関連
凛「私は――負けない」【前編】


263 : 再開 ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/19 23:39:57.28 NXjdXiMSo 228/681



・・・・・・・・・・・・


七月上旬。

この日、例年より半月以上も早く梅雨が明け、うだるような蒸し暑さが急に本気を出してきた。

麻布十番の街を、強烈な日射しが容赦なく照り付けている。

コンクリートジャングルと厳しい陽光のタッグは、まさしく人々を殺しに掛かってきていると云っても過言ではなかった。


「うー! あつい!!」

授業を午前だけ受けて出社してきた凛が、開口一番に言い放った言霊は、こだまのように伝播した。

「俺だってあっちいよ」

Pが椅子にだらりともたれかかりながら至極だるそうに答えた。

264 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/19 23:41:59.00 NXjdXiMSo 229/681

「だったら空調の設定下げてよ、プロデューサー」

「28℃って決められてんだから仕方ないだろ」

凛は制服の胸元をぱたぱたと仰ぎ、恨めしそうな顔をPへ向ける。

「大江戸線のクーラーの効きが悪過ぎて、学校から事務所来るまでずーっと暑かったんだよ?
 アイドルに汗だくのままで居ろって云うの?」

「ソファ横に扇風機があるからそれに当たれ。それに女の子の身体は冷えやすいんだから、
 設定は下げずに暑い時だけ扇風機で調整する方がいい」

Pはボールペンでデスクの横を指した。

その先に顔を向けた凛の目が、扇風機を視認するや、すたすたと早足で近寄り、首振りを切って自分の方のみへ向けた。

「あっ! こら凛! 首を固定するなよ、俺が死ぬだろ」

「ふー、生き返るね。じゃあプロデューサーもこっちおいでよ」

ソファに身を預けた凛は、扇風機の風を一身に受け、今にも解脱しそうな雰囲気を出しながら手招きで誘う。

265 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/19 23:43:47.10 NXjdXiMSo 230/681

しかしPは中々に忙しいのか、いい返事を寄越さない。

「バカ云え、俺は業務が山積みなんだよ」

「あっそ。どうでもいいけど、やっぱり扇風機は『あーーーー』ってやりたくなるよね」

「ガキかお前は。……まあ気持ちは判る」

暑い時期になって扇風機を初めて動かすとき感じる思いは、みな共通であった。

「プロデューサーだってガキじゃないそれ」

「俺はいつでも心を若々しく! ってのがモットーなんでな」

そんな他愛もない会話をしている間にも、レーザープリンターがやかましく紙を吐き出し続けている。

扇風機の風の音と共に、フロアには様々な音が混じり合い、実に賑やかであった。

266 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/19 23:45:33.43 NXjdXiMSo 231/681


「ああそうだ、早速新曲に関するファンレターが来てるから読んでおいたらどうだ?」

Pが思い出したように、事務スペースに置かれた段ボールを指差しながら知らせた。

そこには1m立方ほどの大きな段ボールが鎮座している。

どれどれ、と凛が事務机の許まで来ると、その箱にはこれでもかと詰め込まれた大量のお手紙。

「毎度のことだけど、読み切るのに相当時間がかかりそうだね……」

「そりゃあな。特に今回は新曲の発表直後だし」

見た目よりだいぶ重い段ボールをソファの横へ持っていき、くつろぎながらゆっくり読むことにした。

色とりどりの可愛い紙に書かれているのは、新曲への感想、憧れ、そして新境地のダンスへの驚き。

こうやって、ファンの人々から直接伝えられる感想は、凛――いやアイドルたちにとって大きな励みとなる。

「……概ね、好評みたいだね」

「おいおい、世間のあの反応をお前は『概ね好評』で済ませるのか?」

267 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/19 23:46:49.56 NXjdXiMSo 232/681


――およそ一月前、六月上旬にPVが初披露されて以来、アイドルらしからぬ雰囲気の歌と

強烈なダンスは極めて大きな驚きを以て迎えられ、発売のかなり前から各種音楽番組や渋谷のスクランブル、

新宿アルタ等にてヘビーローテイションであったし、有線ではリクエストの首位を独走、

発売後二週間弱が経過しようとする現在もオリコソランキングでデイリートップを維持したままだ。


先日、口パク禁止として有名なフジツボテレビの音楽番組に出演した際も、激しい踊りを交えながら見事歌い切り、

凛だけでなく、CGプロそのものの実力を広く認めさせる橋頭堡となったことは間違いない。

事実、それ以来、CGプロ所属アイドルへのオファーの数が明確に増えたのである。

268 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/19 23:48:24.92 NXjdXiMSo 233/681


それら世間の熱は、ファンレターにも顕われていた。

先ほどから諸々の手紙を読んだ限りでは、普段よりも熱心な感想を送ってきてくれているように思える。

大きな反響に、凛自身手応えを感じていたが、何よりもPの、“面白さを求めた”計画がここまで
世間を賑わしていることが誇らしかった。Pの計画が自分を輝かせてくれていることが嬉しかった。

もっとプロデューサーの考えている世界を体現して、世の中をあっと云わせたい。

それは、凛のモチベーションにも少なからず影響を与えていた。


十数通ほどを読み終わり、すっかり汗が引いた頃、Pが書類の束を持ってソファへとやってきた。

「ん、プロデューサー、暑さに陥落した? あっ、ちょっと動かさないでよ」

凛の対面に座りながら、Pは扇風機のツマミを押し込んで、首振りを再開させた。

269 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/19 23:49:45.59 NXjdXiMSo 234/681

「さすがにそろそろ首振らせてもいいだろ。……はい、これ。九月半ばに出す新曲な」

ぽん、と凛に楽譜を渡す。

「あ、出来上がったんだ? 今回はどんな感じになったの」

「奇抜なメロディラインはない分、表現力が必要だな。
 詞はおそらく夕方までには上がってくるはずだ。デモテープは作ってある」

取り出したMacBook Airのスピーカから、デモが流れてきた。

ボーカルラインには、Pのラララと唱う仮歌が入っている。

270 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/19 23:51:06.45 NXjdXiMSo 235/681

「あれ? 珍しく仮歌自分で入れたの?」

そう、普段、仮歌にはシンセサイザーでリードが入っているのだが、
先日凛たちを引率してカラオケへ行った際、Pに少し火がついてしまったようだ。

「ふふっ、プロデューサー、“意外と”歌うまかったもんね」

凛はそう云ってにこにこ笑った。

「そりゃどーも」

Pが眼を瞑りながら肩を竦ませると、「褒めてるんだよ」と更に笑う。

271 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/19 23:52:37.99 NXjdXiMSo 236/681


その間にも、簡素なスピーカからは、デモが再生され続けている。

アイドル歌謡によくある、『如何にも打ち込みです!』と云った風体ではなく、
まるで70-80年代のブリティッシュロック/ロカビリーの如く、とてもグルービーなドラムスと暴れ回るギター。

バンド編成だが、縦ノリがはっきりしていてテクノのように踊りやすい。

不思議な構成だった。


でもあまりアイドルらしくないような――

この曲だけじゃなく、前回も、一般的な感覚からすれば“アイドルらしくない”プロダクトだったよね――

プロデューサーは、私を千早さんのような、歌手に近い方向へ進めたいのかな。

272 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/19 23:53:41.68 NXjdXiMSo 237/681

そんなことを凛がつらつらと考えて目を瞑った刹那。

――!?

凛の頭の中に、見たことのない映像が広がった。

そこでは自らが、未知のダンスを舞い、一つの世界を紡いでいる。

腕から指先へしなやかに跳ねる動きの繊細さ。

腰から体幹を激しく揺さぶる動きの大胆さ。

――なに、これ。

273 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/19 23:55:45.31 NXjdXiMSo 238/681


目を開けた凛は、きょろきょろと周りを見回して不思議そうな顔をした後、
「もっとよく聴きたい」と云ってヘッドホンを挿し込み、その音楽の世界へ入り込んだ。

楽譜を読みながら規則正しく踵でリズムを取っている。

その口からは、微かにメロディラインをなぞる声が漏れていた。

274 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/19 23:57:12.37 NXjdXiMSo 239/681


・・・・・・

この景色はなに?

なぜ見もしたことのない世界が勝手に脳内で溢れるの?

新曲を聴き込み、頭の中に拡がる光景に凛は戸惑った。

脳内―そこ―には、アイドルたる自分の未知の姿が存在していたからだ。


そもそもアイドルとは何だ。

可愛い顔、または綺麗な顔、そして艶かしい身体と云った外見的特徴を披露するだけで、歌や踊りはそのおまけ。
そんな、単に言葉通りの“偶像”という意味であれば、着飾りでもして笑顔で大人しく座っていればよい。

勿論そう云った偶像としての役目も、充分な存在意義だろう。

275 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/19 23:58:12.28 NXjdXiMSo 240/681

しかし、この二年強、Pと歩んできた凛は、
なにか、それだけではない要素が強くありそうな気がしてならない。


――ふと、デビューしてからの軌跡を思い浮かべて気付いた。

『無愛想を直せと云われたことが一度もない』


常識的に考えて、偶像として致命的であろうその弱点は、本来なら、イの一番に修正させるはずでは。

しかしプロデューサーはそうしなかった。

無愛想――肯定的に表現すればクールさ――が、私を構成する要素のひとつだから?

276 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/19 23:59:58.22 NXjdXiMSo 241/681


では『自分を構成する』とは何か。

自分だけが持つ世界を体現すること。

これこそがアイドルのアイドルたる所以ではないか?

その者だけが持つ世界、例えば素朴さ、普通さ、自然派と云う世界を体現するのがアイドル天海春香であるとしたら、
アイドル渋谷凛の造る世界とは――


落ち着いた美声と佇まい、そして類稀なる美貌とオーラをフルに動員し、

きらびやかな衣装を纏って、歌を表現しつつ、常人にはこなし難いダンスを舞う。

そんな『人工的に造られたものの美しさ』なのではないか。


赤や橙と云う暖色の春香に対して、
蒼や黒と云う寒色の凛。

アイドルがその『自身の世界』を『体現する瞬間』に、人々が熱狂し、楽しむのではないか。

277 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:03:12.91 P257kYP0o 242/681

……なんということだ。


=====

――プロデューサーが“渋谷凛”を形作り、

――私は“渋谷凛”という存在を表現し、

――観客はそんな私に熱狂する。

=====


横浜アリーナでシャワーを浴びながら無意識的に考えていたことじゃないか。

278 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:04:09.24 P257kYP0o 243/681

答えは自分の深層に眠っていた。

春香のトレースは自分のためにならないと直感した渋谷での出来事は、間違っていなかった。

凛の頭の中で化学反応が起きる。

次々と答えが導き出されていく。


そして。

その中には、明確に気付いてはならない答えがあったことも、わかってしまった。

――プロデューサーこそが、アイドルだけでなく『人間としての自分』の存在意義の核を成していることに。

――『仄かな憧れ』と云う言葉の範疇を、遥かに、軽々と飛び越えてしまう事実に。

279 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:05:07.21 P257kYP0o 244/681


そう。

もう、私は、あの人なしでは生きていけない。


――あの人が魅せてくれたこの世界。

――あの人が誘ってくれたこの世界。

――あの人が作ってくれたこの自分。

もう、私は――プロデューサーなしでは生きていけない。

280 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:06:37.08 P257kYP0o 245/681


・・・・・・

Pは、ヘッドホンを挿し込み新曲の世界へ入り込んだ凛を邪魔しないように、そっとソファを離れた。

彼女は楽譜を読みながら規則正しく踵でリズムを取っている。

その口からは、微かにメロディラインをなぞる声が漏れていた。


事務机へ戻りスクリーンセーバーを解除したところで、丁度Pの内線が鳴った。

珍しい。社長からだ。

それは、社長室まで来るようにとの指示であった。

281 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:07:31.44 P257kYP0o 246/681


――

ノックを四回叩き、社長室へ入ると、そこには見慣れぬ人々が座っていた。

「おお来たか、早かったね」

そう云って社長はPをソファまで来るよう促した。

「突然で済まんが、先日話した、副プロデューサーの件で進展があったものでね」

なるほど。斜向かいに座っている男性が件の人物であろう。

歳はPとはさほど違わないように感じられた。

282 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:11:38.41 P257kYP0o 247/681

「鈷―こんごう―君だ。ひとまず第一課に配属する予定でいる。第二課と第三課の副プロデューサー候補も
 探しているところだが、P君がチーフ代わりになって手薄となるだろうから、一足先に第一課へ入れることとした」

「お気遣いありがとうございます」

Pは社長へ頭を下げ、男性に向き直った。

「鈷と申します。どうぞ宜しくお願い申し上げます」

「制作部第一課プロデューサーのPです。こちらこそ宜しくお願い致します」

お互いに会釈をし合う中、社長が補足する。

「鈷君はプロデューサーは初めてのようだが、マネージャーおよびディレクター経験があるとのことだ」

283 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:12:40.31 P257kYP0o 248/681

新しく配属される人物にPは多少不安もあったが、それを聞いて幾分か解消した。

「現場を知っている人が入ってくれるのは嬉しいですね。助かります。
 これなら第一課―うち―にいる者のうち、駆け出しの数人はすぐに任せられそうだ」

駆け出しという言葉に社長は反応した。

「うむ、駆け出しと云えばね、P君。目の前にいるのが駆け出しも駆け出し、いや駆け出す前の原石だよ」

部屋へ入ったときから気にはなっていたが、社長が言及するまで触れずにいたこと。

そう、鈷の横に、人ひとり分空けて座っている女の子が二人いた。

284 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:17:35.66 P257kYP0o 249/681


「神谷奈緒、17歳。なんであたしがこの真っ黒なオッサンにスカウトされたのかわからねえんだけど……。
 てゆーかアイドルなんて無理に決まってんだろ! このオッサンの口八丁手八丁に乗って仕方なく来たんだ。
 べ、べつに可愛いカッコとか……興味ねぇし。ホントだからなっ!!」

「アタシ北条加蓮、16歳。アンタがアタシをアイドルにしてくれるの?
 でもアタシ特訓とか練習とか下積みとか努力とか気合いとか根性とか、なんかそーゆーキャラじゃないんだよね。
 体力ないし。それでもいい? ダメぇ?」

285 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:18:36.29 P257kYP0o 250/681

Pはたっぷり10秒ほど目を見開いてから、たまらず顔を伏せた。

そして、くっくっ、と肩を震わせる。

「……社長、この子たち、最初からずっとこんな調子なんですか?」

「そうだな、スカウトするのに喫茶店へ入った時から反応は変わっとらんな」

目の前の女の子二人は、何笑ってんだこいつ、と云いたげな顔をしている。

Pは仰け反って大笑いした。

「あっはっは、こりゃ凛に続く逸材になりそうだ。こんな第一声は、凛に負けずとも劣らないインパクトですよ」

――ふーん、アンタが私のプロデューサー? ……まあ、悪くないかな……。私は渋谷凛。今日からよろしくね――

凛が開口一番に投げた言葉は、今でも鮮明に思い出せる。

286 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:21:07.84 P257kYP0o 251/681

聞いた当初はむかっ腹が立った。

しかし二人三脚でやってくること二年余。
あのときの凛の言葉は、礼儀がなってないのではなく、不安に押し潰されそうな自分を
必死に奮い立たせるためのものだったのだと、今ならわかる。

きっと目の前の少女たちも、期待や不安を裏返しにしたのだろう。

「それで、社長。この子たちの配属はどこです? おそらく自分が呼ばれたのですから第一課だと思いますが」

「そうだね、この子たちはクール属性だとティンときた。このまま制作部へ連れて行ってあげたまえ」

承知しました、と告げて、Pは鈷を含め全員についてくるように云った。

287 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:23:53.98 P257kYP0o 252/681


・・・・・・

第一課のスペースへ戻ると、凛が気付いてこちらを向いた。

Pは、自分の後ろで奈緒と加蓮が緊張に身が固くさせたのを感じた。

普段テレビや雑誌等でよく見るスーパーアイドル、その実物が目の前に存在しているのだから無理もないだろう。

社長よりも凛を前にした時の方が硬くなると云うのは、年頃の女の子らしい反応だ。


テーブルに楽譜やヘッドホンが置かれているところを見ると、大方頭に叩き込み終わってしまったのだろう。

「お、もう新曲をものにしたか。早いな」

「まぁ、ね。比較的、音を取りやすい曲調だったし」

凛は何故か少しだけ顔を赤らめながら、テーブルに置かれた楽譜を、とんとん、と指で叩く。

「で、そちらの人たちは?」

Pの後ろに目線を向けて訊ねた。

「今日から第一課に配属される、副プロデューサーの鈷君と、アイドルの卵、神谷奈緒ちゃん北条加蓮ちゃんだ」

288 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:25:21.64 P257kYP0o 253/681

紹介された三人はそれぞれ頭を下げる。

「副プロデューサーの鈷です。ひとまずPさんの補佐として動くことになると思います。どうぞ宜しく」

「鈷、さんか、珍しい名前ですね。副プロって呼びますね」

凛が返礼すると、Pが鈷に告げた。

「では会社全般のことは、事務の千川ちひろさんに確認しておいて」

「わかりました、行ってきます」

鈷は一礼して、鬼、悪魔、もとい、ちひろの許へと走っていった。

289 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:26:03.75 P257kYP0o 254/681

鈷の背中を見送ったPが凛に向き直って声を掛ける。

「おい凛、俺と違って随分とお淑やかな他人行儀じゃないか」

「まあ……初対面だし?」

Pはにやりと笑った。

「へえ、そうかい。てっきり、ふーん、アンタが副プロデューサー? とか言い出すのかと思っ――ぃ痛ってっ!」

脇腹に肘鉄を喰らって悶絶する。

290 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:27:47.85 P257kYP0o 255/681

そんなPを無視して凛は続けた。

「で、神谷さんと北条さん……ですね」

「お、おう。あーいやいやいや違う。 ……はい、神谷奈緒です。これから宜しくお願いします、渋谷凛さん」

「北条加蓮です。右も左も判りませんが、宜しくお願いします。渋谷、先輩」

「はい、こちらこそ宜しくお願いします。同じCGプロのアイドルとしてトップを目指しましょう」

すっと手を差し出すと、奈緒と加蓮が握り返してきた。

291 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:29:12.81 P257kYP0o 256/681

「……こほん。で、早速なんだけど、歳、近いでしょ?」

凛が話を切り出すものの、早くも耐え切れず口調が崩れつつある。

「あたしは17です」
「アタシは16」

「じゃあほぼ同い年だね。そういう子に敬語とか渋谷さんとか云われるのこそばゆくてさ。
 タメ口と名前呼びにしてくれない? 私も奈緒と加蓮って呼ぶから」

奈緒と加蓮は、ほっ、と表情を緩めた。

「お、おう。……けどあたしかなり口悪ぃぞ? いいのか? ……ってもう云っちゃってるけど」

「アタシも丁寧な方じゃないよ?」

顔つきは柔らかくなったが、それでも少し緊張して窺う二人。

292 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:31:03.98 P257kYP0o 257/681

「むしろそう云う自然体の方がいいよ、奈緒、加蓮。私も助かる」

口元にわずかに笑みを浮かべて凛は頷いた。

「そりゃ、アタシも助かるけどね。
 初対面かつ有名アイドルの凛……に対してこんな口調で喋っちゃっていいの?」

加蓮は右手で自らの髪の先をいじりながら、まだ完全には顔を解さない状態で問うた。

「うーん、なんて云えばいいのかな。……波長? なんか、そんなものが合うような気がしてさ。
 ま、気にしないでよ。学校で友達と話してるように、私にも接してもらえないかな」

293 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:32:15.34 P257kYP0o 258/681

「……おう、わかった、そこまで云われたら逆に遠慮するのが無礼ってモンだよな。
 まさかあたしが人気アイドルの凛ちゃん……じゃねえ、凛とタメ口で話してるなんて
 ……なんだか不思議な感覚だけどな」

奈緒が自らの頭の後ろへ右手を廻して、破顔した。

「すぐに慣れるよ。それにもう、二人は私を“アイドルの凛”と呼ぶ立場じゃないから。
 じきに奈緒も加蓮も、私と同じ“テレビの向こう側の存在”になるんだからね」

凛のその言葉に、改めてアイドルとして一歩を踏み出す実感を得たのか、二人は気を引き締めたようだ。

294 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:33:34.43 P257kYP0o 259/681

いい頃合かと判断し、横で様子を見ていたPが口を開く。

「三人とも、いい表情―かお―をしてるな。善哉善哉。
 凛、そろそろ二時から二時間だけレッスンだ。
 五時から台場の湾岸スタジオでドラマ撮影だから軽く流す程度でいい」

「わかった。今日はダンス?」

「そうだな、『輝く世界の魔法』のステップを確認しておいてくれ。
 タイミングが合えば蘭子たちを合流させ……」

そこまでで言い淀み、

「……待てよ? 丁度いいや、奈緒と加蓮を連れてけ」

その台詞に凛は少しだけ驚く素振りを見せた。

295 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:34:43.30 P257kYP0o 260/681

「大丈夫なの? 二人は今日初出社でしょ? 顔見せのためだけに来たんじゃないの?」

「まあそれはそうなんだけどな。アイドルは実際にどんなことをやってるのか、ってのを
 一度見せちまった方が早いだろ? 可能なら一緒に身体を動かしてもらうのもいい。
 今日の担当は慶ちゃんだったな。話を通しておく」

「まあプロデューサーがそう云うなら、私は別に構わないけど」

と云って奈緒と加蓮に向き直り、目を白黒させている二人に告げた。

「じゃあついてきて。もし参加したかったらウェアは事務所の備品使っちゃっていいから」

「ちょっ、いいのかあたしたちが行っちゃって。邪魔じゃねえの?」

急展開に慌てる奈緒。当然と云えば当然だ。しかしPは慣れた風。

「大丈夫だよ。習うより慣れろ、百聞は一見に如かずだ。行っといで」

296 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:35:55.14 P257kYP0o 261/681


――

二時間後。
スタジオへ様子を見に往ったPが見たものは。


「ア、アタシもうだめー……」

「あたしももう動けねぇ……なんで凛はそんなにケロッとしてられるんだよ……」

「慣れだよ慣れ。私だって最初の頃はそんな状態だったよ」

消耗しきって床にへたり込み、ぐったりしているトレーニングウェア姿の加蓮と奈緒。
反対に、多少汗をかいた程度で息は全然上がっていない凛。

結局、話を通してあった慶が、見学だけでいいと云い張る二人をレッスンへ引き摺り込んだらしい。

アイドル業界全体……かどうかはわからないが、CGプロに入った者が最初に必ず受ける洗礼であった。

297 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:37:21.55 P257kYP0o 262/681

「ま、予想通りの光景だな」

レッスンルームの扉を開けてPが入ると、四人全員の視線が集まった。

しかし新人二人は姿勢を正す余力もないらしい。

加蓮がOS-1を呷りながら息を漏らす。

「いやーこれアタシ、アイドル舐めてたかも……こんな凄い動きを平然とこなすなんて信じらんない」

「だな……テレビとかで見てる限りじゃ何てぇことなさそうなのに、見るのとやるのじゃ全然違うぞ」

298 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:38:27.18 P257kYP0o 263/681

「でも二人とも初めてでこれだけいければ上出来ですよ。センスさえ備わっていれば、あとは体力をつけるだけですから」

慶がにこにこ笑いながら二人の地力を褒めた。

「加蓮ちゃんは今後はスタミナをつけるレッスンに重点を置きましょうね。奈緒ちゃんは身体を柔らかくしましょう」

すぐに指導の方向性を示してくれる。

「慶ちゃんありがとう、助かるよ。それを参考に、育成方針を立てよう」

「いえいえ、姉たちに比べればまだまだです――

299 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:40:29.17 P257kYP0o 264/681


――

三人にシャワーを浴びるよう促し、事務スペースで書類を捌いていると、まず凛が戻ってきた。

「お、戻ったか。ちょうどよかった、今さっき詞が上がってきたよ」

そう告げると、凛は目を少し輝かせながら傍へ寄った。

「どれどれ? 見せて」

そして事務机のパーティションのところで軽く覗き込んでくると、シャンプーの甘い香りが漂う。

凛は、Pの作業場所までは入ってこない。その辺りはきちんと弁えている子だ。

「印刷するからちょっと待ってな」

300 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:41:52.56 P257kYP0o 265/681

レーザープリンターのウォームアップを待っている間、Pは新作の感想を尋ねる。

「曲はどうだ?
 ダンスも入れられるし、李衣菜辺りと組んでバンドで披露する展開なんかもできると思うが」

多田李衣菜はロック好きな第一課のアイドルだ。以前は“にわか”と云われていたが、最近はギターの腕を上げている。

凛は天井の方を見つつ、顎に人差し指を当てて云った。

「今回のも、どちらかというとあまり“所謂アイドル”らしくはないよね。ロックバンドみたいで。
 でもね、ラインは取りやすい上に、聴いてると、すごくノリがよくて、自然に身体が動くんだ」

言葉を進めるうちにどんどん笑みがこぼれて、最後にはPに微笑み掛けた。

「そうか。今回はボーカル表現を第一にしたいから、前回よりは歌へ注力できるよう
 ダンスを少し抑えめにしようと思う。それでも四分と八分取りがメインになるだろうが、この分なら安心だろう」

301 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:43:25.62 P257kYP0o 266/681

「うーん、そうだね、大丈夫だと思う。ただ、聴いてたら、不意に自分の踊っている姿が頭に浮かんだんだ。
 これ、取り入れていいかな? 勿論、基本はコンテに従うつもりだけど」

この、凛からPへの逆提案は、かなり稀な事象であった。Pは驚きを隠さない。

「おお、凛がそんなことを云うなんて珍しいな。いいぞ、じゃあ二人で練り上げていこう」

凛が「やった」と愉しそうに笑うと同時に、歌詞がプリントアウトされた。

そのまま彼女に渡すと、一瞬不思議そうな表情をして、すぐに強張らせた。

302 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:44:58.10 P257kYP0o 267/681

「ねえちょっと、これ書いたのプロデューサー?」

「いや? 俺じゃないよ。まあテーマや大筋を作詞家に伝えたりはしたが」

凛は紙をPの前に掲げ、険しい顔で云った。

「全部英語じゃん、これ」

「そうだよ、ロックだろ?」

「ちょっと、李衣菜みたいなこと云わないでよ」

凛は印刷された詞をパンパンと叩いた。

「まあ冗談でそうしたわけじゃない。こないだカラオケ行ったとき、凛はMJとかブリトニーとか歌ったろ?
 その時の英語の綺麗さが印象に残ってたもんでな。使ってみたいと思ったんだよ」

「そんな、RPGのドロップアイテムみたいな云い方して……」

口を軽くへの字に曲げて呆れている。

303 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:46:28.23 P257kYP0o 268/681

「帰国子女と云うわけでもないのにあそこまで上手いなんて、どんな勉強をしたんだ?」

「それは小さい頃から横田基地のネイティブの人たちと交流してきたからだと思うけど――」

確かに凛の実家は本土最大の米軍基地の近くにあったな、とPは思い出した。

意外と凛は、芸能界へ入る前から、平凡そうに見えていても常人にはない経験を持っている。

「――それでも、私は本場の人に比べたらやっぱり日本訛りだよ?」

「インパクトを与えるには充分すぎるさ。thの発音や、RとLの区別すら普通の日本人には厳しいからな」

そうPは不敵な笑みを浮かべた。

前回はダンスだったが、今回はボーカルで世間を沸かせるつもりらしい。

流通や製造のラインが夏休みやお盆で止まるので、今作は八月の上旬までには
完パケを作りたいと云う話をしていると、奈緒と加蓮が第一課へ戻ってきた。

304 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:47:50.03 P257kYP0o 269/681


「おし、みんな戻ったな。どうだ、うまくやれそうか」

鈷を呼び、場所を作業スペースからソファへ移すのに歩きながら、Pが第一印象を訊ねてみる。

「うん、そうだね。まだ会って数時間しか経ってないけど、だいぶ仲が深まったと思うし、
 なんか馬が合う感じがする。卯月や未央とはまた違うタイプで、仲良くなれそうだよ」

凛は嬉しそうに笑った。

「無愛想で人見知りなお前が、初対面なのに結構笑ってたもんな」

つられて笑うPの言葉に、加蓮は合点がいった顔をした。

305 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:49:03.34 P257kYP0o 270/681

「あ、それかあ。アタシ、さっきから凛と喋ってると、こう、テレビとかで見る寡黙でクールな感じがあまりなくて、
 なんとなく今まで見たことのある凛とはどこか違うって思ってたんだ。容姿レベルの高い普通の女子高生、みたいな」

「あーそれは確かにあるな。あたしも一緒にレッスン受けたりして、凛って普段こんなに可愛く笑うんだ、と思った」

パン、と手を叩いて同調する奈緒。そんな二人の言葉に凛は苦笑いを禁じ得ない。

「地味に非道い謂われようだよねそれ」

「あああーごめん、そういう意味で云ったんじゃなくてなあたし……」

奈緒が慌ててフォローしようと口をぱくぱくさせるが、

「ふふっ、冗談だよ。私、無愛想なのは自覚してるし」

凛はそう云ってひらひらと手を振った。

306 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:51:41.39 P257kYP0o 271/681

「プロデューサーとか、深い仲の人たちとかになら普通に笑えるんだけどね、
 あまり絡んだことがない人だと、途端に口数が少なくなっちゃう。
 クール……って云えば聞こえはいいけど、実際には“無愛想”だよ」

「ま、その無愛想なところも凛を特徴づける要素の一つではあるがね」

先頭を歩いていたPが振り返って云った。

「その無愛想な凛が、出会って僅かな時間にここまで笑うようになった。
 きっと、お前たち三人は相性が良いんだろうな」

凛と奈緒、加蓮はお互いの顔を見合わせた。そして、ふっと表情を緩める。

307 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:54:01.15 P257kYP0o 272/681

Pはソファに座りつつ、今後の方針を説明し始めた。

「奈緒も加蓮も、どちらかといえばクールな方向で行くことになると思う。
 見た目で例えれば黒いゴシックとかな」

「まあ第一課―ここ―に配属されたんだもん、そうなるよね」

凛がPの正面に座ってそう云う。

「つまり、凛がニュージェネレーションで着ているようなカンジってこと?」

加蓮と奈緒が、間に凛を挟んでPの斜向かいに座った。Pは心持ち顎を引いて頷く。

「二人とも“可愛い”と“綺麗”が混ぜ合わさった雰囲気だから似合うはずだ」

ナチュラルにぽんぽん出てくる、可愛い、とか、綺麗、などの単語に二人は顔を赤くした。

奈緒に至っては、「か、可愛いとか……ありえねえし……」などと目をそらしてぼやいている。

308 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 00:55:23.17 P257kYP0o 273/681

「いやいや奈緒ちゃんは充分可愛いですよ」

Pの隣に座った鈷が付け加えて云うと、奈緒は首まで真っ赤にして縮こまった。

「しばらく地力をつけるまでは、奈緒と加蓮は鈷を担当者とする。凛に追い付け追い越せで頑張ってくれ。
 方針の大枠は俺が定めるから、鈷はその枠内で己が感じるまま、二人と相談してやってみてくれ」

「わかりました。しかし僕がいきなり担当を持っちゃっていいんでしょうか」

鈷は頷いたが、少しだけ顔色を窺うように訊いてくる。Pは鈷へ顔を向け、

「無論だ。二人はまだアイドルにもなっていない卵、そして鈷はプロデューサーの卵だ。
 その状態から二人三脚でやっていけばお互いが成長し合えるし、絆も深まる。かつて俺と凛もそうだった」

そして、「な?」と凛を見る。

309 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/20 01:05:23.90 P257kYP0o 274/681

「そうだね。一緒にステップアップしていけると思う。お互い手探り状態なら気軽に喧嘩できるし」

「おいおい喧嘩って物騒だなぁ」

凛の言葉に奈緒が穏やかならぬ顔をするが、

「私だって最初の頃はプロデューサーと衝突ばかりしてたよ?」

と、凛は何ともなさげに云った。

「そうだな、あの頃の凛はほんと跳ねっ返りでなあ」

Pがやれやれ、と云いた気なジェスチュアで腕を広げると、

「それはプロデューサーが分からず屋だったからじゃん」

凛は身を乗り出して口を尖らせた。そんな応酬を重ねる二人を見ながら、

「……仲良いね」
「……まったくだな」

加蓮と奈緒は、呆れたように目配せした。

313 : 再開 ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 00:40:18.35 +Qc3jrsMo 275/681



・・・・・・・・・・・・


今年の夏は暑い。実に暑い。

連日真夏日どころか、猛暑日が数日も続く始末。

毎日々々、熱中症で搬送された報道が途絶えない。


本日、八月十日。

東京都心の気温は今年初めて37℃を越え、人体よりも高い温度に気が滅入る。
テレビを点ければ、山梨や群馬で40℃を突破したと、大騒ぎだ。

あまりの猛暑に、空調の設定温度を26℃まで下げてよい社内通達が出るほどであった。

314 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 00:41:30.99 +Qc3jrsMo 276/681


「うー……複素数ワケわかんない……微積の方がまだマシだよ……」

そんな酷暑の中、CGプロの休憩室では、凛が夏休みの課題と格闘している。

――いや、戦いに負けて、テーブル上のノートへ突っ伏していた。

状況はあまり芳しくないようだ。

多忙なアイドルが、学業を高いレベルで両立させるのはとても難しい。

真面目に積み重ねる凛だからまだ何とかなっているのであって、同学年の未央は目も当てられない状態だ。

現在、凛に限らず奈緒や加蓮、その他多くの学生アイドルが宿題を消化している最中。

のあや菜々は年少組のそれを看ており、難波笑美は何故かレブ・ビーチのBlack Magicを
勝利への応援歌やで、と宣いながら流すなど、休憩室は賑わいを見せていた。

315 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 00:42:30.97 +Qc3jrsMo 277/681


今日の凛はオフだ。

ちょうど昨日、新曲がマスターアップしたところ。

タイアップも決まり、早くも既にメディア等で取り上げられ始めている。

そんな凛が、何故わざわざ事務所へ来ているのか。宿題をこなすだけなら寮でも出来るはずなのに。

316 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 00:43:00.61 +Qc3jrsMo 278/681

それは、週頭にレコーディングとPVの収録を済ませた際、今日と云う日を空けておくようPに念を押しておいたためだ。

 ――週末、時間作っておいてよね

 何かあるのか?

 大事なイベントがあるでしょ、ほら

 ああ、九日に新曲をマスターアップさせるから、その祝賀会か

 もう、ばか!

 冗談だよ。お前の誕生日だってことくらいわかってるさ

 まったく、意地が悪いんだから

 コミュニケーションの一種だよ。十日は昼前まで仕事をしなきゃいけないが、それからは空けられる

 じゃあその昼以降は私とのデートでFixしておいてよね

 承知致しました、お姫様――

つまり、Pが上がれるようになるまで、こうやって休憩室で宿題を消化していると云うこと。

317 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 00:44:27.55 +Qc3jrsMo 279/681

……しかし真の目的はただの時間潰しだ。

Pとプライベートで出かけるのは、相当久しぶり。

特に、明確に意識するようになってからは初めてのことである。

そんな状況では、端から宿題に手が付くとは思っていなかった。


元からあまり集中できていなかった凛は、誕生日祝いに貰った手作りのお菓子を口へ運んだ。

千枝や雪美、薫と云った年少組の面々が、一所懸命に焼いてくれたクッキーだ。

サクサクと解け、贅沢なバターの風味が拡がる。形は不揃いだが、とても美味しい。

それ以外にも、アイドルたちから贈られた誕生日プレゼントの数々で、凛のバッグは膨れていた。

仲間に誕生日を祝ってもらえるのは幸せなことだ。

318 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 00:46:05.43 +Qc3jrsMo 280/681

口内を癒す香ばしい甘さを、テーブルに身を投げ出しながら味わっていると、
そのあまりの白旗ぶりに、居合わせた美優が、凛を手伝おうと隣に座ってきた。

「凛ちゃん、複素数は実部が云々、虚部が云々、と代数学で考えるより、
 複素平面で幾何学的に捉えた方が理解しやすいですよ?」

「……美優さん、複素平面ってなに?」

美優のアドバイスに、頭上へ疑問符を浮かべて訊ねる凛。

そんな凛の様子を見て、更に菜々が不思議そうな顔をする。

「あれっ、凛ちゃん複素平面は習ってないんですか?」

「そんなの初耳だよ?」

「あれー? 最近の高校じゃやらなくなったんですかねー? ナナが現役の頃は複素平面までやったんですけど」

319 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 00:47:16.93 +Qc3jrsMo 281/681

もはや誰も突っ込もうとしないのは優しさ故か、いい加減面倒くさくなったのか。

たぶん後者だろう。
現に、新参者ゆえ疑問を投げ掛けようとする奈緒や加蓮を、のあが目線で制止している。

どたばたを他所に、美優がにこやかな笑みを湛えながら、紙に十字を書いた。

――凛ちゃん、大雑把に云ってしまえばね……平面上の横軸を実数、縦軸を虚数として――

――……あっ、すごい。ベクトルで考えられるようになった――

320 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 00:48:11.56 +Qc3jrsMo 282/681


美優に手伝ってもらい、望外の進捗に喜んでいると、いつの間にかお昼時であった。

そろそろ昼食にしようかという空気が休憩室に充ち始めたとき、
誰かが点けたテレビの音楽番組から、ちょうど凛の新曲のPVが流れた。

「あっ! 凛ちゃんの新曲ですよ!」

菜々がそう言葉を発した瞬間、全員の注目がテレビへ向かう。

テレビのスピーカが、軽快でノリのよいロックを奏でる。

321 : 以下、BGMをお送りいたします ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 00:51:49.02 +Qc3jrsMo 283/681



プロデューサーさん! 凛ちゃんの新曲ですよ、新曲!

Carrie Underwood - Good Girl
http://www.youtube.com/watch?v=7-uothzTaaQ&hd=1


322 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 00:53:44.79 +Qc3jrsMo 284/681

音楽番組では、コメンテーターたちが、アイドルが全篇英語のロックをリリースしたことに大騒ぎ。

しかもただのロックバンドではなく、『アイドルによる踊れるカントリーロック』としたことで、更なる衝撃を以て迎えられた。

発売までまだまだ日があると云うのに、注目度は抜群だ。

初めてPVを見た面々は、テレビに釘付けとなっている。

「おいおいすげえな……」
「まるで次元が違うじゃん……」

奈緒と加蓮は驚きのあまり口が開いている。

323 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 00:55:10.33 +Qc3jrsMo 285/681


凛のPVが終わってしばらくしたのち、だるそうに扇子を揺らしながらPが現れた。

「暑っちぃ……ほい、凛、お待たせ」

出入り端でPが手招きをする。
凛は美優に手伝ってくれた礼を述べ、ノートはじめ荷物を鞄にまとめて立ち上がった。

アイドルたちが口々に、「Pさんとお誕生日デートですかぁ?」と訊いてくるのを、
否定も肯定もせずウインクでやり過ごし、Pの許へ向かう。

324 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 00:56:52.43 +Qc3jrsMo 286/681

歩み寄ると、「いやー……今日はヤベェな」と胸元を扇ぎ、Pはどうにもならないぼやきを零した。

「確かに今日は異常な暑さだけどさ、何よりも長袖のスーツなんか着込んでるからでしょ?」

ワイシャツこそ半袖であれ、見るだけで暑くなる黒い上着に身を包む目の前の男へ、呆れたように目を遣って凛は云った。

凛自身も、日焼け防止のために、長袖のブラウスとロングパンツを着ているとはいえ。

しかしそれは明るい白色系だし、生地もとても薄いものだ。

Pは溜め息をつきつつ、

「残念なことに企業戦士はこの格好でいなきゃならないんだよ」

そう愚痴をこぼし、「ほら、持つよ」と凛の鞄に手を伸ばした。

「ん、ありがと」

「今日は随分と重いな」

普段は持ってこない大きなサイズの鞄が、ぱつぱつに膨らんでいて、それを上下にゆっくり動かしながら云う。

325 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 00:58:04.02 +Qc3jrsMo 287/681

「みんなからプレゼントをたくさん貰ったからね」

凛が部屋の中へ腕を広げてにこっと笑った。

「それを見越して、今日は大きめの鞄を持ってきたわけか」

「ふふっ、そういうこと」

星井美希のように、人差し指を立ててウインクした。

「祝ってくれる仲間がいるってのは、いいもんだよな」

休憩室で賑やかにしているアイドルたちを眺めて云うPの言葉に、
凛も同じように室内を振り返って「うん、恵まれてると思うよ私も」と感慨深気に、優しい口調で同意した。

326 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 00:59:21.70 +Qc3jrsMo 288/681

Pが出口の方へ親指を動かして、凛を促す。

「さて、予定を空けたはいいが、何をしたいのかまでは訊いてなかったな。ひとまず車を出そう」

「え、社用車使えるの?」

「ンなわけないだろ。どうせ車を出すことになるだろうと思ったから自前の持ってきたんだよ」

二人、廊下を並んで歩きつつ、若干やれやれ、と云う雰囲気で答えると、凛は不思議そうにしていた顔から一転、笑みを綻ばせた。

「準備いいね。私、プロデューサーのマイカーに乗るの初めて」

「お前だけじゃなく、アイドル含め事務所の人間は、これまで乗せたことないよ」

一瞬ちらりと凛を見て、すぐに視線を前に戻してからPは告げた。

327 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:00:53.74 +Qc3jrsMo 289/681

凛は心底驚いた様子で、上半身を回り込ませるようにして、Pの顔を見ながら訊く。

「えっ、銅さんや鏷さんとかも?」

「ないよ」

「ちひろさんさえ?」

「ないよ。って云うかそれ人選おかしい」

「……そんな車に、私を乗せちゃっていいの?」

と、自らを指差して問うた。

「別に構わんよ。タイミングがなかっただけだしな。で、どこか行きたいところあるのか?」

そう訊ねると、凛は首を斜めにして考えつつも、特段の目的地を決めているわけではないようであった。

328 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:02:27.68 +Qc3jrsMo 290/681

「んー、特にここ行きたい、って場所はないよ。プロデューサーとゆっくり一緒にいられればいい」

「随分とまあ男冥利に尽きることを云ってくれるが……それはアイドルが発していい言葉じゃないぞ」

最近の凛は、こんなことを云う頻度が明らかに増えた。その度に、嬉しくも複雑な感想をPは得るのだが。

「まあまあ、そんな気にしてたら鏷さんみたいに禿げ上がっちゃうよ?」

歩いていながらにして器用な手付きで髪をアップに結い、普段通りの笑みを浮かべた。

しかしその笑顔とは逆に、非道い云い様だ。

「あいつ、深刻な風評被害に苦しんでるんだぞ……」

「そうなの? あの人いっつも飄々としてるように見えるけどね」

「陰ながら哭いてるんだよ」

鏷のために一応のフォローは入れたものの、P自身が笑いを噛み殺しているので説得力はない。

329 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:03:33.81 +Qc3jrsMo 291/681

事務所の受付を通り過ぎ、ビルの自動扉を抜けると、殺人的な熱気と日射しが二人を襲った。

「うわ、あっつ……。ひとまず、暑過ぎてどうにもならないから、避暑できる場所がいいな」

あまりの陽の強さに、凛は額の前に掌を掲げて、片目を瞑る。

「避暑か。かといってどこかクーラーの効いた建物に入るのも本末転倒だよなぁ」

それじゃこの事務所に居ても変わらないもんね、と凛も同意した。

「じゃあ……ちょっと遠出するか」

「遠出? どこどこ?」

「着いてのお楽しみだ。行きしなに軽くメシでも食おう」

Pはニッと笑いながら、 アルシオーネの鍵を開けた。

330 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:14:19.48 +Qc3jrsMo 292/681


・・・・・・

「ところでさ――」

事務所を出発し、首都高速芝公園ランプへ向かって走り出すと、不意に凛が話し掛けてきた。

「――これ、バック・トゥ・ザ・フューチャーに出てくる車みたいだね」

ポンポン、とダッシュボードに触れる。

「まあ、時代……ってやつだろうな。俺より歳上だし、コイツ」

凛の言葉に、Pがシフトを二速から三速へ入れつつ答えると、彼女は少々驚いたようだ。

「えっ、そんなに古いんだ? 確かに普通のと雰囲気が全然違ってカッコイイね」

今の十代の子たちにとって、バブル時代の製品は、古臭いのではなく、逆に格好よく映ると聞いたことがある。

331 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:15:14.95 +Qc3jrsMo 293/681

「ふふっ、美世が見たら喜びそう」

凛は、第二課の原田美世の名前を出して微笑んだ。クルマ・バイクいじりが趣味のアイドルだ。

「見慣れない機器ばかり……この変な差し込み口なに?」

オーディオのパネル部分を指差して訊いた。

首都高速へ合流するのに若干の時間差を置いてから「それはカセットテープのデッキだ」とPが答えると、
凛は口を小さく開けて顎に指を当てる。

「カセットテープ? 名前だけは聞いたことあるけど、初めて見た」

「……お前の世代だと、初っ端からiPodだもんな。MDもギリギリ範囲内か」

「うん、初めて買ってもらったのはiPod miniだったよ」

332 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:16:51.00 +Qc3jrsMo 294/681

Pと凛とは八歳離れている。

丁度、時代や技術の転換期だったせいも多分にあるだろうが――

しかし、たったそれだけの歳の差であっても、大きなジェネレーションギャップを感じることにPは戦慄した。

「俺ももう若くねえな……」

苦い顔をして呻くように云うと、凛は大きく笑った。

「ふふっ、なあにプロデューサー、まだまだそんなこと云うトシじゃないでしょ?」

「だって俺は、カセットテープに文科放送の深夜番組を録音して楽しんでたような世代だぜ……」

333 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:18:01.41 +Qc3jrsMo 295/681

「そうは云ったって、私と八歳しか離れてないんだから」

凛は手を縦にひらひらと振った。

「でも、これだとiPodはおろかCDさえ聴けないね。新しい車にしないの?」

「一応、iPodやCDをこのデッキで聴ける機器を積んであるから大丈夫さ。
 コイツは、免許取ったときに親父からお下がりで貰ってな、乗ってるうちに愛着が湧いちまったんだ」

凛を横目で見ながら「それに、これで実家戻るとお袋が喜ぶんだわ」と付け足した。

「うん? プロデューサーのお母さんが? なんで?」

凛はきょとんとした顔で、視線を前景からPへ移した。

「若い頃の思い出が甦るんだと」

Pも視線を少しの間だけ凛へ向けて答えると、凛は、さらに、不思議そうに小首を傾げた。

334 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:18:56.02 +Qc3jrsMo 296/681

続けてヒントを出す。

「まあつまり、親父たちは、結婚する前からこのクルマに乗ってたわけで――」

「――あっ……」

そうか。


――私が今いる、この場所に、プロデューサーのお母さんが座っていたんだ……

Pの両親がデートにも使っていたであろうこの車。

男と女から夫と妻、そして父と母へ移りゆき――そして、その同じ位置に今、Pと凛がいる。

それに気付いた凛は少し頬を染めて、それを悟られまいと、左窓から見える景色に目を移した。

335 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:19:49.05 +Qc3jrsMo 297/681


そのまま中央道を飛ばすことしばし。

途中の談合坂SAでB級グルメを楽しんだりして、富士山麓は鳴沢村の氷穴が見えてきた。

「ほい、着いたぞ。ここだ」

駐車場に停め、そう云って助手席を見ると、凛もこちらをにこにこと見ていた。

「おつかれさま」

甘い労いの言葉だった。

「男の人の運転する姿って、どきどきするよね。バックしてスッと駐車する時の振る舞いとかさ、キュンとくるよ」

口の前で両手の平を合わせて、少し照れながら云う。凛らしからぬ言葉だ。

336 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:20:45.90 +Qc3jrsMo 298/681

「社用車じゃこんなことは感じないんだけどね、なんでだろ」

確かに、アイドルたちの送迎等で社用車を頻繁に運転しているが、こんなことはまず云われない。

味気のないライトバンなのだ、然もありなむ。

「初めて乗ったプロデューサーのマイカーだから、かな? ふふっ」

サイドブレーキのレバーを、すっ、と中指で艶かしく撫でた。妙に色っぽい仕草だ。

「ほらほら、馬鹿なこと云ってないで、行くぞ」

「あっ、待ってよ」

337 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:22:48.11 +Qc3jrsMo 299/681

車を降りると、相変わらずの暑気が二人を包んだ。

「うわ……ここまで来てもまだ暑いね……」

凛は後部座席から、持ってきておいた、つば広の丸い麦藁帽子を取り出して冠る。

「そうだな、まあ今は一日で最も暑い時間帯だしな」

Pが、車のドアをロックしながら答えた。相変わらずスーツを着たままだ。

「ねえプロデューサー、仕事はもう上がったのに、まだその格好してるの?」

「……残念なことに企業戦士はこの格好でいなきゃならないんだよ」

338 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:24:08.20 +Qc3jrsMo 300/681

「さっきも云ったでしょそれ」

凛はくすくすと笑った。

そして、看板の文字を、尋ねるように読む。

「……なるさわ……ひょうけつ? 氷の穴?」

「溶岩の穴であって、氷で出来ていると云うわけではないが、昔は氷の貯蔵に利用されてたって話だ」

「へえ、天然の冷蔵庫みたいなものだね」

そのまま入口に立つと、まるで黄泉比良坂みたい、とPを振り返って云った。

339 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:25:17.21 +Qc3jrsMo 301/681

鬱蒼と森が連なる樹海に、ぽつんと、それでいて大きく口を開けている孔。

凛の表現通り、この場所が見せる光景は、まさに、異質なコントラストだ。

夏休みなので混雑を覚悟していたが、逆に盆でみんな帰省しているのか、思ったほど人は多くなかった。

車中で変装はばっちり済ませてあったので心配はない。しかし、やはり避暑ならあまり人は多くない方がいい。
あくまでも気分的な問題だ。

二人、穴への階段を降りていく。

歩を進めることしばし。明確に気温の変わるラインがあった。

340 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:26:17.69 +Qc3jrsMo 302/681

「うわ、いきなり涼しくなったよ」

凛がはしゃいで、軽快に階段をステップして行く。

「プロデューサー、早くおいでってば」

少し降りた先で手を招いている。

下が滑るから気をつけるようにな、と忠告してPはゆっくりそれについて行くと、

「じゃあ、転ばないようにしないとね?」

341 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:27:15.53 +Qc3jrsMo 303/681

云うや否や、すっと腕を組んできた。

その動きは実に素早く自然で、Pが驚き抵抗する隙も与えないほどであった。

「おい、お前――」

「別にいいでしょ、こう云う刻くらい」

諌めようとする言葉を遮り、

「それにアイドルに転んで怪我される方が避けるべきことだと思うけど?」

そう云ってつんと澄ました笑顔を向けてくる。

「それにしたってお前、そんなに密着すると胸が――」

「当、て、て、るんだよ、ふふふっ」

再び言葉を遮って、意地の悪い笑顔に変わる。

はぁ、と軽く溜め息をつき、「あまり大胆なことはするなよ」と釘を刺すも、振りほどくことはせず、並んで降りて行った。

342 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:28:56.18 +Qc3jrsMo 304/681


「うわぁ……」

洞窟の最奥まで到達すると、そこには氷塊がずらりと鎮座していて、寒色のライトの効果もあり
非常に幻想的な雰囲気を醸し出している。

その光景に、凛はただただ感歎の息を吐いた。

しかし一番奥ということは気温も一番低い。
凛の組んだ腕から、感嘆したと云う理由だけではない震えが伝わってきたので、
一度腕を解いて、Pは着ていたスーツの上着を凛に羽織らせた。

「あ、ごめん……」

「どういたしまして、お姫様」

343 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:30:28.28 +Qc3jrsMo 305/681

スーツに腕を通しながら、凛は上目遣いで訊いてきた。

「ねえ、もしかして、あんな気温の中、車を降りてからも暑苦しい上着を着てたのって――」

「はて、何のことやら?」

この為だったのでは、と云う凛の言葉を、今度はPが遮る番だった。

「……ありがと」

急にしおらしくなる凛。

しかし再び組み直したその腕は、力強く引き寄せるものだった。

344 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:31:33.49 +Qc3jrsMo 306/681


ゆっくりと30分ほどで廻り終え、階段を上がると、やはり明確に気温の変わるポイントがあった。

25℃以上もの上昇に、凛は多少名残惜しそうに離れ、スーツを脱いでPに返した。

つい今しがたまで寒いくらいだったのに、外へ出ると一気に汗が出てくる暑さ。

身体がびっくりしてしまいそうだ。

345 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:32:36.00 +Qc3jrsMo 307/681


――

堪らず、氷穴売店へと駆け込むと、そこで、あ、と凛が声を上げた。

視線の先には、信玄パフェなる甘味がある。

Pを見る凛。無言の――それでいて有無を云わさぬ――おねだりに、苦笑しながらその氷穴限定なパフェを一つ、オーダーした。


売店前のテーブルで待っている凛の許へ持っていくと、「あれ? 一つでいいの?」と訊ねてきた。

「ああ、俺はいいよ。気にせず食いな」

そう云って、ソフトクリームと信玄餅がコラボしたパフェのカップを渡した。

346 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:33:58.39 +Qc3jrsMo 308/681

「じゃあ半分コ、しない? 思ったより大きいからさ、これ」

「そうか? それなら凛がまず気の済むまで食べるといい。俺は残った分で構わんよ」

「そんなわけにもいかないでしょ。ほら、一緒に食べよ? あーん」

そう云ってスプーンをPへ向ける。

「おいおい流石にそれはいかんでしょ」

「いいってば。ほら、融けて垂れちゃうよ。早く早く」

そう急かされてはまともに考えられない。結局ぱくりと食べてしまった。

「あ、なかなかいけるなこれ」

「ホント? どれどれ……」

と凛はそのまま自分の分を掬って口へ運ぶ。

347 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:35:16.41 +Qc3jrsMo 309/681

「うん、きなこと黒蜜とソフトクリーム、合うね。おいしい」

頬に手を当てて、にこにこと笑みを浮かべた。

「信玄餅の触感もアクセントになってるな」

「そうだね、私は信玄餅も好きだから、この組み合わせ気に入っちゃった。はい、もう一口あーん」

Pは済し崩し的に何回か食べさせられることとなった。

「……そういえば沖縄の波照間島に、きなこと黒蜜たっぷりのスペシャルかき氷があるとかなんとか聞いたことがあるな」

「えっなにそれ! 食べてみたい!」

ふと思い出して口から出た言葉に、凛は食いついた。

348 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:36:09.31 +Qc3jrsMo 310/681

「まあ波照間なんて往くのは相当めんどくさいから、何かの機会がないと難しいだろうけどな」

「沖縄とか石垣とかの方のお仕事獲ってきてよ」

そんな無茶な要求をしてくる。余程きなこ氷が気になったのだろうか。

沖縄の方の仕事、何かあるかなと思案していると、パフェのカップが残り少なくなっていた。

それを見て、ふと、

「凛、あーん、してやろうか?」

そう何気なく、実に何気なく云った一言。

349 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:37:09.79 +Qc3jrsMo 311/681

凛の顔面がまるでボンッと音を立てるかの如く一気に紅くなり、「え、い、いいよ」と、もじもじした。

どうやらPへは平気で「あーん」と云う癖に、いざ自分がやられると大分恥ずかしいらしい。

その反応が面白くて、ついついからかってしまう。

「ほら貸してみろって。はい、最後の一口、あーん」

にやりと笑いながらスプーンを凛の方へ差し出すと、つんとした顔で、素早く、ぱくっと食いついた。

「ああッ! あーんって口を開けたところへゆっくり入れてやろうと思ったのに!」

Pが大袈裟にショックを受けた振りをすると、凛はベーっと舌を少しだけ出した。

しかしすぐに笑みに換えて云う。

――なんだか、本当にデートみたいだね、ふふっ

350 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:38:37.39 +Qc3jrsMo 312/681


・・・・・・

ささやかな避暑を終え、事務所へのお土産などをゆっくり見つつ都内へ戻って、少々奮発したディナーを済ませたのち。

Pと凛は、臨海副都心へ。

喧噪のウエストプロムナードや『海の向かう広場』を避け、
10号埋立地との境にある、センタープロムナードの『夢の大橋』へ来ていた。

「綺麗……」

橋上のベンチに座った凛は、その美しさに嘆息し、しばらくの間、何の声も出さない。

眩い橙に輝く灯と、遠くビジネス街から洩れるビルの照明、高層建築屋上の点いては消える赤灯。

奥にはパレットタウンの、色彩豊かな観覧車が光を撒いている。

何よりも――これだけの好ロケーションでありながら、人通りが皆無で誰にも邪魔されない。

東京で随一のロマンティックスポットであった。

351 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:39:31.37 +Qc3jrsMo 313/681


「綺麗だな」

そう呟くPの言葉に、パレットタウンの方を向いていた凛が振り返った。

素敵な景色に、眼を輝かせて云う。

「ちょくちょく仕事で来る湾岸スタジオの傍に、こんな素敵な場所があったなんて――知らなかった……」

台場側のウエストプロムナードならまだしも、こんな時間にこの周辺を歩く用事なんて
ほとんどないのだから、或る意味当然か。

その瞳には、大橋の明るい照明が映り込んで、更に輝いているように思えた。

周りには、誰もいない。通る人は、誰もいない。

まさに独占状態。

352 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:40:32.74 +Qc3jrsMo 314/681

「この分なら、髪は下ろしちゃっても大丈夫そうだね」

そう云って凛はアップにしていた髪を解いた。

さらり、と滑り落ちる長い絹が、麦藁帽子と組み合わされ、これもまた可愛い。

「凛はどんなヘアスタイルでも、どんな帽子でも、どんなファッションでも可愛く綺麗にこなすよなあ」

Pが率直な感想を述べると、凛は「そ、そんなことないよ」と少し照れた。

353 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:41:40.38 +Qc3jrsMo 315/681


寸刻ののち。

「……プロデューサー、今日はありがとね」

凛はPの顔を見上げ、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「こんなに楽しい誕生日、初めてだったよ」

「これくらいでよければ御安い御用ざんすよ」

軽い調子で述べるPの仕草に、凛は微笑む。

「じゃあ私、プロデューサーのバイクにも乗ってみたいな」

Pがバイク乗りであることを知っているとは、夏樹辺りにでも聞いたのだろうか。

354 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:42:40.46 +Qc3jrsMo 316/681

「今度機会があったらな。万が一転倒でもしたら天下のアイドルに傷がついちまうから、少し気が引けるんだが」

「そしたらそしたで、責任とって私のこと貰ってくれるでしょ?」

「ボケ。……おっ、観覧車の色が変わった」

Pが少し顔を挙げて独り言ち、凛は再びパレットタウンの方向を向く。

「あれって色々なパターンがあるんだね」

「だな、飽きさせない光だ」

それらが水面に映され、ゆらゆらと揺れている。

観覧車の向こうには、羽田空港から飛び発つ飛行機の光が、ゆっくりと動くのが見える。

355 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:44:08.71 +Qc3jrsMo 317/681

「これだけ夜景に溢れてるのに、私たちだけしかいないなんて、何だか不思議な気分」

「人工の光に溢れる世界、しかしそこには、お前と俺しか存在していない……」

「そう、そんな感覚」

凛が、観覧車の光を眺めたまま、プロデューサーは中々ポエティックだね、と笑う。

「……かもな」

そう云いながら、Pは、凛の瞳の前に、ネックレスをぶら下げた。

オーバルブリリアントにカットされた、一粒の宝石。

それは親指の爪ほどもある、大きな大きな菫青石だ。

356 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:45:07.21 +Qc3jrsMo 318/681

驚いて、凛が振り向く。

「これ……私に?」

「アイオライトの首飾りだ。気に入ってくれると良いんだが」

Pはゆっくりと頷いて云った。

凛は不意の贈り物に声を出せず、細く綺麗な指で、白く輝く、蒼い宝石をそっと撫でる。

「アイオ……ライト……私の、誕生石……」

「ああ、素敵な石だ」

「綺麗……」

夜景を見た時よりも、さらに心の深い場所から紡がれた短い言葉。

357 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:46:22.73 +Qc3jrsMo 319/681

しばらく、愛しむ眼をしながら撫でたのち、麦藁帽子を脱いで肩口からゆっくりと髪をかき上げた。

「ね、つけてくれる?」

そう云って半身になり、うなじを露出させる。

「お姫様の仰せの儘に」

Pの腕が凛の首を回り込み、小器用に留め具をつなげると、アイオライトが鎖骨の間に坐りよく落ち着いた。

「ふふっ、ありがと。どう?」

かき上げた髪を解放した左手を、胸の辺りに添え、小首を傾げて問う。

「とても似合ってるよ。お前のための石が見せる、お前のための蒼だ」

358 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:47:19.01 +Qc3jrsMo 320/681

満面の笑みを浮かべる凛に、Pは更に花束を背の影から取り出す。

蒼い岩桔梗をメインに、季節の花をあしらった花束。

「お前に合いそうな花を見繕ってみた。
 あまり花には詳しくないから、花屋の娘にとっては、頓珍漢なセレクトかも知れんが」

差し出された花束に、驚いた顔をして、笑う。

「ううん、嬉しいよ。とっても」

「そうか、よかった」

そう云って、岩桔梗を一輪だけ抜き、凛の髪へ挿した。

「18歳の誕生日、おめでとう」

359 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:48:31.15 +Qc3jrsMo 321/681

即席の髪飾りに、凛は、はにかんだ。

「ありがと、……プロデューサー」

花弁に触れて、微笑む。

「……ねえ、プロデューサー、岩桔梗の花言葉、知ってる?」

花屋らしい質問に、Pは記憶をフル回転させる。

「んーとだな、……美点の持ち主……だったっけ?」

「うん、正解」

その答えに、凛はゆっくりと頷いた。

「他には感謝とか。でもね、何より……」

360 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:49:40.50 +Qc3jrsMo 322/681




――誠実な恋、と云う意味があるんだよ。



361 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:55:46.27 +Qc3jrsMo 323/681

そう云って、花束から、もう一輪の岩桔梗を抜いて、

Pの胸ポケットへ挿し込んだ。

真剣な顔で、じっと、目を見詰めたまま。

362 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:56:51.39 +Qc3jrsMo 324/681


・・・・・・

観覧車の光が変化するのを見ていると、私の目は、不意に塞がれた。

遠くの景色から近くの物へフォーカスを合わせるのに時間がかかったけれど、

そこには。

綺麗な宝石がゆらゆらと微かに揺れていた。

……え?

363 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:57:27.20 +Qc3jrsMo 325/681

驚いて振り返ると、笑みを浮かべたプロデューサーが、ネックレスを垂らしていた。

これ……私に?

プロデューサーは頷きながら、アイオライトだと云った。

私の――誕生石。

まさか、私の誕生石を贈ってくれるなんて。

364 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:58:30.90 +Qc3jrsMo 326/681


目の前の男性―ひと―への愛しさが、込み上げてきた。

365 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 01:59:32.23 +Qc3jrsMo 327/681

驚きのあまりほとんど何も云えずに、目の前の大きな粒を撫でることしかできなかった。

そしてそれによって角度が少し変わるたび、綺麗な反射光がまるで生きているかのように動いた。

私の我が儘を聞いて、プロデューサーが、ネックレスをつけてくれた。

首の周りにプロデューサーの体温を感じた。

――似合ってるよ。

私のための石が見せる、私のための蒼だと云ってくれた。

まさか、そんな言葉を掛けてくれるなんて。

366 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 02:00:25.77 +Qc3jrsMo 328/681


目の前の男性―ひと―への愛しさが、もっと込み上げてきた。

367 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 02:01:02.76 +Qc3jrsMo 329/681

さらには、蒼い花束までプレゼントしてくれた。

即席の髪飾りをこしらえてくれた。

――18歳の誕生日、おめでとう。

まさか、こんなに綺麗な、ロマンチックな方法で祝ってくれるなんて。

368 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 02:01:44.26 +Qc3jrsMo 330/681


目の前の男性―ひと―への愛しさが、どんどん込み上げてきた。

369 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 02:02:21.69 +Qc3jrsMo 331/681

そして、私の胸は、ついに一杯になってしまった。

もう、止まらない。

ボールが、坂道を転がり出してしまったのだ。


「――誠実な恋、と云う意味があるんだよ」


そう云って、私はプロデューサーの胸ポケットへ岩桔梗を挿し込んだ。

もう――止められない。

370 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 02:05:20.43 +Qc3jrsMo 332/681


・・・・・・

凛は、Pの目を見詰めて逸らすことはなかった。

無言で、二人の視線は絡み合い、刻が過ぎてゆく。

「凛……お前……」

「いま、プロデューサーが、アイオライトをくれたよね」

ふと、凛が表情を緩め、ネックレスの宝石を撫でて云った。

「アイオライトは、“人生の羅針盤”、アイデンティティを呼び覚ます石なんだって」

371 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 02:12:27.21 +Qc3jrsMo 333/681

瞼を閉じて続ける。

「――ぴったりだと思わない? プロデューサーは、まさに私を導いてくれる羅針盤」

再び、眼を開けて、まっすぐPを見詰めた。

「そして、私自身の『アイデンティティに不可欠な』男性―ひと―……」

「凛、待――

Pが止めようとする前に、凛は想いの丈を告白した。

372 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 02:15:05.23 +Qc3jrsMo 334/681



ねえ、プロデューサー。

本当はこんなこと云っちゃいけないんだろうけれど。


「凛! それを明確に口に出しては駄――

373 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 02:17:29.89 +Qc3jrsMo 335/681





私は、あなたが――好き。

あなたなしでは、もう、生きていけない。




375 : ちなみに ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/21 02:32:03.56 +Qc3jrsMo 336/681


Pが乗ってるアルシオーネ
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/89/Subaru_XT6.jpg
この名を聞いて魔法騎士レイアースが思い浮かぶ人は果たしてどれくらいいるのやら

勝利への応援歌はコチラ
Black Magic
http://www.youtube.com/watch?v=uaAUmQ1TJCA

384 : 再開 ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 01:57:13.37 wAwMmLgqo 337/681



・・・・・・


――間に合わなかった。

Pは心の中でそう呟いて、途方に暮れた。

まさか、恋慕の情を、想いとして留めておくのではなく、明確な言葉で発するとは。

迂闊であった。

385 : 再開 ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 01:59:42.23 wAwMmLgqo 338/681

凛が少なからず自分に想いを抱いていることは判っていた。

凛は、弁えている子だ。

凛は、彼女自身の立場をしっかり認識している子だ。

アイドルが、プロデューサーに恋をしても、叶うことはないと判っている子だ。

だから、ロマンチックな誕生日を演出することで、少しでも報いてやれればと思っていた。

よもや、はっきりと告白してくるとは。

全く予想だにしなかった事態になってしまった。

――俺は、プロデューサー失格だ。

386 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:01:39.60 wAwMmLgqo 339/681


「いいか、凛」

凛の両肩にそっと手を置く。

「お前が好きなのは、“プロデューサー”なんだよ。“俺”じゃない」

Pは首を振って、そう告げた。しかし凛は諦めない。

「確かに、最初に『いいな』と思ったのは“プロデューサーとしての”あなただったかもしれないよ。
 でもそんなのは、ただのきっかけでしかない。
 プロデューサーとしての存在の向こう側にある、『Pさん』に惚れるきっかけでしかなかったの」

387 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:02:35.11 wAwMmLgqo 340/681

Pは苦しそうに眼を閉じた。

「お前は、わかってたんだろ? あの歌の意味を」

「うん、あの歌詞に込められた裏の意味は、読んだ瞬間にわかったよ」

プリントアウトした紙を見せた瞬間の、凛の顔の強張り。
歌詞の意味に気付いたこと、それをきちんとPは看破していた。

「それでも、私は、プロデューサーの核を成すPさんが好き。
 私を変えてくれた、私を輝かせてくれたPさんが好き。
 アイドルの立場を取るかPさんへの想いを取るか迷ったよ。でもやっぱり、あなたが欲しいの」

388 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:03:27.11 wAwMmLgqo 341/681

すっ、と立ち上がり、姿勢を正す。

右手を心臓に重ね、芯のはっきりした声で云った。


――あなたの前では、渋谷凛という“女”でありたい――


Pも立ち上がったが、こちらは片手で頭を抱えている。

何も答えられず、まさに苦悶の表情だった。

389 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:04:30.12 wAwMmLgqo 342/681

凛が畳み掛ける。

「あなたに抱き締めてほしいの。
 あなたに抱いてほしいの。
 あなたになら滅茶苦茶にされてもいいの。
 あなたが好きなの……」

Pは、自分の認識誤りに漸く気付いた。

あどけない、初心な子だと思っていた少女は、いつの間にか、男を相手に、抱いてほしいと云えるまでになっていた。

よもや、凛の口からそのような台詞が出てこようとは。

少女は、いつしか、オンナに変わっていたのだ。

凛は、一息置いてから、真っ直ぐに射抜く視線で続けた。

「あなたが望むなら、アイドルを捨ててもいい!」

390 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:06:13.29 wAwMmLgqo 343/681


その言葉に、Pは即座に反応し、これまでとは全く違う、強い勢いと力で両肩を掴んだ。

凛は思わず、びくっ、と身体を縮こめる。

「凛、それだけは絶対に云うな。
 今の言葉はつまり、これまでのお前の存在や、お前が歯を食いしばって昇ってきた軌跡を、全否定することだ。
 それは渋谷凛のプロデューサーとして、許可できない」

「ぁ……ご、ごめん……なさい。考えなしに、云い過ぎた……」

Pは深く息をつき、

「少し時間をおこう」

お互い頭を冷やして、じっくり考える必要がある、と続けた。

391 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:07:54.21 wAwMmLgqo 344/681

その“頭を冷やせ”という台詞に、凛が泣きそうな顔をして問い掛ける。

「プロデューサーは、私のこと嫌いなの!? 私が本気で云ってるわけじゃないと思ってるの!?」

Pはあまりの苦しさに呻いた。

「そうじゃない。そうじゃなくて、俺は首を縦にも横にも振れないんだよ」

凛はひるまず、プロデューサーとしてではなくPさんとしての言葉を聞きたいの、と云う。

しかしPはその問い掛けには答えず、

「……しばらく、お前のことは鈷に任せよう。
 結論を急いじゃいけない」

392 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:09:03.93 wAwMmLgqo 345/681

凛の瞳は絶望に揺れた。

身体が小刻みに震えている。

「そん……な……」

その眼に耐え切れず、Pは付け加える。

「誤解のないように云っておくが、少なくとも、俺はお前を嫌ってなどいない。
 むしろ――いや、これは云っては駄目だな。ひとまず、そのことはわかってくれ」

凛は、その言葉に、少しだけ、安堵の色を見せた。

その言葉さえあれば、という表情であった。

393 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:10:02.47 wAwMmLgqo 346/681

「これは極めてセンシティブな問題なんだ。
 俺とお前の想いだけで『はいそうですか、じゃあどうぞ』となる世界じゃない。
 そのことはわかるだろう」

「うん……」

「軟着陸させなければいけない。
 そのためには時を置かなければならないんだ。
 いいな?」

その視線には大きな力が込められていて、凛もこれには頷かざるを得なかった。

「……わかっ、た……」


二人の周りには、夜景が、時が止まったかのように、変わらぬ光を輝かせていた。

394 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:11:40.31 wAwMmLgqo 347/681



・・・・・・・・・・・・


会議室にて、Pに第一課全員の面倒を看ろと告げられた鈷は、いきなりのことに相当混乱した。

「卵同士で、二人三脚ゆっくり上がっていくのが良かったのでは……?」

不思議そうに訊いてくる。

「確かにそう云ったな、あれは嘘だ」

「僕、崖から落とされるんです?」

どうやら鈷も、某ボディビル知事のドンパチ映画を知っているらしい。

395 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:12:40.61 wAwMmLgqo 348/681

「冗談だよ。……ちょっとした転換が必要になってな」

近々、第一課を専属して看ることが出来なくなるであろうこと、
鈷には早めにこの部署を背負えるようになってほしいこと、
そして、第一課全員、特に凛の仕事ぶりを見ることで、大きく吸収できるものがあるはずだ、と云うことを説明した。

「それに一箇月半ほどプロデューサーやって、そろそろコツも掴んできた頃だろう?」

と訊くと、鈷はなるほど、と頷く。

「少々急な転換だから、まだ引き継ぎ書類をあまり作れていないんだが、とりあえず今日のところは、
 取引先の名刺や簡単な情報をそのバインダーにまとめてある。活用してくれ」

「ありがとうございます。しかし、果たして僕に継げるのでしょうか……」

396 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:13:57.87 wAwMmLgqo 349/681

考え込む鈷に、Pは努めて明るく

「なに、そこまでシリアスに考えなくても良い。訊いてくれれば何でも答える。
 いざと云うときには銅や鏷も手を差し伸べてくれるだろう。頑張ってくれ」

「……はい!」

「手始めに、11月下旬発売、つまりマスターアップは10月末となる、凛の三曲目をどうするか構想を練ってくれ」

鈷にとって初めての、プロデューサーらしい作業だ。しかも事務所で一番のアイドルが出す新曲に関する大役。
鈷は身を引き締める。

「わかりました。数日のうちには、方針を決めたいと思います」

「宜しく頼む。あと、俺のことは事務所の戦略に関わるので、必要なこと以外は話さないようにしてくれ。
 アイドルたちに、鈷が担当になるのは何故かと訊かれたら、『Pが多忙になるから』とだけ伝えればいい――」

397 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:15:22.46 wAwMmLgqo 350/681


――それが十日前、凛の誕生日の翌日の出来事であった。

ここしばらく、凛には鈷が副プロデューサーとして付き、お盆期間中の特番ラッシュで現場へ直行直帰の日々が続いている。

今日の仕事は、久しぶりに午前中で収録が終わった。

ちょうどよく、新曲の打ち合わせがあるから、と電話で鈷に告げられたので、事務所へやってきたのだが。

「おつかれさまで…… あれ?」

第一課エリアへ足を踏み入れると、Pの姿はなかった。

なにゆえか、凛は微かな違和感を憶えた。

398 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:16:12.80 wAwMmLgqo 351/681

しかしその正体を考える前に、ミーティングルームから出てきた鈷が、凛を視認して迎える。

「おー、おつかれさま、凛ちゃん」

「副プロ、おつかれさま。……プロデューサーは他の子の引率中?」

入口から事務スペースを窺っていた凛が、ミーティングルームの方へ身体を開いて訊ねた。

その言葉に、鈷は少々面食らう。

「え? 何を云っているんだ? Pプロデューサーは昨夜発ったじゃないか」

399 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:17:42.96 wAwMmLgqo 352/681

「……へ?」

凛の手から、鞄がぽとりと床へ落ちる。

ファンには見せられないほど間抜けな、ぽかんとした顔で、凛は鈷を見た。

次第に「何云ってんだこいつ?」と眉根を寄せる顔となっていく。

鈷も、同じような顔になっている。

「副プロ、ちょっと話が見えないんだけど。プロデューサーが昨日、何をしたって?」

「いや、だから、昨日の夜、羽田を発ったんだよ。数時間ほど前にロサンゼルスへ着いてるはず――」

400 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:19:28.90 wAwMmLgqo 353/681

言葉を云い終わるか終わらないかの早さで、凛が鈷の襟元を掴む。

「私、聞いてないよ。これっぽっちも知らない」

「ちょ、ちょ、ちょっと。昨日凛ちゃんは撮影で出突っ張りだったし、出発は深夜の便だったし、
 見送りをしたのは社長とプロデューサー陣だけだったから――」

「それにしたって何の話も聞いてないのはおかしいでしょ」

「てっきり、凛ちゃんにはPさんから直接話が行ってるものだと――」

「だから知らないんだって! ロスまで何しに行ったの! そもそもなんでプロデューサーの作業場が、あんな綺麗さっぱりになってるの!?」

鈷の言葉が終わるのを待たずして次々と問い詰め寄る。

そう、凛が感じた違和の正体。

“Pに関する、あらゆる気配がなくなっている”

401 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:20:43.35 wAwMmLgqo 354/681

そしてそれを証明する、鈷の言葉。

「Pさんはハリウッドへ移籍していったんだよ。向こうの――」

凛はついに耐え切れなくなり、掴んだ襟を激しく揺する。

鈷は話している途中だったので、危うく舌を噛みそうになるところだった。

「どういうことなの!? 一体、なんで!?」

「そ、そんなに揺すらないでくれえええ!」

鈷の頭部は、放っておけば鞭打ちになりそうな動きをしていた。

丁度通り掛かったちひろが、後ろから止めに入る。

「り、凛ちゃん、どうしたの!? 落ち着いて!」

「これで落ち着いてなんかいられないよ!」

襟を掴んだまま、ちひろへ振り返って叫ぶ。

402 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:21:43.42 wAwMmLgqo 355/681

いよいよ穏やかならぬ空気を察知して、事務スペースのソファに座っていた奈緒と加蓮が何事かと、焦った顔で姿を現した。

「なんで!? どうして!? 厭ッ!!」

プロデューサーが忽然と消えた――

その事実に凛は異常なほど狼狽し、鈷の襟から離した両手で頭を抱え、一種の錯乱状態に陥っていた。

「おい凛、どうしたんだ凛!」
「ちょっと、凛、凛ってば!」

「厭! 私、プロデューサーがいないと何も出来ないの!!」

凛は、奈緒たちの呼びかけにも応えることなく、取り乱して叫び続けた。

「厭っ! 厭ぁっ! 厭ぁぁっ!!」

403 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:22:45.66 wAwMmLgqo 356/681



――パシン!


404 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:23:43.31 wAwMmLgqo 357/681

軽い破裂音と、その後に拡がる静寂。

凛の横顔を、奈緒が平手打ちしていた。

「ぁ……な、お……?」

床に崩れ落ちた凛が、頬を抑えながら、奈緒を見上げ、眼を見開いたまま荒い呼吸をした。

奈緒が床に膝をつけて云う。

「すまん、大事な商売道具の顔を叩いちまって。でも、ひとまず落ち着かねえと。何があったのかは知らないけどさ。……な?」

「………………ご……めん……」

405 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:24:50.53 wAwMmLgqo 358/681

ちひろが凛の傍にしゃがみ、肩をそっと抱いた。

「凛ちゃん、ひとまず、ソファに行きましょう?」

加蓮も、ちひろの反対側に屈んだ。

「ねえ凛、大丈夫?」

凛は何も声に出さず、青白い顔で、こくりと小さく頷いた。

ちひろたちに支えられてゆっくり立ち上がり、ふらふらとソファへ向かう。

406 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:26:36.33 wAwMmLgqo 359/681


凛を座らせてから、ちひろは戻っていった。両隣に座る奈緒と加蓮は心配そうに凛を窺っている。


「それで……プロデューサーは、なんでアメリカなんかに……」

凛が、自らの身体を抱き締め、微かに震えながら訊ねた。

対面のソファに座った鈷は、こめかみに指を当てる。

「社長から聞いた話では、知り合いの大物プロデューサーに師事させるため、らしいが、細かい部分まではわからない。
 空港では、たっぷり腕を磨け! って云って送り出してたけど」

407 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:27:42.35 wAwMmLgqo 360/681

CGプロ内部にレコード会社と同等の機能を持たせようと云う計画は、極めて秘密裡であった。

社長とPの他には銅と鏷、そしてちひろしか知らない。

鈷には、奈緒と加蓮を除く、Pと関係が深かった第一課のアイドルたちを率いていくのに
邪魔となる情報を与えない方が良いとの判断で、計画の細かい部分までは公開されなかった。

銅たちは、それでは流石に第一課のアイドルたちが可哀想なんじゃないか、と社長に掛け合ったが、
「P君がアメリカに行くとなれば、それ以降の彼女たちは、P君が手掛けるアイドルではなく
鈷君が手掛けるそれになるのだ」と云われては、頷くしかなかった。


「――で、プロデューサーがアメリカへ行ってしまった以上、これからは、私を含めて
 第一課のアイドル全員を、副プロが担当していく、ってことだね……?」

「うん、そうなるね」

408 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:28:52.20 wAwMmLgqo 361/681

凛の弱々しい疑問に、鈷は全く否定することなく答えた。

そして、その言葉は、凛の中の疑念をはっきりとさせる効果もあった。



――私は……プロデューサーに……捨てられたんだ……



少し離れた休憩室から、テレビの音が洩れている。

どのような運命の悪戯か、芸能番組で凛の新曲が流されているようだ。

409 : >>321を聴きながらどうぞ ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:31:56.20 wAwMmLgqo 362/681


――

 Hey, good girl
 With your head in the clouds
 I bet you I can tell you
 What you’re thinkin' about
 You'll see a good boy
 Gonna give you the world
 But he’s gonna leave you cryin'
 With your heart in the dirt
  ねえ 優等生ちゃん
  夢みたいなことを考えているのね
  断言するわ
  あんたは何でもしてもらえる
  良い男に出会ったと思ってるみたいだけど
  きっとそいつに突き落とされて
  泣かされるわよ

410 : >>321を聴きながらどうぞ ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:34:07.22 wAwMmLgqo 363/681


 His lips are drippin' honey
 But he’ll sting you like a bee
 So lock up all your love
 And go and throw away the key
  あいつの唇は甘い蜜を滴らせてる
  だけど蜂のようにあんたを刺すわ
  だから自分の恋心に戸締まりしなさい
  そして開けられないように鍵を捨てることね

 Hey, good girl
 Get out while you can
 I know you think you got a good man
  ねえ 優等生ちゃん
  手遅れになる前に逃げなさい
  あんたは良い男を捕まえたと思ってるんでしょうけど

411 : >>321を聴きながらどうぞ ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:34:57.79 wAwMmLgqo 364/681


 Why, why you gotta be so blind?
 Won’t you open up your eyes?
 It’s just a matter of time 'til you find
 He’s no good, girl
 No good for you
 You better get to gettin' on your goodbye shoes and go, go, go...
 Better listen to me
 He’s low, low, low...
  ねえ、なんで気付かないのよ
  なんで目を閉じてるのよ
  じきに認めざるを得ないときがくるわ
  あいつは良い人なんかじゃない
  あんたのためにならない
  別れなさいって
  私の話を聞いた方が身のためよ
  あいつは悪い男なんだから――

412 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:36:00.34 wAwMmLgqo 365/681


洩れる音を聴きながら、凛の顔は、青白いを通り越して土気色にまでなっていた。

流石にこの様子には鈷も見かねて、

「うーん、今日は、その状態じゃ打ち合わせは無理だね。
 凛ちゃんは明日も朝から仕事だから、今日は早めに上がって休んだ方がよさそうだ。
 奈緒と加蓮もさっきレッスンをこなしたところだ、寮へ一緒に帰るといい」

凛は、何も口に出せず、ただ首をゆっくりと縦に一往復させるのが精一杯だった。

鈷は、その魂を抜かれたかのような反応に、苦慮した。

聞かされてはいたけれど、これはどうしたもんか――

413 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:41:05.73 wAwMmLgqo 366/681


――

前夜、東京国際空港。

「海外へ飛ぶのに羽田から発てるなんて、便利になったな」

Pは誰に同意を求めるでもない独り言を、感歎と共に漏らした。

「まったくだ。私も昔はよく海外出張をしたもんだが、毎度々々あんな辺鄙でアクセスの悪い成田へ行くのが億劫でねえ」

はっはっは、と社長が笑った。

414 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:42:05.65 wAwMmLgqo 367/681


Pは既に国際線Eカウンターで搭乗手続きを済ませ、ターミナル四階の江戸小路にある庭園カフェにいる。

見送りにきた社長らと共に、出国までの時間を調整している最中だ。

「折角の門出なのに年寄りや男どもばかりの見送りですまんねえ! せめてちひろ君でも呼んでくるべきだったかねはっはっは!」

社長は、そうは思ってなさそうな口調で謝った。

「いえ、こうして社長にお見送り頂けるだけで充分ですよ」

Pがコーヒーを啜ると、鏷もコーヒーを片手に足を組んでPへ問う。

「おい、第一課の全員とは云わんが、せめて凛ちゃんには伝えてこなくてよかったのかよ?」

今回の件は、Pは第一課の誰にも話していなかった。

「この任務の性格上、あまり表立って云えないしな。隠密行動する忍者の気分だよ」

銅が頬に手を置いて息を吐く。

「それにしたってねェ、凛ちゃんがこのことを知った時の反応を想像すると、ちょっと胸が痛むわ」

415 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:43:27.60 wAwMmLgqo 368/681

鏷もそれに頷く。

「そうだな、せめて一年で戻ってくる、とかくらいは云ってあげてもよさそうなもんだが」

「そりゃ社長曰く一年が目安だが、先のことはわからないからな。数箇月で帰ってくるかもしれないし、数年かかるかもしれない」

目を閉じて云うPに、鏷は身を乗り出した。

「俺もフォローはするけどよ、凛ちゃんは明らかにお前に懐いてたから、果たして云うことを聞いてくれるかどうか」

「……凛は真面目で強い子だ。きっと、わかってくれるさ」

そこへ、カウンターで軽食を頼んでいた鈷が戻ってきた。

「どうぞ。皆さんでつまみましょう」

「お、サンクス」

早速、鏷がひょいとつまんで口へ運んだ。

416 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:45:13.69 wAwMmLgqo 369/681

その横で、Pは鈷へ向き直る。

「いよいよお前が第一課のプロデューサーだ。急な話だったがよくついてきてくれたな」

「いえ、……身が引き締まります」

「俺がこうやって急に発つことで、鈷がPを追い出した、などとあらぬ噂を立てられるかも知れない。
 そんな雑音は気にせずに、アイドルたちが惑わされないようにだけ気をつけて、思うままやってくれ」

「はい」

鈷は真剣な顔で頷いた。社長たちは、Pと鈷を黙って見ている。

417 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:46:14.11 wAwMmLgqo 370/681

「最初のうちは第一課のアイドルたち、特に凛が動揺するかも知れない」

“鈷はあくまでPの補佐だ”と認識してきた者たち、特に凛にとって、翌日から急に鈷がプロデューサーとなれば、当惑するであろう。

それは、容易に予想がつく。

「この十日、あいつに付いていて判ったと思うが、一見無愛想でも根は真剣だし、皆のことを考えてくれてる。
 まずは、凛の思う通りに行動させてみて欲しい。その上で適切なタイミングにサポートしてやってくれ」

「わかりました」

「あいつは俺の大切なアイドルだ。プロデュース生活の半身とも云っていい。本来なら俺がきちんと面倒を看なければいけないんだが――」

階下の出発フロアを行き交う人の流れに目線を移し、しばらく眺めたのち、眼を瞑って続ける。

――俺は、あいつのためにも行かなければならない

418 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:47:00.45 wAwMmLgqo 371/681


その後、しばらく歓談して、いよいよ時刻。

「よし、そろそろだな。P君、向こうでたっぷり腕を磨きたまえ!」

「はい、社長。ありがとうございます」

そして出国ゲートへ向かう際、Pは最後に鈷へ告げた。

「もし……もし凛が壊れそうになったら、奈緒や加蓮と組ませてみるといいかも知れん」

「奈緒と加蓮、ですか」

「ああ。あの三人は馬が合う。凛は責任感がとてもあるし、強いリーダーシップを発揮するはずだ」

そう云って鈷の肩を叩き、保安検査場へと消えていった。

419 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:48:01.37 wAwMmLgqo 372/681


――

「それにしたって急に渡米なんてねー。鈷さんだけで第一課大丈夫なの?」

大江戸線の車内で、加蓮がワクドナルドのシェイクを吸いながらぼやいた。

「鈷さんは、Pさんが遺してくれた引き継ぎデータがあるから、
 しばらくは今までと変わらず問題なく進められる、と云ってたけどな?
 だから、当面は大丈夫なんじゃないかとは思う」

「ふーん、ま、それでも鈷さん大変そうだし、アタシらも少し自立意識を持つべきかもね」

420 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:49:07.40 wAwMmLgqo 373/681

凛はほぼ上の空で、隣の二人の会話を聞き流していた。

奈緒の云う通り、クールアイドル全員のプロデュース方針表や固定済みスケジュールが引き継ぎ書類として用意されているので、
それに沿ってアイドルを動かしたり、各方面との折衝を進めておけば、しばらく、おおよそ晩秋までは何もせずとも進められるようにはなっていた。

その間に鈷が各アイドルに付き、プロデュース技術を吸収することに力を割けば、冬以降は鈷でもほぼ問題なく第一課の運用が可能となる目算だ。

イレギュラーな大トラブルが出ない限り、CGプロの業務としては、問題はあまりない。

――只一つ、凛の状態を除いては。

その日、凛は、どのようにして部屋へ戻ったのか、記憶がなかった。

421 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:50:22.76 wAwMmLgqo 374/681



・・・・・・・・・・・・


それからおよそ三週間が経ち、凛の新曲が発売となった。

前評判や注目度の高さから、予想通りの好調なスタートで、
並み居るアイドルや歌手たちを押しのけ、オリコソで初登場一位を軽々と達成した。
音楽番組やバラエティ等でも引っ張りだこだ。

しかし、ここ数週間の凛の仕事は、決して褒められたものではなかった。

勿論、真面目な凛だ、ファンに応える全力投球で仕事と向き合っているのだが、
空回りしたり、ほつれたり、小さなミスが重なっていった。
演技力に定評ある凛が、ドラマの撮影で珍しく二度もリテイクを受けたりした。

鈷のディレクター時代のつてや、銅や鏷の助力ででフォローはされていたので、大きな問題にはなっていなかったが、
テレビ局の監督や、スタジオのレコーディングエンジニア、撮影所のカメラマン、共演する役者等に
『渋谷凛に一体何があったのだ』と首を傾げさせるには充分すぎる、調子の狂いであった。

422 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:51:49.38 wAwMmLgqo 375/681

そしてそれは、パパラッチにとって格好の的となる。

ワイドショーは、視聴者の気を引くために、あることないことを垂れ流した。

それが凛の耳に入り、表向きは気丈に振舞っても、見えない疲労が内心に蓄積されていく。

強烈なフラストレーションに曝されるわずか18歳の少女の身体は、様々な不調を来した。
事務所に所属した初期の頃以来、久しぶりにレッスン中に吐いてしまったし、生理も止まってしまった。

主にマスコミが先陣を切る、凛への、肯定的な視線と否定的な視線、そして好奇の目。
それらが複雑に絡み合い、世間はさらに凛に注目するようになった。
休みたがっている凛の身体にとって、実に皮肉なことだ。

不眠と過眠が反復し、持久力も低下した。しかしその状態でも、身体に鞭を打って歌声を届け、激しい踊りを舞った。
それが更に身体を傷めていく。好ましくないスパイラルだった。

423 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:53:29.65 wAwMmLgqo 376/681


先日の会議では、11月に出す凛の新曲は、バラードでいくことに決まった。

これまで元気な曲しか演ってこなかった凛にとって、それは一種の新境地であったが、
その実、あまりの憔悴ぶりに、激しい歌や踊りは避けた方がよいという判断であった。

積極的な戦略に基づく、ギャップで攻める姿勢ではなく、消極的な採用理由。
しかも、当初は今まで通りの路線で行くことがほぼ決まっていた中でのどんでん返しだった。

凛自身、それには忸怩たる思いがあったが、これが今の自分を映している鏡なのだ。

逆に考えなければならない。逆境を活かさねばならない。

凛はせめて、作詞は自分で行ないたいと申し出た。

424 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:54:40.10 wAwMmLgqo 377/681


――

ふと、身じろいで意識が覚醒すると、凛は事務スペースのソファにもたれ掛かっていた。
どうやら、歌詞を考えているうちに、うつらうつらとしてしまったらしい。

「あぁ、ごめん、起こしちゃったか?」

霞む目を擦ると、正面には奈緒と加蓮が座っていた。

「ん、二人とも……来てたんだ」

意識にもやが掛かった状態でゆっくり言を紡いだ。その凛の声に、加蓮がすぐさま反応する。

「ねー凛、相当疲れてんじゃないの? 折角の綺麗な髪がダメージ受けてるし、肌も荒れてるよ?」

「疲れてないと云えば嘘になるけど……休んでるヒマはないから……」

その言葉とは裏腹に、相当な疲労・消耗している様子が在り在りと視えた。

426 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 02:59:23.54 wAwMmLgqo 378/681

「そうは云ってもなあ、きちんと休まないと、むしろ効率はどんどん低下していくんだぞ?」

「うん、気をつけては……いるんだけどね」

軽く“伸び”をして凛は云った。
ふぅ、と息をついた後、テーブル上のノートとにらめっこを再開する。

「そーいえばそれ、何やってんの?」

加蓮が覗き込むようにして見ると、凛は少し顔を挙げて、

「新曲の歌詞をね、考えてるんだ」

「お? 凛が作詞してんのか?」
「へー、見ても大丈夫なら見せて!」

427 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 03:00:32.59 wAwMmLgqo 379/681

凛はノートを180度廻して、二人の方へ寄せた。


 誰かが わたしを呼ぶ 声が 聞こえて
 甘い 夢の途中 ぼんやり 目覚めた

 恋は どこから やってくるの?
 窓を 開けたら 不思議な夜明け――


そこには、途中まで書き上げた詞が、試行錯誤の筆跡と共に記されていた。

428 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 03:01:45.75 wAwMmLgqo 380/681

「へー、綺麗で甘い、いい詞じゃん」
「うおお、なんかすげえ切なそうな歌詞だな」

二人は口々に感想を述べる。

「そうだね、甘く切なく、したいから」

少し遠くを見て凛がそう云うと、奈緒がぎょっとしたように声を出した。

「お、おい凛、なんで泣いてるんだよ?」

奈緒の言葉に、加蓮も気付き、同様に驚いた顔をする。

「……え? 泣いてる? 私が?」

429 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 03:02:45.82 wAwMmLgqo 381/681

凛は不思議そうに訊いてから頬を触ると、両目から、泪がこぼれていた。

そんな意識など微塵もなかったのに。

「おかしいな。自分では泣いてるつもりは全くないんだけど」

「ねえ凛、こないだの件といい、ちょっと診てもらった方がいいんじゃない?」

加蓮がそう云って、自らと凛の額に手を当て、「熱はなさそうだけどさ」と付け加えた。

凛は少し困惑した顔で、大丈夫だよ、と告げるが、説得力は皆無であった。

430 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 03:03:40.05 wAwMmLgqo 382/681


そこへ鈷がやってきて、ソファに腰掛ける。

「流石にここ数週間といい、最近の凛ちゃんは、ちょっとあぶなっかしい感じがするね。
 この分だと、道路を上の空で歩いてたら車に轢かれた、なんてことも現実に起こり得そうだから怖いな」

不穏なことを云うが、それを否定できないのが辛い。

「そこで、だ。三人の相性が良さそうだから、新たにユニットを組んで動いてもらいたいんだ」

「ユニット? 私すでにニュージェネレーションを組んでるのに?」

それは云うまでもないことだった。
現在のところCGプロ唯一であり、パイオニアであるユニット、ニュージェネレーション。鈷がそれを知らないわけはない。

431 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 03:05:40.26 wAwMmLgqo 383/681

「そう。ニュージェネレーションとはもう一つ別の、第一課の中で完結できるユニットを、お前たち、りんなおかれん三人で組んでほしい。
 ユニット化させれば一度に多人数を扱いやすく出来るし、何よりも、最近の凛ちゃんの痛ましさを見ていると、
 無理矢理にでも看る奴が必要そうだと思ったからね」

「なんだよそれ、あたしのこと云ってんのか?」

“無理矢理”との言葉に、心外だと云うような顔をした奈緒へ、鈷は苦笑する。

「奈緒も加蓮もだよ。二人はひよっこなのに、もう凛ちゃんと気の置けない仲になってる」

「でも、その論理だと別にニュージェネレーションでもいいんじゃないの?」

凛が訊ねると、鈷は、近頃卯月ちゃんや未央ちゃんのソロが増えてきたからね、と答えた。

432 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 03:06:54.36 wAwMmLgqo 384/681

確かに、最近は凛も卯月も未央も、一人で動くことが多い。
それは、それぞれがクール、キュート、パッションと云う別分野にいるため、普段の仕事があまり被らないことに起因する。

その上、卯月と未央のソロ活動そのものも軌道に乗ってきたため、ニュージェネレーションとして絡むことが少なくなっていた。

現在、ニュージェネレーションが集まるのは週に一回、ラジオのレギュラー番組だけである。

三人とも売れっ子である以上、致し方のないことであった。

「だから、凛ちゃんのお守りと云う意味では、奈緒と加蓮はドンピシャの位置に居るわけさ」

同じ第一課で、歳も近くて、既に仲が良くて。
同じ課なので寮も同じ。だから仕事へ直行直帰するときも一緒に行動できる。

ユニットを組むには最適だろう? そう云って鈷は緩く笑った。

433 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 03:08:16.24 wAwMmLgqo 385/681

しかし加蓮は不安そうだ。

「てゆーかさ、アタシたちが凛と組むなんて、大丈夫なの? 云うなればウチのトップと最新参を組ませるってことでしょ?」

「バーターと云ってな、業界ではよくあることだよ。それに、僕はさっき『ひよっこ』と云ったけど、それは凛ちゃんと比べればの話。
 二人とも地力の良さがある。たった二箇月強で早くもランクD一歩手前まで上がって来てるんだからね。自信を持っていい」

その言葉に、加蓮と奈緒は、おそるおそるながらも安堵の息をついた。

「丁度いま三人揃っていることだし、ユニット名をここで決めちゃおうか。
 仮称として使ってる『りんなおかれん』ってのは名前を呼んでるのかユニット名を示しているのか、声だけじゃ判別しづらいからね」

434 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 03:09:19.77 wAwMmLgqo 386/681

鈷の提案で、早速命名会議が開かれた。――しかし会議と云うよりは、ただの雑談に近い。

「sCOOL GIRLってのはどうだい?」
「それあたしたちが学校卒業したらどうすんだよ」
「しかもユニットなのに単数形でいいの?」
「ぐっ……じゃあ何か案を出してくれよー」
「フレッシュネスガールズとかラッキーネイルとか」
「どっちもハンバーガー絡みかよ」
「アタシは一応考えてるのに奈緒は突っ込むことしか出来ないワケ?」
「うるせーな!」

鈷、奈緒、加蓮がああでもないこうでもないと侃々諤々たる意見をひたすら述べ合う中、凛がぽつりと漏らす。

435 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 03:10:19.95 wAwMmLgqo 387/681

「トライアドプリムス……とか」

三人の議論がぴたりと止んだ。

「なにそれ? 聞き慣れない言葉だけど」

「トライアルプリズム?」

「奈緒ー、それは流石に難聴の域じゃない?」

「うっせーな!」

436 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 03:11:45.65 wAwMmLgqo 388/681

加蓮と奈緒がコントのようなやり取りをする中、凛が続ける。

「Triad Primsだよ。直訳すれば“取り澄ました三和音”だけど、実際には『おすまし三人組』ってところ」

「おすまし三人組、か」

鈷が顎に手を掛けて思案し始めた。

「奈緒も加蓮も、印象はクールビューティ。実際喋ると、明るいながらも結構冷静で頭が切れるなと思うし。
 私は、この通り――無愛想だし。このイメージは、すぐさまブレることはないだろうな、って」

「え、あたしってそんなイメージか?」

凛の解説に、奈緒が少し照れたような表情で問うた。

437 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 03:12:48.04 wAwMmLgqo 389/681

「勿論、奈緒にも加蓮にも快活な面はあるよ。ただ、パッと見た時の第一印象は、やっぱりクールだからね。
 既にCGにはCo・Cu・Paを束ねたニュージェネレーションがあるから、“第一課―クール―の”三人、
 ――っていうイメージを名前でも出した方がいいと思って」

「なるほど。三人の印象を上手くまとめあげて、かつ長期的にも使えるってわけだな。……うん、僕はこれでいいと思う」

鈷が目配せで奈緒と加蓮に問う。

「そうだな、深く考えられてるみたいだ。あたしもこれでいい」

「アタシもいいよ。なんかかっこいーし」

438 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 03:13:58.46 wAwMmLgqo 390/681

鈷は両手で膝を叩いた。

「よし、満場一致で決定だ。意外とすんなり決まったな。もっと苦労するかと思った」

「つーか鈷さんは話を振ってくるのが唐突すぎんだよ」

鈷は面目ないといいながら頭を掻いた。そして懲りずに唐突な話を切り出す。

「新ユニット、トライアドプリムス。これ来月半ばのライブバトルで初お披露目といくから、そのつもりでレッスンに励んでくれ」

「ちょ、おいマジかよ!」

「ちょっと、あと一箇月しかないじゃん! アタシまだまだ体力追い付かないよ!?」

奈緒と加蓮がテーブルに身を乗り出して大きな声で抗弁した。

439 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 03:15:03.55 wAwMmLgqo 391/681

無理もない。

ソロと違い、複数人ではダンスの注意の払い方など根幹的な部分にも手入れが必要となる。

特に加蓮は、所属当初よりはスタミナがついて輝けるようになったものの、まだ激しい動きはできない。

それなのに、たった一月後にユニットデビュー、しかもその現場がライブバトルとは。

「大丈夫、凛ちゃんも一緒だし、三人でやっていけば一箇月でもかなり成長できるさ」

と、鈷は根拠のない自信を見せて胸を張る。

凛は、そんなやりとりをする三人を見て、云い様のない焦燥感に見舞われた。

440 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 03:16:06.61 wAwMmLgqo 392/681

――これは……私が先輩としても上位ランクとしても、ユニットをしゃんと引っ張って行かなきゃ……

弱音を吐いている暇などない。

弱みを見せている暇などない。

嘘で塗り固めてでも、精神を強く持たなければならない。

身体に鞭打ってでも、先へと走り抜けなければならない。

私は――負けてはならない。

441 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 03:17:19.61 wAwMmLgqo 393/681


ソファに浅く座り直して、疑問をぶつけた。

「ねえ、来月のライブバトルで演るとしても、曲はどうするの? まさかカバーというわけにもいかないでしょ?」

「そうだね、書き下ろしをPプロデューサー……いや、今はPさんと云った方がいいか――にお願いしてる」

凛はPの名前が出ると、一瞬、胸に苦しさを憶えた。

「プロデューサー……に?」

「うん、正直制作にそこまで時間は取れないので、作編曲家や作詞家とやり取りする時間も惜しい。
 Pさんなら一人で完パケまで持って行けちゃうから」

442 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 03:18:31.87 wAwMmLgqo 394/681

凛は心の苦さを無理矢理に封印し、目を閉じた。

「副プロが曲書けば?」

「僕は無理だよ。……あと一応今は僕が第一課のプロデューサーなんだけどなぁ……」

頭をぽりぽりと掻きながら鈷がぼやく。それでも凛はきっぱりと、

「別に『鈷さんなんかプロデューサーじゃない』なんて云うつもりは全くないんだ。
 でも、私がプロデューサーと呼ぶのはPさんだけ。ごめんね、『副プロ』って云うのはただの呼称だと思ってよ」

「……りょーかい。ま、そう云ってくれるだけでも助かるよ」

鈷は肩を上下に振ってから、曲はたぶん一週間弱ほどで送られてくるはずだ、と説明した。

「初めて組むユニットとしては、その一週間が惜しいね」

「そこは仕方ないさ。その間、奈緒と加蓮はメディアへの露出を増やしていこう。
 凛ちゃんは、今月は撮影やキャンペーンガールの仕事がびっしり入ってるからそっちに注力して貰うとして……」

鈷は腕を組んで、今後の予定を告げていった。

444 : 再開 ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 03:51:41.41 wAwMmLgqo 395/681



・・・・・・・・・・・・


仕事と単独レッスンの合間にトライアドプリムスのトレーニングを挟みつつ、三週間が過ぎた。

凛は、トライアドプリムスでレッスンする時なら、比較的スムーズにこなせていた。

Pが凛たちのために書き下ろしてくれた曲だという事実がモチベーションを支えていたこと、

内容が奈緒・加蓮に合わせたレベルであること、そして何よりも彼女の強い責任感によるものであろう。

しかし、こと単独レッスンに於いては、その反動からか、壊滅的と云える惨状であった。

445 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 03:52:49.39 wAwMmLgqo 396/681

以前踏めたステップが辿れない、以前出せた音域が届かない、以前取れた音階が大きくずれる。

必死に取り返そうとして、更に力んで上手くいかなくなる。

厳しい指導が特徴の麗すら、あまりの酷さに心配するほど。

「スランプと云うものは誰にでもある。今は焦らず我慢の刻だ」――いっそ、怒られた方がまだマシだと、自らの惨めさに、陰で独り泣いた。

仕事の内容も、音楽番組ではなくトークやバラエティ主体、
またNTTドコデモの新型iPhoneプロモーションなどと云った、身体を酷使しない方向へシフトされていた。

鈷の顔に、焦りの色が見え始めている。

446 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 03:54:30.91 wAwMmLgqo 397/681


そんな十月上旬、ラジオ局以外で久しぶりにニュージェネレーションの仕事があった。

ファッション誌Eighteenの特集に、モデルとして載るそうだ。

「局以外でニュージェネレーションが集まるのって久しぶりだよね~!」

銅に送られやってきた、勝手知ったる提携フォトスタジオ。

控室にて、未央がわくわくとした様子で云った。

スタジオ内では、銅とEighteen担当者が最終の詰めを行なっている。

「うん! しかもファッション誌に載るのは初めてだから頑張らないとね!」

卯月も未央同様に、興奮を抑え切れない勢いで答える。

雑誌にグラビアで載ることはこれまでにもあったが、ファッション誌にモデルとして出るのは初めてであった。

447 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 03:55:28.31 wAwMmLgqo 398/681

対照的に、物静かな凛。未央が覗き込んで問うた。

「しぶりん、どした? 元気ないぞー?」

目線だけ未央に向け、しゅんとしながら答える。

「ん……身体の状態があまり芳しくない時に限って、ファッション誌の撮影なんて、しかもみんな読んでるEighteenなんて……タイミング悪いな」

「逆に考えればいいよ~、グラビアみたいに水着じゃなくてよかったーって!」

未央の云うことも尤もだが……

凛は、未央の考え方を羨ましく思いながら、そうだね、と弱々しく微笑んだ。

448 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 03:56:25.27 wAwMmLgqo 399/681


 ――渋谷凛さんヘアメイク入りまーす!

スタジオアシスタントに促され、化粧鏡の前に腰を下ろした途端、担当が苦い声を出した。

「渋谷さん、ちょっとお肌の状態が荒れちゃってるわね。以前は下地クリームだけでも充分なくらいだったのに」

「はい、最近身体の酷使が続いてしまって……」

「駄目よ、身体は労らないと。一番の資本なんだから。
 ――今日のメイクプランは変更ね。カバーファンデとコンシーラーをつけておきましょう」

449 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 03:57:30.05 wAwMmLgqo 400/681

髪を留め、目を閉じて、メイクさんの為すが儘。

縦横無尽に動き回る指が、凛の顔に魔法をかけていく。

よしOK、との声で目を開けると、そこには別人のように輝いた凛がいた。

「すごい……あれだけ酷い状態だったのに……」

「ま、メイクの腕の見せ所ね。一応カバーはこれで大丈夫だけど、やっぱり大事なのは元のお肌の状態を良くすることよ。
 化粧で補うことに慣れると、どんどん肌は荒れていっちゃうからね。あまり無理はしないように」

「……はい」

凛は哀しい顔で答えた。

450 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 03:58:58.78 wAwMmLgqo 401/681


ストロボが、リズムよく凛の身体を何度も照らす。

秋コーデに身を包んだ彼女は、カメラマンやEighteen担当者の指示で様々な動きをとっていた。

「凛ちゃん、今日はちょっと顔硬いよー? もっと力を抜こうー」

案の定……と云うべきか、凛の調子は悪い。

そのこと自体は凛も重々承知しているのだが、どこがどのように悪く、どうすれば改善させられるのかがわからない。

上手くいかない時は、往々にして全てが悪く見えてしまい、どこから手を付ければよいのか判断できなくなるものだ。

カメラマンに云われれば云われるほど意識してしまう泥沼。

頭の中は既に真っ白で、必死に何とかしようと藻掻くが、上手くいかない。

451 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 04:00:00.03 wAwMmLgqo 402/681

ついにシャッターの音が止まってしまった。

カメラマンが困惑した顔で、ファインダーから顔を離す。

凛はぎゅっと眼を瞑って、頭を小刻みに横へ振った。

「すみません」

短く嘆息しながら謝罪を述べる。

レフ板の向こうでは、銅がEighteen担当者に何やら耳打ちをしており、

さらにその奥では卯月と未央が不安そうな顔で凛の方を見ている。

「凛ちゃん、こっちおいで。ちょっと休憩しましょ。卯月、先に撮って頂きな」

耳打ちを終えた銅が、手招きして凛を呼び戻した。入れ替わりに、卯月が「はいっ!」と答えながらレンズの前に立つ。

452 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 04:01:27.83 wAwMmLgqo 403/681

「……申し訳ありません」

銅の許へ歩むや否や、凛は苦々しい表情で詫びた。

「うーん、鈷から状態を聞いてはいたのだけれど……。今日の凛ちゃんを見てる限りじゃ、無理矢理笑わせるのはよくないね。
 コーデを変更してビューティにしよう。アンニュイな雰囲気的にもそちらの方が合いそうだ。……如何でしょう?」

凛の様子を心配そうに見てから、最後にEighteen担当者を振り返って銅は提案した。

「そうですね、今回の渋谷さんソロは寒色押しで行きましょう。秋コーデのセオリーには反しますが、それもまた一興です。
 今の衣装は、ニュージェネ三人集合の際に使います。デュオやトリオでは統一感を出したいので」

「すみません、わざわざ、ありがとうございます」

凛は言葉少なに頭を下げる。他に何を云ったところで、ただの言い訳にしかならないからだ。

「ま、トラブルをチャンスに変えるのが、アタシたちの仕事さ」

そう云って笑う銅の許へ、順調に撮影を終えた卯月が「凛ちゃん、大丈夫?」と駆け寄ってくる。

凛は卯月へ、ゆっくりと、力なく頷いた。

 ――渋谷凛さん島村卯月さん衣装チェンジ入りまーす! 渋谷さんI12 O8 B4、島村さんI7 O15 B11で――

453 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 04:02:26.72 wAwMmLgqo 404/681


・・・・・・

撮影を何とか時間内に終わらせ、ニュージェネレーションの三人は事務所へと戻ってきた。

本日、これ以降はお仕事なし。

その代わり、これまた久しぶりに、ニュージェネレーション統一レッスンが組まれた。

年末ライブのための、おねシンと輝く世界の魔法、それぞれのニュージェネレーションバージョンの通し稽古だ。

特段難しい動きはないので、さほど問題はない。

はずだった。

454 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 04:04:16.68 wAwMmLgqo 405/681


「ねえ凛ちゃん、マニュアルをトレースしただけになっちゃってますよ?」

ひとまず二曲を通して動いてみた後の、慶の言葉である。

「……はい、何よりもまず、ミスの無い正確な動きを目指そうと」

「うーん……云わんとすることは判るんですけど……もう一回通してみましょうか」

再び流れるおねシン、そして輝く世界の魔法。

特段難しい動きはないので、さほど問題はない。

――はずだった。

455 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 04:05:19.25 wAwMmLgqo 406/681


通しが終わって曲を停止させたのち、慶はしばらく逡巡して、重い口を開いた。

「……凛ちゃん、何て云うべきか……楽しさが伝わってこないんですよ。
 正確さを気にする時期はもう過ぎていると云うか、今はもう楽しさを届けなければいけない段階のはずなんです。
 例えば未央ちゃんは、何回かステップをミスしてて――」

未央はしまったバレてた、と肩を竦める。

「――でも楽しそうに踊ってて、そのミスを感じさせなかったんです。
 卯月ちゃん、隣で一緒に踊っていて凛ちゃんの動きはどう思いました?」

慶はセンターで踊っていた卯月に話を振った。

456 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 04:06:29.79 wAwMmLgqo 407/681

「え? えっと……凛ちゃんは、ミス自体はありませんでした。なので、一緒に踊る立場としては、やりやすかったんですけど……
 正確に動こうとするあまり、硬くなっちゃっていたように思います。そこが逆にミスしているように外部からは見えてしまう……のでは」

卯月の言葉に軽く頷いて、次は未央の番。

「未央ちゃん、凛ちゃんのボーカルの方はどう聴こえました?」

「んー……、歌の方は、正確な音程を出そうとして、気をつけすぎて、逆に歌声が心へ染み込まなくなっちゃうって感じ……なのかな?
 確かに正確なライン取りだったんだけど、何となく機械に歌わせているような……」

卯月も未央も、自らのパフォーマンスを披露しながら、自分以外のメンバーの状態を、冷静に観測できるほど成長していた。

逆に、凛が一番、自分についてわかっていなかったのだと、曝け出されてしまった。

「そうですね。笑顔も出ていなかったですし、全体的な内容で云えば、未央ちゃんの方がよかったです」

457 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 04:07:55.12 wAwMmLgqo 408/681

慶の宣告。

ニュージェネレーションの中で飛び抜けて先を行っていた凛が、
今や、三人の中で最も歌とダンスを苦手としていた未央よりも、霞んで見えてしまうという事実。

凛は、目を固く閉じて、天を仰いだ。

「ねえ、凛ちゃん。今……楽しくないの? さっきの撮影の時も、あまり元気なかったし……」

卯月が心配そうに凛の肩を触る。

「そんなことは、ない……はずなんだけど……」

「以前あんなに楽しそうに踊ってた、しぶりんらしくないよ?」

未央も、凛の斜向かいから歩み寄って云う。

458 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 04:08:58.47 wAwMmLgqo 409/681

「……ねえ、未央。私らしい、って……何なんだろう?」

「……えっ?」

存在の根本を問う、凛の哲学的な疑問に、未央と卯月は動きを止めた。

「――ねえ、渋谷凛って……何?」

凛は虚空を見詰めて、誰かに投げ掛けるわけではなく言葉を漏らす。

「どうすれば楽しさを与えられるのかな? 笑顔になればいい? 凄いダンス踊ればいい?」

「さっきの撮影のときみたいな引きつった笑顔で、勢い良く踊れば、解決するの?」

「さっきの撮影のときみたいに、クールな仕草じゃだめなの? クールに正確な動きじゃだめなの?」

「私は今まで通りやってるつもりだけど……どうやったら……楽しさを届けられるの……?」

ただならぬ凛の雰囲気に、二人だけでなく、慶までもが慄いている。

459 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 04:10:07.27 wAwMmLgqo 410/681


「わからなくなっちゃった……」


焦点の合わない虚ろな眼差しで、

「あれ……そもそも、なんで私、踊ってるんだっけ……」

 ――なんで私、アイドルやってるんだっけ……――

「わからなくなっちゃったよ……」

ぽつりと漏らした凛の言葉に、卯月や未央、そして慶も慌てる。

「ちょ、ちょっと凛ちゃん! そんなこと云っちゃ駄目だよ!」

460 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 04:11:14.95 wAwMmLgqo 411/681

はっ、と意識を戻した凛は、半ば無意識的に漏らした自分の言葉に、衝撃を隠せなかった。

しかし、それよりも、目的が見えなくなった凛を諌める卯月の言葉に、血が上ってしまった。

「なんで……なんで云っちゃ駄目なの? ねえ、疑問を持つことすら赦されないの!?」

次第に語気が強くなる。

冷静になれ、と、頭の中でもう一人の自分が指令を出しても、止められない。

「考えることが赦されないなら、それこそ機械と同じじゃない!」

「り、凛ちゃん……」

あまりの剣幕に卯月が青ざめる。

461 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 04:12:23.05 wAwMmLgqo 412/681

未央が泡を食って凛の肩を掴んだ。

「ねえ! さっきの言葉は、これまでしぶりんを支えてきた数多くの人への背信になっちゃうんだよ!?」

「そんなのわかってるよ! そんな正論は痛いほどわかってるの!!」

凛はその腕を振り払って叫んだ。

驚愕に目を見開く未央へ、捲し立てる。

「でも! 自分自身の存在意義も目標も、何を為すべきかも視えなくなっちゃったの!」

「しぶりん! みんなでトップアイドルになろうって、云ったでしょ! それが目標じゃなかったの!?」

「云ったよ! 云ったけど! あの男性―ひと―のいない世界で、トップになったって仕方ないじゃないっ!」

決壊した感情のダムは、胸の内を全て絞り出すまで止まらなかった。

「未央だって、もし鏷さんがいなくなったら、その世界でトップを目指せるのっ!?」

462 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 04:13:18.15 wAwMmLgqo 413/681

未央はその叫びに言葉を詰まらせた。

彼女もまた、担当プロデューサーに密かな想いを寄せていたからである。

そして、その鏷が傍に居てくれている自分が、凛に何を云おうとも届かないことに気付き、黙り込んだ。

卯月と慶はこのような事態に慣れていないのか、おろおろとしている。

しばらく凛は肩で息をしていたが、それが落ち着くにつれ、自分の放った言霊が既に回収できない位置にあると悟り、苦悶した。

「……ごめん。私、今はここに居ない方がいいと思う。……卯月と未央の、足手まといになっちゃうから」

そう云い残し、引き留める卯月、未央、慶を振り返らず、弱々しい足取りでダンスルームを出て行った。

463 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 04:14:50.61 wAwMmLgqo 414/681


――

街は黄昏れの刻。

しかし空は雲に覆われ暗く、綺麗な夕焼けは姿を見せていない。

まるで凛の心を映したかのように。

凛は、着替えもせず、レッスンウェアのまま、気付くと麻布十番は網代公園にいた。

まもなく夜の帳が下りる上に、不穏な空模様だからか、公園には誰もいない。

そっとブランコに腰を下ろすと、キィ、と金属の擦れが音を立てた。

464 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 04:16:11.46 wAwMmLgqo 415/681

――私、どうしちゃったんだろう。

アイドルとしての自分の存在意義に、疑問を持ってしまった。

あのひとが連れてきてくれた世界に、疑問を持ってしまった。


掃いて捨てるほどアイドルのいる昨今、渋谷凛が持つ意味とは?

あのひとがいない世界で、渋谷凛がトップアイドルを目指す意味とは?


低く垂れ込めた雲から、雫がぽつりぽつりと落ちてきた。

やがてそれは、シャワーのように、勢いを増し、凛の身体を濡らしていく。



凛の頭の中で、Pがトライアドプリムスに書き下ろした曲がリフレインした。

465 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 04:17:23.55 wAwMmLgqo 416/681
466 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 04:18:43.62 wAwMmLgqo 417/681


 幾千の星屑 名も知れず輝いて
 この心照らす 静かな夜

 あの人に思いが いつの日か届くよに
 夜空に願うよ 乙女心

 鮮やかな満月の光が
 この恋を叶えると し・ん・じ・て

 恋の花 開くよに 今あなたへ伝えよう
 恋の雨 降らぬよに 私は祈ってる…

 夢の花 ひらひらと 今あなたへ落ちてゆく
 恋の花 ゆらゆらと あなたに届くまで……

467 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 04:20:14.21 wAwMmLgqo 418/681


この曲は、凛の調子が悪くなってから書かれたもの。

――副プロは当然、私の体たらくをプロデューサーへ伝えてるよね……

そんなPが、凛へ寄越したこの曲の意味――“Now is not the time.”

君を想っている。でも、今はまだその時ではない。

なぜあのひとは、私の心の中をこんなにも見透かしているの?

なぜあなたは、遠く離れていても私の心をこんなにも恋焦がせるの?

468 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 04:21:24.98 wAwMmLgqo 419/681


スポットライトを浴びなくてもいい。あのひとの傍に居たい。

ファンへの申し訳なさと、Pへの想いの狭間で、凛は身動きが取れなくなっていた。

「私……どうしたらいいの……」


うつむく凛に、雨が打ち付ける。

この雨は、憐れな人間にせめてもと神様が恵んでくれたものだろうか。


凛の眼から止め処なく溢れる熱い雫を、誤摩化してくれるから――

469 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 04:22:51.47 wAwMmLgqo 420/681


――

どれほど経っただろうか。

空がすっかり暗くなっても、雨はしとしとと降り続いていた。

雨宿りをするでもなく、ただただ天の気紛れに身を任せていると、その凛の身体を打つ雨が不意に、止んだ。

いや、水音は止んでいないので、まだ降っているはずだが。

ふと上を見ると、凛を白い傘が覆っている。

そのまま視線を後ろへ持っていくと。

470 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 04:24:18.95 wAwMmLgqo 421/681

「ち……ひろ……さん……? なん……で……?」

緑の制服に身を包んだちひろが、哀しそうに微笑みながら佇んでいた。

「みんな大騒ぎで凛ちゃんを探しているのよ?」

手掛かりが無いから虱潰しにね、と苦笑しながら。

「まさか事務所のこんな近くにいるなんて、まさに灯台下暗し、ね」

何も云えないでいる凛を、ちひろは優しく立たせ、促した。

471 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 04:25:23.95 wAwMmLgqo 422/681

「さぁ、戻りましょう。もう十月なのにそんな薄着で雨に打たれ続けて。これは風邪を覚悟しないといけないわね」

ちひろは困ったように笑みを浮かべた。

「……ごめんなさい」

「いいのよ。多感な時期は色々なことがあるわ」

CGプロ事務所は、上を下への大騒ぎだったが、ずぶ濡れの凛をちひろが連れ戻ってきた瞬間、水を打ったように静まり返った。

全身から雫を滴らせ、生気のない眼で歩く彼女に、誰も声を掛けることができなかったのは、当たり前と云える。

「シャワーを浴びたら、今日はもうこのまま仮眠室で寝てしまいなさいな」

ちひろが、事務所に残っていた社員を全て帰途に就かせながら凛に告げる。凛は黙って頷いた。

472 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 04:26:34.03 wAwMmLgqo 423/681


つい先ほどまでと同じように、凛を包む水音。

違うのは、冷たい雨ではなく暖かいシャワーであると云うこと。

凛は何故だか、三月の横浜アリーナ単独ライブを思い出していた。

頭の中には、ステージの歓声が、ずっと、こだましている。

武者震いする自分を、常に傍で支えてきた人。

プロデューサーは、お前なら出来る、と常に隣へ立っていてくれた。

あの人にそう云われると、

いつの間にか自分もやれる気になってしまっている。

でも今は――傍にいない。

473 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 04:27:29.88 wAwMmLgqo 424/681


私は、偶像。

あの人は“渋谷凛”を形作った。

私は“渋谷凛”という存在を表現した。

観客はそんな私に熱狂した。


眼を瞑ると、たくさんのファンが応援してくれた、ライブの光景が浮かぶ。

揺れるサイリウム、飛び交う声援、観客と共に踊る振り付け。

数万もの人が、一点に、私に、視線を送る。

474 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 04:28:27.32 wAwMmLgqo 425/681


……ヒトが見る私は、渋谷凛というアイドル。

ただの、偶像。

ただの、容れ物。

それは本当の私ではない。

いつも偶像を演じていると、時には疲れてしまう。

偶像を解き放ちたい、そう思う刻が、確かにある。

そんなとき、決まってあの人は支えてくれた。

あの人がとても頼もしく見えた。

でも今は――傍にいない。

475 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 04:29:38.49 wAwMmLgqo 426/681


勿論、あの人はプロデューサーで、私はアイドル。

そうである以上、結ばれることはない。

しかし、アイドルになったからこそ、あの人と出会えたのだ。

そっと、想いを心の中に持つことくらいなら、赦されたはず。

しかし私は、その禁を破ってしまった。

この苦しみは、自らが招いたこと。

それでも――傍にいてほしい。

叶わぬ恋でも、いいから、傍に居たい。

どうすればいいのか、わからない。

凛は、これまでに何度も繰り返してきたもの“とは異質な”自問自答を終えると、ふぅ、と軽く一息吐き、シャワーを止めた。

476 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 04:30:50.82 wAwMmLgqo 427/681


まずは、週末に迫ったトライアドプリムスのライブバトルをこなさなければ。

私だけが堕ちていく分にはいい。

だけど、それに奈緒や加蓮を、巻き込むわけにはいかない。

既に足場を築いてあるニュージェネレーションの卯月や未央とは違い、
トライアドプリムスの失敗は、即ち、奈緒と加蓮の前途に暗雲が立ち込めることを意味する。

あの二人には才能がある。

私の凋落に、巻き込むわけにはいかない。

477 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 04:32:06.57 wAwMmLgqo 428/681


――

シャワーを終え地階から戻ると、給湯室でちひろが凛のために食事を用意していた。

まさかのことに凛は驚く。

「暖かくて消化の良いものを作っといたから、食べてゆっくり寝なさいね」

「ちひろさん……どうして……?」

「事務所で一番の古株の子が苦しんでるのよ、放っておけるわけないでしょう。……Pさんの代わりにはならないけれどね」

ちひろは気付いていた。

凛の思慕の念にも、凛の不調の原因にも。

478 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 04:33:45.68 wAwMmLgqo 429/681

当然だ。事務所の設立からずっと一緒にやってきたのだから。

ちひろは、ニュージェネレーションに勝るとも劣らない、『戦友』であった。

給湯室の彼女に、在りし日の合宿でコンロの前に立っていたPがオーバーラップした。

涸れたと思った泪が、再び溢れる。

どんどん視界がぼやけていく中、ちひろが傍に寄ってくることだけはわかった。

「ちひろさん……ごめんなさい……ごめんなさい……」

ちひろが、優しく凛を抱き寄せる。

「何も云わないから、今は泣くだけ泣きなさい……」

ちひろの手が、慈しむように、穏やかに、凛の背中を叩いた。

485 : 再開 ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 23:54:40.41 wAwMmLgqo 430/681



・・・・・・・・・・・・


翌々日。

ちひろの胸を借りて以降、吹っ切れたかのように、凛はトライアドプリムスのレッスンでは調子を上げつつあった。

ニュージェネレーションの時と全く違う動きに、慶が「果たして同じ人物なのか」と混乱するほどであった。

しかし実際は、それは凛の強迫観念から来る精神力だったのだが、外野の人間にそこまで判ろうはずなどない。

鈷はほっと安堵していたし、奈緒と加蓮も、凛との距離を詰めようと頑張りを見せ、この一箇月の成果でめきめきと上達した。

486 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 23:56:15.88 wAwMmLgqo 431/681

表向きは上手くいっているのだから、トライアドプリムスがデビューするまではこれでいい。

凛は自分の身体に鞭を打って必死に唱い、舞い、動き回った。

案の定、昨日から悪寒や頭痛が出ていたのだが、気のせいだと断定して、神経をシャットアウトした。

――病は、気から。体調を崩すのは、根性なしの証。

声帯はまだ無事だ。

なに、数日後の本番までには、こんなもの吹き飛ばせるよ。

487 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 23:57:42.30 wAwMmLgqo 432/681


「はい、OK。今日はここまでにしましょう。お疲れ様でした」

慶が手を打つと、トライアドプリムスの三人は「ありがとうございました!」と勢い良くお辞儀をした。

「ふーつかれたー。でもだいぶいい動きが出来るようになってきたよね」

加蓮がタオルで顔の汗を拭いながら笑い、奈緒も同意しながら充実した表情を見せる。

「ああ、ボーカルの方も全パートこなせるようになったしな!」

凛は、レッスンの最後に通しで行なった動きを、ビデオで確認している。

モニターを見ながら、四肢の位置や動作タイミングが奈緒や加蓮に合うよう、慶と相談して微調整を重ねる。

488 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/24 23:59:28.60 wAwMmLgqo 433/681

「凛ってさ、――努力の天才だよな」

その様子を見ていた奈緒がつぶやいた。

「そうだね、アタシ、テレビで凛を見てた頃は、才能があって羨ましいと思ってた。
 でも、実際一緒にやってみて――勿論、才能もあるんだけど、それ以上に努力で昇って行ったんだな、ってわかったよ」

加蓮の言葉に、慶との相談を終えた凛が云う。

「私はそれしか能のない人間だからね――」

首に掛けたタオルを顔に当てて、モニター前から二人の方へ歩み寄った。

「――他の人なら、才能やスキルで軽々と越えて行く壁を、私は必死に這いつくばって、努力でよじ登るしかできないから」

「その“必死に這いつくばれること”が、才能だと思うけどな、あたしは」

「才能……なんかじゃないよ。ただ、酬いを渇望して動いてただけの、醜い動機だから」

凛は複雑な笑みで、奈緒の言葉に答えた。

489 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:01:29.53 ScZmVB2Io 434/681

「そりゃ、何かをしたいから動く、なんて誰でも当たり前じゃない? 醜くも何ともないと思うけど」

加蓮がOS-1を飲みながら不思議そうな顔をした。

「そう、――かな」

「そうだよ。アタシだってアイドルとして輝きたいからレッスンしてるんだし。○○したい、だから□□する、というのは普通でしょ」

そう云って、掌を上に向け、首を傾けた。

「生きてる限り欲望から逃れられない、か。食欲、性欲、睡眠欲は云わずもがな、顕示欲とか、金欲とか。……人間って因果なものだね」

凛が眼を瞑って、微かに頭を振ると、

「せ、性欲っておま――」

奈緒が、特定の言葉に反応して顔を赤くする。

490 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:02:59.13 ScZmVB2Io 435/681

「言葉の綾だよ、奈緒。何を初心な反応してるの」

「う、うっさいな!」

凛の突っ込みに奈緒が更に顔を赤くする中、反対に加蓮は済ました顔で、

「ねえ凛、随分と哲学的と云うか諦観的と云うかニヒリズムと云うか、喋ることが妙に背伸びしてない? 何か悩みでもあるの?」

「え? ……あ、いや、別にそう云うわけじゃないんだけど」

凛は内心慌てたが、極力それを表に出さないよう気を張った。加蓮は、ならいいけど、と云ったが、新たなことに気付いた。

「ねえ、凛、顔紅くない? レッスン終わってから結構経つのに」

「そ、そう? 今日はいつもより大きく動いたからかな」

加蓮は、いまいち納得し切れないような顔で、更に首を傾げた。

491 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:05:03.46 ScZmVB2Io 436/681


・・・・・・

……不味い。

翌朝、目を覚ました凛は、イの一番に、身体の極端な重さをはっきり実感した。

枕元の基礎体温計に手を伸ばして、途中でやめる。

体温は……怖いから計らない。

基礎体温の計測は毎日の習慣ではあったが、どうせ最近は生理が止まってしまっているのだから、計る意味など無い。

無理矢理にでも自分にそう云い聞かせて、起き上がった。

492 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:06:24.83 ScZmVB2Io 437/681

その瞬間襲いかかる、激しい頭痛。

「――~~ッ!」

思わず、言葉にならない呻きを漏らした。

プロとしてあるまじき、体調管理の不行届。

最近の私は、とことん駄目だ。

病は気から。この根性なしめ。

「あ、あー。あ・え・い・う・え・お・あ・お――」

掠れてはいないが、ピッチがいつもより若干低い。いや、これは耳のせいか?

鼻通りもだいぶ悪くなっている。

493 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:07:34.19 ScZmVB2Io 438/681

兎にも角にも、この状態を何とかしなくては。

アイドルが頭痛に顔をしかめ、声を枯らし、鼻水を垂らすなどあってはならない。

奈緒や加蓮に感染さないよう、鎮咳剤も飲む必要がある。

――確か以前処方してもらった鼻炎薬と消炎鎮痛剤があったよね……

救急箱を漁ると、昔、使い切らなかった様々な錠剤が顔を覘かせている。

シャワーを浴び、湧かない食欲に無理を云わせ、エネルギーゼリー飲料と共に、薬を胃へ流し込んだ。

494 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:08:53.37 ScZmVB2Io 439/681


市販薬と違い、処方薬と云うものは実によく効く。

一気に体温は平熱まで戻り、鎮痛作用は劇的で、その副次的な効果として、激しい動きによる筋肉の悲鳴に耳を貸す必要がなくなった。

作用も早く、薬が切れ悪寒を再び感じ始めた段階で再度服用すれば、速やかに抑えてくれる。

喉と耳のピッチ感覚のずれは、レッスン前にカフェインを摂取し、感覚を研ぎ澄ますことで対処できた。

あとは、精神力にものを云わせれば良い。

大丈夫、これなら、明後日のバトルは問題なくこなせる。

この日のレッスンも、トライアドプリムスの三人は、最後の詰めに余念がない。

それとは別に、凛は、夜まで自主練習に励んだ。

495 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:10:00.87 ScZmVB2Io 440/681


・・・・・・

さらに翌朝。

目を覚ました段階で眉に皺が寄るほど、激しい頭痛。今日は咽頭痛と胸痛もあった。

全然寝た気がしない。事実、夜中うなされて何度も覚醒したのだから。

あー、と声をチェックすると、昨日より更にピッチが低くなっている。

しかし枯れていないので、まだ大丈夫。明日まで保てばいい。

常用の消炎鎮痛剤に、更に別の消炎薬を頓服として飲んだ。

食欲がまったく湧かないので、栄養ドリンクで薬を流し込む。

寮を出る頃には、身体の重さ以外は気にならないくらいまで抑えられた。

496 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:11:51.56 ScZmVB2Io 441/681


「凛……ちょっとどうしたの? 肌の荒れ方とか尋常じゃないよ?」

下校後に出社し、レッスンルームに入ると、加蓮が明らかに不審がる顔を向けた。奈緒も同様だ。

「うーん、ここ何日か、最後の詰めで酷使してるから、そのせいじゃない?」

凛は、極力平静を装ってとぼけた。

加蓮や奈緒に心配をかけるわけにはいかない。

「なあなあ、いくら直前だからって、あまり根を詰めると倒れちまいそうだぞ?」

「大丈夫。ライブバトルはついに明日だよ、気合入れないと」

精神力で気丈に答える。しかしその裏では、朝方は頓服で飲んでいた薬すら、午後からは常用する状態になっていた。

身体が薬に慣れてきてしまったのか、症状が悪化しているのか。

「明日。……そう、明日、だよ」

凛は、半ば自分に云い聞かせるように呟いた。

497 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:13:17.54 ScZmVB2Io 442/681


「あれ、凛ちゃん、今日はいつもより動きが控えめですね。どうしました?」

最後のレッスンをこなすうち、慶が凛の動きの差を見て云った。

「明日が本番ですから、抑えめにしておこうかと」

はったりも良いところだ。実際はこれが精一杯の動きだと云うのに。

「なるほど、でもあまり抑えすぎても動きが狂う原因になりますから、適度にね」

慶はそのまま深く突っ込んでくることはなかった。

無愛想やポーカーフェイスは、こう云う時には威力を発揮するものだね――

凛は、自分の特徴に他人事のような感想を抱いた。

498 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:14:54.33 ScZmVB2Io 443/681


明日に備え、この日のレッスンは早めに打ち止め。

シャワーを浴び終え、湯を止めると、リバーブのかかった加蓮の声が響いた。

「いよいよだね――」

ブースを出ると、加蓮はバスタオルで全身を撫でていた。

凛の生身を見た加蓮が「相変わらず脚が細くて長いよね凛は」と羨望の嘆息をしてから、

「――いよいよアタシ、凛と同じ舞台に立てるんだね。夢にまで見た、凛とのステージに」

凛は、長い髪へタオルを巻き、鏡越しに加蓮を見て頷く。

499 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:16:00.27 ScZmVB2Io 444/681

「アタシさ、小さい頃からアイドルに憧れてて、でも自分はその世界には行けない人間だって決めつけてて。
 そんな、アイドルに輝きを届けてもらってたアタシが、今度は誰かに輝きを届けられる立場になって。
 テレビで見ていた、大きく輝く凛と一緒に、スポットライトを浴びられる資格を得られて――生きててよかった、って思う」

おもむろに語った加蓮に、身体を拭った凛は、白いショーツを穿きながら苦笑した。

「そんな、生きててよかった、なんて大袈裟だよ」

しかし加蓮は首を振った。

「大袈裟じゃないよ、アタシの本心。ホントに、生きててよかったって思ってるの」

「あたしも凛とステージに立つなんて夢みたいだな。あたしは、最初はアイドルを良く判ってなかったけど
 それでも凛のことは知ってたし、いざアイドルやってみたら面白くてさ」

奈緒も言葉を重ねる。既に着替え終え、パーカーに腕を通しているところだ。

500 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:17:45.10 ScZmVB2Io 445/681

「……なんか、二人にそう云われると気恥ずかしいな。私だって二年半前にデビューしたばかりの青二才だよ――」

凛は、ブラをつけるのに、背中へ一瞬意識を持って行ってから続けた。

「――加蓮も奈緒も、私の時より早いスピードで、階段を昇ってる。きっと、アイドルとしての才能は私よりあると思う。
 そのうち、私が二人の背中を追う側になっちゃうかもよ? ふふっ」

二人は、ないない、と云ったジェスチュアを返す。凛は、ふっ、と息を吐き、

「明日、どんな相手が来ても、私たちは勝つよ」

「おう!」
「とーぜん!」

三人、不敵な笑みを浮かべ、軽く頷き合った。

――あと一日、あと一日さえ保てばいい。

凛は悪寒と身体の痛みを、無理矢理抑え込みながら笑った。

501 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:20:15.55 ScZmVB2Io 446/681



・・・・・・・・・・・・


ここは台場13号地、Zeqq Tokyo。

鈷に連れられやってきた、本日のライブバトルの会場だ。

数多くのアイドルたちが参戦し、夕方からの開演に備え、午前は当日リハが行なわれていた。


「お、おい……あたし、こんなキャパで演ったことねえぞ……」
「ア、アタシだって……」

2700人収容のフロア規模に、奈緒も加蓮も緊張を隠せない。

502 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:21:38.94 ScZmVB2Io 447/681

「大丈夫だよ。キャパの大小なんて関係なく、これまで通り演ればいいだけなんだから」

反対に、凛は全く動じず澄まし顔。

事実、凛が出場すると云う情報が大々的に出ていたら、この箱の大きさでは到底間に合わないのだ。

トライアドプリムスは、良い意味でも、悪い意味でも、まだ無名なのである。

むしろ、その結成初日のグループに凛が居る、と云うギャップを利用する戦略なのだから当然か。

「そう、楽しんだもの勝ちよね」

突然掛けられた声にトライアドプリムスの三人は振り向く。

503 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:23:26.40 ScZmVB2Io 448/681

「あ、泉、さくら、亜子。久しぶり。そっちもバトル出るの?」

凛が軽く手を挙げて挨拶する。

そこには高校生アイドルの大石泉、村松さくら、土屋亜子がいた。

事務所は違うが、凛とはほぼ同期で、たまに番組収録などで絡むことがある。

「久しぶり、凛。……なぜ凛ほどの高ランクがこんなとこにいるの?」

泉が、その冷涼な見た目とはやや乖離した気さくさで話しつつ、頭の上に疑問符を掲げた。

「新しくトライアドプリムスってユニットを組むことになってさ。そのデビュー戦が今日なんだ」

「あれぇ? トライアドプリムスって、わたしたちと対戦―や―るチームだよねぇ☆」

凛の返答に、素早くさくらが反応した。これには凛も驚く。

「えっ、そうなの?」

504 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:25:47.72 ScZmVB2Io 449/681

そこへ鈷が割り込む。

「あ、そういえば云ってなかったな。今日はニューウェーブと対戦するんだよ」

衝撃的な言葉を放ち、ここで初めて相手が知らされることとなった。

『ニューウェーブ』

ニュージェネレーションの対抗馬となりつつある、泉、さくら、亜子たちによる親友ユニット。

アイドルランクはそれぞれC、D、Dだ。

凛がBだとは云え、こちらはまだEの奈緒と加蓮を率いての戦いであるから、決してラクな相手ではない。

その上、同郷・同級生同士ならではのコンビネーションのよさは、特筆に値する。

505 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:27:09.20 ScZmVB2Io 450/681

「はー、今日は、りんが相手かいな……。トライアドプリムスなんて聞いたことないし、ラクショーやと思っとったのにー!」

「ねぇ、これ無理ゲーじゃないのぉ? イズミーン」

亜子とさくらは、あからさまに落胆した声を上げた。

「私だって、ユニット結成後初めての戦の相手が、結束固いニューウェーブだと知って絶望中だよ」

凛も、参ったな、と云った体で首を縮める。

「ま、今更云ったって仕方ないわね。お互い頑張りましょ」

「そうだね、勝っても負けてもお互い様」

凛と泉、二人が拳をこつんとぶつけ合ってから、それぞれのユニットは控室へと消えて行った。

506 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:29:24.86 ScZmVB2Io 451/681


――まさかこの体調でニューウェーブとバトルだなんて……。

凛は控室の椅子でじっと思案していた。

相手の力量もさることながら、朝飲んだ薬が間もなく切れるであろうことも懸念点だった。

奈緒、加蓮、そして鈷までが集まっている部屋で、錠剤をばらばらと出すわけにはいかない。

化粧室で飲もうにも、間もなく凛たちのリハの番のはずだった。

「タイミング悪いな……」

「ん? どうした凛ちゃん?」

507 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:31:33.14 ScZmVB2Io 452/681

凛は、小さなつぶやきを鈷が拾うとは思っていなかったので、驚く。

「あ、ううん、まさか相手が泉たちだとは思わなかったからさ」

「すまんね、相手の実力的に、あまり事前情報は入れない方がいいかと思ってさ。
 凛ちゃんはともかく、奈緒と加蓮は怯むかも知れなかったから」

鈷はぽりぽりと頭を掻いた。凛はすかさずフォローする。

「それは奈緒たちを見くびり過ぎだよ。むしろ相手に不足はない、ってワクワク・ノリノリだと思うけど。ねえ、奈緒?」

「あ、ああ。そうだな。ニューウェーブを相手にして好成績を残せれば、あたしらの株は爆上げだろうさ」

そこへ、ノックと共にアシスタントが入ってくる。

――すいませーん、トライアドプリムス、袖で待機してくださーい。

結局不安を払拭できないまま、リハに突入してしまった。

508 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:33:24.09 ScZmVB2Io 453/681


舞台へスタンバイすると、途端に曲のオケが始まった。

奈緒と加蓮の二人はいきなりのことに若干焦ったようだが、すぐに持ち直した。

当日リハはノンストップが基本だ。

照明の山谷、モニターの返しなどをチェックしつつ歌う。

奈緒が、ステップを一つ抜かし、歌詞を間違えた。

加蓮は、コーラスラインがフラット気味になっている。

509 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:34:33.18 ScZmVB2Io 454/681

しかし二人ともミスを気にせず、レッスン通り続行しているのでまだ問題ない。

ここまでは凛の予想の範疇だ。一番での傾向を見て、二番ではそれに合わせた動きに組み替える。

熱いステージライトがトライアドプリムスを照らす。

薬が切れ、体温が上がりつつある凛を、電球から降り注ぐ光が更に熱した。

回転の鈍くなった脳味噌を、必死に振り絞ってパフォーマンスを二人に適応させていく。

510 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:35:34.86 ScZmVB2Io 455/681

そして間奏が終わり、二番へ。


雨にも流されぬ 一輪の花のよに
密やかに咲いてる 乙女心――


加蓮が担当箇所を唱い終わり、次は凛の番。

声を出そうと息を大きく吸った瞬間――

511 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:38:48.99 ScZmVB2Io 456/681

「――ッ!?」

突然の激痛。

あまりの胸の痛みに、息が止まった。

あばらに手を当て、がくりと膝をつく。酸素を求めて、金魚のように口を開閉させる。

両隣では突然の異変に奈緒も加蓮も驚き、動きを止めていた。バックの音楽だけが空しく流れていく。

構わず続けて、と目で訴えても、二人は動揺して凛を介抱しようとする。

そして、ついに音楽が止まってしまった。

512 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:40:03.43 ScZmVB2Io 457/681

不測の事態が起きてもパフォーマンスを途切れさせないのが最低限でも要求されること。

トライアドプリムスは、それを満たすことが出来なかった。

凛は、頭を振り、痛みをこらえて立ち上がった。

「すみません大丈夫です! 一瞬、少しだけ胸に痛みが走っただけですので!
 申し訳ありません、107秒から再度プレイバックお願いします!」

そう云って深く頭を下げた。

513 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:41:16.68 ScZmVB2Io 458/681


リハ後、楽屋裏。

「困るよー当日リハでああ云うことやられちゃー」

ライブバトルのディレクターが、鈷を呼んで苦言を呈していた。凛も自分の意思で同席していた。

奈緒と加蓮は、ここから見えず邪魔にならない場所で待機させている。

「申し訳ございません、全てわたくしの責任です」

ひたすら詫びの弁を述べる鈷に、ライブディレクターは容赦ない。

「凛ちゃんが出るから、って新ユニットの参戦を許可したのにさあ、その凛ちゃんがこけてどうすんのよー」

凛も一歩前へ出て謝罪する。

「ユニットのリーダーとして、事態を引き起こした張本人として、私からもお詫び申し上げます。
 本番中はこのようなことが起こらないよう万全を尽くします。最低でも、不測の事態が起きようと続行し、完走させます」

514 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:42:26.26 ScZmVB2Io 459/681

「そうは云ってもねえ凛ちゃん。そんなのわざわざ言葉にするほどの内容じゃないでしょ。常識じゃないの」

「はい、私のリーダーシップ不足です」

ディレクターの尤もな指摘に、凛は目を伏せた。

「……まああのとき相当苦しそうな顔してたけど。今は大丈夫なの?」

「おかげさまで、今は回復しました。ご心配をおかけしまして、申し訳ありません」

今日何度目か判らない、深いお辞儀をした。

「うん、まあそれならそれでいいよ。本番は気をつけて頂戴よ」

「はい、ありがとうございます」

鈷と凛は再度会釈し、その場を離れた。

515 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:43:38.63 ScZmVB2Io 460/681


「――副プロ、ごめんね。私のせいで」

二人並んで、ゆっくり歩きながら凛は謝った。

「いや、こうやって頭を下げることこそが僕の役目さ。むしろ凛ちゃんに来てもらっちゃって、僕の方がすまないね。調子はもう大丈夫なの?」

「大丈夫、平気だよ。――大丈夫」

凛は胸に手を当て、静かにゆっくりと、自分自身へ聞かせるように云った。

「……そうか。じゃあ僕はスタッフさんへのフォローがあるから」

鈷は、凛に先に控室へ戻るよう指示して駆け出して行った。

516 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:45:45.25 ScZmVB2Io 461/681


扉を静かに開けて控室へ入ると、先に戻っていた二人が苦し気な表情で立ち、待っていた。

「凛、ごめんな。あまりにも気が動転して途中で止まっちまった……。レッスンでは絶対最後まで止まるなって云われてたのに。
 その所為でディレクターに怒られちまって……ごめん」

「凛もあの刻、止めるなって目でアタシたちに云ってたんだよね。今頃になってそれが判るなんて。
 ディレクターに怒られてるのを陰で聞いてる時、自分の不甲斐なさが悔しくて悔しくて堪らなかった」

「ううん、二人ともあれは仕方ないよ。全て私のトラブルのせい、気にしないで。本番まで二時間ある、気持ちを切り替えよう」

凛は二人を、椅子に座って休むよう促した。

そして「はい、水」と二本のペットボトルを差し出すと、礼を述べて一口飲んだ奈緒が問うた。

「さっきのは……一体どうしたんだ? まさかあんなことが起こるなんて予想もしてなかったから……」

517 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:48:14.14 ScZmVB2Io 462/681

「あー、あれは……うん、大丈夫だよ。もうあんなことは起きないし、起こさないから」

そう云って凛は、二人から少し離れたところで、ポーチから薬をばらばらと出した。


アレグラ、クラリチン、ザイザル。

リンコデ、そしてロキソニンにボルタレン。

それぞれアレルギーや鼻炎を抑えるもの、咳、炎症と痛みを強力に鎮めるもの。

クラリチンとザイザルは今は要らないし、さっきの激痛を鑑みると、ボルタレンの頓服は二倍量にしておくべきか……

518 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:50:17.39 ScZmVB2Io 463/681

錠剤をシートからプチッ、プチッと取り出していると、その音に気付いた加蓮が凛へ振り向く。

「あれ、凛。なんで錠剤なんか取り出してるの?」

水で流し込んだ凛が、「え、加蓮どうして判るの」と問うと、カツカツと音を響かせて凛の傍へやってきた。

そこに散らばる、錠剤のシート。仕舞う間も捨てる間もなく、加蓮の目に入る。

途端に彼女の顔色が変わった。

「ちょっと! 凛! なんてもの飲んでるの! 身体、どこかおかしくしてるの!?」

「か、加蓮……なんで見ただけで判ったの……?」

「アタシは昔、身体が弱くて入院ばかりしてたから、自然と薬には詳しくなったの。
 メジャーなものなら色と形を見ただけで判るよ」

519 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:51:28.22 ScZmVB2Io 464/681

凛の戸惑いに構わず、加蓮は畳み掛ける。

「どこを悪くしてるの!」

「た、たぶんただの風邪だと思うけど……ひどい頭痛とかがあって踊りや歌に影響出るから
 せめて今日のライブが終わるまでは薬で抑えよう……って」

「だからってそんな滅茶苦茶な組み合わせ、自分で自分の身体を壊してるようなものじゃない!
 ロキソニンにボルタレンを重ねるなんて、なんでこんな無茶な飲み方してんの!
 バファリンやパブロンなんかとは訳が違うんだよ!? 胃潰瘍や喘息を起こすよ!」

加蓮が凛の肩を勢いよく掴む。その剣幕に、凛はかなり怯んだ。

520 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:53:01.97 ScZmVB2Io 465/681

奈緒が更に加蓮の肩に手を置く。

「お、おいおいおい、加蓮、落ち着きなって。ひとまず今ンとこはライブこなすしかないだろ」

「そうは云ったって、処方薬を勝手に飲むとホント命に関わるんだからね?
 アタシ、身に染みて判ってるんだから。病院で診てもらわないと」

「そ、そりゃあたしだって凛は今すぐ病院へ行った方がいいと思うけど、どうせライブが終わるまで梃子でも動かないだろ……」

奈緒が困惑しつつも加蓮を宥めて、凛を心配そうに覗き込む。

「なあ、いつから調子悪いんだ?」

「確か……五日前から……」

「五日!? 五日もあたしたち気付かなかったのかよ……」

髪を掻き上げて天を仰いだ奈緒に、凛が申し訳なさそうに云う。

「心配かけたくなかったんだよ。ライブ終わるまで隠し通せなかったのは大誤算だけど……」

521 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:55:13.62 ScZmVB2Io 466/681

そのまま、苦痛に息を漏らす。

「あー痛……暑いけど寒い……身体が重い……」

机に突っ伏して、薬が効き始めるのをひたすら待つ。

満身創痍な凛の様子を見て、奈緒は嘆息した。

「そんな状態で五日間ずっとあんな動きして歌ってたのかよ。最近あたし、凛に近づけたと思ってたけど
 とんでもない思い違いだった。凛が本調子じゃなかっただけなんだな……」

「私がたとえ本調子じゃないとしても、奈緒と加蓮は、ここ一箇月で確実にぐんと伸びてるよ。それは間違いない」

顔だけ二人の方へ向けて訥々と話す凛に、加蓮が気付いたように訊いた。

「昨日もしかして慶さんから指摘されてたことって……」

「あー、あれか……。うん、あの時はあれが精一杯の動きだったんだ。ポーカーフェイスと、尤もらしい理由付けでやり過ごしたけど」

522 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:56:26.20 ScZmVB2Io 467/681

それを聞いた加蓮は、額に手をやって、溜め息をついた。

「とんでもない女優だねまったく……」

奈緒も同じく、やれやれ、と腕を組んでいる。

「演じるのは……得意だからね」

そう述べる凛の、色の無い表情からは、冗談なのか本気なのか読み取ることはできない。

そのまま目を閉じて、軽く規則的な吐息を出す。

幸い、ロキソニンもボルタレンも効きが早い。

二人と話していて気が紛れたのか、思ったよりも早く痛みや悪寒は消えた。

523 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:57:57.15 ScZmVB2Io 468/681

「……ん、もう大丈夫そう」

机から上半身を起こし、二人を向いて、弱々しく苦い顔で、親指を上げた。

そして、ふう、と溜め息をつくのに吸おうとしたところ、あまり吸い込めないことに気付いた。

大丈夫、と云ったばかりで全身を強張らせる凛。それに気付いた加蓮が問う。

「凛、どうしたの」

「……息を、大きく吸えない。息が、続かない……」

「なんだって!?」

奈緒と加蓮が慌てて立ち上がり、勢い余った椅子が倒れた。

524 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 00:59:16.17 ScZmVB2Io 469/681

凛が大きく呼吸しようとすると、ある程度までしか息を吸い込めない。

それ以上吸い込もうとしても、肺が拒否するように、空気が入っていかないのだ。

これでは、ロングトーンを出せないし、既定のブレスタイミングに合わせられないだろう。

凛は、ここにきてこんな状態になるなんて、と苦虫を噛み潰したよう。

「このままじゃ……歌えない……」

頭を抱え込む凛の肩を加蓮は抱き、しばらく思案したのち奈緒を向いた。

「……アタシたちがカバーしなきゃ。
 サビはアタシと凛のパートラインを交換すれば大丈夫だよね。
 アタシがトップへ行って、入れ替えにセカンドが凛、サードはそのまま奈緒、こうすれば凛の声量は控えめでもいける。
 問題になりそうな凛の独唱とメイン重唱部分は、一番は奈緒、二番はアタシ。それぞれデュオで支える。どう、奈緒?」

「おう、わかった。それならあたしでも大丈夫だ」

525 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 01:00:00.00 ScZmVB2Io 470/681

両手で頭を抱えたまま、凛は言葉を絞り出す。

「手間掛けさせてごめん、二人とも……。私がしっかりしないといけないのに……」

奈緒は、凛の肩を、加蓮が支えている手の更に上から抱き、諭した。

「何水臭いこと云ってんだよ。あたしたちは仲間だろ?」

その言葉に、凛ははっと顔を挙げ、目を大きく開いた。

しばしの後、ぎゅっと瞼を閉じて、

「仲間……そう、仲間、なんだよね……」

そう云って静かに息を吐く。

「ごめん……私、背中を見せることしか意識がなかった……
 ホント、色々な意味でアイドル失格だね、私……」

526 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 01:01:43.51 ScZmVB2Io 471/681

「凛がアイドル失格だったら、大半のアイドルが失職さ」

そう云ってポンポンと肩を叩いた奈緒は、

「一番にある、あたしメインの重唱部分はどうする? あそこは凛がコーラスラインだよな」

加蓮に相談すると、

「アタシあそこの凛コーラスは音取ってないんだよね。もともと最後の二文節はアタシが入って三パートになるし」

と少し困った顔をした。

凛は待って、のジェスチュアで左手を挙げた。

「声が出せないわけじゃないから、コーラスパートなら……たぶん大丈夫」

「よし、まだ時間は余ってる。今のうちに音合わせしておこう」

奈緒がパン、と手を叩いて、即席の編成変更を練習した。

527 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 01:03:57.25 ScZmVB2Io 472/681


――

歌い切ったトライアドプリムスの三人に、観客席から惜しみない拍手が注がれる。

僅差ではあったものの、トライアドプリムスはニューウェーブに見事勝利した。

その堂々たる風格は、とてもEランクが二人もいるユニットとは思えないものであった。

それは所謂“ハッタリ”だったのだが、幸いにも観客には、見抜かれていないようだ。

『私たちが凛を支えなければ』と云う想いが、奈緒と加蓮の、現在の実力以上のものを出した側面もあろう。

528 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 01:05:01.81 ScZmVB2Io 473/681

しかしそれでも、唐突な変更内容を消化できる、この地力は大したもの。

凛が「二人は自分以上に才能がある」と云ったことは強ち間違いではなかった。

凛の体調不良、直前での編成組み替えがあっても、ハッタリでここまでの成績が出せるのだから、
全員が本調子で臨める機会にはどうなるのか、今後が非常に楽しみだ。


トライアドプリムスが控室へ下がろうと楽屋裏を歩いていると。

「待て、渋谷凛」

そう呼び止める黒い影。

529 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 01:06:11.80 ScZmVB2Io 474/681

振り返った瞬間、凛は驚きを禁じ得なかった。

そこに立っていたのは、誰あろう黒井崇男だったのだ。

「く、黒井社長……?」

洩れた呟きが奈緒と加蓮の耳に届いて、二人は驚愕のあまり仰け反った。

なぜ961プロの社長ともあろう人物がこんなライブバトルに来ているのか。

その驚きは表に出さないようにして、「いつもお世話になっております」と頭を下げた。

それから奈緒に顔を向け、廊下の奥を指差す。

「奈緒と加蓮は、先に控室へ戻っててくれない?」

「お、おう、わかった」と云いながら、二人はちらちらと、こちらを気にして歩き去って行った。

530 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 01:08:54.00 ScZmVB2Io 475/681


「なんでこいつがこんなところに、という顔をしていたな、渋谷凛。私は仮にも最大手の社長だぞ。
 ライブバトルを観察して、原石や趨勢をチェックするのは当たり前のことだ」

黒井は先回りして凛の疑問に答えた。

実に恐ろしい人間だ。

そんな黒井は大袈裟に溜め息をつき、失望の色を隠さない。

「リハから見ていたがな、まるで別人かと勘違いしたぞ。勿論、悪い意味でな」

大きく両手を広げて、そう云い放った。

531 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 01:10:07.51 ScZmVB2Io 476/681

「貴様は本当にあの渋谷凛か? よもやただのソックリさんではあるまいな?」

次々と放たれる鋭い矢。凛は顔を少しだけしかめる。

「お言葉、誠に痛み入ります。宜しければ、どこでそうお感じになったか、お教え願えますか」

「フンッ、本気でそれを云っているのか? だとしたらもうアイドルなど辞めてしまえ」

凛なりの身を削る厭味に、ストレートな罵倒が返ってきた。

「あいつの影が“この国の”業界から消えて以降、貴様の体たらくは一体どうしたのかと思っていたが、
 今日実際にパフォーマンスしているところを見て確信に至ったわ」

Pがハリウッドへ飛んだことを、既に掴んでいる表現であった。

532 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 01:11:11.25 ScZmVB2Io 477/681

「『あいつ』とは、Pのことでしょうか」

「わかりきったことを訊ねるな。貴様の脳味噌は飾りか」

歯に衣着せぬ物云いに、凛は粛として耐えた。

「あいつがいないだけでここまで落ちぶれるのか。観客を表面上でしか楽しませることの出来ない三流以下に成り下がるとはな」

そのこと自体は凛も充分認識しているので、何も反論しない。――いや、出来ない。

少しだけ、顔を伏せる。

533 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 01:12:29.55 ScZmVB2Io 478/681

「どうやらあいつの目は腐っていたようだな。
 まったく、二流三流しか育てられない無能なプロデューサーが蔓延るから業界は劣化していくのだ。
 お前はそこそこの逸材だと思っていた私自身も恥ずかしい。961なら候補生養成段階でふるい落とすところだ」

褒めているのか貶しているのかよくわからない云い方だが、凛には一つだけわかる点があった。

――Pが無能だと断言されたこと。

「私のことは何と仰っても構いません。現に、黒井社長の仰る通りの醜い有様を、先ほど晒してきたところです。
 ……でも、あの人を悪辣にこき下ろしたことだけはお取り下げください。全ては私自身が至らなかったからです」

凛は、静かに沸々とわく感情を、必死に抑えて云った。

自分のことはいい。

しかし、これまで凛や数多くのクールアイドルを支え、CGプロを大きくし、先般の選挙では四人もの上位を
第一課から送り出したPを悪く云われるのは、凛にとって、第一課全員、即ち家族への中傷と同義であった。

534 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 01:13:55.68 ScZmVB2Io 479/681

しかし黒井は歯牙にもかけない。

「ノン。貴様に対する非難とPに対するそれは同質のものだ。
 アイドルが頂への道を登れないのは、そもそもプロデューサーの、アイドルを見極める眼が足りないと同義」

プロデューサーたるもの、輝くに足る原石を見極め、磨かなければならない。

状態の良い原石を探り当てること、そして、その原石を、眩く輝くように磨くのが責務。

それが出来なければプロデューサー職者は失格なのだ。

「つまり、あれもこれもと大したことのない原石を拾い集め、
 二流以下のアイドルしか育てられないのは、プロデューサーの怠慢であり無能の証明なのだよ」

「違うッ! 全部私が悪いの!」

ついに凛は我慢できなくなって叫んだ。悲痛の叫びであった。

535 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 01:15:01.79 ScZmVB2Io 480/681

そんな声にはまるで構わず、黒井は鋭利な刃を突き立てる。

「渋谷凛、さきほど貴様は自らが至らないせいだと云ったな。
 自惚れも大概にしろ。
 お前の奥底に眠る弱さを看破できなかったあいつが無能なのだ」

凛はついに、目前の人物が高位であることも忘れ、眼を固く閉じ、こめかみを抱えて、かぶりを弱々しく振った。

「もう……やめて……あの人を否定しないで……」

黒井はそんな凛の様子を鼻で嗤う。

「フンッ! ならばあいつがいなくてもトップを張れるのだとその身体で証明してみせろ。
 Pの選球眼は間違っていなかったと貴様自身が証明してみせろ」

536 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 01:16:35.26 ScZmVB2Io 481/681

その言葉に、凛は顔を挙げた。

「私が……自分自身で証明……?」

「ウィ。証明だ。まあ、今の貴様では無理だと思うがな――、
 Pさえいなくても渋谷凛はトップに立てるのだ、と世に見せつけてみるがいい」

人差し指を立てて挑発的に云う。

「貴様のアイドルとしての価値、そしてそのアイドルを見出したプロデューサーの価値は、貴様がそれを出来るかによって変わる」

「私の価値と……あの人の価値……」

「まあせいぜい証明のために足掻くのだな。ただし醜態を晒すことだけはするなよ」

そう云って黒井は踵を返し、すたすたと去って行った。

537 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 01:20:01.33 ScZmVB2Io 482/681


凛はよろめいて、壁にもたれるように寄り掛かり

「私と、あの人の価値は、連動している……?」

独り、呟く。

そこには強烈なヂレンマが存在した。

“トップに”立たなければ、“Pは有能だった”と証明できない。

しかし。

“今からP不在で頂点へと登り詰めたら”、“Pはいなくてもよかった”と云うことになるのでは――

その相容れない命題に気付いてしまった凛は、後頭部を強く殴られたような衝撃に襲われた。

目の前の景色が霞んでいく。

538 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 01:24:35.46 ScZmVB2Io 483/681

腹部、鳩尾の辺りで、強烈な異物感が湧き、膨張していく。

咄嗟に、傍の化粧室へ駆け込んだ。

「ぅ……ぅぇ……かはっ……」

食欲あらず何も口に入れていないのだから、吐き出すものなどない。

しかし不快感を排出したい身体は、それでも胃を締め上げ続けた。

黄色い胃液ばかりを吐く。

防衛反応は、凛に呼吸を許さない。

539 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 01:26:13.63 ScZmVB2Io 484/681

しばしの拷問を終えると、ぜえ、はあ、と肩で息をしながら、凛の双眸から泪がこぼれ、頬を伝った。

「私……どうすればいいの……」

自分がどう動いても、理想とする答えに辿り着けない。

自分がどう動いても、あの人に応えることが出来ない。

そもそもアイドルになったことが過ちだったのだろうか?

自分がアイドルになっていなければ、あの人は別のもっといい原石を発掘できたのだろうか?

540 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 01:28:01.61 ScZmVB2Io 485/681

認めたくない答えから身体を護ろうと、再び吐き気が込み上げる。

「――うッ……ぁ……」

嘔吐と云うのは、身体を著しく疲弊させる。

凛は責苦と闘いながら、視界が白い光の粒に包まれ、何も見えなくなった。

――あ……いけない、貧血だ、これ……

長い間体調不良を起こしていた凛にとって、度重なる嘔吐は限界を超える酷な消耗であった。

吐きすぎて腸液も混じったのだろう、意識を手放す直前の記憶は――次元の違う苦味がした。

541 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 01:31:28.04 ScZmVB2Io 486/681



・・・・・・・・・・・・


――お前が好きなのは、“プロデューサー”なんだよ。“俺”じゃない

でもそんなのは、ただのきっかけでしかない。

――お前は、わかってたんだろ? あの歌の意味を

うん、あの歌詞に込められた裏の意味は、読んだ瞬間にわかったよ。

――少し時間をおこう

プロデューサーは、私のこと嫌いなの!? 私が本気で云ってるわけじゃないと思ってるの!?

――そうじゃない。そうじゃなくて、俺は首を縦にも横にも振れないんだよ

待って、プロデューサー! 置いてかないで! 私を一人にしないで!

542 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 01:32:54.13 ScZmVB2Io 487/681


「――プロデューサあぁぁぁぁ!!」


私は、飛び跳ねるように起き上がった。激しい呼吸に、全身が汗まみれだ。

見慣れない、白い部屋。左手の甲に違和感を持ったので見てみると、点滴の針が刺さっている。

「病……院……?」

そうだ、Zeqqで黒井社長に会って、化粧室で戻して、それから……。それから――

そこからの記憶がない。

……きっとその時に倒れ、誰かが見付けて搬送してくれたのだろう。

543 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 01:35:13.29 ScZmVB2Io 488/681

今は何時だろう?

そう思って時計を探すと、部屋の隅にカレンダー機能付きの電波時計が置かれていた。

ライブ翌日の――朝八時。

なんと、一晩まるまる気を失っていたのか。

……また、やらかしてしまった。

アイドルが倒れて病院へ担ぎ込まれるなんて、ゴシップの格好の餌じゃないの。

私は、右手で頭を抱えた。髪がくしゃりと音を立てる。

そこへ控えめのノックが三回響いて、引き戸がするすると開いた。

「お、目が覚めたか!」

喜びの声と共に、男性が部屋へ入ってきた。

――え?

まさか。そんな。

544 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 01:37:11.83 ScZmVB2Io 489/681

「プ、プロ……デューサー……?」

その人は、ベッドの右側に椅子を引いて、枕元の隣に座った。

「ん?」

「プロデューサー!!」

点滴のチューブなどお構いなく、私は、目の前の愛しい人の胸に飛び込んだ。

逢いたかった。

たった二箇月ぶりなのに、とても懐かしい馨りがした。

546 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 01:39:53.57 ScZmVB2Io 490/681

「お前が倒れたと聞いて、取る物も取り敢えず帰ってきたよ。何も云わずに発って、すまなかった」

私は、プロデューサーの胸に顔を埋めて、首を振った。

帰ってきてくれた。それだけで、私はいい。

「お前にはだいぶ辛い思いをさせてしまったな。お詫びに何でもしてやるよ」

プロデューサーは、私の背中に腕を回し、ゆっくり語り掛けた。

「……何でも?」

「ああ、何でも」

「なら……」

547 : ◆SHIBURINzgLf - 2013/09/25 01:45:19.04 ScZmVB2Io 491/681

私は、たっぷりと考えて、口を開いた。

「プロデューサー、私と一緒にトップアイドルへの道を登って。
 プロデューサー、ずっと私の隣にいて。
 プロデューサー、結ばれなくてもいいから……せめてキスを……頂戴」

顔を挙げると、プロデューサーはまいったな、と云う表情をしていたが、すぐに私の肩を抱き寄せた。

そして、あの人の吐息が、すぐそこに――

私は、そっと目を閉じた。



続き
凛「私は――負けない」【後編】


記事をツイートする 記事をはてブする