勇者「休暇?」女神「異世界転生しすぎです、勇者さま」【前編】
ある存在が、昔いたらしい。
昔、なんて言葉を使うのが正しいのかは、わからないけれど。
時間なんて概念に縛られているわけでもないし。
けどまぁ、昔って言うのが一番イメージにあてはまるだろうから、そういうことにする。
その存在はある日、世界を作ることにしたそうだ。
どうしてなのかは、自分にもわからない。
そもそもその存在に、理由があったのかどうかも怪しい。
ただ、世界を作った。
後にその存在は、『 』と呼ばれることとなった。
――
――――
コケコッコー
少女「うーん……。まだ早い……ってあれ?」
少年「すぅー、すぅー……」
少女「まだ寝てる。今日は私の方が早起きだね」クスッ
少女「昨日あんなに泣いたもんね。疲れちゃったんだ」
少女「……もう少しだけ、寝かせてあげよ」
少女「少しだけ、だけどね。いつものお返ししなきゃ」クスッ
チクタクチクタク
少女「……そろそろいいかな」
少女「すぅー……」
少女「こらー! 起きなさーい!!」バッ
少年「はっ!? うぉ、おおおおおおっ!?!?」
少年「なんで俺布団にぐるぐる巻きになってるんだ!?」
少女「ふふふ……」
少年「お、おま……っ!」
少女「このまま転がしていくよ!」グッ
少年「ちょ、ちょっと待……!」
少女「おりゃーー!!」ゴロゴロゴロ
少年「だ、段差がっ! うがっ!?」
少女「まだまだーー!!」
少年「ストーップ!! ストッぐはぁっ!! 前、かべ……っ!!」
少女「えっ?」
バコンッ!
少年「いたぁっ!?!?」
少女「あ、ごめん」
少年「おふ……。一体何のつもりだよ……」
少女「いやー、あはは……。頭打てば記憶も戻るかなって」
少年「逆に飛びそうな勢いだったぞ……」
祖母「あらあら、朝から賑やかねぇ」
少女「あ、おはよー」
少年「おはようございま……」
――シャラン
――いつもそのビー玉持ってるね。
――い、いいだろ別に。俺のお守りなんだ。
――ビー玉がお守りって……。
少年(な、何だ、今の……?)
少年(妙な、違和感……?)
祖母「どうした? わたしの顔に何かついてるかい?」
少年「あ、いえ。ちょっとぼーっとしてて」
祖母「? そうかい。ほら、もう朝ごはんの用意出来るからねぇ」
少女「はーい!」
少年「ありがとうございます」ペコリ
――
――――
少年(それからまた数日が経った)
ミーンミーン
少女「暑いね……」
少年「まぁ、あと少しの辛抱だ」
少年(今日は近くの川に行くことになった。おばあちゃんが水が綺麗だと教えてくれて、少女の思い立ったら即行動という迅速さにより、今に至る)
少年(夏の日差しは今日も自分たちをかんかんに照らす。きっとこの数週間で相当肌が焼けているだろう)
少女「や、山だ……」
少年「そんなに大したことないだろ。これくらいなら」
少年(最初に祠を探しに行った時のに比べて、傾斜は緩やかだし、道も整備されている)
少年(ふと、最初の頃が遠い昔のことのように思えた)
少女「あ、でもこの音……」
少年「水の音だから、近いんだろう」
少女「よし、行こう! ほら、早く!」
少年「その変わり身の早さにも、もう驚かなくなってきたよ」
少女「着いたー!」
少年「まぁ、普通の川だな」
少女「あら、夢のないこと」
少年「何か夢を感じるものがあるのか?」
少女「ひゃー、冷たい!」
少年「聞いてないし」
少女「この辺の石、全部まん丸だねー」
少年「そうだな……ん、この辺りがいいか」
少女「ん? 何をするの?」
少年「こういうところに来たらする事は一つ」
少女「?」
少年「水切りだ」
少女「へ?」
少年「そら!」
ビュッ、ポン、ポン、ポンッ
少女「すごい、石が水の上を跳ねて……!」
少年「知らなかったのか?」
少女「ううん、話には聞いてたけど。でも、見るのは初めて……!」
少女「私もやってみよ。ほっ!」
ポチャンッ
少年(彼女の放った石は、一度も飛び跳ねることなく、不格好な水しぶきをあげて沈んでいった)
少女「なんで!?」
少年「ぷっ!」
少女「あ、笑ったでしょ! むぅー、もう一回!」
ドボンッ!
少年「ぷっ、くくっ!」
少女「あーーーもう!!!」
少女「こうなったら……、とりゃあ!」バシャッ!
少年「うぉっ! またかよ! ってか冷たっ!?」
少女「うるさーい! ずぶ濡れになれぇっ!!」バシャバシャアッ!
少年「なら、こっちも仕返しだ!」バシャーンッ!
少女「きゃっ!? 冷たい!!」
少年「海と違って若干涼しいからな! さぞ冷たかろう!」
少女「それにずるいよ! そっちの水の勢い強すぎ!」
少年「パワーこそ正義である」
少女「何を! パワーなら私だって……」グッ
ツルッ
少女「うわ? わわわ……!!」
少年(その瞬間、彼女の体が急に傾いた)
少年(次の瞬間には、俺の手は伸びていた)
少年「危ない!!」ダッ
ガッ!
少女「……あれ?」
少年「ふぅ、セーフ……」
少年(どうにか彼女の腕を掴み取れたおかげで、転ばずに済んだ)
少年(ほっと胸を撫でおろす)
少女「あ、ありがと……」
少年「足下滑るしな。気をつけろよ」
少女「うん……」
少女「…………」
少年「?」
少女「…………」
少年「どうした? 顔、赤いけど」
少女「え? あ、えーと……」
少年(彼女の視線が下がる。それを追っていくと彼女の細い腕へと続き、途中でゴツゴツとした手が見えた)
少年「わっ!?」パッ
少女「あっ……」
少年(ずっと腕を握りっぱなしになっていることに気づかなった。顔が一気に熱くなるのを感じる)
少年「ご、ごめん……!」アタフタ
少年「ってうわ!?」ツルッ
少女「あ……」
バシャーンッ!
少年(なんで俺が転んでるんだか……。マヌケ過ぎる)
ブクブク…
少年(でも、水の中って冷たくて、なんだか気持ちいいな)
――シャラン
少年「……?」
少年「ぷはぁっ!」
少女「だ、大丈夫!?」
少年「あ、ああ……」
少年(また、あの音……。この前と同じ感覚……)
少年(胸が綿で締め付けられているような感じだ)
少年(辺りをグルっと見渡す)
少女「どうしたの?」
少年「なんだろう……。よくわからないけど」
少年「この場所に来たことがある気がするんだ」
少女「……もしかして、今頭でも打ったの?」
少年「いや、打ってないけど」
少女「そういうの、何て言うんだっけ。あ、デジャヴだ」
少年「ああ、あるな。そんな言葉」
少女「でもあれって、実際に見たことがあるのを忘れてるだけとか、勘違いが原因らしいよ」
少年「詳しいな」
少女「なんかのテレビでそう言ってた」
少年「ふむ……」
少年(来たことがある……わけがない。この世界に来てからは、この辺りには一度も足を運んでいない)
少年「だとしたら勘違い、かな」
少年「いろんな世界を飛び回ってきたし、似たような場所があったのかもしれない」
少年(口とは裏腹に頭の中は未だ混乱が抜けない)
少女「あっ!」
少年「ん?」
少女「あっちの方行ってみようよ!」
少年(そう指差す方には流木がいくつも流れ着いて、軽く山になっていた。巨大な石がせき止めているからだろう)
少年「ああ」
少女「おいしょ、おいしょ。流れが急で、歩きづらい……!」
少年「また転ぶなよ」
少女「転んだのはあなたの方でしょ?」クスッ
少年「俺が助けなきゃ君だって……、っ!」
――シャラン
少年「また……!」
少女「頭、痛いの?」
少年「デジャヴなんかじゃない……」
少女「えっ?」
少年(俺は、確かに、ここに来たことがある……)
少年(しかもつい昨日今日の話じゃない。もっと、もっとずっと前に……!)
少女「どうしたの、急に……」
少年「ごめん……っ。ちょっと岸に戻って休ませてくれ……っ」
少女「全然いいけど。肩貸した方がいい?」
少年「あ、ああ……。助かる」
――
――――
少女『じゃあ次はここから!』
少年『えー!? 高すぎるよ!!』
少女『怖いのー?』
少年『む! こ、怖くなんかない!』
少女『よし! じゃあお先にー』ピョンッ
ジャボーン
少年『ひっ……』
少女『ぱぁっ! はい、次はあなたよ!』
少年『くっ、むぅ……』プルプル
少年『落ち着け、落ち着け……』
無意識にポケットにいつも入れているビー玉を握りしめる。
ウゥーー…、ウウウウゥゥゥゥーーーーンン…
少年『あれ? 何の音?』
少女『ま、まさか……!?』
少女『行くよ!』
少年『えっ? ど、どこに……?』
少女『いいから!』
少年『う、うん……』
――――
少年「はぁ……っ、はぁ……っ」
少年(この場所だ。この場所だった……)
少年(それに……)
少女「な、なに? そんなにじっと見て……」
少年「……違う」
少女「何が?」
少年(よく似ていた……。けど、違う)
少女「どうする? 帰って休む? ちょっとお昼には早いけど」
少年「申し訳ない……」
少女「全然大丈夫だって! 気にしないで!」
少年「ありがとう……」
少女「じゃあ……」
少年「あのさ」
少女「ん?」
少年「こっちの方からでもいいか?」
少女「行きと違う方だけど、迷わない?」
少年「大丈夫……だと思う」
少年(頭の中に景色が浮かんでくる。通っていないはずの道の行く先が、ぼんやりと見える)
少年(こっちへ行けと言われているような気がした)
少年(もしかしたらこれは……)
――
――――
少女『なに……これ……』
目の前に広がるのは、ただ一面に一帯を覆い尽くす火。
家が立ち並んでいるはずのその場所は、真っ赤な炎に埋め尽くされていた。
少女『お父さん! お母さん!!』ダッ
少年『だ、ダメだ! そっちに行っちゃ……!』
少女『いや、いやぁっ、いやぁあああっっ!!!!』
半狂乱の彼女を必死で食い止める。
普段の自信たっぷりの性格とは正反対の彼女の様子が、逆に自分を冷静にさせた。
少年『くっ!』
少女『離してっ!! だって、こんなの……っ!!』
少年『今は逃げないと! このままだと二人とも!!』
今は、自分がしっかりしないと。
そう、思ったんだ。
お守り代わりのビー玉を、もう一度しっかりと握りしめた。
少年『……はっ』
少年『あ……』
よく見知った形だった。
その色と、何かが焼け焦げた臭いが漂ってくること以外は。
少年『あ、あああ……っ!』
考えてはいけないと思った。
それ以上先を。
少年『うわぁぁぁぁぁああああああああああっっっ!!!』
だから、叫んだんだ。
頭を狂わせようとしてくる感情を、外に放出するために。
そうしなければ、そのまま辺りを取り囲む炎によって焼け死んでいたからだ。
少年『はぁ……っ、くっ、あっちへ、逃げよう……!』
少女『嫌だぁ!! 嫌だよぉっ!!!』
少女『どうして、どうしてっ!?』
少女『ここには……! 何もなかったのに……!!』
――
――――
少年(断続的に脳内に知らないはずの映像は現れ続けて、その間俺の頭痛が止むことはなかった)
少年(しかし家に着く頃にはもう脳を締め付けるような痛みはなくなっていて、午後からはまた彼女と外へ出歩けた)
少年(午前のことをずっと気にしているようだったが、俺が強引に連れ出したといった格好だった)
少年(そこから先のことは、いつも通り。夕方になったら家に帰り、夕飯を食べて眠るだけ)
少年(夕飯に出されたカレーを食べた時、一瞬頭痛に襲われたが、想定の範囲内だったから顔には出さなかった)
少年(……と思う。気づかれてなかったと思いたい。これ以上余計な心配をかけるのは、なんとも心苦しい)
リーンリーン
少年(虫の声が窓の外から聞こえてくる)
少年(この音を子守唄代わりにして、ここで眠るようになってもう何度になるだろう。もうこの音が耳に入ると自然とあくびが出てくる)
少年(しかし、今日は眠るわけにはいかない)
少女「すぅー、すぅー……」
少年「……寝たな」
ガララー
スッ
少年「……脱出成功」
少年「さて、行くか」
少年(どうしても彼女には気づかれずに行動したかった。そのためには、夜しかない)
少年(窓のすぐそばに設置されている倉庫に感謝しながら、真っ暗な道を歩く)
少年(向かう先は、あの祠だ)
――――
少年「ふぅ、着いた……」
少年(暗闇に包まれた山の中は、ともすれば迷いかねなかったが、さすがにこの程度で遭難していては勇者は務まらない)
少年「女神様」
少年(一応そう呼びかけてみる。だが、返事はない)
少年(きっと今もまだ、俺の転移のための準備をしているのだろう)
少年「…………」
少年(その物体に手を触れる)
――シャラン
少年「くっ……」
少年(予想通り、あの音が鈍い痛みとともに脳内で響き渡る)
少年「……やはりだ」
少年(それと同時に、また知らない光景が頭の中に次々と浮かんでくる)
少年「……そうか、そういうことだったのか」
少年「だから、俺は……」
――――
少年「ただいまー……」ソー
少年「…………」テクテク
少年「……ただいま」
祖母「くぅ……、くぅ……。むにゃむにゃ……」
少年(おばあちゃんは眠っていた。だから、ここに来たのだが)
少年(起きていたら、謝ることができない)
少年(だって、そうだろう?)
少年(ずっと前に死んだはずの人間が、今更こんな姿で目の前に現れたって、困らせてしまうだけだ)
祖母「くぅ……、くぅ……」
少年「……ごめんな」
少年「約束、守れなくて」
少年「そのせいで、きっとたくさん悲しませたよな」
少年「本当に、ごめん……」
――
――――
少年『ここまで来れば、さすがに……』
俺たちは火のない山の中に逃げ込んだ。
そこなら、きっと攻撃されないと思ったからだ。
少女『ひっぐ、ひっぐ、うぇえ……』
少年『……大丈夫?』
少女『大丈夫なように、ひっぐ……、見える……?』
少年『……ごめん』
少女『みんな……』
少年『…………』
少女『みんな、死んじゃった……』
少年『それはまだ、わからない。もしかしたら自分たちみたいに……』
少女『そういうことじゃないよ……っ!』
少女『お父さんも、お母さんも……っ! もう……!』
ポロポロと涙をこぼす彼女の傍らに、小さな祠が見えた。
この世に神様なんていない。
いるのなら、どうしてこんな目に自分たちを遭わせるのだろうか。
少女『ぐす……っ、ひっぐ……』
少年『……クソッ』
憤りからその祠を蹴るも、ただつま先を痛めただけだった。
少女『……ねぇ』
少年『なに?』
少女『お願い……。お願いだから……』
少年『うん』
少女『私から、離れないで……。君だけは、突然いなくなったりしないで……』
少女『もう、いなくなっちゃうの、耐えられないよ……っ!』
少年『……ああ、約束する』
少女『約束、だよ……?』
――――
祖母「……いいよ」
少年「えっ?」
祖母「んー……、くぅ……」
少年「寝言……?」
祖母「あなたが……、守ってくれたから……」
少年「……うん」
祖母「だから……、いいよ……」
祖母「くぅ……、くぅ……。……ありがとうね」
少年「うん……、うん……っ」
コケコッコー
少女「ほら、朝だよー!」
少年「ん……、あと五分……」
少女「なにダメ人間みたいなこと言ってるの」
少女「……よし、仕返しできた」グッ
少年「すぅー、すぅー……」
少女「って、二度寝しないの!」
少女「また布団に巻かれたいの?」
少年「それだけは勘弁!」ガバッ
少女「おばあちゃんおはよー」
少年「おはよう、……ございます」
祖母「おはよう。朝ごはん準備できてるよ」
少女「わーい! ごはんごはんー!」
少年「本当に君は……」
祖母「…………」ニコニコ
少年「? な、なんですか?」
祖母「ううん、なんでもないわよ。ふんふーん♪」ニコッ
少女「あれ、機嫌いいね。良いことでもあったの?」
祖母「んー、ちょっとね」
少女「えー、何それー。気になるー」
祖母「大したことじゃないわよ。……でも」
少女「?」
祖母「……いい夢だったわねぇ」
少年(ぼそりとつぶやいた)
少年(何かを懐かしむように、でもそこには微塵の悲しさは含まれていないように見える)
少女「夢かぁ。確かにいい夢見ると、朝の起きた時も気持ちいいよね~」
祖母「ええ。そうねぇ」
少年(そう、やわらかな笑みを浮かべる。まるで、あたたかな日だまりのようだった)
――
――――
誰かの泣き叫ぶ声が、今も聞こえる。
醜く歪んだ表情が、目に焼き付いて離れない。
だから、私は祈る。
そうすることしか私にはできないから。
自分の中で大きな塊が外へ出ようと暴れまわる。
体の中をグチャグチャにかき回されるような痛みが永遠に続く。
それでも、私は祈る。祈り続ける。
だって、教えてくれた人がいるから。
どんな時だって、きっと道はあると。
そう、私に教えてくれた。
だから、お願い。
早く、みんなを助けて。
早く、私を、見つけて。
――
――――
チリーン
少年「ふぅ……。今日は風が出てきて涼しいな」
祖母「あら、一人?」
少年「ええ。散歩したいとか言って、さっき出ていきましたよ」
祖母「珍しいねぇ」
少年「そうでも……。いや、確かに」
少年(よく考えてみたら、ほとんどこの夏はずっと一緒に過ごしている。こうやって昼間に一人でいるのは久しぶりだ)
祖母「ふふっ。いつも一緒なことが気にならないくらいなんて。仲が良いわねぇ」
少年「そうですね。本当にいいやつですし」
祖母「あっ、そうだ」
少年「?」
祖母「これ」
少年(おばあちゃんがそう言って懐から何かを取り出す。手のひらに収まるくらい小さなものだ)
祖母「もらってくれないかしら。お守りみたいなものなんだけどねぇ」
少年「……!」
少年(その形には、見覚えがあった。つい最近思い出したばかりの記憶の中の……)
少年「これは……ビー玉?」
祖母「昔ね、すごく仲が良い友達がいたの。まるであの子にとってのあなたのような」
少年「はぁ……」
祖母「その子がずっとこれを大切に持ってて。でも、その子は……」
少年(そこで口を閉ざして、どこか懐かしむような、あるいは寂しそうな表情を浮かべた)
少年「そんな形見のようなものを、どうして俺に……?」
祖母「どこか、その子があなたに似ていると思ったの」
祖母「前に、ここに来たことがあるか聞いたことがあったの、覚えてるかしら?」
少年「はい」
祖母「もしかしたらあの子はどこかで生きていて、そのお子さん、ううん、お孫さんだと思ったの」
少年「……すいません」
祖母「別に謝ることじゃないからね。……まぁだからあなたにこれを渡したくて」
少年「……大事にします」
少年(おばあちゃんから小さなお守りを受け取る。もう何十年も前の代物だから表面にはいくつも小さな傷があるが、光に当てるとキラキラと中で反射して煌めいた)
祖母「ありがとう……」
少年「どうして、あなたがお礼を?」
祖母「どうしてだろうねぇ。ただ、言いたくなったんよ」
少年「…………」
少年「……こっちこそ、ありがとう」
少年「あ、ならこれ……」
祖母「?」
――――
ジジジジジジ…
少女「…………」
少年(自分も散歩に出かけようかと思い玄関を出ると、彼女が庭先で木にもたれかかっているのに気づいた)
少年「どうしたんだ? ボーッとして」
少女「うーん……。なんかね、寂しくて」
少女「もう、夏休みも終わっちゃうなぁって」
少年「ああ、そう言えばもうそんな時期か」
少女「夏休みが終わっちゃったら、もうこうやってあなたとおしゃべりすることもないだなーって思って」
少年「言われてみたら確かにそうだ」
少年(正直、考えてなかった)
少年(なんとなく、これがずっと続くものだと思っていたけど、そんなわけがない)
少年「そっか……。もう、終わりか……」
少女「うん……」
少年(庭にいる蝉の声が喧しく響き渡る)
少年(なのに、それは数日前よりも少し弱まっているように感じられた)
少年(夏の終わりが、近づいてきている)
少女「……実はね」
少年「うん?」
少女「明後日なんだ、帰るの」
少年「……えっ?」
少女「ごめんね。なんだか、言いたくなくて」
少年「そ、そうなんだ……」
少年「てっきり、まだ八月は二週間くらいあるから、それまでいるんだとばかり……」
少女「親の仕事の都合で、元々ここにいるのはお盆が終わるくらいまでだったの」
少年「明後日、か」
少年(いきなり言われても、ピンとこない。明後日には、あと二回眠って起きたら、目の前にいる少女がいなくなってしまう)
少年(そうなったら、俺はまた魔王と戦う……? 実感がいまいち湧いてこない)
少年「このまま、時間が止まればいいのにな」
少年(無意識に、そんな声が漏れていた)
少女「……意外」
少年「何がだよ」
少女「あなたがそういうことを言うのが。その辺り、もう少しドライなんだと思ってた」
少年「……自分でも意外だと思うよ」
少女「自覚あったんだね」
少年(時間が止まる、か)
少年(そんな魔法があるって、いつだったか聞いたような気がする)
少年(でも、そんなものには今まで一度も出会ったことがない)
少年(きっと、噂話の類の域を出ない、眉唾物なのだろう)
少年(終わりは訪れる)
少年(彼女は明後日にはここを去り、俺は女神様の元へと戻り、また世界を救う旅に出ることになる)
少年(そう思うと、途端に焦りが胸の中を圧迫し始める)
少年「あ、そうだ!」
少女「?」
少年「明日、広場で祭りがあるんだってさ!」
少女「あー……」
少年「あ、あれ?」
少年(なんだ? 思ってた反応と違う……)
少女「お祭りって言っても、名前だけだよ。ここのは」
少年「名前だけ?」
少女「昔は盛り上がってたみたいだけど、最近はおじいちゃんとおばあちゃんが、ブルーシート広げてお酒を飲んでるだけ」
少女「お祭りらしさなんて、ほとんどないよ。何年か前に行って、すごくがっかりしたし」
少年「おぅ……」
少年(なんてこった……。喜ばせようと思った結果、逆にテンションが下がる結果に……)
??「お、いたいた」
少年「?」
農家「おーい!」
少年「あ、どうもっす」
農家「君たち、明日のお祭り来るかい?」
少年「あー……」
少年(思わず口ごもってしまう。何ともタイミングの悪い……)
少年「いや、その……」
農家「よかったら来てくれよ! 彼女も一緒に!」
少年「あの……」
農家「じゃ、オレはちょっとじゅ……じゃなくて、用事があるから!」タッ
少年「あ……」
少女「……あなたのコミュ力はどこに行ったの?」
少年「いや、あんな一方的に言われたらな……」
少女「あの、とか、その、しか言ってなかったじゃない」
少年「ぐぅ……」
少女「はぁ……。でもまぁ、仕方ないね」
少年「そう、だな……」
少年(おかしいな。普通祭りってもう少しワクワクするものじゃないのか?)
少年(まさか、こんなにも憂鬱になるとは……)
少年・少女「「はぁ……」」
少年(適当に顔を出して、すぐに帰ろう。酒を飲んでるなら、上手く抜けられそうだ)
――――
少年「……と、思っていたが」
ワイワイガヤガヤ
少女「あれ?」
少年「おい。なんか、話に聞いてたのと違うぞ」
少女「あれ? あれれれれ?」
少年「焼きそばとかあるぞ」
少年(普段何もない広場には、いくつか屋台が並んでいて、傍らの発電機がブツブツと駆動音を鳴らしている)
少年(そこから漂ってくるにおいは、空っぽの胃を絶えず刺激してくる)
少女「ど、どうして。去年までこんなの……」
農家「驚いたかい?」
少女「わぁっ!?」
少女「お、おじさん……」
農家「村の大人たちみんなで準備したんだよ」
少女「えっ……?」
農家「まぁ、昔のものを掘り出してきたのがほとんどなんだけどね」
少年「気づかなかった……」
農家「そりゃそうさ! なんてったってサプライズだからね」
少女「これを、私たちの、ために……?」
農家「ははは、まぁね。それに、他にも小学生が何人かいてね。いい機会だと思って」
少年「小学生……、あー」
少年(いつかのオオクワガタをあげた子供のことを思い出す)
農家B「そうだぜ、坊主ども」
農家C「こいつが唐突に『今年はちゃんとした祭りやろう』なんて言い出しやがって」
農家「お前ら! それは言わない約束だろ!」
農家B「なんでいなんでい。別に減るもんでもねぇんだし」
農家C「そうだよぉ。こういうのはむしろ言うのが、お約束ってやつだぜ?」
農家「もう飲んでやがるな?」
農家B「それもまたお約束ってやつよ」
少年「あはは! 仲、良いんですね」
農家「最早腐れ縁でな」
農家C「そうそう! 小坊の時からのダチよ」
農家B・C「「ハッハッハッハッ!」」
農家「酔っぱらいに付き合わせるのもアレだし、回ってきなよ」
少年「はい、ありがとうございます!」
少女「…………」
少年「どうした?」
少女「……ううん。ただ、嬉しくて」
少女「おじさん、ありがとうございます」
少女「焼きそば! こういうの食べてみたかったの!」
少年「俺も、食べるのは初めてだな」
少女「私も小さい頃に来たことあるみたいだけど、あんまり覚えてなくて」
少女「だから、二人とも全部初めてだね」
少年「ああ」
少女「あ! あっちはかき氷だって!」
少年「先に焼きそばを食べ終わった方がいいんじゃないか?」
少女「くぅーー!!」キィーン
少年「って、早!?」
少女「キンキンに冷えてやがる!」
少年「ビールじゃないだろ、それ」
少女「一口いる?」
少年「もらえるなら、まぁ……」
少女「はい、あーん」
少年「え」
少女「あーん」
少年「ほ、本当にやるのか?」
少女「いいから。一回やってみたいの!」
少年「む。そう言われると弱い……」
少女「早く、溶けちゃうから!」
少年「わ、わかったよ。あ、……あーん」
少女「どう?」
少年「んー。冷たいし、甘いし、これは――」
少女「そうじゃなくて」
少年「ん?」
少女「間接キス、だね」
少年「んぐぅっ!?」ゴクリ
少年「!」
少年「くぅーーーーー!!!!!」キィーン
少女「あはははは! 動揺しすぎだよ!」
少年「君が、突然変なこと言うからじゃないか……。まだ頭がキンキンする……」
少女「なんか顔赤いよ?」
少年「気のせいだ! バカ!」
??「あーーー!」
少年「ん?」
男の子「オオクワガタのお兄ちゃん!」
女の子「オオクワガタ?」
少年「大事にしてるか?」
男の子「うん! あれからもっと大きくなった!」
少年「そうかそうか」
女の子「オオクワガタって?」
男の子「この人すげーんだぜ? オオクワガタ見つけたんだよ! 普通全然見つかんないのに!」
男の子B「マジかよ! ずりー!」
女の子「へぇー。虫なんて捕まえて何が楽しいの?」
男の子「お前わかんねぇの!?」
男の子B「めっちゃカッコいいじゃん!!」
女の子「ガキ臭い」
男の子「ひでー!」
男の子B「まぁいいや! あっちで金魚すくい行こうぜ!」
女の子「金魚すくい!」
男の子「じゃあお兄ちゃんたちじゃあねー!」
少年「おー、頑張れよー」
少女「大人気だね」
少年「そりゃ昆虫は男のロマンだからな。ムシキ○グとか流行ったし」
少女「ムシキ○グ……?」
少年「……今、ちょっとジェネレーションギャップを感じたよ」
少女「うーん、一通り回っちゃったねー」
少年「回ったなぁ」
少女「どうする? もう一周しちゃう?」
少年「いや、ちょっとここで休もう。そのへん座って」
少女「……ふふっ」
少年「なんだよ」
少女「なんでもなーいよ」
少年「そうかい」
少女「はぁ……金魚一匹もすくえなかったな」
少年「あれ、結構難しいのな」
少女「ねー。紙すぐに破けちゃうし」
少年「隣でやってたおじさんが名人級に上手くてさ」
少女「そうそう! 一枚で何匹とってたかなぁ」
少年「本当に同じ紙なのか、あれは……」
少女「でも、楽しかったー」
少年「ああ」
少女「楽しかった、な」
少年「……ああ」
少年(祭りの喧騒が遥か遠くのように聞こえる)
少年(そんなに離れていないはずなのに、辺りがすごく静かだ)
少年(二人とも何も言わなかったけど、思っていることはなんとなくわかる)
少年(いつの間にか少し小さくなった夏の虫の声)
少年(ひんやりと冷気をはらみ始めた夜の風)
少年(いくつもの要素が俺たちに絶えず告げてきている)
少年(時間の流れというものの存在を)
少年(季節が移り変わることを)
少年(『今』が終わり続けていることを)
少年(その終着点は、すぐ近くにあることを)
少年「なぁ」
少女「なに?」
少年「いろいろありがとうな」
少女「どうしたの、急に」
少年「言っておきたくなったんだ」
少女「あはは、らしくないなぁ」
少年「茶化すなよ」
少女「そうだね、ごめん」
少年(彼女は遠くをぼんやりと見つめる)
少年(その横顔は、繊細な筆致で描かれた水彩画のように美しく、思わず見惚れてしまう)
少年(そして、なんだか気恥ずかしくなって、視線を外して彼女と同じ方を向く。そこにあるのは夜空だけ)
少年(数え切れないくらいに小さな光の粒が敷き詰められた、一面の黒)
少年(満天の星空に、自分たちが包み込まれたようだった)
少年「……俺さ」
少女「うん?」
少年「思い出したんだ。前に聞かれてたこと」
少女「それって……」
少年「どうして、俺が勇者になったか」
少年「どうして、魔王と戦おうと思ったか」
――
――――
少女『燃えちゃう……。全部、なくなっちゃう……』
自分たちが住んできた村が、どんどん焼けてなくなっていくのを、見ていることしかできずにいた。
少年『くっ……!』
自分の無力を呪う。
ここにいる女の子一人、もしもあの火がここに飛んできたら、守ることができない。
何もできない自分が、嫌で仕方なかった。
自分の身体の中が少しずつ熱を帯びていくのは、怒りのせいだと思った。
少女『私たち、これからどうなるのかな……』
少年『大丈夫だよ』
少女『そう、なのかな……。どうしてそんなこと言えるの?』
少年『どんなことがあっても、君だけは、俺が――』
その時だった。
耳をつんざくような爆音が、自分の後ろから轟いた。
少女『きゃあっ!?』
少年『うわっ!!』
一瞬で辺り一面が火の海となる。
頭上を見上げると、巨大な鉄の塊がその元凶なのだとわかった。
少年『クソ……っ!』
少女『ど、どうするの?』
少年『どうするって言ったって……!』
逃げ場はない。このままだと二人とも焼け死ぬのが目に見えていた。
神様でも何でもいい。自分たちを、せめて彼女だけでも救って欲しい。
そう叫んでいた。
少女『熱い……っ、死にたくない……っ!』
彼女が俺の服の裾を引っ張る。
どうにかしないと。
ただ焦燥感が頭の中を駆け回る。
上に逃げ場なんてないのに、また空を見上げた。
鉄塊は今もなおそこにあって、するとその時、また黒い塊が落ちてくるのが見えた。
少年『嘘だろ……?』
さっきのと同じものだと瞬時に理解した。
あれはいま自分たちがいる場所に落下してくる。
そうすればどうなるのか。
守らないと。
絶対に、彼女だけは……!
こんな火さえ、こんなものさえなければ……!
――――!
その時、何かが弾ける音が、自分の中で響き渡った。
――
――――
次に意識が覚醒した時、俺は宙に浮いていた。妙に身体が軽い、まるでなくなってしまったかのように。
??『気がつきましたか?』
声がした。
鈴を鳴らしたような、透き通っていて綺麗な声だった。
少年『あ、あれ……? 俺は……? てか落ち……っ、ない?』
??『よくあんな上級魔法を使えましたね。こんな魔力の薄い世界で、魔法の知識もゼロのあなたに』
少年『魔法……? えっ……?』
そこでようやく自分が気を失う寸前のことを思い出し、飛び上がった。
少年『あ、あの火は!? 俺は、彼女はどうなったんだ!?』
辺りを見渡すと、自分がついさっきいた山の少し上の方で浮いているのだとわかった。
少年『あれ……? 火は?』
??『覚えていないのですか? あなたが消したんですよ?』
少年『俺が……? どうやって……?』
??『無意識であれだけのことを……』
少年『?』
??『あなたは結界魔法を使って、爆弾と火を消してしまったのです』
??『その魔力の代償として、あなたの肉体は消滅してしまいましたが……』
少年『ちょ、ちょっと待って。何を言って……』
少女『どこに行ったの……ねぇ……っ!』
少年『!』
少年『おい! 俺はここだ! おーい!!』
少女『ねぇ……、ねぇってば……!』
少年『聞こえて……いない……?』
??『あなたの肉体は、もうありません。今のあなたは、魂だけの状態なのです』
少年『うるさい、あんたは黙ってろ!! おい! 俺はここにいるぞ!!』
少女『どうして……? どこにも行かないって約束したばかりなのに……!』
少年『違う、俺は――!』
??『現実を認めてください。あなたは死んだのです』
少年『……!』
??『あの子を守って、あなたは……』
少年『……嘘、だろ?』
??『事実です』
少年『どうにかなったりは、しないのか……?』
??『私には人を生き返らせることはできません。できることは、誰かの魂を転生させることと、ほんの少しの魔法だけ』
少年『転生……?』
??『あなたをこの世界に転生させることはできます。今この瞬間に生まれる新たな生命として』
少年『……つまり、赤ん坊からやり直しってことか?』
??『理解が早くて助かります。しかし、私はあなたにお願いがあって、あなたの魂を現世に押し留めているのです』
少年『お願い?』
??『お話するよりも実際に見てもらう方が早いでしょう』
それから俺が見せられたのは、魔物という存在と、それと戦う人々の姿だった。
??『あなたに、これらの世界を救ってもらいたいのです』
少年『どうして、俺が?』
??『あなたには天性の勇者としての素質があるからです』
少年『そんなもの、俺には……』
??『あります。つい先程証明してもらったばかりですよ』
??『この世界では魔法はほとんど使えません。簡単な、例えば火を起こす魔法だって、不可能です』
??『しかし、そんな世界であなたは上級魔法である、結界魔法を使った。これは普通ではありません。むしろ異常、超常的です』
少年『…………』
??『あなたのステータス、能力値が私には見えますが、どれも底なしです。きっとどんな魔王が相手だろうと、あなたならたくさんの世界を救えることでしょう』
その人の言っていることは、ほとんど理解できなかった。けれど、ただ一つだけわかったことは――。
少年『俺が、世界を……?』
少年『この人たちを、助けられる……?』
??『ええ』
少年『一つ、聞きたい』
??『なんでしょう?』
少年『どうして、あなたがそうしないんだ?』
??『……できないのです』
少年『できない?』
??『先程申した通り、私にできることは限られています。私という存在が関わることのできる事象が、ほとんどないと言って等しい』
??『理由は自分でもわからないのですが、こうしてあなたと接触できたことが、奇跡と言ってもいいのです』
??『だから、あなたにお願いしたい』
??『彼らを、世界を、救ってもらえませんか……?』
少年『…………』
俺は、救えなかった。
火によって焼かれる自分の村を、見ていることしかできなかった。
目の前で人々が死んでいくのに、ただ、立ち尽くすことしか。
そんな自分に救えるものがあるのなら、俺は――。
少年『わかった』
??『えっ?』
少年『やるよ。その勇者というものに、俺はなってやる』
少年『それで、たくさんの人を俺は、救いたい』
――
――――
少年「俺は、守りたかったんだ」
少年「今、俺たちの目の前にあるような光景を」
少女「光景?」
少年「ああいうものをさ」
少年(祭りの方を指差す。村中の人たちが集まって、いろんなことをして笑い合っている)
少年「ああいう平凡で、でも幸せな毎日を、俺は守りたかった」
少年「一度、たくさん失ったから、だから、今度は守りたいって」
少年「いつからか忘れてしまって、ただ魔王を倒す。人間を守るとしか考えられなくなっていたけれど」
少年「本当はそうじゃなかった。俺が守りたかったものは、少し違っていたんだ」
少女「……そっか」
少女「正直、私にはよくわからないけど、でも、あなたの顔を見てると、それでいいんだって思うよ」
少年「それも、君のおかげだ」
少女「えっ?」
少年「ここに来て、初めて綺麗だと思ったのはこの星空だった」
少女「…………」
少年(彼女は何も言わないが、微かに瞳が頷いたように見えた)
少年「あの瞬間、俺は自分が少しだけ人間になれた、いや、戻ったと思えた」
少年「今になって思えば、俺の心はもう人間じゃなくなっていた」
少年「目の前で誰かが泣いていようが、苦しんで死のうが、何も感じなかった。何かがきっと麻痺してたんだと思う」
少年「そんな俺をまた一人の人間にしてくれたのは、君なんだ」
少年「君と過ごしたこの時間が、俺を救ってくれたんだ」
少女「そんな、大げさだよ」
少年「大げさなんかじゃない」
少年「君と過ごす毎日は、俺にとって……」
少年「俺にとって……」
少年(言葉が詰まった。次に口にする言葉はわかっているのに、どうしても声に出せない)
少女「……いいよ。たぶん、私も同じだから」
少年「そう、かな」
少女「そうだよ。だから、私からも言わせて」
少年「君、から?」
少女「私ね、君から教わったの。大事なこと」
少年「教わった? 俺から?」
少女「うん。そうだよ」
少年「何か説教した記憶は……、早起きくらいしか思いつかないな」
少女「ぷっ、あはは! それもかもね!」
少女「私ね、ここには、何もないと思ってた」
少女「動物園も遊園地もプールもなくて、いるのもおじいちゃんやおばあちゃんばかりで、私と同じくらいの歳の人はいなくて」
少女「だから、あなたが来た時、本当にすごく胸が躍ったんだけど」
少年「…………」
少女「でもね、違ったの」
少女「ここに、何もないんじゃなかった」
少女「私が探そうとしていなかっただけだったの」
少女「山に行けば冒険が待っていたし、海に行けば海の家やたくさんの人がいなくても楽しかった」
少女「それだけじゃない。つまらないと思ってた畑仕事とかも、実際にやってみたら結構面白かったり」
少女「見つけようと思えば、いっぱいのものがあったんだ」
少女「それを教えてくれたのは、あなた」
少女「だからね、ありがとう」
少女「……あはは。あなたに比べたらちょっとスケール小さいね」
少年「そんなことないし、お礼を言われるようなことなんて」
少女「いいの、私が勝手にあなたに感謝してるだけ。あなただってそうだよ」
少女「お互いにそうしようと思ってたわけじゃないんだから」
少年「……そっか。そんなもんなんだな」
少女「うん、そんなもん」
少年(それからまた会話は途切れた)
少年(二人とも言いたいことはもう十分に言い切ったし、それで互いに理解できた)
少年(だから、これでいい)
少年(……いや、まだ言い足りないことは、ある)
少年(その言葉は今まで何度も心の中に浮かび上がっては、自重で沈んでいった)
少女「ね、ねぇ」
少年「ん?」
少女「あ、あの、ね……」
少年(心なしか、彼女の声が震えているような気がした)
少女「私……あな――」
ドンッ。
少年(重く大きな音が、胸の奥に響く)
少年(赤い大輪の花が、夜空にパッと咲き上がる)
少年「綺麗だ……」
少年(あまりにも突然の出来事に、思考が追いつかない中、ふとそんな声が漏れた)
少女「花火なんて、どうして?」
少年(遠くの方に何度か話したことのある人が見えた)
少年(都市の花火大会用の花火を作っているって、言っていたっけ)
少年「あの人、ここで打ち上げる用の花火は作ってないって言ってたような……」
少女「お祭りだから、じゃない?」
少年(地面がピカッと一瞬閃光を放ち、かん高い音を鳴らしながら地面から空へと上っていく)
少年(それはまた開く。青色の光の粒が四方八方に広がる)
ドンッ。
少年(遅れて響く、爆発音。まるで空を思いっきり殴りつけたようだ)
少年(花火は次々と打ち上がって、空を赤、黄、緑とそれぞれの色彩で染めていく)
少女「綺麗だねー」
少年「ああ」
少年(ふと、思い出す)
少年(昔、もう気が遠くなるくらいに長い時間が過ぎる前、今と同じようなものを見た)
少年(両親がいて、兄弟がいて、友達がいて、みんなしてバカみたいにただ空を見上げていたのだ)
少年(大切だった。本当に、心の底から)
少年(だから、もう失いたくない。次は、次こそは……)
少年「……あ」
少女「あ」
少年(そんなことを考えながら彼女の方を見ると、見事に目が合ってしまう)
少年「……さっきさ」
少女「えっ?」
少年「さっき、何て言おうとしてたんだ?」
少女「……さぁ?」
少年「さぁって……」
少女「もう忘れちゃった。たぶん大したことじゃないよ」
少年「そんな風には聞こえなかったが」
少女「だって、本当に大事なことなら、後からだって言うでしょ?」
少女「言わないってことは、忘れるってことは、それくらいくだらない、どうでもいい話だってことだよ」
少年「…………」
少年(そう言われてしまっては、これ以上問いつめることもできない)
少年(だが、その方がいいのかもしれない)
少年(もしも)
少年(もしも、そういうことだったら――)
少女「……もう、お祭りも終わりだね」
少年(見れば少しずつ人も少なくなり、屋台の明かりも弱くなってきている)
少年「明日……」
少女「うん、明日の今頃は私はもう……」
少年「そっか……」
少女「あなたも、また戦いに戻るんでしょ?」
少年「ああ。休暇はおしまい」
少女「そうだよね……。ここに戻ってきたりもしないのかな」
少年「……わからない。最後まで終わるのにあとどれくらいかかるのかも。そもそも終わるのかどうかも」
少年「あと、十個くらいだったっけな。俺が行く世界は」
少女「じゃあ、十回魔王と戦うんだ」
少年「そうなるな。……けど」
少女「けど?」
少年「今度は、違うやり方で世界を救おうと思ってるんだ」
少女「違うやり方って?」
少年「人と魔物が戦わなくてもいい、互いを憎み合って争うようなことがない」
少年「できるかわからないけど、やってみようって」
少年「今までの経験を全部フルに活用すれば、どうにかなるかもしれない」
少女「あなたなら……」
少女「あなたなら、きっとできるよ」
少女「だって、今まで何百回も世界を救ってきた勇者なんでしょ?」
少年「桁が一つ違うよ」
少女「あ、何十回だったっけ。それでも、もう世界を救うことに関して言えば、大ベテランなわけで」
少女「あなたなら……ううん、きっとあなたにしかできないことだよ」
少年(まっすぐな瞳が、俺に笑いかけてくれる。口にする前は自分でも不安だったはずなのに、彼女の言葉がすごく心強く感じられた)
少年「ありがとう」
少女「……じゃあ、もう会えないんだね。当分」
少年「たぶんね。君が生きている間に終わらないかもしれない」
少年(少しだけ、嘘だった)
少年(彼女のおばあちゃんとの記憶を思い出したことによってわかったこと)
少年(この世界と、魔王と戦ってきた世界では時間の流れ方が違うのだ)
少年(俺が女神様と出会って世界を救い始めてから、途方もない時間が流れている。しかしここではせいぜい数十年といったところ。残っている世界の数から考えれば、十年やそこらで戻ってこれてもおかしくはない)
少年(だが、それでも十年)
少年「この一ヶ月、どうだった?」
少女「楽しかったに決まってるじゃない! こんなにいろんなことがあった夏休みなんて、これまで、もしかしたらこれからもないよ!」
少女「本当に楽しかった! すごく……っ、楽し……かった……っ」
少女「だから……っ、今、こんなに……っ! ひっぐ……っ」
少年「そっか……。なら、よかったよ……」
少女「ひっぐ……、向こうで頑張ってね」
少年「ああ、ありがとう。君も、こっちでいろいろ頑張れよ」
少女「うん……」
少年「大丈夫だよ。君なら」
少年「君が大丈夫だって言った俺が言うんだ。だからさ」
少女「……ぷっ、何それ」
少年「説得力あるだろ? 人に頑張れって言った手前、これならそっちも頑張らなきゃな」
少女「説得と言うより、それ脅迫だよ」
少年「あはは! 確かに!」
少女「ふふっ!」
少年(二人の笑い声が風に乗ってどこかへ流れていく)
少年(そうだ。終わり方はこんな感じがいい)
少年(こんな感じで、いい)
少年(…………)
少年(……本当に、いい?)
少女「さ、帰ろ? 明日も朝早いし」
少年「……ああ、最後に寝坊なんてのもな」
少女「うん」
少年(彼女が俺の先を歩いていく。雑草を踏む音を等間隔で鳴らしながら)
少年(言えるわけがない。言っていいはずがないんだ)
少年(そんな自己中心的で身勝手な言葉を)
少年(なのに、心は今もなお叫び続ける)
少年「……なぁ、ちょっといいかな」
少女「…………」
少年(足音がやむ。彼女の動きが止まる)
少女「……なに?」
少年「好きだ」
少女「…………」
少年(彼女はこっちを振り向くと、ポカンと口を開けたまま呆然としているようだった)
少年「…………」
少女「……それって」
少女「それって、どういうこと……?」
少年「そのままの意味だよ。俺は、君のことが好きなんだ」
少女「……それ、本当?」
少年「こんな時に冗談なんて言わないよ」
少女「そっか。あなたは言うような人じゃないね」
少年「そうだよ」
少女「……私で、いいの?」
少年「えっ?」
少女「だって私、普通だよ?」
少女「あなたみたいな勇者じゃないし、何もない、平凡な人生を送ってきた、普通の女の子だよ?」
少年「そんなことないだろ。それに今は関係……」
少女「あるよ。だって私じゃ、あなたには釣り合わないし……っ」
少女「それに、これからあなたは、またいろんな世界に行くんでしょ? そしたら、きっと私よりも綺麗な人も、すごい人もいっぱいいるだろうし、だから……!」
少年「そんなことを心配していたのか?」
少女「えっ?」
少年「あ、いや……」
少年「それ以外の心配は、なかったのか?」
少女「えっ? ど、どういうこと?」
少年「…………」
少年「だって、俺が言いたかったのは――」
少女「私、あなたのためなら待つよ?」
少年「……!」
少年「なんで……、なんでそんな簡単に言えるんだ……?」
少女「そんなの、決まってるよ」
少年「何年かかるかもわからない……! もしかしたら君が生きている間に終わらないかも……」
少女「それでもいいよ」
少年「なんで……、わからない。君の考えが理解できない……!」
少女「どうしてわからないかなぁ。もしもあなたが私の立場だったら、同じ風に考えないの?」
少年「俺が、君の?」
少女「うん。理由は簡単」
少女「私も、あなたのことが好き」
少女「それだけじゃ、ダメ?」
少年(自分と向かい合う少女はあっけらかんとしていた)
少女「あなたなら、きっと終わらせて帰ってくる。そう信じているもん」
少年「なんでそんな……」
少女「あなた自身だってそう思ってるように見えるけど?」
少女「それにさ、世界を救うために戦ってるなんてそんなカッコいい人、他にいないよ」
少年(その目には一点の曇りもなく、嘘をついているようでも自信なさげでもない)
少年「……本当にいいのか?」
少女「しつこいなぁ。さっきからそう言って――」
少年(その行為は衝動的で、理性は押し止めようとするも役に立たなかった)
少女「わっ!」
少年(俺は彼女の体を抱きしめていた)
少年(どうしようもないくらいに愛おしかった)
少年「きっと、いや絶対、ここに戻ってくる。俺は、君に会いに、また」
少女「……うん。あんまり待たせないでね。でも、無理はしないで」
少年「ああ。わかってる」
少女「その時、私何歳なんだろうなぁ……。前にあなたに十年女を磨いてこい、みたいなこと言われたけど、十分過ぎる時間だね」
少年「戻ってきたら、ここで二人で暮らそう。死ぬまで、ずっと一緒にいよう」
少女「……それって、プロポーズ?」
少年「かもな」
少女「ロマンティックなんだか、そうじゃないんだか、わからないなぁ」クスッ
少女「……そうだ、じゃあ、ロマンティック追加ということで」
少年「ん?」
チュッ
少年「な……っ!」
少女「私、毎年夏になったらここに来るから」
少女「その時に、また、ね?」
少年(そう言うと彼女は恥ずかしそうに笑った)
少年「……そういうとこが、本当にもう」
少年(思わず笑みがこぼれる。だから、俺は彼女に――)
少年「じゃあ、何年か先の夏で、また」
少女「うん。また……」
少年「ああ、それとこれなんだけど」
少女「?」
少年「君に、持っていて欲しいんだ」
――
――――
女神「お久しぶりですね、勇者さま」
少年「ああ、久しぶり」
女神「随分と、人間らしい顔に戻りましたね」
少年「そんな感じのことを言われると思ってたよ」
女神「あら」
少年「……でも、悪くない気分だ」
女神「休暇も悪くないでしょう?」
少年「ああ、確かに」
女神「だから今まで何回も、休むように言っていたのに。勇者さまは聞く耳持たないですし」
少年「悪かったって」
女神「ふふっ」
少年「それと、ありがとう。強引にでもあの世界に飛ばしてくれて」
少年「全部、偶然なんかじゃなくて、女神様が仕組んだんだろう?」
女神「あら、どこまで知っていますの?」
少年「全部だよ。俺はあの世界で、あの村で生まれ育ったんだ」
少年「いつの間に、忘れてたんだろうな……」
女神「そんなことまで……」
少年「あれ? 知らなかったのか?」
女神「ええ! だって魔力を送るのに精一杯でしたもの!」
少年「でも、最初の時はそんな苦労してなかったような……」
女神「あの時はまだ、ここまで酷くはなかったような……。何か他の手段を使ったのでしょうか……?」
少年「忘れたのか」
女神「し、仕方ないじゃないですか! あれからどれだけの時間が経っていると思っているんですか!?」
少年「いや、逆ギレされても……」
少年「それよりもだ」
女神「はい?」
少年「休暇は終わり。じゃあ、一刻も早く次の世界を救いに行かなきゃな」
女神「……そうですね!」
少年「あと、10個?」
女神「11です。勇者さま」
少年「11か」
○○「すぅー……」
勇者「……よし」
女神「では、次の世界に勇者さまを転移させますね」
勇者「頼んだ」
女神「転移魔法(フィラー)!」
――
――――
『 』は生命の進化を見届け、果てにそれらは二種類に別れた。
それが人間と、魔物。
どう調整しても、それらが争い世界は崩壊するばかり。
だからその存在は、その世界を見捨てまた新たな世界を作った。
何度やっても、同じことの繰り返し。
その回数は108。
――
――――
勇者(静寂が包んだ城の広間に、外から微かに歓声が聞こえてくる)
勇者(きっと戦いが終わったことを知ったのだ)
勇者(終わった)
勇者(幾年にも及ぶ人間と魔族の戦いが、ようやく終わりを告げた)
勇者(平和が訪れたのだ)
勇者(もう魔族の者と戦う必要も、いつ殺されるかもわからない夜を過ごすことも、闇を恐れて生きる義務も、今となっては不要の長物だ)
王様「では、魔王殿。この平和条約に調印を」
魔王「うむ」
勇者「…………」
――――
仲間「やりましたね! 勇者さま!」
勇者「ああ、もうこれで人間と魔物が戦うことはない。やっと、平和が訪れたんだ」
勇者(長かった旅路もこれでようやく終わり)
勇者(そう思うと肩の荷が下りるようだった)
仲間「それもこれも、勇者さまのおかげです! まさか、こんな形で戦争が終わるなんて、勇者さまが来るまでは思ってもみませんでしたよ」
仲間B「ああ。オレもそう思うぜ。ほとんど血を流さずに終わるなんてな……」
勇者「俺だけのおかげじゃない。いろんな人たち、魔物たちの願いが、今という瞬間を実現させたんだ」
仲間B「まったく、欲がないからいけねぇお前さんは」
勇者「別にそんなんじゃないよ」
勇者(もうこの世界は大丈夫だ)
勇者(人間と魔物が手を取り合って、互いが互いを尊重し合える。そんな未来が訪れることだろう)
勇者(人間が魔物を滅ぼすことも、魔物が人間を滅ぼすことも、きっとあるまい)
勇者「長かったな……」
勇者(もうあれから、何年が、何十年が、経ったことだろう)
勇者(あの世界では、どれだけの月日が過ぎ去っているのだろう)
仲間「これから勇者さまはどうされるんです?」
仲間B「お前さんなら、きっとどんなポジションにだってつけるぞ? これまで苦労した分、少しくらいいいことがあったっていいもんだ」
勇者「いや、俺は……」
仲間「?」
勇者「帰る場所があるんだ」
勇者「俺を待っている人がいる」
勇者「ずっと、ずっと昔から。俺の帰りを待っている人が」
勇者「たぶん、もう会うこともあるまい」
仲間B「そうか……。じゃあ、寂しくなるな……」
仲間「そんな遠いところなんですか?」
勇者「ああ。だから頼んだぞ。この平和がどうかずっと続くようにな」
勇者(飛行魔法を用いてグルッと世界を見て回る)
勇者(人々と魔物達は皆笑い合いながら、酒を飲んだり踊ったりしている)
勇者「もう、大丈夫だ」
勇者「108……。やっと終わったんだ……」
勇者「これで、帰れる」
勇者(時間のズレから考えるに、おおよそ向こうでは十年ほどの月日が過ぎているはず)
勇者(まだ、待っていてくれているのだろうか)
勇者(十年)
勇者(俺からしたら大した長さではないが、待たされている彼女にとっては途方もない長さに感じられたことだろう)
勇者(……もしかしたら、もう待ちくたびれて、そこにはいないかもしれないが)
勇者「十年も待たせてしまったんだし、その時は仕方ないよな……」
シュワァァン…
勇者「!」
勇者(唐突に眩いばかりの閃光)
勇者(覚えがある。女神様からの通信だ)
勇者「女神様か。ちょうどよかった。今、終わったところ――」
女神「勇者さま!!」
勇者(女神様の声を耳にした瞬間、背中の産毛がゾクッと逆立つのを感じた)
勇者(こんな焦燥に満ちた声は、今まで聞いたことがない)
勇者「な、なんだ? どうし――」
女神「今すぐ……! 今すぐこちらに戻ってきてください……!」
――
――――
勇者(何が何だかわからないまま、俺は女神様のいる空間へと帰還した)
勇者(この場所に特段変化は見られない。一体何があったというのか)
女神「…………」
勇者「女神様、一体何が……?」
女神「落ち着いて、聞いてください」
勇者「えっ?」
女神「あなたの故郷だった世界のこと、まだ覚えていますね?」
勇者「あ、ああ。それがどうかしたのか?」
女神「あの世界がついさっき突然……」
女神「……消滅、しました」
勇者「…………」
勇者「…………」
勇者「…………えっ?」
勇者(何を言っているんだ、女神様は)
勇者「消滅……?」
勇者「消滅って、なんだ……? どういうことだ……?」
女神「消えてしまったんです。跡形もなく」
勇者「な、何言ってるんだよ……。やっと戻れると思ってたのに、冗談キツい――」
女神「冗談などではありません! これを見てください」
勇者(女神様が何かの呪文を唱えると、突然周りの風景が変化した)
女神「私が見た記憶です。この場所、見覚えありますね?」
勇者(目の前に広がるのは、俺の故郷。あの頃と何ら変わりないように見える)
勇者「……ん? なんだこれは?」
勇者(奥にそびえる山の頂上が微かに光っている。禍々しい色を放ちながら、それは急速に強まっていく)
勇者(そして突然、それは閃光を放つ)
勇者「な……っ!?」
勇者(次の瞬間、隣の山が弾け飛んだ)
勇者(逃げ惑う人々の姿。その多くは顔見知りだった)
勇者「逃げろ……。逃げてくれ……」
勇者(無意識にそう声に出してしまう)
勇者「あれ……?」
勇者(見当たらない。誰よりも一番先に見つけるはずの人物の姿が、逃げる人たちの中に見つからない)
勇者「あ……!」
勇者(いた)
勇者(一人だけ、他の人たちとは逆方向に走っていく姿)
勇者(大人になっているが、遠目でも微かに感じられる面影は、見間違えようがない)
勇者「バカ!! 逃げろよ!! お前が行ったって何もできないのに!!!」
女神「勇者さま……。これはあくまで過去の記憶です。そんな風に叫んだって届くはずが……」
勇者「あ……」
女神「…………」
勇者(女神様はただ悲しそうに目を伏せる。過去の中の彼女は必死に走り続ける)
勇者(俺は、何もできない)
勇者「えっ、魔物……!?」
勇者(彼女が山の中に足を踏み入れると、幾多の魔物達が姿を現した)
勇者「どうして……! この世界には魔物なんていなかったはずだ……! しかもあんなに……っ」
女『な、なに……? 何なの……? 一体何が……』
勇者「!」
勇者(彼女の声だった。紛れもなく、昔聞いた彼女の)
勇者(逃げろ)
勇者(そう伝えたいが、届かない)
女『きゃあっ!?』
勇者(魔物の振るった腕が彼女を吹き飛ばす)
勇者「……げろ」
勇者「逃げろ……!」
女『はぁっ……、はぁっ……』
女『だ、誰か……助け……っ』
勇者(足を若干引きずらせながら、彼女は逃げる)
勇者(しかし退路を絶たれた彼女に残された道は、ただひたすら上へと登り続けるのみ)
女『きゃっ!?』
女『どうして、こんな……』
女『嫌だ……っ、死にたく、死にたくないよぉ……!』
勇者「なら、一人で危険なところに行くなよ……! バカ野郎……!」
女『やっと……、あの人に会えると思ってたのに……っ』
勇者「え……? あ……」
勇者(彼女は俺が勇者であることを知っていた)
勇者(ならば、魔物が現れるような状況になったら、それは俺が戻ってきたと連想してもおかしくはない)
勇者「あ……、ああ……っ」
勇者(俺の、せいじゃないか……)
女『痛い……。痛いよ……っ。やめて……、来ないでぇっ!』
勇者(最後にたどり着いたのは、俺の見覚えのある場所だ)
勇者(いつだったか、女神様と交信した祠が端に映る)
勇者(その場所のことはよく知っている。あるのは断崖絶壁で、それ以上逃げる先がないことを)
女『いや、いやいやいやいやぁっ!!』
勇者(魔物達が武器を振るう。鋭い刃が彼女の素肌を斬り裂いた)
女『きゃあああああああっっ!!! 痛い痛い痛いいたいぃぃっ!!!』
勇者(鮮血が傷口から一気に噴き出る。血が顔にかかった魔物はそれをペロリと舐めると、ニヤリと笑った)
勇者「くっ……!!」
勇者(これ以上、見ていたくない……!)
勇者(しかし目を背けても、彼女の叫び声が嫌でも耳に入り込んでくる)
勇者「ちく、しょう……!」
女『うぐぅっ! やめて、やめてぇ……っ! いたいいたいいたいいたいぃっ!!』
勇者(魔物達はいたぶるように、彼女を傷つけていく)
女『あ……っ、ぐぁ……っ』
勇者(彼女の骨が砕かれる。腕があらぬ方向へねじ曲がる)
勇者(腹部を貫かれ、血と一緒にドクドクと内蔵が溢れ出てくる)
勇者(必死に飛び出した内臓を元に戻そうとするも、曲がった腕では上手く集めることもできないのだ)
勇者「くそ……っ、くそっ、くそっくそぉっ!!」
勇者(俺が、俺がいれば……、その程度の魔物は一瞬で斬り伏せることができるのに……!)
勇者(湧き上がる怒りにどうにかなりそうになった、次の瞬間――)
勇者(視界が黒に染まった)
勇者(地の底から湧き上がってくるような轟音)
勇者(そのすぐ後に、今度は真っ白な光が一帯を覆い、また世界は真っ黒になった)
勇者「……えっ?」
勇者「な、何が今起こった……?」
女神「わかりません……私にも」
女神「ただ確かなことは、この瞬間に、この世界は消滅したのです」
勇者「消え……た……?」
勇者「……はは。そんなこと……。あんな一瞬で、空間ごと全部消えたって……?」
女神「そう、言っているのです。にわかには信じられないことですが……」
勇者「女神様が、ただ見れなくなっただけじゃないのか!?」
女神「否定はできませんが、可能性は――」
勇者「なら、俺をあの世界に転移してくれ! 今すぐにだ!」
女神「なっ……!? そんなことできるわけ――」
勇者「何かの間違いなんだ……。あんなこと、起こるわけがない!」
勇者「だから俺が直接見に行く!」
女神「冷静になってください、勇者さま! もしも何もなかったら、空気も何もない場所に飛び込んでいくようなもので――!」
勇者「俺の周りを結界魔法で守ればいい! いいから早く俺を転移しろ! 今すぐにだ!!」
女神「勇者さまをそんな場所には――」
勇者「もういい! 女神様がそう言うんなら……!」
勇者「…………」ブツブツ
女神「勇者さま、一体何を……はっ!?」
勇者「転移魔法(フィラー)!」
女神「勇者さま!?」
勇者「今まで何回も目の前で見たんだ。嫌でも覚えてる」
勇者(自分がやるには、女神様よりも長めの呪文を唱えなければならないが、効果は変わらないはずだ)
勇者(あの世界をイメージする。彼女がいた、俺の故郷)
勇者(女神様の声がどんどん遠のいていく。やがて聞こえなくなり、俺の肉体は異世界へと転移した)
――
――――
シュゥゥゥンン…
勇者「……?」
勇者(何も、見えない)
勇者(恐ろしく真っ暗で、辺りの様子が何もわからない)
勇者「炎魔法(フレイヤ)」
勇者(せめて光さえあればと思い、結界の外に向けて炎魔法を放つ)
ボッ
シュッ
勇者(しかしそれは一瞬の後に、そこにあったのが嘘のように消えてしまった)
勇者(何も、ない? 本当に……!?)
勇者(炎を維持するための酸素すら……!?)
勇者「嘘、だ……」
勇者(高速移動の魔法で動き回るも、ただ暗闇の中をさまようだけだった。それ以前に移動できているかもわからない)
勇者(この空間にはもう、何も残っていない)
勇者(たった一つの原子すらも、見つけることはできないのだろう)
勇者(すべて、消えてしまった……)
勇者「なんだよ……。なんなんだよ……」
勇者「やっと、やっと約束を守れると……思ってたのに……っ!」
バリッ
勇者(何かがひび割れるような音)
勇者(きっと結界が内からの気圧に耐えかねて崩れかけているのだ)
女神『勇者さま!! 何をしているんですか!?』
女神『そのままじゃ勇者さまも無に飲み込まれてしまいますよ!?』
勇者「…………」
女神『もういいですね!? こちら側に転移させますよ!』
パリンッ!
シュゥゥゥンン…
勇者「…………」
女神「勇者さま……」
勇者「……んで」
女神「えっ?」
勇者「なんで、こんなことに……?」
女神「…………」
勇者「あの世界には、魔王どころか魔物すらいなかったのに。なんで……」
女神「あ……」
女神「…………」
勇者「……なんだよ」
女神「いえ、なんでもありません」
勇者「何か、知ってるんだな?」
女神「いえ……」
勇者「いや、わかっているはずだ。何年、いや何百年の付き合いだと思ってる」
女神「わからないのです。推測……いえ、最早予想としか言いようがありませんが……」
勇者「何だよ」
女神「…………」
勇者「言えってば!」
女神「……これを。あの世界が消滅した時の莫大なエネルギーの残滓が、あなたの身体に残っていたので」
勇者(女神様が手を俺の前にかざすと、ほんのりと明るくなる)
勇者「うん……?」
勇者(その光に触れる。別段変わったことは……、いや、確かに何かを感じる)
勇者「なんだろう。この感覚は、どこか知っているような……」
女神「恐らく……魔王です」
勇者「はっ? 魔王だって?」
女神「勇者さまが、今まで倒してきた、魔王」
女神「それらが纏っていたものと似ているような気がしませんか?」
勇者「言われてみれば、そんな感じがしなくもないが……。それが一体何の関係が?」
女神「……ショックを受けないでくださいね」
勇者「これ以上ショックを受けることなんて――」
女神「いえ、この事実はきっと勇者さまをひどく傷つけることになります。だから、言うべきかどうか迷ったのですが」
勇者「……わかった」
女神「今まで、あなたは何回も、何十回も魔王や魔物と戦ってきましたね」
勇者「そうだな……」
女神「その死んだ者たちの魂や思いは、一体どこへ行くと思いますか?」
勇者「あの世とか……? それとも――」
勇者(そこでふと気がつく。女神様の言わんとしている可能性)
勇者「ま、まさか……?」
女神「そうです。彼らの魂や力、果てには最後の怨念までも、負のエネルギーは全てあの世界に集められていたんです」
女神「……あくまで、推測の域を出ませんが」
勇者「そんな……。そんなこと……ありえない……っ!」
女神「あなたを転移させるために魔力を送る道が、極端に狭いという話をしたことがありましたね」
勇者「あ、ああ……」
女神「あれは恐らく道が狭かったわけではないのです」
女神「絶えずあの世界には異世界からの魔力が注ぎ込まれていて、それがほとんどを占めていたために私が魔力を送れなかった……」
勇者「な、なら……! それなら、どうしてあの世界にはほとんど魔力がなかったんだ!? そんなに膨大な量の魔力が送られていたのなら、そんなことが起こるわけない」
女神「あの山に全て集められるようになっていた……、いえ、あの山自体が周りから魔力を吸い取っていたのではないでしょうか」
女神「それこそ、他の世界からの魔力すら奪うくらいに」
女神「あれは、いくつもの魔王や魔物たちの死を集めたもので、それが限界に達しあの世界自体をも死に至らしめたのです」
勇者「嘘だ……」
勇者(しかし、そう言われてみれば納得できてしまう。心当たりがいくつも思い浮かんでくる)
勇者(違和感はあった。あの世界で過ごす中でいくつも兆候はあったはずだ)
勇者(あの夜突然現れた魔物の異様なまでの弱体化)
勇者(魔力が極限まで搾り取られていたと考えれば納得できる)
勇者(それにあの麓まで下りてきていた熊)
勇者(あれは、ひょっとしてあの山に溜まる膨大な魔力の存在に気づいていたんじゃないのか?)
勇者(もしも俺があの時、もう少し上まで登っていたら、その兆候に気づけたんじゃないのか?)
勇者(いや、そんなことよりも。それよりも――!)
勇者「じゃあ、俺が……」
勇者「俺が、魔王と戦って倒したせいで、あの世界は、消滅したって……?」
女神「か、可能性の話です!」
勇者(推測だと女神様は口にしているものの、とてもそうだとは思えない)
勇者(こんなにも現状と合致する根拠がある。むしろそう考えないほうが不自然なように感じられた)
勇者(村を壊され、彼女は魔物によって嬲られるように傷つけられ、果てには空間ごと消されてしまった)
勇者(それもこれも、そうなってしまうきっかけを作ってしまったのは、自分だ)
女神「ごめんなさい!」
勇者「なんで、女神様が謝るんだよ」
女神「勇者さまを魔王と戦わせたのは、他でもない私だからです……! それに、もっと注意深くしていれば、気づけたかもしれないのに!」
女神「本当にごめんなさい! 謝っても許されないのはわかっています……。それでも――」
勇者「そんな謝らないでくれ」
女神「でも……!」
勇者「それで魔王と戦うことを選んだのは俺だ」
勇者「それに、俺だって女神様とは違うけど、兆候はあって気づけたかもしれない。同罪だ」
女神「…………」
勇者「女神様」
女神「なん、ですか?」
勇者「何か、案はないか?」
女神「案……。あの世界はもう消滅してしまいましたし、どうしようも……」
勇者「……そうか」
勇者「なら、俺を最初の世界に転移させてくれ」
女神「えっ?」
勇者「約束、したんだ。絶対に戻るって」
勇者「何か手はあるはずだ。どこかに、何か……っ」
女神「世界を復活させる術なんて、今まで見たことも聞いたこともありません……!」
勇者「俺だってない!」
女神「!」ビクッ
勇者「でも、それ以外に何ができるって言うんだ……?」
女神「…………」
勇者「女神様、頼む」
女神「最初の、ということは、今まで救ってきた世界で探すということですか?」
勇者「ああ、見つかるまで」
勇者「全ての世界を、端から端まで探しに」
勇者(必ず、君を助けてみせる。その術を見つけてみせる)
勇者(長くなるかもしれない。今までの比にならないくらい)
勇者(それでも、俺は絶対に――!)
――
――――
自ら崩壊へと進むのは、二つの種族が交わるが故のバグと判断した。
ならば、一方の要素を排除してしまえばいい。
最後の望みをかけて、全く異なる世界を創造した。
しかしなおも、結果は変わらなかった。
過程は違えど、行き着く末路は同じ場所。
そしてついには『 』はそれらの全てを見放した。最早救いようがないと、そう判断した。
しかし見放された世界は、そこに存在を残留しシミュレーションを繰り返した。
途方もない時間をかけて、永遠に。
繰り返し、繰り返し、繰り返し、永遠の中をさまよった。
致命的な欠陥は誰にも気づかれぬまま。
自己修復のパターンが、組み上げられていった。
――
――――
少年「あれー、おかしいな。この辺に隠れてると思ったんだけどなぁ……」
少年「うーん……。ってうわっ!?」ガッ
老人「おぉ……、すまんな……」
少年「あっ、ごめんなさい。……じいさん、そんなとこで何してんだ?」
老人「少し、眠っていたんだ」
少年「こんな森の中で?」
老人「別に場所なんてどこでもいいだろう? こんな平和な世界だ」
少年「そうだけどさ。それにしてもじいさん、ボロボロだ」
老人「……かもなぁ」
老人「なぁ、少年」
少年「ん?」
老人「かくれんぼをしているのかい?」
少年「そうだよ。なかなか見つかんなくてさー」
老人「……そうかい」ニヤッ
少年「なんだよ、いきなり」
老人「いや、ここも変わったなぁと思って」
老人「前は人も寄りつかん、魔物の森だったというのに」
少年「何百年前の昔話をしてんだよ」
老人「そうだな、もう昔話だ。邪魔してすまんな」
魔物「おーい、そこで何サボってんだよー!」
少年「あっ! って、別に遊びなんだからサボりも何もないだろ!」
――
――――
老人「昔話、か……」
老人(あの世界消滅から、もう何年が経ったか。一体何回転生を繰り返して、探し求めたか)
老人(いつからか、数えることも忘れてしまった)
老人(未だに方法の糸口さえも見つからない)
老人(世界を復活させるよりも、時間を巻き戻す方が可能性はありそうだということはわかったが、それだって夢物語だ)
老人「はぁ……」
女神『まだ、続けるのですか……?』
老人(頭の中に声が響いた。その声を聞いたのは、随分久しぶりのような気がする)
老人「おお、久しいな」
女神『お久しぶりです。勇者さま。随分とまたおじいさんになりましたね』
老人『ああ……。最近は少し動くだけで疲れてしまう。次の転生の頃合いかもしれない』
女神『どうして、諦めないのですか……? もう、何千年も経っているのに……』
老人「それでも、諦めるわけにはいかないんだ」
女神『どうしてっ?』
老人「あいつが、待っているような気がしてな」
女神『……そこが、最後の世界です』
老人「108……ということか?」
女神『ええ。そこにもなかったら、もう、どこにも……』
老人「なら、きっとここで見つかる」
女神『えっ……?』
女神『それもまた、勘ですか?』
老人「そうかもしれない」
老人(嘘だ。ただ、自分にそう言い聞かせているだけだ)
老人(本当は怖くて怖くて仕方がない。もしも、ここにも何もなかったら、自分はどうすればいいのだろう?)
老人(だから、その考えを振り払うように声に出す)
老人「ここにある。きっと」
老人「記憶が正しければ、ここが一番可能性が高いかもしれないしな」
老人(この世界は、かつて最後に自分が救った世界)
老人(つまり、一番人間と魔物の関係が良好な世界だ)
老人(その分、魔法や科学の発展が進んでいて、何かしらのヒントが見つかるかもしれない)
――
――――
魔術師「ないですね」
老人「そうかい……」
老人(撃沈。この世界で最も権威ある魔術の研究機関に足を運んだが、得られた情報はたったの五文字)
老人(もう何度聞いたかもわからない。その度に心が挫けるを通り越して、砕けそうになる)
魔術師「世界を再生するとか、時を戻すとか、魔法に夢を見すぎですよ」
老人「そうかね……」
魔術師「そもそも魔法というものは、いくつかの源があってですね――」
老人「そのくらい知ってる」
魔術師「なら、不可能なことくらいわかっているでしょう?」
老人「……もういい。ありがとう」
老人「はぁ……」
老人(最後の頼みの綱が切れた。そんな気分だった)
老人「不可能なのは、自分でもわかってる……」
老人「それでも奇跡を追い求めて、今まで彷徨ってきたんだ……」
老人(これから、どうする?)
老人(この世界においてまだ探索していない場所はたくさんある)
老人(しかしこの肉体では、そんな無茶はもう効かない)
老人(となれば、もう一度転生すべきか)
??「あのー、おじいさーん!」
老人「む?」
魔物女「はぁ……はぁ……」
老人(自分を呼んだのは紅色の肌の、人型の魔物だった。肌の色と腰から尻尾が生えていること以外は、人間とさして変わらない)
老人「なんだ? そんなに息を切らして」
魔物女「あなた……ですわね? 時間を巻き戻す方法を探してたのって」
老人「!」
魔物女「私はこの機関で研究をしている者ですわ。……とは言え、内容的に異端者扱いですけれど」
老人「じ、時間を巻き戻す理論の研究を?」
魔物女「いえ、具体的にその研究をしているわけではありませんわ。ただ、私の専門は時空の研究ですので、近いものはあると思います」
老人「時空……?」
魔物女「立ち話もなんですから、どうぞ中へ」
――
――――
「……っ!」
それは突然やってくる。痛いという感覚が思考を埋め尽くす。
頭が締め付けられるようだった。ここ数百年、時折襲いかかってくる。
最近はどんどん頻度が高くなってきている。時間経過によるものなのだろうか。
人ならざる存在である私に、このような現象が起こる理由が想像もつかない。人間という不完全な肉体を持たない自分がこのような頭痛に見舞われるなんて、一体どうしたことだろう。
「…………」
「……それ以前に」
それ以前に、私とは何なのだろう?
そんな疑問がふとした時に湧いてくるようになった。
以前は一度も、考えたことすらなかったのに。
「どうして……」
どうして気にならなかったのだろうか。
私は『ある瞬間』からのことしか覚えておらず、それ以前の記憶がない。
思い出そうにも、最初から存在していなかったかのように空っぽなのだ。
だから、何もなかったのだと思っていた。そう思っていることが異常だということにすら、私は気づかなかった。
しかし、この頭痛に悩まされるようになってから、そこにぼんやりとした情景が存在していることが、なんとなくだがわかってきた。
いや、存在している、と言うのは違うのかもしれない。
次々と線が足されていって、絵画が出来上がっていくように記憶が、いや、『過去そのもの』が生み出されていく。
「……何を考えているのでしょう。私は」
――
――――
魔物女「すいません。この話に興味を持っていただける人は少なくて……」
老人「そうだろうな。現実にはあり得ない、夢物語に近い」
老人「今までも何度冷たい視線で見られてきたか……。わざわざそれを専門にしている君は、自分の比ではないだろう?」
魔物女「仰る通りですわ。しかし、私はこの世界に存在する魔法が、時空において何かしらの、我々の想像し得ないほどの影響を与えると考えています」
老人「想像し得ない影響、と言うと?」
魔物女「ざっくり言うと、時空を歪ませるということですわ」
老人「本当にざっくり言ったな」
魔物女「ざっくり言いました」ニコッ
魔物女「私たちは普段、魔力を用いて魔法を使っていますね? 今はこれはこの世に存在するいくつかの原始的な要素を魔力によってコントロールすることによって、起こっていると解釈されていますが」
老人「違うのか?」
魔物女「いえ、違うわけではありませんが、そこにはもっと深い根元に、もっとシンプルな原理があると思うのです」
老人「すごいことを言うんだな。そんなのがわかったら、今の魔法の原理がひっくり返りかねない」
魔物女「ええ、世界をひっくり返そうとしているのですわ」
魔物女「だから、異端なんです」
魔物女「では、その原理は何か?」
魔物女「ここからは私の仮説段階での話ですが、この世界は本来、もっとシンプルな理論に基づいていると思われます」
老人「もっとシンプル?」
魔物女「例えば、なぜ物体は落下すると、あなたは思います?」
老人「そりゃ物は落ちるからだろう?」
魔物女「説明になっていませんわ。なぜ下にしか落ちないのか。横でも上でもいいのに、どうして一方向のみに物は落ちるのか」
老人「難しい話だな……」
魔物女「きっと聞き慣れないだけですわ。その辺りの分野の研究がもっと進めば、何か面白いことがわかりそうなものですが……」
老人(……そんな話をどこかで聞いたことがある気がする)
老人(しかしもう遥か昔のことだ。ぼんやりと存在自体は覚えているだけで、細かい内容は忘れてしまった)
魔物女「話を戻しましょう。それらの世界の根本的に成り立たせるための理論には、魔法は介在していないと思われます」
老人「なぜだ?」
魔物女「簡単な話ですわ。そこに魔力を感知することが一切ないのです」
魔物女「私たちが魔法を使うとき、そこには必ず魔力の残滓が残りますの。どんなに些細な魔法でも」
魔物女「しかし先ほどの例のように、物が落ちるなどの現象には魔力は検出されていません。これは検出の精度の問題の可能性もありますが」
老人「へぇ、魔力を検出するための装置なんてものがあるのか」
魔物女「魔法学の分野は人員が多いこともあって進んでいるのです」
老人「それで、結局のところ何が言いたい?」
魔物女「ああ、また話が脱線してしまいました……。ごめんなさい、私の悪い癖でして」
魔物女「本来、この世界、空間というものは魔法なしでも存在し得るものだと私は考えています」
老人「……なるほど」
魔物女「思い当たる節でも?」
老人「まぁ、昔の話さ。魔法の一切存在しない世界に行ったことがあるってだけで――」
魔物女「えっ!?」
老人「えっ? あ、あれ、転移魔法とかあるだろう……?」
魔物女「異世界への転移魔法なんて、見たことも聞いたこともありませんわ! えっ、そんなことが可能なんですの!? 少し話を聞かせてもらえません!?」ズイッ
老人「わ、わかった。わかったから。とりあえず今の話題が終わってからで……」
魔物女「あ……。少し取り乱してしまいましたわ。ごめんなさいね」
魔物女「それで、えっとどこまでお話ししましたっけ?」
老人「世界が魔法なしで存在できるとかなんとか」
魔物女「ああ、そうでしたわね。だからつまり、魔法は世界に後天的に付与されたものと考えられますの」
魔物女「それは言い換えれば、その間の関係性に矛盾を生みかねないということ」
老人「……?」
魔物女「わかりやすい例を挙げますわ」
魔物女「これは最近ようやく観測できた事象ですわ。結界魔法はご存知ですわよね?」
老人「うむ」
魔物女「結界がどうやって外からの衝撃を防ぐと思います?」
老人「壁みたいなものを、魔法で作ってるんじゃないのか?」
魔物女「半分正解で半分不正解ですわ」
老人「?」
魔物女「確かに壁のようなものは存在しますわ。しかしそれは物質ではありませんの」
魔物女「結界はその内側の状態を時空的に維持しようとするのです」
老人「状態を、維持……?」
魔物女「例えば炎魔法による火の玉が飛んできたとします。もしも結界がなければその内側の部分は火の玉が通過することによって、もちろん熱くなるでしょう」
魔物女「しかし結界がある場合、結界の内側は火の玉が飛んでこなかった状態を維持しようとする。そうすることによって、結界は外からの衝撃を防いでいるのです」
魔物女「つまり、状態の不連続性を生じさせているのであり、さらに言えばこれは因果律を崩しているとも言えますわ」
老人「ふむ……? 因果律ということは、火の玉が飛んでくるという事実を内側ではなかったことにする、否定しているという理解であっているか?」
魔物女「その通りですわ」
老人「なるほど。面白い理論だ。だがそれは何か根拠があるのか?」
魔物女「以前から結界魔法に関しての研究は盛んで、これを示唆する内容のものはありましたの。そして、つい先日興味深いデータが取れたのです」
老人「ほう」
魔物女「あなたは、時の砂時計というものをご存知で?」
老人「確か、特殊な砂を使った砂時計で、正確な時間を測れる道具だとか」
魔物女「そう、それであっていますわ。時の砂時計で結界魔法の内側と外側を計測したところ、流れる時間に微小のズレがあることがわかりましたの」
老人「微小の、ズレだって?」
魔物女「ええ。それで結界魔法は単純な壁を作り出しているわけではなく、何かしらの時空的な断絶を生み出しているという可能性を、ようやく考察するに至ったわけですわ」
老人「すごいな……! そんなことが、あり得るのか……!」
魔物女「とは言え確証にはまだ至っていませんし、この結果が意味することはもっと別の意味なのかもしれませんが」
老人(光が、見えた気がした。この数千年もの間、様々な世界を漂流し続けて、初めての手がかり)
老人(時間という概念を乗り越えるための、わずかだが光明が差したように思えた)
老人「も、もしもだ」
魔物女「はい?」
老人「君の言うその理論が正しかったとして、時間を戻すにはどうしたら良いと思う?」
魔物女「時間を戻す……ですか。難しい話ですね。まだ時間というものが何なのか、その理解が私たちには欠けていますし……」
老人「そうか……」
魔物女「単純に……」
老人「何か案があるのか!?」
魔物女「え、ええと、案って言えるほどのことではありませんが」
老人「それでも構わない!」
魔物女「例えばうんと強い結界を作って、内と外の差異をものすごく大きくすることができれば、その境界で何かしらの想像し得ない現象を観測できるかもしれませんわ」
老人「!!」
――
――――
老人「いろいろとありがとう。君のおかげで少しだけ未来に希望が見えたよ」
魔物女「いえいえ。こちらこそ、興味深いお話ありがとうございました」
魔物女「異世界って存在するのですね……。またまた研究すべき事柄が増えてしまって、嬉しい悲鳴ものですわ」
老人「そう言ってもらえてこっちも嬉しいよ」
魔物女「あなたが時間を巻き戻そうとするのも、その異世界絡みなんですの?」
老人「……ああ。大昔に消えてしまった世界を、取り戻すんだ」
老人「もしかしたら、これで彼女を……」
魔物女「……すごく、大切な方なんですね。そんなおじいさんになるまでずっと……」
老人「そうだな……。運命を覆すなんて不可能かもしれないが、神への冒涜にも近いかもしれないが、いつか……。君も、頑張れよ」
魔物女「なんだか、私たちのしようとしていることって似ていますね」
老人「似ている?」
魔物女「ええ、私たちのも言うなれば、神への挑戦ですから」
老人「君も?」
魔物女「実在するかは別の話にして、もしもこの世界に神がいるのなら、この世界の仕組みもその神が作ったんですもの」
魔物女「だとすれば私たちはそれを解き明かそうとしている、言わば神への挑戦者なのですわ」
老人「なるほど。神への挑戦者、か」
老人(冒涜と挑戦ではまた意味が違うように思えるが。……いや、神に挑戦なんて言葉の時点で冒涜ものだろうか)
老人「なら、なおさらお互いに頑張らなくちゃな。神に打ち勝つために」
魔物女「ええ、あなたの願いもどうか叶いますように」
――
――――
老人「女神様、ようやくだ。やっと……」
女神「はぁ……っ、くっ、うぅ……っ」
老人「女神様?」
女神「……あ、戻っていらしたのですね」
老人「どうしたんだ? 具合が悪そうだが……」
女神「い、いえ、何でも、ありません……!」
老人「そ、そうか……。女神様でも具合が悪いってことがあるんだな……」
女神「ええ……。自分でもよくわからないのですが、そのようです……。それよりも、勇者さまの話ですよ」
老人「あ、ああ。聞いてくれ、女神様。手がかりが見つかったかもしれない」
女神「知っています。見ていましたから。……しかし、一体何をするつもりなんですか?」
老人「まず俺をあの世界へ、今は何もないあの空間に転移させてくれ」
老人「そうしたら、次は結界魔法、これ以上ないくらい最高級の結界を周りに張る。最後に今の自分に出せる最大火力の魔力を放出させる」
女神「そんなことをしたら、勇者さまの結界は解けてしまいますよ!? それに、魔力の放出って!」
老人「手っ取り早いのは爆破魔法だろう。瞬間的に超高エネルギーの状態を作れるし、ほんの数秒ほどなら魔力がなくなっても結界は残る」
老人「そうすれば、結界の内側と外側に巨大な差異を生じさせることができる」
女神「……それで、どうなるのですか?」
老人「それは、わからない。何も起こらないかもしれないし、何かが起こるかもしれない」
女神「そんなの、自殺行為じゃないですか!」
老人「確かに、俺は死ぬかもしれない。だが、やっとなんだ。やっと、可能性を見つけることができた。今まではそれすら見つからなかったんだぞ」
女神「……その目、何を言っても聞かなそうですね」
老人「ああ」
女神「わかりました。勇者さまを転移させましょう」
老人「……すまないな」
女神「えっ?」
老人「こんなになるまで付き合わせてしまって」
女神「……いえ、勇者さまには今までずっと頑張ってきてもらいましたから」
女神「このくらいのことはしないと、ですよ。ただ、私が心配なのは――」
老人「俺のこと、か」
女神「その通りです。もう勇者さまの魂は擦り切れる寸前まで来ているでしょう。そのうち、完全に崩壊してしまいそうで……、それが心配で……」
老人「それなら心配しなくていいんだ」
女神「どうして、そう言えるんですか……?」
女神「108回も世界を救って、その後も休む間もなく今度はさらに長い間、存在するかもわからない方法を探し続けて……」
女神「それなのにどうして――」
女神「――そんなにも、勇者さまの目は変わらないのですか?」
老人「俺にだって、もうダメかもしれないって挫けそうになることはある」
女神「それでも、一度だって諦めたことはなくて、あなたのその目から希望の光は失われなかった……」
老人(心底理解できない)
老人(そう言いたげな目だった)
老人(確かに、自分でも異常なのかもしれないと思ったことはある)
老人(でも、それには明確な理由がある。これ以上ないくらいに、大切な理由が)
老人「宝物が、あるからだ」
女神「宝物……?」
老人「そうだ。決して豪華だとかそんなものじゃないが、キラキラと輝いていて、何にも代え難い、そんな、ものが」
老人(今でもつい昨日のことのように思い出せる)
老人(あの日見た夜空の星々を)
老人(痛いくらいに眩しかった陽射しを)
老人(風景いっぱいを埋め尽くした蝉の声を)
老人(それらの全てにあった、彼女の笑顔を)
老人「だから俺は、今まで歩いてこられた」
老人「だから俺は、これからも歩いていける」
老人「それだけの話なんだ」
――
――――
老人「ここにくるのも、もう何百年ぶりか……」
老人(目の前に広がるのは、以前と変わらずひたすら暗闇のみ)
老人(ここへは何度も来た。何度も来て、いろんなことを試して、その度に絶望を片手に去ったものだ)
老人(今度もそうならない保証はない。何も起こらなかったら、ただ無意味に、この肉体が爆破に巻き込まれて木っ端みじんになるだけだ)
老人(既に最上級の結界は張り巡らせてある。全生命を一瞬にして焼き尽くすような炎の玉ですら、傷一つつけられないくらいの頑丈さを誇る究極の守り)
老人(その中で、今の自分が出せる最大火力の爆破を起こす。恐らく瞬時に自分の今の肉体は粉々に吹っ飛ぶ)
老人(そのほんのわずかな一瞬の間に、何が起こるのかを見極めなければならない)
老人「…………」ブツブツ
老人(爆破魔法の呪文を唱える。より強力な爆破を起こすために、詠唱はちゃんと短縮せずに最初から最後まで)
老人(自分の中で魔力がどんどん練り上げられていくのを感じる。これほどまでに高めたことは今までにないのではないだろうか)
老人(今まで勇者として培ってきた全てを、この瞬間にぶつける)
老人(どうか、うまくいってくれ)
老人(そう願いながら、最後の呪文を唱えた)
――――!
老人(瞬間、視界は真っ白に染まった)
――
――――
人形を作った。
私の代わりになる人形を。
私はここから出られないけれど、人形ならこの牢獄の外でも行動できるから。
今までの祈りのほとんどを費やして、彼女に託す。
大変な役目を担わせてしまうことには胸が痛むけれど、他に方法は思いつかない。
ずっと、ずっと考えてきたけど、私の頭ではわからなかった。
だから、祈り続けた。
たくさんの命が苦しみの中で失われていくのを目にしながら。
大好きな人の心が壊れていくのを、ただ傍観することしかできない悔しさに涙を流しながら。
だから、どうか――。
お願い。みんなを、助けて。
そして、私を見つけて。
私を、助けて。
――
――――
……。
…………。
俺は浮いていた。何もない空間の中を、ゆらゆらと揺れ動く。
身体が軽い。この感覚は知っている。
今の自分は肉体を失い、魂のようなものだけの存在になっているのだ。
これが単純に爆破によるものなのか、時空の歪みが生じたせいなのかはわからない。
…………。
…………。
……いや、後者だ。
直感でそう確信した。この状態がこんなにも長い間続いたことは、今までに一度もなかった。
俺は、成功したのだろうか。それとも、取り返しのつかない失敗を……?
誰も答えてくれない。
ただ俺は虚空の中を揺れ動く何かになったのだと思った。
『……けて』
えっ?
気のせいだろうか。もうとっくのとうに自分はおかしくなっていて、そんな幻聴が聞こえるくらいになってしまったのか。
もしそうだとしても、驚く理由はどこにも見当たらない。これだけの無茶をしてきたのだから、何があったって不思議じゃない。
どうせなら、走馬灯のようなもので、記憶の中の風景でもいいから、そんなものを見せて欲しかったとは思うが。
『助けて……』
もう一度、声がした。この暗闇の中に溶け合って、そのまま消えてしまいそうな、か細い声が。
もしかして、そこにいるのか?
そう問いかけようとした。しかし肉体のない俺の言葉は、声にならずに自分の中で反響する。
何かの声が大きくなる方へと、俺は進んでいく。
するとそのうち、辺りがほんのりと明るくなっていくような感じがした。
感覚するための器官がないからそんなものが見えるはずがないのだが、俺はそれを光だと認識した。
小さくて、淡い光だった。
片手で握ったら見えなくなってしまいそうなくらい、儚く弱い光。
それにそっと触れる。
あたたかくて、ほのかに懐かしいにおいがする。
……!
知らない情景が自分の中に流れ込んでくるのを感じた。
その光の中で一体何があったのか。それを知っている者の記憶が、自分には見えた。
…………。
……………………。
あ……。
ふいに、涙がこぼれそうになった。
だってそこには、ずっと探し続けていた彼女がいたのだから。
こんな場所にいたのか……。ずっと、一人で……。
声にならないことはわかっていたが、そう口にせずにはいられなかった。
やっと、見つけたよ。
――
――――
その瞬間、全ての因果は結集した。
あらゆる空間において。
あらゆる時間において。
あらゆる次元において。
途方もない苦しみを重ねた二人が可能にした、奇跡という単語では到底表しきれないほどの所業。
今この瞬間に歯車はかみ合い、そして動き出す。
自己修復の機能が、完全に作動したのだ。
――
――――
「ただいま」
彼女にそう告げる。すると、女神様は優しく微笑みながらこう返してくれる。
「おかえりなさい。勇者さま」
「…………」
「……やっと、全部思い出しました。全ての因果が確立されたからなのでしょう」
「ああ、わかってる」
互いにもう言葉は必要なかった。次に自分たちがすべきことも、わざわざ口にせずとも明白だった。
「勇者さま、お願いしますね」
「わかってる。あれを倒せるくらいにならないとな」
「ええ、そうですね。これが、最後の転生になるように」
――
――――
昼間にあんなに暑かったのが嘘のように、夕方になると風が吹いて心地よかった。
波の寄せては返す音は、この村にいればどこでも聞こえるBGMだ。その音と潮風の匂いに誘われて、海辺まで足を運ぶ。
そこには誰もいない砂浜があるだけ。
わかっている。誰もいるはずがないと。
わかっているはずなのに、期待してしまう自分がいた。
あれからちょうど十年。
私はもう社会人になって、普通に働いている。
毎年夏になったらここに来るのは、もう自分にとって恒例行事になっていて、親の事情なしでも自然と足が向かうようになった。
就職してからは、ここにいられるのはほんの数日ほどになってしまったが。
おばあちゃんは何かを察してくれているようで、その理由について聞いてくることはなかった。
けれど、その人についてのことを話してくることもなくて、毎年夏が来る度に憂鬱になる。
「いつになったら、帰ってくるのかなぁ……」
時間が過ぎるほどに、年が一年変わるごとに、怖くなる。
あんな昔の約束を、今も待っている自分がどうかしているんじゃないか。
そんな声が聞こえてくる頻度が、少しずつ増えていった。
「もう、十年経ったよ」
日が沈み、藍色の空を映す海に問いかける。
「いつだったか、『十年女を磨いてから、出直してこい』って言われたっけ」
「今の私、あなたにとって少しでも魅力的になってるのかな」
「……そうだったら、いいな」
風景は何も答えず、ただ波の音を返すだけ。
ポケットの中にいつも肌身離さず忍ばせている、お守りを取り出した。
何の変哲もないビー玉だ。だけど、彼はこれをお守りだって言ってて、私に持っていてほしいと、最後の夜に渡してくれた。
私にとっては唯一の、あの日々を証明できる物。
ふと、自分の座っている傍らに目を移す。初めて会った日の非現実的な光景が脳裏によみがえってくる。
もしも、今この瞬間に、この場所に彼が現れたら、どれだけ私は幸せなのだろう。どんな声を上げてしまうんだろう。
楽観的過ぎる自分が滑稽に思えてきた。
今も、彼は戦っているかもしれないのに。たくさんの人たちを救うために、走り回っているのかもしれないのに。
なんて自己中心的な女なんだろう、自分は。なのに――。
「……早く、帰ってきてよ」
そう、声に出さずにはいられない。
「寂しいよ……。不安なんだよ……」
自分の体温でもう冷たくないビー玉を、手の中で強く握りしめた。
その時、低くどもるような音が村中に鳴り響いた。
「えっ……?」
音のする方をとっさに向くと、それはこの村で一番大きな山からしたのだとわかった。山頂が、鈍く禍々しい色の光を放っている。
あまりにも突拍子のない出来事に、思考が完全に停止してしまう。これは本当に現実なのだろうか。
刹那、目が眩むほどの閃光。
遅れて鳴り響くこの世の物とは思えない轟音。
思わずつむってしまっていた両目を開くと、そこにはとても現実とは思えない光景が広がっていた。
光っていた山の隣の山が一つ、消し飛んでいたのだ。
あんなにも高くそびえ立っていた物が、今は空白と化してしまっている。
「嘘……」
あまりの音の大きさだったせいか、他の音がひどく遠くのもののように感じられた。
一体何が起こっているのだろう?
疑問符が脳内で次々と生まれてくる中、一つの可能性がふっと浮かび上がってくる。
「もしかして、帰って、きたの……?」
光に吸い寄せられる虫のように、ふらついた足取りは山の方へと向く。
鼓動が激しくなる。手に汗が滲む。
いつの間にか私は駆けだしていた。
あんな現実離れした光景があり得るとしたら、彼が関わっている以外考えられない。
「あなたは……そこに……いるの……!?」
山が消えたこともあって、村の人たちはみんなあれを脅威だと認識したようで、私とは逆方向に逃げていく。
それを横目に大方の人の流れと逆走する私は、何度もいろんな人に止められかけたが、それらの手をくぐり抜けるようにして先へと進んだ。
「はぁ、はぁっ」
普段運動をしなくなったせいで肺が痛い。息もすぐに切れてしまい酸欠気味だ。
そんな既に疲労困憊状態で、山の麓に立つ。
隣の山を吹き飛ばしてからは、何も起こっていない。次に何か起こるとしたら、もうそろそろなのかもしれない。
「ち、近づくのは、危ない、かな……?」
今更になってそんなことを言う自分もどうかと思ったが、何が起こるかもわからない得体の知れないものにこれ以上近づくのは気が引ける。
一歩、退こうとしたその時、背後でザクリと地面を踏みしめる音。
「えっ……?」
振り向くと、毛むくじゃらの巨大な何かがあった。
茶色の体毛が全身を覆い、顔の部分に異様なまでに大きな目玉が一つある。人間でないのは明らかだった。
「ぐふぅ……!」
口らしきものが動き、この世のものとは思えない声とともにニヤリと笑う。
次の瞬間には私は走り出していた。頭で考えたというよりは脊髄反射的で、本能的にあれが脅威だと直感したのだろう。
逃げる先は山の中以外になかった。足下が悪く何度もつまずきそうになるも、幸運にも転ぶことはなく上へ上へと登る。
「な、なに……? 何なの……? 一体何が……」
遅れて頭が理解したのか、今になって自分の手が震えてきた。怖い、怖い、怖い。
「はぁっ……、はぁっ……」
さっきまで痛くて仕方なかった肺は、最早その域を超えて感覚がなくなりつつある。
「だ、誰か……助け……っ」
地の底から響いてくるような轟音に、背中を突き飛ばされた。
宙を舞う感覚。
そして衝撃。
「きゃあっ!?」
「どうして、こんな……」
目から涙がとめどなく流れてくる。水滴を吸い込む地面は、他の何かの足音で一定の間隔で揺れる。
「嫌だ……っ、死にたく、死にたくないよぉ……!」
命乞いなんてものは意味を成さず、背後からなおもそれらは近づいてくる。気づけばその数は瞬時に数えきれないほどに膨れ上がっている。
逃げようにも、足がうまく動かない。さっき吹き飛ばされた時に打ってしまったようだった。
それでも、動かないと。
今いる場所より先に行かないと。
動かない足を引きずるようにして、さらに上へと登る。少し動かすだけで激痛が脳を突いた。
「くっ、あぁ……っ!」
後ろを振り向くと、さっきよりもさらにその距離は縮まっていた。捕まるのが時間の問題だということがすぐにわかった。
「やっと……、あの人に会えると思ってたのに……っ」
どうして、どうして……っ、どうして……!?
「痛い……。痛いよ……っ。やめて……、来ないでぇっ!」
もう嫌だ……。どうしてこんなことになってしまったの……?
助けて、誰か……!
「えっ……?」
思わず、言葉を失った。
「嘘……、そんな……」
私の歩く先に、道がなかった。
あるのは断崖絶壁で、それ以上逃げる先がないことを意味していた。
ゾクリ。
背筋を冷たい指先でそっとなぞられるような感覚。
反射的に振り向いた私の目の前には、不気味なほどに口角をつり上げた何かの顔があった。
「いや、いやいやいやいやぁっ!!」
視界が大きく揺れる。
妙に冷えた感覚がとっさに覆った腕を通り抜けていく。
そして、急速にその跡が熱を帯びていく。
「きゃあああああああっっ!!! 痛い痛い痛いいたいぃぃっ!!!」
腕が縦に、真っ二つに裂けてしまったような感覚が全身を突き抜ける。
鮮血が傷口から一気に噴き出る。
あまりの痛さに加えて力も抜けていって、その場に立っていることもできなくなり、地面に倒れてしまう。
傷口に土が入ってきて、それによってさらなる激痛が私に降り掛かった。
「うぐぅっ! やめて、やめてぇ……っ! いたいいたいいたいいたいぃっ!!」
あまりの痛みに息が詰まる。
苦しい。息がしたいのに、できない。
私を取り囲む化物たちは、なおも私を傷つけようとする手を止めず、次々と何かが壊れていくのを感じた。
頭を殴られたような気がする。右耳が聞こえなくなった。そこに手をやると、本来あるはずのものが、そこにはなかった。
違和感の意味を理解するよりも先に、その上げていた手が勝手に動いた。
何か棒のようなもので打ち付けられたのだとわかった瞬間、また想像を絶する痛みが襲いかかる。あまりの苦痛に叫び声をあげようにも、そのための息がもう私の中には残っていない。
「あ……っ、ぐぁ……っ」
太ももに刃を突き立てられる。また血が一斉に吹き出して、そこら中が私の血溜まりだらけになっているのが見えた。
「あっ……っっ! た、たす、け、つ……っ」
逃げ出したい。
なのに、ほんの少し、指先を微かに動かすだけで、体の中が針で埋め尽くされたように、全身に痛みが走る。
もう、痛くない場所がなかった。
何かが砕ける音がした。
「いやぁぁぁああああああっっっ!!!!」
腕がへんな方向にねじ曲がっていた。
誰の腕だろう、これは。
そんなことを一瞬思った。
けど、本当に一瞬で、次の瞬間にはまた別の痛みでのたうち回る。
お腹の辺りが強く押される。と思いきや、不自然にそこにあったものは抵抗を失い通り抜けていく。
私の体の中を。
「ぐふぅっ!?」
喉の奥から何かが逆流してきて、そのまま留めることもできず口から吐き出した。ドロッとした感触が唇を伝っていく。
今までで一番の痛みに暴れまわるも、そうすると余計に痛みが私を刺してきて、それで暴れて、さらに痛くなって。その繰り返し。
よく見るとお腹から血と一緒に、ドクドクと見慣れないものが溢れ出てくる。
自分の中身だとわかるのに、少し時間がかかった。
本来自分の体から外に出てはいけないものが、はみ出している。
「ひぃっ、も、もろさ、ないと……っっ」
必死に飛び出した内臓を元に戻そうとする。だが――
「ひゃいらないっ、もろらないよぉ……!」
腕が曲がっているせいで、うまく中に入っていかない。そもそもちゃんと集めることすらできていなかった。
血はずっと止まらずに私の中から溢れ出すのをやめない。もう自分の中は空っぽなんじゃないかって、そんなことを考えてしまうくらいに。
「ひぃ……っ、はぁ……っ!」
下品な笑い声がそこらじゅうから聞こえてくる。何がそんなに可笑しいのかわからない。
――!
地面が一気に震え上がる。ずっと遠くの地の底から、何かが湧き上がってくるような音がした。
私の周りにいた化け物たちはみな手を止めて、一方向を見つめる。その視線を追うと、あの山の頂上の鈍い光がどんどん強まっていくのを感じた。
何が起こっているのか最初からわからなかったけど、とうとう本当にわからなくなった。
どうして、こんなところに私は倒れているのだろう。
どうして、私の右腕は変な方に曲がっているのだろう。
どうして、こんなにヌルヌルするのだろう。
どうして、私の中身はあんなところにまで飛び散っているのだろう。
どうして、こんなにも絶望的な状況なのに――
――私はまだ、奇跡を願っているのだろう。
彼が現れる瞬間を、待ち焦がれているのだろう。
「お願い……。助けて……っ!」
比較的まっすぐな左腕を伸ばした。すると、爪先が何かにぶつかりコツンと音を立てた。
これは、祠?
この山には祠があったっけ。
昔、彼と一緒にこの山を冒険したんだった。
熊に襲われて、でも彼が助けてくれて。
すごく具合悪そうにしながらも、それでも私のために魔法を使ってくれた。
……ああ。懐かしいな。これって、走馬灯なのかな。
そっか。
じゃあ、私、このまま死んじゃうのかな……。
…………。
やだよ……。
このまま、死ぬのなんて、そんなの……。
いやだ、いやだ、いやだ……。
まだ、やりたいこと、いっぱいあったのにな。
せめて、あともう一度だけ、あなたに会いたかったのに……。
まだ、死にたくないよ……。死にたくない……。
助けて……。
誰か、私を、助けて……!
助けて……!!
その時、
世界が終わる音がした。
刹那。
それは彼女にとって、永遠にも等しい一瞬だった。
永劫の牢獄の中、それでも彼女は祈り続けた。
全ての喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみも。
この世の始まりから終わりまで、彼女は繰り返し見せつけられ、それでもなお、彼女は正気を失うことはあれど、希望を捨てなかった。
彼女は、未来を見続けた。
存在するはずのない未来のために、祈り続けた。
故に、それは起こった。
必然的な奇跡が。
――驚いたな。こんなことが起こるなんて。
――私が、ここで君にほんの少しの救いの手を差し伸べれば、全てが救われるなんて。
――想像もしていなかった。こんな方法があったのか。
――もう、関わるつもりはなかったが、最後に少しだけ。
――だが君は、さらなる絶望を味わうことになる。
――それでもなお、君は祈り続けるのか?
――世界の未来を、信じ続けられるのか?
――
――――
「……えっ?」
痛い。
その感覚が、ひどく久しぶりのものに感じられた。
しかし、それも消えていく。痛すぎて感覚が麻痺したのではなかった。
曲がったはずの腕は元に戻っていて、お腹をさするもそこには擦り傷一つない。
辺りを見渡すと、あれだけいた魔物の群れは、みな地面に突っ伏していて身動き一つしない。
その中に、大きな背中が目に入る。
「長いこと、待たせてしまったな」
その声を知っている。この長い間、何度も何度も耳にして、でもその声は決して私に向けられたものではなくて。
でも、今は違う。
その声は、今ここにいる『私』に向かって言っている。
「君を、助けに来た」
そこには、私の待ち望んだ人が、私に向かって笑いかけながら、そう言ってくれた。
「……うん。ずっと、待ってたよ」
――
――――
「肉体強化、魔力倍増、……よし、これで完璧だ」
あれから肉体がなかった俺は、もう一度ある世界に転生し、そこで最後の戦いに挑むための準備をした。
一刻も早く彼女を救いたかったが、そのためにはあの最後の魔王を倒さなければいけない。
急いだつもりではあったが、万全を期すために結局二十年ばかりかかってしまった。
「すごいですね、勇者さま……。普通の魔王なら一瞬で決着がつきます」
普通の魔王なら、確かにそうだ。だが、今回のはそれまでとは全く違う。
「今までの魔王全員と一気に戦うようなものだからな」
今までの経験を総動員しての準備をしたおかげで、今回の戦いに全てを最適化してある。故に逆に言ってしまえば、今回にしか役に立たないのだが。
「これが終わったら、たぶんもう俺に魔法は使えないだろうな」
「……そうでしょうね。これだけ無理のかかる魔法をかけていたら、勇者さまでなければもう既に身動き一つできなくなっているでしょう」
「その意味では、最後の戦いに相応しいのかもしれない」
「それじゃ、そろそろ行くよ」
「はい。どうか彼女を、よろしくお願いします」
「…………」
「どうかしたのですか?」
これが最後だということがわかっていた。
最後の異世界転移で、それはつまりもう二度と女神様と会うことがないということ。
「これから、女神様はどうするんだ?」
「やめてくださいよ、その呼び方は。私はただの人形に過ぎないのですから」
「いや、俺にとってはずっと女神様だよ。女神様がいなかったら、こんな風に俺は魔王と戦えなかった。あのまま俺は死んでいたんだから」
女神様が俺の魂を現世に残し続けてくれた。その恩はどうしたって返せそうにない。
「だから、最後だし言っておきたいんだ」
「えっ?」
「ありがとう。本当に長い間、たくさん世話になった」
「いえ、勇者さまもこんな至らない人形と一緒に、よくここまで戦ってくださいました。礼を言うのはこちらの方です」
深々と頭を下げる女神様。
「これから、ですね。どうしましょうか……。勇者さまを見つけて世界を救わせる以外の私の存在意義が、今の自分にはわかりません。それに――」
「それなら、いっそのこと女神様が転生してみたらどうだ?」
「えっ?」
女神様には人を転生させる力がある。それを使って他の誰でもない自分自身のための人生を送ることができたら、それこそこれ以上ない存在意義になるだろう。
「何なら俺たちのいる世界に来たらどうだ? きっと楽しいと思うぞ」
「……そうですね。そういうのも、悪くないかもしれません」
「?」
一瞬表情が曇ったように見えたが、女神様はそう言って笑った。
「めが――」
「さぁ、いつまでここで油を売っているつもりですか? 助けるのでしょう? そのために今まで頑張ってきたのでしょう?」
その声は優しくも強い意志を感じて、それ以上何も口にできなかった。
「……ああ!」
「転移魔法(フィラー)」
女神様が呪文を唱える。飽きるほど聞いたこの声も、この感触も、これが最後だと思うと名残惜しく感じた。
二度とこの場所の風景を見ることはないのだ。
俺の体がバラバラになっていく。少しずつ、この世界から消えていく。
「向こうで、彼女にこう伝えてください」
ほとんど消えかかった時、突然女神様の口が開いた。
「私を作ってくれて、ありがとうって」
何か言おうとした。
けど、そのための口がもうなかった。
俺が完全にこの世界から消滅する寸前、最後に見えたものは穏やかで、しかしどこか泣きそうにも見える女神様の笑顔だった。
――
――――
「さて、と」
尋常でない魔力の瘴気に、背筋が震え上がるようだった。これだけの魔力を、この魔王は至る場所から吸収し、溜め込んでいたのだ。
しかしそれが放出された今、この世界でも俺は魔法をいつも通り、いや、それ以上に使うことができる。
「じゃあ、行ってくる」
後ろにいる彼女にそう伝える。ここに来てすぐに最上級の回復魔法を使ったおかげで傷こそないものの、衣服がボロボロに破けていたり髪はグシャグシャになっていたりと、見ていて痛々しかった。
「うん。あなたなら、きっと倒せるよ」
「ああ」
飛行魔法で山の頂上と同じ高さまで一気に上昇する。
禍々しく重い瘴気が周辺に充満しているせいで、呼吸することすら苦痛に感じられるほどだ。
紫と黒の入り混じった光の中に、一際強い魔力を感じる。あれがこの魔王の中枢なのだ。
「やっと会えたな」
俺が108の世界で戦ったせいで生まれた、魔王の怨恨の塊。
最早、魔王なんて呼ぶべきではないのだろう。
これは『世界の憎しみ』そのものだ。
魔法で強化された剣を構える。そこに俺の全ての魔力を注ぎ込む。
これを倒す、いや消滅させるためには、こいつが自らを守る結界以上の破壊力を以て、一気に叩く他ない。
だから、そのための準備をしてきた。
一気に魔力を一点に集中させるための魔法。それをさらに倍以上に高める魔法。
そして、それにこの肉体を耐えさせるための守護魔法。
つまりは、一点集中型で、この戦いにしか役に立たないと言ったのは、その一瞬以降においては俺は普通の人間以下にまで弱体化してしまうからだ。
他の世界だったら、この方法で魔王を倒したとしても、その後に他の魔物に簡単に捻り潰されてしまうだろう。
「覚悟は、いいな」
自分の中の魔力が、それ以外の力の全ても、最高潮にまで高まったのを感じる。
これで、終わる。
何千年にも及んだ俺と魔王との戦いに、終止符が打たれる。
俺が狙いを定める中枢が、大きな雄叫びを上げた。もしかしたら、俺という存在を覚えているのかもしれない。
「いくぞっ!」
構えた剣を一気に振り下ろすと、強烈な閃光が空を走った。反動で自分まで吹き飛びそうになるのをどうにか堪えて、今の自分が持てる力の全てを放つ。
向こうの結界が弾き返す。しかしなおも俺の剣からは膨大な魔力が放出され、そこにドデカい穴を空けようとしている。
「うぉぉぉぉおおおおおおおおっっ!!!」
結界にヒビが入る音。あと少しだ。あれさえ割れれば、あとは――!
その次の瞬間――!
「……あれ?」
全身の力が、ふっと抜けた。
「嘘、だろ……」
力が、入らない。
まだ向こうの結界は、ヒビだらけになりながらも、その形を保っている。
俺の魔力が足りなかったのだ。
最早飛行魔法すら使えず、視界がゆっくりと下降していく。手を伸ばすことすら、かなわない。
「そんな……っ」
あと少し、ほんの少しだけなのに……。
落ちていく。俺の体が空から地面へと、どんどん落ちていく。
「く……っ、そぉ……っ!」
『勇者さま!』
「えっ?」
声が聞こえたと思うと、上下が逆転したかのような感覚に陥った。まるで、時間が止まってしまったかのように、全てがゆっくりに感じられた。
「女神、様……?」
『私が存在するためのエネルギーを勇者さまに与えました。これで結界を壊してください』
「存在って、それじゃ女神様は……!?」
『もちろん消えてしまうわけですが……。でも、いいんです。これで』
「いいわけ――」
『元々、私は世界に干渉できませんから』
「干渉、できない……?」
意味がわからない。女神様は俺と一緒にいろんな魔王と――。
「……!」
いや、思い出せ。最初に女神様に会ったときに、何て言っていた?
――どうして、あなたがそうしないんだ?
――……できないのです。
――できない?
――先程申した通り、私にできることは限られています。私という存在が関わることのできる事象が、ほとんどないと言って等しい。
――理由は自分でもわからないのですが、こうしてあなたと接触できたことが、奇跡と言ってもいいのです。
あの時にも、女神様は同じことを言っていたじゃないか。
どうして、今の今まで忘れていたのか。
『そうです。その理由も、今となってはあたりまえのことだったんですよ』
「あたりまえって……?」
『彼女は、祠に残ったあなたの力を使ってこの世界を結界に、自分の中に閉じこめました』
『そして人としての理を破った彼女は、世界との繋がりが勇者さま以外とは切れてしまったのです。今はもう人に戻っているようなので、心配ないでしょうけど』
「だから、女神様も……」
『その通りです。彼女の創作物である私も、勇者さま以外の世界に触れることは、できないのです。たとえ、彼女が人に戻ったとしても、私という存在が世界から切り離されていることには、変わりありませんから』
「そんな……っ」
『だから、これでいいんですよ。勇者さまのために、彼女のために、命をくれた二人のために、この命を使えるのですから』
なんて無神経だったのだろうか、俺は。
――何なら俺たちのいる世界に来たらどうだ? きっと楽しいと思うぞ。
頭の中で自分の言った言葉が何度も繰り返される。
女神様はきっとわかっていた。自分がこの先、ずっと一人であの世界に残る未来を。
それなのに女神様は、俺のために笑ってくれたんだ。
『……もしも、二人と同じ世界に生まれることができたら、きっと楽しかったんでしょうね』
訪れるはずのない未来に、思いを馳せる声。
『それを勇者さまが提案してくれたこと、本当に嬉しかったですよ』
「えっ……?」
『だって、私がいる世界を勇者さまは望んでくれた』
『ただの人形に過ぎない私を、勇者さまは一人の人間として見てくれた』
いつの間にか、全身の体力と魔力が、半分以上も回復していたことに気づく。
それは、とどのつまり女神様が、自らの存在を俺に分け与えたことのこれ以上ない証左だった。
『勇者さま』
「…………」
何も声にならなかった。何て言えばいいのか、わからなかった。
『最後、別れるときの挨拶をしていませんでしたね。忘れていました』
クスッと笑い声が聞こえる。胸が痛くて仕方ないのに、俺も少しだけ笑えた。
『さよなら、勇者さま』
「……さよなら、女神様」
姿は見えなかったけれど、安心するように微笑んだのが見えたような気がした。
――
――――
音が戻ってくる。風景に色彩が戻る。
俺は今もなお落ち続けていて、涙が上に向かって流れていく。
魔力がみなぎってくる感覚が、その人が存在していたただ一つの痕跡だった。
「女神様……。その命、絶対に無駄にしない……!」
飛行魔法を唱え、一気に空へと上っていく。流した涙を追い越し、さらにその先まで。
長い時間が過ぎたように感じていたが、実際に流れたのはほんの数秒ほどだろう。まだ結界はほとんど修復されていない。
これ以上、余計な時間をかけてはいられない。
「今度こそっ!」
まだ微かに剣に魔力が残っているおかげで、集中はすぐに完了し、一気に放った。
突然の俺の復帰を予測していなかったらしく、結界は一瞬でバラバラに砕け散った。
「おおおおおぉぉぉぉぉおおおおおおっっっ!!!」
もう一度同じだけの結界を張るよりも、俺が中枢に剣を突き刺すほうが早かった。
剣を通して残った魔力をありったけ注ぎ込むと、中から真っ白な光が溢れ出てくる。
俺の魔力とこいつの中の魔力が混ざり合い、連鎖反応的に自分自身を破壊していく。
もう、崩壊するのは時間の問題だ。
このままここにいても、崩壊に巻き込まれるだけで、もうこの場に留まる理由はない。
「くぅっ!」
残った力で後ろへと、空中へと飛び退く。
俺の体は落ちながら、どんどんそこから遠のいていく。
中枢から次から次へと、ボロボロと崩れ落ちていく光景が、遠くに見えた。
「これで……やっと」
急速に遠くなっていく光景が、徐々に薄れていく。
「あ、れ……、見えないや……」
視界がぼんやりとボケていって、段々と暗くなっていって、やがて何も見えなくなった。
――
――――
「……! …………ぶ!?」
誰かの、声が聞こえた。
どうしてか、それに自分は安らぎを覚えて、そのままもう一度眠ってしまいそうになる。
「ねぇ……! ねぇってば……!」
ポツリ。
あたたかいような冷たいような、よくわからないものが自分の頬に落ちてきた。
これは、涙だ。
ゆっくりと目を開くと、よく知っている顔が目の前にあった。その表情がひどく歪んでいて、申し訳なくなる。
ああ、違うんだよ。そんな顔をさせたくなくて、今まで頑張ってきたんだ。
だから、どうか。
「泣かないで、くれよ」
彼女の目がハッとなって俺を見る。涙で潤んだ瞳がすごく綺麗だった。
「い、生きてるの……?」
「ああ……」
自分の手を動かしてみる。ひどく全身が重くて、体が自分のものじゃないみたいだ。
けれど、動かないことはない。ただ、少し疲れているんだろう。
「そう、みたいだ」
「よかった……、よかったよ……!」
またいくつも涙が俺の顔にこぼれ落ちてくる。鉛のように重い腕をどうにか持ち上げて、彼女の頭に乗せた。
ああ、生きている。
彼女もまた、今この瞬間に、この場所で生きているんだ。
なんだかまだ実感が湧かないけれど、それでも嬉しくてたまらなくて、胸の中が熱くなる。
「やっと、助けられた……」
少しずつ空が白み始める。夜が終わり、朝がやってくるのだ。
さすがにあれだけのことがあったせいか、鳥の声も虫の音もしないが、吹き抜ける風が微かに熱を帯びているのを感じた。今の季節は――。
――じゃあ、何年か先の夏で、また。
――うん。また……。
いつかの約束が頭の中にふっと思い浮かんだ。
「ちゃんと、約束守れたんだな」
「うん……。そうだよ」
泣き声の入り交じる彼女は、そう言ってうなずく。泣いているけど、笑っている。
「おかえりなさい」
懐かしい、太陽のように眩しい彼女の笑顔が、そこにあった。
なら、俺はこう返そう。ちゃんと彼女の元に帰ってきたことを伝えるために。
「ああ。ただいま」
おわり
437 : ◆Rr2eGqX0mVTq - 2018/08/01 02:11:35.67 9OC/ch8I0 369/370Cradle Song For The Two
https://youtu.be/8xWccvsuhuc
このSSのエンディングテーマです。
439 : ◆Rr2eGqX0mVTq - 2018/08/01 02:14:42.38 9OC/ch8I0 370/370このような拙い作品に最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。