関連
お嬢さん「現実逃避、しませんか?」【前編】

509 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 17:31:52.59 RfWIzW8F0 159/338




「休日は、とてもよくねるんですね」

「もう正午です」

「ふふ、少し寝顔をみていました」

「気持ちよさそうでした」

「……い、いえ、そんなことないですよ!」

「か、可愛かったですよ……?」

「ああちょっとまた毛布被らないでください!」

「そ、そんなことだとお昼ごはんさめちゃいますからね」

「はい、つくってあります」

「サンドイッチですが」

「え、それなら失敗のしようがないから安心だ?」

「そ、そんな失敗だなんてー……」

「……た、たべられますよ?」

「……大丈夫です」


514 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 17:45:40.38 RfWIzW8F0 160/338


翌朝朝食をお嬢さんと取ったあと、
彼女は俺の部屋へとやってきた。

お嬢さん「ふう……」

深呼吸。

「だ、大丈夫か?」

お嬢さん「……はい」

お嬢さん「昨日、お話しすると、お約束しましたから」

お嬢さん「大丈夫です」

「……そうか」

お嬢さん「本当は、隠し通したかった」

お嬢さん「いいえ、このまま言わなくてもよかったのです」

お嬢さん「問題は、なかった」

お嬢さん「けれど、でも……。あんな風にされて、私」

お嬢さん「もしかしたら、もしかしたら大丈夫かも」

お嬢さん「って、思ってしまったんです……」

お嬢さん「私は、弱い人です……」


518 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 17:56:35.73 RfWIzW8F0 161/338


お嬢さん「これから、私の知っていること全てを、お話します」

お嬢さん「私の身体の話は」

お嬢さん「結局そのまま芋づる式に、話さなければならないことを引きずり出します」

お嬢さん「だから、全てをお話します」

お嬢さん「でもそれは、きっと」

お嬢さん「……いえ、間違いなく、間違いなく貴方を傷つけることになります」

お嬢さん「それは心も、身体も」

お嬢さん「予測ではありません。間違いなくです」

「……どうしてわかる」

お嬢さん「……お話を聞いた後ならば、お分かりになられる、かと」

お嬢さん「……、それでも、それでも」

お嬢さん「貴方は、お聞きになられますか。今なら、まだ……」

「……」 

「ここで首を横に振る人間の方が、少ないのではないかな」

「……知らなきゃきっと、始まらない。だから教えてくれ。君の知っていることを」


526 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 18:29:56.49 RfWIzW8F0 162/338


お嬢さん「どこからお話しましょうか……」

お嬢さん「いえまずはこの身体から。そこから話を一つ、一つ」

お嬢さん「触れてみてください」

俺は差し出されたその白い腕に、触れる。

お嬢さん「体温がないのは、分かると思います」

お嬢さん「けれどよく見てください」

お嬢さん「血潮がとまっているわけでは、ないのです」

お嬢さん「私が無くしたものは、本当にただ、体温だけ」

お嬢さん「まずはその不思議がまかり通るのがこの場所だということ」

お嬢さん「ご理解ください」

不思議なのは今さらである。

「四季が同居しているのにくらべれば、この程度」

お嬢さん「くす、それもそうですね」


530 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 18:40:18.88 RfWIzW8F0 163/338


お嬢さん「何故私が体温をなくしているかですが」

お嬢さん「その前に、この場所についてお話しなければなりません」

「この場所について?」

お嬢さん「はい」

お嬢さん「まず、一番基本的な部分」

お嬢さん「お忘れかもしれませんが、ここは旅館です」

お嬢さん「サービスを受ける以上」

お嬢さん「対価が必要になります」

お嬢さん「ここまでは、わかりますか」

「……な」

よく考えると、しかし、そうか。
誰も無料だなどとは、言っては、おらず。


533 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 18:43:43.60 RfWIzW8F0 164/338


お嬢さん「この館での生活の対価は」

お嬢さん「……身体の機能の、一部です」

「身体の機能の……一部……?」

お嬢さん「それが、私は体温だったということ」

お嬢さん「つまりここに客として訪れた人間は」

お嬢さん「必ず身体のどこかに、何かしらの欠損を持っているのです」

「え……?」

「い、いやしかし皆普通だったような」

「俺だって、ほら、どこにも……」

お嬢さん「残念ながら」

お嬢さん「貴方も、もちろん貴方が会ってきた方々全てにも」

お嬢さん「例外はありません」


548 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 18:55:59.76 RfWIzW8F0 165/338


お嬢さん「この館には、私の知る限り六人の滞在者がおります」

「俺と、君と、芸者さんと、童ちゃんと、カタギさんと……それに、仮面さんか」

お嬢さん「そうですね。そのうち私を含め四名が」

お嬢さん「外から分かりやすい欠陥を、持っています」

「四人……、も……? だ、だれ」

お嬢さん「難しい話ではありません。よくよく、思い返してみてください」

お嬢さん「いえ、貴方に分かるのは、私を除き二名まで、でしょうけれど」

俺は考える。
まず芸者さん。
彼女とは結構な時間会話をしたが、思い返しても心当たりは、ない。

次に童ちゃん。
彼女は――

「童ちゃん……、視覚、か……?」

お嬢さん「そうです。……しかし、彼女はもう一つ失っています」

「……な、え……、それって」

「……、……感情、も?」

お嬢さん「そのとおり」


553 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 19:01:46.68 RfWIzW8F0 166/338


「何故、二つも」

お嬢さん「それは、あとでお話しましょう。残りの二人を探してみてください」

「……」

カタギさん。
彼とはほぼ一日酒を飲み交わしたことがある。
しかしその間、そのような気配は、なく。

仮面さん。
彼は――

「そうか、理性」

お嬢さん「はい、だから、カタギさんは、あのように」

「ああ……!」

理性を売った。つまり、それを対価とした。

お嬢さん「ただ、正確には理性ではなく、思考能力そのもの、だそうです」

お嬢さん「だから本当に、残っているのは本能のみなのです」

お嬢さん「ただ……、彼については私もよく分かりません」

お嬢さん「他にも何か失っている可能性は、大いに、ありえます」


559 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 19:07:55.22 RfWIzW8F0 167/338


お嬢さん「では、最後の一人」

「……、いや」

「俺しか、いないよな」

お嬢さん「くす、そうですね。そのとおり、貴方です」

お嬢さん「貴方もまた、あるものを失っている」

お嬢さん「私はそれを、貴方から隠すために」

お嬢さん「知ってもらいたくないために」

お嬢さん「たくさんの事を、隠しました」

「お、俺は何を、なくしている……?」

お嬢さん「……その前に、もう少し、外枠のお話をしましょうね」

そういってお嬢さんは、コップに水をそそいで、差し出した。


566 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 19:23:00.58 RfWIzW8F0 168/338


お嬢さん「カタギさんと芸者さんについては、本人に聞かなければ分からないのですが」

お嬢さん「お伝えしなければ話が進まなくなるので、何かだけ」

お嬢さん「カタギさんは、痛覚。芸者さんは、性欲、ならびに性感の全てです」

「……な、なるほど」

確かに、外からでは分からない。

お嬢さん「これで、貴方以外の五人の対価が把握できたかと思います」

お嬢さん「では少し戻りまして」

お嬢さん「童ちゃんの時、貴方は何故二つか、と問いました」

お嬢さん「その答えは、とても単純です」

お嬢さん「彼女自身が、それを選んだから」

「……え?」

お嬢さん「つまりここの対価は、それぞれ」

お嬢さん「自分で選んで、決めることが、出来る」


573 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 19:41:08.83 RfWIzW8F0 169/338


お嬢さん「私たちは、ここに逃避することが決まった時」

お嬢さん「その時点で、対価を問われます」

お嬢さん「そして、それぞれが、それぞれの理由で、対価を選択します」

「では君も、自ら、体温を……?」

お嬢さん「はい。今はその理由は、置いておきます」

お嬢さん「またどうしてそれぞれがその対価なのかについても」

お嬢さん「気になるのであれば後ほど個々人に、聞いてみてください」

「……わかった」

お嬢さん「いっぱい話すと、疲れますね」

お嬢さんは、水をのみ、ふうと息をついた。

お嬢さん「続けましょう」

お嬢さん「次は、対価の使われ道についてです」


576 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 19:48:41.31 RfWIzW8F0 170/338


お嬢さん「対価は、とても分かりやすい形で私たちの前に現れます」

お嬢さん「なぜなら自分たちの失っているものを、持っているから」

「いや、まさか……」

お嬢さん「はい」

お嬢さん「……それが、メイドさん、という存在です」

お嬢さん「カタギさんは、だから人形だとよく言っていました」

お嬢さん「人の形をした素体に、私たちが対価として支払ったものを、まとっていく」

お嬢さん「そうして形作られるのが、あの姿なのです」

「な……」

お嬢さん「それは支配人自身も言っておりました。聞けば、教えてくれたはずです」

「え」

お嬢さん「しかし貴方は、元手となるはずの、基本的な情報」

お嬢さん「対価というものそれ自体を知らなかったから、追求することが、できなかった」


578 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 20:01:06.47 RfWIzW8F0 171/338


お嬢さん「では、なぜ、貴方はそれを知らなかったのか」

「……それ、は」

お嬢さん「それは……、いえ、聡明な貴方なら、もう」

「……あ、あ……、ああ……」

そうか、そうか、そういうことならば。
ああ、なんて簡単な。
なんて、馬鹿馬鹿しい話なんだ。

体温を、視覚を、感情を、思考能力を、性欲を、痛覚を、覗いて、残るのは何だ。

いや違う。残るものは、まだいくつか考えられる。

残った中で、俺と合致するものは、なんだ?

「ああ……、そういう……」

「そういう……こと、なの、か……?」

俺が忘れるわけもない、彼女達の特徴。
なぜなら、自分で調べていたではないか。

「あああ……、俺は……」

記憶が、無かった、のか……?


582 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 20:07:47.89 RfWIzW8F0 172/338


「記憶が……」

「……」

「いや……、そんな、単純な話では……ない……?」

お嬢さん「……はい」

お嬢さん「貴方はただ単純に記憶をなくしているわけでは、ない」

お嬢さん「先ほども言いましたとおり、ここの対価は身体機能の一部」

お嬢さん「記憶をなくしているだけでは、ありません」

俺はポケットに入れいたメモ帳を、とりだして。

「そうか……、ああ」

「ああ、そういう、そういう」

「だから」

お嬢さんは、今まで、かくして。

「ああああ……」

「ああ、あああ……! そういう、そういうこと、かぁ……っ……!」


594 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 20:24:54.28 RfWIzW8F0 173/338


お嬢さん「そうですか。よかった……、ほっとしました」「ほっとした?」お嬢さん「いえいえこちらの都合です」

「ああ、もうそういう状態」 ならさっきの確認は事後承諾でございましたか。

「いやそれはそうだけども……、でもそれは事後承諾的な――」支配人「まあまあ。そのあたりは追々ということで、ね」

「初めてだもんねわからないよね、ごめんごめん」芸者「おにいさんの部屋って、春の間だっけー?」

「いや順序が逆だ! 俺はここに連れられてきた後に言ったんですよ」「貴方に言ったわけではない」
支配人「貴方は間違いなく現実逃避を望みました。そして私がそれに応え、ここにお連れしたのですよ」

「はい。どうにも言ってることがかみ合わなくて」芸者「ま、そうだよねー」

カタギ「ああまた一からか面倒だ」

>何か特別な会話があるわけでもなく、たわいなく飲み交わしているだけというのに。それはとてもしっくりときた。

「いつも、こんなかんじなんですか」カタギ「……」カタギさんは一瞬俺の目を見て、変な間を空けてから。
カタギ「そうだ」なんだろう、今の。

カタギ「毎度あいつらが隠すのも分かるっちゃあ分かるんだがな」カタギ「俺も巻き込んで、なんてのは簡便してほしいもんだ」
カタギ「俺は別にどっちでもいい」カタギ「いやむしろあいつらが隠せば俺に聞きに来るんだから」

ああ、全て、すべて

まるで、茶番の

あああ、なんと

ふざけた この  数日間


596 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 20:32:11.66 RfWIzW8F0 174/338


お嬢さん「そう」

お嬢さん「私たちは、もっともっと、ずっと昔から」

お嬢さん「貴方と付き合い」

お嬢さん「そしてここでの貴方を」

お嬢さん「貴方以上に、知っている」

お嬢さん「なぜなら」

「なぜなら……、俺が……」

「なんども、なんども、なんども……!」

「最初に、もどって、いる、から……!!!」

これまでの数日間が、
まるで初めてのように進めていたのに、
それは、全て周りからみれば茶番で。

頭を抱えるほかになく。
震えるほかになく。

お嬢さん「いいこ、いいこ」

お嬢さんは、そんな俺の方を、優しく抱いた。


601 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 20:48:11.43 RfWIzW8F0 175/338


お嬢さん「もう何年も前の話です」

お嬢さん「私たちは貴方に、記憶がリセットされることを、戻るたびに伝えていた頃があります」

お嬢さん「しかし貴方は、決してその呪縛から逃れることはできず」

お嬢さん「いつしか、伝えたことを一瞬に忘れてしまう貴方を」

お嬢さん「私たちは、見ていられなくなりました」

お嬢さん「とくにそれを知った最終日の貴方などは、本当に、目も当てられず……」

お嬢さん「いいえそれだけではありません」

お嬢さん「貴方と築いた関係が、一瞬にして消え去ることもまた」

お嬢さん「私たちにはたまらなく、つらかったのです」

お嬢さん「だから、たくさんのことを、試しました」

お嬢さん「たくさんの方法を試し、貴方が幸せになれるように」

お嬢さん「また私たちと貴方の関係が、このリセットをはさんでも上手くいくように、何度も試行を重ねました」

お嬢さん「今のように、出来る限り事実を隠すようにしたのは、三年ほど前だったでしょうか」

お嬢さん「こうすることで貴方は、何も気づかずに最終日を迎えることが」

お嬢さん「いくらかは、できるようになったのです」


604 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 20:53:11.83 RfWIzW8F0 176/338


お嬢さん「しかし貴方は聡明でした」

お嬢さん「例えばメイドさんを調査することによる十日間の割り出し」

お嬢さん「見事です、あれは、正解なのです」

お嬢さん「メイドさんの周期と、そして貴方の周期もまた、十日間」

お嬢さん「今回はタイミングが遅かったため、至れませんでしたが」

お嬢さん「貴方はあそこから、自分と結びつけることができる場合だってありました」

お嬢さん「それ以外にも、貴方はどこかの一つほころびから、何かを見つけて」

お嬢さん「毎度どうにかして、自分を探り続けました」

お嬢さん「そうして得た手がかりで、過去に何度も、貴方は自ら支配人を問い詰め、回答を得たのです」

お嬢さん「先ほど私が貴方に説明した中にも、貴方自身が持ち帰った情報は、いくつかあるのです」

お嬢さん「しかし、いずれも、いずれも」

お嬢さん「結果的に、貴方は」

お嬢さん「……」


612 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 21:15:00.32 RfWIzW8F0 177/338


お嬢さん「けれど、話はここではじめに戻ります」

お嬢さん「そもそも、この十日間の記憶という呪縛は」

お嬢さん「あなた自身が、作り出したもの、なのです」

お嬢さん「過去の貴方は、これを考察し、答えを見つけました」

お嬢さん「代弁いたします」

『……俺は十日間を記憶する能力を、失ったわけだが』
『それはつまり、“十日間分”を記憶できなくなった、ということになるらしい』
『十日間で、一つのセットなんだ。だから、十日間の間は、記憶が持続し』
『十日間が経てば、0にもどる』
『それと、メイドさんたちはその逆だったんだ』
『俺は普通の人間だから、元から記憶する能力があったが、彼女達には無かった』
『だから、俺から見れば“十日間を記憶できなくなった” のだが』
『彼女達にしてみれば、“十日間を記憶できるようになった”なんだ』
『だから、システムだけみると全く同じ処理に見える』
『だが決定的に、構造が逆なんだ。ずっと疑問だったが、こういうことらしい』

『……過去になにかあったんだ、ここに来る前の十日間に、なにか』
『だがそれが、思い出せない』
『いやきっと、忘れるために俺はこれを、対価として差し出した』
『でも俺はそれを……、思い出したい……』
『じゃなきゃ、いつまで経っても俺はこの十日間から抜け出せない』
『そのための方法はただ一つ」

お嬢さん「俺はこの旅館を抜け出さなければ、ならない」


622 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 21:39:47.25 RfWIzW8F0 178/338


お嬢さん「……と」

「この旅館を、抜け出さなければ、ならない……」

たしかに、そうだ。
この十日間のリセットを繰り返さないためには、それしか方法がない。

お嬢さん「……そして最後に、貴方がここを抜け出せなかった、理由」

お嬢さん「でも、これは私ではなく、支配人に聞かれたほうがよい、かと」

お嬢さん「貴方が最後に出口をさがして駆け出した後、リセットされて見つかるまでのことを」

お嬢さん「私はあまり詳しくはないのです」

「あまり……?」

お嬢さん「……少しは、知っていますが」

お嬢さん「でも、やはり支配人に聞かれたほうがよいかと」

お嬢さん「ですから、私がお伝えできるのは、ここまでです」

お嬢さん「ながかったですね。……おつかれさまでした」


624 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 21:46:45.60 RfWIzW8F0 179/338


お嬢さんは少し休憩しましょうかと言って、
お茶の用意をしようと立ち上がった。

「今……、九日目、だったか」

お嬢さん「はい。九日目、です」

「そうか」

二日。後二日しか、時間が無い。

「すまない、お嬢さん。支配人のところへ、行ってくる」

お嬢さん「あ……」

お嬢さん「はい」

お嬢さんは一瞬俺をとめようとして、しかしそれをやめた。

お嬢さん「がんばって」

「ああ」


631 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 21:54:33.78 RfWIzW8F0 180/338


フロント

「支配人、いますか」

支配人「はいおりますよ」

支配人「おや……その目はまた」

「……」

支配人「ひさしぶりですね、ここ半年以上、貴方のその顔は見ておりません」

支配人は嬉しそうな顔で、俺の目をみた。

「俺を現実に、戻して欲しい」

支配人「承知しました」

支配人「……ではどうぞお帰りください」

「……出口は、どこです」

支配人「出口は、貴方の中に」

「なぞかけですか」

支配人「いいえ。貴方が本心から出たいと思えば」

支配人「きっとその場所は、見つかるはずです」


639 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 22:14:28.89 RfWIzW8F0 181/338


支配人「ここは現実逃避をする場所です」

支配人「ですから、本心から現実に帰りたいと思わなければ」

支配人「それは叶わない、というだけの話です」

支配人「大丈夫です、ご安心ください」

支配人「探していけばきっと見つかります」

支配人「実際、過去に貴方は何度かそこへたどり着きました」

「……そうか」

「い、いやまて、たどり着いた!?」

支配人「はい、たどり着きました」

「じゃあどうして、ここにいるんです」

支配人「正確には、出口につながる道を発見しました」

支配人「しかし、出口までは手が届かなかったのです」

「何故です」

支配人「何故でしょうねえ」


699 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 01:20:42.16 oVyIEMwx0 182/338


自室へと戻る。

「そんなわけで、自力で探せとのことだ」

お嬢さん「やっぱり、ですよね」

「とにかくさがしまくってみる、しかないのかな」

お嬢さん「過去の貴方は、そうしておりました」

「そうか……」

「過去の俺に見つけられたなら、今の俺に見つけられない道理はないな」

一応フロントにあった正面玄関らしきものにも手はかけたが、
そんなに分かりやすいものが出口であるはずはなく。

お嬢さん「あはは……、正面玄関は飾りだって、前に支配人がいってました」

「飾りか……」


702 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 01:26:59.82 oVyIEMwx0 183/338


お嬢さんの出してくれた、お茶を飲んで一息をついて。

「ありがとう。それじゃあ、探しにいってくるよ」

お嬢さん「はい」

「お嬢さんは……、どうする」

お嬢さん「貴方がここを出るための場所は、貴方にしか見つけられませんから」

お嬢さん「私が一緒にいっても、足手まといになるだけに」

「……そうか、なら、見つけたらすぐに報告しにくる」

お嬢さん「くす、……吉報を、おまちしておりますね」

「ああ」


704 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 01:31:28.61 oVyIEMwx0 184/338


(まずは一つずつ可能性をつぶしていくか……)

手近いところから、確実に。

「ちょっとメイドさん、何人か」

メイド「はい!!」

メイド「なんでしょう!!」

メイド「なんなりと!!!」

メイド「言いつけられたら!」

メイド「なんでも従いますよ……!」

「いや、そうではないんだ。すまない。ちょっと聞きたいことが」

「メイドさん、出口というのは、しらないか? 現実にかえるための」

メイドさんはきょとんとしたあと、顔を見合わせて、

メイド「「「さ~?」」」

と首をかしげたのである。

「まあ、そうだよな」

(メイドさんは知らない……と)


706 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 01:39:55.05 oVyIEMwx0 185/338


夏の間

芸者「え、出口……? ……ああ」

芸者「そっかあ、お嬢さん……」

「はい、全部、聞きました」

芸者「うん、そっかそっか」

芸者「お嬢さんのこと、口説いたのねー」

「え、いやいや……、まさか」

心当たりは、ないような、あるような。

芸者「ふふふ」

芸者「まあそうじゃなきゃ、お嬢さんきっと言わないからなあ」


711 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 01:56:57.32 oVyIEMwx0 186/338


芸者「それで、出口だけど」

芸者「ごめんね、私には分からないよ」

「そう、ですか」

芸者「童ちゃんは知ってる?」

「知らない」

芸者さんは肩をすくめて見せた。

芸者「出口、みつかるといいね」

「……はい、頑張ります」

芸者「みつからなかったら、また十日間遊ぼうね」

「そうなりたくはないですが……」

「その時は、よろしくお願いします」

芸者「また目を隠して登場しよっかなー」

「あ、あれは真面目にびっくりするんで、できれば別の方法で……」

芸者「かんがえとくー!」


714 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 02:07:53.20 oVyIEMwx0 187/338


冬の間

「おわ、カタギさんなんですかそれ」

部屋を訪れると、カタギさんはなにか物騒ちっくなものを分解していた。

カタギ「見りゃ分かるだろ、チャカだチャカ」

「本物の銃をみて驚かないような生活してません」

どうやらメンテナンス中のご様子。

「……トカレフですか」

カタギ「そうだが」

トカレフといえば、昔の極道の定番である。
しかしながら基本的には量産の銃なので、
最近ではもう少し良いものが扱われているようだが。
とにかくカタギさんには、なぜかよく似合った。

カタギ「それで、用事は」

「あ、ああ、えっと」


716 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 02:17:48.10 oVyIEMwx0 188/338


カタギ「そうか、今回は珍しく喋ったか」

カタギ「じゃ、頑張れ」

「あ、あの、出口とか……」

カタギ「お前の出口はお前にしか分からない」

カタギ「誰が協力できるものでもねーよ」

カタギさんは言いながら、手先は器用にかちゃかちゃと。

「なにか、せめて手がかりになりそうなことは」

カタギ「自分で見つけろ、そいつが筋だ」

カタギ「結局本気で帰りたいと思ってなきゃ帰れねえんだ」

カタギ「本気なんだったら、自分でなんとかなる」

元極道に筋と言われてしまっては、生粋のカタギにはもうどうしようもない。

「……わかりました」

しかしいつものカタギさんのようであったが、
どこか、いつもより素っ気なかったような、気がした。


718 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 02:31:02.97 oVyIEMwx0 189/338


これでひとまず、旅館の住人には聞き込みが終わった。
芳しい反応こそなかったが、
とにかく自分で見つけなければならないということだけはよくわかった。

(仮面さんは、そもそも話通じないしな……)

しかしこれで手近なものは概ね終わってしまった。
あとはなんとかしてこの屋敷の出口を探すしかないわけだが……。

「手がかりが……ない……」

この旅館は大きすぎる。
全てさがせというのでは、二日どころか一ヶ月あってもおそらく足りない。

「だからたぶん、そういうわけでは無いんだろうな……」

支配人が見つかると言っている以上、
二日で十分見つかる可能性のある場所に出口はあるはずなのだ。

「うーむ……」


720 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 02:35:32.19 oVyIEMwx0 190/338


いや、そもそも出口という概念をいったんはずしてみよう。
目的はなんだったか。

「この旅館を、脱出すること」

であれば、どこかここから外へと出られる場所を、
探しだせばいいのではないだろうか。

「しかし玄関は飾りだし……」

となると外への出入り口は最初からないような気もしなくはない。

あまり成果はあがりそうにないが、
とりあえず俺は、飾りといえど玄関扉側が旅館の外と仮定して、
壁にそって歩きながら、窓や扉がないかを探してみることにしたのであった。


722 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 02:44:44.66 oVyIEMwx0 191/338


「だめか……」

四時間探して、外につながるようなものは何も無く。
それどころか壁にそって歩いていたつもりなのに、
入り組んでいるからかいつのまにか中央広場に、
なんてこともよくあった。

「しかし成果がなし、ではないな」

おそらく、たぶんきっと、端っこの部屋、かもしれない、かなあ、
という部屋の角にあった柱に、

「横一線の、跡、ね」

前に自室の窓でみた、何かで傷をつけたような跡。
それが三つほどあった。

「何かの暗示か……あれは」

一応、手がかりということで。


723 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 02:52:31.65 oVyIEMwx0 192/338


一度腰を落ち着けたのは、午後三時ごろだったろうか。

旅館内によくある、趣味のいい休憩スペースで、
メイドさんに持ってきてもらったパンをかじっていた。

「これは、まずいな……」

「みつかる気配がない」

うろうろと旅館を歩いているだけでは、
いつのまにか同じ場所にいたりして、効率は悪そうだった。

「うーん……」

パンを、かじる。

「……、……あ」

パンがなければなんとやら。

「出口がなければ……」

「屋根をこえればいいじゃない?」

その手があったか。


724 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 03:01:10.15 oVyIEMwx0 193/338


冗談抜きで、それは一手であると思った。

「しかし旅館の中からだと、たどり着くのも困難だし」

よしんばメイドさんの案内でたどり着いても、
内側から外にでるのがさきほどの調査で難しいと知った以上、
あまり期待はできない。

であれば。

「壁をそのまま登ってみるか」

と思い立って、俺はすぐに春の間にもどった。
旅館の中に外があると言うのも馬鹿な話だが、
このファンタジー空間は確かに外であって、
屋敷そのものをよじ登れそうではある。

正直、もう打つ手がなかった。
思いついたものをやるだけやってみるしかない。

ざっと見回して、

「ここなら……」

足場を上手く作れそうな所から、登り始めた。


726 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 03:06:20.69 oVyIEMwx0 194/338


開始から一時間半をかけて、ようやく。

「のぼりきった……」

屋根の上。
傍目から見たら馬鹿だったろうが、
とにかく行動を、しなければ。

「しかし……、これは」

屋根の上は、見事な瓦のつらなりであった。
よく見ると鳥の巣などもあったりする。

「……、……」

屋根の上から春の間を見渡すと。

「霧が……」

俺の過ごした春の間を、遠く眺めようとしても。
そこには全て、霧がかかってなにも、見えなかった。

下に居た時は、ずっと向こうまで見えていた、はずなのに。


728 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 03:14:12.75 oVyIEMwx0 195/338


なにか、やるせなさのようなものを感じた。
隠されたその空間が、
まるで画面の外側の、作られなかった背景のような、
舞台の、裏側のような。

「……、……」

今まで過ごしてきた空間が舞台だと知ったときの、
そのあまりにも複雑な苦さは、
いったい誰に、分かるだろうか。

「くそ……」

また今俺が居る場所ではなかったが、
遠くの屋根には同じような霧がかかっていて、その向こうは見えなかった。
あれはおそらく、他の季節との、敷居。

「……」

俺は首をふって、そのやるせない気持ちを振り払う。

今は、脱出することを。

俺は屋根の反対側へ、向かうことにした。
旅館をはさんだその向こうに、一縷の望みをかけて。


730 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 03:29:52.74 oVyIEMwx0 196/338


「……これ、は……」

そうして、広がった風景は。

「なん、だ」

春の間の方をみればさんさんと明るいのに、
その反対側はまるで時間のとまったような灰色の雲と、
景色と。

「……」

寒気がした。
ただ、すくなくともそれは外の光景ではあったのだ。
季節は捕えがたいが、
その景色には山があり、野があり、そして村が、あった。

「ん……」

山村というのが時代に取り残されている、というのは分かるのだが。
それにしても、もっと、古い時代のような。

「これは、いったい……」


733 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 03:46:14.30 oVyIEMwx0 197/338


支配人「素晴らしい景色でしょう」

突然現れた支配人に、俺は軽く眼をやった。
神出鬼没には、もう驚かない。

「……寒そうです」

支配人「灰色がかっておりますからな、しかたありません」

支配人「もうすこし色が付いていれば、のどかな山村風景にみえたでしょう」

「そうですね」

支配人は後ろ手を組んで、その風景を見下ろしていた。
どこからか風が吹いたて、ぱたぱたと着物を揺らす。

しばし、無言。


738 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 04:11:40.87 oVyIEMwx0 198/338


少し昔話を、と支配人はつぶやくように言った。

支配人「ここには昔、とてもとても立派な宿がありました」

支配人「その宿は、しばらくのあいだここでとても栄えました」

支配人「大きく、綺麗で、どこからでも人が足を運ぶような場所でした」

支配人「しかし、ある時ぱったりと、人の足はやんだのです」

支配人「なぜならその商売繁盛は」

支配人「人の手ではなく、悪魔の手によるものだったから」

支配人「その宿の当時の管理者は」

支配人「悪魔と契約をして、宿を栄えさせていたのです」

支配人「しかし悪魔は期限を設けていました」

支配人「だからその満了時に、悪魔はこの旅館の全てを、回収したのです」

支配人「そうしてここにあった旅館は、何日もせぬ間に廃れ」

支配人「栄えたのも一瞬の輝き、気づいた時には跡形も、なくなっていたのです」


740 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 04:17:16.74 oVyIEMwx0 199/338


支配人「ここから見えるこの風景は」

支配人「その宿が廃れるまさに寸前で、時間が止まっているのです」

支配人「……美しいでしょう」

支配人はそこで、くすっとわらう。

支配人「貴方がここに来たのは何年ぶりでしょうか」

支配人「たしか……そう、もう三年はたちましたかね」

「……過去にも、来たことがありましたか」

支配人「はい。今回のように、壁をよじ登って」

「今も昔変わらない」

支配人「そうですね、貴方は行動力だけはピカイチだ」

支配人「いくら出口が見つからなくても、壁をよじ登って屋根までなんて」

支配人「そんな人間は千人に一人もいないんじゃないですかね?」

「俺も、そう思う」


741 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 04:22:27.94 oVyIEMwx0 200/338


支配人「貴方がここまで来た時は、毎度この話をしたんですよ」

「……そうですか」

吹いた風がやむのを待って。

支配人「戻りましょうか」

支配人「ここまで来るのは構いませんが」

支配人「これより向こうは、貴方の望んだ帰る場所とは違います」

「……そう、ですね」

俺はそうして、支配人ついていった。

その途中。
屋根につながる扉――やっぱりあったらしい――のフチに
横一線の、跡が。

支配人「ああ、これですか」

支配人「何だと思います?」

「いや……、分からないが」

支配人「……ふふ、これは、貴方がここにきたと示すためにつけた、跡です」

支配人「過去の貴方が、次の貴方に伝えるために、ね」


742 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 04:27:36.52 oVyIEMwx0 201/338


部屋に戻り、いつの間にか時間は九時を回っていた。

「あ……」

部屋に戻ると、手のつけられていない夕食のお膳の横で。

お嬢さん「すー……」

お嬢さんが、ねむりこけていた。

「待ちくたびれていた、のか……」

申し訳ないとおもった。
まさかこの部屋でずっと待っているとは、思いもせず。

「お嬢さん、お嬢さん」

肩をゆすってみるが、起きる気配はなく。
仕方がないので俺はふとんをしくと、
なれないながらお姫様抱っこの要領でもちあげ、寝かせた。

「俺も今日は……寝るかな」

あと一日。
きっと明日には、なんとか。

……。



747 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 04:41:08.41 oVyIEMwx0 202/338




「押し花とか、つくってみました。どうですか?」

「ふふふ、得意なのです」

「え? あ、えっと、お恥ずかしいのですが」

「幼い頃は私、とても田舎に住んでおりまして」

「ええ、山の中のような。あはい、おじいちゃんとおばあちゃんの家です」

「その頃、お山の中に一つのお墓がありまして」

「ぽつんと。一つだけ」

「その納骨室に、押し花の本が一冊、入っていたのです」

「とてもふるい、お手製の」

「中のお花はとっくに枯れていましたけど、でも私それがとても気に入って」

「それ以降、押し花をよく、やっていたんです」

「それで――けほっ、けほ……っ」

「い、いえ、すいません、……、けほっ……けほ」

「だ、大丈夫です、大丈夫ですよ、ちょっとはしゃぎすぎただけです。あはは」


749 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 04:55:25.49 oVyIEMwx0 203/338


翌朝

お嬢さん「あ。おはようございます」

「ん……、おはよう」

お嬢さんは「あ、よだれが……」とタオルで頬をふきふきと。

「む、すまん……」

お嬢さん「いえいえ。……昨日は、どうでした?」

「みつからなかった。……今日、頑張るしかない」

お嬢さん「そう、ですか……」

とはいえ、もう
アテはなく。


750 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 05:00:24.31 oVyIEMwx0 204/338


時間というのは無常なもので、
館内を走り回って探しているだけで、もう昼過ぎ。

「なんで……」

なんの手がかりもなく、しかも時間の制限の中
どんなものかもわからぬ出口を探すというのは、つよくつよく、気力を削った。

「……みつからない」

焦燥感が、冷静さをうばっていくのを感じていた。

最終日なのに。
なんと時間の進みは速いのか。

「どうして……っ」

最終日になればおのずとみつかるのでは、
などという期待も、正直なところはあった。

しかし、そう甘くはなく。

見つからない。
いやわかっている、ただがむしゃらに探しているだけでは
きっと見つからないと。

でも手がかりなんて、
どこにも、ないじゃないか。


752 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 05:14:37.98 oVyIEMwx0 205/338


「……くそ……っ」

本心から思っていれば見つかる?
では俺は、帰りたくないとでもおもっているのか?

「そんなはず……っ」

ちがう、ちがう。
手がかりが、手がかかりが見つけられてないだけだ……。

何が、どこが、いつが、その手がかりになる?

「焦るな……、焦るな」

思い返せ、思い返せ。

十日間。
いままでの時間。

どこかに。
なにか。
まだ探していない、ものが……

あってくれ……!


756 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 05:36:28.68 oVyIEMwx0 206/338


昨日、九日目は?
お嬢さんからの話をきいて……、だから今、走っている。
あの中に、何かあったか?
くそ……わからない。

八日目は?
一日中お嬢さんに付き添われて、看てもらって
ここで、彼女の隠していたものをしって
でも、でもちがう、これは九日目の話につながっただけで
出口の手がかりには……ならない……っ

七日目は?
カタギさんと支配人と、飲みまくって……、
楽しかった、しかしあの恥ずかしい話の中には……
手がかりになるようなものは、なにも……

六日目は?
童ちゃんとのデートに、そのあとの夕食。
終わりの頃に少しおかしな話があったが、
しかし隠していた理由は今となっては、明白で。
売ったの意味も、既に理解している。

五日目は?
メイドさんの記憶がないことに気づいて、実験を開始した。
そして夜はお嬢さんたちとともに、カタギさんの部屋へ。
あの時のカタギさんの呟きは――いや、
今考えれば言っていた意味をより正確に捕らえられるけれど
いまは手がかりには……ならない。


759 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 05:47:51.90 oVyIEMwx0 207/338


四日目は?
風呂騒動の日だ、あの日は色々とあった。
まず秋の間にお嬢さんが居ることをはじめて知った。
その風呂をかりて、なんやとあって、膝枕で……
その後、

「……あ」

>だから、ふとした拍子にたどり着いたT字路で、
>おんもらと暗闇の立ち込める廊下を見ても、
>さほど危機感というものは感じなかった。

仮面さんと会った、あの日。

「この、場所は」

行っていない。
まて、仮面さん、そうだ、仮面さんのことについて、調べていない。

「これだ……、こいつだ……!!」

そうだ、すっかり失念していた。
話せないからと思考の外においていたのが間違いだった。

手がかりを、見つけた……!


762 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 06:05:16.38 oVyIEMwx0 208/338


「メイドさん、メイドさん!」

メイド「しゅばば!」

メイド「へいおまち!」

メイド「かっこいいぽーず!!!」

メイド「かったな……」

メイド「ああ……」

といつもどおりわらわらやってきた。

「仮面さんのところに連れて行ってもらいたいのだが」

メイド「仮面さん!?」

メイド「まためずらしい注文で!」

メイド「あぶなっかしいですよあの人!」

「わかってる、だが、いかないと」

メイド「決意の表情!」

メイド「ならしかたない!」

メイド「「「行きましょうか!!!!」」」


763 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 06:08:35.52 oVyIEMwx0 209/338


と、やってきたのだが。

メイド「あっれーおかしいなあ、ここだよねえ?」

メイド「うんうん、間違ってないとおもうんだけどー」

メイド「いつもここに廊下あるよね?」

メイド「一本まえだったっけ?」

メイド「かも?」

メイド「いやここだよう」

とメイドさんたち何故か混乱の模様。

「ここに、廊下があったのか?」

メイド「はい、たしか……」

と、ただの壁の前につったって。

(……でもたしかに、見覚えがなくもない……)

秋の間からもそう遠くなく、
確かにあの日ここに訪れた可能性は、たかい。


764 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 06:13:26.12 oVyIEMwx0 210/338


(少し、実験をしてみよう)

「ちょっとみんな、少し戻ろう」

とぞろぞろと5分ほど歩いてから。

「誰か一人、ちょっともどって、もう一回みてきてくれないか?」

といって向かわせる。

待つこと少し。

メイド「ありましたありましたー! やっぱりあそこでしたよ廊下!」

「ほう……」

メイド「仮面さんいた?」

メイド「おくーのほうにいたっぽい? かも?」

「すまないが、今度は全員で行ってみてくれるか」

メイド「「「はーい」」」

そしてまた、待つこと数分。

メイド「「「ありました! いました!」」」

(……なるほど)


765 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 06:17:03.77 oVyIEMwx0 211/338


そうしてもう一度俺が行ってみると。

メイド「あれー?」

メイド「ないねえ」

「……そういうことか」

簡単な話であった。
俺がいるとなくなり、俺がいなければ出現する。

「……これは、思ったより収穫だ」

仮面さんのことは、
正直直接脱出するための手がかりに直接つながるとは思わなかった。

しかしこれは、明らかに。
一つの大きな手がかり。


766 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 06:29:25.34 oVyIEMwx0 212/338


カタギ「あー見つけたか」

冬の間で、俺はカタギさんに相談をした。

カタギ「そうか、そうだな。今回はお前、一度あそこまでいったんだもんな」

「どういう……?」

カタギ「普段はあんなとこ行かねーからな。気づかずに終わるって話だ」

「やっぱりなにか、あそこに」

カタギさんは、目を細めてから。

カタギ「お前は、どう見る。あったりなかったり、する理由」

「俺は……」

さっと、考えていたものを頭でまとめる。


770 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 06:44:50.76 oVyIEMwx0 213/338


一度たどり着けて、今はいけない。
ということは、その二つの時点で、差があるということ。
変わったものは何か。

あそこを目的とするか、しないか。

いやしかしこれだと、あそこを目的として行ったメイドさんが
たどり着けたことと矛盾する。

では、俺だけが違ったものはなにか。
脱出しようとしていた、こと?

いやもしそうだとしても、何故?
思い出せ、なにか……

「……あ……」

支配人「ここは現実逃避をする場所です」
支配人「ですから、本心から現実に帰りたいと思わなければ」
支配人「それは叶わない、というだけの話です」

もし、もしこれが仮に出口につながるものだったとしたら……

支配人「正確には、出口につながる道を発見しました」
支配人「しかし、出口までは手が届かなかったのです」

「……!」

これで説明が、つく……!!


771 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 06:51:52.48 oVyIEMwx0 214/338


しかし、説明はつくが、
それはつまり。

「……俺が、本心から現実に帰りたい、と思っていない、から……?」

何をばかな。
今まさに帰りたいと、望んでいて、
だからこうして必死に探しているんじゃないのか?

「違うのか……?」

カタギ「……」

カタギ「さ、帰った帰った」

カタギ「自分のことは、自分でなやめ」

そうして俺は、カタギさんの部屋を追い出され、
すごすごと冬の間をでたわけだが。

「どういう、ことだ……?」

俺は、自分のことがわからなかった。


772 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 07:08:25.51 oVyIEMwx0 215/338


春の間の、部屋に戻る。

お嬢さん「あ、おかえりなさい」

お嬢さん「どうしたんです……?」

お嬢さんは帰ってきた俺のすぐ横につくと、
いたわるように背をさすってくれた。

「……わからない、どういう、ことか」

俺はつぶやくようにして、状況を伝えた。

お嬢さん「……そう、ですか」

「帰りたい、こんなにも帰りたいのに」

「十日で記憶が消える生活なんて嫌だ」

「それを何年も続けてきたという事実が心底たまらない」

「なのに、どうして……」

お嬢さん「ゆっくり、ゆっくり考えましょう。ね、……ね」


779 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 07:24:17.03 oVyIEMwx0 216/338


俺が出口を見つけても、たどり着けなかったというのなら。
俺は今までなんども、この問いを考え、
そして、答えを見つけられなかった……?

「ここまで、なんとかきたのに……」

ここまでたどり着くことができたのは、
きっと恐ろしく貴重なことなのだ。

……やっとここまできたのに、
最後の最後が解けやしない。

「……」

お嬢さんはとぽとぽとお茶をついでくれたが、
すぐには手もつけられなかった。

お嬢さん「……」

「十日間の記憶を、俺はそんなに忘れたかった、ということだろうか……」

お嬢さん「ですが貴方は、いまそれを覚えていないのでしょう……?」

そう、覚えていない。
覚えていないのに、それは帰る帰らないの今の気持ちに影響するのだろうか。
潜在意識がどーでこーでこーなった? みたいな? 

「……」

なんと曖昧な。


781 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 07:34:53.72 oVyIEMwx0 217/338


気づけば夕暮れも終わりかけの、夜の帳もおりる頃。

「……もうあと何時間かすれば」

「今日が……おわるな」

「十日目が……」

俺は、もう考えるのも疲れてきていた。

お嬢さん「大丈夫です、まだ時間は……」

「もう、疲れてしまったよ」

ああ、こうして、俺はまた。

お嬢さん「まだ時間はありますから……、きっと、きっと」

「あと数時間で、何ができるって、いうんだ?」

お嬢さん「いいえ、大丈夫ですから……」

お嬢さん「そうだ、少し横になっては」

お嬢さん「きっと考えすぎて、頭がこんがらがってしまっているのですよ……」

「……、そう、だな。うん、もう、そうするよ」

俺はきっと、もう、これで。
次の俺がまた、頑張ってくれる、だろう……。


784 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 07:52:00.47 oVyIEMwx0 218/338




「明日は、お仕事、早いんですか?」

「そうですか、分かりました」

「え、身体?」

「大丈夫ですよ、結構元気です」

「あはは、はい」

「ふふ、心配されてうれしいです」

「じゃあお昼頃、はい、電話ください」

「わかりました」

「だめですよ? お仕事中に電話なんかかけてきちゃ」

「ぎくって顔しないでください」

「そんなに心配しないでも」

「あはは」


787 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 08:11:01.87 oVyIEMwx0 219/338


「ん……」

目が覚めたとき、

お嬢さん「おはようございます」

にっこりと、微笑むお嬢さんの顔が、すぐそこにあった。

「ああ……」

それがとても俺を穏やかな気持ちにさせてくれた。

これは、夢だろうか。
俺はもう、十日の夜に、寝たのだ。
記憶など、あるはずもなく。

「お嬢さん……」

お嬢さん「はい」

彼女が居てくれることが、うれしかった。
ここ何日かずっと居てくれて。

真実を知ってから不安定になりかけていた気持ちも、
彼女が居てくれたから、安定していた。

「お嬢さん」

お嬢さん「ふふ、どうしたんですか」


788 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 08:13:25.39 oVyIEMwx0 220/338


お嬢さん「どうしたんです、そんな」

お嬢さんは、俺の頭をなでた。
くすぐったくて、なんだか、気持ちよく。

「……」

あれ? 
時計が、目に入ったような気がした。

「……あの、今、何時ですか」

お嬢さん「午前二時、ですが」

あれ?

「……あれ?」

いやいや。

いやいやいやいや?

この時間、あれ?

……あれ!?


792 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 08:17:16.22 oVyIEMwx0 221/338


「夢じゃ……ない……? もしかして?」

お嬢さん「はい、夢ではありませんよ」

お嬢さん「あ、この場所という意味でなら、分かりませんが」

「い、いやいやそういう意味でなく、寝ぼけてないか、と」

「あれ!?」

「午前二時……、え」

「十日目、おわってる、よね……?」

お嬢さん「いいえ、まだですよ」

お嬢さん「貴方にとっての十日目は、まだ」

「ど、どういう……」

お嬢さん「貴方が最初に起きたときの時間、覚えておりますか?」

>先ほどおきてから体感で2時間かかってない程度。
>となるとおきたのは正午くらいだったか。

「正午……だった、ような」

お嬢さん「ふふ、そうです」

お嬢さん「貴方の時間は、正午で一周期、なのですよ」


795 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 08:28:34.61 oVyIEMwx0 222/338


「な……」

お嬢さん「だから言ったでしょう、まだお時間ありますから、って」

お嬢さん「本当にギリギリだったら、横になっては、なんて」

お嬢さん「いえませんよ」

ぽかんと、したあと。

「はぁああーー…………っ」

すごい勢いで安堵のため息がもれた。

「なんでいってくれなかったんだ……」

お嬢さん「焦って混乱しかけていましたから」

お嬢さん「おきてもまだ時間があると分かっているよりも」

お嬢さん「分かっていないで寝たほうが、いったん気持ちをリセットできるかな、って」

お嬢さん「どうです、少しはすっきりしました……?」

ああ、この娘さんは……。

「心臓がばっくばっくいってるよ……、ったく……」

でもこれは、効き目あり。


797 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 08:36:07.44 oVyIEMwx0 223/338


「まったく……」

お嬢さん「ふふ」

何度か深呼吸をして、落ち着ける。

「とにかく……、あと十時間は猶予がある、ってことでいいのか」

お嬢さん「はい、そのとおりです」

「……わかった」

それでも十時間。
昨日考えてわからなかったことが、果たして今分かるか、とは。

「いや? まて」

今のやりとりで、俺、何を思ってた。

「……、……」

まて、そっちか、もしかして、そういう。

いやいや。
まさか。
そんなばかな。


799 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 08:40:04.48 oVyIEMwx0 224/338


ここ数日間。
ずっと俺は、彼女に癒され続けてきて。

それはとても、心地よかった。
間違いない。

ちらっと、お嬢さんを盗み見る。
まだ十四か、五か、もしかしたらそれより下か。
そんなまだ身体の成熟していない女性だけれど、
考えてみれば、心持は俺なんかよりも全然大人で。

いやなにを考えている。

お嬢さん「どうしました?」

「あ、いや、あの」

あわてふためく。なにもないのに手が宙をかく。

さすがにここまできたら、
ああ。

「そういう……、こと、か」

俺が本心から帰りたいと思い切れなかったのは。
つまり。


802 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 08:49:58.34 oVyIEMwx0 225/338


「お嬢さんが、いたからだった、か……」

お嬢さん「え?」

「いや、謎が、解けた」

「俺が本心から、帰ろうって、思い切れなかった理由」

「君がいたからだ」

いやなにをさらっと言っているのかと自分でビンタをいれたいのだが。

お嬢さん「え、あ……あの、それ」

「……な、なんだ、その」

「いや、こほん……」

「その、すまない。単刀直入にいうと、どうやら」

「……俺は、君のことが」

好きに、なった。

お嬢さん「……っ!!」

お嬢さん、その小さな口を、手で覆う。
目がくりくりとして、あっちやこっちを視線がふらふら。

お嬢さん「な……、な……」


805 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 08:55:22.05 oVyIEMwx0 226/338


お嬢さん「……」

お嬢さんは、んっ、んっ、と何か喝を入れるようにしたあと。

お嬢さん「……それでは、それでは貴方が、帰れないでは、ありませんか」

お嬢さん「……貴方の気持ちは、嬉しいです」

お嬢さん「けれど……、正午を過ぎれば、消えてしまう」

お嬢さん「また、最初に戻ってしまう」

「……それは……、……」

痛いところである。

お嬢さん「……よく考えてください。どちらが、大事ですか」

お嬢さん「ちゃんと比べてみてください」

お嬢さん「わかりますよね……?」

もちろん、それは良く分かっている。
だが、このよく分からない気持ちを。おそらくほれてしまったということを。
どうしていいかなんて、分かるはずもないだろう?


807 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 09:00:19.00 oVyIEMwx0 227/338


これこそ混乱である。
自分の気持ちを、どう扱えばいいのかが分からないのだ。

「……いや」

その思考の中で。
その拍子で。

「お嬢さん、妙案が」

お嬢さん「……はい?」

「一緒に、逃げよう」

お嬢さん「……っ!!!」

「もし俺の、思い違いでなければ」

「七年……」
「正直、あきないか? 何もすること無いだろう」
お嬢さん「……それは」
>お嬢さんが、その朱唇を一瞬噛んだ。
お嬢さん「いえ、そんなことは、ありませんよ」

「お嬢さんも、ここを、脱出したいんじゃ、ないのか……?」


808 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 09:05:55.62 oVyIEMwx0 228/338


お嬢さん「……、それは」

「たぶん、あの時だって」

お嬢さん「本当は、隠し通したかった」
お嬢さん「いいえ、このまま言わなくてもよかったのです」
お嬢さん「問題は、なかった」
お嬢さん「けれど、でも……。あんな風にされて、私」
お嬢さん「もしかしたら、もしかしたら大丈夫かも」
お嬢さん「って、思ってしまったんです……」
お嬢さん「私は、弱い人です……」

「本当は言わなくてもよかったことを、言ったのは」

「もしかしたら大丈夫かもというのは」

「その衝動が、抜け出したいという気持ちが、あったからではないのか……?」

お嬢さん「……、……」

お嬢さんは目を背けて。

お嬢さん「でも……、やっぱり、それは……」

「違うのか?」

お嬢さん「……、……いいえ。いいえ貴方の、貴方の言う、とおりなのです」


811 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 09:14:31.24 oVyIEMwx0 229/338


「なら……」

お嬢さん「……過去に。過去に、一度」

お嬢さん「貴方は私にこうして手を差し伸べてくれたことが、ありました」

お嬢さん「私は、無知な私は、純粋にうれしくて、その手をとったのです」

お嬢さん「しかし、その時は脱出できなかった」

お嬢さん「なぜなら、出口には問題があったから」

お嬢さん「貴方は私をかばって、その時大怪我を……おったのです……っ」

「出口に、問題……?」

お嬢さん「だから、だから、もう、そんなものは、私はみたくなくて」

お嬢さん「だから一緒には、……っ」

「それは、なんなんだ、いったい、なんなんだ」

お嬢さん「出口には……」

彼女はそうして、ぽつりと一言。

「ああ……」

そういうこと、か。


813 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 09:25:12.95 oVyIEMwx0 230/338


「でも、そんな気持ちでいる君を」

「置いていけはしないよ」

お嬢さん「……っ」

「……行こう」

「やってみなきゃ、分からない」

「ダメだったら、また次の俺に教えてやってくれ」

「きっと、頑張るから」

お嬢さん「そんな……、そんな……」

「大丈夫」

俺はその、きっと暖かい手を、取る。
お嬢さんの目を、じっと見つめる。

「絶対に」

格好をつけたつもりで、
しかし手は、震えていたかもしれない。

「君だけは守るから」

ただこんな時こそがきっと、
見栄でも男が胸を張る時なのだろうな、と。そう内心で、苦笑い。


817 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 09:32:40.47 oVyIEMwx0 231/338


そうしてお嬢さんを半ば強引に連れ出して。
その手をしっかりと握って。

「……ここ、だな」

その場所へと、やってきた。

廊下は開いていた。
つまりこれは、ここを進めということ。

お嬢さん「や、っぱり……」

お嬢さんは怖気づくように、少し足をひるませた。

「いざとなったらなけなしだが頑張ってみるから。なんとか君だけでも、逃げ切れれば」

お嬢さん「そんな、だめです、一緒に、一緒に行くって約束してくださいっ」

「善処はしよう」

お嬢さん「約束です」

「うーむ……」

キっとしたその目、もう慣れたあの威圧感。

「……わかった、わかったよ、約束だ」

安請け合いもいいところであったが、
それでも出来る限り、守るようにしよう。


820 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 09:46:44.41 oVyIEMwx0 232/338


廊下に数歩踏み込むと、
ぽう、と一つがともったと思えば、つらなって。

「ほう」

廊下のずっと先まで、明かりがともっていった。
恐ろしく長い廊下のようだ。
しかしそれが綺麗だ、と思ったのも一瞬で。

「……」

お嬢さん「……っ」

その先に、照らされ浮き出た影一つ。

その風貌は前にまみえた時と、変わらず。

仮面「――」

思考能力を失った、一人の男。

仮面さんの、姿であった。


821 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 09:51:30.94 oVyIEMwx0 233/338


仮面さんは、ゆらゆらと左右に揺れながら、
ゆっくりとこちらへ向かってきた。

俺たちとしてもここで引いては意味がないので、
進むしかなく。

お嬢さん「……っ」

ゆっくりと縮まる距離に、緊張感が高まる。

過去。
お嬢さんの話では、ここまではたどり着いたものの
仮面さんによる妨害によって、
先に進むことができなかったらしいのだ。

(こいつを……、こいつを、突破しさえすれば……)

現実に、戻れる。
俺も、彼女も。

この現実逃避をするための旅館から開放され、
自由になることが、できる。

「……」

おびえるお嬢さんを、背に隠しながら。
ゆっくりと。


823 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 10:00:09.73 oVyIEMwx0 234/338


俺が足を止めると、仮面さんもまた。
その間三メートルあるかなしか。

「……ここを通しては、くれないだろうか」

仮面「――」

仮面にあいた穴は全て真っ暗で、
こちらをおそらく見つめているであろうその目が、
何を訴えているのかも、わからない。

「……」

お嬢さんが服のすそを引っ張っているのが、わかる。

「通して欲しい」

もう一度訴えるが、何の反応もない。

「……」

これでは動き出せない。


825 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 10:07:39.64 oVyIEMwx0 235/338


しかし見詰め合っていても、埒が明かない。
むしろ寒気でもっと動けなくなりそうだった。

「……行くぞ」

お嬢さん「えっ……」

「行かないと、どうしようも」

廊下はそう広いものではなかったが、
俺は仮面さんを迂回するように、右から。

仮面「――」

ぬうるりと。
仮面さんは俺の前に立ちはだかった。

「通さない、つもりか」

一瞬の間のあと、俺は少し強引に、身体を進め

「……っ!!」

その胸を、手で押し返された。

その力たるや、まるで人かと疑うほどの。
俺はどすんと、しりもちをついた。


827 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 10:16:24.64 oVyIEMwx0 236/338


お嬢さん「ああっ……っ」

お嬢さんが駆け寄ってきたが、何のこれしき。
俺はすっくと立ち上がる。

「大丈夫だ、大したもんじゃない」

しかし今ので、歩いて横を突破するのは不可能というのが分かった。
おそらく、走り抜けるのでも、大差なく。

「……お嬢さん」

「すまない、こいつを突破するのに、二人で並んでというのは難しそうだ」

「俺が何とかするから、その間に」

お嬢さん「だ、だめです!」

「大丈夫だから。きっと、追いかけるから」

そうでないと、また、二人ともたどり着けなくなってしまう。

「大丈夫だから」


829 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 10:24:54.95 oVyIEMwx0 237/338


廊下の端に一人ずつならば、
さすがに身体一つの仮面さんではどうしようもないはずだ。

お嬢さん自らの腕をかき抱きながら、
震えながら、
ゆっくりと、左側へ。

「……仮面さん、なんで、通してくれないんだ」

仮面「――」

返答などないと、分かっていても。
そう問いかけずにはいられなかった。

左端にお嬢さんがたどり着いたのを確認した。

「……いって、お嬢さん。さ、はやく」

お嬢さん「……っ、……っ」

一瞬俺のほうを見て戸惑ったお嬢さんは、
しかしそのすぐ後、意を決して。

駆け出した。


832 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 10:37:54.59 oVyIEMwx0 238/338


仮面「――」

走り出したお嬢さんを、
仮面さんは見逃すわけもなく。

「まてこらっ」

俺は走りだしかけた仮面さんに、しゃにむに、とびついた。
しかし残念ながらこの俺は、肉体派の人間であるはずもなく。

仮面「――」

だからそんな俺を、仮面さんはいともたやすく投げ捨てた。
ひょい、という効果音が似合ったとおもわれる。

「わ」

宙を飛びながら、しかし飛んだ方向が進むべき先で、
わたわたとしながらすぐに立ち上がる。
今度は逆に、俺が仮面さんの前に立ちはだかる形。

俺は精一杯腕を広げて見せた。
しかしながら仮面さんはそれを意にも介さず、腕で突き飛ばす。
俺はそれでもなんとか食らい付く。
そして半ば引きずられるような形になったが、格好など今更。

「うぐううう……!!!」

それはなんと、無様な戦いだったろうか。


833 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 10:49:06.25 oVyIEMwx0 239/338


全身全霊の妨害だった。
お嬢さんに、指の一本だって触れさすわけにはいかない。

が、お嬢さんはこちらを振り返って、足を止めかけていた。

「い、いって! いってくれ! はやく!」

お嬢さん「で、でも、でも……!」

「気にしないで、はやく!!」

仮面「――」

仮面さんはまた腕を振り払う、
もう俺は食らいつくのも限界で――

カタギ「――見てられんな」

突如。
仮面さんの感覚が消えた。

「な」

その代わり俺の前に立った、
なんともたくましい後ろ姿は。

「か、カタギさん……!!!!」

それは考えうる限り最高の、加勢だった。


868 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 11:24:19.44 oVyIEMwx0 240/338


カタギ「……すまないな」

カタギ「本当は、そう。あの時も、いつだって」

カタギ「俺はこうするべきだった」

まだ俺が立ち上がりきらぬ間に、
既に仮面さんはカタギさんと向き合っていた。

カタギさんは、いつのまにか、
銃を――トカレフを、握っていた。

カタギ「本当は、知らなかったわけではない」

カタギ「概ね今回はたどりつくだろうとか、ここを通るだろうとか。そのくらいは予測もできた」

カタギ「だから最初の時だって、いつだって、加勢はできた」

カタギ「でも、俺は」

カタギ「現実に戻ろうとするお前たちを、どうしても直視できなかった」

カタギ「逃避してここにいる俺と、それを抜け出そうとしている人間では」

カタギ「あまりに立場が違うんだ」

カタギ「だからいつも、知らぬ存ぜぬを決め込んできた」

カタギ「……すまなかった」


871 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 11:36:25.50 oVyIEMwx0 241/338


そうか、だから。

>どこか、いつもより素っ気なかったような、気がした。

俺が帰りたいという意思を示した時に、
そんな態度だったんだ。

カタギ「いけ。お嬢が待ってる」

「カタギさん……」

カタギ「こいつ一人、どうにでもなる」

カタギ「いけ」

その言葉は大いに安心感をもたらすものであったが、
その背の、どことなくものがしい感じが、なんとも。

「……はい」

お嬢さんは、少し先で立ち尽くしていた。

「この義理は、……必ず」

カタギ「生意気いうな、カタギのくせに」


872 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 11:43:12.16 oVyIEMwx0 242/338


俺はお嬢さんのところにすぐ行くと、手を取った。

「行こう」

お嬢さん「で、でも」

「カタギさんなら大丈夫だ、絶対」

お嬢さん「……」

お嬢さんはカタギさんを少しみてから、

お嬢さん「……はい」

二人で、走り出した。

後ろで。
仮面さんがこちらに走り出したような音が聞こえたが、

カタギ「現実に戻ろうとしてるやつの足」

カタギ「引っ張るんじゃねえよ」

ドン、と明らか発砲音。

お嬢さん「っ!」

「見るな振り向くな、走れ……!」

俺たちは懸命に、その長い長い廊下を、走った。


874 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 11:54:18.03 oVyIEMwx0 243/338


どれくらい走っただろうか。
いまだ出口らしきものはみえず。

お嬢さん「はあ……っ、はあ……っ」

お嬢さんは息を切らしていた。

「結構離れた、あとは、歩きながらでも」

お嬢さん「ご、ごめんな、……さい……」

「休憩、しようか?」

お嬢さん「い、いえ……、止まるより、歩いていた方が、幾分か……」

「そうか……」

かなり厳しそうであったから、
俺は慎重に歩調をお嬢さんに合わせながら歩く。

(カタギさんは……だいじょうぶだったかな……)

おそらく発砲はしていたが、殺しまではしていないはずだ。
本能だけで動くのであれば、手負いでも押さえつけるのは大変なはず。

とはいえカタギさんも元本職、
俺が心配するほどのことは、ないかもしれない。


877 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 12:00:32.18 oVyIEMwx0 244/338


お嬢さん「げほ……、げほ」

「お、おい、大丈夫か?」

俺は彼女の背をさする。

お嬢さん「す、すいま、せん……げほっ」

本当に辛そうだった。

「おぶろう」

お嬢さん「え、あ、そんな」

「いいから」

俺はさっと、彼女を背に乗っけた。

お嬢さん「……すいません……」

「……からだ、弱いのか?」

お嬢さん「……すこし」

「……そうか、知らないで走らせてしまった……」

「申し訳ない」

お嬢さん「い、いえ、そんな」


880 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 12:18:01.86 oVyIEMwx0 245/338


話しているだけでも彼女が体力を使いそうだったので、
俺はそのあと、口をひらかず歩いていった。

(そういえば……、外に出たら、どうなるんだろう)

現実に戻るというのは分かるが、
俺とお嬢さんは、いったいどうなるのだろう。

そんな疑問が駆けた。

「……もし、現実にもどって」

「君と会えたなら」

「その時は、よろしくたのむよ」

お嬢さん「くす、告白をしなおしてくれたりは、しないのですか?」

「おおう、これは大胆な」

「……しても、いいな」

お嬢さん「そんなの、確認しなくたって」

くすくすと、お嬢さんが笑った。
その時。

『走れッ!!!! 走れーッ!!!!!!』

怒号が、後ろから。


884 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 12:42:48.46 oVyIEMwx0 246/338


振り向くと

「……な」

まるで壊れた人形のように、腕をおかしな方向に曲げながら、
それこそ死に物狂いの勢いで、

仮面「――」

仮面の男が、走ってきた。

気の違ったような、おぞましいほど狂気を振りまいて。
今にも甲高い笑い声を上げそうな気色の悪さ。
禁断症状を起こした薬中患者もこうはならないと思うほどである。
しかもその速さがすさまじく。

お嬢さん「ひ、ぁ……っ」

「しっかりつかまってて!!」

俺は確認するやいなやすぐさま駆け出した。

おそらく怒号はカタギさんのものだった。
つまりカタギさんを振り切るだけ仮面さんは暴れて、
それが今俺たちを襲おうと、しているのだ。

つかまった瞬間全てが終わると、そう暗に告げていた。


887 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 12:53:00.19 oVyIEMwx0 247/338


「……はぁ、はぁっ!」

心拍数が爆発的に上がり、
明らかに限界を超えているのを理解する。

(まずい……、まずい……!)

守るべきものがある人は強いなどとは言うが、
人一人負ぶって走るにも限度がある。

どうしたって本能だけで突進してくるあの仮面さんに、
勝てるわけもなかった。

だからその距離はどんどん縮まって、

「くそっ、くそ……!」

だがその向こうにようやく、
出口らしき扉をみつけた。

(あそこまで……いければ……!!)


891 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 13:08:03.04 oVyIEMwx0 248/338


仮面さんが、すぐ後ろまで来ているのが分かった。
明らかに扉までたどり着けない。

そうわかった俺は、せめてお嬢さんだけは守らねばと、

「く……っ!」

振り返った。

お嬢さん「だ、だめ……!」

乱暴と思いつつも、お嬢さんを俺から半分投げる形でほうりだす。
こうするしか、なかった。

俺は振り返って飛び掛ってきた仮面さんの一撃のこぶしを、
真正面から受けることとなる。

「が、あ」

吹き飛ばされて、転がり
殴られたところの骨はおそらく折れていた。

しかしそれでもお嬢さんのところに行かせるわけにもいかないから、
ひるまず飛び掛る。

カタギさんがここにたどり着くまでの数秒さえ、持てばと、
半分意識が朦朧とする中で、俺は必死に仮面さんと取っ組み合った。


893 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 13:12:29.32 oVyIEMwx0 249/338


そうしてカタギさんがたどり着くと、
仮面さんを蹴り飛ばして引き剥がしてくれた。

カタギ「大丈夫か」

「い、生きては……います……」

カタギ「すまねえ、こいつあまりに死に物狂いで」

よく見ると、右腕がだらりとたれていた。
おそらくカタギさんに撃たれたのがそこなのだろう。

カタギ「躊躇すべきじゃなかったな」

カタギさんはそういうと、どこから出したかナイフを
仮面さんの両足に突き刺した。

仮面「――」

仮面さんの声にならない悲鳴を聞いた気がした。


894 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 13:21:39.96 oVyIEMwx0 250/338


仮面さんは一瞬動かなくなったが、
しかしすぐに痙攣する足を引きずりながら
まだ使える左腕で、身体を這わせてくる。

カタギ「こいつ……」

ただ、その方向は俺でもカタギさんでもなく
端っこで振るえ縮こまっていた、お嬢さんの方で。

カタギ「いかせねえぞ」

カタギさんはその残った腕も、踏みつける。
それでもなお、仮面さんは、もだえる。

カタギ「なんでこいつ、こんなに必死なんだ……」

いくら本能だけとはいえ、
これだけ負傷してもまだ立ち向かってくるというのは、いったい。


898 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 13:29:16.05 oVyIEMwx0 251/338


その時だった。

仮面「……あぁあ……、ああ」

「……!」

仮面さんが、初めて声を上げた。
低い、うめき声。

そして、

仮面「ぉ……で、も……」

何か、言葉を。

仮面「あい、し……で」

仮面「……いだ……」

必死に搾り出すように、そう言った。

カタギ「……」

そうして、それだけ言うと、まるで何かやりとげたかのように。
ぷっつりと。
仮面さんは事切れ、もう、動かなかった。


899 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 13:37:17.97 oVyIEMwx0 252/338


カタギ「なんて言った?」

「……いえ、俺も……」

お嬢さん「……、……」

凄惨な姿で、仮面さんはピクリともしない。

カタギ「……後味は、悪いが」

カタギさんは、うしろの扉をみて。

カタギ「ここだろ、出口」

「……おそらく」

カタギ「なら、さっさといくといい」

カタギ「もうここには、用もないだろう」


902 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 13:45:29.43 oVyIEMwx0 253/338


「お嬢さん、……行こう」

お嬢さん「……」

この光景で、おびえてしまったのか。
お嬢さんは口もひらかず。

カタギ「お嬢、大丈夫だ」

カタギ「おそらくこいつは死なねえ」

カタギ「何せここは現実逃避をするための場所だ」

カタギ「何でもありだ、支配人のやろうがなんとかしてくれるさ」

それはおそらく、お嬢さんを安心させるためのデマカセだった。
本当にそうなる可能性も、ないとはいわないが……。

お嬢さん「……、……」

お嬢さんはふらふらと、立ち上がる。
しかしよくお嬢さんの顔を見ると、
怯え以上に、困惑の表情が混じっていた。

「どうした?」

お嬢さん「……、……いえ……」


903 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 13:50:30.38 oVyIEMwx0 254/338


「……それでは」

カタギ「おう。またな」

俺たちは、背を向ける。

「さ、お嬢さん」

扉の向こうは、開いてみたが何があるのかは、よく分からず。
前に屋根からみた霧のようなもので満たされていた。

お嬢さん「お世話に、なりました」

カタギ「俺も世話になったさ」

カタギ「じゃあな」

そうして俺たちはカタギさんに見送られ、
その扉の中へと、入っていた。

「お嬢さん、じゃあ、俺たちも、また」

お嬢さん「……はい。また」

よく、見えなかったが。
お嬢さんがぎゅっと抱きついてきたような感触が、
最後の記憶として、残っている。


904 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 13:53:01.41 oVyIEMwx0 255/338




「」

「」

「」

「」

「」

「」

「」

「」

「」

「」

「」


908 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 14:05:00.35 oVyIEMwx0 256/338


「……わ」

「あ……れ……?」

なにか、意識がとんでいたような。

「ん……」

記憶が、グチャグチャとしていて、はっきりとしない。
今まで俺は、なにをしていた……?

「ここは……」

四角い部屋だった。
青白い光がともっている。

「……?」

俺のもたれかかっているものは……
机?

なにかのっているようだ。
なんだろう。

俺はゆっくりと、少しふらふらとしながら立ち上がる。


910 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 14:10:50.46 oVyIEMwx0 257/338


「……これ、は」

人が寝ているような……、

「い、いや」

あたりを見回す。
四角い部屋、一つの長い机――いや、台。そして青白い光。

まるで、

「霊安室……?」

では、ここの寝ているのは、誰かの……。

顔には白い布が、かぶさっていた。

「……」

一瞬、ためらう。
あけるべきだろうか……。

「……、……」

俺はその白い布を、とった。


914 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 14:17:58.73 oVyIEMwx0 258/338


その瞬間。

「……っ!!!!」

怒涛のように記憶がなだれ込んできた。

「あああ、ああああ……ああああ」

それは女の顔だった。

それは

「ああああああああ、あああああ」

ここ十日間、一緒に過ごしていた、女の顔だった。

「あああああアアアあああ、あアアアアアアアアアア!!!!!!!」

だが、だがしかし、それだけじゃない

知っている、知っている、

ああああ今さっきまで

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

お嬢さん。お嬢さん。お嬢さん。


お嬢さん。


919 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 14:31:21.89 oVyIEMwx0 259/338


「ああああああああああああああああああ」

俺は、この十日間。
この十日間この娘と、
一度お見合いをしたことがある、この娘と、
一緒に暮らしていて。

彼女は

「もし俺を好きになってくれる人がいたら」
「俺はその人のために全力で一生をかけられる」

なんて言った俺の言葉に胸を打たれたからなんて言いながら、
俺の事をずっとしたってくれていて、
ただ、恥ずかしくて俺はなにもしてあげられなくて、
好きだと応えることすらできなくて、
それなのに今日、死んでしまって。

アレだけ尽くしてくれたのに、
俺の言葉を信じてくれたのに、
結局俺が何もすることができる前に、
俺が仕事に行っている間に、
身体の弱い彼女は
あっさりと、死んでしまって。

医者には一時間はやければなんとか、
なんていわれて。

俺はせっかく手に入れかけていた幸せを、結局何もつかむことなく、
それどころか何もつかませてあげられないまま、なくしてしまって。


928 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 14:41:33.73 oVyIEMwx0 260/338


初めて人に好意を持たれたことが、
たまらなく、何よりも俺には嬉しくて。

そんな彼女と過ごす毎日が幸せだったから、
彼女があっさりと死んでしまった時、俺は

現実を、逃避したのだ。

「ああああああああああああああああああ」

だが今戻ってきた時点で、
今更問題はそれだけでなかったことに気づかされる。

彼女はあの旅館で出会った、お嬢さんなのだ。

年齢は、成長していた。
俺が分かれたあの時よりも、五つ以上は大きくなっていた。

おそらく時代が違った。
俺と彼女は、あの旅館に召集される時点での時代が違った。

今思えば、つまりあの会話こそ、そういう、意味だった。

>「あの、先日一度、お会いしましたよね」
>「はい。……でも、あの前に、会った覚えとか、ありませんか?」
>「……」
>「そうですか……」
>「全然、ですか?」
>「……、……そうですか」
>「…………。……このあと、……なの?」


932 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 14:53:58.43 oVyIEMwx0 261/338


つまり彼女は俺の元へ来た時点で、
既に逃避から戻った後のお嬢さんだったのだ。

そうして彼女が死ぬことで俺はやっと逃避するから、
彼女にとっては「このあと」という認識になる。

「あああ……」

そんなこと、死んでから、分かったって……。

「ああ……」

彼女は、彼女には……

「……」

申し訳が……、ない……。


936 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 15:11:09.00 oVyIEMwx0 262/338


それから二ヶ月が経った。

「……」

彼女には遠い親戚程度しか身寄りがなかった。
ほぼかかわりがなかったようなので、遺骨は俺が引き取らせていただいた。
そしてそれらは、彼女が指定したお墓に納骨した。

俺は今、その墓の前にいる。

彼女が残したものは、三つのメモだった。

一つは、このお墓の場所が書かれた住所。ここ。

一つは、押し花、とかかれた謎の住所。まだ行ってはいない。

一つは、「気付いたよ」と書かれたメモ。意味は不明。

「……」

線香を上げて、花を添えた。

空はとても、晴れやかであった。


941 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 15:18:48.49 oVyIEMwx0 263/338


「……おや」

とんとん、と肩をたたかれた。

「はい?」

「おおおー、やっぱりお前か!」

「え?」

服装からしてお寺の人間のようだが。
誰――

「あ」

その顔、もしや。

「カタギさん!?」

カタギ「おうよ、よくわかったじゃねえか!」

「わあ、カタギさん!」

と感動したあと、ぽろっと

「めっちゃ年取りましたね……」

カタギ「言うな……」


950 : 以下、名... - 2012/10/08(月) 15:34:10.25 oVyIEMwx0 264/338


カタギさんは、俺の横に並ぶ。

カタギ「ここ、お嬢がはいったんだっけな」

「……はい」

カタギ「お嬢は、死ぬ前。元気だったか」

「……体は弱かったですが、はい。それなりに元気でした」

カタギ「笑ってたか?」

「……ちょくちょくと」

カタギ「そりゃ、よかった」

カタギさんは、ふっと小さく笑う。

「って、彼女が家にいたこと知ってるみたいですね」

カタギ「お前のとこ行く前に、お嬢が電話で教えてくれた」

カタギ「まさか見つかるとは、とか、運命の出会いだ、とか言ってたな」

「……そう、ですか」


88 : 以下、名... - 2012/10/09 06:43:59.74 GSIyCG6Oo 265/338

「あの、カタギさんはここの住職なんですか?」

カタギ「いや現役は引退したよ。納骨式のときは、俺じゃなかったろ」

「そういえば」

「あの、このお墓って、他に誰がはいってるんです?」

彼女はここを指定したが、
墓石に彫られた名前を見ても、わからなかった。

カタギ「ああ、そうか、しらんか」

カタギ「誰だと思う?」

「俺の知っている人です?」

カタギ「そうだな」

91 : 以下、名... - 2012/10/09 07:33:09.25 GSIyCG6Oo 266/338

となるとあそこにいた誰か。

「童ちゃんか……、芸者さんか……」

「仮面さん……?」

カタギさんは「それじゃ全員じゃねえか」と言って笑った。

カタギ「童だよ。あいつの墓が、これだ」

「童ちゃん……か」

カタギ「そうだ」

カタギ「アイツはとお嬢はな、少しの間らしいが一緒にすごしてたんだ」

カタギ「童が、お嬢を保護する形でな」

「保護……?」

92 : 以下、名... - 2012/10/09 07:52:31.25 GSIyCG6Oo 267/338

カタギ「逃避をした時間が、全員バラバラだっていうのは、知ってるな?」

「はい」

カタギ「時間的には、童はお嬢よりも前に逃避していた」

カタギ「たしか、今から換算すると二十年かそこらの昔だ」

カタギ「お嬢の逃避はたしか……、六年だか、七年だか」

カタギ「ああ、向こうでの滞在時間とは関係ないぞ」

カタギ「「お前だって何年もいたのに、逃避したのは最近だろ」

「ええ、まあ。……あれ、何で知ってますか」

カタギ「顔と背丈があの時のままだからな。髪は少し伸びたようだが」

「なるほど」

94 : 以下、名... - 2012/10/09 08:01:34.15 GSIyCG6Oo 268/338

カタギ「偶然だったらしい」

カタギ「童は、現実にもどったすぐあとのお嬢を、発見したんだ」

カタギ「ただ、あいつは向こうで視覚を失っていたからな」

カタギ「最初は顔を見てもお嬢とは気づかなかったらしい」

カタギ「ただ、その時のお嬢はとてもひどかったそうだ」

カタギ「だから気づかなくても、保護をした」

カタギ「それで一緒にいたのが、五、六年」

カタギ「死んだのは、つい半年前だ」

「半年前……」

逃避した時が九歳で、それが二十年まえだということは。

悔しいくらい、若すぎる。

95 : 以下、名... - 2012/10/09 08:35:52.97 GSIyCG6Oo 269/338

カタギ「あいつも――知っていると思うがお嬢も――ほとんど身寄りがなかったらしい」

カタギ「だから死の間際、童はなんとかお嬢に身寄りを、と思って」

カタギ「なんとか見合いの話を、取り付けた」

カタギ「それがまた偶然にも」

カタギ「お前だった、というわけだ」

「な……」

カタギ「もちろん童のやつは、お前だとは知らなかった」

カタギ「そもそも童自身身寄りがいなかったのだから」

カタギ「頼れる人もすくなく、話を取り付けるだけでも大変だったはずだ」

カタギ「お嬢が運命の出会いだといったのも、頷けるところだな」

「……」

97 : 以下、名... - 2012/10/09 08:57:51.54 GSIyCG6Oo 270/338

「ああ……」

目頭が、熱くて。

カタギ「結局、童はお前とのお見合いが行われる前に逝っちまった」

カタギ「まあしかし、お前とあわせることができたのだ」

カタギ「お嬢にとって最高の相手だ」

カタギ「……本望だったろうよ」

「……」

カタギ「あの頃。旅館でお前が話した見合いのこと」

カタギ「つまりはこれだったわけだ」

カタギ「なんの気なしに聞いていたが、こうと分かると、なんていうかな」

そこで口を閉じ、あごをかいて。

カタギ「あの旅館にいて、それぞれが知っていたからこのお見合いにつながったわけじゃない」

カタギ「本当に全て、偶然に」

虚空に投げるように。

カタギ「……不思議な話だ」

99 : 以下、名... - 2012/10/09 09:10:42.43 GSIyCG6Oo 271/338

カタギさんはそう言ってから、空を仰いだ。

俺は、じっと墓石を眺めていた。

いつのまにか、ぽろぽろと。
なにかが、頬を伝っていた。

「俺は……」

あふれ出るものは、とめどなく。

「ああ」

なんといえばいいのか、分からず。

「……」

とにかく今はもう何も出来ないという事実に。
ただただ、耐えるしかなく。

乾いた風は、つめたかった。

100 : 以下、名... - 2012/10/09 09:15:36.91 GSIyCG6Oo 272/338

その時。

「おーい」

と、女性の声。

「あはは、なんだきてたのかあ」

どこかできいたような。けれどすこし、かわっているような。

振り返ると。

「ああ……」

彼女はあの時見たよりも、やはり大分、年を取っていて。

カタギ「紹介しよう」

カタギさんはにやりとして。

カタギ「こいつが俺の、嫁だ」

芸者「やだなあ、もう。こんな歳になってるのに、恥ずかしいよ」

芸者さんもまた、笑って。

芸者「ひさしぶりだね、おにいさん」

「……おひさしぶりです、芸者さん」

101 : 以下、名... - 2012/10/09 09:30:58.55 GSIyCG6Oo 273/338

「結婚、したんですか」

カタギ「そうだ。ずいぶん前にな」

芸者「といっても三十年前くらい? 結構歳とってからだもんね、現実で会ったの」

カタギ「そうだな」

二人が出会ったのもまた、偶然だったらしい。

カタギ「会った時は、誰だか分からなかったしなお前」

芸者「ぐ、その言い方はなんかむかつくなあ」

二人はとても仲がよさそうだった。

「そうでしたか……、おめでとうございます」

芸者「この歳になって祝福されるとはっ」

「俺から見れば、二ヶ月前に別れたばかりですから」

その時は二人とも、他人同士。
芸者さんはカタギさんに好意があったようだったし、
だから二人にしては今更と分かっていても、
そう、言いたくなった。

102 : 以下、名... - 2012/10/09 09:37:56.56 GSIyCG6Oo 274/338

その後少し会話してから、俺は帰ることとした。

カタギ「これからどうするんだ、お前」

「……とくには、変わらず」

今までのように、普通に会社勤めを、続けるだろう。

カタギ「そうか」

カタギ「……また、こいよ」

「……はい」

カタギ「……」

その間が、少し意を含んでいるのは、分かった。

カタギ「いつでもこいよ」

「はい。……では」

俺は車に乗り込む。

芸者「またねー!」

芸者さんに見送られ、
俺はその場をあとにした。

103 : 以下、名... - 2012/10/09 10:27:43.42 GSIyCG6Oo 275/338

数日後の休日。
俺はある場所へとやってきた。

「やっとみつけた……」

明け方頃に家を出たが、今はもうとうに昼をすぎていた。

彼女の残したメモの内の一つ、
押し花とかかれた住所が、ここ。

いや正確には、住所の場所には家があった。
だがそこはボロボロで、既に人はいなかった。

ならこれはどういうことか、
と途方にくれかけたが、そういえばと俺は思い出した。

>「幼い頃は私、とても田舎に住んでおりまして」
>「ええ、山の中のような。あはい、おじいちゃんとおばあちゃんの家です」
>「その頃、お山の中に一つのお墓がありまして」
>「ぽつんと。一つだけ」
>「その納骨室に、押し花の本が一冊、入っていたのです」
>「とてもふるい、お手製の」
>「中のお花はとっくに枯れていましたけど、でも私それがとても気に入って」

おそらくあの家が、幼い頃のお嬢さんが過ごした場所だ。
そしてこの押し花とかかれたメモで向かって欲しかった場所は、つまり。

「この墓、だよな」

小一時間探し回って今やっと、それらしきものを見つけたのである。

105 : 以下、名... - 2012/10/09 10:49:32.43 GSIyCG6Oo 276/338

「やっぱり」

納骨室とおぼしき場所から、一冊の和とじの本がでてきた。

「ずいぶんと古いなこれは」

中には既に枯れきってはいたが、
無数の花が収められていた。

「これがお嬢さんの言っていた……」

ページを一つ一つ、
本そのものが壊れないよう注意しながら見ていく。

一通り見た後、本の表紙を良く見ると、文字が。

「……四季、か」

なるほど、本来この本には、
四季折々の花々が、美しく閉じ込められていたのだろう。

106 : 以下、名... - 2012/10/09 11:28:21.50 GSIyCG6Oo 277/338

「その宿が廃れていく中で」

「一人の男が悪魔に懇願をしました」

「宿をつづけさせてほしいと」

「悪魔は首を横に振りました。契約は契約です」

「その宿はすでに、悪魔のものです」

「しかしそれでも、どんな形でもいいからと男は縋り付きました」

「それでは、と悪魔は提案をします」

「この現実の宿は、既に廃れることがきまっている」

「しかし人の世でなければ、つづけさせてやってもいいだろう」

「男はそれでもいいと頷きます」

「ただしお前の命が代償だ」

「宿は続くがお前は死ぬ。それでもいいか、と悪魔は続けます」

「男はそれにも、それでもいいと頷きました」

「男にとってこの宿は、命よりも大切だったのです」

107 : 以下、名... - 2012/10/09 11:34:39.54 GSIyCG6Oo 278/338

振り向くと、そこにいたのは。

「支配人……!」

支配人「おひさしぶりです、お客さん」

「な、なんで、ここに」

支配人「いえむしろ、貴方の方からここにきたのですよ」

支配人「ここが、私どもの旅館の場所ですから」

「え……?」

支配人「その墓は、ここにあった宿を営んでいた家の墓です」

支配人は、目線を俺の持っていた本に落とし、

支配人「そしてその本を作ったのは、最後の一人の男」

支配人「悪魔に懇願をし、命をささげ現実を逃避した男」

支配人「すなわち、私どもの館を、作った男にございます」

109 : 以下、名... - 2012/10/09 11:46:38.94 GSIyCG6Oo 279/338

支配人「ゆえにあの旅館には四季の間がございます」

支配人「なぜなら彼が、ここに閉じ込めたから」

支配人「ゆえにあの旅館には現実を逃避した人間が招かれます」

支配人「なぜなら現実を逃避して出来たのが、あの場所だから」

ああそうか。
だからあの屋根から見た景色は、

支配人「ここから見えるこの風景は」
支配人「その宿が廃れるまさに寸前で、時間が止まっているのです」

時が止まっていたのだ。

「……そういう、ことか」

110 : 以下、名... - 2012/10/09 11:54:39.61 GSIyCG6Oo 280/338

支配人「どうです、戻った現実は」

「……どうもなにも」

支配人「左様で」

俺は何も言わなかったが、支配人は察した様子。

支配人「しかし皆さん頑張って現実を乗り越えたのです」

支配人「きっと貴方も」

「……、失ったものは、帰ってこない」

支配人「それは誰しも同じですが」

「それは……」

言葉に、詰まる。

111 : 以下、名... - 2012/10/09 12:15:44.77 GSIyCG6Oo 281/338

支配人「……それでは、彼らの話をいたしましょう」

「え?」

支配人「彼らの、逃避した理由を」

支配人「貴方と同じく、彼らだって逃避した現実がありました」

支配人「彼らはそれを、逃避から戻ったのち、乗り越えたのです」

それはそのとおり。
あの場所にいたということは、
同じく逃避したい現実があったのだ。

「……」

では、と支配人は語りだした。

128 : 以下、名... - 2012/10/09 19:45:59.17 GSIyCG6Oo 282/338

それはどれも、優劣のつけられるものでは、なく。
ぐるぐると、言葉だけが、回る。

跡目。抗争。報復。巻き添え。両親。寺。焼き討ち。仁義。復讐。
戒め。痛覚。ケジメ不可。否定。
カタギ。家。父の跡。復興。

性欲。貞操。制御不可。真面目。二律背反。恋。娼婦。
妻帯者。崩壊。優しさ。
謝罪。尽力。解決。抑制。コントロール。

両親。愛人。知らない男。知らない女。家の中。オトナ。
怒声。恐怖。見ない。放置。暴力。孤独。
逃亡。自活。労苦。奮闘。

父。溺愛。肌。エスカレート。男。寵愛。拘束。接触。身体。
生暖かさ。嫌悪。体温。
拒否。逃亡。努力。回復。笑顔。

ぐるぐると、回る。

130 : 以下、名... - 2012/10/09 20:02:36.79 GSIyCG6Oo 283/338

「……」

自分ばかり、などということは、なく。

「……っ」

分かっている、分かっている。
話を聞いて、さらに強く、理解している。

「……」

それでも思わずにはいられない。

だからなんだと、いうのだ。
誰がなんだというのだ。

現実は、いくら乗り越えようと、
事実として、変わらない。

131 : 以下、名... - 2012/10/09 20:10:33.97 GSIyCG6Oo 284/338

支配人「……気持ちは分からないとはいいませんがね」

支配人「それに彼らには、戻るまでに考える時間があった」

支配人「……しかし貴方には、なかった」

支配人「なぜなら全て、忘れていたから」

支配人「その点確かに、異なりはしますか」

しかしその程度。

「俺は何も……してやれなかったんだ」

現実を逃避した時点ですでに、
俺はもう、何も出来ない状態、だったのだ。

時間がいくら、あったところで。

支配人「あの場は解決を求める場ではなく」

支配人「心の準備を、する場所、ですから」

支配人「だから本心から望まなければ、帰ることはできないのです」

132 : 以下、名... - 2012/10/09 20:19:55.79 GSIyCG6Oo 285/338

「いくら準備をしたところで……!」

「こんなにも辛い現実なら、俺はいつまでだって、あそこに……!」

ああ。
それはきっと、あの場にいた誰もが思っていたこと。

支配人「時間は人の心を変化させます」

支配人「どんなに辛いことも、いずれは耐えうるものとなる」

「だからなんだ……」

「俺は彼女に何もしてやれなかった!」

「俺の言葉を信じてくれた彼女に」

「俺は一生どころか、たった十日も尽くしてやれなかった!!」

「ただ一言答えてやること、すらも……」

それはどうしたって、変わらない。

悔しくて。
それがたまらなく、悔しくて。

133 : 以下、名... - 2012/10/09 20:35:49.35 GSIyCG6Oo 286/338

支配人「そこまで、おっしゃいますか」

支配人は、くつくつと喉を鳴らして笑う。

支配人「……では、もし」

支配人「たった一瞬でもそれができる、と言ったら」

「……、……、……え」

支配人「貴方の言葉は、よく覚えております」

「もし俺を好きになってくれる人がいたら」
「俺はその人のために全力で一生をかけられるかな、って」

支配人「貴方がもしも本当に」

支配人「彼女のために一生をかけられるというのなら」

支配人「貴方の言葉が本当だというのなら」

支配人「いや見てみたいものですね」
支配人「人は本当に、他の誰かに一生をかけられるのか」

支配人「私は、見てみたい」

135 : 以下、名... - 2012/10/09 20:50:42.63 GSIyCG6Oo 287/338

「……本当に……、できるのか……」

支配人「貴方が一生をかけられるのなら」

支配人「ほんの一瞬だけ、そのチャンスを与えましょう」

「……」

一生をかける。
その言葉が意味するところを俺は捉えられなかったが。
しかし、もし彼女のために何か出来るのなら。

「それでもいい、一瞬でいい」

「できることがあるのなら、俺は一生だって」

支配人「一生という言葉の重み」

支配人「……分かっておりますか?」

そんなもの、まだ一生を生きたことのない人間に、
分かるはずもない。

「……それでも、何か、できるなら」

支配人は、どこか怪しく唇をゆがめる。

136 : 以下、名... - 2012/10/09 21:01:33.30 GSIyCG6Oo 288/338

支配人「わかりました」

支配人「貴方を、過去の旅館にお送りいたしましょう」

支配人「こちらの時間と、あちらの時間は、全くの別物」

支配人「こちらから見れば、あちらの時間は止まっておりますが」

支配人「あちらにはあちらの、時間がある」

支配人「その、過去へ」

「……」

……そういう、ことか。

支配人「これは悪魔の契約です」

支配人「貴方の一生を代償に、貴方の望んだ一瞬を、差し上げましょう」

「そんなとこだろうと思った」

「……いいだろう」

支配人「ふ、それでは」

支配人は手を差し出した。
俺はその手を、たしかに握る。

支配人「契約、成立です」

144 : 以下、名... - 2012/10/09 21:31:45.35 GSIyCG6Oo 289/338

支配人「それでは、貴方の一生は預かりました」

支配人「これより貴方を過去へお送りいたします」

支配人「細かい裁量は過去の私に任せましょう」

「……わかった」

支配人「怖くはありませんか」

「……怖いさ、なんたって悪魔の契約だ」

「怖くないわけない」

身体が全く、落ち着かない。
手だって、震えていた。

「でも、やるしかない」

支配人「……そうですか」

支配人「気持ちは固まっているようですね」

支配人は、そこで俺の目を真正面から見る。

支配人「それでは過去に行く前に」

支配人「貴方は一つ手順を踏まねばなりません」

支配人「お教えしますので、ぜひ、ご自分で」

145 : 以下、名... - 2012/10/09 21:46:43.89 GSIyCG6Oo 290/338

「ここは……」

俺は霧に包まれていた。

支配人「どうも、はじめまして」

すっと、先ほどまで見ていた男――支配人が浮かぶ。

「はじめまして……?」

支配人「ああ、貴方にとっては、過去の私ですから」

支配人「ここは、旅館に招く前の場所です」

支配人「出入り口みたいなものです」

「……なるほど」

支配人「未来の私と契約をしたそうですね」

支配人「どれ、ちょっと契約を確認させていただきます」

支配人は、俺の手をつかんだ。

支配人「……ふむ、なるほど」

支配人「これはまた、とっぴな契約ですな」

146 : 以下、名... - 2012/10/09 21:57:38.94 GSIyCG6Oo 291/338

支配人「本来ここで、お客さんには対価を選択していただくのですが」

支配人「この契約では、申し訳ありませんが、貴方に選択の権利はなさそうです」

「……そうか」

もとより、そう自由の利くことではないとわかっている。
既に俺は、契約した悪魔の言うことに従うしかない。

支配人「まず第一に、貴方がその一瞬にたどりつくまで」

支配人「つまり一生をかけきるまで」

支配人「その行為が出来ないようにしなければなりません」

支配人「まずは一つ。貴方から思考能力の全てを頂戴いたします」

「……、……そうか」

支配人「発声機能と聴覚も、あると困りますね」

支配人「コミュニケーションが取れてしまう可能性がある」

支配人「ではその二つも、頂戴いたしましょう」

151 : 以下、名... - 2012/10/09 22:13:25.73 GSIyCG6Oo 292/338

支配人「記憶は……、頂くわけにはいきませんね」

支配人「でないと、貴方が一生をかけたと認識できず」

支配人「それでは貴方が一生をかけたことに、ならない」

支配人「……少々、むごいですが」

「むごい?」

支配人「……そのときになれば、わかるかと」

支配人「ああそうだ、顔も隠さなければなりませんね」

支配人「誰だか分かってしまってもアウトだ」

支配人は、どこから出したか、

支配人「どうぞ、この仮面をつけてください。さすがにのっぺらぼうにするのは忍びない」

差し出された仮面を、俺は受け取って、
顔に、つける。

「……あまり、いい気分ではないな」

支配人「いずれ慣れるでしょう」

支配人「その仮面は、役目を終えるまで」

支配人「もう貴方からは離れません」

158 : 以下、名... - 2012/10/09 22:43:25.08 GSIyCG6Oo 293/338

支配人「さて、このあたりでしょうかね」

「……そうか」

支配人「何か質問は、ございますか」

今更何もないなと思ったが、ここで何も聞かないというのも勿体無い。

「風呂はどうする」

支配人「ははは、なるほど」

支配人「大丈夫です。この場所では、時間が動きません」

支配人「何日風呂に入らなかろうが、現時点を維持しまから」

支配人「におったり汚くなったりはしませんよ」

「ああ……」

「俺、へんなにおいしてないか……?」
メイド「へんなにおい?」
メイド「してる?」
メイド「雄のにおいすらしない」
メイド「さかってない」
メイド「結論は?」
メイド「「「しない!!!」」」
「うーん……、あてにしていいのかこれ」

こんなところで、メイドさんの正直さが証明されたか。

159 : 以下、名... - 2012/10/09 23:01:52.80 GSIyCG6Oo 294/338

支配人「一応、注意だけ」

支配人「貴方は一生をかけました」

支配人「ですから、貴方が途中で自殺を図ろうとしても」

支配人「決して死ぬことはできません」

「思考ができないなら、そんなことにはならないのでは」

支配人「残念ながら記憶と本能がのこっています」

支配人「気が狂う可能性は十分にあり」

支配人「であれば自殺につながることも、まったくもってないとは言えません」

「……そうか」

背筋に嫌な寒気が、走った。

支配人「貴方はおそらく、一生をかけきった時点でぴったり契約を履行できるように」

支配人「時間が調整されている」

支配人「悪魔はその辺り、キチっとしてます」

「……そうか」

160 : 以下、名... - 2012/10/09 23:13:35.39 GSIyCG6Oo 295/338

支配人「それでは、そろそろ」

「ああ」

また浮かび上がるように、
扉が現れた。

支配人「ここに入れば、貴方の時間が始まります」

支配人「これからの一生の、時間です」

「……ああ」

支配人「貴方の一生がどの程度か知りませんが」

支配人「人一人分の一生は、ながくとも百年かそこらでしょう」

支配人「それを、耐えれば」

「……途方もなくて、よく分からないよ」

支配人「……そうですね」

「それじゃあ、行ってくる」

俺はそうしてその扉をひらき。
中へと、入っていった。

162 : 以下、名... - 2012/10/09 23:17:41.23 GSIyCG6Oo 296/338

後ろでパタンと扉がしまった。
そこは、長い長い廊下だった。

「ここは……」

俺はここがどこかを理解すると同時に、

「……!?」

ゆっくりと。
ぼろぼろと。

大切な何かが、自分からこぼれ落ちていくのを感じた。

「あ……っ、――!」

最初に声が、出なくなった。

「――」

次に、だんだんと音が聞こえなくなっていった。
すうっと、音そのものが身体から抜け出ていくような。

長い廊下は、シンとした。

「――」

そして頭の中に今度は靄がかかりだし。
最後に俺は、
考えることを失った。

163 : 以下、名... - 2012/10/09 23:23:42.31 GSIyCG6Oo 297/338

最初の一日は、ただ廊下に突っ立っていたと記憶している。

「――」

恐ろしく長い廊下を、ただ見つめて。
自分が何故ここいるのか、分かっているような、わかっていないような。

時間がとても、長く感じられた。

二日目からは、歩き出した。
長い長い廊下を、ふらりふらりと行ったりきたり。

「――」

何がおこるわけでも、誰がくるわけでもなく。

ただ延々とつづく廊下を、歩くだけ。

「――」

時間はとても、長く感じられた。

165 : 以下、名... - 2012/10/09 23:30:28.05 GSIyCG6Oo 298/338

それが三日、四日、五日とつづいて、一週間も経った頃には。

「――」

俺はその行為に、飽きた。
いや飽きるというよりも、それ自体がストレスになり始めた。

廊下の向こうへ行ってみようともしたが、
なぜかT字路のところより先には行っていけないような気がした。

「――」

だから俺は、延々と廊下、行ったりきたり。

時間はとても、長く感じられた。

166 : 以下、名... - 2012/10/09 23:38:43.78 GSIyCG6Oo 299/338

二週間がたったころ、偶然T字路を通りかかった人間を見つけた。
記憶にはない人間の男だった。

彼は俺を見て立ち止まっていたので、
近づいてみた。

「――」

しかし男は、怯えた表情で駆け出した。
よく分からなかった。

その何日か後にも、女性を見かけた。
これも記憶にはない人間だった。

「――」

やはり彼女も、逃げ出した。
よく分からなかった。

それからさらに数日後に、今度はメイドさんをみかけた。

「――」

メイド「あどうもー」

メイドさんは挨拶をしてくれた。
嬉しいと感じた。

167 : 以下、名... - 2012/10/09 23:43:08.64 GSIyCG6Oo 300/338

その日、支配人がやってきた。

支配人「どうも」

「――」

支配人「さすがに辛く思ったので」

支配人「せめて私と、メイドさんたちの声は聞こえるようにしておきました」

何を言っているのかわからなかった。

支配人「……」

支配人「それでは」

「――」

俺はまた廊下を歩き出した。

169 : 以下、名... - 2012/10/09 23:56:09.78 GSIyCG6Oo 301/338

延々と廊下を歩き続け、座ってみたり、壁を眺めてみたり。
一月、二月、三月と経って、ようやく半年が過ぎた。
もちろん日数など数えていなかったので、
支配人が教えてくれたものを記憶しただけである。

「――」

この旅館にいる人間は、
今のところ全員記憶にない人たちだった。

今日もまた、いったりきたり。
明日もまた、いったりきたり。

延々と、延々と、延々と、延々と。
朝も、昼も、夜も。
時間など大して分からないまま、もう一度、もう一度、もう一度。

「――」

今日も。
今日も。
今日も。
今日も。
今日も。
今日も。
今日も。
今日も。
今日も。
今日も。
今日も。

170 : 以下、名... - 2012/10/10 00:06:08.81 F106sh6go 302/338

一年が経ったとき、俺はとても達成感を感じた。
しかしそれもすぐに消えた。
まだ最初の一年が過ぎただけだと分かったからだった。

「――」

言い知れない感情が芽生えた。
怒りのような、憎しみのような。

俺はある時通りがかった人間に、飛びついていた。
押し倒し、こぶしを振るっていた。

しかしそこにやってきた別の男に蹴り飛ばされた。

俺は二人の男と戦って、
体中を負傷し、動けなくなった。

俺は二日ほど、そのまま寝転んでいた。

それからしばらく、ここに人はよりつかなくなった。

171 : 以下、名... - 2012/10/10 00:15:12.67 F106sh6go 303/338

ある時から、俺にはメイドさんがあてがわれるようになった。
何が原因だったかは分からない。
もしかしたら客の女に何か手を出していたかもしれない。

「――」

メイド「い、いやですよお、お客さん」

メイド「あいた、いたた、乱暴にしないで」

メイド「もうちょっとやさしく」

「――」

メイド「私たち性感機能ないんで、いたいだけなんですよ」

ただそれは退屈な毎日に、一瞬でも楽しいと思わせるもので。

メイド「ああもう、いまおわったばっかりでしょう」

「――」

メイド「わかったわかりました、そんなしなくても、逃げませんってば」

しばらく俺は、それを頻繁に、つづけた。

173 : 以下、名... - 2012/10/10 00:29:00.67 F106sh6go 304/338

二年がたち、三年がたち、やっと五年がたった。

先の見えない、とても長い時間だった。
楽しみといえば、
毎日とっかえひっかえメイドさんであそぶこと。

とはいえ最初はサルのようだったものの、
最近では、そんなに目新しい感じもなくなってきて、
正直面白みはへっていた。

「――」

ある日唐突にそれに飽きた。

俺はまた、行ったりきたりを繰り返す。

自分が何をしているかわからなかった。
分からないことがストレスだった。
しかし考えようにも何も考えられなかった。

分からず壁に頭を打ち付けてみたりした。

「―-」

分からなかった。

176 : 以下、名... - 2012/10/10 00:36:55.92 F106sh6go 305/338

十年がたったころ、俺はもう、おかしくなっていた。

ある日あまりの退屈さに、
だんだんと頭をたたいたり、
変な方向に身体をまげてみたりした。

腕で強く壁を殴ると、間接が一つふえた。
痛かった。

調子にのって、そこをぐりぐりとやってみると
紅いものがでてきた。

ぼたぼたと。

「――」

気がちがっていた。
いやもうそんなものも忘れたようだった。

「――」

数日後には直っているその腕を見て、
嫌悪感を覚えた。

またどたばたと、身体を打ちつけた。

177 : 以下、名... - 2012/10/10 00:46:27.22 F106sh6go 306/338

二十年が過ぎた頃、俺はもう動かなかった。

まだ気の違ったように動いていた方がマシだったような気もする。

これだけたつと、旅館の客はほぼ入れ替わっていた。
彼らは十年やそこらで大体帰る。
もちろん長く居座る人も、逆にすぐに帰る人も、いたが。

メイドさんの機能も、付いたり消えたり色々変わった。

何年かに一度のその変化を確認するのは、
そこそこに興味があった。

「――」

時間はとてもながかった。

まだ、まだ、ずっと、先。

178 : 以下、名... - 2012/10/10 00:48:37.97 F106sh6go 307/338

それからの日々は、何も変わらない。

時々メイドさんと遊んでみたり。
時々自殺を図ろうとしてみたり。
時々制御不能で客に手をだしてしまったり。

でも基本的には
ずっと廊下を歩くか、座ってじっと壁を見ているか。

ここのしみの数すら、概ね覚えたような気がする。

三十年。四十年。五十年。

まだ、まだ、まだ。

179 : 以下、名... - 2012/10/10 00:52:24.87 F106sh6go 308/338

六十年だか、七十年だか、もう支配人の言葉もまともに記憶していなかったが、
とにかくそれくらいがすぎたころ。

「――」

記憶にある人間が、やっとやってきた。

「――」

彼女はこちらを見るのだが、
その目は俺をまったくうつしていない。

「――」

口だってひらかなかった。

「――」

でも何故か、うれしかった。

180 : 以下、名... - 2012/10/10 00:58:36.90 F106sh6go 309/338

童ちゃんがきて、十三年後。
さらにもう一人、見知った人間がやってきた。

カタギ「――」

とても冷たい目をしていた。

「――」

もちろん意思疎通などできないし、
それをしようなどとも考え付かなかった。

ただ知っている人間がいるな、と思っただけ。

頭の中は、もうほとんどからっぽだった。
何も思ってすらいない。

俺は今日も延々と、廊下を歩き続ける。
ひたすらに。
ただひたすらに。

181 : 以下、名... - 2012/10/10 01:04:52.24 F106sh6go 310/338

そうして。
拷問のような、生き地獄のような、そんな数十年を経て。
長い長い、長すぎる時間を経て。
気を違えながら、何をしているのかもわからないまま。

「――」

「――」

俺はついに、俺自身と、対面した。

俺はいつのまにか記憶というものすら薄れさせてしまっていたから、
最初は何か分からなかった。

とはいえ気づいた後も、俺は別段かわることはなかった。
なにせ何も考えられない。

俺がいる、という認識をしただけだった。

184 : 以下、名... - 2012/10/10 01:08:37.82 F106sh6go 311/338

しかし俺は、俺の元へとなんどもやってきた。
最初はとても短い間隔だった。

「――」

俺は本能的に、廊下を進もうとする俺を、跳ね返した。

「――」

気力もなにもとうになかったが、
これだけはやらなければとおもった。

どうしてかはわからなかった。

とにかく通してはいけない気がした。

「――」

俺は色々と叫んだりわめいたりするのだが、
何を言っているかはわからなかった。

186 : 以下、名... - 2012/10/10 01:12:56.36 F106sh6go 312/338

そして。
やっと。

お嬢さん「――」

お嬢さんがやってきた。
俺が着てから一年くらいだったとおもう。

俺は今までで最高に嬉しかった。
しかし、どうして嬉しいかはわからなかった。

お嬢さんはすぐに立ち去った。

それから何年かは、時々やってくる俺との戦いだった。
ただ、戦っているというつもりはなかった。
通してはいけないと思っていただけで。

「――」

次第に頻度は、すくなくなっていった。

187 : 以下、名... - 2012/10/10 01:20:46.84 F106sh6go 313/338

ある日。

「――」

お嬢さん「――」

二人が同時にやってきた。
俺は本能的に、立ちふさがった。

何かしなきゃいけないような気がしたが、
わからなかった。

「――」

わめいているが、聞こえない。
聞こえたところで、思考できないのだから大して意味はないのだが。

お嬢さんと俺は、二手に分かれたりして突破しようとした。
しかし突破させるわけにはいかなかった。

なぜ?
わからない。

強引に突破しようとした俺を、
俺はちからづくでねじ伏せた。

俺は俺に、ナニヲしているのだろう。
そもそも俺は、……何故ここにいるのダろう。

何も分からなかった。

188 : 以下、名... - 2012/10/10 01:28:54.18 F106sh6go 314/338

またしばらくは、こなかった。

芸者「――」

記憶にあったような顔が、また増えた。

「――」

引き続き、俺はこの廊下を歩いていた。

それから数年、ほぼ何もなかった。
たまに廊下の先が何故か行き止まりになってたりするくらいが、
変化だったろうか。

じっと、じっと、ただ、俺は壁を眺め続けていた。

そして、その日。

189 : 以下、名... - 2012/10/10 01:32:12.96 F106sh6go 315/338

「――」

また、俺とお嬢さんが二人でやってきた。

俺はまた立ちふさがった。
行かせるわけにはいかない。

「――」

俺は近づいてきた俺を突き返す。
また二手に分かれた。同じ事をやっていたような。

俺はすぐにお嬢さんを追った。
行かせるわけにはいかない。

俺がすがり付いてきたが、どうでもよかった。
意外と、粘り強い。
だが、大したことはない。

そのときだった。

カタギ「――」

いつもと展開が、違った。

190 : 以下、名... - 2012/10/10 01:34:24.60 F106sh6go 316/338

蹴り飛ばされたのか、転がっていた。
俺はすぐに立ち上がったが、

カタギ「――」

銃口を向けられていた。
反射的に、危機感を感じて一瞬うごけない。

その間に、カタギさんはなにかしゃべっていた。

「――」

俺が、逃げ出した。
お嬢さんの元へ。

まって。
いかないで。

「――」

カタギ「――」

カタギ「――」

なにか、破裂したような。

腕が、いたい。

イタイ。

191 : 以下、名... - 2012/10/10 01:41:00.07 F106sh6go 317/338

お嬢さんと俺は、二人で走り出していた。

俺は胸の奥から吹き経つ、
まるでマグマのような荒く、烈しい焦燥感に駆られた。

「――」

いかないデ。

カタギ「――」

マッて。

しかしカタギさんに組み伏せられた。
俺は死んでもいいという思いで、体中を振り回した。

彼らを行かせてはならなかった。
絶対に行かせてはならなかった。

何故か行かせてしまったら、
俺が受けつづけた拷問は、
全て意味がなくなると、思った。

腕は引きちぎれていいと、身体がどうなってもいいと、
死に物狂い。

まっテ。
まっテ。

192 : 以下、名... - 2012/10/10 01:48:15.21 F106sh6go 318/338

死力を尽くし、俺はカタギさんからどうにか脱出した。
片腕は既におかしな方向に折れ曲がっていたが、
そんなこと気にもせず。

マって。

追いかけた。
全速力で。
あらんかぎりの力で。

カタギ「――」

マッテ。

「――」

限界などとうに超えて、
体力など気にもせず、
筋肉が壊れるほどに、足で床をたたいて、
わきめもふらず、まっしぐらに。

カタギ「――」

そして、追いついた。
俺は、すぐさま飛び掛る。

一瞬見えた、お嬢さんの怯えた顔など
なにも気にせず。

193 : 以下、名... - 2012/10/10 01:55:32.81 F106sh6go 319/338

俺は俺に飛びついたが、
向こうの俺もまた、必死だった。

取っ組み合いをするうちに、
すぐにカタギさんに蹴飛ばされた。

「――」

痛みはあったが俺はそれでも、
立ち向かおうと。

カタギ「――」

――ッ!!!

足に、激痛。

血が、どくどくと。

既に腕からの大量の出欠と合わさり、
視界がブレた。
足を動かそうとしても、うごかなかった。

まって。
マダなの。マダなの。

マダ、なにモ、でキてないノ……。

身体が一瞬、動かなくなった。

194 : 以下、名... - 2012/10/10 02:00:20.91 F106sh6go 320/338

死ぬと、感じたその時だった。

脳が、少しずつ、クリアに。

(あれ……?)

思考能力が、少しずつ、復活し。

(こ……れは……)

すぐに状況を、理解する。
俺は今まさに、死に体の。

ああ、ああ。

(あの時の……)

ああああ……。

(くそ……、くそ……)

俺は何とかまだ動く左腕で、力の限り身体を這わせた。

(いましか……いましか……)

カタギ「こいつ……」

カタギ「いかせねえぞ」

だん、と俺の腕はカタギさんに踏みつけられた。

195 : 以下、名... - 2012/10/10 02:05:33.76 F106sh6go 321/338

カタギ「なんでこいつ、こんなに必死なんだ……」

お嬢さん。お嬢さん。お嬢さん。

「……あぁあ……、ああ」

(声……が……)

うめき声しか、でない。

(たのむ……でてくれ……)

(お願いだから……!!)

(たのむ……!!!)

「ぉ……で、も……」

何十年も、もう百年近くもの間。
封印されていた、この、言葉。

仮面「あい、し……で」

コレだけを言うために。

仮面「……いだ……」

ああ、いまやっと

言えた……。

196 : 以下、名... - 2012/10/10 02:13:43.02 F106sh6go 322/338

すっと、あっけなく消えていく意識の中で。
俺は最後まで、お嬢さんを、見つめていた。

伝わって、伝わって。

目が、閉じる。
身体が、動かなくなる。

カタギ「なんて言った?」

「……いえ、俺も……」

お嬢さん「……、……」

けれど俺は、このとき、意識の全てが消える寸前で、気づいた。

>一つは、「気付いたよ」と書かれたメモ。意味は不明。

ああ。

彼女は。

気づいて、くれたんだ……。


ああ。

よか、った……。

198 : 以下、名... - 2012/10/10 02:22:37.30 F106sh6go 323/338

男とお嬢さんの二人が去り、
全てが終わったこの場所で、
動かなくなった仮面の男と、
息を付いて座り込んだカタギさんが、残っていた。

カタギ「支配人……」

支配人「どうも」

支配人「お疲れのご様子で」

カタギ「けっ」

私は肩をすくめる。

カタギ「こいつは、死んだのか」

支配人「ええ、どうみても生きているようには見えませんが」

カタギ「……そうだが」

カタギ「しかし、俺は知っているぞ」

カタギ「この場なら、大きなキズだって、寝てれば直る」

カタギ「時間が止まってるから、身体は元の状態にもどるんだ」

支配人「そうですね」

カタギ「死には、至らないんだろう」

199 : 以下、名... - 2012/10/10 02:30:44.81 F106sh6go 324/338

そのとおり。
たしかにこの場所では、逃避した時点の身体を、維持しようとする。

支配人「基本的には、そうですね」

支配人「しかし、そうでない場合もある」

カタギ「そうでない場合……?」

支配人「はい、簡単な話です」

支配人「……逃避者が、すでに、現実で死んでいる場合」

カタギ「……」

支配人「現実逃避をする際、死んでいることから逃避する方もいらっしゃいます」

支配人「そういったかたがたは、一応は時間を与えるために」

支配人「ここに死の寸前の身体で招待いたしますが」

支配人「ここで死ねば、それまでです」

カタギ「そいつも、そうだって言うのかよ」

支配人「……」


支配人「……はい。この方は既に、現実世界において、死亡しております」

200 : 以下、名... - 2012/10/10 02:42:39.41 F106sh6go 325/338

支配人「しかし彼は、自らの死の現実を逃避したのでありません」

支配人「むしろ、現実逃避をするために、死を選んだ」

支配人「もっと正確に言うのなら」

支配人「ここで死ぬために、現実世界でも、死んだ」

カタギ「……どういう」

支配人「……いえ、お気になさらず」

カタギ「……」

支配人「この死体は、私が預からせていただきます」

支配人「カタギさんは、ここからご自分でお部屋に戻れますか?」

カタギ「……ふん」

支配人「ふふ、帰れそうですね」

支配人「……それでは」

201 : 以下、名... - 2012/10/10 02:56:30.22 F106sh6go 326/338

私は自室に、彼をつれてきた。
静かに、寝かせる。

支配人「おつかれさまでした」

その顔を一生の間かくしていた仮面を、
とる。

支配人「……良い顔でいらっしゃる」

とても晴れた、大往生の顔で、彼は死んでいた。

支配人「しかと、見届けましたよ」

彼は一生をささげ、悪魔の契約をやりとげ、
最後の一瞬の報酬を、自ら掴み取った。

支配人「ああ、すばらしい」

支配人「他人のために、自分の一生を」

支配人「本当にかけられる人間が、いるとは……」

素直に、心より。

支配人「感服の至りで、ございます」

203 : 以下、名... - 2012/10/10 03:11:04.13 F106sh6go 327/338

私から見れば、
きっとこの後、さきほど出て行ったほうの彼が、
またここを現実世界で訪れるであろうから、
それを過去に送るという仕事が残っているけれども。

支配人「この彼にとっては……」

ここが物語の、終着点。
この旅館で気づいたところから始まる十日間の呪縛と
それを抜けてたどり着いた現実と、
またそれをどうにかしようと奮起した彼の、
長い長い、物語。

支配人「ああ……」

私はその顔に、人の心の、強い、強い何かを、感じた。

支配人「なんと……」

私は感動に打ち震えていた。

ただあの一瞬を勝ち取るための、
その強い意思の輝きは、
きっと誰もが持つものなどでは、なく。

204 : 以下、名... - 2012/10/10 03:32:32.10 F106sh6go 328/338

そして私は、思った。

支配人「あれだけ頑張って、……これだけの報酬では……、つりあわない」

しかし、契約は契約。
一生に対して、あの一瞬。

彼は一生をここで終えることで、あの一瞬をつかんだ。
そしてそのために、

支配人「おやおや」

支配人「それでは過去に行く前に」
支配人「貴方は一つ手順を踏まねばなりません」
支配人「お教えしますので、ぜひ、ご自分で」

彼はこれで、自分を殺した。
現実で死んでいなければ、この世界で死ねないから。
しかし。

支配人「おやおやおやおや、つりあいませんねえ」

彼がささげたのは、一生である。

支配人「この旅館で一生をささげ、そして現実の世界で、あるはずだった未来の人生も、殺している」

支配人「おやおやおや、おやおやおやおや! 一つの報酬に、二つも代償をささげておられるとは!」

支配人「こりゃあ、大変だ」

208 : 以下、名... - 2012/10/10 03:43:05.89 F106sh6go 329/338

私はくつくつと、わらった。

支配人「等価交換ではないじゃないですか」

支配人「これでは悪魔の名に泥がついてしまいますねえ」

支配人「さてどうしたものか」

これは自分でもひどい屁理屈だと、内心で笑いながら。

支配人「……なに、戯れです」

支配人「悪魔の戯れです」

支配人「その勇姿を見せてくださった貴方への」

支配人「私からの、ちょっとした悪戯です」

支配人「ふふ」

支配人「そしてこれは」

支配人「貴方への、正当な対価」

さあどうぞ、胸を張って。

お受け取りください。

209 : 以下、名... - 2012/10/10 03:57:53.34 F106sh6go 330/338

朝の、少し早い時間。その日俺は仕事に行く途中であった。

「現実逃避、しませんか?」

「……は?」

唐突に、肩をたたかれた。
振り返ると、うさんくさいスーツの男が、一人。

「お金や時間、才能や人間関係、何でもいいのです」

「それら気の疲れる現実から、さらっと逃避などしませんか」

「……新手の宗教かなにかか」

「どうです? 現実逃避、してみませんか」

「……はあ。いい、しないよ現実逃避なんて」

「おやそれはどうして」

「充実してるから」

「ほう、それはまた」

「……なるほど、素晴らしいことです。では私は、不要でしたね」

「そうだ。帰った帰った」

俺が手で軽くあしらうと、その男は何故か小さく笑いながら、その場を去った。

210 : 以下、名... - 2012/10/10 04:01:15.43 F106sh6go 331/338

「ったくなんだった……」

朝の急いでいる時間を邪魔されたのが、不快だった。

「って」

「あああ―!!!」

先ほどたたかれた肩が、泥だらけに。

「あいつ……!」

古典的な悪戯をしていきやがった。
しかも、その犯人はもう姿をくらましている。

「ちくしょう……」

これでは仕事にいけやしない。

「く、遅刻だが……」

一度家にかえって、服を取り替えなければ。

「何てやつだ……、くそ……」

211 : 以下、名... - 2012/10/10 04:04:51.60 F106sh6go 332/338

0 ex

「あれ……、ここ……」

「病院?」

「わっ」

「ち、ちょちょちょちょ、どうしたんですか!?」

「な、な、なんですか、そんな突然抱きついて」

「こ、ここ病院ですよ!?」

「わ、しかもどうしたんですか!? その服」

「なんで汚れて……、あれ、お仕事は……?」

「ああ、ああ、ほら、なかないの、なかないの」

「ここにおりますよ、私はここにおりますよ」

212 : 以下、名... - 2012/10/10 04:14:52.80 F106sh6go 333/338

それは、奇跡だったのだろうか。

「家にもどったら……、君が倒れてて……!」

すぐに救急車をよんで、病院に運んでもらった。

「よかった……、よかった……!」

俺は彼女に抱きつく。

「もう……、いいこ、いいこ」

もしも、もしももう少し、遅かったら。
あの時家に帰っていなかったら。

>医者には一時間はやければなんとか、
>なんていわれて。

きっと彼女は、今は、もう――
俺は強く、まるで知っていたかのようなくらい、そう思った。

「そんな、ちょっと倒れただけではありませんか」

「そんな、こと……っ」

214 : 以下、名... - 2012/10/10 04:19:20.91 F106sh6go 334/338

俺は抱きしめた彼女を、さらに一度強くぎゅっとしてから。

「俺も……」

「俺も、愛していた……っ」

「っ!?」

「ど、どうしたんです急に……」

「言ってなかったから……」

「言わなきゃ……、今言わなきゃ、いけない、って……」

「もう……」

「どれだけ心配したんですか」

もうあとは、よかった、という安堵に。
ただただ睫をぬらすばかりで。

「……」

「心配かけて、ごめんなさい」

「……私も貴方のことを」



「愛しておりますよ」

215 : 以下、名... - 2012/10/10 04:24:12.02 F106sh6go 335/338

これはもしかしたら、本当の世界ではないのかもしれない。
そんな想いが、どうしてかちらついた。

しかしその後、彼女と俺は、
つつがなく共に暮らしていけたから、
そんな想いはすっかりと、消えた。

その中で、不思議な話を聞いた。

「現実逃避の、旅館……?」

「……はい、覚えておりませんか?」

「いや行ったことはないが……」

「あ、でもあの日、現実逃避がどうとか、スーツのうさんくさい男に」

「!? そ、それどうしたんです!?」

「今充実してるからって、追っ払った。君も、いるし」

「……ああ……」

彼女はとても、不思議な顔をして。

「……そう、ですか」

でも、くすっと、微笑んだ。

216 : 以下、名... - 2012/10/10 04:47:26.91 F106sh6go 336/338

どうやら話を聞くと
俺はその旅館にいて、そして彼女のことをお嬢さんなどと呼んでいたらしい。

十日間の呪縛とか、対価とか、メイドさんとか。

よく分からない話ばかりだった。

しかし、どうしてかその話が、嘘のようにも思えなくて。
カタギさんや芸者さんという人物にあってみた時には、
彼らもどうしてか見覚えがあるような、気がして。

もしかしたら。
あの日、もし家に帰らず彼女を逝かせてしまっていたら。

たしかに現実逃避を、
していたやも、しれず。

しかしそれはそれで、今俺のいる世界の話ではない。
今ここには、たしかに彼女がいる。

だから、俺は――

「これからも……、よろしく、頼む」

――そう言って、彼女をめいっぱい、腕に抱きしめた。

「……はい」

「こちらこそ」

217 : 以下、名... - 2012/10/10 04:51:34.38 F106sh6go 337/338

支配人「このような世界があっても、良いでしょう」

支配人「貴方はそれを得るにたる、働きをみせたのです」

くつくつと、旅館の自室で腰掛けて。

支配人「ですからどうぞ胸を張って、その世界を歩んでください」

支配人「貴方がかけるべき一生は」

支配人「そのような世界で、正しい貰い手にささげるものなのです」

それは貴方が自力でつかみとった、それももう一つの正しい世界なのです。
ですからどうぞ、力強く。
貴方の掴み取った、幸せを、存分に。

支配人「さて、次の逃避者を探しに逝きますかねー」


彼らは、その後。
長く長く末永く。

彼の宣言どおり、一生をかけて。
幸せに暮らしました、とさ。


fin

228 : 以下、名... - 2012/10/10 05:23:48.32 F106sh6go 338/338

お疲れ様でした、今回超ながかったですね
前回を超えて最長でございます
1スレで収まらなくてごめんなさい
次回以降はもっとコンパクトにするよう努力します……っ

付き合ってくださった皆様方、本当にありがとうございました
VIPにて保守してくださった方にも、心より感謝を

毎度のコトながら誤字脱字がやばいですね、見返すだけで心がくるしいです

でもとにかく、やっとこれをかけたので満足です
ずっと頭の中にありました(ずっとあったせいで長くなりました。たぶん)
細かいところとか思ってたことは明日ブログあたりでつらつらやるとおもいます

それではそれでは、お疲れ様でした!
また何か思いつきましたら、その際はよろしくおねがいします!

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