1 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 22:43:59.948 0v4TST4w0 1/33

その夜、あたしも酔っていたけれど、あいつも酔っていたと思う。

帰り、省線電車に乗りながら寒さに凍えていたあたしの酔いはもう醒めかかってきた。空襲か何かでダメになったのか、ガラスのない窓から吹き入る寒風は容赦なくあたしの首に吹き付ける。コートを着てないのだ。座席にもたれかかって両腕で身体を抱えうずくまって、目を閉じる。電車が止まったり動き出したりするのをぼんやりと数えて、早く家に着かないかと思っていたら、突然左隣から肩を突かれた。


元スレ
律「さむい」ガタガタ 梓「コートあげますよ」
http://hebi.5ch.net/test/read.cgi/news4vip/1593351839/

2 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 22:44:58.910 0v4TST4w0 2/33

「何をガタガタ動いてるんですか」

飴玉のような、くすぐったい声がそう言った。それと一緒に何処か酒の匂いがふとしたように思う。

「見てわかるだろ、震えてるんだよ」

目を閉じたまま、あたしは言い返した。

「寒くて仕方ないから震えてるんだよ、なんか悪いか?」

それからしばらく黙っていたけど、どうにもこの突き刺すような寒さは耐えられない。漠然とした感触だと隣の女は柔らかい毛のコートを着ているみたいだけど、目を閉じているのではっきりとは判らない。寒くて仕方ないのであたしは身体をそちらへとすり寄せた。


4 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 22:46:20.198 0v4TST4w0 3/33

「なんでこの寒さでコートを着てないんですか」

「着てたよ、ついさっき売ってきてその金で酒を飲んだんだ」

「はぁ、だから酔ってんですね。何を飲んだんですか?」

「余計なお世話だが教えてやるよ。粕取焼酎っていう代用酒さ。あんたもそれか?」

軽蔑したように鼻を鳴らす音がした。

「清酒を飲まないで代用焼酎で我慢しようというのは悪い考えですね、やめた方がいいですよ」

見下したような、それでいて淡々とした口ぶりでなんとも腹が立った。声の感じだとまだ幼いだろうに、こいつは何様なんだろう。

「飲むものはインチキでも酔いは本物だからな。お前は何か勘違いしてるよ」


5 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 22:47:01.742 0v4TST4w0 4/33

あたしはそう言いながら声のする方へと目をやった。そこにいたのは頭の両側をおさげにして、ビー玉のような目を転がしている、色地の少女だった。声から想像する以上に幼い容姿だった。まだガキじゃないか、そう思っただけのつもりが声に出てたらしく、少女は顔をしかめた。

「ガキじゃないです、ちゃんと成人してますから」

「ふーん、あんた名前は?」

「梓です、中野梓。あなたは?」

「田井中律だ。それにしても梓、いいコート着てるな」

あたしはコートの表面をいやらしく撫で回しながらそう言った。

「初対面の相手を下の名前で呼ぶなんて馴れ馴れしいですね」

「いいだろ、どうせあんたの方が年下なんだから。梓もあたしの事呼び捨てすればいいよ」

そうですか、と梓は返事すると一瞬何か堪えるような顔をした。


6 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 22:48:18.936 0v4TST4w0 5/33

「このコート、欲しいならあげますよ」

「……は? 本当に言ってんのか?」

「だって律先輩、寒いんですよね?」

「先輩って……まぁいいや、くれるならもらうよ」

あたしがそう言うと梓は立ってコートを脱ぎ出した。小さい、とは言ったが見たところあたしと数センチ程度しか変わらなさそうだ。脱ぎ終わると、梓はあたしの膝にコートを畳んでどん、と置いた。

「さぁ、暖まるといいです」

「じゃあ貰っとくよ。しかし全く……」

あたしはコートの袖に腕を通しボタンをかけながら言った。

「お前も星菫派だな」

彼女は何か納得しないような表情をしていたが、あたしは構わずそのコートを着込んで腰掛けた。どこか懐かしいような毛皮の匂いがして、生地が寒さで強張った身体をしっとりと撫でた。首元を包む襟が柔らかく頬をくすぐった。凍えた身体は生気を取り戻し、しばらく忘れていたように思われる温もりが体内を巡った。


7 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 22:50:03.325 0v4TST4w0 6/33

「いいコートだな。まるであたしのために仕立てたと思っちゃうくらいにな。しかし梓、お前なんでこれをあたしにくれたんだ? 後悔するぜ、もう寒そうな顔してんじゃねえか」

「後悔してませんよ、まだね。明日どう思ってるかはわかりませんが。しかしコートがないと恐ろしく寒いですね。よく上着無しでいられましたね」

「酔ってたからな、寒さですぐ醒めちまったけど。つーか、それならあたしにあげなきゃよかったじゃん」

「私は人に与える側になりたいんです、そう自分に言い聞かせてるんです。律先輩はどうしてコートを受け取ったんですか?」


「あたしか」ボタンをまさぐりながら答えた。

「これで今の寒さが凌げるならと思って貰ったよ。降りる時返してやろうか? このボタンは面白い形だな」

「返さなくたっていいですよ」

寒そうに梓は肩を竦めながらそう言ったものの、あたしの方に身体をすり寄せてきた。今度は梓の方が震えていた。


8 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 22:51:17.708 0v4TST4w0 7/33

「今日は何で飲んでたんだよ」

あたしが聞いた。

「今日は会社の解散式だったんですよ、このご時世で倒産っていうか解体しちゃいましてね、軍事関係でしたから。せいせいしましたよ。それで、律先輩は何故粕取焼酎なんて飲んだんですか?」

「退屈だからだよ」

「退屈?」

梓はちょこんと首を傾げて聞き返してきた。そういう姿は、正直成人しているようには見えない。

「そうさ」

「退屈だと飲むんですか、どうして退屈なんです?」

「世の中、偽者ばっかりだからだよ」

あたしは梓の方を見ながら答えた。

「あたしはにせものを見てるのが退屈なんだ。だから酔いたいんだ、酔いだけは偽りないからな。酔っている間だけは退屈しないよ。梓、どういうつもりでコートをくれたのかはよくわからんが、お前も相当な偽物みたいだな」


9 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 22:53:08.887 0v4TST4w0 8/33




それからはよく覚えていないが、終点で梓とは別れた。次の朝目覚めたらコートは枕元にちゃんとあった。梓はあの後どうしたんだろう、とぼんやり思いながらもう一度コートを着てみた。本当にいいコートだ、着心地が良い。昨夜はわからなかったが結構年季が入っている。しかし毛はふかふかだ。大きな六角形の、黄色いボタンが胸に六つ付いていた。

数日後、あたしは並んでバスを待っていた。前のかわいらしい少女の後ろ姿を見て梓だ、と思って声をかけようとすると、向こうから振り返ってニヤニヤ笑いやがったから、あたしもニヤニヤと笑い返してやった。もちろん、その時のあたしは梓がくれたコートを着ていた。すると梓は急に怒ったような顔をしてそっぽを向いたが、しばらくしてまたこちらを見た。

「なかなか立派なコートでございますねぇ」

梓は皮肉たっぷりにそう言った。

「あらどういたしまして、お粗末なものでございますのよ」

あたしはそう言い返してやった。そのとき気付いたが梓の服はくたびれていた。なんだか少しやつれた様子でもあったが、憎たらしいくらいの美少女っぷりは変わりはしない。


10 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 22:54:04.713 0v4TST4w0 9/33

バスが来たのであたし達は乗り込んだ。最初は並んで座っていたが二つ目の停留所で杖をついた婆さんが乗ってきたので梓は席を譲り、あたしの前に立った。バスが再度動き出すと、梓はコートのボタンをつまんでくるくると回し始めた。


「このボタンは私のお祖父様が撃ち取った鹿の骨なんです。六角形の形してるでしょ、本当にいい職人でした、そこらのボタンとは違うです」

「ふーん、お前の祖父さんが猟師だとは知らんかったね」


どうでもいいけど、とあたしはぼそっと口添えてやったが、梓は聞かないふりをして大声でこのコートの由来や来歴について語り出した。あんまりデカい声なので皆がこっちを見る。自分のならともかく、他人が着てるコートについて話すのだから、着ているあたしだっていい気持ちはしない。その時になってあたしは、梓がコートを手放したのを後悔している事に気がついた。


11 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 22:55:45.175 0v4TST4w0 10/33

バスが終点についた時、私は梓に言ってやった。

「やっぱ後悔してんじゃん、返して欲しいならくれてやるっての」

「私は他人の慈善は受けません」


梓は憤然とした口調で答えた。

「私は物貰いじゃないです」

「あたしが乞食だって言いたいのか? まぁそれならこのコートは永遠にあたしのもんだ」

「そう簡単にはいきません。私が欲しくなれば、律先輩から貰うのは嫌ですから力ずくで剥ぎ取ってやるです」

「へえ」と、あたしは少し驚いてみせた。

「こないだとは随分違った物言いじゃんか」

「そうです、私は律先輩が言うような星菫派じゃありません」


なるほど、あれがずっと引っかかってたんだなと私は気が付いた。

ところが一週間ほど立ったある日の夜、あたしは本当に追い剥がれたのだ。


12 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 22:57:32.158 0v4TST4w0 11/33

その夜粕取を飲み過ぎたあたしは何処をどう歩いたかも判らず、気が付いたらベンチで寝ていて、誰かがコートを脱がせようとしているところだった。変態か、泥棒か、まぁどっちでもいいやともう一度眠ろうとしたが、あんまり身体を揺さぶられしまいには小突かれるもんだから今度ははっきりと目を覚ました。


「何すんだ」

そう言いながら酔いの覚めない身体を起こそうとすると、乱れる視界に映ったのは梓だった。二つのおさげにビードロのような目、間違いない。


「お前ぇ……コートを取る気か」

ふらふらしながら私は怒鳴ったが、呂律がうまく回らない。

「そうです」

梓は平気そうに言ってみせた。

「明日梅田へ用事に行くので、コートがないと都合が悪いので」

「じゃあお前は追い剥ぎだな」

「追い剥ぎ、ですか」

梓は一寸躊躇ったように手を休めたが、また手を動かしながらこう言った。

「追い剥ぎで結構ですよ。私は追い剥ぎです。それとも変態の方が良かったですか?」

「うるせえ……」


13 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 22:58:32.534 0v4TST4w0 12/33

酔いで視界はブレるし暗いからよくわからないが、その時の梓は今にも泣き出しそうな、そんな顔をしていた。その顔を見てあたしはもうどうでもいいやと思って抵抗するのをやめた。


「ここ、何処だよ?」

「駅ですね。地下鉄の終点です」

何処か苦しそうな声だったが、それでも梓は手を休めなかった。コートを剥ぎ取ると梓はあたしの額を撫でて、ちゃんと家に帰ってくださいね、風邪ひきますよ、と言った。そして梓の小さな足音はどんどん夜闇の中に溶けていった。あたしは梓の言葉も、コートもどうでも良くなってそのまま再び深い眠りに落ちた。


14 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 22:59:57.471 0v4TST4w0 13/33




次の朝、明け方に目が覚めたと思ったら寒いったらありゃしない。身体はトタンみたいに硬くなっていて、しばらく起きが上がれなかった。

やっとこさ身体を起こして荷物や身体を弄ってみると、梓に取られたのはコートだけで、あとは全部残っていた。喫茶店で熱いミルクティーを作ってもらってやっと人心地がついた。コートはどうでも良かったが、あの寒さには耐えかねる。温い液体を口から身体に染み込ませながら、あんまり飲み過ぎないようにしよう、などと一時間後には忘れているようなどうしようもない脆い決意をした。


昼頃に店を出た時にはもうコートなんて心底どうでも良かった。針のような冬風が服をすり抜けて行く時などにはあのコートの感触やボタンを思い出したりしたが、かえって何処か清々しくもあった。

また梓と会うかもしれない、などとぼんやり考えていたら、二、三日経ったある日の夕方にばったり会ってしまった。梓はあのコートを着込んで空っぽのリュックを背負ってちょこちょこと歩いていたからあたしが呼び止めた。


15 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 23:00:54.770 0v4TST4w0 14/33

ふと梓を見るとコートのボタンの一つは取れてしまったようで、もうひとつぶらぶらと落ちかかっていた。あたしと同じない胸を張って何処か得意そうな表情であたしを見た。


「梓、ボタンはどうしたんだ?」

「剥ぎ取られちゃいました。律先輩にじゃないですよ」

「喧嘩でもしたのか? そのちっちゃい図体で」

「いちいち一言多いです。喧嘩じゃないです。喧嘩なんかよりももっと面白い話がありますよ、聞きますか?」

「別にどうでもいいけど、そのコートは一度はあたしのもんだったからな。一応何があったかくらいは聞いとくべきだと思うよ」


梓が行きましょう、と言うので街角の喫茶店に入った。二人して紅茶を頼んで、あたしは聞いた。

「あの時梅田へ行くって言ってたけど、行ったのか?」

「行きましたよ。話はそこから始まるんです」


梓はそう答えた。以下は紅茶を飲みながら梓が語った話である。ーー


16 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 23:27:15.676 0v4TST4w0 15/33

「梅田には初めて行きましたが、あそこはなんともわびしい街ですね。昼間なのになんだか日暮れのような寂しさを感じました。しかし結構賑やかなんですよね、道端では皆荷を広げて魚やヤミ米、卵から粉ミルクまで売っているし、その前を皆がぞろぞろ歩いて物色してるんです。しかし皆餌を食べようとした瞬間にムチで打たれて取り上げられた犬みたいに険しくギョロギョロした目つきをしてるんです。あちこちから怒声が聞こえるし、ほとんど半裸みたいな格好のパンパンもいました。まぁ私の憂鬱な気持ちがそう見せただけなのかもしれないですけど。


言っておきますけど、私は何も梅田まで遊びに行ったわけじゃないです。梅田にいる友達のところに就職の相談に行ったんです、純っていうんですけどね。私、こう見えて世帯持ちなんですよ。唯って年上の嫁さんと、その妹で病気がちの憂って子がね。特に憂は身体を悪くしてるので医者にかかる金が要るので、会社が解体されて清々したはいいけれどやっぱり働かないとですから。

しかし純ったら、玄関口で「梓、あんまり世の中なめない方がいいよ。このご時世に就職口なんてあると思う?」って言って取り合わないんです。私も腹を立てて純の家を飛び出して、道端の店々を睨みつけながら歩いてました。客引きをする威勢の良い声が突き刺さって耳障りでしかたなくて、私は思わず、いっその事闇屋にでもなってやるですか、と声に出していたんです。


17 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 23:28:50.547 0v4TST4w0 16/33

私は愕然としました。その言葉に驚いたんじゃないんです。興奮すれば人間は思ってないことでも口走ってしまいますけど、愕然としたのは、その言葉を裏付ける凶暴な何かが、私の心を蠢いているのがハッキリとわかったからです。

律先輩は笑うかもしれませんけど、私は闇屋に落ちるには良識や教養があり過ぎるとその時まで自惚れていました。コートのポケットに両手を突っ込んで立ち止まって考えました、この凶暴なものは何だろうと。そして私は気付きました、なんだと思いますか? このコートなんですよ。


その日の朝から私はコートを自分のもののつもりで着て梅田までやってきたんですけど、ずっと何か食い違ったもの、何かそぐわないものを不透明な膜の向こうに感じ続けていたのです。懐かしいコートの感触が、どこか私は突っぱねるように感じるんです。律先輩がしばらく着ていたから型が変わったというわけじゃありません。もっと根本的なものです。それは私の心なんです。

これは私のコート、しかし私のじゃない。昨日律先輩から剥いだんだ。ーーこれなんです。この認識が心の底に隠れていて、こんな心持ちがしていたんです。


ーー私は今盗品を身につけているんだ。


私にはその時このコートが鎧のように厚ぼったく頼もしく感じられました。毒々しい喜びを感じながら、私は切符売り場へと向かいました。


18 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 23:30:30.883 0v4TST4w0 17/33

電車は満員でした。皆大荷物なものですから、外から見ると電車が膨れて見えたくらいです。私は反対側の扉の方に押されていましたが、扉がないんです、開けっ放しなんです。そこに闇屋らしき大荷物を抱えた、長身で、長い黒髪のびっくりするくらい綺麗な若い女性が声を上げました。


「あんまり押さないでください、落ちちゃいます!」

そんな時にはどこの世界にも義侠心の過剰な人間が出るもので、赤い眼鏡をかけた短髪の女性が出てきました。見た目は闇屋でしたが、真面目そうで善人らしい顔付きでした。彼女は笑いながら、黒髪の女性に言いました。

「私が代わってあげるわ、もっと混んでくるだろうから、あなたの力じゃ押しつぶされちゃうわよ。私が扉口の栓になるわ」


赤眼鏡(面倒になったのか、これ以降梓は赤眼鏡と呼んでいて、あたしは少し笑ってしまった。)が扉口に立って、黒髪の女性はやっと位置を確保出来ました。赤眼鏡は扉のところの棒手すりを片手で持って、片手でリュックの紐を握っていました。リュックは私の脚と赤眼鏡の脚の間にありました。そのまま電車は走り出したんです。


19 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 23:31:57.166 0v4TST4w0 18/33

私は電車に揺られながら、先ほどの気持ちを思い出していました。あの時の気持ちは一時の露悪的な興奮じゃないだろうかと。しかしながら、荒んだ気持ちは依然として心を占めていました。そんな時、ふと私は昔の事を考えました。


会社に勤めていた頃、私は真面目な会社員でした。良く働きました、悪い事なんて一つもしてきませんでした。皆からも好かれましたし、それなりに出世しました。そしたら会社が解体されるってもんで、涙金を貰ってそれでお役御免ですよ。しかし絶望はしなかったんです。

律先輩と会った日の夜、言いましたよね、解散式だったんです。解散のどさくさに紛れて誰が何を持ち出した、誰がいくらごまかしたと酒が入るにつれて暴露大会が始まって、宴席が終わる頃には暴露大会が格闘大会に変わってましたよ。浅ましいものです。私の真面目な性格は皆知っていますから、私には何とも言いませんし、言われる謂れもありません。


宴が終わった後、大量のごまかしが晒されて袋叩きにあった女社長の紬さんーームギ先輩をおぶって駅まで送りました。ムギ先輩には沢山よくしてもらいましたが、その反面とても狡猾な人でした。それを知っていながら、酔いと痛みで立てないムギ先輩を抱えて駅まで運びました。


20 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 23:33:21.927 0v4TST4w0 19/33

ムギ先輩の身体を非力な私の体で一生懸命運びながら、なんで私はこんな事をしてるんだろうと疑う気持ちがふと起きたんです。しかし私は唇を噛みしめながら自分に言い聞かせました。

善い事のみを行え、悪いことから目を背けろ、困った人がいれば救ってやれ。人に乞うな、人から奪うな、人に全てを与えよ。ーーそんな事を読経のように繰り返し呟きながら、私は何の喜びもなくムギ先輩の身体を運んでいました。本当に、何の喜びもなくです!!


駅に着いて電車にムギ先輩を乗せた時、扉が閉まる直前でしたけど、ムギ先輩はその太い、黄色い眉をひくつかせながら私に囁いたのです。


「ありがとう梓ちゃん、あなたって本当に“善い人””ね」


私をホームに残して電車は走り去って行きました。私は何故か醜く興奮して線路に唾を吐き散らしました。吐きたい気持ちを抑えながら。そして次の電車に乗った時、律先輩、あなたに会ったんです。あの時律先輩にコートをあげたのは寒そうにしていたからだけじゃないです、私は何かをもう一度確かめたかったんです。あのもやもやとしたものをハッキリさせたかったんです。ムギ先輩の嘲るような笑い顔が、しつこく頭にその時もこびりついていました。


……翌日私がコートの事で後悔したと思いますか?


21 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 23:34:47.994 0v4TST4w0 20/33

話を戻しましょう。律先輩からコートを取った日、あなたは私の事を追い剥ぎと言いましたよね。あの時、私は身体のすくむような戦慄が身体を駆け巡ったんです。しかしながら、それが擬似の戦慄である事を私は理解していました。だって元々私のコートですから。

そして、ここが大事なんですけど、その戦慄が偽物だったにしろ私にはゾッとするほど気持ちが良かったのです。何とも新鮮でした。他人のコートを剥いだということが何故こんなにも気持ちがいいのでしょう。


そんな事を考えながら私は梅田から帰る電車の中で、背後からの圧力に耐えながら考えていました。ふと見た手摺りを握る赤眼鏡の指は真っ白で血の気が引いていたんです、それほど必死だったんですね。まぁ赤眼鏡の体は半分以上車体の外に出ている上、電車が揺れる度に私の肩が背後の圧力と一緒に赤眼鏡の胸を押すのですから無理もないでしょう。しかし人間の自尊心っていうのはおそろしいですね、そんなになっても赤眼鏡は笑ってるんです、いや、笑おうとしていたんです、はっきりと。


22 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 23:36:03.043 0v4TST4w0 21/33

黒髪の人も苦しそうでしたね。人に挟まれていたのですが、そのせいかスカートが捲れて白い脚と下着が見えていました、縞パンでした。こんな寒いのに、黒髪の人は素足でした。電車がカーブに来る度、その脚が緊張し、ぐっと私は押されて、肩で赤眼鏡の胸を押す。赤眼鏡はあえいでいました。


「ちょっと、お嬢さん、ちょ、ちょっと。おさ、押さないで、このリュック……」

そしてまたぐっと来ました。赤眼鏡の赤は眼鏡だけでもう顔も身体も真っ青でした。反対側に電車が傾いた時、赤眼鏡は態勢を整えようと棒を掴み直した瞬間でした。突然強烈な反動が起きて、私が危うく扉口に抱きついた瞬間に力余った私の肩が赤眼鏡の肩を強く弾いたのです。あっという間でした、時が止まったようでした。赤眼鏡の指は手すりから砂のように脆く剥がれ落ち、必死の力で私のコートの胸をはたきました。


……思わず私はそれを片手で払い除けたんです。


ウワアァァアァァァアアアアアアァァァァァァァァァァ……


赤眼鏡は咆哮のような声を車内に鋭く残して、疾走する車体の外へと落ちて行きました。全身が燃え上がるような感じがしながら私は扉口にしがみついて、両足でしっかり赤眼鏡のリュックを挟み込んでいたのです。


23 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 23:42:36.808 0v4TST4w0 22/33

「落ちたぞ、誰か落ちたぞ」

辺りで声が起きました。しかし赤眼鏡が居なくなって扉口にはいくらか余裕が生まれました。私はまだ、震えが止まりませんでした。きっとその時の私は、赤眼鏡と同じくらい真っ青だったと思います。


「落ちたって何が落ちたのよう」

奥の方で、のんびりとした声が上がりました。女性の声で、ふとそちらを見ると眼鏡をかけた、茶髪で長身の美しい大人びた女性の顔が見受けられました。

「人間だよ」

誰だ、誰が落ちたんだ、という声があちこちで上がりました。そんなざわめきの中で、またあののんびりとした女性の声が聞こえました。

「誰だっていいじゃないの、明日の新聞読めばわかるわよ」

どっと笑い声が起きました。みんな笑いました、あの女(赤眼鏡に代わって貰った、あの黒髪の女性だ)はヒイヒイと笑いこけていました。あの白い太腿が痙攣するのを私は見ました。


律先輩、あなたはその言葉をユーモアだと思いますか?


24 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 23:44:02.698 0v4TST4w0 23/33

私は思いません。

思わないのに、ひっきりなしに笑いがこみ上げてきたんです。可笑しくはないのに。まるでヒステリーのように、涙を流しながらしゃっくりにも似た発作的な笑いが止まりませんでした。終点に着くまでずっと。


コートからボタンが一つなくなっているのが分かりました。赤眼鏡がむしり取ったに違いありません。あの善良な義侠心溢れる赤眼鏡が、あれほどの努力の末、あの黄色いボタンを一つ握りしめて芋虫のように転げ落ち、線路脇に冷たくなって横たわっているのを思った時、私はなぜか笑いがとめどなくこみ上げてくるのを辛抱できなかったんです。


25 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 23:46:09.080 0v4TST4w0 24/33

終点に着いたら潮が引くように皆ぞろぞろと疲れ果てた顔をして降りて行きました。皆あの赤眼鏡の事なんて忘れていました。

私は最後まで残っていました。そして赤眼鏡が残したリュックを背負って降りました。私が非力なのを抜きにして考えても恐ろしく重いリュックでした。それを担いで電車を乗り換えて家へ帰りました。帰るまでに何度このリュックを捨てようと思ったか分かりません、それほどに重いリュックでした。


家に着くと妻ーー唯先輩、と呼んでいます、律先輩を先輩付で呼んだのも、妻のせいなんですーーが出て来ました。とてとてと玄関まで来た唯先輩は、私が担いできたリュックを開いて言いました。


「あら、“ひじみ”だねぇ」

「“しじみ”ですよ、全く唯先輩は」


舌足らずな唯先輩の声に私は思わず怒鳴りました、なるほどしじみなら重いはずだなと思いながら。

唯先輩は柔らかい手のひらでザクザクとしじみをすくいながら、私が怒鳴ったのを気にも止めないようでした。


「あずにゃん、“ひおしがり”してきたの」

「“しおひがり”ですよ。疲れているので、早く布団敷いてください」

私は上がって畳に寝転んだまま、ぶっきらぼう言いました。身体は疲れているのに、気持ちは非常にささくれたっていました。

「おや、今日あずにゃんご機嫌斜めだねぇ……ちょっと待ってね、今用意するから」

唯先輩はそう言って押し入れを開きました。廊下から足音がして、居間の扉の前で止まりました。


26 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 23:47:41.857 0v4TST4w0 25/33

「梓ちゃん、お帰りなさい」

「あぁ憂か、ただいま。身体はどう?」

「うん、今日は調子いいみたい。……しじみすごいね、こんなに沢山」


憂は普段より幾らか血色の良さそうな顔を浮かべながら、しじみの一つを摘んでまじまじと眺めました。

「食べる? しじみは身体にも良いし、これだけあったら売ってもいいんじゃないかな……」

そう言って私は押し黙ってしまいました。売るのか、このしじみを。そりゃあこれだけ沢山あればそれなりのお金にはなると思います。そのお金があれば、家族にご飯を食べさせるのも、憂をこれまで通り医者に通わせる事も出来るでしょう。けれど問題はそこじゃないのです、電車に乗る前に闇屋になってやろうかと思った時のように私はこの言葉に何一つ驚きませんでした。驚かなかったという事に、私は驚いたのです。けれど、売れば良いという気持ちに変化はありませんでした。憂は不思議そうに私を見ていました。


「あずにゃん、布団敷いたよ。ご飯は?」

「今日は疲れたのでもう寝ます。布団、ありがとうございます」

「あっごめんね梓ちゃん、疲れてるのに……」

何処か申し訳なさそうに憂は言った。それはきっと病弱故に私に経済的な負担を押し付けている事もまた、含まれていたのでしょう。

「気にしないで。それじゃあ二人ともおやすみなさい」

おやすみ、と二人は返答をして憂は部屋へ戻ったようでした。唯先輩は枕元で針仕事を始めるみたいです。私は顔を埋めるように布団にうずくまって、今日のことを考えていました。


27 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 23:49:13.690 0v4TST4w0 26/33

妙な話ですが、先程売ってしまえばと言いかけた時はなぜか言い切れなかったのに、赤眼鏡のリュックを掠めてきた事に対して何の背徳感も感じませんでした。抵抗もなかったのです。自分の持ち物のようにリュックを担いで来たのです。

どういうことかと考えて私は困惑しました。赤眼鏡が私のコートを掴もうとした時、私は手荒くそれを払い除けました。意識してやったような気がするし、無意識の行動だった気もする。しかし、あの時リュックを脚で押さえたのは、確かに意識的なものでした。


赤眼鏡はどんな家庭があるのだろう。どんな家族がいて、どんな家に住んでいるのでしょう。あんな気まぐれな義侠心を起こした代償に彼女が得たのは一つのコートのボタンと、非業の死です。他人の同情すら得られなかったのです。

私の頭の中で、あの赤眼鏡と、袋叩きに合ったムギ先輩と、ヒイヒイ笑う黒髪の美人と、律先輩と、それから私を取り巻く色んな人と、私をも含めた一つの系列が、平面の中の構図として、私に働きかけて来るのです。私は布団の中で目を固く閉じ、瞼の裏にずっとその構図を描いてはかき消すのを繰り返していました。


28 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 23:49:58.602 0v4TST4w0 27/33

その時の事です。プチプチと微かな音が聞こえるのです。何かを舐めるような音でした。耳にこびりついて離れないのです。布団から顔を出して私は聞きました。


「……唯先輩、何を舐めてるんですか?」

「え? 何も舐めてなんかいないよ?」

唯先輩が答えました。音は止みません。私はついに床の上に起き直りました。

「……聞こえますか?」

「うん、聞こえるね……」

「あの音はなんですか?」

「私に聞かれても…でも何だろうね?」


唯先輩も針を休めて音のする方に耳を澄ましました。音は床の間の方からしました。注意深く音を探りながら、そちらへと身体へずらしました。

……律先輩、それは何の音だったと思いますか?


30 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 23:51:26.757 0v4TST4w0 28/33

しじみが鳴いていたんです。

律先輩、しじみが鳴くのを知っていますか? 私は知りませんでした。驚きましたよ。リュックの中で何千というしじみが押し合いへし合いながら、そして微かにプチプチと啼いていたんです。

耳を近づけ、その啼き声にじっと聞き入っていました。それは淋しい声でした、気も滅入るような陰気な音でした。しかし私は耳を離しませんでした。そして考えていたんです、私が今まで自分に言い聞かせてきた事は何だろう。善い事だけを信じろ。惜しみなく人に与えろ。そんな事を私は本気で信じてきたのです。


31 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 23:52:35.953 0v4TST4w0 29/33

おぼろげながら掴めてきたのです。私が今まで信じ努めてきた善が、全て偽物だったという事に。喜びを思わぬ善なんてありはしない。それは擬態です、悪です。日本は敗れたんです。こんな狭い島国にこんな沢山の人が生きなければならないんです。リュックのしじみです、満員電車です。

日本人の幸福は極限されてるんです。一人が幸福になれば、その量だけ誰かが不幸になっているんです。ちょうど赤眼鏡が落ちたために残った私たちにゆとりが生まれたようなものです。


私達は自分の幸福を願うより、他人の不幸を希うべきなんです。ありもしない幸福を探すより、まず身近な人を不幸に突き落とすべきなんです。私達が生物である以上生き抜く事が最高のことで、そのほかの思念は感傷なのです。


ボタンを握った死体と、啼くしじみと、舌足らずの妻と病弱な義妹と、この私と、それは醜悪な構図です。醜悪だけれども私はそこで生きていこう。浅はかな善意や義侠心を胸から締め出して、私は生きていこうとその時思ったのです。ーー」


32 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 23:53:30.385 0v4TST4w0 30/33

ここで話を途切らせると、梓はテーブルの上の冷えた紅茶をぐっと飲んだ。外はいつの間にか夕闇が立ち込め始めていて、濃厚な冬の空気がオレンジを灯して辺りに満ちているようだった。


「……それで?」


あたしはそう梓に促した。するとハンカチで唇を拭いながら答えました。

「翌日、私は家族のためのしじみを少し残して残り全てを持って出かけてある街角にそれを広げました。一時間足らずで私は全部売り尽くして相当の金銭を得ました。予想よりもずっと大きな金額でした。私はそれからまた梅田に出かけて、しじみを仕入れに行きました。今日も既にさばいて来たところです、この空のリュックがそうです。ーーこれで話はお終いですよ」

梓は言い終わると顔を上げて、初めて会った時よりもずっと影の多い、しかしずっとさわやかな笑顔を頬に浮かべた。


「お前が言うほどの面白い話でもなかったけれど、しかしまぁ退屈はしなかったよ。梓の新しい“出発”について、あたしはこの冷えた紅茶で乾杯しようと思うぜ」

「待ってください」

梓はあたしを制止した。


33 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 23:54:39.485 0v4TST4w0 31/33

「もう彼岸も遠くないし、私もこんな鎧は必要ないです。私は今からこのコートを売り払おうと思うです、そして今夜は律先輩と一緒に飲みましょう。乾杯はその時まで延ばしてください」

「へへっ、まぁそれも良いかもな」

あたしは少し笑いながら答えた。


「全く梓は良いところに気がつくな。しかし売る前にそのコートを、もう一度あたしに着させてくれないか?」

いいですよ、と返事した梓はあたしにコートを手渡した。そしてコートに手を通してみた。あの柔らかい重量感がしっとりと肩によみがえってきた。あたしはポケットに手を突っ込んだ。すると、何か堅い小さなものがいくつも指に触れた。


「しじみだ」


取り出してテーブルに並べると十個ほどあった。それから気付いた梓は自分の服のポケットを探るとそこからも出てきた。ズボンの折り目からも二個ばかり出てきた。

「変ですね、どこからこんなに忍び込んだんでしょう」

梓はそう言いながらちょっと嫌な顔をした。

それからあたし達は喫茶店を出て古着屋でコートを売り払った。あの取れかかっていたボタンはその店であたしが引きちぎって、自分の服のポケットに収めた。

その夜、あたし達は飲み屋でさっきのしじみを出して味噌汁を作ってもらい、それを肴に粕取焼酎を飲みまくった。ぐでんぐでんに酔っ払って、あたしは梓と駅の前で手を振って別れた。


34 : 以下、5... - 2020/06/28(日) 23:55:51.160 0v4TST4w0 32/33

その後あたしは梓に会わない。梓はその後平凡な闇屋になったんだろうと思う。会いたい気持ちも特に起こらない。

あの夜あたしがポケットに入れた黄色の六角形のボタンは、別に用途もないから机の上に放って置いたら、こないだ幼い弟の聡が来て欲しいと言うからあげてしまった。おはじきか何かにして遊んでいるのを二、三回見かけたが、この頃は見ないし、球蹴りに夢中なようだ。もう飽きたんだろうと思う。


(完)


36 : 以下、5... - 2020/06/29(月) 00:00:13.516 zXuJWQeE0 33/33

典拠/元ネタは梅崎春生の小説『蜆』(1947)です。青空文庫→ https://www.aozora.gr.jp/cards/001798/card56776.html

憂は原作で強いて言うなら「男」の子どもですがセリフは一切ありません。でも一つもセリフがないのはなぁと思ったので憂のセリフ・設定は完全にオリジナルです。

こないだゼミの発表の担当作品で取り扱って凄く面白かったのでけいおんSSにしてみました。駄文失礼しました。

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