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【オリジナル】「治療完了、目をさますよ」【長編小説】(1)

278 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:22:03.05 tKa1gWj60 269/1225

「ダイブ続行不可能! マインドスイーパーが、精神区画内にて捕縛されました!」

ラジオのミキサー室のような部屋で、ヘッドフォンをつけた白衣の医師が大声を上げる。
大河内が青ざめた顔で、椅子に座っている十五、六歳程の少年を見た。
頭にはマスク型のヘルメットが被せられている。
そして、隣にはベッドが置いてあり、両手両足を四方に縛りつけられ、さるぐつわをかまされた女性が磔られていた。
女性の頭にも、マスク型ヘルメットが被せられている。

「馬鹿な……たかがレベル3の患者だぞ! どうして狙われた?」

いつになく強い語気で彼が言うと、計器を操作している別の医師が、焦った口調で言った。

「逆探知されます! このままでは、マインドスイーパーの意識が乗っ取られます!」
「切断だ! 全ての回線を緊急切断しろ!」

大河内が大声を上げる。

279 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:23:18.41 tKa1gWj60 270/1225

そこで、椅子に座っている少年の体が、ガクガクと揺れ、次いで鼻からおびただしい量の血液が流れ出した。
痙攣している少年の頭からマスクをむしりとろうとして大河内が近くの看護士に羽交い絞めにされて止められる。

「駄目です! 今切断したら、心理壁に重大な障害が残ります!」
「このままだと、どの道殺される!」

ゴパッ、と少年が血の塊を吐き出した。
そして、荒く息をつきながら、口の端を吊り上げて、およそ人間とは思えない形相で、ニヤリと笑った。

「……遅かったか……!」

大河内が、それを見て硬直する。

「はは……はは……はは……ははははは!」

少年が突然、高笑いをした。

280 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:23:57.96 tKa1gWj60 271/1225

そして生気を失った瞳で大河内と、周囲の医師たちを見回す。

「ごきげんよう、日本赤十字病院の皆さん」

体は動かさず、首だけがゆらゆらと揺れている。
声はガラガラとしわがれていて、まるで老人のようだった。

「僕の勝ちだね。今回も、君達の『負け』だ」

勝ち誇ったように少年は言うと、目を見開いて、また笑った。

「はは……次の『試合』はいつにしようか?」

「ふざけるなよ! 罪のない患者と、マインドスイーパーの命を奪って、何が目的だ!」

大河内が語気を荒げる。

「目的? 目的ねえ……」

少年は首をかしげ、そしてはっきりと言った。

「復讐と、趣味かな」

281 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:24:50.45 tKa1gWj60 272/1225

「こいつ……!」
「またね。今度はもっと楽しい戦場で会おう。それと」

少年が、体を揺らして笑った後、続けた。

「もっと、歯ごたえのあるマインドスイーパーを用意した方がいいよ。その方が、お互い楽しゴボッ!」

言葉の途中で、少年が盛大に吐血した。
そしてゆっくりと床に崩れ落ちる。
起き上がろうとした彼の目、耳、口、鼻、顔に開いている全ての穴から、バッシャァッ! と血が飛び散った。
それをモロに被り、大河内は、床で痙攣している少年を見た。
そして近づき、マスク型ヘルメットをむしりとり、歯を強く噛みながら抱き上げる。
男の子は、もう事切れていた。

282 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:25:57.42 tKa1gWj60 273/1225

力を失った亡骸を抱いて、大河内が血まみれの部屋を見回す。
誰も、言葉を発する者はいなかった。
ベッドに縛り付けられていた患者も、少年と同様の様子になって事切れている。

「……患者の脈拍、停止しました……」
「心理壁の崩壊を確認。復旧は不可能です……」

しばらくして、女性の看護士が、計器の前で小さな声で言う。
大河内は、少年を抱いて大声を上げた。

「何をしてる! 患者にAED! この子を即手術室に運ぶんだ!」

283 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:27:00.06 tKa1gWj60 274/1225



第5話 白い世界



びっくりドンキーの店内、客があまりいない隅の席で、汀はすぅすぅと寝息を立てていた。
その正面で、圭介が携帯電話を弄っている。
表情は硬い。
汀の右手にはリードがつけられ、彼女の膝の上には飲食店内だというのに、白い、小さな猫が乗って、丸くなって眠っていた。
しばらくして、オーナーに案内され、髭が特徴的な男性が顔を出した。
大河内だった。

「汀ちゃんは……寝ているのか」
「お前の到着があまりに遅いから、こんなところでクスリを投与することになっちまった」

小さな声で毒づいて、圭介が汀の隣を手で指す。

「座れよ」
「助かる」

頷いて、大河内は汀の隣に腰を下ろした。

284 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:27:44.65 tKa1gWj60 275/1225

そして

「この猫が、マインドスイーパーの力があるとかいう猫か。こんにちは、私は大河内だ。小白ちゃん」

そう言って、眠っている猫の頭を軽く撫でる。
オーナーが大河内の注文を聞いて、頭を下げて下がる。
そこで圭介は、暗い表情のまま大河内に言った。

「ここには来て欲しくなかった」
「急を要するんだ。元老院からの出頭命令をお前達が無視しなければ、私が出向くこともなかった」

眠っている汀を見て、そして彼は続けた。

「どうして無視した?」
「仕事が終わってここに来ることは、汀の中でとても大事なプロセスなんだ」

285 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:28:42.39 tKa1gWj60 276/1225

「過程は重視しないんじゃなかったのか?」
「それとこれとは話が違う。次元の違う話題を持ってくるな、苛々する」
「お前にしては珍しく荒れてるな」

大河内が、オーナーが持ってきたコーヒーに口をつける。

「うむ、美味い」
「ありがとうございます」

頭を下げてオーナーが下がる。
圭介はそれを冷めた目で見て、そして口を開いた。

「お前の用件は知ってる。断らせてもらう」
「話を聞きもしないで断るのか?」
「赤十字の問題は、赤十字で処理しろ。俺には関係がない。お前達の尻拭いで、大事な弾を減らしたくない」

286 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:29:20.79 tKa1gWj60 277/1225

「酷い言い草だな。何があった?」
「こっちのセリフだ」

吐き捨てて、圭介は息をついた。
そして水を口に運んで、飲み込んでから言う。

「汀の体調が思わしくない。今日のダイブも、想定していた結果を出すことは出来なかった」
「だが、成功したんだろう?」
「…………」

それには答えずに、圭介は足を組んだ。
そして大河内を、睨むように見る。

「そういうわけだ。引き取ってくれ」
「完全にご機嫌斜めだな」
「分かってもらえて嬉しい」

低い声でそう言って、圭介はまた一つため息をついた。

287 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:30:39.86 tKa1gWj60 278/1225

大河内はしばらく黙っていたが、かばんの中から資料を取り出して、圭介の前に滑らせた。

「……断ると言っただろう」
「赤十字の意向じゃない。この私、個人からの依頼だとしたら、どうかな」

圭介が顔を上げる。

「どういうことだ?」
「言ったままだ。私が、私個人の依頼として、患者の治療をお前達に頼んでいるんだ」
「何のメリットもないだろう」
「現在、赤十字病院は、自殺病患者にマインドスイーパーがダイブできない状態が続いている。もう三日だ。テロと言ってもいい」

その話が出た瞬間、圭介は知っていたらしく、顔をしかめた。

「いいじゃないか。供給過多な人口が減る」
「それが医者の言葉か」
「ああ」

288 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:31:20.78 tKa1gWj60 279/1225

圭介はまた水に口をつけ、言った。

「……で?」
「お前達に、救ってもらいたい人間がいる。自殺病は比較的軽度だ。だが、放っておけばいずれステる(死ぬ)」
「それは、どんな自殺病にでも言えることだろ」
「偽善者といわれるかもしれないが、この患者は助けたい。それに、お前達にとっても、悪い話ではないと思うが」

大河内にそう言われ、圭介は資料を手にとってめくった。
そしてしばらく各ページを凝視した後

「へぇ……」

と興味がなさそうに言って、資料をテーブルに放る。

「悪い話ではないな」
「無駄弾を撃たせるつもりはない。だが、貴重な一発になるはずだ」

289 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:32:05.82 tKa1gWj60 280/1225

「それだけじゃないだろ」

圭介は、そう言って自嘲気味に小さく笑った。

「お前達は……いや、『お前』はナンバーX(テン)と汀をぶつけたいんだ」

大河内はその単語を聞いた瞬間、サッと顔を青ざめさせた。

「……どこからその情報を仕入れた?」

たちまち低い声になり、身を乗り出した大河内に、圭介は薄ら笑いを浮かべながら言った。

「外道め。外見は父親面してても、結局の要点はそこか」
「どこから聞いたのかと質問をしているんだ」
「世の中には親切な人が沢山いてな」

290 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:32:43.07 tKa1gWj60 281/1225

圭介は水を飲んで、そして続けた。

「それだけのことだ」
「一度、お前の身辺を警察も交えて徹底的に洗う必要がありそうだな」
「元老院が許せば、勝手にやればいい」

挑発的にそう言い、圭介と大河内はしばらくの間にらみ合った。
しばらくして大河内がため息をつき、また資料を出した。
そして圭介の前に放る。

「ナンバーX。警察はそう呼んでいる」

そこには、汀と同じような白髪の、十七、八歳ほどと思われる少年の写真があった。
病院服姿で、名前を書かれたプレートを持っている写真だ。
名前の欄には「X」と一単語だけ書かれている。

291 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:33:22.85 tKa1gWj60 282/1225

「見ない顔だな」
「そこまでの情報はないのか」
「探りあいは止めよう。俺は、お前から得られる情報を一切信用していないからな。探り合いってのは、対等な条件で行うもんだ」

そう言いながら資料をめくり、圭介はしばらくして、大河内にそれを放って返した。

「で?」
「OK、最初から話を始めよう……」

コーヒーに口をつけ、大河内は続けた。

「先日、その少年が赤十字の施設を脱走した」
「へぇ、『施設』ね」

圭介は冷たい目で彼を見た。

292 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:34:17.79 tKa1gWj60 283/1225

「『収容所』の間違いじゃないのか?」
「喧嘩を売っているのか?」
「事実を述べたまでだ」
「…………その子に、名前はない。施設では十番目のXをつけられていた。つまり、GMDサンプルの第十号だ」
「…………」
「脱走を手伝った組織も、方法も分かっていない。警察が動いているが、公にしていない情報だ」
「だろうな」

息をついて、圭介は言った。

「つまり今の状況は、飼い犬に手を噛まれた状況と同じってことか?」
「……そうなる」

293 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:34:50.17 tKa1gWj60 284/1225

「傑作だな。赤十字の施設が、秘密裏に育てたマインドスイーパーに、肝心のマインドスイープを妨害されてるなんて、新聞社にこの情報を売りつけたら、いくらで食いつくだろうね」

大河内が顔を青くして、また身を乗り出す。

「やめろ。全てを台無しにしたいのか?」
「俺もそこまで馬鹿じゃない。冗談だ」

とても冗談とは思えない淡々とした声で圭介は言うと、水がなくなったグラスを見つめた。

「殺し合いをしろってことか」
「違う。汀ちゃんに、ナンバーXを説得して欲しいだけだ」
「説得?」

怪訝そうな顔をした圭介に、大河内は頷いた。

294 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:35:42.83 tKa1gWj60 285/1225

「赤十字は違うだろうが、私個人としては、ナンバーXを断罪する気も、咎めるつもりもない。ただ、これ以上罪を重ねて欲しくないんだ」
「随分と偽善的な台詞だな」
「何とでも言え。この状況を、それで収拾できるなら、俺は偽善者でもいい」
「だからこそのこの患者か」

最初に渡された資料を手に取り、めくりながら圭介が言う。

「合点がいったよ」
「請けてくれるか」
「充当手当ての五倍もらう」

圭介は感情の読めない瞳を彼に向けた。

「それでいいなら請けよう」

295 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:36:40.37 tKa1gWj60 286/1225

「……分かった。明日、ダイブを決行したい。赤十字のマインドスイーパーも、サポートにつける」
「邪魔になるだけだと思うが、やりたいなら好きにすればいい」

圭介はそう言って立ち上がり、汀の隣に移動した。
そして眠っている小白を無造作に掴み、ケージに放り込むと、リードを外して、それもケージの中に突っ込んだ。
彼はケージを腕にかけると、汀を慎重に抱き上げた。
彼女は、すぅすぅとまだ寝息を立てていて、起きる気配がない。

「待て。もう少し詳しく説明と打ち合わせをしたい」

296 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:37:10.61 tKa1gWj60 287/1225

「これ以上、汀の体を冷やすわけにはいかない。追加の情報があるなら、すぐに病院に戻って、うちにFAXするんだな」

圭介は頭を下げるオーナーに会釈してから、一言付け加えた。

「お前の情報は、信用しないけどな」

背中を向けて歩いていく彼を見て、大河内が深いため息をつく。
コーヒーをすすった彼に、店員が別のコーヒーを持ってくる。
それを制止して、大河内も立ち上がった。

297 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:38:08.04 tKa1gWj60 288/1225



「ナンバーX?」

きょとんとした顔で汀がそう言う。
圭介は汀の点滴を替えながら、それに答えた。

「ああ。そう呼ばれているらしい」
「テロしてるの?」
「そうらしい」

頷いて、彼は汀の前の椅子に座った。

「今日の診察は全て中止した。これから赤十字病院に向かうぞ」
「大河内せんせに会えるかな?」
「依頼主が大河内なんだ。嫌がおうにも会うことになるさ」

298 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:38:52.70 tKa1gWj60 289/1225

「ほんと? やだ、私こんな格好で……」
「気にするな。大河内も気にしないよ」
「せんせが気にしなくても、私が気にするの」

そう言いながら、壁の鏡を見て、櫛で髪を梳かし始めた汀に、圭介は息をついて、手元の資料を見てから言った。

「今回のダイブは、極めて危険なことになるかもしれない。小白を絶対に連れて行け」
「うん。小白も行くよね?」

汀に問いかけられ、隣で丸くなっていた猫は、分かっているのかいないのか、顔を上げてニャーと鳴いた。

「その、ナンバーXっていうマインドスイーパーが、勝手に回線に進入してきて、他の人のマインドスイープを邪魔してるんだ」

299 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:39:25.74 tKa1gWj60 290/1225

「話によるとな。どの程度の能力者なのか分からないから、危ないと思ったらすぐに帰還しろ。今回は、それが可能なフィールドを用意した」
「どういうこと?」
「これが、今回の患者だ」

圭介が汀の前に資料を投げる。
汀はその写真を見て、意外そうに呟いた。

「へぇ……赤ちゃん?」
「今回の対象は、生後一ヶ月の女児。自殺病の第二段階を発症してる。軽度だが、乳児だからダイブにはもちろん細心の注意をはらってくれ」
「いいの? ナンバーXっていう人は、患者も殺しちゃうんでしょう?」

問いかけられて、圭介は淡々と言った。

「ナンバーXは、どうでもいい。お前は、人を助けることに全力を注げばいいんだ。分かるな?」

300 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:39:55.29 tKa1gWj60 291/1225

「……うん。分かる」

汀はそう言って、髪を梳く手を止めた。
そして圭介を見て、はっきりと言う。

「私は、その人から、この赤ちゃんを守りながら、自殺病を治療すればいいんだね」
「分かってるじゃないか。決して、戦おうなんて考えるなよ」
「どうして?」
「…………」

無言を返し、圭介はクローゼットの中から、汀の余所行きの服を取り出した。

「行くぞ。用意を始めるからな」

汀はしばらく不思議そうな顔をしていたが、やがて自己完結したのか、頷いて服を受け取った。

301 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:40:50.81 tKa1gWj60 292/1225



十字病院の会議室で、汀は大声を上げた。

「せんせ!」

会議室に集まっていた多くの医師や、マインドスイーパーだと思われる、病院服の少年少女達が、一斉に汀を見る。
気にせず車椅子を進めた圭介を一瞥して、入り口で待ち構えていた大河内が、満面の笑顔で汀を抱き上げた。
そしてその場をくるりと一回転する。

「ははは、久しぶりだなぁ、汀ちゃん」
「せんせに会いたかったよぉ。せんせ、元気だった?」

大河内に抱きつき、猫のように頭を押し付ける汀。
その頭を撫でながら、大河内は彼女を抱き上げつつ、会議室の上座に移動した。

302 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:41:35.15 tKa1gWj60 293/1225

「元気だったさ。汀ちゃん、少し痩せたんじゃないか?」
「せんせに会えるから、しぼったんだよ」
「駄目だぞ、無理しちゃ。よぉし、今晩は、うまくいったら私のおごりで……」
「大河内、場所を考えろ」

圭介が大河内に耳打ちする。
大河内はそこでハッとして、慌てて汀を椅子に座らせ、そして自分はその隣に腰を下ろした。

「せんせ?」

不思議そうに汀が聞く。
大河内は彼女に笑いかけ

「ごめんな、汀ちゃん。あまり時間がないんだ。治療が終わったら、いろいろ話そうな」

と言った。

303 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:42:17.89 tKa1gWj60 294/1225

頭をなでられ、汀は頬を紅潮させて頷いた。

「うん、うん!」

圭介が大河内の隣に腰を下ろす。
大河内は咳払いをして、周りを見回した。

「……こちらが、先ほど説明した高畑医師と、マインドスイーパーです。特A級の能力者です。私が、個人的な要望でお呼びしました」

不穏な視線を向けている周囲の威圧感に、汀が肩をすぼめる。
車椅子に乗せられたケージの中から、小白がニャーと鳴いた。

「それでは、本日のダイブについて説明を開始します。難しい施術になると思われます。各マインドスイーパー、オペレーターは特に注意して聞いてください」

大河内はそう言って赤ん坊の写真が映し出された正面のスクリーンを、指し棒で示した。

304 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:42:52.79 tKa1gWj60 295/1225

「事前に説明したとおり、ダイブ対象者は、高橋有紀。生後一ヶ月の赤ん坊です。現在、比較的経度な自殺病第二段階を発症しています。自覚症状などはありませんが、年齢を考え即急なダイブと事前治療が必要であると判断しました」

そして彼は、下のほうに映されている、ナンバーXの写真を指した。

「赤ん坊なので、心理壁の構築もありません。トラウマの発生もないと考えられます。しかし、今回のダイブには、ほぼ確実に外部からのハッキングがあると考えられます」

小白がまたニャーと鳴く。
眉をひそめた周囲に構わず、彼は続けた。

「現在警察も身柄を拘束しようと捜索をしていますが、この男による精神攻撃の可能性が高い。皆さんには、可能な限り迅速に、患者の治療を行い、この男のハッキングを我々が阻止している間、退避していただきたい」

305 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:43:28.12 tKa1gWj60 296/1225

「大河内先生。その男は何者なんだね?」

そこで、座っていた壮年男性が口を開いた。

「先日、うちのマインドスイーパーが五人もやられている。それに今回の、この数のスイーパーだ。ただ事ではなかろう」
「ええ、ただ事ではありません」

大河内はそう答えて、ナンバーXの顔写真を指した。

306 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:44:03.11 tKa1gWj60 297/1225

「明確な正体はまだ分かっていません。サイバーテロリストの一派である可能性が高いと思われます」
「それだけの情報で、気をつけろといわれてもな……」
「こちらとしても提供できる情報があまりに少なく、対応が出来ない状態が続いています。しかし、今回のこのダイブは成功させたい」

彼は、息をついてから言った。

「こちらも、出来うる限りの対策と援助をします。では、詳しい内容に入っていきましょう」

307 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:45:56.75 tKa1gWj60 298/1225



汀は、淡々とした目で、眠らされている赤ん坊を見た。
赤ん坊の頭には、マスク型ヘルメットが被せられている。
そこは円形の部屋になっていて、中心部に赤ん坊がいる。
そして汀がその隣に、圭介が汀の脇の機械の前に。
他のマインドスイーパーは、それぞれ部屋の壁部にあたる場所に腰掛け、マスク型ヘルメットを被っていた。
総勢十一人のマインドスイーパー。
殆どが、十五、六の男女だ。
汀は眠っている小白を抱いて、そしてヘッドセットをつけてからマスクを被った
そこに大河内が近づいて、しゃがみこむ。

「汀ちゃん、危ないと思ったら、すぐに帰還するんだ」
「せんせ、これが終わったら、一緒に遊ぼう」

大河内の言葉には答えずに、汀は無邪気に言った。

308 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:46:26.99 tKa1gWj60 299/1225

圭介が顔をしかめて、大河内を睨む。

「汀、集中しろ」
「うるさい圭介」

圭介の言葉を跳ね除け、汀は動く右手を大河内に伸ばした。

「ね、約束。ゆびきりげんまん」
「分かった。約束しよう」

大河内が、汀の小指と自分の小指を絡ませる。
そこで圭介が立ち上がり、大河内を汀から引き離した。

「ダイブの邪魔だ。早く配置につけ」
「分かってる。だが、妙な胸騒ぎがしてな……」

大河内が小声で言う。

309 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:46:59.44 tKa1gWj60 300/1225

圭介は息をついて、彼の耳元で言った。

「仮に戦闘する羽目になったら、俺が直接回線を切る。得策のない話は嫌いだからな」
「それを聞いて安心した。頼むぞ」
「言われるまでもない。もらう分は働くさ。俺も、汀もな」

そう言って圭介は、背中を向けた大河内に代わって、汀の脇にしゃがんだ。

「余計なことは考えるな。いいか、精神世界でどんなジャックにあっても、動揺するなよ。俺が何とかする」
「分かってるけど……どうして、圭介も、せんせも、そんなに緊張してるの?」

問いかけられ、圭介は口をつぐんだ。

310 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:47:30.80 tKa1gWj60 301/1225

そして軽く笑いかけ、汀の頭をなでる。

「緊張なんてしていないさ。ただ、赤ん坊の意識の中に、十二人もダイブさせる施術は、世界初だからな。そのせいかもしれないな」
「大丈夫だよ。仮にどうにかなったとしても……」

汀は、冷めた目で赤ん坊を見た。

「少しくらいなら大丈夫でしょ」
「だな。気負わずに行け」
「うん」

彼女の答えを確認して、圭介は席に戻った。
そして声を上げる。

「一番、準備整いました。ダイブを開始します!」

311 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:48:06.98 tKa1gWj60 302/1225



汀は目を開いた。
彼女は、いや、「彼女達」は一面真っ白な空間に立っていた。
汀が少し離れたところに立っていて、他のマインドスイーパー達が固まってきょろきょろと周囲を見回している。
そこは、一面が白い珊瑚の砂浜のようになっていた。
足元には柔らかい砂地。
そして真っ白な空が広がっている。
水音。
そして、クラシックの優しい音楽がかすかに聴こえる。
汀は、米粒のような砂を、しゃがんで手ですくうと、サラサラと下に落とした。

312 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:48:39.39 tKa1gWj60 303/1225

風はない。
完全に無風だ。
しかし温かい。
足に擦り寄ってニャーと鳴いた小白を抱き上げて肩に乗せ、
汀はヘッドセットのスイッチを入れた。
他のマインドスイーパー達も、同じような動作をしている。

「ダイブ完了。周りの状況を確認したよ」
『どうだ?』

圭介に問いかけられ、汀はマイクの向こうの保護者に、肩をすくめてみせた。

「ただの、自然構築された無修正の白空間。本当に自殺病を発症してるの? ってくらい平和」
『そうか。中枢は……探すまでもないだろうな』
「うん」

汀は、先の空間に目をやった。

313 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:49:22.70 tKa1gWj60 304/1225

そこには丸い、一掴みほどの玉が浮いていた。
顔の位置にあるそれは、多少濁ってはいるが、ほぼ透明で、水晶のようだ。
中に、黒い墨のような紋様が浮いていて、それが形を変えつつ、徐々に広がってきている。
汀はその前に立って、少し考え込んだ。

「訂正。ちょっと難しいかも」
『どういうことだ?』
「中枢が剥き出しで置いてあるのは乳幼児によくあることだから、問題はないんだけど……中枢の内部まで、ウイルスが入り込んでるね」
『取り除けるか?』
「駄目元でやってみる」

そう言って玉に手を伸ばしかけた汀に、追いついたマインドスイーパーの一人が声をかけた。

314 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:50:49.14 tKa1gWj60 305/1225

「あ……あの!」

振り返った汀の目に、自分を見ている少年少女たちが映る。
中には、不穏そうな表情を浮かべている子もいた。
全員同じ白い病院服なので、判別がつけにくいが、明らかに汀に敵意を向けている子もいる。
汀は一歩下がって、自分に声をかけた女の子を見た。

「何?」
「私、片平理緒(かたひらりお)って言います。あなたが、高畑汀さん……なのよね?」

理緒と名乗った女の子は、車椅子状態とは違う汀と肩の上の猫を見て、少し戸惑った様子を見せたが、笑顔で手を差し出した。

「ご一緒できて、嬉しいわ。私、このチームのリーダーをしてるの。本当に猫を連れてるんだ。びっくりしました」

315 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:51:23.87 tKa1gWj60 306/1225

汀よりも一、二歳程年上だろうか。
しかし丁寧で優しい、おっとりした口調は、どこか落ち着いた風格を漂わせている。
灰色になりかけているショートの髪を、両側に編んでいる。
可愛らしい子だった。
しかし汀は、理緒が差し出した手を、顔をしかめて見ると、小さな声で返した。

「仕事中でしょ? 余計な手間をかけたくないんだけど」

汀の態度に、数人のマインドスイーパーが表情を固くする。
しかし理緒は、一歩進み出ると、優しく汀の右手を、両手で包み込んだ。
そしてニッコリと笑う。

「そんなことないですよ。挨拶も重要な仕事の一つです。あなた、会議室では一言も返してくれなかったから……」

そういえば、会議室でのマインドスイーパー同士の計画チェックで、何度も話しかけられたことを汀は思い出した。

316 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:53:19.99 tKa1gWj60 307/1225

しかし、彼女は理緒の手を乱暴に振り払い、そして言った。

「馴れ馴れしいのは好きじゃない」
「気に障った……? ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったんだけれど……」

理緒は少し表情を暗くしたが、すぐに笑顔に戻り、玉を指で指した。

「それ、私、上手に治療できます」
「……?」

怪訝そうな顔をした汀に、理緒は慌てて顔の前で手を振って続けた。

「あ……あなたが、もっと上手く治療できるなら、その方がいいですけれど……考えてる風だったので……」
「精神中核を触れるの?」
「はい。私、そのためにこのダイブに参加しました」

理緒が、花のような笑顔で笑う。

317 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:54:01.88 tKa1gWj60 308/1225

顔の前で指を組んで、彼女は玉に近づいた。

「綺麗な核。やっぱり、赤ちゃんの精神は凄く安定してて、強いなぁ」
「中核を無傷に素手で触れるスイーパーなんて、聞いたことないわ」
「触れます。ほら」

そう言って、理緒は手を伸ばし、汀が制止しようとする間もなく、丸い玉を両手で包み込んだ。
そして、つぷり、と音を立てて指を中に入れる。
どうやら鉱石質なのは外観だけらしく、ゼリー状らしい。
そのまま理緒は

「うん、うん……怖くないからね。大丈夫だよー」

と、子供に言い聞かせるように呟きながら、目を閉じた。
そして黒い筋を指でつまみ、するっ、と抵抗もなく引き抜く。

318 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:55:09.09 tKa1gWj60 309/1225

時間にして十秒もかからなかっただろうか。

「ほら、心配ない」

くるりと振り返って、理緒はニコリと微笑んだ。
彼女が手につまんでいた、黒いウナギのような筋が、塵になって消えていく。

「……驚いた。精神中核の奥に食い込んでたウイルスを、核を傷つけずに、素手で除去するなんて……」

汀が、思わずと言った具合で呟く。
それに、マイクの向こうで圭介が答えた。

『その子は、赤十字が保有している数少ないA級能力者の一人だ。治療には成功したのか?』

319 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:55:53.10 tKa1gWj60 310/1225

「私が来る意味あったの?」
『……特に問題がないようだったら、戻って来い。深追いする必要はない』
「どういうこと?」

それに、圭介が答えかけた時だった。
理緒が精神中核から引き抜いた黒い筋が、途中から千切れてポタリ、と地面に落ちた。
途端にそこがボコボコと沸騰をはじめる。

「トラウマ……?」

きょとんとして汀が呟く。

『何?』
「トラウマだ。何で……?」

汀が言っている間に、沸騰している地面の染みは広がると、直径一メートル程の円になった。
そこから、黒いゼリー状の物質が、沸騰しながら競りあがる。

320 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:56:26.96 tKa1gWj60 311/1225

「え……?」

ポカンとしている理緒の方に、蛇のようになった、そのゼリー物質は鎌首をもたげた。
次いで、その口が開き、凄まじい数の牙があらわになる。

「きゃあああああ!」

理緒が悲鳴をあげ、幼児の精神中核を抱いてその場にしゃがみこむ。

「何してるの!」

そこで、汀が動いた。
座り込んでいる理緒に駆け寄り、突き飛ばす。
そして地面をゴロゴロと転がる。
二人がいた場所に、黒い巨蛇が頭から着地する。

321 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:57:01.58 tKa1gWj60 312/1225

そのまま地面にするすると入り込み、蛇は姿を消した。

「あ……ありがとう……」

震えながら、理緒が口を開く。
それをかき消すように、汀は呆けた感じで立ち尽くしているマインドスイーパー達に怒鳴った。

「トラウマの攻撃が来る! 邪魔だから早く帰って!」
『汀、状況を教えろ。何故生まれたばかりの乳幼児の頭の中に、トラウマがあるんだ!』

圭介が声を張り上げる。

『回線を遮断するぞ!』

322 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:57:32.58 tKa1gWj60 313/1225

「駄目! 今遮断したら、中核を置いてトラウマを残しちゃうことになる!」
『乳幼児の頭の中にトラウマがあるわけが……ザザ…………ブブ…………』

そこで、圭介の声がかすれて消え、マイクの向こうからノイズが聞こえ始めた。

「圭介? 圭介!」

汀が声を上げる。しかし、ノイズの方が大きくなり、圭介の声を上手く聞き取ることが出来ない。

『ジャック…………遮断できな…………ブブ…………ユブ…………』

プツリ、と音を立てて通信が切れた。

「圭介…………?」

汀が呆然と言う。

「圭介、どうしたの? 圭介!」

323 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 21:58:06.61 tKa1gWj60 314/1225

マイクのスイッチを何度も動かすが、ヘッドセットは壊れたかのように全く動かなかった。

「応答してください! 先生!」

理緒も、泣きそうな声で叫んでいる。
他のマインドスイーパーも、口々に担当医のことを呼んでいた。
次の瞬間だった。
地面からぬるりと現れた黒蛇が、手近なマインドスイーパーをそのまま丸呑みにした。
耳を劈く絶叫が辺りに響き渡った。
蛇の腹の中で、飲み込まれた少年と思わしきものが、バキボキと砕け散る音が聞こえる。
遅れて、鎌首をもたげた蛇の口から、おびただしい量の血液が垂れ下がった。

「散りなさい!」

汀が大声を上げる。

324 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 22:02:31.06 tKa1gWj60 315/1225

しかし、マインドスイーパー達は、とっさの事態に対応できないのか、迫ってくる黒蛇に背を向けて逃げるのが精一杯だった。
近くにいた女の子の胴体が、半ばから噛み千切られる。
噴水のように辺りに血が飛び散る。
鞭のように、蛇が体を振る。
数人のマインドスイーパーが、数十メートルも吹き飛ばされ、頭から落下して動かなくなる。
また、一人飲み込まれた。

「ああ……あ……」

理緒が精神中核を抱いたまま、震えている。
小白が足元に降り立ち、シャーッ! と鳴いて風船のように膨らんだ。
そして体高五メートルほどの、巨大な化け猫になって蛇を威嚇する。

325 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 22:03:37.47 tKa1gWj60 316/1225

「逃げて! 早く!」

どこまでも続く白い砂浜に、逃げ場や隠れるところなどどこにもなかった。
マインドスイーパー達が蛇に、動かぬ肉片に変えられていく。
蛇は体の中のぐちゃぐちゃになった肉塊を吐き出すと、一人腰を抜かしてしゃがんでいた男の子の口めがけて、凄まじい勢いで突進してきた。
そして、明らかに大きなサイズであるというのに、全て男の子の体の中に吸い込まれて消える。

「ガッ!」

そこで、蛇を飲み込んだ男の子が奇妙な声を発した。
その目がぐるりと裏返り、血の涙が溢れ出す。

「み……汀さん! 汀さん!」

痙攣しながら立ち上がった男の子を見て、理緒が汀にしがみつく。
小白がうなり声を上げている。
汀は反応しないヘッドセットを地面に叩きつけると、理緒を庇うように立った。

326 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 22:04:31.91 tKa1gWj60 317/1225

「……あなたが……ナンバーX……!」
「はは! はははは! ははははははは!」

男の子が、血痰を吐き散らしながら叫ぶように笑った。
そしてその目がぐるりと元にもどり、彼は首をコキコキと鳴らした。

「トロイの木馬作戦。上手くいったかな」

男の子の体中のいたるところから、血が流れ出す。
それでも足を踏み出し、彼は口を裂けそうなほど開いて笑った。

「赤十字も、ピンポイントで僕が『偶然』選ばれた患者の中に隠れてたなんて、思ってもみなかっただろうね」
「ナンバーX? あの人……!」

理緒が悲鳴のような声を上げる。

327 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 22:05:35.89 tKa1gWj60 318/1225

「うるさいよ」

パンッ、と音がした。
汀の隣で、理緒がもんどりうって地面を転がる。
いつの間にか、どこから取り出したのか、男の子は拳銃を握っていた。
その弾倉を回転させて止め、彼はニヤリと笑った。

「銃……? どうして……」

汀が呟く。
肩を撃たれたのか、理緒がうめきながら立ち上がろうとしてまた、地面に崩れ落ちる。
彼女は、それでも中核を離そうとしなかった。

「あと五発」

もう一回弾倉を回してから、少年は走り出した。

328 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 22:07:42.03 tKa1gWj60 319/1225

「楽しもうじゃないか! 赤十字!」

飛び掛ってきた小白の頭を掴んで、くるりと曲芸師のように飛び越え、彼は一瞬で汀に肉薄した。
そこでハッとした汀が手を伸ばし、彼の銃を持った手を横に払う。

「一発」

パンッ! と弾丸が明後日の方向に発射された。
彼は体を回して、汀の腹に蹴りを叩き込んだ。
小さく悲鳴をあげ、汀が地面に転がる。
弾倉を回し、彼は地面に倒れた汀の頭に向けて銃の引き金を引いた。

「二発、三発」

パンッ、パンッ!
連続して銃声が聞こえる。

329 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 22:08:41.21 tKa1gWj60 320/1225

汀はそれより一瞬早く地面を転がり避けると男の子に駆け寄り、殴りつけた。
彼はそれを軽くいなして、銃口を汀の頭に向けようとする。
何度か、その応酬が繰り広げられ、今度は汀が男の子の頭を殴りつけ、後ろ蹴りを彼の腹に叩き込んだ。
地面に叩きつけられた少年は、しかし笑いながら、弾倉を回して銃の引き金を引いた。

「四発」

パンッ! と音がして汀の頬を銃弾が掠める。
すかさず汀は男の子に馬乗りになり、腕を振り上げた。

「あれ……?」

そこで男の子は口を開いた。

「なぎさちゃん?」

呼びかけられ、振り下ろしかけていた汀の手が止まった。

330 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 22:09:10.89 tKa1gWj60 321/1225

男の子はその隙を見逃さず、逆に汀の体を抑えると、彼女を引き倒し、馬乗りになった。
そして弾倉を回し、彼女の眉間に銃を突きつける。

「こんなところで会えたなんてびっくりだけど、さよならだね。残念だよ」

汀が必死に動こうとしているのを、血涙を流しながら見下ろし、彼は裂けそうなほど口を開いて笑った。

「アディオス。また会おうね、なぎさちゃん」

カチッ。
撃鉄が虚しく虚空を叩く音が響いた。

「あれ?」

男の子はそう言って、ポカンとした。

「運がいいね……失敗か……」

331 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 22:11:15.75 tKa1gWj60 322/1225

そこで汀の手が動いた。
彼女は一瞬で男の子の銃を指で叩き、回転させると、今度は自分の指にはめた。
親指で弾倉を回転させ、そして引き金を引く。
銃声がして、男の子の眉間を弾が貫通した。
崩れ落ちた男の子を蹴り飛ばし、汀は荒く息をつきながら立ち上がった。
小白が駆け寄り、よろめいた彼女を支える。

「凄い……精神世界で、あれだけ動けるなんて……」

理緒が唖然として呟く。

332 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 22:11:47.51 tKa1gWj60 323/1225

そこで、ヘッドセットの電源がつき、圭介の声が響き渡った。

『汀! 無事か!』

汀はしばらく呆然としていたが、やがてうっすら涙が浮かんだ目を手で拭い、ヘッドセットを拾った。
そして何度か深呼吸をした後、口を開く。

「一番、五番、治療完了。目を覚ますよ……」

333 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 22:12:27.36 tKa1gWj60 324/1225



「あーあ、負けちゃった」

雑然とした部屋の中、マスク型ヘッドセットをむしりとり、少年……ナンバーXは悔しそうに口を開いた。

「なぎさちゃんが相手じゃなぁ。ま、今回は不意打ちだったし、他人の体だったし、仕方ないか」
「何一人で割り切ってるんだい」

タバコを口にくわえた、白衣を着た女医と思われる女性が、彼の頭をカルテで叩く。

「痛っ。何すんだよ」
「お前、また赤十字のサーバーに侵入してただろ。やめろっつぅのが分かんないのか」

男口調で喋って、女医は顔をしかめた。

「いい加減にしないと、本当にブチのめすよ」

334 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 22:17:14.77 tKa1gWj60 325/1225

「ごめんごめん。今回が最後だって」
「それ、前回も聞いた」

ナンバーXはベッドの上から起き上がると、女医に向かって手を広げた。

「それより聞いてよ。なぎさちゃんが生きてたんだ」
「なぎさ?」
「あぁ、ナンバーⅣのこと」
「何?」

女医が聞き返して、そして考え込む。

「まさか、そんな……でも、考えられない話じゃ……」
「元気そうだったよ。髪の毛は真っ白になってたけどね。はは、僕とおそろいだ!」

そう言って、彼はくるくるとその場を回った。

「綺麗になったなぁ、なぎさちゃん。あの頃と変わらないと思ってたけど、神様は面白いいたずらをするね!」

335 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 22:19:11.80 tKa1gWj60 326/1225

「いいか、よく聞けよ」

女医はナンバーXの頭を掴んで、自分の方に向かせた。

「お前をあそこから助けてやったのは、こうやって好き勝手暴れさせるためじゃない。私達の『理想』を実現するための駒として、お前を『使ってやろう』って考えの下、手間隙かけて助けてやったんだ。お前、何か勘違いしてるんじゃないだろうな」
「勘違いなんてしてないさ。感謝してる。してるよ」
「してるならそのニヤケ顔をやめろ」
「分かる?」

ため息をついて手を離し、女医は椅子に腰を下ろした。
そしてタバコの煙を吐き出し、灰皿に突っ込んで火をもみ消す。

「赤十字への警告は十分過ぎるほどやった。お前も、満足しただろ? これ以上やると逆探知される可能性が高い。一旦ジャックをやめて、居場所を変えるよ」
「またかよ」

小さく毒づいて、ナンバーXはニヤケながら鏡に映った自分を良く見つめた。

336 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 22:19:54.78 tKa1gWj60 327/1225

「ま、仕方ないか」
「我侭言うな。それにしてもお前……」

彼女はふと動きを止めて言った。

「どうやって次の患者が赤ん坊だってつきとめたのさ?」

ナンバーXはニヤリと、およそ少年とは思えないほど口を開いて、不気味に笑った。

「ま、世の中には親切な人が沢山いるってことで」

彼は大きくあくびをして、部屋の出口に向けて歩き出した。

「それだけのことだよ」

337 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 22:20:41.93 tKa1gWj60 328/1225



びっくりドンキーの店内で、汀はぼんやりとした表情のまま、チビチビとメリーゴーランドのパフェを口に運んでいた。
その前でステーキを切りながら、圭介が口を開く。

「どうした? 気分でも悪いのか?」
「うぅん。そうじゃなくて……」

汀は言いよどんでから、伺うように言った。

「圭介は、夢の中の自分と現実世界の自分の区別がつかなくなったりすることってある?」

問いかけられて、圭介は軽く笑った。

「ああ、しょっちゅうあるよ」

338 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 22:21:09.32 tKa1gWj60 329/1225

「そうなんだ。普通のことなんだね」

汀も微笑む。
圭介はステーキを咀嚼してから言った。

「どうした? 嫌な夢でも見たか?」
「嫌なわけじゃないけど……夢の中では、私はなぎさって呼ばれてるの。そういう夢、よく見るんだ」

圭介の手が止まった。

「夢の中では、私はみっちゃんとたーくん……いっくんと一緒に、遊んでるの」

圭介は小さく微笑んで、ステーキを食べる作業に戻った。

「ただの夢だよ」
「そう……なのかな……?」

自信がなさそうに呟いた汀の目にそこで近づいてくる人影が映った。

339 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 22:21:35.61 tKa1gWj60 330/1225

「こ……こんにちは」

どもりながら、頭を下げる女の子。
理緒だった。
病院服ではなく、今時の可愛い女の子の服を着ている。
汀はきょとんとして彼女を見た。

「どちらさまですか?」

聞かれて、理緒もきょとんとして、そして圭介を見た。

「あ、あの……先生に、ここに来ればお二人に会えるって聞いて……」
「チッ」

小さく舌打ちをして、しかし圭介はすぐに柔和な表情に戻ると、彼女を案内してきたオーナーを見た。
そして視線を理緒に戻し、言った。

「君は……片平さんと言ったかな」

340 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 22:22:13.29 tKa1gWj60 331/1225

「は、はい! 高畑先生に名前を覚えていただいて、光栄です!」

勢い良く頭を下げる理緒。
舌打ちには気づいていないようだった。
圭介は汀の隣に座るように促し、ポカンとしている汀に言った。

「お前、覚えてないだろうけど、この前の仕事で一緒だったんだ。片平……理緒ちゃんだ。赤十字の、A級スイーパーだよ」
「そうなんだ」

微笑む汀。
精神世界と違ってやつれきっている彼女を見て、理緒はしばらく躊躇した後、彼女の麻痺している左手を、両手で包んだ。

「はい! 命を助けてもらいました。私、どうしてもお礼が言いたくて」
「言ってくれれば、こっちから出向いたものを」
「そんな……こちらからご挨拶に伺うのが、礼儀というものですよ」

341 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 22:22:44.22 tKa1gWj60 332/1225

そう言いながら、理緒はかばんの中に入っていた包みを取り出して、圭介に差し出した。

「どうぞ。上野駅で買ってきました。たまごプリンです!」
「気を使わなくていいのに」
「私、プリン大好きだよ!」

そこで汀が声を上げる。

「本当?」

理緒は圭介にプリンを渡し、汀に向き直った。

「……ね、お友達になりませんか?」
「友達?」

きょとんとして汀が聞き返す。

342 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/09 22:23:14.01 tKa1gWj60 333/1225

「うん。これも何かの縁ですもの。これからも、一緒にお仕事するかもしれませんし」
「汀でいいよ。理緒ちゃん」

そう言って、汀は素直に、理緒に右手を差し出した。

理緒は一瞬ポカンとした後、すぐに笑顔になってその手を握り返した。

「はい、汀ちゃん!」

その様子を、苦そうに圭介が見ていた。
彼は近づいてきたオーナーに、メリーゴーランドのパフェをもう一つ注文してから、水を口に運んだ。
溶けた氷が、カランと音を立てた。




345 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 20:40:06.87 ic+McGmT0 335/1225



第6話 食肉マーケット



この幸せがずっと続くと思っていた。
何とはなしに、この楽しい時間がずっと続くと、ただそう思っていた。
たとえそれが、与えられて、何者かに造られた記憶であっても、それが真実だと思い込もうとしていた。

「いつか僕らは、離れ離れになるよ」

一面のクローバーの花が広がる平野で、円になって寝転んでいた少年の一人が口を開いた。
彼は手に沢山クローバーを持って、何かを作っている。

「どうしてそんな悲しいことを言うの?」

私は、彼にそう聞いた。

346 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 20:40:45.55 ic+McGmT0 336/1225

彼――いっくんは、淡々とそれに答えた。

「だって、ここは現実じゃないもん」
「ここが現実じゃないって、誰が決めたんだよ」

私の隣にいた少年――たーくんが、口を尖らせてそう言う。

「誰が決めたんじゃなくても、夢は夢さ。現実じゃない。現実は、もっとこう……ドロドロしててさ。もっと汚いところだろ?」

いっくんがそう言う。
そこで、たーくんの隣に寝転んでいたみっちゃんが口を開いた。

「そうだね。いっくんの言うとおりだと思うよ」
「みっちゃんはいっくんの肩ばっかり持つよな」

たーくんが呆れたように言う。

347 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 20:41:26.26 ic+McGmT0 337/1225

私達の髪の毛は、みんな同じ様に灰色になりかかっていた。
色素が抜けてきているのだ。
私は、一面のクローバーの香りを吸い込んで、そして呟いた。

「でも、ここが現実じゃなくても。私はここの方がいいな」
「どうして? 現実じゃないのに」

いっくんがそう言う。

「だって、みんながいるもん」

私がそう言うと、いっくんは小さく笑って、そして立ち上がり、手の中のものを、私の頭に被せた。
そしてみっちゃんの頭にも、同じように被せる。
それは、沢山のクローバーで編んだカチューシャだった。

「あ……ありがとう……」

みっちゃんの顔は真っ赤だ。

348 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 20:42:11.11 ic+McGmT0 338/1225

いっくんは、私達にも立つように促して、そしてしゃがんで一つ、クローバーを取った。
それを顔の前に持ってきて、くるくると回す。
四葉のクローバーだった。

「じゃあ、約束しようよ。もし僕達が離れ離れになったとしてもこの四つ葉のクローバーの葉を、一つずつ持って、ここに帰って来るって」

いっくんは、クローバーの葉をむしると、私達に一枚ずつ渡した。

「そして、また一緒に遊ぼう」

彼は、にっこりと笑って、続けた。

「約束だよ。忘れないでね。みっちゃん。たーくん……なぎさちゃん」

349 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 20:42:48.70 ic+McGmT0 339/1225



汀は目を覚ました。
体中、汗でドロドロだった。
荒く息をつきながら、ベッド脇の電灯をつけ、手の平を広げて見つめる。
そこには、夢の中のいっくんに渡された四葉のクローバーの欠片は、存在しなかった。

「夢……」

小さく呟いて、ため息をつく。
額の汗を拭って、脇に寝ている小さな猫、小白の頭を撫でる。
そして、彼女は水差しからコップに水を注いで、口に運んだ。

350 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 20:43:23.18 ic+McGmT0 340/1225



「今度の患者だ」

圭介がそう言って、薄い資料を汀の前に放る。

「また、赤十字との共同作戦になる。一応目を通しておいてくれ」

しかし汀に反応はなかった。
ぼんやりと資料を見つめ、口を半開きにして、うとうとしている。

「汀」

呼ばれて、彼女は、ハッとしてとろとろと圭介を見た。

「…………何?」
「クスリも飲んでないのに、寝るなよ。それに、これから出かける予定なんだ」
「どこに?」
「赤十字病院だ」
「……今日は行かない」

汀はプイと横を向くと、眠っている小白の方に頭を向けて、ベッドに横になってしまった。

351 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 20:44:06.68 ic+McGmT0 341/1225

「どうした? 具合が悪いのか?」
「うん」
「大河内も来るらしいが」
「行かない」

頑なにそう主張する汀に、圭介はため息をついた。

「……具体的にどこが悪いんだ? お腹か? 手が痛いのか?」
「頭が痛い」

弱弱しくそう呟いた汀の額に手を当て、圭介は顔をしかめた。
そして、汀の毛布を剥がし、彼女を仰向けに寝かせる。

「何だ……熱があるな。どうして起きた時俺に言わなかった?」
「…………眠い。寝ていい?」
「駄目だ、ちょっと我慢しろ」
「……うん……」

352 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 20:44:49.34 ic+McGmT0 342/1225

圭介はそう言うと、点滴を外し、汗で濡れた汀の服を、手馴れた動作で着替えさせ始めた。

「今日は、これじゃダイブは出来そうにもないな……」

小さく呟いた彼に

「出来ないよ……頭が動かない」

と言い、汀はおとなしくモゾモゾと圭介の差し出したキャミソールを被った。

「仕方ない。しばらく仕事はキャンセルだ。今クスリをもってくるから、おとなしくしてろ」
「うん……」

キャミソールを右手だけで着ながら、汀はまた横になった。
圭介がそこに毛布をかけてやる。
そして彼は体温計を彼女の口にくわえさせ、早足に部屋を出て行った。

353 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 20:45:19.89 ic+McGmT0 343/1225

――なぎさちゃん。

呼びかけた、夢の中の少年の顔が汀の頭にフラッシュバックする。

――約束だよ。

少年が笑う。

――僕と、君だけの約束。

汀は目を閉じ、苦しそうにその場に丸くなった。
頭がガンガンと、内側から金槌で叩かれているように痛い。

――僕らは、ずっと……。

凄まじい耳鳴りが彼女を襲った。

「来ないで!」

汀は、耳を塞いで叫んだ。

354 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 20:45:55.06 ic+McGmT0 344/1225

夢の中の少年は、しかし笑いながら、近づいてくる。
手を伸ばし、微笑む。

「こっち来ないで! やだ! やだぁ!」

首を振って怒鳴る。
男の子は、伸ばした手を開いた。
そこの上に乗っていたものは……。

「汀!」

圭介に耳元で怒鳴られ、汀はハッ、と目を開けた。
耳鳴りと強烈な頭痛は、いつの間にか消えていた。
代わりに、倦怠感と熱による頭の疼きが、じわじわとのぼってくる。
汀は荒く息をつきながら、目を剥いて圭介を見た。

355 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 20:46:59.92 ic+McGmT0 345/1225

「どうした? 寝るなと言っただろ。クスリを持ってきた。注射してやるから、もう少し我慢しろ」
「圭介」

汀はそう言って、右手で圭介の手を掴んだ。
痩せた彼女の手は、叩いただけで折れてしまいそうだった。

「私、最近おかしいよ。どうしていいか、分からないよ」
「出し抜けに何だ? ただの夏風邪だろ」
「なぎさって誰!」

そう叫んで、汀は圭介の手を強く引いた。

「誰なの? 私の頭の中に、私じゃない私がいる! 圭介、怖いよ。どうにかしてよ!」
「落ち着け。それは夢だと、前に言っただろ。それ以上でもそれ以下でもない」

356 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 20:47:31.56 ic+McGmT0 346/1225

「でも……でも!」
「なぎさなんて人間はいない。お前は汀だ」

圭介はそう言うと、汀の手を握り、落ちている体温計を拾った。

「汀。大事なのは、お前が誰かを助けたいと思う気持ちだ。違うか?」

冷静にそう言われ、汀は答えた。

「何を言ってるのか分からないよ! 話をすり替えないで!」
「すり替えてなんていないさ。はっきり言おう。お前、クスリの投与と、複数の患者へのダイブの影響で、記憶が混濁してるんだ。多分、それはお前が頭の中で勝手に作った幻想だ」
「幻想? 違うよ! だって、私、こんなにはっきりと……」
「幻想だ」

もう一度繰り返し、圭介ははっきりと汀の顔を見た。

357 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 20:48:17.69 ic+McGmT0 347/1225

「俺の言うことが信用できないのか?」

問いかけられて、汀は一瞬押し黙った。

そして下を向いて、小さく呟く。

「でも……」
「でも、じゃない。俺が幻想だと言ったら、それは幻想なんだ。現実じゃない。第一、お前は俺の親戚だと、前に言っただろう。お前は産まれた時から、高畑汀だ」
「じゃあ、じゃあ圭介はどうして、私のお父さんとお母さんの話をしないの? どうして?」

汀に食い下がられて、圭介は苦そうな顔をした。
そして彼女の腕に点滴の針を刺しながら、息をつく。

「前にも言っただろう。お前の親は、お前に話すに値しないって」
「意味が分からないよ! はっきり言って!」

358 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 20:48:58.54 ic+McGmT0 348/1225

「何を興奮してるんだ」
「もういい! 圭介の馬鹿!」

怒鳴って、汀は点滴を刺そうとしている圭介の手を振り払い、腕に刺さっていた別の点滴を、乱暴にむしりとった。

「出てって! ここから出てって!」

悲鳴のように絶叫して、手元にあったテディベアの人形などを圭介に投げつける。
圭介は呆れたようにそれを体に受けていたが、枕が顔に当たり、メガネが床に落ちたところで、足を踏み出した。
汀は涙でぐしゃぐしゃの顔で圭介を見ていたが、彼が形容しがたい、どこか辛そうな顔をしているのを見て動きを止めた。

「分かった。出て行くよ」

圭介はそう言うと、汀の脇にしゃがみこんで、また点滴を腕に刺した。

359 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 20:50:09.26 ic+McGmT0 349/1225

そしてメガネを拾い上げる。
彼は、黙ってそっぽを向いている汀に構わず、ポケットから出した金色の液体が入った注射器を、点滴の注入口に差し込んで、中身を流し込んだ。

「これを飲め。置いておくからな」

そう言って、圭介は大きな錠剤を何粒かベッド脇に置いて、白衣のポケットに手を突っ込んで部屋を出て行った。
汀はしばらく荒く息をついていたが、やがて圭介が置いていった薬を掴んで、無言でドアに向かって投げつけた。
彼女の剣幕に恐れをなしたのか、小白がケージの方まで避難して目を丸くしている。
汀は手で涙を拭うと、緩慢とした動作でベッドに横になった。

360 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 20:50:57.09 ic+McGmT0 350/1225



『やってくれたな……完全にうちの姫は反抗期だ』

携帯電話の向こうから、圭介の苦い声を聞いて、大河内は椅子をキィ、と鳴らして少し回転させると、含みを込めて笑った。

「はは、私が何をしたと言うんだ?」
『とぼけるなよ、外道が』
「言いがかりはよしてもらおう。だが高畑、これで良く分かっただろう」

大河内は自分の医務室の中を見回して、息を吐いた。

「人間の記憶を完全に消すと言うのは無理だ。そんな鬼畜の所業は、技が認めても神は認めんさ」
『生憎と俺は無神論者でね』

361 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 20:51:42.25 ic+McGmT0 351/1225

「気が合わんな。今度お前と、カトリックとプロテスタントの合判性について、議論をしたいと思っていたところなんだが」
『御免こうむる』
「つれんな」

大河内は喋りながら、目の前に座っている人物を見た。
病院内だというのに、タバコの煙をくゆらせている彼……男性は、メガネの奥の瞳をやけに光らせながら、大河内を凝視していた。
表情は変わらない。
無表情のままだ。

『重ねて言うが、外道と取引をするつもりはない。汀は俺のものだ』
「どうかな」

大河内は、柔和な表情で、電話の向こうに対してにぃ、と笑った。

「いずれ汀ちゃんは取り戻す。必ずだ」

362 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 20:52:32.17 ic+McGmT0 352/1225

『強気だな』
「お前にどんなスポンサーがいるのか分からんが、私にもそれは同様でね」
『へぇ、興味はないが』

そう言って、圭介は一拍置いた。
そして低い声で続ける。

『これ以上汀を刺激するなら、こちらにも考えがある』
「……脅しか?」
『それ以外の何かに聞こえたなら、きっとそれなんだろう』

電話の向こうで醜悪に笑い、彼は続けた。

『世の中には、親切な人が沢山いるからな』

プツリ、と音がして電話が切れた。
今までの会話は、全てフリーハンドで周囲にも聞こえるように流されていたのだった。

363 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 20:53:07.85 ic+McGmT0 353/1225

携帯電話をポケットにしまった大河内に、タバコの煙を吐き出した男性が口を開いた。

「……その様子だと、まだ、のようだな」
「…………」

無言を返した大河内に、男は続けた。

「大河内君。『機関』としても、これ以上の干渉は望ましくない、と考えている」
「承知しております」

頷いた大河内を見て、男はタバコを灰皿に押し付け、火を消してから立ち上がった。

「ナンバーズの回収を急ぎたまえ。君の将来と、現在と、過去のためにもな」

言い捨てて、男はかばんを持ち、ハットを被ってから一言付け加えた。

364 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 20:53:34.88 ic+McGmT0 354/1225

「あぁそれと、その高畑とかいう男」
「…………」
「やはり、正規の医師ではない。元老院が庇っているので、詳しい調査は続行できなかった……が、それだけは伝えておこう」

男が、早足で医務室を出て行く。
大河内は換気扇のスイッチを入れて回すと冷蔵庫からコーヒーの缶を取り出して、プルトップを空けた。

「知ってるよ……」

その呟きは、換気扇の音にまぎれて消えた。

365 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 20:54:18.67 ic+McGmT0 355/1225



汀の体調が回復したのは、それから一週間経ってのことだった。
しかし、いまだ微熱が続いている。
圭介は自分と話そうとしない汀の車椅子を押して、赤十字病院の廊下を歩いていた。
汀は、意識が朦朧としているのに加え、質問をのらりくらりとかわそうとする圭介に、苛立ちを覚えていた。
いや、何より苛立ちを覚えていたのは、意味不明な夢を繰り返し見てしまう自分自身についてのことだった。
その不安と憤りが、一番身近にいる圭介に当たっているだけなのだ。
ここまで連れてくるのにも一苦労した圭介は、大汗をかきながら会議室に足を踏み入れた。
中には子供一人しかいない。
そこで汀は、椅子に座って折り紙を折っていた女の子に目を留めた。

「理緒ちゃん……?」

自信がなさそうにそう呼びかけると、女の子は汀を見て、パァ、と顔を明るくした。

366 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 20:54:49.66 ic+McGmT0 356/1225

赤十字のA級マインドスイーパー、片平理緒だった。
彼女が立ち上がって、足早に近づく。

「汀ちゃん、大丈夫? 私、お見舞いに行ったんですよ。でも、汀ちゃん、その時寝てて……」
「うん、大丈夫……」
「熱、まだあるの?」
「うん……」

力なく頷いた汀の車椅子を、圭介は理緒に渡した。

「頼む。俺は行くところがある。君がケアしてくれ」
「は……はい! 分かりました!」

元気に頷いた理緒の頭を撫で、圭介は汀に一言かけようと口を開いた。
だが、汀が自分の方を向こうともしていないのを見て、口をつぐんで、会議室を出て行く。

367 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 20:55:19.62 ic+McGmT0 357/1225

「……どうかされたのかしら? 高畑先生」

理緒が不思議そうにそう呟くと、汀はぼんやりとした視線のまま口を開いた。

「知らないよ、圭介なんて」
「喧嘩中ですか?」
「…………」
「そ、そうだ。私、汀ちゃんみたいにいろいろ持ってないけど、折り紙得意なんです。いろいろ折ったから、見てください!」

話題を変えた理緒に、汀は表情を僅かに明るくして答えた。

「うん……」

368 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 20:56:08.14 ic+McGmT0 358/1225



「元老院の要請で参りました、高畑と申します」

圭介がそう言って、薄暗い部屋の中、円卓状になっている会議スペースの一角で椅子に座っている状態で頭を下げる。

「随分と遅かったではないか。予定を一週間も繰り越して、どういうつもりだ?」

赤十字の医師の一人にそう言われ、圭介は柔和な表情のまま、それに返した。

「別に、あなた方の道理に私が合わせるといった道理もないまででして」
「何を……!」

他の医師たちも眉をひそめる。

369 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 20:56:38.57 ic+McGmT0 359/1225

そこで、圭介と対角側に座っていた大河内が口を開いた。

「……時間が惜しい。打ち合わせを続けましょう。今回のダイブには、英国のメディアもかなり注目しています。一刻も早く結果が欲しい」
「それは、そうだが……」

医師の一人が口ごもる。
大河内はそれを打ち消すように続けた。

「今回の患者について、説明します。資料をご覧ください」

圭介が、興味なさそうに目の前に置かれた厚い資料をめくる。

「患者の名前は、エドワード・フレン・チャールズ。三十五歳。英国の王位第十五継承権を持つ、皇族の人間です」

医師達が、口をつぐんで大河内を見る。

370 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 20:57:12.37 ic+McGmT0 360/1225

「現在自壊型自殺病の第二段階を発症。それに加え、防衛型自殺病の第一段階を併発しています。英国の医療機関では治療が困難と判断され、一週間前、赤十字病院に搬送されてきました」

大河内は、周りを見回して続けた。

「二つの自殺病の併発に加え、英国では、自殺病の『完治』が望まれています。元老院は以上の点を鑑みて、今回、高畑医師との共同ダイブを要請されました」
「現在の患者の状況は?」

圭介がそう聞くと、周囲から鋭い視線が飛んだ。
それを無視して資料に視線を落とした圭介に、大河内は事務的に答えた。

「防衛型自殺病、第二段階症状前期兆候の確認がなされています」

371 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 20:57:52.35 ic+McGmT0 361/1225

「防衛型と自壊型の併発……」

そう呟いて、圭介は口の端を小さくゆがめた。

「……DID※か」 ※解離性同一性障害=多重人格のこと
「……ええ。古い言い回しになりますが、分析によると二重人格の症状が見受けられているようです」

大河内がそう言って、資料を見る。

「今回の施術には、赤十字のマインドスイーパー、片平理緒を同席させることにしました。個人的にも、高畑医師と親交が深く、連携が取れると判断してのことです」

そして大河内は資料をめくった。

「それでは、詳細なダイブの予定についてご説明します。十五ページをご覧ください」

372 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 20:58:31.32 ic+McGmT0 362/1225



施術室に汀と理緒が入ったのは、それから二時間程してのことだった。
汀は眠そうに、コクリコクリと頭を揺らしている。
その車椅子を押しながら部屋に入ってきて、理緒は困った顔で圭介を見上げた。

「駄目です……私が呼びかけても、返事をしてくれなくなりました」

圭介は理緒から車椅子を受け取り、汀の隣にしゃがんで、額に手を当てた。
その様子を、大河内と医師たちが心配そうな顔で見ている。
圭介はしばらく汀を触診していたが、やがて立ち上がって言った。

「ダイブ可能です。施術を開始しましょう」

汀の膝の上の小白がニャーと鳴く。
大河内が眉をひそめて近づいて囁く。

「どう見ても意識混濁状態のように見えるが」

373 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 20:58:59.93 ic+McGmT0 363/1225

「やれるさ。これ以上は待てない」

圭介は断固とした口調でそう言うと、汀の車椅子を、ベッドに縛り付けられている患者の脇に持っていって固定した。
理緒も、隣のベッドに横になる。

「今回の施術では、俺が二人のナビゲートを同時に行う。理緒ちゃんは、それでいいな?」

374 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 20:59:34.39 ic+McGmT0 364/1225

問いかけられて、理緒は頷いた。

「はい……でも、汀ちゃんが……」
「夢の中での運動性が落ちているかもしれないが、君がサポートしてやってくれ。トラウマが現れたら、こいつらに任せて君は中枢の治療に専念しろ」
「……わかりました」

理緒の頭を撫で、圭介は反応がなく、よだれをたらしている汀の耳にヘッドセットをつけ、無理やりにマスク型ヘッドホンを被せた。

375 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:00:24.89 ic+McGmT0 365/1225



汀が目を覚ました時、そこは沢山のスーツ姿の人が歩いている、巨大な交差点の真ん中だった。
スーツ姿の人々の顔には、モザイクのような紋様が浮いており、顔は見えなくなっている。
彼女は熱に浮かされた顔をしながら、それをぼんやりと見回した。
足元でニャーと鳴いた小白を抱き上げて肩に乗せ、汀はヘッドセットのスイッチを入れてふらついた。
そしてゆっくりとその場にしりもちをつく。

「あれ……」
『汀、聞こえるか?』
「…………」

マイクの向こうからの圭介の声に答えず、汀は苦い顔で周囲を見回した。

376 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:00:56.83 ic+McGmT0 366/1225

交差点のど真ん中でしゃがみこんでいる少女を気にかける人など、誰もいない。
皆、背筋をピンと伸ばし、話もせずにどこかへ歩き去っていく。
その光景が、ビル群を縫って、どこまでも続いていた。

「……やりたくないって言ったのに」

小さく毒づいた彼女に、圭介は淡々と答えた。

『贅沢を言うな。マインドスイーパーの資格があるんなら、仕事をしろ』
「現実の私の体調、最悪みたいだね。体が殆ど動かないよ」
『…………何とかしろ』
「それでどうにかなるなら、お医者はいらないんじゃない?」

冷たくそう返し、汀はゆっくりと立ち上がった。

377 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:01:29.27 ic+McGmT0 367/1225

体が、まるで水の中にいるかのようにもったりとしか動かない。
その様子を心配そうに小白が見ていた。
そこで汀は、人々を掻き分けてこちらに近づいてきた理緒を見た。

「汀ちゃん! 大丈夫?」

息を切らしている理緒がそう問いかける。
汀は息をついて彼女の手を握ると、頷いた。

「うん。現実の私の体が、あんまり良くないから、頭が働かないみたい。体が良く動かないから、サポートしてくれない?」
「はい! 分かりました!」

元気に理緒が頷く。

378 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:02:04.24 ic+McGmT0 368/1225

『その患者はDIDだ。二重人格だと推定される。つまり、精神世界の分裂が考えられる』

圭介が淡々と口を挟んだ。

『そして今回のダイブは、患者の「完治」が最大の目的だ。そのために理緒ちゃんを一緒にダイブさせた。精神中核をみつけて、ウイルスを除去してくれ』
「はい!」
「DID……こんな時に最悪」

汀がため息をつく。

「後日にすることは出来ないの?」
『無理だ。患者の精神分裂が進んでいる。これ以上放置すると、治療が不可能になる。中核が一つのうちに、何とかするんだ。そこはどこだ?』

379 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:02:44.29 ic+McGmT0 369/1225

汀が周囲を見回して、やはり苦そうに答える。

「無限回廊の中の一箇所だと思う。煉獄に繋がる道が見えないから、表層心理壁だね」
「汀ちゃん、見ただけで分かるの?」

驚愕の表情で理緒が聞く。
汀は頷いて、答えた。

「私、普通とちょっと違うから」
『…………』

圭介は少し沈黙してから言った。

「お前の体調が思わしくないから、時間は最大限伸ばして、十五分に設定する」
「無理だよ」
『それでもやるんだ。お前の使命を思い出せ』

380 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:03:17.25 ic+McGmT0 370/1225

汀は少し押し黙った後、足を引きずって歩き出した。

「……分かった」
「トラウマは……見られませんね」

理緒がそう呟く。

「だってここは、防衛型心理壁だもん」
「防衛型?」

きょとんとした理緒に、彼女に支えられながら歩きつつ、汀は息を切らしながら言った。

「いろいろ自殺病にはタイプがあるの。その中でも、防衛型は、意地でも精神中核に続く道を隠そうとするわ」
「そうなんですか……じゃあ、どうすれば……」
「こうするの」

381 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:04:03.96 ic+McGmT0 371/1225

汀は理緒から手を離すと、手近な男性と思われるスーツ姿の男の顔面を、思い切り殴りつけた。
もんどりうって倒れ、地面に叩きつけられてゴロゴロと転がる男。
唖然としている理緒の前で、汀は倒れた男に近づくと、無造作にその頭を踏み潰した。

「ギャ」

小さな叫び声が聞こえて、辺りに脳漿と、血液と、わけの分からない液体が飛び散る。

「汀ちゃん! それ、この人の記憶片だよ!」
「いいんだよ。ほら」

はぁはぁと息をつきながら返り血で血まみれになった汀は周りを見回した。
おびただしい数の、顔の見えない人々の動きが止まっていた。
そして、それぞれがぐるりと、汀と理緒に向き直る。

382 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:04:37.42 ic+McGmT0 372/1225

「ひっ……」

体を硬くした理緒の前で、人々は懐から、全て同じタイプの拳銃を取り出すと、コッキングして弾を充填した。
そしてザッ、と同じ動作で二人に拳銃を向ける。

「トラウマが出てこないんなら、トラウマの発生を誘発すればいいだけの話」
「そんな……ど、どうすればいいんですか!」
「こうする」

汀は手近な一人に一瞬で肉薄すると、腕を叩いてその拳銃を奪い取った。
そして、自分を狙っている近くの男女の頭部に、立て続けに発射する。
正確に銃弾は頭を抜けると、血液脳漿を飛び散らせながら、明後日の方向に飛んでいく。
汀に向けて、そこで大勢の人々が拳銃を発砲した。
小白が風船のように膨らみ、汀と理緒を覆い隠す。

383 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:05:17.50 ic+McGmT0 373/1225

実に二十秒ほども続いた銃撃が止み、硝煙の煙と、反響する銃声が止んだ頃、小白が体を振った。
バラバラと銃弾が地面に落ちる。
小白の体には傷一つついていない。

「あ……ああ……あ……」

ガクガクと震えて小さくなっている理緒を尻目に、小白の体の下から這い出ると、汀は言った。

「防衛型は、こういうときにすぐ逃げようとするから、見つけるのが簡単ね」

同じ動作で銃の弾倉を交換し、コッキングした人々の右後方、そこに、同じような顔が隠れている男が、人々の波を掻き分けながら逃げようとしているのが、遠目に見えた。

384 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:05:44.60 ic+McGmT0 374/1225

「欧米社会は銃を持ってるから嫌い」

そう言って、汀は逃げる男の頭めがけて拳銃の引き金を引いた。
パンッ! と血液が飛び散る。
ゆっくりと男が倒れる。
そこで、空間それ自体がぐんにゃりと歪んだ。
顔がない男女の姿が、徐々に消えていく。
空がいきなり夜になり、ビル群も消えていく。

「ここから転調みたいだね」

汀が息を切らしながら、しかし楽しそうに言う。
小白からプシューッ、と音を立てて空気が抜ける。
小さな猫に戻った小白を抱き上げる汀。
そこで、彼女達の意識はホワイトアウトした。

385 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:06:32.87 ic+McGmT0 375/1225



彼女達が次に目を覚ましたのは、肉と獣の臭いと、血の据えた臭いが交じり合った、不快な空気の滞った場所だった。

「何……ここ……」

平気そうな汀とは対照的に、理緒が鼻をつまんで顔をしかめる。
そこは、沢山のテントが並んでいる場所だった。
丸太のテーブルに、丸太の椅子。
そして、テントそれぞれには、血まみれのエプロンを羽織った、顔がモザイクで隠れた男性達がそれぞれ肉切り包丁を持って、『作業』をしていた。
少し離れた場所に、サーカスのテントのような場所が見える。
先ほどと同じように、スーツ姿の男が入り混じって歩き回っている。
しかし先ほどと違ったのは、幾人かがテント前のテーブルに座り、何かを、犬のようにがっついて食べていることだった。

386 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:07:01.66 ic+McGmT0 376/1225

「何かしら……」

理緒が鼻をつまみながら、近くのテントを覗き込み――。

「ひっ」

と小さな悲鳴を上げて、危うく卒倒しそうになった。
それを支えて、汀が笑顔で彼女のことを覗き込み、手を握る。

「どしたの?」

聞かれて、理緒は震える手でテントの中を指した。

「だ……だって……だって、あれ……」
「ん」

小さく相槌を打って、汀は軽く笑った。

「あれが、どうかした?」

387 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:07:35.21 ic+McGmT0 377/1225

理緒が震えながら指差した先。
そこには、天井から伸びた大きな鈎針で吊るし切りをされている、生物だったモノがあった。
否。
女性の、体だった。
頭部は舌を伸ばし、鼻や口から血を流し、目玉をひん剥いた状態で脇に投げ捨ててある。
首にあたる部分に鈎針が刺さっていて、時折肉切り包丁を持った男が、女の体を切り裂いて、『肉』を取り出しているのが見える。
良く見ると、テーブルに座って『肉』を貪り食っているのは、男の外見をした人だけだった。
女性はいない。
歩いている人の中にも、女性は見受けられなかった。

「汀ちゃん……!」

引きつった声を上げて、理緒が汀にしがみつく。
汀はそれを怪訝そうに見ると、息を切らし、熱で顔を赤くしながら、その場に手を広げてくるくると回って見せた。

388 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:08:03.41 ic+McGmT0 378/1225

「どうしたの? 面白いじゃない。こんなに狂ってなきゃ、楽しめないよ」
「楽しむ? 何を楽しむっていうんですか!」

ヒステリックに問い返した理緒に、汀は近くのテントを覗き込んで、面白そうに笑い、答えた。

「全部だよ。ほら、しっかりして。行こ」

手を引かれて理緒が、ふらつきながら狂宴の中を歩き出す。

まだ生きている女性もいるらしく、所々で、絞め殺す断末魔の声が聞こえる。
その度に耳を塞ごうとする理緒を、汀は不思議そうに見ていた。

「折角だから入ってみよ」

サーカステントの前について、汀は、係員と思われる男性を見上げた。

389 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:08:51.16 ic+McGmT0 379/1225

『汀、状況を説明しろ』

そこで圭介の声に邪魔され、彼女は頬を膨らませた。

「今、いいところなの」
『端的でいい』
「中核に近い心理壁の中に入り込んだよ。おそらく、この人の主人格だね。自壊型の特徴が見れる。前後左右トラウマだらけだよ! 以上報告終わり!」
『……残り十分だ。慎重に行け』
「主人格……これが……?」

理緒が、そこで震える声を発した。

「高畑先生、こんなのおかしいです! どうしてレベル2の人の心の中が、こんなに濁ってるんですか!」

390 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:09:29.88 ic+McGmT0 380/1225

悲鳴のような声を発した理緒に、汀は息をついて答えた。

「そっか。理緒ちゃんはDIDの人の心の中にダイブするのは、初めてのことなんだ」
「そうですけれど……」
『……DID患者は、既に何らかの強い心的外傷を受けて、精神分裂を起こしている。つまり、冒された主人格の方は、「もう既に崩壊している」状態なんだ。人の心は不思議なもので、そんな状態になったら、正常な人格をつくり、「自己」を保とうとする』

圭介はそう説明し、何でもないことのように言った。

『一般的なDID患者の主人格、その崩壊レベルを自殺病に換算すると、レベル7に相当する』
「な……っ!」

唖然と硬直した理緒の手を引いて、汀は受付の男に言った。

391 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:10:01.95 ic+McGmT0 381/1225

「Two Children and a cat, please!」

汀の肩の上で、小白がニャーと鳴いた。
顔にモザイクがかかった、ピエロ風の男は、チン、チン、チンと切符を切ると、それを汀に手渡した。
インクではなく、血液で「999」とプリントされている。

「これは……」
「持ってた方が良さそうだよ。悪魔の数字、欧米では『666』って言われてるけど、夢の世界では、それが反転して逆になるの」
「私、そんなこと知らない……マインドスイーパーの学校では、そんなこと教えてもらわなかったです。汀ちゃん、どうして……」
「早く。始まっちゃうよ」
「始まるって、何が……」
「ショーだよ」

目をキラキラさせながら、汀はそう言った。

「この人の心の中で、一番狂ってて、一番面白いショーが始まるんだよ!」

392 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:10:51.34 ic+McGmT0 382/1225



緊張のあまり過呼吸のようになりながら歩く理緒の手を引いて、汀は最前列に腰を下ろした。
周りには、手にフライドチキンのようなモノを持った、顔にモザイクがかかった男達が、ワーワーと意地汚い野次を飛ばしながら銀幕に向かって騒いでいる。

「やだ……怖い……怖い……」

震えている理緒の肩を叩き、汀は売り子の男が差し出してきたフライドチキンのようなモノを二つとって、彼女に差し出した。

「うん、味は悪くないよ」
「何食べてるの!」

悲鳴を上げる理緒。
汀はフライドチキンを頬張りながら、銀幕に向かって声を上げた。

「時間がないの! 早く始めてくれる?」

393 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:11:18.29 ic+McGmT0 383/1225

「汀ちゃん、こんなのおかしいよ。一度戻った方が……」

理緒の制止を無視して、汀はもう一つのフライドチキンを、銀幕に投げつけた。
薄い膜がバリンと破れ、次いで、陽気なオクラホマミキサーの曲とともに顔にモザイクがかかったピエロ達が出てきて、全くテンポのずれた踊りを踊り始める。

「あはは! きゃははははは!」

面白くもなんともない光景。
全員が全員バラバラの、意味のない踊り。
しかし汀は心底楽しそうだった。
呆然としている理緒の前で、ピエロたちが引っ込み、ドラムの音と共に、銀幕が上がった。
周りの男達の歓声が大きくなる。
ドラムの音とともに引っ立てられて、鎖を引きずりながら、次々と全裸の女性達が舞台上に現れる。

394 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:11:47.78 ic+McGmT0 384/1225

彼女達はオクラホマミキサーの陽気な曲と共に悲鳴や絶叫を上げながら、処刑人の服を着た男達に、一列に並べられた。
タン、タン、タン、と曲が終わる。
次の瞬間、客席の男達が立ち上がって、手に持った拳銃で、一斉に女性達を撃った。
理緒が絶叫して耳を押さえ、丸くなる。
汀は対照的に、目を輝かせて手を叩いて喜んでいた。
恐る恐る目を開けた理緒の視界に飛び込んできたのは、動かなくなった女性達だったモノと、飛び散った血液、体液だったもの、内臓だったモノ、良く分からない液体でべしょべしょになったぐちょぐちょの舞台だった。

「いやぁあああああ!」

理緒が悲鳴を上げる。

それを皮切りにして、またオクラホマミキサーの曲が流れ、ピエロたちが出てきてテンポ外れの踊りを踊り始めた。

395 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:12:32.51 ic+McGmT0 385/1225

彼らは、動かなくなった女性だったモノの一つを持ち上げた。
客席の男の一人が、声を上げる。
続けて沢山の男達が、値段を示す単語を口走る。
最後に手を上げた男のところに、ピエロ達は死骸を放った。
まだ生暖かいそれが、理緒の目の前にびちゃりと着地する。
四肢が無残に嫌な方向に曲がった女性の死体。
苦悶の表様に、怒り、憎しみ、全ての負の感情を込めた、醜悪な表情をしたそれの髪の毛を掴み、落札した男が、ずるずると「ソレ」を引きずりながら外に歩いていく。
またオクラホマミキサーの曲が終わり、女性達がぐちょぐちょの舞台の上に引きずり出される。
中には反抗する女性もいたが、問答無用で処刑人の持つ斧に頭をカチ割られて動かぬ人形と成り果てていた。

396 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:13:03.14 ic+McGmT0 386/1225

「嫌、こんなの嫌……嫌だ……嫌……」

癲癇の発作のように震えながら呟く理緒の脇で、ヒートアップした汀が騒いでいる。

「私にも銃! 銃頂戴! 銃!」

売り子から拳銃をむしりとり、女性の一人に狙いをつける汀。

「何してるの!」

理緒が悲鳴を上げて彼女を客席から引き摺り下ろす。
熱で真っ赤な顔をしている汀が、怪訝そうに彼女に聞く。

「どうしたの? お腹痛いの?」
「私がどうしたのって聞きたいです! 汀ちゃん、おかしいよ!」
「何が?」
「だ、だって殺されてるよ! 女の人が、銃で……きゃあああ!」

また舞台の上が銃撃され、女性達が崩れ落ちる。

397 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:13:38.44 ic+McGmT0 387/1225

ピエロ達が、今度はバラバラなコサックダンスをしながら、
死体を掴み上げる。
無残な落札が始まった。

「ちぇ、撃てなかった」

不満そうにそう言って、汀は頬を膨らませた。

「折角のDIDなのに、何が不満なの?」
「全部だよ! 汀ちゃん、早く中枢を探そ? 頭がおかしくなるよ!」
「おかしくなんてならないよ」

ニッコリと笑って、汀は言った。

「これ以上おかしくなったら、みんな困るもん」

398 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:14:24.43 ic+McGmT0 388/1225

絶句した理緒と、汀の耳に圭介の声が聞こえてきた。

『時間が差し迫ってる。早めに手を打て』
「手を打てって言われてもなぁ……」

汀はそこで始めて、困ったように周りを見回した。

「この人、過去に女性に酷い目に遭ってるね。多分母親だ」
『患者の過去は検索しないのが礼儀だ』
「知ってるよ」
『理緒ちゃんがお前についていけないそうだ。早く中枢を探せ』
「ついてけないって……何で?」
『いいから探せ』
「命令されるのは好きじゃない」
「汀ちゃん……お願い、本当に早く……」

動悸が治まらないらしく、理緒が胸を押さえながら言う。

399 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:14:56.45 ic+McGmT0 389/1225

その様子を呆れたように見て、汀は一言、呟くように言った。

「理緒ちゃん、マインドスイープするの何回目?」
「……私、今まで小さい子にしかマインドスープしたことなかったから……それに、こんな、世界全体がトラウマなんて、見たことも聞いたことも……」
「世の中にはもっとドロドロでグチャグチャなところもあるんだよ?」

首をかしげて、汀は銃を舞台の上に向けた。

「それに比べれば、これくらい」

パンッ、と彼女は躊躇なく引き金を引いた。
壇上の女性の一人が頭を撃ち抜かれ、白目を剥いて倒れる。

「どうってことないじゃない」
『汀、あと三分だ。カウントダウンを始めるぞ』

圭介の声を聞いて、汀はチッと舌打ちをした。

400 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:15:33.07 ic+McGmT0 390/1225

そこで売り子が近づいてきて、汀の前にしゃがむ。
小白の分までチケットを切って、売り子は理緒の前に屈んだ。

「理緒ちゃん、チケット」

そう言われ、理緒は悲鳴をあげた時にどこかに落としてしまったことに気がつき、青くなった。

「え……わ、私……」

次の瞬間、理緒の首に巨大な鉄枷が嵌められた。

「理緒ちゃん!」

汀が慌てて近づこうとするが、よろけて倒れてしまう。
舞台に引きずり上げられ、理緒は泣き喚いて首枷を外そうと抵抗していた。
やがて、首枷から伸びている鎖が、台に設置されて巻き上げられる。

401 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:16:12.01 ic+McGmT0 391/1225

それに、首吊り自殺のような形で吊り上げられ、理緒はオクラホマミキサーの曲の中、必死に体をばたつかせていた。

『どうした!』

圭介の声に、汀が青くなって返す。

「理緒ちゃんがトラウマに捕まっちゃった!」
『いつまでも遊んでるからだ。汀、時間がない。GDM―Tを注射するぞ。理緒ちゃんは無傷で助けろ』
「分かった!」

汀は緩慢とした動作で、舞台に向かって走り出した。
観客席の男達が、銃を構える。
オクラホマミキサーの曲が聞こえる。
ピエロ達が踊っている。

402 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:16:48.01 ic+McGmT0 392/1225

そこで、汀の体が消えた。
否。
地面を、床が砕けるほど強く蹴って、まるで弾丸のように理緒に向けて飛び上がったのだった。
残像を残しながら、およそ人間とは思えないほど速く汀は理緒に到達すると、近くの処刑人を殴り飛ばし、目にも留まらない勢いで斧を奪い、鎖を断ち切った。
理緒が地面に崩れ落ち咳をする前に、彼女は息を切らしながら彼女を抱き上げ、舞台裏に転がった。
銃撃が聞こえた。

「ゲホッ、ゲホ、ゲホッ!」

理緒が激しくえづく。
涙目で震えている彼女の脇で、汀は体を震わせると、盛大にその場に吐血した。

「みぎわ……ちゃん……」

首の鉄枷を外し、汀に這って近づく理緒。

403 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:17:17.45 ic+McGmT0 393/1225

汀は、真っ赤に充血した目で、彼女を見て、その肩を掴んだ。

『効果時間は十一秒か。良くやった』

圭介の声が聞こえる。

「そこ……」

汀が指をさす。
そこには、オクラホマミキサーを流していると思われる、古びたレコード機があった。

「壊して……早く……!」

404 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:17:53.49 ic+McGmT0 394/1225

タン、タン、タン。
と音楽が終わった。
顔を上げた理緒の背筋が、ゾッと寒くなった。
舞台に、男達が全員上がり、銃をこちらに向けていたのだ。
小白がシャーッ! と鳴いて威嚇する。
理緒は無我夢中でレコード機に駆け寄ると、それを引き倒し、レコードを床にたたきつけた。
そこで、彼女達の意識はホワイトアウトした。

405 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:18:30.44 ic+McGmT0 395/1225



汀は、理緒に支えられ、真っ白な空間に立っていた。
そこには、砂画面が映っている小さなブラウン管型テレビが一台、置いてあるだけだった。
周りには何もない。
どこまでも、何もなかった。

「寂しかったんだって」

汀は、荒く息を吐きながら呟いた。

「寂しいってことは、一番残酷なことなんだよ……」

彼女はそう言って、血痰を吐いてから、その場に崩れ落ちた。

「汀ちゃん!」

406 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:19:36.83 ic+McGmT0 396/1225

「早く……治療して……」

彼女に背中を押され、理緒はブラウン管型テレビの前に立った。
そして震えながら、そのダイヤルに手を伸ばし、回す。
慎重に回していくと、プツッ、という音がして青空が映し出された。

「怖くない……怖くないよ……」

自分に言い聞かせるようにそう言い、理緒はテレビ画面の中に手を突っ込んだ。
画面が水面のように揺らめき、手を飲み込む。
しばらくして、彼女は両手で持ちきれないほどの、黒いミミズを抱えて、画面から引きずり出し、嫌悪感で顔を真っ青にさせながら、それらを地面に叩き付けた。
プツッ、という音がして、テレビの砂画面が消え、真っ白になる。
汀はゴロリ、と地面に倒れると、ヘッドセットに手を伸ばし、言った。

「治療完了……二人とも、目を覚ますよ」

407 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:20:16.81 ic+McGmT0 397/1225



圭介は、朝、誰もいない診察室の中で、硬い表情で資料を眺めていた。
そこには、以前汀がダイブ中、助けたことがある少女の顔写真があった。
灰色の髪の写真と、赤茶けた髪の写真。
そこには、「加原岬」と書かれている。
圭介は携帯電話を取り出すと、どこへかコールして、口を開いた。

「…………やられたな。まさか、マインドスイーパーの意識を弄ってくるとは思わなかった」
『やっとそれに気づいたのかい。遅すぎるね。だから先手を取られるんだ』

電話の向こうの声は、明らかに面白がっているように、弾んだ声で続けた。

『加原岬、十五歳。以前、「そっち」のマインドスイーパーとは、死刑囚の頭の中でご対面したことがあるんだっけか』
「ああ」
『現在は関西総合病院にいるらしいけど、どうしてだか知ってるかい?』

408 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:20:48.90 ic+McGmT0 398/1225

問いかけられ、圭介は口元を醜悪に歪めて笑った。
しかし、抑揚なくそれに答える。

「知らんな」
『……そう。ならいいんだ』

電話の向こうの声はそう言って、端的に付け加えた。

『それじゃ。これ以上話すと逆探知されるから、次からは「鯨」の番号にテルしてね』
「分かった。それじゃ」

プツッ、と電話が切れる。
そこで圭介は、インターホンの呼び出し音が鳴ったのを聞いて、壁のモニターに近づいた。

409 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:21:37.68 ic+McGmT0 399/1225



「……汀ちゃんは、あれからずっと寝てるんですか?」

唖然として理緒が言う。
余所行きの、今時の女の子の服を着て、髪を綺麗に結っている。

「見ていくかい?」

そう言って圭介は汀の部屋のドアを開けた。
ベッドでは、やせ細ってやつれた女の子が、すぅすぅと頼りない寝息を立てていた。

「汀ちゃん……私のせいで……」
「一時的に脳の働きを活性化させるクスリを投与したのは、何も君のためだけじゃない。依頼を成功させるためだったんだ。気に病むことはない」
「高畑先生は……」

410 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:22:10.52 ic+McGmT0 400/1225

そこで、理緒は視線をそらしながら、小さな声で言った。

「高畑先生は、それでいいんですか……?」

問いかけられた圭介は、一瞬沈黙してから答えた。

「……患者を治すことは、汀が一番望んでいることだ。俺は、その助けをしているに過ぎない」
「でも……このままじゃ、汀ちゃん……」
「大丈夫だ。汀は絶対に死なせない」

圭介は目を細めて、汀を見た。

「絶対にだ」

その視線をちらりと見た理緒は硬直した。

411 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:22:42.57 ic+McGmT0 401/1225

どこか、言い知れぬ冷たさ……いつもの彼とは違う、異質の何かを感じ取ったからだった。

「あの……私、失礼します。これ……汀ちゃんが起きたら、渡してください」

そう言って、お土産のお菓子が入った包みを圭介に渡し、背中を向ける理緒。
そこで圭介は、しゃがんで汀の脇に置いてあった箱を取ると、理緒の肩を叩いて振り向かせ、それを渡した。

「持っていくといい。中に、ソフトも何本か入ってる」

それは、3DSの箱だった。
まだ新品と見れるものだ。

「そ、そんな……こんな高額なもの、いただけません……」

412 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:23:09.85 ic+McGmT0 402/1225

「そうでもないさ。別に気に病むことはない。汀が、君とやりたいゲームがあるって言ってたから、買ってきただけなんだ。あいつからのプレゼントだと思って、受け取ってやってくれ」
「…………あ、ありがとうございます……」

肩をすぼめて、小さな声でお礼を言う。
そこで彼女は、思い出したように圭介に聞いた。

「あの……」
「ん?」

柔和な表情をしている彼に少し安心したのか、理緒が続ける。

「私達が治療したあの患者さん……DIDは、治ったんですか?」
「……」

圭介は一拍置いてから、何でもないことのように言った。

413 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:23:43.15 ic+McGmT0 403/1225

「治ってるわけないだろう? その治療までは頼まれてない」
「え……」

絶句して、理緒は言葉を失った。
固まっている彼女に、圭介はにこやかに笑いながら言った。

「DIDをマインドスイープで治療するのは無理だよ。君達は、頼まれていた通りに、自殺病を完治させた。何か、問題があるかい?」
「で、でも……それじゃ、患者さんは……」
「理緒ちゃん」

理緒の言葉を遮り、圭介は言った。

「自殺病にかかった者は、決して幸せにはなれない。そういう病気なんだよ?」

414 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/10 21:24:13.67 ic+McGmT0 404/1225

言葉を返せないでいる理緒の前で、ドアを空け、彼は続けた。

「暑いだろうから、タクシーを呼ぼう」
「え……大丈夫です。それにお金が……」
「いいんだ。請求書は大河内にツケといてくれ」

圭介はそう言って、ニコリと笑った。

「それくらい別に、保護者ならしてくれてもいいだろ」

笑顔の奥に、どこか暗い場所がある表情だった。
理緒は何か言葉を発しかけたが、やがてそれを飲み込んで、小さく微笑んでコクリと頷いた。
汀のベッド脇で丸くなっていた小白が、大きくあくびをして、また目を閉じた。




418 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:12:28.29 HfxN4Wl30 406/1225



第7話 ありがとう



人が「死」を認識するのは、何歳の時だろう。
死を恐れるのは、何歳の時だろう。
そして、死を受け入れるのは、何歳になってからのことだろう。
それを知っている人、覚えている人は殆どいないことと思う。
そもそも死とは何なのか。
恐怖し、畏れ怒り危惧し、そして結果的に「何なのか」分からず、自己完結して紛らわそうとする。
そんな不確定的で未確定かつ流動的な要素。
そもそも要素であるのかどうかも分からないそれは、私達の頭の中、そのすぐ傍を常にたゆたっている。

419 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:13:46.35 HfxN4Wl30 407/1225



汀は、壁を這っている小さな蜘蛛を、ぼんやりと見ていた。
どこから入り込んだのか、一センチくらいの茶色い蜘蛛が、一生懸命のぼろうとしている。
どこに向かっているのか。
上に行って、そして窓も開かないこの部屋のどこに隠れ、何を獲って過ごすつもりなのか。
汀の脳裏に、足を天井に向け、床に転がっている蜘蛛の姿がフラッシュバックした。
気づいた時、汀は動く右手を、強く壁に叩きつけていた。
ジーンと手が痺れる。
ぼんやりとした視線を手の平を広げて、そこに向けると、もはや飛沫と化した蜘蛛の姿があるばかりだった。

420 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:14:40.11 HfxN4Wl30 408/1225

「どうした?」

扉を開けて圭介が入ってくる。
汀は小さく咳をしてから、手と壁をティッシュで拭いて、それをゴミ箱に捨てた。

「何でもない」
「具合が悪かったらすぐに言えよ。そうでなくても、最近お前は不調なんだ」
「……お外に出たいな」
「生憎と今日は土砂降りの大雨だ。気づかなかったのか?」

圭介がカーテンを開けると、外の土砂降りの景色が汀の目に飛び込んできた。
しかし汀は、それを一瞥しようともせずに、ぼんやりと繰り返した。

「お外に行こうよ……何か食べに行こ」

421 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:15:22.11 HfxN4Wl30 409/1225

「今の体調と、この天気じゃ無理だ」
「退屈だよ」
「ゲームは? 漫画は?」
「そんな気分じゃない」

我侭を言う汀を、圭介は呆れたように見ていたが、少しして息をつき、言った。

「……なら、患者の診察をしてみるか?」
「え?」

汀はきょとんとして圭介を見た。

「でも、マインドスイーパーは、先入観をなくすために、患者さんのことはあんまり知らないほうがいいって……」
「比較的軽度なら、別に構わないケースもある。それに、お前の精神衛生も考えてな……」

少し表情を暗くした圭介を、汀は不思議そうに見ていた。
やがて彼女は頷いて、彼に言った。

「どうせ暇だし、やってみるよ」

422 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:16:10.07 HfxN4Wl30 410/1225



「へぇ、あなたがねぇ。マインドスイーパーっていうのかい。小さいのに、たいしたもんだねぇ」

動く右手を温かい両手で包まれ、汀はきょとんとした顔で、その患者を見た。

「こんなに痩せて。ちゃんとご飯は食べてるのかい?」

優しい顔をした、老婆だった。

「え……あ……は、はい……」
「そうだ。飴ちゃん食べるかい? 今時の女の子が好きそうな飴じゃなくて、のど飴しかないけど、私は黒糖入りが好きでねぇ」

かばんの中から飴を取り出し、二つも三つも汀の手に握らせる老婆。
温かい言葉と行為の攻撃に、汀はついていくことが出来ずに、圭介に困った視線を送った。

423 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:17:16.36 HfxN4Wl30 411/1225

しかし圭介は、壁にもたれかかって腕を組んだ姿勢のまま、軽くにやけただけだった。
圭介を頼りに出来ないと気づいた汀は、飴を片手で剥いて口に入れ、残りをポケットに入れた。
そして戸惑いがちに口を開く。

「あの……診察……」
「あぁ、そうだったね。今日はお嬢ちゃんと、お話が出来るんだってね。私の孫も、小さい頃はお嬢ちゃんみたいに可愛かったのよ。今では結婚して、太っちゃったけどねぇ」
「は、はぁ……」
「何歳なんだい? 髪は染めてるのかい? 駄目だよ、小さい頃に染めたら、髪が痛んじまうよ」
「十三歳です。髪は、薬の影響で……」
「あら、そうだったのかい。それは悪いことを聞いたね……」

老婆のペースに流されまいと、汀は無理やりに話題を変えた。

424 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:17:50.25 HfxN4Wl30 412/1225

「あの……自殺病の治療に来られたと聞いたんですけれど……」

とても、自殺病を発症しているとは思えない、優しい雰囲気と、元気なオーラを発している女性だった。
それを聞いて、女性はしばらく目をしばたたかせた後、合点がいったように頷いた。

「ええ、そうなのよ。赤十字病院に行ったら、自殺病の第一段階初期とか言われて、もう困っちゃうわぁ」
「だ、第一段階初期……?」

汀はそれを繰り返して、カルテに目をやった。
圭介が書いた流浪なドイツ語が目に飛び込んできたが、当然汀には読むことは出来ない。

「それなら、投薬で十分治療できると思います。自覚症状もないみたいですし……赤十字の先生は、何て言っていましたか?」

425 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:18:46.14 HfxN4Wl30 413/1225

戸惑いがちに汀がそう聞くと、老婆はにこやかに微笑んで答えた。

「それがね、どうも私は、自殺病の薬が効かない体質らしいのよ。困っちゃうわ、本当」
「は、はぁ……」
「よく聞いてみたら、ここの病院が一番スッキリ取り除いてくれるっていう話じゃないの。少し遠かったけど、来てみたっていうわけ。お嬢ちゃんと会うのは初めてだけど、高畑先生とは何回か診察でご一緒してるのよ」

ペラペラと、良く口が回るものだと言うくらい流暢に老婆は喋ると、バッグから小さなペットボトルを出して、その中のお茶を喉に流し込んだ。

「圭介……」
「ん?」

圭介を呼び、汀は彼の方に車椅子を向けた。

426 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:19:23.04 HfxN4Wl30 414/1225

そして小声で言う。

「赤十字に回したら?」
「まぁそう言うな。息抜きも大事な仕事のうちだ。それより、お前の見立てではどうだ、『汀先生』?」

問いかけられ、汀は手元の資料に目を落とし、右手で器用にめくりながら言った。

「別にダイブしてもいいけど……話口調もはっきりしてるし、瞳の混濁も見られないし……情緒不安定な面も、確認されてないみたいね……投薬が出来ないらしいけど、放っておいても自然治癒するんじゃないかしら」

それを聞いていた老婆が、口を挟んできた。

「それでも心配じゃないの、頭の中に正体不明の病気がいます、なんてことはねぇ。できればすぐにはっきりとした状態に戻して欲しいの」
「でも……自覚症状がないんでしたら、放置していても問題はないと思いますけど……」

汀はボソボソとそう返すと、息をついた。

427 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:21:21.22 HfxN4Wl30 415/1225

「一応ダイブしておきますか? 一応っていう表現はおかしいかもしれませんけど……ただ……」

汀は、そこでキィ、と車椅子を老婆に向けた。

「心の中を私に見られて、あなたはそれで構わないんですか?」

端的な疑問をそのまま口に出す。
老婆は、しかし笑顔でそれに頷いた。

「最初は、どんな子がくるのかと思ってたけれど、あなたみたいな可愛い子なら大歓迎よ。どうぞ、沢山覗いていってくださいな」

428 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:22:01.41 HfxN4Wl30 416/1225

「はぁ……そうなんですか」

納得がいかない、といった風に汀が首を傾げる。
そこで圭介が汀の脇に移動し、デスクから書類の束を取り出した。

「それでは、契約の確認をしましょうか。それと、当施術は保険の対象外ですので、その点もご了承ください」
「ええ、分かっています。どうぞ、宜しくお願いします」

老婆が深く頭を下げる。
汀は、それを複雑な表情で見ていた。

429 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:23:30.57 HfxN4Wl30 417/1225



汀は、施術室の中で、てきぱきと準備をしている圭介を見た。
老婆は、麻酔薬を導入され、ベッドに横になっている。
頭にはマスク型ヘッドセットが被せられているが、別段、手足を縛り付けられているという風な様子はなかった。

「絶対おかしいよ。圭介、何企んでるの?」

そう問いかけられ、計器を点検しながら圭介は返した。

「別に。何も」
「私がやらなくても、赤十字のマインドスイーパーで対処できる内容だよ。てゆうか、ダイブする必要がないと思う」

汀の膝の上で、白い子猫、小白がニャーと鳴く。

「ダイブする必要がないって、どこをどうしてそう判断するんだ?」
「だって……たかがレベル1でしょ?」

伺うようにそう聞いた汀に向き直り、圭介は続けた。

430 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:24:14.50 HfxN4Wl30 418/1225

「たかが? レベル1でも自殺病には変わりないだろ。何嫌がってるんだ?」
「嫌がってなんていないよ。でも、わざわざ私が行く必要があるのかなって」
「汀、何か勘違いしてないか?」

圭介は壁に背中でもたれかかり、息をついた。

「お前は、人を助けたいんだろう? なのに、この人は助けなくてもいいって言うのか」
「助ける必要がないと思うだけ」
「それはお前の驕りだよ」

断言して、圭介は少しきつい目で汀を見た。

「お前、自分を何か特別な存在だと思ってないか? お前は、特A級能力者である前に、一介の、ただのマインドスイーパーだ。マインドスイーパーは仕事をしなきゃいけない。それがどんな患者であってもだ」
「……圭介は、それが本心なんだね」

そう言って汀は悲しそうに目を伏せた。

431 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:25:19.31 HfxN4Wl30 419/1225

「何?」
「圭介は私のこと、道具としか見てないんだ。道具だから言うこと聞けってことでしょ? 道具だから、文句言うなってことでしょ?」

怒りではなく、悲しみが伝わってくる言葉だった。
圭介はしばらく押し黙っていたが、近づいて汀の頭を撫でた。

「すまん、少し言い過ぎた」
「…………」
「最近お前、情緒不安定だぞ。体調も良くならないしな。だから、単純に、『普通』の人間の心理壁を観光ついでに見て来い、っていうだけのつもりだったんだ。いらない邪推をするなよ。幸い、患者もそれに同意してくれてる。小白とダイブして、遊んで来い」
「……遊ぶ? 遊んでいいの……?」
「ああ。そのために用意したステージだ」

圭介は軽く微笑んで、汀にヘッドセットをつけ、マスク型ヘッドフォンを被せた。

「少し、それで頭冷やして来い。時間は四十分に設定する」
「え?」

汀が素っ頓狂な声を上げる。

432 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:26:17.20 HfxN4Wl30 420/1225

圭介は頷いて言った。

「ああ。それだけあれば、十分遊べるだろ。外に連れて行けない代わりと考えてくれればいい」
「分かった。圭介、変なこと言ってごめんね。遊んでくる!」

汀が笑ってそう返す。
圭介は、計器前の椅子に腰を下ろし、少し表情を曇らせた。
しかしすぐに柔和な表情に戻って、言う。

「行っておいで」

433 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:29:28.41 HfxN4Wl30 421/1225



汀は目を開いた。
そこは、巨大なトンネルのようになっている空間だった。
足元の小白を抱き上げて肩に乗せ、汀は周りを見回した。

「へぇ……」

そう呟いて、息をつく。
そして彼女は、ヘッドセットのスイッチを入れて口を開いた。

「ダイブ完了。さすが、精神崩壊が起こってない人の心の中って、綺麗ね」
『そうか。状況を教えろ』
「整頓された心理壁の内面に続く通路の中にいるみたい。トラウマに構築された世界じゃないね」
『今回のメインは観光だ。ゆっくりとしてくるといい』
「分かった」

頷いて、汀は散歩にでも行くような調子で歩き始めた。

434 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:30:18.56 HfxN4Wl30 422/1225

ベートーヴェンの曲が聴こえる。
落ち着いた空気と、清涼感が漂う綺麗な場所だった。
トンネルは、全てジグソーパズルで出来ていた。
綺麗に全てのピースがはまっていて、そこには、老婆が観光で行った所なのか、
いろいろな景色が映し出されていた。
そこには必ず、同年代の男性と一緒にポーズをとっている老婆の姿があった。
それは、写真だった。
写真のジグソーパズルで構築されたトンネル。
思い出のトンネルだ。
汀は面白そうに笑いながら、手を広げてその場をくるくると回った。
足元もジグソーパズルだ。
どこに光源があるのか分からないが、ぼんやりと光っていて明るい。

「見て、小白。ハワイだよ、ハワイ。行きたいなぁ」

汀は、にこやかにピースサインをしている老人と老婆を見て、自分もピースを返した。

435 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:30:52.75 HfxN4Wl30 423/1225

「私が生きてるうちに、行けるかなぁ」
『ハワイになら、夢の中で何回も行ってるだろ』

そこで圭介が口を挟む。
汀は頬を膨らませてそれに返した。

「夢と現実は違うの」
『そうなのか。お前の感覚は良く分からんが』
「本物は、もっとこう……違うんじゃないかなぁ。だって、この写真のお爺ちゃんとお婆ちゃん、笑ってるもん。こんなに楽しそうに、笑ってるもん」
『…………』
「私、こんなに楽しそうに笑えないな。ねぇ圭介」

汀は、裸足の足を踏み出して彼に問いかけた。

「私、大きくなったら大河内せんせと結婚できるかな」
『…………』
「結婚したら、普通にお母さんになって、普通に子供産めるかな」

圭介は、それには答えなかった。

436 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:31:46.25 HfxN4Wl30 424/1225

汀は写真を覗き込んで、構わずに続けた。

「男の子がいいな。そして、女の子二人。せんせはなんて言うだろ。せんせは、忙しいから子育てできないかな。そしたら、圭介が手伝ってくれる?」
『…………』

圭介はまだ、押し黙っていた。

「圭介?」

ヘッドセットの向こうに怪訝そうに問いかけた汀に、圭介は口を開いた。

『汀、よく聞け。お前は……』
「ん?」
『……お前は……』

彼が言い淀んだその時だった。
突然、静かに鳴っていたベートーヴェンの音楽が消え、代わりに救急車のサイレンの音が鳴り響いた。
周囲も赤い光源になり、汀はハッとして周りを見回した

437 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:32:25.16 HfxN4Wl30 425/1225

「トラウマだ。でもどうして……?」
『……トラウマだって? どのくらいのレベルの奴だ?』
「この人の心が警鐘を鳴らしてるくらいだから、外部からの外的衝撃が加わったってことだと思うけ……きゃあ!」

ズシンッ、とトンネル内に地震が起こった。
バラバラと写真のジグソーパズルが降って来る。
汀は、震度七ほどにも匹敵する地震に抗うことも出来ず、ゴロゴロと地面を転がって、したたかに頭を壁にぶつけた。
ザァァァッ! と雨のようにジグソーパズルが降って来る。
息も出来なくなり、目の前が確認できなくなった汀の手の中の小白が、ボンッ、と音を立てて膨らんだ。
そして傘のようになり汀の体を覆う。
ジグソーパズルの落下はとどまるところを知らず、天井、壁、床全ての写真が崩れ落ち、無残に雪のように積もった。
地震が収まり、時折パラパラとパズルが落ちてくる中、汀はもぞもぞとその中から這い出した。
体の所々が、パズルの角で切れてしまっている。

438 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:32:55.87 HfxN4Wl30 426/1225

小白が空気の抜ける音を立てて元にもどる。
そこで、ドルンッ、とエンジンの音が聞こえた。
汀がジグソーパズルの海の中、サッと顔を青くして振り返る。
そして、彼女は目玉を飛び出さんばかりに見開いて、硬直した。
そこには、ドクロのマスクを被り、右手に錆びた巨大なチェーンソーを持った男がゆらりと立っていた。
ピーポーパーポーピーポーパーポーと救急車のサイレンが鳴り響いている。

「いやああああああああああああ!」

汀は、耳を塞いで目を閉じ、絶叫した。
エンジンの音は、チェーンソーが起動した音だったのだ。

『どうした、汀!』
「やだ、やだ、やだ、やだ!」
『落ち着け、何が……』
「やだやだやだやだやだやだ! いやあ! いやあああああ!」

完全にパニックになった汀は、パズルの海を抜け出そうともがいて、その場に盛大に転んだ。

439 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:33:34.08 HfxN4Wl30 427/1225

しかしそれでも、全身をブルブルと震わせながら、這って逃げようとする。
男が、パズルを踏みしめて足を踏み出した。

ズシャリ。
ギリギリギリギリギリ。

チェーンソーの端が、壁に当たりそこを削り取る。
汀は両目から涙を流し、腰を抜かしてその場にしゃがみこんだ。

「あ……あああ……あ……あ…………」

言葉になっていなかった。
男がゆっくりと近づく。
小白が、男と汀の間に立ち、シャーッ! と牙を剥き出して威嚇した。
その体が風船のように膨らみ、全長五メートルほどの化け猫の姿に変わる。

『汀、トラウマか? まさかドクロの男か!』
「圭介! 圭介、か、か……回線! 回線切って! 助けて! 助けて! 助けてえええ!」

いつもの飄々とした威勢はどこに行ったのか、汀が泣き叫ぶ。

440 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:34:03.74 HfxN4Wl30 428/1225

彼女は後ずさって逃げようとしたが、壁に追い詰められてしまっていた。

『分かった、今すぐに回線を……ブブ……』

そこで圭介の声がノイズ混じりになり、ヘッドセットから、砂画面の音が流れ出した。

『何…………ザザ…………これ…………ブブブ…………』
「圭介!」

汀の悲鳴が、虚しく響く。

「一分…………逃げろ……し……待って…………ブブ…………」

プツン、と音が消えた。
次いで、突然ヘッドセットからの音がクリアになった。
そして面白そうに笑う、少年の声が聞こえる。

『なぎさちゃん』

踊るようにその声は言った。

441 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:34:52.11 HfxN4Wl30 429/1225

マスクの男が顔を覆うドクロの口元をめくり、裂けそうなほど広げた。
ヘッドセットと、マスクの男両方から、声が聞こえた。

『みーつけた』

そこで、小白がマスクの男に飛び掛った。
男がチェーンソーを振り回し、小白のわき腹をなぎ払う。
ドパッと鮮血が散り、小白が地面を、パズルを飛び散らかせながら転がった。
次いで男は飛び上がると、小白の脳天に向けてチェーンソーを振り下ろした。

「小白!」

汀が震えながら悲鳴を上げる。
そこで、しゃがみこんでいた汀の両腕に、壁から飛び出た鉄の枷が嵌められた。
あっ、と思う間もなく、彼女は壁に引き寄せられ四肢を磔られた。
首と両足にも枷がはまり、汀は涙をボロボロと流しながら、横に目をやった。
彼女は、縦にした棺のような場所に磔られていた。

442 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:35:45.43 HfxN4Wl30 430/1225

そして、ドアを連想とさせる脇の部分には――。
沢山の長い針が、内側に伸びた棺の裏部分が見えた。
頼りなげに揺れている。
棺の扉が閉じたら、中にいる汀は、その沢山の針で串刺しになってしまう。
そういう寸法だった。
暴れることも出来ずに、汀はただ、呆然と体を震わせていた。
彼女の股の間が熱くなる。
あまりの恐怖に、小さな少女は、年齢相応に恐怖し、そして失禁してしまっていた。
マスクの男が飛び上がる。
そして小白の脳天にチェーンソーを突き立てる。
しかし小白は、頭を強く振ると、男を跳ね飛ばした。
飛ばされた男は、まるで無重力空間の中にいるかのように、天井に「着地」すると、そこを蹴って、小白に肉薄した。
そしてパズルの一つを手にとる。
それがぐんにゃりと形を変え、ジグザグの鋲のようになった。

443 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:36:15.45 HfxN4Wl30 431/1225

男は、それを小白の腕にたたきつけた。
小白の右腕を鋲が貫通して、地面に縫いとめる。
もがく化け猫に次々と鋲を打ち込み、四肢を地面に磔にしてから、男はチェーンソーを肩に担いだ。
そして紐を引っ張って、ドルンドルンとエンジンを空ぶかししながら、ゆったりと汀に近づく。

「や……嫌あ…………」

口を半開きにさせて、ただひたすらに恐怖している汀に近づいて、男はマスクを脱いだ。

「ひっ!」

思わず顔をそらした汀の前で、男は

「あは……ははははは!」

と面白そうに笑うと、チェーンソーを脇に投げ捨てた。

444 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:36:46.05 HfxN4Wl30 432/1225

汀が恐る恐る目を開くと、そこには白い髪をした、十五、六程の少年が立っていた。

「はは……あっはっはははははは!」

爆笑だった。
少年は腹を抱えて、汀が恐れおののいている様子を指差して笑うと、しばらくして、呆然として色を失っている彼女に、息をつきながら言った。

「はは……はははは……面白かった! なぎさちゃんがこんなに驚くなんてさ! どう? 似てた? 僕演技すげぇ上手いでしょ?」

少年――ナンバーXは汀の前をうろうろしながら、彼女の顔色を伺うように、チラチラと視線を投げてよこした。

「どのくらい似てた? 百点? 二百点? 僕は三百点は固いと思うんだけどな」
「だ……」

汀は小さく、か細い声で呟いた。

「誰……?」

まだ彼女の両目からは涙が溢れている。

445 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:37:36.84 HfxN4Wl30 433/1225

ナンバーXは少しきょとんとした後、ポン、と手を叩いた。

「もしかして、僕悪いことしちゃったかな? そっか。GMDの副作用を忘れてたよ。うっかりしてた」

彼は顎に手を当てて考え込むと、せかせかと歩き回りながら言った。

「でもグルトミタデンデオロムンキールのA型だと仮に仮定したとしても、そこまで急激な記憶の喪失ってあるのかな? まぁ、なぎさちゃんなら、そんなこと関係ないよね!」

ナンバーXはそう言って笑うと磔られて失禁している少女の周りを伺うようにうろついた。
怖気が汀の背を走る。
何故、彼がこんなに怖いのか、それは汀には分からなかった。
しかし彼女は、あまりの恐怖と、嫌悪感に、彼の視線から何とか逃れようと、体を無理にねじらせて抵抗していた。
その様子をクスクスと笑いながら見て、彼は言った。

「無駄だよ。僕の空間把握能力と構築能力は、なぎさちゃんなら良く知ってるでしょ? 僕の『白金の処女(プラチナメイデン)』は絶対に破れない」

446 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:38:24.19 HfxN4Wl30 434/1225

そう言って、ナンバーXは、キィキィと、わざと音を立てて針がついた扉を動かし、汀の泣き顔を楽しむと、怪訝そうに眉をひそめた。

「どうしたの? まさかおしっこもらすほど驚くとは思わなかったけど、僕はそんなこと気にしないよ? あ……! そうだ、この前、会ったことも忘れちゃってるか。てゆうことは、僕のことも分かんない? そんなわけないよね? ね? どう? 僕のこと思い出せない?」

ナンバーXが顔を近づける。
汀は、必死にそれから目をそむけようとした。
そこで、汀の脳裏に、今よりも少し幼いナンバーXの顔がフラッシュバックした。
笑顔で、右手に何かを包んでいる。
その何かを、差し出している。
笑顔で。

「い……」

汀は、引きつった声で、しゃっくりのように呟いた。

447 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:39:09.19 HfxN4Wl30 435/1225

「いっくん……?」
「ほら来た! やっぱりなぎさちゃんだ! GMDなんてクソ喰らえだね! 僕達の絆に比べたら、そんなもん屁でもないさ! そりゃそうさ! 僕達は『前世から結ばれる運命にあった』二人なんだからさ! ね? なぎさちゃん!」

一人でヒートアップして騒ぐ、ナンバーX。
汀はそれを呆然と見つめ、しかし自分が、彼の名前以外思い出せないことに気づいて青くなった。
それ以前に、本当にいっくんというのか。
それは名前から取ったあだ名なのか、苗字から取ったものなのか。
いや、それよりも。

私達に、苗字なんてあったのか?

「……ッは!」

そこで、汀の右即頭部に凄まじい痛みが走った。
汀は、歯を噛み締めてそれに耐えながら、かすれた声を発した。

「あなたが……『いっくん』……?」

448 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:40:12.64 HfxN4Wl30 436/1225

「ん? そうだよ。今更どうしたの?」
「な……なぎさって……誰?」

そう問いかけた彼女を、きょとんとした顔で見て、ナンバーXは答えた。

「君だよ」
「私……? 違う、私は……」
「あー、そういうのいいから。大事なのは過去や未来じゃなくて、今。今僕と君はこの空間に二人きりでいる。それが重要じゃないか。 なぎさちゃんが、自分のことを知らなくても、僕は全然構わない。だって、僕はなぎさちゃんのこと、何でも知ってるもん」

怖気の残るような台詞をすらすらと笑顔で言って、無邪気に彼は扉を動かした。

「だから、ね。ちょっとだけなぎさちゃんに痛い思いをして欲しいんだ。大丈夫。死にはしないから。『機関』が君の事を探してる。僕もだ。だから、君のいる位置を逆探知させてもらうよ」
「い……いや…………」

扉の針が迫ってくる。

449 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:40:49.73 HfxN4Wl30 437/1225

訳が分からない。
分からないが。
このままでは、自分は殺されてしまう。
もがくが、「白金」と彼が形容した通りに、枷はびくともしなかった。

「大丈夫。すぐに済むから。痛いのはほんの五秒くらいさ」
「待って……!」

汀は悲痛な声を上げた。

「ん?」

扉を止めて、ナンバーXは汀の顔を覗き込んだ。

「どうかした?」
「一つだけ教えて……! お願い……私達に何があったの……!」
「…………」

彼は動きを止めて少し考え込んだ。
そしてポケットに手を入れて、クローバーの葉を一枚取り出した。

450 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:41:26.40 HfxN4Wl30 438/1225

「持ってるでしょ?」

端的に問いかけられ、汀は首を横に振った。
ナンバーXは怪訝そうな顔をして、汀を見た。

「嘘ついてもすぐに分かるよ。これは特別な空間に続く鍵なんだ。『僕』が、『絶対に外れないように』なぎさちゃんの心の中に、縫いつけたじゃないか。忘れたとは言わせないよ?」

汀の脳裏に、ある光景がフラッシュバックした。

燃える家。
悲鳴。
断末魔の絶叫。
ドルンドルンと鳴り響くチェーンソーの音。
紙芝居のように揺らめく景色。
マスク。
頭蓋骨。
頭蓋骨の形をしたマスクを被った男。
血まみれのチェーンソーを持って、もう片方の手に、髪の毛を掴んだ人間の頭を持っている。
そう、頭部だけ。
その頭部は。

451 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:42:00.28 HfxN4Wl30 439/1225

そこまで思い出した時、汀のヘッドセットの電源がついた。

『再アクセス完了。全ての設定をニュートラルにして自動構築開始。汀、聞こえるか?』
「圭介!」

汀が悲鳴を上げる。

「助けて、圭介!」
『もう大丈夫だ、サンプルZを投与した。効果開始まで、あと三秒』
「チッ!」

そこで、ナンバーXが扉を引いた。

「ごめん、なぎさちゃん! 君のためなんだ!」
「……!」

バタン。
ドアが閉まった。
強くそれを押し込み、息を切らしてナンバーXは歯噛みした。

「くそ……あの医者か! 僕のなぎさちゃんに……くそ! くそ!」

地団太を踏む彼。

452 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:42:38.60 HfxN4Wl30 440/1225

汀は、その彼を、冷めた目で見つめていた。
後方、二十メートル程後ろに、彼女は立っていた。
今まで拘束されていた部分が、青黒いあざになっている。
いつの間に脱出したのか。
いつの間に枷を外したのか。
全く分からないほどの、一瞬の移動だった。
ナンバーXは、ポカンとした顔で汀を見ると、急いで白金の処女の扉を開けた。
中には、何も入っていなかった。

「え……」

呆然と呟き、彼は汀に向き直って、言った。

「ど……どうしたの? 何、したの?」
「…………」

汀は、妙に落ち着いた表情で彼を睨んでいた。

「なぎさちゃん! 君じゃないか! 僕の構築から抜け出せる人はいないって、褒めてくれたの、君じゃないか! なのに……なのにどうして? ずるいよ!」

453 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:43:12.67 HfxN4Wl30 441/1225

喚くナンバーXの耳に、汀がスライドさせたヘッドセットから、圭介の声が流れて飛び込んできた。

『クソガキが』

汀が首の骨を、コキ、コキ、と鳴らす。
瞳は光を失っており、不気味な様相を呈していた。

『俺より早く鯨の居場所に気づくとは、たいしたもんだが、一手遅かったな』

汀が軽く笑って、見下したように彼を見て言う。

「マインドジャック……?」

ナンバーXが唖然として呟く。

「なぎさちゃんの意識を乗っ取ったな! ヤブ医者!」
『ジャリが。オトナへの口の利き方というものを、どいつもこいつも知らんらしい』

汀の口を通して圭介はそう言い、彼女の体を一歩、動かした。

454 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:43:48.01 HfxN4Wl30 442/1225

汀の意識は、なくなっていた。
圭介はいつもの柔和な様子とは裏腹に、黒い声調子で続けた。

『いい加減にしろよ変態野郎。こいつは俺のものだ。誰にも渡しはしない』
「なぎさちゃんは僕のものだ! てめぇの玩具じゃねぇんだよ!」

ナンバーXが、そこで吼えた。

「なぎさちゃんを返せ!」
『面白いじゃないか。かかってこいよ』

汀が手を上げ、焦点の合わない瞳で彼を見て、挑発的に動かす。

「この……!」

ナンバーXはそこで走り出した。
そしてパズルの一つを掴んで、振る。
それがぐんにゃりと形を変え、リボルバー式の拳銃になった。

455 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:44:28.04 HfxN4Wl30 443/1225

汀も走り出し、足元のパズルを手に取る。
それが同様に形を変え、刃渡り三十センチはあるかという、長大なサバイバルナイフに変わった。

「やめろ! なぎさちゃんの脳をこれ以上刺激するな!」

ナンバーXが怒鳴って、彼女の頭に銃を突きつける。
しかしその銃身を手で弾き、汀は、躊躇なくナイフを突きこんだ。
少年がそれを身をひねって避け、何回か宙返りを繰り返して距離を取る。
そして銃弾を連続して発射する。
次の瞬間だった。
汀は、キン、キン、キン、と言う金属音を立てて、目の焦点が合わないまま、目にも留まらない速さでナイフを振った。
彼女の後ろの壁に、それぞれ両断された銃弾が突き刺さる。

「てめぇ!」

ナンバーXが怒鳴る。

456 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:45:02.03 HfxN4Wl30 444/1225

そこで、汀の体が消えた。
彼女は地面を蹴って、凄まじい勢いで加速すると、一瞬でナンバーXに肉薄した。
そしてナイフを横に振る。
身をかがめてそれを避けた彼の髪の毛が、途中から綺麗に両断されて散る。

「くそ……!」

毒づいた彼の拳銃が、汀の持つナイフと同じものに変化した。
それで斬撃を受け止めて、鍔迫り合いのような状況になりながら、ナンバーXは汀を押し返した。

「ふざけるなよヤブ医者……下衆め! その子は僕のものだ! 貴様のものじゃない!」
『今は俺のものだ』

汀が、目を細めてにやぁりと笑った。

『最高の玩具だよ』
「この……!」

ナンバーXが、汀を突き飛ばす。

457 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:45:49.61 HfxN4Wl30 445/1225

しかし汀は猫のように地面をくるりと回ると、 無表情でナンバーXの喉笛に、ナイフを突き立てた。

「か……」

空気の抜ける音と共に、彼がよろめく。
ナイフを抜いて、汀はもう一度、ナンバーXの胸にそれを突き刺した。
そして彼を蹴り飛ばす。

『これでそのおしゃべりな口も、しばらくはきけないだろう。ウイルスを忍ばせてもらった。お前が使ったのと、同じ手だ』

汀の体から力が抜け、彼女はナイフを取り落とし、ずしゃり、と無造作にその場に崩れ落ちた。

『前に汀と遭った時に、接触ついでに、こいつの体にウイルスを付着させたな? それで位置を探知して、ジャックしやすそうな場所にダイブしたから、襲ってきたと言うわけか』

458 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:46:26.84 HfxN4Wl30 446/1225

ヘッドセットの向こうで、圭介は醜悪に笑った。

『網を張っていた甲斐があったよ』

ナンバーXは、地面に倒れこんで、汀の方に手を伸ばした。

「な…………ちゃ…………」

その手が、パタリと力をなくして地面に崩れる。
しかし、水溜りのように広がった血液が、汀の方に流れ、彼女の足に触れた。
それを見て、ナンバーXはニヤリと笑い、そして動かなくなった。

459 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:47:16.26 HfxN4Wl30 447/1225



汀が目を覚ましたのは、それから数分経ってのことだった。
彼女は目を開き、緩慢にその場に起き上がる。
赤く点滅している光源に照らされた、一面崩れたジグソーパズルだらけの空間だった。
地面には赤く血液が広がっている。
それが病院服を濡らしているのを見て、汀は慌てて体を触った。
そして股間の不快さに顔をしかめ、他に異常がないことを確認してから、ヘッドセットのスイッチを入れる。

「……圭介……?」
『起きたか。大丈夫か?』
「…………ううん。大丈夫じゃない……頭がガンガンする……」
『お前、トラウマと戦ってるうちに、記憶が飛んだんだよ。大丈夫だ。もう心配はない』
「トラウマと……?」

汀は自分の手を見た。
手の平がぐっしょりと血で濡れている。

460 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:47:46.27 HfxN4Wl30 448/1225

そこで彼女は、地面に小白が横になっていることに気がついて、慌てて駆け寄った。

「小白……!」

小さな猫はプルプルと震えていた。

両手足から血が出ている。

「小白が怪我してる!」
『早く患者を治療して、戻って来い。小白もそうすればついてくるだろ』
「わ……分かった」

先ほどまでのことを全く覚えていないのか、汀は慌てて周りを見回した。

「異常変質心理壁は……」

彼女はそう呟き、少し離れた場所に、一箇所だけ崩れていない写真があるのを見た。
人間大のそれは、淡く白い光を放っている。

461 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:48:19.83 HfxN4Wl30 449/1225

それは、巨大な鯨の絵の前に立っている老婆と老人の写真だった。
一つのジグソーパズルのピースとして、それが立っている。

「この人にとって特別なものなんだ……」

そう呟いて、汀は頭を抑えながら、写真の右半分にスプレーのようなもので殴り書きがしてある文字を読んだ。

「……どういうこと?」
『分からん。何かのトラウマだろう。消せるか?』
「やってみる」

汀はそう答え、頭を抑えてふらつきながら、その数字を手でこすった。
簡単にそれは消え、写真が輝きを増した。

「治療完了……目を覚ますよ……」

汀はその場に眠るように崩れ落ち、そこで意識を失った。

462 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:49:04.42 HfxN4Wl30 450/1225



汀が出歩けるようになったのは、それから八日目のことだった。
彼女は、診察室のドアを開いて、にこやかな表情で座っている老婆を見て、表情を暗くした。
そして車椅子を自分で操作して、彼女の前に移動する。

「お待たせしてすみませんでした……」

かすれた声でそう言った汀を、老婆は心配そうに見つめ、そして彼女の右手を手に取った。

「どうしたの? こんなに手を冷たくして。無理して、出てきてくれなくても良かったのよ?」

汀は、そう言われてしばらく黙っていたが、やがてしゃっくりを上げたあと、ボロボロと涙をこぼした。
その様子を、圭介は壁にもたれかかり、腕組みをしながら、表情の読めない顔で見ていた。

「泣かないで。あなたは良くやったわ」

老婆に頭を撫でられ、汀はしゃっくりを上げながら言った。

463 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:49:39.02 HfxN4Wl30 451/1225

「でも……私……私、あなたの記憶……思い出、全部消しちゃって……」

老婆は、全ての「思い出」をなくしていた。
具体的には、七年前に亡くなった夫との、旅行の思い出を全て、なくしていた。

「私、壊すことしか出来ない……私、人を治すつもりしてて、本当は人を壊してるのかもしれない……」

それは、圭介にも言ったことがなかった、汀の心の吐露だった。
圭介が顔を上げ、意外そうな顔をする。
老婆は、しかしにこやかな顔のまま、汀の手にのど飴を握らせた。

「あのねぇ、汀ちゃん」

彼女はそう言うと、微笑んだ。

「それは違うと思うわ」

464 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:50:15.84 HfxN4Wl30 452/1225

「違う……?」
「あなたは、確かに私の中の、夫との思い出を壊したのかもしれないわ。私、何も思い出せなくなっちゃったもの。でもね」

彼女はそう言って、鯨の絵の前でポーズをとっている自分と、夫が写った写真を汀に差し出した。

「この思い出だけは、あなた、守ってくれたのよね」
「これ……」

汀は呟いて、そして写真を受け取った。

「これはね、交通事故で死んだ、私の息子が撮ってくれた写真なのよ。私の中で、一番大事な思い出」
「私……何もしてない」

汀は首を振った。

465 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:50:55.03 HfxN4Wl30 453/1225

「私何もしてない。これは、あなたの思い出が強かったから、残っていただけの……」
「それでも……あなたが『守って』くれたことにかわりはないわ」

老婆はまた、微笑んだ。

「私には、それで十分なのよ」
「どうして……?」

汀は首をかしげてそう聞いた。

「思い出がなくなったんですよ……怖くないんですか? 苦しくないんですか……悲しくは、ないんですか? 私のことが、憎くはないんですか?」

老婆は首を振った。
汀は、また目から涙を落とした。

「どうしてそんなに、私に優しく出来るんですか……」

汀は、右手で顔を抑えた。

466 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:51:25.58 HfxN4Wl30 454/1225

「優しくしないでください……私、本当に何もしてない……何も、私には出来なかった……」
「汀ちゃん」

老婆はそう言うと、彼女の肩を叩いて、そっと撫でた。

「大事なのは、『今』じゃないかしら」

そう言われ、汀はハッとした。
思い出せない。
思い出せないが……。
誰かが、そう言っていた気がする。

467 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:51:52.89 HfxN4Wl30 455/1225

「過去の記憶がなくなっても、大事なのは今、何をして、これからどこに行くかなんじゃないかしら。私は、あなたに自殺病を治療してもらったわ。これで、心配なく『明日』に向かうことが出来るわ」

そう言って、老婆は汀に頭を下げた。

「本当に、ありがとうね」

汀はそれを見て、また涙を流し、手でそれを拭った。

468 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:52:51.17 HfxN4Wl30 456/1225



「『機関』は、ナンバーズをどれだけ所持している?」

圭介は、汀が寝静まった夜中、携帯電話に向けて重い口を開いた。

『テルしてきたのが君で安心したよ。その様子だと、無事に番号は回収したみたいだね』

電話口の向こうの相手が、飄々とそう答える。

「質問に答えろ」
『機嫌が悪いね』
「……汀に、GMD―LSFを投与した。止むを得ずの処置だったが、重度の記憶障害を引き起こす可能性がある」
『あらら。それは迂闊な』
「お前が、剥きさらしの場所に番号を設置するからだ。ふざけるなよ……!」

469 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:53:27.14 HfxN4Wl30 457/1225

押し殺した声で低く言った圭介に笑い声を返し、電話口の向こうの男は、軽く言った。

『まぁ、こっちも相応のリスクを負ってるから。君達にもリスクは背負ってもらわなきゃ。割に合わないだろう?』
「…………」
『聞きたいことがあったんだっけ? 機関が所持してるナンバーズは、三人だよ』
「三人……」
『現存してるナンバーズは五人しかいない。そのうち、関西総合病院の加原岬は、昨日の夜、病院から行方が分からなくなった』
「何……?」
『詳細までは分からないよ。ただ、その人数だけは情報として提供できるかな』

圭介は息をついた。
そしてピンクパンサーのグラスに注いだ麦茶を喉に流し込み、続けた。

「もう一人はどこにいる?」

470 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:53:56.72 HfxN4Wl30 458/1225

『施設だろうね、多分』
「赤十字の虎の子か……」

そう呟いて、圭介は口をつぐんだ。

『さて、これからどうする?』

そう呼びかけられ、圭介は、口の端を吊り上げて言った。

「機関には、しかるべき贖罪をさせなければいけない。それに……汀にもな」

471 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:54:50.30 HfxN4Wl30 459/1225

『そうだね。それが僕達に与えられたカルマなら、仕方のないことなのかもしれないね』

答えて、電話口の向こうの声は、続けた。

『じゃ、これ以上はなすと逆探知されるから、回線を切るよ。次は「河馬(ふぐ)」のところで待ってるよ』
「こちらから直接行く。それじゃ」

プツリ、と電話を切って、圭介は息をついた。
ピンクパンサーのグラスの氷が、カランと音を立てた。

472 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:55:27.44 HfxN4Wl30 460/1225



汀はびっくりドンキーのいつもの席で、
ぼんやりとした表情のまま、膝の上の小白を撫でていた。
メリーゴーランドのパフェを半ば食べてしまい、することがなくなったのだ。

「圭介」
「ん?」

彼に呼びかけ、汀は続けた。

「死ぬってどういうことなのかなぁ」

ぼんやりと呟いた汀に、圭介はステーキを口に入れて飲み込んでから答えた。

「何もなくなることさ」
「本当に?」

汀は彼を見た。

473 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:55:59.44 HfxN4Wl30 461/1225

「でも、あのお婆さんは、死んじゃった旦那さんのことを、心理壁が壊れても、ずっと覚えてたよ」
「…………」
「何もなくなるなら……思い出って一体何なんだろう」

圭介はフォークとナイフを置き、彼女をまっすぐ見た。
そして少し口ごもってから言う。

「汀、よく聞け」
「何?」
「思い出って言うのは、つまるところ幻だ。その人の心の中で、都合のいいように造られた幻想なんだ」
「…………」
「今お前を苦しめてる『思い出』も、言うなれば同じようなものだ。幻想だよ」

汀は小白を撫でながら言った。

「幻想……幻想なのかな」
「ああ、幻想さ」

474 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:56:28.80 HfxN4Wl30 462/1225

「なら、どうして……」

汀は、言いよどんでから伺うように聞いた。

「あのお婆さんは、幸せそうだったの? 自殺病にかかった人は、幸せにはなれないんでしょう?」

圭介は複雑な表情で、汀から目をそらし、フォークとナイフを手に取った。
そして、呟くように言った。

「さぁな。自分が幸福ではないのに気づくことができない。それが、あの人にとっての『不幸』なのかもしれないな」

475 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/11 20:57:04.71 HfxN4Wl30 463/1225



圭介と汀を、少し離れた席で、パーカーを目深に被って、ポケットに手を突っ込んだ少年が見ていた。
その目は殺気を帯びていて、今にも飛び掛りそうな衝動を圭介に向けていた。

「お客様、ご注文は?」

店員にそう聞かれ、彼は口の端を吊り上げて笑い、メニューの、メリーゴーランドのパフェを指した。

「かしこまりました」

頭を下げて店員が下がる。
彼は息をついて背もたれに体を預けると、携帯電話を手に取った。
弄って消音にしてあるのか、動画撮影のボタンを押して、気づかれない位置に立てかける。
そのカメラは、二人の方を向いていた。




478 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 15:56:52.67 5ZQwmOzq0 465/1225



第8話 あの時計塔を探せ



動かない足。
動かない左腕。
自由にならない体。
全てが腹立たしかった。
汀は息をついて、そして目の前で折り紙を折っている理緒を見た。

「私も……折り紙やってみたいな」

右手で、グチャグチャになった紙を爪弾き、彼女は呟いた。
理緒は顔を上げ、そして微笑んで言った

「一緒にやろう?」
「一人でも出来るようになりたい」

時折、汀はこのように我侭を言い出すことが多くなっていた。
辟易まではしなくても、理緒も多少の気は遣う。
彼女は少し考えて、3DSを手に取った。

「じゃ、ゲームやりましょうか」
「……うん……」

元気なく返事をして、汀は扉の向こうに目をやった。

479 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 15:57:26.52 5ZQwmOzq0 466/1225

「高畑先生、遅いですね」

理緒が言う。
三十分ほど前、お菓子を準備するからと言って出て行ったきり、圭介はまだ戻ってこなかった。

「多分、何か仕事してるんだと思う。出ないほうがいいと思うな……」

汀がそう呟いて、ため息をつく。

「最近ずっと、圭介ああだから」
「そうなんですか……」

圭介は、汀の世話をしても、どこか上の空、といった具合が続いていた。
いつ頃からだったのかは分からないが、人の気持ちに鈍感な汀でも、多少の異常は察知していた。

「どうしちゃったんだろう……」

少女の小さな呟きは、ピンクパンサーのグラスに入った氷が、カランと溶ける音にまぎれて消えた。

480 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 15:58:26.03 5ZQwmOzq0 467/1225



圭介は、無言で病院前の郵便ポストを見ていた。
彼の両手からは、ボタボタと血が垂れている。
指を切ったらしい。
圭介は舌打ちをして、持っていた封筒をゴミ袋の中に突っ込んだ。
封筒の四隅に、綺麗にカミソリの刃が貼り付けられていた。
指に包帯を巻き、ゴム手袋をつけて郵便ポストの中をあさる。
彼がつかみ出したもの。
それは、断末魔の表情のまま固まった、猫の首だった。
野良猫らしく、薄汚れている。
血が半ば固まっているところを見ると、殺されたのはそう前のことではなさそうだ。
圭介は黒いビニール袋を何十かにして、無表情で猫の首を放り込み、そして縛ってからゴミ袋の中に落とした。

「クソガキが……幼稚な……」

小さく呟き、彼はゴミ袋を、脇のポリバケツに入れてふたを閉めた。
そこで彼の携帯が鳴った。
ゴム手袋を外して脇に放り、彼は痛めた指を庇うようにして携帯を取った。

481 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 15:58:57.53 5ZQwmOzq0 468/1225

「俺だ」

低い声でそう言うと、電話口の向こうの相手――大河内は、一瞬停止した後怪訝そうに聞いた。

『どうした? 汀ちゃんに何かあったのか?』
「残念ながら特筆することはないな。『近所』の餓鬼の悪戯に手を焼いていたところだ。お前と話す気分じゃない」
『いきなり大概だな。赤十字として、お前達に仕事を依頼したい』
「悪いが、今は……」
『あの「高杉丈一郎」が、自殺病にかかった』

大河内がそう言うと、圭介は電話を切りかけていた手を止めた。

「何?」
『お前なら、食いつくだろうと思ったんだがな』

圭介は、口の端を歪めて、いつの間にか醜悪に笑っていた。
しかし抑揚のない声調子で返す。

「治療はいつだ?」

482 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 15:59:33.29 5ZQwmOzq0 469/1225

『すぐにでも始めたい。汀ちゃんのコンディションがいいなら、連れてきて欲しい』
「分かった」

圭介は端的にそう言い、電話を切った。
ポタリポタリと、カミソリで切った傷口の包帯から血が染みて、地面に垂れている。
圭介は口の端を歪めて笑っている、異様な顔のまま、メガネを中指でクイッと上げた。

「はは……高杉が……?」

小さな声で呟く。

「傑作だ」

483 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:01:13.43 5ZQwmOzq0 470/1225



「今回の患者は、高杉丈一郎。四十一歳。自殺病の治療薬、GMDの権威として知られている、赤十字の物理学者です」

重々しい空気が流れている中、大河内が口を開く。
赤十字の重鎮達と、元老院の老人達、そして医師が集まっている薄暗い会議室の中で、彼は続けた。

「GMDを投与しましたが、自殺病の進行は止まらず、現在第四段階まで差し掛かっています。本人はマインドスイープによる治療を頑なに拒んでいますが、これ以上の放置は危険と判断し、ダイブに踏み切ることにいたしました」
「放置……ハッ、放置ね……」

面白そうに肩を揺らしながら、隅に座っていた圭介が呟く。

「高畑医師、何がおかしいんだね?」

医師の一人が眉をひそめて口を開く。

484 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:01:52.29 5ZQwmOzq0 471/1225

「これがおかしくなくて何がおかしいと思うんでしょうかね」

挑発的にそう返し、圭介は目の前の資料をテーブルの上に放った。

「高杉先生は、自分の自殺病治療薬、GMDが『効果がない』ことを、自分の体で立証してしまったわけだ。赤十字としても、元老院としても、これは何とも表沙汰にしたくない問題ですね」
「……効果がないわけではありません。防衛型の攻撃性が強く、投薬による解決が中々見受けられない『ケース』なだけです」

大河内が声を低くして圭介を睨む。

「成る程。では高杉先生はその稀有な『ケース』にかかってしまった、強い悪運の持ち主だと?」
「そうなります」

圭介の言葉を受け流し、大河内は周りを見回した。

485 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:02:25.18 5ZQwmOzq0 472/1225

「GMDは市販されている治療薬の中で、最も使われているものです。その開発者が自殺病にかかってしまい、GMDによる回復が見込めないという状況、これは先ほど高畑医師の指摘にもあったとおりに、表沙汰にはしたくない問題ではあります」

沈黙している周囲から視線を資料に向け、大河内は続けた。

「それでは、資料の十四ページをご覧ください。今回のダイブには、通常よりも更に神経を注ぐことにします。高畑医師のマインドスイーパーと、赤十字から二人のマインドスイーパーをダイブさせることにいたします」

僅かに部屋の中がざわつく。

「この子は……新入りかね?」

元老院の老人の一人が、写真を見ながら口を開く。
大河内は頷いて言った。

「はい。今回のダイブに必要な能力を持っています。A級能力者です」

486 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:03:10.34 5ZQwmOzq0 473/1225



赤十字病院の中庭で汀の乗った車椅子を押しながら、理緒は息をついた。
先ほどまでああだこうだと言っていた汀が、急に静かになったのだ。
何かと思って覗き込んでみると、コクリコクリとまどろみの中にいるようだった。
彼女の膝の上にいる小白も、丸くなって眠っている。
病院に行く前に圭介が薬を飲ませていたので、心配はないそうだ。

(何だかお姉ちゃんみたいだなぁ)

そう思って、理緒は木の陰に車椅子をとめた。
そこで、彼女は黒い服とサングラスのSP二人に囲まれて、小さな女の子が歩いてくるのを目に留めた。
背丈は汀や理緒よりも低く、金白色の長いウェーブがかった髪の毛を、腰の辺りまで揺らしている。
白い病院服だった。
彼女は無遠慮に二人に近づくと、きょとんとしている理緒を見て、そして頭を垂れている汀を、値踏みするように見た。
SPの二人は、腰に手を当て、女の子の両脇に陣取る。

487 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:03:53.95 5ZQwmOzq0 474/1225

「あの……」

理緒が戸惑いがちに声を上げると、女の子はそれを打ち消すように、体に似合わない大きな声で、はきはきと言った。

「片平理緒。十五歳。赤十字登録の純正マインドスイーパー、A級。性格はおとなしく消極的、リーダーシップはないが、人望を集めやすく、スタッフからの信頼も高い。成る程、聞いていた通りね」

自分のプロフィールを大声で読み上げられ、理緒が目を白黒とさせる。

「え……」
「そっちは、高畑汀。元老院が指定した、特A級マインドスイーパー。詳細は不明。ナンバーズの一人ね」

女の子はそう言うと、長い髪をくゆらせながら二人に近づいた。
そして、高圧的に、まどろみの中にいる汀の脇に立って見下ろし、鼻で笑う。

「何よ、障害者じゃない」

488 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:04:26.78 5ZQwmOzq0 475/1225

「あなた……何ですか、いきなり。失礼じゃないですか?」

理緒がおどおどしながら言う。
それも鼻で笑い、彼女は続けた。

「特A級スイーパーがどんな人間か、この目で見たかったら、わざわざ全ての仕事をキャンセルして『来てあげた』っていうのに、何? 日常生活も碌に送れないような、小娘じゃないの。それに猫? 馬鹿にするにも程があるわ」
「……馬鹿にしているのはあなたでしょう? 誰かは分かりませんけれど、汀ちゃんのことを悪く言うのは許せません」

理緒が眉をしかめて、彼女と汀の間に割って入る。

「誰ですか? ここは、関係者以外立ち入り禁止ですよ」

女の子はそれを聞いて、深いため息をついて、やれやれという仕草をした。
そして肩をすくめる。

「一緒に仕事をする人間のことくらい、調べておかないの? 日本人って」
「一緒に? どういうことですか?」

逆に聞き返され、女の子は目をぱちくりとさせた後、SPの一人に食って掛かった。

489 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:05:15.00 5ZQwmOzq0 476/1225

「どういうこと? 何で日本のマインドスイーパーが、私が来ることを知らないわけ? 一人は寝てるし!」

忌々しそうに汀を指差し、彼女が喚く。
SPの一人は、腰を屈めて女の子に流暢なフランス語で答えた。
それを聞いて、女の子もフランス語で返し、何度かやり取りをした後、彼女は苛立たしげにSPを突き飛ばした。
屈強な男が、それで揺らぐわけもなく、彼はまた手を後ろに回し、先ほどと同じ姿勢をキープした。

「……どうやら、連絡の行き違いがあったようね。私としたことが、とんだ誤算だわ」

彼女はまた深くため息をついて、頭を抑えた。
そしてSPのもう一人から薬を受け取り、口に入れて噛み砕いてから理緒を見た。

「私の名前は、ソフィー。フランソワーズ・アンヌ=ソフィーよ。フランスの赤十字から、今回のマインドスイープのために派遣されてきたわ」

490 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:06:00.31 5ZQwmOzq0 477/1225

腰に手を当て、見下すように理緒を見て、彼女は忌々しげに鼻を鳴らした。

「あなたと同じ、A級能力者よ」

ソフィーと名乗った女の子は、髪を掻き上げてから、物憂げに二人を見た。

「…………先が思いやられるわね」
「どうしてそんなに喧嘩調子なのか、私には良く分かりませんけれど……今回のお仕事でご一緒するんですね。宜しくお願いします。私、理緒っていいます。あ……ご存知でしたね」

そう言って手を差し出した理緒を無視して、ソフィーは汀の脇にしゃがみこんだ。

「起きなさいよ、特A級能力者。日本のマインドスイーパーは、挨拶も出来ないわけ?」
「汀ちゃんは、今薬で眠っています。あまり刺激しないでください」

理緒が、慌てて車椅子を遠ざけようとする。

491 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:06:35.40 5ZQwmOzq0 478/1225

そこで小白が目を覚まし、シャーッ! と鳴いてソフィーに噛み付いた。

「痛っ!」

小さくそう言って、彼女は手を引っ込めた。
うっすらと血が出ている。

「だ、大丈夫ですか?」

理緒が駆け寄ろうとするが、SPに止められる。
ソフィーは、涙をうっすらと目に溜めて、吐き捨てるように言った。

「ふん……精々私の足手まといにならないように気をつけることね」

きびすを返して、中庭を去っていくソフィーを、ポカンと理緒は見つめていた。

「……ナンバーズ?」

呟いて首を傾げる。
汀は、まだコクリコクリと頭を垂れていた。

492 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:07:14.58 5ZQwmOzq0 479/1225



汀は、きょとんとして目の前の、背の低い女の子を見上げた。
施術室で目を覚ました時、腕組みをした女の子が仁王立ちになっていたのだ。
脇で理緒がおろおろしている。

「やっと起きたわね、高畑汀。この私を二時間三十五分も待たせてくれるとは、いい度胸してるじゃないの」

鼻の脇をひくひくさせながら、女の子――ソフィーが言う。
汀は首を傾げて周りを見回した。
ソフィーのことは完全に無視していた。

「ここ……どこ?」

理緒にそう問いかける。
理緒はしゃがみこんで汀の頭を撫で、そして言った。

「赤十字の施術室です。これからお仕事ですよ」
「私、そんな話聞いてないよ」

それを聞いて、理緒は少し表情を暗くしたが、慌てて言いつくろった。

493 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:07:47.00 5ZQwmOzq0 480/1225

「急に決まったんです。汀ちゃん寝てたから、起こしちゃ悪いと思って……」
「やだ、帰る」

また我侭を言い出した汀に、理緒は息をついてから言った。

「どうして? 患者さんがいるんですよ」
「今日はそんな気分じゃないの。何か……むしゃくしゃする」
「でも、今日ダイブしないと患者さんが危ないんです」
「知らないよ、そんな赤十字の都合なんて」

赤十字の医師達に囲まれている状況で、汀が大声を上げる。

「帰る!」
「汀ちゃん、落ち着いて……終わったら一緒にゲームしよ? 折り紙も教えてあげるから……」
「やだやだ! 今帰る!」

駄々をこねる汀を、呆気に取られてソフィーは見ていたが、彼女はすぐに怒りの表情に代わり、バンッ、とテーブルを平手で叩いた。
それに汀がビクッと体を震わせる。

494 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:08:34.23 5ZQwmOzq0 481/1225

「とんだ侮辱ね……この私を前にして、よりにもよって『帰る』……? 一体どれだけの労力かけてここまで……」
「汀ちゃん、起きたのか!」

そこで大河内がゆっくりと施術室の中に足を踏み入れた。
汀が一瞬ポカンとした後、慌てて右手で病院服のしわを直す。

「せ……せんせ!」
「心配したぞ。高畑が汀ちゃんに薬を投与したって言ってたから、今日の施術が出来るかどうかも、分からなかったしな」

大河内はそう言って汀を抱き上げた。
汀は顔を赤くして、右手を大河内の肩に回した。
そして頭を擦り付ける。
車椅子に取り残された小白がニャーと鳴いた。

「せんせ、会いたかったよぉ。どうしてすぐ来てくれなかったの?」
「仕事が立て込んでいたんだ。悪かったな」

理緒が、大河内の出現で、とりあえずは安定を取り戻した汀を見て息をつく。

495 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:09:09.28 5ZQwmOzq0 482/1225

そこで大河内は、肩をわなわなと震わせてこちらを睨んでいるソフィーを目に留めた。
そして汀を抱いたまま、彼女に片手を向ける。

「紹介がまだだったな。こちらは……」
「フランソワーズ・アンヌ=ソフィーよ。よく勘違いされるけど、日本人とフランス人のハーフだから。高畑汀。会えて光栄だわ」

鼻の脇を吊り上げながら、彼女は目だけは笑っていない顔で汀に手を突き出した。
しかし汀は、大河内を盾にするように体をひねると、顔をしかめてソフィーを見た。

「……誰?」
「日本人は自己紹介も出来ないわけ?」

ソフィーがヒステリックに大声を上げる。
それにビクッとして、汀が小さな声で理緒に言った。

「理緒ちゃん、お家に帰ろうよ……」
「汀ちゃん、それは……」

言いよどんだ理緒の言葉を、やんわりと遮りながら大河内が口を開いた。

496 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:09:55.50 5ZQwmOzq0 483/1225

「ソフィー、最初から喧嘩腰なのはいけないな。ほら、二人とも怯えてしまっている」
「ドクター大河内。彼女達の態度は、とても仕事に向かう姿勢だとは思えません。そんな人達と、この私が一緒にダイブするなんて、考えられないことです。ナンセンスだと思います」

はきはきと大河内にそう言うソフィー。
大河内は、汀を車椅子に戻し、彼女の膝に小白を戻してから言った。

「この子達の解決した案件は、説明したとおりだよ。今現在、日本で一番確実な力を持っているマンンドスイーパーさ。どうか、仲良くしてやってくれないか?」

彼にそう諭され、ソフィーが眉をひそめて二人を見る。
大河内はその視線を無視して、汀に言った。

「フランスの赤十字から派遣されてきた、A級マインドスイーパーだよ。今回は協力して……」
「お断りします」

そこで、ソフィーが声を上げた。
医師たちがざわついて顔を見合わせる。

497 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:10:25.84 5ZQwmOzq0 484/1225

二人のSPにフランス語で何かを言い、しかし彼らに止められ、しばらく口論してからソフィーは向き直った。
そして、腕組みをして馬鹿にするように理緒と汀を見る。

「それでは、こうしましょう。私と、あなた達二人。どちらが早く患者の中枢を見つけることが出来るか、競争しましょう」
「ソフィー、何を言い出すんだ」

大河内が息をついて彼女の方を向く。

「今回は協力すると、契約書にも……」
「どうです? 競争、しませんか?」

ニヤ、と笑い、彼女はきょとんとしている汀に言った。

「それとも、二人がかりでも、私に敵わないんでしょうかね? 『特A級スイーパー』の高畑汀さん」

挑発的にそう呼びかけられ、汀は、そこで初めてはっきりとソフィーを見た。

498 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:10:57.76 5ZQwmOzq0 485/1225

そして眉をひそめて、彼女に言う。

「敵うとか敵わないとか、何の話をしているの?」
「実力に差があると、そう言いたいまでです。あなた達と、私には」
「面白いじゃないか。いいだろう。今回は競争だ」

圭介がそう言いながら、白衣を着て施術室に足を踏み入れる。
両手はポケットに突っ込まれていた。

「高畑……何を勝手な……」

大河内が止めようとしたが、圭介は柔和な表情でソフィーに向き直った。

「そんなに自信があるなら、一回挑戦してみてもいいんじゃないかな? フランスのマインドスイーパーさん」
「ドクター高畑……」

そこで、ソフィーは彼を汚物を見るような目で見て、吐き捨てた。

「元老院の子飼いと話すことは何もありません」
「つれないな。俺はただ、君を応援しようと……」

圭介はそう言いながら、包帯を巻かれた手を彼女に伸ばす。

499 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:12:55.49 5ZQwmOzq0 486/1225

ソフィーは怯えたように喉を鳴らすと、いきなり

「触らないで!」

と怒鳴って、その手を勢いよく振り払った。

「……ッ!」

圭介が顔をしかめて一歩下がる。
傷口を直撃したらしく、包帯にじんわりと血がにじんでいる。

「圭介……?」

不思議そうに、汀が口を開いた。

「どうしたの、それ……」
「……お前には関係ない」
「……圭介に何をしたの!」

汀が大声を上げて、ソフィーを睨みつけた。

500 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:13:34.46 5ZQwmOzq0 487/1225

豹変した彼女の調子に合わせることが出来ず、ソフィーは言いよどんだ。

「わ……私はただ、振り払っただけで……」
「圭介に危害を加える人は許さない……! 競争でも何でも受けてやるわ。あまりいい気にならないことね……!」
「ふ……ふん! 大概じゃない。後で泣き面晒しても、私は責任を取らないから」
「二人とも落ち着いて……」

理緒がおろおろしながら汀を落ち着かせようとしている。
大河内はため息をついて、横目で圭介を睨んだ。

「……どういうつもりだ?」

小声で彼に問いかける。
圭介は柔和な表情のまま、口の端を吊り上げて笑った。

「いや、何。フランスのマインドスイーパーとやらの『性能』を見てみたくてね」

彼の呟きは、大河内の耳にはっきりと届いた。

「それだけさ」

501 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:14:06.13 5ZQwmOzq0 488/1225

そう言った圭介を見て、大河内は息を呑んだ。
彼が、どこか暗い、表情の読めない不気味な顔つきをして、ソフィーを見下ろしていたからだった。
ソフィーと汀が睨みあう。
圭介は柔和な表情に戻り、汀の頭を、血が出ていない方の手で撫でた。

「あまり怒るな。俺は大丈夫だから。じゃ、準備を始めるぞ」
「高畑先生! 本当に競争なんて……」

理緒に頷いて、彼は続けた。

「ああ、勝った方には、ご褒美をあげよう」

502 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:16:11.08 5ZQwmOzq0 489/1225



ムスッとした表情のまま、汀は目を開けた。
そこは、地下室のような空間だった。
広さ十畳ほどの小汚い壁、床。
出口などはどこにも見られない。
天井には裸電球がゆらゆらと揺れながら、時折点滅しつつ光を発していた。

「汀ちゃん……」

どこかおどおどしながら、理緒が後ろから近づいてくる。

「どこですか、ここ……?」
「表層心理壁の、煉獄に繋がる通路よ」

そこで、はっきりとした声が、二人の後ろから投げつけられた。
汀の肩の上で、小白がニャーと鳴く。
振り返った二人の目に、腕組みをして高圧的にこちらを見ているソフィーの姿が映った。

「日本には馬鹿しかいないるのかしら?」
「フランスには礼儀知らずしかいないのね……」

汀が低い声でそう返す。

503 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:20:02.69 5ZQwmOzq0 490/1225

ソフィーは鼻を鳴らして、現実世界とは異なり、しっかりと自分の足で地面に立っている汀を見た。

「へぇ……『かたわ』のままダイブしてきたらどうしようかと思ったけど、そこら辺は特殊なのね、あなた」

平気で差別用語を口にし、ソフィーは眉をしかめた理緒に目を向けた。

「何ボサッとしてるの? マインドスイーパーなら、やらなくてはいけないことがあるんではなくて?」
「……あなたに言われなくても、分かっています」

理緒はそう言ってソフィーから視線を外し、ヘッドセットのスイッチを入れた。
汀も遅れてスイッチを入れる。

「ダイブ完了しました」
「…………」

無言でソフィーを睨んでいる汀の横で、理緒が圭介に状況を説明する。

『今回のダイブでは、俺が三人のナビゲートをすることになっている。だが、このダイブは「競争」だ。ひいきはしないから、そのつもりでな』

圭介がそう言うと、理緒が少し言いよどんだ後、言いにくそうに口を開いた。

504 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:20:59.20 5ZQwmOzq0 491/1225

「あの……先生。患者さんの命がかかっているんですよ? 競争だなんて……みんなで協力した方が……」
『出来るならそうしたらいい』

投げやりに圭介が言う。
突き放されて、理緒は何かをゴニョゴニョと呟こうとしたが、失敗して口をつぐんだ。
不満そうな彼女の脇で、ソフィーは足を踏み出すと、扉の一角に目をやった。
そこだけ、鋲が打ちつけられた扉のようになっていた。
壁に、手の平大の窪みがある。
正方形だ。
そして、床には薄汚れたルービックキューブが転がっていた。
色がバラバラになっている。
ソフィーがそれを拾い上げた途端、ガコンッ、という音がして四方の壁が一センチ程、三人に向かって『近づいて』きた。
そう、壁と壁の距離が、狭まったのだ。
理緒がビクッとして肩をすぼめる。
汀は、まだ暗い視線でソフィーを睨んでいた。
ソフィーはそれを意に関することもなく、ヘッドセットの向こうに言った。

「ドクター高畑。あなたのナビゲートを受けるのは心外だけど、この際仕方ないわ。一時的に会話をしてあげます」

505 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:21:38.55 5ZQwmOzq0 492/1225

『それは光栄だ』
「心理壁に繋がる道を開きました。次の指示をお願いします」

カチャカチャとルービックキューブを動かし、彼女は無表情でそれを壁の窪みに嵌めた。
色は、六色全て揃っていた。
また、ガコン、という音がして、今度は十センチ程壁と壁の距離が狭まる。

「汀ちゃん! 壁が近づいてきますよ!」
「当たり前のことをいちいち喚かないで」

理緒の悲鳴を冷たく汀が打ち消す。

「それじゃ、お先に」

ソフィーがニッコリと笑って手を振る。
シャコンッ、と音を立てて、鋲がかかっていたはずの扉が開いた。
向こう側は白い空間になっている。

「え……? ちょ、ちょっと待って!」

理緒が大声を上げる。
しかしソフィーは口の端を吊り上げて笑った後、壁からルービックキューブを抜いて、床に叩きつけた。

506 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:22:41.00 5ZQwmOzq0 493/1225

プラスチックが砕ける音がして、ルービックキューブがバラバラになる。
また、壁が今度は十五センチほど近づいてきた。
かなり狭くなった部屋を見回し、ソフィーは余裕の表情で白い空間に体を躍らせた。
次の瞬間、またシャコンッ、という音がして扉が閉まった。
そして鋲が内側からせり上がり、しっかりと扉を固定する。

「嘘……」

理緒が呆然として、砕けたルービックキューブに駆け寄る。
また、壁が狭まった。

「壊されちゃった……! これ、多分この人の心の中に入る鍵なのに……!」
「選別してるのね。マインドスイーパー用のトラップだわ。この患者、私たちのことをよく知ってる」

冷静に言う汀に、ルービックキューブの欠片を拾い集めながら、理緒が青くなって言った。

「汀ちゃん手伝って! これを早く直さなきゃ……」
「そんな必要はないよ」

汀は肩の上の小白を撫でてから、不思議そうに理緒を見た。

507 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:23:20.27 5ZQwmOzq0 494/1225

「どうして、この人の心が作ったルールに、わざわざ合わせなきゃいけないの?」
「でも合わせなきゃ扉が開かないんですよ。他に、どうすればいいっていうんですか!」
「こうすればいいんだよ」

汀はそう言って、扉の前に立った。
部屋はもう、二人が立っているだけでやっとといったくらいの四方の狭さになっていた。
汀は、軽く助走をつけると、右足を強く鉄の扉にたたきつけた。
凄まじい音がして、次いで部屋のいたるところから、血液が噴出した。
それを浴びて、面白そうに汀は何度も、何度も扉を蹴った。

「汀ちゃん、何してるの……やめて!」

血の雨を浴びながら、理緒が悲鳴を上げる。
しかし汀は、扉を蹴るのをやめようとしなかった。
そして、遂に鋲と扉の継ぎ目から、大量の血液があふれ出す。
それが溜まって、二人の腰までを血が覆い隠す。

「あは……あはははは!」

血のシャワーを浴びながら、汀は嬌声を上げた。
そして、十数回目の蹴りで、扉がひしゃげ、どろりと溶けた。

508 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:24:00.49 5ZQwmOzq0 495/1225

汀は、そこで理緒の手を掴んで、胸の高さまで上がって来た血液を掻き分けながら、歩き出した。

「行こ」
「汀ちゃん、これってまずいんじゃ……だって、心の表層心理壁を物理的に破壊してるわけだから……」
「知らないよ、この人のことなんて」

汀は簡単に言って理緒を切り捨てると、その手を引いた。

「早くしないと、あの女が一位取っちゃうでしょ?」

その無邪気な笑顔を見て、理緒は口を閉ざした。
言い知れない、何か邪悪なモノを感じたからだった。
しかし、体を包む生ぬるい血液の感触に、汀の手を握り返してしまう。
彼女にニッコリと笑いかけ、汀は白い空間に身を躍らせた。

509 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:25:03.23 5ZQwmOzq0 496/1225



気づいた時、汀達は、地上二十メートルほどの地点に立っていた。
足元はレンガ造りの堅牢な足場になっているが、手すりも何もない。
幅一メートルほどの足場だ。
コチ、コチ、コチ、コチといたるところで時計の音が聞こえる。
全てが狂っているような、不規則な時の刻み方が多かった。
不協和音が反響して、耳が痛い。
空はどんよりと曇っていて、今にも雨が降ってきそうだ。
理緒はあまりの高さに驚いてよろめき、汀に支えられて周りを見て、硬直した。
二人がいたところは、時計塔の頂上だった。
足元では直径三メートルはあろうかという巨大な時計が、二秒に一度ほど秒針を進めている。
見渡す限り、その時計塔の群れだった。
高さはまちまちで、装飾もまちまちだが、共通していたのは、それが『塔』であるという事実。
それが何百、何千と果てしなく広がっている。
空調音のようなゴウンゴウンという音は、時計の針が時を刻む、不規則な音が織り成す巨大な不協和音だ。

510 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:26:02.15 5ZQwmOzq0 497/1225

「何……これ……?」

理緒が唖然として呟く。
汀は鼻を鳴らして言った。

「防衛型の進行が進みすぎたせいね。理緒ちゃんは一度、入ったことあるでしょ? 防衛型。この中のどれが一つが正解なの。中枢に繋がる道の」

言われて理緒は、DID患者の中にダイブした時のことを思い出した。
その時も、同じような群れの中に一人だけ、中枢に繋がる道を持つ人間がいたのだった。

「じゃあ……今回も、この沢山の時計塔の中から『正解』を見つけなきゃいけないってことですか……?」
「察しがいいね。その通りだよ」
「でも……どうやって?」
「それを考えるのが、私達の仕事」
「あの……この前から気になってたんですけれど……」

理緒は汀を見下ろして言った。

「こういう場合、もし間違ったものを選んじゃったら、どうなるんですか?」

511 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:26:38.92 5ZQwmOzq0 498/1225

「さぁ? 死ぬんじゃないかしら」

汀は小白の頭を撫でて、肩をすくめた。

「わかんないな。私、間違えたことないもん」
「そんな……本当?」
「私も興味あるから、ためしに間違えてみたら? 多分、この塔はダミーだし」

そう言いながら、汀は、時計塔の起動スイッチと思われるレバーを引こうとした。

「ちょ、ちょっと待って!」

慌てて理緒がそれを止める。

「何?」

不満そうな顔をした汀に、理緒は汗を垂らしながら言った。

「もうちょっと考えよ? ね? もし爆発とかしたら、どうするの?」
「面白いよ」

理緒は深くため息をついた。

512 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:27:20.82 5ZQwmOzq0 499/1225

そしてヘッドセットのスイッチを入れて、圭介に呼びかける。

「高畑先生。患者さんの心理壁の内面に到達しました。指示をお願いします」
『入れたのか。まぁ、汀がいるんだから、問題はないだろう?』

さして意外でもなさそうに圭介が返す。
そこで汀がヘッドセットに手を当てて、圭介に言った。

「圭介、手、どうしたの?」
『お前には関係ないと言っただろ?』
「あの女にやられたの? 何かされたの?」

食い下がる汀に、圭介は一瞬沈黙した後答えた。

『さぁな。勝負に勝ったら教えてやるよ』
「高畑先生! ふざけている場合じゃ……」
『中枢をさがして治療してくれ。時間が差し迫っている。それより先に、ソフィーの方が治療に成功するかもしれないな』

圭介が挑発的にそう言う。

513 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:28:51.12 5ZQwmOzq0 500/1225

汀の目の色が変わった。

「私が勝つよ。フランス女なんかには負けない」
「汀ちゃん、目的は勝つことじゃ……」
『頼もしいな。その調子で頼む』
「高畑先生!」

理緒がおろおろしている脇で、汀は時計塔の扉に手をかけた。
そして引く。

「中に入れるみたいだよ」

理緒が答えるのを待たずに、彼女は時計塔の中に体を滑り込ませた。

「待って!」

慌てて理緒が後を追う。
時計塔内は、錆びた鉄製の螺旋階段が下まで伸びていた。
時計の内部がカッチコッチと音を立てている。
管理室だろうか。
一つだけ、ブラウン管型テレビが置いてある。
壁には、風車がついた時計塔の写真が貼ってあった。

514 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:29:29.36 5ZQwmOzq0 501/1225

「これを探せばいいんでしょうか……? でも、こんな何百何千ってある中でどうすれば……この前みたいに、逃げてく人を選別するわけにもいかないし……」
「多分、理緒ちゃんが言うとおり、これが正解の時計塔だね。この人の心の中で、重要なものなんだと思う」
「停止させればいいのかな?」
「うん。多分」

汀の肩の上で退屈になってきたのか、小白が大きな欠伸をする。
そこで、テレビがプツリと音を立ててついた。

「ひっ……!」

息を呑んだ理緒の脇で、汀は興味深そうにそれを見ていた。
そこには、豚のト殺場の様子が映されていた。
沢山の豚達が、機械で絞め殺されて断末魔の悲鳴を上げている。
無音だ。
しばらくして、テレビからノイズ交じりの、淡白な男性の声が流れてきた。

515 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:30:01.98 5ZQwmOzq0 502/1225

「アミハラナギサ、カタヒラリオ、フランソワーズ・アンヌ=ソフィー」
「なぎさ……?」

汀がそう呟いて、怪訝そうな顔をして頭を抑える。
不意に、右即頭部に頭痛が走ったのだった。

「次の犠牲者は、この三人です」

画面の中に、両手両足を天井から縛られ、吊るされた汀、理緒、ソフィーの姿が映し出される。

「わ、私……?」

理緒が震えながらそれを見ている。
豚の断末魔が聞こえ、プツリとテレビが消えた。

「ど……どういうこと……?」

唖然として、ペタリとその場にしりもちをついた理緒に、頭を抑えながら汀は言った。

「ただの異常変質心理壁の特徴が出ただけ。これ以上入ってくるなら、トラウマに触れるぞって警告を発してるの」
「それにしては不気味でしたけれど……」

516 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:31:36.87 5ZQwmOzq0 503/1225

そこで、二人は外からキィィィ! という豚の断末魔が聞こえてきて、顔を見合わせ扉を開けた。
時計塔と時計塔の間に、錆びた鎖と、巨大な滑車が出現していた。
時計塔の歯車から動力を得ているのか、数万の鎖がギチギチと音を立てる。
そこには、おびただしい数の肉を引っ掛ける鉤が釣り下がっていた。
その先には、まだ生きている豚。
豚が、首先を鉤に突き刺されてゆっくりと進んでいる。
時計塔の頂上には、ノコギリのようなものが高速で回転しており、豚たちは、生きたままそれに両断され、ゴロリゴロリと地面めがけて、真っ二つになって落ちていく。
どこから補給されるのか、豚の数は減ることがない。時計塔で切り刻まれて、出てくる時には新しい豚が補充されているのだ。
理緒は、間近で豚が真っ二つに両断され、その血液だか体液だか分からないものを間近で浴びてしまい、悲鳴を上げた。

「これで移動すればいいんだね」

しかし汀は表情一つ変えず、出てきたばかりの、まだ動いている豚につかまった。

「理緒ちゃんも。早く」

517 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:32:15.64 5ZQwmOzq0 504/1225

呼びかけられ、理緒は真っ青になりながら汀を呼んだ。

「駄目……行けない! 行けない!」
「どうして? 早くしないと……」
「私高いところ駄目なの! それに、このままついてったら、ノコギリで真っ二つになっちゃう!」
「その前に飛び降りればいいよ。大丈夫。ここは、所詮脳内イメージの世界だから」
「そんな風に割り切れないですよ!」
「いいから。ほら」

汀に無理やり手を引かれ、理緒は近くの豚に恐る恐る抱きついた。

「行くよ」

汀も同じ豚に抱きつき、鎖を手で掴む。

二人を乗せた鎖がゆっくりと動き、地上二十メートルの空中に躍り出る。
意識を失いそうになった理緒の手を掴んで、汀は面白そうに、時計塔と時計塔を繋ぐ、豚のト殺光景を見た。

「ふーん。そうなんだ」

空中に出て、周りを見回して、汀は呟いた。

518 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:32:45.32 5ZQwmOzq0 505/1225

「理緒ちゃん、目開けないと危ないよ」
「開けられない! 開けられない!」

首を必死に振っている理緒にため息をついて、汀は片手でヘッドセットのスイッチを入れて言った。

「圭介。ここ、D型の変質区域だ」
『そのようだな。先ほどソフィーからも同じ通信があった』

汀が頬を膨らませ、不満そうに言う。

「私の方が先に分かってたもん」
『そんなところでひいきはしない。何せ、ソフィーは「このため」に、フランスから連れて来られたんだからな』
「どういうこと?」
『彼女は、IQ190の超天才児だ。パズルを解くことは、何よりも、誰よりも得意なんだ』
「ゲームするうえで、チートはいけないと思うけど、まぁ、でもチートは単なるチートだよね」

汀が冷めた口調でそう言う。

519 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:33:22.86 5ZQwmOzq0 506/1225

彼女の目に、既にソフィーによって停止させられたのか、いくつかの時計塔が見えた。
それが上下左右対称の、幾何学的模様を描いている。
おそらく、紋様を描く時計塔を停止させた先に見える、中心のものが、あの風車のある時計塔なのだろう。
豚のト殺レールがそのルートになっているらしい。
うっすらと遠くに見えるそれを目を細めて見て、汀は歯噛みした。
そして目を閉じて震えている理緒を見た。
分が悪いのは、誰が見ても明らかだった。

「理緒ちゃんは、ここで待ってる?」

汀が釣り下がりながらそう聞く。
理緒は必死に豚にしがみつきながら、何度も頷いた。

「でも一緒に来ないと、治療した時に外に出れないよ」

汀は考え込んでため息をついた。

「いい加減慣れようよ。夢の世界って、大体こうだよ。理緒ちゃんがダイブしてた、子供の頭の中とは違うの。人間って、大きくなればなるほど汚れていく生き物だから」

520 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:34:05.42 5ZQwmOzq0 507/1225

まともに返事も出来ない理緒を見て、汀は回転ノコギリが迫ってきたのを見て、別の時計塔に飛び降りた。

「理緒ちゃん、降りてきて」

理緒にそう呼びかけるが、彼女は硬直してしまってそれどころではない様子だった。

「理緒ちゃん?」

問いかけた後、汀はサッと顔を青くした。
理緒がここまでの高所恐怖症だとは思わなかったのだ。

『どうした、汀?』

圭介に問いかけられ、汀は慌ててそれに返した。

「理緒ちゃんがまずいの。このままじゃ、真っ二つにされちゃう」
『どういう状況だ。いいか、理緒ちゃんは無傷で連れて帰れ。約束してるだろ?』
「わ……分かった!」

汀は頷いて、飛び上がった。

521 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:34:39.12 5ZQwmOzq0 508/1225

そして理緒の近くの鎖にぶら下がり、彼女に手を伸ばす。
回転ノコギリが迫っていた。

「理緒ちゃん、目を開けて! 早く降りないと、まずいよ!」
「……だ、駄目! 駄目なんです! 体が動かないの……腰が……腰が抜けちゃって……」
「理緒ちゃん!」

汀は慌てて、回転ノコギリから理緒を守る形で、その間に割って入った。
嫌な音がした。
汀の肩の上で、小白が驚いて声を上げる。

「……ッあぁ……あ……ッ!」

汀が苦悶の表情に顔を歪ませる。
彼女の左腕が、綺麗に肩口から両断されて、ボトリと時計塔の足場に落ち、転がって下に消えていった。
凄まじい量の血液が、彼女の肩口から噴出する。

522 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:35:12.33 5ZQwmOzq0 509/1225

「汀ちゃん……!」

理緒が目を開いて、驚愕の声を上げる。
汀は痛みに耐えることが出来ずに、鎖を離し、その場に落下を始めた。
理緒が無我夢中で手を伸ばし、彼女の右腕を掴む。
そして彼女は、悲鳴のような絶叫を上げると、汀の体を持ち上げ、豚から手を離し、転がって時計塔の足場に飛び降りた。
しばらく茫然自失して、荒く息をつく。
そして彼女は、肩口を押さえてうめいている汀に近づいて、震えながら、上腕が両断されてしまった彼女の傷口を見た。

「ど……どうしよう……! どうしよう! 高畑先生! 汀ちゃんが……汀ちゃんが!」
『どうした? 落ち着いて状況を説明してくれ』
「汀ちゃんの腕が、ノコギリで切られて、なくなっちゃった……!」
『何?』

圭介は思わず問い返して、慌てて言った。

『回線を遮断する。汀、聞こえるか? 返事をしろ』

523 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/12 16:35:42.91 5ZQwmOzq0 510/1225

「……圭介……私、まだやれる……大丈夫……」

病院服を右手で破りとって、腕の傷口を縛りながら汀はそう言った。
理緒が慌てて口を挟む。

「む……無理です! 汀ちゃん、戻ろう? このまま失血したら、現実世界の左腕も……」
「元々動かないんだから、どうでもいいよ……」

痛みに耐えながら汀がそう言う。
しかし圭介は、少し考えてから言った。

「駄目だ。回線を強制遮断する。二人とも、戻って来い」

彼の声は、断固とした調子で二人の耳を打った。
汀は歯噛みして、肩の傷口を押さえた。
とめどなく流れていく血液。
そこで、彼女達の意識はブラックアウトした。


続き
【オリジナル】「治療完了、目をさますよ」【長編小説】(3)

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