開かない扉の前で【#01】◆[Alice] A/a
開かない扉の前で【#02】◇[Diogenes] R/a
開かない扉の前で【#03】◆[Paris] A/b
開かない扉の前で【#04】◇[Stendhal] R/b
開かない扉の前で【#05】◆[Cassandra] A/b
開かない扉の前で【#06】◇[Munchausen]
開かない扉の前で【#07】∵[Pollyanna] S/a
開かない扉の前で【#08】◇[Stockholm] R/b

688 : 以下、名... - 2017/08/24 23:29:40.51 wgHUnuE7o 563/820


¬[Jerusalem] S



 まだわたしたちが当たり前の姉妹でいられた頃、ざくろが教えてくれた。
 
 花の名にまつわるふたつの神話。

 一つ目はこうだった。

 あるところに、ひとりの女の子がいた。

 アポロンは、他の多くの女を求めたのと同じように、彼女を見初め、彼女を求めた。
 けれど、彼女には婚約者があったので、その求めを受け入れるわけにはいかなかった。

 かといって、もしも自分がアポロンの要求を拒めば、彼は自分や自分の周りの人間に激怒して罰を与えるだろう。

 自らの境遇に苦悩した彼女は、貞潔の女神にこう祈りを捧げる。

「どうか私を、人間以外の姿にしてください」

 女神アルテミスは彼女の祈りを聞き届け、その身を一輪の花に変えた。

 それが"すみれ"。だから、花言葉は「誠実」。


689 : 以下、名... - 2017/08/24 23:30:12.45 wgHUnuE7o 564/820


 二つ目は、また別の話。

 あるところに、ひとりの女の子がいた。

 彼女の母親が亡くなったあと、父親は彼女に対して情交を迫った。
 
 彼女はその求めから逃れるが、自らの境遇を嘆き、母親の墓前でその命を絶った。

 神は彼女を憐れに思い、その魂を花に宿らせ、父を鳶に変えた。
 
 そして、鳶が決してその花のなる枝に泊まらぬようにさせた。

 それが"ざくろ"。花言葉は「愚かしさ」。

 ふたつのお話には類似点と相違点がある。

 同じなのは、情交を迫られること。
 異なるのは、片一方は自らの祈りを聞き届けられ花になり、片一方は自ら嘆き擲った魂を花に宿らされたこと。
 

690 : 以下、名... - 2017/08/24 23:31:21.14 wgHUnuE7o 565/820


 このふたつの神話はギリシアのものだったはずだ。
 でも、ギリシア神話について書かれた本をいくつか探したけれど、
 わたしはこのふたつのお話を見つけることができなかった。

 彼女は何か思い違いをしていたのかもしれない。

 代わりにわたしが見つけたのは、"ざくろ"にまつわるふたつのお話。

 一つ目は、酒神バッカスにまつわるもの。

 占い師に、「いつか王冠を戴くことになる」と言われたひとりの妖精は、
 酒神バッカスに「王冠を与える」と欺かれ、弄ばれて捨てられてしまう。

 妖精は悲嘆に暮れ、そのまま死んでしまう。

 あまりの様子に気が咎めたバッカスは、彼女をざくろの木に変えて、
 その実に王冠を与えたという。だからざくろの実には、王冠に似た部分がある。

 二つ目は、冥府の女王ペルセポネにまつわるもの。

 デメテルの娘ペルセポネは、冥府の支配者であるハデスにさらわれる。
 ペルセポネを見初めたハデスが、彼女を妻にしようと拉致したのだ。

 怒ったデメテルがゼウスに抗議すると、ハデスは一計を案じた。

 ペルセポネにざくろの実を食べさせたのだ。

 神々の間には、冥界の食べ物を口にしたものは、冥界に属するという掟があった。

 ペルセポネは、一年のうち、食べた実の数に応じた時間だけ冥界にいなければならなくなり、結局ハデスに嫁ぐことになった。
 そして豊穣の神であるデメテルは、ペルセポネが冥府にいる間だけ、地上に実りをもたらすことをやめた。

 これが冬という季節の始まりの神話。


691 : 以下、名... - 2017/08/24 23:31:49.76 wgHUnuE7o 566/820


 三つすべてに、相似点がある。
 
 まず、すべてに共通するのが、合意を待たない強引な交合の求め。

 鳶とバッカスの物語に共通するのが、女の子は死に、その後哀れみから花になったこと。

 最後に、鳶とペルセポネの物語に共通するのが、近親姦のモチーフだ。

 ざくろに変えられた少女は父に犯されそうになり、自死した。

 そして、ハデスにさらわれたペルセポネは、そもそもゼウスとデメテルの子であり、二人は姉弟だった。
 くわえてハデスもまた、ゼウスとデメテルの兄であったので、ペルセポネはハデスの姪にあたる。
 
 ざくろは自らの名前を恥じていた。

「わたしがすみれならよかったのに」とざくろは言った。

 だってこんな名前、なんだか呪われている。
 花言葉だって、"愚かしさ"なんて、と。

「でも、ざくろには他の花言葉もあるでしょう?」

 わたしはそう言って彼女を諭した。

 王冠に似た部分があるから、権威の象徴とされていたって話もあるし、再生のシンボルとも言われる。
 花言葉だって、愚かしさだけじゃない。円熟した優美、結合……。

 それに、すみれだっていい意味ばかりじゃないわよ、とわたしは続けた。

「小さな幸せ、慎ましい喜び……わたしは大きな幸せを求めちゃいけないってわけ?」

 わたしがそう言ったとき、ざくろはようやく笑ってくれた。

「それに、白昼夢っていうのもあった。でも、こんなの気にするだけ無駄。名前は名前でしかないんだから」


692 : 以下、名... - 2017/08/24 23:32:28.88 wgHUnuE7o 567/820


 そう、わたしはそう言った。
 べつに、気にすることはない。

 名前なんて、所詮、音の連なりでしかない。

 名前で人間の何かが決まるなら、世界中の人がみんなおんなじ名前だったらどうなるの?
 誰もが同じ境遇になるの? そんなわけはない。

 こじつけで不幸になることはない。

 わたしたちはわたしたちなんだから。

「ねえ、ざくろ。だったらざくろが、思い切りやさしくて、思い切り幸せな人間になって、ものすごく有名になればいいの。
 世界中のひとたちが、ざくろって言葉を聞いた瞬間に、とっさにやさしさと幸せを思い浮かべるくらいに。
 神話や聖書よりも先に思い浮かぶくらいに。言葉の意味なんて、そんなものよ」

 ざくろはくすくす笑って頷いた。

「だったらすみれも、ものすごく大きな幸せも手に入れないとね」

「そうよ。そういうもの」

 そう言ってわたしたちは、くすくすと笑い合った。

 わたしたちは仲の良い姉妹だった。

 母が死んで、父が変わってしまうまでは。


693 : 以下、名... - 2017/08/24 23:34:16.47 wgHUnuE7o 568/820




 
 ――水滴の音が、ずっと聞こえていた。
 
 ふと、目が醒めたとき、わたしはそれを意識した。
 目が醒めてそれに気付いたというわけではない。

 というよりはむしろ、その音がずっと、絶え間なく続くのを聞いていた自分に、気が付いた。
 そんな感じがした。

 同じように、わたしは遅れて、目をずっと瞑っていたことに気付き、頭が鼓動のような痛みを訴えていることに気付き、
 自分が拘束されていることに気付いた。

 驚いて瞼を開いても、状況はつかめないままだった。

 黴臭い匂い、水滴の落ちる音、暗闇の中にちらちらと揺れる蝋燭、張り付くような湿った空気。

 意識の連続が、唐突に絶たれて、それから急にこの場に放り込まれたような気がする。

 わたしは、いったいいつ、意識を失ったのだろう?
 
 そして、この状況は、いったいなんなのか?

 考えてみても、頭に響く痛みをこらえながら記憶を辿るのは難しかった。

 静かに、自分の手足を見る。

 何かが、わたしの手足を縛っている。これは、植物の蔓? あるいは、枝……だろうか。

 その蔓は、わたしの体を椅子にくくりつけていた。

 身をよじって振り返ってたしかめる。どうやら、アンティーク風の、上品そうな椅子だった。
 漫画や映画でしか見たことがないような代物。

 背もたれと座の部分は、赤い革張りになっている。
 わたしの手は椅子の肘付きの部分の上にのせられ、そこで縛られている。
 足もまた、椅子の脚の部分に、長い蔓でくくりつけられていた。
 


694 : 以下、名... - 2017/08/24 23:35:04.11 wgHUnuE7o 569/820


 これは悪い夢だろうか?
 それにしてはいやに……感覚が、意識が、はっきりとしている。

 痛みも、変に現実的だ。

 けれど、ここは、どこなのだろう?

 よく見れば、わたしは奇妙な服を着せられている。
 真っ黒な、ドレスのような衣装。

 水滴の音が響いている。

 わたしは、どうしていたんだっけ?
 
 何も、思い出せない。
 
 そこに、向こうの方にずっと続く暗闇。 
 差し出されるような蝋燭。

 体が重くて、うまく頭が働かない。


695 : 以下、名... - 2017/08/24 23:35:59.78 wgHUnuE7o 570/820


 どれくらい、じっと座ったまま、痛みが引くのを待っていただろう?
 水滴の音と、蝋燭の灯りだけが、わたしの意識を保たせていた。

 やがて、暗闇の向こう側から、カツカツと足音が聞こえ始める。

 そして彼女が現れた。

 真っ黒な服を着て、どこか青ざめた顔をして、ざくろが現れた。

「具合はどう?」と彼女は訊ねてくる。わたしはうまく返事ができなかった。

「混乱してるみたいね」

 口がうまく開かなかった。
 何を言えばいいのかも、わからない。

「ねえ、すみれ、わたしが分かる?」

「……」

「わたしのことが、分かる? ねえ、すみれ……」

 朦朧とした意識は、目の前で起きていることをたしかに認識しているけれど、
 それをうまく消化できずにいる。

「わからないかもしれないね。……だって、一度、逃げ出したものね」

 わたしは、何も返事ができない。

「ねえ、どうしてわたしを置いていったの? どうしていまさらここに来たの?」

 彼女は、ただ冷たい目で、わたしを見ている。

「あなたのせいで――わたし、死んじゃった」



696 : 以下、名... - 2017/08/24 23:36:27.83 wgHUnuE7o 571/820


 分かっていたでしょう、とざくろは言う。

「あなたは、わたしからも、お父さんからも逃げたのよ。そして自分だけ、へらへら楽のできる場所に逃げようとしたの。
 だから、わたし、お父さんに殺されて、こんな姿になって――お父さんのことも、殺しちゃった」

「……どういう」

 そこでわたしは、ようやく声を発することができた。
 自分でも驚くくらい、かすかな声だった。水滴の音にかき消されそうなほど。

「どういう、意味……」

「そのままの意味よ」と、ざくろは言う。

「ねえすみれ。わたしが嫌い? わたしが悪かった? 鬱陶しかった?
 すみれ。すみれ。どうしてあなたがすみれなの? どうしてわたしがざくろなの?
 どうしてあなたがざくろじゃなかったの?」

 どうしてあなたじゃなかったの?

 彼女はそう言った。

 彼女の右手に握られている、鈍く輝くひとつの刃物に、わたしはそのときようやく気付いた。

「ね、分かる? すみれ」

 鋏だ。

「分からないわよね。あなたは、すみれだものね……」

 ざくろは、振りかぶる。
 わたしは、身じろぎもできない。ただ、それを見上げているだけだ。

 それは、ゆっくりと、ゆっくりと、わたしの目前へと迫ってくる。
 それはきっと、本当なら、一瞬の出来事だったのに。

 わたしはそれを、ただ――見ていた。




続き
開かない扉の前で【#10】


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