真紅「あぁ……花びらがこんなにうるわしく。素敵よ翠星石。
あなたの指先はまるで美しい旋律を奏でるよう」
翠星石「真紅、もっとやってほしいですか? それとも自分でしますか?」
真紅「ええ。自分でするから見ていてくれる……?」
翠星石「もちろんです。さあやってみるですよ……」
翠星石「ちょっと真紅、また細かいところが雑です。そんな造花じゃ売り物にならねーですよ」
真紅「私には内職なんて向いていないのだわ。そもそもこれで時給いくらになるというの?
とんでもない労働者への搾取だわ。万国のプロレタリアートよ団結しなさい」
翠星石「姉妹の中でも一番貴族趣味のドールが言うことじゃねーですね」
真紅「庭師のあなたはいいわね。こういうことに疑問すら抱かなくて」
翠星石「はいはい。私たちに出来る仕事なんてこれぐらいなんだからしょうがねーです。
くっちゃべってる暇があったら手を動かしやがれです」
真紅「ふふ。あなたが私の姉らしくなるなんて、昔は思いもしなかったのだわ」
翠星石「だから、ここはこうするです」
背後からいつものように真紅と翠星石の会話が聞こえてくる。雛苺は柏葉の家へ
遊びに行っている。
かつて僕らが住んでいた家で、僕が真紅と出会ってから3年がすぎようとしていた。
あの頃は想像することもなかったが、木造の築30年以上のアパートの一角にある
6畳と4畳半の二部屋。ここが今の僕らの家だ。ここに引っ越してからもうすぐ
半年になる。
ということは僕、桜田ジュンが私立高校をやめてからやはり半年がたつのだ。
元スレ
ローゼンメイデン・アパートメント
http://yutori.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1212245906/
ローゼンメイデン・アパートメント2
http://yutori.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1212506122/
ローゼンメイデン・アパートメント3
http://yutori.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1212756052/
ローゼンメイデン・アパートメント4
http://yutori.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1213014539/
急に僕らの家を手放してここに引っ越してくることになったとき、文句ばかり言うかと
思っていた真紅たちは意外にもそれほど騒がずに現状を受け入れた。
今ではのりに頼んで造花作りの内職仕事をもらってくるようにまでなっている。
それがローゼンメイデンにとって良い事なのかどうかはわからないけれど。
真紅「もうお昼だわ。昼食を兼ねて休憩にしましょう」
翠星石「真紅全然できてやがれねーじゃねーですか」
真紅「ジュン、あなたもいいところで切り上げるのだわ」
そう言われて僕はパソコンの画面から目を放した。
新作のデザインは煮詰まっている。ついさっきまでも構想を練っているふりをして、
ニカニカ動画でサムネに釣られてしまった。
ジュン「じゃ、昼にするか」
昼食用にのりが作っていったおにぎりを丸いテーブルに並べる。
昔は昼飯にピザを頼むという豪勢な暮らしを送っていたが、いまやこれが毎日だ。
といっても普通はこんなものだろう。
そうそう、中学の頃の僕は姉のことをお前とか呼んでいたが、さすがに今はもう
やめていた。かといって素直に姉さんだとか姉ちゃんだとか呼ぶことも恥ずかしく、
名前で呼ぶことに自分の中で落ち着いたのだ。
真紅「ジュン、お茶を入れて頂戴」
僕がいれるお茶もかつてのようなアールグレイやオレンジペコーだかではなく、
近所のスーパーで特売していたレプトンの一番安いティーバッグだ。
真紅は文句をいいつつも、お茶を飲む習慣だけは変えない。
真紅「ミンチよりひどいお茶なのだわ」
翠星石「くんくん探偵0080のウサギのバーニーじゃねーですか」
ジュン「仕事をするとか言いつつ一緒にくんくんシリーズばっかりみやがって……
そもそもおにぎりに紅茶はまったく合わないだろうが」
真紅「ウサギ……たまにはウサギの肉でも食べたいわね」
翠星石「のりにシチューにしてもらうのがいいです」
ジュン「……日本ではウサギの肉なんてそうそう売ってないぞ」
真紅「今度ラプラスの魔に会ったら罠をはって捕まえましょう」
翠星石「ちび人間は血を抜いたり皮を剥いだりできますか?」
ジュン「できるわきゃねえええだろおおおおおおお!!
ていうかあいつウサギなのかよ! そもそもウサギ食うのかよお前ら!」
真紅「ただの冗談よ、落ち着きなさい。でもウサギを食べるのがそれほどおかしいの?」
翠星石「翠星石も前に目覚めてたときはたまーに食べたですよ」
ジュン「呪い人形どもめ……ま、バニーちゃんなら僕も食べてみたいけどな」
真紅「…………」
翠星石「…………」
オーケーわかったよ。僕が悪かった。
しかしあれだ、うら若い呪い人形が2体もいればこんなことを言ってみたくも
なるというもの。誰が僕を責められようか。
そんなこんなのなんだかんだで、僕、桜田ジュンは中学不登校のうえ中卒ニートな
人生を、何とか絶望せずに生きていた。
真紅「それでジュン、ドレス作りは進んでいるの?」
ジュン「……まだ、だな。いつもと同じような値段で売れるやつならともかく、もっと
高いクオリティのものを作って売りたいんだ。だから……」
翠星石「そんなこといって、どうせチビ人間はエロ画像でも集めてるんです」
ジュン「んなわけないだろ」
ただニカニカでサムネに釣られたり欲しくもないのにzip動画を見ていただけだ。
それにしてもこの性悪人形はいまだに僕のことをチビ人間と呼ぶ。あの頃からすでに
14cmも背が伸びているっていうのに。メガネだってちょっとおしゃれなやつに
変えたんだぞ。外出先はコンビニぐらいだけどな。
真紅「ジュン、お金のためにドレスを作るというのをやめる気はないの?」
ジュン「そういうわけにはいかないだろ。あいつのパートだけじゃ苦しいし、
僕だって食い扶持ぐらいは稼がないとな」
翠星石「いいじゃねーですか真紅。特技を活かしてお金を稼ぐなんてチビ人間
にしちゃ上出来です。それにドレスを作らなかったらただの中卒ニートに
なっちまうですよ。そうなると、やることといったら掲示板での煽りぐらいです」
ジュン「無性にムカつくが、まあその通りだ」
今、僕は人形用のドレスを作ってそれをインターネットオークションで
売っている。これが僕の仕事といえば仕事だ。最近は一着2~3万円で
売れているが、月に2着ぐらいしか作れていないので収入は5万円前後と
いったところだ。
ただ真紅はこのことに対してあまり良い印象をもっていない。
ジュン「初めて作ったやつが売れたときみたいに、10何万の値がつけばいいんだけどな」
真紅「そう。とにかく質の高いものを作ろうとしていることには感心だわ」
僕の顔を見る真紅の碧い瞳に後ろめたさを覚える。
さすがにニカニカはちょっと控えなければ。
おにぎりを食べ終わると真紅は2杯目の紅茶、僕と翠星石は日本茶を飲んだ。
翠星石「おにぎりも嫌いじゃねーですが、やはりもっとおかずがほしいですね」
ジュン「僕の秘蔵コレクションを貸してやろうか?」
翠星石「そういう冗談いらねーですから。実際借りるって言うですよこの変態」
ジュン「かまわないぞ。僕が本当に変態かどうか確かめるがいい」
翠星石「なななななーー上等じゃねーですか。見せてみやがれです」
後で約束通り見せてやったこの日の夜から翌日の夕方まで、
翠星石は口を聞いてくれなくなった。
それはともかく、今はまだお昼どきだ。
ジュン「今日の夕方は鳥のから揚げだとよ」
翠星石「本当ですか? から揚げは花丸ハンバーグの次に好きなおかずです。
働く甲斐があるというものです」
真紅「私の稼いだお金が入ったときには、まともな紅茶を買ってもらうのだわ」
姉ののりは昼間は惣菜屋のパートに出ている。
半年前、のりは偏差値60ほどの私立大学に進学することが決まっていたが、
両親の仕事がうまくいかなくなったことによる金銭的事情でそれを辞退せざるを
えなくなった。
いきなり高卒の就職口が見つかるわけもなく、仕方なくフリーターというわけだ。
まったく何もかも両親のせいだった。僕がひきこもって中学を不登校になっても、
姿さえ見せずに高校生ののりに任せきりだった両親。ついにはハブプライムローンの
毒が回ったとかで事業が破綻し、抵当に入れられていた家を僕たちは追われた。
アパートに落ち着くことのできるわずかな金を僕らの銀行口座に振り込んだ後は、
両親はその行方もしれない。
にもかかわらずのりは、「お父さんとお母さんにも事情があったのよー」
などと言って笑っていた。きちんと受験に合格して、大学進学も楽しみにしていたのに。
僕が高校を辞めることにはあんなに反対していたのに。
そうだ。僕が私立高校をやめることになったのも両親のせいなのだ。
真面目な生徒とはいえないものの、出席日数にはまだ余裕があった。進級や卒業に
問題はなかった。
学費の問題が出たとき、事情が事情だからと中学時代の不登校には目をつぶってくれ、
公立高校への転校もできないわけではなかった。
けれど僕はもう高校に行く気を失っていた。もともとそれほど行きたかったわけ
でもないし、もうどうでもいいという心境だった。
こうして「弟は中卒ニート、姉は高卒フリーター」という某掲示板では煽られまくり
であろうお先真っ暗姉弟が誕生したというわけだ。
皆が寝静まった夜中、ふと考えてしまうときがある。僕の人生にはもはや希望など
無いのかもしれないと。そういうときには、僕は震えながらあいつらの入っている鞄を
見つめてしまうのだ。
その翌々日。ようやく翠星石がまた口を聞いてくれるようになった頃、アパートに
水銀燈と蒼星石が遊びに来た。
水銀燈も3年もすれば敵意もどこへやら。もともと真紅には懐いていたようだし、
今では一緒にお茶を飲む仲だ。それにしても僕も出かける先の無い人間だ。
ブックオンにでも行こうか。
ジュン「席外すか?」
水銀燈「構わないわよぉ。人間の意見も聞きたいことだしぃ」
真紅「それで、何の話なの?」
水銀燈「めぐの容態がちょっと悪くなってね、元気付けようと思ってヤクルートと
ハトを持っていったのぉ。ところがめぐは怒っちゃうし、ハトを見た病院の
人間どもも騒いじゃって大変だったのよぉ」
水銀燈のマスターである柿崎めぐ。直接の面識はないが話を聞く限り、
重い病気で幼い頃から入院生活を送っており、彼女の病気が治る見込みは
まず無いらしい。こういう話を聞くと、健康なだけ自分は恵まれているのだと
実感する。生活は不健康だけど。
しかしペットセラピーというものもあるが、いきなり野生のハトを連れていっても
ばさばさと騒ぐだけだし、病気にも良くないだろう。
水銀燈「ハトは栄養もあるしいいかと思ったんだけど。ちゃんと焼いたしぃ」
真紅「水銀燈、そのへんを飛んでいる野生のハトはなにを食べているかわかったもの
ではないわ。そんなものを食べたら新しい病気になるかもしれないのだわ」
翠星石「そうですよ、人間はドールと違って食中毒になりやがるです」
蒼星石「そういう問題じゃないと思うけど……」
常識人(って人じゃないけど)はお前だけだ。頑張れ蒼聖石。
水銀燈「ほかに何が悪かったって言うのよぉ?」
蒼星石「ヤクルートとハトじゃ食い合わせが悪すぎるよ。
日本では一緒に食べてはいけないものがあるんだ。
うなぎとうめぼしとかてんぷらとスイカとかね」
水銀燈「老人介護してるだけあって詳しいわねぇ」
翠星石「さっすが私の双子の妹です」
お前もか蒼星石。ならば死ねかじゅきぃぃいい。
ま、どうせあの爺さんは棺おけに片足突っ込んでるけど。
ジュン「お前らなあ、そもそもハトは食べるもんじゃないだろ!」
真紅「にわとりは食べるのに? おかしいのだわ」
翠星石「前に目覚めてたときは蒼星石と狩ったこともあるですよ」
蒼星石「マスターに栄養つけてもらおうと思ったんだ。ちゃんとワインをつけたよ」
おい、食べるだけじゃなく狩ったのかよお前ら。
水銀燈「私は今でもよく食べてるわよぉハト。めぐにもと思ったんだけど。
あ、よかったら今度持ってきてあげるわぁ。たまにヤクルート貰ってるし」
ジュン「いらねーよ! 病気になるって話してたろうが! あとうちのヤクルートが
たまになくなってたのはお前の仕業か!」
水銀燈「しょうがないじゃない。買うわけにもいかないんだしぃ」
ジュン「とにかくハトを持っていくのはよせ。花でも摘んで持っていけ」
真紅「そうね。そうだわ水銀燈、翠星石の育てた鉢植えをプレゼントするといいのだわ」
ジュン「おいお前な」
真紅「趣味の悪いただの冗談よ。なんにせよ水銀燈、大切なのはあなたがめぐのそばにいると
いうこと。プレゼントなどいらないのだわ。必要なのはあなた自身なのだから」
水銀燈「真紅……」
最後はいい感じで締めてるけど、これでいいのかローゼンメイデン。
そして、人形たちの会話に付き合っているだけでいいのか、僕の人生。
その翌日、気負ってドレスのデザインに取り掛かるもやはりうまくいかない。
こういうのはアイディアのインスピレーションが降りてくるかどうかなので、必死に
やればなんとかなるものでもない。
言い訳かもしれないが、本当なのだからしょうがない。
そんなふうに言い訳をしていると、柏葉に連れられて雛苺が数日ぶりに
帰ってきた。
雛苺「ただいまなのージュン」
ジュン「おーおかえり。よ、よお、柏葉」
高校に進学してからは別に気後れを感じなかったのだが、いざ辞めてからは
中学不登校時のような気まずさがよみがえってしまった。
巴「元気、桜田くん」
ジュン「ま、体だけはな」
柏葉は志望校だった進学校に進み、それからはバスケ部のキャプテンに頼み
こまれて付き合ったりと絵に描いたような高校生活を送っているらしい。それも、
僕にとっては気後れする理由だった。
柏葉に彼氏ができたのを聞いたとき、僕の胸がうずいたのは不思議な話だ。
ただの幼馴染でドールの話を共有できてたまに本音を話してくれる仲だっただけなのに。
ただそれだけの仲だったのに。
人生って色々あるんだな、サリンジャー。 Tell Me why♪ Tell Me Why♪ Salinger♪
いかん、変な方向に考えが暴走してしまった。怪訝な顔で柏葉がこちらを見ている。
ジュン「あー、とにかく、とりあえずは元気だ僕は」
巴「そう、よかった」
そう言う柏葉はなにか顔色がよくないように見えた。せっかく雛苺と何日も一緒に過ごした
のにどうしたのだろうか。
ジュン「なんか、顔色悪くないか、柏葉?」
巴「そ、そう? ……やっぱりわかってしまうのかな」
ジュン「え?」
巴「ねえ、桜田くんは両親に裏切られたんだよね?」
ジュン「いや、まあ、そういうものかもしれないけど……」
いつもの、僕が知っている柏葉とは違った。雛苺をとても愛おしそうにだきあげる柏葉とは。
巴「辛いよね、そういうの。……また来ても、いい?」
ジュン「そ、そりゃいいけど……雛苺もいるしな」
巴「ありがとう。桜田くんと話せてよかった」
台詞のわりに、声の響きはなにか喜べないものを感じた。柏葉が雛苺に別れの挨拶をして、
その姿がアパートの階段に消えるまで、僕は何も言えなかった。
ジュン「雛、なんかあったのか、柏葉のやつ」
部屋に入ってからそう聞くと、雛苺はかわいらしい顔をうつむかせた。柏葉家への長逗留には
それなりの理由があるようだった。
雛苺「言っていいのかわからないけど、ヒナはジュンを信頼して話すのよ」
雛苺はおしゃべりしたいというより、いかにも自分だけが抱えているのが辛いような
顔をしていた。雛苺にこんな顔をさせるなんて、柏葉はいったいどうしたのだろう。
雛苺「あのね、トモエはね、付き合っている男の人にすてられたっていうのよ。それも、
すごくすごくひどいすてかただったのよ。トモエ、何回もヒナに、あんなに色々して
あげたのにって言うのよ。向こうからしつこく告白してきたのにって言うのよ。
それでね……」
もうわかった。もうわかったよ雛苺。だからもう勘弁してください。
お前はそんな話を数日にわたって聞かされてきたわけだ。そして今僕にそれを伝えるわけだ。
伝えずにはいられないだろう。明らかに雛苺の胸にしまっておける話じゃない。
そして柏葉には、他に安心して話を聞いてくれる相手もいなかったんだろう。
ジュン「雛苺、その話聞いてるとき結構辛かっただろ」
雛苺はこくんと頷いた。
雛苺「でも、でもヒナしかトモエの話を聞いてあげる人はいなかったの。だから聞いたの。
あのね、それでね、話はまだ続くの」
それから延々と、僕は柏葉とその彼氏のなりそめやらデートやら色々したことやら捨てられる
経緯やらを聞かされた。
雛苺としては話さなければ耐えられなかったのだろう。
僕は三回ほど首を吊りたくなり、2回ほど中央線のダイヤを止めた場合の遺族の損害賠償について
考え、総武線とどちらが安いのか検討した。今はどの洗剤とどの洗剤を混ぜればいいのかをネットで
確かめたいと思っている。
が、こんな話をしている雛苺がいる限り、別室で内職にいそしむ真紅と翠星石がいる限り、
あとはまあ一応パートに出ているのりがいる限り、そう簡単に最終解決方法を採るわけにはいくまい。
それぐらいの理性は残っていた。
もはやドレス作りどころではなかった。でも僕はドレスのアイディアを探った。思考は完全に混乱
して良いアイディアは出てこなかったが、それしかやるべきことはなかった。
しばらくしてから、雛苺が僕に言った。
雛苺「ねえジュン。ヒナ、ジュン登りしたいの」
ジュン「こんなときになに言ってるんだよ」
雛苺「ジュン登りするの!」
そう言うと、雛苺は無理やり僕の頭にしがみついてきた。
僕はああ言ったものの、実際には好きにしてくれという心境だった。
でも、雛苺とじゃれあっているうちになんとなく心が落ち着いた。多分、雛苺もあいつなりに
自分や僕の気持ちを変えたかったのだろう。
僕らはそうしてこの状況に対応しようとした。雛苺にとっても柏葉は重要な存在なのだ。
きっと僕以上に。
そういう意味で僕と雛苺は奇妙な戦友だった。
それにしても柏葉が彼氏と別れたという話を聞いたとき、僕は全く嬉しくなかった。
なんというか、僕は柏葉だけは幸せな生活を送っていると信じていて、それが崩れてほしく
なかったのだ。
美人で努力して進学校に進んだ柏葉には、そこで人がうらやむような高校生活を満喫して
いてほしかった。
僕は自業自得で、のりはひどい運命のせいでこうなった。それでも、誰かひとり僕の知っている
人間の中で幸せに暮らしていてほしかったのだ。それは僕のわがままだろうか。
柏葉なら幸せになるべきなのに。もっと笑っていていいはずなのに。
ちなみに、僕と雛苺がこうしているとき、真紅と翠星石はもうひとつの部屋で内職をサボって
ゲームをしていた。
パーフェクトイレブンで遊んでいた二人は、
翠星石「真紅ばっかりキーパーのセービングがすごすぎです!」
とか、
真紅「あんな適当なクロスから点が入るのが納得いかないのだわ!」
とか
「コナム商法マジありえない。さっさと日本リーグとEUリーグ全部一緒のやつ出せよ」
とか、そんな話で派手な姉妹喧嘩をしていた。
最後のは二人が喧嘩した理由とは違うかもしれない。
そのあとテクノのカピタン翼のオールスターで決着をつけようという話になった。
スナイダーくんをどっちが取るかでさらに喧嘩した。二人ともドイツのエースストライカーが
取りたかったらしい。
窓が2枚ほど割れたがホーリエが直した。本当、人工精霊って便利だ。
とにかくドレスを作らなくてはならない。まだお金には少し余裕があるけれど、
翠星石の言ったようにドレスを作らない僕はただの中卒ニートになってしまう。
デザインに取り掛かろうとPCのフォルダを開くと、またも客が来た。
ジュン「なんだ、お前か」
金糸雀「なんだはないかしら~。せっかくこのカナが遊びに来てやったかしら」
ジュン「なにが来てやっただ。どうせまたみっちゃんさんがお前だけでもって
うちによこしたんだろ」
金糸雀「みっちゃんもう何日もネットカフェに居続けかしら……それでお金も無くなって……」
ああ、そっちかよ。
どうも僕の周りには不幸な人間が多い。
僕にドレス作りを勧めてくれたみっちゃんこと草笛みつはマニアと言っていいほどの
人形好きだったが、ついにはそれがエスカレートしすぎ、人形のドレスを買うために
借金をしてしまった。
最初は生活費がちょっと足りなくなった程度で、CMでもよく見る有名なサラ金から
金を借りただけだったらしい。その後はカードですぐ借りれるタイプなので借金と
自分の金が区別できなくなり、どんどん借金が膨らんでいった。ついには借金の返済を
求めて職場にまで電話がくるようになり、職場にいられなくなった彼女は退職したという。
まあなんともお決まりのパターンだ。
借金はどうにかこうにか返済したらしいが、今じゃ草笛みつは立派な日雇い派遣の
ネカフェ難民というわけである。
ジュン「……じゃあうちにとまっていいよ。ただしいつも通りそう何日も置いておけないからな」
これは金糸雀だけではなくマスター本人もご一緒ということだ。こういうことは一年前
からたまーにある。
半年前まではうちに余裕があったからいいものの、最近はたかられると結構きつい。
ただでさえうちは食費がかさむのだ。
でものりはお人好しもいいところだし、僕にはドレス作りのきっかけをくれた経緯が
あるので彼女を無下には扱えない。同じローゼンメイデンの持ち主でもあるし。
金糸雀「やっぱりジュンは優しいかしら。もうみっちゃんそこまで来てるから呼んで来るかしら~」
あの女……。
みつ「や、ジュン君元気~? ドレス作り進んでる?」
ジュン「たった今中断されました」
みつ「あーごめんごめん。あがっていい?」
ジュン「どうぞ」
という返事をしたときには、すでに彼女はアパートの敷居をまたいでいた。この女……。
さて、20代の女性がお泊りにくる。これは健全な10代男子としてはかなりのイベントの
ように思えるが、事実は全く違うことを僕はことわっておく。
最近のネットカフェはシャワールームまであるので、草笛みつの見た目はそれほどひどい
というわけでもない。細かく観察しなければごく普通のOLに見えることもあるかもしれない。
だが彼女にはネカフェ暮らしの必然とも言うべき障害がある。ネカフェくさいのだ。
数時間パックでネットカフェに入った経験がある人はおわかりだろうが、ネットカフェと
いうやつは空気が悪く、禁煙席ど真ん中を選ぼうとも妙にタバコ臭い。さらに安いエアコン
から出る独特の空気の臭いと交じり合って、なんとも言いがたいネットカフェ独特の臭いが
醸成される。
それは決して強烈な臭いではないが、何気なく服に染み付いていて離れない類のものだ。
ネカフェ暮らししているともなれば、そのネカフェ臭はもはやおうちの匂いというわけで、
草笛みつはネカフェの香りのする女である。
もちろん一緒にいる金糸雀の服もネカフェ臭い。うちに来るたびにのりが洗濯してやっている。
ネットカフェ臭いローゼンメイデンとかそんなのひどすぎる。じゃあ安アパートで内職させたり、
そもそも路上生活してるやつはどうなんだって話だけど。
ずかずかと上がりこんできた草笛みつは、遠慮なく僕のPCを覗きこんだ。
みつ「うーん……最近のジュン君の作品はなんかこうぱっとしないよねー」
はっきり言ってくれる。でも事実そうなのだからしかたない。僕自身もそう思っている。
みつ「そりゃよく出来てるし数万出して欲しがる人がいるのもわかるんだけどさー、
最初に私が感じたときめきみたいなもの? そういうのがないんだよね」
ジュン「実際、10万こえる値はつかないですしね……。なんとか今作ってるやつはそういう
値段をつけてもらえるだけのものにしたいんだけど」
みつ「うーん、このデザインじゃ無理かも。いいとこいつも通りの2,3万じゃない?」
ジュン「やっぱりみっちゃんさんもそう思いますか」
この人のずうずうしさにも関わらず僕が彼女を追い出したりしないのは、こうして
ドレス作りの相談に乗ってもらえるということもある。
ただ相談料と称してうちに来る度に僕からちょいちょいお金を取っていきはするが。
僕としてものたれ死にはさすがに困るので毎回一万円ほど渡してしまう。僕の稼ぎは
結構これに消えていたりする。
草笛みつはこの日、溜まった洗濯物を洗い、のりが作った夕食をがっつり食べて、
みつ「家庭料理をご馳走になったうえ、畳の上にふとん敷いて寝られるこの幸せー」
などと僕らの安アパート暮らしを存分にエンジョイしていった。
どんだけ図太い神経してるんだか、真紅や翠星石の冷たい視線もものともしない。
最近、貧すれば鈍するということわざを雛苺まで覚えた。
のりはそんな草笛みつとも終始にこやかに会話をしていた。あいつのお人好しもここまで
くると才能というほかない。お前の乏しい稼ぎが食いつぶされてるんだぞ。
金糸雀は他のローゼンメイデンと一緒に過ごせて楽しそうにはしゃいでいた。
あいつだけなら引き取ってやったほうがいいんじゃないかと思うのだが、それをやってしまうと
真剣に草笛みつの人生が終わってしまうだろう。
あんなふうに振舞ってはいるが、多分、金糸雀だけがあの人の心の支えなのだ。
ところでやはり僕のドレスのデザインは10数万を稼ぐにはもの足りないようだ。
今のデザインは破棄して、根本的にアイディアから練り直す必要がある。
なんとかいいドレスを作らないと、人の心配をしている場合じゃなくなってしまう。
ここ数日うまく眠れない。不安で夜中に目が覚めることがある。僕はこのまま2,3万で
売れるドレスしか作れないのだろうか。あるいはそれさえ作れなくなるかもしれない。
そうなったら僕は本当に何も無い人間になってしまう。バイトで必死に働く姉と、内職する
人形に寄生するだけの人間に。それだけは嫌だ。なんとしてもドレスを作って、高値で売ら
なければならない。
しかし焦れば焦るほど、ドレス製作は袋小路に迷い込んだように進まなかった。
そんなある日、水銀燈がアパートを訪ねてきた。
水銀燈「しばらく会えないだろうから、一応あなたたちに挨拶しとこうと思ってぇ」
翠星石「そりゃまたいったいどういう理由がありやがるですか?」
水銀燈「ちょっと出かけるのよ。沖縄までねぇ」
真紅「沖縄?」
雛苺「じゃあヒナも一緒にオキナワ行くなのー」
翠星石「チビチビはあいっかわらず馬鹿ですね。沖縄はめちゃくちゃ遠いんですよ」
雛苺「駅前のスーパーより遠いの~?」
翠星石「比べもんにならねーですよおばか苺。沖縄といったらとなり駅よりはるかに遠いんですー」
雛苺「うぅぅ~~~そんなに遠いなの~」
真紅「でも、どうして沖縄へ?」
水銀燈「めぐがね、相変わらず容態がよくないのよ。それで、珊瑚のあるような海の砂が欲しい
って言うから、調べたら一番近いのが沖縄じゃない。だから沖縄に行くわけぇ」
翠星石「どうやって沖縄までいくですか?」
水銀燈「えーっとぉ、とりあえず鹿児島まで飛んでいって、そこから島づたいに飛んでいけば
なんとかなると思ってぇ」
なんたるアバウト。でも水銀燈のやつは飛べるわけだし確かになんとかなるかもしれない。
そう思って聞いていると、いつになく真剣な顔で真紅が止めた。
真紅「やめなさい水銀燈。海風にそんなに長く晒されたら、ドールとして致命的なダメージ
を受けるのは間違いないのだわ。服も髪もボロボロになってしまうのよ。わかっているの?」
翠星石「そうですよ! それを近所におつかいでも行くように……」
水銀燈「でも、でもしょうがないでしょう!」
うお、いきなり怒鳴った。
水銀燈「めぐは、めぐはいつものわがままで言ったんじゃないのよ。か細い声でぽそっと呟いたの。
だから、だから行くしかないの。行って沖縄の海の砂を取ってきてあげるのよ!」
翠星石「な、ならそこらへんの砂場の砂でごまかすという作戦もあるですよ」
水銀燈「そんなの絶対だめよ! もしかしたら、もしかしたら最後の願いかもしれないんだから……」
序盤のあほらしさはどこへやら。かなり真面目な話だったのか。ただでさえ狭いアパートの
6畳間だが、4体のドールがいる以上の狭苦しさを感じる。
あるいは人間って(いやドールだけど)、シリアスな話ほど明るくごまかすときもあるかもな。
水銀燈「だから私沖縄まで行ってくるのよ。結構時間がかかるでしょうから、ひとつ頼みがあるの」
真紅「なに?」
水銀燈「めぐが寂しがるだろうから、その、私の代わりにたまに見舞いにいってあげて。
私が沖縄にいったのは秘密よぉ。急に持っていって驚かせてあげたいからぁ」
真紅「そう……。わかったわ。水銀燈、必ず戻ってくるのだわ」
水銀燈「当たり前でしょう。約束してあげるわぁ、真紅。じゃ、めぐのお見舞いよろしくね。
会ってくれるだけでいいから」
帰ろうとする水銀燈を呼び止め、僕はPCデスクの引き出しの中にしまっていた、綺麗な
ガラスの小瓶を取り出した。
ジュン「ほら、これに砂を入れてこいよ。入れ物がいるだろ」
水銀燈「あら、そこそこ綺麗なビンね。候補にはいれておいてあげるわぁ」
まったく、せっかくの人の親切をなんだと思っていやがる。
水銀燈は窓から飛び去っていった。やっぱり本気で沖縄まで飛んでいくつもりらしい。
水銀燈が沖縄に向かって飛んでいったその翌日に、蒼星石がアパートを訪ねてきた。
こちらは最初から明らかに深刻な顔をしている。
蒼星石は翠星石を別室の4畳半に呼んで二人で話し始めた。
ふすま越しにときおり、高くなった蒼星石の声が聞こえてくる。
蒼星石「この蒼星石が粛清しようというんだ、翠星石!」
翠星石「それはエゴです!」
蒼星石「間違っているのは僕じゃない。世界のほうだ!」
えーっと、二人でアニメ台詞ものまね大会ですか? ちょっと違うぞ。
この声に先程からひとりで造花を作っていた真紅が立ち上がった。うまく作れなくて
いらいらしているようだ。
真紅「ちょっとあなたたち、静かにしなさい!」
ガラッとふすまを開けて隣室に乗り込むと、真剣な顔の蒼星石と困惑した顔の翠星石が
向かい合っていた。
蒼星石「こうなったら、真紅とジュン君にも聞いてもらおう」
またもシリアスな話か。最近愉快な話を全く聞いていないな。
翠星石「いいですよ。実は、蒼星石が、人の心を殺すから翠星石にも手伝えっていうんです」
さ、殺人かよ。思いつめたもんだな。
真紅「穏やかな話ではないわね。いったいどういうことなの蒼星石」
蒼星石「話せば長いことになるけど、お爺さんが悪い新興宗教にはまってしまったんだ。
統価教会だよ」
ジュン「あの悪名高き統価かよ。でも何で宗教なんかに……」
蒼星石「お爺さんには不安なことがたくさんあったんだ。あいつらは人の弱った心に
つけこむから……
まず、おばあさんが病気がちなのは知ってるよね。だからうちは病院や薬で結構
お金がかかるんだよ。でも老人の医療費負担が増したでしょう。それがお爺さんの
不安の種になってね」
そういえばニュースでそんなこと言ってたな。自分には関係ないから詳しく知らないけど。
蒼星石「それに増えた医療費は年金から勝手に差し引かれるんだよ。お爺さんは自営業
だからサラリーマンだった人より年金も少ないらしくて、それでますます心細くなって
しまって……」
おいおいこのドール、僕よりよっぽど現代日本社会に関する知識があるぞ。
真紅「でもまだお店は開いているんでしょう。年金だけじゃなくてお店の売り上げがあるの
ではなくて?」
そうだ、あのじいさんは時計屋をやっていた。
蒼星石「いや、それが売り上げはあんまりないんだ。古くからのお客さんの時計を直したり、
近所の人の電池を代えたりぐらいだよ。
第一、お客さんがあんまり来ないんだよ。商店街自体から客足が遠のいていてね。
今は郊外に大きなショッピングセンターがたくさんできているから。
それに時計みたいな買い物をするときは渋谷や新宿にみんな電車でいってしまうんだ。
ここからはそんなに遠くないし、品揃えもいいし、ヨドギミカメラみたいな量販店なら
値段も安くなっているんだ。ドンサンチョみたいなディスカウントショップもあるし、
若い人なんかはパルポとか、四角井とかお伊勢たんで買う人が多いよね。ああいうところで
買い物をするライフスタイルそのものに意味があるわけだし。
長くなったけど、そういう理由で売り上げがよくないのも、おじいさんの不安を煽って
いるんだ」
あの、蒼星石、お前はローゼンメイデンだよな。真面目な子だから色々と勉強したのだろうけど、
もはや完全にローゼンメイデンの話すことじゃない。苦労が偲ばれる……。
翠星石「そ、それでもネンキンとか売り上げのお金を足せば、なんとか生活していける
はずですよ」
真紅「そうね、私たちみたいに家賃はかからないのだからなんとかなるはずよ」
蒼星石「うん。そうなんだけど、問題はお爺さんがとても不安だっていうことだから、
そこが解決しないと……。
お爺さん自身も高齢だし、自分が倒れたら妻の面倒を見てやれないっていうのも
不安に拍車をかけてしまっていて。まるで終わらない悪夢の中にいるようだよ」
雛苺「うう~~頭が痛いの~」
会話につられてやってきたものの、その内容は雛苺にはさっぱりのようだ。大丈夫だヒナ、
お前だけじゃないから。
しかし現代日本における社会問題やら消費の仕組みなんてどうしようもなさすぎる。
あ、でも、
ジュン「なあ、お前のハサミでお爺さんの不安の芽をちゃっちゃと切り取ればいいんじゃないか?」
蒼星石「それはもう毎日やっているよ。でも根っこは社会問題だから僕にはどうしようもなくて……
僕も疲れてきたよ。だからお爺さんの気持ちもわかるんだ」
子供から大人までみんなが不安な現代社会。この時代に少しも不安じゃないやつなんて
よほどの金持ちか馬鹿しかいないんじゃないだろうか。そら宗教も流行るわ。
蒼星石は一休みすると、ふっとため息をついた。
蒼星石「とにかく宗教だけでも抜けてもらわないと。だから手っ取り早くお爺さんを騙している
やつらの心を殺してしまうんだ。あんな悪人たちどうなったところで……」
翠星石「殺すなんてだめです! ローゼンメイデンのやることじゃないです! 翠星石も
手伝っておじじの希望の心を育てるです。だから心を殺すなんてことはやめるです!」
蒼星石「そうもいかないよ。お爺さんに何の意味も無い壷やら題目やらを高値で売りつけた
あいつらを許すわけにはいかない。それに今やらないとあいつらは」
真紅「まだあるというの」
さすがに僕もここではピンと来た。悪徳宗教は騙している人間からはなんでも吸い上げ
ようとする。
あの爺さんの家で一番価値があるもの。それは、
ジュン「土地か」
蒼星石「そのとおりだよ。あいつらはうちの土地を狙っているんだ。お爺さんが騙されてその権利
を渡してしまう前にあいつらを止めないと、何もかもが終わってしまうんだ」
比較的都心に近い場所の駅近くの土地である。なかなかの価値があるだろう。
そこに目をつけられたのだ。
このままじゃ爺さん一家は家も追われて、乏しい売り上げさえなくなる。そうなるとまさに
首でも吊るしかない。
ジュン「こいつはさすがにやるしかないかもな」
翠星石「ジュンまでなにを言うです!」
ジュン「ただし殺すってのはやりすぎだ。そんなやつらどうなったっていいけど、僕は蒼星石にも
翠星石にも人殺しにはなってほしくない。だから翠星石がついていって、やりすぎない
ように蒼星石を抑えるんだ」
翠星石「……わかったです。そういうことならオッケーです。ちび人間の割にはいい考えです」
蒼星石「わかったよ。翠星石をマスターに対して不幸なドールにする権利は僕には無いからね。
ただ、それなりに痛い目にはあってもらうつもりだよ」
ジュン「ま、それぐらいはいいだろ。ある意味爺さんたちこそ殺されかけてるんだから」
翠星石「一緒におじじの心も育ててくるです。あの爺さんもそれで少しはマシになるはずです」
蒼星石と翠星石とは、連れ立ってnのフィールドに消えていった。あの大きな鏡だけはこの
アパートにも持ってきている。
しかしなんで僕の周りにはこうも不幸な人間ばかりなんだ。不幸は続くっていうけど、
ジュン「こうも不幸ばっかりだと誰かの陰謀としか思えないな」
なんてことも言ってみたくなる。
真紅「そう、そうだわ! ジュン、今晩つきあってもらえるかしら?」
ジュン「おい真紅、雛苺がまだいるってのにその誘いは……」
鋭い痛みがすねに走る。蹴りか。
真紅「そんな冗談言っている場合ではないわ! 私たちの問題に一貫しているのは、
ローゼンメイデンに関わった人間がみんな不幸になっているということだわ。
それを画策できる存在といえば……。
とにかく今晩はあけておきなさい、ジュン」
おお、くんくん探偵セットが似合いそうだぞ、真紅。
深夜0時頃、雛苺はすっかり眠っている。翠星石はまだ帰ってきていない。
僕と真紅は大鏡の前に立っていた。
真紅「いくわよ、ジュン」
ジュン「ああ」
nのフィールドへと入り、飛ぶような泳ぐような感覚でその中を進んでいく。
真紅はひとつの扉へと僕を導く。
扉を開けると、そこにはヴィクトリア朝期の貴族の一室とでもいうような部屋があった。
僕らのアパートの6畳間の2倍ほどの広さの部屋に、やはり同じ時代に好まれたのだろう
テーブルと椅子が並び、テーブルの上には紅茶が湯気を立てている。
開いている椅子は2脚。紅茶のカップも2杯用意されていた。まるで僕らを迎えるように。
それらから見てテーブルの反対側に、あの兎男が座っていた。
真紅「ひさしぶりね、ラプラスの魔」
ラプラス「おやおや坊ちゃんとおそろいで。どうぞおかけください」
勧められるまま真紅と僕は椅子についた。真紅はためらいもせず紅茶に口をつける。
真紅「美味しいわね。最近紅茶とは呼べない代物しか飲んでいないから、素直に感謝するわ」
ラプラス「お褒めに預かり光栄です」
真紅「単刀直入に聞くのだわ。私たちの身の回りに起こっていることは、あなたのおかげと
いうわけかしら?」
真紅がカップをソーサーに戻す音がやけに大きく響く。
ラプラス「はいともいいえとも。ただひとつ確かなことは、私もまた川面を流れる木の葉です」
兎男の表情は読めない。そもそも兎面に表情はあるのだろうか。相変わらずもって回ったような
話し方をしやがって。
ジュン「なにが言いたいんだ。お前の仕業じゃないってのか?」
いかんこいつとまともに話しても無駄だ。そう思いきや兎男は常になく親切に話し出した。
ラプラス「きっかけは私にあれど、原因は私にあらず。すべては彼らの心と世界に用意されていたのです。
私も流れに従ってそれをほんの少し早めただけ」
真紅「ジュンの両親を失敗する事業へとそそのかし、蒼星石のお爺さんの不安を煽った。
病気のめぐに心象に南国の海の風景を焼き付け、みっちゃんに対しては借金への迷いを打ち消した。
そんなところかしら?」
ラプラス「推理と妄想は紙一重。どこへも顔をだすほど私も暇ではありません」
真紅「そうね。あなたが巴の恋愛にまで絡んでいるとは思えないし、他のことも違うかもしれない。
でも少なくともひとつ以上はあなたのせいなのね」
ジュン「お前、なにが狙いなんだ」
僕は思わずテーブルを叩いて立ち上がっていた。
ラプラス「役者は自らの役を演じるにすぎません。私は脚本家ではないのです」
真紅「あなたの書いたシナリオではないと?」
ラプラス「この世はすべて舞台、男も女も役者に過ぎない」
そのとき、突然のつむじ風にテーブルとカップが吹き飛んだ。とっさに風の吹いてきたほうを
振り向くと、そこには怒りもあらわな金糸雀がヴァイオリンを手に立っていた。
金糸雀「私はお前の虚言にごまかされたりしないかしら!」
真紅「金糸雀!」
金糸雀「二人の気配を感じてついてきたかしら。二人とも、なぜこいつに襲いかからないかしら!
私とみっちゃんをこんな目にあわせたこと、絶対に許さないかしら!」
金糸雀はヴァイオリンの弓を引いて2撃目を繰り出す。しかし兎男の姿はふっとかき消えてしまった。
気付けば周囲も屋敷の一室から、人のいない荒れ果てた古いヨーロッパの都市に変わっている。
頭上から、兎男の声だけが響く。
ラプラス「私をお恨みならどうぞご勝手に。ただ私を憎んでも倒しても、あなたの流れは変わりませんよ。
剣でなぐりつけるよりも、笑顔でおびやかすがよい」
真紅も金糸雀も僕も上空をにらみつけた。どれだけ目を凝らしても、雲の立ち込めた暗い夜空しか
見えなかった。
ラプラス「われらはいかにあるかを知るも、われらがいかになるかを知らず。
すべてをいますぐに知ろうとは無理なこと。雪が解ければ見えてくる。
運命とは、もっともふさわしい場所へと貴方の魂を運ぶのだ」
その台詞が空に響ききってしまうと、もう兎男の声も気配もなかった。
がっくりとうなだれる金糸雀を促して、僕たちはnのフィールドからアパートへと帰還した。
アパートに帰ると、ふくれっ面の翠星石が僕らを出迎えた。
翠星石「こんな夜中に翠星石に黙ってどこ行ってたですか。ようやく悪党退治を終えて
英雄のご帰還だというのに、歓迎すべき二人の姿が見えなかったですよ」
ジュン「いや、べつにやましいことは何も無いぞ」
真紅「そうよ。あなたの知ったことではないのだわ」
ジュン「なんで誤解をまねく言い方するんだよ! ほら、金糸雀だって一緒だし」
まったく真紅のやつ。なに考えてるんだ。
金糸雀「……カナはみっちゃんのところへ帰るかしら」
真紅「泊まっていったほうがよいのではなくて?」
金糸雀「目覚めたときカナがいないと知ったら、みっちゃん発狂しちゃうかしら。
今日はサウナ泊まりだからネットカフェよりはマシかしら」
金糸雀には帰る家すらない。いつまでこんなことが続くのだろうか。
夜が明けて朝が来る。
結局、僕らはふりだしに戻っただけだ。ラプラスの魔が裏で糸を引いているという真紅の
推理は正しかったが、それがわかったところで何が解決したわけでもなかった。
あの兎男の言うことをどこまでまともに受け取るかはともかく、すべてがあいつのせいでは
ないというのも確かだった。社会問題や金融不安まで動かせるわけはない。
ジュン「いったいどうしろっていうんだか、この現状」
真紅「……ジュン、やはりあなたはドレスを作るべきだわ」
真紅の碧い瞳はまっすぐに僕を見据えている。
ジュン「なんだよ、反対していたくせに」
真紅「私はあなたが目先の生活に追われて作るのに反対していただけよ」
ジュン「そういうけどな、生活できなくなったら元も子もないだろうが」
真紅「だから生活費の問題は解決したわ。私と翠星石の内職代が入るから、足しにすればいいのだわ」
ジュン「たいした額でもないし、やっぱり僕のドレスが売れないと駄目だろ」
偉そうに言ったものの、昼間中粘ったドレス作りはすこしも進展しなかった。
その夜、苛立つような落ち込むような気持ちで夕飯を食べていると、のりが思い出したように言った。
のり「そうそう、ジュン君ね、お姉ちゃんパートの時給があがったのよー。
となり駅に北武電鉄グループのデパートがあるでしょう。今度からそこのデパ地下に入っている
お店に行くことになってね、なんとそこでは今までより時給が50円も多くもらえるのー。
真面目に働いててよかったわぁ」
週6で毎日8時間働いて、たかが50円アップかよ。間違いなく搾取されてるぞそれ。
ジュン「そりゃよかったな、のり」
雛苺「おめでとなのーのりー」
それでね、と前置きすると、のりは僕の目を覗き込んだ。嫌な予感がした。
のり「これまでより少しだけどお給料増えるし、翠星石ちゃんたちの内職だって生活費に
当ててくれるらしいの。
だからね、ジュン君、これからは好きなドレスを作っていいのよ。
お姉ちゃん、ジュン君がドレスを作っては売りさばいているのを見て、なにか悪いなって
ずっと思ってたの」
のりまで、真紅と同じことを言うのか。
翠星石「そういうことならしょうがねーですから、翠星石も協力してやるです。
というか、造花の7割は翠星石が作ってるですよ。真紅はすぐ怠けるし仕事が遅いです。
だからご飯だって翠星石7割、真紅3割でわけるです!」
真紅「なにを言うの翠星石。私だって努力しているしそれは認められてしかるべきだわ。
そうだ雛苺、あなたもこれからは手伝いなさい。雛苺は私の奴隷なのだから、この子の作った分も
私のものとして換算されるはずよ」
雛苺「よーーし、ヒナ頑張るのよ~」
翠星石「チビチビは遊びで作りすぎて商品にならんです。材料分はちゃんと作らないといけねーんですよ」
みんなが僕のドレス作りのために協力してくれる。お金は心配しなくていいと言ってくれる。
それは本来喜ぶべきことだろう。ありがとうと感謝するべきだろう。
でも僕は怖かった。なにか怖くて仕方なかった。
今までよりもはるかにドレス作りに向かう僕の気持ちは重くなった。正直逃げ出したいほどだ。
アイディアは何個か湧いてくるものの、それは皆「2万いくかどうかのドレス」のアイディアだった。
それらはもう作ってはいけないドレスなのだ。生活のためという正義は奪い去られていた。
ジュン「こんなのじゃだめだ、こんなのじゃ」
気付けば机に突っ伏して、こう口走っていた。
翠星石「……ジュン、もう焦って作る必要はねーんですからじっくりやるですよ」
後ろで内職をしている翠星石が、あいつからは信じられないような優しい口調で僕を慰める。
振り向けば翠星石と真紅がせっせと造花作りにいそしんでいるのだ。
僕はこの部屋にいることに耐えられなくなり、
ジュン「ひとりでアイディアを練り直す」
と言って隣室のふすまを開けた。
そこでは雛苺がクレヨンで絵を描いていたが、僕の姿を見ると、
雛苺「じゃあヒナはあっちで描くからジュンがこの部屋つかっていいのよー」
と出て行ってくれた。悪いな、と機械的に言いつつふすまを閉める。
部屋で独りになった僕は、ほうっと息を吐いて座り込んだ。
そのままなにもせず、なにも考えられず、僕は畳と自分の足をみつめていた。
2週間が過ぎた。ただ過ぎた。
今日に至ってはもはや「2万いくかどうかのドレス」のイメージさえ湧いてこない。
真紅も翠星石ものりも、ただ時間を喰いつぶしていくだけの僕に対して恨み言のひとつも
言わない。
ここ数日、決して頭から消えないひとつの考えがある。これを実行することはずっとためらってきた。
でももうこれしかない。今の僕にはこうするしかないんだ。
僕は意を決して内職をしている真紅と翠星石を振り返った。
ジュン「なあ真紅。お前の服、ちょっと見せてくれないか」
真紅「かまわないけれど、どうするつもり?」
ジュン「ちょっと見てみたいんだ」
極力平静な声を出そうと努力する。
真紅「……ジュン、あなたはお父様の作った私のドレスから技術を学ぼうというの?
それともまさか、お父様のデザインを流用して自分のものとして使おうと言うの?」
ジュン「ば、馬鹿。僕はただ新作の参考になればと思って……」
真紅はいつものように僕の目をまっすぐに見てくる。
真紅「ジュン、ずっと黙っていたけれど、契約の証であるその薔薇の指輪には、ミーディアムと
ドールの意識を繋ぐ力があるのよ。考えていることが言葉としてわかるわけではないけれど、
話していることの真偽ぐらいは十分伝わってくるのだわ」
僕は改めて自分の指輪をまじまじと見た。じゃあ全部もう見透かされて……?
翠星石「嘘ですよね真紅。そんな話、翠星石も聞いて……」
真紅「ええ嘘よ。だが間抜けは見つかったようね」
……シブいねえ。まったくおたくシブいぜ。確かに僕はローゼンのデザインを流用しようとしたさ。
真紅「ジュン、真似は決して悪いことではないわ。優れたものを模倣することによって文化は伝わっていく。
けれど今あなたが作るものは、あなたのドレスなのよ」
ジュン「べ、べつにオマージュとかリスペクトとかそういうのあるだろ」
真紅「なら、私のドレスにオマージュを捧げたあなたのデザインを見せて頂戴」
一時間後、僕は真紅にラフスケッチを渡した。結果は見せる前から自分でわかっていた。
引き返したかった。でもそんなことはもちろんできない。もうやってしまったことなのだ。
真紅「だめね。あなたの色が出ていないわ。こんなものではお父様から頂いたドレスを使わせる
わけにはいかないのだわ」
ジュン「なんでだよ、別にいいだろ! 感覚を、感覚を取り戻したいんだ。よかったときの。
ローゼンのデザインを元にしたドレスならきっといい感触をつかめるはずなんだ!」
負い目がある分、逆に食い下がってしまう。
真紅「誇り高きローゼンメイデンのドレスを、安っぽい妥協に供するわけにはいかないの」
ジュン「ならもうおまえには頼まない。翠星石、頼む。もうこれしか手段がないんだ」
もはや見栄もプライドも意地もない。いくとこまでいってやる。
翠星石「え、と、その、なんというか……ジュ……こ、このちび人間!
そんなのできるわけねーじゃねーですか!
お、お前は翠星石にローゼンメイデンとしてのプライドがねーとでも思ってやがるですか!
単なるまねっこに翠星石のドレスを使うなんてぜ、絶対許さねーです!」
真紅「雛苺に頼むことも、主人であるこの私が許さないのだわ。
ジュン、今回は聞かなかったことにしてあげるわ。下手な考えは捨てて真面目にやり直しなさい」
もう、もう嫌だこんなの。
ジュン「……何回やったってできるわけないだろ。僕には無理なんだよ」
真紅「無理じゃないわ。あなたには才能がある。ジュン、あなたは天才なのよ」
おいおい今度はおだててくれるのか。至れり尽くせりだな。
ジュン「なにが天才だよ。僕にそんな甘い戯言が通用すると思うなよな!」
真紅「そう。私が甘い言葉をかけたとでも思っているの。残念ながら違うのだわ。
ジュン、本当に才能がある人間はね、どうやってもその才能と無縁には生きられないの。
才能が人生を決めてしまうのよ。その人が望んでいるかどうかに関わらずね。
そのことは時にとても辛く苦しいことをもたらすのだわ。他人は不幸とさえ言う。
それでも逃げることは許されない。戦わなくてはいけない運命が待ち受けている。
ジュン、あなたは真の人形師の素質を持っている。そういう人間のひとりなのだわ」
翠星石「真紅……?」
なに言ってるんだよ真紅。僕はそんな大げさな存在じゃないぞ。
ジュン「馬鹿らしい。それだけの天才なら、なんでドレスひとつできないんだよ!
おかしいじゃないか。お前に人間のなにがわかるって言うんだ! 人形のくせに!」
真紅「人間のことはわからないかもしれない。でも、あなたのことはわかるのだわ」
ジュン「わかってなんかいるもんか! ドレスを作ったのだって深く考えてなんかいなかった!
みっちゃんさんが持ってきたやつを手直ししただけじゃないか。
そうだ、ドレスなんてただの趣味だ。金に問題が無いんだったら辛い思いして作ること
なんかないんだ!
それに僕は中卒ニートなんだぞ! おまけに中学は不登校だ! なかなかいないぞこんなやつ。
そういう意味じゃ僕は天才だな。駄目人間の天才だ。お前が考えているような人間であって
たまるか!」
情けないことを言っていると自分でもわかっていた。でももうとまらなかった。
翠星石「ジュン、なに言ってやがるです! 真紅も急にどうしたんです」
翠星石がうろたえて僕らの間に割って入る。雛苺は視界の隅で声もなく震えていた。
それでも真紅は厳しい表情で僕を見つめている。瞳は蒼く燃えるようだった。
真紅「ジュン、逃げ続けてもいつかは追いつかれるのだわ。それでも自己憐憫に浸っていたい
と言うのなら、勝手にしなさい」
ジュン「言われずとも勝手にするさ!」
僕はアパートを飛び出した。背後から、鉄の扉が乱暴に閉まった音が聞こえた。
真紅とあんなふうに怒鳴りあうなんて、まるで中学不登校時に戻ったみたいだった。
自分では三年のうちにちょっとは精神的に成長したつもりだったけど、事実はまったく
違ったようだ。僕の精神はあの頃のままだ。高校だってやめたし証明には事欠かないね。
外に出れることだけがまだマシってところか。
それにしても真紅のやつ、いったいどうしちゃったっていうんだ。僕のせいじゃないぞ。
意味のわからないことをわめきだしたあいつが悪いんだ。
しばらく歩いてから気付いたが、アパートを飛び出した際、僕は反射的に財布をつかんで
いたようだ。
お、ちょうどお酒の自販機を発見。童顔な僕はまだコンビニやスーパーじゃ疑われたりする
けれど、これなら問題ない。
ビール買ってやろう。昼間っからビールだ。公園に行くのがいいな。
晴れた平日の真っ昼間に公園でビールをかっくらう。これぞ今の僕にふさわしい行為だ。
公園にはぽけっとしてる大学生らしき男、仕事をサボっている外回りのサラリーマン、それに
なにが面白いのかずっと前を眺めてる爺さんの3人がいた。他にいく場所無いのかよ。
ま、僕が言えることじゃないけどな。
350ml缶のプルタブを押し込むと、プシュっと音が弾けた。期待が高まる。ぐいっとビールを
喉に流し込んだ。
まずい。なにこれ。大人はなにが楽しくてこんな苦いもの飲んでるんだよ。
しかし今の僕には昼間から酒。これしかない。我慢して半分ほどまで飲み続ける。
この頃になるとなんだか頭がぽーっとして気持ちよくなってきた。なるほどこのためか。
頭が浮いているような感覚は心地よいので、味を我慢してビールを飲み続ける。ゲップも何度も
してやった。
いいぞ僕。凄く駄目だ。へへ、真紅にこれを見せてやればあのいかれた考えも直るだろうに。
そろそろ一缶飲み終わろうかというとき、僕の視界の中心を紫色の光が掠めていった。
あれ、僕けっこう酔っちゃったのかなと考えたが、違う。まだそこまではいってないはずだ。
あれは。そうだ、あれは水銀燈の人工精霊じゃないか。たしかメイメイだ。なんでこんな
ところにいるんだ。
メイメイはまるで僕を待つように、やや離れたところに浮んでいた。少しふらつく足取りで
急いで後を追うと、メイメイは公園の影へ影へと僕をいざなっていく。
そこで僕を待っていたのは、地面に倒れ伏した一体のドールだった。
髪はばさばさに、服はボロボロになって見る影もないが、それでも見間違えるはずがない。
水銀燈。
僕の酔いは、一気に吹っ飛んでしまった。
僕は水銀燈に駆け寄り、彼女の体を抱き上げた。
ジュン「おい、大丈夫か! 帰ってきてたんだな……」
水銀燈「あ……真紅の……」
僕は思わず息を呑んだ。
水銀燈は服や髪だけでなく、手や顔までひどく傷んでしまっている。
見た目だけでなく、体力的にも相当弱っているようだった。
ジュン「ちょっとここで待ってろ」
手近なコンビニに駆けこみ、紙パックやプラスチックカップの飲料が並ぶ棚を探す。
これだ、ヤクルート66。ヤクルートシリーズで最も高く、乳酸菌パワーは普通の
ヤクルートに対して当社比5倍。「盗んだバイクで走り出す、アメリカの大陸まで♪」の
CMソングが窃盗を促しかねないとして放送中止になったことでも有名である。
何本かまとめてレジに持っていき、お釣りを受け取るのも忘れて公園に走り戻った。
ミルクを飲ませる母親みたいに水銀燈を抱き抱え、ストローを口に持っていく。
水銀燈は少しずつ、少しずつヤクルートを飲み下していった。
時間をかけて1本飲みきると、すこしは体力を回復できたようだった。
ぽつりぽつりと、水銀燈がこれまでの経緯を語りだす。
水銀燈「めぐに沖縄の砂を取ってくるって、あなたたちに告げた後ね、
九州までは結局、トラックやバスにこっそり隠れて乗っていったの。
途中で行き先の違うやつに乗っちゃったりして、引き換えしたりもあったけど、
なんとか鹿児島まで行けたわぁ……。
だけど、飛行場は警備が厳しくてね、沖縄まで飛ぶしかなかったのよぉ。
沖縄から九州への往復で、私の体はこんなになってしまうし、体力もほとんどつきちゃった。
その後は、なんとか行きと同じ手段で帰ってきたんだけど、めぐの病室に砂を置いてきたら、
ふっと気が遠くなっちゃって、気付いたらここに倒れてたのぉ……」
ジュン「柿崎めぐには会わなかったのか?」
水銀燈「この見た目で会えるわけがないじゃない。こんな、こんな体でぇ……」
それっきり水銀燈はうつむいて震えているばかりだった。
僕に出来ることといえば新しいヤクルートを渡してやるぐらいだ。
なんとか、なんとかしてやりたいけど。
ジュン「とりあえず、僕のアパートに来い」
水銀燈「……嫌よ、真紅たちにこんな姿を見せるぐらいなら死んだほうがましだわ」
ジュン「じゃあいつまでもここに倒れてるっていうのか。姉妹で遠慮してる場合じゃないだろ!」
水銀燈「あなたにはわからないわよぉ」
水銀燈には悪いけど、この状況で放っておくなんて寝覚めが悪すぎる。僕は無理やりにでも
連れて帰ることに決めた。
ジュン「お前の鞄はどこだ?」
水銀燈「さぁ、知らないわぁ」
メイメイがくるくると飛び回ってから、先程と同じように僕を誘導する。場所を教えてくれるらしい。
水銀燈「だ、駄目よ、メイメイ」
ジュン「ここで待ってろよ。絶対だからな」
主人の懇願を振り切ったメイメイに着いていくと、病院の近くにあるもう使われていない教会に
ついた。ここが水銀燈のねぐらのようだ。
そこにあった鞄を引っつかみ、急いで公園に戻る。
水銀燈は動けぬ体でもなんとか逃げようとしたようで、前とは少し離れた場所に倒れていた。
ジュン「こんな状態でどうしようっていうんだ」
僕は水銀燈を鞄の中に寝かせ、彼女の入った鞄を抱えてアパートへ戻ることにした。
あんなふうに飛び出してきた後だから気まずさはあったけれど、もはや変な意地を張っている
場合じゃない。
真紅はジュンの飛び出していった扉をしばらく見つめていたが、やがて大きなため息を
ひとつつくと、内職仕事へと戻っていった。
翠星石にはこの状況がうまく理解できなかった。
確かにジュンのやろうとしたことは、ローゼンメイデンである自分たちにとって認める
わけにはいかなかった。姉妹のなかでもひときわ誇り高い真紅が怒るのはわかる。
しかしその後に真紅が語ったジュンに過酷な運命が待っているかのような話と、
それを押し付けるかのような剣幕には、隣で聞いている翠星石さえ恐怖を感じた。
雛苺は幼い性格ゆえか、それとも真紅を信用しているのか訊くのにためらいがない。
雛苺「真紅どうしてジュンをいじめるの~? よくないのよー。
ヒナすごく怖かったの」
真紅「いじめたわけではないのだわ。でも、怖がらせてごめんなさい雛苺、翠星石」
おかげで翠星石にも尋ねやすい雰囲気ができた。
翠星石「ジュンが天才だとか運命だとか、いったいなんなんです真紅。
あの夜ラプラスの魔のやつに会ってきたって話は聞きましたが、
そのときに起こったことでなにか秘密にしてるんじゃねーでしょうね」
真紅「秘密などなにもないのだわ。あなたには全て話したつもりよ。
ただ私は直接ラプラスの魔に会ったから、あなたより色々と感じてしまったのは
あるかもしれない」
翠星石「とにかくあまりジュンを追い詰めても意味はねーですよ」
真紅も、自分に急ぎすぎたところがあったとは思っている。
しかし……、
真紅「言い過ぎたかもしれないけれど、私は自分の考えが間違いだとは思わないのだわ」
翠星石「真紅も言い出すと頑固すぎるです。このままじゃジュンが帰ってきても
また同じことの繰り返しになるだけです」
雛苺「ん~みんな仲良くするのー」
真紅はまたため息をついた。
その後は話す者もなく、翠星石も真紅も黙々と造花を作り続けた。
どれ位の時間が経ったか、ドアノブを回す音がして、キィーっとドアが外から開かれた。
雛苺「あ、ジュンが帰ってきたのー」
雛苺が扉を開けて入ってきた人影へと走り寄る。
僕がアパートの扉を開けると、いきなり雛苺が抱きついてきた。
雛苺「ジュン、お帰りなの~。帰ってきてよかったの~」
適当にあしらって、水銀燈の入った鞄をアパートの中へ引っぱりこむ。
また真紅とぐだぐだするのも嫌だし、気を使われるのもごめんなので、一気に本題に
入るべく、真紅たちの前にどんと鞄を置いてしまう。
ジュン「いきなりだけど、こいつを見てくれ。こいつをどう思う?」
真紅「この鞄はローゼンメイデンの……これをどうしたのだわ、ジュン」
少しだけ鞄を開けて、わずかな隙間から中の様子を伺う。水銀燈は眠っているようだ。
起きる気配も無い。
ジュン「おまえら、騒いだりするなよな」
悪いな水銀燈。僕は他人のことにはがさつなんだ。
一息に鞄を開けてしまい、中を真紅たちに見せる。三人は揃って口に手をあて、
驚きの声をのみ込んだ。
『水銀燈……!』
翠星石「ズタズタのボロ雑巾になってやがるですぅ……」
雛苺「お顔が傷んじゃってるの~」
真紅「いったいなにがあったの、ジュン?」
僕は公園で水銀燈を発見してからの経緯を、三人に説明した。
ジュン「放っておけないし連れて帰ってきたんだけど、深くは考えてなかった。
なんとか直してやりたいとは思うんだけど……」
真紅「めぐはこのことを知らないのね」
翠星石「頼まれてた見舞いにはひまなちび苺や金糸雀が行くことが多いですが、
とりあえずは黙っていたほうがよさそうですかね。できますかちび苺?」
雛苺「嘘をつくのは翠星石のりょうぶんなの。ヒナ自信ないの……」
翠星石「なんですっておばか苺!」
真紅「めぐのことはそれでいいわね。問題は水銀燈をどうやって直すかよ」
揉めてる場合じゃないので僕は翠星石を止めておいた。雛苺の言う通りだし。
あらためて真紅たちと一緒に水銀燈を観察してみる。服や靴、長い髪、そして服に
覆われていない直接外気に接する部位の損傷が激しい。当然、顔も傷んでしまっている。
真紅「顔はドールの命、髪は女の命だというのに。……なんてことなのだわ」
翠星石「昏睡してるって感じで起きる心配はなさそうですね。
服を脱がせて全部調べるです。もちろんジュンはここから立ち入り禁止です!」
ジュン「別にいいけどさ、僕は人形に欲情したりしないぞ。本当だからな」
僕は真紅たち3人から離れて、背を向けて座った。
雛苺「水銀燈は胸がふくらんでるのー。ヒナや真紅とちがうのね」
真紅「雛苺、最近は小さいほうがステータスなのよ。覚えておきなさい。
服の下はどこもそれほど傷んでいないわね」
翠星石「ローザミスティカも無事です。だから体力的にはこのまま眠れば回復するはずです」
程度の差こそあれ、お前らはお父様の趣味のおかげで全員ステータス抜群だよ。
というか真面目にやれよな。
僕たちは再び水銀燈を鞄の中へと戻した。
こうしておけば水銀燈は体力的には回復する。でもドールとしては致命的なほど傷んで
しまっていた。服だけでなく、顔や髪にまで大きなダメージがある。
僕は彼女を直してやりたいと思っている。でもそれを成しとげる力は僕には無い。
ローゼンメイデンである水銀燈を直すということは、傷ひとつない完璧なドールとして
蘇らせることを意味する。あんなに損なわれてしまった人形や服を、何もなかったかの
ように修復しなければならないのだ。
僕はかつて奇跡的に真紅の腕を直してやることができたが、あれはパーツ自体は損なわれて
いなかったし、服も今回のように全体が損傷してしまったわけではなかった
水銀燈を直すためには、ローゼンメイデンをきちんと修理できるだけの技術があり、
かつローゼンメイデンを詳しく知っている人間が必要だ。
でもそんな人間、製作者であるローゼン以外にいるわけがない。
真紅「やはり、こうなってしまってはお父様しか……」
このままあの気まぐれなローゼンを待つしかないのだろうか。水銀燈を直すことのできる
人間はいないのだろうか。
水銀燈。3年前にはあんなに激しく争ったというのに。いまやその水銀燈をなんとかして
救いたいと思っているなんて。そういえば、僕が直した真紅の腕を引きちぎったのはあいつだった。
昔のことを思い出していると、何かが僕の頭にひっかかった。
なんだ。考えるんだ。真紅が水銀燈を倒したその後だ。あいつが現れた。そうだ、あいつだ。
薔薇水晶。
ローゼンメイデン第7ドールだと名乗った、偽のローゼンメイデン。真紅や翠星石のような、
本物のローゼンメイデンさえ騙されたほどの人形。最後の最後、決定的な何か以外はほとんど
ローゼンメイデンと同じだった人形だ。
そんな薔薇水晶を作ったあの男、
ジュン「エンジュだ。槐なら水銀燈を直せるかもしれない」
真紅「あぁ……花びらがこんなにうるわしく。素敵よ翠星石。
あなたの指先はまるで美しい旋律を奏でるよう」
翠星石「真紅、もっとやってほしいですか? それとも自分でしますか?」
真紅「ええ。自分でするから見ていてくれる……?」
翠星石「もちろんです。さあやってみるですよ……」
翠星石「ちょっと真紅、また細かいところが雑です。そんな造花じゃ売り物にならねーですよ」
真紅「私には内職なんて向いていないのだわ。そもそもこれで時給いくらになるというの?
とんでもない労働者への搾取だわ。万国のプロレタリアートよ団結しなさい」
翠星石「姉妹の中でも一番貴族趣味のドールが言うことじゃねーですね」
真紅「庭師のあなたはいいわね。こういうことに疑問すら抱かなくて」
翠星石「はいはい。私たちに出来る仕事なんてこれぐらいなんだからしょうがねーです。
くっちゃべってる暇があったら手を動かしやがれです」
真紅「ふふ。あなたが私の姉らしくなるなんて、昔は思いもしなかったのだわ」
翠星石「だから、ここはこうするです」
背後からいつものように真紅と翠星石の会話が聞こえてくる。雛苺は柏葉の家へ
遊びに行っている。
かつて僕らが住んでいた家で、僕が真紅と出会ってから3年がすぎようとしていた。
あの頃は想像することもなかったが、木造の築30年以上のアパートの一角にある
6畳と4畳半の二部屋。ここが今の僕らの家だ。ここに引っ越してからもうすぐ
半年になる。
ということは僕、桜田ジュンが私立高校をやめてからやはり半年がたつのだ。
急に僕らの家を手放してここに引っ越してくることになったとき、文句ばかり言うかと
思っていた真紅たちは意外にもそれほど騒がずに現状を受け入れた。
今ではのりに頼んで造花作りの内職仕事をもらってくるようにまでなっている。
それがローゼンメイデンにとって良い事なのかどうかはわからないけれど。
真紅「もうお昼だわ。昼食を兼ねて休憩にしましょう」
翠星石「真紅全然できてやがれねーじゃねーですか」
真紅「ジュン、あなたもいいところで切り上げるのだわ」
そう言われて僕はパソコンの画面から目を放した。
新作のデザインは煮詰まっている。ついさっきまでも構想を練っているふりをして、
ニカニカ動画でサムネに釣られてしまった。
ジュン「じゃ、昼にするか」
昼食用にのりが作っていったおにぎりを丸いテーブルに並べる。
昔は昼飯にピザを頼むという豪勢な暮らしを送っていたが、いまやこれが毎日だ。
といっても普通はこんなものだろう。
そうそう、中学の頃の僕は姉のことをお前とか呼んでいたが、さすがに今はもう
やめていた。かといって素直に姉さんだとか姉ちゃんだとか呼ぶことも恥ずかしく、
名前で呼ぶことに自分の中で落ち着いたのだ。
真紅「ジュン、お茶を入れて頂戴」
僕がいれるお茶もかつてのようなアールグレイやオレンジペコーだかではなく、
近所のスーパーで特売していたレプトンの一番安いティーバッグだ。
真紅は文句をいいつつも、お茶を飲む習慣だけは変えない。
真紅「ミンチよりひどいお茶なのだわ」
翠星石「くんくん探偵0080のウサギのバーニーじゃねーですか」
ジュン「仕事をするとか言いつつ一緒にくんくんシリーズばっかりみやがって……
そもそもおにぎりに紅茶はまったく合わないだろうが」
真紅「ウサギ……たまにはウサギの肉でも食べたいわね」
翠星石「のりにシチューにしてもらうのがいいです」
ジュン「……日本ではウサギの肉なんてそうそう売ってないぞ」
真紅「今度ラプラスの魔に会ったら罠をはって捕まえましょう」
翠星石「ちび人間は血を抜いたり皮を剥いだりできますか?」
ジュン「できるわきゃねえええだろおおおおおおお!!
ていうかあいつウサギなのかよ! そもそもウサギ食うのかよお前ら!」
真紅「ただの冗談よ、落ち着きなさい。でもウサギを食べるのがそれほどおかしいの?」
翠星石「翠星石も前に目覚めてたときはたまーに食べたですよ」
ジュン「呪い人形どもめ……ま、バニーちゃんなら僕も食べてみたいけどな」
真紅「…………」
翠星石「…………」
オーケーわかったよ。僕が悪かった。
しかしあれだ、うら若い呪い人形が2体もいればこんなことを言ってみたくも
なるというもの。誰が僕を責められようか。
そんなこんなのなんだかんだで、僕、桜田ジュンは中学不登校のうえ中卒ニートな
人生を、何とか絶望せずに生きていた。
槐の名前を聞き、ドールたちはいっせいにジュンのほうに顔を向けた。
真紅「エンジュって……あの薔薇水晶の?」
ジュン「ああ。あの人の技術なら水銀燈を直せるはずだ。ローゼンメイデンのこともよく知ってる」
翠星石「あんなやつ信用ならねーです! だいいちあいつは消えちまったです!」
ジュン「あの時光の中に消えていったことが、エンジュの死や存在の消滅を意味したとは限らない。
どこかへ飛ばされて生きているのかもしれない」
翠星石「居場所がわからねーんじゃ同じです」
やはり、突拍子の無さすぎる考えだっただろうか。
雛苺「見つかったとしても、きっと水銀燈をばらばらにしちゃうの!」
翠星石「そうです。あいつは私たちを恨んでるに決まってます。薔薇水晶はぶっこわれたです。
翠星石のローザミスティカを取ったりしたから自業自得ですけど、きっと逆恨みしてるです!」
ジュン「確かにエンジュがどう出るかはわからないんだけど……他に方法があるなら言ってくれ」
雛苺や翠星石の言う通り、槐から復讐を受けるというのは十分ありえる話だ。他に妙案があるようなら
聞きたかった。
雛苺「じゃ、じゃあね、とにかく人形作りのうまい人に頼むの。普通の人形ってことにするの」
真紅「ローゼンメイデンを修理できるだけの人間を探すのは大変よ。
見つかっても、素直に修理してくれるとは限らない。私たちのことを知っていれば、
『あのローゼンメイデンがこの手に』と邪な考えを起こすかもしれないのだわ」
翠星石「やっぱりお父様を待つしかねーです。待てば海路のひよこありです」
雛苺「でももしお父様が遅くて、傷ついたまま体力が戻ったりしたら、水銀燈はどうするなの?
ヒナだったら、目覚めたらボロボロだったなんて嫌なの」
真紅「そうね。体力だけが戻ったら、傷ついてしまった自分を許せないかもしれない」
なかなか全員の賛成を得られる意見は出ない。
真紅「『会議は踊る。されど進まず』ね」
翠星石「『真紅、君の意見を聞こう!』です」
真紅「私は……ジュンに賛成だわ。エンジュを探すのよ。確かに消え去ったからと言って存在が
抹消されたとは限らない。nのフィールドを探せば会うことができるかもしれない。
復讐されるかどうかは、結局会ってみないとわからないことだわ」
そう言うと真紅は大鏡の前に向い、nのフィールドへの扉を開いた。
真紅「あの男の気配を探してくるのだわ。見つけたら引き返してくる。会えるものなら、会えるはずよ」
翠星石「ちょっと真紅、結論は出てねーですよ!」
翠星石の声が届いたかどうか。すでに真紅はnのフィールドへと飛び込んでいた。
翠星石「どうも最近の真紅はひとりで突き進みがちです。いったいどうしたですか……」
ジュン「ラプラスの魔、以来かな。あいつの適当な言葉に踊らされてるんじゃなきゃいいけど」
自分で提案したことながら、真紅があそこまで性急に動くとは僕自身も考えていなかった。
約一時間後に、真紅はnのフィールドから帰ってきた。
真紅「行くわよ、ジュン。水銀燈の鞄を持ってきなさい」
ジュン「見つかったのか!? 真紅」
いくらなんでも都合がよすぎる。
真紅「おそらくね。あの男のような気配を感じたわ。いえ、むしろ教えられたというべきかも」
どういう意味なんだ。
真紅「やはりあなたなら会えるのだわ、ジュン」
真紅のつぶやきは小さく、聞き逃してもおかしくはなかった。
それは僕に聞かせるためのものではなかったはずだ。
僕は一抹の不安を覚えたが、言い出したのはこっちだ。引くわけにはいかない。
ジュン「よし、行こう。こうなったら出たとこ勝負だ」
翠星石「待つです! いつエンジュに水銀燈を修理してもらうことに決めやがったですか! 危険です」
真紅「水銀燈なら、壊されないように一緒に修理する人間がいればいいのだわ。
そうね、その人間には現実社会での用事がほとんど無くて、nのフィールドの先にある特殊な空間に
入り浸っても特に問題が無いとなると、最高の逸材なのだけど」
ジュン「おいお前な」
真紅「エンジュがなにをしようと、あなたが水銀燈を守るのだわジュン。
それが彼女を拾ってきたものの責任よ」
ジュン「……わかった。そもそもエンジュの名前を出したのは僕だからな」
翠星石「ジュンまで!」
真紅が翠星石を振り返った。
真紅「あなたと雛苺にも来てもらうわよ。いざとなれば、戦いは数だわ、翠星石」
翠星石「真紅、あんたちょっと勝手すぎるです!」
耳も貸さず、真紅はさっさと鏡の中へ飛び込む。
僕もあわてて後を追った。
翠星石と雛苺も、止めるのか追いかけるのかわからない形でついてきている。
nのフィールドにある扉を抜けた先には、昔のぞかせてもらった槐のドールショップの
作業室と同じような部屋が、大きさだけ何倍にもなって広がっていた。
もちろんそこでは、
槐「やあ……。来るのはわかっていたよ。こちらも僕を探している真紅の気配を感じていた」
あの槐が僕たちを待ち構えていた。
翠星石は如雨露を構え、雛苺も手を前に突き出す。
真紅「待ちなさい二人とも。こちらの要求は戦いではないはずよ」
槐「ほう。まさか真紅がただ僕に会いに来てくれたとも思えないな」
僕は口を聞くことができないでいた。
僕たちに突き刺さる数十もの視線のせいだ。
僕らの全周囲を、かつて何体ものローゼンメイデンを倒したあのドールが、全く同じあの無表情で、
取り囲んでいた。
ジュン「薔薇水晶、こんなに……」
翠星石と雛苺が警戒態勢を取ったのも当然である。
槐「あの日、光の中に消え去ってから、僕は気付いたらここに座っていた。それ以来、僕は薔薇水晶を
作り続けている。毎日毎日ね。君たちの世界とは時間流れそのものが違うから、どれくらいの
時間が経ったのかはわからないが」
数十体もの薔薇水晶を、この男はただひたすら作り続けてきたというのか。
槐「それで、僕に何の用があるのかな」
僕は意を決して前に歩を進めた。水銀燈の入った鞄を槐の前に押し出す。
槐「これは……」
無言のまま、鞄を開けて中を見せた。
槐「第一ドール、水銀燈か……。かなり傷んでいるようだが」
ジュン「こいつを、直すのを手伝ってほしいんです。あなたの力を貸してください」
槐はまったく表情を変えない。僕には彼の感情が読めなかった。
槐「あの日、僕の薔薇水晶は、僕の腕の中で崩れていった。僕は今でもあの感覚をすぐさま思い出せる。
その僕に、この水銀燈を直すのを手伝えというのか?」
槐が立ち上がった。それと同時に、数十もの人形の2つの瞳が一度に輝いたような気がした。
槐はそのうちのいくつかに歩み寄る。
槐「僕はこの手に残るあの感覚とともに、薔薇水晶を作り続けた。中には特別な機能を
高めたものもある。僕の唯一の客である君たちに、紹介してあげよう」
槐はあるいは一体を撫で、あるいは抱き寄せて自分の人形について語り始めた。
槐「これは可変型薔薇水晶。飛行形態に変形することで様々な状況に対応することができる。
砲撃戦用薔薇水晶。水晶弾の射程が長く威力も大きい。体中からの水晶弾の一斉射撃も可能だ。
水中専用薔薇水晶。スペード社の新型水着を採用することによって水中ですばやく動ける。
またスクール水着装備に換装することで、敵の油断を誘うこともできるようになっている」
え? あるぇ、こういう展開になる話の内容だったっけぇ?
槐「若奥様風薔薇水晶。メイドさん風薔薇水晶。飲み屋の女将風薔薇水晶。
これらは戦闘能力以外の
強化に努めた人形だ。メイドさん風薔薇水晶はドジを踏む能力を、飲み屋の女将風薔薇水晶は
晩酌のつまみを作る能力を高めてある。
そして若奥様風薔薇水晶は……ふふっ」
槐、貴様若奥様薔薇水晶の何をを強化したああああああああ。
こんなやつ僕の知っている槐じゃない。エンジュだエンジュ。カタカナがふさわしい男だ。
槐「僕はこうやって何十もの薔薇水晶を作り続けた。しかしどれだけ作っても僕の手から、
あの日の感覚は消えない。
どれだけ精巧に、全く同じに作っても、あの日僕の腕の中で崩れていった、あの薔薇水晶には
届かないんだ。技術なら、技術ならとっくにあの頃の僕を上回っているはずなのに」
85 : 愛のVIP戦士@全板人気トナメ開... - 2008/06/05 00:21:01.45 EsRCcNSq0 76/180パロディもののさらにセルフパロディ。
エリザベス「なによこれ! 途中まで凄く真剣に読んでたのに、くだらないネタが入ってるわ!
私はシリアスな話が読みたいのに!」
ウォルター「どうしたんだよエリザベス。えぇ、君らしくないじゃないか。怒っちゃってさぁ」
エリザベス「ああ、ウォルター。これを見なさいよ>>77 怒らずにいられる?
途中まで真面目に書いておきながら、いざというときにこうするのってないと思わない?
私だって忙しい時間の合間に読んであげてるのよ。
フェリペやメアリーにだって会わなくちゃいけないしぃ」
ウォルター「オーケーオーケー。君は真面目に読みたい派なんだね。
だったら、こう! >>77をメモ帳なんかの適当なところにコピー&ペーストだ。
そして真ん中のしょうもない部分だけ消しちゃうんだ。ほら」
エリザベス「すごいわウォルター。シリアスな話になるじゃない!」
ウォルター「上部の『語り始めた』がおかしいから、ここを『語った』なんかに変えるとさらにいいね」
エリザベス「ありがとうウォルター。だからあなたって好きよ。最っ高」
ウォルター「ふぅ。とてもエリザベスには、たまたま切り取れることに気付いたなんていえないなぁ。
この先もきっと悪ふざけするだろうし。困ったもんだ」
風呂で思いついてしまった。自己満ですまん。真面目に続きを書いてきます。
語るだけ語ると槐は再び椅子に腰掛け、そのまま黙り込んだ。
数十秒の沈黙の間の後、僕は再び水銀燈の修復を頼んだ。
ジュン「直せるのはあなたしかいないんです。僕もなんでも手伝います。お願いします!」
槐「ローゼンはどうした? 彼が直せばいいだけだろう」
ジュン「それはそうなんですけど……あなたのことを見つけて……」
いや、僕の意見があったとはいえ、真紅は最初からローゼンではなく槐のことを探すと決めていた。
槐「ま、いいさ。直そうか」
唐突な答えに僕は耳を疑った。今、なんて。
槐「聞こえなかったかい? 僕が水銀燈を直すといったんだ。ただし条件がある。
真紅を僕に調べさせてくれ。ローゼンメイデンの構造をよく知りたいしね。
水銀燈はその後に直そう」
ジュン「し、真紅を調べるって、どのぐらい」
槐「隅々まで。ふたりきりで」
お前はいったいなにを言っているんだ。
ジュン「そんなこと許せるわけ……」
真紅「乗ったわ。その条件」
真紅。お前、
真紅「ただしこちらも条件を加えさせてもらうわ。あなたが調べるのは人形師としてよ。
それ以外のことをしようとしたら、容赦なくあなたを攻撃するわよ」
槐「君に殺されるなら本望だが、了解しよう。もともとこちらとしてもそのつもりだ」
翠星石「真紅、こいつが約束を守る理由はないです! あなたを壊すための罠かもしれないです」
そうだ。僕は水銀燈が破壊されないために来たんじゃないのか。なのに、
真紅「大丈夫。この人は私との約束は守るのだわ。そんな気がするの」
そういうと真紅は槐の元へと歩み寄った。二人は別室へと消えていく。そんな気がするって……。
ジュン「ちょ、おま、待てよ!」
雛苺「真紅ぅー危なくなったらヒナたちをすぐよぶのよぉー」
雛苺の声が間の抜けた感じに響いた。もちろん本人は大真面目なのだろうが。
この空間の時間がどう流れているかはわからない。時計も無い。だから真紅と槐が別室にいた
時間がどれぐらいかもわからないが、とにかくしばらくして二人はこの部屋に帰ってきた。
僕と翠星石と雛苺は、そのあいだ中、数十の薔薇水晶(でいいのだろうか?)に囲まれて、
落ち着かない時間を過ごした。ただでさえ真紅が心配だっていうのに。
翠星石「うぅ……水晶に閉じ込められたのを思い出すですぅ……」
ジュン「大丈夫か、翠星石」
雛苺「ヒナも怖いの……」
自然と僕らは身を寄せ合っていた。四面楚歌ってレベルじゃねーぞ。
だから真紅が帰ってきたときは、ふたつの意味で心からほっとした。
翠星石「真紅、無事ですか!? あの変態野郎にへんなことされてねーですか?」
真紅「私なら大丈夫よ翠星石。危なかったけれど」
ジュン「は、裸にされたりとかは……」
真紅「それはあったけれど、あくまで人形と人形師のものだったし……」
駄目だ! 僕の大事な人形がぁ。
真紅はそんなことなんとも思っていないのか平静そのものだ。なんだよ、少しは気にしろよ。
真紅「さ、今度はあなたが約束を果たす番よ、エンジュ」
槐は右わき腹を抑えながら、こくこくと頷いた。リバーをやられたか。
槐「……約束通り水銀燈を直そう。ただし監視はいらない。僕の人形師としての誇りにかけて誓おう」
その肝臓のダメージはそれを捨てかけた証じゃないのか。
ジュン「僕にも手伝わせてください」
槐「いらん。邪魔だ。君に何かできるとは思えん」
ここで引き下がってたまるか。ここまで好き勝手しやがって。
ジュン「真紅とあなたの約束には僕が手伝うことも入っていたはずだ」
槐「足手まといの助手はいらんと決めるのは職人の権利だ」
真紅「さっきのルール違反であなたはその権利を放棄したわ。許してあげるから、ジュンを使いなさい」
この野郎いったいなにしてんだ。
槐「まあ真紅の頼みなら聞いてもいい。しかしそこまで僕を信頼できないなら、そもそも話をもって
くるべきじゃないな」
ジュン「それだけじゃ、ないです」
むしろそれより、
ジュン「僕は、僕は人形の直し方、作り方がわかりません。
水銀燈だって、僕に人形師としての力があれば、この手で直してあげられたのに。
もしも僕の人形である真紅や翠星石、雛苺たちが傷ついてしまうようなことがあっても、
僕には自分の力で直してやることもできない。今度のことでそれを痛感したんです。
だから、だからあなたから少しでも学びたいんです!
あなたの力は本物です。薔薇水晶も、あのドールショップにあった人形も、みんな素晴らしかった。
あなたから学んで、ちゃんと真紅たちを直せるようになりたいんです!」
翠星石「ジュン、そこまで考えてたですか……」
槐はじっと僕の顔を見ていた。彼がきちんと僕の顔を見るのは、ここにきて始めてのような気がする。
槐「もし君と同じことを女の子や真紅が言ったなら、僕はそこの翠星石と同じように目を潤ませていることだろう。
でも僕と君とは男同士だからな。
『偉そうなこと言うだけ言ってなにもできません』ってやつが、一番頭にくる。
君になにができる。言ってみろ」
僕に、僕に少しでもできること。
ジュン「人形本体はすこしいじったことがあるぐらいで……でも、ドレス、服や靴なら力になってみせます!」
槐は無言で水銀燈の鞄に歩み寄ると、ボロボロになった彼女のドレスを脱がせて僕の目の前に持ってきた。
槐「そこまで言うならこれを君の力で直してみろ。それができたら、君に人形作りを教えてやる」
僕は槐からドレスを受け取った。
槐「ワンピースにつけるコサージュだけでいい。この砂が全部落ちるまでに仕上げるんだ」
テーブルに特大の砂時計が置かれる。僕の現実世界の時間でいえばゆうに
4時間はありそうだ。
槐「必要な道具は全部そこに揃っているから自由に使っていい。大事に扱ってくれ」
そう言うと槐は若奥様風薔薇水晶をつれて他の部屋へと消えていった。
まず潮風に傷んだドレス全てを慎重に洗剤量を調整した水で丁寧に手洗いする。
翠星石「ジュン! そのドレスはもう魔法でも使わなきゃ直せねーですよ!
それにあいつはどうせ難癖つけてジュンを追い出すつもりでいやがるです!」
熱量に十分気をつけてドレスをドライヤーで乾かす。
ヒナ「もう布自体がぼろぼろなの。どんなに丁寧にやってもしかたないのジュン」
それでも僕はドレス自体を、綺麗に洗ってやりたかった。
ワンピースについている胸のコサージュは完全に傷みきっていて、デザインの参考に
するのが精一杯だ。
材料である布も用意されている。自分の力で作ってもよいということだろう。
砂は3分の1が落ちただけだ。今の僕の力を全部コサージュに注ぎ込むだけの時間は
十分あった。
すべての砂が落ちきったとき、槐が僕たちのもとへ帰ってきた。
僕のコサージュも、ちょうどそのときに完成した。
僕はコサージュを槐に手渡した。自分に作れる限りのものは作ったつもりだ。
まじまじと見つめた後、槐は首を振った。
槐「……君はこんなものをローゼンメイデンの胸元に飾るつもりか?」
翠星石「なにを言うです! 最初から真面目に見るつもりもねーくせに!
ジュンを追い返す作戦だってことは翠星石にはバレバレなんです!」
槐「不服ならこれを見ろ」
槐は身に着けている作業用のエプロンから人形用の小さなショーツを取り出した。ピンク。
槐「あ、間違えた。今のとこカットしといて」
できねーよ。
槐は慌ててショーツを引っ込め、代わりに僕が作ったものと同じ箇所のコサージュを取り出す。
槐「僕が作ったものだ。比べてみろ」
槐作のほうが技術的に優れていることはもちろん、僕のものには無い、内側から輝くような
何かがあった。
僕はその場にへたり込んだ。比べる対象にすらなりはしない。
翠星石「す、翠星石は認めねーですよ! お前みたいなやつが水銀燈を直しやがるのは!」
ヒナ「ジュンのだってなかなかかわいいのよ、ジュン……」
なぐさめられると、泣きたくなる。
槐「僕は作業にかかる。真紅、邪魔だからこいつらを連れて帰ってくれないか」
真紅「ええ。それじゃエンジュ、ジュンをよろしくね。あなたに任せるのだわ。
ただしそんなのでも私の下僕。なにかあった場合はただじゃおかないのだわ」
え? 真紅、お前今なんて……。
僕ははっと顔をあげた。
槐「君とただならぬ関係になれるなら、それもひとつの手段か……」
槐は僕のほうを向くと、水銀燈のドレスを手に取った。
槐「こいつに免じて君を僕の徒弟にしてやる。
だがこのドレスはもう駄目だ。一から作り直す。破損が大きく修復不可能な部位もだ。
僕の工房に来たからには、僕のやり方でやらせてもらうぞローゼン。
それぐらいの権利はあるはずだ」
槐は斜めに顔を上げ、天井をにらみつけた。それから視線を僕に戻す。
槐「とっとと立て。君の時代ならいざ知らず、昔なら徒弟修行を始める齢はもうとっくに
すぎている。言っておくが、僕には男をちやほや甘やかす趣味は無い」
始めの一週間、僕は作業場の管理や道具の扱いを徹底的に叩き込まれた。文字通り叩かれる
こともあった。槐曰く、
槐「お前は促成栽培だからな。ぐずぐずしている暇は無いぞ」
ということだ。
僕は正の字を書いて眠った回数を数えている。こうしておけば朝も夜もないこの空間でも
日にちの感覚を保っておくことができる。時間の計り方には砂時計を用いていた。
水銀燈は仮死状態で眠り続けていた。槐によるとこの数年で生み出したドールを眠らせる秘薬らしい。
薔薇水晶の改良などで何度も使っているから大丈夫だと言う。僕は信じるしかない。
槐は水銀燈自身を参考に陶土を使って頭部と腕の型を取る。これらの箇所以外は損傷が少なく
修復可能だ。軽く焼いた後に水の中で目を切り大きさを整える。水の中で研いで磨く。そして焼成する。
後は絵付けをして再び焼成する。
槐「お前にも手伝わせるが、各部やドレスや靴の洗練された技術を要するところは僕が作っていく。
ただし身体もドレスも、最後にはお前が組み立てろ」
ジュン「僕が……? あなたがやるんじゃないんですか?」
槐「お前がやるんだ。そのためにも学べ。そんな腕では水銀燈をよみがえらせることなどできん」
人形のことだけを、人形師として成長することだけを考えて暮らす時間は瞬く間に過ぎていく。
もう2週間が過ぎた。作業は進んでいく。今日はドレスの各部を作っていた。
槐「よし今日はここまでだ。飲み込みは早いようだが悪い癖が抜けていない。修練しろ」
作業が終わると、僕は疲れきって自分のベッドに倒れこんだ。
食事を作ったり家事をしたりは色々なタイプの薔薇水晶がやってくれるのが救いだ。
メイド風薔薇水晶が僕に紅茶を運んできてくれる。転んでカップを割った。
薔薇水晶「ごめんなさいジュン……すぐ代わりを入れてくる。修行、頑張ってね……」
これで僕がここにきて三度目だ。槐はこれを繰り返されて面倒にならないのか。しかし人形とはいえ
励まされると嬉しい自分がいたりもする。
3週間目。身体の各部の修復と、新しく作った腕の仕上げが終わった。後は頭部にウィッグをつけて
あの長い髪を作ってやれば身体のパーツはすべて出揃う。
そういえば最近は槐に叩かれたり怒鳴られたりすることも少なくなった気がする。それに最近作業を
終えて休まなければならないのが惜しい。いつまでも人形を作っていられるような気持ちになるのだ。
ああ、最近一番怒られたのはそれだ。きちんと休息を取ること。
4週間が過ぎた。僕がこのワンピースにコサージュをつければ水銀燈のドレスと靴が完成する。
ヘッドドレス、チョーカー、ワンピース、パニエ、ドロワーズ、タイツ、フリルブーツ。精巧な技術を
要するところは主に槐が作ったが、部品を組み合わせてそれぞれの服を縫い上げたのは僕だ。
この2週間、僕は人形の部品やドレスに触りたくて仕方がなかった。触れば触るほど上達するのが
自分でわかるのだ。
コサージュをしっかりと縫い付けて、よしこれでワンピースもできた。僕はほっと息を吐いた。
傍らにいる槐が細部まで出来をしっかりと確認する。
槐「……問題ない。まったくお前には驚かされる。……男子一夜会わざれば、か。
ただ、駄目になるのは一瞬だ。成長と違って壁も限界もない。ひたすら落ちていく。
それにたとえ技術が成長し続けても、思い上がりすぎればあの日の僕のようになる。
いいな、決して忘れるな」
僕は頷いた。あの日のことは、僕だって忘れることが出来ない。
これで水銀燈のパーツとドレスと靴のすべてを揃えることができた。あとは身体を組み立てて
ドレスを着せてやるだけだ。
慎重に各部を組み合わせ、球体間接の噛み合わせをチェックする。ローゼンメイデンは
生きたドール。身体が満足に動かせないなど決してあってはならない。よし。これならちゃんと
動けるはずだ。
それにしても、僕からすれば驚かされるのは槐のほうだ。
この球体間接の出来はどうだ。どうすればここまでのものを作れるようになる。
自分が成長できればできた分だけ、槐の技術の凄まじさ、僕との格の違いを痛感する。
4週間前までの僕は、彼の凄さをまったく理解できていなかったのだ。
槐の師であるローゼンは彼を超える技術を持っているのだろうか。これ以上がありえるなんて
信じられない。
しかし、そんな人だからこそローゼンメイデンを作れたのだ。
タイツ、ドロワーズ、パニエ、ワンピース、フリルブーツと水銀燈にドレスを着せていく。
そういえば、ここに来る前に水銀燈の胸を見るとか見ないとか言ってたな。まるで遠い昔のことに
思える。真紅が人形と人形師としてなら槐に裸を見せたのも、今なら理解できるような気がした。
とにかくもこれでようやく服を着せてやれたわけだ。怒らないでくれよな。そっと髪を撫でると、
その感触に鳥肌が立った。これも槐が作ったのだ。
ヘッドドレスとチョーカーを付ける。少し手が震えた。
水銀燈が、ついに完成したのだ。
部屋の中央に椅子を引き出してきて、そこに水銀燈を座らせてやる。
槐「この砂時計の砂が落ちきる頃には、眠り薬の効果も切れる」
ジュン「そうしたら、動き出しますよね」
槐は答えてはくれなかった。
砂が落ちきってからしばらくして経っても、水銀燈は動き出すそぶりさえ見せなかった。
静かに、椅子に座ったままだ。まるで永遠にそうしていることが彼女にはふさわしいような。
ジュン「どうして……。なにか、なにか間違っちゃったんでしょうか、僕は」
槐「お前は完璧に彼女を組み立てた。間違えなどなかった」
なら、どうして動かないんだ。椅子に座らせたときから感じていた違和感。見た目は全く同じに
作ったはずなのに、どこか水銀燈らしくなく思えた。輝き。4週間前の僕と槐のコサージュの違い。
僕の組み立てた水銀燈は、動くことができないのか……?
うちひしがれる僕に、槐は
槐「寝るぞ」
とだけ短く告げ、寝室へ向けて歩き出そうとした。
ジュン「でも水銀燈は」
槐「このまま待っていても、彼女が起き上がる確立は0.000000001%あるかどうか。
オーナインドールとはよく言ったものだ」
絶対今までに誰も言ってない。
槐「お前と僕は完璧な器を作った。あとは父親の仕事だ。彼女は、ローゼンメイデンなんだ」
ローゼンメイデン。
槐「そうだ。真紅たちをよんでおけ。明日、僕らが目覚めたときに間に合うようにな。
今呼んで来るのがいいだろう。鞄があれば寝床には困らないはずだ」
寝室に続く扉の前、槐は立ち止まると肩越しに僕を振り返った。
槐「ジュン、よくやったな」
僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。
そのことに気付くと、僕は慌てて真紅たちを呼びにいった。
私は……初夏の鮮やかな陽ざしに包まれている……。新緑の匂いがする……。
かつて、私はここにいたような気がする……。
やさしい声が耳をなでる……。わたしの頬に触れている手の温かさ。私は、私はこの温かさを知っている……。
逆光で、お顔が見えない。ああ、それでもわかる。あなたは、私の……。
身体が震え、まぶたがかすかに持ち上がった。長い睫毛が揺れている。
今まさに、水銀燈が動き出そうとしている。
僕、槐、真紅、翠星石、雛苺。全員が固唾を飲んで見守る。
朝――といっても眠って起きた後を便宜上そう呼んでいるに過ぎない――、僕が目を覚ましてから見た
水銀燈は、昨日の水銀燈とは明らかに違っていた。
身体中が輝いているかのような圧倒的存在感は、間違いなく椅子から立ち上がることを予感させた。
神秘なる究極の人形ローゼンメイデン。第一ドール、水銀燈。彼女だった。
雛苺「あ、動くの! 水銀燈が椅子を降りるの!」
水銀燈は椅子から降りて2、3歩歩くと、まっすぐに体を伸ばして立った。まぶたが上がる。
翠星石「立ったです! 水銀燈が立ったですぅ!」
目を開けた水銀燈はあっけに取られたことだろう。彼女が初めて目にしたものは、飛びついてくる雛苺と
翠星石だったのだから。
驚くことも出来ず、水銀燈は立ちすくんでいる。真紅が微笑んだ。
真紅「お帰りなさい、水銀燈」
水銀燈「……真紅……私はいったい」
水銀燈は自分の手やドレス、鏡に映った自分の姿を何度も見直した。
翠星石「ジュンとエンジュが直してくれたです」
水銀燈「え……直した。私を?」
雛苺「そうなの。それもすっごく早くよ。一週間で直したのよ」
槐が水銀燈に説明する。
槐「ジュンや真紅たちから君を直してくれと頼まれた。頭部と髪、腕、ドレスや靴は損傷が激しかった
ために、僕とジュンで新しく作ったものだ」
水銀燈「そんな……」
水銀燈は戸惑っていた。ローゼンメイデンである彼女が、ローゼン以外の人間に直されたのだ。
しかも髪、頭部、腕、ドレスはすべて新調されている。
真紅「水銀燈、ショックを受けるのはわかるわ。でもジュンとエンジュはね、彼らに出来る限りのことを
あなたにしてくれたのだわ」
水銀燈「そう。でもごめんなさい。こういうとき、どんな顔をすればいいのかわからないの」
槐「笑えばいいと思うよ」
この状況でどう笑えというんだ。
翠星石「とりあえず、私たちのアパートに帰るです」
真紅「そうね。そうしましょう、水銀燈」
水銀燈は黙って頷いた。
nのフィールドへの扉を開き、ひとりずつ飛び込んでいく。
翠星石「エンジュ、お前のことは今でも信用ならねーと思っていますが、今回に関しては翠星石が
悪かったです。お前に感謝してやるです」
雛苺「水銀燈を直してくれてありがとなの」
水銀燈「そうね、お礼を言うなくっちゃね……。ありがとう」
真紅と僕が、最後に残った。
ジュン「槐さん、本当にお世話になりました」
槐「常に人形に触れるのを怠るなよ。お前は世界で最も恵まれた人形師だがな、それでも慢心すれば、
そこまでの人間になる」
ジュン「はい。ありがとうございます」
僕は頭を下げた。こんなふうに人に頭を下げるのは、いつ以来だろう。
真紅は先程から何かを考えていたが、決心したように槐の顔を見た。
真紅「槐、ありがとう。あなたは本当に素晴らしい人形師よ。
お礼になるかどうかわからないけれど、私からひとつ言わせて欲しいのだわ。
あなたがあの日崩れてしまった薔薇水晶に届かないのは、あなたの技術のせいでも
なければ、あなたに人形を作る心がかけているからでもない。
理由はただひとつ。完全に失われてしまったものは戻りはしない。
そういうことじゃないかと思うのだわ。
あの子は、薔薇水晶はあの日失われたあの子だけの存在なのよ。
だから槐、今度あなたが作る子には、新しい名前を与えてあげて頂戴」
槐「真紅、ひとつといったわりには話が長すぎる。3行で頼む」
ジュン「今の話にその答えはねーよ!」
まったく最後までこれかよ。ついに口に出して突っ込んでしまった。
ジュン「それじゃあ、もう会うこともないかもしれませんけど、一応、またってことで」
槐「ああ、またな」
真紅「さようなら、槐」
僕と真紅は槐に別れを告げ、nのフィールドに飛び込んだ。僕にとっては4週間ぶりの帰宅になる。
僕はこの4週間を、僕の初めての師と過ごした日々のことを、この先どんなことがあっても決して忘れない。
槐は、水銀燈が座っていたその椅子に座り込んだ。両手を見る。あの日の感覚が蘇る。
槐「ああ、君の言う通りだよ真紅。わかっていたさ。わかっていて、僕には作り続けるしかなかったんだ」
彼の人形たちが、涙をこぼす彼を心配して近寄ってくる。
『お父様……?』
槐は彼女たちをだきよせた。
槐「すまない。お前たちは、お前たちは……」
彼の人形たちには、お父様が泣く理由がわからなかった。
4週間ぶりに帰ってきたアパートはなんだか懐かしくて、部屋に戻った途端、
大きく安著のため息をついてしまった。いよいよ僕もこのアパートになじんできちゃったな。
部屋にある時計を見ると、午後8時すぎだった。
のり「きゃぁあああジュン君おかえりなさぁああい。一週間もどこ行ってたのぉおお」
僕の姿を認めた途端、いきなりのりが抱きついてきた。すかさず振り払う。
ジュン「ちょっと大切な用事だよ! ええいくっつくな!」
こっちでは一週間しか経っていないのか。ちょっとどころじゃないことばかりだった。
のり「きゃああああこの子かわいいいいいいいいい」
水銀燈「えぇぇ、ちょっとぉ、何するのよぉ」
やつのターゲットは水銀燈に移ったようだ。僕たちが作ったばかりの顔に頬ずりされている。
真紅「あら、のりには紹介してなかったかしら。第一ドールの水銀燈よ」
のり「そう、銀ちゃんっていうのぉ」
水銀燈「……その呼び名、やめてくれるぅ?」
さっきまで落ち込んでいた水銀燈の事情もなんのその。完全にやつのペースだ。
この日、銀ちゃんこと水銀燈は、真紅の勧めもあってうちに泊まっていくことになった。
やはり自分の身に起こったことを整理しきれていないようで、のりが話しかけても黙って
いることが多かった。
のりは、
のり「銀ちゃんはシャイな子なのね~」
などとほざいていたが。
僕は今までの疲れが出たのか、気付けば机に突っ伏して寝入っていた。
目覚めたのは午前3時。背中にはのりのカーディガンがかけてある。
固まっていた体をほぐして、大きくあくびをした。
さて、僕はこれからどうしようか。
僕は自分の手を見てみた。力が溢れてくるような気がする。
ジュン「やっぱり、ドレスを作ってみるかな」
今なら作れる。それも間違いなく今まで最高のドレスが。
真紅「私もそうするべきだと思うわ」
声に振り向くと、真紅が僕の座っている椅子のすぐ後ろまで来ていた。
ジュン「お前起きてたのか」
真紅「あなたの気配に起こされたのよ。狭い部屋だしね」
そんなにうるさくはしてないはずだけどな。
ジュン「あ、それと言っておくけどな、ドレスを作るからって、前に真紅が言っていた
僕が天才だとか運命がどうとか、あんなの受け入れるつもりはないからな」
真紅「かまわないわ。それよりもジュン、ドレスの具体的な構想は決まっているの?」
ジュン「いや、まだだけど」
真紅「なら私の注文を聞いてくれる?」
ジュン「どういうことだ」
真紅はいかにも令嬢然とした態度で言う。
真紅「私があなたにドレスの製作を依頼するのよ。ドレスを作る理由として、おかしなことではないでしょう?」
ジュン「確かにそうだけど。うん、真紅のドレスか」
真紅「いいえ、違うわよジュン。私は、翠星石にあなたのドレスを作ってあげてほしいの」
僕と真紅はそのまま5秒ほど見つめあっていた。
それから真紅は部屋の隅にあるダンボール箱を指差した。
僕はみんなを起こさないように、わずかな灯りを頼りにその中をのぞいてみた。
何かが箱いっぱいにつまっている。手に取ってみると、造花だった。
真紅「その箱に入っている造花はね、全部翠星石が作ったのだわ」
真紅は造花をひとつ手に取ると、愛でるように撫でた。
真紅「彼女は私より色々と器用よ。造花を作るのも丁寧で速いし、ずっと口を一緒に動かして
いるのだわ。この一週間はあなたのことばかり。毎日何十回も心配だと言っていたわ。
その度に私が責められたから、嫌でもよく覚えているの」
真紅は戯れに、造花を自分のドレスの色々なところに飾ったりする。
真紅「本当にあれは拷問だったわ。一緒に仕事をする私の身が持たないのだわ」
ツーテールにまとめられた金髪が、左右に振られて暗がりに揺れる。
真紅「ジュンはあの子のことを思い出せる? この部屋にいる翠星石のことを」
僕は胸を突かれた。
それはいつも同じ光景だ。机の前に座って造花を作る翠星石。
僕がドレスを作れずに悩んでいたときも、この部屋を飛び出したときも、僕の知らない
この一週間も。
あいつはこの部屋でずっと造花を作っていたんだ。
あの翠星石が、僕に一度の文句も言わずに。
真紅は翠星石の眠っている鞄を見つめている。
真紅「今のあなたが一番にドレスを作ってあげるのは、あの子であるべきよ」
ジュン「お前は、それでいいのか」
真紅「私が頼んでいるのよ、ジュン」
ジュン「わかった。必ず僕の最高のドレスをつくってやる」
見えなくても、真紅が微笑んだのがわかった。
真紅「翠星石には内緒よ。この一週間のお返しにびっくりさせてやるのだわ」
その日の朝から、僕は翠星石のためのドレスを作り始めた。まずイメージを
ラフスケッチに起こす。
あいつのためのドレス。それは僕にとって初めてのことだった。
僕は今まで売るためのドレスしか作ったことがなかった。
かなり歪んだ道筋を通ってきたと自分でも思うけれど、僕の人形のためにドレスを作るのは
これが初めてなのだ。真紅と雛苺にもまだ作ってやったことがない。
翠星石のことを想ってみる。前の僕ならもっと恥ずかしがっていたような気がするな。
僕は何個か浮んだアイディアの中から、白を基調にしたプリンセスラインのデザインを採用した。
翠星石のあの長い髪と、綺麗な赤と緑の瞳にとても似合うように思えたから。
ジュンが翠星石のためのドレスをスケッチに起こしているとき、同じアパートの屋根の上では、
水銀燈が真紅に背を向けて立っていた。
水銀燈「真紅、私はもう、ローゼンメイデンではないのかもしれない。だってそうでしょう?
私はあまりにも多くのものをお父様以外の人間に作られてしまったわ」
真紅は一歩前に踏み出す。
真紅「かつてお父様はあなたをローゼンメイデンと認めたとき、あなたにローザミスティカを
与えられたわ。もしお父様があなたをローゼンメイデンにふさわしくないとお思いなら、
今度はローザミスティカをとりあげられるはず。けれど、ローザミスティカは今でも
あなたと共にあるのだわ」
水銀燈「でも私は……」
真紅「水銀燈! あなたは、あなたはローゼンメイデンよ」
水銀燈は真紅を振り返った。
水銀燈「真紅……」
水銀燈は胸が震えて一瞬言葉が出なくなった。
震えがおさまるまで待ってから、再び話し出す。
水銀燈「真紅、私、この身体に違和感を感じないの。お父様以外の人間に作られたと
わかっているのに。髪もドレスも以前から私のものだったように馴染んでいる。
本当よ。もし少しでも違うと感じていたなら、迷うこともなかった。
すぐに自らこの身体を罰していたわ」
それに、と水銀燈は遠い空を眺めるようにして続けた。
水銀燈「この身体で目覚める前、私はお父様にお会いしたような気がしているの。
お父様の手がこの頬に触れた感触を私は覚えている」
真紅「お父様はきっとあなたを祝福してくださったのだわ。お父様がローゼンメイデンだと
認めてくださったのを疑うなんてよくないわよ、水銀燈」
真紅はたしなめるように笑い、それから水銀燈の手を取った。
真紅「私たち、同じね」
水銀燈「同じ?」
真紅「ええ。二人ともジュンに直してもらったのだわ」
水銀燈は少しだけ目を伏せて微笑した。
水銀燈「あなたの腕は私のせいだったわね」
真紅「痛かった。あれは痛かったのだわ」
二人して笑った。
真紅「さあ、水銀燈。あなたには行かなければならない場所があるはず。もうこれ以上
なやんでいる時間はないのだわ」
水銀燈ははっと息を詰めて真紅の顔を見る。
水銀燈「そうよ、めぐはどうしたの!?」
真紅「大丈夫。病状が安定して一般病棟に戻っているのだわ。いつものあの病室にね。
枕元にいつもあなたの贈った海の砂をおいているのよ」
水銀燈は安著のため息をついた。
水銀燈「よかったわぁ」
真紅「ただ、あの子の性格は問題ね。いつも看護婦を困らせているし、今だに死への憧れなんて
ことを話し出すし……」
水銀燈「ちょっとぉ、しょうがないじゃない! めぐは病室からなかなか出られないんだからぁ。
家族間の問題だってあるのよ」
真紅「そ、そう」
あっけに取られる真紅を見て、水銀燈も我に返った。
水銀燈「ま、まぁ基本的には真紅の言うとおりだけどねぇ、めぐにはまだ時間が必要なだけよ。
ひとりひとり歩む速度は違うってことよぉ」
水銀燈はゆったりと翼を広げた。翼も以前と同じに感じる。何の問題も違和感もない。
水銀燈「そろそろ行くわ。……真紅、またね」
真紅「ええ。また会いましょう水銀燈」
水銀燈は空に舞い上がり、めぐの病院へと飛び去っていく。
真紅はその後姿を見えなくなるまでみつめていた。
真紅「お互いすっかり忘れていたけど、屋根に上ったのは水銀燈に抱えられてだったのだわ。
鞄は置いてきているし、どうやって部屋に帰ればいいのかしら」
真紅は人工精霊を呼び出した。オーダーはオンリーワン。
真紅「なんとかしなさい、ホーリエ」
デザイン案も出来たし、本格的に翠星石のドレスを作り始めたいのだが、当然ここでサイズを
測らなければならない。
ところがドレスの依頼主と来たら秘密で作れという。結構無理な注文だなこれ。
せっかくあいつのために作るんだし、目分量で何とかするのはやりたくないな。
翠星石「なんか翠星石に用ですか、ちび人間」
どうも僕は知らず知らずのうちに翠星石を観察していたようだ。
ジュン「いやたまたまそっちを見てただけで……」
翠星石「嘘つくなです! こう翠星石を嘗め回すように見るいやらしい視線を感じたです。
いかにも変態のちび人間にふさわしい行為です。最近少しはマシになったと思って
たのがとんだ勘違いだったですぅ」
相変わらずはそっちだ性悪人形め。しかし身体のラインを探っていたのはあってるからなあ。
僕が教師だったら部分点やってもいいぞ。
とにかく何とかごまかさないと。
ジュン「わ、悪かったよ。今作ろうとしてるドレスな、お前ぐらいの大きさの人形が着るのを想定
してたんだ。だからお前のほうをみて感じをつかもうとして……」
真紅「ジュン、そういうことなら回りくどいことしてないで実際に計ればいいのだわ。無言で
見つめるから翠星石だって怖がるのよ」
真紅からスルーパスきたこれ。ここはシュートしかないぜ。ドライブシュートだァ!
ジュン「それもそうか。頼む翠星石。変なことしないから、参考に計らせてくれ」
翠星石「話はわかりましたが、信用ならんですぅ」
く、弾かれた。しかしボールはまだ生きている。真紅、詰めろ。
真紅「ジュンでは嫌なところは私が計るのだわ。私がいればあなたも安心だし、
問題はないはずよ」
翠星石「それならいいですが、ずいぶんジュンに協力的ですね」
きたああああああああああ。ゴォオオオオオオル!
解説の北川さぁん、いいところにポジション取ってましたねぇ真紅ぅ。
まさにストライカーです。あ、打撃系格闘者って意味じゃないですよぉ。
ま、秘密にしておくのを言い出したのは真紅だからな。これぐらいは協力してもらわないと。
真紅「あなただってジュンのドレス作りのために内職しているのだわ。それにさっき屋根から
降ろしてくれたしね」
ああ、あれか。ホーリエが呼びに来るから何かと思えば。
ドレスの製作も中盤まで差し掛かった頃、柏葉がうちに遊びにきた。というか来ていた。
夕日の差し込む部屋の中に、気付けば彼女は座っていたのだ。
僕が作業に没頭しているのをすこし離れたところから見ていたらしい。僕は一息ついた
ところでようやく彼女に気付いた。我ながら失礼すぎるだろ。
ジュン「気付かなくて、ごめん」
巴「翠星石ちゃんが入れてくれたの。あの子たち、内職仕事してるんだ」
ジュン「甲斐性ないマスターに当たっちゃうと、人形でさえ苦労するんだよ。
ていうか、ずっと見てたのか?」
僕は翠星石のドレスを作るにあたり、アパートの模様替えを提案した。4畳半の方の部屋を
僕の作業場ということにして、今は立ち入りを制限している。
別にかっこつけたいわけではなくて、例の秘密を守るための口実だ。
巴「声かけようかと思ったけど、邪魔したくなかったから」
ジュン「いつ来たんだ?」
巴「4時くらいかな」
時計を見ると、5時5分すぎだ。
ジュン「一時間もただ見てたのかよ」
巴「一時間も気付かないほうがすごいと思うけど」
ジュン「でも、つまんないだろ」
巴「ううん。面白い」
作業用エプロンの下は辞めた高校のジャージとTシャツ(しかもドイツワールドカップ)、
髪はボサボサな僕が人形用のドレスを作ってるのが?
柏葉は僕の作っているドレスのそばに座りなおした。
巴「その白いドレス、ぱっと見はシンプルなのに、よく見るとすごく凝ってるんだね。
透かしやレースが細かく入ってて」
ジュン「ああ、最初はここまでするつもりじゃなかったんだけど、作ってるうちに力が入っちゃって。
妙にディテールに凝っちゃってるんだ」
巴「他人事みたい」
ジュン「なんか手を勝手に動かしてる僕がいるんだよ。あるいはそいつを見ている僕がいるというか」
巴「で、私に気付いてくれる桜田君はいないと」
どうみてもひどい話です。本当にありがとうございました。
巴「もっと見ていていい? 私邪魔じゃないかな」
ジュン「いいよ。どうせ休憩するつもりだったし。なんかお菓子でも持ってくる」
僕はふすまを開けて6畳間のほうに入った。真紅と翠星石は今日も造花を作っている。
雛苺は柏葉と遊びたそうだが、僕に気を使って我慢しているらしい。
僕は麦茶をグラスに入れてせんべいを用意した。こんなものしかなかったのだ。一応洗面所で
顔を洗って髪をとかす。もう遅いけど。
僕の部屋に戻って、さっぱりおしゃれじゃないお菓子と飲み物を勧める。
巴「ありがとう。でもおせんべい食べたらドレスに飛んじゃうかも」
ジュン「あ、そうか。それぐらいしか置いてなくてさ……」
巴「麦茶だけでいいから」
ここで食べたりしたら駄目だよな。そういう基本的なことさえ忘れてたか。
作りかけのドレスを離れたところにおいて、間違いが起こらないようにしておく。
麦茶を飲みつつ、柏葉に来訪の理由を訊いてみた。
ジュン「でさ、僕になんか用でもあるのか?」
巴「そうだったんだけど、桜田君の作ってるドレスを見たら、もうなくなっちゃった」
そう言われても、こっちにはさっぱり意味がわからない。こいつって結構、
ジュン「柏葉って結構変わってるよな」
巴「え、あんまりそんなこと言われないけど」
ジュン「いや、でも中学のときも不登校の僕に勉強教えてくれたしさ。
ああいうのって普通あんまりやらないだろ。周りにとやかく言われるから。
今だって僕なんかに会いに来て、しかも一時間も人形のドレス作ってるの見てるし。
男のくせに人形のドレス作ってて、柏葉に気付きもしないんだぞ」
巴「しかもなぜかワールドカップのTシャツ着てるしね」
ジュン「こういうのはイベントが終わると新品でもすぐリサイクルショップ行きなんだよ。
で、そこで500円以下で買える。パジャマや部屋着にもってこいだぞ」
巴「なにそれ。桜田君、それ発想がおばさん」
柏葉は肩を揺らして笑っていた。
ジュン「だから結構変わってる。あとローゼンメイデンにめちゃくちゃ関わってるのもある」
巴「それずるいよ。言われたら認めるしかないし」
後ろで、かたっとふすまが揺れる音がした。あいつら、ちゃんと仕事してるんだろうな。
巴「でも雛苺のことは桜田君しか知らないし、変わってるとはあまり言ってもらえないな」
柏葉は変わっていると言われるのが、意外と嫌ではないようだった。
ジュン「まあ柏葉の一般的イメージっていったら優等生とか?」
巴「真面目な子とか、いい子とか言われるけど、ただ人の言うことに従うってだけだよ。
中学の頃と同じ」
あの頃、柏葉はやりたくもないのに学級委員や剣道やってるって話していた。
ジュン「従うっていうより、人の期待にこたえようってことだろ。高校やめちゃった
僕からすれば十分えらいけど」
巴「期待にこたえていれば楽なだけ。ああしろこうしろって言われるのに従っていれば」
柏葉はうつむいた。中学の頃より、前髪のかかり方が少し大人びて見える。
ジュン「でも、柏葉は自分の意思で進学校に行ったじゃないか」
巴「高校でも同じことしちゃったから。
彼と付き合ったのだって、一番耐えられなかったのは、他の女の子たちの視線なの。
あの人、勉強もスポーツも出来たし、顔もよかった。女の子と話すのもうまくて、かなり
人気があったの。だから私が何度も告白を断ってるとね、そんなのありえないって目で
みんなから見られるの。最後には、それに疲れて彼と付き合うことにした」
学校には妙なエネルギーが渦巻いている。進学校の優等生と中学不登校ニート。
立場は間逆でも、渦に飲みこまれてしまうのは同じか。
巴「彼と付き合ってるときも向こうの要求をずっと聞いてた。最後には、なんでも言うこと
聞くからつまらないって捨てられたの」
柏葉はサバサバと彼氏の話を終えてしまった。
表情もさっきより暗くない。あれから少しは時間が経ったからだろうか。
ジュン「もういいのか。雛苺から話を聞いたときには、すごく傷ついてそうだったけど」
巴「さっき桜田君のドレスをみたから」
何の関係があるんだ。僕はきょとんとして柏葉の顔を見た。
巴「桜田君、両親を恨んでる?」
ジュン「まあそれなりにはな。あいつらは僕が引きこもってたときも会いにさえこなかったし、
のりが大学にいけなくなって、フリーターとして働いてるのもあいつらのせいだし」
巴「やっぱり『それなり』か。
私はね、私を捨てた彼のこと、すごく恨んでた。私、結構根に持つタイプなんだよ。
だから桜田君が両親を恨んでる話を聞きたかったの。私が彼を恨んでる話を聞いて
ほしかった」
待て。そんな恐ろしい理由で僕のとこにやってきたのかよ。
巴「でも、一心不乱にドレスを作ってる桜田君と、その綺麗なドレスを見たら、自分が馬鹿らしくなった。
だからもういいの。ありがとう桜田君」
ジュン「え、うん。そうか」
僕は馬鹿みたいにぽかんとしていた。
巴「勝手なことばっかり言ってごめんね。もう帰るから」
そういって笑った柏葉はなんだかちょっと怖かった。でも綺麗だとも思った。
もちろん、お前本当に勝手だなとも思った。
ジュン「のりが帰ってくるから、夕飯食べていけよ」
巴「え……でも悪いし」
ジュン「雛苺が待ってる。柏葉に遊んでほしいのずっと我慢しながらな。期待にこたえようとするんだろ。
ヒナの期待は、前と違ってむちゃくちゃじゃないぞ」
巴「わかった。そうする」
柏葉はそう言うと6畳間のほうにいって雛苺と遊び始めた。ヒナの嬌声が聞こえてくる。
僕は畳の上に寝転がって天井を見ていた。ドレス製作に再び取り掛かるには少し時間がかかりそうだ。
ただ不思議と、柏葉のことを憎んだり嫌ったりという気持ちは湧いてこなかった。
週末で土曜日は休みなので、書けるだけ書いて、眠くなったら寝るという
非常に無計画な書き方しています。だから待ってくれている人がいたら、
一度寝て起きるほうをすすめます。
続きがいつかは自分でもわかりませんw
たまに夜出かけることもあるが、桜田家のローゼンメイデンの生活の基本は
早寝早起きである。夜は眠りの時間であり、朝は目覚めの時間だ。
翠星石もパートに出かけるのりと一緒に起き、朝食を取る。この頃は朝食の
準備も手伝っている。
真紅は一緒に起きてくるが食事の準備は手伝わない。それどころか雛苺に
お茶の用意を命じるのが毎日の習慣だ。
朝食が済むとのりは手早く洗い物を済ませてパートに出る。
ジュンはまだ寝ていた。ドレスの完成がもう少しのようで、根を詰めているところ
らしい。
午前7時55分。テレビジャパン系列のニュースでは名前占いの時間だ。
生まれの星座や血液型はわからないので、翠星石は名前の頭文字で運を占う
名前占いコーナーが好きだった。
それが終わると、翠星石と真紅、雛苺は全員鞄に乗って出かける準備をした。
今日は蒼星石のところへお呼ばれしているのだ。ホーリエに鍵を閉めさせれば
戸締りも問題ない。
午前8時、消し忘れていたテレビがワイドショーを伝え始める。
『おはようございます。ウィークモーニングワイドの時間となりました。司会の大倉です』
『今日トップの話題はまたも大変です。人気タレント柴田勝理恵さんの突然の昏睡です。
戦国武将のものまねで人気を博している女性タレント柴田勝理恵さんが、原因不明の
昏睡に 陥っていることが昨日わかりました』
『これでタレント昏睡事件はなんと6件目です。それも連続して起こっているんです。
しかし原因はどれも不明。身体に特別異常があったわけでもないし、脳波も正常と。
ただひたすら眠っていて目覚めないという謎の症状なんです』
『先日、ロックバンドトラブルーの高橋ゲオルグさんがやはり同じ症状で倒れたとお伝え
したばかりなんですが』
『これ、もう言っちゃっていいでしょ。これねー、倒れられた芸能人の共通点ねー、
全員統価教会をね、信仰されてらっしゃる方なんですよ。だからもう戦々恐々ですよ。
統価に関わってらっしゃる方がねー』
『ペリーさん、ちょっと、番組のことも、ねえもうすこし』
『いやこれはね、言ったほうがいいですって。統価教会ってのはもともと韓国出身の
イ・ケイダ氏がね、韓国系キリスト教と日蓮宗のハイブリッドなんてことを言い出し
てですね』
『ペリーさん、イエローカード、イエローカードですから。もう一枚で退場ですよ』
深夜2時。気付けばまた日付が変わっていた。
もうすこしで、翠星石のドレスが完成する。
今まで僕は自分のドレスを、どれぐらいの値段がつくかで判断していた。
それは数字で現れた社会的評価をあてにしていたということだ。
今作っているこのドレスは違う。
評価は翠星石が喜んでくれるかどうか。それだけで決まる。
真紅がこのドレスを大切な人に贈る価値があると判断するかどうか。それだけで。
だから怖い。お金がかかっている場合とは違う怖さがある。今からでも逃げ出し
たいほどだ。
でも同時に楽しみで仕方ない。
もしこのドレスを翠星石が着てくれたなら。心の底から喜んでもらえたら。
僕はもうそれだけで何もいらない。
真紅がこのドレスを翠星石に贈ってくれるのなら。
最後の一針を入れる。これで完成だ。僕は詰めていた息を吐いた。
ドレス全体を少しはなれたところから見てみる。
輝くような純白を基調に、プリンセスラインをきっちりと活かせたシルエット。
細かく入れた刺繍や透かしは嫌味になっていないはずだ。あくまで上品に
仕上げることができた。
自信はある。間違いなく、今の僕にできる最高のドレスだ。
後ろからずっと僕の作業を見つめていた真紅が、僕の横に立った。
ジュン「どう思う、真紅?」
声が震えた。どうしようもなかった。
真紅「……ジュン、やっぱりあなたは、マエストロになる人間よ」
真紅の声も震えていた。
それを聞いて、僕の心も奥底から震えた。
ジュン「夜が明けてから、朝の光でちゃんと見てみないとな」
真紅「そうね。でもこのドレス、見様によっては……。ジュン、あなたこれを翠星石に贈るの?」
揶揄するような真紅の笑み。
ジュン「あくまでそう見えることもあるってぐらいだろ。仕方ないじゃないか。
作っているうちにこうなっちゃたんだから。僕はそんなつもりはないぞ。
手が勝手に作ったんだ」
その日の夜、僕は夕食の後でドレスをみんなに公開することにした。
ジュン「新しいドレスができたから、みんなに見せようと思うんだけど」
ドレスはスタンドに着せて、覆いが掛けてある。
真紅「そうね。みんなあなたのドレス作りに協力してきたわけだし」
こんな芝居がかったことは、もちろん真紅の提案だ。
翠星石「まったくもったいぶりやがるです」
雛苺「わくわくするの」
のり「楽しみねぇ~」
真紅のほうを極力見ないように気をつける。よし、行くぞ。
覆いを外して、ドレスをみんなに見せた。
瞬間、耳をつんざくような嬌声が響いた。
雛苺「すごいの! すごいのぉ!」
のり「ジュン君、これはぁ」
翠星石「ウェディングドレスですぅ!」
やっぱりそう見えるか。
しかし反応は良かった。思わずこっちが半身引いてしまうほどに。
全員ドレスの前に集まってきてああだこうだいっている。
翠星石「こうして見ると案外ウェディングドレスじゃないとも見えるですぅ」
真紅「でもこういうウェディングドレスもあるのだわ」
こいつ。こりゃ絶対嘘発見器にかからないな。イスラエルの諜報機関もお手上げだ。
さてここからが本題になる。
女どもをドレスの前から引き離すのに一苦労だ。
ジュン「えーと、それでこのドレスは、売らない。もともと売るために作ったものじゃない」
スタンドからドレスを外す。こういうのは苦手だ。得意なやついるのか?
ジュン「やるよ、翠星石」
ドレスを翠星石に差し出す。翠星石はきょとんとして反応もなく僕を見ている。
ジュン「お前のために作ったんだ」
翠星石の右の赤い瞳から、涙が一筋こぼれたのを見た気がする。
雛苺「翠星石、泣いてるの?」
のり「きゃぁあああああああやっぱりウェディングドレスよぉおおお」
ちげーよ。お前もう帰れ。ってここが家か。
真紅は紅茶のカップに口をつけている。
翠星石はドレスを抱えてうずくまってしまった。何も言わない。肩がかすかに震えている。
もういいって。よくわかったよ。
作ってよかったよ。お前のドレス。
4畳半の僕の作業場で、翠星石が僕のドレスに着替えてくれている。女たちは全員翠星石の
手伝いに行ってしまって、僕は6畳間に所在無く取り残されていた。妙にそわそわする。
しばらくしてふすまが開くと、真紅、雛苺、のりが出てきた。
一番最後に、髪を結って、純白のドレスに身を包んだ翠星石が姿を見せた。
翠星石はドレスをまとった姿が良く見えるようにと、腕を少し広げてみせる。
翠星石「……似合いますか? ジュン」
翠星石は、僕の想像を遥かに超えて美しかった。
僕の体全体が細かく震えているような感覚があった。
少なくとも、翠星石の束ねた髪に触れようとした僕の手が震えているのは確かだ。
彼女の姿がにじんでしまうのを、どうしようもなかった。
口がうまく動かせなくて、翠星石に何も言ってやれない。
これまでの出来事が一気によみがえってくる。
ドレスが作れなくなった。追い詰められてアパートから飛び出した。槐の元で水銀燈を直した。
真紅と一緒に翠星石のドレスを作った。
ドレスを完成させた興奮と、それを翠星石に手渡す段取りのことばかり考えて忘れていたけれど、
僕のドレスを着た翠星石の姿は、僕自身にとっても特別な意味を持っていたのだ。
僕は膝から崩れ落ちて、泣いてしまった。
みんなが僕の周りに集まってくる。
僕は恥ずかしさもあって、なかなか顔を上げることが出来なかった。
僕が落ちついて翠星石の姿を見ることが出来るようになってからしばらくすると、
翠星石「あの、一応、蒼星石や、おじじとおばばにも見せてやろうかと思うんです」
と翠星石が言った。
真紅「素晴らしい考えね」
のり「みんな驚くわよぉ]
嬉しいけど、なんだか気恥ずかしいな。
翠星石「いいですか、ジュン」
ジュン「ああ。評判良いといいんだけどな」
翠星石「悪いわけないです! ジュンはやっぱり馬鹿です」
ああそうかよ。そうはっきり言われると腹も立たないね。
翠星石は鞄を開いて乗り込む前に、見送る僕と真紅を交互に見た。
真紅「本当に素敵だわ、翠星石」
ジュン「自分のドレス着てるやつに言うのは変な気もするけど、よく似合ってて、すごく綺麗だぞ」
まだ僕のまぶたがはれぼったいのが、自分でもわかる。
翠星石「じゃあ、行ってくるです」
飛び立つ翠星石の顔に、一瞬寂しげな影が見えたのは気のせいだろうか。
その疑問を深く考える前に、僕は雛苺から強く腕を引っ張られた。
雛苺「ねえジュン、ヒナも。ヒナもドレス欲しいの。お嫁さんになるの」
ジュン「ああ。お嫁さんかどうかはともかく、雛苺にもドレスを作ってやるよ。
今すぐとは言えないけどな」
雛苺「そんなのいや。ヒナも早くジュンのドレス欲しいの! 可愛いのほしいの!」
僕を見上げる雛苺の顔は完全にむくれていて、明るい緑の瞳には涙さえたまっていた。
のり「あらあらジュン君のドレスは大人気ね~」
真紅「雛苺、あまりジュンを困らせては駄目よ」
真紅が小さく笑った。
1時間後の午後9時、僕らのアパートに帰ってきた翠星石は浮かない顔をしていた。
ジュン「どうしたんだ翠星石。まさか、本当に評判悪かったか?」
翠星石は顔を振った。ドレスに合わせて特別に結った髪が左右に揺れる。
翠星石「おじじもおばばもたくさんたくさん褒めてくれたですぅ。とくにおばばは女ですから、
ぜひジュンに会いたいとか言ってたです」
でも、と翠星石は唇を噛んだ。
翠星石「でも肝心の蒼星石はいなかったんです。こんな夜中にどこほっつき歩いてるのか、
おじじとおばばも心配してたです」
8時や9時というのは、翠星石たちにするとかなり遅い時間だ。蒼星石は真面目そうだし、
やっぱりうちの連中と同じように早寝早起きが基本なんじゃないかと思うが。
あの蒼星石が夜遊びでもないと思うけどと疑問に思っていると、テレビからごたごたと
騒ぐ音がした。
ニュース番組で速報が入ったらしい。
『えー、ただいま入りました情報によりますと、人気女優の石原さおりさんが急に
昏睡状態に陥ったということです。身体にはなんの異常も見られず、連日相次ぐ
これまでの芸能人の昏睡とまったく同じ容態だということです』
『昏睡状態におちいった際、石原さおりさんは東京信濃町にあります統価教会の本部で
青年会の会合に出席しており、すこし疲れたのでと仮眠室で睡眠をとったところ、
そのまま昏睡状態におちいってしまったということです。
『これで通称、タレント連続昏睡事件で、昏睡状態におちいった芸能人は10人となりました。
しかし、事件という名が巷でささやかれているものの、実際に事件性を示す証拠はまったく
見つかっておらず……』
眠ったまま目覚めない、統価教会の信者であるタレント。
ジュン「今までニュースや新聞では表立って報道されてなかったし、ワイドショーや週刊誌
なんてあんまり見ないから知らなかったけど、これまで倒れたタレントってみんな……」
僕は急いでパソコンを立ち上げ、インターネットに接続した。
最近はドレス作りに集中して、インターネットもまったくやっていなかった。
ネットの世界はすでにこのことで大騒ぎだった。ひときわ盛り上がっているのは、悪行三昧
だった統価教会に対し天罰が下されるのだという論調だ。
身体にも脳波にもなんの異常もなく眠り続ける人々。彼らはみんな統価教会の信者である
有名芸能人だった。
ジュン「仮にこれが誰かの仕業としたら、そんなことができるのは……」
真紅「統価教会といったら、蒼星石のマスターであるお爺さんを騙していた宗教団体ね」
やっぱり、蒼星石なのだろうか。
翠星石「そんな、そんなはずないです! だっておじじはあんなもんもう信じてねーです!
あのとき二人で手入れした心の木がちゃんと育ったんです」
翠星石は僕と真紅を交互に見ながら訴えた。
ジュン「前に蒼星石が相談に来たときは、直接爺さんを騙してたやつらを懲らしめたんだよな」
翠星石「そうです。こんなテレビに出てるやつらなんて知らねーです! 関係ないです!
だから蒼星石じゃないです。そのはずです……」
うつむいた翠星石の視線の先で、彼女の手が震えている。
どんなにかばってやりたくても、今回のようなことができるのは翠星石と蒼星石、
心の世界の庭師である双子のローゼンメイデンだけなのだ。それは翠星石自身が誰よりも
よくわかっていた。
今回の事件は、明らかに社会的な影響を考えて行われている。
ジュン「統価教会ってさ、今回昏睡状態になった連中みたいな有名人を布教に使うんだ。
あのテレビで活躍してらっしゃる石原さおりさんも統価教会の信者なんですよって感じで」
それが逆に次々原因不明の昏睡に倒れるとしたら、
真紅「いつもは布教のために使っている広告塔がまさに逆の役割を果たす。
統価教会の作ったシステムを使って、彼ら自身への不信感を煽ることができるというわけね」
ジュン「ああ。ターゲットはタレント個人じゃない。統価教会自体だ」
しかしそれこそ僕らの知っている蒼星石のやることとは思えない。
蒼星石、これがお前の仕業だというのなら、お前はいったいどうしたんだ。
「僕は新世界の神になる」なんて言うんじゃないだろうな。
真紅「とにかく蒼星石に会いましょう。彼女への疑いが間違いだったら、潔く謝って真犯人を
探せばいいのだわ。蒼星石はそんなことで恨むような子じゃないし」
翠星石はうつむいたままだ。真紅が彼女に手を差し伸べる。
真紅「もしも蒼星石だったとしたら、彼女を救ってあげられるのはあなただけよ。翠星石」
翠星石は意を決して頷くと、真紅の手を取った。
真紅「ジュンと雛苺は留守番をよろしくね」
二人は大鏡からnのフィールドへの道を開いた。やはり、予感があるようだった。
人間でも双子には不思議な共感能力があるという。
ローゼンメイデンである翠星石と蒼星石にも互いの存在へと引き付けあうものがあるのだろうか。
あるいはローゼンメイデンとローゼンメイデンは引かれあうという法則でもあるのかもしれない。
真紅と翠星石は、nのフィールドを抜けてひとつの空間へと出た。
ヨーロッパの古都の、教会や市庁舎を中心に長い歴史を中世から経てきた建物に囲まれた広場の
ような空間。人はおらず、街全体が夜に眠っているかのようだ。
そこで、蒼星石は彼らを待っていた。
翠星石「蒼星石!」
駆け寄る翠星石が見慣れぬドレスを着ていることに蒼星石は気付く。
蒼星石「翠星石、そのドレスは?」
翠星石「ジュンが作ってくれたんです」
それを聞いて、蒼星石は本当に嬉しそうな微笑みを浮かべた。
翠星石は思う。こんな笑い方をする蒼星石が何人もの人を昏睡させたはずはないと。
それでも、聞かなければならない。
翠星石「蒼星石にも見せてやろうと思って、おじじたちのところに行ったです。
でもお前はいなかったです。いったいあんな時間にどこに出かけてたですか?」
蒼星石は答えなかった。
真紅が躊躇いなく訊く。
真紅「蒼星石、彼らを眠らせたのはあなたなの?」
蒼星石「……そうだと答えたら、君はどうするつもりなんだ、真紅」
真紅「ローゼンメイデンの誇りにかけてあなたを止めるのだわ。
姉妹にそんなことをさせておくわけにはいかない」
戸惑う翠星石をよそに、二人はお互いをまっすぐに見据えている。
蒼星石「ローゼンメイデンとしての誇り、か。だが僕にはもうアリスを目指す資格はない。
薔薇水晶との戦いの後、君や翠星石、金糸雀、水銀燈にはローザミスティカが戻され、
すぐに目覚めることが出来た。僕と雛苺はその後に魂を戻していただいたが、
正当なアリスゲームの敗者であることに変わりはない」
真紅「お父様は言われたわ。アリスゲームだけがアリスを目指す道ではないと。
だからこそ私たちはこの3年、アリスゲームを行わずに一緒に過ごしてきたはずよ」
蒼星石「それでも、一度アリスを目指して届かなかった僕にその資格があるという確証はない。
僕は、アリスになるというお父様の望みを失ってしまったんだ。
今の僕に出来ることは、マスターの幸せを思い、それを守ることだけだ」
真紅「直接の危機はあなたと翠星石によって去ったはずよ」
蒼星石ははっきりと頷いた。右手を地面に立てた鋏から放して広げる。
蒼星石「でもいつまた同じことになるかもしれない。統価教会そのものにダメージを
与えなければね。それに、こう考えられることはできないかな? 真紅」
真紅は蒼星石の言葉を待つ。蒼星石は遠い空を見るようにして話す。
蒼星石「この世界には、真面目に生きようとする人間を陥れようとする悪意が多すぎると。
統価教会はその最たるものだよ。彼らに騙され、傷つけられている人間がどれだけいることか。
僕はマスターと同じ境遇の彼らの力になってあげたいし、それに統価のような悪辣な存在は
罰せられるという意識が人々に生まれれば、悪意に対して少しは歯止めがかかるかもしれない」
蒼星石は再び真紅の碧い両の瞳を見つめる。
蒼星石「僕が彼らを眠らせたのはそのためだ。悪意あるものからマスターやジュン君のような真っ当な
人々を守るためにこそ、僕はこの力を使うつもりだ」
真紅「そう。それはご立派な考えね」
蒼星石「僕を嘲笑うのかい真紅。僕の言っていることは正しいはずだ」
真紅は首を左右に振った。
真紅「いいえ。でも私は女だから、借り物の言葉を正しいとか間違っているとか騒ぎ立てることの
意味それ自体がわからないのだわ。
あるのは実感だけ。あなたがこのままでは迷子になってしまうという、はっきりとした実感。
そのために、私はあなたを止めにきたのだわ」
蒼星石が鋏を地面からあげる。
蒼星石「力ずくとはレディの言うことじゃないね。どうしてもというのなら、僕とて容赦はしない。
何より真紅、たとえ君が僕を力でねじ伏せたところで、僕は考えを変えるつもりはない」
真紅「私の役目はあなたを止めること。
蒼星石、あなたを救うには、また別のふさわしいものがいるのだわ」
真紅がステッキを、蒼星石が鋏をそれぞれ構えた。
翠星石には、最悪の事態が進行しつつあるとしか思えなかった。
翠星石「やめるです! ふたりが戦うことなんてないんです!」
ふたりはすでに臨戦態勢に入っている。
真紅「仕方ないのだわ翠星石。あまりに勢いのついた滑車が止まるには、多少の衝撃はやむをえない」
翠星石「でも戦うだなんておかしいです!」
真紅は不敵に笑って軽く唇を舐めた。
真紅「大丈夫。これはただの姉妹喧嘩よ。姉妹ですもの、喧嘩ぐらいするわよね、蒼星石」
蒼星石「ふっ、それは面白い言い方だね。
……下がってくれ翠星石。君といえども、邪魔をするのなら!」
翠星石から離れようと、真紅と蒼星石はお互い後ろに飛んで距離をとった。
真紅「早く下がりなさい翠星石!
そのドレスにだけは何があっても傷をつけるわけにはいかないでしょう!」
真紅と蒼星石にかつての記憶がよみがえる。
蒼星石「あの頃の決着をつけようか、真紅!」
無人の広場にはガス灯らしき明かりがともっており、戦うのに支障はなかった。
真紅と蒼星石は距離をとって向かい合っている。お互いもはや退くつもりはない。
見守るしかない翠星石が思うに、おそらくこの勝負は距離の取り合いになる。
庭師の鋏が届かぬ遠距離(ロングレンジ)では、真紅のローズテイルなどの薔薇の花びらに
よる攻撃が有利だ。蒼星石の飛び道具はシルクハットしかない。しかし真紅の薔薇による攻撃は
牽制や足止めには便利な反面、相手を倒す決定力には欠ける。
真紅の攻撃の中で最大の威力を誇るのは、間違いなく近接戦における拳による打撃だ。それを
見舞うためには、庭師の鋏を潜り抜けた超近接戦(クロスレンジ)に持ち込む必要がある。
蒼星石の距離は、庭師の鋏を駆使して戦えるその中間の距離(ミドルレンジ)である。ここで
ならば真紅の武器はステッキや薔薇の花びらとなるが、蒼星石にはローゼンメイデンの正式の持ち物
として作られた庭師の鋏の威力にものをいわせることができる。
蒼星石「真紅! この500円玉が地面に落ちたときを始まりの合図とするよ」
真紅「ええ、わかったわ」
蒼星石が500円玉を宙に投げ上げる。落下音が地面になり響いた。
ローゼンメイデン同士による、派手な姉妹喧嘩の始まりである。
戦闘開始と同時に、蒼星石が仕掛ける。
一気に距離を詰め、勢いに乗ったまま庭師の鋏による横薙ぎの一撃。
しかし手応えはない。切り裂いたのは、薔薇の花びらによる人型だ。花びらはすぐに蒼星石の
周りを取り囲み、目くらましの役割を果たす。
蒼星石「! 上か!」
上空に飛び上がった真紅は、落下の加速で衝撃の増したステッキを振り下ろす。
真紅「真紅流棒術! 『龍槌撃!』」
翠星石「ようは我流じゃねーですか!」
蒼星石はこれを庭師の鋏でがっちりと受け、さらに跳ね返した。真紅は着地してバックステップ
で逃げる。
蒼星石「なかなかやるね。だがこの『庭師の鋏』がある限り僕は負けない」
真紅「私にもこの……『真紅ラブリーステッキ』があるのだわ」
翠星石「……絶対今考えたです。聞いてるこっちが恥ずかしい思いをする名前です」
真紅「税込み3980円。暗闇で光るのだわ」
翠星石「誰も買わねーですよ! しかも機能の割りに高ッ!」
真紅はそのまま距離をとり、ローズテイルによる攻撃を放った。
蒼星石はそれを庭師の鋏で切り払う。さらにそのまま、庭師の鋏を右手でかつぐように構えた。
真紅「遠い。かすりもしないのだわ」
そう思うのが当然の遠い間合いであった。
だが脳裏に電撃のごとく直感が走り、真紅はステッキを構えつつ後ろに飛んだ。その刹那。
蒼星石の鋏は真紅のステッキを強かに打っていた。後ろに飛ばねば斬られていたであろう。
真紅「い、今のは……」
かつて「流れ」と呼ばれた特殊な<握り>があった! 横薙ぎの一閃の最中、手を鍔元の縁から
柄尻の頭まで横滑りさせるという幻の刀術だ。精妙なる握力の調節が出来なければ、刀はあらぬ方向に
飛んでいってしまったという。
蒼星石「僕の得物は鋏。先から後まで横滑りさせても、構造上鋏が飛んでいってしまうことはない。
何の恐れもなく使えるというわけさ。
これが蒼星流剣術、『流れ・改』だ」
翠星石「姉妹で遊んでるだけじゃねーでしょうね、お前ら」
この『流れ・改』が真紅にもたらした心理的影響は大きい。完全にミドルレンジを制されたと共に、
ローズテイルの有効射程距離にまで蒼星石の侵食を許したのだ。
真紅「なんとか、クロスレンジに持ち込まなくては」
思考を縛られてしまったのである。
真紅はまず遠距離から薔薇の花びらによる撹乱や足元への攻撃を行い、蒼星石を牽制した。
そうしておいて、ミドルレンジから積極的に攻勢に出る。
身体にひねりを加え、遠心力を利用してステッキを打ちつける。
真紅「真紅流棒術! 龍巻撃! 誠! 一! 郎!」
蒼星石は2撃を苦もなく打ち払い、3撃目には真紅を逆に弾き飛ばした。
蒼星石「芸がないね真紅! 少しは頭を使ったらどうだい!」
今度はこちらの番だと蒼星石が『流れ・改』の構えに入る。
真紅「くっ……」
後ろに弾き飛ばされながら、真紅は心中に得たりと思った。狙い通りである。
空中で姿勢を制御しながら、後方に向けて特大のローズテイルを用意する。ローズテイルを
攻撃ではなく推進力に利用し、頭から体ごと相手に突撃する大技。これが、
真紅「真紅流奥義! 『ロケット薔薇乙女』!」
翠星石「だせぇですぅううう! しかし、これで相手を弾き飛ばせば接近戦にもちこめるです!」
蒼星石の口元にかすかに笑みが浮ぶ。すばやく鋏を消し、両手を十字に組む。
激しい衝突音が広場に鳴り響く。真紅は蒼星石の十字に組んだガードに頭から突っ込んでいた。
翠星石「ク、クロスアームブロック……!」
かのハードパンチャー幕ノ内一柳をして、分厚い岩を叩いたような違和感といわしめた、最強の
ガードである。そんなものに、真紅は頭から思いきり突っ込んだのだ。
なんとか地面に足をついたものの、ふらりと崩れかけた。
そこに蒼星石が容赦なくパンチを浴びせる。真紅は石畳の上に倒れこんだ。
蒼星石「君の思考は読めていた。なんとかしてクロスレンジに持ち込もうとするだろうとね」
真紅はなんとか身を起こす。まだ戦える力は残っていた。瞳の炎はまだ消えていない。
蒼星石「次に君は、『絆パンチ』さえ打てれば、と言う」
真紅「『絆パンチ』さえ打てれば……はッ!」
蒼星石「打ってきなよ。君が近づいてきても僕は攻撃しない」
蒼星石は両手を広げて真紅を挑発した。
翠星石「絆パンチをわざわざ打たせるなんて、蒼星石のやつなに考えてるです」
真紅は蒼星石に近づくと拳を振りかぶった。
そんなに打ってほしいのなら、容赦なく打たせてもらう。あの水銀燈を一撃で吹き飛ばして
木に叩きつけた真紅の本当の必殺技。それが、
真紅「元祖必殺! 『絆パァンチ』!」
真紅は己の見た光景が信じられなかった。あの絆パンチが、自分の拳が蒼星石の手のひら
の中にある。
蒼星石「どうだい真紅。とめてあげたよ。クロスレンジなら勝てると思っていたのにね」
真紅「そんな……私のパンチが。あ、あなた、以前の蒼星石ではないのだわ」
蒼星石が真紅の拳を掴んだまま引っ張りあげる。
蒼星石「執念。僕を変えたのはアリスゲームの敗戦が教えた執念だ。
お父様に魂を戻していただいた日以来、僕は1日30回の腕立て・腹筋・背筋を欠かした
ことはない」
ドールには筋肉があるわけではないので、筋力トレーニングも無意味である。
翠星石「肉体的には無意味ですが、毎日毎日続けてきたという事実が、蒼星石に自信を与える
バックボーンになっているです。自信が強さにつながってやがるです。厚い、蒼星石の
背中がぶ厚く見えるです!」
翠星石も毒されてきていた。
真紅は片腕を吊りあげられた状況から脱出するため、蒼星石に蹴りを入れて突き飛ばした。
真紅「突き飛ばさざるをえなかったのだわ。まずいッ!」
すかさず庭師の鋏による斬撃が蒼星石によって繰り出される。真紅はステッキでその一撃を
受けた。なんとか防ぐことが出来たものの、ステッキにひびが入りもう使えそうにない。
蒼星石「真紅、戦いの始まりはすべて怨恨や感情に根ざしている。それは誰とて同じこと。
だが今の僕は義によって立っている。義無き君に僕は倒せない!」
真紅「義? それなら私にもあるのだわ。そんな義なんてものに負けられないというものが」
蒼星石「強がりを言うね。『絆パンチ』さえ通用しない君に勝つ手段はない」
戦いの趨勢は、翠星石から見ても明らかに蒼星石に傾きつつある。
しかしいくら自信がついたとはいえ、あの絆パンチを簡単に止められるものだろうか。
そのからくりはどこにあるのか。翠星石は直前のふたりの行動を思い出した。
なるほど。真紅は頭を強打していた。まだ戦えるとはいえ、直前に受けたダメージが強く
残っている状態である。その状態で打ったパンチにいつものような威力があるはずがない。
蒼星石はそれを見越して挑発を行い、あえて真紅に絆パンチを打たせそれを受け止めることで、
真紅の自信喪失を狙ったのだ。
自信、それはあらゆる戦闘・競技において決して失ってはならないものである。
翠星石は真紅に自信を取り戻してほしかった。どんな理屈でもいい。とっかかりになれば。
翠星石「真紅、回転です。回転力を加えるんです!
ボクシングのコークスクリューブローに見られるように、押し出す力に回転を加えれば
その威力は飛躍的に上昇するです!」
蒼星石「翠星石……君は真紅につくか。残念だよ」
知らず知らずのうちに、翠星石は双子の妹よりも真紅に感情移入していたのである。
真紅「回転……そうね! ありがとう翠星石!」
生半可な回転力では蒼星石には通用しないだろう。真紅は決意した。あれしかない。
<黄金の回転>。
かつて西洋の小国で国王に仕える者たちの中に、先祖代々死刑執行人と医者を兼ねる奇妙にして
誇り高き一族があった。彼らは人体のあらゆる仕組みに通暁し、死刑の際には罪人の苦痛を減らし、
医療行為にはその知識を生かした。
その一族に連綿と受け継がれ、常に敬意を払われてきたのが<黄金の回転>である。回転の技術は
彼らの血統と誇りが結晶となった「技」。その<黄金の回転>ならば、蒼星石を破れるはずだ。
真紅「しかし……」
<黄金の回転>には1対1.618の黄金率である黄金長方形の発見が不可欠なのである。
このnのフィールドは夜に眠る都市の広場。黄金長方形につながるものは見出せなかった。
黄金長方形とはモナリザやミロのヴィーナスといった芸術品やパルテノン神殿のような
建築物にも見つけられる。
しかし<黄金の回転>につなげられるのは自然の中に見られる生命の輝きとでもいう
ようなもの。真紅はロングレンジで逃げ回りながらそれを探したが、とても見つかりそうに
なかった。
蒼星石「逃げ回るのだけが君の戦いか、真紅!
君は生きることは戦いだと語った。逆をとれば戦いには生き様が現れるというもの。
僕にローゼンメイデンの誇りを見せてみろ!」
蒼星石が『流れ・改』の構えに入る。
真紅はローズテイルを前方に放って間合いを取った。蒼星石は苦もなく庭師の鋏で
ローズテイルを切り裂き、追撃に入る。
握りが変化した。猫科動物が爪を立てるがごとき異様な掴み。
翠星石「あれは、あまりの残酷無残さに滅びたという剣術一派の……!」
真紅は本能で理解した。少しでも間合いに入れば、蒼星石は自分を一瞬で両断して
しまう神速の一撃を繰り出してくる。
ゆえにロングレンジから一気にクロスレンジへと飛び込まねばならない。だがそれを
可能にする技、『ロケット薔薇乙女』はすでに見切られていた。
焦りと絶望が真紅を支配しつつあったそのとき、偶然、迫り来る蒼星石と戦いを見守る
翠星石とが真紅の視線上に並んだ。
見える。翠星石に黄金の長方形が。<黄金の回転>へとつなげることのできる黄金長方形は
通常、芸術品や人間の体には見えない。だがローゼンの手による究極のドールとジュンが己の
すべてを賭けて作ったドレス。二つの黄金長方形の重なりは、微かなものながら回転に使うことの
出来る黄金長方形を生み出していたのである。
真紅「勝負だわ、蒼星石!」
真紅は『ロケット薔薇乙女』の体勢へと入った。
蒼星石は真紅の行動を見ると、すぐさま鋏を消して防御の準備に入った。
蒼星石「その技はすでに見切っている。捨て鉢か、真紅!」
翠星石「違う、今までの『ロケット薔薇乙女』とは違うです!」
真紅はローズテイルに<黄金の回転>を加え、頭上で右拳と左拳を組んで体全体を独楽の軸の
ように伸ばした。少しでも回転の力を借りるためである。<黄金の回転>ローズテイルで自らの身体
を回転させ、ライフルの弾丸のように蒼星石へと突撃する。
真紅「その身に刻め! 神技! 『スパイラルロケット薔薇乙女』!」
蒼星石「ならば!」
蒼星石は庭師の鋏を再び呼び出すと、クロスアームブロックの前に打ちたてた。
翠星石「十字のガードに庭師の鋏を加えた。これは名付けるなら、トリプルクロスブロックです!」
もはや翠星石は自ら技の名づけ親になった。
黄金に輝く弾丸と化した真紅と、完全なる防御体勢を固めた蒼星石。二人の衝突は広場全体を激しく
震わせ、閃光さえ生じたかと思わせた。
翠星石「蒼星石!」
軍配は真紅に上がった。回転の力で3倍、回転による速度の上昇で2倍、両拳を組んだことで2倍。
3×2×2=12倍の威力となった新型『ロケット薔薇乙女』が、強化したクロスアームブロックさえ
弾き飛ばしたのだ。
蒼星石は鋏を失って吹き飛ばされている。クロスレンジに持ち込んで追撃をかけるなら今だが、
回転の後遺症は真紅にも残っていた。体の自由が利かない。
翠星石「このときを逃せば、次はないというときにですぅ!」
真紅「私は勝つ! 勝つのだわ!」
真紅は己の体に逆の回転をかけ、無理やり後遺症を中和した。
<黄金の回転>は医療にも適応される技術であり、無限の応用が可能なのだ。
蒼星石はなんとか立ち上がったが、先程のダメージで腕の自由が利かないようだ。
蒼星石「う、腕が上がらない。ガードができ……」
真紅はその隙を逃さず、高速で蒼星石に迫る。
真紅「震えるぞハート!」
ローズテイルに<黄金の回転>をかけ、
真紅「燃え尽きるほどヒート!」
それを右腕全体に纏う。
真紅「薔薇乙女一のキュート!」
さらに右腕を内側に捻ってコークスクリューブローの体勢をとり、
真紅「受けよ真紅の衝撃! 『スカーレットハートブレイク』!」
相手の心臓めがけて打ち込む。
『スカーレットハートブレイク』とは、凄まじい回転力=貫通力をかけた一撃を、
躊躇なく相手の心臓にねじ込むという慈悲のかけらもない技なのだ。
真紅はこれを満足に防御することも出来ない蒼星石の胸部に完璧にねじ込んだ。もちろんドールに
心臓はないが、その破壊力は勝敗を決するには十分すぎるほどである。
後方へと崩れ落ちようとする蒼星石に対し、真紅は容赦なく追撃をかける。
右『絆パンチ』打ちおろしの体勢だ。
翠星石「真紅、もう決着はついたです! やめるですぅううう」
真紅の右腕は止まらない。高い音が響いた。
翠星石「あ、平手うち……です」
何の変哲もないただの平手打ちであった。これ以上のダメージを与えることは真紅とて望まない。
真紅「蒼星石、あなたの正義、止めさせてもらったのだわ。あとは翠星石の役目」
すでに意識のなかった蒼星石に、その言葉が届いたかはわからない。
蒼星石は温かな感覚に包まれて目を覚ました。
見上げると、翠星石の顔がある。翠星石は蒼星石の頭を膝に乗せ、髪を優しく撫でて
くれていた。。
翠星石「気付いたですか?」
蒼星石は横になったまま周囲を見渡した。翠星石と蒼星石、二人きりだ。
蒼星石「真紅は?」
翠星石「私の役目は終わったのだわと言って、さっさと帰りやがったです。
黄金長方形はあくまで微かなものだったからしばらくすればちゃんと目が覚めるって。
後は、オラの気をわけてやったとか、血止めの心央点を突いたとか、
わけのわからないことばかり言ってたです」
蒼星石は自分が敗れたことを悟った。
しかし、たとえ敗れたとしても、
蒼星石「翠星石、最初に言ったとおり、僕は自分の正義を曲げるつもりはないよ」
翠星石「……あんなもんが、蒼星石の本当の望みなんですか?」
翠星石は瞳は悲しげに見えた。
翠星石「蒼星石の望みは、おじじやおばばと一緒に笑ったりすることじゃねーんですか?」
蒼星石「そうさ。だから悪意を持った連中を倒したり、みんなが悪意に傾くのを防ぐんだよ」
翠星石「悪いやつの心を斬りつづける蒼星石はどうなるです。心の樹をむやみに傷つけ
続ければ、お前の心は荒んじまうです。どんどん辛くなって笑えなくなっちまうです」
蒼星石「僕は、僕は大丈夫さ」
それに、と翠星石は続ける。
翠星石「悪意ってなんですか蒼星石? 悪い気持ちですか。
だったら翠星石も持っているです。このドレス……このドレスにさえ持っているです」
翠星石は蒼星石に自分の着ているドレスを示してみせた。
翠星石「このドレスはジュンが心を込めて作ってくれて、そしてきっと、真紅が贈ってくれたんです。
真紅は何も言わないけど、なんとなく翠星石にはわかるんです。
このドレスには、二人の翠星石を想ってくれた気持ちがたくさんこもっているんです」
蒼星石「わかるよ。こうして触れているだけでとても温かい気持ちになる」
翠星石は心から嬉しそうに微笑んだ。
翠星石「だけど、このドレスのせいでとても妬ましい気持ちにもなるんです」
蒼星石「どうして……?」
翠星石「見つめあう二人よりも、同じ方向を見つめている二人のほうがずっと強く結ばれている。
誰が言ったか知らねーですけれど、そんな言葉があるです。
ジュンはこのドレスを作ったとき、たくさんたくさん翠星石を見つめてくれたです。
でもこのドレスを作っているとき、ジュンと真紅はずっと同じ方向を見つめていたんです。
それを思うと、せっかく翠星石にドレスを贈ってくれた二人が妬ましくなるんです」
翠星石は何度かまばたきして、顔をうつむかせた。
蒼星石「それは、悪い気持ちなんかじゃ……」
翠星石「でも妬ましさで人を殺したり傷つけたりするやつがいるです。
こんなドレスが作れる心を持ってるジュンだって悪いところがあるです。
翠星石にドレスを贈って、真紅とドレスを作って、巴が遊びに来るとドキドキしやがるです。
翠星石が悪いことしたら、きっと少しはジュンのせいです。
そうなったら、蒼星石は翠星石とジュンの心を傷つけますか?」
蒼星石にはもう、翠星石が言いたいことがわかっていた。いつも、いつもそうなのだ。
蒼星石「……僕が傷つけたのは、もっと明確に悪い団体に関わっていた人たちだよ。だから……」
翠星石「そいつらだって心の全てが悪いわけじゃないです。
それは実際に心を樹を傷つけてしまった蒼星石が一番よくわかってるはずです。
家族を思う気持ち、芸を磨こうという気持ち、人を楽しませたいという気持ち。
悪い宗教の広告塔だったからって、いい心を持ってないわけじゃねーです。
お前はそれにいつまでも目を背けていられるほど強くも弱くもねーです。
いつか耐えられなくなって、蒼星石自身の心が壊れてしまうです」
いつもそうだ。翠星石は。普段は自分よりずっと泣き虫だったりわがままだったりするのに。
翠星石「翠星石は、蒼星石が壊れてしまうなんて耐えられないです。
だからもうあんなことはやめてほしいんです。正義だろうがなんだろうが知ったこっちゃねーです。
真紅だって同じ気持ちでお前を止めたんです。みんな調子に乗りすぎてお前を
実際に壊しかねないとこまでいきましたけど、お前の心を守りたかったんです」
本当に大切なことは、いつだって翠星石は自分よりちゃんとわかっているのだ。
蒼星石「翠星石、でも僕はもう10人も……10人もあんなに傷つけてしまって……」
涙があふれてきた。僕は正しかったはずなのに。
翠星石「大丈夫です。お前は優しいから、治らないような傷をつけてはいないはずです。
二人で治せば元通りになります」
蒼星石は翠星石にすがって泣いた。
その頭を翠星石の手が、いつまでもいつまでもそうしていてくれるように撫で続けていた。
蒼星石は思う。
アリスになることを失った自分は、どこかで意味のあることを求めていたのだ。
そこに正義という考えが入り込んできた。僕の存在意義をそこに求めてしまった。
深淵を覗くときは注意せよ。お前が深淵を見つめるとき、深淵もまたお前を見つめているのだ。
僕もまた、弱さにつけ込まれてしまった存在だったのだ。
どんなに偉そうなことを言おうと、本来は人の心を助けるべき力を用いて、人の心を傷つけて
しまった。こんな当たり前のことさえ忘れてしまっていたなんて。
そのことを正直に話すと翠星石は、
翠星石「まったく蒼星石は……頭がいいのか悪いのかわかんねーです」
と首を振った。
蒼星石「そういう言い方はないじゃないか」
翠星石「おじじやおばば、真紅たち姉妹、ジュンやのり、それに、翠星石。
今のお前がお前のままで笑って受けれいれてくれるやつらなんてたくさんいるです。
何でそんなことも忘れて、正義の味方なんざやりたがるです」
蒼星石は嬉しかった。反論する必要なんてなにもない。それでも、
蒼星石「何か、意味のあることがしたいって思わないかい翠星石は」
翠星石は少し考え込んでから、
翠星石「順番が逆ですけど、ジュンがドレスをくれたときには、それまで内職してたこと思い出したです。
報われたって言ったらそれが目的だったみたいに聞こえちゃいますが、自分の内職してた日々に
でっかい意味があったように思えたです」
でも、と翠星石は続ける。
翠星石「みんなで笑ったり、ご飯を食べたり、ときには喧嘩してしまったり、あるいは失敗したり。
うまくいかねーこともありますけど、そんな毎日それ自体に意味があるんです、きっと。
今日だってちょっと過激にやりすぎたですけど、みんなで大騒ぎして遊んだようで楽しかった
じゃねーですか」
蒼星石「君は横で騒いでばっかで、真紅に直接殴られてないからそう思えるんだよ。
まあ僕なんか鋏を振り回しちゃったから、真紅に素手でやられたことなんか恨めないけどね」
真紅に殴られた胸はまだ痛む。だけど、
蒼星石「なんだか胸が軽くなったな。真紅のおかげで」
翠星石「そりゃまあ実際……」
え? 蒼星石が翠星石を見やると、翠星石はなかなか視線を合わそうとしない。
翠星石「さあ、明日からばりばり働くから忙しいですよー。今日は一緒に寝てやるから早寝するです。
ほら行きますよー蒼星石。ちゃっちゃ帰るです」
真紅、僕の胸、大丈夫だよね。
翠星石のドレスが完成してから2週間後。
僕は前日に完成した新作のドレスをネットオークションに出す準備を進めていた。
新作はAラインを採用した典型的なウェディングドレスである。翠星石のために作った
ドレスの経験を活かせるのもあるし、なによりあのドレスを公開したときの反応で決めた。
作った僕が引いてしまうほどの反応に、ウェディングドレスは女性にとってやっぱり
特別なんだと実感したのだ。
人形に着せるドレスにこだわる人には女の人のほうが多いし、こうなったらとことん
やってやると思った。翠星石のものとは違う、写真でも見栄えのする絢爛豪華なデザインに
し、ブーケなどの小物もつけた。
一番大変だったのは豪華でも決して悪趣味にならないようにまとめることだ。幾度かの
試行錯誤を経てようやく完成したのだが、それが今回の僕にとっての収穫だと思う。
アパートには久々に草笛みつと金糸雀が来ていた。僕がネットオークションに出す際の写真を
頼んだのだ。
草笛みつは僕のドレスを見るなり目を丸くして驚き、しばらくは言葉もないようだった。
そういう反応をしてもらえることは、やっぱり嬉しい。
それから翠星石のドレスも見てもらった。草笛みつは向こうもすごかったけど、こっちの
ほうが素晴らしいと思うと言ってくれた。
みつ「まさか、ちょっと来ない間にこんなにレベルアップしてるとは思わなかったわ。
もう完璧にそこらの職人のレベル超えてるわよ。いったい何があったの」
ジュン「まあ色々と。褒めてもらえたのは嬉しいし、自分でも本当に良くできたと思います。
でもまだまだです。僕はもっと学んでいかなきゃ駄目なんです」
みつ「まだまだって……」
ジュン「上には上がいるんですよ。その人に絶対慢心するなって言われましたしね」
翠星石は今回はドレスを着用することはなかったものの、金糸雀相手に色々と話して聞かせていた。
たまに聞こえてくる内容に、僕は照れくさくて赤面した。
でも、金糸雀の姿を見ていたら、そんな気持ちは消えてなくなってしまった。
今日もうちにくるなりドレスを洗濯しているから、金糸雀が着ているのは草笛みつの持っている
彼女の着替えだ。それも糸がほつれたりしている。
金糸雀は僕のドレスを見ていて、
金糸雀「なんて綺麗なのかしら」
と言って涙をこぼしていた。
それは単純に感動してくれただけとは、とても思えなかった。
4日後のドレスを出品したネットオークションの締め切り1時間前、僕と草笛みつは
固唾を飲んでPCの前に待機していた。
ドレスの値段は、すでに20万円を超えていた。この時点で新記録達成である。
みつ「ま、ここまでは予測してた範囲内だわね。こっからが勝負って感じ」
ジュン「え、マジですか。僕はもう十分なんですけど……」
人形のドレスが20万だぞ。いったいどうなってんだこの国は。
みつ「いかれた人形マニアっているものよ」
失礼ながら、あんたみたいにカードで借り入れてるわけじゃないことを望むばかりだ。
30分前には25万を突破した。僕は我ながら怖くなってきた。
みつ「さてラストスパートに入るよ~」
ジュン「いや、もうゴールしてもいいよねってレベルじゃないですよこれ」
15分前には30万円代に入り、さらに熾烈な入札競争が演じられた。ここまでくると
もはやドレスそのものより、競り落とすことが目的になってるんじゃないかと思う。
結局、僕のドレスは38万6000円で売れた。いたずらじゃないのなら、世の中には
理解できないことがたくさんあるようだった。
しかしあるところにはあるんだな金って。のりはパートで必死に家計を支え、草笛みつに
至っちゃ日雇い派遣のネカフェ難民なのに。せっかくドレスを買ってもらったのに、僕は
なにか間違ってるような気がした。
草笛みつはさすがに黙り込んでしまっていた。金額の凄さのせいではないと思う。
彼女もこの結果に、僕と同じことを思っているのではないだろうか
しばらくどちらも無言だったが、やがて草笛みつが話だした。
みつ「凄かったね。やっぱりジュン君のドレスは特別よ。おめでと」
精一杯明るくしようとしていたけれど、表情にさした影は隠しきれていなかった。
ジュン「ありがとうございます。お金が振り込まれたら連絡しますよ。今回のお礼渡し
ますんで」
みつ「うん。おかげでたすかるわ。じゃあ、今日はもう帰るね」
草笛みつらしくもない。いつも遠慮なく泊まっていくのに。
僕は慌てて作業場から人形用の空色のワンピースをもってきた。
ジュン「雛苺が、ドレスを作ってやってないんでむくれてるんですよ。だから簡単な
ワンピースを作ってやったんです。せっかくだから金糸雀のも作ったんですけど
もらってくれませんか。ほら、今着てる着替えの服、糸がほつれてたし」
草笛みつは僕の作ったワンピースをじっと見つめていた。
みつ「……ありがとう。これ、いつ作ったの?」
ジュン「昨日ですけど、何か?」
みつ「ううん、なんでもない。カナだけどさ、ちょっと置いていてくれない。お金振り込まれるまで。
だからこのワンピースもさ、カナに渡してあげて」
ジュン「いいですよ。それじゃまた」
草笛みつは何かを考え込んでいたようだった。あの金額のショックのせいだろうか。
その日の夜、金糸雀は雛苺と色違いのワンピースではしゃいでいた。きちんとサイズを測らず、
真紅たちを参考にしたのだが問題はないようだったし、満面の笑みで喜んでくれたので嬉しかった。
ちなみに雛苺のワンピースは瞳の色より少し濃いグリーンだ。
のりはふたりの姿にご満悦だ。
のり「色違いでおそろいの服を着ると、あのふたり本当にかわいいわね~」
僕はある決心をのりに話してみた。
のりはちょっと難しそうな顔もしたが、僕の思うようにするのがいいと言ってくれた。
落札者からの料金振込みとドレスの郵送も無事に済んだ数日後の夜、僕のアパートでは
いつもよりちょっと豪勢な夕食を食べて、ドレスが大金で売れたことのお祝いパーティー
みたいなものを催した。
出席者はアパートのメンバー全員と、金糸雀、草笛みつである。
賑やかな夕食が済んで落ち着いてきた頃を見計らって、僕は草笛みつをアパートの駐車場に
連れていくことにした。
ジュン「お金渡そうと思うんですけど、ここじゃなんなんで」
人気のないアパートの駐車場で、僕は草笛みつに封筒に入ったお金を手渡した。
彼女は封筒を手に取ると、すぐに中を確かめ、僕に向き直った。
みつ「なにこれ。こんなにもらえないって」
ジュン「あの、全部で30万円あります。もらってください」
みつ「なんで?」
こういうことは巧く言えない。僕は気まずさもあって、草笛みつの顔を見ずに話し続けた。
ジュン「そのお金があれば、今の生活から抜け出せますよね。適当なアパート借りて、それで、
まあそうすれば住所がちゃんとしてるから、定期的なバイトにつけると思うんです。
そしたら……」
そこまで言ったとき、僕の顔に封筒が投げつけられた。封筒は地面に落ちて、中から数枚の
紙幣が地面に散らばった。
みつ「ねえ、あんた私をばかにしてるの! 恵んでやったつもり!?」
僕はあっけに取られていた。こうなることには気を付けるつもりだったのに。どうして
こうなるんだろう。
草笛みつは僕のことを凄まじい形相で睨んでいた。
みつ「こんなことしてくれなんて全然頼んでない! わかったらとっとその金持って帰ってよ!」
ジュン「でも、このままじゃあなたも金糸雀も……」
みつ「カナのことは私がなんとかするわよ!」
ジュン「でも、現状なんとかできてないじゃないですか。なんかあてでもあるんですか?」
みつ「それは、それはあんたの知ったことじゃないでしょ!」
ジュン「このままじゃお先真っ暗じゃないですか!」
僕も熱くなってきている自分を止められなかった。
ジュン「いつまで金糸雀にこんなことさせておくんです! そりゃ僕だってアパートで内職なんて
ローゼンメイデンらしからぬことさせてますけど、帰る家ぐらいありますよ。金糸雀は……」
引き金を引いたのは僕のほうだろうか。
みつ「なんであんたにそんなこと言われなきゃいけないのよ!
あんたなんか姉におんぶに抱っこじゃない!
中卒のニートで、中学まで不登校のくせになんであたしに偉そうに説教できるわけ!?」
草笛みつは甲高い声でわめき続ける。
みつ「私は高校どころか大学までちゃんと出てるわけ。今よりも就職難の時代にOLになって、
夢のために転職までしたのに、なんでこうなるのよ!」
知るかよ。なんだよそれ。借金してまでなんて思ってたからだろ。
みつ「あんただってさ、いつまでも姉に寄生してるか、行く末は私みたいになるしかないんだよ!」
殴ってやりたかった。女だとか、年上だとか関係なかった。
もし僕が昔引きこもりじゃなかったら、間違いなく殴っていた。
わかってしまうんだ。
誰も彼もが自分のことを馬鹿にしていて見下してるんじゃないかって錯覚。
全然関係ない他人とすれ違うだけでも、笑われてるんじゃないかと思うこと。
世の中全部が自分にとって敵のようで、自分は震えているしかないような無力感。
僕は地面に落ちているお金を拾い始めた。草笛みつの姿を見ていたくなかった。
彼女は、今、最悪の環境にある。帰るところもないネカフェ暮らしで、仕事もひどい扱いしか
されない日雇い派遣を仕事がもらえたらありがたいと思わなければならない。
そういう状況のせいで、この人はずっと前から精神的に追い詰められていたんだ。
みつ「拾ったらさっさといってくれない。私も荷物とってきて消えるからさ。
それともまた渡そうとする? 結構気持ちよかったでしょ、金渡したときさぁ」
僕は必死に耐えた。この女はどうでもいいけど、金糸雀は……。
みつ「そうだよねぇ。ジュン君はあんな凄いドレス簡単に作れちゃうんだよね。
そりゃ30万なんてぽんとくれてやって惜しくないよ。また売れるだろうし」
この女、僕があのドレスを簡単に作ったと思ってるのか。
目の前が赤くちらついた。もう限界だった。
顔を上げた瞬間、僕は乾いた音を聞いた。
そのとき僕が見た光景は、あまりにも意外すぎて滑稽なほどだった。
飛び上がった金糸雀が、草笛みつを思いっきりビンタしていたのだ。
気付けば、少し離れた駐車場の階段あたりに、姉ののりや真紅たちの姿があった。
話すというより叫んでいるような状況だったから、途中から聞こえていたのだろう。
草笛みつは金糸雀に叩かれたショックからかへたり込んでしまった。
金糸雀はその草笛みつに毅然と向き合っていた。
金糸雀「みっちゃん、ジュンはここ数日なにかずっと考え込んでいたかしら。
カナはどうしてかと思っていたけど、今こそその理由がよくわかったかしら。
ジュンは決して軽い気持ちでそのお金を渡したんじゃないかしら。
それに、ジュンは本当に苦労して翠星石のドレスを作ったかしら。
翠星石がカナにたくさん話して教えてくれたかしら。
あんな素敵なドレス、簡単な気持ちで作れるわけがないかしら!」
草笛みつは幼い子供が本気で怒られたときのように、何もいえないで呆然としていた。
金糸雀は僕に向き直る。
金糸雀「ジュン、ごめんなさい。どうかみっちゃんを許してあげてほしいかしら」
僕も呆然として何もいえなかった。まったくなにがどうなっているんだ。
金糸雀「みっちゃんはこの一年、誰も頼ることのできる人がいなくて辛かったかしら。
ジッカとはシャッキンが原因で色々あって、大変なことになっていたかしら。
友達にもだんだん会いづらくなっていって、どんどん孤独になっていったかしら。
だから、だから心が疲れてしまったかしら。みっちゃん本当はやさしいかしら。
ジュンのことだっていつも才能があるって褒めてたかしら。
とてもひどいことをいってしまったけど、どうか許してあげてほしいかしら」
ジュン「ああ、わかってるよ」
僕は金糸雀の頭をなでた。他になんていえばいいんだ。
金糸雀「それで、おかねのことだけど、カナがもらうかしら」
ジュン「え?」
予想外すぎる提案だった。金糸雀の後ろで草笛みつが、
みつ「カナ、そんなお金もらうなんて」
と言ったが、金糸雀はそれを無視した。
金糸雀「カナのモットーは楽してずるしていただきかしら。
だから、もらえるものはもらうかしら」
金糸雀が後ろの草笛みつを振り返る。
金糸雀「みっちゃん、カナがみっちゃんを頑張って守るかしら。
ジュンもこうやって助けてくれたから心配いらないかしら」
草笛みつは、アパートの駐車場にかがみこんで大声をあげて泣き始めた。
僕はしゃがんで金糸雀に視線を合わせた。
ジュン「わかった。この金はのりに預けておくから、みっちゃんさんが落ち着いたらお前が受け取り
にこい。ささいなことでも、のりに相談してみろ。あいつはあれで僕が中学生の頃から
家計を切り盛りしてるから、そういうところはしっかりしてるんだ」
金糸雀「わかったかしら、ジュン。本当にありがとうかしら」
僕はアパートの階段に向けて歩いていった。これ以上この場所にいることには耐えられなかった。
のりに30万円の入った封筒を渡し、聞いていた通りにしてほしいと頼む。
ジュン「姉ちゃん、僕は、なにもわかってなかった。お金って、すごい難しいんだな」
のり「ジュン君……」
隣を通る際、真紅が僕に言った。
真紅「ジュン、みっちゃんさんは、あなたが高校に行ってないことなんて本当はどうでもいいと
思っている。あの人にとって本当に辛かったことは、あなたがまぶしすぎたことのだわ。
それはジュン自身にはどうしようもできないことだったの。あなたのせいじゃないのだわ」
僕は力なく頷いて、階段を登っていった。
やっぱり僕は人形やドレス作りの腕が上がって調子に乗っていたのかもしれない。
それに世の中のことだって、さっぱりわかっちゃいなかったんだ。
鏡の前に立って、ヘアワックスで髪を整える。
歯もきちんと磨いたし、香水なんか着けないけどデオドラントは使っておいた。
一緒に外を歩くのに、さすがにこの前のようなジャージと500円Tシャツで会うわけには
いかない。とはいえ、僕はこういうときに着ていける服など一着も持っていなかった。
だから午前中のうちに恥を忍んで一番近いパルポに行き、ファッション雑誌を参考にして
ジーンズとシャツを買ってきた。できるだけシンプルで、僕みたいなやつが着ても違和感が
ないのを選んできたつもりだ。
お金はあのウェディングドレスの売れたお金が、家に入れた5万円を引いて、まだ3万6000円
残っていた。
翠星石「おーおーカッコつけてやがるです。買ってきたばっかの服に値札がついてやがるですぅ」
後ろで翠星石が冷やかし続ける。さっきからずっとこの調子だ。
翠星石「なんですこの雑誌は。『メンズノノン』? チャラチャラしたやつらばっかり
載ってやがるです。かぁああ、ぺっ!」
痰を吐く真似までしやがった。
ジュン「おまえ、それがローゼンメイデンのやることか!」
翠星石「ローゼンメイデンだからできるんですぅ!」
翠星石といがみ合う僕に、雛苺はのんびりした声で聞く。
雛苺「ねえジュン~、本当にヒナも一緒に行っていいの~?」
ジュン「ああ。僕からお前も一緒でいいかって、柏葉に頼んだんだ」
僕は柏葉から、学校の帰りに会わないかと昨日電話で誘われていた。
真紅「レディにデートに誘われて、まさか子連れで行こうとする男がいるなんてね」
真紅が大げさにため息をついて首を振る。
ジュン「誰が僕の子供だ、誰が!」
翠星石「聞きましたかちび苺。ジュンは、ジュンはお前を自分の娘だと認めようとしねーです」
雛苺「ジュン、ヒナは、ヒナはジュンの本当の子供じゃないの……?」
当たり前だろうが。どこをどうすればそうなる。まったくこいつら。
ジュン「それに別にデートって訳じゃないぞ。学校帰りに会うだけじゃないか。
雛苺を連れて行くのがその証拠だ。ヒナがいないと話題に困るかもしれないし」
本当は違う。僕は話すためではなく、話さないために雛苺を連れていくのだ。
二人きりで柏葉に会ったら、僕は草笛みつとのことを話してしまうような気がしたのだ。
せっかく柏葉と会えるのに、あの日の気持ちを思い出したくはなかった。
そろそろ出発の時間だ。僕は雛苺を大きなトートバッグへと入れた。柏葉に会うまでの道中は
これで隠し通していくつもりだ。
ジュン「よし雛苺、最後に確認しとくぞ。お前が僕にしつこく頼んだからつれてきた。
いいな、柏葉の前ではそういうことにするんだぞ」
翠星石「小せぇ男ですこいつは。チビチビ、容赦なく真実を巴に話してやるです」
雛苺は僕と翠星石を見比べて、困ったように「う~~~」と唸った。
僕は雛苺の耳に口を寄せた。
ジュン「うにゅ~買ってやるから。な、雛苺」
雛苺「一個じゃお腹が減るの~。お腹が減ると、ジュンに頼まれてたこと忘れちゃうかもなの」
ジュン「わかったよ。2個な。2個買ってやるから」
雛苺「ヒナしっかり覚えたのよ。泥舟に乗ったつもりで安心するの、ジュン」
ああ。本当に安心だよ。隣の家が燃えてるみたいにな。
僕は靴をはいた。いつもどおりの『ダディダス』のスニーカーだが、靴まで新品だと
やりすぎだろう。これで行ったほうがいいはずだ。
雛苺の入ったバッグをかけて、アパートのドアを開けて外にでる。
ジュン「じゃ、真紅、翠星石、留守番よろしくな」
空は晴れていて、いくつか雲が浮んでいる。この分なら、きっと綺麗な夕暮れになるはずだ。
ジュンの出て行った後のドアを、真紅と翠星石は見つめている。翠星石が訊いた。
翠星石「いいんですか、真紅」
真紅「人間は人間同士。それが自然なことでしょう」
真紅は「当たり前のことを」とでも言わんばかりの態度をとった。
しかし今日の翠星石は引き下がらない。
翠星石「真紅はいつもそうです。人の気持ちは見透かそうとするくせに、自分の気持ちは全然
話してくれねーです」
翠星石は真紅をまっすぐに見つめてくる。
翠星石「真紅、真紅はジュンのことどう思ってやがるです」
真紅もまた、翠星石をまっすぐ見つめ返す。
真紅「そうね。私は、私はジュンを特別な存在だと思っているわ。
いい機会だから、あなたには話しておこうと思うの。聞いてくれる、翠星石」
翠星石はしっかりと頷いた。
翠星石「もちろんです」
真紅は台所に向かうと、小さなアルミ袋を取り出した。
真紅「こういうときのために、少しだけのりに買っておいてもらったのだわ」
真紅の嗜好に耐えうる、高級なオレンジペコーだ。アルミ袋を翠星石に手渡す。
真紅「翠星石、お茶を入れて頂戴」
翠星石「ってなんで翠星石がいれるですか! 真紅がやれです!」
なんで私が、とぶつぶつ言いながらも翠星石はきっちりと適温で紅茶を入れてやった。
せっかくの良いお茶だし、翠星石もご相伴に預かるのだ。
翠星石と真紅とは、しばらく無言で紅茶の味を堪能した。
頃合を見て、翠星石が訊く。
翠星石「さあ、聞かせてもらおうじゃねーですか。真紅の言う『ジュンは特別な存在』ってやつを」
真紅はカップを置き、翠星石をまっすぐに見た。
真紅「そうね。まず私たちローゼンメイデンは全部で7人。まだ誰も会ったことのない7人目を除いた、
6人までがこの時代にそろって目覚めている。そんな特別な時代に、ジュンは私とあなた、
契約を結んでいない雛苺も含めて、三体のローゼンメイデンと共に暮らしていることになる」
翠星石は一瞬拍子抜けした。「特別な存在」の意味が違ったようである。あるいはもしかして
すかされたか。
しかし真紅の表情は真剣そのものだった。
真紅「これはどう考えても多すぎる数よ。それにこの時代のミーディアムの中で、マエストロへと
到達する素質を秘めているのはジュンだけなのだわ。
この数ヶ月で、ジュンはその秘めたる力を開花させる重要なきっかけをつかんだ。
同時に全てのローゼンメイデンと強い繋がりを持ってね」
翠星石「蒼星石とは双子である私を通して以前から。
それに、翠星石が蒼星石を救えたのにはジュンのドレスの力もあったです」
翠星石も、すでに当初の目的にこだわるつもりなど無い。
真紅「ええ。金糸雀の苦境を救い、水銀燈に至っては傷つき倒れたのを蘇らせた」
真紅はここでいったん言葉を切って、紅茶を一口含んでから続けた。
真紅「それに、ジュンが成長を遂げるまでの過程も都合が良すぎるのだわ。
私と衝突してアパートを飛び出したジュンの前に、修復不能なほど傷ついた水銀燈が現れる。
どこにいるのか、生きているのかさえわからない槐を容易に探し出すことが出来る。
私たちを恨んでいてもおかしくない槐が、ジュンに人形師としての技術と心構えを伝える。
まるで全てが用意されたように整っていたのだわ」
翠星石「誰かの意思が働いているとでも?」
真紅は頷いた。
真紅「それも、行動する本人には自分自身の意思と思わせてだわ。
その最たる存在が私なのかもしれない。私はラプラスの魔にあって以来、
ずっとジュンにドレスを作るよう働きかけていた。
私はそれが自分の意思であることを疑わなかったけれど、水銀燈の登場やジュンが唐突に
槐という名を口にするに至って、なにかのシナリオがあるような感覚に襲われたのだわ」
翠星石「だから槐がすぐ見つかると思ったんですか」
真紅「ええ。そしてその通りだった。
あるいは恐ろしいことに、私がそう考えたこと自体もまた動かされていたのかもしれない」
翠星石は疑問を口に出してみた。
翠星石「そんなに簡単に他人の心を操れるですか?」
真紅「もともと本人にある強い気持ちを、すこしだけ後押しするものだからよ。
水銀燈は当然傷ついた自分を救ってほしいと願っていたでしょうし、
かつて私がジュンに救われたのを目の前で見て知っている。
槐はあの薔薇水晶に届かない人形たちを作り続ける日々に変化を求めていたのかもしれない。
そして私は、ジュンにマエストロとしての期待を懸けていたのだわ」
翠星石「翠星石のドレスを作るようにジュンに頼んだのも、そのひとつだというですか?」
真紅は一瞬目を見開き、少しの間沈黙してから口を開いた。
真紅「あのことは、あのことだけは違うのだわ。私は私の意志で、あなたにジュンのドレスを贈った」
翠星石は頷いた。
真紅がこう答えてくれただけで十分だった。
翠星石「でもだれがそんなことを。やっぱりラプラスの魔のやつですか」
真紅は否定はしなかったが頷きもしなかった。
真紅「直接動いているのはそうかもしれない。でも私はラプラスの魔が言った、
自らも流れに乗る木の葉に過ぎないというのは嘘ではないと思うのだわ。
脚本家は他にいる。ただし、
『われらはいかにあるかを知るも、われらがいかになるかを知らず。
すべてをいますぐに知ろうとは無理なこと。雪が解ければ見えてくる。
運命とは、もっともふさわしい場所へと貴方の魂を運ぶのだ』
ラプラスの魔が虚空に残した言葉よ。私はこの言葉にこそ答えが隠されていると
見るのだわ」
真紅の推理もとうとう佳境へと入った。
翠星石「それは?」
真紅「ひとつには、これがジュン自身の運命だということ。
ジュンにマエストロとしての天賦の才がもたらされたのも運命なのか。
あるいは天賦の才こそがジュンにこの運命をもたらしたのか。
いずれにせよ、ジュン自身の運命がジュンをふさわしい場所へと運んでいく。
そしてもうひとつは、私たちローゼンメイデンの運命によるものということ」
翠星石「私たちの運命。それを決められるのは……」
人の運命を決めるものは、運命の三女神か、あるいは絶対の創造主だろうか。
ローゼンメイデンの運命を決めるもの。それは、
翠星石「お父様……ですか?」
真紅「そう。私はお父様こそが何らかの御意思をもって、ジュンの力を鍛え、ローゼンメイデン
との繋がりを強めたのではないかと考えるのだわ」
翠星石「なんのためです?」
「それは」と首を振った後、真紅は天を仰いだ。
真紅「……私にもわからないのだわ。お父様が何を思い、何を考えられているのかは」
翠星石には、ひとつだけどうしても納得できないことがあった。それは推理の問題
ではない。
翠星石「真紅、すべてが決められていた運命だとしたら、真紅は、
ジュンや私たちが自分で切り開く運命など存在しないと言いやがるですか?
なにもかも決められていることだと思ってやがるですか?」
真紅はしばらく黙っていた。やがて立ち上がると、
真紅「すっかり話し込んでしまったわね。窓から夕日が差し込んでいる。
翠星石、今日はきっと素晴らしい夕暮れだわ。
アパートの屋根に上って、一緒に街並を眺めない?」
そう提案した。
桜田ジュンは待ち合わせの5分前に駅前のロータリーに着いたが、制服姿の柏葉巴はすでに
彼を待っていた。傍らに彼女の物らしき自転車がある。
「柏葉っていつも自転車だったっけ?」
巴は首を振って、
「今日だけ。雛苺も一緒だって聞いたから。ほら」
と自転車のかごを指差した。
ジュンはなるほど、と雛苺の入ったバッグをかごに乗せる。こうすれば自分も雛苺も楽だ。
ジュンが自転車を引き、二人は並んで歩き出した。
「その服、結構似合うよ」
と巴が言うのを聞いて、ジュンは首をかいた。
「でも」と巴が肘の辺りに手を伸ばしてくる。
「値札がついてる。というかテープで貼り付けられてるよ」
二人は立ち止まった。テープを剥がそうとした巴は結構な苦戦を強いられていた。
ようやく取れた後で見せてもらうと、セロハンテープが何重にも貼ってある。
「きっと翠星石のやつだ。まさか自分で貼り付けるとは。気付かないようなとこ狙いやがって」
「わたし、きっと恨まれてるね」
と巴が笑う。ジュンは決まりが悪くてまた首をかいた。巴と並んでいる側の半身が妙に熱い。
「ヒナは恨んでないのよ~」
と籠の中の雛苺が言った。周囲の人間が小首をかしげてジュンたちを振り向く。
鮮やかな夕日の輝きを見つめながら、水銀燈は病室の窓枠に座っていた。
背後から少女の声が聞こえる。
「また死にぞこなっちゃった」
「あなた結構頑丈なんじゃなぁい?」
水銀燈が振り返ると、ベッドから上半身を起こしためぐが、砂の入った小瓶を振ってみせる。
「こんな薬、水銀燈が贈ってきたせいよ。効いちゃったじゃない」
「くすりぃ?」
めぐは小瓶に書かれている模様を指差す。
「これね、キリル文字って言うんだって。調べてもらったらそれが笑えるのよ。
心臓の薬って書いてあるんだから」
めぐは肩を揺らして笑い始めた。
つられて水銀燈も高い声で笑ってしまった。
めぐがベッドから手を差し伸べる。
水銀燈はふわりと飛びよると、そっとその手を握った。
夕暮れの商店街には、寂れてきたとはいえそれなりの買い物客が足を運んでいた。
しかしその中でも柴崎時計店を訪れる人は少ない。店主の柴崎元治は暇をもてあまして、
チラシのような紙を手にしていた。
蒼星石はマスターに訊いてみる。
「マスター、その紙なにが書いてあるんですか?」
柴崎元治はさほどの思い入れもなさそうに、チラシ紙を振る。
「いやな、商店街でもまだ若い連中が、『ここはまだ東京都心に近い沿線だから、駅を利用する人
は多いし、駅近くに住宅街が広がっている。だからまだこの商店街は人を呼び戻せる』って言うんだ。
それでうちにも協力してくれって言うんだが、こんな老いぼれの時計店……」
そこまで彼のマスターが言ったとき、蒼星石は思わず割って入っていた。
「そんなことないです! その人たちが言う通り、人を呼び戻すことに成功した商店街はあるし、
それに目標を持って努力することそのものが商店街に活気を……」
柴崎元治はぽかんと蒼星石を見ていた。そして破顔一笑、笑い始めた。
「そうかそうか。蒼星石がそういうならうちも参加してみるか。うん、蒼星石が言うならやろう」
蒼星石は紙を見せてもらう。商店街活性化計画の参加を呼びかけるものだった。
希望は、意思のあるところに生まれるものだ。きっとそうなのだ。
草笛みつは何の家具も無いがらんとした部屋を見渡す。
6畳一間。小さな台所とユニットバスがついていて、50000円。少し駅から遠い立地でも、
このあたりではこれが相場といった家賃だ。
もう少し都心から離れれば、同じ値段でもっといい部屋に住めるかもしれないが、金糸雀が
他のドールたちと行き来することを考えると、この街に住むのが一番いい。
草笛みつは、ここに落ち着くことのできるお金をくれた少年に謝れるかわからない。
もう見ることさえかなわなくなった遠い夢。その夢さえあの少年は、軽々と飛び越えていって
しまった。彼が悪いわけではない。それがわかっていても、自分はどうしても。
草笛みつは自分の彼女の袖をひっぱる力を感じた。金糸雀が自分を見上げている。
「カナ、ちょっとやりたいことがあるかしら。みっちゃんは一分ほど部屋の外にいてほしいかしら」
素直に指示に従ってみる。
部屋を出て一分、「入っていいかしら~」と金糸雀の声がした。
扉を開けた草笛みつに、金糸雀が微笑む。
「みっちゃん、おかえりかしら」
「た、ただいま、カナ……」
涙があふれた。一年以上、交わしていなかった挨拶だった。
ジュンは巴とならんで、三年前、雛苺が一度止まってしまう前に三人で歩いていた土手を、いまも
また自転車のかごに雛苺を乗せて歩いていた。人通りが無いから、雛苺は鞄から顔を出している。
「こうしていると三年前を思い出すね。あのときもすごく夕日が綺麗で、素敵な夕方だった。
覚えてる?」
巴は夕陽を見つめている。ジュンは一瞬、その横顔に見とれた。
「あ、ああ。雛苺が柏葉に抱えられて帰ってきたときだろ」
慌てて言葉を返す。もちろんジュンだって忘れてはいない。
「あのときにさ、戻れればいいのにね」
巴が遠い夕陽を見つめたまま言った。
「柏葉、僕ちょっとやってみたいことがあるんだけど」
向き直った巴にジュンは自転車を示した。
「そのさ、自転車の二人乗り。後ろに立って乗ってくれないか?」
ジュンは自転車をこぎ始める。巴が後ろに飛び乗った感触があった。
「大丈夫か?」
「うん。私、結構運動神経いいほうだから」
ジュンの肩に巴の体重が乗る。甘い香りが鼻をくすぐった。
ペダルを踏み込んで速度を上げる。
「僕はさ、今のほうがいいな。あの日のことは僕もよく覚えている。すごくいい思い出だ。
でも今の僕には、あの日の僕ができなかったことができる。
例えば、こうやって柏葉と自転車で二人乗りすること。ありきたりだけど、やってみたかったんだ、これ」
ジュンは夕陽を受けて笑った。
「なんか、いつの間にか私が置いていかれちゃった」
「え? 今なんて言ったんだ」
巴の体重が、さっきよりも肩にかかってくる。熱を強く感じる。
ジュンはペダルをもっと強く踏んだ。
かごの中の雛苺が興奮して叫ぶ。
「うわぁあ速いのぉおおお」
ジュンたちの暮らすアパートは、東京周辺にあるいくつかの台地、そのうちのひとつの
ちょうどへりに建っている。
そのためアパートの屋根からは、その先の低地にひろがる街並を広く見渡すことが出来た。
夕陽を受けて輝く雲と、どこまでも続いていくような街並。
真紅と翠星石は、その美しいコントラストを、アパートの屋根の上に座って眺めていた。
真紅は想う。
自分を眠りから覚ましてくれた少年の運命を。
運命は少年に何を望むのか。どこに運ぼうというのか。
あるいは少年は、自らの力で運命を切り開いていくのだろうか。
いずれにせよ、自分のすることは決まっている。
少年と共に笑い、少年と共に傷つくだけだ。
ずっとそばにいて、少年と共に生きていく。それだけだ。
運命よ来るがいい。私と彼は逃げはしない。
彼。そうだ。少年はやがて、青年と呼ばれるのだ。
翠星石は知っている。
少年が深夜、この上なく真剣な顔で針を動かしていることを。
ドレスの色は深い青。ブロンドの髪をひときわ輝かせることだろう。
ドレスは羨ましくて仕方ないほど素晴らしいものになり、彼女には認めるしかないほど
そのドレスが良く似合う。
どんなに嫉妬しても、自分は彼女の美しさに魂を奪われ、一瞬すべてを忘れてしまうのだ。
だから、だからなにもかも大丈夫。きっと。
真紅と翠星石の手が重なった。
並んで座る二人の姿を、夕陽が橙にそめていた。
ローゼンメイデン・アパートメント 完
これにて完結です。よろしければ、お好きな曲をEDにおかけください。
本当に、本当に読んでくださってありがとうございました。
保守もかねてみなさんに感謝を。
起きてきた人にも読んでほしいからさw
読んでもらうため、ただそれだけのために僕は最後まで書いたのだッ!
このスレは本当に住民の皆さんに恵まれたスレだと思う。
2スレ目も3スレ目も4スレ目も立ててもらった。
過去ログもそのたび貼ってもらった。
深夜も昼間も一番人がいる0時頃も保守がたえなかった。
本当にやりたいことやらせてもらった。
2chのそれもvipのスレでこんな長文全開のもん投下してるのに、
読んでくれる人がいた。
つまんない人、合わない人、むかついた人もいたと思う。
なのに荒らしどころか文句のひとつもなかった。黙って去っていってくれた。
皆さんに支えられてこそ最後まで書けた。完結できた。ありがとう。
感謝まで長くなりやがったw マジでウザイやつですいませんw
でも本当に嬉しかったよ。
92 : 愛のVIP戦士@全板人気トナメ開... - 2008/06/10 05:32:12.06 tRWPO4NVO 174/180>>1乙!!
スレタイ見たときから今現在までの道筋は決まっていたというのか!?
あと誰かこれのまとめとかないのですか?
何度見てもおもしろいよこれ
>>92
全体の流れはそのままだけど、中身はまるっきり変わった。
誰かが前スレで言ってたと思うけど、前半までは貧乏や社会問題にも負けず
頑張る話だったんだ。
意味合いが変わったのはラプラスの魔を出すために運命がどうとか言わせてから。
ただの引用だったけど、そっからイメージが湧いてきた。
やっぱ歴史に残る偉人はすげーぜ。
そういうわけでラプラスで半分って言ってるのにそのあとここまでかかったw
95 : 愛のVIP戦士@全板人気トナメ開... - 2008/06/10 06:47:53.15 OT9LyTxu0 176/180んで結局>>1はどのドールが一番好きなんだ?
>>95
一番好きなのは真紅。次が翠星石。三番目は蒼星石か雛苺。
俺は真紅が好きだからラストは真紅ワントップで大活躍させる。
ラストシーンも最初は真紅がひとりで運命を案じるはずだった。
ところが翠星石が途中からやたらパスを引き出してくれるので2トップに替えた。
おかげでドレスの話もかけたし、ラストシーンが真紅ひとりよりずっとよくなった
(と自分では思う)から全然いいけどね。伊達に人気1位じゃねーわと実感した。
ただ翠星石ばっか美味しいので、物語上まったく意味の無いネタバトルが
真紅と蒼星石の見せ場のためだけにできてしまったw
では寝ます。おやすみなさい。
101 : 愛のVIP戦士@全板人気トナメ開... - 2008/06/10 07:25:14.79 uITxSo/J0 179/180素敵な物語をありがとう!
お疲れさま!!
102 : 愛のVIP戦士@全板人気トナメ開... - 2008/06/10 07:47:48.10 ELsMmeiS0 180/180おやすみー