「何で弟が姉よりも後に産まれてくるか、知ってる?」
眠気頭にソファに座ってぶらり途中下車の旅を見ている俺に向かって、姉が意味不明な言葉を投げかけてきた。声の方を見上げると、姉の顔はやけに近かった。
「とりあえず髪の毛くすぐったいから覗き込むのをやめろ」
「えー、弟くんつれないなー」
そういって今度は俺の隣に腰掛ける。肩を組まれる。あったかい、胸が当たる。
「おいやめろ馬鹿くっつくな暑いだろ」
「そんな寂しい事言わないでよぅ。昔はお姉ちゃんにぎゅーっ、ってしてたじゃない」
「昔は昔今は今、だ。それに何だよ弟が姉より後に産まれてくる理由って」
それを姉は小生意気な笑みを浮かべて俺の腕をきゅっと抱いた。
元スレ
姉「何で弟が姉よりも後に産まれてくるか、知ってる?」
http://hibari.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1309234058/
「知りたい?」
「……離れろ」
腕を抱く力は強くなる。
「ねぇ、知りたい?」
「だから、離れろ、うっとうしい」
吐息が肩にかかる、
「――知りたいんでしょう?」
その柔らかそうな唇に、思わず唾を飲む。
姉弟でそんなこと、――許されるハズがないんだ。
「もう、分かんないかなぁ。弟くんは鈍いんだから」
「もう、分かんないかなぁ。弟くんは鈍いんだから」
蕩けるような姉の声。ゆっくり、ゆっくりと彼女の顔が俺に近づいてくる。
気がつけばその距離は、いつの間にか二十センチを切った。
「馬鹿姉やめろ姉弟でそんなことマズいって絶対、離せ離せ離せ!」
言葉では強がっていても、全身が熱い。身体が動くことを拒否する。
本能が状況に流されろと言っているようだった。
自分の心臓の鼓動が何倍にも早まり、何倍にも大きくなって聞こえる。
この音が、聞こえてしまってないだろうか。恥ずかしくて消えてしまいたかった。
「なーんて。弟くんってば可愛いんだから」
次の瞬間、温もりはすっと消えていて、姉は席を立って俺を見下ろしていた。
舌を可愛らしくちょこんと出し、あっかんべー。
さっきとは違った意味で、恥ずかしくて消えてしまいたかった。
2
自室に戻り、ベッドにダイブ。天井に貼られたアイドルのポスターは、
もう大分前に流行りを過ぎてしまっていた。そろそろ剥がし時なのかもしれない。
「なんだよ姉の奴、バカにしやがって」
感覚を反芻する。
温かい体温、押し付けられた胸の柔らかさ、抱きつかれた腕の感覚。
いやらしくくすぐったい息、蕩けた声、そしてあの上目遣い。相手が実の姉でなければ、
確実に“おかしくなっていた”であろうそれは、年頃の少年にはあまりにも扇情的すぎた。
確かに姉は身内贔屓分を差し引いたとしてもそこらの女とは群を抜いた美しさがある。
可愛らしく、幼さを残した目。絹のようにさらりと伸び、漆のように黒く輝く髪。
すらりとムダのない曲線美に、グラビアアイドル顔負けの胸。そして――
「俺は一体何を考えてるんだ、夏だからって頭がおかしくなったか。
クーラーでもつけて頭を冷そう。うん、そうしよう」
自問自答をし、リモコンのスイッチを入れる。静かな稼動音と共に冷風が降ってきた。
コン、コン。来訪者を告げる音に、肩が震えた。
「どうぞ」
「はいどうも弟くんの大好きなお姉ちゃんでーす」
「帰れ」
「や、だ♪」
部屋主である俺の言葉を無視した姉は、こともあろうか俺の寝転がっている
ベッドの上にすとんと乗った。ベッドはみしっと小さな音をたてて、軋んだ。
やけに上機嫌な姉は、端に腰掛けて足をぶらぶらさせた。
必然的に、チュニックワンピの裾から、生足が見え隠れする。
「さっきの弟くん、すっごく可愛かったよ」
「るせーよ」
自分の目が裾に捉えられているの悟り、目を背けた。
「だって、顔真っ赤だったよ? まんまるく目を見開いちゃってさ」
「るせーよ」
「ね、暇だからゲームしない?」
「なんだよ薮から棒に」
「いーじゃんたまには。お姉ちゃんとの触れ合いも大事だぞ?」
テレビの下から引っ張り出されたプレ2は、何年も遊ばれておらず、
埃を被っていた。中に入っていたのは対戦アクションゲーム。昔よく遊んだやつだった。
「あっ、これこれ。懐かしいなー! もう何年前だっけ? よく二人で遊んだよね!?」
姉はまるであの頃の、少女に戻ったようなキラキラとした瞳でディスプレイを見つめている。
「遅くまで付き合わされて母さんに怒られた俺としてはいい思い出少ないんだが」
「細かいことは気にしない、そんなんじゃ立派な男の子になれないぞ?」
「男の子に立派もクソもねーよ。ほら、コントローラー」
黒いコントローラーを手渡す。
「ん、ありがと」
「今日はそんな長くやらないからな? 俺もこれで何かと忙しいんだ」
嘘だ。けれど、今姉と一緒に居たくはなかった。怖かった。
「じゃあ、長く遊びたいようにしてあげよっか」
「は?」
世界がゆっくりになった気がした。
「弟くんが私に勝ったら、何でもひとつ、言う事きいてあげる」
「何でも……?」
視界が吸い寄せられる。姉の顔から、胸から、腰、股、脚に向かって移動して、
もう一度姉の顔を見る。ぱっちりと目が合った。
あの時と同じ、意地悪そうな笑顔だった。
「なぁに? 弟くん」
「な、な、なんでもねぇよ。直ぐにジュース買いに行かせてやっからな。お前のおごりで!」
「そう、できるといいねぇ」
コントローラーを握る手に力が入った。
いかつい男の拳が、連続技で少女を蹂躙する。
“K O !”
「これで、五十連勝~♪」
「なんでだ……」
肩を落とす。まさか姉がこんなにも格ゲー慣れしていたとは。
それ以前に五十戦もして一度も勝てない自分に腹が立っていた。
「弟くんはね、直線的すぎるのよ。それに決めたいコンボがワンパターンすぎ。
あんな必殺出したい出したいって動きしてたらそりゃあ即死叩き込みたくもなるわよ」
「ぐぬぬ、姉、卑怯なり」
「じゃあ約束として、明日一日弟くんは私の家来になってもらいまーす」
「は?」 開いた口にげんこつを食らわされたような気分だった。
「は? じゃないよ弟くん。約束したじゃない。私が一回でも負けたら何でも
言う事聞いてあげる代わりに、五十連勝したら日曜日を私にくれるって」
「言ってねえよそんなこと! そんな条件あったら呑まなかったし!」
「何かを飲ませたかったんじゃなくて?」
「――なっ!?」
顔が熱くなっていくのが自分でも分かった。
「私の事見て、えっちな気分になっちゃうんだもんね。弟くんも年頃の男の子だもん。
しょうがないしょうがない。弟くんが私との約束やぶっちゃったから腹いせに
mixiでお友達に弟くんとの戯れの日々を赤裸々にご報告してこようかなっと」
「まて、待て落ち着け! 落ち着くんだ姉さん、」
姉がいつの間にか取り出していた携帯電話には、すでに日記ページが開かれていて
今にも「更新してやるぜ!」みたいな表情で俺を見ている。
「なぁに? お姉ちゃんとの約束を守ってくれない弟くん。
私これからちょっとある事ない事書かなきゃいけないから忙しいんだけど?」
「冷静になれ、冷静になるんだ姉さん。そう、吸って――吐いて、吸って――」
すぅ、はぁ、すぅ、はぁ。束の間、ゲームのBGMと呼吸音だけが部屋を往復する。
それに応じて姉の肩、胸が大げさに上下した。
「姉さん、落ち着いた? 俺は、ちょっと落ち着いた」
「私最初から取り乱してもいないし冷静だったよ?」
「わかった、明日一日姉さんの家来にでも何にでもなるから、公開処刑だけは勘弁して下さい」
「最初からそう言ってればいいのにー。それともあれかな? 焦らしプレイかな?
もう、弟くんお上手なんだからぁ。じゃあ明日朝九時、駅前改札ね」
姉はただそう言い放つと、とてとてと、俺の前から消えていった。
「なんだよ。どっか出かけるなら集合とかわざわざしなくてもいいのに……」
3
朝起きた時には既に姉は家にはいなかった。
まだ七時半にもなっていない。駅までは二十分もかからないというのにだ。
全くもって暴走機関車な姉の思考回路は理解出来る気がしない。
早支度して待ち合わせ場所につくも、そこに姉の姿はなかった。
時刻にして八時二十分。日曜日だからなのか、平日よりも人通りが少なく、見通しがよかった。
「何を考えているんだあの姉は」
「さあ、何を考えているんでしょうかねー。ゆうくんには一生わからないかもねー」
またいつの間にか姉が後ろにいた。
「ごめん、待った?」
「俺も今来たとこだよ。にしてもはえーよ。まだ待ち合わせの時間まで三十分もあるぞ?」
「いいねぇ、その台詞。私惚れちゃうかも」
なんて悪ふざけが過ぎる姉だ。
服装も俺の知らない名前の服装で全身塗り固められていたし、心なしかいつもより可愛く見えた。
「でも、一度待ってみたかったなぁ。男を待つ女の子って、一途な感じしない?」
「しねーよ。たかだか三十分くらいで一途って言えるなら世界中殆どの人が一途だよ」
「ゆうくんには乙女の浪漫が分かってないね。そんなんじゃ彼女できないぞ」
「余計なお世話だよ姉さん」
姉が俺のほっぺたをつねる。
「ゆ・か・り」
「は?」
「今日はその姉さんっての禁止。今日一日は私のことちゃんと名前で呼ぶこと」
「意味分からんし」
「分かんなくて結構、命令だもん。はいじゃあ早速どうぞ!」
「ゆ、ゆかり……」
恥ずかしすぎて死んでしまいたかった。こんなところ誰かに見られたら
今までこつこつと積み上げてきた俺のイメージが粉々に崩れ去ってしまう。
「何かなゆうくん?」
「姉さんが呼べって言ったんだろ? そのゆうくんってのもやめてくれ」
「”ゆかり”ね。 嫌よ、今日は一日、こうやって過ごすんだから」
俺の腕に半ば強引にしがみついた姉は、電車の改札口へと俺を誘導、
不意のスキンシップに心臓が飛び出てしまいそうになる。
俺は平静を取り戻すために一番の疑問を投げつけることにした。
「で、今日はどこに行くんだ?」
「え!? ゆうくん決めてくれてないの?」
何それ、聞いてない!
「男女間のデートって言ったら普通男の子がデートコース決めてくれる物だ、ってちさとが言ってたよ!?」
「デートじゃないだろ!?」
「年頃の男女が二人きりで出歩くのの何処がデートじゃないの?」
閉口。広義で捉えたらもしかしたらもしかするのかもしれない。
無論、俺はデート童貞どころかそれ以前の存在のため、たとえそれが姉といえど、
女の子がどういうスポットに興味が有るのかなんて何一つ分からなかった。
「もしかしてゆうくん、デートしたことないの?」
「お恥ずかしながら」
「あらお姉さん、ゆうくんのハジメテ貰っちゃった」
「誤解を招く発言すんな」
きゃ、と言いながらわざとらしく顔を覆って見せる姉。
女の子が全面に押し出されている感じがして、
「やっぱり、女の子は遊園地とか、ディスティニーランドとかがいいのか?」
「そういうのもいいけど、ゆうくんの財布がすっからかんのすっぽんぽんになっちゃうよ?」
「やっぱり俺持ちなのか……」
「デートの基本、金銭は男に払わせる。ってちさとが」
ちさと許さない。
結局は駅近くの喫茶店に一旦落ち着くことになった。
初めて入る店内はガラス窓が駅前を一望できるほど大胆に設置されている以外は殆ど間接照明しかなく、
店の奥側に行けば行くほど未知の雰囲気を感じさせる場所だった。
「ゆうくん、窓側でいいよね」
「あ、ああ」
窓側は人目につくから避けたかったが、奥の方は未知の領域すぎて立ち入ることすらはばかられたので
俺としてもどちらかと言えば好都合だった。
軽く一杯ということで、俺はエスプレッソ、姉はカプチーノを注文し、席についた。
「ゆうくんは何の準備もしてないだろうなと思い、気のきく女房さんな私はこんなモノを持ってきてあげました」
【東京絶景百選! ~これさえ見ればあなたも埼玉県民卒業~】
「なにこの人を小馬鹿にしたタイトル」
「ゆうくんの今日のバイブル、デート本? 持ってていいよ」
「んなわけあるか」
言いながらも雑誌を手に取り、ぺらぺらとページをめくる。
見開きでひときわ大きな写真が掲載されている東京スカイツリーが目に止まった。
「旦那、いいセンスしてますね」
誰のつもりだよ。
「一度は行ってみたいと思ってたんだぁ。ねぇねぇ、今日はここ、連れてってよ」
テーブルの向こう側の姉が身を乗り出して提案する。
寄せられた胸に目を奪われそうになり、急いで雑誌に目を戻した。
4
浅草で東武伊勢崎線に乗り換えわずかひと駅。
来年にはとうきょうすかいつりー駅になる、業平橋駅に到着した。
姉は電車の中から見えるスカイツリーに、年齢を置き去りにしたようなはしゃぎっぷりできゃいきゃい言っていたが、
改札から出ると、その間近で見るスカイツリーに目を丸く見開いておとなしくなっていた。
「おっきいね……」
「……ああ」
駅徒歩一分のところにあるスカイツリーを見上げた俺達二人は、おのぼりさんのように馬鹿みたいに空をみあげていた。
「私、首痛くなってきたかも」
「そりゃあこの距離から六三四メートルもあるもんを見上げてればそうなるさ。距離が二百メートルだとしたら首の角度は……」
「そんなん計算しなくていいから、入ろうよー」
「グランドオープンは来年の五月だ。それまで入れない事になってる」
それを聞くと姉は、露骨に嫌そうな顔をした。
「えー? 入れないの!? だってもう完成してるじゃん! 何で入れないんだよースカイツリー」
「ガイドブックにちゃんと書いてあっただろ…… 文盲じゃないんだからそれくらい読めよ」
「ゆうくんが行こうって言ってくれたから入れると思ったの! 私悪くないもん!」
「あーはいはい、分かった分かったから。適当に土産もんでも買って帰るぞ」
「じゃあ来年、もう一回連れてきて」
「彼氏と一緒に来ればいいだろ。俺は今日だけでも一葉さん一枚飛んでいくことが確定してるんだからもう連れてかない」
「けちぃ」
不機嫌そうな姉だったが、逆さスカイツリーを見せてやると、あっという間に少女に逆戻りした。
ふたり分の往復電車代にカフェ代、ジュース代。スカイツリーキーホルダーにスカイツリーまんじゅう。
スカイツリーせんべいにスカイツリーぬいぐるみ、スカイツリー茶とかもうスカイツリー関係ないようなものまで買わされた。
陽も傾き始め、そろそろ帰ろうかという時のこと。
見たくもないものを見てしまった俺は姉の腕を引っ張り物陰に隠れた。
「きゃ、ゆうくんったら強引なんだから」
「そんなんじゃねえよ」
「でもこの体制は……」
傍から見たらこれから行為に及ぶ盛ったカップルに見えるかもしれない。
しかしそんなことはどうでも良かった。
「クラスの奴がデートしてた」
「別にいいじゃない、それくらい」
「変な噂立てられたくないんだよ」
「別にいいじゃない、それくらい」
「俺にとっては死活問題なんだよ」
クラスで一番口も態度も軽い各堂が、駅前で知らない女性と喋っていた。
齢三十くらいの少し熟した女性。俺から言えばタイプでも何でもなかったが、
かすかに香る犯罪の臭いに、自然と耳を傾けた。日曜の夕方前、人通りが多く、何も聞こえない。
やがて二人は駅の向こうにあるスカイツリーホテルへと消えていった。
「危なかった……」
「ゆうくんの行動が? 私を押し倒さんとばかりにしていたゆうくんの行動が?」
「さっさと帰るぞ」
「……うん」
帰りの姉はやけに大人しく、家につくまでの一時間半の間、
腕にしがみつくどころか手も握らず、一言も喋らず下を向いていた。
5
家に帰ってからも姉の様子はおかしかった。
帰ると直ぐに自分の部屋に篭もり、鍵までかけてしまったのだ。
ノックをするも、聞こえてくるのは
「お姉ちゃんからの命令。今日はもう放っておいて」
の一点張り。取り付く島もなかった。
「せっかく買ってきたスカイツリーまんじゅう、独りで食べちゃうぞ」
「勝手にしなよ。さっきも言ったでしょ。今日はもう放っておいて」
何だよ全く、意味が分からない。
自室のベッドで天井を仰ぐ。アイドルのポスターをはがすのも面倒になってきた。
時計の音が嫌に耳に残る、クーラーの効いた部屋なのにねっとりと汗が湧く。
時間がスローで進んでいるみたいで気持ち悪い。
携帯電話にメールが届く。姉からだった。
『今日は楽しかったよ、ありがとう』
何の変哲もないメールだったが、胸の奥に言いようのない気持ちが沸き上がってくるのがわかった。
今まで感じたことのないような心地良いとも不愉快とも言いがたい痛みが胸を抉る。
「何なんだよ……ほんとに」
八時四十五分。早いと思いながらも、部屋の照明を落とし、寝ることにした。
突然目が覚める。暑い――今何時だ?
クーラーの音は聞こえる、六時間タイマーだから少なくとも午前三時よりは前ということになる。
手探りで電気のリモコンを捜すと、妙に柔らかいものが手に触れた。
「……何だ?」
掛け布団をのけると、そこにはネグリジェ姿の姉がすやすやと寝息を立てていた。
爆発しそうになる驚愕の言の葉をやっとの思いで飲み込む。苦しい。
何で姉が俺の部屋で寝てるんだ!? そもそもここは俺の部屋で合ってるのか!?
夜の僅かな光に順応し始めた目で見回してみるも、やっぱりここは自分の部屋だったわけで。
そしてやっぱり姉が無防備な姿で寝ているわけで。
薄桃色のシルクのネグリジェ。汗のせいか身体のラインを一層際立たせているそれは、下着と言うにも過激すぎた。
その柔らかそうなカラダに、思わず唾を飲む。
姉弟でそんなこと、しかも姉が寝ている間になんて――許されるハズがないんだ。
「……弟くん、……馬鹿……何で……」
突然の声に背筋に電流が走る。顔を見るも目は開いておらず、喉も鳴らない。狸寝入りではないらしい。
「寝言かよ、びっくりさせやがって」
それが良かったのか悪かったのかを判断できず、姉が起きないよう、
また自分が姉の来訪に気づかず朝を迎えたように見せかけるように、ただじっと時が過ぎるのを待つしか出来なかった。
「う……ん……」
突然姉が足に絡みついてくる。起きていない筈なのに。寝相が悪いだけなのか。それとも
「ゆうくん……」
悪夢にうなされているのだろうか。身動きの取れなくなった俺は必要以上に頭を回すことしかできなくなった。
足に全神経が集中する、暑さを忘れて。押し付けられた胸の柔らかさに、ヒトの暖かさに、
根こそぎ持って行かれそうになる理性を、必死に鎖でつなぎとめる。
男としての本能が頭をもたげる。
家族としての理性がそれを抑えこむ。
頭の中では第二次世界大戦よりも激しい戦いが繰り広げられている。
頑張れ頑張れ連合軍。負けるな負けるな連合軍。
気がついたら朝になっていて、俺はベッドに横たわっていた。姉はいない。
自分の着衣が乱れた形跡もなく、ごく普通の、いつも通りの朝。
夢だったのか、ぼんやりとした意識の中、自分で結論を出すのは不可能だった。
食卓には姉がもう座っていた。
「遅いね弟くん、昨日は早く寝たはずじゃなかったの?」
「ああ、ちょっと嫌な夢を見てね。寝付けなかったんだ」
「悩みとかなさそうなのにね。弟くんも思春期の悩みがあったらお姉ちゃんに相談しなさい?」
昨日のことなんてなかったかのように、夜のことなんてなかったかのように。
姉はそれこそ普段どおりの姉だった。昨日という時がそっくりそのままなかったかのような。
「ところで弟くん、そろそろ彼女かなんか欲しい頃合いなんじゃないの?」
「そんなことはねーよ。女なんて、金がかかるし、我侭だし、ひとつもメリットないし」
「そっか。お姉ちゃんはそろそろ彼氏欲しいなー、なんて思ってるんだけど」
「ふぅん」
「弟くん私の心配はしてくれないんだ」
「まあね。姉さんなら見た目はいいから男は砂糖に群がるアリのように集まると思ってさ」
「アリガト。お褒めの言葉として受け取っとくわ」
食パンを食べ終えた姉はまだ半分も残っている牛乳パックを一気飲みすると
「じゃあね、行ってきます」
と言い残し、玄関へと駆けていった。
結局俺は姉になんか敵わないし、何故弟が姉よりも遅く産まれてくるのかもわからないまま。
もやもやした気持ちのまま点けたテレビの星占いは、最下位。
グラスに入った氷が、からんと音を立ててとけた。
6
「何で弟が姉よりも後に産まれてくるか、か」
登校中も、授業中も、ずっと考えが頭から離れなかった。
姉の振る舞いがころころと変わる理由がここにあるんじゃないかと、小さな糸にしがみついている気分だ。
「知らねーよ。そんなの、運の問題だろ。産まれてきたときの運がよかったのかわるかったのか。
お前が弟でお前の姉が姉なのはもう運命以外の何者でもないだろ」
恥をしのんで友人に聞くも、空振りしかしない。その上
「何だ? お前姉ちゃんいたのか。ちょっと写真見せてみろよ――」
携帯を取られ画像フォルダに入っていた姉の写真を見られる始末。
途端友人は餌を与えられた低能動物のようにわーわーと騒ぎ立てるのだった。
「これがお前の姉ちゃんかよ!? 嘘だろこんな美人! おい皆見てみろよ」
「ちょっ、やめろよ」
「いいや、やめないね。こんな綺麗なお姉さんがいるんだ。嫉妬税をたっぷりうけてもらう!」
俺の携帯を拉致したまま、彼はクラスじゅうを駆け回った。
次第に嫌な視線が増えていくのが感じられた。姉なんて、そんないいものじゃないのに、だ。
姉に幻想を抱いている輩は現実を知るべきだ。姉なんて、そんないいものじゃないのに。
携帯電話が帰ってきたのは結局次の授業の後だった。
返す折にも友人は
「お前の姉ちゃんって恋人いないの?」
「最近彼氏欲しいって言ってたよ」
「マジで? 俺を売り込んどいてくれよ」
「やだよ、面倒くさい」
「じゃあせめて、一目会わせてくれ、な?」
と、完全に俺を通り抜けた話しかしてこない。
昼飯に媚薬でも入っていたかのように、さかりも盛り真っ盛り。猿のような顔になっていた。
もし姉に彼氏が出来たとしたら、姉はその男を家に連れてくるのだろうか。
その男のことを、俺は受け入れられるのだろうか。その男と姉は、一線を超えるのか。
考えるのが馬鹿らしくなってきた俺は、携帯電話から姉の画像を消去した。
後ろで汚い悲鳴をあげる友人の事など、気に留めるまでもなかった。
「そんなに会いたいなら俺の家の前にでも張り込んでろ」
7
帰路も憂鬱だった。
姉の気持ちがわからないまま帰るのが嫌だった。
電柱が何も考えずに地面から生えているのが羨ましかった。
風邪が何も考えずに空を飛び回っているのが羨ましかった。
家にはまだ、誰も帰ってきてないようだった。ソファに座り、テレビをつける。
あの時のソファだ。あの時は確か姉が隣に座って、腕を抱いて来て、それで――
考えるだけでどうにかなりそうだった。
「たっだいまー。お、もう帰ってたのかね弟くん」
姉がどたどたと大きな音を立ててこっちに来る。
テレビ画面では、崖の上で船越英二郎と人相の悪そうな俳優が何かを話し合っていた。
サスペンスもののラストはどうして崖が多いんだろう。意識をそっちに逸らした。
「弟くん、無視? ひっどいなー。せっかくの弟くんの大好きな
お姉ちゃんのご帰還だというのに、これっぽっちも嬉しくなさそう」
「うるさいな。今いいとこなんだから放っといてよ」
「むぅ……」
テレビしか見てなかったから姉の表情は定かではなかった。
見たいという衝動に刈られるも、振り向いたら負けな気がしてテレビの船越を凝視した。
「英二郎さん渋いぜ。俺もあんな知的クールな大人になりたいぜ」
半分本気だった。人心掌握する力があれば、少なくともこのもやもやに悩まされることは
金輪際なくなるはずだから。気の利いたいい大人じゃないと世間では生き残れないから。
「ま、弟くんじゃあ無理だろうね。知的クールどころか、痴的フールがいいとこよ」
「姉さん、少し黙ってて」
「何よ、自分からネタ振りしてきたくせに。せっかくアイス買ってきたけど弟くんにはあげないんだから」
「姉さん、愛してるからアイスはとっといてね」
いつもは何も感じない定型句だが、自分で言ってて悪寒が走った。違和感は姉も同じなようで、
「ば、馬鹿何いってんの。アイスは二本とも私のものなんだから。
あんたにあげるくらいなら一人で二本食べちゃうもん! べーだ」
と極端に反発して冷蔵庫に走っていってしまった。
――――――――――――――――――――――
崖の上、向かい合う刑事と犯人。
犯人は海を背に向け、刑事と向い合って立っていた。
一際強い波が崖に打ち付ける。
「どうしてこんなことしたんだ。殺す以外にも色々方法はあったはずだ」
「刑事さん、あんたにゃ分からないんだろうな。愛するものを失った悲しみってのは。
“理屈じゃねえ”んだよ、こんなのは。未だに自分でも何でやったかなんてわかんねぇのさ」
刑事はゆっくりと犯人に近づき、
「自首しましょう。今ならまだ間に合います。奥さんもそれを望んでるはずです」
「自首ねえ。そうだなぁ。どうせこのままでも人を殺し続けるだけだし、
いっそのことここらで終りにしたほうがいいのかもなぁ」
刑事が一歩近づくと、犯人は一歩後ろへ下がる。
へへ、と笑みを浮かべた犯人。刑事が駆け出す
「やめろっ! 早まるな!」
しかし時既に遅し、犯人は崖から転落、海の中へと吸い込まれていった。
そしてスタッフロールが流れる
――――――――――――――――――――――
テレビは誇張された表現をするというが、愛する人を失ったらどんな気持ちになるのだろう。
もし俺が姉を失ったら――何を考えているんだ俺は。家族を失ったら辛いに決まってる。
犯人を見つけ出し、ひねり殺したくなるに決まってるんだ。姉でなくても、きっとそうに違いない。
チャンネルを変えると天気予報だった。明日の天気は曇り空。
曇り空というのが一番嫌いだ。どしゃぶりなのか快晴か。どっちかはっきりすればいいのに。
自分で言ってて悲しくなった。曇り空なんて天気はなくなればいいのに。
夕食時。俺は思い切って質問をぶつけてみることにした。
「何で弟が姉よりも後に産まれてくるか、って結局どういう意味だったんだ?」
姉の箸が緩やかに止まる。
「ああ、あれ? 深い意味はないから気にしなくていいのに。
そのまんまの意味よ。姉は弟より偉い存在なんだからお姉ちゃんのおもちゃとして生きなさいってことよ」
「んな横暴な話があるか」
「お姉ちゃんがあるといえばそれはあることになるの。我が家はお姉ちゃんを中心に回っているのだから!}
「はいはい」
予想の斜め下を行く回答に、ご飯が冷える。
「俺をおもちゃにしなくても、適当な男を見繕ってそいつで遊べばいいのに。
俺の友人なんて、姉さんの写真見せたら食い入るように見てきて紹介しろなんのってうるさかったし。
姉さんの学校でも引く手数多のよりどりみどりだろ? 俺なんかと違って」
「それがそうでもないんだなー。家の外の世界ってのは意外と厳しいのよ。
私に寄ってくる男なんてぜーんぶ体目当てのサルばっか。私自身を見てくれる人なんてこれっぽっちもいないんだから」
箸で姉の作った料理をつまむ。
「こんなに美味しいご飯も作れるのにね。本当姉さん勿体無い」
「お世辞を言っても何も出てこないわよ、弟くん。そんなにお姉ちゃんが魅力的だと思うのなら、
弟くんが私をお嫁さんに貰ってよ」
息が一瞬止まる。
「ば、馬鹿かお前は。日本の法律では二親等は結婚出来ないんだ。俺よりもいい男は星の数ほどいるんだ。もっと探せ」
「星に手は届かないけどね。じゃあもし。もし、私と弟くんが本当の兄弟じゃなかったとしたら
弟くんは、私を、お嫁に貰ってくれる?」
「そんなこと――そんなことあるわけないだろ。ブラコンな嫁なんて欲しくないね」
「そっか」
その日の夕食も心なしかいつもより早く終了し、姉は片付けを済ますと自室へとダッシュで帰っていった。
夜十一時、バラエティもひと通り終わり夜のニュースが始まる頃、姉が部屋から出てきた。
その服装は部屋で着るには少々おしゃれがすぎて、まるでこれから一世一代の大勝負の舞台に上がるかのようにみえた。
「姉さん、こんな時間から何処行くの?」
「ちょっと友達んとこ」
友達、という単語に引っかかったが、姉には姉の人生がある。引き止めちゃいけないんだ。
「ふぅん。夜も遅いけど大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。多分すぐ帰ってくるから」
「じゃあ玄関のチェーンは閉めないどくよ」
「うん、そうして。じゃあ」
バタン、といつもより大きな音で扉が閉まった。俺の中ではもう、何がなんだか分からなくなってきていた。
姉の人生なんだ。俺には関係ないんだ。
その晩、結局姉は帰って来なかった。
8
天気予報では曇り空と言っていたが、朝から小粒の雨がぽつぽつと頭を濡らしていた。
姉の傘は家に置いたままだ。かわいいピンク色の六十五センチ傘は傘立てにきちんと収納されている。
学校も違うし、ピンクと黒の傘、二本も持っていくのも相当な変質者に見えると考え、
俺は傘を自分の分一本だけ持って飛び出した。
時間がたつにつれて雨脚は強まる。
学校につく頃にはすっかり天気予報でいうところの“強い雨”となり、窓から見る校庭はそれは悲惨なことになっていた。
俺の姿を見つけた友人がかけよってくる。
「なあなあ、お前の姉ちゃんナマで見たんだけどさ。すっげー美人だったな!」
「お前本当に家の前で張り付いてたのか?」
「んなわけねーだろ。昨日の夜偶然さ。コンビニに雑誌買いに行くところで見かけてさあ。
もしかして、と思って声かけたら当たってさぁ。声も本当麗しくて俺もう惚れたね! お前の姉ちゃんと結婚するわ」
なんという運命の悪戯。姉の所在につながる手がかりがこんなところにあったなんて。
「で、そのコンビニに行った時間ってのはいつ頃、どこのコンビニだ?」
友人はびっくりしたような顔をしながらも、てきぱきと。
「何だよ別にコンビニくらいいいだろうが。新しい雑誌が販売されるちょっと前くらいだから、
十一時半頃。あの通りのセブンの近くだよ」
「その時姉さんは一人だったか? 誰かと一緒じゃなかったか?」
「一人だったよ。もし男なんかと一緒にいたら声かけられるわけないっつーの。
それにしてもお前ちょっと変だぞ、何かあったのか?」
事の一部始終を話した。
「昨日の夜から行方不明、か。状況からすると、男に会いに行ったんじゃないか?」
友人は萎れながらも俺に協力的な意見をくれた。
さっきまでひまわりのように明るかった彼はもう何処にもなく、今は枯れすすきが風にゆれるだけ。
「だってコンビニに行くだけならあんなカワイイ服着る必要ないもんな。うちの姉貴なんて年中スウェットで
缶ビール買いに行くんだぜ? 少しはお前の姉ちゃん見習って欲しいもんだ」
「だとすると、姉さんは何処に……」
「だから十中八九男のところだって。あー、お前がもう少し早くお姉さんの情報を俺に流しといてくれれば
こんなことにはならなかったのになー。どこの馬の骨かわからない男に取られるより、俺のほうが少しは安全だろ」
「お前とだけは義兄弟になりたくない」
思わず頭をかかえる。
「つーかさ。心配なら電話でもかけりゃいいんじゃねーの? 試したのか?」
「いや、試してない」
電話をかけるも、繋がらず。コールは鳴れど、一分以上電話に出る様子はなかった。
「拒否られてんな、確実に。お前何かお姉さんの逆鱗に触れる事やっちゃったんじゃねーの?
姉オナしてるところ見られたとか、下着ドロが発覚したとか、風呂覗いたのがバレたとかさ」
「ねぇよ。お前と一緒にすんな」
「お前のうちと一緒にすんな。うちの姉は顔面兵器の腐女子だぞ、下心の“し”の字も湧かねー。
俺とお前がこうやって話してるのが姉貴の耳に入ったら、それだけで俺ら×(かけ)られちまうくらいの重症のな」
「×るって?」
そのまま聞き返す。
友人はいけないことをしゃべってしまった、と言わんばかりのバツの悪そうな顔になった。
「いや、いいんだ。なんでもない。なんでもないんだ。お前はお前の姉ちゃんのことを考えてればそれで。
俺もできるだけ協力するから何かあったら連絡くれよ」
9
曇り空の下家に帰ると、姉は既に帰宅しているようで、靴がきちんと揃えて置いてあった。
雨に降られた形跡はなく、傘立てには男物の大きな黒い七十センチ傘が一本増えていた。
「……やっぱり、男なのか?」
自問するが、当然答えは帰ってこない。
「ただいま」とわざと大きく帰宅の挨拶をして、リビングのソファでテレビを点けた。
この時間帯のテレビはその殆どがつまらない。ドラマの再放送だったり、
半島産ドラマだったり、スポーツのデイゲームを中継していたり。
何を考えるわけでもなく、ころころとチャンネルを変えていると姉の足音がした。
音の方向に振り返る。
「姉さん、おかえり」
「ん、ただいま」
後ろから冷たいものが差し出される。
「アイス、食べる?」
「うん、食べる」
受け取ったレモン味のアイスキャンデーを頬張る。甘酸っぱさと冷たさが口の中でしゃりっと融けた。
「おいしい、ありがと」
「ん、どういたしまして」
「そういえば姉さんさあ」
「何?」
心臓が大きく脈打つ。聞け、聞くんだ。聞かなきゃいけないんだ。
「昨日の夜、帰って来なかったけどどうしたの?」
「ああ、あれね。ちょっと友達に呼び出されて。そのまま泊まってきちゃった。
早くに帰れるって言ってたけど嘘になっちゃった、ごめんねってことでこれはそのお詫び」
箱いっぱいのアイスキャンディーを渡された。
「あ、ありがと」
男か? なんて聞けるはずもなかった。目の前にある十二本入りのアイスキャンディー、残りは九本。
俺が今食べているのと、姉が食べた一本、もう一本は何処で消費された?
そんな些細なことですら、たまらなく心苦しかった。
「弟くん、テレビつまんないから番組表出して」
デジタル放送の番組表ボタンを押すと、画面上にぱっと無数の文字が浮かぶ。
「八チャンネルにしてー」
言われたとおりにボタンを押す。見たことのない俳優と女優が吹き替えで言い争いをしていた。
「八チャンネルにしてー」
言われたとおりにボタンを押す。見たことのない俳優と女優が吹き替えで言い争いをしていた。
「この韓国ドラマ、ヂャンって俳優がかっこいいって皆言うんだけど、弟くんはどう思う?」
「俺には誰がそのヂャンなのかすらわからないから俺に聞かれても困る」
「今この、ほらこの俳優さん。私はどこにでもある顔って感じで、どうにも皆が持ち上てるの同じくらい
好きにはなれないんだけど、男である弟くんから見て、この俳優さんイケメンかなあ」
「外人なんてみんな同じ顔にしか見えないよ。国産アイドルの四十八人だって誰が誰だかわからないのに」
「弟くんはホモなの?」
「んなこと言ってる訳じゃない」
どんどん話が脱線していく。安心するようで不安になる。感情がコンフリクトする。
他愛もない話が終わると、姉は再び身支度を始めた。
「ん? 今日もどっか行くの?」
俺の心情とは真逆の、屈託の無い笑顔をした姉は明るく
「うん」
と答えた。俺と目線があうと急に申し訳なさそうな顔になって、
「今日ももしかしたら泊まりになるかもしれないから、夕ご飯は作ってあげられないや。
ごめんね。明日も何かおみやげ買ってくるから許して」
俺は何も返すことも、手を伸ばすことも出来ず、出て行く姉を見送った。
姉が持っていったのは自分用の可愛らしく女の子女の子した傘と、男物の黒く長い傘の二本だった。
言葉通り、姉はその夜も帰って来なかった。
10
昨日の夜も帰って来なかったことを友人に告げる。
すると彼は朝から枯れすすきとまでは行かず、頭を垂れる稲穂程度でなんとか持ちこたえた。
「そりゃあ、間違いねえ。男で確定だよ。二晩も連続で外泊なんて男以外ありえねえって」
いくつか考えていた中の最悪の答えを真っ向から言われ、軽い吐き気が襲ってくる。
視界が軽くゆれ、椅子にもたれかかった。
「昨日うちの姉貴にも聞いてみたんだけどさ。シチュエーションからしたら男でほぼ間違いないって言ってたぜ。
……まあうちの姉はクリーチャーだが、あれでも生物学的には女だ。女のことは女のほうが
よく知ってるって言うし、残念ながら、そういう事なんじゃねえのかな」
「そこまで裏打ちしてくれなくても、俺だってそうじゃないかとは思ってたんだ。でも」
「でも?」
「どうしてもこの目で見ないことには納得できないんだ。あんなに俺に優しくしてくれた姉さんが、
ついこの前まで男の気配なんて欠片もしなかった姉さんが豹変するなんて信じられないんだ」
午前中だというのに思いの丈を吐露してしまっている自分に気がついたのは、
次の友人の言葉を聞いてからだった。
「あのなぁ、お前が重度のシスコンなのはよくわかる。あんな綺麗な人だったらそりゃあ俺もシスコンになるさ。
だがな、姉弟は姉弟で、恋人にはなれないんだ。いつかは姉離れをしなくちゃいけない。それは分かってるだろ?」
「分かってる、でも……」
信じたくなかった。彼の言うことは全て真実だ。自分に言い聞かせていたはずだったのに、
いざその時が来ると現実から逃げずにはいられなかった。
「どうしても信じられないなら、姉ちゃん尾行すればいいじゃねえか。そんときゃ俺も協力するからさ」
「尾行……尾行か、分かった。今夜出かけるようなら尾行する。その時は、協力してくれ」
「おうともさ! 顔面崩壊な男だったら俺が略奪しちまうが、それでもいいならな!」
「そんなことは万が一にもありえない」
誰に言い聞かせてるのか。この友人か、それとも。
11
今日のおみやげは雷門名物、雷おこしだった。
誰と行ったのかを訪ねても「友達と」としか答えず、だんだん俺から離れていってしまっているようだった。
いつまでなら手が届くのか、もう手が届かないところに行ってしまったのか。
手が届くとして手を伸ばすのが正解なのか不正解なのかは俺にはわからなかった。
しかし、俺がやることは決まってる。
「もしもし。ああ、俺だ。姉さんが家から出た。後を追ってくれ、すぐに合流する」
外に待機させておいた友人にゴーサインを出した。
部屋着から目立たない服に着替え、目元の隠れる帽子を装備し、姉が出ていってから十分後、家を出た。
夜だというのに嫌に蒸し暑かった。
雨が降った翌日は、気温と同時に湿度も高くなり、それはそれは寝苦しい夜になると言うが、正しくその通り。
露出の少ない黒い服はあっという間に汗でびしょ濡れになった。
携帯電話のバイブが唸る。
「もしもし」
『ああ、俺だ。そろそろ家を出た所だろうと思って電話した。今大丈夫か?』
「ああ、大丈夫だ。そっちは今どこにいる?」
『一号線沿いの肉屋の前、ターゲットは真っすぐ駅方向に向かってる』
「わかった。少し走ってくからもう少しマークしといてくれ」
『りょーかい。それにしてもお前の姉ちゃ』
歩幅を広げて、少し走る。
体中が熱くなるが、構うもんか。俺は絶対、姉をたらしこんだ男を見つけてやるんだ。
友人と合流したのはその五分後、駅までもう少しになった大通りだった。
彼は俺をみつけると小さく向こう側を指さした。姉に間違いない。
小声で友人に話しかける。
「サンキュ、ここからは俺がやる」
「おいおいそりゃねえだろ。俺だって気になるし」
怒るのも至極当然のことだ。俺がその立場でも怒るか呆れるかしている。
「でも、俺ひとりで現実を受け止めたいんだ」
「まさかお前、万が一の時はその――」
友人の口がどもる。
「まさか、俺が姉の恋人を殺すかもしれないって考えてる? ねーよ。
なんなら見失わない程度に俺の体調べてもいい。凶器なんて何も持ってないから」
手を上げ、その場でゆっくり一回転してみせる。
「いや、そういうんじゃなくてよ。俺も見たいかなーって」
「俺ひとりで行く。土産はダッツ三個だ」
友人は返事もせず、俺に何かを渡すと黙って踵を返した。
「ありがとう」
姉は駅に消えるかと思ったら、近くの喫茶店へと入っていった。
あの日俺と入ったカフェテリアだ。現在時刻は午後七時四十分。まだ健全な時間。
焦るような時間じゃない。
一分ほど時間を置いて中に入る。姉は一人窓際の席できょろきょろと周りを見回している。
俺は雑誌を買い、席四つ分ほど離れた場所に陣取ってトールサイズのエスプレッソを注文した。
おしゃれなジャズ系のBGMが支配するこの空間、いるのは会社帰りの若手リーマン数名と、
学校帰りの学生数人のグループ、あとは数組のカップルのみだった。
七時四十五分、相手はまだ見えない。姉は周囲と時計を気にしているようだった。
七時五十分、相手はまだ現れない。そのうち姉は時計とにらめっこを始めた。
七時五十三分、一人の背の高い、若い男が入店した。身長は一八◯ちょっとの“だれにでも優しそうな”男。
男は整然とした足取りで姉目掛け一直線に歩き、そして同じテーブルについた。
確定した。あれが姉の男、姉の恋人、姉の彼氏。
姉が男と楽しそうに会話するのを見て、急に気持ちが悪くなる、拳を握りしめる、血管が脈々と浮き出る。
今すぐにでも飛び出してぶん殴ってしまいたかった。姉を守る守護者として悪を裁いてやりたかった。
足は理性と本能の間で犇めき、震えているし頭だってもう何も考えたくないくらいに色々なことが巡っていた。
一番古い姉との思い出から日常、別々の学校を選ぶことを決めた日のこと、父や母のこと、そして最近のこと。
そうだ。“理屈じゃない”んだ。このまま飛び出してしまおう。そうすれば少なくとも辛い思いはしなくて済む。
一歩立ち上がろうとした瞬間に、携帯電話が俺の動きを止めた。
「もしもし」
『ああ、俺俺。うまくやってる?』
友人だった。拍子の抜ける馬鹿げた声に、頭の血はすっかり落ちてしまった。
「いや、まあ普通。今駅前のカフェ。やっぱり男と待ち合わせてた」
『やっぱりかー。ま、そんなこともあるだろと思って小型指向性マイクを渡したんだが、
使い方分かんねえかなと思って連絡したんよ。あ、それ高級品だから明日返せよ?」
どうしてこの友人はこんなモノを持っていたのか、そんな疑問はこの際どうでもいい。
彼から使い方の指導を受けた俺は、その先端を姉のほうへと向けた。
《ごめんねヒサくん。こんな時間に呼び出しちゃって》
《いいんだよゆかり。俺だってゆかりに会いたかったし》
とっさにマイクのスイッチを切った。
反吐が出そうなくらい歯の浮いた台詞だった。
間違いなくこの男は姉を毒牙にかける気だ。それ以外に何も思いつかない、考えつかない。
しかし未だだ。まだ決定的な瞬間に遭遇していない。
その時が来たらどうにかすればいいんだ。
男が到着してから三十分が過ぎたが、一向に二人はどこかに移動する素振りを見せない。
トールサイズのコーヒーを飲み終わってしまった俺は、ストローでカップの端をすすっていた。
瞬間、突然の尿意が膀胱を襲った。破裂するような痛みが下腹部に充満する。
いつの間にこんなことに――そういえば聞いたことがある。コーヒーには利尿作用があり、
張込み作業には最も不適切な飲み物だ、と。標的を逃がしてしまう危険性が高いから、と。
しかし気づいたときには時既に遅し、この年にもなって公衆の面前でぶち撒けるわけにもいかず、
トイレに駆け込んだ。幸い誰もいなかったため、一分足らずで用をたすことができた。
それが甘かった。二人は既に居なくなっていた。血の気が引いた。
俺は急いで千円札とレシートをレジに叩きつけ、喫茶店を出て周囲を伺った。
右、いない。正面、いない。左――いた!
二人は改札を抜けて、今にも電車に乗ろうとしていた。そしてタイミング良く電車がホームに到着する。
改札をSUICAで駆け抜け、一つ後ろの車両に駆け込む。
足が挟まり、ドアが一度開く
“駆け込み乗車は大変危険ですので、おやめください”
知ったことか。それより大切なもんこちとら背負ってるんだ。
なんとか乗ったものの、時間が時間だったため、電車の中はもう人がまばらにしか乗っていなかった。
八時半過ぎの上り普通電車、浅草行き。終点までの時間は一時間もない。
隣の車両の様子を二枚のガラス越しに伺う。マイクを使っても勿論声は聞こえない。
楽しそうに話す“ヒサくん”と、少し俯いた様子の姉。
眠いのか、話に飽きたのか、たまたまなのか。
該当車両に乗り込むことの出来ない俺には知る術がなかった。
浅草駅に到着し、二人が降りたのを見計らってからあとをつける。
男は生意気にも姉の手を引き、いっちょ前にリードしているようだ。
一歩斜め後ろを大人しく歩く姉の姿は、今まで見たことのないものだった。
エスカレーターを上り地上へ。
そして乗り換え。この道は最近来た道――
やはり二人の目的地は業平橋だった。
スカイツリーの膝下のこの街で、一体何をするつもりだろう。
(きゃ、ゆうくんったら強引なんだから)
(そんなんじゃねえよ)
(でもこの体制は……)
記憶がフラッシュバックする。姉に無理やりデートさせられたあの日の出来事だ。
確かこの日は各堂を偶然見つけて、隠れて。
各堂はその後どこに行った? あいつらどこに何しに行った?
HOTELの五文字が脳裏から離れなくなった。
まさか姉さんが、姉さんに限ってそんなことあるはずがない。
(男で確定だよ。二晩も連続で外泊なんて男以外ありえねえって)
友人の声が流れる。疑惑を掻き消したい時に限ってうるさい、煩い、五月蝿い。
もう姉は食べられているのか。今すぐ飛び出してしまいたい衝動を抑えながらも、なんとか距離を取った。
二人はホテルとは反対方向に歩き、浅草通りを左に折れて歩き出した。
この道も見たことがある。通ったことがある。
押上駅前で右斜め前の道に入り、少し行って橋の上に行く。
逆さスカイツリーのビューポイントに他ならなかった。
平日だというのに訪れる他のカップルや観光客の隙間を抜け、二人の後を追う。
橋の近くまでたどり着くと、男が姉の肩に手を置き、向かい合っていた。
確定だ、やめさせろ。
姉の幸せのためだ。姉離れしなくちゃならない。
阻止しろ、救え。
姉のためだ。
止めろ。
留まれ。
止めろ。
飛び出してしまっていた。
何か叫んでいたかもしれない。
姉はびっくりしてこちらに振り返り、男はぱっと姉の肩に置いていた手を離した。
「ゆうくん! 何でここに!」
「姉さん……」
雑踏が二人の言葉を掻き消す。それを破ったのは男だった。
「ふぅん、これがゆかりの弟さん? 確かに似てる、ずいぶんかわいい感じなんだ」
挑発的に見下げる目を睨み返す。
「姉さんから離れろ」
「何で僕がゆかりから離れないといけないんだ」
「いいから離れろ」
じりじりと詰め寄る。姉はおろおろして声も出ないようだった。
「姉さん、いいからその男から離れて」
こくりと頷き、二歩後ろに下がらせた。
「ゆかりの弟ごときが、僕と彼女の仲を引き裂こうってのか?
それがゆかりにとってどれだけ重いことなのかお前にはわかってるのか?」
「黙れよ。俺が連れて帰るっつったら連れて帰るんだよ。いいからお前は姉さん置いて帰れ」
「お前とゆかりは所詮姉弟じゃないか。お前は彼女じゃないんだ。
彼女の意思を尊重しようとは思わないのか? お前に、彼女を縛る資格なんてあるのか?」
距離を詰める。波音はしない。雑踏の中一歩一歩、俺は男に近づく。
男の靴が砂利を踏んだ音がかすかに聞こえた。
「お前はゆかりの弟なんだろ? だったら弟として、姉の幸せを願ったらどうなんだ」
「確かに、俺は姉さんの弟だよ。だけどそれ以前に」
「何だよ」
「俺は姉さんのことが好きなんだよ!」
世界中の音が全て無くなってしまった気がした。
同時に、世界中の時が三秒も、四秒も止まってしまった気がした。
時間が動き出す、俺はなんてことを言ってしまったんだ。
馬鹿死ね。隅田川の分流に飲まれて海の藻屑になってしまえばいいんだ。
失望と絶望と羞恥心と共に、ふらりふらりと川岸に向かって歩く。
「は、はは、ははははは。姉のことが本当に好きなんだ、ってさ。ゆかり」
男が笑い出す。
突然重たいものに横から攻撃を食らう。
「どーん♪」
姉さん?
「あーんもう弟くんかわいい可愛い食べちゃいたい! 私のことをそこまで思っててくれたなんて、
お姉さん感激だよ! もう、この、この、このう」
抱きしめられ、頬を何度もつつかれる。
何がなんだかわからなかった。
男の方をみると、にやにやと腹立たしい笑顔を浮かべていた。
「どういうことなんだ、説明し――」
「うるさい♪」
姉に強く抱きしめられる。
苦しくて、でも幸せで、息が出来なくなってしまいそうだった。
「俺かい? 俺はゆかりさんの友達の兄貴だよ」
「は? え?」
「ゆうくん、怒らないで聞いて欲しいんだけどね?」
抱きしめられたまま、耳元で囁かれた。
そのままこくりと頷いた。
「彼はね、ちさとのお兄さんなの。今回の計画はぜーんぶ、私が考えたことなの」
「は? え?」
意味がわからなかった。ちさとの兄がこの人で、何故この人がここにいて
俺はここにいて、姉はここにいて、俺は抱きしめられて、あそこの男はニヤついているのか。
全く理解できなかった。
帰りの電車の中。三人でがたごと揺れて、
「いやぁ、でも弟くんかっこ良かったよ。私のために本気になってくれるなんて。
しかも私のこと愛してる、だなんて! 本当かわいい!」
「俺は姉さんのことが好きなんだよ!(キリッ だもんな! 久々にいい物見せてもらったわ!
いやー、あの瞬間を動画に収めて投稿したら確実に十万ヒットは超えただろうね」
「まるでドラマみたいだったもんねー。 ねえねえ弟くん、もう一回、言ってよ」
電車の中でも頬をつつかれる。少ないといえど他の乗客も乗ってるんだから
もう少し静かにすればいいのに。うちの姉はこんな年齢にもなって常識がわからないから困る。
「もう弟くんったら照れちゃってー。無言にならなくてもいいのにー。
お姉ちゃんが悪かったから。何か一つ言う事聞いてあげるから機嫌直してよー」
「……何でも?」
「うん、なんでも」
「じゃあ」
少し考えた後、
「一年後、俺と一緒にスカイツリーに、今度は弟と姉って立場じゃなく……」
「立場じゃなく?」
覗き込まれる。その瞳は小悪魔的で乙女的な輝きに満ちていた。
「恋人として、一緒にスカイツリーの展望台にのぼってくれ」
12
一年後、
「ねえゆうくん見てよ。あそこ。あの橋」
「その話はやめてくれよ。未だにトラウマなんだから」
「ごめんね。でもあの日があったからこそ、今私たちはこうやっていられるんだよ」
「そりゃあそうだけどさぁ」
「過ぎたことはくよくよしないの、男でしょ?」
「はい、善処します。……ところでさ、昔言ってた言葉、
“何で弟が姉よりも後に産まれてくるか” って、本当は何でなんだ?」
「この関係になったのに姉弟言うなんて、いじらしいなあ“弟くん”は。でも答えてあげちゃう。
それはね――
おしまい
202 : 以下、名... - 2011/06/28(火) 20:09:14.88 xCCYWlA60 70/70
その他情報
ロケ地:自宅、グーグルストリートビュー
所要時間:四時間+二時間ちょっと
文字数:20520(約40キロバイト)
好きな属性:イチャラブもの
嫌いな属性:ねとられ他
途中保守をさせてしまうことになったけれども、なんとか終わりまで持っていくことが出来て一安心。
この物語は勿論大部分がフィクションだし、俺には姉も妹もいません、誰かください。
書き終わって投下していくだけの時にntrntr言ってるのはこっちとしては非常に面白かったです。
姉台詞の元ネタはオサレなBLEACH1巻、一護の台詞