お姉ちゃんが好き。
誰よりもお姉ちゃんが好き。誰よりもなによりもお姉ちゃんが好き。
お姉ちゃんより好きなものなどない。お姉ちゃんより好きなものはこの世に存在しない。
お姉ちゃんがわたしと同じ空間にいてくれるだけで全能感にも似た幸福を感じる。
お姉ちゃんがわたしを見て微笑んでくれるだけで、わたしは胸を弾ませ毎日を生きることができる。
お姉ちゃんがわたしが作ったご飯をおいしいと言って食べてくれるだけで、わたしは明日も頑張ろうという気持ちになる。
だけど、一方でお姉ちゃんが原因で気持ちが安定してくれないときもある。
なんの前触れもなく訪れる不安に苛まれたりすることもある。
ささいなことがきっかけでお姉ちゃんに自分の感情をぶつけたくなることもある。
あのときもそうだった。今から八年前。まだお姉ちゃんが小学生の頃だ。
あの頃。お姉ちゃんはクラスメイトからいじめられていた。
きっかけはなんだったのか、今でもはっきりとはしないし、案外なかったのかもしれない。
わたしが耳にした話ではクラスで育てていたハムスターが、お姉ちゃんのせいで死に、それが原因でいじめが始まったとか。
とにかく原因は八年経った今でも正確にはわからしない。
けれども、人気者であったはずのお姉ちゃんが、いじめられていたということはどうしようもない事実だった。
お姉ちゃんがどのようないじめを受けていたのかも、完璧には把握していない。
お姉ちゃんはわたしに自分がいじめられているということを、必死に隠し通そうとしたからだ。
もっとも隠そうとしたところで隠せてなどいなかった。
身体中泥だらけになって帰ってきたこともあった。
ノートがズタズタに引き裂かれていたのを目撃したこともある。
ランドセルが水浸しになって、お姉ちゃんまで水浸しになっていたこともある。
それでもお姉ちゃんは泣かなかった。家では気丈に振る舞った。
両親が心配して質問した時さえも、お姉ちゃんはいじめられていないと言い切った。
しかし、どれだけ気丈に振る舞おうと、どれだけ自分がいじめられていることを隠し通そうとしても、なにも変化はなかった。
それどころかいじめはエスカレートしていく一方だった。
いつだったかは正確には覚えていない。ついにお姉ちゃんがわたしにすがりついた日が訪れた。
その日の朝、わたしは自分の部屋で宿題をしていた。順調に宿題は片付いていった。
しかし、わたしの手はそこで止まる。ドア越しから悲鳴が聞こえたのだ。
わたしはすぐに椅子から下りて、ドアを開け放った。
悲鳴の主が誰なのかはすでにわかっていた。
唯「う、うぃ…………」
悲鳴がした部屋に行くと、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしたお姉ちゃんが床に座りこんでいた。
憂「どうしたの? なにがあったの? お姉ちゃん」
お姉ちゃんの側にあったボロボロのランドセルから、教科書やノートが飛び出していた。
お姉ちゃんはわたしの質問には答えなかった。
その代わりに、ランドセルから飛び出ていた一冊のノートを指差した。
震える指が指し示したノートには、黒い物体が張りついていた。
わたしは特に驚かなかったが、お姉ちゃんにはよほど衝撃的だったのだろう。
黒い物体の正体は大きなゴキブリだった。
中心に風穴のあるそれが、ベチャリと姉ちゃんのノートの表紙に張り付いていた。
唯「ぅ、いやあ……! いやだょ、こんなのぉ…………っ!」
お姉ちゃんはとうの昔に限界を迎えていたのだろう。
身体中の水分を搾り取るかのように泣き叫ぶお姉ちゃんをわたしは優しく抱きしめた。
お姉ちゃんは今まで、どのようないじめを受けていたのかを赤裸々にわたしに語った。
嗚咽が混じっていたせいで内容はよく聞き取れなかった。どうでもよかった。
お姉ちゃんがわたしにしがみついている。その事実のほうが、わたしには遥かに重要だった。
憂「大丈夫だよ、大丈夫だから」
お姉ちゃんの背中をさする。
お姉ちゃんのにおいのする髪に唇を近づけ、わたしはもう一度同じことを言った。
唯「うい……わたしを…………わたしを、守ってくれる?」
憂「大丈夫。お姉ちゃんはわたしが守るから」
お姉ちゃんはわたしの胸に頭を預けた。わたしはお姉ちゃんを強く抱きしめた。
幸せだった。最高に幸せだった。
いや、幸せはずっとずっと前から始まっていた。
お姉ちゃんと一緒にお風呂に入っているときも。
お姉ちゃんのクラスで飼っていたハムスターを握りつぶしているときも。
お姉ちゃんのノートをカッターでズタズタに引き裂いてるときも。
殺したゴキブリに電動ドリルで穴を開けているときも。
こうしてお姉ちゃんの温もりを感じているこの瞬間も。
幸せだった。幸せすぎだった。
クラスで人気者だったお姉ちゃんはわたしだけのものではなかった。
でも、この瞬間からお姉ちゃんはわたしのものになった。わたしだけのものになった。
憂「いいんだよ。お姉ちゃん。お姉ちゃんは頑張ったんだからあとはわたしにまかせて」
これでお姉ちゃんはわたしのもの。そう思った。けれどもそんな簡単にうまくはいかなかった。
真鍋和。彼女がわたしの邪魔をした。
そもそもお姉ちゃんがどうしてあそこまで気丈に振る舞えたのかと言えば、すべて彼女のおかげだった。
わたしはお姉ちゃんが学校に行かないように仕組んだつもりだった。
実際その目論みは最初は成功していた。
しかし、彼女はお姉ちゃんに何度も学校に来るようにうったえた。
お姉ちゃんは最初はひたすら無視続けて部屋にこもっていた。
けれども、やがてお姉ちゃんは彼女に対して心を開くようになっていった。
長い月日をかけてお姉ちゃんは明るさを取り戻していった。
わたしではなく真鍋和によって。
いつしかお姉ちゃんは昔のように明るく笑うようになった。
学校へも行くようになった。すべてうまくいって、気づけばお姉ちゃんは高校生になっていた。
軽音部の一員として充実した毎日を送るお姉ちゃんを見ていて、わたしは敵意を抱かずにはいられなかった。
わたしだけのものになるはずのお姉ちゃんが、楽しそうに軽音部の人たちと話している。
お姉ちゃんが幸せなのはわたしにとって極上の喜びのはずなのに
心の深奥から湧き出るどす黒い感情を抑えることができなかった。
わたしだけのものになるはずだったお姉ちゃん。
もちろん、お姉ちゃんはこんなわたしのことを好きでいてくれる。
本来ならそれで満足するべきだってことは重々理解しているつもり。
でも、溶岩のように熱くたぎるこの思いはそんな簡単にはとめられない。
お姉ちゃんのこと愛しているんだよ。
おかしいってことも自覚しているよ。気持ち悪いこともわかってるよ。
ねえ……どうしてお姉ちゃんはわたしだけのものにならないの?
神様はわたしの願いを聞いてくれないの?
お姉ちゃんがわたしのものになるだけでいいから。
他にはなにも望まないし、なにもいらないから。お願いします。
お姉ちゃんがわたしだけを見るようにしてください。わたしだけを見つめるようにしてください。
誰も見ないようにしてください。わたしだけを愛するようにしてください。
……まあ、叶えてくれないよね。
わたしみたいな最低で最悪な人間の願い事なんて聞いてくれないんでしょ?
そうだよね。こんな姿になっちゃったらたとえ願いが叶ったとしても無意味だよね。
唯「う、い…………?」
大好きなお姉ちゃんの、大好きな声。わたしの鼓膜を、わたしの心を揺さぶるお姉ちゃんの声。
お姉ちゃんの大きくて綺麗な二つの目がわたしを見ている。
ねえ、わたしを見て。わたしだけを見て。
首だけになったわたしを。
こんな姿にはなっちゃったけれど、それでもお姉ちゃんが大好きだよ。
誰よりも好きだよ。お姉ちゃんのこと大好きだよ。お姉ちゃん以外は嫌いだよ。
お姉ちゃんが好き。嫌いなところなんてないよ。好きなところしかないよ。
お姉ちゃんはどうなの?
わたしのこと好き? 愛してくれてる? 好きでいてくれる? わたしが死んだら悲しんでくれる?
わたしがこの世からいなくなったら悲しんでくれる?
ねえ……お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん
お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん
お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん
お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん
お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん
お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん
お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん
お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん。
お姉ちゃ、ん……?
【とある一室:琴吹紬】
目の前の光景が理解できなかった。
目ではきちんと認識しているのに、肝心の海馬のほうがそれがなんなのか、正しい答えを弾き出してくれない。
目の前のテーブルの上の物体はなんなのだろう。
人の顔のようなものに見える。
しかし、その顔は仮面のように表情どころか眉ひとつすら動かさない。
低い雷鳴が聞こえた。
不意にわたしは目の前の物体がなんなのかを理解した。
唯「う、い…………?」
わたしの隣で唯ちゃんが呟く。それが答えだった。
テーブルの上に載っているのは憂ちゃんの顔だった。
まるで死体のように血の気の引いた顔には、首から下がなかった。
梓「うそ……憂…………?」
澪「ひっ…………!」
澪ちゃんと梓ちゃんの声が遠くで聞こえる。
白いテーブルクロスにアクセントのようにこびりついた赤い汚れ。
そして室内に漂うむせ返りそうな異臭。
ようやくわたしは、本当の意味でこの光景を理解した。
憂ちゃんが殺されたのだと。
【広間:平沢唯】
わたしたちは憂の死体を見つけたところでなにもできなかった。
テーブルと憂の首しかない広い部屋で、わたしたちは立ち尽くすことしかできなかった。
結局、わたしと他の三人は部屋をあとにして広間に戻った。
しばらくわたしたちは誰ひとり口を開こうとはしなかった。
てっきりみんな、泣き叫んだりパニックにおちいったりするとばかり思っていたが、意外なほど落ち着いていた。
いや、落ち着いているというのは語弊がある。
たしかに第三者から見れば、わたしたちは落ち着いているように映るかもしれない。
けれども実際には、わたしたちが保っている正気は、薄い被膜のようにささいなことで壊れてしまう程度のものだった。
静謐さとは程遠い静寂を破ったのはムギちゃんだった。
紬「け、警察を呼んだほうがいいよね……?」
澪「そ、そうだ、警察を呼ぼう……わたしたちじゃなにもできないし……」
梓「…………はい」
唯「ちょっと待って」
ムギちゃんが腰をあげたのと、わたしが口を開いたのはほとんど同時だった。
みんなが一斉にわたしに注目する。
唯「この別荘にわたしたち以外の誰かっているの?」
みんなはなにも言おうとはしなかったが、わたしの意図は汲み取れたのだろう。
さっきとは違う種類の沈黙がわたしたちに重くのしかかる。
ムギちゃんがわたしの質問に答えたときには、差し出されたコーヒーはすでに冷めきっていた。
紬「この別荘にはわたしたち以外には誰もいない……」
唯「じゃあ誰が憂を殺したの?」
紬「そ、それは……」
広すぎる空間を張り詰めた緊張が圧迫する。
誰が憂をあんなふうに殺したのか。この別荘にはわたしたち以外の人間は存在しないはずなのに。
紬「とにかく、今は警察を呼びましょ…………」
それ以上は誰も口を開かなかった。
わたしたちの緊張を煽るように、雨が窓を叩く音だけが部屋に響いた。
梓「唯先輩……さっき言ったことって……」
あずにゃんがそう会話を切り出したのは、ムギちゃんが部屋を出ていってからすぐだった。
唯「さっき?」
梓「だから……この別荘にいるのはわたしたちだけって……さっき言ってましたよね?」
唯「言ったよ」
梓「それは、つまり憂を殺した…………」
そこまで言ってからあずにゃんは口をつぐんだ。
このとき、わたしは自身がどのような表情をしていたのかはわからない。
あずにゃんが次の言葉を喉の奥にしまいこんでしまうほどの表情をしていたのか。
あるいは、あずにゃんはあずにゃんなりに、わたしに気をつかったのか。
唯「わかんないよ。でも、この別荘にはわたしたちしかいないんでしょ? だったら……」
梓「…………」
澪「だったら……この別荘にいるわたしたちの誰かが、憂ちゃんを殺したってことか?」
わたし正面に座っている澪ちゃんの声は酷く淡々としていた。
一見、澪ちゃんは冷静さを保っているように見える。
けれども生粋の恐がりであるはずの澪ちゃんにとって、この状況は恐怖以外のなにものでもないはずだ。
実際、極端に鈍感なわたしでさえ、澪ちゃんが無理やり無表情をこしらえているということがわかるのだ。
黒髪の下の顔は、ともすれば簡単に崩れてしまいそうな危うさを漂わせていた。
唯「そう、じゃないの?」
澪「じゃあ誰が!?」
唯「わかるわけないよ」
澪「そもそも……本当に憂ちゃんは…………」
澪ちゃんはさっきの凄惨な殺人現場を思い出しているのだろう。
頬は青ざめて、震えている唇からは血の気が完全に失せていた。
唯「ねえ、やめよう? こんなことを話したって意味ないよ……意味なんてないよ」
澪「…………なんで、なんでこんなことになったの…………?」
澪ちゃんが血の気の引いた唇をコーヒーカップにつけた。
わたしの隣であずにゃんも同じように紅茶を啜る。
わたしも二人を真似てコーヒーを飲んでみたけど冷めきっていたそれは、ただただ苦いだけの液体でしかなかった。
けれども……澪ちゃんがこのコーヒーを飲み下そうとした理由はなんとなく読めた。
澪ちゃんは口内に広がる苦みが、なにもかもを忘れさせてくれるのに期待したのかもしれない。
もっとも、それにしてはカップの中身はなんとも中途半端だった。
イヤなことを忘れさせるには全然苦みが足りなかった。
梓「わたしたち、どうなるんでしょう……?」
唯「大丈夫だよ。ムギちゃんが警察を呼んでくれるんだから……」
ミルクの入った小瓶を手に取って、コーヒーに注ぐ。
ミルクが注がれたコーヒーをスプーンで掻き混ぜる。
カップの中で黒と白が渦を巻いて混じって、やがて色が変わる。
唯「だから大丈夫だよ」
視線をカップの中に固定し、スプーンを動かしたままであずにゃんを安心させるためにわたしは言った。
どんなにスプーンで掻き混ぜてもカップの中の液体は茶褐色のままだった。
【トイレ:琴吹紬】
紬「ぅうあぁ…………」
胸を焼くような不快感に襲われて、思わず便座に手をついた。
自分の意思とは無関係に肩が揺れて喉の奥で奇怪な音が鳴る。
とうとう堪えきれず、わたしは戻してしまった。
逆流した胃液が粘膜を削げ落として、強い酸の匂いに何度も咳込む。
紬「ゲホゲホッ……うぉぇ…………」
視界が涙で滲む。
けれども、わたしの網膜に焼き付いた憂ちゃんの姿は、一向に瞼から離れてくれない。
紬「どうして……どうして憂ちゃんが殺されたの……?」
全身を苛む虚脱感に座りこんでしまいたかった。
執事である斎藤に電話をかけたところまでは、なんとかこらえることができた。
斎藤の声を電話越しに聞いたら、我慢の限界がきた。
みんなは憂ちゃんの死体を見ても少なくとも、取り乱したりはしなかった。
わたしも必死に平常心を保とうと努力した。
実際、みんなの前ではみっともない姿を晒すことはなかった。
だけれど、ついに糸は切れた。
脳裏に焼きついた憂ちゃんの姿が、わたしの心臓を胸の内側で暴れさせていた。
瞼の裏が熱い。涙がとめどなく溢れて、視界がぐちゃぐちゃになる。
泣き叫びたいのに、縮こまった喉は声を発することなく、細く震えた吐息を吐き出すだけだった。
誰が憂ちゃんを殺したの?
さっき唯ちゃんに言ったとおり、この別荘にはわたしたち以外の人間はいない。
だとすれば――それ以上先は考えたくなかった。
それにそんなはずはない。そんなことはあってはいけない。
わたしたち軽音部の誰かが、憂ちゃんを殺したなんて、そんなことは考えたくない。
また吐き気が襲ってきて思考が止まる。
不意にポケットに入れておいた携帯電話がけたたましく鳴った。
ポケットから取り出してみて、ディスプレイに表示された名前を見る。
かけてきた相手はついさっき、わたしが電話したばかりの斎藤だった。
紬「……わたしよ」
斎藤『紬お嬢様。申し訳ございません』
聞き慣れた慇懃な声は、いつにも増して固い。
背筋を冷たい汗が伝って、わたしは背中をみっともなく震わせた。
わたしが黙っていると、斎藤は静かな声で言った。
斎藤『台風の影響で船を出すことができません』
紬「…………どうしても無理なの?」
斎藤『色々と策は考えました……しかし、この天候では迎えの船を出すことはできないのです』
紬「ヘリは?」
斎藤『この天候でヘリコプターなどは……』
紬「なんとかならないの? なんとかこの別荘から抜け出す方法はないの……?」
斎藤『対策を練っている最中です。とにかく今は……』
紬「さっきも言ったでしょう!? 別荘でわたしの友達が殺されたって」
斎藤『承知しています。しかし、現状ではどうにもできません。とにかく今はご友人と行動を共にするのが一番です』
紬「それは……たしかにそうだけれど…………」
斎藤『落ち着いてください、お嬢様。すでに警察には連絡はしてあります』
紬「…………」
斎藤『必ず紬お嬢様とお嬢様のご友人はお助けします。ですから、今しばらく待ってください』
「……どれくらいでこっちに来られるの?」
斎藤『台風が過ぎしだい、すぐ迎えの船を寄越します』
紬「…………わかった」
斎藤『お嬢様』
紬「……大丈夫。大丈夫だから。無理を言ってごめんなさい……友達が待ってるからもう切ります」
斎藤『…………紬お嬢様……どうかご無事で』
紬「……ありがとう」
電話が切れる。今度こそわたしは床に座りこんだ。
トイレの個室は蒸し暑いのにも関わらず、急速に手足は冷えていった。
全身を襲う倦怠感のせいで全く力が入らない。思考する気力さえ湧かない。
ほんの数分前まで存在していた、この状況を打開しようとする意思はすっかり霧散していた。
どうしてこんなことになったのか、わたしには検討もつかなかった。
そもそも誰がこんなことになるなんて予想できたというの?
【広間:中野梓】
部屋にはソファーとテーブル、いくつかの調度品以外には特になにもなかった。
テレビがこの部屋にあれば、わたしは迷うことなく電源を入れただろう。
唯先輩も澪先輩も糸の切れた人形のようにぼうっとしているだけだった。
ムギ先輩がこの部屋を後にしてから、わたしたちが会話を交わしたのはほんの数分だけだった。
耳が疼くようだ、と思った。
大きな雨粒が窓に叩きつけられる音だけが、この部屋に唯一存在する音だった。
梓「あの……」
唯「…………」
澪「…………」
沈黙が痛い。なんでもいいから話していたかった。
そうでもしていないと憂の姿が頭に浮かんでしまう。
大切な友達が無惨に殺された光景がフラッシュバックしそうになって、慌ててカップの中身を呷った。
カップの中はすでに空っぽになっていた。
憂を殺したのはいったい誰なんだろう。
憂が殺された理由がわたしにはまるで想像できなかった。
あんなに優しくて、誰にでも気遣いができて、姉思いの憂が……。
いや、そもそも誰が憂を殺した?
ムギ先輩の話通りだとしたら、憂を殺したのはわたしたちの中の誰かということになる。
まさか。わたしたちの中の誰かが憂を殺したって言うの?
馬鹿馬鹿しい。先輩たちがそんなことをするはずがない。なにかの間違えに決まっている。
でも、仮にこの中に犯人がいるとしたら?
唯「あずにゃん……?」
唯先輩の声が、深い思考に沈みかけていたわたしを引き戻した。
カタカタ、という音が聞こえる。
コーヒーカップの取っ手を持っていたわたしの手が震えていた。
ソーサーとコーヒーカップが互いに触れて高い音をたてた。手に力をこめると、震えは止まった。
梓「ご、ごめんなさい……うるさかったですよね?」
唯「……ううん。大丈夫」
それっきりわたしたちはなにも話さなかった。わたしは目を閉じた。憂の姿が浮かんでくる。
わたしはそれを掻き消すために昨日のことを思い出した。
【一日前:琴吹家別荘:中野梓】
三年生の先輩たちにとって、最後となる学園祭が終わりを告げたのは、ちょうど一週間前のことだった。
わたしたちがこうしてムギ先輩の別荘を訪れるのは三度目だった(わたしは二度目だけど)。
いつもとは少し違いがあった。
今回は合宿という名目ではなく打ち上げという名目でムギ先輩の別荘を訪ねている。
そしてなにより今回は別荘のサイズが今までとはまるで違う。
とにかくでかい。見上げていると首が痛くなるくらいだった。
その別荘の全貌を見渡そうと思ったら、それなりの距離を離れて見なければならないだろう。
開いた口がしばらく塞がらなかった。
おそらく先輩たちも似たような表情をしていたことだろう。
律「で、でかい……!」
紬「今回は最後の打ち上げだからって、頼み込んでなんとか二番目に大きな別荘を借りられたの」
あんぐりと口を開いた律先輩に、ムギ先輩がそう返した。
去年は大きな別荘を借りられなくて(わたしたちからすれば十分すぎるサイズだが)謝罪していたムギ先輩だったが
今回は無事に大きな別荘を借りられたらしい。
憂「す、すごい……」
ムギ先輩の別荘に足を踏み入れて最初に声をあげたのは憂だった。
今回の打ち上げは憂も来ていた。唯先輩が誘ったらしい。
もちろん、普段から色々とお世話になっているわたしたちは憂を歓迎した。
澪「なんていうか、お城みたいだな……」
梓「別荘とかそういう広さじゃないですよ」
律「今までの別荘も相当なもんだと思ってたけど半端ないな……」
ムギ先輩の別荘に来るまでの道のりはそれなりにハードだった。
始発電車に乗り、それなりの数の電車を乗り継いで、バスを利用して
さらには船で海を渡り、ようやくわたしたち軽音部一同はムギ先輩の別荘にたどり着いた。
そうして五時間ほどかけて着いた場所はまるで城塞だった。
ここに至るまでにけっこうな体力を消費をしたけれど
その別荘の大きさにわたしたちは疲労をすっかり忘れてはしゃぎにはしゃいだ。
律「せっかくだしちょっと別荘ん中、探検しようぜ!」
唯「さんせーい!」
梓「あ、唯先輩、律先輩! 今年こそ最初に練習しましょうよ!」
紬「ふふ、梓ちゃん。今年は打ち上げで別荘に来たのよ?」
梓「そ、そうでしたね」
澪「まあせっかくの打ち上げだし楽しもうよ」
澪先輩がそう言うまでもなくわたしたちは心行くまで充実した時間を堪能した。
先輩たちと共有できる時間が少なくなっているという小さな焦りが、心の片隅にあったのかもしれない。
常日頃から先輩たちに対して練習をするように促してきたわたしだったが、この日は大いに遊んだ。
わたしたちは理路整然とした思考を手放して、頭を空っぽにして、心地好い時間に浸った。
この日のわたしは、予感めいたものなんてまるで感じなかった。
海に入って、遊んで、困憊のあまり砂浜に寝転がって空を見上げた時だって。
海面に映った陽光が揺らめくのを眺めていた時だって。
空を覆う分厚い雲に太陽が隠れたのに気づいた時だって。
なんの予感もしなかった。
律「キャベツうめー」
澪「いや、お前が食べてるのは肉だからな」
紬「たくさんお肉買ってきたからいっぱい食べてね」
律「あったぼうよー。今のわたしの腹はブラックホールだぜ」
澪「あ、わたしのカルビ!」
律「ははは、速いもん勝ちだぞ」
澪「むっ……」
紬「澪ちゃんも、まだお肉たくさんあるから安心して」
日没したあとの別荘は相変わらず蒸し暑く夜気を微塵も感じさせなかった。
わたしたちの夕食はバーベキューという形になった。
網の上で踊るカルビを相手に格闘している澪先輩と律先輩を眺めつつ、わたしも油の滴る牛肉を口に放り込む。
憂「お姉ちゃん、レモンかける?」
唯「うん! じゃあじゃあかけちゃって」
憂「あんまりかけすぎたら食べられなくなるんじゃない?」
唯「えへへ、おっしゃるとおり」
憂「じゃあ少しだけかけるよ」
唯「はいはーい」
梓「…………」
律「あれ? 梓、全然食べてないじゃん」
梓「そうですか? けっこう食べてると思うんですけど」
律「もっと食べないと……大きくならないぞお」
梓「……ムギ先輩、お肉もっともらっていいですか?」
紬「はい、たくさん食べてね」
夕食を終えたわたしたちは後片づけに入った。
わたしと唯先輩とムギ先輩は、バーベキューのために使った器具を物置部屋にしまいに来ていた。
鉄の匂いが立ち込める物置部屋は、明かりが切れかけていて、ほとんど真っ暗だった。
ムギ先輩が蛍光灯のスイッチの側に備え付けされていた懐中電灯で部屋を照らした。
梓「ムギ先輩、鉄網はこっちでいいんですよね?」
紬「あ、それはこっちに置いて。梓ちゃん」
唯「にしてもこの部屋もすごい広いね」
紬「色んなものがあるからね。ほら、そこには木材を調達するためのノコギリがあるでしょ?」
唯「わ、本当だ。しかも大きいね」
紬「それだけじゃないの。ここにはお客様の楽しんでもらうために、手品用の道具もたくさんあるのよ」
梓「もしかしてあの長い箱みたいなのもですか?」
紬「ええ。ほかにも色々あるのよ」
唯「もしかしてクロヒゲ危機一発とかもある!?」
梓「唯先輩、それマジックじゃないです」
別荘の大きさに反比例するように意外と狭い(一般家庭と比較すれば、やはり広いのだが)浴場で
入浴を済ませたわたしたちは再び広間に集まった。
風呂で身体が暖まったせいなのか、はたまた別の理由なのか、わたしたちは普段以上に饒舌だった。
律「はいはい! わたしから提案があります!」
唯「おお! りっちゃん隊員なんですか!?」
律「わたし、あの天蓋つきのベッドで寝たい!」
紬「あのベッドで寝たいの?」
律「おう! 一度でいいからあんなベッドで寝てみたい!」
澪「でもせっかくみんなで泊まりに来たんだし……」
律「あららあ? もしかして澪ちゅわんったらひとりで寝るのが怖いの?」
澪「そ、そういうことじゃなくてだなっ。わたしとしてはみんなと、その……」
憂「あの……じゃあこうしたらどうですか?」
梓「なあに憂?」
憂「今日はその天蓋つきベッドでひとりで寝て、明日はみんなで一緒に寝るっていうのはどうですか?」
律「あ、それいいな。みんなはそれでいい?」
澪「なんでわたしを見るんだ?」
紬「でも、たしかにたまにはそういうのもいいかも」
唯「じゃあ、そういうことでけってーい!」
唯「あずにゃんは寝ないの?」
既に広間の大時計の針は十二時を回っていた。
わたしと唯先輩の以外のメンバーは三十分前にそれぞれの部屋に退散した。
梓「なんだか目が冴えちゃって……」
正直、他のみんながこんなに早く寝るなんて予想外だった。
普段ならとっくにベッドの上にいる時間だったけど今日はまだ睡魔がやって来ない。
唯「実はわたしもなんだあ」
梓「なにかしますか?」
唯「でも、あんまり夜更かししてると明日起きれなくなっちゃうかも」
唯先輩の口許が緩むのにつられて、自分の唇が綻ぶのを感じた。
唯「あずにゃんなんだか嬉しそうだね」
梓「そうですか?」
唯「うん、あずにゃんなんだか楽しそう」
わたしは目の前のコーヒーカップにミルクを注いだ。
スプーンでカフェオレを混ぜると、中の液体が渦を描いた。わたしは言った。
梓「明日の天気は崩れそうですね」
唯「そうだね。あーあ、明日も外で遊ぶつもりだったのに」
唯先輩が唇を尖らせる。
もっとも口調とは裏腹に唯先輩の表情は明るかった。
唯先輩はスプーンをカップの縁に当てた。甲高い音が部屋に響く。
梓「唯先輩、そのカップ、多分高いんですからそんなことしないでください」
唯「いやあ、なんだか静かだからついつい落ち着かなくて」
唯先輩がもう一度スプーンでコーヒーカップを叩いた。
その行儀悪い行動を咎めようとしたのに、わたしも気づいたら唯先輩と同じ行動をしていた。
唯先輩が少しだけ目を丸くして笑う。
唯「あー、あずにゃんもわたしと同じことしてる」
梓「こ、これは……唯先輩の真似です!」
唯「なにそれ?」
お酒を飲んだらこんな風になるのかもしれない。
お酒を未だに飲んだことのないわたしはそんなことを思った。
わたしの唇は相変わらず緩んだままだった。
しばらく談笑に耽ていたわたしたちだったけど、さすがに朝からのハードスケジュールは身体に応えたらしい。
不意に眠気と疲労を感じて、わたしは目頭を揉む。
動作一つをするのも億劫だった。
今までは遊ぶことに夢中になっていて気づかなかっただけで、どうやら相当疲労が溜まっているみたいだった。
唯「そろそろ寝よっか、あずにゃん」
梓「そうですね。わたしも疲れちゃいました」
唯「あ、そうだ」
唯先輩が手元のティッシュを使ってなにやら作り出した。
……ああ、テルテル坊主か。
唯「これで明日も雨が降らないよ」
梓「そうですね」
唯先輩がわたしに向かって微笑む。
出し抜けに、わたしは自分が飲んでいたコーヒーが
唯先輩によって煎れられたものだということを思い出してもう一度だけ啜った。
それにしても、唯先輩がわたしにコーヒーを煎れるなんて初めてのことなのに。
そんなことまで今の今まで忘れていたなんて。やっぱり疲れてる。
乳酸が蓄積してむくんだ足をさすりながら、わたしは苦笑いを零した。
唯「よーしっ。完成したテルテル坊主も吊したことだし、これでバッチリだね」
唯先輩の弾んだ声を掻き消すように、低く太い風の音が窓の外で響きはじめた。
窓ガラスに雨粒が叩きつけられる音がする。
唯「それじゃあ、解散!」
梓「じゃあまた明日……あ、唯先輩」
唯「なあに、あずにゃん?」
梓「明日寝坊しちゃダメですよ」
唯「……えへへ、寝坊したら起こしてね」
梓「自分で起きてくださいよ」
唯先輩は猫のように舌をペロリと出して笑った。
唯「じゃあおやすみなさい、あずにゃん」
梓「おやすみなさい」
やっぱりこの時のわたしの疲れはピークだったのだろう。
なにせわたしは気づかなかったのだから。
テルテル坊主が逆さまの状態で吊されているのに。
【事件当日:広間:中野梓】
重くまとわりつくような雨音がわたしの耳朶を打った。
広間の窓から見た景色は昨日とは打って変わっていた。
昨日は静かにたゆたっていた海は酷く荒れていて、潮騒まで聞こえてきそうだった。
紬「雨、降っちゃったね」
わたしの隣で、同じように窓からの灰色の景色を見ていたムギ先輩が呟く。
紬「あ、でも安心してね。この別荘にはレクリエーションルームとかも設置されてるから」
唯「二人ともなに話してるの?」
梓「うわっ!? 唯先輩、朝からいきなり抱き着かないでくださいよ……」
唯「なに言ってるの? あずにゃんったら、もう十二時になろうとしているのに」
梓「…………」
唯「あずにゃんはきっとわたしを起こしてくれると思ってたんだけどなあ」
梓「……昨日は疲れてましたから」
唯「ああ、だからあずにゃんはわたしに起こされたんだね」
梓「た、たまにはそういうことがあってもいいでしょ……?」
唯「そうだね~」
わたしと唯先輩。結局、先に起きたのは唯先輩だった。
眠るのが遅かったのと溜まりに溜まった疲れのせいで、わたしが起きたのは十一時を過ぎてからだった。
しかも、わたしは自力で起きたのではなく、唯先輩に起こされた。
澪「そろそろ朝ごはん……ていうか、昼ご飯食べないか?」
ソファーに腰掛けていた澪先輩がみんなに提案した。
唯「わたしもお腹空いたからご飯食べたい!」
紬「そうね。それじゃあ食事にしましょう」
澪「唯、その切った玉ねぎ太すぎだと思う……」
唯「うぅ~、だって目が痛くて開けてられないから上手に切れないんだもん」
紬「唯ちゃん、交代しようか?」
唯「ホントに!? じゃあお願いするよ!」
朝ごはん、もとい昼ご飯のメニューは牛丼だった。
昨日のバーベキューで使った肉とお米が残っていたのと、単純に簡単にできるという理由でこのメニューになった。
べつに牛丼は嫌いじゃない……嫌いじゃないけど……。
わたしは無意識にお腹をさすった。
澪「そういえば律は? まだ寝てるのか?」
唯「一時間前ぐらいに起こしに行ったのに、まだ寝たいって言ってりっちゃん、起きてくれなかったよ」
そこでわたしはあることに気がついて声をあげた。
紬「どうしたの、梓ちゃん?
梓「あの……憂はどうしたんですか?」
唯先輩がわたしの顔を見てから、澪先輩、ムギ先輩の順に視線を移動させていった。
澪先輩もムギ先輩も、互いに顔を見合わせたものの、心当たりがないのか、首を傾げるだけだった。
もちろん、一番最後に起きたわたしは、憂がどこにいるのかなんてわからなかった。
澪「そういえば、朝からずっと憂ちゃんの姿を見てないな」
紬「澪ちゃんも? わたしも今日は憂ちゃんとは会ってないわ」
唯「ちょっと待って。憂にメールしてみる」
唯「憂からの返事が来ない……」
携帯電話のディスプレイを見つめていた唯先輩の眉が八の字の形になる。
唯先輩が憂にメールを送信してからすでに二十分が経過していた。
今まさにフライパンに垂らそうとしていた卵を皿の上に置いて、わたしは先輩たちに提案してみた。
梓「あの……憂を探しに行きませんか? もしかしたらなにかあったのかもしれませんし」
深く考えての発言ではなかった。
けれども、澪先輩たちの表情が僅かではあるが曇った。
唯「憂の部屋を見に行こ」
もちろん、誰一人異を唱えなかった。
そして、わたしたちは憂の寝室で憂の死体を発見した。
【回想終了:広間:琴吹紬】
わたしは広間に戻ってすぐに斎藤との会話の内容について説明した。
話していくうちに、徐々に澪ちゃんたちの表情に絶望にも似た感情がたゆたうのを見るのは胸が苦しかったけれど、
わたしには事実を話すこと以外、できることなどなにひとつなかった。
唯「台風の影響で警察が来れない……」
紬「少なくとも台風が過ぎ去るまでは」
澪「そんな……どうにかならないのか、どうにか……!」
澪ちゃんが顔を俯ける。
澪ちゃんの気持ちは痛いほどわかった。
ほんの十数分前までは、わたしも斎藤に同じことを言っていたのだから。
紬「無理よ。今はとにかくじっとしていましょ」
澪「でも……」
澪ちゃんはそれでもなにか言いかけて、結局口を閉じた。
わたしたちはこの状況に完璧に閉口してしまっていた。
唯「じゃあ、わたしたちはどうしたらいいの?」
梓「どうしたらって……どういうことですか?」
唯「わたしたちはこれからどういう行動をすればいいの、ってこと」
紬「それは……」
唯「だって憂が殺されたこの別荘には、わたしたち以外は誰もいないんでしょ?」
唯ちゃんのその言葉は今までのそれとは違い、確かな質量を持ってわたしの胸に突き刺さった。
室内に漂っていた澱んだ空気に、張り詰めた冷気が混じるのを肌で感じる。
憂ちゃんを殺した犯人がこの中にいるという事実に直視したわたしたちは、お互いの顔を確認せずにはいられなかった。
紬「……とにかく今は、みんなで行動をするべきだと思う」
澪「で、でも、殺人犯がこの中にいるんだろ? 危なすぎるんじゃ……」
紬「じゃあどうするの? みんながそれぞれの部屋に引きこもって、迎えが来るのを待つの?」
澪「そ、それは……そうだ……」
自分の口調がきつくなっているのは自覚していたが、だからと言ってどうしようもなかった。
少しでも気を緩めたら、悲鳴が喉を食い破ってしまいそうな気がした。
紬「わたしは……」
口の中の水分はとうの昔に干上がっていた。
極度の緊張のせいで乾いてしまった唇を舌でなめる。
紬「……わたしは憂ちゃんを殺した犯人がこの中にいるなんて信じられないし、考えたくもない」
梓「……ムギ先輩」
紬「でも、やっぱりどう考えてもこの別荘にいるのはわたしたちだけ。
つまり、憂ちゃんを殺した誰かは、十中八九この中にいると考えて間違いない」
わたしはまともにみんなの顔を正視することができなかった。
すでに芽生えてしまった疑心は胸の内側に絡みついて根を張り始めていた。
紬「わたしは、常にみんな一緒に行動するべきだと思う」
唯「この中に犯人がいるかもしれないのに?」
紬「犯人がいるからこそよ」
梓「どういうことですか?」
紬「仮に……仮に憂ちゃんを殺した犯人がまた誰かを殺そうとしたとするわ」
澪「…………」
紬「一対一だったら敵わないかもしれない。けれども三対一なら十分に勝機はあるわ」
梓「確かにそれなら犯人は下手に動けないから、わたしたちの安全は増す……」
紬「万が一、一人で行動をとったら犯人に殺される可能性はぐっと高まるわ」
唯「この別荘は広いもんね」
梓「これだけ広いと、もし犯人に襲わて、助けを呼んでも気づいてもらえないでしょうしね」
紬「うん。わたしはできるかぎり同じ空間で行動するべきだと思ってる。他のみんなは?」
澪「……ちょ、ちょっと待ってくれ」
唯「どうしたの?澪ちゃん」
澪「どうして犯人が一人だって前提で話しているんだ?」
唯「……え?」
澪「……だから、なんで犯人を一人だと決めつけてるんだ? 一人かもしれない。でも二人かもしれない」
紬「…………」
澪ちゃんの必死の形相にわたしたち全員が押し黙る。
体温が冷えていくのを感じた。
図らずもわたしは窓に視線を移動させていた。
窓越しの暗い空がいかずちに切り裂かれていくのが見えた。
澪「犯人が一人かどうかなんてわからない……仮に、この中に憂ちゃんを殺した犯人が二人いたら……?」
澪ちゃんは、か細く震える吐息とともに言葉を吐き出した。
怯える瞳がわたしと唯ちゃんと梓ちゃんを、獲物を射るかのように観察する。
澪「さっきムギが言った『みんなでいるほうが安全』なんていうのは、逆になるんじゃないのか?」
わたしの隣で梓ちゃんが小さく息を呑んだ。
確かに澪ちゃんが言うことはもっともだった。
憂ちゃんを殺めた犯人が一人だという保証などどこにもない。
一人かもしれないし、二人かもしれない。
忙しなく二つの目を動かして、わたしたちを観察している澪ちゃんが犯人じゃないと誰が証明してくれる?
すっかり口を閉ざして、俯いてしまった梓ちゃんが憂ちゃんを殺していないと言い切れる?
憂ちゃんの姉である唯ちゃんが、その憂ちゃんを手にかけていないという保証は?
わたしが犯人ではないとみんなに信じてもらう術は?
そこまで考えて、わたしはあまりに重要なことを忘れていることに気づいて愕然とした。
紬「……りっちゃんは?」
【廊下:中野梓】
足許が頼りないと思った。
ムギ先輩の別荘の廊下には真っ赤な絨毯が敷き詰められていた。
毛足の長い絨毯に、わたしの足許は沈んでしまっていた。
ムギ先輩の一言によって、ようやく律先輩の存在を思い出したわたしたちは、彼女が使っていた寝室の前まで来ていた。
素人目に見ても質の良さそうなドアは固く閉ざされていた。
澪「律、いるか?」
澪先輩がドアをノックする。数秒待ってみたが返事はない。
澪先輩が再びドアをノックをした。
澪「なにやってるんだ、律……!」
本来なら忘れるはずのない律先輩の存在を忘れていたのは、わたしたちが現在見舞われている状況のせいだった。
あまりの異常な事態に律先輩にまで気が回らなかったのだ。
澪「律……!」
澪先輩の焦燥に満ちた声と、乱暴なノックの音が重なる。
澪先輩はノックをするだけで、決してドアを開こうとはしなかった。
律先輩に会いに来たのだから、ドアを開けばそれでことが済むにも関わらず。
紬「澪ちゃん……」
わたしの背後でムギ先輩が呟く。
わたしも、ムギ先輩も、唯先輩も、澪先輩に対してドアを開けろとは言わなかった。
どうして澪先輩がドアを開けないのか、理由は想像できた。
澪「律っ……!」
不快な緊張感が全身に纏わりついて、心臓の拍動が速くなる。
絨毯に沈んだ足が、そのまま飲み込まれてしまうかのような錯覚に襲われた。
唯「澪ちゃん……りっちゃんはまだ寝てるのかも」
部屋に入って確かめよう、唯先輩はそう言った。
澪「……わかった」
澪先輩がドアノブに手をかける。
わたしの心臓が一際強く跳ねた。
【寝室:平沢唯】
閉じられた遮光カーテンのせいで部屋は暗かった。
わたしの前にいるムギちゃんが部屋の明かりのスイッチを押す。
窓際に置かれたスタンドが室内をぼんやりと照らし出す。
唯「りっちゃーん」
わたしは部屋を見渡した。
天蓋つきベッドとライティングデスクとスタンド以外、部屋には特になにもない。
澪「律?」
澪ちゃんの呼びかけに対しての返事はない。
部屋は対して広くなかったので簡単に一眺めすることができた。
りっちゃんはこの部屋にはいなかった。
りっちゃんが寝たはずの天蓋つきベッドは、キレイにベッドメイクされていて枕だけが顔を出していた。
唯「りっちゃん、ここにいないとなるとどこにいるんだろ……?」
澪「律のヤツ……こんな時になにしてるんだよ……」
脱力してベッドに腰を落とした澪ちゃんが髪を乱暴に掻いた。
普段の澪ちゃんなら髪を掻くなんて行動は絶対にしないはずだった。
梓「本当にこの部屋を律先輩は使ってたんでしょうか……?」
紬「どういう意味?」
梓「わたしたちが部屋を間違えているんじゃないか、ということです」
紬「それはないわ。昨日の夜中にこの部屋にりっちゃんを案内したのはわたしだもの」
梓「……そうですか」
全員、考えあぐねて黙った。
わたしは思いついたことを口に出してみた。
唯「もしかしてりっちゃんが憂……を殺したのかな?」
澪「……なんでそう思うんだ?」
唯「なんとなく。憂を殺したから、りっちゃんはこの別荘のどこかに隠れてるんじゃないかなって考えたんだよ」
澪「そんなのわからないだろ。なにかあったのかもしれない、という可能性だってある」
唯「なにかあった、ってなにがあったの?」
澪「それは……」
紬「二人とも、落ち着いて」
梓「そ、そうですよ。わたしたちがこの場で言い争いをしてもなにも解決しませんよ」
澪「……ごめん」
唯「…………」
紬「とりあえず、広間に戻ろう? 話し合うのはそれからにしましょ」
【広間:平沢唯】
紬「わたしから提案があるの」
全員分の紅茶を煎れ終わったムギちゃんが椅子に座ってからそう切り出した。
紬「一旦、今日あったことをを振り返ってみない?」
澪「アリバイ確認ってことか」
梓「アリバイ確認って……そんな、まるでわたしたちの中に犯人がいるかのような……」
紬「もちろん、わたしもこの中の誰かが憂ちゃんを殺したなんて考えたくないわ」
ティーカップを包み込むムギちゃんの両手が震える。
揺れる紅茶の表面には、いつにも増して白い顔が映っていた。
紬「でも今のところはこの中の誰かが犯人である可能性が高い。
だからこそ話し合って、お互いのアリバイを確かめる必要があると思うの」
梓「わ、わたしは憂を殺してなんかいません……」
澪「……わたしだって殺してないよ」
唯「…………」
……わたしだって、憂を殺してなんていない。
紬「とにかく今日の自分のしたことを教えあお? そうしないとなにも始まらないわ」
紬「わたしと澪ちゃんが起きて広間に行ったのはほとんど同じ時間だったわ」
最初にそう証言をしたのはムギちゃんだった。
紬「広間に行った時間は十時ぐらいだったと思う。そうよね、澪ちゃん?」
澪「うん、たぶんそれくらいだった。わたしとムギは唯がここに来るまで、てきとうに話してたよ」
唯「わたしが広間に来たのが十時過ぎだったよね?」
澪「だいたいそんな時間だったと思う」
梓「わたしが唯先輩に起こされたのが十一時……ですよね、唯先輩?」
唯「そうだね。でも、あずにゃんを起こす前にりっちゃんのところへ行ったよ」
紬「結局、りっちゃんは起きてくれなかったのよね?」
唯「もっと寝たいって言って、起きてくれなかった。だからとりあえずあずにゃんだけ起こして、広間に戻ったんだ」
梓「この間、誰も憂に会ってないんですか?」
紬「ええ。わたしは見てない」
澪「わたしが憂ちゃんの姿を最後に見たのは夜中だな」
紬「わたしも憂ちゃんを見てない……唯ちゃんもよね?」
唯「うん……」
梓「そもそも憂が死んだ時間がわからない以上、アリバイがどうとか言っても意味ないですよね」
紬「……今わかるのは、憂ちゃんはみんなが寝てから
わたしたちが部屋に駆けつけるまでの間に誰かによって殺されたということだけ」
梓「でも、皆さんは憂を……殺してないんでしょう? だったら……」
澪「そう主張したところで、証明することができないだろ」
梓「で、でも十一時以降ならわたしたち全員同じ部屋にいたんだから、アリバイがあるじゃないですか」
紬「十一時以降……たった一時間しかないわ。それに憂ちゃんの状態は梓ちゃんも見たでしょ?」
梓「……!」
紬「あの状態にするのにどれくらいの時間がいるのか……わたしにはわからないわ」
仮にわたしが犯人だったら、まずなんらかの手段で殺してから首を切り落とすだろう。
人の首を切るのにどれくらいの時間が必要か、なんてことはわたしにもわからない。
不意に脳裏に憂の死に姿が鮮明に蘇る。
次の瞬間、目頭が熱くなってわたしは戸惑った。
紬「現時点でわかっていることはここまでね」
ムギちゃんはふと、視線を窓の外にやる。
降り続ける豪雨は一向に止む気配を見せない。それどころか雨は更に強くなっているようだった。
窓ガラスに雨滴が当たって砕ける音を聞きながら、わたしは紅茶を飲んだ。
ダージリン特有の甘い香りが鼻孔をくすぐって食道を熱い液体が、通過していく。
胃にゆっくりと溜まっていく紅茶と同じように、わたしの胸の中である疑問が沈澱し、凝り固まっていくのを感じた。
果たしてみんなは本当に真実を話しているのだろうか。
確かに今のみんなの話を聞いたかぎり、矛盾らしきものはない。
一人一人の一挙一動を終始、注意深く見ていたが奇妙なところもない。
けれども、そんなのは演技でどうにでもなる話だ。
唯「ねえ、みんなは嘘なんてついてないよね?」
紬「嘘?」
ムギちゃんが聞き返す。わたしは頷いた。
唯「今みんなが話したことは本当なんだよね? 信じていいんだよね?」
澪「……わたしは嘘なんて言ってない。今話したことは全部本当だ」
澪ちゃんは早口で言った。
澪ちゃんの瞳が、食い入るようにわたしの目をまっすぐ見つめる。
紬「わたしも、嘘はついてない。全部本当のことよ」
梓「わたしもです」
唯「そうだね。みんなが嘘なんて言うわけないよね……」
紬「そういう唯ちゃんはどうなの? 唯ちゃんが喋ったことは本当に事実なの?」
言ってから、ムギちゃんは目を伏せる。
ムギちゃんの眉宇には、罪悪感にも似た感情が漂っていた。
紬「ごめんなさい……」
憂の死体を見てからというもの、ムギちゃんの口調が辛辣なものに変化することが何回かあった。
普段のおっとりとした口調とは違うキツイそれが
ムギちゃんの精神的余裕の無さから来ていることくらい、鈍いわたしでも容易に想像がついた。
唯「気にしないでよ、ムギちゃん」
そう言ってみたが、ムギちゃんの瞳は伏せられたままだった。
唯「それにわたし、嘘なんてついてないし」
紬「…………」
梓「でも、仮にこの中に犯人がいないんだったら、いったい誰が犯人になるんですか……?」
わたし、ムギちゃん、澪ちゃん、あずにゃん、この中に犯人がいないとしたら、犯人候補は最早一人しかいない。
唯「――りっちゃん」
澪「本気で言ってるのか?」
澪ちゃんが眉を顰める。
唯「冗談でこんなこと言わないよ」
澪「律が犯人って……なんの根拠があってそう言ってるんだ?」
唯「根拠っていうか……ただ、りっちゃんが消えたのは、憂を……殺したからなのかなって思ったんだ」
澪「証拠もないし、まだ律本人から話も聞いてないだろ」
唯「それだよ。なんで、りっちゃんは姿を見せてくれないの? 後ろめたいことがあるからじゃないの?」
澪「他の可能性も十分に考えられるだろ!」
唯「どんな可能性なの? 答えてよっ」
いつのまにか澪ちゃんの目尻には涙が浮いていた。
冷静さを失ったわたしと澪ちゃんの語気は次第に強くなっていた。
梓「唯先輩も澪先輩も、け、ケンカしないでください……」
あずにゃんがわたしと澪ちゃんの言い争いに割って入った。
わたしも澪ちゃんも口を噤む。
唯「……ごめんね、あずにゃん」
今にも泣き出しそうな表情をしたあずにゃんにわたしは頭を下げた。
澪ちゃんも同じように謝る。
紬「だったら確かめに行かない?」
不意にムギちゃんが席を立った。
澪「確かめる? なにを……?」
紬「捜しに行くのよ。りっちゃんを」
【広間:琴吹紬】
広間のテーブルの椅子に腰をかけて、わたしは溜息をついた。
背もたれに身体を預けると背中が沈み込み、服が肌に纏わりついて妙に不快だった。
唯「結局、りっちゃんはいなかったね……」
隣の椅子に座って、唯ちゃんも溜息を漏らす。
わたしの提案で、りっちゃんを捜すことにしたまでは、たぶん、よかったんだと思う。
ただ、捜し出そうにもこの別荘はさすがに広すぎた。
部屋の一つ一つを虱潰しのように捜していっただけでなく
全員が固まって行動していたために、恐ろしいほど時間がかかってしまった。
既に広間の大時計の針は、七時を過ぎていた。
しかも、首尾良く見つかるなんてこともなかった。
梓「……でも、全ての部屋を捜したのにどうして律先輩は見つからなかったんでしょうか?」
梓ちゃんの疑問に対しては、誰も口を開かなかった。
唯ちゃんも澪ちゃんも、先程と似たような問答を再び繰り広げてしまうことを避けたかったのかもしれない。
澪「……正確には全部の部屋じゃない。憂ちゃんの部屋は確認してないじゃないか」
澪ちゃんは目頭を揉んでから言った。
澪ちゃんの言う通り、わたしたちは憂ちゃんの部屋だけは調べなかった。
と言うより、調べられなかった。
満場一致で、わたしたちは憂ちゃんの部屋を調べることを放棄した。
もう一度、憂ちゃんのあの姿を見るということなど、恐ろしくてできなかった。
それに、それまで冷静だった唯ちゃんが、憂ちゃんの部屋の前に来た途端
取り乱し始めたこともわたしたちがその選択をしなかった要因の一つだった。
どちらにしよう、あんな惨状が広がる部屋にずっといられる人間がいるなんて思えない。
紬「そうね。けど、あの部屋にりっちゃんがいるなんて有り得ないと思う」
澪「……まあ、な」
澪ちゃんの眉間を皺が穿っていた。
澪ちゃんは広間に戻ってからというもの、ずっとこんな調子だった。
唯「りっちゃん、どこにいるんだろうね……」
澪「……この別荘は広いからな。隠れようとも思えば、いくらでも簡単に隠れられる」
紬「…………」
わたしは天井を仰いだ。
これといった対策が思いつかなかった。
やれることは全てやったつもりだったが、わかったこどなに一つない。
他になにか自分たちだけでやれることはないか、考えようとしたが
脳の芯が思考のしすぎで錆びついているのか、これ以上ものを考えるということができなかった。
そういえば、朝から一切食事を取ってないことを思い出す。
食欲など皆無だったが、脳が糖分を欲しがっていることは明白だった。
わたしは言った。
紬「……とりあえずなにか食べよう?」
みんなは小さく頷くだけだった。
【広間:秋山澪】
明かり一つない部屋で瞼を持ち上げる。
心身ともに疲労しているにも関わらず、わたしは眠ることができなかった。
視界が零になると、不意に憂ちゃんの姿が鮮やかに瞼の裏に蘇って恐怖に陥る。
身体は疲れきっていたが、恐怖に摩耗した精神はわたしが眠ることを許さなかった。
わたしは鎧を纏ったかのように重い身体をゆっくりと起こした。
豪雨は相変わらず続いている。
大きな雨粒が窓ガラスに叩きつけられ弾ける音が、より一層わたしの恐怖心を煽った。
枕元の携帯電話を手に取って開いてディスプレイを見てみる。
時刻はまもなく夜中の一時になろうとしていた。
わたしを含めた全員は昨日とは違い、広間で川の字を描くように布団を敷いて眠りについた。
一番左端がわたしのポジションだった。
わたしは左から順に、唯、ムギ、梓と目を凝らして見てみる。
――本当にみんなは寝ているのだろうか?
ふとそんなことを思って耳を澄ましてみたが、聞こえてくるのは雨音だけだった。
果たしてこの中に、憂ちゃんを殺した犯人はいるのだろうか。
わたしはもう一度目を凝らしてみる。
やはり、唯もムギも梓も、眠っているように見える。
こんな恐ろしい状況でよく寝ていられるな……怒りなのか、呆れなのか、
判別のつかない名状しがたい感情が湧いて、わたしの胸をひたひたと満たした。
わたしは、今までみんなとしてきた会話を反芻する。
憂ちゃん殺したのが誰かなんていうのは、無論、わたしにはわからない。
だが、わたしにはどうしても気になってしかたがないことがあった。
動機だ。なんのために憂ちゃんを殺す必要がある?
どうして犯人は憂ちゃんを殺した? しかも極めて残酷なやり方で。
一番、憂ちゃんに近しいのは姉である唯だ。唯に憂ちゃんを殺す動機はあるだろうか。
考えるまでもなかった。わたしが思考を廻らせたところでわかるわけがない。
それは梓にしろ、ムギにしろ同じだった。
結局、わたしなんかが頭を働かせたところで疑心暗鬼に陥るだけだ。
思考を手放そうとした瞬間、低い雷鳴とともに鋭い光が窓の外で瞬いた。
不意にある疑問が、雷に呼応するように頭をもたげる。
浮上した疑問は二つあった。
一つは憂ちゃんの死体状況。
わたしたちが発見した時には、憂ちゃんは既に首を斬られていた。
いったいなにを使って犯人は、憂ちゃんの首を切り落としたのか。
真っ先に思いついた凶器はノコギリだった。
だが、ただの女子校生の力で人間の首を切断することは可能なのだろうか。
……いや、そんなことは問題じゃない。問題はどこから凶器を調達したのかということだ。
考えられるパターンとしては二つ。犯人自身が自分で凶器を持ってくる。
或いは、この別荘の物置部屋にあったノコギリなどを頂戴したか。
だが、後者だとしたら、奇妙なことになる。
わたしたちがこの別荘を訪れたのは今回が初めてだ。
つまり、この別荘に凶器になるものがあるかどうかなんて、わかるはずがない。
再び雷が鳴る。わたしははっとして横たわるムギを見た。
ムギはわたしに背を向ける形で、布団を被って眠っていた。
今、わたしたちがいるのはムギの家の別荘だ。
ムギならこの別荘にノコギリがあったことを知っていてもおかしくはない。
そこまで考えて、わたしの思考の糸と糸は絡まって、もつれた。
ひたすら友達を疑う自分に、嫌気がさして顔をしかめる。
にも関わらず、夜の闇に疑心暗鬼を掻き立てられたわたしは、眠っているはずの三人を監視していた。
澪「……わたしって、こんなにいやなヤツだったんだな……」
わたしはかぶりを振って、もう一つの疑問へと考えを移すことにした。
もう一つの疑問……しかし、わたしの思考がそれに及ぶことはなかった。
キイィッ…………
金属の軋む音を聞いた、と思った。音がした方向へと視線を向ける。
広間を満たす闇に、既に暗順応していた目は、なにが起こったのかをはっきりと理解した。
広間の扉が僅かに開いていた。
毛穴が粟立って、全身の産毛が逆立つのを感じた。
吸い込んだ息が喉の奥で音を立てる。
身体が恐怖に凍りついて身じろぎ一つできない。
間違いない。誰かが扉の向こう側にいる。
誰だ?
扉の前にいるのは誰だ?
雷鳴がとどろいた。室内が光に包まれる。不意に金縛りが解ける。
遅れて脳髄が急速に働きだした。わたしは反射的に布団から飛び出していた。
小学生でもわかる問題だった。要は引き算。わたしと唯と梓とムギがこの部屋にいる。
そして憂ちゃんは……言うまでもない。
だったらこの別荘に残っている人間は、ただ一人。
澪「律っ……!」
わたしは扉を開け放って部屋を飛び出した。
【廊下:秋山澪】
深い暗闇が左右両方に口を開いていた。
威勢良く飛び出したのはよかったが、律が右か左、どちらへ去ったのかは判断できなかった。
得体の知れない焦燥に背中を焼かれているようだった。
律はどちらへ行ったのか……。
携帯電話の撮影用ライトを使って廊下を照らす。
光の強さは大したものではなかったが、ないよりはマシだろう。
澪「…………?」
暗いせいで、はっきりとは視認できなかったが、なにかが床に転がっているということがわかる。
左手側に進んで、床の絨毯に落ちていたその物体を広いあげる。
わたしが手に取ったそれは、カチューシャだった。
このカチューシャの持ち主が誰か。決まっている。
律以外、このメンバーの中にいるわけがない。
再び低い雷鳴が聞こえる。明らかに雷鳴の間隔が短くなっている。
今夜が台風のピークなのかもしれない。
雷鳴に合わせて自分の心臓の鼓動が早くなっていくのを感じる。
もちろん、この暗く長い廊下はわたしの恐怖心を煽るのには十分だ。
だがそれ以上に、疑問が氷解していく達成感にも似たなにかが、わたしの鼓動を速くしていた。
なぜ律がわたしたちの前に姿を表さないのか、理由は幾つか思いついたが
推測するよりも直接会って、聞き出したほうが手っ取り早いし、なにより確実だ。
聞きたいことは沢山ある。疑問も掃いて捨てるほど溢れている。
わたしは雷鳴に急かされるように暗闇へと歩を進めた。
携帯電話を片手に慎重かつ注意深く、律を捜していたわたしの足はそこで止まった。
わたしの目の前には、律が使っていた寝室のドアがある。
律がこの部屋にいるとは思えない。しかし、律の所持品は全てここに置いてあった。
痕跡らしきものぐらいなら、見つけることができるかもしれない。
わたしは小さく息を呑みこんで、ドアノブに手をかけた。
「 」
次の瞬間、首筋をひんやりとした金属の感触が伝った。
低く押し殺した声。首筋に宛がわれた、鋭利で冷たい金属の感触。
よく知っているはずの人物の声なのに、声の主を脳裏に描くことができない。
全身の汗腺が開いて汗が噴き出る。
それ自体が質量を持っているかのような圧倒的な殺意に総毛立つ。
足許から這い上がってくる震え。顔の血が音を立てて引いていく。
間違いなく自分はこの場で殺されるという確信と絶望。
馬鹿な。いつからわたしの背後にいた。
いつの間にか、律を追うことに夢中になって、注意散漫になっていたのだろうか?
澪「…………だ、誰?」
わたしは背後の人物に尋ねた。みっともないほど声が震えている。
後ろを振り返る余裕などどこにもなかった。
「…………」
背後の人物は答えない。
不意に肩を掴まれる。恐ろしいほど強い握力に、肩が悲鳴をあげる。
強すぎる力に引っ張られ背中が後ろに反る。
「 しね 」
熱い吐息が首筋にかかる。悲鳴をあげる暇などなかった
刹那、背中に焼けるような痛みが走る。
鋭いなにかが肌を突き破り、肉をえぐり取って、わたしの中身を侵していく。
なにかに侵食された部分から、真っ赤な液体が溢れ、そして、零れ落ちていく。
背中が意識とは無関係に痙攣して、手足は急速に体温を失っていった。
食道を逆流した熱い液体が、口の中に広がる。鼻孔を鉄の臭いが満たしていく。
気づけば目の前に扉が迫っていた。
扉とわたしの頭が激突する。本来なら感じるはずの痛みを感じない。
既に痛覚は正常に機能しなくなっていた。
感じるのは、生命の灯が消えるという恐怖だけ。
わたしは最後の力を振り絞って、首を動かす。
ただ、首を動かすというだけの動作なのに、命そのものを削っているかのような苦痛を伴った。
濁りつつある視界に、ソイツは映った。
澪「――ゅ、……がぁっ……!」
肉のえぐられる音に、わたしの最後の声は潰された。
どうして彼女がわたしを殺すのかということにさえ疑問を持てない。
視界が急激に狭くなっていく。
肉が刃物によって侵食される音だけが、最後まで耳にこびりついて離れない。
「 しね 」
意識が途絶えるとき、また、刃物が肉を突き破る湿った音を聞いた。
身体のどこを刺されているのかは、もうわからなかった。
【広間:中野梓】
うつらうつらとしながら、浅い微睡みと覚醒を繰り返していた。
……眠れない。
身体をゆっくりと起こして携帯電話を開く。
ちょうど五時を回ったところだった。
わたしはふと、右隣りで眠っているムギ先輩を見た。
かけ布団から出ている肩は、規則正しく上下している。少なくとも今は眠っているようだった。
梓「…………?」
そこでわたしは気づいた。
唯先輩が眠っているはずの布団が、無人になっていることに。
胸騒ぎがする。
粘度の強い脂汗が額を伝って、頬を滑り落ちていった。
わたしは急いで広間を見渡す。
梓「ぁ……」
わたしは胸を撫で下ろした。安堵の溜息が無意識に唇から漏れた。
唯先輩は顔だけは出したまま、かけ布団に包まって、ソファーに座っていた。
部屋が暗いせいで、唯先輩の表情を窺うことができない。
闇に紛れるように身じろぎ一つさえせず、唯先輩はただひたすら虚空を見つめていた。
梓「唯先輩……」
唯先輩の顔が、わたしの方に向いた。
唯「どうしたの、あずにゃん……?」
梓「いえ……眠れなくて」
わたしは立ち上がって、唯先輩の隣に腰をかけた。
梓「眠れないんですか?」
唯「うん……やっぱりね。あずにゃんだって、そうなんでしょ?」
梓「ええ、まあ……」
瞼を赤く腫らした唯先輩が力無く笑う。
目の回りが黒ずんで見えるのは、おそらく隈のせいだろう。
唯「あずにゃん、目が赤いけど大丈夫?」
梓「わたしは大丈夫です。そういう唯先輩こそ、目に隈ができてますよ」
唯「あはは……わたしもほとんど寝てないからね……」
急に耐え難いほどの眠気に襲われて目を擦る。
ソファーに体重を預けていると、このまま本当に眠れそうだった。
欠伸を噛み殺して、わたしは言った。
梓「雨、早く止むといいですね」
唯「そうだね」
相変わらず激しい雨は降り続いていたが、雨音は心なしか弱まっている。
夜中は雷鳴が鳴り止まなかったが、それも今は落ち着いているようだった。
梓「わたしたち、助かりますよね……」
わたしは唯先輩に尋ねた。頷いてほしかったのかもしれない。
抑鬱的な気分が付き纏って離れなかった。
想像したくないのに、嫌な考えばかりが頭の中に去来する。
唯「……うん」
唯先輩の返事は、間の抜けたものだった。
しばらく、わたしも唯先輩も会話を交わさなかった。
日頃、お喋りな唯先輩が口を閉ざしたままというこの状況がわたしの不安をまた増長させた。
沈黙を破ったのは、わたしでも唯先輩でもなかった。
紬「唯ちゃん、梓ちゃん……澪ちゃんは!?」
布団から跳ね起きたムギ先輩は、蒼白な面持ちをしていた。
わたしは澪先輩が眠っているはずの布団を見た。
澪先輩はそこにはいなかった。
【廊下:中野梓】
澪先輩は思いの他、あっさり見つかった。
澪先輩は廊下に俯せになって横たわっていた。
澪先輩の回りだけ、赤い絨毯が赤黒く染まって、周囲に鉄錆を思わせる悪臭を撒き散らしている。
投げ出された手の甲はまるで死体のように白く、血の気を微塵も感じさせなかった。
知らず知らずのうちにわたしの足は震えていた。
顎が意識とは無関係に震え、歯と歯がぶつかってカチカチと不快な音を奏でる。
唯「み、おちゃ、ん……?」
唯先輩の呆然とした声。
脳の芯が雷にでも打たれたかのように痺れている。
あれはなに?
澪先輩?
どうして澪先輩の服はそんなに破れているんですか?
どうして澪先輩の身体からはそんなに血がいっぱい出てるんですか?
どうして澪先輩はそんなところで寝ているんですか?
空気を裂くかのような悲鳴が鼓膜を直撃した。うるさい。そう思った。
その悲鳴がわたしの喉から出ていると気づいたときには、わたしの意識は闇に沈んでいた。
【広間:琴吹紬】
どれくらい時間が経ったのか、時間に対する感覚が曖昧になっているわたしには全くわからなかった。
時計の秒針を遥かに凌ぐ早さで、心臓が脈を打っていた。
なにがなんだか理解できない。
なんで澪ちゃんが死んでいたのか。どうしてあんな場所で死んでいたのか。
様々な疑問がまともな形にならないまま頭の中で、ごった返しになっていた。
ただ一つだけ確実にわかることがある。
このままだと間違いなくわたしたちは死ぬ。殺されてしまう。
他でもない。この別荘にいる誰かによって。
気持ち悪い。
胃の中を棒状のもので掻き混ぜられているかのように、吐き気が込み上げてくる。
唯「あずにゃん……しっかりして…………」
唯ちゃんが布団に横たわる、梓ちゃんの小さな手を握る。
その手は僅かに震えている。
澪ちゃんの死体を見て気絶した梓ちゃんを、ここまで運ぶのはそれほど苦労しなかった。
むしろ梓ちゃんが気絶していなければ、わたしが気絶していたかもしれない。
唯「ムギちゃん、あずにゃん大丈夫かな?」
いつの間にか正面に座っていた唯ちゃんが、不安げに呟く。
大丈夫だと思う。そう答えつつ、唯ちゃんの表情を全神経を研ぎ澄まして観察する。
目の下の隈。充血して濡れた双眸。血の気を失った薄い唇。蒼白になった顔。
唯「ムギちゃん、わたしの顔になにかついている……?」
紬「……」
果たして言うべきなのか逡巡する。
背中をジリジリと焦がすような焦りと友達を疑うことに対する罪悪感の狭間で、わたしの心は揺れていた。
残すところ、この別荘で生きている人間は四人。
わたし。唯ちゃん。梓ちゃん。そして行方の知れないりっちゃん。
この中に犯人がいるとしたら誰なのか。
目的も動機も不明。手がかりもなに一つない。警察は未だ来れる状況ではない。
わたしは唯ちゃんをまっすぐ見据えた。
紬「正直に答えてほしい。唯ちゃんは誰が犯人だと思う?」
唯「え? ……な、なに? いきなりどうしたの?」
紬「唯ちゃん。わたしたちは今、最悪な状況よ」
唯「…………」
紬「澪ちゃんが殺された。残るはわたしと、唯ちゃんと梓ちゃん。そして、行方のわからないりっちゃん」
唯「わ、わたしは澪ちゃんを殺してなんか……!」
紬「わたしもよ。でも、そんなことを言ったら、犯人は誰になるの?」
唯「お、落ち着いてよ、ムギちゃん! ムギちゃん、メチャクチャなこと言ってるよ……!」
わたしは浮きかけていた腰を椅子に落として、溜息をついた。
唯ちゃんは明らかに狼狽している。
唯「落ち着こうよ……。このままじゃ、わたしたちみんな、ホントに……」
唯ちゃんの語尾は、窓硝子の向こうの雨に吸い込まれていった。
全体重を背もたれに預け、わたしは再度溜息を零した。
頭蓋を中で、わたしの考えは右往左往する。
激しい焦燥を感じているのに、これ以上行動を起こそうとする気力が湧いて来なかった。
唯ちゃんはそんなわたしをすがるように見る。
ごめんなさい……わたしにできる最後のことは友達を疑うことだけだったみたい。
唯「ムギちゃん、どうするの……?」
紬「わからない。今は警察が来るのを待つことぐらいしか浮かばないの」
自分に嫌気がさす。
昨日までのわたしは、まだ、友達をできるかぎり信じようという思いを持っていた。
でも、今はどうなのだろう。
唯ちゃんに対してわたしが抱いているのは、単なる不信感でしかないのか。
去年の合宿で五人でした花火を思い出す。
淡く燃える線香花火をじっと見つめていた自分。
わたしが作りあげた絆は所詮、線香花火程度のものでしかないのか。
風が吹けば消えてしまうような脆弱なものにすぎないのか。
これ以上、なにも考えたくなかった。
諦めにも似た心境でわたしは目を閉じる。
わたしの意思を無視して、昨晩の光景がフラッシュバックした。
【昨夜:浴場:琴吹紬】
六人で足を踏み入れた時の活気が嘘のようだった。
そんなことを思いながら、蛇口を捻り、勢いよく飛び出るシャワーを頭から被る。
濡れそぼった髪に、泡立てたシャンプーを染み込ませていく。
瞼を下ろして髪を洗うことに集中する。
髪の汚れが落ちていくのに合わせて、神経が研ぎ澄まされて視覚以外の感覚が鋭敏になっていくのを感じた。
鼻につく甘ったるいシャンプーの匂い。立ち上る湯気の肌触り。
シャワーが床を伝って排水溝に吸い込まれていく音が妙に耳についた。
目を閉じていたせいだろうか。
不意に海馬にこびりついていた記憶が脳裏をよぎる。
澪ちゃんと憂ちゃんの死に姿が鮮明に瞼の裏に蘇った。
神経が限界まで張り詰め、全身の産毛が逆立つ。
わたしは睫毛にかかった泡を無視して、両目を開いた。
度の合わない眼鏡をかけたような視界に、ぼんやりとした輪郭が浮かび上がる。
それが鏡に映った唯ちゃんだと気づくのには数秒かかった。
唯ちゃんは背後に立って、わたしを見下ろしていた。
紬「なにかあったの?」
唯「ううん、ただシャンプーを貸してもらいにきただけだよ」
無くなっちゃったからさ。そう言って唯ちゃんはわたしの髪に触れた。
唯「ムギちゃんの髪の毛ってすごい綺麗だよね」
紬「……ありがとう」
褒められたのに素直に喜べなかった。
暖かい湯を浴びているのにも関わらず、身体の奥から得体の知れない寒気が湧いてくる。
シャワーの勢いを最大にして頭から湯を浴びる。
紬「…………?」
髪の毛を包んでいた泡を、シャワーで完璧に流したのと、
唯ちゃんの視点がある一点に注がれているのに気づいたのは、ほとんど同時だった。
唯ちゃんの眼球がゆるりと動く。
唯ちゃんが目で追いかけていたのは、わたしの頭から抜け落ちた髪だった。
湯と一緒に床を滑っていくそれは、やがて渦を描いて排水溝に吸い込まれる。
紬「唯ちゃん……?」
唯「…………」
唯ちゃんは、ややあってから言った。
唯「ムギちゃん――」
身体の汚れを落としたわたしは湯舟に浸かった。
紬「……ふぅ」
湯舟に浸かると、汗腺が一層開いて身体の奥底の汚れを吐き出した。
凝り固まった筋肉が、ゆっくりと弛緩していく。
借反めの安堵にひたりながら、わたしは軽く伸びをした。
澪ちゃんも、唯ちゃんも、梓ちゃも、わたしと同じように無言で湯の中で身体を伸ばす。
唯「……わたしね、ホントに憂のことが好きだったんだ」
なんの前触れもなかった。
唯ちゃんの声が静かに浴場にこだました。
梓「唯先輩……?」
梓ちゃんが不思議そうに、唯ちゃんの顔を窺う。
唯ちゃんの独白は続いた。
唯「憂はね、昔からわたしを守ってくれた。わたしを好きでいてくれた」
紬「…………」
唯「わたしが誰かにイジメられてる時もそうだった。
わたしが自分の殻に閉じこもっていた時も。
どんな時も憂はわたしの側にいてくれた。
いつもわたしのことを思ってくれた。
わたしのことを好きでいてくれた。
わたしもそんな憂のことが大好きだったんだ」
梓「唯先輩は……憂のこと、本当に大好きなんですね」
唯「うん、大好きだったよ」
唯ちゃんが頷く。上気した頬を水滴が伝い落ちていく。
唯ちゃんが、手で湯を掬いあげて乱暴に顔を擦りあげた。
唯ちゃんの言葉に枯れ葉が落ちた泉のように、わたしの中に波紋を起こす。
大好きだった。
唯ちゃんはどんな気持ちでこの言葉を呟いたのだろう。
【広間:琴吹紬】
突如、頭の中で白い閃光が爆ぜる。
わたしは声をあげて顔をばっと、起こした。
唯「び、びっくりした……! む、ムギちゃん!?」
走馬灯のように脳裏を駆け巡る記憶のせいで、唯ちゃんの声はぼんやりとしか聞こえなかった。
脳がキリキリと音を響かせて、急速に動き出す。
唯「……ど、どうしちゃったの、ムギちゃん?」
紬「ごめんなさい。少しだけ黙って、唯ちゃん」
唯「う、うん……」
わたしはキツく目を閉じて下唇を噛む。
記憶の海から事件のヒントを手繰り寄せるために、慎重にけれども、早く、頭を回転させていく。
間違いなくヒントは今の回想の中にあった。
酷く曖昧で、それは確実にこの事件の解決に繋がるかどうかは、はっきりしていない。
だが、アレがわかれば……
不意に脳裏に閃くものがあった。わたしは目を開いた。
紬「…………!」
ほとんど反射的に、わたしは椅子から立ち上がった。
驚く唯ちゃんも、気絶した梓ちゃんのことも一瞬視界から消える。
芋蔓式に、様々な光景が瞼の裏で瞬く。
紬「唯ちゃん、ついて来て」
唯「ちょ、ちょっとムギちゃん、引っ張らないでよ……!」
わたしは唯ちゃんの手を引っ張っていた。
行くべき場所は既に決まっている。
【浴場:平沢唯】
ただならぬ様子のムギちゃんに引っ張られるまま、わたしは浴場へと訪れていた。
まだ、微かに湯気の漂う浴室をムギちゃんは迷うことなく進んでいく。
唯「ちょっとムギちゃん、どうしちゃったの!?」
紬「わかるかもしれない……!」
唯「なにを?」
紬「犯人が」
わたしは図らずも立ち止まる。
わたしに釣られるように、ムギちゃんも歩を止めた。
唯「わかったの?」
紬「まだ、わかるかも、って段階」
ムギちゃんはそう言うと、踵を返した。
わたしはただ、立ち尽くしていた。
【浴場:琴吹紬】
予感はもう確信に変わりつつあった。
未だに熱を持った、タイルの上を歩きつつ、わたしは備えつけられた鏡を見た。
僅かに曇った鏡に、緊張と興奮に強張ったわたしの顔が映る。
わたしはそこで足を止める。
目的は最初から『コレ』の状態を確かめることだった。
紬「……やっぱり」
わたしはソレを手にとる。
目を凝らすまでもなく、それがなんなのかを理解した。
初めて手応えのようなものを感じて、わたしは拳を握りしめる。
だが、次の瞬間、わたしの胸に去来したのは事件のヒントを掴んだという達成感ではなかった。
紬「…………ぇ?」
予想外すぎる事態に対する戸惑いが、わたしに間の抜けた声を漏らされた。
紬「……どういうこと?」
ようやくヒントを見つけた。
そう思ったのは、どうやら本当につかの間らしかった。
引っ張りあげた思考の糸が再び絡まり縺れる。
有り得ないことが起きている。
コレはいったいどういうこと?
警告音が頭蓋の中で響き渡る。
気づいて。気づいて。わたしはまだなにかを見落としている。
唯「ムギちゃん、なにかわかった?」
背後から唯ちゃんに尋ねられ、わたしは振り返る。
紬「ちょっと待って。わかる気がする。わかる気がするのに、わからない」
唯「ムギちゃん、それより……」
紬「……なに?」
唯「あずにゃんが一人っきりだと危険だよ」
【広間:琴吹紬】
唯「あずにゃん、大丈夫?」
梓「え、ええ、なんともありませんでしたよ」
わたしと唯ちゃんが、浴場へ足を運んでいる間に梓ちゃんは気絶から目覚めたらしかった。
黒い髪の下の顔は紙のように白かったが、思いの他、はきはきと梓ちゃんは答えた。
唯「よかった……」
梓ちゃんが無事であることがわかり、唯ちゃんは胸を撫で下ろした。
紬「梓ちゃん、本当になにもなかった?」
梓「特には……わたしは大丈夫です」
唯「本当によかった。もし、これであずにゃんまで……」
唯ちゃんはそこで言葉を切った。
梓「そうですね……」
紬「…………」
六人でこの別荘を訪れたのに、今、広間にいるのはたったの三人だけ。
忍び寄ってくる憂鬱を振り払うように、わたしはかぶりを振る。
三人……?
紬「唯ちゃん、梓ちゃん、以前にもわたしたち三人だけになったことがあったよね?」
唯「ここに来てからの話?」
紬「うん。確か三人で……?」
喉元まで出かかっているのに、そこから先へと記憶が進まない。
梓「もしかして、わたしたち三人でバーベキューの器具を片付けに行った時のことですか?」
おずおずと梓ちゃんが、言った。
それこそ、わたしが思い出したことだった。
【物置部屋:琴吹紬】
梓「暗いですね」
梓ちゃんの言う通り、物置部屋は光を入れるための窓もなければ、明かりもなく、ほとんど真っ暗に近かった。
わたしは照明のスイッチの側に備えつけされている懐中電灯を、手探りで探す。
紬「……あれ?」
本来あるはずの、懐中電灯が見当たらない。
しばらく壁に手を這わせていると、懐中電灯の代わりにスイッチに指が触れる。
もっとも照明はとうの昔に切れているので、そのスイッチ自体に意味はなかった。
唯「そういえば明かりつかないんだよね?」
紬「そうなんだけど……」
仕方がないので、携帯電話の撮影用ライトで部屋を照らす。
紬「…………!」
予想通りであったことと、予想外であったこと。
その二つに直面して、わたしは首を傾げた。
新たな疑問が、頭をもたげ、それがまた思考の妨害をする。
唯「ムギちゃん……?」
紬「……唯ちゃん、唯ちゃんは自分の寝室になにがあったか思い出せる?」
唯「え……えーと……」
梓「そんなにものはなかったはずです。あったのは……」
紬「ベッド、デスク、スタンド……それだけ」
梓ちゃんの言葉をわたしが引き継ぐ。
梓ちゃんは頷いた。
紬「わたしが話したこと、覚えてる?」
唯「ここにバーベキューセットがあること?」
紬「違う。そうじゃなくて……」
梓「手品用の道具がこの部屋にはたくさんある、ですか?」
紬「そう。それ」
徐々に事件の全貌が見えてきた。
完璧には程遠い推理。
けれども犯人だけは、確実にあっている推理。
蓋を開ければあまりに単純であるトリックとも呼べない、陳腐な手を使った殺人劇。
だが、あれはどうなる。あれは…………。
絡みあってくちゃくちゃになった思考の糸を筋道を立てて、順にほどいていく。
焦っちゃダメ。焦るな。見落としていることはないか。
紬「……!」
脳裏に鋭い光が再び弾ける。
紬「唯ちゃん、梓ちゃん……」
わたしは言った。声は震えていた。
紬「犯人が、わかった」
【廊下:中野梓】
わたしと唯先輩とムギ先輩は、ある寝室の前まで来ていた。
ムギ先輩から犯人の名前を聞いた瞬間は納得することができなかった。
実際ムギ先輩は説明をしようとはしなかった。
唯「ムギちゃん、本当なの……?」
紬「たぶん。間違いないわ」
心臓がけたたましく鳴っている。
どうして彼女が人殺しを?
そう疑問をもたずにはいられなかった。
いや、それは彼女の口から聞き出せばいいことか。
ムギ先輩の白い手がドアノブを掴む。
わたしは知らず知らずのうちに息を呑んでいた。
扉が開く。
【寝室:中野梓】
部屋に足を踏み入れて、最初に込み上げてきたのは強烈な吐き気だった。
堆積してそのまま発酵したかのような鉄錆の臭いが、室内に充満していた。
ムギ先輩が明かりをつける。
天蓋つきベッド。
ライティングデスク。
スタンド。
そして、憂の顔が乗ったもう一つのテーブルが、部屋の奥を陣取っていた。
紬「死んだふりはもう終わりにしていいわよ、憂ちゃん」
とっくに死んでいるはずの憂の唇が、ゆっくりとめくれ上がる。
梓「う、憂………っ」
憂の目がわたしを見て、嬉しそうに細まる。まるで獲物をいたぶって楽しむ猫のように。
憂「あーあ、バレちゃいましたか」
不意に憂の姿が消えた、と思った。
なにかが床に倒れる鈍い音とともに、憂がテーブルの下から這うように出てくる。
憂「ふふ、一日振りだね、梓ちゃん」
憂が嬉しそうに唇を綻ばせる。
見慣れているはずの笑顔なのに、見た途端、足許から恐怖が這いでてくる。
紬「澪ちゃんを殺したのは、憂ちゃん、あなたね?」
憂「はい。その通りです」
いつもとなんら変わらない調子で、憂は頷いた。
【寝室:琴吹紬】
どうして死んだはずの憂ちゃんが、生きているのか。
簡単な話だった。単純に死んでいなかったからにすぎなかった。
憂ちゃんは『スフィンクス』という古典的なマジックを利用して、わたしたちの目を欺いた。
憂ちゃんが使ったマジック。
予め穴のあいたテーブルを用意し、サイズピッタリの鏡を机の足と足の間にはめる。
後は顔を通してしまえば、鏡による目の錯覚で、テーブルの下はなにもないという風に見える仕掛けになっていた。
紬「まんまとはめられたわね」
憂「そうみたいですね」
梓「で、でも……じゃあ、この部屋の臭いはなんなんですか?
憂が死んでないのなら、誰の臭いだって言うんですか!?」
梓ちゃんの声はほとんど悲鳴に近かった。
部屋に充満する血の臭い。
これの正体は、わたしの考えが正しければ一つしかない。
わたしは息を呑んだ。口の中の水分は既に干上がっていた。
紬「血の臭いの正体は、りっちゃんでしょう?」
憂「すごいですね。紬さん。ええ、そうなんです。その通りなんですよ」
憂ちゃんの人差し指がテーブルの中を指す。
わたしはその口を開けた暗闇の中を見るために、目を細めた。
最初、それがなんなのか理解できなかった。
既に解答はわかっているのに、それがなんなのか認識できない。
憂「なにかわかりませんか?」
憂ちゃんがテーブルの下に手を突っ込み、掴んだそれを掲げる。
梓「ひぃっ…………!」
わたしより先に、梓ちゃんがそれの正体に気づいた。
わたしには、それは人差し指のように見えた。
赤黒く変色した指を、弄びながら憂ちゃんは笑った。
憂「リアリティを演出するために、律さんには死んでもらいました」
ようやくわたしはテーブルの中の正体に気づくことができた。
バラバラというより、ミジミジに切り刻まれた、肉の固まり。
りっちゃんは憂ちゃんによって、限界ギリギリまで刻み込まれたのだ。
りっちゃんはほとんど原形を止めていなかった。
言われたところで、それがりっちゃんだと認識できる人がどれくらいいるというのか。
不意に足許が頼りなくなって、わたしはよろめいた。
口許を覆って、吐き気を堪える。
憂「ところで、紬さんはどうしてわたしが生きているってわかったんですか?」
紬「……浴場の排水溝に髪の毛が残ってたのよ」
憂「髪の毛?」
紬「わたしたちが昨日お風呂に入ったのは夜十時。その時に排水溝のを掃除しておいたの」
憂「ああ……わたしが澪さんを殺してから、身体を洗ったのが二時頃。髪の毛が排水溝に残ってたんですね」
紬「ねえ、憂ちゃん。あなたは最初からわたしたちを殺すことを計画していたの?」
憂「さあ?」
わたしの質問に対して憂ちゃんは肩を竦める。
だが、わたしには確信があった。
今回の打ち上げが決まったのが二週間前。
今回の打ち上げで一番でかい別荘を使うことは、決まったと同時にみんなに連絡していた。
そして、打ち上げの決まったその日に、憂ちゃんはわたしに電話してきた。
『お姉ちゃんのことが心配だから、今回使う別荘について教えてください』
わたしは、憂ちゃんの質問に対して、できるかぎり細かく答えた。
今思えば、あれはわたしたちを殺すための計画を練っている最中だったのだろう。
梓「ちょっと待ってください」
不意に梓ちゃんが声をあげる。
梓「律先輩はいつ殺されたんですか……?」
紬「それは……」
わたしは憂ちゃんの顔を見た。
憂ちゃんは唇にうっすらと笑みを張りつけているだけで、質問には答えない。
紬「それは……昼の十一時以降から、わたしたちが憂ちゃんの部屋に行くまでの間の時間……」
梓「それじゃあ、たった一時間しかありませんよ!? おかしいじゃないですか!?」
確かにおかしい。
いくらなんでも、殺して、その上身体をバラバラにするには時間が足りなさすぎる。
わたしが深い思考の海に潜りこもうとした時だった。
背中を強烈な違和感が襲った。
立っていられないほどの重い衝撃。
いったいなにが起きたのか。
唯「ごめんね。ムギちゃん。わたし嘘ついちゃった」
唯ちゃんが、わたしの背中を刃物で突き刺していた。
足許が沈む。
なにかが床に投げ出される鈍い音を聞いたと思った。
自分が床に叩きつけられる音だった。
嘘をついちゃった?なにを? どこで?
背中から噴き出る血とともに疑問が溢れる。
けれども、それすらも背中を襲う激痛に飲み込まれる。
明滅する視界に唯ちゃんの顔が映る。
一瞬だけ悲しみに歪んだように見えた。が、暗い闇に塗り潰されていく。
「ごめんね、ムギちゃん」
上から声が声が降ってくる。
だが、すぐにそれは闇と静寂に変わった。
【寝室:平沢憂】
琴吹紬は床に横たわったまま絶命していた。
実にあっけない。そう思った。
わたしは残った一人に視線をやる。
くずおれた梓ちゃんは、呆然と息絶えた紬さんを見ていた。
まるで生気を抜かれたかのように、口を開いたまま凄惨たるその光景を見つめていた。
梓「……どうして、唯先輩がムギ先輩を殺すんですか?」
機械が喋っているかのような生気の抜けた声。
梓ちゃんの質問に答えたのはお姉ちゃんだった。
唯「まだ、わからないの? あずにゃん、わたしと憂は協力してたんだよ」
梓「意味がわかりません」
唯「じゃあ、あずにゃんは、わたしがムギちゃんについた嘘がなにかわかる?」
梓「……わかるわけありません」
唯「少しは考えなよ」
梓「いやです。なにも考えたくありません。それより質問に答えてください」
唯「……だからさ。わたし、昨日の朝にね、ムギちゃんに嘘ついたんだ……ううん、ムギちゃんだけじゃない」
梓「…………」
唯「みんなに嘘ついたんだよ。
りっちゃんを十一時に起こしに行ったって、ね。
これね、嘘だったんだ」
梓「……どういうことですか?」
唯「実際には、りっちゃんは一日目の夜中に死んでたんだよ」
憂「みんなが寝室に入ってから、わたしが律さんを部屋に呼びつけて殺したんだよ」
梓「…………」
唯「わかったかな、あずにゃん?」
梓「……わかりたく、ありません」
梓ちゃんがわたしとお姉ちゃんを見る目は、酷く怯えていた。
絶望に染まった双眸には、わたしたち姉妹が映っている。
梓「……なんで、ムギ先輩も律先輩も澪先輩も殺したの?」
憂「邪魔だから」
わたしはぴしゃりと言い放った。
憂「邪魔で邪魔で仕方なかったんだよ。わたしとお姉ちゃんの間に軽音部なんていらない」
ずっと前から思っていた。
お姉ちゃんに蚊のように纏わりつく軽音部の人間が嫌いだった。
嫌いというより憎んでいた。わたしに巣くった憎しみが、殺せ殺せ、とわたしにうったえた。
お姉ちゃんから今回の打ち上げの話を聞いたとき、わたしの激情を押さえ込んでいたキャップが外れた気がした。
殺してやる。
わたしからお姉ちゃんを奪おうとする、軽音部を潰してやろうと思った。
わたしはお姉ちゃんにうったえた。
わたしはお姉ちゃんが好き。だからわたしだけを見て。
他人なんかどうでもいいから、わたしだけを見てくれ、と。
お姉ちゃんはわたしの願いを受け入れてくれた。
軽音部の連中を殺したら、わたしのものになってくれると、そう言ってくれた。
わたしも憂のことが大好きだよと、わたしに微笑んでくれた。
わたしはあらゆる殺人の手段を考え、どんな場合にも対応できるようにした。
実際、わたしはある場面で殺人がやりやすいように、全員をコントロールした。
結果として、わたしの殺人は成功し、お姉ちゃんはわたしだけのものになった。
まさか、お姉ちゃんが紬さんを自らの手で殺めるとは思っていなかったが。
そして、あとは梓ちゃんを殺せば、わたしの殺人計画は終わる。
お姉ちゃんはわたしだけのものになる。
わたしはお姉ちゃんのものになる。
唯「――憂」
不意に、わたしはお姉ちゃんに抱きしめられていた。
憂「お姉ちゃん……?」
唯「憂……」
憂「まだ、梓ちゃんを殺していないよ?」
唯「あずにゃんなんてどうでもいいよ。それより今はこうしていたいよ」
憂「お姉ちゃん……」
お姉ちゃんの匂いがした。
甘く、柔らかく、温かいぬくもりが布越しからでもよくわかった。
邪魔な連中を殺している時でさえ感じることのなかった、喜びがわたしの胸をひたひたと満たす。
今まで感じたことのない愉悦が、身体中に行き渡り、わたしの腕はお姉ちゃんを抱きしめていた。
自分の中でずっと張り裂けそうになっていた、欲望が頭をむくむくと、もたげる。
頭がくらくらした。お姉ちゃんの存在が、わたしの官能を呼び起こし、身体の芯を締め付ける。
憂「お姉ちゃん……」
熱い吐息が口から零れる。
お姉ちゃんを抱きしめる腕の力を徐々に強くしていく。
わたしたち、姉妹の関係が変わっていく兆しを確かに感じた。
それは、新たな姉妹の始まりであり、同時に今までの姉妹のおしまいを意味した。
唯「憂、一つ聞いてくれる?」
憂「なあに、お姉ちゃん? なんでも聞くよ」
唯「憂……」
憂「お姉ちゃん……」
唯「憂は、ムギちゃんがどうして憂が死んだってわかったか覚えてる?」
憂「忘れてないよ。紬さんが排水溝を掃除したのに、わたしの髪の毛が排水溝に絡まってたからでしょ?」
唯「実は、あれね……」
憂「うん」
唯「わたしがムギちゃんに言ったんだよ」
憂「なにを?」
唯「排水溝を掃除しておいたら、って」
肉の裂ける音が、頭蓋の中で反響した。視界が急に傾いていく。
なにが起きているのか理解できないのに、お姉ちゃんの腕が解かれているのだけはわかった。
わたしの首から血が噴出していた。
身体が床に転がる。
首から溢れ零れる、粘度のある湯のような液体がが、床を、わたしの顔を身体を洗い流していく。
鉄錆の臭いが、脳内に蔓延してわたしの思考を赤く染め上げる。
伸ばした指が、ぴくぴくと痙攣する。
どうなっているの――疑問の声を出そうとしたが、出てきたのは切れ切れとした吐息だけ。
唯「憂、ごめんね。憂のことも騙してたんだったよ」
わたし、憂のこと大っ嫌いなんだよ。
酷く淡々とした声が、わたしの鼓膜に降りてくる。
どうして? どうしてお姉ちゃんがわたしを?
わたしはお姉ちゃんのことが好きだ。
そして、お姉ちゃんはわたしのことが好きなんだ。そうに違いないんだ。
なのに……どうして?
叫びたいのに声が出てこない。
ひゅっ、と短く細い息に首から血が噴き零れる不気味な音が重なる。
唯「 しんじゃえ 」
お姉ちゃんが鈍い輝きを振り上げる。
次の瞬間、肉が刃物にえぐられる音を聞いたと思った。
わたしは最後にもう一度だけ心の中で呟いた。
お姉ちゃん、と。
【寝室:平沢唯】
憂の腹に突き刺したナイフを、勢いよく引き抜く。
えぐった肉をひくずるように、不快な音を立ててナイフは憂の身体から抜けた。
憂は目を見開いたまま、ぐったりとしていた。
出血のショックから、意識を失ったようだった。
そしてもう二度と起きることはない。
首からは未だに、泉のように血が滾々と湧出していた。
文字通りの血の海に、憂は仰向けになって横たわっている。
握っていたナイフを床に落とす。
手は憂の首から溢れた血で、赤く染まってベットリとしていた。
唯「……」
わたしは憂を殺した。
憎くて憎くて仕方のなかった妹を殺した。
けれども、身体中を駆け巡った全能感にも似た達成感は、憂の死体を見下ろしているうちに霧散した。
梓「な、なにやってるんですか……」
ほとんど吃音と化した声。
それがあずにゃんの声だと気づくのにはしばらく時間が必要だった。
振り返ると、真っ青を通り越して、土気色をした顔を引き攣らせるあずにゃんがいた。
あずにゃんは、相変わらず床に座り込んでいた。
梓「……なんで……ゆ、唯先輩は憂を…………!」
唯「憎くて憎くて、殺したかったから」
わたしは即答する。
声は自分でも驚くほど、低く淡々としていた。
梓「い、意味がわかりません……なんで? どうして憂を殺したんですか?」
唯「だから言ってるじゃん。大大大大大っ嫌いだって。だから殺したんだよ」
梓「昨日、浴場で憂のこと、大好きって言ってたじゃないですか!」
あずにゃんが叫ぶ。あずにゃんの頬を涙が伝った。
唯「違うよ」
梓「な、なにが違うって言うんですか!?」
唯「わたしは大好き、とは一言も言ってないよ。『大好きだった』って言ったんだよ」
大好きだった。そう。昔は本当に憂のことが大好きだった。
憂のためならなんでもしてあげようと思っていたし、憂のためなら死ねるとさえ思っていた。
けれども、わたしの憂に対する思いは、その憂のせいで打ち砕かれた。
唯「昨日、話したでしょ? わたしが昔、いじめられていたって」
梓「それがなんの関係が……」
唯「憂は、わたしをイジメから守ってくれた。少なくともわたしはそう思っていた」
でも違った。それはわたしの勘違いでしかなかった。
唯「でもね、実際は違ったんだよ」
梓「…………」
唯「イジメの発端は、クラスで飼ってたハムスターが死んだことだったんだよ。
死んだ、というか、殺されてた。身体を握り潰されてた。
犯人はわたしってことになった。わたしはやってないのに。
でも、何人かのクラスメイトがわたしがハムスターを殺しているところを見たって言った。
それから、イジメが始まった。
色んな噂がたった。わたしのイジメはどんどんエスカレートしていった。
身体も、ランドセルも、教科書も、ノートもボロボロ。
酷い時だと、わたしが学校に行く前から、買ったばかりのノートが切り裂かれてることがあった」
梓「…………?」
あずにゃんの顔が、疑問に曇る。
が、すぐにわたしの言いたいことに気づいたのだろう、あずにゃんは言った。
梓「……ハムスターを殺したのは憂で、ノートを引き裂いたのも、憂だった……」
わたしは頷いた。
唯「憂は本当にわたしのことが好きだったんだろうね」
梓「……だから、憂は唯先輩がイジメられるように仕向けた。そして……」
妹である自分だけが、姉であるわたしに関わりを持つ状態にし、あげく依存させた。
唯「憂はわたしが気づかないって思ってたんだろうね……まあ、実際、気づくのには十年近くかかったわけだけど」
そもそも、最初にこのことに気づいたのは和ちゃんで、和ちゃんに指摘されてからも、しばらくわたしは確信を持てないでいた。
唯「とにかく憂は、わたしのことが好きで好きで仕方なかったんだよ……
だからどんな手を使っても自分のものにしたがった」
梓「……」
唯「わたし、イジメられてから一年ぐらいの間、ずっと引きこもってたんだ。
でもね、徐々に和ちゃんのおかげでわたしは昔みたいに明るくなっていったんだよ。
それで、また学校にも通い出してね。でも、それが憂には気に入らなかったんだよ」
そして高校に入り、軽音部の一員になったことにより、憂はどんどん精神の安定を欠いていったのだろう。
そして――二週間前、打ち上げの話をわたしが切り出したことにより、憂の精神的安定はついに崩壊した。
いや、前からそれらしい兆候はあった。
だが、この時の憂は今まで一番おかしくなっていた。
わたしを押し倒し、その上、打ち上げに行くなら軽音部のメンバーを殺すとさへ行った。
今まで我慢してきたものが、爆ぜた瞬間だった。
だが、それはわたしも同じだった。
わたしの胸の内側で、燻っていたドス黒い怒りは、あの時点で臨界点を越えようとしていた。
憂に押し倒され、軽音部のみんなを殺すと言われた瞬間、わたしの視界はカッ、と真っ赤に染まった。
そして、同時に思考はあまりにも冷たく働いていた。
どうやったら憂を、最大限まで絶望し、そして、殺せるのか。
唯「憂が軽音部のみんなを死ぬほど憎んでたように、わたしも憂を殺したいほど憎んだ。
だから、憂の軽音部メンバーの殺人に協力した」
あずにゃんが怪訝そうに眉を顰める。
梓「なんで、憂を殺すのに澪先輩たちを巻き込んだんですか……憂を殺すだけなら……」
唯「最大まで絶望させて、その上で殺したかったから」
梓「……? 唯先輩はみなさんのことが好きじゃなかったんですか!?」
唯「好きだったよ。でも、憂を絶望させるためなら、死んでもいいと思った」
梓「っ……!」
あずにゃんがなにかを言おうとして、結局、なにも言わずに俯く。
あずにゃんの言いたいことはよくわかっている。
確かにみんなのことは大好きだった。
でも、憂を絶望させられるなら、死んでくれていいと思ったし、殺してもいいと思った。
ようは、優先順位の問題にすぎなかった。
梓「それで……それで、唯先輩は満足したんですか?」
唯「どういう意味?」
梓「憂を絶望させて、殺して、それで満足できたんですか?」
唯「…………」
わたしは頷くことができなかった。
わたしは憂を殺せば、それで幸せになれると思っていた。
幸福感に満たされ、それでわたしの人生は変わる気がしていた。
確かに、憂を殺したことにより、わたしの胸を焦がしていた怒りの炎は既に消えつつあった。
だが、その代わりにわたしを突き動かしていたなにかも消えようとしていた。
辺りを見渡す。
凄惨たる殺人現場。血の臭いが堆積し、発酵した寝室に転がる二つの死体。
原形すら留めていない肉の塊。
荒涼とした心の隙間に、冷たい風が吹き抜けていく。
空しい。ただひたすら空しかった。
憂をようやく殺せたのに。
わからなかった。
どうして憂を殺したのか、わからなかった。
いや、まだ憂を殺したことはいい。
けれども、そのために友達を三人も犠牲にしたのは、果たしてわたしにとっていいことなのだろうか。
梓「……唯先輩?」
わたしは、床に落ちていた包丁を拾い上げる。
血を浴びて鈍い輝きを放つ、包丁にわたしの顔が映る。仮面のような無表情をしていた。
わたしは、わたしが殺した妹に馬乗りになり、そのまま包丁を振り下ろす。
血糊が固まったせいでさっきよりも、腹の肉を切るには力が必要だった。
わたしは、何度も何度も包丁を振り下ろす。
肉を突き破る感触が、包丁を通して伝わってくる。
わたしはひたすら、憂の身体をナイフで突き刺した。
どれほどその行為を繰り返したのかわからない。
血が床を濡らし、肉がえぐられる音が部屋にこだまする。
だが、どれほど憂を包丁で刺し続けたところで、気分が晴れることはなかった。
死体になった憂の顔は、驚きに目を見開いたまま固まったままだった。
殺しても死体を切り刻んでも、わたしの気持ちが満たされることはない。
それがわかった途端、わたしは自分の足許がふらつくのを感じた。
わたしは再び包丁を憂の身体から抜き取り、立ち上がる。
梓「……わたしも殺すんですか?」
わたしは無意識のうちにあずにゃんを見下ろしていた。
黒髪の下の顔が、無表情でわたしを見上げる。
わたしは包丁をゆっくりと振り上げる。なぜか、妙に重く感じられた。
梓「……そんなことをしてもなにも変わらないと思いますけど……」
唯「…………うるさい」
わたしは包丁を振り下ろした。
梓「…………殺さないんですか?」
唯「…………」
振り下ろした包丁は、床に突き刺さって直立していた。
わたしはあずにゃんを殺すことができなかった。
いや、殺すことならきっと簡単にできるのだろう。
が、あずにゃんを殺して、その先にあるものと直面する勇気がわたしにはなかった。
不意に軽快なリズムがどこから鳴り出す。
場違いなそれは、血みどろになって床に横たわっているムギちゃんからだった。
梓「たぶん、迎えがこちらに来るという連絡でしょう」
わたしは耳を澄ましてみた。あれほど降っていた雨の音が聞こえない。
どうやら本当に雨は止んだみたいだった。
異様な虚脱感に襲われてわたしは床に座り込んだ。
もう全てがどうしようもなかった。どうでもよかった。
後悔や悲しみが浮かぶこともなかった。ただ、心に大きな穴が開いたみたいに空しかった。
わたしはなにもしないべきだったのだろうか。
なにも知らずに、なにもせずに、借初めの幸せに浸っていればよかったのだろうか。
仲の良い姉妹を演じ、学校生活を満喫していれば、それで全てが丸く収まったのだろうか。
あるいは、和ちゃんが憂のことに気づかなければ、何事もなく終わったのだろうか。
――そもそもわたしが生きていなければ――
わたしは床に刺さった包丁を抜き取った。
血を吸って鈍く光る包丁を、わたしは自分の首に宛がう。
唯「あずにゃん」
あずにゃんはなにも答えない。
床に座ったまま、わたしをまっすぐ見据える。
わたしは縋るようにもう一度、あずにゃんに尋ねた。
唯「あずにゃん、わたしは死ぬべきなのかな?」
あずにゃんは、なにも答えなかった。
おしまい