数時間前、俺とアスナはある町の広場で合流した。
明日の未明、近くで発生するというイベントに備えるためだ。
同じ情報を聞きつけたらしいプレイヤーで、町はどこも混み合っている。
そこらの店に入って、明日の段取りを話すことにしていたが、内緒の話をするには都合が悪い。
「どうする? アスナ」
「ちょっと早いけどチェックインして、部屋で打ち合わせということにしましょう」
即断するアスナの横顔には優秀な将官らしい怜悧さが漂う。
彼女を敬慕するギルドのメンバーは自分の知らないアスナを見知っているのだろうか。
「じゃあ俺は先に、知合いの店に寄ってきていいか?」
「ええ。部屋をとっておくから、用件が済んだら連絡して」
元スレ
アスナ「アバターをエミュレートされた人体に置き換えるの」
http://hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1347535129/
宿屋へ着くと、ロビーでくつろいでいたアスナが案内してくれた。
「ここよ」
「ありがとう。アスナの部屋はどこなんだ?」
「……ここ」
「はあ!?」
「し、しょうがないでしょ! この部屋しか空いてなかったんだから!」
アスナは蹴飛ばしそうな勢いでドアを開けて入っていく。
「何してるの。早く入りなさいよ」
内装もしっかりしていて、ちょっと良い部屋のようだ。
「……えっと、これは……ダブルベッドですか?」
「見ればわかるでしょ」
家具屋でしか見たことありません。という言葉は飲み込んでおくことにする。
夕食にはアスナが弁当を出してくれた。
自分の不手際だから寝袋で眠るというアスナをなだめて、
ベッドに入らせるのは一苦労だった。
明かりを落としてからもなかなか寝付けない。
目を閉じて横になっていれば脳が休まるという話を信じることにした。
「キリト君?」
「起きてる」
「眠れない?」
「大丈夫だ」
「眠れないんだ」
「アスナの方こそ、早く寝た方が良い」
「……」
「おやすみ」
「……ねえ」
「……」
「キリト君」
「……ああ」
「そんなところで寝られたら、当てつけみたい」
「ひどいな」
「だから……こっちに入っていいよ」
「……バカ言うな」
「何もしないって約束するなら、だけど」
「そうは言っても……」
アスナは向こうを向いてじっとしている。
根負けして寝袋を出た。
ベッドのスプリングがきしむ音がいやに大きく聞こえた。
こんなところまで忠実に作る必要があるのだろうか。
「そんなに端っこに寝てたら、落ちるわよ」
「あ、ああ」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
・
・
・
「ほんとに眠っちゃうなんて……バカ」
ひと寝入りしたくらいだっただろう。
はっ、と目が覚めた。
デュエルの状態になっている。
睡眠PKか!?
自分の体の上にマウントポジションを取っている黒い影があった。
暗くてシルエットにしか見えない。
「誰だ!」
護身用の短いナイフをすばやく装備し、相手の首元に押しつける。
一瞬でも目覚めるのが遅かったら殺されていた。
もはや少しの隙も許されない。
だがしかし、アスナの様子を確認せずにはいられない。
眼球だけを動かして、それでも重大な危険だが、見る。
いない。
「アスナ! どこにいる!」
自分の声の残響が聞こえる。
背筋が冷えた。
「アスナ! 返事をしろ! ……アスナ!」
ナイフを握った手が震えだすのを止められない。
焦りと恐れが殺意に変わったときだった。
「落ち着いて、私よ」
「……なぜ、だ」
「ごめんなさい……別に戦おうというのではないの。ナイフ、下げてくれる?」
アスナはストレージから何か果物のようなものを取り出した。
「りんご?」
「これは合成アイテム。アバターを物理演算でエミュレートされた人体に置き換えるの」
くわしく話してくれるつもりらしい。
俺は黙って聞いていた。
「ただし、デュエルの状態でしか効果は発動しない」
エフェクト音が聞こえた。
アスナの言う”効果”が発動したようだ。
「私たちには……アバターには痛覚が無い。
それは、アバターが数万の骨、筋肉、表皮なんかのオブジェクトで作られた、
モデル化された人体だからなの」
「だから、どんな攻撃を受けても、人体が損傷を受けることはない。
骨は骨として定義されたオブジェクトだから、
骨折なんかして、その形を失うことはないというわけ」
「そのモデルに触覚エンジン、温感エンジン、味覚エンジンが上乗せされている」
「つまり、私たちの触覚は、皮膚にある感覚神経ではなくて、
オブジェクト同士の接触判定の結果が、触覚エンジンを介して、
直接脳神経に入力されているの」
アスナの言っていることがわかってきた。
「SAOは、どうしてモデル化されたアバターを使っているんだ。
リソースが足りなかったのか?」
「いいえ、違うわ。
そうね……例えば、スキルの発動には、特定のモーションが必要でしょう?
そのモーションを判定するためには、関節の角度や移動量を判定しなきゃいけない。
でも、人体をそのままエミュレートしたら、関節の角度なんて厳密に定義することができないの」
「何より、アバターは誰かに認識されるための”化身”というだけじゃなく
入力デバイスでもある。
SAOではアバターがシステムとの全てのインターフェイスを担っているの。
このインターフェイスが失われることはあってはならない。
戦闘で腕を負傷して、メニュー操作できないなんてこと、惨いでしょう?」
「だから、アバターは定義済みオブジェクトによって構成されなければならなかった。
そうすることで、絶対の信頼性を担保したの」
言っていることはだいたいわかった。
だが、何のためにこんな話を、こんなことをする?
「見てて」
アスナはいつかの料理で使っていたナイフを取り出すと、りんごの皮をむき始めた。
「はい、食べてみて」
鼻先に差し出された果肉にかぶりつく。
新鮮なりんごの歯触り、舌触りが心地良い。
舌と歯の間に唾液がしみ出す感覚がよみがえった。
二度、三度とかじるうちに、みずみずしい果汁が垂れてきた。
アスナの指が口の端の果汁をなめ取り、
また彼女の舌がその指をなめる。
彼女の口元に見入った。
「私にも、ちょうだい」
唇を吸われた。
いや、舌も吸われた。
そして、止めていた息を吐きながらであろう、かすれ声が聞こえた。
「あまい」
ただ、アスナを見上げていた。
いま起こったことが理解できない。俺が感じたのはいったい何だったんだ?
「……これ、は……」
「リアルでしょう? 今の技術なら、エミュレートされた人体は、ほとんど本物と変わらない」
「……この機能は、何のために」
「たぶん、殴り合いをするため。
拳を打ち込む感触と殴られた痛みが好きな人は少なくない」
「そんな人が、いるのか」
「でも、他にも使い道はあるわ」
「……?」
「キリト君。……この子の方が、ものわかりが良いみたいね」
「うあっ!」
アスナの右手に軽く握られただけなのに、
しびれとも寒気ともつかないものが、背中を這い登ってきた。
「ふふっ。キリト君かわいい」
「よせ、アスナ。……くっ……やめてくれ」
「うーん? 本当に? 本当にやめて欲しいの?」
「アスナ、ふざけているのか? さっきだって、お前が殺されたかと……」
彼女は平静な調子にもどって言った。
「ごめんなさい、あんなに必死になるなんて思わなくて……」
「アスナは、わかってない!」
「え?」
「必死になって当たり前だ。俺がどれだけアスナを……」
「私を?」
「あ……その……」
「……」
「うっ! く……」
「やっぱり、この子の方が素直ね」
夜は長い。
~~~ 朝 ~~~
チュンチュン
チュン
目覚めた時には、すっかり陽が昇ってしまっていた。
当初の目的だったイベントはすでに過ぎてしまっている。
アスナはまだ隣に寝ていた。
もう一眠りするか、と思い目を閉じる。
が、どうもアスナは起きているような気配がする。
小声で呼んでみた。
「アスナ?」
彼女は声を出さず、微かにうなずいて応えた。
どこか上の空で、元気がない。
「どうかしたか?」
「……昨日のアイテムね。
材料はそんなに珍しいものじゃないの」
「だが、あんなものは今まで聞いたことがなかった」
「そう、なぜ製法が広まらないのか、疑問だった。
でも、わかった気がする」
「どうしてなんだ?」
「だって……あんなの、虚しいだけじゃない」
「……」
「リアルのキリト君は、いまもどこか私の知らない遠いところにいて、
顔を見ることも、手をつなぐこともできない」
こっちへ振り返ったアスナの目がうるんでいた。
「そうだな。ここに俺の体はない」
アスナは耐え難いように苦しげな顔をする。
「でも……ここにいるのは、確かにアスナと俺だ。
俺の心はここにあって、アスナと向き合っている」
「……うん、わかった」
涙目だが、笑顔を見せてくれたアスナに、ほっとする。
同時に、ある決意がわき上がり、固まっていくのを感じた。
「アスナ。三日後の日暮れに、いつか昼寝をしていた木のところへ来てくれないか?」
「え? いいけど……」
「くわしくはその時に話すよ」
あの朝は、チェックアウトの時に一悶着あったのを思い出す。
「わかったわ。それじゃ、割り勘にしましょう」
「ああ」
そうやってカウンターへ立ったときにNPCが言ったのだ。
『ゆうべは おたのしみでしたね』
「あはは。これは、ずいぶんレトロな台詞だな。
茅場はドラクエが好きらしい」
その時、かちゃりと何かの金属音が聞こえた。
後で知ったが、鯉口を切る時の音らしい。
悪寒を感じた俺は、さっと脇へ飛び退いた。
アスナは見慣れない得物を腰へ下げている。日本刀だ。
左手を刀にそえ、低く腰を落とした彼女から発せられるのは、紛うことなき……。
「殺気! ……やつは、いったい……」
周囲が彼女の様子に気づくと、ロビーは静まりかえった。その刹那。
「九頭竜閃!」
そのユニーク・スキルを見たのは後にも先にもその一度だけ。
彼女をからかうようなことはするまいと俺は心に誓い、
それを今でも守っているからだ。
三日後、目的の場所にはアスナの方が早かった。
「すまない、待たせた」
「ううん。天気が良かったから、早く来ただけよ」
世間話を続けていると、アスナは焦れてきた。
「……それで、話って何なの?」
「話というのは、まぁその~」
「キリト君」
「お願いがあって来た」
「うん」
彼女の正面にたち、気をつけの姿勢を取る。
「アスナ……」
じっと彼女の眼を見据える。
「な、なによ、改まって……プロポーズでもするつもり?」
「……」
「え? ほんとに?」
「やっぱ、ダメ、だよな」
「……いいわよ」
「えっ?」
「いいって言ったの! こちらこそ、よろしく、お願い、し・ま・す!」
「あ、ありがとう、アスナ!」
「う、うん」
「でも、やっぱりちゃんと言うよ。こういうのはけじめだからな」
「わかったわ」
「よし……」
「……」
「アスナ、SAOをクリアしてリアルに戻ったら、結婚しよう!」
「えっ」
「えっ」
おわり