関連
渋谷凛「愛は夢の中に」【前編】

270 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:08:39.07 /6nApN/no 245/568


・・・・・・

例年になく多い台風は、災害の中心地に選ばれると云う不運に見舞われさえしなければ、空をモップ掛けして去ってゆく掃除機なのだろう。

台風一過の東京は雲一つない快晴で、嵐の運んできた南風で気温は高いものの、湿度は低く過ごしやすい。

東日本に襲来した24号は各地の気象記録を塗り替えて、俊足で駆け抜けていった。

東京への到達は深夜で生活時間帯からは外れたが、昨夜は早いうちから公共交通の計画運休が実施され、泊りがけのロケが中止に追い込まれてしまった。

ゆえに丸一日たっぷりと棚から牡丹餅の休日である。

それでいて天気が良いのだから、ご機嫌麗しきこと甚だしいのは当然。

電車のドアが開けば、金属に遮られていた視界の拡がりと共に世界が輝いて見えるのだ。

271 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:10:35.84 /6nApN/no 246/568



「――え? 日帰りでツーリング?」

『そう、今日明日の収録がバラシになっちゃってさ、もし凛の時間があるならどうかなと思って。この分なら今夜中に天気回復しそうだし』

栗栖の声は、電波状態がやや悪いのか、少しくぐもって聞こえた。会話の向こう側から、風に揺らされた電線の鳴く音がしばしば聞こえてくる。

曰く、栗栖の方は東海方面での地方ロケがあったそうで、移動日程などを考慮すると根幹のリスケとなったらしい。

テレビをちらり見遣ると今まさに台風は愛知と岐阜にかけて我が物顔で闊歩している最中のようで、名古屋発の中継では大規模停電の情報などが洪水の如く流れてくる。

272 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:11:16.74 /6nApN/no 247/568

リスケは賢明の――と云うよりは当然の判断だ。

幸いか、夜が明けるまでには東北太平洋側へ抜け去る予測で、中継から天気予報へと画面が切り替わると、明日の天気は晴れマークがずらりと並んでいる。

「ちょうど私も泊りのロケがなくなったんだ。明日は久しぶりに何も予定の入らない日だよ」

凛の返答に『俺とほとんど同じ状況だな』と栗栖の声音が弾んだ。

「でも私、バイクなんて乗ったことないよ、もちろん免許だって。さっぱりわからないことだらけなんだけど……」

273 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:11:56.04 /6nApN/no 248/568

『そこは心配ないさ、タンデムだから凛は自転車と同じ感覚で大丈夫。丈夫な生地のロングパンツと、ヒールじゃなくてスニーカー系の靴を履いておいてくれればそれだけでいい』

何より、と軽く咳払いをする。

『ライダーの格好をしていれば二人で出歩いてもよもやアイドルと思われないし、走ってる最中なんて凝視されることもない。お忍びには最適なのさ』

「あぁ、なるほど。そうだね、ヘルメットも被るしね」

凛は自らがバイクに乗っているところを空想して頷いた。

二人で遊園地だとか温泉地などでは万一気付かれたときに到底言い訳できないだろう? と栗栖が茶化して云うので、凛は「たしかに」と相槌の苦笑をした。

どうやら、二人そろってのオフにできそうだ。

「うん、うん……わかった、じゃあ10時に――」

274 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:13:22.32 /6nApN/no 249/568



昨夜の会話を反芻すると、何故だか顔が綻んでしまう。

誤魔化しがてら、やや高くなった空を見上げて、集合場所に指定した駅舎前へ出る。

しんと停まっていた都営バスが、セルモーターの始動するソプラノに続いて重いエンジン音を歌いだした。

横目に歩く凛の背中にわずかな衝撃があり、何事かと振り向こうとすれば「失礼」と会釈を寄越しつつ閉まりかけた折り戸へサラリーマンが駆け込み、箱の中に消えていった。

275 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:14:10.08 /6nApN/no 250/568

エンジンの中で大きなビー玉でも転げ回っているのかと思えるほどゴロゴロ唸らせて走り去るそれを見遣り、ぶつかった相手がまさかアイドルだなんて想像だにしていないんだろうな、と柱に軽く寄り掛かる。

芸能人をやっていると認識が薄くなるきらいがあるが、世間の人は、自分が思っているほど他人など気に掛けていないのだ。

たとえそれが有名人であろうとも、変装をしていればただの有象無象と同じ。

その事実に、若干悔しい負けん気の思いもありつつ、どこか少しほっと安堵する気持ちもあって、凛は少しずれた白いハンチング帽の位置を手慰みにいじった。

276 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:14:58.95 /6nApN/no 251/568

ふと、駅前ロータリーに赤く鮮やかな二輪車が滑り込んでくるのが見えた。

サーキットで見かけるような、先端から中心部にかけて外殻で覆った造りの、シャープなシルエット。

凛の方を向いて片手を挙げるので、間違いなく待ち合わせの相手だ。

小走りで近寄ると、サイドスタンドを出して停め、ゆっくりと降りてくる。

体重から解放された車体が揺れ、VFRと書かれた銀色のエンブレムが太陽を反射して綺麗に光った。

277 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:15:57.20 /6nApN/no 252/568

栗栖がフルフェイスヘルメットの目元のシールドを上へ開ける。

「おはよう。ごめん、待ったか?」

「ううん、私も今ちょうど来たところだから」

使い古された定型句のやり取り。爆発すればいい。

凛は栗栖の足先から頭までまじまじと眺めた。

ライディングブーツやグローブ、ジャケット、そして何よりヘルメットという全身装備のせいで、栗栖だとは一見して判別できない。

278 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:17:15.65 /6nApN/no 253/568

「なんか、バイク乗る人ってみんな似た特殊な恰好だよね」

「車と違って生身を外に曝すわけだからね。
丈夫な長袖長ズボンは基本だし、身を守る装備をきちんと着ける真面目なライダーはどうしても見た目が似通ってくるもんさ」

「私……昨夜云われたパンツと靴以外は全然その辺を考えない服で来てるんだけど」

「それは問題ない。凛用の装備は俺が持ってきた。糠に漬けても抜かりないのが知多栗栖ってことよ」

ベキリの相棒の名口癖だよな――と云いながらバッグをごそごそ漁り、「はいこれ」とジャケットやグローブ、ヘルメットなどを寄越してくる。

肘当てに膝当て、髪の毛を纏めるヘアゴムまで用意がある。

279 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:18:03.81 /6nApN/no 254/568

伊達眼鏡や帽子を外し、代わりに頭部をすっぽり覆うヘルメットをかぶれば、中にはインカムがあって無線でスムーズに会話できる状態になっていた。

「準備良すぎなんだけど……これ、絶対に色々な女をバイクの後ろに乗せ慣れてるでしょ」

「云い掛かりだ! 凛を乗せたいなと思って準備したに決まってるだろう」

栗栖の必死の弁解に凛はジト目で応える。どう説明したものかあたふたするのをしばらく見て、「ふふっ、冗談だよ」と肩を揺らした。

説明の真偽のほどは果たして本人のみぞ知るところだが、仮にたとえ方便であったとしても、自らのために準備したと伝えられれば嬉しくなるのが女心と云うものだ。

ああ、この人は自分の時間を私のために使ってくれたんだ、と。

280 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:19:01.05 /6nApN/no 255/568

バイクのバックミラーを覗き込むと、そこにはすっかりライダー装備となった凛が映り込む。

栗栖と並べば、中身はまるで誰だかわからない、ただのペアツアラーだった。

「ホントこれ、お忍びには持ってこいだね。私が渋谷凛だなんて誰も思わないよ」

腕を組んで満足そうに頷く。

「ところで、今日はどこへ行くの? なんかとても速そうなバイクだけど」

赤い車体を撫でながら凛が問うた。

281 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:19:57.40 /6nApN/no 256/568

「今日は山も海も堪能できるところへ行こうかと思ってる。
コイツは見た目レーシーだけど実は二人で乗りやすいツアラーなんだ。サーキットだけじゃなくて色々なところへ行ける」

白バイにもよく使われてるから街中で見かける機会も多いと思う、と栗栖は付け加えた。

「ふぅん、山も海もなんて贅沢な欲張りコースだね。詳しい内容は聞かないでおくよ、楽しみにしてる」

任せとけ、と云って栗栖がVFRに跨った。

続いて凛が片側のタンデムステップに足を掛け、栗栖にレクチャーを受けつつするりと後席へ滑り乗る。

後ろに座る心得のいろはを教わってから、「よし、じゃあ行こうか」と云う栗栖に頷く。

頭の重心が高くなっているせいで、凛のヘルメットが勢い余って栗栖の背中を殴りつけた。

エンジンイグニッションの咆哮と二人の大きな笑いが混じり合い、それらを取り残すようなスムーズさでロータリーをするする抜け出てゆく。

282 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:21:26.17 /6nApN/no 257/568

そこには新しい世界が拡がっていた。

眼、耳、鼻、肌――凛の感覚器すべてにダイレクトな信号が送られてくる。

路の真ん中を一人で自在に飛んでいるような視点は、まるで自分が世界の支配者になったかの如き自由さを覚え――

身体を擦るほどの圧力を持つ風には、普段意識しない空気の威力と、排気ガスと云う人類の匂いを実感する。

車速に応じて変化するエンジンの音と振動は、じきに風切り音へとオーバーラップしてゆく。

太古より馬に乗って移動してきた我々人類の遺伝子に刻まれた歓喜の脳内麻薬が、ドバドバと凛の全身を沸騰させている。

283 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:22:01.37 /6nApN/no 258/568

しばらく交通量の多い街道を走ると、VFRは「第三京浜」と書かれたインターチェンジへの進入路へ機体を振った。

一気に幅員の拡大した道路と、それまでの比ではない速さで瞬く間に後方へ過ぎ去ってゆく景色は、これまでの人生で全く未知の経験だった。

緑色の標識に書かれた地名が、順々に馴染みのないものへと変化してゆく。

これまで自動車から何度となく見ているはずのそれらが、箱の中から外に出ただけでこれほどまでに別物へと変わるのか。

「栗栖……すごいね、これ」

凛はため息を吐きながら、惚れ惚れとした声音で呟いた。

284 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:23:39.56 /6nApN/no 259/568

「バイクは単なる移動手段なだけじゃなくて、乗ることそのものが楽しみだし、目的なんだよな」

インカムのややノイジーな無線越しの会話も車では味わえない。

凛を包むすべての環境が楽しみを演出していた。

やがてインターチェンジを降りると山中を抜ける坂の多い道となる。

田舎の懐かしい空気を感じる風景を軽快に流す頃には、凛はすっかり後席での体重移動を身に着けていた。

「やっぱアイドルやってるとバランス感覚が磨かれてるんだな」

栗栖が妙に感心して云う。

二人とも身体が資本ゆえ、万一のことを考えると無茶な走り方はできないが、それでも軽快なスロットルワークは操る者も同乗する者も楽しさを最大限に示す。

285 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:29:11.16 /6nApN/no 260/568

じきに目先の道路が上りから下り勾配へ切り替わるクレストに差し掛かった。

進むに従い、路面のアスファルトの向こうから、波面が顔を出す。

「あ、海!」

凛が風切り音に負けない強さで叫んだ。

つい先ほどまでトンネルとか斜面とか、緑に包まれた山の中を走っている光景だったのに、目の前に遙かなる大洋が見えるのだ。

「山も海も、って云ってたのはこれだったんだね」

「ご名答。ここからは海沿いを流すよ」

後席の反応に栗栖は満足気だ。スロットルを吹かして、改めてエンジンが艶めかしく啼く。

286 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:30:21.86 /6nApN/no 261/568

「Hey Siri, LMFAOのパーティロックアンセムをかけて」

凛は微かな潮の香りを鼻腔に感じながら、寄せては返す波を横目に見ながら、スマートフォンの音声コントロールを起動させた。

操縦する栗栖の代わりに、高揚するツーリングに相応しいBGMを見繕う臨時DJだ。

「おいおいおい俺をスピード違反させる気だな?」

パーティロックアンセムはEDMの代表的ナンバーと云える、鋭いビートの効いた縦ノリで楽しく昂れるトラックだ。

凛の選曲に栗栖が突っ込むので、「捕まっちゃダメだからね」と笑って云った。

ドリルの如く刺激的な電子音の激流が二人を包み込む。

287 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:30:56.87 /6nApN/no 262/568
288 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:34:35.84 /6nApN/no 263/568


――今夜パーティやっちゃうぜ Party rock is in the house tonight
――みんなでトベるぜ Everybody just have a good time
――お前らをキメさせてやるからよ And we gon' make you lose your mind
――みんなでイケるぜ Everybody just have a good time
――待ってるからよ、さあいくぜ! We just wanna see ya... Shake that!

289 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:35:09.78 /6nApN/no 264/568

リズムに沿ってバイクが左右にスラロームする。

「ちょっと、振りすぎでしょ、落ちたらどうするの」

そう抗議しつつ、凛の声もはしゃいでいた。

「そうだな、じゃあノるのは横じゃなくて縦にしよう」と首を縦にシェイクする。

一定周期でバイクのフロントフォークが伸び縮みして、凛も追従すると変化量が増大した。

もし機械が話せるなら、凛の代わりにサスペンションから不服申立の声が挙がるだろう。

もちろん性能の良さには折り紙つきだから、乗っている本人たちにしてみれば揺れまくっていることはあまりわからないはずだ。

290 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:37:20.56 /6nApN/no 265/568

VFRは、急峻な地形が海に没していく僅かな隙間を縫って敷設された道を進む。

三浦半島は海底が隆起して出来上がった陸地ゆえ、平坦な場所はあまりない。

海岸を走っていても、少し内陸へ入れば山中の様相を呈する。目まぐるしく景色が変わるツーリングルートだ。

しばらく続いた浜辺の景色はいつの間にか鳴りを潜め、斜面が険しさを増すのと比例して市街の空気からのどかな田舎へと変わりつつある。

そうこうしているうちに、エレクトロファンクとハウスを融合させた、重厚なリズムを纏った曲に切り替わった。

291 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:38:06.03 /6nApN/no 266/568
292 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:39:14.45 /6nApN/no 267/568

「お次のナンバーは早世してしまったご存知アヴィーチーのレイ・ミー・ダウン。
これは彼が躍進するきっかけとなったウェイク・ミー・アップと対になるフレーズでありながら、両曲ともに苦悩を描き歌ったものとして――」

凛がラジオで鍛えたMCテクでDJを気取る。

どこか懐かしくも新しく、どこか硬質でありながら柔らかさも兼ね備え、どこか物悲しくもテンションを上げずにはいられない、EDMの真骨頂が海沿いの景色と実にマッチする。

――暗闇に寝そべって Lay me down in darkness 君の見ているものを教えてくれよ Tell me what you see
――愛は心の拠り所なんだ Love is where the heart is
――あなたしか要らないって囁いてくれ Show me I'm the one, tell me I'm the one that you need

耳を撫でる曲を聴きながら大きな橋を渡れば、渡り鳥が羽休めをする場所はもうすぐだ。

293 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:44:45.01 /6nApN/no 268/568


===

目の前を、打ち寄せる波が白く解けて飛散し、鼻先を撫でる。

三浦半島の最先端、海が地層を浸食して出来上がった巨大な横穴の前に二人はいた。

近傍の駐車場から15分ほど歩く道のりは、潮風の影響で高く伸びられない植生の木々をくぐったり、或いは急に視界が開けて大海原が辺り一面を占めたりと、退屈しないハイキングだった。

穴の側には「馬の背洞門」と書かれた立て札が掲げられている。台風直後の平日だからか、周囲に他の人影はない。

「不思議だね、削ると云うより……くり抜くように開いてる」

内壁をぐるりと見回して凛が云った。「まったくだ」と栗栖も頷く。

294 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:45:38.28 /6nApN/no 269/568

「大正の頃までは、ここを船で通れたらしいな。関東大震災で地面が持ち上がったんだってさ」

これ絶対に当時は大人気のクルーズコースだったよなあ、と今では実現できないことへの若干の羨望を込めて笑う。

「栗栖はよくこんな場所知ってたね」

地方ロケなどでそれなりに全国行脚してきた凛は、それでも尚まだまだ知らない場所がたくさんあるのだと改めて実感する。

「まあツーリングスポットとしてバイク乗りの間では結構メジャーだからね、俺も受け売りばかりだよ」

自らの手柄とせず、素直に認める姿勢に凛は好感を持った。

295 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:46:22.90 /6nApN/no 270/568

「私は、そう云ったメジャースポットすらよく知らない状態だからね。これからも色々と教えてくれる? 連れてってくれれば尚良しだね」

「もちろんさ。これからも二人で色んなところに行きたいと思ってる」

凛はリアクションをせず、高く砕ける遠くの波を静かに見遣った。

栗栖も同じ方向を眺め、しばしゆったりと無言の時間が過ぎる。

強弱と緩急をつける潮騒、海鳥の鳴き声、南風が梢を揺らす音。

そう云えば最近意識することが少なかったかもしれない。世界はこんなにも音に満ち溢れていたことを。

296 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:47:43.28 /6nApN/no 271/568

「――もし凛がOKなら、の話だけど」

無言の時間を終わらせてしまうのが少し勿体ないと思うような声音で、栗栖が遠慮がちに口を開く。

「波が長い時間をかけてこの自然を作り出したように、俺も凛の心を少しずつでも開けようとしていいかな」

「ふふっ、その許可を乞う必要はないんじゃない?」

2回肩を揺らしてから、凛は風に揺れる髪を右手で掻き上げて栗栖の方を向いた。

「栗栖はもう、私にたくさんの新しい世界を教えてくれてる。私も、もっと知りたいと思うようになってしまってる」

297 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:48:17.28 /6nApN/no 272/568

視線を交わらせながら、慎重に一語一語を選んで続ける。

「正直ね、私はこの感情の正体を薄々解ってはいるんだ。
でも認めちゃダメだって、一度認めたらきっと歯止めが利かなくなるって、そう思って敢えて有耶無耶にしてる」

思春期に芸能界へ飛び込んでから、P以外に初めて身近な、そして馬の合う異性が現れた。

恋愛らしい恋愛をしてこなかった彼女にとって、この心地よい暖かさは、あたかもヘロインの如き誘惑に等しいはずだ。

トップアイドルとしてのプロ意識が辛うじて制止しているだけだから、一度そのタガを外してしまったら、決壊するのは自明。

「どうしよう、栗栖。私、どうしたらいい?」

「凛……」

298 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:48:56.89 /6nApN/no 273/568

感情の処し方がわからず困惑した表情を浮かべる凛の頬に、栗栖は手を添えた。

顔と顔がゆっくり距離を縮める。

たっぷり10秒ほど時間をかけて、もう、いいかな……と云う脳の白旗に抗えず、凛は瞼を閉じた。

互いの息遣いがはっきりわかるほどに近づく。

凛は、背徳のあまり地球の重力がぐちゃぐちゃになったような、空きっ腹にブランデーを流し込んだような酩酊感を覚え、受け容れる準備を整えた。

299 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:50:41.75 /6nApN/no 274/568

その瞬間、栗栖の胸ポケットから大きな着信音が響く。

鼓膜を突き刺すそれに、たまらず二人とも目を見開いて仰け反った。

お互いを見てから、こほん、と栗栖が咳払いをして電話を取り、「はいはいはい、なんか用すか、田嶋さんじゃなかったら電波切るとこでしたよ」と律儀に苦情を申し立てた。

凛は自らの胸に手を当てて、大きく一息を吐く。

「危なかった……」

鼓動の早さのせいですぐ酸素が足りなくなるので、深い呼吸が続く。

田嶋の発話ボタンを押すのがあと2秒遅かったら、きっと口づけを交わしていた。

キスなんてしてはならないと判っているのに、内心どこかでそれを望んでいる――一体どうしたのだ、私の心は。

着信音さまさまだ、とほっと安堵して胸を撫で下ろす。

300 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:51:55.67 /6nApN/no 275/568

ところどころ漏れ聞こえてくる会話から、急遽仕事の呼び出しが掛かったようだ。

自分の心の状態も鑑みれば、今日のところはお開きにするのがよいだろう。

全身から力が抜けてしまった上に、冷や汗を強い潮風が拭うので堪らず「くしゅん!」とくしゃみをした。

会話している栗栖の様子を窺うと、だいぶ急いで戻る必要がありそうな印象を受ける。すぐ動けるように、凛は先行して身支度を整えた。

「……ごめん、田嶋さんからの連絡で、急にアポが入っちまったみたいだ。心惜しいけど、今日はもう帰ろうか」

「うん、様子を見てるとそんな感じがしてた。
もしなんだったら、私は三崎口の駅から電車で帰るよ。その方が栗栖も早く戻れるでしょ。私のことは気にしなくていいから」

凛の提案に栗栖は「すまない、恩に着る」と手を合わせ、また埋め合わせをする約束をして、二人は海に別れを告げた。

301 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:52:50.65 /6nApN/no 276/568


・・・・・・

三崎口を出た快特列車が、モーターとインバーターの唸りを伴って爆走している。路地裏の超特急と云う異名に違わぬ飛ばし方だ。

先ほど駅で化粧直しをしてからホームに停まっている車輛へ乗り込んでみたら、路線の末端地帯にも拘わらずほぼ席が埋まっている混雑度だった。

ここから都内まで比較的長く乗ることを考えて、銀座や日本橋辺りに用事がありそうな、淑やかな老婦人の隣へと静かに腰を下ろしてある。

横を窺うと、その人は走行の振動に誘われ、眠りの国へと旅立っていた。

302 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:53:55.88 /6nApN/no 277/568

ちらりと外を眺めても、車窓は住宅街の中をぐねぐねと抜ける一般的な都市近郊のもので、バイクからの景色とはまるで違う。

しかも快特と云う割には末端地帯は各駅に停車するので、その度に多くの乗客が乗り込んでくる。

凛はそれまでの夢心地から一気に現実世界へと引き戻されたように思えた。

寝てしまおうかとも思ったが、電車が思い切りスピードを出し急加減速をするせいでとてつもない爆音と揺れに見舞われ続けていて、到底眠れる状態ではない。

隣のご婦人は物凄い胆力をしているものだと凛は舌を巻いた。

303 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:54:47.23 /6nApN/no 278/568

ものの15分もすれば立ち客がだいぶ溢れ、すぐそばにはサラリーマンやママ友であろう人たちが立ってスマホをいじったりおしゃべりに興じたりしている。

気づかれないようにと帽子を目深に被り、隣人と同様に身体を小さくして目を瞑った。

視界の情報がシャットアウトされ、途端に先ほど触れられた頬の感触が甦る。

バイクで走っている間はずっと風が当たっていたはずなのに、栗栖の手は熱かった。男の人はみな体温が高いのだろうか。

手足の先の冷えと日々格闘している自分には羨ましい限りだと、心の中で嘆息する。

304 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:55:41.00 /6nApN/no 279/568

あの暖かさが頬から流し込まれた時、身体が動かなくなった。

離されないよう包帯でぐるぐる巻きにしていたいほど心地よくて、何も考えられなくなった。

今にしてみれば、あの温もりは悪魔的だったとさえ思える。

電話での中断がなければ、もう戻ってこられないところまで拉致されていたに違いない。

けれど……悪魔でもいい。蕩けさせてほしい。あの電話が怨めしい。

いやいや、自分はアイドルで、向こうもアイドルだ。色恋沙汰なんて赦される身ではない。もう一人の凛が脳内で諫める。

そんなことは判っているのだ。だからこそ未遂で終わってほっとしたのだ。

見くびらないで、と凛は頭の中で自分に吐き捨てた。

305 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:56:12.83 /6nApN/no 280/568

ただ――もし次回同じことが起きれば、アイドルの矜持だけで我慢できるかどうかは……正直に云って自信がない。

「ううん、違う……」

自信がないどころの話ではない。まず以て抗えないだろう。

甘い毒が全身に染み渡っていくのを、快感と共に享受することしか、きっと。

どうすればよいのだろう。

乃木公園で同様の自問をした際とは明らかに悩みの度合いが深くなっている。

いつしか電車は地下鉄に直通し、目を瞑らなくても周りは黒の世界と化していた。

306 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:58:08.22 /6nApN/no 281/568


大門駅で乗り換えて、麻布十番に戻ってきたのは15時を過ぎた頃だった。

三浦半島にいた時よりも明らかに汚れて重い空気を掻き分け、凛は喘ぐようにCGプロのエントランスを抜ける。

「あれっ? 凛。どうしたん、今日はオフじゃねえの」

やや遠くで聞き慣れた声がしたので振り返ると、つかさが凛を認めて寄ってきた。

「アタシは旭から帰ってきたところでさ」と笑うが、どうにも様子の芳しくない相棒の様子に気づく。

「……ひとまず第一課戻るか!」

ニヤリとした笑みを維持しつつ凛の肩を寄せて歩き出す。

しかし手の力は表情とはちぐはぐにとても柔らかかった。

307 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 22:59:22.57 /6nApN/no 282/568

「――で? 何か悩みか?」

エレベーターの扉が閉まるまで待ってから、操作盤の方を向いたままつかさが問うた。

笑みを剥がしたシリアスな顔が、鏡面のように磨かれたパネルへと映る。

「うん、まぁ……そこまで大層なものじゃないけどね」

「嘘が下手。もうちょっと捻れよ、見るからに重大インシデントの顔してる」

「えー……本当に?」

「マジもマジ、大マジよ」

凛はそれ以上答えられず、エレベーターを降りると廊下には二人の足音だけが響く。

ユニットの相棒には伝えた方がよいのか、ユニットの相棒だからこそ不確実な相談事はしない方が好ましいのか。

308 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 23:00:40.76 /6nApN/no 283/568

延々と答えを出せずに進んでいると、先を歩くつかさが「これからアイツとミーティングの予定だったけど」と前置きをして、第一課のドアの前で振り向いた。

「この時間、譲るよ。アイツにはドキュメントをSlackで送るようにだけ言伝を頼むわ」

「え?」

「相談、しに来たんだろ?」

Pのデスクの方向を指差してウインクを投げてくる。

「もし気分転換になるなら、アタシはこれからダンスの自主トレすっから、終わったら来ていいよ?」

「うん、ありがと。そうだね、もしかしたら後で顔を出すかも」

互いに軽く手を挙げて別れる。凛は、意を決してドアを開けた。

309 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 23:01:51.83 /6nApN/no 284/568

タイミングよく人が出払っている静けさの中で、OAフロアの上を歩く微かな足音が、凛自身の耳には奇妙なほど大きく聞こえる気がした。

「あれっ? 凛。どうした、今日は久しぶりの完全オフだったのに」

Pが凛に気づいて、つかさと同じように疑問を寄越してきた。

担当プロデューサーとアイドル同士、長く一緒にいると似てくるのかもしれない。

「うん。ちょっと相談したいことがあって」

「天下の凛がそんなこと云ってくるなんて珍しいな」

相好を崩すPにつかさから託された伝言をこなしつつ、周りを見て、改めて誰もいないことを確認する。

何気ない行動でも、人払いが必要な内容であることをPは察知した。

おそらく、CGプロ始まって以来の、極めて難しい舵取りが必要になる未来を凛は予告するのだろう、と。

310 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 23:02:37.35 /6nApN/no 285/568

凛は隣のデスクから事務椅子をごろごろと転がしてPの前に据え、「どんな風に云えばいいのか難しいんだけどさ」と腰を下ろした。

一旦眼を瞑って、息を吐く。

「ちょっと自分の手に余ることがあって」

瞼を上げると、Pの視線が強くしっかりと凛の虹彩を射抜いていた。

静かに次の言葉を待っている。変に二の句を促したり、或いは不要な相槌を打ったりしないところが、凛は好きだった。

311 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 23:04:14.84 /6nApN/no 286/568

「……知多栗栖さんのこと」

ようやく一言を絞り出して、再度逡巡する。

「本気で……好きになり始めちゃってる。自惚れでなければ――多分、向こうも」

一句ずつ、ゆっくりと、打ち明けた。

双方無言の刻が過ぎてゆくがPの視線は変わらない。

きっと怒られるのだろう。

そう思って凛は眼を少し伏せた。

312 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 23:05:20.43 /6nApN/no 287/568

「……知ってるよ」

何か云わなければ、と凛が紡ごうとしたところで、先に口を開いたのはPだった。

「え?」

「知ってるよ」

まさかの返答だった。驚きに目を見開いて視線を上げると、寂しそうな笑顔でもう一度「知ってる」と静かに云う。

色々と事情を聴取するでもないただの一言。

凛は、Pが全てを知っていたのだと、最初から最後までお見通しだったのだと悟った。

313 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 23:06:16.78 /6nApN/no 288/568

――プロデューサーは全部知っていて、その上で私を放っておいたんだ。

ただ箱庭の中で生かされているだけだった。

以前、私が目の前のこの異性に淡い思いを抱いた時分には、アイドルが大事だ、全国民の彼女でいろって激怒しながら阻止したくせに。

なるほど、つまり当事者でさえなければ、プロデューサーから見た私はその程度の存在なのか。

314 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 23:06:53.42 /6nApN/no 289/568

凛は、自らの心にピシッと小さく、しかし鋭い音で割れ目が入った音を自覚した。

無性に哀しくなって、そして腹が立ってきた。

「……やっぱり何でもない。御免、忘れて」

凛は目を閉じてやおら強く云い放ち、会話を打ち切って席を立った。

315 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/07/31 23:07:40.44 /6nApN/no 290/568

会社を出て、身を炙る憤りに任せながらスマートフォンの画面を叩くように文字を打ち込む。

――終わったら連絡して。

相手は、自らを必要としてくれる彼。

いつもと様子の違うメッセージに、栗栖は何かを感じ取ったのだろう。休憩の合間にすぐ折り返しを掛けてきた。

『もしもし、凛? どうした?』

やや心配そうに訊ねてくる声に、凛はすっと息を大きく吸う。

「栗栖。全部、私の全部をあげる。だから私を満たして」

317 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/01 23:37:22.88 BuAwdmqeo 291/568


・・・・・・

眼下で白や赤の光の列が連なって、それぞれが一本の糸のようになっている。

遠くへ向かう方の車線は、テールランプの流れがまるで血液みたいだと思った。

地上21階のこの部屋は、窓側の壁一面が足元から天井までガラス張りで、カーテン以外に遮るものがなにもない。

さりとてこれほどの高さともなれば怖さは逆に感じなかった。

人間が最も恐怖する高さは10~20メートルあたりなのだそうで、地上80メートルのここなら、感想は「高いなあ」で済む。

夜の暗い時間帯なら猶のことだ。

318 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/01 23:38:12.16 BuAwdmqeo 292/568

外からの人工光で、窓際にシルエットが浮かぶ。

女性的な曲線のプロポーションがはっきりとした魅力を纏っている。

凝視しなくとも、放たれる艶めかしさは圧倒的で、シルクのように滑らかなこそばゆさを与えるのだった。

ぼうっと夜景を眺める凛の肩に、そっと手が添えられた。

左横に立つ人物を見遣ると、一緒に眼下へ視線を送っている。

319 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/01 23:39:28.81 BuAwdmqeo 293/568

「不思議だね」

凛がつと呟くと、「ん?」と云う目線で続きを問うてきた。もう一度外を眺める。

「直接は見えないけど、今こうやって私の視界に入るエリアだけでも100万を下らない数の人間がいるんだよ」

地上を照らしている明かりの許には、それぞれの人の営みが広がっているはずだ。

もっと視点の標高を上げて日本なら1億2000万、更には世界全体では75億。

「そんなおびただしい数の人類から見れば、私一人程度なんて、どれほど矮小な存在だろう」

320 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/01 23:40:18.30 BuAwdmqeo 294/568

隣の肩に頭を預け、がっしりした腰に腕を回しながら、凛は自嘲のような息を大きく吐いた。

上目遣いで顔を覗き込む。向こうも凛の顔を見下ろす。

「こんなちっぽけな私を求めてくれるのは、栗栖だけだよ」

凛はカーテンを右手で閉じて、その流れで栗栖と正対し、両腕を肩に回す。

「広い世界を見るのは終わり。今は貴方と私、二人だけの場所。田嶋さんの電話で途切れた続き、して」

「いいんだな?」

栗栖が凛の目を覗き込んで、最後の確認とばかりに尋ねた。

「うん……いいよ」

頷くと、栗栖がそっと、凛の後頭部に手を添えた。それを合図に、凛は目を閉じる。

321 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/01 23:42:42.12 BuAwdmqeo 295/568

ここは方舟。海辺の時のような環境音は何も聞こえない。

聞こえるのはそれぞれの息遣いだけ。

ゆっくりと、柔らかい唇が触れ合う。ついばむように、軽く、優しく。

数度感触を確かめたのち、強く押し付け合った。

一糸纏わぬ凛の背中を栗栖の掌が撫でる。

肩甲骨に沿って指を這わせると、くすぐったい快感がじわり滲み出て、凛は微かに身をよじった。口づけをしたまま、悩ましい息声が漏れ出る。

その緩んだ瞬間を栗栖は逃さなかった。

舌が唇を掻き分け侵入し、不意のことに凛は身体を固くする。

意思を持った別の生物のように口内を蹂躙されるうち、凛もやられっ放しで済ませるものかと、舌を動かして反撃に出た。

322 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/01 23:43:12.58 BuAwdmqeo 296/568

柔らかいような、硬いような。弾力で押し返してくるような、抱擁で吸収するような。

絡みつく舌同士の相反する感触が連続的に変化し、そのどれもが脳へダイレクトに快感物質を注ぎ込み続ける。

酸素を求める息継ぎと、艶めかしく湿った水音だけが漆黒の世界に響く。

やがて空気の薄さに耐えられなくなって唇を離す。凛の瞳は潤んでいる。

「キスって、こんなに気持ちいいんだね……」

少し放心した風の蕩けた表情で、初めての口づけの、大人の味を反芻して凛は云った。

323 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/01 23:43:44.87 BuAwdmqeo 297/568

立ったまま、どちらからともなく抱擁を重ねる。幻ではない、実体がここにあるのだと確かめるために、強く。

「凛。君が欲しい」

「うん、私も。抱いて――栗栖」

お互いの耳元で囁き合い、凛はのりの利いたシーツにゆっくりと坐らせられる。

白い布とそれに生じる皺が、赤みの強い彼女の柔肌と婀娜たるコントラストを描いた。

324 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/01 23:44:41.53 BuAwdmqeo 298/568

栗栖が全身を愛おしそうにじっくり視るので、凛は胸部を隠して顔を逸らした。

「少し、恥ずかしい」

「隠さなくていい。綺麗だ」

女の象徴を秘匿せむと組まれた腕をゆっくり解きほぐし、汗ばみながらも摩擦なく滑る肌を掌が撫でると、甘美な刺激に凛は身体を反応させた。

「私……初めてだから、優しくして……」

いよいよ散らすのだと現実味が強く膨れ上がるにつれ、羞恥心から栗栖に背を向けた。

頭部だけ少し見返らせて、か細い声と横目の視線で乞う。

325 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/01 23:45:38.29 BuAwdmqeo 299/568

15歳からアイドル一筋だった身にとり、女の一番大切なものを誰にも許すことなくこの歳まで維持してきたのは、一種の勲章だった。

しかし、それも今宵終わりを迎える。

栗栖に触られた部分が熱が帯びるのを、凛はマジックのようだと思った。

身体の中から熱くさせられ、蜜が自らの意思とは無関係に溢れ出てくるのは、神秘としか思えないのだ。

何らかの魔法を掛けられてこのようになっているのだと。

欲しい。この人が欲しい。

いつしか凛は、遺伝子に刻まれた未知の欲求を抱いていることに気づいた。

覆い被さる男を濡れた瞳で見つめると、呼びかけに応じた先端が、ゆっくり一つに溶け合ってゆく。

326 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/01 23:46:20.87 BuAwdmqeo 300/568

凛は、悦びに打ち震えた。

その嬌声は高く、通りのよい張りと弾力に満ちていた。

声自身が、凛の柔肌と同じ肉感を持っていて、繋がり合った部分と共に快楽物質をお互いの脳へ注ぎ込む。

男の情動を燃え上がらせるその呪文が栗栖を衝き動かし、巡り巡って凛自身を狂わせる。

喘ぐのを抑えむと思えど、快感を求める本能が理性を拒絶するのだ。

唇を重ね、塞いでも、艶やかな声は漏れ出ることを止められない。

頂戴、もっと。欲しい、満たして欲しいの。

昂ぶりのスパイラル。お互いが上へ上へと昇り詰める。

二人は、二人だけの雲の上で何度も躍ねた。

たとえ一度達しようとも、果つる底なき熱が再び双方を焦がし合っては、へとへとに痙攣すらできなくなるまで休みなくずっと続いた。

327 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/01 23:47:39.24 BuAwdmqeo 301/568


===

カーテンの隙間から差し込む赤い陽光で、凛は微睡から現世に引き戻された。

半目のままゆっくり瞬くことしばし、寝返りを打って手を伸ばす。身体が、泥の中で溺れているかのように重い。

呻きながら、隣に臥している体躯を撫でて、存在を確かめた。

昨夜の交いが露と消える幻ではなかったことを確かめたかった。

328 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/01 23:49:04.35 BuAwdmqeo 302/568

陽光に照らされて、栗栖の栗色の髪が綺麗に染まっている。

幼少期に地毛のこの明るい色のせいでいじめられたから自らの髪があまり好きではないと、彼自身はかつて云ったことがあったが、傍で見る身からすれば美しくて好きだと思った。

「ん……起きなきゃ……」

今の状況が間違いなく現実であり夢ではないことを理解した凛は、うつ伏せの体勢から緩やかに身を起こした。

「痛ったた……」

最中はずっと脚を開け拡げたり四つん這いになったりしていたせいか、下肢の付け根や膝の皿が鈍痛を訴える。

329 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/01 23:49:51.86 BuAwdmqeo 303/568

下腹にはまだ異物が中に入ったままのような錯覚があるし、全身の肌は汗と体液が中途半端に乾き始めてベタベタした。

髪に触れると酷く絡まっていて、念入りなメンテナンスを要しそうだった。

一晩乱れただけでこうも容易く傷むのかと、初めてづくしの経験に新鮮な感覚を抱いた。

足を軽く引き摺って窓際へ寄り、カーテンを少し引く。

太陽は地平線から顔を出したばかりで、直視しても眩しさは然程でもない。

おどろおどろしいまでに血の色で朝焼けた空は、まるで自分の心を見透かし、映しているようだと思った。

330 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/01 23:51:40.10 BuAwdmqeo 304/568

意識の靄を取り去ろうと、バスルームへ入る。

鏡の中に佇む自分は、鎖骨や鳩尾、臀部に至るまで紅紫の痣が多数点在し、これらキスマークを見て改めてこの身が女になったことを実感した。

軽く目を瞑ると、つい数時間前までよがっていた自らの声が脳内に響き、腹の奥が疼いた。しばらくこの感覚は身体から抜けそうにない。

アルコールなど比較にならないほどに人を酔わせる劇薬。体内にLSDの工場が作られたようだ。

目を開けて床を見れば、今もまた、大腿から下が糸を引く洪水に塗れている。

331 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/01 23:52:18.22 BuAwdmqeo 305/568

『もう戻れないね』

何処―いずこ―からか声が聞こえた気がした。

慌てて顔を上げると、鏡の中に自分とよく似た裸の少女がいた。

自分が映っているのではなかった。

否、これは自分だ。15歳の凛が、23歳の凛を眺めているのだ。

身長や体型はほぼ変わらない。顔立ちだけが、仄かに幼さを感じさせる。

332 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/01 23:52:55.07 BuAwdmqeo 306/568

だが――その表情からは何を伝えたいのかは読み取れない。

褒めるでも誹るでもなかった。ただただ、淡々と一言だけ発したのだ。

「……そう、かもね。時間の針は戻せない。私は、もうそっちの私には戻れない」

独り言ち、かぶりを振って熱いシャワーの栓を捻った。

頭頂から手先足先へ向かって無垢な湯が流れてゆく。

蒸気が室内を満たし、鏡の中の少女は白闇へ埋もれ、やがて見えなくなった。

栗栖のマンションから第一女子寮へと戻る電車は、奇妙なほど空いていた。

333 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/01 23:55:11.33 BuAwdmqeo 307/568


・・・・・・

身体を許したとて、凛も栗栖もお互いに売れっ子だ。オフが重なるタイミングはそう都合よく頻繁には巡ってこない。

それでも、何とか予定を合わせて逢瀬を重ねたし、それが叶わなければツクヨミのレッスンがあった帰りに乃木公園で打ち合わせと云う体の邂逅で心を慰めた。

次第に凛は、乃木公園でも「口づけをして欲しい」と唇を差し出すようになった。

その都度、栗栖は困ったように笑って、丸めた台本で凛の頭をポンと叩く。むう、と凛がむくれるまでが1セットだった。

334 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/01 23:55:38.64 BuAwdmqeo 308/568

「ったく、ここでするわけにいかんでしょ」

「まあ、それは……判ってはいるけどさ。欲しいものは欲しいんだから仕方ないじゃない」

トップアイドルたる美しい女に「欲しい」とストレートで云われて嬉しくない男はいまいが、全てに於いて立場と云う人類の概念が恨めしい。

凛は自分自身で支離滅裂かつ重い面倒なことを云っているのは認識していた。

それでも、大脳新皮質とは別領域の、遺伝子に刻まれた“雌”が理性を押し退けるのだから困ったものだ。

335 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/01 23:56:42.07 BuAwdmqeo 309/568

無論、新皮質が活性化して理性が優勢となれば、元々理知的な彼女ゆえ自己嫌悪に陥る。

ついにPへ談判し、ツクヨミとのスムーズな連携と云う名目で第一女子寮を離れ、天王洲は京浜運河を臨むタワーマンションに居を移した。

Pは「わかった」とだけ頷いて、意外にも話を切り出した半月後には全て完了してしまう早さで処理が済んだ。

総務部への稟議なども必要だったろうに、と凛は驚いたが、元々寮へずっと入っていたのは防犯上の理由が大勢を占めていたので、街中のアパートと云うわけでもなくセキュリティのしっかりしたビルなら、さほど問題にはならなかった。

選定にあたっては、隣駅で交通至便となる文科放送やフジツボテレビからの、千川ちひろを通じた黒い便宜があったとも噂されるものの、真偽のほどは定かではない。

336 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/01 23:58:56.21 BuAwdmqeo 310/568

ともあれ、地下に駐車場が設けられていると云う住処は、栗栖の車で乃木坂スタジオを発ってそのまま誰とも顔を合わせずドアトゥドアを達せられる、媾曳―あいび―くにはおあつらえ向きの構造だった。

ここで忍び逢いをしないならば一体どこでするのかと云わむばかりに、凛は来訪をせがんだ。

運河の対岸が埠頭擁する純工業地帯であるのをよいことに、カーテンを開け放ち夜景を眺めながら窓際で立ったまま融け合うこともあった。

「トップアイドル渋谷凛の狂う姿を、下から誰かが双眼鏡で見ているかもな」

そう言葉で責められる度に、凛は身を捩りつつも眼球の奥で桃色の爆発を連続させ、白魚の如し細身の身体は躍ねながら仰け反った。

窓ガラスへ押し付け平面的に歪められた胸部が冷んやりと心地良く、却って接合部の熱さを際立たせることで昂ぶり燃え上がるのだ。

栗栖が多忙で中々来られない時には、逆に凛が栗栖宅へ顔を出すことも多く、余暇があれば食事を作ったりもした。

自分の料理を人に食べてもらうことがこんなにも幸福で喜ばしいのかと発見があった。
最近は、料理を得意とする第二課の五十嵐響子とつながりが出来て親しくなりつつある。

337 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/02 00:00:02.20 AHbf10HPo 311/568

栗栖と逢う度に、凛の身体には彼の印が積み重なってゆく。

“それ”を隠すように、彼女の衣装は露出を減らしていった。

『年齢相応の落ち着きを演出することで更なるステージアップを――』

芸能メディアなどは、凛が少しずつ変化してゆくのを新境地開拓だと称賛する。

概して保守的な芸能界だが、アイドルについては異端とも云える。変化・挑戦や新しい試みには好意的だし、リベラルなセクションなのだ。

CGプロが方便を突き通すには好都合だった。

338 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/02 00:00:40.79 AHbf10HPo 312/568

「皮肉なものだね」

テレビ出演を控える楽屋で凛の新曲リリースとファッションを特集した雑誌を読む本人が、複雑な笑みを添えて独り言つ。

ハイネックのノースリーブながら、七分袖にデザインされたメッシュのアウターを羽織り、腕先は肘丈の手袋で覆われている。
下半身もスラックスを使うことで、スタイリッシュながら肌は見えない。

今夜の生番組では、一般視聴者へ向けてテレビカメラを通した新しい魅力を引っ提げてのトップアイドルが普段通りに映るだろう。

その服の下に男の痕がいくつも刻み付けられているとも知らずに。

それでも、欺瞞でも虚構でもいいから『国民全員のための女―トップアイドル―』を演じ切るのが今の凛に与えられた役目であり責務。

ゆっくり、ゆっくり堕ちてゆく。

339 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/02 00:01:12.94 AHbf10HPo 313/568

不思議と、変質してゆく自分へ寂寥とした感情は抱かなかった。

きっと鏡の中にいたあの自分が、代わりに滂沱の泪で私の分まで涸らせたのだろう。

そう思いを馳せるうち、ノックが3回鳴る。

「渋谷さんお待たせしました、まもなくOAです」

「はい、向かいます」

番組のアシスタントディレクターが控室へ顔を出す瞬間までには、凛の表情は、しっかりとアイドルになっていた。

340 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/02 00:02:09.13 AHbf10HPo 314/568


ステージではUKでの最新トレンドを貪欲に取り入れたサウンドが放たれた。

ドラムステップと呼ばれる日本では聞き慣れないジャンルで、音作りも歌唱もダンスも手を抜かない、歌姫の貫録を電波に乗せる。

音の拡がりが豊潤なシンセパッド、引き締まった重低音、どこか遠くの世界を思わせるシーケンスフレーズ。

落ち着いた出で立ちとは正反対の激しい振り付けと玲瓏なステップが魅せるコントラスト。

ツクヨミやベキリでの活動とは別の、久しぶりに見せた凛のソロは待望されていて、リリースするや否やたちまちに席巻し紅白当確とまで云われるほどだった。

往年の古参ファンの一握りが、凛の瞳に翳が差しているような印象があると呟いても、SNSと云う電子の海の奔流に押し流され、誰も顧みなかった。

344 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/02 21:22:36.89 AHbf10HPo 315/568


・・・・・・

秋の番組改編シーズンは特番等が目白押しで、春と正月の次に忙しい時期だ。

凛や栗栖とて例外ではなく、ツアーだったりフェスだったりの本業も重なって中々逢えない日が続いている。

お互いの状況は理解しているのに、凛は寂しさのあまり「仕事の付き合いを早く切り上げて逢いに来て」と連絡してしまうこともしばしばあった。

その度に返される栗栖からの謝罪の電話で、正気に戻って「ごめん」と詫びるが、下腹の空虚な旱魃―かんばつ―は恵みの白雨を渇望して請いの叫びを上げ続ける。

自らの中の女々しさを呪っても、それで止められたら苦労はしない。

この感情をパージするためなら悪魔と契約してもよいとさえ思えた。

345 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/02 21:23:29.67 AHbf10HPo 316/568


その日は23時過ぎに凛は帰宅した。

手持無沙汰にテレビを点けると、大雪山の色づきが見事だとバラエティニュースが流れてくる。

ガラスの壁から眼下に広がる東京ベイエリアを眺めても、こちらは紅葉のコの字も見える気配はない。

「そう云えば少しは過ごしやすい気温になってはきたかな」

きっとそれも一瞬で、すぐに今度は寒い寒いと地球の気象に文句を垂れる日がくるのだろう。

こんな日和のうちにバルコニーで栗栖とゆっくり夜風に当たれればいいのに。

346 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/02 21:24:06.87 AHbf10HPo 317/568

凛は半ば諦めを抱きながら発話ボタンを押した。

呼び出し音が響く。
3回、4回、5回……今は出られないのかと観念して切ろうと思ったところで、7回目の音が途中で終わった。

『もしもし』

抑揚と声量を抑えた調子で栗栖が出た。後ろからはゴーゴーと騒音が聞こえてくる。

問えば、岐阜でのロケを終え、最終の新幹線で帰京している途中だと云う。なるほど、デッキへ出るまでに少々時間を要したわけだ。

347 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/02 21:25:29.36 AHbf10HPo 318/568

少しだけ会話に間が空く。相変わらずの騒音だけが耳を犯す。

『凛?』

「逢いたい」

ただその一言。凛はその4文字に全ての想いを乗せて送り込んだ。

また会話に間が空いた。今度は、栗栖が色々と思考を回している。

『……ああ。品川で俺だけ降りて向かう。タクシーじゃ運ちゃんにバレるかな。歩いて向かうから少し時間かかる。
そろそろ新横浜だから……日付が変わる頃に着けると思う』

「うん、ありがとう」

今日も逢えないかもしれない、そう不安に押し潰されそうだった凛の心は、一転、月光草の咲く丘のように静かに煌めいた。

348 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/02 21:26:01.72 AHbf10HPo 319/568

「ねえ、好きだよ」

『俺もだ』

恒例となった締めの言葉で通話を終え、ダイニングの椅子に座る。

改めて伝えるまでもない台詞を紡いでも、栗栖は律儀に応える。

面倒な女心にきちんと付き合ってくれることが凛は嬉しかった。

急に視界の彩度が上がったような気がした。

否、正確に云えば電話をするまでの彩度が、精神に連動してセピアのように低かったのだろう。窓から見える遠くの高層ビルに赤色灯が点滅している。

349 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/02 21:27:06.93 AHbf10HPo 320/568

新横浜に着いたかな。

新横浜を出たかな。

多摩川を渡っている頃かな。

栗栖の位置を勝手に予測しては、折に触れスマートフォンのロック画面に表示される時計を見るのだが、ちっとも針は進んでいなかった。

心が焦れる。1分1秒がこれほどまでに長く感じたことはかつてない。

350 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/02 21:28:23.22 AHbf10HPo 321/568

遂には、居ても立ってもいられず、終電車のぞみ64号の時刻を調べて、到着する頃合を見計らってマンション前の海岸通りまで出迎えに向かった。

東京モノレールの軌道と首都高速羽田線に挟まれながらも、幅員を広く確保された歩道のガードレールに腰掛けて待つと、信号を渡ってくる栗栖を視認する。

深夜ゆえの人影の少なさですぐに分かったが、例え人通りが多かったとしても凛は栗栖を見つけられただろう。

腕に飛びつきたい衝動に駆られつつも、はしたない女になるものかと、すんでのところで押し込んだ。

二人並んで、エントランスへと入ってゆく。

351 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/02 21:28:58.69 AHbf10HPo 322/568

居住階のエレベーターホールを抜け、ようやく到着しましたるは今夜の二人の愛の巣。

「おかえりなさい」

ドアを閉じ鍵を掛けた栗栖へ、先に靴を脱いだ凛が微笑みを向けた。「いらっしゃい」ではなく「おかえり」。

「ああ、ただいま」

「逢いたかった」

栗栖の下足を揃えるもそこそこに、待ち切れなかったとすぐ抱擁した。

胸板に顔を埋め、上を向いては唇を強く押し付け重ね合う。

砂漠のオアシスに辿り着けた凛は、それまでの渇きを癒すべく、たっぷり5分はキスを貪り合った。

352 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/02 21:29:47.86 AHbf10HPo 323/568

ようやく落ち着いて、リビングのソファへ腰を据える。

「忙しいのに来てくれてありがとう。本当に嬉しいんだ」

「問題ない、俺も逢いたかったから」

栗栖は優しく語り掛けた。

きっと長距離の移動で疲れているはずなのだが、それを表に出さないのは男のプライドだろうか。

353 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/02 21:30:35.73 AHbf10HPo 324/568

「これ、ロケのお土産。当日のうちに渡せてよかった」

と云って、栗栖は凛に桐箱を差し出した。蓋を開けると、刀匠の銘が刻まれた刃体が上品な輝きを放つ。

「わ、すごく綺麗……」

「関の包丁。国内どころか世界でも最高級レベルのものらしいぞ」

岐阜の関は刀で有名だ。イギリスのシェフィールド、ドイツのゾーリンゲンと共に世界三大刃物産地と呼ばれる。

凛はその美しさに息を呑んだ。宝石や貴金属とはまた別種の、機能美や造形美。包丁自身が「えへん」と胸を張っているようだ。

354 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/02 21:31:12.47 AHbf10HPo 325/568

ロケで忙しかったろうに、わざわざ時間を割いて凛のための土産を物色した事実がとてつもなく嬉しかった。

「ありがとう……これを使って、腕によりをかけて料理をもっと作るよ」

そう決意を新たにする瞳の輝きに栗栖は深く頷く。

「岐阜って普段全然ピンとこない地味っぷりだけど、いざ行ってみると案外面白いもんだな」

台所で包丁を収納した凛が、栗栖の感想を聞いてカウンター越しに「テレビやラジオでは到底OAできない暴言だね」と指摘するので、栗栖は両手を降参の如くそっと掲げて「これは失敬」と二人笑い合う。

この安寧、この平穏。久しぶりの感覚だった。

355 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/02 21:34:26.19 AHbf10HPo 326/568

どちらからともなく再び唇を求め、1日の汗を流さむと二人一緒に入ったバスルームで1度交接してから、シャワー上がりのビールをバルコニーの夜風に当たりながら味わう。

「今日はこれをしたくて連絡したんだ」とドイツ製の独特な形状の瓶を掲げて凛は破顔した。

すっきりとした強い苦味のビールが合う時期はもうそろそろ終わる。

じきに、室内で甘い小麦ビールやホットワインを傾けるようになるのだろう。冬が来る前に、栗栖と二人だけの夜風に当たっておきたかった。

「……急な誘いに応えてくれてありがとう」

大事な宝物を慈しむかの声音に、栗栖は柔らかに相好を崩して顎を引いた。

凛の美しい横顔を海からの風が撫で、長い髪が揺れている。

356 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/02 21:35:31.31 AHbf10HPo 327/568

「さ、お風呂上りにずっと外の風を当てるわけにもいかないよね。戻ろうか、栗栖」

満足気にゆっくり踵を返そうとすると、不意に後ろから包まれた。

「風で冷やされる以上の熱を発生させればいいだろ?」と耳元で囁かれながら、バスローブの衿先から右掌が侵入してくる。

「あ、ちょっと……あっ……」

柔らかな丘を揉みしだかれると、凛の身体はたちまち熱を帯びた。

頭部だけ振り向いて口づけを交わす。

唇とその向こうにある舌先、双丘の先端、そして絹のように滑らかなうなじ。この3箇所が凛のスイッチだ。

全てを同時に刺激されて、それだけで凛は軽く果てた。こうなったら、あとはもう止まらない。

間もなく、交合によって湿った皮膚を打つ規則的な音と艶やかな喘ぎが謌い出す。

357 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/02 21:36:17.90 AHbf10HPo 328/568

「ねえ、好き?」

……好きだよ。

「私のこと愛してる?」

……愛してる。

凛は、まぐわいの最中に自らの問いが肯定されると、それらがどんなに短い間隔であってもその都度仰け反り、全身を震わせ悩ましい嬌声と共に達した。

脳内麻薬に犯され、肉体も精神も快楽に飛んだ。

358 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/02 21:36:47.93 AHbf10HPo 329/568

湿った肌に貼り付いた自らの髪を乱暴に撥ね除けて、もっと、と求める。

「私の全てをあげる。だから、あなたの全てを頂戴!」

自らの何もかもを差し出したい。全てを捧げたい。

その感情の奥に、独占欲が潜んでいることを凛は知らなかった。

久方振りの情事は、逢えなかった分を取り返すかのように、場所を変え体位を変え攻守を変え、朝まで一睡もせず何度も営み続けられた。

家の至る所に、二人の体液で形成される染みが増えてゆく。

もはや栗栖以外の人間を招き入れることは難しい。

更に、更に堕ちてゆく。もう、凛には止められない。

359 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/02 21:37:42.93 AHbf10HPo 330/568


・・・・・・

セキュリティ対策と云うものは、効果の見極めが非常に難しい分野だと指摘されている。

対策が正常に効果を発揮している間は、何もトラブルが起きないからだ。

存在しないものに対して観測することはできない。

人間は、ゼロの概念を思考することはできても、ゼロを見ることは不可能なのだ。

観測できる状態とは即ち、正常に効果を発揮しておらず、綻びが生じ問題が顕在そして手遅れとなったことを示す。

保険と云う言葉に置き換えれば誰もが重要性を認識するのだが、それは金を払えば単純に済む話だからであって、こと行動を要する対策を常に施し続けるのは、人間には難しいのだろう。

転ばぬ先の杖。あまねく諺は先人の苦労の残滓と云うわけだ。

360 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/02 21:39:42.53 AHbf10HPo 331/568
361 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/02 21:40:12.92 AHbf10HPo 332/568


ラジオのスピーカーから重々しいゴシックメタルの楽曲が流れている。

――声を聞かせて 姿を見せて わたしを逃がして
――ねえ、鍵が壊れた 鳥籠の中ひとり ずっと

伴奏の暴力的な荒さとは裏腹に、透明感ある女の子のボーカルが硝子をモチーフとして歌い、異質のコントラストを彩る人気曲だ。

そのアイドルは年次としては凛の一年後輩で、他社ではあるが資本的には親戚とも云える養成校―スターライト学園―出身の“吸血鬼”だそうだ。

『設定』と云う野暮な言葉はさておき、表向きはそのように云われている。蘭子がシンパシーを感じているらしい。

362 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/02 21:41:22.53 AHbf10HPo 333/568

第一課、Pデスク近傍にあるソファは、会社始まって以来史上最大の暗いオーラが漂っていた。重いBGMに引っ張られたわけではない。

「もう、最悪」

凛は組んだ両手へ額を載せるように俯き、深い溜息を吐き出した。

ガラステーブルの上に、週刊誌のゲラ刷りが置かれている。

363 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/02 21:42:35.92 AHbf10HPo 334/568

――『トップアイドル同士の熱愛発覚か! 深夜の邂逅とお泊り会』

下品なまでに太いゴシック体で書かれた題字と、その下には深夜の海岸通りの歩道を二人並んでマンションへ消えてゆくさまを記録した、隠し撮りであろう白黒写真が見開きで載っている。

その解像度は非常に高く、バードウォッチングのように超望遠でスッパ抜いたものではなさそうだった。

どうやって撮ったのかと訝しめば、南隣が新聞社の敷地だったことを思い出す。

スポーツ紙はたとえスクープであっても芸能事務所に照会後でなければ載せない紳士的な取り扱いをするものだ。

しかし、だからと云って大衆週刊誌を刊行する同業他社とのパイプがないわけでは当然あるまい。

364 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/02 21:43:35.90 AHbf10HPo 335/568

迂闊であった。あのとき栗栖に一刻も早く逢いたいがため完全に失念していた。

初めてを捧げたことで、心に隙が出来ていたのかもしれない。

不幸中の幸いを挙げれば、腕を組まなかったことだ。

凛の嘆息に「ああそれは正解だったな。腕を組んでたら完全に言い訳できない」とPは答えた。

この惨事に比して不気味なほど冷静だ。

「プロデューサー、随分落ち着いてるじゃない。こんなこと――いや、私の所為だけどさ、こんなことが起きてるのに」

「まあ……な」

365 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/02 21:44:33.01 AHbf10HPo 336/568

既にこのような事態を見越して、田嶋ひいてはジョニーズとも話し合いを済ませてあったのだ。

むしろ、確度の高い情報は、ツーリングデートをした日、凛がCGプロへ到着せぬうちに先方から齎―もたら―されていた。田嶋の地獄耳は凛のくしゃみを捉えていた。

詳しい内容は情報を下ろしてもらえないが、交際が露見した場合の口裏は、とっくのとうに合わせてあるようだった。

「……なんで、何も云わないの」

根回しを済ませていたことへのありがたさと、その反面、自分の知らないところで工作が済まされていたことに対する不快感を綯い交ぜにして凛は問うた。

今回のスキャンダルはCGプロ始まって以来の大損失を計上するほどのものになるはずだ。

だのに、後処理を淡々と進めるだけで譴責すらされないことが不思議で仕方なかった。

366 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/02 21:45:41.76 AHbf10HPo 337/568

Pは返答の言葉を濁す。

ジョニーズとの交渉内容を赤裸々には答えられないと云う守秘義務の事情もありつつ、凛にあまり心配をかけたくない気持ちが強かったからだ。

なにより、凛のこれまでの犠牲に成り立つ功労を考えれば、やりたいことをやりたいようにさせたのはPひいては会社の判断だった。

その決裁の末に起きたことに対しては、会社が結果責任を負うのは当然であり、凛個人に帰すべきものではないのだ。

ただ、これを云えば凛が必要以上に自責の念に駆られるのは間違いない。

結果、Pは上手く伝えることができずに言葉を濁すしか手立てがないわけだ。

367 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/02 21:46:14.07 AHbf10HPo 338/568

「……やっぱいいよ、忘れて」

Pが答えに詰まっているのを見かねて云った。

凛は凛とて、エスパーではない者にP側の事情を汲み取るのは難しい。

自分の利用価値が落ちているから事務的な処理で済まされているのだろうと、穿った見方をしてしまうのだ。

利用価値の衰退――つまり、凛が損失を発生させても屋台骨が揺るがないほどに、他アイドルによる強固な収益構造が築き上げられていると云うこと。

単純な費用対効果を計算しただけの、血の通わない処理で済ませて問題ないと判断されるほどにまで、自らの地位が相対的に低下しているのだと、そう感じてしまう。

368 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/02 21:47:02.47 AHbf10HPo 339/568

渋谷凛、第3代シンデレラガール。だが、それがどうした。

凛が戴冠して以来、もう既に幾人もの新たなシンデレラガールが誕生しているのだ。

特に、6代目としてその頂へと登り詰めた高垣楓はとてつもないバックボーンを持っている。

更には、200人ほど所属しているアイドル一人々々に強固なファンがついており、積み重なれば売上は相当な規模になる。

凛への依存度は、黎明期よりは確実に多少なりとも下がっていた。

369 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/02 21:48:08.98 AHbf10HPo 340/568

お荷物は、淡々とする他ないんだね。

凛は、今後の方針が書かれた書類を、色のない顔で見ながら嘆息した。

――もうやめにしたいのに 終わりが怖くて
――またくりかえすの

相変わらずスピーカーはゴシックメタルをかき鳴らしていた。

371 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/03 23:32:17.74 m1PjjjcXo 341/568




・・・・・・・・・・・・


麻布十番を走る環状3号は、文京区の一部区間には環三通りの名が残るものの、著名な環七や環八と違ってあまり語られることはない。

歴史に翻弄され大正時代の青写真からはだいぶ乖離したが、外苑東通りのバイパスとして平成期に整備された道だ。

その経緯ゆえ幅員は広めだし、歩道もしっかり確保されていることもあって日常そこまで交通は集中しない。

しかしその日は赤羽橋を超えて芝公園まで延々と続く渋滞の起点になっていた。

第1車線を様々な車両が占拠し、交通容量が圧倒的に不足したからだ。

その違法駐車の大半はマスコミの車で、狙いはもちろん、芸能プロダクションのビルだった。

372 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/03 23:33:01.18 m1PjjjcXo 342/568

件―くだん―の標的、CGプロ11階の大会議室には臨時会見場が設置され、壁際にはずらりと並んだテレビカメラ、発表席にはチンアナゴの群生にも引けを取らない本数のマイク、会場の様子を全国へ伝えむとする記者は廊下にまで溢れている。

社でレッスンの予定だったアイドルは課内待機、事務方はおろかトレーナー陣まで場内整理に駆り出されており、全社が上を下への大騒ぎだ。

特に第二課に多い気弱なアイドルは、未知の状況に恐怖感を抱く子もいた。

「友人として仲良くさせて頂いています」

中央側に座る凛の口から、はっきりとした口調で発言が続いている。

彼女は何の味付けもしない言葉を紡ぐが、その実、内心では釈明の言葉がとても悔しい。

無論そんな感情は赦されない。徹底的に抑えつけて、あえて淡々と発表をこなしてゆく。

373 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/03 23:33:42.48 m1PjjjcXo 343/568

「お騒がせしておりますこと、お詫び申し上げます」

おびただしい量のフラッシュが焚かれる。網膜が焼かれ失明してしまうのではと感じるほどだった。

耐え切れず瞼を閉じ目を伏せると、その瞬間を狙って更に倍量の光線が照射された。

ああ、こうやって意思とは無関係の絵面が作られていくのか。

凛は眩しさの向こう側にあるバッシングの世界を垣間見た気がした。

きっと今撮られた映像はワイドショーで延々と繰り返し放映され、紙面媒体の写真には彼女が交際を認めたようなミスリードを誘うキャプションが付されるに違いない。

374 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/03 23:34:56.71 m1PjjjcXo 344/568

一通りの定型文を述べ終えると、ここからが本番だ。

取材記者たちが、まず最初に社名を名乗ってから、鋭い質問を次々に投げてくる。

――写真を拝見した印象を率直に述べれば、実際にお付き合いをされているのではないですか?

「いえ、あくまでTITANさんとは友人です。
お互いそれぞれのアイドル活動がある中でツクヨミも進めなければなりませんので、様々な事情によりどうしても夜通しの合宿のようなことがしばしば発生いたします」

375 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/03 23:35:31.96 m1PjjjcXo 345/568

――種々のご事情があるとのことですが、さすがに深夜の邂逅でその釈明は苦しいのでは。
或いは業務の一環だとすれば、かつてのタコ部屋・奴隷労働より酷い人道に外れた生活を強制されているようにも受け取れますが。

「すでに交通網の営業が終了する時間だったとは云え、自宅での打ち合わせをするのは軽率だったと反省しております。
またこれは自主的な勉強会であり、事務所等から指示や強要を受けたものではありません」

――肩を寄せ合い非常に仲睦まじく歩いているように見受けられますが。

「写真には入っていませんが、この手前側に橋脚がいくつも並んでいて、それを避けるのにTITANさんの方へ寄った瞬間を切り取られたのだと思います。
繰り返しますが、友人として、音楽仲間として仲良くさせて頂いています」

376 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/03 23:35:59.96 m1PjjjcXo 346/568

演じることは慣れている。

感情にないことを云うのは慣れている。

それでも今この時だけは、意思を自由に表現してはいけない身を呪った。

ジョニーズは云うまでもなく超大手。このようなスキャンダルは簡単に赦されるものではない。

どんなに黒に近いグレーであろうとも、ただの友人関係だと、これは白なのだと強弁しなければならない。

377 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/03 23:36:27.52 m1PjjjcXo 347/568

充分知っている。

知っているけれど。

悔しいよ、悔しい。

何よりも、凛は自分の力ではどうにもならないことが悔しかった。

四六時中浴びせかけられるフラッシュの白さを、忘れるものかと目と心に焼き付けることだけが、今の凛にできる精一杯の反骨だった。

378 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/03 23:38:09.22 m1PjjjcXo 348/568


凛のマンションが、許可車以外に進入が許されない構造の地下駐車場であることは救いだった。

多くの一般人が住んでいる場所なのだ、開閉式のバーで区切られたところにまで入ってくる不届き者は流石にいない。

仮にいたとしても、臨時に雇った警備員が即座に摘み出してくれる事実は、家にいるときだけ少しの安寧を与えてくれることを意味していた。

会見以降、日頃の通常のアイドル活動でも、インタビュー等で、本来消費者へ伝えるべきことからかけ離れたスキャンダルについての話ばかり掘られ、無念さが募った。

結局、新曲に込められた想いだとか、ツクヨミの展開の狙いだとか、そう云ったアイドルの本質よりも逢瀬の追及が大事か。

379 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/03 23:38:58.31 m1PjjjcXo 349/568

悔しさの度に、凛はスマートフォンを叩く。

「今すぐ来て、お願い」

そして栗栖と身体を重ねた。

無論、この一連の負担は凛だけでなく彼にも押し寄せているはずだ。発覚以後、二人の行為はただの処理にも思えるような側面を度々見せた。

それでも、繋がるだけでよかった。

今の凛にとって、セッ○スとはマリファナやヘロインに等しい存在。

もはやドラッグなしでは生きてゆけない。

380 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/03 23:40:07.61 m1PjjjcXo 350/568


どんどん爛れてゆく二人の生活は、予想に反してそれほど大きな騒ぎにはならなかった。

最初のスキャンダルの教訓を得て、徹底的な対策を施したからだ。

観測できないことは、存在しないに等しい。

どんなにお互いの身体を貪り合ったとしても、尻尾を掴まれなければ、世間的には問題は存在しないことになるのだ。

ジョニーズとCGプロ、男性アイドルそして女性アイドルの巨頭同士が本気で組めば――更にはツクヨミを協賛している961や315など各社の力も使えば――メディア対策はそこまで難くない。

週刊誌を連鎖的に賑わすかと思えたスクープは、燃料供給が断たれてじきに下火になっていった。

紅白の話題が出る頃には、もはや紙面の空白埋めに使われるための、ただの噂レベルの小記事が散発する程度になった。

381 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/03 23:41:48.45 m1PjjjcXo 351/568

けれども、それで目出度し目出度し――とは問屋が卸さないのが現実だ。

一般大衆の感情に拠る行動原理は、燃料如何に左右されるものではない。

間違いなく嫌がらせは増えた。

「あの醜聞でよく今年も紅白出られるもんだよな、楓さんに譲ればいいのにさあ」

「きっとNHKのお偉いどものハートをガッチリと股で掴んで離さないんだろ」

「ツクヨミだってまだ共同リーダーとかいうポストに留まってんでしょ? 厚顔にも程があるよねー」

街中での会話に耳を傾ければ、尊厳など存在しないとでも云うかの如し下卑た笑いが響く。

芸能人に限らず、得てして公人の人権は大衆から顧みられないものとはいえ――

「こりゃ到底本人の耳には入れられねーな」と街をたまたま歩いていたつかさはコートを締めなおして雑踏へ溶け込んでゆく。

382 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/03 23:42:43.52 m1PjjjcXo 352/568

ネット上では酷さがより深刻だった。

凛のファン、栗栖のファン、CGプロ派とジョニーズ派との代理戦争の様相を呈しているのだ。

やれ凛が栗栖を誘った売女なのだの、やれストイックな凛を栗栖が誑かしてつまみ食いをしたのだの、事実無根かつ荒唐無稽なつばぜり合いが繰り広げられる。

無論それぞれの派閥も一枚岩ではないので、友軍攻撃もしょっちゅうのこと。

24時間ひっきりなしに誰かが誰かを罵っている。

383 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/03 23:44:39.01 m1PjjjcXo 353/568

幕引きを図り鎮静化させるには、凛と栗栖を引責辞任のような形で消すのが手っ取り早いのだろうが、そうすると今度はアイドル業界全体の問題になるのが頭痛の種だ。

表向きは二人の間には何もないことになっている。どのような理屈をつけて引責させると云うのか。

特にジョニーズにとって栗栖を消すことは即ちSATURNの崩壊につながる。

ただでさえ八馬口の件があったのだ、泣きっ面に蜂の選択は絶対にしないはずだ。

では凛だけに被せて引導を渡す? それもCGプロは到底承服しまい。

凛のソロ活動のみならず、ベキリだってそれなりの利益を生んでいるし、何よりもシンデレラガール経験者にそのような処分を下しては看板に致命的な傷がつく。

384 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/03 23:46:23.48 m1PjjjcXo 354/568

結局のところ、ここで退いたら、ツクヨミ含め日本芸能界のこれまでの奮闘全てが瓦解してしまう。

どんなに罵られようと誹られようと、退くことだけは許されなかった。

だと云うのに、業界内の人間ですら、目先のことしか見えていない無知蒙昧な輩は早期幕引きを図って浅はかな主張をするもので、一体誰が誰の味方なのか全くわからない状態だった。

目や耳に堰を立てるわけにもゆかず、誹謗中傷の嵐は、凛の心を、そして栗栖をも容赦なく踏み荒らす。

その度に、凛は栗栖を求めた。

385 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/03 23:46:53.93 m1PjjjcXo 355/568

栗栖から愛の言葉を囁かれるのは稀になったが、快楽を流し込んでくれさえすれば、精神の形態はどうでもよかった。

たとえ処理のための道具のように扱われても、彼に貪られている間だけは、何も考えずに済む。

ただ絶頂に身を委ねるだけでよい。

そのために、凛は何でもした。

386 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/03 23:47:27.62 m1PjjjcXo 356/568

栗栖の好みの女になろうと、私服の趣味やアクセサリのコーディネイトなど、身の設えを変えていった。

今まで以上に、身体の引き締めや美肌の維持、女としての魅力を磨くことに注力した。

副次的に、アイドルとしてのアピール力が増したのは強烈な皮肉だと云わざるを得ない。何もかも栗栖のためを思って採った行動に過ぎないのだ。

そして求められれば、どんなに変態的な行為にも応えた。

春を迎える頃には、いつしか、栗栖との融合は、倒錯的なものばかりになっていった。

387 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/03 23:48:32.67 m1PjjjcXo 357/568

この関係は、恋と呼んでよいのだろうか。

きっと、恋ではないのだろう。凛にとっても、そして栗栖にとっても。

栗栖にとっての凛は、今となっては性的欲求を満たすための、見た目のよい玩具に過ぎないのかもしれない。

翻って、凛にとっての栗栖とは?

凛は行為が終わった後の痙攣の余韻に浸りながら、脳のどこかは不思議と冷静で、二人の痴態を天井から第三者のように見下ろしていた。

栗栖と云う存在は、悔しさを交合で紛らわせるための道具だろうか。

決して間違いではないだろうが、正解でもない気がする。

388 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/03 23:48:59.73 m1PjjjcXo 358/568

確かに、まぐわうことで得られる快楽が色々と忘れさせてくれるのは事実だ。

だが、その行為と栗栖の存在はイコールではない。

では、寂しさを埋めてもらうためのパテだろうか。それも違う。

おそらく――必要とされるだけでよいのだ。

「私は……」

隣で後処理をすることもなく寝息を立てている栗栖を横目に見遣る。

――彼が私を必要としてくれるならば、何でもいい。

「……もっと、この人の望んだ通りの女にならないと」

そして凛も意識を手放した。

389 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/03 23:49:46.13 m1PjjjcXo 359/568


・・・・・・

「なあ、凛。そろそろヤバいんじゃねえの?」

間もなく初夏になろうかという時分。

相変わらず栗栖との慰み合いを続けていたが、いよいよ身体への無理が顕在化しているようだった。

ベキリでの仕事を終えた凛に、楽屋で心配そうに訊ねてきたつかさの言である。

390 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/03 23:50:36.53 m1PjjjcXo 360/568

この日はベキリの新曲のプロモーションを兼ねた、バラエティへの出演だった。

新曲披露のステージはそれなりの出来で完了できたが、さほど激しくないフェミニンなダンスの曲であるにも拘わらず、パフォーマンス直後でもけろりとしたつかさに対し、凛は肩で大きく呼吸をしていた。

更には、司会者からの醜聞に関わる多少意地悪な話題の振りをされた瞬間、対応をとちってしまった。

頭が真っ白になって、正直どんな受け答えをしたのか凛本人は詳しく覚えていない。

つかさは社長業のみならずトークバトルと云うショープログラムで鍛えた喋りのテクニックがあるから、大事になっていないと云うことは、幸いにも彼女の働きで事なきを得たのだろう。

391 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/03 23:51:38.98 m1PjjjcXo 361/568

「うーん、ごめん。なるべく色々と気にしないようには……してるつもりなんだけどね」

やっちゃった、と凛は首を竦めて苦笑した。

「ありがとう、つかさのおかげで助かったよ」

「ま、いいってことよ。あんま無理すんなよ?」

長居をせずに上がろう、となったところで、病気を疑うほど痩せた番組ADが「お疲れ様でした」と顔を出す。

やや含みのある表情をしているのが、つかさは気に食わなかった。

392 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/03 23:53:20.11 m1PjjjcXo 362/568

どうしても一言云いたくて口をつく。

「なあアシさんよ、センシティブなことはアドリブじゃなくて台本―ホン―に載せてからにしてくんねーかな。さすがにあのフリは社から抗議モノじゃねえ?」

その実、意地悪な質問は司会者のアドリブに見せかけて、スタッフは全員知っていたような印象があった。

つかさの言葉は柳に風で、ADは「いやあやっぱり視聴者を楽しませないといけませんし、ライブ感は重要ですからねえ」と嘯―うそぶ―く。

「あのな、アタシらは芸人じゃねえっつうの!」

393 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/03 23:54:01.62 m1PjjjcXo 363/568

ADの、まるで神経を逆撫でするような仕種につかさは沸き上がり、その剣幕にガリが怯むのを見かねた凛が「つかさ、いいよ。いいから」と制止した。

「でもよ!」

「いいんだよ。今はアイドルもバラエティスキルが要求される時代ってこと。今度未央にレクチャーして貰うからさ」

本田未央は凛と同期の第三課で、パッションの代表頭と云える。

その芸人も舌を巻くバラエティスキルは、今やお茶の間になくてはならない人材と云って過言ではない。

394 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/03 23:54:36.61 m1PjjjcXo 364/568

ぽんぽんとつかさの肩を叩いて、目を閉じながらADに軽く会釈する。

「体調が思わしくなく、お見苦しいところを失礼しました。次はトークを頑張りますので」

「え、ええ……こちらこそ……またよろしくお願いします」

凛のアンニュイな対応に、ADは鳩が豆鉄砲を食ったようで、牙を抜かれて去っていった。

静寂が楽屋を支配する。

「……つかさ、私のためにありがとうね。厭な思いさせちゃって、ごめん」

「おいおい何を水くさいこと云ってんだよ、パートナーだろ? とにかく、きちんと休養を欠かさないようにしねーとな、頼むぜ?」

「うん……ごめんね」

凛は、全く関係のないはずのつかさにまで影響が及んでいることに気づいて、どうすればよいのか、考えあぐねていた。

395 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/03 23:55:49.85 m1PjjjcXo 365/568


===

気づけば凛は、世界が異星人に侵略されシェイクされているのではないかと云う感覚を受けた。

エイリアンの攻撃で燃え上がる炎が肺を焼き、満足に呼吸することができない。

かと思えば今度は海の中に放り込まれて頭を押さえつけられる。まるでヤクザの水責めのよう。

昭和時代の映画か何かの中に入り込んだのだろうか。

396 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/03 23:56:37.00 m1PjjjcXo 366/568

いや、これは紛れもなく現実だ。

その証拠に、この世は全てスムージー。

シェイクが止まれば、ドロリとろけて喉に絡むようなジュースの出来上がりだ。

なのに不思議にも、謹製のスムージーは冷たくないのだ。むしろ熱ささえも感じる。

どんなテクノロジーで作っているのだろうかと不思議に思う。

397 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/03 23:57:58.49 m1PjjjcXo 367/568

「――ッ!?」

凛は意識が突然覚醒した。

景色は見慣れた自室で安堵する。

しかし苦しい、身体が動かない。

何故なのかと必死に目を動かせば、頭が両手でがっしりとホールドされている。

口に意識を向ければ、中の方まで栗栖が刺さっている。

398 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/03 23:58:46.43 m1PjjjcXo 368/568

ああ、息ができないのはこの所為か。

凛はまるで他人事のように納得した。

脳味噌をぐわんぐわんと前後に揺すられ、そのうち喉の最奥で栗栖が果てる。

激しい脈動と共に大量の残滓が流し込まれ、その勢いに、飲み込めない分は鼻腔へ逆流した。

凛自身も目の奥が白か或いは桃色にスパークし、全身を不随意に痙攣させた。すでに嘔吐中枢は麻痺している。

399 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/03 23:59:16.27 m1PjjjcXo 369/568

頭の拘束が解かれ、ぷはっと口から抜いて後ろへ倒れ込んだ。

全身が引き攣って脳味噌の指示を聞こうとしない。酸素を求める胸の動きに気道が震え、ヒュウヒュウと喘息患者のような音を発している。

散々な身体の状態に反して、意識は明瞭だった。

効果覿面だね、これ。

凛は部屋の隅で燻っている煙を見つめた。

400 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 00:00:39.23 uYG6pbKDo 370/568


「栗栖、逢いたい」

収録から帰ってきた凛が3回リダイヤルして、ようやく出た栗栖に開口一番云った。

「ごめん、今夜は別件が――」

「私を優先してくれないの? 私は栗栖から呼び出されれば、全部投げ打って逢いに行くよ? 栗栖は違うの? 私は栗栖に何でもしてあげる。何度でもイかせてあげるから、絶対来て」

凛はそう云って、返事を待たずに電話を切った。否、正確に云えば、それ以上はまともに会話できないであろうと思って切ったのだ。

401 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 00:01:17.33 uYG6pbKDo 371/568

電話が一方的に切れた栗栖は、じっとスマホの画面を見た。昨今、凛の精神が自己防衛を試みているのか、束縛が強くなった気はしていた。

だが今回のような有無を云わさぬ要求をするのは、様子が違った。

仕方なく、栗栖は隣にいる人物に詫びてから、凛のマンションへと車を走らせる。

ベルを鳴らすも、反応がない。ふぅ、と一息吐いて、合鍵でエントランスと部屋の扉を開ける。

「凛、来たよ」

反応がなかった。

いつもなら飼い主を待ちわびていた犬のように玄関へ飛び出してくるのに。

402 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 00:02:44.69 uYG6pbKDo 372/568

栗栖は訝しんで、鍵を閉めてからリビングのドアを開ける。

瞬間。

「凛! おまっ、これは!」

目の前で、虚ろな視線の凛が何も身につけずに倒れ込んで、自らを慰めては痙攣に震えていた。

部屋の中には強烈なお香の匂いが立ち込めており、ここに立っていたら燻製にされそうなくらいの煙まで漂っている。

403 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 00:06:39.97 uYG6pbKDo 373/568

すわ火事かと思えば、火災報知器はご丁寧にもカバーで覆われていて、故意にやっているのだと理解する。

だがそれを把握した刻にはもう遅かった。身体に力が入らず、膝から崩れる。

倒れた視線の先には、『ハーブ』と、スタミナドリンクの空き瓶が転がる。

凛はついに心が耐えられなくなり、とうとうハーブに手を出したのだ。

スタドリを煮詰めて蒸発させた残留物をハーブと共に燻らせて、異常な効能を味合わむとしたのだ。

404 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 00:07:27.30 uYG6pbKDo 374/568

「あ~、栗栖ぅ」

凛が、焦点の定まらない双眸で自身の近くに伏臥する栗栖を捉えた。

凛の腕が、脚が、指が、舌が、栗栖に巻きついてゆく。

それからのことは、二人とも記憶にない。

ようやく凛が異星人のスムージーをきっかけにこの世へ戻ってくるまで、どんな交わりをし、何度絶頂へ登り詰めたのか、知る由はなかった。

409 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 22:48:41.02 TJeoIGflo 375/568


凛の魂がひとまず戻ってきてから、脳が正常化し動けるようになるまで40分ほど掛かった。

それまで意識はありながらもどこか自分ではないような無重力下にあったものが、或る瞬間、いきなり全て、精神も肉体も重さを感じるようになり、自分の制御できるところへ戻ってきたのだ。

身体にこびりついた精の匂いが脳を揺さぶる。

無意識でのまぐわいで相当な負担が身体に掛かったとみられ、凛は感覚が戻るや否や手洗いに駆け込んで嘔吐した。

途方もなく長いと思えるほど胃を締め上げる身体の防衛反応の結果、吐瀉物はかなりの量で、白く、粘性が高かった。

ふらふらになりながらも、一体どれだけ飲み込んだのか、翻れば栗栖は一体どれだけ出したのか、末恐ろしくなった。

410 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 22:49:46.82 TJeoIGflo 376/568

「シャ、シャワー……浴びなきゃ……」

常識的思考が戻り、鞭を打って足を動かす。

行く手を遮るガラス戸がこんなにも重いものだと感じたことはかつてない。

寄り掛かるように全体重を乗せて何とかドアが開くと、勢いが余ってバスルームの中へ倒れ込んだ。

蛇口を求めて手を伸ばすが、まるで届かないので、這いつくばって進む。わずか1メートル未満の距離が1光年もの長さに思えた。

ターミネーター2でのT-800はこんな気分だったのかと少しだけ理解できた気がする。

劇中、T-800はT-1000の手で鉄製の棒を串刺しにされたが、凛に突き刺さるのは恵みの熱い雨だ。

411 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 22:51:09.43 TJeoIGflo 377/568

よろよろ立ち上がって浴びている間に、栗栖も凛と同じ経過を辿ったようで、手洗いの方でドタバタ音がした。

じっくり念入りに全身を濯いでからリビングに戻った凛は、壮絶な現場跡を見て頭を抱えた。

「うわー……」

足の踏み場がないとはまさにこのこと。

どんなに気をつけて移動しようとしても二人の体液が足の裏に張り付き、まるで真冬の外に放置していたサンダルを履いた時のような冷感を一歩ごとに与える。

後片付けのことに思考が至るや、途方もなく気が遠くなった。

ただ、掃除をしている間は余計なことを考えなくて済むだろう、と云う点だけはありがたいと思った。

412 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 22:52:08.97 TJeoIGflo 378/568

ふと、ムーンストーンのブレスレットが床に散らばっているのが目に入った。

激しい行為の最中に引っ掛けでもしたのだろうか、チェーンがぶっつり切れて固く絡まり、体液もべとべとに塗れて最早アクセサリとしての体を成していない。

「ああなんてこと……」

手に取ろうと身を屈めれば、やや離れたところに放られた栗栖のスマホが、着信に震え続けていた。

拾い上げると、そこには新進気鋭のアイドルプロダクションに所属するエースの名前が表示されており、アイコンは栗栖と二人仲睦まじいショット。

413 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 22:53:06.41 TJeoIGflo 379/568

ああ、そうか。

そうだったのか。

「栗栖にとって、私は代えの利く玩具だったわけだね……」

半ば、こうなるかも、と予測していたことではあった。

しかし、それでも。

どうして。なんで。

バイブレーションの止まないスマホを眺めながら、思考はぐるぐる塒―とぐろ―を巻く。

414 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 22:54:01.80 TJeoIGflo 380/568

だいぶ長く着信を試みて、ようやく力尽きたように止まった。

どれくらい立ち尽くしていたのだろうか、ドアが開く。

「栗栖。さっき彼女さんから着信きてたよ」

視線は向けずに云った。

「……そうか」

「どうして?」

凛はそれだけ云う。時計の秒針の音だけが、妙に大きく聞こえた。

415 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 22:54:58.74 TJeoIGflo 381/568

「私は、栗栖の望む通り何でもするよ。たくさん、もっとたくさん、シてあげる。血も肉も臓腑も、全て貴方の好きにしていい」

ゆっくり、静かに、諭すように語る。

だが、落ち着いた良い子ぶるのは限界のようだ。

「どうして! どうして私じゃダメなの?!」

今更云っても仕様のないこと。それでも訴えを禁じ得ない哀れな凛に、栗栖は、余命宣告をするかのように淡々と告げる。

「凛への最初の想いは本物だったよ。俺から告白したようなものだったし。でも――」

栗栖の声音から、もはや自分が彼の心の中にいないことが、凛には判った。

416 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 22:55:45.28 TJeoIGflo 382/568

「凛はもしかしたら気付いていないのかもしれないけど」

やめて。

凛は、目の前がどんどん暗くなる。

「もはや凛は依存症に陥ってる。俺にとって、もう凛は重すぎるんだ」

やめて。やめて。

「事務所同士の事情も、ツクヨミの状況もある」

やめて。やめて。やめて。

「これが、最後になる」

やめて! やめて! やめて! やめて!

417 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 22:56:23.82 TJeoIGflo 383/568

「今日で終わりにしよう」

凛は崩れ落ちた。びちゃり、と濡れる下肢に意識は向かない。不思議と泪も出ない。

凛の中で、彼女自身の20余年が瓦解してゆく音がする。

栗栖が静かに去ってゆく。去り際、凛とのこれまでの思い出に、胸が張り裂けそうな表情をみせた。

それも束の間、目を瞑ってかぶりを振り、しっかりと、ゆっくりと歩を進める。

閉まる玄関扉がガチャンと鳴って、凛が、女にも、アイドルにも戻れなくなってしまったことを告げた。

418 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 22:59:55.63 TJeoIGflo 384/568


・・・・・・

「はい、恒例のお荷物チェックですよ」

ちひろがPのサイドテーブルに、膨大な量の配達物が入った段ボールの一角を仮置きした。

パソコンでメールのやりとりをしていたPは、「おっとすみません」とキーボードを打つ手を一旦止めて、溜まった書類をどかす。

滑った紙が、ばさばさと床へ落散した。

ツクヨミの戦略に関する契約覚書の回覧フォーマットだったり、凛のドレスアイデアがスケッチされた厚手のクロッキー紙、新曲になるはずだった譜面のラフ。

他にも様々な用紙が雪崩を打って落ちてゆく。

419 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 23:01:10.50 TJeoIGflo 385/568

「ああ、こりゃいかん」

慌ててPは拾い集める。ちひろが少し済まなそうな顔をして、「よいしょっと」と云ってサイドテーブルに箱を据えた。

「なんか申し訳なかったですね。
この荷物もかなり量が多いですから、書類が片付くまで一旦Pさんのクローゼットにでも仕舞っておきますか? この後少し時間あるのでチェック手伝うこともできますよ」

だいぶ重かったのだろう、両肩を交互に叩きながらちひろが問うた。

「ああいえ、後ですぐ確認しますから。ここへ運んできてくれただけで大助かりですよ。ありがとうございます」

Pはちひろに礼を述べ、駄賃代わりのスタミナドリンクを差し出した。

「ふふふ、いいんですよ。スタミナドリンクは私の専売アイテムですから、Pさんから頂かなくても大丈夫です」

いつもと変わらない笑顔を向けて、ファイト、とエールを送ってから第一課を出ていった。

420 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 23:02:19.49 TJeoIGflo 386/568

机に向き直ると内線が鳴る。

営業部からの外線取り次ぎで、マスコミ対応を依頼された。

「はいお電話代わりました、制作部第一課のPです――その件は弊社渋谷とは関わりありませんので。事実無根の風説です。では失礼します」

スピーカーからまだ何か喋る声が聞こえてくるのを無視して、受話器を置く。はぁ、と短い嘆息を零した。

昨今のマスコミもレベルが墜ちたものだ。

丁寧な裏取りや検証などを地道に進めてゆくのが記者の役目だろうに、自ら考えることを放棄し直接正面から訊きにくるだけ。

更にはこちらの都合を考えない事前アポなしの電凸ときた。これなら業務の邪魔にならない分、噂話の未確認三文記事の方がまだマシだ。

421 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 23:03:41.11 TJeoIGflo 387/568

ちらりと、別の机に置いてある大手新聞社から確認を要請されたゲラを見遣る。

凛やツクヨミにフィーチャーした記事内容で、大方の内容に問題はない。

しかし話題がどうしてもスキャンダルの方へ引き寄せられていってしまうのは性と云うものだろう。

若干抵触してしまった当該箇所に赤を入れて、手数を詫びつつ別の問答への差し替えを依頼してある。

炎上させれば中身は何でもよい週刊誌や大衆紙と違い、この新聞社ならば、きちんとこちらの意図を汲み、整えた記事を最終的に読者へと届けてくれるだろう。

422 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 23:04:31.76 TJeoIGflo 388/568

雪崩た書類を一旦まとめて床へ置いておき、配達物の確認をしようと段ボールをごそごそ漁る。

中身はPが担当しているアイドルへ送られてくる手紙や小包だ。全部一緒くたに入っているものだから、まず第一段階は仕分けから始まる。

初期の頃なら9割9分を凛宛てが占めていたので楽なものだったが、最近はつかさ、ジュニ、それぞれへ宛てられたものも多い。

仕分けの手間は、担当アイドルが躍進していることへの嬉しい悲鳴と云えよう。

それでも、大方の選別を済ませると、明らかに凛宛ての手紙が多い。

割合と云うよりも、昨今は絶対数が多くなった。これは例のスキャンダル以降とみに顕著だった。

423 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 23:05:20.45 TJeoIGflo 389/568

一通ずつ開封し、中身を確認する。

純粋なファンレター。アイドル本人のみならず担当プロデューサーとしても嬉しいものだ。

なぜか凛に宛てられた謎の売り込み営業。差出人の意図が全く理解できない。

送付先の認識を誤ったとみられる凛担当ラジオ番組へのリクエスト葉書。哀れに思うがPは何もしてやれない。

そして――攻撃的な中傷。

一通々々、しっかり確認する。

凛へ回してよいもの、よくないもの、きちんと選別する必要がある。一つたりとも漏れてはならない。

424 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 23:06:59.51 TJeoIGflo 390/568

或る手紙の封を切っていると、指先に鋭い熱を感じた。

「……またか」

封入された剃刀が、Pの左手人差し指に一筋の赤い線を作り出した。

ティッシュを取って、珠のように浮いた血液ごと傷口を押さえる。

切れ味のある刃物で出来る傷は、深手さえ負わなければ逆に治し易いから楽だ。少し止血すればそれだけで済む。

これまでで最も衝撃的だったのは、五寸釘が打ち込まれた藁人形と、それに同梱されたセアカゴゲグモだ。

もし無検閲で凛に渡していたら、と思うと身の毛がよだつ。

明確な憎悪が込められた贈り物が届いたことは、CGプロの中でも一握りの人間しか知らない。

425 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 23:07:55.01 TJeoIGflo 391/568

このように身の危険を感じるものは流石にさほど経験はないが、他にも、およそ日本語で考え得るありとあらゆる罵詈雑言を駆使した攻撃がしたためられた手紙は大量に届いている。

単純に口汚い罵りだけなら、逆に何とも思わない。まるで生産性がないし、便乗する愉快犯も多い。

だが中には、長いこと追ってくれているらしいファンから、丁寧な筆致と穏やかな口調で、しかし内容は急所を突く悲痛な訴えがたまに届く。

これにはPは堪えた。

「貴重なご意見、まことにありがとうございます」

そう独り言ちて、封書に軽く頭を下げる。

専用のエンベロープケース――『地獄への戒め』と書かれた容器に仕舞った。

426 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 23:09:25.09 TJeoIGflo 392/568

これらのような庶務――しかしそれでいて担当アイドルのために絶対必要なプロデュース業務――がとてつもなく増えた影響で、担当アイドルたちの日の目を見る機会がめっきり減っていた。

それどころか、新曲の監修や各種衣装へのアドバイス出し、レッスンの様子のチェック、アイドルのモチベーションのフォローアップ……諸々のやるべきことが全て滞っている。

先日もベキリとして珍しいバラエティへの出演があったはずだが、満足に見守ることもできないまま、凛とつかさの組み合わせなら大丈夫だと送り出したことがあった。

もちろん、つかさにも大なり小なり負担が掛かっていることは間違いないだろうから、近いうちにフォローをしなければと思いつつ実際は進められていない。

もどかしい思いが先行する。

427 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 23:10:27.34 TJeoIGflo 393/568

「全ては業なんだよな……」

これは、自分の蒔いた種だ。

凛がムーンストーンのアクセサリを着け始めた段階で阻止しておくべきだったのかも知れない。

何年も前、自身に好意を寄せ始めているのを察知した刻は、アイドルとPの関係は許されないことだと叱った。

それ以来、凛は女の感情を仕舞い込んでしまった。

無論それはアイドルとしての活動には理想的なことだと云える。

――だがそれでは、アンドロイドと何が違うのだ?

今回は、アイドル同士。

本人たちさえ望むならと、久方ぶりに人間の感情を思い出した凛を押し留めるのが怖くて、もしかしたら抑制することで今度こそ壊れてしまうかもしれないと云う一種の恐怖から、何もできなかった。

428 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 23:11:16.51 TJeoIGflo 394/568

凛が大事すぎるがゆえの、躊躇い。

しかしプロデューサーにとって傍観とは、罪だ。Pは間違いを犯してしまった。

せめて、今以上に状況が悪化しないよう奔走しなければ。

指を組んだ両腕に額を乗せる。

目を閉じて、深い呼吸を何往復か繰り返す。

また内線が鳴った。今度は来客の報せだ。

今日はこれから田嶋との今後についての打合せが入っているのだが、予定より30分も早い到着にPは驚いた。

待たせるわけにもいかないので、別の会議室をすぐに確保し直して、ロビーへと迎えに上がった。

429 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 23:12:06.48 TJeoIGflo 395/568


・・・・・・

凛はスキャンダル以来、狂犬だともヤマアラシみたいだとも比喩されていた元々の雰囲気に加え、アンニュイな味を纏うようになった。

そして最近は、どこか解放された感じにも見える達観した尼のようだと囁かれている。

この日は、新しい衣装を作るための打ち合わせを社内デザイナーとしていた。

今回は、経験を積ませるために若手にリードデザインを任せ、ベテランが補佐につく形式で進めるらしい。

いつもならこれほどに制作体制を変更させる際にはPが同席するのだが、生憎アポが重なったらしく凛だけが参加していた。

「これまではあまりダブルブッキングなんてしなかったんですけどね、Pさん」とは重鎮の言だ。

430 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 23:12:53.34 TJeoIGflo 396/568

新進気鋭のルーキー、岩見沢は鼻息が荒い。

「やっぱり渋谷さんは、以前みたいな、瑞々しい一種の健康的な肉感を少しは出した方がいいと思うんですよ」

熱弁が、小会議室に響く。

「確かに歌姫と云われていますけど、渋谷さんの源流は歌手じゃなくてアイドルじゃないですか。ファンを目でも愉しませてこそかなと。
最近のシック系だと、ダンスもしにくいでしょう?」

凛は、曖昧に「うーん……」と愛想笑いで相槌を打つことしかできない。

よもや男の痕を隠すためだとは到底云えまい。

431 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 23:14:10.35 TJeoIGflo 397/568

「デビュー当時の、ニュージェネレーションのドレス。あれって本当に最初から完成されていると思います。
ローマの胸像のようにすっきりと魅せる肩や鎖骨のライン、シュッと無駄なく締まった大腿など、露出させるべきところはさせて、布で覆うべきところは覆っている。
コルセットで絞りつつすぐ下はパニエスカートで拡げるあのシルエットは最高です」

「なんかちょっとくすぐったいな、そこまで評価して貰えると……」

何でも、シンデレラガールを獲った時分の凛に憧れてアイドルの服飾を志したと云うので、気恥ずかしさに頬を掻いた。

ひとしきり熱く語った岩見沢が、急にしゅんと肩を落とした。

「以前、Pプロデューサーに思い切って疑問をぶつけてみたんです。でもそうしたら強い調子で『これがプロデュース方針だ』って。
……もったいないですよね。もちろん自分たちは指示には逆らえないですけど、プロデュース側とデザイン側とが一緒に練り上げてこそ渋谷さんをもっと輝かせられると思うんです……」

432 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 23:16:14.45 TJeoIGflo 398/568

凛は初めて耳にする事実に驚き、狼狽した。

あわや表に出やしないかと必死で表情や仕種を取り繕う。

社内の反発を承知の上で、“方針”の名の許に有無を云わさず露出低減を推し進めていたなんて。

Pは社での立場を脅かしかねない綱をずっと渡っていたのか。

このままではPだけが悪者になってしまう。凛は必死に頭をフル回転させた。

433 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 23:17:26.35 TJeoIGflo 399/568

「私にはどっちの意見もわかる……かな。ほら、どうしても時間には逆らえなくってさ。今更になって肌を晒すと色々云われそうで。
絶対色々なところで『【悲報】JKだったしぶりんが劣化www』とか貶されるでしょ」

自分に同調しない凛の答えを聞いて、岩見沢が残念そうな顔をする。

自らのことを思ってくれるが故の熱意が凛は少しだけ気の毒になって、「まあ、でも――」と予定にない言葉がつい口に出た。

「ちょっと鍛え直すから、そしたら是非その案を具現化して貰える?」

栗栖と終わってしまった今、どうせそのうちこの“刻印”は消えてゆく。

もはやアイドルには戻れないと云う諦めの気持ちはある。それでも、目の前の落胆する岩見沢や、悪者に仕立て上げられそうなPへのフォローを考えれば、方便は必要だった。

434 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 23:18:13.55 TJeoIGflo 400/568

消沈していた表情がみるみる輝きに変わってゆく。

「はい! 悲報どころか朗報って云わせてやりますよ!」

この場では次回のシック度合いだけ決めて、詳細はまた改めてPを交えて詰めることとなった。

プロデューサーに謝らなきゃ――。

凛は話し合いの内容を記憶しておく余裕はなかった。

435 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 23:19:03.80 TJeoIGflo 401/568


廊下を早足で駆けて、第一課のドアを邪魔だとばかりに押し放つ。

「プロデューサー、いる?」

しかし凛の声に反応するのは、第一課の別アイドルの担当しかいなかった。

「Pさんはさっきから席を外してるよ。アポが長引いてるのかもね。ちょっと色々と業務が回ってないみたいだよ」

凛は出端をくじかれて肩を落とした。

436 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 23:20:24.42 TJeoIGflo 402/568

今のうちに云いたいこと云うべきことをまとめられる時間ができたと考えよう、そうポジティブに思い直して、ソファへと腰掛ける。

少し座っている間だけでPの席の内線は3度鳴り、ガチャリとドアの開く音がしてはトレーナーの青木明や興行部の遠藤がPの所在を尋ね、いないことが判ると困ったような顔を浮かべて去っていった。

相当色々なことが込み入ってそうだ。何か助力できることはないだろうか。

ただ座して待つだけなのも忍びない凛はそう思って、早速鳴った4度目の内線に出る。

「はい3階、代理で渋谷凛です」

『あれっ? えーとPさん不在ですか』

アイドルが内線に出たせいか一瞬驚いたような声音で、しかしすぐに業務に追われ驚きを思考から放逐したように質問を寄越してくる。

437 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 23:21:32.94 TJeoIGflo 403/568

「はい、プロデューサーは別のアポの対応中らしいです」

『あー……、読買新聞さんから外線で校正結果の照会が突かれてんだけど、どうなってるのかな。流石に渋谷さんじゃ判らないよね』

電話口の向こうから困惑と苛立ちの雰囲気が感じられた。

「うーん、ごめんなさい、ちょっと……はい、伝えておきます。では」

日々の業務については何の補佐にもなれない現実を突きつけられ、凛は無力さを感じた。

438 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 23:22:44.42 TJeoIGflo 404/568

受話器を置いて、はぁ、と嘆息すると、ふと、床に散らばる紙の束が目に入る。楽譜と思わしきものもあった。

「あれ、そういえば……」

ベキリやツクヨミの新曲をPが書きおろす企画が挙がったと云う話を耳にしたことがあった。結構前のことだ。

だが、手に取った譜面用紙は到底完成されているようには見えない。

めくってゆけば、『間に合わん』とだけ走り書きされ、太い朱で大きなバッテンが刻まれていた。

昨今のタスク量で手が追い付かず破談となったことが窺えた。

これまで凛の楽曲をいくつか手掛けてきたPのことだ、ツクヨミ向けともなればきっと腕が鳴ったことだろうに。

Pに無理を強いてきた物証がこうやって続々と顕れてくると、その度に凛の胸には棘が突き立てられる。

今や心は裁縫のピンクッションのようで、空き場所が見当たらない針の山だ。

439 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 23:23:56.66 TJeoIGflo 405/568

頭を抱えて立ち上がると、サイドテーブルに血のこびりついた剃刀の刃が置かれていることに気づいた。

「これは……?」

髭を剃ろうとして誤って切った……とするならば刃が単体で置かれているのは妙だし、よもやPが自殺を企てたわけではあるまい。

よく見れば、刃の置かれている紙には宛名に『渋谷凛様』と書かれている。

もしや――

「この剃刀、私宛……?」

それだけではない。

傍に鎮座する大きな段ボールに入れられた大量の手紙や小包は、普段凛がPから定期的に渡されるファンレターの量とは明らかに差があった。

440 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 23:25:06.87 TJeoIGflo 406/568

凛は、弾け飛ぶ勢いで段ボールを漁った。

慎重に、それでいて時間を無駄にしないよう手早く。

開封する度に、油田の如く溢れ出す悪意の暴風雨。

ソーシャルネットワークで罵詈雑言はよく目にしたし、或る程度の耐性は身についていると思ってきたが、ただの思い上がりだったようだ。

こうやって物理的な存在として訴えかけてくるのは堪えた。

441 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 23:25:54.53 TJeoIGflo 407/568

手紙だけならまだよい。

画鋲だったり、引き裂かれた写真だったり、文字以外の実体で伝えられる憎悪がとても怖かった。

なまじ、これまでPたち裏方がフィルタリングをして堰き止めていたことで、端末の画面で見るだけの文字とはレベルが違う、直接触れる機会が皆無だった醜悪なものへは耐性が醸成されていないのも不幸だった。

Pは、こんな毒気にずっと中―あ―てられ、耐え、庇っていたのか。

こんなクズみたいな自分のことを、色々やらねばならない多量のタスクを放り投げてまで、戦友は守り続けていてくれたのか。

442 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 23:26:52.09 TJeoIGflo 408/568

「バカみたい……」

自分は、本当に、バカみたいだ。

「一番近くで私のことを一番に想ってくれるヒトがいたのに、傷つけて、ずっと傷つけて――」

足の力が抜けた。

がくりと項垂―うなだ―れ、膝を突くと、OAフロアの床に、一つ、二つと濡れた染みが出来上がる。

443 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 23:28:23.02 TJeoIGflo 409/568

凛の嗚咽をよそに、田嶋と胃の痛くなる長い協議を終えたPが、溜息を吐きながら戻ってきた。

その顔には見るからに疲労の色が滲んでいるが、同僚からの作業状況を照会する質問が方々から飛んでくる。

自らのところでボールが止まっていることを詫びてから、急いで処理しようと執務机へ歩を進めると、うずくまっている人影を視認した。

すぐにそれが渦中の人物だと直感すると、田嶋の早い来訪に慌てるあまり送付物を仕舞い忘れた痛恨のミスに気付く。

「り、凛!?」

どうした大丈夫か、と駆け寄って支えようと手を伸ばしたところで、凛は弱々しく息を吐く。

「ごめん……」

云いながら顔を上げた。滂沱の泪を流していた。

「ごめんね……」

気丈だったはずの凛が哀しい顔で詫び続けるのを見て、Pは、宝物をついに守り切れなかったのだと認識した。

444 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 23:29:48.57 TJeoIGflo 410/568

「私……プロデューサーのような才能あるヒトをダメにしちゃった……」

赦しを乞う言葉を、壊れたレコードのように何度も何度も繰り返す中、剣呑な空気を感じ取ったPの同僚たちが、何ぞ問題が起きたのかとざわつきつつあるのを凛は感じた。

これ以上騒ぎを起こしてPを陥れてはならない。

「本当にごめんなさい」ともう一度付け加えてから、がくがくと震える両脚に喝を入れて、第一課を飛び出す。

誰の目にも触れないよう、廊下の端に設けられたベランダへの鍵を開けて駆け込む。

ここは緊急時の避難梯子が据えられた場所で、普段はまず人の来ない部分だ。手近で一人になれるのはここにおいて他にない。

445 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 23:30:28.61 TJeoIGflo 411/568

どのように詫びればよいのか、もはや凛には判らなかった。

そもそも詫びたところで取り返しのつかないことに変わりはないし、アイドル活動で挽回しようとしても市場が赦してくれるかは未知数だ。

むしろ赦してもらうためには、Pはさらなる奔走を要求されるだろう。

結局どうやってもPの負担になる未来しかないのだ。

446 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/04 23:31:01.26 TJeoIGflo 412/568

PもPとて、何とか追わなければと思うのだが、凛のあれほどまでに自責する言葉や表情は、8年も一緒にいるのに初めてのことで、身体が動かなくなってしまった。

どのようにフォローするべきなのか、もはやPには判らなかった。

どんな言葉を投げても凛の負担にしかならないだろう。

かと云って語り掛けなければ、この不幸な現状維持が続くだけだ。

「一体、どうすれば……」

呆然と立ち尽くすPの後ろで、内線が鳴り止まない。

450 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/05 22:49:17.70 wbEqpjsSo 413/568


・・・・・・

凛は、つかさからの電話で叩き起こされた。どんよりと雲が低く立ち込める朝だった。

「おはよう、ありがとうつかさ、助かった」

『え、なんのこと?』

開口一番の謎の感謝に、つかさは虚を突かれた。

「起こされたとき、厭な夢にうなされてたところだったから」

『……そうか』

451 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/05 22:50:06.25 wbEqpjsSo 414/568

最近、夢見が滅法悪い。

ファンタジーな内容から現実味あるものまで幅は広いが、そのどれもが何らかの形で蝕まれる悪夢だった。

叫んで起きるか、寝汗をびっしょりかいて息を切らしながら起きるかのどちらかだ。

して、つかさは何の用事だろう。この日の凛の仕事は夜から。まだまだ時間があるはずだ。

『ああそうそう、そうだ、Pが今どこにいるか知らね? 会社に来てないんだよ』

いつも堂々と構えているつかさにしては珍しく、少し焦燥の声音が混じっていた。

452 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/05 22:51:25.96 wbEqpjsSo 415/568

「プロデューサーが? まさか寝坊なんてする人じゃないでしょ、どこかへ直行直帰とかじゃなくて?」

『今日はアタシのトレーニング方針会議があるんだ。トレーナーさんと管理栄養士さんを交えてのヤツ。
電話は電波が届かない。今までこんなこと一度もなかったのに』

その実つかさは緊張しいではあるのだが、鋼のプロ根性でそれを表に出すことがほとんどない。

相棒への電話だからあまり取り繕わなくて済むと云うこともあろうが、彼女の気骨でも隠し切れないほど心を砕いていることが伝わってきた。

「……わかった。私は仕事までまだ時間あるから、調べてみる。つかさは、一旦プロデューサーなしで進められる?」

『あ、ああ。たぶんそこまで大きな舵取りの変更はないはずだから……』

了解、とお互いに頷き合って電話を切る。

453 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/05 22:52:28.74 wbEqpjsSo 416/568

――プロデューサー……まさか、気に病んで自殺なんてしてないよね……。

凛は不穏な思考が浮かぶのを、「ううん、そんなわけない」と頭を激しく振って掻き消した。

「ちひろさんとか、会社関係で動ける人は全員動いているはず。私が思いつくことならもうみんな済ませてるよね……」

凛は、Pに関する独自のオンリーワンな情報網は持ち合わせていなかった。早速詰んだ。

「プロデューサーが行きそうな場所を虱潰しに調べるしか……」

凛は取るものも取り敢えず、自宅を飛び出す。

天候のせいで陰鬱な重さが支配する窓の外を見ながらマンションのエントランスを走り抜けると、前方から、大きなサングラスで目元を覆い、黒いスーツとオーラを纏って歩いてくる人物があった。

454 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/05 22:53:59.15 wbEqpjsSo 417/568


===

Pはずっと潮騒を聞いていた。

聞いていた、と云う表現は語弊があるかもしれない。

P自身は耳に届く空気の振動を意識していないからだ。

人気のない、ごつごつした岩場から釣り糸を海へと垂らし、それでいてリールを巻く気が微塵もない体で、寄せては白い泡となって消えてゆく波をずっと網膜に映しているだけだった。

今、Pの頭の中を支配しているのはたった一つ。

凛の、泪に濡れた顔。

455 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/05 22:54:52.33 wbEqpjsSo 418/568

どうやってもその顔を晴れさせる方策が思い浮かばず、前にも後ろにも進められず、気付いたらこんなところにいた。

今日はつかさ関係の業務があったはずだ。

また彼女に迷惑を掛けてしまった。合わせる顔がない。

こんなに不甲斐ない人間だったか。

こんなに情けない男だったか。

だがこの立場でどうしろと云うのだ。

Pの脳内をぐるぐるいつまでも遣る瀬無い思考が渦巻く。

456 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/05 22:56:03.15 wbEqpjsSo 419/568

「――釣れるかい」

ふと、後ろから声を掛けられた。

こんな荒涼としたところに一体誰が――そう思いながら振り向くと、かつて見た人懐っこい顔は封印して、真面目な笑みを浮かべた沈が立っていた。

「……ふむ、どうやら釣る気はないようだ」

竿の状態を一瞥して云う。

「なら浮きも入れない方がいい。期待して集まる魚が気の毒だ」

そう忠告しながら、よいしょ、とPの傍の突き出た岩に腰掛けた。

457 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/05 22:57:02.53 wbEqpjsSo 420/568

「沈社長、なぜあなたがここへ?」

「たまたま通り掛かっただけだよ。私は海が好きなんだ。そうしたら妙な雰囲気の人が一人ぽつんといるのでね。様子を見にきてみたらPプロデューサーだった。こんなこともあるもんだね」

私の放浪癖もあながち無駄ではないもんだ、と沈は相好を崩した。

「Pプロデューサー、やはりあなたは姜プロデューサーと似ているな」

「……え?」

「彼も失意の底にいるとき、こうやって釣る気もない竿を波打ち際で掲げていたよ」

「あの彼が?」

いつも見掛ける彼は泰然自若とし、強力なリーダーシップでR.G.Pを率い、悩みとは無縁そうな振る舞いをしているのに。

458 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/05 22:57:53.13 wbEqpjsSo 421/568

Pの感想に沈は、825を超人集団だとでも思っているのかね、と声を出して笑った。

やや呼吸を落ち着けて、遠くの海原を眺める。

「渋谷さんの件ではだいぶ揺れているようだね。いや、激震と云えるか」

Pは何も答えなかった。

いや、答えられなかった。

今回の騒動に関して迂闊なことは何も喋れないからだ。

そう、社内でさえ口に出すのが憚られるくらいに。

459 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/05 22:58:47.69 wbEqpjsSo 422/568

「大丈夫さ――」沈は海を見たまま優しく云った。

「日本芸能界の人間だと全員が利害関係者になってしまうだろう。一種、外様の私が最もニュートラルだ」

Pを向いて頷いた。

「……お恥ずかしい次第です」

Pは竿を仕舞おうと引き揚げながら、ようやく一言だけ返した。

460 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/05 23:00:36.32 wbEqpjsSo 423/568

沈は大きく息を吸って空を見上げ、ふぅ、と吐く。

「姜プロデューサーを825へスカウトしたのもこんな天気の日だった」

そのまましばらく厚い雲の広がる白い天を仰ぎ続ける。

「……かつて姜プロデューサーは担当アイドルを死なせてしまったことがある」

沈の訥々とした語りに、Pは驚愕の目を見開いた。

あんな栄光を謳歌する姜にそのような過去があったと? 俄には信じられなかった。

461 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/05 23:02:37.29 wbEqpjsSo 424/568

「スジの双子の妹さんでね。彼はそのせいで一旦芸能界から身を引いたんだ」

でも、と沈は目を閉じる。これまでの825の軌跡を反芻しているようだった。

「当時一般人だったスジと偶然出会ったことで、そしてR.G.Pと云う導くべき船ができたことで、彼は立ち直れた。ま、大部分は私が嗾―けしか―けたせいでもあるがね」

彼は幸運だったんだ、と目を細めてPに笑い掛けた。

462 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/05 23:03:18.34 wbEqpjsSo 425/568

「Pさんの場合はもっと幸運だ。なぜなら、まだみんな生きているじゃないか。生きているなら幾らでもやり直せる機会がある」

「果たして自分にやり直せるか……凛を事実上殺してしまったようなものです」

Pは沈の目を見て、静かに息を吐いた。

少しだけ考える時間を取ってから、沈は「云い方を変えよう」と人差し指を立てる。

「生きていれば、人間誰しも幸福を目指すことができるんだ」

「幸福を……目指す……」

463 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/05 23:04:09.41 wbEqpjsSo 426/568

「そう。では幸せとはなんだろう? 金持ちになること? 有名になること? いや、それらは本質ではない。幸福とは、精神の在り方なんだ」

沈は自らの胸板を軽く叩く。

「心次第だからこそ、生きてさえいれば、Pさんは渋谷さんと再び向き合って、幸福を追い求める手助けをすることができる」

それがプロデューサーの役目だよ、と沈は笑った。Pはその笑顔をじっと見る。

「生きてさえいれば、いま少しだけ立ち止まってしまったとしても、再び幸福を追い求めて歩き出すことができる……」

「そう、その通りだ」

464 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/05 23:05:12.38 wbEqpjsSo 427/568

Pはシンデレラを輝かせるための魔法使いに思いを馳せた。

シンデレラの幸福を手助けする魔法使いは、他ならぬ自分たちプロデューサーだと云うことを忘れてやいまいか?

魔法使いが塞ぎ込んでいて、シンデレラに魔法をかけてやれると思うのか?

何をぼさっと立ち竦んでやがる。お前の足は飾りか? 担当アイドルを導くための担当プロデューサーだろうが、さっさと歩けこのヘッポコPめ。

Pは、自らの心の中に燻っていた凛への様々な想いが、コークスを炉に入れたような滾りを見せるのを感じた。

465 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/05 23:06:16.25 wbEqpjsSo 428/568

「お、瞳に光が戻ったようだ」

一瞬の変化を沈は見逃さずに破顔した。

「沈社長、ありがとうございます。本気で凛と向き合ってこなかった自分を戒めて、やり直そうと思います。でも――」

Pがほんの少し逡巡するのを見て沈は小首を傾げた。

「……どうして825でもない他人の私にこのような救いの手を?」

ああそんなことか、と肩を揺らす。

「ライバルが元気じゃないと、お互いに成長できないものさ。寡占市場はいづれ腐る」

よいしょ、と沈は立った。潮風に上着をはためかせ、Pをじっと見る。

「日本市場のトップが元気ないのは、我々にとっても不幸だからね」

466 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/05 23:06:54.14 wbEqpjsSo 429/568

国内の芸能関係者ではこのような一種堂々とした開き直りは不可能だっただろう。

それでも、いまPに必要なのはそれによって齎される発破だった。

「さっき私は魚を気の毒だと云っただろう? それは担当アイドルに対しても同じなんだ」

期待をさせるだけさせて、放置するのは悲しいこと。

担当アイドルときちんと向き合う刻がきたよ。そう云って沈はPの後方を指差す。

示す方向を振り返ると、姜の隣に、凛がいた。

468 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/06 23:27:31.67 FbMZBPjoo 430/568


「――どうして私のところへ?」

姜が運転するプジョーの助手席で、凛はハンドルを握っている隣の男に、迎えにきた理由を問うた。

「魔法使いの首領―ドン―に仰せつかってね。城へ向かうシンデレラを乗せる馬車の馭者役をしているのさ」

シンデレラにフィーチャーすることの多いCGプロに合わせた表現をして、姜は使い走りの状況に若干「やれやれ」と云う空気を纏わせつつ笑った。

「私が家を出ようとしたまさにそのタイミングで来るなんて、まるで狙いすましたかのよう」

そもそも詳しい居住地はCGプロ内のごく一部と栗栖にしか知らせていなかったはずだが。

469 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/06 23:28:34.40 FbMZBPjoo 431/568

「蛇の道は蛇、ってことだ」

姜はそう云ってはぐらかすように加速した。

このSUVは姜の愛車だそうで、本拠地である韓国でも同じ車種に乗っているらしい。

ドライブフィーリングは日本車ともドイツ車とも違い、フランス車に特有の、ふわっとしていながらしなやかなコシがとても新鮮だ。

「この車が、スジさんと熱愛スキャンダルが報じられた時のものなんですね。私を乗せてるとまたあらぬ誤解のネタになってしまうんじゃないですか」

470 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/06 23:30:56.41 FbMZBPjoo 432/568

「……よく知ってるな」

姜は苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。

凛はこれまでR.G.Pの情報を収集してきた中で、熱愛報道のログに触れていた。

姜もまた、雨降りしきる夜に私用車の中でスジと並々ならぬ雰囲気を出していたと、激写スクープされたことがあったのだ。

「正確には、この車ではなく韓国での俺の愛車だが。ハンドルの位置が左右違う」

ウインカーを出しながら、右ハンドルには中々慣れないとぼやく。

「あのスキャンダルは、R.G.Pそして俺にとって試練だった」

姜にとってあまり話したくない記憶だろうに、一つ一つ言葉を選んで、ゆっくり語る。

説明によれば、実態は、スジの家族についての繊細な話をしていたに過ぎなかったらしいのだが、外から見ている人間に判ろうはずがない。

姜やR.G.Pもまた、自らの意志とは関係なしに火事が拡がってゆく経験があったのだ。

471 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/06 23:31:41.65 FbMZBPjoo 433/568

「それもあって、渋谷さんの今の状況には同情を禁じ得ない部分があってね」

「私の場合は……自らの我儘が招いた結果ですし」

「人間なら仕方のないことさ。アイドルは機械じゃない」

感情もあれば生死もある、と姜は深い溜息を吐いた。

「……そのように“先輩”に云って頂けると、救われます」

「不祥事の先輩――ね」

複雑な感情を顔に出しつつ、違いない、と姜は笑った。

472 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/06 23:32:50.26 FbMZBPjoo 434/568

凛は進行方向をまっすぐ見据える。

「確かに、アイドルは……私は機械ではありません。ですが、人間だからこそ責務があります。各方面に、そして何よりプロデューサーに大きな迷惑を掛けてしまいました」

凛の、芯のはっきりとした独白に、姜は静かに耳を傾けている。

「どうして自分はあのような行動を取ってしまったのか、今では自分で自分のことがわからないんです。悔やんでも悔やみきれません」

しばし会話が途切れる。エンジンやタイヤの生み出すロードノイズが車内を支配する中、姜はおもむろにハンドルを切った。

「その気持ちがあるだけで充分なんじゃないだろうか。少なくとも俺はそう思う」

473 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/06 23:34:05.31 FbMZBPjoo 435/568

速度を落としたプジョーが、海浜公園の駐車場へと滑り込んでゆく。

先端まで走って、キッと軽い音を立てて止まった。

「舞踏会の会場へ到着ですよ、お姫様」

「……こんなところに?」

天候もさほど良くない上に時間帯の所為もあってか、人影が全くない。

アイドルがこの地を歩くと云う観点からは誰もいない方が歓迎すべき状況ではあるが、本当にPがいるのか、俄かには信じ難かった。

「社長からの連絡によれば、ここらしい」

姜が先に降りて、助手席側のドアを開けて云った。

「この先の岩場だそうだ。行こう」

474 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/06 23:34:55.40 FbMZBPjoo 436/568

姜と連れ立って歩くと、海浜公園とは名ばかり、すぐに景色は岩場の荒涼としたものになった。

「懐かしい雰囲気がする場所だな……」

独り言が姜の口をついたので、凛は鸚鵡返しに問う。

「懐かしい?」

「自分が沈社長にスカウトされたのもこんな天気、こんな場所でのことだった」

「……プロデューサー職種の人間って、行動パターンが同じなんですかね」

凛の、冗談とも本気とも受け取れる言葉に、姜は肩を竦める。

475 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/06 23:36:20.67 FbMZBPjoo 437/568

10分ほど歩いて、いよいよ波打ち際が近づいてくると、静かに海を見つめているPと沈の姿を岩陰に認めた。

向こうはまだこちらに気づいていない。

「姜プロデューサー、ありがとうございました」

凛は隣の姜を向いて、改めて礼を述べた。その顔は、天気と同じくだいぶ曇っている。

「ここまで連れてきてもらっておいてこう云うのもどうかと思うんですが」

ちらりとPや沈の方を横目に見遣って、視線を戻す。

「……私は本当にプロデューサーに会う資格があるんでしょうか」

476 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/06 23:36:57.04 FbMZBPjoo 438/568

今時分の必要な連絡だけ姜からお願いできないか――凛はしゅんと気落ちした声音で云うが、姜は首を横に振った。

「それは俺の役目じゃない」

「……ですよね。甘えです。ごめんなさい」

「でも――」

凛が溜息を吐きそうになる一瞬前に姜が続けた。

「渋谷さんに今語るのが、沈社長から受けた俺の役目なんだろう」

軽く咳払いをして、一度息を大きく吸う。

477 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/06 23:37:51.18 FbMZBPjoo 439/568

「迷惑を掛けたことを悔やんでいるとさっき渋谷さんは云ったが……
プロデューサーってのは、担当アイドルのためなら、どんなことでも幸せに感じられるものなんだ。俺だって、R.G.Pのみんなを迷惑だなんて思ったことはない」

担当アイドルを輝かせるため、担当アイドルを守るため、担当アイドルを癒すため――

担当アイドルを思ってする行動は、プロデューサー自身の歓びでもあるのだと。

「迷惑を掛けた過去は変えられない。だが、その過去の結果を受けて未来をどうするか。それはプロデューサーとアイドルが共に向き合うことで構築してゆけるものだ」

姜はそこまで云って、「第三者の視点ならこんなにも簡単に理解できるんだがな」と自らの過去に苦笑しているようだった。

478 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/06 23:38:23.35 FbMZBPjoo 440/568

「姜プロデューサーも、袋小路に入ったことが?」

「ああ、色々な人に助けられて、俺は今ここにいる」

遠くの沈を向いて云った。沈の占めるウェイトが相当なものなのだと、その仕種だけで凛は理解した。

「今度は俺がその役目を果たす時と云うことか」

姜は自らの因果に「フッ」と笑う。

「さあ、馭者の出番はここまでだ。あとは渋谷さん自身の肩に掛かっている」

「最後に一つ、いいですか」

ん? と姜は凛を向いて首を傾げた。

479 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/06 23:39:17.25 FbMZBPjoo 441/568

「……どうして、私――いや私たちにここまでしてくれるんです? ライバルのような関係なのに」

「ライバルだからこそだよ。日本のトップアイドルには元気でいてもらわないと我々も張り合いがないからな」

ニヤリと不敵に笑って姜は云った。

「ま、それはちょっと云い過ぎか。R.G.Pの成長のためにも、日本側のアイドル業界と切磋琢磨する必要があるのさ」

よろしく頼む、と姜が右手を差し出した。

凛はおずおずと、それでいてしっかり握り返す。

沈が立ち上がって、こちらを指差した。

480 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/06 23:40:27.23 FbMZBPjoo 442/568


Pと凛が、お互いに手を伸ばせば届く距離まで歩み寄った。沈と姜は離れたところで別途合流したようだ。

「プロデューサー、会社サボりはよくないよ」

「面目次第もない」

凛が、悪戯をした我が子を諫めるかの如し口調で云うので、Pはバツが悪そうに答えた。

「つかさは、今日の会議は自分だけで大丈夫だ、って云ってたから。ここへ来るまでの間にちひろさんにも連絡してある」

「何から何まで、すまん」

プロデューサー失格だ、とPは頭を下げた。

481 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/06 23:41:10.22 FbMZBPjoo 443/568

凛が何も云わないので、不思議に思って視線を上げる。凛は、静かにかぶりを振っていた。

「ううん、私こそ、ごめんなさい。プロデューサーをこんな状態にしてしまったのは、私の所為だから」

「いや、この一連のことは全面的に俺が至らなかったのが悪い」

「違うって。私の我儘が全部引き起こしたことだよ」

「俺が」

「私が」

お互いに自らの責を主張して退かない。

482 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/06 23:41:42.68 FbMZBPjoo 444/568

Pは、何かが無性に可笑しくて、矢庭に噴き出した。

「……まずは凛と俺と二人でつかさに謝ろうか」

「……そうだね。まずはそれが第一かも。他のことはその後、かな」

凛もバツが悪そうに両肩を上げた。

「すぐに戻ろう。積もる話は、車の中ででもできるから」

「うん、行こ」

二人、岩場を歩き出す。両者の胸はこれまでと違ってしっかり張っていた。

483 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/06 23:42:36.96 FbMZBPjoo 445/568

引き潮に取り残された水たまりに嵌らないよう注意し合って、大股小股で進んだり、小さくジャンプしたり。

単純に車へ戻るだけの道のりが、二人には久しく味わっていなかったアトラクションのように思える。

「こんな些細なことが幸せだって、見えてなかったんだね、私」

凛は独り言ちた。

Pが「どうした?」と振り返って問うので、「失敗してから判ってくるものが多すぎるな、って」と凛は足元を見ながら答えた。

484 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/06 23:44:28.16 FbMZBPjoo 446/568

楽しい時間は実際より圧倒的に短く感じてしまうもので、視線を上げれば、先ほど姜が停めた場所とはまた別の駐車場がもう目前だ。

「ねえプロデューサー、私たちはどこでボタンを掛け違っちゃったんだろう」

Pの車の助手席に乗って、シートベルトを締めた凛が問うた。

掛け違えた、と云う表現は正解でも不正解でもある。掛け違える前段階から既にズレが生じてしまっていたからだ。

凛は考え込んで、もう一言を添える。

「そもそも業務時間外に彼と直接的な交流を持ったのがいけなかったんだよね」

485 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/06 23:45:01.22 FbMZBPjoo 447/568

乃木公園で個人的な関わりを持ち始めてしまったこと。

1回だけならまだしも、それが習慣化してしまったのがまずかった。

「それを云うなら、坡州での連絡先交換を俺が許可したのが始まりだよ。全てはそこからだ」

「あれはプロデューサーが私を信頼してくれた証でしょ? それを私が裏切りの形にしてしまったのは、やっぱり事実だし」

「うーん……早い時期から凛と彼はお互いに悪く思ってないんだろうな、と感じて微笑ましく見てたよ」

凛が「えっ?」と息を呑んだ驚きの声と、エンジンのイグニッションが被った。

486 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/06 23:46:29.94 FbMZBPjoo 448/568

だいぶ昔の話を蒸し返してしまって少し気恥ずかしいが――とPが云いながら、駐車場から出すために車を後退させた。

「アイドルを始めたての頃だ。凛が俺に対して恋煩いみたいな状態になったことがあっただろ。その時は俺が断固阻止したけど」

「うん。あの頃の私も青かったよね。プロデューサーがあんなに怒ったところ初めて見たし、アイドルとしての自覚を持つきっかけでもあった」

「実は――あの出来事は俺にとって負い目でもあるんだ」

凛が目だけで問うてくる。感謝してるんだよ? とでも云いた気の視線だ。

487 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/06 23:47:25.36 FbMZBPjoo 449/568

「確かにアイドルとしては正しいんだろうな。でも、そう云う類の感情を殺すのは、果たして人間として正しいことを俺はしたんだろうか、って」

「人間、として……?」

「ああ。ただでさえ、普通の人なら味わうであろう青春をお前は代償にした。
尊い犠牲の許で輝いている凛に対して、その上さらに人間らしさまで人身御供に捧げろと要求しているような気分だった」

――これでは、アンドロイドと何が違うのだ?

「だから、俺が取り上げてしまった人間の感情を、今回久しぶりに凛が取り戻したように見えて、凛と彼が接近してゆくのを止められなかったんだ」

ハンドルを操作しながら、Pは「うまく立ち回れなくて、すまない」と顎を引いた。

488 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/06 23:49:58.78 FbMZBPjoo 450/568

「え、あー……プロデューサーはそう云う風に思ってたんだ……」

凛はPの心根に触れて、視線を自らの足許へ落とした。

「……ごめん」

ややあって、ようやく一言だけ。変装用のサングラスの下から、一筋の泪が伝った。

「プロデューサーときちんと話すでもなく、勝手に勘違いして、勝手に間違った方向へ進んじゃって、ごめんなさい」

489 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/06 23:50:39.05 FbMZBPjoo 451/568

額に腕を当てて「あーもう……どうして独り突っ走っちゃうかな私」と天を仰いだ。

「でも、一つだけ云わせて。私は、プロデューサーに感情を殺されたとも、人生を捧げさせられたとも思ってないよ。アイドルとして生きてきたこの8年、私はとても楽しかった」

たしかに、凛は志願者ではなくスカウトで芸能界に入った人間だ。しかし。

「私は、アイドルが好きだからやってきたんだよ。義務感じゃないんだ。プロデューサーとの二人三脚が楽しかったの」

「凛……」

490 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/06 23:51:08.65 FbMZBPjoo 452/568

Pが、長い長い息を吐く。

「――勝手に自滅してたんだな、お互いに」

「うん、そうだね……お互いに」

再び、今度は二人とも大きく嘆息した。

「すまなかった」

「私こそ、ごめん」

491 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/06 23:51:45.16 FbMZBPjoo 453/568

不器用な二人だった。

きちんと話せばすぐに分かり合えるはずのズレを、これほどまでに拗らせてしまうとは。

「……失態は行動でカバーしなきゃね」

凛は、決別するように泪をハンカチでしかと拭って云った。

「当座、どこから立て直しを図るのがいいのかな。やっぱりツクヨミ? それともソロの足場から、かな?」

「そうだな……様々な選択肢がある。社に戻ったらリカバリープランを早めに二人で練ろう」

突破すべき難題は、眼前に山積している。

493 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/07 23:32:55.97 DXxvvhP2o 454/568


・・・・・・

人間如きがいくら悩もうが、いくら悔やもうが、時間は待ってはくれない。

せいぜい神の造り給うた庭の中で走り回ることしかできないのだ。

摂理に抗うこと能わず。凛の、24度目の誕生日がきた。

せっかくの誕生日だと云うのに、仕事は容赦なく入れられている。

いや、むしろこれまでの失態を考えれば、こんな日でも仕事の予定が入っていることこそ感謝しなければならないのだろう。

それに、自らの仕出かしたことを思えば、今年は家族や近しい者で祝うのみに抑えるべきだとも云えた。

494 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/07 23:34:02.39 DXxvvhP2o 455/568

この日は歌番組の収録だ。

復活の狼煙として先日リリースした曲を披露する場。

かつてのような、意地悪なバラエティではなく、純粋に歌姫として活躍できるステージになるはずである。

騒動以降、Pは凛に可能な限り付き添うようになった。

凛のプロデュースに注力するため、色々な身辺整理をした。

何人か受け持っているアイドルを、ユニットを組んでいるつかさを除いて他の手すきのプロデューサーへ移譲したり、こまごました事務処理はちひろに全部任せたりと、可能な限り身軽になろうと東奔西走した。

ツクヨミは、騒動の引責としてPと田嶋が共に退き、経験豊富な765のプロデューサーが新しく立つことになった。

Pは陰からサポートする役目に徹している。

各方面への“戦後処理”を進めたことで、Pは本来の存在意義である担当アイドルを見守る者へと回帰できたのだ。

495 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/07 23:35:35.22 DXxvvhP2o 456/568

楽屋入りすると、化粧台の横にいくつか箱が置かれていた。先に楽屋に入っていたPが持ってきたらしい。

どれにも『お誕生日おめでとう』と書かれている、有志一同が贈ってくれたプレゼントだった。

中には古参のファンが単独で用意してくれたものもあった。

「うわ……嬉しい。誕生日のプレゼントをこんなに嬉しいと思ったのなんて、いつ以来かな」

包装を解いて中身を確認しながら、凛の顔が綻ぶ。

「ほんと、ありがたい存在だよな」

Pが頷いて、プロテインのシェーカーを寄越す。

「今日はまだ昼メシ食ってないんだろ? これだけでも飲んでおいた方がいい」

午前中は収録のための最終レッスンをこなしていたのだ。ドタバタしていて食べそびれてしまった凛をPはきちんと見ていた。

昼食を引き換えにはしたが、その甲斐あって、今日のステージでは最高の歌を披露できるはずだ。

496 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/07 23:36:07.38 DXxvvhP2o 457/568

「ありがとう。お腹が減っていると、プロテインでも美味しいと感じられるよ」

あっという間に飲み干して凛は顔を綻ばせた。

プロテインの、どろりと喉を犯す感覚が、いつぞやのまぐわいを思い起こさせたが、意識の封をして押し込めた。

代わりに、時計を見遣って立ち上がる。

「そろそろだね。着替えるよ。新しいデザインのドレス、楽しみだな」

岩見沢が腕を鳴らした、健康的な露出を復活させた衣装のお披露目だ。

497 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/07 23:36:36.89 DXxvvhP2o 458/568

ヘアスタイルは、服飾を活かすため一部を垂れ残してアップに結っている。

この戦闘服を纏えば、歌姫・渋谷凛は準備万端。

スモークの焚かれたステージ脇で出番を今かと待つ後ろ姿に、Pはかつて15歳だった凛の初舞台の様子を投影していた。

少女は、大人の女になった。

フレッシュな渋谷凛から、艶やかな渋谷凛になった。

さあこれから、どんな渋谷凛になってゆくのだろう。

498 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/07 23:38:05.67 DXxvvhP2o 459/568


スタッフからのキューで、凛は舞台に出た。

曲が流れ始めて、凛は全身、四肢の指先まで最大の意識を注ぎ込む。

肺から発せられる熱気が音波となって弾け飛び、慣性の法則に真正面からぶつかり合う鋭い動作で舞った。

間奏では、アダルティでありつつもフレッシュで勢い豊かなダンスを披露する。きっとこのオンエアを見た視聴者は凛に釘付けになるはずだ。

499 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/07 23:38:39.90 DXxvvhP2o 460/568

歌が2番へと突入し、凛はマイクを持ち直す。あえて強く、ぎゅっと握った。

……しっかり握ったはずなのに、皮膚感覚へのフィードバックがなぜか感じられないのが不思議だ。

心臓が、全身に酸素を届けようとポンプを最大稼働させる。

……袖で待機している頃から、心拍数が上がって、動悸が激しかったのは緊張のせいだろうか。

額や頬そして首筋を汗が伝い、ステージの照明を反射して煌めく。

……これら水の珠が熱く感じられないのは、露出が多めの衣装ゆえ身体が効率的に放熱できるからなのだろうか。

500 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/07 23:39:49.73 DXxvvhP2o 461/568

――いつもより肌を色白に見せる方針だったか? 照明班に、白さを活かすよう色調を微調整させるか。

――唇まで寒色のメイクを徹底してるのは演出なんですかね。

スタジオの裏側で、番組ディレクターとリードカメラマンが小声で話し合っている。

クールな歌姫って云うより氷の歌姫って感じだね、とスタッフが形容した。

季節柄ゆえの演出だろうと皆が信じ込んでいる。

501 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/07 23:40:37.64 DXxvvhP2o 462/568

「あれ……?」

凛は、視覚から入ってくる情報と、自らの三半規管が伝えてくる位置情報に齟齬があることを自覚した。

まっすぐ前を見据えて、きちんと歌っているはず。

なぜ、自分に光を浴びせている照明群が、目の前に見えるのだろう?

首筋から、全身の体温が根こそぎ奪われていく感覚に襲われる。

なぜ、スタジオ内の冷房を一気に強めたのだろう?

凛が脳内で問うのと、女性スタッフの悲鳴が響くのは同時だった。

502 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/07 23:41:33.14 DXxvvhP2o 463/568

まるで石像を倒してしまったかの如く無機的な動きで、凛が地に散った。

「凛!」

Pがカメラなど眼中にない様相でステージへ駆け寄った。生放送ではないのが救いだった。

顔を覗き込むと、意識はあるが双眸の焦点はあまり定まっておらず、皮膚は白いを通り越して土気色に、唇は青紫へと変色している。

それでも自らの状態を知覚できていないのか、瞳にはたくさんの疑問符が浮かんでいるように見えた。

なんで自分は歌っているはずなのにプロデューサーがいるのか? と。

503 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/07 23:42:09.05 DXxvvhP2o 464/568

額や首筋に手を当てると、恐ろしいまでに温度を感じない。

「貧血か」

長い髪をアップに結っていたのは、完全な偶然とは云え不幸中の幸いだった。

もしこうしていなければ、倒れた際の勢いで頭部を固い床に強打していたはずだ。

そうなったら素人は手出しできず、救急隊が担架を運んでくるまで手をこまぬいて見守ることしかできなかっただろう。

504 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/07 23:42:52.90 DXxvvhP2o 465/568

Pが凛の耳元で「すまんが抱えるぞ」と断ってから、華奢な身体と冷たい地面との間に腕を滑り込ませた。

上体に力を入れれば、ふわりと難なく凛は持ち上がる。

羽根のように軽い体躯だった。

Pが立ち上がると、凛が持つマイクは地球の引力に逆らえず手指から零れ、ゴトンと落ちる音をスピーカーが増幅し、妙に響き渡らせる。

いわゆる“お姫様抱っこ”の格好だが、喜んだり茶化したりできる状況ではなかった。

再度凛の様子を覗き込めば、意識が徐々に消失しつつあり、されど口許だけは歌うために動き続けている。

それも楽屋へ戻りつく頃には止まってしまった。

505 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/07 23:44:07.73 DXxvvhP2o 466/568

===

凛は純白の世界にいた。

何もかもが白くて、自分が今どのような状況に置かれているのか判らなかった。

白以外の光もなければ音もない。匂いも触覚もない。

今、自分は歩いているのか、走っているのか、いや、もしかしたら浮遊しているのかさえ判らなかった。

「落ち着いて、周りを見渡そう」

自らに云い聞かせるようにして目を凝らす。

506 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/07 23:53:44.23 DXxvvhP2o 467/568

そのうちに、何か輪郭が不明瞭なものがぼうっと浮かび上がる。

レンズのピントを合わせるように徐々に凝縮してゆくと、それは凛だった。

少しだけ幼さの残る凛。

黒いシンプルなゴシック調ドレスは、今から思えば極低予算で頑張っていたと思い出す。

「デビューしたときの私、か……」

15歳の凛は、また輪郭が崩れ、凛の身体へと重なるように近づいてきて消えた。

507 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/07 23:54:12.03 DXxvvhP2o 468/568


渋谷凛+
9laxFF0


508 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/07 23:54:48.89 DXxvvhP2o 469/568

次に浮かんだのは、ベースを肩に掛ける凛だった。

「CDを出したときの私」

16歳の凛は、また輪郭が崩れ、凛の身体へと重なるように近づいてきて消えた。

続いて、ガラスの靴を手に持つ凛。

「シンデレラガールになったときの私」

18歳の凛は、また輪郭が崩れ、凛の身体へと重なるように近づいてきて消えた。

509 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/07 23:55:16.27 DXxvvhP2o 470/568


[CDデビュー] 渋谷凛+
6KsgEzH


[アニバーサリープリンセス] 渋谷凛
GTqQ7Pw


510 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/07 23:56:01.63 DXxvvhP2o 471/568

その後も、これまでの凛の軌跡が浮かんでは吸収され消えてゆく。

紅白出場の際の衣装を纏った22歳の凛までそれが繰り返された。

「23歳の私だと何が浮かぶんだろうね」

途中から、次は何が浮かび出てくるのか、ほんの少し楽しみになっていた凛の前に、再び何かが浮かび上がる。

――それは、凛ではなかった。

「栗栖……」

511 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/07 23:56:29.94 DXxvvhP2o 472/568

未来は、過去を積み重ねてゆくと云うこと。

過去の連続が現在となり、そして未来へとつながってゆく。

未来の土台となるのは、過去である。

これまで浮かんでは消えていったもの、それは、自らの歩んできた軌跡であり、栗栖もまた、凛にとっての軌跡だった。

確かに、その辿ったレールが正しいものだったかどうかはわからない。

むしろ、決して正解ではなかったのだろう。

それでも、栗栖を好いた凛の感情は、その時こそは本物だったのだ。

512 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/07 23:57:46.83 DXxvvhP2o 473/568

「ごめんね、栗栖」

凛の贖いの言葉に、栗栖は柔らかく微笑んだ気がした。

これまでの凛同様に輪郭が崩れ、こちらへと重なるように近づいてきて消えゆく。

白い靄が晴れてゆく。世界に色が少しずつ戻ってくるように感じる。

――っかりしろ……りん……凛、凛、大丈夫か、凛

霞の向こうで、Pがこちらを見ている。

513 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/08 00:01:36.24 YE7fR/gko 474/568

「う……ここ、は……? 私……いったい……」

急速に様々な感覚が戻ってくる。

目に入ってくるのは、楽屋の光景だった。

視界の端に、焦りの色を隠さずに覗き込むPの姿が映り込む。

「凛、目が覚めたか!」

よかった、と心の底からPは大きな息を吐いた。

514 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/08 00:02:29.41 YE7fR/gko 475/568

身を起こすと、寒いような、暑いような、相反する感覚が全身から首筋へぞわぞわと上がってくる。

一度大きな身震いをして、自らの置かれた状況を見た。

「あれ、私……ステージに出てなかったっけ……」

記憶違いか、夢でも見ていたのか。

Pは首を横に振って、「ステージで倒れたんだよ。たぶん貧血だ」と、凛の額に手を当てて体温を診る。

「あー……ごめん……」

朧げに記憶が戻ってきた。

この背水の状況に於いて、なお失態を晒してしまったのかと、凛は肩を落とした。

515 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/08 00:04:13.45 YE7fR/gko 476/568

「いいんだよ。リカバリーは俺に任せとけ。白湯を用意したから、とりあえず飲んでおくといい」

Pに渡されたカップを両手で持ち、ゆっくりと飲む。

食道を温めながら降りてゆく様子が、自身ではっきりわかった。

ありがとう、と静かに云って、何度か口をつけた。

「私……倒れている間、なんだか不思議な夢を見ていた気がする」

「不思議な夢?」

516 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/08 00:04:45.25 YE7fR/gko 477/568

「私の、これまで歩んできた道を、良くも悪くも再確認させられるような……」

最後にプロデューサーが迎えに来てくれたんだ、と凛は弱々しく笑った。

「ごめんね、心配かけて。少し血圧を上げたら、もう一回撮り直せると思うから――」

頑張るよ、と言葉を続けようとしたところで、不意に何かが溢れ出す感覚がした。

517 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/08 00:05:42.93 YE7fR/gko 478/568

喉元がキュッと絞まるような。

それでいて、鳩尾は中から押し上げる圧力を掛けてきた。

Pは、突如として表情を変えた凛の様子に、只事ではないと直感した。

「どうした、大丈夫か」

すぐさま腰を上げて問うが、凛に返答する余裕はない。

喉と口を手で押さえて首を微かに振るので、急いで抱きかかえて手洗いに運び込む。

518 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/08 00:06:47.37 YE7fR/gko 479/568

すぐさま、凛がえずいた。

今しがた飲んだばかりの白湯ごと、胃の中身が逆流する。

「倒れた際に実は頭を打ってたのかも知れないな……凛、大丈夫か、頭は痛いのか?!」

背中を擦りながら問うPに、凛はかぶりを振って再度吐いた。

呼吸がままならない。空気を求めて喘ぐも、それを鳩尾の締め付けが上書きしてくる。

不快感を排出せむとする身体の硬直を、一瞬息を吸って得られる酸素だけで支えなければならない。

ただでさえ貧血で体力を削ったのに、1回1回が途方もなく長い時間に思えた。

やがて酸欠に敗北した凛の意識と身体は、力なく崩れ落ちた。

520 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/08 22:25:04.55 YE7fR/gko 480/568


・・・・・・

覚醒すると、凛の目にはクリーム色の天井が映った。

虫食いのような、皺の寄った和紙のような特徴あるトラバーチン模様の石膏ボードをしばらく見つめたままで、自らの置かれた状態を理解すべく記憶を引き出そうとする。

さっきまでステージに上がって歌っていたはず――いや、違う。その後ステージで倒れ、楽屋へ運ばれたのだった。

たしか、貧血と云われた気がする。だから、落ち着かせるために、体温を上げるために白湯を呑んだはずだ。

つまりここは楽屋か、と凛は訝しんだ。

521 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/08 22:26:08.10 YE7fR/gko 481/568

その割には違和感がある。
メイクをするためのどぎつい明かりや大きな鏡が視界の中に全く入ってこないし、テレビ局スタッフの、指示をやり取りする大声の会話が聞こえてこない。

そもそも、自分は今ベッドに寝ている。

どうやらこの場所は、天井の雰囲気は似ているが楽屋ではないらしい。

目が覚めたら別の場所にいるとは、まるでこれはテレポーテーションやタイムリープをしたようではないか。

凛は目線と顔を動かして、ここがどこなのかを知ろうとした。

522 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/08 22:27:00.86 YE7fR/gko 482/568

「あ」

すぐにその必要はないとわかった。左腕には点滴の管がつながれていて、Pがベッドの隣にいたからだ。搬送されたのだと理解した。

「プロデューサー……」

「……よかった、目が覚めたか」

Pは、凛が身じろぐ音と微かに問う声で、顔を挙げた。

「ここは……病院?」

「ああ。楽屋で再度倒れたから、救急車を呼んだんだ」

523 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/08 22:27:59.24 YE7fR/gko 483/568

「えーと、つまり……私は今日、2回連続で倒れたんだね?」

体調のセルフマネジメントは基本中の基本だと云うのに。凛はベッドに沈む身体を更に沈めて嘆息した。

「……ごめん、大ごとにしちゃって」

「いいんだ。意識を失っている間に色々と精密検査をしてもらったよ」

凛自身は、一瞬だけ目を閉じて再度開けたら病室にいた、と云う感覚だった。しかし実際には長いこと電源が落ちていたらしい。

なるほど、皮膚をよく見れば、倒れている患者から無理矢理採血したのであろう痣が出来ていた。

524 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/08 22:30:01.29 YE7fR/gko 484/568

「結果、身体に異常はないから安心していい」

あれほど体調が悪かった割には、幸いにも病気ではなかったらしい。

過労に負けないよう、栄養摂取にもう少し気を付けるべきだろうか。

どのように改善すべきか思考する中、Pが下を向いて黙りこくっているので、凛は訝しんだ。

じっと見つめても、何かを考え込むように顔を伏せている。

どうにも、異常なしと云う本来なら歓迎すべき話の内容と、様子の重苦しさが一致しなくて妙だ。

「……まだ続きがあるんじゃないの? その様子」

凛の問いに意を決したPは、軽く息を吐いた。

525 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/08 22:30:50.13 YE7fR/gko 485/568

「検査をしてもらったからこそ、わかったこともあるんだ」

顔を挙げて凛を見る。その表情は硬かった。

「……妊娠。2箇月あたりだろう、って」

凛は、しばらく眼をぱちぱちと瞬かせた。

Pの言葉が、自分の状況と紐づけられなかったのだ。

「……え?」

526 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/08 22:31:37.98 YE7fR/gko 486/568

まさか。

これ以上堕ちることはない、そう思っていたのに、まだまだ下はあったようだ。

収録中に倒れ、あまつさえそれが悪阻―つわり―のせいだったと?

「……そんな。いくら私がこれまで男女の機会がなかったと云っても、避妊の知識くらいはちゃんと持ってるし、しっかり実践したはずだよ。栗栖だってそこはきちんとしてた」

15歳でデビューして以来、アイドルになったからこそ、この身体を男と交わらせることはしてこなかった。

たとえ齢23になるまで生娘だった身でも、アイドルと云う、或る意味で肉体を異性向けの仕事道具とする以上、万一に備える意味でも性知識は適切に学んでいた。

527 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/08 22:32:20.96 YE7fR/gko 487/568

栗栖とて、状況は同じ、充分に承知していたはずだ。まぐわう際には、毎度々々避妊具をしかと装着していた。

俄かには認められない事象を否定したくて、これまでの努力を必死で訴える。

だが、血液検査をした科学的なデータの裏付けがある。身籠っている事実を直視しなければならないのだ。

そのうち、凛はもはや何も二の句を継げなくなった。

看護師が終わった点滴を回収しにくるまで、病室に掲げられた秒針の音だけが響き続けた。

528 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/08 22:32:56.57 YE7fR/gko 488/568

===

「いったい……いつ……どこで……」

凛はリビングで顔を覆っていた。

点滴が完了すれば、身体に異常のない凛が病院にいる道理などない。

Pに自宅まで送ってもらい、せめて落ち着こうと二人分の緑茶を淹れたところ。

テーブルの対面に座るPは、湯飲みを両手で包み込み、深い緑を見つめたままだ。

529 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/08 22:33:55.98 YE7fR/gko 489/568

帰る道すがら、Pに連れ添ってもらって極秘裏に婦人科を受診すると、腹部超音波エコーの白黒画面に表示される胎嚢が、しっかり確認できた。

これで確定だ。

トップアイドル渋谷凛は、子を孕んだのだ。

「おめでとうございます。正常に育っています。7週ですね」と云う医師の言葉が、ずっと脳内をこだましている。

530 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/08 22:34:53.19 YE7fR/gko 490/568

2ヶ月前は何をしていた? 栗栖との関係が終わりかけていた頃の話だ、精神の不調でセッ○スの頻度は確かに高かったが――

「……もしかして」

最も精神が狂っていた頃に、捨て鉢になってハーブをキメながら狂乱的な交接をした記憶がうっすらと浮かぶ。

あの時は口を犯されていた微かな覚えしかない。

しかし、最も深くキマっていたときにどのような行為をしたのだ? どんな求め方をしたのだ?

栗栖にも効いていたはずだから、避妊のことを考える余裕などなかったのではないか。

眼を見開いて表情を蒼白にした様子を見て、Pは凛に心当たりが浮かんだことを察した。

531 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/08 22:35:43.94 YE7fR/gko 491/568

「私、さすがにもう、ツクヨミには……いられないね」

凛は俯いて、深く息を吐き出した。

Pが一瞬だけ逡巡してから、口を開く。

「……既に田嶋さんと話は済ませてある。八馬口さんの件もだいぶ落ち着いてきたし、遠家さんに替わってもらう方向で進んでる」

「そう……ありがとう」

532 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/08 22:36:51.01 YE7fR/gko 492/568

凛は、慚愧や後悔、感謝など様々な想いを一言に載せて、震える手で茶を一口飲んだ。

呼吸も、手と同様に震えていた。

「……うっ」

茶すらも受け付けない胃がすぐさま反乱を起こし、たまらずトイレへ駆け込む。

Pが「大丈夫か、大丈夫か」と必死で背中を擦ってくれるのが申し訳なくて、惨めで、身の置き所がなかった。

533 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/08 22:37:41.65 YE7fR/gko 493/568

嘔吐が落ち着くと、凛は、新しく芽吹かむとする存在を――自らの下腹部を見た。

「この……このせいで……」

視線を鋭くして、よろよろと壁に手をつきながら台所へ向かう。

かつて栗栖からもらった包丁を取り出して、力強く逆手に握り、手を振り上げた。

「おい、やめろ!」

凛の意図を理解したPが慌てて抑えつける。

534 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/08 22:38:36.92 YE7fR/gko 494/568

「莫迦! 自分の腹に刃を突き立てる奴があるか!」

「この包丁なら切れ味いいから! 一回突き立てればすぐに済むから! 一回刺すだけなら私は死なないから!」

凛は錯乱して、掴まれた手を振り払おうと身を捩りながら叫んだ。

Pは無理矢理に刃物を毟り取って、部屋の反対側に投げ捨てる。鈍い光を反射しながら、ゆっくりと放物線を描いた。

凛は、がくりとうなだれて、床にへたり込んだ。

すぐに思い直したように顔を挙げ、「じゃあ、今すぐ中絶を――」とPの腰に縋りついて云う。さめざめと泪が溢れている。

535 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/08 22:39:35.43 YE7fR/gko 495/568

「それもダメだ! 新しい命に罪はないだろう!? 母体にも相当な負担が掛かる!」

「だって、それじゃアイドル辞めなきゃいけなくなる……!」

「それよりもお前の身体の方が大事だ!」

肩で息をするPが、深呼吸して、しゃがみ込んだ。

凛の上体を両手で支えて、「落ち着いて、ゆっくり、話を聞いてくれ」と柔らかく諭す。

しばらくの時間を待ってから。

536 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/08 22:40:17.72 YE7fR/gko 496/568


「……俺の子だ」

537 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/08 22:40:52.47 YE7fR/gko 497/568

凛は瞠目した。

「凛を、この世界に連れてきた、縛り付けた業は、俺が全部背負う」

「プロデューサー……自分が何を云っているか、わかっているの?」

「いいか、これは、何も義務感や責任論だけで出す言葉じゃない」

お互いの視線が、真っ直ぐに交差する。

「――結婚、してほしい」

538 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/08 22:41:37.29 YE7fR/gko 498/568

凛の瞳が揺れる。

「プロ……デューサー……。その言葉が義務感じゃないって……どう云うこと……」

「9年間、封印してきた想いだ。俺は、ずっとお前に惚れていた」

「嘘……だったらつまりあの時、両想いになってたってことじゃない。なのになんであんなに私を怒ったの」

「当たり前だろう。お前はアイドルだ。一般人ならまだしも、プロデューサーである俺の個人的な感情を注ぐことが到底赦される存在じゃない。
俺を恋愛対象外の人間に仕立て上げる必要があった」

心を鬼にして振らなきゃいけなかったに決まってるだろう、と云って、Pは目を苦しそうに閉じた。

539 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/08 22:42:13.17 YE7fR/gko 499/568

――サガ、だね。

ふと横から、凛の耳に自らの声が届いた。

振り向けば、そこには大きな姿見があって自分が映っている。だが、座り込んだ自分ではない。

15歳の凛が、制服姿で立っていた。

「私は、アイドルの世界の熱さを知ってしまった。そして、それ以上に――」

鏡がぼうっと白く光ると、映るのは17歳の凛に変わった。アイドル衣装の姿だ。

540 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/08 22:42:39.82 YE7fR/gko 500/568


[ピュアバレンタイン] 渋谷凛+
Lv3PVFl


541 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/08 22:43:19.02 YE7fR/gko 501/568

フリルやリボンを多用した、柔らかい印象のドレス。赤とクリーム色がバランス良く、深緑のワンポイントがプレゼント包装を彷彿とさせる。

かつて想いを漏らしてしまった時に着ていたものだ。

「人を想う温かさも芽生えた。ただ、これは赦されないことだったよね。だからあの時のこと、理解はしているつもりだよ、私」

でも――そう息を吐いて、鏡に映る凛が目を閉じた。ふわり飛び出て、目の前に浮かぶ。

「もうそろそろ、解放してくれてもいいんじゃないかな」

やがて数多の白い光の珠となって、24歳の凛に溶け込んでゆく。

542 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/08 22:43:58.29 YE7fR/gko 502/568

心の奥底に深く固く仕舞い込んだ宝箱が開き、まるで涸れない湧水のように想いが溢れ出す。その奔流は泪となって止め処なく凛の頬を濡らした。

「プロデューサー、ごめんね、私も本当はずっと好きだった……」

凛の慟哭にPはハッと目を開けた。

「アイドル失格でごめんね……本当はあれからずっと、想いの宝箱に鍵をかけて大切に仕舞っておいたんだ……」

「凛……!」

Pが凛の華奢な身体を力強く抱き寄せた。

543 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/08 22:45:38.87 YE7fR/gko 503/568

凛も両腕をPの背中へ回す。

「こんな状態で応える形になっちゃって本当にごめんなさい。莫迦な私を……赦して……」

「いい、いいんだ。俺こそすまなかった、凛をこんなに傷つけて。赦してくれ」

二人、これまでの時間を取り戻すかのように、いつまでもいつまでも抱きしめ合う。

凛は、初めて自らの泪がこんなにも暖かいものだったのかと知覚し、声を上げて泣き続けた。



544 : エンディングテーマ代わりに ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/08 22:46:52.46 YE7fR/gko 504/568




「愛は夢の中に」
原題:I won't last a day without you (あなたなしでは生きてゆけない)
https://www.youtube.com/watch?v=bbPf8lDp1ek



547 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:01:51.97 VEW2G1XCo 505/568





エピローグ
・・・・・・・・・・・・




548 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:02:39.43 VEW2G1XCo 506/568

チャオプラヤー川の雄大な流れのほとりに、バンコクの街は横たわっている。

高層建築のミラーガラスがぎらぎらした陽の光を反射する東南亜屈指の国際都市でありながら、人々にはホスピタリティが溢れ、どことなくお茶目な社会。

旧市街の決して舗装状態が良好とは云えない小道には露店が立ち並び、合間を縫うようにしてトゥクトゥクと呼ばれる自動三輪車が駆け抜けるのは毎日の光景だ。

交通渋滞が作り出す排気ガスの空気が吹き抜け、その中に混じる南国の風の匂いが、ここが常夏の国だと云うことを教えてくれる。

経済成長著しいバンコクにあって、新興住宅街には高層マンションがまるで雨後の筍のように伸びる。

現地でコンドミニアムと呼ばれるそれら建築物の袂を通る道路は、かつての雑然とした泥臭さから、カフェやアパレルなどお洒落でハイセンスな場所へと変貌している。

549 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:03:06.69 VEW2G1XCo 507/568

陽気なストリートを溌溂とした快活な足取りで歩く少女の姿が見えた。

年端はさほどでもないとみられる割に相当な美人だ。

大きな瞳は碧く澄んで潤いのある光沢を放ち、甘い栗色をした長い髪はさらさらと流れ、風を受けて踊っている。

舞う髪の隙間から、サファイアのピアスが見え隠れした。

550 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:03:51.83 VEW2G1XCo 508/568

南国タイには珍しく、肌の色素が濃くない。

確かに強い紫外線から守ろうとやや日に焼けた色ではあるのだが、土台となる肌そのものが、東南亜の人間とは根本的に異なる白さを持っていた。

大通りに面したコンドミニアムへと少女が入ってゆくと、エントランスに立つ警備員が、手を挙げて明るい挨拶を寄越す。

この守り人は、コンドミニアムに入居する全ての世帯にとって家族同様の存在だ。

エレベーターを待つ間に、一言二言、タイ語の世間話をしてから手を振った。

551 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:04:38.21 VEW2G1XCo 509/568


「ただいま」

「おかえり。遅かったね、また寄り道?」

玄関の扉を閉めてから飛び出た会話は、意外にもタイ語ではなく日本語だった。

「まあ、寄り道っちゃ寄り道だけど。でも、そんなに云うほど道草食ってなくない?」

少女は頬を膨らませて軽い抗議の様相を見せた。

抗議された側はどこ吹く風で包丁を上下させている。

552 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:05:22.18 VEW2G1XCo 510/568

「あら。月曜だってわざわざタークシン橋を越えて高島屋に行っていたそうじゃない」

「うえっ、なんでそれを……」

「お母さんの情報網を甘く見ないことだね、ふふっ」

切り終わった野菜を鍋へ放り込んでから、少女の方を振り向いてニヤリと笑った。

アップに結った髪の先端が緩やかに揺れ、耳朶には白銀のピアスが輝く。

長い睫毛に囲われた大きな碧い瞳は、その美しさが母から娘へ正当に受け継がれていることを示していた。

553 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:05:57.63 VEW2G1XCo 511/568

「さ、夕飯までの間に宿題を済ませちゃいなさい」

調理へ戻ろうと再び包丁を持った母親に促され、少女は肩を竦めて「はーい」と回れ右をした。

くるりと回る際に、柔らかく艶やかな髪が遠心力で揺れた。

シルクのように電燈の光を反射するさまを見て、母親は郷愁に似た感覚を受けた。

「ほんと、似てきたね……」

つと呟いて、西日に照らされる窓際の棚へ視線を遣る。

554 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:06:24.17 VEW2G1XCo 512/568

木の素朴なフォトフレームが置かれている。

かつて、自らが第3代シンデレラガールとして頂点へ駆け上がった時に撮ったもの。

その写真の中で擁いているガラスの靴そのものが、隣で陽を受けて輝く。

それらも、もはや遠い昔のことだ。

季節は移ろい、すべての物事が、未来から現在そして過去へと流れてゆく。

「14年も経てば、そりゃ似てくるよね」

凛は、写真の中で笑う過去の自分と、窓から見えるバンコクの空を交互に見て独り言ちた。

555 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:06:55.07 VEW2G1XCo 513/568


15年前の秋。

渋谷凛は、突如として芸能界を去った。

トップアイドルのあまりにも唐突な引退劇に、理由を完全に隠すことは不可能だった。

――渋谷凛は、一般男性と結婚いたします。

表向きは結婚だけが理由。

しかし、結婚をする理由が妊娠であることは、アンオフィシャルな情報として伝播した。人の口に戸は立てられなかった。

556 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:07:22.93 VEW2G1XCo 514/568

Pは、担当アイドルを孕ませた汚名を背負い、事務所を辞めた。

凛を守るために全ての責任を被った担当プロデューサーは、懲戒解雇の槍玉に挙げられたが、事情を知るちひろとつかさの根回しで、依願退職扱いとなった。

「アタシのことは気にするな。ソロもベキリもセルフプロデュースで充分やっていけるさ。ベキリはジュニが凛を継いで入ってくれるだろ」

全てを告白した凛とPに、つかさは驚きの後、そう云って笑った。きっと心配させないようにわざと大きく破顔したのだろう。

「長い間トップをコミットし続けるのも大変だったろ。おつかれ」と送り出してくれる笑顔は、少しだけ寂しそうだった。

557 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:07:58.83 VEW2G1XCo 515/568

凛は全国民が知るトップアイドルだっただけに、国内に安住の地はない。

人の目の多い都市部は当然無理だし、逆にどれだけ辺鄙な場所であろうと――いや、辺鄙だからこそ著名人は目立ってしまう。

結局、トップアイドルそしてトッププロデューサーと云う椅子に腰掛けていた少しの間の貯蓄を使って、バンコクへと飛んだ。

Pたちがこの街を選んだのは、邦人の居住しやすい環境が揃っているからだ。

タイの人々は親身になって接してくれるし、中心街に出れば伊勢丹や東急デパートもあり、海の向こうの地でありながら、日本の空気を感じることもできる。

基本的にはPが外で用事をこなせばよく、どうしても凛が外出しなければならないときも、そこまで周りの目を気にする必要はない。

どこからか嗅ぎ付けた邦人が現地まで来たところで、エントランスに構える警備員が全てを跳ね返してくれたし、外国人の滞在可能日数は限られているから長期戦も不可能。

バンコクは凛たちにとって、デビュー以降初めて、安息の時間を手に入れられるシャングリラだったのだ。

558 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:08:28.81 VEW2G1XCo 516/568

この地に腰を据えて、はや15年。

14歳になった娘は、棚の写真が何なのか、何の靴なのかまだ知らない。

幼い時分に訊かれはしたが、詳しい説明を省いたので、単純に母親の若い頃の写真と、シンデレラ童話をモチーフにした置物としか思っていないようだ。

しかしそれも、そろそろ思春期自我の発達に伴って疑問が浮かんでくるのだろう。

もしこのまま訊かれなければ、15歳になった時に話そうと思っている。

559 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:09:20.31 VEW2G1XCo 517/568

わざわざ目につく場所に飾っているのは、凛なりの想いがあってのことだ。

――アイドル、幸せだった?

そう自らに問うた時、或いはPに問われた時、何度訊ねられても必ず彼女は首肯する。

Pへの罪悪感に因るものではない。

現役当時は確かに幸せな生活だったのだ。アイドルだったことに誇りを持っている。

その過去を否定することは、彼女にはできなかった。

絶頂期の写真を掲げるのは、幸せだったことを示す、人生の栞なのだ。

560 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:09:50.07 VEW2G1XCo 518/568

そして隣に鎮座するガラスの靴は、写真と対になる、自らへの十字架。

元々この靴はPから贈られて以来、ずっと大切に仕舞っていたものだった。

凛は、本当に大切なものはしっかり保管しておく性質だ。

だからこそ、今は戒めとして飾っている。

宝物を自らの意志に反していつでも目に入ってくるよう掲げるのは、苦い薬であることを示す、人生の羅針盤なのだ。

561 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:10:16.06 VEW2G1XCo 519/568

これらが一体何なのか? 娘に改めて詳細を尋ねられた際の覚悟は、既にできている。

お腹を痛めて産んだ時から、自らの背負うべきカルマを一瞬たりとも忘れたことはない。

先に帰宅していた弟と共にリビングで参考書と睨めっこする長女の横顔は、真の父親たる栗栖の特徴をどんどん顕してゆく。

男女それぞれのトップアイドル遺伝子が融合したその存在は、まさにサラブレッド。美しく育たない方がおかしいとさえ云える。

明るい栗色の髪、中性的に整った目鼻立ち、すらりとバランスの良い体躯。

562 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:10:42.43 VEW2G1XCo 520/568

わずか14歳にして、かつての凛を超えるポテンシャルが顕現してきている。

仮にアイドルとしてデビューすればきっと途轍もない逸材になるだろう。

恵まれた身体に、実の娘ながら嫉妬してしまう。

同時に、時として美しさが引き起こす悲劇がこの娘にも降り懸かり得るのかと思うと、胸が痛んで仕方がなかった。

娘が自らの生まれを呪うことのないよう、命を懸けてさえ守らなければ。凛はその想いを片時も離さなかった。

563 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:11:09.68 VEW2G1XCo 521/568


やがてコンソメとブイヨンの芳醇な香りが漂う頃合に、Pが仕事から帰宅した。

正直なところを云えば、現役時代に二人で稼いだ金額があれば、タイで慎ましやかに生活する限り一生困らない。

それでも人間とは難儀なもので、何かできることを探して動かずにはいられないのだ。

Pは旅行代理店のプランナーとして、かつての経験を活かせる職場にいた。

「いただきます」

一家揃って夕食を摂るのが、欠かさない日課。

うまいなあ、と云いながらPが平らげてゆく横で、その日の出来事をお喋りするのだ。

564 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:12:10.29 VEW2G1XCo 522/568

「恋―レン―ったらまた学校帰りに遊び歩くんだから。お父さんからも何か云ってよ」

凛が奔放な娘に若干手を焼くように云った。

母親ほど娘といる時間を長くとれないPは、凛以上に甘かった。

「まあBTS―スカイトレイン―やMRT―バンコクメトロ―で移動できる場所なら問題ないんじゃないか。昔ほど治安の悪い場所はなくなったから。恋だって場所の善し悪しは判るだろう」

な? と恋を見て問うと、当の本人は笑顔を咲かせた。

「でしょ? やっぱりお父さんは私の味方だよね」

同時に凛のPへの視線が鋭くなったので、慌てて真剣な顔を作って、恋と向き合う。

「でも恋は年頃だし、もう少し自覚して気を付けるようにな。お前は自慢の娘なんだから」

「はーい」

565 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:12:47.18 VEW2G1XCo 523/568

およそ真面目とは遠いトーンで返事をする恋に、凛が問う。

「大体、今日はどこで寄り道してたの。友達の誰も今日は恋と一緒に遊んでないって云ってたよ」

「んー……」

急に恋が歯切れ悪く黙り込む。

Pと凛は予想外の反応にお互いの目を見合わせた。

566 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:13:22.59 VEW2G1XCo 524/568

「……笑わない?」

両親の様子を窺いつつポケットをまさぐっている。二人とも「もちろん」と頷くので、恋は1枚の紙きれを出した。

「こんなの、貰っちゃって」

Pと凛の心臓が、ドクンと跳ねた。

567 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:13:48.26 VEW2G1XCo 525/568

テーブルに置かれたのは、紛れもなく芸能プロダクションの名刺だった。

そう断言できるのは、かつて二人が所属していた事務所、つまりCGプロのロゴがしっかりと記されていたからだ。

それだけではない。

最も目立つように書かれていた名前は――桐生つかさ。肩書は、プロデューサーになっていた。

568 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:14:21.39 VEW2G1XCo 526/568

懐かしい匂いが甦る。
目を瞑れば、今でも15年以上前に駆け回っていた社屋の光景が瞼の裏に浮かんでくる。

古巣との思わぬ邂逅。

かつて熱く燃え盛った時分への回顧が齎す甘さと、それと同等以上に心臓を突き刺す痛み。

「一体、これは」

ようやっとのことでPが一言だけ訊ねた。

569 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:14:58.05 VEW2G1XCo 527/568

「……スカウト、されちゃった。綺麗な人だった」

「えっマジ? 姉ちゃんすげえじゃん!」

それまで食事に夢中だった食べ盛りの弟が、初めて顔を挙げて会話に割り込んだ。

恋は弟からの尊敬の眼差しをくすぐったそうに受け止めながら、日本に行ってみたいな……と呟いた。

2030年代に入り、経済規模をインドに追い抜かれて久しく、タイの隣国インドネシアが世界上位入りを虎視眈々と狙う位置に成長してきた昨今に於いても、東南亜には未だに日本への憧憬を持つ人間が少なくなかった。

極東の島国へ行けば、日本と云う名の魔法使いがお城へ連れていってくれる――シンデレラのような羨みが、20世紀から綿々と続いたままだ。

570 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:15:32.52 VEW2G1XCo 528/568

名刺に書いてあるのは知らない番号だった。15年もの歳月が経っていれば、連絡先なんて変わるだろう。

「この人、1週間くらいはタイにいるみたい。アユタヤとかプーケットとか回るって云ってた。その気になったら連絡くれれば喜んで駆けつける、って……」

同じ国の空の下に、かつてペアを組んでいた相方が歩いていると知って、凛は胸が締め付けられる思いだった。

「……恋は、どうしたい? アイドルにスカウトされて、どんな人生を歩みたい?」

痛みを表に出さないよう必死に押し込めて、凛は問うた。

571 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:16:02.28 VEW2G1XCo 529/568

「よく……わからない。ワクワクする気持ちもあるし、未知への不安も当然ある。でも、少なくとも今までは……あまり自分の人生に興味なんてなかったんだ」

その美貌ゆえ、恋は自らの予想通りにしか動かない世界に閉じ込められていた。

相手の――特に異性であれば容易に――行動の予想がついてしまう。

何の刺激もない日常。遊び歩きがちだったのはその反動もあったからだ。

「チャンスがあるなら、やってみようかな、っていう気持ちが……今はある」

恋は訥々と言葉を選んで、独り言つように小さく語った。

572 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:16:28.38 VEW2G1XCo 530/568

「……サラブレッドは、宿命に引き寄せられるんだな」

Pがぽつり、洩らした。

真意を測りかねた恋が首を傾げるが、気にしなくてよいとの意味で手を振った。

「つかさを、呼ぼうか」

Pの慈愛に満ちた声音。凛は心の中で静かに一雫の泪を禁じ得なかった。

573 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:17:09.49 VEW2G1XCo 531/568


恋から来訪要請を受けたつかさは、告げられた住所のコンドミニアムエントランスへ辿り着いた。

「ここで合ってるよな? バンコクは似たような建物多すぎてロストしちまうわ」

やれやれと肩を鳴らして中へ入ると、明らかに非友好的なオーラを出す警備員が何か云いながら寄ってきた。

さしずめ部外者は立ち入り禁止だ、みたいな内容なのだろうが、聞き取りもできなければ話すこともできない。

「すまねぇ、タイ語はさっぱりなんだ」

つかさは眉の尻を下げて、若干困ったようにアポがある旨を英語で返す。

しかしタイ人の訛りのきつい英語は、意思の疎通が非常に困難でお手上げだった。

574 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:17:36.28 VEW2G1XCo 532/568

「あーもうこれどうすりゃいいんだ、セキュリティきつすぎだろ」

「――つかさ」

後頭部を掻いて考えあぐねるつかさに呼び掛ける声。しかめていた眼が、大きく見開く。

「……凛」

声のした方を向いて、たっぷりの時間を要してからようやく一言だけ発された。

575 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:19:00.19 VEW2G1XCo 533/568

「久しぶり、つかさ」

「凛……お前……やっぱり……」

突然の展開に警備員は混乱の顔をしている。

凛は、つかさが凛への来客である旨を告げて、エレベーターへと乗り込んだ。

「アタシ、最初あの子を見て、なんとなく凛に似てるって思ってたんだよな」

「そっか。……幸か不幸か、私の特徴も、栗栖の特徴もはっきり半分ずつ受け継いでるよ。性格は……育ての父の影響を受けてるかな」

「とんでもねえ血統だな」

二大トップアイドル同士から生まれた、先天的な血統。そして、トッププロデューサーに育てられた、後天的な血統。

普通なら、アイドルにならないなんて実にもったいない、と云われて当然の存在だ。

576 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:20:18.89 VEW2G1XCo 534/568

上層へ運ぶ鳥かごの中で、鏡のように磨かれたドアを向いたままかつての相棒同士が言葉を交わす。

「私は、どうやっても芸能界の呪縛から逃れられないみたい」

凛が「どうしたらいいんだろう」と頬を一筋濡らした。

「あの子がアイドルになったら、きっと私のせいで色々辛いことが降り懸かると思う。娘に直接関係ないはずのことで苦しめちゃう。それでも――」

顎先へと流れゆく水粒―みつぼ―を見せまいと拭って、大きく息を吐く。

「母親として、あの子の希望は叶えてあげたい。私にできる唯一の罪滅ぼしのはずだから」

「優しいお母さんだね凛は」

577 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:21:27.35 VEW2G1XCo 535/568

やがて上昇が止まると、恋とPが出迎えていた。

「久しぶりだな、つかさ。あの頃のまま綺麗だ」

「久しぶり。お前も変わらないな。当然老けたけど」

「……お父さん、この人と知り合いなの?」

恋が怪訝な表情で二人を見比べる。まるで旧知の間柄の会話ではないか。

「アタシはね、お父さんの元部下みたいなモンだよ」

つかさが、目線の高さを合わせるようにほんの少しだけ屈んで、ニヤリと白い歯を見せた。

578 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:22:29.26 VEW2G1XCo 536/568

「詳しいことは家で話そう」

Pにそう促されて、全員が家へと入る。

玄関をくぐれば、すぐに大きな窓が目に入り、眼下には発展著しいバンコクの、熱く集積した街並みが広がる。

「グッドシティービューだね。部屋の内装も日本と遜色ない」

いいところじゃん、と破顔するつかさに、Pもつられて「お粗末様」と笑った。

579 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:23:41.38 VEW2G1XCo 537/568

「バンコク、アツいね――気温的な意味じゃなくてな。アタシのブランドも、そろそろこっちに進出しようと考えてたんだ。
まずはジャカルタかなって思ってたけどバンコクも候補に挙げてみるか」

「まだ二足のわらじを続けてたのか」

「まだ、っていうか、アタシは昔も今もJK社長なんでね。アイドルからプロデューサーになっても、そこは変わんねーよ」

ウェーブの掛かった金色に輝く髪を掻き上げて、つかさは不敵に笑んだ。

その奥では凛がバンコクで人気のレモングラスティーを淹れている。

「はい、どうぞ」

テーブルに四つの湯気が立ち、爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。

580 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:24:07.50 VEW2G1XCo 538/568

「お、サンキュ。主婦っぷりが眩しいね」

「もう、茶化さないでよ」

「はは、わりぃわりぃ」

ベキリの相棒時代と変わらない軽妙なやりとりが懐かしい。

そしてそれを懐かしく感じてしまうほどに年月が重ねられてしまった事実を、凛は少し哀しく思った。

581 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:24:34.60 VEW2G1XCo 539/568

恋は、3人の会話から並々ならぬものを感じ取ったか、真剣な表情になっていた。Pが肩に手を乗せる。

「さ、じゃあ飲もうか」

「……うん」

席に着いて、一口、二口。暑い空気を癒すアロマ効果を兼ねた飲み物が、南国の生活には欠かせない。

首筋の後ろで澱んだ諸々の邪気が、緩やかに祓われるような感覚がある。

582 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:25:30.32 VEW2G1XCo 540/568

「……なあ、つかさ。俺たちの娘――恋は、アイドルに乗り気だ」

お茶をしばし味わったのち、Pが話を切り出した。

「だが、俺たちの因果で、きっと苦しむこともあるはずだ。だから、親としては諸手を挙げて送り出すことができない」

隣に座る恋は、アイドルになることを父親が応援してくれているのか反対しているのかわからなくなった。

「ねえ、お父さん。私がアイドルになるのはダメなの?」

「いや、決してダメなわけじゃない。
むしろ恋は凄い逸材になるだろうし、お前がやりたいのなら応援したい。でもきっと、苦難がお前の身に降り懸かると思う」

「一体、どう云う……」

困惑した疑問符の浮かぶ恋を、Pはまっすぐ見つめた。

583 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:26:28.97 VEW2G1XCo 541/568

「お母さんは、昔、アイドルだった。そしてお父さんは、そのアイドルのプロデューサーだった」

「……え?」

恋は動きを止めた。

「あの棚に飾ってある写真やガラスの靴。あれは、お母さんが日本でトップアイドルを獲ったときのものだ」

「あれ、ただの置物じゃなかったの……」

目を見張る恋に、凛はやや申し訳なさそうな顔をした。

「恋が15歳になったら私から話そうと思っていたんだけど」

まさかこのタイミングでスカウトされるなんてね、と横目で見るので、つかさは苦笑して肩を上げた。

584 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:27:00.96 VEW2G1XCo 542/568

Pは、恋の目をしっかり覗き込んで云う。

「お前のやりたいことをもちろん応援したい。でも芸能界を知っているからこそ、親としては手放しで送り出せない。ヂレンマに右往左往するお父さんを赦してくれ」

「お父さん……」

Pは背もたれに体重を預けて、深い息を吐いた。

「かつては他人をホイホイスカウトしまくってたのに、自分の娘となると途端にこんな憶病になるもんなんだな」

天を仰いで情けなく云うPに、つかさは「だからこそアタシは声を掛けることができたわけ」とティーカップを揺らした。

585 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:27:47.66 VEW2G1XCo 543/568

「二つ、提案な」

つかさがカップを置いて云った。

「一つ、恋ちゃんのことは、“元トップアイドルの娘”と云う扱いをしないし、させない。ハイエナにわざわざ餌を与える必要もねえし、なにより親の七光りなんて、本人も厭っしょ」

Pと凛が頷く。

「もう一つは」

つかさが両手を組んで、「ちょっと酷な話かもしんねーけど」と眼の力を強くした。

「――二人とも、プロダクションにリターンしなよ」

586 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:32:00.44 VEW2G1XCo 544/568

つかさの物云いに、二人は口をあんぐり開けた。

「つかさ、お前な。今更俺たちが戻れるわけが――」

「もう15年経つんだ、時効だろ時効」

社長以外に当時のお偉方はもう誰も残ってねーよ、と手をぞんざいに振って云う。

「社長は元から二人の状況を理解してくれてた方だし、あの時、お前や凛を糾弾しようとした取締役会のデブたちは10年かけてとっくにパージ済み。ま、誰の手回しかは云うまでもねーけど」

黄緑色の制服に身を包み、いつも笑顔を絶やさない事務員の姿が頭の中に浮かんだ。

587 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:33:00.25 VEW2G1XCo 545/568

「まあ……仮に復帰が許される環境だとしてもだ、今更戻ったところで、俺たちが力になれるかどうか……」

つと自信なさげに呟くPに、つかさは「なるよ、充分」と断言した。

凛が、Pとつかさ両方の顔を見てから短く息を吐いた。

「……むしろ、私たちが頑張って這いずり回ってでも力になれるようになるべきなんだろうね。
聞くところによれば、825が最大勢力になってるらしいから、沈社長や姜プロデューサーへの恩返しも兼ねて引き摺り下ろさないと。つかさが『酷な話』って云ったのもそれでしょ」

――CGプロ、ひいてはアイドル業界への罪滅ぼしとして。今こそ贖いの旅が始まるべき時なのだ。

つかさは、凛の言葉に口を動かしかけて、結局何も云えずにゆっくりと1回だけ首を縦に振った。

588 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:34:21.26 VEW2G1XCo 546/568

「恋」

Pがしっかり芯のあるトーンで呼んだ。恋は口を一文字に結んで、真面目な表情を向ける。

「お父さんはお前のことを、最高の素質を持つ逸材だと思っている。最後の確認だ。たとえ苦労することになったとしても、アイドルになりたいか?」

「うん。私は、アイドルになりたい」

強い視線で、父の眼を射抜く。

かつて凛が初めてPと相対した時に寄越したのと同じ、深く吸い込まれるような碧い瞳に力が宿っていた。

589 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:36:02.56 VEW2G1XCo 547/568

Pが、「わかった」とゆっくり立ち上がった。

「日本へ行こう」

そして、どうせやるなら、トップアイドルを目指してやろうじゃないか。

恋は破顔して、力強く頷いた。

590 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:38:34.99 VEW2G1XCo 548/568


・・・・・・

黄昏の広がる空は、夜の帳の足音を響かせて情熱的な朱色の地平線を包み込んでゆく。

ドーム建築が、徐々に隠れる太陽を背にして、コントラストのはっきりした黒い影を浮かばせている。

ドーム内のライブ会場にひしめくサイリウムの渦は、天文観測の聖地マウナケア山頂から見る星空よりも美しく、幻想的だった。

ゆらゆらと揺れる明かりは蝶や妖精が舞うかのようだ。間違いなくこの場所は今、地球上で最も素敵だと云える。

591 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:40:56.38 VEW2G1XCo 549/568

碧と紫を基本に配色された華やかなステージ衣装を纏って、歌い踊るアイドルたち。そのどれもが、フレッシュな魅力を放っていた。

この年のCGプロ基幹公演は、新人や若手を選抜した、次世代を担う新プロジェクト御披露目を兼ねた大掛かりなもの。

ニュービーたちの緊張感、どこかぎこちなさが残るところも微笑ましい。

全てのファンが保護者の心持で見守る中、センターに立つ長い髪の少女だけは、別格のオーラを放っていた。

影の出来やすいスポット照明の下でも、眼を開けて会場内を射抜き煌々と輝く碧い瞳は、後列席からでさえしっかりと視認できる。

592 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:42:01.50 VEW2G1XCo 550/568

すらりと伸びた四肢はしなやかで、女性的な柔らかさの中に男性的な力強さを包含し、会場のスクリーンにアップで映し出される相貌は、まるで人工的に造形されたかの如く美しい。

明るく照らされた栗色の髪は、それ自身が意思と思考を持っているように、宿主を彩らむと舞う。

堂々と歌い、緻密に踊るさまは、もはやルーキーとは思えない風格だ。

件の人物――恋は、後のメディアからステージの主役の一人に数えられたほどの存在感を以て、鮮烈なデビューを飾った。

593 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:43:02.49 VEW2G1XCo 551/568

将来の覇権を握るかもしれない大型新人のステージに来場者は熱狂し、やがて演目が終わってぴたりとポーズを固定すると、怒濤の歓声が場内にこだました。

「これが、お母さんとお父さんの見てきた世界……」

撤収の直前に会場を見渡した当人の呟きは、喝采に抱き込まれ空間へ溶け込んでゆく。

594 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:45:36.88 VEW2G1XCo 552/568


野太い声援に見送られて、アイドルがステージから袖へ引き揚げてきた。

「おつかれ。いいステージだった」

そう云って労うのは、プロデューサー職に復帰したPだ。近くにはつかさもいて、腕を組んで満足気に頷く。

「演りきったな。ファーストショーでこれだけフルコミットなら上出来っしょ。アタシの初めての時より断然よくできてるよ」

「桐生プロデューサーより上手くできてたなんて、そんなことありません……まだまだです。途中で何回もトチりました……」

若手の一人が、緊張と悔しさと安心感とが綯い交ぜになった面持ちで、今や重鎮とも云えるつかさに対して謙遜した。

595 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:47:27.61 VEW2G1XCo 553/568

「――いや、ホントつかさのデビューのときよりよっぽど良かったよ? つかさ、いきなりライブに放り出されてとんでもなく困惑した顔でステージ立ってたからね」

プロデューサー陣二人の後ろから、くすくす笑う声が届いた。

目を向ければ、白いタンクトップに深緑のノースリーブカーディガンを羽織り、薄地のデニムパンツと云う動き易さを重視した出で立ちの人間が歩み寄ってくる。

ラフな格好の胸元には、スタッフ章が提がっていた。

596 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:48:00.09 VEW2G1XCo 554/568


[マスタートレーナー]渋谷凛
Ee-7lO6UcAEEZKI


597 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:49:01.12 VEW2G1XCo 555/568

「あっ、マ、マスタートレーナー……!」

「みんな、おつかれさま」

「おっおつかれさまですっ!」

その場のアイドル全員が表情を引き締め、背筋を伸ばした。

最も厳しい指導をするトレーナー中のトレーナーは、新人にとっては畏怖の対象であり雲の上の存在。

この人間に教わることこそが上位ランク入りの証とも云われ、それを第一の目標にするアイドルも多い。

直立不動の若い芽たちに「もう出番終わったのに、こんな場所でまで肩肘張らなくていいよ」と苦笑するが緩む気配がない。

598 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:50:04.09 VEW2G1XCo 556/568

「凛! お前なぁー、他人のヒストリーを軽々とカミングアウトすんなよ!」

何も反応できないアイドルたちに代わって、つかさがあたふたと汗を飛ばして抗議を寄越した。

凛もまたCGプロに復帰し、今度はマスタートレーナーとして、かつて習得してきた自らのスキルを次世代に伝える役目を担っている。

そのマスタートレーナーは、物申すつかさにどこ吹く風。

「だって事実じゃない?」

「コンプラだコンプラ!」

「ふふっ、ごめんごめん」

有力者同士のじゃれ合いにぽかんとするアイドルたち。

599 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:51:05.22 VEW2G1XCo 557/568

凛は一度咳払いをして、「プロデューサー二人の云うとおり、本当にいいステージだったよ」と微笑み掛ける。

「今のあんたたちが出せる120%……いや、200%のパフォーマンスが実現できてた。これからも頑張ろう。期待してるから」

マスタートレーナーの優しい労いに緊張の糸が切れたのだろう、初めて実戦を経験した者の多くは安堵から泣き出し、Pはスポーツタオルで拭ってやった。

一点、恋だけは、戦後の高揚感からワクワクが抑えられない顔をしていた。早く次のステージに出たい――そんな訴えを纏った笑みで凛を視る。

凛は、活躍した我が子に親指を上げて応えた。

600 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:52:58.78 VEW2G1XCo 558/568

Pが両手を叩いて行動を促す。

「さ。ここでずっと団子にもなっていられない。楽屋へ戻って。ドレスをしっかり整理して衣装さんに引き渡すまでがお前たちのステージだ」

優しい喝に、泣きじゃくっていた者も姿勢を直して頷いた。

「綺麗な衣装だから脱ぐのが惜しいかもしれんが、またきっとこの服を着る機会がくるだろう。例えいま時計の針が12時を超えても、すぐに別の舞踏会が開かれるんだ」

「はい!」

601 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:54:09.00 VEW2G1XCo 559/568

威勢のよい返事に、Pは満足そうに相好を崩して、改良の要望があれば桐生プロデューサーに直談判してもいいぞ、と肩を揺らした。

CGプロの衣装デザインは、碧と紫の2色をコーポレートカラーとしたブランド『ベキリ』が一手に手掛けるようになっていた。

つかさが5年前に立ち上げたそのハイファッションブランドは、今やヨーロッパで最も注目されるトレンドの一つに数えられる。

「いいぜ、いつでも受け付ける。ただし、アタシをアグリーさせられたらな!」

不敵に笑ったつかさが「ついてきな」とアイドルを引き連れてその場を後にした。

602 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:55:28.38 VEW2G1XCo 560/568

「ねえ、あなた」

新世代たちの背中を目で追いながら、凛が隣に立つPを呼ぶ。

「久方ぶりの復帰でも、セリフの内容がポエティックなのは相変わらずなんだね。12時の時計だとか舞踏会だとか」

「まあ……アイドルたちはいつだって夢見るシンデレラから一歩を踏み出すしな」

Pは照れを隠すように鼻を掻いた。凛と同様にアイドルたちを見送る視線は、実に穏やかだ。

603 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:56:36.71 VEW2G1XCo 561/568

凛はPを見上げて問う。

「プロデューサーに戻ることができて嬉しい?」

「そりゃ、もちろんさ。恋のことを抜きにしたって、アイドルたちを輝かせるのはやっぱり天職だったようだ」

「うん。あなたは根っからの魔法使いさんだね」

Pが「違いない」と眉を上げて、唇の端を歪める。

604 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:58:23.28 VEW2G1XCo 562/568

「そう云う凛だって、もう今はシンデレラを助ける魔法使いの仲間入りをしたんだからな?」

「ふふっ、そうだね。私も魔法使いさん。何だか不思議な感覚、かな」

「どうだ、マスタートレーナーの役目はこなしていけそうか?」

Pの問いかけに、凛は、ゆっくり大きな首肯で、全く問題ない旨を応えた。

「……色々あったけど、私もやっぱりアイドルが好きだ、って再認識してるよ。あなたが連れてきてくれたこの世界がね」

振り返って、サイリウムに包まれた喧騒やまないステージに目を向ける。

シンデレラから魔法使いさんへ。立つ位置が移ろいでも、胸を強く焦がす熱さは変わらない。

605 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/09 23:59:10.55 VEW2G1XCo 563/568

Pも凛の視線を追って、光輝くステージを、眩さに目を細めてしばらく眺める。

「凛は今、幸せか?」

「うん」

答えるのに迷う時間など必要なかった。

「きっと困難はあると思う。
私を助けてくれた、あらゆる人たちへの恩返しをしていかなきゃいけないし、恋を守るためにいつか厳しい試練もやってくると思う。でも私は、今この瞬間が幸せだよ」

Pの方にしっかり向き直って、はにかんだ。

606 : 凛、誕生日おめでとう! ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/10 00:00:01.54 y8awIlrco 564/568

「おとぎ話―アイドル―の世界で、私の一番好きな、魔法使いさん―プロデューサー―と一緒だからね」

天は黄昏が終わって群青に深まり、ドームのライトアップを映えさせる絶好の天然スクリーンとなった。

肌を撫でる風の涼しさが心地よい。夏の訪れは、もう少し先だ。


~了~


607 : 真エンディングテーマ代わりに ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/10 00:01:04.55 y8awIlrco 565/568
609 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/10 00:03:53.64 y8awIlrco 566/568


これにて終了です。お付き合いありがとうございました。

謝辞:
◆eBIiXi2191ZO / ◆Rin.ODRFYM
書くきっかけをくれて感謝。


余談:
実は>>201が正鵠を射ていてどう反応したもんかと当時冷や汗流してました

201 : 以下、名... - 2020/07/28 04:42:30.72 6iosLEDDO 567/568

あの……Z旗揚げた軍艦は



すべて爆沈の経験があるんですが……

610 : ◆SHIBURINzgLf - 2020/08/10 00:14:50.73 y8awIlrco 568/568


過去作も置いておきます。気が向いたら読んでみてください。

凛「私は――負けない」
http://ayamevip.com/archives/54910941.html

渋谷凛「私は――負けたくない」
http://ayamevip.com/archives/54916853.html

凛「庭上のサンドリヨン」
http://ayamevip.com/archives/54905333.html

モバP「ユーレイ・アイドル」
http://ayamevip.com/archives/54905318.html

モバP「不夜城は、眠らない」
http://ayamevip.com/archives/54905305.html


このSSは、基本的には「私は――負けたくない」の時間軸から継続しています。
一応「私は――負けたくない」→「私は――負けない」が通常ルートで、
ifルートとして「私は――負けたくない」→「愛は夢の中に」という感じです。

記事をツイートする 記事をはてブする