臆病な自分から変わりたいと思う少女のお話です。
本編10話あたりまでの設定を引き継いでいます。
もしワルプルギスの夜がやりたい放題暴れていたら、どうなっていたのだろう。
そこから始まります。
元スレ
まどか「勇気を」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1324997537/
【Side:暁美ほむら】
残っているのは、瓦礫の山。
広がっているのは、泥水の海。
浮かんでいるのは、人々の死体。
そして地獄に取り残されたのは、ボロボロの私と、一人の少女だった。
地獄を地獄と捉えない存在。
キュゥべえはただ飄々と、不協和音を発している。
「まどか、君の願い事はなんだい?」
「たった一つだけ僕は叶えてあげられるよ」
「父を生き返らせたい? 母を生き返らせたい? それとも弟を生き返らせたい?」
「好きに選ぶといい。君にはそれだけの資質があるのだからね」
「たった一つ、君がこの状況で選ぶ願いを」
それは言外に、全てを引っくり返す解など存在しないことを示していて。
でもそんな必要はなかった。
ただの女子中学生だったまどかの心には、もうすでに、正常な思考の余地など残されてはいなかっただろうから。
その証明として、彼女はただ叫んでいる。
感情のまま叫んでいる。
「わたし、もうイヤだよ」
「願い事なんていらない、そんなものわたしには選べない」
「魔法少女になんて、魔女になんて、なりたくないよ」
「どうしてわたしが、こんな、選ばなきゃいけないの……」
彼女はただ言葉を発し続ける。
私の胸を鋭く抉りながら。
何度も繰り返してきた世界、その命運。
全てを一身に背負う彼女は、その重さに壊れ、ただ声を枯らす。
背負わせたのは、私。
因果を寄せ集め、その特異点にまどかを置いたのは、私。
どんな非難をされようとも、仕方のないことだった。
暴れに暴れたワルプルギスの夜は、ここ見滝原の街を完全に壊滅させてしまった。
私が助けられたのは、まどかただ一人。
そのまどかも、目の前で家族が沈んでいく所を見てしまって、このような状態。
心までは助けられなかった。
遥か彼方に巨大な竜巻が見える。
ワルプルギスの夜は、ここ見滝原を潰しただけでは飽き足らず、さらに進んでいくだろう。
どれだけのものを呑み込むのだろう。
もしかしたら、地球を丸ごと水に沈めてしまうのだろうか。
もう私には分からなかった。
周りに広がる地獄絵図。
つい先ほどまで、人と活気に溢れた街がここにあったなど、もはや分かり得ない。
だから私は、また巻き戻さなくてはならない。
またあの日に戻って、まどかを助けるために、あの一ヶ月をやり直さなければならない。
だけど。
「やれやれ、これは無理そうだね。ちょっとやりすぎたかな」
「さて暁美ほむら、君はまた世界を渡るのかい?」
「君が平行世界を創造する度に、僕が回収できるエネルギーは大きくなっていく」
「君が絶望した時のエネルギーはどれほどだろう? それもまた楽しみだよ」
「僕は君にいくらでも付き合おう。君の希望が尽き果てるまでね」
キュゥべえの言葉もまた、胸に突き刺さっていく。
もし時を戻したなら、またまどかに因果を集めてしまうだろう。
あなたをがんじがらめに縛り取ってしまうだろう。
絶望にとりつかれた私の口からも、ぼろぼろと言葉が流れ出て止まらない。
「まどか」
「あなたに、幸せになってほしかった」
「でもね、何をやっても、空回ってばっかりで」
「何度も何度もあなたを泣かせて、死なせて、挙句の果てには殺してしまって」
「ごめんね、私にはもう、何をしていいのか全然わかんない」
繰り返した果てに、私があなたにあげられたものは。
この現実。
何もかもを失い、ただ一人心を壊して生き残る、そんな状況。
泣き崩れる彼女の姿は、罪悪感という刃を成し、私の心に深く深く突き刺さる。
ソウルジェムが黒くどす黒く濁っていく。
盾を纏う右腕に感覚はなく、それを持ち上げる事すらままならない。
もし死力を尽くして砂時計をひっくり返してみても、おそらく何も起きないだろう。
自分の事だから分かってしまう。
分かりたくもないのに。
そして同じように、自分の最後が近いこともまた、分かってしまったから。
「もう、これしか」
私に遺された選択肢は、たったひとつ。
これから魔女になってしまう私が、最後にできるかもしれないこと。
頭はロクに動かないが、何故かその答えを私はずっと前から知っていたようで。
僅かに残る未練を絶ち切るように、首を振り、息を吸って、息を吐いて。
「私なんて、いなければよかったんだ」
私なんていなければ。
私なんていなければ、きっとみんなこんな目に遭うこともなかった。
私なんかを助けたりしなければ、ちゃんとまどかたちも逃げてくれただろう。
あんな化け物に対抗なんてしないだろう。
私という疫病神がいなければ、きっとみんな幸せに毎日を過ごせたんだ。
過去の記憶が蘇る。
私のしてきたことは、確かに私の望んだ事だけど。
私がまどかを苦しめ続けた事も、おそらくは事実。
情けなくて、情けなくて、あまりに情けなくて、肉を引き千切り血が溢れるほどに唇を噛み締めて。
吐いたその一言で、まどかはぴたりと動きを止めていた。
もしかしたらここで踏み止まれるかもしれなかった。
だけど一度口にした言葉は、力を以って私の口を開かせていく。
気付けばキュゥべえがすぐ横にいたが、しかし今更気に留める必要もない、無視して言葉を継いでいく。
「まどか、あなたにお願いがあるの」
「『暁美ほむらを消し去りたい』と、願って欲しいんだ」
すぐに返事はない。
彼女はその言葉の意味をうまく理解できないようで、狐に化かされたような顔で、問いを返してくる。
「ほむらちゃん、何、言ってるの」
「あなたの願いを使って、私の存在を消して欲しいって」
「だから何を言っているの。わけわかんないよ」
「あなたに絡んだ因果は、あなたたちに訪れる悲劇は、きっと全部わたしのせいだから」
「そんなのわたしには分かんないよ、そんな、どうしてほむらちゃんが消える必要があるの」
「わたしはね、もう」
力の入らない右手を体の前に持ってくる。
黒く淀んだソウルジェムを見て、まどかがひっと声を上げる。
それはもうグリーフシードに変わろうとしていて。
「だめなんだ」
「そんな、こんな」
「もうだめだって認めちゃった、諦めちゃった」
ああ。
その言葉の響きのなんと甘美なことだろう。
心を侵して行く諦観の毒は瞬時に体を支配して、抗う事を許してなどくれない。
四肢から力は抜け、息をすることすら億劫になり、重力に従って地面に這い蹲る。
「もう時間、戻せなくなっちゃったよ」
「このまま私は魔女になって、みんなに八つ当たりして、最後はきっとワルプルギスの夜に吸収されて」
「あなたのことも喰らってしまって」
「そして世界は、ここで固定されてしまう」
「そんなのは、イヤなんだ」
もう自分で息をすることは出来ない。
でも、腐り果てた私の死体があなたに害を為すのは、耐えられない。
どこまでもワガママなことを言っていると、理解はしているけれど。
「だから、その前に」
「っ、あ、そんな、そんなのって」
「私が消えれば、私のいない歴史が始まって、もしかしたら全部うまくいくかもしれない」
「イヤ、イヤだよ、わたしにはそんなこと、ほむらちゃんを殺すなんてこと、できない」
「私はあなたにとって、そう大切な存在でもないはずでしょう」
「バカなこと言わないでよ」
「むしろ憎むべき存在かもしれない。あなたの友達の、美樹さやかを、殺そうとさえした」
「――やめてよ、やめてってば、そんなウソ付いたりしないで」
「ううん、これは本当のこと。少なくとも今回は本気で殺すつもりだった」
「――――――――やめてって言ってるじゃん、ほむらちゃんのバカァ!!」
怒声が響く。
キュゥべえはやれやれといった感じで、耳?を抑えている。
私はと言えば、予想外の大声と予想内の拒絶に頭をぐわんぐわんと揺らしていた。
「やめてよ、ほむらちゃん」
「そんなこと言ったって、わたしは、ほむらちゃんのこと、憎んだりできない」
「あなたのこと、消したりなんて、できない…………」
そしてまどかは、大粒の涙をぼろぼろと零していた。
言葉を吐き出しながら、ぎゅうっと私のことを抱きしめてくれるまどかは、とても暖かく。
冷え切った感情に、とても穏やかな熱を与えてくれる。
彼女はそんなに弱くなかった。
折れてしまっていたのは、ただ私の心だけだった。
だけど。
尽きてしまった力は、生み出されてしまった流れは、もはやどうしようもなかった。
だからせめて。
あなたに一欠片の可能性を。
「ごめんなさい」
「やだ、やだよ、ほむらちゃん」
「分かってる。どれだけ酷い事を言ってしまっているか」
「じゃあやめてよ、わたしに、わたしにそんな重いものを背負わせないで」
「ごめん、なさい」
ただ謝る事しかできない。
口を動かす事しかできない。
そしてそれすらも、もうじきできなくなるだろうから。
「どうか人として、私を」
「殺してください」
ぎゅうっと、一際強く抱きしめられ。
そしてすぐに、その感覚は消え去った。
少しずつ私の体は溶かされていく。
立ち昇る黒い粒子は、きっとこれから消えていく私の欠片。
最期に見る景色としては、十分に美しく、それでいて残酷なもの。
この愚か者には過ぎた褒美だろうか。
せめてと、言葉を投げかけるべく、口を開く。
あなたを絶対に救ってみせると、心に刻み込んだその誓いを破る悔しさは。
どこかへ消えてなくなってしまっていた。
みんなを助ける事も、きっと優しいあなたならできるはず。
私にできなかった事すべてを、きっと強いあなたならできるはず。
卑怯な卑怯な私は、あなたの未来をあなたに返して、絡めた因果を引き受けて、沈んで逝く。
「あなたの因果、もらっていくから」
意識が薄れていく。
身体が消えていく。
最期を理解して、大切だった人に、拙劣な言葉を遺す。
「ごめんね」
どうか幸せに。その言葉は声にならない。
返される声はもはや聞こえない。
せめて笑いながら別れたかった。
別れたかったけれど。
ただ見えたのは、魔法少女になった彼女の、ひどいひどい泣き顔だった。
【Side:鹿目まどか】
ジリリリリリリリリリリ。
耳元から騒音がして、目を覚ましてしまう。
朝くらいゆっくり寝かせて欲しいんだけど。
こんなにお布団が気持ちいいんだから、騒がないで、静かにしてよ。
朝。
……朝!?
「あああああああ! ちーこーくー!!!」
バカげた思考を放り捨てて目を覚ます。
叫びながら布団を蹴り飛ばし、起き上がり、洗面所へと脱兎。
滑りそうになる足元を懸命に堪えながら、右手に歯ブラシを取り、左手にドライヤーを取った。
「おーうまどか、寝坊しても髪の手入れだけは欠かすなよ、女のたしなみだからな」
「うわあああんママ起こしてよ! いつも起こしてあげてるじゃない!!」
「ママねーボクが今起こしたんだよー」
「ああ、おはようまどか。今起こしに行こうと思ったんだけど、必要なかったみたいだね」
「ふたりともねぼすけー」
掛けられる声に言葉を返す時間もない。
最低限の身だしなみを整えると、朝食代わりのパンをひっつかみ、カバンを抱えて駆け出す。
いってらっしゃいと掛けられる声にも返事をする余裕がない。
というか、パンで塞がった口を開けられなかった。
風が体を冷やして行く。
車道を走る車の起こす向かい風が、さらにその勢いを増す。
春先の朝はまだ相応に寒くて、全力ダッシュのせいで火照ったこの体には、この上ないご褒美だった。
「うう、もう間に合わない……」
寝坊のせいで、見事に遅刻確定。
走るのもやめ、ゆっくりといつもの道を歩いている。
いつもは寝坊なんてしないんだけど。
疲れでも溜まってたのかな?
ふと考え、昨日の出来事を思い出そうとする。
だけど。
「…………?」
いつも通りに学校から帰って、さやかちゃんと仁美ちゃんと放課後のんびりして、宿題やって眠って。
それだけの一日を思い出すのが、何故か大変だったと感じている。
何でだろう?
まるで夢を思い出すような感覚。
愛しくて仕方ない所まで含め、確かにそれは夢のようだった。
「変なの」
しばらく歩き、ふと横を眺める。
そこにいたのは黒い猫。
白を基調とした街の中で、鮮やかにその存在を主張している。
「わ、かわいい」
街を闊歩する黒い子猫。
なんとなく目を奪われて、そして我に返って時間を確認する。
もういいよね、どうせ遅刻なんだし。
そう思って横断歩道を探してみると、幸い少し進んだところに見つけられた。
その子はわたしに気付いているのか、道の反対側を並行して進んでいく。
触っても逃げないかな、とか、そんなことを考えながら信号が変わるのを待つわたし。
黒猫は道の反対側にいて。
そのまま信号を無視して、こちらに駆けてきた。
「!?」
歩行者信号は赤。
車両用信号は青。
当然の道理として、あるいは不運の結果として、巨大なトラックが十分な速度で迫り来る。
騒音と振動に驚いて逃げてくれれば良かったものの、その子は無邪気に道を渡ろうとする。
間に合わない。
轢かれてしまう。
どくんと心臓が脈打ち、視界がスローモーションで動き始める。
普段なら体はすくみ動かない。
だけど、今は何故か違う。
足に力は入る。
視界もクリア。
ほんの一瞬だけ、迷ったけれど。
何かに心を押され、わたしは行動を決めていた。
速度の戻った世界の中、走り出す。
響くクラクションを耳をつん裂くブレーキ音を振り払い、駆け寄り、腕を広げ、猫を胸に包み込む。
最後に地面を強く蹴り、飛んで。
トラックの前方が運動量のままお腹に突き刺さり、わたしはくの字に折れ曲がって撥ね飛ばされる。
痛いなあと思うのも束の間、歩道の生垣に突っ込み、全身を擦り下ろされるような感覚に襲われる。
痛覚は最初の一瞬で麻痺してしまったらしい。
訳も分からず咳き込むと、口から鉄臭い何かが面白い勢いで吹き出て。
視界はぼやけ、もはや感じられるものは、周囲の喧騒と腕の中の温度だけだった。
「おい、大丈夫か!?」
「なんだよ何かあったのか?」
「誰か救急車、救急車呼んで!」
「てめえ何撮ってんだ、それでも人間かよ!?」
怒声に悲鳴に、ろくな言葉は聞こえてこない。
お腹の辺り熱は収まらず、何かが体から抜けていく感覚もある。
その辺りでようやく痛覚が戻ったのか、ぼやけていた意識は急に現実へと引き戻された。
痛い、痛い。
すごく痛い。
ああ、このまま死んじゃうのかな。
どう考えたって手遅れだろう。
そんなことしか考えられない。
だが突然、一人痛みと戦うわたしに、一つ冷静な声が聞こえてきた。
「応急処置の心得があります。
野次馬が多いとやりにくいので、救急車を呼んだらみなさん離れて頂けますか」
その人の不思議な圧力は、わたしにも感じ取れた。
女の人だろうとは思うけれど、頭を動かして顔を見る余裕もない。
ただ足音が近付くことを確認するくらい。
コツコツコツ。
コンクリートを踏み鳴らす靴の音。
そのリズムを頭の中で反芻させ、辛うじて意識をつなぎとめる。
「ひどい傷……」
「放っておいたら、間違いなく死ぬね」
「放っておけないわよ」
近くに来てくれたことで、なんとか視界に姿を捉えられた。
わたしより幾つか年上だろうか。
この年でこれだけ落ち着いていて、しかも応急処置できるなんてすごいなあと、思考は無駄に巡る。
およそ痛みを忘れたいのだろう。
その効果はあまりなかったが。
「もう大丈夫よ。よく頑張ったね」
その一言を区切りに、わたしは眠りに落ちた。
暖かい何かに包まれるような感覚に導かれて。
『よく頑張ったね』
頭に何故か、その一言が残っていた。
ゆっくりと瞼を開ける。
そこは車道のど真ん中ではなく、清潔に整えられた個別病室。
次に上体を起こそうとして、お腹を走る激痛にその動きを止められる。
「――――っつっっ!!?」
そう言えば、思い切りトラックに撥ね飛ばされたんだった。
動けるわけもない。
どうしてわたしは飛び出したんだろう。
自分で言いたくはないけれど、あんなところで動けるなんて、あまりにもわたしらしくない。
いざというときに勇気を出せない、そんなコンプレックスはどこぞへと行ってしまったらしい。
そんなことで頭を悩ませていると、病室のドアが開き、白衣の集団が入ってきた。
「おや、目を覚ましたかね」
「あ、はい」
「ここは病院、そして私は君の主治医だ、よろしく頼むよ。身体の具合はどうだい?」
「少し、痛みます」
「その程度で済んだのは奇跡としか言いようがないね。しばらく様子は見るが、早期に退院できそうだよ」
「はい、ありがとうございます」
「目撃情報からすると、即死していても不思議じゃないんだが、運が良かったのだろうね」
「応急処置をしてくれた人がいたみたいで」
「ふむ、そういえば付き添ってくれた子がいたな。確か猫を預かると言って連絡先を渡してきた」
「本当ですか!?」
「一応渡しておくけれど、今は絶対安静だからね。ゆっくり休みなさい、明日からは細かい検査だよ」
看護師さんが何人か慌しく動いている中、そう言い残して、お医者さんは出て行こうとする。
言われずとも痛みのせいで動きようがないし、そのつもりだけど。
一つだけ確かめておきたかった。
「あ、の、小猫は」
「大丈夫だよ、君のおかげでね」
「良かった……」
ドアを閉めながら、そう伝えてくれる。
その事実はとても喜ばしいものだった。
だけど、何故か嬉しさはない。
代わりにあるのは、何か荷を降ろしたような開放感。
それから、まだやらなくちゃいけないことがたくさんあるような、何とも言葉にしがたい不安。
天井を見上げる。
そこには白しかない。
病室を見回す。
わたし以外には誰もいない。
仄暗い殺風景な部屋に淀む空気は、重い。
どうしてだろう。
わたしの心を埋め尽くすのは罪悪感。
そして、喪失感。
「ごめんね」
「わたし、がんばるから」
口にした言葉は意味のわからないもの。
だけどなぜか、その一言は胸に突き刺さり。
ぼろぼろと涙を止め処なく流しながら、声を押し殺して泣きながら、少しずつ眠りに落ちていった。
結局その日は、そのまま泣き疲れて眠ってしまったらしい。
目を覚ましたら、パパとママと、それとさやかちゃんに徹底的に怒られて。
そしてわたしの、入院生活が始まった。
「自分の体以上に、大切なものなんてないんだからね」
「顔出せや、一発殴らせろ」
「おばさん落ち着いて……でも、あたしも同じ気持ちだからね」
「うん、心配掛けてごめんなさい、みんな」
大まかな検査の結果は、およそ異常なし。
ただ筋肉が驚くほど衰えているらしく、これから細かい検査をして、午後からはリハビリに入るんだとか。
そんな説明を、ちょうどやってきたお医者さんがしてくれた。
「じゃあ、しばらくまどかはリハビリなんだね」
「もしかしたら新学期には間に合わないかもしれないって、当分は車椅子だってさ」
「焦っても仕方ないだろう、ゆっくり治しなさい」
「はい、パパ」
「じゃあ、あたしらはそろそろ行こうか。お腹だったらあまり喋らせるのもよくないね」
そう言って、ママは一人さっさと病室を出て行ってしまう。
でもその足取りは、少しおぼつかないものだった。
「おばさんすごい心配してたんだからね。退院したらもっかいちゃんと謝りなよ」
「見栄っ張りだからね、詢子さんは」
「うん、わかってるよ」
「ふふ、言うまでもなかったかな。じゃあ僕も今日は帰るけど、必要なものがあったら連絡してね」
「あたしも今日は行くね。この病院恭介もいるから、ちょくちょく見舞いに来るよ」
「ありがと、パパ、さやかちゃん」
そうして二人も帰っていった。
そして今更、会話のせいか、死なずに済んでよかったという安心感が湧き上がってきた。
トラックの迫り来る瞬間を思い出すと、また背筋がぞくりと来てしまうから。
だけど実際、どうして軽傷で済んだのかは、わたしにもよく分からない。
あの人の応急処置が本当に良かったのだろうかと考えた所で、連絡先を貰っていた事を思い出す。
そこには、こう書かれていた。
「――――――巴、マミ」
「よいしょ……うんしょ」
「がんばれまどか、あとちょっとだよ」
そうして始まったリハビリは、正直言って相当つらかった。
まず下半身が鉛でも詰められたように重い。
足を動かそうとしても、かなり集中しないと意識が届いてくれない。
まるで自分の足ではないみたいだった。
それでも、がんばらないと。
せっかく助かったんだし、リハビリを終えて退院しないと、あの人に会いに行けない。
頑張って助けたあの黒猫が元気でいるかどうかも確認したいし、他にも。
「…………??」
「ん、どったの、まどか」
「あ、ううん、なんでもないよ」
何を言おうとしたんだろう。
最近こういう感覚がよくある。
何かとても大切なものがあったような、なかったような、それすらも良く分からないけれど。
この病院に来てから、ずっとだった。
「やあ鹿目さん、精が出るね」
「おー恭介じゃん、恭介もリハビリ?」
「さやか。うん、僕も負けてられないからね」
「こんにちは、上条くん」
「よーし、二人ともがんばれ!」
大体この辺りで思考は中断し、リハビリに専念することになる。
もっとも、本人もリハビリが必要な上条くんはともかく、付き合ってくれるさやかちゃんには感謝の言葉もない。
わたしは足、上条くんは腕。
全然部位が違うのに、わたしにも的確なアドバイスをくれる上条くんは凄いと思う。
きっと頑張って勉強したのだろうと、そんなことを思って頷いていたら、さやかちゃんがジト目でこちらを睨んできた。
「まどか……?」
「違う違う、そういうのじゃないから!?」
「ならいいけど、ほらまだ三セット残ってるよ!」
「うう、スパルタ反対」
「やんないと動かないんでしょ、ほら気張った気張った」
「ふふ、一人でリハビリするのと違って、飽きなくていいね」
まあ、確かに。
鬱々と汗を流し続けるよりは、ずっと健全だった。
痛みも苦しみも想像を超えたものだけど、一人じゃないから、頑張れる気がした。
「じゃ、あたしそろそろ帰るよ。また来るからねー」
日も傾き、病院に赤色が差し始めた頃。
元気に手を振って力強く地面を踏んで、さやかちゃんは帰っていった。
そんな親友の姿を見ていると、少し心がちくりとする。
それがとても汚い感情に思えて、表情を歪めてみたところに声を掛けられ、すっとんきょうな声を上げてしまう。
「つらいよね」
「ひゃあ!?」
「悪気なんてないだろうし、どう見ても八つ当たりだから余計、ね」
「上条くん」
さやかちゃんが見えなくなって少しして、わたしはその言葉を聞いた。
胸は確かにもやもやしている。
学校の話とか世間の話とか、聞くたびに溜まっていったもの。
これは一体なんだろうとずっと思っていた。
八つ当たりで、嫉妬、だったのかな。
「ずっと、なの」
「僕は随分長いんだ。いつになってもこの手は動かないから」
気付いてしまったわたしも、上手く二の句は紡げない。
この感覚はきっと、そうなってみないと分からない。
その気持ちを押し殺し続けてきた上条くんは、どれほどの負担に耐えてきたのだろうか?
「きっと治るよ」
「だといいな」
でも結局、出来ることはリハビリしかない。
その言葉を発する元気はまだある。
わたしには、まだある。
だけど。
「鹿目さんが頑張ってるのに、僕が頑張らないのも格好悪いね」
こうして手に力を込める彼は。
思うように動かない体と、どれだけの時を寄り添ったのだろう。
強いなと、そう思った。
「まどか、来たよー」
「お邪魔しますわ」
「さやかちゃん、仁美ちゃん、いらっしゃい」
そんな日々を過ごして、はや数週間。
そろそろ桜の蕾も色付いてきた、春の半ば。
終業式を終えたという二人がお見舞いに来てくれた。
「お体の具合はいかがですか?」
「松葉杖があれば、ある程度歩けるようになったよ。付き添いがあれば外出許可もそろそろ出るみたい」
「それはいい知らせじゃん、付き添いってあたしたちでもいいの?」
「うん、たぶん」
「よっしゃ、ならさやかちゃんに任せなさい! どこでも連れていってあげますぞ」
「病院の中ならともかく外は危ないですし、出来れば車を出して頂いた方がいいのではないですか?」
「うんと、車は、まだちょっと……」
あまり乗りたいとは思えない。
パパがそう提案してくれたこともあるのだけど、結局断ってしまったし。
仁美ちゃんの手配してくれる車に不安があるというわけではないけれど、どうしても、怖かったから。
「すみません、軽率でした」
「気にしないで、わたしが自分でやったことなんだし」
「まあでもそれなら、あたしたちで丁度いいよね、どこ行きたいの?」
ただ、その申し出はとてもありがたかった。
だから素直に甘えようと思う。
どうしても会いたい人が一人、いるから。
「わたしを助けてくれた人に、お礼を言いに行きたいんだ」
「まどか、やっぱやめたほうがいいんじゃあ」
「だい、じょうぶ、だから」
「ちっとも大丈夫に見えませんわ……」
外を歩くのは大変だった。
病院の中とは違って、地面は凸凹だし、座れる場所もないし。
そして何より、すぐ横を車がびゅんびゅん通り抜けていくし。
両脇に抱えた松葉杖が肩に刺さるようで、骨の周囲が痛くて痛くて仕方ない。
正直、車椅子にしておけばよかったと思う。
それでもなぜか、一度帰るという選択肢も取らず、わたしは何かに突き動かされるように足を動かし続けていた。
「これくらいも、歩けなかったら、学校になんて戻れっこないもん」
「もう、頑固なんだから」
「どうしてもダメになったら仰ってくださいね。二人がかりなら抱えられますわ」
「そうだよ、無理しすぎたらまた足悪くしちゃうからね」
「うん、わかってる」
横で心配そうな視線を送ってくれる二人には、心底申し訳ないと思いつつ。
意地になって、紙に書かれた住所へと進んでいく。
息は乱れ、足取りはとてもおぼつかず、それでも背中を何かに押されて。
会いたいと。
それだけを一心不乱に思って。
そうしてようやく辿り着いた目的地。
インターフォンを押すのもすごく勇気が必要だったけど、それはなんとか乗り越える。
ここで帰ってしまったら、何をしに来たのか分かったものじゃないから。
「どなたかしら?」
「あの、えっと、わたし」
インターフォン越しに声が聞こえる。
確かに記憶の声とも一致した。この人で間違いないだろう。
緊張と疲労で上手く舌が回らないけれど、なんとか状況を説明しないと文字通り話にならない。
「いつか、車に撥ねられて、助けてもらったお礼を言いに来ました」
「……ああ、あの時の子ね。猫ちゃんは元気にしてるよ」
その言葉と同時に、ドアからガチャリと鍵の空く音が聞こえる。
入ってきてという合図なのだろう。
両手は松葉杖でふさがっているので、さやかちゃんと仁美ちゃんにお願いして、開けてもらって。
開いたドアの向こう側に見えるのは。
人ではなく、猫。
「みゃああああああああー」
「きゃっ!?」
叫び声と共に黒い弾丸が飛びついてくる。
突然、それもお腹に向かってきたから、わたしは反射的にお腹に手をやって、松葉杖を落として。
バランスを崩して、玄関に向けて倒れこもうとして、
「っと、大丈夫かしら」
「は、い」
いつの間にかドアの傍にいたその人に、抱き止められていた。
両手両足をじたばたさせる黒猫も一緒に。
「おもてなしの準備もないんだけど」
部屋に通され、しかも紅茶にお茶菓子まで出されてしまう。
お礼を言いに来たのに、逆にもてなされているみたいで、何も持って来なかった自分が恥ずかしい。
来るのに必死だったんだもん、なんて言い訳はぐっと飲み込んで。
そして会いたかったその人は、意外にもわたしたちと同じ形式の制服に身を包んでいた。
つまるところ、同じ学校の先輩あるいは同級生なのだろうか。
「巴マミよ。よろしくね」
「わたし、鹿目まどかです。助けていただいて、本当にありがとうございました」
「あ、あたし美樹さやかです」
「志筑仁美です。私たちからも、ありがとうございました……えっと、巴さん」
「マミでいいわ」
「ありがとうございました、マミさん」
「やれることをしただけだから。でも、その松葉杖は」
「まだちゃんとは歩けなくて。でも、命があっただけ奇跡だって、お医者さんには言われました」
「奇跡、ね」
マミさんはそう言って、静かに黒猫の方に顔を向ける。
あのまま逃がしてやるわけにもいかず、私が入院している間、世話をしていてくれたらしい。
今はちょこんと座っている。
ちょっと退屈そうに毛づくろいをしているけれど。
「リハビリは辛いでしょうけど、がんばってね。あの子もきっとあなたと遊びたいでしょうから」
「はい、がんばります」
「まどか、あの猫を助けようとして事故に遭ったんだっけ……ほんと、なんていうか」
「まどかさんらしいと言えば、らしいですわ」
「そういえばその制服、マミさんはうちの学校の先輩さんなんですか?」
「今二年、そろそろ三年よ。世界ってのは狭いものね」
「あら、この紅茶おいしいですわ」
「趣味なのよ。口に合ったみたいでよかったわ」
そんな取り留めもないことを話して、時間が過ぎていく。
初めて来るはずの場所なのに、こんなにも居心地がよいのはとても不思議だった。
そうして居心地のいい空間だから、時間が過ぎるのもとても早い。
気付けば、仁美ちゃんが時計を見ながら、慌しく立ち上がっていた。
「ごめんなさい、私そろそろ時間が」
「あー忙しいもんね、しかたない」
「しかし、まどかさんを置いて行くのも」
「大丈夫よ、帰りは私が付き添ってあげる」
「申し訳ありません。不躾ですが、よろしくお願いします」
そう言い残して、それでも礼儀正しく仁美ちゃんは出ていった。
時計を見ると確かに、いつもの時間を大きくオーバーしている。
相当に無理をしてくれたらしい。
「いいお友達を持ってるのね」
「わたしも、そう思います」
「心配したんだからね、もうやめてよほんと」
「うん」
申し訳なさやら照れやら安心やらで胸の内がごちゃごちゃになって。
何となく子猫を引き寄せて、ふとあることに気付く。
「この子、名前は付けたんですか?」
「うーん、まあ一応クロって呼んでたけど、ちょっとね」
「ああ、黒いから……」
「鹿目さんが決めてあげるといいんじゃないかしら」
「いいんですか?」
「あなたがいなければ、この子は死んでいたでしょうから」
「うーん、じゃあ」
黒く小さい体に赤い瞳。
ちょっとだけ悩んで、出したアイデアは――
「ホム、でいいかな」
了承を示すように、子猫、いやホムはわたしの足にすりよってくる。
わたしはその頭をなでて、それで、
「うん、いい名前じゃん、まどかの割には……まどか?」
「え、あれ、わたし、あ」
ぼろぼろ、ぼろぼろと。
涙があふれて、こぼれて、とまらない。
何に泣いているのかなんて分からない。
悔しくて、嬉しくて、切なくて、哀しくて、いろいろな感情が折り重なって。
「ああ、う、ああ、あああああああああああああ」
「……大丈夫だよ。痛かったよね、怖かったよね、でももう大丈夫だから」
傷が痛むわけじゃない。。
事故がどうとか、そういうのじゃない。
でもそれは言葉にできなくて、結局、さやかちゃんの胸でわたしはずっと泣き続けた。
それ以上、誰も何も言わなかった。
ただ少しずつ感情の波が引いて、落ち着くまで、わたしはずっとそうしていた。
そしてようやく、平静を取り戻す。
「落ち着いたかしら」
「……はい、みっともないところ見せてしまってごめんなさい」
「いいわよ。でも、そろそろ帰った方がいい時間でしょうね」
「うわヤバ、外出許可カードの時間とっくに過ぎてる!」
「ホムの散歩もあるし、送るわ。行きましょう」
何故か首をゆるゆると左右に振って、ホムを抱いて、マミさんは立ち上がる。
わたしはまだ帰りたくなかったけれど。
そんなワガママを言うわけにもいかず、二人に手を貸してもらって。
「また、来てもいいですか」
「足を治したらね。それまでホムは預かっておくから」
まだ何か、果たしていない用件がある気がして。
お礼は言ったし、ホムのことも話したし、考えられる限りではすべて済ませたのだけれど。
そんな不確定事項を口に出せるわけもなくて。
結局わたしは黙り込んで、また松葉杖を握って立ち上がり、玄関から出て行くしかない。
何かをやり残した感覚に後ろ髪を引かれながら。
不思議に思いながら、マミさんに導かれてマンションの間を縫うように、松葉杖を頼りに、歩いている。
やっぱりこの辺りに来たことはない。
どこを見回しても、見たことのある景色は映らない。
そしてふと、視界にわたしとマミさんしかいないことに気付いて、後ろを振り返ってみると。
さやかちゃんが数歩遅れて、立ち止まっていた。
「どうしたの、さやかちゃん」
「まどか、マミさん、あれ」
「…………!?」
声に導かれて見上げた方向にも、当たり前のようにマンションが高く聳えている。
ただ一つ決定的におかしいのは、そこにあるべきでない人影。
屋上の柵を乗り越えて、一人の男性が今にも飛び降りようとしていた。
何を考えるでもなく、わたしはそっちへ向かおうとして、その進路を阻まれる。
「まどか、あんたどこ行くつもりなの!?」
「さやかちゃん、だってあの人、あのまま落ちたら」
「自分の状態を考えなよ! ううん、たとえ大丈夫でも、巻き込まれたらあんたどうなるか」
「それでもイヤだもん! わたしの前で、誰かが、死んじゃうかもしれないんだよ!?」
「こんの分からず屋が、生きるか死ぬかのケガした身で、一体何ができるって……」
どうしてそんなに。
わたしにだって分からない。
ただなぜか、心の奥の奥の方から、足を止めるなという声が聞こえるから。
それでも。
わたしはただの怪我人で、何の力もなくて。
男性は縁に足をかけ、そして、
「だめえっ!?」
飛んだ。
落下するだろう地点までは、とても遠い。
しかもさやかちゃんが、体を割り込ませてわたしを前に進ませてくれない。
「行かせる訳ないでしょうが、このアホンダラ!」
「どいてよ!」
「どかない!」
「任せて」
いつかを思い出させるような、落ち着いた声。
ホムを渡される感触に、二人そろって振り向けば、マミさんが鋭く駆け出していた。
その姿は、さっきまで見ていた見滝原中学の先輩のそれではない。
「ふっ!」
白と黄色のどこかファンタジーの世界から飛び出てきたような衣装を纏って。
どこから出したのか、手元から幾条ものリボンが延ばされる。
それは空間を進みながら肥大化し、互いに編み込まれ、落下の衝撃を和らげる繭となって。
猛スピードで落下するその人を、衝突直前、受け止めた。
「魔女の口付けね」
「マ、マミさん! その人大丈夫ですか!?」
「それにマミさん、今の、一体」
「ごめんなさい、説明してあげたいんだけど、やることが出来ちゃったみたい」
「それって、もしかして、あれのせいですか」
「わたしも見える。なに、あれ」
マンションの屋上に、空間の裂け目のようなものが見える。
その周辺には、何か黒い瘴気みたいなものも見える。
明らかな異常を理解すると共に、わたしがずっと抱えていた感覚も消え去った。
わたしは、これを求めて来たんだと、理解して。
「察しがいいのは嬉しいけれど、できるだけ早く逃げて」
「走れないです」
「あたしが抱えてもスピード出せないし、ホムもいるし、何よりマミさん一人残して行けないって!」
どんどん歪みは大きくなっていく。
屋上の空間を喰らいつくして、マンションの敷地から漏れ出て行く。
「……仕方ないわ、一緒に来て」
さやかちゃんと二人、視線を一度交わして、頷く。
頷くや否や、わたしたちの体にリボンが巻き付き、牽引されて一気に空へと飛び上がった。
風を切る感覚。
私の顔に、手に、胴に、足に、全身に、粒子がぶつかって跳ね返っていく。
これからきっと危険な所へ飛び込むのに。
とても心地よいと、ホムを抱きながら感じた。
飛び込んだ空間は異界。
極彩色が散りばめられた世界に、どこまで続くとも知れない穴がそこら中に開いている。
筋肉に魚の頭を付けた鳥のような、まるで意味の分からない生き物がそこら中を飛びまわっている。
恐怖を通り越して、ただただ呆れるばかりだった。
「ちょっと、なによこれ、なんだってのよ」
「落ち着いて、さやかちゃん」
「落ち着いてられるあなたの方が異常よ。ほら二人とも、その中にいて、暴れないでね」
「あ、はい、ありがとうございます……ぎゃあ!?」
私達を牽引していたリボンは、形を変えかご状になって、わたしたちを包む。
そしてマミさんに引っ張られるまま、穴へと落下していった。
気味の悪い謎の生命体も付いて来るけれど、片っ端から木っ端微塵にされていく。
何かと目をやってみれば、マミさんがマスケット銃を呼び出して射撃していた。
「ほら、そろそろ着地するわよ」
「はい」
「だからなんであんたはそんなに落ち着いてるのうわああああああ!?」
風を切る感覚は、一度途絶える。
ズシンと着地の振動が響くけど、着地した床は脆くも抜けてしまって。
結果またわたしたちは落ちていく。
今度の違いとしては、わたしたちが入っているのよりもずっと大きな鳥かごが、下に見えること。
異常としては。
女性の下半身しか、そこには入っていないこと。
「あれね」
「マミさん、あれって」
「魔女よ。私の仕事はね、魔法少女としてあの存在を退治することなの」
まあ、詳しくは後で話すわ、と言って、会話を打ち切って。
なおも落下し続けるわたしたちと、その巨大な鳥かごの化け物との間を遮るように、壁が作られた。
それはマスケット銃の雪崩。
莫大な質量があたかも道を塞ぐ壁であるかのように見えただけ。
その全ての引き金が引かれ、下方を爆発と炎上によって火の海にした。
火の粉がぎらぎらと散っていく。
燃え盛る欠片は空を飛び、筋肉鳥に飛び移り、また燃え上がる。
空間そのものまでを燃やし尽くし、そしてやっと、消え果てた。
視界が晴れたとき、そこに極彩色の世界はもはやなく、わたしたちは男性が落ちてきた地点に戻っていた。
戻ってきた世界には、先ほどの男性が意識を失って倒れている。
どうすればいいかと慌てるわたしたちを余所に、マミさんは迷いなく歩み寄り、手をかざして光を当てる。
「大丈夫ですか」
「――――う、うん? 私は、どうしてこんなところに」
「きっと夢でも見たんですよ」
「確かに、何か恐ろしい夢を見た気がする。それよりまずいな、会社に戻らないと」
「この道を真っ直ぐ行くと大通りに出られます。気をつけてくださいね」
「ああ、ありがとう、親切なお嬢さん」
そしてスーツを直しながら男性は歩き去ってしまう。
その会話をぼーっと眺めてるうちに、わたしも現実世界の都合に引き戻された。
「あ、時間……」
「……怒られる、めっちゃ怒られるッ!!」
「行きましょうか。詳しい話は、また今度お見舞いに行ったときにでもするわね」
「はい、お願いします」
「なんかあたしまで夢見てた気がするわ、すみません、よろしくお願いします」
放り出していた松葉杖を抱えなおして、ホムをマミさんに返して。
病院へと歩き出した。
よく分からない満足感と、やっぱりよく分からない浮遊感に浸りながら。
「さすがにちょっと、疲れたかも」
病室のベッドに疲労しきった体を横たえて呟く。
結局病院に帰り着いた時には、外はもう真っ暗で、わたしたちは散々に怒られてしまった。
さやかちゃんはともかく、マミさんまで縮こまって怒られているのが、何故か少し新鮮で。
二人とも、また明日来ると言ってくれた。
そこで今日あったこと、魔法少女とか魔女とかについても、詳しく話してくれると。
きっとわたしが求めていたものは、これなのだろうけど。
どうしてわたしはこんなものを求めていたんだろう。
そして、もう一つ。
この病室で目を覚ました時からそうだった。
どうしてここにいるときだけは、心がざわめくんだろう。
この部屋全体に棘が張り巡らせてあるよう。
締め付けられる感覚は時が経っても消えてくれない。
この部屋の主人は、わたしじゃない。
そう言われているような。
なんだろう、これは。
分からない。
分からないまま、わたしは眠りに落ちていった。
目が覚めても、同じだった。
心にぽっかりと穴が空いてしまった感覚。
何をなくしたのかは全く分からないけれど、それがかえって空白を際立たせる。
昨日さんざん粘って、マミさんの正体に行き着いたように。
多分この『何か』もまた、わたしが突き止めなければならないものなのだろう。
ただ、今はまず、マミさんの話をちゃんと聞こう。
昨日あったことはあまりにも非現実的で、この目で見なければとても信じられるようなものではなかったから。
そう考えていると、ドアをノックされる音が聞こえて。
返事をして了承を伝えると、さやかちゃんとマミさんが、入ってきた。
「おはよーまどか、起きてたんだね」
「うん、ちょっと前にね」
「おはよう、鹿目さん」
「マミさん、おはようございます」
「待ってたかしら」
「はい」
「ごめんなさいね。この子と話してたら時間取っちゃって」
「あそこまで巻き込んでおいて、話さないほうが失礼だろう」
「分かってるわ、もう納得したって言ったじゃない」
何か別の声が聞こえる。
そしてマミさんがそう言い切った所で、その肩を越えて白い小動物が現れた。
その姿に一致する情報はわたしの中になく、結果わたしは至極単純な問いを口にする。
「……誰?」
「僕の名前はキュゥべえ、君に頼みがあって来たんだ!」
頼みがあると。
わたしの体は何故か動かない。
ただ耳だけが異常に、次の言葉を聞き逃すまいとして、その感覚を鋭敏にする。
「鹿目まどか、僕と契約して、魔法少女になってよ!」
満面の笑顔、と評していいのだろう。
でもなぜだろう、わたしにはその表情が、窓から射す日光の作ったその影が、とても不気味に映った。
さらりと言ってのけた、魔法少女という、ある意味ではとてもロマンチックなその言葉すらも。
きっとそれはマミさんのような人のことを指した言葉なのに。
ぞくり、と。
わたしが求めていたはずのものに、言い知れぬ恐怖を感じる。
「ごめんなさいね、ちゃんと説明するわ」
「はい、お願いします」
「願い事を代償に、命を懸けて戦うってことですか?」
「そうね、そんなところで合ってると思うわ」
「マミさん、一体いつからあんなのと戦って」
「マミはかなりのベテランだからね、もう数年は下らないと思うよ」
「別に大したものじゃないわよ? 死ぬのがイヤだっただけなんだから」
「そんなの、当たり前じゃん……」
聞かされた内容は、それこそマンガとか、アニメとか、そんな世界のもの。
わたしたちの世界は人知れず食い荒らされ、また守られているらしい。
でも、その話が本当であることは、わたしは自分の身を以って理解できる。
「わたしを助けてくれたのは、本当にマミさんなんですね」
「マミの魔法は”結び合わせる事”に特化しているからね、傷の治療なんかはお手の物だよ」
「嘘を付いたつもりはないのだけど、そうなるかしらね」
「じゃあ、マミさんがいなかったら、まどかは」
「……やめてよ、さやかちゃん」
「うっ、ごめん」
死んでいたのだろう。
文字通りの奇跡によって、わたしはここに生きて留まっている。
事ここに至って、どれほど恐ろしい綱渡りをしてきたのか理解して、また身を震わせる。
「鹿目まどか、美樹さやか、君たちには才能がある。訓練次第ではマミのようになれるかもしれないよ」
「こら、どうしてそこで私の名前が出てくるの」
「この子たちは明らかに君に憧れているよ。さすがに見れば分かるさ」
「そういうことじゃないの。女の子を急かす男子は嫌われるぞ」
「僕に性別の概念はないんだけどなあ」
「えっと、その」
「あたし、いきなりそんなこと言われましても、一体どうしていいのやら検討も」
さすがにこの事態は想定してない。
何故か最近妙によく回る頭も、大きすぎる選択肢を前にさっぱり動いていない。
ただ恐怖が、ぼんやりとわたしの心を占めていた。
頭の上にクエスチョンマークを浮かべているわたしたちに、助け舟を出してくれるのは、結局この人。
マミさんがもう少し大雑把にまとめるわね、と言って、話し出す。
「この世界は魔女に蝕まれている。誰かが魔法少女としてそれを止めないといけない」
「魔法少女って誰にでもなれるものじゃないの。で、あなたたちにはその素養があるってこと」
「だからこの子はあなたたちに、魔法少女になって欲しいと頼んでいるの」
「ただ二人とも、ゆっくり考えて決めなさい。願い事ってそんなに軽いものじゃないから」
「そして、この魔法少女というモノもね」
マミさんはどこまでも親切だった。
一人より二人、二人より三人なのは当たり前なのに。
確かに、この人のようになれたらどんなにいいだろうと、そう思うけれど。
「ごめんなさい、あたし一つだけ質問してもいいですか」
「何かしら」
「その、マミさんは何を願ったんですか」
さやかちゃんのその質問に。
魔力の源であるという飴色のソウルジェムを、ぎゅっと握り締めながら、マミさんは応える。
それが自身の義務であるかのように。
「状況は鹿目さんと同じよ。事故で死にそうになって、生きたいと願ったの」
「だからね、あなたを助けられたのは、私、誇りなのよ」
吹けば飛ぶような儚い笑顔に乗せられた言葉。
それを最後にその日は解散となった。
「いいのかい、マミ?」
「何のことかしら」
「あの二人のことだ。きっと君が強く勧めれば、すぐにでも契約したと思うけれど」
「ちゃんと納得しないで契約するのはだめ、って言ってるじゃない。それに」
「?」
「優しすぎて、弱すぎるのよ。あの子たち」
「二人とも才能は並ってところだし、そんなに弱くもないと思うんだけどな」
「もう、そういうことじゃないの」
「そうだなあ、まどかは確かにメンタルに難があるかもしれないね」
「特に鹿目さんは、まだ事故のショックからも抜けられていないみたいだし」
「ただ何だろう、どうにも見てて違和感があるんだ、不思議なものだよ」
「違和感?」
「さあ、僕にもさっぱり分からないよ」
「とにかく、言うべきことは言ったはず。余計なちょっかいは出さないでね」
「やれやれ、僕の仕事は魔法少女を増やす事なんだけどなあ」
命を懸けるほどの願い事は、わたしにも、さやかちゃんにも、度を越えたものだった。
だからわたしたちは何も決められなくて、ただ時間が過ぎていって。
いつの間にか新学期が始まっていて、わたしも退院を明日に控えていた。
「おめでとう、鹿目さん」
「ありがとう、上条くん」
「まどかはリハビリよく耐えたよ。走ったり飛んだりはできなくても、歩けるだけで十分十分」
「上条くんも、きっと、きっとよくなるから、くじけず頑張ってね」
「もちろんだよ、負けてられないもの」
「おーその意気だ恭介! あたしはまどかが退院しても来るからな!」
「さやかも、少しは自分の事に時間を使いなよ」
「うっ、それは最近成績が無残なことになってきたこととまさか関係はあるまいね」
「さやかちゃん、この前持ってきてくれたテスト赤点だったよね」
「あれ僕でも解けるよ」
「うるさいうるさい! 恭介のばーかばーか!」
この病院最後のリハビリは、そんな風に和やかに終わった。
さやかちゃんがちょっと不憫だったけど、まあ。
結局わたしは、激しい運動はともかくとして、日常生活に不自由しない程度にまでは回復できた。
でもそれはすでに奇跡で。
そもそも、生きていること自体が奇跡で、その上に、また歩けるようになって。
まだ入院生活を続けなければならない上条くんには、少し申し訳なさを感じてしまう。
長いようで短かった入院生活。
それを乗り切れたのは、間違いなくさやかちゃんと上条くん、二人によるところが大きいから。
だから頑張って、腕を治して、お互いに完治した状態で学校で会いたいと思う。
さやかちゃんと一緒にお見舞いに来る事も約束した。
「わ、いい風」
「ほんとだ、だいぶあったかくなってきたね」
窓からはいい風が吹いている。
病院独特の消毒液の匂いと、ちょっと部屋にこもった汗の匂い。
それなりの期間をここで過ごしたのだから、未練はないと言えば嘘だった。
それでも、また学校に通える。
それをここで喜ばないのは、きっと誰に対しても失礼だと思う。
だから、がんばれ、わたし。
そして、初日。
必死の思いで登校したわたしを待っていたのは、とても厳しい現実だった。
「……あの、鹿目まどかです、よろしくお願いします」
「鹿目さんは、交通事故でしばらく入院していたの。
まだうまく動けない時もあるみたいだけど、皆さんよくしてあげてくださいね」
まるで転入してきたような扱いで。
久し振りに学校に来てこの状況は、さすがに照れくさいとか以前に、キツかった。
そして、その原因は、もう一つ。
あの病室に強く焼きついていた感覚は、学校にも強く残っていた。
ないはずの喪失感。
あるはずのない空白。
訳の分からない罪悪感。
とてもじゃないけれど、わたしは平常心を保っていられなくて。
「ごめんなさい、ちょっと、保健室に」
「あ、じゃああたし付き合うよ」
「私も行きますわ、さやかさん一人では不安ですし」
「どーいう意味だよこら仁美」
「いえ、決してそういう意味ではなく……」
二人はいつものように接してくれる。
それだけが、どうしようもなくありがたかった。
少しいつもよりおどけて見えるのは、きっと気を使ってくれているのだろう。
でも。
保健室の前に着いた瞬間、それまでとは比にならない感覚に襲われて。
吐き気が、
「うぇ、うっ…………ああう、えっぷ」
「わっ、ちょ、まどか!?」
「まどかさん、手を離して、窒息してしまいます!」
込み上げて、堪え切れなかった。
辛うじて仁美ちゃんの持ってきたバケツにぶちまける程度で済んだけれど。
吐き気はなくならず、苦しみも消えてくれず。
完全に出尽くしてしまった胃の内容物の代わりに、今度は言葉をぶちまけた。
「わたし、わたし、おぼえてないんだ」
「何かがあったのに、誰かがそこにいたのに、全然思い出せないんだ」
「ただずっと申し訳ないって、ごめんなさいって、ずっと」
「でも、なにも、わたし、おぼえて、わたし」
「うっ、う、ああああああああああああああああ、ああああああああああああああああ」
もう何も考えられない。
ただ子供のように声を上げて。
途中からさやかちゃんがまた胸を貸してくれたみたいだけど、わたしは何も気付かずに泣き続けた。
「目、覚めた?」
「はい」
声を受けて、もそもそとベッドから起き上がる。
場所は変わらず保健室。
ただ時間だけは随分と過ぎたらしく、部屋は一面オレンジに染められていた。
声を掛けてくれたのは、マミさん。
あれから時々お見舞いに来てくれたけれど、学校でこうして会うのは初めてだった。
「美樹さんと志筑さんに頼まれてね」
「ごめんなさい、わざわざ」
「いいよ、他にやることもないし」
背を向けて座っているマミさんの顔は見えない。
わたしも下を向いているから、逆に見られることもないだろう。
こんなぐしゃぐしゃの顔を。
「わたし、弱いです」
「何かを忘れてしまったことだけは分かってるのに」
「それが何か分からないってだけで、こうして何もできないで」
「知るための手段もきっとあるのに、怖いからって立ち止まって」
「わたし、こんな自分、大嫌いです」
ホムを助けたときのわたしは、どこへ行ってしまったんだろう。
マミさんに必死で会いに行って、かっこいいマミさんに憧れたわたしは、どこへ。
「ホムがね」
「最近寂しがってしょうがないの、早くあなたに会いたいってね」
「あの子を助けられたのは、あなたがいてくれたから」
「魔法少女になんて、ならなくてもいい。だけど」
「あなたがあなた自身を否定するのは、あなたが助けたあの子にとって、どう映るのかしら」
「あの時私が見たあなたは、世界の誰よりも勇敢だったよ」
そう言って、マミさんは立ち上がる。
窓に背を向けて、窓から射す夕陽に背を向けて、ドアノブに手を掛ける。
「どこに、行くんですか」
「魔女を探しに行かないと。また誰かを、喰ってるかもしれない」
その背中はとても眩しくて。
だからわたしは、ほんのちょっと残った勇気をかきあつめて、その台詞を言う事ができた。
「連れて行って、くれませんか」
廊下に出ると、そこには見慣れた友人が一人。
手持ち無沙汰に携帯を弄っている。
「あれ、さやかちゃん」
「おっすまどか、もういいの?」
「大丈夫だけど、なんで」
「実はね、私が頼んだのよ。二人で話がしたいって」
「仁美は時間になっちゃって帰ったよ。あたしはマミさん待ってたんだけど、その分じゃ、まどかも一緒なのかな」
「うん、ごめん、迷惑掛けて」
「うむ、今度駅前のクレープおごりで手を打ってやろう」
「ほら二人とも、ついてくるんじゃなかったの、置いて行くよ」
それは困る。
せっかく決意したんだから、無理矢理にでもついていかないと。
横を見れば、さやかちゃんも同じ顔つきで。
「悩んだけどね、あたしにも叶えたい願いあるから」
「だったら、置いてかれちゃ困るね」
「そうだね、さっさと行こ」
「ティロ・フィナーレ!」
掛け声一閃、大砲から放たれた弾丸が魔女を粉砕する。
砲撃と着弾の余波はこちらにも届き、暴風としてわたしたちの間を通り抜けていった。
耳を押さえても、気休めにすらならないくらい。
「おお、さすがマミさん」
「耳がジンジンする……」
軽やかな着地音と共に、マミさんがわたしたちの元へと戻ってくる。
それに前後して空間もほどけて、ショッピングモールの景色が戻ってくる。
魔女の結界という場所はちょっと目に毒毒しかったため、殺風景な裏路地すらも、十分安らげる景色だった。
「はい、大体これでおしまい。感覚はつかめたかしら?」
「すごすぎて戦闘はさっぱりでしたけど、それ以外はなんとか。あたしでもあんな風に戦えるものなんですか?」
「うーん、いきなりマミのようには厳しいね。最初はみんなぼろぼろだよ」
「え、ってことはマミさんも?」
「あまり昔の話はしたくないのだけれど、はっきり言ってひどいものだったわね」
「聞きたいです!」
「もう、やめてってば」
魔法少女体験ツアーは、それはとても怖かった。
平気で会話をこなしているさやかちゃんには驚いてしまうくらい。
でも、普段の表情を崩さずに立ち振る舞うマミさんを見ていると、それだけで勇気をもらえる気がするから。
あとはわたしが決心するだけ、なんだけど。
ここで決められるのなら、それが望ましいんだけれど。
まだそれは出来そうにない。
憧れていた非日常、そこに飛び込むのを怖いと思えるほどに、わたしはこの日常が大切で。
でも同じくらい、今ここで戦っているマミさんは眩しくて。
そんな思いがぐるぐると回って、どうにも考えはまとまらない。
「マミさん、本当にありがとうございました」
「あたしも。ちゃんと気持ち固まったら、マミさんとこ行きますね」
「僕は別にいつでもかまわないけれどね」
「私もいつでもいいわ、待ってるからね」
そうして二人と一匹と別れ帰途に着いた。
もう外は真っ暗で。
パパやママに心配かけちゃってるかなと、そう思って。
魔法少女になるなんて伝えたら、どんな顔をするだろうとまで考えて、つい笑みがこぼれて。
そんな余裕を持たせてくれた大切な友人たちには、感謝しないといけないみたい。
「思い出したい」
人なのか物なのか、それすらも分からない。
そんな欠落を求めて命を懸けようとするわたしは、多分変わり者なのだろう。
でもそれほどに、わたしの中の空白は大きかった。
「魔法少女になって、マミさんの力になりたい」
命の恩人、憧れの人。
そんな人のそばで、わたし自身も誰かを助けていくことができたら、それはどんなに素敵だろう。
こんなわたしでも、誰かの力になれるのかな。
まだ怖いと言って手をこまねいているくせに。
広がる色々な可能性に、ついつい浮き足立ってしまう。
まだ完璧には動いてくれない足だけれど、それでも一人で歩く分には不自由しないようになった。
……そういえば、上条くんはどうしているだろう。
明日の放課後にでも、お見舞いに行ってみようか。
「さやかちゃん、どうだった?」
「会えないってさ、せっかく来たのに失礼しちゃうー」
「そっか、残念」
そうして一念発起して来てみたはいいものの、徒労に終わってしまった。
わたし以上にさやかちゃんの落ち込み方は相当のもので。
声をかけるのも躊躇われ、ただ病院の敷地を歩いていた。
病院と言っても、いるのは病気の人やケガをした人ばかりではない。
お見舞いの人やお医者さん、看護師さんなど、健康な人もそこにはいる。
さやかちゃんは後者に当てはまるはずなのに、その様子はまるで前者のそれのようで。
見ているこっちが辛いくらいだった。
でも何も出来なくて。
ただわたしたちは歩いている。
ただ歩いていて。
こういうものに出くわすのは、何の因果か。
グリーフシードが一つ。
病院の壁に突き刺さり、カラフルな何かが滲み出て、異様な雰囲気を醸し出している。
その意味が分からないわたしたちでは、もはやなく。
互いに顔を見合わせる。
横にあるさやかちゃんの顔は、魂の抜けたようなものから、決意を秘めた力強いものへと、変わっていた。
眩しかった。
「まどか」
「マミさんに連絡、だね」
「あたしたちはここの人を避難させないと」
「でもどうするの、ただの中学生が避難してって言っても」
「まあ、無理だろうね」
声と共に現れたのはキュゥべえ。
何もない空間から、まるで染み出すように。
「マミは今魔女と戦っている所だ、携帯はちょっと通じないんじゃないかな」
「あれ、ほんとだ、つながらない!」
「どうしよう、ここ病院だよ!? こんなところで魔女が生まれたりしたら」
「普通の街中よりは、きっと被害は甚大だろう」
とつとつと語るその姿に、何か違和感を覚える。
表情を映さないその顔が、何故かとても恐ろしい。
感情を伝えないその口調が、何故かとても不気味で。
それでも今のわたしたちにとっては、この子しか頼れるものはなかったから。
焦りを体現しながら、さやかちゃんがキュゥべえを問い詰める。
「マミさん、どれくらいかかるの」
「さてそれは分からないけれど、あちらの仕事を終わらせ次第向かってはくれるだろう」
「このグリーフシードが孵るまではどれくらいなのさ」
「もう孵るんじゃないかな」
「え、ちょっ」
空間の歪みは加速度的に拡大して、わたしたちを丸ごと呑み込んで。
覚悟を決める時間すらなく。
都合三度目の魔女結界へと落ちて行った。
ただし今度は、守ってくれる人など、どこにもいない。
「なに、ここ」
「これは、また……」
空間を占めるのは、色とりどりのお菓子、それも山ほどの。
ピンクや白、赤といった女の子らしい色調で埋められた世界は、病院を模しているようで。
そこらじゅうに、ばらまかれた薬瓶、首の取れたお人形、壊れたベッドなどが。
そして動くものは、わたしたちだけではなく。
よく分からない欠片を抱えた、これまたよくわからない人形?が、群れをなしてぞろぞろと行進している。
よくわかる。
ここは普通の人間が、立ち入っていいものではないと。
覚悟をした人間が、また覚悟を決めて、ようやく入る事を許される場所だと。
今のわたしたちは、あまりにも分不相応だった。
「まどか、あたしの後ろに付いてきてね」
「でも、さやかちゃん」
「あんたまだ走れないでしょ。どっか隠れられる場所見つけてマミさんが来るの待とう」
「それがいいだろうね、君たち人間では使い魔にすら敵わないだろう」
「一応聞いとくけど、出る手段とかないの?」
「ないね。それが出来るのは魔法少女だけだ」
絶望的な回答を貰い。
そして一拍置いて、さらに一言が付け加えられる。
「最悪の場合、僕の準備は出来ているからね」
その言葉は毒か薬か、わたしとさやかちゃんの心の中に、おそらくは深く染み込んでいった。
わたしは何も返事をすることが出来ない。
そしてそろりそろりと歩き出した。
悪夢のような空間を、何の手立ても、頼りもないままに。
「……ねえ、まどか」
「なに?」
「まどかはさ、魔法少女になって叶えたい願い、あるの?」
しばらく探して見つけた、不思議と開けたスペースに二人と一匹で身を隠して。
息を潜めていると、突然横に座ったさやかちゃんがそんな質問をしてきた。
そういえば、さやかちゃんと魔法少女について話し合うことは、まだなかったんだっけ。
ちょうどいい機会かもしれない。
その横顔に、これといった感情は見えない。
「わたし、最近なにかおかしいんだ」
「おかしいってのは、昨日叫んでた辺りのこと」
「うん、そう」
「覚えてないとか思い出せないとか言ってたけど、事故のショックでとかなんじゃないの?」
「かもしれない」
言われてみれば、確かに時期は一致している。
よく分からない喪失感を覚え始めたのは、入院して病室を眺めた時が最初だった。
でも、まずあの事故そのものが、わたしにとっては不釣合いなものだった。
普段のわたしだったら、身を竦ませている間に、ホムは車に轢かれてしまっていただろうから。
でも。
「でも、そうじゃないかもしれないんだ」
「まあ、まどかが猫をかばって車にはねられて、なんて、ちょっと想像も付かなかったしねえ」
「何かおかしいの。違和感があってどうしても消えてくれない」
「んでなんかあったんじゃないかと考えてると」
「そう、だから思い出したい。願うとしたらきっとそれ」
「そっか」
命を懸けた願いとしては、あまりに不釣合いかもしれない。
もしただの思い過ごしだったら、どうしようと。
そういう不安が心を縛って、どうしても最後の一歩を踏み出せない。
ただそれは、言葉にしてはいけない気がして、あえて口には出さなかった。
そこで一度会話は途絶え、またさやかちゃんが話し始める。
「あたしね」
「……?」
「実はさっき、恭介に会えたんだ」
声の色は灰。
普段のような明るさはどこにもなく、吐くように言葉が投げ出されていく。
「会ってさ、しばらく会いにこないでくれってさ」
「うざいんだって。元気に手を動かしながら、弾けもしない音楽を聞かせて来るあたしが」
「あたしってほんと無神経だよね。そんなことちっとも思ってなかった」
「ずっと傷付けてた」
「きっと……ううん、これはいいや」
「んでどうしたらいいのか、あれこれ考えてたんだけ、ど!」
呆気に取られるわたしを尻目に、さやかちゃんは立ち上がり、正面の空間を見据える。
そこには今にも割れてしまいそうに震えるグリーフシード。
どうやらぽっかりと開けたこの空間は、この結界の主のために用意されたものだったらしい。
気付けない自分の鈍臭さに嫌気が差す。
周囲がねじれ変わっていく。
魔女の誕生を祝うために。
迷い込んだ獲物を生贄として捧げるために、使い魔たちもわらわらと集まってくる。
山のような有象無象。
きっと私たちを殺してしまうだろうそれら。
でもさやかちゃんの視線は揺らがず、両の足で確かに地面を踏み締めている。
それはつまり、きっとそういうことなのだろう。
さっきからさやかちゃんを見ていると、妙な胸騒ぎがして。
だけどそれを止める権利なんてわたしにはなくて。
だから何も言えなくて。
「マミは間に合うかもしれない」
「間に合わないかもね」
「いいえ、間に合ったわ」
でも、その必要はなかった。
壁が弾け、使い魔たちが弾け、一人の魔法少女が私たちと魔女との間に舞い降りる。
轟音と砕け散った諸々の破片と閃光と、五感を満たす感覚は全くハチャメチャで。
胸の高鳴りは抑えられない。
つい、叫んでしまった。
「マミさん!」
「おやマミ、間に合ったようだね」
「二人とも、無茶しすぎ」
「うっ、でも」
「ごめんなさいね、私が遅くなったのは間違いないんだけど、でも無茶はダメ」
「……はい、すいません」
「ちょっと話さなきゃいけないこともあるようだし、速攻で済ませてくるわね!」
ちらりとさやかちゃんの方を見てから、そう言い、魔女の方へと大きく跳ぶマミさん。
聞こえていたのだろうか?
いずれにせよ、ひとまずここでさやかちゃんが契約することはなさそうだった。
軽く肩を落としながら、すごすごとこちらに戻ってくる。
「あはは、なんか肩すかし」
「でも、よかったよ……わたし、なんか不安で」
「まあ実際あたしも、ちょっと安心しちゃったりなんかしてるわけなんだけどさ」
手が差し出される。
握ってみればその手は、小刻みに震えていた。
体も揺らしながら吐くその言葉に、私は同意以外の何もすることはできない。
「すごいや、マミさんは」
「うん」
目をやると、もうあらかた使い魔たちは片付けられていた。
あと残っているのは、かわいいぬいぐるみのような、おそらくは魔女本体。
こんな見た目で魔女というのもまた、ちょっと違和感があるけれど。
そしてその違和感は、瞬く間に現実に。
砲撃でぬいぐるみのような魔女が蜂の巣になった、そこまではよかったのだけれど。
足元から突き上げるような衝撃。
二撃目を待たず地面は割れ、黒く巨大で何が何だかよく分からない塊が飛び出して。
宙に打ち上げられ身動きをとれずにいたマミさんのところへ伸びていって。
がばあと大口を開けて。
首が千切れて飛んだ。
マミさんは視界にいない。
転がっているのは、首と胴が鋭利に切り離された死体。
切り飛ばされた頭部がどろどろと溶ける。
その中から這い出る影が一つ。
「油断、しちゃったなあ」
「マミさん、大丈夫ですか!?」
「ええ、この通り無事よ。飲み込まれたときはどうなるかと思ったけれど」
「良かった、良かったです……本当に無事で良かった…………」
液体を拭い取りながら立ち上がるその姿は、いつも通り。
どこかにケガをしている様子もなかった。
それを確認して、わたしは思わず安堵のあまり崩れ落ちてしまう。
マミさんが打ち上げられた瞬間、わたしの後ろで突風が起きたのは感じていた。
わたしに見えていたのは、一気に伸長した魔女が、その勢いのまま斬り飛ばされてマミさんを飲み込むところまでで。
すぐそこにあった最悪の事態が今更ながらに想像できて、一気に冷や汗が溢れ出て止まらない。
そして何故そうならなかったのかは、考えるまでもなく、明らかだった。
「……美樹さん、ありがとう。あなたのおかげ」
「さやか、ちゃん」
わたしは無事なわたしの首を、機械のようにキリキリと回して彼方を見遣る。
結界の中に立つ影がもう一つ。
青い騎士装束を纏った魔法少女で、わたしの親友。
抜き身の剣をその手に握り締めて、少し離れたところで呆然と立ち尽くしている。
「さやかちゃん」
「大丈夫、まどか。聞こえてるから」
そこで結界は消えた。
再び病院がわたしたちの視界に戻り、いつもの世界を取り戻す。
違うのは二箇所。
地面に転がるグリーフシードと、魔法少女になったさやかちゃん。
いくつか深呼吸をして、二人の魔法少女は口を開く。
「マミさん、良かったです、無事で」
「助けられておいてこんなことを言うのも……ううん、だめだな、ありがとうね」
「あたしはきっかけが欲しかったんです。だから、大丈夫です」
「願い事は、ちゃんと考えていたのね?」
「はい」
さやかちゃんの願い事。
その言葉が示す中身は一つしか思い浮かばず、それはキュゥべえによってすぐに肯定された。
「幸か不幸か、ここは病院だったね。確認してくればいいんじゃないかな?」
「あーそうだね、じゃあちょっと気になるしあたし行ってきます!」
そうさやかちゃんは言って、振り向いて駆け出し、そのまま転ぶ。
よく見たらまだ元の姿に戻ってもいない。
剣は手に握られたまま、深々と柄まで地面に突き刺さっていた。
うつ伏せになったその姿勢のまま、さやかちゃんは遠目に分かるほど、激しく震え出す。
「っは、はあ、はあ、っうう、あ」
「大丈夫!?」
「っう、あは、あはは、大丈夫、ごめ、ちょっとビビっちゃってさ」
何に恐れを抱いているかと聞かれれば、それはきっと明らか。
さっきの巨大な魔女本体、あれに自分の力で立ち向かったさやかちゃんの心中は、どんなものだったのか。
さやかちゃんはそれ以上何も言わない。
起き上がろうともせずただ震えている。
いや、起き上がれないらしい。
代わりに口火を切ったのは、魔法少女の変身を解いたマミさん。
手を差し伸べながら。
さやかちゃんがその手を取る様子は、ない。
「怖いよね」
「そりゃ怖かったけど、もう倒しましたし、全然、大丈夫ですよ」
「そうじゃないわ」
「あちゃ、お見通しですか」
「通った道だもの」
「……あたし、今、なんなんですかね? さっき一瞬で10メートル以上跳んじゃいましたよ」
「魔法少女さ」
キュゥべえのその一言で場は静まり返る。
さやかちゃんはただ下を向き、地面に突き刺さった剣を抜こうとして悪戦苦闘している。
わたしは固まって、動けないし、声も出せない。
「素晴らしい力だろう? 願いを叶え、そして大切な人も守れたじゃないか」
「君は一体何に怯えているんだ。わけがわからないよ」
誰も口を開かない。
開く事はできない。
ただざくざくと、剣を掘り出そうと地面を刻む音だけが響き続ける。
立ち尽くすわたしたちから、風が体温を奪って逃げて行く。
「……結局、何も出来なかったな」
さやかちゃんはそのまま、マミさんが連れて帰った。
話す事があると言って。
わたしはこうして一人家に帰り、夜の闇の中無力感に打ちのめされている。
さやかちゃんは覚悟していたのだろうか。
おそらくはそのつもりでいたのだろう。
だけどきっと、現実はそれほど軽いものではなかったのだろう。
じゃあ、わたしは?
わたしなんかよりずっと強いさやかちゃんが挫けそうになったものの前で、わたしは正気を保っていられる?
自信は、なかった。
魔法少女のことをマミさんから聞いたときは、とても興奮して、憧れた。
でもキュゥべえの話を聞いた途端、得体の知れない恐怖に襲われた。
またマミさんと話をしてなんとか勇気を取り戻せたけれど。
さやかちゃんの姿を見て、こうしてまた萎縮してしまっている。
あっちにいったりこっちにいったり。
本当、弱いなあと、情けなくって。
「無理もないことだ」
「キュゥべえ」
「美樹さやかはちゃんと心を決め切る前に、反射的に契約を交わしたからね」
「それが分かっていて、あなたはどうして」
「あの場面で彼女の選択を責められる者はいないよ。そうしなければみんな死んでいたから」
どこからわたしの部屋に入ったのかは知らないけれど、そんなキュゥべえの吐いた言葉は、きっと事実で。
さやかちゃんはあそこにいた全員の命と引き換えに、魔法少女という存在になった。
また助けられた。
今度はマミさんだけじゃなく、さやかちゃんにも。
いてもたってもいられず、部屋着を脱ぎ捨てて着替えの用意をするけれど。
「やめておいたほうがいい」
「どうして」
「さやかは今、君に強く焦がれている。異常な力を持ったりしないただの一般人である君にね」
「っ、それは」
「今君が行っても、火に油を注ぐだけさ」
「じゃあ、わたしは、どうしたら」
「さて、それは僕に答えの出せるものではないね、ただ」
「ただ?」
「君がさやかの所へ行かなくとも、状況を窺う事くらいは出来る」
「よーホム、元気にしてるか」
「にゃあああああ」
「紅茶、入ったわよ」
「あ、ありがとうございます」
マミさんとさやかちゃんの声が聞こえる。
結局わたしはキュゥべえに頼んで、マミさんと感覚を繋げてもらった。
覗き見のような形で、いい気はしないけれど。
それくらいには心配だった。
二人はただ座って、紅茶を飲んでいる。
マミさんもさやかちゃんも言葉を発する気配はない。
ホムも静かにさやかちゃんの膝の上で縮こまっている。
重い沈黙が部屋を満たしている。
たっぷりと時間を使って、マミさんが紅茶を飲み干して。
口を開いた。
「治っていたの?」
「はい、しばらくは検査と様子見らしいですけど、特に問題なければ退院できるみたいです」
「そう」
「…………手、差し出してくれたんです」
「あなたの癒した手を」
「でもあたし、握り返せませんでした」
「それは」
「握り潰してしまいそうで」
わたしの声や挙動は、あっちには伝わらない。
だからわたしの息を呑んだ声は聞こえなくて、それはとても幸いだった。
「わかってます、この力はちゃんと扱えればすごく素敵なものだって」
「マミさんみたいに、色んな人を救えるって」
「でもあたし、怖いんです。怖くてどうしようもなくて動けなくて考えられなくて」
「この力で誰かを傷付けちゃうのが、怖いんです」
「弱いんです」
「マミさん、あたし、あたしどうしたら強くなれますか」
マミさんはしばし黙り込んで。
でも沈黙の中で言葉を選んで、それに返事を。
「私だって、強くなんかないよ」
「誰かの前でいい格好をしようとしているだけで、心の中では怯えてばっかり」
「今日だって死にかけてあなたに助けられて、きっと布団に入ったら震えが止まらなくて眠れない」
「でもね」
「それでも戦い続けるのは、魔法少女になった事を後悔したくないから」
「願いを叶えて、私は幸せになれたと、信じたいから」
顔は下を向いていて。
でも、どちらが合図をしたのかは分からないけれど、自然と視線が交差する。
さやかちゃんは泣いていた。
さやかちゃんの瞳に映るマミさんもまた、泣いていた。
「あたしも、後悔したくない、です」
「うん」
「これから、よろしくお願いします、先輩」
「うん」
(マミさん、ありがとうございました)
(美樹さんのことはしばらく任せて。あの子、私の命の恩人になったし)
(はい、よろしくお願いします)
そう念じて、通信を打ち切った。
わたしの出る幕は、本格的になさそうだったから。
さやかちゃんはこれで、魔法少女として戦っていく事になるのだろう。
その命を賭して。
とても不安だった。
ベテランと言われるだけのマミさんですら、時にはああやって死に掛けてしまうのに。
でも今の私には、どれだけさやかちゃんが窮地に陥っても、祈る事しかできないのだろう。
ただの人間だから。
「君も魔法少女になれば、美樹さやかをすぐ隣で助けてあげられるけれどね」
「うん、それにマミさんとも、一緒に戦えるんだよね」
「魔法少女の共闘というのは結構珍しいんだけどね。グリーフシードの奪い合いになることもあるし」
「そんなことって、あるの」
「十分考えられるよ。グリーフシードでソウルジェムを浄化できなければ、君たちは力を振るえなくなるから」
「そんな、なんで魔女でもないのに……」
「人間の性とはそういうものさ、幸い、君たちにその心配はないだろうけど」
「そんなこと、絶対にしないもん」
わたしも魔法少女になったら。
わたしとさやかちゃん、マミさん、三人がかりで魔女と戦っていけることになる。
とても危険であることに変わりはないだろうけど、それでも危険はきっと格段に減るだろう。
ただあとは、わたしが踏み出せるかどうか、それだけ。
さやかちゃんは踏み出した。
じゃあ、わたしは?
布団にくるまって、熱を体の底から感じながら、少しずつ眠りに落ちて行く。
頭の中で思考が止まる事はない。
その対象は願い事について。
わたしの記憶から消えた何か。
あなたを、わたしは、思い出せるかもしれないよ。
でも。
わたしはどうして、忘れちゃったの?
眠い目を擦りながらいつもの集合場所へ歩いていく。
その足取りは少しばかり重い。
心配でたまらなかった、けれど。
「おっすまどか、昨日は心配かけてすまんかったね」
「さやかちゃん、もう大丈夫なの?」
「うん全然平気だよ! これからはマミさんと二人で見滝原の街をバンバン守って行っちゃいますよー」
「お二人とも、一体何の話をしてるんですの?」
「んふふ、二人、いやもう一人加えて三人の秘密のお話だよ」
「ふ、不潔です……」
「仁美ちゃん、変な事考えないで……」
翌朝会ったさやかちゃんは、いつも通りだった。
様子がおかしかったり、目元におかしなクマがあったりするわけでもなく。
それだけでわたしの心は少し軽くなった。
「今日の一限なんだっけ?」
「数学だったと思いますわ」
「げーしょっぱなから……っていうか宿題出てたじゃん手をつけてすらいない!」
「あはは、じゃあちょっと急いで学校行かないとね」
「うむ、書き写す時間が欲しいのう」
「ご自分でおやりになった方がいいと思いますわ」
そんな他愛もない話をしながら、いつもの日常を過ごしていく。
それはあまりに平和で、まるで昨日までの事件が夢か何かであるようだった。
「ふああ終わったー」
「さやかちゃん、寝てただけ……」
「いやっははは、なかなか昨晩は寝れませんで」
終業を示すチャイムが鳴り響いた所で、ずっと眠っていたさやかちゃんが目を覚まし、大きく伸びをした。
寝れなかったというのは、やはり昨日のことなのだろうか。
朝見た感じではそんなことはなかったのに、と不思議に思い、怪しまれない程度に顔を覗き込んでみる。
すると目元には、うっすらと粉が流れたような跡があった。
つまるところ、そういうことらしい。
なんとか顔には出さなかったが、それも仕方ないと言うか、当たり前のことなのだろう。
こうして元気に振舞っていることも、すごいことなのだから。
「さって、あたしは行かないと」
「珍しいですわね、どちらに行かれるんですか?」
「んーちょっと年上の先輩が出来てね、その人と街に遊びに行くのだよ」
「ま、まあ、まどかさんだけではなく年上の方まで」
「仁美ちゃーん違うからね……」
マミさんと一緒に街のパトロール、ということだろう。
魔法少女になったさやかちゃんは今から、戦う相手を探して街を歩き回るのだろう。
分かっていた事だけれどもやっぱり、つらくて。
「美樹さん、いるかしら?」
「あーマミさん、今行きます!」
そしてそのマミさんが顔を出して、わたしと仁美ちゃんに軽く挨拶をして、さやかちゃんを連れて行って。
さやかちゃんはまた明日ねーと言い残して、歩き去っていった。
わたしはその背中を見送る。
ただがんばってと、聞こえないような大きさで呟く事くらいしかできなかった。
「まどかさんは、この後は?」
「わたしはリハビリがあるから、病院に行かないといけないかな」
「それならばお付き合いします。私も病院に用がありますし、一人で歩かせるのはまだ不安ですわ」
「うん、ありがとう」
「さっきの方、いつかお会いしましたわ」
「わたしが交通事故に遭った時、助けてくれた人だよ」
「紅茶を頂きました、いつかちゃんとお礼をしなければと思っていたのですが」
「うん、ちゃんと紹介するよ」
「よろしくお願いします。それにしても、まどかさんもかなり歩けるようになって、何よりですね」
「人間ってすごいなーって思う」
「そうですわね、本当に」
病院へと歩く道のりは、あまり苦ではなくなっていた。
松葉杖を使い、少しおぼつかない足取りではあるけれど、ちゃんと自分の力で前に進める。
素直に嬉しかった。
春の風はまだ少し冷たい。
だけど寒いと感じない程度には温まっていて。
すぐ隣を通り抜けていく車にも、恐怖はあまり覚えなくなっていた。
「そういえば、仁美ちゃんは病院に用があるんだよね」
「そうですね、私用ですが」
「どうしたの? ケガしたとかじゃ、ないよね」
「ふふ、ご心配ありがとうございます。もっと嬉しい事ですわ」
「嬉しい事?」
「実際の所、まどかさんはご存知かもしれません」
そう前置いて。
確かにわたしのよく知る所の事実を口にする。
「上条恭介さんの腕が、治ったそうなんです」
「うん、さやかちゃんから聞いたよ」
「何度かお見舞いに上がったのですが、その時はとても治らないだろうと言われていたんです」
「一緒にリハビリしたりしてたんだけど、つらそうだった」
「それが治ってしまったのですから、奇跡という物もあるのかもしれませんわね」
「…………そう、だね」
上条くんがどれだけ苦悩していたか、その片鱗はわたしも知っている。
最も近しく親しいはずのさやかちゃんに対して八つ当たりをしてしまうくらいのものであると。
どうか治って欲しいと思っていた。
そしてその願いは現実に叶えられた。
さやかちゃんが魔法少女になるという代償を払って。
快癒の報せは喜べるものであるはずなのに、今のわたしには、とてもそうはいかなかった。
「まどかさん、どうかされましたか?」
「あはは、ちょっと疲れちゃって」
「これからリハビリでしたよね? 無茶はいけませんわ、少し休みましょう」
「ううん、これからリハビリなんだから、これくらいでへこたれてられないよ。がんばる」
もしかしたら今頃は、さやかちゃんも命懸けで戦っているかもしれないから。
わたしが弱音を吐く訳にはいかないよね。
「上条くん、良かったよ、本当に」
「おめでとうございます」
「ありがとう、二人とも。治らないと宣告されていたから、本当に嬉しいよ」
上条くんとは、奇しくもリハビリをしていた部屋で会った。
もう必要はないと分かっているらしいのだが、つい習慣で来てしまったそうだ。
それだけの時間をここで過ごしたんだろう。
愛おしそうに機器やら何やらを撫でていた。
「鹿目さんや、さやかのおかげかな。諦めないでここに通えたから」
「わたしなんて、何もしてないよ?」
「そんなことはありませんわ」
「志筑さん」
「私がお見舞いに来た時、まどかさんのことをとても羨ましそうに話していらして」
「わたしのことを?」
「まず助からないようなケガをしたのに、生き延びて、しかも歩けるようになるまで努力した凄い人って」
「志筑さんってば」
「ふふ、申し訳ありません」
からからと笑う妙に仲の良さそうな二人。
まあ上条くんは、誰に対してもこんな感じではあるのだけど。
ただその横顔は本当に幸せそうで、邪魔をすることはできなかった。
「よいしょ」
「あ、僕も付き合うよ。せっかく来たんだしね」
「うん、それがいいと思う」
「では私は、お飲み物でも取ってきますわ」
「助かるよ、ありがとう」
「ねえ、上条くん」
「何だい?」
「お願いがあるんだ」
仁美ちゃんは席を外している。
話をできるのは、このタイミングを除いて他になかった。
わたしが口を出すのはお門違いかもしれないけど、何もしないでいるのは、イヤだった。
「さやかちゃんのこと、許してあげて欲しいんだ」
「……ああ、あのことだね」
「さやかちゃん、不器用だけど、いつも必死なだけだから」
「大丈夫だよ」
「え?」
「あれは僕の八つ当たりだ。さやかに悪気がないことくらいは、僕だって分かってる」
「じゃあ」
「ちゃんと謝るよ。だって、彼女は僕の大切な」
廊下に足音が聞こえる。
横で手を曲げ伸ばしする上条くんに、気付いている気配はない。
「幼馴染だからね」
そして仁美ちゃんが部屋に入ってきて、飲み物を渡してくれて。
その場はお開きになった。
それ以上を追求する事は、わたしにはできなかった。
【中編】に続く。
思いっきり吹いたわwww