまり、この部屋には彼ら以外に四人存在。
「……胸の話で勝てる気がしません。寧ろ超虚しくなるだけだと思います」
「じゃあ何で自らその話題を振るのよ」
「振ってません!! 超独り言ですから拾わないで下さい!!」
「こんな至近距離で独り言ってのもどうかと思うけどな。拾って下さいと公言してるようなもんだろ?」
「浜面のくせに超生意気です。これは女の戦いなので入って来ないで下さい」
「勝てる気がしないなら戦いも何も無いんじゃない?」
「……流石。病んだ最年長は言う事が違います。もはや様々な所に貫禄が垣間見えますね」
「ブチ殺すぞ?」
「……ぐーすかぴー……」
窓際のソファーに座るのは胸の薄さに悩む絹旗最愛に、両目を開けたまま熟睡する滝壺理后。
絹旗の隣で円柱の椅子に腰を掛けて足を組むのは麦野沈利。
更にその隣で立ったまま壁に背中を預けるのは世紀末帝王浜面仕上。
彼の唯一救いである『ザ・天使』こと滝壺はお休みタイムなため、相変わらず非道い扱いに嘆くばかり。
もう少し、もぉ~少し良くならないかと唸る。悩みの種は尽きないのだ。
悩みの根源、我が儘お姫様の二人は冷戦の如く睨み合い。
胸の話なのに何故そこまで発展に及ぶのか判らない。女の子という者は難しい人種だ。
(……まあ、無いよりは有った方が良いかもしれんが)
思わず、記憶を辿ってファミレスの時に目視した我が恋人、滝壺の胸。
ジュースを被ったお陰でシャツ越しに露呈された二つのカタマリ。
「うっわ、浜面鼻の下伸びてます。超キモいです」
「どうせ滝壺のバニー姿でも想像したんでしょ」
ともすれば何時の間にか仲直りしてる二人。……矢張り浜面に女の子という者を理解するには、中々時間が必要なようだ。
「どォでもいいけど。何でオマエらは如何にも当然のよォに居座ってンだ?」
一方通行は顔だけを浜面に向けて、至極億劫そうに尋ねる。
対する彼は鼻の下を伸ばした状態から、打って変わって真剣なものへ。
浜面だけでは無い。麦野も絹旗も同様に。しかし滝壺は眠ったまま。
それは『仕事』の時に見せる顔。
自然と一方通行の目も細くなる。番外個体も打ち止めを揶揄するのを止め、浜面達を目視。
今から述べるのは、決して笑える愉快な話題では無い事を悟らせた。
「一方通行、力を貸して欲しい」
「力?」
彼の言葉は最後まで続かない。
流れを引き裂くように、廊下へ繋がる病室の出入り口が―――激しい音を立てて開かれたのだから。
音に伴って全員の視線が扉へ集中。ソコには一人の少女が息を切らして堂々と立ち尽くす。
少女を見た打ち止めは狼狽を露わにして、声を小さくして番外個体に救いを求める。
求められた彼女は肩を竦めて首を振って見せた。
「オリジナル……」
一方通行が微かに呟く。
オリジナル―――御坂美琴。
「一方……通行……」
彼女の目は真っ赤に腫れていた。
涙を流して起きる現象。御坂美琴は化粧で誤魔化す事も無く、彼の前に姿を現す。
彼女の視線は一方通行に一点。周りに居る麦野や打ち止めに見向きもしない。
張り詰めた緊張の中、一方通行が打ち止めを退かせて身体を起こし、ベッドから降りる。
杖を用いて彼女の下へ近付くと、
「……悪かった」
頭を、下げた。
「―――ッッ!!!!」
御坂美琴は彼の胸ぐらを乱暴に掴んで、壁に叩き付ける。
彼女の形相は誰が見ても判断が付く程、激昂を露わに。
院内故、放電は抑えているのだろう。しかし微弱ながらに髪の毛の先端からバチバチと紫電を迸らせた。
「アンタが……アンタが謝って、私はどうすりゃいいのよ……っ!!」
ただでさえ真っ赤に腫れているのに、目元からは涙が零れて行く。
憤りの剣幕を剥き出しに、だがその反面、心の縁に存在する儚く弱い己が涙となって溢れ出す。
言い表し切れない『あの時』の激情が今になって、一方通行へ向けられた。
「アンタが謝った所で!! 居なくなったあの子達は還って来ない!! 未来永劫永遠永久一生に!!
それは、あの子達を殺した私やアンタに死ぬまで纏わり付く“罪”と“咎”よっ!!」
一方通行だけではない。
己自身も妹達を殺している。
自分だけが救われようなんて、悲劇のヒロインを気取った、逃げてばかりで甘ったれた精神の子供じゃない。
一方通行や御坂美琴は向き合わなければならないのだ。
向き合った上で、神に懺悔をするように『想い』を噛み締めていかなければならない。
過去の罪や咎を背負い、残りの妹達を救ってやらねばならない。
「なら!! 突き通しなさいよ!! 殺した事実をッ!! 私に謝ってなんかいないで!! アンタが死ぬ最後の時まで!!!!」
慟哭の叫び。
過去の事実を胸を張れとは言わない。
しかし、自分に謝るぐらいなら妹達を殺したと明言して突き通せ。
その上で妹達と向き合え。打ち止めを護った時みたいに護り抜け。
なのに。なのになのになのに!!
「アンタが謝ったら……私の立つ瀬が無くなるじゃない……!!」
意味が、無くなってしまう。
決意した意志が。決心した意思が。
「……悪い」
―――それでも、一方通行は繰り返す。
「……ッ!!!!」
今度こそ。彼女はもう片方の手で拳を作り、本気で一方通行の頬を殴った。
結構強く鈍い音が響き、彼は衝撃に耐え切れず床へみっともなく転倒。
倒れた所に、打ち止めが一方通行の下へ駆け寄った。
御坂美琴は、そんな小さな自分が彼の側に寄り添う光景を目の当たりにして落ち着いたのか、緩慢とした動作で近付く。
「私は、赦す気は無い。根底に残る私怨は変わらないから」
決して、消えない。
この恨みはきっと、死んでも失せる事は無いだろう。
墓場まで持って行ってやるつもりだから。
「でも」
―――しかし、
「アンタ以上に、赦されない人間が居る」
―――最も、潰さなければならない敵が存在する。
「学園都市統括理事長。こいつを落とす。だからアンタも手伝いなさい」
アレイスター=クロウリー。
諸悪の根源。全ての元凶。
御坂美琴は手を差し伸べる。
協力しろ、と。
これ以上、悲しみを増やさないために。
「俺達もだ」
横から、浜面も同様に手を差し伸べた。
彼の背後には絹旗や麦野、騒ぎで起きた滝壺が立っていた。
「いい加減、上層部には腹を立ててたんだ。折角取り戻した平和を失いたくない」
彼らの敵は同じで同じ位置。
協力し合うのに理由は要らない。
ただ―――自分の護るべき『者』のために背中を預ける。
それさえ有れば十分なのだから。
「ハッ、上等だ」
一方通行は不敵な笑みを浮かべ―――御坂美琴の手と、浜面仕上の手を握った。
―――――――――――――――
ある診察室では、
「いやあ、今回は骨が折れたで先生」
「お陰で僕の患者の命は救われた。感謝してるよ?」
「当然やん。ボクも返し切れない恩有るし、構わへんよ」
「……今回の襲撃者。詳細は把握しているのかい?」
「勿論。抜かりは無いでっ!!」
「そうか。じゃあ、一つだけ言っておくよ?」
「んー? なにか?」
「君も僕の患者だ。君が今から実行しようとする考えは容易に辿り着く。だから一つだけ。
出来るだけ無茶はしないでくれ。どんな傷を受けようと治してみせるが、死んでから送り付けられても治す者も治せないからね?」
「……適わんな。了解や。任せとき」
青髪ピアスは告げ終えると、椅子から腰を持ち上げて、片手をヒラヒラさせながら立ち去った。
扉を完全に閉めると、左の通路から近寄って来た人間が、青髪ピアスに声を掛ける。
「もういいかにゃー?」
金髪。サングラス。
学ランの下にアロハシャツ。
モテるために鍛えたと言う筋肉。
彼の名は、土御門元春。
青髪ピアスの親友の一人。
「あぁええよ。何ならこの勢いで萌えバナを咲かせても構わへんで~?」
「おっ、それもいいにゃー。だが残念、萌えバナはまた今度ぜよ」
彼は自身の背後を親指で示唆。
青髪ピアスが彼越しで覗くと、通路の奥には見知らぬ人物が二人。
土御門から事前に報告を受けていた、自分達が計画を謀り、行動を共にするメンバー達だ。
「あらら、しゃあない。お預けやな」
「そういう事。じゃ、行くとするぜい」
彼らはメンバーに向かって歩み出す。
青髪ピアスは不敵な笑みを浮かべて、心で思う。
(……アレイスター、首洗って待っときやぁ)
―――――――――――――――
―――そして、
とある寮の一室。
長いこと部屋を空けていたからか、ゴミや埃が溜まっていた。
居候と足を踏み入れた途端、一瞬だけウッ!! と息を詰まらせる程。
という訳で、帰宅早々に部屋の掃除開始なのだ。
「あーっ!? スフィンクス、水拭きした上からゴロゴロ転がって行っちゃダメなんだよーっ!!」
雑巾を片手に、高速で廊下を転がって行くスフィンクスを追い掛けるインデックス。
つい先日、日本へ帰還の前にイギリスに寄って、神裂率いる天草式と彼女と再会を果たした。
予想外だったのは、ステイルから拳の一つも貰わなかった事だろう。
『当初は一発殴ってやるつもりだったんだけどね。……彼女を笑顔にしたんだ。チャラにしてやる』
……と、彼は述べた。
「お前が走り回ったら、もっと意味無いと思うんだが……」
掃除機を終えた家主の上条当麻は、一息を吐く。
大体物品は片付いたし、埃も見当たらなくなって来ている。
この調子だと、夕飯には間に合う予定。後はご飯の買い物と、溜まりに溜まった洗濯物。
どちらから処理すべきか、悩み所。
「とうまとうまー!! 買い物に行ってきてあげるんだよっ」
改めて水拭きと乾拭きを終えたインデックスが、彼の下へ駆け寄って来た。
上条当麻が一番驚いたのは、彼女が家事に積極的になった事。
飛行機の際には何処から取り出したのか、メモとペンを手に持ち、自分に家事のやり方を自ら進んで聞いてきたのだ。
彼女も彼女なりに考えがあるのだろう。だがやっぱり機械を使う家事は苦手らしい。
上条を監督に付かないと、破壊し兼ねないとインデックス自身が述べていた。
適当に紙とペンを引っ張り出し、食材と個数を書いていく。
彼女には『完全記憶能力』を有しているため、言葉だけで充分だと思われがちだが、インデックスは余り“漢字”を見ていない。
つまりスーパーに行って、野菜とかが漢字で書かれていた場合は終わりだ。
それに、初めてのお使い的な気分で行ってもらえば良し。
「ん、コレに書かれてる物な」
「うん、わかったんだよ!」
「因みに一応言っとくが、買い食いしたら夕飯は無いと思え。俺もお前も」
「う……わ、わかってるかも!!」
スフィンクスを抱いて、玄関へパタパタと駆けて行く。
見極めた後、彼は溜息を吐いた。
平和な日常。
帰ってきた日常。
何時も通りの日常。
でも―――『彼女』は、ソコに居ない。
一週間という短い期間だったが、共に過ごした『彼女』はココに居ない。
攻撃の矛先を向けられても、指を折られても、最後には満面の笑みを見せた『彼女』は……居ない。
この切ない感情が恋と聞かれれば、そうではない。
だが、遣る瀬無い気持ちが心の底から湧き上がっているのは間違い無かった。
彼女との一週間は、ハプニングが多発しているも、苦では無い。
寧ろ楽しめたと思う。
欠けてしまったパズルの一片のように、物足り無さを感じる。
別にインデックスとの平和な日々が辛い訳じゃ無い。色々あるが、逆に楽しいぐらいだ。
ただ……ただ、
「……」
止めよう。考えても無駄だ。
思考の悪循環を起こすだけだ。
邪念を振り払うように頭を横に振る。
とりあえず洗濯物。考えたいならやる事をこなしてからにしよう。
「あ、御坂に謝らなきゃならねーんだよな」
予め入れておいたカゴを持ち上げて、ベランダに向かう……が。
ゴトッと。カゴは上条当麻の手から滑り落ちた。
床へ落ちた時に足の指に直撃して、衝撃でカゴの角が砕けてしまうなど、不幸スキルを発動させるが……彼は微動だにしない。
まるで上条当麻という人間だけ時が停まったかのように凍結。
彼の視線の先には何の変哲も無いベランダ。そう、ベランダは。
凍結から溶けた上条は、クスッと一笑。おもむろにポケットへ手を突っ込み、携帯を取り出す。
二、三回入力して耳に添えた。
「……あ、インデックスか? まだ何も買ってねえよな? なら良かった。今すぐ帰って来い。
喜べ、今日の夕飯は外食だ。貧乏生活まっしぐらな俺も、奮発してやるぞ」
後数回返答を繰り返し、通話を切る。
携帯を閉じてポケットへ直すと、ベランダへ彼は歩み出す。
「毎回不幸だ不幸だ叫んでるけど、今この瞬間ばっかりは、上条さんの歴史に刻むほどに幸せを感じてますよ。そうだと思わないか?」
カラカラカラ、とスライド。
同時に上条は問い掛ける。
ソコに立つ“人物”へ。
「知ったこっちゃ無いわよ。アンタが感じて来た今までの幸せがどんな程度だったが判らないけど……まあ、そうね。
今不幸とかほざきやがったら、五臓六腑は間違い無くグッチャグチャ決定だったわ」
何時も通りの全身黄色い衣服。
化粧とピアスはしていないが、フードは被っていた。
魔術要素を含むからだろうか?
「相変わらず手厳しいことで」
「そう? 随分アンタに対してだけは丸くなったと思うわよ。抱き締めたいほどに」
どうやってベランダへ乗り込んだとか、どうやって学園都市に潜入したとか、衛星から見付からずに来れたとか。
彼女に聞きたい事は様々有る。
でも、それ以上に伝えなければならない言葉が存在する。まず言おう。
「とりあえず、完治おめでとう。ヴェント」
「……それだけ? 私が一番聞きたいのはもっと別なんだけど」
彼女促す。上条は緊張の所為にならぬよう、深呼吸を落ち着かせ、
「そうだな。正直、俺は経験した事が無いから恋ってのがどんな物か判らないし、どの感情に達したら恋なのかも判らない……けど」
微笑みをヴェントへ向ける。
「ヴェントが居なかった時は寂しいと思ったし、今会えて凄い安心感を覚えた。
もしかしたらヴェントが求めてる感情とは違って、まだ発展途上なのかもしれない。……それでもいいか?」
「……十分よっ」
彼女は笑顔を浮かべると上条へ飛び出し、両腕を彼の首へ回して、抱き付いたのだ。
「少なくとも私に軌道が乗ってる。しかもゴール地点まで。なら後は、私が後押ししてアゲル」
「ははっ、ありがたいな。まあ、これから宜しくな?」
「勿論に決まってんじゃない。当麻♪」
END
――――
―――――――
―――――――――――――――
―――――――――――――――
――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――窓の無いビル。
_
空中に浮かぶ画面には、手を取り合う一方通行達。
更にはもう一つの画面には、上条当麻の姿。
二つの画面を注視するのは、生命維持装置のビーカーに逆さまで浮かぶ、男にも女にも子供にも老人にも聖人にも囚人にも見える『人間』。
アレイスター=クロウリー。
更にはもう一つの存在。
金髪の光り輝く身体。ゆったりとした白い装束を身に纏う者。
エイワス。
「どうやら幻想殺しが帰還したようじゃないかアレイスター。
代わりに幻想殺しとは対極に位置する第0位は消滅したようだが?」
アレイスターは無表情でエイワスの言葉を聞くだけに留まる。
考えているのか、悩んでいるのか、困っているのか、定かでは無い。
「いやはや、彼には中々興味をそそられた。幻想殺しのクローンでありながら ghm 力 enw は逆の物。存分に楽しめたよ」
「……あなたにしては珍しい。何やら勘違いをなさってるようだ」
口を閉ざしていたアレイスターが、薄く笑う。何を言ってるんだ? と。
今度はエイワスが黙り込む番だった。
「幻想殺しも手中に納まり、遠回りだったプランの軌道修正が完了で、終盤に差し掛かった。
寧ろ漸く下準備を整えた、といった所だろう」
「……ほう。第0位の消滅もプラン通りなのかね?」
「何を言っているんだエイワス。彼なら……」
シュン、と。
出入り口が皆無な空間に新たな影。
『空間移動』を引き起こして、侵入する者。
ツンツン頭。
光を宿さない虚ろな瞳。
黒いズボンにスニーカー。
シャツの上に学ランを羽織り。
身に包む何の変哲も無い制服。
しかし、右肩から先は無くなっていた。
―――第0位。
「彼は二回『神の力』を発動させた。一回と規定有るにも拘わらず。何故? 答えは容易い。
それが―――発動条件に起因しているからさ」
目を配らせ、視線だけで第0位を促す。
得心した彼は、一度頷き―――右腕を生やした。
「まだ期間にしては迅速だが、幻想殺しが戻ったのなら丁度良い。プランが進行次第、余興の幕を開けようではないか」
アレイスターは画面に映る一方通行を視界に入れ、次に上条当麻を。
「さて、開始と行こうか」
――――To_be_continued...?
860 : 977[saga] - 2011/04/06 21:32:19.30 yItfY7+DO 550/550以上しゅーりょーです!!
約二ヶ月間、どうもありがとうございました!
冴えない人気もないひっそりとしたスレでしたが、見てくれた皆様
本当にありがとうございます
この続きは必ず書きます
では新作までさよならです
ただ…聖人って、体に神の子に似た特徴(?)を持ち、
それによって、普通の人よりも、テレズマか何かを引き出しやすい
体質だったのでは?
完全な勘違いかもしれませんが…
超能力の開発でテレズマを引き出すことはできなくなっているんじゃ…
ハ!!
ま、まさか”青”髪だから「後方の青色」のアックアさんと同じく、
聖母崇拝の恩恵を受けて、超能力と魔術を両立しているのか!!!
神の右席の秘儀を使用できるとは、デルタフォースはやはりただのバカの集まりではないですね