1 : 天音 ◆E9ISW1p5PY - 2017/05/06 14:48:49.50 gCTWDI1i0 1/1225GWということで、過去書いて完結した小説をまったり投稿していきます。
24話完結の、かなりの長編です。
ジャンルはサイコホラー。
残虐表現を多く含むため、一応R18指定とします。
まったり低速投稿なので、気長にお付き合いください。
また、投稿途中でも普通に討論など書き込んでいただいてOKです。
ワイワイ楽しんでいただけると嬉しいです。
地の文多め、普通の小説形式です。
元スレ
【オリジナル】「治療完了、目をさますよ」【長編小説】
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssr/1494049729/
【オリジナル】「治療完了、目をさますよ」2【長編小説】
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssr/1495260271/
◇
第1話 劣等感の階段
◇
巨大な「目」の下に、彼女は立っていた。
目を取り囲むのは、無数の目。
蠢く肉質な壁、壁、ピンク色のそれは建物や地面を覆っている。
ぶよぶよした浮腫のようなものがまとわりついているのだ。
そして、そこに埋め込まれているのは眼球。
血走った目がぎょろぎょろ動き、彼女のことを数千、数万も凝視している。
空は黒い。
どこまでも黒い。
その真上に、空全体を覆い隠すほどの眼球が、まるで太陽のように浮き上がり、あたりを照らしていた。
常軌を逸した空間。
普通でははかりえないような、そんな空間に、彼女は平然と立っていた。
年の頃は十三、四ほどだろうか。
長い白髪を、背中の中心辺りで三つ編みにしている。
可愛らしい顔立ちをしているが、その表情は無機的で、何を考えているのか分からないところがあった。
彼女は、眼前にぽっかりと空いた「穴」の前に進んだ。
穴は、肉の床が崩れ、内部に人間の体内に似たものが見える。
丁度食道を内視鏡で見るかのような感覚だ。
奥は曲がりくねって深く、よく分からない。
彼女は耳元に手をやった。
右耳の部分に、イヤホンつきの小型マイクがはまっている。
そのスイッチを動かして、彼女は口を開いた。
「ついたよ。この人の煉獄の入り口」
『OK、それじゃ、攻撃に遭う前にそこに入って、記憶を修正してくれ』
マイクの向こう側から、まだうら若い青年の声が聞こえる。
「…………」
『おい、汀(みぎわ)、聞いてるのか?』
「…………』
返事をせずに、彼女は周りを見回した。
いつの間にか、地面の肉質にも眼球が競り出して、
プツリ、と所々で音を立てながら、奇妙な汁を撒き散らしていた。
それら全てに凝視されながら、汀と呼ばれた少女は、
自嘲気味に、困ったように頭を掻いた。
「見つかっちゃった」
子供がかくれんぼで鬼に見つかった時のように軽い言葉だったが、
マイクの向こうの声は一瞬絶句した後、キンキンと響く声を張り上げた。
『すぐ戻れ! この患者はレベル4だぞ。入り口まで出てこれるか?』
「見つかっちゃったの。逃げられないの」
ゆっくりと、言い聞かすようにそう言って彼女はウフフと笑った。
その目は、声に反して笑っていなかった。
足元の眼球をブチュリと踏み潰し、彼女は両手を開いて大声を上げた。
「鬼さんこちら! 手の鳴る方へ!」
パンパンと手を叩く。
『こら、何してるんだ! おい、汀!』
「鬼さんこちら!」
ぶちゅり。眼球を踏み潰す。
「手の鳴る方へ!」
裸足のかかとが、肉壁にめり込む。
パンパン。また手を叩く。
瞬間、その「空間」自体がざわついた。
ぎょろりと空に浮かぶ眼球が、こちらを向く。
間を置かずに、汀を囲む壁から、眼球がまるで銃弾の雨あられのように吹き飛んできた。
汀は軽い身のこなしで、まるで曲芸師のようにくるりと後転してそれを避けた。
彼女が着ているものは病院服だ。
右から眼球が飛んできて、左の壁に当たって爆ぜる。
嫌な汁と血液のようなものが飛び散る。
まるでプチトマトを投げ合っているかのようだ。
汀を狙って、地面や壁から、次々と眼球が飛び出してきた。
くるくると少女は回る。
片手で地面を掴んで体を横に大きく回し、目の群れを避ける。
『遊ぶな!』
怒号が聞こえる。
今までぼんやりしていた表情は、まるで別人のように生き生きと輝いていた。
しかし、次の瞬間、眼球が一つ汀の脇腹に食い込んだ。
不気味な音を立てて爆ぜ、彼女の顔にパタタタッと音を立てて汁が飛び散る。
衝撃で汀はもんどりうって肉床を転がり、したたかに後頭部を壁にぶつけた。
「あうっ!」
小さな声で叫び声を上げる。
右脇腹で爆ぜた眼球は、ベットリとガムのように病院服に張り付き、次いでアメーバを思わせる動きで、ざわついた。
それが爪を立てた子供の手の形になり、汀の服をむしりとろうとする。
彼女は、口の端からよだれをたらしながら、しかし楽しそうにそれを払いのけ、また飛んできた眼球をくるりと避けた。
『お願いだからやめてくれ、汀。患者のトラウマを広げたいのか!』
「分かってる。分かってるよ」
『分かってないから言ってるんだ。汀、早く中枢を』
そこで汀はイヤホンのスイッチを切った。
そしてゴロゴロと地面を転がる。
彼女を追って、眼球たちが宙を舞う。
それを綺麗に避け、汀は、地面にぽっかりと開いた穴の中に飛び込んだ。
◇
一瞬視界がホワイトアウトした。
次いで彼女は、狭い、四畳半ほどの真っ白い、正方形の部屋に立っていた。
何もない部屋だった。
天井に蛍光灯が一本だけついていて、バチバチと異様な音を発している。
薄暗い空間の、汀の前には肌色のマネキンのようなものがあった。
それは体を丸め、体育座りの要領で頭を膝にうずめていた。
大きさは一般的な成人男性程だろうか。
どこにも継ぎ目がない、つるつるな表面をしている。
頭髪はない。耳も見当たらない。
汀は無造作にその前に進み出ると、腰を屈めて、頭を小さな手で掴んだ。
そして顔を自分の方に向ける。
耳も、口も鼻もない。
ただ、一つだけ眼球がその顔の真ん中にあった。
眼球は虚空を注視していて、汀を見ようとしなかった。
汀は興味を失ったように頭を離した。
マネキンは緩慢に動くと、また頭を膝の間にうずめた。
「そんなに目が気になる?」
汀は静かに聞いた。
「あなたは、そんなに他人の目が気になるの?」
マネキンはゆっくりと頷いた。
何の音もない空間に、汀の声だけが響く。
「馬鹿ね」
汀はにっこりと笑った。
そしてマネキンの前にしゃがみこんだ。
「だから死にたいの?」
マネキンはまたゆっくりと頷いた。
「だから逃げたいの?」
マネキンはまた頷いた。
汀はまた微笑むと、その頭を両手で包むように持った。
そして眼球に、両手の親指を押し付ける。
「じゃあ見なきゃいいよ」
マネキンは痛がる素振りもみせず、ただ微動だにせず硬直していた。
「私が、あなたの目を奪ってあげる」
ぶちゅり、と指が眼球を押しつぶした。
そのまま指を、眼窟に押し込み、中身をかき回しながら汀は続けた。
「耳も、鼻も、口も、目も、そして心も閉ざして、逃げればいいよ」
眼窟から、どろどろと血液が流れ出す。
「私がそれを、許してあげる」
マネキンの手が動き、汀の首を掴んだ。
それがじわりじわりと、彼女の細い首を締め付けていく。
汀は、苦しそうに咳をしながら、ひときわ強く眼窟の中に指を突きいれた。
『ウッ』
部屋の中に、男性の苦悶の声が響き渡った。
マネキンの手がだらりと下がり、糸が切れたマリオネットのように足を広げ、壁にもたれかかる。
汀は拳を振り上げると、眼球がつぶれたマネキンの顔面に、何度も叩きこんだ。
血液が飛び散り、その度にビクンビクンと、魚のようにマネキンが震える。
やがて汀の病院服が、転々と返り血で染まり始めてきた頃、彼女は荒く息をつきながら、動かなくなったマネキンを見下ろした。
ダラダラと、原形をとどめていない顔面から血液が流れ出し、 白い床に広がっていく。
そして彼女は耳元のイヤホンのスイッチを入れ、一言、言った。
「治療完了。目をさますよ」
◇
「……と言うことで、旦那様は一命を取り留めました」
眼鏡をかけた、中肉中背の青年が、柔和な表情でそう言った。
それを聞いた女性が、一瞬ハッとした後、両手で顔を覆って泣き崩れる。
「主人は……」
少しの間静寂が辺りを包み、彼女はかすれた声で続けた。
「主人は、何を失くしたのですか……?」
「視力です」
何でもないことのように、青年はそう言ってカルテに何事かを書き込んだ。
「視力?」
信じられないといった顔で女性は一旦停止すると、白衣を着た青年に掴みかからんばかりの勢いで大声を上げた。
「目が見えなくなったということですか!」
「はい。しかし一命は取り留めました。自殺病の再発も、もうないでしょう」
「そんな……そんな、あまりにも惨過ぎます……惨すぎます!」
青年は右手の中指で眼鏡の中心をクイッと上げると、またカルテに視線を戻した。
柔和な表情は、貼りついたまま崩れなかった。
「まぁ……後は区役所の社会福祉課にご相談なさってください。こちらが、ご主人が今入院されている病院です。面会も可能です」
「先生!」
女性が机を叩いて声を張り上げた。
「主人の目が見えなくなって、一体これからどうやって生活していけというんですか! 私達に、これから一体どうしろと……」
「ですから、それから先は私達の仕事の範疇外ということで。誓約書にありましたでしょう。命のみは保障いたしますと」
「それは……」
「脳性麻痺の疑いもありませんし、植物状態になったわけでもありません。ただ、『目が見えなくなった』だけで済んだという『事実』を、
私は貴女にお伝えしたまでです」
「…………」
「それでは、指定の口座に、期日までに施術費用をお支払いください。本日はご足労頂き、ありがとうございました」
話は終わりと言わんばかりに、青年は軽く頭を下げた。
◇
散々喚き散らした女性を軽くあしらい、診断室を追い出した青年は、息をついてカルテをベッドの上に放り投げた。
八畳ほどの白い部屋だった。
見た目は普通の、内科の診断室に見える。
彼は、看護士もいない部屋の中を見回し、立ち上がってドアを開け、診察を受けにきた患者もいないことを確認すると、大きく伸びをした。
そして、診断室の脇にあるドアを開ける。
中はやはり八畳ほどのスペースになっており、ディズニー系統のカーペットや壁紙など、年頃の女の子のコーディネートがなされていた。
部屋の隅には車椅子が置かれ、端の方にパラマウントベッドが設置されている。
上体を浮かせた感じで、そこに十三、四ほどの少女が目を閉じていた。
テディベアの人形を抱いている。
腕には何本も点滴のチューブが刺されている。
青年はしばらく少女の寝顔を見つめると、白衣のポケットに手を入れて、部屋を出ようと彼女に背を向けた。
「起きてるよ」
そこで少女が、目を開いて声を発した。
青年は振り返ると、一つため息をついて口を開いた。
「汀、もう寝る時間だろ」
「隣が煩かったから」
「悪かったよ。もう寝ろ」
「怒らないの?」
問いかけられ、青年――高畑圭介は、少し考え込んでから言った。
「お前は立派に命を救っただろ。怒るつもりはないよ」
「そうなの。なら、いいの」
テディベアを抱いて、汀がにっこりと笑う。
そこには快活そうな表情はなく、げっそりとやせこけた、
骨と皮だけの少女がいるばかりだった。
汀は、上手く体を動かすことができない。
下半身不随なのだ。
左腕も動かない。
圭介が、彼女の生活のサポート、つまり介護を行っている。
他にもいくつかの病気を併発している汀は、一日の殆どを横になってすごす。
それゆえに、部屋の中にはテレビやゲーム機、漫画や本などが乱雑に置かれて、積み上げられていた。
「今度は何を買ってくれるの?」
汀がそう聞くと、圭介は軽く微笑んでから言った。
「3DSで欲しいって言ってたゲームがあるだろ。あれ買ってきてやるよ」
「本当? 嬉しい」
やつれた顔で汀は笑った。
それを見て、圭介はしばらく考えた後、発しかけた言葉を無理やりに飲み込んだ。
「…………」
「疲れたから、もう寝るね」
汀がそう言う。
彼は頷いて、ベッドの脇にしゃがみこむと、汀の手を握った。
「薬は飲んだか?」
「うん」
「無理して起きなくてもいいからな。目を覚ましたらブザーを鳴らせ」
「分かった」
汀の頭を撫でて、圭介は立ち上がった。
そしてゆっくりと部屋を後にする。
背後から少女の寝息が聞こえてきた。
◇
その「患者」が現れたのは、それから三日後の午前中のことだった。
夏の暑い中だというのに長袖を着た、女子高生と思われる女の子と、その母親だった。
圭介は、座ったまま何も話そうとしない女の子と、青ざめた顔をしている母親を交互に見ると、部屋の隅の冷蔵庫から麦茶を取り出して、紙コップに注いだ。
そして二人の前に置く。
「どうぞ。外は暑かったでしょう?」
女の子に反応はない。
何より彼女の両手首には、縄が巻きつけられ、がっちりと手錠のように動きを拘束していた。
女の子の目に生気はなく、うつろな視線を宙に漂わせている。
圭介はしばらく少女の事を見ると、彼女の頬を包み込むように持って、そして目の下を指で押した。
反応はない。
「娘は……」
母親は麦茶には見向きもせずに、青白い顔で圭介にすがりつくように口を開いた。
「先生、娘は治るんでしょうか?」
「自殺病の第五段階まで進んでいますね。きわめて難しいと思います」
柔和な表情を崩さずに、彼はなんでもないことのようにサラリと言った。
母親は絶句すると、口元に手を当てて、そして大粒の涙をこぼし始めた。
「赤十字の病院でも……同じ診断をされました。もう末期だとか……」
「はい。末期症状ですね。言葉を話さなくなってからどれくらい経ちますか?」
「四日経ちます……」
「絶望的ですね」
簡単にそう言って、圭介はカルテに何事かを書き込んだ。
「ぜ……絶望的なんですか!」
母親が悲鳴のような声をあげる。
「はい」
彼は頷いて、カルテに文字を書き込みながら続けた。
「隠しても何もあなた方のためになりませんので、私は包み隠さず言うことにしているんです。自殺病は、発症してから自我がなくなるまで、およそ二日間と言われています。第四段階での場合です。今回のケースは、その制限を大きく逸脱しています」
彼は立ち上がってFAXの方に行くと、送られてきた資料を手に取った。
それをめくりながら言う。
「担当は赤十字病院の大河内先生からの紹介ですね。知っています。どうして入院させなかったんですか?」
「そ、それは……娘が入院だけは嫌だと言い張って……」
「その結果命を落とすことになる自殺病の患者は、全国で一日に平均十五人と言われています」
柔和な表情のまま圭介は続けた。
「日本に自殺病が蔓延するようになって、もう十年ほど経ちますが、一向にその数は減らない。むしろ増え続けています。そして、娘さんもその一人になりかかっています」
資料をデスクの上に放って、彼は椅子に腰掛けた。
「どうなさいますか?」
穏やかに問いかけられ、母親は血相を変えて叫んだ。
「どうって……ここは病院でしょう? 娘を助けてください!」
「それは、どのような意味合いで?」
淡々と返され、母親は勢いをそがれ一瞬静止した。
「意味合い……?」
「娘さんを元通りに戻すのは、無理です。自殺病第五段階四日目の生存確率は、およそ十パーセントほどと言われています。生かすことも困難な状況で、はいできましたと、魔術師のように娘さんを戻すことは不可能です」
「それじゃ……」
「しかし」
一旦そこで言葉を切って、圭介は眼鏡を中指でクイッと上げた。
「私どもは、その十パーセントを百パーセントにすることだけは可能です」
「どういう……ことですか?」
「命のみは保障しましょう。命のみは」
二回、含みを加えて言うと、圭介は微笑んだ。
「その代わり、娘さんは最も大切なものをなくします」
「仰られている意味が……」
「言ったとおりのことです。植物状態になるかもしれませんし、歩けなくなるかもしれない。しゃべれなくなるかもしれないし、記憶がなくなって、貴女のことも思い出せなくなるかもしれない。具体的にどうとはいえませんが」
「……そんな……どうしてですか?」
「娘さんの心の中にあるトラウマを、物理的な介入によって消し去ります。その副作用です」
端的にそう答え、圭介はデスクから束のような書類を取り出した。
「それでは、今から契約についてご説明します」
「契約?」
「はい。ここで見聞きしたことについては他言無用でお願いします。その他、法律関係のいくつか結ばなければいけない契約があります」
「…………」
「それと」
母親に微笑みかけて、圭介は言った。
「当施術は、保険の対象外ですので、その点もご承諾いただきたいのですよ」
◇
「急患だ。即ダイブが必要だ」
車椅子を押しながら、圭介が言う。
そこにちょこんと乗せられた汀は、手元の3DSのゲームを凝視しながら口を開いた。
「今日はやだ」
「ゲームは後にしろ。マインドスイーパーの資格があるんなら、ちゃんと仕事をしろ」
「でも……」
「でももにべもない。ゲームは後だ」
そのやり取りをしながら、彼らは施術室と書かれた部屋の前に止まった。
母親が、真っ赤に目を泣き腫らしながら、立ち尽くしている。
彼女は車椅子の上で3DSを握り締めている小さな女の子を見ると、怪訝そうに圭介に聞いた。
「この子は……」
「当医院のマインドスイーパーです」
施術室の扉を開けながら、圭介は言った。
母親は絶句した後、圭介に掴みかかった。
「何をするんですか」
それを軽くいなした圭介に、彼女は金切り声を上げた。
「娘の命がかかっているんですよ! それを……それをこんな……こんな小娘に!」
汀が肩をすぼめ小さくなる。
怯えた様子の彼女を見て、圭介は白衣を直しながら、淡々と言った。
「……お母様は、待合室の方で待たれてください。マインドスイープはとても繊細な動作を要求します。この子を刺激しないでください」
「からかわないで! こんな子供に何が出来るって言うんですか!」
「…………」
「娘を殺したら、あなたを殺して私も死んでやる! ヤブ医者!」
「待合室の方に」
圭介はそう言って待合室を手で指した。
彼を押しのけ、母親は施術室に入ろうとした。
「私も同席するわ。娘を妙な実験の実験台に……」
「入るな」
そこで、圭介が小さな声で呟いた。
「何を……」
「二度同じことを言わさないでください。貴女が邪魔だと言っているんです」
ネクタイを直し、彼はメガネを中指でクイッと上げた。
「刻一刻と、娘さんの命は削られていきます。今この時にも、自殺を図る可能性が高い。あなたは、私達の施術を邪魔して、娘さんを殺したいのですか?」
「…………」
目をむいた母親を、無理やりに押しのけ、圭介は汀の乗った車椅子を施術室に押し入れた。
「その場合、殺人罪が適用されますので」
柔和な表情を崩さずに、彼は施術室のドアをゆっくりと閉めた。
「待合室で、お待ちください」
ガチャン、と重い音を立ててドアが閉まった。
◇
「やれるか、汀?」
そう聞かれ、汀は小さく震えながら圭介を見上げた。
「やだ。私あの人の娘なんて治したくない」
「我侭を言わないでくれ。人の命を、救いたいんだろ?」
そう言って圭介は、汀の頬を撫でた。
「これが終わったら、びっくりドンキーにでも一緒に飯を食いに行こう。やってくれるな?」
「本当?」
「ああ、本当だ」
「うん、私やる。やるよ」
何度も頷いた汀の頭をなで、圭介は施術室の中を見回した。
十六畳ほどの広い部屋には、ところ狭しとモニターや計器類が詰め込んである。
その中心に、ベッドが一つ置いてあった。
先ほどの女の子が、両手足をベッドの両端に縛り付けられ、口に猿轡をかまされた状態で横たえられている。
そんな状態にも拘らず、女の子には特に反応がなかった。
汀はその顔を覗き込むと、興味がなさそうに呟いた。
「もう駄目かも」
「そう言うな。特A級スイーパーの名前が泣くぞ」
「だって駄目なものは駄目だもん」
頬を膨らませた汀を無視して、圭介は計器類の中から、ヘルメットのようなものを取り出した。
黒いネットで作られていて、顔面全体を覆うようになっている。
それを女の子に被せ、同じものを汀に持たせる。
そして、彼は汀の右耳にイヤホンとマイクが一体になったヘッドセットを取り付けた。
「何か必要なものはありそうか?」
「預かってて」
3DSを彼に渡し、汀はヘルメット型マスクを被った。
そして車椅子の背もたれに体を預ける。
「何もいらないよ」
「そうか。時間は十五分でいいな」
「うん」
そして圭介は、ラジオのミキサーにも似た機械の前に腰を下ろした。
それらの電源をつけ、口を開く。
「麻酔はもう導入してある。後はお前がダイブするだけだ」
「うん」
「この子の、『意識』の中にな」
含みを持たせてそう言い、圭介はにっこりと笑った。
「それじゃ、楽しんでおいで」
「分かった。楽しんでくるよ」
そう言って、汀は目を閉じた。
◇
汀は目を開いた。
彼女は、先ほどまでと同じ病院服にヘッドセットの姿で、自分の足で立っていた。
動かないはずの、下半身不随の体で、足を踏み出す。
そこは、四方五メートルほどの縦長の空間だった。
螺旋階段がぐるぐると伸びている。
その中ほどに、汀は立っていたのだった。
古びた螺旋階段は、木造りで動くたびにギシギシと音を立てる。
閉塞的なその空間は、下がどこまでも限りなく続き、
上も末端が見えないほど伸びていた。
壁には矢印と避難場所と書かれた電光掲示板がいくつも取り付けられ、それぞれが別の箇所を指している。
良く見ると螺旋階段の対角側の所々に、人一人通れそうなくぼみが出来ており、そこに鉄製の扉がついていた。
汀は手近な避難場所と指された鉄製の扉を空けた。
中はただのロッカールームのようになっていて、何も入っていない埃っぽい空間だ。
そこから出て、扉を閉めてから汀はヘッドセットのスイッチを入れた。
「ダイブ完了。多分、煉獄に繋がるトラウマの表層通路部分にいるんだと思う」
『そうか。どんな状況だ?』
耳元から聞こえる圭介の声に、汀は小さくため息をついて答えた。
「上と下に、上限と下限がない通路と、横に隠れる場所。多分、何かから心を守ろうとしてるんだと思う。扉が一杯あるの。どれかが中枢に繋がってるんじゃないかな」
『お前にしては曖昧な見解だな』
「話してる暇がないからね」
『どういうことだ?』
そう言った圭介の声に答えず、汀は螺旋階段の下を見た。
黒い服を着た修道女のような女の子が二人、ギシ、ギシ、と階段をきしませながら、昇って来るところだった。
何かを話しているが、聞こえない。
顔も確認は出来ないが、マネキンではないようだ。
「トラウマだ」
そう呟いて、汀は近くの避難場所のドアを開けて、そこに体を滑り込ませた。
そして静かにドアを閉める。
ヘッドセットの向こうで圭介が息を呑んだ。
『強力なものか?』
「うん。かなり。見つかると厄介かも。昇ってくるから、多分下ればいいんだと思う」
しばらく息を殺していると、二人の女の子は、汀が隠れているドアの前を通り過ぎた。
声が聞こえた。
「でね、国語の小山田。美紀ともヤったらしいよ」
「えぇ? 本当? 何で美紀なの?」
「さぁねぇ。小山田って優しいじゃない。頼まれて仕方なくってことじゃないかな」
「何それウケる。自分から犯してくれって頼んだってこと?」
「バカの考えることはわかんないよ。小山田も災難だよね。よりにも寄って美紀なんかとさぁ」
声が聞こえなくなった。
汀はしばらくしてドアをゆっくりと開け、そこから体を静かに引き抜いた。
女の子達は、上に向かって歩いて行っている。
汀はそれを確認して、螺旋階段を小走りで下り始めた。
『慎重に行けよ。この患者は、レベル5だ』
「うん」
小声で頷いた汀の目に、また二人組の女の子達が上がってくるのが見えた。
先ほどと同じように、避難場所に隠れる。
「でね、国語の小山田、美紀ともヤッたらしいよ」
「えぇ? 本当? 何で美紀なの?」
同じ会話だったが、違う声だった。
「美紀ってさ、地味だし、頭も悪いし、何もいいところないじゃん。だから、小山田を味方につけようとしたんじゃないかな」
「えぇ? 最悪。小山田、あいつヤリ捨て名人なんだよ? 美紀、バカ見ただけじゃないかなぁ」
「カンニングの話もあったじゃない。あの時の試験の担当、小山田だったらしいし」
声が聞こえなくなった。
また、汀は窪みから出て階段を降り始めた。
『随分と明確なトラウマだな。珍しい』
圭介の声に、汀は答えなかった。
「ユブユブユブユブユブユブユブ」
突然、奇妙な呟きとともに、また女の子二人組が上がってくるのが見えたからだった。
隠れた彼女の耳に、雑音交じりの声が聞こえる。
「ユブ……ザザ……先生…………やめ……」
「ザザ……ユブブ……ブブ……なんで美紀なの?」
「美紀! 山内美紀! おとなしくしろ!」
「ユブ……ザザザ…………ユブユブ……」
汀はそれを聞いて、今度は隠れずに、螺旋階段の中央部分に足をかけ、そして女の子達をやり過ごすように飛び降りた。
猫のようにふわりと着地し、汀は息をついた。
そこで、彼女の耳に、螺旋階段全体に声が反響したのが聞こえた。
「ゆぶユブユブユブゆぶユブユブゆぶ」
上を見た汀が、一瞬停止した。
今まで昇った女の子達が、全員一塊になって汀のことを見下ろしていたのだ。
そして「ユブユブ」と全員が呟いている。
その女の子達には、顔がなかった。
顔面にあたる場所に、「敵」という刺青のような文字が黒く書いてある。
それを確認して、汀は螺旋階段の中央部分、その空間に飛び込んだ。
それと、女の子達が手に持ったバケツの中身を、下に向けてぶちまけたのはほぼ同時だった。
バケツの中身に入っていた液体が飛散する。
それが当たった階段が、ジュゥッ! と焼ける音を立てて黒い煙を発し、そして溶けた。
液体の落下よりも、汀の落下の方が間一髪で早かった。
どこまでも落ちていく。
まるで、不思議の国に行くアリスのようだ。
汀は溶けてくる螺旋階段を見上げ、そしてそのつくりが、下に行くほど雑になっているのを目にした。
ささくれ立って、ボロボロの階段になっていく。
そんな中、一つだけピンク色に光る電光掲示板があった。
汀はその矢印が指すドアを確認すると、螺旋階段の手すりに手をかけ、体操選手がやるようにクルリと回った。
そしてドアを開け、中に滑り込む。
そこで、彼女の視界がホワイトアウトした。
◇
彼女は、映画館に立っていた。
薄暗い劇場は狭く、百人も入れないほどの小さな映画館だ。
そこに、全員同じ髪型をしたマネキン人形が、同じ姿勢で背筋を伸ばし座っていた。
ビーッ、と映画の始まりを示す音が鳴る。
汀は最前列の中央に一つだけあいた席に、腰を下ろした。
3、2、1とスクリーンに文字が表示され、そして古びたテーブが再生される。
そこには、今汀がダイブしている女の子の顔が、アップで映されていた。
泣きじゃくって、必死に抵抗している。
「先生! 先生やめてください! こんなこと……こんなこと酷すぎます!」
観客のマネキン達から、男の笑い声が、一斉にドッと漏れた。
「先生! 先生やめてください! こんなこと……こんなこと酷すぎます!」
また笑い声が溢れる。
汀は興味がなさそうに、連続再生される女の子の顔を見て、そして立ち上がった。
彼女が立ち上がると同時に、ザッ、と音を立ててマネキン人形が立ち上がった。
それを見て、汀はにやぁ、と笑った。
「鬼さんこちら! 手の鳴る方へ!」
パンパンと手を叩いて、彼女は手近なマネキン人形を殴り飛ばした。
およそ少女の力とは思えないほどの威力で、マネキン人形の首が吹き飛んでいき、スクリーンの中央に大きな穴を開ける。
『汀、今回は危険だ。遊ぶんじゃない!』
「あは、あはは!」
汀は笑った。
マネキン人形達が、彼女の四肢を拘束しようと動き出す。
<あは、アハハ!>
まるで汀の声を真似るように、マネキン人形達も笑った。
「やめられないよ! だって楽しいんだもん! 面白いんだもん!」
汀はそう言って、また手近なマネキン人形を殴った。
その胸部に大きな穴が開き、ぐらりと倒れる。
「私はここでは最強なんだ! 強いんだ! こんなに楽しいゲームって、ねぇないよ!」
『汀、しっかりしろ!』
圭介の声を聞いて、汀はハッとした。
そして動悸を抑えるように、胸を掴んで荒く息をつく。
なだれのように襲い掛かるマネキン人形達の手をかいくぐり、彼女はスクリーンに向かって飛び込んだ。
大きな音を立てて、布製のスクリーンが破れる。
向こう側に突き抜け、また汀の視界がホワイトアウトした。
◇
気づいた時、汀はマネキン人形が所狭しと果てしなく投棄された、その山のような場所にうつぶせに倒れていた。
映画館のマネキン人形と同じように、全て同じ髪型をしている。
それらは腕をもがれたり、顔面を破壊されたり、全てがどこかしらを欠損していた。
共通しているのは、顔には「男」と書かれていること。
空には穴が開き、そこが汀が穴を開けた映画館のスクリーンらしく、ザワザワという騒ぎ声と笑い声が聞こえる。
少しして、汀は果てしなく広がる遺棄された人形達を踏みしめて、立ち上がった。
一箇所だけ、スポットライトが当たったように明るくなっている。
そこに、全裸の女の子が、何かを抱きしめるようにして膝まづいていた。
女の子の全身には、青黒い切り傷がついていて、そこから血がにじんでいる。
人形達を掻き分け、汀は女の子に近づいた。
そして、その頬を掴んで自分の方を向かせる。
やはり顔面はなかった。
そこには「嘘」と書いてある。
「全てを嘘にして逃げたいの?」
そう言って、汀はにっこりと笑った。
「全てを壊して、そうやって底辺で這い蹲っていたいの?」
女の子の反応はなかった。
汀は少しだけ沈黙すると、さびしそうに一言、言った。
「それが、一番楽なのかもしれないんだよ」
答えはない。
「全てを嘘にして、全てを否定して、一番下で這い蹲ってたほうが、幸せかもしれないよ」
女の子の存在しない眼窟から、涙が一筋垂れた。
「私がそれを許してあげる」
彼女はそう言って、女の子が大事そうに抱いていた、丸い玉を手に取った。
それは白く光り輝いていて、「真実」と書いてある。
「無理して真実になんて、気づかない方がいいよ」
また、汀は微笑んだ。
「だって、人間なんてそんなものだもの」
ぶちゅり。
丸い玉を、彼女は潰した。
どろどろとそこから血液が流れ落ちていく。
「治療完了。目をさますよ」
少し沈黙した後、汀はそう言った。
◇
診察室で硬直している母親を尻目に、圭介は黙々とカルテに何事かを書き込んでいた。
「お話の意味が……分からなかったんですが……」
母親がかすれた声で言う。
「ですから、堕胎しました」
圭介は顔を上げることなく、淡々とそう言った。
「今現在、娘さんは赤十字病院の大河内先生のところで入院しています。詳しいお話は、彼からお聞きください」
「娘は……妊娠していたと言うんですか?」
「はい。正確に言うと、妊娠の極々初期だったと考えられます」
「どういうことですか!」
母親が絶叫した。
圭介は立ち上がった彼女に座るように促し、柔和な表情のまま、続けた。
「この事実は、もう娘さんの頭の中から消え去っています。それを掘り起こすのはそちらの勝手ですが、私はあまりオススメはしませんね」
「…………」
「自殺病の再発が考えられますから」
カルテに文字を書きながら、彼は続けた。
「娘さんは、小山田という教師に暴行を受け、彼の子供を孕んだ状態だったようです。私どもは、自殺病を快癒させるために、その原因のトラウマとなっていた子供を、記憶ごと堕胎させました」
「ひ……人殺し!」
立ったまま母親が悲鳴を上げる。
圭介は表情を変えずに、椅子に座ったまま肩をすくめた。
「一番大事なものをなくすと、そう言ったではありませんか。あなたもそれは同意しているはずです」
「でも……でも!」
「それに」
一指し指を一本立てて、圭介は言った。
「自殺病にかかった者は、決して幸福にはなれません。そういう病気なのです」
「なら……なら先生は……」
母親の目から涙が落ちる。
「どうして、娘を助けたのですか……」
圭介は母親から目を離し、カルテに判子を押した。
「命のみを保障するのが、私どもの仕事ですから」
◇
びっくりドンキーの一番奥の席、そこに汀はちょこんと座っていた。
余所行きの服を着ていて、落ち着かない顔で周囲を見回している。
圭介がレジから戻ってきて、ピンクパンサーの絵柄が入ったグラスを二つ、テーブル前に置いた。
「買ってきた。一緒に使おう」
「おそろい?」
「ああ」
汀はそこで、やつれた顔でにっこりと笑った。
「ありがとう」
そこで店員……オーナーが歩み寄って、ゆっくりと頭を下げた。
「ようこそおいでくださいました、高畑様。ご注文は、いかがなさいましょうか?」
「いつものもので」
「かしこまりました」
「この子は肉は食べられませんから、メリーゴーランドのパフェを一つください。すぐに」
「はい。少々お待ちくださいませ」
オーナーが下がっていく。
汀は周りを見回すと、軽く顔をしかめた。
「何か……タバコの臭いがする」
「ここは禁煙席だよ。一番喫煙席から離れてる場所を選んだんだ。我慢しろよ」
「うん」
汀は、手に持った3DSを落ち着きなく弄り、そして一言呟いた。
「圭介」
「ん?」
「私、人、殺しちゃった」
圭介はそれを聞いて、何でもないことのように普通に水を飲み、笑った。
「それがどうした?」
「ん、それだけ」
「メリーゴーランドでございます」
そこでオーナーが来て、大きなパフェを汀の前に置く。
汀は打って変わって目を輝かせ、動く右手でぎこちなくスプーンを掴んだ。
「いただきます」
「残ったら俺が食うから。ゆっくり食えな」
「うん」
無邪気にアイスクリームとホイップクリームを頬張る汀に、圭介は淡々と言った。
「ま、患者の命を助けることは出来たんだ。上々だよ」
「上々?」
「ああ、上々だ」
「本当に?」
「ああ。本当だ」
圭介は微笑んで、手を伸ばして汀の頬についたクリームを拭った。
「お前は何も考えず、自由に楽しんでればいいんだ。それが、『人を助ける』ことに繋がってるんだから」
「私、あの子のこと助けられたのかな?」
「ああ、助けたよ」
頷いて、圭介は続けた。
「お前は、命を助けたよ」
◇
暗い診察室の中、圭介は隣の部屋……汀の部屋の明かりが消えていることを確認して、携帯電話を手に取った。
そして番号を選んで、電話をかける。
今日の遠出で、汀はとても疲れているはずだ。
深い眠りに入っていることは確認している。
「大河内か」
汀に話しかけているときとは打って変わった、暗い声で圭介は口を開いた。
『こんな時間に何の用だ、高畑?』
「汀に投与する薬の量を増やしたい」
『いきなりだな。何かあったのか?』
ピンクパンサーのグラスに注いだ麦茶を飲み、圭介は続けた。
「今回のダイブの記憶を消したいんだ」
『堕胎の件か』
「汀がそれを気にかけている発言をした。今後の治療に関わってくるかもしれない」
『分かった。至急手配しよう』
「…………」
『高畑』
電話の向こうの声が、淡々と言った。
『汀ちゃんは、普通の、十三歳の女の子だ。それを忘れるなよ』
「普通? 笑わせるなよ」
圭介は暗い声で、静かに言った。
「化け物さ。あの子は」
『その化け物を使って仕事をしているお前は、一体何だ?』
「普通の人間さ」
電話の向こうからため息が聞こえる。
しばらくして、圭介は麦茶を飲み干してから、ピンクパンサーのグラスを置いた。
『いいか高畑、汀ちゃんは……』
「あの子は俺のものだ。もう赤十字のサンプルじゃない」
彼の声を打ち消し、圭介は言った。
「どうしようが俺の勝手だ」
『そのために、あの子自身のトラウマを広げることになってもか?』
「ああ。だってそれが、道具の役割だろ?」
圭介は、息をついて言った。
「俺は医者だからな」
携帯電話の通話を切る。
部屋の中に静寂が戻る。
圭介は、携帯電話を白衣のポケットにしまうと、
カルテに何事かを書き込む作業に戻った。
ピンクパンサーのグラスに入れた氷が溶け、カラン、と小さな音を立てた。
◇
第2話に続く
◇
涙が落ちる。
土砂降りの中、立ち尽くしたその人は涙を流していた。
降っているのは雨ではない。
赤い。
どろどろした粘性の血液だった。
それが、バケツをさかさまにしたかのような猛烈なスコールとなって降っているのだ。
足元には血だまり。
コンクリートの地面は赤い血で着色され、五メートル先は見えない
その人は、両拳を握り締め、スコールの中、俯いてただ泣いていた。
壮年男性だろうか。
背丈は分かるが、スコールがあまりに強すぎるため、ずぶ濡れになったシャツとジーンズしか判別できない。
顔は見えない。
ただ、子供のようにスン、スン、と泣く声が聞こえる。
汀は血の雨の中、体中ずぶ濡れになりながら、その男性の目の前に立っていた。
男性の泣き声以外、スコールがあまりにも強すぎて何も聞こえず、何も見えない。
汀は口を開いて何事かを言おうとした。
しかし、スコールにそれを遮られ、諦めて口をつぐんだ。
少しして彼女は、血まみれになりながらヘッドセットのスイッチを入れた。
そしてかすれた声で呟く。
「ダイブ続行不可能。目を覚ますよ」
◇
第2話 血の雨の降る景色
◇
「今日はこれ以上は無理だ。汀ちゃんを家に帰してやれ」
そう言われ、圭介はしばらく考え込んだ後、苛立ったように部屋の中を歩き回り、ぴたりと足を止めた。
「患者の家族は何て言ってる?」
「相変わらず知らず存ぜずだよ」
「そうか……」
圭介の肩を叩いて、彼と同様に白衣を着た男性……大河内が続けた。
「この患者に入れ込むのは分かるが、少しは汀ちゃんのことも考えてやったらどうだ。肩の力を抜け」
「お前に言われなくても、それは分かってるよ」
柔和な顔立ちをした圭介とは違い、大河内は髭をもみ上げからアゴまで生やした、熊のようないでたちをしていた。
そこで、ガラスで覆われた部屋の向こう側……真っ白い壁と床、そして薄暗い蛍光灯の光に照らされた施術室の中で、車椅子の汀が、もぞもぞと動きにくそうに体を揺らすのが見えた。
圭介はため息をついて、彼女の方に足を向けながら呟いた。
「これで六回目のダイブ失敗か」
「元々無茶なダイブなんだ。特A級スイーパーでも難しいことは分かっていた」
大河内がフォローするように言う。
汀の前には、目を閉じて両指を胸の前で組んだ、白髪の壮年男性が眠っていた。
余所行きの服を着ている汀とは違い、こちらは病院服だ。
腕には栄養補給用の点滴がつけられていて、頭にはヘルメット型マスク、そして血圧や脳波を測定する器具が取り付けられている。
汀はそこで、強く咳き込むと、まるで溺れた人のように胸を抑えた。
急いで圭介が、施術室のドアを開けて駆け寄る。
「汀!」
呼ばれて、汀は動く右手でマスクをむしりとり、ゼェゼェと息を切らしながら、真っ青な顔で圭介を見た。
「圭介……吐く……」
「分かった。もう少しだけ我慢しろ」
備え付けられているバケツを大河内から受け取り、圭介は汀の顔の前に持ってきた。
そして背中をさすってやる。
何とも形容しがたい、くぐもった声を上げて、汀が弱弱しく胃の中のものを戻した。
しばらくしてやっと吐瀉感が収まった少女の頭をなで、圭介はその口をタオルで拭いた。
「限界か?」
問いかけられ、汀は落ち窪んだ目で言った。
「もう一回行けるよ。もう少しで見つかりそう」
「なら……」
「いや、今日のダイブはこれでお仕舞いだ」
圭介の声を打ち消すようにして声を上げ、そこで大河内が顔を出した。
彼の顔を見て、真っ青だった汀の顔色が少しだけ上気した。
「大河内せんせ!」
嬉しそうに彼女がそう言う。
大河内は朗らかに笑いながら、汀の小さな体を抱き上げた。
そしてその場をくるくると回ってやる。
「久しぶりだなぁ、汀ちゃん」
「せんせ、いつ頃来たの?」
「二回目のダイブの途中から見ていたよ」
「私が吐くとこも?」
圭介が呆れたように息をつき、水道に汀の吐瀉物を流している。
大河内は肩をすくめて、汀を車椅子に戻した。
「今日は、私も君達の病院に遊びに行こうかな」
「本当?」
汀が目を輝かせて、両手を膝の前で組んだ。
「圭介、大河内せんせが遊びに来てくれるって」
「ああ。で、患者はもういいのか?」
「どうでもいいよこんなの」
汀が端的にそう言って、左手で大河内の手を握る。
「せんせ、圭介がこの前、Wii買ってくれたの。一緒に毛糸のカービィやろ」
「うん、うんいいだろう。元気そうでとても安心したよ」
「汀、はしゃぐのはいいが、薬もまだ飲んでいないしダイブ直後だ。大河内も少しは考えてくれ」
「あ……ああ、すまない」
圭介は、はしゃいでいる汀とは対照的に、苦そうな顔をして彼女の車椅子の取っ手を持った。
「高畑、それじゃ今日は……」
「お前が顔を出しちまったから、汀の集中力が激減したよ。これ以上のダイブは無理だな」
「せんせ、手つなご」
汀がゆらゆらと細い、骨ばかりの右腕を伸ばす。
大河内は微笑むと、汀の手を掴んだ。
「私が下まで送っていこう。高畑は看護士を呼んで、患者の移動をさせてくれ」
圭介は一つため息をついて、ベッドに横になっている白髪の壮年男性を、横目で見た。
「分かった。汀、大河内先生に失礼のないようにな」
圭介から汀の車椅子を受け取り、大河内はゆっくりと動かし始めた。
汀は完全に圭介の事を無視し、大河内に、車椅子から取り出した3DSの画面を見せている。
「見て、せんせ。圭介に手伝ってもらって、今度のポケモンも全部集まったよ」
「おおそうか。早いなぁ。さすがは汀ちゃんだ」
「えへへ」
「お寿司でも頼もうか」
「本当? 私も食べる!」
二人を見送り、圭介は施術室の中の計器の一つを覗き込んだ。
そしてその数値を見て、苛立ったように頭をガシガシと掻く。
いつも柔和な表情は、極めて暗かった。
◇
大河内が頼んだ寿司の出前を前に、汀は、自分の部屋で、彼とゲームに熱中していた。
それを興味がなさそうに見ながら、圭介が寿司を一つつまんで口に入れる。
「汀ちゃんは上手いなぁ」
「ここを、こう飛び越えるんだよ」
「こうか? それっ!」
子供のように騒いでいる大河内を呆れ顔で見て、圭介は手元にあった資料に目を落とした。
先ほどの壮年男性の顔写真と、経歴などが書いてある。
しばらくして、リモコンを振り疲れたのか、汀が息をついて、パラマウントベッドに体を預けた。
大河内もリモコンをテーブルに置き、彼女の汗をタオルで拭う。
「汀、少しはしゃぎすぎだ。休んだ方がいいぞ」
圭介が資料から目を離さずに言う。
汀はむすっとして彼を見た。
「全然疲れてないもん」
「まぁまぁ。歳のせいか、私のほうが先に疲れてしまった。少し休憩といこうか」
大河内がそう言って、寿司を口に入れる。
「汀ちゃんも食べるかい?」
「せんせが食べさせてくれるなら食べる」
「どれがいい?」
「うに」
「やめておけよ」
圭介が資料をめくりながら言う。
「また吐くぞ。クスリ注射したばっかだろ」
「うるさい圭介。さっきからブツブツブツブツ。邪魔しないでよ」
「はいはい」
肩をすくめた圭介の前で、大河内が小さくまとめたシャリとウニを、箸で汀の口に運ぶ。
「おいしい」
やつれた少女は笑った。
しかしその顔が、すぐに青くなり、彼女は口元を手で押さえた。
「ほらな」
慌てて大河内が洗面器を彼女の前に持ってくる。
そこに胃の中のものを全て戻し、汀は苦しそうに息をついた。
その背中をさすって、大河内がおろおろと圭介を見る。
「す……すまない。少しくらいならいいかと思ったんだが……」
「全く……人の話を聞かないから」
呆れた声で圭介は資料を脇に挟み、汀の吐瀉物が入った洗面器を受け取った。
「とりあえず、大河内も少し汀を休ませてやってくれ。俺は診察室にいるから」
バタン、と音を立ててドアが閉まる。
少し沈黙した後、汀はため息をついた。
「……圭介、怒ってる」
そう呟いた彼女に、大河内は口元をタオルで拭いてやりながら首を振った。
「疲れてるのさ。汀ちゃんも、そういう時があるだろう?」
「違うの。私には分かるの」
汀はそう言って、Wiiのリモコンを握り締めた。
「私が、役に立たないから……」
大河内が、発しかけていた言葉を飲み込む。
そこで汀は、突然右手で頭を押さえた。
強烈な耳鳴りとともに、彼女の視界が暗転する。
体を丸めた汀を、慌てて大河内が抱きとめた。
「汀ちゃん!」
汀の視界に、先ほどダイブした男性の、脳内風景が蘇る。
血の雨。
立ち尽くす男。
泣き声。
血だまり。
コンクリートの地面。
先の見えないスコール。
土砂降り。
――あなたは何をなくしたの?
汀はそう問いかけた。
答えは返ってこなかった。
何をなくしたのか、汀はそれを知りたかった。
何をなくして、どうして泣いているのか。
しかしスコールは、彼女のことを拒むかのように、
強く、強く降り、身体を粘ついた血液まみれにしていく。
――何をなくしたの!
汀は叫んだ。
何度も、何度も。
掴みかかって、男を揺さぶる。
そこで汀はハッとした。
聞こえるのは、泣き声。
しかし男の顔は。
ただ、笑っていた。
「…………っ」
頭を振り、汀が声にならない叫び声を上げる。
頭の奥の方に、抉りこむような頭痛が走ったのだ。
「高畑! 高畑、来てくれ!」
大河内が大声を上げる。
そこで、汀の意識はブラックアウトした。
◇
「……悪かった。汀ちゃんの病状を、軽く考えていたよ」
診察室の椅子に座り、大河内がため息をつく。
圭介は資料をめくりながら、興味がなさそうに口を開いた。
「気に病むなよ。いつものことだ」
「…………」
「それに、お前は汀の中では『お父さん』でもあり、『恋人』でもあるんだ。多少はしゃいでゲロ吐いたって、あいつの精神衛生上プラスになってることは間違いない」
「だろうが……口が悪いぞ、高畑」
「そうか?」
顔を上げずに、彼は続けた。
「まぁ、起きた頃には忘れてるさ。それより見てみろ、大河内」
資料を彼に放り、圭介は椅子の背もたれに寄りかかった。
「あの患者の経歴だ」
「どこから取り寄せた?」
「世の中には『親切な人』が沢山いてね」
柔和な表情で彼は腕を組んだ。
大河内は資料に目を通してから、深いため息をついた。
「なぁ、この患者の治療はもうやめにしないか?」
「…………」
圭介は少し沈黙してから、言った。
「嫌だね。一度依頼された治療は必ず行う。それが俺の方針だよ」
「汀ちゃんを見ろ。負担がかかりすぎてる。この患者の治療をするには、十三歳では難しすぎると私は思うがね」
「でも、汀は特A級だ」
「天才であることは認めるよ。しかし、適材適所という考え方もある。これは、赤十字の担当に回したほうがいい」
「大河内」
彼の言葉を遮り、圭介は言った。
「汀にとって、お前は『お父さん』であり、『恋人』であるかもしれないけど、お前にとって、汀は『娘』でも『恋人』でもないぞ。俺も同じだ。入れ込みすぎているのはどっちだ?」
問いかけられ、大河内が口をつぐむ。
圭介は資料を彼から受け取り、テーブルの上に戻した。
「治すさ。汀は」
「…………」
「たとえそれが、家族から見放された、重度の『痴呆症』の患者であっても」
「痴呆症の患者は、精神構造が普通の人間とは違う。汀ちゃんに、それを理解させるのは無理だ」
「無理でもやるんだよ」
いつになく強固な声で、圭介は言った。
「それが、あの子の仕事だ」
◇
汀が目を覚ました時、丁度圭介が点滴を替えているところだった。
汀は起き上がろうとして、体に力が入らないことに気がつき、息をついてベッドに体をうずめる。
「おはよう」
「おはよう、良く眠れたか?」
圭介にそう聞かれ、汀は軽く微笑んで首を振った。
「よく寝れなかった」
「遊びすぎたんだよ。お前達は、加減を知らないから……」
「加減?」
「…………」
圭介が、不思議そうに問い返した汀を見る。
そして少し沈黙してから、また点滴を交換する作業に移った。
「いや、いいんだ。別に」
「気になるよ。何かあったの?」
「大河内が来ただけだ」
「せんせが来たの?」
汀は、途端に顔を真っ赤にして圭介を見た。
「ど、どうして起こしてくれなかったの?」
どもりながらそう聞く彼女に、圭介はまた少し沈黙した後、答えた。
「お前、覚えてないだろうけど、昨日の夜かなり具合が悪かったんだ。どの道、クスリ飲んでたから話は出来なかったと思うよ」
「せんせ、ここに入ってきたの?」
「ああ」
「恥ずかしい……私、こんな……」
毛布を手繰り寄せて、汀は小さく呟いた。
彼女の女の子らしい反応を見て、圭介は小さく微笑んで見せた。
「大河内は気にしないだろ。お前の格好なんて」
「せんせが気にしなくても、私が気にするの」
まるで、昨日大河内とWiiで遊んだことを、いや、彼がこの部屋に来たことさえもを覚えていない風だった。
否、覚えていない風、なのではない。
覚えていないのだ。
圭介はこの話は終わりとばかりに、点滴台から離れると、隣の診察室に歩いていった。
汀が胸を押さえながら、俯く。
大河内と話せなかったと思ったことが、相当ショックらしい。
圭介はしばらくして戻ってくると、汀に写真のついた資料を渡した。
「これは覚えてるか?」
問いかけられ、汀は写真を覗き込んだ。
そして首を傾げる。
「誰?」
「覚えてないならいいんだ。今回の患者だ」
興味がなさそうに資料をめくり、しばらく見てから、汀はある一箇所を凝視した。
「ふーん」
と何か納得した様な声を出す。そして圭介に返し、彼女は彼を見上げた。
「それで、いつダイブするの?」
「今日は無理だな。お前の体調が戻り次第、ダイブしてもらいたい」
「いいよ。圭介がそう言うなら」
にっこりと笑って、汀は続けた。
「その人を助けることも、『人を助ける』ことになるんでしょう?」
問いかけられ、圭介は一瞬口をつぐんだ。
しかし彼は、微笑みを返し、頷いた。
「……ああ。そうだよ。お前が、助けるべき患者だよ」
◇
「……そうか。一緒に遊んだ記憶が飛んだか」
赤十字病院の一室で大河内がそう言う。
彼は暗い顔で、腕を組むと壁に寄りかかった。
「ダイブした患者の記憶も、スッキリ飛んでた。お前の用意したクスリは、本当に良く効くな」
資料に目を通しながら圭介が言う。
大河内は反論しようと口を開けたが、言葉の着地点を見つけられなかったらしく、息をついて呟いた。
「クスリが強すぎる」
「それくらいが丁度いいんだ。あの子のためにも」
含みを込めてそう言うと、圭介はガラス張りの部屋の向こうに目をやった。
数日前のように、車椅子にマスク型ヘッドセットをつけた汀と、前に横たえられた壮年男性の姿が見える。
マジックミラーのようになっていて、向こう側からはこちらの様子を伺うことは出来ない。
汀はもぞもぞとヘッドセットを動かすと、車椅子の背もたれに体を預け、脱力した。
『準備完了。これからダイブするよ』
壁のスピーカーから彼女の声が聞こえる。
圭介は、壁に取り付けられたミキサー機のような巨大な機械の前に腰を下ろすと、そのマイクに向けて口を開いた。
「説明したとおり、その患者は普通の患者じゃない。重度のアルツハイマー型痴呆症にかかってる。普通の人間と精神構造が違うから、注意してくれ」
『大丈夫だよ。すぐに中枢を探してくるから』
「時間は十五分でいいな?」
『うん』
頷いて、汀は呟いた。
『ここ、赤十字でしょ? ……大河内せんせに会いたいな』
隣で大河内が軽く唾を飲む。
圭介は小さく笑うと、なだめるように言った。
「集中しろ」
『分かってるよ』
「これが終わったら、考えてやってもいい」
『本当?』
「ああ、本当だ」
『約束だよ』
「ああ、約束だ」
『うん、私頑張る。頑張るよ』
何度も頷く汀を、感情の読めない顔で見つめ、圭介は言った。
「それじゃ、ダイブをはじめてくれ」
◇
汀は、古い日本家屋の中に立っていた。
床に、立っていた。
「うわっ!」
小さく叫び声を上げ、汀は真下に落下した。
ドタン、と受身を取ることも出来ずに、体をしたたかに打ちつけ、彼女はしばらくうずくまって、痛みに耐えていた。
『どうした?』
圭介の声がヘッドセットから聞こえる。
汀は息をついて、腰をさすりながら起き上がった。
「ちょっと失敗しただけ。何でもない」
そこは、上下が逆になった世界だった。
床が天井の位置にある。
反対に、天井が床の位置にある。
しかし、家具や電灯は、重力に逆らって上方向に固定されていた。
汀だけが、家屋の中、その天井に立っている。
先ほどは床の位置から落下したのだ。
息をついて周りを見回す。
タンスに、大きなブラウン管型テレビ。
足元の電球の周りには虫が飛んでいる。
障子は開いていたが、その向こう側は真っ白な霧に覆われていた。
そこは居間らしく、頭上にテーブルと座布団が見える。
奇妙な光景だった。
今にも家具が天井に向けて『落ちて』きそうな感覚に、汀は少し首をすぼめた。
「ダイブ完了。でも、良くわかんない」
『分からないってどういうことだ?』
「煉獄に繋がる通路じゃないみたい。トラウマでもないし。普通の、通常心理壁の中みたいだよ」
『何か異常を探すんだ』
「上下が逆になってるだけ。それくらいかな」
何でもないことのように汀は言うと、天井に立った。
そして彼女は、這うようにしてテレビの方に近づくと、頭上の床から垂れ下がるようになっているそれに手を伸ばした。
何度かピョンピョンとジャンプし、スイッチをやっと指で押す。
さかさまになっているテレビの電源がつき、砂画面が映し出された。
しばらくして勝手にチャンネルが変わり、汀の顔が映し出される。
「……?」
首をかしげて、さかさまに映っている自分のことを、彼女は見た。
黒い画面に、汀が立っているだけの映像。
またしばらくして、画面の中の汀の首が、パンッと音を立てて弾け飛んだ。
首のなくなった彼女の体が、グラグラと揺れて、無造作に倒れこむ。
汀は冷めた目でそれを見ると、手を伸ばしてテレビの電源を切った。
「訂正。通常心理壁じゃない。ここ、異常変質心理壁だ。H型だね」
『知ってる。そこから出れるか?』
「何で知ってるの?」
汀の質問に答えず、圭介は続けた。
『この患者は普通じゃないと言っただろ。中枢を探してくれ』
「……分かった」
汀がそう言った時だった。
ゴロゴロゴロゴロ……ドドォォーンッ! と、雷の音があたりに響いた。
「ひっ」
雷が怖かったのか、汀は息を呑んで体を硬直させた。
そして気を取り直して障子の向こうを見る。
パタ……パタタタタタタ……! と、連続的な音を立てて、何かが下から上に、『降って』きた。
それは、血液のように赤かった。
否。
血液だった。
上下がさかさまになった空間の外で、下から上に、血の雨が降っている。
それは途端に土砂降りになると、たちまちゴーッという耳鳴りのようなスコールに変わった。
汀の頭の上で、床下浸水したかのように、溜まった生臭い血液が、家屋の中に進入してくる。
狭い部屋の中、血液の波は一気にタンスやテレビを飲み込んだ。
テレビの電源が勝手につき、そこからけたたましい笑い声……男性の、引きつった痙攣しているような声が響き渡る。
汀は、頭の上から迫ってくる血だまりを見上げ、足下の天井を蹴って、障子に向かって走り出した。
その途端だった。
ぐるりと視界が反転し、彼女は、入ってきた時と同じように、血の海の中に頭から突っ込んだ。
上下さかさまになっていた空間が、突然元にもどったのだ。
床が下に。
天井が上に回転した。
小さな体を動かし、汀はもったりとした血液を掻き分けて顔を出し、息をついた。
しかし、ぬるぬると血液は彼女の体を沈み込ませようとする。
それに、どんどん血液は家屋の中に進入して、かさを増してきていた。
汀は成す術もなく、血の海に飲み込まれた。
◇
気づいた時、彼女は一面の花畑の中に横たわっていた。
「……ゲホッ、ゲホッ!」
激しくえづいて、飲み込んでしまった臭い血液を吐き出す。
体中血まみれだ。
『汀、大丈夫か? 返事をしてくれ』
圭介の声に返そうとして、汀は自分を囲んでいるつたに手を伸ばし
「痛っ!」
と言って手を引っ込めた。
彼女がいたのは、真っ赤な薔薇が咲き誇る、一面の薔薇畑だった。
無数の棘がついたつたに囲まれ、彼女は起き上がろうとして、ビリビリと病院服のすそが破れたのを見て、舌打ちをした。
「……攻撃性が強すぎる」
『それが痴呆症の特徴だ。理性の部分のタガが外れてるからな』
「寒い……」
肩を抱いた汀の頭上、そこからプシュッ、と言う音がした。
良く見るとそこは広いビニールハウスで、天井にはスプリンクラーがついている。
そこから、勢い良く血液が噴出した。
たちまち豪雨となり、痛いくらいに汀の体を、生臭くて生ぬるいモノが打ち付ける。
たまらず、汀は足を踏み出して、薔薇の棘で全身を切り刻まれるのも構わず、走り出した。
スプリンクラーが強すぎて、息も出来ない。
『汀、何があった!』
「大丈夫! 何でもない!」
悲鳴のように答えると、彼女は近くの薔薇の茂みに飛び込んだ。
僅かに血の豪雨が防げる場所に、体中を切り刻みながら入り込み、小さくなって震える。
とても寒かった。
「何でもない……大丈夫。私やれるよ……」
か細く、ヘッドセットにそう言う。
圭介は一瞬沈黙してから、言った。
『頑張れ。俺はお前を、応援してる』
「分かった……」
頷いて、汀は近くの薔薇を手にとって、小さな手が傷つくのも構わず、それを毟り取った。
そして大きな棘を、自分の左腕、その手首につける。
グッ、と力を込めると、棘は簡単に柔肌にめり込み、たちまち汀の腕から、ものすごい勢いで血が溢れ出した。
痛みに顔をしかめながら、彼女はビニールハウスの地面……血が溜まってきたそこに、自分の血を垂らした。
ジュゥッという焼ける音がして、汀の血が当った場所が蒸発した。
左腕を掴み、血を絞り出す。
「そんなに血が好きなら……好きなだけ飲ませてあげるわよ。好きなだけね!」
もう一度汀は、自分の腕を棘で切り刻んだ。
ボタボタと血が垂れる。
汀の足元、蒸発した空間から、白い光が漏れ出した。
それが円形の空間に変わり、真っ白い光を放ち始める。
汀は、棘を掻き分けてそこに飛び込んだ。
◇
病院服も破り取られ半裸で、体中に切り傷をつけた状態で、汀は高速道路に横たわっていた。
のろのろと起き上がり、空を見上げる。
曇り空で、黒い雲があたりに広がっている。
また血の雨が降るのも、時間の問題のようだ。
<死んじゃえばいいのに>
そこで、何も走っていない高速道路に、子供の声が響いた。
<お爺ちゃんなんて、死んじゃえばいいのに>
別の男性の声がした。
<お爺ちゃんは、死んだ方が幸せなのかもしれないよ>
<もうお爺ちゃんは、元にもどらないの?>
<お爺ちゃんは、幸せな世界に行ったんだよ>
<だから、ね>
<現実の世界の、この体は、さよならしよう>
キキーッ!
ブレーキの音が聞こえる。
汀は、慌てて振り向いた。
自分めがけて、巨大なトラックが迫ってくるところだった。
避けようとしたが、体が動かない。
小さな体は、ブレーキをかけたトラックにいとも簡単にはねられ、数メートル宙を待ってから、糸が切れたマネキンのように地面に崩れ落ちた。
『汀!』
圭介の声が聞こえる。
汀は、したたかにコンクリートに打ち付けた頭から血を流しながら、
ぼんやりと目を開いた。
そして、はねられた後だというのに、のろのろと起き上がる。
腕と足が異様な方向に曲がっており、満身創痍にも程があると言った具合だった。
トラックの運転席には、誰もいない。
今は停まっているそれを見て、彼女はゆっくりと振り返った。
ケタケタと、写真で見た壮年男性が笑っていた。
十メートルほど離れた場所に直立不動で立って、目だけは笑っていない顔で、笑っている。
ポツリ。
また、血が降ってきた。
汀は、荒く息をついて、彼に向かって口を開いた。
「……あなたに、輸血が出来なかった」
か細い声だった。
「事故に遭ったあなたは、宗教上の理由で輸血をしてもらえなかった」
ケタケタと男が笑う。
「だから、あなたは狂ってしまった」
血の雨が強くなった。
「麻痺が残った体で、あなたは段々と夢の世界に逃避するようになっていった」
汀は、男に向けてズルリと足を引きずった。
あたりに豪雨がとどろき渡る。
汀は、男の前に時間をかけて移動すると、その焦点の合わない瞳を見上げた。
そしてさびしそうに口を開く。
「あなたが探しているものは、もうどこにもないよ」
男は、いつの間にか笑っていなかった。
真正面を凝視している彼に、汀は続けた。
「元になんて戻れない。一度狂ったら、狂い尽くすしかないんだよ。この世は」
男が手を振り上げ、汀の頬を張った。
何度も。
何度も。
汀は殴られながら、悲しそうな顔で男を見上げ、そしてその手を、折れていない方の右手で掴んだ。
「でも、そんなのはさびしすぎるから」
男の目が見開かれる。
「私が、狂い尽くすことを、許してあげる」
血のスコールの中、汀は男を引き倒した。
そしてその上に馬乗りになり、まだパックリと開いている自分の左腕の傷口を彼の口に向ける。
ポタポタと、汀の血が、男の口に入った。
男が悲鳴を上げて、滅茶苦茶に暴れる。
それを押さえつけ、汀は血を彼の口の中に絞り出した。
しばらくして、徐々にスコールが止んできた。
やがて雲が晴れ、空に青い色が見えてくる。
晴れた空の下、汀は力なく横に崩れ落ちた。
男は、どこにもいなかった。
彼女はボロボロの体で、ヘッドセットのスイッチを操作して、呟いた。
「治療完了……目を覚ますよ」
◇
「三島寛治。六十九歳。高速道路で、車から転落。その後、病院に運ばれるも、家族に宗教上の理由で輸血を拒否され、十分な治療が出来ずに体に麻痺が残る。後にアルツハイマー型痴呆症の悪化と自殺病を併発……か」
大河内は資料を読み上げ、それを圭介に放った。
「もっと早くこの資料を見つけてれば、ダイブは初期段階で成功してたんじゃないか?」
「それを汀に見せたのは、ただ単なる気まぐれだよ。規定概念がダイブに影響すると、余計な状況を招く恐れがあるからな」
「それにしても……やはり、見せるべきだったと俺は思う。七回もダイブする必要はなかったんだ」
汀の部屋で、大河内は立ったまま、すぅすぅと寝息を立てている彼女を見下ろした。
「ここまで負担をかけることもなかった」
「負担? 何を言ってるんだ」
圭介はピンクパンサーのコップに入れた麦茶を飲んで、続けた。
「仕事だよ」
「お前……」
大河内が顔をしかめて言う。
「口が過ぎる」
「そういう性格なんだ。知ってるだろ?」
「汀ちゃんにこれ以上負担をかける治療を行っていくっていうのなら、元老院にかけあってもいいんだぞ」
「脅しか?」
「ああ」
「…………」
少し沈黙してから、圭介は息をついた。
「やるんならやれよ。前みたいな失敗を、繰り返したいんならな」
「…………っ」
言葉を飲み込んだ大河内に、圭介は薄ら笑いを浮かべて言った。
「結果が全てだろ。所詮。元老院だって分かってるはずだ。今回のダイブだって、アメリカの症例二件を含めなければ、日本人で初のアルツハイマー型痴呆症患者の治療成功例として登録されたんだ。褒められはすれど、怒られるいわれはないね」
「人道的な問題というものがある」
「人道的……ね」
圭介はFAXの方に近づいて、資料を手に取った。
「じゃあ、最初からやらなければ良かったと、お前はそう言うのか?」
「ああ、そうだ」
「助けなければ良かったというのか?」
「助ける? お前、自分が何を言っているか分かってるのか?」
大河内が声を荒げた。
「自殺病を治しただけで、アルツハイマーは治っていない。それが、患者の幸福に繋がっているとでも言いたいのか!」
胸倉を掴み上げられ、圭介は、しかし柔和な表情のまま口を開いた。
「自殺病にかかった者は、決して幸福にはなれない。そういう病気なんだ。知ってるだろ?」
「俗説だ」
「じゃあ逆に聞くが、お前はあのまま、死なせてやった方が患者のためになるとでも言いたいのか?」
「…………」
「なぁ大河内」
圭介は大河内の手をゆっくりと下に下ろし、麦茶を飲んでから言った。
「俺達は医者だ」
「…………」
「そしてこの子は、道具だ」
「…………」
「それ以上でも、それ以下でもない」
大河内は少し沈黙してから、小さく言った。
「なら何故、ここまでする?」
汀の部屋を見渡す。
最新のゲーム機、雑誌、漫画、それらが所狭しと置かれた部屋の中で、圭介は肩をすくめた。
「必要だからさ」
「それだけとは、私にはどうも思えないのだがね」
「皮肉か?」
「それ以外の何かに聞こえたのなら、多分そうなんだろう」
大河内は息をついて、圭介に背を向けた。
「また来るよ」
「出来れば来ないで欲しいんだけどね」
「それは無理な相談だ」
大河内はドアに手をかけ、そして言った。
「私はその子の『父親』でもあり、何しろ『恋人』でもあるんだからな」
「…………」
圭介はそれに答えなかった。
◇
びっくりドンキーの前と同じ席で、汀はゆっくりとメリーゴーランドのパフェを口に運んでいた。
その頭が、眠そうにこくりこくりと揺れている。
圭介はステーキを口に運んでから、汀に声をかけた。
「大丈夫か? 無理しなくてもいいんだぞ」
「久しぶりのお外だもん……無理なんてしてないよ……」
しかし眠そうに、汀は言う。
「この後、本屋さんに行ってね、ゲームセンターに行ってね…………ツタヤにも行って…………」
「そんなに回れないだろ」
「……何でも言うこと聞いてくれるって言ったのは圭介だよ……」
息をついて、圭介は手を伸ばして、汀の前からパフェをどけた。
「とりあえず、店を出よう。一旦車で休んだ方がいい」
「うん……」
頷いた汀を抱きかかえ、車椅子に乗せる。
「高畑様、お帰りですか?」
オーナーが進み出てきてそう聞く。
圭介は頷いて、苦笑した。
「この子がもう限界でしてね。会計は、後ほど」
「かしこまりました」
頷いた彼から、圭介はもうまどろみの中にいる汀に目を移した。
汀は、こくりこくりと頭を揺らしながら、小さく呟いた。
「圭介……」
「ん?」
「あのね……あのね…………」
少し言いよどんでから、とろとろと彼女は言った。
「ずっと、考えてたの……」
「何を?」
「何も分からないで死ぬのと……何も分からないで生きるのって……どっちが正解なのかな……?」
「…………」
「結局何も分からないなら…………何も出来なかったのと、同じじゃないかな…………」
圭介は無言で車椅子を押した。
そして店員達に見送られながら、駐車場に向かう。
「……俺にはまだ、よく分からないけど」
彼はそう言って、車のドアを開けた。
「生きていた方が、多分その方が幸せなんだろうと思うよ」
「…………」
「たとえ何も分からなくても、その方が……」
寝息が聞こえた。
彼は、眠りに入っている汀を見下ろし、息をついた。
そして小さく呟く。
「幸せだと、思うよ」
その呟きは寂しく、かすかな風にまぎれて消えた。
◇
第3話 蜘蛛の城
◇
蝉の声が聞こえる中、汀は圭介に車椅子を押してもらいながら、木漏れ日の中を進んでいた。
夕暮れ近くの、気温が下がってきた頃、近くの公園まで散歩に出てきたのだった。
そこで、汀はふと、公園の木の下に目を留めた。
「圭介」
呼びかけられて、圭介が車椅子を止める。
「どうした?」
「あそこ」
右手で木の下を指差す。
そこには薄汚れた段ボール箱が置いてあり、夕立で濡れたのか、グショグショのタオルがしいてあった。
近づいて覗き込んで、圭介は顔をしかめた。
今にも死にそうなほど衰弱した、手の平ほどの大きさの白い子猫が横たわっていたのだ。
「圭介、猫だよ」
「ああ、猫だな」
興味がなさそうにそう言って、圭介は車椅子を道の方に戻そうとした。
「待って、待ってよ」
汀が声を上げる。
「何だ?」
「死んじゃうよ」
「それがどうした?」
「私の髪の毛と同じ色だよ」
「だから、それがどうした?」
淡白に聞き返した圭介に
「もう……」
と呟いて、汀は頬を膨らませた。
「この子を拾っていくよ」
「何で?」
「何でも」
「基本的に、何のメリットもないことはしたくないんだけど」
「メリットならあるよ」
「何だ?」
「癒されるよ」
「…………」
圭介はため息をついて、車椅子から手を離し、ダンボールに手をかけた。
濡れていて崩れたそれを破り、子猫を無造作に手で掴み上げる。
「……分かったよ。癒しは大事だからな」
「うん。癒しは大事だよ」
汀は、にっこりと、無邪気な少女の笑顔で微笑んだ。
◇
汀の部屋の隅に、圭介が用意したケージが設置された。
しばらくは安静が必要と判断したので、やはり圭介が動物病院に連れて行き、それから綺麗に洗ってやってから、弱いドライヤーで乾かす。
子猫は大分衰弱していたが、温めたミルクなどを口に運ぶと、貪るように食べた。
体が自由に動かない汀は、猫の世話など出来ない。
ただ、徐々に回復してきて、妙に人懐っこいその猫を自分のベッドで寝かせることが多くなった。
猫も、汀の枕の右脇を定位置と決めたらしく、次第に我が物顔で眠るようになっていった。
◇
数日後、圭介はくしゃみをした汀を、心配そうに見た。
そして言いにくそうに口を開く。
「汀。あまり猫を顔に近づけるな。その毛は、お前には毒だ」
「猫じゃないよ。小白(こはく)だよ」
「小白?」
問いかけられて、汀は頷いた。
「うん。小白」
「何で?」
猫……小白を抱きながら、汀は言った。
「小さくて白いから」
「…………」
「それに、毛なら平気だよ。慣れたし」
圭介は頭を掻いて、小白のトイレを掃除し始めた。
元々どこかで飼われていたのだろう。
トイレの場所もすぐに覚え、行儀もいい。
かなり、頭が良い猫のようだ。
喉を撫でられ、ゴロゴロと言っている小白を見て、 圭介は息をついてから言った。
「汀、猫で遊ぶのはいいが、仕事が入った」
「今日はやだ」
「我侭を言うな。マインドスイーパーの資格を持っているなら、ちゃんと仕事をしろ」
圭介はそう言って、立ち上がった。
「今回の仕事は凄いぞ。元老院から直々の依頼だ。その打ち合わせに行く」
「お外に行くの?」
「ああ。お前にも同席してもらう」
「私も、会議に出るの?」
「そうだ」
「どうして?」
「クライアントのたっての希望だからだ」
そう言って、圭介は小白の首の皮をつまみあげた。
猫は抗議するようにニャーと鳴いたが、彼は無視して無造作にケージに放り込み、その入り口を閉めた。
「小白!」
汀が慌てて、猫の方に手を伸ばす。
小白は汀の方に行こうとして、ケージの中で、檻部分に鼻を突っ込んでもがいている。
「猫で遊ぶのはお仕舞い。帰ってからまた遊べばいい」
「やだ! 小白も一緒に行くの!」
汀は、圭介を睨んで声を上げた。
「一緒に行くの!」
「我侭を言うな。元老院のお偉方も来るんだぞ」
「やだ! やだやだやだやだ!」
じたばたと駄々をこね始めた彼女をため息をついて見て、圭介は困ったように額を押さえた。
そして息を切らしている汀に、もう一度同じことを言う。
「元老院のお偉方も来るんだ。猫を連れて行くわけには……」
「小白が一緒に来なきゃ、私行かないもん!」
圭介の言葉を打ち消して、汀は大声を上げた。
こうなってしまっては、彼女は頑固だ。
圭介は一瞬、彼女を怒ろうと口を開いたが、すぐにそれを閉じた。
そして考え直して言う。
「……分かった。猫も連れて行こう」
「本当に?」
途端に顔をパッと明るくした彼女に、圭介は頷いてから言った。
「ただ、妙なことをしたらすぐに帰るからな」
「圭介、だから私圭介のこと好き」
圭介はそう言われ、汀から顔をそらした。
そして小白のケージの前にしゃがみこみ、猫を凝視する。
青い瞳の猫は、ニャーと威嚇するように彼に向かって鳴いた。
一瞬、圭介が何かを思いついた、という表情をして、口の端を吊り上げてニヤリと笑う。
汀はモゾモゾと動き出し、タンスから自分の服を取り出していたので、そのどこか邪悪な表情は見ていなかった。
「ああ、そうだな」
生返事を返し、圭介はケージの入り口を開けて、手を伸ばし、小白の首筋をむんずと掴んだ。
◇
「遅くなりました」
圭介が車椅子を押しながら、長テーブルが置かれた広い会議室に足を踏み入れる。
既に、彼女達以外の人はそろっているらしく、水と資料が置かれた空間には、何も言葉がなかった。
汀は小さく肩をすぼめて、体を丸めている。
顔を上げようとしない。
その胸には、しっかりと、リードをつけられた小白が抱かれている。
リードの反対側は、汀の右手首に結ばれていた。
コツ、コツ、と万年筆でテーブルを叩いていた議長席に座っている老人が、二人を一瞥して、そして汀の抱いている猫に目を留めた。
しばらくそれを凝視する。
入り口で止まった車椅子の上で、汀は伺うように、チラッとその老人を見た。
そして慌てて、怯えたように視線をそらして小白を抱く。
老人は万年筆でテーブルを叩くのをやめると
「はじめよう。高畑医師と、マインドスイーパーは、そこの空いている席に」
「かしこまりました」
圭介が頷いて、汀の車椅子を、老人と対角側に移動させる。
老人が、沢山いた。
全員鋭い表情で汀を注視している。
そして老人の隣に、喪服を着た女性が座っていた。
女性は立ち上がると圭介に向けて会釈をした。
しかし、自分を見ようとしない俯いた汀を見て、言い淀み、議長席の老人に向かって声を発する。
「あの……マインドスイーパーというのは……」
「あそこにいる白髪の子供です」
「そんな……まだ、小さな……」
「特A級スイーパーです。無用な発言は慎んでいただきたい。お座りになってください」
女性に座るように促し、老人は圭介に向けて言った。
「高畑医師。君の上げている業績を、我々は高く評価している。今この場に、同席してくれたことを、まず感謝しよう」
そこで小白が、眠そうに、ニャーと汀に向かって甘えた声を発した。
老人達が顔を見合わせる。
圭介はその様子を気にした風もなく、頭を下げた。
「こちらこそ」
「資料は、事前に説明したとおりだが、一応形式として用意させてもらった。読んでくれたまえ」
「かしこまりました」
頷いて、圭介は目の前に置かれた分厚い資料にパラパラと目を通した。
そして写真と経歴が載っているページに目を留めた。
まだ若い青年の写真が載っている。
汀がそこで頭を上げて、写真を見た。
そして圭介に向かって小さく囁く。
「私知ってる。この人、この前死刑判決が出た人だ」
汀の細い声を聞き、喪服の女性が老人達を見る。
老人達は、汀の手の中で眠っている猫を見て不快そうな顔をしていた。
「黙ってろ」
圭介はそう言って、いきなりページを閉じた。
汀が叱られた子供のように、しゅんとして肩をすぼめる。
「今回のクライアントは、こちらの秋山早苗女史だ」
「知っています」
資料を自分の方に引き寄せ、パラパラと目を通しながら、圭介は議長席の老人に向けて言った。
「テレビでも随分と報道されましたから」
「話が早くて助かる。高畑医師には、今回、秋山女史の依頼を受けていただくことになる。よろしいか?」
「お受けしましょう」
会議室がざわついた。
老人達が全員、信じられないと言った表情で顔を見合わせ、何事かを囁きあう。
議長席の老人が、コツ、コツと万年筆でテーブルを叩いて、彼らを黙らせてから言った。
「意外だな。もう少し話を聞かなくてもいいのか?」
「お受けすると言っただけです。それ以上でもそれ以下でもありません」
圭介はそこで息をついて、資料を見終わったのか、目の前に放った。
「まずは、ご指名いただきました幸運に、心から感謝を述べさせていただきましょう。光栄です」
「光栄……か。君の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかったよ」
「先ほどから、随分と私情を挟まれる。私は医者としてここにいます。仕事をお受けすると言っただけです」
「そうか……そうだな」
頷いて、老人は続けた。
「今回のダイビング(治療)は、マスコミにも大きく報道されている。注目されている一件だけに、失敗は許されない。その意味は、理解していただけるな」
「はい」
「…………」
汀が更に小さくなり、ぎゅっ、と小白を抱く。
「よろしい。最初から説明を始めよう」
彼はそう言って資料を開いた。
「患者は、中島正一。二十八歳。無職。知っての通り、先日死刑判決が出た。最高裁への上告は、棄却されている」
圭介は興味がなさそうに、手を組んで言った。
「我々に、その死刑囚を救えと?」
「ああ、そうだ」
老人が、ゆっくりと頷く。
「三日前に自殺病を発症。現在、第六段階にまで差し掛かっている。赤十字のマインドスイーパーが三人、ダイブを試みたが、いずれも失敗に終わっている」
「失敗の要因は?」
「攻撃性のあまりの強さに、撤退を余儀なくされた」
「統合失調症ではないようですが」
「……第六段階を治療できるマインドスイーパーを保有していない。それを、私の口から言わせたいのか」
苦そうにそう言った老人に、圭介は柔和な表情のまま返した。
「まぁ、いいでしょう。それで、この場にこの子を呼んだ理由を教えていただきたい」
老人達がざわつく。
「余計な既成概念を入れると、ダイブに影響が出てきますので、早めに引き取りたいのですが」
「分かっている。こちらの秋山女史たっての希望だったのだ」
老人に促され、秋山と呼ばれた喪服の女性は、頷いて、潤んだ目を圭介に向けた。
「……娘は、中島に拷問され、殺されました」
勝手に喋りだした彼女を、圭介は一瞬だけ眉をひそめて見た。
「中島を助けてください」
秋山は頭を下げた。
「どうか、どうか助けてください」
彼女が握り締めているハンカチが、ギチ、と音を立てる。
「どうしてですか?」
圭介が、穏やかにそう聞いた。
何を聞かれたのか分からない、と言う表情で秋山が彼を見る。
「放っておいても死にます。死刑を執行させたいがためだけに助けたいのですか?」
「…………」
「娘さんを殺した殺人犯に、法の鉄槌を下したいがためだけに、助けたいのですか?」
「それの何が悪いんですか!」
ドンッ! とテーブルを叩いて、秋山が金切り声を上げた。
汀がビクッと体を震わせ、抱いていた猫が怯えて、彼女の服にもぐりこむ。
「娘が殺されたんです! 私の、たった一人の娘が! なのにその犯人が……やっと捕まえた犯人が、自殺病で勝手に死んでしまうなんて……」
「…………」
「これ以上理不尽なことってありますか? ありませんよ、ええありませんとも! 法の鉄槌を下したくて、何が悪いんですか!」
女性の声がしばらく会議室に響き渡っていた。
圭介は黙ってそれを聞いていたが、やがてクッ、と口元を押さえて、小さく笑った。
「何がおかしいんですか!」
掴みかからんばかりの剣幕の彼女に、彼は言った。
「あなたは法の鉄槌を下したいんじゃない。ただ単に、自分の中の鬱積した鬱憤を晴らしたいだけだ」
そう言って、圭介は冷めた目で秋山を見た。
「人はそれを、自己満足と言うんですよ」
「自己満足で何が悪いんです? 何がおかしいんですか!」
殆ど絶叫に近かった。
体を丸めて小さくなっている汀を一瞥して、彼女は高圧的に言った。
「あなたは仕事を請けるといいました。でも、それ以上私と娘を辱めると言うなら……」
「別に辱めてはいませんよ。思ったことを口に出したまでです。気に障ったのなら謝罪しましょう。そういう性格なので」
頭を下げずにそう言い、圭介は冷めた目のまま、微笑んでみせた。
「それに、レベル6を治療できるのは私達だけです。私は、『だから』仕事を請けることを決めました。あなたの個人的感情など、極めてどうでもいい」
切り捨てられ、秋山は呆然とその場に立ち尽くした。
そこで議席の老人が咳払いをし、圭介を見た。
「高畑医師。口が過ぎる」
「あなた方は根本的な勘違いをしていらっしゃる」
そこで圭介は、周りを見回し、秋山に目を留めた。
「自殺病にかかった者は、決して幸福になることは出来ません。そういう病気なのです。助ける、助けないはその人の主観に過ぎません」
「それは俗説だ」
「事実です」
メガネを中指でクイッと上げ、彼は続けた。
「ですが、請けましょう。報酬は指定額の三倍いただきます」
老人達が眉をひそめる。
議席の老人が、一拍置いてから聞いた。
「何故だ?」
「マインドスイーパーに余計な知識が吹き込まれてしまいました。診察費も、危険手当もいただかなければ、割に合いませんので」
「…………」
「それに、私の論文の学会発表の件も、宜しくお願いいたします。こちらから提示する条件は、以上です」
圭介はそう言って、資料を脇に挟んで立ち上がった。
「それでは、この子は一旦退席させます。秋山さん、マインドスイーパーに余計なことを吹き込もうとするのは、規定違反です。罰則を受けていただきます」
秋山が、一瞬間をおいてから、怒りで顔を真っ赤にする。
「何を……」
それを、手を上げて制止し、圭介は汀の車椅子を掴んだ。
「一旦失礼します」
◇
会議室を出たところにある、中庭の隅で、汀は眠っていた。
木陰になっていて、爽やかな風が吹いてくる。
丁度日を避けられる場所に、圭介は車椅子を設置したのだった。
小白も、汀の手の中で、丸くなって眠っている。
汀は耳に、自分のiPodTouchから伸ばしたイヤホンをつけていた。
そこからは、流行の女の子達のユニットが歌っている歌が、やかましく流れている。
◇
汀は白いビーチに座っていた。
白い水着を着て、波打ち際で足をぶらぶらとさせている。
そこがハワイだ、と分かったのは、彼女が好きな女の子達のユニットが歌っている歌のPVを、事前に見ていたからだ。
撮影場所は、確かハワイのはずだ。
辺りには誰もいない。
汀は立ち上がって、静かにひいては返す波に足を踏み入れ、その冷たい感触に、体を震わせて笑った。
カンカンと照っている太陽で、肌がこげるのも構わず、波音を立てて海に、背中から倒れこむ。
新鮮なその感覚に、汀は水に浮かびながら満足そうに息をついた。
そこで、ニャーという声がした。
汀が目を開くと、自分の体の上に、白い子猫が乗っているのが見えた。
「小白、あなたも来たの?」
驚いてそう問いかけると、小白はまた、ニャーと鳴いて、汀の腹の上で小さくなると、恐る恐る水に手をつけた。
そしてビクッとして手を引っ込める。
「びっくり。猫って夢と現実の世界を行き来できる生き物だって言うことは知ってたけど、実際にそんな例を見るのは初めてだよ」
ニャーと小白は鳴くと、また恐る恐る汀の腹の上から、水に手をつけた。
「大丈夫だよ」
そう言って、汀は小白を抱き上げると、体を揺らして立ち上がった。
小白はまたニャーと鳴くと、汀の肩の上に移動した。
そしてマスコットのように、そこにへばりつく。
「でも、何しに来たの? 一人でいるのは、やっぱり不安?」
問いかけて、汀は波打ち際の砂浜を、特に何をするわけでもなく、ブラブラと歩き始めた。
ニャーと鳴いた小白に頷いて、彼女は続けた。
「そうだよね。一人でいると、不安だよね。私も、圭介がいてくれなきゃ、おかしくなってると思うんだ」
足元の砂を、ぐりぐりとつま先でほじり、汀は呟くように言った。
「圭介には、感謝してるんだ……」
特に、小白の反応はなかった。
また歩き出し、汀は言った。
「今度の患者さんって、死刑囚なんだって。女の人を、拷問して殺したんだって。そんな人の精神構造って、どうなってるんだろう。ね、考えただけでワクワクしない?」
ニャーと小白が鳴く。
「あなたにはまだちょっと、早かったかな」
首をかしげて汀は続けた。
「沢山の人が、私に注目してる。あの頃から考えると、信じられないことなんだ」
彼女がそう言った時だった。
突然、脇に生えていた椰子の木から、ボッと音を立てて炎が吹き上がった。
「きゃっ!」
驚いて汀がしりもちをつく。
そして彼女は、小白を抱いて
「まただ……」
と呟いた。
「逃げるよ!」
悲鳴のように叫んで、彼女は走り出した。
無限回廊のように立ち並ぶ椰子の木に、次々と炎がついていく。
次いで、空に浮かんでいた太陽が、ものすごい勢いで沈み、あたりが暗くなった。
空に、赤い光がともる。
しかしそれは太陽の光ではない。
何かが燃えている。
灼熱の、光を発する何かが炎を上げて、空の中心で燃えていた。
熱い。
暑い、のではない。
体をジリジリと焦がすほどに、周囲の気温が上がりはじめた。
次いで、爽やかな色を発していた海が、途端にヘドロのような色に変わり、ボコボコと沸騰し始める。
夏のビーチは、あっという間に地獄のような風景に変わってしまっていた。
汀は、体を焦がす熱気に耐え切れず、小白を抱いたまま、しゃがみこんで息をついた。
「やだ……やだよ……」
首を振る。
「圭介! 助けて、圭介!」
顔を上げた汀の目に、たいまつを持った人影が見えた。
熱気で揺らめくビーチの向こう、二十メートルほど離れた先に、たいまつを持った男……何故か、ドクロのマスクを被った男が、反対の手に薄汚れたチェーンソーを持って、それを引きずりながら、近づいてくる。
「圭介!」
居もしない保護者の名前を呼んで、汀は泣きながら、はいつくばって逃げ始めた。
「やだ、来ないで! こっち来ないで!」
ドルン、と音を立ててチェーンソーのエンジンが起動し、さびた刃が高速回転を始める。
「やだ怖い! 怖いよぉ! 怖いよおお!」
絶叫して、汀はうずくまって目を閉じ、両耳をふさいだ。
ドルン、ドルンとチェーンソーが回る。
ザシュリ、ザシュリ、と男が足を踏み出す音が聞こえる。
そこで、汀は
「シャーッ!」
という声を聞いた。
驚いて顔を上げると、そこには全身の毛を逆立て、汀と男の間に四足で立ち、牙をむき出している子猫の姿があった。
「小白、危ないよ。こっちおいで、逃げるよ。小白……!」
おろおろと、汀がかすれた声で言う。
男は、さして気にした風もなく、また足を踏み出した。
「シャアアーッ」
小白が威嚇の声を上げた。
途端、白い子猫の体が、風船のようにボコッ、と膨らんだ。
それは、唖然としている汀の目の前でたちまちに大きくなると、
体高五メートルはあろうかという、化け猫のような姿に変わった。
小白が、汀の体ほどもある牙をむき出して、威嚇する。
「小白、駄目!」
汀が叫ぶ。
そこでドクロマスクの男は、たいまつを脇に投げ捨て、
チェーンソーを振りかぶって小白に切りかかった。
化け猫の眉間にチェーンソーが突き刺さり、回転する。
しかし、小白はそれに動じることもなく、額から血を噴出させながら、頭を振り、巨大な足で、男を吹き飛ばした。
人間一人が宙を舞い、燃えている椰子の木の群れに頭から突っ込む。
小白はニャーと鳴くと、震えて動けないでいる汀のことをくわえて持ち上げ、男と逆方向に走り始めた。
『汀!』
目をぎゅっと閉じた汀の耳に、どこからか圭介の声が聞こえた。
汀はそこでハッとして、自分をくわえて走っている小白に言った。
「圭介だ! 目を覚ますよ。小白もついてきて!」
目の前に、突然ボロボロの、木の板を何枚も釘で打ちつけた奇妙なドアが現れる。
それがひとりでに開き、中の真っ白な空間が光で周囲を照らした。
背後でチェーンソーの音が聞こえる。
振り返った汀の目に、人間とは思えない速度で、こちらに向かって走ってくる男の姿が映った。
小白は、それに構うことなく、誰に教えられたわけでもないのに、明らかに小さなそのドアに頭を突っ込んだ。
ポン、という音がして、汀が宙に投げ出される。
ドアの中の白い空間に、汀と、小さな姿に戻った小白が飛び込む。
そこで、彼女らの意識はホワイトアウトした。
◇
「汀、起きろ。大丈夫か、おい、汀!」
切羽詰ったような圭介の声が聞こえる。
汀は真っ青な顔で、ものすごい量の汗を流しながら、目を開けた。
「け……圭介……?」
「すぐにこれを飲め。早く!」
圭介が、いつになく慌てて、汀の耳のイヤホンを引き剥がし、彼女の口に錠剤をねじ込む。
ペットボトルのジュースと一緒に、苦い薬が体の中に流し込まれる。
続いて圭介は、汀の右手を掴んで、ポケットから出した小さな注射器を静脈注射した。
「落ち着け。ここは現実の世界だ。俺がついてる。分かるな?」
「ここ、どこ……?」
はぁはぁと荒く息をついて、汀がそう聞く。
彼女の右手を、両手で強く握ってしゃがみ込み、圭介は言った。
「元老院だ。お前、俺が渡した薬を飲まずに寝たな? 何回繰り返せば気が済むんだ!」
怒鳴られ、汀は力なく頭を振った。
「……覚えてない。分かんない……」
「…………ッ」
忌々しげに舌打ちをして、圭介は深く息をついた。
「……少し目を離すとこれだ」
そこで、汀の服にもぐりこんでいた小白が顔を出し、圭介の手に噛み付いた。
「痛っ!」
小さく言って、圭介が慌てて汀から手を離す。
「ニャー」
小白が威嚇するように鳴く。
「この猫……!」
噛まれたところから血が出ている。
しかし汀は、小白を弱弱しく抱いた。
「ぶたないで……小白が、助けてくれたの……」
「…………」
圭介は傷を揉んで止血すると、頭を抑えてため息をついた。
「しばらく寝るな。俺がいいというまで起きてるんだ。できるな?」
「…………うん」
「帰るぞ。その生意気な猫も一緒にな」
「猫じゃないよ……小白だよ……」
そう言って、汀は小白の小さな体を、ぎゅっ、と抱きしめた。
◇
次の日、汀は頭をふらふらさせながら、車椅子に乗っていた。
それを押しながら、圭介が半ばノンレム睡眠状態に入っている汀を、息をついて見る。
赤十字病院の入り口には、多数の報道陣が待ち構えていたため、裏口から入って、今、施術室へと向かっているところだ。
報道陣も、顔を出すことのないマインドスイーパーの姿を捉えようと必死だ。
早く施術室に汀を誘導したかったが、当の彼女が、単純に「寝不足」のために体調が不良であることに、圭介は頭を悩ませていた。
道具と一口に言っても、やはり人間は人間だ。
それに、汀は普通の女の子ではない。
そう、普通ではないのだ。
施術室の前には、大河内をはじめとした、多くの医者が集まっていた。
大河内がふらふらしている汀を見て、一瞬顔を青くする。
「汀ちゃん!」
声を上げて近づいた彼を制止して、圭介は周りを見回した。
「すぐにダイブに入ります。患者の容態を見るところによりますと、もう猶予がありません」
「…………容態は深刻だ。先ほど、事態が急変した」
大河内がそう言って、圭介と汀を施術室の中へと誘導した。
医師たちが、顔を見合わせて心配そうな表情をしながら、大河内の後に続く。
「急変とは?」
圭介が聞くと、大河内は機械的にそれに返した。
「赤十字のマインドスイーパーが二人やられた。患者も、このままステる(死亡する)確立が高い」
「マインドスイーパーがやられた時間帯は?」
「つい先ほどだ」
圭介達の脇を、鼻や口から血を流している少年と少女が、担架で運ばれていく。
大河内は歯を噛みながらそれを見送り、忌々しそうに呟いた。
「……精神世界で殺されると、現実の肉体にも多大なる影響が及ぶ。あの子達は、もうマインドスイープ出来ないかもしれない」
「無駄話をしている暇はない。早く準備に取り掛かかってください」
圭介は大河内の声を打ち消し、固まっている周囲に向けて、淡々と声を上げた。
「何をしているんです? レベル6の患者の治療には、皆さんの協力が要ります。患者に鎮静剤を投与してください。麻酔の量を二倍に。早く!」
圭介が、施術室のベッドに縛り付けられてもなお、ガタンガタンとそれを揺らしながら暴れている患者……死刑囚を見て、声を荒げる。
そこで、彼の隣に腰を下ろしてマスクを被っていたマインドスイーパー……十五、六ほどの男の子の口から勢い良く血が噴出した。
「三番、やられました! ダイブ続行不可能です!」
「すぐに回線を切れ! 一緒に引きずり込まれるぞ!」
中で医師や看護士達が、大声で喚いている。
吐血した少年は、ダラリと椅子に脱力すると、そのまま崩れ落ちた。
「ダイブ中のマインドスイーパーを、全員帰還させてくれ。邪魔だ」
大河内に圭介が耳打ちする。
それに対し、大河内は苦々しげに言った。
「駄目だ。意識的境界線が張られていて、元に戻れないらしい」
「どうして俺達の到着を待たなかった?」
「お前達こそ、施術予定時間を三時間も遅れてどうした? それに、汀ちゃんが到底、ダイブできる状態だとは思えない」
「できるさ。秘策を持ってきた」
「秘策?」
圭介はそこで、車椅子の後ろ部分に取り付けてあった小さなケージをあけ、中から小白をつかみ出した。
「ニャー」
鳴いた猫を呆気に取られて見て、大河内は声を荒げた。
「猫だと? お前、そんな科学的根拠のないまやかしに任せるって言うのか?」
「まやかしじゃない。偶然かどうか分からないが、この猫にはマインドスイーパーの素質があるらしい。最低でも汀の盾くらいにはなる」
「ふざけるなよ! レベル6の患者の治療に当らなきゃいけないんだぞ! それをお前は……!」
「無駄話をしている時間はないと言っただろう」
大河内を押しのけ、圭介は汀を暴れている死刑囚の隣の機械の前に設置した。
そして何度か彼女の頬をぴたぴたと叩く。
「起きろ、汀。起きるんだ」
「…………起きてるよ…………」
「これから治療を始める。出来るな?」
「……」
「汀?」
「…………できるよ」
「よし。今日はいいものを持ってきた」
そう言って圭介は、汀の手首に、小白の首に繋がっているリードを結んだ。
そして小白を彼女に抱かせる。
猫はすぐに汀の膝の上に丸くなると、顔を上げて、ニャーと甘えた声を出した。
それを見て、とろとろとした表情だった汀が、笑顔になる。
「小白も、一緒に行く?」
問いかけられ、猫はニャーと鳴いた。
「これは私達に対する冒涜だぞ、高畑」
大河内が肩を怒らせてそう言う。
圭介はそれを無視し、汀の耳にヘッドセットをつけると、マスク型ヘルメットを被せた。
「時間は十五分でいいな?」
「…………うん…………」
「端的にこの患者について説明しておく。まずは……」
「………………」
すぅ、すぅ、と言う寝息が聞こえる。
圭介は慌てて顔を上げ、声を張り上げた。
「五番、今すぐに接続してください! ダイブに入りました!」
◇
汀は、いつもの病院服で暗い地下牢のような場所に立っていた。
「…………」
しばらく状況を理解できなかったのか、彼女はきょとんとして停止していた。
足元で、小白がニャーと鳴いた。
猫を抱き上げて肩に乗せ、汀は呟いた。
「どこ、ここ……?」
そこで、ボッと言う音とともに、壁の蝋燭に自然に火がともった。
薄暗かった部屋の中があらわになる。
そこは、錆と腐った血液、それと据えた何か生物的な悪臭が漂う、牢屋の中だった。
壁には磔台や、ソロバン型の器具、鞭、三角形の木馬など、大小さまざまな拷問道具が、綺麗に陳列されている。
部屋の隅には石造りの水槽があり、磔台が取り付けられた水車が、ガタン、ガタンと揺らめきながら回っていた。
しかし、それよりも異様だったのは、部屋の中、いたるところに白い糸がはびこっていたことだった。
触ると、粘って指に細い糸を引く。
まるで、蜘蛛の糸のようだ。
良く見ると、薄汚れた壁は、その糸が絡み合ってレンガのような形を作り上げているものだった。
鉄格子も、糸が寄り集まって出来ている。
十畳ほどの部屋の中を見回し、汀は、そこで思い出したかのように耳元のヘッドセットのスイッチを入れた。
「……圭介?」
『汀、時間がない。短く説明するから、すぐにその患者の中枢を見つけてくれ』
「私、ダイブしてるの?」
『そうだ。その患者はレベル6。死の一歩手前にいる。極めて危険な状況だ。精神構造も変化して、極Sランクの危険区域、変質形態Sの六乗と指定されてる。なるべく早くそこを出ろ』
「……分かった」
頷いて、汀は深呼吸して、足を踏み出そうとした。
そこで彼女は、ガチャリと音がしたのを聞いて、足元に目をやった。
汀の右足に、鉄枷がはまっていた。
鎖は壁に繋がっている。
汀は、何度かそれを引っ張って、動かないことを確認すると、ため息をついた。
「そう簡単にはいかないかも」
『どういうことだ?』
「捕まっちゃった。この人、対マインドスイーパー用のトラップを心の中に沢山設置してるみたいだね」
『極稀に、心への進入を許さない特異体質がいる。それがその患者だ。何とかしろ』
「最悪」
顔をしかめた汀の耳に、そこでズリ……ズリ……という何かを引きずる音が聞こえた。
小白が、毛を逆立ててシャーッ、と言う。
少しして、鉄格子の向こうに人影が見えた。
体中に包帯を巻いている。
全裸の男だ。
包帯の所々から血がにじんでいる。
男の手は、六本あった。
足も混ぜると、四肢ではなく、八肢だ。
わき腹から伸びた手で壁の糸を掴んで、
男はぐるりと向きを変え、汀の方を向いた。
その目、包帯から除く眼球がぎょろりと動き、口が裂けそうなほど広がる。
男は、四肢にそれぞれ、束にした三、四本ほどの包丁を持っていた。
黒いビニールテープで、包丁が無造作に束ねられている。
「トラウマを見つけたよ。見つけられたって言ったほうが早いかな?」
『すぐに離れろ』
「無理っぽい」
クスクスと笑って、拘束された汀は面白そうに言った。
「拷問って、一回受けてみたかったんだぁ」
『…………』
マイクの向こうの圭介が唾を飲んで、そしてため息をついた。
『……お前、俺を怒らせたいのか?』
「怒らないでよ……そんなつもりで言ったんじゃないよ」
『ならすぐに離れて、中枢を見つけてくれ』
「…………分かった」
シュン、として汀は男から目を離した。
男は鉄格子に手をかけた。
鉄格子がぐんにゃりと歪み、人一人通れそうな空間が開く。
そこから進入してきて、八肢の包帯男は、キキキ、と奇妙な声を上げた。
「折角だけど、私、おじさんの方が好みだな。若いと駄目」
そう言って、汀は強く、左腕を壁に叩きつけた。
ベコッ、とレンガのような壁が歪み、汀の足を拘束している部分が砕け散る。
足で鎖を引きずって、汀は笑っている男の方に足を踏み出した。
「それに、わざわざ好き好んで、嫌味そうなトラウマと戦うつもりもないし……ね!」
足を振って、鎖で男の顔面を殴りつける。
張り飛ばされ、男は簡単に床を転がり、壁にたたきつけられた。
汀は鎖を手で引きちぎり、それを脇に放り投げてから、鉄格子の空いた場所から外に出た。
そして、いくつも並んでいる牢屋の部屋の前を駆け出す。
少し行ったところに階段があり、その先のドアが開いていた。
そこに飛び込み、ゴロゴロと転がる。
起き上がった汀の目に、真っ暗な空が映った。
そこは、洋風の城の一角だった。
テラスになっていて、下が見えるようになっている。
近づいて下を覗き込むと、城は、ボコボコと泡立つ、ヘドロの海の中に建っていた。
どこまでも、果てしなくヘドロが続いている。
時々、トビウオのように、何か巨大なものが水面を跳ねるのが見えた。
いびつな城だった。
三角錐の屋根が所狭しと立ち並んでいる。
そこで、背後からキキキという笑い声が聞こえた。
振り返ると、包帯の八肢男が出てくるところだった。
否、一人ではない。
二人。三人。
四人。
合計四人の、同じ格好をした同じ背丈の男達が、綺麗に整列する。
そのうちの一人が、木造りの十字架に、両手両足を巨大な釘で磔にされた女の子を抱えていた。
女の子の手足は奇妙な方向に折れ曲がり、意識はないようだ。
汀と同じように、病院服を着ている。
「マインドスイーパーだと思うけど、見つけたよ。トラウマに捕まってる」
汀がそう言うと、マイクの向こうで圭介は少し考え込み、言った。
『救出できるか?』
「難しいんじゃないかなぁ」
『無理なら諦めて中枢を探せ』
「分かった」
淡々とやり取りをしている間に、蜘蛛男達が汀を取り囲む。
汀はそこで、十字架を担いでいる男に向き直り、ニヤァと笑った。
「何で近づいてこないの? ほら、私はここだよ」
パンパンと挑発的に手を叩いて、汀は言った。
「鬼さんこちら、手の鳴る方へ!」
男達が一瞬制止して、一斉に束ねた包丁を取り出した。
その目が円形に見開かれ、けたたましい絶叫を上げる。
凄まじい勢いで汀を囲む円が狭まり、彼女は振り上げられた包丁を、無機質な目で見つめた。
そこで小白が、シャーッ! と鳴き、汀の肩の上で、風船のようにボコリと膨らんだ。
「小白……」
驚いて呟いた汀を覆うように、小白はムササビを連想させる形に変形すると、彼女の代わりに全ての包丁を受けた。
しかしそれは突き刺さることなく、 キンキンキンキンと鉄にでもたたきつけたかのような金属質な音が響き渡る。
「凄いね小白! 私にはそんなことできないな!」
目の前の猫の頭をなで、汀は十字架を抱えている男を殴り飛ばした。
人一人が簡単に数メートルも吹き飛ばされ、壁にたたきつけられる。
転がった十字架を、女の子ごと拾い上げ、汀は外に向かって走り出した。
男達が絶叫を上げて追いすがる。
汀は、パラシュートのように広がった小白の両足を片手で掴んで、無造作に宙に体を躍らせた。
そこで、彼女達の意識は、ホワイトアウトした。
◇
第4話 蝶々の鳴く丘で
◇
圭介は、白衣のポケットに手を突っ込んだまま、病室をゆっくりと見回っていた。
その隣で資料をめくりながら、大河内が重い口を開く。
「こっちの区画は、もう駄目だ。お前の探してる適合者は、見つからないよ」
「駄目って、どの基準で駄目って言ってるんだ?」
問いかけて、圭介は感情の読めない瞳で、近くの病室を覗き込んだ。
ぼんやりと視線を宙に彷徨わせた女の子が、ベッドに横たわっていた。
鼻や喉にチューブが差し込まれ、いくつもの点滴台が設置されている。
「この子は?」
聞かれた大河内は、言葉を飲み込んでから答えた。
「……網原汀(あみはらなぎさ)、この病棟の中でも、特に重症な子だよ」
圭介は無造作に病室に足を踏み入れ、女の子に近づいた。
そして顔を覗き込む。
女の子に反応はなかった。
目を開いてはいるが、意識はないらしい。
人形のように顔が整った子だった。
その子の艶がかかった黒髪を撫で、圭介は言った。
「一番安定してるように見える」
「……バカを言うな。左半身と、下半身麻痺にくわえて、自殺病の第八段階を発症してる。もう長くはないよ」
「この子にしよう」
圭介は軽い口調でそう言うと、ポケットから、金色の液体が入った細い注射器を取り出した。
大河内が目をむいて口を開く。
「おい、高畑……本気か? 一番重症だって、さっき言っただろう。聞いていなかったのか?」
「狂っていればいるほど好ましい。第八段階? 最高じゃないか。それで、この子はそのまま何日生きてるんだ? いや……『生かされて』るんだ?」
「…………」
「答えろよ、大河内」
「…………三十七日だ」
「取引をしよう」
圭介はそう言って、女の子の点滴チューブの注入口に、注射針を差し込んだ。
そして大河内が止める間もなく薬品を流し込む。
「この子をもらっていく。その代わり、お前はこの子の過去を全て消せ」
「GMDが効くかどうかも分からないんだぞ! それに、もう長くはないと……」
「効くさ。そのために開発されたクスリだ」
淡々とそう言って、圭介はポケットに手を突っ込んだ。
そして背を向けて、病室の出口に向けて歩き出す。
「意識が回復したら、連絡をくれ」
◇
汀と小白が目を覚ました時、彼女達は、ゆっくりと落下しているところだった。
小白がまるでパラシュートのようになって落下速度を低減しているのだ。
「猫って凄いねぇ。夢の世界では、私より無敵なんだ」
感心したようにそう呟いて、汀は下を見た。
何かが、草のように、果てしなく続く荒野の中突き立っていた。
真っ赤な夕暮れ景色に、光を反射して煌いている。
それは、日本刀だった。
柄の部分が土に埋まり、ぎらつく刃を上に向けている。
「……攻撃性が強すぎるよ」
呆れたように言って、汀はまだ磔にされている状態の女の子に構うことなく、十字架を下に向けた。
ゆっくりと落下していって、十字架の木が、日本刀の群れに切り裂かれながら、地面と垂直に着地する。
汀は十字架の上に、器用にしゃがみこんでいた。
ポン、と音がして小白が元の小さな猫に戻る。
猫が右肩にへばりついたのを確認して、汀は、もう少しで日本刀の群れに串刺しにされそうになっている、磔られた女の子に声をかけた。
「起きて。ね、起きて。もしかして死んでる?」
手を伸ばしてパシパシと女の子の顔を叩く。
「起きて」
「…………ッ!」
そこで意識が覚醒したのか、女の子は激しくえづいた。
グラグラと十字架が揺れる。
その上で器用にバランスを取りながら、汀は面白そうに続けた。
「拷問されたの? ね? どんな感じだった?」
『汀、赤十字のマインドスイーパーを救出したのか?』
マイクの向こうの圭介に問いかけられ、汀はヘッドセットの位置を直しながら、首をかしげた。
「うーん……助けたというか……助かってないというか……」
『どっちだ。はっきりしろ』
「動けないの。刀がいっぱいある」
『その子だけ帰還させることはできるか?』
「異常変質区域の中にいるから、無理だよ」
『なら見捨てて、お前と小白で中枢を探せ』
「…………」
汀はそれに答えず、周囲を見回した。
『汀?』
問いかけられ、汀は刀で体を切らないよう、注意して地面に降り立った。
そして手近な一本を手に取り、周囲の刀をなぎ払う。
「連れて帰るよ」
そう言った彼女に、一瞬沈黙してから圭介は言った。
『手負いなんだろう。無理だ。時間も残り少ない』
「だからって、置いていけないよ」
『いいか汀。お前の仕事は何だ?』
汀は少し考え、また近くの刀を、自分が持った日本刀でなぎ払った。
「人を、助けることだよ」
はっきりとそう言う。
圭介はまた少し沈黙してから、言った。
『……分かった。なら好きにしろ』
「好きにするよ?」
『ああ。でも、危ないと思ったらすぐに見捨てて中枢を探せ』
「もう危ない状況なんだけど……まあいいや」
ボコボコと地面が波打ち、汀を取り囲むように競りあがった。
一……二……三。
合計十三体の包帯を巻いた蜘蛛男の姿を形取り、それが先ほどまで彼女達を取り囲んでいたものと同じように、刀の群れの中を、体が切り刻まれるのもいとわずに動き出した。
切り傷がつくたびに、悲痛な声を上げる男達。
だが、その顔は笑顔だ。
とても嬉しそうに、悲鳴を上げている。
手に持っていた包丁を、それぞれ脇に放り投げ、手近な刀を、六本の腕に持つ。
刀と、刀を持った男達に取り囲まれ、汀は日本刀を構えて周囲を見回した。
そして、まだ磔られている女の子に、厳しい声で言う。
「起きなさい。あなたもマインドスイーパーなら、少しは私の役に立って」
「あなたは……」
か細い声でそう言うと、女の子は体中の痛みに、小さく声を上げた。
まだ、両足と両手の平が釘で木に打ち付けられており、血が流れ出ている。
「なぎさちゃん……?」
呼びかけられ、汀は怪訝そうに振り返った。
「なぎさ?」
「なぎさちゃんだよね……? あたし、岬(みさき)だよ。覚えてる? あたしだよ……!」
汀よりも少し年上の、どこか赤みがかったショートの髪の毛の女の子――岬は、青ざめた顔のまま、汀にそう言った。
汀は彼女から視線をそらして、近づいてくる蜘蛛男達を睨んだ。
「今トラウマに囲まれてるの。お話はあとでしよう。あと、悪いけどあなたのことは覚えてない。てゆうか知らない」
『チッ』
耳元のヘッドセットから、圭介が小さく舌打ちをしたのが聞こえた。
「どうしたの圭介?」
問いかけると、彼は一拍置いてから、何でもないことのように言った。
『いや、こっちの話だ。それより、トラウマに囲まれてると言ったな。そこはどこだと思う?』
「異常変質心理壁であることは間違いないと思うけど……中枢どころか、心の外壁にさえたどり着いてないことは確かだよ。十五分じゃ間にあわないと思う」
『間に合わせろ』
「……最悪」
毒づいた彼女の目に、後方の平原が、空ごと……つまりその空間そのものが、ブロック状になって、下方に向かって崩れ落ち始めたのが見えた。
「……訂正。間に合わせなきゃ。精神構造の崩壊が始まったよ。この人、もうじき死ぬね」
『知ってる。承知の上での治療だ』
そこで、汀の右後方の男が奇声を上げて宙に飛び上がった。
実に二、三メートルもふわりと浮き上がり、六本の刀で汀に切りかかる。
汀は、おぼつかない手つきでそれを一閃して弾いたが、小さな体が押されて後ろに下がる。
そこで、突き立っていた刀で背中をしたたかにこすってしまい、彼女は
「痛っ!」
と叫んで、一瞬硬直した。
背中からたちまち血が溢れて、流れ落ちる。
『どうした?』
圭介に対して
「何でもない。大丈夫!」
そう答えて、汀はまた切りかかってきた男の刃を避け、地面を転がった後、少女とは思えない動きで一気に間合いを詰めた。
そして男の首に、日本刀を突き立てる。
頚動脈を一瞬で切断したらしく、日本刀を抜いたところから、凄まじい勢いで血液が噴出し、汀に降りかかった。
返り血でドロドロの真っ赤になりながら、汀はトドメとばかりに男の胸に、もう一度刃を突き立てた。
それを抜くと、蜘蛛男の一人はビクンビクンと痙攣しながら、その場に仰向けに倒れた。
突き立っていた刀の刃が、後頭部から口に貫通して串刺しにする。
十二人になった男達は、血まみれの汀を見て、楽しそうに笑い声を上げた。
切られた蜘蛛男の体が、粘土のように溶け、地面に流れる。
それが、今度は二人の蜘蛛男の形をつくった。
一人から、二人に増えて十四人。
「キリがない……」
毒づいた汀の肩で、小白が威嚇の声を上げている。
そこで、地面に崩れ落ちた岬の声が聞こえた。
「なぎさちゃん、助けてくれてありがとう……早く、ここを抜けなきゃ……」
「私はなぎさなんて名前じゃないよ。それに、そんなこと言われなくても分かってる」
冷たくそう返し、汀は、無理やり足から釘を引き抜いている岬を見た。
「歩ける?」
「何とか……」
「トラウマと戦ってもキリがないから、逃げたいんだけど時間がないの。この世界はもうすぐ崩壊するし」
汀達の、数十メートル先の空間が、ブロック状になって崩れ落ちる。
「とりあえず、無理にこじ開けるしかなさそうだね……!」
汀はそう言って、足元の地面に刀を突き立てた。
男達が、その瞬間同時に絶叫した。
血走った目を丸く見開き、彼らがゆらゆらと揺れた後、同時に汀に切りかかる。
汀は、抵抗のある感触を感じながら、ズブズブと刃を根元まで押し込んだ。
そして力任せに、地面から飛び出た柄を踏み込む。
男達がまた絶叫し、汀が刀を突き立てた部分からおびただしい量の血液があふれ出す。
それを見た岬が、青い顔を更に真っ青にした。
「な……何してるの? 心理壁を直接傷つけたら、この人の体にどんな障害が残るか……」
「どうせ死ぬんだから関係ないよ」
そう言って、汀は血の出ている部分に足をたたきつけた。
ボコッと地面が歪み、ブロック状に抜け落ちる。
その先は、真っ黒な空間になっていた。
岬は、荒く息をついて涙を流しながら、折られた腕の骨を、力任せに元にはめているところだった。
彼女のもう片方の手を掴み、汀は言った。
「行くよ。逆にこっちが死ぬかもしれないけど、まぁそれって、運命だよね」
「割り切ってるね……」
「言われるまでもないよ」
軽く微笑んで、汀は岬を先に穴の中に投げ入れ、小白を抱いた。
彼女達は、ブロック状に空いた穴の中に飛び込んだ。
その瞬間、男達を飲み込むように、空間が崩れ落ちる。
彼女達の意識は、またホワイトアウトした。
◇
気がついたとき、彼女達は打って変わって爽やかな、小鳥がさえずる丘の上に立っていた。
岬が体の痛みに耐え切れず、足元の草むらに崩れ落ちる。
彼女を一瞥してから、汀は木が立ち並んでいる丘を見回した。
蝶々が沢山飛んでいる。
それぞれ色や大きさは違ったが、共通していたことは、紙で出来ていたということだった。
近くの蝶々を一匹捕まえて、汀はそれを握りつぶした。
途端、周囲に青年の悲痛そうな声が響き渡った。
<僕はやってない! 僕は違うんだ。頭の中の人が命令したんだ!>
くしゃくしゃになった蝶々を広げてみる。
そこには、血液のようなもので雑に、先ほど流れた音声と同じものが書かれていた。
汀はそれを脇に放ると、もう一匹蝶々を捕まえようと、その場をはねた。
『汀、どうだ?』
圭介に問いかけられて、汀は言った。
「ダイブ、心理壁の中に進入成功したよ。」
『トラウマに囲まれてたんじゃなかったのか?』
「この人の心理壁を壊しちゃった。どうせ自己崩壊してる途中だったから」
それを聞いて、圭介は一拍置いてから深くため息をついた。
『お前……』
「廃人になるね。この人」
何でもないことのように言って、汀は面白そうに、紙の蝶々に囲まれながらくるくるとその場を回った。
「でも、いいじゃない。どうせ死刑で死んじゃう人だよ?」
『…………』
「圭介?」
『治療を続けろ。いいか、お前は人を救うんだ。そのためにダイブしてるんだ。分かるな?』
「圭介、私思うんだけどさ」
そこで汀は、ヘッドセットに向かって、困ったような顔をした。
「死刑で殺される人を治して、それで、救ったって言えるのかな?」
『ああ。お前は余計なことを考えず、救えばいいんだ』
「圭介、それは違うよ」
汀は淡々とそう言った。
「助けない方がいいよ、この人」
また近くの蝶々を一つ掴んで、握りつぶす。
<うるさい! うるさい! 僕は殺すんだ! あの女を……僕を笑った女を! 殺してやる! 殺してやる! 殺してやる!>
『どうして?』
圭介に聞かれ、汀は答えた。
「だって、屑は死んでも治らないもの」
『…………』
圭介はしばらく考え込んでいた。
が、断固とした口調で彼は言った。
『治せ』
汀は、また一つ蝶々を握りつぶした。
<誰も僕を分かってくれない、誰も僕を分かろうとしない。誰も彼もが僕を見下すんだ。僕は……僕は……>
そこで、突然木々の間に蜘蛛の巣が出現した。
蝶々達が、次々と網にかかっていく。
<僕は……僕は……僕は……>
<殺してやる! 殺してやるんだみんな!>
<血……ひき肉……>
<興奮する。絶叫を聞くと>
<僕を拒絶する声を聞くと、僕は生きている実感を得ることが出来るんだ>
<だから鳴いてよ。もっと、もっと鳴いて>
<誰か僕を分かってよ! 僕はここにいるよ!>
<どうして誰も分かってくれないんだ! 父さんも、母さんも……>
<僕は……! 僕は!>
<僕は、誰だ?>
最後の呟きは、ぐわんぐわんと丘に反響して消えた。
蝶々達は、動きを止めていた。
おびただしい数の蜘蛛が、カサカサと動いて蝶々達を食べ始める。
蜘蛛も、紙で出来ていた。
「この人は自壊を選択してる。生きてても、自分のことが何だか分からなくなってるよ」
『でも、治すんだ』
「どうして?」
『……俺達が、医者だからだ』
「医者?」
『医者は人を治す。それが、人を救うということだ。お前は目の前のことしか見ていない』
「…………」
『汀』
圭介は、彼女の名前を呼んで、優しく言った。
『人を、救いたいんだろう?』
「…………」
『沢山の人を、お前の手で救ってやりたいんだろう?』
「…………」
『目の前だ。そのチャンスを、お前の手で掴め。それは、お前の「踏み台」だ。それ以上でも、それ以下でもない』
「私……私は……」
「なぎさちゃん!」
そこで、うずくまっていた岬が大声を上げた。
ハッとした汀の足元に、紙の蜘蛛の大群が迫ってきていた。
岬が這って逃げようとしている。
小白は、汀の肩の上で、シャーッ! と毛を立ててうなった。
「貴方達が欲しいのは、これ?」
汀がニコリと笑って、蜘蛛達の前に、閉じていた右手を開いた。
そこには、いつの間に捕まえたのか、虹色の羽をした蝶々が一匹、握りこまれていた。
「あげてもいいよ」
『汀!』
圭介が大声を上げる。
汀は、動きを止めた蜘蛛達に言った。
「でも、自分が自分であるのか分からないままでいるのは悲しすぎるから」
彼女はそう言って、虹色の蝶々を、折り紙を元に戻すように、ゆっくりと開き始めた。
空間がざわついた。
蜘蛛達の口から、男の拒否を示す凄まじい絶叫が辺りに轟きわたる。
「私が、あなたにあなたの顔を見せてあげるよ」
折り紙を開く。
それは、顔写真だった。
赤ん坊の、写真だった。
「中島正一。それがあなたの名前。あなたは何にもなれないし、何かになれるわけでもない」
汀は、クスリと笑った。
「これから、殺されにいくの。それから逃れることは、多分できないの」
いつの間にか、おびただしい数の紙の蜘蛛は、足を上に向けて、硬直して死んでいた。
代わりに、丘の向こうがざわついた。
次いで、地面が揺れた。
ミキミキと木を押しつぶしながら、何かが地面の下から出てくる。
それは、体長十メートルはあろうかという、巨大な蜘蛛だった。
八つの赤い目を光らせながら、巨蜘蛛は地面を踏みしめ、汀の前まで移動すると、顔を屈めて蟲の口を開いた。
「シャーッ!」
小白が地面に降り立ち、風船のように膨らむ。
巨蜘蛛の半分ほどの大きさに変わった小白は、牙をむき出して蜘蛛を威嚇した。
その化け猫を制止して、汀は一歩前に進み出た。
そして赤ん坊の写真を、蜘蛛に突きつける。
「良く見て。これが、あなたよ。あなたは蜘蛛じゃない。あなたは人間。何の変哲もない、平凡で、ごくごく普通の何の力もない、無力な人間の一人よ」
巨蜘蛛が悲鳴を上げた。
嫌々をするように首を振った蜘蛛に、汀は淡々と続けた。
「あなたが思い描く現実なんて、どこにもない。誰も、あなたのことを理解なんて出来ない。あなたが、あなたを理解できないように。私も、あなたを理解することができない」
「危ない!」
そこで岬が悲鳴を上げた。
汀が気づいた時は遅かった。
蜘蛛が足を振り上げ、汀に向かって振り下ろしたのだ。
小白も、とっさのことで反応が出来ないほど、すばやい動きだった。
蜘蛛の足は、簡単に汀の背中を胸まで貫通すると、向こう側に抜けた。
そして地面に、まるで蟲のように、少女のことを縫いとめる。
「ゲボッ」
口から血の塊を吐き出して、汀は胸から突き出ている蜘蛛の足を見た。
「……ガ……あ……」
『汀、汀……どうした!』
彼女の声に、圭介が狼狽した声を上げる。
汀はそれに答えることが出来ず、鼻や口から血を垂れ流しながら、震える手で、赤ん坊の写真を前に突き出した。
そして、歯をガチガチと鳴らしながら、かすれた声で言う。
「良く……見て。これがあなたよ……誰も言わないなら……私が言ってあげる……」
「なぎさちゃん!」
岬が声を上げて、這いずって汀に近づこうとする。
汀は彼女に微笑んで、また血を吐き出してから、硬直している蜘蛛に、一言、言った。
「ただの人間のくせに……世界中で何百何億といる、ただの人間のくせに……」
『汀!』
「何を、粋がってるの?」
蜘蛛が絶叫した。
その長い絶叫は周囲に轟き渡り、丘をグラグラと揺らした。
たまらず目を閉じた汀の体を固定していた足が、フッと消える。
胸に大穴を空けて地面に崩れ落ちた汀の目に、空中に浮かんでいる、膝を丸めた赤ん坊の姿が映った。
汀は血を吐き出し、脇の小白に支えられながら赤ん坊の前に這って行った。
そして、写真を赤ん坊の頭につける。
白い光が辺りに走り、赤ん坊の姿が消えた。
同時に丘の蜘蛛の巣が消え、真っ白な蝶々達が周囲を飛び回り始める。
汀は小白に寄りかかって、ゼェゼェと息をついて、また血を吐き出した。
『良くやった、汀。戻って来い、早く!』
圭介がマイクの向こうで怒鳴る。
汀は、しかしそれに答えることが出来ずに、地面に崩れ落ちた。
そこに岬が到着し、彼女の体の上に倒れこむ。
そしてヘッドセットに向かって、叫ぶように言った。
「四番、五番、治療完了しました。目を覚まします!」
◇
激しく咳をしながら、汀は目を開いた。
息が詰まり、呼吸が出来ない。
過呼吸状態に陥っている汀の口に、備え付けてある紙袋の口をつけ、圭介はその背中をさすった。
「大丈夫か? 落ち着いて、息を吸うんだ。しっかりしろ。ここは現実の世界だ」
「ゲホッ! ゲホッ!」
強く咳をした汀の口から、パタタタッ! と血が袋の中に飛び散った。
それを見て、圭介は歯噛みして汀の頭からマスク型ヘルメットをむしりとった。
そして車椅子から彼女を抱き上げ、出口に向かって走り出す。
「続いて、この子の処置に入ります! 私が病室まで運びます。早く準備を!」
◇
「負担をかけすぎだ……」
数日後、自室のベッドの上で呼吸器を取り付けられ、意識混濁状態になって眠っている汀を見て、大河内が苦そうに口を開く。
あの直後、汀は意識を失い、まだ目を覚まさない。
大河内は圭介に向き直って、彼をにらみつけた。
「いい加減にしろよ、高畑。この子は人間なんだぞ。お前の『治療』は、この子に負担をかけすぎている」
「だが、結果的に中島は一命を取り留めた」
資料をめくり、壁に寄りかかりながら口を開く。
大河内は一瞬黙ったが、また苦そうに言った。
「秋山さんは訴訟を起こすつもりらしい」
「へぇ」
「中島は命は取り留めたが、自分が何をしたのか、何者なのか、全ての記憶を失っていた。そんな人間を断罪したところで、意味はないとさ」
「いいことじゃないか。元々この国は死刑廃止論者が多いんだ。この機会に、死刑について考える人が多くなれば法治国家としてのレベルアップが図れる」
「ふざけている場合じゃない」
「ふざけてなんていないさ。俺はいたって真面目だよ」
圭介はそう言って、資料を閉じた。
「レベル6の患者の治療に成功した例は、日本では初だ。これで、俺達は更に高みを目指せる。元老院も満足だろう」
「お前はそうやって、結果結果と……」
「だが、それが全てだ」
淡々と圭介はそう言った。
「結果を残せなければ、生きている意味も、存在している意味もない。過程なんてどうだっていいんだ」
「そのためにこの子を犠牲にしてもか。そうでもしなきゃ、お前の復讐は成し得ないとでも言いたいのか?」
「ああ」
簡単にその言葉を肯定し、圭介は鉄のような目で汀を見下ろした。
「精々働いてもらうさ。死ぬまで、俺の道具としてな。それが、この子の贖罪でもあり、義務でもあるんだ」
「…………」
大河内は無言で圭介の胸倉を掴み上げた。
そして、腕を振り上げ、彼の頬を殴りつける。
床に崩れ落ちた圭介を、荒く息をついて、大河内は見た。
「それがお前の本心か」
「……酷いじゃないか。大人のすることじゃないな」
頬を押さえながら、メガネの位置を直して圭介が立ち上がる。
彼は薄ら笑いを浮かべながら続けた。
「気が済んだか?」
「もう五、六発殴らせてもらわなきゃ、収まらないな。汀ちゃんのためにも」
「お前、勘違いしてるぞ」
圭介は小さく息をついた。
「治療は、汀が自分で望んでおこなっていることだ。俺が強制しているわけじゃない」
「騙していることは確かだろう。この子に真実を告げるんだ!」
「嫌だね。真実を告げたら、こいつは道具としての価値をなくす」
拳を握り締めている大河内の言葉を打ち消して、圭介は続けた。
「そういえば……岬とか言ったか? あの赤十字のマインドスイーパー」
「……その子がどうした?」
「目障りだな。関西総合病院にでも飛ばしてくれ」
「どこまでも最低な男だな……!」
「お前に言われたくはないね」
壁に寄りかかり、圭介は資料を脇に放った。
「さて、外道はどっちかな」
二人の男が睨み合う。
それを、ケージの中で小さくなって小白が見つめていた。
◇
汀が目を覚ましたのは、それから一週間経った夜中のことだった。
しばらくぼんやりしていたが、苦しそうに呼吸器を外し、何度か咳をする。
そして汀は、ナースコールのボタンを押した。
しばらくして、寝巻き姿の圭介が、駆け足で部屋に入ってきて、電気をつける。
「汀、目が覚めたか」
「圭介……」
汀はぼんやりと答えて、首をかしげた。
「私、どうしたの?」
「急に具合が悪くなったんだ。それだけだ。気にするな」
「何だか、すごく疲れた……」
「無理するな。今、クスリを持ってきてやる」
「圭介」
汀は彼の名前を呼んで、言った。
「なぎさって、誰?」
問いかけられて、圭介は一瞬停止した。
「岬ちゃんって、私の友達だよね?」
「誰の話をしてるんだ?」
圭介は汀に向き直り、ポケットから金色の液体が入った注射器を取り出した。
それを汀の点滴チューブの注入口に差込み、中身を流し入れる。
そして彼は、微笑んで汀の白髪を撫でた。
「俺はそんな子、知らないな」
「夢に出てきたの。じゃあ、私の勘違いかな」
「ああ、お前の夢の中での出来事だよ」
圭介はそう言って、汀の手を握った。
「今日はゆっくり休め。お前、疲れてるんだよ」
「うん……」
頷いて、汀は圭介に向かって言った。
「ね、圭介」
「何だ?」
「私、また誰かのこと治したんでしょ?」
問いかけられ、圭介はしばらく押し黙った後、笑って頷いた。
「ああ」
「私、人を助けることが出来たの?」
「お前は立派に人を助けたよ。立派にな」
「嬉しい」
微笑んで、汀は呟いた。
「私、人を助けるんだ。もっともっと、沢山の人を……」
「ああ、そうだな」
頷いて、圭介は言った。
「俺は、それを出来る限り助けるよ」
◇
女の子は目を覚ました。
ぼんやりとした頭のまま、周囲を見回す。
見慣れない病室。
見慣れない人達。
髭が特徴的の人が、にこやかに笑いながら、彼女に言った。
「私達が分かるかい? 分かったら、返事をしてくれないかい?」
女の子は頷いて
「……分かります」
と答えた。
髭の男性の後ろで、腕組みをしたメガネの男性が、壁に寄りかかって資料を見ている。
「私の名前は大河内。君の主治医だ。先生と呼んでくれればいい」
髭の男性に助けられて上体を起こし、彼女は猛烈な脱力感の中、ぼんやりと彼を見た。
「せんせ?」
「ああ、先生だよ」
「ここは、どこ?」
「赤十字病院だよ。君は、大きな事故に遭って、ここに運ばれてきたんだ。覚えてるかい?」
女の子はそれを思い出そうとした。
しかし、頭の中が空白で、何かガシャガシャしたものが詰まっていて、それが邪魔をして思い出せない。
「私……名前……」
「ん?」
「私の、名前……」
それが分からないことに、女の子は愕然とした。
大河内は少し押し黙った後、何かを言いかけた。
しかし後ろの青年が、資料を見ながら声を上げる。
「汀(みぎわ)だ。苗字は、高畑」
「たかはたみぎわ?」
「ああ。お前は、俺の親戚だ」
資料を閉じて、メガネの青年は彼女に近づいた。
「俺は高畑圭介。圭介と呼んでくれていい」
「私の親戚?」
「そうだ」
「お父さんと……お母さんは?」
問いかけられ、圭介は一瞬苦い顔をした。
しかしすぐにもとの無表情に戻り、彼女に言う。
「お前に、お父さんとお母さんはいないよ」
「いないの?」
「お前が小さい頃、事故に遭って他界した。それからずっと、お前は俺と二人暮しだ」
「私、どうしたの?」
「大型トラックに撥ねられたんだ」
「体が動かないよ……」
「右腕は動かせるはずだ」
「他のところは?」
「麻痺が残ってる。無理だろうな」
「高畑」
そこで大河内が圭介を制止して、口を開く。
「まぁ……まだ起きたばかりで分からないことが多すぎるだろうから、ゆっくり理解していこう、な? 私が、君のリハビリと訓練を担当させてもらうから」
「リハビリ? 訓練?」
「うん。大丈夫だ。少し頑張ればすぐによくなるさ」
問いかけに答えず、大河内は続けた。
「何か、流動食くらいだったら食べられるかな? おなかは減ってるかい?」
「全然減ってないよ……」
そこで汀(みぎわ)と呼ばれた女の子は、壁に取り付けられた鏡を見て、動きを止めた。
そこには、老婆のように髪の毛を真っ白にさせた女の子……ガリガリに骨と皮ばかりのやつれた姿をした子が映っていた。
動く右手で顔を触り、それから髪を触る。
白髪には艶がなく、パサパサとした感触が手を伝わってくる。
「これ……私……?」
目に見た事が信じられず、汀は呆然と呟いた。
その頭を撫で、大河内が言う。
「私は、今の髪の方が好きだよ。白い方が素敵だ」
「…………本当?」
「ああ、本当だ」
彼がニコリと笑う。
その後ろで、圭介が持っていた資料を、汀の膝の上に放った。
パサリと音を立てて薄い資料が、彼女の目に留まる。
表紙に、端的に
『Mind Sweeper 契約書』
と書かれている。
「お前はこれから、マインドスイーパーとして、俺と一緒に働くことになる。暇な時にそれをよく読んで、サインしておけ。重要な書類だから、なくすなよ」
「マインドスイーパー……って、何?」
「ワンダーランドに行ける職業だ。夢の国。行きたいだろう? 女の子だもんな」
皮肉気にそう言って、圭介は背中を向けた。
「それじゃ、また来る」
歩いていく圭介を見送り、汀は呟いた。
「あの人……怖い……」
「無愛想な奴なんだ。根はいい人間だ。信用してやってくれ」
大河内がそうフォローして、汀の手を握る。
「とにかく、一命を取り留めてよかった」
「せんせ、私、もう体動かないの?」
「そんなことはない。リハビリして、ちゃんと過程を踏めば段々動くようになってくるさ。今はただ、麻痺しているだけだよ」
圭介とは真逆のことを言い、大河内は優しく、汀のことを抱きしめた。
汀がびっくりしたような表情をし、しかし冷えた体に感じる人の体の温かさに、安心したように息をつき、大河内に体を預ける。
「泣かないで。一緒に治していこう。一緒に」
いつの間にか汀は泣いていた。
涙が、次々と目から流れ落ちていく。
「あれ……? あれ……?」
呟いて、汀は右手で目を拭った。
「どうして私……泣いてるんだろう……」
「人の心は難しいものだ。君がどうして泣いているのか、分からないけれど……」
大河内は汀から体を離して、また頭を撫でながら言った。
「これからは、私がついている」
「……うん」
涙を流しながら、汀は頷いた。
いつの間にか、彼女の病室の表札は、「高畑汀」となっていた。
振り仮名で、「なぎさ」ではなく「みぎわ」と書いてある。
その意味を、彼女はまだ知らない。
◇
びっくりドンキーのいつもの席で、汀はチビチビとメリーゴーランドのパフェを食べていた。
圭介がステーキをナイフで切って口に運ぶ。
「でね、圭介。3DS、結局値下げしたんだって。ネットに書いてあったよ」
「もう一台欲しいとか言い出すなよ」
「使わないからいらないなぁ。それより、PSVITAが欲しい」
「あれの発売日はまだ先だろ?」
他愛のない会話をしながら、圭介はナイフを置いた。
そして汀の前に、一抱えほどもある包装された箱を置く。
「ほら、プレゼントだ」
「どうして?」
目を丸くした彼女に、圭介は笑いかけて言った。
「覚えてないだろうけど、お前、レベル6の患者の治療に成功したんだ。そのお祝い。前から欲しかったって言ってた、雪ミクのプーリップ(ドール=人形)だ。数量限定だから、手に入れるの苦労したんだぞ」
「圭介、大好き!」
そう叫んで、汀は包装紙を手荒に破いた。
そして中に入っている頭が大きいドールを見て、嬌声を上げる。
「わあ、可愛い!」
「大事にしろよ」
そう言って食事に戻った圭介に、汀は箱を抱きながら言った。
「ね、圭介」
「ん?」
「この前ネット見てたらね、死刑判決が出た人、あのさ、女の人拷問して殺した人」
それを聞いて、圭介の手が止まった。
「自殺病は治ったけど、死刑を取り下げるようにって、被害者の人たちが言ってるんだって。不思議だよね。どうしてだろ、って私は思ったよ」
圭介は何事もなかったかのように食事を再開して、そして彼女に微笑みかけた。
「人間って、不思議な生き物だからな」
「それで片付けるの?」
「だって、それが全てだろ」
彼はステーキを咀嚼してから、続けた。
「ほら、アイスが溶けるぞ」
「……うん!」
人形を大事そうに抱きながら、汀はパフェを食べる作業に戻った。
隣には、小白が眠っているケージが置いてある。
圭介はしばらく、感情の読めない無機質な瞳で彼女を見ていたが、やがて自分も、ステーキを食べる作業に戻った。
続き
【オリジナル】「治療完了、目をさますよ」【長編小説】(2)

