1 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 04:59:40.06 IY97jrkv0 1/338


「……現実逃避でございますか」

お嬢さん「そうです。お金や時間、才能や人間関係、何でもいいのです」

お嬢さん「それら気の疲れる現実から、さらっと逃避などしませんか」

「そりゃあ出来たら楽だがね」

「できないからこそ現実なのだよ」

お嬢さん「いいえそれができるのです」

お嬢さん「イヤなこと、全て気にせず楽しく気楽に過ごせます」

お嬢さん「そうですね……、貴方のさまざまな欲求も、きっと満たされるはずですよ」

お嬢さん「ですからどうぞ、一つ頷いてみてはいかがでしょう」

「なるほど夢でも見ているのだな」

「いいよわかった、俺も疲れているようだ」

「それなら眼が覚めるまで少しの間、現実逃避、付き合うのも悪くない」



元スレ
お嬢さん「現実逃避、しませんか?」
http://hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1349467180/
お嬢さん「現実逃避、しませんか?」2
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1349678424/

3 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 05:14:45.48 IY97jrkv0 2/338


お嬢さん「そうですか。よかった……、ほっとしました」

「ほっとした?」

お嬢さん「いえいえこちらの都合です」

「お、おう」

「……ところで、ここはどこでしょう」

お嬢さん「ここは貴方の部屋ですよ」

「残念ながら、俺の部屋はこう綺麗ではない」

お嬢さん「ああ……、そういう意味ですか、ごめんなさい」

お嬢さん「ここは、現実逃避をした貴方の部屋です」

お嬢さん「現実の、貴方の部屋ではなく」

「ああ、もうそういう状態」

ならさっきの確認は事後承諾でございましたか。


5 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 05:28:57.06 IY97jrkv0 3/338


お嬢さん「ところでお腹は空いていらっしゃいますか?」

「ん、少しは」

お嬢さん「それはよかった。おそらくもうそろそろお給仕がいらっしゃると思うので」

お嬢さん「ぜひ召し上がってくださいましね」

「……おう」

「それでは私はいったん下がります」とお嬢さんは言うと、楚々な動きで部屋をでた。

ぱたん。

「うーむ……?」

「なんだ、これは」

全くわけが分からない。
夢の中とは思うのだが、この小奇麗な茶室風の部屋も、先の清楚なお嬢さんも、
どちらも見覚えがないのである。

夢というのは、一度見たものを投影すると聞いたような。

「まあ、食事が出るなら待ちますか」


7 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 05:35:51.61 IY97jrkv0 4/338


数分後――

メイド「おおー! おきておりましたか! どうもどうも!」

やけにテンションが高いメイド――服装的に、おそらく――がいらっしゃった。

メイド「どうですいい目覚めですか!?」

メイド「あ、ご飯たべますよね?」

メイド「わー頭がぼさぼさですね!」

メイド「なんかおめめぱっちり! どうしたんですか!?」

それも複数人。
誰が何を喋っているのかも分からない。

おめめぱっちりなのは驚いているからなんだよ。

「えーと、君たちは」

メイド「「この旅館のメイドさんズです!!」」

旅館にメイドさんかー、そうかー。

こういうのも和洋折衷、と言うのだろーか。


8 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 05:50:18.33 IY97jrkv0 5/338


「え、旅館」

メイド「はい旅館ですが」

メイド「それ以外のなにがありますかね」

「いやむしろその選択肢が思い浮かばなかった」

メイド「お給仕がいるのに旅館以外なわけないじゃないですかー」

メイド「あー分かった! あれですよ、きっとこの人ここに来る前はボンボンだったんです」

メイド「なるほどー、いつもメイドさんやら女中さんやらが近くにいらっしゃったと」

どうしてそうなった。

メイド「なんとうらやましい! 金持ちめ!」

メイド「ご飯食べます?」

「いや、金もちではないが、あはい食べます」

メイド「はいどーぞ、あーん!」

「いやいやいや、あーんはさすがに」

メイド「えー、さいきんはやってるみたいなんですけどー」

どこでだよ。


9 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 06:04:46.71 IY97jrkv0 6/338


「ふむ、おいしかった」

さくっと食事を食べきると、いつの間にか寝ていた布団はどこへやら。
仕事の速いメイドさんたちである。

「それで、旅館というのは」

メイド「旅館しりません? 泊まるところですよ」

メイド「自宅は飽きた! 羽を休められる場所はどこだ!」

メイド「そうだ京都へいこう!」

メイド「的な」

「いやそういう話ではなく、えーと」

たしかに考えてみると、どういう質問をしてよいものか。

「これ夢でいいんだよね?」

メイド「「さ~?」」

本当に分からないような顔でした。


11 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 06:21:26.64 IY97jrkv0 7/338


メイドさんたちは食器を片付けると、やはり姦しいまま部屋から出て行った。

「お、俺は頭がおかしくなったのだろうか……?」

真剣に寒気がした。
このままではピンクの象も見かねない。

「そ、そうだ、一度外にでてみよう」

四畳半の個室では、状況把握もなにもない。
俺は近くにおいてあった羽織をひっかけると――ちなみにこの時着ていた服は簡素な浴衣――意を決して襖のほうへ。

がらっ。

「な……」

ああ驚くことなかれ、俺。
出た部屋の先には回廊が、渡り廊下のように壁もなく、先へ続き。
その周りに広がった景色は、

「こいつはあ、なるほど」

「現実逃避か」

美しきかな柳暗花明、一面一色山野の春景色。
それはまるで、いやそれこそまさに、

非現実のようだった!


12 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 06:31:39.59 IY97jrkv0 8/338


――というのは実はまだ良かったのである。

「あれは……?」

渡り廊下の続く向こう、木々に隠れて下の方は見えないが、

「わ、わあ」

高く高く、木々よりも高くそびえ立つ、それは館。
おそらくあれが、メイドさんたちの言っていた旅館なのだろう……か?

「なんちゅーまあ」

壮大な夢を見ているな、というところでとりあえず気持ちは落ち着かせつつ。

「さてこれはどうしたものかな」

「こ、怖くはないが……」

足が竦んで、すぐには動かなかった。


13 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 06:42:00.66 IY97jrkv0 9/338


「おやおやこれは! 既に散策にでるおつもりでしたか」

「おわ!?」

突然声がかかったので、あわてて見上げていた視線をおろす。

「あこりゃどうも失礼」

支配人「わたくしここの、支配人にございます」

「あ、ど、ども」

支配人「ははは驚きますよね。あんなでかいの」

「ええ、まあ」

支配人「まあまあ見た目だけです見た目だけ。中はたいしたことも無く」

支配人「……でかくてたいしたことがない、ふむ」

「な、なにか」

ちょっと嫌な気配。

支配人「ふふ、いえいえ何も」

支配人「お出かけになるのなら、ご案内でもしましょうか」

「お、お願いします」


14 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 06:51:38.76 IY97jrkv0 10/338


支配人と名乗った男は、とても紳士的であった。

支配人「はあ、なるほど。混乱しておられますか」

「そりゃ寝ておきたらこれですから……」

「夢にしては、さっきからどうにも質感があるというか」

「あきらかに非現実なのに」

支配人「でしょうねえ」

「何か知っておられますか」

支配人「現実を逃避したからでは?」

「いやそれはそうだけども……、でもそれは事後承諾的な――」

支配人「まあまあ。そのあたりは追々ということで、ね」

支配人「まずは当館自慢の景色を楽しんでみては」

「うーむ」


15 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 07:01:27.24 IY97jrkv0 11/338


支配人「おやご不満ですか」

「そりゃ腑には落ちませんよ」

支配人「しかたありません。では男性客には取っておきの」

支配人「女子、というのをご提供いたしましょうか」

「は? え、どういう」

支配人「これも当館自慢でして」

支配人「ここのメイドさんは、中々に粒揃いの美少女たちにございます」

支配人「その中の一人をですね」

「あーあーあ! いい、そういうのはいい!」

支配人「おや、女性には興味がない? どなたでも選んでいただいて良いのに」

支配人「珍しい方です。……でも嬉しい」

「え?」

支配人「私が人肌脱ぐ時が来たようですから」

すっと支配人は来ていた服に手をかける。
俺はそっとその手を止めたのだった。


16 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 07:12:14.60 IY97jrkv0 12/338


支配人「しかしですね真面目な話」

支配人「あの子たちはおそらく頼めば断りませんよ?」

「仕事だからですか」

支配人「いえいえここは決して娼館ではありません」

支配人「ただそもそも彼女達、けっこう色好きでして」

「はあ……」

(ち、ちょっと興味がなくも……ないかなー?)

「い、いやいやだめだ」

俺は煩悩を振り払うように首を振ると、

支配人「やはり男の子でございますな」

と支配人は笑った。


17 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 07:28:34.64 IY97jrkv0 13/338


となんだかんだと話しているうちに、
回廊を渡りきって、

支配人「到着ですね」

支配人「こちらが本館でございます」

「お、大きい……」

見上げれば首が痛くなるほどに、高い。
さすがに雲のかかるほどではないが、
十……いや十五階はあるだろうか。

支配人「さあどうぞどうぞこちらへ」

観音開きの扉を開けて、
本館へと俺は足を踏み入れた――ら、

メイド「あ、支配人さんー!」

メイド「おやお客さんもー!」

メイド「仲良くお散歩ですかー!?」

やっぱりテンションの高いメイドさんたちに迎えられたのだった。


18 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 07:38:07.55 IY97jrkv0 14/338


中に入ってみると、
そこは天井が二階までが吹きぬけた、直線の廊下。

左右に襖が連なっているが、
ちょっと開いているところを覗くとこれがまた広い座敷。

支配人「このあたりは宴会場ですねー」

「……なるほど」

メイドさんたちが、その廊下を座敷をわたわたと走り回っている。
掃除。たぶん。

支配人「まずはフロントまで行きましょうか」

「え、ええ」

圧倒されて、非現実がどうとかすっかり忘れて、
俺はおずおずとその背を追った。


20 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 07:53:46.81 IY97jrkv0 15/338


支配人「はい、ここがフロントです」

「思ったよりも遠かった……!」

このフロントにたどり着くまでおよそ15分。

支配人「無駄に大きくなってしまったもので。ははは」

「これは一人で歩いたら迷いかねないような」

支配人「そうですねえ」

支配人「ですが迷ったとしてもメイドさんたちがおりますからご安心を」

「あ、そ、そうか」

支配人「とりあえず慣れるまでは、このフロントを基点にしていただければ」

「……わかりました」


22 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 08:01:05.13 IY97jrkv0 16/338


はあ、と気が抜けた。

ここまでの距離もさることながら、
途中にあった天井まで吹き抜けの、おそらく中央広場の大きさに
すでに圧倒されて気力はなく。

「あの、どこか休めるところはありませんか」

支配人「おお、これは失礼。疲れに気付かず」

「ああいや、気持ち的に」

支配人「なるほど。であればそうですね。ちょっと手の空いてるメイドさん!」

パン、と支配人が手をたたくと。

メイド「はいはーい!!」

メイド「あいてます!!!」

メイド「超手すきです!!!!」

メイド「めっちゃ暇です!!!」

またわらわらと。


24 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 08:06:36.79 IY97jrkv0 17/338


支配人「うーんそんなに暇になるほど仕事ないですかね?」

メイド「「「ぎくっ」」」

支配人「はいはい、仕事のある人は持ち場に戻る」

メイド「ううー! チャンスがー!」

メイド「恐怖政治!」

メイド「ぱわはら!」

支配人「お仕置きですかねこれは」

メイド「「「それはやだー!!!」」」

とまあ楽しそうなもので、散り散りに。

そうして最後に一人。

メイド「あ、わたし本当に手すきなんで……」

支配人「おおよかった。一応サボりではない子がいましたか」

支配人「ではこのお客さんを、疲れの癒せる場所にご案内してあげてくださいな」

メイド「はーい」


25 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 08:21:04.79 IY97jrkv0 18/338


メイド「まだお風呂って時間じゃないですよねー」

「そうだね」

メイドさん――茶髪のロングであった――についていきながら、
ふとその言葉で思い出す。

「時間か、忘れていた。今何時だ?」

メイド「1時半ちょいすぎですかね」

「……そうか」

先ほどおきてから体感で2時間かかってない程度。
となるとおきたのは正午くらいだったか。
おそろしい寝坊であった。


26 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 08:24:45.42 IY97jrkv0 19/338


メイド「んー、どっこがいいかなあ」

「色々あるのか」

メイド「まあこれだけ広いんで」

メイド「どんな感じがいいです? まずは布団とベッドなら」

「何故その二択」

メイド「そりゃあ、ねえ」

メイドさん、なぜか頬に朱を差した。

メイド「しっぽりいきましょう」

「まてまてまてしっぽりはいかない。ゆっくりしたい」

メイド「ええー。一人で?」

「一人で」

メイド「異議申し立てです!!」

「却下します」


29 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 08:34:56.84 IY97jrkv0 20/338


メイド「そっかー、自分でするタイプかー……」

「ものすごい誤解だが」

メイド「まあいいです。じゃあその気になったら呼んでください」

メイド「待機してますんで」

「してなくていいです」

メイド「わーつめたい」

メイドさんはちょっとむすっとしつつ、

メイド「それじゃこのあたりどうですかねー」

と到着したのは、中庭らしき場所を見下ろせる一角。
ちょうどバルコニーのようになっていて、座り心地のよさそうなイスが一つ。

「おー、これはゆっくりするにはいいな」

メイド「お気に召しましたか」


30 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 08:38:08.13 IY97jrkv0 21/338


「気に入ったよ」

メイド「ふふ、気が合いますね。ここ、私のイチオシなんで」

メイド「サボるときは良く使うんですよ」

「サボるのはどうなんだ」

メイド「まあなんだかんだ暇ですしー」

「ふむ……、しかしサボるとお仕置きというのがあるのでは」

メイド「あーあれは……あれは……」

「お?」

メイド「あれは……いやだあ……」

メイドさん、きゅうにしゅんとうなだれる。
いったい何があった。


31 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 08:58:41.77 IY97jrkv0 22/338


メイド「それじゃあ私、戻りますんでー」

メイド「またなにかあったら呼んでくださいー」

「わかった。……つれてきてくれて、ありがとうな」

メイド「いえいえこれしき」

と多少不満なのか半分棒読みながら、
そう言ってメイドさんが頭を下げたのをみて、
俺はふう、と呼吸を整える。

(さて……、少し休憩をしてからしっかりと――)

「!?」

なにか、なにか額に。柔らかい感触が!

メイド「うふふっ」

「な、な、な、何を!!!」

額に口付けを食らった!?

メイド「お預けくらっちゃったんでー、これくらい許してくださいよう。えへ」

「こ、これ、これくらいってお前なっ!」

とあわてる俺をよそに、
メイドさんは「またよろしくおねがいしますねー!」と言って走り去ったのであった。


32 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 09:11:07.95 IY97jrkv0 23/338


「うーむ……」

まだ額にあの感触がのこっているな、とさすりさすり。

「まったく」

あまりこういうのは、得意ではない性分であった。
恥ずかしいというか。

「ま、まあ、忘れよう」

「それより落ち着かなきゃ」

そうしてやっと深く息を付いて、何度か深呼吸。
ようやっと落ち着きを取り戻す。

「えーと……」

「ああそうだ。これは本当に、夢なのか」

正直なところ、そうとは思えない。
が、だからといって何が分かるではない。

「うーむ……」


34 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 09:15:10.35 IY97jrkv0 24/338


「少し……、寝よう……」

落ち着いたら、どっと疲れが押し寄せてきた。
たった二時間程度の時間ではあったが、
あまりに非常識的な情報が多すぎる。

(頭が……、疲れているな)

常識で考えようとして、何か色々疲れてしまっているようで。

(ああ、いい香りだ)

ここはちょうど良い具合に植物の香りが漂ってきて、
リラックスをするにはもってこいの場所であった。

(一度寝れば……、きっと)

なんでもかんでも、
きっと解決しているはずだ。


37 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 09:25:17.67 IY97jrkv0 25/338


10

「ど、どうも、先日は……」

「あ、い、いえ、違うんです、問題があったとかでなく」

「ではなく、そ、その突然なのですが……!」

「ここに私を置いてくださいませんか……っ?」

「あ、ああ変な人ではないですよ!」

「あすいません、落ち着きます……、一度お会いしてますもんね」

「その、あの、色々と、ありまして……」

「え!?」

「い、いいんですか!?」

「あ、で、でも、大丈夫ですか? 本当に?」

「そ、そうですね、私から言い出して……」

「……」

「あ、ありがとうございます!!」


38 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 09:29:09.63 IY97jrkv0 26/338


「……んぁ……」

「はっ!」

眼がさめる。

「あ……」

「あー……」

そこは寝たときと変わりなく、室内バルコニーのイスの上。

「なんて……、こった」

正直寝ればさめると、思っていた。
結構心底から。
だってそうだろう。
夢というのは、夢の中で寝てさめてまでも続くものではないはずなのだ。

「くそ……」

その落胆は、思ったよりも大きかった。


39 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 09:35:12.87 IY97jrkv0 27/338


窓が近くにあるわけではなかったが――たんに閉切られただけかもしれないが――
明かりがともっているところを見ると夜だと分かった。

「深夜……か……?」

昼間のように少々浮ついたような空気の無いところをからして、おそらく。
人の気配もなかった。

「どうしよう……」

一瞬考えてから、

「あ、部屋に戻ればいいのか」

と気付いてすぐ、

「道がわからない……!!」

俺は頭を抱えたのであった。


40 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 09:39:03.05 IY97jrkv0 28/338


「め、めいどさんよーい……」

明かりが行き届いているとはいえない廊下を、
俺はゆっくりと歩き進める。

(大声なんて出せないしな……)

「めいどさーん……、いませんかー……」

小さな声で呼んでみるが、やはりおらず。

「支配人さんでもいいんですがー……」

おらず。

「フロントに戻ろうにも……」

「何も考えずにメイドさんについてきちゃったからそれすらも分からない……」

「俺のバカ……!」

正直ちょっと、こころぼそく。


41 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 09:49:37.56 IY97jrkv0 29/338


その時突然目の前が真っ暗になった。

「だーれだ!」

「!?」

びくぅっと飛び上がる。

「だーれだ?」

もう一度聞かれて、隠したものが手の平だと気付いた。
人がいたことに、心底ほっとした。

「メイドさんか」

「ぶっぶー」

おや、違うようで。

「それだと分からないな」

「じゃあふりむいて」


42 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 09:58:05.51 IY97jrkv0 30/338


女性の手の平の感触であったので、支配人ではなく。
となるとお嬢さんかなと――声が違うようだったが――思いつつふりむくと。

「……」

「……」

「だ……、だーれ、だ……?」

本当に誰か分からなかった。

「ぷっ……!」

女性であった。間違いなく。

「む……」

ただメイドさんの服は着ておらず、少々派手目な和服すがた。
胸が大きなことが一目で分かった。

(え、襟が、はだけかけてるが……)

聞き返してしまった俺が面白かったのか、
彼女はしばらくくすくすと笑った。


43 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 10:02:14.68 IY97jrkv0 31/338


「初めてだもんねわからないよね、ごめんごめん」

「い、いえ……。えっと」

芸者「ああ、私ね。芸者さん、って呼ばれてる」

「芸者さんですか」

なるほど旅館だし、芸者もいますか。

芸者「ね、おにいさん。迷子でしょう」

「分かりますか」

芸者「そりゃあ後姿がびくびくしてたもの!」

芸者「きっと誰でも分かるよねー」

「お恥ずかしい限りで」

芸者「あはは。……ね、なんでさっきから目そらし気味?」

「いやあ……」

ちらっちら見える胸元が気になって、とは言えず。


44 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 10:09:39.79 IY97jrkv0 32/338


芸者さんに手を引かれて、歩き出す。

芸者「おにいさんの部屋って、春の間だっけー?」

「え? あ、た、たぶん?」

「見た目は春でしたね」

芸者「じゃあそうだー。ここからだとちょっと遠いね」

「ど、のくらいですかね」

芸者「んー、といっても15分かからないくらい?」

芸者「なれない人が歩いたら、遠いって感じ」

「な、なるほど」

(手を握られてるのが気になって上手くしゃべれん……!)


46 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 10:13:36.77 IY97jrkv0 33/338


芸者「夜一人だとここ怖いよねー」

芸者「一応夜のみまわりメイドさんズもいるんだけどね」

「そそ、そうなんですか」

芸者「……」

「……?」

芸者「そうか、おにいさんはこの胸が気になっている!」

「は!?」

いや確かに気になるけども。
実はそれ以前の話でございまして。

芸者「あははー、男の子だなあ」

芸者「触る? 触っちゃう?」

「い、いいです、いいです近づけないでください!」


47 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 10:24:09.77 IY97jrkv0 34/338


そんなふうに弄ばれつつ、
春の間――というらしい――の前で芸者さんとは別れた。

「ここの女性はみんなああなのか……」

ぼやいて、観音開きの扉を開き、回廊へ。
そのまま部屋へと俺は戻る。

「ふう……、やっと落ち着いた」

今気付いたが、部屋にも時計があった。
時刻は二時を少し回っている。

「結構おそいな」

「まあ、これで心置きなく寝れる」

実は座りながら寝ていたので、少々腰が痛かった。

「あれ。布団敷いてある……」

「あ、そうか、旅館だからメイドさんのだれかが」

「助かる……」

俺はそうして、その日を終えたのだった。


48 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 10:30:30.75 IY97jrkv0 35/338


翌朝。

さすがに昨日は寝てばかりだったので、
今日の朝は早い。

「んー、よし」

一応期待はしないでもなかったが、
やっぱり事態はかわっておらず。

「なに悩んでも仕方ない」

「大丈夫。今日からは正常運転だ」

昨日の今日ではあるが、
今が非常識なことは理解したつもりだ。

「腹を据えればなんとかなる」

「現実逃避なぞさっさとやめて、家に帰ろう」


49 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 10:46:31.74 IY97jrkv0 36/338


しばらく思考してみたが、考えはまとまらなかった。

メイド「おはようございますー!」

メイド「おやおきておりますね!」

「おはよ。もう朝食の時間かなにかか……?」

メイド「いえまだですけど、それにつきまして」

メイド「実は貴方にご招待がありまして!」

メイド「招待に答えるならラウンジで!」

メイド「ここで食べるならそれもOK!」

メイド「どうします!?」

「招待……? ふむ」

俺を誰が招待するというのか、うーむ。

「いやわかった、ラウンジってとこに、連れてってくれ」


50 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 10:55:21.28 IY97jrkv0 37/338


そうしてつれられてきたのは、古民家風のラウンジ。
檜でつくられているらしい。いい匂いだ。

「ああ、これはどうも」

お嬢さん「あ! よかった、来てくださいましたか」

「誰かと思ったら、昨日のお嬢さんか」

お嬢さん「はい、私です。ごめんなさい、突然」

お嬢さん「あどうぞ腰掛けてください」

「ありがとう」

「一人で食べるよりは二人のほうがいいから」

お嬢さん「そうですか」

お嬢さんはなんだか嬉しそうである。


51 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 11:06:15.95 IY97jrkv0 38/338


お嬢さん「その……」

お嬢さん「……色々と気になることがあると、思うのですが」

「いいよ。食事が終わってからにしよう」

お嬢さん「すいません」

「謝らなくても。何か速いうちに伝えておくことでも?」

お嬢さん「……いえ、そうでは。では食事が終わってからで」

「うむ」

朝食の間交わした口数は少なかったが、
そう悪い空気でもなかったのでよしとする。

ちらと食事をする彼女の横顔をみると、
まだあどけなさののこる、幼い娘であることに気が付いたのだった。


53 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 11:20:22.46 IY97jrkv0 39/338


食事が終わった後、俺はころあいを見計らって聞いてみた。

「ここは、いったいなんなんだ?」

お嬢さん「ここは、現実逃避をするための場所です」

お嬢さん「そのための、旅館です」

「それは分かってる。夢ではないのか?」

お嬢さん「それは私には、なんとも……」

お嬢さん「い、いえ、言えないとかではなく、本当にわからないのです」

「ふうむ、そうか……」

「では君は? 君はこの館の関係者ではないのか」

お嬢さん「いえ、それは違います。私は外の人です」

お嬢さん「……私も貴方と同じです」

お嬢さん「現実逃避をするために、ここにやってきました」


56 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 11:35:57.97 IY97jrkv0 40/338


俺と……、同じ?

「なら君が俺をここに連れてきた人、ではないのか」

お嬢さん「はい、私ではありません」

お嬢さん「私は貴方に、現実逃避をするのか否か、確認しただけで」

「……何故君が、確認を」

お嬢さん「二つ理由があります」

お嬢さん「一つは、確認の理由ですが」

お嬢さん「ここに来た人は、現実逃避をするくらいです」

お嬢さん「よほどの思い悩むことがおありです」

お嬢さん「ですから、ここならばその現実から逃避できるのだと」

お嬢さん「お伝えしたくて」


59 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 11:38:07.24 IY97jrkv0 41/338


お嬢さん「もう一つは、私が確認をした理由ですが」

お嬢さん「これは貴方をあの部屋に運び込んだのが、私だったからです」

「運び込んだ……?」

お嬢さん「はい。正確には、メイドさんのお力も借りましたが」

お嬢さん「貴方はあの日、既に館内部で倒れておりました」

お嬢さん「既に、連れられてきたあとでした」

お嬢さん「だから私は貴方を部屋へ運び込み」

お嬢さん「これは身勝手なのですが、気になって、私は目の覚めるまで近くにおりました」

お嬢さん「そうして目が覚めたとき、先の理由で、聞いたのです」

お嬢さん「現実逃避、しませんか。と」


60 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 11:45:07.21 IY97jrkv0 42/338


なるほど、これで謎が解けた。
あの日俺の目の覚めたすぐ近くに彼女が居たこと。
そしてあんなことを聞いた理由。

「では他に、そもそも俺や君をこの旅館に連れてきた人物がいるのだな」

お嬢さん「……そうなります」

「それは誰か、分かるか?」

お嬢さん「それは……、その……」

「ん?」

何かいいにくそうな顔をしたあと、しかし口を閉じきれず。

お嬢さん「……支配人、かと」

「……ああ」

そうか、たしかに順当に考えればそうなる。
この旅館の支配人が、この旅館のことを知らないわけがない。

「なるほど、問い詰めるなら支配人が先だったか」

「わかった、ありがとう。ならちょっと、行ってくるよ」

お嬢さん「……、……はい」


61 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 11:48:15.47 IY97jrkv0 43/338


フロントに行くと、あっさり支配人は見つかった。

支配人「おやおはようございます。朝食はとられましたか?」

「ええ、おいしかったです。それより、確認したいことがありまして」

支配人「はあ、なんでしょう」

「俺をここに連れてきたのは、貴方ですか」

支配人「おやこれはまた単刀直入な」

「どうなんです」

支配人「ふふふ……!」

「……」

何か悪の親玉がもったいぶるような間を置いて、

支配人「私ですが、なにか」

いともあっさりと。そういいのけた。


64 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 11:53:45.22 IY97jrkv0 44/338


少々肩透かしを食らった気分である。

「どうして」

支配人「どうしてもなにも……」

支配人「貴方が現実逃避を望んだからでございますが」

「それは……」

確かにお嬢さんにはそう言ったが……

「いや順序が逆だ! 俺はここに連れられてきた後に言ったんですよ」

「貴方に言ったわけではない」

支配人「ほう」

「だから、ここに俺がいるのはおかしい」

支配人「なるほど、そういう論法で」

いったん間を置き。

支配人「ふふ、ではお伝えしますが」



支配人「貴方は間違いなく現実逃避を望みました。そして私がそれに応え、ここにお連れしたのですよ」


67 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 12:03:13.61 IY97jrkv0 45/338


「な……に……?」

支配人「まだ、なにか」

「そ、そんなの記憶に……、ない、ぞ」

支配人「はあ、左様で」

「俺は……」

混乱しかけ、それでも必死に記憶を思い返そうと、試みる。

「ん……」

いやしかし、何もそれを阻まない。
すらすらと、記憶の途切れるところまでを俺は思い返すことが出来た。

途切れる最後の日も、普段どおり。
確かに退屈ではあったが、それは逃避するほどのものではなく。
本当に本当に、普段どおりであったのだ。

「やっぱり、そうだ。普段どおり、だったんだぞ……?」

支配人「そうでございますか」


68 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 12:12:14.11 IY97jrkv0 46/338


記憶が途切れているのは、そこでこちらに移動したからだ。
ちゃんと現実での最後の記憶は、思い出せている。
別段おかしなものはない。

「何かの手違い……、なんじゃないのか」

支配人「さて、どうでしょうね」

「……」

「と、とにかくそれなら話は簡単だ」

「俺は別に現実逃避なんてするつもりはない。さっさと返してはくれないか」

支配人「ま、そう焦らず。ここで楽しんでから帰っても、損はないでしょう?」

支配人「それともなにかお急ぎで?」

「ん……」

そういわれると、特に急ぐことがあるわけではないのだが……


70 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 12:19:41.39 IY97jrkv0 47/338


芸者「おやおやー、何かやってるとおもったら支配人におにいさん!」

支配人「おやこれは芸者さん。どうもどうも」

芸者「どうもー。なに、どうしたのおにいさん辛気臭い顔しちゃって」

芸者「あ。また支配人、お客さんおちょくって遊んでたんでしょ」

支配人「おやおや、そんなつもりは」

芸者「おにいさんおにいさん、支配人はちょっとああいう悪い癖があってね」

芸者「支配人とまともに話すとすぐ疲れるんだから」

芸者「ま話は私がきいてあげるよー、私の部屋、くる?」

「あ、いや、その……」

俺は支配人を見上げる。
なんか、負けたような。

支配人「どうぞどうぞ、ごゆっくりなさってきてください」

「……」

なんともいたたまれない気持ちのまま、俺はその場を後にした。


75 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 12:34:09.75 IY97jrkv0 48/338


もやもやの気持ちのまま、やはりというか彼女に手を引かれ。

芸者「ここだねー」

と前に立ったのは、観音開きのどこかでみたような。

「あれ? ここ、俺の部屋が」

芸者「あー、違う違う。よく見て、模様が違うでしょ?」

「あ……」

言われて気付く、その模様。
春の間のものもうろ覚えだが、たしかに若干違うような。

芸者「そいでは」

開きまして。

「う、うわ」

むわっと押し寄せたそれは草いきれ。
暑い日差しを受けて昇った、その熱気。

「……これは」

見上げた空に夏雲奇峰。
季節はまさしく夏である。


77 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 12:42:22.26 IY97jrkv0 49/338


芸者「夏の間へようこそー」

「これはまた……、信じられないな……」

しかし同時に納得した。
俺の部屋が春の間なら、それ以外の季節があってもおかしくはなく。

芸者「春の間と同じで、回廊を進めば部屋につくんだよー」

芸者「ま、造りは全然違うけどね。そもそも地形が違うから」

「そう、なんですか」

たしかに春の間と違って、この夏の間には近くに川が見えたりしている。

「え、川!?」

館の中に川? いやここは館の外?
え、そもそも外ってどうなってる? 春と夏が共存してる?
え? どうやって? あれ!?

芸者「あははー細かいことは、考えない」

芸者「ここは現実逃避をする場所、なんだから」

「そ、そりゃそうですが……」

芸者「ささ部屋にいこう部屋にー」


78 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 12:49:40.60 IY97jrkv0 50/338


部屋は、俺の四畳半の部屋よりは全然ひろく。
というか。

「へえ夏の間には何部屋もあるんですね……、というかこれで既に一つの旅館のような」

芸者「え? あー、そっか。気付かなかったのね」

芸者「実は春の間もこんなふうな家というか旅館というか、そんなのが入ってるんだよー」

「えっ」

芸者「ただ君の部屋が一番前で、でちょうどその部屋の裏にさらに回廊がまわってるから」

芸者「最初から知ってるか、よく注意してないと分からないかもねー」

「ああ……、そう、でしたか」

そういえば、まともにあそこを散策したことはなかった。なるほど。

芸者「ままそんなことはおいといて」

芸者「今お茶でも出すからちょっとまっててねー」


79 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 12:56:40.75 IY97jrkv0 51/338


芸者さんが出て行った瞬間、はっとした。

「女性の部屋に、俺が……」

しかも一対一である。

「これは……まずいんじゃないか!?」

今更、冷や汗がたれる。
そうだった、すっかり失念していた。

昨日の彼女の態度をみるに、
間違いが起こらないとは言い切れない。

「だ、だいじょうぶ、俺が、俺が折れなければ……」

と気合をいれて少しの後。

芸者「いれてきたよー」

と出てきた芸者さんは、

「!?」

「……」

なんと子連れでございました。


83 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 13:13:34.82 IY97jrkv0 52/338


芸者「あっはっははははは!! 違う違う、私の子じゃないよー」

俺が「子連れでしたか」と漏らした途端の大爆笑。

芸者「この子はねー、わらしちゃんって呼んでるのー」

芸者「子供って意味ね。ほら私も芸者さんだし、貴方もおにいさんだし」

「あー……、なるほど」

ここでは名前を名乗らないのが暗黙のルールなのだろーか。

芸者「はい童ちゃん、ご挨拶」

「こんにちは」

「こんにちは」

(ん……?)

なんか、目の焦点が俺にあってない?

芸者「あ、ごめんねこの子、目、見えないから」

「ん……、そうでしたか」


85 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 13:19:56.63 IY97jrkv0 53/338


「この子とは、一緒にここで?」

見た感じこの子はお嬢さんよりもさらに幼い。

芸者「そうだよー。おにんぎょさんみたいで、かわいいでしょ」

「たしかに」

黒く長い艶やかな髪、ぱっつんに切りそろえた前髪、
その端正な顔立ちと和服であることもあいまって、それこそ日本人形のような。

(いや……?)

そうではなく、そうではなく。
まるで感情の無いような顔が、そう見せているような……?

(気のせいだろうか)

芸者「それで、支配人さんとはどんな話してたのかな?」

「ああ、はい、えっと……」


87 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 13:28:36.69 IY97jrkv0 54/338


芸者「あー、なるほどねー」

「はい。どうにも言ってることがかみ合わなくて」

と話している間にも、童ちゃんは虚空を見つめ、眉根一つ動かさなかった。

芸者「ま、そうだよねー」

「何か心当たりが?」

芸者「んー……」

童ちゃんの頭をさわりさわりとなでながら、

芸者「あはは、よくわかんないや」

「そう、ですか……」

芸者「でも、ここにきたってことはやっぱり何かあったんだと思うよー」

芸者「支配人さんが言っていたことと同じだけど」

芸者「急がないなら、しばらくここでゆっくりしていったらどうかなあ」


90 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 13:48:09.15 IY97jrkv0 55/338


その後雑談――毒にも薬にもならないようなよしなし事だったが――をいくらか交わして、
軽く散歩をしたあとに、昼食を共にとってから俺は夏の間をお暇をした。

充実した午前中である。

「はあ、朝早くおきるとこうも色々と……」

やることがあるほうが張り合いはあるが。

支配人や芸者さんの言うように、
とりあえずのところ俺は急いで現実に戻る必要は無い。
それになんだかこのまま戻っても、
いったいどうしてここに着たのかが分からず、もやもやがのこりそうだ。

だからもうしばらく、ここに残ってみようかと思った。
せっかくだから、何かあれば知りたいのである。

「しかし午後は、どうしようかな……」

考えてみたが、特に浮かばず。
仕方が無いので俺は、この館を散策してみることにしたのであった。


92 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 13:56:35.49 IY97jrkv0 56/338


散策にて分かったのは、この館が思っていたよりもさらに広いということだった。
その恐ろしい広さは、一日二日どころか一週間かけても全てを回りきれるようなものではなく。

「いやまて迷った……!」

結局こうなる始末であった。

ちなみにこのあとメイドさんをみつけて無事春の間に戻ったころには二十二時過ぎで、
午後は一瞬にして吹き飛んだのである。

収穫は、前に教えてもらった中庭バルコニーのようなものを、いくつかみつけたというところで。

「あそうだメイドさん、頼みごとが」

メイド「はいはい!」

メイド「なんでしょう!」

「明日の朝なんだが、お嬢さんを朝食に誘いたい」

「この前俺がやってもらったみたいに、できるか?」

メイド「おお! 青い予感!」

メイド「春の季節!」

「いやそうではなく、今日誘ってもらったから、そのお返しに」

メイド「「はいはーい! 承知しました!!」」


93 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 14:06:35.59 IY97jrkv0 57/338




「え、なぜ私が来たかですか?」

「あはは、それ恥ずかしいんですけど……」

「でも言わないと始まらないですよね、たしかに」

「前にお会いした時に、貴方が言っていた言葉、あるでしょう」

「お忘れですか?」

「私あの言葉に、びびっとやられてしまって、一発でやられてしまって」

「あはは……、はい。それですそれ」

「私に言ってくれた言葉じゃないことは、も、もちろん分かってますよ」

「でも、本当に忘れられなくて」

「その、やっぱり最初に言っておくべきでした、ごめんなさい」

「そ、そのまさかです!」

「わ、わたし……は、貴方のことが!」

「すす、す、好き……ですっ」

「え……? あ、わわわ、大丈夫ですか!? 大丈夫ですか!?」


96 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 14:20:35.09 IY97jrkv0 58/338


翌朝、朝食の席

「そんなわけで、しばらくここに残ると、思う」

お嬢さん「ああ……」

お嬢さんは心底嬉しそうな顔をした。

お嬢さん「よかった」

なんとなく自分がいることを喜んでくれているようで、俺も嬉しかった。

お嬢さん「あ、そうだ、今日の夕食は芸者さんと童ちゃんと一緒に、どうです?」

「おお、それはいい。……二人とは、知り合いなのか?」

お嬢さん「そうですね……、結構」

「そうか。まあ同じ旅館にいるわけだし当然か」

お嬢さん「あ、でもそうなるとあの方も……」

「あの方?」

お嬢さん「ええ、もう一人、お呼びしたい方が。……構いませんか?」

「ああそりゃぜひ」


98 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 14:38:21.27 IY97jrkv0 59/338


という会話があって、俺は夜まで空いた時間を、散策でつぶすこととした。

二日ほど回って分かったのは、
この旅館は一階から五階程度まではある程度整備がされているが、
それより上は無法地帯だということ。
建築物と建築物が入り組んだ、迷宮のような。

確かに歩く道もあるし、階段もある。
ただそれが整っているかというとそうではなく、
そのデコボコ具合は人口の岩山のようなもので、
その上あちこちがあちこちとつながっているものだから、
どこがどこだかわからない。

ゆえに六階以上に足を踏み入れたら、まず迷う。
五階もあやしい。

また登頂にも挑戦はしてみたのだが、
いまのところ九階より上にたどり着いたためしは無い。
もちろん帰りはメイドさんに手を引っ張られ。
繰り返していたので、何度目かにはため息をつかれた。

ただところどころにあったなんだか分からない部屋や、
隠し扉のようなもの――中は見たが、怖気づいて入っては居ない――は、
男心をくいくいとくすぐった。

まだまだ分からないことばかりで、今後も要捜索だろうか。
そういえば、メイドさんが洗濯物を干している場所は偶然だが発見した。

そうして夜である。


101 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 14:52:41.91 IY97jrkv0 60/338


集まりやすいだろうということで、吹き抜けの中央広場
その三階にある八畳ほどの部屋。
この部屋は少々吹き抜け側に出っ張っているので目立つ。

「こんばんは」

お嬢さん「あ、こんばんは」

芸者「やっほー。きたきたこれでそろったかな」

「……」

「あれ、もう一人いらっしゃるのでは」

芸者「いやそれがねー、あの人誘ったんだけど、やっぱりこなくてー」

お嬢さん「あはは……、まあ、あの人はこういうお誘いにはあまり」

芸者「付き合い悪いんだからねー、もう」

芸者「そうだ明日あたり皆で突っ込んでやろーか!」

芸者「こっちからいくと結構突っぱねないし」

お嬢さん「そうですねえ……、たまには」

(いったいどんな人なんだろーか……)


103 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 15:01:21.51 IY97jrkv0 61/338


やはり複数人で食事をする、というのは素晴らしい。
俺はあまりこういう経験が無かった。

「あ、そういえば。芸者さんとかは、ここで働いてるんです?」

芸者さんはいつの間にかアルコールに手をつけていた。
そのスピードが非常に速く感じられたので、心配しいしい話題を振ってみる。

芸者「おわ、それ聞いちゃう?」

「え、なんでですか」

芸者「あははー……、まあいっか。隠してたわけじゃないし」

芸者「いや実は私もねー、おにいさんやお嬢さんと一緒なのよ」

「え!? と、ということは、つまり」

芸者「そうそう、現実を逃避して、ここにきたわけー」

芸者「童ちゃんもだよねー」

「こく」


105 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 15:13:47.76 IY97jrkv0 62/338


「はあ……、そうでしたか。そっか、なるほど」

「この館の支配人とメイドさん以外は、つまりそういうことなんです?」

お嬢さん「私たちの知る限りでは、そうですね」

「なるほど」

「では、あと一人というのも」

芸者「そうだよー。あと一人も私たちとおんなじー」

「そうでしたか」

俄然、あうことが楽しみになった。

「明日、行くんですか?」

芸者「んー、そうだねえ、行ってみようか?」

お嬢さん「くす、そうですね」


106 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 15:23:27.28 IY97jrkv0 63/338




「あ。お、おはようございます……」

「昨日は早く寝てしまいましたが、大丈夫でしたか……?」

「え、まだ寝る!? もう結構な時間ですよ!?」

「あ、う……お、おこってます……?」

「あ、あの、すいません、私……」

「あう」

「え、と……」

「……!!」

「あ、あの、あ、あの」

「ありがとうございます……」


108 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 15:28:17.15 IY97jrkv0 64/338


翌朝、十時ごろのことである。

今日も朝食はお嬢さんととったのだが、そのあと。
とても重大なことにきづいてしまった。

「まずい……、風呂に、風呂にはいって……なかった……!!!」

いやなにがきっかけで思い出したというではなく。
というか、四日目にしてやっと気付いたのが遅すぎただけ。

「まずい、変なにおいしてなかったか……!?」

四日間そもそも正常でなかったゆえ仕方なかったにしろ、
さすがに自室でひとりもんどりうった。

「あれ……? においが、あんまり……」

「自分のにおいだからなれたのか? いやしかし」

「メイドさん! メイドさんはおらんかね!」


109 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 15:30:48.43 IY97jrkv0 65/338


メイド「はい!! メイドさんここに!!」

メイド「おっとここにも!!!」

メイド「よばれてとびでて!!!」

メイド「ででーん!!!!」

どこから沸いて出たのか一声かけただけでこの集まりようである。

「す、すまない、たいへんもうしわけないのだが」

「俺、へんなにおいしてないか……?」

メイド「へんなにおい?」

メイド「してる?」

メイド「雄のにおいすらしない」

メイド「さかってない」

メイド「結論は?」

メイド「「「しない!!!」」」

「うーん……、あてにしていいのかこれ」


112 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 15:37:00.40 IY97jrkv0 66/338


「ま、まあいいか……。メイドさん、俺に浴場をおしえてほしい」

メイド「えっ欲情!」

「ちがう風呂場だ。湯殿だ。浴室だ。とにかく体を洗いたいんだ」

メイド「ははあ、なるほど!」

メイド「旅館なめてますね!」

メイド「旅館といえばお風呂!」

メイド「お風呂といえば旅館!」

メイド「え、お風呂といったらトルコじゃない?」

メイド「あ、たしかに」

「全然たしかじゃない」

「それはおいといて、ぜひともその旅館自慢のお風呂を教えて欲しい」

メイド「「「らじゃー!!!!」」」


117 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 16:07:52.24 IY97jrkv0 67/338


と言ってつれてこられたのは

「ああ、秋の間か」

メイド「夜なら夏の間か冬の間なんですけどー」

メイド「昼前のこの時間だと、桜か紅葉かなーって」

メイド「話し合いの結果、紅葉を推してみる、ということに!」

「なるほど」

観音開きの扉が開かれて。

「やはり圧巻な」

さっと吹いた乾いた風に、ぶるっと身震いするのも一瞬。
朱色の葉群れがさあっと眼前を通り過ぎて現れたのは、遠く色づく紅の偉観。

見まごうことなく、それは秋。

「いや春夏と見てきたが、秋もまた素晴らしいなこれは……」


118 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 16:16:29.95 IY97jrkv0 68/338


紅葉で敷き詰められた回廊を抜け、秋の間の屋敷へ。

お嬢さん「どたどたと……何事です?」

「あ」

お嬢さん「……え」

襖の間から顔を出したお嬢さんと、目が合った。

お嬢さん「わあっ」

お嬢さんは俺を確認するやいなや、その見目好いかんばせをひっこめた。

お嬢さん「わ、わ、すいません、はしたないところをっ」

「い、いや、べつにいつもどおりの……」

メイド「バカですねー、お嬢さんのような奥ゆかしい女性は、ちゃんと人前に出る時は準備してるんですよ!」

メイド「いつもどおりじゃあないんです!」

「あ、ああ、そうなのか……、すまない」

先に伝えておいてくれと思わずにはいられなかった。



120 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 16:21:39.33 IY97jrkv0 69/338


「と、というかいいのか、ここは彼女の場所だろ」

メイド「お風呂は皆自由につかってますよ!」

メイド「私有地はお部屋のみでございます!」

メイド「実は春の間のお風呂も普通に使われていたり!」

「気付かなかった……っ」

メイド「まあそれぞれの季節風呂があるというのはうちのウリなんで!」

メイド「超ファンタジックですけれど!」

「本当だよ」

俺は適当にメイドさんたちをあしらいつつ、

「す、すまなかった。……風呂を少し、お借りしても良いだろうか」

お嬢さん「え、ええ、ももちろん、こほん。……ぜひ使ってくださいな」

挙動不審だったお嬢さんは、咳払い一つで冷静を取り戻した。

「では、お言葉に甘えまして……」


124 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 16:30:14.65 IY97jrkv0 70/338


「お、お前らな……」

そんなわけで落葉舞う情緒豊かな露天風呂に入ったわけだが。

メイド「いやー、しかしお風呂に誘われるなんて」

メイド「ねー、ほんとびっくり」

メイド「こんな一気にまとめてね!」

メイド「いやしかしこういうところが男らしさというものでは!」

メイド「どーかなー!」

「だれも誘ってなどいないだろう……!」

メイド「ええ今更そんなこといってー」

メイド「女に恥かかせようってんですか!!」

メイド「ほらほらどうですどうです、結構いい体じゃないですか?」

一応体にバスタオルは任せているのだが、
にしても体のラインがくっきりと浮き出るのはどうしようもなく。

なんだかあからさまに見せようとしているのも数名。

「ぐう……」

こう、いろいろと、ね。大変。


129 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 16:46:14.16 IY97jrkv0 71/338


俺は体を湯で何度か流してから、すぐに風呂へと逃げ込んだ。

メイド「はーんにげちゃったー」

メイド「お背中洗ってあげようと思いましたのにー」

「お前らこれ……、サボりにはならんのか……!」

メイド「接待は仕事ですが!」

メイド「間違いなく!」

メイド「異議なし!」

多勢に無勢。
俺がなんと言おうと意味はなく。

と、風呂場の縁、俺の目線の先に一人のメイド。
縁に腰掛け、体を曲げて、これみよがしに柳腰の曲線美を見せ付ける。
その体はそれだけで男を脅迫するような妖艶さ。

振り向き後ろには待ち構えていましたと、また一人。

そもそもここのメイドたちはそれぞれがそれぞれおそろしい美女ぞろい。
ちょうど少女と女の中間のような年頃が多くそれがまたなんとも。
もちろん容姿がというだけでなく、体付き一つとっても文句のつけようはない。

それにもかかわらず、この媚態。
俺とて我慢にも限界があるとは、おもわないかね。


132 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 16:51:33.65 IY97jrkv0 72/338


メイド「うーん、じらすうー」

メイド「ね、ね、いいの、きて?」

「く、しかし……っ」

メイド「ほおらあ、もーっ」

くいくいと内股をくねらせるそれがまたなんと艶美な。

そのときであった。

お嬢さん「あの……、大丈夫ですか」

「はっ」

その肉付きの良い雪肌の太ももに、いまにもすがりつきかけていたのを必死にとどめる。

「いやっ、なにも!」


136 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 17:03:49.11 IY97jrkv0 73/338


メイド「くっ!」

メイド「あとすこしだったのに……!」

メイド「なしくずせたのに!!」

お嬢さん「……貴方たちはまた人がいやがっているというに」

お嬢さん「やりすぎですよ。ほら、今帰れば言いつけませんから」

メイド「「「ぐううう」」」

メイドさんたちは無念そうな声をもらしながら、しぶしぶと退散していった。

たたた、とお嬢さんがかけよってくる。

お嬢さん「大丈夫ですか」

「ぐう、う」

頭が、くらくらと。

お嬢さん「ああ、これは……。んん、も、もうでてください」

細い腕が、俺を引っ張っているような気がする。
朦朧とする意識の中での、見間違いだったろうか。
お嬢さんはバスタオルを、まいていたような。


138 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 17:09:02.85 IY97jrkv0 74/338


「む……」

目が覚めるとそこは四畳半の和室。

「俺の部屋か……? あれ……」

「いや、なんか、あれ……」

おぼろげな視界に、人影が?
頭の感触は、いったい。

「あ……」

「あ」

ピントがあって、ようやっと理解する。
俺を覗き込んでいるその人影は、お嬢さん。

ついでに頭に接触しているものも把握できてしまった。

お嬢さん「お目覚めですか」

「こりゃ、どうも……」

まだ頭はくらくらするが、
ぱたぱたと仰がれる扇子のおかげで幾分かは楽なよう。

つまりこれは、膝枕。


140 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 17:15:56.11 IY97jrkv0 75/338


「面目、ない……」

メイドの誘惑にたぶらかされて、これである。

お嬢さん「ほんとですよ、まったく」

「……」

開く口も無い。
ぱたぱたぱた。

お嬢さん「事情は概ね、聞きました」

お嬢さん「あの方たちに押し切られてああなったと」

「ぞろぞろとここまで全員が付いてきた時点で、気付くべきだった……」

お嬢さん「とはいえ案内が一人でも、似たようなことにはなっていたでしょうに」

しばし考えて、反論はできない。
結局それでも風呂場までは入って来たに違いない。

お嬢さん「まあ、今回のことは仕方ないとします。次からは、ないように」

ぱたぱたぱた。

「はい……」


141 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 17:20:12.25 IY97jrkv0 76/338


「も、もう、大丈夫だ」

お嬢さん「顔色よろしくありませんが……」

「いや、うん、大丈夫」

俺が悪いというのに、このまま仰いでもらい続けるわけにもいかなかった。

お嬢さん「お部屋まで付き添いましょうか」

「いやいや、本当、大丈夫だから」

「安心してくれ。部屋をでてすぐメイドさん捕まえて、そのままつれてってもらうよ」

お嬢さん「そのままさっきみたいにならないでくださいね」

「いやきっと、さっきのは彼女達もテンションあがっちゃってただけだし……」

一対一だと意外と穏やかではあるのは、一日目のメイドさんが証明している。

「それじゃ」

お嬢さん「……お気をつけて」


142 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 17:24:35.51 IY97jrkv0 77/338


部屋をでたところで。

「ああ、これ結構引きずってるな……」

額に手を当てて、立ち止まる。
頭がまともに働いていないのをはっきりと理解した。

「はやく部屋に、帰ろう」

それだけが頭にあった。
だから、ふらふらと。
俺はメイドさんを呼ぶことをわすれ、
足の向くままにあるきだしてしまったのだった。

「ええ、と、あっち、だったかな」


144 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 17:37:27.23 IY97jrkv0 78/338


意識は覚醒すら半ばのようなまま、おぼつかない足取りを一歩、また一歩。
ふらりふらりと進む先は、どこか明かりの届き難い場所へ。

「ええと……」

見たことのない、怪しげな空気のただよう廊下に入っているような気はしないでもなかった。
しかしいつのまにか地に伏した判断力は、鎌首をもたげる気配はなく。

ふらり、ふらりと。

だから、ふとした拍子にたどり着いたT字路で、
おんもらと暗闇の立ち込める廊下を見ても、
さほど危機感というものは感じなかった。

ただ明かりのついた道に進むだけ、というところまでで。

ギシ。

すくなくとも、明かりのついた場所に人の気配はなかったのである。

ギシ。

音がしているのは、聞こえていた。

「なん、だ」

だから俺は気になって、いや普段ならば気になってもさっさと逃げるのに、
判断力のない俺はこのときばかりはゆっくりと、T字路の、暗闇の方へ、目を向ける。


147 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 17:49:48.46 IY97jrkv0 79/338


「誰か、いるのか……」

人が歩いているような、そんな。

ギシ。

「……だれ、か……?」

暗闇から、ゆっくりと光の当たるところに這い出てきたものはやはり人影。

「……なっ」

しかしながらぽうと浮かび上がったそれを、俺はしらなかった。
ぞくっと背筋に粟が立つ。

ギシ。

腕を力なくおとし、左右にふらふら、髪はぼさぼさ。
顔はうつむきかけで、そこには目と鼻にだけ穴の開いた仮面をつけていた。

仮面「――」

その身なりからおそらく男。
まるで亡霊のように、そこに生気はない。
寒気に、俺は強く身震いをした。


149 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 17:58:44.93 IY97jrkv0 80/338


「バカやろう、そっちはいくな」

そのとき強い力で肩をつかまれた。

「そいつはだめだ」

かなしばりにあいかけていた俺は、後ろに転倒しかける。

「こっちに呼ぶなこいつを。おい、メイドいるか、メイド」

パンパンと乱暴に手をたたく、また腹まで揺るがすような大声で叫ぶ。

メイド「はいただいまー!」

現れたメイドは一人。

「こいつの相手。はやく」

メイド「あらまあこんなほうまででてきちゃっていけませんねえ」

「じゃあ任せた。お前はいくぞ、あっちだ」

「え? え……?」

俺はわけの分からないまま連行されるのであった。


151 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 18:08:12.32 IY97jrkv0 81/338


腕をがっしりとつかまれて、ぐいぐいと引っ張られていく。

「わ、ちょ、あるけます、あるけます!」

俺がそういうと、怪訝そうな目を向けてから手を解いた。

「あの、貴方は」

カタギ「カタギさん」

「は?」

カタギ「一度で覚えろガキじゃねえんだ」

「あ、す、すいません、カタギさん」

しばらくあるいて、中央広場。

カタギ「ケガねえか」

「い、いえ」

カタギ「よし。そんだけ歩けるなら、そのまま帰れるな」

「は、はい……」


152 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 18:15:16.15 IY97jrkv0 82/338


そのガタイ、その風貌。
どうみても筋者というか、まず小指が無い。

いやあの状況ではとても心強かったわけではあるのだが。

「あ、あの、メイドさんは……!」

カタギ「相手をさせた、それだけだ」

「ち、ちょっとまってくださいよ! あの変なのの!? 相手ってなんですか」

カタギ「ああまた一からか面倒だ」

カタギ「いいかよく聞け。あいつは理性を売った」

カタギ「だから本能だけで動く。もう人じゃねえ」

カタギ「逆に言えば本能を満たさせればなんとでもなる」

カタギ「お前もみたがあいつは男だ。人間の」

カタギ「女を与えて果たさせりゃある程度落ち着くし誘導もできる」

カタギ「それと。ここのメイドどもも人じゃねえ、人形だ」

カタギ「感情移入だけは絶対するな」

「え……、あの」


160 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 18:40:58.19 IY97jrkv0 83/338


「言っている意味が、よく……」

支配人「はい、そのあたりで」

カタギ「ん、お前……」

支配人「帰りましょう、お客さん。今日は疲れたでしょう」

支配人「うちの子たちがご迷惑おかけしたようで」

支配人「それとカタギさん。貴方は唐突に1か0かの話をしだす。だめですよ」

支配人「まあ、後はお任せください」

カタギさんは軽く支配人を目で威圧した後、背を向けた。

支配人「あなたの帰路は私が保証しましょう」

支配人「それと少し補足を、しないといけませんね」


161 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 18:48:57.32 IY97jrkv0 84/338


支配人「まずうちの子たち、メイドさんたちのことですが」

支配人「彼は人形と言いましたが、それはある意味で間違っていない」

支配人「しかしながら彼女達にはまぎれもなく、それぞれの感情がある」

支配人「貴方も知っていますね?」

支配人「ですからその点、ご注意を」

支配人「また彼についてですが、悪気があるわけではないのです」

支配人「ただとでも、不器用なだけで」

「……すいません、どうも、下手を踏んだようだ」

支配人「なに、女性に対して意地を張るのは悪くありません」

支配人「その結果なら、ね」

支配人は、くすくすとわらったのであった。


162 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 18:52:59.43 IY97jrkv0 85/338




「あははあ、なんだか今日は優れず……」

「すいません、ご飯つくってあげらなくて」

「ああいえ、そんな」

「あ……」

「おいしいです」

「ふーふーしてください」

「あは、やったあ」

「これであしたにはすぐ回復しています」

「ほんとですよう」


163 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 18:57:35.10 IY97jrkv0 86/338


翌朝

「いてて……」

まだ頭に鈍痛が残っているなか、起き上がる。

メイド「あーおきたー!」

メイド「おきたー!」

「ああこりゃ、どうも」

メイド「元気ないないだとききました」

メイド「仕方が無いので癒しにきました」

「えっ」

メイド「いいえ本当は昨日私たちがやりすぎゃったせいだったので」

メイド「ごめんなさいのご奉仕に」

「いや、そんな」

メイド「「「なんでもしますから!! いってください!!!」」」


166 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 19:05:14.83 IY97jrkv0 87/338


「なんでもするの? ほんとに」

メイド「え、えっと、はい」

メイド「震えるねこちゃんですお慈悲を、にゃんにゃん」

可愛い。

「あーそれじゃあマッサージとか」

メイド「マッサージですか!」

メイド「なんと!」

「どうだ?」

メイド「ベリーグッドです!」

メイド「健全なのに肌と肌のお付き合い!」

「あほなこといわない。そいではたのむよ」


168 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 19:10:21.92 IY97jrkv0 88/338


メイド「さあ寝転んでください」

メイド「馬乗られ好きな感じで?」

「いやそういうんじゃないが」

俺はうつぶせに横たわると、
一人のメイドは背に、もう一人は太もも当りで馬乗りに。

メイド「はあ尻に敷かれて快感なんて、罪な人」

メイド「お嬢さんもびっくり」

いやたしかにこのやわい感触は何物にも変えがたくはあるが。

「え?」

ぐいーっと肩と腰の辺りを同時にもまれていく。

メイド「じつはお嬢さんからご招待ありまして」

メイド「今度はお昼ご飯をどうですか、だそうでーす」

「そ、そお、か」

なんか強くなったような。
というか押すたびに反動で動くお尻の感触が。うむ。良い。


170 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 19:23:21.92 IY97jrkv0 89/338


そうして体がすっきりとほぐされた後、俺はお嬢さんと共に昼食をとった。

お嬢さん「昨日は、無事に?」

「お、おう、帰れたぞ」

お嬢さん「本当ですか……?」

「ぶ、ぶじに。うん。本当に」

お嬢さん「……、くす」

お嬢さん「まあ、貴方がそういうなら」

「……おう」

男を立ててくれたのだろうな、と思った。


173 : 以下、名... - 2012/10/06(土) 19:35:18.92 IY97jrkv0 90/338


昼食を終えて、俺は少し散策をすることにした。

昨日の夜はなんやかんやとあって、
あの方――おそらくカタギさんのところへはいけていない。
だから今日の夜いくこととなった。

それまでの間、少し時間をつぶす意味でも。

「ん……?」

その時ちょうど前方に、見覚えのある。

「あ」

それは一人のメイドさんだった。

メイドさんは何人も居て、誰が誰だか分からないが、
しかしながら彼女だけは覚えていた。

茶髪の、ロング。

初日に案内をしてくれた、あのメイドさんだった。


303 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 03:56:22.34 RfWIzW8F0 91/338


「ちょっとそこのメイドさん」

メイド「はいはいー?」

「ああやっぱり君だな。この前はありがとう」

メイド「このまえ、ですか?」

「ほら、この前。中庭バルコニーに案内してくれたろ」

メイド「ああ、私のお気に入りの」

「そうそう」

メイド「……。……案内?」

「え。うん」

メイド「いえ、していないと、思いますが……?」

「してない……?」

メイド「……はい」


309 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 04:06:35.34 RfWIzW8F0 92/338


そのあと何度か聞いてはみたが、芳しい答えはなく。

(覚えて……いない……?)

いや間違いなく彼女なのだ。

(これは……)

ふと昨日の話に出てきた言葉がよみがえる。

(……人形、だから?)

よく、分からない。

ただそこで終わってしまうのはシャクであった。
というのも昨夜の件で、
この旅館が少々歪であるのは理解している。
分かっていて振り回されるだけというのは、いやだった。

「ふむ……」

ふと、思いついた。
微々たることかもしれないが、出来そうなことはないでもない。
俺はその日夜まで少しの間、その下準備にいそしんだのであった。


311 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 04:18:27.18 RfWIzW8F0 93/338



冬の間の前で四人。

お嬢さん「ここですよ」

あの方、というのに会いにいくためである。

芸者「わー、扉空ける前から寒そう」

といいながら、観音扉を押し開ける。

「わ」

突然の光に、一瞬目がくらむ。

(雪の反射か……)

やはり一面雪化粧。
月の光に照らされてキラキラと。

枯木と小川がなければ地形も把握できないような、そんな真っ白な。
冬の世界。


312 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 04:24:36.39 RfWIzW8F0 94/338


他の間と同じく回廊を進み、冬の間の屋敷へ。

その一室。

芸者「私たちがきたよー」

といって押し開けると、

カタギ「……」

その部屋の片隅、小さな机の前に
本を片手にした男――カタギさんが、座っていた。

カタギ「断りくらいいれたらどうだ」

芸者「メイドさん経由でいかなかった?」

カタギ「その前に、そもそも良いか悪いかの確認をしろというんだ」

カタギ「伝えられたのは、『今日くるらしいですよ』なんて決定事項だけだった」

芸者「だって聞いたらダメっていうじゃないのー」

カタギ「……、……ふん」


313 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 04:29:42.01 RfWIzW8F0 95/338


カタギさんはそうは言いつつ、
座布団を五枚ほどひいては真ん中に机を持ってきてくれた。

芸者「いっぱいお酒はもってきたから」

カタギ「どうせお前が先につぶれる」

芸者「そんなこたあないよ、今日はかなりイケるんだから」

カタギ「飲み比べで負けた覚えが無いがね」

芸者「やってみなきゃ。ねー童ちゃん」

と芸者さんは童ちゃんの頭をなでるが、
童ちゃんは特に何も言わずされるがまま。

ここでお嬢さんが俺に耳打ちをしてきた。

お嬢さん「芸者さんと、カタギさん、あれで仲いいんですよ」

「……なるほど、そういう」


315 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 04:44:27.57 RfWIzW8F0 96/338


そうしてはじまったのが、酒盛りである。

といってももっぱらアルコールを煽っているのは、
カタギさんと芸者さんであったが。
童ちゃんはちょこんと、芸者さんのひざの上に座っている。

俺とお嬢さんは二人とのやりとりを見つつ、
なんだかのんびりと。

何か特別な会話があるわけでもなく、
たわいなく飲み交わしているだけというのに。
それはとてもしっくりときた。

芸者「ね、どう、私ちょっときょう、つよいんじゃなあい」

カタギ「いつもとおなじだ」

芸者「そーんなことないよお」

お嬢さん「飲みすぎでは」

芸者さんはうつろうつろのとろけた目。
その目はとても、色香のある。

部屋は暖房がきいているのか、
とても暖かかった。


318 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 04:55:21.36 RfWIzW8F0 97/338


そのたけなわも過ぎた後。

カタギ「ったく、結局こうなる」

芸者さんは酔いつぶれ、
童ちゃんはいつのまにか眠ってしまっていた。

カタギさんはすぐに布団をしくと、
手際よく二人を寝かせた。

言いつつ俺も、そしてお嬢さんも、うつらうつら。
お嬢さんが肩に、よりかかっていた。

カタギ「おい、お前ら」

「ん……、あ、あ、すいません、まかせきりで」

カタギ「お前男ならもうちょっとしゃきっとしておけ」

カタギ「おいお嬢、起きてるか。布団しいてあるから、そこまで自分でいけるか」

お嬢さん「ん……あ、す、すいません」

お嬢さんはふらふらと、布団へ倒れた。
いつもの折り目正しい姿とはうってかわって気の抜けた動き。
それはとても、かわいらしく思えた。


321 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 05:02:55.91 RfWIzW8F0 98/338


女三人、すっかりすやすやと。

カタギ「人の部屋というのを分かっているのかこいつらは……」

「いつも、こんなかんじなんですか」

カタギ「……」

カタギさんは一瞬俺の目を見て、変な間を空けてから。

カタギ「そうだ」

なんだろう、今の。

カタギ「……女の寝てる部屋にいるのは、よくねえな」


322 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 05:13:49.18 RfWIzW8F0 99/338


もう、と湯煙。
酔い覚ましがてらと来たのが、冬の間の露天風呂。

「これは風情のある」

白い世界を見下ろす位置にある、岩でできたその湯船。
俺とカタギさんはふたりで、そこにつかっていた。

カタギ「今日は雪が降っていないから、よく見える」

と、カタギさんは上を見上げて。

「ほお……」

満天の星空、である。
露天風呂で見上げる冬の夜空ほど、情趣に富んだものはそうそうない。

カタギさんはどこからもってきたのか、
木舟を浮かせて徳利におちょこ。

カタギ「飲むか」

「いただきます」


325 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 05:34:39.92 RfWIzW8F0 100/338


カタギ「気分、いいだろう」

カタギ「ここは、こんなのばっかりだ」

「……?」

カタギ「飯も、酒も、女も、出てくる。好きなだけだ。望むだけだ」

カタギ「そのうえ。何をしていないで遊んでいても、誰も、攻めない」

カタギ「何も、言われない」

カタギ「現実を逃避する場所なら、これほど良い場所は、ない」

カタギ「しかし、な」

カタギ「何もしなくていいというのは、裏を返せば、どういうことか分かるか」

「え、っと……」

何もしなくてもいい、というのは、つまり?
どういう、ことか。


326 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 05:50:02.49 RfWIzW8F0 101/338


「何かをする必要が……ない……?」

現実では、生きるために働く必要がある。
三食を手に入れるだけでも、しなければなら無いことがある。

しかしここでは。
何もしなくても、三食に、寝床に、女に、
そしてこの景色のような、旅館の癒しまでも、手に入れられる。

カタギ「そうだ」

カタギ「何も、する必要がない」

カタギ「現実とここの、それがもっともたる違い」

まさしくこれが、逃避の姿。

カタギ「当然のことだが」

カタギ「言ってしまえばそれは、ここでは何も出来ない、ということだ」

カタギ「ここでの全ての目的は、俺たちが手を加えるまでもなく完了する」

カタギ「何かのために動く、という行動の全てが、意味をなさない」

カタギ「俺たちにすることはなにも、ない」

カタギ「これほど無気力なものも……、ないとはおもわないかね」


332 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 06:26:53.20 RfWIzW8F0 102/338


カタギ「まあ、自分にそう言い聞かせて」

カタギ「もう十年も、たったがね」

「えっ!?」

それには驚いた。
ここまで明らかに否定的な意見だったのに。

「ここに、十年も……?」

カタギ「ああ」

カタギ「ここが馬鹿馬鹿しいと、分かっていても」

カタギ「それでも」

カタギ「現実に戻るよりは、幾分もマシなんだよ」


334 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 06:31:58.43 RfWIzW8F0 103/338




「今日は元気だったので、どん!」

「特性のハンバーグです」

「手ごねです、愛がこもってます」

「ふふふ、どうですか」

「あ、あの……」

「お、おいしいですか……?」

「おいしいですか!」

「わたしもたべてみます」

「……」

「……うっ、こ、これは……」

「もう少し勉強してきます……」


337 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 06:39:13.59 RfWIzW8F0 104/338


翌朝
俺はすぐに、昨日の仕込みを確認しにいった。

「ふうむ」

「やはりか」

俺が昨日やった仕込みというのは、
見かけたメイドさん全員に話しかけて、
その容姿と、会話の内容をメモにとっただけである。

ただそれは、一つの結果をもたらした。

「十六人のメイドに話しかけて……、二人、覚えてない子がいた」

茶髪のメイドさんは、俺の事を覚えていなかった。
けれどたとえば風呂場事件の翌日に、
俺に謝りにきてくれたメイドさんもいた。

記憶を維持している子と、いない子がいた、ということである。
俺はそれに疑問を持ったのだ。

だから、調べた。
そしてその結果が十六人中二人。

この二人の共通点は、いまのところ見られない。

「もう一日、ねばってみるか」


338 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 06:47:57.45 RfWIzW8F0 105/338


十六人中二人が、一日前に話した内容と
そもそも話したこと自体を記憶していなかったのだ。

となれば明日以降もそれを続ければ、もしかしたら比較が、できるかもしれない。

そんなことを、朝食の席でお嬢さんに話した。

お嬢さん「……そうですね」

「なにか、気になることが?」

お嬢さん「い、いえ……、なにも」

「そうか」

時たま見せる彼女達の何か隠しているような素振り。

「何か、隠してる、か?」

お嬢さん「あ、あはは、そんなことは、まさか」

お嬢さん「何も、本当に、何も」

お嬢さん「ですから、その、また今日一日をゆっくりと、お過ごしください」


340 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 06:56:33.71 RfWIzW8F0 106/338


隠していることを無理に聞き出しても仕方ない。

「そういえば、カタギさんはここに十年いると言っていた」

「俺はまだ六日間しかいないが」

「お嬢さんは、どれくらいいるんだ?」

お嬢さん「そうですね、もう七年には、なるでしょうか」

「七年……」

「正直、あきないか? 何もすること無いだろう」

お嬢さん「……それは」

お嬢さんが、その朱唇を一瞬噛んだ。

お嬢さん「いえ、そんなことは、ありませんよ」

お嬢さん「編み物や、小物作りが私の趣味ですが」

お嬢さん「その材料は言えば持ってきてもらえますから。作って、遊んだり」

「ああ、そういうこともできるのか」


343 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 07:11:53.71 RfWIzW8F0 107/338


朝食が終わって分かれてから。

「……あ」

そういえば、ここでの時間ってなんだろう。
と思ってすぐに支配人のところへ。

支配人「ここでの時間ですか、まああるといえばありますが」

といって時計を指差して、

支配人「ないといえばないような」

腕を組んで虚空を見つめる。

「曖昧な」

支配人「だってここ、現実逃避の場所ですし」

支配人「時間なんて気にしてたら、逃避できます?」

「……む、そういわれると」

支配人「ここでは、望むなら一生だってここに居られるんですよ」

支配人「だからそんなに気にせずとも」


345 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 07:24:22.19 RfWIzW8F0 108/338


「あ、あと、ここのメイドさんたちって、記憶力が低かったりします?」

支配人「いえ、そんなことは。一般の人間レベルですよ」

「え、ほんとに?」

支配人「はい。記憶力が特別低いということはございませんが」

(んー……?)

メイド「あ、お客さんお客さん!」

メイド「ちょっとちょっと!」

「おわ、どうした」

メイド「夏の間の芸者さんからお呼び出しですがっ」

メイド「いかがいたしましょう!」

「ああ、なるほど。わかった、いくよ」

「それじゃあ、すいません。またあとできます」

支配人「はい。いつでもどうぞ」


347 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 07:30:36.68 RfWIzW8F0 109/338


「二日酔いですか……」

芸者「うん、あはは、もうだめだあ、あたまがあ」

「やっぱり飲みすぎだったんじゃないですか」

芸者「だって負けたくなくてー! うぐう」

芸者「あーでー、私こんなだから、童ちゃんとお昼ごはん一緒にたべてあげてくれないかなあ」

芸者「朝は私起きなかったから、一人でたべたらしいし……、かわいそうなのお」

「な、なるほど、分かりました」

芸者「うー、それじゃ」

言うだけ言うと、芸者さんはぱたんと倒れて、眠りこけてしまった。
胸がはだけて、というか半分みえかけて。

「うーむ、無防備な」

今更ではある。


349 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 07:43:45.37 RfWIzW8F0 110/338


メイドさんに案内されて、童ちゃんの居る部屋へ。

「こんにちは」

「こんにちは」

「えーと、お昼いっしょに食べようと思うんだけど、いいかな」

「おねえちゃんが二日酔いだから?」

「おねえちゃん? あ、ああ、芸者さんか。そうそう」

「わかった」

ほっとする。

「ここでいい? 外にいく?」

「どっちでも」

「え、えっとじゃあ、いつもは?」

「おねえちゃんのお部屋」

「そっかじゃあ、ここでいいかな……」


350 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 07:50:40.43 RfWIzW8F0 111/338


一緒にご飯を食べるのだが、こう、会話がうまく成立しないような。

(むむむ……)

会話はするのだが、機械的というか。
興味をつかめていないのだろうか。

「芸者さんとは、いつもどんな感じなんだ?」

「?」

「あ、えーと、例えば会話とか」

「おねえちゃんがずっと喋ってる」

「童ちゃんは、何か話したりしないのか」

「とくには」

「そ、そうか……」

返答はあるものの、こんな風に会話の接ぎ穂がなくなるのである。


353 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 08:00:42.48 RfWIzW8F0 112/338


顔も無表情で、何を考えているのかも良くわからない。
でもせっかくの一対一の時間なので、
俺は彼女を散歩に連れ出してみた。

「んー、夏だなあ。夏はいい匂いがするな」

話しかけるが特に返答はなく。

「……いい匂いだと、おもいません……?」

疑問系で聞くと、返答をしようとこちらを向いてくれるのだが。

「……」

首を傾げるだけだった。

「そうだ、何か遊んでみよう」

花冠をつくってみたり、草相撲をしてみたりと試行錯誤はしたのだが。
面白そうな顔どころか、表情を変えさせることはできなかった。


354 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 08:10:04.90 RfWIzW8F0 113/338


三時ごろになって帰ると、

メイド「あー、着物よごしちゃって!」

メイド「お洗濯お洗濯!」

メイド「お二人ともお風呂へ!」

となって。

「あの、ご年齢はおいくつですか」

「九つ」

童ちゃんとお風呂にはいることになりました。

(これはセーフか、セーフだろうか)

年齢的には、まだ、まだ子供。
大丈夫……? ギリギリ? きっと?

むしろそれを考えてるほうが、アウト?


357 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 08:26:27.14 RfWIzW8F0 114/338


芸者「お風呂までいれてもらっちゃって、ごめんねえ」

「い、いえ……ははは」

童ちゃんはほとんど自分から動かなかったので、
俺が体を洗ってあげたのだが、
なんだかすごく後ろめたいような。

芸者「昼間ずっとねてたら大分回復したし」

芸者「お礼に今日は私が夕飯をつくってあげよー」

「おお、それはうれしい」

芸者「あでもそれならお嬢さんも手伝いによぼう! いいよね」

「え、ええ、ぜひ」

芸者「……あ」

「どうしました?」

芸者「あ、ううん、やっぱりお嬢さんはご招待ということで」

「ん……?」

何が違うのだろーか。


359 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 08:36:06.53 RfWIzW8F0 115/338


芸者さんの作ってくれた食事は、
この旅館でよく出るお膳にしっかりのようなものでなく、
とても庶民的なものだった。

それがなんだかとても嬉しかった。

芸者「どー?」

「おいしい」

お嬢さん「おいしゅうございます」

芸者「あははー、よかった」

芸者さんご満悦の顔。

芸者「それでおにいさん、今日はどうだったー? 童ちゃんとのデート」

お嬢さん「デ」

「いやデートなんてものではないが……、どうしたお嬢さん」

お嬢さん「い、いえ。私もその話がききたく」

「た、たいしたことは……」

なんだろう。
この威圧感。


363 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 08:51:34.01 RfWIzW8F0 116/338


芸者「あははーやっぱり。難しかったでしょー」

「あまり、楽しませてあげられなかったようで……」

芸者「んーん、外に連れてってくれただけで、良かったよ」

芸者「この子、こういう子だから」

童ちゃんを人形のように抱きながら、

芸者「この子はねー、感情をみせてくれないから」

「それは、たしかに」

芸者「会話してておもったとおもうけど」

芸者「答えのある問いかけには答えてくれるんだけど」

芸者「本人の感情によって変わるものは、答えてくれないんだよねえ」

そういえば、思い返せば。

「ここでいい? 外にいく?」
「どっちでも」

「……いい匂いだと、おもいません……?」
>疑問系で聞くと、返答をしようとこちらを向いてくれるのだが。
「……」
>首を傾げるだけだった。


364 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 08:58:48.69 RfWIzW8F0 117/338


芸者「感情がない、とは思いたくないんだけどねー」

いいこいいこ、と芸者さんは童ちゃんの頭をなでる。

「……あ、あります、ありますよきっと。だって」

「おねえちゃんが二日酔いだから?」

「童ちゃんから、聞いてくれたから」

芸者「あー……、あはは、そうだといいんだけど」

芸者「でもそれはたぶん、いつもと違うからだなあ」

芸者「確認しただけかも」

「ん……」

そう言われると、なんとも。

芸者「あははまあいいんだ。一緒にいてくれれば」

芸者「ねー」

「……」


367 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 09:11:21.61 RfWIzW8F0 118/338


「お二人はいつ頃から一緒に?」

芸者「んー、私がここに来た時からずっとだから、四、五年前かなあ」

お嬢さん「ずっと一緒ですものね」

芸者「そうだねえ」

「一緒にきた、とか」

芸者「ちがうよー、童ちゃんが先にいたの」

芸者「童ちゃん、ここに来て何年経ったっけ?」

「二十三年」

「えっ、年齢より多い……?」

二倍以上である。
しかし体は確かに九歳のままだ。
……なるほど、ここでの時間はあってないようなもの、か。

「しかし、カタギさんより古いとなると……、一番古いのか?」

お嬢さん「あ……」


371 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 09:24:05.25 RfWIzW8F0 119/338


「一番古くはない、私より古い人は、いる」

「え? 誰?」

ここにいる四人とカタギさん以外に、他にいるというのだろうか。

「仮面さん」

「……え、…………あっ」

「この館の支配人とメイドさん以外は、つまりそういうことなんです?」
お嬢さん「私たちの知る限りでは、そうですね」

「……そ、そう……なのか?」

お嬢さん「……彼を、ご存知なのですか?」

「一度、夜に。……あ」

お嬢さん「……ああ。……なるほど、やはり、あの夜」

「あ、いや、あの……」

「ごめんなさい……」


375 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 09:44:44.97 RfWIzW8F0 120/338


「彼は、どれくらい……?」

「分からない」

「そうか……」

仮面のあの男は、
その風貌からもっと別の何かと思っていた。

「い、いや」

カタギ「いいかよく聞け。あいつは理性を売った」
カタギ「だから本能だけで動く。もう人じゃねえ」

もう人じゃない。つまり元は人だった? どうしてそうではなくなった?

「カタギさんは理性を売った、って言ってた。……どういう」

お嬢さん「……!」

芸者「あははー、どういうことだろ。わかんないなあ」

「何か、知ってますよね……?」


378 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 09:58:29.67 RfWIzW8F0 121/338


お嬢さん「……彼は考えることを止めたのです。それだけのことです」

「考えることをやめた……」

一瞬、背筋がぞっとした。
考えることをやめた? つまりそれは……?

しかし俺はその考えを、いま思考すべきではないと思った。
別の所に問いを移す。

「でも売った、のだろ? それは?」

お嬢さん「カタギさんが、そういう言い方をしただけ、では」

「……」

それはやはり、無理やりな。

「……どうして」

「どうしてそう、隠すんだ……?」

俺がいったい、何をした……?

お嬢さん「……それは、」

芸者「おにいさんおにいさん」

芸者「女の子を困らせちゃ、だーめよ」


381 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 10:07:30.16 RfWIzW8F0 122/338


その日はそれでお開きとなった。

最後に芸者さんが、
「お嬢さんは、貴方のためを思ってるんだよ」
と言ってくれたことが耳に残っている。

いや分かっている。
隠しているのは、悪意の所業ではきっとない。
ただそれでも、気になって。

「自分で、探すしか……」

明日、カタギさんに「売った」の意味を聞きにいこう。

そうして俺は布団に入った後。

(でもそれらはまだ……)

考えることをやめた。
その一言が耳に残っている。

なぜならそれは、
現実逃避の極限。

この場所で、もっとも恐れるべきものでは、ないのだろうか。


386 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 10:23:14.10 RfWIzW8F0 123/338




「あの、ちょっと変なこと、かもしれないんですけど」

「え? いつも変!? ううう」

「変な質問を、するんですけどっ」

「あの、先日一度、お会いしましたよね」

「はい。……でも、あの前に、会った覚えとか、ありませんか?」

「……」

「そうですか……」

「全然、ですか?」

「……、……そうですか」

「…………。……このあと、……なの?」


392 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 10:42:05.34 RfWIzW8F0 124/338


翌朝
お嬢さんとの朝食を終えて――いつのまにか習慣になっていた――
俺はまたメイドさんに確認をおこなった。

「また、進展したな」

昨日「一昨日の記憶」をうしなった二名は、
今日は「昨日の記憶」を覚えていた。

その代わり、別のメイドが記憶を失っていた。
十六名中三名。
ただ今回一つ新しく分かったことがある。
それは、一日前だけでなく、二日前の記憶もなくなるということ。

今日記憶をなくしていた三人は、
昨日一昨日と二日間会話をしてメモをとったのだ。
それをどちらも忘れていた。

ここからわかることは。

「ある一点を境に、それ以前の記憶がリセットされている……?」

そのリセットの場所は、メイドさんそれぞれで異なっているのだろう。
だから、昨日忘れた子と、今日忘れた子がいる。

「忘れた後にまた記憶の蓄積が再開されているのをみると」

「何日かで周期になっている可能性も……?」

とにかく、また明日のデータが、楽しみだ。


394 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 10:48:28.44 RfWIzW8F0 125/338


その後俺は、冬の間へと向かった。
冬の間の屋敷の部屋までは、移動が寒い。

「カタギさん、いますか?」

カタギ「どうした」

カタギさんは部屋の中へすんなりと通してくれた。

「聞きたいことが、ありまして」

と、昨日の話をしてみる。

カタギ「ははは、遅かったな」

「はい?」

カタギ「実は昨日の夜、芸者のやつがきてな」

カタギ「絶対聞きに来るから、と口止めしていった」

「な……!」

先を、越されていた。


396 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 11:00:32.10 RfWIzW8F0 126/338


「うーむ……。隠すのが表立ってきた……」

俺が昨日何故隠すのか、なんて聞いたからだろう。

カタギ「毎度あいつらが隠すのも分かるっちゃあ分かるんだがな」

カタギ「俺も巻き込んで、なんてのは簡便してほしいもんだ」

カタギ「俺は別にどっちでもいい」

カタギ「いやむしろあいつらが隠せば俺に聞きに来るんだから」

カタギ「いっそ一から十まで話しちまってくれたほうが俺は気楽なんだがね……」

案に俺が質問に来ているのが面倒くさい、
と言われているようでもうしわけがない。

カタギ「まあこれも渡世の義理か」

カタギ「先に口止めされちまったんだから、言えないわな」

「そこをなんとか」

カタギ「なんとかならねえのが義理なんだなあ」


398 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 11:10:11.48 RfWIzW8F0 127/338


カタギさん、すこし楽しそう。

「カタギさんやっぱり極道ですよね」

カタギ「元だ元。今はカタギだ」

カタギ「ところでどうだ、せっかくきたんだ」

カタギ「一杯やっていくか」

「え、どうしたんですか」

機嫌いいですね、と言おうとして
既に空いたビンが後ろにあることに気づく。

なるほど、昼からやってましたか。

「なら、すこしいただきます」


402 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 11:18:17.78 RfWIzW8F0 128/338


カタギ「わけえなあおい」

年をいったら、そんなことを言われた。

「どうですかねえ……」

なんだかんだ、結構年をとってしまったような。

カタギ「俺の半分かそこらじゃねえか」

「そりゃまあそうですけど……」

カタギ「てーなると色恋沙汰ばかりだろ」

「いや、そんなことは。むしろなにもなく」

カタギ「っはー、わけえのにもったいないなあお前」

なにかこう、胸をえぐられるような。

「あ、でもお見合いくらいならしたことありますよ!」

張り合ったら笑われた。


406 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 11:38:31.99 RfWIzW8F0 129/338


支配人「色恋話と酒の匂いにつられまして~」

「おわ!?」

いつのまにか支配人が部屋へと。

カタギ「おう、来たか。座れ座れ」

支配人「失礼いたします」

とくとくと酒が出されて。

「え、あの……?」

支配人が神出鬼没なのはいいとして。
カタギさんなんでそんな自然に。

カタギ「飲み仲間だが」

支配人「ええちょくちょくと」

カタギ「今日は来るって話だったしな」

支配人「はい、今ちょうど手すきになりましたので」

支配人「いいですね、たまには男三人も」

「わ、わあ……」


410 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 11:57:38.00 RfWIzW8F0 130/338


カタギ「で、その見合いの相手はどんなんだったんだ」

「いや、それが恥ずかしくて、あまり顔が見れなくて……」

カタギ「青いなあ、お前」

支配人「青春ですねえ」

「し、しかたないじゃないですか、初めてでしたし……」

「でも、とても綺麗な人でした」

支配人「おやほれたので」

「いやほれた、かどうかは……、いや俺なんかが好きになっても」

カタギ「男らしくねえなあ」

カタギ「ついてんのか、お?」

「つ、ついてますよどこさわってんですか!」

支配人「これは立派な」


416 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 12:09:35.94 RfWIzW8F0 131/338


「……正直、俺、取り得らしい取り得もないですし」

「だからなんていうか、好きになるのも、申し訳なくて」

「でもその、だから」

「もし俺を好きになってくれる人がいたら」

「俺はその人のために全力で一生をかけられるかな、って」

カタギ「究極の受身だなお前」

「ぐ……、か、かなり真剣にそう思ってるんですけど……」

支配人「いやでも中々格好いいじゃないんですか?」

支配人「一生かけるって、すごいですよねえ」

カタギ「どうせ男女なんて切った張っただろうに」

「お、俺はそんなことは……」


419 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 12:26:51.19 RfWIzW8F0 132/338


支配人「でも本当に、一生かけられます?」

支配人「人間の方々って、結構色々なところで一生って使いますけど」

支配人「でもその言葉、実際良く考えると重いですよねえ」

「……人を好きになるって、すごい体力つかうじゃないですか」

「叶う叶わないとか、叶ったあとも、だめになるかもとか」

「それなのに、好きになってくれる人って」

「俺にしたら自分に釣り合わないほど価値のあることなんです」

「だから、……もしそんなことがあったなら。きっと」

支配人「ほお……」

支配人はくすくすと、カタギさんは少々にやにやとしつつ。

支配人「いや見てみたいものですね」

支配人「人は本当に、他の誰かに一生をかけられるのか」

「……」

酔った勢いで、俺は今とても恥ずかしいことを口走っていたのではなかろーか。


425 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 12:40:49.85 RfWIzW8F0 133/338


さてそんな話をしながら夜まで。
俺たち三人はなんやかんやと話をして、
お開きになったのが23時過ぎだったろうか。

「ちと、のみすぎたな……」

後半、何を話していたのかも正直よく覚えていない。
ちなみに帰りは支配人が付き添ってくれたので、
前のようなことにはならなかった。

「はやく、ねよう……」

明日は二日酔いになっていそうだ。
そう思いながら、俺は布団に倒れこんだ。


426 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 12:45:03.52 RfWIzW8F0 134/338




「あ、だ、大丈夫です、大丈夫」

「すいません……、くらっと」

「病院ですか? い、いえそこまででは」

「……ありがとうございます」

「本当に必要だと思ったら、頼みますね」

「ふふ」

「それより、貴方はお仕事をがんばってくださいな」

「今が大事な時期と聞きました」

「どうですか、いい感じなんですか?」

「そうですか!」


428 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 12:55:50.10 RfWIzW8F0 135/338


「ぐ……」

やはり、二日酔い。
起きた瞬間に分かるほどである。

「あー、頭が……、がんがんする……」

「メイドさん、メイドさん、どなたか……」

なけなしの力でぽふぽふと布団をたたく。

メイド「はいはーい、おや、ダウンですか」

「はい、ダウンです……、二日酔いで」

「水と……効きそうな薬を……」

メイド「承知しました少々おまちを!」


430 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 12:59:09.11 RfWIzW8F0 136/338


といって数分後。

お嬢さん「だ、大丈夫ですか!?」

と入ってきたのがお嬢さんであった。

「結構きびしいです……」

後ろから水をもったメイドさんもついてきた。

メイド「はい、水と効きそうな薬です!」

「え……、薬は……」

メイド「お嬢さん、効きません?」

「な……」

そういう意味か。

お嬢さん「もう……、はい、ちゃんと薬もってきましたよ」

「さすが、お嬢さん……、助かる」


435 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 13:10:37.22 RfWIzW8F0 137/338


お嬢さん「どうしたんです、二日酔いなんて」

「いや昨日、カタギさんと支配人と、飲んでたら……」

お嬢さん「ああ……、なるほど、そういうことでしたか」

「なにか……?」

お嬢さん「さきほど芸者さんが、『介護してくるー』と言って冬の間にいきました」

「ああ……」

メイド「支配人も珍しく今日は飲みすぎたーって、言ってました」

メイド「いつもは飲んでもケロっとしてるのに」

お嬢さん「はあ、男の人たちがそろいもそろって、まったく……」

あの二人も結構飲んでいた。
というか俺だってかなり飲んだ方だが、
それでもあの二人の三分の一も飲んでいなかったはずだ。

俺の三倍飲んでる二人は、さすがに結構きてるかもしらん。


438 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 13:21:56.63 RfWIzW8F0 138/338


お嬢さん「とにかく、今日は私が付き添いますから」

「いやそんな……」

お嬢さん「……」

済ました顔で、無言の威圧。

「あ、ありがたく……」

お嬢さん「くす」

お嬢さん「お水、飲みますか?」

「ああ」

ゆっくり体を起こそうとすると、
お嬢さんはすっとその細い腕を俺の背に当てて支えてくれた。

起き上がると、今度はコップを口元へと。

「そんな、自分でもてますよ」

お嬢さん「ご遠慮なさらず、ほら」

それをそっとあてがうと、ゆっくりと傾けてくれた。
その具合がちょうどよく、また繊細で。
俺にはもったいないくらいだ、と思った。


442 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 13:29:59.62 RfWIzW8F0 139/338


水を飲んで、また俺は布団に横たわる。

(……ん?)

今の一連の動作で、なにか。
なにか、不自然なことが、あったような。

(……いや? 普通、だったが……?)

なんだろう、と思ったが
頭が上手く回らないので、それはそっと脇に置いた。

お嬢さん「春の間は、過ごしやすくて、いいですね」

お嬢さん「一応扇子ももってきたのですが、不要かも」

「ええ、今が、ちょうどよく」

お嬢さん「そうですか」

そのうちに、うとうとと。
まぶたがおちてきて。

俺は極楽と思いながら、また眠るのであった。


446 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 13:45:47.95 RfWIzW8F0 140/338


次に目が覚めたとき、

お嬢さん「あ……、すいません、起こしてしまいましたか」

「ああ……いや」

お嬢さんがタオルで、
俺の額の汗をぬぐってくれていたようだった。

「ありがとう」

お嬢さん「いえ、……この程度しかできませんから」

お嬢さんは優しくもう一ぬぐい。

「今、何時かな」

お嬢さん「2時ごろ、ですね」

ずっといてくれたのだろうか。


451 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 13:54:11.19 RfWIzW8F0 141/338


「あ、お昼は……?」

お嬢さん「おなかが空きましたか? ではいますぐ」

「あ、いや俺もそうだけど、君、食べた?」

お嬢さん「いえ、できればご一緒にと、思いまして」

なんとまあ……。

「それじゃあ、食べようか」

お嬢さん「はい」

メイドさんの持ってきてくれた昼食を、お嬢さんとたべる。
ちなみにそのままメイドさんも混じったので、
ちょっとにぎやかな昼食となった。


454 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 14:01:50.62 RfWIzW8F0 142/338


遅めの昼食が終わると、体も幾分楽になっていた。

「ああ、そうだわすれてた」

「やらなきゃいけないことが」

お嬢さん「なんです?」

「メイドさんの記憶がどうなってるかしらべないと」

お嬢さん「ああ……、まだ、やっておられましたか……」

「中々興味深いよ」

「これから少し、行ってこようと思うんだけど」

お嬢さん「出歩いて大丈夫ですか……? まだゆっくりしていた方が」

「まあはきはきは回れなさそうだし時間かかっちゃうけど」

「どうせ時間はたっぷりあるし」

「一日布団の中というのも逆につかれるから、これくらいちょうどいい運動だ」

お嬢さん「……そう、ですか」


459 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 14:19:38.45 RfWIzW8F0 143/338


お嬢さんが付き添いますと言ってくれたので、二人でメイドさんを回った。
案の定俺がふらふらだったので、時間はかかったが。

「あれ、おかしいな……」

「今日、記憶をなくしてる子が一人もいない」

十六人のメイドさんのうち、
今まで記憶のリセットが確認されたのが五人。
その五人はリセット以降は引き続き記憶を蓄積していて、特に異常はない。

ただ今日は、そのリセットを、だれもしていなかった。

「うーん、となると……」

今日が特別な日である可能性が、一つ。
もう一つは、十六人の中には偶然、
今日がリセットの日だった子が居なかったという可能性。
こちらの方が濃厚。

「仮に周期があるとすれば……」

一日目に二人、二日目で三人、三日目でなし。
平均すると一日約1.67人。これで十六で割ると……

「……概ね、十日。その内に、全員にリセットが、起こる」

すなわち周期の可能性が正しければ、それはおそらく、十日間。


463 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 14:31:29.29 RfWIzW8F0 144/338


お嬢さん「……十日……」

「まあ、データ数がすくないから、まだぶれるかもしれないけどね」

「今導き出せるのは、概ね十日かなあ、というくらいで」

「どうかな」

お嬢さん「……はい?」

「正直、お嬢さんたちはこのあたり、知っていそうな気がするんだけども」

何せお嬢さんで七年、カタギさんで十年。
それだけの年月があれば、
こうしてデータを集めずとも、自然と気づくはず。

お嬢さん「……、貴方は本当に、聡明で、いらっしゃいますね」

「そんなんじゃないよ」


467 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 14:49:59.61 RfWIzW8F0 145/338


部屋に戻ったのが、五時過ぎくらいだったろうか。

お嬢さん「よかった。もう、すっかりお元気そうですね」

「君のおかげだよ」

おかげもなにも寝ていただけではないかと言うなかれ。
人が近くにいてくれるという安心感は、
ただそれだけで十分妙薬となり得るのである。

ただ、快復を喜んだはずのお嬢さんのかんばせに、
少し寂しそうな、色が。

だから俺は。

「もう少し、いてくれないか」

お嬢さん「え、あ、あの」

「まだちょっと、頭がいたい」

「……かもしれない」

お嬢さん「……」

お嬢さん「……はい」

お嬢さんの頬にすこし朱が差したように見えたのは。
ぎこちなさにちらと打ち見るだけだった俺の、錯覚だったろうか。


469 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 15:04:45.93 RfWIzW8F0 146/338


俺はなんともきまりが悪くなって、
どうしたものかと部屋を見回し。

「あ、ま、窓あけよう」

と、思い返せば今まで一度もあけたことの無い、
その自室の窓に手をかける。

ぱっと、ひらくと。

お嬢さん「わあ」

「おお……」

それはちょうど窓型にくりぬかれた絵画かと錯覚するほど綺麗に収まって、
桜花爛漫、乱れ咲き。

「これはまた、よくやる」

明らかに計算された、景色のよさ。
素直に素晴らしいともれるばかり。

座ってみれば空をも捕え、
これがまた文句のつけようもなく。


470 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 15:09:17.44 RfWIzW8F0 147/338


それに見とれてしばらくのち。

「ん……」

ふと、何かが目に入る。

「これは」

お嬢さん「どうしました?」

その窓の木製のフチ、そこには何か、傷をつけたような跡。
横一線が、二つ。

隠すつもりは無いようで、しかし窓を開けなければ分からない、そんな位置。

「……なんだろう、わざと、つけたような」

お嬢さん「……、これは、……」

お嬢さんがまた何か知っているのではと、
見落とさぬように表情を見るが。

お嬢さん「なんでしょう……」

これに関しては分からない様子であった。


473 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 15:18:37.61 RfWIzW8F0 148/338


他愛無い雑談をしつつ、六時半。

お嬢さん「あ、あの、夕食の前に、お風呂はいかがです」

「ああ……、そうだな」

そういえば寝汗をかいていたな、と思い出す。
そのあたり気遣ってくれたのだろうか。

「それじゃちょっと入ってくるよ」

お嬢さん「え、あ……、はい」

「ん?」

お嬢さん「いえ、どうぞ。ごゆるりと」


475 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 15:27:50.03 RfWIzW8F0 149/338


「ふう……」

春の間の露天風呂で、ほうっと息をつく。
実はこの風呂に入るのは、これがはじめてであった。

「花見風呂、うむ、絶景絶景」

今日一日は幸せであったなあ、と思い返した。

そこへ。

お嬢さん「あ、あの、し、失礼、します……」

「んー? ん……、……え!?」

お嬢さん、まさかのバスタオル一枚で、
男一人入浴中のこの湯殿に、赤面しいしいご来臨なすった。

お嬢さん「あ、あの……」

「ど、どうした……」

お嬢さん「お背中を……」

お嬢さん「お流しに……」

「おおう……」


477 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 15:36:58.74 RfWIzW8F0 150/338


わしゃわしゃわしゃ。

「あ、あの、ありがとう」

お嬢さん「い、いえ……」

わしゃわしゃ。

気持ちいいのだが、ううむ、どうにも恥ずかしい。

お嬢さん「……先日」

「ん?」

お嬢さん「秋の間のお風呂を使われた際、には」

お嬢さん「その……、できません、でしたので」

「……、……」

「……あ」

>朦朧とする意識の中での、見間違いだったろうか。
>お嬢さんはバスタオルを、まいていたような。

「ああー……」


479 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 15:47:25.80 RfWIzW8F0 151/338


お嬢さん「あの時は」

お嬢さん「あの方たちが悪さをしているであろう、という予感もありましたが」

お嬢さん「もう一つ」

お嬢さん「秋の間に来てくださった貴方に」

お嬢さん「もてなしの一つもしないでは、と、いう気持ちで」

お嬢さん「せめてお背中をお流しできれば、と思い立った次第でした」

お嬢さん「でも、あのようなことになっていて」

お嬢さん「できず」

お嬢さん「……」

お嬢さんはぽつりぽつりと、俺の背中に語りかけていた。

お嬢さん「だから今、こうして」

お嬢さん「そのときの分を、させていただいて、おります」

でもなぜか、どこか本心に言い訳をしているようにも、聞こえて。

「……、……そうかい」

お嬢さん「……はい」


484 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 16:02:48.08 RfWIzW8F0 152/338


そうしてその後は無言のまま背中を流してもらって。

「気持ちよかった。ありがとう」

お嬢さん「はい。それでは、私はこれで」

「ああいや、俺が先にでるよ」

お嬢さん「えっ、い、いえ、私はお背中をお流しにきただけですから」

「背中だけ流させて、そのまま帰らすわけにもいかんだろ」

「いいよ気にしなくて、俺はもう十分あったまったから」

さすがに一緒に入る、という選択肢はない。

お嬢さん「わ、わるいですっ」

お嬢さん「……じ、じゃあ、あの、ご一緒に……!」

「それはない」


486 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 16:09:15.98 RfWIzW8F0 153/338


気にしないで、と言いつつ俺は立ち上がる。
が、数歩進んだ所で。
そこはちょうど滑りやすくなっていたのか。
格好悪いことに不意に足が取られ、つるっと。

「わっ」

倒れた先はお嬢さんの方ではなく、前に。
とはいえさすがに軽く滑った程度、
実際この程度踏ん張りもきくな、と頑張った所に。

お嬢さん「あ、あぶないっ」

不意に腕を、つかまれた。

「……っ!」

それは彼女の、反射的な行動だったのだろう。
滑って転びかけていた俺を、支えようと。

いや、それはそれで、よかった。
俺も何とか踏ん張ったし、すってんころりん、とはいかなかった。
だから巻き込むこともなかった。
問題は、そこではなく。

お嬢さん「あ……っ」

お嬢さんはさっとすばやくその手を引っ込めた。
それは異性に突然触れてしまって恥ずかしく、
などという甘さを含んだ類のものでは、なく。


488 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 16:21:40.47 RfWIzW8F0 154/338


「……お嬢さん」

お嬢さん「……」

お嬢さんは手を抱くようにして、身を引いて。

お嬢さん「だめ……」

「お嬢さん、今のは、どういう」

お嬢さん「だめ……っ」

俺はいやいやと首を振る、
今にもなきそうな顔の彼女の元へと歩み寄る。

そうしてそっと、手を取った。

「……、……」

お嬢さん「……っ」

「どうして」

>今の一連の動作で、なにか。
>なにか、不自然なことが、あったような。

「どうして君の手には」

「……体温が、ないんだ……」


497 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 16:41:25.60 RfWIzW8F0 155/338


申し訳ないと思いながらも、
腕を、肩を、そして頬を。

「……なぜ……」

どこにも体温が、ない。
不自然の正体は、これだった。

>お嬢さんはすっとその細い腕を俺の背に当てて支えてくれた。

あの時確かに、服ごしとはいえ彼女の手が当たっていたのに、
まるで人の温かさが、なかったのだ。

彼女との接触は、今まで幾度かはあった。
しかしそのどれも思い返してみれば、

>細い腕が、俺を引っ張っているような気がする。
>朦朧とする意識の中での、見間違いだったろうか。

>言いつつ俺も、そしてお嬢さんも、うつらうつら。
>お嬢さんが肩に、よりかかっていた。

この二度は、どちらも意識が曖昧で。

>まだ頭はくらくらするが、
>ぱたぱたと仰がれる扇子のおかげで幾分かは楽なよう。
>つまりこれは、膝枕。

この時は膝枕をするまでに、例えばタオルを一枚間に挟むでもなんでも、
十分それを隠す時間が彼女にはあったのだ。


499 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 16:58:17.12 RfWIzW8F0 156/338


お嬢さん「……、……」

「これは、どういうことだ」

お嬢さん「……」

「これも、秘密にする、のか……?」

お嬢さん「……っ」

お嬢さんはどうしていいのかわからない、
そんな顔で、目にいっぱいの涙をためて、
けれど決してこぼさず、そして強く、唇を噛んで。

俺の目から、その潤みきった大きな目を、離さない。

「お嬢さん……」

動いたら、お嬢さんは逃げ出してしまいそうで。
だから、動けなくて。

そうして、俺はどうすることもできず、
肩をおとして、うなだれて、
深く、そして弱弱しいため息を、一つ、ついた。


503 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 17:12:13.61 RfWIzW8F0 157/338


お嬢さん「……どうしていいか、わからないの」

「……」

お嬢さん「私、どうすれば、いいのか」

何もかも教えて欲しいと、言いたかった。
けれど、言えるわけも無い。

彼女の目は、明らかにこれ以上隠せないことを悟ったものだった。
けれどその説明をするわけにも、いかなかった。

その二つの狭間で、ゆれていた。
なのに安易に、教えてくれなどいえるわけが無く。

そして彼女はあまりに実直で、思慮深かったから、
即座に走って逃げたりなど、しなかった。

きっとあっただろう逃げたい衝動を抑えて、踏みとどまった。

「……」

そんな彼女が、あまりに気高くみえて。
けれどとても小さくて。

俺は無意識のうちに。
その肩を、
抱いていた。

彼女は、逃げなかった。


505 : 以下、名... - 2012/10/07(日) 17:18:46.23 RfWIzW8F0 158/338


お嬢さん「私の体は……、冷たいでしょう……?」

「……」

お嬢さん「触れたく、ないでしょう……?」

小さな小さな、まだこれから幾分も成長するであろうその身体。
あまりに弱く、か弱く。

「なぜ……」

お嬢さん「……、……」

お嬢さん「明日」

「……」

お嬢さん「……明日、お話します」

お嬢さん「気持ちを、落ち着かせたら」

「……」

「……分かった」



続き
お嬢さん「現実逃避、しませんか?」【後編】

記事をツイートする 記事をはてブする