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遊び人♀「おい勇者、どこ触ってんだ///」【前編】

190 : 今日はここまでです ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/07 20:44:09.52 WrTit5G+0 139/214

 春の陽気のせいか、身にまとったクロークの下は汗でびっしょりだった。
 だが、これを脱いでしまうと、時折吹く冷たい風に誘われて身体が震えてしまう。これがいっそのこと、ひたすら暑ければ諦めもつくし、寒ければ身にまとう服の枚数を増やせばいいさ。だが、春は中途半端に過ぎる。だからこそ、俺は春が嫌いなのだ。

 この半年間、俺は酒を飲んでは飛び、酒を飲んでは飛びと、千鳥足テレポートを繰り返した。
以前の失敗から、千鳥足テレポートの要領は得ていた。ただ酒に酔うのではダメなのだ。陽気な気分で足を右へ左へ自由気ままに進め、まるでステップを踏むかのようにリズミカルに、それでもなお前のめりに。そういう心持ちでなくては千鳥足テレポートは成功しない。
 俺は、千鳥足テレポートを使うたびに、彼女との旅の思い出を呼び起こした。その短くも濃厚な時間は、俺の20数年積み上げてきた、どんな思い出よりも楽しく、鮮烈で、俺を千鳥足へと容易に誘ってくれた。そして、千鳥足テレポートの成功は、まるでその代償と言わんばかりに、彼女が消えてしまったという強い喪失感を俺に思い出させるのだった。

 最近は、魔王軍関連の場所にはあまり飛べなくなってきた一方で、知らない酒場へとたどり着くことが増えてきた。千鳥足テレポートは、行使者の願いと強く結びついた魔法だ。その名の通り、ふらふらと何処に飛ばされるかわからないというランダム性を持ちこそすれど、確かに前には進んでいる。すなわち、行使者が望む場所へといつかはたどり着く。そういう魔法だ。
 俺がたどり着いた酒場は、ことごとく彼女好みの旨い酒を出していた。……いつしか俺は、勇者としての使命を忘れ、憎き魔王の首よりも愛らしい彼女の尻を望むようになっていたのだ。

 今の俺は、果たして『勇者』と呼べる存在なのだろうかと、ふと疑問に思う。いや、ここにいるのはタダの間抜けだ。その身にかけられた使命を忘れ、国が禁じている酒を、毎晩浴びるように飲み、夜が明けぬ内にベッドの中から消えた女に思いを馳せるだけの男が、どうして勇者であるなどと呼べるだろうか。

 だが、安心してほしい。どうやら俺の酒浸りの毎日も、今日で年貢の納め処のようだ。もう、酒を飲む理由が無くなってしまったのだ。あの日から、日を追うごとに飲む酒の量が増えていった俺だけど、ついに許容量を超えてしまったらしい。

 俺の体は、アルコールに対する完全な耐性を手に入れてしまっていた。


――――――

4杯目 ブリューな気持ち

――――――

192 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/08 19:42:23.43 uG8tzRkA0 140/214



「ねえお兄さん。悪いけど、このまま飲み続けられると他のお客さんの分がなくなっちゃうよ」


 千鳥足テレポートを使うべく、一心不乱に酒を喉に流し込みつつ、彼女との楽しい思い出に耽っていた俺は、店主に声をかけられるその時まで、自分が周囲から奇異の目で見られていることに一切気づいていなかった。俺の机の周りには、既に空となった酒樽がいくつも転がっている。


「……妙だな」


 これだけ飲んだというのに、俺の足元はしっかり地面を踏んでいる。剣士として鍛えた体幹は、いっさい揺るぎない。まるで根を下ろした大木のような安定感だ。とても千鳥足を踏めるような状態ではない。


「妙なのはあんただよ、兄ちゃん。これだけ飲んで顔色ひとつ変わってねえんだから」


 俺が、勇者として魔物たちと戦ってこれたのは女神から授かった「耐性」の力があったからこそだ。だが、いつかはその力が、俺の敵として立ちふさがることはわかっていた。日を追うごとに、酒の量が増していったのも、なかなか酔えなくなっていたからだ。


「すまない……もう、今日はこれで帰るよ」


 俺は、店主に金を払い、宿へと戻った。
 ベッドの中に潜り込んだ俺は、今後のことを考える。

 酒に酔えなくなったということは、すなわち彼女を探すにあたって最も有効な千鳥足テレポートが使えなくなったということだ。ではどうするか、地道に行方を捜すか……?いや、正攻法の効率の悪さは、魔王捜索の件で身に染みている。だがしかし、それしか手段がないのなら……。いや、それよりも何とか千鳥足テレポートを使う手段を講じたほうがマシだ。工業用アルコールなら、いくら俺でも酔えるんじゃねえか……?だが、それとてアルコールであることには変わりない。単に度数の高い低いでは、俺の耐性を抜くことは到底不可能だ。

 ぐるぐると回る思考は止まることを知らず、俺は久しぶりに眠れない夜を経験する羽目となった。

 日が昇ると同時に、俺は身支度を整えた。たっぷり時間を使って考えた結果、俺は一つの結論へと達していた。


 「俺一人じゃどうにもならない」


 いざ口に出してみると実に情けない話ではあるが、俺に助けが必要なのは明らかだった。千鳥足ではない、普通のテレポートを使うべく俺は詠唱を始める。テレポートでは、行先を強くイメージすることが重要だ。そのイメージと現実との差異が少ないほどテレポートの成功率はあがる。

 俺は、魔王を取り逃した最終決戦後に一度立ち寄ったきりの久方の故郷、王都の街並みを思い浮かべていた。向かうのは、王都にある大聖堂。俺に力を与えた女神を主神とする、この国で最も力を持つ女神正教の総本山だ。

193 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/08 19:44:47.54 uG8tzRkA0 141/214


 久しぶりの故郷の空気を吸い込んでも、俺には何の感慨も沸き上がらない。俺は、そもそも孤児だったし、幼い頃から勇者としての厳しい訓練や教育を受けていたためか、ここには何の楽しい思い出もない。浮かぶのは、せいぜいが、勇者としての責務を果たしきれていないことへの罪悪感ぐらいのものだ。


「ほっほっほ、久しいのう勇者様。帰ってきたということは、遂に魔王を打ち取ったか? 」


 俺を出迎えたのは、女神正教の司教。かつて、俺に勇者としてのありよう、教会の戒律をしこたま教え込んでくれた人だ。


「申し訳ありません司教様。残念ながら、行き詰って助けを求めに帰って参りました」


 司教とは、特に親しいわけではない。だが、教会でも有数の情報通であると言われる彼なら、俺の抱える問題に一筋の光を差し込んでくれるかもしれない。俺は、差しさわりのない程度に俺の置かれている状況について説明をした。


「……ふぅむ、酒に酔うことが条件のテレポート。そのように面妖な魔法があったとは」


「国が定める法を犯していることは重々承知しております。しかし、魔王を見つけ出すにはこの魔法が有用であると私は考えたのです」


 正直なところ、俺は魔王を探すという建前だけでなく酒を楽しんでいたのだが、そこまで言う必要はあるまい。魔王をそっちのけで、遊び人を追っているという点も内緒だ。いい年をして、この老いた男に教鞭で叩かれるのはごめんだ。


「まぁ待て、酒が禁じられている世であるが、そのことを咎めるつもりはない。それよりも、耐性の力の話じゃったな……」


「はい。私が女神さまより授かったこの力を、どうにか抑えることはできないでしょうか」


 司教は顎に手をあて「ふむ」と呟いた。

194 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/08 19:45:13.75 uG8tzRkA0 142/214


「かつて、お主と同じように女神から力を授かった勇者はたくさんおる。不死の力、莫大な魔力、全てを見通す目、まあ力は様々じゃが、共通している点がひとつ……」


「そ、それは……」


 ごくりと唾を飲み込む。


「魔王を打ち倒した後は、力を失い平穏な日常を享受したということじゃ」


「魔王を……」


 本末転倒ではないか。建前上でも魔王を追うために、耐性の力を抑えたいというのに。そのためには、魔王を打ち倒さなくてはならないとは。見つけられないのに、どうやって魔王を倒せと言うのだ。


「ほ、他に手段はないんですかね……司教様」


「残念じゃが……」


 思わず、ため息がこぼれた。藁にもすがる思いだったが、どうにも事はうまくいかないようだ。諦めて、各地の酒場で地道に聞き込みを続けるしかないようだ。
 しかし、わざわざ王都まで出張ってきたのだ、手ぶらで帰るというのは何となく味気ない。そんな気持ちが、ふと口をついて出ていた。


「そういえば、ここにもワインはあるんですよね?」


 司教の目が、先ほどまでとは打って変わって鋭い物へと変わる。まずい、なにか地雷を踏んだか?

195 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/08 19:45:41.49 uG8tzRkA0 143/214


「……あるが、どうするのじゃ?」


「いえ、酔えなくはなったのですが、せっかくですからここのワインの味ぐらいは確かめて帰ろうかと……」


 もし、俺の言葉が司教の怒りに触れたのなら、その時は素直に鞭を受けよう。どうせ、耐性の力のおかげで、たいして痛くはないのだから。そう思った俺は、正直に本音をそのまま司教へと伝えた。

 司教は、目をつむり手を顎にあて「うんうん」と唸りだした。


「耐性の力を抑える方法はないが。魔王を見つける手段なら……実のところ……ある」


「実はな、魔王軍と思しき連中の拠点を一つ見つけての」


「あやつら、遂にこの王都にまで、その魔の手を伸ばしてきおったのだ。最近、ワインの売り上げが芳しくないと思って調べたらこれじゃ……まったくゴキブリのような連中じゃ」


 唐突に、俗的な口調で話し出した司教に、俺は言葉を失っていた。かつて、この俺に教会の戒律を叩きこんだ厳しい神父様と
、いま俺の目の前で、汚い言葉で魔王軍を罵る男が同じものだとは到底思えなかったからだ。
 しかし、司教の話はとても聞き流せる内容ではなかった。司教の変貌ぶりは重要なことではないと、頭を振って、司教へと向き直す。


「ちょっとお待ちください。どういうことですか?」


「じゃから、魔王軍の連中がこの王都に潜んでいるということじゃ」


「やつら、いまや我ら教会の最も強大な商売仇じゃからな。ちょっと行って、ぶっ潰してきてくれないか?」


「そこには魔王も?」


 そうだ、魔王さえ倒してしまえば、俺は耐性の力を失うのだ。そうすれば、また千鳥足テレポートを使えるようになり、遊び人を探しに行くとができる。しかも今度は、勇者としての責務も消え、罪悪感に悩まされることなどもない。大手をふって、彼女の尻を追いかけることができる。

196 : 今日はここまでです ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/08 19:46:20.63 uG8tzRkA0 144/214


「少なくとも、幹部級がいるとのことじゃ」


「なぜ、そのような情報をお持ちであったのに、もっと早く知らせていただけなかったのですか!?」

 
 俺の怒りの乗った言葉に、司教には一切悪びれる様子がない。それどころか、口をとがらせて口笛を吹く素振りまで見せている。


「儂が知っている勇者は、戒律どころか法律にも雁字搦めにしばられた男じゃった。そんな男に、こんな俗的な話を聞かせたら、逆に儂を鞭で叩きかねんかったからな。それどころか怒り狂って大聖堂内で綱紀粛正を叫びかねん」


「では、なぜその情報を伝える気になられたのですか?」


「お主が、ワインを所望したからの」


 ワイン……?


「おや、数多の酒場で既に経験済みかと思っておったが……知らなんだか」


「酒場では、素面の男は信用されんのじゃぞ?」


 この狸親父め、教会のことを酒場と宣いやがった。俺は、呆れながらも、かつて恐怖におののいた目の前の男に僅かながらの親近感を覚えていた。 

 しかし、参ったものだ。

 司教の様子を見るに、この国で一番の教会内部は拝金主義に目覚め、だいぶ腐りきっているようだ。しかし、なに。腐ることは何も悪いことだけじゃないさ。だって、彼女の愛した教会のワイン。ワインとて、ブドウが腐ったおかげで生まれたものなのだから。 

199 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/09 21:58:24.09 2o8X2YGF0 145/214

 魔王の秘密基地への奇襲攻撃は、十日後の深夜から明け方にかけて行われることとなった。司教の情報によると、基地内には魔王軍でも精鋭と呼ばれる魔物たちが溢れているらしい。当初は一人で乗りこむつもりだったが、司教の勧めもあって教会の僧兵たちを引き連れていくこととなった。その準備に日を要するとのことだ。手数が多ければ、魔物を逃がしてしまう恐れも少なくなる。断る理由はなかった。


 司教は、教会の宿舎に泊まれるよう手配すると申し出てくれたが、俺はそれを辞退した。久方ぶりに眠れない夜を過ごしたせいか、頭が割れるように痛く、重かったからだ。人の出入りが多い教会では、ゆっくり休むことは難しいだろう。俺は、街外れの安宿に部屋を取ることにした。

 
 宿のベッドに横になる。安宿だけあって、やたらに固いが文句は言うまい。今は、一刻も早く床につきたかった。宿に辿り着くころには、頭痛はさらに凶悪なものになっていた。


 そういえば、眠れない夜を過ごしたのはいつ以来だろうか。魔王を取り逃がし、一人で魔王を追っていた頃は、まともに睡眠をとれた日のほうが少なかった。そして、たとえ眠ることができたとしても、それは体力と精神が限界を迎えることで僅かな時間だけ意識が飛んでしまうもので、それは睡眠というよりも気絶に近かった。


 当時の俺は、そういう生活に慣れてしまっていた。魔王を取り逃がしてしまったことへの罪悪感や不安、焦燥感に苛まれることはあっても眠れないことは気にも留めていなかった。だが、こうして、たった一晩の徹夜だけで苦しんでいる自身の様子をみるに、それは勇者の耐性の力によるものではなかったのだろう。慣れることで、眠れない苦しみや痛みに鈍感になっていただけで、痛みは確かにそこにあったのだ。


 俺が、朝を清々しい気持ちで迎えられるようになったのは彼女と出会って、酒を飲むようになってからだ。


 酒には、俺の抱える不安や、のしかかる責任感を一時的に和らげる力があった。いや、今にして思えば、その力は彼女にこそ宿っていたのかもしれない。彼女と共に酒を酌み交わし語らう時間が、俺に安らぎを与えてくれていたのだ。


 ふと嫌な予感が頭の隅をよぎる。慌てて、教会からもらったワインを口に含む。。
 

 俺の鈍った感覚は、彼女と酒の力でどんどん鋭敏さを取り戻していった。これだけ聞けば、何か俺が強くなったかのようだが……。その結果がこれだ。わずか一晩徹夜しただけで、頭の中ではグアングアンと、まるでドラゴンの悲鳴のような重低音が鳴り響いている。俺はこの痛みと再び付き合っていかなくてはならないのだ。しかしまあ、恐れることは何もない。彼女だけでなく酒に酔うことすらも失った俺に、もう安息の夜など訪れることはないとしても。一度は慣れてしまったのだ、今度は二度目だもっと早く慣れるだろうさ。


 口の中一杯に、ワインの渋みと香りが広がっていく。
 

200 : 今日はここまでです。いつもありがとうございます。 ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/09 21:58:57.23 2o8X2YGF0 146/214


 そう、要は「慣れ」なのである。耐性の力に頼らずとも、慣れてしまえば俺は大丈夫なのだ。彼女に逃げられてしまった悲しみにだって慣れてしまえばいいのだ。……いやまて、俺は逃げられたのか? いや、そうじゃないはずだ。あの晩、俺たちは確かに愛し合った。不手際か?俺が、知らぬうちに何かをやらかしてしまっていたのか?突っ込む穴を間違えた?いやまて、だったら、彼女のことだ笑いながら許してくれる……はずだよな? いやいや、仮にそうだとしても。彼女が怒り心頭したとしてもだ。俺の前から、書置きすらなく急に消えることなんてことはないだろう。逃げられたというのは、妥当な推論から最も遠いところにあるはずだ。ならば、なぜ彼女は姿を消したというのだ。……第三者に攫われたとか? いや、いくら俺が女にうつつを抜かしていたといっても、寝ている隙に女を攫われて気づかないはずがない。伊達にも勇者なのだ、そこまで無能を晒すほどやわな男ではない。では、やはり、彼女は自身の意思で……。


 ああ、だめだ間に合わなかった。遂に、喧噪の夜が始まってしまった。そう、これだ。不安や不満、焦りや怒り。俺の中にあるありとあらゆる負の感情が、俺の意思とは関係なく思考の滑車をくるくるとまわすこの感じだ。止まらない思考から生み出される推測や、憶測は、更なる不安を呼び、その不安がまた思考を回させる。これが始まったら、もうおしまいだ。今晩もまた、俺は眠りにつくことはないだろう。


 慌ててワインを口に含んだところで、それを防ぐことなどできようがなかった。俺はもう、酒に酔うことはできないのだから。


 なんとか朝を迎えるが、疲れは一向にとれていなかった。それどころか、ドラゴンの悲鳴が魔王の断末魔にクラスアップしている。いつか聞きたいと願っていたが、こんなところで耳にすることができるとは実に僥倖僥倖。魔王の野太く響く声が実に心地いい。なんとなしに剣の鞘を抜くと、目の下に確りクマができていた。


 久しぶりの故郷ではあるが、散歩に出かけるような気は起きなかった。魔王の基地を襲撃するまであと六日。俺は、宿にこもり少しでも体力を温存することにした。


 五日目の深夜、俺は遂に限界を迎えていた。意識は朦朧とし、頭痛は常人なら殺しうるほどの鋭さを得、目の下のクマは顔全体を覆うほどに広がっていた。だが、それでもなお「気絶」ないしは「睡眠」に落ちることはできていない。

 ただ、俺は眠りたいだけなんだ。体を休めたいだけなんだ。どうして、こんな簡単なことができないんだ。かつての俺は、この苦しみに耐えきり、慣らしてしまったというのが信じられない。信じられないが、俺は成しえたのだ。為せば成る、為さねばならぬ何事も。……何が成しえただ。魔王討伐という勇者最大の責務を果たせない男が、何をもってして何事かを成しえたというのだ。笑える。実に滑稽な話だ。


 いつものように、回りだした思考が俺の眠りを妨げる。


 あぁ……こんな眠れない夜を……かつて俺はどう過ごしていたのだっけ……。
 この苦しみをどうやって乗り越えたのだったか……。


 ああ、そうか。


「……眠れないのなら、眠らなければいい」


 俺は、ベッドから這い出て、剣を腰に差し、クロークを身にまとっう。
 足元がふらつき、視界がぐるんぐるんと回っているが、これが酔いのせいではないことは確かだった。


「じゃあ、仕事にとりかかろうじゃないか」

204 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/12 10:49:10.93 a8CCrCX80 147/214

 草木も眠る丑三つ時、俺は王都の南西、この国で最も広い流域を持つ大河の辺に立っていた。この地域には、背の高い倉庫がぎゅうぎゅうに敷き詰められており視界がまったく通らない。昼はともかく、夜間ともなれば人気もなくなり何かを隠すにはもってこいの場所なのだろう。巨大な川は、それだけで有用な交通路となる。王都に運び込まれる、もしくは持ち込まれる品の大半は、この倉庫街を経由するとも聞く。今回向かっている魔王軍の拠点も、他の地域から秘密裏に流れてきたムーンシャインを保管する秘密倉庫なのだろう。


 俺は、指先に熾した魔法の光で地図を確かめる。地図に従い、倉庫と倉庫の間の狭い路地を進んでいく。倉庫は、どれも似たような造りになっており地図がなければ完全に迷っていただろう。魔王軍の拠点は、そんな迷路のような道の一番奥にひっそりと建っていた。秘密なのはわかるが、こんな迷路の最果てに倉庫を設置して、いったいどうやって荷下ろしをしてるんだ……?

 正面の大扉も締まっているが、わずかに光が漏れている。近づくと、倉庫の中に多くの気配を感じた。俺は、中の様子を伺えないかと建物の周囲をぐるりと回ってみることにした。建物の側面に回り込むが、窓が一つもない。そのまま裏へと回ってみる。


「なるほどな、こんな所でもやっていけるわけだ……」


 倉庫の背後には、大河がひろがっていた。建物から直に伸びた桟橋が、河へと突き出ている。荷物の搬入搬出は、全て水路を利用しているというわけだ。偵察と呼べるほどの成果はなかったが、突入は実にやりやすくなった。出入口が二つしかないということは、つまり、敵を逃してしまう可能性が少ないということだ。

 俺は、普段より一際声のトーンを落として魔法の詠唱を始める。


「氷結魔法 ストロングアイシクル」


 全身から力が抜け、強い疲労感に襲われる。魔力切れの症状だ。片膝をつき顔をあげると、持っている魔力を全部つぎ込んだ甲斐あって、大河の一部を凍らせることに成功していた。これで半日は、船を出せない。敵の逃走経路は、正面の大扉に絞られた。


 大河の異変に、中の連中はまだ気づいている様子はないが時間の問題だろう。俺は、呼吸を整え正面大扉に向かった。


「久しぶりに、勇者らしく正面から堂々と行こう」


 誰に言うでもなく呟き、俺は大扉へと手をかけた。

205 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/12 10:49:38.32 a8CCrCX80 148/214



 ごごごごご。大扉は、大きな音をたてながら少しずつ開いていく。すると、その音を聞きつけて倉庫の奥から男が出てきた。背が大きく、シャツの上からでもその屈強さが伺われるほど筋肉が張っている。なるほど、一見すると倉庫街で働く大男といったところだ。


「なんだぁ、おまえ?」


「……俺はただ眠りたいだけなんだ」


「じゃあ、家に帰って眠れば?」


 困惑する大男をしり目に周囲を伺っていると、更にもう一人やはり、同じような背丈の大男が異変を感じてやってきた。


「おいどうした?」


「いや、酔っ払いが入ってきちゃってるんだよ」


「いやまて、そいつどこかで……」


「おまえら、靴はどうした?」


 俺からの不意の質問に屈強な男二人は、はっとした顔で自分の足元を見る。彼らは、二人とも素足で妙なことにつま先だけで立っている。

 大男たちは互いの顔を見合わせ、次の瞬間、二人同時に俺の顔めがけて拳をふるってきた。しかし、そこには既に俺の顔はなく拳は空をきる。俺は身体の力を抜き、重力の助けを借りることで尋常ならざる速度でしゃがみ込み拳を回避したのだ。攻守交替と、俺は剣を鞘ごと腰から引き抜き、勢いそのままに最初に出てきた男の顎を剣の柄でくだく。そして、息つく暇もなく剣を純手にもちかえ、右の男の側頭部を振りぬいた。

206 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/12 10:50:09.75 a8CCrCX80 149/214



「今度、人間に化ける時はしっかり靴を履いておけ」


 二人の大男は、地面に倒れ伏せ、しゅうしゅうと煙があげ魔物の姿へと変わっていく。変身魔法だ。大男たちの頭から二本の角が、尻からは尻尾が生え、つま先は蹄へと変わっていく。ミノタウロスだ。そりゃあ、蹄があるのだから靴をはく習慣はないだろうさ。
 
 しかし、こいつらいつかの倉庫で出会った連中じゃなかろうな。いや、俺に魔物の顔は見分けられないし、仮にそうだとしても再開を喜び合う関係ではない。

 倉庫の中には、信じられないほどの大きさの大樽が並んでいた。大樽からは、あちこちに俺の腕ほどの太さがある配管が伸びている。なんだこれは、ただのラムランナーの拠点とは到底思えない。ここは、何か別の目的を持った施設なのかもしれない。

 倉庫の最奥には、中二回になっているところが見える。そこには、倉庫の中だというのに更に小さな建物がぽつんと立っていた。一先ず、あそこを目指してみよう。


「そりゃあそうだよな」


 俺の行く手を、大勢の男たちがふさいでいた。入り口での物音を聞きつけてきたのだろう、その手には、斧やこん棒といった武器が握られている。彼らは、俺の背後に倒れている二頭のミノタウロスの姿を見ると、雄たけびをあげて突撃してきた。


 男たちは一歩進むごとに、その姿を魔物へと変貌させていった。顔が膨れ上がり、腕はさらに太く、足は更にたくましく。ミノタウロスはもちろん、オークにオーガまでいる。まるで魔物の見本市だ。

 対する俺も、歩を進める。少しずつ歩幅を広げ、最後には駆け足で魔物たちへと突撃する。今の俺の姿は、傍から見れば雪崩につっこむ小石の一つに過ぎないだろう。

 俺と魔物たちとがぶつかると、その衝撃が爆発のように倉庫に広がった。俺は、速度を落とすことなく剣をふるう。対する魔物たちも、同様だ。俺は、その身をもって彼らの剣を受ける。避ける必要など一切ない、彼らの斧が俺の肌を切り裂くことはないし、そのこん棒で血が流れることもない。だが魔物たちは別だ、俺が剣を振るごとにその巨体が崩れ落ち、吹き飛び、うめき声をあげる。とても美しいとは思わないが、俺が与えられた耐性の力を最も効率的に使える戦い方だ。

 大雪崩を抜け切ると、俺は踵を返し再び魔物たちの群れへと突っ込んでいく。それを繰り返すたびに、立っている魔物の数は減っていく。息が上がるが疲労感はない。極度の興奮状態で、神経がマヒしているのだろう。着ている服もズタズタにされているが、見た目ほど俺にはダメージはない。

 

207 : 今日はここまでです ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/12 10:50:52.20 a8CCrCX80 150/214

 魔物たちの第二陣がやってきて、俺を取り囲んだ。先ほどの、戦いぶりをみて警戒しているのだろう。単なる力押しでは勝てないと踏んだのだ。しばしの膠着状態は、一人の男によって崩された。


「勇者め! ついにこんなところまで来たか!」


 その声は、倉庫の中二階から聞こえてきた。見ると、赤い褐色肌のオーガが立っている。その姿、誰が忘れようか炎魔将軍。

 あいつは、遊び人の顔に傷をつけた糞野郎だ。「手加減は抜きだ」と、剣を鞘から抜こうとしたその時、突然背中に激痛が走った。俺の体は宙に浮き、前方へと逆九の字で吹き飛ばされる。


「だめだ、やっばり刃が通らない」


 受け身を取って、振り返ると片目に眼帯をしたミノタウロスがいた。ミノタウロスは、自身の斧を不思議そうに眺めている。しゃがれた声に、他のミノタウロスより一回り大きい身体。魔物の顔は見分けられないといったが、こいつは覚えてる。


「あの時のやつか……っ!」


 ミノタウロスは、今度は俺のほうを不思議そうに見つめてきた。


「なんで、剣をぬいでいないんだ?」


「答える必要はないっ!」


 俺は、僅かに風を切る音を頭上に感じ、慌てて前転して避ける。中二階から飛び降りてきた炎魔将軍が、先ほどまで俺がいた地面を切り裂いていた。炎魔将軍がチッと舌打ちをする。


「耐性の勇者をなめるな。たとえ不意打ちだろうが、俺に二度の同じ失敗はない」


 憎き炎魔将軍を鼻で笑ったつもりだったが、奴は気にもかけず口角をあげた。


「いや、確かによく避けたものだ。流石は女神の力を受けたものだ。しかし避けたということは、私の剣なら貴様も切り裂けるということだろうか?」


「だったら試してみろ……っ!」


 ボス戦の始まりだ。

210 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/14 20:56:12.41 X2S/KtAR0 151/214

 炎魔将軍の持つ刃から、ユラユラと揺らめく空気が昇っている。あの刃は、相当な熱を帯びているのだろう。その鋭さは、俺の骨すら断てるかもしれんと、思わず額から冷や汗が滴り落ちる。
 
 すると、まるで俺の恐怖を読み取ったかのように、炎魔将軍が先に動いた。地面を強く蹴り、一瞬で俺との間合いを縮めその炎の剣を横なぎに振るう。俺は、かろうじて後ろへ一歩退き剣をかわした。

 背後では、それを待っていたと言わんばかりにミノタウロスが斧を上段に構え待ち構えていた。無理な後退で体制を崩した状態では、斧を避けることは適わない。俺は、勢いそのままにミノタウロスに背中から突っ込む。懐に入られては、ミノタウロスも斧を振れまいという算段だ。

 案の定、ミノタウロスは斧を持て余してしまったようだ。せっかくの武器を放り投げ、その逞しい腕で俺につかみかかってきた。しかし、巨体ゆえかその動きは緩慢で俺を捕らえるには至らない。俺は、ミノタウロスの股の下を潜り抜け、その背後に回る。そして、まるで岩山を上るかのようにその背中を登り、遂にはうなじにまで到達し、その首へと手をかける。

 だが、その首はあまりに太く俺の腕では到底回りようがない。俺は、ミノタウロスの首に剣をあて、鞘の両端を持ち渾身の力で後ろへと引いた。呼吸ができなくなったミノタウロスは、俺を振り落とそうと体を揺らしにかかる。だが、こちらとて全力を込めているのだそう簡単には振り落とされない。


「ぐおおおおおおおおお」


 ミノタウロスの動きが、何かを決したかのようにピタリと止まる。その目は、まっすぐ炎魔将軍へと向いている。


「将軍! おでごと! 斬れっ!」


「応っ! 」


 ミノタウロスが、自身の背中を炎魔将軍へと向ける。その背に無防備に張り付いている俺は丸見えの格好だ。

 炎魔将軍は、一瞬の躊躇もなく右斜め上段から剣を打ち下ろしてきた。

 自身を犠牲にしろというミノタウロスと、それをいともたやすく受け入れる炎魔将軍。くそったれ、久しく忘れていた。こいつら魔族は戦いとあれば、死よりも敵を倒せぬことを恐れる連中だ。

 その判断の遅れが、俺がミノタウロスの背中から脱出するのをほんの僅かコンマ数秒だけ遅らせた。炎の刃は、ミノタウロスの背中と俺の脇腹を切り裂いた。

 俺は、片膝をつき炎魔将軍をにらみつける。傷はかなり深い、だがその燃える刃のおかげで肉が焼かれ傷は塞がっている。炎の刃で無ければ、はらわたが零れ落ちていただろうに、まったく炎さまさまだ。……いや、そもそも炎の刃だからこそ俺の肌を切り裂けたのか。久方ぶりの懐かしい痛みと己の阿呆さに、ふと笑みがこぼれる。

211 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/14 20:56:38.89 X2S/KtAR0 152/214



「やはり、私の剣なら貴様を切り裂けるようだな」


 隣では、ミノタウロスが俯きに倒れ、ぜはぜはと息を切らしている。背中には、真新しい一文字の傷がしっかり刻まれている。本当にとんでもない連中だ。

 俺は、立ち上がって剣を抜き炎魔将軍へ詰めよる。痛みと、冷たい汗が止まらないが、そんなことを気にしている場合ではない。
 
 ふらりふらりと近づいてくる俺に、炎魔将軍は勝ち誇った顔を見せている。そうやって油断していろ。俺は、細く長く息を吐きだし肺の中から古い空気を追い出していく。ついに空となった肺は、新しい空気を求め大きく息を吸い込んでいく。十分な内気の高まりを感じ、それが頂点へとたどり着いた瞬間、俺は弾かれたバネのように剣を突く。

 剣先は、まっすぐ炎魔将軍の喉へと向いていた。しかし、炎魔将軍はまるで俺の狙いがわかっていたかのように僅かな動きでそれをかわした。


「私と戦う奴は、みなそう考えるんだよ。だが正しい選択だ。私の剣は、お前の剣すら斬ってしまうだろうからな。武器を失いたくないなら、そうやって突いてくるしかないぞ!」


「くそっ……」


「なに、わかっていればお前だって突きを避けるなど造作もないだろうよ。それ、試してみろ!」


 炎魔将軍の鋭い突きが、続けざまに襲い掛かってくる。急所をかろうじてかわすが、腕とふとももに受けてしまった。歯を食いしばり、負けじと突き返すが、こちらの攻撃はまるで当たらない。こちらは、睡眠不足で魔物たちとの大乱闘を経てるんだ、そのうえ脇腹の深手を考えれば無理もないことだった。 


「だったら、こうだっ! 」


 俺は、自身の剣を投げ捨てる。

212 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/14 20:57:06.54 X2S/KtAR0 153/214



「おいおい、もう諦めたのか?」


「まさかっ! 」


 炎魔将軍は、俺を訝し気に眺めた後、再び剣を振るってきた。俺は、それらを皮一枚のぎりぎりでかわす。炎魔将軍が目を見張る。攻撃を捨てた、完全な受けの姿勢。普段の俺とは、対極に位置する戦い方だ。


「そんな芸当が、いつまで続くかなっ! 」


 目、喉、肩、腹、ありとあらゆる所に伸びてくる剣を、俺は必死にかわし続ける。一瞬のミスが死に直結する。俺は、全神経を炎魔将軍の手元と剣先に向け、奴の狙いを的確に避けていく。だが、皮一枚でぎりぎりだ。傷の数は、確実に増えていった。



 剣を振るう炎魔将軍も、それをかわし続ける俺も、完全に息が上がるまで相当な時間を要した。額からだらだらと汗を流し、互いに肩を揺らす。炎魔将軍は喉からは声にもならない高い音をヒィヒィと鳴らせている。対する俺も、似たようなものだ。大きく口を開け、ぜぇぜぇと息を吸い込んでいる。だが、大きく異なる点が一つ。満身創痍の俺に対して、炎魔将軍は完全な無傷だった。


「ヒィヒィ……さすがは勇者か……」


「も、もうそろそろいいだろう……」俺が呟く。


「ぞれば、ごっぢのゼリブだっ!」


 どうやら、動けるまで回復したらしいミノタウロスが、俺の背後から組みかかってきた。身体が、がっちりとホールドされ、抵抗を試みるが疲れのせいか力が出ない。


「よくやった、そのまま抑えておけ……ヒィヒィ……これでトドメだっ!」


 炎魔将軍が、息も絶え絶えに寄ってくる。やっとのことで、振り上げられた刃が俺の天辺へと打ち下ろされる。

213 : 今日はここまでです ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/14 20:57:33.86 X2S/KtAR0 154/214



 がっきーん。


 謎の金属音が倉庫に響く、まるで時間が止まったかのように沈黙が訪れた。


 剣が、皮すら切り裂くことができずに俺の額でピタリと止まってしまっていたのだ。


 炎魔将軍、さらにはミノタウロスすら、そのあまりの光景に空いた口がふさがらずに呆けてしまっていた。


「お前の炎の剣。ようやく俺の体が慣れたようだ」


 受けた傷の数だけ強くなる。俺の耐性の力が、炎の刃を受け続けることによって、それに完全なる耐性を手に入れていたのだ。

 俺は、肩の関節を自ら外し、ミノタウロスの拘束を抜け、阿呆面を晒している炎魔将軍の顎に飛び蹴りをかます。炎魔将軍は、何が起こったのかもわからないまま、激しく脳を揺さぶられ、あおむけに倒れた。

 遅れて、我に返ったミノタウロスが、拳をふりかぶって襲い掛かってくる。それを、落ち着いて半身で回る様にかわし、回しげりをやはりミノタウロスの顎にお見舞いする。その巨体が、地面へと崩れ落ちる。


 周囲を見回す。もう、どこにも、立っている者はいなかった。まるで魔物柄のカーペットが床一面へと敷かれたような死屍累々といった様だが、誰一人として命を奪われたものはいなかった。


 ああ、なんとか終わったぞ。

 両肩は外れ、装備はズタボロ、身体中傷だらけ、剣もどこかにいってしまった。襲い来る疲労感に、いまにも気を失ってしまいそうだ。


「今夜はぐっすり眠れそうだ……」


 目をつむり、倉庫の天井を見上げた俺に


「では、もうおやすみになられては如何です?」と、どこからともなく、力強く優しい声が囁かれた。

 
 独り言のつもりが、思わぬ返答に俺はぎょっとする。


 次の瞬間、後頭部に重い衝撃が走り、俺は振り向きざまに倒れこむ。


 幽かに薄れゆく意識の中で、俺の目に映っていたのは見覚えのある顔だった。


 マスター……なんでアンタがここにいるんだ……?

216 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/16 21:48:56.27 ao9AIwU40 155/214

 意識が戻った俺は頬に冷たさを感じた。身体を動かそうとするが身動きが取れない。それどころか、目は見えないし、声も出ない。どうやら、拘束された上に地面に放られているようだ。唯一、塞がれていない耳から二人の男の会話が聞こえてきた。


「いやあ、しかし遂に決心していただけたのですね。我々魔王軍に、先代が加わってくれれば百人力です」


「いえいえ、勘違いなさらないでください。今日は、見学に来ただけなのですから」


 声の主は、おそらくマスターと炎魔将軍だろう。俺は、目が覚めていることを気づかれないように息を潜める。


「まぁまぁ、そんなことおっしゃらずに」


「……おや?もう目が覚めたようですね」


 速攻でバレてしまったようだ。やはりマスターは侮れない男だ。

 
 身体を起こされ、目隠しが外される。光に目が慣れてくると、そこには白いタキシード姿のマスターが立っていた。俺は、マスターをしり目に周囲の様子を伺う。目の前には、デスクが並んでおり机の上には紙が雑多に置かれている。振り返ると、ソファーがあり炎魔将軍が腰かけ憎々し気に俺のほうを見ている。その腫れて膨れ上がった頬を見て、わずかに笑みがこぼれた。部屋の周囲は、窓ガラスが並べられていて奥には倉庫の壁が見える。ここは、倉庫の中二階にあった小部屋で様子から見るにどうやら事務所であることが知れた。


 俺は、マスターを向き直り抗議の声をあげる。


「もがもがもが」

217 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/16 21:49:23.67 ao9AIwU40 156/214



 マスターを問い詰めたつもりであるが、猿ぐつわを噛まされているため喉を鳴らすのがやっとだ。


「……」


 マスターは、人声も発さずに俺の目をじっと見つめている。……どうも、マスターの様子がおかしい。マスターの目は、酷くくすんでいて生気がない。俺がバーで出会ったのは、綺麗な紅色の瞳を持ち、落ち着きこそあれど生気に満ち溢れた男であったはずだ。それだけではない。顔色も心なしか悪いように見える。それに、その背から立ち上るオーラは只ならぬ様相を呈している。


「将軍。彼と二人きりで話をさせてもらえますか?」


 焦った炎魔将軍が、ソファーから立ち上がりマスターに詰め寄ってくる。


「し、しかし、こいつは魔王様の片腕すら斬りおとすほどの危険な男で……」


「よろしいですね?」


 マスターの有無を言わさない態度に、炎魔将軍はゴクリと唾を呑んだ。しばしの沈黙が流れ、その強い意志に諦めたのであろう、炎魔将軍はすごすごと部屋を出て行った。


 マスターの手で、猿ぐつわが話されるや否や俺は今度こそ声をあげた。


「どういうことだマスター! 魔王軍とはかかわり合いがないんじゃなかったのか!?い、いや、今はそんなことはどうでもいい! 聞きたいことが……」


「質問するのはこちらです」


 俺の言葉を遮ったその声は、いかなる耐性を以てしても震えあがるほど冷たいものだった。また、声と同時に放たれたどす黒い殺気が俺を襲ってきた。俺は、歯を必死になって食いしばる。少しでも気を緩めれば、歯がガチガチとなってしまいそうだった。

218 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/16 21:49:58.99 ao9AIwU40 157/214



「あの娘は……遊び人は、どうしていますか?」


 まったく予想外の質問に、俺は声を詰まらせてしまう。マスターは、そんな俺の様子をじっくりと伺っている。俺が何か、隠し事や偽りごとをしないか、僅かな動きから読み取ろうとしているのだろう。


 だが、そんな質問がなされるということは。


「マスターの店にも来ていないのか……?」


「にも?」


「ちょうど店で飲んだ日の翌朝だ。その時には、もう姿を消していた……それ以来、ずっと探しているのだが……」


「……私の店にも、あの日以来顔を出していません」


 マスターは、あからさまに大きな溜息を吐き出した。先ほどまで放たれていた、どす黒いオーラもそれと同時に一気に霧散してしまっていた。その口ぶりや様子から察するに、彼もまた遊び人のことを探しており、どうやら俺のことを疑っていたのだろう。疑いが晴れたのは喜ばしい、だがマスターの必死な様相には、彼女とマスターの間には、店の主人が常連客の安否を慮るものとは違う別種の関係があるように俺は感じた。


 しかし、事は予想以上に深刻なようだ。俺は、彼女は何らかの事情で自分の意思で姿を消したのだと踏んでいた。もし、その事情が俺にかかわりのないものだったら、俺は彼女の力になりたいし。逆に、その事情が俺への不満や不平だったとしたら。その時は、スンナリと退きさが……すんなりと……。いや、これは嘘だな。俺の本当の気持ちではない。もし、俺への不平不満だったとしたら……泣いて、詫びて、鼻水も流して、涎も垂らしながら、縋りついて捨てないで下さいと懇願しよう。……そういう腹積もりで、俺は彼女を追っていた。

219 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/16 21:50:26.69 ao9AIwU40 158/214


 だが、あの無類の酒好きがマスターの店にすら顔を出さないとすれば話は別だ。仮に、店で俺と鉢合わせるのすら避けたいと彼女が思ったとしよう。それでもなお我慢しきれずに、店にフラフラと飲みに来る。それが、あの遊び人という女なのだ。ましてや、半年以上も自分の意思で酒を我慢するなど天と地がひっくり返ってもありえない。そこに、第三者の介入があると推測するのはもはや必然であった。


「いえね、貴方の様子を見て、そのような気はしていたのですが、確証はありませんでしたので。こういった形になり、とんだ失礼を致しました」


「……俺の様子を見ただけで、そこまでわかるのか。流石マスターだ」


「……?あぁ、勇者様は普段から鏡をご覧にならないのですね」


「どういう意味だ?」


「酷い顔をしてますよ」


「シツレイな」


「いえ、そういう意味ではありません。目は腫れて、クマがはっきりと出ていますし、顔色も真っ青でまるで腐ったゾンビのようですよ」


 人のことを言えた義理ではない。俺からしてみれば、マスターのほうこそ酷い顔だ。……いや、それだけ彼も彼女のことを心配しているということなのだろう。


「それに後頭部には大きなコブまで……あっ」


「コブ?」


 確かに、マスターの言葉通り、後頭部にずきずきと痛みがあった。手で擦ろうにも、手枷がはめられていてうまくいかない。俺が、もぞもぞとしている前で、マスターは、何やら口笛を吹く素振りで視線をそらしている。

220 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/16 21:50:53.35 ao9AIwU40 159/214



「……と、なると今日ココに来たのは正解だったかもしれません」


 なんか、話を逸らされた気がする。


「どうでしょう。私と手を組みませんか?」


「手を組む?」


「もしかすると魔王のところに連れていってさしあげられるかもしれません」


「乗った」


 俺は、二つ返事で引き受けた。俺の、そもそもの旅の目的は魔王を見つけ出すことであるし、千鳥足テレポートを使って遊び人を探すにしても、耐性の力を失うには魔王を倒すしかない。今の俺にとって、魔王は二重に重要な存在となっているのだ。


「で、俺はマスターに何を返せばいいんだ?」


 マスターのことだから、憎き人間を殺せとか、貴族たちから金を巻き上げてこいといった、反社会的なことではないだろうが、魔王のところに連れて行ってもらえる代償ともなればそれ相応のものとなるだろう。命以外の物なら、なんだって差し出してやると、俺は人知れず覚悟を決めた。


「まあ、事と次第によっては邪魔な魔物達と戦っていただくかもしれません。しかし、とりあえずのところは私に同行してもらえればそれで十分です」


「この腕と足で?」


 俺は、マスターの目の前で手枷と足かせを揺らして見せる。マスターは、クスリと笑った後にゴニョゴニョと魔法を唱え、枷の鍵を解いてくれた。俺は、立ち上がり大きく伸びをする。どれくらいの時間、拘束されていたのかはわからないが肩や腰がガチガチに固まっていた。

221 : 今日はここまでです ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/16 21:51:20.68 ao9AIwU40 160/214

 ふと窓の外をみると、手持無沙汰に事務所の周りをぶらぶらとしていた炎魔将軍と目が合ってしまった。炎魔将軍は、押っ取り刀で部屋に入ってきた。


「せせせせ先代っ! 無事ですか!?」


「やぁ、これはすみません。私が、枷を解いてあげたんですよ」


 「はい?」と疑問符を頭に浮かべている炎魔将軍に、俺はマスターの後ろからあかんべーを見舞ってやる。炎魔将軍は歯をむき出しに、何事かを言おうとするがマスターに遮られ「ぐぬぬ」と悔しそうな顔を見せた。ざまあみろ。


「いえね、彼にも見せてあげようと思いまして」


「こいつにですか……?」


 炎魔将軍は、露骨に嫌そうな顔をしている。俺は一体、何を見せられるんだろう?
 

 そんな俺の心を読み取ったかのように、マスターが続けた。


「おや、貴方が大立ち回りを演じた舞台がどこなのかご存じないのですか?」


「いや確かに、ラムランナーの倉庫にしては妙な造りだとは思っていたが……」


「ここは、魔王軍の酒造りの最前線。ビール工場なんですよ」


「魔物たちが? 酒造りだと……?」


「どうです勇者様、魔物の手による初めてのビールです。一緒に見学して、ついでに味見といきませんか?」

224 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/22 21:54:09.17 n2QIU6Th0 161/214

 炎魔将軍が先頭に立ち、そのあとにマスター、そして俺が続く。階段を降り、大樽の間を進んでいくと背の高い円筒状の構造物が見えてきた。円筒状の先は円錐となっており、倉庫の天井を突き破りそうな勢いだ。


「ビールが何でできているかは知っているな?」


 炎魔将軍が前を向いたまま、唐突に声を発した。その口ぶりから察するに、マスターではなく俺に問いかけているのだろう。


「麦だ」


「まあ、その通りだ。正面向かって右手のサイロには大麦が、左手のサイロには麦芽が入っている」


 目の前に並ぶ円筒状の構造物は、サイロと言うらしい。たしか農村とかにある、穀物を貯蔵するための設備だったはずだ。


「なんで、建物の中にサイロなんか建てたんだ?」


「馬鹿かお前。外に建てたら目立つだろ」


 確かにその通りだった。ここは、禁酒法が定められているこの国にとって違法な設備以外の何物でもない。その程度のことにすら考えが及ばないとは、どうやら俺の思考はまだだいぶ鈍っているらしい。


「麦芽もここで作っているのですか?」


「いえ、ここでは手狭ですので。麦芽は、よその業者に任せてます」

225 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/22 21:54:36.54 n2QIU6Th0 162/214


 先ほどのやり取りからも伺い知れたが、炎魔将軍はマスターに頭が上がらないらしい。まあ、マスターは先代の魔王であるのだし当然と言えば当然か。


「ところで……麦芽ってなんだ?麦とは違うのか?」


 俺の質問に、炎魔将軍がため息をついた。


「麦芽は、麦に水を与えて芽を出させたものだ。そうすることで、麦の中の糖分が増すんだ」


「糖分を増やす?つまり、ここでは甘いビールを作るってことか?」


「そうじゃない、その糖分を原料に酵素がアルコールを作るんだ」


「酵素?」


「お前は、何だったら知っているんだ……要は菌のことだ」


 飲む専門で酒が如何に造られているかなど知る由もなかった俺としては、炎魔将軍の話は悔しくも興味をそそられるものだった。ついつい、敵地のど真ん中であることも忘れて話に聞き入ってしまう。


「次はこちらです」

 
 炎魔将軍につきしたがい、俺たちは再び大樽の間を抜け階段を上り中二階の通路を進む。物に溢れ死角だらけの一階も、上から見回せば、倉庫の最奥まで見渡せた。一階を覗いてみると、素足の人間たちがセカセカと働いている。その体つきは一様に大きく、力にみなぎっている。おそらく、俺が気を失っている間に魔物たちが再び人の姿に化けなおしたのだろう。


「ちょうど真下にある釜で、熱湯を沸かし麦と麦芽を加えた麦芽ジュースを作っています」


「甘い匂いがするな」

226 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/22 21:55:04.44 n2QIU6Th0 163/214



「さっき言った麦の中の糖分を取り出しているんだ、当然麦芽ジュースは甘い」


 大釜の横を、木箱を抱えて大男たちが通っていく。木箱の中には、緑色をした植物の芽のようなものが詰まっていた。 


「麦芽ジュースができたら、隣の釜に移してホップを加えます」


 なるほど、大男たちが運ぶ木箱の中身。あれがホップなのか。


「このご時世で、よくホップを入手できますね」


 マスターが感心そうに木箱に視線を送っている。


「まあ主に生薬として栽培されている物です。見てみますか?」


 炎魔将軍が片手をあげ、一階の大男たちに「おおぃ」と声をかけ身振りでそれを寄越せと伝えた。大男の一人が木箱の中からホップをつかみ、放り上げたものを、炎魔将軍は造作もなくキャッチする。マスターは、その様にパチパチと拍手を送っている。


「お前も見てみろ勇者。これがホップ、ビールの要の一つだ」


 炎魔将軍の掌の上に乗せられたホップをマスターと一緒に覗き込む。ホップは、淡い緑色の葉が折り重なるようにその形を作っていて、まるで花のつぼみみたいだった。

 その一つを手に取って、まじまじと眺めていると炎魔将軍が「食ってみろ」と促してきた。まあ、何事も挑戦と口に放り込んでみる。

 そのあまりの強烈さに、目から涙が零れ落ちた。口内に広がる青臭さが、ひたすらに嗚咽を誘う。慌てて口の外に吐き出しても、その強烈な香りと苦みは残ったままだ。俺が後悔の念を胸に、炎魔将軍をにらみつけると奴はケラケラと笑っていた。その隣では、マスターも笑いをこらえるように肩を揺らしている。


「くそ、いつかこの借りは返すからな」

227 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/22 21:55:36.07 n2QIU6Th0 164/214



 俺のもがき苦しむさまを、二人は一頻り笑ったのち、再び通路を歩きだした。しばらく進むと、倉庫の入り口付近、パイプの伸びた大樽のあたりにたどり着いた。


「この大樽の中には、先ほどの麦芽ジュースに酵母を加えたものが入っています」


「ほほう。つまり、この大樽の中で今まさにビールが作られているということですね」


「なんだ、大樽の中で魔物が作業しているのか? 酷い作業環境だ」


「いえいえ勇者様、働いているのは酵母。すなわち、菌達です。かれらが糖分をアルコールへと変えることでビールが出来上がるというわけです」


「菌が……?」


 俺は、素直に感心していた。目に見えないほど小さい細菌が、糖分をアルコールに変える? その実、マクロな話なのだろうに俺の理解を大きく超えるそれは、とても雄大で力強く感じられた。いままで、何も考えずに酒を飲んでいたのが少し恥ずかしく思えてきたほどだ。遊び人は、酒は語らずに飲めと宣っていたが、知っていて語らないのと、ただ知らないだけで語ることができないのとでは大違いだと今更に気づく。


「飲んでみるか?」


 俺は、寸秒もおかずにうなづく。マスターも、目を輝かせて「是非」と声をあげた。


「では、どうぞこちらへ。先ほどの応接室に出来上がったビールを用意させますので」

228 : 今日はここまでです ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/22 21:56:02.26 n2QIU6Th0 165/214



 ビールを飲めると聞くと、どうにも浮足立ってしまったのか俺たちは足早に応接室へと戻った。炎魔将軍に促され俺はソファに腰を下ろす、だがマスターはそれを固辞し、窓際で倉庫で働く男たちへ熱いまなざしを向けていた。


「勇者と命がけのやり取りをしたばかりだというのに、みなよく働くものですね」


「……幸い、身体だけは丈夫な連中ですので」


 俺は、フンと鼻を鳴らす。別に、俺が悪いことをしたとは思っていない。魔物と勇者が出会えば、剣を交えるのはごく自然なことなのだ。だが、ここでせっせと真面目に働いている連中を見た後だと、そんな連中をコテンパンに伸してしまったことに、僅かにではあるが罪悪感が浮かんできてしまう。


「しかし、勇者よ。腕が鈍ったのではないか?」


 俺は、顔をあげ正面の男に目を向けた。炎魔将軍の物言いに、罪悪感が薄れ、変わりに怒りが込みあがってくる。


「でなければ、甘くなったな」


「……もう一度、地面に這いつくばってみるか?」


 なるべく重く、そして冷たく声を出す。しかし、炎魔将軍に怯む様子はない。


「今日、この倉庫に死体が一つも転がっていないのはどういうわけだ。どうして、最後まで剣を抜かなかった? 」


「……それは」


 別に、不殺主義に目覚めたわけでも、魔物に情けをかけたつもりもなかった。そもそも、手を抜けるような余裕なんてものも今の俺にはない。だが、確かに今日の俺は剣を抜けなかった。いや、幾度となく抜こうとはしたのだ。しかし、その度に、まるで誰かに柄を抑えられているかのような不思議な感覚に陥り力が抜けてしまうのだ。

 そんな俺を、炎魔将軍は「甘くなった」と評した。その言葉は、かつて俺が遊び人に対して使ったものと同じものであった。

231 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/23 22:26:48.97 PetabUOy0 166/214



「しかし、妙ですね」


 窓の外を眺めていたマスターが、振り向くことなく、まるで自分に言い聞かすように呟いた。


「どうかされましたか?」


「いえね炎魔将軍、どうして魔物たちは人の姿に化けて仕事をしているのです?慣れない姿は大変でしょうに」


 俺は、立ち上がりマスターの隣へと歩を進める。マスターの視線の先には確かに、魔物の姿を保った者は一人もいない。確かに、魔物の巨大な体躯のほうが力は発揮しやすいだろう。ホップ入りの木箱だろうがダース単位で持ちは込めるんじゃなかろうか。


「ああ、それは、設備が人間用のサイズだからです。魔物の体だと大きすぎて、バルブ一つ閉めるのにも苦労しますので」


「ははぁ、そこまでは思い至りませんでした。なるほど、よく考えているものです」


「ですが、そこに少し問題もありまして……」


 炎魔将軍が横目に俺をチラリと見る。どうやら、俺にはあまり聞かせたくない話らしい。



「構いません。話してください」


「……人に化けているせいか、彼らの思考や性質が人間に寄ってきているようなのです」

232 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/23 22:27:15.54 PetabUOy0 167/214



「具体的には、どうなってきているのですか?」


「魔族とは、そもそもみな姿かたちが違えども一つの群れのようなものです。ミノタウロスもオーガもオークも等しく群れの一員であり、その頂点には魔王様が君臨しています。魔王様が黒を白と言えば、それは白になり。犬を猫だと言えば、それは猫となります。しかし、その絶対的な関係性が魔物たちが人間性を手に入れたことで薄れつつあるのです」


「人間性……?」


「所謂、アイデンティティを獲得したということでしょうか?」


「そのとおりです」


「俺には、貴様は元よりそれを持っていたように見えるんだが」


「強い魔物は、確かにアイデンティティを持ちうるものだ。だがそれが、下級魔族にまで広がりつつあるということだ」


「人に化けると人に近づくということですか。興味深いものです」


 そこへ、扉が勢い良く開けられ男が入ってきた。眼帯をつけたその男の肩には、その両方に樽が抱えられていた。


「ビール……持ってきたぞ……」


 大男は、樽を無造作に机の上に置いて去っていった。炎魔将軍は、棚からジョッキを持ち出しマスターと俺に渡してくれた。

233 : 今日はここまでです ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/23 22:27:41.95 PetabUOy0 168/214



「こういうのって、ジョッキに注いで持ってくるもんじゃないのか……?」


「どうせ、おかわりするんだ。こっちのほうが早いだろう?」


 俺は、若干呆れつつも「まあ、それもそうか」と妙に納得してしまっていた。

 炎魔将軍に促され、樽にジョッキを突っ込みビールをすくいあげる。魔族の造った酒か、如何ほどの物であろうかと早速口に運ぼうとするとマスターがそれを制してきた。


「せっかくですから」


 マスターはそういって、その手に握られたジョッキを俺たち3人の中央へと伸ばす。意図を察した炎魔将軍が、忌々しそうにしかしマスターに逆らうわけにもいかず同じようにジョッキを差し出してきた。ここで、それに抗うのも大人げないだろう。


「乾杯! 」


 俺たちは、マスターの掛け声に合わせてジョッキを重ねた。
 
  

236 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/25 17:30:29.46 qW+Kebhi0 169/214


 んぐんぐんぐ。
 まるで乾いた砂地に染みこむかのように、俺の身体はビールを受け入れていく。気が付けば、ジョッキは空になっていた。俺は、当然の権利を行使するがごとく樽から二杯目のビールをすくいあげた。


「……どうだ?」


 炎魔将軍は、その強面に似合わぬ不安げな表情を浮かべている。とても先ほどまで命のやり取りをしていた者に向ける顔とは思えない。


「まぁ、普通だな」


「そ、そうか! 」


 たいした賞賛を与えたわけでもないというのに、炎魔将軍の顔からは陰りが消え明らかに胸をなでおろした様だ。「普通」の評価がよほどうれしかったのだろう。ならば、もっとけちょんけちょんに言ってやればよかったと少しばかり後悔の念が残る。

 実のところ、ビールの味は特にこれといって褒めるようなものではなかった。決してまずいというわけではない。ただ違法酒場でよく出されているビールより旨いかと聞かれると「同じぐらい」としか思えない程度のものだった。


「初めてにしては、なかなかのものだと思いますよ」


 マスターは空のジョッキを机に置き、「もう一杯頂いていいですか?」と炎魔将軍に尋ねた。


「ど、どうぞどうぞ!?」


 マスターの言葉に、炎魔将軍の喜びは有頂天に達したらしい。目じりが下がり、頬がゆるまり、口角がものすごい角度で吊り上がっていく。このまま放置していれば、小躍りしだしそうな勢いだ。そのあまりに嬉しそうな様子に、つい俺も微笑んでしまいそうになった。

237 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/25 17:30:56.22 qW+Kebhi0 170/214



 ……誰かと酒を酌み交わすのは久しぶりのことだ。認めたくないことではあるが、たとえその相手が忌々しい炎魔将軍だとしても一人で飲むより何倍も愉快だった。千鳥足テレポートの成功率が、複数人だと上がるという話は実のところそこに理由があるのかもしれない。


「しかし、すごい設備だな」


 酔うことのできなくなった身体ではあるが、その場の雰囲気に飲まれたのかつい本音が口をついて出てきてしまう。対する炎魔将軍は……こっちは、喜びのあまりか杯を重ね続け顔が真っ赤になりつつある。いや、もともと赤い顔をした男だったが、その赤さがより増している。


「ああ、ここまで辿り着くのに5年かかった……。お前に魔王軍を壊滅させられた後、各地に散っていた仲間を集めつつ、密造酒市場を武力で握り、少しずつ資金を貯め。ようやく、これだけの設備を手に入れた。おかげで、魔王軍はいますっからかんだ」


「すっからかんだと?……本末転倒じゃないか、それじゃあいつまでたっても魔王軍を再興できんぞ」


「魔王軍の再興? はっ、そんな夢はそもそもない」


 聞き捨てのならない言葉だった。魔王軍は、再興を図るために資金集めの手段として密造酒市場を牛耳っていたのではなかったのか? 俺の眉間には自然と皺が寄り、炎魔将軍の言葉を聞き逃すまいと前のめりになっていた。


「……そもそも魔王様の目的は、魔族をより繁栄させることだ。その手段としての魔王軍だったのだ」


「魔族の繁栄?」


「そうだ、私たちは繁栄を得るため魔物たちの国を作ろうとした。魔王軍の強大な力をもってして領土を得ようとしたが……まあ、お前の、勇者の力を前に、その夢は潰えたというわけさ」


「だから、資金を貯めて再興を図ろうとしているんじゃないのか? 」


「違うな、武力だけじゃあダメだと悟ったのさ。だから、私たちは手段を変えた。人間の社会に溶け込み、人間の繁栄に乗っかることにした。密造酒市場に手を出したのは、資金集めの一方で人間たちの胃袋を握るという側面もあるのだよ」


「……じゃあ、もう魔物によって人々が虐げられることはないのか?」

238 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/25 17:31:22.70 qW+Kebhi0 171/214



「少なくとも、現魔王様の支配下にある魔物たちは魔王軍壊滅以降そんなことはしていない。一部、魔王様の手を離れた魔物についてはあずかり知らぬがな。どうする……それでもお前は、魔王様を手にかけるのか?」


 言葉が出ない。俺は本来であれば猛き青春に捧げたであろう貴重な時間を、全て魔王探索へと傾けてきたのだ。だが、魔王はとっくの昔に王国と戦う手段を放棄していたとなれば、俺のこの6年間は何だったというのだ。決して誰かに強制されていたわけでは無い、ただ女神に力を授けられた勇者としての使命感に突き動かされていただけではある。だがそれでも、それがすべて無為なものであったとなれば。

 いや、そうではない。今の俺は、魔王を倒すためだけに旅を続けていたわけでは無い。旅のさなかに出会った彼女がいる。俺の旅は決して無為なものではなかった。少なくとも、彼女と出会い生まれて初めての恋をした。むしろ、俺の6年間はそのためにあったと言っても過言ではないではないか。

 炎魔将軍の言葉を反芻する。「それでもお前は、魔王様を手にかけるのか」。答えはYESだ。邪魔な耐性の力を捨て去るには、彼女を追いかけるには、それしか手立てがないのだ。


「俺は、魔王を倒す……」 


「それは、よく考えたうえでの言葉ですか? 魔王を倒すということがどういうことか本当にわかっていますか?」


 マスターが俺に質してきた。自然と、マスターと俺の視線が交錯する。その冷ややかな目に、俺は動揺を隠しきれず視線が揺らいだ。


「それは、どういう……? 」


「魔王を倒すということは、群れの頂点が変わるということです。つまり、現魔王が行っている人間社会に溶け込むという手段を新しい魔王も採るとは限らないということです。再び、王国と魔族による戦争が起こる可能性も考えなくてはならない。勇者様の言葉は、そこまで考慮したうえでのものなのですか? 」

239 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/25 17:31:50.23 qW+Kebhi0 172/214



 そんなこと考えもしていなかったさ。だがマスターの言い分は、至極尤もなものだ。魔王の代替わりによる再びの戦火。その可能性は十分に起こりうる。だが勇者としても、一個人としても魔王を打ち倒すことが許されないなんて。ならば、俺はいったいどうすればいいというのだ。魔王を倒すこともできず、千鳥足テレポートをつかうこともできずに俺はただ一人何をするでもなく呆けて立っていなくてはならないのか。

俺とマスターは先ほど同盟を結んだ。俺たちは、いま彼女を探すうえで協力関係にある。仮に、俺が役立たずに甘んじていたとしても、きっとマスターは彼女を見つけ出してくれるだろう。だが、いくらマスターが手を貸してくれるからといって、俺が指をくわえてそれを見ているわけにはいかない。マスターにはマスターの理由がある様に、俺には俺が彼女を探す理由がある。


 マスターの言葉に、俺は勇者としての使命と彼女に再び相まみえたいという一人の男としての葛藤に苛まれた。だが、この鈍った思考の中では、とても結論を出すことは適わないだろう。使命か恋情かの板挟みに置かれる中で、俺はほとんど無意識に「それでも、魔王は倒さなくちゃいけないんだ……俺は彼女に会わなくてはならないんだ……」と口に出してしまっていた。


「そんなに彼女に会いたいなら会わせてやる」


「はぁ?」


 目の前の赤ら顔の男が何を言っているのか、わからなかった。会わせてやる? 彼女に? 彼女とはいったい誰のことだ? いや、いやいやいや、今この場において俺が会いたいと思う女性なんて一人しかいない。炎魔将軍は言っているのだ、俺が会いたいのなら遊び人に会わせてやると。それ以外に解釈のしようがないではないか。だが何故だ。何故、こいつが俺が遊び人のことを追っていることを知っている。


「あの娘は無事なんですか?」


「ええああ、先代の目的も彼女だったのですね。引退した貴方が、我々に接触を図ってきたのはビールではなく彼女にあったわけですか……」


「私に、二度同じ質問をさせる気ですか?」


 マスターから、本日二度目の本気オーラが立ち上る。炎魔将軍の額から、汗がしたたり落ちた。

240 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/25 17:32:17.19 qW+Kebhi0 173/214



「……元気にしています」


「まさか監禁しているわけではありませんよね?」


「彼女は、自分の意思で帰ってきました。今は、魔物たちの為に自ら率先して働いています……」


「おいおいおい、その言いぶりだとまさか」


「なんだ、一緒に旅をしていて気づかなかったのか? 彼女は魔族だ」


 頭にドンガラガッシャーンと雷が落ちたがごとし衝撃が走る。変身魔法が解けた魔物たちの姿が思い起こされる。彼女が魔族だとすれば、彼女の正体はいったい……ミノタウロスやオーク、ゴブリン、ま、まさかスライム!? 粘着質で半透明な液体が人の姿に変わり彼女の姿をかたどっていく想像がよぎる。

 俺は、頭上に浮かんでいた想像の雲を頭を横にぶんぶん振り回すことで打ち消した。問題は、彼女の正体ではない。彼女がどのような姿であったとしても、俺は彼女に会いたい。ただそれだけが、俺の望みなのだ。


「……彼女に会わせてくれ」


「ただし、条件がある」


「聞こう」


 どんな条件だろうが、俺は飲むだろうさ。


「魔王様に、二度と手を出さないと誓え」


「誓う」

241 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/25 17:32:45.57 qW+Kebhi0 174/214


 検討の余地などない。魔王が人々に害をなさないというのであれば、俺が勇者として奴を打ち倒す必要もない。それに、耐性の力を失うことなく、千鳥足テレポートが使えないままでも彼女に会えるというのなら、それこそ魔王を打ち倒す理由が無くなる。


「俺は、二度と魔王に危害を加えない」


 宣言をした瞬間、俺は何かから解放されたような、繋がれていた鎖から解き放たれたような錯覚に陥った。長年、魔王を取り逃がしたことを悔いてきたのだ、そのうえそんな魔王を放って彼女を探し続けていたことへの後ろめたさ、俺を苦しめてきた勇者としての責任感から解放されたのだからさもあろう。もう何も余計なことを考えなくていい、ただ彼女に会いたいという意思だけで俺は前に進めるのだ。

 あまりに、同時にいろいろな事が起きすぎたためか、俺は少し眩暈を覚えていた。俺は、気付けとばかりにジョッキの中のビールを飲み干した。


「ふむ、勇者様。大変申し訳ありませんが、同盟はこれまでということでいかがでしょうか?」


「どうした? マスターも彼女を探していたのではないのか。会いに行かなくていいのか?」


「まあそうですが、あの娘が自分の意思で戻ったというのなら仕方ありません。勇者様から、あの娘にたまには店に顔を出すように伝えておいてください」


「わかった」


 マスターは立ち上がり、俺に歩み寄る。


「勇者様、最後に一つだけ確認をさせてください。貴方は、勇者の使命を捨てる。そういうことでいいですね?」


 俺は、改めて自分がやろうとしていること、やりたいことを考え、そこに一片たりとも迷いはないと頷いてみせた。

242 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/25 17:33:13.08 qW+Kebhi0 175/214


「どうやら、俺は勇者失格なようだ……かつて身に宿していた使命感は既に腐りきってしまった。もはや、自身のことを《勇者》だなどと名乗ることも憚られる」


「そうですね……それでしたら貴方は《ビール》とでも名乗ったらいかがです?」


「はぁ?」


「だってかつて《勇者》であった貴方は、《甘くなり》そして《腐って》しまったのでしょう。まるでビールではありませんか」


「ま、まぁ、そうかもな。そうだな、じゃあ今後は《ビール》と名乗るとするか……」


 マスターは少し酔っているのだろうか、もしくは彼女の無事が知れて気が緩んだのか。よくわからないことを提案してきた。酔っ払いのたわごとであろうが、楽しく酔っている人間に水を差すのも気が引ける。俺は、マスターの提案を受け入れることにした。炎魔将軍が、そいつはいいなと高らかに笑っている。憎々しい酔っ払いめ。張り手の一発でも食らわせてやりたい気分だ。


「さて、私は店の準備がありますのでそろそろ失礼します。《ビール》様、どんな困難が待ち受けているかはわかりませんが、必ず乗り越えて、また二人で私の店にお越しください。ツケもたまっているのですし」


「ツケ?」


「貴方が空けてしまったウイスキーは、銀貨二枚じゃ到底足りませんよ」


 マスターはそう言うと、千鳥足テレポートを使って飛んで行ってしまった。

243 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/25 17:33:44.60 qW+Kebhi0 176/214


 俺は、呆けている炎魔将軍に張り手を一発かまし「連れていけ」と促す。炎魔将軍は、機嫌悪そうに頬をさすり歩き出し、俺はそのあとを黙ってついていく。

 中二階を降り、大樽の間を進んでいくと地下に続く階段が姿を現した。周りには樽が敷き詰められており、近づかなければ全く気づきようがない。つまるところ、秘密基地の更なる秘密通路という奴だ。魔王城の玉座の後ろにある階段みたいなものだ。

 地下へ降り、少しだけ通路を進むと開けた場所に出た。四方には蝋燭が立ててあり、中央には不気味な魔法陣が描かれている。まるで悪しき儀式でも始まりそうな雰囲気だ。


「ゲートを起動する。お前は、魔法陣の中央に立て」


 俺は、警戒しながら魔法陣の中央に立つ。横目に魔法陣を読み取るが、どうやらテレポートゲートであることに間違いはないらしい。


「いまさら罠などしかけん」


 部屋の隅の蝋燭が、その灯を強めていく。魔法陣もそれに応じて、幽かに光を放ちだした。


「最後に、一つだけ教えてくれ。何故、俺を彼女に会わせてくれるんだ?」


「そうすれば、お前に魔王様を殺す理由がなくなると思ったからだ……それに」


「それに……?」


「いや何でもない」


 俺はおもむろに、懐から髪束を出す。この秘密酒造を襲撃するにあたって、司教から渡された地図だ。

244 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/25 17:34:19.11 qW+Kebhi0 177/214



「炎魔将軍、お前に借りは作りたくない」


 丸められた地図を炎魔将軍へと投げつける。


「教会の精鋭が、この酒造の襲撃を予定している。俺は、その先駆けだ」


「な!? 今更かよ!? もっと早く言え!」


「これで貸し借りなしだな」


 俺が、してやったりとニタリと笑うと同時に魔法陣が発動した。光の中に消えゆく俺に向かって、炎魔将軍がその怒りを隠すことなく喚き散らした。


「くそが! お前を、彼女に合わせる本当の理由を教えてやる!」




「彼女なら、おまえを縊り殺してくれるだろうからだ!」



 その言葉が、炎魔将軍の苦し紛れの最後っ屁なのか、はたまた真実なのかはわからなかった。
 だから俺は、「望むところだ」そう言い返し。炎魔将軍に、あかんべーと舌を出して見せた。







――――――

4杯目 ブリューな気持ち

おわり

――――――

245 : 今日はここまでです ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/25 17:35:57.79 qW+Kebhi0 178/214


――――――

 ラストオーダー
 最後の一杯  勇者根性スピリッツ

――――――

250 : 今日はここまでです ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/28 23:51:32.71 AHhj4HuT0 179/214

 窓から差す月明かりが、舞い上がった埃を綺麗に照らしている。周囲を見渡すが、薄暗く部屋の全容を見渡すことはできない。

 唐突に、部屋の中にカツーンカツーンと乾いた音が広がった。音の反響具合を聞くに、相当に広い部屋だということがわかる。
 いや、いまはそれよりも、この乾いた音だ。一定の間隔で鳴り続けるこの音は、間違いなく何者かの足音であり。それも、少しずつ俺の方に近づいてきている。

 正面をジッと見据えていると部屋の奥から、黒い影が進んできた。 
 
 
「なんで来ちゃうのかなぁ」


 月明かりに照らされた彼女のあまりの美しさに、俺は息をのむ。赤いストールを首に巻き、黒白のチェック柄という派手なワンピース。まるで道化のようなその恰好は、姿を消したあの日から何一つ変わっていない。ただ、胸のあたりまで伸びた髪が彼女と離れ離れになった時間を如実に表している。  


「心配したんだぞ」


 声が震える。
 喜びと不安が混じり合い、言葉に詰まる。


「会いたかった」


 ようやく、その一言を絞り出すと彼女の瞳からは一筋の涙が零れ落ちた。


「だめだよ勇者……もう我慢できないじゃないか」


 彼女の声もまた震えていた。
 どうやら、俺と彼女は同じ気持ちを抱いているらしい。俺は、捨てられたのではなかった……みっともなく情けない心配は徒労に終わったのだ。
 彼女が、俺に向かって歩を進める。俺もまた、彼女をお迎えする準備は万端だとばかりに、両手を広げ一歩、また一歩と前へ進む。
 

 さぁ、力強く抱きしめ合おうというその瞬間、彼女の手元に月明かりで照らされたナイフが煌めいた。


 俺の手と彼女の手が重なる。
 ……ついロマンチックな言い方をしてしまったが、その実、彼女の手に握られたナイフを必死に抑え込んでいるだけである。ナイフの先は、まっすぐに俺の心臓を向いている。
 

「あの……遊び人。我慢できないってのは?」


「キミを殺さずにはいられないってことだよっ!!!」


 その手に込められた力が、それが冗談ではないことを物語っていた。

252 : 今日はここまでです ◆CItYBDS.l2 - 2019/05/29 21:54:30.08 ZukyNd5h0 180/214

 

 彼女の膂力は、俺のそれを僅かにではあるが確実に凌駕していた。
 ナイフを逸らそうと、もしくは押し返そうと渾身の力を込めているというのに彼女は微動だにしない。

 ならばと、俺は自身の腕に全力を注ぎこむ。


「ぬおおおおおおおおおおお!」


 雄たけびをあげ、腕の力だけで彼女を持ち上げる。たとえどんな力を持っていようが、踏ん張りがきかなければ意味はない。持ち上げてしまえば、こっちのものだ。俺は、そのまま体を一回転させ遠心力を味方に彼女を放り投げた。

 宙に舞った彼女は、くるくると回転し、まるで最初からそういった演舞をしていたかのように見事な着地を見せた。その衣装も相まって、まるで本物の道化師のように見えた。

 間合いをとれたことに気を緩めるのも束の間、次はナイフの雨が俺に襲い掛かってきた。


「なんなんだよもう」


 沸き上がってくる感情のせいか、視界がにじむ。俺は、ごしごしと袖で涙をぬぐった。

 ナイフを避けるつもりは毛頭なかった。どうせ、刃物耐性を持った俺の肌にナイフがささるわけもない。それよりも今は、彼女の全てを感じたかったのだ。たとえ、それが明確な殺意をこめて放られたナイフであったとしても例外にはならなかった。ナイフは、吸い込まれるかのように俺の急所へと的確に当たり、そして俺の肌に弾かれ乾いた音をたてて地面に落ちた。

 その様子を彼女は呆然と眺めていた。
 

「なんで避けないのよ。刺さったら怪我するじゃない!」


 自分からナイフを放っておいて何て言い草だ。だが、彼女の目には輝くものが見て取れる。どうやら、心の底から俺のことを心配しているらしい。一体、今の彼女はどういう心境なのだろうか。見当もつかない。


「俺に、普通の刃物は通らない。だからもうやめてくれ」


 俺の言葉を無視し、彼女は地面に向けて手を振るう。何処に隠していたのか、何本ものナイフが地面に突き刺さった。
 そして、振るった右手をそのまま前へと伸ばす。すると、地面に映る彼女の影から漆黒の柄が浮かび上がってきた。彼女が、それを握ると柄はグネグネとうねり、見る見るうちにその形を大鎌へと変えていった。

 どうやら、彼女は俺の言葉の前半分だけ聞いていたようだ。
 

「ねえ、これが何でできているかわかる?」


 彼女が見せびらかすかのように、大鎌をクルクルと振るって見せる。月明かりの下でも、輪郭がはっきりとしないそれは、まるで影がそのまま実体化したかのように見えた。


「実は私も知らないの……だからお願い。これは受け止めようなんて思わないで」


 やはり妙だ。彼女の言動は、ちぐはぐ以外の何物でもない。

255 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/02 16:17:03.50 NZ43uSLl0 181/214

 だが、今考えるべきは彼女の心境よりも目の前の大鎌だ。さすがに、何でできているかもわからない刃物に俺が今持ちうる耐性で対抗できるとは思えない。

 かといって、手段がないわけでは無い。こちとら、この体で長年戦ってきているのだ。耐性のない物との戦い方は心得ている。すなわち、耐性がつくまで可能な限り攻撃を受け続ける。炎魔将軍との戦いの中で、燃える刃耐性を身に着けた手法だ。多少のダメージをもらう覚悟さえもって臨めば、100%これで勝てる。


 俺の覚悟を知ってか知らずか、遊び人は大鎌をゆっくりと構えた。左足を後ろへとひき、腰と腕を目いっぱい使って上半身を限界まで引き絞っている。その必殺の構えに、思わず冷や汗が頬をつたる。

 全身を使って引き絞ったその上体が、放たれたとき、振るわれる大鎌は間違いなく俺の体を両断することだろう。多少のダメージでは到底済まない。もらえば、一撃で絶命すること間違いなしだ。


「初めて会ったとき、俺に元騎士だって言ったよな。あれは嘘だったのか?」


 俺は、時間が欲しかった。少しでも時間を稼ぎ、次の手を考えなければならなかった。
 場繋ぎ的な質問を飛ばしたのは、そうした狙いがあってのものだった。


「魔王に仕える騎士だったのよ。嘘はついてない」


「暗黒騎士だったのかよ。魔族だってのも聞いてなかったぞ」


「……言うタイミングを逃しちゃったのよ」


 ダメだ。まったく、対策が思いつかない。
 これは、覚悟を決めるべき時なのかもしれない。ダメージをもらう覚悟ではなく、死ぬ覚悟を。


 じんわりと額に滲んだ汗を、腕で拭う。
 大きく息を吐きだし、目の前の可憐な少女をにらみつける。


「お願いだから……絶対に避けて」

256 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/02 16:17:29.97 NZ43uSLl0 182/214

 片膝をつき、前傾姿勢をとる。膝とつま先に、全神経を集中し力を籠める。あとは、死ぬ覚悟だけだ。
 覚悟を決めるまで、そう時間はかからなかった。

 籠められた力を、まるで爆発させるかのように一気に解き放つ。雑念を全て取り払い、ただ前に進むことだけを考え地面を蹴る。彼女にたどり着くまで、ただの一歩も無駄にできない。全ての歩みに、ありったけの力を籠め、俺は加速していく。

 遊び人が、俺との間合いを図り大鎌を振るう。遠心力によって浮き上がった刃が、月明かりに晒される。

 
 脇腹に重い衝撃が走った。肋骨のいくつかが砕かれ、メキメキと不快な音を鳴らす。肉が弾け、痛みに顔が歪む。


 俺の勝ちだ。

 
 俺は既に、遊び人の間合いの内側へと入り込んでいた。脇腹にめり込んでいるのは、大鎌の柄。たとえ圧倒的な力で振るわれようと、柄では俺を両断できまい。だが、大鎌はその速度を緩めることなく俺の体ごと振りぬいてくる。

 せっかく間合いに入ったのだ、吹き飛ばされてはたまらないと俺は彼女の肩をつかむ。俺の体は、つかんだ彼女の肩腕を軸に時計回りに回転した。彼女の背後に到達した俺は、その腕を彼女の首に巻き付けた。

 結局のところ、彼女を傷つけずに倒すにはこれしか方法はないのだ。俺は、彼女の首に回した腕にグッと力をいれた。


「やめて! 勇者!」


 彼女は大鎌を手放し、全力で俺の腕をほどきにかかってきた。その細い腕に見合わない強大な力が、彼女が間違いなく魔族であることを如実に語っている。だが、こちらも負けじと渾身の力で首を絞める。



「キミを傷つけたくないんだ。しばらく眠ってくれ!」


「いや! いや! いやああああああああああ!」


 ぶちっ。何処からともなく、糸が引きちぎれるような音が届く。以前、自分で繕ったズボンの穴だろうか。だが、この状況下でそんなこと気にしていられない。


 ぶちっぶちぶちっ。


「きゃああああああ……あっ……」


 唐突に、彼女の悲鳴がとまった。
 彼女の体が、前のめりに倒れる。俺は、その姿を呆然と眺めていた。


 思わず、俺は彼女の頭をギュッと抱きしめる。そう。倒れた体をよそに、彼女の頭は俺の腕に抱かれたままだった。
 あの、ぶちぶちという気味の悪い音は。糸や布ではなく、肉が、……皮が引きちぎれる音だったのだ。


 俺は、彼女の頭を、その体から、ちぎり取ってしまっていた。

257 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/02 20:04:27.82 NZ43uSLl0 183/214

 状況を理解するまで、少しばかり時間がかかった。俺は、自分自身の力を見誤っていたのだ。その膂力は、とうに人の域を超えていた。まさか、身体から頭をちぎり取るほどに増していただなんて思いもよらなかった。なにが「魔族は危険だ」だ。本当に危険なのは俺自身ではないか。

 驚きと、悔しさ、悲しさ、言葉に言い尽くせない様々な感情が俺の中でせめぎ合っている。俺は、どうすればいいのだ。俺、はどうするべきなのだ。この気持ちをどう表せばいいのか、俺にはわからなかった。そんなとき、どこからともなくすすり泣く声が聞こえてきた。

 ああ、そうだ。こんな時は、泣くしかないじゃないか。愛する人を、この手で殺してしまったのに涙の一つも流さないなんて、それこそ人ではない。……ん? ところで、泣いているのは誰だ?


「うぅ……」


 俺の腕に抱かれた、遊び人の頭が泣いていた。


「生きているのか……?」


「いやだよね、こんな女……身体から切り離れても喋る頭なんて……」


「キミは、デュラハンだったのか」


 デュラハン。首なし騎士。人の死を予言すると言われる妖精だ。


「……いやなことあるか、こっちはキミの正体がスライムやオークの可能性だって考えていたんだ。そのうえで、それでもキミを愛すと覚悟を決めていた。首がないぐらいなんてことない」
 

「じゃあ」


「だから、首がないぐらいで泣くな」

258 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/02 20:04:54.85 NZ43uSLl0 184/214

 俺は、彼女にまかれたマフラーで彼女の目じりを拭いてやった。ズビズビ言っていたのだ、ついでに鼻もかんでやる。まるで子供をあやしているような、自身の様にふと笑みが零れ落ちた。そんな俺を見て、彼女もまた笑顔を見せる。


「勇者! うしろ!」


 遊び人の声に、反射的に身体が反応した。彼女の頭を、懐深くに抱き、前方へと一回転する。片膝をつき、後方を振り返ると先ほどまで俺がいたところに大鎌の刃が突き刺さっていた。

 大鎌を振るったのは、頭を失った彼女の体であった。ああ、そういうことかと俺は一人納得する。俺を心配する素振りを見せる一方で、殺しにかかってくるという妙に言動が不一致であったのは。頭と身体で、考えが一致していないからだったのだ。


「とりあえず、身体を止めるにはどうすればいい?」

 
 地面に突き刺さった大鎌を抜くのにてこずっている身体をよそ目に、俺は遊び人の頭に問いかける。


「頭が気を失うなりすれば、体も止まるはずだけど……」


「締め落とそうにも首が無いんだぞ……どうすれば」


「そうだ! 勇者、壁まではしって!」


「壁? どっちの?」


「3時の方向! 早く!」


 遊び人に促され、俺は身をひるがえし駆け出す。
 ヒュンヒュンヒュンと風を切る音に、思わず身を伏せると頭上スレスレを大鎌が通り過ぎて行った。


「ひぃ!」


 思わず、叫び声が出る。早くどうにかしないと、今度は俺が首なしになってしまう。

259 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/02 20:05:31.52 NZ43uSLl0 185/214

 息を切らして全力で駆けていると、部屋の一角に薄暗くもランプの灯に照らされたカウンターが見えてくる。カウンターには椅子が並べられ、奥の棚には酒瓶が並べられていた。大部屋の中に突然現れたその区画は、まるであの店。カクテルバー《ゾクジン》にそっくりだ。


「あそこにある酒で、私を酔い潰して! それで体は止まるはず!」


「足りるのか!?」


 俺の財産のほとんどをワインと化し、その全てを胃袋に収めた彼女の姿が脳裏に蘇る。


「わからないけど、他に手はない!」


 背後からの気配に振り向くと、彼女の体は既にその大鎌を振りかぶっていた。だが、振るわれた鎌には、大雑把でキレもなかった。どうやら、頭を失ったせいで、間合いを見誤っているらしい。幾分か躱すのは楽であるものの、一撃で俺を殺しうる破壊力をもっていることには変わりない。

 俺は、カウンターを乗り越え無造作に酒瓶を手に取る。だが、右腕で彼女の頭を抱いている状態ではとても栓を開けられそうになかった。かといって、頭をカウンターに置きでもして彼女の体に取り返されることを考えると手放すわけにもいかない。

 カウンター越しに再び大鎌が振るわれる。上体をそらし大鎌を躱す。大鎌の軌道を見ていると、ふとアイディアが思い浮かんだ。俺は試しに、俺の首があった位置へと酒瓶を持ち上げてみる。案の定、奴が狙っているのは俺の首だったらしい、大鎌は俺の首の代わりに酒瓶の首を斬りおとして見せた。


「ほらよ。まず一本目だ!」


 彼女の小さい口に、無理やり酒瓶を押し込む。なんだか、あらゆる方面から怒られそうな扱いであるが緊急事態だ今は目をつむってくれ。彼女はもがもがと言いながら、のどを鳴らしている。

260 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/02 20:05:58.31 NZ43uSLl0 186/214



「おいおいおい。お前の大鎌は酒瓶の首を落とすのにちょうどいいじゃないか」


 彼女の体に向かって、あらんかぎりの嘲りを送る。


「それともただ見えていないだけか? 俺の首は、ここだぞ」


 空いた左手で手刀を作り、自分の首をチョンチョンと小突いて見せる。語る口を持たない身体であるが、立ち上るオーラで怒り狂っているのは見て取れた。

 体は、息つく暇もなく大鎌を振るってきた。俺は、それを片っ端から躱しながら棚に並ぶ酒瓶の首を落とさせていくと同時に遊び人の口に代わる代わる酒瓶を差し込んでいく。


「えっぐ……えっぐ……」


 彼女の頭が、涙を流していた。
 いや、これはさすがに俺が悪い。いくら、彼女を酔わさなくてはならないからといって無理やり口に酒瓶を押し込むのはやりすぎだ。俺は、慌てて彼女の口から酒瓶を取り上げ、体に向かって投げつけた。


「す、すまん遊び人。大丈夫か?」


「私の秘蔵の酒がぁ……せっかく溜め込んだ酒たちが……!」


 どうやら、俺の心配は杞憂であったらしい。


「言ってる場合か! さっさと酔いつぶれてしまえ!」


「大事に飲もうって思ってたのにぃ!!!」


 完全に油断しているところに、再び大鎌が襲ってきた。気を逸らしてしまっていたこともあり、俺はその一撃を躱すのに大きく飛び退るしかなかった。カウンターから飛び出た俺の前には、もう酒には近づけないぞと彼女の体が立ちふさがっていた。

261 : 今日はここまでです ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/02 20:06:24.94 NZ43uSLl0 187/214



 もう、彼女に酒を無理やり飲ますことはできそうにない。だが、俺にはまだ秘策があった。


「すまん、遊び人!」


「ふぇ?」


 彼女の赤いマフラーで、彼女の頭を包み込む。マフラーから彼女の頭が零れ落ちないように、念入りに固くしばりつける。


「どおりゃあああ!」

 
 マフラーの先を握り、彼女の頭を重しに腕をグルングルンと振り回す。


「ちょ! ちょっちょっちょとおおおおおおおおおおおお!!」


 彼女の悲鳴があがるが、お構いなしだ。俺は、その速度をどんどんと上げていく。ぐるんぐるんぐるんぐるん。
 彼女の身体の足元がふらつき始める。そりゃあそうだろう。たとえどんなに酒に強かろうが、酒が入った状態でこれだけ振り回されれば、彼女と言えどたまるまい。彼女の体は、諦めまいと一歩踏み出す。だが、右足と左足が交差してしまい転んでしまった。うむ、見事な千鳥足だ。



「あ、もう無理」


 腕の先から、何もかもを諦めてしまい生気の抜けきった彼女の声が俺の耳へと届いた。その声と同時に、何とか立ち上がろうと四つん這いで踏みとどまっていた身体が地に伏せる。そうして、体は微動だにしなくなった。


 俺は、歓喜の声をあげ腕を振るった。俺たちの勝利だ!


 空からは、喉を鳴らす彼女の声と共に虹色の雨が降り始めていた。

264 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/05 22:39:02.75 1oYqpqim0 188/214

 目を回している彼女の頭を、優しく俺の太ももの上にのせる。長年、如何なる目的も果たせなかった俺ではあるが、ようやく一つ成しえることができた気がする。

 久方ぶりに彼女の顔を拝むが、やはりとんでもない美少女だ。こんなに、幼く可愛らしい顔つきをした美少女の頭をふとももに載せるなんて、なんと扇情的で犯罪的なんだろうか。だが彼女は、立派な大人。そこに違法性は一切ない。というか、彼女の生い立ちを鑑みるに、とんでもない年上の可能性だってあり得る。

 彼女の頭の重みが、俺に歓喜の震えを与える。俺の鋼の精神は、恐慌状態へと陥り、あまりの喜びに泣き叫びたいほどだ。

 俺は、衝動に駆られ彼女の頭を撫でることにした。綺麗な髪が、絡まることなく指の間をスルリと落ちる。


「可愛いなぁ……」


 俺の口から、思わず心中がだだ洩れた。
 すると、まるでタイミングを図ったかのように、彼女の口からもぬるく、粘った液体が滴り落ちた。


「うわ、ばっちいな」


 彼女のよだれが、膝にかかってしまった。いくら愛おしい彼女の唾液だからと言って、それまで愛でるほど俺は変態ではない。俺は、彼女のマフラーで自身の膝を拭う。


「とんでもないやつだ」


 お返しとばかりに、彼女の頬をつねる。プニプニしている。まるでスライムみたいな柔らかさだ。


「……おい勇者どこ触ってんだ」


 目を覚ました遊び人が不満げな声をあげた。俺は、それを無視して頬をいじくる。これは、俺の膝に涎を落とした罰だから俺に何ら後ろめたいことはない。

265 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/05 22:39:41.28 1oYqpqim0 189/214



「おい、やめおー」


「ははっ、変なしゃべり方」


 彼女の眉が少しだけ吊り上がる。まずい、やりすぎたか。俺は、慌てて頬をいじくるのをやめた。


「私の体は?」


 彼女の問いかけに、俺は答える代わりに彼女の頭を持ち上げ、部屋の片隅で倒れている彼女の体を見せてやる。


「ばか! 私の頭で、遊んでる場合じゃないぞ! 早く、体が起きる前に縛り上げて!」


 どうやら、頭が目覚めると体も動き出すらしい。俺は、部屋の隅にあったロープを持ち出し彼女の体を縛りにかかる。


「ほら、そっちのわっかに紐をを通して。そうそう、そのまま裏面に回して」


 やたらと、彼女が縛り方に口出ししてくるが、まあ別に逆らう必要もない。俺は、彼女の言うがままに従った。

 俺は、そのあまりの尊さに感動していた。彼女の指示通りに縛り上げられた彼女の体は、後ろ手に縛ることで身体の動きを制限すると同時に、胸をあえて強調するように縄が張り巡らされている。これは、実用性と芸術性(ある意味で実用性)を兼ねそろえた一個の芸術作品と呼ぶに値するものであった。


「こ、これは……」


 赤面する俺に、彼女はしてやったりの表情をみせている。


「どうだ! 恥ずかしいか勇者! 人の頬を好き勝手いじくったお返しだ!」


「いや……これ、縛られてるのキミの体だからね?」


 遊び人は、その事実に今更気づいたようで。見る見るうちに下から上へと真っ赤に茹で上がっていった。……どうやら、久々の再開で精神が恐慌状態へと陥っているのは彼女も同じらしい。

266 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/05 22:40:08.07 1oYqpqim0 190/214


 俺たちは、目が覚めてジタバタもがいている身体をよそにバーカウンターに並べられた椅子に腰かけた。バーカウンターの上に据えられた彼女の指示で、俺はグラスに琥珀色の酒を注ぐ。独特な芳ばしい香りが鼻を衝く。


「水で割るか?」


「いや、ウイスキーはストレートが好きなんだ」


 グラスを傾け、彼女に一口だけ飲ませてやる。そうしてから、ようやく自分のグラスに口をつける。強いアルコールが喉を焼く。だが、耐性のおかげでちっとも酔えそうにない。


「なあ、今更だけどさ。教えてくれよ君のこと」

 
 こうやって、酒を酌み交わしつつ彼女と会話するのはカクテルバー《ゾクジン》以来のことだった。あの日、俺たちは語り合うべき話を語り合わずに終わった。俺には、それが彼女がいなくなった遠因に思えてならなかった。俺が、もう少しでも彼女のことを知っていれば、こんなに苦しい思いをしなくてもすんだはずだ。

 俺の強い意志が伝わったのか、彼女はぽつりぽつりと話し出した。


「私は、暗黒騎士でデュラハン。魔王軍の中でもそこそこの力を持つ魔族なの。魔王軍が壊滅した……キミに魔王を倒された時、私は単独で任務に就いていたんだ。そのせいで、姿を隠した魔王軍の残党たちと合流することができなくなってしまった」


「じゃあ、キミは魔王軍に合流しようとしていたのか?」


「いや違うの……まあ、最後まで聞いてよ。どんなに探しても魔王は見つからなかったの。その頃はまだ、千鳥足テレポートも知らなかったし私に魔王を探し出す手段はなかった。それで、私は諦めてしまった。そして私は、自分の頭と身体を糸で縫い付け、人に紛れ静かに暮らすことにした」

「そうして何年か経った頃、違法酒場で飲んでるときに魔王軍がラムランナーを始めたって噂を聞いたの。私は、再び魔王を探すことに決めたわ。でもそれは、元魔王軍の暗黒騎士として魔王軍に合流するためではなく、いち酔っ払いとして、ラムランナーなんてしている暇があったら酒造業界を取りまとめて天下の悪法『禁酒法』と戦えって物申してやりたかったからなの。それを決めたときは、変な気持ちだったわ。かつての私なら、魔王のやることに異を唱えるなんてありえなかったんだから」

267 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/05 22:40:34.52 1oYqpqim0 191/214



 炎魔将軍の言葉を思い出す。「人に化けると、思考や性質が人間に寄ってしまう」。おそらく、彼女にもそれが起こったのだろう。魔王軍という群れを一人離れ、人間として日常をおくる中で魔王への忠誠心が薄らぎ、強い自我に目覚めたのだ。


「私は、まずマスターを頼った。先代魔王なら、何か知ってるかもって思ったの。だけど、マスターは何も知らなかった。でも、かわりに千鳥足テレポートを私に教えてくれた。千鳥足テレポートの恐ろしさはキミも知っている通り、私はかつての仲間たちとアッサリと再会を果たしたわ。でも、長らく魔王軍への合流を果たせなかったうえに人間として暮らしていた私は彼らに信用されなかった。誰も、魔王の居場所を教えてくれなかった。……悲しかったわ、本当は魔族だという負い目からか人間たちとは深く付き合えなかったし、そのうえ仲間だと思っていた魔族たちからも信用されなかったんだから。私に居場所なんてないって。その悲しさを紛らわすために、毎日お酒を飲んでたわ。そんなときよ、キミに出会ったのは」


「飲むか?」と、俺は彼女に酒をすすめる。彼女は何も答えなかったが、俺はグラスを口元まで運んでやる。動かない頭ではあるが、俺には彼女がコクんと頷いたように見えたからだ。彼女は、「ありがとう」と言ってウイスキーを喉に通した。

 
「相変わらずの人に化ける生活で、更には勇者に味方したことで余計に魔族たちにも信用されなかったけど、隣に同じ目的を持った人がいるってだけで私はすごくうれしかったの」


 俺は、彼女の頭を持ち上げ自分の前へと運ぶ。そして、そっと机の上に置いて彼女の目を正面から見つめた。


「じゃあ、なんで俺の前から消えた?」


 その質問は、俺が消えた彼女を追い続けた理由であった。

271 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/06 20:32:06.57 xe7KZDDc0 192/214


「半分はキミのせいでもあるんだよ」


「俺のせい?」


「こんな伝承を知っているかい? デュラハンは、死が近い者の前に現れタライ一杯の血を浴びせるんだ。私が死を予言すると言われる所以だね」


「それが、どうして俺のせいって話になるんだ」


「私が、《ゾクジン》から帰ることができなくなってキミが迎えに来てくれた日のことを覚えている?」


 忘れるものか、俺たちはあの日仲直りをして二人で宿屋へと帰った。そして、翌日の朝にはキミは姿を消していた。俺がこんなところまでキミを追ってこれたのは、あの日の二人の関係があったからこそだ。一人で国中をさまよっている間、それだけが俺の心の拠り所だった。


「宿屋に帰って……そのあと、私たちは酒を飲みなおすことにした。……キミは、私の為に酒をもらってくると言って部屋を出て行った。足元がふらついていて危なっかしかったけど、まあ勇者なんだし大丈夫だろうと見送ったの。ほどなくして戻ってきたキミは、その手に水差しを抱えてた。そしてその水差しは、私のグラスにその中身を注ぐ前に宙を舞った」


「宙を?」


「床に散らかっていたクロークに足を取られたキミは、水差しを宙に投げ出しすっころんだの。私はそれを見てケラケラ笑っていた。でも、それも長くは続かなかった。……キミは、水差しの中に入っていたを頭から被ってしまっていた。よりにもよって、水差しの中身は赤ワインだった。まるで血を浴びたかのようなキミの姿に、私は血をたぎらせてしまった。デュラハンとしての、魔族としての血を」


「でも、伝承じゃ浴びせるのは血なんだろ? なぜ、たかが赤ワインなんかで」


「たかがじゃないわ。教会だって、血の代わりにワインを儀式に使うじゃないの。ワインってのは、血の代替品でもあるのよ」


 血の代替品という言葉に、自身の血管を流れる赤ワインを想像する。

272 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/06 20:32:32.97 xe7KZDDc0 193/214



「魔族の血は、私に魔王に従順たることを求めた。失ったはずの忠誠心が、私の体から自由を奪った。……このままだと、魔王の天敵であるキミの寝首を掻きかねない、そう思った私はキミの前から姿を消した」


「体が俺を殺そうとするのはそういうわけだったのか……だが、キミはどうやって魔王軍に合流したんだ」


「キミの下を去ったあと、千鳥足テレポートを使ったらあっさりと魔王の下へとたどり着いたわ。多分、強い忠誠心が千鳥足テレポートに干渉したんだと思う」


 千鳥足テレポートは、行使者の思いを読み取る魔法だ。強い願いは、そのランダム性の振れ幅を抑えるのかもしれない。だが、俺とて本気で魔王を追い、そして遊び人の後を追っていた。それでもなお、たどり着けなかった。決して、自身の思いが弱かったのだとは思えない。だとすれば、魔族の魔王への忠誠心とは我々人類が計り知れないほどのものなのかもしれない。 


「じゃあ、キミは魔王に物申すという目的は果たしたのか。それで、魔王は説得できたのか?」


「説得は続けてるわよ、相変わらず魔王のやり方は気にくわないからね……でもね、頭はそうでも体は魔王の言葉に逆らえないの」


 俺を心配する素振りを見せながら、本気で殺しにかかってくるわけだ。俺はその様子を、頭と身体がチグハグだと感じたが、実際のところ、彼女にとって頭と身体は別個のものなのだ。


「君の体は、解き放てば、また俺を殺しに来るかな?」


「……たぶん」


「手段はないのか?」

273 : 今日はここまでです ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/06 20:32:59.15 xe7KZDDc0 194/214



 遊び人は、目をつぶってうーんと唸る。


「体は、魔王の言うことを絶対に聞くから、勇者を殺さないよう魔王に命じてもらうか。もしくは……」


「もしくは?」


「魔王をぶっ倒して、私が次の魔王になるってのはどう? そうすれば、自分の体を律することもできるかも」


 その時、俺の体に震えが走った。いや、震えているのは俺だけではない、俺の正面に据わっている彼女の頭も、グラスに注がれたウイスキーも、カウンターの向こう側に並んでいる酒瓶たちも。今この場にある、全ての物が突然震えだしたのだ。


「なんだ!?」


「まずいわ! アイツが来る!」


 アイツ? いや、そんなことは聞くまででもない。この徐々に大きくなる揺れに伴い、部屋を満たしていく禍々しいオーラ。俺は、こいつを経験したことがある。

 地面から立ち上るオーラは、ゆらゆらと地面を走り円陣やルーン文字を形どっていく。術式は、テレポート魔法。アイツがこの部屋にやってくるための通り道だ。完成した魔法陣は、ひときわ光を増し俺と遊び人の視界を一瞬だけ奪った。俺は、光を遮る自身の手の指の隙間からアイツが魔法陣から出てくるのを見た。光が収まっていくと同時に、その男の輪郭が明らかになっていく。

 全身から溢れる、禍々しいオーラ。クロークの上からでもわかる、その逞しい肉体。頭に生えた二本の角が彼が人間でないことを物語っている。そのシルエットは、彼を取り逃がしたあの日から全く変わっていないように思えた。

 だが全て同じかと言えばそうではない。長い年月は、アイツにも変化を与えていた。クロークの隙間から垣間見える金属特有の光沢をもった右手。より一層、凶悪となった表情がそれだ。俺が斬りおとした右腕は、どうやら機械仕掛けの義手へとすげ変わったらしい。だがあの表情はなんだ。目からは生気が失われ、顔全体に暗い影が落ちている。逞しい肉体とは裏腹に、その表情は痩せ衰えているように見える。

 
「魔王。いったい、お前に何があったというんだ……」


 そのあまりの変貌ぶりに、俺の口から思わず魔王を慮る言葉が漏れ落ちた。

275 : 今日で最後の更新です ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/08 22:26:39.01 ABaWR+nR0 195/214



「久しぶりだな勇者、いやいまは《ビール》と名乗っているらしいな」


 俺のことを《ビール》と呼ぶということは、ビール工場での一軒は既に魔王の耳へと届いているのだろう。ならば、俺が既に魔王と争うつもりがないということは炎魔将軍から伝わっているはずだ。


「ビール?」


「……後で説明する。一体何の用だ魔王」


 問いかけてきた遊び人を手で制し、俺は魔王へと向き直る。もう奴と戦うこと必要はないということはわかっているが、いざ魔王を前にすると肌を刺すような緊張感が全身を駆け巡る。


「なに、娘が惚れた男と話をしたくてな」


「娘!?」


 遊び人と魔王の顔を、何度も見比べる。……確かに面影は似ている、真っ赤な目の色も同じだ。俺が、遊び人の瞳をじっと見つめていると、彼女は気まずそうに斜め上へと視線をずらした。それでごまかしたつもりか。

 ……ということは、マスターは遊び人の祖父というわけか。どおりで、遊び人のことをやたらと気にかけていたわけだ。


 魔王が、ゆったりと歩をすすめこちらに近づいてくる。魔法陣の光は既におさまり、部屋は月明かりとカウンターの周りに置かれたランプだけがだよりだ。ランプに照らされた魔王の表情は、やはりどこかやつれていて酷く疲れているように見えた。


「酷い顔をしているぞ」


 そのあまりの変貌ぶりに、思わずかつての宿敵を案じてしまう。

 魔王は、まるで浮いた皺やクマを確かめるように自身の顔を撫でた。

276 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/08 22:27:06.19 ABaWR+nR0 196/214



「そうか……いやそうだな。我は疲れてしまったのかもしれん」


「……なにがあった」


「長年離れて暮らしていた娘が帰ってきて、喜んでいたのも束の間。我が娘は、魔王軍の一員として命令をしっかり聞くのは身体だけで、頭の方は、常に我へと罵詈雑言を投げつけてくる……。今は、娘がいなかった時より辛い……」


 遊び人を見ると、口笛を吹く素振りをしている。その様相に、魔王の言葉が真実であることを俺は確信する。なにが説得を続けていただ、実の父親に罵詈雑言を浴びせることはもはや説得とはいえないぞ。


「勇者、魔王を倒して! そうしたら、次の魔王には私がなる! そうなれば体の制御もきくようになるし魔王軍もよりよくなる!」


 魔王が深いため息をついた。


「娘の言うことは聞かないでくれ。我としても、もう人間たちと争うつもりはない。それに、娘がそう願うのであれば娘の体のほうも我が何とかして……」


 言葉に詰まる。


「我が娘よ……体はどうした?」


 あ……。


 魔王の問いかけに応じるかのように、部屋の隅でガタガタと物音が鳴った。まずいまずいまずいまずいまずい! いま、彼女の体を見られると非常にまずい! 勇者の直感が、全力で危険を知らせてくる。だが俺には、魔王の視線が物音の方へと向くのを止めることはできなかった。

277 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/08 22:27:32.11 ABaWR+nR0 197/214



「……」


 当然、そこには遊び人の体が捨て置かれていた。その芸術的かつ扇情的に縛り上げられたからだが、魔王へと助けを求めるように体を揺り動かしている。



「……えっと魔王、それは、その」


 俺は、助けを求めるように遊び人を振り向く。すると遊び人は、まるで悪戯が見つかった幼子のように舌をぺろりと出した。


「勇者がやりました……」


「ばっ!いや、ちが……」


「ゆうしゃああああああああああああああああああああ!!!」



 魔王の叫びに部屋が震える。魔王は、なりふり構わず俺へと身体をぶつけてきた。そのあまりの威力に、俺は部屋の壁に打ち付けられた。肺の中の空気が、衝撃で全て体の外へと吐き出される。俺は、片膝をつき何とか呼吸を整え、恐ろしいまでの黒いオーラを立ち上らせゆっくりと近づいてくる魔王へと呼びかけた。


「お、お義父さん! 誤解なんです!」


「お義父さんなどと呼ぶなあああああああああああああああ!」


 魔王のパンチを、とっさによける。その拳は、さも当然かのように壁にめりこむ。
 
 俺に、反撃に出るつもりは毛頭なかった。炎魔将軍との約束もあるが、なにより俺はもう魔王と争う理由がないのだ。だが、そんな俺の気持ちとは裏腹に魔王は遠慮なく俺の命を仕留めに来ている。

 魔王の研ぎ澄まされたフックが、ボディへと突き刺さった。骨がきしむ音が、脳天まで届いてくる。その破壊力は、女神から授かった耐性の力を以てしても凄まじいダメージを俺へと与えた。
 

「娘を! 亀甲縛りなんぞにして! いったい何をするつもりだったんだ! この変態め!」


 続けざまに、打ち放たれたパンチはその一つ一つが必殺の威力を有していた。俺は、それを辛うじて受け流す。もう一発でもダメージを受ければ、死に至らしめられる確信が俺にはあった。これまでの俺は、傷を受け、痛みに耐え、何度でも立ち上がり魔物たちとの戦いに勝利してきた。だが、魔王との戦いは別だ。傷を受ければ、痛みに耐えられるはずもなく、一度でも倒れればもう二度と起き上がれない。


 これまで、感じることのなかった死の恐怖で、思わず歯が鳴った。

278 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/08 22:28:18.61 ABaWR+nR0 198/214


 それは、一か八かの賭けであった。俺は、魔王から繰り出される鉄の拳を目で追う。これを捕らえられなければ、体勢を崩した俺は次撃で死ぬことだろう。そのあまりの緊張感からか、時間がやけに遅く感じられる。俺は、スローモーションの世界の中で魔王の機械の腕を半身で受け流し、そのまま伸び切った腕を脇で固めた。


「うおおおおおおお」


 片腕を、俺に抑えられた魔王が顔面にパンチを入れてくる。だが、腰の入らないパンチに、先ほどまでの威力はない。



「せりゃああああああ!!!」


 俺は、気合をいれ機械の腕をへし折った。鉄の部品が、ガチャンガチャンと音を鳴らしながら崩れ落ちていく。腕は、かろうじて魔王の体に繋がっているものの力が入らないのか振り子のように揺れていた。


「くっ……腐っても勇者ということか」


「もうやめよう魔王。俺に争う気はないんだ」


 俺は、害意がないことを示すために両手をあげて魔王に歩み寄る。


「寄るな変態! 今度は、我を変態的な技法で縛り上げるつもりだろう! そうはさせるか!」


 魔王は、そういうと床に転がっていあ遊び人の体に駆け寄った。


「せめて、我が娘の体だけは守って見せる」


「あ、頭はどうなってもいいのか?」


「……こ、この変態め! 娘の頭で何をする気だ!」


 思わず口にした疑問で、更なる誤解を魔王に与えてしまった。この場を納めるには、魔王の実の娘である彼女しかいない。俺は、僅かな希望を遊び人へと託すこととした。


「やれっ! 勇者! 殺さない程度にパパを痛めつけて! そしたら私が次の魔王だ!」


 もうだめだ……。


「我が娘よ、まだそんなことを!」


「うるさい! くそじじい! さっさと隠居して席をゆずれ! ばーかばーか!」


 魔王と目があう、その死んだ魚のような目に俺は何もかもを察した。ああ、ずっとこの調子で罵倒され続けていたのだな魔王よ……。

 魔王は、どこからともなくスキレットを取り出し口を付けた。その目はわずかに潤んでいるように見える。


「……っ。あ、頭は置いていく! だが、娘の貞操だけは我が守る!」


 魔王は、スキレットを懐にしまいこみ。遊び人の体を優しく抱え上げる。


「な、なにを……する気だ!?」


「貴様らの知る由も手段を用い、貴様らの知る由もないところへ逃げるまでよ!」


「勇者! 魔王を今すぐ捕まえて!」


「さらばだ勇者に我が娘よ! 千鳥足テレポート!」


 遊び人の言葉に、反射的に俺の体が動く。だが俺の腕は、空を切る。既に魔王の体は、光の粒子となって部屋の中から姿を消していた。よりにもよって、俺らが魔王を探すべく散々使ってきた千鳥足テレポートを使って、魔王は何処へと消えてしまったのだ。

279 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/08 22:28:45.89 ABaWR+nR0 199/214

 魔王も、千鳥足テレポートが使えるのか。だが何故、普通のテレポートではなく千鳥足テレポートを使ったのだろうか。そんな俺の疑問を察して、遊び人が間髪入れずに声をかけてくる。


「普通のテレポートじゃ、私に逃げ先を悟られると思ったんでしょ! 勇者! 私たちも千鳥足テレポートで追うよ!」


「だめだ……俺は、もう千鳥足テレポートはつかえないんだ」


「はい?」


「なあ、俺の顔を見てくれ。ウイスキーを飲んでも、ちっとも赤くなってないだろう?俺の中の女神の力が、俺を酒に酔えない身体にしてしまったんだ。魔王を倒さない限り、俺の体はこれからもずっと酒に酔うことはないんだ」


 遊び人は、驚きの表情を浮かべ固まってしまった。何かを必死に考えているのだろうか、時折「でも」とか「だって」と口に出しているがあとが続かない。


「酔えない俺に、千鳥足テレポートは使えない。つまり、もう魔王を追うことはできないんだ」


 俺は、再び言い聞かせるように遊び人に伝えた。


「だ、だったら、なおさら魔王を追わなくちゃ。キミはともかく私は酔っているんだから、二人でなら千鳥足テレポートはつかえるはずよ。それに魔王を倒せば、またお酒に酔えるようになるじゃない!」


 遊び人の提案は、確かに一考の余地のあるものだった。たしかに、二人でなら千鳥足テレポートが発動するかもしれない。だが、失敗したらどうなる。以前、遊び人が一度目の失踪を果たしたとき俺は幾度も千鳥足テレポートを試み、失敗した。あの時の、鼻をつんざく海水の痛みが思い起こされる。もし海にでも、川にでも落ちたりしたら頭だけの彼女はどうなる。自ら浮き上がる術も持たずに、暗い水の底へと沈んで行ってしまうのではないだろうか。


「無理だよ遊び人。……それに俺はもう勇者じゃない、俺は《ビール》なんだ。もう俺に魔王を倒す理由はない」


 俺は、彼女に千鳥足テレポートを使わせぬべく適当にそれらしい理由を並べ立てる。


「じゃあ、私の為に追ってよ。勇者に理由がなくても私にはあるの! 世界中の皆が普通に酒が飲める世界を作るのを手伝ってよ!」


 遊び人の声は、震えている。だが、俺にはその理由がわからなかった。

280 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/08 22:29:12.98 ABaWR+nR0 200/214



「手伝うさ。俺には教会にも頼れる伝手がある。なにも魔王軍を手中におさめる必要はない」


 そうだ、わざわざ自ら危険に飛び込む必要なんてない。もう、魔王のことなんて、俺のことを殺そうとする体のことなんて忘れて、二人でゆっくり暮らすのもいいじゃないか。


「そんな、つまんないこと言わないでよ!」


 遊び人は、その目に大粒の涙をためていた。
 何故だ。なぜキミはそこまで、魔王に執着しているんだ。


「頭だけの私には、どうにもならないの。お願いだから手伝ってよ勇者」


 今までみたこともない激昂ぶりに、俺はたじろぐ。以前の喧嘩でも、彼女はここまでの怒りは見せなかった。一体何が、彼女を突き動かしているというのだ。


「もう正直、私の目的なんてどうでもいい。……いや、どうでもよくはないけどどうでもいい!」


「お、落ち着けよ」


「落ち着いていられるわけないでしょ。なに!? 酒に酔えない身体になったってどういうこと!?」


「それは、女神からもらった耐性の力で……」


「もう、一緒にお酒をシコタマ飲んでも二人で酔って、笑って、馬鹿話に講じることもできないってこと!? そんなの私には耐えられない! 私は、酔っぱらって心中だだ洩れのそんな勇者が好きだったんだ!」


 そういうと、彼女は本格的に泣き出してしまった。うわああうわあああとまるで子供のように声をあげて泣いている。

 俺は、立ち上がり彼女の目をぬぐう。ああ、愛しい女を泣かしてしまうなんて俺は勇者として、いや男として失格だ。
 剣を腰に差し、クロークをまとう。彼女に一声かけ、彼女の頭をマフラーごと腰に結わえ付ける。


「勇者?」


 彼女は、心配そうに俺を見上げている。俺は、それに微笑み返しカウンターバーに並べられた酒瓶に向き合う。片っ端から手に取り、その琥珀色のアルコールを体に充填していく。空になったら、次を、それが空になったら更に次を。何杯も、何杯も、何杯も。

 だが、俺の体は一向に酔う素振りを見せない。悔しさに、視界がにじむ。だが、その手は緩めない。
 腰に結った頭が、声をあげる。「がんばれ」と。その声は、少しずつ大きくなっていく。遂には、部屋中に遊び人の声援が響き渡った。 


「がんばれ勇者! キミは、ビールなんかにとどまる男じゃない! そんなアルコール度数の、チェイサー程度の男じゃない! ぐつぐつぐつぐつと魂を燃やせ! 煮詰まった醸造酒は蒸留酒を生むんだ! そうだキミはビールなんかじゃない! その魂は、勇者という生きざまに染まったスピリッツだ!」


 酒瓶を握る手に力が入る。


 あまりに力を籠めすぎたせいか、思わず眩暈がする。足元がふらつき、全身の力が抜けていく。
 巡る思考はまわりすぎて、その複雑に絡み合ったシナプスをほどいていく。

 魔王を倒すのが勇者の役目。彼女の体に関する誤解。酒造業界で一丸となって禁酒法を無くしたいという遊び人の思惑。勇者の力を失い、再びアルコールに酔う身体を取り戻す。そのすべてが、今やどうでもよくなっていく。とりあえず、よくわからないが魔王を倒せばいいんだろう。酔っ払い特有の、短絡的結論にたどり着いたとき、俺は「飛べる」確信を得た。

 
「千鳥足!」


 遊び人の顔を伺う。彼女は動かない頭で、頷いて見せた。
 俺たちは、タイミングを合わせ二人同時に掛け声をあげる。



「てれぽおおおおおおおおおおおおおとおおおおおおおお!!!」

281 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/08 22:29:53.18 ABaWR+nR0 201/214

 日の光が僅かにさしこむ倉庫。その、両脇には木箱が高く積み上げられ少ない日差しを更に遮っている。どこか懐かしい香りのする場所だ。


 千鳥足テレポートは大成功だった。そこには、扇情的に縛り上げられた彼女の体を片手でほどくこうと苦戦している魔王がいた。


「魔王みいいいいいいいつうううううううううけええええたあああああああああああああ」


 今度は、こちらの番だとばかりに魔王にタックルをかます。俺と魔王は、組み付いたまま積み上げられた木箱に突っ込んだ。魔王は驚きの表情ながらも、突然の来襲に的確に対応した。片腕の力で、組み付く俺と自身の体に無理やり隙間をこじあけ、そこに膝を見舞ってきた。


 魔王の膝蹴りは、見事に俺の腹へとつきささり思わず俺の口から胃液が飛び出す。更に、その凄まじい衝撃は俺の体を倉庫の天井付近まで浮かび上がらせた。


 俺は、ぐうと喉を鳴らし痛みに耐える。そして浮かび上がったまま、踏ん張りの聞かない体勢ではあるが上半身をあらんかぎりの力で引き絞る。体が上昇するスピードは徐々に和らぎ、そしてこんどは重力に惹かれ自由落下を開始する。俺は、身を任せ全体重に自由落下の速度を上乗せし、さらには引き絞った上半身を開放し、魔王の頭上から全力の拳をお見舞いする。


 残念なことに、俺の拳は魔王に届くことはなく、地面に大きなクレーターを形作るにとどまった。その光景に、無様に身を転がし拳を躱した魔王の目は大きく見開いている。やつも俺の拳を恐れている、その事実が俺を勇気づける。


 だが、俺が次の攻撃に移る前に魔王は動いた。地面に突き刺さった拳を抜こうとしている俺へと、魔王の蹴りが襲う。何とか、ガードをするが衝撃で俺は木箱の山まで再び吹き飛ばされ埋もれてしまう。木箱の中から、身を乗り出そうともがいていると魔王の魔法詠唱が聞こえてきた。


「千鳥足テレポート!」


 魔王は、再び千鳥足テレポートを使ったのだ。


「追うよ勇者!」


 腰の頭が、俺に声をかけてくる。


「応っ!」


 俺は、彼女へと返事をし俺に覆いかぶさっている木箱の一つに腕を差し込む。そして、藁の緩衝材で敷き詰められた箱の中から緑色をした瓶を取り出す。ビンには魔王軍の紋章が刻まれている。間違いない、あの工場で作られているビールだ。俺は、ビンの頭を木箱でたたき割り、中の液体を無造作に口へと流し込む。


「いくぞ遊び人! 千鳥足テレポート!」

282 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/08 22:30:21.84 ABaWR+nR0 202/214


 魔王の驚いた表情を見るのは、今日だけで何度目であろうか。俺たちが、千鳥足テレポートを使えることを知らない魔王にとっては、俺たちがいかにして魔王を追ってこれるのか理解ができないのであろう。


 木箱の山のお次は、樽が大量に敷き詰められた石造りの部屋だった。部屋には冷たい空気が満ちていた。どうやら、何かの保管庫らしい。そこには、窓が一つもなく蝋燭の灯だけがゆらゆらと俺たちの姿を照らしている。

 
 魔王が、樽を抱え上げ俺へと投げつけてくる。樽の剛速球を、なんとか受け止め地面に置く。樽の中身が、ちゃぷんちゃぷんと液体特有の音をあげる。間髪おかずに、二個目三個目の樽が飛んでくるが、俺はそれを受け止めつつ魔王へと前進を続ける。


 足を止めない俺を見て魔王の表情に、恐怖が浮かぶ。


「こっちに来るなあああああああああ!」


 数えきれないほどの樽が、魔王によって放られた。俺は、その一つを受け止めきれずに顔にもらってしまう。だがチート耐性の頑丈な頭に、割れ砕けるのは樽の方だった。砕けた樽は、そのの中身を俺の全身へと浴びせた。頬を伝う液体をチロリと舐めると、それは質のいい赤ワインだった。


「おおおおおおおおおおおおおおおおおお」


 突然、何処に潜んでいたのか縄をほどかれた彼女の体が、頭がないはずなのに腹に響く重低音をまき散らしながら俺へと突進してきた。デュラハンの血が覚醒したのか、先ほど戦った時よりも幾分も力が増しているように感じられる。彼女の体は、俺の背後から組み付き俺の歩みをとめる。彼女の膂力に屈したわけでは無い、背中に当たっている何か柔らかいものが一瞬俺の思考を止めてしまったのだ。


「おい! 密着しすぎだ我が娘よ!」


 俺は、魔王の言葉に我を取り戻し、反動をつけ遊び人の体ごと前転をくりだす。俺の体を軸に、大きく円を描いた遊び人の体は地面にたたきつけられた。


「ぐえ」


 俺の腰のあたりから、カエルがつぶれたような声が届いた。む、彼女の頭が、その体とダメージを共有していることをすっかり忘れていた。だが今は、そんなことを気にしている余裕はない。俺は、倒れ伏せた遊び人の両足をつかみ思いっきりのフルスイングをかます。


「ぐえええええ」


 先ほどよりも、僅かだが確実に大きくなったうめき声が届いたところで俺は一気に手を離す。宙に舞った彼女の体は、魔王のほうへと飛んでいき、それを受け止めた魔王は勢いそのままに石の壁へと叩きつけられた。



「ち、千鳥足テレポート!」


 再び、テレポートで飛んだ魔王をしり目に俺はワイン樽に拳をたたきこむ。割れた樽から、流れ出るワインを手ですくって口へ運ぶ。


「おい! 私にも! 私にも!」


 腰で騒ぐ遊び人の口元にも、ワインを運んでやる。彼女は、俺の手ずからであることを気にする様子もなくワインを飲んで見せる。
 

「いくよ! 千鳥足テレポート!」


 そしてワイン蔵に元の静寂が訪れた。

283 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/08 22:30:48.64 ABaWR+nR0 203/214



 どうしてこの魔法を使った後は、みんな驚いた表情で出迎えてくれるのだろうか。いや、突然何もないところから腰から頭を吊り下げた男が現れたらそうなるのも仕方ないか。というわけで、大柄で禿頭の男は俺たちを見て開いた口がふさがらない様子を見せつけてくれている。

 その手には、酒をグラス注ごうと傾けられたビンが握られており、驚きで固まった大男は既にグラスが酒で満ち溢れているのに構わず注ぐ手を休めようとしていない。……って、この大男、いつかの宿屋の主人ではないか。


「ままままたかよ! 頭のない死体を担いだ片腕の男の次は、頭を腰に吊り下げた男かよ……って、兄ちゃんどこかで?」


 主人に構わず視線を動かすと、今まさに遊び人の体を担いだ魔王が更なる千鳥足テレポートで飛び立つ瞬間だった。


 俺は、落ち着いて懐から銀貨1枚を取り出し、主人の前に置いて見せる。


「こりゃなんだ?」


「酒代だ」


 俺は、主人の前に置かれたグラスを奪い喉に流し込む。
 やはり机に置かれていた酒瓶は、遊び人の口に直接差し込んでやる。

 懐かしい不味さに胃が拒絶反応を起こす。「まずいまずいまずい!」と「こんなものを流し込むな」と悲鳴をあげたのだ。だが、その不味さに不快さはない。それどころか、なぜか愉快な気持ちになってくる。二人で飲めば、こんなにまずい酒でも楽しいのか。その事実がまた、俺を愉快にさせる。


 視線を下に落とすと、遊び人が準備完了とばかりにウインクして見せた。



「千鳥足テレポート!!!」


 魔王、逃げても無駄だ。俺たちは、どこまででもお前を追い続けるぞ。

284 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/08 22:31:14.71 ABaWR+nR0 204/214



「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」


 転移先は、実に騒がしいところだった。大樽や、パイプが張り巡らされたそこは死角が多く視線が通らない。だが、各所から沸き上がる雄々しい叫び声でそこに大勢の人や魔物たちが争っていることが見て取れる。


「魔王軍の秘密醸造所!? 戻ってきたのか」


 機材の間をかきわけ、中央の最も大きな通路へ出ると魔物たちと白装束の男たちが剣やこん棒を手に血と汗を散らしていた。


「魔王おおおおおおおおおおおおおおおお!!」


 人ごみの中に、意中の相手を見つけた俺はわき目もふらずにその中へと飛び込む。積もり積もったダメージで這う這うの体の魔王の足取りは重い。俺は、すぐに魔王に追いつきそのクロークを掴み無理やり引き寄せる。クロークはびりびりと音を立てて引きちぎれてしまった。

 魔王は、その反動か前のめりに倒れてしまって。魔王は、一歩でも前に進もうと左手を前へと伸ばす。


「ま、魔王様!」


 伸ばされた手の先では、ちょうど炎魔将軍と女神正教の大司教が剣を交えているところであった。軍配は既に炎魔将軍にあがっていたようで、大司教は肩で息をしている有様だ。魔王に気づいた炎魔将軍が、大司教そっちのけで魔王に駆け寄る。


「炎魔! 我が右腕よ! 頼むから予備の右腕を急ぎ持ってきてくれ!」


 魔王の懇願ともとれる指示に、炎魔将軍は涙を流しながら「御意」と駆けだした。


「おおっ! 勇者様が、魔王を追いつめているぞ!」


 どこからか、僧兵の一人が大声をあげる。俺たちに気づいた、周囲の魔物や僧兵たちが剣を打ち付け合うのを徐々にやめ中央へと集まってくる。彼らは、俺と魔王を取り囲み。自然と、人と魔物の屈強な肉体でリングが形成されていく。その中には、首から上のない彼女の体も見て取れる。

285 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/08 22:31:42.01 ABaWR+nR0 205/214


 
 魔王は、隻眼のミノタウロスに支えられ小さな樽に腰かけている。周囲の魔物たちが、これでもかと甲斐甲斐しく介抱し魔王は幾分かの体力を取り戻したようだ。

 
 俺は、決戦に備えクロークをぬぎ、剣をはずす。すると、頼みもしないのに僧兵の一人が恭しくそれを預かってくれた。


「勇者、ついに使命を果たす時がきたな」


 なんとか息を整えた大司教が、俺の背をポンと叩く。


「しっかりやってこい!」


 俺はコクりとうなずき、腰に吊り下げていた遊び人の頭を大司教に預けた。大司教は、「げっ」と顔をしかめながらも、彼女の頭を大事に受け取ってくれた。


 正面を見据えると、既に新しい義手を取り付けた魔王が腕をグルングルンとまわしている。こちらの視線に気づいた魔王は、先ほどまでの弱弱しい男とはまるで別人と思えるほど生気に満ち溢れている。なるほど、王として情けない姿は配下に見せられないということか。


「……さて勇者よ。もう追いかけっこはおしまいだ。憎き女神の使徒であり、超ド級の変態である貴様を倒して我が魔王軍の勝鬨としてくれる! 」


 魔王の後ろからは、炎魔将軍が憎々し気に視線を送ってくる。


「勇者! 約束を違えるとは見損なったぞ!」


 批難の声をあげる炎魔将軍に、俺はフンと鼻を鳴らす。そもそも、酒の席で約束をする方が悪いのだ。

286 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/08 22:32:09.18 ABaWR+nR0 206/214


 俺は、軽やかにステップを踏み身体の調子を整える。対する魔王は、付けたばかりの義手を相変わらずグルングルンとまわしている。


「合図が必要だな」


 焦れたミノタウロスが、そう呟き隣に立っていた僧兵から兜を奪い取る。そして、それを持っていた斧でカーンと打ちならした。

 
 魔王の右ストレートが、俺の左頬へと突き刺さる。あまりの速さに、俺は魔王の動きを全く捕らえられなかった。意識が転よりも高く飛びあがりそうなのを、歯を食いしばって耐える。


 俺は、お返しとばかりに拳をふりあげ、魔王の顎を砕いてやる。確かな感触があった。だがしかし、魔王は倒れない。

 
 ステップを刻む暇などない、超近距離のインファイトが続く。お互いが互いの急所へと必殺の一撃を見舞い合う、ただそれだけの戦略性から最も遠くかけ離れたただの肉弾戦だ。だがそれは、美しさからの欠片もないその戦いは男たちの血をを熱くたぎらせた。一歩も引かずに、拳の応酬をつづける両者に魔物達も人間達も変わりなく声援を送った。


「させ! カウンターだ! ほら今だ、させ! 勇者っ!」


 大司教の皺がれた声には、年不相応な熱がこもっていた。そして、その右手にはなみなみと注がれたビールジョッキが握られている。


「うひょおおお! なんですか今のアッパーは! あんなの食らって立ってられるとは流石魔王様!」


 炎魔将軍が、その姿に似合わず甲高い歓声をあげる。その右手には、やはりビールジョッキが、そして呆れることに左手には乾きものが握られている。

287 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/08 22:32:35.64 ABaWR+nR0 207/214


 一体何発のパンチを見舞い、何発のパンチをもらっただろうか。膝が震え、肩を揺らし、目は腫れ視界がかすむ。まともな人間、まともな魔族であれば幾百回の死を迎えるであろう威力を正面から受け止め俺と魔王はともに限界を迎えつつあった。


 白く霞んだ世界から、突然魔王の拳が目の前に現れた。精神が高まっているせいか、その拳はひどくゆっくりと俺に向かって飛んでくる。何とか交わそうと、上体を揺らすが力が思うように入らない。


 魔王の拳が、俺の額にあたった。乾いたパンという音に、限界を迎えた肉体と精神が同じくはじけ飛んだ。俺は、前のめりにゆっくりと崩れおちた。


 ミノタウロスが駆け寄ってきて、高らかに腕をあげカウントをはじめる。


「1、2、3……」


 あぁ、遊び人。やっぱりキミのお父さんは化け物のように強い男だ。長年の旅で身に着けた、如何なる耐性をもってしても奴の拳を耐えきることがついぞできなかった。

 
 声がきこえる。だが、その優しい声は猛々しい男たちの声援にかき消されてしまう。


4、5、6……


「ゆ……ひざ……ら!」


 ああ、気持ちいい。自身が不眠症であることが信じられないくらい、今日は安らかに眠れそうだ……。


「ひざま……らし…あげ……!」


 誰だ? それになんだ? 人の睡眠を邪魔するのは……。


7、8、9……


「魔王に勝ったら、今度は私が膝枕してあげるっていってるの!」


 俺の体は、まるで羽が生えたかのよう軽くなる。気づけば、俺は既に立ち上がっていた。

288 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/08 22:33:03.37 ABaWR+nR0 208/214



 ミノタウロスが、俺の顔を覗き込んでくる。


「やれるが?」


 俺は、目だけで肯定を伝える。


「よじ、やれ! ふぁいっ!」


 魔王が驚いた表情で俺の姿を見ている。なぜ、立ちあがれる。もう、お前は倒れたではないか。そういいたげな顔だ。


「もうっ、貴様の負けだっ……!認めろっ勇者ぁっ!」


 魔王の表情に再び恐怖が浮かび上がる。そうだ、お前は俺を恐れていたのだ。腕を斬りおとされ、徹底してその姿を地下へとくらましたのは、何より勇者が怖かったからだ。恐れは、剣を鈍らせる。お前は、このリングに立った時点でもう負けていたんだよ。


 俺の拳が、既にヘロヘロで、虫すら殺せない威力であったが、それは確かに魔王の頬へとたどり着いた。魔王の目からは、光が消え、そのまま仰向けに倒れこむ。


 ミノタウロスが、魔王へと駆け寄り。声をかける。そして、何かを悟ったかのように立ち上がり両手をクロスさせた。
 その瞬間、地鳴りのような大歓声が倉庫に響き渡った。後の世に、その声は遥か王城まで届いたと言われるほどの大歓声が、人も魔物も分け隔てなく勇者の勝利を称えた。

289 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/08 22:33:30.82 ABaWR+nR0 209/214



 翌朝、目が覚める。傍らには、遊び人の頭が転がっていた。すやすやと気持ちよさそうに、寝息を立てている。
 周囲を見渡すと、倉庫の地べたに魔物も僧兵たちも入り混じれて雑魚寝している。倉庫の中には血や汗、そしてビールの混じり合った酷い匂いが立ち込めている。どうやら、勇者の祝勝会と魔王の残念会が同時に、そして盛大に行われたらしい。


 ひどい頭痛に、思わず頭をおさえ唸り声をあげる。


「起きたか……勇者」


 大樽に寄りかかった魔王が、声をかけてくる。その腫れあがった顔が、昨日の激戦を思い起こさせる。だが、その程度気にもとめないばかりに、魔王の右手にはビールジョッキが握られていた。


「娘を襲った変態に負けるとはな……我は父親失格だ」


「お義父さん……」


 「お義父さん言うな」魔王はそういって、俺に手招きする。
 痛む身体を引きずるように、魔王へと近寄ると彼は俺にビール瓶を寄越してきた。


「グラスはないから、悪いが貴様は瓶だ。……乾杯といこうじゃないか」


「完敗? 俺の勝ちってことでいいんだな?」


 俺の軽口に、魔王はフッと笑って「どっちでもいいさ」と呟いた。
 俺は、魔王の隣に腰を下ろし瓶を受け取る。


「乾杯」


 今となっては、どちらが発声したのかはわからない。だが、俺たちは長年の因縁を乗り越え初めての乾杯を交わした。


 男たちの汚い寝息の中で、ぶつかりあったジョッキとビール瓶がカチンと乾いた音を響かせた。
 そして俺は、その日久方ぶりの酷い二日酔いに悩まさることとなった。

――――――

 ラストオーダー
 最後の一杯  勇者根性スピリッツ

 おわり

――――――

290 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/08 22:33:57.76 ABaWR+nR0 210/214

――――――

エピローグ

――――――

291 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/08 22:34:24.74 ABaWR+nR0 211/214


 目の前に置かれた逆三角形のグラスには、赤い液体で満たされ、更にその中にはチェリーがプカプカと浮かんでいる。


「マンハッタンでございます」


 マスターに、「ありがとう」と感謝の意を伝え、グラスに口をつける。


「ねえ、私の話きいてた?」


 白と黒のチェック柄のワンピースに、赤いマフラーをまとった、金髪の美少女が不満げに話しかけてくる。


「ごめん、聞いてなかった。なんだって?」


「もう!」


 彼女は、プリプリと頬を膨らませて見せる。


「まぁまぁ、ほらこっちもできたよ」


 マスターが、彼女の前に俺の物と委細同じカクテルを届ける。彼女は、打って変わって嬉しそうな表情をうかべ、それを一気に飲み干した。


「だからさ、教会と魔王軍が手を組んで酒造業界一丸となって禁酒法と戦う道筋はできたんだし。私たちも時間が空いたわけじゃん」

292 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/08 22:34:51.71 ABaWR+nR0 212/214


「ん」


「だからさ、また旅に出ようよって話をしてるの」


「旅だって?なんだって今更」


「だってパパは私たちのことを認めてくれたけど、勇者はまだママに会ってないじゃん」


「ママ?」


「そ、いつだったか仕事命のパパに愛想つかして出て行っちゃって、今は行方不明なの。今度は、そのママに挨拶に行こうってこと」


「行方不明のママねえ。俺は構わないが……」


 どこからかカチカチカチカチと音が鳴っている。


 ふと、音の先を伺うとマスターの手元がそれであった。白いナフキンを持ち、いつものようにグラスを磨くマスターの手は明らかに震え、その爪の先がグラスへと叩きつけられていたのだ。マスターを見上げると、その表情こそ変わらないが血の気が引き真っ青となっている。

 あのマスターが……まさか怯えているのか!?


 俺は、あわてて彼女を振り返る。


「ママは、パパより強いし頑固だから覚悟しててね勇者」


「ふん、望むところさ」


 どうにか精いっぱいの強がりを見せてみるが、どうにも酒は俺の心を丸裸にするらしい。
 マスターの手元と同様に、俺の強がった台詞は恐怖に駆られ酷く震えたものだった。

293 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/08 22:35:19.43 ABaWR+nR0 213/214



――――――

遊び人♀「おい勇者、どこ触ってんだ///」 

おわり

――――――

294 : ◆CItYBDS.l2 - 2019/06/08 22:41:33.30 ABaWR+nR0 214/214

長らくお付き合いいただき有難うございました。
変なところがあれば指摘してもらえると助かります。頂いたご指摘は、小説家になろうに投降している同作品の方で修正していきます。

酔いどれ勇者は、今日も千鳥足で魔王を追っています!
https://ncode.syosetu.com/n4689et/

どうぞこちらのほうにも、感想評価をよろしくお願いします。
重ね重ね、ありがとうございました。

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