開かない扉の前で【#01】◆[Alice] A/a
開かない扉の前で【#02】◇[Diogenes] R/a
開かない扉の前で【#03】◆[Paris] A/b
開かない扉の前で【#04】◇[Stendhal] R/b
開かない扉の前で【#05】◆[Cassandra] A/b
開かない扉の前で【#06】◇[Munchausen]
開かない扉の前で【#07】∵[Pollyanna] S/a
開かない扉の前で【#08】◇[Stockholm] R/b
¬[Jerusalem] S
まだわたしたちが当たり前の姉妹でいられた頃、ざくろが教えてくれた。
花の名にまつわるふたつの神話。
一つ目はこうだった。
あるところに、ひとりの女の子がいた。
アポロンは、他の多くの女を求めたのと同じように、彼女を見初め、彼女を求めた。
けれど、彼女には婚約者があったので、その求めを受け入れるわけにはいかなかった。
かといって、もしも自分がアポロンの要求を拒めば、彼は自分や自分の周りの人間に激怒して罰を与えるだろう。
自らの境遇に苦悩した彼女は、貞潔の女神にこう祈りを捧げる。
「どうか私を、人間以外の姿にしてください」
女神アルテミスは彼女の祈りを聞き届け、その身を一輪の花に変えた。
それが"すみれ"。だから、花言葉は「誠実」。
二つ目は、また別の話。
あるところに、ひとりの女の子がいた。
彼女の母親が亡くなったあと、父親は彼女に対して情交を迫った。
彼女はその求めから逃れるが、自らの境遇を嘆き、母親の墓前でその命を絶った。
神は彼女を憐れに思い、その魂を花に宿らせ、父を鳶に変えた。
そして、鳶が決してその花のなる枝に泊まらぬようにさせた。
それが"ざくろ"。花言葉は「愚かしさ」。
ふたつのお話には類似点と相違点がある。
同じなのは、情交を迫られること。
異なるのは、片一方は自らの祈りを聞き届けられ花になり、片一方は自ら嘆き擲った魂を花に宿らされたこと。
このふたつの神話はギリシアのものだったはずだ。
でも、ギリシア神話について書かれた本をいくつか探したけれど、
わたしはこのふたつのお話を見つけることができなかった。
彼女は何か思い違いをしていたのかもしれない。
代わりにわたしが見つけたのは、"ざくろ"にまつわるふたつのお話。
一つ目は、酒神バッカスにまつわるもの。
占い師に、「いつか王冠を戴くことになる」と言われたひとりの妖精は、
酒神バッカスに「王冠を与える」と欺かれ、弄ばれて捨てられてしまう。
妖精は悲嘆に暮れ、そのまま死んでしまう。
あまりの様子に気が咎めたバッカスは、彼女をざくろの木に変えて、
その実に王冠を与えたという。だからざくろの実には、王冠に似た部分がある。
二つ目は、冥府の女王ペルセポネにまつわるもの。
デメテルの娘ペルセポネは、冥府の支配者であるハデスにさらわれる。
ペルセポネを見初めたハデスが、彼女を妻にしようと拉致したのだ。
怒ったデメテルがゼウスに抗議すると、ハデスは一計を案じた。
ペルセポネにざくろの実を食べさせたのだ。
神々の間には、冥界の食べ物を口にしたものは、冥界に属するという掟があった。
ペルセポネは、一年のうち、食べた実の数に応じた時間だけ冥界にいなければならなくなり、結局ハデスに嫁ぐことになった。
そして豊穣の神であるデメテルは、ペルセポネが冥府にいる間だけ、地上に実りをもたらすことをやめた。
これが冬という季節の始まりの神話。
三つすべてに、相似点がある。
まず、すべてに共通するのが、合意を待たない強引な交合の求め。
鳶とバッカスの物語に共通するのが、女の子は死に、その後哀れみから花になったこと。
最後に、鳶とペルセポネの物語に共通するのが、近親姦のモチーフだ。
ざくろに変えられた少女は父に犯されそうになり、自死した。
そして、ハデスにさらわれたペルセポネは、そもそもゼウスとデメテルの子であり、二人は姉弟だった。
くわえてハデスもまた、ゼウスとデメテルの兄であったので、ペルセポネはハデスの姪にあたる。
ざくろは自らの名前を恥じていた。
「わたしがすみれならよかったのに」とざくろは言った。
だってこんな名前、なんだか呪われている。
花言葉だって、"愚かしさ"なんて、と。
「でも、ざくろには他の花言葉もあるでしょう?」
わたしはそう言って彼女を諭した。
王冠に似た部分があるから、権威の象徴とされていたって話もあるし、再生のシンボルとも言われる。
花言葉だって、愚かしさだけじゃない。円熟した優美、結合……。
それに、すみれだっていい意味ばかりじゃないわよ、とわたしは続けた。
「小さな幸せ、慎ましい喜び……わたしは大きな幸せを求めちゃいけないってわけ?」
わたしがそう言ったとき、ざくろはようやく笑ってくれた。
「それに、白昼夢っていうのもあった。でも、こんなの気にするだけ無駄。名前は名前でしかないんだから」
そう、わたしはそう言った。
べつに、気にすることはない。
名前なんて、所詮、音の連なりでしかない。
名前で人間の何かが決まるなら、世界中の人がみんなおんなじ名前だったらどうなるの?
誰もが同じ境遇になるの? そんなわけはない。
こじつけで不幸になることはない。
わたしたちはわたしたちなんだから。
「ねえ、ざくろ。だったらざくろが、思い切りやさしくて、思い切り幸せな人間になって、ものすごく有名になればいいの。
世界中のひとたちが、ざくろって言葉を聞いた瞬間に、とっさにやさしさと幸せを思い浮かべるくらいに。
神話や聖書よりも先に思い浮かぶくらいに。言葉の意味なんて、そんなものよ」
ざくろはくすくす笑って頷いた。
「だったらすみれも、ものすごく大きな幸せも手に入れないとね」
「そうよ。そういうもの」
そう言ってわたしたちは、くすくすと笑い合った。
わたしたちは仲の良い姉妹だった。
母が死んで、父が変わってしまうまでは。
◆
――水滴の音が、ずっと聞こえていた。
ふと、目が醒めたとき、わたしはそれを意識した。
目が醒めてそれに気付いたというわけではない。
というよりはむしろ、その音がずっと、絶え間なく続くのを聞いていた自分に、気が付いた。
そんな感じがした。
同じように、わたしは遅れて、目をずっと瞑っていたことに気付き、頭が鼓動のような痛みを訴えていることに気付き、
自分が拘束されていることに気付いた。
驚いて瞼を開いても、状況はつかめないままだった。
黴臭い匂い、水滴の落ちる音、暗闇の中にちらちらと揺れる蝋燭、張り付くような湿った空気。
意識の連続が、唐突に絶たれて、それから急にこの場に放り込まれたような気がする。
わたしは、いったいいつ、意識を失ったのだろう?
そして、この状況は、いったいなんなのか?
考えてみても、頭に響く痛みをこらえながら記憶を辿るのは難しかった。
静かに、自分の手足を見る。
何かが、わたしの手足を縛っている。これは、植物の蔓? あるいは、枝……だろうか。
その蔓は、わたしの体を椅子にくくりつけていた。
身をよじって振り返ってたしかめる。どうやら、アンティーク風の、上品そうな椅子だった。
漫画や映画でしか見たことがないような代物。
背もたれと座の部分は、赤い革張りになっている。
わたしの手は椅子の肘付きの部分の上にのせられ、そこで縛られている。
足もまた、椅子の脚の部分に、長い蔓でくくりつけられていた。
これは悪い夢だろうか?
それにしてはいやに……感覚が、意識が、はっきりとしている。
痛みも、変に現実的だ。
けれど、ここは、どこなのだろう?
よく見れば、わたしは奇妙な服を着せられている。
真っ黒な、ドレスのような衣装。
水滴の音が響いている。
わたしは、どうしていたんだっけ?
何も、思い出せない。
そこに、向こうの方にずっと続く暗闇。
差し出されるような蝋燭。
体が重くて、うまく頭が働かない。
どれくらい、じっと座ったまま、痛みが引くのを待っていただろう?
水滴の音と、蝋燭の灯りだけが、わたしの意識を保たせていた。
やがて、暗闇の向こう側から、カツカツと足音が聞こえ始める。
そして彼女が現れた。
真っ黒な服を着て、どこか青ざめた顔をして、ざくろが現れた。
「具合はどう?」と彼女は訊ねてくる。わたしはうまく返事ができなかった。
「混乱してるみたいね」
口がうまく開かなかった。
何を言えばいいのかも、わからない。
「ねえ、すみれ、わたしが分かる?」
「……」
「わたしのことが、分かる? ねえ、すみれ……」
朦朧とした意識は、目の前で起きていることをたしかに認識しているけれど、
それをうまく消化できずにいる。
「わからないかもしれないね。……だって、一度、逃げ出したものね」
わたしは、何も返事ができない。
「ねえ、どうしてわたしを置いていったの? どうしていまさらここに来たの?」
彼女は、ただ冷たい目で、わたしを見ている。
「あなたのせいで――わたし、死んじゃった」
分かっていたでしょう、とざくろは言う。
「あなたは、わたしからも、お父さんからも逃げたのよ。そして自分だけ、へらへら楽のできる場所に逃げようとしたの。
だから、わたし、お父さんに殺されて、こんな姿になって――お父さんのことも、殺しちゃった」
「……どういう」
そこでわたしは、ようやく声を発することができた。
自分でも驚くくらい、かすかな声だった。水滴の音にかき消されそうなほど。
「どういう、意味……」
「そのままの意味よ」と、ざくろは言う。
「ねえすみれ。わたしが嫌い? わたしが悪かった? 鬱陶しかった?
すみれ。すみれ。どうしてあなたがすみれなの? どうしてわたしがざくろなの?
どうしてあなたがざくろじゃなかったの?」
どうしてあなたじゃなかったの?
彼女はそう言った。
彼女の右手に握られている、鈍く輝くひとつの刃物に、わたしはそのときようやく気付いた。
「ね、分かる? すみれ」
鋏だ。
「分からないわよね。あなたは、すみれだものね……」
ざくろは、振りかぶる。
わたしは、身じろぎもできない。ただ、それを見上げているだけだ。
それは、ゆっくりと、ゆっくりと、わたしの目前へと迫ってくる。
それはきっと、本当なら、一瞬の出来事だったのに。
わたしはそれを、ただ――見ていた。
続き
開かない扉の前で【#10】