開かない扉の前で【#01】◆[Alice] A/a
開かない扉の前で【#02】◇[Diogenes] R/a
開かない扉の前で【#03】◆[Paris] A/b
開かない扉の前で【#04】◇[Stendhal] R/b
開かない扉の前で【#05】◆[Cassandra] A/b
開かない扉の前で【#06】◇[Munchausen]
開かない扉の前で【#07】∵[Pollyanna] S/a
開かない扉の前で【#08】◇[Stockholm] R/b
開かない扉の前で【#09】¬[Jerusalem] S
◆[Lima] A/b
ケイくんが、碓氷遼一を刺した人間を追いかけた。
わたしは、取り残されたひとりの少女と一緒に、ただ横たえたままの碓氷遼一を見ていた。
公園には電話ボックスがあった。救急車を呼ぶことは簡単だった。
数分後、救急車がやってくると、少女と碓氷遼一は一緒に運ばれていった。
話を聞きたいからここにいてくれと言われたけれど、わたしは隙をついてその場から逃げ出した。
警察を呼ぶのは忘れていた。怖かったから、わざと忘れたつもりになっていたのかもしれない。
わたしの足は勝手に動いていた。途中で何度も転びそうになった。
電柱やブロック塀に何度もからだをぶつけそうになるくらいふらふらだった。
意識していないと縁石をはみ出して車道の中心にまで放り出されそうだった。
誰もわたしの手を引いてくれたりはしない。
お兄ちゃんはいない。
わたしにはもう誰もいない。
ぐるぐると似たようなことばかりが思い出される。
お兄ちゃんが死んだあの夜のことを思い出した。
わたしは彼の死を翌朝まで知らずにいた。
ぐっすりと眠って、当たり前に夢を見ていた。
いつものように置き去りにされる夢だった。
目を覚ましたらお兄ちゃんはいなかった。
まひるの部屋に向かったのは、単に他に行き場がなかったからだと思う。
この世界にわたしの居場所があるとしたら、きっとそこ以外にはない。
まひるは既に帰ってきていて、わたしに何かを言ったけれど、ろくに返事もできなかった。
彼女はわたしのために冷たい飲み物を用意してくれた。
それって素敵なことじゃない? ねえ、どう思う?
わたしはフローリングの床に座り込んでぐるぐると混乱したまま膝を抱えた。
(――からたちの枝を思い出す)
ぐるぐるぐるぐるといろんなことを思い出して、いろんなことを考えたつもりになる。
本当は何も考えちゃいない。ただ浮かびあがる連想を止められずにいるだけだ。
お兄ちゃんは死んでしまったんだとわたしはもう一度思う。
――愛奈、お兄ちゃんは一緒にいるよ。一緒にいるから大丈夫だよ。
嘘つき。
嘘つき。
嘘つき。
死んだくせに。
本当はわたしのことなんて、居ないほうがよかったって思っていたんでしょう?
わたしなんて居ないほうが幸せだったんでしょう?
だから、穂海と手を繋いで、あんなに幸せそうに笑えたんでしょう?
本当は、お兄ちゃんは、お母さんと仲直りしたかったんだって、わたし知ってたよ。
お母さんのことが大好きだったって知ってたよ。
お兄ちゃんは、お母さんのことを、そんなに責めていなかったんでしょう?
穂海のことを、愛してもいたでしょう?
穂海の父親のことも、許していたでしょう?
だってわたしは聞いたもの。
お兄ちゃんは、お祖母ちゃんと話していたもの。
「理屈では引き取るべきだと分かっていても、他の男の子供と一緒に暮らして、その子の世話をして、お金を払わなきゃいけないと思えば、
それが、仲がいいならともかく、あまり懐かない子なら、感情で拒否してしまうこともあるだろう」って。
「僕が彼の立場でも、ひょっとしたら、受け入れることはできないかもしれない」って。
「姉さんだって、愛奈が憎いわけじゃないだろう。でも、今の旦那は、自分の娘と他の男の娘とじゃ、やっぱり気持ちが違うと思う。
そう考えると、旦那を説得してまでそうするべきなのか、とか、いろいろ考えちゃうんじゃないか?」
お兄ちゃん。お兄ちゃん。わたしそれでもよかった。
だって言ってくれた。
「代わりにはならないかもしれないけど――」
お兄ちゃんは言ってた。
「――いざというときは、僕があの子の傍にいるよ」
そう言ってた。
言ってたのに。
だからわたしは、お兄ちゃんさえいればよかった。
お兄ちゃんが一緒にいてくれるならそれでよかった。
でも、お兄ちゃんは違ったの?
やっぱりわたしは厄介者でしかなかったの?
わたしは重荷だった?
お兄ちゃんも、わたしなんかいない方がよかった?
お母さんもわたしのせいで苦しかったの?
お祖母ちゃんもわたしのせいでつらかったの?
わたしが家族を台無しにしたの?
わたしなんか生まれて来ない方がよかったの?
こんなこと考えたら、きっと余計に心配させるから、余計に不安にさせるから、余計に世話をかけるから。
だからわたし、ずっと我慢してきた。
怖くてもつらくても、泣かないようにした。
勉強だってがんばったよ。
みんなと仲良くしようとしたよ。
目の前のことに集中して、いろんなことを経験して、
それでいつか、お兄ちゃんやお祖母ちゃんを心配させないくらいに立派になって、
それでお母さんにいつか会いにいって、
気にしてないよって、
穂海にだって、変なわだかまりなんて全部なげうって、
好きだよって、愛してるって、あなたはわたしの妹なんだって、
いつか、そう認められるって思ってた。
そうしていつか、お兄ちゃんが幸せになれたら、その幸せの手伝いをしたいって、
わたしもその幸せの一部になりたいって、
そう考えてたわたしは、やっぱりとんでもないばかだったのかな。
血溜まりの中で横たえる彼のあの姿が、
膝をついて泣いていた穂海の姿が、
わたしの中でお兄ちゃんの姿と重なって、
その場にいられなかったわたしの存在がどこまでも恨めしくて、
頭の中の情景をかき消すことができない。
「愛奈ちゃん……?」
まひるの声が聴こえる。聴こえている。それは分かる。
「ケイくんは、どうしたの?」
わたしの体が、勝手にピクリと跳ねたのを感じる。
声を出そうとして、口を開く。喉が絡まって、うまく声にできない。
やっと出てきたのは、かすれたような、不細工な音。
そのときまで、わたしはケイくんのことを思い出しすらしなかった。
そんな自分を、心底おそろしいと思った。
「ケイくんは……」
ケイくんは。
ひとりで、あのときの誰かを、追いかけた。
刃物、を、持っているはずの相手を、ひとりで。
ケイくんは、たぶん、丸腰で、
もし追いついたとしたら、そのとき……ケイくんは、無事で済むのだろうか。
「ケイ、くん……」
わたしは、どうしてあのとき、ケイくんを止めなかったの?
そう思ったら、居ても立ってもいられない気持ちになるのに、
もう、立ち上がる気力さえない。
言い訳のしようもない。
携帯はどっちにしても使い物にならない。
ケイくんには、連絡できない。
「ケイくん、が……」
声がかすれて、うまくしゃべれない。
「ケイくんが、死んじゃったら」
そのことばを、それでも口にした瞬間、
「どうしよう、わたしは……」
背筋に、寒気のような感覚が走った。
「ごめんなさい……」
誰に、何を、謝っているのか、それが、自分でも分からない。
こらえようとしていたのに、視界が潤むのを止められない。
膝に額を押し付けて、わたしは涙を抑えることを諦めた。
「わたしのせいだ……」
「愛奈ちゃん」
「わたしが連れてきたせいだ……」
「愛奈ちゃん」
「わたしは……」
「愛奈ちゃん」
不意に、無理やり、わたしの顔が引き上げられた。
まひるが、目の前まで来て、わたしの両方の頬を手のひらで挟んで持ち上げたのだ。
ケイくん、ケイくん、ケイくん。
言葉が意味を失って、ただの音みたいになる。
空気の振動も伴わないくせに、ずっと頭の中で鳴っている。
それをせき止めるみたいに、
「てい」
額に軽い痛みが飛んできた。
……。
「……痛い」
「でこぴんしたからね」
「ひどい」
「ひどくないよ。愛奈ちゃんの方がひどいよ。さっきからわたしのことずっと無視だもん。
ちょっと落ち着いて。いま、相当トンでたよ」
まひるは、わたしの目の前に座って、安心させようとするみたいに微笑をたたえて小首を傾げた。
わたしは、また泣きたくなった。
「お兄、ちゃんが」
「うん」
「わたし、お兄ちゃんのこと、追いかけて、お兄ちゃん、が、刺されて、誰かに。
ケイくんが、救急車、呼べって、言って、いなくなった。刺した人、追いかけて」
「……刺された? 碓氷が?」
「わたし、ケイくんが……」
――ああ、わたしは、なんて、嫌な人間なんだろう。
「ケイくんに、なにかあったら、どうしよう、って」
まひるは、戸惑った表情のまま、それでもわざと明るく振る舞うみたいに、笑った。
「ケイくん、警察に任せればよかったのに。そういうとこ、男の子なのかな。
大丈夫だよ。ケイくん、器用そうだし、危なかったら逃げると思う。そのうちここに来るよ」
「……ちがうの」
「……なにが?」
「わたし、ほんとは、ケイくんのこと、心配してなかった」
「……」
「わたし、ケイくんが死んだら、わたしのせいだって、ケイくんが怪我したら、わたしのせいだって、
最初にそればっかり、考えてた」
「……」
「ケイくんのこと、心配してたんじゃない。わたし、のせいなら、ケイくん、きっとわたしを恨むって。
わたしのこと、嫌いになるって、まっさきに、そんなこと考えてた」
「……」
「どうしてわたし、こうなの……? 今だって、どうしてこんなことしか考えられないの?
どうして、ケイくんのこと、心配してないの? わたし、ケイくんがいなくなったら、わたしはどうなるんだろうって、
わたしが、またひとりぼっちだって、そればっかりだ……」
わたしは――
「こんなところに、ケイくんを連れてきたから……わたしが、わたしが刺されれば、どうしてわたし、
ケイくんを止めなかったの? 危ない目に遭うなら、わたしが行けばよかった。
ケイくん、わたし、が……わたしが。わたしは……」
――自分のことばかり、考えている。
◆
わたしはいつのまにか眠ってしまっていたらしかった。
そう気付いたのは夢の中にいることに気付いたからだったけれど、
それが夢だと気付いた瞬間、目の前に広がっていた光景は全部綺麗に消え失せてしまった。
何もないところにいる、のではない。
ただ目の前に広がるすべての事物が名前を失って、
それがいったいわたしにとってどういう存在なのか、
はっきりとはわからなくなってしまったような、
そんな不自然な景色だった。
そこには温かみも冷たさもなく、虚ろというのでも満ちているというのでもなく、
ただ茫漠とした"何か"が曖昧に広がっているだけだった。
時間、あるいは、世界、未来、それとも可能性……。
わたしはその"何か"に名前をつけようとしたけれど、
結局うまくはいかず、ただ"何か"としか呼ぶことができなかった。
意味。
言葉。
色。
景色。
音。
声。
――ある状況が何を意味しているか、なんて人間に分かるわけないじゃない?
――わたしがこの街に生まれたことは? あの両親のもとに生まれたことにどんな意味があるのか?
――わたしがわたしとして生まれたことにどんな意味が? そんなの説明できないよ。
声。
音。
意味。
言葉。
わたしの目の前に広がる景色。
わたしの身に起きた出来事。
お兄ちゃんは、どうして死んでしまったんだろう?
わたしは、その答えを、どうしてだろう、この世界でつかめるような気がしていた。
でも、本当は、そんなことにも、理由も意味はないのかもしれない。
今目の前に広がっている、塗り絵の元絵のような、縁取りだけの空白の世界のように。
音に、色に、意味を求めることは、無駄な期待なのだろうか?
わたしたちはそこに、意味を望んで、意味を求めてはいけないのだろうか?
それは、徒労に過ぎないのだろうか。
結局、わたしは何を得ることもできず、ただ誰かを傷つけてばかりだ。
わたしはいいかげん、目の前の景色に飽きてきた。
夢から醒めないとな、と、夢の中で思う。
意味のない空白の景色。
ここにいたって、きっと得るものはない。
ケイくんは、無事だろうか。今考えるべきなのは、きっとそれだけだ。
ケイくんが無事に戻ってきたら、わたしたちはもう、元の世界に帰ろう。
わたしが妙な考えを起こさなければ、きっとケイくんだって危ない目に遭わずに済んだんだから。
こんな場所にいたって、きっと、意味なんて、なにも見つけられない。
だから、もう、諦めないと。
どれだけ探したって、お兄ちゃんが死んだ理由なんて、きっとわからない。
お兄ちゃんがお金を遺した理由だって、わからない。
お兄ちゃんは、もう、死んじゃったんだから。
だからいいかげん、諦めて、わたしは……現実に帰らなきゃいけないんだ。
お兄ちゃんのことを、忘れて。
◇
――起きたことには、必ず意味があるはずだ。
◇
わたしが目を覚ましたとき、部屋の中には誰もいなかった。
まひるもケイくんも、誰も。ここにいるのはわたしだけだ。
わたしは財布だけを手にしてそっと部屋を出ると、歩いてすぐのところにあるコンビニに向かった。
そこで見覚えのある煙草とライターを買ってみた。
年齢確認はされなかった。まだそんな時代じゃなかった。
軒先の灰皿の隣に立って、わたしはぼんやりと空を眺めた。
いつのまにか雨が降り出していた。
小さな小さな、浮かぶような白い粒が、夜の空から降り注いでいた。
わたしは、静かに煙草をくわえて、火をつけた。
流れ込んでくる煙の苦さ、紙の焼ける匂いに、思わず顔をしかめる。
それにも、じき慣れた。
深く吸い込もうとして咳込む。
思わずかがみ込んでしまった。
煙が目に沁みて、視界が潤む。
そうしていつかはこんな痛みだってマシになっていく。
楽になって忘れていく。
だったらわたしは消えてしまいたい。
膝をかかえたまま、煙草を唇に挟んで、静かに雨粒が落ちるのを眺めている。
ケイくん。まひる。
お兄ちゃん。
お母さん。
お祖母ちゃん。
……お父さん。
◇
「……何してるんだよ、こんなところで」
わたしは返事をしなかった。
「煙草なんてやめとけよ」
わたしは返事をしない。
「愛奈」
顔をあげない。
泣いていたから。
「……なんで」
やっとのことで、わたしは声を上げた。
「ケイくんは、吸ってるくせに、わたしはだめなの」
「それは……なんでか、分からないけど。でも、よくない」
「じゃあ、ケイくんもやめてよ」
「……考えてみる」
わたしは顔をあげて立ち上がり、灰皿に煙草を投げ捨てた。水の中に落ちて、煙草は小さく音を立てる。
「……ごめんなさい」
ケイくんは、いつものように呆れた溜め息をついた。
「どうして一言目が"ごめんなさい"なんだよ。"大丈夫だった?"とかだろ、普通。謝る理由がどこにあるんだ?」
「だって……」
「言ったろ」とケイくんはわたしの言葉を遮った。ほとんど奪い取るみたいに、わたしの手から煙草の箱とライターを掠め取る。
そうして彼も煙草をくわえて火をつけた。
「セロトニンの不足だよ」
煙が静かに立ち上って、雨の粒をほんのすこしだけ隠した。
いくらか躊躇うような素振りを見せてから、ケイくんは結局、言葉を吐き出す。
「首尾はどうだった、って、訊かないのか?」
「首尾?」
「犯人、追いかけただろ、俺」
「……どうだったの?」
ケイくんは、黙り込んだ。
わたしは、彼が無事に戻ってきたら言おうと思っていたたくさんの言葉を、なにひとつ口に出せないままだった。
「……ケイくん」
「ん」
「ケイくん」
「なんだよ」
「ケイくん……」
「だから、なんだよ」
本当に言いたいことは、どうしていつも言えないんだろう。
それを求めたら、きっと、拒まれるから?
それとも、拒まれないかもしれないと思っていても、それでも拒まれることが怖いから?
「ケイくん……帰ろう?」
「……」
「わたし、もう、やだ」
「……なあ、愛奈――」
そうして彼は、いつのまにか呼ぶようになった、わたしの下の名前を、当たり前のように呼んで、
わたしにほんの少しだけ寄り添ってくれる。
「俺は……」
何かを言いかけて、でも彼はそこで話すのをやめてしまった。
何を見つけたというわけでも、何に気付いたというわけでもなく、
ただ、続けるべき言葉が彼の中で形にならずにうごめいているみたいに、わたしには見えた。
わたしは彼の手のひらから煙草の箱を奪い取った。
そうして、もう一本を取り出して、唇にくわえる。
そのまま、彼の煙草の先の火に、わたしのくわえた煙草の先を触れさせた。
息を吸い込むと、火が移った。
そうしたらもう、彼は何かを言う気も失ったみたいだった。
わたしが煙草を吸うことについてさえ。
そうしてわたしたちは、並んで煙草をくわえたまま、静かに手を繋いだ。
雨が降るのを眺めていた。
続き
開かない扉の前で【#11】