◇序
これから僕が記す文章は、昨年八月から九月にかけての一ヵ月のあいだ僕を悩ませたある出来事についての記録として読んでもらいたい。
おそらく大半の人間にとっては、この文章は何の役にも立たないものになるはずだ。ある種の人間にとっては有害ですらあるかもしれない。
そう感じた時点で、この手記のページを閉じてくれて構わない。
なんだ、こういう類のものか、と、眉をひそめて忘れるのがいいだろう。それがお互いの為だ。
僕は何も誰かを不愉快にさせたくてこんなものを書いているわけではない。そのことを覚えていてくれれば幸いだ。
反対に、こういったものを必要としている人間がいるはずだと僕は思う。
この言い方は正確ではないかもしれない。
僕はこういったものを必要としてくれる人間がいるものだと信じたいのだ。
もしかしたらそんな人間はこの世にいないのかもしれない。
こんな記録を必要としているのは、ひょっとしたら僕一人なのかもしれない。
それは今の僕には判断のつかないことだし、またどちらでもいいことでもあった。
いずれにしろ、僕は書くことに決めたし、決めた以上は書ききってしまいたいと思う。
そうするために、僕はいくつかの不愉快な過去を自分の手で掘り返さなければならないだろう。
いくつかのかさぶたを剥がさなくてはならないし、ひょっとしたらその傷口に指を突っ込んで掻きむしらなければならないかもしれない。
それはもちろん、僕にとってもできるなら避けたいことだ。
元スレ
姪「お兄ちゃんのこと、好きだよ?」男「……そう?
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1347282376/
けれど、そうしなければ前に進めないという場合がある。何らかの新しい展開を望むとき、痛みが不可欠な場合は往々にして存在する。
あるいは、痛みや不愉快に耐えた先で得たものがまったくの徒労だったという場合もあるだろう。
それならそれでかまわない。つまり本当のところ、この文章を書くことで僕が得たい結果とは、展開ではなくて納得なのだろう。
これを記すことは、僕にとっては単なる記録で、整理でしかない。
その結果何かが得られるかもしれないという「期待」はほんのささやかなものだ。
たかだか文章を記す程度のことで何かが得られるはずだという、バカバカしい確信など持ち合わせてはいない。当たり前のことだ。
僕はあの一ヵ月のあいだにいくつかのものを失った。得たものは特になかったはずだ。
徒労というのならば、あの一夏の出来事こそがまさしくそう呼ばれるべきだろう。
けれど反対に、僕はあの出来事を通じて、本当のところ何ひとつ失っていないのではないかと感じることがある。
現に僕はそれ以前とほとんど変わらない生活を送っている。
なついていた猫がどこかに行き、大事にしていたギターが盗まれて、たったひとりの友だちがどこかに行ってしまった今でも。
中途半端な書き出しはよそう。何よりも順序が大切なのだ。
前置きは十分すぎるくらいに長引かせた。ここからはあの夏の出来事を反芻しよう。
あのむせかえるような夏のことを、可能な限り真摯に書き留めてみよう。
混沌に支配された一ヵ月と少しの出来事を、可能な限り感じた通りに。
◇一
彼女がいなくなったのは、七月二十六日のことだった。
「なんだか、ときどき、すごくむなしくなるの。どうしようもない波が来て、頭をぐるぐるかき混ぜていくの」
いつだったか、彼女は笑いながら言った。朝から続いた霧雨で、街は灰色に煙っていた。
授業中だったので、その日の校舎はひどく静まり返っていた。
街中が、どこか遠くの国の王様の死を悼んでいるように静かだった。
授業をサボって、僕と彼女はよく屋上に行った。そこで彼女は僕にたくさんのことを話した。
彼女をよく知らない人間は、彼女が口を開くことがあることすら想像できなかっただろう。
実際、彼女は僕の前でだけ饒舌になった。それ以外に対しては、ずっと口を閉ざしていた。
「バッカじゃないの」
と、僕は彼女によく言ったものだった。
僕には彼女の考えの大半が子供っぽくてバカバカしい、現実から遊離したものにしか思えなかった。
だから僕は彼女の話を一通り聞き終わってから、いつもそう返事をすることになった。
彼女は怒らなかったし、僕を説得しようともしなかった。
どちらにしても彼女の態度は同じだったし、そうである以上僕の返事も同じだった。
じっさい、彼女の語るあれこれよりもよほど切実な問題が、現実には山ほどあるように、僕には思えた。
金が必要だった。時間と住む場所が欲しかった。早く学校を出て、職に就かなきゃいけなかった。
可能な限り早く独り立ちしたかった。金を貯めて、何が起きても大丈夫な状態にしておきたかった。一刻も早く。
どれだけ困難であろうとも、そうしておきたかったのだ。
でも、彼女はそんな僕を見て笑う。
「無理だって、そんなの」
僕たちはきっと似た者同士だった。容器の形が違うだけで、中身はおんなじものだったのだ。
本来ならひっかき傷程度で済む怪我が致命傷になってしまう。
瓶にヒビが入って、中の水が漏れ出している。壊れてしまったものを直すことはできない。
ヒビの入った瓶は新しい水を受け入れることができないのだ。
だからこそ、彼女の辿った結末を、僕だけはしっかりと覚えておかなくてはならないのだろう。
「遠くにいきたいな」
と、ときどき彼女はそんなことを言った。
「遠くってどこ?」
「月とか」
その言葉に、僕たちは顔を見合わせて笑った。
けれど実際、彼女はいなくなってしまった。
きっと、夜明け前、霧雨に煙る街を出たのだ。
街には人ひとりいなかっただろう。電線の上から何十もの鴉が彼女を見下ろしていたはずだ。
手ぶらのまま、彼女は南に向かって歩き出す。近所の公園にでも行くような気軽さで。
少し湿った空気に、少しだけ心を躍らせて。
そしてずっと遠くについてから思うのだ。「いつのまにこんなところまで来たのだろう?」と。
彼女はきっと一度も振り返らなかった。そして二度と戻らないだろう。
旅立ちの日、彼女の姿を見たという者、彼女がいなくなったことに気付いた者は、ひとりもいなかった。
ただのひとりだっていなかった。
僕はその日、彼女のことを思い出しもしなかった。
三週間後の土曜日、彼女がひとりで暮らしていたアパートの部屋を、彼女の叔父が訪れた。
部屋の中は整然としていた。生きる為に必要なもの、便利なものはあっても、それ以上の余分なものはなにひとつなかった。
部屋にあったのは無愛想な机と最低限の筆記用具、それから低めのテーブル、小さめの冷蔵庫だけだった。
冷蔵庫の中には大量のミネラルウォーターが入っていた。それ以外には何も入っていなかった。
テレビもパソコンもなかった。本棚もCDラックもなかった。なにもなかった。
机の上には携帯電話が放置されていた。充電は切れていた。
後になってから、彼女に関する情報を求めて、彼女の叔父がその携帯を充電した。
数十分放置されたのち、電源が入れられる。
叔父が画面を開くと、ディスプレイは数百件以上のメールの着信を知らせていた。
それらはすべて(本当にすべて)迷惑メールやメールマガジンばかりだった。
それ以外のものはなかった。ただの一通だってなかった。
誰も彼女に向かって何かを伝えようとはしなかったのだ。
叔父は未送信メールのフォルダを覗き、宛先のないメールが十数通保存されているのを見つけた。
すべてがすべて白紙だった。長く下に伸びていたが、どれだけスクロールしたところで何の文字も浮かび上がらなかった。
その長さはきっと、彼女の未練のようなものだったのだろう。何かがあるはずなのだ、という。
現実問題として、彼女には伝えたいこともなかったし、また伝える相手もいなかった。
それが致命傷だったのだ。
◇
◇
これは携帯電話についての話ということになる。
◇二
ドアがあった。数は数えきれない。その部屋には無意味な壁があり、無意味な扉があり、無意味な窓があった。
大抵の扉は横に三つずつ並んでいた。そこを抜けると同じ空間にたどり着く。
違うドアから入っても、たどり着くのは何もない、同じ空間。一切の実用性が排除された扉。
何処から入って何処から出ても一緒だ。
八月三日の十一時、僕はドアのショールームにいた。
無意味な扉とか、無意味な壁というのは、不思議な魅力にあふれている。
その先の空間はどこにも繋がっていない。にも関わらず、なぜか開けてしまう(それを試す目的でないにしろ)。
どん詰まりの魅力といおうか、迷路の袋小路といおうか、いずれにしろ、何かしら人を引き寄せるものがある。
少なくとも僕はそう感じた。
ショールームはアルミサッシ製造メーカーの事業所敷地内にあった。国道沿いに建つこの事業所の敷地は広い。
工場への入り口には大仰な門があり、労働者はこの門で警備員にIDを提示した上、車のまま入場する。
人々がいつ入場し、いつ退場したのかはその門のコンピューターによって管理されている。
ついでにいくつかの監視カメラが、その門の周囲を常に見張っている。
敷地の全容は中で働いているものにしか分からない。外側からは把握できないほど広いのだ。
ショールームは門のすぐ傍にあり、こちらは一般にも開放されていた。
僕は夏休みで暇を持て余した小学生の姪を連れて、近所の自宅からこの工場へと歩いて向かった。
無骨に見える工場と、人を寄せ付けない巨大な門のせいか、ショールームは客寄せに難儀していた。
もちろん家を新築する場合などは、こういった場所にやってくるという場合もある。
(というより、そういった用事以外でこんな場所に来る理由を僕は思い付けない)
けれどその日に限っては事情が違い、子供向けのヒーローショーが催されていた。
その催事はどちらかというと、グループ加盟店の宣伝としての意味合いが強かったのだろう。
展示場を抜けた中庭にはいくつかのテントが立てられ、その下では浄水器だの非常時用ランプだのの宣伝が行われていた。
集客は――「こういった場所にしては」という枕詞があるにしても――なかなかだった。
近所の住宅街に住む大勢の子供連れが、無料で配られた水(例の浄水器を通してある)とうちわで熱気をごまかしていた。
ヒーローショーに間に合うような時間に出発したものの、それを楽しむのが目的ではなかった。
むしろ、目的なんてなかったと言ってもいい。姪は今年十歳になる。僕とは七歳離れていた。
十歳ともなれば、ヒーローショーを無邪気に楽しむ、とはいかない。しかもその日のショーは男児向け。
体よく追い払われたのだ、と僕は思っていた。
姉は二十八歳のシングルマザーだった。十八のときに妊娠し、結婚。子供を産み、翌々年の春に離婚した。
それ以来ずっと実家で暮らしている。二十代前半の頃から、いつかは家を出ると言い続けたが、結局この年まで居座っている。
仕事が忙しいと言い訳して、若いころから子供の面倒はろくに見なかった。
まだ姪が小さいとき、一度でもおむつを替えると、誇らしげに面倒を見た気になっていたものだった。
実際には、おむつどころか服や靴下ですら自分の金では買い与えず、幼稚園の入園準備すらろくにしなかった。
すべての世話を父母に任せ、自分は外に彼氏を作っている。
幸か不幸か容姿だけはたいした美貌だったので、男にはいつも困らなかった。
とはいえ、バツイチで子持ちで二十八だ。まともな交際を考える男がどれだけいるだろう?
姪がいなければ、バツイチでなければ――とっくに新しい男との生活を歩めたのに、と姉は考えているだろう。
もちろん口先では愛しているだのなんだの言っている。半ば義務的、もしくは強迫観念的に。
でも実際にはこんなものだ。たまの休みに一緒に出掛けるでもなく、弟に世話を押し付けて自分は服を買いに出かけている。
それを不満に思わないと言ったら嘘になる。でも、姪と遊びに出かけるのが不愉快というわけじゃなかった。
姪は、母親が反面教師になったのだろう、子供の割に落ち着いていてしっかりしている。
少し引っ込み思案なところはあるが、賢く、心優しい子だ。めったにわがままも言わない。
身内の欲目も少しはあるだろうが、母親があんなふうだからこそ、姪は父母や僕に気遣うようになってしまった。
不機嫌を隠そうともせず当り散らす母親を幼少期から見てきたのだ。
周囲を気遣う気持ちだけは人一倍強くなってもおかしくない。
姪がそんなふうに育ったのがいいことなのか悪いことなのか、それは僕に判断できることじゃない。
姉の生活についてだって、僕がとやかく言えることじゃない。
好き勝手言うことはできる。
けれど現実問題、姉と姪を家から出し、ふたりの暮らしを始めるとなったとき、とばっちりはすべて姪にいくのだ。
だから、父母としても姉を追い出すわけにはいかない。
姉はときどき姪につらく当たる。姪もまた、母親が自分を疎んじていることを感じている。
だからこそ彼女はそんなとき、あまり母親に近付かない。母親にどれだけ話したいことがあっても黙っている。
嵐が過ぎ去るのを待つかのように。
七歳だった僕は十七歳になり、姪は十歳になった。
僕は姪を歳の離れた妹のように思っていた。
むしろ姉の方をこそ、僕は同居している親戚という程度にしか考えられなかった。
すべての判断は保留のまま、十年の年月が流れた。
嵐は一向に過ぎ去る気配を見せていない。
◇三
案の定、姪はヒーローショーには興味を抱かなかったようだった。
強い日差しから逃れるように、僕たち二人は屋内に戻った。
ヒーローショーの代わりに、彼女は展示場のドアを開けるのに夢中になった。
どこかに出るわけでもないのに、ただ静かにさまざまな扉を開け閉めする。
中庭の催事場に人が集まっているので、ショールームの中はほとんど無人で、ひどく静かだった。
僕たちふたりは黙って扉を開け閉めする。姪は少しはしゃいでいるようにも見えた。
「楽しい?」
と僕が訊ねると、
「うん」
と本当に楽しそうな顔で姪が頷いた。それだけで来てよかったと僕は思った。
そして、この場に居ない姉に対して更に怒りを燻らせることになった。
僕のそんな感情を、姪はよく察した。そのたびにかわいそうなほどうろたえる。
僕が母親について些細な(本当に些細な)文句を言ったときでさえ、彼女はひどく悲しんだ。
彼女は別に、僕が言うことが間違っているとは思っていないだろう。
ただ、どのような人間であるにせよ、彼女にとってはそこに存在している実の母親なのだ。
「だからなんだ」という気持ちもあった。
実の母親だからといって無条件に子から愛されるわけでも求められるわけでもない。
求められるべきだという決まりがあるわけでもない。
だが、そんな言葉で姪が姉に向けている感情が消えるわけではない。
僕はいつしか、彼女の前で姉を話題にすることがなくなった。
彼女を悲しませたり傷つけたりしたいわけではないのだ。
姉のことを考えているうちに、ほとんどのドアを開け閉めしてしまった。
すべての扉を一周し終えると、姪は満足そうに溜め息をついて笑った。
僕はどちらかというとバカバカしいような気持ちになったけれど、姪の笑う姿を見ると少しだけ心も晴れた。
十分に遊んで満足し、僕らはもう一度外に出ることにした。
先を行く姪の背中を見ながら展示場を歩いていると、不意に視界の端に何かが引っかかった。
妙に気にかかって、その正体を確認する。
それは緑色の扉だった。緑色をしているという以上に取り立てた特徴はない。
しいていうなら、それは少し寒々しい壁に取り付けられていた。壁は塀のようにも見えた。
でも扉は扉だったし、壁は壁だった。僕はさして気にもとめず通り過ぎようとして、ふと疑問に思った。
こんな扉がさっきまであっただろうか?
あったといえばあったような気がしたし、なかったといえばなかったような気もした。
突然扉が現れるなんてことはありえないので、おそらくは何かの錯覚なのだろう。
けれどその錯覚らしきものが、僕の頭の奥の方にじんわりと広がっていった。
僕はためしにその扉に歩み寄り、ノブに手を掛けてみる。がちゃりと音を立て、ノブが動くのをやめた。
安堵の溜め息をつく。どうやら扉に鍵がかかっているらしい。自分がとてもバカなことをしたような気分だった。
そして気付く。
――鍵?
背筋が粟立つのを感じた。僕は扉から少し離れた。ひどく気味の悪いものを見たような気分。
なぜ、どこにも繋がっていない扉に鍵がかかっているんだろう。開けるための扉に、なぜ鍵がかかっているんだろう。
ひどく不安な気持ちになる。その気持ちを振り払うために、ことさら明るく考えようとした。
ちょっとした手違いか何かで開かなくなっているだけだろう。
これだけの数のドアがあるのだから、そんなことがあってもおかしくはない。
そう考えてみても、気分は落ち着かないままだった。
しばらく呆然としていると、後ろから声を掛けられて心臓が早鐘を打った。
振り返ると、姪がきょとんとした表情でこちらをうかがっている。
自分が意外なほど動揺していることに気付き、僕は笑いだしたい気持ちになった。
「何かあったの?」
「……いや」
何もない。扉はどこにも繋がっていない。壁の向こうには意味のない袋小路があるだけだ。
「行こうか」
僕はごまかすように答えた。
姪は怪訝そうな表情を見せたが、さして気にするほどのことではないと考えてか、あまり追及してこなかった。
中庭のヒーローショーは既に終わっていて、悪役の着ぐるみが風船を配っている。
小さな子供たちが風船にはしゃぐ様子を見て、姪がうずうずしていたようだったので、「もらっておいで」と声を掛ける。
「いいの?」という顔で僕を見上げてから、少しの間逡巡していたが、彼女は結局駆け出した。
日向にくると、さっきまでの不穏な感触はどこかに消えてしまった。
気味の悪い感覚。きっと何かの錯覚だったのだろう。
もしくは、自分の中の神経質で過敏な部分が、薄暗い、ある意味では異様なあの空間に反応したのかもしれない。
ショールームには、どことなくそういう雰囲気がある。
姪が駆けだすのと同時に、悲鳴とも歓声ともつかない声が催事場に響いた。
子供の手から離れた風船が、勢いよく空へとのぼっていく。
するすると糸に手繰り寄せられるように、風船は西の方へと昇っていった。
僕はなんの気なしにその姿を目で追った。風船は展示場の建物の上を泳いでいく。
その人物と目が合った。
彼は展示場の二階の窓からこちらを見下ろしていた。僕は強い動悸に襲われた。
気味の悪い感触がふたたび鎌首をもたげる。
その顔には見覚えがあった。
見覚えというより、その姿はどのような言い訳のしようもなく、僕そのものだった。
もちろん僕は鏡や映像以外で自分を客観視したことはない。けれどその顔はたしかに僕に似ていた。というより、同じだった。
背丈も、服装も、顔のパーツのひとつひとつも、僕に似ていた。彼はこちらを見下ろしていた。中庭を、ではなく、僕を見下ろしていた。
目が合って少しすると、彼は口角を鋭く曲げ、ゆがんだ笑みを浮かべた。
その顔は、やはり僕に似ている。
僕は無性に不安な気持ちになった。催事場の光景やそこにいる人々の存在が、蜃気楼のように不確かに感じられる。
やがて彼は、窓辺から身を剥がした。去り際、こちらに向けてもう一度微笑する。
胸がざわざわと落ち着かない。足が縫い付けられたように、身動きが取れなかった。
異様な息苦しさを感じた。暑さにやられたのかもしれない。僕は重い体を動かして木陰を目指す。
水を飲みたかったが、浄水器についての講釈を長々と受けるのはごめんだった。
いや、見るからに物見遊山の学生に向けて、宣伝などはしないだろうが……そんな扱いは嫌だった。
木にもたれかかると、じんわりとした熱が体中に広がっていく気がした。
ふと、手のひらを掴まれて全身がびくりとこわばった。
「……ほんとに、大丈夫?」
心配そうにこちらを見上げる姪の表情に、落ち着きをとりもどす。
そして自分がひどく動揺していたのだと実感する。息を整えるのには難儀した。
「ああ」
やっとの思いでその相槌を吐き出したが、それではまだ不足だった。
僕は一度深呼吸をして、目を瞑って、頬を伝う汗をぬぐってから、頷いた。
「……うん」
姪はまだ不安そうな表情をしていたが、それでも僕が冷静さを取り戻したことが分かったのか、幾らか安堵したように見える。
……さっきのは、なんだったのだろう。
錯覚か、白昼夢か。
いずれにしろ、どうでもいい――と僕は考えることにした。
僕にはどこかに気をそらしている余裕なんてない。
姉と父母の関係は、日ごと険悪になっていく一方だ。
せめて僕だけでも、姪にとっての安らげる家族でありたい。
そうなれなくても、一緒にいて不安な気持ちにはさせたくない。
「せめて」。無責任な言葉だ。僕には現状を打破する力もなければ気概もない。
ただある状況の中でできることをやるだけだ。状況を改善しようとはしない。
でも、他に何ができるだろう。そんなことばかり考えてしまう。
今の僕はあまりに無力だ。
だから――早く独り立ちしなくてはならない。金が、職が、住居が必要だった。
いざというとき、僕だけの力で彼女を支えられるように。彼女が大人になるまでの、ほんの数年だけでいいから。
◇四
ヒーローショーの翌日はバイトがあった。
八時に出勤すると、バックルームでは夜勤の先輩がストアコンピュータの端末で廃棄商品のバーコードを読み取っていた。
十六のときに始めたコンビニのバイトも、気付けば一年以上続けていることになる。
この店は例の事業所の近くにある。つまり国道沿いで、工場のすぐ傍。ついでに住宅地も近い。
人の出入りは激しい。ひどく混む。品物は売れる。それだけ出さなければならない商品も増える。店全体もすぐに汚れてしまう。
人の出入りが多いコンビニは、人の出入りが少ないコンビニと比べると圧倒的に仕事量が増える。
その差はピンキリだと、先輩に聞いた。よくコンビニバイトは楽だというが、場所にもよるのだと今の僕なら言える。
夜勤の先輩はこことは別の店舗のシフトにも入れられていて、そちらの方が遥かに楽だ、といつもぼやいている。
「この店は異常だよ。あっちじゃ午前三時ごろに客なんて来ない。こっちだと、一人帰ったらまた一人来て、なんてのが珍しくない」
夜勤の基準は分からなかったが、彼はたしかに朝方になると疲れた顔をしている。
土日など学校が休みの日、僕は日勤で入ることが多く、時間の指定をせずにいたから八時や七時に出勤ということが多々ある。
そうなると夜勤と交代ということばかりで、彼とはよく話す機会があった。
(朝六時から九時まではちょうど混み合う時間なので、話す機会がない場合の方が多いが)
僕は先輩と軽く話してからユニフォームに着替えて出勤した。夏休みの予定の大半はバイトで埋まっている。
もちろん学生バイトの給料なんてたかが知れているし、何かの足しになるわけでもない。
それでも僕は早急に金が欲しかった。どれだけ少なかろうと、ないよりはましだ。
金銭的なことだけで判断するなら、ここではなく、もっと他にいい場所もあっただろう。
けれど、ここが家から一番近い場所だった。自転車や徒歩でも通える距離の。
それ以上遠い場所だと、父母の運転に頼ることになる。そうなると好きなだけ働くとはいかない。
売り場に出てすぐにレジに客が入った。一度捕まるとそのうしろに客が並ぶ。
その二人目が終わる頃に、またひとり増える。延々と増え続ける。
僕はそれらを可能な限り手際よくさばいていく。
大抵の客は缶コーヒーや煙草、雑誌や新聞などをひとつふたつ買っていくだけだった。
夏だからというので大量の氷やアイスを買いこんでいく人もいる。
こういう人が来ると片方のレジの動きが遅くなり、もう片方のレジに客が集中してしまう。レジに列ができるのはそういうときだ。
僕はとにかく落ち着いて、客の相手をすることにしている。
大勢の人間がやってくるのだから、中にはガラの悪い人もいるし、機嫌が悪い人だっているし、急いでいる人だっている。
そういう人がやってきて、僕の仕事ぶりに対して何かを言ったりする。僕の質問に対して答えをよこさなかったりする。
平謝りでその場をやり過ごし、とにかくその客を追い出して(実感としてはそんな感じだ)、次の客の相手をする。
ピークが過ぎるまでそれが続き、途切れる頃になるとさまざまな雑事をこなさなくてはならない。
そして雑事が終わるか終らないかというとき、今度は昼過ぎのピークがやってくる。
昼過ぎのピークが終わると、また雑事。夕方が近付くとまたピーク。
その頃に米飯類などの荷物が届く。このとき働く人間はピークの対応をしながら品物を出すことになる。
ちょうど夕勤と交代する時間だ。
僕は働くとき、あまりものごとを考えないようにしている。
◇
「それ、ドッペルゲンガーって奴?」
ちょうど退勤の時間が一緒だった先輩と、仕事が終わってからもバックルームに残って話をしていた。
夜勤で働く一人の先輩と僕を除いて、この店には男性がいない。
今話している先輩は当然女性で、学生で、僕より三つほど年上だった。
彼女は日勤の中で唯一まともに働く人間だった。
彼女以外の日勤は――そこには副店長なども含まれているが――正直、仕事が遅い。
なによりも、仕事を人任せにして、自分はほとんど動かない。
入ってきたのがもっとも遅い僕にこう思われているのだから、夕勤や夜勤の人も思うところはあるだろう。
僕は学校がある平日は夕勤に入っているが、その温度差はすさまじい。
同様に彼女も平日は夕勤に入るので、日勤に入るときはひどく憂鬱そうにしている。
手を抜きたがる人間の中のまともな人間と言うのは、ある意味では不幸な存在なのかもしれない。
もっとも僕だって、そんなに仕事ができるわけではないのだけれど、それでも真面目には働いているつもりだ。
僕は彼女と話をする機会が多かった。シフトが重なることが多いせいだ。
僕は彼女にいろいろな相談をしていた。
彼女は話を聞くのも相談に乗るのもうまかった。適度に歳が離れていたし、適度に歳が近かった。
だからこそ、前日、目撃したものについて、彼女に話してみる気になったのだ。
ドッペルゲンガー。自分と同じ姿をした幻影。
「死の予兆、ってよく言うよね」
先輩はからかうように笑った。僕は頷く。まぁ、そんなふうに茶化す以外の反応は、僕だって想像できなかったのだが。
自分によく似た人間を見た、と言われたところで、だからなんなのか、と言って終わりだ。
見たからどうだというのではない。あえて気にしないようにはしていた。
それでも、なんとなく据わりの悪いような感覚が、昨日からずっと続いていた。
なんだか、自分が知らないところで何かまずいことが始まっているような予感が。
けれど、そんなことを誰かに話したところでしょうがない。何かの誇大妄想だと受け取られてもしかたなかった。
それなのに、なぜ話題に出してしまったのだろう。
「……疲れてるの?」
案の定、先輩からの精神の不調を疑われた。
けれど、体は至って健康だし、休息も十分にとっている。
だとするならなおさら、錯覚や見間違いと言うのは考えにくいのだが。
「早く帰って寝た方がいいよ。明日も出勤でしょ?」
「……はい」
「日勤?」
「そう。じゃあ、わたしも帰ろうかな。お疲れ」
先輩は軽やかに立ち上がって、バックルームを出て行った。僕はしばらく動く気が起きなかったが、仕方なく無理矢理足を動かした。
◇
家に帰ると、母が姪と一緒にドラマを見ていた。僕が「ただいま」というと、母は「早かったわね」と答えた。
うん、と頷いて冷蔵庫を覗く。作り置きの麦茶が入っていた。コップに注ぐと、母が自分の分を要求する。
仕方なくコップをさらに二人分用意した。僕はリビングのテーブル近くに腰かける。
「おつかれさま」
と姪が言った。僕は曖昧に二、三度頷きを返す。たしかに疲れた。
「何かあったの?」
母は少し心配そうな表情をこちらに向けた。そんなに疲れた顔をしているのだろうか。
なんとなく不安になった。母がバイトから帰った僕にそんな言葉を掛けるのは初めてだと言う気がする。
たしかに疲れている。けれど、いつにもまして、というほどではない。
なんとなく納得がいかなかったが、そういう日もあるのだろう。そう思うほかなかった。
ふと、また嫌な感覚が広がった。ざわざわとした胸騒ぎ。不安が胸の奥に詰まる。
違和感のようなものだ。僕は自分の行動やさっきの会話におかしなところがなかったかを探したが、すぐには分からなかった。
コップの中の麦茶を飲み干した時、さきほどの母の言葉を不意に思い出した。
『早かったわね』
――早かった?
時計を見る。三時四十五分。僕が退勤したのは三時で、いつもは三時二十分には帰ってくる。
今日は先輩と話していたので、いつもより遅くなったのだ。
この時間よりも遅い時間に帰ってくることがないわけではないし、母が何かを勘違いしただけなのかもしれない。
僕は母に何かを訊ねようとしたけれど、何をどう訊けばいいのか分からなかった。
きっと何かの勘違いか、そうでなければ言葉が咄嗟に口をついて出ただけなのだろう。
僕だって似たような具合で、一度は相槌を打ったのだ。たいして会話を意識していなかったのかもしれない。
僕は努めてそれ以外の可能性について考えないようにした。
もっとも、それ以外にどんな可能性があるのか、僕には思いつかなかったのだけれど。
◇五
自室にもどって、僕は驚いた。
スタンドに立てかけておいたはずのエレキギターが、ベッドに横たわっていたのだ。
朝出勤するまで、ベッドには僕が眠っていたのだから、ギターがベッドに倒れているはずがない。
もし変化がそれだけだったならば、姪が悪戯でもしたのかと思えなくもないが、ギターの弦が切れていた。
しかもほとんどの弦が。かろうじて切れていないのは四弦だけだった。
それ以外の弦はすべて、中ほどから途切れて外側に跳ね上がっている。
僕はギターに触れて状態を確認してみた。そして間違いなく弦が切れていることを確認した。
なぜ弦が切れているのだろう。僕は漠然とした不安を感じた。
弦は何もせずに切れたりしない。錆びていれば弾いているときに切れたりもするかもしれないが、替えたばかりだ。
姪がペグを回して切ってしまったのか。それならば、どこかひとつの弦が切れるだけで終わりそうなものだ。
第一、そんなことをしたら、姪はすぐに謝りに来るだろう。
だったら母? 母は自分がギターをいじれば僕が良い顔をしないことを知っている。母ではない。
姉は僕がバイトに向かう頃には仕事に出ている。父も同様だ。……じゃあ、誰も触っていないのに切れたのか?
そんなはずはない。
だが、弦がこんなふうに切れている以上、人為的に切断されたのだろう。
よく見れば、ベッドの上にはニッパーが放り出されていた。
僕がいつも使っているニッパー。デスクの引き出しの中に入れてある。
姪も、母も、ニッパーの位置は知らないはずだ。僕以外が使う機会はないのだから。
知っているのは僕だけ。僕以外の人間は知らない。
僕以外の人間は――。
……何を考えているのだろう。僕はデスクの引き出しを開けてみた。そこからはたしかにニッパーがなくなっている。
けれど、だから何だと言うんだろう。ギターをやっていれば弦の交換くらいする。そうだとすればニッパーくらい持っている。
部屋の中でそういった道具をしまいそうなところを探せば済むことだ。別に場所を知らなくても問題はない。
でも、いったい誰がなんのために弦を切ったりするんだろう。
嫌がらせ以外の理由は、思いつかない。
それ以前に、その『誰か』は、いったいどうやってこの部屋に入ったんだろう。
姪は夏休みで家にいる。遊びにいったりすることはめったにない。それに付き合って、母も家に残っている。
家に人がいない時間はない。朝まで弦は切れていなかったのだから、有り得るのは僕が出かけてから帰ってくるまでの間。
僕がバイトに出る時間に、母は既に起き出していた。
もし、家族の仕業でないとしたら。
『早かったわね』
……思考が、一方向に引き寄せられる。僕は努めてその考えを頭から排除しようとした。
ふと、考えが浮かんだ。
普通に考えれば、他人の部屋に忍び込んだ場合、自分が侵入した痕跡を残そうとはしない。
物の配置にすら気を配るだろう。にも関わらず、ギターの位置は動き、弦が切れている。
つまり、犯人(そんなものがいると仮定すればだが)の目的は僕の部屋に忍び込むことではなかったのかもしれない。
むしろ、ギターの位置をあからさまに動かし、弦を切ること自体が目的だったのではないか。
なぜ"あからさまに"ギターを動かし、弦を切ったのか。
僕は根拠もなく考えを巡らせた。
つまりこれは、意思表示なのではないか。
僕の家族が家にいる間に、僕の部屋に簡単に忍び込み、ギターの弦を切り、何事もなかったかのように家を出る。
「自分にはそうすることができるのだ」という、これは意思表示で、つまりは脅迫なのではないか?
バカバカしい考えだ。何よりもバカバカしいのは、そうとでも考えないかぎり、こんなことをする理由が分からないということだ。
単なる嫌がらせとしてはリスクが多すぎるし、仮に嫌がらせだとするなら、なぜ自宅に忍び込むようなことまでするのか。
こういった類の行為は、大抵の場合所属集団内で行われるものがエスカレートっした場合に発生する。
学校、職場。――どちらでも、嫌がらせを受けた記憶はない。
――ドッペルゲンガー。何度振り払おうとしても、その言葉に僕の頭は支配されてしまう。
僕とまったく同じ姿をした誰かが、僕が仕事から帰ってくる前に、家にやってきた。
そして何食わぬ顔で母と姪に目撃される。そのときの態度は、おそらく不自然なものだったのだろう。
だからこそ母は『何かあったの?』と僕に訊ねる。
何者かは部屋に向かい、ギターをベッドの上に寝かせる。
僕がいつもそうするようにペグを回して弦を緩め、ニッパーで切断する。
そして何食わぬ顔で部屋を出る。玄関に向かい、家を出る。
「どこかに行くの?」と母は訊ねるだろう。
「ちょっとそこまで」とでも、彼は答えるかもしれない。
……「早かったわね」は、それに対しての答え、と言えるのか。
すべて、想像の域を出ない。
朝、寝惚けて自分でギターを倒してしまい、そのときに弦が切れたのかもしれない(ちょっと上手く想像できないけれど)。
思えば僕が違和感を抱いたのは母の言動だけだ。母がちょっとしたイタズラのつもりでやった可能性もある。
が、だとすると悪趣味にすぎる。もしそんなことがあったなら、それこそ母の精神の不調を疑わなければならないだろう。
「お兄ちゃん?」
と声がして、僕は振りかえった。部屋の入口に姪が立っていた。
立場としては叔父だったけれど、彼女が生まれたとき、僕は十歳だった。
僕は当然のように叔父と呼ばれるのを嫌がった。三歳ごろになると、姪は僕のことを、姉や父母がそうするように呼び捨てで呼んだ。
それもそれで不愉快だったので、僕は姪に呼び方を変えるようにと言った。
「お兄ちゃん」は、妥協点だ。
「なに?」
僕が問い返すと、姪は視線をあちこちにさまよわせ、こちらの機嫌をうかがうような声を出した。
「どうかしたのかな、って、思って」
不安そうな表情。自分だけは、彼女にこんな表情をさせたくないといつも考えていた。
けれどそれは理想であって、僕だって失敗もするし限界はある。いつでも彼女を気遣えるわけではない。
異変が大きすぎた、ということもある。
『それでも』、僕は可能なかぎり彼女にこんな表情をさせたくなかった。
僕はできるだけ明るい声音で言った。
「いや、ギターの弦を張り替えてただけだよ。すぐ下にいくから」
「そう、なの?」
「ああ」
もう一度頷く。
彼女は納得したようなしていないような曖昧な表情をした。
僕が視線を動かさずにいると、仕方なさそうに頷いて部屋を出て行く。
僕は溜め息をついて、弦が切れたままのギターをスタンドに立てかけた。
予備の弦はたしかにあったが、張り替える気にはなれなかった。
気味が悪い。いや、もっといえば、恐ろしくすらある。昨日僕を見下ろしていたあの視線。
あの目。僕のものと同じ、あの目。僕はなんだか、足元がぐらつくような感覚に襲われた。
ふとデスクの上を見る。メモが残されていた。その存在に、なぜ今まで気付かなかったのだろう。
僕が使っているものと同じメモ帳の切れ端。
だが、僕はこのタイプのメモ帳を、バイト先でしか使っていない。いつもユニフォームのポケットに入れっぱなしにしている。
――汗で服がべたつく。暑さのせいか、不安のせいかは分からなかった。
僕はそのメモを手に取る。拍子抜けしたような、肩透かしを食らったような気持ちになった。
そこには何も書かれていなかった。白紙。
そしてすぐに、その白紙のメモが、ひどくおぞましいものに思えた。
白紙であるにもかかわらず、メモを残す。
その行為の意図は読めないけれど、そこにはたしかな悪意的な意思が感じられた。
僕はメモをぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に捨てた。それから落ち着いてコーヒーでも飲もうと考える。
リビングに降りて、母に頼んでコーヒーを入れてもらう。
僕はダイニングの椅子に座って全身の力を抜く。知らず知らず長い溜め息をつくと、姪が心配そうにこちらに駆け寄ってきた。
僕は彼女の頭を撫でる。昔から、ついやってしまう癖のようなものだ。
子供の頃は、何かをするたびに彼女の方から頭を差し出してきたものだが、近頃では子供扱いが嫌になったらしく、あまりいい顔をしない。
それでも僕の手を避けるようなことはしなかった。そのことは少しだけ僕を安心させる。
僕は少し考えて、そしてあのメモを残した誰かについて考えた。
さっきまでの想像を続ければ、あのメモは大きなメモを持つことになる。
気のせい、錯覚、見間違いでは済まされない。
最悪の場合、この出来事は僕だけでなく、僕の家族にとっての危険にもなりうるのではないか。
素知らぬ顔をして僕の部屋に忍び込み、何かの意思表示をした誰か。
いったい、誰がそんなことをするというのだろう。
コーヒーを飲んでも気分はまったく落ち着かなかった。
さっきまでの漠然とした不安は、既に得体のしれない恐怖に変わっている。
◇六
胸騒ぎに反して、すぐに何か具体的な異変が起こることはなかった。
僕は相変わらず姪の相手をしながらバイトをして、長い夏休みを着実に消化していく。
数日経つと、結局あの出来事は何かの間違いで、気のせいだったのではないかと思い始めた。
人間の記憶なんて曖昧なものだ。ひょっとしたら僕はあの前日、ギターの弦を張り替えようとしたのかもしれない。
ギターの位置が動いていたのだって、僕が気にしすぎていたのかもしれない。
たとえばスタンドに上手いこと立てかけられずに倒れてしまったものを、母が気付いてベッドに寝かせた、とか。
そういう可能性だってないわけじゃない。思いつきはしたものの、確認する気にはなれなかった。
バイトのない日は姪の相手をして、付近で遊んだりもした。母の気晴らしに付き合って遠出もした。
予定のない夜は勉強に使った。ときどき気分転換にギターを弾いたりした。
弦を張り替えると、やはり何かの間違いだったのだという気分が強まる。
けれど、心の奥の方に、しこりのような不安がかすかに残り続けていた。
本当に、そんなふうにごまかしてしまっていいのだろうか、という不安が。
八月六日は近所で花火大会があった。僕は夕方過ぎに、姪とふたりで街に出かけた。
近所からバスをつかって会場を目指す。浴衣姿の若い女が何人か乗っていた。
ラフな格好をした男も何人かいた。親子が連れ立っている姿もあった。
僕と姪は二人掛けの座席に座り、黙って後ろに流れていく窓の外の風景を見下ろしていた。
姉は仕事から帰ってきていない。母は僕と姪をなかば追い立てるように出掛けさせた。
姪には友達がいない、と、母が言っていた。一緒に花火を見にいく友達がいない。
だからお前が連れて行ってやれ、と母は言ったけれど、その先でクラスメイトにでも会ったらどうすればいいのだろう。
友達なんていないところで、特に問題はない。僕の歳になればその程度は割り切れる。
表面上の付き合いで、ある程度はどうにかなるのだ。
でも、姪の歳では、そういうわけにはいかない。十歳の僕にとっては学校と家が世界のすべてだった。
もちろん姪にとってもそうだとは限らない。だが、簡単に割り切れる話でもないだろう。
良し悪しでは、あるのだが。
適当な場所でバスを降り、会場へと徒歩で向かう。普段は寂れている道も、歩いている人が多かった。
僕は既に疲れていたが、姪に悟られぬよう、表情には出さないように心掛けた。
雑踏も喧噪も苦手だった。だからといって静かな場所が好きかと言うと、そうでもない。
ショッピングセンターの屋上駐車場には、臨時のステージが設置されていた。
パイプ椅子が何列も並べられいる。この街出身の演歌歌手が舞台の上で何かを喋っていた。
人はごった返していた。屋上には、数は少ないがいくつかの出店があった。
行列が多く、見ているだけでうんざりしそうだったけれど、時間は余っていたので、姪に何か食べたいかと訊ねた。
「かき氷」
たったそれだけの言葉を聞くために、僕は前かがみになり、彼女に耳を寄せなければならなかった。
それくらい騒々しく、人のうねりが激しかった。
僕と姪は手を繋ぎ、人ごみを掻き分けてかき氷を買わんとする人々の行列の最後尾を目指した。
さまざまな方角に好き勝手に歩く人々とすれ違う。そしてふと、自分がその中のひとりなのだと気付いた。
僕は自分がこの場所に、自分の意思ではなく、もっと大きな何かによって唐突に運び出されたような気がした。
なんだかとても孤独だった。宇宙に放り出されたような気持ちだった。でも、不思議と不安ではなかった。
ただ、たしかにそうなのだ。今これだけの数の人間がここにいて、僕を知っている人はいない。
いや、いるかもしれないが、とても巡り合えない。そういう実感があるだけだった。単なる感覚でしかないのだが。
黙ったまま行列に並ぶ。その時間はさして苦痛ではなかった。さまざまな音が何かの皮膜越しに聞こえた気がした。
その不思議な感覚は、不意に肩を叩かれるまでずっと続いていた。
僕の肩を叩いたのは、バイト先の先輩だった。ドッペルゲンガー、と口に出した女性。
彼女は何食わぬ顔で僕の隣に並んだ。
「わたしもかき氷食べたい」
そう言って彼女は、ごく自然に僕の隣に立ち、僕と手を繋いでいた姪を見てきょとんとした。
「その子、誰?」
僕は彼女に姪を簡単に紹介した。
姪は人懐っこい笑みを浮かべてあいさつしたが、彼女は怪訝そうな表情になるだけだった。
「ずっと一緒にいたの?」
「一緒にって?」
「その子と」
「……ええ、まあ」
どうしてそんなことを訊くのだろう。
彼女は納得しかねたような表情でうなる。自分に落ち度があったと思ったのか、姪がおろおろしていた。
行列が進む。姪を促し前に進んだ。先輩も、遅れてついてくる。
「ふうん」
かき氷を買って、僕たちは行列から抜け出した。
花火を見やすい位置を探そうとしたが、既に人々が見やすい位置を埋め尽くしていた。
屋上なので、みんな立ち見だ。当然、背の低い子供なんかは、最前列にでもいかないと見えにくい。
どうにか開いていそうなところを探し、三人で歩いた。
さいわい見やすそうな位置を確保できたので、待機する。
「先輩は、誰かと一緒じゃなかったんですか?」
「いや、別に」
一人で観に来たのだろうか?
「ま、いいからいいから」
何がいいのかは分からないけれど、先輩はここから離れる様子を見せなかったので放っておく。
時間が経つ。待ち疲れてうんざりしはじめたころ、誰かが時計を見て、始まるぞ、と言った。
姪は屋上の手すりを掴んで背伸びをしていた。危ないぞ、とたしなめる気にはなれない。
遠い音が聞こえた。僕は空に目を向ける。姪が「あっ」と声をあげた。
花火が空の向こうに咲いた。
先輩が感心したように間抜けた溜め息をついた。
僕は姪の方に目を向ける。目を輝かせて、花火に見入っていた。
とりあえず、彼女が喜ぶのなら、それだけで来た価値はある。
納得のいかないことは多いけれど。
持ちにくそうにしていたので、かき氷のカップを代わりに持ってやる。
なぜかは分からないけれど、花火を見ていると気が滅入りそうだったので、僕はあまり真剣に空を眺めないでいた。
すると妙に不安な気分が沸き上がってくる。さっきのように、喧騒が皮膜を通したようにぼんやりと聞こえた。
何か気配に、振り向く。
背筋が凍った。
その目は僕を見ていた。
振り向いた先の視界には大勢の人がいた。人だかりが、僕たちと同じ方を向いて立っていた。
けれど、視界を埋め尽くすほどの人間を、僕の頭は認識しようとしない。
そのときの僕に、彼らは蜃気楼のようにぼんやりとした存在に見えた。
不安になって、僕は姪の方に手を向けようとしたが、やめた。彼女は花火に見入っている。
邪魔をしたくなかったし、不安がっていると気付かれたくなかった。
汗がべたついて、気持ち悪い。
人だかりの向こうから、こちらをじっと見つめている目があった。
その視線はたしかに、こちらを、というよりは、僕を見つめているようだった。
周囲の視線が少し上に向かっているのにたいして、彼はまっすぐこちらを見ている。
その人物の顔は僕のものだった。
彼は僕に向けて、微笑んだ。
――その微笑みに、悪寒が走る。
以前見たときとは違い、彼はすぐには去ろうとせず、むしろこちらに向けて何かを伝えようとしているふうだった。
やがて僕の姿をした誰かは、小さく手招きをして、自分の後ろを示した――ように見えた。
臨時ステージに設置された、パイプ椅子。もう既に、そこには誰もいない。
咄嗟に彼の手招きに応じようと足を踏み出しかけるが、先輩に手首を掴まれた。
「どこ行くの?」
彼女は見透かしたように言った。何か悪いことをしたわけではないのに、後ろめたい気持ちになる。
「ちょっと、トイレに」
僕は嘘をついた。なぜ嘘をついたのかは分からない。なんとなく、あの男の存在を人に知られるのが嫌だった。
当たり前と言えば当たり前の話なのだが……。
姪は不意にこちらを見た。視線は名残惜しそうに花火と僕をいったりきたりしている。
「先輩、少しの間、この子を見ててもらっていいですか」
「かまわないけど……」
彼女はあからさまな疑いのまなざしをこちらに向けた。
僕は詳しい追及を受ける前に、お願いしますと短く告げて、人込みを掻き分けて臨時ステージを目指した。
姪は花火から目を離し、手を振り払われたような表情でこちらを見ていた。
けれど僕は彼のもとを目指した。
なぜかは、やはり分からない。
◇七
特設ステージの脇に僕を誘った男は、物陰まで僕を促してから、こちらに向き合った。
「こんばんは」 と彼は笑った。
僕は答えずに彼の姿を眺めた。僕に似ている、というより、僕と同じ。鏡でも見ているようだ。
けれど――それまではまったく気付かなかったのだけれど――服装が違った。
彼は僕の持っていない服を着ていて、眼鏡をかけていて、髪が少しだけ僕より長かった。
だからだろうか、僕たちのことを気に掛ける人はいなかった。あるいは花火に夢中になっていて気付かないのかもしれない。
僕と彼の顔が鏡写しのように瓜二つだということに。
「初めましてというのも変な話だけど、やっぱり初めましてと言うのがふさわしいんだろうね」
僕が黙ったままでいると、彼はからかうような口調で言った。僕はひどく動揺している。
周囲のざわめきがとても遠く感じた。
僕は自分が幻でも見ているような気分だった。
自分がここにいるのだと漠然と思った。ここにいるのは僕なのだ。
何も答えようとしない僕を見て、彼はたたえていた微笑を消し、無神経なほど不機嫌な表情になった。
「――返事くらいしなよ」
その攻撃的な表情に、寒気がした。花火の音が鋭く響き、歓声があがる。
僕は身動きひとつとれなかった。
その表情は、ひどく生々しいものだった。人間らしいと言い換えてもいい。
僕ではない僕が、人間らしい表情を浮かべている。人間らしい仕草をしている。
その事実に、恐れを抱かずにはいられなかった。
無感情で爬虫類的な笑みを浮かべられただけだったなら、ここまで怯えることもなかっただろう。
人間にしか見えない。僕にしか見えない。それが一番おそろしかった。
「君は、誰?」
気付けば、そう問いかけていた。
彼は不愉快そうに眉をねじまげて、嘲るように笑う。
ひどく気分が悪かった。自分はこんなふうに笑うのだろうか?
自覚がないだけかもしれないが、少なくとも僕はこんなふうに笑わない気がする。
顔はそっくりなのに、仕草や表情は僕とまったく異なっているように思える。
「言ったところで分からないだろう。どちらかというと、僕から質問があるんだ」
「質問?」
「いくつかね。真剣に答えてほしい。僕にとってはとても致命的なことなんだ」
「……話が分からない。君が何者かも分からないのに」
「少なくとも生き別れの双子の兄ではないし、赤の他人のそっくりさんでもない」
彼は真剣な口調で言った。
「僕の名前は君が良く知っているし、住所も生年月日も分からないはずはない。家族構成は違うかもしれないけどね」
「……君は僕なのか?」
「僕は君ではない。君とは違う。でも、もし君という人間が持つ個人的要素と同じ要素を僕が持っているかと訊ねられれば、答えはイエスだ」
「――何を言っているのか、分からない」
「僕は君と同じ名前で、同じ生年月日に生まれた。同じ家に住み、同じ学校を出て同じ学校に通っている」
「そんなわけがないだろ?」
と僕はなぜか泣き出したいような気持で言った。
「僕の家に君は住んでいないし、僕と同じ学校に君は通っていなかった」
「でも僕はたしかに住んでいたし、たしかに通っていたんだよ」
それ以上は説明のしようがないとでもいうふうに、彼は口を閉ざした。
僕は彼の言葉を十分に咀嚼しようとしたけれど、思考は混乱していく一方だった。
こんな男の言葉を信用しようとするのがそもそもの間違いなのかもしれない。
不意に浮かんだ考えが、思わず口をつく。
「――ドッペルゲンガー」
「……え?」
僕にとって一番意外だったのは、彼のその反応だった。予想もしていなかった攻撃を受けたような表情。
彼は心底不思議そうな顔をしたあと、ひどく頼りない表情になった。
「それ、どういう意味?」
僕は彼の様子を不審に思いながらも、仕方なく答えを返す。
「君はドッペルゲンガーなんじゃないのか。僕にとっての」
彼は深く傷ついたような顔をした。僕は動揺する。こんなふうに彼が傷ついたりするなんて想像さえできなかった。
強い怒りや悲しみを抑え込もうとするような震えた声で、彼は静かに、強く言う。
「その言い方、やめろよ。それじゃあ、まるで――」
彼はかすかに俯いた。僕が目を細めて続きを待っていると、こちらをきっと睨んでくる。
不安が強くなる。足元がぐらついている気がした。僕という人間が、僕という固有性を失って空気に溶けてしまいそうだった。
「――それじゃあまるで、僕が偽物みたいじゃないか!」
その言葉は、まるで僕の方が偽物だと言っているようだった。
彼は興奮して荒れた呼吸をなんとか落ち着かせようとしていた。頬を垂れる汗をシャツの肩で拭く。
妙に息苦しくなってきた。周囲の景色がぼんやりと歪んでいるように見える。
彼は僕なのだろうか? ならば僕はいったい誰なのか?
僕が僕であることは間違いがない。――そうだろうか? そう思い込んでいるだけではないのか?
バカバカしい考えは、切り捨てるに限る。
彼はひどく混乱した様子で、僕の方を睨んでいたが、やがて落着きをとりもどした。
「……まあ、いい。そのことについては、どうだっていいんだ」
僕にとってそれはどうでもいいことではなかったけれど、だからといってさっきの彼の様子を見た上で問いを重ねる気にはなれなかった。
必死の形相で、自分は偽物ではない、と叫ぶ彼の姿に、僕は何が何だかわからなくなってしまった。
「僕が訊きたいのは彼女についてだよ」
「彼女?」
彼の視線は僕からずれた。その先を追いかける。視界の歪みが、少しだけ直っていく。
その先には、先輩と姪の姿があった。
「……あの、子供のことだ」
ひどく言いにくそうに、彼は言った。
僕は少し意外に感じた。てっきり先輩について言っているものだと思ったが、どうやら違うらしい。
「姉の子供だよ」
と僕は正直に答えた。
ここで嘘をつくことは無意味だと思ったのだ。けれど、どうして彼は彼女のことを知らないのだろう?
家族構成が違う、と言っていた。……状況が、上手く想像できない。彼の言葉の半分も、僕は理解できなかった。
目の前に唐突に現れた自分とうり二つの人間が、自分は「僕」だと名乗る。
「僕」がふたりいる。どちらかが本物で、どちらかが偽物でなくてはならないはずだ。
僕は本物だ、と少なくとも信じている。信じざるを得ない。ならば、彼は偽物。……そのはずだ。
けれど、どうして、家族構成の違いがあったりするんだろう。うまく想像できなかった。
「君になついているみたいだ」
「――そう見えるなら、そうなのかもしれないけど」
実際にどうなのか、僕には分からない。
「……そんなことがありうるのか?」
彼は自問するように呟いた。
「ありうるなら、それだったら、じゃあ僕は……」
彼の独り言は、僕をどんどんと不安にさせた。
僕には僕自身よりも彼の方が、よほど人間らしく考えたり感情的になったりしているように見えた。
不安が途切れない。僕は僕であって、そこにはどんな誤謬も挟まりようがない。……そのはずだ。
「ねえ、君は彼女のことをどう考えている?」
「どう、って?」
ふたたび歪み始めた視界の中で、彼の声は透き通るようにはっきり聞こえた。
「べつに。家族だよ。ごく当たり前の……」
「家族、ね」
含みがあると言うよりは、僕の答えを材料に思考を組み立てようとしているような相槌だった。
「家庭には、何の問題もないのか?」
「姉が……」
と言いかけて、僕は口を噤んだ。
そこまで喋ることはない。いわばこれは僕の問題なのだ。姉のことを話すのは筋違いだ。
けれど、途中までの答えを聞いて、彼はなるほどというふうに頷いた。
「それなのに、仲が良いんだね」
僕は頭に血が上るのを感じた。なぜだかは分からないが、自分の生き方それ自体をバカにされたような気がしたのだ。
侮辱や嘲笑のようなものに僕は弱い。相手にそのつもりがなくても、過敏に反応して感情的になってしまう。そういう傾向があるらしい。
「どういう意味?」
僕が投げかけた質問に、彼はあからさまに動揺した。
「いや、別に。ちょっと不思議だっただけだよ」
落ち着け、と僕は自分に言い聞かせる。ここで声を荒げても仕方ない。
「僕は別に君を挑発したかったわけじゃない。いくつか確認事項があっただけだよ」
彼は言葉の通り、ずっと何かに思いを巡らせている様子だった。
「いくつか、分かったこともある。分からないことだらけだけど……」
疑問を感じて、僕は質問を返した。
「同じことを聞くようだけど、君はいったい何者なの?」
「少なくともドッペルゲンガーじゃないことはたしかだ。でも、僕自身にも詳しいことが分かっているわけじゃない」
彼は言う。
「ただひとつはっきりと言えるのは、僕は何らかのめぐり合わせでこの場にいるということだ」
抽象的な言い回しに苛立ちを感じる。
「魔女の甘言に乗せられて、緑色のドアの向こうにやってきた。と、詩的に表現すればそんなとこか。はっきりとは言いたくない」
気恥ずかしくなるような表現で、彼は大真面目に言った。僕は少し考える。
緑色の、ドアの向こう。
『タイム・マシン』を書いたH・G・ウェルズの小説に、そんなものがあったっけか。
あるいはO・ヘンリの方かもしれない。そっちはどうしようもない出来だったと思うけど。だからなんだと言いたくなるような。
……何をくだらないことを考えているのだろう、僕は。
緑色のドア。――あの、ショールーム。
「ひょっとしたら」
と、彼は小さく呟いた。
「君にとっては、僕の存在がひどく致命的なものになるかもしれない。僕にとっての君がそうであるように」
僕は何も答えられなかった。
◇
「ところで、僕のギターの弦を切ったりした?」
「何の話?」
◇八
帰りのバスの中で、姪はずっと黙り込んでいた。
一番のメインだった花火を見るとき、僕が一緒にいなかったので拗ねているらしい。
ありがたいといえばありがたい話かもしれない。でも、ちょっとだけ不安な気持ちだった。
なぜかは分からない。
姪は、何かをずっと考え込んでいるような表情だった。
子供離れした悲壮な雰囲気をまとっている。そこには一種の決意すら覗き見えそうだ。
僕は息が詰まる思いだった。
あの男、どう呼ぶのが正しいのか分からないので、そう呼ぶしかないのだが、結局あの男との邂逅は、僕に何も教えてくれなかった。
彼がどこの誰で、どのような人間で、僕とどのように関係するのか。なにひとつ分からなかった。
分からないことが増えただけだった。
「ねえ」
と姪が声をあげた。目を向けると、彼女はさっきまでとまったく変わらない姿勢、表情で、視線を床に落としている。
「わたしね、お兄ちゃんのこと、好きだよ?」
「……そう?」
唐突な発言に面食らったような気分で、間抜けな返事をした。
「おじいちゃんのことも、おばあちゃんのことも好きだよ」
「うん」
「お母さんのことも……」
彼女はそこで、何かをためらうように口を閉ざした。
少しの逡巡のあと、今度は不安そうな顔で僕を見上げて、姪はふたたび口を開く。
「お母さんは、わたしのこと嫌いなのかな」
僕はどう答えればいいのか分からなかった。
どう答えても、それは嘘になるような気がした。僕は姉ではないから、彼女が姪についてどう考えているのかは分からない。
直接聞いたこともない。僕にできるのは推測とか、想像とか、そういうことだけだ。
でも、そんな勝手な「推測」なんかを、姪にぶつけるわけにはいかない。
だから僕は、
「分からない」
と、そう答えるしかなかった。
彼女はそれきり本当に黙り込んでしまって、家につくまで一言も話さなかった。
その様子は家に帰ってからも変わらず、ずっと何かを思いつめているような顔をしていた。
家族の前では普段通りの自分を演じていたようだったが、そこは子供のすることで、様子がおかしいことにはみんな気付いていた。
気付かなかったのは姉ひとりだけだった。
◇
翌朝、早くに目を覚ました僕は、寝汗を洗い流そうとまずシャワーを浴びた。
ひどくうなされていたようで、髪もシーツもぐっしょりと濡れている。悪い夢を見ていたようだった。
服を着替えて、そういえば今日はバイトが休みだったな、などとぼんやり考える。
いつものように自分でコーヒーを入れて、窓の外の曇り空を眺めながら、ぼんやりと外を見る。
やがて姉が仕事の準備を済ませて降りてきて、軽い朝食をとったあとすぐに家を出て行った。
彼女がリビングを出ていくまで十五分と掛からない。
僕は溜め息をついてダイニングテーブルの上に置きっぱなしになっていた本を掴む。
けれど気分が落ち着かず、なぜだか集中できない。どうせ手慰みのつもりだった。僕は本を閉じる。
それから僕はただぼんやりと時間が流れるのを感じていた。
ただぼんやりと。それはとても透明な時間だった。すべての時間がすべてのものに平等に流れている。
そういうことを実感する機会は少ない。
どうも僕はどうでもいいことを考えているようだった。疲れているのかもしれない。
家の中はしんと静まりかえっていた。いつも静かな家なのだけれど、今日は昨日までと何かが違うという気がする。
何かが欠けているのかもしれない。何がだろう。
僕は少し考えてから、そんなことを大真面目に考える自分を笑いたい気分になった。
何かが僕を不安にさせていた。コーヒーを一口飲んで時計の針の音に耳を澄ませる。時間は確かに流れている。
僕はこのあいだからずっと何かを不安がっている。それは予感のようなものなのかもしれない。
『その言い方、やめろよ。それじゃあ、まるで――』
揺さぶられている。
足元がぐらつくのだ。足場が不確かで、身動きもとれない。
神経が過敏になっているのだ。
でも、僕は何を不安がっているのだろう。昨日会った彼のこと?
たしかにおかしいとは感じる。わけのわからないことだとも。でも、今感じているそれは、そういった不安とは種類が違う。
もっと漠然としていて根源的な不安なのだ。
階段が軋む音が聞こえた。上から誰かが下りてくる。父と姉は仕事に出ている。ならば母か姪だろう。
案の定姿を見せたのは母だった。妙に頭が痛くて、上手くものごとを考えられない。
母はダイニングを見回すと、すぐに出て行った。どうも他の部屋を見て回っているらしい。
いったい何をしているのか。窓でも開けるのかもしれない。
やがてもう一度階段が軋む音が聞こえた。今度は昇っているようだ。
僕は自分がとても疲れているような気がした。とても。時計の針の音はまったく変化がない。
やがて母はもう一度ダイニングに現れると、僕に向かって言った。
「……ねえ、あの子は?」
その朝、姪が家から姿を消した。塗りつぶしたような曇り空の日だった。
◇一
「自分のために生きるのは、やっぱり限界があるんだよ。どこかに無理があるんだ。どうやっても」
いつだったか、誰かが僕に向かってそんなことを言った。誰かは忘れた。
たぶんここ数年の間に一度でも話した誰かだと思うが、よくは思い出せない。きっと男だったはずだ。
でも、そんなのを必死になって思い出そうとする気にはなれなかった。
とにかく僕は自分のためになんて生きていたくなかったから、それならそれで一向にかまわなかったのだ。
◇
僕は姪の姿を求めて街を走り回った。
近所の公園、よく行った市営図書館、夏休み中の小学校。
それからあまり気は進まなかったけれど、何人かの同級生の家にも電話を掛けた。
当たり前のように彼女は見つからなかった。僕は彼女がなぜいなくなったりするのか分からなかった。
まったく分からなかった。前日、彼女の様子がおかしかったことには気付いていた。
でも、いったいどうして彼女がいなくなったりするんだろう。その理由はなんなんだろう。
彼女は自分の意思でどこかに行ったのか。それとも誰かに連れ出されたのか。
前者だとしても後者だとしても、その出来事は僕にとって不安でしかなかった。
見えない何かが自分に追いすがっているような気がした。
僕は彼女の行きそうな場所を考えてみて愕然とした。
彼女がどんな場所で遊ぶのか、どんな場所が好きなのか、僕はまったく知らないような気がした。
午後二時半を過ぎた頃、僕は歩き疲れて街中のベンチに座って休んだ。そして彼女のことを考えた。
焦燥が背中をじりじりと焼いている。吐き気がするような緊張が全身を覆っていた。
不意にポケットの中の携帯が鳴る。母からだった。
「今どこ?」
「……街」
「とにかく、一度帰ってきなさい」
「でも」
「いいから」
僕は電話を切ってから少し考え、帰りながら街中に彼女の姿を探した。
姪の姿は見つけられなかった。けれど家に向かう途中、彼に出会った。
◇二
彼は僕の顔を見て怪訝そうに眉をひそめた。僕と同じ顔。心臓が強く脈打つのを感じる。
空は滲んだ曇り空で、今にも雨が降り出しそうだった。
おかしなものでも見るような目でこちらを見下ろして、
「……どうした?」
と言った。
僕は溜め息をついた。深呼吸をして気分を落ち着かせようとする。でも駄目だった。僕の心は僕の言うことを訊かなかった。
「お前か?」
震えたその声が自分のものだと、僕は最初気付けなかった。
「……何の話?」
「あの子がいなくなった」
彼は息を呑んだ。僕は言葉を重ねる。
「お前だろ?」
返事はなかった。僕は苛立つ。
「お前が連れ去ったんじゃないのか。それ以外に心当たりがない。お前があの子をさらったんだろう?」
「――待てよ」
彼は真剣な表情で言った。
「落ち着けよ、取り乱すな。何があったんだ?」
僕はまだ気分の高ぶりがおさまらなかったけれど、だからこそ彼の言葉に従った。
深呼吸をして、なんとか頭に昇った血をおさえようとする。
混乱してはいけないのだ。動揺してはいけないのだ。こんなときだからこそ。
僕は疲れている。混乱している。そう自覚することで、なんとか落ち着きをとりもどそうとした。
やがて深い溜め息をつき、僕は正面に立つ彼の目を見た。
気分が悪くなるほど僕と同じ顔をしている。それが心配そうな顔をしていた。
気味が悪い。だが、なんとか落ち着けた。
「悪かった」
と僕は謝る。実際、根拠はなかったのだ。
「いなくなったって、何があったんだ?」
「分からない」
僕は昨日の姪の様子を思い出す。あの思いつめたような表情。
僕は何かを間違えたのかもしれない。言うべきことを言わなかったのかもしれないし、言うべきじゃないことを言ったのかもしれない。
何がそれだったのかは分からない。でも昨日、僕は彼女に何かを言い損ねたのかもしれない。
「……とにかく、一旦帰った方がいい」
彼は僕に向けて真剣な顔で促した。
「家に帰って、落ち着くべきだ。ひとりで探して見つかるほど街は狭くない」
「それはそうだけど」
「そうだからこそ、だ。僕もできることは協力する」
「お前が?」
「僕が」
彼は強く断言した。そう言われてしまうと僕は黙るしかなくなってしまった。
たしかに僕は混乱している。いちど落ち着くべきなのだ。落ち着いて考えるべきなのだ。彼の言う通り。
◇
当然、家には姪の姿はなかった。母は真っ青な顔でどこかに電話をかけている。姉と父かもしれない。
僕は帰ってすぐに自室のベッドに寝転んだ。どうして彼女がいなくなったりするんだろう。
頭が痛くてどうしようもなかった。手慰みに携帯電話のディスプレイを開く。
どこからも連絡はなかった。
気付けば僕は眠っていた。眠っている間、夢を見ていた。
嫌な夢だった。このままずっと姪が帰ってこない夢だった。僕は毎日を憂鬱そうな顔で過ごしている。
姉は家を出て行って、家は今以上に静かになる。
そして僕は寝て起きるだけの毎日をただただ繰り返し続けるのだ。
夕方五時半に目をさまし、ベッドを這い出た。気分はちっとも晴れない。不安なままだった。
窓の外では弱い雨が降っていた。この街のどこかで姪が雨に濡れている気がした。
そうすると僕はいてもたってもいられない気持ちになるのだけれど、現実問題として心当たりはなかった。一切なかった。
どうしようもない。母が僕に向けて何かを言ったが、その言葉は耳に入らなかった。
なんだか何もかもが透明で澱んだ皮膜越しに見聞きするようにぶよぶよとしている。
生活の中から実感と呼べるものが欠如していく。
いったい僕の身に何が起こっているのだろう?
◇二
リビングから話し声が聞こえた。僕は足音を立てずに階段を下りる。
母が何かを騒いでいる。相手は誰だろう。姉だろうか。
ここからでは、よく聞き取れない。
口論しているようだった。
足を止め、少し待ってからその声がやまないのを確認し、自室に戻った。
何かが致命的に狂いだしているような気がする。
でも、実際にはそんなことはない。何もおかしなところはない。
誰も彼もまっとうな反応を見せていた。
姪がいなくなったのだ。母は神経過敏になって姉を責めるかもしれない。
母に責められれば、姉は母の責任を問うだろう。なぜちゃんと見ておかなかったのかと。
父はその言い争いを聞いて声を荒げるに違いない。落ち着け。冷静になれ。きっとそんなことを言う。
誰も彼もまともだった。考えうるかぎりでも一、二を争うほどまともな反応だった。まともじゃないのは僕だけだった。
どうして僕はまともじゃないのだろう。……いや、違う。逆だ。
どうしてみんなまともでいられるのだ?
彼女がいなくなってしまったのに。
◇三
朝起きて、バイトに行く。僕は仕事中、何も考えないようにしている。
けれど姪がいなくなってからはそれがまったくうまくいかなかった。
何にも集中できなかったし、失敗をしてばかりだった。
そうして失敗したあげく、僕は集中し直そうと努力する。でも駄目なのだ。なにひとつ上手くいかない。
僕を正常に動かしていた歯車のひとつが欠けてしまった。それがあってこそ僕は動くことができたのに。
誰の言葉も耳に入らなかったし、どんな動作も実感として脳に伝わってはこなかった。
にも関わらず、不意に誰かに言われた言葉に傷ついたりしている。
そして何もかもやめてしまいたくなる。
こんなにまでなって働く理由なんて何も思いつかなかった。
だって彼女がいないのだ。働いたりするよりも、今すぐにでも駆け出して彼女を探した方がいい。
でも、心当たりはない。それは致命的なことだった。
自分が彼女について何も知らないのだと思い知らされるのが怖い。
いずれにしても僕はまともに動けなかった。まともに動けなくてまともに考えられなかった。
それでも僕はまともに動こうとして、まともに考えようとしている。
僕にはそのことが不思議でならなかった。
なにが起こっているのか? ――何も起こっていないのかもしれない。
僕は昨日までの自分を思い出そうとしてみた。もっと前の自分について少しだけ考えてみた。
でもどうしてもうまくいかなかった。どうあがいても、僕が思い描く自分の姿は赤の他人のように空々しかった。
「大丈夫?」
と先輩は言う。
「早退してもいいよ。もうすぐ、交代の時間だから」
「いえ」
と僕は断る。
「すみません。迷惑をおかけして。大丈夫です。だと、思います」
「本当に、そういうんだったらいいけど、でも、迷惑を掛けるのはやめてね。その前に、自分で判断して」
「……はい」
僕は頷く。でも、なぜ僕は帰らなかったのだろう? 一刻も早く彼女の姿を見つけたいのに。
その答えはまったく分からなかった。理由が何も思いつかない。僕はどうにかなってしまったのだろうか。
僕はなんのために働いているのだろう。……何のために生きているのだろう。
努めて、思考を頭から追い出す。いつものように動けばいいだけなのだ。まともに機能する、歯車になればいいのだ。
◇四
その夜、僕は眠れずにベッドを抜け出した。寝間着から着替え、財布と携帯だけを持って家を出る。
なんとなく気持ちが落ち着かなかっただけで、目的があったわけじゃない。
とにかく、今の僕に必要なのは冷静さだ。落着き。そのための夜の散歩。悪い考えじゃない。
僕の足取りはきっと覚束なかったはずだ。なにせ僕自身どこをどう歩いたのかまったく覚えていないのだから。
きっと夢遊病者のように見えただろう。実際似たようなものだったかもしれない。
気付けば国道にぶつかっていた。潰れたボウリング場の駐車場から、バイクのエンジン音が響いてくる。
目覚ましにはちょうどよかった。僕は歩く。夜とはいえ、夏の夜はひどく蒸し暑かった。
僕はどこまで歩くのだろう。足は勝手に進んでいく。
喉がひどく乾いていた。
気付けば僕は例の事業所の敷地に足を踏み入れていた。完全に不審者じゃないか、と自嘲する。
だが足は止まらない。ほとんど勝手に動いているようなものだった。
僕の足は勝手にショールームへと向かっていく。なぜだろう?
大仰な門の監視カメラが、僕の方を睨んでいる気がした。それは錯覚ではないだろう。
けれど今は、気にならなかった。
ショールームの入口は以前の明るい雰囲気とは違い、どことなく拒絶するような雰囲気が生まれていた。
僕はドアを押す。
なんの抵抗もなく、簡単に開いた。
◇
ショールームの中は静かだった。相変わらずたくさんのドアが並んでいる。
どれだけ静かに歩こうと、足音はうるさく響いた。僕以外に誰もいないのだから当たり前だ。
僕はここに何をしにきたんだろう。
なんとなくだけれど、何かをしなければならないような気がして、手近にあったドアを開けてみる。
何もない空間に繋がっている。
それは当たり前のことで、まともなことだった。
当然だけれどショールームに姪の姿はなかった。あるいは隠れているのだろうか。
彼女はきっと僕に見つけてほしくないのだ。彼女は気付いてしまっている。
最初から気付いていたのかもしれない。
「……」
ドアを幾つあけても、どこにも繋がらなかった。
開いた先には何もなかったし、誰もいなかったし、何も起こらなかった。
掛ける先のない電話のような、宛先のない手紙のような。
要するにそういう種類の空虚なのだ。
そういう空虚さの、象徴としての場所なのだ、ここは。
「……なんでだろう」
と僕は呟いた。なぜだろう。何がおかしいんだろう。ここにいると静寂に飲み込まれそうになる。
何か知らない場所へと連れ去られそうになる。真黒な怪物が、口を開けて待ち構えているのだ。
僕は最後のドアを開く。
開いた先は、やっぱり同じ。
やはりどこにも繋がっていない。
――僕は、最後のドアを、開いた。
「……え?」
僕は最後のドアを開いた。最後のひとつまで残さず開いてしまった。すべて。
なのに。
緑色のドアがない。
どこにもなかった。
◇五
不意に、ポケットの中の携帯電話が震えた。僕の心臓は強く震える。
落ち着け、と僕は自分に言い聞かせる。ドアなんて見逃しがあっただけだ。すぐ見つけられるに決まっている。
それより、今は電話だ。電話を受け取らなくては。
僕はディスプレイの表示をろくに確認せずに通話ボタンを押した。
――きいいいいいいん、と、音がした。
どこか遠くに繋がっている、と漠然と感じる。そことこことの間には、深い断絶、大きな溝がある。
僕は不安に駆られる。何が起こっているんだろう。訳の分からないことばかりが起きる。
この電話はどこから掛かってきているのだろう、と僕は不安に思った。
時空などをはるかに超越した場所から掛かっている気がする。
あるいは時間だけかもしれないし、空間だけかもしれない。どっちにしてもそこはここから遥か遠い場所に違いない。
そういう確信を根拠もなく抱く。なぜだろう。
「もしもし?」
と僕は言った。
誰かが呼吸するかすかな音が、電話から伝わってくる。
やがてその呼吸は声になり、言葉になった。
「――お兄ちゃん?」
◇六
その声が、僕の鼓膜を揺すったとき、涙が出そうになった。
自分の中から何かが零れ落ちてしまいそうだった。自分の奥の方でうずくまっていた何かが揺さぶられていたようだった。
僕は深く安堵しかけた。それは無駄な動きだった。かりそめの安堵だった。一瞬だけの、まともな反応だった。
少しだけ悲しくなって溜め息をつく。何が僕をこんなふうに混乱させているだろう。
少なくとも今だけは、その答えが明白だった。
「誰?」
「……」
「君、誰?」
僕の問いに、電話の向こうの女が息をのんだ。
なぜだか知らないが、僕の言葉によって彼女が傷ついたような気がした。
僕はたしかにそう感じた。僕の言葉に、彼女はたしかに傷ついたのだ、と。そのことが僕にははっきりとわかった。
それは錯覚だったのかもしれない。彼女は平気そうに返事を寄越す。
「やっぱり、分かっちゃうんだね」
昔からの知り合いのように、語らずとも前提を共有しあっているかのように、彼女は言う。
同い年くらいの女の子だろうか。誰かは分からないけれど、声には聴き覚えがある。
それでも僕は彼女のことを知らなかったし、彼女の言葉の前提を知らなかったので、「やっぱり」という言葉の意味は分からなかった。
「少しだけ、傷ついたよ」
大人びたような声で、平気そうに言う。僕はその声の主を知らない。僕もまた、少しだけ傷ついた。
彼女の声はあの子に似ていた。
お兄ちゃん、と彼女は僕を呼んだ。
どうして僕を期待させたりするんだろう。
どうして僕を騙したりするんだろう。
期待に揺れ動いた心がまた黒ずんでいく。
僕は未だ、どこにも繋がっていないショールームに立ち尽くしていた。
どこにも行けない。
でも、誰かに繋がっていた。
そこには何かの意味があるのかもしれない。根拠もなく思う。だって彼女は僕を「お兄ちゃん」と呼んだのだ。
そうである以上、僕と彼女について何かを知っていなければおかしい。彼女の居場所について、何かを知っているかもしれない。
「君は、あの子が今どこにいるか、知ってる?」
もちろん、普通に考えれば知っているはずがない。ただ試してみただけだ。
何の意味もない、ただのテスト。あてになんてしてない。
彼女の答えはシンプルだった。
「むかつく」
「は?」
「わたしの話は?」
「……」
どうも、自分なりのペースというものを持っている相手らしい。
「……ん? いや、あ、そうか」
と、彼女はぶつぶつと独り言を始めた。電話を掛けてきておいて独り言というのもいかがなものだろうか。
僕は少しだけ彼女を叱りたくなったけれど、見知らぬ相手を叱れるような性格をしていなかった。
でもなんだか、彼女のことを叱ってやらなければならないような気がする。いや、気がするだけなのだけれど。
「うーん……」
彼女は電話の向こうで深く溜め息をついた。何か判断をしかねているような気配がした。
僕は会話を始めて一分足らずで相手に主導権を握られつつあった。
なんとなく、緊張が緩む。
いや、なんで緩むのだ、と僕は気を取り直した。
知らない相手からの謎の電話。しかもこんな時間に。冷静になれば、むしろ緊張しなければならないのはこれからだった。
なのに、なぜだか、緊迫感はまるでなかった。
「それで、あの子の話だけど……」
「待った」
……出鼻をくじくのが特技なのかもしれない。
「ゆっくりと、話をしましょう」
彼女は、たとえを自ら示すように、ことさらゆっくりとした口調で、言った。
僕は「ああ」と頷きを返す。結果的に僕が知りたい答えが返ってくるなら、なんでもかまわない。
僕の反応に対したものなのか、彼女は「ちぇっ」と拗ねたように口で言った。舌打ちはしないらしい。
「……君は誰?」
僕は冷静に話を運ぼうとしたが、彼女は取り合ってくれない。
「秘密」
「なぜ?」
「秘密主義者だから」
「それはなぜ?」
「秘密」
答えらしい答えが返ってこない。
「でも、何もかも秘密じゃあお兄ちゃんがかわいそうだから――」
と、彼女は当たり前のようにあの子の呼び方を真似して、
「ルールを少しだけ教えてあげる。何にも分からないままじゃ大変でしょ?」
上から目線でそう言った。
僕は少し辟易しかけたけれど、なんとか堪えて続きを促す。
「……本題に入ってほしい」
「……ごめん。少しテンションあがっちゃって」
素直に謝れるのは美徳かもしれない。とにかく悪い人間ではなさそうで、僕はほっとした。
「それでね。えっと、あなたの……姪? 姪か。うん。の、ことなんだけど」
僕は彼女の言葉の続きを待った。
「わたしと一緒にいるから」
悪い人間ではないというのは気のせいだったらしい。
◇七
「何が目的?」
と僕は訊ねた。あくまでも、冷静に、落ち着いて。ドッペルゲンガー(ではないらしいが)も言っていた。落ち着け、と。
落ち着きが大切なのだ。
ここで激昂して怒鳴りつけてもいいことがない。
電話を切られてしまえば姪の手がかりを二度と得ることができなくなるかもしれない。
それどころか、彼女が姪になんらかの危害を加えないとも限らなかった。
この陽気な少女は誘拐犯なのだ。陽気な狂人というのも、なくはないだろう。
「警戒しないでよ、そんなに」
彼女は取り繕うように言ったが、その言葉によって僕の警戒心がほどけることを期待してはいないだろう。
当たり前だよね、とでも言いたげに、彼女は笑う。
「わたしがしたいことはね、たったふたつだけだよ」
「ふたつ?」
「そう。ふたつ」
「それは、なに?」
「ひとつは、復讐」
「フクシュウ?」
「そう、復讐」
「……」
「恨んでるんだ」
たいしたことではなさそうに、けれど確かな重さを乗せて、彼女の声は僕の耳に届いた。
そこには真実らしきものが隠れているように思えた。
少なくとも、その言葉が僕の耳には真実らしく聞こえた。
心当たりは全然なかったけれど、後ろめたい気持ちになる。
でも、少しだけだった。心当たりがないのだから、それ以上先に進みようがない。
「ルールの説明、始めてもいい?」
僕の返事を待たずに、彼女は続けた。
◇八
彼女の話は抽象的で分かりづらかった。
「わたしは、いくつかの分岐と結果をあなたに見せるために来たの」
分岐と結果。抽象的なワード。僕はうんざりした気分になる。
はっきり言って、興味を抱けなかった。僕にとって重要な情報は、姪が今どこにいるのか。
どんなふうに過ごしているのか。それだけだった。それ以外の情報はほとんどすべてどうでもよかった。
「分岐と結果?」
と僕はなかば義務のような気持ちで訊ね返す。彼女はあからさまな僕の態度に気を悪くするでもなく答えてくれた。
「そのままの意味。あなたは、既にそれを見つけているはず」
「……何の話?」
「それから、あなたの方からわたしに働きかけようとしても無駄。絶対に、無駄。これも分かっておいてね」
……無駄らしい。どうりで質問してもまともな答えが返ってこないわけだ。
彼女は真面目な声音で続けた。
「なぜだか分かる?」
「いや」
「わたしだって、できればあなたの影響を正面から受けられたら、と思う。でも、できない。決まってるの」
「なぜ?」
「人は空を飛べないし、猫は喋らないし、死んだ人は蘇らない。あなたはわたしを変えることができない」
何が言いたいのか、さっぱり分からなかった。
「とにかく、わたしはあなたに対して、いくつかのものを見せる。それはね、はっきり言って、あてつけみたいなもの」
「あてつけ?」
「逆恨み、って言ってもいい。でも仕方ないの。あなた以外のどこにも向かいようのない感情が、そうさせるの」
「僕以外には?」
そんなにも強い感情を向けられる心当たりはない。復讐。いったいどこで、そんな恨みを買ったのだろう。
そこまで強い感情を向けられるような心当たりを頭の中で探してみるが、まったく思い当らなかった。
「厳密にはちょっと違うけど、でも、似たようなもの。……だと、思う。はっきりとは言えないんだけど」
彼女はそこで言葉を止めた。続く声は、祈るように響いた。
「あなたは、そこから何かを掴み取ってね。わたしが渡す情報から、何かを掴み取ってね」
僕は、その声がじんわりと耳の内側に広がっていくのを確認する。
それからしばらくの沈黙があった。僕はショールームの中にたたずんでいる自分を発見する。
ここはどこにも繋がっていない。宛先のない手紙。そういう種類の空虚さ。
この場所では、その空虚さが糸になって繋がるのだ。漠然とした認識。緑色のドアを通り抜けてくるのだ。
沈黙の果てに、彼女は子供のようなか細い声でささやいた。
「最後にはきっと、もう一度会えるよ」
それが姪のことを言っているのだと気付くまで、時間が掛かった。
「置いていかないでね」
その声はやはり、あの子に似ていた。
◇八
気付けば電話は切れていて、僕は真っ暗なショールームに一人で立ち尽くしている。
もうこの場所はどこにも繋がっていない。誰ともつながっていない。まともな姿だ。
僕はひとりぼっちで立ち尽くしている。そこにはやはり姪の姿もない。
携帯のディスプレイは通話が終わったことを示していた。さっきまで電話がつながっていたのだ。
でも、もう繋がっていない。不思議な気分だった。何かどうしようもない断絶に触れた気がした。
それも一瞬だけのことだった。僕は溜め息をついて携帯を畳み、ポケットに突っ込む。
そして少しだけ考えた。さて、これからどうしよう?
分岐と結果。それを見せる、と女は言った。
でも、ここには何もない。僕は誰かに何かを見せられたりしていない。ここにあるのはごく当たり前の現実だけだ。
相変わらず僕が探している相手はおらず、相変わらず僕はショールームに立ち尽くしている。
僕はまじないでもかけるような他人事めいた気持ちで呟く。
「分岐と結果」
分岐と結果。意味が、分からない。考えてみよう。
選択と結末。
いや、分岐は選択とは限らないか。であるなら、偶然とその帰結。
分岐。それは僕の身に即した言葉なのか。だとするなら、その言葉が意味するところは明白に思えた。
なんらかの分岐。その地点が過去にあったとするならば、当然のように「結果」である現在は変わる。
要するに、「分岐とその結果」とは、「ありえたかもしれない現在」のことだ。
ごく単純に、彼女の言葉の意味を想像するならば。
当然の話として――そんなものをまともに信用できるわけがない。
だが――。
『あなたは、既にそれを見つけているはず』
――心当たりが、ないわけではない。
『魔女の甘言に乗せられて、緑色のドアの向こうにやってきた。と、詩的に表現すればそんなとこか』
「魔女」
と僕は声を出してみた。魔女とは、誰だ? 電話の女のことか?
彼女の目的は……。
『そう、復讐』
……復讐?
だとするなら、相手は……。
『あなた以外のどこにも向かいようのない感情が、そうさせるの』
やはり、僕、ということになるのか。
僕はちっとも冷静になれていない。混乱している。何が起こっているのだろう。
そもそも彼女はいったい何者なのだ?
僕は既に、その答えを知っているような気がした。
でも、そんなわけはない。声に心当たりはなかったし、彼女は名乗りもしなかった。
彼女に関して、僕はなにひとつ分からない。ただ感覚的に、なんとなく僕に関係がありそうだと感じるだけだ。
なんだか、ひどく疲れた。何も考えたくない。
ショールームの床に、僕は寝転がった。ひんやりとした堅い感触が背中に広がる。
こうしていると少しだけ気分がマシになった。さまざまなことを考えずに済んだ。
けれど本当なら、僕はむしろ考えなければならないのだ。
僕はあの子ともう一度会わなくてはならないのだ。
そして彼女がいなくなってしまった理由を知らなければならない。
姪は女にさらわれたのではない。自発的に出て行ったのだ。そのことに、僕は確信を抱いていた。
『最後にはきっと、もう一度会えるよ』
最後、とは、何の最後なんだ?
何が終わるとき、彼女に会えるんだ?
おそらく、彼女が見せたい『分岐と結果』を僕が見終えたとき、それが『最後』なのだろう。
そう気付いたのが合図だったように、足音が聞こえた。
体を起こして、音のする方に顔を向ける。暗くて姿は見えないけれど、相手が誰なのかはすぐに分かった。
分岐と結果。
おそらく彼は、もうひとりの僕なのだ。ありえたかもしれない、ひとつの結果なのだ。
暗闇からするりと這い出て、彼は窓から差し込む薄い月光の上にあらわれた。
僕と同じ顔。
表情は、いやに真剣なものだった。初めて彼を見た場所が、ここの二階だったことを思い出す。
「こんばんは」と彼は言った。
「こんばんは」と僕も返した。
そのやり取りに意味はなかった。僕たちはお互いが考えていることがなんとなくわかった。
「彼女に会ったの?」と彼は訊ねた。
「どっちの?」と僕は問い返す。
彼は少し面食らったような顔で僕を見返していたが、やがて諦めたように溜め息をついた。
「魔女についてのつもりだったが、両方」
「会ってない」
「本当に?」
「電話が来たんだ」
「電話」
彼は意外そうな顔をする。僕も、自分で言いながら違和感があった。電話を、彼女が持っているのか?
いや、持っていたとして、それが繋がるのか? もっといえば、彼女は掛けようとするのだろうか?
ひどく不自然でおかしな話に思えた。
魔女、と、彼は電話の女をそう呼んだ。僕もそれに倣う。意味はない。ただの記号わけだ。
「君は魔女について何かを知ってる?」
「何も知らない」
と彼は答えた。
「あの子は、魔女と一緒にいるらしい」
「……まあ、そうだろうね」
「どうしてだと思う?」
「分からない。けど、彼女はたぶん、繋ぐんだと思う」
「……繋ぐ?」
「電話みたいなものだよ。たぶん、このショールームが、そのための場所なんだ」
「待ってくれ。何の話をしているのか分からない」
「たぶんね、言わなくてもそのうち分かる。でも一応説明する。僕は魔女に誘われて、ここに来たんだ」
「"ここ"?」
「この世界」
セカイ。
「僕にとってこの世界は、いわゆるパラレルワールドって奴なんだ。最初君を見たときは、悪い冗談かと思ったよ」
彼はそこで嘆息した。その卑屈じみた笑みが、彼にはよく似合った。こんな言い方は失礼かもしれない。
でも、よく似合った。卑屈な自嘲。憫笑。それは僕にはないものだ。僕はこんなふうに笑えない。
僕と彼は似ているのではない。同じなのだ。
でも、明白に違う。彼は僕であって、僕は彼だったが、彼は僕じゃないし、僕も彼じゃない。
「だが、違う。悪い夢なんかじゃないんだ。僕は現実に彼女に誘われて、望んでこの世界を眺めにきた」
甘言に乗せられたのは本当だけどね、と彼はまた笑う。
僕は沈黙を返した。並行世界。
「分岐と結果」
と僕は頭の中で呟いた。
「たぶん、魔女は繋ぐんだ」
彼はもう一度同じ言葉を繰りかえした。
「僕や、君や、おそらく他の人間。あの子についても、みんなそうだ。そういう人間のある種の性質を利用して、繋ぐんだよ」
ある種の性質。
「繋がるはずのない電話で、繋がるはずのない番号にかける。当然、繋がらないはずなんだ」
空虚さ。
でも、と彼は続けた。
「彼女はそれを、無理矢理捻じ曲げて、繋げるんだよ。どうしてそんなことができるのかは知らない。でも彼女はそうするんだ」
「……分かったような、分からないような」
僕は困った。彼の言葉はやっぱり抽象的だ。どうすればいいのか、僕には分からない。
分からなければ、僕は二度と姪に会えない。……かもしれない。どうすればいいのだろう。
「ずっと気になっていたんだけど、どうしてそこまであの子に執着するんだ?」
その彼の言葉に、僕は痛いところをつかれたような気持ちになった。
家族だからだよ、と答えようとして、口籠る。当たり前のように家族だからだ。
でも、それは嘘かもしれない。
僕自身本当のところはよく分かっていないのだ。
僕はむしろ、彼の話を聞くべきなのかもしれない。
そして、なぜ彼が彼女に執着しないのか。その理由を確認するべきなのだろう。
そうでなければ、――あるいは、そうすることでこそ――僕の卑怯さが、矮小さが証明されてしまう気がした。
どっちにしたって同じなのかもしれない。
僕は諦めたような気持ちで答えた。
「夢も希望もないからかもね」
比較的、正直な気持ちで答えた。
「……何の話?」
「そのままの意味で、僕はなんにも希望がない人間なんだ。やりたいこともなりたいものも別にない」
「僕もそうだけど」
彼は平気そうに言う。少しだけ羨ましかった。
「そう。みんなそうなのかもしれない。でも僕は嫌だった。そういうことなんだと思う」
「……何が言いたいんだ?」
「僕はあの子のことを家族として大事に思っているし、人間として彼女が好きだ。
でも、ときどきこうも考える。僕は本当のところ、彼女を大事に思ってなんていないのではないか? と。
僕は彼女が「可哀想」だから相手をしてるんじゃないか? と。
他に何もやりたいことがないから、つじつま合わせ程度の「生きる理由」として、あの子の境遇を利用してるんじゃないか? と」
一息に言い切っても、彼は黙って僕の方をじっと見ていた。
「実際、僕はあの子が今のような境遇になかったら、きっとあの子に優しくなんてしなかった。
僕が彼女に優しくするのは、彼女が「可哀想」だからだ。そうすることで自分に付加価値を見出そうとした。
要するに僕は、結果的に「親につらく当たられている子供」としての彼女を望んでいたんだ。
彼女の不幸の上に、自分の価値を生み出そうとしたんだ。
たぶんそういうことなんだと思う。そういう汚さを、あの子は見抜いたんだ。きっと。気付いたんだよ」
「……」
「それを思うと、たまらなく怖い。息もできなくなりそうなくらいだ」
「――あのさ」
「なに?」
「落ち着けよ」
彼は呆れたように溜め息をついた。
「どうも君は、すごく混乱してるみたいだ。混乱していて、疲れてる。だからそんなことを考えるんだ」
「でも」
「でも、じゃない。そんなに混乱しておいて、彼女を利用しているだけだとか、よくもまぁそんなバカな話を考えられるものだ」
僕は少し驚いた。
彼は怒っている。明白に、怒っていた。
「君はいくつか思い違いをしている。君は間違いなくあの子を大事に思っているし、大事にしているよ。
そのことが僕にははっきりと分かる。僕だからこそはっきりと分かる。そこには同情もあったかもしれない。
でも、たしかに君は彼女のことを考えていたし、彼女のために何かをしたい、と思っていたんだよ。
もちろんそうすることで、自分に付加価値を与えるだの、なんだのとかいう、よく分からない話の期待も、あったかもしれない。
でも、“それだけ”じゃない。そんなことしか考えられない奴が、その汚さに気付かれて、「怖い」だなんていうはずがない」
彼の声が僕の耳を通って、言葉として理解されるまで、長い時間が必要となった。
僕は彼の言う言葉が何かの呪文のように聞こえた。意味を掴むのが困難だった。
でも、徐々にだが、言わんとすることが伝わってくる。
「怖いのは嫌われたくないからだ。軽蔑されたくないからだ。もし君が利用するだけの奴だったら、そんなふうには思わない。
こんなふうに、ひどく混乱したりしない。なんとしても彼女を失わないために、もっと理性的に、彼女をとりもどそうとするはずだ」
そして何よりも、と彼は続ける。
「その人が今幸せなのか不幸なのかは、その人以外には分からない。絶対に、分からない。
表層的なものの見方では分からないものなんだ。お前には彼女の境遇が不幸に見えるかもしれない。
でも、そうとは限らない。結局それは、比較からの結果論でしか分からないことなんだよ。しかも比較対象は空想だ。
“もしもこうだったら”と考えても、それはあくまで絵に描いた餅だ。そんなもんを比較対象にしたって仕方ないだろ?
少なくとも現実は、君が頭で思い描くほど単純じゃない。僕が知っているほど複雑ではないかもしれないが……。
だが、いずれにせよ、僕にとってはそれが唯一無二の現実だったし、それに比べたらこの世界の方が遥かにマシなんだ。
もちろんあっちの彼女が不幸だったとは限らないし、あっちよりマシだからこっちが不幸じゃないとかいうつもりはない。
でも不幸だとか、可哀想だとか、そういうものを理由になんてできないんだ。それだけは絶対なんだ」
途中まで何となく理解できたけれど、彼の言葉は一定の地点から理解できなくなった。
前提が共有されていないのだ。彼は僕の知らないことを知っている。
だから僕と違う結論を出せるし、僕の言葉を否定できるだろう。
根拠を知らない僕には、結局その言葉は気休めでしかない。
気休めでしかないけれど、僕は彼の言葉に励まされた。
涙が出そうなほどだった。
おそらくずっと不安だったのだ、僕は。もしも本当に、僕の気持ちが、薄汚れた利己的なものでしかなかったらどうしよう、と。
それを、無根拠とはいえ、力強く否定してもらえたことは、すごくうれしいことだった。
「とにかく、落ち着けよ。それから自分が何をすべきか考えるんだ。それはたぶん、僕にとっても大事なことなんだよ」
◇九
僕と彼はひとまずショールームから出た。外では細かな霧雨がプランクトンのように宙を舞っている。
ひどく肌寒い。不思議なことに思えたが、かといって、そのことに何か重要な意味なんてありそうにもない。
彼は僕を振り返り、静かに言った。
「君と僕の違いってなんなんだろうな」
「違い?」
「たしかな違いがあるはずなんだ。でも、僕にはそれがよく分からない。ひょっとして、そんなものなかったのかもしれない」
僕と彼の違い。服装と眼鏡の有無。表情。でもきっと、彼が言いたいのはそういうことじゃない。
それは分岐と結果の話。
なぜ僕は今ここでこうしていて、なぜ彼は今ここでこうすることになったのか。
僕が彼の立場でなく、彼が僕の立場でなかったのはなぜなのか。その違いはなんなのか。
考えれば考えるほど頭が痛くなりそうな話だ。
「たぶん僕たち自身には決定的な違いはなかったんだと思う。しいていうならそれは外側が生んだ差異なんだ」
「外側」
鸚鵡返しの返答に短く頷いて、彼は皮肉げに顔を歪めた。
「"たまたま"こうだったのかもしれない、って意味」
「たまたま、ね」
だとするなら、僕たちは何に怒って何に感謝するべきなのか。
いずれにせよ、それも重要なことではないように思えた。少なくとも僕にとっては。
◇
僕はそれから家に帰ってベッドに倒れ込んだ。
ぜんぜん眠れなかった。何もかもが不安でたまらなかった。
何が不安なのか分からないくらいだ。僕は何かをなくしそうで怯えている。
僕は何を不安がっているのだろう。その不安の正体が分からないことが一番大きな不安だったのかもしれない。
僕は彼女にもう一度会えるのだろうか。
何が不安ってそれよりも大きな不安はなかった。とにかくただただ不安でたまらない。
油断をすると指先が震えだしてしまいそうだ。そのくらい巨大で圧倒的な不安だった。
僕は落ち着きをとりもどすためにコーヒーを入れて自室に戻った。蛍光灯をつけて、デスクに向かった。
それから机に積みっぱなしになっていた文庫本を手に取った。適当に買った小説だ。
読書はちっとも捗らなかった。名前がどうとか、名刺がどうとか言う話が続いている。
不条理なあらすじ。僕は溜め息をついてコーヒーに口をつける。でもそれだけだった。
コーヒーを飲んだところで、コーヒーを飲んだという結果以外はなにひとつ生まれなかった。
不安はなくならなかったし、本の内容は頭に入らなかった。
僕はこれからどうなるのだろう?
ふとどこか暗い場所へ連れ去られてしまいそうな気がした。
ここよりも暗い場所。霧が立ち込めた街。僕はどこかに連れ去られてしまう。
僕は疲れて机に体を投げ出した。どうもここは居心地が悪い。自分の部屋なのになぜだろう?
瞼を閉じる。頭が熱に浮かされたようにぼんやりしていた。
――きいいいいいいん、と、音がした。
意識が失われていく。僕の連続性が切り取られる。
どこか別のところに繋がってしまうのだ。おそらくは彼女の手によって。
それは錯覚かもしれない。錯覚かもしれないけれど、僕の中で、何かが変わってしまった。
◇
◆破
僕はひどく疲れていた。何かが僕を強く苛んでいる。きわめて悪意的な何かが。
その悪意は外側から現れたものだと思っていたが、どうも違うらしい。
これは内側からやってきている、と僕は今になって確信している。
つまるところこれは現実に起こった出来事と、それに対する周囲の反応を飲み込んだ僕が生み出したのものなのだ。
きわめて悪意的な何か。僕を苛み混乱させる何か。それは肥大していく。
エスカレートしていく。それは僕では止められない。でも、たしかに僕が行っている行為なのだ。
それは自責と呼ばれるのか。それとも自傷と呼ばれるのか。あるいは自慰と呼ばれるのかもしれない。
いずれにせよ僕は混乱していた。混乱して冷静さを見失っていた。
こんなときこそ、大切なのは落ち着きだ。僕は考える。
何よりも大切なのは状況の整理だ。何が僕をこんな状態にしているのか?
それは取り返しのつく状況なのか?(おそらく、取り返しはつかない)
それは避けられる事態だったのか? であるなら僕はどこかで間違えたのか?
その問いは長い時間僕に宿り続けた。途方もなく長い時間だ。問いは僕をなじった。
なじり、苛み、苦しめ、そしてその苦しみすらをせせら笑った。
落ち着け、と僕は自分に言い聞かせる。僕は今ひとりぼっちでいる。
「いつも通りじゃないか」と、僕は自分に向かって呟いた。何がおかしいんだ?
情報を整理しよう。順番が少し狂っているのだ。だからこそ、整理をしなくてはならない。
何よりも大切なのは、順序だ。それを、整えなければならない。
【破】 に続く