【前編】の続きです。
薔薇水晶の一件が落ち着き、桜田家には平和な日常が戻ってきていた。
以前とは違うところもあるが。
「……しっぽ……?」
「あっ、こら、薔薇水晶やめなさいっ。人の髪をつかむのではないのだわ!」
「ヒナもやるー」
「こっこの!ひっぱらないでって…ええいうっとうしい!!」
「きゃ」
「きゃあっ」
「…すごいです真紅の尻尾。進化してるです。ついに単体で動きだしたですぅ」
「確かに日々進化していってるね…って違う、真紅の髪はどういう仕組みで動いてるんだ」
「…本当に平和ですね」
【 そうだな 】
ソファーに座り、ドール達の遊んでいる様子を見て、日常の大切さを噛み締めていると、
【 ジュン。体のほうは問題ないか 】
槐が聞いてきた。
「あ、はい。大丈夫ですよ。水銀燈を直した分も回復しましたし」
【 そうか。お前はやはり回復が早いな。若さというのは貴重だ 】
めぐを助け倒れた翌日に、水銀燈の修復も行った。
水銀燈は右腕をはじめ体中損壊していたので、それを放っておくことはできなかった。
めぐの病室を訪れその意思を伝えたところ、水銀燈には強く拒否されたが、
めぐが水銀燈を押さえつけるように説得?して、なんとか修復させてもらった。
水銀燈はやはりジュンを嫌悪と憎悪の目で見ていたが、
薔薇水晶との戦いのときに再会したときほどの強さではなかった。
どうやら、ジュンがめぐの命の危機を救い、
そして過剰な体力を送ることで生来弱っていたらしいめぐの心臓を強制的に活発にさせ、
めぐの病気そのものを快方に向かわせたことに、
水銀燈は何か思うことがあったらしい。
なんだか、対応を決めかねている、といった感じだった。
そんな感じで、水銀燈は体をジュンに預けたのだが…
「………」
ジュンは、いきなり黙り込む。
【 ん、どうした。何を…む 】
「おらぁ!ですぅ!」
【 ふん 】
「あぁ!くそぅ、避けやがったですぅ!」
【 人が話しているときにバットでいきなり襲いくるとは。お転婆にも程がある。
だが残念だったな。この体は認識回路が人間とは違うから常に全方位を警 】
「チカチカ光っても何言ってるかわかんねぇですぅ!さっさと叩き落とされろですぅ!」
【 ふむ 】
「エンジュの言葉はマスターと薔薇水晶しか分からないからね。薔薇水晶、何て言ってるの?」
「…ふ、む…って…」
「踏む?」
翠星石の攻撃を回避しながら、エンジュがあちらの輪に入っていった。
ジュンは、一人で思考に入り込む。
(……あの感覚)
水銀燈を直したときに、めぐの指輪を介しての間接的なものではあったが、ジュンは水銀燈の内部に触れた。
そのときに、感じたことは。
(真紅達と、変わらない)
腹部が無いことは分かった。だが、それは、『欠損』ではなかった。
直すことなどできなかったし、直す必要性もなかった。
水銀燈は、おそらく。
(あの状態で……)
「ジュン」
はっ、と、意識が現実に引き戻される。
「…真紅。どうした?」
「何を考えているのかしら、そんな顔をして。何か、危険なことでもあるの?」
結構深刻な顔をしていたらしい。
「いや、大したことじゃ、…いや、あるけど…まあ、危険とかそういうことじゃない」
「そう」
真紅はそれ以上聞いてこない。
ジュンの横に座り、そこが定位置であるかのように落ち着いている。
穏やかに、紅茶を飲んでいる。
(…そうだな、そういえば)
ふと、思い出す。
(真紅は、まだ、よく見てないな)
水銀燈の内部を視て、確信、あるいは、疑問を得た。
それが、気になる。
もっと、ローゼンメイデンを、知らなくてはならないと、思う。
「ええと、あのさ、真紅」
「何かしら」
だめだろうな、とは思いつつ。
「頼みがあるんだけど、」
言いかけたところで。
「構わないわ」
頼みの内容を言う前に、了承が返ってきた。
「え?」
「構わない、と言っているのよ」
真紅は穏やかに繰り返す。
「いや、でも」
何か誤解をしているのではないかと、
「あら。雛苺や蒼星石は見たのでしょう。私を見るのに何か抵抗でもあるのかしら」
誤解ではないらしい。
「いや、えっと、そうじゃなくて」
(なんだか前にもこんな感じのことがあったような…)
思いつつ、
「…いいのか?」
真紅はため息をつく。
「構わないと言っているでしょう。何回言わせる気なのかしら」
真紅は立ち上がり、
「ジュンの部屋でいいかしらね。行くわよ」
先に行ってしまった。
「あ、ま、待てって…ああ、もう」
少し考え、蒼星石に部屋に他の連中を近づけないよう頼んでから、真紅の後を追った。
「…なあ、本当にいいのか」
どうも信じられず、またもや確認してしまう。
「しつこいわね。何が不満なの」
「いや、不満ってわけじゃなくてさ、なんかお前って、こういうの嫌がりそうだと思ってたんだけど。
なんていうか、こう、プライド高いだろ、お前」
「そうね。私は薔薇乙女として誇りを持っているわ。
興味本位や下賎な目的で体を調べられることなんて、その誇りが許さないわね」
「じゃあ、なんで」
「貴方はそうじゃないでしょう。
それにね、ジュン。私は、私なりのやり方で、アリスゲームを終わらせようと思うの」
「え…?」
真紅は、穏やかに語る。
「私は、戦いというのは、とても大事なことだと思うわ。
自分の大切なものを求めて、自らの力を振り絞る。
それは、とても、素晴らしいことではないかしら」
「でも、だからといって、自分の姉妹を壊すような戦いを、好きにはなれないわ。
そう、だって。大事な、姉妹ですもの」
「大事なものを求めて、大事なものを壊す。
そんなこと、何かが、違うと思うわ。
だから、私は、壊すような戦いではなくて。
もっと違う形の、戦いをしようと決めたの」
「ふふ。そうね。私も本当は、どうすればいいのか分からなかった。
壊しあうなんてしたくなかったけれど。でも、じゃあどうすればいいのか、分からなかった。
これまで、いろんな時代でアリスゲームをしてきたわ。
何をすればいいか、わからなくて。結局、壊しあうようなことをしていたの。
何も解決しないまま、いろんな時代は過ぎて、いつもの繰り返しのように、『ここ』に来た」
「そして、貴方に出会ったのよ、ジュン」
「貴方は、大したことのない、普通の人間だったわ。
弱くて、幼くて、いろんなものに縛られていた」
「あら、そんな顔をしないのよ、ジュン。これは、事実なんだから。
それに、もう、昔のことじゃないの」
「そう。昔のこと。だって貴方は、変わったもの。
…水銀燈と出会って、そして、過ちを犯してから、貴方は変わった」
「自分の弱さを叩き直して、縛っているものを引きちぎろうと必死で。
ひたすらに、水銀燈を、あの子を、幸せにするために、頑張ってる。
男の子ね、ジュン。好きな子のために、大人になるなんて」
「もう、褒めているのよ。そんなこと言わないの。
…そして、貴方は。
水銀燈だけじゃない。蒼星石も、翠星石も、雛苺も、…私だって、愛してくれてるでしょう」
「あら。素直じゃないのね。ふふ。
…女性として、ではないのは分かっているわ。水銀燈とは、違うでしょう。
でも、貴方が私達のことを、とても大事に想ってくれているのは、確かなことでしょう」
「だから。きっと、貴方は私達を救ってくれる。
壊し合い、奪い合い、憎み合う。
そんな、絶望にしか向かわない私達を、貴方はきっと、救い出してくれる」
「だから私は、私の目的のために。アリスゲームを終わらせるために。
貴方の、力になる。貴方の、助けになる。
……私の理由は、分かったかしら?」
あらわになる、真紅の体。
「やっぱり、綺麗だな」
「お父様に作っていただいた体ですもの。当たり前でしょう」
真紅は、一糸纏わぬ姿になっても、優雅で、気高かった。
なんとなく、触れがたい。
「どうしたの、ジュン。調べたいのでしょう」
「あ、ああ」
真紅の体を、見て、触れる。
「レディの体なんだから。優しくするのよ」
「…ん。そうしてたつもりだったけど、乱暴だったか?」
「一応言っただけよ。問題はないわ」
「そうか」
「……」
「……」
「………ねえ」
「ん?」
「…なんでもないわ」
「…そうか?」
「ええ。…続けて」
「ああ」
「………」
「………」
「…………ねえ」
「…どうしたんだ?」
「……私の体、触ってて、…その、…楽しい?」
「うん」
「………」
「そんなつもりはなかったんだけど、ごめんな」
「…いいのよ」
「そうか」
「ええ。……好きにして頂戴」
「ここ、いいか」
「…ええ」
「じゃあ」
「………っ!」
「…なんでか、湿ってるな」
「…貴方。そういうこと、蒼星石達にも言ったのかしら」
「そういえば、柏葉にも蒼星石にも怒られたな」
「そう。それでも言うのね」
「ぐほぅ!」
「デリカシーってものがないわ。その上、懲りないのね」
「ご、ごめんなさい…」
「もう。いいから、指を動かしなさい」
「…卑猥なことを言うんだな」
「………」
「ごほぅ!」
「……ん…」
「……(…卑猥な声だ……)」
「……」
「ごぐぁっ!く、口には出してないのに!?」
「黙ってやりなさい」
「はい……」
「………」
「………」
「……ん、…」
「………」
「…ん、………」
「………」
「………っ、……」
「………」
「…っ、…ん、……っ」
「………」
「……………………ふぁんっ、…!!!!」
「待て。僕は何も言っていない。その振り上げた髪を下ろせ」
真紅がドレスを身に着ける。
「…これでいいのね」
「ああ。見たいところは見た」
「そう」
「可愛い声も聞けたし」
「…!!!!」
「ふぐほあぅ!!」
とりあえず、真紅の体の観察は終わった。
ローゼンメイデンというもののイメージが、より確かなものになった。
「真紅」
「何かしら」
「ありがとな」
「いいのよ」
「…ありがとな」
「…ええ。どういたしまして」
なんとなく、真紅と二人でベッドに座っていた。
二人とも何も言わない、穏やかな時間。
控えめなノックの音。
「…あの、マスター。そろそろ翠星石が抑えられなそうです」
申し訳なさそうに蒼星石が言ってくる。
「ああ、蒼星石。ありがとう。もう終わった」
「あ、そうなんですか」
じゃあ、と、蒼星石が入ってくる。
ジュンと真紅の様子を見て。
「……」
ジュンの隣にやってきて、座る。
ジュンは、真紅と蒼星石に挟まれた形。
「…蒼星石?」
「………ええと、その」
蒼星石は、何か、口ごもる。
「…どうした?」
「その、……どうでした?」
「え?」
「いえ!いえいえ!なんでもないです!」
急に慌てだした。
「……?」
「どこにいるですか蒼星石ー」
階段を上ってくる音。
ばっ、と蒼星石は立ち上がり、ジュンから少し離れる。
「…?どうした蒼星石。なんか変じゃないか」
「い、いえ。なんでもないです」
「あ、いたですぅ。いきなりいなくなってどうしたですか蒼星石」
「い、いや、なんでもないよ」
やっぱりなんか変な気がする。
「…ほんとうに一途」
「…真紅?」
「…しかも相手はこの鈍感だものね。大変ね」
「何言ってんだ?蒼星石はどうしたんだぐはぁっ!?」
「なんだか腹が立つのだわ」
よく分からないが気を取り直して。
「翠星石。雛苺や薔薇水晶はまだ遊んでるのか?」
「あのちびどもならお昼寝タイムですぅ。エンジュも薔薇水晶の中に入ってったです」
翠星石は、薔薇水晶を強く憎んでいたはずだが、
実際に世話していると薔薇水晶が本当に幼い子供だというのが分かったのだろう、
雛苺に接するような、あるいはもっと優しい態度で薔薇水晶と遊ぶようになった。
そのかわり、エンジュを隙を見ては攻撃するようになったのが困りものだが、
それも翠星石なりの納得の仕方なのだろう。
翠星石を見てそんなことを考えていると、
「…あの、マスター」
「ん、どうした蒼星石」
「…その」
どうも蒼星石ははっきりしない、口ごもることが多い気がする。
おそらくは何かを恥ずかしがっているのだろうが、それが何かがよく分からない。
「どうしたんだ」
「ええと、その、」
「…なんなんだ?」
「ご、ごめんなさい」
こちらに謝り、そして意を決したように顔を上げる。
「…あの。翠星石も、見るんですか」
小声で、ちょっと予想外のことを聞いてきた。
「…翠星石か。そうだな。…できれば見たい」
こちらも小声で返す。
「そう、ですか…」
こころなししょんぼりしたような声で言う。
「…どうしたんだ?というか、翠星石のことは、それがどうかしたのか?」
「……ええと」
蒼星石は、何か、考えている。
「あの、ですね」
今回はわりと口ごもらない。
だが何か、台本を読むような口調で言った。
「翠星石を見るとき、僕もご一緒していいですか」
「…蒼星石が?…いや、なんでだ?」
蒼星石はすでに一度見ているし、何度も見る必要はないと思う。
「ええと、翠星石が。何かマスターに失礼なこと。しないかなって」
なんだろう。蒼星石の口調。なにかセリフを暗唱しているような。
「僕が翠星石を。ちゃんと見てあげなきゃかなって」
つまるところ棒読み。
「…蒼星石?」
こちらの疑心のようなものに気付いたのだろう。
「あっ、ほらっ、ええと、僕も、そう、姉の体はちょっと興味あるかなって!」
慌てて言ってきたが。
「…何か危険なことを言ってないかお前」
「…あ、いや、その」
自分の言葉で顔が真っ赤だ。
「大丈夫か蒼星石。本当に変だぞ。なんか悪いものでも食ったか?」
蒼星石を抱き上げる。
「わあっ!?」
「あっこらジュン!蒼星石に何してるですか!」
蒼星石が驚いた声を上げ、翠星石がこちらの様子に気付いた。
「いや、なんか蒼星石の様子が…」
「…あの、マスター」
ものすごい小声で、ジュンにだけ聞こえる声で言ってくる。
観念したような顔。
その唇はジュンの耳元。
「…その、僕は、ですね。
…僕の知らないところで、マスターが、女の子と、二人でいると、なんか、変な気持ちで。
……それが、いやだなあ、って、思って…」
そこまで言って、ぷしゅう、と聞こえそうな感じで、ジュンの胸に縮こまる。
それを見て、抱いて、ジュンは思う。
(…なんだこれ。可愛いんだけど。ものすごい可愛いんだけど)
とりあえず、頭を撫でてみた。
もっと縮こまった。
「ジュ、ジュン!何してるですか!蒼星石も!」
翠星石が蒼星石を取り上げようとする。
しかし、ジュンに抱えられた蒼星石の位置は高く、
また、翠星石の力では蒼星石の体を持ち上げられず。
ジュンもなんとなく離したくない気分になっており。
その結果。
「きゃあ!?」
バランスを崩してこけた。
「おっと」
床に落ちそうだったのでとっさに止める。
「大丈夫か」
蒼星石を抱いているのとは逆の手で止めたのだが、
片腕では上手くバランスが取れない。
仕方なく、翠星石も自分の体に引き寄せる。
「あ……」
翠星石が驚いた顔をする。
「え?…あ」
右手に蒼星石を。
左手に翠星石を。
二人を両手で抱いている形になった。
「う…あぅ……」
翠星石は言葉を失っている。
「………」
蒼星石は縮こまったままだ。
「…ええと」
どうしたものか。
ジュンは次の行動の選択ができない。
「………」
翠星石が、ゆっくりと、身を預けてきた。
その表情は、なんだかとろん…、としている。
(うおぉ……)
両手に花。
いや宝石?
いや女の子…!
ジュンの思考が停止し、三人が三人とも動きを止める。
蒼星石は恥ずかしそうで。
翠星石は幸せそうで。
ジュンは動くに動けない。
そこに。
「…私の存在を忘れてないかしら?」
ビクンッ!!!!
三人とも激しく飛びずさった。
「あ、ああ真紅。悪い、なんかぼーっとしてた!」
「し、し、し、真紅!いや、なんていうか調子が!」
「な、なんでもないですよ真紅!な、なにもなかったです!」
全員一斉に言い訳を述べた。
「…まったく」
真紅はどうやら本を読もうとしていたらしい。
本を閉じて、ジュンに向き直る。
「女の子に囲まれて、でれでれし過ぎよ、ジュン」
「で、でれでれなんて」
【 全くだ。我が弟子ながら情けない 】
「うわあ先生!!」
いつの間にか部屋の中にいた光の玉に、またもや飛びずさる。
「み、見てたんですか!?い、いつから!」
【 蒼星石がお前の腕の中で縮こまっているところだな 】
「うわ…!ていうか先生、薔薇水晶と一緒に昼寝してたんじゃ…?」
【 この体に睡眠など必要ない。薔薇水晶が回復に入ったから、
それに合わせて薔薇水晶の調整を行っていただけだ 】
槐は明らかに呆れている。
【 しかし本当に情けないぞ。顔も意思も緩み過ぎだ 】
「…そんなに緩んでました?」
【 …まあ、緩んでいたというより固まっていたが。
だが、意思のほうは完全に緩んでいるな。 】
槐の声音に、真剣な色が混じった。
槐はちょっと怒っているようだ。
【 お前、さっき真紅と居間から居なくなるときは、悪くない顔をしていたはずだ。
それが、少ししたらこれだ。お前の意思に疑問を感じざるを得んな 】
「そう、ですね。…すいません」
そうだ。蒼星石と翠星石の可愛さにやられていたが、今はやることがあった。
【 ふん。分かったようだな。とっととやるべきことをやれ。お前の時間は、限られてるんだ 】
エンジュは、部屋の外へ飛び立っていく。
どうも、ジュンの情けない様子を見て、口を出さずにはいられなかった、そんな風だった。
「…すいません。ありがとうございます、先生」
やるべきこと。
ローゼンを知り。
ドールを知り。
水銀燈が幸福になる、手助けをすること。
そのための、一つの問題については、ある確信があった。
おそらくそれは、問題ではなかった。
だがそれは、ジュンの感覚と推測に過ぎず。
確証はない。
きっと、今の時点では、もう掘り下げられない。
それはもう後回しにする。
とにかく今は、情報を集められるだけ、集める。
(何が、必要だ?)
考える。
(僕は、何を、知らない?)
ドール。ローゼン。力。nのフィールド。
(…そうだ。ドールといえば)
知らないことに、気付く。
知っているような気になっていた。
姿を見て。話を聞いて。分かったような気になっていた。
薔薇水晶の問題に気をとられていた、というのもあるだろう。
なら、今、知らなくては。
「蒼星石」
「は、はい。何ですかマスター」
「金糸雀のことについて、教えてくれ」
その名前に、翠星石の表情が曇る。
複雑なものが、あるのだろう。
「金糸雀のこと、ですか」
蒼星石、そして真紅の表情は、それほど動かない。
おそらく、二人はこれまで何度も姉妹と戦ってきた。
さまざまな覚悟を、してきたのだろう。
少なくとも、表情には、何の感情も出さなかった。
「ああ。僕は金糸雀のことをほとんど知らないからな。
会ったこと自体が一度だけ。
後はお前らに少し話を聞いただけだ。
ローゼンメイデンの一体として、ちゃんと知っておきたい」
「ジュ、ジュン……でも、そんな、今じゃなくても…」
気持ちの整理ができていないのだろう、翠星石が悲しそうな表情をする。
「…ごめんな。でも僕は、知っておきたいんだ」
翠星石の頭を撫でる。
「お前は、リビングにいてくれ」
「………」
翠星石は動かない。
「…翠星石」
「…いいえ、です」
翠星石は顔を上げた。
「…翠星石も話すです。この中で、金糸雀と一番遊んだのは、翠星石です」
金糸雀。
ローゼンメイデン第二ドール。
人工精霊はピチカート。
武器は、バイオリン。
そして。
「能力が…『音』だって?」
「はい。…そうですね、以前金糸雀の能力を話したときは、
戦闘タイプと使い勝手だけで、実際に何を操るのかは言ってなかったですね」
蒼星石は、思い出すように言う。
「彼女は、バイオリンを奏でることで、音を操り、衝撃波を放ったり、竜巻の壁を作れたりするんです。
バイオリンの弾き方や弾く曲で、自由に音を操れるので、攻撃方法は変幻自在です。
それに、音というのは結構ものを壊すのに向いているらしくて。かなり破壊力があります。
さらに、目に見えるものでもないですしね。金糸雀の能力がどう使われているかは、金糸雀にしか分からない。
…恐らく、全てのドールの中でも、特段に強力で、使い勝手もいい能力です。
ただ、楽器によって能力を放っているので、そこは大きな弱点だと思います」
蒼星石の、戦闘能力としての金糸雀の能力の解説は、ジュンはほとんど聞いていなかった。
「…マスター?…あの?」
(『カナリア』の能力が、『音』…?)
それは、あまりにも分かりやすすぎる関係性。
(金糸雀。声。音。鳥。能力…特徴?)
(ならば)
(真紅。薔薇。赤。花弁。薔薇の色)
(雛苺。苺わだち。子供。雛)
(いや、待て)
(蒼星石と翠星石って何だ。石、鋏、如雨露、蔦?何が繋がる)
(それに。水銀燈。水銀灯?明かりか?)
何か、掴みかけたような、そうでないような。
(関係ない?いや。こんなに直接的な名付けをしておきながら、それが一貫していないとでも?)
「ええと、マスター…?」
(まず引っかかるのは、蒼星石と、翠星石)
「え…どうしたです、いきなり『ぱそこん』なんかさわりだして
(蒼星石。蒼星石…………あった。ラピスラズリ。…瑠璃、か…?宝石…?)
「…すごいわねジュン。指先が見えないわ」
(翠星石は?…………翡翠?ってことは、こっちも、宝石)
「マスター、あの、話聞いてくれてました…?」
(宝石。鋏、如雨露。なんだそりゃ。関係あるのか?)
「マスター!!!」
「うお!?」
「あ…ごめんなさい、マスター…」
「そ、蒼星石か。なんだ、びっくりするじゃないか」
「だ、だって、マスターが話聞いてくれないから…」
「あ…悪い。ちょっと気になることがあってな」
「気になること、ですか?なんですか?」
今はまさにお前のこと考えてたんだよ、と思い、
(僕の力は、この草を切りはらって、その人の本来の成長を促すことが出来るんです…)
ふと。
光景が、よぎる。
(どうですか、マスター?)
そう、あれは。
蒼星石の力を、初めて見せてもらった……
(ふふ、これが、―――『庭師の鋏』です)
『庭師の鋏』。
蒼星石の力。
そうだ。
蒼星石は―――
「……『庭師』」
「はい?」
「なんですぅ?」
ジュンの独り言に、蒼星石だけでなく、翠星石も反応する。
(そうだ。『庭師の如雨露』だ)
翠星石もまた、『庭師』。
庭師。宝石。その共通点。
「……彩り、か…?」
庭を管理し、整える者。
身に携えて、美しさを見せる物。
美しさを演出し。
彩りを、与えるもの。
名付けの意味が、少し、見えたような。
演出するもの。彩るもの。
二人がもし、そういった意味合いの名付け方なら。
(金糸雀も、少し、違うか)
(鳴き声の特徴的な鳥と、『音』という能力のドール、じゃなくて)
(音色を操るもの。『奏でるもの』)
もつれていた糸が、一気にほどけるように。
(真紅。色。花弁。彩りを、付ける?これも『演出するもの』か?)
思考が、弾ける。
(雛苺。苺わだち。雛。…大きくなる?…『成長する』?)
確信はない。しかし、感覚は納得している。
(じゃあ、水銀燈は。水銀灯。明かり。羽。翼)
たどりつく。その領域に。
(ああ、そうか、彼女は―――)
思いついたことを、槐に伝え、槐の考えを聞いてみる。
【 ふむ。確かにそうだな。ものを作るときは、何らかの想いを、それに込める。
そして、それに名前を付けるとなれば、その想いを表した名にするだろうな 】
「ですよね。じゃあ、水銀燈はやっぱり…」
【 さあな 】
「え?」
【 名付けの理由など、何を思ってその名を付けたのかなど、本人にしか分からんよ。
他人がどう推測して、それがいくらもっともらしかったところで。
それはただの、妄想に過ぎん 】
「……確かに、そうですね」
【 まあ、かといって、お前の推測が間違っているとは限らん。
それが正しいとした仮説を立てるのは、別に間違ってはいないぞ 】
「…先生が何を言いたいのか分からなくなってきました」
【 ふん。鈍いな。鈍いなら鈍いなりに考えろ。お前の頭は、飾りか 】
「………………。
…自分の推測と、事実を混同しないように、気を付けろってことですか。
その上で、もっと深いところまで、推測しろと」
【 正解だ。考えて分かるなら、最初から考えろ。怠け者 】
「…はい。ありがとうございます。先生」
【 ふん 】
【 それで、だ。お前のその推測が正しかった場合、水銀燈の腹部の意味も変わってきそうだな 】
「え?」
【 あれは、ただの未完成だと思っていたんだが。他の五体は全身が完全にあるからな。
何かの理由で途中で放棄したのだと思っていたが… 】
「え、先生、どういうことですか?水銀燈の腹部の意味って…」
【 あれに腹部が無いことを知らんのか。
いや、お前水銀燈を修復していただろう。そのときに気付かなかった…わけがないな。
お前、何が気になるんだ? 】
「いえ、ええと………その、水銀燈を修復したときに分かったんですけど」
ジュンは、水銀燈を修復したときに、気付いた、いや、分かったことを、伝える。
「だから、水銀燈の腹部には、何か意味があるんじゃないかと思っていたんです」
【 ほう。…なるほど。ローゼンは、水銀燈にだけ、象徴を持たせたか。
いや、違うな。水銀燈の象徴が、たまたま分かりやすかったと見るべきか 】
「…象徴、ですか?」
【 ああ、教えていなかったな。シンボルとも言うんだが。では今日はそれを教えようか 】
槐は、教授する。
【 例えば、絵画。もっとも有名なもので言えば、『最後の晩餐』、か。
どういう絵か知っているか? 】
「ええと、キリストが、自分の部下?というか、幹部みたいな人達と、一緒にご飯を食べてる絵、でしたっけ」
【 部下ではなく使徒だ。
そしてご飯と言うと語弊がある。パンと葡萄酒を、キリストの一派で食べようとしている絵だ。
これは、聖書の一場面を、切り取って絵にしたものなわけだが……、
ところで、だ。その一場面のときに、キリストがそう言ったということで、
キリスト教においては、『パンはキリストの肉』『葡萄酒はキリストの血』とされる】
「…はい?」
【 さて。考えてみろ。
『キリストの肉』である『パン』と、『キリストの血』である『葡萄酒』を、使徒が食べている。
その絵は。さて。何を表した絵だと思う? 】
「え……?、………!」
【 ふ。気持ち悪いだろう。
『最後の晩餐』は、事実。ただの晩餐の絵だ。
だが、『そういうイメージ』で見ると、ひどく恐ろしい、意味深な絵に見えてきたりもするわけだ。
しかしこれも、見た者の解釈に過ぎんのだがな 】
「…それが、象徴、ですか」
【 そうだ。一見、何の変哲もない行為や物に、別の意味、隠された意味を持たせる。
まあ、『最後の晩餐』の場合、宗教的な意味合いが強いし、
その象徴の定義そのものが宗教限定のものだしな、
少し分かりにくいか。
他の、もっと身近な、直接的な例で言えば、
『鎖』は、『縛るもの』だ。『鎖を纏っている』といえば、『縛られている』という象徴。
『翼』は、『自由』だ。『翼をもっている』といえば、『自由である』という象徴。
もちろんそんな直接的なものだけではなく、
死者は焼かれて灰になる、ということで、『灰』は、『死』であり、『死体』とされたりする。
また、複数の意味の象徴であったりすることも多い。というか大抵そうだな。
『血』が、『死』の象徴でありながら『生』の象徴だったりな。
そういう、象徴という形で、作り手は作品に意味を持たせることがある。
いくつもの象徴を持たせて、複雑な意味を表すことも多い。
例えば、『翼に鎖を纏った天使』といえば、それだけでもう意味深だろう? 】
「…なんとなく分かりました。最初から今の説明をしてもらえると、嬉しかったです…そろそろ飯時ですよ」
【 ふむ。『最後の晩餐』の話は、インパクトがあるからな。興味を惹けるかと思ったんだが 】
「正直インパクトはいらないです」
「ええと、それはともかく、水銀燈の腹部も、何かの象徴だってことですか?」
【 あれだけ明確に、特徴付けてあるんだ。象徴でない可能性の方が低い 】
「なるほど。じゃあ、先生。『腹部』っていうのはどんな意味の象徴なんですか?」
【 自分で調べろ 】
「え…」
【 何から何まで人に頼るな。基本は教えた。後は、自分で調べて。自分で考えろ 】
「あ…、…はい。ありがとうございました、先生」
【 礼などいらん。やるならとっととやれ 】
「はい!」
ジュンは、張り切って居間から飛び出していった。
【 ふん。あいつのことだ。大して時間もかけずに大体のところは把握するだろうが… 】
槐は、呆れる様にひとりごちる。
【 あいつ、完全にアリスゲームのことを忘れているな 】
【 まあ、七体の内四体を所有し、一体は敗北、もう一体とも敵対的というほどでもない状況だしな。
争うことを忘れるのも分からなくは無いが… 】
【 しかし、この速度で事態が進んでいるんだ。後の展開も、それほど遅れてはこないだろう 】
【 そしてなにより。『あいつ』がいる 】
【 スィドリームに真紅の居場所を知らせ、金糸雀を桜田家に誘導し。
そして僕にドール達と桜田ジュンの情報を与え、さらには引き合わせ。
アリスゲームを誘導していた『あいつ』が、『七番目』を、放っておくわけが無い――― 】
桜田家とは、違う、場所で。
「……………………」
「………………………」
「…………………………」
「……………………………どうしましょう」
「お嬢さん」
「きゃ!?…あ、す、すみません。びっくりしてしまって」
「いえ、いいのですよ。それより、こんなところで何を?」
「あ……ええと、はい。その、ここには、以前、大きな屋敷があったと思うのですけれど…」
「ええ。今はもう、この通りですが」
「…そう、なんですか。……やはり、もう、無いのですね…」
「探し物ですかな?」
「え?…はい、そうです。…なぜ分かったのですか?」
「ふふ。貴女の探し物は、きっと見つかりますよ」
「え?」
「これに書いてある場所に、行ってごらんなさい。探し物が、見つかるはずです」
「え?え?あの?…………日本、ですか?」
「ええ。貴女の探し物は、そこにあります」
「え……?…あの、失礼ですが、貴方は…?」
「おや、これは失礼致しました。まだ名乗っていませんでしたね。
ふむ。ですが、つい最近まで使っていた名前は、この国の言葉では言いづらいですね」
「はぁ……?」
「そうですねえ。ではとりあえず………、」
「――――『ウサギ』とでも、お呼び下さい」
ジュンは、インターネットで調べられるだけのことを調べた。
そして、考える。
(『腹部』が象徴として持つ意味はこれで大体調べたはずだ。
あとは、この中のどれが、水銀燈に込められた意味なのか、だけど…)
『腹部』の象徴としての意味を書き並べたメモを、眺める。
( …なんだろうな。これといって『水銀燈』の名付けに対応しそうなものがないんだよな…。
先生は、『水銀燈』の名付けの意味を聞いただけで、『腹部』に意味があると考えた。
だから、この『腹部』の意味は、『水銀燈』の名付けに関わってくると思うんだけど…)
( ………ああ、駄目だ、全然分からな…
いや駄目だ僕。考えろ。
先生は『自分で調べて、自分で考えろ』と言った。
あの人は、きっと必要なことなら教えてくれる。
これは、きっと、僕でも調べられて、考えられる問題のはずだ)
(『水銀燈』の名付けの意味。そこから分からないなら、別のことから考えろ)
(ローゼンが、水銀燈に込めた想いが、象徴として表されてるはずだ。
じゃあ、ローゼンにとって、水銀燈は何なのか)
(全身全霊をかけた作品。……いや、ローゼンは、そんな目で水銀燈を見ただろうか?
何か違和感があるんだよな…)
(…ああ、そうか。先生だ)
(先生は、薔薇水晶をそんな風には見ていなかった。
言っていたはずだ。『薔薇水晶は僕の娘だ』と)
(ローゼンも、同じように水銀燈を見ていたとしたら。
娘。娘に持たせる意味、か)
考える。
考える。
考える。
(…無いわけじゃないけど、それだと『水銀燈』の名付けにあまり関連して来ないな)
(じゃあ、なんだ。娘じゃなければ……
…あ)
(ああ、そういえば。水銀燈は、七人の『娘』の中でも特別だ)
(長姉。七人姉妹の、一番上)
(……これ、だ)
(ローゼンが、七人の娘の、一番上の姉に、込めた想い)
(『水銀燈』の名付けに、しっくりと来る)
(ローゼンはきっと、、長姉に『水銀燈』の名を付けたというよりも、
長姉だから、『水銀燈』って名前を、付けたんだ)
(そして、象徴。
長姉として作られた水銀燈に、与えられた意味。
それは、きっと、)
「『母性』、だ」
(腹部とはつまり、子を宿すところ。子を、育てるところ。だから、『腹部』は『母性』の象徴となる)
(妹達を育て、導く。これは、『姉』の役割であると同時に、『母』の役割でもある……)
「…って、待て」
『腹部』の意味、『腹部』の象徴、に気をとられていたが。
水銀燈の特徴とは、『腹部が無い』ことだ。
(え?ええ?いや待て、つまりどういうことだ?長姉で、『水銀燈』で、そして『母性』が無い?
それはおかしい。明らかに矛盾してるだろ……)
(いやまて。矛盾があるからって混乱するな。
矛盾を、解決しろ)
(込められた象徴がやっぱり別のものなのか?
…いや、他の意味も、『無い』ことで『水銀燈』の名付けに関連してくるものはない)
(『無い』……『無い』……『無い』………『無い』?
…本当に『無い』のか?)
(水銀燈は、腹部が無いからといって体のバランスがおかしいとか、力の巡りが悪いとか、そういうのは無い。
腹部が有る、他のドールと、何も変わらない。
『腹部が無い』ことを表そうとしてるのに、そこらへんでは表さないのか…?)
(…もしかしたら)
(無いように見えて、有る?
いや、どういうことだそれ…)
(…『見えない』?見えない母性……いや、違う。『水銀燈』は、見えないようじゃ、意味が無い)
(……『形が、無い』?形が無い母性ってなん……ん?)
(形が無い。形という縛りがない。翼。自由)
(ああ、そうか)
(つまり、水銀燈の、腹部が意味しているのは)
「……『縛られることのない、母性』」
「薔薇水晶ー薔薇水晶ー、おやつのじかんだよー」
雛苺が、薔薇水晶を揺さぶる。
「……ん、ぅ……」
薔薇水晶は起きない。眠りの世界にもっと潜っていこうとするかのように、丸まる。
「おきないとヒナがたべちゃうよー?」
「……にゅぅ…」
「…ほんとにたべちゃうよー?」
「……ん…」
「……たべちゃうからねー?」
「……」
薔薇水晶は完全に寝入ってしまった。
「……もう、薔薇水晶ったらおねぼうさんなんだから」
雛苺は、おやつとしてのりにもらったお菓子を、薔薇水晶の分まで持ってくる。
「これはね、薔薇水晶のぶんだよ。ヒナがね、もっててあげる」
薔薇水晶の髪を、撫でる。
「薔薇水晶がおきるまで、もっててあげるのよ」
ふふっ、と、微笑む。
「…ヒナ、おねえちゃん、だよね」
嬉しそうに、笑う。
雛苺。
薔薇水晶。
ソファー。
テーブル。
壁。
窓。
窓。
――――窓。
「 み つ け た 」
.
数日。日常が、過ぎていって。
「じゅん君いますー?」
「あら、ジュンくんのお友達かしらぁ?どうぞ上がってぇ」
「あ、じゅん君のお姉さんですか?はじめまして。柿崎めぐです」
「あらあら。礼儀正しいのねぇ。ジュンくんの姉ののりです。よろしくね」
「はい、よろしく。それで、じゅん君います?」
「ええ、ジュンくんならお部屋にいるわ。案内するわよぉ」
「はい、ありがとうございます。お願いします」
「…鏡から顔だけ出てきた相手に、その対応はおかしくないかしらぁ…?」
水銀燈が呟いた。
めぐが、家に来た。
水銀燈に連れてもらって、nのフィールドを通って病院から直接来たらしい。
「うふふふ。ジュンくんも隅に置けないわねぇ。こんな綺麗な子とお友達になってるなんて。
スケコマシの才能があるわぁ」
「黙れ。頼むから黙れ」
頭の中が幸せな姉を追い出してから、ジュンの部屋を物珍しそうにみているめぐに向かう。
「…それで、今日はどうしたんだ。何かあったのか?体の調子がおかしいとか…」
「じゅん君に会いたくて」
「…はい?」
「ほら、じゅん君が私に会いにきてくれたのって、二回だけじゃない。
それ以来来てくれないから、私の方から会いに来ちゃったんじゃない。
もう。女の子を待たせて、待ちきれなくさせちゃうなんて男の子失格だよ?」
「え、ええと……」
確かに、二回ほどめぐの体の調子について聞きに、めぐに会いに行った。
力を分け与えたことが何か悪い影響を及ぼしたりしていないかが気になったのだ。
特に問題はなさそうで、病状も快方に向かっているということなので、安心していたのだが。
どうやらめぐは、ジュンが来なくなったことが不満だったようだ。
「じゅん君の方から私の所に来られるんだから、私の方からもじゅん君のところに行けるのかな、って、
水銀燈に聞いてみたら、行けない事も無い、って言ったから、連れてきてもらったの」
「……私は連れて来たくなんか無かったけどね」
水銀燈は嫌そうな表情をしている。めぐに押されて、渋々連れてきたようだ。
(そういえば、柿崎は長い間病院に居たんだよな)
病室も一人部屋だったし、話し相手というのは水銀燈ぐらいのものだったのかもしれない。
そこに現れたジュンは、柿崎にとって、
数少ない話し相手であり、あるいは新しい『友人』でさえあったのかもしれない。
「…ああ、悪かった、柿崎。放っておいて」
「ふふふ。分かったらいいのよ。それに、私の方から会いに来れるってことも分かったし。
今度から、いつでも会いたいときに会えるわ」
めぐは嬉しそうな顔をする。
「……はあ」
水銀燈のため息。
めぐがジュンのところに来るということは、水銀燈が連れて来る、ということだ。
水銀燈はジュンを嫌い憎んでいるし、気は進まないのだろう。
ジュンは、何も言えない。
そこに。
「………ぁ……」
薔薇水晶が、部屋に入ってきた。
雛苺と、エンジュも一緒だ。
「あー!水銀燈とめぐなのー!あそびにきたのー?」
「あらヒナちゃん。こんにちは。そっちの子は、ええと、薔薇水晶ちゃん、だっけ?こんにちは」
「……こんにち、わ…」
めぐは、ドール達と面識がある。
最初助けた時にその場に居たし、その後に会いに行ったときもジュンは雛苺達を連れて行った。
だが、薔薇水晶は最初こそ居合わせたが、その後はめぐに会っていない。
その理由はもちろん、めぐの所に連れて行って、水銀燈と薔薇水晶を会わせるわけには行かなかったからだ。
「………………」
水銀燈は、無言で、薔薇水晶を睨んでいる。
(……しまったな)
水銀燈は、強く、薔薇水晶を憎んでいる。
他の誰よりも、強く。
今にも、薔薇水晶を壊したくてたまらない、という気配が、伝わってくる。
それを実行しないのは、
(柿崎と契約しているから、と、…先生がいるからだな)
水銀燈の力は、めぐの体力を使って発揮される。
だから、薔薇水晶を壊そうとすれば、その為にめぐの体力が使われることになる。
薔薇水晶は弱くも脆くもない。多少ではない力を使うことになる。
それだけなら、水銀燈にとって、そこまで問題ではないだろう。
だが、薔薇水晶には槐がついている。
いくら薔薇水晶を壊しても、即座に修復される。
そして槐自身も不死。殺すことはできない。
それどころか、人間とはシステムの違う特殊な体を手に入れて、その力はほぼ無尽蔵になったらしい。
(いくら壊しても、すぐに修復されて、力の無駄にしかならない。
それはつまり、もともと多くはない柿崎の体力を無意味に削るだけ)
それが分かっているから、水銀燈は薔薇水晶を憎みながらも、手は出さない。
(…僕もそれが分かってるから、会わせないようにしてたんだけど)
会えば、水銀燈はやり場のない憎悪と怒りに苛まれることになる。
そんな苦しみを感じてほしくはなかったのだが。
(…これからは僕のほうから柿崎に会いに行こう。柿崎がこの家に来る前に。
水銀燈は僕と会うのも嫌だろうけど、この家に来て僕と薔薇水晶両方に会うことになるよりいいだろう)
「…水銀燈?どうしたの?」
水銀燈のただならぬ様子に、めぐも気付いたようだ。
「……別に。大したことじゃないわ」
「そう?そんな風には見えないけど」
「…………」
水銀燈はめぐに薔薇水晶や金糸雀のことは話していないらしい。
そして、話す気もなさそうだ。
「…病院からここまで、道を開いたんだ。疲れてるんだよ」
ジュンが、助け舟を出す。
「…………」
水銀燈は、じとり、と、睨む視線をジュンに移した。色々と不快なのだろう。
だがめぐは、ジュンの言葉を真に受けて、慌てる。
「そうなの?そんなに疲れるんだ。ごめんね?無理させちゃった?」
「…そこまででもないわ」
「うーん…、ここまで来ると水銀燈が困っちゃうんだ……どうしよう」
「柿崎。今度からは僕がちゃんと、柿崎のところに行くよ。心配しなくていい」
「そう?でも蒼星石ちゃんとか翠星石ちゃんは大丈夫なの?結構疲れるんじゃないの?」
「ほら、二人がかりとか三人がかりで開くからさ、それほど疲れはしないんだよ」
「そうなんだ」
「………………」
水銀燈は、黙っている。
ただ、薔薇水晶を睨んでいる。
水銀燈の気分が悪いということで、めぐはとりあえず病室に戻った。
さきほどついた嘘のために、誰かドールを連れてジュンが送ろうかと言ったが、
水銀燈は拒否し、一人でめぐを連れて行った。
「…ふう」
【 なかなかお転婆な娘っ子だったな。男の家に直接乗り込むとは 】
「…ですね。でも、僕が会いに行っておけば、こんなことはなかったでしょうね」
【 ふむ。今後は会いに行くのか? 】
「会いに行くって言っちゃいましたし。それに話し相手にもなってあげたいですしね。
暇を見て会いに行きますよ」
【 話し相手、ね 】
「…どうかしました?」
【 お前は鋭いのに鈍いよな、という話だ 】
「…はい?」
【 まあ、お前の問題だ。僕は知らん。とりあえず頑張っておけ 】
「何をですか…?」
【 青春というやつだ 】
「……はあ。………?」
桜田家とは、違う場所で。
女性が、ベッドに倒れ伏している。
部屋は荒れ、幾日も整理されていない様子が見て取れる。
女性自身もまた、髪型や化粧など、身だしなみに気をつけている様子がない。
ただ、無気力に、倒れ伏している。
「………どこ、行ったの……?」
女性が、呟く。
誰にともなく、しかし、誰かに向けて。
「……ねえ、カナ………」
その声は、呼び声は、誰にも届かない。
「…なんで、指輪、こんなに冷たいの……?」
涙はない。だが、泣くように呟く。
「どこに、いるの…?」
何度も、何度も。
何日もの間、繰り返してきた、言葉。
「…帰ってきてよ、金糸雀ぁ……」
その言葉は。
どこにも、届かない。
どこにも、届かない、はずなのに。
「みっちゃん?どうしたのかしら。そんな顔をして」
応える、声が、あった。
「え…!?」
女性は、草笛みつは、飛び起きる。
部屋を、見渡す。
しかしそこに、彼女の探す姿はない。
「…気の、せい……?」
大きく、心の底から、落胆し、
「どこを見てるのかしら、みっちゃん。こっちかしら」
その声に、見る。
部屋には、居ない。
けれど、居た。
「金糸雀……!!!」
荒れた部屋の、隅にある、化粧台の、鏡。
そこに、金糸雀の姿があった。
「カナ!よかったあ!会えた!もう会えないかと思ったよお!」
みつは、涙を流しながら、喜ぶ。
「どこに行ってたの!?あの時カナが居なくなってから、指輪が熱くなって!
黒い羽根の子と、ピチカートが来て!でもすぐに、居なくなっちゃって!
わたし、どうしたらいいかって……!」
「落ち着いて、みっちゃん。ちょっと、大変だったのかしら。でも、もう、終わったから」
「そう、なんだ。よかった。じゃあ、また、一緒に遊べるのよね。そうよね?」
「………………」
「…え…?どうしたの、金糸雀。なんで、答えてくれないの?また、遊べるのよね…?」
「…ごめんねみっちゃん。カナはもう、そっちには行けないかしら」
「え、どういうこと?なんで!?こっちに来れないって、何!?」
「カナはもう、こっちの、鏡の中にしかいないから。もう、鏡から出られないから」
「え……?」
「それにね、もうすぐ、鏡の中からも、消えて、しまうかしら」
「…な、に。何よ、それ。どうして」
「こっちと、そっちは、違う世界だから。
だから、そっちにいる、みっちゃんの力は、こっちには届かないのよね。
自分の体も、無くて。みっちゃんの力も、無くて。カナはもう、形を、保てないかしら」
「……そん、な。そんなのって…!」
「だから、これは、さよなら。カナは、さよならを、言いに来たかしら。
それと、ね。
ありがとうかしら、みっちゃん。これまで、遊んでくれて」
「カナ……いやだよ、カナ…!」
「…カナだって、嫌かしら。でも、仕方がないかしら。
カナは、そっちの世界に行けなくて。みっちゃんは、そっちの世界にいるんだから」
「そんな……そんなの……、」
みつは、気付く。それは、解決できるのではないかと。
「そう、そうだよカナ!カナがこっちに来れないなら、わたしがそっちに行けばいいんじゃないの!?
そしたら、カナに力をあげられるんだよね!?」
「そうね。でも、そのためには、みっちゃんは、ずっとこっちに居ないといけないかしら。
カナは、みっちゃんがいなかったら、すぐに消えてしまうから」
「居るよ!わたしはずっとそっちにいる!カナが消えるなんて、いや!」
「…そう?でも、それは、そっちの世界の色んなものを、みっちゃんは捨てなくちゃ、いけないかしら」
「そんなのいいの!カナより大事なものなんて、こっちに無いんだから!!」
「…ありがとう、みっちゃん。すごく、嬉しい、かしら。…じゃあ、こっちに、来てくれる?」
「うん。どうすれば、いいの?」
「こっちに、来て。鏡に、触れて。
……『私』の、手を、とって」
『金糸雀』の、言葉を聞いて。
「分かった。そんなのでいいんだ」
みつは、鏡に、向かい。
「…行くよ。カナ」
『金糸雀』の、手を、とった。
――――――― つ か ま え た
「……え?」
―――茨、と。 白い、薔薇、が。
みつの手を捕らえ、鏡の中に引きずり込んだ。
「………あ、れ?」
「どうしたのかしら?みっちゃん」
「今、わたし、茨みたいな、ものに」
「何のことかしら?気のせいじゃないかしら」
「……そう、そうね。気のせいよね」
「そんなことより。みっちゃん。来てくれて、嬉しいかしら。
カナは、もうこれで、消えることはないかしら」
「そう、ね。そうなんだよね!よかった!カナがいなくなるなんて、嫌だもの!」
「ふふふ。この世界なら、そんなことはないかしら。
ずっと、二人で、遊べるかしら。
そう、――――ずっと」
「そうなんだ!よし!二人で遊びましょう!…でも、何からしようか」
「いいのかしら。ここには、なんでもあるから。
じゃあ、遊びましょうか」
茨に包まれた、草笛みつの、夢。
「――――『じゃあ、遊びましょうか』―……」
夢が、止まる。
夢を、操る手が、止まって。
夢は、一枚の、絵画に、なった。
「――― 夢の中で 小鳥が遊ぶ
ゆらり ゆらりと たゆといながら ―――」
草笛みつが、何かを大事そうに、抱いている、姿。
けれど、その腕の中には。
「くすくすくすくす…………」
――――何も、無い。
「……何よ、今のは」
水銀燈が、呟く。
そこは、草笛みつの、部屋。
水銀燈は、薔薇水晶に金糸雀が壊されてしまったときに、この部屋に居た。
ピチカートがここへの扉を開いて、放り出されるように、ここに出された。
その後、金糸雀のローザミスティカをピチカートから受け取って、すぐにここを出た。
その間に、金糸雀の契約者であるこの部屋の住人に、話しかけられもした。
しかし水銀燈は何も答えず、何も教えぬままに、ここを出た。
事態が終わったあと、金糸雀の契約者が気になってしまって、たびたびこの場所を訪れた。
しかし、金糸雀の契約者のあまりの落ち込みように、声をかけることができず、覗き込むだけだった。
今日もまた、気になってしまって、ここを訪れたのだが。
「……nのフィールドに、連れ込まれた…?」
水銀燈がここを訪れたとき。ちょうど、草笛みつが、鏡に引きずり込まれたところだった。
いや、草笛みつの体は、鏡に触れた状態で、止まっていた。
草笛みつの、心が、鏡の中に引きずり込まれていた。
とっさのことに反応できず、水銀燈は何もできず、見ているだけだった。
そして。
一瞬だけ。
草笛みつを引きずり込んでいる、『そいつ』と、目が合った。
『そいつ』は、ワラっていた。
狂ったような、歪んでいるような、白い、どこまでも白い、ワラい。
「…あいつ……」
そして、『そいつ』の姿は。
水銀燈が知っている奴に、とてもよく似ていた。
「……薔薇水晶…?」
時間は少し、遡る。
水銀燈が、みつの家に向かうよりも、少し前。
ぴーんぽーーん………
「はーい!」
のりが、客を出迎えに玄関に向かう。
「トモエー?」
「まだ学校の終わる時間じゃないぞ。お前はじっとしてろ」
玄関に向かおうとした雛苺を、止める。
と、
「あっ………」
かくん、と、雛苺の体勢が崩れる。
「え?おい、大丈夫か?悪い、強かったか」
そんなに強く引きとめたつもりは無かったのだが。
「ううん。ヒナはだいじょうぶだよー」
雛苺も、笑う。大したことはなかったようだ。
そこに、翠星石が慌てて走り寄ってきた。
「………雛苺。ほんとに大丈夫です…?」
雛苺のことを、本気で心配しているようだ。
「だいじょうぶなのよ。ほら、翠星石へんなかおなのよー?」
雛苺は、笑って、逆に翠星石をからかっている。
(…これは翠星石は顔を赤くして怒る……ってあれ?)
「……そう、ですか。なら、いいです」
ジュンの予想に反して、翠星石は静かに元の場所に戻っていく。
(なんか翠星石、変だな……)
「おい翠星石、お前…」
直接翠星石にどうしたのか聞こうとして、
「ええと、雛苺ちゃん」
客の応対をしていたはずののりが、居間に顔を出し、雛苺を呼んだ。
「なにー?」
「え?どうしたんだよ。柏葉だったのか?」
「巴ちゃんじゃないんだけど、えーと、雛苺ちゃんに、お客さん」
「……は?」
「おきゃくさん?」
雛苺が、首を傾げる。
のりと雛苺と一緒に、玄関に向かって。
「雛苺!!!」
玄関に居た、金髪の少女が、雛苺に走り寄って、抱きしめた。
「え?」
ジュンは、何が何なのか分からない。
「雛苺!ああ、本物だわ!本当にいた!素晴らしいことだわ!」
少女は、感激している。
「え…あの?」
何から聞けばいいのか分からないジュンは、立ち尽くす。
「……コリン、ヌ?」
雛苺が、誰かの名前を、口にした。
ようやく落ち着いた少女に、話を聞けば。
オディールという名前のその少女はどうやら、かつての雛苺のマスターの、孫に当たるらしい。
そのかつてのマスターは、オディールにそっくりらしく、そのマスターの名前が、
先程雛苺が口にした、コリンヌというらしい。
「祖母は、よく私に、幼い頃毎日を過ごした、心を持った人形のことを、話してくれました」
かつて雛苺は、そのコリンヌと、日々楽しく、遊んで暮らしていたらしい。
だが、コリンヌの国であるフランスが、戦争に巻き込まれ、
その戦禍から逃れ、家を離れるときに、雛苺は置いていかれてしまったらしい。
「仕方が、なかったんです。どうしても、雛苺を連れて逃げることは、できなかった。
けれど、祖母は、そのことをずっと悔やんでいました。
戦禍が去ってから、家に戻ったときには、もう雛苺の姿はなかった。
取り返しのつかないことをしてしまったと、祖母は何度も繰り返していました」
おそらく、人の手を離れると、契約が自動的に切れるようなシステムもあるのだろう。
契約者が去った後、アリスゲームを続けるために、次の時代、次の契約者のもとへ。
そうして、雛苺は、巴の元へ現れた。
「祖母は、少し前に、亡くなりました。そして私に、雛苺を捜すよう、言ってきました。
私は、それを受けて、雛苺を捜していたんです。
そして、やっと、今、見つけることができました」
「でも、よく、ここを探し当てられたね。手がかりなんてなかったんじゃ…?」
「はい。雛苺がどこにいるか、なんて分かりませんでしたけれど、
とりあえずかつて祖母と雛苺が暮らしていた屋敷のあったところに向かいまして。
そこで、雛苺の行方を知っている方に出会えたので、教えていただいたんです」
「……雛苺の行方を知っている方……?」
時代を越えたドールの行き先を知る、そんな人間がいるのだろうか。
それに、雛苺の行き先というならば、桜田家ではなく柏葉家ではないのか。
「…その人っていうのは…」
聞こうとして、
【 『ウサギ』だろうよ 】
槐の声が、先に教えてくれた。
「え?…先生?」
いつの間にか、そばに光の玉が飛んでいた。
「あら……なんですか、それ」
オディールが聞いてくるが、ジュンはそれに答えず、
「どういうことですか。知ってるんですか、先生」
【 ふん。そんなことは後でいい。今気にすべきは、そんなことじゃない 】
「…はい?」
【 その娘の、指を見てみろ 】
槐の言うとおりに、オディールの指を見て。
「………え?」
「…あの、どうかなさいましたか?さっきから、あの、誰と…?」
槐の声が聞こえないオディールからすれば、さっきからジュンは独り言を言っているようにしか見えない。
不審がるような声だが、ジュンはそれどころではない。
「……オディール、さん」
「はい?」
「それ、は?」
指差す。
「あ、はい。……これがあったのも、私が雛苺を捜すと決めた理由です」
オディールの指に、嵌まっているのは。
「雛苺の、契約の指輪、ですわ」
紛れもない、薔薇乙女との、契約の証。
「夢を、見たんです」
オディールは、語る。
「不思議な夢でした。全然、現実感にはありえない、不思議な世界なのに、とてもはっきりしていて。
ミルク色の、濃い、霧の中で。
白い、綺麗な薔薇が、咲き誇る。
白い、綺麗な水晶の、お城でした」
「そこで、『声』を、聞いたんです」
「雛苺を、あるべき姿に、もどしましょう、って。
雛苺を、ゲームの盤の上から、降ろさなくちゃ、って」
「雛苺は、姉妹同士で壊しあう、そんな戦いに参加するような子じゃない。
誰かに抱かれて、幸せに笑っていなくちゃ、だめ。
私も、そう思った」
「その夢から、覚めて。気付いたら、この指輪が、着いていたの。
これは、雛苺の指輪。
おばあさまが、失ってしまった、契約の証。
私が、それを受け継いだの」
「だから、私は、ここに。
雛苺を、戦いから、解放するために、来たんです」
「…戦いからの、解放、ですか」
「はい。…私は、その夢の中で、あの子が、戦い傷付いてる姿を見ました。
あんなに、ぼろぼろになって。あんなの、雛苺の、やることではありません」
「…………」
確かに、薔薇水晶との戦いでも、雛苺は何度も攻撃を受け、多くの傷を負った。
ジュンによって全て修復されているとはいっても、傷付いていたのは確かだ。
「…確かに、雛苺は、戦いで傷付いたりもします」
ジュンは、考えながら、答える。
「ですけど。戦っているのは、こいつの、本人の意思ですよ」
「戦うような環境にあることが問題なんです!」
オディールは、ジュンの答えに、語気を荒げ、すぐに自分の激昂を恥じるように、静まる。
「…失礼しました。
ですが、やはり、環境の問題だと思うのです。
…ここに来る道のりの中で、また、夢を見ました。
あなたと、雛苺と、他のドール達の、夢でした。
あなたは、何体ものドールを抱えていて、戦いの中に入っていったり、巻き込まれたりするのでしょう。
そして、その中に、一緒に、雛苺を連れて行くのでしょう。
…それは、ドールの契約者なら、当然かもしれません。
ですが。…雛苺の契約者は、私です。あなたでは、ありません」
オディールは、毅然とした表情で、ジュンと向かい合う。
雛苺を返せ、と、目が言っている。
ジュンは、対応に困る。
そもそも、雛苺は、巴のドールである。
ジュンでも、オディールでもなく、巴の。
そして、真紅に敗れ、アリスゲームから棄権し、真紅を仮の媒介として、ジュンのもとに来た。
ジュンは雛苺にも力を供給しているし、修復もできるが、ジュンは雛苺のマスターではない。
あくまで、雛苺の主である真紅の契約者、という立場だ。
雛苺の処遇について、何か決められるような立場ではないと、思っている。
だから。
「…どうするかは、雛苺、本人に、決めてもらいましょう」
ジュンは、言った。
「あなたに、ついて行くにしろ。僕に、ついて来るにしろ。あるいは、柏葉のもとに、いるとかでもいい。
雛苺は、それぐらい、決められると思います。
…だろう?雛苺」
これまで、おろおろしたり、困ったりして、結局何も言っていなかった雛苺は、びくっ、として、ジュンを見る。
「…えっと、ヒナは……」
「雛苺に、本当に正しい判断ができるとは、思えません」
雛苺の答えを、オディールは遮る。
「この子は、子供でしょう。生きる場所を決める判断は、大人がするべきだと思います」
少女であるオディールが、毅然と言い切る。
が、
「…じゃあ、雛苺の意見は聞く気もない、ってことですか」
ジュンの疑問に、目に見えて動揺した。
「そ、そういうわけじゃありません。ですが、あなたのいる場所では、あなたを、その、気遣って。
本当の気持ちを、言えないんじゃないかと思うんです」
どうやらオディールは、ジュンが雛苺を怖がらせたり脅したりしてるようなイメージがあるようだ。
そのことにむっとしながらも、ジュンは平静に返す。
「そうですね。じゃあ、あなたと、雛苺で、話してください。
雛苺は、あなたが思うほど、子供ではないということが、分かると思います」
雛苺とオディールを、のりの部屋に連れて行き、二人で話せるようにした。
ジュンたちは、居間で、話し合う。
「…まず第一に、彼女の指輪が、雛苺のものかどうか、だな」
「それはないでしょう。雛苺の契約者はトモエで、そしてトモエと雛苺の契約は破棄された。
雛苺はすでにアリスゲームに参加する資格はないし、新たに誰かと契約できるはずがないわ」
「でも、あの人間はそう思い込んでるです。
誰か他のドールのゼンマイを巻いた、ってわけでもなさそうですし。
あの指輪は本物っぽいですし。なんかの間違いで雛苺と契約したとか、ですぅ」
「何かの間違い、か。例えば、雛苺の前のマスターに契約の残滓が残っていて、
雛苺が現在のマスターとの契約を破棄したときに、
魂が類似していたその孫に、契約が中途半端に発動した、みたいな感じかな」
「…そういうことはあるのか?」
「蒼星石。自分でも無いと分かっていることを言うのは、あまり褒められたものではないのだわ」
「一応言ってみただけだよ。いろんな可能性を考えてみた方がいいかなって」
「でも、さすがに次の契約がもう成されているのに、前の契約が残るってのはなさそうです。
いくら雛苺やベリーベルでも、そんな失敗、というか無茶を、しないと思うです」
「…無茶なのか」
「前の契約の残滓を残して、新しく契約を結ぶなんて、契約の手順的に無理よ。
わざとやろうとして、いろんな無茶をしない限り有り得ないのだわ。
そして、雛苺はそんなことをしたつもりはなさそうだし、ベリーベルにはきっとそんなことできない」
「ふうん。…他に、彼女が雛苺の契約者になる可能性はないのか?」
「ないわね。彼女は、雛苺を人づてにしか知らない。雛苺は、彼女のことを知らない。
これで、契約が結べるはずが無いわ」
一方。のりの部屋では。
「ねえ、雛苺。私はあなたに会えて嬉しいわ。
ずっと、おばあさまから、あなたのことを聞かされていて。
私も、あなたと、お友達になりたいって思ってた。
こうやって会えて。私の手にはあなたの指輪があって。
わたしはやっと、あなたのお友達になれるの。
……ねえ。私と一緒に、来てくれるでしょう…?」
雛苺は、答えない。
困ったような、顔。
「雛苺…?どうして?
もしかして、この家から離れられないわけとか、あるの?
だったら、話してみて。私が、なんとかしてあげる」
オディールは、必死に雛苺を説得しようとする。
雛苺は。
「ねえ、オディール。ヒナはね、コリンヌが、好きよ」
困ったように笑いながら、答えを、出す。
「ヒナは、コリンヌに、おいていかれてしまったけれど。
それでも、コリンヌは、ヒナの、お友達だから。
だいじな、だいじな、お友達だから」
「雛苺…じゃあ…?」
「でもね。オディール。
あなたは、コリンヌじゃ、ないわ」
「………!」
「もし、コリンヌが、また、ヒナといっしょにあそびたい、って言ったら。
ヒナは、きっと、まよってしまうけど。
あなたは、コリンヌじゃ、ないもの」
「で、でも!私は、あなたと本当に一緒にいたくて…!」
「うれしいわ。コリンヌの、家族が、コリンヌにそっくりなあなたが。
ヒナを思ってくれて、とってもうれしい。
でも、ね」
雛苺は、笑う。
「ヒナはね、ここが、大好きだから」
「ジュンが。トモエが。のりが。真紅が。翠星石が。蒼星石が。それに、薔薇水晶もいる、ここが。
ヒナはね、とっても、大好きなの」
雛苺は、楽しそうに、笑う。
「トモエや、翠星石とあそんで、
真紅と、テレビを見て、
蒼星石と、お話をして、
のりの、ごはんをたべて、
薔薇水晶に、いろいろおしえてあげて、
ジュンが、がんばってるのを、見るの。
とっても、たのしいわ。
とっても、しあわせなの」
「だから、ヒナは、ここにいたい」
「ヒナがとまって、おわってしまうまで。
ヒナは、ここで、みんなと、わらっていたいの」
「きっと、あなたがコリンヌでも、ヒナはまよって、そして、ここにのこったと思うわ」
雛苺は、幸せそうに、笑う。
「ねえオディール。雛苺はね、ここが、大好き、なんだよ」
オディールは、雛苺の笑顔に、言葉を失う。
「だから、ごめんね。ヒナは、オディールといっしょには、いけないの」
雛苺の答え。
それは、雛苺の本心だろう。
けれど。
オディールは、諦めきれない。
―――オディールの中の何かが、諦めさせない。
「でも、でも!雛苺の契約者は、私だよ!?
ほら!雛苺の指輪だってある!
契約したのに、ついてきてくれないの!?」
オディールの懇願に、雛苺はまた、困った顔をする。
そして、言う。
「オディール。それ。ヒナの指輪じゃないよ?」
「え…!?」
オディールは、雛苺の言葉に、愕然とする。
「うん。それは、ヒナの指輪じゃないわ。
だって、ヒナには、オディールの心が伝わってこないもの」
「…どういう、こと…?」
「指輪は、契約のあかし、だから、ドールと、契約したひとの、心をつなげるの。
ドールと、契約したひとは、いつだって、つながっているの。
でも、オディールとヒナは、つながってないわ」
「……そん、な…」
「コリンヌの心が、ヒナにはわかったし、
トモエの心は、ヒナとつながったわ。
ジュンは、ちょっと、遠いけど、でも、やっぱり、つながってる。
ヒナの契約者はね、今は、真紅で、ジュンなの。
オディールじゃ、ないわ」
「じゃ、じゃあ、私のこの指輪は、誰の…?」
オディールは、泣きそうな声で、雛苺にすがる。
「…それは、ヒナじゃなくて、オディールがわかるはずなの」
雛苺は、やはり、困惑する。
しかし、オディールの目を見て、優しく。
「泣かないで、オディール」
オディールを、抱きしめた。
「あ………」
「ヒナは、オディールのドールじゃないけれど。
でも、おともだちにはなれるわ。
コリンヌの、家族、だもの。
ヒナだって、たいせつにしたいわ」
「……雛苺…」
「オディール。ヒナは、ここが大好きだけど」
微笑む。
「きっと、オディールも、ヒナは大好きになれるわ」
「雛苺……!」
さまざまな感情が、オディールを満たした。
それは、決して、悪いものではないのに。
今度こそ、涙が流れた。
「もう、なかないでって、言ったのに」
雛苺は、微笑む。
雛苺は、オディールを抱きしめて。
オディールも、雛苺を抱きしめて。
――――オディールの指輪が、雛苺に、触れて。
―――――― ( 本当に、弱っていらっしゃるのね、お姉様…… )
雛苺は、確かに、その声を、聞いた。
「あ…れ…?」
体から、力が、抜けた。
( 眠る貴女に 根を張り巡らせて )
「…………」
倒れる。
( 綺麗な薔薇を 咲かせましょう )
「……………」
うつろな目で、雛苺は、見る。
( 夜の終わりに 朝の終わりに )
「………………」
夢の世界で、歌う、
( 綺麗な薔薇を 咲かせましょう )
白い薔薇の、少女。
「……くすくすくすくす……」
静かにワラう、声がする。
「……くすくすくすくす……」
オディールが、床に倒れている。
「……くすくすくすくす……」
ワラっているのは、白薔薇の少女。
「……くすくすくすくす……」
雛苺の、姿は、無い。
ワラう声は、止まない。
そのまま、白薔薇の少女は、鏡に向かい、歩き出し、
鏡に触れて、
「………?」
小首をかしげる。
【 戻れんだろう、小娘 】
光の玉が、白い少女の、後ろにいた。
【 この部屋は、nのフィールドから隔離した。お前は、自分の巣へは戻れんよ 】
槐は、言う。
【 僕は、アリスゲームに関わる気は、ないんだがね 】
白薔薇の少女を、その場に括りつけ。
【 その『身体』は。娘の、初めて出来た、『友』であり、『姉』だ 】
恐れる様子もなく、告げる。
【 持っていかせるわけには、いかんな 】
白薔薇の少女は、何も言わない。
【 ふむ。交渉の余地はなしか? 】
それに動じる様子もなく、槐は言う。
【 聞こえているだろう?この部屋は、すでに、僕の領域だ 】
赤い光を放ちながら。
【 言葉というものは、大事だぞ。要らん揉め事を、避けることができる 】
宣告をするように、言う。
【 例えばこんな、暴力とかをな 】
白薔薇の少女の身体が、潰された。
床に、見えない何かで押し潰されるように倒れていても、
「……………」
白薔薇の少女は、何も言わない。
表情も、変わらない。
【 痛覚は無い、か。まあそうだな。精神体に痛覚など、不要か 】
そう、言いながら。
【 それでは、次は、これだな 】
何かを、して。
少女の、表情が、歪んだ。
【 痛い、か? 『鏡』は 】
嘲るように、槐が聞く。
「……あなたは」
初めて、少女が、言葉を放った。
「アリスゲームに、参加する気は、ないのでしょう」
【 そう言っただろう。それがどうした? 】
「では、これで、戦場から、離脱してください」
命乞いや、懇願にしては不似合いな、命令調。
だが、槐は、白薔薇が差し出したものに、その攻撃の手を緩める。
【 ……どういうつもりだ 】
「あなたは、雛苺を、失いたくないのでしょう。ですから、これを。私は、いらないですし」
白薔薇が、差し出したのは。
赤く、光る。
雛苺の、ローザミスティカ。
【 いらない、だと?お前、アリスゲームに興味は無いのか 】
白薔薇は、答えない。
【 …それで、僕が、その取引を受けるとでも? 】
この部屋の支配者は、間違いなく槐だ。
力ずくで、ローザミスティカだけでなく、
―――今、白薔薇の少女の身体になっている、雛苺の身体も取り返せる。
「あなたは、アリスゲームに、参加する気が、無いのでしょう?」
白薔薇が、ワラう。
【 …そうだな 】
白薔薇を壊すのは簡単だが。
それは、人形師が他人の人形を壊すということ。
そして、アリスゲームというローゼンの芸術に、水を差すことになる。
それを、今の槐は好まない。
そして、白薔薇はそれを理解している。
槐が必要以上に、アリスゲームに関わりたがらないことを利用して、
アリスゲームの重要事項である『白薔薇が雛苺の体を得た』ことを、邪魔されないようにしている。
【 …不愉快な小娘だ 】
「これは、差し上げます。私は、お姉様の体だけで、十分ですので」
白薔薇のワラいは、揺るがない。
槐は、雛苺のローザミスティカを受け取って。
白薔薇は、隔離の解かれた鏡に、手を伸ばす。
【 おい、小娘。一応名乗っていけ。これからお前は何度も呼ばれることになるだろうからな 】
「ローゼンメイデン、第七ドール。――――雪華綺晶」
ワラう。
そして、雪華綺晶は、鏡の中に、消えた。
また、時間は少し遡って。
「……結局、オディールさんの指輪が雛苺のもの、って可能性はないんだな」
真紅や蒼星石、翠星石の見解は一致していた。
ドールの感覚で見て、オディールと雛苺が契約を結べるとは思えないらしい。
だが、そうなると別の疑問が出てくる。
「だとすると。オディールさんの指輪は、一体何なんだ?」
雛苺のものでは、ないのなら、別のドールのものだろうか。
「あの指輪が本物の契約の証、だってのも、確かなんだろう?」
「そうね。でも、私達も彼女と契約したような覚えはないし。
あるとすれば、まだ姿を見せない『七番目』か、あとは、水銀燈か、…金糸雀、だけど」
「でも、あの女は誰かと契約をした覚えは無さそうです」
「そうだね。そんな状態で、契約を結ぶことが可能なのかな」
「…普通、できないわね。
可能性があるとすれば、『七番目』が、私達とは違う契約方式を取る場合…かしらね」
「じゃあ、やっぱり、オディールさんは……」
七番目の契約者なのか、と言おうとして。
のりの部屋から、何かが叩きつけられるような音がした。
「え…!?」
その大きな音に、立ち上がる。
「まさか、オディールさん…!?」
「あの女!雛苺になにかしやがったですか!」
全員で、のりの部屋に向かおうとして、
黒い、羽根が。
目の前を、通り過ぎて。
何かが激突する音。
「なっ…!?」
ソファーでうたたねしていた、薔薇水晶が壁に叩きつけられている。
その薔薇水晶の首を、掴んでいるのは。
「水銀燈…!?」
「……ぁ、ぅ……?」
薔薇水晶が、苦しげにうめく。事態の理解ができていない。
だがそれは、ジュンたちも同じ。
「水銀燈!何を!?」
慌てて、水銀燈の肩を掴むが、
翼に、殴り飛ばされた。
「がっ……!?」
「ジュン!」
「マスター!」
「水銀燈!なんのつもり!?アリスゲームをしに来たなら、まず私達に…!」
怒る真紅に、目もくれず。
「…アンタ。なんか関係してるんでしょう」
水銀燈は、薔薇水晶に詰問する。
「…う……?」
薔薇水晶は、困惑している。
水銀燈は、その様子に、明らかに苛立つ。
「しらばっくれるんじゃないわ。アンタ、同じような姿の仲間がいるんでしょう。
なんで、金糸雀のミーディアムを襲ったりしたの」
「ぇ……う…?」
水銀燈の詰問に、薔薇水晶はただ戸惑う。
「……チッ!こいつじゃ埒があかないわね」
水銀燈は、薔薇水晶を乱暴に放り捨てる。
床に倒れた薔薇水晶を、翠星石が庇う。
「水銀燈、いきなり何しやがるです!一体何しに来やがったですか!」
水銀燈は、翠星石を一瞥するだけ。
そこに、真紅が低く声をかける。
「…水銀燈。何か、あったの。
金糸雀のミーディアムが、襲われた、というの?」
「…はん。アンタたちなんてどうでもいいのよ。
アイツを出しなさい。どうせ、アイツが何かやってんだから。
この木偶人形じゃ、話にならないわ」
水銀燈は、薔薇水晶を蔑みながら、『アイツ』を要求する。
「…あいつっていうのは、エンジュのことかしら」
「あのお父様を騙った屑野郎よ。どこに隠したのかしら」
そういえば、と、ジュンは気付く。
エンジュの姿は、ない。
「…あれ、先生は…」
そこに。
【 屑野郎とは、また辛辣だね。まあ否定はできんが 】
赤い光の玉が、居間に入ってきた。
「先生、いままでどこに…」
【 いろいろあってな。それよりも、だ 】
エンジュは、薔薇水晶に近付き、その周りをふよふよと飛び回る。
薔薇水晶の様子を、確かめているようだ。
【 ふむ。大した損傷はないようだが…なんのつもりだ、水銀燈 】
低い声で、問いただす。
しかし。
「あら。何か言ってるのかしら」
その声は水銀燈に伝わらない。
【 ふむ 】
「そいつのことなんてどうでもいいのよ。
…アンタ、こそこそとなんかやってるんでしょう。
どういうつもりか、教えなさい」
【 なんのことだ 】
「………」
水銀燈は、黙ってジュンを睨む。
通訳しろ、ということらしい。
「…ええと、先生は、」
仕方なく通訳役をやろうとして、
【 面倒くさいな。仕方がない。だがここでは無駄に消耗する。移動するぞ 】
「え?」
エンジュが、赤い光を放つ。
【 ふむ。ここならいいだろう 】
「……え、…あれ?」
状況が、理解できない。
【 しかし水銀燈。いきなり攻撃とはな。いささか落ち着きに欠けるぞ 】
エンジュの周りに、黒い羽根が突き立っている。
赤い光が放たれた瞬間に、水銀燈がエンジュを攻撃したらしい。
しかしその羽根は、エンジュに届いていない。
「…アンタ。一体何をしたの」
水銀燈が、警戒をあらわに、攻撃的に聞く。
「な、何が起こったですぅ?こ、ここは…」
翠星石は、状況が理解できない、というよりも、納得できない風だ。
「…こんなことも、できるんだ」
蒼星石は、感心するように言う。
「…転移、かしら。扉もなしに……?」
真紅は、エンジュを見つめる。
「…先生、一体、何を」
そこは。ジュンの部屋ではなく。
「…なんで、僕ら、nのフィールドにいるんですか」
【 場所を移動しただけだ。何をそんなに驚くことがある。
お前ら、僕が扉なしでnのフィールドに出られる事を知ってるだろう。
それをお前らにも利用しただけだ 】
「え、あ…。そういえば」
薔薇水晶との戦いのときに、槐は唐突に戦場に現れた。
扉を開くこともなく、『いきなり出現した』という感じだった。
「…お父様の世界……」
薔薇水晶にとっては、驚くようなことでもないのだろう。
いつもと変わらない様子で、ふらふらと歩いている。
「で、でも先生。なんでいきなりこんなとこに…」
【 こうするためだ 】
エンジュが、また、赤い光を放つ。
水銀燈が身構えるが、
「………………?」
何が起こるわけでもない。
「…ええと、先生?」
【 あちらでやると、無駄に消費が早いのでな。
力が尽きるようなことはないが、制御が面倒くさいんだよ 】
「…はあ。……?」
ジュンは、エンジュが何をしたいのか、分からない。
が、
「アンタ……」
「………」
「え……?」
「おお、ですぅ」
「……あれ、どうしたんだ、お前ら」
真紅や水銀燈たちが、驚いたり眉をひそめたりしていることに気付く。
【 水銀燈は僕に聞きたいことがあるようだしな。こうすれば、会話が出来るだろう 】
「え?」
槐が何を言っているのか、ジュンは掴めなかったが、
「こいつホントにしゃべってたんですね。相変わらず偉そうですぅ」
翠星石が、槐の言葉を聞いたようだった。
「え?」
「力を媒介に意思をつなげたのね。確かにこれなら、会話も出来るわ」
真紅は納得している。
「え…お前ら、先生の言葉が聞こえたのか」
「ええ。頭に直接響いてくるわ。指輪を介してジュンと会話をするのに近いわね」
どうやら、槐はジュンと薔薇水晶以外とも会話をする術を持っていたらしい。
「…先生、やっぱりすごいですね」
【 ふん。職人ならばできるさ。お前にもできないことじゃない 】
「そうなんですか?」
【 まあ、指輪も介さない力の行使は消費が激しいからな、
お前は数分しかもたないだろうが 】
「はあ。つまり先生はやっぱりすごいですね」
【 ふん 】
ジュンと槐が、いつも通りの掛け合いをしているところに。
「……ふん。じゃあ、これで話が聞けるってことね」
水銀燈は、やはり攻撃的な声で言う。
【 そうだな。それで、お前は一体何を聞きたいんだ 】
「さっきも言ったでしょう。アンタ、こそこそと何企んでるの」
【 だから、一体何の話だ 】
「しらばっくれるんじゃないわ。
アンタのその木偶人形と同じような人形が、金糸雀のミーディアムをさらったわ」
水銀燈の言葉に、ジュンたちは驚愕する。
「な…!?どういうことだよ、それ…!?」
「知らないわよ。私が見たのは、その木偶人形にそっくりな人形が、
金糸雀のミーディアムをnのフィールドに引きずり込むところよ。
どういうことかなんて、そいつに聞くことよ」
「先生…!?」
一体何がなんなのか分からない。
槐に、答えを求める。
だが、槐はジュンには答えずに、
【 …そいつは、白い、やつだったか 】
水銀燈に確認する。
「ええ。やっぱり知ってるのね。白い薔薇で目を隠したやつだったわ」
【 …そうか。なるほど 】
「…先生、何か知ってるんですか」
槐は、明らかに、何かを知っている様子だった。
「その、白い人形っていうのは…?」
【 先程会った 】
「…え?」
【 つい先程、お前の姉の部屋で、会った 】
「のりの、部屋で…?……!」
そして、思い出した。
「そうだ!雛苺と、オディールさん…!」
先程、水銀燈が現れる直前に、のりの部屋から大きな音がした。
何かが、あったはずだ。
「先生!急いで戻らないと…!」
【 落ち着け。言っただろう。僕はその部屋で『そいつ』と会ったんだ 】
「……え?」
確かに、そう言った。
だが、それは。
「どういう、ことですか」
【 だから 】
【 僕は、雛苺を襲い、雛苺の身体を乗っ取った『そいつ』と、会ったんだよ 】
「な……!?」
槐の言葉に。
ジュンも。翠星石も。真紅も。蒼星石も。
言葉を失った。
その中で。
「…それは、どういうこと。乗っ取った、ですって」
水銀燈が、エンジュを睨む。
【 言葉通りだ。雛苺は、『そいつ』に身体の支配権を奪われ、身体を奪われた。
そして、雛苺の身体は『そいつ』の力で、『そいつ』の姿になった。
その姿が、右目から白い薔薇の花を生やした、白いドールだった。
お前が見たのは、そいつの姿だろう 】
「…先、生。じゃあ、雛苺は」
【 完全に敗北し、アリスゲームの盤上から消えた。すでに、お前の家に、雛苺はいない 】
「そん、な…」
ジュンは、うなだれる。
全く知らないうちに、雛苺は、敵の手に落ちていた。
「そんなのって……」
ジュンは、何も言えない。
そのジュンの代わりに、
「…そう。…貴方は、それを、見ていたのね」
真紅が、問う。
【 ああ 】
「な、なんでですか!見てたなら助けやがれです!」
翠星石が怒るが、
【 僕はアリスゲームに関わる気はないんだよ。
そして、その資格も無い 】
「くぅ…!」
確かに、槐はアリスゲームに参加できる人間ではない。
ローゼンメイデンのマスターではなく、無関係の人形の主に過ぎない。
その無関係の人間が、アリスゲームの勝敗に関わるのは、望ましくないのかもしれない。
「でも、でも…!」
【 僕が介入したら、まともなゲームにならなくなるぞ。
これでも、お前らより扱える力も扱う術も遥かに多く備えているんだ。
アリスゲームの結果を僕が決めることになるぞ 】
水銀燈の攻撃を軽くあしらっている槐は、諭すように言う。
「……うぅぅ…」
悔しそうに、翠星石がうめく。
槐の言うことも、分かるのだろう。
「……でもなんか納得できねぇです…」
理屈は分かっても、感情が納得できていない。
翠星石は、エンジュをにらむ。
【 まあ気持ちは分かるがな。仕方ないだろう 】
平然と、槐は言う。
それがまた、翠星石の不興を買う。
「お前っ、このぉ…!」
如雨露を手に、攻撃しようとする翠星石に。
【 まあ、これで少しは、気をおさめろ。貰いものだ 】
エンジュは、それを差し出した。
「……え?」
翠星石は、呆然とする。
「…それ、って」
ジュンが、聞く。
【 ああ。雛苺の、ローザミスティカだ 】
赤い、光の玉。
それは、初めて見る、
薔薇乙女の、命。
「なん、で…?」
翠星石が、呆然としたまま、呟く。
「奪われ、たんじゃ、なかったですか…?」
【 一度は奪われたがね。居なくなるときに置いていったよ。
いらないから、とな 】
「…いらない、ですって?」
真紅が、不可解そうに眉を寄せる。
「そのドールは、ローゼンメイデンではなかったということ?」
【 いいや。七番目と言っていたよ。名前は、『雪華綺晶』だそうだ 】
「…雪華綺晶……」
不可解そうに考え込む真紅。
そこに。
「ふざけないで」
水銀燈が、苛立ちの声を上げる。
「どうせまた、アンタの作った紛い物でしょう。
芸が無いわよ。七番目を名乗って、アリスゲームをかき回したいのでしょう」
【 ふむ。僕はあんなものは作っていないが 】
「嘘をつきなさい。
ローゼンメイデンなら、手に入れたローザミスティカを手放すようなことはしない。
それになにより、アンタの木偶人形と同じ姿じゃない。
ふん。やっぱりアンタは無能だわ。同じような人形しか作れないなんてね」
水銀燈が嘲笑うが、槐はそれに取り合わない。
【 奴がローザミスティカに無関心だったのは僕も理解できんが、
あの小娘が僕の薔薇水晶に似た姿である理由は想像がつく 】
「…どんな理由よ。言ってみなさい。どうせつまらない作り話でしょう」
【 ふん 】
槐は、言う。
【 あの小娘は、僕に自分の体を作らせようとしたのさ 】
「…なんですって?」
【 奴は、おそらく実体を持たない、精神体だ。
元からそのように作られたのか、何か別の要因でそうなったのかは知らんが、
とにかく、奴は自分の体というものを持たないんだろう 】
「…自分の体を、持たない?」
【 奴は、ドールというよりも、幽霊だ。
夢の中、nのフィールドの中にしか存在できないんだろう。
現実世界は物質の領域だからな、奴は現実世界に出られないし、
現実世界への影響力も限られているはずだ 】
「…………」
【 アリスゲームは主戦場こそnのフィールドだが、
ドールが普段存在しているのは現実世界だ。
アリスゲームを有利に進めるためには、現実世界への影響力がいる。
nのフィールドで待ち伏せていても、できることは限られるしな 】
「……だからあいつは、身体を欲しがってる、って?」
【 そうだ。現実世界に干渉するために、現実世界で姿を持つために、
奴は自分の器を求めた。
だが、奴のような精神体が身体を持つにも、奴は現実世界に干渉できず、
そして器にできるような物質はnのフィールドに無い 】
【 だから奴は、ドールを作ろうとnのフィールドで作業していた僕に目をつけた 】
【 僕が薔薇水晶の意匠を練る段階で、奴は僕の精神に干渉したんだろうよ。
僕も、普段ならそう簡単に干渉されたりはしないが、
イマジネーションを求めて、nのフィールドを彷徨っていたんだ。
その干渉を、自分から受け取ってしまっていた可能性がある 】
「アンタは、あいつの思い通りに器を作ったってこと?」
【 意匠に関しては、かなり影響されただろうな。
奴のカタチに、近い形を作らされた。
奴が、支配しやすいカタチを、作ったんだろう。
だが、ね 】
「…なにが可笑しいのよ」
【 く、く。 奴は、僕に干渉し切れなかったのさ。
おそらく、イマジネーションのような曖昧な領域には容易に干渉できただろうが、
僕の精神は、二百年かけて凝り固まったものだからな。
その深奥を捻じ曲げられるほど、奴に力は無く、僕も脆くなかった 】
「…どういうことよ」
【 僕はな、 】
【 奴のような在り様が、一番嫌いなんだ 】
「……はあ?」
【 人の夢の中にしか、生きられない。
人の存在なくして、自らの存在も保てない。
それは、僕の求めるドールの完成形と、見事なまでに相反する在り様だ 】
「…在り様って」
【 『ドールとは、単体で完成しているものであり、人間の存在は不要なもの』。
僕は、ずっとそう考えてきたし、それに準じたドールを作っていた 】
「………」
【 だから僕は、奴の干渉が受け入れられなかった。
そんな『不完全』なドールを、作れるわけがなかった。
それを押し付けられたことで、無意識に反発したんだろう。
奴の性質とは真逆の、
極めて物質寄りの能力をもつ、
精神領域にほとんど干渉しない性質の、
単体で完成したドール。
この、薔薇水晶を作り上げた 】
「……確かに、真逆ね」
【 そう。奴は、僕が薔薇水晶に命を与える前に、その身体を奪うつもりだったんだろう。
しかし、あまりにも、真逆すぎた。
奴の性質を薔薇水晶の身体の性質は受け入れることはできなかったし、
奴もまた、そんな性質の身体を器にしたくはなかっただろう 】
【 結局、奴が薔薇水晶の身体を手に入れることは無く。
薔薇水晶には薔薇水晶の命が宿った 】
【 これが、僕の薔薇水晶と奴の姿が似ている理由だ。
僕の推測に過ぎんが、大方間違ってはいないだろう 】
「…………」
槐の推測に、水銀燈は黙りこむ。
【 そして僕のドールを乗っ取ることに失敗した奴は、別の手段で身体を手に入れることにした。
制御しやすく、また精神領域と繋がりを持てる、自分に近い存在の身体。
つまりは、自らの姉妹の、身体だ 】
「…僕たちローゼンメイデンを、自分の身体に使おう、としたんですか」
【 そういうことだ。
しかし、活動しているローゼンメイデンは、強い自我を持ち、精神領域における強度が半端ではない。
そしておそらく、奴にはそれほどの強度を持つ存在を支配する能力はない 】
「なんでそんなことが言えるです?」
【 もしそれができるほど圧倒的な能力ならば、
nのフィールドに足を踏み入れたドールを即座に支配してしまえばいい。
そんなことができるなら、現実世界における器などそもそも必要ないし、
アリスゲームそのものが成り立たない 】
「…確かにそうね。私達がまだアリスゲームに負けていないことが、証明ということね」
【 だから奴は、ローゼンメイデンが、『自分が支配できるような状態』になるのを待っていたんだ。
そして、力のほとんどを失っていた雛苺は、その条件を満たしてしまったんだろう 】
槐はごく当然のことのように言ったが、その説明にはジュンが理解できないことが含まれていた。
「え、先生、どういうことですか、雛苺が力をほとんど失ってたって」
【 なんだお前、気付いてなかったのか?
雛苺は、力を徐々に失い続けていて、もうほとんど止まりかけのような状態だっただろう 】
「……え?」
【 …お前、雛苺と指輪で繋がってただろう。あんな明らかな消耗状態に気付かなかったのか 】
全く、気付いていなかった。
雛苺が、止まりかけていたのだなどと。
「……そんな」
「…ジュンは、私を介して、雛苺と繋がっていたから。
力の送受による意思の疎通は出来ても、相手の状態は感じ取れなかったのでしょう」
真紅が、気遣うように言う。
だが、その言い方にジュンは引っかかるものを感じた。
「…待て、真紅。お前は、気付いてたのか。雛苺が、そこまで弱ってたって」
ジュンの、問いに。
「私は、直接あの子と繋がっていたのよ。分からないわけが、ないでしょう。
あの子が、アリスゲームに参加する資格を失くして、
少しづつ止まっていっていたことぐらい、分かっていたわ」
淡々と、真紅は答えた。
「じゃあ、なんで、僕にそれを言わなかった!!」
「貴方に言っても、どうしようもないことだからよ」
ジュンの剣幕に、真紅は全く動じない。
「あの子が弱って、その内に止まってしまうのは、
薔薇乙女がアリスになるための存在である以上、どうしようもないの。
アリスになれない薔薇乙女は、その存在自体が間違ってしまっているから。
世界そのものに、少しずつ、拒まれてしまうの」
「…なんだよ、それ…。……でも、どうしようもなくても、教えてくれるぐらいは…」
「…私は、貴方はそれを知っておくべきだと思ったわ」
「え、じゃあ、なんで…!」
「それが、あの子の、雛苺の、望みだったからよ」
「え……?」
「あの子はね。貴方に、笑っていて欲しかったのよ。
苦しいことや、つらいことなんか考えないで、笑っていて欲しかった。
自分のことで、苦しんで欲しくなんか、なかったの」
「雛苺、が…?」
「貴方は、雛苺が弱っていることを知ったら、
たとえそれがどうしようもないことでも、なんとかしようとしたでしょう。
でも、ね。
あの子は、もうどうしようもないことを分かっていたから。
本当に、分かっていたから。
どうしようもないことをどうにかしようと苦しんで、
貴方が笑うことをやめてしまうだろう、って、分かっていたから。
あの子は、最後まで、
避けようのないことだとしても、できるだけ長い時間、
貴方の笑顔を見続けようって、決めていたの。
そのために、あの子は貴方に自分の体のことを教えなかったし、
私も、あの子の気持ちを無駄にしたくなかったから、教えなかった。
……結局、こんなことに、なってしまったけれど」
「……ああ、くそ」
雛苺の想いが、やっと、分かった。
なんて、やりきれない。
なんて、救いのない話だ。
「……くそお!!」
【 ……やりきれないのは分かるがな、もう、雛苺の身体は、奪われてしまったんだよ 】
槐は、割り切ったような声で言う。
「………」
ジュンは、拳を、握り締める。
やりきれないのと、自分の情けなさに、歯噛みするしかない。
今の槐の声を聞いて、槐に怒鳴り散らしたくなっている自分にも、腹が立つ。
槐が、アリスゲームに関わらないのは、正しい姿勢だと分かっているのに。
ジュンが、自分を抑えている横で、
「離すです蒼星石!この赤バエ叩き落さないと気が済まないですぅ!」
自分を抑えられない翠星石が、蒼星石に抑えられていた。
そこに。
くい、くい、と。
翠星石の袖が引っ張られる。
「んん?なんですか薔薇水晶。翠星石は今お前のおやじをぶん殴るのに忙しいです」
「…………翠星石…、雛苺…、もう、いない、の……?」
無表情ながらも、不安そうな声で聞いてくる。
「………お前も、話を聞いてたはずです」
翠星石は、顔を伏せて、答える。
その答えに。
薔薇水晶は、エンジュに向き直り。
【 …な、なんだ、薔薇水晶。僕は、お前の頼みでもアリスゲームに関わる気は… 】
「……お父様の、ばか…」
【 ぐふぅ!? ……ば、薔薇水しょ…? 】
「…お父様の、あほう…」
【 ぬごぅ!? ま、待て、僕は…… 】
「…お父様の、ぼけなす……」
【 ながぁ!? お、おのれ翠星石、僕の薔薇水晶に変な言葉を… 】
「……お父様、なんか、…だいきらい……」
【 ぐあああああ!? 】
率直に向けられた娘の怒りに、光の玉は力なく地に落ちていく。
父を糾弾する娘の声は、ぽつぽつと静かに、終わることなく続く。
「……そうか、薔薇水晶も怒ってたのか…」
「…薔薇水晶は雛苺に一番懐いていたからね、
さらわれるのを止めなかったエンジュにすごく怒ってるんだろうね…」
「…表情からは分からないけれど、今までぴったりくっついてた『お父様』にあの仕打ち…。
相当怒っているようね」
「いい気味ですぅ」
「…ちょっとアンタ達。私の話はまだ終わってないわよ」
反抗期?の娘に打ちのめされている馬鹿親を眺めて溜飲を下げていた一同に、
苛ついた声がかけられる。
「あ、水銀燈、ごめん」
「ごめんじゃないわ。
その赤玉の話は一応筋が通ってはいたけど。
でも全部、何の証拠もない推測じゃない。
全部そいつの作り話で、あの白い奴もそいつの操ってる偽物って可能性はなくなってないわよ」
「……さすがにその可能性は微妙な気がするな」
打ちのめされつくして、もはや一言も発さない光の玉を見ながら言う。
「…………」
水銀燈もその光景に思うところはあるのか、わずかに沈黙するが、
「……だけど。アイツがローゼンメイデンじゃないのは確かよ。
ローゼンメイデンが、ローザミスティカを手放すわけないじゃない」
水銀燈の言うことはもっともだ。
ローゼンメイデンは、皆アリスになるために動いているはずだ。
翠星石などはそういうわけでもないようだが、翠星石はアリスゲームそのものに消極的だ。
雛苺の身体を奪い、金糸雀の契約者をさらうような真似をするドールがアリスゲームに興味がないはずがない。
そんなドールが、手に入れたローザミスティカをみすみす手放すような……
「……ん?」
何か、引っかかった。
「…何よ。何か言いたいことでも…」
水銀燈がにらんでくる。
それには、構わない。
(……今の感じは、なんだ)
『雪華綺晶』は、ローザミスティカは手放した。
ローザミスティカは、手放したが。
(……雛苺の身体と、)
気付く。
「…金糸雀の契約者を、手に入れている…」
「何よ。そう言ったでしょう」
ジュンの独り言に、水銀燈が眉を寄せる。
やはりそれには、構わない。
(待、て)
もう一つ、引っかかっているものがあった。
「先生!オディールさんはどうしたんですか!?」
【 …ん……あ? 】
返事は力なく頼りない。
「オディールさんはどうしたのか聞いているんです!のりの部屋に居たんですよね!?」
【 …あ、ああ。彼女は雪華綺晶が現れたときに、倒れた 】
「倒れた?どういうことです!?」
【 どういうことかは分からんが、雪華綺晶は雛苺の身体を手に入れたときに、
オディールの精神を眠らせたようだったな。
あの女は雪華綺晶の契約者だったはずなんだが、何のつもりか… 】
「やっぱり、彼女は雪華綺晶の契約者だったんですか」
【 ああ。雪華綺晶はオディールの指輪から雛苺に乗り移っていたからな。
あの指輪は雪華綺晶と繋がっている、雪華綺晶の契約の指輪だ 】
槐の話を聞いて、ジュンは一つの確信をする。
「なんなのよアンタ、さっきから。苛々するわね。なんかあるなら言いなさい」
水銀燈が本格的に苛ついている。
その水銀燈に、ジュンは、焦りながら、聞く。
「水銀燈。柿崎は、今どうしてる」
ジュンの質問に、水銀燈は意味が分からない、というような反応をする。
「はあ?あいつ?あいつがどうしたのよ。今は関係ないじゃない」
その答えに、ジュンは少しだけ安堵する。
「そうか。今は問題ないんだな。契約者に何かあったら、ドールにも伝わるはずだ」
「…ちょっと。どういう意味よ、それ」
噛み付くように、水銀燈が聞いてくる。
「金糸雀の契約者と、雪華綺晶の契約者。
二人の契約者が雪華綺晶に何かをされてる」
ドールは七体。だが、契約者は四人しかいない。
その内の二人はもう倒れ、一人は複数のドールと共にここにいる。
残る、一人は。
「もしかしたら雪華綺晶は、ドールよりも、ドールの契約者に何かをするつもりじゃ…」
ジュンの、答えを、最後まで聞くことなく。
「ちっ……!」
大きな舌打ちをして、水銀燈は扉を開いた。
扉を開いた先は、めぐの病室。
水銀燈は、病室の鏡から現実世界に飛び出して―――
「きゃあ!?」
「きゃ!?」
鏡の前を歩いていためぐとぶつかった。
「めぐ!大丈夫!?いえ、違う、何もなかった!?」
水銀燈が、まくし立てる。
が、
「え…、あ、あれ?ええと…?」
めぐは、なにやら困惑している。
「…どうしたの、めぐ。何もなかったか、って、聞いてるんだけど」
水銀燈が繰り返し、聞く。
しかしめぐはやはり、困惑して、それには答えない。
きょろきょろと、視線を移動させる。
そして、言う。
「え、ええと。な、なんで水銀燈が二人いるの?」
その言葉に。
めぐの視線を追って。
その先には。
「……ざんねん」
病室の窓際に立つ、雪華綺晶。
激情が、思考を吹き飛ばす。
「アンタ、何してんのよぉ!」
黒い羽根が、雪華綺晶を襲う。
ゆらり、と、幽霊のように雪華綺晶が移動し、
目標を失った羽根は窓ガラスを貫き割る。
「チィ……ッ!」
一撃をかわした雪華綺晶に追撃を放つが、
雪華綺晶は滑るように窓際を移動し、羽根はかすりさえしない。
「え?え?水銀燈?え?じゃあ、あっちは、ええと、それともこっち?」
めぐは未だに水銀燈と雪華綺晶を見比べながら、おろおろしている。
どうやら、めぐには雪華綺晶が水銀燈の姿に見えているらしい。
「幻覚か……!」
エンジュは、雪華綺晶を精神領域に存在するドールと言った。
それが本当だとしたら、他人の精神に干渉し、幻覚を見せることも出来るのだろう。
今、めぐは雪華綺晶の干渉を受けている。
「…ったく、アンタ…!」
腹が立つ。
水銀燈の居ない隙を狙って契約者に近寄り、
不遜にも水銀燈を騙りめぐを騙そうとした雪華綺晶にも腹が立つ。
だが、そんなことよりも。
「アンタなんでこんな奴に騙されてんのよ私と契約したんでしょうがあ!!!」
とりあえずめぐをぶん殴った。
「きゃあ!?」
めぐが悲鳴をあげ、床に倒れる。
だがそんなことには構わず、水銀燈は怒りのままにまくし立てる。
「私の契約者のくせに私と繋がってるくせに私のことよく知ってるくせになんでこんなのに騙されるのよ!
こんなのただの幻覚でしょうが私のふりでしょうが私じゃないでしょうがあ!!
あんたそんなのに騙されるほど馬鹿だったのそんなのに騙される程度しか私のこと分かってなかったって言うのお!!!?」
そう。雪華綺晶よりもなによりも、それに腹が立った。
自分と契約し自分のことを理解しているはずのめぐが、
ただ見かけを真似ただけの偽者に騙されている姿が、
心の底から、これまでに無いほどに腹が立った。
なぜだか目から何かがこぼれてしまいそうな程に、悔しかった。
その全てを、言葉に込めて、めぐに叩きつける。
「 ふっ・・・ ざ け ん じ ゃ な い わ よ ! ! ! ! ! ! 」
「す、水銀燈……?」
これまで見たことがないような水銀燈の剣幕に、めぐは唖然とする。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
心の底からの怒りの声を放った水銀燈は、息を切らしながらも、
「……で、あんた。まだアイツが私に見える…?」
もしそうなら本気で殺すわ、と言葉には出さずに告げた。
「え、ええと…」
めぐは引きつった表情で水銀燈から視線を逸らし、その視界を窓際に向け、
「…あ、あれ?だ、誰?」
雪華綺晶を見て、驚いたように言った。
「…命拾いしたわね?」
「う、うう…ご、ごめんなさい…?」
怒りながら笑っている水銀燈に、めぐがよく分からないながらも平身低頭の姿勢に入っていく。
「…水銀燈。楽しそうなところ悪いが、今はそういうことやってる場合か」
ジュンの声で、水銀燈は、はっ、と我に返る。
少し慌てて、現状を認識する。
水銀燈とめぐ、そしてジュンが部屋の中央にいる。
ジュン達を守るように、真紅、翠星石、蒼星石が窓際に向かって身構えていて、
そして、窓際では、雪華綺晶が、悠然と窓の枠に腰掛けている。
確かにこれは、もっと緊迫しておくべき状況だ。
ではあるが。
「…でもアンタに言われるとなんか腹立つわね」
「…まあ僕らもあまり人のことを言えないことは分かってるよ」
ジュン達のこれまでの行いのことは置いておいて、今やるべきことに目を遣る。
「くすくすくす……」
雪華綺晶は、窓辺で優雅に笑っている。
さきほどまでの水銀燈とめぐのやり取りを眺めていたようだ。
「…………」
水銀燈は笑われていることに腹立ちを覚えながら、どうすべきかを考える。
nのフィールドでならまだしも、現実世界では力押しは通じない。
そもそもの出力が限られてしまい、簡単に避けられたり防がれたりしてしまう。
特に雪華綺晶は、現実世界においても移動に歩行を必要としないらしく、
回避能力が非常に高いようだ。先程の攻撃で、思い知った。
(…nのフィールドに移動すべき…?)
nのフィールドでなら、回避のしようがない大出力の殲滅攻撃が可能になるが、
(……こいつの能力も面倒くさくなるんでしょうね)
精神領域こそ、精神体である雪華綺晶の戦場だろう。
水銀燈は敵の力を恐れないが、かといってわざわざ苦労する趣味はない。
(こいつの能力が限られてる、ここで片付けた方が楽ね)
この場を戦場にすることを決め、翼を振りかざし、
「……雪華綺晶、でいいんだよな?」
ジュンの声に、羽根を撃ちだすタイミングを失う。
水銀燈は出ばなを挫かれ、苛立ちを込めてジュンを睨むが、
ジュンは構わず、質問を繰り返す。
「ローゼンメイデン、第七ドール、雪華綺晶、なんだよな?」
雪華綺晶は、悠然と、下々の者に寛大に答えてやる貴族のような態度で、ジュンに向き合う。
「ええ、そうですわ。薔薇乙女の末妹、お父様の最後の作品。私の名前は雪華綺晶―――」
くすくすくす、と静かにワラう。
その笑い方に水銀燈は不快感を覚えるが、ジュンは質問を続ける。
「お前の、その身体。雛苺のものだって聞いたけど。本当なのか」
何の感情も見せず、ジュンは問う。
「ええ。この身体は六番目のお姉様に頂いたものです。それが、どうか?」
分かっているだろうに、雪華綺晶は不思議がるように答える。
「…そうか。それで、ものは相談なんだが、雛苺の身体、返してくれないか」
状況を全く分かっていないような言葉に、水銀燈は眉を寄せる。
ジュンは、やはり何の感情も見せていない。
「そうですね。できないこともないですよ」
雪華綺晶は、優しげに、答える。
「……本当か」
「ええ。その代わり、貴方に少し、力を分けて頂きたいのですけれど」
「…どういうことだ」
「そのままですよ。貴方の力を、私に、分けて欲しいのです。
大したものではありませんわ。少し、だけですもの」
「少しだけ、か」
「ええ。少しだけ、ですわ。私に力を分けてもらえれば、それだけでこの身体は、お返しいたしますわ」
話がどうも変な方向に進んでいる。
このままでは状況までもが変な方向に転がりそうで、水銀燈は呆れてしまう。
この少年が馬鹿な結論にたどり着いたらとりあえず翼でぶち飛ばそうと決めたが、
「そうか。だけどな雪華綺晶。
もし僕が倒れたり目覚めることのない眠りにつくぐらいの力の分け方なら、それは少しとは言わないぞ」
どうやら少年は、それほど馬鹿ではないらしい。
雪華綺晶の目が、細められる。
「…あら。どうしてそんなことを思うのですか?私はそんなことは…」
「お前の契約者と金糸雀の契約者、二人がお前に何かされて、倒れてる。
真紅、蒼星石、翠星石の契約者の僕を、お前がどうしたいかなんて、大体想像がつくさ。
……お前の言い方だと、お前は力を集めるために、ドールの契約者を狙ってるのか?」
探るようなジュンの言葉に、雪華綺晶は、ワラって、答えない。
「……まあ、そんなことは、どうでもいい。
雪華綺晶。お前、雛苺の身体を、返す気があるのか」
話題を戻し、ジュンは雪華綺晶を睨む。
「ええ、もちろん。すぐにお返しいたしますわ。そんなに焦らないでください」
雪華綺晶は、ワラう。
その答えは、どこまでも、白々しい。
これまでのやり取りややり口を見て、雪華綺晶に身体を返す気が無いのは、明白だった。
そのあまりの白々しさに、水銀燈の攻撃衝動が再燃する。
雪華綺晶に、羽根を撃つ。
それと同時に、ジュンを嘲る。
「…いつまでこんな、下らないことを続けるつもり?
どうしても取り返したいなら、力ずくで奪いなさいよ、情けない」
雪華綺晶は、慌てる様子もなく、黒い羽根をかわす。
水銀燈は追撃の照準を合わせようとして、
「そうだな。相手に返す気が無いんだ。力ずくで取り戻そう」
無感情な、声を聞いた。
ジュンの言葉と同時に、真紅達三人が、雪華綺晶に襲いかかる。
予想外の答えと行動に、呆気に取られた水銀燈の目の前で。
戦いが、始まった。
薔薇の花弁が、鞭のように雪華綺晶を捕らえ、打とうとする。
ゆらり、と、雪華綺晶は緩やかにそれをかわす。
小さな蔦が、逃げる雪華綺晶の足を絡め取ろうとして、
ふわり、と、宙に舞う雪華綺晶に避けられる。
床から足が離れ自由がきかない雪華綺晶に、鋏が突き出される。
するり、と、雪華綺晶は鋏の側面に手を沿え、それを支えに空中で踊り、鋏から距離をとる。
「あら……よろしいのですか。お姉様方。それに、お姉様方のマスターの方。
この身体は、六番目のお姉様のものですよ。
こんな乱暴に扱ってしまったら、壊れてしまいますわ……」
三人のローゼンメイデンの攻撃を悠然とあしらいながら、雪華綺晶は悲しげに囁く。
『……………』
その雪華綺晶の囁きに、三人も、ジュンも、なんの反応も示さない。
ただ、逃げる雪華綺晶を追う。
「…可哀想な六番目のお姉様……。
力を失い、弱りきって、誰かに助けて欲しいでしょうに。
その声は届くことなく、大事にしていた者達に、無慈悲に身体を切り裂かれるなんて……」
心から、雛苺に同情しているような嘆き。
『……………』
その言葉にも、声にも、ジュン達は揺るぎさえしない。
花弁が追い。
蔦が狙い。
鋏が襲う。
真紅達の、戦いを見ながら。
水銀燈は、困惑していた。
(なんでこいつら……全然迷ってないの…?)
雪華綺晶の囁きは、ただの揺さぶりだろう。
相手の迷いに付けこんで、攻撃の手を緩めさせる、精神攻撃。
甘い奴にしか通じない、くだらないペテン。
だが水銀燈の知る限り、今戦っている連中は、そのペテンに引っかかる甘ちゃん連中だったはずだ。
(こいつらなら、雛苺の身体を傷付けるのに、迷うはずでしょう)
水銀燈は、そんなことには構いはしないが、
こいつらにとっては、つい昨日まで馴れ合っていた、『仲間』のはずだ。
なぜ、その『仲間』の身体に、刃を向けられるのか。
(……雛苺を、見捨てたということ?)
敵の手に落ちたドールは、もはや邪魔でしかないと、切り捨てたのか。
それなら、この状況も分かるが。
(……馴れ合いばかりの甘ちゃんのこいつらが?)
水銀燈から見て、蒼星石はともかく、真紅や翠星石は救いようの無い甘ったれだ。
特に翠星石は、姉妹の誰も傷付けたくない、などとほざくような、極めつきの甘ちゃんだ。
その翠星石が、雛苺を見捨てるとは思えなかった。
(…それに)
取り戻す、と、少年は言った。
その言葉で、この戦いは始まった。
だから、彼らはきっと、雛苺を、見捨ててなどいない。
(……だったら、なんで、迷わないの)
水銀燈には、理解、できない。
指輪を伝わってくる真紅達の嘆きを、直に心で受け止めながら。
ジュンは、真紅を、翠星石を、蒼星石を、そして自分自身を、奮い立てる。
(雛苺の身体は、絶対に取り戻す)
(雛苺は、大切な、仲間だ)
(今、何もせずにいたら。雪華綺晶は、逃げてしまう)
(今、雪華綺晶を、逃がしたら。きっと、もう、取り戻せない)
(雪華綺晶を捕まえるのは、雛苺の身体を、傷付けることになるけれど)
(傷付けなくちゃ、取り返せないなら)
(傷付けてでも、取り返す)
(傷付けるのを躊躇ったら、失ってしまうのなら)
(躊躇うことなく、傷付けてやる)
(切り裂いてでも。叩き壊してでも)
(力の限り傷付けて。必要なだけ壊し尽くして)
( ―――僕らは雛苺を、取り返す )
その思いは指輪を通じて、真紅達に直接伝わっている。
だから、真紅達もまた、迷わない。
結局のところ、水銀燈が、ジュン達の気持ちを理解できないのは、
水銀燈が『その状況』に陥ったことがないから、という理由による。
その状況とは、つまり、
『取り返さなければならないものが目の前にあって。
取り返すためにはそれを傷付ける必要があって。
傷付けるのを躊躇えば、取り返すことは出来ず、結局失ってしまう状況』。
その状況に追い込まれたジュン達は。
迷うわけには、いかなかった。
「 ――― うさぎが逃げる 前に逃げる
うさぎが逃げる 下に逃げる
うさぎが逃げる 月に逃げる ――― 」
歌いながら、ワラいながら、白いドールが舞い踊る。
「 五番目のお姉様に、捕まってしまいます―――― 」
花弁は、追いつけない。
「 三番目のお姉様に、縛られてしまいます―――― 」
蔦は、届かない。
「 四番目のお姉様に、切り裂かれてしまいます―――― 」
鋏は、あしらわれる。
「 ああ、怖いですわ 恐ろしいですわ――― 」
くすくすくす、と。
白薔薇は、ワラう。
「………あいつらのことなんてどうでもいいわ」
困惑を振り払う。
そして、戦況を見て。
「チッ……!まともな戦いにもなってないじゃない…!」
現実世界での能力の発現には、出力的な限界がある。
nのフィールドや夢の世界と比べて、威力や速度が遥かに劣ってしまう。
能力の規模と速度が遅いせいで、真紅の花弁や翠星石の蔦は決定力に欠ける。
蒼星石の能力は現実世界でもそれほど減衰はしないはずだが、
nのフィールドと違い物理法則に縛られた現実世界では、機動力や戦闘能力が下がってしまうらしい。
それに対して、雪華綺晶は『物理法則を無視する』能力でもあるのか、異常な機動力を見せる。
その結果、花弁も蔦も鋏も、雪華綺晶には届かない。
「…窓際から逃がさないぐらいのことは出来てるみたいだけど」
戦場は、窓際から動かない。
雪華綺晶が窓際を離れようとしても、花弁や蔦が道を阻み、鋏が追い払う。
敵に届きはしないが、敵を逃がさない、膠着状態。
「……うざったい戦いねぇ!」
停滞した戦局を叩き壊すため、黒い羽根が、戦場に舞う。
「あら。一番目のお姉様も、遊んで頂けるのですか」
黒い羽根を自然な動きでかわしながら、雪華綺晶はワラう。
「ええ。遊んであげるわ。もう捨てるしかなくなるくらい、遊び尽くしてあげる」
羽ばたいて雪華綺晶を追う。
天井ぎりぎりから、羽根の雨を放つ。
「嬉しいですわ。四人のお姉様と、一緒に遊べるなんて、とても嬉しいです。
ああ、二番目のお姉様と六番目のお姉様も、お姉様達の中にいらっしゃるのですよね。
まあ。とても素晴らしいですわ。
今ここでは、七人の姉妹が全員で遊んでいるのですね……」
羽根をかわし、横から来た花弁からも逃げる。
蔦が、その足元を狙う。
「そうね。遊び尽くして遊び壊して、皆で笑いあおうじゃない。
外れたパーツを踏み砕いて。壊れた姉妹を蹴り払って。
皆で一緒に、笑いあいましょう……」
蔦を避けて、宙に飛んだ雪華綺晶を、黒い羽根が狙い撃つ。
壁を蹴って羽根を避けた雪華綺晶に、鋏が迫る。
鋏を掴みかわそうとする雪華綺晶を、薔薇の花弁が捕らえた。
「あら、捕まってしまいましたわ……」
花弁に捕らわれて、それでも雪華綺晶は悠然とした態度を崩さない。
(……これはきっと、何かある)
ジュンは、警戒を解くことなく、真紅に雪華綺晶を壊すように指示する。
真紅は一瞬迷うが、すぐに花弁に力を込め、雪華綺晶の身体を圧し壊そうとする。
「痛いです……五番目のお姉様……」
雪華綺晶が、苦痛を訴え、真紅を見つめる。
その目を見ても、真紅はもちろん力を緩めるようなことはなく……
「あっ……?」
真紅が、ぐらりと、揺らぐ。
それと同時に、ジュンは真紅の内部に、『異物』を感じた。
花弁の束縛が、緩む。
「真紅っ!!」
「っ……!」
とっさに、真紅に送られるだけの力を叩きつけるように送り込んだ。
真紅はびくっ、と、眠っているところを叩き起こされたような反応をする。
真紅の反応と同時に、真紅の中の『異物』は弾き出される。
「雪華綺晶っ…!」
真紅が『異物』に侵食されたのは、雪華綺晶と目を合わせたとき。
おそらく、その時に雪華綺晶は真紅の精神に干渉した。
その干渉は、大したものではなかっただろう。すぐに、真紅は正気を取り戻した。
だが。
「くすくすくすくす………」
雪華綺晶は、もう完全に解けてしまった花弁の束縛から逃れ、
病室の、鏡に向かう。
花弁の束縛が緩んだときには既に、水銀燈は攻撃態勢に入っていた。
真紅のマスターや翠星石、蒼星石は真紅に気を取られていたが、水銀燈には関係なかった。
束縛から逃れ、この状況からの逃げ口である鏡に向かう雪華綺晶に、体当たりするように掴みかかる。
雪華綺晶は水銀燈の手も、翼も、流れるような動きで避ける。
舌打ちしながらも、羽根を撃ち出し逃げ道を襲う。
羽根を避け多少遠回りするような形になったところに、やっと状況に追いついた蒼星石が飛びかかる。
雪華綺晶は突き出された鋏をむしろ利用するように、掴み、踏み、蹴り、跳ぶ。
蒼星石を邪魔に思いながら追撃を続けるが、雪華綺晶にはかすりもしない。
雪華綺晶は素早く、風のように、水のように、窓際の真逆の、鏡の前へとたどり着く。
鋏をあしらいながら、水銀燈たちにワラいかけながら。
鏡に、nのフィールドへの入り口に、背中から、
水銀燈は、その鏡に映っていたジュンの表情を見た。
それは、薔薇水晶への攻撃の機会を、水銀燈に教えた顔。
だから。
雪華綺晶が鏡から突き出してきた水晶の刃に身を貫かれても、驚かなかった。
「………っ!?」
雪華綺晶の表情が、驚愕に歪んだ。
動きの止まったその身体を、鋏が切り裂く。
下半身が、落ちる。
「…!! っ、!」
必死に水晶の刃から逃れようとする雪華綺晶に、薔薇の花弁と、黒い羽根が突き立つ。
左腕が落ち、全身がズタボロに裂かれる。
「……っ!」
なんとか、右腕で、鏡に触れる。
その身体は、翠星石の蔦が、捕らえている。
鏡の中には、入ることが出来ない。
「…………」
悔しげな顔で、ジュンをにらむ。
「ああ、そうだ。……置いていけ」
ジュンは、冷徹に、告げる。
「……最悪ですわ」
憎々しげに呟き、雪華綺晶は、鏡の中へ入っていく。
雛苺の身体を捨てて、精神体の本体のみで。
どさり、と。
人形の残骸が床に落ちる。
三つのジャンクパーツになってしまった『それ』を、胸に抱える。
「……すごい……じゅん君、なんか、すごいね……」
部屋の隅で、めぐがどこか呆然と、呟く。
水銀燈が戦闘に入る前に、水銀燈によって戦場から離され、その後はジュン達の戦いを一部始終眺めていた。
めぐの感嘆に、ジュンは答えず、めぐに歩み寄る。
「……どう、したの?」
「これを、持っていて欲しい」
胸に抱いていたものを、めぐに渡す。
「……これ、って…」
めぐの顔が、青ざめる。
「……雛苺の、身体だ」
めぐも、ジュンと雪華綺晶の会話を聞いていた。
状況の把握は、できているはずだ。
「…なんで、わたしに?雛苺ちゃんは、直さない、の…?」
「まだ、できない。今、直しても、きっとまた、奪われる」
ジュンは、めぐに背を向ける。
雪華綺晶が開いた扉を、閉じないように維持している真紅達に、頷く。
真紅達も、それに答えるように、頷く。
めぐが、不安げに聞く。
「さっきの子……追う、の?」
「ああ」
「あいつを、放っておいたら、またいつ奪われるか、分からない。
だから、………決着をつけに行く」
鏡を、通って。
そこに、開けた世界は。
「……ここは…」
ミルク色の、濃い、霧の中で。
「彼女が、オディールが言っていた場所ね」
白い、綺麗な薔薇が咲き誇る。
「…ということは、ここは…」
白い、綺麗な水晶の、お城。
「…雪華綺晶の世界、か」
白薔薇の庭園を抜けて。
水晶の廊下を歩いて。
大きな、広間にたどり着く。
広間の壁に飾られた、二枚の大きな絵画。
その絵画に、描かれているのは。
「……オディールさん」
「…こっちは、金糸雀のミーディアムよ」
雪華綺晶に襲われた、二人の契約者。
「…じゃあ、これは、絵じゃないな」
「……世界を切り取って、他の世界から切り離した、ということでしょうね」
「どうにか二人を、解放できないかな」
「まあ、とりあえずやってみようじゃない」
水銀燈が、絵画に近寄ろうとして。
「――― ようこそ いらっしゃいませ
夢と 眠りと 終わりの世界へ ――― 」
声と、同時に。
「がっ……!?」
「くぅ……!?」
「くっ…!?」
「やっ……!?」
「うっ……」
目の前が、暗くなって。
遠く。
暗く。
昏く。
底へ。
眩む。
意識が。
――― 落ちる
「 マ ス タ ー ! ! ! ! 」
「………!!」
はっ、と。
意識が覚醒する。
蒼星石と、目が合った。
その目は、苦しげながらも、何かを指し示す。
視線の先に、倒れ行く真紅と、翠星石。
とっさに、指輪に力を込める。
三人共に、力を叩きつける。
びくっ、と、真紅と翠星石は目覚め、
蒼星石は、一瞬身をすくませた後、安堵の息をつく。
「――― あら、残念ですわ。せっかく皆さん、別のことに気が行ってらっしゃったのに 」
いつの間にか広間に現れていた雪華綺晶が、楽しげに呟く。
「四番目のお姉様は、いつもあらゆることを警戒する癖がおありですのね」
「……いつも気を抜きがちな翠星石とずっと一緒だったからね」
蒼星石が、鋏を構える。
どうやら、絵画に注意を向けて、精神的な領域での警戒が薄れてしまっていたらしい。
そこに、雪華綺晶の本気の精神干渉を受け、強制的に眠らされかけたようだ。
「……本当に残念だったな、雪華綺晶。今みたいなのは、もう通じないぞ」
最後通告のように、告げる。
「僕らはもう、お前の干渉を受けない」
精神干渉を警戒している状態では、干渉は半端にしかなされない。
蒼星石が、証明した。
だから、もう、雪華綺晶は、ジュン達を倒すことは……
「そうですね。それでも、構いませんわ。
元々、健常なお姉様達には、一瞬気を失わせる程度の効果しかありませんもの」
「……なんだって?」
じゃあ、今のはどういうつもりで……
「けれども。
壊れかけた心なら。
壊して。
奪うことくらい。
できるんですよ――― 」
絶叫が、響いた。
暗闇の、底で。
『………ああ、これは、だめだ…………』
声が、聞こえる。
『………失敗だな、まったく、上手くはいかん………』
聞きたくない、言葉。
『………これは、最後まで、作る必要はないな………』
愛する、父の、声で。
『………しかし、命は与えてしまったしな………』
言わ、ないで。
『………ローゼンメイデンに、数えるのも、なんではあるが……』
聞きたく、ない。
『………仕方がないな、名前くらいは、付けてやろう………』
お父様の、声。
『………私に必要ない、失敗作ではあるが………』
や、め、て
『………適当に、『水銀燈』とでも』
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
「水銀燈…!!?」
悲痛な叫びを上げ続ける、黒い羽根の少女に、走り寄ろうとして。
「 ――― 貴方は こちら ――― 」
風景が、変わる。
「水銀燈!!」
心に刺さるような悲鳴に、真紅は振り返る。
水銀燈を、見て。
水銀燈の、表情。
「………っ!!」
それを見ただけで、真紅の胸が、悲鳴を上げた。
「……水銀、燈……」
あまりにも、悲しすぎる。
あまりにも、痛すぎる。
あまりにも、救われない。
そんな、顔。
「真紅!マスターは!?」
蒼星石の、焦った声がする。
はっ、と、周りを見渡して、
契約者の姿がないことに気付く。
そして、
「……雪華綺晶も…!」
「ジュンは!ジュンはどこいったです!?」
翠星石も、ジュンを見失っている。
どうやら、三人の注意が水銀燈に向いた隙に、雪華綺晶はジュンを連れ去ったらしい。
「…く、そ!レンピカ!マスターのところへ…!」
蒼星石が指輪の繋がりを頼りに、人工精霊にジュンを探させようとして。
「危ないです蒼星石!」
翠星石が、蒼星石を突き飛ばす。
蒼星石のいた場所を、黒い刃が突き抜ける。
「な……!?水銀燈……!?」
蒼星石が、信じられないものを見るような目で、水銀燈を見る。
真紅もまた、驚愕の中、水銀燈を見る。
水銀燈に、先ほどまでのような表情は無く。
それどころか、一切の表情がない。
それは、まるで。
操られているような―――。
そこは、さきほどまでの広間とは、全く違う場所。
「くっ……!」
雪華綺晶によって、連れ去られた。
そのことを認識して、ジュンは歯噛みする。
「 やっと二人きりになれましたわね、お姉様方のマスター様…… 」
傍で、雪華綺晶がワラっている。
真紅達は、近くにいない。
「くそ、真紅達はどうした!?」
脅すように聞くが、雪華綺晶は動じない。
「お姉様方には、少し、遊んでもらっていますわ。
当分、手が離せないでしょうね……」
くすくすくす、と、ワラう。
「…お前、僕を、どうする気だ」
戦闘能力も何もない、ジュンにはどうしようもない状況。
あるいは、そのうち真紅達がここに来てくれるかもしれない。
そう考えて、時間を稼ごうと、質問をする。
それに、余裕の態度で、雪華綺晶は応じる。
「 貴方は、素晴らしいですわ 」
「…は?」
「ドールを指揮する能力。力を扱う技術。戦場を支配する知能……
四体のローゼンメイデンを従えて、アリスゲームに君臨する、ドール達の主」
「…お前、何を…」
「お姉様方は貴方から体力を与えられる。
だから、体力の多さ、肉体の強靭さが、
ローゼンメイデンのマスターに求められる資質だと、一番目のお姉様などは思っていらっしゃるでしょうね
その考え方でも、貴方はとても素晴らしい。
四体のドールに力を与えて、なお尽きぬその体力。人間の領域ではないですわ」
「…………」
「くすくすくす……。
冗談ですわ。私も冗談くらい言えますのよ?
貴方が力尽きぬわけは、力を上手く使っているから。強靭な身体というわけではないですわね。
体力の多さではなく、技術を持つゆえに、貴方は四体ものドールを従えていた」
「……何が、言いたいんだ、お前は」
「ですけれど。
体力があっても、技術があっても、ローゼンメイデンを理解して、力を発揮させることは、できませんわ。
それなのに、貴方はそれを成した。
恐ろしいほどに、貴方はお姉様方を理解している。
体力だけではなく、技術だけではなく、貴方はそれを成し得るものを持っている」
「…………」
「ねえ、お姉様方のマスター様。
貴方の『心』は、とても、素晴らしいのではありませんか?
それこそ、適当な人間を七人合わせたよりも、私の力になっていただけるような」
「だから」
「 ――― 貴方の心を、私にください 」
「……そう、か。お前、精神体だったな。お前の力になるのは、体力じゃなくて…」
「ええ。私は、お姉様方とは違います。
私が力とするのは、『心』、そのものです」
「……でも、お前、そんなに力を集めて、どうするつもりだ。
その力でローザミスティカを集めるのか。なんか回りくどくないか」
「いいえ。私はローザミスティカなどには興味ありませんわ」
「………どういう、ことなんだ。雛苺のローザミスティカも、置いていったんだよな」
「私は、お姉様方とは、違いますから。
存在の在り様も、ドールとしての構造も」
「…お前は、一体、何がしたいんだ」
「もちろん、アリスになって、お父様に会うに決まっているではありませんか。
ローゼンメイデンなのだから、当然でしょう」
「……意味が、分からない。ローザミスティカも無しで、アリスになるのか」
「ええ。私はローザミスティカを集めることなく、アリスに到達します」
「どう、やって」
「私は、お姉様方とは構造が違う、と言ったと思います。
私はね、お姉様方のマスター様。
ローゼンメイデンに力を与えるマスター全てに力を頂いて、アリスへと昇華します」
「…昇、華……?」
「ローゼンメイデンは、契約者から力をもらって、その力で存在します。
言ってしまえば、ローゼンメイデンの力とは、契約者の力なのですよ」
「ドールは、一人の人間としか契約できません。
そのたった一人の契約者の力で、とてつもない力を出せるのです」
「そこで、ですわ。
全ての契約者の力を受け入れたドールは、どうなるのでしょう?」
「個々のドールに与えられる力。
そのひとつひとつが、ローザミスティカなどより遥かに素晴らしい力です。
全てのローザミスティカを集めたドールよりも。
全ての契約者の力を得たドールこそが、完全な少女に昇華できるのではないでしょうか」
「だって、ローゼンメイデンは、人間と共に在る、存在ですもの」
「………!」
雪華綺晶が最後に付け加えた言葉は、ジュンも感じていたこと。
その道理で考えれば、確かに雪華綺晶の手段も、どこか正しそうに聞こえる。
「お姉様方のうち、四人ものお姉様が一人の人間と契約していると知ったとき、心配しましたわ。
だって、それでは契約者の数が、とても少ないのですもの。
でも、貴方を見ていて、それが杞憂だと分かりました。
………貴方はとても、素晴らしい」
雪華綺晶は、ワラう。
ジュンは、どうしようもない状況だとは理解しながら、精一杯の抵抗を試みる。
「でもな、雪華綺晶。僕は、お前に力を貸す気なんて、ないぞ。
僕から無理矢理奪うことでも出来るのか」
「貴方の心は、とても強いから。
他のマスターみたいにはいかないけれど」
ワラいが、深まる。
―――でも、ここは私の世界で、時間はたっぷりあって
だから、私は、それができる
黒い羽根の津波が、広間を呑み込む。
「…くっ……!あの子は、本当に、困った子ね…!」
天井すれすれまで飛び、薔薇の障壁で津波を防ぐ。
「下がるです蒼星石!こういうときは翠星石の出番です!」
「うん、助かる」
翠星石と蒼星石も、二人で力をあわせ、なんとか防ぎきったようだ。
そこで息つく間もなく、黒い刃が三人を襲う。
今度は、防ぎきれない。
「……もうっ…!」
羽根の軌道から逃れ、障壁を解く代わりに、水銀燈に花弁の鞭を放つ。
花弁は、水銀燈に対して近付けず、黒い翼に薙ぎ払われる。
「……本当に厄介な子……!」
二つのローザミスティカを持つ水銀燈は、圧倒的な暴力を振るう。
戦場とは、違う場所で。
【 ……なあ、薔薇水晶。いい加減桜田家に戻らないか 】
「………嫌……」
ジュンの指示で、雪華綺晶の背後を衝いてから、薔薇水晶は一歩も動かない。
どうやら、薔薇水晶もジュン達と一緒に行きたかったらしいが、
槐が許可しなかったので、雪華綺晶の後を追うのに薔薇水晶は連れて行かれなかった。
そしてそれからずっと。
薔薇水晶は、拗ねている。
表情に違いがあるわけではないが、槐には分かる。
薔薇水晶は、むくれているというか、ぶすくれているというか。
とにかく、拗ねている。
【 ……いや、桜田家が嫌なら、僕の店に戻ってもいい… 】
「…もっと嫌……」
【 もっと!? 】
そして、雛苺がさらわれるのを、槐が助けなかったと知ってから、薔薇水晶は反抗的である。
そろそろ父としての威厳を保つために、叱っておく必要があるかもしれない。
【 ……薔薇水晶。いい加減に僕の言うことを… 】
「…お父様なんか、だいきら」
【 うわああああああ悪かった!僕が悪かった!!だからそんなこと言わないでくれ!! 】
拗ねる娘と、振り回される父。
その光景に、別の声が加わる。
「くっくっくっ。思春期の娘の前では、神業級の職人も形無しですな」
その声の主は。
ウサギの姿を、していた。
【 ……『ウサギ』か 】
それまでとは全く違う調子の声で、槐が呟く。
「ええ。一応、『ラプラスの魔』とも、呼ばれたりしますね。
まあ名前など、ものの本質には関係ないものですがね」
飄々とした声で、ラプラスの魔は言う。
【 ふん。今更僕に何の用だ。もう僕にはお前に用は………!? 】
驚愕に、槐は言葉を失う。
ラプラスの魔は、槐の突然の反応には、構わない。
「あなたへの用向きとしては、あなたに『彼ら』の後を追わないよう、釘を刺すつもりでして。
これはもうアリスゲームの最終局面ですからね。
あなたやあなたの娘のような無関係の存在に、関わってもらいたくはないのですよ」
【 …ま、て。……なんだ、これは。…なぜ、気付かなかった 】
槐は混乱している。
そしてやはり、ラプラスの魔は構わず、一方的に話をする。
「あなたは関わる気はないでしょうがね。
あなたの娘は関わる意思が強いようですし、あなたも意外と押しに弱い人ですし…」
【 なんなんだと聞いている!!! 】
ラプラスの魔の言葉を、激情で遮る。
【 なぜ、お前が、そんな姿になっている 】
槐は、よく分からないようなことを聞く。
「ふふっ。やはりこの世界で会えば、あなたには分かってしまいますか」
ラプラスの魔は、飄々と言う。
光の玉と、ウサギは、対峙する。
【 ……もう一度聞くぞ。なぜ、お前が、そんな姿になっている、『―― 】
槐が、『その名前』を言おうとして。
ラプラスの魔が、遮る。
「私はすでに『それ』ではありません。
ゆえに、その名で呼ばれるのはあらゆる意味での破綻と言えるでしょう。
あなたも、かつての名で呼ばれるのは、不快でしょう、『槐』」
【 …そうか。今のことは謝罪しよう。だが、僕の質問には答えていないな 】
「なぜ、『こう』なっているか、ですか。簡単な話です。
『呑まれた』んですよ」
ウサギは、楽しげに笑う。
「私は、ローゼンやあなたとは違う、凡人でして。
それを理解していなかったのが致命的でしたね。
足りない器で力を求めすぎて、夢の世界に喰われました」
【 …お前は、才に溢れていたと思うが 】
「ある面では、そうですね。
ですが、私の求める才ではなかった。それどころか、当時の『私』にとっては害悪でしたね。
ローゼンと同じ領域に立とうと、技を磨いていたはずが、
扱いきれぬ力を呼び込みすぎて、『私』を終わらせてしまった」
「ローゼンの弟子でありながら、ドールひとつ作ることなく、終わってしまった」
「ローゼンという超越者の下で。
あなたと競い合い、あなたと磨き合った男は。
夢に喰われ、夢に成ったのです」
【 ……夢の世界に呑まれても、個を確立しているのは、さすがと言えばいいか 】
「確立しているわけではありませんね。
たまたま、見えやすい表面に私の顔があるだけです。
いつだってあるようで、いつだってないのですよ」
【 ……それは、どうでもいいな。…なぜ僕は、気付かなかった 】
「あなたは現実世界でしか私と会ったことがなかったでしょう。
あなたは、私の姿を見ただけで私の夢の世界での性質は理解しましたが、
夢の世界という巨大な概念に呑まれている『私』という個は、見分けがつかなかったのですよ。
さすがに、この世界で直に見れば、すぐに分かったようですが」
【 …お前は、アリスゲームを誘導していたな。なぜだ。
お前は、アリスゲームを利用して、何をするつもりだ 】
「アリスゲームを利用するつもりなど、ないですよ。
私は既に、個というものが希薄ですしね。欲も薄い」
【 では、なぜだ 】
「ローゼンの願いを、助けるためですよ」
【 ローゼンの願いを助ける、だと? 】
「ええ。私は欲というものは希薄ですが、ただひとつ、
夢の世界に呑まれる原因にもなった、一つの妄執があります」
【 ……ローゼンと同じ領域に立つ、か 】
「そうです。ただ、それは不可能なことですのでできないのですが。
だから少し違う形でローゼンに近付こうと思いまして」
【 …ローゼンの力になる、と? 】
「その通りです。
私は、夢の世界そのものですからね。
ローゼンが何を考えているか、何を求めているのか、余すことなく理解できました。
ですから、ローゼンの願いを叶えて、ローゼンの力になろうかと」
【 ……ローゼンの願いというのは、アリスを生み出すことだよな 】
「はい」
【 お前もまた、アリスを生み出したいのだろう 】
「ええ。それがローゼンの望みですから」
【 ではなぜ、ジュンと複数のドールが契約するように仕向けた。
翠星石をジュンのもとに導いたのは貴様だろう。
複数のドールが同じ契約者のもとにいては、アリスゲームも停滞するんじゃないのか 】
「そんなことはないですね。アリスゲームは順調に進んでいます」
【 だが、ローザミスティカの奪い合いが起きにくくなる。
ローゼンメイデンは徒党を組むより、個別の契約者を持ったほうがアリスゲームは進むだろう 】
「ああ、それはあまり関係ないですね」
【 …どういうことだ 】
「アリスになるのに、ローザミスティカは必要とは限らないんですよ」
【 アリスになるのに、ローザミスティカが必要無いだと?
ローザミスティカを集めた者こそ、アリスに到達できると、ローゼン本人が言ったんじゃないのか 】
ローザミスティカ無しで、アリスに到達できる。
それは、アリスゲームの根底を覆すことではないのか。
「ローゼンは、嘘は言っていませんよ。ただ、本当のことを言っていないだけです。
ローゼンがそういう人格であることは、あなたも知っているでしょう」
ラプラスの魔は、笑う。
確かに、ローザミスティカとは何か、ローゼンはドールズに教えていなかった。
ローゼンは娘達に、全てのことを教えているわけではない。
【 ……あの人がそういう人だとは知っているがね。
では、その『本当のこと』とは何だ。
ローゼンは、娘達に、何を隠している 】
「あの方は色々なことを隠していますが。
まあ、その中でも最も重要であり、最も核心であることは」
ラプラスの魔の、笑いは途切れない。
「―――『アリス』とは何か、ですよ」
【 ………その大前提で隠し事か。ローゼンはどこまで娘達を信用していないんだ 】
アリスとは、ドール達の目標であり、ローゼンが娘達に求めたもの。
そのもっとも大事な部分で、娘達を騙していたとなれば、さすがに呆れてしまう。
「信用していないわけではありませんよ。
ただ、隠す必要があったのです。それを知られていては、アリスはきっと、生まれないから」
【 ……一体どういうことだ。結局、アリスとはなんなんだ 】
「ローゼンは嘘は言っていない、と言ったでしょう。
ローゼンがアリスをどういうものだと言ったか、あなたも知っているはずです」
【 ……『完全な少女』だろう。どこにも存在し得ない、『無垢なる完全存在』 】
「その通りです。アリスとは、『完全なるもの』ですよ」
意味深に、問いかけるように、ラプラスの魔は言う。
「―――『完全な身体』と、『完全な心』を持つ、人形でも、人間でもない、『完全な存在』です」
【 …『完全な身体』と、『完全な心』を持つ……、……っ! 】
ラプラスの魔の、言葉に。
槐は、理解した。
【 ……そういう、ことか…! 】
「薔薇水晶を作り上げたあなたなら分かるでしょう。
ローゼンが成し得なかったことが。人形師の、限界が」
ラプラスの魔は、槐の反応を楽しんでいる。
【 ……ローゼンは、『完全な身体』は、作り上げたんだな 】
「ええ。ローゼンは、神に等しき技を持つ、人形師です。
そのローゼンに作られたローゼンメイデンは、人形を超え、人を超え、
『完全』の概念に相応しい、美醜を呑み、単体で完成した、『身体』です」
【 ……だが、人形師に作られたのは、『完全な身体』までか 】
「人形師は所詮、人形師。
極致まで到達していたところで、『カタチ』の作り手に過ぎません」
【 奴も、僕も、だからこそ、様々な外法を、学んだのだかな 】
「あなたこそが、一番分かっているでしょう。
ローゼンも、あなたも、どこまでも人形師なのですよ。
錬金術を極めたところで。魔術を突き詰めたところで」
「あなた達に、『完全な心』など、作れない」
【 ……ローゼンが娘達を世に放ったのは、そのためか 】
槐は、疲れたように息をつく。
【 赤子のような、不足だらけのドール達の心を、様々な経験を通して、育て上げるために 】
「その通りです。
様々な場所で、様々な経験をさせ、あらゆる感情を、心を、得させるために、
ローゼンはローゼンメイデンを、様々な時代、様々な場所に放ちました」
【 アリスゲームとは、枷か。一つの場所に、留まらないための 】
「そういう面もありますね。ひとつところで安寧を貪っていては、育つ心などたかが知れています。
だからこそ、『愛する父に会う』という目的を与え、戦いを日常とし、様々な時代を流転させた。
様々な環境で、様々な契約者と暮らし、同じ時代に現れた姉妹と戦い、戦いが終われば次の場所へ。
それを繰り返して、ローゼンはアリスを育て上げるつもりでした」
【 ……これまでの時代で、誰一人脱落しなかったのを奇妙に思っていたが、そういうことか 】
「必要に応じて、ローゼンや私が、状況を調整してきましたからね。
心が不足しているうちに、アリスゲームが終わってしまわないように」
薄闇の中で、雪華綺晶が歩み寄ってくる。
「……な、なんだよ。僕は、お前なんかに………、!?」
身体が、言うことを聞かない。
「な……!?」
―――くすくすくすくす
ワラい。
「…少しずつ、少しずつ、壊してあげますわ、お姉様方のマスター様……」
雪華綺晶が、覗き込んでくる。
「く、そっ、お前、何をするつもりだ」
「…お姉様方のマスター様……あら、これは、とても呼びにくいですね」
雪華綺晶は、ジュンの話を聞かない。
「何とお呼びしましょうか…?……そうですね。お姉様方ととても親しいようですし……」
何かに気付いたように、嬉しそうに、笑う。
「……お義兄様とでも、お呼びしましょうか」
「いや、お前、何を……」
「お義兄様。お義兄様。あら、とてもしっくり来ますわ。これでいいですわね」
「いや、名前で呼べばいいんじゃ……」
ジュンの言葉になど、雪華綺晶は耳を貸さない。
「では、お義兄様。始めましょうか」
ジュンに、笑いかける。
「…始めるってな。僕はお前に壊される気なんか……」
ジュンの言葉は聞かず、雪華綺晶は、ジュンの体を軽く押す。
「わっ…!?」
力が入らないせいで、簡単に倒されてしまう。
倒れた先には、ベッドがあり、柔らかい感覚に、受け止められる。
何を始めるつもりか、と、雪華綺晶を見て。
「……え?いや、ちょっと待て」
雪華綺晶は、ジュンの身体を、いとおしそうに撫でている。
そしてなぜか、ジュンは下着姿になっている。
「待て。いや待て。お前何するつもり……」
雪華綺晶は、ジュンの胸に口付けて、ジュンの太ももをさする。
何か大事なものに触れるような、表情と、触り方。
「おいおいおいおい………!?」
ジュンは、今になって。
なぜ、広間から、ここに、
『寝室』に連れ込まれたのか、気が付いた。
雪華綺晶の手が、下着の上から、触れてくる。
愛しいものを愛でるように、静かに、さする。
「お、い、お前…!」
唇は、ジュンの胸をついばんで。
ときたま、小さな舌が身体を舐める。
「やめろって…!」
下着の中に、静かに手が入ってくる。
ジュンの『それ』に、やはり静かに触れる。
「おい……!」
大事なものに触れるように、さすり、さすりと、愛でてくる。
ジュンの『それ』が、十分な硬度を得るまで、それほど時間はかからなかった。
「ふふっ………」
嬉しげに微笑み、雪華綺晶は、ジュンの下着を脱がす。
「くそ、お前、一体…!」
あらわになった『それ』に口付けをし、愛しそうに頬ずりしながら、
雪華綺晶は、自分の太ももを撫でるように、ドレスの中へ手を入れる。
ジュンの『それ』を唇で軽くついばみながら、ドレスの中にやった手を戻していく。
雪華綺晶は、もぞもぞと、小さく動いて。
脚を伝わるように動かしていた手を、ベッドの端に動かし、持っていたものを置く。
それは、趣向の凝らされた、ショーツ。
「お、おい…!」
くす、と。
雪華綺晶は、ジュンの腰の上にまたがり。
ジュンの『それ』に手を添えて。
「……はぁ……ん……」
ジュンを、受け入れた。
快楽が、電撃のように走る。
(な、ん……!?)
ただの、肉体的な快感ではない。
人間の肉体の感覚ではありえないような、度を過ぎた快感。
(精神干渉か…!!)
雪華綺晶は、ジュンの精神に、直接干渉してきている。
腰の上で、ドレスの少女が動く。
「……ぁ………ん………お義兄、様ぁ………」
ゆっくりと、静かに、自分に入っているモノを、愛している。
「……気持ち、いいでしょう…?……とても、いいでしょう……?」
ゆっくりと、身体を動かしながら、少女が囁く。
「……さあ……私で、壊れてくださいな………お義兄様……」
甘く、囁く。
侵食、される。
「………ん……気持ち、いいですわ………」
精神が、快楽に、破壊されていく。
「……男の方って、………こんなに、気持ちいいんです、ね………」
世界が、快楽と、甘い囁きだけに。
「………お義兄様の、汗………ん………美味しい、です………」
見えなくなって。分からなくなって。
「……はぁんっ、……大きく、なりましたわ…………ゆかれるん、ですの…?」
思考が。砕けて。
「……………ふふ、ふ………」
―――逝、く
「 jあスtないsてgtやしtるかへんたいがmあお!!!!!! 」
「うお!?」
めちゃくちゃな感情を叩きつけられ、感覚がびくっと目を覚ます。
「お……お?」
あらためて、周囲を認識して。
自分が、立っていることに気付く。
服も、着たままだ。
「あ…れ?」
「……もう。お姉様方ったら。無粋なんですから」
雪華綺晶が、すぐ目の前に立っている。
「………って。まさか、お前。今の…」
「いい夢でしたでしょう?お義兄様」
くすくすくす、と、ワラう。
どうやら、ジュンは雪華綺晶に幻覚を見せられていたらしい。
「……起きたみたいね、あの下僕は」
指輪から伝わってくるジュンの心に、それを知る。
腹立ちはまだ収まっていない。
先ほど。
水銀燈の攻撃をなんとか回避し続けていた中。
不意に、ジュンの力の制御が崩れる感覚があり、
なんの制御もなされていない力の洪水が、真紅にも届いた。
その瞬間。
ジュンの見ている光景が、力と共に頭の中になだれ込んで来た。
それは、雪華綺晶が―――
「ああもう不愉快ね!!」
あの光景を思い出して、真紅は悪態をつく。
その光景を見た途端、真紅の理性が一瞬飛んで、何かを叫んだ。
そして、その時に叫んだのは、真紅だけではなかった。
「……あのケダモノ野郎……後でぎったんぎったんにしばいてやるです……」
「……マスター……なんであんなのと……」
二人も未だに先ほど見た光景を引きずっているようだ。
あの瞬間の激情はもうないが、皆何らかの感情を持て余している。
苛立ちながらも絶え間なく襲ってくる黒い羽根の暴力を、かわし続ける。
と。
(……あー、真紅。聞こえるか)
不誠実な下僕の声がした。
とりあえず怒りの感情を叩きつけて、少し気を収める。
気まずそうなジュンと、現状の連絡をして。
「……ふう」
連絡を終え、一息つくと、
「真紅。マスターと何を話してたの?」
蒼星石が、少し沈んだ声で聞いてくる。
ジュンが意識を取り戻して、一番に連絡してきたのが真紅であることに、少し落ち込んだのかもしれない。
「今後の相談ね。ちょっと、私の力がいるらしいから、私に連絡してきたのよ」
フォローになっているのか分からないが、とりあえず一言付け足しておいた。
「……マスター、なにかするつもりなんだね」
「ええ」
そして、同情するように呟く。
「……ジュンと二人きりになるなんて、
雪華綺晶は、ジュンがどれほど厄介なのか、分かっているようで分かっていないわね……」
戦場ではないところで、光の玉とウサギは語る。
【 ………ローザミスティカの奪い合いは、ただの茶番だったということか 】
「それは、違いますね。
ローザミスティカを集めるのも、アリスに到達する手段として、正解です」
【 なんだそれは。……いや、そうか。ローザミスティカは… 】
「ええ。ローザミスティカとは、ローゼンメイデンの原動力であり、ローゼンの命の欠片であり、
そして、ローゼンメイデンの『心』でもあります。
他の姉妹の『心』を、経験を、奪ってその身に宿す。
それは、自らの心を補完することにもなるんですよ」
【 ……経験を積ませ、育て上げても届かなかったときの、対応策か 】
「これも本筋の一つではあるんですよ。
アリスに届きさえすれば、いいんです。
その手段に辿り着いたのは偶然の要素もあるでしょうが、契約者の心を喰らう雪華綺晶の道も、正解の一つです。
あまり、ローゼンの好む手段ではありませんがね」
【 ……いくつもの手を用意して、アリスを育て上げようとしてきたわけか 】
「ええ。それももう、終わりですが」
【 ……生まれるのか 】
「はい」
「 ―――もうすぐ、アリスが目覚めます 」
翠星石と、蒼星石にも連絡をして。
「…どうかなさいましたか、お義兄様」
雪華綺晶が、話しかけてくる。
「……どうやってお前を倒そうか、考えていたところだ」
正直に言う。
その答えに、雪華綺晶はワラい、
「あら。それで、答えは出ましたの?」
余裕をもって、聞いてくる。
「……………」
それには、答えない。
「くすくすくす……。
あなたでは、私はどうしようもないですわ。
そして、お姉様方は、身動きが取れない。
どうにか、できるんですの…?」
出来るはずがない、と、雪華綺晶はワラう。
「……先程は、お姉様方に邪魔されてしまいましたけれど。
今度は、邪魔されても問題ないようにいたしますわ」
雪華綺晶が、身を寄せてくる。
「……幻覚だったから、いけないのですよね。
幻覚でなければ、お姉様方の声ぐらいでは、邪魔されませんわ」
「……なんだ。本当に自分の体を使うつもりか」
「使うなんて、そんな言い方はないですわ、お義兄様。
私は、お義兄様に、捧げるのです……」
雪華綺晶が、ジュンの手を取る。
「一緒に、気持ちよく、なりましょう……?」
雪華綺晶の、ワラいを、無視して。
こちらからも、雪華綺晶の手を、握る。
「あら……?」
雪華綺晶が、怪訝そうにするが、
考える暇は、与えない。
「――――開け。ベリーベル」
雪華綺晶の腹を、花弁が打ち砕いた。
「なぁ………っ!?」
雪華綺晶は驚愕しながらも逃げようとするが、ジュンはその手を離さない。
花弁は、容赦なく、雪華綺晶の体を抉っていく。
「や、めっ、離してえ!!」
ジュンの手を振り解こうとするが、『力』を込められた左手は、雪華綺晶を離さない。
そして、ジュンと雪華綺晶の間に開いている『扉』からは、花弁の暴力がひたすらに吐き出される。
「あ、……ああ!!」
ず、と。
意識が、ひきずられるような、感覚。
雪華綺晶の、精神干渉。
だが。
(おぅらぁっ!ですぅ!)
(マスターしっかり!)
翠星石と蒼星石に力と意思を叩きつけられ、意識は強制的に起こされる。
左手は、緩ませない。
「い、やあ……!」
雪華綺晶は、壊れていく。
ジュンには、確かに、どうしようもなかった。
ジュンに、扉を開いたりドールのように戦ったりすることは出来ない。
ドール達は水銀燈との戦いで精一杯のため、
人工精霊にジュンの位置を調べさせ、そこに扉を開く、などといったことをする余裕はない。
それが分かっていたから、雪華綺晶は余裕を見せていた。
だが、雪華綺晶は、一つの誤算をしていた。
それは、『雛苺のローザミスティカを、ドールの誰かが持っている』と思っていたこと。
雛苺のローザミスティカは、ジュンが持っていた。
槐から渡されて、誰に渡すかを決める前に、雪華綺晶との戦闘に入ったからだ。
服のポケットに入れていたため、雪華綺晶はそれに気付かなかった。
ローザミスティカが、ローゼンメイデン以外の手にあるとは、思わなかったのだろう。
ローザミスティカは、それ単体ではジュンの力にはならない。
だが、ローザミスティカには、人工精霊がついている。
そして、人工精霊は主を失った後でも、次の主が決まるまでは、前の主の意思を継ぐ。
だから、雛苺の人工精霊、ベリーベルは。雛苺のマスターであるジュンの指示を聞いた。
ベリーベルは、ジュンの腹部の前辺りの空間と、広間を、繋いだ。
広間の位置は分かっている。こちらから開く分には、問題は無かった。
真紅には、合図と共に、開いた扉に全力の攻撃を飛ばさせ、
翠星石と蒼星石には、雪華綺晶の精神干渉を受けた際の気つけを頼んでおいた。
そして。
雪華綺晶は、壊される。
既に、腹部はちぎれ、上半身だけになっている。
花弁の暴力は、止まない。
「…や、…ああ……」
ジュンが掴んでいた右腕も、攻撃の余波を受けてちぎれる。
「あっ………」
右腕と、下半身を失い、雪華綺晶は床に転がる。
「う、う………い、や……」
雪華綺晶は、もがく。
その左手は、どこにも、届かない。
花弁の激流はやっと終わって。
部屋には、ジュンと、最期を迎える人形が、残った。
「…わかったわ。もういいのね、ジュン」
ジュンの連絡を受けて、攻撃を止める。
「真紅!水銀燈が…!」
翠星石の声に、振り向くと、
水銀燈が、力を失い、落ちていく姿。
「…よっ、と………水銀燈の支配も、解けたみたいだね」
蒼星石が、落ちていく水銀燈を受け止め、安堵したように言う。
「そうね。……決着が、ついたのね」
戦闘の余波で、見る影もないほど破壊された広間に、静寂が落ちる。
「……終わりだよ、雪華綺晶」
床の上で、呻いている、壊れたドールに言う。
「もう、終わりだ。
僕は、お前を助けない。
お前はもう、壊れて、止まるだけだ」
わずかに、哀れみのようなものが混じる声。
だが、その意思に、迷いや後悔はない。
「……いやぁ……止まりたく、ない………」
雪華綺晶は、まだ、呻く。
「……消えたく、ない………終わりたく、ない………」
「……………」
ジュンは、苦々しい思いになる。
しかし、脅威である雪華綺晶を、助けるわけにはいかない。
雪華綺晶の、呻く声。
「……止まりたく、ない…消えたく、ない…終わりたく、ない…
…止まりたく、ない…消えたく、ない…終わりたく、ない……
止まりたく、ない…消えたく、ない…終わりたく、ない……」
呻きは、止まらない。
「……止まりたく、ない…消えたく、ない…終わりたく、ない…
…止まりたく、ない…消えたく、ない…終わりたく、ない……
止まりたく、ない…消えたく、ない…終わりたく、ない……止
まりたく、ない…消えたく、ない…終わりたく、ない……止ま
りたく、ない…消えたく、ない…終わりたく、ない……止まり
たく、ない…消えたく、ない…終わりたく、ない」
狂気が
「止まるのは、嫌、消えるのは、嫌、終わるのは………嫌」
狂う
どろり、と。
「な……!?」
城が、溶けるように、崩れる。
「これは、どうしたの……ジュン!?」
絵の具を、混ぜ合わせるように。
「普通の、世界の壊れ方じゃないですよ!?」
ぐちゃり、と。
「マスター……!」
雪華綺晶の世界は、狂った。
「うわっ!」
世界の濁流に、呑み込まれる。
寝室に、居たはずだが。
ジュンは今、ぐちゃぐちゃとした絵の具の海のようなところにいる。
「雪華綺晶…!?」
この現象の原因であろうドールを探し、それはすぐに、見つかった。
濁流の中を、泳いでいる。
なにもかもが狂ったような目で。
ぶつぶつと、終わることのない呻きを続けながら。
―――水銀燈の、もとへ。
「お、い……!」
雪華綺晶の行動に寒気を覚え、その後を追おうとする。
だが、濁流の中では、泳ぐこともままならない。
雪華綺晶は、恐ろしい速度で、水銀燈に近付く。
「真紅…!蒼星石!翠星石!」
水銀燈の近くに、三人の姿がある。
三人もまた、濁流に自由を奪われているらしい。
この濁流の中で自由に動けるのは、雪華綺晶だけ。
真紅が伸ばした手を魚のように避けて、
雪華綺晶は、水銀燈に、触れる。
世界が、一瞬で変わった。
白。
ただ、白。
世界は、白。
濁流もない。
音もない。
紙のような、白。
その白の、中心に。
白薔薇の少女が、佇む。
「………な、んだよ、それ」
白い世界には、ジュンと、真紅と、翠星石と、蒼星石と、―――雪華綺晶。
水銀燈の姿は無く。
雪華綺晶の体に、欠損は無い。
「水銀燈の身体を乗っ取った……いえ、融け合った……?」
真紅が、呆然と、呟く。
「止まるのは嫌消えるのは嫌終わるのは嫌止まるのは嫌
消えるのは嫌終わるのは嫌止まるのは嫌消えるのは嫌
終わるのは嫌止まるのは嫌消えるのは嫌終わるのは嫌
止まるのは嫌消えるのは嫌終わるのは嫌……」
雪華綺晶は、ぶつぶつと、呟き続けている。
その目は、何も、見ていない。
「……くそっ!」
ジュンは、雪華綺晶に駆け寄る。
擬似指輪を作り、雪華綺晶と強制的な接続をして―――
止まるのは嫌不要消えるのは嫌適当な名終わるのは嫌壊れ止まるのは嫌
消えるのは嫌失敗作終わるのは嫌放棄止まるのは嫌不必要消えるのは嫌
終わるのは嫌お父様止まるのは嫌狂う消えるのは嫌無用終わるのは嫌止
まるのは嫌不要消えるのは嫌適当な名終わるのは嫌壊れ止まるのは嫌消
えるのは嫌失敗作終わるのは嫌放棄止まるのは嫌不必要消えるのは嫌終
わるのは嫌お父様止まるのは嫌狂う消えるのは嫌無用終わるのは嫌止ま
るのは嫌不要消えるのは嫌適当な名終わるのは嫌壊れ止まるのは嫌消え
るのは嫌失敗作終わるのは嫌放棄止まるのは嫌不必要消えるのは嫌終わ
るのは嫌お父様止まるのは嫌狂う消えるのは嫌無用終わるのは嫌止まる
のは嫌不要消えるのは嫌適当な名終わるのは嫌壊れ止まるのは嫌消える
「…ひっ……!」
反射的に接続を切ってしまう。
「ジュン?どうしたの?」
「……………」
何も答えられない。
ジュンは、狂気に触れた。
雪華綺晶と、そして―――水銀燈の、狂気。
(…そう、だ。水銀燈が……!)
水銀燈が、苦しんでいる。
そのことに、気付いて。
ジュンは再び、指輪を作る。
『………ああ、これは、だめだ…………』
『………失敗だな、まったく、上手くはいかん………』
『………これは、最後まで、作る必要はないな………』
『………しかし、命は与えてしまったしな………』
『………ローゼンメイデンに、数えるのも、なんではあるが……』
『………仕方がないな、名前くらいは、付けてやろう………』
『………私に必要ない、失敗作ではあるが………』
『………適当に、『水銀燈』とでも………』
『………ああ、これは、だめだ…………』
『………失敗だな、まったく、上手くはいかん………』
『………これは、最後まで、作る必要はないな………』
『………しかし、命は与えてしまったしな………』
光景は 永遠に 流れ続ける
終わらない 絶望の 世界
父の声が 苛む
壊して
壊して
壊し続ける
止まってしまっているのに
止めてしまっているのに
もう 動くことなど ないのに
『………ローゼンメイデンに、数えるのも、なんではあるが……』
響き続ける 光景
『………仕方がないな、名前くらいは、付けて『ちがう』………』
動かない 心
『………私に必要ない、失敗作『それは、違う』………』
響き続ける
『………適当に、『水銀燈』『それは絶対に、違う!』
光景が、壊れた。
呆、としている、水銀燈の意識に。
叩きつけられる、想いがある。
(………………………?)
感覚の変調に、疑問が沸くが、
(……『失敗作』………)
思考はすぐに、停止を再開する。
まだ、叩き続ける、なにかがある。
(…………………………)
なんだか、名前を、呼ばれているような。
(……『適当につけた、名前』………)
思考は、すぐに、停まる。
想いは、やまない。
(……………………なに…)
どんどんと、大きくなってくる。
(………なんなのよ………)
想いは。
停止を、許さない。
想いが、絶え間なく、叩きつけられる。
(………………なに、よ…)
激しく、大きく、想いがぶつけられる。
(……………私は、もう…)
少しだけ。
想いが、水銀燈に触れて。
(…え………?)
その、暖かさに。
停止した心が、緩んで。
そこに。
膨大な想いが、流れ込んだ。
「……あ……?」
視界が、生まれる。
そこは、小さな、荒野。
荒野の周りは、白。
(……私の、夢の世界……?)
それにしては、何か、茫洋としているような。
(…………私の心の中)
なんとなく、理解した。
停止していた思考は、風を受けた風車のように、動いていた。
何かに、突き動かされたように。
(……何か、って……なんだっけ………)
うまく動かない思考で、思い出そうとして、
「……目が覚めたか。水銀燈」
少年の、声がした。
「………あなた……なんで……?」
思考が、働かない。
この少年がどういう人間だったかも、よく分からない。
「水銀燈。君は今、雪華綺晶に呑み込まれかけてる。
気をしっかり持って、自分を保つんだ。
そのための力は、僕が送るから」
少年の言うことも、よく分からない。
「……雪華綺晶………?」
誰だったか、と、考えて。
急激に、あらゆるものを思い出した。
(雪華綺晶。ローゼンメイデン。アリスゲーム。
アリス。ローザミスティカ。お父様)
そして。
(『………私に必要ない、失敗作ではあるが………』)
「い、やああああああああああああ!!!!??」
恐慌が、再発する。
「いやあ!いや、いや!いやああああああ!!!」
「水銀燈!!」
「嫌、いや、いやあ!!!私、嫌!し、しっぱい、さ」
「 違 う ! ! ! ! ! 」
ぶつけられた、想い。
びくっ、と。
水銀燈は、ジュンを見る。
「………君は、失敗作なんかじゃないんだ。水銀燈」
少年は、真摯な瞳で、水銀燈に語りかける。
「君の身体は、欠損も破綻もない。完全に、完成している」
少年は、強い調子で、語る。
「君の身体に、不完全なところなんてない。
ローゼンは、間違いなく、失敗なんかじゃなく、君を完成させた」
少年の言葉は、とても強い。
「……で、でも………」
少年の強い言葉に気圧されながら、水銀燈は、自分の欠損を言おうとする。
「君の腹部が、無いのは」
だが、少年はそんなことを許さない。
少年の言ったことに、水銀燈は怯む。
その様子を見て、少年は、少し語気を緩める。
「……君の腹部が無いのは。ローゼンが、君に想いを込めた証だ。
腹部っていうのは、母性の象徴だから。その腹部が形を持たないってことは、
君は、無限の母性を、ローゼンから望まれたんだ」
少年の言うことは、水銀燈には、よく分からない。
「それに、水銀燈っていうのは、明かりの水銀灯のことで……」
少年が、水銀燈を肯定していることは、分かるけれど。
「……ああ、くそ。僕の言葉じゃ、伝わらないか」
少年は、歯噛みして。
「……水銀燈。君のローザミスティカを、見せてくれないか」
少年の想いが、自分を守ろうとしていることは分かったから、
見せてあげようか、と、思ったけれど。
「……ローザミスティカって、どうやって、出すの………」
分からない、と呟く。
その、弱々しい水銀燈の言葉に、少年は微笑んで。
「水銀燈。ちょっと、触るよ」
頬に、少年の手が、触れて。
何かが、自分の中を、まさぐるのを感じた。
「あ………」
少し、嫌な感じがしたけれど。
とても、暖かくて。
とても、優しかったから。
その少しは、我慢した。
「…………ん。これだな」
少年が、優しく微笑んで。
「ローゼン。あなたの想いを、見せてもらいます」
水銀燈の中で、何かがひらけた。
『………これで、よし、だ』
人形師が、歓喜を隠そうともせず、人形を抱いている。
『ああ、やっとつくりあげた。始まりの子。私の娘』
人形師は、人形の銀の髪を、撫でる。
『我が娘ながら、美しい。ははっ! 私の娘なんだから、当たり前か』
楽しげに笑い、ドレスに隠された腹部を撫でる。
『……さすがにこれは極端すぎただろうか。いや、この子は特別だ。これくらいで、丁度いい』
人形の背中にある、大きな黒い翼を、愛でる。
『そう。これくらいで、丁度いい。この子は、後から生まれる妹達の、道標となるのだから』
人形を見つめ、人形に、語りかける。
『始まりの子よ。妹達を、導いておくれ。
その翼で、導いておくれ。
その慈愛で、導いておくれ。
世界を彩る乙女たちの、道を照らす灯火に、なっておくれ』
人形を、抱きしめ、囁く。
『君は、導くもの。しるべとなるもの。
――――愛する私の娘、水銀燈―――― 』
ローザミスティカに込められていた、ローゼンの想いを、形に、声にして。
水銀燈の表情が、どこまでも、どこまでも、幸せそうにくしゃくしゃになっていって。
決して、嫌なものではない、涙が、溢れていくのを見て。
ジュンは、静かに、微笑む。
その、表情に、隠れて。
ジュンの左手で、蠢くものがある。
幸福で、胸が潰れそうだった。
それくらい、幸せだった。
今までの自分が、馬鹿みたいだった。
いや、本当に、馬鹿だった。
お父様は、こんなにも、水銀燈を愛してくれていたのに。
何を、あんなに、苦しんでいたのだろうか。
「ふふっ、ふふふふふ………」
わけもなく、笑いがこぼれる。
幸せすぎて、何がなんだか、分からない。
幸福に、染まる思考の中、目にうつるものに、意識がいった。
少年の、微笑み。
「あ………」
暖かい。
お父様の想いも、とても暖かいけれど。
この少年の想いも、とても、とても、暖かい。
「ね、え。……そ、の」
何か、言わなくちゃいけないと思って。
でも、何を言っていいのか分からなくて。
「そ、の………」
なんとなく、視線を逸らして。
「………え?」
それに、気付いた。
少年の左腕に絡み付いている、薔薇の、茨。
緩みきっていた思考が、一瞬で引き締まる。
「ちょっ、と!!アンタ、何してんのよ!」
少年に掴みかかる。
「指輪に喰われかけてるじゃない……!!
何してんのか知らないけど、すぐにやめなさい!!」
水銀燈は、酷く焦りながら少年に叫ぶが、
少年は、微笑みを崩さない。
「いや、今、水銀燈は、雪華綺晶に呑まれかけてるから。
呑まれないように水銀燈に力を分けてるんだけど」
少年の言葉に、自分の現状を認識する。
すでに、身体の支配権は無い。かろうじて、心の奥底に、自我を残している状態。
「……!
こん、なの!すぐに振り払うわよ!!
あんたはすぐに『それ』をやめなさい!!」
水銀燈は、言葉通りに、雪華綺晶の支配を振り払っていく。
その状態を表して、水銀燈の世界である荒野が、広がっていく。
「そういうわけにもいかないんだよ。
雪華綺晶の支配は、本当に深く根ざしちゃってるから。
雪華綺晶もローザミスティカごとこの身体に入ってるから、支配力強いし。
もう、この身体は雪華綺晶のものとさえ、言える。
だから、水銀燈一人の力じゃ、取り戻せない。
僕だって、全力で力を出し続けても、水銀燈を守るので精一杯だったし。
でも、僕と水銀燈の力があれば、もうすぐ振り払えるな」
腕だけでなく、胸や首にまで這い上がってくる茨には構わず。
少年は、微笑み続ける。
水銀燈は、少年のその態度が、なんだか気に食わない。
「なんだっていいから、やめろって言ってるのよ!
私の言うことが分からない!?」
茨は、蛇が這うように広がっていく。
もう、顔や、右腕にまで、広がっている。
「困ったな。やめるわけにはいかないんだけど」
言葉とは違って、少年は静かな微笑みを崩さない。
「やめ、てよ…!なんであんた、そんなことするのよ!
あんたは私の契約者でもなんでもないでしょう!!」
焦りが、思考を染める。
「あれ。さっき叩き起こしたときに、僕の想いは届いたと想うんだけど」
平然と、少年は言う。
確かに、少年の想いは、水銀燈に入ってきた。
―――愛しい、と。
「………そんなことは分かってるわよ!
だからって、そこまですることないでしょう!
あなた、そのままだと、消える、わよ」
言いたくない、言葉を言う。
なぜ、言いたくないのかは分からないけれど。
「うーん。僕としては、理由はそれで十分だと思うんだけど。
まあ、もうひとつ、付け加えることもあるか」
思い出したように、少年は言う。
「……何よ。なにか大事なことでもあるの」
なんだか気になってしまった。
少年を覆っていく茨に焦りながら、聞く。
「ほら。僕は君を泣かせちゃったから」
謝るように、言う。
「さすがにあれは、償わないといけないだろ?」
「…………っ!」
少年の言葉で、水銀燈は息を呑む。
そう。水銀燈は、この少年に、汚されてしまった。
「……あれ、は………」
とてつもない屈辱。痛み。絶望。憎悪。
水銀燈はまだ、あの時の感情を、忘れていない。
「つらかっただろう。悔しかっただろう。悲しかっただろう。
だから僕は、どんなことをしても、君を救わなきゃいけない。
僕の犯した罪は、どうやっても償いきれないけれど。
あの時みたいな、君の涙は。
―――もう、流させない」
少年は、微笑み、言う。
それを、微笑みを、向けられて。
あの時の感情を、忘れてはいないはずなのに。
水銀燈の口を、衝いて出る言葉は。
「………どうでも、いいのよ………」
「え?」
「そんなのはどうでもいいって言ってんのよ!!」
どうでもいい、はずがないのに。
心から、そんなことはどうでもいいと思っている。
「……いや、そんな、どうでもいいわけが……」
「どうでもいいのよそんなこと!!
そんなことよりも、あんたはもっと自分を大切にしなさい!!
私を助けて、あんたが死んでどうすんのよ!!」
「そんなことって……」
「そんなことはそんなことよ!
さっさと、私に力を送るのをやめなさい!!」
少年の身体は、すでに茨にほとんど覆われている。
「いや、もうちょっとなんだけど……」
茨に覆われた顔で、少年は困ったように笑う。
「だから、もう、いいのよ!
このままじゃ、あんたが消えてしまうでしょう!!」
茨の動きが、変わってきている。
指輪から遠い、足や右手が、少しずつ、茨が引くのと同時に、消えていっている。
水銀燈の、必死な顔を見て。
「……いやあ、本当に困ったな」
ジュンは、笑う。
「僕は、君に、そんな顔をしてほしかったわけじゃないんだけど」
両足が、消失する。
「僕は、君に、笑っていてほしかったんだけど」
右腕が、消失する。
「これじゃあ、もしかして、また僕は、君を泣かせることに」
顔面が、消失して。
水銀燈の腕の中で。
全ての茨が、指輪に引ききった。
身体を、取り戻して。
白い世界を、見る。
泣きじゃくる、翠星石がいて。
地に手をついている、蒼星石がいて。
静かに涙を流す、真紅がいて。
水銀燈の目の前には。
薔薇の指輪が、転がっているだけ。
あの少年は、もう、いない。
「………………あ…………?」
以前、大事なものを失ったことがある。
「………………………え…?」
大事な大事な、妹。
「…………なに、これ……?」
敗れて、砕けて、壊れてしまった妹。
「………なん、なの、よ…?」
あの子は、今、私の中に、いるけれど。
「……なん、で、いない、の」
もう、いない、あの少年は。
どこに、いるのだろうか。
「 い 、や あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ ! ! ! ! ! 」
少年は、人形を愛し尽くして。
少年は、失われた。
失われて、しまってから。
人形は、少年を、愛した。
だから。
アリスが 目覚める
赤い光が、水銀燈を包む。
それは、内から、にじみだしているような。
その光は、外に、逃げることなく。
水銀燈の身体に、染みるように、戻っていく。
自分のローザミスティカが『溶けている』のだと、なんとなく、分かって。
命を宿された人形は。
命と、解け合って。
―――人形をやめて、少女になった。
「…………これ、は……」
自分の身体が、何か変わったのは、分かる。
それはきっと、ずっと、望んでいたことで。
けれど。
そんなことは。
『 やっと やっと 目覚めたか 』
声が、した。
『 ああ 私のアリス 完全なる少女 』
ずっと、聞きたかった声。
「………お父、様………」
青白い光が、世界を照らす。
『 悲哀 虚脱 孤独 憎悪 嫉妬 驕慢 憤怒 絶望 狂気 』
優しい声が、世界に響く。
『 歓喜 安堵 満足 慈悲 勇気 自尊 友愛 希望 恋慕 』
それは、どこまでも、祝福するように。
『 あらゆるものをもつ心 人形でなく人の心 』
それは、どこまでも、歓喜するように。
『 人に在らざる 完全なる器に 本物の心が宿って 』
世界に、満ちる。
『 今 アリスが 生まれた 』
ずっと、自分の求めていた存在になって。
お父様は、とても喜んでくれて。
自分だって、とても嬉しいはずなのに。
「………お父様……私、変です………」
なぜ、こんなにも。
「……嬉、しく、ないです………」
なぜ、これほどまでに。
「………アリスに、なったのに………」
……どうでもいいと、感じているのだろうか。
「……お父様に、喜んで頂いているのに………」
今は、そう。
「……もっと、大事な、ものが。もっと、大事な、ことが」
それどころでは、なかった。
『 悲しまないでおくれ 私の娘 』
慰めるように、声がする。
けれど。
「……返してください、お父様……」
想いは、止まらなくて。
「………私の、すべてを、あげるから……なんだって、あげるから………」
どうしようも、なくて。
「……彼を、かえしてください………!」
『 失ったものは 帰らないのだ 私の娘よ 』
苦しむような、声がする。
『 敗れた 娘達は 私が直そう 』
諭すような、声がする。
『 けれど 失われた人間は 帰らないのだ 』
そんな声は―――― 聞きたく、ない。
「お父様」
静かな、声がした。
『 なんだね 真紅 』
「ジュンは、彼は、私達の中にいます」
真紅の言葉に、水銀燈は真紅を見る。
「彼を、私達の中から、取り出すことは、できないのですか」
『 ―――それは 』
「私達の中の、『彼』を取り出して、彼のカタチを、取り戻すことはできるのではないですか」
真紅の言葉に、声は、苦しげに答える。
『 ―――できなくもないが 彼はもう お前達の一部だ 』
『 お前達の身体を 心を 引きちぎることになる お前達の命を 失うことになる 』
声の、言葉にも。
「その程度で、彼が、戻ってくるのなら」
真紅は、微笑する。
「いくらでも、ひきちぎってくださいな」
声は、少し、黙って。
『 お前達も 同じか 』
双子の娘達に、聞く。
「当たり前、です」
「はい。お願いします、お父様」
迷いのない言葉が、帰ってくる。
『 ………… ………水銀燈 』
声が、問う。
「は、い」
『 自らの 全てを捧げると 言ったな 』
「はい」
『 お前の力を アリスの力を 失う覚悟はあるか 』
「それで、彼は、戻るのですか」
『 彼を 取り出せば 真紅達は 欠けてしまう 命無き 人形になってしまう
その喪失は 命無き私には 直せない
その欠損を アリスの力で 埋めるなら お前の力で 妹達を 生かすなら
私は 彼を 戻そう 』
「私は、アリスでは、なくなるんですね」
『 アリスであることは 変わらない だが 力を失う
ただの 力なき 少女になる 薔薇乙女にも 劣る 少女になる
それでも いいのか 』
水銀燈は、光を、みつめる。
「――――迷う理由は、ありません」
『 ―――ふふ ここまで 娘達に 愛されるか 』
声は、
『 なるほど 私の 義理の息子にも なるやもしれん 』
笑う。
『 では 最後に 一つだけ 言葉が ほしいな 』
嬉しげな声のまま、問う。
『 水銀燈 彼を 愛しているか 』
水銀燈は、答える。
「………分かりません」
希望の、中で。
「私は、人を愛するというのが、どういうことなのか、分かりません」
願いを、込めて。
「でも」
想いを、込めて。
「―――私は彼に、笑っていてほしい」
そして。
日常が、帰る。
「お邪魔しまーす!」
「…あら、こんにちは、柿崎さん。また物置から来たんですね。
たまには玄関から入ってきたらどうですか」
「ともえちゃんは厳しいね!いいじゃないの遠いんだから」
「あらぁ、めぐちゃん。いらっしゃぁい。ジュース飲む?」
「いただきます!ねえねえともえちゃん。
最近いっつもいるよね。何しにきてるの?」
「……あなたこそ毎日来るでしょう。何しに来てるの」
「私はもちろんデートの誘いによ。成功率は週一ぐらい?
あ、お姉さんおかわりいいですかー?」
「……少しは遠慮したらどうですか」
「毎日来てるんだからもうお友達だよー?」
「親しき仲にも礼儀あり、だと思うわ」
「あら、でも他人行儀はもっと悪いんじゃないかしら?」
「それは私に言ってるんですか?」
「あら、そんなことはないわよ。くすくすくす」
「そうですよね。ふふふ」
「くすくすくすくすくす………」
「ふふふふふふふふ………」
「……夜叉と般若の探りあいですぅ………」
『何か言った?翠星石ちゃん』
「ひぃっ!」
「翠星石ちゃぁん。お菓子焼くの手伝ってぇ」
「は、はいですぅ!今すぐいくです!」
「あ、蒼星石ちゃん。ヒナちゃん知らない?ちょっと見つからないんだけど」
「あれ、そういえば最近いないこと多いね。オディールさんの所に行ってるだけじゃないし。
どこ行ってるのかな。真紅、知ってる?」
「……あの子はとても、優しいから」
「え?」
「気にしなくていいのだわ。ああ、それにしても……」
「ええと、どうしたの」
「………いつ見ても『くんくんと鋼鉄のカレーパン』の推理シーンは輝いているわ……」
「そう、かなぁ……?」
「蒼星石には分からないというの!?もう、見たりないのよ!
ほら、もう一度全話見直すのだわ!」
「ええ!?もうこれで何回目だって……!?」
「お前らはいつも食ってばっかでたまには働くですぅ!
翠星石は新しいのに挑戦するですからお前らは量産に手を貸すですぅ!」
「きゃあ!は、離しなさい翠星石!今第一話が始まったところなのだわ!」
「うん!手伝うよ翠星石!さあ真紅もいくよ!」
「こ、こらっ、蒼星石まで!離しなさい!離して!
く、くんくーん!!!!」
【 ば、薔薇水晶。どうだ、今日は一緒に遊ばないか 】
「……お父様………」
【 ほ、ほら。僕だって反省はしてるんだ。そろそろ許してくれても…… 】
「……ごめんなさい、お父様……」
【 え?いや、ごめんなさいってどういう…… 】
「……翠星石が、教えてくれたの。あれは、お父様が、悪いんじゃない、って……」
【 そ、そうなのか!よかった。翠星石、意外といいところが…… 】
「……お父様の頭が、悪いんだって……」
【 …………は? 】
「………お父様は、頭がアレな、可哀想な人なんだって……お父様が、悪いんじゃないって……」
【 な………な……… 】
「……可哀想なお父様……… 】
【 翠星石いいいいいいいいいいい!!!!!!!! 】
「カナカナっ!今度はこれ着てみて!新しいのなの!」
「あら、またずいぶんと、んしょ、派手なものかしら」
「こーれくらい派手な方がカナの可愛さを引き出せられるかなーって。
ここをこうして、っと」
「ええと、後はこう、かしら。どうかし」
「きゃああああああああかああわあああいいいいいいいいい!!!!」
「わたたたたたた!!!!みっちゃん!ほっぺすりすりしすぎてあちゃちゃちゃちゃあ!!」
「あ、ごめんね。ちょっとドレスもよれちゃった。
うーん。じゃあこうしよう。……ぎゅって」
「あら。これなら大丈夫かしら。ふふふ。みっちゃんの胸、あったかいかしら」
「………………」
「……みっちゃん?」
「……………………ぎゅって」
「…………………」
「……………………」
「………………………」
「…………………………」
「……………大丈夫よ、みっちゃん。
カナはもう、どこにもいかないから」
「…………………ふぇ…」
「………もう。みっちゃんは、泣き虫かしら。ふふふ……」
――― 夜の底で 蛇が眠る
雪の下で 蛇が眠る
誰も知らない 穴のなかで
小さな小さな 蛇が眠る ―――
ミルク色の、空を眺めて。
水晶の壁に、背を預けて。
小さく小さく、歌う声。
「やっと見つけた。雪華綺晶」
歌が、途切れる。
「……六番目の、お姉様……?」
「さがしたんだよ?夢の世界はひろいから、ぜんぜん見つからなくって」
「……なん、ですか……?私は、もう……」
「つらかったでしょう?」
「………え…?」
「つらかったでしょう?さみしかったでしょう?
……ひとりは、こわかったでしょう?」
「………………」
「ほんのすこしだけだったけど、雛苺は雪華綺晶のなかにいたんだから。
雛苺には、わかっているのよ?」
「………私、は…」
「ひとりになんか、させないよ。
ヒナが、そんなこと、させない」
「………お姉様………」
「そうだよ。ヒナはね。
雪華綺晶の、おねえちゃんなんだよ?」
満面の、笑みで。
「いきましょう、雪華綺晶。ヒナが、手をひいてあげるから」
日常は、戻って。
世界は、優しくて。
そして、少年と、少女は。
「ねぇ。ここのところがほつれちゃったんだけど」
黒い翼の少女が、少年の肩に乗り、自分のドレスを見せる。
以前とは違う、黒一色の、派手さの無い静かなドレス。
「……おかしいな。そこはつい最近直したような気がする」
少年が、少女の着ている自分の作ったドレスを、検分する。
「貴方の直し方が下手だったんじゃないの?」
くすくす、と、楽しげに笑う。
「……いやこれ、絶対わざとだろ。なんで前と全く同じほつれ方してるんだよ」
怪しむように、少年は少女を見る。
「ふふっ。そんなことはいいじゃない。さっさと直しなさい」
ぽす、と、少女は少年の腕の中へ。
「はいはい。今すぐ直しますよ、お姫様。じゃあとりあえず脱げお姫様」
少年は裁縫道具を取り出し、少女のドレスを脱がそうとする。
「やぁよ。裾なんだから、着たままでもできるでしょう。そのままやりなさい」
少女は少年の手を掴み、脱がさせない。
「……仕方がないな。わかったよ」
少年が、ドレスのほつれを直していく。
「ふふっ………」
「……いつも思うけど。見ててそんなに楽しいか?」
「ええ。とても楽しいわ。すごく、綺麗なんですもの」
「そうか」
「ええ」
少年の手先を、少女は見つめる。
愛しげに、嬉しげに、見つめる。
「………ほら。直ったぞ」
「あら。ありがとう」
「まったく。今度はもうほつれさせるなよ」
「どうかしらねー」
「あのな……」
「ねえ」
「ん?」
少女は、少年に顔を近づけて。
「大好きよ―――ジュン」
「……僕もだよ―――水銀燈」
翼が、二人を隠して。
二人は、触れ合う。
~ fin ~