※『とある神父と禁書目録』シリーズ
【関連】
最初から:
ステイル「最大主教ゥゥーーーッ!!!」【1】
1つ前:
ステイル「まずはその、ふざけた幻想を――――――」【2】
416 : >>1 ◆weh0ormOQI - 2011/11/18 23:18:44.17 A9imqgUj0 1690/2388
ねーちゃん! 週末っていまさッ!
気が付けばあの頭を掻き毟りたくなるような予告編から早一月が経ちました
ここから先は今までに輪をかけて
※原作に対する独自解釈
※厨二病
要素を含みますので一応、ご警告申し上げておきます
要するに予告のあのノリが延々続いちゃうわけです
それでも良いという方、くどくどと前口上を並べてすいませんでした
お待たせしたのかどうかはわかりませんが、やっとこさ最終章の投下です
ステイルとインデックスの行く末をどうか温かい目で見守ってあげてください↓
――――これは、ヒーローになりきれない男と、ヒロインになりそこねた女の物語。
-----------------------------------------------------------------------------
たとえ君はすべてを忘れてしまうとしても
「いやだ、いやだよすている」
僕はなにひとつ忘れずに
「おねがい、いっしょうのおねがいだから」
君のために生きて死ぬ――――か
「しなないでぇ、すているっ!!」
まったく本当に、最初から最後まで
「い、やっ、いやあああぁぁぁぁあああああぁぁあああああああああ!!!!!!」
僕らの物語は、くだらないことだらけだったな――――
Last Chapter
と あ る 神 父 の
■ ■ ■ ■
――Passage1――
「…………ん?」
半日ぶりの大地を両の脚で踏みしめたステイルが最初に感じたのは、珍妙な違和感であった。
「どうかしたの、ステイル?」
「ここは…………ガトウィックじゃない」
「え、そうなの? 私はロンドンに降りるとき、いつもヒースローだから……」
ヒースロー空港とは二人がロンドンを発つ際にも利用したイギリス最大の、そして
国際線利用者数世界一の大空港である。
しかしながらチャーター便の離着陸を行えないという数少ないデメリットがあるため、
今回ステイルたちは国内第二のエアポートであるガトウィック空港に降り立った
――――はずであった。
「違う…………ここはヒースロー空港でもない」
ステイルは職業柄、国内外を行き来した経験も豊富である。
そして彼が仕事を終えてイギリスに帰還する際は、必ずと言っていいほどどちらかの空港を利用する。
完全記憶能力者でなくとも、この滑走路に見覚えがない点だけは疑いようもなかった。
機内のCAに向かって叫ぶ。
「君!! この機はガトウィックに着陸するはずじゃなかったのか?」
「え? 失礼ですがお客様、何をおっしゃって……?」
「……君に言っても仕方がない。飛行計画書(フライトプラン)を見せてくれないかな」
「しょ、少々お待ち下さい」
機長室へと足を運ぶCAを見送って、インデックスがボソと呟いた。
「どういうことなのかな、ステイル……?」
「わからない。最も濃い線としては毎度おなじみ土御門マヌーバーなんだが……それも少し、
違う気がしてならない。しかし最大主教、心配はいらない。何が起ころうと君は僕が守る」
「あ……………うん……」
小さな手をしっかりと握って、安心させるように凛と言いはなつ。
CAが戻ってきてもステイルはインデックスの手を離さなかった。
「お客様、お待たせしました。こちらがFSSに提出した飛行計画書の写しとなります」
「手間を取らせて済まないね、もう行ってくれて構わない。さて…………Departure
Pointは学園都市第二三学区空港で、合っている。問題はDestinationだが…………
………………は?」
「ど、どうかした?」
素っ頓狂な声が滑走路上にまぬけに響く。
素早く書類の上を滑っていたステイルの眼球が、ある一点でピタリと止まっていた。
「れ、れ、レオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港………………だと……?」
「え……え、えええ!? じゃ、じゃあここって!」
紙切れをくしゃりと握り潰して、ステイルの音吐は呻きと雄叫びの狭間でさまよった。
「十字教最大勢力の本拠地――――イタリア首都、ローマだ………ッ!!」
一時間後、ステイルとインデックスはタクシーをつかまえて、車窓から覗くローマの
歴史ある街並みを横目で流していた。
「そろそろ見えて来るんだよ」
「……くそ、何故こんな事に……」
----------------------------------------------------
二人して語学に堪能であったのは不幸中の幸いだった。
ステイルは欧州圏の言語なら一通り日常生活レベルまで操れるし、インデックスは言わずもがな。
右も左も分からぬ異国に放り出されたわけではないのだから、冷静に戻るにそう時間はかからない。
いつもの癖で煙草をふかそうとして空振りしたステイルが次にしたのは携帯電話のアドレス帳を
呼びだして、『T』の欄まで十字キーを連打し続けることであった。
『土御門…………土御門……よし』
国際電話には馬鹿げた額の通話料金が付き物だが、背に腹は代えられない。
この一件に土御門元春が噛んでいるにせよそうでないにせよ、あのイギリス清教一の曲者に連絡を
付ければなにがしかの糸口にはなるはずだ。
そう考えたステイルが通話ボタンを押そうとした、その時だった。
『待って、ステイル』
キーにかかった親指が止まる。
振り向くと、インデックスが難しい顔で首をひねっていた。
『なんだい、最大主教』
『さっきの飛行計画書の、Destination Contactのところなんだけど』
Destination Contact――――目標地点における連絡先。
その欄に何か彼女の目を引く記載があっただろうか。
ステイルは一度しわくちゃにしてしまった紙切れを丁寧に広げ直して――――目を剥いた。
一一桁の番号。
『………………なるほど、“彼女”の仕業か……!』
インデックスには当然及ばないながらも、ステイルも記憶力にはそれなりに自信がある。
優秀なメモリーが、記された番号の意味するところを即座に教示してくれた。
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ローマ市内を縦横に走る市道はさながら山頂から湧き出る流水のごとく、中枢から郊外に
向けて放射状に延びている。
『Destination Contact』に連絡を取った二人の次なる目的地は、その中心点からやや西に
行った先にある世界最小国家であった。
「あれが…………」
行く手に現れた荘厳な建築物を視界に入れて、インデックスがうわ言のようにつぶやく。
“以前”の彼女がどうであったかはステイルにも知れないが、少なくとも“現在”の
彼女がこの国境線を越えるのは初めてであろう。
「すでに此処は“彼ら”の懐の中だ。一応、念のため、万が一に備えて、警戒は怠らないでくれ」
運転手に気持ち多めにチップを支払って、二人はタクシーを降りた。
国境線をまたぐとは言っても“この国”への入国に煩わしい検問や検疫は一切必要ない。
簡素なドレスコードと、一部施設への入場に荷物検査が設けられているだけの解放的空間である。
(その“一部施設”に、これから入ることになるわけだが)
しかしステイルもまた、この開かれた国家の大地を踏んだ経験はこれまでの人生で記憶にない。
なぜなら、この地の支配勢力が――――
「――――――――――――――――――ウゥーーッ!!」
「…………ちっ」
「あ」
甲高い叫び声がステイルの思索を遮った。
『Destination Contact』のお出ましらしい。
時刻は午後七時、観光客もまばらな時間帯ではあるが、これほどまでに他人の振りをしたい
衝動に駆られたのも初体験である。
だが災厄というものは、目のみならず全身をいっぱいに使ってそっぽを向いたところで、
あちらから降りかかってくるものと相場が決まっている。
「インデックスウウウウウウゥゥゥ、ごっ、がああああああああっ!!!!!??」
バッチカァァァァァン。
そんな愉快な擬音を幻視できた気がする。
キラリ、一条の流星が盛夏の夜空にまたたいた。
「ろっ、ローラぁぁぁぁあ!!!! す、すすすす、ステイル!?
なんでローラをイノケンティウスで場外ホームランしちゃったの!?」
「………………ふぅ、良い汗掻いた」
ステイルからすれば、降りかかる火の粉を避けずに払っただけのことである。
かつての上司にして前イギリス清教最大主教ローラ=スチュアートを、バチカンの夜空を飾る
流れ星にムーンプリズムパワーメイクアップさせたステイルの表情は至極爽やかなものであったと、
のちにインデックスは語った。
Passage1 ――ローマの休日――
ステイルを縦に三人、余裕を持って並べられそうな高大な天井。
獅子をあしらった緻密なエンブロイダリーがあちこちに散りばめられた豪華なクロス。
美しい直線形の木目と黄金色の光沢を併せ持つ全長5メートルほどのウッドテーブルは
もしやマホガニー製だろうか。
質素さの欠片も見受けられない、ホストの趣味を反映したような毒々しく煌めく空間で――――
「まったく、愛情表現にしてもステイルはやり過ぎだわ!!」
「そうだよステイル! 久しぶりにあった友達にあの態度は酷いんだよ!」
「誰と誰が友達だあああああああ!!!!」
ステイルは今日も絶叫調だった。
聖ピエトロ大聖堂のとある一室、というよりは広間。
当然のように無傷で帰還したローラに案内されて、二人は紅茶をもてなされていた。
無性に破壊したくなるほど見覚えのある銀のティーセットと豪華な茶菓子の数々に、
インデックスがつぶらな瞳をランランと輝かせて十人掛けはできそうなソファに着いている。
「ふむん、そろそろ頃合いなり。さあさ二人とも、ローラ様手ずから淹れたる
レディグレイを召し上がれい!」
「いっただっきまーす!」
「え、ちょ、できれば紅茶を先に」
「申し訳ない、ローラ=スチュアート産の紅茶は口にしない主義でしてね。英国紳士として」
「そ、そう……英国紳士なら仕方なきにつき……」
(アルツハイマーにでも冒されたんだろうかこの女狐)
涙目の淑女に憐憫を微塵も抱けないのは紳士としてはいかがなものかと思うが、
ステイルにはこの女狐に対して、たとえ細切れ一片ほどの情けだろうとかけてやる
理由の持ち合わせがないのであった。
「で? 貴女は一体全体、異宗派の総本山などで何をやっているんです? 最先端の脳治療を
受けるなら学園都市へ向かわれた方がよろしいかと愚考する次第ですが」
「そういうのを慇懃無礼と言いしよステイル」
「なにをいまさら」
ステイルは肩をすくめて、キツネ色にこんがりと仕上がったクッキーを摘まんだ。
鎖型に成形されたこのプルパーテという名の焼菓子は“切れない絆”を象徴しているのだと、
横合いからインデックスが注釈を加えてくれた(うんちくのお披露目とも言う)。
この女が料理をするなどとは思えないので、ローラ手製でないことだけは間違いないだろう。
安心しきって、とまではいかないが、小腹が空いているのも事実なのでとりあえず口に運ぶ。
一口、素材を生かした素朴な味を堪能してから、眼光鋭くローラをねめつけた。
「挙句チャーター機にまで手を回して、僕らをたばかるとは。
こんな回りくどい真似をせずとも、直接呼びつければ良いでしょう」
冷静になってみれば、土御門の仕業でなかったとすればこの女こそが最有力候補だった。
なんだかんだで清教派の利益――ひいては舞夏の身と心の平穏――を最優先に全戦略を
組み立てるあの男をまんまと出し抜いて、飛行計画書をすり替えるなど並大抵の策士の
所業ではない。
「呼んだら来てくれたのかしら?」
「まさか。世界胡散臭い女ランキング第一位の誘いなど金塊を積まれて乗るものか」
「うう…………いんでっくすぅ、すているがイジメるぅ……」
「よしよしー」
その神算鬼謀の策士はと言えば、実の姉妹以上に過剰なスキンシップをインデックスと図っている
真っ最中だった。
頭を撫でられてふんにゃりした顔を豊満な双球に埋めて、ぐりぐり押し付けては息を荒く、っておい。
「ひぃん!? ろ、ろーらぁ…………そ、んっ、なところ、うんっ! いきっ、息吹きかけ、んぁっ」
「むふふ、あなたまたもや育ちけりたのではなくて? けしからん、なんとけしからんおっぱい!」
「んんんんっっ!! く、悔しい! でも感じちゃ」
「セクハラで訴えられたいのかこの痴女がァーーーーッ!!!!
君も実はけっこうノリノリでやってるな最大主教ゥゥーーーーーーーーッッッ!!!!」
「この子、大きさに比して感度が抜群なりしよステイル。今後の参考にするとヨロシ」
「参考ってなんの!? いまエセ中国人っぽくなったぞオイ!! この数カ月どこを
ほっつき歩いてたんだ貴様ぁ!!! じゃなくていい加減に頭を引っこ抜け
さもないと首を切り落とすぞ女狐ええええええ!!!」
(いつものステイルが帰ってきたんだよ…………!)
ローラが煽ってステイルがツッコミ、インデックスが被せる。
ローマ正教の総本山をつんざく乱痴気騒ぎが収まるのには、もうしばらく時間が必要だった。
「はぁぁ、やっぱりステイルで遊ぶと肌がつやつやになりけることよー。
この玉のお肌を維持したるにはステイル健康法が欠かせなし」
(人の生気でも吸い取ってるんじゃないかこの妖怪ババア…………っ!)
「落ち着いた、ステイル?」
「…………ああ、もう大丈夫だよ」
インデックスに背中を擦られながらカエル印の胃薬を飲み下す。
大小様々なことを有耶無耶にされた気がして、ステイルとしては悔しくてならなかったが。
「…………ふふふ」
「なにがおかしいんです」
「しばし見ぬ間にあなたたち、また一段と距離が近くなりしよ。気が付きて?」
「…………僕らは左右も分からぬ子供ではないんです。貴女になにくれとなく
世話を焼かれるいわれは……」
からかわれるのは御免とローラを睨みつけようとして、ステイルは毒気を抜かれた。
きな臭い笑みを引っ込めたその表情が貴い慈愛に満ちている。
見たこともないはずの柔らかな微笑に既視感を覚えて、ステイルは一瞬前後不覚に陥った。
「……っ?」
「ステイル、どうかした?」
肩越しにインデックスに顔を覗き込まれて、ステイルは我に返った。
エメラルド色の瞳の内側に己が映りこんでいるのを確認してから、ローラに目を向ける。
いつも通りの陰謀めいた悪役面がそこに在った。
かぶりを振って、白昼夢――午後八時を回っているが――でも見たのだろうとビジョンを払う。
「…………貴女へ仔細丁寧に語る義理などありません! それよりも、なぜこんなことをしたのか
そろそろ説明をいただきたいのですが」
「どうして定職にもつかずにフラフラしてて、その上後ろ盾もないローラが聖ピエトロの一室を
我が物顔で占拠してるの?」
「この悪趣味な家具の数々も、どうせ貴女の仕業でしょう、成金趣味」
「………………………………あの、私も一応人間であるからして、罵詈雑言に傷付く繊細な心が
このかわゆいお胸の内側にちゃぁんとあるのよ?」
「いいからさっさと吐けよ」
「ハリハリハリアップ!! なんだよ」
フルボッコここに極まれり。
ゴン! と鈍い音。
ローラがテーブルクロスに突っ伏した際の顔ドラム音である。
好感度がマイナス方向に振り切っているステイルはまだしも、良好な関係を築いていると
自負しているらしいインデックスにノリ半分、勢い半分とはいえ言葉の暴力を浴びるのは
こたえたようだ。
「もうローラの事は許してやりけれよ…………」
「絶対に許さない。絶対にだ」
「…………まあ、ステイルがローラ相手にデレるなんてこと、観測問題に決定的な解決解釈が
与えられるぐらいあり得ないんじゃないかな」
「うー! だったら噂の学園都市第一位にその観測問題とやらを解かせるまでよ!!
DOGEZAしてでも!!!」
「やめてください。そんな事をされたらイギリス清教の恥です。っていうか過去から現在に
至るまでの貴女の連綿たる軌跡そのものがイギリス清教の恥です」
「うわああぁぁあああんんんん!!!!! 」
いかにわんわんと哀れっぽく喚かれようが、ステイルに手ごころを加えてやる慈悲心は一切ない。
この機に積年の溜飲を底打ちさせてやろうと身を乗り出す。
流石に見かねたインデックスが神父服の袖を引いた、その時。
二人の背後で、築数百年の重みがこもった軋みと共に扉が開いた。
「あまり後進には慕われていないようだな、ローラ」
ステイルとインデックスはそのしわがれた声を耳に入れた瞬間、われ知らずに立ち上がって
居住まいを正していた。
ふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らしたローラだけが、いつの間にやら面を上げてそっぽを向いている。
「車椅子で失礼させてもらうよ。最大主教、マグヌス神父」
――――現世で聖人と呼ばれるに足る人間が、全世界で一人しかいなかったと仮定しよう。
他愛もない思考実験である。
だがその場合、選ばれるのは聖母の慈悲を受けた二重聖痕の傭兵ではなく、
救われぬ者に救いの手を差し伸べる女教皇でもない。
「こうして実際にお目にかかるのは初めてかな。昇叙の折にはフィアンマを遣わすに
留めてすまなかった。なにせ、この身体なのでな」
目の前の車椅子の老人をして、真に聖人と呼ぶに相応しい。
少なくとも二十億人口のローマ正教徒は末端から現教皇ペテロに至るまで、彼を選ぶはずだ。
「ぜ、前聖下でいらっしゃいますか…………!」
他を圧倒するような存在感を放つでもなく、その四肢は枯れ木のようにか細い。
魔術の腕は超一級品と聞くが、それもこの様子では過去の栄光だろう。
インデックスやロシア成教総大主教、クランス=R=ツァールスキーのように、存在そのものが
神々しさを醸しているわけでもない。
しかし、それでも。
ステイルとインデックスは最大限の敬意を、至極自然なこととして彼に払う。
「おいおい、そう畏まらなくとも。私などなんの取り柄もない楽隠居なのだから」
確かにそうなのかもしれない。
彼は別段、これといったカリスマ性や才能に恵まれたわけではないのだろう。
先天的に与えられた何かで、“彼”と言う男を説明することなどできはしない。
なぜなら彼はただただひたすらにその善良なる人格と尊い行いで、『救済』の何たるかを
体現し続けてきた聖者だからだ。
二十億のローマ正教徒が一信徒にまで降りた彼を敬ってやまないのは、その“行動”と“言葉”の
正しさを、数十年に渡る“実績”が裏打ちしているからだ。
彼の信ずる主ではなく、人々に愛され、愛を返すことで、万人が認める廉潔の象徴となった男。
インデックスが、それが当たり前だと言わんばかりに彼に向かって頭を下げる。
「そういうわけには参りません、マタイ=リース様」
苦笑してその低頭を見送った老人――――ローマ正教前教皇、マタイ=リースとはそういう人物だった。
Passage1――――END
――Passage2――
最大主教と二人きりで話がしたい。
マタイの口から頼まれたステイルは、その馬鹿げた提案を即座に切り捨てることができなかった。
通常であれば論ずるに値しない議題である。
「コーヒーとジャパニーズソイソースをとり違えて飲んだような顔よ、ステイル」
「マタイ=リース様に限って、彼女に危害を加えるような暴挙に出るとは思えない。
そう信じてしまっている自分が嫌でしてね……いや、信じさせられたと言うべきか」
しかし現実にはステイルは、マタイの車椅子を嬉しそうに押して別室に向かった
インデックスを無為に見送ってしまった。
一人の宗教人として、マタイに対する尊敬の念は無論ステイルとて抱いてはいる。
あの齢になるまで一途に主の教えを守り続け、純粋に信徒の幸福を願うその清廉。
はたして己に真似できるかとステイルが自問すれば、答えはノーだ。
ステイルには、それ以上に護りたいものがあるのだから。
「まったく、今日出会うたばかりの二人のハートをたやすく鷲掴みにしてしまうのだから。
……………………まこと、あやつは度し難い男だわ……ふん」
「日頃の行いの差でしょう。この言葉がこんなにも似合う組み合わせは貴女とマタイ様
以外にはあり得ませんね。光栄に思うべきでは?」
「あ、あのような若造とセットメニュー扱いされても嬉しくなんてないわっ!」
「え?」
「……あ」
「…………貴女、まさか」
胡乱な顔つきでおそるおそる舌を外気に晒そうと試みるステイル。
禁忌の果実に触れてしまったような名状しがたいためらいと、怖いもの見たさの好奇心。
「――――そう言えば!」
だからステイルは満面の笑みのローラ――冷や汗が丸見えだったが――が己の疑念を
必死でさえぎった時、心の底から安堵した。
藪をつついて蛇を出すマゾヒズム全開の趣味を、幸運なことにステイルは持ち合わせていなかった。
「なんです?」
歩調をローラに合わせることで、ステイルは進路を日常への帰り道に向かって定める。
この女狐が自分を(主にインデックス関連で)冷やかして、ステイルが顔を赤くして
噛みつくと最後には迂遠な言い回しで煙に巻かれる。
ステイル=マグヌスとローラ=スチュアートの関係とはそうあるべきだ。
「『電話相手』は、見つかったかしら?」
「…………!」
だがローラは、『こちらの世界』に戻ってくる気など毛頭なかった。
金髪青目の女が再び浮かべた、この世のものと思えぬ慈母のごとき微笑み。
ステイルは先ほど見たものが幻覚ではなかったのだという事実と同時に、ローラが
自分たちをこのバチカンに呼んだ意図をようやく悟った。
「…………状況証拠のみですが、僕の中では決定解が組み上がりつつあります。
しかし答え合わせのためだけにこんなまどろっこしい真似をしたわけではないでしょう」
「…………ええ。その通りよ」
迂遠な言い回しを駆使せず、ローラは明快に頷いた。
ロンドンで彼女が好んで使っていた真銀のティーカップの縁が、常なら妖艶なカーブを
描く口唇になめらかに触れる。
琥珀色の液体が空になって器が下ろされるまで、ステイルは腕組みをしてそれを見つめていた。
「私は今日、あなたがこの十年間溜めこんでいたであろうすべての疑問に答えるべく、
この席を設けたのよ」
十年前なら倒錯的な空気を纏って放たれたであろう言の葉は、なおも人間的な温度に満ちていた。
妖しさとはまるで意を異にする、目の前の女に間違っても抱いてはいけない、母の腕に
抱かれたような心地に囚われてしまいそうでステイルはこめかみを押さえた。
「ローマの前教皇聖下を僕から彼女を引き離す為の出汁に使ったわけですか、
無茶苦茶ですね。おおかたこの部屋の内装も、先方に駄々をこねたんでしょう。
まったく、まこと清教派の汚点ですよ貴女は」
聞きたい事ならいくらでもあるのに、そんな悪態をつくので精一杯であった。
「マタイとは旧知の仲であるからして、多少の無茶ならまかり通るのよ。
まあ、あやつがインデックスと話をしたがっていたのもまた、事実であるのだけれど」
「何が、目的だ? またいつもの後ろ暗い企てですか? どういう風の吹きまわしで、こんな」
「ステイル」
微笑は崩れず、現実を受け入れられない子供の駄々のような罵倒は正面から受け止められる。
「これがきっと、最後になるから。我慢してちょうだい?」
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湯気が鼻孔をくすぐる香りを引き連れて部屋全体を仄かに包む。
美琴に習った手順を頭の引き出しから丁寧に一つ一つ拾って、インデックスは飾り気の
ないティーポットと格闘していた。
「マタイ様、その、私の淹れたお茶なんかでいいんですか? お口に合うか……」
「若く美しい女性が真心を尽くしてくれれば、それだけで男は満足するものだ」
「まあ、マタイ様ったらお口が上手でいらっしゃいますね!」
魔術師と魔女がいまにも破裂しそうな風船を間に挟んで向かい合うのとは対照的。
二人の聖者はマタイの私室で、和気あいあいと談笑に耽っていた。
後進に道を譲ったマタイが聖ピエトロ聖堂内に室を構えているのもおかしな話だが、
それも彼の人徳のなせる業と思えばインデックスには納得であった。
「最大主教、ここには君と私しかいない。そのように堅苦しい物言いをせずとも良い」
「い、いえ、そのような畏れ多いことは」
「ははは、畏れ多いとはどういうことかな。私は一介の十字教徒にすぎず、かたや君は
イギリス清教最高指導者。不敬というなら私のほうではないかね、最大主教様?」
「おやめください! マタイ様のご功績は全世界に轟いておいでなのです!
私ごとき若輩者が対等に口を利こうなどと…………おこがましい話です」
頑なに拒みながら、インデックスはマタイにほだされつつある自己を否定しきれなかった。
容姿に似合わず腰の強いこの老人に無数に刻まれた皺の、一つ一つが親愛をこめて
囁いてくるようで、それでいてまったく不快な気分にならない。
「……この歳になると、青春を分かち合った旧友から音信よりも訃報が多く届くようになる。
空疎な心を埋めてほしくて、ついつい若者の時間を奪おうとしてしまうのだ」
そして、その皺の奥の細められた眼にまぎれもない『善』を見て。
「だがこのようなジジイの戯言に付き合うのは、うら若き女性にはさぞ苦痛なのだろうな。
…………すまない、君の望まぬ時間を強要するつもりはなかったのだ。もう戻ってくれても」
「わわわ、わかりまし………………わかったんだよー!! ローラに接するみたいに
フランク全開でいくからそんな悲しそうな顔しないでほしいかも!! それと、
どうせなら私のこともインデックスって呼んでくれると」
インデックスは、あっさり折れてしまった。
「おお、おお! それでは、遠慮なくインデックスと呼ばせてもらうよ。
うむうむ、また一人孫のような友人を得られてますます長生きできそうだ!
そうだインデックス! できれば『おじいちゃん』と呼んではくれまいか」
マタイ=リースという男が聖者の仮面の裏側に隠した、本性を見抜けぬままに。
「は、はい? あの、マタイさま?」
「おじいちゃん」
「いやその、だから」
「ゲホゴホガホッ!!! じ、持病のひざがしらむずむず病がっ……!」
(ひざがしらむずむず病でなんで咳が…………?)
しわがれた顔をもう一段くしゃりと歪ませた老人に、インデックスは思わずぐい、
と上半身をのけぞらせた。
ドSモードアニェーゼも顔負けの豹変ぶりである。
そういえば、ヴェントもこの狸爺にはめられたからこそ現在の境遇(メイド)にあるのだった。
もう少し早くに記憶から引き出しておくべき事実だったが、時すでに遅し。
「おじいちゃん、と呼んでくれれば、ガホッ!!
気道の通りが良くなって咳が、ゲホヘフゥ! とま、止まるかも!!」
チラッ、チラッ。
咳き込んでうつむいた狸が時折、これ見よがしにチラ見しては期待の眼差しを向けてくる。
これが全ローマ教徒からの敬愛を一身に集める、『生ける列福(※)候補者』かと思うと頭が痛い。
(う、うーん…………)
痛い、のだが。
「………………お、おじいちゃん」
結局、インデックスは再び根負けした。
いつの間にやら咳を止めていたマタイが浮かべた、『期待を裏切るには忍びない』と
見る者すべてに思わせるであろう、せつなげな表情に負けた。
生涯に一片の悔いなし、とばかりに老人が莞爾たる相貌でつぶやく。
「……………………ああ、この為に生きてるなぁ」
インデックスやクランスが無意識に人を引き寄せるのは、ひとえに生まれ持った
『助けたいと他人に思わせる才能』の恩恵である。
それら生得的なカリスマとは次元の違う、修練の末に会得したであろう『民衆を導く力』を
思いもよらぬ形で見せつけられたような気がして、インデックスは情けない声を上げた。
「えぇぇぇぇ…………」
仮面を脱いだマタイの素顔に触れられたことを僥倖と取るか、知りたくもなかった聖者の
ちょっとアレな趣味を知ってしまったことを薄倖と受け止めるか。
「インデックス、手間をかけるがもう一度だけ頼む。
英語では何と言うのだったかな……そうそう、プリーズワンスモアー!」
「…………おじいちゃん、なぁに?」
「Please twice more!」
「おじいちゃんおじいちゃん、さっき『もう一度だけ』って言ったはずなんだよ」
どう考えても後者です、本当にありがとうございました。
※徳と聖性が認められ、聖人に次ぐ福者の地位に上げられる事。
通常列福審査は死後でなければ行われない。
「はっはっは、役得、役得。まあ、冗談はこのあたりにしておこうか」
「本当に冗談だったのか、怪しいもんなんだよ…………」
ホクホク顔のマタイに対面する形で、嘆息しながらあらためて座り直すインデックス。
疲れきったゲンナリ顔が、質実剛健を地でいくホワイトオーク製のテーブルを挟んで
少々残念なコントラストを形成した。
二人してインデックスの淹れた紅茶に口を付け、具合のおかしくなった空気の調整を図る。
カップに添えられたレモンを絞って上質なダージリンを嗜むのが、イタリアでは一般的だ。
「インデックス、君のことはよくローラから聞いていたよ。天真爛漫で、清廉潔白な、
実の娘のようにかわいがっている女性がいる、とね」
柑橘系の爽快な香気にインデックスが唾液腺を激しく刺激されていると、マタイがいかにも
好々爺という風情で目を細めた。
慌てて唾を飲み込む。
「私も、マタイ様のお話なら」
「おじいちゃん」
「……おじいちゃんのお話なら、何度もローラから聞かされたんだよ。その…………」
が、その先が続かない。
社交辞令で口から出まかせをして困っているわけではない。
ローラからは何度も何度も、耳にタコができるほど(と、日本では言うらしい)彼の事を聞かされた。
…………だからこそ困っているのだが。
「遠慮なく言ってみたまえ。どうせローラのことだから、私の悪口ばかりだっただろう?」
「そそそそそ、そんなことないんだよ!!」
バレバレだった。
本当にローラときたら『マタイ』と『悪態』をセットで定型文登録しているのかと
疑いたくなるほど、彼については口を開けば罵詈雑言の嵐で、インデックスも
この話題だけは常々避けるようにしている。
やれ『死ねばいいのに』だの『理想を抱いて溺死すればいいのに』だの『超教皇級のお人好し死ね』だの
『死に際に看取ってくれる家族もいないのよアイツプギャーwwm9(^Д^)』だの
『…………ま、まあ、彼奴がどうしてもと頼むなら、わ、わ、私が家族の代わりとして……』だの。
S N T D
(………………あれ? それなんてツンデレ?)
「ふふ、彼女とも長い付き合いだからな。互いの腹の内が透けて見えてしまうのだよ」
「……そういえば、おじいちゃんとローラはどこで知り合ったのかな?
やっぱり二人とも十字教の元最高権威者だし、その関係で?」
言ってから、我ながらこれはないな、とインデックスは心中でかぶりを振った。
マタイがローマ教皇位に就いてから退くまでの間に、ローマ正教が他宗派と積極的な
交流を図ったという公式記録は存在しない。
「そういうわけではないのだが……」
案の定、マタイはきっぱりとそれを否定した。
かと思えば、顎に手を当てて何事か考えこみはじめる。
しばらくののちマタイは、インデックスの瞳を、顔を、姿を、順番に見据えてふっと息を吐いた。
「ふむ………………君になら話してもいいかな。私と彼女の出会いは、
君の生まれるよりさらに昔に遡る」
「むかしむかし?」
「そうそう、その昔、お爺さんとお婆さんがまだ若かりし頃の…………。
おっと、ローラがこんなことを聞いたらへそを曲げてむくれるな、ははは」
「オヘソ曲げられるだけで済んじゃうんだ…………」
『必要悪の教会』のメンバーがやったらもれなく全裸でビッグベン吊るし上げの刑だろう。
肉体的、精神的、社会的に人間一人をこの世から抹殺する奇跡の三重殺である。
などと思考の海で迷子になりかけているインデックスを、咳払いが陸地に押し戻した。
「オッホン…………いまより六十年以上……いや、そろそろ七十年ほどになるのか。
私はローマの神学校を卒業したばかりでね。司祭となって本格的に神の教えを説く
立場となる前に、世界を回って見聞を広げようと思ったのだ。異宗派を認めない
傾向がいまより顕著だった当時のローマ正教では、懐疑的な目で見られたがな」
無理もない話であった。
七十年前といえば、東西冷戦による世界対立構造の黎明期である。
「イギリスの片田舎の小さな農村に立ち寄った日の事だ。巡礼の途中だと告げると
村の人々はあたたかく私を迎えてくれた。払った代金より上等の宿を
宛がわれそうになったので、そこだけは慎んで辞退させてもらったがね」
「マタ……おじいちゃんらしい話かも」
老人の悪戯っぽいウインクには嫌味がまるでなかった。
つられてインデックスもクスリと笑みをこぼす。
二つの微笑が交差したその時、ふいにマタイは遠い目をした。
「就寝前の祈りを終え、床に就こうかという時だった。なんの気なしに窓に目をやって、
私は腰を抜かした。すぐそこに、空から降りてきた“月”が輝いていたのだ」
「え?」
「ふふ、当時の私がそう錯覚したというだけの話だ。実際にそこにたたずんでいるのが
みすぼらしいうすずみ色の布切れをまとう、くすんだ金髪の女性だと私が気が付くまでに
たっぷり一分は要したように思う。しかし私は、その貧相な旅装の女性に目を奪われた。
………………いや、もう時効だろうから正直に言おう」
老人の貌が一瞬、遠い日の青年の昂りを憑依させたかのように生気に溢れ返る。
女は思いがけぬ光景を映した眼球を検めるように、目を二度三度と瞬かせた。
「――――心を、奪われた。手入れをしているようにも見えぬのに、透きとおるような
ブロンドが月明りを反射して、彼女の全身を薄光で包みこんでいた。私の信ずる主だけを
愛すべき私が、この女性にすべてを捧げたいと思えた、生涯でただ一度の経験だった」
老人が、否、“青年”が、恍惚とした表情で溜め息を吐いた。
「気が付けば、不用心に窓を開け放して名を尋ねていた。おかしな話だ。
他に訊くべき事などいくらでもあったはずなのに、私はその女性の名を、
なぜだか何よりもまっさきに知りたくなったのだ」
マタイの語り口調には、現世に滲み出してくるような確固たる記憶の手触りがあった。
六十年前マタイが目の当たりにした光景が網膜に投影されるかのように、
インデックスにも“彼女”の煌めきがはっきりと“見えた”。
「すると彼女は世界から裏切られたような、悲しみに沈みきった瞳で私を見据えて――――」
「『ローラ=ザザ』と、そう名乗ったのだ」
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「最、後?」
ステイルも本心ではわかっていた。
ローラが至誠から、己の積もりに積もった疑念を晴らそうとしてくれていることは、
わかっていた。
まずもって、自分を騙すことに合理的なメリットが存在しない。
三年ほど前――ちょうど四次大戦の終結期――から利権争いに執着を見せなくなった
この女が、いまさらかつての謀の真意を恣意的に歪めて語ったところで、得をするとも
思えなかった。
(ああそうか、僕は…………)
表層的な善悪論にさして魅力など感じはしないが、少なくともステイル=マグヌスにとって
ローラ=スチュアートは冷酷非情の“魔女”でなければならない。
自分を、インデックスを、神裂を、上条当麻を。
列挙しきれないどこかの誰かを弄び続けてきたこの女狐は、絶対的に、不変的に、
“悪”でなければならない。
――――否、そうであってほしかった。
そうであってほしいという懇願にも似た願いに視界を曇らされていた。
ステイルは業腹ではあったがそれを認める事にした。
溜め息を大きくついてから、ゆっくり口を開く。
「僕には知っておくべきなのに、知ろうとするべきだったのに、知らないことが
あまりに多すぎる。最近になって、とみに痛感するようになったんですよ――――
僕はまだ、何も知らないんだ、とね」
「素直が一番よ。ささ、何から聞きたいのかしら?」
いまこの瞬間の心情に従えば、つい先刻の『最後』という言葉の真意を質したいところだ。
しかし、優先順位を違えてはならなかった。
眼前の魔女に問うべきことなら、それこそ山ほどあるのだ。
その中でも、ステイルが他を二の次にしてでも優先すべきは。
「『禁書目録』という、“システム”について」
どこぞの傭兵の言葉を借りるなら、その涙の理由を変えるため。
愛する人を、インデックスという女性を、知り尽くすことであった。
「……“システム”、といまあなたは言ったかしら」
「本当は、最初からわかってたんだ。わかっていた上で、目を逸らし続けてたんだ。
彼女の完全記憶能力を利用して『魔道図書館』を創り上げるなどという野望は、
どこもかしこも穴だらけで、その上不自然と不思議にあふれていた」
怖かったのかもしれない。
彼女の深淵を覗いてしまえば、取り返しのつかないことになるような気がして。
自分と彼女が、根本から別の存在なのだと思い知らされそうな、そんな不安に押し潰されるようで。
だが、得体の知れぬ恐怖に怯える時間はもう終わったのだ。
「例えば、“一〇三〇〇〇”」
懐かしい、明彩色に満ちあふれていた最初の一年。
「僕と神裂があの子と一緒に過ごした二年間において、彼女ははたして何冊の『禁書』を
蔵に収めた? 『原典』はそこかしこに転がっているような代物じゃあない。貴女に
指定された書庫から書庫へと渡り歩くのに、一日できかなかったことなどザラだった」
力を得るべくあらゆる犠牲を払い、しかし最後に『失敗』を繰り返した次の一年。
「その上で見つけた原典はせいぜい、多いときで十冊といったところだ。つまり甘めに
見積もってもあの子は、一年間で千冊程度しか記録できていないはずなんだ。
だったら“一〇三〇〇〇”なんて数字は、いったいどこから出てきた?」
――ステイル。今日からこの子が、あなたの『仕事』よ――
「そうだ。貴女が、そう言ったからだ。僕らが彼女に初めて出会った、十四年前に」
――この子の脳には、十万を越える魔道書の『原典』が収められているの――
「これは推測だが、貴女はもしかすると歴代のパートナー全員にそう告げていたんじゃないのか?
彼女の蔵書は十万冊を越えている、とだけね」
ステイルは、自分と神裂の一代前のパートナーと対峙した日を思い返していた。
そうだ、確かに“あの男”も言っていた。
――“一〇三〇〇〇冊”もの魔道書を一身に背負い、決してその呪縛から逃れることのできぬ少女――
おかしいではないか。
何故“あの男が”、彼が側に居なかった間にインデックスが記憶した『原典』の冊数を
あそこまで正確に把握していた?
ステイルと神裂と少女の二年間の結晶である“一〇三〇〇〇”を、当然のように口にした?
インデックスを救いたい一心で地下に潜った挙句、情報の遅さゆえに無様を晒した
“あの男”がそんな事を知り得るはずがないのだ。
ならば、可能性は一つ。
“あの男”とインデックスが共に過ごした一年間で辿りついた数もまた、
“一〇三〇〇〇”だったのだ。
「なぜ、『魔道図書館』の蔵書量を増やすためだけに生きていたあの子の『原典』が
増えていない?少なくとも僕が初めて彼女に会った瞬間から、一冊たりとも増えて
いないのは明らかだ」
ローラは口を閉ざしていた。
答える気がない――――訳ではないことを、遺憾ながらステイルは悟っていた。
ステイルの疑念にはまだまだ続きがある。
すべてを吐き出し終えるまで、まずは見に徹する腹づもりなのだろう。
「まだある。そもそも『禁書目録』というシステムは、『人間』に搭載する意味が薄い。
いかに完全記憶能力者といえども、その生涯で記録できる『禁書』の数には
どうあがいても限界がある」
「容量の問題ではなく、時間の問題、ということかしらね」
「それに、仮に世界中の『禁書』を彼女の前に並べてかたっぱしから覚えさせたところで
利用可能な年数は彼女の寿命に縛られ、百年を越えることはまずない。…………どう
考えても、労力に対する代価が見合っていない」
目の前の女狐が幾年分の時の流れをその身に刻んだのか、正確なところはわからない。
しかし世界には確かに存在するのだ。
『枠』をはみ出してしまった、ローラ=スチュアートのような怪異が。
そして彼女らのような人種に、常識は通用しない。
ローラの計画はその規格外の生に見合った、百年単位のスパンを見込まれていて然るべきだ。
「だと言うのに貴女は、彼女に作業を続けさせた。彼女が死ねば、全ては無に帰す。
それまでのたかだか数十年の栄光のために『禁書目録』を完成させようとした。
それがどうにも、僕には腑に落ちない」
腑に落ちないということは、なにかしらの前提条件に誤謬があるのだ。
その“なにか”について、ステイルはすでに幾つかの仮説を立てていた。
「答えろ、ローラ=スチュアート。『禁書目録』とは何なんだ?」
そして今日、ついに『答え合わせ』の時が訪れた。
エリザードの別邸で語らったときには踏みとどまった、インデックスとローラの心の内側。
その一線を、とうとう越える日が来たのだ。
「彼女はいったい、“誰”なんだ?」
ステイルの問いが終わったのを受けて、“魔女”は。
「話の出鼻に一つ、訂正しておきましょうか」
ローラ=スチュアートは笑っていた。
楽しげに、嬉しそうに、怒ったように、苦しそうに、悲しげに。
およそ人の手で感情と名を与えられたであろう全てを内包して、凄絶に笑っていた。
「システム名、『禁書目録』。これは二十六年前の四月に、私がうった銘なの。
それ以前はかのシステム――――いえ、“プラン”は、こう呼ばれていたのよ」
「『魔女白書』計画、とね」
Passage2 ――聖女と魔女――
END
――Passage3――
『魔女白書』にの全てを一刻を越える時をかけて聴き終えたステイルは、深く深く
深呼吸してテーブルの陶器に手を伸ばそうとする。
目の前には、魔女――――否、魔女“だった”女。
すべてを知った今、もはやステイルには彼女を魔女だとは断じられなかった。
それにしても、喉がカラカラだ。
「あら? 『ローラ=スチュアート産の紅茶』には口を付けない主義でしょう?」
「…………やはり貴女は、生粋の魔女ですよ」
黒い微笑と共に、数時間前にステイルがふっかけた嫌味が数倍になって返ってくる。
察するにこの女狐、もっとも効果的なタイミングで利用するためにカウンターを
温存していたらしい。
悔しさに唇を噛むと柑橘系の味を脳内にトレースし、唾液腺を活性化させる。
素直に頭を下げて茶に口をつけようとしないのはせめてもの『男の意地』である。
世間一般的に鑑みれば『子供の依怙地』にしか見えないだろうな、という自覚は一応あった。
「はぁぁ………………今までの話は、すべて真実なんですね? 正直、『うっそだよ~ん』
とでも言ってもらえればどれほど気が楽になることか」
「うっそじゃないわ~ん♪ だいたいそれでも、あなたは信じてくれるのでしょう?
………………インデックスが、そうしてくれたようにね」
「……あいっっっっかわらず、狡い女狐だ、貴女は!」
鬱憤晴らしに拳骨を机に思いきり落とす。
インデックスを引きあいに出された際のステイルのくみし易さは、某大型動画共有サイトの
活躍もあっていまや万国共通の社会通念と呼んで差し支えない。
知らぬは本人ばかりなり、である。
「はよう告白してくっついてしまえば良きことと思うのだけど」
「…………いや、その、ムード、というものがあるでしょう? 僕もせっかくだから、
一世一代の挑戦ぐらいシチュエーションを整えて臨みたいんですよ」
「なにを思春期じみたことを言ひているのかしらこの子は」
「やかましい、余計なお世話だ…………じゃないだろうが! 話をそらすんじゃない!!」
「ふふふ……ぷっ、ふふふふふ」
「笑うなあ!!」
「あは、あははははは!!」
怒鳴ろうが蹴ろうが炎剣をぶちかまそうが、ローラの稚児のような朗らかな笑いは止まらなかった。
嬌声に我に返ったステイルは、その異様な反応に対して怪訝そうに顔をゆがめる。
するとローラはとても――――とても嬉しそうに言った。
「だってあなた、あんな話を聞いてもまだ、あの子を愛する気持ちに変わりはないのでしょう?」
「……当然でしょう。彼女がどこの何者であろうと、僕には関係ない」
「その“当然”という言葉の価値を、あなたはしかと理解しているのかしらね」
態度を180度、とまではいかないまでも120度ほど翻して、ローラは表情を引き締めていた。
ステイルは額に手を当てると、わずかののちに力強く啖呵を切る。
「それはほかの誰かの口から出る“当然”との間で計った、相対的な価値でしょう。
僕の彼女への“当然”とは、イコール“絶対”にほかなりません」
ローラが、目をパチパチと見開く。
宇宙人からロンドンの下町英語(コックニー)で話しかけられた宇宙飛行士のような間抜け面だった。
「………………なるほど。もう、あなたも子供ではないのね」
「さっきからくり返しそう言っているでしょう」
三度慈母のように微笑みかけられて、ステイルは途端に足場を失ったような居心地の悪さに襲われた。
上手く言葉を見つけられずに目を伏せていると、ローラがポン、と手を叩いた。
「私からも一つ、あなたに伝えておくことがあるわ、ステイル」
「なんですか」
先刻から度々ローラが向けてくる、裏のない笑みを正視できない。
“裏が見えない”のではなく、“裏が感じられない”、だ。
いまこの状況では無言こそが最も堪え難い拷問であり、嫌々という体を装って応えた
もののステイルはひそかに人心地ついていた。
「『右方のフィアンマ』。私はここ半年ほど、彼の動向を追っていたわ」
だがローラは、ステイルの胸中などお見通しとばかりににんまり顔で爆弾を放り込んできた。
気が付けばステイルは椅子を蹴飛ばすように立ち上がり、女の胸倉を掴んでいた。
含みをたっぷり持たせたその口調から、“どちら”の『フィアンマ』を指しているのかは明白だった。
「知っていたのか? 貴女は知っていたのか、『神の右席』が学園都市を襲撃する事を!
知った上で、僕と最大主教が日本を訪れるのを静観していたのかッ!!」
唾を散らして喚く。
一方で冷静な客観視を続けるもう一人の自分が、お門違いもいいところだと窘めてきた。
学園都市への公式訪問において最終的な判断をくだしたのは、ステイルとインデックスである。
ローラにはなにひとつ責任などない。
「落ち着きなさい」
「………………失礼しました、レディー。まずは最後までお話を伺いましょう」
掌を開いて憎らしいほど平然とする女をゆっくり離し、努めて他人行儀を保つ。
元から掛けていたチェアーに乱暴に腰を下ろした。
「そうそう、それでよろしい。順序立てて話していきましょうか」
正確にはローラは、最初から『右方のフィアンマ』を追跡していたわけではない、らしい。
彼女の追跡対象は『ある期間』に『ある場所』を訪れた、不特定多数。
「もっとも、のちに『右方のフィアンマ』と名乗ることになるその青年には、最初から
“例外”として目星を付けていたのだけれど」
「…………どうしてです」
他に質したい事はあったが、この女の性質上核心に触れるまでははぐらかされるのだろう。
経験則から察したステイルは、一先ずは優秀な聴講生に徹し、合いの手を入れるに留めた。
「“青年”は、本来専属の『案内人』なくしては入りこめない……つまるところ、
先方の認可なくしては侵入不可能な『その場所』にまさかまさかの侵入を果たした、
きわめて例外的な『招かれざる客』だったからよ」
「『案内人』……ですか」
聞き覚えのあるフレーズに、ステイルにもようやくローラの言わんとするところが見えてきた。
「私は青年が『その場所』に侵入した時点を軸に、彼の過去と未来を探りはじめた。
未来方向へと追跡調査した結果、偶然『右方のフィアンマ』に辿りついた、という
だけの話なのよ」
「偶然、ね。どうだか」
つまりローラは、『神の右席』を追ったフィアンマとも、『学園都市襲撃計画』を
探った土御門とも別のルートで、『右方のフィアンマ』に到達したことになる。
“偶然”の真偽はさておくとしても、三つの巨大な因果が『右方』に収束したのは
歴然たる事実であった。
「それで、あなたから見て『右方のフィアンマ』はどのように映ったかしら?」
釈然としない思いに眉をひそめていると、そう問い掛けられた。
ステイルは、傲岸不遜を絵に描いたような若き魔術師の一挙手一投足を思い返す。
「……………一言で表現するなら、『得体の知れない男』でしたよ。奴には不可解な点が
あまりに多すぎた。知識といい、技術といい、出所がまったく不明、ではね」
結局「0715」終結から日本を発つまでのわずかな時間では、詳細の捜査までは行えなかった。
以降の調査は日本に残った土御門らの領分であり、ステイルにできるのはその結果を待つ
ことのみである。
「……では、あなたがもっとも解しかねる最大の疑問点を一つ挙げるなら、
どういう箇所かしら?」
ねっとり絡みつくような視線。
あれはステイルがどう答えるのか、最初から知っている顔だ。
癪ではあったが、同時に微かな期待もこめて予定調和の回答を行う。
「『科学と魔術の融合』」
そうだ。
最終的にこのストーリーの落下点はそこに収束する。
そしてそれは『禁書目録』の真実にも深く結び付く、重要なファクターだった。
「はい、よくできました♪」
「ちっ…………そろそろはっきりさせてくれませんかね。『青年』が『ある期間』に
もぐりこんだ『ある場所』とは、いったいどこなんですか?」
「またまたステイルったらぁ、とっくにわかりているくせにぃ」
「気持ち悪いひっつくんじゃあない鬱陶しいんだよ! もったいぶってないでとっとと
吐いてください、ほら早く!!」
「はいはい、せっかちな子ねぇ」
くねくねと縋りついてきた肉感的な女体をあっさり押し退けた。
女としてのプライドを傷つけられたとでも感じたのだろうか、ローラが仏頂面を覗かせる。
しかしそれも刹那の出来事であった。
「不特定多数とは、『第四次世界大戦の開戦から、遡ること半年までの期間』に」
人差し指を唇に当てるあざとい仕草。
ステイルのよく知る、怪しく妖しいローラ=スチュアートがそこにいた。
「学園都市第七学区、通称『窓のないビル』を訪れ」
『窓のないビル』。
ステイルもかつて一度だけ訪れたその場所。
とくれば、次は。
「当時の学園都市統括理事長――――アレイスター=クロウリーに面会した人物、よ」
――――――――――――――。
Passage3 ――アレイスター=クロウリー――
『ふざけんな、魔術師野郎にあんな高度な化学処理ができるわけあるか』
『確かにな、それは俺も気になってた所だ。魔術師、てめえ…………いったい何者だ?』
垣根帝督や麦野沈利も訝しがっていた、『未元物質』の加工技術。
『こっちサイドの情報は蓮根みたいにきれいサッパリ筒抜けで、与えられたデータは
まるで使いものになんなかったわよ!!』
結標淡希が憤慨した、情報の非対称。
『奴が何故、あれほどまでに豊富な科学知識を持っていたのかについては?』
AIM拡散力場の自動追跡という離れ業をやってのけた、科学に対する深い造詣。
そして――――
『無駄だ、「禁書目録」。貴様らの行為などもはや何事でもない。貴様に科学と魔術を
越えた、この「腕」の解析など不可能だと知れ』
『科学』と『魔術』の融合という、正気の沙汰とも思えぬその着想。
「それらはすべて、他ならぬ科学の総帥…………アレイスター=クロウリーに
与えられたものだった、ということですか?」
「少なくとも形の上では、“盗んだ”あるいは“奪った”というのが正確よ。先ほども
言った通り、彼は『窓のないビル』への『招かれざる客』だったのだから」
ローラの言い草には引っかかりがいくらでもあったが、ステイルの疑問は一人の女性に
ついてだった。
「あのビルの『案内人』は、十年以上前に暗部から足を洗っているはずですが」
『窓のないビル』は完結した空間だ。
ありとあらゆる生活必需品を酸素に至るまで外部からの供給なしで揃えられるため窓もドアも
通気口も設けられておらず、出入りには 『空間移動』系能力者の助力が不可欠である。
十一年前にステイルが統括理事長と面会をはたした際は、結標淡希がその役目を担っていた。
(…………ん? それじゃあ僕と彼女は、あのレストランが初対面じゃあなかったのか……
すっかり忘れていたな)
まあ、向こうも忘れていたようだしおあいこだろう。
あのビルは全体的に薄暗かったし、十一年前にたった一度きりでは長期記憶に結び付かなくとも
無理はない、多分。
閑話休題。
「閑話休題とはいっても、別にこっちも本筋ではないのだけれど…………あなたは
『超能力の物質への付与』という研究の存在は知っているかしら」
「麦野が言っていた…………」
『やはりあの鎧は「未元物質」なのか?』
『超能力の物質への付与ってやつよ。私が昔遭遇したのとは外見も性能もかなり違うけど、な!!』
取るに足らないはずの不死軍団の攻略難度を劇的に引き上げ、ステイルや能力者たちを
散々苦しめた『未元物質』の鎧。
三次大戦時にはすでに雛型が出来あがっていたというあの技術も、いまにして考えれば
召喚魔術との『融合』のもとで運用されていた。
「『座標移動』とは別のテレポーターの能力を模した、全身装着型のスーツを新しい
『案内人』が身に付けていた、という話よ」
「『右方』はそれを奪って、『窓のないビル』への侵入を果たした、というわけですか」
「ほかの方法を取っていたとしたら、驚きね」
ローラがわざとらしく肩をすくめる。
ステイルがここ二週間ほど頭を悩ませていた、『右方のフィアンマ』への“HOWDUNIT”は
これで解決したことになる。
「…………なぜ、です?」
しかし、まだ。
一つほどけばまた一つ、延々と懐疑の連鎖は続く。
次なるクエスチョンは、“WHYDUNIT”。
「“どちら”への、“なぜ”かしら?」
「アレイスターが新たな『案内人』を配置してまで、『ビル』に不特定多数を
招き入れていたというのも気にはなりますが。…………右方のフィアンマは
そこまでして、いったい何を渇望したのでしょう」
動機。
ついぞフィアンマからは聞き出すことの叶わなかった、あの青年の成したかった“夢”。
「そうねぇ……彼の過去について知れば、あるいは理解は可能かもしれないわね」
「…………! 彼の経歴を、全て洗ったのですか!?」
この短期間で?
そう続けようとして、ローラは自分達より遥かに手前から『右方』を追っていたのだと気が付く。
それでも流石であると感嘆したくなる手並みには違いないのだが。
「ローラちゃんの手腕を持ってしても、なかなか骨の折れる仕事だったわー。
ベナン共和国の出身というところまではすぐに突きとめたのだけれど」
「ベナン共和国……アフリカの、少数民族が割拠する小国ですか。現地固有の宗教は
祖霊信仰の典型…………ブードゥー、教」
「青年はどうやら、とある少数部族の長の息子だったらしいのだけど………………
そこから先は、実に難航したわ」
「? 出身部族までわかったのなら、後はたやすい事でしょう」
「そうはいかないのよ」
むしろ、そこまでの過程をローラがどうなぞったのかの方がステイルには気にかかった。
相変わらず魑魅魍魎の主のごとき、面妖なる情報網を持っている。
そのローラをして調査困難と言わしめる『右方』の過去とはいったい――――?
「なにせその部族は――――五年前に、滅んでいるのだから」
息を呑んだ。
陳腐な表現だが、想像を絶していた。
「交流を持っていた他部族がある日、集落の存在した一帯が焦土と化していたのを発見したわ。
生き残りは、のちに国内唯一の空港で目撃情報が出た青年を除けば、一人もいなかった」
「まさ、か?」
『右方のフィアンマ』は、己の故郷を滅ぼしていた、ということなのか。
大きく息を吐いて荒くなった呼吸を整えると、目線で先を促す。
「集落が壊滅する一週間ほど前に、青年の恋人が行方不明になっているわ。そして、
これは噂の域を出ないのだけれど…………かの村落には、黒魔術じみた、本義を
大きく外れた『死霊崇拝』が伝わっていたということよ」
『右方』の過去を垣間見たという、フィアンマの言葉が蘇る。
『「右方のフィアンマ」が最後に振るった「腕」は、お前達全員の
「生」と「死」の境界を破壊せんとするものだった、と俺様は見ている』
『……そ、それが成功してたら、どうなってたのかな?』
『生者が黄泉路を行くか…………“死者が帰ってくる”のか? あるいはさらに想像を
絶する事態となるのか、それだけは全くもって計り知れんな』
――――まさか、“消えた”恋人を?
『世界がどう、などと自分をも誤魔化していたようだが、そんなたいそうな野望ではなかった』
――――もし自分が、彼の立場だったら?
『奴の目的は、夢は。もっと“ちっぽけ”なものだった』
――――もしも自分が、彼女を失ったら?
「なにもかも、私たちの想像の域を出ないことよ、ステイル」
とめどない思考――妄想?――を、鋭い声が寸断した。
今日はまこと、前最大主教猊下の珍しい表情を次々と拝見できる厄日である。
悪戯した子を母が叱りつけるような、しかしどこか焦燥を孕んだローラの表情など、
この先一生お目にかかれないであろう。
「………………わかっています」
しかし一度捕捉してしまった観念は、鉄錆のごとく心にこびり付いて離れてはくれなかった。
自分がこの状況に陥ることが分かっていたから、フィアンマは口を噤んだのかもしれない。
ぼんやりと考えていると、本当にわかったのか、そう糾弾するローラの視線が突き刺さる。
ステイルは思わず、飲んでたまるかと定めていたはずのティーカップを口許まで運んでいた。
慌てて皿上に戻そうとすると冷めたレディグレイが数滴、鴉色の聖衣に跳ねた。
「そして青年は数年後、学園都市でアレイスターの『プラン』を奪って姿を消し……
そこから先を説明する必要は、もうないかしらね」
そんなステイルの見苦しい姿態を笑うでもなく、ローラは強引に論を先に進める。
いつの間にやら急かす側と脱線する側が逆さまになっているな、とステイルは苦笑して、
「待ってください」
突然、一つの信じ難い事実に突き当たった。
「『右方のフィアンマ』は、アレイスターの『プラン』を模して動いていたんですね?」
「ええ。アレイスターの“失踪”後、私の手の者に『ビル』の内部を隅々まで捜索させたわ。
その結果、外部に『計画書』が持ち出された痕跡を発見したのよ」
「では、では…………こういうことですか?」
“アレイスターの『プラン』は、『神の右席』の利用さえも視野に入れたものだった”
「…………厳密に言えば。無数の選択肢の中の一つに、“それ”があったということよ」
だったとしても、ステイルは二の腕に粟が生じるのを抑えきれなかった。
『腕』の脅威がまざまざと脳裏に甦る。
学園都市やステイルらが万全の迎撃態勢を整えたにも関わらず、あざ笑うかのように
凡てを一蹴したあの絶対的な力。
仮にフィアンマが『神の右席』の追跡に手間取って、あの日学園都市に不在だったら?
きわめて高い確率で『右方のフィアンマ』の至上目的は達成され、科学の街は地図から
消滅していたであろう。
それほどの、魔術と科学の究極と呼びたくなるような極地が。
(…………あれが、代替の利く予防線の一つにすぎなかった、だと? いや、あるいは)
あれすらも、アレイスターにとっては価値無き『廃棄案』だったのではないか。
考えたくはないが、その可能性を導く状況証拠の存在をステイルは認めていた。
「ローラ=スチュアート」
「なにか?」
女狐は優雅に紅茶など淹れ直して啜っている最中だった。
罅割れの入りはじめている喉が先ほどから水分を欲してやまないと訴えかけてくるが、無視する。
「貴女はこう言った。
“アレイスターは四次大戦の直前期、『ビル』に不特定多数の人間を招いていた”」
「ええ、確かに言ったわね」
「ちなみに彼ら『不特定多数』は、その後どうなったんです?」
「私の調査した限りでは、全員が一年以内に不可解な死を遂げたわ」
「…………そうですか。話を戻しましょう」
その事実はステイルの推論の正しさを裏付けてくれるものだった。
心は、痛まない。
どこの誰とも知れぬ相手の死に哀悼を感じる人間など、そうそういるはずもない。
人間とは元来そういう生き物であり――――だからこそ、“彼女”は特別なのだ。
「こうも言った。 ・ ・ ・ ・ ・
“『右方のフィアンマ』は、『ビル』に侵入して『プラン』を盗んだ――――形の上では”」
そこからして、真っ先に疑問を抱くべきだった。
アレイスターほどの男が自らの根拠地へと侵入した鼠を、はたして取り逃がすであろうか?
いかに『神の右席』になるほどの資質を備えていたとしても、当時の青年は『第三の腕』も
備えていない一介のはぐれ魔術師である。
『世界最悪の魔術師』アレイスターにとってすれば、討てない相手では決してないはずだ。
と、すれば――――
「……総合すると、二つの仮説が成り立ちます」
アレイスターは、『右方のフィアンマ』が『プラン』を持ち逃げするのを、故意に見逃したのだ。
「アレイスターは迫る第四次世界大戦における自らの敗北を予期して、『プラン』を
受け継がせる相手を捜していた」
“受け継がせる”、という言い方には語弊があるかもしれない。
これまた表現は悪いが、死期を目前にした身辺整理、という可能性も考えられなくはない。
「あるいは」
――――どのみち、それらは全て失敗に終わったわけであるが。
「第四次世界大戦での彼の敗北は、アレイスター=クロウリーの『プラン』の一環だった」
考えたくはない可能性。
しかし同時に、最も現実味を帯びている可能性。
「つまり」
『不特定多数』の不審死も。
『右方のフィアンマ』の学園都市襲撃も。
全てが彼にとっては予定調和の、デウス・エクス・マキナである可能性。
「アレイスターはいまなお生きて、この世界のどこかで『プラン』を継続している」
それ自体は、ステイルにとっては取るに足らない瑣事だ。
ステイルの使命は、誓いは、望みは、夢は。
アレイスター=クロウリーの生死などに“基本的には”左右されない。
「そして」
だが。
仮に。
ローラから聞いた全てが、真実であるのならば。
「『魔女白書』計画を――――彼女を、利用しようとしている」
ステイル=マグヌスにとってアレイスター=クロウリーは、不倶戴天の大敵となる。
コチ、コチ、と大きな柱時計が時を刻む音だけが暫時、静寂に読点を打っていた。
「…………全ては仮定の上に積み上がった推測であり」
ページ数にすれば見開き程度にはなるであろう白紙をめくり終えたのち。
「そして同時に、否定しきれない可能性よ」
ローラが厳粛に言葉を記しはじめた。
「しかし私は、どんな些細な可能性であろうと叩き潰す」
サファイアブルーの双眸に青白い炎が灯っているのを、ステイルは確かに見た。
信じ難い光景だったが、もはや幻覚とは思うまい。
愛情と、恩讐と、希望と、絶望とを、ない交ぜにして注がれた火。
ローラの眼差しは言外に、手出しは無用だと告げていた。
「それは僕とて同じことだ! 彼女に害なす存在など、可能性から焼き尽して」
「あなたはインデックスの側に居てあげなさい。あなたはあの子を知った。
それならば、自分がなすべきこともわかるでしょう?」
一度は語気を強めるも、漠然とだがそう諭される予感はしていた。
この数時間でステイルは、思いの外ローラ=スチュアートという女を理解してしまっていた。
「わかりました…………“最後”に、あと一つだけ」
インデックスは、自分が護る。
天地が開闢の時代の混沌を再現しようと、この命を懸けて護りとおす。
それは、ローラから何を聞かされようと聞かされまいと、確認するまでもないことであった。
確認しなければならないことは、他にある。
「『これで最後』とは、どういう意味ですか」
いつでも胡散臭く、回りくどく、己を惑わすこの女狐の語る“最後”。
想像がつかなかった。
「あら、そんなことだったの。あなたは賢い子なのだから、少し考えればこのくらい
いと易くわかるでしょう?」
いや、違う。
想像できないのではない。
「いいから…………言ってください」
想像、したくなかったのだ。
「ステイル」
まただ。
またあの顔で笑った。
ローラ=スチュアートという魔女には甚だ不釣り合いの、母の様な、娘の様な、姉の様な。
――――■を慮り、そして慕う■のような、痛々しいまでに朗らかな笑顔。
その顔のまま、ローラは数秒後の未来に、きっとこう唄うのだ。
それが、たまらなく悔しいことに、ステイルには理解できてしまっていた。
想像、できてしまった。
「私は、もうすぐ死ぬわ」
Passage3――――END
――Passage4――
死ぬ。
「私は、もうすぐ死ぬわ」
死ぬ。
誰が?
「あなたとインデックスに見えるのは、今日が最後。だからこそ、私の知る限りをあなたに
伝えておきたかったの」
死ぬ。
彼女を、自分を、果てのない懊悩の輪廻に叩きこんだ、根本の大本を産みだした魔女。
ローラ=スチュアートが、死ぬ。
疑いようもなく、慶ぶべき報せである。
だが、ステイルは。
「ふざけるな!! 貴様は、いつかこの僕の手で――――」
「無理よ、あなたには。だってあなたは、あなた自身が思っている以上に優しい子なのだから」
「黙れッ!!!」
納得できなかった。
こんな、こんな形で、この女に、永久に手の届かないところへと逃げられるのか。
「今までありがとう、ステイル。あの子をよろしくね」
Passage4 ――もう一人の失敗者――
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「…………ル、ステイル? 聞いているのですか?」
凛とした声に何度となく名前を連呼されて、ステイルは肩を震わせた。
見れば、すっきりした目鼻立ちの大和撫子――――旧姓、神裂火織がそこにいた。
「あなた、五分はそうやって呆けていましたよ? …………私の知らぬところで、
また何事かあったのですか」
時は七月二十七日正午過ぎ、ここはロンドンのとあるオープンカフェ。
(予定外の寄り道はあったものの)日本での大仕事を無事終えて帰国してから
そろそろ一週間が経とうというこの日、ステイルは眼前の姉のような戦友に呼び出されていた。
その最中に、バチカンでの衝撃的な告白を回想してトリップしてしまったらしい。
「……そのあたりは、おいおい話すよ。とりあえずは君の用件から聞かせてもらいたいね」
ステイルにとってはもはや仕事や義務ですらない、生命維持活動に等しい重みを持つ
最大主教の周辺警護は、ロンドンに戻って以来休暇を貰っている。
年に一度あるかないかのステイルのホリデイには、代理としてこの聖人がインデックスの
護衛に就くのが暗黙の了解となっているのだが――――
「だいたい君、身体の方は大丈夫なのかい? いくら安定期に入ったとは言ってもだな……」
火織には現在、どうしても愛刀を振るうことのできない理由がある。
それは一見しただけの通行人にだろうと、その特徴的な装いから明々白々だった。
下腹部の布地に大きな余裕を持たせた、浅葱色のワンピース。
「あなたが心配することなど何もありませんよ、ステイル。なにせ、私とあの人との
――――――赤ん坊、なのですから」
――――いわゆる一つの、マタニティドレスだった。
常の毅然たる佇まいとはまた違う、包容力あふれる『母』の破顔にステイルは目を瞠った。
そう、『母』。
ステイルとインデックスにとって姉のような存在であり続けたこの女性の腹部には現在、
受胎から五か月になる新たな命が宿っている。
「君が母親だなんて…………今でも実感が湧かないね。加えて父親が騎士団長殿とくれば、
来たる近未来の超人誕生に鳥肌を禁じえないよ」
「む……確かにこの子には武士道と騎士道を二人で叩きこむ心づもりではありますが。
というか、前半部分はどういう意味ですか」
「君の挙式のときにも言ったと思うがね。ヘタをすれば上条当麻以上に色恋にうとかった
壊滅的朴念仁がとうとうここまで漕ぎつけたのかと思うと……ふふ」
「わ、私より年下で恋愛経験もつたないくせにぃ! その幼子の成長を感慨深く見守る
足長おじさんのような眼差しはやめてくれませんか!!」
「どちらかといえばこれは、失笑をこらえている顔なんだが…………くっ、くく」
「なお悪いですよ!!!」
ステイルは膝を打って呵々大笑した。
自分やインデックスの上に幾年の月日が降りそそいでも、かの聖人は変わらず実直で
素直で、そしてからかいがい抜群である。
彼女の夫も案外、このあたりの可愛らしさと、常の凛たる居住まいとのギャップに
やられたのではなかろうか。
騎士団長と久方ぶりに酒でも酌み交わそうか、とステイルが予定表を脳内でめくっていると、
「まったく、もう……………………それにしても、あなたたち」
「ん?」
火織が、少々複雑そうに、しかし喜ばしげに口角を緩めた。
「あなたたちは、『上条当麻』を自力で乗り越えてしまったのですね」
いかにも神裂火織らしい、直球ど真ん中の物言いだった。
「――――――乗り越えるもなにも、僕はあんな奴、歯牙にも掛けていなかったよ」
鼻で笑って彼方を向いた。
半分は強がりであるし、半分は事実である。
ステイルの懊悩に『上条当麻』は直接関与してはいなかった。
反面、インデックスの苦悩の核心にはたゆまずあの男がいたことを、ステイルは当然
承知していた。
「ふふ……どうあれあなたたち二人は、この六年抱え続けた煩悶を、己が力のみで
踏破してしまった」
「………………それは、違うさ」
それは、間違っている。
あの人々の力強い営み絶えぬ街で、ステイルとインデックスは多くの希望と絶望に触れた。
重荷を引きずるだけの力を、あるいは想いを凝視するだけの覚悟を貰った。
決して、自分たちだけでどうこうできる問題ではなかった。
「そうですか……………どうあれ、寂しいですね。そして、途方もなく悔しい」
「なに?」
「私はこの六年間、あなたたちのすぐ傍にいたというのに、なんの力にもなれなかった」
「その点に関しては多分に、君が致命的な石部金吉であるという事実が影響していると思うが」
なにせほんの一年前まで、ステイルとインデックスの間に横たわる、えも言われぬ
アンビバレンスの存在を完全にスルーしていた女である。
「茶化さないでください、ステイル」
「これは失礼」
男女の複雑怪奇な心の機敏を捉えてさえいなかったのに助力などできるはずもないだろう、
とステイルは思ったが口には出さなかった。
これも処世術である。
「コホン…………それを、ただの二ヶ月滞在しただけの学園都市で解消されたと聞けば、
直截に言って私の心中はおだやかではありませんでした」
「…………君はそう言うが。しかし、それでも……」
それでも、ステイルとインデックスが越えてきた幾千の昼夜をもっとも長く傍で
見守ってきたのは、やはり彼女なのである。
どこまでいこうと所詮は秀才止まりの魔術師であるステイルや、基本的に戦闘要員に
数えるべきではないインデックスが火織の隔絶した戦闘能力に救われたことは、
両手両足の指をすべて使っても到底追いつくものではなかった。
しかし、ステイルとインデックスが互いを男と女であると意識してからはどうなのか。
少なくともステイルには己がうちの懊悩を解決するべく、能動的に彼女を頼った過去は
一度たりともない。
「だから、悔しくて、寂しい、か」
「ステイル。“あの子たち”を死なせたのはあなた一人の罪過ではないのです。
私もまた、インデックスを助けられず、あげくに彼女を傷つけた罪人です。
それを身勝手にもあなた一人に抱えこまれては、“私が”堪ったものではありません」
清澄な声音の裏側に見え隠れする、苛烈で鋭い鞘音。
烈火のごとき怒りをすんでのところで留めている火織に、ステイルは腰を浮かしかけた。
彼女はまたもや心の澱を暗い灯影に隠そうとしていたステイルに、そしてなにより
愛する弟分、妹分から頼りにされなかった己の不甲斐なさに、癇を立てていた。
「神裂、それは違う。君に非などない。僕が――――僕たちが、弱かっただけなんだよ」
神裂火織はステイルやインデックスよりもはるかに早く、失われた二年間を克服していた。
それがイコール、彼女の薄情さに即するのかといえば答えは否だ。
インデックスがロンドンに居を移してから、すでに六年である。
その間に神裂はインデックスと新たな絆を充分に時間をかけて育み、過去の罪と向き合った。
一日二日ではなく、六年あったのだ。
それだけの月日を無意味に、苦悶の殻に閉じこもって過ごした二人こそが異常なのである。
「それでも、私は二人の助けになりたかった…………いえ。今からでもいい、なってあげたい」
「………………“今から”? なにを言っているんだい、君は」
「ステイル…………ッ!」
人でごった返す真昼のロンドンに、ギリ、と歯ぎしりする音だけが不穏に響いた。
雑踏を行く市民は二人の魔術師が醸成する対峙の緊張を気にも留めない。
ステイルも火織も互いの姿だけをじっと見据えて、次の言葉を絞る時機を計りあっていた。
先に形を歪めたのは、紅を差すでもないのに名刀の光沢を放っている、女の口唇の方だった。
「あなたはこの二カ月で、覚悟を定めた良い目つきになりましたね」
「…………それはどうも」
おざなりに目礼だけして、男は対照的に口を閉ざした。
だがしかし、ステイルは迷ってもいた。
彼女に、自分がローラから聞き出したすべてを晒してしまうべきだろうか、と。
「では、今あなたの奥で燻る炎とは、果たして“何”に対しての覚悟ですか?
“何か”との、近い未来の避けられない闘いを予見しているのではないですか?
――――――――私の存在を、視界に入れようとしないままに」
そのようなことは断じてない。
ステイル=マグヌスは神裂火織を心の底から信頼している。
彼女が自分を、というよりもインデックスを裏切ることなど、あり得ないと信じきっている。
「ステイル。私では、あなたたちの力にはなれませんか?」
このどこまでも心優しい女性なら、命を賭してでも、自分たちのために至大なる『聖人』の
力を振るってくれると、そう信じている。
だからこそ、それは叶わぬ願いなのだ。
「あなたたちが『神の右席』と交戦するとの報せを受けて、私がどれほどにもどかしかったか
わかりますか? すべての柵を取り払ってすぐにでも、日本に飛んでいきたかった。
誰も彼もがこぞって止めるので、断腸の思いで断念しましたが」
「…………当然の、ことだろうが!! 君の身体はいま、比喩でもなんでもなく君一人の
ものではないんだぞッ!!!」
イギリス清教の核弾頭、神裂火織が最大主教護衛の任を外れた最大の理由。
あの土御門元春が、聖人の絶大な戦術的価値を議論の端にさえも上らせようとしなかった訳。
決まりきっているではないか。
彼女が、妊娠から三ヶ月を経た尊き母体であったからだ。
「無理に、決まってるだろう……! もし君と胎児の身に万が一があったら僕は、
君の夫にも、天草式の連中にも申し訳が立たない…………っ!」
数カ月前、火織の妊娠が発覚した日が思い出される。
聖ジョージ大聖堂で執務中だったインデックスと自分のもとに、夫に付き添われた
彼女が飛びこんできたあの日。
聖人であるがゆえの業に苦しみ、一度は故郷を捨てた彼女が、第二の祖国でつかんだ幸せ。
日本人街の桜の木の下で、火織が求婚を受け入れた際にはやっかみ半分だった天草式の
男衆が、今度こそ純度100%の歓喜に満ち満ちた酒宴を張り。
父親になる男の親友が、王室オールスターという豪華絢爛きわまりないゲストを引き連れて現れ。
そして、新たに人の親となる夫婦が感涙にむせび泣いてやまなかった、あの日。
「あの光景を、そして君たち家族の明日を邪魔する因子の存在など!
………………認めるわけには、いかないんだよ」
周囲の視線を多少なりとも集めてしまっていると悟って、最後は声をひそめる。
代わりに、譲るつもりはないという意思を、鋭く砥ぎ上げた眼光に込めた。
なおも議論が白熱するようなら『人払い』を施すべきだろうか、とステイルが逡巡していると。
「…………やっぱりあなたは優しい子ですね、ステイル」
「……………………は、はぁ!?」
うってかわって白い歯をこぼした火織が、素っ頓狂なことをのたまった。
彼女は知る由もないであろうが、奇しくもその主張は一週間前のローラと重なっている。
顔を赤らめたステイルは奇声をあげてのけぞり、ドン! とテーブルに手をついて立ち上がった。
「藪から棒になにを言い出すんだ、君は!?」
「脈絡ならありあまるほどにあるではないですか。あなたはやや、必要以上に悪ぶる
ところはありますが、根は純心な正義漢であるというのが『必要悪の教会』の面々の
一致した見解ですよ。ほら、なんと言いましたか。テオドシアがいつか語っていた、
バードウェイの妹御を救った際の武勇伝などいい例じゃないですか」
「勝手に人のキャラを『雨に打たれる子猫を見すごせない不良』テイストに味付け
するなあああああああああ!!!!!!」
昼下がりのオープンカフェを包む空気の、穏やかな色相が絶叫に震えて揺らぐ。
そう的外れな見解ではないのだが、ステイル的にそれを認めるのは死ぬほど我慢がならない。
何事かと大衆が我先に首を伸ばすが、喧騒の中心にいるのが頭を抱えてのたうちまわる
黒衣赤毛の神父と知るや、肩をすくめてこう口を揃えた。
「「「「「「何だ、またヘタレ神父か」」」」」」
「やかましい燃やされたいのかおんどれらぁぁーーーーーーーっっ!!!!」
この程度の漫才と殺気を失笑で流せないならロンドン市民はやっていけない。
とばかりにステイルの怒気にも平然とした面で、思い思いの日常に戻っていく野次馬ども。
なおも幾人かが携帯を片手にシャッター音をパシャパシャさせているのを一瞥して、
ステイルはためらわずに『人払い』を行使した。
げっそりと頬のこけた、心なしか一時間前より痩せて見える風貌で火織に向きなおる。
「き……君は当然知らないだろうから、教えてやるよ。僕はかつて上条当麻に対して、
こう宣言したことがある。『彼女を守るためならなんでもやる、誰でも殺す』とね。
………………君とて例外ではないんだぞ、神裂」
なるべく凶悪に見えそうなアングルを心がけて、犬歯を(そんな物はないが)剥き出しにする。
だがいかに凄んだところで今の火織には火に油、飛んで火に入る夏の虫も同然であった。
「ええ、知っていますとも。あなたは口だけの男ではありません。私が彼女にとって
害悪になりうると判断すれば、あなたは間違いなく私の敵に回るでしょう。
ことこの点に関しては、インデックスよりも私の方が心得ているという自負がありますよ」
「だったらそのニコニコ顔を今すぐやめろ! っていうか撫でるなぁーーーっっ!!!」
いましがた危険な殺人鬼にもなり得ると認めた男の頭に向かって、身を乗り出して手を伸ばす聖人。
ステイルは飛びのいて、神経を疑う目つきで彼女をねめつける。
が、いまやその相貌は頭に乗せる灼髪に負けず劣らずの紅蓮色に塗りつぶされていた。
全身から火を噴きそうな様子で口を開閉しても、火織の微笑をより色濃くさせるのが関の山だった。
ステイルの呼吸が落ち着くのも待たず、女は畳みかける。
こういった間合いに対する駆け引きの上手さは、さすがに熟練の剣士らしかった。
「あなたとて、私のことは良くご存じでしょう? 私はもう決してあの子を悲しませは
しません。つまりあなたと私は、未来永劫仲の良い姉貴分、弟分ということです」
ここまで話術に習熟していたとは、ステイルはまるで存じ上げていなかったが。
ポンと手を合わせて浮かべた、絶妙に作り笑いっぽさあふれる表情が、再び清教派の誇る
キングオブ女狐に重なる。
土御門か建宮あたりの薫陶を受けたのかもしれない。
(クソッ、あの愉快犯どもめ! よくもロンドンでの数少ない心のオアシスを
涸らしてくれたなぁっ……!)
激しく貧乏ゆすりしながら、元凶の現在の座標を確かめる術はないかとローブの内をまさぐる。
そういう思考が現実逃避でしかないと気が付いたのは、カードを求めてさまよっていた指先が
真鍮製の懐中時計のひんやりとした感触を脳に伝えた時だった。
「と……とにかくだ!」
口調とは裏腹に、やおら腰を下ろす。
言行の些細な不一致は、己の心を映し出す鏡なのかもしれない。
第三者の位置から自身を客観視して、ステイルはそう結論した。
「僕は君を、最低でも向こう一年は戦場に赴かせるわけにはいかない。これは決定事項だ」
口では神裂火織が相手であろうと死合ってみせる、と豪語することは可能だ。
万一そのような事態に陥ったとして、実践する覚悟もとうの昔に決めている。
しかし、しかしそれでも――――
「…………後生だ。理解してくれないかい、神裂」
それでもステイルは、神裂火織とは闘いたくなかった。
年端もいかぬ未熟な少年魔術師と、神に愛され人を愛した聖人。
邂逅を果たしてからもう何年になるのか。
いったい幾つの戦場を共に駆け抜けたのか。
ステイルが“少女”を救えず、絶望に心折れたあの日。
すぐ隣で同様に現実から目を逸らし、同じ罪を負った心弱き女は誰だったのか。
「………………ならば、せめて。一つだけお願いがあります」
すべて、目の前の心優しい女性ではないか。
「お願いです、ステイル。どうか、真実を隠さないで打ち明けてほしい」
“彼女”さえ護れるのならば、他の、世界の全てを焼き尽してもいい。
ほんの十日前までは、掛け値なしにそう腹を固めていた。
「あなたたちの手を煩わせるような真似は、決してしません」
だがステイルは、愛を知った。
少年の抱いた盲目の“恋”に別れを告げ、青年は真実からの“愛”の何たるかを知った。
いざとなれば、“彼女”のために“世界”をも天秤にかけてみせよう。
だがステイルは、そんな二者択一とは限界線の縁に至るまで向き合いたくはない、
そう考えている己を知った。
誠実と切迫を体現したかのような表情で、姿勢で、火織が次第次第に語気を強めていく。
「だから、もしもあなたが、私のことをいまだ戦友と呼んでくれるのならば」
「――――――――――僕は、隠さない」
ステイルは、被せるようにその口上を断ち切った。
女がはじけるような笑みをこぼす前に、
「君に明かせない秘密があるのだという事実を、隠さない。それが、ステイル=マグヌス
から戦友神裂火織への、精一杯の誠意だ」
返す刀で、さらに一閃。
「身勝手なことを言っているのはわかっている。それでも僕は、君と、君の子に
“もしも”が起こったら。…………その可能性を、考慮しないわけにはいかない」
ステイルは、心中密かに自嘲した。
かつて至上の誓いを立てた唯一の少女さえも護れなかった男が、その腕をさらに遠くへ
伸ばそうなどとは。
しかし、しかしそれでも。
ステイルは神裂火織とその家族に、消えない痕など背負ってほしくはなかった。
「すまない、神裂。どうかすべてが決着を見るまで、僕を…………僕たちを信じて
待っていてほしい」
彼女を信じているからこそ、打ち明けることはできなかった。
もしもここでわずかな取っ掛かりの一つでも火織に与えてしまえば、その魔法名が表す
信念のままに、彼女は走り出すであろう。
ステイルはそれを痛いほどに心得ていた。
『手は煩わせない』などという、彼女らしからぬまどろっこしい言い回しが良い証拠である。
故にステイルは、『秘密』があるのだという事実だけは隠さない、そういう道を
選ぶことでしか火織の誠実には応えられないと、思惟の果てに結論付けたのであった。
「そして叶うならば、どんな形であれ、闘いを終えた僕らを、一番に出迎えてくれないか」
頭を深く深く下げる。
「僕と、彼女の――――――――姉代わり、として」
そして、彼女の答えを待った。
「…………同じ事を繰り返すようですが」
駄目か。
自分では、彼女の信念を曲げられないのか。
そう、ステイルが忸怩たる苦みに歪んだ面を上げようとした時。
「やっぱり、さびしいですねぇ」
頭髪に櫛を通されるような耽美な触覚が走った。
女の、刀を常日頃から振るっているにもかかわらず白く細い指先が、頭を滑るように
撫でる感触だった。
ゴルゴンに睨まれたかのように一瞬だけ硬直して、ステイルは弾かれたように頭を跳ね上げる。
名残惜しそうに、虚空に掲げられた右手を眺める長髪の佳人がそこにいた。
「もう、十五年近くになるのですか。私が初めて出会ったころは生意気盛りだった
背の低い少年が……図体ばかり大きくなって、私同様に心は強くならなかった少年が。
…………一人前に、私の身を案じてくれる日が来るなんて」
火織の右手がゆっくりと膝上で左手と重なるのを、ステイルは呆然と見送った。
「寂しくて、寂しくて、寂しくて…………そして何より嬉しくて、泣いてしまいそうですよ」
だから、その瞳が微かに潤いを帯びていると気が付くのがわずかばかり遅れた。
とっくに泣いているじゃないか、という言葉を飲み込むだけの思慮分別は、辛うじて残っていた。
目玉を飛び出さんばかりに丸めたステイルに誇らしげな視線を投げかけて、火織は涙を拭った。
「承知しました。お言葉に、甘えましょう」
ついに引き出した言質に、ステイルは半信半疑の態を隠さず反問した。
「……ほ、本当か?」
「あなたが切りだしてきたことだと言うのに、なにを怪訝な顔をしているのですか。
……その代わり。事後報告でかまいませんから、いつかすべてを話してくださいね」
「あ、ああ! それは神かけて言ってもいい、約束する!」
火織の言う通り、散々闘うなと迫っておきながら奇妙な態度だという自覚はある。
悪しざまに言えば、頑迷固陋。
そうとも取れるこの聖人を説得できたのだという現実に、脳の認識が追いついてこない。
「あなたは、もっと自分に自信を持ってもいいと思いますよ。インデックスが上条当麻
よりもあなたに惹かれたという事実が、いまとなってはまったく不思議ではない。
そう万人が納得する程度には、あなたは“いい男”に成長しました」
「………………そう、なんだろうか?」
こちらの内心を読んだかのような、全面的に自らの生き様を肯定する台詞を吐かれて、
ステイルは頬に血潮が集まるのを抑えられなかった。
なんとなくだが背筋に怖気を感じて、眼球をせわしなくキョロキョロさせる。
対する火織は、二呼吸ほど間を置いてからしれっと返した。
「申し訳ありません、若干誇張しました。“万人”は言いすぎでしたね。
それでも私個人の意見としては決して虚言などではなく」
「持ち上げてから落とすな!! どこでそんな高等テクニックを習得した!?」
「つち」
「ゴメンぶっちゃけ聞く前からわかってたよ土御門のクソ野郎おお!!!」
翻弄されっぱなしだ、すこぶる悔しい。
反撃の糸口が転がっていないかと女の怜悧な美貌を睨みつけていると、突然その美貌が
ステイルに寄せられて、悪戯っぽくほころび――――
「今だから、そして『人払い』が効いているから言ってしまいますが。
…………私はあなたの事を、一人の男性として見ていた時期もあったのですよ?」
トンデモナイ囁きで、男の鼓膜と心臓と肩とを、同時に大きく震わせた。
「んあっ!!? なっ、な、なななななな何を!!??」
「あ、言うまでもなく現在の私は夫一筋ですので。貞淑な女であるとの自侍にゆらぎは
ありませんよ」
「そんなことは聞いてないわぁーーーっっ!!!!」
だったらなにが聞きたかったのか、ステイル自身にも杳として知れなかったが。
と言うよりは、聞くのが非常に恐ろしい。
こんな得体の知れない恐怖相手なら、世界が滅ぶその瞬間まででも部屋の隅で主に祈りを
捧げながらガタガタ震えていた方がマシというものであった。
「照れない照れない。しかし月詠小萌女史しかり、シスター・アンジェレネしかり、
パトリシア=バードウェイしかり、国内に多数存在する私設ふあん倶楽部しかり。
………………あなたという人は意外や意外、なかなか隅に置けませんね」
触れてほしくなかった問題に言及されて、ステイルは舌打ちを返事に選ぶ。
だれだれに想いを寄せられている現実は十分承知しているが、その誠意に応える気など
ステイルにはまるでないのだから、彼女らに対面すると気まずさが先に立つのである。
「どうなんです、実際? あなたに想いを寄せる女性はそれなりの数にのぼるはずですが、
そのあたりはどう処理するつもりですか?」
「処理という言い方はやめてくれ。彼女らに失礼だ」
「その容姿に似合わぬフェミニストぶりも、現況を成している一因だと思うのですが」
「色々と余計なお世話だッ! …………だいたい君に心配されずとも、僕は僕で
やるべきことはやっている」
「と、言いますと?」
嫌に食いついてくる、嫌な予感しかしない。
しかし隠し通せることでもなければ隠す意味も薄かった。
「数日前、パトリシアとシスター・アンジェレネには、明確に僕の意思を伝えた。
日本を発つ直前には、小萌と二人きりになる機会もつくった」
ひっぱたかれるのも覚悟の上の行動であったが、結果はステイルの想像を大きく裏切った。
小萌は終始笑顔で、ステイルの頭を強引に下げさせると火織のようにナデナデしてきた。
恥ずかしかった。
アンジェレネの場合は号泣させたあげく何度も何度もお幸せに、と逆に激励されてしまった。
ちなみに、物陰で出歯亀していたアニェーゼ部隊に袋叩きにされたのは想定の範囲内である。
パトリシアからは涙声で祝福されたが、実姉にかつて『恐るべき泣き虫』と形容された女性は
決して泣き顔をステイルに見せることなく走り去っていった。
…………目下、姉による報復が最大の懸念事項だが、いまのところそういった兆候はない。
「ふむ。それはそれはさぞかし面白、もとい大変だったでしょうね。あなたがめずらしく
有給など取ったかと思えば、そのような事情があったのですか」
「労組の連中め、ためこんだ有給をさっさと消化しろと脅、もといせっついてくるものでね」
「日本人でもあるまいし、消化率100%を目指しましょうよ……」
ステイルの有給消化率は一月前を基準に算出すると0.5%。
三年前、上条当麻と殴り合い宇宙するために日本へすっ飛んだのが最初で最後の
ホリデイウィズペイであった。
ステイルが遠い日の青春群像劇に思いを馳せているかたわらで、火織がおもむろに首をかしげる。
「しかし…………それでもなお、まだ一つ謎は残っていますね……」
「君はいったいなにを言っているんだ」
話題の順序に脈絡も系統性もあったものではない。
オーバーアクション気味に肩をすくめて失笑するとあらかじめ頼んでおいたコーヒーの
存在をいまさらながらに思い出して、すっかり冷めたそれを一口、二口と啜る。
「とぼけなくても良いではないですか。帰国した翌日でしたか、あなたが
オックスフォード通りのメイド喫茶から出てきた件についてですよ」
「ぐぶふおぉぉぉぉっっ!!! がっ、な、えぇ、がほごほおおっ!!」
哀れ、一杯八ポンド(約九六〇円)のぼったくりコーヒーは汚いアーチを描く噴水に化けた。
ステイルのただいまの財布事情からするとあまりに痛すぎる散財である。
液体を入れてはいけない器官に流し込んでしまった男はしばし激しく咳きこんでから、
おそるおそる女に向きなおった。
「ま、ま、まさか、よもやとは思うが、この事を最大主教に喋ってはいないだろうね……?」
「え、まずかったですか?」
「なんでそこだけ素でキョトンとしてるんだ君はッ!! パトリシアたちに関しては事前に
それとなく告げておいたからいいが、その、そのようなソレだけは途轍もなくマズイんだよ!
空気を読んでくれぇ!!」
「いえ、まあ、世間話の一環としてポロとこぼれてしまいまして。
『ステイルはいつの間にか、インデックスの人称を“貴女”から“君”に改めていますね』
みたいなやりとりからあなたの話題にシフトするうちについ。そういえばあのとき、
心なしかインデックスの表情がカチコチに固まっていたような」
「…………きっと、周囲の空気も同時に固着したんだろうね」
「ななな、なぜわかるのですか!?」
わからいでか。
二人の人称問題は土御門やローラですら触れようとしなかった、デリケートきわまりない禁忌である。
「神裂、君はアレだな、ピンポイントで地雷を踏む能力でも持っているんじゃないか?
紛争地域の不発弾処理に重宝しそうなシックスセンスだね」
「あなたさっき私の身体を心配してくれましたよね!?」
「出産を無事終えたら中東あたりへの派遣を僕の方で検討しておくから頑張ってくれ」
「決定事項!? あなたもしかして本気で怒ってません!?」
「半分は僕の自業自得だ、堪忍袋の尾は半分しか切ってないよ」
「半分マジ切れじゃないですか! あ、ちょっと! 人と話している最中に携帯を
いじくるなど」
「………………もしもし、最大主教? いや、大したことじゃあないんだが。神裂がね、
ちょっと。ああそうなんだ。彼女少しおかしなことを言ってたかもしれないが、
その辺のしっちゃかめっちゃかな戯言は妊婦特有の『虚言をたれ流すストレス発散法』
なんだよ。うん、うん…………ああ。それじゃあ今晩、例の場所で」
「…………あの、私の人間としての尊厳がしっちゃかめっちゃかにされた気がして
ならないのですが」
「100%純正で君の自業自得だ」
「うぅ」
本質通りの天然ボケをかました聖人にひとしきり罵声を投げかけてから、ステイルは
カフェテーブルにぶちまけた闇色の液体を律儀に拭いはじめる。
すると火織が再び首をひねって、こう問いかけてきた。
「今晩、インデックスと逢引でもするのですか?」
「………………そうだな。これぐらいなら言ってもいいか」
返事になっているようなそうでないような、曖昧な独り言を呟いてから手を止める。
まっすぐ見つめた女の表情が凛と引き締まっていたのは、向かいあう己のそれもまた、
強張るほどに粛然としていたからだろうか。
「今夜、日付が変わるころ、つまり明日の零時…………彼女に僕の想いを、すべて告げる」
目を瞑って、まるでそれ自体が愛の告白であるかのように重々しく言い切る。
そっと瞼を開くと、『聖母の慈悲』など持たぬはずの聖人が慈悲深く微笑んでいた。
「肩の力を抜きなさい、ステイル。無責任な言葉を吐くのは好きではありませんが…………
きっと、何もかもうまくいきますよ。あなたは、あなたたちは、これまでずっとがんばって、
悩んで、苦しみ続けたのですから。その分しっかり報われなければ、嘘というものです」
「…………さすが、神に向かって啖呵を切った聖人サマは言うことが違うね」
カウンセラーの常套句のような文言も神の『とりこぼし』を余さず救うと公言して
はばからないこの聖人にかかれば、聖書の一節にすら等しく輝く。
「ありがとう、神裂。明日は一番に、吉報を携えて君のもとへ行くよ」
笑って、泣いて、悩んで、苦しんで。
最後に『失敗』したあの二年を、共に過ごしたのが彼女で良かった。
ステイルは心の底から、そのささやかな偶然に感謝して微笑を返す。
「その際は、必ず二人で、ですよ? お姉さんとの約束です」
ぴんと人差し指を立てて秋波を送ってくる火織。
似合ってないぞという言葉を飲み込むだけの分別も、いまだけは投げ捨ててもいいだろう。
「似合ってないぞ。歳を考えろよ、にじゅうはっさい」
「インデックスには間違っても言ってはいけませんよ、その手の冷やかし」
「君じゃああるまいし、誰がやるか」
「はいはい。そう言えば、インデックスは今日はなにを?」
「明日の式典の準備に追われて…………とはいっても、今日の彼女に大した仕事は
割り振られていないが。やはり僕が側に付いていないと、仕事がはかどらないからね」
「ノロケつつ自惚れるとか、器用なことですね」
先刻とは一転して、和やかな軽口の応酬。
インデックスとすごす愛しい一時ともまた違う、気心の知れる戦友とのかけがえない時間。
「しかし……そうですか、“明日”ですか。今の今になって何ですが、
こんな偶然があるものなんですね」
「ん、どうかしたかい?」
そんな中で、何の気なしに火織が放った瑣末な一言が。
「四次大戦の終戦記念日が、“あの”七月二十八日と重なるだなんて」
俄かに、急激に、ステイルの肺腑を冷やした。
人は、自分より不幸な誰かがどこかにはるはずだと思いこむことで心の均衡を保つ。
ステイル=マグヌスが己の人生を顧みた時、そこには夥しい数の焼死体が並ぶ。
欲深い者、残虐な者、卑劣な者、死にたがる者、生きたがっていた者、家族を待たせていた者。
一切の区別など差し挟まず、焼いて焼いて焼いて焼いて焼いて焼いて焼いて焼き尽してきた。
屍が織りなす道をさかのぼっていくと最後に待ち受けているもの。
即ち、ステイルが最初に殺した者。
“少女”。
大量の死体の山を築いてでも護りたかった少女の『死』がその道程のはじまりに在るとは、
乾き笑いさえ沸いてこない特級の皮肉である。
それでも、ステイルは己を取り巻く悲劇の渦に酔ったことはなかった。
ステイルが燃やした屍の中には、ステイルよりよほど無残な末路を辿った不幸者もいたであろう。
相変わらず口にするのも忌々しい名だが、『上条当麻』とてその一人だ。
出会って間もない少女のために苦しんで傷付いて、そして死んでいった少年。
見慣れた煉獄の中の彼らに較べればステイルはいま、果報にもほどがある幸せ者であった。
では、真に不幸な者とはいったい誰なのだろう。
あいつよりはマシだ、こいつに較べれば何てことはない。
そんな連鎖を辿った先にいる正真正銘の、世界一の悲運を背負った者とは、どこの誰なのだろう。
やはり上条当麻だろうか。
しかしあの男は、普段から『不幸だ』『不幸だ』と連呼する割には人生を悲観していない。
ステイルもここ一年で叫ぶ機会に恵まれた――見舞われた、と言うべきか――から分かるが、
人間本当に辛い時はなかなか言葉が出てこないものである。
加えてあの男は、己が身に降りかかる不幸を誇りに思っている節すらある。
真性の被虐嗜好なのかもしれない。
一方通行、打ち止め、御坂美琴、『妹達』、垣根帝督、浜面仕上、麦野沈利。
エツァリ、ショチトル、トチトリ、シェリー、ヴィリアン、アニェーゼ、サーシャ、神裂火織。
苛烈な境遇に身を置いた者の名が次々に浮かんでは消えるが、誰もが最後は一様に笑顔だった。
彼らは『生』きているからこそ幸福を掴めたのだろうか。
ならば真の不幸とは、『死』にほかならないのか。
だが、死人はなにも感じない。
泣かないし、笑わないし、怒らないし、悲しまないし、喜ばない。
十字教に属する身としては異端審問ものの思想だが、ステイルが思うに、死者はそれ以上
不幸になどなりようがない。
そこまで考えて、思い至った。
なぜだか、本当にどういう訳か忘却の彼方にあった女性の顔に、連なる鎖のように
引っ張られてきた“あの男”の顔。
ステイルは一つの結論を出す。
真の不幸者とは。
世界一報われぬ者とは。
『生』きながらにして『死』者になってしまった人間である。
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七月二十七日、午後九時。
手近なレストランで夕食を済ませたステイルは、ロンドンで住居とするフラットに
帰宅すると外套も脱がずに安普請のベッドに寝転がった。
目線をなんとなしに、部屋のあちこちにせわしなく走らせる。
最低限の生活必需品だけ揃えられた質素なワンルームの内観はなにも、イギリス国民の
血税を糧にしているから、などという殊勝さに結びつくわけではない。
単純に『眠る』用途だけを満たせればそれで十分だったからだ。
ステイルはこの一年、朝日が昇る前には起きて日付が変わった時分に帰る、単調な
生活サイクルをほとんど乱していない。
それでも日々がまるで色褪せない理由は明々白々、論ずるに値しなかった。
彼女が、側に居てくれるから。
しかしこうして一週間をインデックスから、任務から遠のいて過ごしてみると、
不便に感じたことなどないねぐらが何やらみっともなく思えてきて仕方がない。
ベッドに対面するように木製のクローゼット(中身はほぼすべて普段着の黒い神父服)、
その隣に特大の姿見が掛けられベッド脇には大型のネストテーブル、上にはメモ帳と万年筆。
それと、それから――――
それで、まるっきり全部である。
魔術師のアトリエ的体面を保つべく壁紙や家具のあちこちにルーンが散りばめられて、
涙ぐましい自己主張をしてはいる。
しかし、そういった“異常”を四捨五入するという条件式を加えてしまえばあら不思議、
ほかに描写するべき点などみじんも見当たらなかった。
当然、インデックスはおろか土御門や神裂ですら招いたことはない。
インデックスが住まいとする最大主教官邸とは比較するもおこがましい。
あれでも一応あっちは、前任者が残した装飾過多のインテリアをかたっぱしから売り払って
華美に過ぎる内装の改善を図ったのだが。
(最大主教は、いまごろ『ランベスの宮』だろうか)
この忙しい時期に護衛を離れたのは申し訳なかったとは思う。
だがステイルも、一世一代の大勝負に向けて一心精進するだけの暇が欲しかったのだ。
――――昨日までは。
いま現在ステイルの脳裏を占めているのは、
『インデックスはどんな答えを返してくれるのだろうか』だの、
『そもそも待ち合わせ場所に来てくれるのだろうか』だの、
『ランベスを一人で出奔させるのは、あまりに考えなしだったのではないか』だの、
そんな女女しく弱弱しい思考ではなかった。
……いや、確かに今日の午前中までは延々と胃をキリキリ言わせて思い悩んでいたのだが。
だがそれらを全て、ほんの九時間前に火織がもらした一言が吹き飛ばした。
(明日……か)
明日。
四次大戦の主要参戦国が、毎年持ち回りで行うと定められた慰霊祭の日。
今年は英国女王リメエアの主宰で、最大主教が鎮魂の儀を執ることが決定済みである。
ちなみに日本からの国賓は皇室のみで、学園都市勢は今回訪英していない。
終戦記念日。
すなわちアレイスター=クロウリーが、上条当麻に敗れ消失した日。
それが偶然――――
『四次大戦の終戦記念日が、“あの”七月二十八日と重なるだなんて』
ステイル=マグヌスと神裂火織にとって、途方もなく特別な意味を持つ一日。
七月二十八日に“偶然”重なった。
(偶然。偶然だと?)
そんな偶然などあるはずがない。
ローラから『禁書目録』の真実を知らされた今となっては、そうとしか思えない。
(…………なぜ、いままで気が付かなかったんだ)
四次大戦の終結したまさに三年前、その偶然の存在を見落としたわけではない。
しかし当時のステイルが有していた情報量では、その一致を偶然の産物と見なすほかに
解釈のしようがなかった。
ふと思いついて時計を見る。
果てのない思索に耽るうちに、あっという間に三十分が経過していた。
少し早いが、ここで悩んでいるより『指定場所』へ向かおうかとステイルが考えたとき、
「…………ん? 土御門…………?」
味気ないベル音が、曲者からの着信を告げた。
「なんだい」
『今どこにいる?』
土御門は開口一番、常日頃の煩わしい前口上も挟まずそう問うてきた。
「ロンドンの自宅だ、いきなりどうした? 君はもうこっちに帰っているのか」
『俺はまだ日本だ。だが、“ある男”がロンドン入りしたとの情報を入手したんでな』
「…………なんで現地にいる僕より情報が早いんだ、君は」
『まあそれは土御門さんの人徳のなせる……悪い、いまはふざけてる場合ではなかった』
切実な態度に、ステイルも即座に頭を切り替える。
同時にロンドン中に張り巡らせた渾身の防衛探知網に魔力を流し、一瞬で起動を終えた。
「よほどの危険人物と見えるね。今のところ『守護神』には何も引っかかっていないが」
『危険、か。ある意味ではそうなのかもしれん』
「対象の特徴と現在地は?」
プロの魔術師として淡々と要点だけを抜き出そうとするステイル。
対する舌鋒鋭き稀代の説客、土御門元春の歯切れは奇妙に悪かった。
「どうした土御門、さっさと情報を寄こせ。手早く“済ませて”しまいたいんだよ、僕は」
苛立ちを舌の裏にひそませて、努めてそっけなく促す。
できれば『天罰』からの遠隔爆撃で片付けてしまいたいが、そのような驕りが時に死にすら
直結するとステイルは嫌になるほど知悉している。
焦燥からの拙速がインデックスの涙の呼び水となるようでは、それこそ本末転倒だ。
理性は言う。
(彼女に、断りの連絡を入れるべきかもしれないな)
しかし、本能と人が呼ぶであろう脳のどこか一部分が、その選択に激しい警鐘を鳴らし
続けている。
正体のまるで知れぬ途轍もない恐怖感を、根拠もなくステイルは抱いていた。
すると突如として土御門が沈黙を破る。
『いいか、落ち着いて聞けよステイル』
声を出していなければ顔も見せていない。
だと言うのにこちらの不可解な懸念を見通したかのように、土御門元春はそう言った。
ついつい語勢が不自然に強くなる。
「僕は、至って、冷静で――――」
『いま、「 」がロンドンにいる』
「―――――――――――――」
次の瞬間、ステイルはドアを蹴破るようにして夜の倫敦へと駆け出していた。
「…………ハァ、ハァッ……………!」
走る、奔る、疾る。
『霧』の名を戴く魔都は、その実めったにお目にかかれない濃霧に濡れそぼっていた。
『奴の、この十一年間の足取りはいまだ掴めてはいない。確かなのは、つい先ほど
ロンドンに出没した、というその事実だけだ』
薄気味悪い水気が鬱陶しく全身にまとわりついてくる。
しかしそれらを気にも留めずステイルは、人気もまばらなロンドンを一直線に駆け抜ける。
『すべてを“思い出した”のか? それとも断片的に? はたまた全くの偶然なのか。
それもわからない』
到底信じられない名を、『この世のどこにもいない』はずの男の名を、土御門は告げた。
言葉を失う、などという生易しいものではなかった。
『だが、ハッキリと言葉では言い表せないんだが、異常なまでに嫌な予感がする。
こんな事を言えばお前は嗤うかもしれんが…………強いて言えば、スパイとしての
“勘”ってヤツがな、どうしようもなく囁いてくるんだ』
嗤うものか。
たとえ全力疾走していなかったところで、この胸を打つ早鐘は緩みはしないだろう。
『…………本来ならば、お前に報せるべきではなかったのかもな』
一理ある。
ステイルでは“あの男”に対して、良かれ悪かれ私情が入る可能性は十分にあった。
イギリス清教には他にも手練はいるのだから、とてもではないが合理的判断とは言い難い。
しかしステイルは土御門の“情”に感謝していた。
“あの男”が生きていたのならば、どんな形であれ決着をつけるのは自分でなければならない。
理由などなくとも、使命感にも似た情動にステイルは突き動かされていた。
「はっ、はぁ、彼女に、は…………言っ、て、いない、だろうな……」
『さすがに、こればかりはな。教えたところで、何がどうなるというものでもない』
「そこだけは、っはぁ、懸命な判断で、たす、かる、よ」
『俺にも、これから事態がどう推移するかさっぱり読めん。だからこれだけは言っておくぞ。
――――――いいか、絶対に、死ぬなよ」
「!」
『お前はもう、インデックスと生きることを迷わないんだろう? だったらわかるな』
「…………ああ」
『良い返事だ。なにかあったら必ず連絡しろ』
“仲間”の声に短く、しかし力強く応えて通話を切る。
心臓が胸を突き破らんばかりに、激しく脈打っていた。
指定された通りに到着すると、ステイルは魔力探知を始め――――
「ロンドンの神父、か。…………いや、いまは私こそが異邦人なのだな」
――――ようとして、すぐに止めた。
落ち着いて辺りを見渡せばそこは、閑散とした住宅街だった。
休日の昼間なら家族連れで賑わうであろう自然公園も、この時間帯では見る影もない。
コインの表と裏。
そんなイメージがとっさに浮かんだ。
「こうも素早く察知されるとは。イギリス清教の魔術師も、存外馬鹿にできんものだ」
声の主はメインストリートの中央に所在なさげに佇んで、夜空を仰いでいた。
霧に覆い隠されてしまった月を必死でさがそうと暗中模索している。
ステイルにはそう見えた。
挑発的な内容とは裏腹に『男』の声はただただ哀しげで、感情を持たぬ人形が台本を
読むように一本調子だった。
「生きて、いたんだな」
問い掛ける声が掠れた。
四肢には粘りのある湿気が絡みついているというのに、喉は乾ききっていた。
いま
「“必然”。彼女の現在を見届けぬ限り、私は死んでも死にきれん……おそらく、な」
「…………それが、君の目的なのか」
そうしてステイルは、『生』きながら『死』んだ男の名を、確かめるように呼んだ。
「アウレオルス=イザード」
ステイル=マグヌスは少々不幸な人生を歩んできた。
上条当麻もやや不運の多い道を辿ってきた。
客観から見ればそう評価が下るであろう。
ならばステイルの眼前に立つ、この男はどうなのだろう。
彼自身の主観からすれば、おそらくではあるが、不幸ではなかったのではないだろうか。
他人の主観を『だろう』で語るなど失笑ものだが、ステイルにはそう的外れな推測とも思えない。
なぜならこの男は、筆舌に尽くし難い“最悪”の記憶を綺麗に喪失してしまったのだから。
ゆえにこの男は、考え得る最悪の不幸には触れないままにこの十年を送ってきたのだろう。
不幸を知らず。
苦しみを忘れ。
しかし――――――救われなかった男。
客観的に見て、世界でも有数の、とびきりの不幸に見舞われた『生ける死者』。
ステイルの認識下におけるアウレオルス=イザードとは、そういう男だった。
Passage4 ――もう一人の失敗者―― END
――Passage5――
虚空に視線を彷徨わせる男を、ステイルはじっくりと観察する。
一瞥して目に留まるのは服装だった。
ダークグレーのかっちりした高級スーツを見事に着こなす様からは男の品の良さが、
そしてこの十一年をどのように過ごしてきたかが窺える。
少なくとも金銭的、経済的な『不幸』からは縁遠い。
しかし視線を徐々に持ち上げていくにつれ、そんな『幸福』が彼にとっていかに
無味乾燥としたものだったのか、自然とステイルは悟った。
闇よりなお濃く、その表情に落ちる影。
諦観者に特有の絶望が染み込んだ、昏い瞳。
この世の底に繋がっていると錯誤させるほどに、深く深く窪んだ眼窩。
「………………なるほど」
つぶやきは、自身に宛てたものだった。
“十一年前の面影を残す”その風貌を視界に入れてようやく、ステイルは強烈な
視野狭窄に陥っていた自己を自覚した。
「二、三、質問がある。答えてもらおうか」
土御門はロンドンへの来訪者をアウレオルスであると断定してステイルに連絡を入れて
きたが、その事実からしてそもそも矛盾している。
なぜなら十一年前にステイルが敗北した錬金術師を野に放ったとき、彼は在りし日の
面影を完全に失い、別人の顔を手に入れていたからだ。
そして変わり果てた『アウレオルス=イザード』を本人と同定できるのは、この世で
ただ一人その『顔』を目撃したステイルだけであるはずなのだ。
しかし。
「“その顔”は、一体どうしたことだ?」
彼は、彼を知る者ならば誰もが一目見てそうだと断言できるほどに『アウレオルス』だった。
上条当麻や姫神秋沙なら、確実に遠目でも判別が付くであろう。
ならば、ステイルが最後に見た『別人の顔』はどこに消えたのか。
なかばまで真相を看取しながらも、ステイルは鋭く詰問した。
「……ルーンの魔術師よ。私の身に何が起きたのか、知っているのなら教えてはくれないか」
だが、返ってきたのは見当違いの懇願だった。
「呆然。私自身、なぜこの場所に立っているのか、明瞭には説明ができないでいる」
「そんな義理、僕にはない。僕がすべきは」
そう言いかけてステイルは口を噤んだ。
ならばいったい、自分はこの男をどうすべきなのか?
その問いに明確な回答を為せない自分に気が付いたからだった。
「…………私を、殺すか?」
「っ!」
そうだ、殺すべきだ。
アウレオルス=イザードはローマ正教に追われる大罪人である。
今後の外交関係を考慮すれば百害あって一利なし、最低でもその身柄はバチカンに
引き渡されて然るべきである。
「毅然、それが運命ならば受け入れよう…………ただ、その前に一目」
ステイルがカードを構える姿に声を荒げるでもなく、アウレオルスは抜け殻そのものだった。
指先から炎の柱が生まれる。
腕を一振りすれば、無抵抗の錬金術師はあっけなく骸と化すだろう。
そしてステイルは何事もなかったかのように日常に戻り、“彼女”に愛を告げ――――
「私はただ、あの子の幸せそうな姿を、一目見られればそれで良い」
ステイルは束の間、呼吸すら忘れて立ち尽くした。
全力疾走に困憊した細胞の、酸素を求める悲鳴さえどこか遠い。
――――――ああいったい、この男はどこまで――――――
かつての敵対者の前であることも忘れて、ステイルは瞑目する。
そして、亀のような動作でのろのろとルーンを仕舞いこんだ。
よりにもよって、この日。
“明日”を目前にしてしまった今日という日にこの男を殺すことなど。
ステイルには、到底無理だった。
Passage5 ――Anniversary――
「……言ったはずだよ、質問がある、とね。その前に勝手に死なれては僕が困る」
「………………そうか」
殺すならば、十一年前にやっておくべきだったのだ。
しかしあの日ステイルは、『寝覚めが悪いから』などという愚にもつかない言い訳を
こねてこの男を見逃した。
可笑しな話だ。
炎の魔術師が造り上げてきた何百何千という屍がいまさら一つ余分に積み上がった
ところで、罪悪感が云々などとはちゃんちゃら可笑しい。
ましてやアウレオルス=イザードを生かす選択に現実的なメリットなど何一つない。
だったらなぜ、ステイルはこの惨めな男を生かしてしまったのだろう。
この男を見逃してしまったいつかの夜以来、時折自問しては振り払ってきた疑問。
それが十一年後の今にして、ようやくわかった気がした。
「会わせることは、できない。一目、遠くから。許可できるのはそこまでだ。
気が済んだらどこへなりと消えろ」
きっと、ステイルはまぶしかったのだ。
ステイル=マグヌスとアウレオルス=イザードは等しく『失敗者』で。
しかしアウレオルスは同じ『失敗者』でも、諦めなかった『失敗者』で。
ステイルはそこに、天涯のさらに上と、海溝の底の底ほどの差を感じて、悔しくなった。
彼女がすでに『成功者』に救われていたとも知らずに、無関係の学生や姫神秋沙を
巻きこんでまでインデックスを助けようとした。
十一年前、ステイルはそんな彼の無様を存分に嘲笑ってやった。
だが心のどこかが、うらやましい、と耳元で囁きかけてきた。
ステイルがへし折れ、絶望のうちに諦めた『成功』をなりふりかまわず追い求める男の姿。
アウレオルスが晒した醜態と絶望は、そのままインデックスへの愛の裏返しだった。
自分もああするべきだったのではないか。
益体もない思考のループに嵌まる前に攻撃的な挑発を繰り返した。
己のインデックスに対する想いが、眼前の錬金術師に劣っていると見せつけられたようで
堪えられなくなったから。
決して認めたくはないが、ステイルは、きっとそんなアウレオルスに対して。
――――同情すら飛び越えて、憧れを抱いてしまったのだ。
「…………果然。それでも構わない」
だから、なのであろうか。
ステイルは現在のアウレオルスがぶら下げる、人間味のない微笑が腹立たしくてたまらなかった。
なんだ、その覇気の無い面は。
貴様は諦めなかった男じゃあないのか。
彼女を愛しているんじゃあないのか。
それではまるで一昔前の、物分かりの良い“ふり”をしていたステイル=マグヌスではないか。
時刻を確かめると十時をすでに回っていた。
間違っても、インデックスとの逢瀬までに時間的猶予があるなどとは嘯けない。
一刻も早くこの野暮用を片付けるなり後回しにするなりしなければ、彼女を待ちぼうけ
させてしまう。
しかしステイルは腹を固めていた。
「僕の推理でよければ、話そう」
「……感謝する」
わからせてやる。
彼がインデックスに全身全霊をつぎこんだ過去は、無価値などではなかった。
たったいまこの街にアウレオルスが在るという現在は、無意味などではない。
アリバイ
錬金術師の現世不在証明を、完膚無きまでに崩してやる。
ステイルは現実的なメリットなどなに一つない選択肢を、不退転の決意とともに指差した。
まずは真実の追究だ。
アウレオルス=イザードの『十一年間の真実』を解き明かし、理解しないことには
この男の負った絶望の爪痕を、『塞ぐ』も『抉る』もできたものではない。
「『三沢塾』を覚えているか?」
「必然。私にとっては二つ目の、逃れ得ぬ悪夢の牢獄だ」
「先月、彼女と二人でそこを訪れたよ」
「……彼女とは、インデックスのことか?」
臆病者の自分がいまだに紡げていない『インデックス』をあっさりと口にされて、
ステイルは思い切り苦虫を噛みつぶした。
質問にはっきりとは答えぬまま先を急ぐ。
「十一年前、君はいつの間にやら『三沢塾』内に彼女の身柄を確保していたが……?」
「靄然、あれは確か………………彼女の方から、あのビルにやってきたのだ。
おそらくは神父、貴様のルーンに込められた魔力残照をたどったのだろう。
玄関ホールで三年ぶりに、と言っても私から見ればだが、とにもかくにも再会した」
「つまり彼女は、あのビルの外観を目撃していることになるね」
「至極、自然の成り行きだな」
ステイルは嘆息する。
おおかた上条当麻の身でも案じたのであろう。
だがその結果『悪い魔術師』に拐かされているのでは、角を矯めて牛を殺すどころか
牛に殺される牛飼いのごとき愚昧ではないか。
そういうところが自信過剰だというのだ。
無用の憤慨に没入しそうになってステイルは額を叩く。
本題を眺望するための高台は、当然まったく別の角度にあった。
「しかし、彼女は覚えていなかった。周りの景色を少し見渡せば違ったのかもしれないがね」
「…………なに?」
「学園都市第一七学区、『三沢塾』の存在していたビル。その跡地には現在まったく別の
建築物がそびえているのさ。知らなかったのかい?」
極東の島国特有の梅雨が雨傘をしとしとと打つ、鬱然とした音色が思い起こされる。
『けっこう“新しく”て綺麗なビルなんだよ! ねえステイル?』
青髪キツネ目の変態に道端で出くわして、案内された先。
『……ああいや、確かに新しいビルだね。“最近建て直した”のかい?』
あの時の会話は、一言一句に至るまで精密に回想できる。
『なかなか勘がええなぁ。実はここ、“十年ぐらい前から”怪談スポットとして有名な
廃ビルだったんや』
それほどに深く、印象に焼き付いていた。
「泣く子も黙るおもちゃシェアナンバーワン、って知ってるかい? 錬金術師のかつての
アジトはいま現在、金ではなく夢を創る生業で賑わっているんだよ」
あの日、『Delight Measure』営業主任、青髪ピアスは言った。
――――もちろん目の前のコレは二年ぐらい前に建て直した新品――――
『三沢塾』が二年以上前に取り壊されていた。
それを聞いたステイルは、一つの可能性が現実となったのではないかと睨み、
密かに情報を集めはじめた。
なぜなら、思い出したからだ。
ローマ正教の裏切り者を排除するために送りこまれた十三騎士団の一部隊が、
高位魔術『グレゴリオの聖歌隊』の直撃をあのビルに浴びせたことを。
アルス=マグナ
そしてそれが『黄金錬成』によってあっけなく『元に戻され』た、あの衝撃的な光景を。
「俄然、わからんな。それがいったい、私の身に起きた事象にどう繋がるのだ」
「上条当麻の『右手』。もちろん忘れていないだろうな」
「断然、できることなら忘れたいがな。しかしあの少年によってインデックスが救われた
という事実もまた、無視するわけにはいかん」
「きっぱり無視して逆上丸出しで襲いかかってきただろうが…………まあいい、昔の話だ。
重要なのは『幻想殺し』が『黄金錬成』を無効化したという、その点さ」
いくら『黄金錬成』が術者の思いのままに世界を歪める前代未聞の大魔術だとは言っても、
魔術であるという現実からは逃れられない。
『無効化』は有効であったし、術者の精神状態次第でなにかの拍子に解呪され得るのだ。
十一年前ステイルは、アウレオルスが上条に敗れて記憶と魔術を失った時点で効力は
失われたのだとばかり思いこんでいた。
しかし、それならば。
「上条当麻の『右』が炸裂した時点で、あのビルは崩壊を始めていなければおかしいんだ。
なにせほんの一刻前に、『グレゴリオの聖歌隊』で真っ二つにされたばかりだったんだからね」
ステイルは一つの仮説を立てた。
“アウレオルスが意識を飛ばしたあの時点では、『黄金錬成』は解除されていなかった”
導ける結論は、やはりただ一つきりである。
“『黄金錬成』の効果は『三沢塾』という目に見える形で、学園都市に残存し続けていた”
少々常識の通用しない結論ではあるが、『黄金錬成』は『禁書目録』でさえ解析の
叶わなかった空前絶後。
『右方のフィアンマ』による『融合』を直視した現在のステイルからすれば、あり得ない
ことなどでは決してあり得なかった。
そして、結論の上に事実を積み重ねる。
“二年以上前に『三沢塾』は取り壊された”
壊された、と青髪はそう言った。
しかしステイルは別の可能性に思い当たり、数年前の情報にサーチをかけた。
はたして、『結論』を補強する根拠は意外なほどあっさりと見つかる。
『元進学塾の廃ビル、丑三つ時に謎の倒壊!! 受験戦争に散った敗残兵の怨念!?』
三年前に刊行された、くだらない三流のゴシップ記事。
だが、それで十分であった。
モノクロ写真に描き出されていた『かつてビルだった物』は、ステイルの十一年前の
記憶そのままの崩落を、時を越えて遂げていた。
事実と結合した結論は、とうとう真実の姿を映し出す。
「…………廃ビルだったのが、不幸中の幸いだったね。人死にが出たという記録は無かったよ」
即ち、『黄金錬成』の八年越しの解呪。
かつて錬金術師の思いのままに歪められた『現実』は、引き絞られた弓矢が戻るように、
猛烈な反動をともなって『現在』を穿ち貫いていた。
かくして真実に到達したステイルは、その原因を――――
「――――術者の正真正銘の『死』に求めた、というわけさ。僕は君がどこかでついぞ
のたれ死んだから『黄金錬成』が解けたのだと、そう推理した」
軽く息をつく。
「しかし君は五体満足でこのロンドンの地を踏んでいる。正直な話、幽霊を見たとでも
思いこみたくなったよ」
アウレオルス=イザードは生きて、此処にいて、呼吸をして、心臓を拍動させている。
ご丁寧に、生来の顔かたちと記憶までしっかりと取り戻して。
つまるところ、『黄金錬成』の解除は彼の死がトリガーではなかったのだ。
では、一体?
ステイルは感情を押し殺した低い声で話題を転換する。
「アウレオルス。君はなぜ、今日。よりにもよって今日という日にロンドンに現れた?」
「“今日”…………? 憮然、なんの話をしているのだ」
「惚けるな。今日は……いや、あと二時間もしないうちに訪れる“明日”は」
一旦そこで区切った。
正体不明の恐怖と根拠のない自信が、同時に沸き上がる。
「七月二十八日、だ」
ステイルには、アウレオルスがこの日付の指し示す“一致”をどう捉えるのか、
聞かずとも分かった。
「………………ふ、はは、なんと。これも神の思し召しというものか」
錬金術師が力ない笑みをこぼす。
利き手で顔面を覆い隠し、天を振り仰いで、きっとこう言う。
「起こり得るのだな、こんな“偶然”が」
偶然。
偶然、偶然、偶然偶然偶然!
大声を上げて高笑いしたいのはこちらの方だ。
あり得るか、そんな偶然が!
(あり得ない)
なぜなら『三沢塾』の倒壊を報せた件の記事は、こう書き出されていたのだから。
『“七月二十八日”未明、学園都市第一七学区に轟音が響いた――――』
「もう一つ、質問に答えてもらうぞ」
殺気すらほとばしらせて、ステイルは男につかつかと詰め寄る。
対してアウレオルスは己が身に降りかかった運命の残酷さを嘆き、虚ろに笑うばかりだった。
「答えろッ!! アウレオルス=イザードッ!!」
その胸倉を思いきり掴んで引っ張り上げ、生気の削げ落ちた相貌を真正面から睨みつける。
「貴様はいったい、どうやって記憶を回帰した!! 『アウレオルス=イザード』に
帰ったその瞬間、どんな状況だったッ!」
偶然などではない。
運命などという使い古された文句で済ませるつもりもない。
疑いを差しはさむ余地など微塵もなく、これは“作為”だった。
“誰か”が、目的をもって『死者』を生き返らせたのだ。
「誰か……誰かがッ! 近くにいたりはしなかっ」
「私は、突如として目覚めた」
頬骨が引きつるその動作が、発声のための筋肉収縮だと気が付くのにしばらくかかった。
本当にその男が発した声なのかと、半信半疑で表情を窺いたくなるほど薄弱な響きだった。
目が合った相手は、亡霊だった。
ステイルは一瞬本気でそう信じた。
それほどまでに、アウレオルスの双眸には一切の光も見受けられなかった。
「ある朝目覚めると、唐突に、なんの前触れもなく『アウレオルス=イザード』が、それまでの八年を駆逐するかのように、脳の内側に現れた。鏡の前に立つと、慣れ親しんだそれではないのに、懐かしいと思える顔がその向こう側に在った。私は、気が付いたら鏡を叩き割っていた。近隣の住民が物音を聞きつけて何事かと姿を見せた。すると彼らは、示し合わせたように私を指差してこう言った」
『あんたはいったい誰だ? この部屋の住人はどこにいった?』
「違う。私は、私だ。貴様らの隣人だ。しかし同時に……私は、アウレオルス=イザードだった。ならば、アウレオルスとは何者だ? 当然、その疑問に私は答えようとする。そこで私は」
「アウレオルスとは何者なのか、なんのために生きていた存在なのか、ただそれだけを思い出した」
焦点の合わない瞳は、虚空の一点に固定されてびくとも動かない。
淡々とした独白の中に底知れぬ狂気を垣間見た気がして、ステイルは身震いした。
「記憶の彼方のインデックスの笑顔は、色褪せてはいなかった。しかしそれ以外がすっぽりと抜け落ちて戻ってこない。矢も盾もたまらず私は、真っ先にインデックスの安否を探った。彼女はイギリス清教に戻っているらしい、それは存外あっさりと知れた。差し当たり、安堵した。良かった、生きている。生きている…………生きている? 何故だ? 彼女は救われたのか? あるいは、死の連環にいまだ囚われたままなのか? 私は、成功したのか? …………成功とは、なんだ? 私は、なにを為そうしていたのか?」
もはやその視線と意識は、胸ぐらを掴む神父など置き去りにしていた。
ひとつひとつ、魂を吐き出すような自問に、答えを返す者など当然いない。
この三年間、ずっとそうだったのだろう。
『自分だった』男の八年間を理不尽に、唐突に否定されて、アウレオルスはまたひとりになった。
それはなんという、果てなき無間の孤独なのだろう。
「そこから、だ。そこから先の記憶を回帰するのに、実に三年の時を費やした。脳裏にかすかに蘇る残像を手掛かりに、ひたすらに世界を彷徨った。一番はやはりローマ正教に戻ることであったのだろうが、すんでのところで己が背信者の咎を負っているのだという過去が帰ってきた。故に余計に時間をくった……否、もしかしたらなんの因果関係もないのかもしれん。私の脳のどこかで破壊された記憶の櫃を修復したのは、時間以外の何物でもなかったのだから。やがて……やがて、としか表現しようがないが、ただただ時間に後押しされて、私は思い出した。吸血鬼。永遠の生命。吸血殺し。三沢塾。侵入者。黄金錬成」
血走った眼が限界まで見開き、ようやく至近距離にいるステイルを捉えた。
「そして、いま。貴様が語ってくれた真実が、閉ざされたままだった最後の扉を
こじ開けてくれた」
「なにが言いたい」
「七月二十八日。私の人生があまりにも目まぐるしく、大きな転機をむかえた日だった」
ステイルは、辛いのは貴様だけではない、と声を大にしようとして思いとどまった。
誰がどう見ても、この男は自分よりはるかに暗く冷たい地獄をくぐっている。
「………………僕だってそうだ」
そう思うと、それ以上の言葉を継げなかった。
「人生最悪の一日、か?」
「間違いないね、忘れられないよ。終わりの見えない絶望に負けて、へし折れた
あの日のことは」
「そうか、そうか………………必然、当然、自然。当たり前だな…………ふふ、ふは、
ふははははっはははははははははっ!!!!!!!」
哄笑が狭霧の漂う空気に風穴をあけるように、高らかに吹き抜けた。
「しかし私には、あるのだ! “七月二十八日”を越える、甘美なる絶望に浸った一瞬が!!」
狂気の先に隠れていた絶望。
絶望が呼ぶ狂気。
「私がどうしても思い出せなかったのは、記憶を失う、まさにその刹那の事だった。
しかし、回帰できなくて当然だったのだ。私は、まさしくその記憶を封じ込めて
しまいたくて」
無限の連鎖に絡め取られた錬金術師の満身を。
「自らに、『黄金錬成』を、能動的に、発動したのだから」
色の無い絶望が染め上げていった。
死にかけた心で錬金術師は笑う。
魔術師にできるのは、その肉体を乱暴に引きずり上げることのみだった。
「やはり意図的だったのか、あの時の、最後の黄金錬成は…………!」
「眼前に、得体の知れぬ異能の持ち主。背後では貴様があの子を抱き上げて、勝ち誇る
ように笑っていた。もういやだ、なにも考えたくない、忘れてしまいたい!
……忘れる? そうか、忘れてしまえばいい」
アウレオルスの四肢から力が抜ける。
しかしステイルは、掴みかかった腕を離さずにその全体重を支えた。
折れるんじゃない。
言外にそう伝えようと、ステイルは渾身の力を掌にこめた。
「私は…………絶望に向き合えず、すべてを忘れてしまいたくなった。身も心も、
インデックスとのかけがえのない過去すらも打ち捨てて、別人になりたくなった。
あそこまで、落ちるところまで落ちながらなおも掬い上げたかったはずのインデックスを」
しかし、声なき声は届かない。
錬金術師の悲嘆の、その最果てにあったものは――――
「私はあの瞬間、絶望に負けて、己が身よりも下に置いたのだ」
――――望まざる真実だった。
「黙れ」
「もうあの子の事などどうでもいい。疲れた。楽になりたい。はは、ははははは…………
笑え、ステイル=マグヌス。私はあの時、そんな事を考えていたのだ。あらゆる犠牲を
厭わず、インデックスを救おうとした筈の私は、あろうことか己が身可愛さにあの子を
投げ捨てたのだッ!!」
「黙れ……!」
「そんな私には、あの子を視界に入れる資格すらない」
握り拳が出かけたが、すんでのところで自制した。
「黙れと言っているッ!!! 資格だと? 戯言をぬかすな!」
インデックスを諦めなかった男が、なにを無力に崩れ落ちようとなどしているのだ。
彼女に懸けた己の過去をも乏しめるその諦観は、なによりもインデックスに対する侮辱だ。
納得などできるはずがなかった。
そんなステイルに、薄気味悪く男は笑いかける。
「蓋然。理解できぬか、ステイル=マグヌス。貴様は言ったな。
『黄金錬成は、なぜだかは知れぬがすべて解除された』と。
ならば思い出してみろ。私が『黄金錬成』を行使した、すべての事跡を」
狂乱と憂愁を行き来するアウレオルスに気圧され、言われるままに回想する。
ステイルと上条の記憶を、一部分だが改竄した。
『グレゴリオの聖歌隊』を反射した。
姫神秋沙を――――殺した。
ステイルを宙に舞い上がらせ、世界一グロテスクなプラネタリウムに化けさせた。
…………上条の迫真の演技の副産物として事なきを得たとはいえ、記憶のアルバムから
絶対に引き出したくない一枚だったのだが。
次々に凶器を生み出して、上条当麻の右腕を切り飛ばすにいたった。
脳内に生まれた『勝てない』イメージに負け、自滅し“全て”を喪失した。
「現然、もう一つあるではないか」
「もう、一つ…………?」
眉をひそめても答えは出ない。
アウレオルスの自虐じみた笑みがいっそう深まるだけだった。
「『死者蘇生』だ」
「…………っ!!」
ついに、ステイルの手がスーツの襟口から離れた。
唇を強く噛む。
真実の裏側に隠れていた血腥い罪過の色は――――鮮やかな赤だった。
グレゴリオ・レプリカ
「私が『偽・聖歌隊』で操作し、『黄金錬成』の多重同時詠唱を行わせた『三沢塾』の
学生たち。その数およそ二千人、だった。能力者であるにも関わらず超高位魔術を
行使し、一人残らず哀れな骸と変わり果てた彼らを、私は十一年前、『元に戻し』た」
ステイルは思わず後ろを、自身の過去を顧みた。
「さて、ロンドンの神父よ。私が『元に戻し』たビルには三年前、何が起こったのだったか?」
首を戻して、アウレオルスの後背を覗きこむ。
二人の男の歩んできた道は、等しくある“もの”に埋め尽くされていた。
「私はそこまで、徹頭徹尾猛悪兇徒になどなりきれん。彼らには何の罪もなかった。
十三騎士団のように私の邪魔立てをするべくはだかったわけでもなければ、姫神秋沙
のようにすべてを承知の上で協力したわけでもない。そんな彼らが、『黄金錬成』の
解けたその瞬間どうなったのか、想像に難くないだろう」
死。
死、死。
死、死、死。
屍の、死体の、骸の山。
「愁然。さらばだ、ルーンの魔術師よ。私は贖罪せねばならん……偽善者ぶりたいわけ
ではない。だが自らの心が、錆付ききっても辛うじてまだ動く“信念”が、罪なき命
を意味も価値もなく摘みとった、その事実を赦すわけにはいかないと叫ぶのだ」
錬金術師は神父に背を向けた。
H o n o s 6 2 8
『我が名誉は世界のために』。
しんねん
アウレオルスが、かつてたった一人の少女のために歪めた『魔法名』。
それに従って、男は踵を返す。
――――もと来た道を、地獄へと。
「待て…………待てッ!! まだ話は終わっては」
追いすがる黒衣の魔術師。
その背中に。
「すている………………そのひと、だぁれ?」
「…………………………え」
とうとう、時計の針が追いついた。
薄闇に泥む霧の都で、その一か所だけが月光に照らされているようだった。
月輪そのものが降りてきたようだった。
「イ…………イン、デック、ス?」
ただしそれは極限まで輪郭を失った、真っ暗な新月だった。
純白の聖衣をまとう聖女が放つのは、黒い月明りだった。
錬金術師が震えながら呻く。
「あなたは、わたしのことをしってるの?」
ビッグベンが鳴らす十二時の鐘は正午のみ。
宵闇には決して響かない。
「ああそっか、そのひと“も”そうなんだ」
だがステイルの鼓膜は、ありもしないウエストミンスターの鐘の音を確かに受け取った。
ステイルにはそれが、弔鐘にしか聴こえなかった。
「そのひとも――――――――わたしが『ふこう』にしたひとなんだ」
ステイルは立ち尽くすことしかできなかった。
ほんの一時間後に愛を告げようと決めた女性は、たったいま何を言った?
不幸。
アウレオルス=イザードが、不幸。
「すべて、聞いていたのか?」
返事はなかった。
ステイル自身も混乱の極みの真っただ中だった。
そもそもどうしてインデックスが此処にいるのだ。
すっかり手慣れた『人払い』を、この期に及んで怠るような蹉跌を犯した覚えは――――
(っ! 馬鹿か、僕は……!)
アウレオルスの名を聞かされてからこっち、いかに自分の焦燥が深かったのかを
ステイルは思い知らされた。
確かに人避けのまじない自体は、錬金術師に対面した次の瞬間には発動させていた。
その点に関してミスはない。
しかし二人の『失敗者』の血腥い対話に、間違っても立ち入らせてはならなかった
人物とは誰なのか。
(そうだ…………ついさっきも、僕は確かめたばかりじゃないか)
十一年前、上条当麻を案じてステイルのルーンをたどってしまった少女の軽率な行い。
それを鑑みれば、現在のインデックスがロンドン市内で行使されているステイルの魔術を
感知してどのような行動に出るのかなど、火を見るより明らかだったではないか。
激しい目まいに吐き気すら感じた。
兎にも角にも、今はインデックスになにかしら声をかけねば。
たとえあと一秒でも彼女にあんな、絶望に満ちた貌をさせていたくはない。
絶望。
背後の錬金術師がどっぷりと肩まで浸ってしまった闇と同種の銷魂。
しかし同時にまったく未知の――――――正体不明の絶望。
満月に照らされた学園都市の一角で、彼女の身体を抱きしめた時と同じ。
いまにも此処ではない何処かへ消えてしまいそうだった震える身体をこの世に繋ぎとめ
たくて掻き抱いたあの日と、インデックスは同じ表情をしていた。
「――――――――――――――――――い」
「最大主教、まずは僕の話を……………………、な?」
パタン。
軽やかな物音がした。
ステイルは聖女のいるべき方向に目を向ける。
しかし誰もいない。
消えた。
インデックスの姿が忽然と消え去っていた。
馬鹿な、どこへ。
ステイルは狂ったように三六〇度くまなく、長髪を振り乱して愛しい人の痕跡を求める。
そういえばさっきの物音はなんだろう。
ふと思いついて不審音の発生源に向き直ると。
「何故だ」
地べたに屈むグレーの三つ揃いが認められた。
自らの長身が災いしたのか、あるいはアウレオルスのことなど頭から吹き飛んでいたからか。
ステイルはうずくまるる男の存在を、ぽっかりと空いたデッドゾーンに置いてすっかり
無視していた。
「どうしてだ?」
錬金術師の傍らに白い塊。
なんだろう、あれは。
人間ほどの大きさだ。
人間で言う四肢の部分に、丁度人間の手足ほどのパーツが伸びている。
人間で言う胸の部分が、深呼吸するかのように緩やかに上下している。
人間、まさしく精巧な仏蘭西人形のような端整でいて愛らしい顔だちが、瞑目し紅潮している。
人間?
ああ、人間だ。
インデックス=ライブロラム=プロヒビットラムは、疑いようもなく人間だ。
「最大主教?」
倒れ込んでいた。
ステイルの守るべき人が、今度こそ守り通さなければならない女性(ひと)が。
頬を赤らめて、胸部を上下させて、唇を濡らして、口から荒く呼気を吐き出して。
「え?」
ステイルは知っていた。
眼前で繰り広げられる光景が、拭い難い悪夢のリバイバル上映だと、はっきりと。
これは、これは、これはこれはこれはこれはこれはこれはこれはこれはこれはこれはこれはこれはこれはこれはこれはこれはこれはこれはこれはこれはこれはこれはこれはこれはこれはこれはこれは
「答えろ、ステイル=マグヌス。これは――――――『発作』ではないか」
「……………………あ…………え…………?」
足取りが覚束ない。
時の流れに対して、自身の置き場がいずこなのか把握できない。
右往左往し、前後不覚になり、上下に揺すぶられる。
そんな感覚を一分か、十分か、はたまた永遠に等しい時間、味わってから。
ステイルは胸ぐらを誰かに掴まれて、ふいに現世に帰還した。
「なぜだッ!!? 彼女は救われたと、貴様はそう言ったではないか!?
私の行いなどなにもかも無意味だったと、私を嗤ったではないか!?
なのに、なんで、なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでッ!!!」
無様に唾をまき散らし、涙や鼻汁にまみれた男を嘲笑う精魂など、今のステイルには
なかった。
「どうして、インデックスは死にかけているッッッ!!!!!??」
彼女が死ぬ。
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『君はたとえ全てを忘れてしまうとしても――――』
さようなら、と笑顔で死んでいった一人目の彼女。
『ごめん、ごめんごめんごめん』
『僕たちは、また君を助けられなかった』
忘れたくない、と泣きながら死んでいった二人目の彼女。
『僕が、わかるかい?』
『生』まれて最初に視界に入った少年の苦渋を見てとって、なぜと問うよりも先に
その瞳を濡らす雫を拭おうとした、三人目の彼女。
彼女は何度『死』んでも、変わらぬ“彼女”であり続けた。
『なかないで』
いつ何時も、誰かの涙を止めようとする優しい少女だった。
『あなたがなんで泣いてるのか、わたしにはわからないけれど』
そうか。
何度死んでも彼女は“彼女”なんだ。
次に失敗したって、きっとまた“彼女”に逢えるはずだ。
なら今回また、精一杯頑張ればいいじゃないか。
なあに、恐れることなどなにもない。
次に彼女が『死』んでも、そのまた次がある。
何度でも何度でもあがいてもがいて。
仕方がないから、失敗するたびに“彼女”には『死』んでもらおう。
『っ、あ?』
そんなことを考えている“なにか”を、ステイルは見つけた。
見つけてしまった。
――次は頑張るよ――
――方法なんていくらでもあるはずさ――
――――だから今度の一年も、辛いだろうけど我慢してくれ――――
ミュータント
護ると誓った少女の遺影に向かって、そう語りかける 怪 物 の存在に。
『ああ、う、っあああ゛あ!!』
少年は、気が付いてしまった。
『もしかしたら、あなたの力になれるかもしれないんだよ』
“彼女”と同じ姿、同じ声、同じ顔をした彼女が優しく声をかけてくれる。
二人の少女の死を、仕方のないことだった、と過去形で済ませようとした少年に。
この先も増え続ける少女たちの死体を、仕方のないことだな、と割り切ろうとした少年に。
どこまでも慈悲深く、どこまでも穏やかに、どこまでも――――――残酷に。
『――――――あなたが誰なのか、わたしにはわからないけれど』
『あああああぁぁぁぁぁああああぁぁああああああああああああああ!!!!!!!!』
そうやって過去、たった二回の失敗で少年の心はへし折れた。
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「なんだ、それ」
そして、現在。
「どうして、こんな…………………っ!」
打ち砕かれたはずの死の連環が――――『首輪』が蘇り、再び彼女を縊り殺そうとしている。
「なんだ、それはぁぁあああああぁぁぁぁああああぁああああっっっっ!!!!!!」
圧しかかる絶望が青年の膝を折る。
カラン。
無機質な音を立てて懐中時計が懐から滑り落ち、衝撃で蓋が開いた。
二つの針に導かれる“今”が、刻一刻と“今日”と“明日”の境界線へ迫っていく。
(ああ、そうだ)
もうすぐ明日が、七月二十八日がやってくる。
そういえば、明日は、“あの子たち”の
Passage5 ――Anniversary――
Passage5 ―― Anniversary――
め い に ち
Passage5 ――Death Anniversary――
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よかったじゃあないか、ステイル=マグヌス
十一年ぶり、四度目の選択肢の到来だ
君は知っている
君が逃げ出した答えに、必死で向き合った主人公の存在を
彼の選択を
いまこそ、ヒーローになるチャンスだよ?
立ち上がれないのならば私がいくらでも手を貸そう
では思う存分、心ゆくまで
――――――絶望しようか
Passage5――――END
――Passage6――
どこの国のいずことも知れぬ場所。
星屑が瞬き、日輪が輝き、大海がさざめき、大地が蠢く。
この世のものとも思えぬ景観。
宙空に、一人の“人間”が漂っていた。
「さあ見せてくれ、ステイル=マグヌス。君の選択を」
男はこの世の存在ではなかった。
さらに言えば、男がたゆたうこの空間こそが『この世ならぬ世界』そのものだった。
男は三年の間、ただただ下位世界たる『現象』を眺めていた。
日々移ろい、しかし何者にもまつろわざる世界の在り様を観察し続けていた。
だから、男はひとりだった。
いや。
ややもすると、男がひとりでなかった瞬間など彼の人生にはなかったのかもしれない。
たとえ――――
「随分と楽しそうね。まさか“ここ”が、貴様の楽園(イデア)というわけでもない
でしょうに」
その背を、ひしひしと殺気をまとった来訪者の視線が貫いていようとも。
男は闖入者を振り返らない。
空を切り取って描き出された真四角のスクリーンに、男の視線は釘づけだった。
「モニタ越しでない邂逅は何時以来だったか……どうだ、君も観ていくかい」
歪な劇場、歪んだ脚本。
紗幕に投影された悲劇は絶望の度合いを加速度的に深め、中心でうずくまる赤髪の神父の
悲嘆をあますことなく伝えてくれた。
男の望んだ結果が、いま正に訪れようとしている。
「あの子になにをした」
闖入者の声色は不自然に、ローラーでもかけたように平坦に均されていた。
「私が返せる答えは一つだけだ、『ローラ=スチュアート』」
応じる男の声はといえば、愉悦を隠そうともしていない。
しかしそれは同時に無機質な響きを伴って、どこか空疎にも聞こえた。
視線の交わらぬままに、言葉だけが交わされる。
「なにも」
男――――アレイスター=クロウリーは、ただそうとだけ言って、かすかに笑った。
-------------------------------------------------------------------------
ローラはずっとずっと、アレイスター=クロウリーの背中を追い求めて生きてきた。
英国清教の利権だの、勢力伸張の先にある世界の覇権だのは、“そこ”に至るまでの
過程で必要だったから手中に収めた、というだけのものだった。
いまこの場所に己が居る事実さえあれば、もはや路傍に打ち捨てても構わない過去。
彼女の人生は、この瞬間のためだけにあったと言って過言ではなかった。
「惨めな姿に成り下がったものね。かつて0と1では描写しきれぬ異界の住人であった
貴様が、いまではあろうことか、その『0と1の世界』でしか生きられないなんて」
この七十年というもの、寝ても覚めてもローラの頭を占めるのは彼への、
アレイスターへの――――――焦げ付くような憎悪だった。
「よく、この場所がわかったものだ」
「あの錬金術師がロンドンに現れたと聞いたわ。貴様が一枚噛んでいるのなら、
必ずやその『目』で見るためにここに“いる”と」
「そちらではない」
だから、なのだろう。
かつて『フィアンマ』の口を封じるべく、自ら出陣した彼をいち早く探知できたのも。
『右方』に、青年自身にすらそれと悟らせず『プラン』を受け渡した、彼の計画を察知
できたのも。
このばしょ
「よく、私が『滞空回線』にいるとわかったな」
現在のアレイスター=クロウリーの玉座が、この電脳空間であると突きとめられたことも。
きっとすべてローラの執念が、怨念が辿りつかせた境地なのだ。
三年前、四次大戦終結の日。
アレイスターの失踪とほぼ時を同じくして、計ったかのように流出した技術があった。
アンダーライン
最悪の大魔術師にして科学へ傾倒した背徳者の魔眼、『 滞 空 回 線 』。
それは現在の学園都市統括理事長たる親船最中の手をすり抜けて、東京の大コンツェルン
にいとも容易く渡る。
現在は『アイテム』という若者たちの活躍もあって健常な管理下に置かれているが、そこ
には埋めがたい『数年の空白期間』が厳然と存在していた。
ローラは事のはじめから、そのあまりに鮮やかすぎる手際に疑念を抱いていた。
戦争という異常事態に長年君臨したワントップの蒸発も重なり、確かに当時の科学サイドは
揺れに揺れていた。
流出の危機にあった非人道的応用性の高い技術は、他にもごまんとあっただろう。
しかし、ことが『滞空回線』となれば話は別だ。
あの忌むべき悪魔の目は、ほかでもないアレイスター自身が運用していた肝入りの『科学』である。
おいそれと外部の人間が、内部の人間を出し抜いて集中管理システムを掠めとれる代物ではない。
『第四次世界大戦での彼の敗北は、アレイスター=クロウリーの「プラン」の一環だった』
――――内部の者の手引きでもない限りは。
ローラ自身が導いたステイルの仮説――ローラは真実だと確信しているが――に従うならば
『滞空回線』の流出もまた、アレイスターの『プラン』の一翼を担っていたと見て間違いない。
財閥との間に密約を結んでいたか。
あるいは“誰か”にそうしたように、必然的に『目』が外へと移動する状況を作り上げたか。
ローラは後者だと踏んでいる。
知らず知らずのうちに他者を利用して、己の画餅を現実のものとするその手腕。
誰かさんにそっくりだ、とローラは毛の先ほどの自己嫌悪に似たものを感じて苦笑した。
いま現在、『滞空回線』のホストコンピュータは学園都市の『アイテム』社内に在った。
真に子供たちの行く末を案じる為政者のもとにある限り、その科学力が妄用の憂き目に
遭うことは二度とないだろう。
だが彼らがすべての『目』の所在を把握しているのかと問われれば、ローラは疑問符を
浮かべざるを得ない。
なにせ『滞空回線』を構成する一つ一つのユニットは、わずか70ナノメートルのシリコン塊。
数年間、外部の研究機関の支配下に置かれていたという未知の領域(ブラックボックス)も
見逃せなかった。
もちろんコントロール中枢が学園都市きっての武闘派、『アイテム』の監視に二十四時間
さらされている事実を照らし合わせれば、物理的なコンタクトはおろかネットワーク上でも
侵入は困難を極めるだろう。
しかし『アイテム』が『滞空回線』を奪取した時点で、すでに“中”に何者かが侵入して
いたとしたら?
桁外れの情報集積力と機密保持性は、そのまま“中”に隠れ棲む者の安全を保障する巨大
なセーフティネットへと早変わりである。
斯くしてアレイスター=クロウリーは。
『存在』を規定する肉体と引き換えに、『意識』を規定する知識へと永遠の恒常性を与えた。
それが、ローラの出した結論だった。
「そういえば君は、どうやってここに来たんだ。『原子崩し』以下、『目』を守る幾多の
能力者を屠ってこの電子の海に飛び込んできたと、そういう解釈で構わないかい」
相変わらず目線はスクリーンに落としたまま、アレイスターはそう問うてきた。
「そのような些事、捨て置きなさい。これから消える者には関係のないことよ」
アレイスターが依然観賞を止めない大スクリーンにはくず折れるステイルと、狂気に
駆られて泣き喚くアウレオルス。
そして、死に魅入られたインデックスの姿が映っていた。
すなわち二人が“いる”このちっぽけなシリコン塊はいま現在、ロンドンの空を漂流
していることになる。
「“ここ”、ロンドンに繋がる回線はすべて遮断したわ。あとは街中に散らばるユニットを、
余さず物理的に破壊してしまえば」
アレイスターは、今度こそ世界から消滅する。
三年前に、そして七十年前に死してしかるべきだった亡霊を、今度こそ。
「しかしそれでは、君も同じ憂き目を見ることになる。電気信号に変換(コンバート)
された君の意識と人格は学園都市の肉体には戻れず、霊魂さえ残さず削除(デリート)
されることになるが?」
宙を舞う男の声色には危機感の欠片もなかった。
できるはずがないと、高を括っているふうでもない。
ローラは冷え切った腹の底の塊をうかつに溶かさぬよう、一度深呼吸をした。
「もとより覚悟の上よ」
ローラが脱出のための回線を復活させた瞬間。
そこを突かれて、この男を電子の海に逃す可能性はなんとしても潰しておかねばならなかった。
ゆえにローラは。
「私と、共に消えてくれるのか?」
確実に、堅実に、絶対に。
この男を滅ぼすための道を選ぶ。
「反吐の出る思いではあるけれど、これしか手段がないのなら。いずれにせよ、
私はもう長くない」
一つには、学園都市に残した肉体の安否だった。
アレイスターの言うように屍の山を築いたわけではないにしろ、ローラがこの場所に到達する
ために通過した道は、とてもではないが穏便なルートではなかった。
ローラは『神の右席』がそうしたようにもっとも警備の手薄となる時間帯、つまり日の昇る
直前を狙って、強行的に『アイテム』ビルへと突入したのである。
主力である『原子崩し』や『窒素爆槍』を欠いた警備チームをちぎっては投げちぎっては投げ、
安々とホストコンピュータへの侵入を果たす。
ハッキングには三月のインデックスの誕生日、『妹達』が贈った特別製のチョーカーにヒント
を得た、特注品のデバイスを用い。
そして肉体は――――――置き去りにしてきた。
今頃は報せを受けて到着した『アイテム』の中心メンバーが、抜け殻と化した
『ローラ=スチュアート』を取り囲んでいることだろう。
だが肉体を襲っているであろう絶体絶命の危機も、もはや些細な忘れ物だった。
『ローラ=スチュアート』という女は死んだのだ。
「ほう? ローラ=スチュアートともあろうものが、悲観的観測だ」
私をその名で呼ぶな。
そう吼えてしまいそうになって、ローラは唇を真一文字に固く固く結んだ。
アレイスターの茫洋とした眼差しが、かすかに細められる。
「………………やはり、覚えてはいないか」
わかっていない。
わかっていたことではあったがやはり、この男はわかっていなかった。
ローラが百年以上慣れ親しんだ肉体を投げ捨てた、もう一つの理由。
肉体。
実の親から貰った、かけがえのないからだ。
「もうすぐ、実の娘の天命が尽きるというのに。それすらも覚えていないのね、貴様は」
初めて、アレイスターが口を噤む。
やかましい鼓笛音のような不自然な静寂が、対峙する男女の狭間を通り抜けた。
「いいのかローラ=スチュアート、いつまでもこんな場所に居て?」
しかしそれも束の間のことで、男は何事もなかったようにまるで別な話題を振ってくる。
ローラには、動揺は見てとれなかった。
「見るといい、君の大事な大事な『禁書目録』が死に瀕している。君にとっては実の娘
のような存在だろう」
ローラは思わず笑い出したくなった。
なにを言っているのだ、この男は。
インデックスは、ローラにとって“娘”などでは断じてない。
それを、ほかの誰でもないこの男が、知っていないはずなどないのに。
「“娘”、ですって? 笑わせるわね」
「しかし、彼女に死なれては困るだろう」
「だからこそ、私は此処にいる」
さくじょ
この隔絶された逃げ場のない空間で、アレイスターを 『殺』 してしまえば――――
「『遠隔制御霊装』を破壊して、彼女を救える――――かな?」
ローラの肩が、よく観察してはじめてそれとわかる程度にだが、弾んだ。
『遠隔制御霊装』。
イギリスという国家が『禁書目録』に最低限の人権を保障するべく設けた、この世にたった
二つの『安全装置』。
一つは三次大戦の折に上条当麻の右手によって塵と消え、もう一つは長年ローラが自身の手
で保管してきた。
三つめなどまかり間違っても存在し得ない、インデックスの生死をも左右する禁忌のトリガー。
ローラはこれまでごく一部の権力者や魔術師にだけ、まことしやかなトップシークレットと
してそう告げ知らせてきた。
しかしそれこそが。
“どこにもない”はずの三つ目の『遠隔制御霊装』こそが。
ローラがアレイスター=クロウリーを追い求めた、“現在における”最大の理由だった。
「重ねて言うが」
ついに男が、女を振り返って向き合った。
ごくごく自然な角度に口の端が吊り上がる。
ローラにはそれがかえって、下手な憫笑よりよほど隠微に思えた。
「私は、なにもしていない」
ギリ、と自らの奥歯があげる軋み声を、ローラははっきりと聴いた。
「ぬかせ。ならばあの子の、インデックスの現状を、いったい誰が招くことができる」
「さてね。少なくとも私ではない」
「いけしゃあしゃあと、貴様」
「ローラ=スチュアート。君はこの場所で、彼らの結末を坐して見届けるほかない。
『滞空回線』の動作には外部からの電脳干渉か――――」
景色が急転した。
星々のきらめきが弾けるように四散し、天蓋に現れた黒渦に吸いこまれていく。
やがて光源は悲劇を映し出す銀幕のみとなり、空間に仮初の闇夜が訪れた。
なにもかもが男の意のままに姿を変える矮小な世界に、ローラは小さく舌を打った。
「この、『ロンドンの滞空回線』を掌握する私の許可が不可欠だ。さて、君の肉体の
傍らにその干渉を施してくれる“誰か”はいるのか?」
そんな人間はいない。
事ここに及んで、ローラは他者の助力など借りてはいない。
この男だけは、ローラが自らの手で殺さなければ意味がないのだから。
「君と私は、等しく舞台を降りた『観客』だ」
アレイスターが特等席を分かち合おうと手を差し伸べてくる。
ローラは忌々しげに苦汁を飲みながら、男を睨みつけることしかできなかった。
「――――――さあ。ともに、観劇に興じようじゃあないか」
インデックスが死ぬ。
このまま跪いていては、それが現実になるのは時間の問題だった。
発作的に、突如として襲いかかってくる、意識を保っていられないほどの高熱。
間違いなく十一年前、ステイルや神裂が『脳容量のパンク』だと思い込んでいた
現象そのものだった。
しかし、ステイルはすでに知っている。
“これ”は完全記憶能力者がみな一様に背負った悲しき宿命、などでは決してない。
“これ”は『魔術師』が少女を縛るために、恣意的に嵌めた『首輪』だ。
そして十一年前、『主人公』によって粉々にされた『幻想』でもある。
『幻想』で、あるはずなのだ。
だが現実は。
現実にインデックスは苦しんでいる。
呻いている。
喘いでいる。
死にかけている。
死。
死?
――――――死だと?
(なにをやっているんだ、僕は)
彼女が、インデックスの命が危うい。
ならばステイル=マグヌスがなすべきことなど決まりきっているではないか。
なにを一人身勝手にへし折れようとなどしているのだ。
絶望などしている暇があるのか。
土御門に言われたではないか。
『お前はもう、インデックスと生きることを迷わないんだろう?』
神裂と約束したではないか。
『その際は、必ず二人で、ですよ?』
ローラに啖呵を切ったではないか。
『………………なるほど。もう、あなたも子供ではないのね』
一方通行に諭されたではないか。
『じゃあ、それが答えだろ』
上条当麻に、そして『上条当麻』に、託されたではないか。
ヒーロー
『後は頼んだぜ、主人公』
――――誰もが望む最高なハッピーエンド、期待してるぜ――――
湿ったアスファルトに着いた膝に、全身に、滾るような活力が帰ってくる。
すくと立ち上がった。
両の手の五指を見据え、強く握ってからほどく。
「ああ。やってやるさ、ヒーロー…………ッ!」
ああ、大丈夫だ。
これなら闘える。
自分はまだ、折れていない。
いや。
もう、二度と折れはしない。
「そこを退け、アウレオルス」
「な…………?」
狂気に満ちた喚声やまぬ錬金術師の肩を乱暴につかんで押し退け、インデックスの表情が
よく見える位置に屈みこんだ。
いま一度だけ、彼女に顕れた症状が己の海馬に刻まれた悪夢と同一のものなのか検める。
十二年前も十三年前も、飽きるほどに眺めては己が無力を味わったそれ。
「…………見間違えるはずもない、か。やはり『首輪』だ」
結論はすぐに出た。
奥歯を割れんばかりに食いしばる。
「どういうことだ、魔術師」
「時間がない。この進行状態だともってあと二時間弱だ。説明を聞く気があるなら黙れ」
「質問をしているのは、私の方だ」
アウレオルスのうなり声をみなまで聞くことなく、ステイルは端末を左手に握った。
やってやる。
どんな手だろうと使う。
利用できるものなら、なんだろうと利用する。
「はっ。わからないのか、天才錬金術師?」
たとえ、かつて死を賭して対峙した敵手が相手であろうと、だ。
表情筋は十八番の皮肉気な笑みを完璧に再現できているだろうか。
鏡が欲しいが、贅沢を言ってばかりもいられない。
「彼女の再びの『死』に抗う気力があるならば協力しろと、そう言っているんだよ」
使用可能な『手』を休むことなく矢継ぎ早に探りながら、ステイルは右腕一本で聖女の
華奢な身体を抱き上げる。
十一年前もこうしてこの男の目の前で、意識のない彼女を腕の中に閉じこめたことを思い出す。
錬金術師の眼が一瞬、瞳孔までも大きく開かれた。
アウレオルスもまた、ステイルが回顧したそれと同じ光景を瞼裏に蘇らせたらしかった。
「私は………………わ、たしは」
返答を悠長に待っている暇などありはしなかった。
アウレオルスがうな垂れる間にも、ステイルは携帯電話のキーに指をかけては耳に当てる。
その動作を三度繰り返してのち、黒衣の神父は先刻とは正反対に、掠れ声で呻く男に自ら
背を向けた。
「過去の失敗にすくみ上がっていたければ永遠にそうしていろ。僕は闘う。彼女を救う。
今度こそ――――――『成功』してみせる」
底なし沼の奥底でもがく男を置き去りにして、ステイルは一歩足を踏み出した。
膂力に自身があるとはお世辞にも言えないが、いまは喉の、肺の、血管の、心臓の、
脳の、命の内側から全身へなみなみと注がれたように力が漲っていた。
“科学的に言えば”ノルアドレナリンとやらの異常分泌でも起こしているのだろう。
(絶対に、助ける)
それにつけても軽い身体だった。
日頃の大食で蓄えたエネルギーの行き先と結び付けて考えると、暗澹たる心地がする。
四肢から伝わるまるで重みのない感触が、女の生命を見舞った奇禍の深刻さを如実に
表しているようで。
自然とステイルの歩幅は広くなる。
一刻も早く、魔術的環境の整った聖堂なりに連れて行かなければ。
ここから一番近いのは聖ジョージ大聖堂だ。
速くなった足取りは、やがて弾むようなそれへと変わり――――
「――――――待て」
変わる寸前で、ぴたりとその動きを止めた。
無粋で不躾な制止を、ステイルは不思議な高揚感とともに背で受けた。
その瞬間、ステイルはきっと歓喜していた。
「敢然…………断然、断々然ッ!! …………私に、見過ごせと言うか! ふざけるな!!」
そうだ、立ち上がれ。
「貴様にばかり任せられるか! 私は、インデックスを救うためだけに生きてきた男だぞッ!!」
それでこそ、愚かしいまでに一途に彼女を想って、幾千の人間を振り回した不世出のエゴイストだ。
「貴様が知る限りの情報を寄こせ。協力してやる……違うな。貴様が、私に協力しろ」
――――それでこそ、インデックスを諦めなかった男だ。
ステイルは一八〇度反転し、濃霧をものともせずにそびえ立つ錬金術師の姿を視界に、
「っ、と……?」
入れようとして、突如として平衡覚を失いよろめいた。
一歩二歩とたたらを踏んでから、体幹を駆使して体勢を立て直す。
状況が状況なだけに、かなりばつが悪かった。
案の定、錬金術師の尖った罵声が飛んでくる。
「なにをしているのだ、貴様は……! ただでさえ重篤のインデックスの身に、
これ以上余計な」
しかしそれは唐突に途切れて、代わりに静寂が顔を出す。
不審に思ってアウレオルスの表情を見やると、男の眼球はステイルの両腕を凝視していた。
正確には、腕の中の救うべき人を――――人を――?
「馬鹿な…………馬鹿な馬鹿な馬鹿な、ステイル=マグヌス、貴様ッッ!!!」
そのとき初めてステイルは、身を翻した己がバランスを崩した原因を察した。
当然といえば当然のことであった。
つい先ほどまでステイルは、人一人分の体重を二本の腕に託していたのだ。
それがなんの前触れもなく、忽然と、一切の重みを残さず。
「あの子は――――――インデックスは、どこに行った!?」
腕の中から掻き消えてしまえば、当然のことだった。
「っ………………な…………ぁっ!?」
ステイルがインデックスから意識を切ったのは、アウレオルスに背後から呼び止められて
振り向くまでのほんの五秒ほどのことだ。
いくらアウレオルスに注意を割いていたからといって、謎の第三者の接近を許し、彼女を
奪われるほどの隙を晒すはずがない。
ましてや彼女を抱く腕を緩めるなど言語道断、そんな男はステイル=マグヌスではない。
ならば、ならば――――?
(立ち止まるな、思考を止めるな、お前は魔術師だろう、ステイル=マグヌスッ!!
………………魔術師。このタイミングで? いや、考える前に動け!)
『禁書目録』を狙う魔術師が、彼女を攫った。
ステイルの意識は即座に、ロンドン全域を網羅する『守護神』のそれへと切り替わった。
現下この街で、ステイルの築いた陣地内で、魔力を精製している者。
その中でも、これ以上ない明確な『敵意』をもって魔術を行使している者――――!
必ずいるはずだ、いないはずがない。
探す、捜す、搜す、さがすさがすさがす!
――――――そして。
「そういう、ことか」
走査を終えたステイルは、星屑瞬かぬ夜空を呆然と振り仰いだ。
「なにを言っている、インデックスはどこだ、どうなったのだ」
苛烈な焦燥を隠そうともしない錬金術師が縋りついてくるが、すぐには返答できそうになかった。
脳を莫大な量の電子が駆け廻り、次々と記憶の端と端とを橋渡ししてゆく。
この十一年でステイルが経験し、目撃したすべて。
すべてが一本の線で繋がった。
理解した。
「これが、貴様の『プラン』だったのか」
結局は、踊らされていたにすぎなかった。
“奴”が欲しかったのは、きっとこの結末だったのだ。
「これで満足か、楽しいか、思い通りか…………っ!」
肺の底で、どうしようもなく煮え滾るマグマの胎動を感じた。
そう思った次の瞬間には、ステイルは咆哮していた。
溢れんばかりの激情に火を点け、魂を――――いや、己のすべてを噴き出すかのように。
「アレイスター=クロウリーィィィッ!!!!!」
夜天に響いた名の持ち主が、空の彼方でにんまりと笑ったことなど、知る由もなく。
ローラは内心の動揺を押し殺すことに全精力を傾けていた。
ローラはインデックスの『首輪』が再発動する、まさにその瞬間は目撃していない。
その時はまだ、ネットの大海でアレイスターの所在を突き止めようと漂流している最中だった。
だから“言い訳”が利いた。
アレイスターは自分の目の行き届かぬ時機に、インデックスになんらかの干渉をした。
そう解釈する余地が残されていた。
「………………なぜ」
しかし。
たったいま、インデックスがステイルの腕の中から朧のごとく消えた瞬間。
「なぜ…………貴様は、なにもしていない?」
「異なことを。私に、なにかしてほしかったのか」
アレイスター=クロウリーという男の一挙手一投足を、存在を、概念を、意識を。
全神経を注ぎこんで瞠っていたはずのローラは、アレイスターが“なにかした”
刹那を見極められなかった。
否。
認めざるを得なかった。
アレイスターはインデックスの身を突如として襲った『死』に、少なくとも直接的な
関与は行っていない。
していたならば、ローラが見逃したはずがない。
ローラは数十年ぶりに腹の底から困惑しきっていた。
目の前――現在のローラに目はおろか肉体もありはしないが――の、黒幕の中の黒幕が
糸を引いているのでなければ、いったいあの現象は何を意味するというのか。
「おや、君はまだ要領を得ないか。ステイル=マグヌスは、すでに『誘拐犯』の正体を
見破っているというのに」
ますますもって意味不明だった。
ステイルは確かに何事か察した風ではあったが、その口から飛び出たのはアリバイの
成立した、決して『犯人』ではあり得ない男の名である。
「十二時の鐘もそう遠くはない。灰かぶりの魔法が解けた瞬間、なにが起こるか
楽しみじゃないか。君はどう思う、ローラ=スチュアート?」
その言葉に閃くものがあった。
十二時、すなわち、零時。
今日と明日の、今と未来の、そして過去と現在の、“境界線”。
「………………貴様が、なにもしていないはずがない」
そうだ、なんの関わりもないなどという詭弁が許されるはずがない。
なぜなら明日は――――七月二十八日ではないか。
「ほう?」
「七月二十八日は、貴様の作為だ。ロンドンで起こっているすべての現象も、元を糾せば
貴様のせい。たとえ直接手を下していないにしても、貴様の……仕業でなければならない。
そうでなければ辻褄が合わない」
とんだ強弁だった。
根拠も証拠も示さぬままに、ただ『そうであってほしい』という願望の透けて見える糾弾。
ローラが自身で採点するなら、論ずるまでもなく落第点ものの弁論。
神経のまともな被告人なら、取り合おうともしないであろう見苦しいこじつけ。
「そういえば」
しかし、ローラの対敵はアレイスターだった。
「『七月二十八日』を最初に“観測”してくれたのは、他ならぬ君だったか。あの頃は
まだ滞空回線も初期不良を頻発していた時期だったからな。君が観測してくれていな
かったら現状はなかっただろう。礼を言うよ」
目的のためなら、『プラン』のためなら。
世界の理さえも大真面目に変革しにかかる、正真正銘の狂人だった。
「いったい………………いったいなんなの、貴様はっ……!」
遂にローラの声が、抑えきれぬ激情を滲ませて震えた。
理解できなかった。
数十年間、憎悪を焚きつけて夢想してきた男の表情。
夢の中で何度も何度も、八つ裂きにして切り刻んで叩き潰して首を刈って手足をもいで眼球をくり抜いて性器を削ぎ落して水責めにして串刺しにして磔にして逆さ吊りにして毒を呷らせて焼き尽して、何度も何度も何度も殺してきた。
そうまで焦がれた男の正体を、なにひとつ理解できていなかった。
その事実が、何故だかはわからないが、ローラには途轍もなく悲しかった。
「七月二十八日、か」
動揺を露わにして瞑目したローラに、アレイスターはなんら感慨を見せることもなく
独りごちた。
「たとえば、そうだな。こう仮定してみよう。もしも今年の慰霊祭が日本で行われて
いたら、君はなにが起こったと思う?」
返答の有無を気にもかけず、男は続ける。
「イギリス清教と学園都市の友好条約が、式典に託けて締結されていた可能性は高い。
『神の右席』とやらを名乗る四人の男女の襲撃はその建前上、この日にずれこむわけだ。
…………すると、不思議なことに」
彼らの計画は、おそらくではあるが成功していた。
アレイスターは、囁くようにそう告げた。
「七月二十八日には、かくの如き意味がある。彼らはその特異点に選ばれなかった。
…………否、掴みとれなかった、と言うべきだな」
流れるような演説を、ローラは半ば聞き流していた。
無気力に覆われかけた脳の片側半分が、取得した聴覚情報の受け取りを拒否する。
その一方でなお消えぬ復讐の鬼火が、大脳皮質を再活性させるべく燃えあがってもいた。
「……………………そうまでして、なぜ七月二十八日にこだわる? その日付に、
いったい如何なる魔術的記号が存在し得る? あるいは、科学的見地から?」
なにより、知りたかったから、なのかもしれなかった。
ステイルにありったけの真実を受け継がせたローラにさえ窺えぬ、真実の奥の更なる真実。
闇の中深く埋められたそれに光を当てられるとすれば、もはやこの男しかいない。
「先ほども言わなかったかな。私の返せる答えは、常に一つだけだ」
だが、狂人はただひたすらにうっすらと笑うのみ。
「なにも」
諦めたように微笑し返したローラに向かって、アレイスターの紡いだ短い言の葉は。
「その日付に、特に意味はない。単なる偶然、だ」
端的にして、しかし究極の説示だった。
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ギギ、と観音開きの大扉が蝶番を軋ませながらゆっくりと開いていく。
その雑音をどこか遠くに聞きながら、ステイルは空間に一歩脚を踏み入れた。
清浄感に満ちた荘厳な空気を靴音が裂く。
中央を貫通するように設けられた通路を迷わず進んだ。
左右には数人掛けの長椅子が整然と、十脚、二十脚と並んでいる。
普段なら祈りを捧げる会衆で立錐の余地もなく埋まるそこには人の子一人おらず、
荒涼とした寒々しささえ感じさせた。
長椅子の列が途切れた地点で、ステイルは立ち止まってわずかに顔を上へ傾げる。
ステンドグラスの聖母が見下ろす祭壇に、ぽつりと佇む人影。
ステイルは目を凝らした。
インデックス=ライブロラム=プロヒビットラムが。
命よりも大事だとつゆかけらも迷いなく断言できる愛しい人が、確かに“そこ”にいた。
「十年ぶりですね、ステイル=マグヌス」
――――――その“前”に立ち塞がっている、『犯人』と共に。
「やはり、君だったのか」
あと三十分もしないうちに、喪われた記憶と過日の罪に苦しみ続けた男女が、
ある一つの決着を見るべく向かい合うはずだった場所。
「やはり、とは?」
ここ――――――聖ジョージ大聖堂で。
「君だと、思っていたよ。いや、君でなくてはならなかった、と言うべきなのかな」
男と『犯人』は実に十年ぶりに、女の生命を懸けて対峙した。
犯人は、感情を一切まとわず淡々と言の葉を紡ぐ。
「“私”の魔力の精製痕を、記憶していたのですか」
「その前に」
片手を挙げて遮って、ステイルは最優先事項を確認する。
「『首輪』のタイムリミットをはっきりさせておきたい。君なら知っているんだろう。
精緻な『死亡時刻』を、それこそ秒単位で」
「貴方の見立てどおりです。現時点から約一時間と三十七分後。
午前一時丁度に――――――この子は死にます」
「僕の見立てを聞いていたのか」
「はい」
事務的な、と言うよりも機械的な返答に、ステイルは刹那視界が霞むほどの苛立ちを感じた。
何度聞いても慣れる気のしない、ステイルにとって世界で一、二を争うほどに、腸をグツグツ
煮え繰りかえしてくれる呪わしい声。
単調に事実を作文するためだけのその言語機能の存在を、ステイルはかねてから蛇蝎のごとく
嫌ってやまなかった。
「知っているかい? 以前本で読んだんだが、『強烈な印象や刺激を伴う記憶は忘却されにくい』
らしい。だとしたら、“君”の魔力の波形を僕が忘れるはずがないだろう」
だが腹を据えてかからなければならないこの場面で、感情に身を委ねた暴走は許されない。
ステイルは先刻、脳を駆け廻ったシナプスの結合を言葉にすることで、自らに平静をもたらす
べく徐に口を開いた。
「もっとも、たとえ忘れていたところで。僕は必ずこの場所に…………君に辿りついていた
だろうがね」
「……大層な自信ですね」
「自信なら当然あるとも」
抑揚のない『犯人』の声に、かすかに淀みが生じた。
「君が彼女の『電話相手』だったというところまで含めて、僕には揺るぎない確信がある」
「なぜです」
わずかに鋭さを増した、詰問とかろうじて呼べそうな疑問がすかさず返ってくる。
ステイルの知る『犯人』は、常に一定のペースを崩さず流暢に言葉を発していた。
「六月の頭だったか。学園都市へと渡って、上条家に宿泊した最初の夜のことだ。
あの夜、君と彼女は“会話”をしているな? 君ともあろうものがまさか、
『記憶に無い』なんて駄弁は吐かないだろうね」
「だとしたら、どうだと言うのです」
「僕がアホ夫婦の罠にはめられて彼女の部屋に踏み入ってしまったとき、彼女はすでに
ぐっすりと眠っていた。たっぷり三分は硬直してから、僕は気が付いた。彼女は、
携帯電話を握りながら眠りに落ちていたんだ」
これはまずい、とは思った。
いますぐに踵を返して、愉快犯夫婦の寝室に怒鳴りこむべきだと理性が訴えてきた。
だが、ステイルは知的好奇心に負け――――その判断が、思わぬ結果を生んだ。
「もうしわけないとは思ったが、通話履歴を覗かせてもらったよ」
その日を境に、ステイルの心中に真実を求める欲求が明確に芽生えた。
ローラに『電話相手』の存在を示唆された時点ではまだ頭の片隅を間借りしているに
すぎなかったそれは、日増しに膨らんでいった。
『犯人』とインデックスが“会話”したとおぼしき日は、ステイルが推測可能な範囲内
では五回あった。
まずは「0715」当日の朝六時、上条美琴が目撃した一回。
『さっきに起こしに行ったら誰かと電話してたわよ』
その四日前、冥土返しの診察を受けた日に、病院のロビーで一回。
『ごめんなさい、ステイル。ちょっとお花摘みに行ってくるね』
先述した上条家寝室で一回。
ロシア成教総大主教が電撃訪問をかました日の夜半過ぎに、一回。
『うん……うん……じゃあ、またね』
さらに去年のクリスマスミサ、ステイルがインデックスに口を利いてもらえなかった時期。
彼女を説得に行った神裂が、それらしき場面を目撃している。
『失礼します。…………? 電話中でしたか?』
日付も時間帯もすべて判明している。
とくれば、次に為すべきは。
「電話会社に残された通話記録を、調べたのですか」
直近の三回分のデータを入手することは、そう難しくはなかった。
しかしステイルは100%を保証してくれる、確固たる証拠を求めた。
電話会社のサーバーには過去数ヶ月分の通話記録が保管されているが、それ以前の、
半年以上前のデータは消去されている。
インターフェース上で一見消去されたかに見えるデータを復元することは理論上不可能
ではない、とステイルの拙いコンピュータ知識は教えてくれたが、それを実現してくれる
敏腕ハッカーがいなければ机上の空論――――
そこまで考えて初めてステイルは、初春飾利の顔を思い出したのであった。
「彼女にはいくら礼を言っても言い足りないよ。もちろん十分な謝礼は弾んだがね」
話を持ちかけた当初は浮気調査がどうのこうのとさんざん揶揄されたが、ステイルが本気
だとわかると初春は多くを聞かずに調査を引き受けてくれた。
懐に手を差し込む。
「ちょうどいま、ここにその『結果』がある。見るかい?」
偶然持ち歩いていたわけではもちろんない。
これは『証拠品』だった。
ステイルは今宵、この場所で、愛を告げたのち、その口で。
インデックスを、糾弾するつもりだったのだ。
「十二月二十五日、午後九時前後。一月十八日、午後十時半すぎ。六月七日、午前零時前。
七月十一日、午前十一時前後。七月十五日、午前六時ごろ」
味気ないコピー用紙の左端に順に記された数字は、すべてインデックスが『電話相手』と
連絡をとったと推測される時間だ。
視線を紙切れの右半分に移す。
そこには通話相手の名義と総通話時間がはっきりと、こう記録されていた。
「通話相手、無し。通話時間、零分」
「彼女は、電話なんてしていなかった」
余人が見れば不可解な『結果』であろうが、ステイルはその意味するところを即座に理解できた。
インデックスが用紙に綴られた時間帯に、電話口に何事か語りかけていたのは動かし難い事実だ。
ならば、真実は一つ。
「彼女はただ、携帯電話を耳に当てて、誰かと電話する“ふり”をしていただけだった」
すべてがインデックスのさもしい一人芝居だったのかといえば、それは違う。
「あれは、周囲へのカモフラージュだったんだ。君と彼女は、電話などなくとも
いくらでも“会話”できたんだ」
逆に言えば、電話ではどうしても“会話”できない相手だったのだ。
そして会話の事実を身近な者にも――――ステイルにも、悟られたくない相手だったのだ。
これら諸条件を同時に満たす『適格者』を、ステイルは一人だけ、ただ一人だけ知っていた。
それこそが、眼前の『犯人』に他ならなかった。
「君は、彼女がほかの誰にも打ち明けようとしなかった悩みを、すべて彼女自身から
聞いているな? ほかに誰も知り得ない彼女の絶望の正体を、一から十まで何もかも
知っているな?」
愛する人にやんわりと叩きつけられるはずだった弾劾は標的を変え、本来よりもはるかに
増した苛烈さを伴って『犯人』を貫く。
この相手を尋問することでインデックスの懊悩を暴けるかもしれないのだ。
自然、ステイルの語調は次第次第に速まっていき、律動は最高潮に近づく。
「そしてその悩みこそが、彼女を死に至らしめようとして――――」
「否定します」
突如、だった。
押し黙るばかりだった『犯人』が、硬い声で反駁の口火を切った。
「なに?」
「貴方がたったいま示した記述は、何の証拠にもなっていません。
貴方が空想で割り出した『会話時間』と、『記録の残っていない記録』。
そのようなもので、貴方が私に辿りついたなどと……私は否認します」
「………………?」
ステイルは眉をひそめた。
『犯人』の言い草は、自らが『電話相手』その人であること自体への否認よりも、
インデックスを攫った『犯人』の特定方法への非難に重きを置いているように
ステイルには思えてならなかった。
しかし『犯人』がこうしてステイルの前に身を晒してしまった今になって、そこを
否定することに何の意味があるというのか。
推理の道筋に無理があったとしても、『犯人』が現行犯である以上虚しい反論ではないか。
まるで、そう。
「貴方に――――――いえ、貴方の立証は不十分です」
ステイルの思考過程や人格、ひいては存在そのものを、否定したがっているようだった。
「…………なにを苛立っているのか知らないが。いいだろう、付き合ってやるよ。
僕の“WHODUNIT”には別のルートもあるんでね」
ステイルは『犯人』を穴があくほどにねめつけながら、細く長く息を吐いた。
『犯人』は冷淡な眼差しで応じてくるが、口は開かない。
まだ対話を続ける意思はあると、そう見て良さそうだった。
それならそれで、ステイルには好都合である。
「さて…………僕がロンドンに仕掛けた『守護神』、あれをどう思う?」
「つまらない二流魔術師の、鼻で笑いたくなるような二番煎じです」
あんまりな物言いである。
だがステイルはと言えば、怒りよりも驚愕が勝っていた。
字面だけ見れば敵愾心剥き出しだと言うのに恬淡とした口調はまるで変わらず健在で、
そこに醸し出された筆舌に尽しがたいアンバランスは、ある種滑稽ですらある。
「端的かつ辛辣な講評ありがとう。本家ヴェントの『天罰術式』ならまだしも、僕程度の
術者が解釈を再定義した術式など、確かに“君”にすればお笑い草かもしれないね。
…………しかし、これは誰にも言っていないことなんだが」
口の端を、意識的に持ち上げる。
「『天罰』には本来、崇敬対象となる上位存在が必要だ。術式の構造的には、顔を思い
浮かべた状態で『敵意』を抱くとたったそれだけで昏睡状態に陥ってしまう相手だね。
本家本元の『天罰術式』では、それが術者たる『前方のヴェント』本人だった」
ステイルの言わんとするところに気が付いたのか、ごくわずかだが『犯人』が目を瞠った。
三月のロンドン事変で『半端者』は、陣地に入った瞬間に次々と苦悶に膝をついた。
しかし『半端者』たちは全員が全員、術者本人に『敵意』を抱いていたのだろうか?
一応はイギリス清教の主力に数えられるステイル=マグヌス。
その顔を知っていた者は決して少なくはなかっただろうが、末端構成員にいたるまで
ことごとくが、というのはさすがに考えづらい。
と、いうことは。
「対象を、書き換えたのですか」
「ご名答。もともと大幅にいじくって威力の下がった術式なんだから、どうせなら
とことん都合のいいように歪めてやろうと思ってね」
「いったい、誰を」
ステイルの吊り上がった口許が、もう一段角度を増した。
ステイル=マグヌスの義務はロンドンの守護だ。
そしてもう一つ、ステイルの誓いは、“彼女”をなにがあろうと守り抜くことである。
守るべき義務と、果たすべき誓い――――いまでは、叶えるべき夢。
ならば『守護神』の中核に据えるべき『人間』など、最初から一人しかいない。
「決まっているだろう。最大主教、本人だよ」
インデックスは最大主教への昇叙以来、メディアへの露出がすこぶる激しかった。
ゆえに三月の時点で、『イギリス清教=インデックス』という図式はすっかり成立していた。
つまり『イギリス清教が庇護した原典』を狙う第三世界のテロリストたちは、必然的に
頭のどこかで清教派の象徴たる彼女の姿を思い浮かべ、少なからず『敵意』を抱く。
結果、ステイルの思惑通り『半端者』は、飛んで火に入るなんとやらと相成ったのであった。
「それにしても、だ。こんなこじつけくさい、遠回しな『敵意』だけでも七、八割は
武装解除が可能なんだ。だったらもし、最大主教を“直接”手にかけんとする輩が
この術式にかかったら、いったいなにが起こると思う?」
唇を引き結び、眼光を鋭く尖らせる。
いよいよ、ここからが論証の核心だった。
「オリジナルの『天罰術式』と同じように運用すれば、最低限“意識を奪い”ぐらいは
してもおかしくはない。僕が何を言いたいか、もうわかっただろう?」
閉めきられた聖堂に、生温かい風が吹き抜けたような気がした。
「僕はさっきから君の話をしているんだよ、『誘拐犯』」
ステイルはインデックスを誘拐された直後、間髪いれずに『守護神』を起動させ
ロンドンの探知網に意識を向けた。
魔力反応がたったいま自分のいる場所から聖ジョージ大聖堂へと“事もなげに”
移動しているのを感知したとき、ステイルは『犯人』の正体を悟ったのだった。
魔力を精製する者が彼女をさらったのにも関わらず、『天罰』を安々とくぐり抜ける。
そんな異常事態を説明できる可能性はいくつか考えられるが、さっきの『通話記録』と
あわせて推理すれば答えは明々白々である。
「この『犯人』は、彼女に『敵意』などみじんも抱いていなかった」
つまり『犯人』は、いつかの上条刀夜と同質なのだ。
ステイルは指先にそっと炎を宿した。
「……というより、抱くことが“できなかった”。この方が的確だ。なぜなら、
『犯人』の存在理由は」
腕を軽く左右に振った。
聖堂中に設けられた燭台に次々に火が点り、聖堂に佇立する“ただ二人”を照らし出す。
「彼女を、『禁書目録』を、守ることだったんだから。そうだろう――――」
『犯人』は沈黙を返答に選んだ。
事実上の首肯と考えて間違いなかった。
ギラギラした蝋燭の熱気に、その涼やかな風貌が浮かび上がる。
ステンドグラスの聖母にも見劣りしない、宵に融けるような銀糸。
一億ドルの宝玉よりもなお現実感の薄い、不透明な瞳の色彩。
硬質な言の葉の数々を紡ぐ、形の良い唇。
そしてなにより、天使をも凍りつかせるその表情の冷たさ。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
神父の暗赤色の瞳から延びる視線が、『犯人』のくすんだエメラルドグリーンと交わった。
ヨハネのペン
「『自動書記』」
「いや、違うか」
Passage6 ――十六番目の失敗者――
「『魔女』と、そう呼んだほうがいいのかな」
――――END
――Passage7――
ステイル=マグヌスは、彼女の瞳の色が昔から大嫌いだった。
愛する少女の色と酷似しているにもかかわらず、まるで温度を異にする暗い濃緑。
インデックスの翠が燦々と射す木漏れ日を透かした若葉色なら、彼女の緑は鬱蒼と茂る
樹海の闇そのものだった。
「十年……いや、十一年前もこの場所だったね。君と闘ったのは」
「私の行為に戦闘という意味が付与されることはありません。私は『禁書目録』を防衛
するため、障害となる万象を『排除』するのみです」
「…………その憎らしいまでの無感情。それでこそ『自動書記』だ」
『自動書記』。
それはイギリスという国家が『禁書目録』に仕掛けた魔術。
『首輪』が時に絞首台のロープと化す『時限爆弾』だとすれば、さながら防護服の役割
をも同時に果たす、きわめて強固な『拘束衣』。
そして絶望と無力に塗れたステイルと神裂の三年間を、象徴するような存在だった。
「“私”の健在程度なら知れているとは思っていたましたが。貴方への評価を少々
改めなければならないようです」
「馬鹿にしているのかい。さすがにそれぐらいは、ね」
ステイルはこの六年で、何度もインデックスの中に“いる”『自動書記』の痕跡を
目の当たりにしてきた。
たとえば、『図書館』から情報を直接読み込む際の、特徴的な瞳の輝度の低下。
たとえば、魔力を持っていないはずなのにきっちり阻害されていた、『心理定規』や
『心理掌握』らの精神感応系能力。
そして極めつけは。
「だいたい、だ。七月十五日に『アドリア海の女王』を発動する時、僕は最大主教から
魔力を借りている。あれは君のものだったんだろう?」
「……はい。あれは私を構成、維持している魔力を一時的にカットして確保したものです」
「その節は大変世話になったね、礼を言うよ」
ステイルの慇懃無礼への返答は、冷たく細められた瞳が代弁した。
神父も負けじと眼光を鋭くし、視線を真正面からかち合わせる。
ステイルのなにが気に入らないかは知らないが、そんなことは今は些事である。
「なぜ、彼女を僕から遠ざけた? このままでは彼女は死ぬんだぞ」
「死なせません」
『死』という単語に反応したかのように、『自動書記』が間髪入れずに返事を被せてきた。
「死なせない、だと? 彼女を縛っている鎖の分際で、一丁前に内側の虜囚を救おうと
言うのか。泣かせるね」
そんな彼女をステイルは嗤った。
『自動書記』がステイルを疎んじているのなら、逆もまた真。
この女が気に食わない――――などと、可愛いレベルで済まされるものではなかった。
「…………いけないのですか」
脳を焦がすような情動を抑えつけていると、静かな声がステイルの耳朶を打つ。
「私が、この子を守りたいと思ってはいけないのですか」
まもる?
守る、だと?
「君が、彼女を守るだと? それが君の、建前上の存在意義だということは認めよう。
僕の感情面は間違っても納得などできはしないが、いまこの時だけは飲み込もう」
ふざけるな、心がそう哮った。
しかし、飲み込む。
「飲み込んでやるから、彼女をこちらに“渡せ”。『首輪』を解除しなければ、
君の存在理由は露と消えるんだぞ」
はたしてステイルごとき凡百の魔術師に、『首輪』を外すことができるかは定かでない。
だが今は、できるできないの問題を議論している暇などなかった。
インデックスが死に瀕している現実がある以上、尽くせる手は尽くす、当然のことだ。
もちろんステイルはベストを尽すことが肝要である、などという堕落したスポーツマン
シップの成れの果てを標榜するつもりはない。
『成功』は100%の既定事項でなければならず、そのための手はすでに打っている。
――――しかし。
「拒否します」
「……現状を把握できないほど卑小な思考回路の持ち主だとは知らなかったよ。いいか、
これは依頼でも嘆願でも陳情でもない、“命令”だ。今すぐ彼女の身体を明け渡せ」
「拒否、します」
「拒否して、どうする。その先になにがある。君が『首輪』を解除するのか?
やれるものならやってみろ。十五年の間に幾度もあった『死』を乗り越える
チャンスを、すべて坐して見すごした君に。できるものなら、な」
『首輪』と連動していた『術式』にかける言葉としてはあまりに不当な、
そして無意味に辛辣な罵声だった。
『自動書記』に自我などない。
当然のことだ。
彼女は組み込まれた術式に従って『禁書目録』を生命の危機から遠ざけ、『首輪』への
干渉があれば世の魔術師をあざ笑うかのような圧倒的な力で侵入者を排除する、
ただそれだけの――――そうであれと定められただけの存在である。
そこに、存在必然性のない感情が介在する余地など、あるはずがない。
だが眼前の光景はどうだ。
「簡単なことです。『首輪』の解除方法は、“最初から設定されているもの”を用います」
彼女はステイルの目から見ても、『人間』だった。
「貴方は、ただ見ているだけでいい……いえ、貴方になど任せるつもりは毛頭ありません」
己の根源に設定された真の存在意義に逆らい、インデックスを救う方法を
“曲がりなりにも”提示する彼女は。
「“私”が、この子の記憶を、十一年間生きた“インデックス”を殺します」
ただその事実だけでも、『人間』と呼ぶに相応しいのではないか。
「私が、十六番目の『失敗者』になります」
「…………もしかしたら、と予測はしていたが。その上で、この言葉を贈らせてもらうよ」
人間である彼女は。
「ふざけるな」
人間だからこそ、ステイルとぶつかりあっているのではないか。
「繰り返す気なのか、あんな事を。それで彼女が救われるとでも思ってるのか」
「――――――っ」
人間が息をのむような音吐を、確かにステイルの耳は拾った。
「彼女はすでに、“知っている”んだぞ。“忘れられなかった”んだぞ」
「……を……な」
『上条当麻』の一度目の死。
無限にも思える死の連鎖を壊せなかった、ステイルと神裂と、アウレオルスの存在。
直面したインデックスは知識として、感情として、情報として蓄えてしまった。
「人一人の記憶を殺し尽くすことがいかに残酷で、その運命を歪めるのか」
「し………………くな……!」
記憶を失う前の愛した人を、記憶を失った別人に重ねてしまうことの痛みを。
記憶を失う前の自分を、記憶を失った自分に重ねられる苦痛を。
「それでどれほどに残された彼女が苦しんだのか、知らないなどとは言わせないッ!!」
「 知 っ た よ う な 口 を 利 く な ッ ! ! ! ! 」
起こりえるはずなどない、死火山の爆発を目の当たりにしたようだった。
おそらく一人目の『上条当麻』や神裂ならそう評するだろう。
『自動書記』の感情無き殺意にさらされた経験のある者なら、誰でも驚愕に顎を外すだろう。
「貴方がこの子の何を知っている!? たかだか十四年外側から見守っただけの男が、
この子の“幸せだったほうの”半生しか知らない男が、この子の内側の果てなき懊悩の、
私のどうしようもない歯痒さの、いったいなにを知っていると言うのですッ!!」
激情。
眦をつり上げ、白磁のような歯を軋ませ、月光を浴びた柔肌がなおも紅く照る。
怜悧で無感情だったはずの女の美貌が、これでもかと憤怒一色に染め上げられている。
それはこの上ない、感情の昂りの顕れ。
彼女がインデックスの『電話相手』であることの、なによりの証明。
同時にステイルはその爆発を冷静に、沈着に、『人間』の証明として捉えることができた。
「知っているとも」
なぜならば、知っていたからだ。
「少なくとも君の認識下における『ステイル=マグヌス』より、僕はよほど多くを知っている」
ステイルが渡された真実が、インデックスの闇のすべてを解き明かせるのかはわからない。
しかしステイルは知ってしまった。
知ることを欲したがゆえに。
「僕は、『魔女白書』を知った」
ここで時計の短針を、七周ほど巻き戻す。
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聖ピエトロ大聖堂のとある一室。
「それ以前はかのシステム、いえ、“プラン”は、こう呼ばれていたのよ」
金ピカの刺繍が所狭しとばら撒かれたクロスと、それに覆われた卓。
挟んでステイルの向かい側。
ローラ=スチュアートが勿体ぶって一呼吸差しこみ、笑みをいっそう不気味に深める。
「『魔女白書』計画、とね」
静寂――――
――を破ったのはカリッ、という顆粒を噛み砕いたような小気味いい破砕音だった。
「うん、美味だ」
「………………あのー?」
ステイルはテーブルに置かれたバスケットから固焼きのビスコッティを摘まんで、
『ローラ様スペシャルティー』にちょん、と浸してのち口に運んでいた。
こうでもしないと、コンクリートのような硬度を誇るこの菓子には歯が立たないのだ。
「…………す、ステイルくーん、どうしたりけるのかしらー?
もっとこう、『なんだ、なんなんだ、それはッ…………!!』
みたいなリアクションをいみじく期待しておったのだけれどー?」
「そう言われましても。ああ失礼、この一枚を食べ終えるまで待っててください」
「うう、あなたの中でのローラちゃんの優先順位がよく知れる発言なりしよ……」
よよよ、と白々しく指で“の”の字などなぞって嘆くローラをステイルはきっぱり無視した。
予告通り紅茶に浸けていた一枚を、たっぷりと時間を浪費し、咀嚼し終えてから顔を上げる。
「『魔女白書』なんて言葉を、いかにも仰々しそうに持ち出されましてもね。
こちらとしても反応に困りますよ」
魔女とは読んで字のごとく『魔術を使う女』のことであって、それ以上のものではない。
異端狩りに特化した性質を持つ『必要悪の教会』所属魔術師として立脚すれば、確かに
そこそこ重要なワードだと解釈できなくもないだろう。
しかし実際問題、魔女の称号を自他の是非を問わず頂戴している女などイギリス国内だけ
でも数千人はくだらないはずだ。
インノケンティウス八世が権威を振るった暗黒の時代など、今は昔の御伽草子なのである。
「そんなありふれた存在に関する記述など、記録して何になると言うんです」
自分達は『禁書目録』の正体について語り合っているのではなかったのか。
この言葉が字面そのままに真実を表現しているとしたら、拍子抜けもいいところである。
「んもう、あまり失望させてほしくなきことよ、ステイル。『魔女狩り』などという
高尚な趣味の持ち主たるあなたならいと易くわかりけるはずよ」
「誰が火あぶり刑を眺めて愉悦に浸る危険人物だ!」
「そこまで言ってなきにつき候」
「もう目茶苦茶じゃないっすか」
まあ当然、ステイルは“これ”が単なる入口だとは理解している。
少々腹立たしかったから、意趣返しに焦らしプレイを挟んだだけのことだ。
なにが腹立たしいのかと言えば、結局はいつもの迂遠でまやかしじみた、くどい説明
タイムに入ったローラ=スチュアートその人がである。
「ステイル。『魔女狩り』が中世ヨーロッパで繰り広げられた惨劇を指すだけの
言葉でないことは、もちろんあなたも知っているわね?」
あっさり気を取り直したらしいローラが、紅茶を一口すすって微笑む。
ステイルも茶番はここまでとばかりに表情を引き締め、顎に手を当てて考え込む。
『魔女狩り』。
ステイルの切り札の由来でもある、焔の時代の謂れなき異端狩り。
偉そうな口を利けた身の上でもないが、それはステイルのちっぽけで、薄っぺらく、
青臭い――――しかし絶対に譲れない『正義』とは、相反するものである。
神裂やインデックスにさえ語ったことはないが、自らの『魔女狩り』は誰かを守るため
だけに執行されるものでなければならないのだと、ステイルはそういうルールを密かに
己に課している。
そこを曲げてしまえばステイルはきっと、永遠に立ち上がれなくなっていただろうから。
閑話休題。
とにもかくにも『魔女狩り』はそこから転じて、ある一定のコミュニティやソサエティ
内での謬見に基づく差別や排除行為を表す暗喩として――――
「…………ああ成程、そういう事ですか」
ステイルは頤から手を離して、理解した事実を飲み込むようにゆっくりと頷いた。
『魔女』は時代や国を問わず、『排除されるべき異端』を表す隠喩として扱われてきた。
つまるところ、これは単なる喩え。
もう少し魔術的な用語を用いて説明するなら『言霊』を見立ての対象に据え、なんらかの
異なる意味合いを付加する『偶像の理論』の特殊応用、といったところか。
「『魔女白書』と言うワードもなにかしらの『異端』の比喩にすぎない、ということか」
「奴に自らを異端と称してへりくだるような、殊勝な心があったとは思えないけれど」
「奴?」
「…………兎に角、『魔女』とはただのメタファーよ」
「何のメタファーなのかが、話の上でもっとも肝要なんですがね」
「せっかちも行きすぎると、馬鹿を見るのは他ならぬあなたよステイル。主に男女関係で。
ここまではまだまだオープニングトークにすぎないわ♪」
「司会者が延々とくどい前口上に時間を費やすようなバラエティ番組なら、僕は五分で
切る自信がありますよ」
ステイルは腰をソファから浮かしかけた。
ローラはさも慌てたかのように振る舞って、諸手のジェスチャーで座れ、座れと促してくる。
煙草が懐にないのが残念でならなかった。
「……コホン。では、さっきのあなたの疑問に、順に答えていきましょうか。最初は
“一〇三〇〇〇冊”についてだったわね」
「…………ちっ」
隠そうともせず、盛大に舌を打った。
この絶妙なカードの切り方は、どこまでいってもステイルのよく知る女狐の手管である。
弾力性豊かな高級ソファに再び、身を投げるようにしぶしぶ腰を下ろす。
「僕が提示したのは、第一に『いかにして“一〇三〇〇〇冊”まで蔵書数を増やしたのか』
という疑問。第二に『なぜある時点から“一〇三〇〇〇冊”が増えていないのか』です。
完全な回答を、今度こそ期待してよろしいんですね」
魔道書の原典(オリジン)が世界中に散らばっている以上、一年間でインデックスが記録
可能なのはよくて千冊強、といったところだ。
そしてインデックスは、ステイルが初めて出会った十四年前、十二歳の時点ですでに
十万冊を有していた。
1000×12=103000?
いずれかの変数に錯誤がなければ成立し得ない数式である。
これが、第一の疑問。
そして第二に、十一年前のアウレオルス=イザードの発言だ。
『一〇三〇〇〇冊もの魔道書を一身に背負い、決してその呪縛から逃れることのできぬ少女』
アウレオルスがインデックスのパートナーであったのは、ステイルや神裂の一年前だ。
当然、彼が『禁書目録』に言及する際口にする冊数は、ステイルたちがインデックスと
初対面を果たした時点での数字と一致している――――はずなのだ。
ステイルたちの二年間を彼が逐一監視していた、という可能性は万に一つもあり得ない。
光の世界から身を隠し世情に疎くなったがゆえに、あの男は『すでに救われていた』
インデックスを救うべく、噴飯ものの悲喜劇の舞台にのぼってしまったのだから。
導出可能な結論は、至極単純なものだ。
要するに最低でも『禁書目録』は、アウレオルスの手を離れた時点から一冊たりとも
増加していないのである。
これらの疑問点を完璧に解消できる真実こそが、ステイルの要求だった。
「ステイル、あなたの言う通りよ。あの子は、インデックスは」
そう切り出したローラを見ると、はっとするほど真剣な顔つきをしていた。
われ知らずステイルが居住まいを正すと、女は『第一の虚構』を暴露した。
「二十六年前に生まれた時点で、既に“一〇三〇〇〇”冊を持っていた」
「………………彼女は、二十六年前に産まれた。それは間違いないのですね」
「ええ、安心なさい。正真正銘、彼女は二十六歳の乙女。あなたが危惧するように、
ウン百歳のおばあちゃんなどではないわ」
「貴女とは違って、ね」
「一言多し!」
軽口で返したものの、内心ステイルは安堵していた。
インデックスが実は自分よりはるか昔から呼吸して、原典の蒐集を行っていたのではないか
という仮説は確かにステイルの中にあった。
『1000×12=103000』の内の、『12』こそが誤謬だったのではないか、と。
まあそれも大した問題ではないのかもしれない。
彼女が何歳であろうと、たとえば実年齢二百五十歳の媼であっても、ステイルの愛は永遠に、
絶対に、朽ちはしないのだから。
「しこうして、それでも歳が近きに越したことはないでしょう?」
「まあ、それはそうなんですが……って言ってる場合かっ! 話を進めますよ!!」
思わずポロリと本音が漏れて、ステイルはまたも顔を赤くした。
ローラは素敵に無敵にそんな神父を笑い飛ばす。
「ふふ…………でもね、ステイル。間違っている数字が『12』だというのは、
大正解なのよ?」
――――不発に終わった爆弾の導火線に、楽しげに火を付けながら。
「………………なにを言っているんです?」
「この式はね、『12』の部分に本来はいかな数値が入るのか、という点こそが肝心なの。
試しに『X』を置いて変形してみましょう。ミドルスクール時代を思い出して、さぁ♪」
「通ったことないんですけどね、僕」
1000×X=103000.
X=103000÷1000.
「先ほど言った通り、インデックスの生誕前に一〇三〇〇〇冊は出来あがっていたわ」
よって、右辺に26を加算する。
X=103000÷1000+26.
X=129.
「百二十九…………?」
「『X』の単位はなんだったかしら、ステイル?」
「百二十九、“年前”。十九世紀終わりから、二十世紀初頭……?」
「ピンポンピンポーン♪ より正確に言えば――――――“一九〇六年”」
ステイルはとっさに懐のカードに手を伸ばしていた
家庭教師然とした鬱陶しい注釈を加えてきた声音の温度が、“その”数字を境に
急激に零下まで落ちこんだからだった。
「『魔女白書』計画のそもそものはじまりは、この年だった」
「し、しかし…………その時代にはまだ彼女は影も形もなかったと、貴女自身がたった
いま断言したではないですか!」
「確かに、そうね。でも」
インデックスはまごうことなき二十六歳。
一九〇六年に彼女はまだ生まれてすらいないと、ステイルはそう声を荒げる。
対する、『第二の虚構』に手を掛けたローラ=スチュアートの表情は――――
「インデックスはね、“三人目”なの」
瞳を潤ませているでもないのに、涙を溢れさせてもまるで不思議でない、そんな表情。
後悔か、哀悼か、苦痛か、遠い過去のなにがしかの感情に裏打ちされた、壮絶な表情。
しばしの間、ステイルはローラの相貌にばかり視線を奪われ呆然とした。
だから、その言葉の意味するところへと、即座に意識を向けられなかった。
柱時計がごおん、と唸って十時を回ったと告げる。
同時に、今度こそステイルは、掛け値なく全身を大きく震わせた。
「さ…………ん……?」
「一九〇六年は、“一人目”が、“彼”の最初の娘が死んだ年よ」
一人目と彼。
彼とは誰だ。
一九〇六年に、一人目が死んだ。
彼と一人目は、親子で――――
気が付けば拳を、砕かんばかりにマホガニー製の頑丈なテーブルに叩きつけていた。
「ま、さか?」
縋るような目でステイルは、ローラに恐る恐る目線を移す。
わかってしまった。
点と点が思いもよらぬ結合をした結果、理解してしまった。
だがそれを、叶うことなら明確に否定してほしい。
言葉には出さずそう告げる。
するとローラは、微笑むでも身悶えるでもなく、無表情に首を縦に振った。
「娘の名はリリスと言ったわ。リリスは実の父親の手によって原典の毒を次々に脳内に
注ぎ込まれて、狂乱の果てに、世にもおぞましい死を遂げた」
淀みのない口調と、正常そのものの顔色が、逆に異様だとステイルは感じた。
「第一次計画は見事に失敗。しかし“彼”は無論、そこで諦めるような男ではなかった」
完膚なきまでに、百人見れば百人が断言するであろう程に、ローラは正気だった。
・ ・ ・
「リリスと同形質の遺伝子を持つ、彼女の妹、二番目の娘に、リリスの死後脳から
抽出した、電気信号となった原典を移植した」
どこまでも正気のまま、ローラは刻薄なる狂気を口にしていた。
「それが――――――」
見るに堪えなかった、のかもしれなかった。
熱に浮かされたようにステイルは、囁き声でその先の言葉を引き取っていた。
「ローラ=ザザ」
「貴女が、『禁書目録』だった?」
男は、認めがたきを認めるかのように呻吟した。
Passage7 ――姉妹――
「あなたはやっぱり優しい子ね、ステイル」
女はまたしても、泣きそうな顔で微笑していた。
続き
ステイル「まずはその、ふざけた幻想を――――――」【4】