「おはよう」
彼女が起きだしてきた。
「おはよう」
僕は笑顔で彼女を迎えるが、口の端が不自然になってしまった。
「お腹すいた」
よし、気付かれなかったようだ。
テーブルに向かう彼女を横目に、焦げついたフライパンをこっそり洗う。
また目玉焼きに失敗した。
何がサニーサイドアップだ。黒点しかないじゃないか。
部屋の中は焦げくさいにおいでいっぱいだが、彼女は気づかない。
そういう病気なんだ。
元スレ
男「あの頃の僕らにはもう戻れない」
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/internet/14562/1357820477/
ソラニンという名前の病気が流行り出したのは、年号が変わって間もなくの頃だった。
僕は当時、彼女との同棲生活をスタートさせたばかりだったこともあり
TVをつける余裕もなく自分のことで精いっぱいだった。
初めは珍しい症例として時々取り上げられるだけだったが、僕がその病気を知る頃には
国民の5%近くが感染していた。
今ではもう20%の国民が感染しているらしく、大きく取り上げられることも減った。
そのかわり、社会は大混乱で、日本はもうどうしようもないところまで来た。
海外のニュースでは大騒ぎらしいが、日本もそれどころではない。
国民の20%だ。5人に一人は感染者だ。
僕も、彼女も、それに感染しないなんて、誰が断言できるだろう。
ソラニンは脳の病気だ。
脳の中から芽を出し、脳を侵す。
脳をスキャンすれば、まるでジャガイモのように芽を出した影がくっきり映るそうだ。
人から人へはうつらないらしい。
原因不明の治癒不能。
医学の発達でかろうじて進行は遅らせられるものの、今のところ治る手立てはないそうだ。
人から人へうつらないのになぜ感染者が膨れ上がったのか。
最初の感染者は誰なのか。
治す手立ては発見されるのか。
神も仏もいないのか。
なにもかもわかっていない。
僕も、国も。
ソラニンに感染すると、なにかを失う。
それは、聴覚だったり、視覚だったり、言語だったり。
記憶だったり、運動能力だったり。
人によってさまざまだそうだ。
ある一定期間の記憶だけを失った人もいれば、昨日の記憶もない人もいる。
下半身だけが動かなくなった人もいるし、右目だけ見えない人もいる。
日本語だけを忘れ、カタコトの英語で話すようになった人もいるらしい。
病気が進行すれば、さらに失うものが増える。
生ける屍になる。いつかは。
恐ろしい。
彼女の異変に気付いたのは、1カ月ほど前だった。
仕事から家に帰ると、どうも家の中が焦げくさい。
カレーを焦がしたようだ。
「ただいま」
「おかえり」
「どうしたん、焦げてるよ」
「え?」
彼女はニコニコ笑いながら、なべの底をお玉でかき混ぜていた。
笑いながら、何を言ってるのかわからない、といった顔をした。
ぐるぐる、ぐるぐる、鍋をかき混ぜる。
「焦げてるって」
僕は慌ててガスを止めたが、彼女はまだ理解できないようだった。
換気扇を回し、鍋の中身を別の鍋に移している僕を、奇妙な目で見ていた。
鍋の底で黒く固まるコゲを見てようやく、彼女も変だと気づいたらしい。
「鼻、詰まったのかな」
グスグスと鼻を鳴らし、呟く。
でも僕は、そんな、風邪とかそんなもので片付く話じゃないと予感していた。
やはり彼女は感染していた。
嗅覚を、失っていた。
病院で見せられた、脳のスキャン。
見事に芽が、咲いていた。
その晩、彼女は僕の胸に顔をうずめて泣いた。
涙が出なくなるまで泣いた。
「においが、しない……」
「あなたのにおいが、わからない……」
そう言って、何度も泣いた。
僕はどうすることもできず、ただ抱きしめて頭を撫でた。
ごめん。なにもできない僕で、ごめん。
それからというもの、彼女は嗅覚のない生活を送ることになった。
僕は、最初は鼻づまりの延長のようなものとして考えていた。
だけど、そんな程度ではないようだ。
「これ、シチューみたいな味がする」
カレーを食べながら、彼女が言った。
「辛くないの? カレーだよ、これ」
「舌がピリってするけど、辛さが、わからないの」
だそうだ。それから彼女はカレーを作ってくれなくなった。
というか、辛いもの全般が食卓に出なくなった。
舌がピリピリするだけで美味しくないのだそうだ。
明太子とかワサビとか、好きなんだけどなあ。
彼女のためだ。仕方ない。
どうしても食べたいときは、自分で買ってきて食べることにする。
そうしているうちに、いつの間にか夏になっていた。
外に出るのは億劫だけど、この部屋も蒸し暑い。
遠くでセミが鳴く声がする。
室外機が唸りをあげて夏に対抗しようとしている。
静かなのに、うるさい。
ベランダから外を見ると、真っ青な空が広がっていた。
雲が並んで、千切れて、広がって、飛んでいる。
ベランダの下では向日葵が花を広げようとしている。
一階は大家さんの敷地だ。
花の綺麗さを話題にしようと思ったが、彼女は花の匂いも嗅げないんだ。
少し考えて、その話題を振るのはやめにした。
「ねえ、去年の冬のこと、覚えてる?」
突然話題を振られた。
「ん……覚えてるよ、いろいろと」
そう、いろいろあった。
「あのとき、別れないで、本当によかった」
「……」
そう、僕たちは一度だけ、一週間だけ、他人になった。
よくある話だ。
いわゆる倦怠期。
僕たちもそれにかかった。
「ねえ、あなたは?」
「うん、僕も、別れないでよかったと、本当に思う」
元に戻れて、本当によかった。
そう思う。
あのときの一人寂しい夜とか、君が最後に編んでくれたマフラーとか、一人の年越しとか。
思い出して寂しくなってきた。
「本当に?」
「本当」
「嘘」
嘘じゃない、と言おうとした僕よりも先に、彼女は堰を切ったように喋り出した。
「私が、ソラニンにかかって、私のこと、重荷になってる」
「あのとき別れてれば、あなたはそれを知らず、きっと幸せだったわ」
「辛いもの好きだったのにね」
「お香も焚かなくなったもんね」
「花も飾らなくなったよね」
「それもこれも、私が……」
あとは、言葉にならなかった。
また彼女は泣いた。
僕はどうすることもできず、ただ抱きしめて頭を撫でた。
「失うものは、人によって違うんだってさ」
僕は、頭の中で整理する前に言葉にした。
「ソラニンで失うものは、自分自身が決めるんだってさ」
「それ、誰が言ってたの」
「テレビに出てた、偉い学者さん」
「……」
言葉は続く。
それが彼女を慰めるのか、傷つけるのか、判断できないまま。
「君は、嗅覚を失うことを、望んだ?」
「……」
長い沈黙。
こんな言い方でよかったのか。
いや、そもそもこんな不確定な話を聞かせて、僕はなにがしたいんだろう。
「望んでない」
彼女はきっぱり言い切った。
「ほんの少しの、心の声で、失うこともあるんだって」
「……覚えてない」
においを拒絶するとしたら、僕の体臭がきつかった、とか、そんな理由だろうか。
そうだとしたら、少々ショックだ。
いやかなりショックです。
もし、そうだとしたら、絶対に喧嘩はしたくない。
僕のことを忘れられたら、と思うと、怖くて。
「僕のこと、忘れないでくれよ」
「……うん」
届いたかな。
真夏だって言うのに、少し寒さを感じた。
悪寒でないことを祈ろう。
「さ、夕食の食材でも買いに行こうか」
「うん」
「今はなにが旬かな」
「……夏野菜のカレー、食べたい?」
「……うん」
「じゃあ、それ、作ろ」
「カレーは嫌じゃないの」
「いいの」
「辛くなくてもいいからね」
「……うん」
甘口と中辛の間に決めて、僕らは近所のスーパーにでかけた。
なんだか少しだけ距離が近づいた、気がした。
遠くなかったはずなのに。
不思議だ。
手をつないでスーパーまで歩いて行った。
影が伸びる伸びる。なんてことない光景だけど、笑えてきた。
「ね、ナスは入れようね」
彼女はポイポイとナスをかごに投入する。
「オクラは?」
「サラダも作ろうね」
彼女はポイポイとジャガイモやトマトをかごに投入する。
却下されたようだ。なんでだ。
「お、牛肉が安い」
「夏野菜カレーなら鶏肉だよね」
彼女はポイポイと鶏肉をかごに投入する。
僕の意見はどこに行った。
「パプリカもいいよね」
彼女はポイポイとパプリカをかごに……
「いや、これ嫌いなんだ」
投入する前に、僕が止めた。
「なんで?」
「色が嫌い」
「きれいじゃん」
「でも形はピーマンじゃん」
緑色じゃないピーマンは変だ。
ピーマンは食べられる。小学生じゃないんだから。
でもパプリカは無理。生理的に無理。
「むう」
彼女はちょっと不機嫌になったけど、なんとかパプリカは阻止した。
そのかわりピーマンで手を打った。
……ピーマンって夏野菜じゃないよな。
まあいいや。
「お腹すいた」
袋の中のジャガイモは、ソラニンを思い出すからあんまり好きじゃないけれど。
でもカレーにもサラダにも必要だ。
そう、ジャガイモに罪はない。
結果から言うと、カレーは旨かった。
久しぶりの味だ。
彼女も嬉しそうだった。
それが僕を安心させた。
そして、一緒に皿を洗って、一緒にドラマを見て、シャワーを浴びて、寝た。
「おやすみ」
「おやすみ」
どこかで「さよなら」と聞こえた気がした。
次の日、僕は目をこすりながら、白い天井を見上げていた。
なんだか変だ。
でも、知っている天井だった。
なんだろう、この違和感は。
窓の外を見ると、今日は天気が悪いのか、空は一面曇っていた。
こういう朝は気分が悪い。
スカッとした青空が見たいのに。
なんだかのどの調子が少し悪い。
そういえば昨日は冷房をかけっぱなしにしてしまった気がする。
「おはよう」
彼女が先に起きていた。
声に元気がない。
顔色も悪いようだ。
「夏風邪、引いちゃったかも」
鼻をすする音がする。
「熱は?」
僕は彼女のおでこに手をあてる。
「……手、冷たい」
彼女が笑う。
違う、君が熱いんだ。
「熱あるよ。もうちょっと寝てな」
薬を探そうと棚を漁りながら、また違和感を感じた。
顔色が悪いだって?
もう一度彼女に近づいて頬を手で挟む。
「冷たいよ」
違う、君が熱いんだ。
君の頬は熱いんだ。
なのになぜ、君の顔色はそんなに悪いんだ。
なぜそんなに青白いんだ。
……白い。白すぎる。
まるで人形のように。
死人のように。
急に気分が悪くなり、流し台に吐いた。
口からは胃液しか出ない。
昨日、なにを食べたっけ。
横を見ると昨日の鍋があった。
ああそうか、カレーを食べたんだ。
蓋を取って中を覗くと、真っ黒な液体が入っていた。
「なんだ、これ……」
彼女が心配そうに、僕の背中を撫でてくれる。
「これ、なに……」
「昨日のカレーじゃん」
「焦げてる……」
「焦げてないよ」
脳が鈍く回転を始める。
昨日のカレー。
昨日は焦げていなかったのに今日は真っ黒だ。
訳がわからない。
僕は頭を振る。
ひじがガラスのコップにあたり、床でガラスの割れる音がした。
「あらあら、危ないから、ほらどいて」
彼女が片付けようとしゃがみこむ。
僕もしゃがみこんで、ガラスを拾おうと……
「痛っ」
「あらあら、大丈夫?」
指先を切ってしまった。
指先から墨汁が流れ出す。
遠くでテレビの音がする。
「今日は全国的に快晴です」
アナウンサーが天気予報を告げる。
フラフラとベランダへ向かう。
「ねえ、どうしたの? 本当に大丈夫?」
彼女の声が後ろで聞こえる。
君こそ、熱があるんだから早く寝なさい。
そう言おうとしたが声にならない。
空を見上げると真っ白な曇り空だった。
下を見下ろすと真っ白な向日葵が僕を見上げていた。
僕はようやく理解し、声をあげて泣いた。
★おしまい★
36 : 以下、名無しが深夜にお送りします... - 2013/01/13 03:34:19 5gD7d/rU 28/28「色が嫌い」の一言のせいで色覚を失ったのか