こんにちは、琴吹紬と申します。
桜高軽音部所属、毎日楽しく暮らしています♪
わたしは、自宅から少し離れた学校へ通っています。
なので、軽音部では唯一の電車通学です。
両親は心配のようで、斉藤さんに送迎を言いつけましたが…。
出来るだけ色んなことをしてみたい。
自分の目で、体で、たくさんの経験を積みたい。
わたしは精一杯、両親に頭を下げました。
紬を電車通学させてください、と。
そんな苦労の甲斐もあり、晴れて電車通学の毎日です♪
しかし、わたしにはまだまだ達成していないことがあります。
元スレ
「琴吹紬の密かな挑戦」
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1284911014/
そう、座席に座ることです。
通学も帰宅も満員とまでは言いませんが、たくさんの人が電車を利用します。
一度でいいから…座ってみたいのです。
そして、座りながらメールを打ってみたいのです。
はしたないことだとはわかっています。
両親がこんな姿を見れば…悲しむかもしれません。
でも、そんな思い出もあっていいと思いませんか?
わたしはこの楽しい高校生活に、悔いを残したくないのです。
気合いはあれど、なかなか実行出来ずにいました。
なので、どうすれば座席を確保出来るかを考えてみました。
まず、自宅又は学校の最寄り駅からの座席…絶望的です。
自宅の最寄りでは、既に空席なし。
だから、いつもドア付近の手すりにつかまって景色を眺める…
それがダメなのです!
ドア付近の手すりなんて…試合放棄もいいところです!
もし、ドアから一番近い座席…端が空いたなら、それは幸運。
ですが、もし座席の真ん中辺りが空いたら?
ドア付近に居れば、移動距離が長い。
その間に、空席は埋まってしまいます。
「端っこ」の人気は高いです。
もし「端っこ」が空いたとしても、そこを狙うライバルはたくさん居ます。
「空いた!」と思って座ろうとしても、それまで端から2番目に座っていた人が、端につめてしまう可能性が高いです。
そしてその隙に、端から2番目ですら、座席の真ん中辺りのつり革に掴まる人に取られてしまうのです…。
すると、どうなりますか?
座ろうと移動したにも関わらず、座れないわたし。
こんなの、澪ちゃんじゃなくても恥ずかしいです…。
ここで掴んだポイントが一つ。
思わぬ空席にも即座に対応出来る場所…。
それは、「座席の真ん中辺りのつり革に掴まる」ことです。
そこから全てが始まる、と言っても過言ではありません。
しかしこれもまた、ただの準備に過ぎないのです。
次のポイント…それは、「空く座席を予測する」です。
学生が多い朝の車内なら、制服で予測することも可能です。
しかしわたしが利用する線は桜高生が多く、他は桜高より遠い学校の生徒。
この「学生狙い」は通用しないと言うわけです。
服装とは別のことで予測をしなければなりません。
なのでわたしは、色んな人を観察しました。
座席を立つ前の行動…皆さんいくつかの共通点がありました。
それは、「定期や切符を用意する」です。
スムーズに改札を通るためでしょう。電車を降りる前に、定期や切符を予め用意する方が多いのです。
他には、開いていた本や携帯をしまうなど、そこにはたくさんの「前兆」がありました。
その行動を目にした場合…その座席は空くということ。
でも、気の早い人も居ます。
何も考えず、その行動に走る人だって居ます。
それらはただの、「前兆」にしか過ぎません。
行動には、決定打が必要なのです。
そして、決定的なものをわたしは見つけました。
電車が止まる瞬間、或いは止まった直後のことです。
座っている人が、つり革に目をやる場合があります。
そう…席を立つため、つり革に掴まる人が居るのです。
もちろん、全員が全員つり革を確認するわけではありません。
しかし、つり革を確認する人は、100%席を立つのです。
その行動を目にすれば、空席を事前に察知出来る!と言うわけです。
空席確保のポイント。
「座席の真ん中辺りのつり革に掴まる」
「空席の前兆を探す」
「つり革に目をやる人に全てを賭ける」
以上、この三つをわたしは導き出しました。
今日、わたしの密かな挑戦が始まります。
何だかんだ言いましたが、チャンスは帰りの電車に絞っていました。
だって、朝はたくさんのケーキやお菓子を持っています。
そのケーキやお菓子を、わたしの勝手な挑戦で崩してしまったら…。
楽しみにしていてくれる、皆に顔向け出来ません。
部活も終わり、一人ホームで電車を待っていました。
「まずは座席の真ん中辺り…よし!」
電車に乗り込むと、わたしは計画通りその場所を確保しました。
(これで準備万端ね~...ふふふ)
そのことで既に達成感を感じ、座席に目をやるのを忘れてしまっていました。
(…あっ!)
「端っこ」が空きました。
しかし、すかさず端から2番目の方がつめてしまいました。
空席になった端から2番目は、その前に立っていた方が座ってしまいました。
不覚です…。
空席はすぐ、埋まってしまいました。
(次の駅で挽回しなくては…)
つり革を強く握り直しました。
次の駅に停車前。
今度はわたしが立っている斜め前の方が「前兆」を示しました。
(携帯を閉じた…)
(鞄にしまって…定期を用意した…)
(くる…!)
その予感は的中です!
その方は、席を立ちました!
ですが…。
停車した電車に乗り込む老婦人が見えました。
お年寄りには、席を譲らねばなりません。
人として、琴吹家の人間として。
人を敬う気持ちを忘れてはなりません。
お年寄りや、妊娠中の方。
小さなお子さんや、体調の優れない方。
いくら席が空こうが、その人たちにはお譲りしなければなりません。
「…どうぞ♪」
「あら、ありがう。親切なお嬢さんね~。」
「そんなことありません♪」
当たり前のことをしたまでです。
その後チャンスは訪れることなく、電車を降りるときが来ました。
「ああ…今日はダメだった。でも明日があるもの!」
翌日。
部活を終え、いつも通り電車に乗り込みました。
立ち位置は完璧。乗客のチェックも怠らない。
何だか今日は成功しそうです!
ゆっくり止まる電車。
わたしの目の前に座るのは男子学生。
携帯をしまい、手すりを確認しました。
(いける…!)
三つがそろいました!
スロットで言うところの、BBです!
お父様、お母様、紬をここまで育ててくれてありがとう。
紬はまた一つ、夢を叶えることが出来そうです。
(…あれ?)
わたしは電車を降りました。
「待って下さい!忘れ物です!」
「え…?俺?」
「はい、この定期、電車にお忘れでした!」
男子学生が座席を立った後、そこには定期入れが残されていました。
それを見たわたしは、とっさに定期入れを持って彼を追いかけていました。
「あ、ありがとうございます。」
「いえいえ♪では♪」
せっかくのチャンスでした。
でも、この後困るであろう人を見過ごすわけにはいきません。
「結局、座れなかったな~…。」
そう思いながら、また次の電車を待ちました。
初めて降りる駅でした。見慣れない風景に、少しドキドキしました。
そして電車はすぐに来ました。
(あれ…空いてる?)
一人座れるほどのスペースが、そこにはありました。
ライバルが多い「端っこ」でした。
(座って…いいのよね?)
わたしは腰掛けました。
浅く、緊張したように。すると、自然に笑顔がこぼれました。
(あ…メール!)
鞄から携帯を取り出し、メールを打ちました。
帰り道
律「おっ!ムギからメールだ。」
澪「わたしもだ。」
平沢宅
唯「ムギちゃんからメールだ~。」
中野宅
梓「ムギ先輩からメール、珍しいな。」
紬「また一つ夢が叶いました!」
律澪唯梓「…どういうこと?」
こうしてわたしの挑戦は、成功を収めました。
せっかく編み出したポイントは、一つとして使われませんでしたが…。
でも今は、別の楽しみを見つけました。
定期を車内に忘れた彼です。
特に会話をするわけではありませんが、彼はわたしを見つけると、必ず軽く会釈をしてくれます。
その度、わたしは笑顔を返すのです。
座席ではなく、彼を探すのが今では習慣になりました。
毎日楽しい電車通学、わたしは幸せです♪
終わり。
秋山澪の密かな挑戦
こんにちは、秋山澪です。
桜高軽音部所属、毎日勉強に部活に大忙しです。
軽音部には部員が5人、1つのバンドを組んでいます。
わたしはベースを担当。お金を貯めて、頑張って買いました。
この大切な、フェンダージャズベース左利き仕様。
そうです、わたしは左利き。
この世の中は、左利きには生きにくいのです。
誰かと並んでごはんを食べる時、自分の座る位置を考えたりしますか?
わたしは考えます。
だってわたしが一番左じゃなきゃ、右利きの子と肘がぶつかるんです。
国語の授業でノートをとっている時、小指の横側が黒になることがありませんか?
幸い、わたしはなりません。
その代わり、その他全授業で黒くなります。
真っ黒です、真っ黒。
字だって、右利きの書きやすい構成になっています。
気付いていましたか?
皆が普通に使う道具も、わたしには使いづらい物ばかりです。
楽器、ハサミ、缶切り、マウス、改札、自販機の挿入口…挙げればキリがありません。
どれも右利き用になっています。
こんな右利き社会。
左利きの人間は、自分でも気付かないストレスに見舞われるそうです。
寿命だって、右利きに比べて短い傾向があるそうです。
だからですか、わたしの髪が少し薄くなってきたの。
毛穴、もう死んだのですか。
何で右利きに産んでくれなかったのかと、ママに八つ当たりしたこともあります。
ママは言いました。
「それも澪の個性じゃない」と。
生きにくさまで感じて、それが個性なんて。
もちろん、左利きはスポーツの世界で重宝されることは知っています。
でも、スポーツをやっていないわたしには、ただのコンプレックスです。
体育でソフトボールだった時のこと。
わたし、ずっと攻撃側のチームに回りました。グローブがないんだもん。
どちらを応援しても、悲しい結末が待っている。
勝った喜びも負けた悔しさも、どちらもピンと来ません。
せっかくのチームプレー、自分が中途半端な立場で終わる気持ちがわかりますか?
右利きが良かった。
右利きになりたい。
昔からそう思っていました。
幼い頃、律に左利きだと騒がれたことがあります。
…泣いてしまいました。
そんな律に、今日はこんな話をされました。
律「なあ澪。左利きの双子説知ってるか?」
澪「何だそれ?」
律「一卵性双生児って、片方が右利き、もう片方が左利きが多いらしくてさ。」
澪「へえ、初耳だな。」
律「ミラーツインって言うらしいんだ。
でも澪は一人っ子だろ?」
澪「そうだぞ?」
律「それはな、澪。
澪には右利きの双子の片割れが居たはずなんだ。」
澪「おいやめろ」
律「本当は、澪は一人っ子じゃないんだよ。
産まれるはずの片割れが居たんだ…。」
澪「」
律「受精段階では双子だった。でもその子は何らかの原因があって、母体に吸収されてしまったんだ。」
澪「」
律「澪ってさー、発育いいじゃん?
きっと会わずとして離れ離れになった片割れの分も、澪が育つ運命だったんだよ。」
澪「」
律「澪…おい聞いてっか?」
途中から意識が遠のいてしまいました。
もう律と話したくありません。絶交です。
元々、アイツはわたしにちょっかい掛けてばかりです。
親友だと思っていましたが、ただのおもちゃなのです。
そう気付きました。
そして同時に決意しました。
わたし、秋山澪は…右利きになります。
ありとあらゆる動作を右で行います。
まずはお箸からはじめてみました。
…いきなりの挫折です。
でも負けるわけにはいきません。
今日の夕飯のハンバーグは、お箸で突き刺しかぶりつきました。
ママは怒りました…そんな品のない食べ方をするな、と。
ママが怒るのは無理ありません。
でも、わたしの決意は固いのです。
ママを説得しました。
今まで左利きで生きてきた辛さ。
そして右利きになることへの挑戦、決意。
ママは黙って頷きました。きっと呆れたのでしょう。
お弁当は、フォークにしてもらうことになりました。
それだけではありません。
ドアノブに掛ける手も右、メールを打つ手も右。
ペットボトルのフタも右手で開けました。
右手は添えるだけで、結局ボトルを左手で回してしまう自分がいました。
眉毛のお手入れも右手でしました。
するとどうでしょう、見事失敗です。
でもめげません。
わたしは、右利きのわたしに生まれ変わるのです。
翌朝。
右利きへ道のりは、まだまだ始まったばかりです。
朝は律と一緒に登校しています。絶交…するつもりですが。
律「お~はよ~!」
澪「お、おう…おはよう。」
右手を挙げてみました。
律気付いた?今のわたし気付いた?
バカ律は気付くわけもありませんでした。
誰かの顔を見るたび、右手を挙げて挨拶をしました。
律だけではなく、誰もそこに触れることはありませんでした。
授業が始まりました。
右手で字を書く…それはさすがにハードルが高すぎます。
人生には、突破しなければならない壁と、回避すべき壁があります。
今のわたしには、「回避すべき壁」でした。
受験生なので、授業には集中せねば。
でもいつか越えてみせる。
そう誓いを立て、ペンは左手で握りました。
でも、昨日までのわたしではありません。
消しゴムは左手で使いました。
すると…あることに気付きました。
ペンから手を離し、消しゴムに持ちかえる。
この当たり前で、疑問を持ったことすらない行動。
その無駄が省けました!
(これはテストで使える…よし。)
そう思うと、自然に笑みがこぼれました。
お昼休みがきました。
軽音部4人と和。いつものメンバーで机をくっつけます。
他愛もない会話。おいしいお弁当。
右手でフォークを握るわたし。
フォークなら何とか、右手でも大丈夫です。
お弁当のおかずは小さめに作ってあるから、難なく食べられます。
しかし、誰もわたしの挑戦には気付かないままでした。
唯が分け目を変えた時。
誰もが気付かず、声をそろえて「地味」だと言いました。
利き手を変える…地味なのか?
この生きにくい世の中に悩んだわたし。
その悩みを解消する策が、唯の分け目程度に…地味なのか?
何だかちょっと、悲しいです…。
朝ほどの勢いはなくし、部活です。
部活には梓も来ます。梓なら…気付いてくれるんじゃないか!?
さすがにベースは…左じゃなきゃ弾けない。
右利きようのベースを弦を逆さに張り替えて使う、と聞いたことはありますが、
それは一から練習するようなものです。
バンドはみんなの力で成り立っています。
わたしのこの挑戦で、みんなに負担を掛けるわけにはいきません。
(右利き用のベース…買おうかな。)
今軽音部はティータイム。
ケーキを食べながら楽しい会話…でもわたしの耳にはほとんど入ってきません。
もちろんスプーンを持つ手は右。しかし誰も気付いてくれません。
(はあ…)
憂鬱なまま、練習に入ります。
律「何か今日…まとまり悪くないか?」
唯「りっちゃん、気のせいじゃない?」
梓「わたしも思いました。何かリズムが悪いって言うか…」
紬「そうかしら?楽しかったわ~。」
ごめんなさい、わたしのせいだ。
右利きになることばかり考えて、全然集中出来ませんでした。
帰りもまた、律と二人きりです。
こいつはやっぱり、散々幼なじみだと言い合ったくせに、わたしの挑戦には気付いてくれませんでした。
その程度の仲なんだ。だからあんな話するんだ。
もう、本当に絶交だからな!
律「なあ…」
澪「何だよ。」
律「わたしがした話、そんなに気にした?」
(…!)
律「気にしたよな。悪かった。」
澪「何の話だ?」
律「今日の澪、ずっと右手使ってもの食べてたじゃん。」
(気付いてたのか…!)
律「ごめんな。ちょっと面白い話聞いたもんだからついいじめたくなって…」
澪「わたしには本当にショックな話だったんだぞ!」
律「ごめんごめん、わたしは左利きの澪が好きだよ。」
澪「な、何言ってんだ…」
律「ほんとだぞ?左利きじゃなかったら、この立ち位置も定着してないだろ。」
いつも律は、わたしの右に居ました。
今まで気付かなかったけど、それが自然でした。
もしかして律は、考えてわたしの右を選んでいたのか…?
律「それに、さ…」
澪「!急に何すんだ…」
律「手繋いでも、利き手が空くんだぞ?」
律に手を握られてしまいました。
今のわたし、顔赤くないか…?
澪「やめろ、離せよ…」
律「やーだ!今日はこれで帰る!」
澪「ちょっと律…恥ずかしいんだけど…」
律「言ってんだろ、左利きの澪が好きだって…」
その日はそのまま、手を繋いで帰りました。
左利きは、やっぱり生きにくいです。
でも律の左側は、とても居心地がいいです。
夕飯の時、ママはスプーンを用意してくれました。
「ママ、お箸ちょうだい。」
今日は、お箸を左手で握って食べました。
「こら澪、お皿からシチューすすらないの!」
終わり。