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奉太郎「古典部の日常」【第一章】
奉太郎「古典部の日常」【第二章】
奉太郎「古典部の日常」【最終章】
本スレは、『奉太郎「古典部の日常」』の続編となります。
前作から読む事をおすすめします。
部室の扉に、向こうから手を掛けられているのはこちら側からでも分かった。
そして、ゆっくりと扉は開かれ……
俺は多分、いや……俺だけではない。
里志や伊原も、千反田が現れる事を望んでいたのかもしれない。
……そうであって欲しかった。
何しろ、古典部を訪れる変わり者など……今ここに居る三人を除けば千反田以外あり得ないからだ。
これが新入生が入ってくる時期、4月頃なら俺達はここまで期待はしなかったと思う。
だが今は1月、冬休みが明けてすぐの事だ。
それなら……もしかすると。
元スレ
える「古典部の日常」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1349003727/
える「古典部の日常」その2
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1352561755/
俺は唾を飲み込み、扉が開かれるのを待つ。
早く、早く開けないか、何をもったいぶっているんだ。
驚くほど、扉が開くのは遅かった。
……いや、俺が時間を長く感じているだけか。
だって俺がここまでの考えをするのに、多分まだ3秒程しか経っていないからだ。
里志や伊原の動きも、扉同様遅かったのでそういう事なのだろう。
しかし、時間は確実に刻まれている。
ようやく、そいつの体が隙間から見える。
制服は……女子の物だった。
つまり、それは……!
入須「……どうした、揃いも揃ってそう見られては、私も恥ずかしいのだが」
なんという事だ、ここまで必死に考えていたのに……この野郎。
奉太郎「……なんだ入須か」
入須「おい、今何て言った」
……つい言葉が漏れてしまったのだ、それを聞いていたとは嫌な奴だ。
里志「入須先輩、こんにちは」
里志「にしても……ホータロー、今のは流石にどうかと思うよ」
摩耶花「今の折木の顔、少し面白かった」
摩耶花「しかも、先輩の事呼び捨てにするなんて考えられないわ」
こいつらも多分、俺と同じ事を思っていたのに……薄情な奴らだな。
……いや、俺一人を犠牲にすればそれでこの二人は助かるんだ。
なるほど、これが生存本能と言う奴だろうか。
……少し違うか。
奉太郎「いや、あの」
奉太郎「……すいませんでした」
俺が取ったのは最善の選択だった。
とりあえず謝っておけば、入須もそこまで気にしないと思う。
入須「全く、君は普段からそんな風に思っていたのか」
奉太郎「……そんな訳、無いじゃないですか」
俺はこれでもかと言うほどの爽やかな笑顔を入須に向ける。
入須「……なんだその顔は、私を馬鹿にしているのか」
当の入須はそれを爽やかな笑顔だな、とは思わなかったが。
入須「……まあいい」
入須「君達、全員が残念そうな顔をしたのには見当が付く」
里志や伊原も顔に出していたらしい、それなのに俺だけに物を言うとは……やはり、嫌な奴だな。
入須「……千反田が来たと、思ったんだろう」
その入須の予想は、素晴らしくも当たっていた。
里志「……はい、入須先輩の言う通りです」
里志「間違いなく、僕達はそれに期待していました」
摩耶花「……」
里志は大体いつもの調子で、伊原は黙って首を縦に振り、それぞれ入須の質問に答えた。
奉太郎「……それで、用事はなんだったんですか」
奉太郎「あなたが古典部に来るとは、珍しい」
里志や伊原に反し、俺は悪態を付き入須に返答を促す。
入須「君は変わらないな」
入須「古典部へ来た理由か……」
入須「……そうだな、折木君が」
入須『入須先輩、わざわざ足を運んでくれるなんて光栄です』
入須「とでも言ったら教えようかな」
……絶対に言ってやるもんか。
奉太郎「俺がそれを言うと思いますか」
入須「いや、思わんよ」
奉太郎「……」
こいつは、何を考えているんだ。
俺には見当が全く付かない。
入須「でもな、私がある一言を言えば」
入須「君は間違いなく、さっきの台詞を言うだろうな」
ある一言……?
奉太郎「言わせてみてくださいよ、俺に」
そう入須を挑発すると、入須は若干もったいぶりながら口を開く。
入須「……千反田の事だ」
奉太郎「……」
俺は少し考える。
確かにその入須の言葉が本当なら、俺は間違い無くさっきの台詞を言うだろう。
しかし……しかしだ。
入須は本当に、千反田の話で来たのだろうか?
……俺には分からないが、多分。
入須はそんな冗談を言う奴では無いと言う事くらいは、俺にも分かった。
奉太郎「……分かりました」
奉太郎「入須先輩、わざわざ足を運んでくれるなんて光栄です」
入須「……くっ」
今こいつ、笑ったよな。
俺はバツが悪そうに、視線を入須から逸らす。
里志「……」
摩耶花「……」
里志と伊原は、何か笑いを必死に堪えている様な表情をしていた。
……揃いも揃って、こいつら。
入須「……まさか本当に言うとは思わなかったよ」
入須「言わなくても、話はする予定だったんだがな」
……やはり苦手だ。
奉太郎「それで、その千反田の話、してもらいますよ」
入須「ああ、そうだな」
入須「……私から聞くよりも」
入須「本人から聞いた方が手短に済むだろう」
何を言っているんだ、こいつは。
しかし俺の思考は止まっても、入須の動きは止まらない。
入り口の扉から少し離れ、何やら顔だけを廊下に出して合図をしている様に見えた。
そして、次にその扉から現れたのは……
える「……あの、こんにちは」
俺が、俺が一番会いたかった人だった。
……あの日、千反田は確かに言った。
さようなら、と。
そして俺は結局、最後まで言葉を掛けられなかった。
足があんだけ動かなかったのは初めての経験だった。
しかし今も、足が勝手にこんだけ動くと言うのも、初めての経験だった。
奉太郎「……千反田!」
俺はそのまま、千反田の近くまで行き、千反田を抱きしめる。
奉太郎「本当に、千反田なんだな」
奉太郎「いつもの、お前なんだな」
える「え、あ、は、はい」
その返答は、確かにいつもの千反田だった。
える「あ、あの!」
そして千反田は声を強くして、俺に申したい事がある様子だった。
える「……えっと、少し、恥ずかしいんですが……」
俺はその言葉で我に帰る。
入須は眉をひそめ、首を横に振っている。
これに台詞を加えるなら、やれやれとか、全く君はとか、そんな所だろう。
里志はいつもより更に笑っていて、若干その笑顔が引き攣っている様にも見えた。
伊原はと言うと、顔を手で覆ってしまっている。
俺はそんな周りの奴らの反応を見て、初めて自分が千反田を抱きしめている事を恥ずかしく思った。
奉太郎「……す、すまん」
える「ふふ、いいですよ」
千反田は本当に、千反田だった。
いつもの笑顔が、それを俺に教えてくれる。
そしてゆっくりと千反田は部室の中に入っていく。
える「……ありがとうございます」
俺の横を通り過ぎるときに、確かに千反田はそう言っていた。
そのまま自分の席、いつもの席に千反田は座る。
入須「……それじゃ、私はこれで失礼するよ」
える「ええ、ありがとうございました」
……結局、入須は何をしに来たのだろうか?
いや、そんな事はどうでもいい、今は……!
奉太郎「聞いても、いいか」
える「……ええ」
奉太郎「何故、学校に居る?」
える「……ふふ、私でも予想できました」
える「折木さんの言う事を予想できたのは、少し嬉しいです」
奉太郎「……そりゃ、どうも」
える「……お話しましょうか」
里志「……うん、僕も気になるな」
里志「なんで千反田さんが今日、学校に来たのか」
摩耶花「私も、今思っている事が当たって欲しい」
摩耶花「……会いたかったよ、ちーちゃん」
こういう時、里志は結構凄いと思う。
全くもって、動揺している様子には見えなかったからだ。
伊原はそれとは逆で、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
伊原が言いたかった事は恐らく、千反田が本当に戻ってきたのか、という事だろう。
……俺は、どんな顔をしていたのかは分からない。
自分の事は難しいからな、仕方ない。
える「あ、それよりも先に」
える「入須さんと一緒に来た理由から、お話した方がいいかもしれません」
意味があったのか、入須が同行していたのには。
える「実はですね……少し、一人で来るのが気まずくて」
奉太郎「……」
える「え、ええっと」
奉太郎「なんだ、気まずくて……の後は?」
える「い、いえ。 それだけです」
奉太郎「……はあ」
こいつは本当に変わらないな。
奉太郎「お前が入須と来た理由は分かった」
奉太郎「……それよりも、なんで今日来たんだ」
える「……やはり、言い辛いですね」
そう言い、千反田は顔を伏せる。
千反田を除く三人は、黙って千反田の言葉を待っていた。
やがて、顔を上げると……千反田は再び口を開く。
える「実は……」
える「その、父の容態が戻りまして」
里志「ええっと……」
摩耶花「……つまり、どういう事?」
える「あの、私も驚いたんですよ」
える「……結論から言いますと」
える「えっと……高校を辞める必要が、無くなりました」
里志「……と、言う事は」
摩耶花「……えっと」
える「あの、ですから」
える「皆さんとまた一緒に、居られます」
摩耶花「つまり……」
里志「ううん……」
える「あ、あの!」
駄目だ、こいつらに任せていては多分……日が暮れてしまう。
かくいう俺も、状況をうまく飲み込めては居なかったが……まとめるくらいの事はできるだろう。
奉太郎「つまり」
奉太郎「千反田の父親は無事に千反田家を収める役目に戻り」
奉太郎「そしてそのおかげで、千反田も学校を辞める必要が無くなった」
奉太郎「また一緒に、古典部で活動できる」
奉太郎「……って事か?」
なんだ、俺も結局最後は本人に答えを促しているではないか。
……それより俺がまとめた事、合っているのだろうか。
える「ええ、そうです!」
える「……折木さんが居て、助かりました」
える「私本当に、父親の体調が直ったときですが」
える「あまりこう思ってはいけないのは分かりますが」
える「どうしようかと、思っちゃいまして」
える「折木さんにあれだけ言っておきながら、どうしようかと……」
……なんだ、俺がこの冬休みに散々悩まされた事は無駄だったという事か。
奉太郎「そう、か」
くそ、千反田に俺の冬休みを無駄にされてしまったではないか。
里志「……僕は、なんとなくこうなるかと思っていたよ」
それに加え、新年の気分も最悪だったではないか。
摩耶花「本当に! 本当に良かったよ、ちーちゃん」
そしてついさっきまでも、最悪の気分だったではないか。
だが。
今は、とても良い、心地良い気持ちだった。
奉太郎「本当なんだな、千反田」
える「ええ、私一人では、とてもここまで来れなかったですよ」
える「……皆さんに、どんな顔をしていいか分からず……」
奉太郎「そんな事、どうだっていいさ」
える「そう、ですよね」
なんだか俺が随分悩まされていた時間が全て無駄になってしまったが、まあいいか。
とにかく、これでまた……古典部四人が揃った。
時期は冬、新年だ。
今年は絶対に、いい年になるだろう。
春は出会いと別れがあり、夏にはまた多分……どこかに出かけるだろう。
秋は文化祭、去年楽しめなかった分、今年は楽しみたい。
そして冬には……今年の冬は、暖かく過ごせるかもしれない。
俺はこの一年に、今までに無い期待を寄せながら、ゆっくりと千反田に向け言った。
奉太郎「……さようならでは、無かったな」
える「……ええ、私の間違いでした」
える「また、お会いできましたね」
える「折木さん」
第1話
おわり
うう……寒い。
1月のとある日、俺は早朝から家を出ていた。
それも昨日、千反田から電話があり……内容は朝早くに会えないか、と言ったものだった。
俺は別にそれ自体が嫌では無かったし、二人きりで話す事もあったので気が進まないなんて事は全然なかった。
なかった……のだが。
まだ起きて1時間も経っておらず、完全に目が覚めている訳では無い。
それに加え外のこの寒さ……足が鈍るのは仕方ない事だ。
夜に少し雨が降っていた様で、道端にある水溜りには氷が張っていた。
それらをバリバリと割りながら、俺はあの公園へと向かっている。
厚着をしてきたのは正解だった……していなかったら俺は数時間後、冷たくなって見つかっていたかもしれない。
そんな馬鹿みたいな事を考えながら、途中にある自販機でコーヒーを買う。
奉太郎「……ふう」
冷え切った体に染み渡る、自販機に感謝しておこう。
しかし最後まで飲みきる前に、具体的には半分程飲んだ所でどんどんと冷めていってしまう。
この理不尽な現実に、俺は特になんとも思わず最後の一口を体に取り入れた。
そのまま自販機の横に設置されていたゴミ箱に空き缶を放り込み、再び俺は歩き出した。
奉太郎「……うう」
体がぶるぶると震える。
……確かこの現象には名前があったはずだ、ええっと。
なんとかリングとか、そんな感じだったと思う。
体温調整をする為らしいが……これで暖かくなるとは到底思えない。
……まだ走ったほうがマシだと思う。
だが俺は走る気もせず、再び体をぶるぶると震わせながら公園へと向かった。
~公園~
俺が公園に着くと、千反田は既にベンチに座っていた。
奉太郎「おはよう」
そう声を掛けると、千反田はすぐに振り返り俺に挨拶をしてきた。
える「おはようございます、今日も冷えますね」
える「これ、どうぞ」
そう言いながら千反田が渡してきたのは缶コーヒーだった。
俺はそれを受け取り、違和感に気付く。
確かに今日は寒いが……冷めすぎではないだろうか?
俺はほんの少しだけ考えると、一つの質問を千反田に向けた。
奉太郎「これ、冷たい奴か」
える「ええっと……間違えてしまいまして」
この馬鹿みたいな寒さの中、冷たい缶コーヒーを飲むことになるとは。
える「大丈夫ですよ、私のも冷たいので」
千反田はそう言うと、俺の手に自分の持っていた紅茶を当てる。
……確かに冷たいが、大丈夫という意味が分からない。
奉太郎「……ありがたく受け取っておく」
える「はい、どうぞ」
える「いつも奢ってもらってばかりな気がしたので……私の奢りです」
缶コーヒー1本でそこまで胸を張られても……反応に困ってしまう。
奉太郎「今度飯か何か奢ってもらわないと、割りに合わないな」
俺がそう言うと、千反田はムッとした顔をして、俺に向け口を開いた。
える「酷いですよ」
える「折角、折木さんが寒い思いをしていると思って……」
える「買って待っていたんですよ」
奉太郎「……」
奉太郎「……このコーヒー、冷たいけどな」
える「……そうでした」
どうにも千反田は本気で言っているのか、冗談で言っているのか判断に困る時がある。
これは冗談だろうと思って、反応を返すと本気で言っていたり……
かと思えば……本気で言っていると思って返すと、冗談で言っていたり、といった事が多々ある。
そして今回は本気で言っていた方か。
奉太郎「それで、朝から漫才をやる為に呼んだのか」
える「それもいいかも知れませんが……違います」
える「えっと……」
える「色々と、ご迷惑をお掛けしてしまってすいませんでした」
……やっぱりか。
奉太郎「そんな事か」
える「……そんな事って、私はそうは思いません」
奉太郎「……もう終わった事だろ」
奉太郎「俺は別に気にしてないさ」
その俺の言葉は、今の俺の本心でもあった。
しかしそれは今だから言えるのだろう、冬休みは本当に最悪の気分だったし、前に千反田とこの公園で話した後の数日間はろくに飯も食えなかった。
……だけどそれも、終わった事だ。
える「で、ですが!」
多分、俺がいくら言ってもこいつは心のどこかでそれを思い続けるのかもしれない。
なら、口で言っても駄目なら。
奉太郎「……」
パチン、と小気味いい音が乾いた空気に響いた。
える「……い、痛いですよ」
える「……折木さんのデコピンは、ちょっと痛すぎると思うんです」
奉太郎「なら丁度いい」
奉太郎「それで全部チャラだ、それでいいだろ」
俺がそう言うと、千反田は自分の頬を両手で叩く。
える「……分かりました」
える「もう、気にしない事にします」
奉太郎「ああ」
える「……そういえば」
ふと、千反田が指を口に当てながら、思い出したかの様に言った。
える「新年のご挨拶がまだでしたね」
える「あけましておめでとうございます」
少し遅い新年の挨拶を、丁寧にお辞儀をしながら千反田は告げた。
そういえば……確かに、まだしていなかった気がする。
もしかしたらしたのかもしれないが、千反田がまだと言うからにはやっぱりしていないのだろう。
奉太郎「すっかり忘れてたな」
奉太郎「あけましておめでとう」
~古典部~
今日は朝が早かったせいもあり、若干眠い。
その眠気から来る機嫌の悪さを俺は里志に向けていた。
奉太郎「それで、用事は何だ」
里志「まあまあ、皆集まってからにしよう」
里志の呼び出しで集められる時はあまり良い予感がしない。
それは俺がここ2年近く、古典部で活動する事で学んだ事の一つだ。
える「すいません、遅れてしまいまして」
里志「お、来たね」
摩耶花「これで揃ったけど……どうして急に皆を集めたの?」
里志「そうだね……」
里志「もうすぐで2月になるよね」
そんな事、カレンダーを見れば誰にだって分かるだろう。
待てよ……どこか辺境の地に住む人らは、日付の概念が無い可能性もある。
なら俺の言葉は訂正しなければならないな。
正しくは、カレンダーを見れば……日付の概念が無い人以外は誰にだって分かるだろう、か。
なんだか長くなってしまったので、やはり訂正しなくてもいいか。
える「あの、折木さん?」
奉太郎「……ん」
摩耶花「またくだらない事でも考えていたんでしょ、そんな顔してた」
どんな顔だろうか。
……私、気になります。 と言おうかと思ったが、部室に変な空気は流したく無いのでやめておいた。
里志「じゃあ、話を聞いてなかったホータローの為にもう1回説明するね」
里志「もうすぐで2月になるよね」
いや、そんな事……カレンダーを見れば誰にだって分かるだろう。
摩耶花「……ちょっと、聞いてるの?」
奉太郎「あ、ああ」
奉太郎「勿論」
釘を刺されてしまっては仕方ない、里志の話に耳を傾けよう。
里志「2月と言えばなんだと思う?」
奉太郎「……2月か」
奉太郎「寒いな」
里志「いや、そういう感想的な物じゃなくてもっとイベント的な奴だよ」
奉太郎「……バレンタインか」
里志「……ホータローも少し意地悪になったね」
里志「確かにそれもそうだけど、その少し前の事さ」
少し前……何か、あっただろうか。
……ああ、あれか。
奉太郎「節分か?」
里志「そう! それだよ!」
里志がいきなり大声を出したせいで、俺と千反田が一瞬怯む。
伊原は……慣れているのかもしれない、いつも通りだった。
奉太郎「それで、節分がどうかしたのか」
里志「節分と言ったら、何を想像する?」
える「ええっと、2月の節分ですよね?」
奉太郎「2月の? 他に節分など無いだろ」
里志「いいや、節分は元々季節の分け目の事を言うんだよ」
える「ええ」
える「立春、立夏、立秋、立冬の前日を節分と指すんです」
奉太郎「……ほお」
える「ですが、一般的には立春の前日の事を言うので、福部さんが仰っているのも2月のですよね?」
里志「うん、そうだよ」
える「なら……」
摩耶花「豆まき、って事?」
里志「そう、それだよ摩耶花」
何がどう、それなのか分からないが……
やはり、良い予感はしない。
里志「……古典部で豆まきをしないかい?」
える「良い考えです!」
その里志の提案に、即座に反応したのは千反田だった。
摩耶花「楽しそうね、私もやりたい」
そしてやはり、伊原もそれに続く。
奉太郎「ここでするのか?」
俺も別に、絶対にやりたくないと言う訳でも無かったし、このくらいならいいだろう。
嫌な予感と言うのも、外れてくれると有難い物だ。
里志「うーん、僕はここでもいいけど」
奉太郎「……いつも通り、本を読んでいたら駄目か」
今の言葉は試しに言ってみたのだが、里志はそれを冗談だとは思わなかったらしい。
里志「別にいいけど、豆を当てられながら本を読むのは……僕だったら嫌かな」
奉太郎「……ならやめておく」
部室で静かに本を読む俺、そこに現れる里志、千反田、伊原。
そして本を読みながら豆を顔にぺちぺちと当てられる。
……何か、おかしいだろ。
里志「ちょっと提案なんだけどさ、豆まき自体は皆賛成なんだよね?」
える「ええ、そうです」
俺は別に賛成とは一言も言った気はしないが……反対と言う訳でもなかったので、特に何も言わず続きを聞く。
里志「なら、ホータローの家で豆まきをしない?」
奉太郎「……何故、俺の家なんだ」
里志「僕の家でもいいんだけどさ、妹がちょっとね」
そういえば、里志には妹が居るんだった。
……随分と、変わり者の。
奉太郎「……ああ、そうだった」
奉太郎「なら、伊原の家は駄目なのか」
摩耶花「私の家も、ちょっと」
摩耶花「その……都合が悪いかな」
何か隠しているような顔をしていたが、そこには突っ込まない。
……俺だって、部屋はしっかりと片付けてからで無いと人を上げるのは少し気が引けてしまう。
俺でさえそう思うのだから、他の奴は更にそう思っている事だろう。
奉太郎「……千反田の家は」
える「私の家ですか……大丈夫ですよ」
里志「本当かい? 実はそっちが本命だったんだよ」
里志「千反田さんの家は広いからね、豆まきのやりがいがあるよ」
……悪かったな、俺の家は狭くて。
それにそっちが本命とは、俺は随分と失礼な奴を友達に持ってしまった。
結果的には俺の家でやる事は無くなり、良かったのかもしれないが……なんか納得がいかない。
しかし、それよりさっきから気になる事がある。
千反田ではないから、気になりますとまでは行かないが……少しだけ引っ掛かる事だ。
奉太郎「一つ、聞いていいか」
里志「ん? なんだい」
奉太郎「お前がやろうとしているのは、普通の豆まきか」
摩耶花「折木何言ってるの? 普通じゃない豆まきってどんなよ」
える「今の言葉、何か意味があるんですよね」
える「……私、気になります!」
ここで来たか、いや……少しだけ予想は付いていたが。
里志「……まあ、普通ではないかな」
……嫌な予感が当たってしまっただろう。
なんという事だ、今年初めの失敗はこれになりそうだな。
里志「ホータローは、どんな豆まきを予想しているんだい?」
奉太郎「……予想と言う程の事でもないが」
奉太郎「まず最初、古典部で豆まきをするのか、と俺が聞いたときだ」
奉太郎「その後、俺は本を読んでいて良いかと聞いたな」
里志「うん、それに僕は」
里志「顔に豆を当てられながら読むのは嫌だな、みたいに答えたね」
奉太郎「……普通、豆は人にぶつけないだろ」
摩耶花「ええっと、つまり?」
奉太郎「それに里志は広い場所を探していた」
奉太郎「千反田の家が本命だったと、言った様にな」
える「……と言う事は」
奉太郎「お前がやろうとしているのは」
奉太郎「……豆の、ぶつけ合いか」
里志「さっすが、ホータローだ」
……反対しておけばよかった。
節分で豆をぶつけ合う馬鹿が、どこにいるのだろうか。
摩耶花「わ、私は別にいいけど……」
摩耶花「そんな野蛮な事、ちーちゃんは」
える「私、やりたいです!」
里志「……決定だね、ホータロー」
奉太郎「……はあ」
ここに居た。
日本の、神山市の、神山高校に四人ほど。
俺は是非ともその馬鹿達の顔を見てみたい。
……帰ったら、一度鏡でも見てみる事にしよう。
そんな成り行きで、古典部4人は何故か節分の日に豆をぶつけ合う事になったのだ。
里志が言うにはチーム分けをするらしく、なんだかこういう遊びがあった気がする。
ええっと、サバイバルゲームか。
決戦は確か、2月3日。
節分の日と覚えておけばいいだろう。
曜日は日曜日か、昼に集合と言うのも問題は無い。
ただ一つ、問題があるとするならそれは。
摩耶花「また、一緒になったわね」
伊原と同じチームになってしまった事だった。
第2話
おわり
里志「と言う訳で、そろそろ始めようか」
……とても面倒くさかったが、始まってしまった物は仕方ないか。
まあ、それはそうと里志のルール説明を理解しなければ。
里志「じゃあチーム毎に分かれて、10分後に始めよう」
奉太郎「ああ」
摩耶花「そうね、分かった」
える「ええ……! 負けませんよ!」
千反田はやけに張り切っている様だったが、今は敵だ……倒さねばなるまい。
というか、こいつは前に食べ物を粗末にするなという様な事を言っていた気がする。
奉太郎「そういえば、千反田」
える「へ? は、はい」
気合を入れていた所に、唐突に俺が話しかけたせいで変な声が出ていた。
奉太郎「この豆まきは、食べ物を粗末の内に入らないのか」
える「まさか、捨てる筈ありません」
奉太郎「……食べるのか」
える「いえ、それはちょっと、衛生上あれなので」
える「私の家には鳩がよく来るので、あげようかと思っています」
奉太郎「なるほど、それなら問題無いか」
える「心置きなく、投げてくださいね」
……それはどうかと思うが、問題は無いらしい。
そして俺達は二つに分かれる。
俺は伊原と共に、台所へと向かった。
千反田と里志は恐らく、あの氷菓の時に使った部屋に行っただろう。
奉太郎「お前と一緒のチームになったのは不服だが」
奉太郎「やるからには負けたくないな」
摩耶花「ちょっと、もうちょっとやる気が出そうな台詞とか無いの?」
やる気が出そうな台詞……
奉太郎「……頑張ろう」
摩耶花「……はぁ」
どうにも上手く行きそうに無いが、勝算はあった。
それよりルールを確認しよう。
確か、里志の説明によると……
里志『一人に割り与えられる体力は5』
里志『そして、一人の弾の数……ここだと豆の数だね』
里志『それはこの皿に乗っているのを半分にしよう』
里志『一度使った豆を拾って再利用は認めない』
里志『場所は千反田邸、全て』
里志『体力が無くなったら自己申告で頼むよ』
里志『それと、自分を倒した相手に手持ちの豆は全て渡す事』
里志『そうしないと、全部使い切ってしまう場合もあるからね』
里志『どちらか片方のチームが全滅したら残った片方のチームが勝ち』
里志『景品とかは無いけど……楽しんでやろうか』
との事らしい。
なるほど、確かにこれはやりがいがある豆まき……もとい豆の投げ合いである。
そして俺達に割り当てられた豆の数は20。
一人当たり10個と言った所だ。
奉太郎「伊原、準備はいいか」
摩耶花「抜かり無いわ」
摩耶花「……それにしても、ありなのかなぁ」
奉太郎「ルール違反ではないさ、そうだろ?」
摩耶花「まあ……そうだけど」
奉太郎「なら問題無い」
奉太郎「里志は俺達を甘く見過ぎていただけって事だ」
~える/里志~
里志「と、ホータロー達は考えている頃だろうね」
える「ええと……つまり、どういう事ですか?」
里志「このルールにはね、穴があるんだよ」
える「……折木さん達は、それに気付いていると言う事ですか」
里志「その通り、摩耶花だけならまだしも……ホータローが居るとなるとね」
里志「まず、間違いなく気付いていると思う」
福部さんが発表したルールの抜け穴……なんでしょうか?
える「す、すいません」
える「その抜け道を、教えて欲しいです」
える「私、さっきから気になってしまって」
里志「気になりますって奴かな」
える「ええ、その通りです」
私がそう伝えると、福部さんは特に焦らす事も無く、教えてくれました。
里志「……体力が0になった人の扱いさ」
える「え? それはつまり……どういう事でしょうか」
里志「このルールだとね」
里志「体力が0になった人はどうなるか……と言うのを決めていないんだよ」
里志「つまり……体力が無くなっても、離脱はしなくてもいいんだ」
里志「体力は無くなっても、攻撃が出来る」
里志「勿論それは、相方から豆を分けて貰ってからだけどね」
える「え、そんなの反則ですよ!」
里志「はは、そう思うのも仕方ない」
里志「でもね」
里志「ルールで縛られていない以上、可能なのさ」
……納得、できませんが。
それでも確かに、ルールを決めた福部さんが言うのなら……そうなのかもしれません。
でも。
える「……ずるいですよ、福部さん」
える「そんなルールでやるなんて、ずるいです」
里志「うーん……千反田さんにそう言われちゃうと、参っちゃうな」
里志「でもさ、ホータロー達もこれには気付いているんだよ?」
里志「なら別に、フェアじゃないって事は無いと思うけどな」
……それもまた、言えているかもしれません。
える「……分かりました、ですが」
える「折木さん達も気づいているのなら、私達が有利という事も無いですよね」
里志「果たしてそうかな」
何やら、考えがあるのでしょうか。
里志「例え体力が0になっても動けると言っても……二人同時に倒されてしまっては意味がないんだよ」
あ、それには気付きませんでした。
える「なるほど……」
そう言い、私が腕を組んでいると……福部さんが再び口を開きました。
里志「……なんだか、千反田さんを見ているとホータローを見ている気分になるよ」
える「え? どういう意味でしょうか」
里志「その腕を組んだりする癖、そっくりだ」
わ、私はそんなつもりは無かったのですが……
少し、恥ずかしくなり腕を組むのをやめました。
える「そ、そんな事は無いですよ」
える「それより、作戦を考えましょう!」
里志「はは、分かった」
里志「あまり時間も無いし、簡単に伝えるよ」
里志「実はもう、大体考えてあるんだ」
福部さんはそう言うと、少し声を小さくして作戦を私に教えてくれました。
なるほど、確かに理に適っています。
~奉太郎/摩耶花~
奉太郎「さて、どう出るか」
摩耶花「ふくちゃんの性格だと……様子見、かな」
奉太郎「……俺もそう思う」
開始までは後5分も無い、俺達が取るべき行動は……
奉太郎「なるべく二人で一緒に行動は避けたいが……そうもいかないな」
摩耶花「どうして?」
奉太郎「俺達はこの家の構造を把握していないからだ」
奉太郎「向こうには千反田が居るんだぞ」
摩耶花「あ、そっか」
摩耶花「ばらばらに行動したら、ちーちゃんの攻撃を避けられないって事ね」
奉太郎「そう言う事だ」
二人で動けば一見……攻撃される確率が高まる様に見える。
しかし、全ての構造が分かっていない場所では話が少し変わる。
更には敵側には一人、構造を完璧に把握している人物がいるのだ。
なら行動を共にして、視野を広く持った方が安全だろう。
奉太郎「まずは様子を見よう、あいつらは多分……ばらばらで来るからな」
摩耶花「分かったわ」
奉太郎「危険なのは里志だ、あいつの考えている事は時々わからん」
摩耶花「でも、ちーちゃんも結構危険よね」
奉太郎「……ああ」
摩耶花「……勝てる見込みが、無いんだけど」
奉太郎「やれるだけはやるさ」
摩耶花「あんた、珍しくやる気ね」
……確かに、言われてみればこの豆合戦を楽しんでいる俺がいた。
まあ、やらなくても良かった事なのは事実だが……やるからには、やはり負けたくは無い。
奉太郎「かもな、だが」
奉太郎「勝算は、あるだろ」
摩耶花「……そうね」
作戦は大体さっき話してある。
うまく行けば、負ける事は無いだろう。
さてと、そろそろスタートか。
まずは、廊下の様子を見る事にしよう。
~える/里志~
える「先手必勝、ですか」
福部さんが考えた作戦は、意外な物でした。
里志「そう、別に始まるまでここに居なきゃいけない理由は無いからね」
里志「ホータロー達が行ったのは台所だから、そのすぐ傍で待ち構える」
里志「僕が最初に突っ込むから、千反田さんは裏に回ってくれないかな?」
える「分かりました、挟み撃ちですね」
里志「うん、その通りだ」
里志「と言っても、中々相手も手強いからね」
里志「いきなり倒されたら豆が一気に10個も減ってしまう」
里志「それだけは気をつけてね」
そうでした、倒されたら豆を全て渡さなければいけないのでした。
単純に考えれば、私達の手持ちの豆が半分になってしまうと言う事です。
それに加えて、折木さん達の豆が増えるという事にも繋がります。
……気をつけましょう。
える「分かりました、任せてください」
える「この家は、私の家なので」
里志「頼もしい言葉だね」
里志「さて、そろそろ始まるから移動しようか」
里志「先手必勝、ホータロー達には悪いけど」
える「勝たせてもらう、という奴ですね」
里志「はは、本当に頼もしい」
福部さんはそう言いながら、廊下へと出ます。
私は反対側に行き、台所の裏手へと回りこみました。
こちら側の廊下からは、少し中が覗ける様になっています。
折木さんと摩耶花さんは何やら話している様子でしたが……しっかりとは聞こえませんでした。
そして時計に目を移すと、間もなく始まる時間を指す所です。
時計が……12を指し、豆まきがスタートしました。
……折木さん達はどうやら、最初は慎重に行く様ですね。
あ、折木さんが廊下に繋がる扉に手を掛けました。
駄目です!
そちらには、福部さんが!
……い、いえ。
今は敵なのでした、折木さんは倒さなければいけないんです。
私は、私のすべき事をするのです!
~奉太郎/摩耶花~
廊下に顔だけを出した俺に、最初に目に映ったのは里志の姿だった。
直後、飛んでくる豆。
その豆は見事に俺の額へと命中した。
奉太郎「いてっ!」
あいつ、全力で投げやがった。
豆もここまで本気で投げられると随分と痛い。
しかし、それに怯んでいては第二、第三の攻撃が来るのは想像に難くないだろう。
奉太郎「伊原! 逃げろ!」
台所の中に居た伊原に向け、声を発する。
その直後に、再び飛んでくる豆をなんとか避ける。
それと同時に俺も台所の中に避難し、伊原と一緒に裏手の扉から廊下に飛び出た。
……だが。
える「待ってましたよ、お二人とも」
それすらも読まれていた。
前には千反田、後ろは行き止まり。
そして俺達が来た方向からは里志が追っかけてきているだろう。
千反田はそのまま投げる格好をし、豆を投げてきた……と言うよりは、放ってきた。
俺はそれをなんなく避ける、避けたはいいが……
放られた豆は、一つではなかった。
千反田は豆を3つ、投げていたのだ。
1個は床に落ち、2個は伊原へと命中する。
える「あ、ご、ごめんなさい」
そう謝っているこいつは、とても申し訳無さそうな顔をしていた。
隙だらけではあるが……片方だけ倒してしまっても仕方ない。
いや、むしろ片方だけ倒してしまったらそれこそ不利になってしまう。
……そのルールの穴に、里志と千反田も気付いていての別行動だろう。
だが削っておく分には問題無いだろう……とりあえず一つ、千反田の頭へ向かって投げた。
俺が投げた豆は、千反田の頭に当たり跳ね返る。
える「い、痛いです……」
奉太郎「わ、悪い」
しまった、俺もつい謝ってしまった。
なんだこれは、謝りながら相手に豆をぶつけるゲームだったか。
摩耶花「何謝ってるのよ! 行くわよ!」
伊原はそう言うと、頭を抑えている千反田の横を通り抜ける。
俺は少しの後ろめたさを感じながら、それに付いて行った。
~える/里志~
や、やられてしまいました。
つい謝ってしまったせいで、お二人とも逃がしてしまいました。
福部さんに何と言えばいいのか……分かりません。
で、ですが! まだ勝負は始まったばかりです!
里志「はは、やっぱり逃がしちゃったか」
福部さんはそう言いながら、台所から出てきました。
える「……ごめんなさい、摩耶花さんに二つ当てたのですが、つい謝ってしまいまして」
里志「いいさ、千反田さんらしいじゃないか」
里志「それに、計算外って訳でもないしね」
える「そ、そうですか」
える「では、次の作戦があるんですね?」
里志「勿論」
里志「千反田さん、ホータロー達が逃げて行った先には何があるんだい?」
える「ええっと」
える「まず最初にあるのがお風呂ですね」
える「次にそのまま真っ直ぐ進めば客室が左右にあります」
える「突き当たりには物置部屋もありますね」
里志「ず、随分と部屋が多いんだね」
そうでしょうか? 確かに少し多いのかもしれませんが……そこまで驚く事でも無いと思います。
里志「ま、なんにせよ」
里志「好都合だよ」
える「……どういう意味ですか?」
里志「つまりホータロー達はその部屋の内のどれかに居るって事でしょ?」
里志「なら、ここより前の部屋に行くにはここを通るしかない」
里志「……分かるかな」
える「なるほど、と言う事は」
える「袋の鼠、と言う訳ですね」
里志「そう、ホータロー達はもう逃げ場が無い」
里志「片方はここで待機して、もう片方はしらみ潰しに部屋を探す」
里志「それで僕達の勝ちさ」
える「分かりました!」
里志「部屋を探すのは僕がやるよ」
里志「千反田さんは今度こそ、宜しくね」
える「はい、任せてください」
今度は絶対に、逃がしません!
里志「はは、張り切ってるね」
里志「じゃあそんな千反田さんに取って置きの技を教えておくよ」
取って置きの技……なんでしょうか?
福部さんは少し声のトーンを落とし、私にその技を教えてくれました。
……やっぱり福部さんは少し、ずるいです。
でも、これを使えば確かになんとかなるかもです。
……私、頑張ります!
残り体力/所持豆数
奉太郎:残り体力4/豆の数9
摩耶花:残り体力3/豆の数10
里志:残り体力5/豆の数8
える:残り体力4/豆の数7
第3話
おわり
~奉太郎/摩耶花~
俺達が逃げ込んだのは、一番奥の物置小屋だった。
薄暗く、あまり広いとは言えない。
しかし幸いにも、引き戸であった。
少しだけ扉を開き、外の様子を伺う。
奉太郎「……何か、話し合っているな」
摩耶花「多分、二手に分かれようとかそんな感じでしょうね」
奉太郎「だろうな」
さて、どうするか。
このままではいずれ、俺と伊原は見つかってそのまま負けてしまう。
……今のこの状況を、どうにか打破しなければいけないのだ。
奉太郎「俺達も、二手に分かれよう」
摩耶花「でもそれは、最初に駄目って言ってなかった?」
奉太郎「状況が変わった、そうしなければ負けるぞ」
摩耶花「……分かった」
摩耶花「って言っても、どうやって分かれるの?」
伊原の疑問はもっともだった。
確かにこの物置部屋の中だけで、分かれるとはいかないだろうから。
奉太郎「恐らく片方……里志が部屋の捜索に刈り出るだろう」
奉太郎「この物置から一番近い部屋に入った瞬間、俺が外に出る」
摩耶花「……なるほど」
摩耶花「それで、ふくちゃんを挟み撃ちって事ね」
奉太郎「それは俺が千反田を倒せた時、だな」
奉太郎「しかし俺が考えているのは少し違う」
摩耶花「……つまり?」
奉太郎「なんとか千反田の所を突破する」
奉太郎「そうした方が、勝算はあるだろ」
奉太郎「豆のぶつけ合いになってしまっては、俺達の体力は少し心許ない」
摩耶花「確かにそれはそうだけど……うまくいくの?」
奉太郎「さあな、やってみなければ分からん」
成功率は五分と言った所か。
奉太郎「ああ、それと」
俺は伊原に少しばかりの作戦を提案した。
摩耶花「……おっけー」
それに伊原は乗る、奥の手もあるが……まだ使う時では無いか。
外の様子を見ると、里志は丁度一番近い部屋に入る所だった。
……よし、行くか。
勢い良く扉を開け、そのまま走る。
千反田は一瞬驚いた顔をしていたが、すぐに俺に向かって豆を1つ投げてきた。
それを避けつつ、千反田に迫る。
近づく前に、千反田に向かって豆を5個同時に投げる。
える「きゃ!」
千反田の短い悲鳴は、俺の豆のいくつかが命中した事を告げていた。
1……2……2個か。
さっきの対峙で、俺は1つぶつけている……つまり。
千反田の体力は、残り2か。
俺はすぐに千反田を倒すべく、投げる構えをした。
ここで千反田を倒せれば、里志を挟み撃ちにできる……それは多分、最善の成功例だろう。
しかし、その直後……俺の動きを止める出来事が起きてしまった。
える「ご、ごめんなさい」
千反田が……しゃがみ込んでしまったのだ。
える「わ、私……折木さんと敵は、嫌なんです」
える「もう、やめてください……」
奉太郎「……わ、悪い」
える「……いえ、大丈夫ですよ」
奉太郎「……すまなかったな」
える「あ、あの」
える「ちょっと、いいですか」
そう言い、千反田は俺の顔を見てくる。
……少しだけ違和感を感じたが、特に気にする事も無くそのまま千反田へと近づいて行った。
奉太郎「どうした」
える「ごめんなさい!」
千反田はそう言い、俺に豆を3つ放ってきた。
……くそ、やられた。
まさか千反田がこんな行動をするとは、全く予想していなかった。
近づきすぎていた俺に、その豆を避ける暇は無く、全てが命中する。
奉太郎「……」
える「こ、これは福部さんに教えてもらった事なので……」
若干の冷や汗を流しながら、千反田は必死に言い訳をしていた。
そんな千反田に向かって、俺は片手に持っていた約10個の豆を全て千反田に投げつける。
投げつけると言っても、さすがに本気でぶつけたりはしないが。
無音で豆達が千反田にぶつかり、床へと落ちて行った。
える「……ぶつけすぎです」
奉太郎「……そうでもないな」
なんにせよ、これで千反田の体力は0となった筈。
奉太郎「さて、手持ちの豆を渡してもらおうか」
える「えっと、それなんですが」
その時、俺の後ろから声が掛かる。
里志「どうやら、同じ事を考えていたみたいだね」
奉太郎「……そういう事か」
里志「千反田さんはもう、豆を持っていないよ」
里志「4つを残して、僕に全て渡していたからね」
里志「丁度ホータローを倒せる数、渡していたんだけどね」
里志「そこまでうまくはいかなかったみたいだ」
奉太郎「……なるほど」
奉太郎「それに同じ事、と言うと」
その俺の言葉を聞いていたのか、伊原が里志の後ろから顔を出した。
摩耶花「……ごめん、やられちゃった」
奉太郎「気にするな、こうなるかもしれないとは思っていた」
里志「……さすがだね」
里志「でもまさか、摩耶花の手持ちを全部ホータローが持っていたのは予想できなかったなぁ」
そう、俺は伊原の豆全てを渡してもらっていたのだ。
奉太郎「このまま一騎打ちと行きたい所だが……」
奉太郎「一旦退かせて貰おう」
俺はそう告げると、その場を走り去る。
……少し、面倒な事になってしまったな。
残り体力/所持豆数
奉太郎:残り体力1/豆の数4
摩耶花:残り体力0/豆の数0
里志:残り体力5/豆の数8
える:残り体力0/豆の数0
~える/里志~
折木さんにまたしても、やられてしまいました。
それに結局、逃げられてしまいます。
える「ふ、福部さん! 早く追いかけないと!」
私がそう言うと、福部さんはいつもの笑顔からもう少しだけ笑い、答えました。
里志「まあまあ、慌てないで」
里志「……落ちてる豆を、数えよう」
える「そんな事してどうするんですか?」
里志「ホータローの手持ちの豆の数が分かる」
里志「場合によっちゃ、わざわざ見つけ出さなくても僕達の勝ちさ」
そう言うと、福部さんは廊下に散らばった豆を数え始めました。
5分ほど豆を数え、私の方に向き直り、口を開きます。
里志「やっぱりね」
里志「僕達の勝ちだ」
える「……どういう意味ですか?」
里志「千反田さんの周りに落ちている豆は15個」
里志「今まで投げられた豆を計算すると……」
里志「ホータローの手持ちは4個なんだよ」
える「ええっと……あ!」
える「福部さんの体力は5、ですよね」
里志「そういう事さ」
里志「全ての豆をぶつけられても、負けはありえない」
なるほど……確かに、豆の数を数えたのは正解でした。
やはり、福部さんも中々に手強い方です。
味方となれたのは、良かったかもしれません。
里志「それと、一つお願いがあるんだけど……いいかな」
える「はい? なんでしょうか」
里志「最後は一対一で、話がしたいんだ」
里志「だから、千反田さんはそのまま豆を持たなくてもいいかな」
える「……ええ、勿論いいですよ」
える「ここまで追い詰められたのも、福部さんのおかげですから」
里志「はは、千反田さんも中々の名演技だったよ」
える「え、ええと」
える「……実は少し、本心でした」
里志「……やっぱり、千反田さんは千反田さんだ」
里志「さて、と」
里志「そろそろ決着を、付けにいこうか」
える「ええ、そうですね」
そういえば、先ほどから摩耶花さんの姿が見えません。
……ですが、合流されても問題は無いでしょう。
折木さん達が持っている豆を全て、福部さんに当てたとしても……福部さんが全て外さない限り、私達の勝ちです。
……折木さんに勝負事で勝てると言うのは、少し気分がいいかもしれません。
~奉太郎/摩耶花~
さて、向こうも気付いた頃か。
だが全ての豆を避けるのは中々難しい、それに加えうまくやったとしても引き分けがいい所だろう。
……まあそれも、俺は分かっていた事なのだが。
奉太郎「どうするか」
摩耶花「どうするかじゃないでしょ、あんたがあんなに豆を使わなければこんな事にはならなかったのに」
奉太郎「ま、そうだな」
摩耶花「それで、どうするのよ」
奉太郎「……伊原」
奉太郎「お前はこの勝負、どうなると思う?」
摩耶花「どうって言われても」
摩耶花「負けか、あるいは引き分け」
摩耶花「……それと」
そこで伊原は一旦言葉を区切り、いかにも悪そうな笑顔をする。
摩耶花「私達の勝ち、かな」
奉太郎「そうだな、それしかない」
奉太郎「……準備は、出来てるか」
摩耶花「勿論、その為にわざわざここまで来たのよ」
奉太郎「なら、そろそろ行くか」
摩耶花「……そうね」
タイミング良く、居間の外から里志の声が聞こえてきた。
それはどうやら、俺に諦めろと説くような内容であった。
……あいつらしいと言えば、そうかもしれない。
里志「ホータロー、そろそろ諦めたらどうだいー?」
声が近くなる。
恐らくもう、目と鼻の先に里志と千反田は居るだろう。
俺はゆっくりと立ち上がり、廊下へと続く扉を開く。
そのまま廊下に出て、声の方を見据える。
奉太郎「どういう意味だ、里志」
里志「自分で気付いていなかったのかい?」
里志「……少し気になるけど、まあいっか」
里志「僕はまだ、体力が5あるんだよ」
里志「豆の数は8個、言ってる意味は分かるよね」
奉太郎「……はあ」
奉太郎「それに気付かない事を祈っていたんだがな」
奉太郎「……くそ」
俺は右の拳を握り締める。
里志「何年友達をやっていると思っているんだい」
里志「そのくらい、すぐに気付くよ」
奉太郎「そうか、どうやらこの勝負」
奉太郎「俺達の負けみたいだな」
里志「……うん、そうみたいだ」
里志にはそのまま俺に、豆をぶつけると言う手段も取れただろう。
しかし、里志は手に持っていた豆を一つ……廊下に落とす。
里志「僕はね」
里志「無理にホータローに豆をぶつける趣味は無いんだ」
奉太郎「……なるほど」
奉太郎「つまりお互い豆を落として、終わりにしようと言う事か」
里志「察しが良くて助かるよ、その通りだ」
……悪い案では無い、俺も別に豆をぶつけられたい訳じゃないしな。
俺は言葉を返す変わりに、一つ豆を捨てる。
それを見た里志は、いつもより更に口角を引き上げて、もう一つ豆を落とす。
一回、二回、三回。
里志「それでホータローは手持ちの豆が無くなった訳だ」
里志「僕も、全部落とすよ」
そう言い、里志は全ての豆を廊下に落とす動作を取った。
……これで、終わりだな。
~える/里志~
私は後ろから、その光景を眺めていました。
お二人が一つずつ、豆を廊下に落として行きます。
……少し勿体無い気もしますが、捨てる訳では無いので我慢です。
そして折木さんが豆を4つ落とした後、続いて福部さんも豆を落とし……
ちょっと待ってください。
私が知っている折木さんは、こう言っては何ですが、たかが遊びであそこまで悔しがるでしょうか?
……拳を握り締める程、悔しそうにしている折木さんはなんだが不自然なんです。
何故かは分かりませんが、嫌な予感がします。
える「ふ、福部さん!」
私は福部さんに声を掛けますが、時既に遅し……全ての豆は廊下へと落ちました。
次に折木さんの顔を見た私は、後悔する羽目になります。
折木さんは……小さく、笑っていたのです。
……もっと考えるべきでした。
える「何故、笑っているんですか」
奉太郎「分かるだろ、俺達の勝ちだからだ」
える「もう豆は無い筈です、それはしっかりと確認しているんですよ」
奉太郎「なら確認が甘かったって所だな」
そう言い、折木さんは握ったままの拳を私達の方に差し出します。
そのまま手の平を上に向けて、開きました。
……そこには、大量の豆が……あったのです。
里志「……どういう事だい」
何故あんなに豆を……もしかして、拾ったのでしょうか?
える「豆を拾ったのですか?」
私はそのままの疑問をぶつけます。
しかし。
奉太郎「それはルール違反だろ」
奉太郎「拾ってはいない」
える「……なら、何故豆を持っているんですか」
奉太郎「分けたんだよ、皿に乗っていた豆を」
分けた……とは、どういう意味でしょうか。
それを聞く前に、折木さんは再び口を開きます。
奉太郎「俺達はな、豆を持ち込んでいたんだ」
奉太郎「そして始まってからその豆を皿に乗せ、半分にした」
奉太郎「しっかりお前らの分もまだ皿に乗っているぞ」
……卑怯じゃないですか!
奉太郎「……なんだか言いたそうな顔だな」
奉太郎「だがルール違反ではない」
奉太郎「皿に乗せた後で分けたなら、そうだろ?」
里志「……確かに、ルール違反では無いね」
なら、なら今の内にお皿の所まで行き、私たちも豆を補充すれば……!
そう思い、振り返ると……
摩耶花「ごめんね、ちーちゃん」
摩耶花さんが、立ち塞がっていました。
奉太郎「だから言っただろ、俺達の勝ちだって」
里志「はは」
里志「参ったよ、僕達の負けみたいだ」
里志「でも一つだけ、教えて欲しい事がある」
奉太郎「なんだ」
里志「どうして僕が、自らの豆を捨てると思ったんだい?」
確かに、福部さんがこの案を出さなければ……折木さん達にはいくら豆があっても確実に勝てはしなかったでしょう。
奉太郎「おいおい里志」
奉太郎「俺はお前がどの様に行動するかくらい、分かるさ」
奉太郎「さっき自分で言ってただろ」
奉太郎「何年友達をやっていると思っているんだ、とな」
里志「……そうだった、すっかり忘れてたよ」
福部さんはそう言い、両手を挙げます。
私もそれに習い、両手を挙げ、降参の意を示しました。
里志「一思いにやってくれると、助かるね」
奉太郎「……ああ、そのつもりだ」
この豆まきで、私が最後に見た光景は……私達に降りかかる、大量の豆でした。
~縁側~
える「それにしても、なんで私も巻き込まれなくてはいけなかったんですか」
奉太郎「仕方ないだろ、位置が悪かったと思え」
える「それでも納得できません」
まあ確かに、投げすぎた感はあったが。
里志「いやあ、見事にやられちゃったね」
里志「やっぱりホータロー相手だと、分が悪すぎる」
摩耶花「ちょっと、私は居ても居なくても変わらないって言いたいの?」
里志「そ、そういう訳じゃないよ」
あれだけ動き回ったのに、こいつらは良くこんな元気がある物だ。
……ああ、そういえば。
奉太郎「豆がまだ残っているんだが、食べるか」
俺はそう言い、三人に向け豆が入った袋を出す。
どうやら意見は同じだった様で、全員の手が袋に伸びる。
俺も豆を数粒取り出し、口の中に放る。
ポリポリとそれを咀嚼し、飲み込む。
……うまいな。
奉太郎「今日はちょっと、動きすぎた」
摩耶花「いつも動かない分、動いたって考えればいいんじゃない?」
える「たまにはいい物ですよ、体を動かすのも」
里志「そうだね」
……俺はそこまで動かない奴だっただろうか。
奉太郎「帰ってゆっくり風呂にでも入りたい気分だ」
里志「お、それには同意するよ」
摩耶花「……私も」
奉太郎「一致したな、帰るか」
その俺の言葉を聞き、千反田を除く三人は立ち上がる。
帰って風呂に入り、コーヒーでも飲んで残りの時間はゴロゴロしてよう。
本来休みとは、そういう物だから。
……しかしそれは、叶わぬ望みとなってしまう。
今日、色々と作戦を練ったが……これだけは予想外だった。
と言うのも……
える「駄目ですよ、まだ帰っては駄目です」
奉太郎「なんだ、また豆まきでもするのか」
える「いえ、そういう訳では無いです」
奉太郎「なら」
える「私の家を、汚したままにするつもりですか」
ええっと……何個投げたっけか。
最初に配られたのは全員合わせて40個か。
それは全員使った筈。
だがその後に俺と伊原は豆を補充している。
あれは何個だったっけか。
確か……
いや、考えるのはやめよう。
俺が考えるのをやめたのにはしっかりとした理由がある。
俺と伊原が持ち込んだ袋には豆が100個入っている。
それを半分に分けて俺達が使ったのは50個。
25個ずつ伊原と分け、俺はその25個全てを千反田と里志に投げつけた。
そして、何故か終わった後に伊原が喜びのあまり豆を上に向かって投げたのだ。
つまり拾わなければいけない豆の数は……90個。
あ、しまった……結局考えてしまったではないか。
……もういい、無駄な事は考えずに豆を拾おう。
える「皆さん、全部しっかりと拾ってくださいね」
そうしなければ、俺達はいつまで経っても家に帰れないからである。
~折木家~
結局家に着いた頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
そんな俺を待っていたのは、鳴り響く電話だったが……
誰も居ない様で、仕方なくそのまま俺は電話を取る。
奉太郎「折木です」
える「あ、折木さんですか?」
奉太郎「今、そう言った筈だが」
える「あ、いえ……私が言いたかったのはですね」
える「私が知っている折木さんか、そうではない折木さんか、という事でですね」
える「それはつまり、折木さんのご家族の方の可能性もあったので……」
奉太郎「やめてくれ、用件はなんだ」
放っておいたらいつまでも続きそうで、俺は手短に用件だけを聞くことにした。
える「は、はい」
える「実はですね、少し……やってみたい事があるんです」
奉太郎「やってみたい事? 気になる事では無くてか」
える「今回は少し、違います」
える「私がやってみたい事と言うのは……」
その内容を聞いた俺は、とても驚いたのを覚えている。
千反田からそんな提案があるとは、露ほども思わなかったからである。
それが面白くて、俺は珍しくその提案に乗ることにした。
奉太郎「……分かった、乗ろう」
える「ほんとですか、ありがとうございます」
……明らかに俺向きでは無いが、それもまた意外性があってこの提案にはいいかも知れない。
ゆっくり、進めていけばいいだろう。
とりあえず今日は風呂に入ろう。
奉太郎「じゃあ、またな」
える「ええ、また明日」
……さて、今日は豆の夢を見そうになりそうだ。
来年は普通の豆まきがしたい、切実に。
そんな事を思いながら、俺は風呂場へと向かった。
第4話
おわり
摩耶花「うーん……」
える「難しいですね」
える「こっちのは、どうでしょう?」
摩耶花「それもちょっと、私には出来なさそうかな」
える「そうですか……」
似たような光景は去年も見ていた。
場所も同じ、古典部で。
奉太郎「今年もやるのか」
摩耶花「当たり前でしょ」
奉太郎「……ご苦労様」
そう、バレンタインデーが近づいているのである。
去年は結局、里志はちゃんとチョコを受け取らなかった。
しかし今年なら……しっかり受け取るであろう。
それなのに何故、こんなにも悩んでいるのだろうか。
……俺には到底理解できない事だな。
える「折木さんはどう思いますか?」
不意に声を掛けられ、千反田の方に顔を向ける。
千反田の顔の距離には……未だに慣れない。
奉太郎「お、俺に聞いてもどうしようもないだろ」
わずかに身じろぎしながら俺は答えた。
摩耶花「ううん……」
摩耶花「……そうだ」
伊原は何やら思いついた様で、それに対して興味も無い俺は読んでいた小説に視線を戻す。
摩耶花「折木」
奉太郎「なんだ」
視線はそのままで、声だけを返す。
摩耶花「あんた、チョコ食べたくない?」
奉太郎「俺にくれるのか」
摩耶花「そんな訳無いでしょ」
摩耶花「毒見してみる気は無いかって聞いてるのよ」
つまり、里志に喜んで貰える様なチョコを俺が食べて、それを評価しろという事か。
……しかし自ら毒見と言うとは、ちと怖い。
える「それはいい案ですね!」
いや、全く良くは無いだろう。
える「折木さん! 是非お願いします!」
奉太郎「いや……俺は」
える「折木さん!」
こうなってしまっては、もう俺に逃げ場は無い。
まだ日曜日にやった豆まきの疲れが残っていると言うのに、更に働けと言うのか。
でもまあ……他にする事も無いし、いいか。
奉太郎「……分かったよ、やろう」
摩耶花「じゃー日曜日に集まろうか」
える「ええ、私の家でやりましょう」
こうして俺は里志にあげるのに相応しいチョコを選ぶ為、日曜日の予定を埋められた。
摩耶花「……ありがとね」
しかし、まあ……悪い気は、しないか。
~千反田家~
甘い。
まだチョコを食べている訳では無いが……匂いが甘すぎる。
俺は甘い物が好きと言う訳でも無い、どちらかと言うと逆だろう。
しかし当の千反田と伊原はとても楽しそうにチョコを作っている。
俺はそれからしばらく、その匂いと戦いながらチョコを待つ。
える「出来ました!」
そう言いながら、一つ目のチョコが運ばれてきた。
える「これは、ガナッシュです」
奉太郎「ほう」
とは言ったが、正直何の種類なのか見当も付かなかった。
える「本来は、トリュフ等に付けられるのですが」
える「これのみでも十分においしいので、どうぞ」
そうなのか。
まあ、食べない事には分からない。
そう思い、俺はチョコを一つ口に放る。
奉太郎「……甘いな」
える「ええっと……」
俺の反応があまり良く無かったと思ったのか、千反田はそのまま台所へと戻って行った。
いや、旨いと言えば旨かった。
だがちょっと、くどい様な感じの……そんな甘さだった。
台所で未だに作業をしている千反田と伊原に、風を浴びてくるとの事を伝え、廊下に出る。
……しかし、本当に俺がこの役目で良かったのだろうか。
里志とは食べ物の好き嫌いも違うだろうし、それに対して感じる事も違うと思う。
なら、そうか。
あくまでも一般的な意見を出せばいいのかもしれない。
主観的な意見では無く、客観的な意見か。
……ううむ、難しいな。
やはり俺には、この役目は少し向いていないだろう。
そんな俺の考えを遮る様に、後ろから声が掛かった。
える「次のチョコ、出来ましたよ」
奉太郎「ああ、そうか」
その言葉を聞き、俺は再び部屋に戻る。
える「どうぞ、これはおいしいですよ」
そう言い、差し出されたのは……
奉太郎「これ、チョコなのか?」
える「マカロンです」
俺はチョコなのかどうなのか聞いたのだが、千反田の答えは俺の疑問を解決してくれなかった。
もしかすると、単純にマカロンという言葉を俺が知らないだけで、何かの種類なのかもしれない。
しかし……見た目的にはどうみてもチョコでは無い。
だとすると、やはり。
奉太郎「マカロンか」
える「ええ、そうです」
奉太郎「……そういう種類のチョコなのか」
俺がそう言うと、千反田は首を傾げながら答える。
える「ええと、マカロンをご存知無いんですか?」
奉太郎「と言う事は、これはチョコでは無いのか」
える「チョコレートマカロンなので、チョコは入っていますよ」
なんとなく分かった。
つまり、マカロンにはいくつか種類があり、今俺の目の前にあるのはチョコが入っているマカロン……と言う事だろう。
奉太郎「そうか」
考え込むより、食べた方が早いだろう。
そう思い、俺はマカロンを口に入れる。
奉太郎「……甘いな」
える「あ、えっと……」
さっきと同じ感想だったのがあれだったのかもしれない。
千反田は言葉に詰まってしまっていた。
奉太郎「まあ……さっきのよりは、好きかな」
える「そうですか、では次のチョコを準備しますね」
まだやるのか。
俺は去る千反田の後ろ姿に心の中で呟き、天井を眺めた。
……
何か、おかしくないだろうか。
チョコをあげるのは里志であって、俺では無い。
つまり……俺が好きなチョコを作っても、里志は喜ばないかもしれない。
今、千反田と伊原がやっているのは、俺の感想を参考にチョコを作る……という作業である。
と言う事は、だ。
完成したチョコは多分、俺好みのチョコであって決して里志好みのチョコでは無いだろう。
似たような事をさっきも考えたな……結論は何だったか。
ああ、客観的な意見か。
さっきはすっかりと忘れていた、次は気をつけよう。
俺が再び結論を出した所で、丁度よく千反田がやってくる。
える「次の、持ってきましたよ」
える「チョコレートタルトです」
何だかさっきから、千反田がウェイトレスに見えて仕方ない。
口には出さないが。
奉太郎「そういえば伊原は何をしているんだ」
える「摩耶花さんですか、先ほどからずっと頑張っていますよ」
奉太郎「……そうか」
奉太郎「って事は、これも伊原が作ったのか」
える「ええ、勿論です」
える「今までのも全部、摩耶花さんが作ったんですよ」
それは驚いた、ほとんど千反田が作ってそれをあいつが手伝っていた物だと思ったが。
……あいつは見た目や性格に反して料理が出来るのか。
奉太郎「主に千反田が作ってる物だと思っていたよ」
える「ふふ、私は横で少しお手伝いしていただけですよ」
どうやら俺が考えていた事とは逆だったらしい。
そのお手伝いがどの程度なのかは分からないが、伊原も伊原なりに努力していると言う事だろう。
そう考えると、さっきまで適当な感想しか出さなかった自分に後悔してしまう。
奉太郎「ま、頂くか」
える「はい、どうぞ」
千反田の言葉を聞き、口に入れる。
さっきまでと同じ味だとしても、違う事を言おうとは思っていたが……今回のは素直に美味しかった。
奉太郎「……丁度いいかもな」
える「本当ですか!」
奉太郎「あ、いや……あくもでも、俺からしたらだぞ」
奉太郎「俺は里志じゃないから、あいつの好みは分からん」
摩耶花「やっぱり、そうよね」
俺の言葉を聞いていたのか、台所から伊原がやって来た。
摩耶花「折木には折木の好みがあるし、それはふくちゃんも一緒だよね」
奉太郎「まあ、そうだろうな」
ううむ、やはりもう少しちゃんとした感想を言えば良かったか。
奉太郎「でも、その……おいしかったぞ」
摩耶花「……そっか、ありがとね」
奉太郎「それに」
える「気持ちが大事、ですからね」
俺が言おうとしていた事を、千反田に見事予測されてしまった。
える「折木さんが前に仰っていたので」
摩耶花「折木が? へえ、折木がねぇ……」
そんな事、俺は以前言っただろうか?
える「前に、部室でお弁当を一緒に食べた時、言っていましたよ」
そんな疑問にすぐに千反田が答える、今の疑問は口に出していなかった筈だが……顔に出ていたのかもしれない。
奉太郎「あったっけか、そんな事」
える「ええ」
こいつがここまで言うからには、あったのだろう。
奉太郎「ま、そういう事だ」
摩耶花「分かった」
摩耶花「やっぱり私が作れる様な奴じゃないと、難しいしね」
奉太郎「なんだ、結局千反田が作っていたのか」
摩耶花「違うわよ、今日のはちゃんと私が作ったのよ」
摩耶花「本当よ?」
奉太郎「……分かったよ」
摩耶花「簡単に、って意味だからね」
摩耶花「ちゃんと分かってる?」
奉太郎「ああ、よく分かりました」
摩耶花「ならいいけど」
奉太郎「それで、もう今日はお開きでいいか」
摩耶花「うーん、そうね」
摩耶花「色々聞けて、いい物が作れそうだし……今日はお開きにしようか」
える「分かりました」
える「では私達は片付けがあるので、折木さんは先に帰りますか?」
奉太郎「あー、いや」
奉太郎「俺も手伝う」
える「そうですか、ではお願いします」
食べるだけ食べて、先に帰るのは流石にちょっと気が引ける。
二週連続で日曜日が使われてしまったのはいただけないが、仕方ないか。
食器の場所は千反田が把握しているだろうし、俺は皿洗いへと興じる事になった。
全ての片付けが終わり、外の景色を見ると既に日は沈みかけていた。
奉太郎「今年は多分、里志もちゃんと受け取ってくれるだろうな」
摩耶花「そうだといいんだけどねぇ」
える「大丈夫ですよ!」
縁側に腰を掛ける、ふと後ろを見ると俺たちの影が部屋の奥へと伸びていた。
摩耶花「あ、そういえばさ」
奉太郎「ん?」
摩耶花「ちょっとチョコ余っちゃったから、折木も持って帰ってよ」
奉太郎「別にいいが、そんなに作ったのか?」
摩耶花「うん、まあね」
そう言い、伊原から渡されたチョコはしっかりとラッピングがしてあった。
奉太郎「なんだ、余った物にこんなのはしなくて良かったのに」
摩耶花「まあまあ、そう言わずに」
何故か千反田がもじもじしているのが気になったが……
ま、いいか。
奉太郎「分かったよ、ありがとうな」
摩耶花「折木って、最近ちょっと素直になったよね」
奉太郎「最近は余計だ」
摩耶花「それと、ちーちゃんにもしっかりお礼言っておきなさいよ」
奉太郎「千反田に?」
摩耶花「いいから早く」
さっきまで普通の伊原だったが、凄むと怖い。
奉太郎「わ、分かった」
奉太郎「ありがとうな、千反田」
える「あ、い、いえ」
える「あの、それは余っただけですので、贈り物の内には入らないですよね」
奉太郎「ん? 何を言っているんだ」
える「な、なんでもないです!」
……よく分からんが。
気付けば影は消え、辺りは暗くなっていた。
奉太郎「……さて、帰るか」
摩耶花「そだね」
える「はい、お疲れ様でした」
~帰り道~
俺と伊原は千反田の家を後にする。
さすがに2月と言った所か、日が短い。
夏ならば多分、まだ薄暗い程度だろうが……既に周囲は真っ暗となっていた。
帰ってる途中、伊原と少し話をした。
摩耶花「それで、付き合ってるの?」
奉太郎「何が」
摩耶花「あんたとちーちゃん」
奉太郎「……そんな訳無いだろ」
摩耶花「いやいや、逆にびっくりなんだけど」
奉太郎「なんで」
摩耶花「だって、ちーちゃんが戻って来た時、その」
摩耶花「……抱きついてたし」
奉太郎「……ああ、まあ」
摩耶花「もうてっきり、折木が告白したのかと思ったよ」
奉太郎「……したさ」
摩耶花「え? ならもしかして」
摩耶花「振られたとか?」
奉太郎「どうだろうな」
摩耶花「何よそれ」
奉太郎「……いや、そうだな」
奉太郎「振られたというのが、一番近いかもな」
摩耶花「ふうん」
本当の所は、色々あって有耶無耶になっているだけであったが……
あれから千反田も特にその事については言わなかったし、俺も別段言う気は無かった。
摩耶花「有耶無耶になったとか?」
奉太郎「……千反田に聞いたのか」
摩耶花「違うわよ」
奉太郎「じゃあ、なんで」
摩耶花「勘」
さいで。
奉太郎「とにかく、そんな所だ」
摩耶花「なるほどねぇ」
奉太郎「……何か言いたそうだな」
摩耶花「そりゃね」
摩耶花「でもまあ、ゆっくり考えればいいと思うよ」
摩耶花「まだ1年あるんだし、ね」
奉太郎「ああ、そうだな」
確かに伊原の考えている通り、このままでは駄目だろう。
千反田との今の距離感は好きだったが……
このままで卒業したら、どうなるのだろうか。
俺には少し、難しい話か。
~折木家~
そういえば、先週の日曜日も千反田の家から帰った時は暗くなっていたな。
あそこに行くと、どうやら暗くなるまで帰れないのかもしれない……気を付けねば。
そんな事を考えながら、俺はベッドに横たわる。
去年は確か、姉貴に貰った一つを同じように部屋で食べたな。
今年はちょっと早く、一つだけチョコを貰えた。
貰えたと言っても、余り物だが。
ま、それでも貰えたには違いないだろう。
ラッピングを解くと、何の変哲も無い、普通のチョコがそこにあった。
俺はそのチョコをひとかじりする。
何故かそれは、とても俺好みの味だった。
第5話
おわり
える「あの、折木さん」
奉太郎「ん、どうした」
える「……綺麗ですね」
奉太郎「そうだな」
俺はあの公園で、千反田と一緒に花火を見ていた。
遠くであがる花火を見る場所としては、この公園は意外と侮れない。
える「もう、夏ですね」
奉太郎「ああ」
える「早い物です」
奉太郎「それは毎日、楽しいからじゃないか」
える「ふふ、そうでしょうね」
える「……ここに来ると」
える「どうしても、去年の冬を思い出してしまいます」
奉太郎「……俺もだ」
える「私、初めてでした」
そう言い、千反田は俺の手をゆっくりと握った。
奉太郎「……何が」
える「それを聞くのは、少し意地悪ですよ」
奉太郎「……すまんな」
千反田が言っているのは、恐らく。
える「初めての、キスでした」
奉太郎「……俺もだよ」
える「……そうでしたか」
える「それはとても、嬉しいです」
奉太郎「……そうか」
夜になり、セミは昼間よりも大人しい。
辺りには、遠くであがる花火の音だけが響いている。
奉太郎「……なあ」
える「はい、なんでしょうか」
奉太郎「このままで、いいと思うか」
える「……」
奉太郎「俺は」
一際大きな花火があがった。
そして丁度、音が届く頃に……俺は次の言葉を心から紡ぎだす。
次に俺の耳に聞こえてきたのは、耳障りな電話の音だった。
奉太郎「……夢か」
伊原と前に……確かバレンタイのチョコ作りの帰り道だったか。
あの時、千反田の事を話してからと言うもの、俺は今回の様な夢を何回か見ていた。
オチは必ず同じ。
俺が最後の言葉を言う前に、目が覚めてしまう。
全てが同じオチとは、大分つまらない夢である。
ああ、それよりもこんな朝っぱらからなんの電話だろうか。
そんな事を思いながら、時計に目を移した。
奉太郎「……なんだ、もう12時か」
春休みに入ってからと言う物、なんだか起きるのが遅くなって仕方ない。
今日はたまたま電話によって目が覚めたが……もし電話が来ていなかったらもう少し寝ていただろう。
まあそれも、この前の卒業式で大分疲れたからかもしれない。
卒業式と言っても、俺たちが卒業するのはまだ先だ。 およそ一年後か。
……これは今考える事では無いか、それよりもまずは電話に出よう。
俺はようやく部屋から出ると、リビングにある電話機へと向かった。
姉貴はどうやらまたしても居ない様で、他に電話に出てくれる人は居ない。
まだ完全に目が覚めていない中、受話器を取った。
奉太郎「……はい、折木です」
える「あ、千反田です」
奉太郎「……なんだ、千反田か」
える「あの、もしかして寝ていました?」
奉太郎「ああ……まあ」
える「駄目ですよ、休みだからと言って」
奉太郎「……気をつける」
奉太郎「それで、用事はなんだ」
える「あのですね」
える「去年と同じ頼みなんです」
奉太郎「去年……何かあったっけか」
俺はそう言い、カレンダーに目を移す。
今は四月……去年のこの時期は。
奉太郎「もしかして、雛祭りか」
える「はい、正解です」
……朝からクイズか。
奉太郎「……ああ、行くよ」
奉太郎「今年は見ているだけでもいいんだろ?」
える「あ、それは不正解です」
さいで。
奉太郎「なんだ、また人が足りないのか」
える「いえ、そういう訳では無いんです」
つまり、どういう事だ。
える「私が、お願いしちゃったんです」
奉太郎「何を」
える「傘を持ってくれる人を、です」
奉太郎「……ええっと」
奉太郎「また俺に傘を持てって事か」
える「はい!」
奉太郎「……いいのか、毎年持っている人が居るんだろ」
える「それなんですが、その子はどうやら雛祭りを一度、外から見てみたいそうなんです」
える「それで私も、折木さんに傘を持って欲しかったので……」
える「少し、無理を頼んじゃったんです」
そういう事か……
それで、俺が断ったら千反田はどうしたのだろうか。
奉太郎「俺が嫌だって言ったら、どうするんだ」
える「え? 駄目ですか?」
奉太郎「……いや、駄目ではないが」
える「ふふ、なら良かったです」
なるほど、俺が傘を持つのを断らないと踏んで……そうしたのか。
まあ、確かにそこまでやられてしまっては断れない。
俺も外から一度、見ては見たかったが……貴重な体験としては雛に傘を差す方が当てはまるだろう。
奉太郎「時間と場所は、去年と同じでいいのか?」
える「はい、宜しくお願いしますね」
奉太郎「ああ」
千反田はそれ以上言う事は無かった様で、簡単な挨拶をすると電話を切る。
……前の雛祭りの後、確か風邪を引いたな。
今年も同じ様にならなければいいが、大丈夫だろう。
例年よりも暖かい地球に感謝し、俺はカレンダーに予定を入れた。
四月×日
生き雛祭り
~水梨神社~
去年と似たような慌しさの中、準備が行われている。
俺はやはり、一人ストーブで温まりながらその時を待っていた。
今年は橋の工事も無く、行列は例年と同じルートを通るだろう。
……その事は少しだけ、俺を安心させた。
狂い咲きの下を通る千反田は、多分とても美しいだろうから。
それを見れないのは、ちょっと辛い物がある。
だがそれを見てしまえば、俺はまた……
なので今年は、少しだけ安心していた。
突如、気合の入った声が室内に響く。
どうやら時間が来た様だ、段取りは一緒の筈なので、俺はそのまま外に出る。
俺も傘を持ち、行列の中へと加わった。
やがて、人々が集まり、行列の形が彩られる。
そして……
ゆっくりと、去年と同じ様に。
最初に入須が出てくる、そしてその後に千反田。
俺が感じた事は、去年とほぼ同じだったと思う。
十二単を着た千反田はとても綺麗で、いつもの雰囲気は微塵も感じさせなかった。
それに若干目を奪われる。
なんだか、何時間も見ていたい気がしたが……そんな俺の思いを無視し、行列は歩き出す。
いかんいかん、しっかりと役目をこなさねば。
ルートこそ去年とは違うが、要領は同じだろう。
沢山の見物人が居て、その間をゆっくりと進む。
やはり今年は去年よりも暖かく、風邪を引くことは無さそうだ。
いや、俺も別にある程度の気温まで下がったら風邪を引く……なんて分かりやすい体をしている訳では無いが。
とにかく、その後の心配はしないで済むだろう。
そこまで考え、ふと気付く。
……あれ、去年よりも大分落ち着いているな。
確か前の雛祭りの時は、本当に情けなく、ぼーっとしていたと思う。
里志や伊原にも声を掛けられるまで気付かなかった。
しかし今年は、俺の方が多分、先に気付いたくらいの感じがした。
終わった後も、しばらく俺はぼーっとしていたし、色々と思う事もあった。
だが、まあ。
それに比べれば、今年は幾分かしっかりと歩けている。
そして、少しだけ……少しだけだが。
千反田と同じ場所を、歩けている気がした。
~千反田家~
える「お疲れ様でした」
奉太郎「そこまでの事じゃないさ」
俺と千反田は去年同様、縁側に座っていた。
今年は特に、千反田の気になる事が起きなかったので、こいつも大分楽に取り組めたのかもしれない。
える「どうでしたか、今年は」
奉太郎「どう、と言われてもな」
奉太郎「去年よりはしっかり出来たと思うが……」
俺がそう言うと、千反田は口に手を当てながら答えた。
える「ふふ、私も同じ事を思っていました」
奉太郎「なんだ、去年はそこまで駄目だったのか」
える「あ、いえ。 そういう事では無いですよ」
える「えっとですね、今年は少し」
える「折木さんと一緒に、歩けている気がしたので」
春を感じさせる陽光が、千反田の顔を照らしていた。
奉太郎「……そうか」
奉太郎「俺も、少しだけそう思ったな」
える「そうでしたか……一緒ですね」
何がそんなに嬉しいのか、千反田はやたらとにこにこしている。
奉太郎「……それよりも」
今日初めて見せた千反田の笑顔に、なんだか照れて、俺は話題を逸らす事にした。
奉太郎「この後も、用事はあるのか?」
える「あ、大丈夫ですよ」
える「今年は父が、ほとんど引き受けてくれています」
奉太郎「……病み上がりだろ、大丈夫なのか」
える「私もそう思ったんですが」
える「迷惑を掛けてしまったから、その分やらせてくれ、と」
奉太郎「なるほど、お前の父親らしいな」
える「立派ですよ、私なんか全然です」
奉太郎「と言うか、俺はお前の父親に会った事が無いな」
える「そうでしたっけ? それなら是非、今度会いませんか?」
千反田の父親か……いきなり男を紹介されて、例えそれが友達なだけでも大丈夫なのだろうか。
俺にはよく分からないが、あまりいい予感は出来ない。
奉太郎「千反田の父親って、どんな人なんだ?」
える「ええっと」
える「良く言われるのが、似ていると」
奉太郎「似ているのか」
える「らしいです」
える「私はそうは思わないんですけどね」
つまり、千反田の父親も好奇心の権化と言う事だろうか。
……想像するだけでも、恐ろしい。
奉太郎「さっきの話だが、遠慮させてもらう」
える「そうですか、ではまた次の機会と言う事で」
奉太郎「ああ、そうだな」
そこで千反田が首を傾げながら口を開いた。
える「ええと、それで折木さんは用事があるんですか?」
奉太郎「特には無いな」
える「そうですか、なら」
奉太郎「少し、散歩するか」
える「……はい!」
~公園~
奉太郎「結局ここか」
える「私の家から、結構近いですからね」
そう言うと、千反田はいつものベンチに腰を掛けた。
奉太郎「何か飲むか」
える「……いつもいつも、悪いですよ」
奉太郎「今度何か奢ってもらえればいいさ」
える「なら、そうですね」
える「コーヒーを貰いましょうか」
奉太郎「お前、駄目じゃなかったか」
える「そうなんですが、そういう気分なんです」
奉太郎「どうなっても知らんぞ……」
える「大丈夫ですよ」
俺は渋々、コーヒーを二つ買う。
そして一つを千反田に差し伸べると、声を掛けた。
奉太郎「渡す前に一つ聞きたいんだが」
奉太郎「……酔った時と一緒には、ならないよな?」
える「ええ、ただちょっと寝れなくなってしまうだけなので」
奉太郎「それもあれだがな……」
まあ、酔った時みたいにならないのなら……いいか。
あれは本当に、なんというか、面倒だから。
える「ありがとうございます」
そう言い、千反田はコーヒーを受け取った。
俺はそのまま千反田の横に腰を下ろす。
奉太郎「傘持ちも、慣れてきたのかもな」
える「ええっと、何故そう思ったんですか?」
奉太郎「去年より疲れてないから」
える「ふふ、それは良い事ですね」
える「なので来年も、お願いするかもしれません」
奉太郎「……いや」
奉太郎「1回くらい、外から見てみたい」
える「外から、ですか?」
奉太郎「行列を……」
奉太郎「雛を、外から見てみたい」
える「……そ、そうですか」
奉太郎「ま、どうしても傘を持ってくれって言うのなら、別にいいけどな」
える「……考えておきます」
そう言うや否や、千反田は早速考え込んでいた。
何やら難しい問題だとか、どっちにすればいいのかだとか言っていた様だが、俺の耳にはあまり聞こえてこない。
奉太郎「ああ、そう言えば」
奉太郎「入須は、何か言っていたか?」
える「入須さんですか」
える「ありがとう、と言っていましたよ」
奉太郎「それは俺になのか」
える「ええ、そうです」
奉太郎「俺が思うに」
奉太郎「お前自身に言ったのが、一番大きいと思うけどな」
える「え? 何故ですか?」
奉太郎「決まってる、卒業式の事だ」
える「……ふふ、あれですか」
える「正解でしたね、あれは」
奉太郎「そうだな、千反田の案に乗って良かった」
える「そんな事、ないですよ」
奉太郎「いや、正直驚いたぞ」
奉太郎「去年の秋以来、距離感みたいなのがあったからな」
える「え? 私と入須さんにですか?」
奉太郎「ああ」
える「でも、私が戻って来た時……入須さんは一緒に来てくれましたし」
奉太郎「……それは、千反田から見たらって事だろ」
奉太郎「俺には少し、入須から距離を取っている様に感じた」
える「そうだったんですか、全然分かりませんでした……」
奉太郎「それを気付いていて提案したんだと思っていたが……まあ、いいか」
える「……えっと、今はどうなんですか?」
奉太郎「今は、そうだな」
あれは確か……卒業式の少し前。
提案されたのは豆まきが終わった後だったか。
内容は確か、その時はとても単純な物だった。
ええっと……ああ、あれだ。
千反田は
える「入須さんを驚かせませんか?」
と言ったのだ。
しかし卒業式の日、俺たちも多少驚かされる事があったな……
あの日はとても寒かったのを覚えている。
三月の卒業式。
入須がこの神山高校を、去る日の出来事だ。
第6話
おわり
今日は卒業式、二年である俺達には関係無い事と思われるが……
俺はつい一週間程前に知ったのだが、どうやら二年生も参加しなければいけないらしい。
なんでも、次期最高学年として、とか。 三年生を一番知っているであろう君達に見送られ、とか。
そんな大層ご立派な理由があったからである。
勿論、それは今年から始まった事では無かった。
もっと言えば、つい一週間程前に決まった事でも無い。
ただ、俺が知らなかっただけだ。
そういう理由で、俺達二年生は学校へと来ている。
里志「いやあ、いよいよ僕達も三年生か」
奉太郎「三年になったからと言って、何かある訳でも無いだろ」
里志「……もっとこうさ、何か思う事とかないのかい?」
奉太郎「無いな」
里志「はは、随分ときっぱり言う物だね」
……里志にはそう言ったが、俺にも少しくらい思う所はある。
しかしそれは三年生になるからでは無い。
……今日の事だ。
千反田と少し前から計画していたある事の実行日だからである。
準備は全部終わっている、後はどう入須と話す機会を得るか、だ。
そこら辺を千反田は全く考えていなかった様で、仕方なく俺が入須に話しかける作戦を考える事になった。
える「おはようございます、今日はお二人とも早いですね」
噂をすればなんとやら、か。
奉太郎「俺はいつも早いつもりだが」
里志「そんな、僕だってそのつもりだよ」
俺と里志が千反田の言葉に待ったを掛けた所で、伊原が顔を見せた。
摩耶花「よく言えたわね、二人共」
摩耶花「それにふくちゃん、昨日も時間ギリギリだったよね」
里志「あ、あれは不可抗力だよ」
摩耶花「ふうん……」
朝っぱらから、いつも通りだな……こいつらは。
える「あ、あの!」
そんな里志と伊原の口論を千反田が止めた。
える「お話、してもいいでしょうか?」
摩耶花「あ、ごめんね」
里志「そう言えば、今日一度集まろうって言ったのは千反田さんだったね」
える「ええ、少し大事なお話があるんです」
俺は内容を知っていたが、もう一度整理する意味も含めて耳を傾ける事にした。
える「実はですね」
える「入須さんに、プレゼントを用意しているんです」
里志「卒業祝いって奴かな?」
える「勿論、その意味もあります」
える「他にも、入須さんには色々とお世話になったので……」
摩耶花「いいんじゃない? 入須先輩も喜ぶと思うよ」
える「……はい」
える「それでですね、なんとか入須さんとお話する機会を得たいのですが……」
奉太郎「ああ、大体は考えている」
俺がそう言うと、里志と伊原はこちらに顔を向けた。
摩耶花「あれ、折木は知ってたの?」
奉太郎「……まあな」
里志「知っていて黙っているなんて、何か言ってくれれば良かったのに」
奉太郎「ただ言いそびれただけだ」
える「ふふ」
える「あのですね、プレゼントはこれです」
千反田はそう言うと、持ってきていた小さな袋から手袋とマフラーを取り出した。
摩耶花「うわっ! すごい」
摩耶花「これ、手作りでしょ?」
える「ええ、まあ……」
里志「へえ、さすが千反田さんって言った所だね」
里志「見事な出来栄えだよ」
える「……季節外れかもしれませんが」
摩耶花「そんな事ないでしょ、また寒くなったら使えるんだし」
ううむ、居心地が悪いな、これは。
える「……実は、折木さんと一緒に作ったんですよ」
言うとは思ったが、やっぱり言って欲しくなかった。
摩耶花「え、折木も作ったって事?」
える「今、そう言いましたが……」
里志「横で文句言ってただけとかじゃなくて?」
える「しっかり作っていましたよ……」
こうなるからだ。
摩耶花「……意外と、やれば出来るんだね」
里志「……そうだね、なんでもやってみる物だ」
奉太郎「俺をやれば出来る子みたいに言うな」
奉太郎「それよりも、入須と話す機会の話だったろ」
える「あ、そうでした」
当の本人が忘れているとは、全く。
奉太郎「卒業式が始まる前は、流石に駄目だろうな」
里志「まあ、そうだろうね」
奉太郎「なら、終わった後だ」
摩耶花「でもさ、終わった後もクラスの人と話したり、どこかに遊びに行ったりあるんじゃない?」
奉太郎「……入須がわいわい皆とやると思うか?」
里志「……それは少し、想像し辛いね」
奉太郎「ならどうせ、終わったらさっさと帰るだろ、その時に声を掛ければいい」
える「入須さんはそこまで寂しい人じゃないと思いますが……」
確かに、入須も恐らく声を掛けられたらそれに付き合うくらいの事はするかもしれない。
だが、あくまでその前に声を掛ければ済む話だ。
それに俺達の用事と言う物はさほど時間を取らないだろうし、入須には少し悪いがクラスの用件を後回しにしてもらえばいい。
奉太郎「ま、とにかく終わった後に声を掛けよう」
奉太郎「誰も行かないなら俺が行くが、どうする?」
える「あ、私が呼びに行ってもいいでしょうか?」
恐らく千反田もどこか、入須と話す機会が欲しかったのかもしれない。
なら俺に、それを却下する理由は無かった。
奉太郎「じゃあそれは任せる、俺は部室で待っているよ」
里志「そりゃそうだ、ホータローが自ら動くのは似合わないよ」
奉太郎「……そりゃどうも」
里志「僕と摩耶花は、居てもいいのかな?」
える「ええ、お二人にも是非来て頂きたいです」
摩耶花「うん、分かった」
摩耶花「一緒にお祝いしよう、入須先輩を」
里志「あ、僕は委員会の関係でちょっと遅れちゃうから、もしかしたら居合わせられないかもしれない」
える「そうですか……」
里志「もし間に合いそうなら、すぐに行くよ」
える「はい! お待ちしていますね」
とりあえず、今日の予定は決まったか。
俺は卒業式が終わったら真っ直ぐ部室に行き、千反田が入須を連れて来るのを待っていればいい。
簡単な仕事である。
伊原もすぐに部室には来るだろうし、退屈はしないかもしれないな。
奉太郎「……そろそろ時間か」
里志「そうみたいだね、まずは卒業式」
里志「しっかりと、見送ろうか」
~卒業式~
体育館にはかなりの人数が集まっていた。
二年生全員、三年生全員、三年の保護者達、それに教師、来賓の人ら。
数えたら切りが無いだろう。
一番前は三年、次に二年、そして保護者達、と言った並び方になっていた。
右から順番に、クラス毎に用意された椅子に着く。
こんなにも人が居なかったら本でも読みたい気分だが……さすがにここまで人が居るとそんな気にもなれない。
俺は仕方なく、行儀良く式が始まるのを待っていた。
……眠いな。
思わずあくびが出てしまう、ばれないだろうし……いいか。
あくびが数回出た所で、校長と思われる人物が入ってきた。
辺りが静まり返る、ようやく始まるのか。
なんとも長ったらしい挨拶が終わると、中学生でもやっていた様な一連の流れが始まる。
まずは卒業生達が入場してきた。
うむ、ほとんど面識が無い。
入須は見当たらなかったが、多分群れの中にいるのだろう。
三年全員が席に着くと、早速卒業証書の授与が始まった。
……こう言ってはあれだが、とても退屈な時間だった。
その後は何やら、色々な代表達の挨拶が始まり、俺は特に誰かも分からなかったので聞き流す。
そして、在校生代表の挨拶がやってきた。
俺はこの時、多分誰とも知らない奴が挨拶するのかと思っていたが……代表として立ったのは、俺が見知った人物だった。
あいつ、在校生代表だったとは……全く知らなかったな。
まあでも、総務委員会に勤めているだけあって適任なのかもしれない。
そう、福部里志である。
少し遠かったが、いつもより幾分か緊張している様子だった。
里志『まずは、卒業生の皆様、おめでとうございます』
流石にいつもの調子は出ない様で、堅い挨拶をしている。
それが少しだけ面白く、俺は今日始めてその挨拶に耳を傾けていた。
里志はそのまま思い出等を語っていて、喋りだしてからは大分落ち着いている様に見えた。
あれは俺には出来ない、里志の持っている物だろう。
そして5分ほどで、里志の挨拶は終わった。
次いで、卒業生の挨拶が始まる。
呼ばれた名前は、入須。
……確かに入須なら、似合っているかもしれないな。
周りが一段と静まり返り、挨拶が始まった。
入須『本日は、私達の為に集まって頂きまして、本当にありがとうございます』
入須『そして、この様な盛大な卒業式を開いて頂き、ありがとうございます』
……さすがは女帝と言った所か。
緊張している様子も無く、しっかりと言葉を発していた。
まあ、いつもの口調とは違い、大分堅い感じがしていたが。
入須『思えば、私達が神山高校で過ごした三年間は、色々な方に支えられていました』
入須『文化祭、星ヶ谷杯、体育祭、球技大会』
入須『私達がこれらの行事に励めたのも、ここに居る皆様のお陰です』
入須『そして私達をここまで教えてくださった先生方、本当にありがとうございました』
入須『私達は今日、この学校で学んだことを胸に、それぞれの進路へと旅立ちます』
入須『卒業生を代表し、答辞とさせて頂きます』
入須『本当にありがとうございました』
中学の時なんかは、卒業生代表は最後まで言葉を言うのも辛そうな程、泣きそうだったが。
入須は違った、しっかりと最後まで、言葉を述べていた。
……しかし、何やら様子がおかしい。
答辞は終わった筈なのに、入須がそこを動こうとしなかったのだ。
それに先生や生徒も気付き始め、僅かに場がざわつく。
入須「……」
少しだけ、口が動いているのが見えた。
多分だが、私は。 と言ったのかもしれない。
入須『私には、謝らなければならない人が居る』
さっきまでの堅い感じは消えており、いつもの入須の口調へとなっていた。
それより、なんて事だ。
あの入須が、こんな形で俺と千反田に言葉を向けるとは。
入須『この場を借りる形になってすまない』
入須『ここで名前を呼ぶ訳にもいかない、だから』
入須『私の独り言だと思って、聞いてくれ』
先生らは、止めるか止めないか迷っている感じであった。
しかし、ここに居る人全員が入須の意思を汲んだのか、やがて場が静かになった。
入須『私は間違いを犯した』
入須『あの時は、それしか無いと思っていたんだ』
入須『だがそれは違うと教えてくれたのは、二年生の子であった』
言わずもがな、俺の事か。
入須『……そして私のした事は、一人の人間を酷く傷付けた』
入須『本当に、申し訳ない事をした』
そう言うと、入須は深々と頭を下げた。
こんな大勢の中で、まさか謝られるとは……全く予想外であった。
俺はつい、そのまま入須は壇上から降りて、式は予定通り進む物かと思ったが……
「それは違います!!」
どっからともなく、聞きなれた声が聞こえてきた。
あの馬鹿、そんなの後で言えばいいだろう!
「入須さんも、あなたも傷付いたではないですか!」
「顔を……顔を上げてください」
最後の言葉は消え入りそうな物だったが、辺りは静まり返っていた為か、入須までしっかりと届いていた。
入須『君も、彼と同じ事を言うのだな』
入須『……ありがとう』
そして、周囲の視線にやっと気付いたのか、千反田が慌てて席に着いているのがこちらからでも見えた。
入須『以上で私の挨拶は終わりだ』
入須『二年生諸君、時間を取らせてすまなかった』
入須『先生方、予定外の行動を取り、申し訳ありませんでした』
そう言い、二度頭を下げると、入須は壇上から降りた。
次に巻き起こったのは、盛大な拍手であった。
事情を知っているのは恐らく、俺と千反田に里志と伊原だけだろう。
しかしそれでも、入須の挨拶には人を惹きつける物があったのかもしれない。
……あいつは、最後の最後まで女帝だった。
~公園(現在)~
奉太郎「あれには驚いたな」
える「入須さんの挨拶ですか?」
奉太郎「なんとなく、いつかしっかりと話してくるだろうとは思っていたが」
奉太郎「まさかあの場面でするとはな」
える「私も驚きましたよ」
える「つい、返してしまいました」
奉太郎「俺はそれにも驚いたぞ」
奉太郎「確かあの時、後で言えば良いだろって思った」
える「気付いたときには、言葉が出ていて」
える「そして、次に気付いたときには、周りの方が私の方を見ていて……」
奉太郎「……いいんじゃないか」
える「……どういう意味ですか?」
奉太郎「千反田らしくて、いいんじゃないか」
える「あ、え、えっと。 ありがとうございます」
奉太郎「いや、別に褒めてはいないが」
える「……そうでしたか」
奉太郎「悪い事とも言ってないがな」
える「もう、はっきり言って欲しいです」
奉太郎「……まあ」
奉太郎「どっちかと言えば、良い方なんじゃないか」
奉太郎「俺からの視点だがな」
える「それだけ聞ければ、十分です」
それにしても、日が大分落ちてきている。
温度が少しだけ下がっているように感じた。
念のため何枚もシャツを重ねて、厚手の上着を着て来たのは正解か。
しかし千反田は簡単な物しか着ておらず、幾分か寒そうに見えた。
……別に自己犠牲、と言う訳でもない。
俺は本当にまだ寒いとは思っていない訳だし、上着を貸してやるのが普通だ。
奉太郎「……ほら」
える「え、悪いですよ」
奉太郎「去年は俺が風邪を引いて、今年はお前とかになったら笑い話にもならんだろ」
奉太郎「俺は大分暖かい格好をして来ているから、大丈夫だよ」
える「そうですか、ではお言葉に甘えて」
千反田が俺の上着を着た所で、再び思い出を掘り返す。
卒業式が終わった後の事。
終わり良ければ全て良しとは、いい言葉だと思う。
過程が悪くても、最後に笑っていられればいいのだから。
しかしそれも、今だから言える事か。
あの後、確か千反田はそのまま入須の教室へと向かったんだったな。
俺は古典部で、入須と千反田を待っていたんだ。
……少しだけ、悪い事をしてしまった。
第7話
おわり
それにしても、入須さんの突然の挨拶にはびっくりしました……
思わず大声をあげてしまい、恥ずかしい限りです。
でも……とても、嬉しかったです。
入須さんも最後は笑っていましたし、これにて一件落着……
ではありません!
私にはまだ、役目があるのでした。
危うくそのまま帰ってしまう所でした……
える「入須さんは教室でしょうか」
卒業式が終わって、三年生の方達が退場した後に、私達は教室へと戻ったのですが。
時間的にはそこまで経っていない筈です。
それならばまだ、入須さんは教室に居るでしょう。
私はそう思い、三年生の教室へと少しだけ急ぎながら向かいました。
~教室~
ええっと、入須さんは……
その時、後ろから声を掛けられます。
沢木口「あれ、君は確か……古典部の子だっけ?」
える「あ、ご無沙汰しています」
沢木口「それで、何か用事でもあったの?」
える「ええ、実は……」
私の用事をお話すると、沢木口さんは早速入須さんを呼び出してくれました。
……一年生の終わりに、迷惑を掛けてしまったというのに。
沢木口さんはそんな事は無かったかの様に、私に笑顔を向けています。
える「あの、ありがとうございます」
沢木口「いいって、気にしないで」
そう言うと、沢木口さんは友達の所へと向かっていきました。
その後、数分待った後、入須さんがやって来ます。
入須「千反田か、さっきはすまなかったな」
える「びっくりしましたよ」
入須「……そうだな」
入須「あの場面で、あの様に呼び掛けるのが一番効果的だと思ったから」
入須「と言うのはどうだろうか」
える「え、そうだったんですか」
入須「ふふ、嘘だよ」
入須「あれは私の言葉だ」
える「……そうですか、良かったです」
入須「にしても、千反田はもう少し人を疑った方がいいと思うぞ」
える「入須さんの言っている意味は、分かります」
える「でも、それでも」
える「私は、人を信じる方が好きですから」
入須「……そうだったな」
そこで一度会話が途切れ、示し合わせた訳でも無く、私と入須さんは教室内の喧騒を眺めていました。
入須「それで、用事とは何だ?」
顔をそのまま動かさないで、入須さんは言いました。
える「あ、そうでした」
える「お時間は取らせませんので、付いて来て欲しい場所があるんです」
私がそう言うと入須さんは少しだけ困った顔をします。
入須「……実は、クラスの奴等と予定があってな」
える「……わ、分かりました」
だ、駄目です。
このままでは古典部の皆さんに合わせる顔がありません……
入須「申し訳ないが、別の日でもいいか」
える「え、えっと……」
私が戸惑っていると、教室の中から声が聞こえてきます。
それは、入須さんに向かって発せられていた声でした。
内容は、こっちを後回しにすればいい、との物で……
私はやはり、人に助けられていてばかりの様な気がします。
入須「……との事だ」
入須「なら断る理由が無くなったな、行こうか」
える「は、はい! ありがとうございます」
私は入須さんに頭を下げ、教室内に居る方達にも頭を下げました。
……良かったです、これで入須さんを驚かせる事が出来ます!
私の足取りは軽く、入須さんとお話をしながら古典部へと向かいました。
~古典部~
える「着きました、入須さん」
入須「ここは、古典部か」
える「はい、とりあえず中に入りましょうか」
入須「ふむ、そうだな」
古典部の前でそう話をし、私は扉を開けます。
中には既に、折木さんと摩耶花さんが居ました。
福部さんはまだ、来ていない様です。
……でも、何か変です。
これから入須さんを驚かせると言うのに、二人ともどこか浮かない顔をしていたのです。
……福部さんが来ていないからでしょうか?
いいえ、それは違う筈です。
摩耶花さんは分かりませんが、折木さんは例え福部さんが居ないとしても、ここまで分かりやすく暗い顔はしない筈です。
あくまでも、私の経験上……ですが。
える「あ、あの」
奉太郎「千反田か」
私が声を掛けた事でようやく、折木さんはこちらに顔を向けました。
……やはり、いつもと少し違う様な。
える「あの、何かあったんですか?」
入須さんも異変には気付いた様で、扉の近くで待っていてくれました。
奉太郎「……ちょっとな」
摩耶花「ち、ちーちゃん」
摩耶花「そ、その……ごめん」
何故、摩耶花さんは私に謝るのでしょうか?
える「ええっと……」
私がそう言い、考えていると、折木さんが口を開きます。
摩耶花さんはまだ何か言いたい様な顔をしていましたが、それを遮るように折木さんは言ったのです。
奉太郎「簡単に言うぞ」
奉太郎「手袋に穴が開いた」
える「……どういう意味ですか?」
奉太郎「聞くより、見たほうが早いだろ」
そう言い、折木さんは私に手袋を差し出します。
……それは確かに、少しだけですが、穴が開いています。
摩耶花「……それ、その」
奉太郎「部室の鍵が開いていたんだ」
奉太郎「それで、俺と伊原が来た時には既にこうなっていた」
奉太郎「そうだろ?」
折木さんはそう言い、摩耶花さんの方に顔を向けます。
摩耶花「……」
摩耶花さんはその言葉に答えませんでしたが、折木さんが言うからにはそうなんでしょう。
なるほど、摩耶花さんが先程、私に謝ったのは恐らく……しっかりと見張っていられなかったからでしょう。
でも、一体誰が……
える「……酷いです、こんなのって」
える「あんまりです」
そこで、後ろで待っていた入須さんが声を掛けてきます。
入須「大体の事情は分かった」
入須「千反田はその手袋を、私にプレゼントしようとしてくれたんだな」
える「……はい」
入須「だが、何者かによって手袋には穴が開けられた」
入須「そうだな?」
奉太郎「……ええ」
入須「それが何だ、縫えばすぐに治るだろ」
える「で、ですが!」
入須「もしかして」
入須「私に裁縫は無理だと言いたいのか?」
える「そ、そういうつもりではないです」
入須「ならいいじゃないか、是非渡してくれ」
その言葉を聞き、私は一度、折木さんの方へと顔を向けます。
奉太郎「貰う人がああ言ってるんだ、渡してやれ」
える「……分かりました」
こんな形になってしまいましたが……入須さんは、喜んでくれるのでしょうか。
それだけが少し、心配です。
私はそんな事を思いながら、手袋とマフラーを入須さんに渡しました。
入須さんはそれを受け取ると、とても優しそうな笑顔で、こう言いました。
入須「最高のプレゼントだよ、ありがとう」
える「は、はい!」
える「あの、それは折木さんも作ったので……」
入須「そうなのか、ありがとうな」
入須さんはそう言うと、折木さんに頭を下げました。
奉太郎「……余計な事を」
口ではそう言っていましたが、照れているのはすぐに分かります。
そしてその後、入須さんはクラスの方達との用事もあり、教室へと戻っていきました。
なんだか、今日別れても、また入須さんとは会えるような……私にはその様に感じられました。
……それより!
える「折木さん」
える「私、気になります!」
奉太郎「……何がだ」
折木さんも、私が何に対して気になるのかは分かっていた様で、暗い顔をしながら答えました。
える「……今回の事です」
奉太郎「駄目だ」
える「何故ですか、私……どうしても」
そこまで言った時、古典部にまた一人、やってくる人物が居ました。
このタイミングで来るのは恐らく、福部さんでしょう。
里志「ごめんね、遅れちゃった」
える「お疲れ様です、福部さん」
里志「うん、疲れたよ……って」
里志「何かあったのかい? 皆」
やはり福部さんも、部室の空気に気付いたのでしょう。
折木さんも摩耶花さんも説明する気が無い様だったので、私がゆっくりと説明をします。
……説明するのには、あまり慣れていないせいもあって、随分と回りくどい説明になっていまいましたが。
里志「なるほど、そういう事か」
里志「それで、ホータローは何か分かったのかい?」
奉太郎「……何も」
里志「本当かい? 僕が見た限り、何か分かっている顔だけど」
える「そうなんですか? 折木さん!」
やはり、折木さんは分かっていたのでしょう。
それならば、聞かない以外の選択はありません。
ですが……
奉太郎「分からないと言ってるだろ」
奉太郎「……帰る」
そう言い、折木さんは鞄を手に取ると、部室を後にしようとします。
える「ま、待ってください」
私はそれを見て、付いて行きます。
一度、福部さんと摩耶花さんの方に振り返り、顔を見ました。
福部さんは困ったような顔をしていて、摩耶花さんは未だに暗い顔をしています。
福部さんと摩耶花さんを残して帰るのは気が引けますが……
折木さんがここまで答えない理由が、少し気になってしまうのです。
そして私は、折木さんの後に続きました。
~帰り道~
学校から出て、前を歩いている折木さんを見つけます。
私は駆け足で近寄り、横に並んで歩き始めました。
奉太郎「悪いな、さっきは」
える「……いえ、気にしないでください」
奉太郎「いつも自分は気になると言うのに、気にしないでと来たか」
える「……あの」
奉太郎「気になるか、さっきの事」
える「気にならないと言えば、嘘になってしまいます」
える「……やはり、気になります」
える「折木さんには、嘘を付きたく無いんです」
奉太郎「そんなの、小さい事だろ」
える「どんなに小さくても嫌なんです」
奉太郎「……」
その後、私と折木さんの間を少しの沈黙が包みます。
奉太郎「……はあ」
奉太郎「……お前には、話しておくべきか」
える「えっと……」
奉太郎「さっきの事だよ、他言無用で頼むぞ」
える「それを決めるのは、聞いた後がいいです」
奉太郎「……ああ、分かった」
そう言うと、折木さんはゆっくりと話し始めました。
奉太郎「まず、俺と伊原が部室に行った時、鍵は閉まっていた」
える「でも、さっきは開いていたと……」
奉太郎「あれは嘘だ、すまんな」
える「では、一体何故?」
奉太郎「つまり……」
奉太郎「今日、古典部の部室を訪れたのは……卒業式が終わった後は俺と伊原だけになる」
える「……そうなりますね」
奉太郎「そして、俺と伊原は部室でお前が来るのを待っていたんだ」
奉太郎「いつもみたいに席に着いて、な」
奉太郎「その時、入須へのプレゼントは部室に置いていただろう?」
える「ええ、あれを持ち歩くのは少し、大変そうだったので」
奉太郎「それで、伊原が俺にもう一度プレゼントを見ていいか聞いてきたんだ」
奉太郎「それを断る理由なんて無い、俺は見ていいぞと言った」
える「……はい」
なんとなく、私にも分かってきました。
奉太郎「机は木で出来ているからな」
奉太郎「しかも結構古い、ささくれている部分がいくつかあった」
奉太郎「それにあいつは、伊原は手袋を引っ掛けてしまった」
える「……」
奉太郎「気付いた時には、あの状態になっていた」
奉太郎「……そういう事だ」
える「……そうでしたか」
奉太郎「俺には皆に話すという選択もあったがな」
奉太郎「結果的にお前には話してしまったが、まあ」
奉太郎「一番悪いのは、俺だろうな」
える「何故、そう思うんですか」
奉太郎「さっきも言っただろ、話すという選択もあったんだ」
える「違います、そんな選択はありませんでした」
奉太郎「……どういう意味だ」
える「私は、少なからず、折木さんについては知っているつもりです」
える「他の人なら分かりません、ですが」
える「折木さんにとっては、摩耶花さんを庇う以外に選択は無かった筈です」
私がそう言うと、折木さんは顔を私とは反対側に向け、小さく呟きました。
奉太郎「……どうだかな」
える「ですが、今……この場なら、選択は他にもあります」
奉太郎「何が言いたい」
える「戻って、福部さんにも話すんです」
奉太郎「……それをしたら意味が無いだろ、元々千反田にも言うつもりは無かったんだ」
奉太郎「結果的に話してしまったが、お前が黙っていればそれで終わる」
える「……折木さんは、摩耶花さんの顔を見ましたか?」
奉太郎「……顔?」
える「摩耶花さんは言おうとしていたんですよ、自分がした事を」
える「何故、あんな顔をしていたのか……さっきまで分かりませんでした」
える「ですが、折木さんの話を聞いて、全て分かりました」
える「……皆で、話し合うべきです」
奉太郎「……そうだったのか」
奉太郎「余計な事をしてしまったのかもな、俺は」
える「だから、今ならまだ間に合うんです」
奉太郎「……まだ学校に居るとも限らないだろ」
える「いいから、行きますよ!」
私はそう言い、折木さんの手を掴みます。
そのまま後ろに向き直り、走りました。
奉太郎「お、おい!」
後ろで折木さんの声が聞こえましたが、気にしないで私は走ります。
……なんだかちょっとだけ、折木さんの前を行っている自分が嬉しかったのを覚えています。
似たような事が前に、あの時は逆でしたが。
いえ、状況も違いました……ですが。
それでも嬉しかったんです、折木さんの手を引いて走れたのが。
~古典部~
廊下を駆けて、古典部の前へとやってきました。
そのままの勢いで扉を開けます。
摩耶花「ちーちゃん?」
摩耶花「それに、折木も」
良かった……摩耶花さん達はまだ部室に居てくれました。
える「あ、あの!」
える「摩耶花さんは悪くないです!」
摩耶花「え、えっと?」
奉太郎「千反田、落ち着け」
奉太郎「俺が説明する」
……人に説明をするのには、やはり私では厳しい物があるようです。
しかし、摩耶花さんは先程の私の言葉をゆっくりと理解し、折木さんの言葉を遮りました。
摩耶花「……今日の事ね」
摩耶花「実は、それなんだけど」
里志「全部聞いたよ、摩耶花から」
摩耶花「……ごめんね、ちーちゃん」
摩耶花「折木も、ごめん」
奉太郎「なんだ……千反田の言う通りだったって訳か」
える「ふふ、だから言ったでは無いですか」
える「摩耶花さんは悪く無いですよ」
える「入須さんにも今度、お話しましょう」
摩耶花「……うん」
そこで折木さんが、扉の傍に立ったままで言いました。
奉太郎「あー、それなんだが」
奉太郎「多分、入須は全部分かっていたんだろうな」
里志「入須先輩が? どうしてさ」
奉太郎「……あいつは場を収めようとしていた」
奉太郎「自分がそのままプレゼントを貰う事によって、これ以上話を掘り下げられない様にしたんだ」
奉太郎「だからあいつには、言う必要は無いだろう」
える「そうだったんですか、私は全然気付きませんでした……」
つまり入須さんは、全て気付いていて……
最後の最後まで、ご迷惑を掛けてしまった様ですね。
奉太郎「……すまなかったな、伊原」
奉太郎「お前の考えている事が、俺には分からなかった」
摩耶花「別に、折木が謝る事は無いでしょ」
奉太郎「……少し、外の空気を浴びてくる」
折木さんはそう言うと、部屋の外に出て、どこか風に当たれる場所へと行ってしまいます。
える「……そう言えば」
える「私、まだ少しだけ気になる事があるんです」
里志「はは、ホータローが居ないとどうにもならないかもね」
摩耶花「私達で良ければ聞くけど……」
える「あのですね」
える「摩耶花さんは何故、そのお話を福部さんにしたのでしょうか?」
摩耶花「それはさっきも言ったよ、元から私は……話すつもりだった」
える「ええ、それは分かります」
える「ですが、皆さんが揃っていた場面でも言えた筈なんです」
摩耶花「……やっぱり、ちーちゃんには分かっちゃうのかな」
える「すいません、失礼な事を言っているのは分かっています……」
摩耶花「いいよ、話そう」
摩耶花「思い出したんだ」
摩耶花「ちーちゃんと入須先輩が来る少し前に、折木が言った事を」
える「……折木さんは何と言ったんですか?」
摩耶花「折木はね」
摩耶花さんはそう言うと、私の耳に口を近づけ、福部さんに聞こえないように教えてくれました。
その言葉を聞いた私は、やはり折木さんは折木さんだと感じる事になります。
折木さんの言葉を借りるなら、あくまでも私からの視線、ですが。
でもやはり、折木さんという方は……そういう方なのでしょう。
里志「千反田さんの気持ちが良く分かるよ、とても気になる」
摩耶花「……だめ、私とちーちゃんの秘密だから」
える「ふふ、そうですね。 秘密です」
摩耶花「それにしても、似合わないと思わない?」
そうでしょうか?
私にはとても似合っている台詞の様に思えますが……
える「私は、折木さんらしいと思いますよ」
摩耶花「ふうん、なるほどねぇ」
摩耶花さんは何故かニヤニヤとしていましたが……それよりも私には、行きたい場所がありました。
える「私……折木さんの所に行ってきますね」
私はそう告げ、部室を後にします。
~屋上~
える「見つけました」
奉太郎「千反田か、何でここに居ると思った?」
える「なんとなくです」
奉太郎「……そうか」
折木さんは屋上から景色を眺めていて、私も横に並び、一緒に景色を眺めました。
える「もう、日が暮れてきていますね」
奉太郎「結局、卒業生達より長く居残ってしまったな」
える「そうみたいです」
奉太郎「それで、どうして急に来た」
える「……折木さんの顔を、見たかったので」
奉太郎「そ、そうか」
える「あの、折木さん」
奉太郎「ん?」
える「……いえ、何でも無いです」
奉太郎「変な奴だな」
える「ふふ、帰りましょうか」
奉太郎「……ああ、そうだな」
私は先程、摩耶花さんから聞いた折木さんの言葉について、何か言おうと思っていましたが……
この事は、私の胸の内に、閉まっておく事にしました。
その言葉はとても優しい物で、きっと折木さんは……あまり人に知られたく無いと思っているでしょう。
~公園(現在)~
奉太郎「あの時は……お前に助けられたな」
える「そうでしょうか?」
奉太郎「ああ」
える「お礼をまだ聞いていない様な気がするんですが……」
千反田はそう言い、自分の口元に指を当てた。
奉太郎「お前はそんな奴だったか」
える「いつも通りですよ?」
奉太郎「……ありがとうな」
える「ふふ」
える「しっかり、目を見て言って欲しいです」
なんだ、様子がおかしいぞ。
……まさか、コーヒーのせいなのだろうか。
千反田はただ、眠れなくなるだけと言っていたが……とんでもない。
恐らく自分では分かっていないのだろう、今度教えねば。
える「どうしたんですか? 折木さん」
とりあえず、今は千反田の言う通りにしておくのが無難か。
奉太郎「ありがとう、千反田」
える「そんな、見つめないでください」
……面倒だ。
しかし幸いな事に、辺りは既に、公園の電灯が付くほどに暗くなっていた。
奉太郎「そろそろ帰るか」
える「もっと一緒に居たいです」
奉太郎「い、いいから……帰るぞ」
える「……そうですか、残念です」
今後一切、コーヒーは飲ませない様にしようと強く誓った。
誰に誓った訳でもないが。
える「ふふ」
横を歩いている千反田が急に笑い出すのが少し怖い。
奉太郎「何がそんなに楽しいんだ」
える「折木さんの横を歩ける事です」
奉太郎「それはありがたいお言葉で」
える「では、お礼を言ってください」
奉太郎「……」
その言葉は無視したが、千反田本人も大して気にしていなかったのか、それ以上お礼を求める事は無かった。
える「私たちも、もう三年生ですね」
える「皆さんと一緒に居られるのも、後一年ですか」
える「……寂しいです」
なんだ、さっきまでニコニコしていたと思ったら……今度は泣きそうになっている。
だがまあ……その千反田の気持ちも、分からなくは無かった。
奉太郎「なあ、千反田」
える「はい? どうしました?」
俺はそんな千反田を見ていると、こいつがどこかに行ってしまいそうな気持ちになって、それを振り払うために、言った。
奉太郎「手、繋ぐか」
える「……はい!」
多分いつも通りの千反田なら、俺はこんな事は言えなかったかもしれない。
それはまあ……コーヒーに少しだけ感謝と言う事で。
千反田の家までの時間、短い時間ではあったが……千反田と手を繋ぎ、歩いて行った。
第8話
おわり
学校が始まってから既に何週間か経過していた。
だからと言って、どうなると言う訳でもないが。
そして、俺たち古典部は相変わらず何の目的も無しに部室へと集まっている。
える「今日は何をしましょうか」
奉太郎「いつも何かしている訳では無いだろ」
摩耶花「でも、折角集まってもする事が無いんじゃねぇ……」
里志「と言うか、全員のクラスが一緒になったせいで、集まる意味も……」
える「駄目です! 何か活動をしなければいけないんです!」
千反田の言う事も、もっとではあるのだが……如何せん、する事が無い。
里志「あ、良い事を思い付いた」
奉太郎「……何だ」
里志の良い事と言うのは、基本的に俺にとっては悪い事である。
それはもう、嫌と言うほど経験していた。
里志「ちょっと待っててね、すぐに戻ってくる」
里志はそう言うと、駆け足で部室から出て行く。
それを見送った後、席を立つ。
奉太郎「さて、帰るか」
える「え、何故ですか」
奉太郎「決まっているだろ、ろくな事にならないからだ」
摩耶花「……へえ、逃げるんだ」
逃げるとはまた……随分と人聞きが悪い。
奉太郎「面倒な事を避けているだけだ」
摩耶花「……ふうん」
いかんいかん、伊原の挑発に乗ってしまっては思う壺だ。
える「駄目ですよ!」
しかしこっちの奴は、実力行使で俺を押さえに来る。
簡単に言うと、俺の腕を掴んで離さない。
奉太郎「何が、駄目、なんだ!」
える「福部さんは待っていてと言ったのです! 帰ったら駄目です!」
奉太郎「そん、なの! 俺の勝手だろ!」
俺はグイグイと引っ張るが、千反田の方も負けじとグイグイ引っ張る。
える「諦めてください!」
今こいつ、諦めてと言ったか。
それはあれか、これから俺にとって良くない事が起きるだろうと言う事を、千反田も予想しているのだろうか。
奉太郎「い、や、だ!」
少しずつ、少しずつだが出口に近づく。
摩耶花「何してるの、二人とも」
そんな必死の戦いを繰り広げている俺と千反田を見て、伊原が冷静な一言を放つ。
しかしここで退いては駄目だ、千反田が持ってくる面倒事ならまだしも……里志が持ってくる物にまで巻き込まれる道理なんて無い。
もう少しで辿り着ける!
俺がそう思ったとき、静かに閉まっていた扉が開く。
里志「おっまたせー!」
里志「って、何してるの?」
ああくそ、タイムアップになってしまったではないか。
俺はようやく千反田を引っ張るのを辞め、若干上がった息を整えながら答える。
奉太郎「いや、まあ」
奉太郎「体を温めていた」
里志「それはちょっと、無理があると思うけど……」
える「あ、福部さん! お帰りなさい」
後ろから声が聞こえた、是非ともその勢いで俺に「行ってらっしゃい」と言って欲しい物である。
そうすればすぐに帰れるのに。
里志「ただいま、千反田さん」
里志は俺の後ろに居る千反田に向け、顔をずらしながら言った。
摩耶花「それで、どうして急に飛び出して行ったの?」
里志「よくぞ聞いてくれた!」
里志「実はね、ちょっと手芸部に行っていたんだ」
奉太郎「手芸部? 何でまた」
里志と千反田は席に着く。
俺もそれに習い、席に着いた。
待てよ……結局、流されてしまっているではないか。
くそ、今から扉まで走っていけば……逃げられなくも無いが。
なんだかそれすら面倒になってきてしまった。
里志「これさ!」
そう言い、制服とワイシャツの間から何やら随分とでかい物を取り出す。
える「何故、そこから出てきたのか……気になります」
その疑問を解決できるのだろうか、俺にはとても解決できそうにない。
奉太郎「それで、それは何だ?」
摩耶花「ええっと……何々」
摩耶花「人生ゲーム、再現度70%! リアルな人生ゲームをあなたに!」
摩耶花「って書いてあるわね」
何だそれは……70%とは、また微妙な。
奉太郎「何でそんな物が手芸部にあるんだ?」
里志「さあ、前に見かけたのを思い出しただけだよ」
まあ、前に天文学部を訪れた時は何やらボードゲームらしき物をやっていたし、そういう部活は多いのかもしれない。
里志「それで、皆でやらないかい?」
える「是非!!」
摩耶花「いいね、やろうやろう」
奉太郎「……ちょっと気になるんだが、いいか」
俺がそう言うと、三人ともが俺の方を見る。
奉太郎「これって、古典部と関係あるのか?」
里志「じゃあまずは駒である車とお金を分けるね」
摩耶花「うん、よろしく」
える「福部さんが銀行役ですね、宜しくお願いします」
……今、無視されたか?
奉太郎「おい、聞いてるか」
里志「摩耶花は水色でいいかな?」
摩耶花「おっけー、ありがとう」
里志「千反田さんは……白って感じかな」
える「ふふ、ありがとうございます」
里志「僕は黄色を貰うとして……ホータローはどれがいい?」
奉太郎「いや、俺はだな」
里志「仕方ないなぁ、じゃあホータローはこれで」
そう言い、渡されたのはグレー色の車だった。
……まあ、俺らしいと言えばそうかもしれない。
いや、違うだろ。
そんな車なんてどうでもいいだろうが。
奉太郎「おい、これって古典部と」
里志「じゃあお金を配るね」
駄目だ、明らかに俺が出す話題は無視されている。
奉太郎「……分かった、やればいいんだろ」
里志「はは、やりたいならそう言えばいいのに」
……やはりあそこで千反田を振り切れなかったのは手痛いミスだ。
だがまあ、俺のミスか。
摩耶花「負けないわよ!」
える「私も、頑張ります!」
何やら女子達は盛り上がっている、ただのゲームだと言うのに、元気なこった。
そんなこんなで最初の持ち金、1500万円が配られる。
こうなってしまっては仕方ない……やるか。
里志「ホータローには前の豆まきでの借りがあるからね、しっかりと返させて貰うよ」
える「そう言えばそうでした! 負けませんよ」
随分と根に持つ奴等だな……
摩耶花「私も、今回はちょっと負けたくないかな」
そう言い、俺の方を伊原は睨んでいた。
……何故、俺なのだろうか。
里志「それじゃあ始めよう、最初は僕の左隣……摩耶花から時計回りで行こうか」
順番を整理すると。
1番、伊原
2番、千反田
3番、俺
4番、里志
と言う事か。
まあ、たかがゲームだ、気楽にやろう。
摩耶花「じゃあ、回すね」
そう言い、伊原は数が10まであるルーレットを回す。
表示された数字は。
【5】
摩耶花「えっと、5かぁ」
里志「最初は職業決めだろうね、定番だ」
【あなたは漫画を描くのが大好き! そんなあなたには漫画家の職業を差し上げます!】
摩耶花「漫画家かぁ、ちょっと嬉しいかも」
里志「はい、職業カードを渡すね」
摩耶花「給料は……600万ね」
里志「職業が決まったら最初の給料日マスまで移動みたいだね」
摩耶花「うん、りょーかい」
それにしても伊原が漫画家とは、確かにリアルな人生ゲームである。
える「次は私ですね!」
そう言うと、千反田はルーレットを回した。
【7】
里志「お、ラッキーセブンって奴かな」
える「ふふ、何の職業になるのでしょうか……気になります」
【あなたはどこにでも居る一般人! そんなあなたにはサラリーマンの職業を差し上げます!】
える「サラリーマンですか、いいですね」
何が良いのか俺には分からないが……本人がそう言っているなら良いのだろう。
里志「給料は300万だね」
える「そうですか……摩耶花さんよりは少ないんですね」
摩耶花「私の漫画もそこそこ売れてるみたいね」
奉太郎「次は俺か」
よし、最初の職業が重要だと言う事は分かった。
なら良い職業を引く事が出来れば、それはかなり楽な人生となるだろう。
そんな事を思いながら、ルーレットを回した。
【10】
里志「10か、最初から飛ばすねぇ」
奉太郎「飛ばそうと思って飛ばしている訳では無いがな」
ええっと、それより職業だ。
【あなたは何事にもやる気無し! そんなあなたはフリーター! 頑張ってください】
……
える「……ふふ」
奉太郎「千反田、今笑ったか」
える「え、いえ……」
摩耶花「ちーちゃんが笑うのも無理ないって、だって似合いすぎてるもん」
里志「ぴったしだよ、ホータロー」
里志「見事だ!」
そう言われても、いい気は全くしないのだが。
える「あ、あの!」
える「私、良いと思いますよ!」
える「自由に生きる人生! 素敵です!」
千反田の必死のフォローが俺の心をきつく締め付ける。
奉太郎「……まあいい」
里志「給料は100万だね」
里志「フリーターにしては、頑張ってる方じゃないかな」
さいで。
里志「次は僕の番だね」
里志「よっ」
【6】
里志「6は……お」
奉太郎「劇団員、となっているな」
里志「いいんじゃないかな、気に入ったよ」
里志「給料は……1500万! ホータローの15倍だね」
摩耶花「いいなぁ、私なんて6倍よ?」
える「私は3倍です……」
何故、俺を基準にするんだ、こいつらは。
里志「それじゃあ皆の職業も決まったし、ここからが本番だね」
里志「あ、それと保険はどうする?」
奉太郎「保険?」
里志「生命保険と車両保険があるね」
里志「他にもあるんだけど、最初に入るか入らないか決めるのは、どうやらこの二つみたいだ」
……念の為、入っておいた方がいいだろう。
里志「どちらも500万、両方入るなら1000万だね」
奉太郎「随分と高い保険だな」
里志「まあ、ゲームだしね」
ふむ、ならば仕方ない。
どうやらそんな俺の考えと全員一緒の様で、それぞれが1000万を里志に手渡す。
摩耶花「後は大丈夫かな?」
里志「うん、この後はルーレットを順番に回して進むだけさ」
摩耶花「じゃあ」
摩耶花「負けないわよ!」
伊原はそう意気込み、ルーレットを回した。
【1】
摩耶花「うう……」
里志「はは、力みすぎだよ、摩耶花は」
里志「えーっと」
【宝くじにチャレンジ! 偶数なら500万、奇数なら-500万】
摩耶花「ギャンブルは苦手なんだけど……」
里志「そう言わずにさ、50%の確率で当たるんだし」
摩耶花「……よし!」
今度はあまり力を入れず、伊原はゆっくりとルーレットを回していた。
【4】
摩耶花「やった!」
える「おめでとうございます!」
里志「さすが摩耶花だ、500万だね」
それにしても、やたらと色々とイベントがある様だな……
ええっと、次は確か千反田か。
える「私の番ですね、よいしょ」
【1】
える「あ、摩耶花さんと一緒ですね」
摩耶花「ほんとだ、ってことはちーちゃんも宝くじにチャレンジかぁ……」
える「では、回しますね」
【5】
える「外れてしまいました……」
摩耶花「……ごめんね、私が当たっちゃったから」
える「いいえ、気にしないでください」
える「一緒にゴールを目指しましょう!」
仲がいいのは結構だが……何やら里志が言いたそうな顔をしているぞ。
里志「えっと、話中で悪いんだけど……」
里志「同じマスに止まるとね、追突扱いになるんだよ」
える「追突、ですか?」
里志「うん、追突したら相手に1000万の罰金……となっているね」
える「い、1000万ですか?」
おお、千反田が動揺している。
里志「でも、千反田さんはさっき保険に入っているから、そのお金は銀行から出ることになる」
里志「車両保険の方は、回収されてしまうけどね」
える「は、はい……」
渋々、千反田は車両保険のカードを里志に手渡す。
える「……酷いです、摩耶花さん」
摩耶花「わ、私はそんなつもりじゃ!」
里志「はは、気を付けないと、千反田さんに追突した時が怖そうだ」
まあ、千反田も本気で酷いと言っている訳では無いのが俺なら分かるが。
里志も恐らく分かっているだろう、しかし伊原は全く気付いていない様子だった。
える「負けません!」
こいつもこいつなりに、楽しんでいると言う事か。
摩耶花「次、折木の番でしょ。 早く回して」
そのとばっちりが回り回って俺の方に向いてくるのは納得できんが。
奉太郎「言われなくても、回すさ」
【9】
里志「好調じゃないか、先行するのはホータローになりそうだね」
奉太郎「フリーターだがな」
える「それでもゴールまで辿り着けば億万長者ですよ!」
奉太郎「……そうか」
奉太郎「じゃあ、それなりに頑張るかな」
ええっと、それでマスは何だろうか。
【リストラ、仕事にやる気の無いあなたは、上司にクビを宣告されました。 職を失い、フリーターとなります】
摩耶花「フリーターからフリーターになったわね」
里志「職業に付いてないのにリストラされるなんて、どんだけやる気が無いんだい……ホータローは」
……俺に言わないで欲しい。
える「……将来が大変そうですね」
さっきゴールまで辿り着けば億万長者だと言ったのはどこの誰だったか。
ああ、そうそう。
この俺の将来を心配してくれている方では無いか。 ありがとうございます。
里志「さ、気を取り直して僕の番だ」
【6】
里志「6だね、良いとは言えないけど9よりはマシかな」
【仕事中に腰を痛めてしまいました、一回休み】
里志「開始早々これかぁ……」
奉太郎「腰を痛めるとは、もうお前も年だな」
俺がそう言うと、里志はいつもの笑顔のままこう返した。
里志「はは、クビにならないだけマシだよ」
……どう足掻いても、里志にだけは負けたくないな。
摩耶花「ま、まあまあ二人とも」
摩耶花「これから何が起こるか分からないし、仲良くやろう?」
える「そうですよ、私だって追突しても頑張っているんですから」
摩耶花「ち、ちーちゃん」
える「頑張りましょうね、摩耶花さん」
千反田はいつもの感じではあったが、何やら今日のこいつは随分と怖い気がする。
まあ……結局俺もこうして人生ゲームへと参加する事となったのだが。
なんだか出鼻を挫かれた感が否めない。
所持金 保険
摩耶花 2600万 生/車
奉太郎 600万 生/車
える 300万 生
里志 2000万 生/車
第9話
おわり
里志「それで、次は摩耶花かな?」
摩耶花「うん、回すね」
カラカラと音を立てながらルーレットは回る。
【3】
摩耶花「中々進まないなぁ」
摩耶花「えっと」
【特急券購入のチャンス! 100万を払えばルーレットをもう一度回す事が出来ます】
摩耶花「お、買う買う」
里志「100万くらいなら、摩耶花にとっては安い物だからね」
……俺にとって、給料一回分とは悲しい物だ。
摩耶花「よいしょ」
【10】
摩耶花「やった! 買った甲斐があった!」
里志「10は……ここだね」
里志「あ、それと給料日を通過したから給料を渡すよ」
ふむ、どうやら10マス毎に給料日は設置されている様だ。
摩耶花「ありがと、ええっと……このマスは」
【ジェット機購入のチャンス! 500万を払えばルーレットをもう一度回す事が出来ます】
摩耶花「どうしよう……まあ、払おうかな」
奉太郎「随分と優雅な人生だな」
摩耶花「お金はあるしね」
える「……」
無言の千反田が怖い。
伊原は気付いていない様だが、現在所持金がもっとも少ないのは千反田なのだ。
摩耶花「じゃ、回すよ」
【4】
摩耶花「今回だけで17マスも進めたのは良かったなぁ」
摩耶花「何々」
【母親の危篤! 10マス戻る】
摩耶花「……」
奉太郎「7マス進めたの間違いじゃないのか?」
摩耶花「……っ!」
あまり無用心な発言は避けた方がいいかもしれない。
明日は我が身と言う言葉があるからな。
里志「イベントで移動した時はマスに書いてある事を無視するみたいだね」
里志「と言う訳で、次は千反田さんの番だよ」
える「はい!」
える「では、行きますね」
【5】
える「ええっと、5ですね」
奉太郎「あ」
える「……?」
思わず声が出てしまった。
まあ、でもすぐに分かる事だし、いいか。
里志「ええっと……僕と一緒のマスだね」
える「え、と言う事はですよ」
える「追突、ですか?」
里志「……そうなるね」
奉太郎「それに加えて一回休みだな」
える「……そうですか」
える「で、でも……私もう、お金ありませんよ」
里志「その点は大丈夫かな、借金が出来るから」
える「借金ですか……」
なんとも、現実とは非情な物だ。
……ゲームだが。
里志「千反田さんの手持ちは300万だから、足りないのは700万だね」
里志「約束手形が一枚1000万、これを一枚と現金300万を渡すよ」
える「はい、ありがとうございます」
……ううむ、千反田がとても物悲しそうな表情をしている。
それを見ていると、なんだが少し……こう、胸に込み上げてくるものがあるな。
……いかんいかん、さっきも思ったが、明日は我が身、忘れる所だった。
奉太郎「それで、次は俺か」
なんだか空気が若干重くなった中、俺はルーレットを回す。
【7】
奉太郎「7か」
奉太郎「ええっと」
【おめでとうございます、あなたはめでたく結婚しました。 他のプレイヤーから祝儀として300万ずつ貰えます。 結婚相手としてピンを一つ車に乗せましょう】
奉太郎「おお、結婚か」
里志「……おめでとう、頑張って稼がないとね」
摩耶花「フリーターで結婚なんて、いい身分ね」
そう言われながら、300万ずつ受け取る。
える「ど、どうぞ」
千反田からなけなしの300万を渡された時は、なんだかとても悪い事をしている気がした。
える「結婚しちゃったんですね、折木さん」
奉太郎「ん? そうだが」
える「い、いえ。 おめでとうございます」
奉太郎「ああ」
変な奴だな、まあいいか。
とりあえずこれで、一回100万の給料も貰い、ある程度手持ちは増えてきた。
次は里志の番だが、一回休みなので伊原か。
所持金 保険 マス
摩耶花 2300万 生/車 8マス目
奉太郎 1600万 生/車 16マス目
える -1000万 生 6マス目
里志 2700万 生/車 6マス目
摩耶花「よし、私の番ね!」
里志「ううん……中々進めないなぁ」
奉太郎「腰を痛めているからな、安静にしとけ」
里志「……そうだね、それがいい」
摩耶花「それで、回すけど……いいかな?」
える「どうぞ」
摩耶花「……よっ」
【7】
摩耶花「あぶな、折木に追突する所だった……」
奉太郎「人が二人乗っているから、罰金も二倍だぞ」
摩耶花「え? そうなの?」
奉太郎「……さあ」
摩耶花「ちょっと、くだらない事言わないでよ」
里志「安心して、何人乗っていても罰金は1000万だよ」
摩耶花「まあ、当り屋みたいな事しないと、生活厳しいもんね」
奉太郎「……むう」
何も言い返せない、確かに給料が100万ではその内底を尽きてしまうのは火を見るより明らかだろう。
奉太郎「それで、マスにはなんて書いてあるんだ」
摩耶花「はいはい、今見るわよ」
【一発逆転のチャンス! ルーレットに一つピンを指し、当たれば10倍! 3000万まで賭ける事が出来ます。 そしてこの賭けに勝てば、もう一度ルーレットを回せます】
摩耶花「またギャンブルかぁ……」
里志「まあ、3000万 まで って事は賭けなくてもいいんじゃないかな?」
奉太郎「なんだ、負けるのが怖いのか」
摩耶花「……折木に言われたら、賭けない訳にはいかないわね……」
ここまで単純に引っ掛かってくれるなら、挑発し甲斐がある。
摩耶花「いいわ、1000万賭ける」
里志「いいのかい、本当に」
摩耶花「言ったからにはやるわ」
摩耶花「私が選ぶのは……3!」
里志「……仕方ないなぁ、それじゃあ1000万、受け取るよ」
そう言い、摩耶花は1000万を里志に手渡した、千反田の目の前で。
摩耶花「じゃあ、回すわね」
千反田が先程から、何かを願っている様な眼差しでルーレットを見ていた。
……何を願っているかは、聞かないでおこう。
しかし現実はやはり、非情な物。
主に、俺や千反田にとってと言うのが皮肉な物であるが。
【3】
摩耶花「うそ、やった……当たった!」
摩耶花「1000万の十倍だから……1億!?」
里志「はは、おめでとう」
……まさか当たるとは、とんだ強運だ。
千反田の顔は見ないでおこう、とても悲しそうな顔をしているだろうから。
摩耶花「もう一回、回せるんだよね」
【2】
摩耶花「2だと、ここかぁ」
摩耶花「あれ? 何も書いてない」
里志「そういうマスもあるみたいだね、じゃあ次は」
奉太郎「俺か」
里志「千反田さんは一回休みだから、そうなるよ」
奉太郎「んじゃ、回す」
【10】
奉太郎「また10か」
摩耶花「またってなんか、感じわる」
奉太郎「ゆっくり進むのも良い人生だと思うぞ」
摩耶花「……ふん」
里志「ホータローは随分と急いでいる様だけどね」
奉太郎「ま、早く終わるに越した事は無いからな」
奉太郎「それよりマスだ、えっと」
【おめでとうございます。 結婚している場合、子供が一人生まれました。 そうで無い場合は、結婚する事ができます】
【お祝いとして、他のプレイヤーから100万を受け取ります。 結婚の場合、祝儀はありません】
奉太郎「悪いな、何回も貰って」
里志「まあまあ、祝い事だからね」
摩耶花「100万と言わず、500万くらいならあげてもいいんだけどなぁ」
是非欲しいが、俺のプライドが許さない。
……いや、貰っておこうかな。
駄目だ駄目だ、弱気になってしまっては勝ち目が無いではないか。
える「子供ですか……おめでとうございます」
える「あ、すいません。 細かいのが無いです」
そう言い、千反田は里志から約束手形を更に一枚と、現金900万を受け取る。
いつもの元気は既に、どこか遠くへと行ってしまった様子だ。
える「はい、どうぞ」
奉太郎「あ、ああ……悪いな」
える「……いえ、いいんですよ」
頼むから、次のマスでは千反田から金を受け取る事が無いよう、お願いしたい。
里志「それと、また給料日を通過したから給料だ」
奉太郎「ああ、すまんな」
100万ずつだが、貰える物は貰っておこう。
里志「やっと僕の番だね!」
里志「ホータローとは随分と離れちゃったからなぁ、頑張らないと」
【4】
里志「4かぁ」
里志「どれどれ」
【落し物を届けたあなた。なんとビックリ! その持ち主は大金持ち! 1000万を受け取ります】
里志「落し物を届けただけで1000万とは、随分と凄い落とし主だね」
奉太郎「俺が届けられたとしても、せいぜい飲み物一杯が良い所だな」
里志「そりゃ、僕だって一緒だよ」
そんな会話をしながら、里志は自分の給料と合わせて、2500万を自分の手元へと置く。
さて、次はまた伊原か。
所持金 保険 マス
摩耶花 1億600万 生/車 17マス目
奉太郎 1900万 生/車 26マス目
える -1100万 生 6マス目
里志 6100万 生/車 10マス目
摩耶花「この調子で、折木を抜かしたいなぁ」
奉太郎「9が出れば追いつけるぞ」
摩耶花「……追突するじゃない」
摩耶花「9だけは出ません様に……」
【10】
摩耶花「あっぶない」
摩耶花「さっきから、ひやひやしっぱなしなんだけど……」
奉太郎「惜しいな」
摩耶花「何がよ、えっと」
【突然の災害! そのせいで車はボロボロに……修理費として、500万を支払います】
奉太郎「は、とんだ災難だ」
摩耶花「車の修理に500万って……どんな車なんだろ」
奉太郎「いいんじゃないか? 金持ちなんだし」
摩耶花「そうね……別にいいけど」
摩耶花「それより、他人事みたいな言い方ね」
……おかしな事を言う奴だ、実質、他人事なのだし。
里志「ホータロー、ちゃんとこのマス、読んだ方がいいよ」
そう里志に言われ、目を通す。
先程の文の下に、小さくこう書かれていた。
【前後5マスの方も被害に遭います、同額の修理費を支払います】
奉太郎「何故俺まで……」
しかしまあ、そう書かれているなら仕方ない。
巻き込まれる前に逃げろと言いたいが、それはもう手遅れか。
俺は手持ちから500万を里志へと渡す。
摩耶花「フリーターの癖に、随分と良い車に乗ってるのね」
摩耶花「生活をもっと見直した方がいいと私は思うかなぁ」
奉太郎「……さいで」
里志「まあまあ、二人とも仲良く仲良く」
里志「ホータロー、確かに受け取ったよ」
奉太郎「……他には何も書いてないな、次だ」
える「私の番ですね!」
びっくりした、今までずっと静かだったせいもあるが。
奉太郎「……大丈夫か」
える「え? 私は大丈夫ですよ」
奉太郎「ならいいが」
える「では、回します」
【9】
える「ええっと、9ですか」
9……確か、あのマスか。
える「ギャンブルですね、先程、摩耶花さんがやっていた」
奉太郎「まあ、手持ちが無いなら関係は無さそうだな」
里志「……いや、ちょっと待って」
そう言うと、里志はルールブックへと目を通す。
里志「ギャンブル系は、どうやら手持ちが無くても賭けられるみたいだよ」
里志「せめてもの救済なのかもしれないけど……これは随分と酷いルールだ」
奉太郎「借金まみれでギャンブルとはな」
やけにここだけ、現実じみている……恐ろしい。
える「ええっと、では何番にしましょうか」
奉太郎「おい、ギャンブルはしなくてもいいんだぞ」
える「ええ、分かっていますよ」
奉太郎「ならやめた方がいいと思うが」
える「……もう、今更いくら増えても一緒だとは思いませんか?」
何という事だ、千反田がギャンブラーとなってしまった。
……止めはしないでおく、外れて借金が増えれば、正気に戻るかもしれない。
える「どうしましょうか……」
里志「確かに難しい選択だ、何しろ1/10だからね」
里志「ならさ、まずは賭ける金額を決めたらどうかな?」
里志「千反田さんは1100万の借金があるから……200万なら負けてもそこまで大した損はしないよ」
える「そうですね、では3000万で」
駄目だ、もう手遅れかもしれない。
摩耶花「ちーちゃんが壊れた……」
里志「は、はは」
里志「まあ、僕はただの銀行員だからね……千反田さんの決定を止める事はしないよ」
そして千反田に渡される3枚の約束手形。
える「後は数字ですね、どうしましょうか……」
ふと、千反田と目が合った。
える「あ!」
……本日二度目の、嫌な予感がする。
える「折木さんに決めてもらいましょう!」
奉太郎「な、なんで俺なんだ!」
える「折木さんは結婚もして、子供も産まれて、幸せそうなので……」
える「そんな折木さんが選べば、当たる様な気がするんです」
か、簡便してくれ……
しかし、ここに俺の味方など居る訳が無い。
里志「いいじゃん、ホータロー」
摩耶花「そうよ、選んであげなさいよ」
奉太郎「……外れても俺は知らんぞ」
える「大丈夫ですって、お願いします!」
参ったな……外れた時、俺はどうすればいいんだ。
さっきまでは外れて、千反田がギャンブルをしなくなる事を願ったが……今は逆。
ううむ……
単純に、行くか。
奉太郎「……そうだな」
奉太郎「じゃあ、6で」
える「6ですね、分かりました!」
里志「7を選ぶと思ったんだけど、何で6を?」
奉太郎「単純な理由だ、気にするな」
摩耶花「気になるけど……今はルーレットの結果の方が気になるわね」
奉太郎「外れても恨まないでくれよ、千反田」
える「ええ、分かっています」
える「それでは……回しますね」
そう言うと、勢いよく千反田はルーレットを回した。
クルクルと回り、その時間は少しだけ長くも感じた。
やがて、針が止まる。
【6】
える「……」
良かった……本当に良かった。
千反田は6を指して止まるルーレットをしばし、見つめていた。
そして数秒それを続けた後、隣に座る俺の方を見る。
える「す、すごいです! 当たりました!」
奉太郎「あ、ああ。 そうだな」
なんだか恥ずかしくなり、視線を千反田から逸らした。
える「ありがとうございます! 折木さん!」
横からそんな声が聞こえたが、俺は頬杖を付きながら反応を返す事はしなかった。
しかし、何かが近づいてくる。
気付いた時には遅く、近づいてきていた物は千反田本人であった。
える「嬉しいです! なんとお礼を言ったらいいか……」
奉太郎「わ、分かったから離れろ! 抱きつくな!」
奉太郎「里志も伊原も、見てるだけじゃなくて千反田をどうにかしてくれ!」
里志「いいんじゃない? 別に」
摩耶花「そうそう、折木が選んだ数字なんだしねぇ」
こいつら、他人事だと思いやがって。
それから数分、千反田を引き剥がすのに必死になり、随分と体力を使ってしまった。
ようやく千反田が落ち着きを取り戻したところで、千反田はマスの通り、もう一度ルーレットを回す。
【3】
える「3ですね」
える「少しだけ、私にもツキが回ってきたかもしれません」
千反田のその発言を受け、マスに目をやる。
【ランプの魔人が現れ、あなたにもう一度ルーレットを回すチャンスをくれました。 ルーレットを回せます】
ほう、まあ今まで散々な人生だったし、いいのではないだろうか。
える「では、もう一度回しますね」
【8】
える「……あ」
ああ、そこは俺が居るマスではないか。
しかし1000万くらい、今の千反田なら安い物か。
里志「ああ、言い忘れてたけど」
里志「この色のマスでは、追突は発生しないみたいだね」
摩耶花「え? じゃあさっきまで私がひやひやしてたのって……」
奉太郎「無意味って事だな」
摩耶花「ちょっとふくちゃん、次からもっと早く言ってよね」
里志「ご、ごめんごめん」
える「良かったです……追突してばかりでしたので」
それで確かマスは……結婚か。
える「結婚ですね、お祝いは貰えないみたいですが」
里志「とは言っても祝い事さ、おめでとう」
摩耶花「そうそう、おめでとう、ちーちゃん」
える「あ、ありがとうございます」
……なんだか、あまり良い気分がしない。
何故か、と言われると分からないが……何故かそんな気分だったのだ。
ようやく、次は俺の番か。
千反田もいつもの調子に戻ったようだし、良かった。
……にしても、もう半分は通過している。
どうやら全部で50マス、そんな所だろう。
奉太郎「さてと」
【2】
奉太郎「極端だな……」
【あなたの出した漫画作品が認められました。 漫画家の職業に就くことができます】
【現在、漫画家の職業に就いている方が居る場合、その方はフリーターとなります】
ほう、良いマスだ。
奉太郎「だそうだ、伊原」
摩耶花「……絶対に許さない」
……最悪のマスだったのかもしれない。
とにかく、これでようやく俺も職業に就けた。
伊原から奪った形にはなってしまったがな。
まあ、散々俺を馬鹿にしていた罰が当たったのかもしれない……でも少し、悪い事をしてしまったか。
里志「次は僕だね」
【10】
里志「お、良い数字だ」
【20マス目記念! ルーレットを三回回し、合計の数進む事が出来ます】
里志「いいね、これで一気に進める」
そう言い、里志はテンポ良くルーレットを回す。
【7】 【4】 【10】
里志「21だ、一気にゴールまで近づけたよ」
里志「このマスには何も書いてないけど……次でゴールの可能性も出てきた」
里志「うん、満足だね」
奉太郎「そういえば、最初にゴールすれば何かあるのか?」
里志「ええっと、このルールブックによると……」
里志「現金1億円、生命保険に入っていれば更に1億円」
里志「これは1位だけが貰えるみたいだね」
里志「他の順位については特に書いてないから、1位だけの特典って訳だ」
なるほど……そういう事か。
ならば俺でも最初にゴールに到達できれば、まだトップになれる可能性がある。
……いよいよ勝負も終盤だ。
なんだかんだで俺が最下位だが……最後まで何が起きるか分からない。
ま、なるようになるだろう。
所持金 保険 マス
摩耶花 1億700万 生/車 27マス目
奉太郎 1400万 生/車 28マス目
える 2億8900万 生 27マス目
里志 1億600万 生/車 41マス目
第10話
おわり
摩耶花「1位はふくちゃんになりそうね……」
里志「どうかな、何が起こるか分からないからね」
える「諦めませんよ!」
借金まみれから登り詰めた千反田は力強くそう言った。
奉太郎「そうだな……俺もギャンブルでもするか」
える「駄目ですよ、堅実に行くのが大事です」
……お前が言うのか、それを。
摩耶花「そろそろ回してもいいかな」
える「あ、どうぞ」
伊原はそれを聞き、ルーレットを回す。
【1】
摩耶花「1かぁ……って」
摩耶花「これ、さっき折木が止まったマスね」
……ああ、そういう事か。
摩耶花「はい」
そう言い、伊原はこれでもかと言うほどの笑顔を俺に向け、手を差し伸べる。
漫画家の職業カードを渡せ、と。
奉太郎「短い職だった」
摩耶花「似合わないから、仕方ないわよ」
摩耶花「自分に合った職業も大事よ」
……それがフリーターと言う事なのか。
奉太郎「まあ、忘れては居ないと思うが追突だぞ」
摩耶花「分かってるわよ、でも私、保険があるしね」
摩耶花「ここまで終盤になってきたら保険も意味無くなる可能性もあるし……丁度良かった」
里志「いやいや、待ってよ」
里志「このマスは追突無効だよ? さっきも言ったじゃないか」
……あまり、記憶に無いな。
摩耶花「えー……じゃあ保険に入らなくても良かったなぁ」
里志「そうでもないさ、最後まで持っていれば資産として計算されるみたいだしね」
里志「まあ、払った額と同額だけど」
ならやはり、1回以上の追突は避けた方がいいだろう。
される分には構わないが。
ともあれ、これで俺はまたしてもフリーターへと逆戻り。
次は……千反田か。
先程のギャンブルで大分勢いが付いている、一番危険なのはこっちかもしれんな。
える「では、回しますね」
【10】
える「10ですね」
える「ええっと」
【不思議な妖精が現れました。 願いを一つ叶えてくれます】
【全プレイヤーの中から一人を選び、その人の資産を10倍へとします】
える「10倍……ですか」
なんと言う事だ、こんなマスを考えた奴は碌な奴では無いな……
ええっと、今の千反田の手持ちは確か、3億くらいあった筈。
それが10倍になると……30億!?
里志「そこが本当のゴールだったのかもね……」
摩耶花「2位争い、頑張ろうかな」
勿論、里志や伊原もその事実に気付く。
える「えっと、では折木さんの資産を10倍にしましょう」
奉太郎「え?」
思わず間抜けな声が出る、そしてその後に気付く。
これがもし、千反田の性質の悪い冗談だったとしたら……とんだ赤っ恥だ。
でも、俺は知っていたのかもしれない。
千反田はそんな冗談を言わない、と。
える「折木さんの資産を10倍に、と言ったんです」
える「先程のお礼です」
奉太郎「……天使か」
いや、女神か。
女神、チタンダエル……いい響きである。
摩耶花「ちょっと、優しすぎない?」
える「いいえ、折木さんが数字を当ててくれなければ、私は今も借金があった筈です」
える「それに、折木さんはそこまで資産を持っていないので……勝負が決まるという事も無くて、面白いと思いませんか?」
……最後の言葉は余計だ。
里志「あはは、ホータローのヒモ生活の始まりって所かな」
奉太郎「俺だって一応働いているぞ」
里志「ま、これで千反田さんには逆らえないね」
奉太郎「……」
確かに、里志の言う通り。
これで何かしらのマスを俺が踏み、千反田を蹴落としたらそれは酷い事になるだろう。
多分、人生ゲーム所では無くなるかもしれない。
里志「それじゃ、受け取りなよ、ホータロー」
そう言い、里志から金を受け取る。
今までの手持ちと合わせ、1億4千万。
最下位から一気に2位へと登り詰めた、なんとも大逆転の人生である。
そして回ってくる俺の順番。
奉太郎「よし、回すぞ」
【10】
里志「さっきから、10出すぎじゃない?」
奉太郎「1回、2が出たろ」
里志「それでもすごい確率だね……ホータローの早く終わらせたいって思いが届いてるのかもしれない」
奉太郎「それは嬉しい知らせだな」
奉太郎「えっと、マスは……」
【世界一周旅行のチャンス! 好きな数字を選び、外れたら世界一周へとご招待!】
奉太郎「外れたら旅行なのか? 意味が分からんな……」
里志「これ、ちゃんと最後まで読んだ方がいいよ」
【世界一周へと旅立ったあなたは、5回休み】
奉太郎「……くだらん」
里志「当てるしかないね」
里志「大丈夫さ、さっきも当てたじゃないか」
とは言っても……他人のだったから気軽に選べた、と言うのもあった。
それとは違い、今回は自分のである。
……それなら、そうか。
奉太郎「千反田、数字を選んでくれ」
える「え、わ、私ですか」
奉太郎「さっきは俺が選んで当たったんだ、次は千反田が選べば当たる気がする」
える「大丈夫でしょうか……」
まあ、別に外れても千反田を責める事なんてしない。
える「では……7でお願いします」
里志「いいね、ラッキーセブンだ」
奉太郎「分かった、じゃあ回すぞ」
そして、俺はルーレットを回す。
出た数字は……
【1】
ううむ、やはり10%の確率と言うのは中々に手強い物だ。
える「ご、ごめんなさい!」
奉太郎「いいさ、気にするな」
奉太郎「後は結果を見守るだけと言うのも、悪くないしな」
える「で、ですが……」
奉太郎「千反田、ルーレットを回したのは俺だ」
奉太郎「それに、お前に数字を選んでもらったのも俺だ」
奉太郎「お前は悪くない」
える「は、はい……」
俺がそう言うと、千反田は渋々と言った感じで頷いた。
これで俺のゴールは無くなったが……まあ、疲れていたし丁度良かったのかもしれない。
色々と頭を使うのは、もう終わりにしたかった。
里志「じゃあ、次は僕の番だね」
里志「ホータローも動けない事だし、一発ゴールを狙いたいなぁ」
里志「……よし!」
【7】
里志「……ここで7とは、さっき出るべきだったのかもね」
奉太郎「いいじゃないか、マスには何て書いてあるんだ?」
里志「ちょっと待ってね、ええっと」
【本日は2倍デー! プレイヤー全員の資産はなんと、2倍となります!】
里志「うへ……厳しいなぁ」
里志「ちょっと千反田さんに追いつくのは無理かもね、これは」
摩耶花「で、でもまだ2位は残ってるわよ」
摩耶花「ちーちゃんは無理にしても、ふくちゃんには負けないからね」
奉太郎「俺はここに居るだけで2位になれる可能性が上がっただけで満足だな」
俺がそう言うと、またしても伊原に睨まれる。
何もしていないのに、本当にただこのマスに留まっているだけなのに。
所持金 保険 マス
摩耶花 2億1400万 生 28マス目
奉太郎 2億8000万 生/車 38マス目
える 5億8400万 生 37マス目
里志 3億1200万 生/車 48マス目
摩耶花「私の番ね!」
【2】
摩耶花「……全然良いのがでないなぁ」
摩耶花「マス頼みね、これは」
【台風に巻き込まれる、しかし幸いな事に追い風となった! 1マス進みます】
摩耶花「たった1マスって……それに次のマスには何も無いし……」
里志「まあまあ、そんな事もあるさ」
摩耶花「ふくちゃんはいいかもね、次でほぼゴールできるから」
里志「あ、あはは」
怖い怖い、人生ゲームで仲違いとは……恐ろしいゲームだ。
える「次は私ですね」
える「えい!」
【8】
える「ふふ、私にもゴールが見えてきました」
える「このマスも、何も無い様ですね」
える「ええっと、次は折木さんですが……お休みなので、福部さんですね」
里志「よし、流石にここでゴールしたい所だよ」
里志「後ろから千反田さんも追い上げてるしね」
里志「行くよ……!」
【1】
里志「……ちょっと酷いね、これは」
里志「自分の運の無さに驚きかな」
奉太郎「一つ一つ踏んで、人生を楽しんでいるって所が……里志らしいな」
里志「……それはどうも」
里志「ええっと、マスによると」
【一発逆転の大チャンス! ルーレットから数字を3つ選ぶ事ができます、当たれば資産が2倍になります!】
【しかし外れた場合、残念……資産は全て、消えて無くなります】
里志「ギャンブルマスかぁ……」
奉太郎「でも、今までのより確率的には良さそうだな」
里志「ううん、そうなんだけどねぇ」
奉太郎「なんだ、当たれば1位だぞ」
里志「……いいや、パス」
里志「僕にはギャンブルは向いてないからね、外れる気しかしないよ」
里志らしいと言えば、里志らしい選択だろう。
里志「ま、そういう事で次は摩耶花の番だよ」
摩耶花「私はもうゴールできる気がしないんだけど……まあいっか」
摩耶花「よいしょ」
【9】
摩耶花「9だね、もっと早く出てくれればいいのに!」
【あなたは決闘をする事になりました! 一人を選び、ルーレットで勝負をします】
【数字が大きい方の勝利、勝てば相手から1億円を受け取ります】
【負けた場合、あなたは相手に1億円を支払います】
摩耶花「嫌なマスだなぁ……」
伊原は確か……今の資産は2億程だろうか?
なんだか途中から計算が面倒になってきて、数えるのをやめてしまったが……恐らくその程度だろう。
2位を狙うなら相手は里志、可能性は限りなく薄いが1位を狙うなら千反田、と言った所か。
俺も選ばれる可能性はあったが……勝ったとしても始めにゴールするだろう里志には勝てなくなってしまう。
だとすると、選ばれるのは先程挙げた2名の内どちらかだ。
摩耶花「……じゃあ、ちーちゃんで!」
ふむ……伊原も中々に勝負師だな。
える「受けて立ちます!」
千反田はそう言い、ルーレットに手を伸ばす。
える「最初は私でいいでしょうか?」
摩耶花「うん、いいよ」
える「では、回します」
そう言うと、ルーレットをゆっくりと回した。
【2】
なんと、ここで2を出すのか……
さっきのギャンブルやイベントマスで、運を使い果たしたのかもしれない。
える「2ですか……」
摩耶花「……悪いけど、私の勝ちみたいね」
摩耶花「ごめんね」
そう言うと、伊原も続いてルーレットを回す。
【1】
摩耶花「……」
前言撤回、こいつの方が運は無いようだ。
える「……勝っちゃいました」
摩耶花「うう……ちーちゃん強すぎる」
奉太郎「千反田が強いと言うよりは、お前が弱いと言う方が正しいと思う」
摩耶花「なによ、じゃあ私と勝負する?」
奉太郎「お前がまたそのマスを踏めたなら、受けて立つさ」
摩耶花「……ふん」
俺がここまで挑戦的なのにも、理由がある。
里志は次でゴールするからである。
それならばもう、伊原に何を言っても俺に災いは降りかからない。
える「私の番ですね」
える「では」
【2】
える「やはり、ゴールは厳しかった様です……」
里志「はは、それだけは譲れないよ」
奉太郎「どの道、千反田の勝ちだろうけどな」
奉太郎「それより、マスには何て?」
える「ええっとですね」
【流れ星が降り注ぐ中、あなたはお願いをしました】
【そんな願いを星達は叶えてくれます、プレイヤーを一人選び、選ばれた方の資産を0にします】
える「……私、こんなお願いはしていませんよ」
いや、それは分かるが。
千反田がそんな願いをしない事くらい、ここに居る全員が分かっているだろう。
奉太郎「里志を選べば俺が2位」
里志「摩耶花かホータローを選べば僕が2位って事だね」
える「選べませんよ……そんなの」
難しい選択かもしれないが、選ばないとこのゲームは終わらない。
奉太郎「俺を選んで終わらせよう、別に俺は順位等気にしない」
える「それは……それは分かりますが」
……分かるのか。
える「でも、それでも出来ません」
俺はこの時、千反田が誰を選ぶのかが分かった。
それはもう、ほとんど確信と言っていいかもしれない。
える「……あ」
そう言うと、千反田は何かを思いついた様に目を見開く。
える「プレイヤーと言う事は、人生ゲームをやっている人達ですよね」
える「それではですね、私は」
える「私を選びます」
……やはり、そうなるか。
奉太郎「お前ならそう言うと思った」
える「え、どうしてですか」
奉太郎「そういう奴だから……って思っただけさ」
える「ふふ、そうですか」
里志「やっぱり、千反田さんには適わないなぁ」
摩耶花「そうね、順位なんてどうでもよかったのかも」
える「駄目ですよ、ちゃんとゴールしてください」
里志「了解、じゃあ最後に……回すね」
【10】
里志「最後にようやく10とはね、僕も運が悪い」
える「そうでもないですよ、福部さんが1位です」
奉太郎「ま、あって無い様な物だろう」
里志「ホータローの言う通りさ、今回のは引き分けって所かな」
摩耶花「そうね、また今度……やろっか」
奉太郎「却下で」
摩耶花「何よ、もう」
とにかく、物凄く長い人生ゲームはこれにて終わり。
後は片付けて……帰るだけだ。
奉太郎「じゃあ、片付けるか」
奉太郎「手短に終わらせて、真っ直ぐ帰ろう」
える「そうですね、とても楽しかったです」
里志「まー、結果よりは過程が楽しかったかな、僕は」
摩耶花「あ、それちょっと分かるかも」
える「ふふ、私もですよ」
奉太郎「俺は……ちょっと違うな」
摩耶花「違うって、楽しくなかったの?」
奉太郎「……そう言う訳では無いが」
奉太郎「どちらかと言うと……」
里志「ホータローは、結果も過程もどっちでも良い、ってタイプだから」
奉太郎「……そういう事だろうな」
奉太郎「付け加えると、とっとと片付けて真っ直ぐ家に帰りたいタイプだ」
える「折木さんらしいですね」
摩耶花「じゃ、そんな折木の意見を尊重して片付けようよ」
摩耶花「私もなんだか疲れちゃった」
これにて一件落着……とは行かない。
里志「ちょっと待って」
里志「人生ゲームと言ったらさ、あれがあるじゃないか」
……あれ、とは何だろうか。
いやむしろ、まだやる事があるのか?
俺のした考えは、千反田や伊原もしていた様で、顔に困惑が浮かんでいる。
里志「これだよ、これ」
そう言いながら、里志が指を指すのは自分の手元にある紙。
正確に言うと、銀行の役目を担った里志が持っている金。
……まさか。
奉太郎「おい! やめろ馬鹿!」
どうやら千反田と伊原はまだ気付いていない。
それが手遅れとなってしまった。
里志は……そこにあった大量のお金を、宙へとばら撒いた。
~帰り道~
奉太郎「とんだ災難だった……」
える「私も最初はびっくりしましたよ」
奉太郎「最初だけだろ、最後はお前も笑ってばら撒いてたぞ」
える「は、恥ずかしいのであまり言わないでください」
さいで。
奉太郎「にしても、本当に余計な時間を食ってしまった……」
える「たまにはいいじゃないですか」
奉太郎「ほとんど毎日の様な気がするんだが」
える「それでもいいじゃないですか」
奉太郎「……はあ」
そんな事を話しながら、千反田の家へと向かっていた。
何故かは分からないが、今年に入ってからと言う物、千反田を家まで送っていくのが習慣となっていたのだ。
真っ直ぐ帰る事が出来るのは……いつになるのだろうか。
える「あ、そういえばですね」
突然、何かを思い出したかの様に千反田が口を開く。
える「少し、気になる事があるんです」
奉太郎「今からか? 明日にしてくれ」
える「いいえ、折木さんはもう答えを知っている事ですよ」
何だろうか……まあそれなら、いいか。
奉太郎「……何だ?」
える「私が、ギャンブルに勝った時……」
える「折木さんは何故、6を選んだんですか?」
える「何か、理由があった様ですが」
奉太郎「ああ、あれか」
奉太郎「……言わなきゃ駄目か」
える「はい、気になります」
……本当に単純に、浮かんできた数字なんだが。
理由はある、だが少し恥ずかしい。
まあでも、千反田に嘘を付く理由も……無いか。
奉太郎「千反田える」
える「え?」
奉太郎「それで、6文字だ」
奉太郎「だから6を選んだ」
える「ふ、ふふ」
える「そうでしたか……なるほどです」
奉太郎「単純な理由さ、特に意味も無い」
える「でも私は、他にも良い数字はあると思いますよ」
奉太郎「他にも良い数字?」
ううむ、何だろうか。
俺はしばし、腕を組みながら考える。
しかし答えは出ず、千反田に答えを求めた。
奉太郎「教えてくれるか」
える「ええ、勿論」
える「えっとですね……」
える「9や、5も良かったと思います」
9に……5?
千反田が言った数字の意味が俺には分からなかったが、わざわざ聞くのもあれだな。
家も見えてきた事だし、時間がある時にでも考えればいいか。
奉太郎「9か5か……」
える「ふふ、折木さんには分かると思いますよ」
奉太郎「……そうだな、考えておく」
える「ええ、宜しくお願いします」
それから千反田と別れ、俺は家に帰る。
その数字の事を思い出したのは、風呂に入り……布団の中で目を瞑っていた時だ。
奉太郎「……9と5」
……まさか。
……いや、それしか無い。
俺はその数字の意味に気付き、顔に熱が篭るのを感じながら、目を閉じた。
第11話
おわり
第1章
おわり
ちたんだほうたろう
このえるは随分と積極的ですな。