夕方頃降り始めた雨は、日付が変わっても静かに街を濡らしている。
霧雨なのか、コーポの屋根を叩く雨音は聞こえないけれど、
水を踏むタイヤの音で降り続いていることが分かる。
「……雨、止まないね」
右耳のすぐ近くで、少し寝ぼけた声がした。
「起きてたの?」
「んー、なんか目が覚めちゃった」
唯は寝返りを打つようにもぞもぞと体ごと私のほうを向いて、
開ききっていない目で薄く笑う。
「明日も雨かなあ」
「予報通りだと、今より雨脚が強くなるみたいね」
そう応えると、唯は、えぇーと不満げに唇を尖らせた。
「おとといまでは晴れの予報だったのに」
「この時期の天気は変わりやすいからね」
「一週間かけて練りに練った計画が台無しだよ……」
「部屋で過ごせばいいじゃない、昨日借りたDVDもあるし」
「やだよ、久々に和ちゃんとデートできると思ったのに」
はぁ、と唯が溜息を吐く。
「私は好きだけどね、部屋でのんびりするの」
「……」
私の返事が気に入らなかったのか、唯はわざとらしく眉を寄せて
チミは乙女心というものが分かっていないよ真鍋君、と低い声を作った。
「誰よあんた」
「もぉ、和ちゃんのいけずぅ」
今度は甘えた声を出して、唯が抱きついてきた。
右耳に暖かい吐息がかすめて少しくすぐったい。
首だけ捻った姿勢に疲れて、右耳を下にして唯と向かい合う。
思ったよりも唯の顔が近い。
鼻先が少し触れて、唯がくすくすと笑う。
布団の中で唯の右手が私の左手を探り当て、軽く指を絡める。
「……まあホントのところ、雨も嫌いじゃないんだけど」
唯はそこで一旦言葉を切ると、少しいたずらな笑顔を見せた。
「雨の日って、和ちゃんがちょっとだけ甘えん坊になるから」
ね?とでも言いたげに楽しそうな目で見ている唯への返事の代わりに、
私は絡めた指にほんの少し力を込めた。
…………
「そういうわけだから、和ちゃん、今夜もうちに泊まりましょうね」
そう言ってにっこり笑った唯ちゃんのお母さんに黙って頷く。
今夜のお着替えはもううちのお父さんから受け取っているみたいで、
唯ちゃんのお母さんの手には見慣れた手提げ袋が揺れていた。
3日前から、唯ちゃんの家にお泊まりしている。
赤ちゃんを産む準備でお母さんが病院に泊まっているので、
唯ちゃんの家で私をあずかってくれることになったから。
ほんとうは1日だけお泊まりする予定だったのに
病院の先生が言っていた予定日を過ぎてもまだ産まれてこないみたいで、
私はこの3日間、唯ちゃんの家から小学校に通っている。
おうちにお父さんがいるから大丈夫だよって言ったら、
唯ちゃんのお母さんは、遠慮しなくていいのよと私の頭を撫でた。
この家の晩ご飯はすごくにぎやか。お母さんが見たらびっくりするかも。
唯ちゃんと、唯ちゃんのお父さんとお母さん、それから憂ちゃん。
私は唯ちゃんの隣が指定席。
「あっ、あめ!」
憂ちゃんが指さしたほうを、みんなが一斉に見る。
窓の外があっという間に濡れて、大きな雨の音が聞こえてきた。
「深夜から降るとは言ってたけど、予報より早かったな」
酔っぱらった唯ちゃんのお父さんが、少し大きな声で言う。
「3人とも、ご飯食べたらすぐお風呂入っちゃいなさい?」
唯ちゃんのお母さんがそう言うと、
唯ちゃんと憂ちゃんがハァイと元気よく返事した。
「ゆいちゃん、そんなにざぶざぶしてたらお湯なくなっちゃうよ」
体を洗っている憂ちゃんとお湯の掛け合いっこをしていた
唯ちゃんの腕を掴んで止める。
座って肩まであったお湯が、いつの間にか腰の高さまでしかなくなっている。
「あ……ほんとだ。ごめんねのどかちゃん」
唯ちゃんはえへへと笑って、湯船の上に付いているスイッチを押した。
ちょっと熱いお湯が足元から噴き出してきて、
直接当たらないように足の位置をずらす。
「うい、頭洗ってあげるからこっちおいで」
唯ちゃんがそう言うと憂ちゃんはコクリと頷いて、
お風呂の椅子を湯船のすぐ近くに移動させて座る。
唯ちゃんは湯船に入ったまま手を伸ばして、
ゆい&うい用、と大きく書かれたシャンプーと
水色のシャンプーハットを引き寄せた。
憂ちゃんの頭に、すぽんとシャンプーハットがかぶさる。
ウイチャンカッパだよ~と唄うように唯ちゃんが言って、
憂ちゃんが、ウイチャンカッパ~と繰り返す。
憂ちゃんはまだちょっとシャンプーが苦手みたい。
シャンプーハットをしていても、ぎゅっと目をつぶって我慢している。
唯ちゃんは憂ちゃんの髪の毛を洗ってあげながら、
お歌うたおうか、と言ってひとりで唄い始めた。
♪あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめでおむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン
あめあめ ふれふれ かあさんが……
このお歌、幼稚園で唯ちゃんと一緒に習った。
2番とかもあったと思うけど、唯ちゃんは1番をずっと繰り返している。
憂ちゃんはぎゅっと目をつぶったままだけど、
唯ちゃんの唄に合わせて少し体を揺らしている。
そっか、憂ちゃんのために唄ってたんだ。
少しだけ開けた窓の外で、まだザアザアと大きな雨の音が聞こえる。
その音に負けないように、私も唯ちゃんに合わせて唄う。
唯ちゃんはちょっとびっくりした顔で私を見て、
それからにっこりと笑って、ふたりで一緒に大きな声で唄った。
唯ちゃんの家に泊まっている間は
2段ベッドの上で唯ちゃんと一緒に寝ていたけど、
一緒に寝ると言って聞かない憂ちゃんのために
今夜は唯ちゃんのお母さんが3人分のお布団を床に敷いてくれた。
「明日の時間割、ちゃんと用意できてるわね?」
私と唯ちゃんのランドセルの中身を確認して、
唯ちゃんのお母さんが、はいオッケーと親指と人差し指で輪を作った。
「おしゃべりしないで、早く寝るのよ?」
ハァイ、と3人揃って返事したら、
唯ちゃんのお母さんはにっこりと笑って
おやすみなさい、と部屋の電気をぱちんと消した。
ふ、と目が覚めた。
部屋は真っ暗で、何時なのか分からない。
雨の音はさっきより小さくなっているけど、降り止みそうにない。
じっと目をこらしていると、だんだん部屋の中が見えてきた。
右隣で気持ち良さそうに寝ている唯ちゃんの開いた口から、
ちょっとヨダレが垂れちゃってる。
唯ちゃんの向こう側にいる憂ちゃんは、
唯ちゃんの腕にしがみつくようにしてぐっすり眠っている。
天井に視線を戻して、雨の音を聞く。ふたりの寝息がそれに重なる。
お母さん元気かな。赤ちゃんはいつ産まれるのかな。
お風呂で唯ちゃんと一緒に唄ったお歌を思い出す。
声に出すと唯ちゃんたちが起きてしまうので、
掛布団をぽんぽんと叩いて頭の中で唄ってるふりをする。
♪あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめでおむかい うれしいな……
……自分で気が付いた時には、もう涙が止まらなくなっていた。
それどころか喉の奥まで苦しくなって、
しゃっくりするみたいに勝手に声が出る。
「ん……、ん? のどかちゃん? ど、どうしたの?」
「うっ、ふぇっ……ゆいちゃ……ごめっ……」
唯ちゃんを起こしちゃった。
おろおろしている唯ちゃんにごめんと言おうとしたのに、上手く喋れない。
「のどかちゃん、どっか痛い?」
「……ちがっ……、」
「待ってて、おかあさん呼んでくるね!」
唯ちゃんは勢いよく起き上がって、部屋を飛び出していった。
その拍子に憂ちゃんまで目を覚まして、
私を見た途端びっくりした表情のまま固まってしまった。
ばたばたと廊下から足音が聞こえてきた。
唯ちゃんのお母さんが部屋までやってきて、
泣いている私を見るとすぐに起こして抱きしめてくれた。
「和ちゃん、大丈夫。大丈夫よ」
唯ちゃんのお母さんは唄うように言いながら、背中をぽんぽんと叩く。
ふいに左手があったかくなって顔を向けたら、
心配そうな顔をした唯ちゃんが私の手をぎゅっと握っていた。
「のどかちゃん、おなかいたいの?」
顔を向けたほうとは反対側から、憂ちゃんの声が聞こえた。
和ちゃん、お母さんに逢いたくてちょっと寂しくなっちゃったのね、と
唯ちゃんのお母さんがやさしい声で応える。
背中側から憂ちゃんに抱きつかれた。
私よりも小さな手が、お腹の前でぎゅっと組まれる。
「のどかちゃん、だいじょーぶ、だいじょーぶ」
唯ちゃんのお母さんの真似をして、憂ちゃんがそう繰り返す。
唯ちゃんも私の手をぎゅっと握ったまま、
そうだよだいじょーぶだよのどかちゃん、と笑った。
「……なんだか3姉妹のお母さんになった気分だわ」
唯ちゃんのお母さんは少し笑いながらそう言って、
私が泣き止むまで、優しく頭を撫でてくれた。
…………
「ねえ和ちゃん、いま何思い出してた?」
唯に覗き込まれるように訊かれて、別に、と返す。
「嘘だぁ。あの夜のこと、でしょ?」
「……」
「図星?」
軽く睨んだのは逆効果だったようで、唯は目を細めてくすくすと笑う。
「びっくりしたよ、起きたら和ちゃんが号泣してるんだもん」
「もう、忘れなさいよ」
「やーだよ」
ぺろりと舌を出した唯に、小さく溜息を落とす。
「……まあ、でも」
「うん?」
「唯のおかげで、ちゃんとお姉ちゃんになれた気がするのよね」
そう言って口角を上げてみせると、唯は不思議そうな顔をした。
「正直言うとね、きょうだいなんか要らないって思ってたの」
よっぽど寂しかったのね私、と苦笑いする。
何も言わず微笑んだ唯が、あの日の唯のお母さんの笑顔と重なる。
「だけど唯と憂を見てたら、きょうだいっていいなって」
「そっか」
「ありがとうね、唯」
「えへへ……、なんか照れますなあ」
照れ隠しのつもりなのか、唯が足をもぞもぞと動かす。
静かな室内に、かすかに布擦れの音が響く。
気付けば、窓の外から雨音が聞こえていた。
風も出てきたようで、時折窓がカタカタと音を立てる。
「明日はやっぱり、雨脚強くなりそうね」
「そうだねえ」
「どうする?屋内で遊べるようなところ調べる?」
そう訊ねると唯はウーンと唸って、まいいや、と表情を崩した。
「明日は部屋でゆっくりしよう?一緒にご飯とか作って、DVD観て」
「唯はそれでいいの?」
デートプランは次逢える時にまたね、と唯は応えて、
あそうだ、と何かを思いついた様子で目を輝かせた。
「ねえ和ちゃん」
「なあに?」
「明日は一日私をお姉ちゃんだと思って、甘えなさい!」
「うん、無理」
「即答?!」
ガビーンと自分で声に出して、唯が大袈裟にショックを受けた顔をする。
折角甘えさせてあげるって言ってるのに、と拗ねた唯に少し笑う。
「お姉ちゃんなんかになってくれなくてもいいのよ」
あんたはあんたなんだから。
そう言った私に唯はちょっと眉を上げて、それから穏やかに微笑んだ。
絡めたままの指に少し力が入って、唯が枕から頭を浮かせる。
額に唯の柔らかな唇が触れて、続いて鼻先にも落ちてくる。
最後に目を閉じて、唇で受け止めた。
「……ふぁ……眠くなってきちゃった」
ぽふん、と枕に頭を落として、唯が小さく欠伸をする。
「ねえ、和ちゃん」
「んー?」
「私が寝るまで、歌うたって?」
「……さっきまで人に甘えろって言っといて」
わざと大きめの溜息を吐いて呆れ顔を向けたら、
唯は今にも閉じてしまいそうな目でふにゃりと笑った。
互いの指を外して仰向けになると、
唯は私の右腕に両手を絡めて右肩に頬を寄せた。
シャツ越しに唯の体温が伝わってくる。
とんとん、と左手で掛布団を軽く叩いて、小さな声で唄う。
すぐにふわぁと欠伸が出て、歌が途切れる。
最初は一緒にハミングしていた唯も
気持ち良さそうに寝息を立てている。
いつもながら、寝付きの良さが羨ましい。
そろそろ私も眠くなってきた。雨音は心地よく響いている。
裸眼でぼんやりとしか見えない天井を一度眺めて、ちょっと笑う。
明日のお昼ご飯は何を作ろうかなと思いながら、
まどろみに身を任せて静かに目を閉じた。
おしまい