4 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 22:36:14.47 PRAHzYyI0 1/90





「ええと。私ね、記憶が、75分しか持たないんだぁ」




元スレ
唯「ギー太の愛した数式」
http://hibari.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1310996036/

5 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 22:37:39.67 PRAHzYyI0 2/90


#00 プロローグとエピローグ/〔48〕


「ええと。私ね、記憶が、75分しか持たないんだぁ」


 紡いだ言葉にちっとも実感がわかなくて、つい笑ってしまった。
 体中が何だかとってもガサガサするなって思ったら、
ブレザーの内側の至る所にシールが貼られているせいらしい。

 何十枚と貼られているそれらは、間違いなく私の字で書かれたものなのだけれど、
いつ貼ったかも思い出せないし、書いた記憶も、書かれている内容について覚えもない。
 それこそが、多分、私の記憶が75分だけって証明になるのだろう。

 忘れてしまった記憶に対して、思う所がないって言えば嘘になっちゃうけど。
そんなことよりも、私は、目の前で泣きそうな顔して
こっちを見ている小さな女の子に、早く笑って欲しいなって思っていた。



      『ギー太の愛した数式』
   A pretty little girl and music.


7 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 22:39:01.15 PRAHzYyI0 3/90



彼女のことを、私はセンパイと呼んだ。
そしてセンパイは私を、あずにゃんと呼んだ。
私の頭のてっぺんに猫耳を乗せたら、とてもそれが似合っていたからだ。

『か、かわいい……!』

 私の髪がくしゃくしゃになるのも構わず、頭を撫で回しながらセンパイは言った。
センパイの接し方はとてもフィジカルで、
揺れる頭と視界の中でえらく混乱したのを覚えている。
 先輩達にからかわれるのを嫌がり、猫耳を外した私は警戒して距離をとった。
その仕草がまた猫らしく、先輩たちを喜ばせてしまう結果になったのは、今でも遺憾だった。

『これを使えば、とっても可愛い後輩が、梓ちゃんが、もっと可愛くなるねぇ』

 センパイは笑いながらそういって、お菓子のくずが散らばったテーブルの隅へ、
角ばっていて、無機質な――先輩にはちっとも似合わない――真っ白いシールを貼ると、
ピンク色のペンで不細工なたぬきのイラストを描いた。

『あずにゃん』。

 私がセンパイから教わった数えきれない事柄の中で、
猫耳の意味は正直、あんまり重要なことじゃない。
でも、それはたしかに、『とても狭い世界』でしか生きていけなかったセンパイにとって
重要な要素で、彼女自身が奏でる豊かなギターの音色や、
聞くだけで心踊る歌声と同等の地位を占めるものだった。
私がセンパイに教えた些細なことも、先輩の世界を彩るその一片に加えられていたのかは定かではない。


8 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 22:39:55.53 PRAHzYyI0 4/90



しかし私は信じている。

私がセンパイと過ごした7ヶ月という時間の密度を考えるたび、
胸に去来するこの暖かい感覚を幸福と呼び――――


『あだ名は、『あずにゃん』で決定だね!』


 奇跡のような、きらめきに満ちた、あの時間は。


『あ、はは。あずにゃんは、ろまんちすとだなぁ』


 もう居なくなってしまった彼女にとっても、特別で、幸福なものであったことを。


10 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 22:41:11.54 PRAHzYyI0 5/90


#01 出会いの一次方程式/〔15472〕

 ――――まごうことなき春だった。

 校門から校舎までの道すがら等間隔で植えられた桜たちには、自身の枝葉で空を覆う力強さがあった。
地面には薄紅色のビロードが敷かれていて、これから始まる新生活に否が応でも胸が高鳴ってしまう。
 通学路で、自分と同じ紺色のブレザーを見かける度、つい口元が綻んでしまったものだ。
校門の手前で立ち止まり、私は三年間お世話になる校舎を見上げる。

「…………よしっ」 

 ぐっ、と胸元で小さくガッツポーズ。
 第一ボタンまで閉めたカッターシャツは、少しだけ首元に息苦しさを与えていた。
中学の制服はセーラーだったから、余計にそう感じるのかも知れない。
私は棒タイをいじりながら、校門から最初の一歩を踏み出した。

 受験番号48、東中学校出身 中野梓。
私立桜が丘高等学校に、晴れて入学です。

高校生活を送るにあたって、やること。

 『音楽』。

 中野梓という個人を語る上で、とても大切な要素であるからという理由が一。
 それでジャズ研究会を見学してみたのだけれど、なにかが違うという印象を受けた。
ジャズがなんたるか、なんて説けるほど高尚な身ではないにしろ、不満くらいは……。
 高校の部活なんて、こんなものなんだろうか。
最悪の場合として考えていた外バンという選択肢が頭にちらついて、少し残念な気分になった。
 でも、一縷の望みはある。それが、今向かっている――


11 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 22:42:15.91 PRAHzYyI0 6/90



「ホントに行くのぉ? あの着ぐるみの人たちでしょ?」

 付き合うの面倒くさい、と言外にいいながら、階段の踊り場で友人が訪ねて来た。
同じ中学出身のよしみでなんとなく行動を共にして来たけれど、そろそろ潮時かも知れない。
 …………なんて、ちょっと薄情すぎるかなぁ、私……。

「ちょっと覗くだけ」

 努めて曖昧に笑いながら、歩を進める。
革靴が階段を叩くたび、乾いた小気味いい音があたりに響いていた。放課後の喧騒に混じる二人分の足音。

「ああ、もう、梓ぁ」
「…………」

 部活勧誘の折、妙な馬の着ぐるみから渡されたチラシを、もう一度見る。
裏移りした色ペンから醸し出されるこれでもかという程の手作り感。
とてもカラフルで、ところどころに消しゴムのかけ忘れがあるのはご愛嬌だろう。
 正真正銘、全身全霊でホームメイドなそのチラシには、
だからこその暖かさを宿しながら『けいおんがく部』と文字が躍っていた。

 少し背伸びして覗いたその部活は、

「……ジャージ?」
「あ、あれ平沢さんじゃない? 同じクラスの。……なんか、困ってるっぽいね」 
「真面目にやってる部じゃないのかな……」

 漏れたのは嘆息。心に沸いたのは納得。
 実際のところ、あまり興味は湧かなかった。
 ――高校の部活に対して、偏見のようなものを持ち始めていたかもしれない。


13 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 22:43:25.04 PRAHzYyI0 7/90



 ……私は、真剣に音楽がやりたいだけなのに。

 不満、拗ね、羞恥。
いろんなものがない交ぜになった顔つきで、心の中でごちた。
 返した踵に、もう一抹の心残りもなかったから、

「あれ、もういいの?」
「うん。ごめんね、無理につき合わせちゃって」

 私があの「軽音部」に関わることになるなんて、少しも想像していなかったんだ。


「え? 決めちゃったの?」

 ホームルームが終わり、放課後。
教科書をカバンに押し込めていると、そんな声が聞こえてきた。
――所属する部活動を決めるこの時期に、新入生の間で頻発する些細な裏切りを想像させる言葉。
 そちらについ耳が向いたのは、疑問系の言葉と裏腹に、その声色に隠せ切れない程の安著と納得が滲んでいたからだった。
ちょっと異様。だって、アンバランスすぎる。

 視線をそちらにやれば、あの時、けいおん部の部室にいた子たちがいた。
 一人は平沢さん。いつも決まって、ポニーテールを黄色いリボンタイで結んでいる子だ。
単独行動をしている所はあまり見ない、愛想の良い優等生。そんな印象の。
 それからもう一人は、


15 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 22:44:20.02 PRAHzYyI0 8/90



「うん、ジャズ研究会にすごいカッコいい先輩がいて……ごめんね」
「……そっか。しょうがないよ、どこに入るかは自由なんだし」
「ごめんね。……じゃ」

 思い出す前に二人の会話はそこで終わって、薄い鳶色を横結びにしたクラスメートの子
――あ。たしか、鈴木さんという名前だった――は、カバンを担いで足早に教室を後にした。
 教室に残ったのは、私と平沢さん。
無言の教室に、平沢さんのそろそろと地面を這う様な嘆息が響いた。

 ……う……これ、流石に気まずい……

 何て言葉を掛けていいか解らない。

 それにこのタイミングじゃ、盗み聞きしてましたーっていうようなものじゃん……私。
ここは、私も先達を見習ったほうがいいかな。と立ち去ろうとすると、視線を感じて

「…………ん?」
「あ」

 見つかってしまった。
 ひく、と、唇の端が痙攣してしまう。
 果たして――平沢さんは、縋るような視線で私を見ていた。
愚直なまでに真摯な視線の、その奥の瞳がどんな感情を宿しているかまではわからない。
 数秒、初心なお見合いよろしく無言で対峙する私たち。
放課後の喧騒は、オレンジ色のオブラートに包まれてどこかぼやけて聞こえてきた。


17 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 22:45:15.80 PRAHzYyI0 9/90



「…………」
「…………」

 コチ。
4を差す短針が数ミリ動いて、先に切り出したのは平沢さん。


「あ、あの――!」


 ――――さて、ご存知の通り、ここから私たちの物語は始まる。

 といってもそれは、映画や文庫で語られるスリルやサスペンス、
ホラーやスペクタクルあふれて 血沸き肉踊るものなんかじゃ勿論なくて――
 のんびりだらだら進む、緩い日常4コマ系でもなくて――

 1コマ75分の時計の針へ、私の指先が触れる。

 たったそれだけの話。

 ま、その時はそんな予感、微塵もなかったけどね。


      /


18 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 22:46:35.13 PRAHzYyI0 10/90


「……ごめんね、付き合わせちゃって。わぁ、結構いっぱいだぁ」

 申し訳なさそうにいいながら、平沢さんは講堂の扉に手を掛けた。
重厚な木彫りの観音開きに、ぐっと力を入れて開く。
 隙間から熱気がむわりと這い出てきて、薄暗い闇に一矢の光が射した。
講堂は多くの人――新入生だろう――でごった返していて、私たちは出入り口近くで立ち見することになった。

「――――お姉ちゃん、ボーカルなんだ……」

 驚きを表す言葉の中に、何かを責めるような色が交じっていた。
 ……まただ。この、言葉と響きの不一致。
平沢さんの方を見ると、彼女の視線は私の訝しむ視線にちっとも気づくことなく、
――もしかしたら、気づいていてもなお、かもしれないけれど――まっすぐ舞台に向けられている。
 声をかけて、何故と問うてもよかったのだけれど、それよりも耳が先に、気になる単語を拾っていた。

 ――お姉ちゃん?

 私も平沢さんの後を追い、舞台に目を向けた。
舞台の上には制服姿の4人組がいた。人ごみのせいで、膝元から先は見切れていた。

 ギター・トリオとキーボードの4ピースバンド。
 女子高生がなんであんな重いギブソン・レスポールを、とか、
音に厚みを入れるためのキーボードかな、とか、
ベースの人左利きなんだ、とか、そういう思考が脳内を過ぎった後、ああ、と、思う。

 あそこにいるのは、あの「軽音楽部」の先輩たちだ――――


19 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 22:47:52.09 PRAHzYyI0 11/90


 ギブソン・レスポールを担いだ一人が、ひょこひょことヒヨコみたいな動作でマイクスタンドへ歩いていく。
よく見れば、その幼げな顔立ちはどことなくだけれど――私の隣にいる平沢さんと似ていた。

「『「【〔どーもぉ、って、ぅわ……〕】」』」

 開口一番、だらしない笑顔が発した声は派手なハウリングを挟んだ。
壇上の先輩は音に怯んだみたいで、上体を大げさに逸らす。
 講堂に広がる暗がりのそこかしこで、くすくすと笑いがあがった。
一曲目が終わり、ほどよく熱せられていた場の空気は良い方向にほぐれたみたいだった。


『軽音部です。えと、し、新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます――?』


 なんで疑問系。
 先ほどより心持ち大きな笑いが講堂の中に広がって、
腑抜けたMCを嗜めるかのようなバスドラムが二度打たれた。
 マイク前の先輩は、その音にも肩を大げさに揺らしてからやおら振り返って、えへへぇ、と笑う。
 一連のやり取りから――腕前はどうあれ――きっと雰囲気の良い部活なんだろうな、と素朴な感想が沸いた。
その後も漫談みたいなやりとりが続いたけれど、それはまあ、今は脇において――

 ワン、ツー。

 掛け声と共にドラムスティックが打ち鳴らされ、
アンプから鳴り響くD♯7-5(セブンスフラットファイブス)。
 聞き覚えの無いメロディーと歌詞。
コード進行はメジャーなものだけれど、新鮮味にあふれていて。


20 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 22:48:40.38 PRAHzYyI0 12/90


 
 ……まさか、とは思うけど――オリジナル?

 高校の部活動なんて、コピーバンドばかりだと思っていた。
覗き見したあの音楽室では不真面目さしか見受けられなくて、ただお遊びでやっている部活だと思っていた。
 曲が始まった瞬間から火に掛けられた講堂は、拍手と歓声をより大きなものにしていく。
隣から、半拍分ずれた手拍子と笑顔が伝わってきた。

 鷲づかみにされた心臓が、ギターやドラム、キーボードの音で無遠慮に揺さぶられる。
ブレイクの合間にだけ呼吸が許されているかのように、私は息を止めていた。
 確かに演奏にはまだまだ抜け切らない稚拙さがあるし、細かいミスをあげようと思えばいくらでも。



 だけれど、どうしようもなく、私は。



 私はその演奏に、魅入られてしまっていた――――




21 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 22:49:43.36 PRAHzYyI0 13/90


#02 記憶の平方根はゼロ/〔12496〕

 そして「軽音部」へと入部した私は大いに歓待された。
練習量だけは人並み以上にあると自負していたけれど、それでも人前でギターを弾くのは緊張した。
 なんだかんだで、私は新しい環境に胸を弾ませていたのだった。

 急く気持ちを押さえつけながら、特別教室が軒を連ねる棟の階段を登っていく。
始めて訪れた時と違い、一人分の足音が放課後の喧騒の中に反響していた。
 階段を登りきり、音楽準備室のプレートが掲げられた扉の前に立つ。
棒タイをいじり、形を整えて、咳払い。
 入部二日目。未だ緊張してます。

「……普通に。普通にすればいいんだ、私」

 自分を落ち着かされるために独り言を落として、ままよ。扉に手を掛けて一気に開いた。
中の様子を確認する前に、腰を45度折る。

「遅れてすみません!」
「ふ、ふぇい!?」

 ……勢いよすぎだったみたいで。しかも声量の調整も誤った。
随分と間の抜けた声に遅れて、ガタン、と椅子が揺れる音。
片目を瞑りながら上げた視線にいたのは、昨日と同じ場所、奥の椅子に座りながら目を丸くしてこちらを見やる――

「あ、まだ唯先輩だけですか? 他の先輩方は……」
「ほぇ……? あのぅ、ごめんなさい。お名前、聞いてもいいかな」

 どうしました、と続くはずだった言葉は、唯先輩の弱弱しい声にかき消された。
 それは、本当に『知らない人』に対する反応だった。戸惑いを纏う雰囲気は、演技で出るものでは決してなく、


22 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 22:50:45.60 PRAHzYyI0 14/90


 
「え……なに、言ってるんですか、唯先輩……」
 
 震える声。おかしい。昨日、ちゃんと自己紹介したはずだ。
唯先輩は困ったまま顔で、自らのブレザーの内側へと手を入れた。

「メモ、帳……?」
「え、と。うーんと」

 取り出されたのは手のひらサイズのピンクのメモ帳だった。
リングメモ形の、100均でもよく見かけるもの。

 そこには、大量のシールが張り付けてあった。
 シールの中には角が擦り切れていたり、日焼けして黄ばんでいるものもあって、
新品のメモ帳と比べて相当な年季が入っているのが見て取れた。
 よく目を凝らすと、唯先輩のブレザーの内側にもそれはそこかしこに張られていて、
先輩が細かい挙動を起こす度にガサガサと虫の羽音みたいな音を立てている。

 わからない。これは、いったい、どういうことなのだろう。

「こんにちはー。……あら? 二人とももう来てたの?」
「あ、えっと、ムギ先輩。あの、唯先輩が……」

 部室に現れた琴吹 紬先輩は、
メモ用紙を漁り続ける唯先輩の様子を見て、状況を察したようだった。


23 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 22:51:33.84 PRAHzYyI0 15/90


 
「……あ、そうか。そうね。説明、しないといけないわね」
「説明、って。なにが、どうしちゃったんですか? 唯先輩は、」
「少し待ってね、梓ちゃん。みんなが揃ってからお話しましょう?
 ―――――……とりあえず、」

 どことなく硬い笑顔だった紬先輩は、そこで一旦言葉を切った。
メモ帳を漁っていた唯先輩が、突然あっ、と小さく声を上げる。
 その様子を見て、笑みを深めた紬先輩は続ける。

「お茶にしましょうか」
「はぁ。……………………え、お茶?」

 言葉通り、出てきたのはティーセットだった。

 ティーセット。学校の音楽室で、ティーセット。
 なんかケーキまであるし。どこから出したんですかこれ。
これはこれですっっっごく気になるところだったけど、とりあえず今は優先すべきことがある。
 席に着きながら、私は紬先輩を見た。
ふわり、と花がほころぶ様に微笑む彼女は、首を横に振りながら。


24 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 22:51:50.46 PRAHzYyI0 16/90


 
「……これは唯ちゃんから言った方が、良いと思うの」

 水を向けられた唯先輩は、ケーキを食べる手をいったん休めて、
小さく微笑みすら浮かべながら口にした。
 まるで昨日の晩御飯を話すように、なんでもないというように






「ええと。私ね、記憶が、75分しか持たないんだぁ」







 そういった。


 /


25 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 22:52:59.38 PRAHzYyI0 17/90


 
 それは、どこにでも転がっていそうな、
だからこそ絶対に体験しないと思えるような、ありふれた『悲劇』だった。
 唯先輩が一年生――つまりは前年度の冬の話。

 学校からの帰り道。
ちょっとした不注意から、飛び出してきたトラックにぶつかったらしい。

 茜色射す夕暮れの時間だっと、と律先輩は言う。

 宝物にしていた、素敵な『いつも通り』を全部奪っていったのは重苦しいブレーキノイズ。
それを今でもたまに思い出して身動きが取れなくなるの、と紬先輩は言う。

 唯先輩はすぐに病院に運ばれて、幸い一命は取り留めたのだけれど、
脳の機能――つまり「記憶」に、障害が残ってしまった、と澪先輩が言う。


  それまでの、過去の記憶については問題なく、自分の事もちゃんと覚えている。
 けれど新しく入った記憶は、75分経つと消えてしまうそうだ。


「――脳の中に75分のカセットテープがあるような感じかしら。
 そこに重ねどりしてくと、以前の記憶は消えてしまう。延長はなくて、きっかり、1時間と15分。」

 紬先輩はそういうと、眉根を下げて目を細めた。
ビスクドールもかくやというような碧眼の瞳は、どこか遠くを見ていた。
きっとその先には、在りし日の光景が広がっている。
もしかしたら、私が辿るはずだったまた別の物語かもしれない。


26 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 22:54:30.06 PRAHzYyI0 18/90


 紬先輩は悲しげな微笑のまま、唯先輩の脳の故障をして、『前向性記憶障害』。
『記銘障害』と『記憶障害』が重なった非常に稀有な状態だと言う。

「記銘、ですか? それは、その……記憶と、どう違うんですか?」

「一言でいうならノートとエンピツだな。
 記銘はエンピツ――つまり記憶に書き込む力。
 記憶はノート――つまり記憶を保存しておく力。
 唯はさ、書き込んだノートを忘れてきちまうんだよ」

 こいつ、おっちょこちょいだからなぁ。なんて、冗談っぽく言う部長――
律先輩の説明は、とても滑らかなものだった。
 これまで何度も、違う人の前で、同じような説明をしてきたのだろう。
ポイントだけ狙い撃ちにして、余計な部分をそぎ落としたそれは、なるほどわかり易い。
 けれど――冗談めかした言葉と声色は、今にも泣きそうな顔と不釣合いすぎた。

「お医者様は、『完治は難しいだろう』って。
 私たちと知り合ったのは去年のことだから、ある程度は覚えているんだけど。
 新しいことが覚えられないから、大切な事はメモに残して持ち歩いているの」

 ムギ先輩が語ったのを最後に、沈黙が場に横たわる。
唯先輩が小さく身じろぎした瞬間、カサリ、と乾いた音がした。

 澪先輩が、俯いて呟くように漏らす。


27 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 22:56:00.39 PRAHzYyI0 19/90



「初日に伝えてなくてごめん。先にこんなこと言っちゃうと、
 もう誰も来てくれないんじゃないかと思って」

 隠していて悪かった、と付言する。
頭を深々と垂れ、かみしめるようにもう一度、すまない、と。
 その肩はとても小さく見えた。
「……いや、悪意があった訳じゃないんだ。
 軽々しく口に出来る事でも無いだろ? でも、私たちも新入部員っていうんで浮かれててさ」

 律先輩が、後を引き継ぐように口にする。
 バツの悪そうな顔のまま頬を掻き、背もたれに体を預けた。
ぎし、と音が鳴るくらいたっぷりと木を軋ませてから、緩慢な動作で離す。
 机に置かれていた紅茶で口を湿らせて、私を見据えた。


「でも、やっぱり気になるっていうんなら無理強いは出来ないんだ。うん。
 ……今日は帰ってくれていい。考える時間もいるだろーしな。明日からも――」
「来ますよ」


 律先輩が何事か言い終わる前に、私は待ち切れず言葉を発していた。
語尾を奪われた律先輩のみならず、


29 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 22:58:13.04 PRAHzYyI0 20/90


 

「「「「え?」」」」


 異口同音。
 視線が一点集中しているのを肌で感じながら、私は思った。

 うん。そうだ。だって、そんな話を聞いたからって――どうだっていうんだ。

 目を白黒させている先輩方へ視線を一巡させて、いう。


「私は、皆さんと一緒に演奏がしたいんです。
 辛いことはあるかもしれないけど、そんなのは当たり前のことで。
 この先、苦難があったとしたら、いいえ、あったとしても。
 それって、そのときに、考えればいい事じゃないですか?」


 言い終わってから、楽観的すぎる意見だと気恥ずかしくなった。
ともすれば、タライ回しや問題の先送りと揶揄されるかも知れない。
 それでも、痛烈なくらいに思ってしまったのだ。
そんなことはどうでもいいからこの人たちと音楽がしたい、と。
 それだけは胸を張って宣言できる。決意と言い換えてもいい。

 ほとんど全員がぽかんとした顔をしていたけれど、ムギ先輩だけはくすくすと笑っていた。



30 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 23:00:00.19 PRAHzYyI0 21/90


「唯ちゃんと同じことを言うのね」
「え?」

 目を細めながら、ムギ先輩が言った。
聞き返すと、内緒話を囁く前みたいに笑う。
 すっかり中身の温くなったティーカップを取り、両手で包み込みながら、続けた。

「唯ちゃんはね、記憶が無くなってしまう、という話を聞いて。それでも笑ったの」

『あはは。これで同じお菓子が何日続いても、私は絶対に飽きないねぇ。
 ムギちゃんのおいしいお菓子が、いつでも美味しいんだよ。
 それって、とっても良いことだって思わないかな、ムギちゃん――』

 唯先輩の声で聞こえた言葉は、私の発したもの以上に楽観主義的。
『楽しいは楽しいだよ』と笑う唯先輩の姿が脳裏を過ぎる。
 ああ、この人なら言いそうだなって、納得して、苦笑いが漏れた。
ムギ先輩は唯先輩を一瞥してから、睫毛をそっと伏せた。


「だから――私たちは、唯ちゃんと一緒にいて、力になろう、って思ったの」


 ――――こうして、私の新生活が始まった。

 ちょっと変わった先輩たちと過ごす、放課後の部活動。
少し、いやかなり、不真面目なのが玉にキズだけど――


32 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 23:02:24.39 PRAHzYyI0 22/90


 

 私は、ここに居たい、と。そう思ったのだ。

 そしてその日から。

 唯先輩のブレザーの内側、心臓に一番近い左胸へ、
「中野 梓 新入部員!」と書かれたシールが張られることになった。


34 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 23:03:29.75 PRAHzYyI0 23/90


#03 微分積分、不十分。それからネコミミのこと

 翌日の事。
 教室で、唯先輩の妹でクラスメイトの平沢 憂さんに声を掛けられた。
昼休みの2/3も過ぎ、自分の机で昼食をとり終えて、人心地ついていた頃だった。

「――ごめんね? あのときは、無理に誘っちゃって」

 新歓のライブに付き合わせたことを、まだ気にしていたらしい。
 ソースと醤油とお米の残り香が漂う中、おずおず、といった態で切り出す平沢さん。
両手を胸元で合わせ、こちらを伺う彼女の姿は、まるで何かに祈っているようにも見えた。

「ううん。私、軽音部に入ることにしたから」

 ありがとう。と、そう伝えるつもりだった。
 出会いのきっかけをくれたのは、何を隠そう目の前の彼女だから。
私は着席したまま、机の横についている平沢さんに頭を下げる。

「…………え?」

 しかし、当の平沢さんは戸惑った様子で。

「え、でも。あの、お姉ちゃんのこと、知ってるの?」
「唯先輩の。記憶の、こと?」
「……知ってるんだ」

 返答はため息と一緒で、続く言葉は疑念と一緒にだった。


35 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 23:04:57.19 PRAHzYyI0 24/90


 
「――でも、ね、中野さん。本当に良いの?
 本当に、全部忘れちゃうんだよ。毎日、積み重ねたはずのこと、全部、なんだよ?」

 辛くないの、と、口以上に物を言う瞳が私を詰る。
 普段、人当たりよく、誰にでも分け隔てなく接する彼女の姿はどこにもなかった。
 垣間見たことのある言動と響きの不和――――平沢さんの攻撃性の由縁が、
それを向けられたことで、始めてわかったような気がした。

「……あなたは、辛いの?」

 口にしてから、しまった、と思った。

 当たり前だ。

 家族なのだから、誰よりも唯先輩と接する機会は多いはずだ。
忘れ続ける姉について、どんな思いを抱いているか、なんて――
私には解らないし、簡単に整理が付く問題じゃない。

 そして、きっと、だからこそ、彼女は戸惑っていて。

 混乱を面に出せず、気持ちを整える暇すら与えてもらえない環境に置かれて、
だからといって、非情に徹して切り捨ることも出来ずにいるから。


38 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 23:06:09.80 PRAHzYyI0 25/90


  
 姉のことが好きだから。

 知らない子を無理やり捕まえて、ライブを見に行ってしまうくらい、大好きだから。


 そんな場から生まれる不安、不満のエネルギー総量はいかばかりか。

「――――……」

 固まってしまった私の表情から全てを察したように、平沢さんは肯首した。
鈍い光を携えた瞳は以前、私を捉えて離さない。

「……わからない、よ。どんなに楽しくても、どんなに嬉しくても、どんなに、悲しくても。
 お姉ちゃんはそれを覚えてないの。だから――」

 平沢さんはその先を口にはしなかった。
 私はそれでもあの場所に居たいと口にしたけれど、
本当に、その思いはずっと果たされるのだろうか? 果たしていけるだろうか?
 こんなにも苦しんでいる彼女を前にして、胸を張れるだろうか。

 そう考え込みそうになった思考は、平沢さんの呟きに掬い取られた。

「……私ね、中野さんが羨ましいんだ」
「――――……え?」


39 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 23:09:27.60 PRAHzYyI0 26/90


  
「あなたは、お姉ちゃんにとっていつも知らない女の子かも知れない。
 だけど私は、いつまでも妹の憂なんだよ」
「……それが、どうかしたの?」

 積み重ねた事を忘れてしまうことと、
その人の存在自体を忘れてしまうこと。

秤にかければ、どちらが幸福かなんて目に見えているではないか?

 白状すれば、私にだって他の先輩方や平沢さんを羨ましいと思う気持ちがある。

 せめてあと1年早く生まれていれば、と、昨日の夜何度考えたかわからない。
細めた視界の中で、平沢さんは諦めたように笑っていた。

「お姉ちゃんにとって、私はずっと『中学3年生』の妹なんだよ?」
「…………っ」

 向けられた視線に、浅はかな私の抗議は根っこから刈られた。
それまで錆付いた鉄のようだった光が、冷たさと鋭さと精彩を取り戻して、一直線に向かって来る。
 彼女の内でのたうち回っている激情。その芯の部分に、いま、触れた。


 ――――それは、痛烈なまでの悲嘆だった。




40 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 23:10:24.76 PRAHzYyI0 27/90


 

「本当ならね、私もお姉ちゃんの部活に入りたかったんだよ。
 でも見学しにいった初日にね、お姉ちゃんったら慌てながら言うの。
『どうして憂がここにいるの? 中学はどうしたの、憂!?』って。
 困っちゃうよね、私はとっくに高校1年生で、お姉ちゃんの後輩なのに。
 ――――時間が経てば経つ程、『妹』と『私』は離れていっちゃうんだ。
 私、妹なのに、お姉ちゃんを置いていっちゃうんだよ?」


 息継ぐ間もなく言いのけて、平沢さんが一歩パーソナルスペースへ踏み込んでくる。
何事かとざわつき始めた教室の空気を認識しながら、
彼女の抱える傷をむざむざ暴いてしまった事に深い羞恥が残った。
 平沢さんの瞳は一片の曇りもなく、ただ昏い。

『あ、あれ平沢さんじゃない? 同じクラスの。……なんか、困ってるっぽいね』

『でも見学しにいった初日にね、お姉ちゃんったら慌てながら言うの』

 部室の扉を覗いた時、何やら困ってる様子であたふたしていた彼女の姿。

 それが、今の発言と繋がった。

「……っ」

 もうたまらず、息を呑んで視線をずらしてしまった。私は、結局、逃げたのだ。


41 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 23:11:55.61 PRAHzYyI0 28/90


 平沢さんは、臆病者が竦んだのを敏感に感じ取っていた。
刀を納めるように瞼を伏せると、眉根を下げながら申し訳なさそうに笑う。

「……あはは。ちょっと気持ち悪いよね。ごめんね、中野さん」
「う、ううん。私の方こそ、ごめん」

 緩慢な動作で首を降り、謝罪する。
備え付けのスピーカーからチャイムが鳴り響いたのはその時だった。
それがタイムホイッスルの変わりか、リングに投げられたタオルかはあいにく判別がつかない。

 私達はもう一度、お互いに謝罪の言葉を交わしながら別れる。
張り詰めていた空気は霧散して、教室にはいつの間にか温度と平穏が舞い戻ってきていた。
 数学を受ける準備を各自で始めて行くクラスメートを背景にして、
あめ色のポニーテールが揺れながら遠ざかっていくのを、複雑な心境で見送る。



「あー、もうチャイムが鳴っているだろう。各自席につくよう」

 それからややあって、教室の扉が音を立てて開いた。
出てきた若い男性の数学教師は、紺色の薄い本を脇に挟みながら教壇に立った。

「さて、今日の授業だが、君たちは約数について覚えているかな?
 数字を割り切れる数字のことだ。6なら、1と2と3と6がこれにあたる。
 ではこの数字、220と284だが、これは共に助け合い、支えあう数字――友愛数と呼ばれている。
 何故かというと、不思議なことなのだがこの約数は――」


42 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 23:14:05.38 PRAHzYyI0 29/90


 
『唯先輩』『ノートとエンピツ』『平沢さん』『けいおん部』『75分』。
 色々な事を考えて。ぼんやりと、先生の話を聞いていた。

その時先生が口にした二つの数字が、なんとなく気になった。
 広げただけのノートに220と284とだけ書き出して、
書き出すことが出来たのは、自分がその数字を覚えているからだと気がついた。

 『記憶』。

 覚えること全てを忘れてしまうというのは、どんなものなのだろう――?


       /

「……えっとー」
「新入部員の中野梓です。よろしくおねがいします!」

 放課後、部室へ赴くと先輩方はもう既に勢ぞろいだった。
こんにちは、と挨拶しながらソファーにカバンを置き、自分に割り当てられた席へ座る。
 唯先輩の心象としては、私は突然の乱入者だろう。
戸惑った様子の彼女に、明るく笑いかけながら宣言する。

 彼女は、また当然のように私の事を忘れていた。

 でも、それはもう、わかっていたことだから。
私は私に出来ることをやろう、そう決めた。なら、辛いなんて今更思えない。


43 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 23:16:07.89 PRAHzYyI0 30/90


「おぉ! 元気いっぱいだな。それじゃ早速――」
「練習ですか!」
「お茶にしようっ」
「……えぇっ!?」
 
 身を乗り出していた肩から崩れ落ちた。
その様子を見ながら、律先輩は楽しげにケラケラ笑う。
 能天気な人だなぁ……。とジト目になっていると、いつの間にかテーブルにはティーセットが並んでいた。
まるでこれが通常の姿であるとでも言うように、律先輩は椅子の上に胡坐をかいて紅茶をすすっている。

「――あの、音楽室でこんなことして、大丈夫なんですか?」
「だいじょーぶだいじょーぶ。心配すんなー」

 言葉の響きが軽すぎて、ちっとも大丈夫には思えない。
少し肩身の狭い思いをしていると、扉を開けて先生が姿を現した。
 ホワイトスーツに橙色のインナー。
スカートからスラッと伸びた両足、蜂蜜色のストレートロングの髪に、細い楕円フレームの眼鏡。
 キャリアウーマンのパブリックイメージに手足が生えて歩いてるみたいだった。
でも、眼鏡の奥に仕舞われた眼精は穏やかで――あ。そうだ、音楽の山中さわ子先生。

「あ」

 先生はつかつかと歩いてきて、椅子に腰掛けた。
おしとやかな大人の女性像そのものな先生は、やはりというべきか新入生の間でも評判がいい。
 そういう類の情報網において、最末端の私でも存在を耳に挟んだことがあるくらいだから、
その人気ぶりたるや相当なものなのだろう。


44 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 23:18:00.54 PRAHzYyI0 31/90


 山中先生は机の上に両肘をつきながら、
疲れた、と大袈裟にため息を吐いてみせる。ムギ先輩が席を立った。

「……あのっ! あの……これは……」
さわ子「私ミルクティーね」
「えぇっ!?」

 この人も。私か? 私がおかしいのか?

 はーい、と間延びした返事をしながら、ムギ先輩は笑って
食器棚(どうしてあるの!?)から新しいポットを取り出している。

 夕暮れ時にふさわしい、穏やかな時間の流れだった。
うん。でも少なくともけいおん部の日常の一コマでない。……ないよね?

さわ子「顧問の山中さわ子です。よろしくね」
「よ、よろしくおねがいします」

 はあ……綺麗な人だなぁ……。
部員のみんなは、当然のようにお茶とお菓子を口にしつつ雑談に興じていた。


 …………ここ、軽音部だよね…………?





45 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 23:20:09.69 PRAHzYyI0 32/90


 で。
 満杯に入れられた紅茶が、すっかり冷めてしまう位の時間が流れて、現在。

「……あの、なんですか、これ」
さわ子「ネコミミだけど?」

 しれっと答える山中先生。
2杯目はストレートにしたらしい。カップの中の紅茶を優雅にくゆらせていた。
 ひくつく口元が、最初に抱いた印象が崩れていくのを伝えていた。
脳内ではデマゴークの危険性についての論議が白熱している。
 私の視線は、机の上へ落ちていた。
黒カチューシャの上に、ファサファサした毛並みの三角がついているソレ。


 ネコミミ。いやでも何故にネコミミ。

 これはお茶会もたけなわの内から、山中先生が嬉々として取り出してきたものである。
かろうじて動く口先で、私は先生を見る。

「いえ、それは、わかるんですが。これを、どうすれば……」
さわ子「…………ふっふっふっ」
「ひぇっ!」

 妙な笑い声と共に先生は私の背後へと回り、肩をつかんだ。
柑橘系のコロンの香りが鼻先をくすぐるが、
ぞわわわわっ、と大量の毛虫が割拠して背筋をせり上がって来るような悪寒が走る。


46 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 23:21:12.69 PRAHzYyI0 33/90


 
 だらしなく椅子に座っていた律先輩が、その様子を見ながらひらひらと手を振った。

「あぁ、だいじょぶだよ。軽音部の、儀式みたいなモンだから」
「何の儀式ですかぁ!?」

 声量を上げて叫び、掴まれた手を振りほどく。身を両腕で庇うようにして、先生を睨む。
しかし目の前の悪代官は、下世話な笑みを浮かべながらネコミミを手ににじり寄ってきていた。
 効果なしッ!?

 まさか、良いではないか、とか言い出さないよねこの人!?

さわ子「――もう。恥ずかしがり屋さんねぇ」
「当たり前です! 先輩方だって恥ずかしいですよね!?」

 ――振り向くと、和気藹々とネコミミを着けて話し合う姿が。


 え。えぇー? あれ? 私がおかしいの?


さわ子「んっふっふっふっ、良いではないか良いではないかー」
「この人言ったぁ!?」

 ぎょっとしていたら、唯先輩が近くに寄ってきていた。


47 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 23:22:34.93 PRAHzYyI0 34/90


 
「はい。次、梓ちゃんの番」

 そう言って、ネコミミを差しだしてくる。

 受け取り、手にとって、思案顔。
これはなんだ。いやネコミミだけど。それはわかってるけど。
どうするの。着ける。本当に?
恥ずかしい。でも。どうしよう。見られてるし。

 細切れの思考は、プライドと実行の間をゆらゆら反復していた。
頭がこんがらがりそうになって、ううっと呻きながら、なんとか頭に載せてみる。

「わぁ――――!」

 酷く恥ずかしい。

「おぉ――――!」

 歓声が上がっている。

 現実から逃避したくて俯くと、その姿も肴にされる。なんという悪循環……。
 板張りの床を眺めながら嘆息を漏らすと、視界の端にローファーと黒タイツが見えた。
顔を上げると、私にネコミミを渡した唯先輩がいる。
 沈み込んで行く気分を掬い上げるように、先輩は優しい声色で話しかけてきた。


48 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 23:23:55.69 PRAHzYyI0 35/90


 
「すごく似合ってるよ、梓ちゃん」
さわ子「私の目に狂いは無かったわ」

 椅子に腰掛けながら長老みたいにうむうむ頷いている人は放って置く方向性で。

「……ううっ」

 先輩の励ましは心に響いたけれど、やっぱり気恥ずかしくて、
頭上に居座る違和感にとにかく落ち着かなかった。
 姿見があったら椅子で叩き割っていたかも知れない。

 先輩たちは一様に顔を見合わせながら、示し合わせたように一笑した。
そこには私がまだ立ち入れない絆の存在が確かにあって、私に孤独を教えてくれる。

 律先輩はくしゃりと、ムギ先輩と澪先輩はふわりと上品に笑い、
唯先輩は幼子のような無垢な笑顔で笑っていた。
 そして、せーの、の掛け声もなく、

「「「「軽音部へようこそ!!」」」」
「ここで!?」

 割と訳がわからなかった。
 けれど彼女たちが精一杯歓迎してくれているということは伝わってきて。
張っていた肩が落ちて、気持ちが幾分かほぐれてしまった。苦笑が漏れる。


49 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 23:25:28.80 PRAHzYyI0 36/90


 
「うぅーん、梓ちゃん、かわいー」

 そして、唯先輩が抱きついてくる。

「ニャーって言ってみて! ニャー! って!」

 律先輩がそんなことを言った。

「……に、にゃぁーっ」

 唯先輩に抱きつかれながら、素直に要望に答えて(上目遣い+猫の手までして)しまったのは、
歓迎の言葉のお礼だったのかもしれない。

 ……サービスしすぎた、と思わないでもないけどね。

 ああ――だとか、感嘆の言葉を漏らす先輩方だった。
 その中にあって、黙ってぶるぶる震えていた唯先輩は、その震えが最高潮に達すると同時に腕の力を強めた。

「ふにゃ……っ!?」
「あだ名は、『あずにゃん』で決定だね!」

 ……なんなんですか、それ……。


50 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 23:26:30.98 PRAHzYyI0 37/90


私の髪がくしゃくしゃになるのも構わず、頭を撫で回しながら先輩は言った。
先輩の接し方はとてもフィジカルで、揺れる頭と視界。

 ヒューヒューと律先輩が遠巻きに囃し立てる。
澪先輩が嗜めているけれど、効果は薄そうだった。
 強い光が一度、二度と瞬いたのが見えて、驚いてそちらを見れば、
ムギ先輩がカメラのシャッターを高速で切っていた。…………えぇ!?

「っー!」

 これ以上絡まれるのは流石に堪えると、私は猫耳を外して距離を取った。

「これを使えば、とっても可愛い後輩が、梓ちゃんが、もっと可愛くなるねぇ」

 先輩は笑いながらそういって、お菓子のくずが散らばったテーブルの隅へ、
角ばっていて、無機質な――先輩にはちっとも似合わない――真っ白いシールを貼ると、
胸元からピンク色のペンとり足して不細工なたぬきのイラストを書いた。

『あずにゃん』。

 ……訂正。
たぬきじゃなくて猫のつもりらしい。
書き終わったそれを満足げに眺めてから、唯先輩はまたこちらへ寄って来た。


52 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 23:28:22.83 PRAHzYyI0 38/90


「ね、ね、ね。あずにゃんのこと、もっと教えてよ!」
「……中野梓、1年2組。東中出身で、ギターを少々。誕生日は11月11です」

「うお、すご。ゾロ目なんだね。11、11ね。んんー……」
「どうかしました?」

 データだけを簡潔にまとめて言うと、先輩は最後の数字に食いついてきた。
誕生日ではなく、その数字について言われたのは初めての経験だ。
 先輩は腕を組んで軽くうねると、素朴な感想を告げてきた。


「11ってフシギな数字だよね。いっぱい友達はいそうなのに、ひとりぼっちな感じもする」

 あー、と言葉を濁して、私はその数だけが持っている特別な意味を口にする。
自分に関係するということもあってか、よく覚えていた横文字の言葉。

「すべての桁が1である数をレピュニット数って言うんです。1,11,111……」

 滑り出しが堅苦しすぎる私の話に辟易する様子もなく、先輩は目を輝かせた。

 自分の記憶に関して、先輩はどこかで負い目を感じているのも確かだろう。
なるべく私にそういった心苦しさを感じさせないよう、努力しているのかもしれない。


53 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 23:29:22.32 PRAHzYyI0 39/90


「ちなみに、レピュニット数を用いた計算で面白いものがあるんです。
 111111111×111111111はですね――――」

「12345678987654321……あ、すごい! 綺麗な形だねぇ!」

「……なんだ、唯先輩、知ってたんですか?」

「ううん、暗算しただけだよ?」

さわ子「「「「「すげぇ!!!??」」」」」
 

 ――かくして、その『あずにゃん』シールは、
左胸のシールのすぐ横に張られることになったのだった。

 忘れちゃダメだから、と、こちらが引いてしまう程の真剣味で、
猫もどきのイラストが書かれたシールをワッペンのように胸元へ貼ろうとする
唯先輩を全力で止めたのは、その余談だ。


54 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 23:30:19.87 PRAHzYyI0 40/90


#04 U&I和(ゆーあいかず)/〔220,284〕〔14228〕

 それから三日後の放課後だった。
自己紹介、抱きつかれのルーティンワークをこなして、お茶を飲んでいた
(これにあまり抵抗感を抱かなくなっていることを自覚した時は、大いに戦慄した。)時のこと。

「ちょっと律! 新歓の講堂使用申請書、またミスがあったんだけど」

 叱咤の声で扉が開いて、茶色いショートヘアで
赤いアンダーリムの眼鏡が理知的な女生徒が入ってきた。
 棒タイの色から察するに、上級生だ。

「あ、和ちゃん」
「…………唯」

 その先輩の姿にはなんとなく見覚えがあった。
たしか、生徒会役員の人だったか。唯先輩と知り合いなのだろうか?
 それにしては、目を伏せて、視線を手元の書類へ逸らして――返答もあまりにそっけない。
小さく手を振ろうとしていた形で、笑顔が氷ついたまま唯先輩が固まった。

「あー、はいはい! 書類、書類ね! えーっと、なんだって?」

 わざとらしいくらい大きな声で、律先輩が割り込む。
立ち上がり、入り口付近で立ち尽くしているその人の方へ歩いていくと


55 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 23:31:45.21 PRAHzYyI0 41/90


 
「あ、ああ。そう、ここのところなんだけど……」
「うぇー。なんとかならないかなー、だいたい終わったことじゃ――」

 二人は少し話しこんで、ノドカ、という先輩は部屋を後にした。
――最後まで不自然なくらい、唯先輩とは目を合わせずに。

「……唯、先輩?」
「あ、うん。今のは和ちゃんって言って、私の幼馴染、なんだけど」

 少しずつ、声が小さくなって震えていく。
先輩は痛みを堪えるように俯くと、膝のスカートをきゅっと握り締めた。


「私が、ばかになっちゃったから、のどかちゃんは、きらいになったの、かなぁ」


 ぽたり、と、俯いたままの顔から雫が落ちる。
堪えきれずにとうとう泣き出してしまった。
ムギ先輩が、傍らから撫でるようにしてなだめている。

「……どうせ、しばらくしたら忘れるさ」
「澪っ!!」

 それを見ながら吐き捨てるように口にした澪先輩と、叫ぶように諌める律先輩。
 ……私は、何かを考える前に矢も盾もたまらず駆け出していた。


57 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 23:37:08.61 PRAHzYyI0 42/90


 
「あ、おいっ、梓!?」

 背中で律先輩の呼び止める声を聞きながら、引っつかんだドアノブ。
蝶番が、心の軋みを代弁するようにキキィと鳴いた。
 使命感とか義務感ではない何かが、心の中で生まれた瞬間だった。
それが一体何なのか考える暇もなく、この体ははじき出ていたけれど。

 ――――そして、件の和先輩は階段の踊り場に立っていた。
私は彼女の後姿を睨め付るように見下げながら、問う。

「あのっ! なんで、唯先輩の事、避けるんですかっ」
 
 こちらを見上げたその瞳は、思っていたよりも、酷く――泣きそうなもので。

「あなた、新入部員? ……そう。勘違いしないで。別に避けてるわけじゃないの」

 和先輩は震える声で言って、私から視線を逸らした。

 場に沈黙が落ちる。

 私は愕然とした。
――これは、何て、弱弱しい姿だろうか。
振り上げた拳の降ろし所が解らないというのは、こういうことをいうのだろうか。
 橙色をした放課後の空気だけが、この重苦しい場を自由に漂っていて、
音楽室からは、何の音も聞こえてこなかった。


58 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 23:38:33.55 PRAHzYyI0 43/90


 
「――私に、あの子の隣にいる資格なんてないのよ」

 和先輩は自嘲気味に笑い、滔々と語り出した。

「私ね、あの子が高校に入っても、また同じような日々の繰り返しだって、信じてたの。
 気がつけば唯が隣にいて、頼られて、しょうがないわねって笑って、世話をして」

 階段の手すりに置かれている銅像の亀の甲羅を撫でながら、続ける。

「でも、けいおん部に入って、やりたい事を見つけて、熱中して――
 どんどん私を置いて輝いていく唯を見るのは少し寂しかったけど、
 そんな風に成長していくあの子が、とても誇らしかったのに」

 私という穴を通して、どこか遠い風景を見ているような目だった。
吐き出される懺悔を聞き届ける人は、私しかいない。

「唯がああなったって知った時、一瞬、嬉しい、と思ってしまった。
 これから積み重ねる事のないあの子が、また私を頼ってくれる。そう思った。
 ……最低でしょう?」

 一息に口にすると、そのまま階段を下りて行ってしまう。
私は、何も言い返せずに、また追うことも出来ずに立ち尽くしていた。


59 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 23:40:43.66 PRAHzYyI0 44/90


 
「梓」

 背中にかけられたのは、穏やかな声。

「……りつ、せんぱい」
「あー、悪い。立ち聞きするつもりはなかったんだけどな」

 ばつが悪そうに頭を掻きながら、扉に寄りかかっていた律先輩は
一歩一歩、踏みしめながら階段を降りてくる。

「和のこと、あんまり責めないでやってくれよ」

 悪戯を咎められた子どものような顔つきだった。

「…………」
「それぞれにやっぱこう……後悔って奴があるんだよ。
 ――私だって、あの時。唯を助けられてたら、もしこの手が届いていれば、って、思ってる。
 私は部長で……ううん、唯の友達だから」

 それは、魅力的で、苦しい仮定だ。
 もし、ああしていたら。なんて。――第一、そんなこと。

「……エゴですよ、それは」

 今の唯先輩を、否定する言葉じゃないか。



60 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 23:42:27.36 PRAHzYyI0 45/90


 
「勝手なんです。みんな。全部全部、自己完結して、勝手に落ち込んで。
 唯先輩の気持ちも聞かずにそんなこと思って、離れて、それで傷つけて!
 そんなの、ただの自己満足じゃないですか!?」

 癇癪を起こした子どもみたいに私は叫んで、律先輩に詰め寄っていた。
何故こんなにも必死になって食いかかっているのか、わからなかった。
自分では抑えきれない激しい感情のうねりがお腹に渦巻いている事だけが確かだった。

「――――中野」
「っ!?」

 三度目の呼び声は、とても静かな声。
底冷えするような声色と瞳で、律先輩は私を見下ろしていた。

「忘れたのか? アイツは、唯は覚られないんだぞ……?
 許しを貰ったって、75分後にはそれをアイツは覚えてない。覚えてるのは私だけだ。
 そんなの、それこそ自己満足じゃないのかよ!? それなら、それならさぁっ」

 いっそ私たちも、ぜんぶ忘れちまえって思う気持ちは、間違いか――?

 最後は消え入りそうな声でもって、感情を辛そうに吐き出す姿。
――今の私には、彼女たちの「痛み」を、否定できる言葉がなくて、
何も言い返せず、黙り込むしかなかった。


61 : 以下、名... - 2011/07/18(月) 23:44:38.82 PRAHzYyI0 46/90


「…………」
「――でも、いや、だから、かな。
 お前がけいおん部に入ってくれて、『私たち』はホントに助かったんだぜ?」

 律先輩は、固まった空気を解すように、軽い口調で言う。

「あんなでもさ、やっぱりその、パニくる時とかあんだよ。泣き喚いたり」

 信じられない、というような顔でも私はしていたのだろう。
彼女はそこまで楽しそうではないにしろ、笑ってみせた。

「でも梓が来るとそれがピタっとおさまるんだ。
 後輩の前でそんなみっともない姿を見せらんねーって思うんだろうな。……おかしいよ、ホント」

 放物線を描くように徐々に落ちていった彼女の視線を、誰が責められるのだろうか。
 能天気な人だなって、幾度となく思った。
だけど、律先輩にしろ、他の先輩方にだって、苦悩がある。痛みがある。
 それを私は否定出来ないけれど――やはり、気に入らなかった。


「ねぇ、律先輩。提案なんですけど――」

 どうやら唯先輩の中では、後輩は絶対に愛さなければいけない、という公式があるらしい。
たとえ自分の状況に折り合いがつかないような場合でも、私がいるだけで先輩は先輩足ろうとしているそうだ。
 なら、きっと。たくさんある唯先輩の公式の中で、『友人』に関するものも、あるはずで。

 目の前の小心者に、それをなんとしても教えてあげなくちゃって私は思った。


67 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 00:02:14.64 XSmVuVtF0 47/90


      /

「何なのよ、律。用事って」
「いーからいーから!」
「待って、っ、押さないでって。……貴女、何か企んでない?」

 翌日、律先輩は半ば無理矢理『彼女』を部室に呼び出していた。
私が昨日、階段で頼んだことで、律先輩は渋々承諾してくれたことだ。
 部室には、まだ私と唯先輩の姿しかない。
澪先輩とムギ先輩は、掃除当番で遅くなる。勿論、それを予め聞いた上での作戦だった。

「ほら、入った入った!」
「ちょ、ちょっと――」

 例の『挨拶』を一通り終えて、部室のソファーに並んで腰掛けながら
唯先輩が歪な猫の落書きをするのを見ていた時、扉が開いて、

「律先輩!」
「おう。連れて来たぞー」

 私は跳ねるように立ち上がり、そちらを見やる。
肝心な所はちゃんと決めてくれる部長は、彼女の肩に手を置いて、背後から押し出すようにして入ってきた。
 彼女といえば驚いた顔でこちらを見ると、背中にいる律先輩へ、恨むわよ、と小さく漏らす。


68 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 00:04:22.94 XSmVuVtF0 48/90


 
「和ちゃん!」
「唯……」

 唯先輩は昨日と同じように、全身から歓迎の念を表して、
一方の彼女――和先輩は昨日と同じように、気まずそうな顔で視線を逸らしている。

 ――でも、それじゃ駄目だ。
 条件を一つ加えて、証明可能にするように、私は促した。

「先輩。……話したいことが、あるんじゃないですか?
 話さないと伝わらないと思うんです。お二人とも、友達、なんですよね?」

 まだ証明が得られていない命題はすべて未解決問題であると、心の中で唱える。
それに、すれちがったままは、悲しいから。

 例え唯先輩が忘れてしまったとしても、積み重ねたことは、きっとそこにあるんだって思う。

「…………」
「和ちゃん?」

 ここまでお膳立てされると、和先輩も流石に観念したらしい。
唯一の逃げ場である出入り口も、律先輩によって封鎖されている。
 私を親の敵のように見ていた厳しい眼差しから、ふっと力が抜けていって。

「…………唯、」

 迷子のような弱弱しい声が、唯先輩を呼んだ。


69 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 00:06:57.31 XSmVuVtF0 49/90


 
「ごめん。私、とても――とても酷い人間なのよ。
 唯が記憶を保てなくなって、それで、また私を頼ってくれるって、そんなことを考えてた」

 眼鏡を外して胸ポケットへ直し、彼女はためらいながらも、唯先輩へと歩み寄っていく。
震える手が、部室のソファーに座っている唯先輩へと伸びて――止まって、落ちる。

「こんなことを考える私には、唯の隣にいる資格なんてないんだって、そう考えて。
 だから唯から逃げた。こんな酷い私を見せたくなかった。
 ……ううん、これだって言い訳。わたしは、ただ、怖かったのよ」

 唯が映す自分の姿が、酷く恐ろしくて、醜くて、逃げてしまいたかった。

 罪の吐露は、胸を押しつぶす言葉と涙を伴っていた。

「ごめんなさい、唯。――本当に、ごめんなさい。
 わたし、ずっと唯の親友でいたのに、たいせつ、なのに、
 それなのに、わたしっは、唯、ごめん、ごめんね、ごめんなさい――」

 ごめんなさい、ごめんなさい。

 抉り出した傷から、次々と溢れて出る謝罪の言葉。
 頬に流れて落ちていく涙は止め処なく、このまま血まで涙にして
干からびてしまうのではないかと見ていて心配になる程だった。

 一体どれほどの苦痛と、どれほどの苦しみだったんだろう。

 親友の姿を、自分自身を否定しながら、積み重ねてきた重みは。
両手で何度も何度も頬を擦って、それでも涙は止まらなくて、嗚咽が漏れて。 
 その姿は、やはり迷子の子どものように頼りなく、弱弱しかった。


71 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 00:11:12.03 XSmVuVtF0 50/90


 
「――――――……」

 初めてレピュニット数について話した時にも驚いたが、今回のことで一つ確信した。
 数字と向かい合うとき、唯先輩には躊躇いがないのだ。
 真摯で、心配りに溢れ、親愛の情に富んだ姿勢でもって向き合うその姿は、
気心の知れた友人とじゃれ合っているかのようであり、初めての客人を諸手を上げて歓迎しているようでもあった。
 数学的なセンスの煌きを見せながら、先輩は腕の力を一層強めて言う。

「怖かったのは私もなんだよ、和ちゃん。
 こんな私と、和ちゃんはいっしょにいてくれるのかなって、一番最初に思ったんだよ?
 きっと、これまでも、これからも。私が思い浮かべるのは、和ちゃんのことだと思う。
 ばかになっちゃった私なんか嫌になって、愛想尽かしちゃうんじゃないかなって」

 友愛数は、約数という強固な繋がりで共に支えあって存在している。
 それは『数字』という概念がこの世に誕生した瞬間から決まっていることで、
これから何があっても変わることのない絶対的なものだ。
220は284に、284は220に寄り添うようにして、膨大に広がる数字という砂漠の中で抱きしめあっている。

 そう、まるで――あの二人のように。

「でもね、和ちゃん。和ちゃんはいつだって、
 ずっと、わたしの、大切な、幼なじみなん、だよ……?」

 感極まって、唯先輩の瞳から涙が流れた。
言葉を詰まらせながらも、一つ一つの言葉を想いで包みながら伝えている。


74 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 00:12:25.59 XSmVuVtF0 51/90


「唯――」
「ごめんね、和ちゃん。和ちゃんが苦しんでること、わからなくて。ごめんねぇ――」

 ぐじゅ、と鼻をすする水音が聞こえた。
 私だけそちらを見ると、扉の前で弁慶のように仁王立ちしていた律先輩が貰い泣いている。
視線は二人から逸らされることなく、真っ直ぐとそちらを見ていて。
 
 作戦は、大成功といえるだろう。

 涙でぼやける自分の視界の中、私は小さく微笑んでいた。
 
「違う、それっ、違うわよ、謝る、のは、私のほう、なのっにぃ……」

 力強く首を振って、和先輩が――やっと、唯先輩の体に腕を回した。
もう何があっても放さないと体言する頼もしさで、先輩を抱きしめ返している。

 放課後のオレンジ色の中、宙を舞う埃が夕日を浴びてキラキラと輝いていて。
まるで、黄金色の宇宙を漂っているみたいだった。

 ―――その日以来、唯先輩のシールがまた一つ増えた。

 「U&I和(ゆーあいかず)。たいせつなしんゆう」。


75 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 00:14:07.64 XSmVuVtF0 52/90


#05 社交数の夕暮れ/〔15472〕
 
 それから、何ヶ月かの時が過ぎ、私はいくつもの放課後を先輩たちと過ごした。
私と唯先輩は、お菓子とお茶の数だけ出会いを積み上げて、崩して、また積み上げる。

「えへへぇ、ねね、りっちゃんりっちゃん。数学って、面白いねぇ」

 唯先輩について知れたいくつもの事柄の中で、一番感動したのは彼女の数学的センスだった。
 レピュニット数や、素因数分解、素数について話す時、彼女はいつも優秀な生徒で、
私が隠し持っている答えを一足先に探し当てては楽しげに笑った。
 時に意地の悪い難問に行く手を阻まれても、頂へたどり着こうとする懸命な姿勢だけは何があっても崩さなかった。
そのひた向きさたるや、横から見ている他の先輩方も舌を巻くほどなのだ。

「うぇー、部活の時にまで勉強のこと持ち出してくるなよ唯ぃー」
「いつからこの部って紅茶飲んでのんびりするです部になったんですか」
「ほんとにな……」

 苦虫を噛み潰したような顔で舌をべーっと出す律先輩、私に同調する呆れ気味の澪先輩。
 肩を寄せ合うようにして出来た机の島の上にルーズリーフを広げながら、
唯先輩は色ペンを走らせる手を止めることなく、数式を求めていた。

「実生活になんの特があるっていうんだか……」

 律先輩は学生の定型句を漏らしながら、それでも目だけは優しく唯先輩の姿を追っている。


77 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 00:16:46.29 XSmVuVtF0 53/90


 
「いいえ、律先輩。それは違います。
 何の役にも経たないからこそ、数学の秩序は美しいんですよ」

 私はコホン、と咳払いして、律先輩を見据えた。

 極めて穏やかに日々は流れていた。
夕日に照らされた窓が床に移す黄金柱が、その象徴のようにも思えた。


「素数の性質が明らかになったとしても、生活が便利になる訳でも、儲かるわけでもありません。
 だけど、絶対的な法則って、確かにここにあるじゃないですか」

 唯先輩が手で押さえているルーズリーフを指さして言う。
諭された彼女はまだ不満顔だったけれど、口元には隠し切れないニヤけが浮かんでいた。

「物質にも自然現象にも左右されない、永遠の真実、か――」

 じっと、唯先輩の手を見ていた澪先輩が呟きを落とす。
 私はゆったりと頷いた。
それは目には見えないものであるけれど、変わることのない、絶対的なものだ。

「そういえば、数学って音楽みたいな部分があると思わない?
 ほら、先生がよく言ってる、まずは問題を音読してみましょう、って、とっても音楽らしいと思うの」
「ほえ?」

 両手を胸元であわせて、ムギ先輩がニコニコ笑いながら皆へ質問した。


78 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 00:18:29.25 XSmVuVtF0 54/90


 唯先輩は顔を上げて、カバンを漁りはじめたムギ先輩を見て小首を傾げる。
子リスのような可愛らしい仕草だった。
 ややあって、ムギ先輩はお目当てのものを見つけたようだ。
深い紺色で、パステルカラーの三角錐と立方体が表紙の薄い教科書を取り出すと、机に広げる。

「たとえばね――この文章問題。
 音読して、『文章のリズム』を掴むと問題全体が見渡せるし、
 落とし穴が隠れていそうな場所の見当もつくようになるの」

 律先輩が、ムギ先輩の方へ身を乗り出して覗き込む。

「えーっと……袋に虫くいリンゴとふつーのリンゴが合計10個入っていて、
 袋から1つずつリンゴを取り出します。6個目が虫くいリンゴのとき、
 9個目が普通のリンゴである確立を求めなさい。ただし、虫くいの確率は1/3とする――、ねぇ。
 で、このりんごってふじりんご? それとも王林?」
「問題はそこじゃないだろ」

 冗談めかして最後を付け加えた彼女の頭へ、ゴチンと澪先輩の拳骨が落ちる。
頭を抱え、大袈裟に机へ突っ伏した律先輩。
 それを見てムギ先輩がクスクスと笑い、
唯先輩と言えば、真剣な表情のまま、それよりも産地はどこかな、なんて相談を持ちかけていた。
 ――夫婦漫才は放って置こう。

「ん……あながち間違いでもないと思いますよ、ムギ先輩。
 音楽も、数学と同じで、れっきとした学問だったんです」
「ふぇ――音楽が学問って、どういうこと?」

 先輩は机に前のめりになりながら聞いてくれている。


79 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 00:21:59.30 XSmVuVtF0 55/90


 掬い上げたところで溢れてしまう記憶の砂を、
それでも丁寧に扱おうという先輩の優しさはいつも失われることはなかった。

「例えば、ピタゴラス音階といって――」

 ムギ先輩も頷いてくれる。
 大抵、私の話は退屈な話と右から左に流されるのに、
ここでは私はまるで大学の教授になったかのように皆が耳を傾けてくれるのだ。

 ――繰り返されるそんな毎日は、いつだって蜂蜜色をしていた。 
 演奏するのも、みんなで雑談したりお茶を飲んだりするのも、やっぱり少しどうかとは思うけど、楽しい。

 ただ、気がかりなことといえば、自己紹介の定型句を述べる時折、
ちくりとした痛みが胸を刺し始めていることだった。
 楽しい放課後を過ごした翌日、音楽室をドアを開き、迎え入れてくれる無垢な瞳を見る度、
唯先輩の頭の中にある75分が、時計よりも正確で、冷酷なことを教えられた。

『私は、あの子の隣にいる資格なんて、』
『アイツは、覚えられないんだよ……!――』

 そんな時ほど、泣き出しそうな顔で言葉を吐き出す二人の姿が思い浮かんだ。
彼女たちを侵していた痛みが、私の心にも影を落とし始めたのかどうかは解らない。
それでも、振り切ることの出来ない何かが私を追っているのは確かだった。

 そんな時、私たちにとって1つの転機が訪れる。
きっかけは――数学の時間、粉だらけになった手でチョークを弄びながら、
数学の先生が言ったことだった。


82 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 00:34:04.47 3owr4ymBO 56/90


 
「さて、次の題に進む前に、今日はちょっと数字の話をしようか」

 先生は前置きしてから、小難しい理論と公式で固められた教本を教壇へ伏せた。
目を細め、目尻を下げ、まるで奥さんとのロマンスを語るような
うっとりした顔つきで私たちを見渡すと、喋り始める。

「社交数というものがある。
 これはずっと前に説明した友愛数の発展になる、3つ以上の組み合わせを言う。
 Aの約数の和がBになり、Bの約数の和がCになって、最終的にはAへと戻ってくるものだ」

 たくさんの約数とチェーンのように繋がっているから、社交数。
 友愛数や完全数に初めて触れた時もそう思ったけれど、
普段使っている言葉でも、数学と結びつくと途端にドラマチックになるのはどうしてだろう。
 まるでその言葉が、その数字を表すために予め用意されていた物のように感じてしまう。

「社交数は、大きいものになると5つの組み合わせもあるんだぞ」

 では続きを、と顔つきを教師のそれにして、教科書を手に取る先生。


84 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 00:39:30.18 3owr4ymBO 57/90


『社交数』『結びつき』『5つ』。
 閃光ようにその単語が目の前で瞬いて、

「――――それだ!」

 授業中にもかかわらず、私は思わず立ち上がっていた。
 その瞬間、教室中にあった全ての視線が私に刺さった。やってしまった、と気づいたのは
ギギギ、と錆付いたブリキみたいな動作で先生の方を見返した時。すでに遅し。

「……中野? どうした、何か閃いたか?」
「…………あ、い、いえ、その……な、なんでもありません……」
 
 それはもう、酷い恥をかいてしまった。

 
      /
 
「えーと、」
「新入部員の中野梓です!」

 いつもの挨拶を早口で済まし、カバンをソファーに放り投げる勢いで置いて、私は席へついた。
揃っていた先輩方は、何事かと目を丸くしている。
 
「おお? なんだ、やけに元気だな。何かあったのか?」
「はいっ! あの、合言葉を決めませんか!?」
 
 いち早く復帰した律先輩が笑顔で問うて来て、私はシュビッ、と挙手しながら言葉を返す。
その動作に澪先輩とムギ先輩はさらに驚いたみたいで、あんぐりと口を開けていた。


85 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 00:43:13.21 3owr4ymBO 58/90


 
「「「「合言葉?」」」」
 
 異口同音だった。
 顔を気恥ずかしさで赤らめながら、私はそれでも力強く頷く。
そして、例の数字と、その関係についての説明を始める。
 
「――へぇ。社交数ねぇ」
「はい! それに、五つの組み合わせがあるらしくて」
  
 一通りそれが終ると、澪先輩が興味深そうに呟きを漏らした。
それにはっきりとした口調で返して、私は唯先輩を盗み見る。
 
「んーーと……」
 
 先輩は、腕を組みながら黙考していた。……一秒、二秒。
皺の寄っていた眉間が、ぱあっと晴れる。

「……あっ。12496、――14228、15472――14536、で――14264、かな」
 
 暗算している訳ではなく、あたりにフワフワと浮かぶ数字のイメージを捕らえて、
直感で答えていることがこれまでの経験から容易に想像できた。
 ほう、と感心しきりのため息をムギ先輩が吐いていた。
 
「正解です――」

 目に見えない世界が、目に見える世界を支えていく実感があった。
運命的な数字のチェーンが、しっかりと私たちの関係性に結びついていく。


86 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 00:45:26.48 3owr4ymBO 59/90


「私は14228、かな」
「――14536」
 
 律先輩と澪先輩が、壊れ物を扱うような慎重な口ぶりで言う。
 
「ふふっ……私は12496かしら」
「15472、です」
 
 ムギ先輩が、宝物をぎゅうっと抱きしめるように笑いながら言う。
私は追従して、まだ赤みが引かない顔を伏せた。
 霧に満ちた暗闇を貫く一筋の光が、私たちを真っ直ぐ照らしていた。
暖かく、揺ぎ無く、安らぎすら芽生えるそれに当てられた心が、その時初めて全容を見せた。
 
「あ――」
 
 それまで翳っていた部分が晴れて、私に生まれていた感情が一体何なのかが解る。
これまでの行動に関しての納得と、これからの出来事に関しての想いが溢れてきて、震える声が出た。
 そんなこと露とも知らぬ唯先輩が、ニコニコと笑いながら私を見やる。
 
「14264っ! よろしくね、梓ちゃん!」
 
 差し出された手に指先を絡めて、はいっ、と元気よく返事する。
ささめくような笑い声を皆で交わして、その後何度も点呼した。


87 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 00:50:13.82 3owr4ymBO 60/90


 
――そうだ。私、唯先輩のことが、好きなんだ――
 
 胸に去来するこの暖かい感覚を幸福と呼ぶのだと思った。
そう思えることがなんとも誇らしく、自身に割り当てられた数字以上に嬉しかった。
 
 そして、唯先輩の制服に張られたシールがまた増える。
それには「みんなの合言葉 社交数」と、丸っこい文字で書かれていた――
 
#06 悪魔の定理/〔14264〕
 
 放課後に行われる自己紹介の挨拶に、一つの数字が付け加えられるようになった。
 私が一番最後に部室に顔を出した時、音頭を取るのは決まって律先輩で、
そんな場合ほど、彼女は溌剌と笑いながら声を張り上げる。
 
「よぉしー! 点呼をとるぞー! 14228っ!」
 きょとんとしている唯先輩へ、真向かいのムギ先輩はたおやかに笑いかけていた。
 時間は穏やかで、緩やかで。
楽しげな空気が部室を目一杯満たしていて、私たちが数字の上で仲良く手と手を取り合っている事を実感できた。
 
「は~い、12496~」
 律先輩に倣って、ムギ先輩が挙手しながら言う。
「15472、中野梓です」
 胸を張りながら、私も答える。
「はあ……14536」
 穏やかに澪先輩が言葉を紡ぐ。
 それから皆で、こみ上げてくるおかしみを堪えながら、笑って唯先輩を見るのだ。


88 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 00:53:49.59 3owr4ymBO 61/90


 

「ふぇ? えーっと……なら私が14264、かな。
 ――あ、そっか新入部員の子、だね!」


 唯先輩は首を小さく傾げて、いつだって正解を難なく探し当てる。
それから、ガタン、と勢い良く席を立ち私へ歩み寄っては、体全体で歓迎と親愛の表現をしてくれた。

 それこそルーティンワークのように行われている行事だったけれど、
気恥ずかしさだけはいつまで立っても消えることが無くて、赤面してしまう。
 彼女は私をその腕へ迎え入れる時、『先輩』という気概でもって、正当な庇護者足らんとしていた。
暖かなそれに包まれているだけで、私は無上の幸福感や安心感を得ることが出来たのだ。
 
「……にゃー」

 唯先輩にしか聞こえないほどの小さな声量で漏れた呟きに、
 
「あはは、梓ちゃん、何だか猫みたいだねぇ。梓、で猫だから――あずにゃんだね」

 腕の力をより一層強めて先輩が返す。

『あだ名は、『あずにゃん』で決定だね!』

 ――何があっても変わることのない先輩の天真爛漫さ、
優しさに触れるたび、私は唯先輩の事が好きになっていった。


89 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 00:56:28.51 XSmVuVtF0 62/90


 それからまたしばらくして、文化祭の時期が近づいてきた。
 気温こそまだ夏の暑さが名残惜しむように尾を引いているけれど、
気がつけば蝉の声も遠くなり、空からは少しづつ露が晴れて、高く澄んだ秋の色が日に日に濃くなっていく9月初頭。
 
「何やる? って、ま、とーぜんライブだよなぁ」
「当たり前だろ。軽音部なんだからな、私たちは」
 
 律先輩と澪先輩がそんな話を始める。
私にとっては初めての文化祭になり、他の先輩方は二回目の。
 ポッキーに手を伸ばしつつ、そんなことを考えていると、脳裏に思い浮かんだ言葉が意図せずぽろりと漏れていた。
 
「――――新曲」
 
 それは小さな独言だったけれど、隣に座っていた律先輩は拾ってしまった。
片方の眉を上げながら、こちらを見やった。
 
「……ん? おぉ、いい事いうなぁ、梓。新曲! 新曲、ね。
 よし! 澪、いっちょ頼んだぞー!」
 
 律先輩はニコニコ笑いながら、殊更明るい声で澪先輩へバトンを渡す。
だけれど、肝心の彼女は浮かない顔つきだった。
 
「え――でも……」
 
 澪先輩は、ちらりと、唯先輩の方を盗み見る。
それきり気まずそうに顔を伏せて、烏の濡れ羽色をした長い黒髪で瞳を隠してしまう。 


90 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 00:59:48.33 XSmVuVtF0 63/90


「あ……」
 
 今になって自身の迂闊さを呪う気持ちがこみ上げてきていた。
社交数の上に関係性が築けて、浮かれすぎていたのかも知れなかった。
 
 そうだ、唯先輩は、新しい記憶を忘れてしまう。
『新曲』を覚えることなんて、出来るはずがないのだ――
 
 沈黙が下りる。
今までの曲をやりましょうよ、と取り繕うような語を継ごうとした口は、
 
「……やりたい。やろうよ! 新曲!」
 
 屈託のない笑顔で笑う唯先輩に止められた。
 一瞬、巡廻があった。やりたい気持ちと、大丈夫だって思う気持ちと、恐怖。
駆け引きのように皆で顔を見合わせて、やはり何を言えばいいのか解らず黙る。 
 ――そんな中で、口を開いたのはいつものように部長の律先輩だった。
 
「よし! じゃあ新曲だ! アンコールの後に一曲! 頼んだぞ、澪!」
 
 意気地の無かった気持ちが、元気の良いその発言に勢い良く背中を叩かれ、一歩進む。
一握の期待が、雪ダルマ式に膨らんでいく。なんだかんだで、私たちは『けいおん部』なのだ。
 
「……別に。決まったなら、書くけど」

 でも、いや、だからこそ、なのか。澪先輩の様子が、その時少しだけ心の淵に引っかかっていた。


92 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 01:03:11.25 XSmVuVtF0 64/90


      /

 澪先輩が新曲の歌詞を持参して来たのは、意外にもその翌日のことだった。
部室には、唯先輩以外の全員がもう揃っていて、お馴染みのティーセットも机の上に並んでいる。

「……え? 嘘、澪ちゃん、もう書けたの?」

 私には作詞の経験がないから、その大変さというのはよく解らないのだけれど、
何だか後ろ向きだった昨日の返答や、澪先輩からルーズリーフを渡された
編曲担当のムギ先輩が心底驚いた顔をしているのを鑑みれば、そのスピードがどれ程の物か察することは出来た。
 その様子を訝しげに見ていたのは律先輩で、からかう様な笑いを顔に貼り付けて冗談めかして言った。
 
「んんー……適当に作ったんじゃないだろうな?」
「まさか」

 澪先輩らしくない、真っ直ぐ視線と、力強い言葉での否定。
面を食らったのはその場にいた全員だった。

「これは、私たちの曲だろ。だったらそんな適当なこと、出来るもんか」

 怒気すら感じる迫力を背負って、澪先輩は私たちに詰め寄る。
笑い飛ばせない気負い。ルーズリーフに込められた気持ちの総量を言い表しているかのようなそれだった。
 ムギ先輩は、無言で歌詞へと視線を落とす。

 張り詰めた緊張感が沈黙となって部室を包囲しようとしたその時、



93 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 01:08:05.14 XSmVuVtF0 65/90


「出頭してまいりました、平沢唯です!」
「お邪魔します」

 場違いに明るい声が響いた。
扉が開いて、見慣れた二人が入ってくる。唯先輩と、和先輩だった。
 じゅ、重役出勤だなぁ! と取り繕うような律先輩の合いの手が入る。

「えへへー。和ちゃんとお話してたんだよぉ」
「ごめんなさいね。でもコレ、ちゃんと届けたから」
「荷物扱い!?」

 ひどいよ、と涙目になりながら抗議する唯先輩と、それをどこ吹く風と受け流す和先輩。
コントのようなやり取りで、遠慮なんて欠片もないものだったけれど。
 傍から見ていて、安心感すら生まれてくる微笑ましい光景だった。
二人の友愛の契りは、何があっても途切れることはない。そう思えてくる。

『U&I和(ゆーあいかず)。たいせつなしんゆう』。
 そのシールが書かれた日から、二人の仲は気がつけば以前よりもずっと強固なものになっていた。
雨降って地、固まるということだろうか。そうぼんやり考えていると、唯先輩の瞳が私を捉えた。
 ニコリ、と瞳が弓なりにしなって――

「うなー!」

 タックルの勢いで抱きついてきた。うり坊も免許皆伝せずには居れない突進である。
それにもみくちゃにされながら、私は間抜けな叫び声を上げる。
 やれやれ、と漏らされたため息が、先ほどまでの緊張が霧散されて行くのを告げていた。


94 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 01:12:00.78 XSmVuVtF0 66/90


 
「……にゃー」

 やっぱり唯先輩にしか聞こえないくらいの声量。
 安心感や幸福感でゆるやかに溶かされていく心へ、
漠然とした不安がしこりのように残っているのを、私は感じていた。


 とにかく、それからは毎日、新曲の練習をすることになった。

 意外にも、他の先輩方は真面目に取り組んでいて、お茶をする時間は、少しづつだけれど確実に減っていた。
それを寂しく思う気持ちはある。それでも、前を向いて練習を続けた。
 やる気や邁進する気持ちで心は一杯で、新曲、というのがモチベーションをずっと上げ続けていた。

 澪先輩が持ってきた歌詞には『NO,Thank You!』という題名がつけられて、
メインボーカルは諸般の理由から澪先輩に決定した。
 ちなみに編曲のムギ先輩は、あの日の澪先輩に応えるようにして、
その翌日、楽譜を完成させて部室へ持ってきた。
 目の下にクマを作りながらぽわぽわ笑うムギ先輩を、流石に部長は気遣っていたけれど、
瞳は爛々と輝いていて、すぐにでも演奏したいとうずうずしていたのが印象深かった。

 正統派ロックというべきかな、その曲はエネルギーで満ちていて――。
『私たちの曲だ』と愚直なまでの姿勢で応えた澪先輩を裏切らないものだった。
 凛とした歌声が、歌詞を、そこに込められた気持ちをなぞる度、
ギターをかき鳴らしながら私はたまらない気持ちになった。


95 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 01:17:04.47 XSmVuVtF0 67/90


 多忙な中にあって、部室はいつでも笑顔で溢れていた。
これまで感じたことのなかった『進んでいく感覚』が私の四肢を包んで、力を与えてくれているかのようだった。
 ……でも、それに反比例するように、澪先輩は、日に日に不機嫌な様子になっていった。
 細やかなミスや、リズムが狂って演奏が止まる度、
メッキが雨風に晒されて剥げて行くような按配で、それは表に出るようになった。

 そして、ある日。

「っ――――またっ! 同じところばっかりで!」
 
 唯先輩の失敗で演奏が止まった時に、痛みに堪えかねたように首を振って、澪先輩が怒鳴った。
 全ての音が止んで、間延びしたベースの音だけがアンプに残る。
びくり、と全員が肩を揺らして、矢面に立たされた唯先輩の瞳が揺らいだ。

「…………えっと、ごめんね、澪ちゃ、」

 愛用のギターであるレスポール・スタンダード(ギー太だよ、って何回紹介されたっけ)を
ギタースタンドへと一旦立てて、澪先輩へ手を伸ばす。
 ギリッ、と、神経質な歯軋りの音が微かに耳を掠った。

「謝らなくていいっ、いつもいつも同じところでミスして!
 なんのための練習だ、ふざけるなよ!」

 乾いた音は、伸ばされた唯先輩の手を振り払ったから。
ムギ先輩が息を呑み、律先輩はドラムから立ち上がった。

 静止する前に、澪先輩は爆弾を落とす。
気持ちが総量を超えてしまった後のことは、ダムの決壊と似ていた。


96 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 01:20:35.56 XSmVuVtF0 68/90


 

「いい加減に『覚えて』よ――――!!!!」


 それは、それだけは、この場で決して言ってはいけない言葉だった。
どんな場面でも、どんな時でも、不可侵条約のようにその一線だけは良心が止めていたのに。
 澪先輩はハッとした表情で唯先輩を見た。
やってしまった、とは、本人が一番よく解っているだろう。

「っ、ごめん、ごめんね、わたしのせいで――!」
「唯ちゃんっ!?」

 唯先輩は泣きそうな顔で、ギー太だけを抱えて部室を飛び出した。
ムギ先輩の呼び止める声も聞こえていない。それこそ弾丸のような速さだった。

「澪、お前――!」

 乱暴な音で部室のドアが閉められて、律先輩は掴みかかる勢いで詰め寄る。
手にしていたものがボロボロと崩れ落ちていくのを感じながら、
それでも私は、唯先輩を追いかけずにはいられなかった。


98 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 01:25:09.57 XSmVuVtF0 69/90


#07 75と48の慕情 婚約数について/〔14536〕

 走る。
 走って、走って走って走って、唯先輩の姿を探す。
 校舎を出て、桜並木を横切ると、その葉はすでに落ち始めていた。
あの時踏みしめた薄紅色のビロードは、こげ茶色の絨毯になっている。
 肺へなだれ込んでくるのは秋口の底冷えする空気で、私をとりまく何もかもが、爛漫だった春との違いを克明に表していた。
こんな当たり前の時の流れから取り残されて、深く傷ついている人が、必ずどこかにいる。でも、どこに?

「――――そうだ、唯先輩の家――――」

 息切れ切れになりながら、呟きを落とす。もう直感だった。
 当たり前の時の流れから取り残されて、深く傷ついている人が、どこかにいる。
 私の、大好きな人が、どこかで悲しんでいる。

 そう思うだけでこの体は見る見る内に力を取り戻して、両足はいっそう強く大地を蹴っていた。


 平沢家の呼び鈴を鳴らすと、憂さんが姿を現した。
ドアノブに手をかけていた彼女は、膝に手をついて息を整える私を見るなり固まった。

「中野さん……? っ、お姉ちゃんになにかあったの!?
 帰ってきてすぐ部屋に篭っちゃって、私、なにがなんだか解らなくて――」
「ごめんなさい。お邪魔します!」

 憂さんは混乱した様子で、でもいまはそれを気遣っている余裕も無い。
一言断ってから玄関に押し入り、靴をほっぽり出して階段を駆け上がる。


101 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 01:30:39.77 XSmVuVtF0 70/90


「中野さん!?」
「大丈夫っ、だいじょうぶだからっ!」

悲鳴のような平沢さんの呼び声に、そうとだけ返した。
 
 ――――唯先輩の部屋の前まで来た。
扉は硬く閉ざされていて、全てを拒絶しているような冷たさを持っていた。
 中から聞こえるのは、ギターの音と、鼻をすする音。それに時折、うめく様な嗚咽。
まるで、親においていかれた子どもみたいな、懸命な演奏だった。
転んでも、転んでも、立ち上がって、もう姿も見えない親の後を追うみたいな、悲痛な。

 息を整えて、

「……唯、先輩」

 呼びかけるように。

「唯先輩。一緒に練習しましょう。部室に戻って、みんなで」

 それでもすすり泣く声は止まらなくて、ギターの演奏も、とまらなくて。
その全てが私の胸を詰まらせていた。
 唯先輩のギターは、そんなギターじゃなかったはずです
 泣かないでください、どうか、泣かないでください。

 言いたいことは山ほどあった。
けれども、いくらそうしようとしても、言葉が喉へ上がってこようとしない。


103 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 01:32:36.73 XSmVuVtF0 71/90


「……ごめん。ごめんね。梓ちゃん。私、忘れちゃうから。
 どれだけ練習しても、75分後には忘れちゃう。
 みんっ、な、嫌いになるよ。こんな、わたしの……ごめん。ごめんねぇっ……」

 扉の向こうで、唯先輩が泣いている。
扉にもたれかかるように座り込んで、それでもギターだけは手放さないで。
私は少しでもそれに寄り添えるようにと、振り返って、先輩と背中を合わせるようにして座り込んだ。

「嫌いになんてなりません! 唯先輩が忘れるって言うなら、何回だって言います。
 私は、唯先輩の事が。ずっと、ずっと。大好きです」

 運動のせいだけでは決してなく、心音が酷く高鳴る。
扉一枚隔てた向うから、息を呑む音が聞こえてきた。

「……わたしはっ。私の、記憶は、75分しか、もたないんだよ。
 たった、75ぽっちの女の子なんだよ……っ?」

 涙声が響き、かっと顔が熱くなった。もうここまでくると意地だった。
私は、自分で驚くくらいの大声で宣言する。

「――そんなの、知りません! だから、言ったじゃないですか!
 忘れるって言うなら何度でも、何度でも言いますっ
 私が、唯先輩が75だっていうのなら、私は、唯先輩の48に、なりますから――!」

 75と、48。
唯先輩の記憶の総量と、私の受験番号。


104 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 01:34:02.04 XSmVuVtF0 72/90


「……75と48、って――」

 扉向うから聞こえてくる唯先輩の声は震えていて。

 コツン、と扉に頭をつけて、瞳を閉じた。
瞼で蓋をしないと、あふれ出してしまいそうだったから。
通じたことの喜び。唯先輩のことが大好きだって気持ち。やっと笑ってくれた、って、感慨。

「――――婚約数、っていうんですよ」
「あ、はは。なんだか、ロマンチックだねぇ」

 心臓の音は落ち着くどころか激しく主張を続けていて。

 ――――1回。ギターの音が、鳴り響く。
 それは、聞き間違えなんて絶対無い。私にとって特別な、始まりの音。
囁くような声量で、唯先輩が問うてくる。

「……今の音。なにか分かるかな」
「D、♯の7-5(セブンスフラットファイブス)、です」
「わあ……すごいねぇ。聴いただけで分かるんだ。
 ……そう。第1フレットの第『4』弦と、第2フレットの第『3』弦と第『2』弦と、第『3』フレットの第1弦。
 3と、2と、3を足したら、8。
 ――『75』の中に『48』が出来たね、あずにゃん」

 どうかな、と先輩が言う。
恋愛映画から借りてきたような口調に、こらえきれずに笑ってしまった。
 向こうで気配が動くのを感じて、私は立ち上がる。扉ともう一度真正面から向かい合った。


107 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 01:37:23.33 XSmVuVtF0 73/90


「いくらなんでも無理矢理すぎますよ、唯先輩」
「……そうかな?」
「そうですよ」
「えへへ。あずにゃんには、敵わないなぁ……」

 部屋のドアが開いて――暗がりの中から、涙で顔がぐしゃぐしゃになった唯先輩が出てきた。
気が付けば、私は笑っていた。唯先輩も笑っていた。

 ――本当に。どうしようもないくらい、私たちは、ロマンチストだ――

 衝動的に抱きしめた唯先輩の体は温かかった。
頬にあたる柔らかい髪がくすぐったくて身をよじると、腕の中で笑い声が聞こえる。
 ぺたんと座り込んだフローリングの床は冷たく冴えていて、膝から温度を奪っていく。
それはあたかも、零れ落ちる準備を今も刻々と続けている唯先輩の脳の様子のようだった。
怖くなって、私は腕の力を強める。途端、わっぷ、と苦しそうに先輩が呻いた。

「あっ、すみません……っ」

 力を弱めて体を離す。

「あずにゃん、」

 すると、今度は先輩の方から、私に抱きついてきた。
気分が落ち着いていくのを感じながら、私は小さく頷いた。


110 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 01:42:04.24 3owr4ymBO 74/90


  
「例え持てる記憶が75分でも、1分でも、
 あずにゃんがあずにゃんなら、私、あずにゃんのこと好きになると思うんだ」
  
 照れの無い言葉。愛の告白に相応しいまっすぐな言葉たち。
 唯先輩は、真剣に、真摯に、神妙に。言葉を重ねていく。
額と額がぶつかり合って、先輩の吐息が顎をやさしく撫でた。
 
「好きだよ、あずにゃん」
 
 唯先輩はそういって、フンス、と胸を張った。
いやいや、そこでドヤ顔しちゃうとポイント減りますよ、と忠告してあげてから私も笑う。
 
「いちたすいちより、簡単ですね」
「簡単だねぇ」
 
 初歩的な一次方程式。
思い返せば、私たちを支えてくれたのはいつだって数学だったような気がする。
 唯先輩に惹かれるきっかけを作ってくれた『友愛数』。けいおん部を繋いでくれた『社交数』。
紅茶とお菓子と一緒になって放課後を彩った『レピュニット数』や『ピタゴラス音階』。
 そして――始まりの音と共に私たちを取り持ってくれた、『婚約数』。


111 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 01:47:39.54 3owr4ymBO 75/90



 とても幸せな気持ちだった。

この人を抱きしめる以上に、幸福なことはこの世に存在しない。
 1秒ごとに更新されていく、唯先輩を好きだって気持ち。
このままこれを待て余していたら、私はどうにかなってしまうだろう。
 
 人を好きになって、こんなにも胸が苦しくなるなんて知らなかった。
 恋をする気持ちが素晴らしい物だなんて、一体誰が言い始めたのか。
ううん、でも、授業じゃこんなこと、教えてくれなかった。
楽しいことばかりだって、嬉しいことばかりだって思っていた。
 
 好きで、その人のことが好き過ぎて、涙が出そうになるなんて考えもしなかった。

 
 ね、唯先輩――?
 

 視線が示し合わせたみたいに重なって、私たちの間に沈黙が降りた。
唇は、気がついたら――なんて言葉を前置詞にして、重なっていた。
 
「んっ……」
 
 柔らかな感触と、リップクリームのわずかな粘り気が唇に触れる。
 押し付けるだけの稚拙なキス。
唇の温かさと一緒に、胸に広がる幸福感と達成感。


112 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 01:51:38.52 3owr4ymBO 76/90



 好きです。大好きです。
 唯先輩が、大好きです。

 時間が止まれはいいのに、と、
それがどれだけ残酷な願いかと知りながら、それでも願ってしまった。
ちゅ、と、可愛らしい音と一緒に唇が離れ、
 
「え、えへ。 えへへへへ。キス――しちゃったねぇ」
 
 唯先輩がはにかんで笑う。
腕の中のぬくもりが、ほんの少し温度を上げた。
 
「はい、キス、しちゃいましたね」
 
 睦言を交わして、私たちはもう一度触れるだけのキスをした。
 1秒、2秒。唯先輩が僅かに身を捩ったのを合図に、唇と上体を離すと――
 
 
 きょとん、と、新品のビー玉みたいにキラキラした二つの瞳が、私を見ていた。
 
  
「――――――…………あ」
 
 デジャビュ。
チャンネルをまわす瞬間に挟まる砂嵐みたいに、『あの日』の光景が脳裏をよぎる。


115 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 01:56:15.55 3owr4ymBO 77/90



『ほぇ……? あのぅ、ごめんなさい。お名前、聞いてもいいかな』

 思わず瞳を閉じた。喉が引き攣りを起こして、目頭が熱くなる。
悲鳴をあげなかったのは、きっと、ついさっきのキスのおかげだった。
 大丈夫。いちたすいちはに、のように、簡単なことだ。
抱いた想いがある。伝えられた想いがある。キスの熱さが、まだ唇に残っている。
 
 だから――
 
 瞼を押し上げると、まだ上手く状況を飲み込めていない唯先輩の姿があった。
せわしなく動き回る視線は、私と空中を行ったり来たりしている。
先輩が何か言葉を発する前に、私は口を開く。
 
「はじめまして、唯先輩――」
 
 かすれた声だった。かまうもんかと続ける。
 
   「大好き、です」
 
 涙交じりの愛の告白。
 瞬間、確証に似た感覚が胸元から競りあがってくる。
それは決して絶望なんかではなく――前向きで、希望に満ち溢れた気持ちだった。
 
 私も、この先何度だって、唯先輩に恋をする――
 
      /


117 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 01:59:05.44 3owr4ymBO 78/90


 梓の姿がなくなった音楽室には、気まずい沈黙が蚊帳のように降りていた。
アンプも、ギターも、キーボードも全部中途半端に出しっぱなしで、投げ出されていて。
ドラムの傍らに立ちながら、雑然とした風景を眺めて、まるで自分の心境のようだな、と律は心中で苦く笑った。
 
「…………」
 
 脳裏に、これまで会ったいくつもの出来事が過ぎる。
けいおん部設立。部活動。寄り道。授業中の戯れ。文化祭。夏の合宿。
そして――あの、忌まわしい事故。少しだけ変わってしまった仲間。
それ以来、唯と接するたびに表情へ影を落とすようになった親友と自分。
優しさと思いやりをもってずっと支えていた友人。
新入生歓迎ライブ。初めての後輩。――向き合えと、叱咤してくれたその姿。
 
 いやぁ、田井中さんまいっちゃったね。
そろそろ腹をくくらなきゃいけないらしーぜ?
 
「…………なぁ、澪」
 
 ベースを担いだまま、表情を後悔で凍りつかせている親友の名を呼んだ。
自分が出せ得る限りの優しい声色と表情で、一歩一歩歩み寄っていく。
まるで、寒さで震えている人へ柔らかい毛布をかけてやる様にして。
 
「…………」
 
 返答はない。
 今頃、心を世紀末的な後悔に切り刻まれているのだろう。


119 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 02:02:31.24 3owr4ymBO 79/90


「お前が……いや、私たちがやりたかった『音楽』ってさ。
 こんな、辛い顔するようなもんじゃなかったよね。
 みんなで、笑って、演奏して。それだけで、楽しかったじゃないか」
 
 澪の肩が小さく触れた。よし、とうなづいて律は続ける。
投げかける言葉は、今ですらグズグス悩み続ける律自身への言葉でもあったし、
あの可愛くも堅物の後輩が、真正面から、ぶつかって来てくれたから得ることの出来た答えだった。
 
「唯が忘れるっていうんなら、私たちが覚えてやればいいんだ。
 たとえ忘れても、覚えて無くても、それは確かにあったことで――
 そこで生まれた感情まで、なかったことにしちゃいけないんじゃないか?
 演奏したい、つー『気持ち』を大切にしたからこそ、私たちの音楽が出来たんだろ。
 それを忘れなければ――ううん、それだけで、きっと、あの楽しい『音楽』は帰ってくるよ。
 な、澪」
 
 な、私。
 
 律は心の中だけでそう付け足して、澪に歩みよっていく。
 
 
 紬は唯と放課後ティータイムを思って見守ることにした。
律は唯を思って先に進むことができなかった。
澪は先に進めなくなった放課後ティータイムを思っていた。
 三者三様違う形ながら――、大切にしたい場所は一緒だった。
 
「……………………私、は」


121 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 02:05:35.40 3owr4ymBO 80/90


「唯が戻ってきたら、ゴメンって言って、また練習しよう。
  そういうもんだろ。――友達、って」
「わた、し…………ぅ、く、ああああああああ――――っ!!」
 
 堪え切れずに涙があふれていた。頬に幾筋もの涙が伝い、跡を残していく。
膝元から力が抜けるようにして、澪はその場にへたり込んだ。
 
 私は、『友達』と、一緒に楽しく、音楽がやりたかっただけだ――
 
 嗚咽交じりに、細切れになりながらも、その言葉をしっかりと口にした。
律は、なにかと不器用な親友の頭を撫でながら優しく微笑む。

 おかえり、澪。

 祝福の鐘の音のように、グラウンドを走る運動部の掛け声が聞こえてきた。
それは再開の音であり、再生の音であり、これから全てを始めるための号令だった。
 
 
      /


122 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 02:07:48.10 3owr4ymBO 81/90



「「ほんっっっっっっとうに、ごめん!!!」」

 翌日の部活のこと。
唯先輩が来るなり、扉近くで待ち構えていた澪先輩と律先輩が深々と頭を下げた。
 ドアノブに手をかけたまま、何が何だか飲み込めず混乱する当人へ、
ムギ先輩が事の顛末を話すまでひと悶着あったのは言うまでも無い。
 猪突猛進な所まで友人同士でシンクロしなくてもいいだろうに、と遠巻きに見ながら思ったものである。
 
 ムギ先輩から昨日あったことについて説明を聞き終えた唯先輩は、
ブレザーの内側、右胸に張られた一枚のシールを指して言った。

「りっちゃんは14228、澪ちゃんは14536。私は14264だよ……ね?」
 
 その笑顔はとても晴れやかで、慈愛に満ちていて。
なら、何があっても大丈夫だと、唯先輩は最後にくけ加えたのだった。
 
「っ、は、ははっ……何だよぉ、それ」
「……唯は変わらないな」
 
 泣き笑いの表情で二人が返すと、場にいつもの空気が戻ってきた。
律先輩は徐に立ち上がり、唯先輩と澪先輩の肩を引っ掴んで強く包んだ。
 目尻に涙を浮かべながら、三人は強く抱きしめあった。
夕日に照らされて、その光景は神々しいものに感じられた。


124 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 02:12:27.33 3owr4ymBO 82/90


『私と和ちゃんはね、220と284なんだよ』

 ふと、脳裏にあの時の光景が蘇る。
 ――これで、唯先輩はまた一つ、得ることが、取り戻すことができたのだろう。
 事故を境にして壊れてしまった関係が、数字を接着剤にして、修復されていく。
それは喜ばしいことであったし、そのきっかけを作った自分に胸を張りたくなった。

「唯、これ……」
「んー。なぁに、澪ちゃん」

 名残惜しそうに身を離した澪先輩が、唯先輩に紙の束を手渡した。

「その……良かったら、演奏前に読んでみてくれないか?
 唯がよくミスする場所、書き出してみたんだ。
 どうしてもここのリズムが――って、ど、どうした……?」
 
 まだ怒ってる? と上目遣いで見やる澪先輩。
唯先輩は、ふるふる微細に振動していた。
 ……あー、これ澪先輩倒れないかなー。なんて心配したとほぼ同時に、
 
「ふ、ふぉぉおおお……! み、みおちゃぁぁぁあん……!」
「わっ、ちょ、ゆ、唯っ、抱きつっ こらぁ! どこ触ってるんだよぉっ!?」
 
 唯先輩が勢い良く抱きついた。 
標的は一瞬だけバランスを崩したけれど、しっかりと受け止めていた。
 猫が甘えるみたいに身体を摺り寄せて、唯先輩が笑う。


125 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 02:15:10.62 3owr4ymBO 83/90


「えへ、えへへ。えへへー 澪ちゃぁーん」
「ああ……もう、しょうがない奴だなぁ……」
 
 諦めたような顔で微笑みながら、
澪先輩は唯先輩の頭を薄手のガラスを扱うような手つきで撫でる。
 
「――めでたし、めでたし、ですかね」
 
 腰に手を当てながら私は言う。
 
「うん、本当によかった。みんな仲良しが一番だもの」
「……ん。そだな。これがけいおん部のあるべき姿だ」
 
 律先輩とムギ先輩が続いて言った。
眼下では、まだ澪先輩と唯先輩がじゃれ合っている。
 
「あれ? それにしては、お茶が足りなくないですか?」
 
 何気ない私の一言に、ちらっと二人は目配せして感慨深そうに
 
「「…………(ちゃん)も馴染んで来たなぁ(わねぇ)」」
「にゃあああ!? れ、練習、練習するですーー!」
 
 素っ頓狂な叫び声が響く。
けいおん部に、日常が帰ってきた。


127 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 02:19:31.84 3owr4ymBO 84/90


#08 ギー太の愛した数式
 
 ――そして、文化祭当日。私たちのライブの日がやってきた。
舞台袖の暗がりから、一歩一歩、踏みしめるように私たちは歩き出す。
 
 不思議な感覚だった。
 
 7ヶ月前の春、私はこの人たちの演奏を遠くから見ていた。
それが今は、こうして一緒に演奏しようとしている。
 
 ――時間の流れは、いつだって私にとって冷酷なものとして写っていた。
それは私と唯先輩が積み上げたものを、端から崩してしまう冷たい刃でしかなかった。
 平等な死神を恨みこそすれ、感謝する日がくるなんて思いもしなかった。
 
 幕はまだ舞台に下りていて、喧騒と静寂の線引きをしてくれていた。
スポットライトもまだ点けられておらず、足元は暗い。
 それが逆に、今から全てが始まるという予感を感じさせてくれていた。
 
「……唯。大丈夫? このプログラムのままだと、75分超えちゃうけど――」
 
 澪先輩が、心配そうな声で唯先輩を見る。
 新曲のイメージにあわせて、衣装は満場一致で制服になった。
 衣装作らせてよぅと駄々を捏ねるさわ子先生を説得するのに骨が折れたのは言うまでもない。
生贄として澪先輩一日着せ替え人形券を発行するまでに至った。尊い犠牲である。


128 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 02:22:38.09 3owr4ymBO 85/90


「だいじょーぶっ! ……でも、わかんなくなった時は、
 新歓ライブの時みたいに助けてね、澪ちゃん」
 
 唯先輩は、いつもどおりに言う。
 みんなは呆れたように笑うけど、それでもやっぱり仲良しだった。
 
 ――ずっと私の心に巣食っていた不安が、明確な形を取っていくのがわかった。
確証、と言ってもいいくらいの強さで、瞬時に私を覆い尽くしていく。
 静かに進行している事態に気づいているのは私一人だけで、他の先輩方は暢気なものだ。
それは、きっと、誰よりも唯先輩を見ていた私だからこそ気づけた小さな違和感だった。
 もちろん、納得できるだけの理由もある。
 
『りっちゃんは14228、澪ちゃんは14536。私は14264だよ……ね?』
 
 事故を境にして壊れてしまった唯先輩の人間関係を、私は破片を拾い集めるようにして修復してきた。
 
『あずにゃん、私ね――』
 
 『唯先輩』が戻ってきたとしても、何ら混乱のない状態に、戻してきたのだ。
 
『りっちゃんは14228、澪ちゃんは14536。私は14264だよ……ね?』
 
 それから、時間。約一年という歳月は、きっと――
 
『「新歓ライブの時」みたいに助けてね、澪ちゃん』
 
 唯先輩の脳の小さな傷を癒すのに、十分な歳月だったに違いない。


129 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 02:25:50.18 3owr4ymBO 86/90



「――……」

 シールには、「社交数」としか書かれていなかったはずで、誰がどの番号なのかは解るはずがなくて。
唯先輩の部屋で思いを確認しあった時、私は「あずにゃん」なんて紹介をしていない。
そして、ついさっき。唯先輩から出てきた、明確な「過去」の出来事。

 それらは全て、積み重ねた端から崩してきた
「75分だけの唯先輩」が、消えていくことを意味していた。
 
 嬉しいのか、悲しいのか。怖いのか、辛いのか。喜び、不安、ドキドキ。
全部の感情がミキサーにかけられてぐちゃぐちゃになっていく。
 それでも、唯先輩を愛しいと想う気持ちだけは、揺らぐことがなかった。
 
 けいおん部は、円陣を組んで、手を重ね、おう、と元気よく掛け声を交わす。
 
 
 
 
 そして、幕が――――開ける。
 
 
 
 
      /


130 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 02:30:03.33 3owr4ymBO 87/90


 つつがなく――とは言い難いような失敗も少しだけあったけれど――
プログラム最後の曲である、『NO,Thank You!』が始まる。
 
 澪先輩の歌声が、身体にしみ込んでくるような凛としたそれが、熱気で満ちた講堂に響いていた。
 
『思い出なんていらないよだって"今"強く、深く愛してるから』
 
 その歌詞は、『今』『そこ』にしか存在できない全ての少女の歌。
私には、澪先輩なりの唯先輩への気持ちを歌った曲に聞こえてしかたがなかった。
 
『ビート刻むそのたび プラチナになる』
 
 多分、正解なんだろう。
 澪先輩は、この歌に全部の気持ちを込めた。肝心なところで今一つ言葉の足りない彼女だから、詩という形で。
でも、いつからか、目的のための手段だったはずのそれが、少し、ずれてしまった。
本気だったからこそ、失敗は許されなかったのだろう。澪先輩も辛かったはずだ。
 
『だって"今"以外、誰も生きれないか、ら――っ』
 
 感極まって、澪先輩の歌声が詰まった。
最後のサビに掛かる前の伴奏部分。嗚咽がマイクスタンドから漏れる。
 
「――唯っ!?」
 
 律先輩が呼んだのは、澪先輩ではなくて唯先輩だった。
全員がはっとして、唯先輩を見る。
全部の音が一瞬、気をつけなければ解らない程度に間延びして――気がついた。


131 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 02:31:43.72 XSmVuVtF0 88/90


 
 唯先輩の記憶がちょうど尽きる75分が、今、過ぎた。
 
 ギターと会話するように下げられていた顔が、こちらを向く。
先輩の瞳は、やはり無垢なものだった。
 穢れなく、純真で。
 
 唯先輩を端的に表している光。それが皆を捉え、キラリと輝いていた。
 
 演奏部分が終わり、最後のサビが始まろうとしている。
だけれど、澪先輩は固まったままで。
 
 歌声のないまま終ろうとしていた私たちの曲は
 
 
 
 
 
 
「――――――――NO,Thank You!  思い出なんて いらないよ」
 
 
 
 
 
 唯先輩の歌声がきちんと引き継いでいた。


132 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 02:32:05.95 XSmVuVtF0 89/90



「「「「!」」」」

 律先輩は息を呑んで、ムギ先輩は目を丸くさせて。
澪先輩はボロボロ泣きながら1フレーズ遅れてハミングする。
 私は、ギターをかき鳴らしながら――笑っていた。楽しくて、嬉しくて、少しだけ、悲しくて。

「けいおん、だいすきーーーーーーーー!!!!」

 曲が終わり、汗を飛び散らせながらも唯先輩は叫ぶ。
情熱が炎になったように熱い歓声も、重力を空に跳ね返すような拍手も鳴り止むことがなかった。

 ふいに、アンプからギターの音が響く。
私は触ってもいないから、唯先輩の音だ。
 そが何かを認識した瞬間、顔に血液が集まっていくのがわかった。
溢れ出した思いが、一筋の涙となって頬を伝う。



 D、♯の7-5(セブンスフラットファイブス)。



               おしまい!


139 : 以下、名... - 2011/07/19(火) 02:38:07.80 XSmVuVtF0 90/90


おつかれさまでした。以上で投下は終了です。
この作品は小川洋子先生の「博士の愛した数式」の設定だけを借りたクロス作品です。
とても良い作品ですので、未読の方は、ぜひ一度手にとってみてください。

色々と言葉足らずで説明不足なのに冗長な作品でしたが、
ここまで読んでくださったあなたへ感謝を。本当にありがとうございました。
ゴタゴタありましたが代行をしてくださったID:gqiqufcO0には頭があがりません。
こんな夜更けまで、ありがとうございました。
次回からはSS速報使いますね。本当にすんませんでした。
ではみなさん、良い夢をみてください。


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