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渋谷凛「私は――負けたくない」【前編】
・・・・・・
翌日から、Pは凛の計画の仕切り直しを始めた。
独り善がりのマイルストーンではなく、凛と共に『渋谷凛』を造り上げようと、意思の疎通を図る。
「凛は、アイドルとして『これをやりたい』ってことはあるか?」
相変わらず鉛色の空の下、事務所からレッスンへ出発しようとする彼女に、Pは訊ねた。
凛は鞄を一度置いて、形の良い人差し指を顎に添えながら思案に耽る。
「んー、最初さ、麗さんに見てもらったとき、存在を表現することが気に入ったんだよね」
アイドルの世界に踏み込もうと決心した、あの日のことだ。
「存在の表現……つまり演技か?」
「あーううん、演技っていうよりは……歌や踊り、かな?」
明るいメロディに合わせて楽しく、哀しいメロディに合わせて情緒豊かに。
一言で歌・踊りと云っても、それらで表現できることの多彩さに圧倒された記憶は、凛の中で強烈に残っていた。
その言葉を手帖に書き留め、
「なるほどな。それじゃあ、ステージに立つ方向で試しにやってみようか」
Pは、パタンと閉じてから、視線を向けて問うた。
凛は大きく頷いてレッスンバッグを再度握りしめ、颯爽と出発していった。
プロデューサーが自分に意見を求めてくれた――そんな嬉しさによるものだろう。
昨日あんな失敗を犯したとは思えない力強さが、彼女の背中に宿っていた。
社長とちひろが、凛の後ろ姿を、目を細めて見送る。
そこへPは、一日かけて取りまとめた始末書を提出しに寄った。
失態を詫びるPに、社長は殊更追及することなく、静かに首肯するのみだった。
それは、Pが問題点を把握し改善の方向性を既に見出していることが、二人の様子から汲み取れたからだ。
失敗は成功のもと、という諺にもあるように、過ちから学ぶ点はとても多い。
ミスを開き直るのではなく、次に活かす。
改善しようという動きを採れるならば、無用な介入はすまい――社長はそう思っていた。
「昨日のことはもういいよ。あとはこちらで何とかしておく。それよりも、君は彼女のレッスンを見てきたまえ」
堂々とした姿に、Pはいつかこのようになれるのだろうかと、深く頭を下げた。
いつものレッスンスタジオ、その防音扉を、Pは静かに開けて中へ入った。
凛の邪魔をしないよう、レッスン場の隣の部屋から、彼女を様子を見る。
相変わらず身体は固いし、歌はぎこちない。
それでも、慶や明の指導に素直に従っていて、なによりも応えようと云う気概が感じられた。
身体が固いとはいえ、最初の頃に比べれば、充分に動ける力をつけている。
スタミナも或る程度増えたし、しなやかさも然り。
凛は、同年代の女の子と比べて、かなり長身の部類に入る。
加えて、整った造形といい、芯のある声質といい、これなら相当にステージ映えするはずだ。
Pは、無理に笑顔を作らせるより、ビジュアルとパフォーマンスを絡めて展開した方がいいと確信に至った。
一体全体、どうしてこんな単純なことに気付かなかったのだろう。
彼女のレッスンの光景をしげく観察していれば簡単にわかったはずのことなのに。
机で報告書を読むだけでは駄目だったのだ。
Pは、握りこぶしで二度、自らの額を叩いた。
ここまでくれば、あとはどうやってステージデビューさせるかを考えれば良い。
光明は、徐々に徐々に、見えてきている。
ただし、デビューの方策こそが一番の難題でもあった。
自称含め、駆け出しのアイドルが簡単に立てるステージは意外とどこにでもある。
所謂『地下』と呼ばれるものだ。
手っ取り早く凛の要望を叶えるなら、明日にでも出来てしまうだろう。
それほどまでに、箱は都内には数多あるのだ。
だがそこで簡単にステージに立ったところで、持続できるかと云えば……答えはまずNOだ。
そもそも、地下でアイドルを名乗っている者は、大半が本業として会社員をやっていたりする。
事務所にすら所属していない者も多い彼女らにとって、アイドルとは刹那の暇つぶしに過ぎないのかも知れない。
地下から上へと昇れるのは、一握り、いや、一摘みにも満たないだろう。
「とは云ってもなぁ……」
凛の様子を窺いながら、思案に耽る。
地下に対して厳しい見方をしたところで、しかし大嶋の助力を得られない現状では、
一足飛びにマスメディアへ露出したり、大きなステージへ出られる機会を得ることは宝くじレベルの確率だ。
よしんば大嶋が「廻してやる」と云ったところで、Pはケジメとして辞退するだろう。
結局、一歩一歩、堅実に進むしか道はないのだ。
誰もが無名の状態から始まる。
そう、現在第一線で活躍するアイドル、例えば天海春香や如月千早でさえ。
彼女らだって、最初期は誰にも知られていない有象無象に過ぎなかったのだ。
まずは半歩、踏み出してみよう。
Pが自問自答で頷くと時を同じくして、レッスンを終えた凛もトレーナー陣に礼をしていた。
「凛、突然だが、明日は何か用事あるか?」
一度外へ出て自販機のスポーツドリンクを差し入れに買ったのち、Pは再びスタジオ入りして問うた。
今回は防音扉の開閉に気を使う必要はない。
閉まったドアのノブが、ガチャンとひときわ大きな音を立てた。
「え? ううん、明日は特にないけど……どうしたの?」
凛にとっては、いきなりPが姿を現したに等しい。突然の来訪に、驚いた様子だ。
ありがとう、とペットボトルを受け取ってから、首を傾げて問い返した。
「ちょっと敵情視察を、と思ってな」
――
翌日、学校を終えて出社する凛の荷物を事務所に置き、飯田橋からわずか三駅東へ出た秋葉原に、二人はいた。
地下アイドルは、都内さまざまな場所で活動している。
原宿、目黒、池袋。
そしてここ秋葉原は、特にアイドル系サブカルチャーとの親和性から会場が多い。
視察をするにはもってこいの環境だ。
駅から歩いて10分ほどにあるビルの、地下へ降りる階段。
昼間なのに昇降口はやや薄暗く、胡散臭い雰囲気を漂わせている。
しかしCGプロの事務所だって、怪しさでは負けていない。
そこにほぼ毎日往来している凛にとって、この程度の空気でたじろぐようなことはなかった。
喜ぶべきことなのか嘆くべきことなのかは、わからないが。
胡散臭い入口をくぐり、胡散臭い扉を開け、胡散臭い受付で二人分のチケット代を支払って、中を窺う。
湿度の非常に高い熱気が、Pと凛を包んだ。
観客の入りはせいぜい数十人といったところだろうか。
とてもこぢんまりとしたライブハウスのせいで、そんな少なさでもだいぶ混雑しているように錯覚する。
すぐ目の前にある舞台では、フリルのあしらわれた衣装をまとった二人組が歌い、踊っていた。
やや小上がりになっているステージの手前に、常人より多くの空間を占有する体積の人間がひしめき合う。
しかし会場の熱気とは裏腹に、内容そのものは友人同士による内輪のバンド活動と、さほど差異は感じられない。
それはアイドル自身の力量不足によるものか、はたまた音響設備の貧弱さによるものか、または別の何かか。
いづれにせよ、一般人の思い浮かべるアイドルから、およそ懸け離れた姿だった。
短い演舞時間で、めまぐるしく出演者が交代していく。
「えっと……これ、文化祭の出し物?」
凛の疑問だって、然もありなむ。
悪気があってのことではなく、単純にこう云う世界を知らないだけなのだが――毒気を抜かれるのは宜なるかな。
どれもが、テレビや雑誌で目にするアイドルシーンとまるで違う存在なのだから。
「これも一応、れっきとしたアイドル活動さ。地下アイドルっていうジャンルだな」
「悪いけど……全然知らないし見たこともない……」
「だろうな。俺も知らないのばかりだし」
呆然とつぶやく凛に、Pは首を竦めて答えた。
「でも、今の凛――いや今の俺たちは、このラインにさえ達していないわけだ」
一見、目の前で繰り広げられるのが学校の文化祭かと錯覚するレベルであったとしても。
こういう場所が、Pたちの出発点となろう。
地下だからとて、実際に活動できている人々にはすべからく敬意を払うべきだ。
「それでも、俺たちが最終的に目指すのは、もっと先。例えばIUとか、そういう輝くステージなんだ」
「アイドル……アルティメイト……」
麗がかつて手にした、トップアイドルの印。
凛を間接的ながらこの世界へ誘った、最高の証。
Pをこの世界へ引き込んだ、栄冠の星。
そのIUへこのアイドルの卵を駆け上がらせたい。Pは漠然ながらも、そう思うようになっていた。
「お前ならその力を蓄えられるはずだ」とPは凛を力強く見詰めた。
凛はPを一度見てから、ステージを向いて、静かに頷いた。
実際のステージを視察した二人は事務所へ戻り、次に、その場所へ如何にして立つか、を話し合った。
応接スペースを使って、膝と顔を突き合わせる。
「まあこう云っちゃぁ身も蓋もないが、凛は見た目は第一級だから、あとは目立てれば勝ちだと思うんだよな」
至極単純な、何も考えてないかのような台詞だ。
その放言っぷりになのか、はたまた言葉の内容にか、凛は眉根を寄せた。
「……私で第一級だったら、世の中の女子は第一級ばかりだと思うんだけど」
「馬鹿云え、凛ほどの逸材がゴロゴロ転がっててたまるかよ。自分が美人だっていう自覚ないのか?」
「それ初めて会った時の社長にも云われたけどさ、二人して私のこと買い被りすぎじゃない?」
小首を傾げる凛に、Pはやれやれと云った様子で、ソファにどかっと体重を預けた。
「まずそこの意識改革からかね。はったりでも構わないから自信持てよな」
同程度の美人が二人いたとして、片方は卑屈に謙遜し、もう片方は自らに確信を持っていたら。
後者の方が、より美しく感じられるものだ。
無論、その自信や確信が不遜の域に達してしまえば逆効果ではあるのだが。
凛は、自らの恵まれた造形にもっと自覚を持つべきだと云えよう。
さておき。
そんな凛がパフォーマンスで目立てれば、知名度を上げやすくなるのは簡単に予見できる。
新人が世に出るにあたって、とにもかくにも幅広く知られるようにならなければならない。
他人に知られていない、というのは即ち存在しないと同義なのだ。
渋谷凛は、ここに存在します!
と周知させるには、ハイレベルな容姿に加え、ハイレベルなパフォーマンスを魅せる必要がある。
「……ま、つまりボーカルとダンスを重点的にレッスン、っていうか特訓だよね?」
「そういうことになるな」
「なんかあまり代わり映えしない結論だけど……」
しかし答えとは、得てしてそう云うものなのかも知れない。
同じ内容のレッスンをするにしても、到達点が見えているのといないのでは、吸収力に歴然たる差が出る。
それでも、これまでと同じレッスンを再度繰り返して大丈夫なのかと云う不安を持つのも事実だ。
「今は苦しくても、じきに楽しいと思えるようになると思う」
凛が憂いに少しだけ顔を曇らせたのを見て、Pは柔らかく、ゆっくり語った。
「もし楽しいと思えるようにならなかったら、無理することはない、普通の女の子に戻ってもいいさ」
一種プロデュースの放棄とも受け取れる言葉に、凛はぎょっとした。
しかしPの目は、冗談を云っているようには見受けられない。
「アイドルってのは享楽を具現化する像だ。お前自身が楽しめなければ、お客さんを喜ばせることはできない」
「私自身が、楽しめなければ……」
「そうだ。お前だって、テレビ等で見るアイドルたちが、厭々そうにしていたら嬉しくも何ともないだろ?」
「それは……確かにそうだけど、プロなんだから幾らでも取り繕えるんじゃないの?」
言外に「だからこそ自分は半人前なのだ」との意味も込めて、凛は問うた。
「まあそれも一理あるんだがな、でもやっぱり内面から楽しめていると、笑顔の輝く度合いは違うものさ」
「ふぅん……そういうものかな……」
「ああ。それに、アイドルは奴隷じゃないんだから、無理をさせてまでお前を縛ろうとは思わないさ。
志願ならともかく、凛はスカウト――こっち側からお願いして来て貰ったわけだからな」
そう、自ら希望して業界へ入ってきた卯月や未央との決定的な差が、ここにある。
凛は、今でこそアイドルたらむとすれど、ことの源流を遡れば、この世界に興味など持っていなかったのだから。
「いや、まぁ……それは逆に、社長には見つけてくれてありがとう、
そしてプロデューサーには磨いてくれてありがとう、って感じだけどさ」
凛の意外な感謝の言葉に、Pは期せずして相好を崩した。
「はは、そうか。いづれにしろ、お前には最高に輝けるだけの素質が在る。俺はそう思ってる。
でも、それは本人の意思を踏み潰してまで実現させる性質のものじゃないさ」
「一応、私の身も考えてくれてる、ってことで……いいのかな?」
「寧ろお前が主役。俺たちはあくまで裏方なんだから、凛のことを一番に考えるさ」
例の大失敗から、Pも大きく得るものがあったようだ。
担当アイドルに対する考え方、接し方、それぞれに、明確な変化があった。
凛もそれを肌で感じたのか、ほんの少しだけ頬を染め、気恥ずかしさに手許へ視線を落とした。
「……ありがと」
「今は辛いと思うが、二週間ほど辛抱してくれ。ただし、限界を超えるような無理はするなよ、絶対な」
これまでの教訓を踏まえて、適度に休日を作ること。今日、最も重要な厳命と云えよう。
「うん、……頑張ってみる」
「何かあったら、気軽に相談してくれて全く構わない。溜め込むことだけはしないでくれな」
「わかった」
二人、お互いを見て、軽く頷き合った。
――
そして一週間が経った。
あれ以来、レッスンのときは邪魔しないように隣の部屋から凛の様子をチェックする日々が続いている。
Pの云う通り、凛は数日に一回の割合で身体を休める日をきちんと確保していて、メリハリを得たようだ。
ボーカルレッスンでは以前より芯の通る声の出し方を会得しつつあったし、
ダンスレッスンでは身のこなし、ステップの踏み方、端々の表現力などの進化が見られた。
もちろん未消化の課題もあるが、焦らず順を追って潰していくべきだろう。
Pの方はと云えば、早速凛のデビューステージの段取りをほぼ組み終わっている。
小さ過ぎず、かといって分不相応に大き過ぎもしない適度なキャパシティの箱を片っ端から一本釣りし、
そこでよくライブを行うアイドルたちと合同のステージを企画した。
つまりは小規模なフェスのようなものだ。
事務所にすら所属していない自称アイドルが多い中で、Pのような存在は非常に珍しがられた。
企画書なんて見たこともない――そんな子が大半だから、Pの持ち込む構想に興味を示す者は後を絶たなかった。
P自身が想定していたよりも一回りほど大きなライブハウスを使うよう変更したほどだ。
東奔西走した甲斐あってか、凛がデビューするためのお膳立ては整いつつある。
ただ一つ、レパートリーの問題を除いては。
地下で活動するアイドルは、既存曲のカバーが多い。
理由は当然、その方がラクだし初期投資も少なくて済むからだ。
かといってカバーだけではそこらのカラオケと何ら変わらない。
アイドルを名乗る以上は、例え一曲のみであろうとも、オリジナルの持ち歌を確保する必要がある。
しかし凛には、まだそう云った曲は与えられていない。
そして今から制作を発注していたのでは、間に合わないのは確かだった。
仮に一週間前の時点で依頼を飛ばしていたとしても、通常の発注手順ではまず時間が足りないだろう。
オリジナルのボーカル曲と云うものは、制作にとかく手間がかかるものなのだ。
「さぁて間に合うかね……」
Pは事務所で半田ごてをいじりながら、独り言つ。
この日、社長はじめP以外の全員が諸々の用事で外出していた。つまり事務所にPが一人きりだ。
まもなく凛が出社する頃合いだろうが――
この分だと、今日は留守番を続けねばならないから、残念ながら凛のレッスンの様子は見に行けないだろう。
そのPの目の前に、秋葉原で買ってきたジャンク機器やパーツが、分解されて転がっている。
横幅19インチ、黒い箱形の機材だ。
Pは半田ごてを使って、内部の電源基板からケミカルコンデンサを剥がしていた。
寿命を全うしたそれは、液漏れケミコン特有の化学臭をまき散らしている。お世辞にも良い匂いではない。
三つほど取り去ったとき、立て付けの悪いドアが、あまり精神衛生に宜しくない摩擦音を立てた。凛だ。
「おはようご…………なにやってるの?」
開扉と同時の挨拶を途中で切って、理解する為の時間をたっぷり取ってもなお理解できなかった凛が訝しんだ。
「おうお疲れ。これは音の機材だよ。秋葉原でジャンク品を安く調達してきて、直しているところだ」
新しいコンデンサを半田づけする目線を逸らさないまま、Pは答えた。
「音の機材? それで何をするの?」
「曲を作るんだよ。凛がステージで披露するやつ」
「え? 曲を作るのって専門の人に頼むものじゃないの? プロデューサーが音楽なんか作れるの?」
意外な事実に驚いた声音と、珍奇なものを見るような目をする凛。
Pは顔を挙げて「おいおいおい随分非道い云い種じゃないか」と口を尖らせた。
「ごめん、あまりにも予想外だったからさ」
「いいさ。ま、昔取った杵柄ってやつだよ。大学の頃にちょっとかじってた」
勿論、本格的な曲を用意するなら、そして充分な予算と納期を確保できるなら、本職の人に発注するのだが。
今回は予算も時間もないからな、と云ってPは再び半田づけに目線を落とす。
「ふうん……私の曲、か。楽しみに待ってていいのかな?」
凛が、作業中のPの顔を覘き込むように、机に顎を乗せて訊ねた。
「……あまり過度な期待はするなよ」
言外にプレッシャーを掛けられたPは、ややバツが悪そうに笑った。
「あと三日――いや明後日までには形にする。そしたら、週末までだいぶタイトだが、身体に叩き込んでくれ」
「わかった。じゃあ私はレッスン行ってくる」
すっくと立ち上がった凛が、きびきびとした動作で出て行った。
その足取りは、一箇月前と比べて確実に軽くなっている。
日々の内容に大した差異はないはずだが、明確な目的を認識するだけで気の持ちように変化が現れる証左だ。
Pは満足げに頷いて、修理を終えた機材に火を入れた。
買ってきた時点ではうんともすんとも云わなかったディスプレイが、明るく反応する。
無事、修理は成功だ。
厳しい予算の制約の中でやりくりした達成感から、ガッツポーズを禁じ得ない。
鼻歌を奏でながら、一緒に入手した中古の鍵盤を接続して動作を確認していると、
事務用品の補充に外出していたちひろが戻った。
Pの予想よりも早い帰社だった。
「あら、ご機嫌ですね、Pさん?」
「はい、良い出来事がいくつか重なったものですから。ちひろさん、大荷物の割に早いお帰りですね」
「うふふっ。デキる事務員は、時間を無駄にしないんですよ?」
「さすが、そこに痺れる憧れる。じゃあ自分は凛の様子を見てきます。いつまでも浮かれちゃいられませんね」
Pが机を片付けて立ち上がると、ちひろは差し入れですと云って茶色の小瓶を寄越した。
「スタミナつけて、ファイト一発、ですよ」
Pは会釈して、星のあしらわれたキャップを勢いよく開け、一気に飲み干した。
本日のレッスンスタジオまでの道のりは、あっという間だった。
つい先刻から、不思議なほど非常に身体が軽い。
良い出来事が重なると、ここまで肉体に影響するのかとPは驚嘆する。
力がみなぎる今なら、二日くらいの徹夜ならば難なくこなせてしまいそうだ。
もう間もなくスタジオの入口というところで、Pは女性が同じ建物へ入るところに遭遇した。
「あ、どうも」
二人して同じ言葉同じ動作で軽くお辞儀をする。
普段、凛だけでなく卯月や未央を鍛えてくれている明や慶に、よく似たその女性。
しかしトレーナー二人より年齢を重ねているように見え、何よりも纏うオーラが桁違いに強い。
非常に失礼なことながら、Pは彼女を顔をじっと凝視した。
「ん? えーと……なにかな」
女性の表情が困惑へと変わる前に、Pが飛び上がる。
「あっ、あっあっ、あ……青木……れ、麗……!」
青春時代の、異性の象徴。
同級生たちと、ときには熱く魅力を語り合い、ときには下世話な談笑の種として存在し続けた、トップアイドル。
社長がかつてプロデュースしていたその女性―ひと―が、今はレッスン教室を主宰しているとは聞いていたが。
まさか、こんな形で大接近できるとは。
これまで、青木麗はPの記憶の中、遠い遠いステージの上で輝いている遥か彼方の存在だったのに。
「あぁ、もしかして貴方がプロデュ……じゃない、社長の云っていたP殿……か?」
理解の範疇を超え、完全に固まっているPに、麗がゆっくり笑んで問うた。
その言葉にはっと意識を取り戻し、しかし脳味噌は取り乱したままで、
「はい、CGプロ、渋谷凛を担当するPです。あの、ずっと、貴女のファンでした! いや今でもファンです!」
とアイドルプロデューサーらしからぬ発言をしてしまう。
さらには、勢い余って麗の手先を、両手で固く握った。これでは完全に厄介者である。
麗はPのあまりの攻勢に苦笑した。
「とてもありがたいが……私はとっくに引退した身だし、今ではただの教官に過ぎないぞ」
「それでも、自分にとって、貴女は永遠のトップアイドルなんです」
「……嬉しいね。社長がこの場にいたら、きっと彼も喜んだんじゃないかな」
麗は、往時を思い出してか、やや目を細め、遠くを眺めた。
ようやく落ち着きを得たPは、手を離して、何かに気付いたように訊ねる。
「CG―うち―の専属には就けないと伺っていましたが……今日はなぜこちらに?」
そう、麗は自らの主宰する教室があるから、すぐにはCGプロと専属契約は結べないはずだった。
「なに、今日はオフだ。私自身は契約の身ではないが、妹たちが世話になっているからな」
きちんと指導できているかをチェックしに来たのさ、と破顔する。
この人にかかれば、明たちトレーナー陣もレッスン生と化してしまうようだ。
「どれ、ちょうどいい。P殿の手腕も拝見させて貰おうか」
とPを脅した後、冗談だ、と肩を揺らしながらスタジオへと入る。
しかしPとしては、到底冗談には感じられない、ライオンの檻に入れられた小動物のような気分だった。
普段のPと同様、麗もレッスンそのものを邪魔するのは気が引けるらしい。
マスタートレーナーたる私が修練の邪魔をしては元も子もないからな、
とはスタジオの様子を窺える隣の部屋へ静かに入る時の彼女の弁だ。
かくして、凛を陰ながら見守るP、明と慶を陰ながら見守る麗、という構図が出来上がる。
それぞれ、レッスンの光景を見てノートやメモに書き込みを加えていた。
今日はダンスを重点的に教えてもらうカリキュラム。
喉の暖めもそこそこに、凛はひたすらステップを反復している。
スタジオから漏れ聴こえるダンスミュージックに呼応して、Pの踵が動きを刻み、手先は跳ねる裏拍を叩く。
ノリの良い曲を聴くと、気分が高揚して楽しくなるのは何故だろうか。
人の身体を勝手に動かしてしまう、音楽のチカラとは不思議なものだ。
しばしののち、慶の指導についてメモを取る麗の手が、不意に止まった。
「P殿、渋谷君のダンスについて、今現在把握している一番の問題点はどこだ?」
急に話を振られたPはまごついた。
「え? えーっと……」
手にした自らのノートに目を落として、少しだけ時間を稼ぐ。
正直、Pは凛の“どこが悪いのか”までは明確に掴めていなかった。
ただ何となく、何かがまだ甘い。そんな意識しかなかったのだ。
しかしそれでも、頭をフル回転させて答えようと努力する。
「ダンスの表現力とかテクニック的なことは……実のところ、よく判りません。ですが――」
麗がチラリとPを見る。少し間を置いて、目線で続きを促された。
「ですが、身体の感覚の話で良いのなら……リズム感がまだ拙いかな、と思います」
そう。
凛自身は一定のテンポを保っているつもりなのだろうが、実際はかなりふらつきがあった。
或る拍と拍の間は長く、また或る拍と拍の間は短い。
錆びたメトロノームのように、安定していなかった。
「そうだな、P殿。ダンスに於いて最も重要なのは、ステップのテクニックなどではない」
麗は眼を閉じて「リズムを一定に維持すること、これに尽きる」と息を吐いた。
踊る表現力が幾分か稚拙であろうとも、歌が多少音痴であろうとも、拍子さえ安定していれば、鑑賞に堪える。
逆を云えば――
ステップが完璧でも、メロディをきちんと追えていても、リズムがおぼつかなければ立ち所に粗製と映るのだ。
「ですが、ここで自分が感じることは、既にトレーナー陣の皆さんも判っていらっしゃるでしょうし」
Pは、自らが出るまでもありません、と相好を崩した。
彼は現場を混乱させる可能性を危惧して、レッスンの内容に口を出すことはしなかった。
毎度、邪魔をしないよう隣から見守るのだ、凛はおろか明や慶までPの存在を認識していないかも知れない。
もちろんトレーニングの様子はしっかり見ているし、それを受けてプロデュース方針にこまめに手を入れている。
現在は慶たちに、映える動きの技術を会得させるよう要請中だと、Pは云った。
「これは……今日はP殿と偶然にも鉢合わせできて幸いだったかも知れんな……」
麗はPの説明に、小さな声で独り言ちた。
「P殿。老婆心から云うが……過干渉も、そして“不干渉”も好ましくないぞ」
「えっ?」
Pは驚いて一歩後退さる。
混乱を与えないため口を挟まないようにしていた配慮が好ましくないとはこれ如何に?
「おそらく、P殿の云う通り、妹たちはリズムが第一の課題だと判っているはずだ」
麗は断言した。朧げに、見くびってもらっては困る、というニュアンスも感じられる。
「だが、P殿からの指示は?」
「え……? あっ……」
あくまで技術のレベルアップを要望しただけで、リズム感を鍛えてくれ、とは云っていない。
つまり、トレーナー陣はPの要求に忠実に動いているわけだ。
Pは、自分が云わずとも、凛の踊りの質を上げる為に、明たちが裁量でやってくれるだろうと思い込んでいた。
だからこそ、しゃしゃり出ようとはしなかった。
しかしそれは結果的に、最も重要な課題を置き去りにする結果となっている。
「まあこれは、妹たちからP殿に提案・進言する姿勢が欠如しているとも云える。あとできつく絞っておこう」
麗がメモを取ろうとする様子を、慌ててPが制止する。
「待ってください、おそらくその原因には心当たりがあります。彼女たちを責めないでください」
かつて凛の方針についてPへ提案したことが、結果的に失敗を招く引き金となってしまった――
慶は、きっとそのように気を病んでいるのではないか。
勿論、失敗したのはPと凛の自滅であって、その責は慶になどあるはずがないのだが。
「慶ちゃん、真面目でいい子ですよね。勿論、明さんも」
スタジオ内を見やって、Pは自らの落ち度にやれやれと首を竦めた。
「凛の本番が一週間後に近づいているんですが……今から指導内容を変更して大丈夫でしょうか」
土壇場の方針変更で結果がどっちつかずになることを、Pは恐れていた。
「そうだな……ギリギリになってから内容を卓袱台返しするのは、どの界隈でも嫌がられるだろう」
麗の呟きに、Pはやはりリズムは先送りにすべきかと意思を固めかける。
「だが貴方はそれが課題だと認識できているのだろう? 原因が判っているなら改善のために動くのは簡単だ」
Pの思考を見透かしたようなタイミングで麗が言葉を続けた。
訝しむPへ、麗は腕を組んで笑う。
「単純なことさ、P殿がリズムのレクチャーをするんだよ」
「はっ? 俺がですか!?」
驚きのあまり素っ頓狂な声が出た。しかも素の言葉遣いが漏れてしまっている。
「そう。スタジオレッスンとはまた別の機会で、P殿によるリズムトレーニングを追加するんだ」
「だって自分はトレーナーではありませんよ!?」
「何を云う。プロデューサーはアイドルを導く存在。多少のレッスン指導はするものだ」
「自分に……できるんでしょうか」
それまで柔和だった麗が、すっと真面目な顔つきになった。
「P殿は……少なくとも渋谷君よりも、リズムの感覚は鍛えられている。それはさっきの仕種だけですぐ判る」
ダンスミュージックに乗って、自然と身体が動いていた件だ。
「私見だが……貴方は音楽に関して何らかの経験が既にあるんじゃないかな?」
「そ、そこまで判るんですか……たったあれだけで……」
Pは戦慄した。目の前に立っているのはよもやエスパーなのでは、と。
「種明かしは簡単さ。訓練を受けてない人間が、裏拍でリズムを取ることはまずないよ。特に日本人はね」
箏曲や囃子など、西洋の文化がもたらされる前の伝統音楽に思いを馳せれば、表拍子を刻むものが大多数だ。
さらに元を辿ってゆけば、唄による感情表現が最優先となり、一定の律動を刻むという習慣さえなかった。
これは我々の遺伝子に刻まれた設計図なのだ。
日本人の血がそうさせてきた……としか云いようがない。
「西洋式の拍の取り方を知っているなら――即ち訓練されたことがあるなら、それを彼女へP殿から伝えるんだ」
Pは麗の目をしっかり視て、一度だけ、強く首を縦に振った。
「……わかりました。すぐにでも準備します」
ありがとうございました、と表情を引き締め、しかし口元には笑みを浮かべて回れ右。
そのPの背中を、麗は暖かな眼差しで見送った。
レッスンから戻った凛を、半ば拉致するようにやって来たのは、井の頭線は新代田『フォーエバー』。
キャパシティは数百人と、決して大きいとは云えないライブハウス。
しかし他店ならその二倍は詰め込めるだろう非常にゆとりある設計、シックな内装も手伝って落ち着く場所だ。
「久しぶりに連絡してきたと思ったら、いきなり『使わせろ』って随分急な話すぎるだろ!
本当にたまたま今日はフリーだったからよかったものの……」
オーナーが呆れたようにフロントのカウンターから苦情を云う。
「しかも何だ、新しいバンドでも組んだのかと思ったらJK同伴で二人だけの貸切たぁ、妙な使い方じゃねえか」
「いやーすいません、ここならきっと便宜を図ってくれると信じてたんで」
「ったく都合のいいハナシだぜ」
Pの言外に「タダで使わせてね」という匂いを感じ取ったオーナーは苦笑した。
「ま、いいけどよ。――もう演んねえのか?」
「はは……そうですね、みんな大学出た後は社会の歯車ですよ」
「……もったいねえ話だ」
オーナーは肩を竦め、Pはやや申し訳なさそうに後頭部を掻いた。
フロアに入り、ドアを閉めると、借りてきた猫の如く押し黙っていた凛が、ようやく口を開く。
「……あの人とは知り合いなの?」
「ああ、昔、ちょっとな」
「ま、いいけど。ここに私を連れて来て一体何をさせるつもり? ライブの下見ってわけでもないでしょ」
凛を置いて背後の音響ブースへ登ったPは、機材をごそごそ操作しながら、
「何、って。そりゃお前の“特訓”だよ」
事務所を出るとき云わなかったか? と、きょとんとする。
「何も聞いてないよもう! ていうかプロデューサーが私に特訓って何? さっきレッスンしたばかりじゃない」
両手をカーデガンのポケットに突っ込んだまま、凛は口を尖らせ抗議を寄越した。
「慶ちゃんたちトレーナーさんとは違うアプローチでな、お前のリズム感を鍛えるんだ」
Pはそう云ってプレーヤの再生ボタンを押した。
凛とP以外は誰もいない、がらんどうなフロアに、とても無機質な音が響く。
シンプル・オブ・シンプルで展開が非常にゆっくりな、電子音の羅列。
一歩間違えば、ただ単調な音楽として烙印を押されかねないのに、不思議と格好良いと思えてくる音楽。
かつて電子機材が貧弱だった時代、その制約を逆手に取って生み出された芸術、ミニマルテクノだ。
簡素な音のパーツが正確な拍を刻み続けるそのジャンルは、凛にとって初めて触れる世界だった。
「凛。お前は、ぶっちゃけ云えばリズムがだいぶ拙い」
Pの正直な指摘に、自覚のなかった凛は目を丸くした。
「え? 私の中では正確に刻んでいるつもりなんだけど……」
「ところがどっこい、そんなことはないんだな。今流れてる曲に合わせて手を叩いてみ。ちゃんと気を張ってな」
凛は手をポケットからおもむろに出し、眼を閉じて耳に集中しながら両手を打った。
パン、パン、パン、と乾いた音が空間を漂う。
「はいOK」
Pが制すると、手にはマイク付きのレコーダー。凛のクラップを録音していた。
「じゃあ聞いてみよう」
と現在流れている音楽を止め、ミキサーにつなげて録ったものを再生すると。
「えっ……」
凛は驚愕した。
自分が思い描いていたタイミングとはまるでズレた、よれよれの拍手だったからだ。
Pはそれをラップトップコンピュータに取り込み、波形として表示した。
手の鳴るタイミングごとに切り取って並べると、長さが全く揃っていないことを文字通り“見せつけ”られる。
「聴覚だけだと結構あやふやだけどさ、こうやって視覚化すると、結構……心にクるだろ?」
「……」
左手で口元を押さえて、画面を食い入るように覗き込む凛。
素になると女の子らしさが結構出るんだな――とPはやや他人事のように思いながら、その仕種を視た。
再度、ブースの機材でミニマルテクノを流し出して問う。
「凛は普段、どんな曲を聴いている?」
「いつも聴いてるのは特にこれと云ったこだわりはないけれど……音楽番組を見て気になる曲を買う程度、かな」
小首を傾げる凛に、Pは眼を瞑って腕を組む。
「そうか。すまんが、しばらくの間はこのタイプの曲をずっと聴き続けてくれ」
ミニマルテクノは、使う音が少なく構成が単純な分、反復で快楽を与えむとするジャンルである。
フレーズの反復、展開の反復。そしてそれら全てに関わってくるのが、リズムを反復することの気持ち良さだ。
そして、リズムによって精神をトランスさせるべく、とても高度にパターンが練られたものが多い。
特に裏拍の使い方は、それまでの音楽と比して格段に進化を遂げている。
「この裏拍の取り方こそが、今の音楽シーン、特にダンスミュージックの格好良さにつながってるんだ」
耳と脳味噌をミニマルテクノ漬けにすれば――
たとえ時間はかかっても、特別なスキルトレーニングを必要とせずに拍の取り方が徐々に鍛えられていく。
「確かにずっとこういうのを聴いていればリズム感は鍛えられそうだけどさ――」
凛は、まだ何となく納得しきれていない顔をする。
「人間の気持ち良さは、揺らぎ……っていうんだっけ? そこにあるんじゃないの? 1/fとかいうやつ」
「それは、正確さを追求してなお、どうしても機械のように完璧に刻めない不完全さが生み出す結果だ。
最初から揺らぐことを許容しているわけじゃない」
「……ふーん」
半信半疑な様子の凛に、ブースから降りたPが傍へ寄った。
「さて、せっかくこんな場所にいるんだ。聴くだけじゃなくて身体にも染み込ませよう」
そう云って、表拍のベースドラムに合わせて脚を、裏拍のハイハットに合わせて腕を動かすように指示を出す。
しかし凛は目線を鋭くして口をへの字に歪めた。
「えー……ヤだよ、さっきまでレッスン受けてヘトヘトなのに。聴くだけでいいんじゃなかったの」
彼女にとっては、レッスン後に無理矢理引っ張られ何も判らず連れてこられた先でもまた不意のレッスンなのだ。
この反応は、仕方ないところもあろう。
「プロデューサーは私をオーバーワークで潰したいの? 今、体力結構ぎりぎりなんだよ?」
「その疑問にも一理はあるが、ライブまでにお前のどうしようもないリズム感を改善させなきゃいかんだろ」
不信感が少し込められた凛の言葉に、Pの語気がやや強くなった。
凛のためを思って云ったことが無下にされれば、これもまた仕方のないこと。
結局、台詞の応酬が飛び交う。
「ちょっと、どうしようもって……言い方ってもんがあるんじゃない?」
「事実を云ったまでだ。言葉を取り繕ったってしょうがないだろ」
「たとえ本当のことでもストレートでぶつけられたら良い気はしないでしょ!」
「じゃあ今のままライブに出て赤っ恥かきたいのか!」
「そうならないようにトレーナーさんからレッスン受けてるんじゃないの!?」
睨み合ったところで、流していた曲が終わる。フロアが、急に静まり返った。
先にクールダウンしたのはPだ。
「言い過ぎた。色々と悪かった。このリズム感は喫緊の課題で、今のレッスンと並行して進める必要があるんだ」
凛も、Pにつられてボルテージがしぼむ。
「……ごめん、判ったよ。意固地になってた」
凛自身、先程自らのリズム感を見せつけられて、改善の必要性を内心で理解していたのだ。
雨降って地固まる。人気のライブハウスが、即席のリトミック教室へと様変わりした。
今しがたまであまり乗り気のしない様子を見せていたが、実際に身体を動かし始めると意見が変化する。
「あ、なんだろ。意外と……楽しいかも。これ」
「身体を動かすとドーパミンが出るからな。一回やり始めちまえばこっちのもんさ」
「なんか癪だけど……ま、いいや」
裏拍を感じることの大切さを口酸っぱくPは云い続け、凛は真剣な顔で頷く。額には汗がうっすら滲んでいる。
「凛、リズムを取ろう取ろうとしちゃダメだ、ビートを感じるんだ。そのために音を浴びて浴びて浴びまくれ」
一時間ほど集中して訓練を繰り返したのち、再度曲に合わせて手を叩かせてみると。
「うわ……すごい」
「あぁ! こりゃ予想以上の成果だ」
同じように波形として見た際に、確実に改善している様子が判った。
もちろんまだまだ完璧にはほど遠い。
しかし僅かな時間でこの成果なら、トレーニングを続ければ目覚ましい進歩を遂げることは間違いない。
二人とも顔を綻ばせ、満足そうにガッツポーズし、練習を再開。
端から見れば謎の儀式にしか思えない光景、その様子をオーナーが不思議そうに窺っていた。
――
それからの凛は、とかくやるべきことが多かった。
通常のレッスンのほか、リズム感覚の特訓、Pが書き上げたステージ用新曲の吸収。
もちろんまもなく始まる期末考査に備えた勉強もしなければならない。
寝る間も惜しいくらい、タスクの多さに目が回る。
あづさやまゆみと遊べる時間がここ二週間弱で復活したばかりというのに、再び慌ただしくなってしまった。
放課のチャイムが鳴った途端に鞄へ荷物を詰める凛に、あづさが近づく。
「ねえ凛、なんか今日グワンデュオでセールやってるみたいなんだけど――って、その様子じゃ行けないわね」
凛をショッピングに誘おうとした彼女は、言い切る前に無理だと悟ったらしい。
「ここ最近久しぶりに遊べるようになったかと思ったら、またバタバタしてんな」
横の席に座るまゆみも、授業―すいみん―中に垂れたよだれを袖で拭いて、凛へ向いた。
「ごめん、たぶんこの週末さえ乗り切ったら大丈夫になると思うから」
片目を瞑って謝る凛に、二人は不思議そうな表情だ。
「お前んとこの花屋、そんなにてんやわんやしてんのか?」
「この時期、お花屋さんって特に繁忙期じゃないわよね」
「あーいや、店番のせいってわけじゃないんだけどさ……」
凛はいつものように言葉を濁す。
そのまま去ろうとして、ふと、気付いた。
いよいよ週末、ステージに立つのだ。
自称ではない、正真正銘のアイドルとなるのだから、隠す必要はもうないじゃないか、と。
凛は、二人についてくるよう手招きした。
「んなッ!? お前がアイドルゥゥう!?」
「ちょっ――声が大きいって!」
屋上で、まゆみが驚嘆する叫びと、それを制す凛の声が混じり合う。
放課後は、屋上に用事のある生徒などまずいない。
ここなら密会ができる、と凛がこれまでの経緯を切り出したのだ。
「ねえ凛、もしかして五月あたりから急に付き合いが悪くなったのって――」
「そう、アイドルになるためのレッスンがみっちりあったから……」
「んもう、それならそうと云ってくれればよかったのに」
あづさが、凛のしていたことを知って、打ち明けてくれなかったことにやや不満気な顔をした。
「だって、ただのレッスン漬けで活動してるわけでもないのに、アイドルやってますなんて……云えないでしょ」
「まあ……凛のその気持ちは判らないでもないけれど」
「んーで、つまり今度の日曜に、お前はアイドルとしてデビューする、ってーわけだな?」
渡されたチケットを覗き込んで問うまゆみに、凛はこくりとゆっくり頷いた。
「まだ駆け出しも駆け出し、新人ですらない状態だけどね。ようやくステージに立てるんだ」
「なるほどね、その追い込みなら確かに今週は遊んでるヒマないわね。じゃあ頑張ってきなさいな」
「うん、行ってくるよ。……って、あぁっ!」
凛は急に大声を出した。今日は掃除当番だったことを思い出したのだ。
今頃、同じ班の生徒は、凛がサボったのだと恨み言を洩らしているだろう。
早く担当する生物教室に行かなければ。
「いいわよ。わたしたちが代わりにやっとくから、凛はさっさと行きなさい。時間が惜しいんでしょ」
「げぇっ! 『わたしたち』って、あたしもかよ!?」
あづさがひらひらと手を振って、助け舟を出した。
生徒会に籍を置くあづさの手伝いなら班の皆は文句を云うまい。ただしまゆみは流れ弾に後退さった。
「貰ったチケのお返し分にね。どうせヒマしてるんだから変わらないでしょ。さ、行くわよ」
げっそりしたまゆみの二の腕を引っ張るあづさ。凛は二人に、
「ごめん、ありがと!」
と顔の前で強く合掌して、飛び出していった。
階段を抜け、玄関を抜け、校門を抜け、橋脚そびえる大通りへ。
夏至の近い、高く強く照り付ける陽を、モノレールが反射して輝く。
時折モーターと摩擦の音をまとわせながら滑ってゆくそれを横目に、凛はイヤホンをつけて駅までの道を駆けた。
耳に流れ込むのは、アリル・ブリカの『オン&オン』。
その曲のテンポに合わせた速度で、軽やかに風を切る。
表拍は足で、裏拍は手で。
500メートルほどもある道のりだが、トレーニングを重ねた身には、全力疾走でもしない限りは容易い。
今、凛のアイフォーンには、膨大なミニマルテクノが詰め込まれている。
否、ミニマルテクノ“しか”入っていないと云うべきだろう。
先日のリズムトレーニングの際、Pが膨大なミニマルテクノのCDを用意していた。
それらを片っ端から転送し、わずかな暇さえあれば頭へ流し込んでいるのだ。
この時期にしては珍しく青色を覘かせる空に、飛行機雲が一本伸びていく。
ただし、軽い足取りで走る凛は、その模様に気付くことはなかった。
以前の空っぽな少女とは違う。今は、空のカンバスよりも強く見詰めるべきマイルストーンがあるのだから。
373 : 参考までに - 2015/08/10 05:21:42.91 s8phhYh5O 365/834
Aril Brikha - On & On
https://www.youtube.com/watch?v=-4i7SiWpvmc
古すぎない名盤でミニマルへの入口に最適です
https://itunes.apple.com/jp/album/on-on-original-mix/id414069116?i=414069203
――
日曜。
都内、中小規模の箱で、様々なアイドルが一堂に会するP企画のライブイベントが行なわれた。
もちろん、その誰もが、未だ名が広く知られているとは云えないレベル。
それでも多種多様な顔ぶれが揃うということで、それぞれのファンが集い、数百人のキャパは中々に盛況だった。
企画者の特権とでも云おうか、凛はタイムテーブルのだいぶ美味しい部分にねじ込んである。
勿論、Pの呼び掛けに呼応したアイドルの中で、現状最も知名度のある子はトリへと配置。
流石に、新人に〆のステージをやらせるわけにはいかないのはPも凛も承知していた。
かといって、その子の存在だけでキャパ全部の客を開演から終演まで維持できるパワーバランスではない。
つまり、スケジュールの中間付近が、客の入りとしては一番美味しいのだ。
トリとは一種名誉職みたいなもので、実際この規模この知名度なら中程がプラチナセッティングだった。
さあ、Pのできるお膳立てはした。
あとは、凛が、凛自身で、フロアにたむろする客の目と耳を掴まなければならない。
もう間もなく出番だ。
バックステージで緊張の面持ちを隠し切れない凛にPは近づき、髪飾りの位置を少しだけ修正して云う。
「大丈夫だ。あれだけのレッスンを重ねて、“特訓”もこなした。そして――俺と凛の絆もたぶん、向上した」
自意識過剰かね、とおどけてみせるP。
「ふふっ、……かもね?」
否定せず意地悪く笑う凛に、Pはこめかみを掻いてひとつ咳払いし、
「なんにせよ、今、煌やかなアイドルの衣装をまとうお前は、誰よりも輝いてる。自信を持っていい」
そう頷くPへ、凛がくるりと正対した。
「ねえ、似合ってる?」
ふわりと、長い髪そして黒いドレスの裾が舞う。
黒いワンピースドレス、黒いチョーカー、黒い手套。それに黒髪とくれば、印象が暗く沈んでしまう危険を孕む。
しかし凛のこのデザインは、全く逆の効果を生み出していた。
髪飾りや手にあしらわれた紫の花のワンポイントと、何よりも凛自身の碧い瞳がくっきりと活きるのだ。
「こんな恰好するの初めてだけど、ちょっと嬉しい、かな」
はにかんで、しばらく間を置いてから微笑んだ。
「……ありがとう、プロデューサー」
紆余曲折はあったが、ステージに立ちたいという、凛の要望を叶えるために尽力したPへの感謝。
たった一言、されどその一言と笑顔で、Pは半分報われる思いがした。
もう半分は、このあとの凛のステージ次第。
しかしそれでもPは、この時点で既に成功を確信して止まなかった。
狭いフロアに、熱気が渦巻く。
凛のパフォーマンスは、頭一つ、いや、それ以上に抜きん出ていた。
勿論、第一線で輝くアイドルとは比較するのもおこがましい拙さであることは云うまでもない。
だが、この日この会場に集まった面々となら、凛はもはや相手にすらならぬ――
そう断言できるほどのポテンシャルを見せた。
きりりとした意志の強そうな表情、芯のしっかりした歌声、キレのよいダンス。
凛は、固定ファンの多数存在する、トリを務めたアイドルとほぼ互角の興奮を生み出したのだ。
それは、本日デビューでこのステージが初めてという者がおよそ達成できる偉業ではない。
そんな密閉空間の昂りを、フロア背後の機材ブースに近い角っこで、全身に曝されている人影が二つあった。
あづさとまゆみだった。
凛の初舞台、その勇姿を本当は前列で見たかったのだが……
予想以上の混雑と熱狂で、まるで地下鉄東西線の朝ラッシュの如く弾かれてしまった。
「……すげえな」
「……ほんとね。思ったよりも、ずっと」
凛の熱気に当てられた二人は、ようやく、ぽつりと言葉を漏らした。
結局そのまま、ここが彼女らの指定席。
最後まで、近くて遠いステージを見詰めていた。
「こないだ屋上で聞いた時は、根は真面目なアイツがアイドルなんて性質の悪い冗談かと思ったけどさ」
「そうね。でも、悔しいけれど凛は周りで一番可愛いから、驚きはしなかったかな。それに……なんか楽しそう」
中学や高校の学生生活では見せることのなかった、凛の活き活きとした姿。
学校と云う、ともすれば家族よりも一緒にいる時間が長くなる場所で何年も付き合ってきた者が初めて見せる顔。
演り終えた凛が、新たに獲得したファンとフロアの端で記念撮影をしているのを遠目に、二人は感慨深気だ。
「これは、自慢話が捗るわね」
あづさが期待に胸膨らませると、
「あたしたちの手柄でもねーのにか?」
まゆみが笑って突っ込みを入れた。
「正直、これまで何に対しても“なあなあ”で済ませてきた凛がここまで打ち込んでるなら、近く大物になるわ」
「かもな。原石って、思いもしねえほどあたしの近くに転がってたんだなぁ」
「あわよくばわたしたちも?」
「あっはは、そりゃーねえだろって」
二人は、一種馬鹿げた話に肩を揺らす。
しかし、もしかしたら――運命の女神は、数年後に彼女らへ白羽の矢を立てるのかも知れない。
誰に福音がもたらされるのか、それは神のみぞ知る。
撮影を終えた凛が、Pを伴ってやって来た。
「二人とも、来てくれたんだ」
「ええ、そりゃ貰ったチケットを無駄にするわけにはいかないもの」
「せっかく代わりに掃除当番したんだ、来て楽しまないともったいねーって」
まゆみの強烈な軽口に一同が笑う。
「楽しんでくれた、と受け取っていいかな?」
期待半分、不安半分の微笑みで凛が問うた。
「ああ。なんか気恥ずかしいけどよ、カッコよかった。お前のファンになったぜ」
「わたしもよ。そこそこ長い付き合いだと思ってるけど、初めて凛に燃えさせられた。れっきとしたファンね」
「そこまで云ってくれると光栄だね。君たちは凛のファン第二号と第三号だよ」
まゆみとあづさの感想に、Pが明るい声音で語りかけた。しかし妙な数字に凛が訝しむ。
「……第一号は?」
「勿論、俺に決まってんだろ」
「……はぁ。まったく調子いいんだから」
その即答に呆れた表情の凛と、笑い合うあづさ、まゆみ。そして三人を満足そうに見守るP。
今まさに、凛が正真正銘のアイドルとして、Fランクアイドルとして歩み出した瞬間だった。
帰路に就く友人らと別れ、凛とPは飯田橋の街を事務所まで歩く。
凛は表向き無感情な顔をしていたが、その内心は昂りを禁じ得なかった。
自身が他人に与えた好影響の手応えを、ひしひしと感じたからだ。
ステージの緊張感、スポットライトの熱さ、一身に受ける歓声、そして笑顔になる観客。
自らの歌に、誰かが聴き入ってくれる。
自らのビジュアルに、誰かが見蕩れてくれる。
自らのパフォーマンスに、誰かが興奮してくれる。
もっと観て。
もっと私を視て。
もっと私の歌を聴いて。
凛は、かつて経験したことのない未知の充足感に包まれている。
ついこの間までただの一般人だった不器用な女の子。
そんな凛が自分とは無関係だと思っていた場所へ、境界の向こう側へ足を踏み入れた実感。
事務所手前の、赤に変わった横断歩道で待つさなか、隣に立つPの袖をくいっと引っ張る。
「プロデューサー。……アイドルって面白いね」
気付いて凛の方を向くPに、やや控えめな声量で語り掛けた。
「こんな楽しい世界があるなんて、知らなかった」
いや、正確には、知らない“フリ”をして、直視しようとしなかっただけかも知れない。
「あの刻、渋谷で“不審者”に声を掛けられなかったら――きっと耳を塞いで回れ右していたんだと思う」
在りし日に思いを馳せる。社長とPにスカウトされた日を、昨日のことのように記憶している。
「そうだな。でもこれがゴールじゃないぞ。むしろ、今日はスタートラインに過ぎないんだ」
「うん、わかってる」
「とはいえ――」
青信号になり再度歩き出したPが空を眺めつつ呟く。
「今日くらいは、喜んでも、いいよな」
「うん、そうだね。……ていうか前見ないと危ないよ」
凛の注意虚しく、事務所へ続く階段にPはつま先をぶつけた。
「あーあ、云わんこっちゃない」
足を押さえてうずくまるPへ呆れて語り、それを横目で見ながら凛は軽やかに駆け上る。
「ほら、置いてくよ」
後ろを見て笑う凛が、事務所のドアを開ける。
そこには、CGプロの全員が集合していた。
「凛。本格デビュー、おめでとう」
凛に遅れること少々、立て付けの悪い扉を閉めたPが云うと同時に、それぞれが手にしたクラッカーを鳴らす。
色とりどりのテープが凛に降り掛かってすぐ、卯月と未央が凛に抱きついた。
その日の夜、ライブのノウハウを銅たちに伝える席上で飲んだ酒は、Pの人生で一番美味かった。
・・・・・・・・・・・・
しばらくの日が経ち。
週末のライブ開催を重ね、凛に固定ファンがつくまでには、さほど労を要しなかった。
中小レベルの箱ならばソロでも余裕で埋められるほどとなり、一回り大きな会場を探す日々だ。
意外とFランクからEランクへ上がるのは苦労しないんだなと、Pは良い意味の予想外を実感した。
ノウハウを共有したことで卯月や未央も凛同様にステージデビューし、めきめき力をつけている。
三人は、抜きつ抜かれつ、追い付け追い越せと切磋琢磨し合っていた。
CGプロも、『金食い虫』だった凛が金を少しずつ稼ぐ存在に変わってきたことで、
幾分か余裕が出るようになった。
設備を少し拡充、併せて新しいアイドル候補生を何人かスカウトし――零細事務所から脱却しつつある。
そんな夏本番が迫った日、銅が地方の営業先で行なった紹介が、ローカル局から本局へつながった。
ライブの評判を聞きつけたフジツボテレビの担当者が、ライブフェスティバルへの参加を打診してきたのだ。
なんでも、八月末に臨海副都心で二日間開催されるサマーライブフェスに大幅な欠員が生じてしまったらしい。
いわば間に合わせの補欠と同義ではあったが、このチャンスを活かさない手はない。
何よりも、凛が「やりたい」と強く希望した。
Pは二つ返事で了承し、CGプロを代表して、台場のオフィスへ折衝に来ている。
勿論、チャンスを狙って凛も同伴だ。
欠員は先方の都合とはいえ、CGプロは立場が弱いし、主催のフジツボにとってはただの補充に過ぎない。
ゆえにフェスのタイムスケジュールや、複数ある会場の割当は全て向こうに任せるという交渉結果となった。
しかし、好き嫌いを云っていられないし、何よりも担当者が非常に喜び、CGプロへの好感触を得た。
これはきっと将来につながると判断してよいだろう。損して得獲れとはよく云ったものだ。
大規模なライブには多大な準備期間が必要で、開催まではまだ時間がある。
それまでに力をつけよう、Pと凛はそう頷き合って、局の廊下を歩いていた。
制作フロアは多忙で駆け回る人から一仕事終えてまどろむ人まで、多種多様な姿が見える。
Pと凛は、資料と音源映像の入ったDVDを手当り次第に配り「新人アイドルの渋谷凛です」と営業をかける。
全ての者が「時間があったら観ておくよ」と薄い反応だったが、想定の範囲内。
Pたちにとっては、渡せるだけでも及第ラインだった。
そんな中、前方から、ひときわ大きな態度で歩いてくる者がいた。
立ち居振る舞いを見たPが「これはデカいぞ」と意気込む。
駆け寄ってDVDを渡すと、あまり興味がなさそうだったものの、それでも立ち止まってはくれた。
「渋谷、凛、ねぇ? ……聞いたことないな。まあそれなりに小綺麗だけど」
金本という名札を首から下げたそのディレクターは、凛を頭から足の先までじろじろと値踏みするように視る。
非常に無礼な仕種ではあったが、これが現在のパワーバランスだ、甘んじて受け容れるしかない。
凛は、自らを舐め回す粘り気ある視線に、身を固くする。
「こんなの貰っても観るヒマなんかないからさ。ここで見せてくれない? 場合によっては番組枠を考えるよ」
やがて金本はDVDを突き返してそう云った。
チャンスだ、とPは思った。
普通、資料等を受け取ってもらえなければ次には繋がらないが、多忙な金本はこの場で完結することを望んだ。
ならば一気に決められるかも知れない。
頷くPを見て、凛は一歩前に出る。
「では失礼ながら少々お騒がせ致しまして――」
西日の差す広い廊下で、凛は歌い、舞い、これまでの成果を遺憾なく発揮する。伴奏などなくとも、構わない。
Pの目には、凛の踊る場所が即席のステージに映った。もはやそこは、廊下ではなかった。
1コーラス分を演り終えて頭を下げる凛。その仕種は、しなやかで、女性的で、しかし力強い。
Pは彼女に見蕩れていた。
きっと、ディレクターも――
そう思って金本を向いたPは、しかし、予想に反して嗤う顔が目に入った。
「いやぁ、実は今回手掛けてる枠は既に埋まってるんだよ。残念だったね」
つまり、最初から使う気など、否、考える気すら皆無だったと云うこと。
「えーと、名前なんだっけ? 刹那で忘れちゃった。まぁいいか、ライブ出てる程度じゃねじ込むのは難しいし」
出直しといで、と手を振って立ち去るが、数歩進んだところで凛を振り返った。
「それとも――今夜ウチに来るか? 君、もし貫通済じゃないなら便宜図るよ? 身体の具合は悪くなさそうだ」
暗に枕営業を求める台詞。口調や表情は冗談のようでも、目だけは本気の色を隠していなかった。
凛は、隙あらば捕食せむと狙う金本の瞳に、固まって何も答えられない。
その様子に満足したのか、下卑た笑いを残して消えてゆく。
誘発されたか、周りから失笑が漏れ聞こえた。
テレビ局の人間など、Pが伝通の肩書を持っていた頃はへらへらとおべっかを使ってくる連中だったのに。
「ご覧頂き、ありがとうございました」
Pと凛は、屈辱を押し殺し、周りへ頭を下げた。
「あンの糞野郎! 俺ならいざ知らず、凛本人を虚仮―こけ―にしやがって!」
Pは、つい先日稼働を始めたばかりの社用車へ乗り込むやいなや、悪態を我慢しなかった。
助手席に座る凛もはらわたが煮えくり返る思いだろうに、Pのあまりの勢いに驚きの方が勝ってしまった。
「プ、プロデューサー、いいよ、そこまで怒らなくて……」
「俺自身が何か厭な思いをするのはいいんだ、そのためにいるんだから。でも今回は違う。あの野郎赦さんぞ!」
アイドルが心地よく活動するために、業界の黒い部分はPたちスタッフが受け持つ。
その代わり、アイドルはいつでも全力投球に集中する。
金本は、そんな配慮を飛び越える嫌がらせを、Pたちに振り掛けた。
「勿論、私もいい気分じゃないけど……でも、プロデューサーがそこまで怒ってくれたなら……いいかな」
凛は、自分の代わりに、我が事のように怒ってくれたPへ「ありがと」と小さく云った。
もしかしたら、Pの激怒は、凛に口汚い台詞を云わせないための芝居だったのかも知れない。
その本心は、誰にも判らない。
斯くして、厭な思いこそしたものの、この日一番重要なフェスの打ち合わせは無難に済ませられた。
そのことを喜ぶ方向にシフトすべきである。
「……ま、くだらん事はさっさと忘れるに限るな。それよか、フェスはいい感じに演れそうだ」
Pが、ハンドルをぽんと軽く叩いて云った。
「そうだね、あんな大きな規模のライブができそうだなんて、予想もしなかったよ」
参加者は60組にも達しそうな勢いで、特設会場のキャパシティもこれまでと桁違いだ。
そんな大きさのライブに凛、卯月、未央が参加できるとは、千載一遇のチャンスと云う他ない。
うまくいけば、CGプロを大躍進させるチャンスとなろう。
「開催まであと一月半だな……それまでにレッスンや新曲は勿論、ライブの場数もこなしておこう」
「うん、ライブで宣伝もできると思うから、いいんじゃないかな」
Pの提案に凛も乗る。
レインボーブリッジを渡りながら、作戦会議に花が咲いた。
事務所へ戻ると、早速銅と鏷に打ち合わせの結果を報告する。
凛だけでなく卯月や未央もサマーライブフェスに参加できるとあって、両プロデューサーとも気合いが入った。
まだ本番までは時間があるので、ひとまずこれまで通りのルーチンをこなそうと云う話で決着した。
浮き足立って余計なことをして、逆効果を生んでしまっては元も子もないからだ。
Pは、これまで通り、凛はとにかくライブの場数を踏ませることに専念しようと考えていた。
しかしそれには、手狭になった現在の箱の代わりを探さなくてはならない。
探索の範囲を広げて、城東だけでなく山の手の方まで虱潰しに調べ上げ、目を付けたのが、原宿。
竹下通りをはじめ表参道も近く、秋葉原等とはまた違ったポップカルチャーの発信地として、
40年以上に渡り重要な地位を占めているエリアだ。
ここをステップアップの拠点にできれば、凛の名を広く知らしめるのに大きな力を与えてくれるはずだ。
運の良いことに、小さすぎずそして大きすぎない、ほどよいサイズのライブハウスも発見できた。
これなら、一部の追っかけのみが知っているアイドルから、一般層への浸透を図れよう。
最初のライブと同じように、合同ライブと云う形式で、凛は原宿に進出し、舞い、歌う。
土日を重点的にライブをこなし続けることしばし。
元から獲得している固定ファンに加え、原宿で遊ぶ女の子を中心として、新しい客層を掴みつつあった。
凛のパフォーマンスは、より要求がシビアとなる流行の最先端地でも、或る程度健闘できたと云ってよいだろう。
とはいえ、やはり新しい場所に馴染むには少々時間が要るものだ。
凛に続いて進出した卯月と未央は、観客動員数で追い付けない子と共演したと語った。
「ホントに凄かったんですよ~!」
卯月がまるでただのファンのように、その時の光景を回想して云う。
未央も「いや~凄い子に出会うと、こっちも燃えてくるよね! あんなの初めて見たよ!」と興奮していた。
それほどまでに、二人にとって新天地の与える影響は大きかったようだ。
しかし凛は幸か不幸か、そのような相手とまだ出会っていない。
フジツボでの打ち合わせから起算しておよそ半月が経ち、間もなく八月になろうかという夏休み本番の土曜日。
この日、凛は原宿で初めてのトラブルに遭遇した。
ライブをするはずだった箱が、手違いでダブルブッキングを起こしてしまったのだ。
電話で報告を受けたPと凛は、会場入りの予定時刻を大幅に前倒しして現地へ向かった。
入口をくぐると、既に中からヒステリックに問い詰める声が聞こえてくる。
「――ダァーブルブッキングってどういうことにゃ! 今日のために色々用意してたんだにゃ!」
ひたすら陳謝する担当者と、妙な口調と猫のような仕種で食いかかる女の子。
「ゴメンで済んだら世の中ケーサツなんて要らないのにゃ! ファンのみんなに申し訳……って、ん?」
件の子が、自らを不思議な面持ちで見詰める二つの影に気付いた。
「あーもしかして、ダブルブッキングのお相手さん、えーとどれどれ……渋谷凛チャン、かにゃあ?」
予約状況の紙を覗いて、名前を確認してから問い掛けてくる。
返答するのも忘れ、凛は隣へ囁くように訊く。
「……誰、あの妙な子」
「おそらく、猫キャラとして売り出しているアイドルは一人しか知らんから心当たりはあるが――」
二人の会話を遮って、やや強い口調が割り込む。
「妙な子、とは失礼にゃ。みくには前川みくと云うれっきとした名前があるにゃ」
Pと凛は、その強烈なキャラクターに呆気に取られ、ただ頷くのみ。
「ちょうどいいにゃ。ここに予約が重複した当事者が揃ったなら、話も決めやすいってモンでしょ」
と猫もどきの女の子は一人で納得した風で、
「と云うわけで今日のところはみくに譲るにゃ」
堂々としていながら、しかしとんでもない要求を出してきた。
勿論その提案――と云う名の強要――などPは承服しかねるので、慌てて制止する。
「いやー、流石にそれはちょっと……うちのライブにも来てくださる観客のみなさんがいますし」
お互いに譲らない抗争が勃発するかと思われたが、
「ま、そりゃそうだよね。みくだって同じこと云われたら困るモン」
意外にもみくはあっさり首肯した。
「そ・こ・で、にゃ。この際ダブルブッキングはもうどうしようもないんだし、それをどうカバーするかにゃ」
「つまり、それって……」
凛が、みくの云わむとすることを察した。凛とて、伊達に色々なライブをこなしてきてはいない。
「そ。合同でライブするにゃ」
案の定、ニコイチにするという、誰にでも思いつきそうな内容。
凛もそれ以外の解決策を持ち合わせていないので同意しかける。
しかし、
「――モチロン、いい機会だからLIVEバトル形式にゃ!」
びしっと指差して続けられた台詞に、表情を固くした。
みくの一連の提案は、表向きには解決のための建設的なプランに見えるが。
「……喧嘩を売られたら、買うしかないよね」
そう、みくの言葉の本質は、提案ではなく『宣戦布告』だった。
「最近この原宿界隈を荒らしてるってウワサの新人でしょ? 叩き潰しておかなきゃみくの名が廃るにゃ」
ふっふーん、と流し目で凛を値踏みし「最近張り合いがなくてつまらなかったから丁度いいにゃ」とうそぶく。
ここまで云われては凛とて引き下がるわけにはいかない。
「いいよ、やろう。どっちにしろ、この状況を解決するのはこの手しかなさそうだしね」
「ふん、なーんかいかにも優等生、ってカンジの答えにゃ」
みくが鼻を鳴らす。
「行こ、プロデューサー。準備しなきゃ」
みくの挑発に乗ることなく、凛は淡白に踵を返した。
Pはみくに「じゃあまた後で」と挨拶をしてから去るが、内心はあまり穏やかではない。
「前川みくか……原宿で一番のやり手と聞くが……」
数時間後、Pの心のざわめきは現実のものとなる。
凛とみく、期せずして実現したライブバトルに、双方の観客は熱狂した。
二人とも最大限の力を出し切り、フロアからの応援も完全燃焼の様相を見せた。
これほどまでの上昇気流は、原宿では久しい。だから、表向きとしては、ライブは成功と云ってよかった。
しかし、Pが終演後の観客誘導を手伝っている頃、バックステージ、楽屋では。
凛が、茫然とした顔で、突っ立っていた。
ダンスで乱れた長い髪が、汗に濡れた肌へ貼り付いている。
まず間違いなく不快な状態であろうに、彼女にはそれを気にかける余裕すらない。
みくが対照的に涼し気な仕種で感想を述べる。
「CGプロ……って云ったかにゃ?
こないだその事務所の二人と一緒になったけど、あっちの方がずっと骨があったにゃ」
おそらく卯月と未央のことだろう。
みくがそう云うのも無理はない。本日のバトルは、ダブルスコア以上の大差をつけて、凛に圧勝したからだ。
みくは、パフォーマンスも、バックボーンも、そして惹き付ける話術も凛とはまるで違った。
年齢からは考えられないほどグラマラスなボディラインに、アダルティな持ち歌。
固定ファンの層の分厚さにも、全く歯が立たない。
凛自身が、歌っている最中「追い付けない」と寒気を自覚するほどに。
これまで凛のライブにほぼ毎回と云ってよいほど足を向けてくれた客さえ、凛そっちのけでみくを応援していた。
ステージ上では、勝者を惜しみなく讃えていた凛。しかし一旦控えへと下がれば……
屈辱を感じることすらおこがましいと怒られそうなほど、こてんぱんに打ちのめされた現実が転がっていた。
「みくはレッスンもライブも、そしてプロデュースも自分一人でやってるにゃ」
彼女の言葉には、重みがあった。それ相応に苦労してきた――そんな自負が色濃く滲んでいる。
「そっちは専属の指導者がいるのに、全てセルフプロデュースしてるみくに惨めな負けを晒して、
恥ずかしくないのかにゃあ?」
打ちひしがれる凛に、容赦ない言葉の踏み付けが襲う。
それは望外にあっけない勝負となったことへの八つ当たりもありそうだ。
「つまんにゃい」
ぽつり、一言を残して、みくは、すたすたと去っていった。
この間仕事で大失敗した時とは比べ物にならない喪失感が、凛を津波の如く呑み込む。
自らの責による先日と違い、今日は全力を出した結果の敗北。
「凛、今日は残念だったな。切り替えて次は頑張ろう」
ドアノブの控えめな音と共に、スタッフの手伝いを終えたPが控室へ戻ってきた。
しかし凛は、その呼び掛けに反応できない。
「……凛?」
放心状態で立ちすくんだままの凛に、Pは悪い予感が現実となったことを認識した。
なにぶん、みくを称えるステージ上の姿をPは見ていたのだから、
ドアを開けるまで凛がこんな状態になっているとは思うまい。
しかしあれは、負けん気の強い凛が、最後の力を振り絞った行動だったのだ。
公衆の面前で醜態を披露してたまるものか――燃え尽きた彼女に僅かばかり残されたプライドが、そうさせた。
意識的なものかどうかはさておき、プロとして褒めるべき所作ではあったが、そのぶん反動も大きい。
「凛」
そっと、Pが肩に手を乗せても、案山子は何も答えられず、ただただ、焦点の合わない目を地に向けている。
「俺たちは、負けたんだ」
Pの宣告に呼応するかのごとく、凛は崩れ落ちた。
床へ膝を突いた敗者は、力なく拳を握ることしかできない。
泣いたり、喚いたりはしない。それどころか、微動だにしない。
なればこそ、ショックの大きさを物語っていた。
「次だ。次に活かそう」
Pが優しく、力を込めて促す。
ようやくそこで、凛はゆっくりと、とても小さく頷いた。
――
翌日。
あまり良質な睡眠を得られずじまいだったが、どうやったって日は昇ってくる。
休日朝の日課となっている愛犬ハナコの散歩で、凛は家近くの道を歩いていた。
ルートは毎回決まっているので、散歩そのものについて特段気にかける必要はない。
それゆえに――
昨日からの答えのない思考が、ずっと、ぐるぐる巡っている。
自らのことでありながら、凛にとって意外に思ったのは、負けたことが想像以上にショックだった点だ。
例えば運動競技で力が及ばなかったとか、テストで上位を取れなかったとか、負けたことなど過去数知れずある。
なのに、ライブでの敗北は、過去のどんな負けよりも、深く心臓を抉り込むように凛の心を突き刺した。
みくに黒星をつけられたことだけではない。
卯月や未央にすら劣る、みくにそう改めて突きつけられたのもショックだった。
勿論、凛は自分が卯月たちより勝っているとは露程も思っていない。
むしろ彼女らより明らかに劣っている。それは最初のレッスンの刻から判り切っていた話だ。
それでも、改めて第三者に落ちこぼれの烙印を押されると云うのは、軌道に乗り始めた凛には辛い現実だった。
――あっちの方がずっと骨があったにゃ。
――専属の指導者がいるのに恥ずかしくないのかにゃ?
みくの声が、まるで洞窟の残響のようにずっと頭の中をこだまする。
――つまんにゃい。
たまらず眼を瞑る。
――つまんにゃい。
それでも言霊は、全く消えない。
――つまんにゃい。
追い払うように、かぶりを激しく振った。
荒い呼吸に、歩みを一旦止める。
みくの声を掻き消してくれと云う思いが天に届いたか、飛行機の轟音が響き渡った。
ここは米軍基地の滑走路南端をかすめるように延びる道路。
ゆえに余計なものが歩道に在らず、歩行者の往来も少なく、犬の散歩にはもってこいの場所だ。
脂汗の伝うまぶたを開けると、輸送機―ハーキュリーズ―がすぐ上空を通り過ぎるところだった。
甲高いエンジン音、そして風を切るプロペラの重く低い音。
二つが混ざり合って空気を切り裂き、音も姿も、遠く高く消えてゆく。
見送ったのち、視線を下げると、ハナコが不思議そうに、飼い主の表情を窺っていた。
「……ごめんね、ハナコ」
凛は、自らを見上げる小さなヨークシャーテリアを抱き上げた。
ハナコが鼻を近づけて、ぺろっと頬を一度舐める。励ましてくれているのだろうか。
「ステージは、私が最初にやりたいと云い出したアイドル活動の原点なのに……」
ハナコの目を覗き込んで、誰宛ともなく独り言つ。
「そのステージで、結果を出せなかった……」
道路と軍用の敷地を隔てるフェンスに体重を預け、輸送機の去った空を見た。
金網がたわんで身体に食い込むが、その鈍い痛みさえ神経は知覚を放棄している。
このままでは、私は捨てられてしまうだろう。
以前の無味乾燥な日々に戻ってしまうだろう。
何もかもがつまらなく、そして何も変えられないと思っていた自分が、ようやく、楽しいと思えることに――
未知の世界へと誘―いざな―ってくれる魔法使いたちに出会えたかも知れないのに。
まるで幻だったかのように、それらは泡沫―うたかた―の夢と消えてしまいそうで。
そんな諦めが心を浸食してゆく。
凛は胸の前で拳をぎゅっと握った。
このままこれまでと同じレッスンを続けても――
凛が腕を上げたところで、みくだって自主レッスンをこなして更に数歩先へ進むことだろう。
もしかして、自分はずっと落ちこぼれとして走っていかなければならないのか。
――叩き潰しておかなきゃみくの名が廃るにゃ。
凛は再びかぶりを振って、みくの言霊から逃げるように、ハナコの散歩を再開した。
――
それからの凛は、だいぶ淀んだ。
改善すべき点や、山のように積まれた課題が判っているにも拘わらず、レッスンに身が入らない。
無論レッスン自体は休まず受けている。しかし何をやっても、頭の中でみくが囁くのだ。
――無駄な足掻きにゃ。
それは一種の被害妄想に過ぎないのだが、凛自身にとっては深刻な問題である。
たとえ無理矢理に鼓舞しようとも、心の安寧を脅かす思考から離れることができない。
自らを磨く為でなく、ただ予定表に書かれているからレッスンをこなす。
そんなルーチンワークに成り果ててしまっていた。
明や慶にも、かの日を境に乱調を来した凛をどうしたものか戸惑いが見られた。
Pは、どう対処すれば正解なのか悩んでいる。
レッスンの様子を人知れず見守って得た感触や、慶からのレポートとにらめっこして解決策を探るものの……
再度ステージに立たせるべきか?
――トラウマが甦ったらどうする。
レッスンにとことん打ち込ませるべきか?
――今の状態ですら身が入っていないのに増やして何の意味がある。
ひとまず休ませるべきか?
――サマーライブフェスまであまり時間は残されていない。
どの選択肢も決定打に欠けていて、だからこそPの頭を悩ませる。
それでもこの中でベターなものを選ぶとしたら。
「休ませる、なのかなぁ……」
ここ最近のレッスン中に見せる凛の顔が、以前に比べて暗く疲れているように感じたから。
少し気分転換が必要だろうか。
事務所の机でウンウン唸っていると、
「おはよう、ございます」
過日、油を注して不快な音が出なくなったドアを開けて、凛が事務所へやって来た。
レッスンをうまくこなせないのに、それでも腐らず出社してくるのは根の真面目さゆえだろう。
「おう、お疲れ」
Pが手招きをすると、凛はきょとんとした顔でそばへ寄った。
「明日から少し休みをやるから、羽根を伸ばしてみたらどうだ?」
ここ最近バタバタしてたしな、と凛の予定が書かれているスケジュール帖をめくって云う。
勿論この提案はPが凛のことを思って出したものだ。
しかし、当の凛は、さっと顔色を変えて、戦慄―わなな―いた。
遠回しに、左遷ではないかと思ったのだ。
「それって、もう私なんて要らない、ってこと……?」
気が滅入っている状態では、どんな些細なことも悪い方向に考え、悪い方向に受け取ってしまうものだ。
さらにはタイミングの悪いことに、凛は今、月に一度のナーバスな時期だった。
普段の彼女なら冷静に考えられようことでも、こじれてしまいやすい状況だ。
Pの机に『黒川千秋 マイルストーン』と書かれたファイルが置かれているのを見てしまったのも、
その疑念が更に高まる要因となった。
黒川千秋は、先日新たに社長がスカウトしてきたアイドル候補生だ。
凛を棄て、千秋を育てる――そんなマイナス思考がどんどん膨らんでくる。
「要らない、なんてそんなわけないだろ。上の空の状態でレッスンを何度やってもあまり吸収できないだろうし」
「上の空って何……私はきちんとレッスンしてるんだよ!?」
「それは充分判ってる。でもレッスンスタジオに“ただ居るだけ”じゃ仕方ないしな」
凛は図星を突かれて身体を硬くした。Pが慶のレポートに目を落として、軽く息を吐く。
「――トレーナーさんたちも凛の様子に結構戸惑っているみたいだから、やっぱり休息が必要だよ」
「なにそれ……私のせいだっていうの……?」
Pは、どうにも凛の様子がいつもよりおかしいことが気がかりだった。
意識して平静に諭す。
「違う違う。根を詰め過ぎだから、久しぶりに羽根を伸ばしたり、何か好きなことをやったりしてみろってだけ」
Pの云うことは、一般論的にはあながち間違いではなかろう。
あづさやまゆみといった友人たちと、どこぞへ遊びに行ったり、スイパラ巡りをしたり。
Pもそう云う過ごし方を念頭に、凛へ休息を薦めていた。
しかし、ここで一つミスを犯した。
これまで、凛の生活は空っぽに近かったのだ。
何もかもがつまらない。将来に希望も見出せない。
アイドルが唯一の心の拠り所となりつつあったのに――そこから離れて一体何をすれば良いと云うのか。
しかも敗北のショックを受けている凛に無理矢理休めと云ったところで、苛まれるのが落ちである。
「だから結局、お荷物はしばらく大人しくしてろってことでしょ!?」
「おい、凛、俺はそんなこと云ってないだろ!」
不幸にも様々な要因が重なって気持ちを制御できなくなった凛に、とうとうPも声を大きくしてしまった。
「この際はっきり云ってすっきりしなよ、成長しない奴は要らない、って!」
「馬鹿野郎! お前が立ち直ってまた伸びていけるように、無理せず少し休むよう薦めてるんだ!」
「根を詰め過ぎって云うけど、普段私の練習なんか見もせず、机で書類眺めてるだけじゃない! よく云うよ!」
Pはハッと言葉に詰まった。
レッスンを邪魔しないように見守っていたのに、凛はそのことを知らない。
たまの特訓指導以外は、いつも事務所で紙を眺めているだけ。――彼女はPの日常をそう認識していた。
知られなければ、存在しないと同義――
他ならぬP自身がそう云っていたのに。Pは自分で自分の足許を掬われた。
麗に教えられた『不干渉もまた好ましくない』という言葉が改めて思い浮かぶ。
凛は何も云わなくなったPを睨みながら、
「……もういい」
そして鞄を掴み、勢い良く事務所を出て行った。
Pは事務椅子に体重を全て預け、右手で瞼を覆って呻く。
「どうしろと云うんだ……」
やや離れたところから、ちひろが心配そうに様子を窺っているが、気付く様子はない。
しばらくの後、困惑した声音の明から連絡が入った。
初めて、凛がレッスンをすっぽかした日になった。
――
翌日。
凛は下校後、事務所へ寄らず直接レッスンスタジオに向かった。
Pの顔を見たくないから。
事務所へ行かずとも、休めと云われる前のスケジュールは頭に入っているので、レッスンがある日は判る。
結局あれ以来Pからの電話がひっきりなしに掛かってきて、あまりの鬱陶しさに機内モードで全て弾いていた。
しかし夜になって、歳が近く個人的に連絡先を交換していた慶から、心配する旨のメールを受け取った。
Pのことは兎も角、慶たちに要らぬ心労を掛けてしまっているのは本意ではないし、サボりは完全に凛の責だ。
昨日すっぽかしたことを直接謝ろうと、飯田橋までやってきたのだ。
防音扉の固いノブを開け、「おはようございます」と述べる。
その挨拶と、重いドアのガチャンと閉まる音に、スタジオにいた者が気付く。
卯月、未央、そして明と慶が同時に振り向いた。
「り、凛ちゃん!」
「しぶりん!」
卯月と未央が駆け寄る。
「二人とも、そんなに血相変えてどうしたの……?」
「昨日から全然電話がつながらないんだもん、何かあったのかって心配したんだよ~~」
卯月が凛の二の腕を掴んでぶんぶんと振った。
「あ、そっか、機内モード……」
Pからの着信が煩わしくて設定した機内モードは、卯月や未央など全ての電話を遮断してしまっていたのだ。
慶からのメールは無線LAN経由で通信できるから届いたわけだ。
凛は卯月と未央に「ゴメン」と手刀を切ったのち、明と慶を向いて、頭を下げた。
「昨日は、すみませんでした」
「もしや事故にでも遭ったか、って心配したけど、何もなかったならよかったです」
明が優しく声を掛けた。凛はもう一度、何も云わずに頭を下げる。
すると。
「お、やっぱり来たか」
防音扉とはまた違うドアの開閉音とともに、芯の強い声が届いた。
凛はおろか、卯月や未央もその姿に驚く。
誰あろう、麗だった。
「ふふ、驚いたか? 昨夜、慶から相談されてな。少し様子を見に来ていたわけだ」
今しがた卯月と未央のレッスンを隣から見ていたよ、と笑って。
「渋谷君なら、きっとスタジオには顔を出すだろう――とな。予想的中だ」
麗もアイドルとして道を通ってきた人間だ、凛の思考パターンは読みやすいらしい。
「渋谷君。昨日、P殿と激しくやり合ったそうじゃないか」
耳が早い。もしかしたら社長やちひろも、麗に助言を求めたのかも知れない。
「意見の相違なんてよくあるもんさ。それ自体は別に構わないが――レッスンの無断欠席は感心しないな」
急転、麗が重いオーラを発して戒めた。
凛は立ちすくみ、恐怖で全身に鳥肌が立つさまをはっきりと感じた。
「申し訳……ありません」
ようやくその一言を絞り出す。
それで充分と判断した麗は、再び笑った。
圧する空気は霧散し、心なしか部屋の電灯が明るくなったように思える。
「着替えてきます」
凛が更衣室へ向かおうとするが、麗は「今日は休め」と制止した。
卯月たちにレッスンを続けるよう促してから、凛には親指で部屋の隅を指す。
ついてこい、と云うことだ。
再びスタジオに、拍をカウントする明の声や、上履きと床の擦れるステップ音が響いた。
麗と凛は、しばらくその光景を眺め、やがて麗がおもむろに口を開く。
「妹たちから伝聞した限りでは、何やら色々とあったようだな」
凛の方を向いて、詳しいところまでは訊かないが、と微笑む。
凛は、力なく頷いた。
「ライブでこてんぱんに負けて……なんか、レッスンしても無駄なんじゃないか、って思ってしまうんです」
どれだけ頑張って走り抜けても、凛がみくの位置へ辿り着いた時には、相手はそのさらに先へ行っている。
「プロデューサーには、お荷物だと思われてますし……なんだか、色々見えなくなってしまって」
「お荷物? それは直接P殿に云われたのか?」
麗が驚きに目を大きくした。
「え? ……いえ、あくまで状況判断の推察ですけど……」
「憶測で思い込んではいけないな。君には、難しく考え過ぎたり、早合点する癖があるらしい」
麗は嘆息して云った。しかしそれは呆れた声音ではなく、むしろ慈愛に満ちた吐息だった。
「とにもかくにも、P殿と腹を割って話してみたらいい」
麗が、不安そうな凛の瞳を覗き込んで云う。
「アイドルとプロデューサーは共に歩んで行く同志、そして相棒。
他の事務所だとどうなのか知らないが、少なくともCGプロでは、表裏一体の存在だと思う」
「でも、昨日は言い合いになってしまいましたし……」
凛は逡巡するように、目を逸らす。
「喧嘩になることの何が悪いんだい? 私もプロデューサーとはよく言い争ったもんさ」
「えっ、プロデューサー……と云うことは社長ですよね」
凛はぎょっとして、逸らしたばかりの麗の顔を視た。
口論を推奨するような云い方は兎も角、あの掴み処のない社長が声を荒げるなど、想像もつかない。
「ああ。あの人は昔から頑固でな。しょっちゅう衝突してたよ。
……だが彼の云うことは、不思議とあまり外れないんだ。なんだかんだと、結局うまくいく」
麗は、天井を仰ぎ見て、壁面鏡に頭をコツンと当てた。その表情はとても穏やかだ。
往事を思い出しているのだろうか、無言の刻が過ぎる。
しばらくして凛の方を向き、控えめに笑った。
「人間とは、得てして自分自身のことが一番判らないものさ。外側から見てくれる人こそが、的確に指摘できる」
「確かにそうかも知れませんが……プロデューサーはトレーナーさんのレポートを事務所で読んでいるだけです」
凛が少し不機嫌そうに眉根を寄せたのを見て、麗は「あー……やはりな」とこめかみを掻いた。
「P殿はほぼ毎回、レッスンの様子を見守ってたはずだぞ。先日たまたま一緒になったが、熱心にメモしていた」
あそこからな、と自らが先程出てきたドアを指差す。
「えっ!?」
凛が飛び上がらむとするほどの勢いで驚いた。
案の定、彼女は見守るPの存在に全く気付いていなかったのだ。
Pがレッスンの邪魔をしないよう必要以上に配慮をしたことが、完全に裏目に出ていた。
「……渋谷君とP殿は、お互いに、ボタンを少々掛け違えていたようだな?」
麗がやれやれと苦笑し、凛は縮こまる。
そのまましばらく眼を閉じ――意を決したように麗を視た。
「麗さん、ありがとうございました。私、行かなきゃいけないところができました」
麗が相好を崩して大きく頷く。
「ああ。行っといで」
駆け出した凛が防音扉を閉めるのを見届けてから、明と慶にウインクを投げた。
事務所の扉が、バン! と大きな音を発して開けられた。
飛び込んで来たのは、凛。
すわ何事かと度肝を抜かれるちひろの様子を見て、はっと気付いた凛は、いそいそと扉を閉めた。
勢いでネジが歪んだのか、再びドアの立て付けが悪くなっていた。
これはもしかしたら、修理が必要になるかも知れない。
あれだけ鳴り響かせたのに、ちひろ以外は顔を出さない。社長はおろか銅も鏷も、そしてPも外出中のようだ。
「ちひろさん、社長とプロデューサーは?」
「Pさんなら、さっき遅いお昼を食べに出たから、そろそろ戻ってくるんじゃないかしら」
社長は別件で戻りが遅くなることを付け加えてちひろは答えた。
「そっか……」
やや出端をくじかれた恰好の凛がPの事務机を窺うと――
作業が煮詰まったのか、はたまた逆に行き詰まっているのか、散らかったままだった。
こんな夕方まで昼食を摂らないほどだったのだ、きっと筆が進んで食べる機会を逸したに違いない。
やれやれ、片付けてあげるべきか。いや、もし作業途中なら下手にいじるのはまずい。
机を見て凛が考えていると、書類の束の下に『渋谷凛 '11, 6~』と書かれたノートが鎮座しているのを発見した。
まるで磁石のように、視線がそこへ引っ張られる。
覗き見なんてしてはいけない。
そんなことは当たり前で、判り切っている。それでも――
それでも。
凛は、周りをきょろきょろと見渡す。
ちひろは手許の書類に集中していて凛の様子に何ら気付いていない。
プロデューサー……ごめん!
凛は心の中で強く合掌して、おそるおそるノートを引っ張り出し、開く。
一番始めのページは、初仕事で大失敗したときの苦い思い出と、それを自戒する言葉、そして決意の文。
次ページから、日記形式で、凛の考察が書かれていた。
レッスンの様子を見て浮上した課題や、それを解消するためには何が必要か。
ライブのステージを観察し新たに発見したプロデュースの方向性。
失敗したところ、駄目なところ。成功したところ、良いところ。
そして方々に散りばめられたPの想い。
初のステージで観客の視線を釘付けにできた誇り。
みくとのライブバトルに勝たせてやれなかった、指導者としての力不足。
音楽の夢破れた自分と違って、凛なら、きっと輝かしい舞台へ行けると確信していること。
一種それは、彼自身の追い切れなかった陽炎を、凛の背中に重ねているだけかもしれない。
しかし、だとしても、ただの赤の他人のため、ここまで身を粉にできるだろうか?
芸能界へ飛び込む前から妙な縁があった女の子だから?
初めての担当アイドルだから?
それとも何か別の理由が?
凛は、目を通しながら、手の震えを禁じ得ない。
これほど自分のことを見てくれていたとは、予想だにしていなかった。
自分はそんなことも知らず、なんて言葉を浴びせてしまったのか。
凛は、胸が締め付けられる思いがした。
そして二度と、人の――Pのノートを覗くという仁義にもとる行為などしない、と。
そんなことをするまでもなく信じて背中を委ねてみよう、と。
判断に迷ったらまず訊ねよう、と。
凛は、ノートを静かに元の場所へ戻して、固く心に誓った。
応接エリアのソファで凛が宿題を解いていると、Pが昼食から戻ってきた。
立て付けが急に再び悪くなったドアを訝しみながら、事務机へと戻る。
「ねえ、プロデューサー」
「うおっ!?」
背後からそろり、近づいた凛が声を掛けると、まさかここに凛がいるとは思っていなかったPは驚きに跳ねた。
勢い良く振り返るPを、凛は目に力を入れて、じっと見た。
そのまましばらく目線を交わらせ、
「……ごめん。その……色々と」
深めに頭を下げ、謝罪の言葉を口にした。
Pは、予想外にあっさりと謝った凛に面喰らった。事実、彼の目には昨日とは別人に映った。
「……いや、俺も実際下手を打った。すまなかった。おあいこだな」
肩をすくめ、苦笑い。
「着拒されたから、俺のプロデュース人生が終わったかと、結構本気で思った」
「麗さんにね、お前は早合点する癖がある、って……諭されちゃった」
Pは、自分の知らないところで橋渡しをしてくれた麗に心の中で感謝した。
麗は、Pにとっても凛にとっても、師や先輩のように導く存在となりつつある。
「私、頑張るから。明日から……レッスンちゃんと受ける」
凛が胸の前で手を握って覚悟を述べるが、「でも――」と、自信がなさそうに少し目を逸らした。
「こないだ負けて、まだまだだって思い知らされた。だけど、これから頑張ってあのレベルまで成長できても、
その頃にはみくだって同じように力をつけて、もっと先に行ってるよね……」
握る手に、不安の力がこもる。
「私、これじゃ永遠に追い付けない。どうすればいい? 身が入らなかったのも、その諦めがあったせいなんだ」
Pは、ようやく凛の不調の核心に迫ることができた。
腕を組んで、大きく頷く。
「そりゃ典型的な『アキレスと亀のパラドックス』じゃないか。ゼノンのやつ」
「パラ、ドックス……?」
「そうだ。そのパラドックスは一見、正しいことを云っているように思えるんだよなぁ」
古代ギリシャ人を悩ませた有名な逆理。
これこそが、凛を追い詰めていた犯人だった。
「でも、よくよく考えてみ? 前を歩く人間の横を走り抜けてみれば、普通に追い付いて追い越せるよな」
10メートル先を秒速1メートルで歩く人間がいたとして、それを秒速3メートルで追い掛ければ――
5秒後には追い付いて、6秒後にはその人より2メートル先へ飛び出ている。
哲学的に考えれば袋小路へ陥りそうでも、数学的に考えれば至極単純なこと。
「じゃあ、私がみくよりもっと速く走れば……」
「ああ。追い付けるし、追い越すのも難しくないと思う」
あっけなく答えを出された凛は、ぽかんとしている。Pは隣の机から椅子を引っ張って、凛を坐らせた。
キィ、と椅子を回転させて、顔も身体も全てを凛に正対してから、ゆっくりと話を切り出す。
確かに、凛……いや俺たちはあのとき負けたが、打ち負かされること自体は、何ら恥じ入る必要などないと思う。
“打ち負かされたまま、立ち上がろうともせずにいる”――それこそが、恥ずべきことなんだ。
俺たちが常に自らへ問わねばならないのは、「打ちのめされた後、自分は何をしようとしているのか」
情けない不平不満をこぼすだけなのか、或いは闘志を燃やし再び立ち向かっていくのか、と云うこと。
ステージに立つ誰もが、必ず一度や二度、屈辱を味わうだろう。
今時分、それはアイドルに限らず、どの分野の人間だってそうだ。
打ちのめされた経験がない奴なんて、どんな世界にもかつていたことがない。
ただし。
一流の人間は、あらゆる努力を払って速やかに立ち上がろうと努める。
また、並の者は、立ち上がるのが少しばかり遅い。
そして敗者は――地面に横たわり、哀しみ嘆いたままでいるのさ。
「速やかに……立ち上がる……」
凛が、やや哀し気な表情で繰り返した。きっと、ここしばらくの自分の体たらくに想い至っているのだろう。
「ああ。それが出来る者こそが、トップを目指せるんだろうさ」
「……プロデューサー、ありがとう……凄く、胸に沁みたよ」
「まぁ……俺が学生時代に読んでいた漫画の受け売りさ」
Pはおどけた仕種で肩を竦ませ、両手を小さく上に広げた。
「切り替えなきゃね。いつまでも腐ってちゃ……いけないんだ」
凛の心に、これまで心配をかけた人たち、そして見守ってくれた人たちへの、感謝と申し訳なさが押し寄せる。
察したPが、努めて明るく云い聞かせようと、凛の目を覗き込んだ。
「なあに、何も全てを押し殺してさっさと前へ進め、って云ってるわけじゃない。
こないだも云ったように、休む――つまり美味いものを食べたり、友達とカラオケでスッキリしたり。
そうして気分転換したら、また一歩踏み出せばいいさ」
「そうだね、リフレッシュしていくよ。だから――」
凛は眼を閉じて、言葉を切った。
形の良い眉が、少し歪んでいる。
「……ちょっとだけ、泣かせて貰っていい? 今更さ、悔しくて悔しくて……堪らなくなってきちゃった」
「……ああ。むしろ俺はあの刻、泣きも喚きもしなかった凛を妙だと感じたもんだ。泣いて泣いて洗い流そう」
「ふふっ、キザったらしいね……」
凛は気丈な言葉を発するが、その声音は震えていた。
「あらあらいけない、栄養ドリンクが切れちゃってるじゃないですか」
自らの机でマウスを動かしていたちひろが、わざとらしい大きな声で云う。
そのまま、Pさん留守番お願いします、とだけ告げて、小気味よいヒールの音とともに外へ消えていった。
ちひろのささやかな心遣い。
彼女を目で追っていた凛は、ゆっくりとした動作でPの方に向き直るうち、
皆の暖かさに耐えきれなくなった泪が、一滴、また一滴と頬を流れ落ちる。
やがて、溢れ出るそれをPには見せないように、重力に任せて顔を伏せた。
「ううっ……うああああぁぁっ……!」
自らのスカートの裾を、凛はその華奢な手からは想像もできないほど強く握って、堰を切ったように慟哭した。
大人びているとは云え、彼女はまだ15歳。年端のゆかぬ子供なのだ。
Pはスポーツタオルで目の前の震える肩を覆い、ひたすら熱い放出を促す。
「すまんな、今回のことは、俺の力不足だ」
背中を擦ってやりながらそう云うと、凛は小刻みにかぶりを振った。
「う……ううん……ち、違っ……っ!」
だが、何かを答えようとしても咽びに押しのけられ、声にはならない。
「……俺も、もっともっと頑張るからさ。また、前へ進んで行こうな」
その言葉に、横へ振っていた顔をただ頷くのみに変え、凛はただひたすらに哭いた。
いつもは事務処理の邪魔をする眩しい西日も、今日だけは、二人を優しく包んでくれているような気がした。
・・・・・・・・・・・・
大都会のど真ん中にあって江戸城外濠の景観を残す飯田橋は、ぎらついた太陽をほんの少しだけ和らげてくれる。
ただしそれは堀の水辺だけのプラシーボで、一本路地を入ってしまえば汗のしたたるコンクリートジャングルだ。
駅至近にはない雑居ビルまで五分も歩けば、一日の体力がほとんど持っていかれてしまう。
ただしPについては、やや当てはまらないらしい。
さっさと事務所へ上がって凛の戦略を練りたいがため、足が逸る因果で暑さをあまり感じないのだ。
凛が事務所で泣き腫らしてから数日。
久しぶりに家族とレストランで食事をしたり、あづさやまゆみとカラオケに行ったり、
はたまたPにお薦めの映画へ連れて行ってもらったりと、短い休みだが、中身の濃い気分転換ができた。
凛が心の内を曝け出したことは、Pにも良い影響を与えている。
プロデューサーとは、アイドルと二人三脚すべき存在なのだと自覚を持つに至った。
邪魔しないようにしたりだとか、必要な時だけ指導すると云うのは違うのだと。
表舞台に出るアイドルから一歩引いていた自分とは決別しなければと、Pはあの日の夕陽に誓っていた。
凛があのとき「悔しい」と何度も繰り返したのを見て、Pは判断を変えた。
これまでは、凛はスカウトで連れてきた存在なればこそ、一定の遠慮がなかったと云えば嘘になる。
その抑えめに設定したリミッターを取り払うようにした。
取り外しても、彼女は、きっと食らいついてくるはずだと信じて。
レッスンでは、卯月や未央の方が未だ凛より高評価だ。
ことリズム感のみに関して云えば、凛は誰よりも正確に――Pすら凌駕して――刻めるようにはなっていたが、
全体の身体能力を見れば、まだまだ凛には二人より足りない部分が多い。
そこでPは、トレーナー陣に、多少きつくても最大の伸びが期待できるメニューへ更新するよう依頼した。
アイドルの動きとは、テレビで見ているよりも実際にはだいぶ激しいもので、持久力をつけるランニング、
筋力をつけるウェイトトレーニングなど、“表現者”としてやっていくために必要な身体を造るのは過酷だった。
凛自身、卯月や未央に比べ、三人の中で最も劣っていることを理解している。
より高みを目指すアイドルになるなら、早急にそれを克服することが必要だ、とも。
ただし、つい数箇月前まで普通の女子高生だった彼女にとって、ペースを上げたトレーニングはとても苛烈。
シャトルランなどで身体に激しい負荷をかけると、決まって化粧室へ駆け込んで嘔吐した。
それでも音を上げないのは、生来の負けん気の強さと、一度云ったことはやり通す責任感の強さ。
みくに、そして何より卯月と未央に負けたくないと云う意地が、彼女を衝き動かしていた。
PはPで、如何に凛を援護射撃できるか腐心していた。
担当アイドルをどうやればより高みへ昇らせることができるか。どうやれば雪辱を果たせてやれるか。
大量の書類をやっつけながら、考えを巡らせる。
Pと凛、それぞれフィールドは違えど、同じ目標を見据えて、まさに戦闘状態に入っていると云えよう。
……Pの方は、いくらか地味ではあるが。
そんな折、サマーライブフェスの委員会から最終段階の打ち合わせが入った。
このフェスを成功させることが、とにもかくにも凛を成長させることになる。
だから入念に準備して、やりすぎることはない。
Pは張り切ってフジツボへと乗り込むが、その意気込みとは裏腹に――
「実は……穴を埋めようとしたら逆にオーバーフローしちゃいまして」
会議室で、先方の担当者が苦い顔をした。
「えっ、それはつまり……」
「はい、CGプロさんは現在三枠ご希望されてますが、それを一枠に収めて頂きたいのです」
申し訳ない、と云いながら頭を下げる姿を、Pは複雑な感情で見た。
きっかけは補欠的な穴埋めだったとはいえ、援護の為に一肌脱いだのだ、この恩を仇で返す仕打ちはなかろう。
いくら弱小事務所の身でも、承服しがたい事態だった。
凛だけでなく卯月も未央も、フェスに挑む気満々で準備に勤しんでいる。
その中から一人しか選べないなんて。
「いや、さすがにそれは……」
Pは腕を組んで唸った。
ただ、これまでのやりとりで先方は、救いの手を出したPらCGプロに色々と心を砕いてくれた印象がある。
察するに、上層部―うえ―からの見直し圧力に抗い切れなかったのではなかろうか。
中間管理職の哀しい現実だ。
もしこの場に伝通の先輩、大嶋がいれば、酒席へと移って共感のし合いとなるに違いない。
「うーん、どうしましょうかね。弱りましたね」
Pが書類に目を落として考え込む。
――代替手段や、ピンチをチャンスに活かす方策を練るのが俺の役目だろ、脳味噌を捻り回せ。
自分自身に喝を入れたPは、頭の中でパズルを動かす。
「……ん?」
ふと目に入った、先日の打ち合わせでは気に留めなかった出演者リストの中に、みくの名前がある。
その瞬間、ピンと来るものを感じた。
大きなイベントで注目度も高い。これはみくと一戦交える絶好の好機だ。
そして、みくに雪辱を果たしつつ、枠削減の要請にも応えられる妙案が浮かぶ。
「……わかりました、私どもへの割当は、一枠に減らして頂いて結構です」
「すみません、本当に助かります」
Pの言葉に、先方は感激の深礼をした。
CGプロとしても、恩を売っておいてマイナスになることはあるまい。
「と、云うわけでさ――」
事務所へと戻ったPは、銅と鏷、そしてアイドル三人を集めて、展開の相談をしていた。
凛、卯月、未央、三人を組ませること。
これが、Pの考えた解決策だ。
今まで、各アイドルは個別に仕事やライブを行なっていたが――
サマーライブフェスではその方向性を一旦停止し、三人をひとつのグループとして見せることをPは提案した。
みな一様に驚き、特に当事者であるアイドルたちは度肝を抜かれて言葉が出ない様子だ。
「ユニット化……って、今からやってどうにかなるのか? ピンで演るのとは勝手が全然違うだろ」
鏷がソファの背に身体を預けて問うた。
確かに、自らのことだけを考えればよい独り舞台と違い、ユニットとなると思考すべき事柄が飛躍的に増える。
鏷の疑念は尤もだ。Pも頷いて云う。
「ああ。だが、今の時期に練り直すことができて一種、幸いだったと思う」
フェスまであと三週間しかないが――逆に『三週間もある』と考えることだってできる。
この限られた時間を使って、三人の新たな次元を開拓するのだ。
「ま、確かに……クールビューティの凛ちゃん、元気が眩しい未央ちゃん、そして笑顔なら負けない卯月……」
お互いのいい部分を引き立て合うわね、と銅が考え込んでつぶやいた。
銅の云う通り、CGプロ初期メンバーの三人は奇跡的に重複する要素がないのだ。
一人の足りない部分を、他の二人が分担して補う。
これは、まさしくユニットになるべくして集められた人材と云ってよい。
もしかしたら――社長はこの展開すら計算に入れて各々をスカウトしたのでは?
そんな人間離れした想像を許してしまうほどに、設計がかっちり嵌る三人組だった。
凛と未央は、担当外のプロデューサーからの言葉を受けて、やや照れくさそうだ。
「さしあたって、ユニットとして先方へ登録しなきゃいけないんだが――」
「ああ、なるほど。ユニット名とか諸々を決めなきゃいけないわけね」
察しの良い銅が、先回りしてPに答えた。
「ご明察。まずリーダーについてだが、もうこれは養成所からのキャリアがあるし、卯月ちゃんで異存ないよな」
特に鏷の方へ目を遣って問うた。視線の先の人物も飄々とした様子で
「ああ、問題ねえ。っつーかこの場合むしろ卯月ちゃん以外にいねーだろ」
と肩を揺らす。
「え、ええっ!? わ、私がリーダーですか!?」
唯一、当の本人だけが不意打ちを受けたかの如く飛び上がった。
「別に優劣をつけるわけじゃないけど、卯月ちゃんは養成所からアイドルに触れてた一日の長があるからさ」
Pが、卯月のあたふたする様子を笑いながら「君が適任だよ」と云った。
卯月が、担当プロデューサー銅、そして凛と未央を順に見てから、再び銅の様子を窺う。
「ええ、アナタがやりなさい。卯月なら、みんなを引っ張っていけるよ」
銅は腕を組んで、深く頷いた。
「私も、卯月がいいと思うな」
「私も私も~~!」
凛が卯月に優しい視線を向け、未央は右手を大きく挙げて同意した。
「わ……判りました! がんばります!」
腹を決めたようで、小さくガッツポーズをしながら、しかし鼻息荒く卯月が意気込んだ。
「よし、取りまとめ役はこれでOK、あとは……最も面倒そうな名前決めだ」
Pが書類に書き込みを入れてから、長丁場を覚悟するように、ソファへ深く坐り直した。
名称とは、そのユニットを的確に表わしていなければならない。
それでいて万人にとって判りやすく、憶えやすいものとする必要がある。知名度に劣る新興事務所なら尚更だ。
「一番単純に組み合わせれば『うづみおりん』とか『うづりんみお』だが」
「え……ありえないでしょ、それ……」
Pがぼそりと漏らした何も考えてなさそうな一言に、どん引きした凛からすぐさま突っ込みが入った。
「いやいやいや、あくまで便宜的であって真剣な提案じゃないからなこれは!」
慌てて釈明するが、凛だけでなくP以外の全員が懐疑的な視線を送る。
仕切り直しの咳払いをしてから、真面目な声音に戻る。
「このプロダクションで最初の三人、つまり先駆者だから『パイオニア』ってのを思いついたんだけどな」
「……カーナビとかオーディオ機器のメーカーか?」
「それとも宇宙探査機のアレ?」
今度は鏷と銅からのダメ出しを喰らった。
「やっぱそうなるよなぁ……」
言葉とは、便利であれば便利なだけ、どこでも使われる。即ち、競合も多い。
がっくりと意気消沈するPの傍ら、アイドルたちは
「探査機ぃ~~?」
「ロケットで飛ばして宇宙を調べるやつだよ」
「去年はやぶさで話題になったよね!」
「あぁ~~! あの還ってきたあれだね! 流れ星みたいに燃え尽きるの、綺麗で感動したよあのとき!」
などと雑談に興じている。
「ほらほら、おめーらも考えろ。自分らのユニット名だろーが」
徐々に脱線しそうな雰囲気を察知して、鏷が笑った。
はっと気付いた卯月が、失敗失敗、と小さく舌を出す。
「そうだね、私たちも一緒に考えなきゃ」
「しっかし難しいよな。新興事務所だし目立つ名前にしてえけど、捻りすぎちゃァ判り難くなるしよ」
意気込むアイドルたちにフォローを忘れない。鏷は見た目こそ怪しいが、充分にやり手だ。
凛が顎に手を添えて考え込んだ。
「確かにできたばかりのプロダクションだけど、社長は麗さんのプロデュースを手掛けていたんだから、
初心者……っていうイメージでもないよね、CGプロは」
彼女の云うように、麗の実績ある社長の縁故で、新しく設立された会社の割にはスムーズな船出ができている。
「私、麗さんにはとても助けられたし、受け継げるものがあったら入れてみたいかな」
何か現役時代に使ってた名前とかないの? とPに訊ねるが、反応は芳しくない。
「残念だが『青木麗』はずっとソロだったんだよなあ。最後までこの名前のまま変わってない」
「そっか……」
肩を落とす凛に、卯月が思案顔。
「じゃあ『受け継ぐ』って云う言葉をそのまま使ってみるのは? えーっと、英訳すればインヘリテッド……」
「しまむー、すごい。良くそんなすらすら出てくるね?」
「ち、ちょうどこないだ英語の夏期講習があったからね」
未央の望外の賞賛に、卯月はえへへ、少しだけ胸を張る。
「うーん、恰好は良さそうだけど、あまり一般的ではないわよねえ」
銅の客観的な意見に「で、ですよね~~」と、微笑みが苦笑いへと変わってしまった。
場にいる六人全員が黙り込む。
「……あの」
卯月が真剣な面持ちで話を切り出した。
「やっぱり、私はさっきの凛ちゃんの考えが頭から離れないんです。麗さんから何かを受け継ぎたい、って」
プロデューサー陣も、それを否定せず首肯する。
「コンセプトとしちゃ俺ァ結構いいと思うぜ?」
「そうね、アナタたちはCGプロの顔、そして社長の“代表作”は青木麗。関連づけていいと思うわ」
「かと云って七光りのようになってもいかんしな。青木麗は俺たちの世代ドンピシャだから俺も頭を捻って――」
男三人の会話を、卯月が「あの、Pさん」と遮った。
「おっとと、どうした卯月ちゃん」
「いま、Pさんの言葉でピンときました。世代、って」
卯月が真剣な顔で、胸の前で自らの右拳を握る。その言葉に未央が触発された。
「世代を超えて受け継ぐ姿、って感じ?」
「うん、そうだね未央ちゃん。私たちって、社長や麗さんの軌跡を受け継ぐ、新世代なんじゃないか、って」
卯月と未央の言葉に、凛が独り言つ。
「ニュー……ジェネレーション……?」
アイドル三人が、それぞれ顔を見詰め合った。皆、心に直撃を受けた表情だ。
即座にプロデューサー陣が動く。
「ニュージェネレーション、芸能関係で聞いたことあるか?」
「いや、アタシはないわね」
「俺ァ日本タレント銘鑑を確認してくる」
鏷が立ち上がって資料を漁りに行き、Pと銅はちひろを呼んで商標登録がどうだのと、俄に熱を帯びた。
「Pさん、商標『ニュージェネレーション』は第31類に登録されていますが、それ以外は大丈夫みたいです!」
ちひろが自らの机でコンピュータの画面を見ながら大きな声を出す。
「よかった! 第41類で早速出願するよう進めてください!」
傍ら、銅がインターネットで検索し、めぼしいヒット事項がないかどうか確認している。
慌ただしく動くプロデューサーらとは対照的に、凛、卯月、未央は目を瞬かせて坐ったままだ。
「なんか……こんなあっさり一気に決まっちゃっていいのかな……」
「まーいいっしょ~~! しぶりん、決まるときって案外こんなもんかもよ?」
未央がけたけたと笑った。卯月もつられて破顔する。
「ニュージェネレーション、いい響きだね! 凛ちゃん! 未央ちゃん!」
斯くして、CGプロの看板となるユニット、ニュージェネレーションが結成された。
デビューとなるフェスまで、残り三週間。
――
ニュージェネレーションというユニットが固まって、先方事務局への連絡も済ませた。
フェスまでの期間内に、凛だけでなくユニットを徹底的に鍛え上げよう――
そう決心したPは、時折レッスンスタジオの“同じ部屋”で凛たちをじっくりしっかり視るようになった。
隣の部屋から窺うだけでなく、レッスンを実際に眺め、
気付いたところは都度指摘を入れたり、課題としてメモを取ったりする。
銅と鏷もPと同様、レッスンによく顔を出す。凛そして三人の鍛錬は、順調に進んでいる。
ユニット化にあたって、これまで体力や身体能力に重点を置いた凛の育成方法を見直す必要があった。
歌も、踊りも、そしてビジュアルの魅せ方も、三人で改めて積み重ねなければならない。
ありがたいことに、麗の力添えによって、ベテラントレーナー青木聖の合流が叶った。
麗の妹であり明や慶の姉である、トレーナー四姉妹の次女。場数を踏んでいる、理論派の頼もしい後援だ。
これでユニット練習の際も、アイドル一人につき最低一人のトレーナーがつけられる。
現在のCGプロの事務所規模にしては異例と云える厚い態勢だった。
それだけ社長も、そして社長に手を貸してくれる麗も、期待が大きいのだろう。
全てを満遍なくレベルの底上げができるようにレッスンを組み直してから数日。
スタジオから戻った凛が、そのまま帰らず、事務所でPに相談していた。
「あのさ、今日はボーカルの練習をしたんだけど……どうにも私、巧く合わせられないんだよ」
卯月と未央はかなり息が合ってるのに、と嘆息しながら、Pの隣の事務椅子を引っ張って坐った。
この日、Pは他の担当アイドルの関係で、凛たちのレッスンを見ることができなかった。
その代わり、鏷にチェックをお願いしたのだが――
「あーなんつーかアレだな、細い、ってーのか? よく判らんがハモりが中々安定しない印象だったな」
と、本日の引率者は斜向かいにある自らの机から凛の印象を述べた。
「三人一緒に同じレッスンを受けるの久しぶりだけど、進歩ナシだね私。ちょっと悔しい」
最近の彼女は、こうやって比較的素直にPへ色々な感情を示すようになった。
Pとしては非常に喜ばしい傾向だ。
これに比べれば、レッスンがあまりうまくいかないことなど些細な問題だとさえ思えるほどに。
「未央ちゃんや卯月ちゃんは、引き出し方がうまいんだ。今のところはな」
机上の書類をファイルホルダに片付けてから、Pが凛の方を向いて云った。
「お前は、目を見張るほどの才能があっても、それの引き出し方を知らないだけだよ」
「才能……か。私にあるのかな……」
「莫迦―ばか―云え、才能の塊が自らの才能に気付けなくてたまるか」
Pは眉をハの字に歪ませて苦笑し、
「いいか――」
よっこいしょと、凛の方へ椅子を引いてゆっくり語り出した。
いい音を出すには、楽器の奏法だけではなく、楽器の構造を知っていなければならない。
例えばギターは、弦を弾いて、その振動をボディに共鳴させ増幅し、豊かな音を届ける楽器だ。
弦を弾く位置を変えれば倍音成分も変わる。
倍音成分を変えれば、共鳴の仕方も変わる。
物理の基本だ。振動とか波長とか、習ったはずだな。
サウンド、そしてミュージックと云うものは、物理学と密接に関わり合っている。
どのような原理で音が出ているのか――
その構造を知っていないと、いくら演奏の仕方を練習したところで、ポテンシャルを引き出せないんだ。
どんなに楽器の質が良くてもな。
それは声も同じ。
声帯を震わせて作る空気の振動を、咽喉や口腔で共鳴・調整して出力している。
人体の仕組みがよくわかっていないまま、闇雲にトレーニングをしたところで意味は薄い。
勿論、トレーナーさんたちから腹式呼吸とか、諸々のテクニックは教わっていると思う。
最初の頃に比べれば、喉ではなく腹から声を出せるようになってきているもんな。
ただ、それだけじゃ最大限の効果は発揮できない。
お前にいま必要なのは、身体と音楽の構造を知ること。
そうすれば、トレーナー陣のレクチャーも、よりスムーズかつ効果的な吸収ができるようになるはずだ――
雄弁に語るPに対し、凛はいまいち自信がないようで、怪訝な顔つきをしている。
「本当にそうなの? いまいち信じられないんだけど」
「じゃあ例えを変えるか。お前、スマートフォンをだいぶ使いこなしてるよな?」
「まあ……そうだね」
「じゃあそのスマホを爺さんなり婆さんなりに渡して、『これで電話を掛けてみて』と云ってみたら、
果たしてすぐに掛けられるかな?」
Pが自分の私用携帯を凛の前に置いて問うと、凛の怪訝さはより一層厳しくなる。
「急にそんなこと云ったって、おじいちゃんおばあちゃんがスマホの操作なんてすぐわかるわけないでしょ」
「それだよ」
Pが手を叩いてから、ビシッと凛の口を指差した。その仕種はいくらか大仰だ。
「え?」
「お前だったら、電話やアドレス帳の“アイコン”を“タップ”して、難なく通話するはずだ」
口に出す操作を、Pは自らのスマホ上で再現してゆく。
各種アプリケーションや機能を切り替えるアニメーションが、端末上で踊る。
「だが爺さんや婆さんじゃ、おそらく無理だろう。0から9までのボタンがある従来の携帯電話ならまだしもな。
ホーム画面で何をすればいいのか判らず、固まってしまうはずさ」
画面に表示されている“飾りのような絵”に触れれば良いなんて、初めて手に持つ人間にどうして見当がつこうか。
情報を表示する画面部と、操作を受け付ける入力部は、まったく別のもの。
昔の人間にはそう云う先入観があるからだ。
「ではこの差はなぜ起きるか? それはお前がスマホと云う新概念の構造を知っているからだよ」
スマホだって身体だって、構造を理解することが第一歩……凛は、なるほど、と思った。
「それにしたってさ――」
今日もつい数時間前まで受けていた授業を思い出しながら肩を落とす。
「物理学と生理学なんて、理科の授業は真面目に受けてたつもりだけど……わからないことばかりだよ……」
「芸術ってのはな、意外と理系なんだよ。スポーツだって今や科学の時代だ」
まあ考えすぎてもそれはそれで良くないんだがな、とPは言ちてから、机に並べられた書籍の一つを取り出した。
「ほれ」
日に焼け、擦り切れたその本。
中のページには鉛筆でびっしりとメモ書きがされている。
「ポピュラー音楽理論……?」
「これは俺が中学の頃から読んでいる本だ。音楽を“作る”側の本だが、だからこそ曲の構造を知るのに役立つ」
どのようにして曲は作られているのか。
どのようにして曲は組み立てられているのか。
自分の歌っているラインは、その部分の和声――つまりハモり――に於いてどのような役割を果たすのか。
どのように歌えば輝くのか。
「作家側からのアプローチを紐解くことで、それを理解する手助けになるはずだ」
「なんかそういう音楽の理論って、楽典……って云うんだっけ? ああいうのじゃないんだ?」
凛が本をぱらぱらとめくって、不思議そうに呟いた。
「楽典なー。音大生なら誰でも持ってる『黄色い楽典』も確かにあるが、ありゃあクラシック方面だからな。
アイドルとしてポップスを歌うなら、ひとまずはそっちの本の方が合ってるよ」
「ふーん、そっか。……すごい書き込みの量だね。でも、字、ヘタクソ」
まるでミミズやヘビでも這ったかのような筆録が、五線譜を縦断している。
年季を示すかのように、その一部は指で擦れたりしてやや滲んでいた。
「うっさい。中学高校の野郎が書く文字なんてそんなもんだろ」
Pが口を尖らせた。しかし、
「……今は?」
凛の追い打ちに、Pは視線を逸らして苦し紛れの口笛を吹く。
「まあそんなことよりな」
「あ、誤摩化した」
「忘れろ。そんなことよりもだ、
スマホに鍵盤を押すと音の出るアプリがあるだろうから、それを併用して、本の中身を吸収してみてくれ」
ゆくゆくは自室に簡単なキーボードを据えるとベターだ、とも。
「わかった。これ、借りていいんだよね?」
凛がパタンと閉じて表紙を掲げ、問うた。
「勿論だ。手前味噌だが、昔の俺が書きまくったメモのおかげで、より内容を理解しやすくなってると思うぞ」
「ふふっ、そういうことにしとく」
そう笑って、通学鞄へと、ゆっくり丁寧にしまう。
CGプロにまたひとつ、“新世代”への受け継ぎが生じた瞬間だ。
――
凛の集中力は凄まじい。
Pが本を渡してから一週間も経たずに、和声や音階の実践的な仕組みを理解しつつある。
同じドでも、ドが土台の場合、ラと組み合わせた場合、はたまたソと組み合わせた場合。
それぞれ役割が異なり、綺麗に響く音の高さも微妙に違うのだ。
実際の発声でそこまで精密な周波数の制御はできなくとも、その知識があるのとないのとでは、
少し高め・少し低めなどの意識を持てることで結果に雲泥の差が出るのだった。
明と慶が、驚きに満ち満ちた表情でレッスンをつけている。
ニュージェネレーション用に書き下ろした曲の三声ハーモニーが、
卯月、未央、凛、それぞれの三つの音で組み上げられ、混ざり、溶け合った。
「すごいよ! しまむーとしぶりんと綺麗に混ざった! たっのし~~!!」
一曲を通して歌い終えた未央がはしゃいで跳んだ。
三和音―トライアド―、和声の中で最も単純かつ基本となるものだがそれでも美しい響きを奏でることができた。
「これが……ハーモニー……。すごいな……」
凛は、自らの出した歌声が紡いだ芸術に、ただただ感歎の息を吐く。まるで自分の声ではないかのような錯覚だ。
「渋谷、凄いじゃないか。ここ一週間ほどで見違えたぞ」
聖が手許のバインダーに色々と書き込みながら相好を崩した。
明や慶と違ってやや厳しい彼女が、ここまで手放しで褒めるのは中々ないことだ。
「はい、じゃあ今日のレッスンはここまでです」
明がパンと手を叩き、アイドルたちは「ありがとうございました!」とお辞儀をする。
「凛、ちょっと残ってくれ」
更衣室へと向かう背中に、Pが呼び掛けた。
「ん? どうしたの?」
「だいぶ良くなってきたから、次のステップへ上がろうと思ってな」
顔だけPの方へ向けていたのを、全身で振り返ってから首を傾げる凛。
「次のステップ?」
「そう。技術的なことはトレーナーさんの指導があるから割愛するとして……俺からは感覚的な話をな」
凛に語りがてら、聖にスタジオをこのまま少し使ってよいか訊ねる。
「ん、ああ構わない、まだ時間的には大丈夫だ。そうか、姉から伝聞していたが、キミも指導するんだったな」
「指導……と云えるほど大層なモンじゃないですよ」
Pは、たはは……と苦笑しつつ、パタパタとスリッパの音を立ててホワイトボードの方へ歩んだ。
「腹式の基本はトレーナーさんに教わってるし省くよ。更に踏み込んで、感覚を徹底的に身体へ染み付かせよう」
ワンコーラス分を歌ってくれ、とPは音源を再生させながら云った。
凛はきょとんとしながらも、スピーカーからの音に歌声を乗せる。
「はい、OK」
Pが間奏で一度再生を止めた。
凛を一旦休憩させてから、ホワイトボードへPが課題を箇条書きにしてゆく。
マーカーの小気味良い摩擦音が響いた。
「えーっと……『凛の課題 ・発声感覚 ・メロディ感覚』?」
「そ。トレーナーさんたちに教わっているのは、声を出す方法。俺のは、より綺麗に声を響かせるためのものさ」
と凛の前へ出て、「まず発声はな、ヨーヨーなんだ」と、腕を上下に動かした。
「ヨーヨー? ……ねえプロデューサー、ちょっと話が飛躍し過ぎてついていけない」
「感覚的な話だって云ったろ?」
やや呆れた様子の凛に、「冗談で云ってるわけじゃないんだ」とPは肩を竦めた。
「延髄の辺りから、前方軽く上方へ放る意識を持って声を出してみ。顔の位置と向きはそのままで」
「首の後ろから斜め上に、を意識するんだね?」
「そう、そして単に放りっぱなしにするのではなく、ポーンと投げたら手綱をクイッと引き戻すんだ」
これがヨーヨーと形容した所以だった。
「えっと、こうかな……」
凛は一度軽く息を吐いて、大きく吸い込んでから、腹部に手を添えて声を出す。
その瞬間、聖、明、慶の表情がピクリと動いた。そして勿論、凛も。
これまでとは違う、芯の通った音が始終安定して響いたのだ。
「ん、いい感じじゃないか。これが発声感覚だ。だいぶ変わったろ」
「うん、自分でも判る。……ずっと意識してなきゃいけないのは疲れるけど」
それは最初のうちは仕方ないことだった。
「反復練習すれば意識せず出せるようになるさ。次にメロディ感覚だが――」
Pが自らの鞄を漁って、白と黒の丸い石を取り出す。
「メロディラインってのはな、碁石なんだ」
凛は、また性懲りもなく訳の判らないことを話し始めた、とでも云いた気に、眉を寄せる。
さっきよりも強い怪訝な雰囲気に、Pは「だから冗談で云ってるわけじゃないんだっての」と肩を再び竦めた。
「凛の歌い方ってさ、ラインが不必要に流れちゃってるんだよ。
良く云えば『スムーズなポルタメント』になるけど、実態は『メリハリなし』ってとこだ」
碁盤に碁石を置く動きを、Pが空中で行なう。その姿は些か滑稽だったが、Pは真剣そのものだ。
「ミミズが這うように意識なく流すのではなく、
一音一音の頭を、スチャ、スチャ、ポン、ポン、と碁石を置く様をイメージして出してみろ」
「碁石を、置くように……?」
凛が手探りするように、二度咳払いをしてからサビのメロディラインを出す。
最初はやや暗中模索だったが、考え方を掴んだ瞬間があった。
その前後で明らかに声そのものとメロディの聞きやすさが変化したのだ。
「うわ……」
慶が、凛の出す音に嘆息した。
声の出し始めと締め方に、しっかりした土台ができた。
そしてそれぞれの音の頭が、フォーカスのかっちり合った状態で明確な安定性を発揮した。
これまで、ドップラー効果のように焦点が合うまで時間がかかっていたのに。
ヨーヨーと碁石――
一見、歌と何の関わりもなさそうな単語が、凛のボーカルを引き締めた結果に、一同が色めき立つ。
「なんでもっと早く教えてくれなかったの!?」
興奮して問う凛に、Pが押される。
「物事には順番ってモンがあるんだよ。
お前の場合は、まず腹から声を出せるように、声量を稼げるようにしなきゃいけなかったんだ」
声の大きさと、声の芯の強さそして安定性は、また別物なのだ。
「それに……我流で身につけた感覚だからな、アドバイスすべきか否か、本当はさっきのさっきまで迷ってた」
頬を掻いて、ばつが悪そうに語る。
「でも、麗さんから、臆せず進むようこないだ諭されてさ。今がたぶん俺の出番なんだろうな、って腹を固めた」
差し出がましいことをして申し訳ない、とトレーナー三人に向けて頭を下げる。
殊勝なPに、聖がとんでもない、と手を振った。
「いや、これはむしろ私たちにとっても興味深い結果だ。是非とも盗ませてくれ」
不敵な笑みを湛えて、肌身離さず持ち歩くバインダーにペンを走らせている。
「ねえプロデューサー、今日もう少し歌っていい? 喉を傷めない程度に抑えるから」
凛が、逸る気持ちを隠し切れない声音で、自ら居残りを願い出た。
おそらく、駄目だと云っても聞くまい。
それほどまでに、今の凛の表情は輝いていた。
歌うことに楽しさを見出した顔だった。
この分なら、月末のフェスは間違いなくいける――Pはそう確信した。
――
ここはお台場、フジツボテレビの湾岸スタジオ。
建物内だけでなく、周囲や屋上にも特設ステージが設けられ、フェスの熱気が渦巻いている。
ただでさえ暑い夏、会場近くはさらに気温が高いように思えるのは、気のせいではあるまい。
ニュージェネレーションの三人は、スタジオの屋上へ仮設された控室にいた。
屋上には小規模と中規模、二つのステージがあり、その小さい方へ出演するためだ。
なお、このフェスで最大のステージは、空調の整った建物内にある。
そちらには765プロや東豪寺プロなど、誰もが知っているアイドルしか出ていない。
各所へのアイドルの割り当ては準備委員会が決めるが、その内容は事前に知らされていたし、Pも異存はない。
もともと知名度の低いニュージェネなど、最も小さい舞台ですら上等なのだ。
ただし、一つだけ先方に注文したことがあった。
「みーんにゃ~~! サマーライブフェスへようこそにゃ~~!」
少し離れた中規模ステージから、特徴的な喋り方で即座に判別できる、前川みくのMCが響いてきた。
――そう。これこそがPからの要求だった。
『みくの出番にぶつける形で、CGプロのタイミングを持ってくること』
三枠を一枠に縮小する見返りとして、こんなことでいいのなら幾らでも、と事務局は快諾してくれた。
フェスとは即ち――戦争である。
まもなく、我々が誇るアイドルユニット、ニュージェネレーションの初舞台。
あと五分で開演だ。
Pが「そろそろだ」と云って控室に入ると。
そこには、三人が、統一感ある衣装で待っていた。
ロッキングスクールというテーマの、淡色のシャツに黒いチェック柄のノースリーブベストとミニスカート。
ネクタイとベルトは、それぞれ赤系、青系、黄系で差別化を図っている。
活動的であり、なおかつ清潔感や清楚感を憶える、よく出来た『戦闘服』だった。
ニュージェネレーションはみな、興奮と緊張の混ざり合った、それでいて勇壮な笑みを浮かべている。
「プロデューサー、やってくれたね。みくにリベンジする機会をこういう形で用意してくれるなんて」
「さあて、なんのことやら?」
タイマンで負けた凛を筆頭に、直接的な勝負はしていないながらも追い付けなかった卯月と未央。
三人がひとつにまとまって、一気呵成の反撃を仕掛ける。
仮に、もし、万が一、個々の力ではみくに未だ及ばなくとも、三本の矢が集まれば、強靭な力となる。
皆、Pの意図したところを汲み取っていた。
そして円陣を組んで、お互いを見詰め合う。
「卯月、未央。ここが歯の食いしばりどころだよ」
「うん、私たちが頑張れば、最近入った子も活動しやすくなるし、そうすれば即戦力にもなってくるよね」
「えっへへ! しぶりん、しまむー、向こうのステージからお客さんを根こそぎ奪う勢いでいこうっ!」
えいっ! と気合いを入れて、舞台へと飛び出していく。
Pの目には、彼女らの背中に、羽ばたく翼があるように見えた。
みくは、やや離れた小規模ステージから突如として流れてきた爆音にひるんだ。
自らの持ち歌を披露しながら、しかし心の中では「一体向こうでは何が起こっているのにゃ!」と動揺している。
実はPはこのときの伴奏音源に、細部のディテールを犠牲にしてでも音圧を極めて高くしたものを用意していた。
音圧が高ければ、それだけ遠くへと届く。
CD等のパッケージでは、やってはならない悪手。
だが、みくのステージを観ている客の耳にもニュージェネの音が入っていくよう、修羅の選択をしたのだ。
戦争とは、えげつない。
案の定、そのノリの良い楽曲に、中規模ステージの近くにいた者たちがみな興味を惹かれたようだった。
――はじめまして! 私たち、ニュージェネレーションです!
三人の息の合った掛け声が、そして歌声が、湾岸スタジオの屋上に響いた。
いま、ニュージェネレーションは一箇月弱もの特訓の成果を遺憾なく発揮している。
アップテンポの曲が聴く者の興奮を呼び覚まし、玲瓏な三人のハーモニーが聴く者の魂を揺さぶる。
一人、また一人と中規模ステージからニュージェネの歌い踊るエリアへと移ってゆく。
ちょ、ちょっとみんな待つにゃ!
みくのそんな心の叫びは、彼女自身のプロ根性ゆえマイクには乗らない。
それが災いか、数分も経つ頃には、民族大移動が発生していた。
複数のステージを同一会場内に設置するサマーライブフェスならではの、残酷な光景。
これこそ、フェスの名に相応しい。
それでも自らに割り当てられた分の演目をこなし、みくは「ありがとにゃー!」と感謝の叫びを上げる。
無論、大移動が起きたとはいえ、みくの観客だってゼロではない。
聴いてくれた人々に感謝するのは当然のことだ。
しかし、この変則的なLIVEバトルに負けたのだと、彼女は舞台袖へ引っ込みながら認めざるを得なかった。
「きぃ~~ッ! ムカツクにゃ!」
まるで猫が「フシャー」と威嚇するのと同じように、みくはボルテージを上げた。
「こうなったら敵情視察にゃ!」
衣装の着替えもそこそこに、カモフラージュの上着を羽織って、すぐさま小規模ステージの方へ向かう。
そのエリアは、人数を改めて確認するまでもなく、明らかにオーバーキャパシティとなっていた。
満員電車の如き様相で、ニュージェネの演舞に歓声やコールが入れられている。
連写するシャッター音や、録画開始を告げる電子音が、至る所で鳴り渡る。
――ニュージェネレーションなんて聞いたこともないにゃ! こんな馬の骨、誰にゃ!
みくは人の波を掻き分けて、ステージを見渡せる位置へとつくことができた。
そこには、先月とは見違える姿となった、凛、卯月、未央。
「あ……あれは、渋谷凛チャン……? 他の二人も確かCGプロの……」
歌い、踊り、舞い、跳ねているのは、原宿で見かけたアイドルではなかった。
「まるで別人にゃ……」
同一人物のはずだが、到底そうは思えない変貌を遂げていたのだ。
ステージを演り終えたニュージェネレーションに、喝采が浴びせられる。
「こんなアイドルグループ知ってたか!?」
「いや、全然知らねえ! 見たことも聞いたこともなかったけど、こりゃすげえ発見かもな!」
方々から、ダークホースの出現に驚愕、興奮する会話が聞こえてきた。
みくは、一言「負けないにゃ!」とだけ叫んで、踵を返した。
――まだにゃ、まだ明日があるモン。借りはきっと返すにゃ。
心の中は熱く、しかしそれを表には出さず、みくは場を去った。
夜、CGプロ事務所では、フェス期間中とはいえ大人だけのささやかな祝賀会が開かれていた。
初ライブで、予想を上回る動員を記録したことは、CGプロにとって大きく明るいニュースだった。
そればかりか、色々な場所で、今日の出来事は話題になっている。
消防法の関係で一時は規制すら囁かれたほどだったのだ、芸能関係ニュースの食い付きの激しさたるや。
さらにネット上のアイドルオタクが集う場では、そのダークホースぶりも併せて、CGプロが注目の的だ。
ニュージェネステージの様子を撮影した写真――特に凛をアップで捉えたものが、物凄い勢いで拡散している。
『この渋谷凛って子、すっげぇ可愛いんだけど!』
『まあ普通だな、ミキミキほどじゃない』
『ニュージェネレーション? 聞いたことねえな』
『どこの地下アイドルだよ全く―― …………おい……可愛いじゃねえか……』
『この子765の新人? それとも波浪プロ? え、違うの? CGプロ? 知らないぞこんな事務所』
『可愛過ぎてやべえよ……やべえよ……』
『将来が楽しみで仕方ない』
『俺は原石を見つけたんだ(確信』
想像以上の反響に、「こりゃえらいことになったな」「明日から忙しくなりそうだ」などと会話が弾む。
急遽、明日のステージ構成は小規模から中規模の方へ移されることになった。
バミのチェック等をしなければならないから、明日の会場入りは早朝。
ゆえに凛たちは早めに帰宅させてある。祝賀会が大人たちだけで行なわれている所以だ。
もちろん凛も、卯月も、未央も、この反響は聞き及んでいる。
今頃、自宅でネット等を見ながら武者震いしていることだろう。
斯くして、熱いフェスは暑い二日目を迎える。
昨日よりも更に気温が上がる予報の中、ここお台場の湿度は幸いにも今日の方が低く、爽やかだ。
ただし太陽は朝っぱらからぎらぎらと本気を出しており、外に半刻も立っていたら確実に紫外線の餌食となろう。
ステージを土壇場で交換することとなったため、一日目から変更のあった箇所は多岐にわたっていた。
ニュージェネレーションと引率のPは、開場までの短い間にいくつもの項目を確認して潰していく。
銅や鏷も話題沸騰となったニュージェネの舞台を見たがっていたが、
生憎、新規に所属したアイドル、水本ゆかりや高森藍子たちの営業が重なってしまった。
「おいP! いいか、未央を重点的にビデオ撮っとけよ! アップでな! あと観客席の様子も忘れるな!」
「ちょっと、卯月も始終フレームインさせとかないと承知しないわよ!」
早朝、事務所で別れた際の各プロデューサーの無茶な要求の数々。
一日目はうまく終えられるかどうかに気を取られ、Pはスマホのカメラで簡潔な記録しか残せなかったのだ。
同じ轍は踏まないよう、今日はきちんとビデオカメラを鞄に入れてきてある。
開場前最終チェックに合わせ、Pがカメラを弄くり回して調子を窺っていると、舞台から三人が降りてきた。
ニュージェネ三人は本番前日のゲネプロを含め、昨日まで小規模ステージでしか活動しなかった。
つまり中規模ステージで演るのはぶっつけ本番に近い状態だ。
舞台へ上がる際のバミや、各種機材のセッティング、返しのモニターの位置。
色々な部分で異なるので、凛たちは臨時リハーサルで必死に吸収している。顔は真剣そのものだ。
そして、ニュージェネと同じ状況に置かれているアイドルがもう一人。
「なぁーんでみくが小さい方へ追いやられなきゃならないのにゃ!」
件のアイドル、みくが事務局の配置担当者に苦言を呈しながら歩いている。
「こんな間際になって別のリハやらされても頭がパンクするにゃ! 一昨日のゲネは一体なんだったにゃ!」
ニュージェネと入れ替わる形で小規模の方へ移されたのがみくだった。
二日目も、みくとニュージェネは同じタイミングのタイムテーブルだったのだ。
昼過ぎと云う、お陽様と気温が一番元気な時間に割り当てられている。
企画時点で力の弱かったニュージェネが損な時間帯に配置されるのは、当たり前のこと。
いくら一気に脚光を浴びたからと云って、ステージの移し替えはともかく、出演時間の変更は流石に無理だった。
持ち時間を15分だけ伸ばしてもらえたが、これすらも破格の配慮と云えよう。
強い足取りで歩くみくが、CGプロの面々を見つけ、びしっと指を向ける。
「またみくと同じタイミングでLIVEだって? 受けて立つにゃ。今度は手加減しないんだからにゃ!」
その声にレジュメに目を通していたPたちが顔を挙げた。
「……私たちは負けないよ」
凛が眼光鋭く言い放つ。
みくとの視線が交錯し、LIVEバトルの場外戦を繰り広げた。お互い一歩も退かない。
どれくらい火花を散らしただろうか、まもなく開場する旨のアナウンスによって、各々が控室へと下がった。
決着は本戦へと舞台を移す。
中規模ステージは屋上の北端に築かれており、トラスなど覆う構造物がない。
そのため、客席から見ると、アイドルの背にフジツボテレビ本社ビルが控える。
球体の構造物が印象的なその建物は、燃え盛る午後の太陽を反射して輝いており、さながらミラーボールのよう。
そして突き抜けた青空は、蒸し暑さを吹き飛ばすほどに爽快だ。
まもなく、CGプロの演目が始まる。
昨日と同じく、五分前にPが「そろそろだ」と云って控室へ入ると。
昨日とは違う衣装を身につけた凛が立っていた。
初めて舞台を踏んだ時とは見違えるほど落ち着いた様子で、出番を待っている。
凛が纏う黒基調の衣装は、最初のライブで着たものを基に改良を施した、新型だ。
改造の前と後では、醸し出す高級感に歴然とした差があった。
革のコルセットが追加され、スカートも五層構造へと大幅なボリュームアップを遂げた。
絞るように引き締めるウエストと膨れ上がるスカートの裾の対比で、凛の身体の魅力が遺憾なく発揮されている。
一輪の花が目を引く髪飾りは一回り大きくなり、長いリボンに付け替えられた。
すらりと長く伸びた脚には、黒光りするロングブーツが艶かしい。
誰が見てもアイドルだと納得できるであろう女の子の姿だ。
凛の恵まれた体型の真骨頂が、ここに在った。
「とても綺麗だ。だけど、最終的に俺がゴーサインを出したとはいえ、熱中症には気をつけろよ」
このような黒づくめのドレスは、夏の日射しの中では非常に過酷と云える。
しかし、抜ける青空を背後にして立つと、くっきりと見せることができるのだ。
「ふふっ、大丈夫。水分はきちんと摂ってるし、熱中症を怖がってちゃアイドルなんて無理でしょ」
凛の言葉には、きつい体力トレーニングにも耐えてきた自負が顔を覘かせていた。
「でも気をつけるに越したことはないからね~~。はいしぶりん、冷たい水」
オレンジを基軸にした衣装の未央が、凛にコップを渡して云った。
傍で笑む卯月もまた、ピンクをあしらった、彼女ならではの恰好をしている。
幸運にも昨日より長い時間を貰うことができたので、急遽ニュージェネとしてだけでなく、
凛、未央、卯月のソロでも舞台へ立つことにしたのだ。
凛は、その切り込み隊長の役割を負った。
――出番OKです!
スタッフの声が響く。
凛が、堂々とした所作でステージへ上がっていった。
みくもまた、本番が間近に迫り、控室に待機していた。
普段は柔らかい感じの服を着ているが、彼女のアイドル衣装は、逆にシャープな印象を与える。
上下がセパレートになっていて、魅惑的な部位を惜しげもなく空気に曝しているのは目のやり場に困ってしまう。
自らの武器を、みくは完全に認識していた。
彼女は努力家だ。
実際、全て一人でセルフプロデュースしているにも拘わらず、このようなフェスの大舞台に立てるまでになった。
勿論その裏事情には、CGプロと同じく最初は補欠要員として挙がったというのもあるのだが――
経緯はどうあれ、この大きなイベントに演る側として参加できている事実は判然と存在している。
そんな身だが、昨日は慢心が存在していたらしい。不覚をとってしまった。
今日こそ、いつも通り気張ってゆけば、問題ないはず。
シマへ乗り込んできた者に自分が負けるなんて、認めないし、あってはならないのだ、そんなことは。
肩に届くか届かないかという長さの髪を、後頭部で束ね、リボンで装飾を施す。
猫耳を装着し、腰に猫の尻尾も着け終えた瞬間から、そこにいるのは前川みくではない。
アイドル『みくにゃん』だ。
「今度こそ負けないにゃ!」
鏡の前に立ち、ガラスの向こう側にある世界の中で立っている自分へ檄を飛ばした。
――出番OKです!
スタッフの声が響く。
みくが、猫を模した所作でステージへ上がっていった。
ステージへ飛び出た凛の目の前には、まさに人波が横たわっていた。
背の高さ様々な人々が、ざわめきを発しながらうごめき、それは波と形容するに相応しい。
ダークホースを一目見ようとした群衆の量は、中規模ステージへ移された判断が正しかったことを示している。
観客の中には、ニュージェネレーションの写真を見たことで急遽会場へ足を運んだ者もかなり多いと聞く。
ネット上に拡散されひときわ反響を得た、クールに舞う凛を捉えた画像。
そのシンデレラの如く注目されたアイドルが、今日はユニットではなくソロで先発を務める。
「ニュージェネレーションの、渋谷凛です!」
凛が右手を天高く振りかざすと、駆け抜ける風に黒い長髪とリボン、そしてスカートがたなびく。
碧い瞳が、髪飾りのワンポイントが、洗練された装いの中で明るく主張している。
昨日とは違う恰好で登場したアイドルに、客席から怒濤の歓声が上がった。
衣装こそ異なれど、昨日のロッキングスクールと同様に、凛々しく佇むのはクールな姿。
写真で見た通りの美少女が、写真とは違って動いている。
舞い、踊り、歌っている。
――今、自分は、誰も知らない将来のスターを、誰よりも早く見ることができている。
ひしめく客の大半が、その感想を胸に抱いていた。
遠くない未来、きっとこのアイドルは大物になる。そんな予感とともに。
何も持っていなかった少女が、空っぽだった少女が、居場所を見つけ、人に何かを与えられる存在へ羽化した。
ステップの踏み方、体幹の位置、振り付けの躍動、腹の底から出す声――青木姉妹から受け継いだもの。
そして、ヨーヨーを投げる意識、碁石を置く意識――Pから受け継いだもの。
非常に多くの要素を頭で考えるより先に、凛の身体が自動的に次へ次へと存在を表現していく。
日射しに噴き出る汗も、今の彼女には何ら障害にはならない。
むしろ飛び散ったそれは、光を反射して、より凛を彩らむとする舞台装置だった。
凛に続き未央、卯月、そして三人揃ってロッキングスクールでの演目を終えるまで、
観衆は減るどころか集う一方だった。
みくは一足先にステージを終えていた。
未だ曲と歓声の流れ続ける方向をちらりと見て、勝敗を探らむとし、途中で止めた。
数えるまでもない。
黒い群衆の密度も、それが占める面積も、凛ひいてはニュージェネレーションの方が大きかったのだから。
勿論、みくの本日のステージだって、原宿の箱で演っていた頃よりも大きな動員数を記録した。
だから、みく自身も成功していたのは間違いない。
単純に、ニュージェネレーションの方がより大きく成功しただけに過ぎないのだ。
それでも。
両者ともに成功したとはいえ、Pが仕掛けたこの戦争の白と黒は、はっきりしてしまった。
「みくの実力はこんなじゃない! きっと証明して見せるにゃぁ!」
屋上に轟く歓声の中、みくの叫びは、人知れず臨海の虚空へと溶けていった。
――
CGプロの事務所、応接エリアに大手雑誌社のライターやカメラマンがいる姿は、どうにも慣れないものがある。
「今後目指したいもの、ですか――」
フェスから数日、一躍脚光を浴びたCGプロの面々に、複数のマスメディアから取材要請が絶えない。
思案し「今を駆け抜けることで精一杯」と受け答えをする凛の言葉に、敏腕ライターはメモを走らせていた。
それは、これまで何も持っていなかった彼女の偽らざる本心であろう。
アイドルであることが楽しい、今はそれだけでも、凛の存在意義となっているのだ。
卯月はこれまでずっとアイドルを目指していて報われつつあることを語り、未央は相変わらずお調子者な回答で周囲を湧かせる。
新聞や雑誌、ニュースサイト――複数回に亘るアポを消化する頃には、
彼女らにはアイドルとしての強い自覚、そして風格が備わりつつある。
ランクこそ上がってはいないものの、ニュージェネレーション三人のDランク昇進は時間の問題であろう。
速報性の高いサイト、数日後には多くの読者を持つ新聞、月に一冊とペースは遅いが興味対象層が深く読む雑誌。
ニュージェネレーションの三人、そしてCGプロの名は、それらの波状効果で確実に世間へ広がっていった。
今、受けているインタビューは、展開の核となろう雑誌のもの。
ゆえにCGプロとしても鼻息が荒い。
社長やプロデューサー陣がアイドルの展開予定等を伝え、手応えを感じつつある頃。
事務所入口を勢い良く開けるバァンという音が響く。先日修理したばかりのドア、そのネジが再び歪んだ。
何事かと全員が驚き、特に取材に臨むカメラマンは、戦慄のあまり大事な仕事道具を咄嗟に抱きかかえた。
「たのもー! にゃ!」
同時に、特徴的な喋り方がフロアにこだました。
Pが応接エリアのパーテーションから顔だけを覗かせると、案の定、玄関で仁王立ちしているのはみくだった。
Pの顔をめざとく見つけた彼女は、戸惑うちひろの制止を無視してずんずんと歩いてくる。
肩を怒らせ、Pをびしっと指差して、「こ、こないだは全く歯が立たたなかったぞぉ!」と威勢良く叫んだ。
しかし、その場で何が行なわれていたかを理解するにつれ、やや気恥ずかしそうな素振りとなる。
まさか、今まさに取材を受けているところとは思わなかったのだろう。
やっちゃった、と云う表情をしている。
ここまで来たらええいままよ、と開き直ったみくは、その場の全員を上目遣いで見た。
「あ……あんなことされたのっ、初めてにゃ……だから、ちゃぁ~んと責任、とってよねっ☆」
みくの爆弾発言に、未央が、喋りまくって乾いた口を潤そうとしたお茶を盛大に噴き出す。
自らのお気に入りのシャツに染みを作らされた鏷は、サングラスの下で哀しい表情を浮かべた。
「ぴ、Pさん……もしかして……裏では食べてたの? 戦争だとか云っといてさ~~」
咳き込みながら問う未央やジト目を向けてくる凛に「そんなわけあるか! 誤解だ!」と弁解するP。
「さぁ、みくをトップアイドルに仕立て上げるのにゃ☆」
みくはそんな騒動などお構い無しに笑う。彼女の中では、移籍することは既定事項らしい。
「俺はどっちかってとクールな子の方が得意なんだよなぁ……」
「非道い! 弄んだみくを棄てるのかにゃ!」
「そうは云ってないし弄んでもいない。……銅、たぶんこの子はお前にぴったりだろ」
Pは区画の隅に立ちながらも独特のオーラを醸し出すもう一人のプロデューサーに話を向けた。
「あら、独特なキャラが立ってるし、それでなくとも素材は充分に可愛いし、いいわねェ」
と笑ってみくの全身を見定めてから、
「いいわ、こっちで面倒みたげる」
とウインクをする。
社長はそんなドタバタ光景をニコニコしながら静かに見守っており――
その後発売された当該雑誌では、ニュージェネレーションの記事に、みく転属のニュースが追加されていた。
続き
渋谷凛「私は――負けたくない」【後編】