※『とある神父と禁書目録』シリーズ
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最初から:
ステイル「最大主教ゥゥーーーッ!!!」【1】
1つ前:
ステイル「まずはその、ふざけた幻想を――――――」【4】
1 : >>1 ◆weh0ormOQI - 2011/12/23 23:10:32.30 k80yyd4c0 2133/2388当スレは
ステイル「最大主教ゥゥーーーッ!!!」
http://ex14.vip2ch.com/news4ssnip/kako/1305/13053/1305391028.html
インデックス「――――あなたのために、生きて死ぬ」
http://ex14.vip2ch.com/news4ssnip/kako/1309/13096/1309622517.html
ステイル「まずはその、ふざけた幻想を――――――」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1316778674/
から終わる終わる詐欺を繰り返しながら続いてしまった、
禁書一報われない姿が似合う男、ステイル=マグヌスが報われるまでのあれやこれやを描いたお話です
濃厚なステイル×インデックス要素を含む未来設定ですので苦手な方はご注意を
元スレ
とある神父と禁書目録
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1324649432/
――Passage14――
「ふふっ、ふっ、あっはははっはっはっは!!!!!」
哄笑が寒々と、だだっ広い電子の箱庭に響き渡っていた。
「望外だ!! まさか、ここまで! ここまで上手くいってしまうなどとは!」
待ちに待った『プラン』達成の瞬間を目前にして、男は声を張り上げて、腹の底から
笑っていた。
「――――私の百年は、いったい何だったと言うんだ、エイワスッ!!!」
大口を開けて笑い崩れながら、大粒の涙を流していた。
「アレイ、スター? …………っ!」
思わず崩れ落ちた男の背中に駆け寄りそうになって、ローラは自分で自分の頬を
力の限りはたいた。
親子の情などあるはずがない。
搾りかすの一片とてもはやこの血潮には残っていない。
そう、必死で頭の中で反芻する。
『無限の愛』に触れてなお、傷付けてでも守る覚悟を貫ける適格者に敗れる。
宿主を守り通したいという『感情』が、『法の書』を紐解く選択肢を突きつける。
原典を山のように読み込ませることで、『法の書』の読解が叶うまでにその『魂』を
研ぎ澄ます。
『記憶』の中の無数の情景から逆算して、科学のパーツも魔術のパーツも等しく、
いとも容易く創造する。
これらすべてを、融合の日であると世界に認識された『七月二十八日』が後押しする。
そして『神』を『浄』化する存在が産み落とされ、十字教の時代が――――否、既存する
すべての宗教の時代が終わる。
オ シ リ ス ホ ル ス
『人が神に隷属する時代』が終わり、『人が神になる時代』が訪れる。
以上がローラも断片的に知り得た『法の書』の記述と、今までのアレイスターとの対話
から推測される、『プラン』が行き着く終着点だ。
『メインプラン』も『スペアプラン』も『予備プラン』も『廃棄プラン』も、通過するルートこそ
違えど、すべてがこの目的を達成するために用意された分岐路である。
そして眼の前の光景こそが、百年間の暗躍と陰謀が結実した、まさにクライマックスだ。
「ふっはは、はは、はは…………」
――――だと言うのに、どうしてこの男は泣いているのだろう?
「アレイスター?」
「よりにもよって、君が達成してしまうなどとは」
心血を注いでいた『メインプラン』が打ち砕かれ、一方で片手間の、かつて打ち捨てた
『予備プラン』が成功してしまったことに対する、虚しさ?
それならば理解できなくもない。
自らが科学者として築き上げてきた持論が、世界の意思などという得体の知れないもの
――あるいはそれを、人は神と呼ぶのだろう――が齎した偶然に凌駕された。
「アレイスター」
「なんたる皮肉だ、これは」
神の消滅を第一義とする『法の書』の著作者として、確かにこれ以上の皮肉はあるまい。
しかし、それはなにか違う気がする。
ローラはそう直感した。
眼前の人非人が流す涙の意味を、彼女はどこか遠くの景色に見たような気がする。
それはローラがまだ『禁書目録』になる前の、『完全記憶』を植えつけられる前の、
はるかな地平線の彼方に霞む情景。
もう少し、もう少しで届く――――その時、発見した。
「ああ…………リリ、ス」
結局のところローラは、事ここに至って、いまだ。
「アレイスター=クロウリー! 私の質問に答えなさいッ!!」
アレイスターがあらゆる犠牲を厭わず『プラン』を邁進した、その動機を知らない。
「……………………もういい、君はここまでだ」
聞かれてもいないことはべらべら喋っておきながら、今さらなんという言い草か。
スッ、と脳に血液が上る感覚を味わった。
それだけならば本日数度目の体験であった。
だが感情を殺そう、抑え込もうと必死だった今までとは違って、不思議と心根が軽い。
同時に焦燥。
今この場で聞いておかなければ、もう二度とチャンスは巡ってこない。
そんな切迫感に背中を押された。
ゆえにローラは胸の奥底に仕舞いこんで、この百年一度も直に尋ねられなかった原初の、
そして最後の疑問を父にぶつけることを決心した。
「一九〇六年、リリスが死んだ日! 私はまだその頃、一人で立ち上がることもできぬ
赤子だった!! だからあの日起きたことは、貴様からの伝聞以外の何物でもない!」
ローラは他ならぬアレイスターから聞かされた。
リリスは実験体(モルモット)になって死んだ、と。
その失敗を有効に生かしたからこそ、ローラの脳に『禁書目録』が在るのだと。
幼心に、父への不信と嫌悪という方向性を決定づけた事実だった。
「アレイスター、あなたはあの日、本当は――――――!」
「迎えが来たようだな」
「え?」
父に詰め寄ろうとして、ローラは誰かに肩を掴まれた。
確たる意志の強さのこもったしなやかな握力。
不躾な行為であるはずなのに、不快な気分にまるでならないこの温もり。
これは、ローラの知っている手のひらだ。
振り返る。
「…………あ、え?」
「帰ろう、ローラ。君を待っている人が、まだ此方にはいる」
実りに垂れる稲穂のような、素朴な黄金色の頭髪が最初に目に入った。
ローラがこよなく愛する焼き菓子そっくりな、しかし数十年ぶりの色だった。
彼女の知る彼の頭髪は、本来めっきり薄くなって久しいものであるはずなのだが。
「ああ……この姿か。せっかく一時とはいえ年格好など関係のない世界に来たのだから、
多少は見栄を張ろうと思って、な?」
容姿に似合わぬ老成した語り口調で、青年が秋波を送る。
嫌みの欠片も感じさせぬ自然な仕草だった。
「ど、どうしてここに? ……いえ、それよりも私にはまだ、あの男に聞かなければ
ならないことが残っているわ」
青年は女神の降臨をも映し出したスクリーンに一瞬目線をやって、首を振った。
延々と魔術師と魔神の激闘を上映していた銀幕に、微細なヒビが無数に入っていた。
「このシステムは、わずかな衝撃にも動作不良を起こすと聞いている。ロンドンでは
これからいままで以上の異変が起こるだろう。万一のことがあればこのユニットに
接続している君の人格が消滅してしまう」
「そんなことは分かっているッ!! それでも、それでも私はあの男に、アレイスターに」
青年は悲しげに目を細めてもう一度かぶりを振った。
肩に添えられた手に、痛いほどの力が加えられた。
背後から、アレイスターの生気の失せきった声が耳朶を打った。
「有意義な……いや、楽しい時間だった。機会があれば、またいつか会おう」
「お黙りなさい! 貴様にはまだまだやるべきことがある! インデックスとステイルの
前で跪いて、断罪を請わなければならないと、そう言ったでしょう!」
「ローラ、一刻を争う事態なのだ!」
「離して、離しなさい」
青年の膂力に引きずられるように、父の姿が不自然に遠ざかる。
マスターシステムを奪い返されたのだとようやく気が付いた。
同時に全身を襲う虚脱感。
これもおそらくはアレイスターの仕業だ。
すぐさま膝裏に手を回されて抱き上げられた。
稜線に消えゆく男の唇が最後にかすかに震えた。
紡がれたのは実の娘にではなく、彼女を両の腕に閉じこめた、神父服の青年に宛てた
言の葉だった。
「すまないが、君。私の娘をよろしく頼む」
「――――――――――ぁ」
ローラはこの時ようやく悟った。
どうしてローラ=ザザはローラ=スチュアートになったのか。
どうして実の親から貰った、『ローラ』という名前だけは捨てられなかったのか。
宣戦布告だと、自分ではそう思っていた。
私は貴様の大嫌いな十字教のトップに君臨して、いつの日か科学を喰らい尽してやるぞ、
という声なき宣言のつもりだった。
「ふむ。貴方に言われるまでもないことだ、アレイスター=クロウリー」
違った。
もっと単純なことだった。
「―――――――お、おと、」
夢に見るほど憎んでも、肉親であるという事実だけは断ち切れなかった。
血の繋がりはローラが思うほど薄くはなかった。
きっと、ただそれだけのことだった。
間もなく、視界が一面の闇に塗りつぶされた。
「帰ろう、ローラ。インデックスも君を待っている。マグヌス神父とて、君に死なれては
困るだろう。……そしてなにより」
上に向かって落ちていくような浮遊感。
漂うような不確かさの中で、手を握ってくれる誰かの存在だけがただ一つの救いだった。
「私の残り短い余生にも、できればつれあいが欲しいのでな」
「…………勝手になさい。幾つになっても、お人好しだけは治らないんだから」
それがローラにとって、生涯を懸けた怨敵との――――父親との、今生の別れとなった。
-----------------------------------------------------------------
聖なるかな、聖なるかな。
荘厳な空間に、賛美の祈りがこだましているかのようだった。
(…………なんだ、これは)
武術の達人は、向かい合うだけで敵手の強さを瞬時に把握するという。
幾千の修羅場をくぐりぬけたステイルには、わからない話でもない。
対峙した瞬間にこれは勝てないな、と思わせる規格外は確かにこの世に存在する。
それは例えば『神の右席』の最高峰であり、学園都市第一位であり、先ほどまで交戦して
いた一〇三〇〇〇冊の魔神である。
そしてそのような規格外の天才どもを打ち破るため、ステイルはこの霧の街に最終防衛
ラインを引いた。
“この中では、何があっても彼女を守り通す”
シンプルで強固な誓約条件を絶対のものにするべく、ひたすら愚直に研鑽を積んできた。
「命名、『十字架上の主の最後の言葉』」
しかしこの状況は、まさしく未知との遭遇と呼ぶに相応しかった。
理解できない。
彼我の戦力差という意味でもそうだが、とにかく何もかもが理解できない。
唯一理解できたのは理解できない、という事実のみだ。
ステイルは長い魔術師人生の中で様々な敵に出会った。
敵の実力を見誤って窮地に陥るような失態も、恥ずかしながら多々経験済みである。
代表例は当然上条当麻だ。
無力で無謀な身の程知らずと侮って挑んだ結果があれである。
「完全発動まで、残り五〇〇秒」
だがこの状況は根本的に性質が異なる。
なにせ眼前の美しき女神が弱いのか強いのか、そこからして全く理解不能だ。
そびえ立つ大山を前にしながらそれが“高い”か“低い”か、漠然とした感想すら湧いて
こないような、そんな摩訶不思議な心境だった。
「第一段階、始動。命名――」
ゆえにステイルは、唇も動かさず神託のごとき文言を紡ぐ女を、呆然と見送るのみだった。
ディフォー
私は渇いている
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同時刻、某国の商店通り。
「アナター! 今度はあっちのお店に行ってみたいな、ってミサ……どうしたの!?」
杖を突く白髪の青年が、表情を壮絶に歪めて身体をくの字に折り曲げていた。
「…………かっ、が……お、おい……!」
「あ、あ、きゅ、救急車呼ばないと」
「待て…………ッ! それよ、り、ネッ、ト」
「え?」
「ネッ、トワークは、どうなってる……!?」
「ミサカネットワーク? ……あ、そっか! 近場の妹達に助けてもらえば」
青年の背中に手を当てる女性がパッと顔を明るくし、栗色の長髪を揺らす。
「あ、あれ?」
「ど、ォだ……!?」
しかし陽を透かしたような表情のほころびは、数秒もせずに曇った。
「ネットワークが、ううん、『能力』が発動しない……!」
---------------------------------------------------------------------
同時刻、学園都市某所。
「………………これは」
「おら、魔術師野郎。次はどこに……おい、どうした?」
「魔術が、消えた」
「はぁ?」
「魔術がさっぱり発動しない、と言っているんだ」
「んだ、そりゃ……いや、待てよ」
「どうした」
「俺の能力も動かねえ。『自分だけの現実』が崩れた訳でもない。まるであの胸糞悪い
魔術師野郎がやったみたいに、力場だけが消え失せちまったような」
「…………ふむ」
「おい、どうすんだ? このままじゃあ俺らのチマチマした努力がパァじゃねえか」
「いや、続けるぞ。何故だか理屈はまったく知れんが」
男の内の片割れが、手のひらに収まった一枚の紙切れを自慢げに掲げる。
「この“無線機”だけは、問題なく起動しそうなんでな」
---------------------------------------------------------------------
ステイル=マグヌスの陣地はロンドン全域に及ぶという。
ならばと女は、男より遥かに広大な陣地から『力』を招集しようと断を下した。
『無限の愛』の届く距離。
それすなわち『女の敵の陣地』であるロンドンを除く――――地上の全て。
「ハディート、ヌイトの原料を確保。『誕生』を開始します」
『幻想殺しのようなもの』が女の右方に出現したことに、男は気が付いているだろうか。
ステイルは何が何だかわからない、という呆けた顔で立ち尽くしていた。
無理もない、なにせ彼の掌握する世界では正しく“何も起こっていない”のだ。
女の味方は、男を除く世界のすべてだ。
そして男の味方は、いまこの瞬間地上から消え失せたのである。
「並行して第二段階を開始。命名――」
テテレスタイ
果たされた
太陽が昇った。
地平線からではなく、虚空から生まれ出でた。
直径にして一〇センチになるかならないか。
激しく明滅しながら電波、赤外線、紫外線、可視光線、X線などを雑多に放出するボールの
中心核は、摂氏にしておよそ一五五〇万度に達する。
『魔女狩りの王』だろうが『世界の根源』だろうが、比肩するべくもない桁外れの熱量。
その圧倒的なエネルギーの源は、“科学的には”四個の水素原子から一個のヘリウム原子
が生成される際に発生する質量欠損である。
この現象は一般的に――――
「ふっ、ざけ」
――――核融合反応という言葉で知られている。
「ヘラクレイトォォスッッッ!!!!!」
魔術師の悲鳴にも等しい絶叫が駆け抜けた。
本能的にこの球体の危険性を察したらしい。
大魔力に対して自動追尾を行う『世界の根源』が、主の命令を待たず疑似太陽に突撃する。
同時にステイルが、ローブの裾から数千、数万枚のルーンをばら撒いて防御姿勢を取る。
光が弾けた。
真の日輪の裏側に回った、世界の半分(よる)が輝いた。
「――――――――――」
太陽に挑んだ愚かな焔が、器を弁えぬ愚劣な魔術師のしもべが焼き尽くされる。
多重陣も構成要素の緻密な配置も、一切が無に等しく思える圧倒的な力の差。
吸収の限界を超えヘラクレイトスは爆散する。
ステイル=マグヌスが精魂を傾けた、十年の努力の結晶が消えていく。
十年。
人間の十年。
人間にとって長い長い十年。
ステイルが、インデックスが、苦しみ抜いて生き抜いてきた十年。
であると同時に、ちっぽけな人間ごときの――――たったの、ほんの十年。
世界に明確な変化が訪れた。
地表の五割を照らすほどの閃光を、瞑目するだけでやり過ごした女。
瞼を徐に開く。
首関節を動かし、上空へと面を向け、もう一度“眩しさに”目を細めた。
――――そこに、昨日と今日の境目には昇るはずのない太陽が在った。
異なる二つの世界法則から導き出された解は、太陽すらもこれほど容易く昇らせた。
しかし女は眉をひそめた。
『法の書』で定められた数値に対して、わずかだが規模が足りていない。
生成が完了する直前で、矮小な人間の邪魔が入ったがゆえだ。
女は視線をゆっくりと下ろす。
雲一つない、青々と広がる悠久の天蓋。
さらに下ろす。
地平線を境に空の彼方の優美さとは対照的な、死臭漂う灰茶色が現れる。
――――そこに、聖ジョージ大聖堂は無かった。
女が凝然と立ち尽くしているのは、直径五〇メートルに及ぶクレーターの中心だった。
無。
クレーターの内部に、女の他に鼓動する生命など、存在しているはずがなかった。
⇒ TO BE CONTINUED ……??
「最終段階に移行」
女はもはや、己が何を為そうとしているのかすら理解できていなかった。
ただ喉が、脳が、心臓が、掻き毟りたくなるほど苦しかった。
この十年間ずっとそうだった。
辛くて悲しくて、顔を背けたくなるような嫌なことはいくらでもあった。
それも、すべて、これから、これで、
(……これで、すべて終わるのでしょうか)
女は消え入るような掠れ声で呟いた。
頬を流れる一滴の感触も、もはや女の脳には伝わらなかった。
……?? ⇒ ⇒ ⇒ ……BAD END?
しかし、誰かがどこかで、叫んでいるような声がする。
誰かの沈黙が、音として伝わってきた。
すぐ目の前にあるのに、遠くから聴こえた。
ずっと向こうにいるのに、耳元で囁かれた。
どこだろう、どこから――――
「なにが、終わりだ」
ああ、もしかして、これは。
「悪いね、僕は…………“続き”が、欲しいんだ」
私の、祈りなんだろうか。
「ハッピーエンドなんて要らないんだ。君といられれば、それでいいんだ」
メーデー
あなたは、私の『助けて』を拾ってくれたんだろうか。
「――――――さあ。もう一度、証明をやり直すよ」
F o r t i s 9 3 1
「『我が名が最強である理由をここに証明する』ッ!!」
⇒ TO BE CONTINUED !!
(悪いね、『上条当麻』。約束は守れそうにないよ)
ステイルはつくづく、己が主人公向きの人材ではないのだと痛感した。
あるいは、インデックスもそうなのかもしれない。
女の、死を余儀なくされるほどの壮絶な悲しみを目の当たりにして、開口一番「くだらない」
などと吐き捨てた男。
男に先に逝かれるのが恐ろしくて、暴走したあまり世界を滅ぼそうとしている女。
その上男は、主人公ならすべからく目指して然るべき『ハッピーエンド』も、必要のないもの
だと切り捨ててしまった。
どう好意的に解釈したところで、英雄譚のヒーローとヒロインの所業ではあり得ない。
「最初に言っておくよ。君はこれから世界をどうこうする、みたいな大事業に携わる
つもりらしいが……僕はそれに、たいして興味がない」
いやそもそも、ステイル=マグヌスに主人公たる資格などハナからありはしない。
「ただし、これだけは聞かせろ」
なぜならステイルは割合本気で、世界などどうでもいいと考えているからだ。
「その身に溜め込んだ力で、君はこれから僕と、そして君自身を、どうするつもりだ?」
眼前の女性(ひと)が幸せであることがすべてに優先すると、そう盲信しているからだ。
「……あなたを殺して、インデックスの記憶を消す。何も変わっていません」
ただしステイルの最優先事項には、今現在“ただし書き”がオマケでついてくる。
「そうかい。その割には余計な付加価値(オマケ)がくっついてきてる気がするがね。
…………まあ、そういうことなら僕の為すべきも変わらないな」
“自分も幸せになる”。
「もう一度証明だ。『僕は死なない』。絶対に、だ」
譲れない至上目的を果たすため、ステイルは今度こそ、人間を超える。
-----------------------------------------------------------------------------
女は知っていた。
ステイル=マグヌスには才能がない。
フィアンマのような、凡人が息を吐きたくなるような天賦がない。
浜面仕上のような、強者たちの度胆を抜かす発想がない。
一方通行のような、窮地で目覚めてくれる進化がない。
上条当麻のような、決して折れぬ信念がない。
まったく“ない”とまでは言わない。
ただ、足りていないのだ。
中途半端なのだ。
天才魔術師と世に持て囃されようが、真の強者には太刀打ちできない。
出来ることといえばせいぜいが横槍を入れるか、時間を稼ぐか。
血のにじむような努力を重ねて重ねて、手に入れたのは蟻の這うような速度での、
進歩と呼ぶのも情けないミリ単位での成長。
そうして会得したちっぽけな力にすがって、結果何度も何度も膝を折った。
だから、ステイル=マグヌスは主人公にはなれない。
女はそれを知っていた。
そんなことは誰よりもステイル自身が痛いほどに思い知っていると、女はずっとすぐ隣で、
ずっとずっとその心を見つめ続けて、知っていた。
そして今。
女は、ヒーローになりきれない男が二本の脚で再び立ち上がる様を見た。
四六時中身につけて身体の一部と化している黒い外套が吹き飛んでいる。
下に着用しているこれまた黒一色のインナーに、一見しただけでは目立たないものの、
大量の血液が染み込んでいた。
医療に詳しくない女でも即座に直感できた。
あの出血量では、もう長くはない。
そしてなにより、とっさに心臓を庇ったのだろうか―――
「なにゆえ、そんな身体で立つのです」
――――左の肘から先が、無かった。
「まだ、生きてるからさ」
断面は無残に焼け焦げて、こちらからは血の一滴もこぼれ落ちない。
「生きている、ただそれだけです。貴方の体重から算出される致死出血量はおよそ
二五〇〇ミリリットル。どう少なく見積もっても、貴方は二リットル以上は」
「なんだ、知らないのか? ご自慢の一〇三〇〇〇冊にも載っていないか」
しかし男は壮絶な死に化粧を全身に施されながら、なおも不敵に笑っていた。
「知っています。人はいつか必ず死ぬ。死ぬべき理由などなくとも、死ねない理由が
あっても。人は大層な志の有無などに関係なく、ただ力の前に死にます」
世界のどこかで戦争が起こったとする。
否、仮定するまでもない。
歴史のどこを切り取っても、地球は必ずその皮膚のどこかに戦という膿を抱えている。
そして、罪もない民草が犠牲になる。
彼らに死ななければならない理由などない。
心ある者がいかに理不尽を声高に叫んだところで――――人は死ぬ。
結婚を控えた恋人と、必ず戦地から帰ると約束した兵士がいたとする。
すると彼は死ぬ。
彼には絶対に、何があっても譲れない理由があったはずなのに、死ぬ。
“死んでたまるか”などという信念一つで不死身の超人になれるのならば苦労しない。
現実には超人など誕生せず――――人は死ぬ。
「……それじゃあ駄目だな。『禁書目録』に付け足すことをお薦めするよ」
しかし男は、現実に生きていた。
「いいか、よーく覚えておけよ。『まだ生きてる』ってことは」
手の内を使い果たして、なけなしの魔力も枯渇して。
それでも瞳の奥に、消えない焔を宿して。
「――――『まだ闘える』、ってことだ」
ステイル=マグヌスは、“なぜか”まだ生きていた。
女はこの瞬間ようやく、その事実が極めて異常な事態であると発見した。
いかに数万のルーンで防御しようが、ステイル渾身の新術を絹を破るように消し飛ばした、
恒星の核融合爆発の前には焼け石に水であるはずではないのか。
現にステイルと女以外には、クレーターの内側で聖ジョージ大聖堂を感じさせる痕跡など
塵一つとて残ってはいない。
「どうした、目を丸くして」
なにか、尋常ではなく異常なことが起こりつつある。
そう判断せざるを得なかった。
「そう難しく考えるなよ。僕はプロの魔術師だ。プロは常に最悪の事態を想定しておく。
……それだけのこと、さ」
いや、待て。
“これ”に類似した状況が記録の中にある。
そう遠い過去のことではない。
文字通り必殺の一撃を受けて、立ち上がれるはずのない致命傷を負ったはずの男が、
涼しい顔で立ち上がる様。
つい最近のことだ。
誰かが狼狽とともに放った絶叫が、昨日の事のように脳裏で再生できる。
そう、確か、あれは。
――なぜ貴様が立ち上がっている、『 』ぁぁっ!!!!――
『……あー、あー、マイクテス……待たせたな、ステイル=マグヌス。準備完了だ』
死闘の舞台に、しばらくぶりの第三者の声が響いた。
「……待たせやがって、メイド狂いが」
発信源は、ステイルの掌の内の薄っぺらなカードだった。
「では僕も――――正真正銘、最後の切り札を抜かせてもらうよ」
---------------------------------------------------------------------
またも時計の針を巻き戻す。
此度の時間遡行は、およそ二週間。
「単刀直入にいこう。君のこの店、『陣地』だな?」
「…………はて、何のことやら」
七月十六日、学園都市第一二学区、とある魔術師の『城』。
二人の赤毛が無人の店内で、ガラガラの卓に腰を下ろそうともせず剣呑に睨み合っていた。
「とぼけるなよ、フィアンマ」
「何の根拠があると言うんだ、ステイル=マグヌス」
一人はもちろん、ステイル=マグヌス。
そしていま一人は「0715事件」に終止符を打った立役者、『ただのフィアンマ』。
「根拠なら、君がここにいるという事実で十分だろう?」
「意味が分からんな。せっかく昨日の一件の借りを返してやろうと思ったのに、精鋭
メイド二〇人の歓待を断っておいて何かと思えば……いかに温厚な俺様とてキレるぞ。
キレキレだぞ」
「問題はその、“昨日の一件”だよ」
「む」
「昨日は結局、第一位と第六位を除く超能力者が勢ぞろいで『神の右席』を相手取った
わけだが……君は別に、彼らを当てにしていたんじゃないだろう? 舞台が学園都市
になったのは『偽右席』の側の都合であって、君が選んだわけではない」
一呼吸分の間。
ステイルはテーブル備え付けのアッシュトレイを、郷愁あふれる眼差しで見やる。
「つまり、だ。君……正確には君とヴェントの二人は、最悪の場合たった二人で彼ら
四人を打倒しなければならない、そんな事態に陥ってた可能性だってあったはずだ」
フィアンマは事あるごとにイギリス清教や学園都市の助力を拒んだ。
事件の真っただ中、大した傲岸不遜だと呆れた覚えがある。
だが一夜明けて冷えた頭で考えなおすに、いくらなんでもそれは無謀にすぎると、
ステイルはそう思い至った。
「あの不自然なまでの余裕。もしかすると、とんでもない隠し玉を持っていたがゆえの
ゆとりだったんじゃあないのか?」
「その隠し玉が俺様の『ベツレヘムの星』だと、そう言いたいわけか」
「君の城は全世界規模のチェーン店だったな。世界のどこで『右席』と戦闘になっても
いいよう、万が一に備えた措置だった。そういうことだろう」
「……お前、自分がなかなかに突拍子もないことを言っていると」
「心配するな、自覚はあるよ」
「…………」
そしてそれならば、メイド喫茶の外観を目の当たりにしたインデックスがなんら反応を
示さなかったことも説明がつく。
要するにフィアンマの『城』は単体では意味を持たず、他の要素と連動・結合すること
ではじめて発動するタイプの魔術なのだ。
「僕も『陣地』を構築するタイプの魔術師として、思い当たるところがあったんでね。
“これ”で確かめてみようと思ったわけさ」
言いながら、手に提げたビニール袋からあるものを取り出す。
「これまた、アナログな……」
行きがけに文房具店で調達した地球儀。
ペンを抜いて、予め調べておいた『城』の座標に点を打っていく。
日本の店舗は意外にもこの学園都市に一つきり。
ロンドンはオックスフォード通りの一等地にも出店している。
イタリア、中国、アメリカ、ブラジル、カナダ、ロシア。
新興国と先進国の区別なくあちこちに散らばってはいるが、こうして眺めると一つの
傾向が見えてくる。
立地が異常なほど、均等に地球全域に拡がっているのである。
点をプロットし終えたステイルは、続けて線を描きこむ。
球表面に浮き彫りとなったラインの意味するところは――――
「流石、真の天才はやることが違う。美しいまでの幾何学模様だ」
-----------------------------------------------------------------
神はこと才能というものに関しては、まったくもって不公平かつ不平等である。
通信術式からようやく上がった、間延びした『反撃の狼煙』を確認してからステイルは
胸中密かに毒づいた。
失った左腕から激痛が昇って――――こない。
痛みにのたうちまわって戦闘不能になる前に、とっくのとうに神経は焼き切った。
『やれやれ、わずか一日分の借りが高くついたものだ。二週間も営業停止してこのために
カードを配置させられた挙句、社員総出でも頭数が足りなかったから急遽能力者どもを』
「御託は後で聞く。何枚配置した?」
『…………ざっと、一千万といったところか。しかし本当に良いのか、凡人? 身の丈に
合わぬ力は己を滅ぼすぞ』
「僕は死なない」
『………………はぁ、好きにしろ』
天才に凡人の惨めさというのは理解しがたいものだろう。
ステイルが十年かけて築いた『陣地』をはるかに上回るスケールで、たったの三年で構築した
フィアンマにしてもそうだし、危機的状況で『眠っていた真のパワー』とやらを理不尽にも
覚醒させたインデックスもまた然りだ。
「そんな」
相も変わらず理解不能の存在感を満身から放つ女神が、小さく呻くように洩らした。
ただ、その声音に込められた情動だけは、どうしてかステイルには理解できた。
「また、あなたは、そうやって、命を粗末に」
女が現実の認識を拒むように首を横に振る。
たったそれだけの仕草ですら神秘的な蠱惑に満ちている。
だがその表情はいかにも人間らしく、忙しなく左右していた。
「……いえ、無駄です。いまこの瞬間、ロンドン以外の地表に存立するあらゆる魔術と
超能力は私の掌握下にあります。よって、そんな」
女神にも焦燥は存在するのだな。
そう、ステイルは思った。
「――――地球全体を利用した球形魔法陣など、不発ですッ!!」
地球。
それがフィアンマが対『神の右席』戦に備えて用意した、最大最強の『陣地』だった。
直径にして約一二七〇〇キロメートルの円陣。
単純計算で、ロンドンの二五四倍の規模を誇る超巨大魔法陣。
それがさらに球面という三次元のキャンバスで複雑に絡み合って構築されれば、効力の
倍率たるや天文学的な値に及ぶであろう。
『その声は「自動書記」か? 悪いがお気遣いは無用だ。俺様の陣は頂点同士をテレズマ
――正確には龍脈で結んでいる。一千万のパワーソースは、「地下」を通じてステイル
=マグヌスの元に流れ込んでいる真っ最中だ』
「と、言うことだ。僕のお友だちは、まだ地面の下に残っていたらしいよ」
七月十五日に『腕』の一撃からフィアンマの命を救ったのも、先刻ステイルの生命を
紙一重のところで繋ぎとめたのも、すべては大地の御加護である。
「……このために、折りにふれては長々と話を引き伸ばしていたの?」
「時間稼ぎは僕の十八番だと、君もよーくご存じだろう?」
「私が、『法の書』を解読することまで計算に入れて」
「へえ。それ、『法の書』だったのか。これは宗教史がひっくり返るね」
「質問に答えてください」
「アレイスターが裏側で暗躍していると悟ったとき、『魔神』に勝つ程度では事態は収束
しないんじゃないかと、そう思った。だから、ここに来る前に学園都市のフィアンマ
に連絡を付けておいたのさ。ロンドン時間で午後一時までに、急ピッチで陣を完成
させてくれ、ってね」
「じゃあ、じゃあ。あなたがこの間、オックスフォード通りの『ベツレヘムの星』に
入っていったのは」
「ああ、見られていたんだっけな。フィアンマの術式と僕の術式をすり合わせるわけ
だから、色々と不都合を調整する必要があったんだよ」
「…………そこまでして、そうまでして、貴方は死にたいんですか!? 一千万ですよ、
わかっているんですか、絶対に、今度こそ絶対に死んじゃいます!!」
「『僕は死なない』。物覚えの悪いガキでもあるまいし、何回言わせる気だ? 第一、さっき
からぐだぐだと君は……」
ステイルはふっと微笑んだ。
まるで、というかまるっきり、くだらない子供の喧嘩だ。
そう思うと、笑いをこらえられなかった。
「僕に、死んでほしいのか生きててほしいのか、はっきりさせたらどうだ」
「…………………………わかんないよ」
女神を包む薄紅色の膜が一際激しく明滅した。
と同時に、左右に配置されていた二つの『この世ならざる』気配が、磁石の極同士が
引かれ合うように中央へと、女の真正面へと移動していく。
『法の書』の一般に知られる内容を鑑みるに、あれが『ハディート』と『ヌイト』なのだろうが――――
「なにがだい」
男には“世界の一大事などという些事”よりも、何をなげうってでも優先しなければ
ならないことがあった。
「こんなこと、したくないのに。こんなことしたら、皆が、みことが、あくせられーたが、
とうまが守った世界が、目茶苦茶になっちゃうのに。でも、止まってくれないの……
どうしたらいいか、わからないのぉっ!!!」
すなわち、その涙の理由を変えること。
「……この術には、長ったらしい詠唱は要らないんだ」
「……え?」
ステイル=マグヌスには主人公たる資格がない。
『失敗』しないとストーリーが始まらない主役などあまりにも滑稽すぎる。
いいとこヒーローに出鼻でぶっ飛ばされるかませ犬か、ピエロがせいぜいだろう。
「だから、君が」
だが笑われるのが役目のピエロにも、なけなしの意地はあるのだ。
守りたい人が、確かにそこにいるのだから。
「たった一言、くれればそれでいい。たったそれだけで僕は、世界の誰よりも『最強』で
いられるから」
どんな主人公でも太刀打ちできない『魔女』相手だろうが、打ち勝ってみせる。
――――『最強』を、今こそ証明してみせる。
「……………………………………………………けて」
か細い声。
「んん? 声が小さいね、よく聞こえないよ」
男が耳に手を当てて聞き返す。
すう、と吸気が鳴る。
ヒロインになれなかった、なりそこねた女の心底からの叫び。
それを世界中などではなくただ一人の、ヒーローになりきれない唯一の男性(ひと)の
耳へと届けるために、肺の底へと空気を送る。
「助けてっ、すているっっ!!!!」
女の心臓の鼓動は大気を揺らし、男の心の臓までの短い旅路を行く。
『また忘れるなんてやだよ、かおり………………助けて、すている』
ステイルは追憶する。
彼女の“前”の彼女の、最期の言葉。
守れなかった誓い。
果たせなかった約束。
・ ・ ・ ・
「――――ああ。今度こそ、君を助けてみせるよ」
祈りは人に届き、人は人によって救われる。
十二年越しの永かった旅路が、ようやく終わりを告げた。
ステイルは真に狩るべき『魔女』――――『神浄』と向き合った。
それは棒を持って玉座に就いた、鷹頭の神の姿をしていた。
「そういうわけだから、君が僕の倒すべき敵らしい」
術者の手を離れた『神殺しの神』は、一切の反応を示さない。
ステイルにその存在の深奥を理解できるはずもないが、とりあえず『神浄』に自意識は
存在しないようだ。
「悪いね。顕現のための最後の試練が、英雄でもなんでもない凡人の相手で」
自らの凡才も、平運も、誰に言われるまでもなくステイルはよく知り尽くしている。
ステイル=マグヌスの上に奇跡は降りてこないし、勝利の女神も微笑まない。
だが、だからこそ――――
「覚えておけよ、『ホルス』。ステイル=マグヌスの勝利に奇跡はない。僕の勝利は
いついかなる時でも、確たる根拠と勝算に導かれた必然だ」
人の身で辿りつけぬ境地なら、人を超えろ。
それでも神がなお高いのなら、地に墜とせ。
どこまでも凡人に相応しい、泥臭い、物量作戦。
(最後の最後で借り物の力に頼る、か。こういうところもヒーローっぽくないな)
だが構わない。
そこには大事な人から受け取った、確かな鼓動が息吹いているのだから。
残された利き腕一本で、邪魔くさいシャツを引き破って脱ぎ捨てる。
親指の先をガリ、と噛みちぎった。
あふれ出る赤。
ポンコツ同然の心臓がまだ、辛うじて動いてくれている証。
流れ出る血液を裸になった上半身に押しつける。
傷と痣だらけの胸に刻まれる真紅の一文字。
これもまた、ステイルの地道で地味な修練の所産の一つ。
天才の皮を被った凡才が歴史に記す、まったく新しいルーン。
『これってルーン? こんなの見たことないかも』
『けど、未完成だ……禁書目録たる君が見るようなモノじゃないよ』
それは同時に、大切な人を護るためだけに創られた、少年の人生そのものでもあった。
北欧神話の主神は語る。
真のルーンとは己がよって立つ土地と、直面する状況を精査して繰り出されるただ一文字
を指すのだと。
ならばステイル=マグヌスの二十四年間は、この一文字のためにあったのかもしれない。
ステイルは運良く二本とも大過を免れた脚で大地を踏みながら、『状況』をねめつけた。
――――bwq完了neqbcまで一〇jxp秒――――
見えない玉座に腰掛ける『神を浄化する神』が、脳の内側に直接響くような声で唸る。
――――命名――――
この世とは異なる『界』からやってきた力が、ロンドンから世界の空へと飛び立つ。
オ シ リ ス
『人が神に隷属する時代』を終わらせる存在が最後に紡ぐ神託は、何の因果か。
エイス ケイ ラス パラティシェマイ パネフーマ
父よ、あなたの手に我が霊を委ねます
『十字架上の主の最後の言葉』だった。
対峙する『人間』が示す意志は、単純明快。
「抱くは獅子の心、宿すは童の創意」
“神を否定するのは、人である”――――それは奇しくも。
「死せる神の御座を奪うべく、我が身を寄り代に降臨せよ」
アレイスター=クロウリーが世界に示したかった意志、そのものだった。
「術式、命名」
ツァラトゥストラ
神は死んだ
「意味は――――」
Last Chapter Passage14
――――と あ る 神 父 の 最 強 証 明――――
男の消失したはずの左肘から先が“生えた”。
刻一刻と男の命のしずくが失われていた穿から、豪と火の手が上がる。
全身の皮膚の裏側から、血液を燃やしたような焔が産声を上げる。
いや、逆だった。
男の内側から力があふれ出てくるのではない。
世界中から、男に向かって灯が集まってきているのだ。
龍の胴体を通して一千万のルーンが、ただ一文字のルーンへと集束する。
肉体どころか魂ごと弾け飛んでもおかしくない負荷を中和するのは、大地の下で幾万年と
脈打ってきた地球の血液。
時に地脈と呼ばれ、時にテレズマの名を冠し、時に龍脈として伝わる『世界の力』。
一分前まで聖ジョージ大聖堂だった地で、星の鼓動は“この世以外のどこにも属さない”
界力(レイ)として、神を否定する魔術師の背中を押す。
やがて男の肉体そのものが焔と同化し――――ここに『超人』が誕生した。
ステイル=マグヌスは、人間のまま神の死を断定する存在となった。
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女は世界がかたちを変える正にその瞬間を、無為に見送るほかなかった。
『神浄』が手に持つ杖を偽りの日輪に向け振りかざす。
蒼天に浮かぶ恒星が光を失っていく。
黒点の活動が肉眼でも観測可能なほどに、昼が夜に再び塗り替えられていく。
そしてそれは、地球の裏側でも同様だった。
ロンドンの真上で死んでいく太陽は実存する本物のレプリカなのだと、あれを創造した
女自身が誰よりよく知っていた。
よって間もなく地球は、いや太陽系は、宙で最も眩い道標を失うことになる。
それこそが『法の書』の定める神の死なのだと、解読した女は嫌になるほど知っていた。
「あ、あ」
術者の意思を離れたがゆえだろうか、『神浄』の動きは緩慢だ。
『世界の根源』が微小なりとも疑似太陽の生成を阻害した、ちっぽけな蹉跌が『神殺し』に
与える影響は計り知れない。
もしかしたら、ステイルが勝つ可能性はゼロではないのかもしれない。
「や、だよ」
しかし、それでは意味がない。
女にとってステイル=マグヌスが斃れる可能性は、絶対に、確定的にゼロでなければ、
なんの意味も成さない。
だから女は、男の蛮行を是が非でも思い留まらせなければならない。
それでも女は指一本動かせなかった。
ならば己はいま、何を為すべきなのか。
渾身の力を振り絞って『神浄』に突撃する。
――――それでステイルは助かるのか。
女の幼稚な祈りを愚直に聞き入れ、無謀な挑戦に走ろうとする男を止める。
――――それならステイルは死なないのか。
あるいはもう一度死の淵へと逆進して、どうにもならない現実から目を背ける。
――――そしてステイルを、悲しませるのか。
考えれば考えるほど、心が身動きを取れなくなっていく。
その間にも時計の針は休むことを知らず、正確に己が役目を果たしている。
女が一度は『無限の愛』を傾けた尊い世界が、生まれ変わるために死んでいく。
「あぁ……」
――――というのも途轍もない一大事だが、女の嘆きの本質はそこではない。
「い、や」
女が怖いのはもっと矮小で、もっと浅薄で、もっと個人的な喪失だ。
「やめてよ、わたし、たすけてほしくなんかないから」
女の『無上の愛』の行き先である男が、死を恐れずに死に立ち向かってしまうこと。
「さっきの、うそなんだよ、だから」
それが、それだけが、女の究極の恐怖だった。
「しなないで、すている」
涸れ果てたと思われた女の涙粒が乾いた大地に滴った、その瞬間。
「死なないよ、僕は」
『人』と『神』が交差した。
――――Aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!!!!!――――
――――らあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁっぁぁああ!!!!――――
空と大地が――――星の隅々に至るまで悉くが、光に飲み込まれた。
女が我に返った時、世界は夜だった。
より正確には一面の闇だった。
そして、物音一つしない静寂だった。
女は慌てて、目と耳が健在かどうかを確かめるべく顔に手を当てる。
その時ようやく、身体がびくとも動かないことに気が付いた。
動かないどころか、一切の触感がない。
皮膚が空気に触れているという、人間ならば当たり前すぎて普段は意識しないような、
そんな感触すらまったく脳まで走ってこない。
もしかして自分は死んだのだろうか。
だとしてもまったく無理のない状況だった。
直前の光景を回想してそう結論づける。
ああそうか、死んだんだ。
数多くの不幸を産んで、数多くの破滅を呼んだ呪わしきこの身に、ようやく然るべき
しっぺ返しが降りかかったのだ。
そう思うと不可思議な安堵感に溜め息が漏れる。
もうこれ以上、誰かを傷つけずに済む。
これでもう、“あの人”の死に怯える必要など――――
「――――――――――――あ」
最初に帰ってきた感覚は、凍りついたような、血液の鈍い鼓動だった。
「――――す、て」
続いて声が戻ってきた。
だが、望む名前を滑らかに発声できない。
筋肉の硬直が原因ではない。
途方もない恐怖に心臓を握りつぶされたような感覚。
「ど、こ……? す、すて、い」
光が網膜に射した。
生命の脈動を地表にあますことなく伝えるような、太陽のそれではない。
星と月の瞬きだった。
「すて、いる」
最後に帰ってきた肌の感覚。
人間の皮膚は熱さよりも冷たさを、冷たさよりも痛みを感じる感覚点を多数有する。
つまり人は熱気よりも冷気に対して敏感であり、痛覚にはさらに過敏だ。
しかし女の肌は――――
「……呼んだかい」
「え」
真っ先に、焚火のような心地の良い熱を、全身で享受した。
遅れること数秒して、背にじくりとした痛み。
それでやっと女は、自分が抱き締められているのだと悟った。
「すて、すているっ! 生きてる!? 生きて……」
「やかましい」
身をよじって男の安否を確かめるべく声を荒げると、静かに一喝された。
女は縮こまって震えた。
男の胸板に押しつけられた面をおそるおそる持ち上げると、右の拳が夜空をバックに
振りかぶられていた。
「ひっ」
叩かれる。
反射的に目を瞑った。
彼が怒っている。
あんなことをしでかしたのだから当たり前だ。
当然の報いだとわかっていても恐ろしかった。
瞼に重石を載せたかのように固く固く閉ざす。
一秒、五秒、十秒、百秒。
時間の感覚は恐怖に痺れつく。
体感時間で千秒ほど経ったころ、頬に感触。
ぽふん。
「…………へ?」
「……ああくそ、力が入らないな。まあ……一発は一発だ、『ひっぱたいて』やったよ」
「え? え?」
男はそう言うが、頬肉を擦るこの感触は明らかに人肌のそれではない。
上質な絨毯のような柔らかさと、それでいて固い、小箱のような。
「なにを呆けてるんだい」
「すている……? これって」
「決まってるだろ。そもそもどうして僕が今日という日を指定したのか、お忘れかな?」
今日?
今日だの明日だのなどという感覚は、どこかに吹き飛んでしまって久しい。
今日、今日、今日。
わからない、だいたい今日は、何月の何日だったろう……?
「あ」
「七月、二十八日は――――“君”の誕生日、だろ?」
「……確かに今日は、僕の初恋の女の子の命日だ。悲しむべき日だ」
彼の好きだった人。
自分ではない自分。
自分では代わりになどまかり間違ってもなれはしない、彼の唯一の少女。
それでも、それでも彼は。
「それでも僕は、“君”に会えたこの日がとても愛おしい。君が生まれてきてくれたこと
が嬉しい。だからこそ今日を君の、『もう一つの誕生日』にと決めたんじゃないか」
ああ、そうだった。
去年は可愛らしいサイズの懐中時計を贈られた。
『君に出会えてよかった』。
そう言って彼は、大好きだった女の子と同じ顔をした別の女に、笑いかけてくれた。
この男性(ひと)を愛しているという自覚が、決定的なものへと変わった瞬間だった。
「だから、これが今年のプレゼントだ。開けてみてくれ」
目の前に小さなケースを差し出される。
男性らしいごつごつした右手に載せられた紺色の、二つ開きの小箱。
いつの間にやら胴を締めつける痛みが消えていた。
当たり前だ、彼の右手は自分の眼前にあって、左手は――――もう無いのだから。
自由になった両の腕を小刻みに、痙攣したようにがくがく震わせながら、掬い上げる
ように『プレゼント』を受け取る。
深呼吸を一度、二度、三度。
蓋に手をかける。
力を込めた指が、中身が見えるまであと一センチというところで止まった。
すがるような目で彼を見やる。
見上げた長身は、やはり一年前のように笑って見守ってくれていた。
意を決して箱を開いた。
「っ」
息が止まった。
心臓まで止まるかと思った。
実際、一瞬止まっていたのかもしれない。
それほどの驚きを、ちっぽけな小箱の『中身』はもたらしてくれた。
「…………こ……れ……?」
言葉が出ない。
というよりも、息がつけない。
今度は肺の機能が停止したのだろうか。
それは、女の眼に映る、その物体は。
「給料三カ月分が相場だと、上条夫婦に相談したらそう言われたんだが」
――――指輪だった。
「結局奮発しすぎて、一年分はつぎ込んだかな」
彼の瞳と同じ色の宝石が嵌まった、銀のリングだった。
わけがわからない。
いや、理解できないわけではないのだが、思考が完全には追いついてこない。
これは、その、つまり、いわゆる。
ぐらぐらする視界をどうにかしてほしくて、視線をまたも彼の瞳に移そうとする。
あの笑顔に触れればなにも怖くないと、そう思える気がして。
首をぴくりと動かした瞬間、今度は腰のあたりに鈍痛。
もう一度、強く強く抱き締められた。
つい先ほどまで炎そのものと化していた愛しい人の身体。
今では元どおり、ほどよい人肌の熱を帯びて――――
「……す、ステイル!?」
否。
いまだ、男の肉体は燃え続けていた。
「…………一千万のルーンプラス、地球全体の龍脈、というのは」
その身体は拝火教に謳われる消えない炎よろしく、ゆらゆらと揺らめいていた。
にもかかわらず、密着する女には火の粉一つ降りかかりはしない。
「やはり、僕程度の二流にはこたえるね」
そして少しずつ、融けゆく蝋のように、その輪郭が薄らいできていた。
「いや、いやいやいやいやいやぁっ!! いかないで、すている!!」
女は悟った。
身にあまる大魔術を行使したリバウンド。
凡才が天才たちの叡智の結晶たる『神』を打ち破ったことへの、当然すぎる代償。
女がそれを受け入れられるはずもなかった。
だから喉を破らんばかりの大声で、叫んだ。
「私は、私はあなたを、あなたの!! あ、あなたのために、生きて」
あなたのために、生きて死ぬから。
だから、死なないで。
少年がかつて少女に捧げた誓い。
神裂火織から伝え聞いた、彼にとってもっとも神聖な文言を引き合いに出してでも、
どうしても死んでほしくなくて、そう告げようとした。
しかし女の想いの最後のひとかけらは、言葉にはならなかった。
「――――――」
唇を、唇で、塞がれた。
「――――――」
女は頬を滑る雫を拭うことすらできずに、文字通り目前にある男の眼差しに見入っていた。
いつ何時でも女の幸福を求めて彷徨ってきた瞳の、柔和な暗赤色。
この六年で地球上のなによりも大好きになったその色に、吸いこまれるような心地だった。
「っ、ぷ、は」
やがて遠ざかる紅玉。
硬直しきり、身じろぎひとつできない女。
そして男はゆっくりと、その耳元に――――
「たとえ君が、この先の未来のすべてを“忘れられない”のだとしても」
「消えない恐怖と悲しみが、君の明日にあるのだとしても」
「そこには絶対に、消えない、忘れられない喜びだってあるはずだから」
「僕はそれを君の隣で、なに一つ忘れずに、瞼に焼き付けて」
「君が見逃してしまった喜びを、全部全部君に伝えるから」
「だから」
「僕と一緒に生きてくれ」
最期の言葉を、囁いた。
「愛してる、インデックス」
そして燃え盛る男の身体から、命の最後のひとしずくが零れ落ちて、消えた。
Passage14――――END
――Passage15――
ローラ=スチュアートが現実世界に帰還して最初に視界に入れたのは、彫の深い皺が無数に
刻まれた、枯れ木のような老人のえびす顔だった。
「おはよう、ローラ」
「ひゃあっ!?」
「……失礼だな、人の顔を見るなり『ひゃあ』とは」
「起きぬけに妖怪じみたジジイの面を拝ませられたら誰だって身の毛がよだつに決まって
いるでしょう!? …………というか、か、顔が近すぎるなり!!」
壁にもたれかかったローラの表情を車椅子の上から覗きこむ老人こそ、誰あろう前ローマ
教皇、マタイ=リースその人であった。
頬を紅潮させたローラは狼狽から距離を取ろうとして、後頭部を機械室特有の無機質な
内壁にごつんとぶつけた。
「っつう……! 第一貴様、どうしてこんな場所にいるのかしら!?」
「私の自慢の孫代わり、可愛いヴェントに車椅子を押してもらって」
「そういうことではない!」
ローラの肉体は日本の学園都市に在った。
正確に言えばここは第一学区のアイテム本社ビル地下七階に鎮座する、『滞空回線』の
コントロールルームである。
車椅子の老人がちょっと散歩がてらに通りすがるような、牧歌的な大草原では断じてない。
さらにローラは電子空間内にひそむアレイスターを討つ計画を、己が胸の内にだけ秘めて
誰にも打ち明けたことなどなかったはずだ。
「何十年来の付き合いだと思っているんだ? 君の人生の至上目的を考慮に入れれば、
そう難しい探偵ごっこではなかったよ」
「なぜここに来たのかを聞いているのよ、私は!」
「……七十年前」
昂騰する女の血液を、老人の囁くような一言が鎮めた。
その数字はまさしく、ローラにとっての人生の岐路そのものだった。
「父親に裏切られ、傷付いていた君の手を離してしまった日のことを、時折夢に見るのだ。
もしもあの日、復讐に走る君を止めていれば、とな」
「………………そんな選択をしていたとしたら、ローマ正教徒から愛される今日のマタイ
=リースはなかったでしょうね」
「そう、その通りだ。昨日を悔やんでも明日は変わらない……だから」
冬の街路樹よりも頼りない弱弱しい手のひらが、何十年経とうと老いを知らぬ若々しい
手のひらを恭しく包む。
マタイは二十億の信徒を惹きつけてやまぬ、純朴な笑みをローラに向けた。
「だから今日、君の手を取りに、ここまで来たのだ」
どこまでも他者の幸福を希求するその精神もまた、『無限の愛』と呼ぶに相応しいのだろうか。
ローラはそっと目を伏せて、声を潤ませるので精一杯だった。
「…………まっこと、お前は、度し難い馬鹿ね……」
とその時、シルバーでシックな空気を引き裂く尖った声が部屋の隅から上がった。
「はいはーい、ジジイ×ババアとか誰得だから余所でやっててくんない?」
「んにゃひゃあ!?」
「おっと。これは失礼した、シニョーラ」
「ほほほ、私はまだまだシニョリーナですのよおじいさま」
「……あなたは、もしかしなくても……?」
ローラは噴き出す冷や汗を背中側に器用に集中させながら、ウェーブがかった腰まで届く
ブラウンヘアーを見上げた。
儀礼的におざなりな誰何こそしたが、アイテム社への襲撃を企てるにあたってこめかみの
あたりをピクピク言わせるその相貌を、ローラが脳裏に刻まなかったはずがない。
「どーもお初にお目にかかります、あんたがしっちゃかめっちゃかに掻きまわしてくれた
このビルの代表取締役、麦野沈利でーす」
「お、おほほのほ! これはどうもご丁寧に」
「いずれ出るとこ出てやるから覚悟しときなさい」
「oh……」
「今はちょっと別件で忙しいのよ、ウチ。だいたいロンドンに私の掌握してない『滞空
回線』があったなんて統括理事査問会もんの不祥事だっつうの」
渋い顔で巨大なコンソールを操作する麦野。
ローラはようやく、アイテム社襲撃のそもそもの意図を思い出して声を荒げた。
「………………アレイスターは!?」
「向こうじゃとんでもないことが起こってるらしいわね。あんたがハッキングかけた後
こっちのシステムでも捕捉したけど……よっぽど激しくドンパチやったのね」
麦野は眉一つ動かさずに両の手を、黙っていればモデルはだしと評判の顔立ちの前に翳す。
五指が一度パンと握られて、すぐに開かれた。
「全滅よ、ぜ・ん・め・つ。ロンドンどころかイギリス各地のユニットまで、一つ残らず
吹っ飛んだわ。当然中のデータなんて丸ごとパァ」
「……そう」
ローラは眼を一度だけ瞬かせて吐息を小さく逃がした。
意外にも、体の内側からそれ以上のものは溢れてこなかった。
麦野は所在なさげな視線を老人に送り、マタイはローラの肩を軽く叩いた。
「では行こうか、ローラ」
ローラは怪訝そうに表情を歪める。
いまだこの身に、為すべき使命が残されているというのか。
無言の疑念を受けてマタイは麦野に目線を返した。
麦野沈利は苦りきった舌打ちを盛大に鳴らして、面白くもなさそうに『目的地』を告げる。
「…………メイド喫茶、よ」
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「いやだ、いやだよすている」
命の去った世界の中心で、女と男が抱き合っている。
抱かれた女が、掻き抱く男の身体を揺さぶっている。
「おねがい、いっしょうのおねがいだから」
轟々、と周辺一帯から幾百の蛮声、喚声、奇声。
しかし女の耳は、脳は、鼓膜を叩く刺激を遮断して眼球に全神経を注ぐ。
受け入れがたい現実を目の当たりにして頭の中を真っ白に染めた女は、男しか見ていない。
いや、それはもはや“男”ではなかった。
「しなないでぇ、すているっ!!」
それは、骸だった。
「い、やっ、いやあああぁぁぁぁあああああぁぁあああああああああ!!!!!!」
灯が消えた後に遺された、愛しい空っぽの抜け殻を抱き締めて――――女は壊れ
『死――――――』
「――――――な」
『――――ぬ――――』
「――――――なー!」
『死ぬな――――』
『死ぬなっつってんでしょーがヤニ神父無視すんなやゴラぁぁぁぁぁっっ!!!』
女が壊れる、その直前。
凄まじいがなり声が、亡骸をゆすらんばかりに響いた。
『アンタねぇ、なに私の大事な大事な姉貴分泣かせてんのよ!! 新技「超電磁速射砲」の
餌食にされたくなかったらさっさと起きろやぁぁぁっ!!』
「…………み、みこと?」
『アンタもアンタよインデックス! 言いたいことは富士山より堆く積もり積もってる
けどねえ、泣いてる暇があるならみっともなくてもいいから足掻きなさいよッ!!』
「な、なに? なにが、どうなって」
『だぁかぁらぁ、なんで、とかWHY?とかどーでもいいのよ!! アンタ、ステイルを
助けたくないワケ!?』
「で、で、でも、でもでも……ど、どっ、どうしたらいいのか」
『あのね、そうやって一人で抱え込むからこんなことになったんでしょ? ……いや、
そりゃ私だって人のこと言えた義理じゃないけど……オッホン! とにかく、アンタ
一人じゃあどうすればいいかわからないってんなら、他人を頼りなさいよ!』
「え……?」
『ああもう、耳掃除ちゃんとしてるの!? さっきから“札”越しの私にすら聞こえてる
ってのに! いいから周りを見なさい、インデックスッ!!』
妹分が一方的にまくし立てる声が、そこで途絶えた。
女――――インデックスは、何一つ事態を把握できないままに首を回そうとして、
「「「「死ぬなああああああああっっ!!!!!」」」」
「ひゃあっ!?」
三六〇度からまんべんなく飛び込んできた、爆音のような唱和に思わず首をすくめた。
深く窪んだクレーターの淵に向かって目を凝らすと、何百という人影が連なっていた。
「惚れた女を遺していくとか、カッコ悪いのよなー!」
「もうひと踏ん張りで幸せになれるんですよ!」
「ここまできてバッドエンドとかふてー野郎ですねこの童貞!」
「ふぁ、ふぁ、神父ステイルぅっ! ダメです、死んだら絶対ダメです! 泣きますよ、
私泣きますよ!?」
「口を慎んでくださいシスター・アニェーゼ! あ、あと誰かシスター・アンジェレネを
押さえるのを手伝ってくださいぃぃぃ!!」
クワガタ頭を筆頭に居並ぶ天草式に、暴走する二人をルチアが諌めるアニェーゼ部隊。
「愛する人の涙が悲しみに染まったままで良いのか!? 立てぇぇぇぇっっ!!!」
「暑苦しい男なの……天使級相手でも退かないその心意気、見せてもらったぞ」
「インデックス、ステイルさんは絶対助かります! だから心を強く持って!」
「助かってもらわないと、イギリスという国家にとっても都合が悪いのよね……」
「くぉるぁぁ!! さっさと目を覚まさないと承知しないぞー! 不敬罪だぞー!!」
「同感ですが先代は少し自重なさってください。つーかその学ランどっから調達して
きたんだよクソババァ!!」
常識の通用しないロイヤルファミリー。
「むぅ……私たちに出来ることはもうないのか、ワシリーサ!」
「そうねぇん、眠り姫は王子様のキスで目を覚ます、っていうのが西欧ではいっぱ」
「第一の回答ですが私たちの仕事は終わりました。なので引っ込んでなさいクソ上司」
ロシアからの来訪者――――そういえば慰霊祭の賓客だったような。
「散々カッコつけといてポックリ逝ったら全世界の笑い者にしてやりますよ!」
「お前はインデックスを泣かせるような奴じゃないって、私は知ってるからなー!」
「人事を尽くして天命を待つ、ってね。こんな時こそあれだよな、オルソラ?」
「はい、シェリーさん。皆さま、いまこそ我らが父にありったけの祈りを捧げる時で
ございますよー!」
レッサー、舞夏、シェリー、オルソラ。
「すうううぅぅっ…………し、死ぬなぁぁぁーーーーーっっ!!! こ、これで良いのか
トチトリ!? なんかいま私一人で盛大にスベってなかったか!?」
「くっ、くく、くくくくく、ああ、完璧だよショチトル……ぷっ!」
「死ぬなぁぁぁーーーっっ!! とミサカは滑り芸の二番煎じとして後に続きます」
「死ぬなロリコン神父ゥゥーーーッッ!! とミサカはミサカたちのn番煎じは九九七〇
式まであることを先に告知しておきます」
ショチトル、トチトリ、『妹達』。
「――――みん、な」
宵の口をとうに過ぎたはずの魔術の都を包む、あらん限りの大喚声。
男がポケットに忍ばせた通信術式越しに響く、科学の街からの声援も混じる。
「死なないで、ステイルさーん!!!」
『とっとと目ぇ覚ませやゴラァ!!』
叱咤の声。
「最大主教様を泣かせるなテメエ!」
『根性足りてるかぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!』
求めや訴えとも呼べないような、乱暴な大声。
「ステイルー! 人間生きててこそ、デスよー!!」
『死んでない限りは治してあげるから、死ぬんじゃないよ?』
しかしそれは同時に、間違いなく祈りだった。
科学も魔術もそこにはない。
ただ一組の男女の幸福を祈る尊い願いだけが、地球の裏と表から集っていた。
死ぬな。
死ぬんじゃない。
生きろ。
生きて生きて、子と孫と曾孫に囲まれてベッドの上で老衰死しろ。
情け容赦なく男に浴びせられる『生きろ』の雨嵐。
「ステイル。みんな、ステイルに死んでほしくないって。私だって、もちろんそうだよ?」
――――それでも。
「だから、起きて?」
それでも男は、完膚なきまでに死体だった。
肉体が四散していないのが不思議なほどのテレズマをその身に取り込んで一介の、
平凡な魔術師でしかない男が生きていられる道理などない。
無理を押して道理が引っ込むのなら誰も苦労はしない。
何千、何万、何億の祈りがその身体に降りそそいだところで死者は生き返らない。
何の根拠も理屈も背後にない奇跡など起こり得ない。
それを証明したのは、他ならぬステイル=マグヌス自身だ。
「起きてよ…………ねえ、起きてよ、ステ、イル……」
世の摂理に抗おうとする衆愚の声は止まない。
生きろ、生きろ、生きろ、生きろ、生きろ、生きろ、生きろ、生きろ――――
「……喧然。イングランドの島民どもというのは、かくも喧しい人種なのか」
生きろ、生きろ、生きろ、生きろ、生きろ、生きろ、生きろ、生きろ。
「詠唱への協力には謝儀がないでもないが……少々、耳障りだな」
生きろ、生きろ、生きろ、生きろ、生きろ、生きろ、生きろ――――
「暫し『黙っていろ』、貴様ら」
――――――――――――――。
傲然とした男の一声。
たったそれだけで、インデックスの耳が捉える世界が静寂に取って変わられた。
「イギリス清教最大主教、Index-Librorum-Prohibitorumよ」
帯びた傲慢の色を瞬時に器用に慈愛に塗り替えて、声の主は骸を挟んでインデックスの
さし向かいに姿を現した。
立ち位置が、男と女の二度と埋まらない距離を示唆しているかのようだった。
緑髪をオールバックに流した、オーダーメイドのイタリアンスーツを見事に着こなす男。
唐突に声を掛けられて、インデックスは激しく全身を震わせた。
彼は、『禁書目録』と関わりを持ったがゆえに破滅した男だった。
そして同時にインデックスが、ステイルに“こう”はなってほしくないと最悪の未来予想図に
当てはめた男でもあった。
それは今にしてみれば、なんと彼の人生を虚仮にした仮想なのだろうか。
己が手で不幸にしてしまった人に対して、思慮などみじんもない発想ではないか。
彼――――アウレオルス=イザードの気持ちなど、一瞬たりとも考えていないではないか。
「ごめんなさい、ごめんなさい……私、私は、いま」
形容しがたい罪悪感が心臓を苛む。
「ステイルのことしか、考えられないの。あなたのことを、思い出そうとも思えないの」
こうしてアウレオルスを目の前にしてなお、自分はステイルの生死にしか涙を流せない。
何よりインデックスが心苦しいのは、己が内に棲まう利己的で堕落しきったた女の実在を、
どうしても否定できないからだった。
「……ふむ」
しかし錬金術師は、そんな女を愛おしげに見やって首を横に振った。
その動作がなにを意味するのか、インデックスにはまるで理解が及ばなかった。
「ん? …………下品な連中だな」
アウレオルスは肩をすくめて大穴の淵に陣取るイギリス清教の面々をぐるりと見回す。
颯爽と舞台の中心を独り占めした男に対して、親指を下にくいと向ける者がちらほら。
しかし何故だか、誰ひとり声を上げて錬金術師を謗ろうとはしない。
「憮然、指を咥えて見ていろ。我が名誉はこの瞬間、たった一人の女性のためにしか
鬨の声を上げはしないのだ…………インデックス」
「は、はい」
「君の望みを口にせよ。一つだけ、どんなことでも叶えてやろう」
「え?」
今この瞬間、世界に声は二つだけだった。
滔々とおとぎ話のような繰り言に徹する男と、面喰った女の呟き。
「ランプの魔人が現れたとでも思えば良い。直視しがたき現実を前に、再び死を望むか?
あるいは、すべてを忘れて楽になってしまいたいか? 望みのままに言葉を紡げ」
途端に群衆が思い思いにいきり立ったようなアクションを披露したが、やはり無音。
口は開けど声にはならず。
「私は君の言葉に従って、現実を歪める。ただし、一度きりだ」
アウレオルスもまたインデックス以外の存在は眼中にないとばかりに、有象無象を
一顧だにしようともしなかった。
インデックスはうつむき、小さくかすかに洩らす。
「…………わからないの」
己が望みすら脳のどこを捜しても見つけられなくて、うつむいた。
答えが欲しくて中身の消え去った骸にすがりつく。
「わからない、わからないよ」
温度の消えた身体、二度と開かない瞳。
焼け焦げ黒ずんだ赤髪、失われた左腕。
いのちを感じさせない重みを圧し掛からせてくる長身。
「ただ、ただ、わたしは」
女の問いに答えてくれない唇。
もう笑いかけてくれない人。
それら無情な事実に押し潰されないようにするだけで、やっとだった。
インデックスは空っぽだった。
血管が空っぽで、肺が空っぽで、頭の中が空っぽで、心の中ががらんどうだった。
「この人に、すているに、生きててほしいの、死んでほしくないの」
だからただ、想いのままに言葉を紡いだ。
最も単純で代えがたい想い。
理屈など意味を成さない、心の果ての、涙の生まれた場所からやってきた想い。
「ずっと傍に、いてほしいの」
空っぽの心を満たして、照らしてくれるただ一つの太陽。
唯一の男性(ひと)だけが、女に残された唯一の願い(ゆめ)だった。
「――――――決然、承知した。君の望みを叶えよう」
アウレオルスはスーツの内ポケットから一本の鍼を取り出した。
銀色のか細い金属は、インデックスの目には糸のようにも映った。
「名もなき錬金術師の名において命ずる」
男女を分け隔てる天国と地獄の境界面に垂らされた、一本の細い細い蜘蛛の糸。
こん、と軽い音を立ててアウレオルスの首に吸いこまれる。
上唇と下唇が別れる。
呼気を取り入れるかすかな音が、インデックスの耳朶を稲妻より激しく打った。
そして紡がれる黄金の音色。
女の想いを乗せて、現実が歪む。
インデックスのただ一つの太陽を、生きる標を、稜線の彼方から再び昇らせるべく。
「『死ぬな』」
世界がほんの少しだけ、そのかたちを変えた。
Last Chapter Passage15
「言ったろう、インデックス」
――――黄金の夜明け――――
「ほら、死ななかった」
嫌味ったらしい自慢げな声がする。
「…………か」
顔がある、髪の毛がある、目がある、耳がある、鼻がある。
「ばか……」
普段着同然の黒い神父服がインデックスの鼻先を擦る。
腕がある、脚がある、胴がある。
五体満足で、すべて揃っている。
「ばかぁっ!! ばかばかばかばかばかばかぁぁっっ!!!!」
『死ななかった』ステイル=マグヌスが、自分をその腕の中にしかと掴まえている。
「けっ、結局、また、死んじゃうところで」
「ごめん。でも、結果としては生きてるだろう?」
「ばかぁっ……!」
声にならない唸りが喉の奥で牙を砥いだ。
存外分厚い胸板を小さな握り拳で叩いた。
ドンドンドン、トントントン、コンコンコン。
次第にノックの音が弱まっていく。
「…………………………ごめんなさい」
最後に姿を現したのは、牙を抜かれた小動物の掠れ声だった。
「し……死のう、として、ごめんなさい」
「ああ、まったくだ。悲劇のヒロイン気取りで、こんな大勢に迷惑をかけて。その点に
関しては後でたっぷりお仕置きさせてもらおうか。返す返すも馬鹿な女だよ、君は」
「すているに、言われたくないよ!」
「ま、お互いさまということかな……『首輪』は、どうしたんだい?」
「さ、さっき、解除した」
「じゃあ……もう、死ぬなんて言わないな、インデックス?」
憤懣の念に低く抑えられた、しかし真摯な声が耳をくすぐった。
背筋に氷を当てられたような寒気と、心臓に火を入れられたような熱が、同時に蠢いた。
「ごめ、なさい」
「謝ってほしいのも事実だが、僕は別の言葉が欲しいんだよ」
「…………まだ。まだ、怖いの。すている、死んじゃわないかって。私の前から、
いつかいなくなっちゃうんじゃないかって」
「……『証明』不足、か。最後の最後で他力本願二連発だからね、無理もないのかな」
「あの、でも」
「ん?」
「怖いけど、こうも、思えたの」
「なんて?」
柔らかな微笑が一度は凍った血液をあたためてくれる。
しかしその表情がときには、自分のためを思って心底から怒りに歪んでくれることを
インデックスは知った。
そんな人の隣に、一生寄り添っていたい。
インデックスはいまだに消えない、そしてこの先の生涯でも永遠に消えてくれないだろう恐怖と、
その想いを天秤にかけた。
「あなたと、一緒に生きたい」
そして、秤は傾いた。
「一生、あなたのそばで――――」
かくん、と視界が上下に揺れる。
緊張の糸とでも呼ぶべきなにかが切れてしまったらしい。
最後の最後まで格好がつかないなと自嘲しながらインデックスは、想いの最後のひとかけらを
男の耳元でそっと囁く。
「 」
頭髪にステイルの右手がそっと乗せられ、残る左腕が背中に回された。
「ああ……喜んで」
月は中天、星は満点、子守唄は頭のすぐそばで鳴る心臓のゆっくりとした鼓動。
意外に逞しい腕(かいな)の心地よさに包まれながら、女はゆっくりとまどろんでいった。
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『気分はどう?』
『…………最悪を三乗も四乗もしたような、異次元級の最悪です。穴があったらいますぐ
飛び込んで、二度と出てきたくありません……』
『私もだよ』
『貴女はなにも悪くありません。すべては貴女の真意を吐き違えた、私の暴走が招いた
結果です』
『そんなこと言っても、私とあなたは二人で一人なんだよ。あなたがやったことは、
私がやったことと同じなの』
『これほどまでに独立した身体が欲しいと思ったのは初めてです』
『嫌だよ、私は、ずっとあなたと生きていきたいよ』
『そういう愛の告白じみた台詞は、生涯でただ一人に捧ぐものであると記憶していますが。
いまの発言はステイル=マグヌスより私を取るという認識で構わないのでしょうか』
『…………えっと』
『…………はぁ。私の完敗のようです。実に忸怩たる思いですが、ステイル=マグヌスが
正しかった、ということなのですね』
『それは、ちょっと違うよ』
『慰めの言葉など必要ありません。私は「ちょっと吊ってくる」という概念を試行すべく
手ごろなロープを捜してこようと思いますので』
『いや、この身体共有財産だから。あなたが吊ったら私も吊ることになっちゃうんだよ
……じゃなくて! 私の本心をしっかり言い当ててたのはヨハネの方だった、って
いうのは間違ってないの!!』
『あの時のやりとりを、覚えて……いえ、これは愚問でした』
『うん。あのときの私が塞ぎこんでてなにも聞こえてなかったっていうのは本当だけど、
私は、脳に蓄積された情報ならいつでも引き出せるから。あのときの私が心の底から
生きてはいられない、って思ってたのはあなたの解釈通りなの』
『……それでも、貴女が最後に選んだのは“この”道でした。結果として、私と貴女の
意識に致命的な齟齬が生まれたことは否定しがたい。挙句があの有り様です』
『元を辿れば、原因は私の心の弱さだったんだよ。だから、私に罪がないなんてことは
ありえないの』
『私の罪とて、融けてなくなるような代物ではありません』
『そう。だからこそ二人でみんなに、ステイルに償っていこう?』
『しかし』
『……ねえ、ヨハネ。ヨハネは私の記憶を消したあと、自分を消すつもりだったんでしょう?』
『!!』
『やっぱり。「自動書記」を自分で解除して、いなくなっちゃうつもりだったんでしょ。
そんなこと絶対許さない。これは「上位存在」としての命令、なんだからね』
『っ…………貴女を不幸にしていたのは私なんですよ!? 私が「首輪」とともに設定されて
いなければ、あるいは私に「首輪」に抗うだけの力があったのなら! 貴女の人生は今より
遥かに輝かしい光に満ちていたはずだったのに! 私が、私さえいなければ』
『……もう一回言うからね』
『え?』
『私の一番は、ステイル=マグヌス。多分これは、もう一生動かない既定事項なんだよ。
私にとってあなたは一番じゃあない。そこに嘘はつけない。でも……だからあなたに
いなくなってほしいなんて、そんなことあるわけないでしょ!』
『貴女……いま相当に残酷なことを言っていますよ』
『心配しないで、自覚はあるから』
『…………そんなものは、「無限の愛」でもなんでもありませんね。世界はそれを、
単なる業突く張りと呼ぶのです』
『もしかすると、案外それが私の本質なのかも』
『ああ成程、「暴食」ですね』
『最近は「節制」してますぅー!』
『ふふ』
『むぅ、珍しく笑ったと思ったらこんなことばっかりなんだから!』
『ふふ、あはは』
『ちぇー』
『ふふ、ふ……………………私は、貴女と一緒にいて、いいのですね?』
『……これはね、“命令”じゃなくて“お願い”なんだけど』
『なんでしょうか、インデックス』
『………………ずっと』
『はい』
『ずっと、私のこと見守っててほしいの。私が幸せに生きている姿を見守ってくれる
人たちの中に、ヨハネもいてほしいの』
『だから――――これからもよろしくね、私のお母さん』
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つん、と瞼の裏に隠れた眼球を光が刺激した。
それが目覚めの合図だった。
呻きに似たさえずりが喉から漏れる。
音を拾った鼓膜が震えて、羽毛のような布地が肌に触れる感覚を同時に覚醒させた。
眩しい闇が緞帳を開くように、徐々に徐々に持ち上がっていく。
「僕が、わかるかい?」
『僕が、わかるかい?』
ふと十二年前の、この世に生を受けた瞬間のことを思い出した。
遮る幕を取り払った眼球が最初に捉えたのは、赤髪の魔術師の姿だった。
窓辺から差す、払暁を背にした表情はよく見えない。
それは後光のせいか、あるいは双眸をいっぱいに埋め尽くす水分のせいなのか。
『泣かないで。あなたがなんで泣いてるのか、わたしにはわからないけれど』
そういえば十二年前、瞳を涙で潤ませていたのは彼の方だった気がする。
とにもかくにも、その顔を一瞬でも早く脳に刻み込みたくて、ベッドから――
インデックスはいつの間にやらベッドに横たえられていた――跳ね起きた。
「う、ん。わかる、わかるよ。私の、世界で、一番の人」
勢いそのままに抱きついた。
その表情を間近で眺めたかったはずなのに、気が付けば胸に顔を埋めていた。
黒衣にごしごしと涙をこすりつけると、後頭部を優しくさすられた。
「おはよう、インデックス」
真上から、なにげない日常の一コマを切り取ったかのような、いつもの声音。
同時に初めて、女の耳朶を打つ役目を帯びて、その唇から紡ぎ出された名前。
こぼれる雫をすべて受け止めてもらえる安堵感。
銀髪を丁寧に梳かしてくれる五指の感触。
一〇〇万度の神の火よりもあたたかい至福で全身を包んでくれる、摂氏三七度の情熱。
「おはよう、ステイル」
欲しくて欲しくて仕方がなかったものを手に入れて、女は視界を一段と滲ませた。
霞む世界の彼方で、二人を照らす陽は地平線から頭を出したばかりだった。
本当にくだらないことで遠回りをし続けた、どうしようもない男女の上にだろうと、
こんなにも容易く太陽はまた昇ってくれた。
女は男と一緒に歌っていくこれからの旅路を思って、泣きながら笑う。
ステイルとインデックスの七月二十八日は、まだ始まったばかりだった。
Passage15――――END
ベッド脇の小さなチェストに、『歩く教会』が綺麗に畳まれていた。
薄緑色をした上質の患者衣に身を包むインデックスの視線は、修道服の上に鎮座する
濃紺の小箱に注がれている。
目線の意味するところを敏感に察したステイルが、ひょいと小箱に手を伸ばして中の
物体を摘まみ上げた。
紅玉を朝陽に二度三度と透かしてのち、男は女の左手を恭しく取る。
「これは、君のものだよ」
インデックスの相貌は熟れた苺のごとし、だった。
あるべきものをあるべき場所へと納めたステイルは、瑞々しい唇に己がそれを寄せる。
「…………目を閉じて」
「…………うん」
薄い朝焼けをバックにした二つの影が、輪郭という名の境界線を失って、融け合った。
―――― E p i l o g u e ――――
「えへ、えへへへへ」
一分後。
カラメルのように甘ったるい至福に浸りながら、女は薬指に頬を擦り寄せて笑っていた。
インデックスが横たわっていた寝台はロンドンでも指折りの大病院の、そのまた最上階に
位置するVIP専用ルームのものだった。
意識を失っている間に済まされた検査結果に、特段異常は見られなかったという。
多少衰弱している程度で、正直な話すぐにでも退院は可能であるらしい。
「んー、んふふ…………だったらこんな、大仰にしなくてもよかったのにぃ」
「僕もそう思うんだが、最大主教様の処遇には箔というものが必要だからね」
時刻は午前五時を少し回ったあたりだった。
見舞い品らしき林檎を果物ナイフで丁寧に剥きながら、ステイルはその後の事のあらましを
かい摘んでインデックスに説明していた。
ロンドンの中心地に突如現れた巨大クレーターに関しては、『必要悪の教会』の必死の
隠蔽工作に事件発生が夜半過ぎであったことも手伝って、大きな混乱には至っていない。
当面のマスコミ対策は土御門が、消えた大聖堂の偽装は天草式が担当するという。
およそ八分間、世界から“夜”が消えていたという事実だけはさすがに秘匿のしようが
なかったようだが。
どうあれ、慰霊祭は予定通り執り行われることと相成った。
祭事は“激務からくる疲労に倒れた”最大主教に代わって、賓客であるロシア成教総大主教に
急遽委託する案がイギリス清教内で持ち上がっており――――
そこまでステイルが説明したところで、トーストの上のマーガリンと化していた
インデックスの表情が急激に引き締まった。
十字教三大宗派の一頂点に君臨する、英国清教最大主教としての顔だった。
「それはダメ。あれは私のお仕事なんだから、投げ出して何の関係もないクランスに
押し付けるなんて、そんな無責任なことできないんだよ」
「まったく同感だね。君には悪いが、無理を押してでも儀式はまっとうしてもらおうと、
僕もそう考えていたところだ」
ベッドに縛り付けられることも覚悟していたインデックスは、思いの外融通をきかせて
くれる――本来的には融通がきかない頑固者の発言そのものなのだが――ステイルの
姿勢に軽く目を剥いた。
「なんだい、その顔は。今回の一件は僕らの極めて私的な内情が招いたことなんだ。
それを理由に背負った責務を放り出すなど、いい大人のすることじゃあないね。
…………もちろん僕はずっと君の隣にいて、君が倒れそうになったら支えるよ」
視線を一秒たりとも逸らさず、ステイルは赤面ものの台詞を大真面目に言いきった。
インデックスは頬に熱いものが集まるのを感じて、冷やそうと手掌を押し当てた。
手のひらまでもが火照っていることに、気が付くのが少しばかり遅れたのは幸か不幸か。
「それから、ローラ=スチュアートから連絡があった」
「ローラから?」
パシンパシンと頬を叩いて涼を取ろうと四苦八苦しているところに、意外な名前。
複雑な事情を抱えてはいるが、血のつながっていることには変わりない無二の“妹”の名に、
インデックスは敏感に反応した。
この一年散見された、彼女の思い詰めたような物憂げな表情は印象によく残っている。
聖ピエトロ大聖堂で別れたときも、尋常な様子ではないと思っていたが。
「君と僕の許しがもらえるならば、もう一度だけ顔を見せに来たい、らしい」
「……もう一度だけ、ってどういう?」
「『長年の探しものに、またも逃げられた。だからいま少しだけ、旅を続ける』……だとさ。
あとは直接、女狐に尋ねてくれ」
男はあくまで不機嫌そうな態度を崩さずにローラからの言伝を告げ、押し黙る。
それきり、ステイルはローラの名を口にしようとはしなかった。
「…………………………ん」
その時、病室の外の廊下がにわかに騒がしくなった。
どたどたと幾つもの足音が重なり、時に離れて、また重なって近づいてくる。
ステイルが隙のない所作でドアとインデックスを結ぶ直線上に立ちはだかった。
勢いよく開け放たれる横開きの扉。
魔術師の眼光が最大限に鋭く閃く。
「インデックスッ!!!」
真っ先に広々とした室内に響いたのは、空気を両断する鋭利な女の叫び声だった。
軽く安堵の息をついてステイルが臨戦態勢を解く。
一方女は裾の広いワンピースも膨らんだ腹部もものともせず、俊敏な動作でベッドに
駆け寄ってきた。
紅を差さずとも美しい光沢を放つ唇が、呼気を大きく大きく吸いこむべく形を変える。
怒鳴られる。
とっさに直感したインデックスは耳に指を突っ込んで塞いだ。
ステイルもまったく同じ行動に出ていた。
二人して目を瞑る。
「――――――――――――――よかったぁ」
しかし予想された怒声はどこからも姿を現さなかった。
その代わり、絹の摩れる音とともにふわりと撫ぜるような感触が肩に走った。
「な」
「え」
身の丈以上の長刀を軽々と振り回す、外見に反して力強い細腕。
それが男と女を包みこむように、二人まとめて掻き抱いていた。
「よ、かった! 二人とも、無事で、生きててぇっ!! 本当に、本当にっ…………!
私、助けに行きたかったのに! でも、ステイルと約束したから、何、もできなくて!」
そして、幼子のように泣きじゃくっていた。
当事者である男女よりもよほど素直に、滂沱たる雨粒をしとしとと降らせていた。
「……かおり、ごめんね、泣かないで?」
「心配をかけて、悪かったよ。だからちょっと、君に全力で絞められると、あの」
濁流のごとく溢れる涙に押し流されて、思いが言葉にならない。
凛とした聖人がさめざめと泣き崩れる様を見て、ステイルとインデックスはどちらから
ともなく目を合わせて、揃って苦笑した。
開きっぱなしのドアにステイルが視線を移す。
男が二人気まずげに、病室に入るか入らないか微妙な位置に立ち尽くしていた。
インデックスは前方に位置する男の顔を見てぽかんと口を開いた。
男は人懐っこく笑って、右手を振っていた。
「と、うま?」
「よう、一週間ぶり」
そうだ、そういえばそうだった。
誰かがどこかで救いを求める声が届いてしまったならば、地球の裏側だろうが宇宙の果て
だろうが、一切の躊躇いを忘れて駆け付けるヒーロー。
インデックスが改めて思い出すまでもなく、上条当麻とはそういう男だった。
上条は病室の隅に積み重ねられた丸椅子を一つ、手慣れた様子で持ってきて腰掛けた。
さすがは病院を第二のマイルームとする万年入院患者、といったところだろうか。
「ステイルに一大事だって聞かされて、慌てて飛んできたけど……その様子じゃあ
俺の出る幕、なかったみたいだな」
「ご、ごめんね」
「なに謝ってんだよ。お前が無事だったなら別に、俺から言うことはねえって」
「…………そ、っか」
白い歯を見せながら何の気なしに紡がれた一言に、インデックスは男との間の名状しがたい
距離を実感して、少しだけ寂しくなった。
自分の特別はもう彼ではないし、彼の特別ももう自分ではない。
だから男は、女に垂れる説教の持ち合わせはないのだと言外にそう告げてきた。
そしてそれこそが、いまの上条当麻とインデックスを隔てるに相応しい適正距離だった。
「そういうことだからさっさと地球の裏側へお帰り役立たず君。飛行機代ぐらいは
立て替えてやるよ」
「よーし一発ぶん殴らせろ不良神父。婚后航空の最新型まで引っぱり出してわずか
一時間半でロンドンまですっ飛んできた俺の肉体、精神的苦痛と差し引きトントン
ってことでチャラにしてやるからよ」
かと思えば、しんみりしていたところにこの恒例行事である。
「…………あなたたち二人は、いつ顔を合わせてもこれですね」
すん、と鼻の頭を赤くしながらようやく嗚咽を収めた火織が、呆れを隠さず呟いた。
上条の後ろに控えていた男――――金髪グラサンアロハも右に倣った。
「いやーまったくだぜい。ヘタすると、俺よりよっぽどカミやんの親友してるんじゃ
ねーのかにゃー」
「海産物の友人を持つ予定はないよ」
「誰がウニ頭だてめえ」
「それよりも土御門、奴は連行してきたかい?」
「ちょ、ま、ツッコミ野郎にスルーされるのって地味にキツイんだけど」
「廊下までは大人しく着いてきてたんだが。後一歩ってところでヘタレたらしいにゃー」
「総スルー!?」
「さすが、ヘタ錬の面目躍如と言ったところだな……おい、とっとと出てきたらどうだ!」
一人で忙しなくテンションを上下させていた上条の肩に、インデックスと火織が無言で
ポン、と手を置いた。
慈悲深いトドメをさされたイガイガすぐ下の表情がもう一段、深海に引きずりこまれる
海難者のごとくがくりと沈み込んだ。
それら茶番を苛立たしげに無視したステイルは、ドアの外に向かって声を張り上げる。
「…………なんだ、ヘタレ神父」
憮然としながら現れたスーツ姿の錬金術師に、インデックスは大きく肩を跳ねさせた。
「そう構えるな。一言、僕が『死ななかった』ことに関してお礼申し上げたかった、
ってだけの話だ」
「……毅然。私は、彼女の涙に濡れそぼるかんばせを看過するに忍びなかっただけだ。
まあ、それすらも貴様の計算の内だったのだろうがな」
棘突き棍棒で殴り合うような殺気を孕んだ応酬を目の当たりにして、インデックスの
脳裏に素朴な疑念が浮かんだ。
遠慮がちにおずおずと声をかける。
「あの、私が言うのもなんだけど……二人は、どうして一緒に闘わなかったの?」
男たちはなにを馬鹿な、とばかりに同時に鼻を鳴らした。
「悍然。共闘など、虫唾が走る」
「付け焼刃のタッグでどうにかなる相手でもなかったし、互いに単独でも勝算があると
踏んでたんでね。片方が失敗したらもう片方が出る、それだけ取り決めたのさ」
「私の『勝算』には下準備が要るので、仕方なく先番を譲った。それだけだ」
テンポの良ささえ感じさせる滑らかな解説だった。
ステイルは一見反目しているとしか思えない相手との相性が絶妙に良い、とインデックスは
常々そう睨んでいたが、アウレオルスも例外ではなかったらしい。
アルス=マグナ
「『勝算』って……もしかして、さっきの『黄金錬成』!?」
そんな感慨も、より巨大な驚嘆に押し潰されていずこかに消えたが。
「唖然、なにを驚いているのだ」
「願いをかけたランプの正体を、まさか君ともあろうものが理解していなかったわけ
じゃあないだろう」
「でも、詠唱時間の問題が……」
『黄金錬成』は詠唱だけに限った話ならば、とうの昔に完成している術式である。
成功させた者がアウレオルスを除いて皆無である理由は単純、唱え切るのに数百年単位の
時間を要するため、生身の人間ではとても完了させられないからだ。
十一年前のアウレオルスは、詠唱を二千人の学生に並列作業として分配することで飛躍的に
作業効率を高め、見事『黄金錬成』を完成させた。
死者蘇生、記憶改竄、時間遡行。
神のみが踏み込むことを許された領域の業を、軽々と現世に再現するその空前絶後。
彼もまた、神の力を横取りした『超人』の一人には違いない。
だが今回は、果たしていかような手段で詠唱を完了させたというのか――――?
「瞭然。解決方法なら先刻、君の視界で百足のごとく蠢いていたはずだが」
「……もしかして」
穴ぼこの外側で野次にも似た歓声をまき散らし続けていた面々の顔を、一つ一つ思い出す。
視線が合うたびに記憶の中の舞夏が、ヴィリアンが、オルソラが、アンジェレネが、
ショチトルが、そして『必要悪の教会』のメンバーが手を振り返してくれる。
「また、多重同時詠唱……? まさか『必要悪の教会』の皆が、見ず知らずの魔術師の
『偽・聖歌隊』に身を任せたってこと!?」
度の過ぎた異端は身内であろうと刈り取るのが『必要悪の教会』の基本理念である。
上条当麻との交流で角が取れて久しいとはいえ、まさか異教徒の、素性もろくに知れぬ
錬金術師の怪しげな詠唱に手を貸すなどとは。
「時間が差し迫っていたから細かい段取りは土御門とこの男に任せたんだが……僕らが
考える以上に、『上条当麻病』はイギリス清教を蝕んでいた、ということらしいね」
「どーいう意味だよ……」
それでもまだ、インデックスは完全には納得がいかなかった。
アウレオルスの事情は断片的にしか知り得ていないが、錬金術の究極目標たる『黄金錬成』の
完成を、断じて味方などではあり得ない異宗派の魔術師たちに披露するなど正気の沙汰ではない。
「私には、失うものがもう何もないのでな」
インデックスの内心の憮然を見透かしたように、アウレオルスは微かに笑う。
「最後に君の笑顔を呼ぶことが叶ったのならば『黄金錬成』は、アウレオルス=イザードの
二十八年は無駄ではなかったということだろう。それで十分、私は満足だ」
「おい待て、なにが満足だ、なにが最後だ。そんな逃げ、僕は許さないぞ」
「インデックス。君はこの男が大事なのだろう? 他の男など、他の有象無象など
どうでもいいのだろう? ならばその望みだけでも後生大事に、両の腕の内に
抱えこんでおくべきだ」
眉を吊り上げて詰め寄るステイルを無視して、錬金術師はインデックスに向き直った。
胸に剣山を突き立てられたような飲み込みがたい痛みが走る。
しかし、彼の指摘に対して首を横に振ることはできなかった。
インデックスがいま現在手離したくない唯一無二とは、『無上の愛』を己に教え、
そして注いでくれた男性をおいて他には考えられなかった。
「厳然、そういうことだ。もはや私の出る幕ではない」
正常な人間はいちいち隣人の不幸など気にかけるものではない。
世界中に星の数ほどいる“赤の他人”の不運に心を痛めていては、人は永久に幸せになど
なれはしない。
アウレオルスはごくごく平凡な、草の根としての在り方を説いていた。
インデックスはごく普通の人間でいても良いのだと、諭しているようにも聞こえた。
「第一にだ。私はそこの青春真っ盛りの、歯の浮くような台詞を連発する不良神父とは違う。
私にとっての“彼女”は庇護の対象でしかなく、恋愛対象として見たことなどない」
アウレオルスはインデックスにとっては優しく、己には残酷な、嘘をついている。
インデックスは直感した。
だが彼を論破するに足る論拠は何一つとしてない。
そしてアウレオルスが愛した少女とは別人であるこの身に、語るべき言葉はなかった。
食ってかかったのはステイル一人で、他の面々は事のなりゆきを静観している。
「戯言をぬかすなよ、アウレオルス=イザード」
「至然、虚偽ではない。たとえ嘘だったとしても、現状大した問題ではない」
「僕には……僕たちにとっては大した問題なんだよ、そこは」
ステイルは上条美琴の『正々堂々』をなぞるべく、アウレオルスを挑発していた。
互いに悔いとわだかまりを残さないためにも、本心を晒せ。
真正面から、インデックスを自分と奪い合え。
ステイルはアウレオルスにそう迫っていた。
「傲然、貴様の価値観を私に押し付けるな。貴様がどう思っていようが勝手だ。だがな、
私に言わせればそれは、負けの目の出ない敵を土俵に乗せて勝負を“してやった”心地に
浸るような、鼻持ちならない傲慢だ」
しかしアウレオルスは、犬歯を剥き出しにして借り物の信念を否定した。
ステイルはかすかに唸って口を噤んだ。
ある意味では、それは正論なのかもしれなかった。
「そも、私は罪人であり、ローマ正教を追われる身だ。そして二千の罪なき無辜の命を、
無意味に奪った殺人者だ」
アウレオルス=イザードは決して善人ではない。
コンセンサスに近しい正義感や倫理観など持ち合わせてはいない。
だが同時に、絶対悪でもない。
だから彼は一度は投げ捨てた魔法名に従って、薄汚れた名誉の是非を世界に問う。
その結果、おそらく彼は――――
「そして忘れるな。貴様の身にも、いつの日か同様の破滅が舞い戻ってくる可能性を」
「!!」
そこまで考えて、失念していた可能性を突きつけられた。
インデックスは凄絶な嘔吐感に襲われて、とっさに口許を手で覆った。
十一年前の『黄金錬成』は原因不明のまま解除された事実だけが浮き彫りにされ、
錬金術師のエゴの犠牲者がこの世のどこかに存在するのだと、鮮明に照らしだした。
真実と現状を重ね合わせれば、インデックスがその決して存在を認める訳にはいかない、
認めたくはない未来予想図が出来あがる。
「『黄金錬成』は………………いつか、消え、ちゃうの?」
「……否定のできぬ青写真だ。実際に、一度は解除されているのだから」
錬金術師の執念の象徴たるセメント造りのアトリエが崩れ去ったように。
あるいは自ら鍵をかけた記憶の櫃がこじ開けられたように。
いつの日か、『ステイルが死ななかった』という歪みは砂上の楼閣のごとく消える。
インデックスはベッドの上で起こしていた上半身を、腹部を抱えるように折り曲げて
わなわなと慄いた。
そんな未来、不確実な可能性のわずかな一片とて受け入れられるわけがない。
であるがゆえに、一度は命を断とうとまで思い詰めたのだから。
「インデックス、気を確かに」
背中にひんやりとした手のひらの感触。
火織の懇ろな配慮に感謝しつつも、インデックスは恐怖に言葉を返せなかった。
「……その点についてなんだが、最初に話を聞いた時から気になっていることが……」
一方で時期不定の余命宣告を受けたステイルは、平静そのものの態度で顎に手を当てていた。
なにを他人事のように落ち付き払っているのか、とインデックスは涙交じりの抗議を
ぶつけようとする。
その時だった。
「そういう幻想(おもいこみ)は、俺がぶち殺してやるもんだって相場が決まってんだよ」
インデックスの嘆きを遮るように、精気に満ち満ちた声が張り上げられた。
信念のままに生きることを迷わない、誰よりも主役に相応しい男の声だった。
「空気脱却のチャンスと見るや口を挟むたぁ、主役の鑑だぜカミやん」
「いや、お前には言われたくないんだけど」
「俺はエアリーディング検定一級の腕前を披露してただけだにゃー」
「なにを言っているのだ、貴様らは……」
「まだわかんないのか、敏腕錬金術師サマに魔道図書館殿? 論より証拠だ、カミやん」
頷いて立ち上がった上条は、右手を高く掲げる。
神の奇跡も異能の業も、ことごとくを『無』に帰す幻想の破壊者。
「ま、待て! 貴様の右手で触れなどしたら……!」
強く握り締めて皺くちゃになっていたシーツばかり眺めていたインデックスは、焦燥も
あらわなアウレオルスの叫びで、上条がいかなる幻想を殺そうとしているのか悟った。
面を思いきり跳ね上げる。
「とうま、止めて!! そんなことしたらステイルが死んじゃうッッ!!!」
しかし時すでに遅く、『幻想殺し』がステイルの肩に触れた。
インデックスの声にならない絶叫が黎明のロンドンを揺るがす――――
「『上条菌』が移る。鬱陶しいから三秒以内にその右手を離せ」
「小学生か」
かと思われたが、まったくそんなことは起こらなかった。
ステイルは心底から表情を嫌悪に歪ませて、ダニを追い払うような仕草で手の甲を
上条に向けて払った。
インデックスとアウレオルスは、叫喚を響かせようとした口のまま声を失った。
「…………な? こういうことですたい」
「『論』を先に立たせるべきだった、と思うのですが」
満面のしたり顔の土御門が、チェシャ猫のようにくつくつと押し殺した笑いをこぼす。
真面目一辺倒の聖人が窘める声も、今のインデックスにはどこか虚ろに聞こえた。
「な………………どういう、ことだ?」
「え、ええ?」
結論。
『ステイルが死ななかった』現実は、これっぽっちも『なかったこと』になどなっていなかった。
「要するに、さ。昔バードウェイから説明されたことがあるんだけど、俺の『幻想殺し』は
『異常』を『正常』に戻すことはできても、その逆はできないらしいんだ」
「カミやーん、全然要約になってないぜよ。“要するに”、カミやんの右手は『生命力』を
打ち消せないってことさ」
「どーせ上条さんは理論立てたプレゼンが苦手ですよ……」
『生命力』とは極めて安定、均一化された『正常』なエネルギーの代名詞である。
つまり『幻想殺し』では『死』という『異常』を直接的に齎す異能は打ち消すことができても、
回復魔術などの結果として現れた『生』という『正常』は打ち消せない。
思い当たる節はステイルにも火織にも、そしてインデックスにもあった。
『上条当麻』が少女の地獄を覗き見る契機となった刀傷。
月詠小萌の協力で治療された深手。
その後の同棲生活でスキンシップの機会はいくらでもあったろうに、一度として開くことの
なかった古傷。
苦痛を伴う記憶を想起して、しかしインデックスの表情は太陽より眩しくほころぶ。
「それじゃあ、ステイルは!」
「少なくともこの忌々しい男の右手では、僕は死なずに済む、そういうことらしいね。
そしてこの理論は、十一年前の『三沢塾』事件にも適用できるんじゃないのか?」
『戻った』命を『なかったこと』にされた、血だまりに倒れ伏す罪なき幾千の骸。
そんな光景は幻想にすぎないのだとステイルは主張する。
『黄金錬成』の解除にしろ『幻想殺し』にしろケースの特殊さが際立っているためステイルは
断言を避けたようだが、その可能性には内心でインデックスも頷いた。
それでも、アウレオルスの物憂げな相貌はいまだ固定されたままだった。
「……依然。状況証拠を楽観的に解釈した、希望的観測であると言わざるを得んな」
「やれやれ、頑固な男だ……アウレオルス、僕はインデックスが誘拐された直後に
君の目の前で電話を三件掛けている。相手が誰だったのかわかるか?」
対するステイルは指を三本立てた。
あのドヤ顔は論戦の勝利を確信している顔だ、とインデックスは経験則から弾き出した。
一人は無論、『首輪』を破壊した動かぬ実績を持つヒーロー。
一人はステイルの『奥の手』起動のカギを握る天才魔術師(兼メイド喫茶経営者)。
一人はアウレオルスと『必要悪の教会』の間で緩衝材の役目を果たした敏腕エージェント。
「土御門」
「おうおう、日本を発つ前に急遽追加注文してきやがった、ご依頼の品だな?
時間が迫ってたから、差し当たり十人分しか調達できなかったが」
「さすがだな、十分だよ」
土御門は手に提げていたスーツケースから薄型のタブレットを取りだし、ポケットから
極小のメモリーディスクを抜いてトレイに差し込んだ。
ほとんど無音に近い静かな駆動音を響かせておよそ十秒後、真っ暗だった液晶に土御門の
収集した『データ』の内容が表示される。
「お、これこれ。調べるのに結構苦労したんだぜ。わざわざ『書庫』にまで問い合わせてさぁ」
「カミやんは統括理事として権力を振りかざしただけで、実際に仕事したのは俺ですたい」
「…………これは?」
「学園都市に在住する、とある一般教師二十七歳の戸籍謄本、だぜい。名前に覚えは
……あるわけないか。お前は別に“彼ら”の先生でもなんでもなかったんだからな」
「ただな、アウレオルス。これだけはお前のお得意の錬金術でも歪めようのない現実だぜ。
この人は『あの日』、『あの場所』に居たってデータが、記録にしっかり残ってたんだ。
…………この意味、分かるよな?」
一歩引いた位置から土御門が冷静に、人畜無害の笑みを浮かべて肩を叩きながら上条が
嬉しそうに、代わる代わるアウレオルスに語りかける。
「十一年前のあの日、『三沢塾』に居たはずの“彼”は、俺たちが顔も知らないどこかの
誰かさんは、今だってちゃーんと生きてるんだ。この人、去年結婚して子供も生まれて
るんだぜ?」
「――――っ」
確たる『証拠』の存在を、頑固な錬金術師に思い知らせるために。
「さらにもう一つ、付け足しをさせてもらおうかな。哀れな錬金術師の行く末をこの十年
案じ続けていた奇特な精神の持ち主。僕はたったの一人だけだが知っている」
とうとう反論の術を見失ったアウレオルスに、ステイルもまた一枚のルーンカードを
手の内で弄びながら畳みかける。
「なに?」
「この向こうにたった今、“いる”ようだ」
小器用に一回転させて差し出したのは、ロンドンと学園都市を結ぶ通信用の術式。
七月十五日にステイルとフィアンマが作戦伝達に使用した一品だった。
「……それは貴様とインデックスを愛する人々の、息吹の証明にすぎない」
インデックスは先ほどその通信術式から上条美琴の声が聞こえた事実を思い出して、
喜ばしいやら申し訳ないやらで所在なさげにうつむいた。
確かにそれはステイルが最後の切り札に使用した大量のルーンの配置に、フィアンマが
はた迷惑にも途轍もない人脈を駆り出した、格好の証拠だった。
「いいからこいつを耳に当てろ。そして恨み事をたっぷり聞いてやれ。君にはそうする
義務がある。なにせ、君は彼女を一度“殺して”いるんだからな」
「ん、な?」
インデックスが身悶えするのを尻目に、無理矢理押し付けられたカードを慎重に耳許へ
運ぶアウレオルス。
一万キロの果てから伝うは、雪柳のような澄んだ音色。
『アウレオルス。久しぶり。私のこと。覚えてる?』
「………………まさか……姫神、秋沙か?」
それはアウレオルス=イザードにとって、『共犯者』との再会だった。
一同が気を遣って耳を塞ぐまでもなく、再会は一瞬で終わった。
十秒もしないうちに、鮮やかなカード捌きで“受話器”がステイルへと投げ返された。
「……異常なほど手短に済んだようだが、いったい何を言われたんだい」
「……ひとまずは、学園都市に向かうことにする。今後の身の振り方を考えるにしても、
すべてはそれからだ」
“身の振り方”と聞いて、ステイルとインデックスは顔を見合わせた。
まるで進むべき道を決めかねているような言い草。
裏を返せばそれは、『生きる』という意志表示に他ならなかった。
「……ということは、ローマ正教に出頭するとかほざいていたのは」
「果然。偽善者ぶりたいわけではないと言ったであろう。『二千の殺人』というしこりが
取り除かれた今、誰が進んで死刑台になど上るか。私はそこまで感傷的なロマンチスト
ではない」
「いっそ、イギリス清教の庇護下に入っちまう、っつう選択肢もあるぜ?」
「そんなことをして、ローマとの外交問題に発展しないでしょうか……」
「んー、でもさぁ。前例ならいくらでもあるし、なんとかならねぇかな?」
当事者を置き去りにして土御門が、火織が、上条が次々に声を上げる。
オルソラにアニェーゼ部隊にエツァリたちアステカ出身者。
他勢力の鼻つまみ者を傘下に加えた経験が、イギリス清教はある種異常なまでに豊富だった。
インデックスにしても、『禁書目録』の犠牲者を掬いあげることに異存あるはずもない。
錆付いたように動いてくれない面を無理矢理上げて、インデックスはアウレオルスへの
贖罪を果たすべく声の震えを押し殺す。
「…………あ、あなたさえ良ければ、イギリス清教はいつでも」
「断る」
だがインデックスの振り絞ったなけなしの勇気は、救いの手は、あっさりと払いのけられた。
上条と火織はあんぐりと口を開ける。
土御門と、そしてステイルは半ば予想済みとばかりに嘆息した。
「そう言うと思ったよ」
ステイルはさして落胆も驚きもせずに独りごちた。
インデックスは無論、声を荒げて彼の決断に異を唱えた。
「どうして!? いまの私なら、あなたを守ってあげられる! あなたがあいさに
謝らなきゃいけないように、私にだってあなたに贖うべき罪があるのに!」
「超然。中途半端な温情を振りかざすなよ、最大主教殿。君にはもう『無限の愛』は
ないのだ。心底からの愛がいついかなる時も相手を救うとは限らないが、上っ面の
厚情では己が心すら救われないぞ」
思わず押し黙る。
アウレオルスの冷徹な正論には、その縁の下に女への細かな心遣いが確かにあった。
いまのインデックスは、ステイルと他の男性を同じ秤にかける方法を知っている。
そして確実に、天秤はステイルを選ぶ。
ただ一人の男しか選べないような女が他の男に無理強いする贖罪など、もはや同情ですらない、
憐憫の皮を被った単なる自己満足だ。
「これまでも十年間独力で生きてきたのだ、どうとでもなる。そもそも君の愛の変質が
引き起こす問題は、なにも私をどうこうするに限った話ではないのだぞ」
インデックスは反論もできずにただ頷いた。
その点については以前から自覚があった。
唯一の男に捧げてしまった心があるかたわら、インデックスには依然守るべき数千万の信徒がいる。
大多数の市民はインデックスが抱える事情など露知らず、これまでどおりに彼女を聖女として
祭り上げるだろう。
『無上の愛』と『無限の愛』の両立など到底不可能であろうが、『最大主教』という偶像を
はるかな地べたから見上げる民衆にそんなことは関係がないのだ。
つまるところ、インデックスの前途にはこれからも難題が山積みであり――――
だから自分にかまけている暇などないだろうと、そうアウレオルスは言っている。
それは正論の上に幾重にも正論を積み重ねた、極めて強固な理論武装だった。
インデックスにもステイルにも、土御門にも火織にも返す言葉はなかった。
そう、誰にも反論などあるはずがない。
ただ――――
「お前、それでいいのかよ?」
『歩く教会』に匹敵する理論の鎧だろうと、ものともしない右手を持つこの男を除いては。
「欲しいものは欲しい、嫌なものは嫌だ。そんな簡単なことが言えずに散々苦しんだ
馬鹿な奴らを、お前だってついさっき見たんじゃないのか」
ステイルが百メートル四方に響き渡りそうな凄まじい舌打ちを発した。
インデックスも窓枠に視線を落とす。
しかしアウレオルスは、そんな二人の言葉足らずを一瞥たりともしなかった。
「蒼然。青臭い餓鬼の理論だな。貴様は見たところ二十代半ばのようだが……もう一つ
大人の余裕というか、落ち着きというものを身に付けたらどうだ」
「どいつもこいつも余計なお世話なんだよ! 聞いたぞ、お前実は俺と二つしか歳
違わねえんだってな! まったくインデックスのパートナーってのはどうして
どいつもこいつも実年齢と外見年齢に埋めがたい溝があるん」
チャキン。
鞘と刀身が擦れる不穏な物音が聞こえたような気がして、上条は瞬時に口を噤んだ。
すこぶる懸命な判断だった。
「んっ、んん! と、とにかくだな。欲しいものに対して駄々をこねたって、必ず手に
入るとは限らないってのは確かだろうさ。でもな、望みを口に出すのに資格もクソも
ないって、俺はそう思う。だから」
「……もういい、『黙れ』」
軽く手を振って、錬金術師が世界を歪める。
上条は目をまん丸に見開いて、喉の中ほどを右手でむんずと掴んだ。
ガラスの砕けるような音。
「ぷはぁっ! お前、まだ『黄金錬成』使えたのかよ!?」
「貴様の言い分は理解した。だから黙れ」
「…………お?」
上条は呆然と間の抜けた“声を漏らした”。
世界改変と解除の応酬を避けたアウレオルスは、歩を進めてベッドの脇に立つ。
火織が無言で場所を譲った。
彼女のすぐ隣に控えていたステイルは微動だにせず――――いや、顔だけは背けた。
彼らなりの『諦めなかった者』への敬意なのだと、インデックスはそう解釈した。
「インデックス。私は先刻、君の望みを一つ叶えた。対価を返してもらいたい」
どういう心境の変化なのか、とてもではないが推し測れなかった。
それでも女は真摯な眼差しで、真正面から自らの罪の生き証人と相対した。
「私にできることなら、なんでもします」
「重畳。十四年前の私と君の関係について、君はどこまで知っている?」
「え……!」
インデックスは甲高い声を上げそうになって、慌てて両の手で口腔を塞いだ。
もう二度と帰ってはこない、アウレオルスとインデックスが共にあった日々。
それは口にしてならないタブーだとばかり思っていた。
「……あなたが、ステイルとかおりの前の、私のパートナーだった、って」
「それだけか」
「あ、と…………あなたが、あいさに、その……手伝ってもらって、十年前、私を」
「ふむ、成程。もうよい」
『もういい』。
愛想を尽かされたように聞こえて肺がひくつく。
だが一方のアウレオルスはといえば、別段腹を立てた様子でもなかった。
「私はこの八年、学習塾の講師として生計を立てていたのだ。いまにして思えば天職
だったのだろうな。そこな不良神父のような小憎たらしいガキも時たまいはするが、
往々にして彼らと接すると、『教える』という喜びに私の胸は満たされたものだ」
「は、はぁ」
意図を掴めず曖昧な相槌を返す。
それでもやはり、アウレオルスは慈しみ深く笑った。
「私はな、インデックス。君の――――教師、だったのだ」
教師。
教師と、生徒。
口の中でもごもごと二つの単語を咀嚼する。
なぜだか少しだけ、インデックスの心の隅にいつからか存在していた、小さなすき間が
あたたかくなった気がした。
「前置きが長くなったな。さて、私の望みはたった一つだ。一つだけだ」
インデックスは喉を鳴らした。
毛布の陰でステイルと密かに繋いでいた手を離す。
嚥下しそこねた不安感を拭うのに、いまばかりは彼の力を借りる訳にはいかなかった。
その動作を見透かしたかのように、アウレオルスはもう一度口許だけで笑った。
「“君が私に望むこと”を聞かせてくれ。必然、それが私の願いだ」
「………………え?」
「君の嘘偽りない気持ちを聞かせてくれればそれでよい」
わけがわからなくなって、インデックスは横目でステイルの様子を窺った。
インデックスのそれより五十センチ以上高くにある彼の表情は、見事に苦りきっている。
それでもステイルは、『黄金錬成』で強制されたでもないのに口を固く引き結んでいた。
女はアウレオルスに視線を戻す。
理知的な緑髪の直下にある双眸は、少し目を離した隙に瞼の裏に隠れてしまっていた。
次にその瞳が女の視線とかち合うのは、自分が答えを返した後のことになるのだろうと
インデックスは察した。
アウレオルスに倣ってインデックスも瞼を閉じ、脳を回転させる。
魔術世界最高峰、という肩書も世界を滅ぼしかけた今となってはおこがましい話だが、
とかく脳細胞をフルに活用する。
インデックスとアウレオルスの関係は、加害者と被害者である。
少なくともインデックスの認識下ではそうだ。
許されなくとも構わないから、わずかでも償いがしたい。
しかしそれは、己が重荷を軽くしたいがための偽善ではないのか。
ならば自分にできることは何もないのだろうか。
彼の望みはインデックスの望みをただ“聴く”ことであるが、インデックスの望みは
アウレオルスの意思を無視しては成立し得ない。
堂々巡りだった。
答えはいつまで経っても出そうにない。
だったら――――
「……私は、あなたの幸せにはなってあげられません。他に、愛している人がいるから」
ついさっき会得した“やり方”を、試してみることにした。
理屈も感情も景色の彼方に置き去りにして、本当に欲しいものを絞り出す“やり方”。
長く長く息を吐いた。
肺の底の空気を空に逃がして、その奥の心を殻を剥くように引きずり出して。
心を空っぽにして、最後に残ったひとしずくの色を覗き込む。
「それでも私は、あなたに幸せでいてほしいです。こんなの、酷いワガママだって
わかってるけど、でも。あなたが幸せになってくれないと、私は嫌です」
映った色は、希求だった。
「だからいつか、あなたが幸せになれる日が来たら呼んでください。地球のどこにいても、
たとえ宇宙の果てでも、必ず私は飛んでいって、あなたを祝福します」
自分では幸福にできない他人(ひと)への、無責任な希求だった。
「だからあなたも幸せになってください。遠い昔の、私の“先生”」
「…………傑然。対価は確かに受け取った。先ほどはああ言ったが、もしかすると君なら
二つの『愛』を並立させるかもしれんな。そう思わせてくれるほどに」
涙交じりの女の笑顔。
「君は、“彼女”に負けず劣らず、良い生徒だ」
記憶の果てではなく、現実に焦点を合わせた男の笑顔が交差する。
融けて消え去った、もうどこにも存在しない過去を踏み台にして、かつての教え子と師は
新たな絆をこれからの生に見出せると、そう思った。
「………………あれ?」
――――とある事実に気が付いた、女の満面の笑顔がピシリとフリーズさえしなければ。
「疑然。どうしたのだ、インデックス」
「あの…………あなた、『無限の愛』がどうの、ってさっきから言ってるけど」
凍った笑顔が引き攣る。
空気を読まないお気楽な声が割り込んできた。
「俺もさっきから気になってたんだけど、なんなんだよその恥ずかしいネーミンぐおぉっ!?」
即刻強烈な打撃音にキャンセルされた。
レバーを抉る右フックの、思わず拍手を贈りたくなるほど爽快な破裂音だった。
「KYってカミ・やんの略なんじゃないかと時々本気で思うぜい」
「て、め、覚えて、ろ……ぐふ」
「ああもう、とうまうるさいんだよ! そそそそそれより、その特徴的というか日常生活で
到底活用しそうにないユニークなワード、いったいどこからひねり出したのかな……?」
引き攣った笑顔がかつての居候主に噛みつく猛獣の貌を見せてのち、さらにぐずぐずに
崩れて歪む。
アウレオルスは、インデックスに『無限の愛』などというこっぱずかしいネーミングの
ラブが備わっていることを当然のように論説の前提に組み込んでいた。
こんなワードが至極当然のように飛び交う魔境はいかに世界広しといえど神学校の講義室
ぐらいのものだ。
というか、それ以外の場所で気軽に聞きたい単語でもない。
それすなわち。
「そこの不良神父と『自動書記』が罵声をぶつけ合う現場を、物陰で窺っていたからに
決まっているだろう」
「!?」
ああ、つまりそれは。
『インデックスはステイルが死んだらもうダメ』『生きていけない』『死んでやる』
エトセトラエトセトラエトセトラ。
そのようなあれやこれやを一切合財一片の隙もなく視聴されていたと、そういうことなのか。
「………………うあ、うえ? え、え、え? じゃ、じゃじゃじゃ」
「ちょっと落ち着いたらどうだい、インデックス」
寝台に下半身を預けているにも関わらず前後感覚を失ってふらつくインデックスの胴部を、
ステイルがとっさに抱きとめた。
優しく愛しいあたたかさにうっとりと身を委ねそうになって、
「あ、ありがと……って、ステイルも知ってたんでしょこれ!?」
「まあ、示し合わせての作戦行動だったんだから、そりゃあ重々承知の上だったとも」
「ちょぉぉぉ!?」
「僕だって立場は同じだ、そう目くじらを立てないでくれよ」
言われてみればそうだ。
『愛してる』を筆頭に『僕は死なない』『世界の根源(笑)』『神は死んだ、スイーツ(笑)』
などなど、今思い返すにあれはステイル=マグヌス夏の黒歴史大バーゲンセールだった。
決め台詞とドヤ顔の大安売りに伴う出血の度合いは、むしろ彼の方こそが深刻である。
開き直っている感はそこはかとなくあるものの、ステイルも羞恥を殺しきれていないのか
ほんのわずかに耳たぶが赤く染まっている。
というか、余人が耳をそばだてているのを承知であんな台詞を連発していたのか、この男は。
「あわ、あわわわわわ……あの、先生、多重詠唱を手伝ってくれたみんなはこの事を」
泡を食いながら吐いた質問は、わりとインデックスの今後の人生を左右してしまう
ターニングポイントだった。
ヤンデレかつメンヘラ全開の思考回路を全イギリス清教へ発信などしてしまった日には、
色々な意味で明日から同僚とどう接してよいのかわからない。
「あ、私はしっかり聞いてましたよ」
「かおりぃぃぃぃぃ!? そこは仮に聞こえてたとしても聞かなかったふりをするような
生温い優しさを見せてほしかったところかもぉぉぉぉ!?」
「テレビカメラを入れて全英生中継体制を敷かなかっただけ慈悲深いと思ってほしいぜい」
「そんな悪鬼の仕打ちを笑って許せるのはマリア様ぐらいのものなんだよ!!」
「俺もちょっと興味が湧いてきたな……建宮あたりが録音してねぇかなー」
「すごくあり得そうな可能性に言及してフラグを建てるのはよしてとうまぁぁ!!!
こんなときにまでフラグビルダーぶりを発揮しなくていいから!!」
「ここにもいるぞ!」
「げぇっ、キャーリサ!?」
混乱深まる聖女の鼓膜を、助け舟とも呼べぬ横槍が突く。
インデックスは、煌びやかかつ清冽な声を後背で受け止めてから振り向いた。
「『大天使相手だろうと負けない』だったか、まさかあんな形で私との約束を果たすとはなぁ!!
口だけの男じゃないってところを存分に見せてもらったの! 褒美をとらせたい気分だぞ!!」
「僕が欲しいのは騒がしい連中からの解放なんですが、殿下。同情するなら平穏をくれ」
ノックもせずにずかずか上がりこんできた英国第一王妹(独身)が、ステイルの背中を
上機嫌にバシンバシンと叩いている。
豪快な王妹の爆笑を右から左にスルーし、インデックスはキャーリサのさらに後ろ側に
視線をスライドし――――慄然とした。
ビジネススーツに身を包む妙齢の女性と、上下を大胆にもピンクのジャージで揃えた老婆。
現女王陛下と先代女王陛下が揃い踏みで、不吉な笑みを浮かべてそこに佇立していた。
「…………なんの御用でしょうか、御三方」
ステイルが幸薄そうなため息をついた。
国家元首の『用件』を彼も察したらしい。
「おーおー、今回は大変だったなお前達。いやはや、年寄りの思惑に振り回されちまった
あたりは十分同情に値するよ…………値するけど、なあ、リメエア?」
「ええ、ええ。とってもお気の毒な事とは思うのだけれど……聖堂を一つ、丸々潰して
しまうのはさすがに前代未聞だわ」
更地を通り越して盆地と化した元聖ジョージ大聖堂の姿に思いを馳せ、改めてインデックスは
自分がしでかしたことの重大さを思い知った。
ステイルもまた、力なく腑抜けた半笑いを漏らすのでやっとのようだった。
「それはあれですか。僕ら二人、これから巨額の損害賠償請求をされるとか、あるいは
一生体を質に地下帝国で借金返済、とかですか」
十二分にありえる話だった。
なにせ二人の激闘で跡形もなく消し飛ばされたあの聖堂は、イギリス清教の根拠地としての
存在意義以前に、考古学的に貴重な資料価値も有している。
地下の宝物庫には強力な霊装も多数保管されており、これらの価値はとてもではないが
金銭で表せるものではない。
再建は当然なされるとしても、設計の段階で組み込まれた強固な結界の再現にはこれまた
莫大な資金と手間をつぎ込む必要がある。
そしてそれら諸費用を賄うのは、イギリス国民の血税たる公費である。
ステイルとインデックスの私人的な事情から国家財政を逼迫させるのは、二人としても
心苦しいものがあった。
「うんにゃ? 金は返してもらうけど、聞いたところじゃ不可抗力的な事情もあったような
気がしないでもないし、法を盾に社会的抹殺を図ったりはしないよ」
しかしエリザードは無造作に手を振った。
“しない”と保証されたところで『抹殺』という言葉の響きが重苦しいことには変わりないが、
一応、曲がりなりにも、二人の人権は寸でのところで保障されたらしい。
インデックスは胸をなで下ろした。
「…………それにどっちにしろ、もっと短絡的な手段で聖堂の建築費やら後始末にかかる
費用やら稼いでもらうつもりだったからね」
だが、それで何もかもが丸く収まるのならば王室派などお呼びではない。
元女王陛下は娘たちと顔を見合わせてにやりと口の端を吊り上げる。
ステイルの額をたらりと大粒の汗が伝った。
「と、とうま、もとはる、ヘルプミー! かおり、先生、何だか背筋がぞくぞくするんだよ!」
メーデー、メーデー。
途轍もなく碌でもない事態が自分たちを中心に巻き起こる予感がして、インデックスは
傍観者四人に救いを求める視線を投げかけた。
「……さーて。せっかくイギリスくんだりまで来たんだし、ちょっくら懐かしい顔でも
見に行ってくるかなー」
「……ああ、すいません。そういえば私、こちらの病院で定期検査を受ける予定が
あったのでした。いやーすっかり忘れてましたよー」
「……マイラブリーエンジェル舞夏ぁー、いま帰るぜーい」
「……忽然。さて、ハロワにでも行って次の職場を探すか」
「拾う神なし!?」
救いはない。
現実は非情である。
「おいおい、そう怯えなくてもいいじゃんか。なにも臓器を売れ、とかマグロ漁船
乗ってこい、とか言ってるわけじゃないんだからさー」
「例示が最悪すぎます、先代」
「少々見世物になってもらうだけだから、御安心なさい」
「女王陛下の口から『見世物』とか言われると、この上なく不吉な響きなんだよ」
「やれやれ……母上、この煮え切らないバカップルに引導を渡してやってほしいの」
「うむ、それでは…………この度の聖ジョージ大聖堂消滅、およびその他もろもろの件。
チャラにしてほしくば………………………………」
固唾を飲む音が複数、部屋のそこかしこから鳴った。
上条らもなんだかんだ言っておきながら事の顛末を見届けるつもりらしい。
無論当事者たるステイルとインデックスには、顔を蒼白にして審判の時を待つほかに
成す術などなかった。
「お前たち、ちょっと結婚しな」
「「……………………は?」」
それはひょっとしてギャグで言っているのか?
インデックスの第一印象をあますことなく表現するならばこれで決まりだった。
千変万化かつ複雑怪奇たる人の心の在り様をこうまで完璧に描写しきったケースを、
インデックスは寡聞にして他に知らない。
やや劇画チックに変貌したステイルの表情を窺う限り、彼も同様の感想を抱いたようだ。
「だーかーら、ロイヤルウェディング。某国なんてウィリ○ム王子フィーバーでだいぶ
潤ったらしいじゃん? ウチもそれに倣っちゃえば大聖堂の十や二十、建ててお釣りが
くるって話よ」
だがエリザードは真面目だった。
頭に『クソ』がついて尻尾に『すぎる』が付け足される程度には大真面目だった。
少なくとも、渾身のギャグがスベってあたふたする三流芸人の面構えではなかった。
「いや、それ某国っていうかイギ……宇宙の法則が乱れる発言は控えていただけますか」
「だいたい私、修道会所属だから結婚できないんだよ」
「はー? 結婚指輪渡して『一生一緒にいてくれや』宣言までしといてそれはないだろ」
慌ててインデックスは、左の薬指を右手で覆って余人の目から遠ざけた。
困ったことにキャーリサも本気だった。
本気と書いてマジと読む程度には本気だった。
「いや、あれはですね、その、籍を入れるとかの法律的な手続きがどうではなく、
もっとこう精神的な、観念的なあれでして」
「そ、そうそう。私だって最大主教を辞めるつもりはないし、そういう心と心の
スピリチュアル的なあれだと思って」
「経済効果は試算で十億ポンド(約一五〇〇億円)ほどを見込んでいるのだけれど」
「なぜにもう試算が出てるんですか女王陛下ぁぁっ!!!!」
恐ろしいことに女王陛下までもがやる気まんまんだった。
分厚い資料の束を投げてよこして、ステイルとインデックスがショービジネスの生贄に
捧げられることで予想される諸々のメリットを力説してくる程度にはやる気まんまんだった。
「……いいですか、イギリス清教で婚姻を結ぶことが可能なのは在俗の神品のみだと
はっきり定められているんですよ! 無理なものは、無理!」
ステイルは地団駄をこれでもかと踏んで資料の山をリメエアに突き返した。
教会の不文律を破って俗世の幸福に浸るような厚顔無恥を公然と行えるほど、インデックスに
とっての神は軽い存在ではない。
第一『清貧・貞潔・従順』を旨とする修道主教のトップが、率先して破戒僧だと公言する
ような事態などあってはならないだろう、常識的に考えて。
「ぷっ! おいおい、『清貧』って誰のこと言ってんぎゃあああっ!!?」
ガブリ。
学習能力の欠如したイガイガ頭の中身からは、昔と変わらぬ朴念仁の味がした。
「……お前さんたち、イギリス清教の成立過程は知ってるね?」
頑なな姿勢を崩さぬ男女に対してエリザードは唐突に英国史の講釈を求めた。
鼻息も荒く、ステイルが投げやりに教科書の記述を諳んじる。
「『ローマ正教の世界支配から脱するため』でしょう!」
「そりゃあ大義名分だろ」
一刀両断されたステイルに代わってインデックスが後を引き継ぐ。
「当時の英国国王、ヘンリ八世の離婚問題に端を発した政治色の濃い宗教改革だった、
って見方が近年有力な学説なんだよ」
我が意を得たり、とエリザードは一層笑みを深める。
対照的にステイルの顔色が一段悪くなった。
「つまりさ、教義に対して王室派が干渉する余地があるわけねー」
「………………あの、まさか」
インデックスの白磁の肌も、さらに一段と白くなった。
肝を冷やす行為がこうも美肌効果抜群だったとは。
今度五和とアンジェレネにも教えてあげよう、あはははは。
トリップしなければ均衡を保てない状態にまで、女の精神は追い詰められていた。
「そのまさか。法改正をさ、ちょちょいとやっちゃったから」
インデックスは絶句した。
ステイルは絶叫した。
「土御門、神裂ぃぃっ!!! いったいこのババアが何を言ってるのか僕に分かりやすく
説明してくれっ!!」
「確かに先月の国会で、『最大主教の結婚特別に許しちゃおうぜ☆法』が賛成多数で可決
されましたがなにか?」
「海原たちが影武者やってるときに色々と頑張ってくれたおかげで、世論も『もうお前ら
結婚しろ』ムード一色だったからな。あ、日本にまでニュースが届かないよう情報統制
してたのは俺の仕業だぜい」
「ブルータスゥゥーーーーッッ!!! 外堀が埋まりすぎて山になってるぅぅぅ!!」
「呆然。狂っているな、イギリスという国家は」
「貴様が狂気を語るなああああっっ!!」
「良かったじゃんか、インデックス、ステイル! そうだ、ちょうどこれから慰霊祭も
あることだし、この際全世界に向けて大々的に発表するってのはどうだ?」
「戦没者の霊魂の前で不謹慎すぎるんだよ! なんでとうまはそんなに暢気なのかな!?」
「あら残念。私は最初からそのつもりで時期を逆算して法案を通過させたのに」
「国家レベル包囲網!? っていうか大聖堂壊さなくても私たちをくっつけてお金儲けする気
だったんだよこの女王! もうやだこのイギリス!」
「今回の一件はさすがに我々としても予想外だったけれど……終わり良ければ何とやら、なの。
いいじゃないかお前達、互いに好き合ってるってもう認めたんだろう?」
「………………あ、うぅ」
事態を追及すればするほど袋小路に追い詰められたことを実感せざる得ない。
インデックスは困窮し、ついに反論の術を見失って頭を抱えた。
「インデックス、諦めるな! 諦めたら強弁で押しきられるぞ!」
ステイルはなおも口角泡を飛ばして食い下がっている。
しかしその横顔を盗み見ているうちに、インデックスの脳裏である疑念が鎌首をもたげた。
「いいかいインデックス、こんな無法が……いやまあ合法的に事を運んだようだけど……
とにかく、こんな無茶苦茶が認められるはずがない。こうなったらかくなる上は、
事を十字教全体の問題に拡大解釈してローマやロシアを巻き込んで」
「……………………すているは、私をお嫁さんにするの、イヤ?」
「でっ!?」
舌を噛み切ったような奇声がステイルの口から噴き出た。
ほとんど同時に女が、喉を涙に塞がれたような咽ぶ異音を洩らす。
“もしかしたらステイルは、自分と一緒になるのが嫌なのだろうか?”
“だから、ここまで顔を真っ赤にして逃げ道を探っているのではないか?”
第三者が耳にすれば論理を『ろ』の字から無視したような阿呆な考えだと呆れるだろう。
指輪を渡して先に想いを伝えてきたのはステイルの方だ。
しかしこの場の誰もが忘れかけているが、ほんの六時間前、インデックスの精神は一度
完膚なきまでに擦り切れているのである。
衰弱しきってしまった心というのは本来、心療内科医がするようにゆっくり時間をかけて
修復していかなければならないものだ。
ステイルは魔術師であって、医者でなければカウンセラーでもない。
正しい心の治し方など知るはずもない。
「ああ、もう………………イヤなわけが、ないだろう」
だから男は、女のか細い肢体を抱きしめた。
それ以外のやり方など思いつかなかったのだろう。
「ほ、ほんと? 私をがっかりさせたくなくて、口から出まかせ言ってないよね?」
「どれだけ信用がないんだ、僕は」
インデックスはステイルの首っ玉にしがみついて、至近距離からバーコードの直上の
眼差しを覗きこんだ。
瞳の色は、いつの日も自分を誠実に見つめてくれていた紅だった。
安心して胸に顔を埋めると長い吐息が聞こえる。
「…………やれやれだ」
諦観と、抑え気味の至福に染まった溜め息だった。
いつだってステイルの牙城を突き崩すのは自分の懇願なのだと実感して、インデックスは
癖になりそうな甘い幸福感に浸った。
「とうとう観念したようだぜい」
「ご愁傷さまです、ステイル……」
「いつもの“アレ”、いっとくか?」
不幸の権化のような黒髪の青年が、大切な家族の幸福を我がことのように受け止めて笑う。
第一の罹患者たる赤髪の青年は威嚇するように唸ろうとして、腕の中の柔らかい感触と
体温に毒気を抜かれた。
「………………………………………………だ」
「んんー? よく聞こえなかったぜステイルくーん? にじゅうよんさいにもなって
相変わらずシャイボーイだよなぁ」
抜かれた毒気が肺から口腔に到達するまでに、一八〇度ベクトル変換された。
ステイルはその瞬間、天使にだろうが、悪魔にだろうが、眼前の主人公にだろうが胸を
張って誇ることができると、そう感じて――――吼えた。
「僕はいま、幸せだぁっ!! 文句があるかこの野郎!!!」
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お偉い方専用の大病室に、開け放たれた窓から静けさが舞い戻ってきた。
上条も、火織も、土御門もアウレオルスもエリザードもキャーリサもリメエアも消えていた。
「すている」
「ん」
「………………すている?」
「んん」
「すている……ひゃ、あぁ、ちょ」
「うるさいな、静かにしろ」
恥も外聞も丸めて投げ捨てたシャウトに頭のどこかがぷっつんして、切れてはいけない
線が一本ぶち切れてしまったステイルが、まとめて部屋の外に叩き出したからだった。
ただいまステイルは、自分になんの断りもなく自殺などというくだらない逃避行動を
とった馬鹿な女に対して、『お仕置き』を敢行している真っ最中である。
くぐもった女の声と、底冷えするような男の声だけがいやに淫靡に室内に響く。
「ん、え……は、恥ずかしくなってきたんだよ…………」
「いいかインデックス、君に拒否権などない。君はこうやって、ずっと僕のオモチャに
なってればいいんだよ」
「は、ぁん、で、も、あと一時か、んっ!!」
「ああ、それは確かにそうだね。公的行事をすっぽかすわけにはいかないな」
部屋に備え付けの壁掛け時計は、午前七時の訪れを二人に教えてくれている。
慰霊祭の式典開始は十時。
メインイベントである鎮魂の儀を執り行うインデックスは、もろもろの準備のため最低でも
八時には会場入りしている必要がある。
いい加減に退院の手続きを取らなければ、式典に間に合わない可能性も浮上してきた。
ステイルが公と私を峻厳に分ける男だとよく知るインデックスは、解放が間近に迫ったのだと
悟り安堵の息を漏らす。
「じゃあ、あと三十分は余裕があるね」
「んぇっ!?」
が、ダメ。
獲物を前にした蛇のような眼で睨まれてインデックスは二つの意味で震えあがった。
離してもらえない、そう悟ったから。
これが一つ目の意味。
「十四年、耐え忍んできたんだ。もう誰にも、己が心にさえ憚ることはない。もう二度と、
君を離してなるものか」
「ふぁ、ぁあぁ」
二つ目の意味を直接男から告げられて、女の相貌が熱したマシュマロのようにふやけた。
麻薬を脳に直接打ちこまれたような、形容しがたい圧倒的な快感。
好きな男に所有物だと宣言されることが、これほどの快楽を齎すものなのか。
一〇三〇〇〇冊にも記述されていない新たな発見だった。
「あと、だね。さっきから、君の声が少々…………その、性的にすぎると思うんだが」
「…………っ! だ、だってステイルの触り方が、エ……エッチなんだもん!」
淫乱な売女だと罵られたような気がして頬を紅潮させる。
ステイルは憮然としながら反論してくる。
「…………指をさすってるだけじゃないか」
「ぐぬぬ」
まさしくそれは、正論であり事実だった。
発端は、思慕を通い合わせた男女の気まぐれだった。
インデックスは、果たしてステイルが己のどこを好いてくれているのか、一度たりとも
彼自身の口から聞かせてもらったことがなかったのだ。
だから、当然の疑問として尋ねてみた。
『すているは、私のどこが好き?』
『そんなの、全部に決まってる』
返ってきたのは、面白みのかけらもない優等生の模範回答だった。
もちろん納得のいかないインデックスは、強いて一番のポイントを挙げるなら、
と渋る男に迫り――――『指』、との返答を得たのであった。
『ゆ、指ふぇちだったんだ、ステイルって、ぷぷっ!』
『笑うな! 君が言えと言ったから僕は……くそっ!』
そこでからかうようにけらけらと笑ってしまったのが今にして思えば悪手だった。
昨日までのステイルならばインデックスがどれだけ子供じみた悪戯を仕掛けようと、
決して手を上げるような真似はしなかったはずだ。
だが今日の、これからのステイルは違う。
愛する人が道を違えたと知ればその頬を張り飛ばすことも辞さない。
あと十秒早く気が付いておくべきだった変化を見逃した結果が、これだった。
「いつ見ても、綺麗な指だな」
「ぅう……」
「食べたくなるぐらいだ」
「へぇ!?」
「味もみておこう」
「ちょ、すて、んっ!」
イルカのごとく知識という名の大海を泳ぎ躍る指先は、哀れ炎の魔術師の虜となっていた。
上下左右あらゆる角度から見世物にされて、ときに宝石を扱うような丁重な手つきで恭しく
撫でまわされる。
ステイルにとってそれはまさしく、一〇〇万カラットのダイヤ以上の価値を有する世界一の
宝物なのだろう。
「い、いい加減にしてよ、すている……」
だが如何にステイルの行動が自分への愛情から出でたものであっても、たとえこの行為に
SMチックな『お仕置き』の意味合いが込められていたとしても、インデックスにだって羞恥の
限界というものがあるのだ。
辛うじて涙声ではないものの、恥じらいに満ちた呟きが思わず口をついた。
「ならば交換条件だ。聞かせてもらおうかな」
「交換条件って、何と、意味わかんな、んっ」
「……敏感すぎるだろう。まあ、有益な情報も手に入ったしここらで勘弁してあげるよ」
最後に一撫で、ほっそりとした左の薬指の上にごつごつした人差し指を滑らせて、
ステイルはようやくインデックスの小さな手のひらを解放した。
「さっきの、と言っても六時間以上前になるが。実を言うとだね、僕は君の返事がよく
聞こえてなかったんだよ」
だが男の勝ち誇ったかのような薄ら笑いは消えはしない。
インデックスはなんのことだ、と記憶の引き出しを上から順に探っていく。
そして。
『一生、あなたのそばで――――』
完全記憶ゆえの哀しさか、ステイルの求める返事の在り処を発見してしまった。
「う、ウソつかないでほしいかも! ちゃんと返事の返事してくれたでしょ!」
『ああ……喜んで』、とかなんとか。
ステイルはあのとき確かにインデックスのささやかな、しかし真心の籠もった返答を
受け取ってくれていたはずだ。
「いやぁ、あの場面で聞き返すのも空気を読めてない気がしてね」
糾弾するもどこ吹く風。
神父はヘタクソな口笛など吹いてそっぽを向いた。
「『助けて』って言ったときはこーんな風に耳に手を当てて聞き返してきたくせに!」
「くっ、『黄金錬成』の後遺症か、頭痛が痛い! よく思い出せないぞ……!」
「す…………ステイルの意地悪っ、卑怯者!」
それを言われたら返す言葉がない。
十一年前に嫌悪とともに放った誹謗を再現しても、罵声が帯びてくれるのは可愛らしい
憤怒の薫りのみだった。
「意地悪かつ卑怯者で結構。それで、もう一度『返事』を聞かせてほしいな……それとも、
僕から改めて言いなおしたほうがやりやすいかな?」
溜飲を下げたステイルはより一層愉しげに破顔して、インデックスの耳元に唇を寄せる。
女はわれ知らずの内に縮こまっていた。
「僕の残りの人生は、君のものだ。僕は君のものだ」
囁かれた言の葉は、一片の躊躇いも恥じらいも内包しない、真っ直ぐな告白だった。
「さぁ、観念して聞かせてくれたまえ」
きみ
――――『禁書目録』は、誰のものなのかな?
「…………ずるいよ、すている」
皮肉屋で、ヘタレで、短気で。
いざという時には簡単に命をなげうってしまう、どうしようもなく馬鹿な。
しかしそれでも。
「そんなの、決まってるもん」
あなた
――――絶対に死なずに傍らに寄り添ってくれる、『不良神父』のものだ。
今度という今度こそ完璧に、余すところなく、インデックスの想いの最後のひとかけらは、
言の葉となって伝え――――
「断然、俄然、断々然。当然、ステイルだけのものなんだよ」
――――られる、はずだった。
「…………」
「…………」
が……ダメッ……!
「おい」
「唖然、ちょっと“ヨハネ”!? なにもこのタイミングで……あっ」
「……いまのはどういう意味かな?」
ステイルのこめかみあたりで血管が、生まれたての小鳥のようにひくついている。
「あ、あはは! これ、実を言うと……その…………」
「その?」
「なんと言いますか、あの……」
「あの?」
「あーっ!! そろそろ八時になっちゃうんだよ! ちょっとステイル、私着替えるから
あっち向いてて欲しいかも!」
インデックスは逃げ出した。
「いいじゃないか別に、裸ぐらい。僕らはいずれ夫婦になると、お国にそう決められて
しまったんだから」
「ん、んにゃぁっ!!!? す、ステイルさん!?」
「で、話の続きはどうなったのかな?」
「う、あ…………これはつまり、結論から述べてしまいますとですね」
しかし回り込まれてしまった。
観念したインデックスは、腰を深く落としてまっすぐに――――
「ぜーんぶ『自動書記』ちゃんの可愛いイタズラでしたー! ドッキリ大成功!」
てへっ。
額にこつんと手をやって、星マークを飛び散らせて、精一杯のぶりっこポーズ。
「……可及的速やかにあのクソアマに代われ」
渾身の和平工作は、男の額に走る青筋を増やすだけの結果に終わった。
いわゆる一つの、ドロドロの泥沼状態だった。
「それが、あのー。思い違いした挙句ステイルを殺しかけちゃった手前、合わせる顔が
ないって言ってるんだけど」
「合わせる顔がないと嫌がらせに走るのかあのアマはッッ!!」
インデックスはなるたけ穏便に聞こえるよう、慎重に種明かしを始めた。
インデックスを娘のように可愛がっていた『自動書記』は、いつまでたっても煮え切らない
ヘタレ神父の存在が業腹で仕方がなかった。
にも関わらず肝心のインデックスはといえば、日に日にステイルに惹かれていく。
ますますもって腹立たしい事態だった。
ゆえに『自動書記』は二人の共有財産たる大脳皮質のウェルニッケ野にアクセスし、
インデックスの言語中枢に干渉することで――――
「――――鬱憤晴らしを目論んだ、と。胃潰瘍寸前までいった僕の塗炭の苦しみは、
あの忌々しい女の愉快犯じみたお遊びだったと」
「あはは、あは、あははは!! まあまあ、断然、もう過ぎたことなんだし」
「ことは現在進行形のようだね」
「…………あ、はは……」
「なにより……僕の疑問は、『君の認識がどうだったか』という点にこそあるんだよ」
「ギクリ」
気付かれたと気が付いて、気が付けば古典的な擬音が口をついていた。
インデックスは『自動書記』の管理権限をとっくのとうに掌握している。
つまり、インデックスが彼女のささやかなイタズラを認識していなかったはずがない。
「インデックス、僕はいまひっじょおおおおおおおに虫の居所が悪い。あと胃が痛い。
よーく考えて考えて考えて、熟慮の末の論理的、合理的回答を期待するよ」
「…………はい」
胃薬を飲み下す魔人の視線は、人一人ぐらいなら余裕で焼き殺して地面の黒ずみに
変えてしまいそうな、地獄の業火のごとき苛烈な熱気を纏っていた。
こんなにも殺気に満ち満ちた視線をステイルに浴びせられる日が来るなどとは
想像だにしたことがなかった。
一年前の己に、皮算用は将来価値を視野に入れて行えと忠告したい気分だった。
だって、しょうがないではないか。
『目を覚ましたるかにゃーん、超すている! 大丈夫、こ、この人魚姫アワメイドが
看病しちまうのよな!』
どれだけ大胆にアプローチしても顔色一つ変えず。
『…………最大主教、ご準備の方は』
『…………万事、整っているぞー』
淡々と事務的に、身辺警護だけを粛々とこなし。
『どういうことなんだぜい!? 私のメイドじゃ不満なのかにゃー!?
白状してもらいますたい!!』
ちょっと目を離した隙にフラグイベントに見舞われている。
一昔前のステイル=マグヌスは、まさしくそういう男だったのだ。
そんな対インデックス専用フラグイベイダーな朴念仁が、ちょっとばかりてんやわんやの
馬鹿騒ぎに巻き込まれて痛い目に遭うのを。
「インデックス、君は、『自動書記』の所業を、この一年、何食わぬ顔で、被害者面をして」
――――ざまぁ、と心の片隅でチラと考えてしまったって、しょうがないではないか。
「……………………黙認、していたな?」
「……………………テヘッ☆」
ブチッ。
「あ」
薄ずみ色の空を塗り変えゆく蒼は藍より青く、吸い込まれるような色をしていた。
斑を打つ浮雲は高く、堆く積み上がって霧の街に夏の訪れを告げる。
ロンドンではすっかりおなじみとなった絶叫が、天行く雲のその上まで駆け抜けた。
「 イ ン デ ッ ク ス ゥ ゥ ー ー ー ッ ! ! ! 」
おそらくこの先、何十年にも渡って人々の耳朶をなぶっては苦笑させるであろう大音声が、
どんなに巨大な祝福の鐘より遠くへと反響する。
男女が掴んだ消えない幸福を世界の果てまでも知らせて、声は空の彼方へと消えた。
幾度となく訪れては少女の命を無慈悲に奪い、少年に絶望を齎してきた七月二十八日を越え、
ステイルとインデックスの人生はこれからも続く。
いつの日か必ず終わる旅は、まだまだ続く。
Last Chapter
と あ る 神 父 の
イ ン デ ッ ク ス
禁 書 目 録
――NEVER END――
AND
THANK YOU FOR READING!
210 : >>1 ◆weh0ormOQI - 2011/12/31 01:39:08.72 VImMrTW10 2294/2388
しんみりと見せかけてドタバタ、いちゃいちゃと見せかけてドッカーン
ラストは当スレの黄金パターンで締めさせていただきました
あとがきっぽいことをしてみたい気がしないでもないのですが、蛇足になりそうなので止めておきます
>>1の俺得誰得から始まった当SS、果たして何人の方の俺得スレの座に収まることができたでしょうか
それでは最後に主役の俺得カップリングが流行ることを祈って、↓で別れの言葉に代えさせていただきます
インデックスはステイルの嫁!(*´ω`*)
本当に長い間、お付き合い頂きありがとうございました!
大団円かと思ったか?
まだ続くよ!!
211 : >>1 ◆weh0ormOQI - 2011/12/31 01:39:38.89 VImMrTW10 2295/2388
というわけで本編はこれにて終了、そして
こ こ ま で が 前 座 で し た
より正確には、>>1的にはここからが本番です
だって元はと言えば、>>1はステインをいちゃいちゃさせたかっただけなんですもの
でも原作でギスギスしてるこの男女を、過程をすっ飛ばしてラブラブカップルにしてしまうのは何かしっくりこなかったんです
よーしじゃあがっつりと二人の葛藤やらメンドくさい事情やらを描写しちゃうぞー、と調子に乗った結果がこれだよ!
そして今日、とうとうついにようやくエンディングまで辿りついたというわけですねー
今後の予定ですが
・二人がひたすらイチャイチャする後日談+α
・二人がひたすらツンツンしまくる前日談
の構想を温めております
全編改訂して外部サイトに投稿し直そうかなー、とか夢見たりもしてます
まあどのみちしばらくは別スレに集中しようかと思っているので、このスレは依頼を出さずに放置しようかと
html化される前には戻ってくるつもりですので、気長にお待ちくださる方がいたら光栄の極み
次回投下は未定ですが、前日談と後日談の予告的な、サンプル的なアレを落としていこうかと思います
来年は私情により投下ペースが凄まじく落ち込むことが予想されますが、最悪月1ぐらいで定期的になにか書こうとは思ってます
では今度こそ……およそ七ヶ月間、ご声援ありがとうございました!
皆さん良いお年を!
続き
とある神父と禁書目録【完】