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【オリジナル】「治療完了、目をさますよ」【長編小説】(1)
【オリジナル】「治療完了、目をさますよ」【長編小説】(2)

526 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:37:51.20 B9GChpI70 512/1225

薄暗い部屋の中、少年三人は背中合わせに立っていた。
三人とも、白い病院服の所々が鋭利な刃物で切り刻まれ、血が流れ出している。
彼らの周りには、同年代の少年や少女達が、刃物で喉笛を切り裂かれ、無残な死骸となって転がっていた。

「通信が繋がらない……完全に遮断されたぞ!」

少年の一人がそう言う。
彼らは、手に何も持っていなかった。
ヘッドセットを地面に叩きつけ、もう一人の少年が言った。

「チッ。完全にジャックされてやがる。精神世界と現実世界が、これでもかと完璧に切り離されてる」
「大河内、何か構築できるものはないのか?」

大河内と呼ばれた少年が、青くなり震えながら言う。

527 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:38:27.97 B9GChpI70 513/1225

「……出来ない……精神防壁が張ってある。石ころ一つ持ち上げられない……」
「しっかりしろ。ここであいつを倒さなきゃ、俺達もどの道犬死にだ」
「で……でも高畑……!」

高畑と呼んだ少年に、大河内は叫ぶように言った。

「丸腰じゃどうしようもないよ! みんな、完全に『殺され』た! 俺達も死ぬしかないじゃないか!」
「安心しろ、大河内、高畑。お前達は僕が必ず守る」

そこで、もう一人の少年が口を開いて、足を踏み出した。
そして腰を落とし、腕を体の横に回し、拳闘の構えを作る。

「腕一本になっても、お前達は僕が守る。高畑は僕のサポートを。大河内は外部との連絡通路を急いで構築してくれ。 一からでいい」

冷静に指示を出し、彼は周りを見回した。

528 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:39:01.23 B9GChpI70 514/1225

一面、蜘蛛の巣だらけの空間だった。
時折、引きつったような奇妙な笑い声が暗闇に反響している。

「決して、何が起こっても慌てるな。僕が死んでも、お前達二人はすぐに現実世界に戻れ。分かったな?」

大河内が泣きながら何度も頷く。
そして、彼は空中の、目に見えないパズルピースを掴むような動作をして、それを見えないキャンバスにはめ込み始めた。
高畑が少年の脇で同じような構えを取り、低い声で聞く。

「……大河内はあの調子だ。何分もたせればいい?」
「二分……二分三十秒」
「最悪だな」

キチキチキチキチ。
金属のこすれる音がして、二人の前方に、奇妙な「物体」が現れた。

529 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:39:37.57 B9GChpI70 515/1225

ドクロのマスクを被った人間の頭部。
そして、丸いボールのような体。
所々が腐食して崩れ、内部の歯車やチェーンが見えている。
ムカデのような足。
蟹股のそれらが、カサカサと蟲のように動いている。
手は、数え切れないほど巨大な、丸い体から突き出していた。
それらの手一つ一つに、ナタのような刃物を持って、振り回している。
また、キチキチキチキチと音がして、ドクロのマスクがこちらを向いた。

「スカイフィッシュのオートマトンか。でもどうして……」
「高畑、考えている暇があったら動け。来るぞ!」

少年がそう言って、こちらに向かって猛突進をしてきた奇妙な「物体」に向けて走り出す。
そして彼は、数十本の腕が振り回す鋭利なナタを一つ一つ、見もせずにかわすと、丸い胴体部分に、腕を叩き込んだ。
放射状の空気の渦が出現するほどの、早い拳速だった。

530 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:40:05.54 B9GChpI70 516/1225

空気が割れる音と共に、 二、三メートルはある「物体」が数メートルは宙を浮き、足をばたばたさせながら、背中から地面に落下する。
大河内がそこで悲鳴を上げた。
振り返った二人の耳に、大量の、キチキチキチキチキチという、機械の部品がこすれる音が響く。
幾十、幾百もの「物体」が、こちらに向けて近づいてきていた。

「二分三十秒でいいんだな、坂月!」

高畑がそう言って腕を構える。
坂月と呼ばれた少年は、自分達を取り囲む「物体」の大群を見回し、一瞬だけ口の端を吊り上げて笑った。
しかしすぐに無表情に戻り、唖然としている大河内の頭を、ポン、と撫でる。

「いや、一分三十秒でいい」

531 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:40:33.50 B9GChpI70 517/1225

彼の声に、大河内がすがるように言う。

「そんな短時間じゃ無理だ! 扉を作るのはいくら僕でも……」
「もう作らなくてもいい」

彼はまた、口の端を吊り上げた。

「スカイフィッシュ……僕を誰だと思ってる……」

彼は腰を落とし、醜悪に、舐めるように、呟いた。

「僕は、S級能力者の坂月。坂月健吾だぞ」

532 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:41:31.91 B9GChpI70 518/1225



第9話 殺害領域



「汀ちゃん、しっかりして! 汀ちゃん!」

担架に乗せられて運ばれていく汀を、理緒が必死に追っている。
汀は、左腕を押さえて、意味不明な言葉を喚きながら、担架の上でもだえ苦しんでいた。

「痛い痛い痛い痛い痛い痛いー!」

彼女の絶叫が響く。
担架を押しながら、大河内が、看護士に押さえつけられている汀に口を開いた。

「すぐに痛みは消える。もう少し我慢するんだ!」
「せんせ……死ぬ! 私死んじゃう!」
「大丈夫だ死なない! 私がついている!」

大河内がそう言って汀の右手を握る。
担架を冷めた目で見ながら、施術室の扉に、腕組みをして圭介が寄りかかる。

533 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:42:12.04 B9GChpI70 519/1225

そこに、冷ややかな瞳でソフィーが近づいた。

「……どういうことか説明してもらいたいですね、ドクター高畑」
「何だ?」
「どうして、私まで強制遮断されて戻ってきてしまったのかしら? これは、故意だとしたら重大な過失だと思うのですけれど」

彼女の脇に、黒服のSPが二人ついて、腰に手を回して圭介を見る。

「施術は中止だ。予期しない出来事は、この仕事にはよくあることだろう?」

飄々と返した圭介に、ソフィーはバンッ! と壁を平手で叩いて怒鳴った。

「私一人でも治療できました! ドクターだって仰っていたではないですか、これは『競争』だと。なら何故、そちらのマインドスイーパーがミスを犯した時点でやめさせられなければいけないのでしょうか!」

534 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:42:52.69 B9GChpI70 520/1225

「君一人が治療に成功しても、何の意味もないんだよ」

そこでソフィーは、発しかけていた言葉を飲み込んで固まった。
圭介が、ゾッとするような冷たい目で自分を見ていたからだった。

「で……でも……」

言いよどんだ彼女に、圭介はポケットに手を突っ込みながら言った。

「それに、君一人ではこの患者の治療は無理だ」
「何ですって!」
「君の事は、よく知ってる。調べさせてもらったからな。この患者は、特異D帯Cタイプだ。その意味が分かるな?」
「え……」

一瞬ポカンとして、次いでソフィーは青くなった。

「Cタイプ……?」
「聞いていた『情報』と違ったかな?」

圭介がせせら笑う。

535 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:43:38.42 B9GChpI70 521/1225

「……人でなし!」

そう叫んで掴みかかろうとしたソフィーを、SPの二人が押さえつけて止めた。

「この件は正式に元老院に抗議させていただきます。ドクター高畑。あなたはマインドスイーパーを何だと思っているのですか?」

歯を噛みながらそう言ったソフィーを、意外そうな顔で圭介は見た。

「ん? 天才なら、とっくに気づいていると思ったがな」
「茶化さないで! Cタイプの患者に、よくも私を一人でダイブさせたわね!」
「君達マインドスイーパーは道具だ。それ以上でもそれ以下でもない」

圭介はそう、冷たく断言すると、押さえつけられているソフィーの前に行って、ポケットに手を突っ込んだまま無表情で見下ろした。

「道具は文句は言わない。もし言ったとしても、それは道具の戯言であって、ただのノイズだ。道具はただ、俺の思うとおりに動いていればいい」

圭介はせせら笑いながら、鉄のような目でソフィーを見た。

「図に乗るなよ。道具」
「この……!」
「次のダイブは三時間後だ。精々『情報』を整理しておくんだな」

髪を逆立てんばかりに逆上しているソフィーを尻目に、圭介は施術室を出て行った。

536 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:44:20.94 B9GChpI70 522/1225



「薬で眠らせてある。大丈夫だ。精神世界と現実世界の区別がつかなくなって混乱していただけだ」

大河内が、赤十字の病室でそう言う。
汀は、ベッドに横になってすぅすぅと寝息を立てていた。
寝る前によほど錯乱したのか、ベッドの上は乱れきっている。
それを丁寧に直しながら、理緒は涙をポタポタと垂らした。

「ごめんなさい……ごめんなさい……私が、もっとちゃんと出来てれば……」

圭介は一瞬それを冷めた目で見たが、手を伸ばし、理緒の頭を撫でた。

「気にするな。俺も確実なナビが出来なかった。君一人の責任じゃない」
「高畑先生……私、やっぱり……」

そこで言いよどみ、しかし理緒はおどおどしながら続けた。

「私、大人の人の心の中にダイブするの、向いてないんじゃないでしょうか……今回だって、汀ちゃんの足手まといにしかならなかったです」

537 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:44:50.61 B9GChpI70 523/1225

圭介と大河内が、一瞬顔を見合わせた。
そして圭介は軽く微笑んでから言った。

「そんなことはない。君がいなければ汀を制御することは今よりもっと難しくなってる」
「……本当ですか……?」
「ああ、本当だ」

圭介はそう言って、理緒の手を握った。

「汀を頼む。この子には、ストッパーが必要だ。君のような」
「すみません……ありがとうございます……」

また涙を落とし、手で顔を覆った理緒を椅子に座らせ、大河内は圭介のことを、カーテンの向こうの隅に引っ張っていった。
そして強い口調で囁く。

538 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:45:19.68 B9GChpI70 524/1225

「……まさか、ダイブを続行させるつもりじゃないだろうな?」
「察しがいいな。当然だろ?」
「二人とも、ダイブが出来る精神状態じゃない。ソフィーも協力する気が皆無だ。このプランは見合わせた方がいい」
「そうでもないさ」
「何を根拠に……」

大河内は、そこで入り口に立ってこちらを睨んでいるソフィーに目を留めた。
SP二人は、病室の入り口に立っている。

「……少し、話をさせて欲しいわ」

ソフィーはそう言うと、理緒を指差した。

「ドクター大河内、ドクター高畑、席を外してくださる?」
「え? 私ですか……?」

きょとんとして理緒がそう言う。
ソフィーは不本意そうに鼻を鳴らし、言った。

「他に誰がいるのよ」

539 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:46:03.71 B9GChpI70 525/1225



圭介と大河内が病室を出て行き、ソフィーは椅子の上に無作法に胡坐をかいて、汀を睨んでいた。

「あ……あの……」

理緒が言いにくそうに口を開く。

「お話っていうのは……」
「とても不本意だけど、あなた達に協力を要請したいわ」

理緒はきょとんとして、彼女に返した。

「協力……? でも、私達とは競争したいって……」
「事情が変わったのよ。協力、するの? しないの? はっきりして」

ヒステリックに声を上げるソフィーを手で落ち着かせ、理緒は続けた。

「私としては、あなたのような優秀なスイーパーさんとご一緒できるのは嬉しいですけれど、汀ちゃんが何と言いますか……」

540 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:46:35.58 B9GChpI70 526/1225

「こんなかたわ、何の役にも立たないじゃない。特A級なんて、聞いて呆れるわ」

彼女を蔑むようにそう言ったソフィーに、理緒は深くため息をついた。

「……めっ」

そう言って、彼女の鼻に、人差し指をつん、と当てる。
何をされたのか分からなかったのか、ポカンとして停止したソフィーに、理緒は言った。

「人を、『かたわ』なんて言ってはいけません。人を、馬鹿にしてはいけません。いつか自分にそれが返ってきますよ」
「こっ……子供扱いしないでよ!」

真っ赤になってソフィーが怒鳴る。
人差し指をそのまま自分の口元に持っていき、静かにするように示してから、理緒は汀の頭を撫でた。
小白が、汀の枕元で丸くなって眠っている。

541 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:47:08.98 B9GChpI70 527/1225

「他人は、自分を映す鏡だって、私は小さい頃、私の『先生』に教わりました。怒っていれば怒るし、悲しんでいれば一緒に悲しんでくれます。それが、他人なんです。ですから、ソフィーさんは、もっと私たちに優しくしても、大丈夫なんですよ?」
「…………」
「それが、ソフィーさんのためになるのですから」
「……脅し?」

小さい声でそう聞いたソフィーに、慌てて理緒は言った。

「そ、そんなことはないです。そう受け取ってしまったのなら謝ります。私はただ……」
「まぁ、私を貶めようとしているわけではないことだけは評価してあげるわ」

腕組みをして、ソフィーは、この話は終わりだと言わんばかりに指を一本、顔の前で立てた。

「私達がダイブさせられようとしている人間は、D帯のCタイプ型自殺病発症患者よ」
「D帯? Cタイプ?」

542 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:47:41.81 B9GChpI70 528/1225

「あなた、本当に何も知らないのね。そんなでよくA級スイーパーの資格を取れたものね。驚いて声も出ないわ」
「汀ちゃんも、この前気になることを言っていましたけれど……自壊型と防衛型とか……」
「ああ、日本ではそう言うのね」

ソフィーは頷いて、手を開いた。

「いい? 馬鹿なあなたに教えてあげる。自殺病は、大別して五つの分類に分けられるわ。一つは、通常、緩やかに進行していくAタイプ。緩慢型と言うわ」

指を一本折って、ソフィーは続けた。

「二つ目は、あなたがさっき言った自壊型。これは緩慢型が悪化したケースね。これにかかった患者は、精神分裂を起こし、結局は自殺するケースが最も多いわ。Dタイプよ。防衛型は心理的防衛壁が大きいタイプ。これがBタイプ」

すらすらと医者のようにそう言って、ソフィーはまた二本指を折った。

543 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:48:24.44 B9GChpI70 529/1225

「そして、防衛型の反対、攻撃型。攻撃性が異常に強い患者の精神内壁のことを指すわ。これがEタイプ」
「そ……そうなんですか……」
「そしてCタイプ……まぁ、その中でもいろいろ種類があるんだけど、説明しても分からないと思うから、しない。とにかく、Cタイプは『変異型』という特殊な型が分類されてるの。その中でも、D帯Cタイプというのは、日本語で言えば『特化特異系トラップ優位性変異型』と言えるわ」
「どういうことですか?」

首を傾げた理緒に、髪をかきあげながらソフィーは続けた。

「簡単に言えば、マインドスイーパーに対する精神的トラップを、訓練によって心の中に多数植えつけた人間のこと。私達が最初に入った部屋とか、次に入った空間、異様に面倒くさい手順だったでしょ? 防衛型の特徴も出てるけど、ああいうのは、時間稼ぎをして私たちのタイムアップを狙ってくる、完全な意図的トラップなの」
「じゃあ、今回の患者さんって……」

544 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:48:58.55 B9GChpI70 530/1225

「ええ。マインドスイープに深く関わっている人間で間違いないと思うわ。それだけに、危険性が急上昇するのよ」
「私達に対する対策を、知っているわけですからね……そういえば、中で私達の名前が呼ばれたような……」
「知ってるからよ。私達のことを。アミハラナギサって言うのは、気になるけど」

ソフィーは鼻を鳴らして、忌々しげに言った。

「それでも、私なら一人で出来ると思ってたけど、この患者、D帯ということは攻撃性も持ってるの。通常、D帯とCタイプが合わさった場合、専門のスイーパーでチームを組んで、十人単位のグループでダイブするわ」
「え……?」

思わず聞き返した理緒に、ソフィーは頷いた。

「私達、ハメられたのよ。あの高畑とかいう医者に。ドクター大河内も信用は出来ないわ」
「そんな……お二人とも、良い方々です」

狼狽しながらそう言った理緒を馬鹿にするように見下し、ソフィーは吐き捨てた。

545 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:49:33.54 B9GChpI70 531/1225

「信じるのは勝手だけど、夢を見るのは結果を見てからにした方がいいと思うわ」
「お二人が私達を騙すなんてこと、ありません。ソフィーさんの思い違いです」

断固としてそう言う理緒を呆れたように見て、ソフィーは肩をすくめた。

「そう思いたいんなら、それでいいわ。時間がないから、話を進めるわよ。で、今回は、最低でも五種類の役割が必要になるの」
「五種類……?」
「まずは、トラウマ等の攻撃から、私達スイーパーの身を守る、アタッカーとディフェンサー。一番力のある、つまり脳細胞の働きが活発なスイーパーが役割に当てられることが多いわ」

眠っている汀を見て、ソフィーは続けた。

「この子みたいなね。言ってしまえば、一番重要な役割よ」
「他には……?」
「次は、トラップを解除する役割のリムーバー。この場合、私ね。そして治療を行う、キーパーソンが一人絶対に必要。この場合はあなた」

理緒を手で指して、ソフィーは続けた。

546 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:50:24.48 B9GChpI70 532/1225

「最後はキーパーソンを守る、ファランクス(盾)が必要。それで、最低五人。通常は二人ずつ各ポジションに配置して、一つのチームとして運営するの。『危険地帯』へのダイブの場合はね」
「二人も足りませんけれど……」
「足りないのは七人よ。二チーム使うこともあるから、そう考えると二十七人の手数が足りないわ。圧倒的に、これは『私』をハメるためとしか思えないわ」

歯噛みして、ソフィーは言った。

「……最初に頭に血が昇ったのがまずかったわ。気づけばよかった……」
「…………」

彼女の勢いに圧倒されながら、理緒はおどおどと口を開いた。

「じゃ、じゃあどうすれば……」
「この猫は戦力に入れないとして、この子……高畑汀が、アタッカー、ディフェンサー、ファランクスの三つの役割を兼任するしかないわ」

547 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:50:54.46 B9GChpI70 533/1225

「そんな……汀ちゃんは一人なんですよ?」
「でも、そのための『特A級』でしょ?」

せせら笑って、ソフィーは続けた。

「私達が仕事を完遂するためには、どうしても『守ってくれる人』が必要になる。だから、こうして馬鹿なあなたに説明をしに来たの」
「汀ちゃんが自分を犠牲にしてでも、私達を守らなきゃいけないって、そう言うんですか? この子は、私のせいで左腕が……」
「どうせ現実世界でも動かないんだから、関係ないじゃない」
「…………」

理緒が眉をひそめる。

「かたわは、かたわのままがお似合いよ」

ソフィーが鼻を鳴らしてそう言う。
そこで、理緒の手が飛んだ。
パンッ、と頬を叩かれ、ソフィーが唖然として目を見開く。

548 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:51:22.74 B9GChpI70 534/1225

病室の入り口に立っていたSP二人が、急ぎ部屋の中に入ってきて、理緒とソフィーを引き離した。

「何するのよ!」

ソフィーが我に返って大声を上げる。
理緒は目に涙をためながら、押し殺すように言った。

「……協力は、お断りします。人の気持ちが分からない人とは、一緒に仕事はできません」
「何言ってるの? 説明したじゃない! あなた達に、あのパズルが解けるの? トラップを解除できるの? 二人じゃとても無理よ。私の力を使うしかないじゃない!」

色をなしてソフィーが怒鳴る。
しかし理緒は、SPの手を振り払って、ソフィーを睨んだ。

「あなたには出来ないかもしれない。でも、『私達』には出来ます」

理緒はそう言って、病室の入り口を手で指した。

549 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:51:48.81 B9GChpI70 535/1225

「出て行ってください。汀ちゃんは、次のダイブまでゆっくり休まなきゃいけないんです。あなたも、休んだ方がいいと思います」
「ちょっと待ってよ。何いきなり怒って……」
「出て行ってください」

理緒は堅くなにそう言うと、汀の脇に腰を下ろした。

「手を出したことは謝ります。でも、お互いお仕事の仲間なのですから、これ以上お話しするのはやめましょう? お互いのためにならないと思います……協力は出来ませんが、応援はしています。お互い頑張りましょう」

目を合わせずに理緒がそう言う。
ソフィーはしばらく鼻息荒く彼女を睨んでいたが

「ふんっ!」

と言ってきびすを返した。

550 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:52:14.31 B9GChpI70 536/1225

SP二人が慌ててその後を追う。

理緒は、ソフィーが出て行った後、
彼女を叩いた手の平をぼんやりと見ていた。

「汀ちゃん、私、初めて人のこと叩いちゃった……」

眠っている汀に、理緒はそう呟いた。

「誰でも、叩くと嫌な気分だね……」

彼女の呟きは、空調の音にまぎれ、やがて消えた。

551 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:53:00.20 B9GChpI70 537/1225



三時間後、理緒は暗い表情で、うとうとと半分睡眠状態に入っている汀を乗せた車椅子を押して、施術室に入ってきた。
話しかけても汀の反応はない。
しかし、圭介が「ダイブは可能だ」と言っていたのを信じて連れてきたはいいが、理緒は心の中で葛藤していた。
近づいてきた大河内に、彼女は言った。

「先生、私一人でダイブします」

それを聞いた大河内は、身をかがめて彼女を見て、静かに言った。

「……無茶はやめるんだ。君一人でどうにかなる案件じゃない」
「でも先生……これじゃ、汀ちゃんが可哀想です。汀ちゃんは、道具じゃないんですよ」

その声を、部屋の隅で腕組みをして、壁に寄りかかっていたソフィーが聞いていた。
彼女は馬鹿にするように鼻を鳴らして、視線をそらした。
大河内はしばらく沈黙していたが、黙って車椅子を受け取ると、汀のダイブのセッティングを始めた。

552 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:53:35.84 B9GChpI70 538/1225

「先生!」

すがるように言う理緒に、大河内は続けた。

「このダイブに移行する前、チームを組んで赤十字のマインドスイーパーが、二十人ダイブしたんだ」
「え……」
「全員、帰還できなかった」

そう言って、大河内は汀の頭にマスク型ヘッドセットを被せて、立ち上がった。

「是が非にでも、汀ちゃんと、君と、ソフィーの力が欲しい。そうじゃなきゃ、赤十字の子供達が、それこそ単なる『犬死に』で終わってしまう」

大河内の目は、いつもと違ってどこか冷たかった。

「それだけは避けてあげたい」
「そんな……私達は三人なんですよ!」
「分かっている。分かっていてのダイブなんだ」

553 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:54:16.25 B9GChpI70 539/1225

そこで、圭介がポケットに手を突っ込んだまま、白衣を翻して部屋の中に入ってきた。
そして汀の意識がないことを確認して、ソフィーを歪んだ視線で見る。
慌てて視線をそらした彼女から理緒に目線をうつし、彼は首を傾げて言った。

「……どうした?」
「高畑先生。汀ちゃんをダイブさせるのは無理だと思います」

理緒がそう言う。しかし圭介は肩をすくめて、汀を手で示した。

「こいつがそう言ったのかい?」
「それは……でも……」
「大丈夫。汀はちゃんとやるよ。そういう奴なんだ。伊達に特A級は名乗っていない」

ソフィーにも聞こえるように、大声で彼は言うと、席について、理緒にも準備をするように促した。

「さぁ、二回目のダイブだ。今回は二十分に設定する」
「二十……?」

ソフィーがそこで声を荒げた。

554 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:54:43.26 B9GChpI70 540/1225

「そんな時間で中枢を見つけるのなんて無理よ!」
「天才じゃなかったのか?」

冷たくそう返され、ソフィーは悔しそうに口をつぐんだ。
その握った手がわなわなと震えている。
大河内が、彼らの間に割って入った。

「口論をしている時間はない。ソフィーも準備をしてくれ。無理だと判断したら、今回も回線を強制遮断する。その点では安心してくれていい」
「ふん……安心ね」

ソフィーが吐き捨てるように言った。

「よく分かったわ。私には安心できる場所なんて、どこにもないってことがね」

555 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:55:31.53 B9GChpI70 541/1225



ザッパァァァァンッ! と、凄まじい音を立てて、三人は頭から海に落下した。
一瞬何が起こったのか分からず、鼻から、喉からしこたま水を飲み、理緒は必死にもがいて水面に顔を出した。

「……ゲホッ! ゲホッ!」

もったりとした水の感触の中、飲み込んだ水を必死に吐き出す。
小白が風船のように長く膨らんで水面に浮いているのを見て、理緒はそこまで泳いでいって、尻尾に掴まった。

「た……助け! ゲホッ! 私、泳げな……!」

切れ切れに、少し離れた場所でソフィーが叫んでいた。
バシャバシャと水を撒き散らしながら、浮いたり沈んだりしている。
本当に泳げないらしい。

556 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:56:06.57 B9GChpI70 542/1225

正確には、精神世界で出来ないことはないのだが、彼女の中によほど水に対する苦手意識があるのか、体が上手く動かないらしかった。

「……! 汀ちゃん!」

そこで理緒は汀の姿が見当たらないことに気がついた。
慌てて見回すと、澄んだコバルトブルーの水、底が見えない中、汀の体がゆっくりと下に沈んでいくのが見えた。
彼女は溺れているソフィーと、沈んでいく汀を見て、一瞬躊躇した。
しかし、すぐに膨らんでいる小白をソフィーの方に投げて叫ぶ。

「この子に掴まって! すぐ助けるから、頑張って!」

そう言い残して、理緒は水を蹴って海の中に潜った。
病院服が不快に体に絡みつく。
しかし何とか汀にたどり着き、彼女は背後から汀の体を羽交い絞めにし、力の限り水面に向かって足を動かした。

557 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:56:35.99 B9GChpI70 543/1225

実に十数秒もかけて水面に顔を出す。
汀はぐったりとして反応がなかった。

「汀ちゃん! しっかりして!」

汀の体を揺らすが、彼女の口や鼻から、飲み込んだ水がダラダラと流れ出すだけで、目を覚ます気配はなかった。
視線を移動させると、イカダのような形になった小白の上に、ソフィーが大の字になって荒く息をついていた。
彼女は小白に向かって叫んだ。

「小白ちゃんこっち! 汀ちゃんの意識がないの!」

イカダの先っぽに小さく猫の顔と、側面に腕と足がくっついている。
小白は器用に尻尾を回して方向を変えると、スィーッ、と理緒たちに近づいてきた。

「汀ちゃんしっかり!」

反応のない汀に呼びかけながら、理緒は何とか小白の上に彼女を持ち上げた。

558 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:57:11.31 B9GChpI70 544/1225

グラグラと猫ボートが揺れ、ソフィーが水を吐き出しながら悲鳴を上げる。

「高畑先生、聞こえますか! 高畑先生!」

パニックになっているソフィーをよそに、ヘッドセットのスイッチを入れて、理緒は大声を上げた。

『どうした? 状況を説明してくれ』
「海の中にいます! どうして前と場所が違うんですか!」
『前と同じ問題を出題する学者がどこにいるんだい? 汀の様子はどうだ?』
「意識がないみたいです! ソフィーさんも、泳げないみたいで動けないです!」
『……チッ』

圭介が小さく舌打ちをする。

『周りをよく観察するんだ。汀はじきに起きる。それまで耐えられるか?』
「やってみます……!」

頷いて、理緒は周りを見回した。

559 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:57:48.54 B9GChpI70 545/1225

少し離れた場所に、小島があった。
人二人が寝れるくらいの、小さな浮き島だ。
小白の尻尾を引っ張ってそこまで牽引すると、理緒はソフィーに声をかけた。

「大丈夫ですか? しっかりしてください」
「私水は駄目……駄目なの……!」

震えながら、ソフィーは浮き島に這って進むと、その場にうずくまった。
理緒は意識がない汀を浮き島に移動させると、荒く息をつきながら自分も浮き島に登った。
ポタポタと海水を垂らしながら、彼女は周りを見回した。
そしてその視線が一点を凝視して止まる。
百メートルほど前方の海面に、巨大な穴が空いていた。
穴、としか彼女には形容できなかった。
正確にはダムの排水溝のような光景が広がっていた。
穴の直径は、五メートル前後。
今彼女達がいる浮島よりも、少し狭いくらいだ。
そこに向かって水が流れている。

560 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:58:18.50 B9GChpI70 546/1225

浮島も流されていた。
近づけば近づくほど、引き込む力は強くなってくる。
小白が吸い込まれていることに気づいたのか、ポンッ、と音を立てて元の小さな猫に戻り、汀に駆け寄って、その頬をペロペロと舐めた。

「何……あれ……」

呆然として、流されている浮島の中、理緒は呟いた。
次の瞬間だった。
浮島がバラッ、と音を立てて崩れた。
それぞれが一抱えほどの立体パズルの形に分割され、流されていく。

『どうした!』

圭介の声に、パズルピースの一つに掴まりがら、理緒は悲鳴を返した。

「私達のいた島が、パズルになって崩れました! このままじゃ、穴に引き込まれます!」

561 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 17:58:56.15 B9GChpI70 547/1225

『そこに引き込まれるな。おそらくトラップの一種だ』
「分かっています……でも!」

ソフィーが完全にパニックになって、パズルピースを掻き分けて浮き沈みしている。
小白がまた膨らみ、汀の体を支えた。
彼女達と浮島の破片が流れていく。
理緒は、ソフィーの方に手を伸ばした。
そこで、ソフィーが泣きながら叫んだ。

「結局こうよ! 結局、誰も助けてくれない! 私はずっと独りなんだ! こんなところで……こんなところに来ても……!」
『落ち着けソフィー。ダイブ中だ。正気を保て』
「うるさいうるさいうるさい!」

圭介に怒鳴り返し、近くのパズルピースに掴まりながら、彼女は血走った目で理緒を見た。

「おかしい? おかしいでしょ! この私が、水に入っただけで何も出来なくなるなんて……笑いなさいよ! どうせあんたも……」

そこまで叫んだソフィーの口元に、近づいた理緒が、そっと手を触れた。

562 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 18:00:38.25 B9GChpI70 548/1225

「笑わないですよ。誰にだって怖いものはあります」

荒く息をついているソフィーに、理緒は続けた。

「この場を逃れましょう。協力しようとは言いません。でも、お互い『生き残る努力』をしましょう」
「努力……?」
「はい、努力です」

頷いて、理緒は言った。

「ソフィーさんに足りないのは、努力をしようとする気持ちです。人と仲良くしようとする努力、人を信じようとする努力、諦めない心を持つ努力。人のことを言えたものではありませんが、私も同じです。だから、私は生き残るために努力をします」

パズルピースを手に取り、彼女は近くの一つに嵌めた。
浮島の輪郭が一箇所だけ再生する。
ソフィーは、水の中でもがきながら、浮島の巨大立体パズルを完成させようとしている理緒を見て、口をつぐんだ。
そして理緒が中々パズルを嵌められないのを見て、ついに声を上げた。

「……右のピースを、左十字の方向のピースに、下から嵌めて。それから下のピースを、二メートル先のピースとさっきのピースとくっつけて」

563 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 18:01:05.10 B9GChpI70 549/1225

理緒が少しきょとんとした後、笑顔になり

「はい!」

と頷く。
ソフィーの指示は的確で、短時間だった。
特に無理もなく理緒が、バラバラになった浮島を元に戻していく。
時間にして、一分もかからなかっただろうか。
驚異的なスピードで、直径五メートルほどの浮島を再構築させると、ソフィーはその縁に掴まりながら、理緒の手を引こうとした。

「早く、こっちに来て!」
「……分かってます……分かってますけど……」

引き込む力が強すぎて、理緒の片足が、穴の淵に入ってしまっていた。
もう完全に浮島は直っている。

564 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 18:02:38.97 B9GChpI70 550/1225

しかし最後のピースを嵌めこんだ理緒の位置が悪かった。
丁度、穴の正面に来てしまっていたのだ。

「片平理緒!」

ソフィーが叫ぶ。
理緒の体の半分が、穴に飲み込まれる。
そして彼女を覆うように、浮島が穴を塞ぎ始めた。
穴の底は何も見えない。
暗黒の空間だ。
ソフィーが青くなって、浮島に這い上がろうとし……。
そこで、理緒の手を、浮島に打ち上げられていた汀が掴み、引っ張った。
間一髪で理緒が浮島に引き上げられ、浮島は、穴を塞ぐ形でスポンッ、とそこに嵌った。
海水の流出が収まり、流れが穏やかになる。

「汀ちゃん……?」

理緒が海水まみれに鳴りながら、呆然と呟く。
汀は、熱にうかされた顔で、耳までを赤くしながら、理緒を完全に浮島に引き上げ、しりもちをついて頭を抑えた。

565 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 18:03:10.22 B9GChpI70 551/1225

「どこ……ここ……」
「良かった! 目が覚めたんですね!」

理緒に抱きつかれ、汀はきょとんとして、目をぱちくりさせた。

「どうしたの……理緒ちゃん?」
「怖かった……怖かったよ……」

震えながら泣いている理緒の背中に手を回し、汀が優しく撫でる。
左腕は、動かないようだった。
その様子を見て、ソフィーが浮島に這い上がりながら、高圧的な声を発した。

「よくも今まで暢気に寝てたわね……高畑汀。いえ、『アミハラナギサ』……」
「なぎさ……?」

そう呼ばれて、汀はソフィーを見た。

「あなた、何か知ってるの?」
「何も知らない。いいえ、その『何も知らない』ことが問題なのよ……」

荒く息をつきながら海水を吐き出し、ソフィーは続けた。

566 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 18:03:52.29 B9GChpI70 552/1225

「世界中のマインドスイーパーで、私が知らない人はいない。でも、あなたの……いえ、正確には、この患者が認識したあなたの『アミハラナギサ』という名前だけは知らない。ということは……」
『暗転するぞ、気をつけろ!』

ソフィーの声を掻き消す形で、圭介が怒鳴る。
そこで、不意に空が暗くなった。
そして、パキパキパキと音を立てて、海水が一瞬で凍りつき始める。
数秒後、今まで温かかった空間は、極寒の北極のような世界になっていた。
どこまでも続く氷の地面に、吐く息が白く凍る、そんな異常な事態になっていた。
病院服一枚の少女達が、身を寄せ合ってガタガタと震える。

「な……何……?」

理緒が汀に抱きつきながらそう言うと、ソフィーが口を開いた。

「い……異常変質心理内面に入れたんだと思う……」
「二人とも離れて!」

汀がそう言って、小白を抱いた理緒とソフィーを突き飛ばす。
そして自分は右手一本で簡単にバク転を何度かして、五メートルほど後ろに下がった。
一瞬の差で、今まで彼女達がいた場所に、氷を裂く音がして刃渡り四十センチはあろうかと言うナタが三本、突き刺さった。

567 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 18:04:28.57 B9GChpI70 553/1225

次いで、キチキチキチキチと機械のこすれる音がする。
汀が考える間もなく、地面に刺さったナタを右手で引き抜いて、走り出した。
そして、どこからか現れた「モノ」に対して勢いよく振り下ろす。
火花が散るほどの衝撃が汀を襲った。
歯をかみ締めてそれに耐える。
そして彼女は、四方八方から襲い掛かったナタの嵐を、身を軽くひねってかわした。
一メートルほどその「物体」から距離をとり……そして、汀は硬直した。
ドクロのマスク。
そして、ボールのような体に、ムカデのような足。
腕はでたらめな方向に、体のいたるところについていて、ナタをもっている。
そのドクロのマスクを見て、汀はナタを取り落とし、胸を押さえてよろめき、しりもちをついた。

「あ……ああ……」
「汀ちゃん!」

異物の目の前で座り込んだ親友を、理緒が慌てて呼ぶ。

568 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 18:04:55.48 B9GChpI70 554/1225

「いや……いやあああ!」

右手で頭を抑えて、汀は絶叫した。

「いやだ! やだやだやだやだやだ!」

半狂乱になった汀に対して、その「物体」は、幾十ものナタを振り上げた。

「高畑汀! それはスカイフィッシュのオートマトンじゃないわ! それを模して作られたただの幻想よ!」

そこでソフィーが大声を上げた。

『なっ……』

マイクの向こうで圭介が息を飲む。

「しっかりして! あなたは、特A級スイーパーでしょう!」

ソフィーが怒鳴る。
そこで汀は、震えながら、自分に向けて振り下ろされたナタを、拾い上げたナタで受け止めた。

569 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 18:05:27.24 B9GChpI70 555/1225

受け止めそこなったいくつかが、彼女の体に食い込む。
一瞬で血まみれになりながら、汀はゆっくりと立ち上がった。

「そう……私は特A級スイーパー……うっ!」

うめいてよろめく。
彼女の脳裏に、笑う白髪の少年の姿が映る。

――なぎさちゃん。僕達はずっと一緒だよ。

彼はそう言って、笑いながら手を私の頭に乗せた。

――だから、ね。二人で記憶を共有しよう。決して引き離せない二人の記憶。僕の記憶を、君にあげるよ。

燃える家。
チェーンソーの音。
ドクロのマスクを被った、血まみれの男。
その男が持っていたものは。
人の、頭部。
その頭部は――。

570 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 18:06:09.19 B9GChpI70 556/1225

「……いっくん……?」

顔を上げた汀の目の先。
「物体」の更に二十メートル程先に、ポケットに手を突っ込んだ白髪の少年が立っているのが見えた。
彼は、手に長大な日本刀を握っていた。

「あ……」

汀が声を上げるより先に、その少年の姿が消えた。
少年は、ソフィーや理緒が視認さえ出来ないほどの速さで、「物体」を頭から両断した。
そして陽炎のようにその場に揺らめいて消える。
消える一瞬前、彼は汀の方を見て、醜悪に笑ったような気がした。
両断された「物体」が崩れ落ち、丸い、灰色の玉がその中からぬちゃり、と嫌な音を立てて浮き上がる。
血溜まりの中に立ち尽くしている汀に、理緒が駆け寄った。

「汀ちゃん……すごい……私、全然見えませんでした……」
「理緒ちゃん、今あそこに人が立ってなかった?」

少し離れた場所を指差した汀に、理緒は首を傾げて言った。

571 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 18:06:41.49 B9GChpI70 557/1225

「誰もいなかったよ。私には、汀ちゃんがこれ……このトラウマを真っ二つにしたようにしか……」
「私が……?」
「片平理緒。時間がないわ。早く治療をして頂戴」

そこで、ソフィーが近づいて、震えながら言った。
理緒が慌てて頷き、浮いている灰色の精神中核に手を入れる。
そして数秒後、彼女はビチビチとはねる、ピラニアのような形の真っ黒い魚を掴みだした。
それを勢いよく地面にぶつける。
黒い墨があたりに飛び散った。

「高畑先生! 治療に成功しました!」

理緒が大声を上げる。

『…………』
「高畑先生?」
『いや、よくやった。三人とも。スイッチを切れ。こっちに戻すぞ』

一瞬の沈黙の後、圭介はそう言った。

572 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 18:07:32.81 B9GChpI70 558/1225



びっくりドンキーのいつもの席で、眠っている汀の脇で、理緒はちびちびとメリーゴーランドのパフェを食べていた。
圭介がメモ帳に何かを書き込んでいる。

「あの……」

彼女がおどおどと口を開くと、圭介は顔を上げて、水を口に運んだ。

「どうした?」

聞かれて、理緒は言いにくそうに言った。

「本当は、聞いてはいけないんでしょうけれど気になって……私達がダイブした患者さんは、一体誰だったんですか?」

それを聞いて、圭介はメモ帳をパチンと閉じて、返した。

「もう『患者』じゃない。別に話してもいいことだから言うよ。名前は高杉丈一郎。赤十字の教授だ。君とは、親交が深いんじゃないか?」
「え……!」

それを聞いて、理緒は硬直した。

573 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 18:08:04.11 B9GChpI70 559/1225

「え……? え?」

おろおろと周りを見回し、そして理緒は唾を飲み込んだ。
かなり動揺したらしかった。
それを端的な目で見て、圭介は続けた。

「知人の頭の中にダイブするのは、初めてのことかい?」
「そんな……嘘です! あんな世界が、『先生』の頭の中だなんて嘘です!」

理緒が立ち上がって大声を上げた。
汀の隣で眠っていた小白が頭を上げ、驚いたように彼女を見る。
圭介は肩をすくめ、そして言った。

「だけど事実だ。一皮剥けば、人間なんて、そんなもんだ。もっと深くまでダイブしなくて良かったな」

冷たくそう言って、圭介は水をまた口に運んだ。

「そんな……嘘……」

呆然としている理緒に座るように促し、彼女が力なく腰を下ろしたのを見てから、圭介は続けた。

574 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 18:08:32.30 B9GChpI70 560/1225

「君も良く知っている通り、自殺病治療薬、GMDの開発者だ。この件は公にはしていないから、口外はしないように」
「先生が……先生がどうして自殺病に?」

すがるように理緒は圭介に言った。

「何かの間違いですよね? 冗談にしては酷すぎます!」
「冗談なんて言う訳ないだろ。俺は聞かれたから事実を述べたまでだよ」

またメモ帳を広げて何かを書きながら、圭介は言った。

「ま、高杉もこれで完治したんだ。意識が戻り次第、新しいGMDの開発に着手して欲しいものだな」

575 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 18:08:59.03 B9GChpI70 561/1225

「高杉先生と知り合いなんですか? どうしてそんなに気楽でいられるんですか!」

理緒に声を荒げられ、圭介は息をついて、彼女を見た。

「自殺病には赤ん坊でもかかる。別段、その開発者がかかったとしてもおかしくはないよ」
「そんな……」

そこでオーナーが近づいてきて、圭介に何事かを囁いた。
圭介はまたメモ帳を閉じ、理緒に言った。

「議論は後でしようか。君にお客さんだ。外で待ってるらしい」

576 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 18:09:32.26 B9GChpI70 562/1225



びっくりドンキーの駐車場に出た理緒の目に、ソフィーがSP二人に囲まれて、周囲の視線を意に介さずに、花壇のラベンダーを弄っているのが見えた。

「ソフィーさん……」

呼びかけて近づく。
ソフィーは鼻を鳴らすと、腕時計を見た。

「随分待たせるわね」
「すみません……あの、具合はもういいんですか?」

ダイブ先の極寒地獄で、実のところ理緒も体調があまり思わしくはなかった。
精神世界の影響は、現実世界にも多大に及ぶ。
まだ指先が凍傷になっているような、そんな幻の感覚にビリビリとした刺激が走っている。

577 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 18:10:00.22 B9GChpI70 563/1225

ソフィーは髪をかきあげると、馬鹿にしたように言った。

「私を誰だと思ってるの? 体調管理も仕事のうちよ」
「はぁ……そうなんですか。それで、どうしたんですか?」

疲れた調子で言った理緒の顔を覗き込んで、ソフィーは言った。

「あなたこそ疲れてるんじゃないの?」
「ちょっと、いろいろありまして……」
「あなたを育てたドクター高杉が患者だったってこと?」

的確に言い当てられ、理緒は目を丸くした。

「どうして……」
「大概のことなら、私は知っているわ。あなたのおよびもつかないようなこともね」
「…………」

俯いた理緒に、ソフィーは続けた。

578 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 18:11:14.32 B9GChpI70 564/1225

「インプラントって知ってる?」
「……インプラント?」

問い返した理緒に、ソフィーは頷いた。

「ええ。インプラント。ちょっと考えて分からない? マインドスイープでトラウマを除去できるなら、逆のことも可能なんじゃないかしら」
「…………?」
「つまり、トラウマの植え付けよ。それが心の中で芽を出して、自殺病を発症させる『種』になる。それがインプラント。国際的な犯罪よ」
「もしかして、高杉先生も……」

ハッとした理緒に、腕時計を見ながらソフィーは返した。

「私は、もう行かなきゃ。でもこれだけは言えるわ。あなたはとりわけ馬鹿そうだから、特別に教えてあげる。ドクター高畑と、ドクター大河内は絶対に信用しないことね」
「どうして……?」

579 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 18:12:02.52 B9GChpI70 565/1225

「殺されるわよ」

ソフィーは冷たい目で理緒を見た。

「あなたも、あの子もね」

そこで圭介が駐車場に出てきた。
彼は、顔をしかめたソフィーを見て、包帯を巻かれた手を軽く上げた。

「やあ、天才少女じゃないか。具合はもういいのか?」
「あなたと話すことは何もありません」
「つれないな。君に『ご褒美』をあげようと思っていたところなんだが」

そう言って、圭介は持っていたメモ帳を、ソフィーに投げた。
SPの一人がそれを受け取り、ソフィーに見せる。
ソフィーの顔つきが変わった。

「……これ……」
「君はいろいろ知っているようだな。その人物を探してもらいたい。俺からの、個人的な依頼だ」
「あなたから……いえ、元老院からの依頼なんて、私が受けると思って?」

580 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 18:12:28.95 B9GChpI70 566/1225

「君にとってプラスにしかならないと思うが。第一、君は知りすぎている。このまま日本に留まり続けるのも危ういくらいだ。眠れないだろう? 『スカイフィッシュの悪夢』を見るからな」

せせら笑った圭介に、ソフィーは顔を青くした。
よろめいた彼女を見て、理緒がおろおろしながら仲裁に入る。

「高畑先生、何だか怖いですよ……」
「ん? 俺はいつも通りだが」

軽く震えているソフィーを見て、圭介は言った。

「あの子はどうかな?」
「……分かった。で、探してどうするの?」

ソフィーが少し考えた末にそう言う。
圭介は軽く笑って、それに答えた。

「それは君の知るところじゃない」

581 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 18:13:05.22 B9GChpI70 567/1225



汀は、ぼんやりと目を開けた。

「ん……」

小さく呟いて伸びをする。
そこで、彼女はうすく霞がかかった視界の先に、誰かが座っているのに気がついた。

「圭介……?」

呼びかける。
しかし、その人影は首を振った。
まだかなり眠いため、目が上手く開かない。
その人物は、目深にフードを被っていた。
彼……その少年は手を伸ばし、汀の右手に、何かを握らせた。
そして席を立ち、周りの客にまぎれて消えていく。
しばらくして圭介と理緒が戻ってきた。
汀が大きくあくびをして、圭介を見る。

582 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 18:13:47.12 B9GChpI70 568/1225

「圭介、帰ろ」
「ああ、そうだな」
「ん……?」

そこで汀は、自分が何かを持っていることに気がついた。

「あら……! どこでみつけたんですか?」

理緒がそれを手にとって目を丸くする。
それは、四葉のクローバーだった。

「私、知らないよ?」

不思議そうにそう言う汀。

583 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/13 18:14:16.88 B9GChpI70 569/1225

圭介は周りを見回し、舌打ちをした。
そしてオーナーに何事かを言い、汀の体を抱き上げる。

「理緒ちゃんも帰ろう。今日は家に泊まっていくといい」
「あ……はい!」

頷いて、理緒が四葉のクローバーをポケットに入れて、小白を抱き上げ、後に続く。
理緒が泊まっていくと聞いてはしゃいでいる汀の声が、段々聞こえなくなる。
汀の前にあったコップの水が、いつの間にか全てなくなっていた。
氷が溶けてカラン、と音を立てた。




587 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 22:41:31.68 RiazvqHm0 571/1225



第10話 衝動



雑然とした部屋の中、加原岬は目を覚ました。
腕には沢山の点滴がつけられている。
病院の診察台のようなものに寝かされていた。
しばらくぼんやりとして、起き上がろうとし、頭に頭痛が走り、彼女は点滴がつけられていない方の腕で、頭を押さえた。
彼女は、思い出そうとした。
今まで自分は、関西総合病院にいたはずだ。
こんな、タバコとアルコールの臭いがはびこっている部屋にいたわけがない。

「どこ……ここ……」

小さく震える声で呟いて、体を起こす。
そこで、診察台を覆っていたカーテンの向こうから、気だるそうな声が聞こえた。

「目が覚めた? 加原岬さん」

聞いたことのない声だ。
岬は、ベッドの上で起き上がり、毛布を手繰り寄せて体を硬くした。

「だ……誰ですか?」

どもりながら言うと、二十代後半と見れる、くたびれた白衣を着た、ぼさぼさの髪を後頭部で止めている女性が顔を出した。

588 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 22:42:04.51 RiazvqHm0 572/1225

口にはタバコをくわえている。
そこは、コンビニ弁当の残骸や、生活用品のゴミなどが雑然と積まれた、汚らしい部屋だった。
やけに沢山のパソコンがある。
そして、部屋の隅には、精神世界へのダイブに使用する器具が、無造作に投げ出してあった。
女性はしばらく値踏みをするように岬を見ると、頭をガシガシと掻いて、カルテを手に取った。

「特に問題はなし、と。『ラッシュ』を投与したから、記憶の混濁が見られると思うけど、じきにそれも治るわ」
「誰なんですか……? ここはどこですか!」

疑問が確信に変わり、異常を察知して岬が大声を上げる。
女性は軽く肩をすくめて、タバコの煙をフーッ、と吐き出した。

「まぁ慌てない。それにしても、単純に白髪を赤髪に染めてるとは思わなかったわ」

言われて、岬は頭に手をやった。

589 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 22:42:54.20 RiazvqHm0 573/1225

「何を言ってるんですか……? 私はずっとこの髪ですけど……」
「あぁ、記憶の中枢壁から弄られてるのね。まぁ大丈夫、その辺もおいおい治していくから」
「質問に答えてください! ここは関西総合病院じゃないんですか?」
「キャンキャン喚かないでよ。二日酔いで頭がガンガンしてるんだから」

軽くこめかみを揉んで、女性は椅子に座り、岬に向き直った。

「私の名前は、結城政美(ゆうきまさみ)……ここの場所は、訳があって教えてあげられないけど、関西総合病院じゃないことは確かよ」
「ど、どうして……? 病院の方ですか……?」
「そう見える?」

手を広げて見せてから、結城と名乗った女性はタバコを灰皿に押し付け、新しいタバコをくわえ、ジッポの火を慣れた手つきで移した。
そして息をついて、気だるそうに続ける。

「聞きたいことはいろいろあるだろうけど、まぁ詳しいことは、おいおいね」

そう言って彼女は、部屋の隅に設置してあるハンモックに近づいた。

590 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 22:43:53.26 RiazvqHm0 574/1225

そしてそこで仰向けになって眠っている少年の頭に軽く拳を叩きこむ。

「起きろ」
「……ッ!」

殴られた少年は、もんどりうって転がると、ゴミを蹴散らしながら床に転がった。
そして周りを見回し、口をパクパクとさせる。

「眠り姫が起きたんだよ。感動の再会シーンとやらを見せてくれ」

結城がそう言うと、少年……白髪の彼、ナンバーXはきょとんとして岬を見た。
そして嬉しそうな顔になり、口をパクパクとさせながら早足で近づく。

「あぁ、そいつヘマして、今一時的に喋れなくなってるけど、まぁ……分かるよね?」

結城に問いかけられるまでもなく、岬は目を丸くしてナンバーXを見た。
そして、慌てて服を直し、真っ赤になる。

「嘘……そんな……」

ナンバーXが岬の手を握る。
ニコニコしている彼に、岬は言った。

「あなた……いっくん……?」

591 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 22:44:30.87 RiazvqHm0 575/1225



汀の部屋の中で、汀と大河内は面と向かって睨みあっていた。
いつもは柔和な表情の大河内が、顔をしかめて、何かを必死に考え込んでいる。

「これだ!」

短く言って、手に持っているトランプを一枚、テーブルにパシンと叩きつける。

「ダウトだよせんせ」

汀がそう言って、ベッドの上に上半身を起こしている、自分の前に置かれたカードの中から一枚を取って放った。

「何ぃ!」
「大河内先生の二十七連敗ですね」

淡々と言って、理緒が壁のホワイトボードに得点を記入する。

「せんせ、もういいよ。もう休も?」

汀に静かに言われ、大河内は息をついて肩を落とした。

「何てことだ……私が、ここまで負けるとは……」

592 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 22:45:06.64 RiazvqHm0 576/1225

「汀ちゃんがカードゲームは強すぎるんです。異常な強さですから」
「知らなかった……汀ちゃんにこんな特技があったなんて……」

大河内が頭をわしゃわしゃと掻く。

「いやぁ参った! 降参だよ」
「まだやってたのか」

そこで圭介が、三人分のジュースが入ったコップをトレイに乗せて部屋に入ってきた。

「大河内。お前じゃ勝てないぞ。何せ、俺もまだ勝ったことがないからな」
「本当か?」

信じられないといった顔で大河内が圭介を見る。
彼は肩をすくめて、大河内と理緒にコップを渡すと、汀のベッド脇にある台に彼女の分のジュースを置いた。
そしてストローをさしてやる。

「汀に対してのテストをするのは初めてのことだから、戸惑うのも無理はないだろうが、こいつはまがりなりにも特A級だ。俺達じゃかなわないよ」
「うぅーん……」

大河内が悔しそうに考え込む。

593 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 22:45:55.85 RiazvqHm0 577/1225

汀はそんな大河内の様子をにやにやしながら見ていた。
そして口を開く。

「せんせ約束だよ。何でも言うことを聞くんだよ?」
「仕方ない。汀ちゃんには負けたよ。何が欲しい?」
「せんせが欲しい」

大河内を指差し、汀はにっこりと笑った。

「せんせと結婚したい」

その、あながち冗談とも取れない発言に、圭介以外のその場の二人が凍りつく。
大河内は頬に一筋汗を流し、しばらく口ごもった後、静かに聞いた。

「汀ちゃん、そういうのは大人になってから……」
「私もう大人だもん」

汀はそんな言葉を意に介さず、嬉しそうに言った。

「どこに住む? 私、田舎がいいな。せんせはどのくらい子供が欲しい? 私は三人くらいがいいと思うんだけど……」

594 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 22:46:25.56 RiazvqHm0 578/1225

カードゲームの勝負に負け、しかも十三歳の女の子と告白ついでに結婚することになっている大河内は目を白黒とさせた。
そして状況が上手く認識できないのか、目じりを押さえる。

「どうしたの?」
「汀ちゃん、女の子はね、十六歳にならないと結婚できないんです」

そこで、理緒が冷静に突っ込みを入れた。
汀は一瞬ポカンとすると、すがるように圭介を見た。

「本当?」
「本当だ」

端的に、点滴のチューブを交換しながら圭介が言う。

「じゃあせんせ、三年後に結婚しよ。約束だよ」

汀が手を伸ばして、小指を立てる。

「ゆびきりげんまん」

そう言って、無邪気に笑う彼女。

595 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 22:46:53.92 RiazvqHm0 579/1225

大河内は少し考え込んでいたが、やがてふっ、と笑い、その指に自分の小指を絡めた。

「……ああ、約束だ」
「うふふ」

よほど嬉しいのか、汀が満面の笑顔になる。
それを、表情の読めない顔で圭介が見下ろしていた。
彼の無表情に気づいた理緒が、ビクッとして発しかけていた言葉を止める。
それほど、圭介の目は感情を宿していなかった。

596 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 22:47:53.99 RiazvqHm0 580/1225



「……驚いた。私のことを好いていることは知っていたが、まさか結婚まで考えていたとはな……」

汀と理緒が寝静まった夜中、診察室の椅子に腰掛けながら大河内が言う。
圭介はピンクパンサーのグラスに麦茶を注ぎながらそれに答えた。

「俺はもう、耳にタコが出来るくらい聞かされている」
「人が悪いな。それくらい教えてくれてもいいじゃないか」
「生憎と、お前にそんな義理はないからな」

冷たくそう返し、圭介はグラスの中身を口に運んだ。

「安心しろよ。そんな未来は一生来ない」

圭介のゾッとするような冷たい声に、大河内の目が厳しくなった。
彼は腕組みをして圭介を見て、そしてせせら笑うように言った。

「……汀ちゃんと私の問題だ。お前がどうこうできる話じゃない」
「勘弁してくれ。俺にペドの趣味はない」

そう言って、圭介は続けた。

597 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 22:48:31.03 RiazvqHm0 581/1225

「……自殺病にかかった者は決して幸せにはなれない。それは、神が定めた摂理なんだ。汀も同様だ」
「そんなことはない。汀ちゃんは誰よりも幸せになる権利を持っている」

大河内がそう言うと、圭介はドンッ、と乱暴にグラスをテーブルに置いた。
そして歯を噛んで大河内を見る。

「どの口がそれをほざく」
「悪いが、お前よりも、私はあの子のことをよく知っていてね」

含みを持たせて笑い、大河内は続けた。

「それをお前に教える義理はないが」
「ふん……」

鼻を鳴らして、勝手にしろと言わんばかりに肩をすくめると、圭介はテーブル上の資料を手に取った。

「『裏』か」

そう言った圭介に、大河内はまだ視線を厳しくしながら口を開いた。

「ここは病院だろう? 患者のことは詮索しないのが礼儀だ」

598 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 22:49:08.78 RiazvqHm0 582/1225

「それでも、相応のリスクは負わなければいけないからな。最低限のことは知っておきたい」

圭介はそう言って資料をめくった。
そして呆れたようにため息をつく。

「いい加減、赤十字で処理しきれなくなった案件をこっちに回すのはやめろ。俺達は便利屋じゃない」
「お前が汀ちゃんを手放せば済む話だ」
「残念ながらそういう未来も一生来ないな」

大河内と目を合わせずにそう言って、圭介は資料を閉じた。
そして、それを放って大河内に返す。

「ダイブは明後日だ。だが条件がある」
「何だ?」
「理緒ちゃんをサポートにつける。赤十字から、あの子の管轄を俺に回せ」
「何だと?」

思わず腰を浮かせた大河内に、圭介は醜悪に笑いながら言った。

「元老院も承諾済みだ。あの子は、俺のものにする」

599 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 22:50:01.58 RiazvqHm0 583/1225

「高杉が黙っていないぞ」

「あいつは俺に多大な恩があるだろう。それに、『お前も』だ。形式上ではあるがな。忘れてもらっては困る。ギブ・アンド・テイクだ」

大河内は椅子に腰を下ろし、深く息をついた。

「……最初から狙っていたのか?」
「さぁな。だが、『役に立つ道具』は一つでも多い方がいいからな」

圭介はそう言って、グラスの中の麦茶を、一気に喉に流し込んだ。

「ここに住まわせる。おかげで、俺も大分動きやすくなるだろう」
「……変わったな。高畑」

大河内が呟くように言う。

600 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 22:50:30.51 RiazvqHm0 584/1225

「…………あの頃の私達は、もっと…………」
「昔の話は昔の話だ。それに、俺はまだ許してはいないからな」
「…………」
「お前と、坂月をな」

大河内が何かを言おうとして言葉に詰まる。
圭介は、話は終わりだと言わんばかりに立ち上がった。

「精々気をつけて帰るんだな」

含みを持たせてそう言って、彼は診察室を出て行った。

601 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 22:51:06.20 RiazvqHm0 585/1225



暗い夜道、大河内は息をついた。
もう夜中の十一時近い。
中央通りに出ないと、タクシーをつかまえられそうにもなかった。
電話をしてくるんだった……と若干後悔しながら、しかし中央通りはすぐ近いと思い直し、大河内はまた歩き出した。
しばらくして、彼は自分の足音に合わせて、もう一つ、足音が聞こえてくることに気がついた。
ハッとして立ち止まる。
足音も消えた。
あたりには人影がない。
街灯もなく、非常に薄暗い場所だ。
大河内はゆっくりと、横目だけで振り返り、少し離れた場所に、「何か」を持っている、少年と思しき人影が立っているのを見た。
彼はフードを目深に被り、表情を読み取ることは出来ない。
大河内はそれを確認する一瞬の間もなく、全速力で中央通りに向かって走り出した。
少年も、それを追って走り出す。

602 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 22:51:39.65 RiazvqHm0 586/1225

小柄な少年とは思えないほどの俊敏な動きだった。
彼は近くの民家の塀を蹴り、三角飛びの要領で大河内の目の前に転がり出ると、彼の首を掴んで、足を払った。
素人の動きではなかった。
大声を出そうとした大河内の口を塞ぎ、少年はフードの奥の瞳を、冷たくニヤリと笑わせた。
大河内の目に、フードから覗く白髪が見える。
そして次に、少年が持っていた、刃渡り三十センチはあろうかという長大なサバイバルナイフを目にした。
必死にもがく大河内を難なく組み伏せ、少年は、彼の腕をナイフで撫でた。
簡単に皮が切れ、血が流れ出す。
無言だった。
それが大河内の恐怖を更に煽った。
うめく彼の上腕までに切れ込みを入れ、少年はナイフを振り上げた。
そして――。

603 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 22:52:20.17 RiazvqHm0 587/1225



「せんせ! せんせえ!」

隔離された集中治療室内で、呼吸器をつけられ、目を閉じて横たわっている大河内をガラス窓の向こうから、汀は車椅子から転がり落ちそうになりながらも必死に呼んだ。
答えはない。

「…………」

険しい顔をして、圭介は虚空を睨んでいた。

「そんな……大河内先生……」

口元に手を当てて、理緒が震える声で呟く。

「……発見された時はこの状態だったそうだ。肺に達する刺し傷が三箇所。うち一箇所は、肺を貫通してるらしい。警察は総力を挙げて、犯人を捜している」

圭介は小さく舌打ちをした。

「……だから気をつけて帰れと言ったんだ……」

聞こえるか、聞こえないかの声で彼が呟く。

604 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 22:53:16.93 RiazvqHm0 588/1225

耳ざとくそれを聞きつけ、汀が圭介の服を掴んだ。

「圭介! 何か知ってるの? 犯人のこと、何か知ってるの?」
「……知らない。俺が聞きたいくらいだ」
「嘘だ! 圭介は何か知ってる……知っててせんせをこんな目に遭わせたんだ!」

半狂乱になって、汀がヒステリックに喚く。

「せんせが死んだら、圭介も殺してやる! 私が、私が絶対に……」

そこで汀の喉から、カヒュ、と空気の抜ける小さな音がした。
そのまま激しく咳き込み、汀は呼吸が出来なくなったのか、体を丸めた。

「汀ちゃん! 興奮しすぎです!」

理緒が青くなって、看護士が持ってきた紙袋を膨らませて、汀の口に当てる。
何度か深呼吸を繰り返し、汀はしばらくしてぐったりと車椅子に横になった。

「汀ちゃん? しっかりして。汀ちゃん!」
「刺激が強すぎたみたいだ。君は、ラウンジの方に行っててくれ」

荒く息を吐いて、視線をうつろに漂わせている汀の額に手を当て、圭介は冷静に懐から注射器を取り出し、それを汀の右手首に注射した。

605 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 22:53:52.46 RiazvqHm0 589/1225

そして理緒に、小白の入ったケージを渡す。

「少し寝かせる。大丈夫だ。汀は、時折ヒステリックになるんだ。起きた頃には冷静になってるだろ。小白を離さないようにして、近くで寝かせてくれ」
「高畑先生! 大河内先生が通り魔に遭ったんですよ!」

咎めるような声で理緒が言う。
圭介はメガネをクイッと中指で上げて、それに答えた。

「ああ、そうだな」
「高杉先生の時もそうでした……どうして、そんなに冷たくしていられるんですか! 汀ちゃんの気持ちを考えてあげても……無理やり眠らせるなんて! 誰だって……誰だって、自分の好きな人がこんな事件に遭ったら、冷静でいられませんよ!」
「君も少々ヒステリーの気があるらしいな」
「茶化さないでください!」

理緒は圭介に詰め寄った。

「大河内先生は大丈夫なんですか? 汀ちゃんに、いきなりこんなところを見せるなんて、どうかしてます! 幻滅しました!」

606 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 22:54:32.98 RiazvqHm0 590/1225

「いくらでも幻滅してくれて構わない。別に、俺は君達の機嫌を取るために生きているわけではないからな」

冷たく理緒の言葉を打ち消し、しかし視線はあわせずに、圭介は続けた。

「……手術は成功した。命に別状はないはずだ。今の医療技術を、信用するんだ」
「でも……でも!」
「俺がやったわけではない。憤りは分かるが、落ち着け、理緒ちゃん」

彼女の頭にポスン、と手を置き、圭介は言った。

「少し休みなさい。ここでいくら喚いても、大河内が良くなるわけじゃない」
「……私……聞きました」
「何?」

問い返した圭介に、理緒は小声で言った。

「高畑先生と、大河内先生が話してるところ、聞きました。汀ちゃんと大河内先生は、絶対に結婚できないって、高畑先生、断言したじゃないですか!」
「…………」
「自殺病にかかった人は絶対に幸せになれないって……どういうことですか!」

607 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 22:55:10.37 RiazvqHm0 591/1225

どうやら、手洗いに行こうとして起きたところ、彼らの会話を聞いていたらしい。
圭介はしばらく沈黙して、汀が眠っていることを確認してから腕を組んだ。
そして軽く笑う。

「何がおかしいんですか!」

理緒が声を張り上げる。

「特に何も。何も知らない君が、少々滑稽でね」
「こっけい……?」
「ああ。赤十字では教わらなかったのか? 『自殺病にかかった者は絶対に幸せにはなれない』……それは、神様が定めた摂理なんだよ」
「そんなこと、聞いたことありません! それに汀ちゃんが……」
「汀は、俺がマインドスイープで治療した『最後の』患者だ」

淡々とそう言って、圭介は冷たい目で理緒を見下ろした。

「え……」

口ごもった彼女に、圭介は続けた。

「いいかい。これからも人を治療していきたいと思うなら、覚えておけばいい。自殺病にかかった者は、絶対に幸福にはなれない。何度でも言う。絶対にだ」
「どうして……? どうしてそんなに酷いことを……」
「俺も昔、自殺病の患者だったからさ」

抑揚なくそう言って、圭介は吐き捨てるように呟いた。

「それ以上でも、それ以下でもない」

608 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 22:55:57.15 RiazvqHm0 592/1225



赤十字病院のラウンジで、理緒は汀と小白の乗った車椅子を、日のあたらない場所に設置し、一人、少し離れた場所で水を飲んでいた。
朝、大河内の事を聞きここに来てから、既に半日以上が経過していた。
圭介は顔を見せようとしない。
ここに放置されてからも、随分時間が経つ。
ある程度のお金は圭介に持たされていたが、汀がいつ目を覚ますか気が気ではなかったので、離れるわけにもいかなかった。
頭の中がグチャグチャだった。
寝不足と、疲労と、圭介に投げつけられた言葉の痛みが交互に理緒の胸の中を襲う。
深くため息をついた彼女の周りには、やはり診察を待っている患者や、食事をしている見舞い客などが沢山いた。
誰も、汀達を気にする人などいない。
そんな中だったので、理緒はいつの間にか隣に誰かが座っていることに気づかなかった。

609 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 22:56:38.08 RiazvqHm0 593/1225

「……?」

きょとんとして隣に目をやる。
そこには、灰色のフードを目深に被った、長袖の少年が座っていた。
理緒と同じくらいの年の頃だろうか。
彼は、売店で買ってきたのか、手にピルクルの瓶と、菓子パンを数個持っていた。
それを理緒に差出し、ぎこちなく笑う。

「た……た…………たっ……」

慎重に言葉を選ぶように、断続的に発音し、彼は息を吸って、そして一気に言った。

「た……べ……る?」
「え……あの……」

理緒はいきなりのコミュニケーションについていけずに、どぎまぎしながらそれに答えた。

「お、おかまいなく。私、大丈夫ですか……」

グゥ、と理緒のお腹が鳴った。

610 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 22:57:04.70 RiazvqHm0 594/1225

整った顔をしている少年だった。
髪の毛が白い。
同じマインドスイーパーだと気づいて、理緒は顔を赤くしながら、俯いた。

「お、れ……分、ある」

言語障害なのだろうか。
切れ切れに彼はそう言うと、にこやかな笑顔と共に、自分の分のパンを手で指した。

「あ……さから……いた。心配」
「ありがとうございます……」

小さな声でそう言って、理緒はパンを受け取った。

611 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 22:57:45.52 RiazvqHm0 595/1225



パンを口に入れ、多少は頭の中が整理できた理緒は、息をついて少年を見た。
もぐもぐとパンを食べている彼は、ぼんやりと外を見ている。
髪の毛が白くなければ、タレントにでもなっていそうな程、顔立ちが整っていた。
理緒でなくても、女の子なら誰でも意識はしてしまうだろう。
彼がこちらを向いたので、慌てて目をそらす。
ピルクルで残りのパンを喉に流し込み、彼女は男の子に聞いた。

「あの……お金、払います。お幾らでしたか?」
「いら……ねぇ。男、女……おごる、大切だ……と、思う。逆……おかしいな」

意外と理性的な喋り方をする人だ。
理緒は警戒心を解いて、しかし彼の手に千円札を握らせた。

「お礼です。私の気持ちだと思って、受け取ってください」

少年はしばらくそれを見つめていたが、やがて興味がなさそうに頷いて、ガサッ、とポケットに千円札を突っ込んだ。

612 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 22:58:37.98 RiazvqHm0 596/1225

その鳶色の瞳でまた見つめられ、理緒は顔を赤くして視線をそらした。

「あの……お名前は……?」

聞かれて、少年は言った。

「工藤…………一貴(いちたか)」
「一貴さんですね。私は理緒。片平理緒って言います」

手を差し出すと、一貴は気さくにそれを握り返してきた。

「同業者の方ですよね? どこでお仕事をされてるんですか?」
「ほ……っかいどう。出張……で」
「遠いところから……担当医の方は?」
「戻ら……ねぇ」

ヘヘ、と笑った彼に、理緒は微笑み返した。

613 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 22:59:19.29 RiazvqHm0 597/1225

「ふふ、おんなじですね」

一貴は頷いて肩をすくめると、眠っている汀に視線を移した。
そして口を開く。

「あの、子……」
「汀ちゃんのこと、ご存知なんですか?」

問いかけた理緒に、一貴は頷いた。

「有、名……特A」
「今ちょっと具合が悪くて……お話は出来ないんです」

目を伏せた理緒の肩を、彼は元気を出せよ、と言わんばかりにポンと叩いた。
そして立ち上がって汀に近づくと、その顔を覗き込む。
しばらく同じ姿勢のまま固まった一貴を、理緒は怪訝そうに見た。

「どうしました?」

問いかけられ、彼は肩をすくめた。

「残念……俺、ともだ、ち。この……子と」
「汀ちゃんのお友達だったんですか?」
「……う、ん」

頷いた彼の隣に行き、理緒は息をついた。

614 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 23:00:17.86 RiazvqHm0 598/1225

「羨ましいな……私の友達は、汀ちゃん以外、ほとんど『あっち』の世界に行っちゃった」
「…………」
「そこから助けてくれたのが、汀ちゃんなんです」

彼女は、黙っている一貴の方を見ずに続けた。

「だから私は、汀ちゃんに幸せになってもらいたい……自殺病にかかった人間は、絶対に幸せになれないなんて、嘘です。そんな酷いこと……私は信じられません」
「…………」
「工藤さんも、そう思いませんか?」

振り返った理緒の目に、汀を見て目を細めている一貴の姿が映った。
一貴は少し考えていたが、やがて頷いて、ニッコリと笑った。

「俺……たち。だいじょう、ぶ。医者、適当なこ、と、言う」
「そうですよね。そうなんだ。大丈夫。大丈夫だよ」

理緒がそう言って、眠っている汀の手を握る。

615 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 23:00:57.49 RiazvqHm0 599/1225

一貴はまたしばらく汀を凝視していたが、彼女が目を覚まさないことを確認して、チラチラと腕時計を見た。
そして理緒の肩を叩く。

「お、れ。行く。かたひ、らさん。これ」

彼が差し出したのは、メモ帳の切れ端だった。
そこには、ゼロと一の羅列がびっしりと書かれていた。
その不気味な紙片を受け取り、理緒が首を傾げる。

「何ですか?」
「この……子に、わたし、て。大事……すごく、大事な……もの。医者、し、んようできない。俺、たちのひ……みつ。約束」

勝手に理緒の手を握り、彼は手をひらひらと振って、足早に人ごみの中に消えた。

「あ……待って!」

616 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 23:01:43.26 RiazvqHm0 600/1225

慌てて後を追いかけようとした理緒が、小さくうめいて目を開いた汀を見て、歩みを止める。

「ん……」
「汀ちゃん! 目が覚めましたか?」
「ここ……どこ……?」
「…………」

大河内が大怪我をしたというくだりは、完璧に忘れてしまっているらしい。
それに愕然とした理緒の目に、圭介が手にビニール袋を持って、疲れた足取りで歩いてくるのが見えた。
慌てて、一貴から渡された紙片をポケットに隠す。
そこで彼女は、いつの間に折られたのか、小さく、鶴の形にされた千円札が手に握りこまれているのに気がついた。
それを見て、どこか顔を赤くする。
一貴の姿は、もうどこにもなかった。

「……どうした?」

袋に入った菓子パンやジュースをテーブルに並べながら、圭介が聞く。

「ああ、もう食べたのか?」
「え……? あ……はい。ごめんなさい……」

617 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 23:02:21.90 RiazvqHm0 601/1225

「いや、俺の方こそ、随分と待たせてすまなかった。大河内の容態は安定してる。問題はないだろう」
「圭介……? どこ……ここ……?」

緩慢とした動作で、汀がそう聞く。
圭介は彼女に、ストローを指したポカリスエットの小さなペットボトルを握らせて言った。

「赤十字病院だ。大河内が少し怪我をしてな。そのお見舞いに来ていたところだ」
「せんせが……? 私、お見舞いなんてしてないよ」
「したよ。大河内が、疲れただろうからもう帰れってさ」

淡々とそう返し、圭介は理緒が不満げな顔をしたのを無視して、パンを頬張った。

「理緒ちゃんも。こんな時で悪いけど、仕事だ」
「高畑先生……!」

理緒が小声で咎めるように言う。
しかし圭介は、パンをかじりながらそれに答えた。

「急患だ。今、ここの第三棟に運び込まれてる。放置すれば、あと二時間で死に至る」

618 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 23:02:51.09 RiazvqHm0 602/1225

「そんな……」
「汀、やれるか?」

問いかけられ、汀は頷いた。

「終わったら……また、せんせと会いたいな……」
「いいよ。約束する」
「うん……」
「……高畑先生!」

そこで理緒が、我慢できないといった具合で圭介の袖を引いて、汀から遠ざけた。
そして小声で彼に言う。

「何で嘘をつくんですか?」
「また汀を過呼吸にしたいのか?」
「私は……でも……!」
「君達はマインドスイーパーだ。資格があるなら仕事をしろ。『人を助ける』といった仕事をな」

冷たく言って、圭介は柔和な表情で汀を見た。

「行くぞ。ダイブは三十分後だ」

619 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 23:03:55.61 RiazvqHm0 603/1225



汀と理緒は目を開けた。
そこは、大雨が降っている高速道路の上だった。
一瞬でびしょ濡れになった二人が顔をしかめる。

『どうした? 状況を説明してくれ』

圭介の声が聞こえる。
汀と理緒がヘッドセットのスイッチを入れ、口々に何かを言うが、雨の音でそれはかき消されてしまっていた。

『聞こえないな……汀、どうにかしろ』

圭介の命令に頷いて、汀は足元で小さくなっている小白を抱き上げた。
そして理緒の手を掴んで、高速道路の脇に移動する。
そして親指を立てて、右手をピンと上げた。

(ヒッチハイク……?)

そのつもりなのだろうか。
精神世界で、しかもこの土砂降りの逃げ場がない中で何をしているのだろうと、理緒が目を丸くする。

620 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 23:05:09.25 RiazvqHm0 604/1225

そこで、凄まじい勢いで、赤い車が走り去った。
エンジン部分が大きく拡張されていて、さながらレーシング用の車だ。
それを追って、サイレンを鳴らしながらパトカーが三台走ってきた。
そのうちの一台が停まり、中から真っ黒いマネキンのような人間が出てくる。
黒いマネキンが、警官の制服を着ている。
二人だ。
表情はうかがい知ることは出来ないが、彼らは腕を立てている汀の前に屈みこんで、心配そうに口を開こうとして――。
そこで、一人が、汀に無造作に投げ飛ばされた。
もう一人が臨戦態勢を作る前に、汀は倒れた警官の喉に一撃を加えてからその警官の警棒を抜いて、まだ立っている警官のみぞおちに突き立てた。
時間にして五、六秒ほどのことだっただろうか。
警官姿のマネキンを二人とも締め落としてから、汀は唖然としている理緒の手を引いて、パトカーに乗り込んだ。
そして扉を閉め、膝の上に小白を乗せる。

「ダイブ成功。変質心理区域だね。かなり自殺病が進行してると思う」

621 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 23:05:50.43 RiazvqHm0 605/1225

猫のように頭を振って水を飛ばした汀の隣で、理緒が震えながら暖房のスイッチをつける。
そして彼女は、倒れている二人の警官を見た。

「汀ちゃん……あの人たち……」
「ただの深層心理の投影だから、気にしなくていいよ」

そう言って、汀は車のアクセルを踏んで、パトカーを急発進させた。

「きゃあ!」

理緒が悲鳴を上げて、慌ててシートベルトをつける。

「み、汀ちゃん! 運転できるの?」

六十キロ、七十キロ、次第に速度が上がっていく。
汀は、明らかに小さな体でギアを操作して、先ほど通過したパトカーに追いついてから、面白そうに笑った。

「やり方は知ってる」

622 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 23:06:28.15 RiazvqHm0 606/1225

「知ってるって……知ってるだけで運転したことは……」
「ないよ。当然でしょ?」

二台のパトカーを追い抜き、汀は更にスピードを上げた。
理緒がまた悲鳴を上げて、体を縮めて目を閉じる。
既に百二十キロ近く出ていた。
今は土砂降りだ。
ハイドロプレーニング、と呼ばれている。
タイヤと道路の間に水が入り込み、タイヤが空回りする現象だ。
その音を聞き、よく分かっていないまでも理緒は顔面蒼白になった。
当然だ。
自分より小さな女の子が、土砂降りの高速道路で百三十キロもカッ飛ばしていたらその隣に座っていて恐怖を感じない者はいないだろう。

「とめて! とめてぇえ!」

凄まじい勢いで流れていく周囲の景色についていくことが出来ずに、理緒が絶叫する。

『どうした? 状況を説明してくれ』

圭介が言う。
汀はまたギアを操作し、更に速度を上げてから言った。

623 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 23:07:01.94 RiazvqHm0 607/1225

「高速道路。多分防衛型の特徴だと思うけど、この人の精神中核が車で逃走中。この人、普通の人じゃないね。犯罪者だ」

汀の的確な指摘に、圭介が一瞬押し黙る。

「は……犯罪者?」

理緒が引きつった声を上げ、目をギュッ、と閉じて震えながら言った。

「私達、犯罪者の人の心の中にダイブしてるんですか?」
「それも普通の犯罪者じゃないね。警察に対して異常な警戒心を持ってる。多分何かの逃走犯だ」
『汀、仕事に集中しろ』
「分かってる」
「高畑先生! 犯罪者って本当ですか?」

理緒がヘッドセットに向けて悲鳴のような声を上げた。

「それも逃走犯だなんて……マインドスイーパーは、犯罪幇助はしちゃいけないんですよ!」

624 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 23:07:48.17 RiazvqHm0 608/1225

『君達はただ、精神中核を治療すればいい。仕事をするんだ』
「高畑先生も汀ちゃんも、おかしいよ!」

理緒はあまりのスピードに腰が抜けたのか、頭を抑えてその場にうずくまった。
百四十、百五十。まだ速度は上がっていく。
前方に、赤い車が見えてきた。
もはや気を失ってもおかしくないほどの恐怖が、彼女を襲っていた。
半狂乱になって、理緒はどこかに逃げ場はないかとパニックになって怒鳴った。

「とめて! とめてよ! 死んじゃうよ! やだ、こんな速いのやだあああ!」

車の速度計から流れる警告音が彼女の精神を削り取っていく。
汀は、しかし運転に集中していて理緒の相手をする暇がないのか、小白を彼女に投げてよこしただけだった。

「大河内先生が死にそうなのに、仕事なんてできません! 戻してください! 私、仕事できません!」

理緒が悲鳴を上げる。

「え……?」

そこで初めて、汀は理緒の方を見た。

625 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 23:08:23.35 RiazvqHm0 609/1225

「せんせが、死にそう?」
『二人とも、仕事に集中するんだ』
「出来ないです! 私は人間です! 人間って、心があります、機械じゃないんです! 二人ともおかしいよ! おかしいよ!」
「理緒ちゃん落ち着いて。落ち着いてその話をよく聞かせて」

汀が冷静に言って、震えて固まっている理緒を横目で見る。

『やめるんだ理緒ちゃん。終わったら俺の口から……』
「圭介は黙ってて」

圭介の声を打ち消し、汀は続けた。

「理緒ちゃん、すぐに怖いのは終わるから。大丈夫。私がいる」
「汀ちゃん……」

鼻水を啜り上げながら、理緒は、途切れ途切れに口を開いた。

「大河内先生が……通り魔に遭って……今、重篤な状態で……」
「圭介、本当? それ」

626 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 23:08:57.59 RiazvqHm0 610/1225

『…………』
「圭介!」

汀が怒鳴る。

『本当だ。犯人はまだ捕まっていない』

しばしの沈黙の後、圭介はそう答えた。

「私の記憶を消したのね……何で!」
『仕事があるからだ』
「戻る。すぐに戻る!」
『…………』
「この精神中核を捕まえたら、すぐにせんせのところに行く!」
『冷静になれ! 精神中核が外壁防御もなしに高速で逃走中なんだろう。慎重に行け!』
「知らない……知らないこんな犯罪者!」

汀は怒鳴って、更にスピードを上げた。

627 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 23:09:29.35 RiazvqHm0 611/1225

そして理緒に

「ぶつかるよ!」

と叫んでから、前方でエンジンを高速で回転させている赤い車の後部に、パトカーを衝突させた。
凄まじい衝撃が二人を襲う。

「きゃあああ!」
『やめろ汀! 患者を殺す気か!』

圭介が怒鳴る。
しかし汀は、それには答えずに、何度も、何度も車を衝突させた。
仕舞いには赤い車の後部タイヤがパンクしたらしく、それはぐるぐると道路をスピンしながらガードレールに激しくぶつかった。
そして何度も回転しながら、崖下に車が落ちていく。
パトカーをスピンさせながら急停止させ、汀はヘッドセットに向けて叫んだ。

「戻して! 早く!」
『…………』

圭介がマイクの向こうで歯噛みする。

628 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 23:09:55.92 RiazvqHm0 612/1225

ボンッ! という音がして、崖下で車が爆発した。
火柱が吹き上がる。

「圭介!」

ぐんにゃりと、景色……いや、「空間」それそのものが歪んだ。
まるでコーヒーにミルクを入れてかき混ぜるように、汀達を包む空間がドロドロになり崩れていく。

「精神中核の崩壊を確認。戻して!」

ヘッドセットの向こうから、圭介の舌打ちが聞こえた。
そこで、彼女達の意識はブラックアウトした。

629 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 23:10:49.94 RiazvqHm0 613/1225



「患者の死亡が確認された。死因はショック死だ」

圭介が淡々とそう言う。

「死んだ……?」

理緒が唖然として、その言葉を繰り返した。

「え……死んだ……? 死んだんですか……?」
「ああ、君達が殺したようなものだ」

端的にそう言って、圭介は表情の読めない無表情のまま、手に持った資料を脇に投げた。
大河内を見舞ってから、赤十字の会議室で、汀は圭介を睨んでいた。

「……知ったことじゃないよ」
「それでも特A級マインドスイーパーか。呆れてものも言えないな」

圭介は首を振り、立ち上がった。

「少しここで頭を冷やすといい。大河内は命は助かるが、君達が見放した命は大きい。それがたとえ、犯罪者のものだったとしてもな」

630 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 23:11:16.39 RiazvqHm0 614/1225

会議室の扉を閉めた圭介を目で追って、汀は唇を強く噛んで俯いた。

「死んだって……どういうことですか……?」

理緒がかすれた声を出す。
汀はしばらく沈黙していたが、やがて、小さな声で返した。

「……私が、精神の中核を、車ごと崖の下に落としたから。精神の崩壊は、脳組織の崩壊を誘発することもあるの……」
「私が……汀ちゃんに、大河内先生のことを話したから……ですか?」

汀は、また少し沈黙してから、首を振った。

「…………」
「汀ちゃん……?」

すがるように口を開いた彼女に、汀は両目から涙を落として、かすれた声で答えた。

「私が……殺した。カッとして……殺しちゃった……」

631 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 23:11:53.46 RiazvqHm0 615/1225



圭介は、日も落ちて、暗い診察室の中椅子に座って資料を見ていた。
理緒と汀は、隣の部屋で、泣き疲れて眠っていた。
今日起きた一連のことは、彼女達の年齢では、処理できる理解の範疇を超えていた。
睡眠を体が選んだとしても、それは無理のないことだった。
そこで、圭介の携帯電話が鳴った。
圭介が顔を上げて、一瞬止まった後それを掴む。
そして耳にあて、彼は言った。

「誰だ?」

電話の主は、非通知だった。

『久しぶりだな。高畑君』

しかしその声に、圭介は表情を変えて答えた。

「…………久しぶりですね…………」
『相変わらずクールだな。どうだ? 今回の失敗は、随分と堪えたんじゃないのか? 元老院もな』

632 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 23:12:56.98 RiazvqHm0 616/1225

「あなたには関係のない話だ」
『今回の失敗を、もみ消してやれると言ってもか』

電話口の向こうでタバコでも吸っているのか、息を長く吐きながら、相手はそう言った。
圭介はしばらく考え込んだ後

「あなたには関係がない話だ」

と、先ほどの台詞を繰り返した。
電話口の向こうの相手は、それに構わずに続けた。

『ナンバーⅣをこちらに引き渡したまえ。悪いようにはしない』
「お断りします」

圭介はせせら笑って、それに返した。

「あの子は俺のものだ。あなたのものじゃない。残念だったな」

醜悪に口の端を歪め、彼は吐き捨てた。

「つるむ相手を変えたいのは分かりますが、相手は選んだ方がいいですよ」

プツッ、と電話を切る。

633 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/14 23:13:44.85 RiazvqHm0 617/1225

そして彼は携帯電話をテーブルに投げてから、立ち上がった。
手洗いが一緒になっている洗濯室に入り、
理緒と汀の洗濯物を、洗濯機に突っ込む。
そこで、理緒の服のポケットに紙切れが入っているのを見て、圭介はそれに目を留めた。
ゼロと一の羅列が所狭しとかかれた紙。
そして、鶴の形に折られた千円札。
圭介は鼻を鳴らし、紙を自分のポケットに移した。
そして鶴の形を整えて、洗面台の上に置く。
それを見る目は、どこか笑っていて。
どこか、悲しそうだった。




636 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:28:58.88 zbQ0mbq40 619/1225



第11話 発狂非人道



ハワイのビーチで、岬は楽しそうに水を足で蹴っていた。
それを、椰子の木の下で膝を抱えていた少年が見つめている。
やがて岬は、水を蹴ることに満足したのか、足早に少年のところに戻ってきた。

「いっくんも来ないの?」

問いかけられて、彼……一貴は苦笑して口を開いた。
彼の喉には包帯が巻きつけられており、声はしわがれて、少しガラガラしている。

「俺はいいよ……もう、呆れるほど遊んだし」
「そうなんだ」

一貴の隣に腰を下ろし、岬は病院服の裾を直した。
そして、ジーンズにTシャツ姿の一貴を、不思議そうに見る。

「ねぇ、どうしていっくんは普段着でいられるの? 夢の世界では、単純なものしか具現化できないはずだよね」

問いかけられて、一貴は肩をすくめた。

637 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:29:43.57 zbQ0mbq40 620/1225

「それは、医者が勝手に決めたルールだよ……所詮夢なんだ。やろうと思えば、何でもできる」

そう言って、彼は足元の砂を手で掴んだ。
そしてギュッ、と握り、手を開く。
そこには、クリスマスツリーの先端につけるような、キラキラと輝く、手の平大の星があった。
目を丸くした岬にそれを放って渡し、一貴は息をついた。

「こんなことも」

彼は砂の中に手を突っ込んだ。
そして中から、長大な日本刀を抜き出す。

「嘘……」

呆然としている岬を尻目に、一貴は日本刀の刃をじっと見つめた。

「『ここにある』と『錯覚』するんじゃなくて、『実感』するんだ。そうすれば、夢は現実になりえる」

それを聞いて、岬は自分も砂を握りこんで、目を閉じて何かを念じた。
そして手を開く。
しかし、そこにはただ、真っ白い珊瑚礁の砂があるだけだった。

638 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:30:31.67 zbQ0mbq40 621/1225

「あたしには出来ない……」

残念そうに呟いた彼女に、一貴は日本刀を脇に置いて続けた。

「やり方は、おいおい教えていくよ。でも難しいかも。今も、頭の中のどこかで、『これは砂だ』って思ってるから変質しなかったんだ……」
「でも、砂は砂だよ」
「そうだね」

一貴がそう言った途端、日本刀と星が、サラサラと砂になって散った。

「コントロールだよ。夢の。何もかもを『思い込む』柔軟性が必要だ……訓練である程度は出来るようになると、思う……」

自信なさ気にそう言って、一貴は息をつき、喉の傷口を押さえた。

「まだ痛む?」

岬にそう問いかけられ、彼は頷いた。

「中々治らない……畜生。あの野郎……」

一瞬一貴の目がギラつく。

639 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:31:15.23 zbQ0mbq40 622/1225

それを見て、岬は静かに彼の手に、自分の手を重ねた。

「落ち着いて。あたしがいるよ」
「……ああ、そうだね」

頷いて、また息をつき一貴は顔を上げた。

「そろそろ起きよう。結城が煩い」
「……何だよ……」

顔面をグーで殴られてハンモックから転がり落ちた一貴を、雑然と散らかった部屋の中で、結城は睨みつけた。

「岬をお前の夢の中に連れ込むなっつぅのが理解できないのか? お前の脳みそはバッタ以下かよ」

吐き捨てて結城は、勝手にダイブ機械の椅子に座っている岬を見て、頭を抑えた。
点滴をしている彼女は、まだ体をぐったりと弛緩させている。

「あと二時間は起きないぞ。薬まで勝手に使って……」
「別にいいだろ。てゆうか、毎回毎回こうやって強制的に起こすのやめてくんない? ……脳細胞が死滅するよ、割とマジで」

肩をすくめて、一貴は岬に近づくと、彼女に被せていたヘッドセットを取り除いた。

640 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:32:20.25 zbQ0mbq40 623/1225

そして点滴の針を抜いて、彼女を抱え上げる。
一貴が、自分が寝ていたハンモックに岬を移動させているのを見て、結城はため息をついた。

「……で? その子の信頼は得られそうかい?」
「信頼も何も、僕達は元々、強い絆で結ばれてるんだ。それに岬ちゃんは僕に惚れてる。信頼を得るもクソもないよ」

淡々とそう言い、一貴は大きくあくびをした。

「……で? 僕を起こしたのは、相応のわけがあるんでしょ?」
「仕事だ」

床に座り込んだ一貴に資料を放り、結城は腕組みをして彼を見下ろした。

「そいつを、岬と二人で『殺して』欲しい」
「へぇ」

一貴が頭をぼりぼりと掻いて、写真を見た。

「いいの? 機関はもうちょっとゆったり活動していくものだと思ってたけど」

641 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:33:58.54 zbQ0mbq40 624/1225

「今まではただの準備段階だ。本番はこれからだ」

結城は不気味に口元を笑わせながら、目を細めた。

「できるのかい? できないのかい?」
「多分、対マインドスイーパー用の護衛を連れてる。どれくらい強力な奴か知らないけど岬ちゃんは連れて行かないほうがいいかも」
「機関は、あの子の有用性も証明したいんだよ」
「そういうことなら別にいいけどさ。まぁ、責任はあんた達でとってね」

しわがれた声でそう言い、一貴はまた写真を見た。

「…………やっと一人目だ」

彼の呟きを聞き、結城は頷いた。

「ああ、そうだな」

642 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:36:06.48 zbQ0mbq40 625/1225



「心に『ロック』をかけてもらいたい」

圭介にそう言われ、だだっ広い会議室の中、理緒はきょとんとして首を傾げた。

「ロック……? 鍵ですか?」
「そうだ。今回の仕事は、自殺病患者の心の中に潜るんじゃない。至って普通の、異常がない人間の心の中に潜る」

圭介はそう言うと、ホワイトボードに貼り付けた写真を指で指した。

「田中敬三(たなかけいぞう)……名前だけは聞いたことがあるだろう」

会議室には他にも数人医師や教授が参加しており、理緒の隣には、すぅすぅと寝息を立てている、車椅子の汀がいた。
彼女が抱いている猫、小白も寝ている。

643 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:38:11.07 zbQ0mbq40 626/1225

問いかけられた理緒は、頷いて、少し考えた後言った。

「ええと……一年前に、警視庁を退任した警視庁総監のことですよね」
「正解だ。よく知っているな」

圭介は頷いて、視線を理緒に戻した。

「一時期、汚職などで随分と騒がれたからな。今は総監を退任して、警察学校の校長として働いている。来年定年だ」
「それで……その人の心の中に、鍵をかければいいんですか?」
「そうだ」
「あの……具体的に何をすればいいのか、全然分からないのですけれど……」

周囲の痛いほどの視線におどおどしながら理緒が言う。
圭介は頷いて、自分の席に座ると、手を伸ばしてホワイトボードに丸い円を書いた。

「仮にこれが人間の精神……つまり心だとする。それを最も端的に表した形だ」
「はい。そうですね」

頷いた理緒から視線をホワイトボードに戻し、圭介は続けた。

644 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:39:23.78 zbQ0mbq40 627/1225

「人間の精神は何ヶ層かに分かれていて、中核はその中心にある」

彼は円の中にまた数個、なぞるように円を書き、そして中心に小さな丸を書いた。

「心……精神とは形がないものだ。でも、現に中核は存在する。じゃあその中核って何だと思う?」

聞かれた理緒は、しばらく考えてから答えた。

「その人そのものだと思います」
「正解だ。人間の存在そのものに形を定義することは出来ない。でも、物質としてこの世に存在している以上何かしらの核はなければいけない。それが精神中核だ」

圭介は息をつき、手元のペットボトルから水を口に運んだ。

「……それでだ、今回のダイブでは、いつも君達がやっているように、精神中核についた汚染を取り除くのではなく、逆に、取り除く前に行う『予防』をやってもらいたいんだ」
「自殺病の……予防が出来るんですか?」

素っ頓狂な声を上げた理緒を落ち着かせ、圭介は頷いた。

「まだ実際のところ、世界的にも成功した例はないが、理論的には可能なんだ。理論といっても単純明快なことだ。精神中核を、傷つけないように、何か強固なもので守ればいい」

645 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:40:51.31 zbQ0mbq40 628/1225

円の中心の丸を、四角い線で囲んで、圭介は続けた。

「つまり君達が、常時自殺病のウィルスから中核を守っているような状態だ。だがそれが、実際は不可能なことだ。だから、何かを精神内で『構築』して、中核を入れる。それは金庫でも、アクリル製の箱でもいい。とにかく守れるイメージを作り上げる。これが予防だ」
「でも……精神世界内では、思うとおりのものは具現化できないんじゃ……」
「出来る例があるんだよ」

首を振って、圭介は言った。

「まぁそれは、おいおい話していこう。今日は二人の『訓練』だ。それに、心強い助っ人も用意した」
「助っ人?」
「隣の部屋で待ってるよ」

圭介はそう言い、ニッ、と笑った。

646 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:42:12.74 zbQ0mbq40 629/1225



まだ眠っている汀の車椅子を押し、ぞろぞろとついてくる医師たちを尻目に理緒は訓練室と書かれた部屋の中に入った。
マインドスイープの訓練をする部屋だ。
彼女にとって、なじみが深い場所でもある。
そこで、四人のSPに周囲を固められたソフィーが、座って携帯を弄っているのが見えた。
彼女の目じりにはクマが浮かび、どこか不健康そうだ。
ソフィーは顔を上げて理緒を見ると、少しだけ安心したような表情になった。

「片平理緒。久しぶりね」

呼びかけられ、理緒もふっ、と軽く笑う。

「ソフィーさん。また日本にいらっしゃったんですか」
「ええ。今回のダイブに、私の協力がまた必要だって要請を受けてね。日本には他に人員がいないの?」

鼻の脇を吊り上げて馬鹿にしたように笑い、ソフィーは椅子に座ったまま腕組みをして理緒を見上げた。

「まぁ、一度一緒に仕事をした間だし、暇を縫って来てあげたわ。精々感謝しなさい」
「はい! またソフィーさんに会えて嬉しいです!」

ニコニコしながら理緒が頷く。

647 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:44:02.35 zbQ0mbq40 630/1225

その実直な態度とは裏腹に、まだ眠っている汀を、ソフィーは腫れ物でも触るかのような顔で見た。

「この小娘……」

毒づいて、彼女は圭介を見た。

「ドクター大河内の件は聞いたわ」

理緒がそれを聞いて、ビクッと体を振るわせる。

「残念ね」
「ソフィーさん、大河内先生はまだ生きています。大丈夫です!」

声を上げた理緒に、ソフィーは何かを言いよどんで口をつぐんだ。

「そうね……失言だったわ」

彼女にしては珍しく肯定し、目尻を押さえる。

「大丈夫か? かなり疲れているように見えるが」

圭介がそう口を開くと、ソフィーは彼を睨んだ。

「あなたに心配されるようなことは何もありません」

648 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:44:35.96 zbQ0mbq40 631/1225

「相変わらずつれないな。今回は、研究の意味もかねて、日本の赤十字委員会の方々が同席する。ソフィーは、それで構わないな」
「勝手にすればいいわ」

吐き捨てて、ソフィーは立ち上がった。

「この二人に、構築を叩き込めばいいわけね」
「よろしく頼む」

圭介はそう言って、ダイブ機を手で示した。

「今回は、汀の精神世界を借りる。過酷な環境だと思うが、三十分で何とかマスターしてくれ」

649 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:45:14.76 zbQ0mbq40 632/1225



理緒が目を開けた時、そこは炎に包まれていた。
思わず悲鳴を上げて、しりもちをつく。
そこは、民家の中だった。
燃えて周りの家具が倒壊してきている。
不思議と熱さは感じなかった。

「何……ここ……」
「チッ……スカイフィッシュの悪夢……この子も浸食されてきてるのね……」

ソフィーが舌打ちをして、理緒の後ろで声を上げる。
理緒は振り返って、ソフィーに言った。

「スカイフィッシュ……? 何ですか、それ……?」
「あなたは知らなくてもいいことよ」

ソフィーはそう言って、周りを見回した。

「直に、本当に熱くなってくるわ。ここを出るわよ」
「汀ちゃんはどこにいるんでしょうか? 」

650 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:45:48.38 zbQ0mbq40 633/1225

「多分逃げ回ってると思う。こんな状況でレッスンなんて……」

歯噛みして、ソフィーは息をついた。

「……贅沢は言わないわ」

そう言って、ソフィーは理緒の手を握った。
そして出口に向かって駆け出そうとして、動きを止める。
ドルン、というエンジン音が聞こえたのだった。
振り返ったソフィーが顔面蒼白になる。
それを追って振り返り、理緒はきょとんとした後、真っ青な顔になった。
それは、チェーンソーの刃が回転する音だった。
錆びた巨大なそれを持った男……ドクロのマスクを被った人間が、ボロボロで血まみれのシャツとジーンズ姿で燃える家の中から出てきたのだ。
身長は、百九十はあるだろうか。かなり高い。
小さな理緒やソフィーから見れば、まさに巨人だった。

『どうした? 汀はそこにいるのか?』

ヘッドセットから圭介の声が聞こえる。

651 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:46:26.29 zbQ0mbq40 634/1225

それに答えず、ソフィーは震える手で理緒の手を掴み

「逃げるよ!」

と言って、家の外に向かって走り出した。

「な……何なんですか? 何で汀ちゃんの精神世界に、あんなものがいるんですか!」

走りながら理緒が声を上げる。
一瞬マイクの奥の圭介が沈黙し、押し殺した声で言った。

『汀はどこにいる? 早く合流するんだ!』
「どこにいるのか分からないんです! チェーンソー……チェーンソーを持った男の人が!」

理緒が悲鳴のような声を上げる。
男はゆっくりと足を踏み出した。
ソフィーと理緒は懸命に走っているが、一向に出口が見えてこない。
まるで無限回廊のように、燃える家の廊下が後ろに流れていく。

652 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:46:57.77 zbQ0mbq40 635/1225

段々と炎が熱くなってきて、理緒は体を縮めて声を上げた。

「熱い……熱いよ……!」
「もっと熱くなる! 早く走って!」
『二人とも落ち着け。落ち着いて、そのドクロの男を撃退するんだ』

圭介の声に、ソフィーは素っ頓狂な声を返した。

「撃退? 撃退ですって!」
『そうだ。これは「訓練」だからな』
「ふざけないで!」

ソフィーが絶叫する。

「スカイフィッシュを撃退できるわけがないでしょう! 現に、夢の主が出てこないじゃない!」
『ふざけてなどいない。スカイフィッシュの悪夢に入り込んでしまったのなら、撃退するか、逃げるかしかない。夢の主がいない以上、夢を終わりにすることは出来ない。逃げるのが無理なら、戦うしかないだろう』

淡々とした圭介の声に、少女二人が次第に落ち着きをなくしていく。

653 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:47:33.35 zbQ0mbq40 636/1225

走り続けているソフィーは、目に涙を浮かべながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる「スカイフィッシュ」と呼ばれた男を見た。

「やだ……怖い……!」

ソフィーはブンブンと首を振った。

「怖いよ……怖い! お母さん! お母さん!」

恐慌を起こして喚き始めたソフィーの手を、理緒が一生懸命に握った。

「大丈夫、大丈夫です! 私がいますから! 落ち着いて!」
「助けて! 回線を遮断して!」
「汀ちゃんがいないと、扉が開きません。無理です! 落ち着いて、あれが何なのか私に教えてください!」

そこでソフィーが足をもつれさせてその場に盛大に転んだ。
慌てて理緒がそれを抱きかかえ、床に転がる。
二人は、震えながら、ゆっくりゆっくりと近づいてくる男を見た。

「あ……あれは……断片の集合体……」
「集合体……?」

ソフィーはなるべくスカイフィッシュの方を見ないようにしながら、続けた。

654 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:48:12.13 zbQ0mbq40 637/1225

「心の中に溜まったトラウマの集合体……実在しないけどしてるものなの!」

意味不明なことを喚いて、ソフィーは近くに転がっていた燃える木片を手に取った。
その手がブルブルと震えている。

「いい? 一度しか言えない。夢の世界のものを『変質』させるには、『ここにある』と少しの疑念も挟まずに『思い込むこと』が重要なの。単純なら単純なものほど成功率は高いわ……!」

ソフィーが持っていた木片がぐんにゃりと、粘土のように形を変えた。
唖然としている理緒の前で、ソフィーは数秒後、小さな手榴弾を手に持って立っていた。
凄まじい集中力を要するのか、彼女は汗だくになっていた。
荒く息をつき、口でピンを引き抜き、ソフィーはそれを男に投げつけた。
そして理緒を突き飛ばして床に伏せる。
爆音が響きわたり、彼女達の背中を吹き上がった炎が撫でる。

「きゃあああ!」

理緒が悲鳴を上げて床を転がる。
ソフィーは、しかし爆炎の中、悠々とこちらに向けて足を進めてきているスカイフィッシュを見て、絶望的な顔で震え上がった。

655 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:48:50.60 zbQ0mbq40 638/1225

「に……逃げなきゃ……!」

しかし腰が抜けて立てないのか、ソフィーはへたり込んだまま、ずりずりと後退しただけだった。
彼女は砕けている木片を手に取ったが、恐怖が集中力に勝ったのか、動けずにまた、変質させることも出来ずに、それを床に取り落とした。
ドルン、ドルンとエンジンの音がする。
チェーンソーの回る音。
足音。
それは、ソフィーの前で止まった。

「あ……」

何かを叫ぼうとして、失敗するソフィー。
男はチェーンソーを淡々と振り上げた。
理緒はそこで、訳の分からない言葉を叫びながら、近くの木片を手に取った。
そして、今にもソフィーを両断せんとしている男に、木片を手に体ごと突っ込む。
男の体がぐらりと揺れた。
理緒の手には、いつの間にか、彼女が料理の時にいつも使っているような、菜切り包丁が握られていた。
それが、根元まで男のわき腹に突き刺さっている。

656 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:50:06.75 zbQ0mbq40 639/1225

理緒は荒く息をつきながら、震えて固まっているソフィーの手を掴んだ。

「逃げましょう! 早く!」
「う……うん!」

何度も頷いて、やっとのことでソフィーが立ち上がる。
スカイフィッシュは少女達に不気味に光るマスクの奥の瞳を向け、血があふれ出している脇腹の傷口から、包丁を抜き取った。
そして走り出した理緒に向けて、それを投げつける。
理緒の右足の腱が両断されて、彼女はもんどりうって床に転がった。

「片平理緒!」

ソフィーが悲鳴を上げる。
理緒は足を襲う激痛に耐え切れず、喚きながら地面をのた打ち回った。
ゆらりとスカイフィッシュが立ち上がって、こちらに歩いてくる。
ソフィーが理緒を守るように、震えながらスカイフィッシュの前に出る。
そして壁の木材を手で引き剥がして、頼りなく男に向けた。

「家の外に出て、早く!」

スカイフィッシュが手を振り、ソフィーの持つ木片を弾き飛ばした。
そしてチェーンソーを振り、ソフィーの肩に振り下ろす。

657 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:50:47.90 zbQ0mbq40 640/1225

凄まじい音と、絶叫が響き渡り、ソフィーの血肉が周囲に飛び散った。
意識を失ったソフィーを蹴り飛ばし、スカイフィッシュは、倒れた彼女の頭にトドメのチェーンソーを叩き込もうとし――。
そこで、巨大な肉食獣の腕に吹き飛ばされ、数十メートルをも長い廊下を、ゴロゴロと転がった。
グルルルル、とうなり声を上げながら、化け猫に変身した小白が、スカイフィッシュを睨んで毛を逆立てる。

『どうした? 状況を説明してくれ! ソフィーのバイタルが異常値だ!』

圭介がヘッドセットに向かって怒鳴る。
しかし理緒は、泣き顔のまま地面にへたり込んで、自分を守るように四肢を固める小白を見た。
そして、家の入り口にうずくまっている汀を見て、叫び声を上げる。

「汀ちゃん! ソフィーさんが……ソフィーさんがやられちゃった! 助けて!」
『汀がいたのか! 汀、早く二人を助けろ!』

圭介の声を聞きながら、しかし汀は耳を塞いで、目をつぶり、震えながら首を振った。

658 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:51:30.14 zbQ0mbq40 641/1225

「汀ちゃん!」

足から凄まじい量の血液を流しながら、理緒が這って彼女に近づく。
そしてその肩を強く振った。

「ソフィーさんは、私たちのためにここに来ました! あの男の人を倒せるのは、汀ちゃんだけです! だから目を開けて!」

しかし汀は、ただ震えるだけで反応がない。
その、いつもとは百八十度違ったか弱い様子に、理緒はハッとして手を止めた。
小白がまたうなり声を上げて、スカイフィッシュに体当たりをする。
大柄な男は、床を転がり、家の奥に消えた。

「小白ちゃん! ソフィーさんを連れてきて!」

理緒が声を上げる。

小白は、それを分かったのか、分かっていないでのことだったのか、ソフィーを口でくわえて理緒のところに後ずさりしながら戻ってきた。
そこで、また、家の奥から、スカイフィッシュがドクロのマスクを出したのが見えた。
一部が破れて、中身が見えるようになっている。

659 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:52:10.18 zbQ0mbq40 642/1225

それを見て、理緒は一瞬停止した。

「え……そんな……」
『理緒ちゃん、どうした!』

圭介の声に、理緒は呆然として答えた。

「坂月……先生……?」
「…………!」

その名前を聞いた途端、マイクの向こう側に凄まじい緊張感が走った。
スカイフィッシュはボロボロで血まみれの服のまま、チェーンソーを肩に担いで、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
圭介がそこで大声を上げた。

『汀がいるんだな? 脱出しろ! 訓練は中止だ!』
「わ……わかりました!」

理緒が悲鳴を返し、汀の手を握る。

「大丈夫だよ。大丈夫、私がいるから……」

慰めにもならないようなか細い声でそう言って、理緒は這いずって家の外に汀を誘導した。

660 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:53:02.82 zbQ0mbq40 643/1225

小白がソフィーを離して、うなり声を上げた。
スカイフィッシュがこちらに、 ものすごい勢いで走ってくるところだった。
理緒は無我夢中でポケットに手を突っ込んだ。
そこで、カサリという音がして、何か紙のようなものが手に当たる。
それは、一貴と名乗った少年が、彼女に渡した、千円札で折られた鶴だった。
理緒は必死の形相で、それを掴んで、自分に向けてチェーンソーを振り下ろしたスカイフィッシュに向けて投げつけた。
閃光弾を爆発させたほどの、衝撃と爆音、そして光が周囲を襲った。
汀も理緒も、小白も、その場の全員が吹き飛ばされて家の庭に転がる。
理緒は泥まみれになりながら、砂場の上で体を起こした。
そのかすむ視界に、右半身が吹き飛んで、奇妙なモチーフのようになってグラグラと揺れて立っているスカイフィッシュがうつる。

661 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:53:36.54 zbQ0mbq40 644/1225

「うっ……」

その姿を見て、理緒は猛烈な吐き気を催し、その場に盛大に胃の中身をぶちまけた。
スカイフィッシュはゆっくりと、力なく地面に転がった。
その服、肉、チェーンソーが溶けて、黒い水になって広がっていく。
骨だけになったスカイフィッシュが、徐々に砂になり消えていく。
それに伴い、家の火も消え、青空が顔を出した。

『ステータスが正常に戻った……! 全員強制遮断するぞ!』

圭介が怒鳴る。
その声を最後に、理緒の意識はブラックアウトした。

662 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:54:23.48 zbQ0mbq40 645/1225



「一体……何が起こったんですか……?」

顔色を真っ青にして、理緒は点滴を受けながら、椅子に背中を丸めて座った。
圭介が息をついて、腕組みをして壁に寄りかかる。

「通常のスカイフィッシュなら撃退できると思った。だが、今回の奴は『変種』だ。ソフィーがやられたのも納得がいく」
「納得……?」

理緒は、隣のベッドで、呼吸器を取り付けられて、点滴台に囲まれて眠っているソフィーを見て、押し殺した声を発した。
SPの人たちが、入り口と窓を警護している。

「私たちをあんなところに送り込んでおいて、よく無表情でそういうことが言えますね」

理緒にしては珍しく、怒りを前面に押し出した口調だった。
圭介は押し黙ると、理緒の隣の車椅子でボーッとしている汀に目をやった。

「何とか言ったらどうだ、汀。お前の夢に変種が出てくるなんて、俺は初めて聞いたぞ」

663 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:54:52.98 zbQ0mbq40 646/1225

「……言ったことないもん」

汀はかすれた声でそう言って、クマの浮いた目を圭介に向けた。

「勝手に私の夢の中にダイブしてきて、そういうこと言われるのって、結構心外だな」
「…………」

圭介は自分を睨んでいる理緒を見てから、息をついて肩をすくめた。

「……参ったな。完全に俺が悪者か」
「小白がいなきゃみんな死んでたよ」

汀が淡々とそう言って、膝の上で丸くなっている小白を撫でる。

「だから、私の夢に関わるのはやめようって言ったのに」
「高畑先生」

そこで理緒が口を開いた。

「どうしてスカイフィッシュっていうあのトラウマは、坂月先生の顔をしていたんですか?」
「さかづき?」

汀がきょとんとしてそれを聞く。

664 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:55:26.16 zbQ0mbq40 647/1225

「汀ちゃん、知らないの……?」

怪訝そうに理緒が聞くと、汀は頷いて言った。

「誰?」
「赤十字病院のお医者さん。二年位前に、行方不明になったって聞いたけど……いい先生だったよ」
「見間違いだろう。混乱していたんだろ?」

圭介はそう言って、資料を持ち上げ、脇に挟んだ。
そして病室の外で溜まっている医師達を見回して、口を開いた。

「大丈夫です。二時間後にダイブを実行します」
「え……」

理緒と汀が目を見開いて、唖然とする。
理緒が素っ頓狂な声を上げた。

「二時間後って……ソフィーさんはショックで目を覚まさないし、私達、何のレッスンも出来てないです! それにこんな状態で……」

665 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:55:54.32 zbQ0mbq40 648/1225

「ソフィーにやり方を教えてもらって、何回か変質を成功させたんだろう?」

圭介はそう言って、ポケットから出したものを理緒に放って渡した。
それは、千円札で折られた鶴だった。

「あ……これ……」

理緒がそれを受け取って、僅かに頬を赤くする。

「なら出来る。レッスンは無事に終了してるよ」
「出来るって……何の根拠があって……」

噛み付く理緒に、圭介は軽く笑ってから言った。

「経験則だよ」

666 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:56:34.19 zbQ0mbq40 649/1225



医師達を連れて歩き去った圭介を見送り、理緒は深くため息をついて、頭をガシガシと、苛立ったように掻いた。

「高畑先生……別人みたい……」

呟くと、汀は小白を撫でながら、何でもないことのように言った。

「そう? 圭介はあんな感じだよ。本当は」
「本当は?」
「うん。あれが本性だと思う」

淡々とそう言って、汀は大して気にしていないのか、眠っているソフィーを一瞥した。

「私の夢なんかに入ってくるから……」
「汀ちゃん教えて。スカイフィッシュって何なの? あんなトラウマ、聞いたことも見たこともないです。どうして汀ちゃん達は、あれをあんなに怖がるの?」

聞かれて、汀は口をつぐんだ。
しばらくの沈黙の後、汀は呟くように言った。

「理緒ちゃんは、まだ毒状態じゃないから」

667 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:57:25.52 zbQ0mbq40 650/1225

「どういうことですか?」
「毒状態。ゲームとかでよくあるでしょ? 毒になると、HPが段々減っていくの」

理緒と目を合わせないようにしながら、汀は小さな声で続けた。

「私も、この子も、もう『毒状態』なんだ」
「言っている意味が……分からないです」
「つまりね。マインドスイープって、すればするほど、マインドスイーパーのトラウマを広げるの。それは毒みたいに心に広がって、侵食して、成長していくの。スカイフィッシュはその投影。トラウマが強ければ強いほど、スカイフィッシュも強くなる。だから、私の夢に出てくるスカイフィッシュになんて、誰が何してもかなうわけがないんだ」

汀はそこまで言うと、理緒が持っている千円札の鶴を見て、怪訝そうに聞いた。

「……理緒ちゃん、何したの? それ、誰にもらったの?」

理緒は、そこで一貴の顔を思い出し、ハッとした。
そしてポケットをまさぐる。

「あれ……おかしいな。紙をもらったはずなんだけど……」

668 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:57:58.54 zbQ0mbq40 651/1225

「紙……?」
「うん。赤十字病院で。工藤一貴さんっていう、マインドスイーパーの男の子にもらったの。汀ちゃんに渡してって言われたんですけど……」
「どんな紙?」
「ゼロとか一とか、沢山書いてありました」
「……夢座標だ」

汀は、そこでハッと顔色を変えた。

「多分圭介が持ってる。それ、多分夢座標だよ」
「夢座標?」
「マインドスイーパーが夢の中に入る時、座標軸を設定するの。その人、私と話したいことがあったんだ……」

そこまで言って、汀は理緒が言った名前を繰り返した。

「工藤……一貴……?」

669 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:58:33.33 zbQ0mbq40 652/1225

「汀ちゃん?」
「いちたか……いっくん……?」

汀はそこで上体を起こし、理緒の手を掴んだ。

「理緒ちゃん。ダイブするよ」
「え……? で、でも私、夢の中で右足を切られちゃって、まだ上手く動かせなくて……」
「大丈夫。それより、もっと大変なことになるかもしれない。そうなる前に、その人のこと助けなきゃ」

汀はそう言って、歯を噛んだ。

「……圭介の思うとおりにはさせない……!」

670 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 08:59:47.48 zbQ0mbq40 653/1225



理緒と汀は目を開いて、そして同時に短い悲鳴を上げた。
二人がギョッとしたのも無理はなかった。
ものすごい勢いで、落下していたのだった。
上空の雲の上に、彼女達はいた。
汀が落下速度で目を開くことも出来ず、手を広げて理緒の体を掴んで引き寄せる。
二人でもつれ合いながら落下する。
そこで、汀の肩にしがみついていた小白が、ボンッ、という音を立ててパラシュートのように膨らんだ。
それに減速され、二人は次第にゆっくりと落下していった。
しばらくして、ポスン、という音を立てて、二人が雲の上に着地する。
雲はまるで綿菓子のようで、きちんとした地面としての質感がある。
理緒は腰を抜かして、その場にしりもちをついて呆然としていた。
そして汀と顔を見合わせる。

『どうした? 状況を説明してくれ』

圭介にそう問いかけられ、汀はヘッドセットのスイッチを切って、脇に投げ捨てた。

671 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:00:23.19 zbQ0mbq40 654/1225

それを見て理緒が慌てて口を開こうとして
――汀の手に、口をふさがれる。
汀は理緒のヘッドセットも同じように雲の下に投げ捨てた。

「何するんですか! あれがないと、私達帰還できないですよ!」
「タイミングが分からないだけで、圭介が強制遮断すれば元に戻れるよ」

そう言って汀は、お尻を叩きながら立ち上がった。

「早くしなきゃ。この座標のはずだよ。じゃなきゃ、こんな場所にダイブして出てくるわけがない」

理緒は自分の右足を見た。
腱の部分がズキズキと傷む。ケロイドが醜く、足のかかとまでに広がっていた。
よろめきながら立ち上がり、理緒はしかしすぐに崩れ落ちた。

「駄目……立てない……」
「私に掴まって」

汀の手に掴まって立ち上がり、理緒は雲の下を見て気を失いそうになった。

672 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:01:03.39 zbQ0mbq40 655/1225

町が広がっている。
数百メートル下に。
雲は形を変えながら風に流されていく。
小白が下を見てニャーと鳴く。
その頭を撫でて、汀は言った。

「本当なら、町の方にダイブして出るはずだったんだよ。それを、圭介が夢座標の位置をいじったから、こんなことになったんだ」
「ど……どうすればいいんですか? この人、普通の人で、トラウマとかがないらしいですから……」
「トラウマがない人間なんて、赤ん坊くらいだよ。そこをくすぐれば、すぐ煉獄に繋がる道は開くと思う。問題は……」

そこまで汀が言った時だった。
不意に晴れた空が曇り始め、分厚く寄り集まり始める。
そして、ところどころで光が上がった。
それが雷だ、と分かったのは、轟音が二人の耳を打った後だった。
足元の雲から、凄まじい勢いで、土砂降りのスコールが降り注ぎ始める。
上空は晴れているのに、足元はスコール。
不思議な感覚だ。

「何が……きゃぁ!」

また雷が近くで鳴り、理緒が肩をすくめる。
それを支えながら、汀は言った。

673 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:01:34.73 zbQ0mbq40 656/1225

「ハッキングだ。この人の心の中に、誰か進入したんだよ。だからこの人の心が警鐘を鳴らしてるの」
「だ……誰が……」
「工藤……一貴……」

汀はそう言って、ゆっくりと振り返った。

「いっくん」

そう言って、数メートル離れた場所に立っていた、白髪の少年と目を合わせる。
いつの間に現れたのか、白髪の少年、一貴はニコニコしながら汀を見ていた。
それを見て、理緒がハッとしてから少し顔を赤くする。

「あなた……」
「やあ、片平さん。また会ったね」

理緒に興味がなさそうに手を上げてから、一貴は汀に向けて両手を広げた。
彼の隣には、赤毛の少女……岬が立っていた。
ポカンとして汀を見ている。

「思い出してくれたんだね! すっごく嬉しいよ、なぎさちゃん!」

674 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:02:08.68 zbQ0mbq40 657/1225

「……残念だけど、私はあなたのことは何も知らない。でも……」

汀の脳裏に、笑顔で何かを差し出す、小さい頃の一貴の顔がフラッシュバックする。

「あなたが、いっくんね」
「うん! 良かった。そこまで分かってくれれば上等だよ。なぎさちゃん、僕は君を助けに来たんだ」
「助けに……?」

怪訝そうな顔をした汀に、一貴は続けた。

「僕らに、君達の基本夢座標の位置を教えて欲しいんだ。それで、こっちから、君達の頭の中にハッキングが出来る。だから……」
「話してる暇はないわ。『いっくん』、すぐにここを出て」

汀が、彼の声を打ち消してそう言う。
一貴は一瞬きょとんとした後、首を傾げた。

「どうして?」
「赤十字病院が、あなた達のハッキングを察知してる。これは罠よ」
「ねぇ……なぎさちゃん? 何も覚えてないの……?」

そこで、一貴の隣で、おずおずと岬が口を開いた。

675 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:03:06.19 zbQ0mbq40 658/1225

汀は面倒臭そうに彼女を見て、言った。

「言ったでしょ。私は何も覚えてない。だから早くここから……」
「あぁ、もう遅いみたいだ。でも想定の範囲内だよ」

一貴がそう言って、ニッコリと笑った。

「なぎさちゃんは、絶対にそこから助け出す。だから、少しだけ待ってて」

彼はそう言って、足元の雲に手を突っ込んだ。
そして長大な日本刀を掴み出す。

「変質……? あんな簡単に……」

理緒が呆然として呟く。
そして彼女は、小さく悲鳴を上げた。
彼女達の周囲に、いつの間にか赤十字のマインドスイーパー達が立っていたからだった。
取り囲むように十……二十……三十人ものスイーパーがいる。
彼らは一様に目に生気がなく、ぼんやりとした表情だった。

「何……これ……」

理緒が呟く。

676 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:03:39.49 zbQ0mbq40 659/1225

「マインドジャックだ」

一貴がそう言う。

「最も非人道的な行為だよ」
『言ってくれるじゃないか』

三十人のマインドスイーパー達が、同時に言葉を発した。

「圭介……?」

汀が呟く。

「マインドスイーパーの心を、逆にマインドスイープでジャックして、操る手法さ」

一貴の声に、三十人のスイーパーたちは、同時に手を雲に突っ込んで答えた。

『おしゃべりはそこまでにしようか。汀、理緒ちゃん。小白を使って降りるんだ。この人の心にロックをかけろ。こいつらは、この人の中枢を破壊して「殺す」気だ!』
「え……」

理緒は青くなって一貴に向かって声を張り上げた。

677 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:04:34.46 zbQ0mbq40 660/1225

「どうして? マインドスイープで人を殺したら、現実世界でも死んじゃうんですよ!」
「それがどうしたのさ? 仕事だからさ」

一貴は日本刀を肩に担いで、挑発的に、周囲を取り巻いているスイーパーたちを見回した。

「早くかかってきなよ。OBさん。じゃないと」

一貴の姿が消えた。
手近にいた女の子のスイーパーの喉に、次の瞬間、日本刀が突き刺さって、貫通して向こう側に抜けていた。
一貴はそれをずるりと引き抜き、女の子を蹴り飛ばした。
岬は呆然としている。
一拍遅れて、倒れた女の子の首から、凄まじい勢いで血が噴出した。

「皆殺しにするよ」

あながち冗談ではなかった。
考える間もなく、一貴は日本刀を一閃して、また近くにいたスイーパーの男の子を袈裟斬りにした。

678 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:05:05.20 zbQ0mbq40 661/1225

返り血を浴びて、楽しそうに彼が笑う。

『チッ!』

二人も一瞬でやられたスイーパーたちが、雲の中から刃渡り三十センチはあろうかというサバイバルナイフを掴みだす。
一貴はそのドスとも言えるナイフの斬撃を刀で受けて、その場を転がった。
そして近くのスイーパーの胸に刀を突きたてる。
汀は、震えている理緒の手を掴んで

「行くよ!」

と叫んだ。
それを聞いて、周囲をスイーパーに囲まれながら一貴が叫ぶ。

「待って、なぎさちゃん!」
「患者を殺させるわけにはいかないわ! どうしてもやるっていうなら、相手になる!」
「なぎさちゃん!」

岬が、一貴から日本刀を受け取り、スイーパーの斬撃を受け止めながら声を張り上げる。

679 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:05:32.85 zbQ0mbq40 662/1225

「あたしだよ! 岬だよ。何で分からないの!」
『行け、汀!』
「私は人の命を助ける! テロリストと話すことは何もないわ!」

汀はそう言うと、小白を小脇に抱えて、理緒の手を引いて雲の下に体を躍らせた。
理緒が一拍遅れて、ものすごい悲鳴を上げる。
小白がまた膨らみ、パラシュートのように広がった。
それを見て一貴が舌打ちする。

「いっくん、どうするの!」

岬が悲鳴のような声を上げる。
一貴は口の端を醜悪に歪めて、そして言った。

「なぎさちゃんは絶対に連れて帰る。そのためには……」

周囲を見回し、彼は言った。

「全員、殺す」

680 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:09:29.99 zbQ0mbq40 663/1225



第12話 上野、アメ横にて



パラシュートのようになった小白が汀の背にしがみつき、汀が理緒を抱いたまま、二人はふわりふわりと夢の中の町に降り立った。
完全に腰が抜けた理緒がペタリと尻もちをつく。
茫然自失としている理緒に、汀はポンッ、と音を立てて元にもどった小白を肩に乗せながら言った。

「この人の煉獄に入って、中枢にロックをかけるよ。圭介が時間を稼いでる間に、行くよ。多分二、三分ももたない」

それを聞いて、理緒は電柱にしがみつきながら、何とか立ち上がって答えた。

「汀ちゃん……あの子達、助けなくていいの?」
「どの子達?」
「工藤さんたち! あんなに沢山のマインドスイーパーに囲まれて、殺されちゃうよ! 高畑先生、酷すぎます!」
「理緒ちゃん、何か勘違いしてない?」

汀はそう言って、押し殺した声で続けた。

681 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:10:06.12 zbQ0mbq40 664/1225

「あの工藤とかいう男の子は、ナンバーXって呼ばれてるサイバーテロリストよ。意味不明なこと言ってるけど、私の知り合いなんかじゃない。ただ話をあわせただけ」
「でも……汀ちゃん、彼のこと『いっくん』って……!」

理緒にそう言われ、汀は頭を抑えた。
不意に、右即頭部に頭痛が走ったのだった。
そして脳内にある光景がフラッシュバックする。

――なぎさちゃん。
――僕達はずっと一緒だよ。
――だから、記憶を共有しよう。

夢の中の一貴が笑う。
彼は近づいてきて、閉じていた右手を開いた。
小さい頃の彼の姿が、大きくなった彼の姿とブレて重なる。

――入れ替えよう。
――僕と、君の……。

「汀ちゃん!」

そこで汀は、理緒に強く肩を揺さぶられて、ハッと目を覚ました。
いつの間にか地面に四つんばいになり、頭を抑えてうずくまっていたのだった。

「どうしたんですか? 大丈夫ですか?」

682 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:11:04.14 zbQ0mbq40 665/1225

度重なる意味不明な事態に頭の処理速度が追いつかず、泣きそうになっている理緒の肩を掴んで、汀は荒く息をつきながら立ち上がった。

「大丈夫。やれる……」
「汀ちゃん……?」
「私は……人を助けるんだ。絶対に……誰も死なさない。誰も……一人も死なさない……人を助けるんだ……」

うわごとのように呟き、汀は唇を強く噛んだ。
血が、彼女の口元から垂れて地面に落ちる。

「行こう、理緒ちゃん」

そう言って理緒は、目の前に広がる東京都上野駅の光景を見回した。

「私たちは、人を助けるんだ」

683 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:11:40.88 zbQ0mbq40 666/1225



そこは、東京都上野駅の、ヨドバシカメラがある、アメ横に繋がる通りだった。
沢山の人たちが行き来している。
一様に顔がない。
皆、携帯電話に向かって何事かを喋りながら移動しており、顔に当たる部分にはブラウン管がくっついていた。
ニュースや、この夢の主の記憶なのか、いろいろな情報が映し出されている。
歩いている人たちも一様に服装はばらばらだ。
共通しているのは、土砂降りの雨の中、片方に同じ赤い雨傘、そしてもう片方に同じ型番の古い携帯電話を持っているということだった。
汀は手近な一人を蹴り飛ばして傘を奪うと、理緒に手を貸して、ヨドバシカメラの中に入った。
店員も携帯電話に向かって何事かを話している。
蹴り飛ばした人は、しばらく倒れたままだったが、やがて、どこから出したのか、また赤い傘を懐から取り出し、何事もなかったかのように歩き出した。

「ズブ濡れになってばっかりだな……」

汀がぼやいて、傘をたたむ。
理緒は右足の痛みに耐えることが出来ずに、その場に崩れ落ちた。

684 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:12:32.45 zbQ0mbq40 667/1225

そして汀に言う。

「汀ちゃん……私歩けない。足が、痛いんです……」
「私がおんぶしてあげる。掴まって」

そう言って汀は、軽々と理緒を背中に背負うと、立ち上がった。

「スカイフィッシュにやられた傷は治りが遅いの。下手したら治らないこともあるわ」
「…………」

理緒の脳裏を、左腕を両断されたソフィーの姿がフラッシュバックする。
口を開いた彼女を遮って、汀は歩いている人々の異様さを無視すれば、日常光景と変わらない中を見回した。

「ここ、どこ? 日本?」
「上野駅近くの、ヨドバシカメラの中です。どうして、こんな限定的な……」
「普通の人の心は大概整理されてるの。自殺病に冒されてないんなら、普通はこれくらいしっかりしてるものよ」
「中枢に繋がる道はどこでしょう……」
「それより、どうして上野なのか、心当たりはある?」

汀に問いかけられて、理緒は首を振った。

「分からないです……この人のこと、私達何も教えられてないから……」

685 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:13:04.24 zbQ0mbq40 668/1225

「田中敬三だっけ。汚職で逮捕されかけたっていう……」
「うん……」

濡れている理緒が僅かに震えだす。

「寒い……」

体の調子が思わしくないのに加えて、彼女達は病院服一枚だ。
寒くないのは通常の理としておかしい。
理緒がダイブできるような状態ではないことを確認して、汀は彼女を背負い直し、ヨドバシカメラの脇から顔を出して、外を見回した。

「……多分、この人にとって思い出が深い場所なんだ。だからこんなに鮮明に再現されてる」
「この人たちは何なんですか……?」
「記憶の投影。前にDIDの患者にダイブしたときにいた人間と同じようなものだよ。気にしなくてもいいけど、今回は自殺病を発病してないから、むやみに殺すのは止めた方がいいね……」

震えている理緒を背負ったまま、汀は傘をさしてアメ横の通りに出た。

686 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:13:35.39 zbQ0mbq40 669/1225

「あいつらと私が次に遭ったら、かなり激しい戦闘になると思う。理緒ちゃんは、早く中枢にロックをかけて」
「いいの? 汀ちゃん……」

理緒は言いよどんで、そして意を決したように言った。

「高畑先生は何かを隠してます。いえ……赤十字病院もです。あの子達、本当は……」
「味方だとでも言いたいの?」

汀は淡々とそれに返した。

「人殺しに親戚はいないわ」

言われて理緒がハッとする。
人の命を救うことに、汀が異様な執着を見せていることには、理緒も薄々感づいてはいた。
アメ横に出ると、強い雨の中、小白がクンクンと鼻を動かし、地面に降り立った。
そして二人を誘導するように、アメ横センタービルの中に走っていく。

「待って、一人で行っちゃ駄目、小白!」

汀がそう言って、傘を放り出し、慌てて後を追う。

687 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:14:20.65 zbQ0mbq40 670/1225

センタービルの地下デパートに入っていく小白。
汀はそれを追って中に入った。
そこは、マレーシアなどの南国系統の輸入食品が売られている場所だった。
携帯電話に何事かを話している人たちが行き来している。
小白は、その中で一人だけ、砂画面のモニターを顔につけた人――店員だろうか、の前に座っていた。

「小白!」

汀が理緒を降ろして、慌てて小白を抱きかかえる。
目の前の砂画面の男は、ダラリと体を弛緩させて椅子に腰掛けていた。

「匂いだ」

理緒がそう呟く。

「小白ちゃんが、この人の匂いを感じ取ったんですよ! 多分、この人が煉獄に繋がる道です」
「でも、どうやって道を開けばいいんだろう」

汀がそう言って、砂画面の男を小突く。
反応はなかった。
しかしそこで、周囲を歩いていた人々の動きがぴたりと止まった。

688 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:15:06.16 zbQ0mbq40 671/1225

そして携帯電話をゆっくりと降ろす。
一瞬後、どこから取り出したのか、全ての人が自動小銃を構えていた。

「変質……? 田中敬三さん、対マインドスイーパー用のトラップを作ってます!」

理緒が悲鳴のような声を上げる。
そこで、全員の顔のモニターが切り替わり、一貴と岬の顔が映し出された。
そこに赤いバツ印が表示される。

「圭介がやられたんだ……チッ。役に立たない……!」

汀が舌打ちをする。

「嘘……」

理緒は壁に寄りかかりながら、荒く息をついた。

「工藤さん、みんな殺したの……?」
「理緒ちゃん急いで! 私、あいつらと戦う!」

汀がそう言って、近くの人の自動小銃を奪い取って脇に挟んだ。

「急ぐって……どうしたら……」
「その人を『起動』させて!」

汀がそう言った途端だった。

689 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:15:39.61 zbQ0mbq40 672/1225

凄まじい爆風が、地下デパートの中に吹き込んできた。
理緒が床を転がって悲鳴を上げる。
ソフィーが手榴弾を変質で形成した時の、三倍にも四倍にも当たる爆風だった。
次の瞬間。その場の人全員が自動小銃の引き金を引いた。
凄まじい炸裂音と、薬きょうを飛び散らせながら銃弾が吸い込まれていく。
理緒が耳を塞いで体を丸くする。
十数秒も爆音は続き、やがて硝煙が収まり、周囲がクリアになる。
汀が自動小銃を構えながら、前に進もうとした時だった。
銃弾が集中していた場所にしゃがんでいた人が、ゆらりと立ち上がった。
四方八方から浴びせられた銃弾は全て、その人の体に当って、まるで鋼鉄にぶち当たったかのようにひしゃげて床に転がっていた。
その人を見て、汀は

「……ひっ……」

としゃっくりのような声を上げて硬直した。
スカイフィッシュだった。
ドクロのマスク。
ボロボロのシャツにジーンズ。
血まみれの服。
そして、手にはチェーンソー。
スカイフィッシュはマスクを脱いで、脇に放り投げた。

690 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:16:19.00 zbQ0mbq40 673/1225

その中にあったのは、一貴の顔だった。
一貴は震えている汀を見て、ニッコリと笑った。

「無理しなくてもいいよ。なぎさちゃん。君の中にある恐怖は、どうあがいても拭い去ることは出来ない。だってそれは、『僕が植えつけた』んだから」

一貴の背後から、岬が顔を出して、震え始めた汀を見る。

「なぎさちゃん……? あなた騙されてるよ。一緒に行こ。いっくんも、たーくんもいるよ」
「いっくん……たーくん……」

汀はズキズキと痛む頭を片手で抑えながら、呟いた。

「……みっちゃん……」
「とりあえずこれを渡しておくよ」

一貴が、血まみれになったヘッドセットを投げてよこす。
汀はそこにくっついていた刀で両断された耳を横に弾いてから、ヘッドセットを装着してスイッチを入れた。
そして押し殺した声で言う。

「役立たず。一瞬でも期待した私が馬鹿だった」

691 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:18:01.64 zbQ0mbq40 674/1225

『……弁解はしない。汀、その人の心を守れ。そいつらの侵入元が特定できない』

圭介が憔悴しきったかすれた声で言う。

「分かってる」

汀はそう言うと、震えを押し殺して、小銃を一貴と岬に向けた。

「最後の通告よ。ここから出て行って。私、人は殺したくない」

それを聞いて、一貴は一瞬きょとんとした後、疲れたようにその場に腰を下ろし、胡坐をかいた。

「まぁ、話でもしようよ。ゆっくりとさ。そんなに震えてちゃ、いくら夢の世界でも、僕らに弾は届かないよ」

彼がそう言った時、周囲の人々が弾倉を交換し、また一斉に銃撃を始めた。
一貴がマスクを被り、岬を守るように立つ。
そしてチェーンソーを回転させ、大きく横に振った。
空中で銃弾がひしゃげ、バラバラと床に落ちていく。
一貴が一回転する頃には、銃撃が止んで硝煙が収まってきていた。
無傷の、スカイフィッシュの格好をした一貴と、岬がゆらりと立っている。
首の骨をコキコキと鳴らし、一貴は

「外野が煩いな」

692 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:18:46.52 zbQ0mbq40 675/1225

と呟き、チェーンソーを振った。
それが長大な日本刀に変わる。
岬が壁にかかっていた鉄パイプを手に取った。
それがグンニャリと形を変え、ショットガンに変形する。
次の瞬間、二人が動いた。
夢の人々が銃撃をするよりも早く、一貴は日本刀を振って彼らの首を両断していく。
たちまちにあたりが血に染まる。
背後の人々をショットガンでなぎ払いながら、岬が声を上げた。

「なぎさちゃん、早く目を覚まして!」
「うるさい……うるさい!」

汀は頭痛を怒声で振り払うと、小銃を、手近な人を斬り飛ばした一貴に向けて引き金を引いた。
連続した射撃音と衝撃。
銃弾がばらけて、壁に当たり、一貴は悠々と体をひねってそれをかわした。

「仕方ないな……少し遊ぶとするか。ねぇ、久しぶりだねなぎさちゃん!」

日本刀で周囲の一般人を斬り殺しながら、一貴はたちまち汀に肉薄した。
小白を理緒のほうに投げて、汀は小銃で、振り降ろされた日本刀を受けた。
ギリギリと金属が削れる音がして、大柄な一貴に汀が押される。

「私は汀だ! 私をなぎさって呼ぶな!」

693 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:27:28.22 zbQ0mbq40 676/1225

絶叫した汀に、一貴は裂けそうなほどマスクの奥の口を開いて笑ってから答えた。

「いいや君はなぎさちゃんだよ。これまでも、これからもね!」
「何してるの理緒ちゃん、早くして!」

汀が怒鳴って一貴を弾き飛ばし、壁を蹴って体を回転させながら、彼に向けてためらいもなく引き金を引いた。
一貴が目にも留まらない速度で日本刀を振る。
バラバラと両断された銃弾が床に転がった。
一面の血の海に呆然としていた理緒は、小白に指を噛まれて

「痛っ!」

と叫んで我に返った。
そして小白を抱きあげ、足を引きずりながらまだダラリと弛緩している砂画面の男に近づく。

「起動……起動させなきゃ。起動させなきゃ……」

顔の脇についている丸いスイッチを回転させる。
それは金庫のダイヤルのようになっていた。

「上野……金庫……そうだ!」

理緒の脳裏に、数年前騒がれた事件がフラッシュバックする。

694 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:28:17.77 zbQ0mbq40 677/1225

裏金取引。
それが行われたと雑誌に報じられたのが、上野。
その日付は、四月十七日。
四、一、七とダイヤルを合わせ、理緒はボタンを強く押した。
ガピッ、という音がして、男の体が硬直し、モニターに白い球体が映し出された。

「核……見つけた……! この中だ!」

理緒はモニターに手を突っ込んで、水面のように手を飲み込んだそこから、中核を抜き出した。

「どうしよう……どうしよう……!」

パニックになりながら、彼女は這って出口に向かって逃げようとした。
そこで理緒は、汀が一貴の日本刀に肩を刺し貫かれ、悲鳴を上げたのを目にした。
そのまま壁に磔にされ、汀は激痛に歯軋りしながら、一貴を睨んだ。

『どうした? 汀がやられたのか!』

圭介の声に、一貴が喉の奥を震わせて笑う。

「だから無理だって。なぎさちゃんは僕には逆らえない。『そうできてる』んだ」

日本刀を手放し、一貴は悠々と理緒に向かって歩いてきた。
岬が、日本刀を手で掴んで抜こうとしている汀にショットガンの銃口を向ける。

695 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:28:52.46 zbQ0mbq40 678/1225

「ごめんね、なぎさちゃん」

パンッ! と軽い音がした。
小白が鳴き声を上げたのとほぼ同時だった。
顔面を銃弾の嵐に打ち貫かれた汀が、ビクンビクンと痙攣し、原形をとどめていない頭部を揺らす。
パン、パン、と体に向けても岬は発砲した。
魚のように汀の体が跳ね、やがて動かなくなる。

『汀のバイタルが消えた……? 理緒ちゃん、どうした!』

圭介がマイクの奥で大声を上げる。
そのヘッドセットを踏み潰し、一貴は震えている理緒の前で、血まみれの姿でしゃがみこんだ。

「さ、それ渡してくれないかな?」

理緒がブンブンと首を振って、中核を強く胸に抱く。
ため息をついて、困ったように頭を掻き、一貴は手を振った。
パン、と理緒が頬を張られ、単純な暴力に唖然として床を転がる。
彼女が倒れた拍子に手放した中核を、岬が拾って、そしてニッコリと笑った。

696 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:29:46.35 zbQ0mbq40 679/1225

「いっくん、もう帰ろ」
「そうだね」

頷いて一貴は、壁に縫いとめられた汀の前でおろおろしている
小白に目を止め、そして視線を、頬を押さえて呆然としている理緒に向けた。

「殴られるのは初めて?」

嘲笑するようにそう言って、彼は肩をすくめた。

「なぎさちゃんの精神はもらっていくよ。本当は君の夢座標も知りたかったんだけど、今回はなぎさちゃんだけで満足する。そろそろ僕達のハッキングも逆探知されるだろうし」

そう言って、一貴は動かない躯となった汀の、滅茶苦茶に破壊された胸に手を伸ばし、グチャリとかき混ぜた。
そしてかろうじて原形をとどめている心臓を掴みだす。

「どうして!」

理緒はそこで大声を上げた。

「どうして汀ちゃんを……」
「まだ殺してない。一時的に黙らせただけさ」

697 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:30:26.22 zbQ0mbq40 680/1225

心臓をいとおしむように手でもてあそんで、一貴はニッコリと笑った。

「じゃ、そういうことで」

岬が一貴と目配せをして、手に持った田中敬三の中核を握りつぶす。
途端、精神世界がグニャリと歪んだ。
理緒はそこで、意味不明な声を上げながら、転がって近くの自動小銃を手に取った。
そして無我夢中で引き金を引く。
奇跡的に一発、銃弾が一貴の肩を貫通した。
彼が手を揺らし、汀の心臓を床にべシャリと落とす。

「あ……」

拾おうとした一貴に体ごとぶつかり、理緒は心臓を拾ってゴロゴロと地面を転がった。
そして踏み潰されてピーピーと音を立てているヘッドセットに向かって大声を上げた。

「回線を遮断してください! 早く!」

小白が走って来て、理緒の肩に掴まる。
歪んだ世界の中で、一貴が慌ててこちらに向けて手を伸ばし……。
そこで、理緒の意識はブラックアウトした。

698 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:31:33.07 zbQ0mbq40 681/1225



肩を抱いて震えている理緒に近づき、圭介は彼女に温かいココアの缶を渡した。

「少しは口に入れたほうがいい」

そう言われて、缶を受け取り、プルトップを開けようとするが、理緒はそこでそれを取り落とした。
圭介が息をついて缶を拾い上げる。

「すまなかった。テロリストをこっちで抑えることが出来なかった。大損害だ」
「そんがい……」

理緒はそう言って、隣で鼻にチューブを入れられ、沢山の点滴台に囲まれている汀を見た。

「高畑先生はどうしてそうなんですか……汀ちゃんが、夢の中で殺されちゃったんですよ……」

理緒の言葉には覇気がない。
彼女は椅子の上で膝を抱えて、頭を膝にうずめてから呟いた。

「もうやだ……もうやだよ……」
「…………」

沈黙した圭介の後ろから、そこで聞き知った声がした。

699 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:32:12.89 zbQ0mbq40 682/1225

「理緒ちゃん、無事だったか……!」

顔を上げた理緒に、看護士に支えられた大河内の姿が映った。

「大河内先生……!」

思わず椅子から降り、彼女は大河内に近づいた。

「起き上がって大丈夫なんですか? とっても心配したんですよ……!」
「もう大丈夫だ。多少声がかすれているがね……」

苦しそうにそう言い、大河内は、椅子に座ってココアの缶を開けて、中身を喉に流し込んだ圭介の胸倉を掴み上げた。

「お前……」
「先生、お体に触ります!」

看護士が慌ててそれを止める。
圭介は、しかし大河内に掴み上げられたまま、深くため息をついた。

「離してくれないか? 一度に三十人のマインドジャックをして、今尋常じゃないほど疲れてるんだ。これにこの失態だ。お前の相手をしている気分じゃない」
「この……外道め……!」

大河内が看護士を振り払い、圭介の頬に拳を叩き込んだ。

700 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:32:43.77 zbQ0mbq40 683/1225

そして激しく咳をして床に崩れ落ちる。
殴られた圭介は、飛んだメガネを拾い上げると、頬をさすって起き上がった。
そして無表情のまま、固まっている理緒を見る。

「……今日はここに泊まっていきなさい。君の分の病室を用意させる。大河内も、部屋に戻った方がいい」
「高畑先生……!」

理緒はそこで圭介に言った。

「何だ?」
「訳が分からないんです……ちゃんと説明してくれませんか……?」

おどおどとそう聞いた彼女に、圭介は向き直ってから答えた。

「そんな義理はないね」
「高畑、卑怯だぞ……!」

大河内が肩を怒らせながら立ち上がる。
そして汀を手で指した。

「お前がいながら、どうしてここまで追い込んだ……! 罠にかけるつもりが、逆に撃退されるとは恐れ入ったよ! 元特A級スイーパーとは思えないな!」

それを聞いて、理緒は呆然として圭介を見た。

701 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:33:30.56 zbQ0mbq40 684/1225

「元……特A級……? 汀ちゃんと同じ……」

圭介は眉をひそめて立ち、大河内に向き直った。
そして白衣のポケットに手を突っ込んで彼を睨む。

「部外者の前でその話をするな」

部外者呼ばわりされ、理緒が歯を噛んで口を挟もうと声を出そうとした。
それを手で制止し、大河内は息をつきながら圭介を睨んだ。

「何人犠牲にした? 何人の子供を殺した!」
「やっていることはお前となんら変わりはない。俺はその確立を上げただけだ」
「何だと!」
「大河内先生やめて!」

理緒が青くなって、殴りかかろうとした大河内を止める。

「誰がやってもこの結果になっていただろう。ナンバーXは、『変異亜種』だ」

圭介が淡々とそう言ったのを聞いて、大河内は手を止めた。

「何……?」
「俺達じゃ止められない。同じ変異亜種が必要だ。坂月のような」
「ふざけるな! スカイフィッシュへの人体変異なんて、もう起こらないと、当の坂月がそう言っていたでは……」
「その坂月はどこにいる?」

702 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:33:57.69 zbQ0mbq40 685/1225

口の端を歪めて笑い、圭介は目を細めて大河内を見た。

「あの男を信用したいお前の気持ちは分かるが、無駄だと何回も言っただろう。人間はスカイフィッシュに変わる。それが、あの正体不明の物体の正体だ」
「お二人とも……一体何の話をしているんですか……?」

理緒が青くなってそう問いかけた。

「坂月先生が関わっているんですか? 私にも何が起きているのか、説明してください!」

悲鳴のような声を上げた理緒を、淡々とした目で圭介は見た。
そして椅子に腰を下ろす。

「……いいだろう。教えるよ。大河内も座った方がいい。死ぬぞ」

看護士に促され、大河内は息をつきながら、汀の脇に腰を下ろした。
圭介は看護士に出て行くよう、目で追い出すと、扉が閉まったのを確認して、理緒を見た。

「さて、何から話せばいい?」

唐突に問いかけられ、理緒は口ごもって下を向いた。

703 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:34:24.38 zbQ0mbq40 686/1225

「え……あの……」
「さっき、俺もマインドスイーパーだったのかと聞いたな。その通りだ。大河内も、坂月もマインドスイーパーだった。それどころじゃない。今の赤十字病院を動かしている医者のほとんどが、マインドスイーパーの『生き残り』だ」
「生き残り……?」
「ああ」

テーブルに置いた、ぬるくなったココアを喉に流し込んで、
圭介は息をついた。

「生き残ってしまった者達の集まりさ。赤十字ってのは」
「お前は……あの時に全滅していれば良かったとでも言うつもりか……?」

大河内が押し殺した声を発する。
圭介は一瞬沈黙してから、大河内を見ずに淡々と言った。

「そうすれば、自殺病がここまで拡大することもなかった」
「…………」

大河内が言い返そうとして、しかし失敗して深く息を吐く。
そして彼は、頭を手で抑えた。

「図星を突かれたか? だから、俺はお前達を許さない」

圭介は裂けそうなほど口を広げて、笑った。

704 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:35:18.31 zbQ0mbq40 687/1225

その顔に理緒がゾッとする。

「許せるか? 許せるわけがない。俺は、お前達を、絶対に、許さない」

舐めるようにそう呟いて、圭介はココアを喉に流し込み、クックと笑った。

「理緒ちゃんが遭遇したのは、紛れもないスカイフィッシュだ。もう既に人間じゃない」
「ど……どういうことですか?」
「スカイフィッシュは、元は人間なんだよ」

圭介はそう言って、理緒を見た。

「そもそも君は、あの得体の知れない化け物を、何だと思う?」
「何だとって……汀ちゃんは、トラウマの投影だって言ってましたけれど……」
「そういう認識なのか。だからやられるんだ」

圭介は小さくため息をついて、缶をテーブルに置いた。

「スカイフィッシュとは、DIDで分裂した人間の精神だ。分かるかい? マインドスイーパーは既に、DID(精神分裂病)にかかっている患者なんだよ」
「え……?」

呆然とした理緒に、抑揚なく圭介は続けた。

705 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:36:34.01 zbQ0mbq40 688/1225

「君のような特殊な温室育ちとは、汀達が違うことは、いい加減理解できているだろう。マインドスイーパーは他人のトラウマに接触すると、それだけ要因不明のトラウマ……つまり、データで言うとデフラグし忘れたエラーのようなものを心に蓄積させていく」
「高畑……それは、実証されていない仮説だ」
「だが現実だ」

椅子をキィ、と揺らして、圭介は続けた。

「蓄積されたエラーは、されればされるほど強力なトラウマとなって心を侵食する。だから、強力なマインドスイーパーの夢に出てくるスカイフィッシュほど、夢の持ち主がかなうわけはないんだ。自分自身の恐怖心が分裂した、と言えばより分かりやすいかな」
「じゃあ……私が汀ちゃんの夢の中で見た坂月先生は……」

理緒がそう言うと、圭介は表情を暗くして声を遮った。

「それは君の見間違いだろう」
「でも、確かに私……」
「坂月の分身は俺が殺した。この手で確かに破壊したんだ」

そこで言葉をとめた圭介から大河内に、理緒は視線をシフトさせた。
大河内も俯いて、苦そうな顔をしている。

706 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:37:25.01 zbQ0mbq40 689/1225

「……あの……じゃあ、工藤さん……」
「工藤?」
「あ、いえ……」

口ごもってから理緒は言った。

「ナンバーXという人は、どうして夢の中で自由に、スカイフィッシュになれるんですか?」
「精神が分裂しないまま、トラウマに侵食されたパターンだ。やがてはトラウマに食われて死ぬだろう。だが、それだけに力は強大だ。ありとあらゆる恐怖心の塊なわけだからな。夢の世界で、その変異亜種にかなうわけがない」
「じゃ……じゃあ、またハッキングされたら……」
「防ぐ手はないな」

圭介が息をついて、立ち上がった。

「そろそろいいかい? 俺も大分疲れた。休ませてもらいたい」
「高畑先生が操っていた、マインドスイーパーの子達はどうなったんですか……?」

恐る恐る理緒がそう聞く。
圭介は、ゾッとするほどの無表情で理緒を見下ろし、そして言った。

「全員、さっき息を引き取ったよ」

707 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:38:50.60 zbQ0mbq40 690/1225

「……!」

言葉にならない悲鳴を何とか飲み込んだ理緒に、圭介は続けた。

「スカイフィッシュにやられた傷は治りにくい。それは、トラウマを直接マインドスイーパーの精神中核に注入されるからだ。毒のようなものだな。だから、スカイフィッシュに殺された人間は、もう元には戻れない」
「じゃあ……汀ちゃんは……」
「汀は、君の話によるとスカイフィッシュの変異亜種の攻撃でやられたわけじゃないんだろう? 連れていた女の子が撃ち殺したらしいな。なら大丈夫だ。あいつは『痛み』に対して頑丈だ。もうじき目を覚ますだろう」
「高畑先生! それでいいんですか!」

理緒が叫ぶ。
圭介は不思議そうに首を傾げた。

「何がだい?」
「沢山死にました! 汀ちゃんも酷い目に遭いました! 私もです! 患者さんも殺されてしまいました! 先生はそれでいいんですか? それでいいんですか!」
「いいわけがないだろう」

淡々と、圭介は無表情でそう返した。

「君はそれでいいのかい?」

708 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:39:26.99 zbQ0mbq40 691/1225

逆に問いかけられ、理緒は肩を抱いて小さく震えた。

「私は……」
「…………」
「もう、やだ……」
「…………所詮子供か」
「馬鹿にしないでください! 高畑先生に、私の気持ちなんて分からないです!」

噛み付いた理緒を、ポケットに手を入れて見下ろし、圭介はメガネの奥の冷たい瞳で言った。

「ああ分からないな。道具に感情なんてないからな」
「道具……?」

理緒は顔を青くして立ち上がった。

「私は道具じゃない!」
「じゃあ何だ?」
「私は……私は人間です! 汀ちゃんも……人間です! 私達は、あなたと同じ人間です!」
「違うな。道具だ」

鼻でそれを笑い、圭介は続けた。

709 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:40:07.76 zbQ0mbq40 692/1225

「俺達の庇護がなければ何も出来ない餓鬼の分際でよく吼える。世間も、常識も、何も分からないくせによく言う。俺達がいなければ何も出来ない存在のくせに、言うことだけは一丁前。要求することだけは一丁前」
「そんな……酷い……」
「酷くなんてないさ。ただ、そんな赤ん坊同然の君達が、出来ることはダイブだ。だがそれさえも、俺達の補助がなければ出来ない。汀に至っては、俺の介護がなければ生きていくことさえも出来ない。君達は人間になる前、それ以前に、道具なんだよ。まだ君達は、人間にはなっていない」

圭介の暴論を、理緒は足を震わせながら唇を強く噛んで聞いていた。
大河内がそこで歯軋りして立ち上がる。

「いい加減にしろよ……子供になんてことを……」
「だがそれが真実だ。『真実だった』だろ?」

肩をすくめた圭介から視線を離し、理緒はすがるように大河内に聞いた。

「大河内先生、何とか言ってください! この人……この人おかしいです!」
「…………」

710 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:40:54.06 zbQ0mbq40 693/1225

「大河内先生!」
「……理緒ちゃん、今日はもう休むんだ。高畑と議論するのは時間の無駄だ」
「先生まで……そんな……」
「高畑、お前の気持ちは分かるが、理緒ちゃんに聞かせるべき話じゃない。子供を追い詰めるな! 同じてつを踏みたいのか!」
「そのてつを踏んだ俺から言わせてもらえれば、擬似愛情ごっこ程あくびが出るものはないね」

また鼻で笑い、圭介はよろよろしながら病室を出て行った。
黙り込んだ大河内に、すがるように理緒は言った。

「同じてつって……何ですか? 高畑先生はおかしいです! 大河内先生、何とか言ってください!」
「…………」
「愛情ごっこって……そんな、嘘ですよね? そんなのあんまりです……酷すぎます!」
「いいか、よく聞くんだ理緒ちゃん」

大河内はそう言うと、理緒に向き直った。
そして低い声で言う。

「君は、これ以上汀ちゃんと高畑に関わらない方がいい。赤十字に、私から申請しておこう。戻っておいで」
「質問に答えてください!」
「興奮しないほうがいい。お互い体力もかなり低下している」

理緒をなだめてから、大河内は続けた。

711 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:41:51.38 zbQ0mbq40 694/1225

「今は元老院の方が力が強いが、君の意思が重要だ。赤十字も、人の意思を曲げることは出来ない。もとはといえば、この二人と君は他人なんだ。入れ込む必要はない」
「先生まで……そんな……」

愕然として理緒は、両手で顔を覆った。

「今更、汀ちゃんを見捨てることはできません……私、一人で逃げるなんてことできません……」
「君は優しいからな。だが、それとこれとは別の問題だ」

大河内はか細い理緒の声を打ち消し、続けた。

「逃げではない。自分の身を守るんだ。ソフィーも、高畑の計画で手痛くやられてしまっている。沢山の命も失った。安全な場所に避難するんだ。自分から、最も危ない場所に飛び込んでいくことはない」

大河内は息をついて立ち上がり、壁に寄りかかった。

「よく考えて決めてくれ。このままだと、君まで高畑に殺される」

ソフィーと同じ台詞を口にして、大河内は病室の出入り口に手をかけた。

「とにかく、私が来たからには高畑の好きにはさせない。今のところは落ち着いて、ゆっくり休みなさい」

712 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:42:26.21 zbQ0mbq40 695/1225

「先生……」

理緒は顔を上げ、そして両目から段々と涙をこぼし始めた。
そして汀の手を握り、呟くように聞く。

「汀ちゃんは……ソフィーさんは、目を覚ますんですか……?」
「ソフィーは先ほど目を覚ましたと聞いたよ。面会できるほど回復はしていないが……汀ちゃんは、しばらくの間無理だろう」
「無理……?」
「精神が殺されると、肉体も一時的に仮死状態になる。それを投薬で無理やり生きながらえさせたのが、今の汀ちゃんの状態だ。頭の中でトラウマの整理がついて、ちゃんと現実が現実だと認識できるようになるまで、いくら頑丈だといっても相応の時間がかかる」

それを聞いて、理緒はあることに気がついて青くなった。

「あの……」
「何だい?」
「あのテロリストの子……ナンバーXさんは、汀ちゃんのことを狙ってました。でも、言ってたんです。私の夢座標も欲しいって……」

それを聞いて大河内は顔色を変えた。

「何だって……?」

713 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:42:52.65 zbQ0mbq40 696/1225

「私も……狙われているんですか? 私の夢の中に、あの人たち、侵入してくる可能性もあるってことですか?」
「…………」
「先生!」
「……君は私達が全力をもって守る。安心して、ゆっくり休みなさ……」
「休めないです! 私の夢の中にもスカイフィッシュが出てきたら、私どうすればいいんですか? 汀ちゃんも……マインドスイーパーの子達もいない……小白ちゃんも私の夢には入ってこない……私、一人ぼっちじゃ……」

そこで理緒は、圭介がソフィーのことを

『眠れないだろう』

とせせら笑ったことを思い出した。
大河内は少し考えた後

「少し強いが……夢を見なくする薬ならある。汀ちゃんにも投与している薬だ。服用しすぎなければ副作用はない。それを急いで処方しよう」

と言った。

714 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 09:43:22.55 zbQ0mbq40 697/1225

「怖い……怖いです……」

肩を抱いて震えだした理緒の頭を撫で、大河内は息をついた。

「君がちゃんと眠れるまで、私がそばについていてあげよう。大丈夫だ。マインドスイーパーは誰もが経験する。少し待っていなさい。すぐに戻ってくるから」

そう言って大河内は、足を引きずりながら部屋を出て行った。
理緒が、椅子の上で足を抱いて小さくなる。
しばらくして、彼女の泣き声が静かな部屋の中に響いた。




718 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 22:49:25.64 zbQ0mbq40 699/1225

燃える家の中に、理緒は座っていた。
その瞳は見開かれてはいたが、光を失い、焦点が合っていない。
彼女は崩れ、倒壊してくる家の中、壁に背中をつけて小さくなっていた。
しばらくして、ドルンというエンジンの音が聞こえた。
うつろな瞳のまま顔を上げた彼女の目に、ドクロのマスクと、ボロボロのシャツにジーンズ、そして巨大なチェーンソーを持った男の姿が映った。
しばらく、男と理緒はただ見詰め合っていた。

「…………殺して」

理緒はそう呟いた。

「早く私を殺して……」

光を失った瞳のまま、彼女は押し殺した声で叫んだ。

「どうしたの? どうしていつも、近づいてこないの? どうしてそこでじっとしてるの? 殺してよ、早く私を殺してよ!」

男は動かなかった。

719 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 22:50:03.96 zbQ0mbq40 700/1225

ただチェーンソーを回転させて、こちらをマスクの奥の黒光りする瞳で見つめている。
理緒は頭を膝を抱き、そこにうずめてすすり泣いた。

「死にたいよ……死にたいよぉ……」

絶望しきったその声が、倒壊する家屋に響く。
顔を上げた時、そこには男の姿はもうなかった。
理緒はぼんやりとした表情のまま立ち上がり、燃える家の洗面所まで歩いていった。
そして、カミソリを手に取り、左手首に当てる。
そこには、沢山のためらい傷や、一文字の切り傷があった。
縫った痕もある。
彼女は腕に力を込めて、刃を細い肉に力いっぱい押し込んだ。
ブツリという嫌な音がして、皮、肉、血管、筋が断裂する。
何度も、何度も行ってきた行為。
もう慣れてしまった熱い感触。
血がたちまちあふれ出す。
意識が段々と薄れていく。

720 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 22:50:31.65 zbQ0mbq40 701/1225

「やだ……やだよ……」

彼女はカミソリを取り落としながら、火が落ち着き始めた周囲を見て狼狽した。
そして腕から血を流しつつ、頭を抑える。

「やだ……もう起きたくない……起きたくない!」

火が段々と消えていく。
まるで、テープを逆再生するかのように。
理緒はその場にうずくまり、そして絶叫した。

721 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 22:51:21.56 zbQ0mbq40 702/1225



第13話 涙



理緒は目を開いた。
そこは、いつもの変わり映えがしない病室の中だった。
明るい照明。
そして自分を囲んでいる機器と点滴台。
点滴を刺され過ぎて、肘の内側が真紫になっている。

「もう駄目かもしれない」

カーテンの奥から、圭介の声が聞こえた。
ああ、私のことを言っているんだなと理緒は、ぼんやりとした思考の奥でそう思った。

「マインドスイーパーの適正がなかったと考えるしかない。スカイフィッシュに打ち克つ力が、彼女にはない」
「だが、見捨てるにはまだ早すぎる」

大河内の声も聞こえた。
圭介はそれを鼻で笑い、押し殺した声で言った。

「使い物にならない道具に興味はない。お前が欲しいんなら、やるよ」
「大概にしろよ、高畑!」

椅子を蹴立てて大河内が立ち上がる。

722 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 22:52:08.53 zbQ0mbq40 703/1225

「今の言葉は聞かなかったことにする。最後まで責任を持て! お前が原因なんだぞ!」
「声を荒げると、また起きるぞ」
「……ッ!」

歯噛みした大河内が、落ち着きなく部屋の中を歩き回る。
そこで、聞き知らない女性の、ゆったりとした声が聞こえた。

「喧嘩をしている場合? お二人とも、少し休んだ方がいいわ」
「ジュリアさん……」

大河内がそう言って深くため息をつく。

「……その通りだ。お見苦しいところを見せてしまった」
「あなた達がここでいくら喧嘩をしても、患者が良くなるわけではないわ」

ゆったりとした声だった。
患者?
それを聞いて、理緒は少し疑問に思ってから、
すぐに合点がいった。
そうだ。
私は今、患者なんだ。

723 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 22:52:41.79 zbQ0mbq40 704/1225

「自殺未遂十一回。夢の中でも何度も死んでいるようね。自殺病の発症を確認。もうこの子の精神はボロボロよ。早々に手を打たなきゃ」
「ミイラ取りがミイラになるとは、まさにこのことだな」

圭介の声に、大河内の影が圭介の影の胸倉を掴み上げたのが、理緒の目に見えた。

「お前があの時に、あんなことを教えなければ……」
「お二人とも、出て行ってくださる?」

ゆったりと、ジュリアと呼ばれた女性がそう言う。

「もう起きているみたい。少し二人でお話をさせて?」

背の低い女性の影が、こちらに近づいてくる。
カーテンが開き、その隙間から、長い金髪を腰まで垂らした女の人が中を覗き込んだ。
二十代前半だろうか。
理緒と同じくらいの背丈だが、妙に落ち着いた雰囲気をかもしだしている。
白衣だ。
青い瞳。日本人ではないらしい。
目が大きく、人形のような女性だった。

724 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 22:53:12.32 zbQ0mbq40 705/1225

彼女――ジュリアは落ち窪んだ目をした理緒と視線が合うと、ニッコリと微笑んで見せた。
大河内と圭介が黙って病室を出て行くのが見える。
ジュリアはカーテンの中に入ってくると、理緒の隣の椅子に腰を下ろした。
体を起こそうとした理緒にそのままでいいとジェスチャーで言ってから、彼女は口を開いた。

「私はジュリア・エドシニア。あなたを助けるために来た、マインドスイーパー治療班の一人よ」
「治療班……?」

理緒はかすれた声でそう言った。

「私、もう治療なんていい……いいです……」

泣き出しそうな顔でそう言って、理緒は血のにじむ左腕の包帯を見た。
ぐるぐる巻きにされている。
全て、ここ数日で切ったものだ。
ガラスを割って刺したこともある。
鏡を割って切り裂いたこともある。

725 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 22:53:53.01 zbQ0mbq40 706/1225

鎮痛剤を投与されているので、あまり痛みは感じなかったが、所狭しと縫われている腕は、ジクジクと異様な感触を与えた。

衝動的に。
いや、そう言ってはおかしいかもしれない。
実に自然に。
理緒は、生きることがとてもつらくなった。

理由という理由はないのかもしれない。
ただ、つらかった。
その原因を考えるまでの余裕は、彼女にはなかった。
大河内をはじめ、周囲は自殺病の発症だといった。
どこから感染したのか、何が病因なのかは分からない。
心当たりが多すぎて、どうしようもなかったのだ。
汀が意識を失ってから、僅か三日で、理緒の心と体は、既に衰弱してボロボロになっていた。
ジュリアは理緒の手を握り、優しく語りかけた。

「死にたいの?」
「はい……」

頷いて、理緒は薄く目に涙を溜めながら続けた。

726 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 22:55:41.36 zbQ0mbq40 707/1225

「夢の中に……あの人が出てくるんです。でも何もしない……私が死ぬのを待ってるんです……私もう疲れました。もう駄目……殺してください……お願いします……もう私を、これ以上苦しめないでください……」
「それはただの夢よ。現実ではないわ」
「現実か夢かなんて……誰も分からないじゃないですか。私、今ここにいることが現実かどうかも……分からなくなってきました」

理緒の目から涙が流れる。

「分からない……分からないんです……」

両手で顔を覆い、涙を流す理緒の頭を撫で、ジュリアは続けた。

「よく聞いて。あなたは自殺病にかかっているわ。無理なダイブを繰り返したせいで、スカイフィッシュ症候群に感染したの。即急に治療をしなければ、命が危ない」
「治療なんて……いいです……」
「生きる気力を、患者が持たないといけないわ。しっかりして」
「本当にいいんです……もう許してください……」

ひく、ひくと泣いて、理緒は体を脱力させた。

「薬なんて効かない……私もう眠れない……」

727 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 22:56:23.62 zbQ0mbq40 708/1225

「あなたを絶対に助ける。そのためには、あなたの協力が必要なの」

ジュリアはそう言って、ベッドの上に腰を移すと、理緒の頭を抱いて引き寄せた。
久しぶりの人間の感触に、理緒が小さく息を吐く。

「…………」
「落ち着いた? あなたはまだ戻れる。戻れるうちに、帰って来なさい。私達が待ってるから……」
「私……帰れる……? 戻れる……?」
「ええ。あなたは帰れる。お家に、帰れるわ」
「あなたに……何が分かるんですか……」

落胆した声で、理緒は小さく呟いた。
言葉を飲み込んだジュリアに、彼女はかすれた声で続けた。

「私のお家は、赤十字病院です……お父さんもお母さんも死にました。親戚もいません……私は、一人ぼっちなんです……」
「そうだったの……」

ジュリアは強く理緒の顔を抱きしめると、ささやくように言った。

728 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 22:57:24.11 zbQ0mbq40 709/1225

「でも、絶対に助ける。諦めないで。あなたも、あなたの友達も、私達が助けるから」
「私の……友達……」

光がなかった理緒の目に、少しだけ活力が戻った。

「私……友達がいる……」
「そう、あなたには友達がいるでしょう? 大事な友達。あなたが、命がけで守った友達がいる。見捨てて逃げることは出来ないんじゃなかったの? 聞いたわ。あなたは優しい子なのね……」
「ジュリアさん、私……」

理緒はジュリアの胸にしがみついて、涙を流した。

「汀ちゃんに会いたい……」

729 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 22:58:31.59 zbQ0mbq40 710/1225



「……以上が今回のプランです。S級のスカイフィッシュに対抗するために、私もダイブに同席します」

ジュリアがそう言って、息をつく。
元老院と赤十字病院の医師達が集まっている、薄暗い会議室の中を、彼女は見回した。
後ろの方の席に圭介はいた。
興味がなさそうに足を組んで、ボールペンをカチカチと鳴らしている。
前の席に座っていた大河内が、咳をしてからかすれた声で言った。

「……テロリストの進入も考えられる。安易なダイブは危険を招く」
「しかし即急に救わないと……少なくとも片平理緒さんの命は、長く見積もっても、あと三日もつかもたないかです」

それを聞いて、医師達がざわめく。

「……沢山のマインドスイーパーがここで命を落としている。病院の見解としては、マインドスイープに対してかなり慎重にならざるをえないことは理解してもらいたい」

赤十字病院の医師の一人がそう言うと、同調するざわめきが広がった。

730 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 22:59:24.36 zbQ0mbq40 711/1225

ジュリアは頭を抑え、軽く髪を手で梳いてから圭介を見た。
圭介は一瞬彼女と視線を合わせたが、すぐに視線をそらして横を向いた。
彼を睨んでから、ジュリアは元老院の方を向いた。

「ご老人方はどうお考えですか?」

問いかけられた元老院の老人の一人が、少し考えてから重苦しく口を開いた。

「……高畑汀と、片平理緒を失うのは、今の日本の医療業界にとって、重大な損失だ。できることなら……いや、確実に二人は治療しなければいけない」
「ありがとうございます」

ジュリアが頭を下げる。

「そのために私は、日本に来ました」
「しかし……テロリストの件が表立ち、今の日本ではマインドスイープを行える医師が、治療を自粛する流れになってきている。聞けば、テロリストの狙いは、高畑汀だそうではないか、なぁ高畑医師」

部屋の隅に立って、タバコを吸っていた初老の男性が口を挟んだ。
深く掘りが入った顔に、くぼんだ目をしている。
表情が読めない男性だった。
圭介は彼をちらりと見ると、資料をテーブルの上に投げてから口を開いた。

731 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 23:00:31.74 zbQ0mbq40 712/1225

「その件に関しては、お話しする義理がございません」
「高畑医師! それはあまりにも粗暴がすぎないか!」

赤十字病院の医師の一人が、顔を真っ赤にして立ち上がり、怒鳴った。

「あなたの……いや、お前のせいで、何人のマインドスイーパーが死んだと思っている! いくら元老院所属とはいっても、これ以上の協力は我々としても……」
「静粛に」

大河内が低い声を発する。
彼が手を叩いたのを聞いて、医師達は圭介を睨みつつ、歯軋りしながら口をつぐんだ。
元老院に頭を下げ、大河内は続けた。

「お見苦しいところをお見せしました。ご老人方、どうか気分を悪くされないでいただきたい」
「良い。この度の一件に関しては、こちらにも非がある」

元老院の老人がそう言う。
圭介は興味がなさそうに、軽くあくびをして、椅子に肘をついた。

「……議題を戻してもよろしいでしょうか?」

ジュリアが周りを見回し、おっとりとした声で続けた。

732 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 23:01:08.02 zbQ0mbq40 713/1225

「高畑汀さんの精神中核を持っているのが、片平理緒さんである以上、汀さんを助けるためには、理緒さんをまず救わなければいけません」
「何……?」

そこで初めて、圭介が狼狽したような声を発した。
彼はジュリアを見て、噛み砕くように言った。

「あの子が、汀の精神中核を持っているのか……?」
「先ほど本人から聞きました。ある程度落ち着かせて、断片的に聞いた内容ですが、間違いないと思われます」
「そんな重要なことを、何故今まで黙っていた……?」

押し殺した声で呟くように言った圭介を冷めた目で見て、ジュリアは続けた。

「目の色が変わりましたね、ドクター高畑」
「質問に答えて欲しい」
「聞かれなかったから答えなかったまでです。あなたは、あの子達に信用されていないのでは?」

公の場で嘲笑にも等しい侮辱を受け、圭介は軽く歯を噛んだ。
そして背もたれに体を預け、足を組みなおしてから口を開く。

733 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 23:03:12.41 zbQ0mbq40 714/1225

「それは、そちらのご想像にお任せしましょう。議論の余地はありません」
「……そうですね。軽率な発言でした。とにかく、汀さんの精神中核を、理緒さんの精神内から抜き取って、元に戻さなければいけません。その施術を行いつつ、スカイフィッシュの相手をしなければいけません。私のチームが力を当てますが、卓越した技量を持つマインドスイーパーの力が必要です」

彼女がそう言うと、医師達の間にざわめきが広がった。
一人の医師が声を荒げた。

「私は協力を辞退させていただきます。これ以上、ラボから人員を消すわけにはいかない」

それに同調する人々の声を聞いて、ジュリアは手を上げて声を制止した。

「ドクター高畑、協力していただけますね?」

含みをこめて聞かれ、圭介は一瞬視線を揺らがせたが、狼狽したように彼女に言った。

「……私が?」
「はい。元特A級能力者、対スカイフィッシュ戦闘用マインドスイーパーの、あなたの力が必要です」

医師達が目を見開く。
元老院の老人達は目をつぶり、息をついた。

734 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 23:03:51.96 zbQ0mbq40 715/1225

くっくと笑うタバコの男を横目に、圭介は苦々しげに言った。

「…………どこからその情報を入手したのかは分からないが、私はもうマインドスイープを止めました。ダイブは無理です」
「あの子達を、助けたくはないんですか?」

ジュリアに問いかけられ、圭介は発しかけていた言葉を飲み込んだ。
そして、しばらくして頭を抑え、目を隠す。
まるで、殺気を込めた視線を隠すように。
圭介はメガネをテーブルの上に置き、深呼吸してからジュリアに言った。

「……分かりました。ただし、ダイブの時間は五分とさせていただきます」
「ご協力感謝いたします。それでは今回のダイブの説明を始めさせていただきます」

ジュリアが頭を下げ、ホワイトボードを手で示した。
大河内が横目で圭介を見る。
圭介は爪を噛みながら、瞳孔が半ば開いた目でジュリアを睨んでいた。

735 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 23:05:02.17 zbQ0mbq40 716/1225



薬で眠らせている理緒を囲むようにして、ヘッドセットに機器を接続したマインドスイーパー達が椅子に腰掛けていた。
ジュリアと圭介の頭にも接続がしてある。
暗い表情をしている圭介をちらりと見てから、計器を操作している大河内が口を開いた。

「第一段階のダイブは、時間を十分に設定します。いいですね、ジュリア女史」

問いかけられ、ジュリアが頷いた。

「時間が300秒を突破しましたら、何が起こっても強制的に回線を遮断してください。たとえ、この中の誰が帰還不能になってもです」

機器が接続されているマインドスイーパーは、黒人や西洋の人間など、いろいろな人種が混ざっているが、一様に二十代前半から後半の者達だった。

「目的はスカイフィッシュの排除。精神分裂を防ぐことです。また、外部からのハッキングが考えられます。防御手段を持たないので、スカイフィッシュ共々、この機会に駆逐します」
「分かりました。幸運を祈ります」

736 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 23:06:09.40 zbQ0mbq40 717/1225

ガラス張りの部屋の向こう側には、沢山の医師達が腕組みをしながらこちらを見ている。
タバコを吸っている男も、無機質な目で圭介を見ていた。

「高畑、いけるのか?」

大河内に小声で問いかけられ、圭介は鼻を鳴らして、自嘲気味に笑った。

「さてな」
「さてな……って……お前、遊びではないんだぞ」
「また俺をあそこに送り込むのか。鬼畜共め」

くっくと笑い、圭介は大声を上げた。

「ダイブを開始してください!」

その右手が、かすかに震えている。
圭介は左腕でそれを押さえ込むと、大河内を見てニヤリとした。

「やるよ、俺は。お前みたいな役立たずとは違うからな」

737 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 23:06:56.49 zbQ0mbq40 718/1225



理緒は目を開いた。
あたり一面血まみれだった。
そうだ、私は。
さっきまた腕を切って。
血が段々となくなって、体が段々と冷たくなっていくのを感じながら、気持ちよく眠りについたんだった……。
でも、どうして……。
どうして私はまた、起きてしまったんだろう。
そこまで考えて、理緒は左腕の深い切り傷から流れる血液を、必死に止血しているジュリアの姿を見た。
ジュリアは、彼女を守るように立っている他のマインドスイーパー達と目配せをすると、理緒のことを強く抱きしめた。

「私達が来たから、もう怖くないわ。大丈夫。早くこの悪夢から抜け出しましょう」

そこは、燃える建物の中だった。
病院の中だった。
理緒が現実か夢か区別がつかなかったのも無理はない。

738 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 23:07:35.61 zbQ0mbq40 719/1225

彼女の病室と全く同じ景色。
しかし、窓の外の暗闇は、赤々と燃える、巨大なキャンプファイヤーのようなものに照らされていた。
豚の丸焼きのように、沢山の人間が足から吊るされて火にかけられている。
あたりには据えた悪臭が充満していた。
病室のいたるところも欠損して、燃えている。

「ドクター高畑は?」

ジュリアがヘッドセットのスイッチを入れて声を上げる。
ブツリ、という音がして大河内の声が返ってきた。

『ダイブにはあと二、三分ほどのイメージ構築の時間が必要だそうです。それまで、彼女を保護してください』
「何ですって……?」

絶句してジュリアが息を呑む。
彼女に、英語で他のマインドスイーパー達が口々に何かを言っている。

739 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 23:08:15.42 zbQ0mbq40 720/1225

「……議論はあとでしましょう。とりあえず、ここを脱出します」

ジュリアはそれを手で払い、理緒を抱いたまま、病室から外に出た。
他のマインドスイーパー達も、ジュリアを囲むようにして部屋を出る。
そこで、ドルン、というチェーンソーの起動音が聞こえた。
ビクリとして振り返った全員の目に、暗い病室の廊下の向こう側に、ドクロのマスクを被った、大柄な男がゆらりと立っているのが見えた。

「いやあああああああああ!」

理緒が絶叫したのとほぼ同時に、ジュリアは無言で走り出した。
他のマインドスイーパー二人がしんがりを守るように立ち、壁に手をつける。
壁のコンクリートがぐんにゃりと変質して刃渡り十八センチほどのナイフに変わった。
スカイフィッシュがチェーンソーを振りながら走り出す。
黒人の男性が、壁を殴った。
コンクリートが砕け、手首までが中に入り込む。
そこから彼は拳銃を掴み出すと、スカイフィッシュに向けて数発、発射した。
飛び上がったスカイフィッシュが、もんどりうって床に転がる。
深追いはせずに、全員病院の出口に向かって走り出した。

740 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 23:09:03.39 zbQ0mbq40 721/1225

「もうやだ! もうやだよう!」

理緒が首を振って泣きじゃくる。
ジュリアは病院の出口に到達すると、ロビーに出たことを確認して足を止めた。
そして息を切らせながら理緒に言う。

「よく聞いて、片平さん。私達大人は、あなた達ほど長時間、夢の中で動くことは出来ないわ。だから、お願い……あなたを助けさせて!」
「助かりたくない! やっと……やっと死ねるところだったのにどうして邪魔するの! やっと私、楽になれたところだったのに!」

癇癪を起こしたように喚く理緒の口に指を当てて黙らせ、ジュリアは言った。

「友達の精神中核。あなたが持っているんでしょう? 一緒に、友達を治しに行きましょう。死ぬのはそれからでも遅くはないわ」

理緒はそれを聞いて、押し黙った。

「汀ちゃんの……中核……」

理緒はポケットに手を入れた。

741 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 23:09:39.19 zbQ0mbq40 722/1225

病院服の、血まみれになったそこから、ビー玉のような黄色く光る玉を取り出す。

「これ……」
「それを絶対に離しちゃ駄目。あなたの大事な友達は、それを壊されたら生きる屍になるわ」
「汀ちゃん……」
「高畑汀さんに、会うんでしょう! しっかりしなさい!」

ジュリアがそう言ったときだった。
彼女らの背後の天井に、ビシッと音を立てて亀裂が走った。
そして轟音を立てて崩れ落ちる。
慌てて距離をとったジュリア達の目に、無傷のスカイフィッシュが、床に着地して立ち上がったのが見えた。
恐怖のあまりに、声も出せずに理緒がジュリアにしがみつく。
不意を突かれた形で、拳銃を持っていた黒人の男性が、スカイフィッシュのチェーンソーに頭をカチ割られた。
あたりに絶叫と、血液と、脳漿と、よく分からない物体が飛び散る。
スカイフィッシュは倒れた男を蹴り飛ばすと、ドルンドルンと、血まみれのチェーンソーを鳴らした。

「ドクター高畑を早く!」

ジュリアが外に逃げながら、大声を上げる。

742 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 23:10:20.27 zbQ0mbq40 723/1225

『今転送を開始しました! ダイブ開始まで十秒、九、八……』

スカイフィッシュが人間とは思えない動きで移動し、大きくチェーンソーを振った。
ナイフを持っていたマインドスイーパー達が、腹部を両断されて、驚愕の表情のまま二つになり、床に転がる。
一拍遅れて、あたりに噴水のように血の雨が降った。
スカイフィッシュは、ジュリアを守るように固まったマインドスイーパー達に向かって飛び上がり、チェーンソーを振り下ろそうとして――。
そこで、突っ込んできた人影に体当たりをされ、そのまま背後の壁に、ひびが入るほどの衝撃でブチ当たった。
人影……病院服を翻した圭介は、押し付けられたまま、チェーンソーの刃を回転させこちらに向けたスカイフィッシュの腕を、体全体で力を込めて押さえ、地面に転がっていた拳銃を蹴り上げた。
そして空中でそれをキャッチし、スカイフィッシュの眉間に当てて、何度も引き金を引いた。
そのたびに、ビクンビクンとドクロの男の体が跳ねる。
圭介は返り血でびしょ濡れになりながら、無言で、弾が切れた拳銃を横に振った。
それが刃渡り三十センチはある長大なサバイバルナイフに変質する。

743 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 23:10:57.36 zbQ0mbq40 724/1225

彼はスカイフィッシュの喉にそれを突き立て、壁に磔にすると、一歩下がって、殺されたマインドスイーパー達が持っていたナイフを蹴り上げた。
そして一瞬でサバイバルナイフに変質させ、一気に二本、スカイフィッシュの両腕に突き立てて壁に縫いとめる。
ガラン、とエンジンが切れたチェーンソーが床に転がった。
スカイフィッシュは、それでも、体を刺すナイフの痛みが気にならないのか、ゆっくりと壁から体を引き剥がしにかかった。
圭介はその一瞬を見過ごさなかった。
彼は考える間もなくチェーンソーを拾い上げると、ロープを引っ張って起動させた。
そしてスカイフィッシュに回し蹴りを叩き込み、また壁に縫いとめると、その胸にチェーンソーを叩き付けた。
凄まじい高音の叫び声が、あたりに響き渡った。
あたりを骨片や血液、よく分からない生物の内臓が飛び跳ねる。
チェーンソーは時間をかけてスカイフィッシュの胸を貫通すると、コンクリートの壁に突き刺さって止まった。
それでもなお、スカイフィッシュはガクガクと震えながら、かすかに動いていた。
圭介は息をつき、汗だくになりながらその場に膝をついた。

744 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 23:11:35.77 zbQ0mbq40 725/1225

「ドクター高畑!」

呼吸が困難になっている圭介に、マインドスイーパーの一人が駆け寄り、横にしてから何度か人工呼吸を行う。
しばらくして圭介は、自分に唇を合わせていた女性を押しのけ、ジュリアに目をやった。

「理緒ちゃんを……降ろせ!」
「え……ええ、分かってる。分かってるわ……」

ジュリアは頷いて、理緒をそっと床に降ろした。
腰を抜かして、ペタリとしりもちをついた理緒に、圭介は立ち上がって近づいた。

「時間がない……やるんだ、理緒ちゃん」

問答無用に彼はそう言うと、足元に転がっていたガレキを一つ手に取った。
それが拳銃に形を変える。

745 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 23:12:13.60 zbQ0mbq40 726/1225

理緒に拳銃を握らせ、圭介はしゃがんで、まだ動いているスカイフィッシュを見た。

「いいか、心臓を狙うんだ。君が殺さないと、君のスカイフィッシュは死なない」
「先生達……どうして……」
「俺達もマインドスイーパーだったという話はしただろう」

理緒を突き放し、圭介は無理やり彼女の手を引いて立たせた。

「早く撃て! 何をしてる!」
「ドクター高畑! 乱暴はよして!」

ジュリアが間に割って入る。
それを鼻で笑い、圭介は言った。

「何だ、役立たずの一人か。ジュリア。仲間を盾にしてまだ生きているとは、見上げた根性だよ」
「あなた……! どうしてすぐにダイブしてこなかったの!」
「スカイフィッシュが動きを止める瞬間を狙っていた。何せ、俺は……」

そこまで言ってから言葉を飲み込み、圭介は理緒の手に自分の手を添えた。

746 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 23:12:42.12 zbQ0mbq40 727/1225

「撃てないか? 引き金を引くだけでいい」
「で……でも……でも、あの人……まだ生きて……」

ブルブルと震えている理緒に、苛立ったように圭介は言った。

「あれは生き物じゃない。ただのイメージだ」
「私そんな風に割り切れない……割り切れないよ……」
「じゃあ君を助けるために死んだマインドスイーパーはどうでもいいっていうのか? 君は、それでもいいのかい?」

問いかけられ、理緒は動かぬ躯となったマインドスイーパー達を見回した。
そして彼女はぎゅっ、と目をつむり。
引き金を引いた。
スカイフィッシュがビクッと跳ね、動かなくなる。
銃を取り落とし、両手で顔を覆った理緒を抱きしめ、ジュリアが口を開く。

「よくやったわ。よく……」
「ジュリア、他のマインドスイーパーに理緒ちゃんを守らせろ。外に出るんだ」

しかしそれを打ち消し、圭介が言った。

747 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 23:13:18.31 zbQ0mbq40 728/1225

『外部からのハッキングだ! 止められない、転送されてくるぞ!』

大河内の声が聞こえる。
息を飲んだジュリアの目に、先ほど殺したスカイフィッシュと同様の格好をした、しかしマスクはつけていない白色の髪をした少年の姿が映った。
一貴だった。
彼はチェーンソーを肩に担いで、動かなくなったスカイフィッシュを見てから唇を噛んだ。

「……何てことを……」

一貴は、地面のガレキを二本のサバイバルナイフに変え、前に進み出た圭介をにらみつけた。

「分裂精神を自分の手で殺させたのか!」
「それが『治療』だ」

圭介は淡々とそう言い、ナイフを構えた。

「あれが……ナンバーX……」

ジュリアはそう呟いてから、理緒を抱きかかえて病院の外に向かって走り出した。

748 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 23:13:51.76 zbQ0mbq40 729/1225

他のマインドスイーパー達もそれを追う。
横目でそれを見て、一貴はパチンと指を鳴らした。
病院の出口がグンニャリと形を変え、コンクリートの壁になる。
足を止めたジュリア達の方を向いて、彼は言った。

「逃がさないよ。なぎさちゃんの精神中核は僕がもらう」
「それをさせると思うか?」

振り返った一貴の目に、二本のサバイバルナイフを振りかぶった圭介が飛び掛ってくるのが映った。
チェーンソーを振って日本刀に変え、一貴はそれを弾いて何度かバク転をして後ろに下がった。

そして地面に膝をついて刀を構えながら、苦々しそうに圭介に言う。

「ヤブ医者が……! 分裂精神を殺させるなんて、聞いたことがない!」
「少なくとも俺の方法はそうなんだよ」
「自分の精神の半分を喪失するってことだぞ! 患者を強制的に心身喪失させるのが、お前達のやり方か!」

749 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 23:14:44.67 zbQ0mbq40 730/1225

理緒はそれを聞いて、呆然としてジュリアを見た。

「心身……喪失……?」

ジュリアが目をそむける。
彼女の服を掴んで、理緒は真っ青になって言った。

「どういうことですか? 私に何をさせたんですか!」
「教えてあげるよ、片平さん。こいつらは、君の感情の何かを壊させた。スカイフィッシュと一緒にね」
「どういう……こと……?」

一貴は歯を噛んで、サバイバルナイフを手に切りかかってきた圭介の攻撃を、軽くいなしながら続けた。

「スカイフィッシュは、その人の精神が分裂したものだ。だからそれは、感情そのものだといえる。スカイフィッシュを殺すっていうことは、確かに自殺病を防げるかもしれないけど、感情が変化したスカイフィッシュを自分の手で殺すということは……」

一貴が圭介に日本刀を振り下ろす。
圭介はそれを、二本のサバイバルナイフで受けた。

750 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 23:15:14.50 zbQ0mbq40 731/1225

そのまま刀を押し込みつつ、一貴は怒鳴った。

「こいつらのような、『不完全な』人間になるっていうことなんだ!」
「言わせておけば……! 人間は元来不完全なものだ! 不完全なものを不完全に戻して、何が悪い!」

圭介がそう怒鳴り返し、一貴の腹に蹴りを叩き込む。

「ジュリア、何をしてる! 帰還の扉を構築させろ!」

怒鳴られたジュリアがハッとして、周囲のマインドスイーパー達と目配せをする。
数人のマインドスイーパーが目を閉じて、意識を集中し始めた。
それにあわせて、コンクリートの壁に、木造りのドアのようなものが浮かび上がってくる。
それを見て、一貴は舌打ちをした。

「させるかあ!」

叫んで起き上がり、圭介の足に日本刀を突き立てる。
太ももを貫通した日本刀は、そのまま肉を両断して、外側に抜けた。
圭介の太ももから凄まじい勢いで血が流れ出し、彼は膝をつき、そして――。
頭を抑え、髪をかきむしった。

751 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 23:15:48.69 zbQ0mbq40 732/1225

「うああああ! うわあああ!」

突然恐慌を起こしたかのように叫びだした圭介を、ジュリアは青くなって見た。

「ドクター大河内! ドクター高畑のシナプスが危険域です、遮断してください!」
『やっているが、もうすこしかかる! あと三十秒ほど耐えてくれ!』
「はは! あははは! 時間切れか!」

日本刀をゆらゆらとさせながら、一貴は立ち上がって、圭介の頭を思い切り蹴り上げた。
舌を噛んだのか、地面に転がった圭介の口から、盛大に血が溢れ出す。

「若い頃にマインドスイープさせられすぎたせいで、脳みその伝達機構がイカれちまってるんだ! こうなればもう形無しだね」

もう一度一貴は圭介の腹に蹴りを入れ、うずくまって動かなくなった彼に、日本刀を向けた。

「待って!」

そこで理緒が声を上げた。
彼女はジュリアの手を振り払い、圭介に駆け寄ると、彼らの間に割って入り、手を広げた。

752 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 23:16:23.24 zbQ0mbq40 733/1225

「……何してるの?」

一貴が呆れたように言う。

「理緒さん、戻って!」

ジュリアが叫んでいる。
理緒は震えながら一貴を睨みつけた。

「私の夢の中で、これ以上好き勝手しないで。もう、そっとしておいて。お願い」
「こいつは、君の大事な記憶か感情を殺させた奴だよ。庇う必要はないだろ」

そこまで言って、一貴は理緒の手をひねり上げた。
悲鳴を上げた彼女のポケットに手を突っ込み、無造作に汀の精神中核を掴みだす。

「これはもらっていくよ」

そこまで彼が言った時だった。
理緒は無言で一貴の日本刀を奪い取ると、力いっぱい横に振った。
一瞬、一貴は何が起こったのかわからないといった顔でポカンとしていた。
ボトリ、と何かが落ちた。
一貴が、汀の精神中核を握っていた手が、上腕から両断されていた。
加えて脇腹が斬られていて、噴水のように血が流れ出す。

「へぇ……」

753 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 23:16:53.42 zbQ0mbq40 734/1225

一貴はクスリと笑うと、理緒から手を離し、よろめいた。

「君は……いざとなればやれる子なんだね……」

理緒はそのまま、一貴の胸に日本刀を突きたてた。
彼女のひ弱な力でも、簡単に刃は貫通して向こう側に抜けた。

「ごめんなさい……工藤さん……」

理緒の目から涙が落ちる。
一貴はゆっくりと後ろ向きに倒れながら、倒れ際、理緒の目を手で拭った。

「今のうちに泣いておくといい……」

ドサリ、と鈍重な音を立てて一貴が倒れる。

754 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 23:17:22.48 zbQ0mbq40 735/1225

「多分もう、君は泣けない」

ゴポリと一貴が吐血する。
理緒は震えながら自分の肩を抱き、そして扉が構築されたのを見て、ジュリアに言った。

「治療完了です」
「……あなた……」

返り血で濡れた理緒は、どこか無機的な目でジュリアを見ていた。

「私の夢から、出て行ってください」

そこで、彼女達の意識はブラックアウトした。

755 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 23:17:53.09 zbQ0mbq40 736/1225



理緒は目を開けた。
何度も何度も切り刻んだ左腕が、ジクジクと痛む。
右腕には点滴が沢山つけられていた。
体が重い。
頭が痛い。
右手で頬を触ると、泣いていたのか、濡れていた。
悲しい?
悲しかった?
何が?
よく分からなかった。
何が悲しくて、何をどう苦しくて、何故泣いていたのか、彼女は分からなかった。
そもそも、悲しいということはどういうことなのか。
苦しいというのは、どういうことなのか。
分からなくなっていた。
ぼんやりとした、霞がかかったような思考のまま上半身を、やっとの思いで起こす。
そこで、カーテンの向こうにいたらしいジュリアが、勢いよくカーテンを開けた。

756 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 23:18:23.79 zbQ0mbq40 737/1225

「目を覚ましたわ!」

彼女が満面の笑顔で、理緒に駆け寄って抱きつく。
ジュリアは泣いていた。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

何度もそう呟くジュリアを、不思議そうに理緒は見た。

「何が……」

かすれた声でそう呟き、理緒は首を傾げた。

「どうしたんですか?」
「覚えてないの……?」

問いかけられ、理緒はまた首を傾げた。
部屋にいた大河内が、息をついて立ち上がる。

「……君は自殺病にかかったんだ。高畑がダイブして、その元凶を破壊した。もう大丈夫だ」

757 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/15 23:18:50.48 zbQ0mbq40 738/1225

「高畑先生が?」

抑揚のない声でそう言った理緒を、大河内は沈痛な面持ちで見た。
そして、小さな声で言う。

「高畑は今、意識混濁状態になっている。集中治療室に入ってるよ」
「そうなんですか」

頷いて、理緒はニッコリと笑った。

「……で、汀ちゃんはどこですか?」

その、どこか壊れたような笑顔は、何故か狂気を感じさせるものだった。




761 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:12:56.75 ziU5p5mf0 740/1225

全てがスクリプトだったら、どんなに楽だろう。
全てが全て、決められたことだったら、どんなにか楽なことだろう。
だって、そのスクリプトの中でもがいて、苦しんで、喚いていたって、結局は独り、一人ぼっちであるという事実は変わらない。
スクリプトなら気が楽だ。
どんなに叫んでも、声が返ってくるわけはないのだから。

幸せそうな人たちがいた。
充実した生活を送っている人たちがいた。
隣の芝は青く見えるということわざがある。
それはことわざだが、えてして的を射ている。
でも、事実は事実だ。

762 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:17:27.48 ziU5p5mf0 741/1225

スクリプトだろうがなんだろうが、周りを見回すと、人々は全て、ちっぽけな幸せを持って生きている。
必ず、持って生きている。
ならば。
ならば、そのちっぽけさえ持っていない自分は、一体何なんだろう。

生きてて楽しい? と頭の中の誰かが聞いた。
人生楽しい? と頭の中の誰かが聞いた。
楽しくはない。
楽しかったら、私は今ここにはいない。

763 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:17:56.49 ziU5p5mf0 742/1225

そうだな。
苦しい、とは違うな。
悲しいな。
ただ、ひたすら、悲しいな。
それでも生きていってしまうであろう、私自身が悲しいな。

全てがスクリプトだったら、どんなに楽だろう。
そう考えて、また同じ結論にたどり着く。
私は袋小路の中に入り込んでしまっていた。
もう、出ることは出来ない。

764 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:19:52.13 ziU5p5mf0 743/1225



第14話 凄く面白い



「はぁ、そうなんですか」

ぼんやりした声で理緒がそう言う。

大河内は身を乗り出して、彼女の肩を揺すった。

「どうした? まだ意識がはっきりしないのか?」
「私ははっきりしていますよ。問題ありません。先生こそ、何を戸惑ってらっしゃるんですか?」

人形のように淡々と理緒はそう言い、鳥かごに手を突っ込んだ。
それは、赤十字病院に住む子供達が飼っていたインコの籠だった。
沢山の人達の言葉を覚え、人気があったマスコット的存在だった。
特に可愛がっていたのは理緒だった。
彼女が圭介の病院で暮らすことになってからは、大河内が育てていたのだが、寿命か、昨日死んでしまったのだ。
仰向けになって硬直している小さなインコに、泣いているマインドスイーパーの子達もいる。
全員が、一番優しかった理緒がどうするつもりなのか、不安げな表情で見ていた。
理緒はぼんやりとした視線のまま、手の中で死んでいるインコを見た。
左腕には包帯が巻かれていて、長袖で隠れている。
右腕は点滴台を掴んでいて、いくつか、針が手の甲に刺さっていた。

765 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:20:40.42 ziU5p5mf0 744/1225

「死んだんですか」

理緒は淡白にそう言って、左手でインコを掴み出すと、大河内に向かって差し出した。

「で、いつ死んだんですか?」
「いつって……今朝方だと思うが……」
「じゃあそろそろ腐り始めますね。捨てた方がいいと思います」

ニッコリと笑って、理緒は無造作にゴミ箱にインコの死骸を投げ捨てた。
彼女の凶行に、周囲が唖然とする。

「理緒ちゃん……!」

大河内が声を荒げかけ、部屋に入ってきたジュリアを見て、言葉を止めた。
ジュリアはゴミ箱から大切そうにインコを掴み出すと、紙に包んで胸に抱いた。

「片平さん、ちょっとお話があるの。お時間もらえるかしら」
「いいですよ」

インコを捨てた後だというのに、何事もなかったかのように理緒は頷き、ジュリアの後に続いた。
ジュリアは近くのマインドスイーパーの頭を撫で

「後で埋めてあげましょうね」

と言ってから、理緒の手を掴んだ。

766 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:21:10.75 ziU5p5mf0 745/1225

そして大河内と目配せをして、部屋を出る。
大河内もそれを追う。
マインドスイーパーの一人が、そこで大河内に囁いた。

「理緒ちゃん、どうしたんですか? 何だか様子がおかしいです……」

大河内は不安げな顔でこちらを見ている子供達を見回し、立ち止まると、質問してきた子に微笑みかけた。

「何、今回の仕事はかなりのものだったからね。理緒ちゃんも、現実と空想の区別がまだついていないんだろう。しばらくああいう状態が続くと思うが、みんな優しくしてやってくれ」

767 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:21:46.11 ziU5p5mf0 746/1225



ジュリアの研究室に入り、促されるままソファーに座って、理緒は息をついた。
急遽用意された研究室だったが、きちんと整理整頓がなされていて、所々に大きなぬいぐるみが飾ってある。
研究者の部屋というよりは、年頃の女性の部屋といった感じだ。
赤十字病院は、研究室といえども二、三の部屋に分かれているので、そこに宿泊することも可能だ。
生活感が出ていても不思議ではない。
大河内も後から入ってきて、部屋の鍵を閉めた。
それを確認して、ジュリアは、ミッフィーの大きなぬいぐるみを胸に抱いた理緒に目をやってから、
棚から取り出した桐の箱にインコを入れた。
大河内は立ったまま、ポケットに手を突っ込んで、神妙な顔つきをしていた。
ジュリアはぬいぐるみを弄りながら嬉しそうな顔をしている理緒に、口を開いた。

「片平さん。何か飲む? コーヒーは大丈夫かしら」
「ごめんなさい、私コーヒー駄目なんです」
「あら、そうなの。じゃあミルクを温めるから少し待っててね」

冷蔵庫から牛乳を取り出してカップに注ぎ、電子レンジに入れるジュリアを見てから、大河内は理緒に目を落とした。

768 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:22:16.97 ziU5p5mf0 747/1225

「どうした……理緒ちゃん。君はそんな……何というか、人形のような子ではなかったはずだ」
「どういうことですか?」

きょとんとして聞き返され、大河内は言葉に詰まった。
そして小さく唇をかんで、理緒から目をそらす。

「いや……分からないならいいんだ」
「はぁ、分からないので、じゃあいいんですね?」

機械的に問いかけられ、大河内は悲しそうな顔で頷いた。
それが全く気にならないのか、理緒はジュリアが差し出した温かいミルクのカップを受け取り、口に運んだ。

「ありがとうございます」
「気にしないで。ドクター大河内はブラックでいいわね」
「すまないね」

手馴れた動作でバリスタを操作してカップをセットしてから、ジュリアは理緒の正面に腰を下ろした。

「片平さん。元老院から正式な決定が下されたわ。あなたは、これから特A級スイーパーとして扱われることになったわ」
「はぁ、そうなんですか」

どうでも良さそうに頷いた理緒に、ジュリアは続けた。

769 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:22:54.30 ziU5p5mf0 748/1225

「特A級スイーパーは、日本には、あなたを含めて二人しかいないわ。もう一人は言わなくても分かるわね?」
「はい。汀ちゃんですね」
「嬉しくないの? 給与手当ても、待遇面も、今までとは段違いに良くなるわ」
「特には……別にそういう、大人の人の事情って、私、よく分からないもので」

淡々とそう言い、理緒はミルクを口に運んだ。
ジュリアが怪訝そうな顔で大河内を見る。
大河内はしばらく押し黙った後、ジュリアの隣に腰を下ろした。

「理緒ちゃん。だいぶ紹介が遅れたが、こちらは、ジュリア・エドシニア教授だ。今回は君達を助けるために、アメリカから派遣されてきた。私達と、昔仕事をしたことがある、元マインドスイーパーの一人だよ」
「とはいっても、私が出来ることなんて、普通のダイブだけだったんだけれどもね」

微笑んだジュリアに、ミッフィーの人形を抱きながら理緒は笑い返した。

「わざわざ私なんかを助けに来てくれて、ありがとうございます」
「よく聞いてくれ」

大河内は含みをこめてそう言うと、きょとんとした理緒を真正面から見た。

「君を助けるために、三人のマインドスイーパーが死亡した。高畑はまだ目を覚まさない。そのことについて、君はどう思う?」
「そうなんですか」

770 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:23:44.47 ziU5p5mf0 749/1225

理緒は首を傾げた。

「死んだんですか」
「高畑はまだ死んではいないよ」
「他の三人は、どうして死んだんですか?」
「スカイフィッシュの攻撃を防ぐことが出来なかった。言うなれば、君の盾になったようなものだ」

どこか、大河内の口調に責めるような語気が混じってくる。
理緒は、それに全く動じることもなく、ただ淡々と言葉を口にした。

「はぁ、それはありがとうございます」
「ありがとう……?」

呆然とした大河内に、理緒は頷いた。

「いえ、私なんかのために命を落としてくれて、勿体無いなぁと。それだけです」
「悲しいとか、苦しいとか、心に来るものは何かないのかい?」
「うーん……」

理緒は、意味が分からないという顔をしてから、息をついた。

「特には……」

逆に困ったような顔をされ、大河内は深くため息をついた。

771 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:24:19.04 ziU5p5mf0 750/1225

「ドクター大河内。その話題はやめましょう。この原因は、私達です」
「ジュリアさん、しかし……」
「この子を責めても何も変わりません。お気持ちは分かりますが……」
「責めているわけではない。責めるのなら、何も出来なかった私自身をだ」

大河内はもう一つため息をつき、バリスタの方に歩いていったジュリアを目で追った。

「ドクター大河内のサポートは完璧でした。目的も達成しました。確かに犠牲はありましたが、私達はそれを覚悟してこのミッションに臨みました。結果は上々です」
「上々……」

ジュリアからコーヒーを受け取り、しかしそれに口をつけずに、大河内は声を荒げた。

「人が死んでいるのに、上々はないんではないですか?」
「上々です。それ以外の言葉は、見つかりません」

大河内の言葉を打ち消し、ジュリアはため息をついた。
その悲しそうな顔を見て、大河内が言葉を飲み込む。

「惜しむらくは、ドクター高畑がタイムアップにより、テロリストの排除に失敗したことです。これから、テロリスト達は、より慎重な行動をしてくることでしょう」
「テロリスト……」

そこで、大河内はハッとして理緒を見た。

「理緒ちゃん、まさかとは思うが……君は、あのテロリストと知り合いなのか?」

問いかけられ、理緒は特に隠す気配もなく、元気に頷いてみせた。

「はい」

772 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:24:57.49 ziU5p5mf0 751/1225

「何だって……?」

大河内の顔が青くなる。
ジュリアも息を呑んで、そして声を低くして理緒に聞いた。

「どこで会ったの?」
「少し前に赤十字病院で会いました。工藤一貴さんというらしいです。あの人、テロリストなんですね」
「工藤……一貴……」

そこまで言って、大河内は、自分が理緒に対して何も説明していなかったことに気がついた。
言葉に詰まった彼を横目に、ジュリアが言葉を引き継いだ。

「彼の型番はX、十番目のナンバーズよ」
「ナンバーズ?」
「少し前に、特A級からS級のマインドスイーパーには、ナンバーがつけられることになったの。ちなみに、あなたはナンバー14に当たるわ」
「そうなんですか」

特に感慨はわかなそうに理緒は言うと、大きくあくびをしてカップをテーブルに置いた。

「赤十字病院まで潜入してたのか……」
「監視映像を当たらせるわ。理緒ちゃん、いつ頃?」
「二ヶ月くらい前です」

773 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:25:32.37 ziU5p5mf0 752/1225

「警備を強化させてくれ。今の奴らの狙いは理緒ちゃんだ」
「私、狙われてるんですか?」

首を傾げて、理緒は面白そうにフフフと笑った。

「何だか鬼ごっこみたいですね」
「理緒ちゃん、冗談を言っているんじゃ……」
「……そうよ、鬼ごっこ。命をかけて、あなたは鬼ごっこをしなきゃいけないの」

しかしジュリアが大河内の声を打ち消した。
彼女はやるせない表情で理緒を見て、悲しそうに呟いた。

「ごめんなさい……あなたを巻き込んでしまったのは、私達の落ち度だわ」
「どうして……謝るんですか?」
「分からなくてもいい。いいの……でも、謝らせて……」
「はぁ、そういうことなら……」

理緒は釈然としなさそうに頷いてから、小さく呟いた。

「汀ちゃんと遊びたいな……」

それを聞いて、大河内は一瞬押し黙った後、口を開いた。

「すぐに遊べるさ。君の力を使えば」

774 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:26:00.69 ziU5p5mf0 753/1225

「本当ですか?」
「ああ。君が心の中に持っている、汀ちゃんの精神中核を、無事に彼女の中に戻せば、汀ちゃんは目を覚ます」
「それなら簡単ですね」

頷いて、理緒は微笑んだ。

「精神中核がない人間の心の中って、赤ちゃんと同じですもの」
「その通りだよ。汀ちゃんのダイブには、君一人で入ってもらいたい。私達は、外部からのハッキングを防ぐことに全力を尽くす」
「分かりました」

理緒は点滴台を適当に弄りながら、どこか焦点が合わない目で大河内を見た。

「で、いつダイブするんですか?」

775 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:26:35.60 ziU5p5mf0 754/1225



もう既に準備がなされていたようで、理緒による汀へのダイブは、それから二時間後のことだった。
汀の横には、丸くなって眠っている小白がいる。
その頭を撫で、理緒は汀の手を握った。

「汀ちゃん……」

そう呟いて、彼女は口の端を吊り上げて、形容しがたい、人形のような冷たい笑みを発した。

「おそろいだね、私達」

その冷たい、感情が麻痺したかのような顔を見て、大河内が息を呑む。
ジュリアと他のマインドスイーパー達が、計器を操作しながら目配せをした。
そして彼女は口を開いた。

776 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:27:02.89 ziU5p5mf0 755/1225

「片平さん、いい? 汀さんの精神中核を元に戻すだけの簡単な作業よ。精神中核を触れるあなたなら、一瞬で終わるはず。時間は三分間に設定させてもらうわ」
「いいですよ。それで」

理緒とは思えないほど、単純に、即決に彼女は言うと、自分でヘッドセットを被った。

「いいか、理緒ちゃん。精神中核を戻した途端に、精神世界が構築されて、汀ちゃんのスカイフィッシュが現れるかもしれない。そのときは、上手くフォローして逃げてくれ」
「はい」

頷いて、理緒はニッコリと笑った。

「まぁ、死んだらその時はその時でお願いします」

777 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:27:34.46 ziU5p5mf0 756/1225



理緒は目を開いた。
そこは、いつかダイブした赤ん坊の意識にそっくりな空間だった。
白い珊瑚礁の砂浜に、真っ青な海、エメラルドブルーの空が広がる空間だった。
それ以外何もない。
波打つ水の音が周囲を包んでいた。
理緒は周りを見回した。
少し離れた場所に、びっくりドンキーのテーブルが、砂浜にポツリと置いてあった。

「ダイブ完了しました。精神中核を入れる箱を見つけました」

理緒の足元に、小白が擦り寄ってニャーと鳴く。

「小白ちゃんも見つけました」

そう言った理緒は、ヘッドセットからノイズ音しか返ってこないのに疑問を感じ、何度かスイッチを操作した。
しかし、ヘッドセットから反応がない。
壊れた……ということは考えられない。
これはイメージで作られた特殊な器具だ。

778 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:28:03.70 ziU5p5mf0 757/1225

現実のものではない。
外的衝撃が加わったわけでもないのに、故障ということはありえないのだ。
考えられる原因は三つ。
外部からのハッキングか。
オペレーションを行う側に何らかの不具合が生じたか。
そして最後に、『時間軸の不一致』か。
理緒は、ぼんやりとそんなことを考えながら、小白を抱き上げて胸に抱えた。
通信が使えなくなって、普通だったら取り乱して泣き叫ぶところを、理緒はいつもの彼女とは百八十度違い、冷静極まりない頭で整理していた。
先ず一つ。
外部からのハッキング。
その兆候はない。
次に二つ目。
これは、ダイブしている側の自分にはどうすることもできない。
ダイブ時間内に、回復してくれることを祈るばかりだ。
そして問題の三つ目。
おぼろげに、昔医師に聞いたことのある事を思い出す。

「時間軸の不一致かぁ……」

779 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:29:27.37 ziU5p5mf0 758/1225

口に出して呟く。
夢を見ていて、たった五分寝ただけなのに、何時間も経っていると感じたことはないだろうか。
その現象だ。
つまり、精神世界内の時間軸が安定せず、現実世界の一分が何十時間になったりもすることがある。
あくまで体感的なものであり、そんな患者は極めて稀だったのだが、理緒は随分前に、時間軸が現実と精神で合致していない赤ん坊の治療を行ったことがあった。
そのときも、このように通信が使えなくなった。
その時の症例に、よく似ている。
理緒はしゃがみこみ、足元の砂を手に取った。
そして、ゆっくりと下に落とす。
砂は、落ちなかった。
ある程度の塊になって、空中に留まっている。
いや、見えるか、見えないかの速度でものすごくスローモーションに落ちている。
海の波はきちんと動いて時間を刻んでいるため、不思議な光景だ。
理緒は、小さくクスリと笑うと、あたりに砂を撒き散らした。
まるで星空のように、彼女を取り囲んで白い珊瑚礁砂が空中に静止する。
小白がニャーと鳴いて、砂を手でカリカリと掻いた。

780 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:29:53.71 ziU5p5mf0 759/1225

「こんなところにずっといたんだ。何年じっとしてたの?」

砂の落ち方から見ると、推定一分あたりが百倍ほどの長さに延長されているようだ。
どことなく老猫のようになっている小白に、理緒は穏やかな顔で聞いた。
言葉が分かるのか、小白はニャーと鳴いて目を伏せた。

「そっか。早く起こしてあげなきゃね」

病院服のポケットから、黄色に輝く汀の精神中核を取り出し、理緒はニッコリと笑った。
そう言って理緒は、びっくりドンキーのソファーに腰を下ろした。
そしてメニューを広げる。
そこには何も書いていなかった。
精神中核をつまんで、メニューの中にポトリと落とす。
中核はドロリと溶けると、たちまち白いメニューの中に広がった。
それが写真や文字を形作り、たちまち食事メニューを形成する。

781 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:30:29.21 ziU5p5mf0 760/1225

瞬きをした次の瞬間だった。
そこは、びっくりドンキーの店内だった。
いつも汀達が座っている席だ。
目の前には、山盛りのメリーゴーランドのパフェ。
理緒の目の前には、汀がぼんやりと、定まらない視線で腰を下ろしていた。
小白がニャーと鳴いて、汀に駆け寄る。
理緒は嬉しそうに笑って、スプーンを手にとって、パフェを口に運んだ。

「おはよ、汀ちゃん」

呼びかけられ、汀は目を開き理緒を見た。
そして、信じられないといった顔で、自分の顔や胸を触る。
全くの健康体。いつもの病院服だ。

「理緒ちゃん……?」

怪訝そうにそう聞いて、汀は珍しくどもりながら言った。

「わ……私、私……確かに撃ち殺されて……」
「汀ちゃんは死んでなんていないよ。一時的に仮死状態になっただけ。何も問題はないの」
「理緒ちゃん……?」

782 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:31:07.87 ziU5p5mf0 761/1225

いつもの喋り方と違い、淡々と口を開く理緒に、不思議な目を理緒は向けた。

「……誰?」

しばらく考えて、汀はソファーから腰を浮かせて、身構えた。
理緒はきょとんとしてから、左腕に巻いた包帯を見た。

「ああ、これ?」

あっけらかんとそう言って、理緒は包帯を解いた。
凄まじい量の切り傷が、痛々しい様相を呈していた。
まだ血がにじんでいる縫い傷もある。
呆気に取られた汀を尻目に、ケラケラと笑いながら、理緒は言った。

「私、自殺病にかかっちゃって。スカイフィッシュ症候群っていうのかな? それでね、治してもらったんだけど、どこか頭のネジが抜けちゃったみたいで、みんな変な顔するの」
「スカイフィッシュ症候群……? 嘘……!」

立ち上がった汀を淡々とした目で見て、理緒は続けた。

「嘘じゃないよ。何だかね、起きてからずっと、頭の奥のほうに、何かがつっかえてる気がするんだけど、何だか分からないの。私、おかしい?」
「心神喪失……圭介に何をされたの!」
「スカイフィッシュを、私の手で殺したんだよ」

783 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:31:42.42 ziU5p5mf0 762/1225

理緒の言葉に、汀は絶句して手で口を抑えた。

「そんな……嘘……そんな、酷い……酷すぎる……」
「一貴さんもそう言ってたけど、私は普通だよ? でも、私を助けるために三人もマインドスイーパーが死んじゃったんだって。ね、汀ちゃん。お金とか請求されるのかな?」
「理緒ちゃん……理緒ちゃん」

言葉に詰まり、汀はよろよろと理緒に近づくと、その体をぎゅ、と抱きしめた。

「汀ちゃん……?」
「理緒ちゃん!」

汀は強く唇を噛んだ後、両目から涙を流した。

「ごめん……ごめんなさい……私、私、たった一人の友達なのに……友達なのに……!」
「友達だよ? 私達はずっと、友達じゃない?」
「私、理緒ちゃんに何もしてあげられない……もう理緒ちゃん、元に戻れない……私のせいだ……元老院が、私のせいでそんなことさせたんだ……!」
「何泣いてるの? 汀ちゃん、ちょっとおかしいよ?」
「うう……ぐっ……」

784 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:32:09.82 ziU5p5mf0 763/1225

何度かしゃっくりを上げて、汀は理緒に背中を撫でられながら息を整えた。
そして、ニッコリと笑っている理緒と顔をつき合わせる。

「大丈夫。汀ちゃんは私が守るよ。だって、私達、友達じゃない」

それを聞いて、汀はサッと顔を青くして周囲を見回した。
いつの間にか、ガヤガヤとしていた周囲の声がピタリと止まっていた。
行きかっていた人々の動きも停止している。
まるでDVDを一時停止させたかのような感覚だ。

「え……」
「まだ時間軸が元にもどらない……汀ちゃん、私に任せてね?」

可愛らしく首を傾げて笑う理緒の背後にいた人間の体が、風船のようにボコリと膨らんだ。

「いや……いや……」

耳を押さえて首を振った汀の前で、次々と人々の体が膨らんでいく。
服が弾け、肉が飛び散り、血液が吹き荒れ、まるで脱皮するかのように、人間の皮の中から、ズルリと奇妙なモノが這い出してきた。
まるで玉のような胴体に、ムカデを連想とさせる足が沢山ついている。

785 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:32:36.78 ziU5p5mf0 764/1225

胴体から伸びる体には幾十もの腕。
腕にはそれぞれナタが掴まれている。
ドクロのマスク。

「スカイフィッシュのオートマトンだ……」

震えながら汀はそう呟いた。
五十は下らないだろうか。
血の海と化したびっくりドンキーの店内に、その奇妙な生物がカサカサと動き出す。

「オートマトン……?」

聞き返した理緒に、汀は過呼吸になりかけながら答えた。

「理緒ちゃんだけでも逃げて……分裂型スカイフィッシュは、自分のダミーを無限に作り出せるの……」
「逃げる? どうして?」

全く恐怖を感じていないのか、理緒はニコニコしながら前に進み出た。

「汀ちゃん、私のこと嫌い?」
「理緒ちゃん! 遊びじゃないの! 死んじゃうよ!」
「答えて」

理緒はそう言って、手にコップを持った。

786 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:33:04.39 ziU5p5mf0 765/1225

それがぐんにゃりと形を変え、出刃包丁に変わる。

「変質……」

呆然と呟いた汀に、理緒はもう一度問いかけた。

「汀ちゃんは、私のこと嫌い?」
「違うよ……私、私……理緒ちゃんのこと、大好きだよ……」
「私もだよ」

満足そうに頷いて、理緒は悠々とオートマトンに対して足を進めた。
一瞬後、理緒の体が掻き消えるようにして視界からなくなった。
オートマトンの首が飛んだ。
理緒が、知覚することも出来ないほどの動きで、地面を蹴り、自分の身長ほども飛び上がったのだった。
ゴロンゴロンとオートマトンの首が転がる。
それは汀の前まで転がっていくと、ケタケタと哂って、爆散した。
血まみれになりながら硬直した汀の目に、あろうことか、天井に『着地』した理緒の姿が映る。
理緒は重力を完全に無視した動きで天井を蹴ると、落下ざまに、近くにいたオートマトン、三体の首を、回転しながら抉り斬った。
そこには、怖い怖いと震えていた少女の姿はもうなかった。

787 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:34:47.46 ziU5p5mf0 766/1225

あったのは、ただ機械的に敵を駆逐する。
それだけの、プログラムのような存在。
またオートマトンの首が転がる。
汀でさえも知覚出来ないほどの動きで、理緒はオートマトンの首を切り落としていく。
敵は、全く反応できていなかった。

「やめて……」

しかし、汀は小さく、震える声でそう言った。
目を見開き、ニコニコと笑った理緒が、壁に『着地』する。
その鼻から、タラリと鼻血が垂れた。

「理緒ちゃん死んじゃう! やめてえええ!」

オートマトンの一体が、腹部まで両断されて地面に転がる。
そこで、ザザッ、という音がして理緒の耳についているヘッドセットの通信が回復した。

『片平さん! 状況を説明して!』

踊るようにオートマトンの首を切りながら、理緒は息を切らすこともなく言った。

「分裂型スカイフィッシュとかいうのに囲まれてます。沢山殺しましたけど、キリがありません」
『殺した……? あなたが……?』

788 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:35:26.65 ziU5p5mf0 767/1225

絶句したジュリアの声に、理緒はあっけらかんと笑った。

「あはは! 面白いですね! 夢の中って、こうやって動くものだったんだ!」
「理緒ちゃん駄目! 脳を過剰に動かすと、本当に死んじゃう!」

両方の鼻の穴から血液を垂れ流している理緒に、泣きながら汀が叫ぶ。
それを聞いて、ヘッドセットの向こうで大河内が大声を上げた。

『理緒ちゃん、脱出するんだ。ダイブの時間はあと二分だ。分裂型スカイフィッシュは、本体を倒さないと何の意味もない』
「でも、でも先生! 面白い!」

正気を失ったように笑いながら、理緒はオートマトンの頭に包丁を突き立てた。

「人を殺すのって、凄く面白い!」
『理緒ちゃん、脱出しろ!』

大河内が怒鳴る。
しかしそれに構わず、理緒は暴れ続けた。

『強制的に切断しますか?』

ジュリアの声に、大河内が息を切らせながら答える。

『駄目です! 汀ちゃんの精神が安定していません。今切断は出来ません!』

789 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:35:58.86 ziU5p5mf0 768/1225

汀は、ガチガチと歯を鳴らしながら、飛び散った血液でぬるりとぬめるテーブルに手をついて、腰を抜かしたまま、何とか立ち上がった。
そして、よろよろと理緒に向かって歩き出す。
理緒が、地面を滑りながら汀の脇に移動した。

「待っててね汀ちゃん! すぐに皆殺しに……」
「理緒ちゃん」

汀は、そっと理緒の肩に手を回し、抱き寄せた。

「そんなに……無理しなくてもいいんだよ」

耳元で、そっと囁く。
理緒は少しの間きょとんとしていたが、目を手でごしごしとこすった。

「あれ……? 血が目に入ったかな……」

理緒は泣いていた。
自分でも何故か分からないのだろう。
混乱しながら、理緒は目を拭う。

「あれ……? あれ……?」
「帰ろ。もう、帰ろ?」

汀にそう言われ、理緒は深く息をついて、自分達を遠巻きにしているオートマトンを、名残惜しそうに見回した。

790 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:36:26.07 ziU5p5mf0 769/1225

そして包丁を脇に投げ捨てる。

「分かったよ。汀ちゃんがそう言うんなら」
「小白。帰るよ」

汀がそう言って、小白を床に放る。
ポン、という音がして、巨大な化け猫に変わった小白の背に乗り、二人の少女は、手を絡ませあった。

「汀ちゃん……どうして泣いてるの?」

泣笑いながら理緒がそう聞く。
血まみれの顔でそう聞く。
汀はしゃっくりをあげながら、自分の顔を両手で覆った。
小白がオートマトンを薙ぎ倒しながらびっくりドンキーの出口に向かって走り出す。
そして、扉に向かって体当たりをした。
そこで、彼女達の意識はブラックアウトした。

791 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:37:27.40 ziU5p5mf0 770/1225



「どういうことなの、せんせ……?」

汀はかすれた声で、ベッドに横になりながら大河内に向かって言った。

「汀さん、それは……」
「あなたとは話してない……」

ジュリアの声を打ち消し、汀は俯いたままの大河内に問いかけた。

「嘘だよね……? せんせが、そんな酷いことさせるわけないよね? 理緒ちゃんを、壊すわけないよね?」

すがるようにそう言われ、しかし大河内は答えずに、汀の隣に腰を下ろした。

「理緒ちゃんには少し眠ってもらった。理性的な話が出来るような状態ではないからね……」
「せんせ!」

悲鳴を上げた汀に、大河内はつらそうな顔で答えた。

「全て、ジュリアさんが説明したとおりだよ、汀ちゃん。君を助けるために、私達は、片平理緒ちゃんの精神を壊した」

792 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:38:00.75 ziU5p5mf0 771/1225

それを聞いて、汀は唖然として言葉を飲み込んだ。
しばらく葛藤してから、彼女は大河内を涙目で睨んだ。

「……人でなし……!」

押し殺した声は、大河内の心を直撃したらしかった。
言葉を発しようとして失敗した彼の肩を叩き、ジュリアが首を振る。
そして彼女は口を開いた。

「私達を、どんなに非難してくれても構わないわ。それだけのことをしたのですもの。でも、現にあなたも、片平さんも無事に生きています。その事実を、厳粛に受け止めてください」
「…………」

言い返す気力がないのか、汀は俯いて唇を噛んだ。
しばらくして、彼女はぼんやりと呟いた。

「……圭介は?」
「片平さんを助けるために、スカイフィッシュと戦って、シナプスの臨界点を超えたために、意識不明の重態よ。深追いしたのが悪かったの……」
「殺してやる……」

汀が、小さく呟いた。
その不穏な言葉に、ジュリアと大河内が息を呑む。

「工藤一貴……あの男、殺してやる……」

793 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:38:32.76 ziU5p5mf0 772/1225

ギリ、と歯が鳴るほど噛み締め、汀は動く右手を力いっぱい握り締めた。
彼女の脇で眠っていた小白が起き上がり、怪訝そうにその顔を見上げたほどだった。

「汀ちゃん……滅多なことを言うものではない。それに、ナンバーXは特異なタイプだ。君では殺せない」

大河内が息を吐いてから言った。
汀は口の端を歪め、そして続けた。

「出来るよ。私もスカイフィッシュになればいいんだ」
「汀さん、それはいけない!」

ジュリアが青くなって叫んだ。
そして汀の肩を掴んで、強く引いた。
悲鳴を上げて硬直した汀に、ジュリアは押し殺した声で言った。

「あなたを助けるために、沢山の人が死にました。沢山の犠牲を払っています。それで、あなたがスカイフィッシュ変異体になったら、元も子もない。医者としての私達と、あなた自身を愚弄する気ですか!」
「離してよ……」

794 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:39:02.86 ziU5p5mf0 773/1225

「いいえ離しません。あなたは人を殺すために、マインドスイーパーになったんですか? 違うでしょう! 人を助けるためにマインドスイーパーになったんでしょう!」

耳元で怒鳴られ、汀はハッとしてジュリアを見た。

「人を……助ける……」
「ええ……ええ! そう。あなたは人を助けるために、マインドスイーパーになった。違う?」
「どうしてそれを知ってるの?」

問いかけられ、ジュリアは一瞬置いて汀から目をそらし肩から手を離した。
そこで大河内が、汀の隣に移動してジュリアを見た。

「私も聞きたいな。高畑が元特A級のマインドスイーパーだったことは、私達と元老院しか知らない極秘事項だったはずだ。どうしてあなたがそれを知っていた?」
「それは……」
「昔一緒にダイブしたことがあると仰っていたな。いつ、どのような案件か聞いてもいいだろうか?」
「…………」
「黙秘するのか?」

いつになく厳しい口調で問い詰める大河内を見上げ、そこから目をそらして汀は歯を噛んだ。

795 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:39:28.83 ziU5p5mf0 774/1225

「あなた……誰なの?」
「私は……」

ジュリアはしばらく考えてから答えた。

「……私は、『機関』から派遣されてきました。ナンバーズの回収を目的としています」
「機関……だって?」

大河内が唖然として色を失う。
ジュリアは表情を変えず、大河内を見た。

「知っているのですか? ドクター大河内」
「…………」
「今度はあなたが黙秘ですか……まぁいいでしょう。私の受けている任務は二つ。ナンバーズの保護、そして敵対するナンバーズの排除です。そのための手段は問いません」
「言うことを聞かないマインドスイーパーは殺してこいってこと?」

汀が小さな声でそう聞く。
ジュリアは寂しそうに微笑んで、答えた。

「ええ。今回は『失敗』しました。しかし、片平理緒さんを特A級スイーパーに認定し、ナンバーズに迎え入れることに成功しました。機関は、その功績に大きく喜んでいます」

796 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:39:59.00 ziU5p5mf0 775/1225

「機関って何? 私達をどうするつもりなの?」

汀がそう問い詰める。
しかしジュリアは椅子を立ち上がると、出口に向かって歩き出した。

「逃げるの?」

挑発的に言葉を投げつけられ、彼女は足を止めた。
そして振り返らずに言う。

「……今はゆっくり休んでください。お話は、後ほどゆっくりとさせてもらいます」

部屋を出て行くジュリアを見送ることしか出来ず、汀はまた歯噛みした。
それを見て、大河内が口を開きかけ、しかし言葉を出すことに失敗してまた口を閉じる。
彼は息をついて、髪をガシガシと、困ったように掻いた。
そして汀に言う。

「機関というのは、赤十字病院を統括している、元老院と対を成す組織だよ。世界中の病院は、機関と元老院が統括してる。機関は研究側、元老院は実習側だ。言うなれば、機関は病院側のラボだよ」
「人体実験を行ってるの?」

797 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:41:09.99 ziU5p5mf0 776/1225

汀にそう問いかけられ、大河内は口をつぐんだ。

「せんせ、どうして私に隠し事をするの? 私のこと、嫌いになっちゃったの?」

すがるように汀に言われ、しかし大河内は答えなかった。
汀の目に涙が盛り上がる。
大河内は唇を噛んでから、小さな声で言った。

「汀ちゃんのことが嫌いになったんじゃない。ただ、世の中には、子供は知らない方がいいこともあるんだ」
「私はもう子供じゃない!」

ヒステリーを起こしたように甲高い声で怒鳴った汀を見て、大河内は首を振った。

「……すまない。君はもう、十分に大人だったな。でも、知らない方が幸せなことは、世の中に沢山あるんだ。汀ちゃんには幸せになって欲しい。だから、知らないでいて欲しいんだ」

798 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:41:47.57 ziU5p5mf0 777/1225

「せんせのお話が難しくてよく分からないよ……」
「それでいい。だから、汀ちゃんは、そのままでいてくれ。殺したいなんて、悲しいことを言わないで、ナンバーXも助けてあげることが出来る人になるんだ」
「あの人を……助ける?」
「患者を助けるのが、医者の役割だろう?」

問いかけられ、汀は唇を噛んだ。

「そんな風に……割り切れないよ……」

彼女の呟きは、空調の音にまぎれて消えた。

799 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:42:23.71 ziU5p5mf0 778/1225



凄まじい音を立てながら、一貴が、岬の持っている洗面器に胃の中のものをぶちまけた。
赤黒く、血が混じっている。

「いっくん……いっくん!」

青くなって岬が一貴の名前を呼ぶ。
その様子を見ながら、結城が息をついた。

「先生、いっくんが……いっくんがまた血を……」
「分かってる。見れば分かることをキャンキャン喚かないでよ、うっとおしい」

髪の毛を後ろでまとめ、結城は一貴の背中をさすった。

「おい、お前また言うことを聞かずにダイブしたな。隠し事が出来ない体なんだよ、お前は」

一貴は答えようとしたが、またくぐもった声を上げて吐血した。
深くため息をついて、結城はポケットから出した注射器の中の金色の薬を、一貴の右上腕に刺して押し込んだ。

「少し我慢しろ。すぐ良くなる」

800 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:42:50.48 ziU5p5mf0 779/1225

彼女が言った通り、一貴の真っ青な顔に、しばらくして血色が戻り、彼は体を弛緩させてベッドに倒れこんだ。

「いっくん!」

岬が、慌てて洗面器を台に置いて、彼を抱きとめる。

「いちゃつくなら別のとこでしてくれないか?」

かったるそうに呟いた結城を睨んで、岬は言った。

「いっくんがこんな調子だって言うのに……どうしてそんなに冷静なんですか!」
「自業自得だろ。こいつは、自分で望んで自分の命を縮めてるんだ。あたしの知ったこっちゃないね」
「先生!」
「うるさいな……また一貴がどうかしたの?」

そこで、別の少年の声がした。
岬が青くなり、一貴を守るように、彼に覆いかぶさった。

「た……たーくん……」

801 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:43:36.62 ziU5p5mf0 780/1225

カチュン、カチュン、と金属の音を立てながら、中肉中背の、白髪で猫背な男の子が部屋に入ってきた。
目にはくっきりとクマが浮いている。

「起きたのか、忠信(ただのぶ)」

呼ばれて、忠信と言われた少年は、突っ伏している一貴と岬を見てから、手に持っていた、刃渡り十五センチほどのバタフライナイフを、器用に指先でくるくると回し、曲芸師のように空中に放り投げ、見もせずに折りたたんで手に掴んだ。
忠信は、岬を見てから呆れたように言った。

「みっちゃん、まだ俺のこと警戒してるの?」
「仕方ないだろう。とりあえずナイフを仕舞え」

結城にそう言われ、忠信は腕を振り、一瞬でバタフライナイフの刃を出すと、結城の眼前にそれを突きつけた。

「……俺に指図すんじゃねぇよ」
「いいや指図するね。お前らが生きていられるのはあたしのおかげだ。自覚しろ、クソガキ」
「言ってくれるじゃねぇか、クソババァ」

802 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:44:58.24 ziU5p5mf0 781/1225

睨み合う二人を横目に、岬は強く一貴を抱き寄せた。
そして、視線が定まらない彼の耳元でそっと囁く。

「大丈夫。あたしが守るから……大丈夫」

忠信は岬を見てから、ナイフを一閃して結城の白衣の胸を切り裂いた。
力加減をしたのか、服がめくれ、彼女の下着が露になる。

「それとも、あんたが俺の相手をしてくれるってわけ?」
「いい加減にしろよ……」

結城が歯を噛む。
彼女をおちょくるようにナイフをひらひらと振ってから、彼は音を立てて刃を回転させ、それを仕舞った。
そしてカチョカチョと揺らしながら、岬を見る。

「何、その目」
「た、たーくん……危ないよ……?」
「いいねその目。抉り取りたいくらいだ」

そう言って無邪気に笑い、彼は結城に言った。

「で、一貴はまた失敗したの?」
「見ての通りだ」

803 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/16 16:45:32.95 ziU5p5mf0 782/1225

ぶっきらぼうに結城がそう返す。
忠信はニヤリと裂けそうなほど口を開いて笑った。

「分かった。じゃあ次は俺が行くよ」
「何?」

岬も驚いたように顔を上げる。

「いい加減、おイタが過ぎるんじゃないかな、なぎさちゃん。俺がきっかり殺してくる」
「駄目だよたーくん! なぎさちゃんは、あたし達の大切な……」
「大切な……何?」

無機質な表情で、忠信はバタフライナイフを回転させ、岬の頭に当てた。
岬が震えながら一貴に抱きついて目を閉じる。
忠信はニヤニヤと笑いながら、岬の背中をナイフの刃でなぞりつつ、言った。

「……ああ、そう。大切な友達だからね」

彼のどこか狂ったような言葉は、しばらくの間空中を漂っていた。


続き
【オリジナル】「治療完了、目をさますよ」【長編小説】(4)

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