【前編】の続き
~第十二学区・モノレール内~
姫神「今日も。水先案内人のお仕事。お疲れ様」
結標「どういたしまして。と言っても今日はほとんど仕事なかったけれどね。せいぜいが土嚢詰みとアルカディアまでの警護だけ」
姫神「それだって。大切なお仕事。誰にでも出来る訳じゃない」
五日目…21:34分。結標淡希と姫神秋沙は帰りのモノレールに並んで揺られていた。
アルヴェーグ式跨座式モノレールの車内はほぼ無人で連なる車両などにまばらに他の乗客の姿が伺えるだけであった。
窓の外には皓々と輝く銀月が結標を照らし、開け放たれた窓から心地良い夜風が姫神の髪を揺らす。
結標「私にはコレ(座標移動)しかないから…姫神さんみたいに何でもオールマイティーには出来ないわ。特に炊事なんて頼まれたってね」
姫神「またの名を。器用貧乏」
ローズバスでの一件を互いに口にする事はない。
例えそれが空々しい暗黙の了解で、寒々しい自己欺瞞であろうとも。
故に二人の会話は口づけを交わす前のように和やかで、穏やかで…虚しかった。
結標「(水先案内人ね…成り行きで巻き込まれてしまったけれど…悪くないわ)」
ガタンガタンと規則正しい揺れ幅のモノレール。
完全下校時間は既に回っているが、結標は結標なりにこの仕事に心地良い充足感を覚えていた。
この十二学区を過ぎれば終点の第十八学区までノンストップだ。一眠りしても良い。
姫神「(今日も。ありがとうと。言ってもらえた。私には。何も出来ないのに)」
炊事洗濯雑務全般をオールマイティーをこなせる姫神、水先案内人という専門的な仕事を担う結標。
結標は暗部に堕ちて以来、姫神は学園都市に来て以来初めて、自分の存在に対して徐々にではあるが…肯定的になり始めていた。
結標・姫神「(明日はどんな一日になるのかしら(なるんだろう))
誰かのためにと言う自分のため、自分のためにと言う誰かのため。
巡り行く状況の中で自分なりの取捨選択を経て二人は僅かずつでは歩み始める。
一ヶ月前までは想像すらしていなかった自分達の姿に対する気恥ずかしさと誇らしさ。
――しかし――
結標「(………………)」
その時ふと誰かに見られているような、つけられているような感覚を覚えた。
四人掛けの座席に腰掛けながら結標は意識を集中させる。
結標「(一人…いえ…二人?)」
それは、暗部に身を置きその中で生きて来た結標だからこそ感知しえた視線…
数は一人ないし二人…どこだ?自分達しかいない車両で…別の車両か?と結標が周囲を見渡すと――
ガッシャアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァァァン!!!
~第十八学区行きモノレール内~
結標「!?」
姫神「?!」
ガシャンガシャンガシャンガシャンガシャンガシャン!!!
最初は爆発物が炸裂したかのような衝撃波が車内を駆け巡り次々と車窓が砕け散って行った。
それも二人がいる車両まで後部より追跡して来るように。
それに対し真っ先に反応したのは――
結標「姫神さんっ!!!」
ガッシャアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァァァン!!!
雨霰と降り注ぐ硝子と蛍光灯の破片から、座席の姫神を引きずり込むように結標は覆い被さった。
障子紙より呆気なく突き破られた車窓から暴風のような旋風が渦巻き車内に吹き荒れて行く。
姫神「なっ。なに」
結標「動かないで!」
姫神を身体の下に庇い立てしながら結標は真っ暗闇の車内を月明かりを頼りに低い体勢から見渡す。
既に得物である軍用懐中電灯は手の内にある。
時速60キロで走るモノレールは止まらない。破壊されたのは車窓ばかりで煙はおろか火薬の匂いすら鼻につかない。
結標「(なんなの?どうなってるの?いえ違うわ…どうする!?)」
懐中電灯は照らさない。標的が自分達であろうがなかろうが狙い撃ちの的だ。
ガタンゴトンガタンゴトンというモノレールのほとんどしない振動を意識から切り離して耳を澄ませる…すると
ジャリッ…バリンッ…ザリッ…ガリンッ
足音がする。硝子と蛍光灯の破片を踏みしめる音と共に。
結標はそちらへ耳を側立てる。自分達以外はいなかったはずの車両に、扉を開閉する音もなく…まるで
魔術師A「吸血殺し(ディープブラッド)を確認。これより確保する」
この吹き荒れる風が連れてきたように…月明かりに照らされた影…
それはモノレールの外に広がる闇夜が人の形をしたような漆黒のローブ姿…
かつてアウレオルス=イザードが属していた異端宗派(グノーシズム)の使者。
魔術師A「魔法名…Tempestas369(毒杯注ぎし晩餐者)」
結標「(魔術師…!?)」
シャンッ、シャンッ、シャンッと魔術師は手にした錫杖についた銀の輪をかき鳴らす。
まるで冥界から来る亡霊のような出で立ちで何事かを呪詛のように呟いている。それが魔術の術式を唱えていると二人には聞き取れないほど小声で。
魔術師「同時に目撃者を確認。排除する」
轟ッッ!と魔術師を中心にまるでモノレール車内に台風でも放り込んだような嵐が巻き起こる。
自動車くらいなら木の葉のように吹き飛ばす風力。それらが魔術師の錫杖に収束して行き――
結標「(マズい!!!)」
それに対し結標が軍用懐中電灯を振るうのと同時に――
ドオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!!
~第十八学区行きモノレール車上~
魔術師A「!?」
魔術師の放った暴風の一撃が闇夜を疾走するモノレール車上で炸裂した。
結標を狙って放たれたそれは目標を失って爆裂し通り過ぎるビル群のガラスと建ち並ぶ電柱を薙ぎ払って終息する。
それもそのはず――
魔術師A「何だ今のは」
魔術師はモノレールの車上に『座標移動』させられていたのだ。
しかし魔術師にはそれがわからない。いきなり視点と景色がズラされ、一気に時速60キロで走るモノレール車上で対流をもろに浴びる。
魔術師A「クッ…」
結標「悪いけど」
ひた走るモノレール車上に結標もテレポートして来た。
姫神は依然として車内。原理は不明だがレベル4に匹敵する風力を車内で炸裂させ姫神を巻き込む訳にはいかないからだ。
結標「デートのお誘いならもう少しスマートにしてくれないかしら?」
結標も片膝をつき片手をモノレールについて突風に耐える。
気を抜けば振り落とされてしまいそうだ。時速60キロとモノレールにしてはゆっくりだが、吹いてくる風が半端ではないのだ。
魔術師A「生存確認。排除する」
結標「口説き文句の一つもないんじゃね!気の利かない男は途中下車してもらうしかないわ!」
ブンッ!と横薙ぎに軍用懐中電灯を振るう。瞬間、魔術師の姿が
魔術師A「むっ!?」
モノレール車上から路線上から外れた虚空へと放り出される。
重量4000キロ弱、射程にして800メートル近い結標からすれば空き缶を投げ捨てるようなものだ。
ただし絶えず走り続けるモノレールのせいで座標演算が若干タイムラグはあるが、それは挑発的な言葉の間に済ませる。しかし
魔術師A「まだっ…!」
シャン!と錫杖を振るうと夜空に投げ出された魔術師の足元に小型の竜巻とも言うべき旋風が巻き起こり――
ダンッ!!!
竜巻を足場に再びモノレール車上に降り立つ。初めて目にする座標移動に面食らいはしたものの…振り落としただけでは何度でも戻って来る!!
結標「その上しつこいようね!嫌われるわよそういう男は!」
思わず歯噛みする。こんな自殺同然のスタントまでやってのける相手…それも魔術師なる相手と出会すなどと。
結標「(風力からすればレベル4。目的はわからないけど目標は姫神さん。なら――ここで!)」
街中を駆けるモノレールの上、吹き付ける風に体を持っていかれそうになる、足場は最悪、向こうは魔術師。
つくづく厄日だと思わないでもない。しかし水先案内人の仕事が少なかったおかげでコンディションは悪くない。
結標「悪いけれど…こっちは“友達”の命が懸かってるのよ!!」
そうだ。友達だ。もう友達なのだ。姫神秋沙は。
残酷で、優しくて、それ以上手を伸ばせない『友達』という関係。でもそれで構わない。
――姫神秋沙(ともだち)を守るためならば――
~第十八学区行きモノレール車内・姫神秋沙~
姫神「なにが。起こっているの」
一方、姫神秋沙は結標淡希に押し込まれた向かい合わせの四人掛けの座席の下に身を潜めていた。
ゴゴンゴゴンゴゴンゴゴンとモノレールはひた走る。
そこに時折、頭上から破壊音が響き渡り、過ぎ行くビル街のガラスが砕け散る音がする。
姫神「結標さん。どうして…!」
咄嗟に自分を庇った時の身のこなし、辺りを探る目配りを見て姫神は以前からの不信を確信に変える。
結標淡希はプロ(暗部)だ。自分にはわからない世界で生きている人間だと。
今まで香った血の匂いの理由…それはあんな動きが自然と身につくような世界に身を投じていたからだと。だが――
姫神「逃げて…!」
そんな事はもうどうでも良かった。以前、上条当麻とのハンバーガー店での出会いを思い返す。
自分のために誰かが戦って傷つくのはもう嫌だ。あたりはついている。狙いは自分の吸血殺し(ディープブラッド)だ。
その背景に何があるのか姫神は知らないしどうでも良い。問題は――
姫神「逃げて――淡希!!」
まるで恋人の身を案じる乙女のように、暴風吹きすさぶモノレールを見下ろす月に。
姫神は叫ぶ。誰にも届かない祈りを口にして、ただ無事を願う事しか出来ない自分がこんなに無力に感じた事はなかった。
――――だから――――
~第十八学区行きモノレール車上2~
魔術師A「ハッ!」
紐解くは魔術文書『パウロの術』、引き出すは天蝎宮の風の天使、打ち鳴らすは『ソソルの錫杖』。
向かい風すら切り裂いて幾つもの真空波をモノレール車上の結標に対して撃ち放つ!
結標「しつこい!」
それらを上空へと飛び上がり座標移動でテレポート、やり過ごした真空波が流れ行くビルの看板を真っ二つに切り飛ばす。
しかし結標は闇夜を月面宙返りしながら軍用懐中電灯を振り下ろし――
ドンッ!
切り飛ばされるビル看板を即座に空間移動させ魔術師目掛けて投げつける。
追い風を受けて飛来するビル看板、それに目を見開いた魔術師は再び錫杖を掲げ――
魔術師A「叩き落とせ!!」
轟ッッ!と渦巻く真空の盾が魔術師に激突せんとしていた看板を弾き飛ばした。
一瞬の静寂、見上げる魔術師…しかしその先に結標は――
結標「口説きに来たくせに余所見してんじゃないわよ!」
ガッ!といつの間にか魔術師の背後に座標移動し、警棒にもなる軍用懐中電灯を思いっきり魔術師の後頭部へと振り抜いた!
魔術師A「ガッ…!」
結標「いい加減…墜ちなさい!!」
看板による攻撃は目くらまし。本命は座標移動しての背面攻撃。
その痛恨の一打に魔術師がよろめく。さらにそこへ結標の前蹴りが魔術師を吹き飛ばす。
だがいつ振り落とされるかわからない不安定な足場を庇いながらでは引き離す事しか出来ない。
魔術師A「クソッ…」
魔術師はアウレオルス=イザードが所属していたグノーシズム(異端宗派)でもまず一流と言って良い魔術師だった。
それがどうだ。こんな小娘一人仕留め切れずにいる。だが同時にこうも思う。
魔術師A「やるか…」
得体の知れない能力を差し引いて尚手に余るのは相手もまた影と闇の領域に住まう『同類』だから。ならば…!
バキッ!
結標「…!?」
魔術師A「終わりだ。吸血殺しを引き渡せ…さもなければ」
その魔術師は…手にした錫杖を真っ二つに叩き折った。
魔術師の命とも言うべき霊装・媒介を捨ててまで…そしてそれが意味する所は――
魔術師A「このモノレールを街中に“墜とす”。乗客住民みな道連れにしてだ」
~第十八学区行きモノレール車上3~
結標「!?」
魔術師A「五月蝿くて聞こえんか?吸血殺し(ディープブラッド)を引き渡さなければこのモノレールをオレの『嵐』で街中へ突き落とす。そろそろ第十五学区に差し掛かる…この意味はわかるな?」
結標「本気で…言って!」
魔術師の魔法名…Tempestas369(毒杯注ぎし晩餐者)とはラテン後で『嵐』を意味する。
手にした『ソソルの錫杖』をヘシ折り、霊装に内包する力場を自らの命と引き換えに制御を放棄し、指向性を持たぬ暴走を持って瞬間的に『嵐』を凌駕する暴風を生み出す道連れの魔術。
例を出すなら常盤台中学の婚后光子が12トンはあると思しきトラックを空力で噴射させる原理を一極化させた竜巻の魔術。
魔術師A「もうそろそろ第十五学区だ。オレでは貴様は倒せん。だが倒さなくて良い。この車両以外の車両を『嵐』で落とす。吸血殺しが手に入るならば我等グノーシズム(異端宗派)は…」
魔術師の力では命と引き換えでもモノレールの一両を吹き飛ばすのが精一杯だ。
しかしそれを街中を走るモノレールで、学園都市最大の繁華街を有する第十五学区の中心部に落とせば?
…まさに毒杯を煽って信じる神に身を捧げんと最後の晩餐を迎える信者にも似た自爆テロ。
結標「(頭おかしい連中はそれなりに見て来たけれど…輪にかけてひどいのは久しぶりだわ)」
一方通行が見れば絶殺しかねないテロリズム剥き出しのやり口だが、この頭のおかしいローブ姿の幽霊のような魔術師にはそれが唯一無二の取り引きであり解決法なのだろう。
ハッタリでない事は言葉が通じない目を見ればわかる。
何故なら理性的に話しているようで目に宿っているのは非理性的な光。それは狂人のそれだ
魔術師A「選べ。一人助けて無辜の命を捧げるか、大勢の命と引き換えに我等の崇高な使命に――」
結標「――――――」
その時、結標淡希は初めてかつての敵の言葉の意味がわかった気がした。
『ああ私はムカついてるわよ!私利私欲で!完璧すぎて馬鹿馬鹿しい後輩と、それを傷つけやがった目の前のクズ女と、何よりこの最悪な状況を作り上げた自分自身に!!』
結標「(…気にいらないわ…)」
軍用懐中電灯を握り締める。奥歯が砕けそうなほど歯噛みする。
こんな時に、こんな場所で、こんな相手に手が出し切れない自分が
結標「(…気にいらないのよ…!)」
吹き荒ぶ風
流れ行く街の灯火
自分の足元で車両で震えているだろう姫神秋沙
狂った論理を振りかざす魔術師
そして…何より気にいらないのは――
――あの時の御坂美琴(レールガン)の気持ちがわかる自分が…気にいらない!!!――
~第十八学区行きモノレール車上4~
魔術師が向き直る…もう第十五学区に差し掛かる頃合いだ。
その幽霊のように虚ろな眼差しを向け、車上を吹き抜けて行く突風にローブをはためかせて。
魔術師A「さあ…答えろ!」
魔術師の手には吹き荒ぶ突風すら微風に思えるほどの魔術の暴風を渦巻いている。
発動した瞬間絶命するとわかっていながらその声音には一切の淀みも、我が身への迷いも、他者を巻き込む躊躇いすら感じられ――
結標「…ええ私はムカついているわ」
魔術師A「!?」
…なかったはずの魔術師が思わず言いよどむ…向かい風に二つ結びを揺らす赤髪の少女の言葉が理解出来ないとばかりに
結標「私利私欲で!」
結標「こんな私を見捨てられない優しすぎる姫神秋沙(ともだち)と!」
結標「それを傷つけようとする目の前のイカレ魔術師と!」
結標「何よりこの最悪な状況に何も出来ない自分自身に!!」
それは無力な言葉だった。怒るだけで、叫ぶだけで、今ここにある現実など何一つ止める術も力もない『ただの言葉』だったはずだ。
魔術師A「馬鹿め…!」
負け犬の捨て台詞、そう魔術師が受け取るのは無理からぬはずだった。
自分の勝ちは動かない、揺るがない、この状況を覆す方法など――――
キキイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ!!!
結標「!?」
魔術師A「?!」
なかったはずだった。
結標にとっても
魔術師にとっても…
――なかったはずだった――
~第十八学区行きモノレール・運転席~
姫神「止めて!もっと強く!!もっと強く!!!」
運転手「わかった!わかった!だからそんな怒鳴らないでくれお嬢ちゃん!ふんぬー!!!」
姫神秋沙が駆け込んだ先、それは電子制御された運行に、欠伸をしながらダラダラとくつろいでいた運転手の居る運転席だった。
二人で非常用緊急ブレーキレバーを押して、押して、押して行く。力一杯。
もちろん姫神は魔術師の道連れの魔術も、結標淡希の怒号も知らない。ただこの戦いを止めたい一心だった。
キキイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ!!!
姫神「止まって。止まって…止まって!!!」
姫神秋沙には戦う力がない。今は護身用のスタンガン付き警棒すら手元にない。
吸血殺し(ディープブラッド)は吸血鬼にしか意味がない。他の能力などない。
結標淡希のようなプロの身のこなしも出来ない。彼女を手助けする事など出来ない…だが
姫神「淡希…!」
姫神は姫神秋沙の戦いを始めると決めたのだ。
月詠小萌の笑顔を見てから、避難所で手伝いをすると決めてから。
どんなか弱い手でも、か細い腕でも、姫神秋沙の闘いはもう…始まっていたのだ。
姫神「淡希ぃぃぃぃぃぃ!!!」
――あの、野菜炒めの一つも作れないレベル4(どうきょにん)と出会ってから――
キキイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ…イ…イ…イ…!!!
そして…モノレールが停車した。
~第十八学区行きモノレール車上5~
結標「あっはっはっはっはっはっはっはっ、あはははははははははははははははははははははははは!!!」
魔術師A「馬鹿…な」
あらかじめ姫神のいた車両に人払いの術をかけていたはずだ。
だから誰もこの異常事態を気にも留めないはずだった。僅かな乗客も、運転手も。
そう…姫神秋沙が人払いの術の効果範囲から飛び出し、まさかブレーキを止めにいったなどと…想像すら魔術師は出来ない。
結標「あははははははあはははあっはははっはあはははあっはっははっはっはああははは!!!」
結標淡希は止まらない高笑いを上げていた。見えずともわかる。人払いの術など知らずともわかる。
これを止めたのが姫神秋沙だと。第十五学区、繁華街に突入する直前でこのモノレールを止めたのが彼女だと…直感で。
結標「はあっ…笑ったわ…笑い過ぎてお腹痛い…こんなに笑ったのいつぶりかしらね…もう思い出せないくらい久しぶり」
結標は軍用懐中電灯を握り直す。停車したモノレールの上、止んだ突風、夜空に浮かぶ銀月、そして姫神秋沙。全てが最高で――最悪の気分だった。
魔術師A「あ…あ…あ!」
第十五学区に突入する前に停車したのではモノレールを落としても意味がない。
大勢の人間を巻き込むからこその効果的な脅迫。その有利の全てが…失われてしまったのだから。
結標「それから…こんなに頭に来たのも久しぶり。よくもこの私を怒らせてくれたわね?」
今なら一方通行の気持ちもわかりそうだ。気にいらないヤツの顔面に、思いっきりキツい一発をお見舞いしてやるのは…実に清々するだろうと。
魔術師A「ぐっ…うう…!」
もう術を発動させる意味もない。ここでやっても犬死にだと…教理に染まり切った頭でも理解だと。同時に――もう逃げられないとも。
結標「どうぞ、ご自由に?尻尾を巻いて逃げるも、恥を捨てて、みっともなく這いつくばって許しを乞うなり…そこまでやって初めておあいこよ…この…!」
そして白井黒子の気持ちもわかる気がした。最悪の気分で、最低の気分で、同時に――最高の気分だ。
結標「こ の ク ズ 野 郎 ! ! !」
バキイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ!!!
魔術師A「グボッ…!」
思いっきり、軍用懐中電灯で鼻っ柱をブッ飛ばしてやるのは。
~第十五学区・プラットフォーム~
「おいなんだこれ!?ガラス滅茶苦茶じゃねえか!爆弾か?」
「電車いつ動くんだよ!帰れないじゃないか!」
「うわーなんだこの黒づくめ…前歯全部折れて伸びてやがる…アンチスキル呼べアンチスキル」
「アンチスキルより救急車だろ…うわひでーゴリラに殴られたみてえだ」
22:26分…第十五学区のプラットフォームにゆっくりと到着したモノレールは辺りは騒然となっていた。
黒山の人だかりに、早く運行を再開させろと詰め寄られあたふたする運転手、怒る乗客達…そして
結標「はあっ…もう歩いて帰るしかないわね…この様子じゃタクシーは全部出払っちゃってるだろうし」
姫神「結標さん。パンツ。見えてる。今日は。ピンク」
結標「えっ!?やだっ」
結標淡希と姫神秋沙。騒動の渦中にあった二人はいち早く座標移動で抜け出し、姿をくらませて階段を上っていた。
表向きは爆弾騒ぎかなにかで落ち着くだろうと思いながら先行く結標がミニスカートを慌てて抑え、それを姫神が指差して。
姫神「前から思っていたけど。そんな愉快にケツ振って歩かれたら。誘ってるのかと思われる」
結標「貴女アイツ(一方通行)に会ってないわよね!?」
結標淡希がわかった事。それは姫神秋沙が希少な能力を持つ『原石』でありそれらを狙う勢力がある事。
姫神秋沙がわかった事。それは結標淡希がある種のプロフェッショナルであり、自分を救ったという事。
姫神「姉ちゃん。ええケツ。しとるやないか」サワッ
結標「ちょっ!コラ!やめなさい姫神さん!貴女そんなキャラだった!?」
乗客に怪我人は無し、結標にも姫神にも怪我はなく、いるのは前歯全部と頸椎と鼻骨をヘシ折られた哀れな魔術師が一人。
同時に結標淡希は強く思う。再び暗闘の予感がすると。
そしてその中心にいるのはこの…姫神秋沙(ともだち)だとも。
結標「はあっ…今夜は家に帰るの良しましょう…鴨撃ちの的だわ。でももう学校に戻る上り列車ないし…困ったわね…多分ビジネスホテルもこの時間じゃ…」
姫神「第十五学区は繁華街。ラブホテルもたくさんある。そこに泊まれば」
結標「え、え、え!?ら、ら、ラブホテルって…私達女同士よ!?」
姫神「女同士で。入れる所もある。もしくは。無人フロントのタッチパネル式。替えの下着は。中でも売ってる」
結標「貴女どうしてそんな詳しいのよ!?」
姫神「綺麗なだけの。私を見ないで(キリッ」
結標「無表情でどや顔しないで!!」
姫神「ウブなあわきんには。俗っぽ過ぎて耐えられない」
結標「あわきんって呼ばないでって言ったじゃない!馬鹿!!」
そして二人は第十五学区の駅から出る。どちらともなく、気がつけば手をつないでいた。
それは夜遊びに出た仲の良い女友達同士の悪ふざけにも、姉妹のようにも見えた。
ともあれ二人は乗り越えた。乗り切ったのだ。今日という長い一日を。
姫神「今夜は貴女を。帰さない」
結標「帰さないんじゃなくて帰れないの間違いでしょう?」
姫神「今夜は貴女を。寝かさない」
結標「寝かせて!?」
互いの手を、離す事なく
~第七学区・とある高校避難所~
垣根「………………」
五日目…22:42分。垣根帝督はグラウンドの片隅にテントを張り、その中で寝そべりながら携帯端末を操作していた。
第十五学区にて能力者狩りの一派と思しき魔術師1人が再起不能で拿捕された事、つい数時間前に『アイテム』が傭兵14人魔術師8人を始末した情報などを整理して行く。
垣根「ムカついた。その気もねえ相手に夜這い(侵入)かけられる事ほどうっとうしいもんはねえな」
その猛禽類を思わせる眼光は剣呑であり、目にする情報は彼の機嫌を斜めにしていた。
避難所外部は狩りを担当するメスライオン(アイテム)、避難所内部の群れを守るのはオスライオン(スクール)と言った具合の分業制。
その顔立ちは一方通行と交戦した時と同じ表情に取って変わっていた。
初春「かっ、垣根さーん…まだ起きてますか?」
垣根「夜這いに来るたあ随分大胆になったもんだな飾利。入れよ。お前ならいつでも大歓迎だ」
初春「ちょっとお話に来ただけです!よ、夜這いだなんて…私、風紀委員です…白井さんに怒られちゃいます」
初春飾利が訪れるまでは――
~垣根帝督の未元物質テント~
初春「わー…フカフカです」
垣根「個室サロンとまでは行かねえが悪かねえだろ?」
真っ白な羽毛でも敷き詰めたかのような垣根のテントに寝間着代わりに使っているジャージ姿の初春はいた。
初春にはわからないが、防寒、耐熱、防弾、防水、防風、防音、防毒を完璧なものにする未元物質で構成されたテントである。
本来垣根はホテル住まいであるが、初春の身を守るためにこの避難所にいるのである。
こんな伊達や酔狂で未元物質テントを作ってしまう程度に楽しみながら。
垣根「で…そんな折り目正しい風紀委員サマがなんだって忍び込んで来たんだ?消灯時間は過ぎてんじゃねえのか?」
初春「そ、それは…その」
意地の悪い笑顔を浮かべる垣根、人差し指同士を合わせながら何故か正座で俯く。
寝る時くらい花飾りを外せば良いものを、以前それを指摘したら
初春『何のことですかそれ?』
と笑顔で返されて以来垣根ですら怖くて聞けない。
しかし初春はジャージの裾を握り込みながら蚊の鳴くような声で。
初春「何だか、寝つけなくて…それでちょっとでも垣根さんとお話出来たら眠れるかなあ…って。めっ…迷惑…でしたか?」
垣根「いいや。ちょうど俺も寝つけなかった所だ。どれ、いっちょ面白い話聞かせてやるよ」
一方通行との交戦に際して最悪の出会い方をして以来、いくつかの事件を経て初春は垣根の妹分のようになっていた。
同時に、垣根帝督を『人間としての死』から救ったのも初春である。
初春「はっ…はい!どんなお話ですか?前に聞いた“コーヒー中毒の真っ白モヤシ”みたいな笑い話ですか?それとも“学園都市第一位は実はロリコンだった”みたいな噂話ですか?」
垣根「違うな。これからの季節にピッタリな――怪談話だ」
初春「!?やっ、やめてくださいよぅ!余計眠れなくなっちゃいますっ…」
垣根「まあ聞けよ。これは俺が泊まった第十五学区のホテルであった話なんだがな――」
それ以来、垣根は初春を文字通り花を愛でるように扱って来た。
少なくとも手を繋ぐ事や時にキスの真似事をする程度。
さすがに未成年者略取でアンチスキルのお世話になるのは嫌だったし、ジャッジメントの白井は絶えず目を光らせているし、そもそも初春が中学生を卒業するまで手出しするつもりもなかった。
垣根「(…ライオンの狩り場に呑気に遊びに来るようなバンビは喰えねえだろうが流石に…そんくらいの常識はある)」
しかし、初春が帰り辛くなる程度に怪談話で怯えさせ、テントから出さないなどと企みを胸に秘めた自分も大概だと垣根は苦笑した。
垣根「(あのクソ野郎を笑えねえな、まったくよ)」
そうして夜はふけて行き――
~第十五学区・ラブホテル~
結標「いっ、意外と綺麗なのね…」
姫神「もっと。場末のモーテルみたいな所の方が。燃えるタチ?」
結標「初めてだからよ!人を遊んでる子みたいに言わないでちょうだい!」
姫神「そう。私はてっきり。あのクローゼットの中の本みたいな(ry」
結標「言わせないわよ!?」
同時刻。二人は最終チェックイン十五分前に駆け込みでラブホテルに辿り着いた。
制服のまま堂々と、途中コンビニに寄って弁当まで買い込んだ姫神。
そしてただ寝泊まりするだけなのにタッチパネルの各部屋案内をしげしげと見つめ、それに気づいて顔を真っ赤にした結標。
どちらが年上でどちらが年下かわからぬ有り様であった。
姫神「電子レンジはないみたいだから。冷めない内に。チキン南蛮食べて。それから。この時間になると。ルームサービスもおにぎりとカップラーメンしかない」
結標「…貴女、なんだかやけに詳しくない?遊んでるのは貴女の方なんじゃないかしら?」
部屋につくなり姫神は部屋の空調をいじり、お湯を張り、あらかじめ温めてもらった弁当を出したりと実にスムーズだった。
その手慣れた流れに結標がジト目で睨みながらもささやかな反撃を試みるも――
姫神「霧ヶ丘を追い出されてから。小萌先生の部屋に厄介になるまで。女子寮を焼け出されてから。貴女の部屋に転がり込むまで。色んな所で寝泊まりしたから」
結標「あっ…」
その企みは呆気なく打ち崩されたばかりか、姫神の苦労を偲ばされ結標はシュンとうなだれた。
なんて馬鹿な事を考えたのだろうと自己嫌悪に陥った。しかしそんな結標の――
姫神「貴女は」ポンポン
結標「…姫神さん…」
猫の頭を撫でるように優しく優しく撫でながら…姫神は言った
姫神「心が汚れている」
結標「」
姫神「悔い改めるべき」プイッ
今日もまた、この年下の姫神に勝てなかった。
そう思いながらかきこんだチキン南蛮は、甘めのタレなのに涙でしょっぱかった。
第十五学区・ラブホテル2~
結標「これカラオケセット…ここで歌うのかしら?これ」
姫神「ラブホテルにカラオケセット。酢豚にパイナップルくらい。いらない」
結標「パイナップルはいるでしょう!取り消しなさい!」ガタッ
姫神「いつか貴女とは。こんな日が来ると思っていた」ガタッ
チキン南蛮とカルビ弁当をそれぞれ平らげた後、結標は興味深そうなに部屋の中を探索し始めた。
対する姫神は今更と言った感じであったが酢豚にパイナップルはいるかいらないかで席を蹴って喧嘩し始める有り様である。
結標「でも…案外こざっぱりしてるのね。もっと汚いイメージだったわ。ビジネスホテルと変わらないじゃない」
姫神「こざっぱりしてるのは。やる事がひとつしかないから」
結標「貴女ね!!」
姫神「?。お湯。湧いたみたい。見てくる」
結標「あっ、私も見たい見たい!」
天然なのか狙っているのかわからない姫神に振り回されながらも結標はその後について行く。
浴室そのものも浴槽そのものも一番良い部屋を選んだだけあって広い。だがそこで結標は顔を赤くしながら
結標「~~~すけすけじゃないの!ガラスの意味ないじゃない!」
姫神「前に見たのは鏡張りだった。イヤン(棒読み)」
結標「…もう突っ込むのにも疲れたわ…」
姫神「?。ついてるの?突っ込むモノ」
結標「ついてる訳ないでしょ!女なんだから!!」
姫神「?。なにが?」
結標「ナニの話よ!!」
姫神「えっ」
結標「えっ」
姫神「なにそれ。怖い」
先程までのローズバスでのわだかまりは既にない。
もしかするとあのモノレールでの戦いを通して何か昇華されたのかも知れない、と二人は思った。
姫神「どっちが。先に入る?」
結標「私からで構わないかしら?さっきのでちょっと汗かいちゃったのよ」
姫神「先にシャワー。浴びてこいよ」
結標「だから似てないって。今汗かいたから先に入るって言ったばかりでしょう?」
姫神「また。汗かくのに?」
結標「馬鹿!出てって!!」ブンッ
姫神「あ」ドサッ
そして結標は座標移動で姫神を浴室から追い出した。
しかしそれが仇になるとはこの時結標は思ってもいなかったのである…
~第十五学区・ラブホテル3~
結標「わあ…なにかしらこのマット…えっ、やだっ…エッチな絵が描いてる…」
姫神を座標移動で飛ばした後、結標淡希はシャワーを浴びつつ浴室を見渡すと…
そこには何やら卑猥な絵のかかれた何に使われるかわからないマットが立てかけられていた。
結標「プールボート…じゃないわよね…これ…どうやって使うのかしら…」
姫神「それは。主に二人で使うもの」
結標「ふーん?二人でね…って貴女!」
そこにはいつの間にか、タオルを巻いて浴室の入口に入って来た姫神の姿があった。
慌ててタオルで身体を隠す結標を、やや不機嫌そうに。
姫神「さっきはよくも飛ばしてくれた。おかげで尻餅をついた。とても痛い」
結標「あっ…ご、ごめんなさい姫神さん…」
姫神「だから。復讐」
姫神の手には何やらピンク色のボトルが握られていた。
このホテル備え付けのシャンプーだろうか?などと小首を傾げる結標目掛けて――
ビチャーン!
結標「冷たっ!?なっ、なにこれぇっ!!」
姫神「ローション。ストロベリー味。お肌に優しい学園都市製」
ボトルキャップを投げ捨て一本丸ごと結標の身体目掛けてローションをぶっかけたのである。
今までにないヌルヌルした感触に結標は怯え惑い、シャワーで洗い流そうとするも――
結標「やだっ!やだっ!嫌ぁっ!これ滑る!スッゴく滑る!」
姫神「半端なお湯は。ローションを広げて馴染ませるだけ。復讐するは。我にあり」
結標「ヌルヌルするぅ~!気持ち悪い気持ち悪い…ひゃあっ!」
ねっとりと結標の華奢でいながら出る所が出ている肢体に絡みつく半透明のローション。
粘り着く液体が途切れる事なく糸を引き、浴室内の照明を受けて官能的なまでに濡れ光る。
まるで全身が舐め上げられているようだと姫神は表情に出さずゾクゾクと愉悦に浸る。
姫神「(まるで。生まれたての小鹿。手を貸してあげたいけれど。パニックになる貴女を見ていると。たまらない)」
結標「みっ、見てないで助けてよ!助けなさい!はっ、早くう!!」
姫神「小鹿は。自分で立ち上がるもの」
湯気に当てられてほんのり紅潮した困り顔、必死に伸ばされる震える手。
あまりみない二つ結びの赤髪が下ろされガラリと変わる印象。
あられもない姿はまるで誘っているような錯覚を姫神に与え、それがたまらなくて――
結標「あうっ!」ドサッ
姫神「スッキリ」
結標が尻餅をつくまで楽しんだ後、ようやく姫神は助け舟を出したのだった。
~第十五学区・ラブホテル4~
結標「のぼせた…」
姫神「貴女が。意地を張るから」
結標「貴女がムキになるからでしょこの負けず嫌い!」
0:03分。ラブローション騒動の後、怒り狂った結標は姫神に対し水掛け論ならぬお湯かけ合戦へと移行し、最終的に結標がダウンして姫神の判定勝ちであった。
現在二人はラウンドベッドにバスローブ姿で横たわり、結標は姫神の膝の上に頭を乗せて休んでいる。
結標「(膝枕なんて子供の時以来…なのにどうしてかしら、とても落ち着くわ)」
姫神の膝は結標にとってちょうど良い高さにあり、ふんわりと受け止めてくれる心地良さがあった。
流れ落ちて来る艶やかな黒髪を指先で弄びながら結標は脱力していた。自分が年上で相手が年下という意識もどこへやら。しかし――
姫神「(無防備過ぎる。貴女は自分で自分がわかっていない。こんな所を男の子に見られたら。間違い無く襲われる)」
そんな結標を膝枕している姫神は僅かに身を固くしていた。
二つ結びの赤髪を下ろすだけで途端に姫神以上に幼く見える結標。
本人は意識せずとも、姫神の毛先を弄る表情は良く言えばリラックスしており、悪く言えば無防備過ぎた。
モノレールでの張り詰めた横顔、研ぎ澄まされた眼差しを見た後は尚更そう思う。
姫神「(これが。あの三人が言っていた。ギャップ萌え?)」
結標「(あったかいわねえ…女同士でも膝枕って気持ち良いものなのね)」
バスローブ姿の正反対のタイプの美少女二人が膝枕している絵面は見る者に妖しい関係を匂わせるに足りた。
しかし同年代の友達付き合いが皆無であった結標は『女同士なんてこんなものじゃないの?』というズレた認識だった。
姫神もまた、このあらゆる意味で猫っぽい少女を弄るのがお気に入りだった。白井黒子やフレンダ辺りが見れば『我々の業界ではご褒美です』状態である。
シト…シト…シト…サアアアアアアアアアアアアアアア…
姫神「…雨。また降って来た。昼間一度降って来て。晴れたのに」
結標「夏がそろそろ近いから降りやすいのかも知れないわね。ふふっ…思い出さない?私と姫神さんが初めて話したのもこんな雨の日だったの、覚えてる?」
窓を打つ小夜時雨から目を切り、クルンと寝かせた頭を姫神の方へ向き直らせながら結標は笑って言った。
名乗り合った名前を互いに貶し合った事、お互いに変わり者だと思った事。
あの出会いから数ヶ月経って、今こうして『友達』になれた事。そして――
結標「――こんな事なら、私達もっと早く出逢えていれば良かったわね――」
ズキッ…
~ラブホテル・姫神秋沙~
ズキッ…ズキッ…ズキッ…
姫神「(…何?この胸の。痛みは)」
膝の上の無防備な結標淡希の笑顔。眼下より上がって来る無邪気な言葉。
それは鋭角さを持たぬ丸みを帯びた刃として姫神秋沙の胸を切り裂いた。
姫神「(もっと早く。出逢えていれば?)」
それはアウレオレス=イザードと出会う前?それとも上条当麻と引き合う前?もしくは自分と結標淡希の巡り合うのがもっと早ければ?
姫神「(違う。どれが欠けても。何が欠けても。誰が欠けても。私達は出逢っていない)」
結標「でも良かったわ宿が取れて。こんな雨降りの夜に女二人で野宿だなんて笑えない冗談だもの。貴女もそう思わないかしら?」
眼下より伸びる結標の指先が姫神の黒髪から左頬に触れる。
あの抜き身の刃のような結標淡希、今のような無防備な寝姿を晒す結標淡希。
二重の鏡写し、二つの鏡合わせ、どちらが本当の結標淡希なのか、どちらも本当の結標淡希なのか知りたくなった。
結標「…?どうかした?黙り込んじゃって」
姫神「…貴女が重くて。足が痺れた」
結標「あっ…ごめん…って重いって何よ!」
私を助けて家に住まわせてくれた結標淡希。私を救って敵と戦ってくれた結標淡希。
――ああ。そうだ。私は。惹かれている――
――血の色の髪をした結標淡希(かのじょ)に。血の匂いがする彼女(むすじめあわき)に――
~ラブホテル・結標淡希~
結標「重いだなんて失礼しちゃうわね…自慢じゃないけど、私はウエスト55より上回った事ないのよ?驚いた?」
姫神「貴女は細すぎる。私のお肉をわけて上げたい。でもわけてあげられないから。かわりにつねる」ムギュッ
結標「痛っ!」
雨が降って来てから少し姫神さんの口数が減ったように思ったけれど、杞憂だったみたい。
まあ空が落ちて来るんじゃなくて雨が降って来てるんだけど。
ふふっ、雨が嫌いだなんて猫みたい。よく見れば髪も真っ黒だから黒猫かな?
結標「もうっ…でもだいぶ楽になったわ。ありがとう。貴女のせいだけど、貴女のおかげね」
姫神「どういたしまして。次はこっち」
結標「ええっ…しょうがないわね」
今度は立てた膝の間に呼ばれた。私はぬいぐるみじゃないんだけど?
まあ…貴女なら仕方無いか。本当に黒猫みたい。人に懐かないくせにたまにすり寄ってくる。
これでもう少し口数が多くて、もっと表情が豊かなら私がかなわないかも知れないくらい綺麗なのに。
姫神「テレビをつけたい。いい?」
結標「良いんじゃない?こんな時間の深夜番組なんてくだらないのしか――」
姫神「言質は取った」ピッ
結標「!!?」
いきなり切り替わるチャンネル…そこには…その…男の人2人が…女の子1人を…あわわわわ…あわわわわ
あれ、どこに入ってるの?あんなの、入るの?えっ?えっ?えっ?
なにあれ?あんなの見た事ない!私の本にあんなの描いてなかった!
姫神「ここはラブホテル。これくらい当たり前」
結標「聞いた事ないわよそんな当たり前!消して!消して姫神さん!チャンネル変えて!!私達未成年でしょ!?」
姫神「偽IDで。ビールまで買って飲んだのに。お子ちゃま。私より。年上なのに」
結標「(イラッ)ばっ、馬鹿な事言わないでくれない?単純にこういうムキムキマッチョが暑苦しくて見てられないだけよ!」
馬鹿にして!年上だってわかってるならもう少し口の利き方気をつけなさいよね!
なによ。いっつもお澄まし顔で何があっても平気でございみたいなポーズ取って。
うわあ…大丈夫なのあれ…ああ…なんかもう一人増えちゃってる…ああ…
姫神「そう。結標さんは。御稚児趣味?」
結標「夜伽とか御稚児趣味とか貴女どこからそんな単語拾ってくるのよ!それにこんなの平気で見て!貴女の方がエッチじゃないの!!」
ついつい私もボルテージが上がる。こうやって人を鼠みたいにいたぶって。
確かに貴女はサディストね。一方通行みたいな強面ばっかりがそういうタイプだと思ってたけど良い勉強になったわ。人は見かけによらないって。
でも私はマゾヒストなんかじゃない!あんな…あんなテレビに映ってる女の子みたいな事されたら…絶対壊れちゃう…
姫神「そう。結標さんはあまり大人の男の人には。興味がないのね」
結標「そ、そうね!暑苦しそうだしむさ苦しそうだし汗臭そうなのはごめんね!」
姫神「なら。女の子は?」
結標「!!!」
姫神「………………」
結標「………………」
不意に会話が途絶える。窓を打つ雨垂れの音と、荒々しい息遣いの男3人のあえぎ声と、泣き声のような女の子のよがり声だけが響いてる。
何よ…どうしてそんな事を聞くのよ。どうして急に黙り込んだりするのよ。根比べのつもり?ああもう埒が開かない!
結標「なっ、ないわよ…私、これでもノーマルのつもりなんだけれど?そ、それは確かに好みのタイプは年下だけど…」
姫神「本当に?」
スッ…と後ろから私を抱える姫神さんの手が…私のバスローブの中に入って来た。
小さな手、整った爪先、冷たい指先、細くて長くて白い指先が…私の肌を滑るようにかすめて行く。
結標「っ…!」
姫神「こんな事をされても。ドキドキしない?」
結標「すっ…るわけ…ない…じゃ…な…い…くすぐっ…たい」
姫神「――――淡希」
結標「…!」
ドクンと心臓が飛び上がる。ビクンと肩が竦み上がる。ゾワリと背筋が震え上がる。
耳元で、いつもより少し低い声音で、低い声量で、吐息を感じられるほど近くで名前を呼ばれるだけで。
姫神「嘘吐き」
結標「………………」
姫神「ドキドキ。してるじゃない。心臓に近いから。バレバレ」
結標「あっ…」
鷲掴まれる。包み込むように。毛穴が開いて鳥肌が泡立って寒気に似た何かが走る。
持ち上げられて確かめられてる。きっとそれは手触りだったり肌触りだったりするのかも知れない。
でも本当はそれすら違って…確かめられているのは、私の反応。私の顔色。私の表情…そして、私の感じる場所。
姫神「こうしていると―――淡希の命を。掴んでいるみたい」
指先が沈み込んでくる。私は身を丸めてそれに耐えようとする。
背中の姫神さんの顔が見えないのにわかる気がする…きっと彼女は笑ってるに違いない。
どうやっていたぶろうかと鼠を前に思案している猫のように。
姫神「嫌がらないのね」
結標「あっ、貴女が離してくれないから――っ…はっ…あっ…」
姫神「口答えしないで。淡希」カリッ
結標「うぅんっ…あぁっ!」
爪を立てられるみたいに、私の甘やかな部分を姫神さんは起こしてくる。
耳元にかかる吐息が熱いのに、耳朶に触れる濡れた舌が冷たい。
耳朶の輪郭から滑って、這って、絡んで、カリッと耳たぶと耳の裏を噛まれて――
ブツンッ…
結標「!?」
姫神「?!」
その時、部屋の電気が消えた。
~ラブホテル・結標&姫神~
姫神「てっ。停電!?」
結標「てっ、敵襲?!」
カチッとベッドサイドに備えていた軍用懐中電灯を手探りでつける。
テレビが、空調が、照明が、ブレーカーが落ちている。
自家発電に切り替わらない。思わず姫神を庇うように身を挺する結標。
結標「(これも…魔術師の仕業!?)姫神さん!こっち!!」
一旦電灯を切る。窓際から離れるべく姫神の手を引き寄せる。
もし敵の狙いが狙撃なら良い的だ。最悪姫神だけでも座標移動で…と思ったが姫神の腕は動いてくれる様子はない。
結標「姫神さん!腰抜かしてる場合じゃないわよ!立って!ここから出なきゃ!姫神さん!?」
グイグイと姫神の手を引っ張る。しかし姫神の手は重石でもつけたように動かない。
それに、なんだかいつもより若干腕が太いような感触を結標に感じさせた。
――腕が太い?――
姫神「むっ。結標さん」
姫神の声が真横からではなく前方から聞こえてくる。
おかしい。だとすればこの腕はなんだと言うのだ?
この部屋には自分達の二人しかいない。そう結標が振り向き直ってもう一度軍用懐中電灯を点けると――
姫神「貴女…誰の手を。引いているの?」
――そこには…血塗れの手首を晒した、小太り気味の中年女性の恨めしそうな無表情が――
結標「いっ…いっ…いっ!」
ニマァ…とその中年女性の顔が…この上無く歪んで笑ったのが、結標の見た最後の光景だった。
結標「いやああああああああああああああああああああ!!!」
~ラブホテル・姫神秋沙2~
結標「おっ、お化け!お化けぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」
姫神「落ち着いて結標さん。もういない。いなくなった。もう怖くない」
結標が数秒間気絶している間にブレーカーは復旧された。
各地を渡り歩いている時に耳にした事があった噂を姫神は思い出す。
第十五学区のどこかのホテルで、生徒との不倫を思い詰め無理心中をはかった中年女教師の霊が出ると。
まさかこのホテルがそれだったとは流石の姫神も思い当たらなかった。
結標「嫌ぁ…ここから出たい…帰りたい…部屋変えてよぉ…」
姫神「今からだと。それも難しいと。思う。つらいだろうけど。我慢して」
デジタル時計は既に0:36分を示している。ナイトマネージャーや深夜スタッフは起きているだろうが、呼べば学生だとバレてしまう。
そうならないために無人フロントのタッチパネル方式の部屋を選んだのだから。
結標「いやぁ…いやよぅ…いやよぉ…」
姫神「大丈夫。私がついてる。側にいる。安心して」
先程までの凛々しさ勇ましさ頼もしさはどこへやら。
泣きじゃくり愚図りながら姫神の胸元に顔を埋めて結標はイヤイヤしていた。
この学園都市で幽霊騒ぎなど笑い話にもならないが、意外にこういうお化け絡みが苦手な質なのかも知れない。
姫神「(少し。危なかった)」
この幽霊騒動が無ければ、結標を押し倒して事に及んでしまったかも知れない。
もしかして幽霊はそんな自分達が憎々しくて邪魔しに来たのかも知れないと姫神は思った。
今も結標の感触が手に残っている。結標は知らない。表情に出ないだけで姫神もまた鼓動の高鳴りに苛まれていた事を。
姫神「(この娘はダメ。無防備過ぎて。イジメたくなってしまう)」
戦闘と今のギャップが酷過ぎる。あまりの落差に理性が乖離してしまう。
意識的に誘われているなら我慢も出来る。無意識に誘っているように感じられるからたまらなくなる。
嫌がる癖に上げる声音が艶めかしくて、歯止めが聞かなくなりそうな自分が恐ろしい。
姫神「(焦ってはいけない。今は。落ち着かせないと)」
しかしそういう気分も雲散霧消してしまった。とてもそんな気にはなれない。
幽霊騒ぎで震えている今そんな事をしたら完全に極悪人だ。
自分がどれだけ結標を追い込む言葉責めを繰り返したかを棚に上げて姫神秋沙は一人言ちた。
~ラブホテル・結標&姫神2~
結標「は、離れないで!」
姫神「それを言うなら。離さないでの間違い」
結標「どっちでもいいから!」
姫神秋沙は悶々とし、結標淡希は恐々としていた。
二人は今間接照明を落としてベッドに入っていた。
結標は姫神の身体を抱き足を絡めまるでコアラのようにぴったりとくっついている。寝返りを打とうと離れたら怒るのだからやっていられない。
姫神「(そんなにくっつかないで。貴女。誘ってるの?)」
結標「(お化けなんていないお化けなんていないお化けなんていない…)」
肌が擦れ合い、吐息がかかり、シャンプーとボディーソープの香りが拷問のように姫神を苛んでいた。
逆に今手を出したら抵抗される事なく籠絡させられるんじゃないかと邪な考えさえ浮かぶ。
姫神「子供じゃないんだから。そういう事されると困る」
結標「貴女がさっきトイレの電気消すからでしょう!怖いのよ暗いと!」
さっきはさっきでトイレまでついてきてと寝入り端を起こされ、姫神は腹立ち紛れに結標の入ったトイレの電気を消したらまた泣き出したのだ。
正直勘弁してもらいたい。いつまで消えた幽霊に怯えているのかと溜め息が出る。
結標「本当に怖かったんだから…最低よ貴女…貴女なんて嫌いよ」
姫神「そう。おやすみ」ゴロン
結標「こっち向いてぇ!」
しまいにはうつらうつらとした矢先に『起きてる?』『いる?』と話し掛けられたり。
自分が男ならもう十回は襲っている。わざとやってるなら大した焦らし上手だ。そういう風に仕向けているならば。
姫神「いい加減にして。もう2時。これ以上騒ぐなら。無理矢理寝かしつける」
結標「うう…」
向かい合わせの結標が抗議するように手をギュッと握って来る。
頼りなく弱々しい手つき。とてもあんな大立ち回りした同一人物とは思えなくて――
~ラブホテル・結標淡希2~
何よ…そんなに怒らなくたっていいじゃない…貴女だって同じ物見たのにどうしてそんなに平気でいられるのよ。
やっぱりあれかしら?巫女さんの格好してたから霊感あるとか?慣れてるとか?
離さないでよ。離れないでよ。貴女がいるから私は辛うじて我慢出来ているのだから。
姫神「貴女が。こんなに甘えん坊だったなんて。思っても見なかった」
結標「またそうやって馬鹿にする…貴女には怖い物がないって言うの?」
姫神「無くはないけれど。貴女ほど騒がない」
年下の癖に…髪引っ張ってあげようかしら?でもそんな事して本当に怒らせたら…
はあっ…こんな事ならネットカフェみたいなスペースか、個室サロンみたいな所を探せば良かったかしら?
結標「(怖い物…ね)」
今私が怖い物…それは貴女が離れて行く事よ姫神さん。
この雨が私達を引き合わせたというなら、いつか離れる日もそうなの?
結標「(復興支援の目処がついたら…貴女は私の部屋から出て行くんでしょう?)」
キスをされても、抱き締められても、貴女が遠くて、貴女の心が見えない。
きっと部屋から貴女が消えても、私達はまた外でお茶したり、たまに遊びに出掛けたり、つまらない事でメールしたり、そんな事でも繋がりは保てて行ける。けれど。
結標「(けれど、それだけ)」
本来交わる事のなかった私達の世界。私は闇の底にいて、貴女もきっと闇の底にいたはず。
何故貴女があんなイカレ魔術師に名指しで追われているのかすら私は聞けずにいる。
それを聞いたら、貴女が消えてしまいそうで。今日見たあの虹のように。気がつけばいなくなってしまう予感。
結標「(吸血殺しって…何よ)」
私は躊躇っている。明日貴女を学校に連れて行く事さえ。
あんな平然と他人を巻き込めるような連中を呼び込む火種になりかねないと危ぶんでいる。
けれど私一人で貴女を守り切れる自信がない。今日だって守るはずだった貴女に助けられたような物。
結標「(私が守りたかったものって…なんなんだったのかしらね)」
一方通行は最終信号(打ち止め)を、海原は御坂美琴の世界を、土御門はわからないけど何かを抱えていた。
私はかつての仲間。見失った目標の後に現れた貴女を戦いの理由にするだなんて貴女が良い面の皮だ。
『友達』だから?違う。私達は互いに互いをさらけ出せないから『友達』というポジショニングに逃げ込んでいるだけだ。
結標「(もし…貴女がいなくなってしまったら?)」
私はまた気ままな一人暮らしだ。快適で、自由で、そして――また、一人になる。
それを思うと握る手に力がこもる。それは私が孤独を恐れているからじゃない。
――姫神秋沙(あなた)がいなくなるのが怖いから――
~ラブホテル・結標&姫神3~
姫神「もう。仕方無い」
くるんと姫神秋沙は寝返りを打って結標淡希へと向き直る。
自分の手を握る指先が震えているのがわかるから。
今度は姫神から結標の手に指を絡ませて行く。まるで恋人繋ぎのように。
結標「え…?」
姫神「貴女が眠るまで。こうしている。それで。いい?」
結標「…私が起きるまで、そうしてて」
姫神「甘えん坊」
姫神が二人の出会いを思い悩めば、結標は二人の別れを思い煩う。
姫神は幽霊に怯えていると勘違いし、結標は姫神が消える未来を想像した。
姫神は年上なのに手がかかる娘だと思い、結標は年下なのに手がかからない娘だと思っていた。
結標「こんな所、他人に見られたら恥ずかしくて死んじゃいそうよ」
姫神「私も。貴女とこんな事してるって。吹寄さんや。小萌先生に見られたら。恥ずかしくて表を歩けない」
結標「…ねえ、姫神さん…」
姫神「…おやすみのキスでも。して欲しい?」
結標「…………ええ」
どちらともなく身体を抱き寄せる。どうしようもなく歪に歪んだ自分達。
結標は姫神が二つ合わせの鏡写しに映ったもう一人の自分のように感じられ、姫神は結標が二重写しの鏡合わせに映った自分の影のように感じられた。
硝子を挟んだ互いを見つめる、虚ろな眼差しをした二体のカタン・ドールのようだと。
――そうして夜はふけていき――
~第十五学区・カフェ『サンクトゥス』第十五学区店~
結標「ええ…そう。襲われたわ。今朝のニュース見たでしょう?あのモノレール爆破テロ事件はそれ絡みよ。何とか逃げられたけどね。私はどうしたら良い?」
小萌『そ、そんな!結標ちゃんは!?姫神ちゃんは大丈夫なのですか!?』
結標「大丈夫。二人とも無事よ。姫神さんは今小倉トースト食べてシナモンティーお代わりしてるわ。見てるだけでお腹一杯」
小萌『よっ、良かったのです…先生は…先生は…心配で…ふえぇ』
六日目、8:25分。結標淡希と姫神秋沙の二人はそうそうにチェックアウトを済ませて繁華街のカフェにいた。
結標は今現在トイレの個室で月詠小萌と昨夜のあらましを話しながら――小銃の手入れをしていた。
『グループ』として活動していた際、コインロッカーに分散させていた仕事道具の一つである。
小萌『わかりました。黄泉川先生と相談して人を迎えに行ってもらうのです!だから結標ちゃん…もう危ない事をしないって先生と約束して下さいなのです…何かあったら戦ったりしないで、逃げて欲しいのです…!』
結標「安心して小萌。こっちはか弱い女二人だもの。はなからそのつもり」
銃は好きじゃない。抜けば撃つしかなくなる。誰かを傷つけるしかなくなる。嫌な思い出もある。
小萌は結標が暗部であるとは知らないし、結標も小萌に明かすつもりはない。
本来なら連絡もしたくなかったがかかっているのは姫神の命だ。
そして――逃げ回ると会話しながら、手が勝手に武器をかき集めて分解し、クリーニングし、組み立て直す淀みない流れがひどく滑稽に思えた。
そう自嘲しながらも小萌と二、三打合せて黄泉川愛穂を通じてアンチスキルの施設に匿ってもらう運びとなった。
結標「じゃあ、また後で」
通話を切る。個室を出る。ガンオイルに濡れた手を洗面台で洗う。
自分一人で姫神を連れて逃げ回りながら敵を探り出して叩くなど無理だ。
遅かれ早かれこうするしかなかったと結標は手に次いで顔を洗いながら言い聞かせる。
結標「…やるしか…ないのね…」
信じるしかない。あの避難所と委員会に集ったレベル5達の力を。
他力本願だと思わなくもない。みすみす火種を持ち込まざるを得ない自分の無力さが呪わしい。
一方通行も、海原も、土御門も、こんな時いてくれたらどれだけ心強い戦力かと思う。だが。
結標「遊びじゃないのよ結標淡希…しっかりやりなさい」
顔を拭きながら洗面台の中の自分を叱咤する。自分のケツは自分で拭う。それが暗部(じぶんたち)の戒律であったと。
先ずは食べ終わったらアンチスキルの詰め所にでも行き、迎えが来るまで姫神を保護してもらう。それが最も安全だと信じて。
~サンクトゥス第十五学区店・姫神秋沙~
姫神「………………」
姫神秋沙はカフェの2人掛けのテーブルにいた。小倉トーストを、茹で卵を、シナモンティーを、サラダを、モーニングセットを平らげながら結標を待つ。
結標『やっぱり貴女って図太いわ…よく食べられるわねそんなに』
姫神「(そういう貴女は。線が細すぎる。スタイルもメンタルも)」
共に行動するようになってからわかった事。結標は精神的な負荷や重圧がかかると食事をほとんど取らなくなる。
昨日のチキン南蛮弁当だって半分しか食べていなかった。
それだって自分を守るため、体力を維持するために無理矢理食べていた事くらい姫神にもわかった。
姫神「(私の。この能力が。また周りの誰かを。巻き込んでしまう)」
吸血殺し(ディープブラッド)…それが引き寄せるのは何も吸血鬼ばかりではない。その吸血鬼目当ての『人間の欲望』までおびき寄せる。
今までこうならなかった事自体が一種の幸運だったのだ。
この学園都市の防衛機構や、上条当麻の右手に守られて。でももはやその加護は受けられないのだから。
姫神「(消えてしまいたい。消してしまいたい)」
ある種、忌むべき象徴たる吸血鬼以上に忌まわしい自らの身体に流れる血。
同時に、昨日何故結標に対しあんな事をしたのかという自分の中の真実まで姫神は浮き彫りにする。
朝の光が照らすのは美しい世界ばかりではなく、醜い自分の姿もそこに含まれる。
姫神「(彼女が。女性だから?)」
この年頃にありがちな、友情以上の疑似恋愛などではない『女』の本能としての打算。
姫神秋沙は原石だ。やがて将来伴侶を得、子を為した時…もし自分と同じ吸血殺しの血を引いていたら?
それは自らの血が両親の、隣人の、村落の人々全ての命を奪った地獄を我が子に繰り返させる事になる惨劇の可能性がないとは言えないからだ。
姫神「(私は汚い。私は汚れている。私のエゴが。いつか取り返しのつかない事に。なりそうで)」
心惹かれた上条当麻には既に帰りを待つ『パートナー』がいる。
まるで寂しさを埋めるために結標を欲しているかのような自分がいる。
以前、結標に求められた時上条と結標を乗せてはならない秤に乗せたように。
姫神「(現に。もう結標さんを。巻き込んでいる)」
結標が、子を為す必要がない相手(おんな)だから恋愛対象として見ているかも知れないという打算的なもう一人の自分。
姫神「(私はもう。殺したくない。結標さんを。これ以上巻き込むくらいなら。私は自分を――)」
それは相手にとってどれだけ侮辱的だろう。屈辱的だろう。考えるまでもない。
姫神「(地獄に堕ちるのは。私一人で十分)」
結標が側から離れた途端、死んだはずの心からワインの澱のように舞い上がるネガティブ思考が――
結標「お待たせ!」
トイレから戻って来た結標淡希の言葉によって中断させられた。
~カフェ『サンクトゥス』・禁煙席~
結標「…という訳で、迎えが来るまで一旦アンチスキルの詰め所に匿ってもらうわ。もちろん私も一緒に」
姫神「わかった。ごめんなさい。貴女に任せっきりで」
結標「気にしないで。貴女の得意分野が料理なら、私の専門分野は荒事って話なだけよ」
9:01分。結標淡希はアールグレイを、姫神秋沙はシナモンティーをそれぞれ頼みながら今後を話し合った。
昨日の自爆テロも厭わないような連中がまだ後に控えているならば、交通機関を使って帰るのは二の轍を踏む事になりかねない。
しかし街中に隠れ潜むのもいざ交戦の段になった際、周囲を平然と巻き込む手口の二の舞にもなりかねない。
ならばいっそのこと、アンチスキルの庇護を受けるほうがいざという時二の足を踏まずとも良いから、と結標は語った。
姫神「料理と言えば。私はまだ貴女に。石狩鍋と。サーモントーストサンドしか。作ってあげられていない」
結標「お互い避難所での食事がメインになっちゃったものね…って言うかあの避難所煮物ばっかりじゃない?」
姫神「煮物と。つまみ物は。人数が捌ける。融通が利く」
結標は思う。少し水先案内人の仕事を減らして姫神の側に置かせてもらおうかと。
せっかく任された仕事なだけに残念だが、姫神を狙う魔の手が止むまではそうするべきかと。
姫神「…また。貴女に料理を。食べてもらいたい。今度は。貴女の好きなものを」
結標「へえ?ようやくルームメイトらしくなって来たじゃない?感心感心」
姫神は思う。一昨日はさくらんぼゼリーしか、昨夜はチキン南蛮弁当を半分足らずしか結標は口にしていないし今はアールグレイのみ。
このままではいつか倒れてしまう。身体を壊してしまうかも知れない。いくら強くても同じ人間で、同じ女の子なのだから。
結標「この馬鹿げたハロウィン・パーティーが終わったらお願いね?」
結標は姫神を守りたいと願い、姫神は結標を護りたいと望んだ。
全ての災厄から、災難から、災禍から――
~第十五学区・繁華街大通り~
結標「人通りが多いわね…酔いそう」
姫神「本当に。戦争があったなんて。思えないくらい。第七学区とは。大違い」
9:20分。二人はカフェを出ると保護を求めるべくアンチスキル第十五学区支部を目指し大通りを歩いていた。
支部は繁華街を有する十五学区と流通や産業の要所たる第十六学区を繋ぐ大桟橋の川沿いにあるらしかった。
外部でも警察機構の訓練所などは川沿いに置かれる事が多いが、それと同じ理由なのかも知れないと結標はぼんやり考えた。
結標「まったくね…こちとら毎日毎日まーいにち…ガイドとポストガールやってるって言うのに」
姫神「ポストガール?」
結標「外部の親元からの物資や、学生達が親元に出す手紙の配達よ。第七学区は電力不足な上、携帯もつながらない所が多いからアナログなツールに頼るしかないんじゃないかしら?」
姫神「郵便屋さんは?」
結標「あの瓦礫の山じゃ途中までしか来てくれないのよ」
雨上がりに濡れた朝の街を、二人は手を繋いで歩く。結標はいつでも姫神を連れて逃げられるように。姫神は僅かに心温めるためにそうしている。
二人が眠ってから朝目覚めるまでの五時間は記録的な集中豪雨に切り替わったらしく、大通りのアスファルトにいくつもの水溜まりを残していた。
姫神「本当に。この学区みたいに。元に戻るのかしら」
結標「…どうでしょうね。再開発するのか放棄するのか…安心して、行き場がなくなったら好きなだけ私の家にいてくれて構わないから」
姫神「でも。それは」
結標「一緒に暮らさない?私達」
姫神「!」
結標「今みたいな仮住まいじゃなくて」
そこで姫神の足が止まる。水溜まりの中でも気にせずに。
対する結標も行き交う人混みの雑踏の中、姫神を見つめた。
結標「貴女とは、上手くやっていけそうだから」
姫神「…でも。私は――」
結標「言わないで」
姫神の胸中を知ってか知らずか、結標はキッパリとそう言い放った。
正反対のタイプの美少女二人が手を繋ぎながら一緒に暮らす暮らさないの会話をしているなどと妖しい雰囲気に意も介さず。
結標「貴女が何者でも、私が何者でも――私達、友達でしょう?」
姫神「(貴女は。どこまで気づいているの)」
結標は考える。夜には大胆不敵で、朝には曖昧模糊としているこのルームメイトは一度手を離せば消えかねない儚い雰囲気が最初から漂っていた。
初日から含めてこの6日間ずっと消えずに。だから切り出したのだ。勇気を振り絞って。
姫神「私達。出会ったばっかりで。私は。」
結標「――嫌?」
姫神「…嫌。じゃない」
昨夜姫神に責められるままだった姿は、幽霊騒ぎに脅えた影は微塵もない。
それどころか迷う姫神の手を引こうとしている。しかし結標は――
結標「………………」スッ
姫神「あっ」
姫神の手を一度解き――そして、もう一度差し伸べた。
結標「イエスなら手を取って…一度きりよ。同じ勇気は二度出せないわ」
姫神「結標…さん」
結標「私と一緒に来るなら、この手を掴んで」
姫神は思う。
卑怯だ。
姑息だ。
不埒だ。
そんな風に言われて、手を取れないだなんて――出来るはずがないのに。
姫神「…ズルい」
結標「そうよ。私って実は性格悪いの。貴女には負けるけどね」
姫神「私は。性格悪くない」
結標「人の身体をオモチャにするようなサディストが何言ってるの」
朝焼けの光を浴びて燦々と輝く雨上がりの街。
徐々に鳴き始める蝉の声。
夏の始まりに差し掛かった季節に吹く風が二人の髪を揺らした。
結標「イエスなら優しく連れて行く。ノーなら乱暴にさらって行く。選んで。好きな方を」
姫神「…――って」
結標「聞こえないわ。ハッキリ言いなさい」
行き交う人々、立ち尽くす二人。
風車が回り、飛行船が夏の朝空を行く。
サディストはどっちだ。どっちを選んだって…私を逃がしてくれないクセにと――姫神は
姫神「――さらって…!――」
その手を、取った。
~第十五学区・裏通り~
魔術師B「標的、発見セリ。指示ヲ仰グ」
「mare256(葦の海渡りし青銅の蛇)よ。確実に仕留めよ。Tempestas369(毒杯注ぎし晩餐者)のような漏れは万に一つも許さん。死を賭して望め」
魔術師B「了解」
そんな二人の様子を、薄暗い路地裏に溶け込むように佇む漆黒のローブを纏う幽鬼…
アウレオルス=イザードがかつて属していたグノーシズム(異端宗派)所属の魔術師『mare256(葦の海渡りし青銅の蛇)』は監視していた。
雨上がりの街にいくつも生まれた水溜まりの一つに結標と姫神の姿をリアルタイムの索敵・探知・監視の魔術を水鏡で写し出して。
魔術師B「アンチスキルニ逃コマレルト厄介ダ。先手ヲ打タセテモラウゾ」
その手に握るは刀剣ほどの大きさがある十字架の先端に青銅の蛇が絡みついた偶像崇拝の霊装『モーセのクルツ』のレプリカ。
モーセが葦の海(紅海)を断ち割り迷える民衆を導き、神の使わせた炎の蛇すら退けた青銅の蛇の旗竿を手にした魔術師の魔術は『水』を司る。
モーセとは元来『水から引き上げる』という意味である『マーシャ』から取られた字である。
魔術師B「アノ出来損ナイトハ一味違ウゾ…我等ガ神ニ唾スル者タチヨ」
幸いにも大雨の後、アンチスキルの支部の側には河が流れている。媒介に用いる『水』には事欠かない。
そして万に一つの脱出口すら逃がすつもりはない。そう考えながら魔術師は水鏡の魔術を解除し歩み出した。
魔術師B「1タス1ハ…2。2ヒク1ハ…1」
結標淡希の殺害と、姫神秋沙の拿捕のために――
~第十五学区・アンチスキル第十五学区支部~
結標「着いたわ」
姫神「ここ?」
結標「ええ」
10:40分。二人は繁華街を抜け、追跡や監視や尾行しながら迂回し、遠回りし、足跡を掴ませぬよう時間をかけて『座標移動』しながら河川側にあるアンチスキルの支部へとやって来た。
辺りは見晴らしよく遮るものの無い土手。警察組織の訓練所などが置かれやすい理由の一端がわからなくもなかった。
姫神「ここで。匿ってもらうの?」
結標「そうね。出来るだけ警備員のお世話にはなりたくなかったんだけれど、そうも言ってられないから」
施設そのものはそれこそ警察組織の支部ほどの規模で、グラウンドほどの練兵場も見渡せた。
結標達は施設前の門扉まで飛び移ると、結標は門番とも言うべき警備員を探す…しかし
姫神「…?。誰も。出て来ない」
結標「妙ね…一人残らず出払ってるだなんて」
門扉の前には誰もいない…それどころか入口でチェックをする者すらいない。
側で河川の荒れ狂う濁流が耳障りだ。物音一つ中から聞こえてこないせいか尚更そう思う。
結標「(何か変ね)」
一瞬、座標移動で施設内に入ろうとして結標は躊躇った。些細だが見落とせない違和感、微細だが見逃せない異物感。
学園都市の言わば法治組織とも言うべき場所に似つかわしくない、何か――
姫神「――――がする」
結標「え?」
ドッ、ドッ、ドッと昨夜の降雨を受けて増水した川の流れが五月蝿くて結標は思わず問い返した。
すると姫神は無表情の中にも僅かに表情筋を強張らせ――言った。
姫神「――血の匂いがする――」
結標「!!?」
その直後だった。
ドバアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアン!
河川が堰を切ったように、増水した『水』の全てが津波のように土手を乗り越え、二人の視界一杯に埋め尽くして――
結標「姫神さん!!!」
~第十五学区・アンチスキル詰め所~
迫り来る濁流の津波に呑まれる直前、結標は姫神を抱えて聳え立つ門扉の上へと座標移動した。
結標「ぷはっ!大丈夫!?」
姫神「だっ。大丈夫」
一瞬の事だった。鉄砲水などでは常識的に考えられないほどの河川の津波が施設もろとも押し流すほどの勢いで殺到したのだ。
すでに門扉の頂上よりした濁流の海だ。ありえないほどの水量がこの施設一体を文字通り水没させたのだから。
結標「(なによこれは…常識じゃ考えられないわ…街中の水道管が破裂したってこうはならないわ)」
濁流の一部は被ったものの、飲み込まれる寸前にテレポート出来たのは暗部で培われた危機察知と養われた危険回避の賜物だ。
結標はびしょ濡れになった赤髪をかきあげて辺りを見渡す。すると――
魔術師B「mare256(葦の海渡りし青銅の蛇)」
結標「魔術師…!」
荒れ狂う時化の海のような水面に立つ、十字架を背負ったローブ姿の亡霊…
モノレールで交戦したあの魔術師と同じ気配の人間が、目だしさえ隠れたフードからこちらを覗いていた。
結標「(どうして先回りされたの!?あんなに警戒していたのに!)」
結標は知らない。土御門元春が大覇星祭の際に使っていたような探索魔術で今朝から監視されていた事を。
言わばアンチスキルを頼るという『最善の道』を選んでしまったがために魔術師を呼び込み『最悪の方向』に進んでしまったのだと。
姫神「(さっきの血の匂い。あれは中の…!)」
姫神は知らない。魔術師がこれだけの水量を操るには、ステイル=マグヌスのルーンのように局地限定的な『結界』の中でのみ有効だと。
故に魔術師は先回りし、アンチスキルの施設及び河川を結界の術式を組み込むためだけに警備員を皆殺しにしたのだ。
魔術師B「1タス1ハ…2」
魔術師は聳え立つ門扉の上の姫神をまず指差し…ついで結標を指差して――
魔術師B「2ヒク1ハ…1」
結標の首を掻き切るようなジェスチャーを送り…水底へと沈んで行き――
魔術師B「 シ ネ 」
――戦闘が開始した――
~第十五学区・アンチスキル練兵場~
結標「チッ!」
姫神「…っ」
濁流の中から次々と飛来する水の刃が結標を狙う。
結標はそれを練兵場のライトスタンドを飛び石伝いに座標移動しながらかわす。
片腕に姫神を抱えながら飛んで、跳んで、翔んで!
ガン!ガン!!ガンガンガンガン!!!
無数に飛び出した水の刃が次々とライトを破壊し、ポールを切断し、グラウンドの鉄条網を引き裂いて行く。
高さにしてビル四階分に相当する高所まで飛来するウォーターカッター。
ウォーターカッターそのものでさえ研磨剤と出力を調整すればダイヤモンドから鉄鋼まで両断するのだ。
生身の肉体を掠めただけで大怪我は免れない。その上――
結標「頭も出ないんじゃモグラ叩きにもならないわよ!」
魔術師は濁流の中に沈み込み水中から一方的に攻撃して来る。
対する結標は常備しているコルク抜きを叩き込もうにも相手の所在が目視出来ない。
それどころかマシンガン並の水を魔術で練り上げた弾雨から、暴動鎮圧用の放水器が如雨露の水に思える勢いの鉄砲水、膨れ上がった水球を爆弾のように破裂までさせてくる。
結標「何でもありなのね魔術師って!!水芸やりたきゃサーカスから始めたらどう!?」
『後方のアックア』の足元にすら及ばずとも、局地限定的な結界魔術の地の利、昨夜が時雨から一時的な豪雨となり増水した天の利を得て水の魔術師は二人を狙う。
結標はそれを座標移動で掻き回し、一カ所に止まらず狙いを付けさせない逃げの一手でそれをかわすしかないのだから。
姫神「(私がいるから。結標さんが戦えない)」
飛び石伝いにしか動けない。眼下で渦巻く濁流の海に落ちれば間違い無く引きずり込まれる。
結標一人なら水中に飛び込んでも座標移動を繰り返して脱出は容易いだろう。
しかし姫神を抱え、庇い、守りながらではそれすら望むべくもない。
自分さえ枷にならなければ、結標ならば勝なりと逃げるなり活路を切り開けるのに。
結標「(残る手は…そう多くないわね)」
電柱ほどの高さと太さのある、アンチスキルのシンボルが描かれたフラッグポールの上に座標移動する。
こんな八艘飛びをいつまでも繰り返していられない…そう結標淡希は腹を括る。
結標「…姫神さん…」
姫神「…なに」
足元では二階建ての建物まで浸水させるような多量の水が魔術によって渦巻いている。
チャンスは恐らく一度…これで仕留め損なえばますます敵は遠くなる。
結標は姫神を両腕で抱えあげながら静かに…しかしハッキリと姫神に囁いた。
結標「――て」
姫神「…!?」
結標「――これしかないの。私を――信じて頂戴」
~第十五学区・アンチスキル練兵場、水中~
魔術師B「止マッタ。モウ逃ゲ場ナイ。2ヒク1ハ1」
魔術師は勝利を確信していた。高所にある着地点はもうあのポール一本のみ。
次の攻撃で終わる。赤毛の女に当たれば黒髪の女が手に入る。
当たらなくてもポールを壊せば二人とも水に落ちてやはり手には入る。
どちらに転んでも自分の優位は動かない。だから――
魔術師B「2ヒク1ハ…」
次の形は槍に、矢に、錐にしよう。あの髪の毛と同じ真っ赤にしてやる。
水はどんなものにも形を変えどこにでもある最高の媒介だ。これに霊装『モーセのクルツ』が加われば――
魔術師B「1!!!」
ドン!とありったけの水の穂先を結標に、ポール目掛けて放つ。
当たれば死ぬ、かわしても落ち――
姫神「結標さん。下。私達の足元!!」
魔術師B「!?」
その瞬間…ずっとお荷物で抱えられていたばかりだった姫神が…射出した流水の穂先を見据えながら…叫ぶと
フッ…
魔術師B「ナニ!!?」
結標達が…水中の視界から消えたと思えば――
結標「当たれええええええええええええええええええ!!!」
代わって、結標達の立っていた、電柱並みのフラッグポールが魔術師の目の前に突如として現れ――
~第十五学区・アンチスキル練兵場、水中2~
グシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア…!!
魔術師B「…ガッ…ァ!!」
結標の叫びと共に…水中に突如として現出したフラッグが魔術師の腹部を刺し貫いた。
完全に身体の中心を穿ち抜き、刺すというよりそのままフラッグポールが身体に『生えた』ような風穴を開けて。
魔術師B「ソン…ナ」
魔術師が水の魔法を放つまで…結標は狙いを絞らせるためにその場に止まり回避するために演算に集中。
腕の中の姫神が射出の瞬間、攻撃の入射角、一撃の方向を見据えて位置を教えたのだ。
攻撃の発動と同時に回避し、攻撃の瞬間を見切ってのフラッグポールの一撃…
姫神が目の代わりとなり、結標が演算に集中し、最後は演算を終えた結標が手を下したのだ。
魔術師B「1ヒク…1…ハ」
魔術師の腹に突き刺さるは座標移動で転送されたフラッグポール…
それは背負った『モーセのクルツ』と相俟って十字架にかけられ磔刑に処された邪教徒そのものだった。
皮肉にも、魔術師の肉体的に死によって濁流の海も真っ二つに割れ引いていった。
魔術師B「ゼ…ロ…」
魔法名…mare256(葦の海渡りし青銅の蛇)の名に相応しく、串刺しにされた蛇のように。
~第十五学区・アンチスキル練兵場3~
結標「…助かったわ…貴女のおかげでね」
姫神「………………」
魔術師の死により戻って行く赤に染まった濁流の波が引いて行くのを姫神秋沙は見やっていた。
磔刑のようにされ息絶えた魔術師の死体が、水が引いて行く事で殺害されたアンチスキルの遺体が漂流物のように河川敷の石砂利に流れつくのを。
結標「…警備員を皆殺しにしたのはあの魔術師よ…そしてその魔術師に手を下したのは私…貴女が気に病むのはお門違いよ」
姫神「………………」
姫神はどうして良いかわからなかった。自分が保護を求めたためにアンチスキルの支部の一つが、人命が失われた。
結標に手を汚させた。血に塗れさせた。戦う力がない事を言い訳に、結標に人を殺めさせた。それが姫神の心を漂白していた。
姫神「こんな。こんな事が…」
結標「………………」
姫神「…いつまで。続くの」
結標「…わからないわ…」
もう姫神は自分で自分の命を断つ自由すら失った気がした。
ここで姫神が命を絶てば、それこそ命懸けで戦ってくれた結標の全てが無駄になる。
吸血鬼を求める人間が全て息絶えるまで、原石を求める人種が全て死に絶えるまで終わらないと言うのか。この血で描かれた斑道は
姫神「………………」
結標「…帰ろう…私達の場所に…」
結標淡希は思う。自分は姫神の命を守れる程度には力があって…その死に絶えた心まで守れるほどの力がないと。
人を殺めた。吐き気がする。自分だって泣き出して壊れたい。でもそれだけは出来ない。姫神がいる今は。
姫神「どこへ。行けばいいの」
吸血殺しの力を消すために来た学園都市は今壊れている。
その可能性があったかも知れないアウレオルス=イザードは『死んだ』。
このままではいつか結標も命を落としてしまう。迫り来る追っ手が止まない限り。
姫神「教えて。私は。私はどこへ――」
結標「――――――」
姫神の周りには流れついた遺体と血に染まった濁流が纏わりつき、結標はそんな姫神を何も言わずに背中から抱き締めた。
結標「(…この娘…泣いて…)」
背後から抱き締める結標にはそれがひっかぶった水滴の名残なのか、はたまた姫神の双眸から溢れる涙なのかわからない。しかし――
結標「――言ったでしょう?さらいに行くわ。貴女がどこへ行こうともね――」
一人くらい、地獄までの道行きがいないと寂しいだろうと結標は思った。
結標「(ああ――そっか)」
同時に、芽生えかけていた想いが花開いた。この血の海を養分にするようにして咲く徒花が。
――私…この娘の事が好きなんだ――
~第十五学区・大桟橋~
黄泉川「………………」
12:05分。黄泉川愛穂は封鎖された大桟橋より欄干に身体をもたれかからせながら目を瞑っていた。
全ての警備員の遺体が収容・搬送され、それを無言の内に見送る黙祷のように。
黄泉川「(――――――)」
遠くでも近くでも赤色灯の瞬きがまるで葬列の篝火のように並んでいる。
遺体の状態は最悪だった。切り刻まれた者、擦り潰された者、見るに耐えない形相のまま溺死させられた者…
支部内の監視カメラに映ったのは、まるで悪夢の中からそのまま這い出して来たかのような濁流がそのまま所内を水没させたブラックアウトの映像。
黄泉川「…殉職者21名…」
通信が途絶された異変が各支部にスクランブルで伝えられた後…
駆けつけた警備員達が見たのは21名という夥しい人命の亡骸…
黄泉川はそれを『死亡者』と言いたくなかった。
彼等は『被害者』であって欲しくなかった。最後まで生徒や治安を守るために戦った『殉職者』であって欲しかったから。
――そして――
黄泉川「…生存者2名…」
その中でへたり込む…黄泉川が教諭を務める高校の学生で、同僚たる月詠小萌の生徒である『姫神秋沙』。
そして茫然自失とする姫神に霧ヶ丘女学院のブレザーを羽織らせ傍らにいた『結標淡希』。
共に第七学区の避難所でボランティア活動に勤しんでいる女学生2人。
ガンッ!
黄泉川「…大した…戦果じゃん…!」
押さえきれず、振り上げた拳を欄干に叩き付ける。
命は軽く、死は重いものだと過去に味わった認識が今更ながら込み上げて来る。
犯人と思しき…昨夜も拿捕された『魔術師』なる容疑者はアンチスキルの旗印を掲げるフラッグポールによって串刺しにされていた。
結標『わからないわ。私達が保護を求めた時はもう、こうだったもの』
記録映像が全て浸水によってブラックアウトしていた以上、誰が手を下したかもわからない。
出来る事なら自分が犯人を捕らえ、然るべき場に引き立て法の裁きを与えてやりたかった。
せめてものの救いは…2人の学生が無事であった事。その一点だけがささやかな慰めであった。
黄泉川「…帰るじゃん…なあ――」
そうして黄泉川は大型特殊装甲車へと向かう。
保護された結標淡希と、姫神秋沙を乗せて避難所へと帰るべく――
~護送車内・結標&姫神+黄泉川~
結標「………………」
姫神「――――――」
黄泉川「やっと眠ったじゃん」
結標淡希と姫神秋沙は、鉄装綴里の運転する大型特殊装甲車にて護送されていた。
姫神は結標のブレザーをかけられながらその肩に寄りかかって眠っている。
極度の緊張と精神的な磨耗が姫神に眠りを必要とさせていた。
今までとはまるで逆の形ね、と結標は姫神を抱き寄せながら思った。
結標「ちょっとやそっとじゃ起きないわ。いえ、起きれないわね」
黄泉川「その通りじゃん。眠れるだけまだその子には“生きる力”があるじゃん」
姫神が起きないように互いに小声で会話を交わす。
精神的な蓄積疲労が折り重なれば人間は時に眠る事すら出来なくなる。
今、姫神が深い眠りを必要としているのは眠る事で少しでも精神的な負担を軽減させようとしている『本能』からに他ならない。
そして…傍らに結標がいなければ姫神は安心して眠る事も出来なかったろう。
結標「(…にしても、警備員が目の前にいるとやりにくくて仕方ないわ…あの時の電話の声が、よりによってこの女だっただなんて)」
『残骸』事件を通して互いに顔を知らぬとは言え奇妙な因縁だと思わざるを得ない。
月詠小萌には結標は空間移動能力者で、モノレール事件や今回の件はその力を駆使して逃げ回っていただけだとボカしておいた。
黄泉川にもそう伝わっているだろうが、どこまで見透かされどこから見逃されているのかはわからない。
黄泉川「…二日続けてまたぞろビックトラブルに巻き込まれてるのにずいぶん落ち着いてるじゃん?」
結標「(来たわね)いいえ。本当は怖くて恐くてたまらないわ。姫神さんがいてくれるから気を張っていられるだけで、私一人だったら震えて腰が抜けてるわ」
少ししゃべり過ぎたか?と思いつつさりげなく黄泉川から視線をずらして姫神の寝顔を見やる。
疲れ切った様子で、顔色も朝より悪い。無理もないと結標は思った。
結標「先生だって怖くない?私は恐いわ。能力者って言うだけで訳のわからない連中に追い回されて逃げ回っていただけ…先生はどうして警備員になったの?」
出来るだけ一般的な女学生のように振る舞いつつ矛先を逸らせる。
やはりこう言った口先は土御門に比べればまだまだだと思う。饒舌過ぎる。
だが証拠は一つも残していない。いらぬ疑いを持ち続けられるのは後味が悪い。そう思いながら。
黄泉川「守りたいものがあるからじゃん」
結標「守りたいもの?」
黄泉川「そうじゃん」
一言。そのたった一言にどれだけの思いが乗せられているかは黄泉川愛穂と言う人間を知らない結標には伝わり切らない。
しかしそれが確固たる信念に基づいている事だけは伝わって来た。
結標「(…守りたいもの…)」
自分はどうしたいのだろうかと結標は思う。たかが出会って六日。
情が移るには充分で、命を懸けるには不足で、恋に落ちるには早過ぎる時間。
しかし結標はもう自覚してしまった。目覚めてしまった。
結標「(女の子だから好きになったんじゃないわね…きっとこの娘だから、私はこんなにも放っておけないのよ)」
初めて出会った時は変わった子だと思った。
一日目には図々しくて図太い子、二日目にはウマの合う子、三日目には笑顔の綺麗な子、四日目には優しい子、五日目には大切な子…そして今は――六日目は愛しい子。
一週間と持たず陥落させられてしまった気がする。あの中庭でのキスから始まった気がする。
我ながら自分がこんなに単純な人間だと思わなかった。姫神の少女趣味を笑えない。
それは暗部から開放され、仲間達を解放させられたタイミングもあったのかも知れない。
心寂しく人淋しい、いきなり等身大の自分と向き合わさたからかも知れない。
一目しか見ていない微笑みが美しくて、二回しか食べていないご飯が美味しくて、三度交わしたキスがあたたかくて…
天然でいながらしたたかで、年下でありながら抜け目なく、言葉で弄んで手指で戯れて…どれか一つが原因とも言えないし全てが要因とも言えない。
ただ、決定的だったのは…あの屍山血河の中で見せた、初めて見せた姫神秋沙の虚ろな素顔。そして見えない涙。それを見た時結標は思った。この子を守りたいと。
結標「(貴女達ほどご大層なものではないけれど、ほんの少しだけわかるわ。今なら)」
全てを失ったような、何も残っていないような姫神の背中を見せられた時…結標はその身体を抱き締めた。
これが友情なのか愛情なのか、人間として好きなのかはたまた母性なのかも未分化な感情、衝動、そして本能。
結標「(私はきっと、この娘を一人にしたくないんでしょうね)」
どれほどの地獄を心に宿せば、これほどまでに虚ろな感情の極北を瞳に宿せるのか…それを思うと、抱き寄せずにはいられなかったのだ。
黄泉川「………………」
そして黄泉川はそんな2人を見やると…ゆっくり目を瞑った。
黄泉川「(これが)」
同僚達を失った悲しみも、やり場のない魔術師への怒りも、結標への疑いも全てを飲み込んで――1つも表に出さなかった。
黄泉川「(私の)」
ただの一言も、ただの一度もなく…伸ばした背筋に全てを背負って。
黄泉川「(仕事じゃん)」
連れて帰らねばならない。生き残った命と、散って行った同僚達の魂を。
一人残らず、一人漏らさず、一人欠けさせず…連れて帰らねばならない。
黄泉川「(これが――私の仕事じゃん)」
それが自分の仕事だと――黄泉川愛穂は装甲車の小窓から差し込む光を受けた。
~第七学区・全学連復興支援委員会~
雲川「無事保護されたみたいなんだけど。今こっちに向かってるって」
小萌「よっ、良かったのです…!良かったのですよぉ…うえええぇぇぇん」
ステイル「(退けたと言うのか。魔術師二人を相手取って)」
結標・姫神両名が黄泉川に保護されたと言う報に月詠小萌は泣きじゃくった。
今朝から生きた心地がしなかった緊張から解かれたためか溢れる涙は留める術を持たない。
避難所のテント内の空気が弛緩する。しかしステイル=マグヌスの表情は硬い。
ステイル「思ったより早く君の“出番”が回って来そうじゃないかオリアナ=トムソン」
オリアナ「そうかも知れないわえ?着いて一日でこんなに状況が悪化してるだなんてさすがに経験豊富なお姉さんでもなかなかね…頑張り過ぎちゃってダウンしちゃいそう」
ステイル「卑猥な物言いを織り交ぜないと会話も成り立たないのか!!」
テント内のパイプ椅子に身を投げ出しながらオリアナ=トムソンは伸びていた。
今朝からずっとグノーシズム(異端宗派)の本拠地の逆探知の魔術を繰り返していたが一向に埒が開かない。
敵は十字教最初期から存在し今日まで生き長らえて来た異端宗派である。その足取りを掴ませない結界魔術に秀でている可能性は高い。
ステイル「(せめてもの救いは神の右席、隻眼のオティヌス、北欧玉座のオッレルス、アウレオルス=イザード級の魔術師が見当たらない事くらいか)」
雲川「(思ったより面倒臭そうなんだけど。まあ、刺激があるから人生は楽しいんだけど)」
そんなステイルを泣きじゃくる小萌の傍らにいながら見やった雲川芹亜は胸中で独り言ちた。
同時に手を打っておいて良かったとも思う。『水先案内人』としてのオリアナ=トムソンを。
それは学園都市内での『水先案内人』などではない。彼女に求められる役割は――
~悪夢~
姫神秋沙は悪夢を見ていた。
生まれ育った村落が全滅した時の悪夢を。
自ら手掛かりを求め三沢塾に監禁されていた時の悪夢を。
悪夢を見る事は、精神の安定と調整をはかるための自己防衛機能だと聞いた。その根幹を為す物は罪悪感の発露であるとも。
走馬灯のように現れては過ぎ行く記憶。走馬灯は死に際し、これまでの人生の中で『生きる術』を探すべく辞書を紐解くような行為に似ているとも。
姫神「んっ…」
血と肉と骨で彩られ象られた赤の記憶すら、雪と灰の空白の白に塗り潰されて行く。
失われた人間の命、喪われた吸血鬼の魂、背負った罪、背負わされた死に、何度潰されかけただろう。しかし姫神秋沙と言う人間は潰れなかった。何故ならば
心が半ば死に絶えていたから。死人は二度死を迎える事は出来ない。
それでも自分は食事を採り、睡眠を取り、学校に通い、生活を営む。
吸血殺し(ディープブラッド)の力を打ち消す、それだけのために歩く死人のようになってまで。
姫神「ううっ」
誰に祈れば良い。それは全てを見通しながら何一つ手を差し伸べてくれない神か?姫神のために命を落とした全ての人々か?それとも抗う事も逃れる事も許さない運命にか?
贖罪も天罰も下してくれない無慈悲な空。迷えど迷えど手を引く者などいない――ずっとそう思って来た。
上条当麻と出会ってから。
上条当麻と別れてから。
――そして――
結標『私と一緒に来るなら、この手を掴んで』
――結標淡希と出会ってから――
~悪夢2~
不意に蘇る結標の声音。駄目だ。もうそれすらしてはいけない。考えてはならない。
その差し伸べられた手すら、姫神の中に流れる血は許しはしない。このねじくれ曲がった運命が赦しはない。
地獄の底まで連れて行きたくなどない。出会ってしまったから。知り合ってしまったから。だから結標の手を再び取る事なんて――
結標『イエスなら優しく連れて行く。ノーなら乱暴にさらって行く。選んで。好きな方を』
しかし――夢の中の自分(ひめがみあいさ)が、現実の姫神秋沙(じぶん)が結標の手を取ったのを幻視する。
思えば貴女は最初からそうだった。住処を失った野良猫のような私を家に連れ帰った。
何も出来ない私にご飯と、寝床と、それ以外の様々なものを私に与えてくれた。
一緒にボランティアにもなってくれた。弱い所も汚い所も見せてくれた。
命懸けで戦い、二度も救い、二回も守ってくれた。
これをどうやって返して行けば良いのかわからない。
私には何もない。この忌まわしく呪わしい血以外には何もない。だから――
姫神「貴女に求められたら。私はきっと。拒めない――」
私が求めたように貴女に求められたら、拒絶する事が出来なくなるかも知れない。
この血に塗れた身体を差し出してしまうかも知れない。この穢れきった肢体を捧げてしまうかも知れない。
だからお願い。夢の中にまで出て来ないで。これ以上私を惑わさないで。
――結標淡希(あなた)を、私の悪夢(ゆめ)の一部にしたくないから――
~とある高校・保健室~
姫神「………………」
14:19分。姫神秋沙は保健室のベッドの上にいた。
第十五学区での戦闘の後、混濁した意識を支えきれず昏睡のように眠りに落ちた後、運び込まれて来たのだ。
記憶があるのは結標のブレザーを羽織らされ、その腕に抱かれてへたり込んでしまった所まで。
姫神「…悪夢(ゆめ)…」
避難所にあって清潔なシーツと寝具の上にて身体を起こす。
服が着替えさせているのがわかった。それは姫神の通う高校の体操服だったから。
結標「お目覚めかしら?」
そしてずっと傍らに付き添っていてくれたのか、揺れる赤髪の二つ結びの少女…結標淡希の声音が響き渡った。
たった今まで夢にまで見ていた少女が目覚めたばかりの視界にいる事が、ひどく居心地悪く姫神には思えた。
姫神「結標さん…」
結標「まだ寝てたら?さっきよりマシだけれど、そんなに顔色良くないわよ」
姫神「もう。大丈夫」
姫神はベッドの上に手をついてもぞもぞと足を引き寄せる。
ダメだ。自分の顔色が今どんなものかわからないがきっとひどい顔をしているに違いない。
最悪の寝覚めで最低の寝起きだ。顔の一つも洗いたくなる。
姫神「………………」バシャバシャ
鏡を見る。ひどい顔だと自分でも思う。眠ったはずなのに朝にはなかった目元の黒ずみ。
肌を叩く水、冷え切った心、凍り付いた感情。
何かを言おうとして言葉にならない。何かを考えようとして思考にならない。
そんな自分を心配するような結標の顔が鏡越しに見えた。
姫神「ずっと。側にいてくれたの」
結標「そうね。ずっとと言っても一時間くらいよ。寝てる所悪かったけど、服は変えせてもらったわ。あのままじゃきっと風邪を引いてしまっていたでしょうから」
『ありがとう』の一言が、『ごめんなさい』の一声が出て来ない。
それどころか、結標の言葉を、声音を、今どこか疎ましく思っている自分がいる。
目を見れない。顔を合わせられない。声をかけられない。
結標「…十字架には触ってないから安心して…」
姫神「…ッ。」
結標「貴女の大切なものなんでしょう?この前は、ごめんなさいね」
思わず歯噛みしたくなる。唇を噛んでしまう。
吸血殺し(ディープブラッド)を封印するための加護の十字架。
しかしあんな悪夢を見せつけられた後では、それが姫神の背負った十字架であるようにすら感じられる。
見当違いの被害妄想と、血迷った被害者意識が脳裏を過ぎる。
姫神「いい。私も。あの時イライラしていた。貴女に。八つ当たりしてしまって」
結標「もういいわ。わかってるから」
胸中が切迫している、心中が圧迫している、精神が逼迫している。
出しっ放しの蛇口を締める。置かれたタオルで顔を拭う。
ちっともサッパリしない。少しもスッキリしない。そんな気分。
結標「――今もそうなんじゃないかしら?あの時と同じ目をしてるわよ、貴女」
姫神「そんな事。ない」
思わずキッと鏡越しから肩越しに結標を振り返る。
冷静な話し方が、まるで自分を責めているように感じられて。
しかし結標は両腕を胸の下で支えるよう組みながらこちらを見やっていた。
結標「ベッドに戻って。姫神さん」
姫神「いい。私はもう。大丈夫だと言ったはず」
結標「貴女の様子を見て大丈夫だなんて思える奴がいたらそいつは眼科に罹った方が良いわね」
姫神「なら。貴女が診てもらえば良い」
結標「悪態がつける程度には元気になったのね?なら――」スッ
その時、結標が軍用懐中電灯を指揮者がタクトを振るうように払ったかと思えば――
ボフンッ!
姫神「!?」
結標「遠慮なしね」
いきなりベッドの上に放り出された。それが結標の『座標移動』の仕業だと、姫神は少し経ってから気付いた。
姫神「…何を。するの」
結標「貴女が私の言う事を聞かないからよ。眼科より耳鼻科に罹りたい?」
姫神「どうして。私に構うの」
自分でも不機嫌さが滲み出た剣呑な声音が出たと思った。
しかしこちらを見下ろして来る結標はどこ吹く風とばかりに平然と、悪びれた風も無く言った。
結標「どうして?ハッ。貴女いま自分がどれだけ酷い顔してるかまだわからない?――まるで使い古しのボロ雑巾よ?」
姫神「…五月蝿い。少し黙って」
結標「…あんなに苦しそうにうなされて、辛そうなうわごと聞かされて、はいそうですかって出歩かせると思う?」
姫神「…貴女に。私の何がわかるの」
結標「じゃあ貴女は私の何を知ってるの?」
姫神「…中庭の。仕返しのつもり?」
結標「…知らないわよね。だって私達お互いの事何も知らないんですもの」
ギシッと結標が片手片足をベッドに乗せて来た。仰向けに倒された姫神を見下ろすように。
結標「――吸血殺し(ディープブラッド)ってなに?――」
姫神「!!!」
結標「それが貴女の能力?それが貴女が追われる原因?」
姫神「………………」
結標「大事な時にだんまりされるのは好きじゃないの。答えて」
結標が姫神の手に自分の手を重ね、指を絡めて押さえつける。
逃がすまいとするように。見下ろしてくる眼差しは――
結標「――訳もわからないまま命を張り続けるだなんてもう私には出来ないのよ!!」
姫神「…!」
零れ落ちそうな涙を必死に落とすまいとしながら…叫ぶような悲痛な声だった。
ギュッと姫神の手にかかる握りの力に強さが加わる。
振り解こうにも振り解けない、痛いくらいの力だった。
~保健室・結標淡希~
分岐路を、分岐点を、分水嶺を、一足跳びに超えてしまった。
もう後戻りは出来ない、そう結標淡希は思った。だが後悔はなかった。
結標「こんな傷ついてる貴女を見て!あんなイカレた連中を見て!そんな見てるだけしか出来ない自分がもう嫌なのよ私は!!」
姫神の立つ彼岸、結標の立つ此岸、二人の間に隔たる不帰の河(ルビコンの川)。
足踏みしていた。手を拱いていた。口に出せずにいた。目を背けていた。だがしかし
結標「私はそんなに頼りない?見損ないで!見下さないで!見くびらないで!ちゃんと私を見てよ!!」
結標がいなければ既に二度、姫神はこの場にいなかった。
姫神にも抱えた理由が、背負った事情がある事くらいわかっている。
わかっているから――あえて結標は切り込んだ。
姫神「違う。違う…そうじゃない。私は。貴女に――」
結標「傷ついて欲しくない、巻き込みたくない、戦わせたくない…だなんて言うつもり?」
姫神「――わかって。いるなら…!」
結標「わかりたくもないわ!!!」
ギリッと姫神の手を押さえつける。姫神の顔が痛苦に歪む。
しかし結標は離さない。爪痕を刻もうが、手形を残そうが――絶対に離さない。
結標「戦う事より、傷つく事より、死ぬ事より――私が恐ろしいのは…貴女よ姫神さん」
手を離せば姫神は消える。自分達にこれ以上危害を加えさせないために敵に投降するかも知れない。
能力を悪用され吸血鬼達をこれ以上殺める事になるくらいなら自ら命を断つなりするだろう。
結標にはそこまで姫神が思い詰めているであろう事も知らない。わからない。
しかし姫神が――
結標「――貴女が消えてなくなるより怖いものなんてない!!!!!!」
姫神秋沙が消えてしまう事だけは、わかるから――
姫神「…ッ…!」
姫神が歯を食いしばる。
生半可な言葉で
中途半端な言い訳で
切り抜けられる場面でない事がわかるからこそ――
姫神「…元々。私がここ(学園都市)でどんな扱いをされていたか聞く?」
真実を語るのに感情はいらない。
姫神秋沙は表情の全てを白紙に変える。
姫神「何のためにこんな十字架を肌身離さず身に付けているのかとか」
事実を語るのに感情はいらない。
姫神秋沙は瞳の色全てを黒く塗り潰す。
姫神「きっと貴女は――耐えられない」
現実を語るのに感情はいらない。
姫神秋沙は記憶の中の真紅を見据える。
姫神「私は 」
~保健室・姫神秋沙~
結標「………………」
姫神「これが。私の全て」
姫神秋沙は語った。生まれ育った山村で起きた惨劇を。
それが自らの体内に流れる血…『吸血殺し』が引き起こした絶望を。
それを打ち消すために学園都市を、霧ヶ丘女学院を、三沢塾を、各地を転々としながら巻き起こした災禍を。
姫神「貴女が。私を守ってくれた事は。嬉しかった。これは本当」
だからこそ…姫神はもう誰も殺したくなかった。
もうこれ以上は耐えられない。自分の中に流れる血が招く『死』に誰かが命を落とす事が。
姫神「だから。もう。――私を助けようと。救おうとしないで」
それが『人間』であろうと、『吸血鬼』であろうと、『結標淡希』であろうと…
最後に迎える『死』は、他ならぬ『姫神秋沙』で終わりにしたいから。
姫神「貴女を――貴女の死(いのち)を。私は――背負いたくない」
それが同居人(ともだち)だから。それは結標淡希(ともだち)だから。
大切だから手放す、愛しいから手離す。失いたくないからこそその手を取れない。
姫神「もう――貴女の手を。私は――私は。取る事が出来ない。だから。ここで――」
それがどれほどあたたかく、力強く、自分をさらってくれる手であろうと――
結標「ふざけないで…」
姫神「?!」
それまで自分の手を押さえつけていた結標の手の平が、手の指が小刻みに震えて…
ポタ…ポタと、真っ白になるまで噛み締めた唇から、血が滴り落ちるほど食いしばって…
結標「――次は、私の番ね?――」
真っ直ぐ、姫神を見下ろした。
~保健室・結標淡希2~
衝撃だった。
自慢するつもりひけらかすつもりがないが、自分だって裏の世界の人間で、そこを生きて来たつもりだった。
人を傷つけた事、殺めた事、地獄の閻魔が呆れ果て、地獄の魔王が苦笑いするような連中のいる闇の世界の住人の一人のつもりだった。
でもこれは違う。そんな次元の話ではない。人間が恐ろしくなる。姫神秋沙という人間が怖くなる。
結標「(こんなになっても、人間はまだ生きていられるというの?)」
こんな絶望を、こんな地獄を、こんな惨劇を味わって尚…『人間』は生きていける事に恐怖すら覚える。
自分なら耐えられない。命を断つという覚悟した姫神のようにすらなれない。
その前に心が壊れてしまう。自分が能力の有る無しに関わらず他人を傷つける『人間』だと思い知らされた時以上に。
結標「(この子は、ただ姫神秋沙として存在する事すら――許されていない)」
殺意を持たずとも、悪意を持たずとも、敵意を持たずとも自分に関わる有象無象の命全てを巻き込む能力など…
姫神秋沙(じぶん)が自分(ひめがみあいさ)として生きている限り続く生き地獄だ。
結標「(何が表の世界の人間よ…なにが…なにが)」
思い知らされる。姫神が何故自分を拒むのかを。
どれほどの重い荷を背負って、それでも生きて来たのかを。
結標「(なにが…なにが!)」
思い知らされる。自分に姫神を救う言葉など持てるはずがないと。
他人に預ける事はおろか、自分で下ろす事すら出来ない荷の重さを。
――しかし――
結標「ふざけないで…!」
――結標淡希は語った。暗部(じぶん)の事を――
~保健室・結標&姫神~
姫神「………………」
姫神秋沙は愕然としていた。
結標淡希の口から語られた、結標淡希の真実を。
この学園都市(まち)で陽の当たる場所を歩く自分達と似て非なる…
街の影で
街の闇で
絶対に勝てないゲームに挑んでいた事を。
姫神「(だから。血の匂いが)」
同時に得心も言った。あの身のこなし、あの目の配り、越えて来た修羅場鉄火場の数、潜り抜けて来た激戦と死線。
自分と一つ違いの少女が生きて来たもう一つの世界。
自分のいる世界が表なら、少女のいる世界は裏。
合わせて一枚のコインの世界を生きてきた――姫神秋沙(表)と結標淡希(裏)
結標「…わかった?姫神さん…私はね――」
そこで結標は…ソッと姫神に跨りながらその滑らかな頬を、艶やかな黒髪ごと添えて…
触れて…
撫でて…
愛でて…
慈しんで…
結標「貴 女 と 不 幸 自 慢 し あ う つ も り は な い の よ」
~保健室・二人~
姫神「――――――」
思わず、姫神は目を見開く。しかし、結標はいつもと変わらぬ風にその二つ結びを払い、言った。
結標「貴女と傷の舐め合いをするならそれも悪くないわ。けれどね――私は、貴女を見捨てるつもりは毛頭ないの。貴女がどんな過去を持っていたってね――」
その両手で姫神の両頬を挟んで顔を寄せる。目を逸らせる事はおろか瞬きすら許さないとでも言うように。
姫神はそれに抗えない。逆らえない。言い返せない。はねのけられない。
結標「それが貴女の現在(いのち)を!!貴女の未来(いま)を!!否定し(あきらめ)て良い理由になんかならない!!!」
姫神「…貴女。何を。言って」
窓辺から初夏の涼風が吹き込み、保健室のカーテンを、姫神の黒髪を、結標の赤髪を揺らして行く。
ただ結標の手だけが姫神を離さない。この風に姫神が消えてしまわぬよう、さらわれてしまわぬよう。
結標「滅茶苦茶な事言ってるのはわかってるわ。私は貴女を言葉で救えるだなんて思い上がってもいないし、私も貴女の背負っているものを軽く見ているつもりもない…けれどね」
これを乗り越えねば見えてこない。こんなに人間としての心を、無慈悲な神(うんめい)にボロボロにされながらも…
それでも尚、結標を巻き込み(殺し)たくない少女の、本当の姿が。
結標「それが姫神秋沙(あなた)の全てなんかじゃない!それが私が貴女を見捨てる理由になんてならない!!!」
流した血の量と、背負った死の数だけで、姫神と自分を比べたくなかった。
見捨てられない、見離せない。見つめたいから、見据えたいから。
どんなに絶望的な世界でも、助けに来てくれる英雄(ヒーロー)のいない世界でも。
無様でも、無惨でも、無理矢理でも、無茶苦茶でも――
結標「貴女がさらわれたら、貴女が自分で自分の命を断ってしまったら――私は貴女と同じになるのよ!?私が貴女を守れなくても!見捨てても!私は一生悔やむ!一生自分を呪って生きる!!今の貴女のように!!!」
なだめてでも、透かしてでも、極論でも、暴論でも、感情論でも、何でもいい。
結標「貴女のいない世界(へや)で…ずっと一人で生きていく(くらしていく)のは…嫌なのよ…!」
血に塗れた身体(ひめがみ)を、血の河(かえらずのかわ)を越えて、血に汚れた手でも良いから掴みたい。
結標「――言ってよ!!!助かりたいって!救われたいって!生きたいって!死にたくないって!一度で良いから!自分の言葉で叫んでよ!!!」
一人で地獄(敵の手)になんて堕とさせない。
生きて掴みたい。生を、光を、明日を、希望を掴みたい。
この世界にまだ…姫神秋沙の世界にはまだ救いがあると――
結標「言ってよ―――秋沙!!!!!!」
~保健室~
姫神「――どうして――」
姫神秋沙の声はひび割れていた。軋んでいた。震えていた。
あれだけ救いのない自分の中の真実を語り、事実を告げ、現実を諭して尚…
今はもういないあの少年(上条当麻)のように。
血を吐きながら泣き叫ぶようにこちらを見下ろしてくる少女(結標淡希)に。
姫神「――貴女は――」
窓の外には入道雲、積み上げられた瓦礫の山、鳴き出し始めた蝉の声。
目の前には風に揺れる赤い二つ結び、怜悧な美貌をクシャクシャにして、涙声で震える結標淡希。
姫神「――私に――」
避難所の人々の声、ボランティアの人々の声、学生達の声、教師達の声。
そんな世界の中の、小さな結標淡希と姫神秋沙の世界。
姫神「――そこまでしてくれるの――」
それは脆く、儚く、淡い、夏の幻想のはずだったはずだ。
この世界に救いなんてない。私達に救いなんてない。この世界は私達に優しくなんて―――
結標「貴女が――好きだからよ」
~秋沙と淡希~
お似合いだと思った。血に塗れたと姫神、血に汚れた自分とが。
いつか二人で話したスタンダールの『赤と黒』を思い出す。
血(赤)に染まった過去を持つ姫神。
暗部(黒)に染まった過去を持つ結標。
赤(血)と黒(死)の交わりに救いなんてない。
それが呪わしく思える自分がいる。
自分が男だったならこれは王子様(ヒーロー)とお姫様(ヒロイン)の切ない恋愛劇だったろう。でも違う…違うのだ。
ここにあるのは血に染まったボロ雑巾(ひめがみ)と
泥に塗れたボロ雑巾(むすじめ)の傷の舐め合い。
『太陽』を意味する姫神は何一つ闇を照らせず
『道標』を意味する結標はその標(しるべ)を闇の中に見出せずにいた。
姫神秋沙は思う。この世界にヒーロー(上条当麻)はいないと。
結標淡希は想う。この世界にヒーロー(救い手)などいないと。
―――それでも―――
結標「貴女が――好きだからよ。秋沙」
~秋沙と淡希2~
友達だって、言ったじゃない。
いつか別れる『恋人』じゃなくて。
ずっといられる『友達』だって。
――私達、『友達』だって――
結標「答えて。私はもう後戻りを捨てたの…貴女が答えてやっとイーブンよ、秋沙」
やめて、そんなに真っ直ぐな目で見るのはやめて。
逸らした目線を許さないように、『秋沙』と名前で耳に呼び掛けないで。
右を向いても、左を向いても、淡希(あなた)から逃げられる気がしないから――
結標「私はね秋沙…誰でも彼でも助けようだなんて出来ると思ってもいないし、善意だけで人を救えるヒーローになったつもりもないわ」
シーツと私達の擦れる音、カーテンが風にはためく音。
保健室の消毒液の匂い、結標さんがつけているクロエの香り。
窓辺から射し込む光が、私達に落とす影を深くする。
結標「ただの友達だなんて替えの利く物、あんな風に身体を張ってまで守れはしないわ。貴女、まさか私が優しい人間だなんて思ってた?私が、善意だけで人に手を差し伸べるような、そんなお綺麗な人間に見えでもしたかしら?」
偽悪的な笑みが張り付いた、形良く瑞々しい唇。皮肉っぽく歪められている頬すら様になって見える。
結標さんの手が一房、私の髪をすくい上げてサラサラと流して行く。その手触りを確かめるように。
女にとって、同じ女に自分の髪をこんな風に触られるのは男同士で肩をぶつけられるのと同じ。なのに。
結標「――逆よ、秋沙――」
ギシッと、私の脚の間に結標さんの膝が置かれた。
顔の側に手を突かれた。見下ろされる。もう逃げられない。いや違う。
身体が、手足が、意識が、女としての本能が――私から逃げようとする力を奪う。
結標「下心の一つもなく、ボランティア(無償の愛)で貴女の側にいられるほど私の手は綺麗じゃないの」
クロエの甘い香りが下りて来る。血を想わせる赤髪の二つ結びが触れる。
拒まなくてはいけない。受け入れてはいけない。
跳ね付けて、跳ね除けて、跳ね起きなければいけないのに――
結標「――好きよ、秋沙――」
見入ってしまったから。魅入ってしまったから。
逆らう気力が湧かないほどに、抗う言葉の行方を見失うほどに。
―ただ、結標淡希(あなた)が綺麗だったから―
~秋沙と淡希3~
わかってる。恋だ愛だで救われるほど、私達の背負っているものは軽くないと。
わかってる。何か一つ歯車が狂えば止まってしまう時計が、新しい歯車を加えた所でその針を進める訳ではないと。
わかってる。こんな弱味に漬け込むような形で想いを告げるだなんて卑怯だって事くらい言われるまでもないと。
姫神「――どうして。私なの」
結標「おかしな事聞くわね――貴女だからよ」
綺麗なだけの手でこの娘が守れないなら、喜んで差し出そう。
この汚れた手で、血に濡れた手で、何度だって。差し伸べるから。
姫神「私達。女なのに?」
結標「私だってそっちの気なんてないわ。クローゼットの中身見たでしょう?」
素肌に絡むシーツ、脱ぎっぱなしの服、こうしていると、私の香りが移ってしまうわね。
姫神「――なら。どうして?」
結標「口数と一緒にボキャブラリーまで減っちゃった?こんな時に“どうして”ばっかり聞かないで」
全てを無くした貴女、何も持っていない私、お互いに持ち寄れるのは、お互いをあたためる事も出来ない低く冷たい体温だけ。
お似合いだわ。私の形に合わせて歪んでいる貴女、貴女の形に合わせて歪(ひず)んでいる私。
姫神「“なぜ”」
結標「貴女が、私にキスしたのと同じ理由――姫神秋沙(あなた)が貴女(ひめがみあいさ)だからよ」
姫神「答えに。なってない」
結標「頭で考えるものでもないでしょ?こういうの」
鍵の下ろされた扉、引かれたカーテン、こんな所を小萌に見られたら卒倒するわねと笑う私、こんな所を吹寄さんに見られたら気絶されると無表情の貴女。
姫神「淡希のくせに。生意気」
結標「貴女ね…私の方が年上なの忘れていないかしら?」
ねえ、私は貴女が好き。同時に思う。貴女は本物のサディストだって。
こんな時すら『好き』とすら言ってくれない貴女。嘘ですら『愛してる』とは言ってくれない貴女。
その一言で、私はいくらでも血を流せるのに。敵であろうと自分であろうと。安っぽく、誇らしげに。
きっと私はマゾヒストで、ナルシストで、ペシミストなんでしょうね。
自分ではもっとリアリストだと思っていたのに。
姫神「そんな顔も。出来るのね」
結標「…誰がそうさせてるのよ」
貴女は残酷(やさしい)ね秋沙。どうしてここまで言って、ここまでして、貴女に届かないの。
貴女を守りたいのは私なのに、まるで私が貴女に護られているみたいじゃない。
泣きたくなるじゃない。一番泣きたいのは貴女のはずなのに。
姫神「私以外の。誰にもそんな顔しないで」
結標「誰にでも尻尾振る犬みたいに言わないでくれない?」
姫神「そう。貴女は猫っぽい。人に懐かない野良猫」
結標「私を餌付けしたつもり?引っ掻くわよ」
姫神「石狩鍋も。猫っぽい貴女に合うと思ったから。骨の多い魚は。嫌いだと言っていたから」
わかってる。貴女の心に開いた冥い穴は、貴女自身が感情にも言葉にも表現出来ないほど大きい事が。
けれど、それほど大きな穴なら…私にも入り込む余地はあるかしら?
隙間を作っておくほど広くもない私の心に、いつしか貴女の居場所が生まれたように。
結標「猫は首輪じゃ繋げないわよ。束縛されるのが大嫌いなんだから」
姫神「餌付けもダメ。首輪もダメ。なら。なにならいいの」
サラサラの私の赤髪、ツヤツヤの貴女の黒髪。まとわりついてくすぐったくて、少し心地良い。
切ないくらい静かな初夏の昼下がりが、酷く耳について離れない。
結標「…一緒に寝てくれるだけでいいわ。貴女の側で、私の側で」
姫神「いい」
吊り橋効果という言葉がある。ハリウッド映画にありがちな、ピンチに陥った男女が危機的状況に覚える胸の高鳴りを恋だと錯覚するそれだ。
見る人間が見れば、今の私達だってそんなものだ。それに唾を飛ばして反論出来るほど私達は綺麗でもなんでもない。
それくらいの分別はつくし、それぐらいのわきまえはある。
結標「この先も、ずっと一緒にいて」
姫神「猫は。死期を悟ると姿を消すもの。違う?」
結標「…こんな時くらい、嘘ついてよ。秋沙」
でもそれは言葉だ。ここには運命(ロメオ)に見放されたロザラインと、運命(ロミオ)に見離されたジュリエットしかいない。
あの時、避難所の屋根から見上げた月にでも誓えば良かったと思わなくもない。
姫神「私も。貴女と。一緒にいたかった」
結標「…どうせつくならもっと上手く騙して。心がこもってない」
姫神「どうしたら。信じてくれる?」
結標「そうね…」
ねえ神様。そこで見てるなら聞いて。
貴方が助けてくれないなら、私が勝手にこの子を助ける。
貴方が救ってくれないなら、私が勝手に救われてやる。
貴方が守ってくれないなら、勝手に手出ししないで。だから
結標「…キスして…」
――だから最期の未来(バッドエンド)くらい、私達(じぶんたち)で選ばせて――
~姫神秋沙~
女の子同士でするキスは、傍目で見るほど当人達にとって特別な感慨を持たない。
あるとすれば、それは疑似恋愛の代償物か、男女の行為の代替品。
そしてそんな行為に耽る自分達の、マゾヒスティックな呪われた性を自分で嘲うようなそれ。
けれど、それも構わないかなと姫神秋沙は思った。
結標淡希は寂しさのジレンマから心の扉の鍵をかけ忘れた。自分はその中に転がり込んでしまった。
自分は過去のトラウマから心の扉の錠前を壊してしまった。結標淡希はその中に飛び込んできてしまった。
姫神「(まるで。鏡の迷宮)」
そこに見えるのに触れられない。何が実像(ほんとう)で何が鏡像(うそ)かもわからない。
地図も持たず、入口から間違え、出口すら見えない私達はまるで迷子のようだと思う。
姫神「(好きなだけで。いられたら良かったのに)」
この吸血殺し(ディープブラッド)がなければ。何度そう思っただろう。
歪みとは、目に見えた形ばかりに現れるものでもないとも思い知らされた。
手に、額に、頬に、瞼に、首に、唇に、キスを落とす度に思う。
この壊れてしまった学園都市(せかい)で、壊れてしまった学校で、保健室で、締め切ったカーテンの中でこうしている自分。
暗がりに逃げ込む事すら出来ずに、夏の青空が広がる中で、退廃的な傷の舐め合いをしている自分達が酷く自虐趣味に感じられて、自傷行為にも似たキスを繰り返している。
姫神「(私達って。救われない。けど)」
小萌から盗み飲みして、結標が偽造IDで買って来たビールを思い出す。
苦くて、不味いだけなのに酔ってしまう。恋愛すら、上条当麻への秘めた思いを一度抱いたきりなのに――
もう心中を間近に控えた男女の心待ちがわかってしまう自分が嫌になる。しかし――
姫神「(最期は。私が)」
この笑劇に、喜劇に、無言劇に、悲劇に、幕を下ろす。
終わらせる。バッドエンドが来る前に、自分の手で幕を下ろす。
――逃れ得ぬ死が、二人を分かつ前に――
~とある高校・保健室前~
リトヴィア『状況はよくわかりました。では私からイギリス清教に働きかけます。こちらは私に任せて。貴女は貴女の聖務を果たしていただいて結構ですので』
オリアナ「来日してたった一日でこれよー?流石のお姉さんもどぎまぎしちゃったわ。いきなりシャワールームに踏み込まれちゃったみたいに」
リトヴィア『卑猥な発言は控えて下さいオリアナ=トムソン。イギリス清教からも――』
オリアナ=トムソンは嘆息していた。能力者や原石の『水先案内人』を1日していてわかった事…
それはこの街が外部勢力から下着姿で寝室へ誘う女のように無防備である事。
そして『持ち出されて危険な原石』は三つ。
一つは『幻想殺し』の上条当麻。しかし彼は今現在行方不明であり、代理人たる雲川芹亜をして原石に含めるべきではないと言う事。
さらに彼と手合わせしたオリアナ自身がわかっている。彼ならば問題ない。
二つは『世界最高の原石』削板軍覇。彼の戦力は絶大かつ強大であり、戦力的に今現在のグノーシズム(異端宗派)では手に負えず手に余る事。アウレオルス=イザードが『死んだ』今、グノーシズムですらおいそれと手は出せない。
問題は三つ目…不老不死にして無尽蔵の力を秘めた『吸血鬼』を呼び寄せる姫神秋沙だ。彼女は他の二人と違って戦力がない。
加えて魔術サイドの禁忌もへったくれもない異端宗派が吸血鬼を利用すれば十字教に多大なダメージを与えかねない。戦力的に魔術サイドが虫の息の今ならば瓦解の可能性がある。
オリアナ「うう~ん…以前の事があるから顔を出せた義理じゃないけど、お姉さんもお仕事なのよね」
何とか魔術師二人から辛くも逃れたようだがそれすら時間の問題だろう。
ならば最も入手難易度が低く、かつ十字教に壊滅的ダメージを与える吸血鬼を呼び寄せる吸血殺し(ディープブラッド)を保護するにはどうするか?答えは一つだ。
コンコン
オリアナ「はぁい?しどけない寝姿を晒してないなら入っていいかしら?」
姫神「いい。もう開いてる。けれど静かに」
オリアナ「うふふ…それじゃあ失礼させてもらうわね?」
室内には体操着の姫神と、ベッドで眠り込んでいる結標…そこでオリアナはふと思う。
眠っているのは姫神秋沙ではなかったのかと。しかし――
オリアナ「お姉さん、大事なお話があるんだけれど…二人っきりで話せないかしら?(あら?この香りクロエ?)」
この時、オリアナの目は適度な余裕とゆとりを保っていながらも『運び屋』のそれだった。
姫神「わかった。表で」
その時、姫神の目は何かを『決意』したそれだった。
もう自分を血塗れにした相手に怯えていない。それは確かに『決意』だった。
奇しくも、その十数分後…互いの利益が一致した事を知らない
結標「…秋沙…」
結標淡希の無邪気な寝顔だけを残して――
~とある高校・全学連復興支援委員会詰め所~
カチンッ…パチン。カチンッ…パチン。
ステイル「(嗚呼…煙草が吸いたい)」
17:15分。ステイル=マグヌスはベースキャンプと化しているサーカステントの中でライオンハートのジッポーをいじっていた。
兎にも角にも口寂しいのである。しかし吸えない。スタンド灰皿が目の前にあるにも関わらずに、だ。
表面に刻印された“ハウル”が恨めしそうにステイルを睨んでいる。そして当のステイルはと言うと…
小萌「………………」キュッ
ステイル「(嗚呼…とても吸える雰囲気じゃない。ニコチンのない世界以上の地獄だ)」
唇を噛み締めスカートの裾を握り締めてパイプ椅子に座っている月詠小萌を見やって嘆息する。
『運び屋』オリアナ=トムソンが仮初めの『水先案内人』ではなく『本業』に乗り出してからこうだ。
無理からぬ話ではない、とステイルは推察する。
ステイル「(噛み煙草も切らしてるな…水煙草なんて持って来てすらいない…嗚呼、この灰皿の中の吸い殻に手を突っ込んでしまいそうだ)」
昨夜から今朝にかけての事件、オリアナの判断とステイルの決断、それを覆すだけの力が優秀ではあっても一教師である彼女にはないのだから。
それは彼女が無能だからでも無力だからでもない。これは『魔術サイド』の問題だからだ。
ステイル「(それにつけても…)」チラッ
削板「ふんならばあああぁぁぁ!!さあ運ぶぞ!武士は食わねど根性だ!だが補給と情報を蔑ろにするヤツに戦は出来ん!行くぞおおおぉぉぉ!!」
雲川「前に言ってた三点バーストマグナムまだ持ってない?あのバカ大将を撃ってやりたいんだけど」
服部「ありゃダメだ痛がるだけで効かねえ。それに机に座ってあれこれ指示を出すのに向いてない。あんたがリーダー張れば良かったんじゃねえのか?」
雲川「私、黒幕でいたいんだけど」
避難所に運び込まれてくる、食材の入ったドラム缶をブルドーザーのように次々と運び込んでくる削板軍覇。
それを復興支援委員会副委員長席で冗談に聞こえない声音で睨む雲川芹亜。
呆れ顔でそれを見やりながらも米俵を両肩に抱えてついて行く服部半蔵の姿が見えた。
ステイル「そろそろ夕食だ。並びにいかなくていいのかい?」
小萌「…姫神ちゃん達がどうなるか、それを聞いてから先生は行くのですよー!」
前半はやや重いトーンであったが、尻上がり気味にテンションを上げてステイルを振り返る小萌。
その様子にステイルは僅かな安堵と微かな心痛を覚える。
身長こそ小萌が二人分でステイル一人分だが、年齢はステイル二人分で小萌一人分である。
ステイル「それは構わないんだが…はたして彼女が貴女の分まで残してくれるかな?」チラッ
禁書「離して!離すんだよ短髪!今日はトルコライスなんだよ!この匂いはもはや暴力かも!」ダッ
御坂「その短髪って言うのやめてよね!ってなにフライングしてんのよ順番守りなさいよゴラアアアァァァ!!!」バッ
寮監「列を乱すな馬鹿者共!!」ゴキャッ
御坂妹『そこの女生徒、キリキリ千切りに勤しんで下さい、とミサカは働かざる者食うべからずの精神でアナウンスします』キーン
言わずと知れた食欲魔人インデックスと、それを止めようとして吶喊して行く御坂美琴、更に二人を軽く捻る寮監、そして放送席の窓からスピーカー片手に呼び掛ける御坂妹。
その声音の行く末は今や戦争さながらの調理場と炊事場である――
フレンダ「結局、千切りとみじん切りの違いってなんな訳よ!?うあっ痛っ!」
絹旗「口より超手動かして下さいフレンダ!あがぁぁ手首が!肘が超痛いです!」
滝壺「大丈夫。わたしはそんなキャベツも刻めないふれんだときぬはたを応援している」トントントントン
麦野「使えないわねーアンタ達。滝壺を見習いなさい。ってアンタ身体大丈夫なの?今日もだったんでしょ」タンタンタンタン
滝壺「ありがとうむぎの。もう“体晶”を使わなくもいいから大丈夫。仕事も観測だけだから第六位にばとんたっち」ザザー
麦野「…そ。ってそこの二人ー。伸びてたらアンタら刻むよ。嫌なら働きな」ギランッ
フレンダ・絹旗「(超)なんな(訳)よそのキャベツの山盛り!!?」
麦野・滝壺「旦那持ち(待ち)を舐めんな(ないで)」
『アイテム』勢である。指を切ったフレンダ、腱鞘炎状態の絹旗最愛の16倍の速度で32倍のキャベツを刻みながらも手を休めない麦野沈利と滝壺理后。
料理スキルまでレベル5かと一緒に落ち込む二人の脇を――
佐天「お、重い~」
初春「さ、佐天さん!そっちもう少し上げて下さーい!」
学生A「お、おれ持つよ!」
学生B「いやオレが!!」
学生C「いやいや俺が!!!」
学生A・B「「どうぞどうぞ」」
学生C「えっ!?」
介旅「ああ…」
工山「うう…」
スキルアウトA「なにやってんだアイツら…キャッキャウフフしやがって」
スキルアウトB「…俺らもあんなのしたかったよな…ボーイミーツガール」
スキルアウトC「言うなよ…悲しくなるから…はあっ」
郭「コラー!」
スキルアウトABC「「「げえっ、郭!!!」」」
吹寄「つまみ食いは禁止だと言ったろう!待ちなさい!コラ!待て!!」
青髪「(第八位が丸投げするからこの時間までオマンマ食い上げなんて言えるかいな!僕お腹空いてんねんてホンマに!)」
絶対等速「ムショから出たと思えば…ううっ、シャバの飯があったかくて美味ぇ」
配膳から料飲へ駆け回る学生達。学生もスキルアウトも刑務所帰りも囲む卓も食べる物も同じである。
同時に、夕餉にありつく者もいれば、その影でその場を守っている者達も――
黄泉川「わかったじゃん。そういう事なら23学区まで警護につくじゃん…今朝の事もあるじゃん…」
手塩「私も、付こう。量は質に、質は量に、数の論理は、そのまま、当てはまる」
固法「今日はなんだか、動きがなさ過ぎて少し不気味だわ」
白井「…嵐の前の静けさ…ですの?」
警備員(アンチスキル)と風紀委員(ジャッジメント)である。
和やかかつ騒がしい夕餉とは対照的に、こちらはやや不穏な気配にピリピリした空気を醸し出しているのがわかる。
そして学園都市の“表”を守る者がいれば、同時に“裏”を担う者もいる。例えば――
垣根「今日の鼠捕りは何匹かかった?」
心理定規「0。私、鉄網、心理掌握(メンタルアウト)合わせてね。昨日は二人は紛れ込んでいたのにパッタリ」
垣根「…臭えな。ネズミがぶら下げたエサからケツまくるのは泥船から逃げる時か集団自殺(レミングス)の時くらいのもんだって決まってる。匂うぜ」
心理定規「貴方、また目が昔に戻ってるわよ?可愛い花飾りのお姫様の前じゃダメよそんな顔しちゃ」
垣根「五月蠅え。で、顔見せんのも恥ずかしがるシャイな女王様はなんつってた?」
心理定規「レベル5の仕事と、自分の派閥以外は興味がないって」
垣根「ハッ!同じ中坊でも飾利と違って可愛げがねえな。あ?もう中坊じゃねえのか?まあいい。あんなクソ女にマジでムカついても仕方ねえ、メシ食うぞメシ」
心理定規「食事の前にケツだのクソだの言わないで…ノワール小説の主人公みたいよ」
垣根「悪かねえがあんな品のないもんと一緒にすんじゃねえよ。どうせなら悪漢(ピカレスク)にしろ馬鹿野郎。…飾利ー!一緒にメシ食おうぜー!」
心理定規「(…心の距離どころか貴方と距離を置きたいわ…)」
避難所内の住民を装って侵入してきたスパイの心の中を見通し、炙り出して処刑するのは『スクール』。
避難所外の侵入者を始末する『アイテム』の分業体制である。群れを守るオスライオン(垣根帝督)と狩りに出るメスライオン(麦野沈利)の双璧という最終戦争前には有り得ない布陣だ。
心理掌握『………………』
『心理掌握』は現学園都市上層部の意向を受けた代理人でもある雲川芹亜に引っ張り込まれて来た。
望むと望まないに関わらず。そして行き場を無くした派閥の女生徒達の面倒を見るために。
フレンダ「結局、リタイアって訳よ!痛たたた!?もっと優しくして欲しい訳よ!」
芳川「自分に甘い子ね…それに私は元研究者であって医者じゃ…」
絹旗「超ドロップして来ました!元リーダー超おっかな…あああ超痛いです超痛いです超強く巻き過ぎです!」
木山「すまない。私は元科学者崩れのカウンセラーもどきであって医者では…(ふむ…また隈が広がってしまった…睡眠不足か…今日はここに泊まるか)」
冥土帰し「ふむ?今日は姫神君はおやすみのようだね?これくらいなら彼女の方が上手いんだがね?」
救護所に駆け込んで(逃げ込んで)きたフレンダ達を手当てするのは芳川桔梗。
彼女は以前からの知り合いと8月31日の事件が縁で冥土帰しの元で働いている。
木山春生も今は意識を取り戻した子供達の教師、『置き去り』の子供達の養母、この避難所では戦災後の学生達のカウンセラーとして各地を巡っている。
冥土帰しは魔術・科学サイド、第三勢力の関係なしに負傷者達を救った後も第七学区に残り医師として尽力している。
それはひとえに彼が患者のいる所ならば戦地でも向かうような性分もある。しかし
冥土帰し「(見えるかい旧き友よ?…人々の日々の営みが。君が作り、君が壊し、君が残したこの学園都市が――)」
最終戦争後、行方不明ながらも生存が確認されているのは『上条当麻』『一方通行』『浜面仕上』『××××××××』の四人。
フレンダ「結局、絹旗が現リーダーなんだからビシッと麦野に言ってやれば良い訳よ!元リーダーでちょっとキャベツが刻めるくらいでどや顔すんなって!」
絹旗「キャベツも刻めない現リーダーって超馬鹿にされるに決まってます…なんですかいっつもシャケ弁ばっかりなのにあの超理スキル…」
フレンダ「結局、旦那の帰りを待ちつつ大飯食らいを養ってるから必然的に腕も上がるって訳よ!」
絹旗「滝壺さんも浜面の帰り超待ってますもんね…あんなに可愛い彼女ほったらかして飛び出して行くとか超女心わかってないです!帰ってきたら超お仕置きです浜面」
フレンダ「…結局、前から思ってたんだけどアイテムって職場恋愛OKだったけ?そこんとこどういう訳よ現リーダー」
絹旗「元リーダーが寿退社みたいなもんじゃないですか!!超示しつきませんよ!!」ギャーギャー
だが生死不明となり、未だ遺体も目撃証言もない…冥土帰しと袂を分かった旧友であり、それでも見捨てられない患者の帰りを冥土帰しは待っている。
冥土帰し「(見えるかい?――アレイスター・クロウリー…)」
人々の営みの中を、静かに――待っているのだ。そして――
~とある高校・螺旋階段踊場~
“アウレオルス=イザード”
その名前は、もう思い出す事も少なくなってしまったけれど
それでも、私にとって決して忘れる事の出来ない名前。
私を救い出そうとした手で、私を葬り去ろうとした男。
私が手を結ぼうとした手で、私と手を切った男。
その名前が今、何故、どうして――目の前の女の人から口から出て来るのかわからなかった。最初は
オリアナ「お姉さんも、まさかこんなに貴女にラブコールが寄せられてるだなんて最初は思ってなかったの。けれど今は違うわ」
豪奢な金糸の髪を巻いた、同じ女としても敗北と嫉妬を覚える者もいるであろう曲線の持ち主はやや微苦笑を浮かべていた。
私では望むべくもない多彩な感情表現が、確かに異国の人間なのだなとその場に相応しくない感想を持ったりした。
オリアナ「貴女という果実に群がる悪~い虫から貴女を遠ざけなくてはいけないの。リンゴの収穫って知ってるかしら?虫や鳥を避けるために布をかぶせ、時に嵐から守るためにより分ける事も必要なのよ」
身振り手振りを交えながら流暢な日本語を話し、私に伝えようとする意図。
アウレオルスがかつて所属していたグノーシズム(異端宗派)なる一派が私を狙っている事。
この半壊した学園都市ではもう私を守り切れない事。
かつて私を血塗れにしたこの女性が『運び屋』である事――
オリアナ「貴女は甘~い蜜の滴る禁断の果実…彼等にとっての黄金の林檎…お姉さんのお仕事は、貴女というゴールデンアップルを安全地帯まで無事“運ぶ”事なの…花開いた貴女を誰にも手折られないように」
所々、淫猥な比喩や表現を織り交ぜて語られたその言葉の数々を私は吟味する。
運び屋、安全地帯、そして私。ここまで言われれば私にだってわかる。
姫神「私は。どこへ行けば良いの。貴女は。私をどこまで連れて行ってくれるの」
オリアナ「…イギリス、ロンドンよ…」
その女性は言った。私の吸血殺し(ディープブラッド)を封印するための十字架がイギリス清教の物であると。
大覇星祭の際の間違いと諍いの元になったというこの十字架…それを首から下げているという事はイギリス清教の保護を受けられるという事らしい。
オリアナ「お姉さんも噂でしか知らないけど、元ローマ正教のシスターはそうしてイギリス清教の加護を受けたそうよ?お姉さんの服の脱がせ方より強引な理屈ね…けど、それはこの際どうでも良いと思わない?」
女性は続ける。十字教の異端宗派がクーデターを起こすのには吸血鬼を呼び寄せる私の血が必要なのだと。
そうされる前に先手を打って私を保護・回収したいのだと。
勝手な理屈とも思った。保護された先で私がどんな扱いをされるだなんて誰にも保証出来ない。けれど。
姫神「わかった」
オリアナ「…お姉さん、あんまり物分かりよくスムーズに行くより少しくらい焦らされたり拒まれると思ったんだけど?」
姫神「もう。構わない。貴女が。敵だろうと味方だろうと。ここから連れ出してくれるなら」
渡りに船だと思った。捨て鉢でやけっぱちな気持ちもなくもなかった。
もう私は麻痺していた。だからこそ、かつてこの私を血塗れにした相手の言葉に唯々諾々と従った。
この女性が味方だと信じるも敵だと疑うもなかった。
多少、相手を軽んじるような発言をしてしまったけれど。
姫神「(――淡希――)」
その女性が言う。出発時刻、同伴するステイル=マグヌスという魔術師、小萌先生の名前で私は反応したけれど――
姫神「小萌先生には。会っていかない。泣いてしまうかも知れないから」
オリアナ「………………」
姫神「ただ。伝言だけ。伝えて欲しい」
私の頭の中は冷たく、胸は冷えていた。他人事の事務処理のように淡々と告げる。
自分の身の安全も、先行きも、絵空事のように聞き、話した。
現実感がまるでない。まるで抜け殻か操り人形のような私を、その女性は辛そうに見つめていた。
オリアナ「…最後に、お別れを告げたい人はいるかしら?しばらく日本に帰ってこれないでしょうから、お姉さん今夜中に出られさえすれば――」
姫神「…なら。一人だけ。最後に過ごしたい人がいる。でも。お別れはいわない。きっと。止めるだろうから」
思う。小萌先生とは違う、ただ1人の同居人の寝顔を。
命より先に死に絶えてしまった私の心は、彼女の元に置いて行きたい。
もう二度と、学園都市の土を踏めなくなっても良いように。
姫神「(ごめんなさい。淡希)」
荷物は置いて行く。身体一つで海を渡る。あの家に取りに帰る時間があれば、それだけ彼女と過ごす時間が薄まる。
とんとん拍子で進む摺り合わせと打ち合わせが、ひどく虚しく覚えた。そして
姫神「(もう。ご飯を作ってあげられない)」
安堵があった。私はもう淡希にご飯を作ってあげられない。
一緒に寝てあげる事も、キスしてあげる事も、何一つ出来なくなる。
だから、これは守られっぱなしだった私に出来る、たった一つの冴えたやり方。それが私の安堵。
姫神「(もう。一緒にいられない)」
このままだと、遅かれ早かれ淡希は私のために命を落とす。
手足を失うような取り返しのつかない怪我もするかも知れない。
しかし私が命を絶てば淡希の戦い全てを否定する。それを無駄にしないためには離れて生きれば良い。
もう十分だ。この一週間に満たない共同生活だけで、私は生きていける。たった一人でも。
姫神「(ありがとう。淡希)」
私は嘘をついた。ずっと一緒にいると、離れないと言ったのに。
けれど、あの時の気持ちは嘘じゃない。信じてもらえないだろうけど。
本当は、本当に、本心から――
オリアナ「…使ってちょうだい…せっかくの美人が台無しよ?」
そこで、その女性がハンカチを差し出して来た。
わかっている。けれど受け取れない。この頬を伝う物を拭ってしまいたくなかった。
受け取れば、置いて行く淡希でなく、離れて行く自分を慰めるような物だから―――
~螺旋階段踊場・オリアナ=トムソン~
オリアナ本来の仕事…それは吸血殺し(ディープブラッド)を英国まで護送する事。
人手不足のローマ正教から雇われ、手を結んだイギリス清教の勢力圏まで『運ぶ』事。
『水先案内人』は、学園都市の様子を見ながらもう少し脱出計画を練り上げるための仮初めの姿。
復興支援委員会に手渡したハザードマップはそのほんの一端。
これはオリアナの、ほんのささやかな善意であったが――
オリアナ「(お姉さんも人が悪くなっちゃったわあ…夜の駆け引きは嫌いじゃないけど、騙す悪女みたいにしちゃって)」
結果として、来日した翌日にはもう姫神を連れて帰国せねばならなくなってしまった。
モノレール襲撃事件、アンチスキルの1支部を壊滅させる手口からグノーシズム(異端宗派)にはなりふり構っていられない余裕の無さを感じ取ったが故である。
オリアナ「(イギリス清教の本拠地なら、どんなに必死にがっついても夜這いはかけられないわよ?乙女のカーテンは影は透けても分厚いものなの)」
必要悪の教会(ネセサリウス)本部ならば天草式十字凄教、アニェーゼ部隊、そして『聖人』神裂火織を初めとする腕利きの魔術師がごまんといる。
魔術に対する防衛知識も皆無に等しく、防衛機能もがた落ちしている現在の学園都市に匿うより何倍も安全だ。
オリアナ「(…お姉さんだって、これがエゴイズムと思わくもないけど)」
姫神をイギリス清教・ローマ正教が人手不足の中匿うのは慈善事業でも宗教的支援でもなんでもない。
小規模とは言えグノーシズム(異端宗派)に吸血鬼を呼ばれ、魔術的な軍事目的に使われてクーデターを起こされるのを未然に防ぐためだ。
だが、オリアナもその建て前(エゴイズム)を断罪するほど子供でもない。
どれだけ軽い物言いであろうと、彼女はプロなのだから。
オリアナ「(さーて…お姉さんのお仕事、始めさせてもらおうかしら?)」
まずはイギリス清教側のエージェントたるステイル=マグヌスとの打ち合わせだ。
ローマ正教はイギリス清教を、イギリス清教はローマ正教を、それぞれ手を結びながらも互いに監視を怠らない。
ステイルは協力者でもあるし同時にお目付役であり、ステイルからすればオリアナもそうだ。
オリアナ「(その前に…彼女の担任の先生にも伝えなくっちゃね。プラス、ラブメッセージ付きで)」
姫神秋沙には身寄りがない。それが国外に連れ出すにあたりこの際好都合だった。
月詠小萌は最後まで反対し続けたが、姫神と、生徒達と、避難所の人間の安全を引き合いに出して折れてもらった。
最後には童女のように姫神(せいと)の一人も守れない自分を嘆いていたが…
オリアナ「(…ごめんなさいね…)」
それは小萌が無力でも無能だからでも無知だからでもない。
魔術サイドという、住んでいる世界そのものの違いだからだ。
そう胸で呟きながら、オリアナ=トムソンは螺旋階段を下り姫神と別れた。
オリアナ「(長い夜になりそうねー…ふふっ、お姉さんも何かお腹に入れてこなくっちゃ)」
個人としての善なるオリアナがどれだけ少女の行方に胸を痛めても、『運び屋』のオリアナは冷静にプロとして動かなくてはならない。そう決めている。
――それこそがオリアナ=トムソンの中の、担うべき礎(ルール)なのだから――
【後編】に続く



雲川芹亜と削板軍覇の描写にニヨニヨしてしまった。
姫神秋沙、オリアナ=トムソン、ステイル=マグヌス、月詠小萌の絡み具合が絶妙。
アイテムの面々の絡みは読んでいて楽しい。
そして踏み出してしまった結標淡希と姫神秋沙との新たな繋がり。
続きが気になります。