関連
【艦これ】鳥海は空と海の狭間に【一章】
【艦これ】鳥海は空と海の狭間に【二章】

283 : ◆xedeaV4uNo - 2016/08/27 11:25:39.84 F3HpfMvD0 206/702



 私たちはすでに多くの別れを経験しています。
 過去の軍艦の記憶が、まるでこの身の出来事のように刻まれているんですから。
 その過去の記憶でさえ、私たちは自他をもう艦としては認識していなくて、今のこの姿として捉えてしまうのは変な気分ですが。

 私たちは姉妹や戦友を多く失いました。
 自分の見える場所で、あるいは知らない場所で。
 私は、鳥海は前線に引っ張りだこでしたが、それなりに長生きしたと思ってます。
 でも、それだけ死に触れる機会も多くて……姉さんたちや加古さんに天龍さん。知らない所でも在りし日の機動部隊や駆逐艦の子たち。
 気が滅入ってしまいますね……。
 ただ、これは私だけの話じゃなくて誰の身にも起きていた話なんです。

 目の前で沈まれるのと、自分のいない時に失ってしまうのはどちらが悲しいのでしょう。
 ええ、すごくバカな話をしてるのは分かっているんです。どっちも悲しいに決まってるんですから。
 だって結果は同じじゃないですか。
 立ち会ったからって看取りになるとは限らないですし、見てなくてもいなくなってしまった事実は変わらない。
 ……結局は変わらないんです。失うということには。

 いつかは別れの時は来てしまいます。
 生きているのなら、それはどうやっても避けようがなくて。
 それでも私は手を伸ばしたかったんです。特にあの人には。私の司令官さんには。
 約束をしていたんです。
 いつかあの人と交わした競争の約束。どちらがより長く生きていけるかの競争をしようって。
 私は勝つ気でいましたけど、そう簡単に負けさせるつもりもなかったんです。むしろ最後に逆転されるぐらいでよかったんです。
 だから私は……。



284 : ◆xedeaV4uNo - 2016/08/27 11:28:53.91 F3HpfMvD0 207/702



三章 喪失 


 トラック諸島の夏島に設営された飛行場に双発のジェット機が着陸する。
 機体は軍で採用されている国産の連絡機で、民間のビジネスジェットを流用している。
 唯一の乗客はトラック泊地を預かる提督その人だった。
 機体が制止し安全確認が済むと、鞄を持った提督が機外に降りてくる。
 すぐに迎えに来ていた艦娘、木曾が近寄って声をかけた。

「よ、久しぶりだな」

「十日ぐらいしか経ってないのに久しぶりはないだろ、木曾」

 提督は答えながら半ば今更の疑問を抱く。木曾の格好は暑くないんだろうか。
 アイパッチは仕方ないにしても、いつも通りの帽子とマントだ。気温三十度に届く夏島に適した格好には見えない。
 昼下がりの頃で、まだこの暑さは続く。
 当の木曾は涼しい顔をしながら笑っていたが、額は汗ばんでいるようだった。

「普段から顔を合わせてりゃ、十日ぶりだって久しいもんさ」

「それもそうか。しかし意外だな。てっきり鳥海が迎えに来ると思ってたんだが」

「おいおい、俺じゃ不満だってか?」

「そうは言ってないよ」

「冗談さ。それと、これでも鳥海直々の指名だからな」

 木曾はそう言いながら提督を車まで案内し、道すがらに言う。

「鳥海は第八艦隊の練成で忙しいんだ。提督の代理もこなしながらだったしな」

「……苦労をかける」

「それは俺じゃなくて本人に言ってやれよ。あと高雄さんと愛宕さんも手伝ってたし、うちの不肖の姉だってそうだし」

「みんなに埋め合わせが必要ってことだな」



285 : ◆xedeaV4uNo - 2016/08/27 11:32:20.78 F3HpfMvD0 208/702



 木曾は言わないが、手伝いの中には木曾自身も含まれているのだろう。
 何をしてやるか考えていると、木曾は近くに停めてあったシルバーのセダンに乗り込む。泊地の公用車として納入されたものだった。
 提督が助手席に座ると木曾はエンジンをかけてエアコンを入れると、冷気が顔や首筋を心地よく抜けていく。
 一息ついて木曾は隣の提督に尋ねる。

「横でいいのか? こういう時は運転席の後ろだろ」

「隣のほうが話しやすいじゃないか」

「物好きめ」

 口ではそういう木曾だったが満更ではなさそうで、声には親愛の響きが含まれているような気がした。
 それにしても運転席に収まった木曾を物珍しく思う。

「運転できたのか」

「当然だ。お前こそどうなんだ?」

「代わりに運転しようか?」

「……いや、いい。人の運転する車に乗るのはどうも落ち着かない」

「ペースが合わないってやつか。確かに衝突しないか怖くなることってあるな」

「それなのかな……ま、ここじゃ対向車も滅多に来ないし、そこまで神経質になることもないんだが」

 木曾は車を走らせ始めた。トラック泊地までは車でも三十分はかかる。
 運転は荒くないが、スピードはかなり出しているような気がした。
 海上と同じ感覚で速度を出しているのかもしれない。


286 : ◆xedeaV4uNo - 2016/08/27 11:33:56.56 F3HpfMvD0 209/702



「そういや昼は食べたのか? 機内食ってあったんだろ」

「いや。中途半端な時間だったし、間宮でざるそばを食べたくなった。天ぷらもあるといいんだが」

 おいしいものが食べたいなと思い、提督は今になって木曾の言葉を実感した。

「確かに久しぶりだな」

「何が?」

「普段はそんなに意識してなかったけど、間宮で食べるご飯が待ち遠しいと思えてな」

「それで久々か。食い意地の張ったやつめ。花より団子か」

 木曾は運転しながら愉快そうに笑う。すぐに次の話を振ってくる。

「横須賀はどうだった? 視察もできたんだろ?」

「ああ、いい提督みたいでみんな元気そうにしてたよ。向こうじゃ睦月型と特型なんかが二代目だった」

「へえ……天龍と龍田もあそこだよな。どうしてた?」

 本当に木曾は天龍が好きなんだな。
 そう考えると提督はちょっとおかしくなる。

「向こうでも二人とも駆逐艦たちに懐かれてたな。相変わらずというかなんと言うか……ああ、木曾が顔出すならトラック土産を忘れるなとさ」

 木曾は余所見はせずに、しかし唸る。

「トラック土産ねえ……名物とか特産品なんてあるか?」

「土でも持っていくとか」

「甲子園じゃないんだからさ」

 笑う木曾に釣られて提督も笑う。
 そうして提督は言う。おそらく木曾が一番気にしているであろうことを。


287 : ◆xedeaV4uNo - 2016/08/27 11:35:12.79 F3HpfMvD0 210/702



「査問会は……罷免されずに済んだ」

「そりゃ朗報だ。提督が続けられるようで何よりだよ。頼りにしてんだぜ」

「ありがたいな」

「なら、そんな浮かない顔しなくてもいいだろ」

「面白い話じゃないからな」

 そういう自分の声はまるでふて腐れた子供みたいだ。
 提督はそう考えながらも、思い出すようにぶり返してくる不愉快さを持て余していた。

「上は何が不満だったんだ?」

「ワルサメをみすみす失ったのがお気に召さなかったらしい。空母棲姫なんかと交渉せずに交戦すべきだったのでは、交渉するならもっと粘って相手の腹を読み取れなかったのかと」

「言うだけならタダってやつか。いる時は無視してていなくなったら文句を言うって、どんな料簡だよ」

 木曾も腹を立てたみたいで、不思議とそれを見ると冷静になろうと頭が考える。
 ただ自分の代わりのように怒っているようにも見える木曾に提督は感謝した。

「だが言ってることはもっともだ。俺の判断がワルサメを追い込んだのは確かだから」

 他にやりようがあったはず。そんなことは何度だって考えた。
 ワルサメを巡って交戦した海戦から一ヶ月あまり。
 件の海戦は今ではトラック諸島沖海戦と名づけられていた。
 これまで勝ち星を重ねてきた海軍と艦娘たちにとっては、負け戦と苦い結果を残している。
 主目標であるワルサメの保護に失敗し、艦娘たちも喪失こそなかったが白露を初め何人もの艦娘が中大破の判定を受けていた。
 対して深海棲艦へ与えた損害が少なかったのも、その後の調査で判明している。
 海戦で得られたものは小さくないが、それでも負けは負けだ。



288 : ◆xedeaV4uNo - 2016/08/27 11:35:57.15 F3HpfMvD0 211/702



「けどワルサメは自分の意思で深海に帰ろうとして、あんたはその意思を尊重しようとしただけだろ」

「尊重する前に止めるという発想はなかったのか、ということだ」

 実際どうだったんだ。俺はワルサメを止めるべきだったのか、あるいは空母棲姫の要求を守らないで挑発したほうがよかったのか。
 ワルサメを守るためにできたことはもっとあったはず。
 危険なのは分かっていたんだ。それとも、そんな当たり前さえ気づけないほどに俺は抜けているのか?
 今となってはどうにもならないが、どうにもならないからこそ提督は苦い気分で車外を見た。
 気分はほとんど紛れない。

「どうにも引きずってダメだな……春雨もいるって言うのに」

 ワルサメと入れ代わるように夕立に保護されたのが春雨だった。
 白露型五番艦を自認し、そこかしこにワルサメの面影を残している艦娘。
 木曾が前を向いたまま声だけをかけてくる。

「俺はあの二人が同時にいるなんてこと、ありえないと思ってるぞ」

 それには提督も同感だった。
 ワルサメと春雨が同一人物とは思っていないが、互い違いのような存在だとは考えている。
 だから気にするなと木曾は言いたいのだろうか。
 過程を考えれば、よかったなどとは思えない。
 かといって春雨の存在を否定するような考えも間違えてると思える。
 ならば結果を受け入れて進むしかない。
 よく言うじゃないか。世界は回り続けている。



289 : ◆xedeaV4uNo - 2016/08/27 11:36:42.94 F3HpfMvD0 212/702



「そういえば白露はどんな様子だ?」

「心配いらない。春雨ともちゃんと話してたし」

「ならよかった。俺が最後に見た時は心ここにあらずって様子だったから」

 鳥海がいやに気にかけていたっけ。
 白露との間に何かあったのかもしれないと提督は考えているが、本人たちの口から出ない限りは詮索するつもりもなかった。

「少しは気が楽になったか?」

 木曾の問いかけに笑い返そうと思ったら、出てきたのは苦笑いだった。

「そうだといいんだが……あんまり気が休まらないかもな。もう難題はそこまで来てるし」

「どういうことだ?」

「この作戦名には聞き覚えがあるだろ?」



290 : ◆xedeaV4uNo - 2016/08/27 11:37:11.38 F3HpfMvD0 213/702



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 鳥海は提督に教えられた作戦名をおうむ返しにする。

「MI作戦ですか? ミッドウェーの?」

「ああ。数十年越しの第二次MI作戦と呼んだほうがいいかもしれないが」

 執務室で朝の仕事を始まる前に、提督がMI作戦が近日中に発令されると教えてくれた。
 MI作戦といえばミッドウェー島占領を狙った作戦で、旧大戦時での転換点にもなった戦い。
 そのMI作戦を強襲という形でまた行うらしかった。

「うちからも戦力を抽出してほしいと要請があってな。鳥海も指名されてる……というより、ここの主力を軒並みだ」

 内示という形ではあるが、トラック泊地からは戦艦と重巡、重雷装艦の全員、空母も龍鳳と鳳翔以外全て、駆逐艦も島風や白露型の上四人の姉妹などと主力の大多数を派遣するよう求められていた。
 こんなに出して大丈夫なんでしょうか、と鳥海は思うが聞かなかった。
 大丈夫でなくともやるしかないのだから。

「では雪辱戦というわけですね」

 『鳥海』もまた過去のMI作戦そのものには参加していただけに、悔いの残る戦いだと記憶している。
 作戦中に何をしたのかと問われたら、何もしていませんとしか答えられないのが当時の『鳥海』だった。
 参加するからには同じ轍は踏めないし、それぐらいの意気込みも必要だと判断する。

「でも、どうして今になって行うんですか?」

「それなんだが本土が空襲された」

「それって一大事じゃないですか!」

 色めき立って身を乗り出す鳥海に対し、提督は落ち着いて椅子に座っている。というよりも覚めた反応のように鳥海には見えた。
 提督が説明するところによると、一週間ほど前に深海棲艦の艦載機が少数で警戒網を突破して本土へ空襲を行った。



291 : ◆xedeaV4uNo - 2016/08/27 11:38:58.83 F3HpfMvD0 214/702



「被害らしい被害は出てないんだ。艦載機による空襲のみで数は少なかったようだし……ただ大本営や上層部の面子は丸潰れになった」

 それまで大本営や軍上層部は、艦娘の奮戦により今や前線は本土から遠く離れて脅威が去ったと強調していたという。
 それ自体に嘘はなくても誇張はあったみたいで、ところが空襲が起きた。
 深海棲艦が未だに健在で、戦争は続いてるという事実は国民に大きな衝撃を与えた。
 今の軍は国民に対してそこまで強くない。そうなると、どうしても汚点を拭う必要がある、と。

「そこで前から検討だけされてたMI作戦を実施することになったんだ。今回の敵は東から来たと見なされてるから、そっちの脅威を完膚無きに叩きのめしましたってね」

「それでMI作戦ですか……でも東ならミッドウェーより真珠湾を叩いたほうがいいのでは? というより向こうが健在なのにミッドウェーを叩いたって……」

「ミッドウェーでさえ遠いのに真珠湾は遠すぎるし、今回の作戦は政治的な理由が根っこにある。より勝率の高い作戦を成功させたほうが都合がいいんだよ」

「……戦略的判断ですね。私には難しくて分かりません」

 鳥海から出た皮肉に、提督はおかしそうに笑った。

「そう、戦略的な理由だ。どのみち命令なら従わなくっちゃならない」

 不本意に思っているのか、あまり提督の表情が冴えてない。
 納得はしてない、ということなんでしょうか。

「気がかりがあるんですか?」

「気がかりしかないよ。作戦の意図は分かるけど、政治的な判断を無視しても発動までの準備期間が短い。最前線の一つになるここから戦力を割くって発想も危うく感じるし」

 他にもMI作戦のための燃料や資材は、本来なら他で行われるはずの作戦を延期させて流用させるとのこと。
 提督の懸念はこの場当たり的な対応を批判するよう向いていた。
 だけど、と鳥海は考える。提督自身が口にしたように命令ならば従うのが道理で、何よりも提督の意見は知っている立場からの意見だと思った。



292 : ◆xedeaV4uNo - 2016/08/27 11:40:05.55 F3HpfMvD0 215/702



「司令官さん、事情はともあれ私はやったほうがいい作戦だと思います」

「というと?」

「後背を狙われるようでは、勝てる戦いだって勝てなくなってしまいます。それに民間人を危険に晒していい理由なんてどこにあるんですか?」

 提督は姿勢を正す。その動作がもっと話すよう促してる気がして、鳥海は話し続ける。

「昨年末、司令官さんは私をショッピングセンターに連れて行ってくれたじゃないですか。あそこは華やかで人々が笑いあっていて、私は好きです」

 司令官さんはあの中でどう感じたんだろう。
 鳥海は考え、今は自分の気持ちを伝えないとと思う。

「ああいう空気を守るというか保つというか……そういうのって大事だと思うんです。だからMI作戦にどんな事情があっても、その目的が誰かを守ることに繋がるのなら意味はあるはずですし、民間の方に軍の都合なんて関係ないのでは?」

 提督は感心するような目で見ていた。
 鳥海は急に気恥ずかしい気分になって視線を下げる。すごく青臭いことを言ってしまったような……。

「よく分かった。鳥海は正しいよ。どうも俺は物事を斜に捉えすぎてしまうのかもしれない」

「そんなことはないと思います……」

 司令官さんがそんな人だったら私は……そんなことは言わなくても分かると思った。

「止められないなら前向きに考えないとな」

 提督の表情が変わって、鳥海は安堵と緊張の入り混じった気分になる。
 これでこそ鳥海が司令官と仰ぐ人間だった。

「第八艦隊の様子は?」

「この一週間も引き続き練成に努めていたので、仕上がりは悪くないと思います」



293 : ◆xedeaV4uNo - 2016/08/27 11:41:07.32 F3HpfMvD0 216/702



 第八艦隊は深海棲艦の姫級との戦闘を前提に置いて新設された部隊で、砲雷撃能力を重視した快速艦による構成となっている。
 旗艦は鳥海とし、二番艦に高雄。以下にローマ、島風、天津風、長波、リベッチオと続く。
 姫級との決戦は元より、そのための戦線突破や防衛戦では遊撃隊として攻撃的に機能するのを求められての構成だった。

「後はできる限り、様々な状況を想定した演習を重ねて行くしかないかと」

「MI作戦が発令されたらパラオやタウイタウイに引き抜かれた艦娘たちとも一時合流する。彼女たちを相手にするといい」

「そうですね。慣れた相手よりも得られる点は大きいかと」

 第八艦隊に集められた艦娘は艤装の性能は高く練度自体も秀でているが、必ずしも泊地の中での最精鋭というわけでもない。
 練度で言えば駆逐艦なら白露型から入れ替えられるし、性能で考えると武蔵は外せないはずだった。
 この辺りは泊地全体の戦力バランスも考慮されているが、提督から見た運用上の都合も色濃く反映されている。
 例えば武蔵の場合は二十七ノットという中途半端に思える速力を敬遠されていた。
 また長波を除いた駆逐艦は艤装が特殊なため、性能がばらけて独自規格の部品も多い。
 そのために連携を取るのに苦労する艦娘が集まっている。
 つまり第八艦隊は精鋭であると同時に寄せ集め艦隊でもあった。
 それを思うと鳥海からは笑顔がこぼれ、提督は不思議そうに見返すこととなる。

「なんだか第八艦隊らしいなと思って」

 今も昔も雑多でまとまりのない艦隊という感じで。
 そこに誇らしさを感じてしまうのは何故でしょうか……。
 それからしばらく二人は来たるMI作戦に向けて話し合った。
 主力の大半が不在の間の防衛計画の草案が必要だったし、臨時の秘書艦も任命する必要がある。
 一日で全てを片付ける必要はないが急ぐ必要もあった。
 そういった話し合いを二人で進め、一段落したところで提督は鳥海に聞く。



294 : ◆xedeaV4uNo - 2016/08/27 11:41:53.17 F3HpfMvD0 217/702



「鳥海、俺はあの時……前の海戦でどうすればよかったと思う?」

 鳥海はすぐには答えなかった。考えていたために。
 査問会でどういうやり取りが交わされ、何を言われたのかは初めから聞かなかった。
 司令官さんは話したければ話すし、そうでないなら話さないから。
 悔やんでるようには見えなかった。でも無関心ではなく気にしている。
 折り合いをつける一言がほしいのか、それとも自分とは違う見方を知りたいのか、まったく違う理由から聞かれたのか。
 意を汲むことはできない代わりに、嘘偽りのない正直な気持ちを言う。

「申し訳ないですが私にも分かりません。ですが司令官さんは悪くなかったと思います」

 もちろん提督の決断が最適だったかは鳥海にも分からない。
 そんなこと、誰に分かると言うんですか?

「司令官さんはあの時、これが正しいと思ったんですよね。確かに私たちはワルサメを救えなかったと思います……ですが、どうしても悪い相手を見つけたいのなら、それは約束を反故にした空母棲姫ではないですか」

 提督は答えなかった。真っ直ぐに鳥海を見つめていて、そうして今になって鳥海は気づく。
 査問会に呼ばれたからじゃなくて、もっとそれ以前に提督は納得していなかったんだと。
 ワルサメを救えなかったからかもしれない。それとも、そうなるきっかけを作ってしまった自分を許せないのか、あるいはそんな自分を責めて?

「白露さんは乗り越え始めましたし、夕立さんは埋め合わせをしようとしています。司令官さんだって……前に進みたいんですよね?」

「俺は……」

 提督の声は言葉にならない。弱々しく俯くように目を逸らす。
 司令官さん。あなたは自分で考えてるよりもずっと優しい人です。
 あなたが提督である限り、呵責は終わらないのかもしれません。
 だから鳥海は言う。心からの気持ちを込めて。

「あなたは何も悪くありません」



301 : ◆xedeaV4uNo - 2016/08/31 22:25:48.83 +6qwgSyL0 218/702



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 その室内に灯る光は淡かった。
 天井は白くおぼろげで、ほのかな温かみを発している。海中から空を見上げた時の光の色だと彼女は思った。
 壁や床が黒く塗り固められているのも、どこかで水底に似せようとしたのかもしれない。
 陸にいても、心はどこかで海に囚われたまま。
 あるいは海こそが自分たちの根源であり、どこにいても繋がりを忘れたくないという思いが喚起させるのか。
 望郷なのだろうかと考え、望郷とはなんだろうと思い浮かんだ言葉に彼女は疑問を抱く。
 彼女は――青い目をしたヲ級は自問に小首を傾げてみる。

「ヲッ」

 本人も無自覚な声とも音とも分からないささやきが漏れる。
 そんなヲ級に声をかける者がいた。港湾棲姫だ。

「マタ難シイコトヲ考エテルノ?」

「大シタコトデハアリマセン」

 ヲ級の正面、視線を下げた先に港湾棲姫が足を伸ばして座っている。
 その膝の上では別の姫が穏やかに寝息を立てていた。
 港湾棲姫やヲ級よりもずっと幼い少女で、肌も髪も新雪のように無垢な白さだった。
 前髪は短く切り揃えられ、一房だけ跳ねるように髪が飛び出ている。
 筆で刷いたような眉に丸みのある顔。
 深海棲艦は彼女をホッポと呼ぶ。
 港湾棲姫がホッポを見る目は穏やかだった。
 ヲ級もまたそんな二人を見ると、名状できない感覚に見舞われる。
 もどかしいような、放っておけないような。
 ただヲ級はその感覚がむしろ好きだった。

「ワルサメノコト、調ベガツイタヨウネ」

 今度はヲ級の横から声がかけられる。
 後に飛行場姫と呼ばれるようになる姫で、ヲ級を油断なく見ている。
 そんな飛行場姫に港湾棲姫が言う。



302 : ◆xedeaV4uNo - 2016/08/31 22:37:29.19 +6qwgSyL0 219/702



「マタ怖イ顔ニナッテルワ」

「ソンナツモリハ……」

 飛行場姫は自分の頬に触って表情を動かしてからヲ級に視線を向ける。

「ドウダ?」

「トキメクオ顔デス」

 飛行場姫は満足したのか、港湾棲姫に向けて胸を張って誇らしげな顔をする。
 一方の港湾棲姫はたおやかにほほえみ返していた。
 ふとヲ級は思う。この三人の姫はまるで本当の姉妹と呼ばれる間柄のようだと。
 外見に共通点が多いのも、ヲ級のその認識を強めていた。
 ただし深海棲艦に姉妹という見方は希薄だった。
 ヲ級自身、同型や同種と呼べる仲間は数多いが、そのいずれにも姉妹と感じたことはない。
 あくまで同じような姿形をした他の個体でしかなかった。
 飛行場姫が改めてヲ級に聞いてくる。

「サア、話シテクレナイ? 先ノ戦イデワルサメニ何ガアッタカ」

 ワルサメは帰ってこなかった。
 >An■■■、つまりは空母棲姫は、艦娘たちと交戦しワルサメは沈められたためだと説明している。
 しかし初めから空母棲姫を信用していない港湾棲姫と飛行場姫は、ヲ級を使って探りを入れていた。

「ワルサメハ初メニ>An■■■カラ攻撃ヲ受ケタ可能性ガ極メテ高イデス」

「ソレダト同士討チヨ……本当ニ?」

「戦闘ニ参加シテイタ者タチノ証言ヲ繋ギ合ワセルト、ソレガ一番アリエル話ニナリマス」



303 : ◆xedeaV4uNo - 2016/08/31 22:38:03.53 +6qwgSyL0 220/702



 飛行場姫は元より港湾棲姫も、この話を素直に受け入れられなかった。
 独善的で高慢な空母棲姫であっても、そこまでするはずはないとどこかで考えている節がある。
 なおも疑問を口に出そうとする飛行場姫より先に港湾棲姫が言う。

「先ニ全部説明ヲ……質問ハソノ後デ……ネ?」

 ヲ級は頷くと同胞からまとめた話を伝えていく。
 ワルサメが空母棲姫の攻撃を受けるなり、艦娘たちとの戦端が開かれた。
 その後、包囲を突破した艦娘たちがワルサメを奪還すると撤退していったが、それを最後にワルサメの反応は確認できなくなっている。
 ヲ級は淡々とした声で言う。

「私ハ>An■■■ガ大嫌イデスガ、故意ニ貶メルツモリハアリマセン」

「デハ……何カノ理由デ>An■■■ガワルサメヲ沈メタ?」

 飛行場姫の疑問に港湾棲姫が答える。

「ソウトモ限ラナイ……最後ニワルサメトイタノハ艦娘ノハズ。ソレハ確カネ?」

「ハイ」

「ソウナルト……艦娘ガワルサメヲ沈メタ可能性モアル……シカシ……助ケニ行ッテ、自分タチノ手デ沈メルノハ……不自然」

 ヲ級も港湾棲姫の見方に同感だった。
 彼女自身、自分が集めた話がどこかで食い違っているとも考えている。
 ただ、それゆえにヲ級は聞いた話を聞いた通りに語った。自分で話を作り上げないように。
 そこで飛行場姫が言う。自分の言葉が信じられないような顔をしながら。

「艦娘ハ……ワルサメノタメニ戦ッタノ?」

「理由ハ分カリマセンガ、ソノ可能性モ……」

 むしろヲ級はそれ以外の可能性を見出せていない。
 何が艦娘たちをそうさせたのかは理解できないにしても。



304 : ◆xedeaV4uNo - 2016/08/31 22:38:45.87 +6qwgSyL0 221/702



「ドウイウコト……ソモソモ何故ワルサメガ味方ニ撃タレル?」

「アノ子ハ……戦ウノガ好キジャナカッタ……」

 飛行場姫の疑問に港湾棲姫も正確には答えられない。
 ただし、そこに鍵があるとも港湾棲姫は考えたようだった。

「理由……人間? ソレトモ艦娘カ……コウナッテハ私タチモ独自ニ動ク必要ガアル……」

 港湾棲姫はヲ級と飛行場姫に目配せする。

「人間ハマタ大キナ作戦ヲ考エテイル。ソノ動キニヨッテハ>An■■■モ乗ジルツモリ……ダカラ私タチモソレニ合ワセル」

「……何ヲ考エテルノ?」

 飛行場姫は初めて不安そうな顔をする。
 港湾棲姫はそれに答えないでヲ級を見ていた。

「難シイ頼ミヲ聞イテクレル……?」

 ヲ級に是非もなかった。
 懸念をにじませた飛行場姫の顔は見えたが、港湾棲姫の頼みを断る理由はヲ級は持ち合わせていない。
 ヲ級にとって港湾棲姫は己の存在を懸けられる相手だった。



305 : ◆xedeaV4uNo - 2016/08/31 22:44:40.19 +6qwgSyL0 222/702



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 九月中旬。MI作戦が発令された。
 各鎮守府や泊地に散っていた艦娘たちは、それぞれ横須賀鎮守府かトラック泊地に集うよう命じられる。
 トラックにはパラオやブルネイ、タウイタウイから選抜された艦娘が集まり、二週間に渡る慣熟訓練の後にトラックを離れ横須賀組と合流。
 その後、作戦が本発動となりミッドウェー強襲のために出撃する計画となる。
 初めから全ての艦娘が横須賀に向かわないのは、深海棲艦の動きを多少は警戒したためだった。

 二週間という期間は瞬く間に過ぎていく。
 訓練最終日の夜になると作戦の成功と艦娘たちの無事を願い、立食形式のパーティーがトラック泊地の『間宮』で開かれた。
 提督からすれば久々に会う顔も多く、気兼ねなく話す機会を設けるための立食形式でもある。

 何人かとはそれ以前から話す機会もあったが、大半の者はすぐに訓練に入ってしまったし、話す機会があった艦娘とも実務的な話に終始してしまっている。
 このパーティだけで十分な時間が取れたとは言い難いが、近況の交換も兼ねて提督は話を聞いていく。
 元からトラックにいる艦娘たちとも話さないわけにもいかず、提督は常に誰かと話している状態だった。
 パーティが終わって艦娘たちが部屋に戻り始めるまでの三時間、提督は水に少し口をつけたぐらいで何も食べずに過ごしていた。
 妖精たちが後片付けを始めた段階になって、提督に声がかけられる。
 鳥海と、その姉の高雄だった。

「お疲れ様です、司令官さん」

「まさか本当にずっと喋りっぱなしとは……」

 笑顔の鳥海と、高雄はその中に少しの呆れを織り交ぜているようだった。
 そんな二人は手に食べ物の載った皿と飲み物を持っている。
 提督のために用意された物だというのは、二人の顔を見ればすぐに分かった。

「取っておいてくれたのか。夜をどうするか考えてなかったんだ」

「そんなことじゃないかと思いました」

「提督はもう少し自分の都合を優先させても構わないと思いますが」

「優先させた結果がこれなんだ」



306 : ◆xedeaV4uNo - 2016/08/31 22:49:46.33 +6qwgSyL0 223/702



 妖精が室内の後片付けをしているのを尻目に、元の位置に戻されたテーブルの一つに座る。
 正面の席に二人も座る。改めて見ると、二人が取り置いた料理は一人で食べるには多すぎる量だった。

「私たちも頂いてよろしいでしょうか?」

 鳥海がそう言ってくれたのは渡りに舟だった。
 三人で冷めてしまった料理に手をつけていく。

「しかし助かったよ。一食ぐらい抜いて大丈夫でも腹は空くからな」

「姉さんが取りに回ってきてくれたんですよ」

 どうです、と自慢するような調子の鳥海だった。
 高雄はすぐに口を出す。

「最初に用意しておこうと言ったのは鳥海じゃない。私は自分が食べる分と一緒に取り置いただけで……」

 高雄は何か口ごもってしまう。
 なんとなく歯切れの悪さを感じるが、その原因は提督にも分からない。
 この場で触れる話題とは思えず、引っかかりを残したまま他のことを言っていた。

「ということは高雄にやらせたわけか。姉をアゴで使えるようになったなんて、鳥海もしたたかになったじゃないか」

「もう、その言い方はどうかと思います……私が全部食べちゃいますよ?」

 怒ってるのか怒ってないのか、困りはしてもそこまで困らないことを言い出す。
 鳥海は言葉とは裏腹に笑っていて、高雄もそれに釣られて笑う。
 考えすぎだったのかもしれない。提督はそう思うことにして、三人での遅くなった夕食を楽しんでいた。
 しばらくすると『間宮』の入り口に、スミレの花のような色の髪をした艦娘が顔を出した。陽炎型の萩風だ。

「司令か鳥海さん、お時間よろしいですか?」

 萩風は肩で息をしている。もしかしたら、ここに来るまで探し回っていたのかもしれない。
 ただ、どちらか片方でいいということは緊急の案件ではないのだろう。



307 : ◆xedeaV4uNo - 2016/08/31 22:50:41.39 +6qwgSyL0 224/702



「私が行ってきます。司令官さんと姉さんはごゆっくりどうぞ」

 鳥海はそう言うと席を立ち、萩風と一緒にどこかに消えていく。
 その様子を見送った高雄が言う。

「萩風……嵐と一緒に秘書艦に起用したそうですね」

「鳥海がいない間の臨時だけどな」

 そこで提督はどこか懐かしく思い出す。
 懐かしむほど昔の話でもないが、そう感じてしまうのは現在に至るまでに多くの出来事があったからだろうか。

「鳥海を秘書艦にした時も、こんな感じだったような気がするな」

「あの時は……まだ私が秘書艦でしたね」

 高雄は目を伏せ、遠くを思い出すかのように言う。

「不向きな子に秘書艦をやらせてみたい……でしたっけ。それで、あの子が抜擢されるとは思いませんでしたけど」

「鳥海の場合は不向きじゃなくて、俺の興味みたいなものだったからな」

 高雄の言う理由で秘書艦を変えてみようと検討していた頃だった。
 深海棲艦のはぐれ艦隊を迎撃するために、鳥海を旗艦にした艦隊を当たらせて……そこで同じ艦隊にいた島風の独断に本気で怒ったんだ。
 あの時から、俺と鳥海の関係は始まったんだろうか。
 高雄型、というより艦娘全体で見ても鳥海は目立たない艦娘だった。
 大人しい優等生という印象で、それ自体は今でも変わっていない。
 ただ鳥海はそれだけじゃなくて、提督はあの時にそれを思い知らされたという話だった。
 本気で怒った鳥海は島風の頬を叩いた。しかし提督もまたある意味では叩かれていたのかもしれない。
 あの日、あの時。全ては小さな偶然の連鎖だったのかもしれない。今ではそれが一つの形になっている。
 あるいはこの形も誰かにとっての偶然の連鎖になって、何かの形を生み出すのかもしれない。



308 : ◆xedeaV4uNo - 2016/08/31 22:53:11.41 +6qwgSyL0 225/702



「……面白いもんだな」

「何がです?」

「ああ、悪い。独り言だから気にしないで」

 良い結果も悪い結果もどこかで繋がっている。
 俺は悪くない――か。
 そう簡単に割り切れる話でもないが、いつだってやることは同じだ。ならば、その言葉を信じてもいいじゃないか。

「鳥海なんですけど」

 高雄が急に言う。
 意識が逸れていたのに気づいて、他にも何か言っていたのかが提督には分からない。

「鳥海?」

 取り繕うように言うと、高雄は小さく頷く。

「あの子、よく提督を見ていますね。この調子だと食べ損ねるから、こっちでご飯を取っておかないとって」

「俺の行動が計算しやすいってことじゃないのか?」

 ああ、そういうことかと安心しつつ提督は応じる。
 しかし安堵の気持ちはすぐに消える。
 高雄の表情はどこか茫洋としているようだった。焦点が分からず、提督を見ているようで見ていないようにも思える目をしている。
 その目つきに提督は不安になる。



309 : ◆xedeaV4uNo - 2016/08/31 22:54:54.62 +6qwgSyL0 226/702



「私では同じ立場でも、そう考えられなかったと思います」

 高雄は表情を変えずに言う。
 提督は少しばかり返答に詰まった。
 仮にそうでも何の問題があるんだと言いたくなり、高雄がどうしてこんな話をしてるんだとも考える。

「なあ、そのさ……」

 もし鳥海に、妹に劣等感を抱いているなら、そんなことはないと言いたい。
 ただ、それをそのまま指摘しても逆効果にしかならないだろう。
 そもそも本当に劣等感があるのかも分からない。高雄は自分の気持ちの隠し方を心得ている。

「同じ判断と同じ見方しかできなかったら面白くないだろ」

 遠回しすぎるだろうか。
 手探りで進むのは嫌いじゃないが、それでも避けたい状況はある。
 たとえば、今この時のような相手の真意が分からず、どう転んでも袋小路に陥りそうな状態とか。

「それに鳥海は高雄が思うほどには完璧じゃないし、まだまだ助けが必要で――」

「そんなの提督がやることじゃないですか。提督でなくても摩耶もいるし木曾だっています。他にも……あの子はもう私の助けを必要とはしていません」

 高雄らしくない言い方だった。その物言いは冷たすぎないか。まったく高雄らしくない。
 そんなこと口にしたら、何がどうなら高雄らしいのかと逆になじられそうな気もするが。
 それとも鳥海を通して、俺に不満があるのだろうか。
 たとえばカッコカリの指輪のこととか……提督はそこまで考えても結論は出せなかった。
 提督は話せることだけを今は言う。



310 : ◆xedeaV4uNo - 2016/08/31 22:55:33.98 +6qwgSyL0 227/702



「それでも鳥海にとって高雄が大切な姉なのに変わりはないよ」

 鳥海が高雄をどう話すのか教えたほうがいいのかもしれない。
 第八艦隊を新設する時、どれだけ高雄が補佐についてくれるのを喜んだかを。
 だが提督はやめておくことにした。
 それは自分の口から語るようなことではない気がしたし、少しの時間と機会さえあれば解決すると分かっていた。
 その機会がこの場とは思えない。
 今は何を言っても素直に受け入れてもらえないか、高雄自身を苦しめてしまうだけのような気がした。
 提督はすっかり味気なくなった食べ物を口に運ぶ。
 時間が経ってふやけたようになった揚げ物だった。ある意味、この場にはぴったりの食べ物かもしれない。

「……すいません、こんな話をして」

「気にしてないさ」

 高雄は悄然としていた。抑えきれない感情なのかもしれない、高雄にとっては。
 提督は思う。どうにも自分にはあまり落ち込んでいられる時間もないらしいと。
 まあいいさと、胸の内で言う。今まで乗り越えてきたんだから、今回だって乗り越えていくしかないじゃないか。

「俺だって高雄を信じてる」

「そんなの……無責任です」

 仕方ないだろ。
 無責任に聞こえても信じてるのは本当なんだから。



316 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/08 10:21:56.80 2JEquu7+0 228/702



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 二週間の慣熟訓練を終えて、MI作戦に参加する艦娘たちは出雲型の輸送艦に揺られながらトラック泊地を発つ。
 提督は臨時秘書艦の嵐と萩風の二人を伴って、埠頭から艦影が見えなくなるまで見送った。
 潮風が穏やかなのは、航海の無事を表していると今は思いたい。

「行ってしまったか……無事に帰ってくるといいんだが」

「司令がここで心配しても仕方ないさ。みんな立派な艦娘なんだから、どーんと構えてなって!」

 嵐は腰に手を当てて勝気な笑みを見せる。笑い飛ばすまではいかないが、それでも十分に快活な笑い方だった。
 男前な嵐の発言に提督は力づけられたような気になる。

「頼もしい限りだ」

「へへ、でも気休めじゃないぞ。司令だってみんなを信じてるんだろ」

「ああ」

「俺や萩はどう?」

「変わらなく信じるさ」

 未熟なところもあるが、とは思っても言わない。
 嵐は力強く頷く。隣で話を聞いている萩風ははにかむように笑っていた。

「やっぱり心配いらないじゃんか。司令が信じる俺が大丈夫って言うなら、それは大丈夫だってことだよ」

 なるほど。嵐流の三段論法か。
 理屈ではないが、こういう考え方は悪くない。
 気分をよくしたところで二人を連れて引き上げた。
 艦娘たちがごっそり減って、書類周りとの格闘や事務仕事は大幅に減っている。しかし完全になくなったわけじゃない。
 航空隊を運用していれば燃料や弾薬は消費するし、夕張と明石が新兵器を開発すれば運用試験も発生してまた資材も動く。
 他にも食料の管理やら予算管理などもあって、どうあがいても書類というやつからは逃げられなかった。
 それでも仕事量は減っているので、細かい仕事が苦手だと思い込んでいる嵐に一度任せてみる。



317 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/08 10:24:01.32 2JEquu7+0 229/702



「えー……こういうのかあ……」

「ぼやくな。午後になったら紅白演習なんだから、それまでに憂いは断っておきたいだろ?」

「そうだよ。がんばろ、嵐?」

 見送りの時と打って変わって、嵐は積まれた書類を前にげんなりとしていた。
 提督や鳥海からすれば少ないの一言で片付く量でも、日の浅い嵐には山のように高く見えるのかもしれない。
 嵐本人は細かい事務仕事は苦手だと思っているようだが、実際にやらせてみると逆だった。
 苦手意識があるのか好みでないのかは定かではないが、少しぐらいは実感を伴わせる形で払拭させておきたい。
 目安の時間をそれとなく伝えてから、提督は萩風を誘って別の資料を取りに行く。
 萩風の性格上、嵐を手伝いたくなってしまうかもしれないので引き離すのが目的だった。

「わざと嵐を一人にするんですか?」

「分かってるなら話が早い。少し付き合ってくれ」

 どうやら取り越し苦労だったらしい。
 二人で資料室に向かう。
 海戦の詳報や公式としての日誌を保管しているのだが、数はまだまだ少なくいくつも用意された棚はがらんどうのようになっている。
 骨組みだけの模型のようだと提督は思った。
 これはトラック泊地が設立されてから日が浅いという証明でもあった。
 探す物が少なく、資料室で目的の日誌をすぐに見つけてしまう。
 戻るには早すぎるので、明石の工房に顔を出すのがいいのかもしれない。
 そんなことを考えていると萩風に聞かれた。

「司令、どうして私たちを秘書艦に選んだんですか?」

「鳥海と話し合って二人に任せてみようって決めたんだ。もしかして重荷なのか?」

「いえ! そういうわけじゃないんですけど」

 萩風は慌てて手を振る。大人しくはあるが、変なところで物怖じしない節がある。
 だから、こういう疑問にもどんどん踏み込んでくる。



318 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/08 10:25:07.00 2JEquu7+0 230/702



「球磨さんや多摩さん、同じ駆逐艦でも海風や夕雲も残ってるのに、どうしてその中から私たちなのかなって」

「単純に二人の働きに期待してるからだ。それに萩風も嵐も、いつまでもここにいるつもりはないんだろ?」

「それは……」

「俺としてはここに四駆を勢揃いさせるつもりはない」

 萩風は言い淀む。トラック泊地には陽炎型が四人いるが、少し他とは違う事情がある。
 まず天津風は僚艦不在の島風と組ませるために留まってもらっている。
 艤装や兵装をある程度、共有できている点も大きい。
 それから秋雲。彼女の場合は本人が半ば夕雲型のつもりでもあったので、どちらのいる側に行くかで話し合いになっている。
 挙句の果てにはネームシップとしての秋雲型を作ろうとまで言い出した。
 だが、これは陽炎と夕雲の猛反対にあって潰えている。長女には長女の矜持があるらしい。
 最終的に秋雲は自分の意思で、夕雲型のいるトラック泊地に残った。
 そして萩風と嵐は――。

「二人だって野分と舞風と一緒にちゃんとした四駆を組みたいだろ」

「それはもちろん……ですが」

 どうも萩風は煮え切らない様子だ。
 特殊とはいえ陽炎型二人が残ると決まった時、二人だけではバランスが悪いのではないかという話が持ち上がってきた。
 整備面でも駆逐艦なら二人よりもう何人かいたほうが、かえって部品の融通を利かせられるという。
 そういったこともあって、当時の陽炎型では最も誕生が遅くて練度も低かった嵐と萩風の二人も預かることになった。



319 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/08 10:27:19.62 2JEquu7+0 231/702



「送り出す以上は色々覚えていってほしいんだ。秘書艦をまともに経験できる艦娘って案外少なくなりそうだし」

「お気持ちは嬉しいですけど、いいんでしょうか……ずっと司令のお力になれないのに、そこまでしてもらって」

「あくまで臨時だからな。ずっと力になってくれるって話なら、俺には鳥海がいる」

 だから気にするなと言ったら、萩風は頬を赤らめているように見えた。
 見間違いか? 今の話に萩風が恥ずかしがるような要素はなかったと思うんだが……なかったよな?
 ただの思い違いだろうと提督は気に留めないようにする。
 特に理由もなく棚から関係のない日誌の束を取り出すと萩風に押し付ける。

「ここにいた艦娘が他所に移っても活躍できるほうが俺は嬉しいし、そういうのは巡り巡って自分に楽をさせてくれると思ってる」

 他の鎮守府や泊地が成果を出していけば、トラック諸島への圧力は減るし担当海域だけに専念できるようになる。
 それは悪くない話だったし、トラック出身の艦娘は使い物にならないと思われるのもしゃくだ。
 そういった事情を差し引いても。

「ここを離れたとしても萩風も嵐も先は長いんだ。だったら色々教えてやりたいじゃないか」

 それは提督の正直な気持ちだった。
 提督は萩風に意味もなく押し付けた日報を返してもらうと元の棚に戻す。
 これこそ無駄だと思い、提督は乾いた声で笑う。

「そろそろ戻るか」

「はい! でも嵐は終わっているでしょうか?」

「終わってなかったらどうする?」

「どのぐらい残ってるか見て考えます。あとちょっとなら一人でがんばってもらいますし、たくさん残ってたら手伝って……その後、なんでそんなに残ってたのか聞いてみます」

 萩風は笑う。その顔はイタズラを企んでるような子供っぽさがあるように提督には見えた。
 嵐が絡むと、素の反応みたいな部分が見え隠れするらしい。


320 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/08 10:28:37.59 2JEquu7+0 232/702



「嵐にももっと色々なことができてもらわないと、ですよね?」

「ああ、その通りだ」

 提督は自分の役目は艦娘に何かを教えていくことだと思っていた。
 ただ萩風を見て、それは少し違うのだと悟った。
 彼がやるのは教えることではなく、そうできる環境を作っていくことなのだと。
 猫といた妖精の話を思い出す。艦娘とは可能性の形なのだと。
 ならば自分は整えていくだけでいい。あとは艦娘は自分たちで自由に考えて思うように生きていく。

「ああ――そういうことか」

 提督はどうして提督であり続けたいのか、今になって分かった気がした。
 深海棲艦との戦争に終止符を打ちたいのかも。
 提督は見ていたかった。艦娘がどうなっていくのかを。そこに交わる人間に何ができるのかを。
 全ては可能性だ。この戦争はそれをいずれは飲み込んでしまうかもしれないから、終わらせたいと思うんだ。

「どうかしたんですか?」

 聞いてくる萩風に提督は答える。
 本音と誤魔化しが半分ずつだった。

「鳥海に会いたいと思って」

「司令。さっきお見送りしたばかりじゃないですか」

 萩風も今度は笑っていない。物忘れの激しい相手を見るような生暖かさが視線に含まれている。
 そんな眼差しを向けられては冗談とも言えず、提督は肩をすくめて資料室を後にするしかなかった。



321 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/08 10:31:31.87 2JEquu7+0 233/702


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 月が雲に覆われて明かりの弱い夜だった。
 月明かり以外の光源がない宵闇の中、青い炎が人魂のように揺らめいて動く。
 炎は本物の火でなければ人魂でもなく、ヲ級の左目が燃えるがごとく輝いているためだ。
 青い目のヲ級は暗がりから空を束の間、見上げていた。
 ヲ級は夏島にある手つかずの藪に身を潜めている。
 ヤシ科の植物が地の底から天へと指を広げるように葉を伸ばし、赤や白の本来なら鮮やかな花は闇の中では影の塊のようになっている。
 藪とは言っても、人の背丈ほどもある草木が鬱蒼と生い茂っていた。
 森を凝縮したような藪だった。それが段々と地続きに広がっている。
 一口に藪とも森とも呼ぶにはあまりにも深かったが、身を隠すにも絶好の場所だった。

 ヲ級が夏島に侵入するまでには、かなりの時間を要している。
 日中は哨戒機からの発見をさせるために海底に潜伏し、日が沈んでからは潮の流れに沿って時間をかけて近づく。
 なんとか他の深海棲艦たちが動き出す前に島への上陸を果たし、目的の第一段階は達したという状態だった。

 ヲ級は喉をくすぐる渇きを感じている。
 深海棲艦のほとんどは陸生に適していない。彼女たちの多くは陸に上がると、猛烈な渇きに襲われる。
 例外が姫たちであり、人間のように適量の水さえあれば陸上でも支障なく活動できた。
 レ級や青い目のヲ級も陸生に対していくらかの適性を、あるいは耐性を有している。
 もっとも、あくまで多くの深海棲艦よりも適しているだけで姫たちほどではなかった。
 その時、ヲ級の頬に冷たい物が当たる。

 ヲ級は歓喜の声を漏らす。
 冷たい物は二度三度とヲ級の顔を叩くと、耳の奥で唸る音を立てながら一気に落ちてくる。
 雨――スコールだった。
 海にいる時ほどではないがヲ級は体が濡れるのを喜んでいるのを実感する。胸が躍っている。
 雨だけでも活力が戻るのは、陸上にある程度は適応している証明でもあった。
 やはり大半の深海棲艦はそうもいかない。深海棲艦にとって、未だに陸地は安住の地ではない。
 気力が充実したヲ級は移動を始める。できる限りトラック泊地に近づく必要があった。
 港湾棲姫が彼女に頼んだ使命は、そうしなくては果たせない。



322 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/08 22:42:28.37 2JEquu7+0 234/702



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 嵐と萩風は二人とも元から訓練には真面目だったが、秘書艦に据えてからはさらに熱が入っているようだった。
 基地航空隊を巻き込んでの防空戦闘から、不得意な夜戦訓練まで着実にこなしていく。
 充実した時間は着実に過ぎ去っていき、気づけばさらに二週間が経った。
 MI作戦の推移は秘匿されているので分からないが、すでに横須賀を出てどこかの海上にいるはずだった。
 頼りがないのはいい知らせでもないが、万事が順調に進んでいる。そんな日々だった。

 しかし実際には深海棲艦の蠢動を見落としていて、気づいた時には事態はまずい方向に進んでいた。
 始まりはタウイタウイ泊地への空襲だ。
 およそ二百機からなる編隊による空襲で、これにより同地に残っていた艦娘や基地施設に被害が生じる。
 敵戦力は機動部隊で、主力を欠いたタウイタウイ単独の戦力では撃退は困難と見なされ、すぐにブルネイやパラオからなけなしの戦力で救援の艦隊が編成された。
 深海棲艦はタウイタウイ周辺に留まる気はなかったらしく、救援の艦隊が到着する頃になると姿を消してしまう。

 同じ頃、マリアナに向けて進攻する深海棲艦の艦隊が哨戒機に発見された。
 哨戒機は撃墜されるまでに、総数は百を越えているとの通信を入れている。
 またワルサメを巡って生起したトラック諸島沖海戦で認知された三人の姫に複数のレ級を含んでいるとも伝えていた。
 正確な規模や数字こそ不明でも、これこそが本命の主力なのは間違いなかった。

「どうなってしまうんでしょう……」

 通信文を受け取った萩風の声は上擦って聞こえた。表情が硬く緊張した面持ちだった。
 普段は勝ち気な嵐でさえ、次々と入ってくる情報に気圧されたのか口数が少ない。

「やれることをやるしかないだろ」

 そう、やれることはある。しかし勝利に繋がる選択肢は少なそうだった。
 トラック泊地ではタウイタウイ空襲の一報の段階で、深海棲艦の襲来に備えて警戒を強化している。
 しかし、あくまでトラック泊地への攻撃を警戒したものであって、トラックを飛び越えていきなりマリアナを狙われるとは考えていなかった。
 旧大戦時のように飛び石をやられるにしても、先に攻撃はあるはずだと考えていた。



323 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/08 22:47:03.98 2JEquu7+0 235/702



「連中にとっても、このタイミングでの主力の露見は誤算だったのかもな」

「早すぎたってこと?」

「ああ。もっと近づくまで隠れていたかっただろうからな」

 嵐の質問に頷きながらも提督は悩んだ。マリアナに支援のための戦力を出すかどうか。
 深海棲艦の動きには明確な意図がある。
 マリアナ攻略が第一目標で、そのためにタウイタウイへ陽動も行っている。
 それも主力の艦娘をどこも欠いているタイミングでの攻撃だ。
 こちらの動きを読んでいるのか、通信を傍受して内容を解析したのかは分からないが、すでに深海棲艦の術中に陥っている。
 だから提督にも分かっていた。マリアナへの支援が可能なトラック泊地が無視されるはずはないと。
 早晩、トラック泊地の動きを封じるために深海棲艦が姿を現し攻撃をかけてくるはずだった。

「やっぱりトラックが襲われるのは間違いないのかな?」

「俺が敵ならそうする。マリアナ狙いなら、どの程度の力を入れてくるかは分からないが」

 あくまで牽制を狙うのか、あわよくばトラック諸島の奪還を目指してくるのか。
 嵐と萩風の表情を改めて見て、提督は二人に笑いかける。

「そんな不安そうな顔をするな。四駆の名が泣くぞ」

「不安なんてそんな! ただ……ちょっとびびっただけだ!」

 それを不安と呼んでるんだ。
 しかし強がりを言えるのなら問題ないな。萩風も嵐の態度を見て少しは落ち着いたようだった。
 提督はすぐに命令を下す。



324 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/08 22:53:53.49 2JEquu7+0 236/702



「萩風は各島の避難状況の確認を」

 トラック諸島には軍属の人間やその家族、あるいはそういった層を商いの対象と見なして新天地にやってきた民間人たちが少なからずいる。
 また、と号作戦実施の段階では不明で提督にも意外であったが、各島の内陸部には現地民が多く生存していた。
 タウイタウイが襲撃された段階で前者は島を脱するための輸送船へ、後者は内陸部に新たに建造された避難所へ向かうように避難勧告を出していた。

「嵐は残っている艦娘全員を作戦室に招集を。非戦闘艦娘にもだ」

 すぐ了解の返事をした萩風に対して、嵐は返事が遅れた。
 提督は噛んで含めるように言い直す。

「言っただろう、全員にだ」

 嵐は弾かれたように頷いた。
 二人の臨時秘書官が動く中、提督はマリアナ泊地に連絡を取って、向こうの提督に基地航空隊の運用状況を確認する。
 航空機用の燃料や爆弾の備蓄を聞き出し、それから先方へと提案した。
 翌日夜明けと共にトラックから敵主力艦隊へ航空攻撃を行うので、攻撃後の航空隊をマリアナの各基地で収容し運用してもらえないかと。
 トラックからでは片道攻撃になってしまうし、損傷機も出てくる。しかしマリアナに降ろせば残存機はそのまま戦力として運用できる。
 この提案は快く承諾されたが、本当にいいのかとも念押しされた。提督に言えるのは一つだけだった。

「マリアナを落とさせるわけにはいかないでしょう」

 結局はそこになる。
 トラックにも襲撃があると分かりきっているのに戦力を割くのは賢明ではない。
 しかしトラックを維持できたとしても、マリアナが陥落するようなことがあったら補給に支障が生じる。
 フィリピンやインドネシアを経由しての補給路はあるが、マリアナを失えばそれも脅かされるようになってしまう。
 そうなっては元も子もないし、旧大戦の二の舞はごめん被る。
 どちらか一方しか守れないならマリアナを優先して守ったほうがいい。それが提督の判断だった。
 提督はパラオにも救援要請を出そうとして思い留まる。
 パラオではすでにタウイタウイへ支援を行っていたのですぐには動けないし、そちらを襲った機動部隊が今度はパラオを狙う可能性もある。
 ――あるいは長駆してトラックを襲うかもしれないが。



325 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/08 22:54:45.25 2JEquu7+0 237/702



 どちらにせよ、そんな状況で余計なプレッシャーを与えるような真似はしたくなかった。
 だからパラオには、これから民間人を乗せた輸送艦と護衛の艦娘が避難するとだけ伝えるに留める。
 最後に本土の大本営にMI作戦の中止と、参加艦娘をマリアナに急行させるよう具申した。
 それから提督は萩風から避難状況を聞き、作戦室で招集された艦娘一同と顔を合わせた。
 前置きを省いて艦娘たちに現在の状況とこれから想定される展開を説明していく。

「――以上の状況からトラック泊地はマリアナへ航空隊を派遣する。みんなには島の防衛艦隊と護送船団に分かれてもらう」

 提督は編成を伝える。防衛艦隊には球磨と多摩、夕雲型と龍鳳。
 護送船団には嵐と萩風に五月雨と春雨に改白露型。夕張と大淀。鳳翔に秋津洲。また大事を取って明石と間宮、伊良湖も護送船団と一緒に退避させる。
 ただし、と提督は付け加える。

「ここを襲撃する敵艦隊の規模によっては防衛艦隊もパラオまで退避してもらう」

 すぐに球磨が異を挟んでくる。
 球磨から伸びた一房の髪がクエスチョンマークのように提督には見えた。

「それじゃあトラックはどうなるクマ?」

「一時放棄して、こちらの戦力が整い次第に再上陸作戦を行う」

「提督はどうするクマ?」

「できれば拾ってもらいたいが、無理なら残って航空隊の指揮を執る。その後は避難所に隠れておく」

 あそこなら武蔵の砲撃にも耐えられるよう建設されてるし食料の備蓄もある。あくまで非常手段だが。
 球磨はため息をつくように言う。

「それなら時間稼ぎでもなんでもするクマ。提督がいなきゃ意味がないクマ」



326 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/08 22:55:48.69 2JEquu7+0 238/702



「助かる。でも、まだ放棄すると決まったわけじゃないぞ。敵情を見て、その可能性もあるって話だ」

 球磨だけでなく、他の艦娘たちも見ながら提督は言う。
 言いながらも、実際にはどうだろうと思う。口ではこう言っていても撤退も端から視野に入れているのは。
 民間人を逃がすために護送船団を組織するとはそういうことだ。
 全ては相手次第か。勝ち目のない戦いはしたくない。

「他には……」

 そこで嵐が手を挙げる。
 促すと嵐は萩風と頷きあった。何故だか嫌な反応だと提督は思った。

「俺と萩も守備艦隊に入れてほしい!」

「私からもお願いします!」

 嘆願する二人に嫌な予感が当たったと提督は思う。
 理由によっては怒る。声を努めて抑えるよう意識して嵐に言う。

「嵐を巻き起こしたいからか?」

「ち、違う!」

 慌てて否定する嵐に重ねて問う。

「護送船団じゃ不満か?」

「それも違う!」

 強い否定に少し安心する。提督はそんな内心を見せずに言う。今度は萩風を見て。



327 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/08 22:57:46.10 2JEquu7+0 239/702



「やつらにとって重要な戦いなら必ず姫かレ級がいるはずで、そいつらはもうマリアナで確認されている。どういうことか分かるな?」

「ここに来るのは主力じゃない……ということですか……?」

 自信がなさそうに萩風は言うが、その通りに提督は考えている。
 トラックに現れる深海棲艦はマリアナと比べれば、貧弱な艦隊のはずだった
 ただしトラック泊地に残っているのは、せいぜい二個水雷戦隊を編成できる程度の戦力と少数の航空隊でしかない。
 主力でないとしても撃退できる規模の敵とは限らなかった。
 それに何事にも絶対はない。未知の姫がいるかも知れない。

「だから今は大人しく――」

 提督の言葉を遮るように嵐が訴える。

「違う! 違うぞ、司令! 俺たちだってここを守りたい! 司令にとっちゃ俺や萩は外様かもしれないけど、ここは俺たちにも家みたいな場所なんだ!」

 萩風が畳みかけるように言葉を重ねてくる。

「私も嵐と同じ気持ちです。どうか私たちにも機会を……相手が主力じゃなくても戦うのなら命懸けで、ここを守るための戦いなら命を懸ける意味があると思います!」

 二人の気持ちは本物のようだった。
 そこまで言うのならやらせてみよう、と思う。一方でその判断は情に流されすぎてやいないかとも提督は考える。
 正直に言えば不安はある。だが迷う時間も惜しくて、折れたほうがいいと判断した。

「夕雲、そっちから誰か二人を嵐、萩風の両名と交代させる」

「ええ、そのほうがいいでしょう」

 話を振られた夕雲は怒るわけでも嘆くでもなく、おっとりと笑っていた。

「みんな、秋雲さんも……くじ引きで護衛船団に行く者を決めます。恨みっこなしでいきましょう」



328 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/08 22:58:30.83 2JEquu7+0 240/702



 そうして代わりに選ばれたのが早霜と清霜だった。
 ひとまずの話し合いは終わり、後は作戦に備えるだけになる。
 全員を解散させた後に多摩が話しかけてきた。

「あの二人は球磨と多摩で面倒見るから安心してほしいにゃ」

 嵐と萩風を指してるのは明らかだった。

「苦労をかける」

「いいってことにゃ。それより提督も覚悟を決めるにゃ」

「なんの覚悟を?」

「また誰かを失う覚悟にゃ」

 そんなのはもうずっと前からできてるよ、多摩。そう見えてなかったとしても。



─────────

───────

─────



 深海棲艦が姿を見せたのは翌日の朝だった。
 発見された敵の数はおよそ二十でル級やリ級、ヌ級にチ級と多様な艦種からなる編成をしていた。
 バランスの取れた編成で、同時に厄介だと提督は思う。
 状況に応じて対応を変えられる柔軟性を持った艦隊だからだ。
 しかし望みもある。敵艦隊の編成は上陸を意図したものには見えず、あくまで牽制が目的のようだった。

「球磨、防衛艦隊の出撃だ。深入りだけはするなよ」

 嵐と萩風にも何か言おうかと思ったがやめた。
 球磨と多摩なら何かあっても抑えてくれるだろうと当てにして。
 提督は基地航空隊にも出撃を命じる。
 稼働機は連山と銀河が一二機、疾風が二十機という状態だった。
 マリアナに送った分がなければ、航空隊だけでも撃滅できたかもしれないが、それを考えてもどうにもならない。
 ここまで来たら艦娘や妖精を信じるしかない。それに状況は思ってたほどには悪くないんだから。
 何故だか指輪をはめた薬指が痛かった。



334 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/12 23:02:34.44 TeXnuecF0 241/702



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 曇天の空の下。どことも知れない海上をいくつもの輸送艦が波をかき分けて進んでいる。
 鳥海は輸送艦の甲板に立って、前方や後続の輸送艦の列や空と海を視界に入れていた。
 元いたトラック近海よりも肌寒く感じるのは、緯度がもっと高い位置にいるからだった。
 各輸送艦の周囲には直掩として駆逐艦の艦娘たちが交代で併走している。
 ジンベイザメとコバンザメみたい。大きさの対比だとそう思うけど、海に出てしまえば私もまたコバンザメだった。
 気を紛らわせようとあれこれ考えてみても、心配が同じ場所に落ち着いてしまう。心は近くよりも遠くに向いている。
 この数日、鳥海はぼやけた痛みを感じていて、痛みの出所をかざすように掲げた。左手の薬指を。

「やっぱり、まだ痛むのかしら」

 後ろからの声に鳥海は振り返る。高雄姉さんの声だと思いながら。
 予想通りに高雄が短めの髪を潮風に吹かれていた。

「太って指がきつくなったのかもしれませんね」

 嘘にもならない嘘を言っても、どちらも笑わなかった。
 前にも指が急に痛くなったことがある。と号作戦の折、司令官さんに危険が迫った時に。
 その時と比べると、今の痛みは弱くて急を訴えてくるような強さはない。けれども不安がじんわりと沁みてくる。
 意気込んで参加した自分の愚かしさを嗤うように。

「司令官さんに何も起きてなければいいんですが……」

「そうね……でも今は心配しても仕方ないわよ。それに私はあなたのほうが心配よ、鳥海」

「私がですか?」

 頷き返す高雄に鳥海は目を伏せる。
 痛みのこと――そして何か起きるかもしれないというのは、鳥海も周囲に話していた。
 今回の旗艦を務めている長門にも話は伝わり、その上で長門から艦隊司令部にも話が通ったがMI作戦は継続となっている。
 当たり前だった。
 根拠が一艦娘の勘でしかないのに作戦に変更があるわけがない。
 鳥海はそう自覚していたが、同時に苦しくもあった。取り返しのつかない状態に突き進んでるみたいで。

「悩むなとも迷うなとも言わないけど、海でそれを出されるのは怖いもの」

「そうですね……気をつけます」

「ええ。でも、ここで私に言うのは構わないわよ?」



335 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/12 23:08:11.06 TeXnuecF0 242/702



 高雄はそう言うと相好を崩す。そんな姉に鳥海は安心した。
 ここで考え詰めるよりは話したほうが気が楽になるのも分かっていた。
 そうして鳥海が口を開こうとした時、艦列の先頭艦が回頭を始める。
 針路変更のためなのは分かるけど、ほとんど一周回るように動く。
 現在地が分からずとも西進しているのは分かっていた。これでは真逆で引き返す動きだった。

「どういうこと?」

 同じ疑問を抱いたらしい高雄が呟く。
 摩耶が慌てた様子で姿を見せる。

「鳥海、姉さんも!」

「何かあったのね?」

「マリアナへ転進だって。敵の大艦隊が現れたとか」

「それで転進を……このまま救援に向かうのね?」

 高雄の質問に摩耶は頷く。
 回頭が終わると輸送艦たちも速力を上げていく。
 少しでも速くマリアナに到着するためだろうし、状況はそれだけよくないとも。
 鳥海は摩耶に訊く。

「摩耶、トラックの様子は分かる? マリアナを狙うなら、あそこも無視はできないと思うけど……」

「ごめん、そこまではあたしも……」

「ううん、気にしないで。まずはマリアナから、でしょう?」

 こうなってしまった以上、マリアナに襲来したらしい敵を撃退しないことには話にならない。
 痛みは消えてないけど、このままMI作戦を遂行するよりずっといいと思えた。
 だけど痛みと共に生じた思いが今また戻ってきている。
 ……私は初めからここにいてはいけなかったのかもしれない。



336 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/12 23:14:06.03 TeXnuecF0 243/702



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 トラック泊地を出た防衛艦隊は複縦陣の隊形を取り、先頭には球磨と多摩が位置していた。
 球磨には萩風が、多摩には嵐が後続として従っている。これは球磨たちが名指しで指名したためでもある。
 さらに後ろを夕雲型が続き、間に龍鳳が入ってから殿を風雲と沖波が務めていた。
 艦隊の針路は東方。最後に発見された敵艦隊の予想位置に向けて行軍する。
 先頭にいた多摩は後ろの嵐を見て近くに来るよう手招きをする。
 それに気づいた嵐が加速して多摩に近づく。
 通信を介さずとも互いの声が聞こえるぐらいまで近づくと、嵐は減速して斜め後ろから併走する。

「なんです、多摩さん?」

 嵐の問いかけに、多摩は普段と変わらないひょうひょうとした様子で言う。

「改めて言っておくにゃ。海に出たからには球磨と多摩の指示には従ってもらうにゃ」

「分かってます」

「だったら、さっきみたいなのは当然なしにゃ」

 嵐は聞き返さない。多摩の言うさっきには心当たりしかない。
 それを裏付けるように多摩は付け加える。

「あまり提督を困らせないでやってほしいにゃ」

「……すいません」

 嵐は素直に謝る。
 神通や大井のように普段から厳しい艦娘よりも、多摩のような穏やかな艦娘に注意されるほうが嵐にはより失敗を痛感させた。



337 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/12 23:30:01.61 TeXnuecF0 244/702



「昔、よかれと思って提督の命令を無視して行動した艦娘がいたにゃ。その艦娘は作戦を成功させたけど、提督や一緒にいた僚艦にも傷を残していったにゃ」

「……俺もその艦娘とおんなじだってことですか?」

「似てるところはあるけど違うにゃ。多摩はこの先、嵐が同じようになってほしくないだけにゃ」

「……覚えときます」

「忘れないでほしいにゃ。あ、あと外様って言うのもなしにゃ。提督はそんなこと考えて何かをやってるわけじゃないにゃ」

「そうですか? 俺や萩が秘書艦やってるのだって、その辺が関係あるんじゃ……」

「あったとしても外様がどうとかは関係ないにゃ。嵐が外様みたいな疎外感を持ってるのなら、それは嵐自身の問題にゃ。提督にどうこう言うのは違うと思うにゃ」

 嵐は言い淀む。嵐は別に疎外感を感じているつもりはないはずだったが、無意識で出てきた言葉なら暗にそう感じていたのだろうかと。

「ま、嵐ばっかりに言っても仕方ないにゃ。萩風にも言っておかないとにゃ。だから今は無事に帰るにゃ」

「はい!」

 敵艦隊に向けて進んでいく内に、先だって出撃していた龍鳳の攻撃隊が戻ってくる。
 トラック泊地の陸攻隊と協同して攻撃を行っていたが、戻ってきた数は十機にも満たない。
 それだけで攻撃隊の成果が芳しくなかったのが、うかがい知れた。
 収容作業に入った龍鳳に、トンボ釣りも兼ねた護衛に風雲と沖波が就く。
 すぐに龍鳳が攻撃隊の成果を伝えてくる。

「第一次攻撃は失敗です! 敵空母の艦載機はほとんどが戦闘機で構成されていました!」

「戦闘機ばっかりなんて、こっちの真似っこクマ」

「敵も学んでいるということですね……」

 球磨と夕雲がそれぞれ感想を口にする。

「こっちが空襲を受ける心配がないのはよかったかもにゃ」

「……だといいクマ」



338 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/12 23:35:16.94 TeXnuecF0 245/702



 その後も敵との接触を求めての移動が続く。
 水偵は射出していない。満足に制空権も取れていない状況では、徒に落とされるのが関の山だった。
 予想接敵時刻が近づいた頃、水平線上に黒い塊がいくつか見えてくる。敵艦隊だ。

「球磨、何かみんなのやる気が出るようなことを言うにゃ」

「そんなのは球磨のお仕事じゃないクマ。でも、みんなに言っておきたいクマ」

 球磨は視線は正面から動かさず、張りのある声で一同に伝える。

「球磨たちは居残り組クマ。けれど練度では決してMI組にも劣ってないと思うクマ。それを今から証明しようと思ってるクマ……だから力を貸してほしいクマ」

 夕雲がすぐに笑い声に乗せて応じる。

「喜んで。私たちがいてよかったというところをお見せしましょう」

 いくつかの声が続く。意欲を見せる中には嵐もいた。

「そうさ、俺たちは今こそ巻き起こすんだ。嵐を。暗雲を吹き飛ばすような最高の嵐を巻き」

「ポエムはやめるにゃ」

「こ、これは抱負を語ったまでです! 抱負を!」

 顔を赤らめる嵐を多摩は面白そうに見ていた。

「……嵐はいじりがいがありそうにゃ」

 そんな艦娘たちだったが、彼我の距離が思うように近づかない。
 異変に気づいた多摩が呟く。

「……深海棲艦が退いてるにゃ?」

 距離が縮まらない理由は他になかった。

「警戒を厳に後退するクマ!」

 球磨の判断は速かった。深海棲艦のいる正面方向に注意しながらも艦隊に回頭を促す。



339 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/12 23:41:40.39 TeXnuecF0 246/702



「警戒を厳に後退するクマ!」

 球磨の判断は速かった。深海棲艦のいる正面方向に注意しながらも艦隊に回頭を促す。

「後退ですか?」

 萩風が球磨に聞き返す。体の動きは命令に従っていた。

「後退クマ。球磨たちの目的は泊地を守ることであって敵艦隊の撃滅じゃないクマ」

 交戦しないままに球磨たちは引き上げ始める。
 前方から後方に変わった深海棲艦は送り狼をすることもなく、水平線上から姿を消していた。
 嵐は後ろを何度か振り返るが状況は変わらなかった。

「どういうつもりだったんだ、あいつら?」

「こっちと正面切って戦う気はなかったということにゃ。まんまと誘い出されても事にゃ」

「むぅ……」

 不完全燃焼、といった様子で嵐は不満げにうめく。
 次の機会があると言おうとした多摩だったが泊地からの緊急通信が届く。
 基地航空隊の偵察機が泊地南方で敵機動部隊の反応を感知し、敵は艦載機をすでに発艦させたとのことだった。
 艦載機の攻撃目標が泊地なのか、球磨たち防衛艦隊かは不明だった。

「龍鳳、戦闘機を上げる準備クマ! 艦隊陣形も輪形陣に変更、中心は龍鳳クマ!」

「タウイタウイを襲ったやつらかにゃ?」

 しばらくして続報が入り、この攻撃隊は泊地と艦隊の二手へと分かれたと判明した。
 その情報に萩風が泊地の方角を見つめる。遠目にも入道雲が差しかかっているのが分かる。

「提督や泊地は大丈夫でしょうか……」

「今はこっちの心配が先クマ。乗り切ったらすぐに泊地に戻るクマ!」



340 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/12 23:43:20.79 TeXnuecF0 247/702



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 ヲ級が生い茂った藪からなる物陰から見守る中、空襲を行った艦載機たちが帰投していく。
 攻撃目標になった泊地の建物は外壁を砕かれ、抉られたように破孔がうがたれている。
 生物でいえば体内が露出し、内臓や血管を露わにしている状態かとヲ級は考えた。
 他にも敷地内にはいくつもの穴が作られ、火災も生じている。
 この様子では司令部機能にも影響が出ているかもしれない。

「>An■■■メ、余計ナ真似ヲシテクレル」

 事前の取り決めにより、トラック泊地への牽制は港湾棲姫が受け持つはずだった。
 しかし今の空襲はタウイタウイ泊地を襲撃した空母棲姫の手勢によるものだ。
 端から取り決めを守る意思がないということだった。
 いら立つヲ級だったが、消火作業の様子を目の当たりにして考えを改める。これは好機かもしれないと。
 小人のような妖精たちがホースやバケツを抱えて忙しなく立ち回る中、白い制服の男が現れたのをヲ級は遠くから見た。
 提督の姿を確認できたし、今の空襲でも無事だったのを確認できた。
 再攻撃があるかは不明だが、提督も何かしらの動きは起こすはず。
 その時こそが狙い目だとヲ級は考え、さらに待つことにした。

 消火作業が終わって小一時間が過ぎた頃、小さな車が列をなして泊地から出て行く。
 車の数は計六台で、装甲車のようだがサイズが小さい。

「アレデハ人間ハ乗レナイ……」

 明らかに大きさが合わない。運転しているのは妖精だと当たりをつけたヲ級は、どこに向かうつもりか興味を抱いた。
 一方で提督がいないのなら留まるべきだとも判断する。
 艦載機を放てば妖精たちの追跡も妨害もできるが、電探に捉えられる可能性が極めて高い。
 ここまで隠密裏に入り込めたのを確信しているヲ級としては、露見は可能な限り避けたいリスクだった。
 ヲ級の存在が発覚すれば、それまでの苦労が全てが水泡に帰してしまう。



341 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/12 23:44:01.33 TeXnuecF0 248/702



 明らかに大きさが合わない。運転しているのは妖精だと当たりをつけたヲ級は、どこに向かうつもりか興味を抱いた。
 一方で提督がいないのなら留まるべきだとも判断する。
 艦載機を放てば妖精たちの追跡も妨害もできるが、電探に捉えられる可能性が極めて高い。
 ここまで隠密裏に入り込めたのを確信しているヲ級としては、露見は可能な限り避けたいリスクだった。
 ヲ級の存在が発覚すれば、それまでの苦労が全てが水泡に帰してしまう。

 ヲ級がさらに待つと雨が降り出した。
 顔に粒が落ちたと思ったら、それはすぐに耳を圧する大雨へと変わる。
 ヲ級は泊地に一気に近づくことにした。
 入り口の門は空襲の被害を免れたようで、コンクリート作りの外壁がそのまま残っている。
 物陰から飛び出したヲ級は素早く門の角に身を寄せ、周囲の様子を窺う。
 降りしきる雨の中に、他の生物の気配はなかった。

 その時、ヲ級の耳が打ちつけてくる風雨とは別の音を拾う。
 動物が身震いするような音、エンジンの駆動音だった。それも一台分だけ。
 ヲ級はその場で気配を殺すようにして待つ。
 渇きを感じていないのはスコールのためか、好機到来のための興奮かはヲ級にも分からない。
 呼吸を整えていると一台の車が門を抜けていく。
 銀の車ですれ違った時に運転席に提督が収まっていたのを確かにヲ級は見た。

 水上ならまだしも陸上では自動車の速度には敵わない。
 ヲ級は球状の戦闘機を一機だけ射出した。ここまで来たら勝負に出る。逃がすつもりはかけらもない。
 攻撃目標は提督の乗る車。その前方だった。
 車体に銃撃を命中させるわけにはいかないが、行く手も塞がなくてはならない。
 その点、ヲ級の艦載機は的確に使命を果たしたと言える。
 艦載機から放たれた機銃は、提督の乗る車の前面に着弾し泥を粉砕する勢いで巻き上げた。
 車はコントロールを失って道路から逸れると、太い木に衝突して停まった。



342 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/12 23:48:55.39 TeXnuecF0 249/702



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 目を覚ました時、提督が最初に感じたのは頭を押さえつけるような痛みだった。
 何が起きたのか分からなかった。
 提督はエアバッグに覆い被さっていた体を起こすと、溺れかけた時のように速くなっていた呼吸をなんとか抑えようとする。
 手足はついていた。肩や腹に食い込んだシートベルトが痛くて、外すと少しだけ体が楽になる。

 提督は落ち着きを取り戻すに連れて何があったのか思い出し、すぐにでも車から離れなくてはいけないのを悟った。
 運転中に目の前が爆ぜたように見えて、ハンドルを切り損ねて道路から飛び出した。
 なんでそんなことになった?
 車から降りる時になって右足を痛めたのに気づいた。
 引きつる痛みに加えて熱を感じたが、提督は足を引きずるようにしながらも車から出る。
 降り出していた雨が瞬く間に服ごと体を濡らす。貼りつく服が今は重たい。
 幸いというべきか道はすぐ近くに見えた。

 空襲があったのを提督は思い出す。
 通信用のアンテナをやられて、艦娘たちと連絡を取れなくなった。
 それで他の場所に用意している臨時の指揮場に移るはずだった。
 妖精たちには日誌や作戦書を預けて先に出発させたんだ。臨時は臨時でしかなくて、使えるようにするには準備がいるから。
 必要によっては処分する情報も、自分で持ち歩くより妖精に預けたほうが確実だった。
 それから最後に見落としがないか確認してから車に乗って――。

「ヲ級……」

 車道に戻って泊地の方向を見て、提督は呟いた。
 青い幽鬼のような目をしたヲ級が、提督へと駆けながら近づいてくる。
 何故こんな所にヲ級がいる? 俺を狙ってる? 何が目的だ? 逃げられるのか? 艦載機の仕業か?
 いくつもの疑問を抱えたまま、提督もまた走ろうとする。
 そして倒れた。右足に力が入ってなかった。



343 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/12 23:50:33.48 TeXnuecF0 250/702



「こんな、ところで!」

 両手をぬかるんだ地面に着いて体を奮い立たせると、たたらを踏むように走り出す。
 濡れた軍衣の鬱陶しさも、容赦なく叩きつける大雨も今は二の次だった。
 右足を引きずりながら、右の踵が地面に触れる度に膝まで痛みが走る。
 ヲ級は提督の何倍も速く近づいてきた。実際にはそこまで速くはないが、追われている提督からすればそれだけ圧倒的だ。

「止マレ」

「いや、だ!」

「逃ガサナイ」

 ヲ級の伸ばした手が提督の体をかすめる。
 闇雲に走る提督だったが、背中の圧迫感に思わず振り返った。するとヲ級の姿が消えていた。
 その時、安心するどころか悪寒が体中を突き抜ける。
 前を向き直ると、ヲ級がすでに回り込んでいた。
 ヲ級は置いてある荷物を取るような無造作で両手を突き出してくる。
 提督は右足をついた痛みのままに体を崩すと、その腕をかいくぐって横をすり抜ける。
 かいくぐった。と提督が感じた瞬間には地面に引きずり倒されていた。
 生温い感触が背中を押さえつけている。ヲ級の手だった。

「殺すのか!」

「ソレナラ、コンナ面倒ハシナイ」

 ヲ級が提督の体を俯せから仰向けにめくり、眼下に見下ろす。
 青い目からは提督は感情を上手く読み取れなかった。ただ、思っていたほどには凶悪そうには見えない。
 ヲ級は帽子のようにもクラゲのようにも見える外殻の口から、触手を使って何かを取り出すのを提督は見た。
 それが何かを見届ける間もなく、ヲ級が提督に顔を近づけ覗き込む。

「人間カ。オ前ハ何カ違ウノカ?」

 首筋に鋭い痛みが走ったと思うと、何かが流し込まれる。
 何かを打たれた。何かを。何を?
 提督の頭には鳥海が思い浮んだ。助けを呼びたかった。声は出てこない。息が吸えない。目の前が暗くなっていく。胸がつまる。
 まただ、と提督は思った。
 左の薬指が痛い。



347 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/16 22:35:10.85 roj5okr10 251/702



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 マリアナでの戦闘が終息してから、MI組は補給と修理のためにマリアナ泊地に寄港した。
 そこで彼女たちが不在の間に何が起きたのかを知らされた。もちろんトラック泊地の状況も、提督のことも。
 そうしてトラック泊地に戻ってきた鳥海らMI組を待ち構えていたのは、破壊されて復旧途上の泊地だった。
 トラック泊地が空襲を受けてから四日目のことだ。
 合流を果たした艦娘たちは互いの労いもそこそこに、復旧の済んだ作戦室で当直を除いたほぼ全員が集まって情報交換を行うことになった。
 始まる前に鳥海は高雄に頼む。

「姉さん、代わりに説明してもらってもいいですか?」

「もちろん、それは構わないけど……」

「ありがとうございます」

 押し付けるつもりはなくても、端から見ればそう見えてしまうのかもしれない。
 高雄はそれについて何も言わなかったが、その表情には憂慮の色が浮かんでいた。
 姉さんがそんな顔する必要なんてないのに。鳥海はそう考えたが言えない。
 会議という形で情報交換は始まった。見渡す限り、MI組も残留組も表情は暗い。
 まずは高雄が代表して話す。

「どこから話しましょうか……まず私たちはMI作戦を中止してマリアナ諸島防衛へと転戦することになりました」

 MI組がマリアナの戦闘に参加したのは、トラックが空襲を受けた翌日の話になる。
 マリアナでの海戦は航空戦に終始し、MI組の出番は空母を除けばほとんど対空戦闘だけだった。
 この時点で深海棲艦の主力は基地航空隊やマリアナの残留艦隊との交戦もあって、少なからず消耗していた。
 戦況が変わったと見ると、マリアナ攻略を諦めて深海棲艦は速やかに撤退している。

「マリアナ防衛には成功しましたが、手放しで喜べるような状態ではありませんでした」

 高雄は一息つくと用意された水に口をつける。
 鳥海は高雄と目が合った。気遣われているように感じたのは、私が気遣われたいからかもしれない。
 そんな必要なんてないのに。鳥海は姉の視線から隠れるように目を伏せた。
 視界を塞いでいる内に高雄が話を再開する。



348 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/16 22:36:11.38 roj5okr10 252/702



「マリアナ泊地の被害ですが、一言で言えば甚大です。航空機だけでなく艦娘にも戦没者が……」

 マリアナでは元の所属機とトラックからの合流と合わせて七百機近い航空機が投入されたが、数次に渡る攻勢で半数近くが未帰還。
 その後、修理不能と見なされた機体を含めると、合計で七割弱を失う結果になった。
 またマリアナに残っていた艦娘はいわば二代目以降の艦娘がほとんどで、戦闘経験の乏しい艦娘が大半だった。
 彼女たちは質でも量でも勝る相手に善戦したが、多くの戦没者も出している。その中には二人目の鳥海も含まれていた。

「こんな言い方はよくないのですが……こっちはみんなが無事で安心してます」

「……みんなでもないにゃ」

 聞かせる気があったのか定かではないが、多摩の声だった。
 ともすれば沈黙に包まれてしまいそうな空気の作戦室では、その声はよく通った。
 鳥海はマリアナで補給を受けた際に聞いた話を思い出す。
 二人目と同じ艦隊にいたという、やはり二代目の綾波型たちが鳥海に涙ながらに話しかけてきた。
 もう一人の鳥海は自らを囮にして、海域で孤立気味だった彼女たちが後退する時間を稼いだという。
 その結果、二人目は帰らなかった。
 綾波型たちは鳥海に感謝していた。しかし、そんな綾波型たちに何も言えなかった。
 それはあっちの鳥海の奮闘であって、私の働きじゃない。
 私に感謝なんてしないでほしかった。
 彼女は勇敢に戦って死んだ。彼女は何かを守れた。だけど私は。

「……向こうで休んどくか?」

 摩耶が小声でささやいてくるので鳥海も小声で答える。

「ううん、大丈夫」

「ならいいけど、無理すんなよ」

 無理なんかしてない。鳥海はそう思うが言わない。
 この数日で摩耶以外からも何度も同じようなことを言われて、何度も同じ答えを返してきたからだ。
 心配しないでほしかった。



349 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/16 22:38:58.57 roj5okr10 253/702



「向こうも大変クマ……ここからはトラックの話をするクマ」

 高雄から話を引き継いだのは球磨だった。
 航空戦に終始していたのはトラックの防衛に就いていた艦娘たちも変わらない。
 泊地への攻撃は一度きりで、艦載機による泊地と防衛艦隊への同時攻撃だった。
 攻撃が分散されて一波当たりの機体数は少なかったが、それでも被害は出ている。
 何人かは空襲で負傷したが、いずれも空襲から三日も経てば治療は済んでいた。
 工廠やドックは重点的に守りを固められていたので、機能は損なわれていなかった。
 それでも泊地全体で見ると様々な施設が被害を受けている。何よりも――。

「……本当にすまないクマ」

 気づけば球磨が鳥海にそう告げていた。
 球磨の話の途中から上の空で聞いていた。だから何を言っているのか、頭には意味のある言葉として入ってこない。
 一つだけ、ずっと鳥海の頭の中を占めているのは。

「司令官さんはいないんですね」

 話を中断する形で言う。
 球磨は苦しそうに顔を歪めながらも鳥海から目線は逸らさなかった。

「……そうクマ」

 提督は空襲の際に行方をくらませていた。
 何があったのか詳細はまだ分かっていない。ただ深海棲艦が関与しているのは間違いなさそうだというのが、艦娘たちの見解でもある。
 泊地が空襲を受け司令部機能に問題が生じた。それから仮設の司令部に移動しようとしていたところまでは確認が取れている。
 その移動中に何かが起きて、道中で大木と衝突して乗り捨てられた車が発見された。
 また提督が移動しているはずの時間、島内でごく短い間だけ深海棲艦の艦載機の反応が対空電探に引っかかっている。
 誤報も疑われたものの、今となっては深海棲艦の介入を証明しているようだった。

「そんな顔はしないでください。今はできることから、司令官さんのことは後にしましょう」

「クマ?」

 球磨は心底驚いたように目を丸くする。
 鳥海は平静に見える様子で言う。



350 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/16 22:40:48.74 roj5okr10 254/702



「泊地の復旧具合はどうですか?」

「あー……基地機能は妖精のお陰で復旧して、電気も水道も問題ないクマ。基地航空隊は大半がマリアナに行ったっきりだから稼働機はわずかクマ。当面の問題はそこクマ」

「ではマリアナ泊地に連絡して、戦闘機隊だけでも引き上げられるか要請……いえ、打診しましょう」

 艦娘だけで、本当にそんな要請をするのは越権行為になってしまう。
 あくまで形式は打診という形にしておく。
 司令官さんさえいればこんなことには……そう考え始めた鳥海は、その考えを頭から捨てるように意識する。

「まずは立て直しです。こんなところを襲われたら、ひとたまりもありませんからね」

 鳥海の意見に反対する者はいない。
 結局のところ誰もがどこかでそうするしかないのは分かっていたし、鳥海が率先して意思表明をしたのも後押しする理由になった。

 それから数日、鳥海は提督の代行として精力的に働いた。
 新任の提督の選定には時間がかかっているようで、しばらくは艦娘たちだけで泊地を管理する日々が続く。
 深海棲艦の活動は各地で見られない。大艦隊を動かすのは向こうにとっても負担というのが大勢の見解だった。
 トラック泊地ではパラオに避難していた艦娘たちも戻り、破壊された建物の修理こそ終わっていないが元の様相を取り戻しつつあった。
 それでも完全に戻ることはない。

 鳥海は執務室を間借りする形で、日々の仕事をしていた。
 定時を過ぎて日付が変わる付近まで仕事をする。
 当初は目に見えてあった仕事も日を追う毎に減っていき、ついには彼女の裁量でこなせる範囲は片付いた。
 残る問題は補給が届いてからなど時間が解決するか、越権でもしない限りは片付かない問題だけとなる。
 この数日よりは早く仕事を終えた鳥海は執務室の電気を消そうとして、急に寂しさに襲われた。
 息を詰めて、彼女は自分の情動が収まるのを待つ。
 激流のような衝動は耐えていれば静まる。鳥海は一度だけ目元を拭ってから深呼吸をした。
 口や喉が不自然に震える。それでも声を押し殺す。
 鳥海は左の薬指を握る。今はもう痛みを感じない。



351 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/16 22:41:46.91 roj5okr10 255/702



─────────

───────

─────



 鳥海はあまり眠れない日々が続いている。
 睡眠時間が減りだしたのはMI作戦に帯同していた頃からで、当初は緊張のせいぐらいにしか考えていなかった。
 日が経っても解消せず、マリアナで提督が行方不明になったのを聞いてからはさらに悪化していた。
 それでも疲れが溜まれば眠気も催す。
 パジャマに着替えた鳥海はベッドに潜り込む。

 鳥海は夢を見て目を覚ました。
 夢の内容はいつも忘れてしまう。ただ提督がいたとは思っている……いたと思っていたかった。
 忘れたくないけど思い出したくない。そんな矛盾した気持ちを抱えて、また寝に入ろうとして上手くいかなかった。
 その日もあまり寝つけないまま起床時刻を迎えた。

 起きないと。そう考える鳥海の体は意思に抵抗して動かなかった。
 自分の体でなくなってしまったように自由が利かない。
 こんなの、ただの思い込み。そうに違いない。
 司令官さんがいなくて、苦しくて、ふて腐れたみたいになってるだけ。
 だから起きよう。今日も起きて司令官さんらしいことをして……らしいことって何?
 鳥海はベッドから跳ね起きた。
 つもりだった。実際には体は何もしていない。

 泊地の復旧はもう時間の問題で、鳥海が手を出せる部分はなかった。
 今までは泊地の復旧という目標を盾に、向き合うのを先延ばしにしていた事実が迫ってくる。



352 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/16 22:42:36.00 roj5okr10 256/702



 提督がいない。誰にも知られずに消えてしまった。
 助けを求めていたのかもしれない。だけど私はそばにいなかった。
 なんで作戦に乗り気になってしまったんだろう。
 私はまた何もできなくて、見殺しにしてしまったんだ。
 鳥海は顔を手で覆った。消えてしまいたかった。

 あの子は沈んだ。戦って仲間を守るために。
 死んでしまえばお終い。だけど、あの子は自分の望みのために死力を尽くしたんだと思う。
 本懐を遂げた。そう言っていいのか鳥海には決められなくとも、もう一人の鳥海が懸命だったのだけは分かる。
 それに引き換え、私は何もできなかった。命を賭けられず、約束も守れず、失くしたのも認められないで。
 空の明るさが鳥海には目の毒だった。

 鳥海は思い出す。
 提督と初めて一夜を過ごした夜、お互いに長生きしようという約束を交わしていた。
 あの時、私は確かに希望に満ちていた。どんなことでも司令官さんと一緒なら乗り越えていけるんじゃないかって、信じていた。
 左手を掲げる。カーテンの隙間から入り込んでくる日差しが室内に明かりをもたらし、鳥海は飾り気のない指輪を見る。
 投げ捨ててしまえばいいのかもしれない。司令官さんは、きっとこんな私でも受け入れてくれる。
 でも投げ捨ててしまったら、私自身が二度と自分を許せなくなる。今でも許せてないくせに。

 大切な約束。
 そんなに大切な約束なら……私は絶対に司令官さんの側を離れちゃいけなかったんだ。
 消えてしまった提督。壊れた泊地。もう一人の鳥海。そして誤った判断。
 その朝、張り詰めていた鳥海の緊張がついに切れた。
 鳥海は情緒を抑えきれなくなり、失意の海に沈んでいった。



358 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/20 23:53:39.34 4Ie/W/GS0 257/702



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 ノックの音で鳥海は目を覚ました。
 時間、と考えて倦怠感に見舞われる。
 さらに続いてドアを叩く音が部屋に転がり込む。部屋の鍵は開いたままだから好きにすればいいのに。

「高雄よ」

 姉さん、と言おうと口を動かそうとしても動作に対して声が続かない。

「入らせてもらうわ」

 ため息と一緒に吐き出されたように鳥海には聞こえた。
 鳥海は今更ながら自分がパジャマのままで、しかも毛布に包まったままなのに気づいた。
 どうしようと思い、別にどうでもいいという考えに上書きされる。
 普段の鳥海ならありえない考え方だったが、同時にそれは退廃的で魅力的とも感じた。
 高雄は入ってくるなり眉をひそめる。起床の時間はとっくに過ぎていたらしくて、それで様子を見に来たらしい。

「起きなさい。そうやって腐ってるつもり?」

 高雄は鳥海を見下ろしながら言う。下唇を噛む表情は怒っているとも悲しんでいるとも、あるいは悔しがってるようにも見えた。
 その視線に耐えられずに鳥海は顔を背けてしまう。
 鳥海は起き上がろうとしなければ、高雄も無理強いはしなかった。

「窓、開けておくわよ。締め切ってても体に毒でしょ。暑くなってきたら閉めて冷房を入れなさい」

「……はい」

「話せるなら、しゃんとなさい」

 責めるような言葉に胸が締めつけられる。鳥海は反射的に答えていた。

「ごめんなさい」

「鳥海」

「ごめんなさい」

 謝るばかりで鳥海は高雄を見ようともしない。



359 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/20 23:54:29.54 4Ie/W/GS0 258/702



 高雄はベッドに手をつくと鳥海を上から覗き込む。

「謝るなら私の目を見て言いなさい」

「……ごめんなさい」

 高雄の表情が心配するよう不安げに変わる。
 ごめんなさい。もう一度言う。
 姉さんをそんな顔にさせる気も心配させる気もなかったんです。でも、どうしていいのかも分からないんです。
 鳥海のその気持ちは声にならなかった。
 言葉を詰まらせた高雄は妹から離れる。次にかけた言葉は優しい声だった。

「しばらく休んでなさい。あなたは今まで十分よくやったわ」

 高雄は背を向け、部屋から出て行こうとする。
 その背中に鳥海は辛うじて声をかけた。

「……十分ってなんですか」

 反発と呼ぶには弱々しい言い方だったが、少しだけ違う反応を鳥海は見せる。
 高雄は背を向けたまま立ち止まった。

「何も足りてないじゃないですか……姉さんだって分かってるのに」

 力が及ばないことはある。残念だけど。
 だからといって、それを認めていけるかはまったく別の話だった。
 もしも私が力を尽くした結果がこれで、それを十分と言うのなら……姉さんは残酷だ。
 高雄は何も言わないまま部屋から出て行く。
 今は時間が必要だと考えていたのかもしれない。あるいは愛想を尽かしているのかもしれない。
 無言の背中が出て行くのを鳥海は見送るしかなかった。



360 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/20 23:55:29.19 4Ie/W/GS0 259/702



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 高雄が出ていってしばらくすると鳥海は眠った。
 疲弊した頭ではどんな考えも後ろ暗くなって、自分を責め立てて悪い方向にだけ直進していく。
 参ってるんだと考え、少しは気分も上向くかもという淡い期待も込めて鳥海は眠る。
 やがて目を覚まして、その日初めて見た時計は十二時を過ぎていた。
 昼時。しかし鳥海は空腹感がなかった。
 だから部屋を出て何かを食べに行こうという気にはならない。
 喉の渇きは少し感じた。でも、この時間に部屋を出たら他の艦娘に出会ってしまうかもしれない。
 どんな顔をしていいのか分からなくて、鳥海は部屋で大人しくしていようと決めた。
 すっかり汗ばんでいた。部屋の窓が開いている。そういえば姉さんが開けていったんだと、鳥海は思い出す。
 暖まってねっとりした外気が窓から入り込んできている。暑さに慣れているつもりでも暑いものは暑い。
 そろそろ閉めよう。それにはまず起きないと。
 少し乱暴なノックの音がしたのは、鳥海が上半身を起こした時だった。

「摩耶様だけどいるかぁ?」

「……いるわよ」

 本来の調子ではないが、朝よりはすんなり声が出てきた。

「お、よかった。邪魔するぜ」

 鳥海の返事も聞かずに摩耶は部屋に入ってくる。
 摩耶は一瞬たじろいだ。

「あっついな、ここ」

「クーラー入れるとこだったの。押してもらえる?」

 摩耶が頷きつつクーラーのスイッチを入れる傍ら、鳥海は立ち上がって窓を閉める。
 一度は立った鳥海だが、すぐにベッドの脇に座った。
 動き始めたクーラーがかすかな駆動音を立てながら、部屋に充満した熱を片隅に押し込もうと冷風を送り出してくる。



361 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/20 23:56:21.53 4Ie/W/GS0 260/702



「何しに来たの?」

「ご挨拶だな。腹減ってるだろうと思って、おにぎり持ってきてやったのに」

「……おなか空いてないから」

「本当かあ? 意地張ってんじゃないの」

「張ってないよ」

「分かった。じゃあ、ここに置いとくからな。腹減ったら食えよ」

 摩耶は机の上にアルミに包まれた小振りな塊を二つ置く。
 それで帰るでもなく、摩耶は鳥海の部屋を物色するように眺める。
 鳥海はその動きを視線で追いつつ、どこか困惑したように言う。

「ここには摩耶の欲しい物なんてないよ」

「あたしの欲しいもんねえ……あたしが欲しいのは鳥海だ、なんつってね」

「意味が分からないよ」

 鳥海は少しだけ笑いそうになって、それに気づくと戒めるように唇を硬く閉じる。
 ほとんど視線を逸らしていなかった摩耶が腕を組んで首を傾げる。

「分っかんねえなあ。そこまでして、どうしたいんだよ?」

「……どういう意味?」



362 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/20 23:57:10.15 4Ie/W/GS0 261/702



「自分を押し殺して、んな顔して。何が悲しいんだよ、鳥海?」

「何がって……そんなの決まってるじゃない」

「だったら教えてくれよ」

 挑発するように摩耶は体を前に乗り出す。
 鳥海はそんな摩耶に腹を立てる。普段なら流せることが、今はできない。
 生じた怒りを隠さずに言う。

「司令官さんがいないんだよ。どんなことになったのかも分からないのに……」

「提督のために笑いたくないってか? バカかよ」

 摩耶は感情のままに吐き捨てる。
 それは鳥海を動揺させた。摩耶の指摘は図星だった。

「お前が喪に服してるみたいになって提督が喜ぶような男かよ。それとも鳥海の中じゃ、あいつはそんなやつだったのか?」

「違うよ……」

 言い返した鳥海の声は消え入りそうだった。間違いを突きつけられていた。
 その様子を鼻で笑うように摩耶が言う。

「これじゃ浮かばれないな、あいつも」

「……殺さないで」

 鳥海は俯いて呟く。
 頭の中では摩耶の言葉が反響し、それは鳥海の自制を奪う。
 飛びかかるように摩耶の胸ぐらに掴みかかって壁に押しつける。
 摩耶は驚いたり怖がるどころか、逆に鳥海の目を見返してきた。



363 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/20 23:57:48.66 4Ie/W/GS0 262/702



「司令官さんを勝手に殺さないでよ!」

「はっ、怒ったのかよ!」

「いくら摩耶だって!」

「お前がそんなんじゃ、あいつだって殺されてるようなもんじゃねえのか!」

「そんなの……!」

 ……分かってる?
 分かってるなら、なんで私はここでこうしてるの?
 俯いた鳥海の腕から力が抜ける。摩耶は鳥海の指を優しくほぐすように胸ぐらから外す。

「何が悲しいんだよ、鳥海?」

 最初と同じ質問。摩耶の声はあくまで優しかった。

「……出ていって」

 絞り出すように鳥海は言うと、摩耶が息を呑む気配がした。
 今はもう摩耶と、他の誰かと一緒にいるのが耐えられなくて鳥海は怒鳴っていた。

「お願いだから出ていってよ!」

 二人とも目を合わせようとしないまま、摩耶は何も言わずに部屋を出て行った。
 鳥海は独りになった部屋でベッドに身を投げ出す。頭の中は混乱していた。
 摩耶が言っていたことは正しい。でも、それを認めてしまったら……。
 そのうちに空腹感が出てきて摩耶が置いていったおにぎりを食べると、理由の分からない涙が出てくる。
 みっともないと鳥海は思った。



364 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/20 23:58:34.36 4Ie/W/GS0 263/702



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 愛宕が摩耶と出くわしたのは、摩耶が鳥海の部屋から出てきた直後のことだった。
 すぐに愛宕は摩耶に話しかける。

「様子はどうだった、摩耶?」

「ああああ愛宕姉さんか!」

「ちょっと興奮しすぎよ。どうしたの、そんなに慌てて?」

「あたしは別に慌ててなんか!」

 しどろもどろな摩耶に愛宕はおかしくなる。
 とはいえ、鳥海の部屋の前で身の上話を始める気はない。
 筒抜けになってしまうのは好ましくなかった。
 二人は歩きながら話す。

「それで何をそんなに慌ててたの」

「あたしは単に発破をかけようと思って……」

 摩耶はしょげたように事のあらましを説明する。
 愛宕はうんうん頷きながら話を聞いていたが、一通り聞くと気が抜けたように笑う。

「それはさすがに鳥海だって怒るわよ」

「だよなあ……けどさ、もう見てらんなくて」

 摩耶はやきもきしている。
 対する愛宕は穏やかな調子で言う。

「でも怒らせたのはよかったと思うわ」

「……そうなの?」

「怒る気力がないほうが重傷でしょ。まだ心は折れてないのよ」



365 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/20 23:59:04.08 4Ie/W/GS0 264/702



「そっか……うん、ならいいんだけどさ」

「私も摩耶の言ってることは間違ってないと思うしね」

 愛宕がそう言うと摩耶は安心したらしく、口が軽くなった。

「……しかし怖かったなあ。やっぱ、鳥海は怒らせちゃダメなやつだ、うん」

「普段怒らない子が起こると怖いのは常識よ?」

「だな。となると姉さんも怒らせたら怖いわけか」

「試してみる?」

 愛宕は摩耶に向かって面白そうに笑う。あまりに普段と変わらない態度だった。

「遠慮しとくかな」

「あらあら、やっぱり摩耶は素直ね」

「やっぱりってなんだよ、やっぱりって」

 釈然としないというような顔をする摩耶だったが、ふと愛宕に尋ねる。

「そういや姉さんは会わないでいいの? それで近くにいたと思ったんだけど」

「そのつもりだったんだけど、話を聞いたら今はまだ行くべき時じゃないかなって。他に聞いておきたい話もあるし」

 愛宕は怪訝そうな顔を浮かべる摩耶と適当なところで別れると、提督の執務室に向かう。
 そこでは高雄が鳥海の代行をしていた。



366 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/20 23:59:37.93 4Ie/W/GS0 265/702



「代行の代行、お疲れ様」

「ややこしい言い方ね。私に何か用?」

「野暮用かな。遊びにきたのよ」

「あなたねえ……」

 絶句する高雄を尻目に、愛宕は来客用のソファーに腰を下ろす。
 高雄は秘書艦用の席に座っている。手は動いていない。

「お茶は出ないの? コーヒーでもいいけど」

「自分で入れなさいよ。急須もカップも置いてあるんだから」

「私は高雄が入れてくれた飲み物がほしいの」

「そっちは品切れよ」

「することなさそうなのに」

 高雄は不満げな視線を愛宕に向ける。が、すぐに観念したように言う。

「その通りよ、やることがないの」

「本当にそうだったの?」

「あの子、できることは全部終わらせてたのよ……」

 あの子とはもちろん鳥海のことだった。
 高雄は嘆くように言う。

「できることは全てやってしまって、それで追いつかれてしまった」

「提督がいないということに?」



367 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/21 00:00:06.92 wP+fJQp60 266/702



「ええ。本当なら、あの子が一番動揺してるはずだもの。何か起きてるって気づいてたから」

 愛宕も鳥海が異変を示唆していたのは覚えている。
 話を聞いた時は半信半疑だったが、今となっては鳥海が正しかったのを疑うつもりはなかった。
 もし信じていても……何も変わらなかったと愛宕は考える。だからこそ。

「悔しかったでしょうね……」

「ええ……今の鳥海を認める気はないけど、ああなってしまったのも仕方ないわ」

「そうだよねえ。私もそう思うよ」

「提督を失って一番悲しいのはあの子だもの」

 そうかもね、と愛宕も頷く。
 高雄の様子を見て、愛宕は意を決した。

「でも二番目に悲しんでるのはあなたかもしれないでしょ、高雄」

 その言葉に高雄は固まった。愛宕は続ける。

「気づかないとでも思ってたの? 私は愛宕だよ」

「……全然理由になってないわ」

 そう言いながらも高雄は愛宕の言葉そのものは否定しない。
 愛宕は座ったまま待つ。リラックスして気負った様子はどこにもない。
 高雄はやがて独白するように言う。

「私……提督と最後に話した時、あの子への嫉妬を話して……」

「うん」

「なんで、そんなこと話しちゃったのかな……こんなのが最後に話したことなんて、あんまりよ」

「いいよ、どんどん話そう。ここには私たちだけだもの。このぐらいはさせてよ」

 愛宕の言葉をきっかけに、高雄は堰を切るように内心を吐露しはじめた。



372 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/28 00:49:50.44 EaKkk2LU0 267/702



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 白露が時雨に連れてこられたのは、時雨が懇意にしている艦娘の部屋だった。
 紅白の巫女のような格好をした扶桑と山城の姉妹が白露たちを迎える。
 畳張りの室内に上がった白露と時雨は、座卓を挟んで扶桑たちと向かい合った。
 開口一番、山城は気難しさを感じさせる顔で問う。

「それで、どうして私たちの所に来たの?」

「ボクたちだけじゃなくて他の目線からの意見が欲しかったからだよ」

 山城の視線や物言いには相手を黙らせるような雰囲気はあるが、時雨は物怖じせず普段通りに話していた。

「つまり相談役? もっと向いた子がいくらでもいるじゃない」

「いいじゃない、山城。こういうのは頼られる内が華よ」

 扶桑は山城をたしなめると時雨から白露を見る。
 山城とは逆に柔和そうなほほ笑みが出ていた。

「時雨と言うよりあなたの相談なのかしら、白露?」

「はい。今日はよろしくお願いします」

 普段よりもかしこまった白露が頭を下げる。
 扶桑がすぐに手を横に振る。

「いいのよ、そんなに硬くならないで。普段通りの調子で話してくれたほうが嬉しいわ。時雨だって、あんなだし」

「ボクは自然体を心がけてるからね」

「分かりました……じゃなくって分かったね」

 白露が言い直すと扶桑は満足げに頷く。



373 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/28 00:50:36.63 EaKkk2LU0 268/702



「それで相談というのは?」

「秘書艦さんのことで」

 白露がそう告げると、扶桑と山城は顔を見合わせる。疑問を浮かべて。
 反対側の白露と時雨も同じように顔を見合わせる。こちらは話そうという合図で。
 白露が話し始める。

「秘書艦さんが塞いでるのは知ってるよね」

「当然じゃない……不幸だわ」

 山城の言う不幸が誰を指しての言葉なのかは、白露には判断がつかなかった。
 疑問をよそに白露は話を進める。

「あたしはすぐにでも秘書艦さんの相談に乗ったりとか、とにかくほっといちゃいけないって思ってる」

「ボクは反対に今はまだそっとしておくべきだと思ってる。参ってる時には何を言っても届かないだろうから」

「二人ならどう思うか教えてもらいたくて」

 扶桑と山城はしばし沈思黙考し、扶桑が白露に聞く。

「ワルサメのことがあって、そう考えてるの?」

「うん。あたしはすぐに春雨に会えたけど、それでもあの子のことはずっと考えてた。その間、秘書艦さんはあたしに気を遣ってくれてて、思い返してみると助けられてたんだなって」

「借りがある、ということかしら?」

「そんなに大それた話じゃないけど、お返しに何かはしてあげられるんじゃないかなって」



374 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/28 00:51:44.52 EaKkk2LU0 269/702



「時雨はどうして?」

「ボクはあの時期の姉さんを知ってるからね。姉さんは報われてるんだと思う。春雨がいるんだから。でも鳥海はたぶんそうじゃない。
 今の彼女を苦しめてるのは自責なんじゃないかって思えるし、それに鳥海は生真面目だ。そういう性格は……折れるとしんどいよ」

 時雨の言葉を受けて山城が漏らす。

「折れてるとは思えないけど」

「……そうかな」

 戸惑う顔の時雨に答えず、山城が改めて聞く。

「話は分かったけど、それでどうして私たちの所に?」

「言ったじゃないか。他の視点からの意見が欲しかったんだよ。こういう時、妹たちは聞くには近すぎる気がして」

 扶桑は頬に手を当てて思案する。そうして山城に言う。

「山城はどう思う?」

「私ですか? そうですね……」

 山城は白露と時雨を交互に見て、それから白露に向かって小さくため息をつく。

「あなた、私たちが時雨に肩入れするかもしれないって考えなかったの?」

「全っ然。普段の時雨から聞いてる限りじゃ、そんな人たちとは思えないし」

「安心してよ、褒めちぎってるからね」

「普段から何を言ってるのやら」

 さも当然という態度の時雨に、山城は言葉とは裏腹に満更でもなさそうだった。



375 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/28 00:54:13.52 EaKkk2LU0 270/702



「まあ、そうね。冷たい言い方になるけど、私は正直にどっちでもいいと思うわ。あの子はたぶん自然と立ち直れる子よ」

「どうしてそう思うんだい?」

 時雨が身を乗り出すように聞いてくる。山城の発言を使って白露を封殺しようとしているようだった。

「目力っていうか輝きっていうか……私が知る限り、鳥海には前進しようという意思を感じるもの。そういう子は立ち止まったとしても、自分からどうにかできるし」

「つまり、ほっといっていいってことだよね?」

「言ったでしょ、どっちでもいいって」

 山城は時雨の意見を肯定も否定もしなかった。そのまま食いつき気味の時雨でなく白露に向かって言う。

「境遇というか近い立場で考えるなら白露の言い分が正解かも。その点では私より、あなたの感性のほうが正しいんじゃないかしら」

 白露は自分の首を傾げる。

「むぅ……それって結局は好きにしなさいってこと?」

「その通り。大体あなたは私たちが何か言ったところで翻意するの?」

「ほんい?」

 白露が初めて聞く言葉のように聞き返すと、山城は苦笑する。

「反対されたらやめるの?」

「やめたくない。あたしはそれでも話したいから」

 言い切る白露に、山城は呆れと感心が混ざって苦笑いから自然な笑顔になる。

「あなた、やっぱり時雨のお姉さんね」

「え! 今のやり取りのどこにそんな要素が……」

 山城の言葉に時雨のほうが驚いていた。ひとまず山城は時雨を置いておく。



376 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/28 00:55:51.90 EaKkk2LU0 271/702



「けれど一つ言っておくわ。安易に鳥海の気持ちが分かったなんて思わないほうがいいんじゃない。私なら自分の幸を簡単に共有されたり共感されたくないもの」

「はい……」

「とにかく相談の答えなら私は以上よ。そこまで言えるのなら当たってみればいいじゃない」

「分かりました!」

「扶桑のほうはどうなの?」

 時雨に聞かれて扶桑は首肯する。

「私も山城と同じよ。こうするのが正解というのはないでしょうし」

「そう……」

「時雨、やっぱりあたしは話すよ」

「……分かった。ボクはもう止めないよ」

 時雨は山城を見る。その目は剣呑だった。

「あーあ、山城なら加勢してくれると思ったんだけどね」

「何が加勢よ。安易に肩入れするわけないのに」

「山城にはガッカリだよ。ボクより姉さんを取るなんて……」

「見て、山城。貴重な拗ね時雨よ」

「動物みたいに言わないでよ」



377 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/28 00:56:18.15 EaKkk2LU0 272/702



「時雨もこうなると形無しだね」

 白露型の姉妹の中でも時雨はからかう側に回るのがほとんどなだけに、逆にいじられているのは白露の目から見ても新鮮な光景だった。
 ふと白露は扶桑が窓の先へと視線を移しているのを見た。その先には空が広がっているだけ。
 白露の視線に気づいたのか、扶桑は白露にほほ笑みかける。

「空はあんなにも青いのに、鳥海の心は灰がかっているのではと思って」

「秘書艦さんの心も青いと思いますよ。同じ青でも雨降りの青かもしれないけど」

 あたしがそうだったから、と白露は内心で続ける。
 時雨はそんな白露の横顔を見ながら思わせ振りに呟く。

「……雨ならいつか止むさ」

「雨が降ってるなら傘を用意しなきゃダメじゃない」

 白露は当然のことのように言っていた。



379 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/28 23:01:38.79 EaKkk2LU0 273/702



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 真夜中になると多摩が部屋を抜け出している。
 木曾がその事実に気づいたのは数日前からだった。
 北上と大井だけは大井の熱烈な要望によって二人部屋になっているが、球磨型はトラック泊地に移ってからは個室を割り当てられていた。
 木曾の部屋の両隣は多摩と北上・大井ペアとなっていて、隣室の音は聞こえてこないがドアを開け閉めする音は廊下から聞こえてくる。
 夜中に多摩が部屋から出ていく音を聞いても、初めは花を詰みに行ってるのかと考えて気にしていなかった。
 まどろみつつも完全には眠れていなかった木曾は、やがて多摩が一向に戻ってくる様子がないのに気づく。
 それが二日続いて、日中の多摩は眠そうであくびを隠そうともしていなかった。

「まるで猫クマ」

「多摩は猫じゃないにゃ!」

 夜中に抜け出しているらしいと気づかなければ、姉同士のやり取りも他愛ないものに過ぎないはずだった。
 多摩が何かを隠していると感じた木曾は調べてみる気になる。
 日頃の木曾ならそんなことはしないが、提督を失ったという時期が時期だけに多摩の身を案じていた。

 その夜も多摩が部屋を抜け出したのを確認すると、木曾も慎重に部屋を出ると後をつけ始めた。
 多摩と、その後を追う木曾は泊地を出て車道へ。
 月と星の明かりを頼りに二人は夜更けを進んでいく。
 道の両側に天高く伸びた木々が、腕を広げた怪物のような影を投げかけていても多摩は気にせず歩く。木曾も同じだった。
 しばらく歩いていくと多摩はある場所で立ち止まる。
 距離を置いたままの木曾は近くの茂みに隠れようかと考えたが、すぐに多摩が振り返らずに声をかけてきた。

「隠れなくてもいいにゃ、木曾」

「なんだ、やっぱり気づいてたのか」

「多摩を出し抜こうなんて修行が足りないにゃ」

「修行って何するんだよ」

 木曾は堂々と多摩に近づいていく。そして、この場所に見覚えがあると気づいた。



380 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/28 23:03:34.86 EaKkk2LU0 274/702



「ここって」

「提督が乗っていた車が見つかった場所にゃ」

 日中とでは見え方が違うが、確かにその通りだと木曾は思う。

「どうして……」

 木曾は理由を聞こうとして口を噤んだ。理由は提督絡みしかなかった。
 だから言い直す。

「あいつがいるのか?」

「いないにゃ。いるなら、とっくに連れてきてるにゃ」

「じゃあ、夜中にこんな所に来なくても」

「もしかしたらと考えてしまうにゃ。提督はまだこの森にいて、助けを待ってるんじゃないかって」

 多摩は木曾に顔を向けずに肩を落とす。

「多摩は夜目が利くし耳もいいにゃ。もしかしたら提督が近くにいたら分かるかもしれないにゃ」

「多摩姉……」

「本当は分かってるにゃ。提督がここにいないのは。これは未練にゃ」

 木曾はいたたまれない気持ちだった。
 しかし振り返った多摩はひょうひょうとしている。

「これじゃ忠犬ハチ公にゃ。多摩は猫なのに……猫じゃないにゃ! キソー!」

「俺はまだ何も言ってないぞ!」

 いきなりの多摩に木曾も慌てて言い返す。
 対峙した二人の均衡は多摩が笑い出したことで崩れた。



381 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/28 23:04:21.67 EaKkk2LU0 275/702



「鳥海には悪いことをしたにゃ。多摩たちは提督を守れなかったにゃ」

「……あいつはそんな風には考えないと思うぞ」

「そうかにゃ? そうかもにゃ……でも歴史は繰り返してる気がするにゃ」

 多摩の呟きの意味が木曾には分からない。

「どういう意味だよ?」

「木曾がいなくなった時みたいにゃ。あの時は提督が今の鳥海みたいだったにゃ」

 木曾は小さな疼痛を感じて、苛立たしげに胸元を指先で叩く。
 先代の木曾が戦没した時の話は、今でも木曾の気持ちを不安にさせることがある。

「前の俺の時か……けど、あいつはあんな鳥海は見たくないだろ」

「そんなのは当たり前にゃ。けど残されるほうは理屈じゃなくて、悲しいに決まってるにゃ。簡単に納得できてたまるかにゃ」

 多摩の口調は強く、少なからず木曾へも怒りが込められている。多摩もまた残される側だった。
 木曾は自分の失言に気づいたが、それには触れずに多摩に聞く。

「あいつは、提督はどうやって立ち直ったんだ?」

「自然にゃ」

「自然って……」

「他に言いようがなかったにゃ。提督は周囲と関わりを断って酒に溺れようとして、それが二三日続いて結局できなかったみたいにゃ」



382 : ◆xedeaV4uNo - 2016/09/28 23:07:37.74 EaKkk2LU0 276/702



「みんなはその時どうしてたんだ?」

「叢雲たちは何か言ったみたいだったけど、ほとんどは待ったにゃ。みんなもあの時は辛くて時間が必要だったにゃ。でも……」

 多摩が肩を落とす。その体はとても小さく見えた。

「本当は提督を無視しちゃいけなかったんじゃないかって、今なら多摩は思えるにゃ」

「無視なんかしてなかったんじゃ」

「提督は多摩たちに『苦しい』とは言わなかったにゃ。苦しくないわけなかったのににゃ」

「それは提督が言わなかっただけなんじゃ?」

「提督にとって打ち明けられる相手がいなかっただけかもしれないにゃ」

 その通りかもしれない、と木曾は思った。
 あの頃の提督にとっては、先代の木曾こそがその相手だった。

「傷つけば痛いにゃ。でも痛み自体は悪いものじゃない……多摩は言ってやりたかったにゃ。提督は悪くなかったって」

 それはもう叶わない。だからこその未練なのかもしれない。
 木曾は思い出す。悔いがあるなら仲間のために戦えと提督がいつか言っていた。
 夜が明けたら、できる限りすぐにでも鳥海と話そうと木曾は決めた。

「多摩姉。それでもあいつは望んでないと思うよ。お姉ちゃんも鳥海も、そうやって苦しむなんて。だって二人とも――」

 悪くないじゃないか。木曾は心からそう思っていた。



388 : ◆xedeaV4uNo - 2016/10/11 10:47:22.55 bvNPb1zk0 277/702



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 鳥海が目を覚ますと部屋の前が騒がしかった。
 ドア越しに何かを言い合う声が寝起きの頭を揺さぶる。
 誰が何を言ってるの?
 自分に関係ある話かもしれない。じゃなければ当てつけ……それは悪く考えすぎよ、鳥海。

 鳥海はベッドに張りついていた体を引き剥がすと、机の上に置いた眼鏡をかけた。
 掛け時計に目をやると針は八時半を指していて、朝の方なのは窓を明るくする光の加減で分かる。
 起床時間は過ぎていて、寝坊している事実に鳥海は胸の内で焦りを感じた。
 そう感じた自分自身に鳥海は驚く。気にする余裕なんてないと思っていたから。
 ドアの向こうからはまだ話し声が聞こえる。
 人の部屋の前で騒ぐには早い。そもそも騒いでいい時間なんてないけれど。

 昨日を鳥海は思い返す。
 高雄と話して摩耶と話して、それからというもの気力もなく何もできないで部屋にいた。
 かといって日がな部屋にこもってたわけではない。
 体は普段よりもずっと生理的な欲求に正直だった。倦怠に沈んでいようとしている心を非難するかのように。
 自らの醜態を安易に晒す気はなく、人目を避けながら部屋の外には何度か出ていた。深夜には湯浴みだってしている。
 秘書艦であるがゆえに泊地の基本的なスケジュールは全て把握していた。
 人が少ない時間帯に出歩いて、あとは誰にも会わないのを願うだけ。
 こんなつまらない願いは叶ってしまう。

 外ではまだ話し声が聞こえる。鳥海は足音を立てないようにドアに近づくと、自然と聞き耳を立てていた。
 声には聞き覚えがある。はっやーいとか、いっちばーんと言っている。
 島風と白露の声だった。何を話しているのかはくぐもった音のせいで聞き取れない、というより頭が理解を拒んでいた。
 どうしよう。
 迷いながら鳥海はドアノブに手を掛ける。
 二人に気後れしていた。
 今までなら気取らずに開けて挨拶を交わせばいいだけ。二人がこうして部屋の前で何か話してたことなんて初めてだけど。
 ベッドに戻って寝直す気はなく、かといってドアの向こうの二人を叱って注意しようという気はない。
 それができる立場ではあっても資格があるとは思えずに。
 だけど二人を無視してはいけない気もした。



389 : ◆xedeaV4uNo - 2016/10/11 10:48:17.31 bvNPb1zk0 278/702



 鳥海が悩んでいると別の声が聞こえてくる。
 島風たちに何をしているのかと聞いたのは木曾の声だった。
 四人目の声も続いて、それは愛宕の声だった。
 四者が何か話しているのが分かって鳥海はたじろいだ。
 ノブから手を離すと、あるはずもない逃げ道を探した。
 時間切れを伝えるようにドアを叩く音が響く。
 どうしよう。
 心が揺れていた。
 迷い、ためらって戸惑いながらも鳥海は言う。

「少し待ってください」

 鳥海は制服に着替え始める。
 追い返すつもりはない。というより追い返そうにも強引に入ってきそうな気がした。
 なんで着替えてるんだろう。高雄と摩耶と会った時は寝間着のままだったのに、今ではそれじゃいけないと鳥海は感じている。
 その理由が分からないまま鳥海は着替え終わる。
 息を詰めてドアを押した。
 廊下は明るくて足下が明るくなる。
 半開きにしたドアから、屈託なく笑う愛宕を見た。

「よかった、元気そうじゃない」

 愛宕は開けられたドアを最後まで開く。彼女の後ろからは島風と白露もいて挨拶をする。
 少し離れたところには木曾も立っていて、苦笑するように片手を上げる。
 鳥海は唾を飲み直してから聞く。

「どうしたんですか?」

 状況にそぐわない問いかけだと鳥海は思った。
 どうかしているから来てくれた面々に対して。



390 : ◆xedeaV4uNo - 2016/10/11 10:48:57.36 bvNPb1zk0 279/702



「お部屋におじゃましようと思って。いいよね?」

「それはその……」

 一歩引いて鳥海は渋るが、逆に愛宕は引いた分だけ前に進んでいた。
 つまり部屋の中に入る。

「大丈夫大丈夫、悪いようにはしないから。さ、みんなも入っちゃって」

「おじゃましまーす!」

「え、あの……」

 止める間もなく愛宕たちは雪崩れ込むように部屋に入ってしまう。
 鳥海は木曾に向かって助けを求める視線を向けるが、察してくれると思ったはずの視線は届かなかった。
 木曾は鳥海に耳打ちする。

「ま、諦めろ」

「ですが……」

 鳥海がはっきりした態度を取れない内に、三人からは遅れて木曾も部屋に入る。
 愛宕と白露が室内を物色し、木曾は窓を開け放つと窓際の壁に寄りかかってしまう。島風はちょこんとベッドの上に腰かける。
 あまりに自由な面々に鳥海は文句を言う気にもならなかった。

 居どころを失ったような気持ちの鳥海は、島風と目が合った。
 熱のある視線で、その目は何かを訴えかけてくるような強さがある。
 太陽を直視できないように目を逸らしてしまうと、外した視界の中で島風が頬を膨らませたように見えた。



391 : ◆xedeaV4uNo - 2016/10/11 10:49:47.40 bvNPb1zk0 280/702



「鳥海の部屋って小説が多いのね。きっちり並んでるし高雄みたい」

「活字ばっかり。マンガは置いてないのかな」

 愛宕と白露のほうを振り向くと、二人は部屋の本棚を眺めていた。
 本棚は五段式で文庫サイズだったら三百冊ぐらいは収まるはずで、今は隙間なく本が並んでいる。
 白露は推理小説のタイトルと難しそうな顔でにらめっこしていた。

「マンガは他の子が持ってるから読みたくなれば借りればいいですから。本当はもっと置きたいんですけど」

 置ききれなくなった分は提督の私室に移してある。
 そのどれもが本当に気に入っている本だった。
 本を読みたいという口実で訪ねられたし、もしも提督が興味を持ってくれるなら自分が好きな本のほうが嬉しい。
 提督は計算通りと言うべきか鳥海の置いた本を楽しんだ。そして鳥海が提督の部屋に行くのには口実なんて必要なかった。
 それは鳥海にとって甘くて痛い記憶で、思い出になりつつあった。
 どうしよう、苦しい。
 今の鳥海にとって提督との接点は刺激物になる。
 提督の私室はそのままになっている。
 だって、そうじゃない。あの人はまだ……。

「秘書艦さん、もっとぶっちゃけてみない?」

 白露がいたわるように言うも、鳥海はそっけなく返す。
 内心の思いは表に出ていないはずだった。

「私は正直なつもりですけど」

「それだったら」

 白露は手鏡を出すと鳥海に向ける。生気の薄い鳥海自身の顔が不安げに自分を見返していた。



392 : ◆xedeaV4uNo - 2016/10/11 10:50:59.23 bvNPb1zk0 281/702



「あたしでも愛宕さんでも他の二人でもいいし、鳥海さん本人にでもいいけど……本当にそう言えるの?」

 嘘はない。そんな嘘を鳥海は胸内で呟いた。
 白露は真剣な眼差しを向けていた。

「あたしはこれでも時雨には色々話しててね、ワルサメと春雨のことも。秘書艦さんにだって話したし。全部じゃないけど。
 でも話して聞いてもらえると、整理できて楽になることってあるはずだよ。洗いざらい話してなんて言わないけど、少しぐらいだったら」

 白露は手鏡をしまうと元気よく朗らかに笑う。

「あたし嬉しかったんだよ。気にしてくれる人がいて。だから秘書艦さんも自分がつらい時にはつらいって言ってもいいと思うの」

 愛宕は包み込んでくるように優しい顔で笑う。

「言いたいことは全部言われちゃったし、お姉ちゃんでいるのって大変ね。いいんだよ、少しぐらい楽にしたって。それとも私じゃ頼りないかな?」

 愛宕が手を広げると、反射的に鳥海が一歩引いてしまう。

「……やめてください」

 振り絞るように声を出す。体は身を守るように縮こまらせている。

「私なんかにそんな優しい言葉をかけないでください。平気なんです、ここに戻ってからだって秘書艦として動けてたんです」

「……普通にしてたのがおかしいのに」

 島風が伏し目がちに言う。膝の上に置いた手を硬く握り締めていた。

「確かに普通っぽく見えてたな」

 今や木曾は壁から背を離して直立不動の体勢で鳥海に眼差しを向ける。

「そうじゃないって島風は言いたいんだな?」

「うん。だって、あの鳥海さんだよ? いの一番に提督を心配してたのに、平気そうにしちゃって」



393 : ◆xedeaV4uNo - 2016/10/11 10:52:05.54 bvNPb1zk0 282/702



「俺たちが不安にならないように無理をしてたんじゃないのか?」

 木曾は島風に、というより鳥海に聞く。

「無理なんて……」

 していた。していなかった。どっちだろう。
 どっちにしても、いつものように振る舞うしかなかった。必要だと思ったから。耐えられなかったから。
 それは間違ってなかったはず。
 鳥海は首を横に振る。無理はしてないと言うつもりだった。

「どうすればよかったんですか」

 出てきたのは別の言葉だった。意図に反しているのに鳥海の口は滑らかに動く。

「司令官さんがいなくなって泣いてればよかったんですか。何もできない、寂しい苦しいって弱音を吐いてれば、みんなはそのほうがよかったって言うんですか。そうじゃないですよね!」

 呼吸と一緒に言葉を吐き出して、肩で息をしながら四人を見ていく。
 心がささくれ立っているのを鳥海は自覚している。それでも自制はできそうになかった。
 そんなに本心が知りたいのなら聞かせてあげればいい。望んだのはあなたたちなんだから。

「悲しんだって苦しんだって司令官さんがどこにもいないんです! だったら泊地を立て直して備えるしかないでしょう! 他にどうしろと」

「……どうしたらいいのかは誰にも分からないさ、鳥海」

 消沈したように木曾は言う。彼女の視線は憐れみの色を宿しているように鳥海は感じた。
 鳥海はその視線に反発していた。

「分からないなら私にこうしろとかああしろとか言わないでください! そんな目で私を見ないで!」

「秘書艦さん!」

 口を出してきた白露を鳥海は鋭く見る。

「白露さんはワルサメのために全力を尽くせたでしょう! 私は何もできなかったのに……」

「鳥海、あなた――」

 愛宕が手を伸ばすと、その手を鳥海は払う。



394 : ◆xedeaV4uNo - 2016/10/11 10:52:57.11 bvNPb1zk0 283/702



「やめてください! 司令官さんの身に危険が迫ってるのに気づいてたのに見殺しにしたんです!」

 見殺しに。勝手に殺さないで。摩耶には怒ったけど、本当は認めてしまっている。
 司令官さんはもう戻らない。そんな確信がある。それは殺してしまったのと同じだった。
 視界が歪みそうになって鳥海は目をきつく閉じる。

「なんで私はそばにいなかったんですか……司令官さんはMI作戦にちっとも乗り気じゃなかったのに、私はやる気なんか出しちゃって……」

 意欲なんか見せなければ、提督は理由をでっち上げて鳥海を近くに留めていたかもしれない。
 命令である以上、そんなことはないかもしれない。だけど、もしかしたらと鳥海は考えてしまう。
 もしMI作戦に反発していれば。初めからトラック泊地に留まっていれば。もっと積極的にMI作戦の中止を進言していれば。単身でもトラック泊地に向かっていたなら。
 巻き戻せない過程がまざまざと甦ってくる。提督を救うための、今を変える転機はいくつもあった。
 何よりも鳥海が思ってしまうのは。

「なんで私じゃなかったんですか……」

 鳥海は瞳をにじませて目を開く。行き場のない衝動を自身と、一番近くにいた愛宕に向ける。

「私が代わりに消えてしまえばよかったんです! もう一人の鳥海じゃなくて私こそ沈んでしまうべきだったのに!」

 愛宕は驚き目を見開く。震える声で辛うじて聞く。

「本気なの……?」

 鳥海は俯き、愛宕は唇を噛む。

「あの人を守れなかった私なんかが」

 鳥海の言葉が終わらない内に動く者がいた。
 二人の間に割って入った島風で、水気のともなった音が部屋中に異質な音を響かせる。
 平手が鳥海の頬を打っていた。
 島風から耐えるような声が出る。

「ふざけないで」



395 : ◆xedeaV4uNo - 2016/10/11 10:53:57.48 bvNPb1zk0 284/702



 一転して静まり返った部屋では、島風の喘ぐような呼吸が一番大きな音になっていた。
 顔を上げた鳥海に対して島風は頭を垂れている。

「本気で言ってるんだよね……鳥海さんは、冗談でそんなこと言う人じゃないから」

 鳥海は張られた頬に手を当てる。
 熱くて痛い。その痛みには覚えがあった。肉体とは別の場所に感じる痛みに覚えが。
 島風が顔を上げる。その目からは抑えきれない感情が形になってあふれ出そうとしている。

「提督がいなくなったのは自分のせい? 違うでしょ、そんなのは鳥海さんの思い上がり!」

「何が分かるんですか!」

 言い返す鳥海だが、島風の剣幕はそれ以上だった。
 島風は勢いよく首を横へ振る。白い頬が上気していた。島風は怒っている。

「分からないよ! 今の鳥海さんなんて分からない! 分かりたくない!」

 島風の頬が濡れている。湿り気のある声で島風は激情をぶつける。

「私たちだって提督を守れなかったんだよ! 悲しいんだよ! それなのに鳥海さんまで……そんなのひどいよ! いなくなっても誰も喜ばないのにひどいよぉ……」

 言われて鳥海は初めて、自分を見ていた愛宕の本当の表情に気づく。
 沈んでしまったほうがいいと言った時、今まで見たことないぐらい悲しい顔をしていた。
 そして島風は喉を震えさせながら見上げてきている。怒りの奥にあるものも鳥海は知っている。

「そんな勝手言うならっ……今度は私が、何度だってっ……」

 鳥海は自然と島風を抱きしめていた。心からの感謝を込めて。

「ごめんなさい……」

 島風はされるがまま声をかすれさせる。

「いたいよぉ……」

「ごめんなさい……」

 鳥海は自然と涙が出てきて、少し前に感じたみっともなさの正体に気づいた。
 あの涙は司令官さんのためでも他の誰のためでもなく、ただ自分のためだけに泣いていたから。
 私は私だけを憐れんでいた。自分しか見えないまま。



396 : ◆xedeaV4uNo - 2016/10/11 10:54:51.64 bvNPb1zk0 285/702



 島風が落ち着いてから愛宕が聞いてくる。

「これでもまだ、ここにいないのがあなたのほうがよかったなんて思う?」

「いえ……」

「よかった……あんな悲しいことは考えないでほしいな。あなたを心配してくれる人がいるんだから」

 愛宕は心底ほっとしたように言い、白露もそれに同調する。

「そうだよ、秘書艦さん。誰も誰かの代わりにはなれないし、なっちゃいけないんだよ。もっと自分を大事にしなきゃ」

 白露は快い笑顔で胸を張り、そして木曾がしめやかに言う。

「……俺たちの提督はいなくなっちまった。もし誰かが悪いっていうなら、それは誰かじゃないんだ」

 木曾の声に悔しさがにじんでいるのに鳥海は気づいた。
 ここに来てからずっとそうだったのかもしれないと、鳥海はようやく思い至る。

「鳥海があいつを失ったことを自分だけの責任みたいに感じてるなら、それは間違いだ。それは俺たちみんなが背負ってるんだよ」

 鳥海は頷く。
 木曾の言う通りだった。
 私は――いえ、私たちは。みんな司令官さんを失っていたんだ。
 いつから私は自分しか見えなくなっていたんだろう。
 目覚めた時に焦燥を感じたのと同じだ。
 何かを変えなくちゃいけない。心はそれを分かってしまっていた。憐憫なんて望んでいなかったんだから。
 ごめんなさい、司令官さん。私はもう悲しんでばかりいられないみたいです。
 鳥海は前を向こうと決めた。



397 : ◆xedeaV4uNo - 2016/10/11 10:56:09.57 bvNPb1zk0 286/702



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 鳥海は立ち直り始めたその日の内に、少しでも多くの艦娘と話そうと思い立った。
 そこで真っ先に話そうと頭に思い浮んだのが高雄だ。
 提督の執務室で高雄はその日の仕事をこなしていて、鳥海が訪れた時には区切りがついていた。

「ご迷惑をおかけしました」

 鳥海は素直に頭を垂れる。

「本当にその通りよ」

 高雄の声には言葉とは裏腹にとげはなかった。

「ほら、顔を上げなさい。鳥海は吹っ切れたの?」

「いえ、そこまでは」

「でしょうね」

 顔を上げた鳥海が正直に答えると、高雄も得心したように頷く。

「私はあなたの姉でもあるし、第八艦隊で言えば副官になるのよ。もう少し頼りなさい」

「はい、姉さん」

 飾り気のない言葉だが、鳥海の気持ちは高雄に伝わったようだった。
 よかった。後味の悪い別れ方をしていたから。

「それで今日はどうするの? 仕事はほとんどないけど」

「今日も姉さんにお任せします。私はみなさんと話していきたいと思いますので」

「それなら今日だけと言わず、しばらくそうしててもいいわよ」

 鳥海は少し考えてから姉の提案を受け入れることにした。
 後任の提督がやってくれば、今までとは勝手も変わる公算が高い。
 今の間しかできないことがあるような気がしていた。摩耶にも謝らないと。



398 : ◆xedeaV4uNo - 2016/10/11 10:57:19.56 bvNPb1zk0 287/702



「私もあなたに言ってなかったことがあるの」

 高雄は神妙な顔で言い、鳥海は佇まいを正す。

「提督が好きだったの」

 鳥海は無言で高雄を見る。高雄の指にカッコカリの指輪はない。
 その意味は想像がついていて、鳥海は彼女なりに考えてから言う。

「……もしかしたらとは思ってました」

 これは嘘だった。もしかしたらなんて疑いではなく、違いないという確信を抱いていたから。
 もっとも初めから高雄の気持ちに気づいていたわけじゃない。
 鳥海も提督に思いを寄せるようになってから、高雄の示す反応の意味に気づいて察したというのが正解。

「姉さんは私を……」

「待って、何も言わないで。私の気持ちは終わっていないといけないものだから。私はあなたも好きなのよ」

 その好きの意味が違うにしても、どっちも代えがたいのは分かる。
 同じ気持ちを抱いているんだから。
 もし想いが同じなら、司令官さんと高雄姉さんが一緒になっていたら――少し考えてしまう。
 だけど想像が形にならない。
 想像できないんじゃなくて、想像したくないんだ。
 口でどう言って頭でどんな仮定を組み立てても、本当に司令官さんと他人の形を望んでいなかったということ。
 そこは私の居場所だったんだから。

「これからもよろしくね。私もあなたを当てにするわよ」

 鳥海は頷くと部屋を辞した。
 それから摩耶を探して謝って、不在の間に臨時の秘書艦を務めていた嵐と萩風とも話し、その後は手当たり次第だった。
 提督のこと、鳥海のこと、彼女たちのこと、将来のこと。話すことはいくらでもあった。



399 : ◆xedeaV4uNo - 2016/10/11 10:58:38.29 bvNPb1zk0 288/702



 その夜、鳥海はひっそりと部屋を抜け出し外に出る。
 空には青白い月が天に昇っていた。
 月明かりの降りてきた車道を鳥海は歩いて行く。
 そうして彼女は見つける。

「こんばんわ、多摩さん」

「にゃ? なんで鳥海がいるにゃ?」

 驚いた様子の多摩に鳥海は笑い返す。

「木曾さんに教えてもらいまして。詳しくは聞きませんでしたが」

「そういうことかにゃ。木曾も口が軽いにゃ」

「そんなこと言ってはダメですよ。木曾さんも多摩さんを心配してるんですから」

 多摩ははぐらかすようににゃあにゃあと言う。
 鳥海は多摩の隣に並ぶ。見えないものを探して、それはやはり見つかりそうにない。

「鳥海は何も悪くなかったにゃ」

 多摩は顔を向けずに、呟くように言った。
 夜に溶け込んでしまう声に鳥海は答えられない。
 多摩が続けて言う。安心するように。

「……やっと言えたにゃ」

「やっと?」

 聞き返すと多摩は鳥海を向いて笑う。

「ずっと言いたくって言えなかったことにゃ」



400 : ◆xedeaV4uNo - 2016/10/11 10:59:52.62 bvNPb1zk0 289/702



 多摩が天を仰ぐと、鳥海も一緒になって見上げる。
 自然と言葉が出てくる。

「悲しみの時も、病める時も健やかなる時も……」

「多摩は鳥海とケッコンする気はないにゃ」

「私もですよ。ただ西洋の宣誓ですけど、なかなかどうしていい言葉だと思って」

「……同感にゃ。理想はこうでなくっちゃいけないにゃ」

 現実は、死が私たちを分かつまで。
 鳥海はいつか感じたことを思い出す。

「私は……進もうと思います。司令官さんなら、たぶんそうしてほしいと思ってくれるから。信じたいんです。司令官さんなら私を信じてくれるって」

 これは別れの言葉になってしまうの?
 分かっているのは、何も投げ出す気はないということだけだった。
 怖くても変わっていくしかない。そうしないと無為になってしまう。
 鳥海は踵を返す。

「夜更かしは体に毒ですよ。ご自愛くださいね」

「分かったにゃ」

 鳥海は戻り始めてすぐに立ち止まると、多摩の背中に声をかける。普段よりも声を大きく張って。

「多摩さんも悪くないですよ」

 多摩の背中がぴくりと震える。空を仰いだままだった。

「うん、ありがとうにゃ」

 手を振り返す多摩を背に、鳥海は泊地へと戻っていく。
 胸の内にあるのは実感だった。
 提督がいないという痛みのある実感。進むしかないと決めた硬い実感。変わっていく自分への恐れという実感。

「私たちは分かたれてしまったのですか?」

 空に向かって聞く。
 分かれてしまうのは終わりの時だと鳥海は思っていた。
 だけど私は、私たちはまだ何も終わっていない。
 答えが見えないからこそ終われなかった。
 信じよう。積み上げてきたという、実感を。



401 : ◆xedeaV4uNo - 2016/10/11 11:01:03.43 bvNPb1zk0 290/702



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 提督は目を見開くと息を吹き返す。
 そのまま咳き込みだすと急速に意識が覚醒していく。
 苦しげに喉を喘がせ、胸が膨らんでは潰れるかのように上下する。
 状況が飲み込めないまま、提督の体は溺れるように酸素を求めていた。
 しばらく荒々しい呼吸を続けていくと、徐々に正常な調子を取り戻していく。

 そうして提督は状況に思考を巡らし始める。
 すぐに思い出せたのは自分が何者かで、今はどこかで寝そべっている。そして青い目のヲ級に何かをされたということだった。
 震える手で体を触る。異常はないらしかったが、自信を持てないまま体を起こす。
 拘束の類はされていないが、足は素足で服も着せ替えられていた。
 深海棲艦がよく使用している脱色されたような色合いのローブだ。胸元がだぶついていて、提督は面白くもないのに失笑が出た。

 部屋は青白い光に照らされていて丸かった。
 入り口は開いている。というよりドアがなかった。その先は通路のようだが、どこに通じているかは見当もつかない。
 その入り口から誰かが覗いていた。
 白い顔に白い髪の少女が入り口の端から隠れるように見ている。
 提督と少女の目が合う。即座に少女は驚いて逃げ出す。

「ま……」

 呼び止めようにも声が出ないで代わりにむせた。通路の先に消えていく少女は後ろから見ても真っ白だった。



402 : ◆xedeaV4uNo - 2016/10/11 11:07:20.48 bvNPb1zk0 291/702



 追ったほうがいい。おそらく、あれは深海棲艦の姫だ。
 提督は寝台らしい場所から起き上がるが、平衡感覚が不安定だった。
 波に揺られるような感覚をこらえて、壁に手を突きながら白い少女のあとをできるだけ急いで追う。
 黒い蝋を固めたような壁と床で、触った感触は冷たいが走っても痛みは感じない。
 通路の奥に着くと、道が左に折れ曲がっていた。
 提督は曲がろうとして、すぐ足を止めざるをえなくなる。
 待ち構えられていた。

「港湾棲姫……」

「人間ハ私ヲソウ呼ンデイルノダッタナ」

 港湾棲姫は通路を塞ぐように悠々と立っていた。
 無表情でどんな感情や意図を持って対峙しているのか分からない。
 その港湾棲姫の後ろに隠れて、先程の少女がこちらの様子を窺っている。
 二人は似ていて、姉と妹のようでもあるし母と娘のようでもあった。
 そのせいだろうか、怖さを感じない。
 どうにもならないな。そう認めてしまえば、かえって腹が決まった気にもなる。

「ここはどこで、俺に何をした?」

 提督が思い切って聞いてみると、港湾棲姫はすぐに答えた。
 それは裏を返せば知られても困らない、ということでもある。

「君タチノ言葉デ言ウト……ガダルカナル島ダ。聞イタコトグライアルダロウ? ココハ我々ノ拠点ダ」

 ガ島を知らないはずがない。
 そこはかつての地獄の代名詞。今もそれは同じままらしい。





 四章に続く。





【艦これ】鳥海は空と海の狭間に【四章】


記事をツイートする 記事をはてブする