開かない扉の前で【#01】◆[Alice] A/a
開かない扉の前で【#02】◇[Diogenes] R/a
開かない扉の前で【#03】◆[Paris] A/b
開かない扉の前で【#04】◇[Stendhal] R/b
開かない扉の前で【#05】◆[Cassandra] A/b
開かない扉の前で【#06】◇[Munchausen]
開かない扉の前で【#07】∵[Pollyanna] S/a
開かない扉の前で【#08】◇[Stockholm] R/b
開かない扉の前で【#09】¬[Jerusalem] S
開かない扉の前で【#10】◆[Lima] A/b
開かない扉の前で【#11】∴[Dorian Gray] K/b
開かない扉の前で【#12】◆[Rapunzel] A/b
開かない扉の前で【#13】◇[Monte-Cristo] R/b
開かない扉の前で【#14】∴[Cheshire Cat] K/a
開かない扉の前で【#15】◇[Nightingale]
◆[L'Oiseau bleu]A/a
わたしがいない間に、二週間が経っていた。
わたしが帰ってきてから、二週間が過ぎた。
季節はもう、秋へと移ろっていた。
わたしが帰ってきた日の夜、おばあちゃんはわたしを抱きしめてくれた。
警察の人に事情を聞かれたけど、どう答えればいいのかわからなくて、何も言えなかった。
二週間の間野宿をしていたにしてはわたしの服装は綺麗で、どこかにさらわれていたとしても綺麗で、
だから結局警察は、不良少女の家出という現実的な解釈をしたのだと思う。
たいしたことは聞かれないまま終わってしまった。
おばあちゃんは高校に届け出てはいなかったみたいで、だからわたしは、
季節の変わり目にタチの悪い風邪を長引かせていただけだと、周りには思われていたようだった。
その奇妙な現実的な感覚は、かえってわたしの頭を混乱させた。
わたしの世界では相変わらずお兄ちゃんは死んでいて、相変わらずお母さんは傍にはいなかった。
お兄ちゃんが貯めてくれたお金もそのまま残っていた。ただ時間だけが流れていた。
そのせいでまるで、あの世界で起こった何もかもが悪い夢だったんじゃないかという気さえした。
――言ったろ。そのうち覚める夢だと思うことにしたんだ。
結局、彼の言葉の通りになったのかもしれない。
そのうち覚める夢。
けれど、夢から覚めたはずのわたしの傍に、ケイくんはいない。
それがどうしてなのかは、分からない。
でも、よく考えてみたら、ケイくんがこっちに帰ってきていたとしても、わたしはケイくんを見つけられないかもしれない。
同じ高校に通っているとはいえ、この学校の生徒なんて何百人といて、
その中で彼だけを見つけ出すなんて至難の技だし、わたしは彼のクラスも知らなかった。
もちろん見つけ出そうと思えば名前を頼りに探すことだって出来ただろうけど、それはしなかった。
屋上の鍵は閉まったままになっていた。彼はわたしの前に姿を見せない。
そうである以上、ケイくんは帰ってきていない、と考えるのが、自然なことに思えた。
それでも毎晩夢を見るたびに、ちらつくのはざくろの言葉、ケイくんの声。
――俺と、もう関わらないでくれないか?
――だからね、"血は流されないといけない"。
不吉な響きと、拒絶の言葉。
それがわたしの心を不安にさせなかったと言えば、嘘になる。
一週間前の土曜、わたしはひとりで例の遊園地の廃墟へと向かった。
同じような道のりを一人で歩いて、ミラーハウスのあった場所まで。
その日は雨は降っていなかったし、奇妙な物音も聴こえなかった。
ミラーハウスだった建物は、もうどこにもなかった。
◇
ケイくんのいないままの高校で、文化祭が開催された。
どこにも行き場もないまま、わたしはあちこちをうろうろしたり、校舎裏で本を読んだりして過ごした。
たまにクラスメイトに話しかけられたりもしたけど、何かを手伝えとか、そんなことも言われなかった。
べつに仲が悪いわけでもない、苦手なわけでもない、ただひどく疲れていたし、
わたしが顔を出して楽しい顔をするのは、果実だけを横取りするようで憚られた。
それに、楽しい顔なんてできそうにもなかった。水を差すくらいなら、誰にも見咎められないところにいた方がいい。
校舎裏の古い切り株に腰かけたまま、ページをめくる手がふと止まった。
風が肌を撫でていった。
わたしは思う。
苦しかったのだろうか?
つらかったのだろうか?
悲しかったのだろうか?
寂しかったのだろうか?
こっそりとお兄ちゃんの部屋から持ち出した本。
紙面に目が止まる。
"かたわらにいないと
あなたはもうこの世にいないかのようだ
窓から見えてる空がさびしい
ひろげたまんまの朝刊の見出しがさびしい"
こちらの世界に帰ってきてから、わたしは、お兄ちゃんの部屋の本棚の中身と、祖母が残していたアルバムを眺めた。
写真に映るのが嫌いな人だったけれど、それでも、お兄ちゃんの姿はそのうちの何枚かにちゃんと残っていた。残っている。
その写真の中で、お兄ちゃんは笑っている。笑っていた。
そうなのだと思った。
いつか、遠くの薔薇園に、家族で行ったことがあった。
家族で、といっても、祖父母とお兄ちゃんと、それからわたしだけだったけれど。
生憎の曇り空で、人気は少なかったけれど、西洋風の庭園に広がる色とりどりの薔薇たちは、
見られるかどうかなんてはじめから気にしていないかのように綺麗だった。
そんな景色のなかで、わたしはお兄ちゃんと、少しだけ話をした。
どんな話をしたんだっけ。たしか、神さまの話だ。神さまの、悲しみについて話をしたのだった。
それはどこにでもありふれていて、取るに足らないもので、それでも捨て置けないものなんだと。
そんな話をしたのだった。
そのとき、お兄ちゃんは、どんな顔をしていたっけ?
わたしは、そのとき何かを言って、くだらない、子供っぽいことを、きっと言って、
お兄ちゃんはそのとき、笑っていたのだった。
そうだった。笑っていた。
笑っていたのだと、わたしは思い出した。
苦しかったのだろうか?
つらかったのだろうか?
悲しかったのだろうか?
寂しかったのだろうか?
きっと、そのどれもが正解だ。
でもきっと、それだけじゃなかった。
それだけじゃなかったと、わたしは信じてもいいだろうか。
……違うか。
それだけじゃなかったと、今のわたしは、そう思える。
きっと、それだけじゃなかったと、そう思う。
そんなふうに思うことに、誰かの許可なんて、いらない。
誰かに許してもらう必要なんて、どこにもない。
ここにいることも。
誰かを好きになることも。
誰かと一緒にいようと思うことも。
そうしてもいいのだろうかと、誰かに求めたところで仕方ない。
きっと、そうなのだろう。
そう言ってしまいたくなるのは、きっと、自分に自信がないからで、
それでも、誰かに許してもらえることを期待しているからで、
その浅ましさが、弱さが、でも、どうしてだろう、わたしには、
そんなに、悪いものだとも、思えないような気がしていた。
◇
「……何やってるんだ、こんなところで」
不意に、そんな声が聞こえた。
「ひとりなのか?」
聞き覚えのある声だなあ、とわたしは思った。
なんだか、まどろみのような心地だった。
「……なんだか、悪いような気がして」
「何が?」
「楽しむのが」
「誰に」
「……ううん。どうだろう、いろんな人に、かな」
「楽しむのに、悪いも何もないだろう」
「ほら、それでも、お通夜に携帯でお笑いの動画を見る人はいないでしょう」
「……ひどい例えだな」
「でも、そういうこと。遠慮というよりは、粛み、という感じ」
「分からなくは、ないけどな」
「笑えないわけでも、楽しめないわけでもないの」
「……」
「でも、今はもう少し、喪に服していようかと思って」
「喪、か」
「……ね、どこに行ってたの?」
「長い話になる」と彼は溜め息混じりにいって、わたしの背後に腰掛けた。
同じ切り株に、わたしたちは背中合わせに座っている。
風がまた吹き抜けて、本のページをめくる。
木々の梢で赤らんだ葉が、いくつかひらひらと舞い落ちていく。
「どうしても聞きたいっていうなら、話してやってもいい」
「そんなに、興味があるわけじゃないかな」
「……なんだよ。気になるだろ、少しは」
「聞いてほしいの?」
「いや。でも話すよ。面倒なところだけ、省略するけど」
「うん。そのくらいが、ちょうどいいかな」
彼がわたしの背中にかすかに体重をかけた。
「ね、ちょっと重い」
「悪いな。さっき帰ってきたばっかりで、疲れてるんだ」
「……さっき?」
「ちょっとした賭けに巻き込まれてたんだ。もっとも、俺がどう動くかが対象の賭けで、俺が賭けたわけじゃないけど」
「ふうん」
「まあ、でも、結果だけ見れば、俺は騙されなかったってことになるんだろうな。あいつの負けだ」
「……じゃ、勝ったの?」
「だから、俺は参加者じゃなかったんだよ。……でも、まあ、勝ったっていえば、勝ったな。ここにいるわけだから」
「大変だったんだ」
「そう、大変だった」
「……帰ってこないんじゃないかって、思ったよ」
「俺も、そう思ったよ」
「でも、帰ってきたんだ」
「帰ってこないと、また拗ねる奴がいそうだったからな」
「……大丈夫だったよ」
「それはそれで、ちょっと残念な気もするものだな」
「そうなの?」
「いなくても大丈夫って言われるよりは、いないと困るって言われた方が嬉しい」
「……」
「たぶん、そんなもんだよ。多かれ少なかれ、人間なんて。誰かに、必要とされたがってる。必要としてくれる誰かを必要としている」
「そうかも」
「でも、大変だったよ。なあ、俺がどうやって帰ってきたと思う?」
「わかんない。そもそも、どこに行ってたの?」
「ちょっと、いろいろな。案内役がいないせいで、あちこち時間を飛んで回ってたんだ。ざっと、三日間くらい、望む時間につくまで行き来してた。
途方に暮れたよ。なんだかよく知らない世界まで混じってくるし、あいつらの追いかけっこも続いてたし」
「……そうなんだ?」
「ああ。大変だった。……伝わらないか?」
「うん」
「参ったな」
「ね……」
「ん」
「帰ってきてくれて、よかった」
「……」
「ホントは、不安だった。心配、してた。だって、だってさ」
さっきから、高ぶっていた気持ちをどうにか押さえ込んで、ようやく落ち着いてくれたと思ったのに、
だからもう、振り向いても平気だと思ったのに、また、だめになりそうだ。
それでも、もう、振り向こうと思った。
彼の顔が見たくなった。
「ケイくんがいないと、困るよ、わたし」
彼は、わたしが振り向いた気配を感じたのだろうか、肩越しに少しだけ首をかしげて、わたしと目を合わせて、笑った。
ケイくんは、何気ないふうを装ってみせた。
「そうかい」
その照れ隠しが、ひどく懐かしい。
「言ってくれた言葉、無効になったりしないよね?」
「……どれのことだ?」
「全部」
「……ま、そうだな」
「ね、だったら、わたし、ケイくんと一緒にいてもいいかな」
「……」
「だって、ケイくん言ってたもんね。わたしがいなきゃ、困るんだって」
「……そんなこと、言ったっけか?」
「言ったもん」
「……言ったな」
「だよね」
「……なあ、なんか」
「なに?」
「ちょっと、変わったか?」
「……そう、かな。そんなこと、ないと思うけど」
「いや、でも」
「もしかしたら、気分が変わったからかもしれない」
「気分?」
「もう少し、信じることにしたから。いろんなもの」
「……そっか」
わたしは立ち上がった。校舎の向こう側から、楽しそうな声が聴こえる。
こことそことの距離は、ほんの少し、遠い。
でも、今はべつに、ここでいい。このままでいい。
わたしは、切り株の上に膝を揃えて載せて、彼の首筋に自分の腕を回した。
肩に頭をのせてみたら、彼はくすぐったそうに身をよじった。
「なんだよ、急に」
「べつに、なんでもないよ」
「……敵わないな、ホントに」
そんな声が、当たり前に帰ってくることが、今は嬉しくて仕方ない。
彼には、それがちゃんと分かっているんだろうか。
「ケイくん」
「……なんだよ」
「……おかえりなさい」
彼は、おかしそうに笑って、それから、首筋にまわしたわたしの手の甲を、指先で撫でた。
「……ただいま」
空は晴れやかに澄みわたっている。
わたしたちは自分たちの身の回りに起きたことなんてひとつも変えられないままだった。
彼の話だとあの追いかけっこは終わっていないらしい。きっとまだ、彼女が彼女を追いかけている。
あの扉をくぐって、何度も何度も繰り返しているのだろう。
たどり着けるかも分からない場所を目指し続けている。
それをどうするべきなのか、どう思うべきなのか、わたしにはわからない。
過去は変えられないし、開けられない扉は開けられないままだ。
今となっては、お兄ちゃんの真意なんて、鍵のかかった扉の向こうにしまい込まれている。
わたしはやっぱり、その扉を潜り抜けることができない。
でも、その向こうが、悲しみや寂しさだけではなかったはずだと、今のわたしは、信じることができる。
それだけではなかったはずだと、思い出すことができる。
そして今は、彼が傍にいてくれていて、それを許してくれていて、
だからもう、足りないものなんてひとつもないような気がしている。
わたしは心の中だけで誰かにごめんなさいを言った。その意味は、きっと誰にもわからないし、わたしにも本当はよくわかっていない。
でも、ごめんなさいを言った。
「少し、寒くなってきたね」
なんて、そんなことを、平然としたふりをしながらいいながら、
きっと、今日のこの瞬間のことを、わたしはいつまでもいつまでも忘れないだろうな、と、ぼんやりと思った。
「……そうだな」と、ケイくんは、なんでもいいような相槌を打った。
また風が吹いて、落葉をさらっていく。
「そろそろ、行こうか」
わたしは、そう言って彼の体から離れて、立ち上がった。
「どこに?」と彼は言う。それでも、わたしに合わせて立ち上がる。
「わたしたちは日常に帰らないとね」
は、と彼は笑った。
わたしたちは、手を繋ぎ直して、校舎裏の切り株に背を向ける。
無言のまま前を見ている彼の横顔を見て、
そういえば、まだちゃんと、わたしの方から好きだって言ってないな、と、どこか場違いなことを思ったけれど、
それは、次の楽しみに、照れた彼の顔をもう一度見るために、とっておこうと、そう思った。
そんなことを考えたとき、わたしの胸の内側に、なんともいえないあたたかくて満たされた感じがじんわりと広がって、
それはあまり覚えのないもので、わたしを少し戸惑わせたけれど、
でも、ぜんぜん悪い気はしなかったから、これはよいものだなと思った。
この気持ちを言葉にしようと思ったら、きっと簡単なんだろうな、とわたしは思った。
でも、言葉にはしないことにした。きっと、その方がいい。
冷たい風がまた吹き抜けていくけれど、わたしの手のひらは、彼の手のひらに包まれたままだった。
おしまい
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