勇者「伝説の勇者の息子が勇者とは限らない件」【1】
勇者「伝説の勇者の息子が勇者とは限らない件」【2】
勇者「伝説の勇者の息子が勇者とは限らない件」【3】
勇者「伝説の勇者の息子が勇者とは限らない件」【4】
獣王「ある程度の力量を持たねば侵入することすら能わぬ結界とはな……いくら斥候を放っても発見できぬはずよ。流石は小賢しき虫共、身を隠すことには長けておる」
感心しきりに顎を撫でる黄金の獣は、直後にその顔に獰猛な笑みを浮かべる。
獣王「しかしこうして我自身がその住処を直接目にした以上、エルフは今日をもって絶滅する」
獣王の背後には二十余りの魔物が控えていた。
大軍勢とはとても言えぬ数。しかし、そこにいるのは誰もがエルフの結界を突破した一騎当千の強者だ。
エルフを絶滅させるための戦力としては十分。
いや、そも―――獣王ただ一人であったとて、果たして彼を止められる者がエルフ一族の中に居るのだろうか。
背後に控える部下たちを一瞥し、前を向き直った獣王はその腕を前方に伸ばす。
その手が指し示す先は、当然エルフの集落だ。
獣王「では―――者共ッ!! 蹂躙せよッ!!!!」
獣王の咆哮に、雄叫びが連続する。
地を蹴り、破壊の群れがエルフの集落へ猛進する。
集落の入口には剣や槍で武装したエルフの戦士たちが陣取っていた。
エルフA「止まれ魔王の手下ども!! ここより先には一歩も―――」
獣王「ゴアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!」
獣王の右腕の一振り。
その一撃は、咄嗟に受け止めようとしたエルフの剣を粉々に粉砕し、その上半身を吹き飛ばした。
もぎ取られたその肉体は回転しながら近くの木に衝突し、びぢゃりと湿った音を立てる。
エルフB「う……」
その光景を終始見届けたエルフの口から、思わず声が漏れた。
獣が迫る。
黄金の毛皮は既に血の赤が混じったまだら模様。
愉悦と歓喜に口元を歪ませ、獣王は再びその腕を振りかぶる。
エルフB「うわあああああああああああ!!!!!!」
びぢゃり、と再びの水音。
獣王の宣言通りだ。
まさしく―――蹂躙が、始まる。
エルフ長老「女、子供は集落の奥へ隠れよ!! 術に長けた者は防御結界の構築を急げ!!」
恐慌状態に陥ったエルフの集落内部で、エルフの長は必死に指示を飛ばす。
そこに、年若いエルフが駆け寄ってきた。
見た目の年齢は、勇者の知己であるエルフ少女に比べてもまだ若い。
エルフ少年「長老!! 俺は戦うぜ!!」
その若いエルフの少年は、長老にそう宣言した。
エルフ長老「ならん!! お主はまだ子供だ! 大人しく下がっておれ!!」
エルフ少年「子ども扱いすんじゃねえよ! この村に俺より強い大人が何人いるってんだ!!」
エルフ長老「それでもだ! いや、それ故に! お主は先に逃げた者達を守れ! エルフの種の存続はお主等にかかっているのだ!!」
長老の言葉にエルフの少年は歯噛みする。
エルフ少年「もう負ける気満々かよ…!! 冗談じゃねえ!! 俺があんな奴ら追い返してやる!!」
エルフ長老「よさんか!!」
長老の制止を振り切って、エルフの少年は駆け出した。
しかし、直後にその足は歩みを止める。
長老と少年が立つのはエルフ集落内の中央広場。
そこに、激震と共に黄金の獣が現れたのだ。
エルフ長老「ば、馬鹿な……もうここまで……は、早過ぎる……」
エルフの長老はただただ唖然とし、止めどなく顔を伝う汗を拭う事すら忘れている。
エルフの少年は、想像以上の敵の強大さに震える足を押さえ、剣を構えた。
少年の持つ剣が震え、かちゃかちゃと音を立てる。
それは武者震いでは断じて無い。
エルフ少年「はぁ…! はぁ…!」
エルフ長老「逃げよ!! 逃げるのだ!!」
やっとの思いで声を振り絞るエルフの長老。
獣王「逃がしはせんよ」
しかし獣の王はその希望をあっさりと否定する。
獣王「我等に仇なす虫共……貴様らは一匹とて逃がさん」
その宣言通り、獣王はエルフ少年に襲い掛かった。
エルフ少年「うああああああああああああああああ!!!!」
エルフ少年は無我夢中で獣王の一撃に己の剣を合わせる。
凄まじい衝撃がエルフ少年を襲った。
堪えきれず、エルフ少年は吹き飛ばされ、盛大に地面を転がる。
たっぷり二十メートルは転がってから、エルフ少年は何とか体勢を立て直した。
正直、ここで追撃がくれば少年は終わっていただろう。
しかし獣王は、自らの掌を見遣ってから、驚いたように目を丸くしてエルフ少年を見ていた。
獣王「今の一撃を凌ぐか。ふむ。存外、エルフにもそれなりの強者がいるらしい」
獣王はその口を笑みの形に歪ませ、エルフ少年に言う。
獣王「貴様に敬意を表そう。我が名は獣王。小僧、名乗るがいい」
エルフ少年「……『エルフ少年』、だ」
獣王「では『エルフ少年』、尋常に勝負と参ろうか。戦時の高揚こそ我が無上の喜び。どうか、我を楽しませてくれよ?」
獣王が大地を蹴った。それだけで地面が爆砕した。
それ程の脚力。爆発的な推進力を得て、獣王の巨体がエルフ少年に迫る。
エルフ少年(速っ……)
反応できない。殺される。
エルフ少年はそう思った。
獣王の速度はエルフ少年を『駆除すべき虫』としか見ていなかったさっきまでとは一段階違っていた。
一瞬でエルフ少年と獣王の間の距離が詰まる―――――その刹那。
その二人の間に割り込んでくる影があった。
すなわち、獣王の突進と同等の速度で突っ込んできたその人物は、両足を揃えて獣王の頬を蹴りこんだ。
所謂ドロップ・キックだ。
獣王「ぬぐッ!?」
驚くべきことに、その一撃で獣王の巨体が吹っ飛んだ。
ボッ、と風を裂く音と共に凄まじい速度で吹き飛ばされた獣王だったが、まさしく猫科の獣を思わせるしなやかさで即座に体勢を立て直し、両手両足で地面を掴む。
何事かと顔を巡らせる獣王の視線の先。
軽やかな着地音を立て、割り込んできた人物が地面に降り立った。
ポニーテールで纏められた金髪がさらりと流れる。
動きやすさを追求した薄手のジャケット、太ももが大きく露出したショートパンツ。
非常に均整の取れたプロポーション。
無類の酒好き。人を忌避せぬエルフの異端者。
エルフ少女「派手に暴れてくれたね、獣王サマ。私の名前も聞いとくかい?」
勇者の友―――エルフ少女がそこに居た。
エルフ長老「エ、エルフ少女!! 何故戻ってきた!!」
エルフ少年の窮地を救ったエルフ少女の登場に、しかしエルフ長老は声を荒げた。
エルフ長老「お前には宝術【ホウジュツ】の発動を命じていたはず!!」
エルフ少女「宝術の発動を待ってたら皆殺されちゃいそうだったからね。守りたい者を失ってから術を発動したって何の意味もない。少なくとも、そこに居る虎顔のおじさんだけでも何とかしなくちゃ、さ」
エルフ少年「ね、姉ちゃん……」
エルフ少女「弟、動ける?」
エルフ少年「な、何とか」
エルフ少女「ならここはいいから入口の方の援護に向かって。みんな頑張って他の魔物を食い止めてる」
エルフ少年「わ、わかった!!」
エルフ少年は頷くと、駆け出して広場を出て行った。
獣王はその動きには一瞥もくれず、じっとエルフ少女を見つめたままだ。
エルフ少女「良かったのかい? 行かせちゃっても」
てっきり止めに入ると思って獣王の動きを警戒していたエルフ少女は拍子抜けしたように獣王に声をかけた。
獣王「あの小僧が加わったところで戦況は動かぬ」
獣王は笑った。口の隙間から鋭い牙がギラリと覗く。
獣王「それよりも我の興味は今は貴様にのみある。我が名は既に知っているな? 名乗れよ、小娘」
エルフ少女「それじゃ、僭越ながら」
エルフ少女は両腰に下げていた鞘から二本の短刀を抜いた。
クルクル、クルクルとそれぞれの短刀がエルフ少女の手の甲を、手のひらを、手首を滑り回る。
やがて両手のひらに収まった短刀を構え、エルフ少女は口を開いた。
エルフ少女「エルフ族で一番の術士であり、かつ最強の戦士。言うなれば、エルフ族の切り札―――『エルフ少女』だよ。よろしくね」
名乗りを終えて、獣王とエルフ少女の距離が一気に詰まる。
獣王は右腕を振りかぶり、エルフ少女はその身を深く沈み込ませる。
獣王「ならば貴様が死んだ時こそがエルフ族の終焉というわけだ」
獣王がその腕を振り下ろす。
爪が皮膚を掠めただけで脳髄ごと持っていかれそうな一撃。
エルフ少女「まったくもってその通り。でも、だけど―――」
エルフ少女は深く曲げていた膝をグン、と伸ばした。
猛然と迫る獣王の右腕に、エルフ少女は自分から突っ込んでいく。
獣王の右腕と飛び上がったエルフ少女の体が交差した。
獣王「ぐおおッ!?」
すれ違いざまに斬りつけたのだろう。獣王の右腕に実に六ケ所もの裂傷が生じ、血が噴出した。
獣王の眼前で何本かの金色の髪が風に流されていく。
獣王の爪が捉えたのは、エルフ少女のポニーテールに纏められた髪のみであった。
エルフ少女「―――だからこそ、私は手強いよ? いつまでそんな風に楽しんでられるかな、獣王サマ」
挑発的なエルフ少女の物言いに、しかし獣王は口を大きく開けて笑った。
獣王「素晴らしい、素晴らしいぞ!! これ程の高揚感はついぞ無かった!! エルフ少女よ、貴様はいつまで我を楽しませてくれる!?」
呵呵大笑。
腹の底から楽しくて仕方がないと、声を上げて獣王は笑う。
獣王「そぉらあッ!!!!」
その顔に笑みを残したまま、獣王は再びエルフ少女に向かって突進した。
衝突、衝突、衝突。
両者ともにその速度は常識の枠外。
振るわれる刃が、爪が、牙が、竜巻のように周囲の全てを薙ぎ倒していく。
エルフ少女「ひとつ、気になることがあるんだけど」
そんな中でエルフ少女は言葉を発する。
獣王「何だ? よい、申してみよ」
同じ速度を生きる二人のみが互いの言葉を知覚する。
一合斬り結び、離れ、再度衝突する。
エルフ少女「あなた達はこれまでエルフの集落とは見当違いの方角を捜索していたはず。何故今日になって突然ここまで辿りつくことが出来たの?」
獣王「やり方を変えたのだ。これまでは虱潰しに森を部下に捜索させるだけであった。しかしどうもそれではうまくない。森の中全てを捜索し終えても発見の報は届かぬ。焦れた我は違う方法を取ることとした」
エルフ少女「どんな方法を?」
獣王「元よりこうするべきであったよ。エルフの集落の場所が分からぬのなら、知っている者に聞くのが一番だ。だから我はある時からエルフの集落を探すことを止め、エルフそのものが森に現れるのを待つことにした」
エルフ少女「……ッ!?」
獣王「エルフとて飯を食う。狩りにしろ、採集にしろ、いずれ必ずエルフは森に姿を現すと我は踏んだ。そして徒に森を騒がさず、息を殺してその時を待った」
獣王「そして……その時は来た」
エルフ少女「ッ!?」
動揺したエルフ少女の動きが乱れた。
それまで完璧に躱し続けてきた爪が右肩を掠め、衣服と共に皮膚が一部抉り取られていく。
エルフ少女「ぐっ…!!」
エルフ少女は右手のひらを一瞬開き、小指から順に短刀の柄を握りしめていく。
幸い、右腕の機能には何の支障も現れていない。傷はそこまで深くなかったようだ。
興が乗ったのか、獣王は追撃してくることなく話の続きを始めた。
獣王「つがいか兄妹かは知らぬが二人の男女を我は捕らえた。そして聞いたのだ。貴様らの棲家はどこだ、とな」
エルフ少女「……でも、それでその人達がエルフの村の場所を漏らすわけがない。エルフは絶対に仲間の事を売ったりはしないんだ」
獣王「そうだな。そ奴らも最初はそんな事をのたまっておったよ。だから、食ろうてやったのだ。まずは特にうるさかった男の方から、生きたまま、手足の先からバリバリとな」
エルフ少女「な…!?」
獣王「最初は右腕よ。指先から徐々に徐々に噛み砕いて咀嚼し、飲み込んだ。傷口から零れる血をこの舌で舐めとった。ほれ、この通り我が舌はちょいとざらついておってな。傷口を舐めるたびに彼奴め、泡を吹いて無様に泣き叫んでおったわ」
わなわなと、エルフ少女の肩が震えだした。
獣王「両腕を喰いきったあたりから命乞いを始めたがな。構わず右足、左足と食べ進めた。だるまとなってからは虚ろな目で涎を垂らすだけになりおったわ。そこで我は彼奴の後頭部を齧り取った。ちょうど人間が林檎を齧るようにな」
獣王「だがまだ終わりではない。実はその男、その時点ではまだ生きていた。そうなるように齧り取った。そして空いた穴からこの舌を差し込んで脳味噌を啜り取ったのよ。その途中でようやく男は絶命した。脳味噌に舌を差し込んでからは事切れるまでずっと「あ、あ、あ~」と滑稽なうわ言を漏らしておったわ」
獣王「そこで我は片割れの女に目を向けた。だらしなく失禁し、正気を保っているかも疑わしい顔つきで女は緩慢に首を横に振っていた。我はこれ見よがしに舌なめずりをし、女にこう問うたのだ」
獣王「『貴様らの棲家を教えれば、一瞬で殺してやろう』」
獣王「結果は言うまでもあるまい。我らがこうしてここに居ることが答えよ」
エルフ少女「アンタって人は……」
獣王「ちなみにこれは人間どもに着想を得た。活き造りだ、踊り食いだと彼奴等、生き物を介錯せずに食す文化に長けておる。中々どうして外道なことよ。許せぬよなあ」
エルフ少女「アンタって人はぁぁぁぁあああああッッ!!!!!!」
獣王「怒ったか。その怒りが刃を鈍らせねば良いがな。エルフ少女」
エルフ長老(こ、これ程か……!?)
エルフ長老は、目の前で繰り広げられている光景にただただ唖然としていた。
長老自身もそれなりに腕の立つ術者である。戦う術がないわけではない。
だが、それでも、彼に今できることは案山子のようにただそこに突っ立っていることだけだった。
エルフ少女「ああああああああああああ!!!!!!」
獣王「ハッハァーーーッ!!!!」
裂帛の気合いが込められた叫びが聞こえる。
次いで、連続する衝突音。
既にそれはエルフ長老の目では追いきれない領域の戦い。
常に流れ続け、一定の形を残さぬ二人の残像。
エルフ長老(まさかエルフ少女がこれ程までの力を身に着けておったとは……)
エルフ長老が驚いていたのはそこだった。
獣王が桁外れの化け物であることは、これまでの経緯から容易に想像がつく。
エルフ少女は、そんな化け物と互角にやり合っている。
少なくとも、エルフ長老の目にはそう見える。
エルフ長老(これ程の力……通常、エルフという種族がたどり着ける領域のものではない)
もはや突然変異とすら言ってしまっても良いくらいだった。
思えば、エルフ少女は幼少期から変わった子だった。
興味を示す物の範囲が異常に広く、また、その追求にあらゆる労を惜しまず、ためらいもしない。
言ってしまえば、好奇心旺盛にも程がある、というか。
好奇心の化け物。
だから、そんな彼女は失われたエルフの秘術に興味を示して復活させたりもしたし、戦闘技術についても常に新しいことを、自らの限界を追求し続けた。
人間の文化に興味を持っていることも知っている。里を下りて人間の酒を嗜んでいることも小耳に挟んだ。
それ故か。その結果か。
エルフの枠組みに収まらぬ、彼女のような突出した存在が誕生したのは。
そんなエルフ長老の、エルフ少女に対する推察はまあ概ね合っている。
エルフ少女という存在が形成された所以は、大方エルフ長老が想像した通りだ。
ただ一点、明確にどうしようもなく違えている点がある。
それは、エルフ少女が獣王と互角にやり合えている、という点だ。
しかしそれはエルフ長老が二人の戦闘を視認できない以上、誤認しても無理なきことではあるのだが。
それは既に七十度目の激突。
獣王の爪を、牙を掻い潜り、エルフ少女は短刀を振るい獣王の毛皮を裂く。
意に介さぬ様子で口を大きく開き、再びエルフ少女に向かって牙をむく獣王。
エルフ少女は咄嗟に地面に手をつき、逆立ちの要領で獣王の顎を蹴り上げた。
その衝撃で、獣王の体が浮きあがり、一瞬大地から離れる。
エルフ少女「『精霊術・爆破』!!」
その隙を突いて、エルフ少女はエルフ特有の呪文、精霊術をもって強烈な爆発を獣王の腹にぶち当てた。
宙に浮いた状態では当然踏ん張ることは出来ず、その衝撃に押されるまま獣王は吹き飛んでいく。
エルフ少女「手応え――――」
エルフ少女は笑った。
後方に吹き飛ぶ獣王の足先が地面に触れる。
その瞬間、獣王の足の指先がずぐん、と地面に埋まり、その体がぴたりと制止した。
エルフ少女「―――なし」
エルフ少女の浮かべた笑みには、諦観が多分に含まれていたに違いない。
エルフ少女「まいったなあ……もう何回斬りつけて、何回魔法当てたと思ってんのさ」
エルフ少女の視線の先では、獣王が埃を払うように腹を手で叩いていた。
何度も何度も斬りつけた。何度も何度も魔法を直撃させた。
傷は出来ている。傷は出来ているのだ。
だが獣王はそれを全く意に介する様子がない。
エルフ少女が刻んだ傷は、既に全て出血が止まっている。
―――ダメージが通っているのか、不安になる。
獣王「どうしたエルフ少女よ。動きが鈍ってきているように思えるぞ?」
はあはあと荒く息をつくエルフ少女は、目の周りの汗を手で拭った。
エルフ少女「そういうアンタは、まだまだ元気ピンピンって感じだね」
獣王「ふむ、体力には自信がある故な」
獣王はまた呵々と笑う。
現在二人の間に現れている差は、単純な体力差というよりは、消耗差と言った方が相応しい。
エルフ少女の方が体力の消耗が激しいのだ。
その原因は、偏に獣王の攻撃の異常な威力にある。
直撃すれば一発で致命傷になりかねぬ故、エルフ少女は獣王の攻撃を防御することすら許されず、常に躱し続けなければならない。
だから、エルフ少女は一刻も緩めることなく常に全力全開で動き続けることを強いられ続けた。
単純な運動量として、エルフ少女は獣王の実に三倍以上は動いているだろう。
エルフ少女に残された体力は、実際のところ多くは無い。
しかし節約は許されない。一瞬でも緩めれば、たちまち獣王の一撃がエルフ少女の体を二つに裂くだろう。
とにかく、エルフ少女はこのまま全力で動き続けるしかない。
エルフ少女「……でも、それじゃジリ貧だよねえ…」
獣王が突っ込んできた。
作戦を練る余裕もない。
しくじれば即座に死に繋がる綱渡り。
獣王の嵐のような連撃を、エルフ少女は全力で躱し続ける。
そして遂にその時は訪れた。
エルフ少女の膝ががくりと落ちる。
所謂、『膝が笑う』という奴だ。
体力の限界。蓄積された疲労がエルフ少女の体から自由を奪う。
獣王「賞賛しよう」
その爪を振り下ろす刹那、獣王はそんな風に口にした。
獣王「我とこれほどまでに戦える者などそうは居らん。あの世で同胞たちに誇るがいい」
エルフ少女は何とかその窮地を脱しようと足に力を込めるが、駄目だった。
多分、筋繊維がもうズタボロなのだ。精神論では何ともならない、物理的な限界。
体勢を立て直すどころか、その場に尻餅をついてしまう始末。
エルフ少女(あーあ…)
自身に迫る獣王の爪が、殊更ゆっくりに見える。
エルフ少女(こんなことになるんだったら、取っておいた秘蔵のジャポン酒飲み切っておけばよかったなあ……)
そんな事を考えながら、エルフ少女は目を閉じた。
そして。
「うえいあおぇあああああああああああああああああああ!!!!!!」
何とも無様な悲鳴がその場に響いた。
エルフ少女のものではない。当然獣王のものでもない。
エルフ少女はぱちくりと目を開けた。
獣王が背後を振り返っている。
その視線を追ったその先に、直前の悲鳴の主がいた。
大上段に剣を振りかぶって、マントを揺らし、その目に涙を溜めながら獣王に飛びかかっている黒髪の少年。
ああ――――とエルフ少女は目を細める。
そして彼女は実に愛おしげに彼の名を呼んだ。
エルフ少女「――――勇者!!」
勇者「うわおぇああああああああああああああ!!!!」
振り下ろされた勇者の一撃を獣王は左の手のひらで受け止める。
ずぶり、とその刃が肉を裂いて手のひらに沈んだ。
獣王「む、ぐ……なんだ!? 何者だ貴様ァ!!」
そのまま剣を握りしめ、肉体を粉々にしてやろうと右腕を振りかぶった瞬間、獣王はもう一人自身に迫りくる人物がいることに気が付いた。
黒髪の男を追って視線が上を向いたその死角を縫うように、地を這うように迫って来ていた女。
その女は刃渡り二メートルに及ぼうかという大剣を振りかぶっている。
ぞわり、と獣の本能が獣王に危機を告げた。
あの剣の直撃を受けるのはまずい。
獣王「ちぃッ!!」
獣王は勇者への追撃を諦め、その剣から手を離すと身を躱すべく算段をつける。
せめてエルフ少女だけにはとどめを刺そうと獣王は背後に目を向けた。
しかし、そこに尻餅をついていたはずのエルフ少女の姿は既に跡形もなく消えている。
獣王「なにッ!? ……ええいッ!!」
予想外の驚愕が獣王の動きを遅らせた。
大きくその場を飛び離れた獣王だったがしかし、女の―――戦士の振るった『精霊剣・炎天(セイレイケン・エンテン)』は獣王の脇腹を深く裂いていた。
獣王「ぐおお…!! ぐ、ぬ…!!」
痛みに顔を顰めながらも、獣王は改めて状況を俯瞰する。
自身に攻撃を仕掛けてきた黒髪の男、大剣の女―――そこから少し離れた所にもう一人、煌めく手甲を纏った男、そしてエルフ少女、エルフ少女に向かって手をかざす女。
あれ程疲労困憊だったエルフ少女が何ともないように立ち上がった。であれば、あのもう一人の女は恐らく『僧侶』。
獣王「人間…? 人間が、何故ここに、エルフの村に現れる? 貴様ら、一体何者だ!!」
怒気混じりの獣王の声が大気を揺らす。
びりびりと頬にその振動を感じながら、勇者はその口の端を歪に持ち上げた。
勇者「は、はは……ど、どうやら、俺達のことは覚えてないみたいね」
武道家「ならば今度こそ奴の脳裏に俺達のことを刻み込んでやろう」
戦士「というより、奴はここで仕留める。あの敗北の屈辱をここで晴らしてやる」
僧侶「私達はあれからずっとずっと強くなりました……勝てます。今度こそ!」
勇者「う、うぅ…み、みんなやる気満々だなぁ……」
勇者(ああ……怖えなあ。怖いよう。手足が震えてまともに力が入らねえよう)
勇者(うう、アイツを見てるだけであの時の光景が目の前に甦ってくる。うっぷ。は、吐きそうだ……)
勇者「でも、やるしかねえんだよなぁ……」
勇者は思わず零れ落ちそうになっていた涙を拭った。
大きく息を吸って、吐く。
それでも、手足の震えは全く収まってはくれなかった。
でも。
勇者「やるしか―――――――ねえんだよなぁッ!!!!」
第二十二章 決戦(前編) 完
『倭の国』での竜退治を終えた勇者一行は、道中得たジャポン酒を手土産にエルフ少女を訪ねる為、『第六の町』より西に広がる大森林に再び足を踏み入れていた。
今度は迷いない足取りでエルフ少女が狩りの際に使用している休憩小屋を目指していた勇者だったが、森の深部に入るにつれ、次第に違和感と得体の知れない胸騒ぎを覚えていた。
武道家「ふッ!!」
武道家は体を回転させ、両肘に付けられたスピアで左右の狼型魔物を同時に断つ。
戦士「はァッ!!!!」
戦士の振り回す肉厚の刃は、その威力で猿型魔物の上半身を吹き飛ばした。
僧侶「うやぁッ!!」
僧侶の振り下ろした杖に叩き潰され、スライム型魔物の肉片が飛び散った。
直前の『倭の国』での冒険を始め、数々の艱難辛苦を乗り越えてきた勇者たちは、初めてこの森を訪れた時とはもはや見違えるほどの精霊の加護を獲得していた。
苦戦という苦戦もなく、むしろ順風満帆とも言える道中にあって、しかし勇者の気持ちは晴れない。
その理由は明白であった。
勇者(おかしい……何で森の中にこんなに魔物がたくさん居るんだ? この森に有った精霊の祠は既に解放されているはずだってのに……)
かつて勇者たちは大森林の中の精霊の祠を解放し、精霊の働きを活性化させた。
結果、相対的に魔物の力は減少するため、それを嫌って魔物たちは住処を余所に移すというのが常の流れである。
つまりこの状況は常識の外。
緊急事態。
精霊の加護を嫌う魔物が、それでも森に足を踏み入れるということは、何かしらの目的のために意思の統一が為されているということだ。
では、その目的とは。統一された意思の向かう先とは。
勇者「……嫌な予感がする。ちょっと、エルフの集落を覗いてみよう」
勇者はそう決断を下し、進路をエルフの集落へと向けた。
集落の位置は、印象深く勇者の記憶に刻まれている。
勇者「な…!? これは…!?」
エルフの集落に辿り着いた勇者達は、その惨状に思わず声を上げた。
防壁の役目を担っていたであろう木柵は微塵に砕かれ、赤い血の跡がそこかしこについている。
蹂躙の痕跡は無論、血痕のみではない。
倒れ伏す、既に事切れたエルフの体。
そこいら中に散らばる肉の切れ。
ぐちゃぐちゃと不快な咀嚼音が耳に付いた。
一匹の魔物が、死肉をむさぼっている。
ごろりと転がった金髪の首の、生気なき眼と勇者の目が合った。
ぞわり、と勇者の体が総毛立つ。
勇者「あああああああああああああああああ!!!!!!」
無我夢中で駆け出し、一刀の下に魔物の首を断つ。
背後から急襲された魔物は碌な反応も出来ず、勇者に打ち倒された。
魔物の、虎によく似たその顔が、ごろりと勇者の目の前に転がる。
一瞬、その顔に釘付けになった勇者だったが、すぐに我を取り戻し周囲の状況を見渡した。
すぐ近くに二体の魔物がいる。それぞれ、戦士と武道家が応戦中だ。
僧侶は倒れ伏すエルフの様子を見に駆け回り、息がある者がいないか確認しているようだ。だが、その表情から結果が芳しくないことが推測できる。
遠く視線を村の奥まで向ければ、土煙の中で魔物の群れがごった返しているのが見て取れる。
今の主戦場は、どうやらそこだ。
戦士と武道家がそれぞれ魔物を打倒したことを確認し、勇者は全員を集合させる。
勇者「奥に魔物の群れが居るのが見えるか? 多分、あそこでエルフの皆が必死で魔物を食い止めているんだと思う。俺達はなるべく音を殺しながら接近し、背後から魔物を強襲する。不意を突いて、出来る限りの数を即殺するんだ」
勇者の指示に三人は頷いた。
勇者「よし…僧侶ちゃん、俺達に攻撃強化と守備強化の呪文を」
僧侶は頷いて、三人に杖を向けて呪文の詠唱を始めた。
仄かに輝く呪力に身を包まれながら、勇者は剣を握る手に力を込める。
勇者(エルフ少女……無事でいてくれよ……!)
勇者「うおおおおおおおおお!!!!」
裂帛の気合いと共に剣を振る。
四足歩行の魔物を背中から一刀両断にした。
武道家「はああああああ!!!!」
エルフに向かって棍棒を振り下ろそうとしていた猿型魔物を引き倒し、拳を側頭部に叩き付ける。
ぱきゃり、と奇妙なほど軽い音を立て、魔物の頭部が破裂した。
戦士「…シィッ!!」
二メートルにも及ぶ大剣は、その射程に居た魔物を悉くまとめて両断していく。
実に三体もの魔物が同時に体を上下に分かたれ、吹き飛び、絶命した。
蟷螂型魔物「な、何だ!?」
エルフ「こ、これは一体…!?」
驚愕は魔物達にもエルフ達にも等しくあった。
僧侶は傷ついたある一人のエルフの戦士に駆け寄り、癒しの呪文を唱える。
エルフ戦士「に、人間…? 人間が、何故我々を助ける!?」
僧侶「エルフの皆様が人という種を嫌っていることは承知しています。ですが、どうか我々が貴方達に助力することをお許しください。私達は、友を救いたいのです」
エルフ戦士「友…? 友とはまさか…」
勇者「エルフ少女ーーーッ!!! 無事かーーーーッ!?」
勇者は視線を周囲に巡らせながらもう一体の魔物に向かって剣を振る。
しかし完全に不意を突いた先程とは異なり、一撃で魔物を絶命させることは叶わなかった。
勇者「ちっ! 浅いか!!」
蟷螂型魔物「何なんだてめえらぁ!!」
怒声を上げたのは両腕が半ばから刃と化している緑色の魔物だった。
流暢に人語を操るその様子から、相当に高位の魔物であることが推測できる。
蟷螂型魔物「死ねよやぁ!!!!」
風を裂く音と共に魔物の刃が迫る。
勇者は右から来たその一撃を剣で受け止めた。
ギン、と甲高い音を立てたはずの敵の刃は、しかし次の瞬間には柔らかく折れ曲がり、勇者の剣に巻き付いていた。
勇者「何ッ!?」
腕でありながら刃。刃でありながら腕。
どうやら敵のその腕は、硬軟自在に形を変えることが可能なようだった。
勇者「やっ、かい、なッ!!」
当然、剣を固定された勇者に対し、敵は空いた腕でもう一撃攻撃を振るう。
勇者の決断は早かった。
勇者はあっさり剣を手放すと身を屈めて敵の一撃をやり過ごす。
そして剣を打ち捨てたまま敵の懐深く潜り込み、己の頭上に位置する敵の顎を指差した。
勇者「『呪文・大烈風』!!」
射出された風の塊が蟷螂型魔物の顎を打った。
蟷螂型魔物「ご…お…!?」
強烈な衝撃に魔物の視界は明滅した。
昏倒しかけたその体は否応なく脱力してしまう。
勇者「剣、返してもらうぜ」
その隙に勇者は敵の手にあった己の剣をその拘束から引き抜いた。
相手の体勢が整わぬうちに一撃を見舞う。
胸を大きく裂かれた蟷螂型魔物は絶命し、その場に崩れ落ちた。
勇者たちの突入によって、戦況はエルフ側に大きく傾いた。
これまでエルフ達を圧倒していた魔物達だったが、勇者たちによって瞬く間に半数近く数を減らされたことでエルフの物量に対応できなくなったのだ。
エルフ戦士「行ける、行けるぞ!! みんな、頑張れ!! もうひと押しで勝てるぞ!!」
エルフ側優勢で安定してきた戦局を見て、勇者は考える。
このままここに残って加勢を続けるか、エルフ少女を探すか。
当然、普通ならばこのまま加勢を続けるべきなのだが、勇者の判断を迷わす要因が二つあった。
ひとつは、エルフ少女のこの場への不在。本人の弁を信じれば、エルフの中でも相当な手練れであるはずのエルフ少女がこの主戦場に居ないのはおかしい。
もうひとつは、ここで魔物たちはエルフの戦士達に食い止められていたにも関わらず、なお奥に続く点々とした血痕だった。
負傷したエルフが退却する時についたものであればいいが……ひとつめの懸念、エルフ少女の不在が気にかかる。
もしや既にここを突破した魔物がいるのか…?
勇者の疑念に回答を示したのは年若いエルフの少年だった。
エルフ少年「アンタさっき、エルフ少女の名を呼んだな?」
勇者「あ、ああ。そうだ、君はエルフ少女がどこにいるか知らないか?」
エルフ少年「知ってる。人間、頼みがある。ここはもう俺達だけで大丈夫だ。だから、エルフ少女を―――俺の姉を、助けに行ってあげてほしい」
勇者「……どういうことだ? 状況を説明してくれ」
エルフ少年「敵の中に、とんでもない化け物が混じっていた。身の丈三メートルはくだらない、虎顔の化け物。いち早くここの守りを突破したその化け物を、姉ちゃんは今一人で食い止めてる」
エルフ少年「姉ちゃんは強い。正直、俺は姉ちゃんのことも化物だと思ってる。だけど、それでも、アイツは……あの虎の化け物は多分、それ以上だ。俺は、震えるだけで何にもできなかった」
勇者「虎の…化け物…?」
エルフ少年「確か『獣王』と、そう名乗っていた」
勇者が顔面蒼白になったことに、エルフ少年は気づかない。
エルフ少年「頼む…お願い、します。悔しいけど、俺達エルフじゃ束になってもアイツには敵わない。アン…あなた達に、縋るしかないんです」
勇者「…わ、わかった」
息も絶え絶えに、勇者は返答する。
エルフ少年「あ、ありがとう!! ここが片付いたら、俺もすぐに加勢に向かいます!!」
頭を下げたエルフ少年に、勇者は笑みで返す。
しかし勇者の頬は引きつり、蒼白になった顔には脂汗が浮かんでいる。
その様子から、勇者は無理やり笑みを形作っただけなのだということは容易にうかがい知れた。
勇者「……は、はぁ…ぐ…」
勇者は息苦しささえ覚えて胸に手を当てた。
動悸が激しい。鋼の防具に遮られてなお、早鐘のように鳴る心音は手のひらまで伝わっている。
武道家「勇者、大丈夫か?」
武道家が勇者の心中を慮り、勇者に声をかけた。
見ると、武道家だけではない、戦士と僧侶も勇者に気遣いの目を向け、何か言いたげに眉根に皺をよせている。
勇者「……大丈夫」
勇者は深呼吸を二度、繰り返した。
勇者「……ああ、大丈夫だ。行こう」
落ち着きを取り戻した訳ではない。
動悸は相変わらず激しいままで、冷汗は止めどなく背中を濡らしている。
心と体が遊離してしまったように、足取りは覚束ない。
だが、急がなければ。
急がなければ―――エルフ少女が、あの明朗快活な好ましい少女が殺されてしまう。
それだけは、避けなければならない。
果たして、勇者の目に飛び込んできたのはその決定的瞬間だった。
地面に尻をついたエルフ少女。その目の前で腕を振りかぶる虎の化け物―――『獣王』。
その巨躯、その威容、赤の斑に染まった金色の毛皮。
ぞわりと勇者の背が震えた。
奴だ。
紛れもなく奴だった。
かつて勇者を死の淵に追い込み、決定的な敗北感を刻み込み、痛みへの恐怖を掘り起こした張本人。
右肩から左の腰まで刻まれた傷跡がじくりと疼く。
腰が抜けそうになる―――しかし目の前の情景が勇者にそれを許さない。
反転し、背を向け駆け出したくなる―――しかし目の前の光景が勇者にそれを許さない。
理性と本能の、相反する結論が勇者の思考を停止させた。
勇者「うえいあおぇあああああああああああああああああああ!!!!!!」
真っ白になった頭で、勇者は意味を為さぬ叫びを喉から漏らしていた。
結果としてそれは功を奏したが―――そこに、獣王の気を引くためだとか、そんな打算は一切含まれていなかった。
ただ恐怖を振り払うために、誤魔化すために、無我夢中で、我武者羅に叫んでいた。
地を蹴り、飛ぶ。
目を丸くしてこちらを向いている獣王に、大上段から斬りかかる。
事前の打ち合わせも、作戦も何もない、勇者の暴走ともいえるその行動に、しかし武道家と戦士は即応した。
武道家は駆ける。パーティーで一番のその俊敏さを存分に活かして、風よりもなお速く獣王の背後、エルフ少女の元へ回り込む。
武道家の動きは獣王の視界を逃れるため弧を描くように、逆に戦士はあえて直線的に獣王に向かって突撃する。
勇者を追って上を見上げた獣王の死角に潜り込むため、深く深く身を沈ませ、まるで地面を這うように戦士は駆ける。
勇者の剣を獣王が受け止めた。
その隙を狙って戦士は獣王に剣を叩きつける。
完全に不意を突き、かつ武道家の働きにより獣王を混乱させもしたはずだったがしかし、その刃は獣王を仕留めるまではいかなかった。
それだけでも、やはり獣王が村に侵入してきた魔物たちの中でも群を抜いた実力者であることが分かる。
だが、届いた。
かつてはその毛皮に傷一つ付けられなかった。
こちらの必死の攻撃は、獣王を興じさせる余興にしかならなかった。
今は違う。
届く。
戦える。
戦えるのなら―――――あとは勝つだけだ。
第二十三章 決戦(後編)
勇者は、込み上げる吐き気を必死で飲み下した。
視界は涙で滲んでいる。
己を必死で鼓舞してみても、このザマだ。
勇者(本当に、俺は情けねえなあ……嫌になる)
あの時から大きく成長していても、心の奥底に刻まれたトラウマは容易には払拭されてくれない。容易に払拭できないからこそのトラウマだ。
勇者は仲間たちの顔を見遣る。
皆、士気は高く、戦意に満ち満ちているように見える。
なればこそ、自分が足を引っ張るわけにはいかない。
勇者はもう一度大きく息を吸い、吐いた。
勇者(俺のこの恐怖の根源にあるものは何だ?)
自問自答。
勇者(そうだ、俺は、あの時の光景が、皆がボロボロにやられたあの光景が再現されることを恐れている。あの時の、文字通り死ぬような痛みがまた俺に襲い掛かってくることを恐れている)
この身を襲う緊張感の正体を、目を逸らすことなく浮き彫りにする。
勇者(そうさ、怖い、怖いんだ。だけど、しょうがねえ。しょうがねえんだ。怖いけれど、どうしたって怖いのは無くならねえから、『怖いままやるしかねえんだ』)
本能の恐怖を、理性の勇気で飲み込んでいく。
勇者(痛いのは嫌だ。死ぬのは嫌だ。死ぬのが嫌なら――――その前に、殺すしかない)
緊張は解けない。
恐怖も依然、心を縛っていて、指先は震えたままだ。
しかし涙は乾いた。
心臓の高鳴りも、ほんの少しは落ち着いた。
何より、思考はクリアだった。
死の恐怖への嫌悪感は、転じて勇者の集中力をこの上なく高めていた。
覚悟が決まるとはこういうことだ。
勇者はようやく、獣王との決戦、その舞台に上がることが出来たのだ。
勇者「いくぞぉッ!!!!」
勇者の号令と共に、勇者、戦士、武道家の三人は駆け出した。
対する獣王は余裕の表情を崩さないまま、両腕を広げた。
獣王「人間がエルフに加勢するなど、どのような魂胆があるかは分からんが……まあ、どうでも良い。我相手に横槍を入れたことを後悔せんようにな、人間ども!!」
獣王が吠える。同時に、その姿が掻き消えた。
エルフ少女「あ、危な―――!!」
エルフ少女が警告の声を発しきる前に、
武道家「見えているぞッ!!!!」
武道家はその身に振るわれた獣王の爪に手甲を合わせ、打ち逸らしていた。
獣王「なに…!?」
武道家「おおおッ!!!!」
武道家の、精霊甲・竜牙を纏った拳が深く獣王の腹に沈む。
臓腑を揺さぶる衝撃に、獣王は苦悶の表情を浮かべた。
獣王「ぐ、ぬう…!!」
苦痛に悶えながらも獣王は武道家に裏拳を見舞った。
精霊甲・竜牙を合わせ、直撃を避けながらも武道家の体は勢いに押され吹き飛んでいく。
追撃に移ろうとした獣王だったが、眼前に迫った刃にその動きは中断された。
戦士「ハッ!!」
獣王の首を目掛けて迫る戦士の大剣。
獣王「ガァッ!!!!」
獣王は拳を剣の横っ腹に叩き付け、そのまま打ち下ろして剣を地面に叩き付けた。
響く衝撃は大地に罅を入れるほどだ。しかし獣王は舌打ちする。
獣王(折れぬか…! 先ほど易々と我の毛皮を裂いてみせたことといい、随分と特殊な剣のようだな…!)
精霊剣・炎天を握りなおした戦士は続けざまに攻撃を繰り出した。
獣王もその爪をもって応じる。
衝突。走る轟音と衝撃に戦士と獣王、互いの足がくるぶしまで地面に埋まる。
獣王「カッ!!」
戦士「おおッ!!」
二撃、三撃、四撃と連続する轟音。
走る衝撃は割れた岩盤の欠片を宙に舞い上がらせる。
勇者が獣王の背後に忍び寄り、剣を振り上げた。
直接視認したわけではない。にもかかわらず、獣王はその気配を敏感に察知する。
獣王「小癪ッ!!!!」
獣王は体を左に向けた。すなわち、今まで正面に居た戦士を右側に、背後に迫った勇者を左側に相手取る形になる。
その状態で、一度胸の前で交差させた腕を勢い任せに振り下ろした。
戦士と勇者、それぞれの剣に獣王の太腕が衝突する。
勇者「うお!?」
戦士「ちいッ!!」
衝撃に耐え切れず、勇者と戦士はそれぞれ背後に吹っ飛ばされていった。
さてどちらを追いかけようか獣王が一瞬思案したその時、正面から獣王に向かって突っ込む影があった。
少なからず獣王を襲う驚愕。
影の正体は先ほど吹き飛ばされたばかりの武道家だ。
獣王「貴様、我の一撃を受けてなおそのように動けるか!」
武道家「以前貴様に無様に敗北してから死に物狂いで鍛え続けてきたからな。この身がそう簡単に折れると思うな」
獣王「よかろう、受けて立ってやる。全霊の一撃を打ち込むがいい」
獣王はその腹に力を漲らせた。
隆々と盛り上がる筋肉は馬鹿げた強度を誇り、あらゆる衝撃を跳ね返す楯となる。
武道家「お生憎様、俺が狙っているのはそこじゃないんだよ、獣王」
武道家が両腕の手甲を合わせて打ち鳴らす。すると、その肘の辺りから鋭く輝く刃が顔を覗かせた。
獣王「何ッ!?」
武道家「おおおおおおッ!!!!」
武道家は速度を加速させ続け、その勢いのまま獣王の股の間に突っ込んだ。
獣王の股下に潜り込んだ瞬間、その身を独楽のように回転させる。
回転する刃と化した精霊甲・竜牙のスピアが獣王の両足を抉った。
獣王「ぬぐぅッ!?」
会心の一撃――――のように思われたが、武道家の顔色は優れない。
武道家「……いまいちな手応えだ。機動力を完全に削ぐつもりだったが、浅かった。……今のに反応するのか。やはり大概な化け物だな、獣王」
吹き飛ばされていた勇者と戦士が戦線に復帰し、僧侶も含め、四人は一度元の場所に合流した。
その四人を、エルフ少女は驚愕の面持ちで見つめている。
エルフ少女(凄い…素晴らしい……!)
僧侶の回復を受けながら、小声で打ち合わせる勇者達に、エルフ少女は目を輝かせていた。
エルフ少女(これほど……まさか、これ程とは……!)
エルフ少女は今目の前で繰り広げられた一幕を回想する。
エルフ少女(一人一人の力量はまだ獣王には遠く及ばない……どころか、私にもやや劣る程度だ。だけど、三人の連携がその実力差を覆している)
エルフ少女(獣王の圧倒的攻撃力に押されてどうしても生じてしまう隙……それを他の仲間が絶妙なタイミングでフォローし、追撃を防ぐ。仲間の攻撃によって獣王に生まれる隙を、死角を熟知し、的確にそこを突く)
エルフ少女は、何も棒立ちで目の前の戦いを見送っていたわけではない。
ずっと、介入する、手助けするタイミングを見計らっていた。
その上で、参戦するのを躊躇したのだ。
自分が下手に乱入することで、三人の連携を乱してしまうのではないかと。
エルフ少女ほど卓越した技量を持っていてしてもその有様だったのだ。
その場に共に居るはずのエルフ長老が置物のように固まってしまっていたのも、むべなるかな、当然であろう。
しかしそれでも、勇者達が優勢である現状を見てもなお、エルフ少女には拭いきれない不安がある。
それは獣王の圧倒的タフネスに起因する。
エルフ少女との一騎打ちから数えて、決して少なくない攻撃をその身に受けたはずだ。
にもかかわらず、今のところ獣王には弱った様子が見られない。
実際、今もこちらの様子を伺っているばかりで、あちらから攻撃は仕掛けてこない。未だ獣王は、こちらの策を迎え撃つ王者の姿勢を崩さない。
決定打が必要だ。
獣王を致命的な状況に引きずり込む何かが。
エルフ少女(……いけるかもしれない。叶うかもしれない。勇者達の力量が想像を上回っていた、この嬉しい誤算によって、私達エルフ族の『切り札』……その発動が、成るかもしれない)
エルフ少女は覚悟を決めて、勇者に顔を寄せ、耳打ちした。
エルフ少女「勇者、お願いがあるんだ」
時間を稼いでほしい―――――それがエルフ少女の頼みだった。
エルフ少女「実は私は、エルフ族が持つ対魔物用の切り札を発動させている途中だったんだ。獣王が余りに怒涛の勢いで侵略してきたから、それを中断せざるを得なかったけど……」
エルフ少女「私は今からまたその術の発動の準備に向かいたい。本来ここで命を懸ける必要のない君たちに、あの化け物を押し付ける形になって大変心苦しいのだけど―――」
勇者「その術を発動させることが出来たら、どうなる?」
エルフ少女「勝てる。まず間違いなく」
武道家「ならば是非もない」
勇者「だな」
僧侶「ここは私達に任せてください!」
戦士「元より、奴は私達がケリをつけるべき相手だからな」
エルフ少女「ありがとう―――――二十分だ。私自身初めて扱う術だけど、二十分で必ず発動させてみせる」
勇者「に、二十分も!?」
戦士「ふん、それだけ時間があればもう決着がついているかもしれんな」
武道家「当然、俺達の勝利でな」
勇者「うへえ……まあ、やるだけやってみますか」
エルフ少女が戦線を離脱する。
獣王がそれを見て動く気配はない。
勇者「追わないのか?」
獣王「あの娘の素早さは知っている。逃げに徹されてはさしもの我も捕まえるのに骨が折れる。それに、貴様らの妨害も入ろう。口惜しいが、無為と分かり切っている行動は起こさぬ」
獣王はフフン、と鼻を鳴らし、鷹揚に両腕を広げた。
獣王「今は貴様らとの戦に集中しよう。初めてだぞ? これ程我にダメージを与えた人間は。楽しくてたまらぬ。実に、実にだ」
獣王は上機嫌を隠さず、勇者達を見据えた。
獣王「我が名は獣王。名乗れよ、人間共。この獣王が、貴様らの名を記憶に留めてやる」
勇者達はお互いの顔を見回した。
へへ、と思わず笑みが零れてくる。
武道家が両拳を合わせ、手甲を打ち鳴らした。
武道家「武道家だ」
戦士は大剣を突きつけるように、獣王に向けて掲げる。
戦士「戦士という」
僧侶はその胸に杖を掻き抱き、精一杯の声を上げた。
僧侶「僧侶です!」
そして―――勇者は、口元を曲げ、にへらと笑いながら言った。
勇者「勇者。――――『伝説の勇者』の息子。勇者だ」
その名乗りを受けて、獣王は目を丸くした。
顎に手を当て、視線を右上に、左上にと彷徨わせる。
獣王「はて、勇者…? その名、以前どこかで……」
やがて何かに思い至ったのか、ぽん、と手を叩く。
そして、その顔が獰猛な笑みを形作った。
獣王「まさか、まさか―――驚いたぞ。貴様、あの時の『アレ』か!! クッハ、クハハ!! あの汚物が、よくぞここまで成長したものだ!!」
獣王は可笑しくてたまらないと、腹を抱えて笑い出した。
獣王「しかしまあ、周りの連中も健気というか、愚直というか、あれ程の醜態を晒した男によくもまあついていく気になったものだ。いや、もしや知らんのか? 他の三人は寝ておったからな。見捨てられたことも上手く誤魔化されて、盲目に付き従ってきたのか。ならば納得もゆくものだ」
武道家「見縊るな。我々はちゃんとそのことは知っている」
獣王「ほう? ならばなおのこと滑稽だな。道端の糞を好んでその身に塗りたくるのが人の世では美徳とされるのか?」
嘲るような獣王の言葉を受け、勇者は俯いてしまう。
獣王がかつての光景を思い出しているように、勇者もまたあの時の光景を思い浮かべている。
悔恨と、恥。
無様を晒した負い目を持った心は、侮蔑の視線に耐え切れない。
そんな勇者の背中を、戦士が優しく押した。
戦士「何を俯いている。……言ってやれ、勇者」
戦士はその顔に笑みを浮かべていた。
それはとても優しい笑み。
恥も悔恨も全て飲み込んでくれるような―――慈母の如き微笑みだった。
勇者「……ハッ」
勇者は前を向き直る。
嘲るようにこちらを見下している獣王に、同じように、小馬鹿にするように、笑いながら見下してやった。
勇者「ああ、あれ? いや、あれ全部演技だから。あ、マジで信じてたんすか? 獣王様っつっても所詮は畜生っすね。御しやすいったらないですわ」
獣王の顔から笑みが消えた。
怒気混じりの、目に見えるほどの闘気が、周囲の景色を陽炎のように歪ませている。
獣王「良かろう。あれがその場を収めるための芝居だったとするなら、今のこの場にこれ程の力を持って現れたことも含めて、貴様は危険な男だ」
獣が咆哮する。
力が漲り膨れ上がった筋肉は、その巨躯をさらに一回り大きく見せた。
獣王「魔王様の弁はやはり正しかったということになる。『伝説の勇者』の息子―――勇者よ。今度こそ、貴様の命はここでもらう」
激闘、再開。
私闘から駆逐へ―――スタンスを変えた本気の獣王が、勇者一行に牙を剥く。
しかしその場を優勢に展開したのは勇者だった。
鋭さも重みも増した獣王の攻撃を勇者は単身で悉く捌いていく。
時間稼ぎに徹する―――そんな目的意識が勇者に与えられたのが大きかった。
時間を稼げば、その間凌ぎきることが出来れば、勝利は確定する。
こんな状況こそ、勇者の真骨頂であった。
獣王「ぬおおおおおおおおおッ!!!!」
速度も重さも勇者を上回る連撃を、勇者は次々と受け流していく。
元より、痛みを忌避する勇者はこの様な防御の技術が卓越していた。
一度防御に徹すれば、たとえ格上を相手にしようと、そうそう打ち破られることは無い。
それは、かつて盗賊の首領の攻撃を受け流し続けた時のように。
それは、かつて戦士の剣を結局は凌ぎきった時のように。
防御。
防御。
防御。
ただひたすらに防御を繰り返す。
獣王「ええい、鬱陶しいッ!! この糞虫がッ!!」
攻撃を悉く受け流されれば、状況が自分の思い通りにいかなければ、人は癇癪を起こす。
頭に血が上り、冷静な判断を欠くようになる。
それは獣王も同様だ。
苛立ちと怒りに任せた一撃はどんどんと大振りになり、本人の願いとは裏腹に、勇者にとって捌きやすいものになる。
ここで生じた隙を狙って攻勢に転じるのがいつもの勇者の基本的な戦法だ。
しかし今回はあくまで時間稼ぎのみが目的だ。攻勢に転じるリスクすら負う必要がない。
勇者が攻撃を行うとすればそれは―――
戦士「ハッ!!」
獣王「ぬうッ!?」
勇者に集中していた獣王の隙を突いて、戦士が獣王の背中に剣を振る。
驚異的な反射神経でそれを弾いた獣王が戦士に標的を移そうとしたその瞬間――――
勇者「よっ!!」
仲間の攻撃によって獣王の意識が勇者から外れた瞬間、攻勢に転じる際のリスクが限りなくゼロに近づいたその瞬間――――その瞬間のみ、勇者は初めて攻撃の為に剣を振る。
獣王「き、さま…!!」
戦士の精霊剣・炎天による一撃に比べればダメージは小さかろう。
しかし痛みは確実にある。
その痛みによって、獣王の意識は、標的は再び勇者の方を向く。
そして繰り返される、獣王にとって不毛とも言える、勇者との攻防。
埒が明かぬと、標的を変える選択肢も当然獣王にはあった。
勇者「なんだ、もう終わりかい…? 案外大したことないんだな。獣の王」
そうしようとした矢先の、勇者のこの言葉だった。
獣王「ゴアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!!」
怒りに我を忘れ、獣の本能を剥き出しにして、獣王は勇者に攻撃を繰り出し続ける。
獣王との攻防を繰り返す中で、勇者は一つの仮説を立てた。
勇者(獣王には……実は、戦闘技術と呼べるものが何も無い)
その根拠は、そもそも圧倒的に格下であるはずの自分が獣王の攻撃を凌ぎ続けていられているこの現状だった。
勇者(いくらなんでも、攻撃が単調すぎる。典型的なパワーファイター、例えば、かつて町を荒らしまわっていた盗賊の首領だって、もう少し技量めいたものがあった)
勇者(おそらく、獣王は強すぎたんだ。生まれ持った身体能力で、その力と素早さだけで敵を屠ってきた。小手先の技を磨く機会にほとんど恵まれなかったんだ)
勇者(実際、それで十分だったんだろう。事実、俺達は最初、その動きを目で追う事すら出来なかった。……こうやって、ある程度実力が肉薄したからこそ露呈した弱点。まさか、獣王にこんな弱みがあるなんて、思いもしなかった)
勇者(勝てる……かもしれない。あの獣王に。魔王の側近に!!)
その時、背後から歓声が聞こえた。
何事かと、獣王の視線がそちらを向く。
勇者もまた、その隙に一瞬だけ背後に目を走らせた。
エルフ戦士「行くぞ!! 奴が最後の魔物だ!! 人間達に任せるな!! 俺達の村は、俺達の手で守るんだ!!」
エルフ長老「おお、お主等!!」
エルフの集団が広場の中に流れ込んできていた。
どうやら、エルフの集落を攻めてきた魔物の集団は全滅させることが出来たらしい。
意気軒高に鬨の声を上げるエルフの戦士達を、獣王は苦み走った目で見つめている。
獣王「まさか、エルフ如きに後れを取るとは……役に立たぬ部下共よ。いや、もしやこれも貴様らの仕業か?」
獣王の問いに、勇者は黙して答えない。
一刻として油断せず、勇者は獣王の挙動を観察している。
獣王「……まあよい。駆除すべき害虫共がこうして集まって来たのだ。後で虱潰しにする手間が省けたと思おう」
ぎくり、と勇者の肩が震えた。
勇者「お、おい! まだ俺との決着がついていないぞ!! 逃げるのか!!」
獣王「もう良い。飽いたわ。貴様の相手はまた後でしてやる。今は貴様のせいで溜まった鬱憤を発散する方が先だ。虫を散らして憂さ晴らしといこう」
勇者「ま、待て――――」
勇者の制止の言葉など聞かず、獣王はエルフの集団に向かって駆けだした。
勇者「待てえええええええええ!!!!!!」
獣王「はぁぁぁぁああああああああ!!!!!!」
獣王の突進を押し留めることが出来る者など、この場に誰も居なかった。
獣王の突進を、勇者も、武道家も、躱して、逸らして、やり過ごすことは出来ただろう。
しかし正面に立って受け止めることなど戦士ですら不可能だ。
獣王の進撃を止めるべく横合いから振るわれた戦士と武道家の攻撃も甲斐なく――――
獣王という圧倒的暴力の塊がエルフの集団に突っ込んだ。
獣王「ぐわははははははは!!!!」
無造作に振るわれる爪が肉を裂き、命を奪う。
エルフ戦士「恐れるな!! 突撃しろッ!!!!」
それでも高揚しきった戦意は萎えず、エルフの戦士たちは獣王に向かって突撃する。
しかしそれは、忙しなく上下するギロチンの刃に自ら首を突っ込むが如き愚行だった。
エルフ男「うげぇーーッ!!」
エルフ女「きゃああああ!!!!」
血と肉が宙を舞う。
仲間の血肉をその身に浴びて、ようやくエルフの戦士たちは悟った。
ああ――――我等の村は、今日滅びるのだ、と。
エルフ少年「う、ぐ…!」
獣王「ほう、我の力を知り、なおこの場に戻ってきたその蛮勇は賞賛されるべきものだ。褒美を取らそう。貴様は―――我が腑に落とし込んでくれる」
獣王の牙がエルフ少年に迫る。
勇者「止ぉまれぇぇぇぇぇえええええええ!!!!!!」
勇者は地を蹴り、宙へ舞い上がって剣を振りかぶった。
獣王「やはり止めに来たか、勇者。では今度は貴様の攻撃と我の防御を比べてみようではないか。とはいえ、我が防御は貴様のように消極的なものではないがなぁッ!!!!」
勇者の剣に向かって獣王の拳が振るわれた。
勇者の剣が獣王の拳に沈む。だが獣王はおかまいなしにその拳を振り切った。
巨大なハンマーでぶっ叩かれたように勇者の体が後方に飛ぶ。
獣王は浅く裂けた己の拳をぺろりと舐めた。
勇者「が…! ごふッ…!!」
勇者の口から血が零れる。
まるで腹の中を灼熱で焼かれているようだ。
剣も防具もおかまいなしに突っ切ってきた衝撃が、勇者の臓腑に深刻なダメージを与えていた。
僧侶「勇者様ッ!!」
僧侶が仰向けに倒れる勇者に駆け寄り、回復のための呪文を紡ぐ。
勇者はかすむ視界の中で、必死に獣王を食い止める戦士と武道家の姿を捉えた。
勇者(今までの攻防で、どうだ、何分稼げた…? 体感で、およそ十分、ってところか……)
勇者(防御に徹して時間稼ぎするのにも限界だ。獣王の矛先がエルフの皆に向かないよう、俺達も攻撃し続けるしかない……)
勇者(あと十分……今度は攻撃に徹しての時間稼ぎか……まったく、難易度高すぎるぜ……)
それからの戦闘は熾烈を極めた。
獣王の足を止めるためには、間断なくこちらから攻撃を繰り出すしかない。
しかしそれは、獣王の攻撃をもろに受けるリスクを大幅に孕むという事だった。
勇者が見抜いたように、獣王の攻撃は重さと速さはあるが単調で、今の勇者達ほどの力量まで達すれば、そうそう直撃を食らうことはない。
とはいえ、こちらも攻撃を仕掛けなければならない以上、獣王の咄嗟の反撃も含め躱し続けることなど困難だ。不可能とすら言っていい。
事実、勇者も、武道家も、戦士も、至る所が血濡れの有様だ。
僧侶はもうずっと間断なく回復呪文を唱え続けている。
獣王の目がぎょろりと僧侶の方を向いた。
獣王「女―――僧侶と言ったか。このパーティー、実は貴様が一番の肝のようだな。貴様の回復呪文を失えば、このパーティーは瞬く間に半壊する」
獣王に睨まれ、僧侶の全身にぶわっと汗が浮かんだ。
当たりさえすれば一撃で殺せる自信があったため、獣王は今まで僧侶の存在を放置していたが、こうまでしつこく勇者達が食い下がってくるとなれば、考えを改めざるを得ない。
獣王「いつまでもこの戦いを続けていたい気持ちもあるにはあるが……そうも言ってはおれん。ここらで我らの目的達成のために、本腰を入れさせてもらうぞ」
獣王が僧侶に向かって突進する。
本来、僧侶への攻撃を防ぐのは勇者の役目だ。
しかし前述の通り、獣王の突進を止めることなどこの場の誰にも出来はしない。
だが、それでも。
勇者「がああああああああ!!!!!!」
武道家「ずぇありゃああああああああ!!!!」
戦士「おおおおおおおおおおお!!!!!!」
獣王の言う通りだ。
僧侶を失う訳にはいかない。
勇者達は全員で獣王と僧侶、その線上に立ち塞がり、全力で獣王の突進を迎え撃った。
獣王は勇者達の攻撃を受けるために足を止めることはしない。
ただひたすらに僧侶に向かって足を進める。
結果、勇者の剣も、武道家の拳も、戦士の大剣も今までより深く獣王の体を抉ったが、それでも獣王の動きを止めることは出来なかった。
獣王「ゴアアアアアアアアアアアア!!!!!!」
その突進の威力に、勇者達三人は散り散りに吹き飛ばされてしまった。
僧侶「あ…あ…」
もはや獣王の動きを遮るものなど何もない。
獣王は真っ直ぐ僧侶に向かって突撃する。
「「「僧侶ぉぉぉぉぉおおおおおおお!!!!!!」」」
勇者達三人の絶叫が重なった。
獣王「もらったぁ!!!!」
獣王が僧侶の頭を砕かんと、その爪を振り下ろした。
獣王の爪が、僧侶の頭部に触れる、その刹那―――――
僧侶「うやあッ!!!!」
僧侶はその身を回転させ、獣王の手首辺りに己の持つ杖を引っ掛け、その腕の軌道を逸らしていた。
獣王「なにッ!?」
僧侶「うやあッ!!!!」
軌道を変えた獣王の腕が空を切り、生じた脇腹の空白に僧侶は頭から突っ込んで獣王の横をすり抜ける。
そのまま駆け抜け、僧侶は獣王の背後側に脱出を果たした。
即座に勇者達三人は僧侶の元に駆け寄り、獣王との間の壁となる。
武道家「よくぞ、よくぞ躱した!! 僧侶!!」
僧侶「武道家さんに修業をつけてもらったおかげです!! だけど……」
ゆっくりと背後を振り返った獣王と僧侶の目があった。
ばくん、と僧侶の心臓が跳ね上がる。
僧侶「もう一度、同じことをやれと言われても出来るかどうか……」
獣王は自らの爪を一瞥し、ふぅ、とため息をついた。
獣王「たかが僧侶、と侮り過ぎたか。我ながら迂闊な事よ」
その様子を観察しつつ、勇者は口を開く。
勇者「……そうだな。多分、次は無い。また僧侶ちゃんを狙われたら、それで終わりだ」
進退窮まった。
時間稼ぎの限界。
これ以上は、もう一刻だって稼ぐことは出来ない。
エルフ少女の言う『切り札』の兆しは、未だ見えない。
勇者「……やるしか………ないのか…」
こうなれば、やる事は限られてしまう。
勇者は一際大きく息を吸い、吐いた。
勇者「みんな……」
ぼそりと呟くように、勇者は皆に自分の考えを伝える。
殺されたくないのなら―――――先に殺すしか、ない。
じり、と獣王の足がほんの僅か、勇者達に向かって前進した。
直後、勇者達は弾けるようにその場を散った。
武道家「はあああああああ!!!!!!」
真っ直ぐに獣王に向かい、先手を打ったのは武道家だ。
獣王「ぬん!!」
持ち前の俊敏さで獣王の右腕での一撃を掻い潜った武道家はそのまま獣王の腹に攻撃を繰り出す―――と思いきや、獣王の右腕を、その左脇に抱え込むようにして固定した。
獣王「……ハッ!! 我の腕をへし折ろうとでも言うのか!? 片腹痛いわぁ!!」
獣王は武道家に掴まれた右腕を大きく振り回した。
凄まじい勢いで振り回される反動に歯を食いしばりながら、武道家は必死で獣王の右腕にしがみ付く。
獣王「ええい、鬱陶しいわ!!」
体に纏わりついてくる羽虫を振り払うように、獣王は空いた左腕を武道家に振るった。
武道家はまるでその腕を掴み取ろうとするように、空いた右腕を伸ばした。
獣王「馬鹿が!! 片腕一本で受けきれる一撃と思うか!! 潰れて死ね、人間!!」
人の頭蓋を呆気なく粉砕する、圧倒的な威力を持った一撃が武道家に迫る。
武道家「吼えろ!! 『竜牙』!!!!」
武道家の言霊に反応し、精霊甲・竜牙から爆発的な風の奔流が発生した。
それによりほんの僅かにだが軌道を逸らされた獣王の左腕が、武道家の右肩を掠め、地面を叩いた。
掠めただけでも右肩の骨は砕け、周囲の肉と混ぜられた。
その苦痛に顔を顰めながらも、武道家は獣王の左手を踏みつける。
武道家「両腕、押さえたぞ!! 勇者ッ!!!!」
勇者「『呪文・大火炎』!!!!」
間髪入れず勇者の手から放たれた火球が獣王の顔に直撃する。
獣王「グア…!?」
着弾を確認した段階で武道家は獣王の腕を解放し、その場を離れた。
獣王「ぬおお…!!」
火球に顔を覆われた獣王は、顔を洗うように両手で掻き毟っている。
そんな獣王を見据え―――戦士が精霊剣・炎天を構えた。
勇者『現時点で獣王に致命的なダメージを与えられるのは、戦士の炎天での一撃しかない』
勇者『そこで、俺の火炎呪文で奴の視界を奪う。その隙に、戦士は全霊で奴の首を狙ってくれ』
勇者『とはいえ、まともに撃ったんじゃ俺の呪文が奴に直撃する訳がない。だから武道家、お前には本当にしんどい仕事を任せたい』
勇者『ほんの一瞬でいい、何とか獣王の両腕を拘束してくれ。出来るか? ……ありがとう。じゃあ、悪いけど任せたぜ』
勇者『そうしてくれれば……俺が必ず獣王の頭に呪文を直撃させる。それが成功すれば、俺達の勝利だ』
勇者(やった…!!)
作戦の成功に、勇者は内心喜びに打ち震える。
戦士が獣王に向かって駆け出した。
勇者もまた、剣を握る。
作戦の成功率を上げるため、勇者にはまだやるべきことがある。
勇者「うおおおおおおおおああああああああああ!!!!!!」
あえて絶叫しながら獣王に向かって飛びかかる。
炎に包まれた獣王の顔が勇者の方に向いた。
すなわち、接近する戦士とは明後日の方向に。
勇者(そうだ、俺はここだ!! 俺を警戒しろ、獣王!! その隙に、戦士がお前の首を獲る!!)
勇者(俺達の――――勝ちだ!!!!)
―――勇者がそう思った瞬間だった。
獣王の顔が、ほんの一瞬、ちらりと戦士の居る方向を向いた気がした。
勇者(いや―――ちょっと待てよ)
炎を顔に纏ったまま、獣王はその身を屈める。
四本の手足で地面を掴むその姿は、まさしく獲物を狙う虎だ。
勇者(ば―――ふざけんなよ!! 見えてねえだろう!! 見えてねえはずだろう、お前は!!)
勇者は失念していた。
これまでも何度も、明らかに死角から放たれた攻撃に、獣王が見事に対応していたことを。
勇者はもっと深く考えるべきだった。
獣王が、魔王軍下最強の魔物と呼ばれる怪物が、単純な身体能力だけでその地位にいるはずがないのだということを。
つまり、直感。
もはや予知能力じみた勘の良さ。
獣の本能の究極。
それが獣王の特性。特殊能力といっても差し支えない無二の才覚。
その才覚で、獣王は死に物狂いになるべき時を、全力の中の全力を振り絞るべき時を過たない。
獣王「 ゴ オ オ オ オ オ オ オ オ オ オ ! ! ! ! ! ! 」
一際大きく大地を揺らす咆哮。
獣王が四本の足で地面を蹴る。
二本の足で直立していた時でさえあの速度。
獣王の速度は、今再び勇者達の認識を超えた。
つまり、見えなかった。
見えなければ、対応も出来ない。
原始の獣に立ち返ったため、獣王の攻撃手段はその牙のみだ。
その牙が、射線上に居た戦士の腹に食い込んだ。
纏っていた鎧など飴細工のようにちぎり取られた。
駆け抜けた獣王が土煙を上げて止まる。
突進の風圧で顔を覆っていた勇者の火球は霧散してしまっていた。
ぐちゃぐちゃと、獣王は何かを咀嚼している。
赤い血が獣王の口元をしとどに濡らしていた。
戦士「あ…?」
戦士の腹は獣王の顎の形に綺麗にもぎ取られていた。
傷の幅は、縦にたっぷり三十センチはあろうか。
横幅などは、胴体が繋がっているのが奇跡というような有様だった。
戦士「こふ…」
戦士の体が崩れ落ちる。
戦士の体を中心に、赤い血だまりが広がった。
勇者「 う あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ ! ! ! ! ! ! ! 」
勇者の絶叫が広場に響く。
勇者「うあ、うああ!! うああああ!!!!」
戦士の元へ駆け寄った勇者は意味も持たぬ叫びをひたすらに繰り返す。
僧侶が戦士の体に回復呪文を施した。
僧侶「ああ…駄目…私の呪文じゃこんな傷、すぐには治せない……死んじゃう…治る前に戦士が死んじゃうよお…!」
いやいやと、僧侶は頭を左右に振った。
獣王が立ち上がり、直立の姿勢に戻る。
獣王「今の形態は我にとっても負担が大きい諸刃の刃……まさかここまで貴様らに追い詰められるとはな……」
獣王もまた、消耗していた。
この獣の王が肩で息をしているなど、見る者が見れば目を疑う光景である。
獣王を仕留める千載一遇の好機はなお続いていると言えた。
しかし勇者は動かない。
動けない。
勇者の精神は、全くその均衡を失ってしまっていた。
勇者「駄目だ…駄目だ駄目だ駄目だ!! 死ぬな!! 死ぬな戦士ぃ!!」
戦士「う…」
僧侶「だめぇ!! 目を閉じちゃだめだよぉ!! 戦士ぃ!!」
僧侶もまた、同様だ。
二人は大粒の涙を流しながら戦士に回復呪文をかけ続けている。
その状態を、獣王が動き始めてもまだ二人は改めようとしない。
獣王「死に体の仲間にかまけて己の命まで落とすか。まったく、愚かな。存外、幕引きは下らぬ形になったものよ」
武道家「ここから先は行かせんよ、獣王」
駆け出そうとした獣王の前に、武道家が立ち塞がった。
右肩はまだ動かない。気休めに薬草を食み、痛みだけを誤魔化している状態だ。
獣王「ほう…確か武道家といったな。貴様はまだ気骨があるとみえる。そんな状態で我の前に立とうとは、見上げた根性よ」
武道家「貴様とて、それほど余裕があるようには見えんぞ? そんな風に上から物を言える立場ではあるまい」
獣王「消耗していることは認めるがな。それでも貴様らごときに遅れは取らぬ。それは貴様自身が良く分かっていよう」
武道家「試してみなければわからんさ」
獣王「玉砕覚悟か。良かろう。その心意気に免じて、付き合ってやる」
勇者と僧侶による必死の治療が続く。
しかし、その甲斐なく戦士の目はどんどんとその光を失い始めていた。
戦士「……ぅ…」
勇者「う、うぐ、うう…!」
勇者はがちがちと歯の根も合わぬほど震えている。
僧侶「ふぅぅ…! ふぅぅ…!」
僧侶は鼻水が垂れるほど泣きじゃくっていた。
エルフ少年「長老!! あれを、『ホウジュン』を使えば彼女を救うことが出来るのでは!?」
勇者達の様子を見かねたのか、エルフ少年が声を上げた。
エルフ長老「ぬ…確かに、可能性はある。しかしエルフ族の宝具を人間の為に使うというのは……」
勇者「あるのか!?」
エルフ少年の言葉に、勇者は涙で濡れた顔を上げた。
勇者「戦士を救える道具があるのか!?」
エルフ少年「え、ええ。この集落にずっと昔から伝わっている精霊装備、『精霊杖・豊潤【セイレイジョウ・ホウジュン】』。その杖には、あらゆる傷を一瞬で完治させうる神秘が宿っていると言い伝えられているんです」
勇者「すぐに持って来い!! 急げ!!」
エルフ長老「……あれはエルフの至宝。人間などを救うために使ったとあっては先祖達に顔向けが……」
勇者「うるせえええええええええ!!!!!!」
勇者の怒号が響く。
勇者「ごちゃごちゃ言ってねえでさっさと持って来い!! 救える手段があるのに、てめえらがそれをくだらねえ理由で出し渋って、結果彼女を死なせてみろ!!」
勇者「その時は、俺がてめえらを滅ぼすぞ!!!!」
その鬼気迫る様子に、その場に居たエルフは皆一様に息をのんだ。
決意に満ちた顔で頷いたエルフ少年が、長老の許可を待たずに駆け出した。
エルフ長老「こ、これ!」
その動きを制する声はあっても、実際にエルフ少年を押し留めようとする者はいなかった。
どさり、と何かが倒れる音がした。
勇者は、ぼうとして音のした方に首を動かす。
武道家が倒れていた。
倒れ伏す武道家の体を踏み越えて、獣王が勇者達に迫りくる。
僧侶「う、あ、あ…」
僧侶は動けずにいた。
本当は今すぐにでも武道家の傍に駆け寄って、その傷を癒してあげたい。
だが、今僧侶が戦士の治療を中断すれば、戦士はあっという間に死んでしまうだろう。
僧侶「あ、ああぁ…!」
パニックに陥った頭では、現状を維持するだけで精いっぱいだった。
僧侶は固く目を閉じて、祈るように戦士の体に魔力を送り続ける。
勇者「なんだよ…」
勇者はふらふらと立ち上がり、切っ先の定まらぬ剣を獣王に向けた。
勇者「なんなんだよ……何でお前らぁ、攻めてくんだよぉ…! お前ら、魔界なんて自分の世界があんだろぉ…!? じゃあそこにいりゃいいじゃんかよぉ…何でこっち来んだよぉ…!」
獣王「我らが生きる為には新しい世界が必要だった。そしてどこの世界でも弱肉強食とは普遍の真理だ。強ければ生き、弱ければ死ぬ。それだけのことよ」
勇者「強い奴がそんなこと言ってんじゃねえよ!! ずりいんだよ、お前みてえな奴はぁ!!!!」
獣王「もういい。やはり貴様は見苦しい。見るに耐えん。武道家のように原形など残さず、バラバラの肉片にしてやる」
勇者「うあああああああああああああああ!!!!!!」
獣王「死ね」
獣王がその爪を振り上げる。
――――――瞬間、世界が輝いた。
獣王「な……むぐ!?」
一瞬呆気にとられた獣王の体を勇者が破れかぶれに振った剣が叩いた。
その勢いに押され、獣王の体が後方に吹き飛んだ。
獣王「ぬう…馬鹿な…我が貴様如きにこれほど力負けするなど……ぬ?」
勇者の剣が通った軌跡。
その線をなぞって、獣王の毛皮がぱっくりと割れた。
ブシュゥ、と夥しい量の血が傷口から噴き出す。
獣王「何ィィィィイイイイイ!!? 馬鹿な!! 奴の剣が我にこれ程のダメージを……これは一体!?」
勇者「何が……起こってるんだ?」
勇者は―――勇者だけではない、この場にいる者は皆、呆けた顔で辺りを漫然と見渡していた。
輝きは地面の下から。
大地の発する輝きに包まれ、まるで世界全体が光に満ちたかのような錯覚を覚える。
その中にあって、確かに感じ取れる事実があった。
勇者(精霊の加護が……これ以上ない程高まっている……)
はっ、と我を取り戻して勇者は辺りを見回した。
武道家の体がぴくりと揺れた。
僧侶の呪文による戦士の傷の再生は、明らかにそのスピードを増している。
勇者(これなら……戦士も武道家も、助かるかもしれない…!!)
獣王「これは、一体なんだ!? 一体何が起こっている!?」
勇者とは真逆に、不快気に喘ぐのは獣王だ。
獣王(息が苦しい……体の動きが鈍い……まるで、水の中にいるような――――いや、これはそんなレベルではない)
獣王(泥だ。この身の動きを阻害するこの抵抗は、まるで泥の海に沈み込んでしまったかのようだ)
勇者「うおおおおおおお!!!!」
幾分冷静さを取り戻した勇者が、混乱に喘ぐ獣王の隙を逃さず突進する。
獣王「ぬう!!」
思うように動かぬ体に戸惑いながら、それでも獣王は勇者の剣に拳を合わせる。
今まで皮膚を浅く裂くだけに留まっていた勇者の剣は、今度は肉を裂き、拳を中程から二つに分かつほど食い込んだ。
獣王「があああああああ!!!? おのれ、おのれええええええええ!!!!」
慌てて獣王は拳を引き、もう片方の腕の、その爪を勇者に突き出す。
しかしその一撃はほんの僅かに身を躱した勇者の顔のすぐ横を空振りした。
完全に、見切られている。
勇者の剣が獣王の右肩から左腰までを大きく裂いた。
獣王「ぬううあああああああああ!!!!!!」
勇者(明らかにさっきまでと比べて、獣王の速度が落ちている。何となく分かってきた。つまりはこれが―――)
エルフ少女「つまりはこれが『宝術』の効果なのさ。範囲内の精霊の加護を極限まで高め、それに反する魔物の力を半減させる。要は超強化型の結界だね」
エルフ少女「獣王のような桁外れの化け物は通常の結界なんてものともしない。でも、この宝術はたとえ相手が如何なる存在であっても、その影響から逃れることは出来ない。たとえばそれが、魔王であったとしても」
エルフ少女「そうだね……感覚的な、おおよその値になるけど……本来の戦闘力の二分の一程度にまで落ち込むんじゃないかな」
軽やかに広場に舞い戻ったエルフ少女が、僧侶に向かって得意げに解説した。
僧侶はどこか夢の中にいるような感覚で、エルフ少女の言葉に耳を傾けている。
エルフ少女「……あの化け物を相手に、これだけの時間を稼いでくれてありがとう。もう大丈夫。私達の勝ちだ。これで、一刻も早く傷ついた二人を治療してあげてくれ」
僧侶「これは……」
エルフ少女「高位の『僧侶』でなくては発動できない逸品。使い手もなくずっと眠っていたエルフ族の至宝。でも君ならば、恐らく――――」
エルフ少女が僧侶に差し出したのは、それ自体が緑の輝きを放つ特殊な金属で形作られた、『僧侶』専用の装備。
エルフ族に代々伝わってきた宝具。
精霊杖・豊潤だった。
獣王「おのれ…! おのれおのれおのれぇ!!」
勇者の剣が獣王の胸を裂く。
反撃する獣王の爪は空しく空を切った。
獣王「これが…これが、魔王様がエルフを我らの大敵と定めていた理由か…!! 彼奴等め、こんな面妖な術を操るとは…!!」
勇者「うおおおおおおおおおおお!!!!!!!」
勇者の剣が遂に獣王の爪を砕いた。
一気果敢に振るわれる勇者の剣は、獣王に次々と確かなダメージを与えていく。
獣王「まったく思う通りに体が動かぬ…!! 何という理不尽だ!! 怒りで腸が煮えくり返る、どころではない!! この身に巡る血液が全て沸騰して爆発してしまいそうだ!!」
勇者「納得いかないか? でも、お前が言ったことだぜ? この世は弱肉強食、なんだろ?」
獣王「囀るな糞虫がッ!!!! こんな、こんなものは認めぬ!! 戦とは、命の奪い合いとは!! 互いの全身全霊をぶつけ合い、鎬を削るものであるべきだ!! その先にこそ、我の求めるものが有る!!」
勇者の剣が獣王の口に叩き付けられた。
砕けた牙の欠片が散らばり、獣王の口から初めて獣王自身の血が溢れ出す。
獣王「ぐおおおおおおおおお!!!!?」
勇者「そんなもん、てめえの、常に勝者であった者の勝手な理屈だ。そんなもんを周りに押し付けてんじゃねえ」
二度、続けざまに振られる勇者の剣。
切断された獣王の両腕が回転して宙を舞った。
勇者「それに、これだって立派な俺達の力だ。てめえが馬鹿げた身体能力を武器にするように、俺達は知恵を武器にする。てめえはその比べ合いに負けた。それだけだ」
勇者が地を蹴り、飛んだ。
マントを風にはためかせ、大上段から振り下ろされる一撃を、もはや獣王に防ぐ術はない。
獣王「この我が、この我が!! 貴様如きにぃぃぃいいいいいいいい!!!!!!」
勇者「俺達の、勝ちだぁぁぁぁぁああああああああ!!!!!!!」
獣王の頭頂部に沈み込んだ勇者の剣は、その勢いのまま獣王の体内を滑り、やがて股から下に抜けた。
縦に真っ二つに裂かれた獣王の体が、ずれてその場に重なり落ちた。
勇者「はあ…はあ……」
勇者は、しばし呆然と獣王の死体を見下ろしていた。
息は荒くなってしまってどうしようもない。
ばくん、ばくんと高鳴る心臓はどうやって収めたらいいものか。
かつて辛酸を嘗めさせられた相手を倒した。
刻まれたトラウマの元凶を乗り越えた。
だのに、だというのに―――達成感も、喜びも、驚くほど無いのはどうしたことだ。
勇者は、その理由に気付いていた。
「勇者……」
かけられた声に、振り向く。
そこに居たのは、戦士だった。
勇者「戦士……良かった。助かったんだな……」
戦士「……おかげさまでな」
勇者は戦士の、獣王に抉られた腹部に目を向けた。
先ほどまで大穴が空いていたとは信じられないほどに、傷は塞がってしまっている。
勇者「良かった…本当に……」
そう呟いた勇者の瞳からは、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちていた。
戦士「勇者…?」
勇者「え、えぐ…! うぇぇ…!!」
良かった―――? 良かっただって―――?
―――――どこがだよ、馬鹿野郎…!!!!
勇者の目に映ったのは、戦士の腹部に痛々しく残った大きな傷痕。
傷は塞がった。後遺症もないだろう。
だがそこには、隠しようもない傷痕が残ってしまった。
戦士の美しい皮膚の中にあって、明らかに異質なその質感。
それを醜いと、そう判断してしまう輩は一定数以上確実に存在するはずだ。
勇者「ごべん…せんし…ほんとうにごべん…!!」
この結果を招いたのは、自分の思慮の浅さだ。
浅薄な作戦に戦士達を巻き込み、結果、取り返しのつかない罪を犯してしまった。
勝利の余韻など、どこにもない。
勇者の胸中にあるのは後悔と、仲間への申し訳無さだけだった。
戦士「まったく、お前は……」
戦士は呆れたようにため息をついて、勇者の目の前まで歩み寄った。
そして、そっと勇者の頭に手を触れると―――そのまま、勇者の頭をその胸に掻き抱いた。
戦士「謝るな。お前が私に謝る理由など何一つない」
勇者「でも、俺のせいで、戦士は女の子なのに、体にそんな大きな傷痕が残っちゃって」
戦士「そんなもの、この旅を始めた時からとっくに覚悟はできている。そんな気遣いをされるのは、逆に失礼だ」
勇者「でも…でも…!」
戦士「それに、今までお前にばかり大きな傷を負わせてしまっていたからな。対等になれたようで、私は嬉しいんだ」
戦士はそっと勇者の頭を離し、今度は勇者のお腹の辺りにそっと手を触れた。
戦士「ここにもお前、竜に咬まれた時の大きな傷痕があるだろ。ふふ、ならお揃いじゃないか、私達」
そう言って、戦士は微笑んだ。
ぼろぼろと、勇者の目から零れる涙がその勢いを増す。
勇者は思わず、戦士の胸に自分から顔を埋めていた。
勢いに押され、戦士は思わずその場に尻餅をつく。
勇者「戦士…! うぐ、ああ…!! 戦士、戦士ぃ~~!!」
戦士「よしよし……ホント、泣き虫だな。お前は」
自らの胸に顔をうずめ、子供のように泣く勇者の頭を撫でながら、戦士は思う。
獣王にやられて、戦士は死にかけた。
真実、死の直前まで追い込まれたのだ。
命を取り留めることが出来たのは奇跡とすら言っていい。
その時、命を失う感覚を、戦士は知った。
留めたくても留めたくても、自分の世界が真っ黒に塗りたくられていく感覚を、戦士は味わったのだ。
戦士(怖かった……)
思い出すだけで、手が震えてくる。
こんな恐怖を勇者は五歳にも満たぬ子供の頃に味わったのか。
しかも、成長してからも、もう一度。
二度とは味わいたくない感覚だ。少なくとも戦士は二度とごめんだと思っている。
それを二度、目の前の男は乗り越えた。
それも自分の為ではなく、全て周りの人間の為に。
それがどんなに困難な事か。それがどんなに尊いことか。
戦士は、勇者がどれ程の恐怖と戦い、ここまでやって来たのかを初めて実感したのだ。
戦士「落ち着くまでそうしていろ。私は決してお前の傍を離れたりはしない」
そんな言葉が自然と出てきた自分に戦士は驚きもしたが、不思議と不快には思わなかった。
むしろ心地よささえ伴って、戦士は勇者の頭をいつまでも撫で続けていた。
そんな二人の様子を、武道家と僧侶、そしてエルフ少女は遠巻きに眺めていた。
とりわけ、エルフ少女は熱のこもった目で勇者をじっと見つめている。
エルフ少女(ありがとう、勇者。おかげで、エルフ族は全滅の危機を免れた)
エルフ少女(この恩は、必ず返すよ。君が求めるならば、私は私の全てを君に捧げよう)
エルフ少女(それがたとえこの命でも―――――ね)
いつまでも微笑ましげに勇者と戦士を見つめている武道家と僧侶に背を向けて、エルフ少女は集落内の自宅へと足を向けた。
エルフ少女(まあ―――――まずは、心尽くしの料理を振る舞ってお礼をするとしよう。今夜はエルフ族総出の大宴会だ)
多くの者が犠牲となった。
今日を嘆く者もたくさん居るだろう。
それでも、明日を生きる為に、皆食べて、飲んで、歌うのだ。
今回の勝利は大きな転換点。
――――勇者の旅路は、一気に終局へと向かっていく。
勇者達は獣王をやっつけた!
勇者達は精霊杖・豊潤を手に入れた!
第二十三章 決戦(後編) 完
「お兄さんたち、北の王国に行くつもりかい? やめときな。お勧めしねえよ」
「酒場の店主なんてやってるとな、色んな客が来る。あまり褒められたもんじゃねえ生活してる奴……まあぶっちゃけ、盗賊とかな。そういう奴らがな、声高に叫ぶんだ」
「あそこは地獄だ、ってな」
力が必要だった。
勇者は先般のエルフの集落での戦いで、獣王に勝利こそしたものの、その代償は大きかった。
エルフには多数の犠牲者が出てしまったし、戦士はその身に一生消えぬ傷痕を残してしまった。
特に後者の件については、勇者自身の力不足が大きな要因となっている。
獣王への攻撃を戦士に頼り過ぎたのだ。
勇者の攻撃力がもう少し高ければ、獣王に致命傷を与え得る威力を勇者も持っていれば、もっとリスクを分散させ、戦士が傷を負う事態を避けられたかもしれない。
故に勇者は力を求めていた。
自身の攻撃力を高める手段を欲していた。
勇者(『端和』で貰ったこの真打・夜桜だって決して悪い武器じゃない。でも、獣王クラスの敵を相手にするには足りなかった。やっぱり必要だ。俺にも―――神秘の結晶である、精霊剣が)
だから勇者一行は、野を超え山を越え、ひたすら大陸の北端を目指していた。
エルフの集落に伝わっている精霊装備の在りか。
精霊甲は大陸南端のアマゾネスが保有し、精霊杖はエルフの集落に現存し―――
そして剣は―――極北の王国に伝わっているという。
そして。
そして―――――。
勇者達は遂に辿りついた。
大陸北端。凍てつく大地に建つ王国。
既に滅び、終わってしまった国に。
第二十四章 彼の根幹を成すもの
その町は綺麗で見事な城壁に囲まれていた。
しかし肝心の正面入口の門が開け放たれている。これでは何者の侵入も拒むことは出来まい。
門を潜った所で、勇者達の耳に、トッ、トッ、と軽やかな足音が届いた。
見れば、三体の狼型魔物が勇者達に向かって街路を駆けて来ていた。
狼型魔物「ガルルッ!!」
唸り声を上げて狼型魔物が突っ込んでくる。
武道家は真っ先に飛び込んできた狼型魔物の牙をするりと躱し、その背中に拳を打ち下ろした。
べぎぎ、と骨の砕ける音がして、狼型魔物の体が地面に強か叩き付けられる。
その衝撃で内臓も潰れたのだろう。魔物の口から赤黒い血がどろりと零れた。
それを見て咄嗟に勇者達から距離を取ろうと身を翻した二体の魔物達であったが、もう遅い。
二メートルにも及ぶ戦士の大剣の射程圏から逃れることは叶わず、二体の魔物は纏めて戦士によって薙ぎ払われた。
それぞれ二つ、都合四つに分かたれた肉塊がぼとぼとと地面に落ちる。
辺りを見回して周囲に他の魔物がいないのを確認してから、勇者は顎に手を当てた。
勇者「門が開きっぱなしになってるから、魔物たちのいい棲家になっちゃってるみたいだな」
武道家「しかし妙だな。建ち並ぶ家々に全く損傷が見られない。滅んだ、というから、もっと破壊された町並みを想像していたんだが」
勇者「確かにそうだな。勝手に魔物に滅ぼされたって想像してたけど、疫病や飢饉で滅びたのかも……これだけ寒いと食糧調達も大変だろうし」
きょろきょろと町を観察していた勇者は、城壁の内側に上に上がるための梯子がかかっているのに気が付いた。
これなら町の全容を見渡せるのではと思いたち、勇者は梯子に足をかける。
十分な高さまで上がった所で、町の方を振り返った。
人口規模はおよそ一万人弱、といったところだったのだろう。
建ち並ぶレンガ造りの家々。やはり寒さに備える為か、木造の建築物は殆ど見当たらない。
町の先には見事な城が聳え立っている。
勇者は信じられない、と頭を振った。
ここから見える景色は見事なもので、荘厳で、美しくさえある。
なのに。
勇者「本当に滅んでるのかよ、ここ……」
勇者の背がぶるりと震える。
それは決して、吹きすさぶ寒風によるものだけではなかった。
勇者達はまず町を探索することにした。
いの一番に向かう先はもちろん武器屋である。
それらしき看板が掲げられた建物を見つけ、勇者達は中に入る。
入り口のドアは、鍵が破壊されていた。
ドアと壁とを固定する金属部がぐにゃりとへしゃげている。鍵がかかったままのドアを無理やりこじ開けたようだ。
僧侶「あれ…?」
店内に入って、僧侶は素っ頓狂な声を上げた。
僧侶「ここ、武器屋さんですよね? でも、店の中に何にも置いてません」
勇者「んあー、やっぱり持ち出されちゃってるか。ま、当然だわな。国を捨てるにしても、出来る限り財産は持っていくだろうし」
悪いと思いつつ、勇者は店の奥の居住スペースに足を踏み入れた。
目的は商品を管理する帳簿を探すことである。
勇者「う…!?」
寝室と思しき部屋を覗いた時、思わず勇者は呻き声を上げた。
吐き気を催す異臭。
ベッドの傍に、二つの死体が転がっていた。
勇者「な…これは…?」
勇者は恐る恐る、死体の傍に歩み寄った。
二体とも損傷が激しい。
その様は、肉食獣に好き放題食い散らかされて打ち捨てられた草食獣を思わせる。
勇者は僅かに残った面影と周辺に散らばる装飾物から、辛うじてその遺体が中年の男女であることを判別した。
勇者「もしかして、店主とその奥さん…? いや、だって、え…? に、逃げたんじゃ、この国を捨てて逃げ出したんじゃ…!?」
勇者は立ち上がり、すぐに寝室を後にした。
物凄い形相で店を飛び出そうとする勇者の後を、武道家たちは怪訝に思いながらもついていく。
勇者は武器屋の隣の家に向かった。
ゾッ、と勇者の背が震える。
隣の家のドアも、鍵が壊されていたのだ。
中に入る。
今度はすぐに気付いた。
異臭がする。
臭いの元と思われる部屋を覗いた。
そこはやはり寝室で、やはり死体が転がっていた。
ベッドの上に仰向けになった夫婦の死体。
先ほどの武器屋の夫婦と比べて損壊は少ないものの、かなり腐敗が進んでいる様子だ。
この寒さの中でもこれだけ腐敗が進んでいるのだ。死してから相当の時間が経過しているのだろう。
僧侶「ヒッ」
武道家「なんだ…これは…」
勇者の後ろから死体を見つけ、絶句する仲間たちを押しのけて、勇者は再び外へ向かった。
戦士「おい、待て! 勇者!」
戦士が慌てて勇者の後を追う。
街路に飛び出した勇者は、周辺の家の玄関を手当たり次第確認していった。
どれもこれも、鍵が壊されている。
試しにもう一軒中に入ってみたが、やはりベッドの脇に転がる死体を発見した。
勇者「そんな……!」
じっとりとした嫌な汗が勇者を濡らす。
勇者はさっき、城壁に登りこの国を俯瞰して眺めている。
たくさんの家が建ち並んでいた。
たくさんの、数えきれないくらいの家が。
―――その全てが、まさか同じような状態に?
勇者の脳裏に、この国に至るまでの道中立ち寄った、とある酒場の主人の言葉が蘇った。
「あそこは、地獄だ」
勇者「……もう少し、町を見て回ってみよう。精霊剣についても、この国そのものについても、情報をもっと集めなきゃ……」
勇者達は宿屋と思しき建物に足を踏み入れた。
入り口から入ってすぐに受付のカウンターがあり、右手に二階への階段が、左手側に食堂が設けられている。
食堂を覗くが特に異常は見られない。
その時、階上でガタンと物音がした。
勇者達はお互いの顔を見回す。全員がその音を聞いていた。
食堂を後にし、息を殺して二階への階段を上がる。
二階へ到達し、勇者は身を屈めて廊下を覗いた。
部屋の数は六つ。廊下の左右に三つずつ扉が並んでいる。
そのひとつ、右手側真ん中の部屋のドアが開いていた。
そしてその中から、ぴちゃぴちゃ、ぐちゃぐちゃと音が漏れている。
もっとも身のこなしに長けた武道家が先陣を切り、足音を立てぬよう廊下を進んだ。
ゆっくりと部屋の入口まで到達し、武道家は中を覗き込む。
そこに居たのは、町の入口で戦闘したものと同じ、狼型の魔物だった。
狼型の魔物が、その口を血で赤く濡らし、人間の死体に牙を突き立て、死肉を貪っている。
武道家「つあッ!!」
武道家が一気に部屋の中へ駆け入った。
びくりと反応した狼型の魔物が咄嗟にその場を飛び退るが武道家の方が圧倒的に速い。
手甲から飛び出た刃(スピア)で薙ぎ払い、武道家は一撃で狼型魔物の首を断った。
勇者「死体がそのままにしてあるから、魔物たちのいい餌場になっちまってるのか……」
勇者達は遺体に黙とうを捧げ、宿屋を後にした。
二十余りの家を見回った頃だった。
戦士「そこで何をしている」
戦士の鋭い声が飛ぶ。
戦士の視線の先で、一人の男が死体をまさぐっていた。
男「な、なんだぁ?」
戦士の声でびくりと肩を震わせて、男は戦士の方を恐る恐ると振り返る。
男「同業者……じゃねえな、その綺麗な身なりは。なんだ? お嬢ちゃん何者だ?」
戦士「それはこちらの台詞だ。何者だ貴様。この町の生き残りか?」
男「いやあ、違う違う。俺っちはしがない盗賊よお。何をしていたかと問われれば、だから仕事をしてたのさ」
戦士「死体を漁って、金になる物を掠め取ろうとしていたのか……この、下衆が」
戦士が剣を構えるのを見て、盗賊を名乗った男は慌てて両手を振った。
盗賊「いやいやいや! ちょい待ち! なんで俺をとっちめる流れになってんのさ!?」
戦士「どの口がぬかす、悪党が」
盗賊「いやいやよく考えなよ嬢ちゃんよ! 俺はここで本来捨て置かれるはずだった物を回収して、それを必要とする奴に渡してやってんだぜ!? この世から無駄を無くす、どっちかというとこりゃ立派な善行だ! そうだろう!?」
戦士「死者の尊厳はどうなる」
盗賊「死者の尊厳より生者の繁栄だ!! それともアンタ、死んだ人間の名誉の為なら生きてる人間が犠牲になってもいいってクチかい?」
戦士「…ッ! そ、れ…は…」
勇者「随分と口が回る盗賊だな」
盗賊「あん? 連れがいたのか?」
戦士「ゆ、勇者……」
勇者「これまで色々あったせいで俺は盗賊の言葉なんてとても信用できやしないんだが……それでも、正論ではあるな。お前の言葉は」
盗賊「連れの方は随分物分かりがいいじゃねえか。おいアンタ、自分の女の手綱はしっかり握っといてくれよ。チンケな正義感でこっちの商売邪魔されたんじゃたまったもんじゃないぜ」
勇者「そうだな。悪かった。別に俺は今のお前の行為を咎めたりはしないよ」
戦士「勇者…!?」
勇者「時に盗賊。お前の仕事とは、商売とはなんだ?」
盗賊「あぁ?」
勇者「お前達盗賊は『奪う者』だ。農民が作物を作るように、鍛冶屋が刃物を造るように、『何かを生み出す』ことは出来ない。生産者ならぬ略奪者。それがお前達盗賊っていう人種だ」
盗賊「何が言いてえんだ、てめえ」
勇者「今日のお前は死者から奪う。だから俺は咎めない。だが、明日のお前はどうだ? かつてのお前はどうだった? 金貨を纏った死体などそう都合よく落ちてやしない。その時お前はどうする? その時、お前は何から奪うんだ?」
盗賊「は、はあ…?」
勇者「答えろよ。その答え次第じゃ、俺はお前を断罪するぜ」
盗賊(何言ってやがんだコイツ……その時は普通に行商人とか襲うに決まってんじゃねえか……しかしそれを正直に言ったらめんどくせえことになりそうだな)
盗賊「そん時はしゃあねえな。こんなやくざな商売からは足を洗って、故郷の畑を耕すことにするぜ」
勇者「そうか。なら俺から言える事はもう何もない」
盗賊(チョロッ!! 馬鹿かよコイツ!! 正義マン気取りなんてうっぜえ真似はママのおっぱいちゅうちゅうしながらやってやがれ!!)
勇者「本当にすまないな。もしかしたら、本当に、万が一くらいに、お前は本心からそう言ってるのかもしれないけれど」
盗賊「あ?」
勇者「言ったろ? 色々あってな。俺は今、盗賊の言葉を信用する気になれないんだ」
盗賊「はぁ!? ちょ、待、テメ…!!」
盗賊が立ち上がる暇もなかった。
勇者は真打・夜桜を一閃し――――盗賊の首はその胴体からごとりと落ちた。
町を一通り見回り終わり、勇者達は遂に王宮に足を踏み入れた。
ただし、武道家のみ、勇者に何事か耳打ちされて別行動に移っている。
正面入口から中に入ると広いエントランスホールになっていた。
エントランスは三階に該当する部分まで、巨大な吹き抜けになっている。
床にある大きな赤絨毯はそのまま真っ直ぐ正面の大階段へと繋がっていて、左右の壁にはそれぞれ四つのドアが設えられていた。
勇者「……」
戦士「……」
僧侶「……」
誰も言葉を発さない。
半ば以上予想していたことではあった。
だが実際に目にするとやはり言葉を失ってしまう。
エントランスには、少なくとも十人以上の兵士が横たわっていた。
血だまりはとっくに固まって黒く変色し、これだけ広いエントランスに腐臭が立ち込めてしまっている。
上下や左右に分かたれた死体もある。一刀で鎧ごと切り裂かれた様子だ。
正面大階段を上がり、殊更重厚な作りの扉を押し開ける。
目の前に、玉座があった。どうやらここが王の間らしい。
そしてそこが、最も酷い惨状となっていた。
数多の兵士の死体が床に折り重なっている。もはや、足の踏み場もない程に。
たっぷりと横にも広い部屋であるはずなのに、その両壁に血の跡がべっとりと残っていた。
そして壁に寄り掛かるようにしてある、歪に曲がった兵士の死体。
吹き飛ばされ、壁に叩き付けられ、潰れて絶命したその情景がまざまざと勇者の脳裏に浮かぶ。
勇者(そんな……そんなことが可能だとしたら、一体、それはどれ程の膂力で……)
玉座は空席だった。
その主は、この部屋の最も奥の、右隅の角で死んでいた。
とはいえ、それも断定はできない。
おそらく盗賊によって身包みを剥がされたのだろう。その死体は裸同然の格好だった。
死体自体も腐敗が進んでおり、もはや生前の面影を読み取ることは出来ない。
だが、状況的にその死体が王である可能性は高そうだった。
兵士を皆殺され、王は逃げ場を無くし、こんな部屋の隅まで追い詰められ、討たれた。
きっとそういうことなのだろうと勇者は思った。
王の間を後にして、勇者達は王宮内の探索にかかった。
そこかしこに転がる死体には、もう感慨を抱かなくなってしまった。
もし――と勇者は思考する。
これが、自分の国で起きたことだとしたら、と。
転がる死体は皆顔見知りで、家族や親友の死体を魔物に喰い散らかされ、憧れていた女性の死体を盗賊にひん剥かれて。
ぞっとした。少し想像しただけで吐き気が込み上げ涙が浮かんできた。
勇者はぶんぶんと頭を振って脳裏に浮かんだ嫌なイメージを振り払う。
だが―――有り得ないことではないのだ。
魔王軍が勢力を増し、勇者達の故郷に大勢力で侵略して来たら―――
勇者はまた身震いした。
そうさせない為にも、必ず精霊剣を手に入れなくてはならない。
勇者達は図書室に辿り着いた。
勇者「ふう……やっとこういう部屋が見つかったか」
勇者が元々王宮内で目指していたのはここだった。
事前に仕入れた情報によれば、精霊剣はこの国に代々伝わってきた物のはずだ。
誰か個人の持ち物ではなく、国の所有物として管理されていたのであれば、必ずそれに関する文献が存在する。
それを得るために、この図書室を訪ねてきた。
それはいいのだが……
勇者「お、思った以上に、本を収集する国だったのね……」
高さ二メートル程で、六段収納できる本棚が実に四十以上も立ち並んでいる。
少なく見積もっても五千冊以上の蔵書があろう。もしかしたら、一万冊を超えているかもしれない。
勇者「でも、探すしかねえんだよなあ……戦士と僧侶ちゃんはあっちから調べてみて。俺はこっちからいくから」
終わりの見えない作業であったが、勇者達は実に根気強く調べ物を進めていく。
三時間で目的の物が見つかったのは本当に運が良かった。
勇者が手に取ったのはこの国が貯蔵する武器の管理簿だ。
その中でも最も目立つ、最初のページにその記載はあった。
『精霊剣』。
その文字を目にした勇者の胸が俄かに踊り出す。
しかし直後の記述に勇者は茫然自失となった。
勇者「マジか……」
ただ一言そう呟いて、勇者はその場に膝をついてしまった。
色々な感情が頭の中を渦巻いて、考えを纏めることが出来ない。
ただ一つだけはっきりしていることがあった。
勇者用の精霊剣は、手に入らない。
町を囲う城壁を抜けた所で、ちょうど別行動をしていた武道家と合流した。
武道家「ぐるりとこの城壁の周りを回ってみたが、勇者、お前が言うような跡はどこにも無かったぞ。綺麗なものだった」
勇者「そうか……」
応える勇者の言葉は重い。
何かあったのかと問う武道家に、戦士と僧侶から勇者が城内で得た情報が伝えられた。
勇者がそうであったように、勇者から話を聞いた戦士と僧侶もそうだったように、武道家もまた、言葉を失ってしまう。
重苦しい雰囲気を打ち破るように、勇者は宣言した。
勇者「これから再び親父の、『伝説の勇者』の伝説を辿る。そして、『光の精霊』の加護を獲得するんだ」
光の精霊。
それは、精霊の頂点に立つ、神にも等しい存在と伝えられる。
その加護を得ることが出来たのは、この世で唯一、『伝説の勇者』だけだ。
勇者「現状どこで光の精霊に接触できるかもわからないし、正直雲を掴むような話だけど、やるしかない。精霊剣を手に入れることが出来ないと分かった以上、何か別の力を手に入れる必要がある。なんせ―――」
勇者は背後の『滅びた国』を振り返った。
勇者「国一つをまるごと暗殺するような奴が敵にいるんだ。今のままじゃ、俺達は絶対に勝てない。俺達は今よりもっともっと強くならなきゃならないんだ」
勇者の言葉に、武道家、戦士、僧侶の三人は力強く頷いた。
勇者達は『滅びた国』を後にする。
最後に、勇者はもう一度その国を振り返った。
たくさんの人が死んでいた。多くの者が魔物に遺体を貪られていた。
決して少なくない人数が死後の尊厳を汚されていた。
成程、ここは確かに地獄だった。
少なくとも勇者にとってはそうだった。勇者にはその光景はとても耐えられるものではなかった。
鼻の頭がツンと熱くなる。込み上げる涙を必死に抑えながら、勇者は『彼』の名前を呼んだ。
勇者「騎士――――お前は、この光景を見て、一体何を思ったんだ?」
湖月。
それがこの『滅びた国』に伝わる精霊剣の名前であった。
また、しばらくの後、世界中にこのような噂が広まり始める。
『勇者一行が、消息不明になった』―――と。
第二十四章 彼の根幹を成すもの 完
勇者達が消息を絶って三ヶ月――――
魔王城に最も近い『武の国』は、これまでにない規模の魔王軍の侵攻に晒されていた。
兵士長「退くな!! 我らの敗北はすなわち人類の敗北を意味するものと知れ!!」
兵士達に檄を飛ばすのは、世界最強と名高い『武の国兵士団』を束ねる兵士長だ。
その流石の実力で目の前に迫った魔物を瞬く間に斬り倒した兵士長だが、その表情には焦りが浮かんでいる。
兵士長(日に日に魔物の量が増えている……このままではジリ貧……いずれは押し切られてしまう……!)
伝達兵「兵士長!! 三番隊が押されています!! 強力な魔物複数に同時に攻め立てられているらしく、危険な状態です!!」
兵士長「三番隊が突破されれば正門守護隊の側面を突かれ、守備が瓦解する……援護に向かえる部隊はいるか!?」
参謀「それが、どこもギリギリで戦線を維持している状況で……急行する余裕のある部隊はおりません」
兵士長「チッ、やむを得ん。ならば俺自身が…!!」
兵士A「兵士長!! 危ない!!」
巨大怪鳥「グェアアアアアアアアアア!!!!!」
兵士長「ぬぅぅッ!?」
守備隊を突破してきた強力な魔物がその鉤爪で兵士長の首を刈り取らんと迫る。
咄嗟に身を躱した兵士長は、宙を飛び回る魔物に切っ先を向け、がりりと奥歯を噛んだ。
兵士長「まずい…! 非常にまずいぞ…!! このままでは突破される……武の国が、魔物に蹂躙されてしまう!!」
件の三番隊は、凄惨たる有様となっていた。
三番隊隊長「ぐ…う…」
隊長も既に地面に横たわり、虫の息だ。
積み重なる兵士の死体を見下ろす二体の魔物がいる。
魔物は、そのどちらもが人型だった。
片方は、真っ赤な肌に角を生やした、一つ目の鬼。
もう片方は、漆黒の肌に翼をはためかす、白眼の悪魔。
この二体の魔物は、今武の国を襲う魔物の精鋭達と比較しても、なお飛び抜けた強さを誇っていた。
一つ目の赤鬼が振るう棍棒は鋼鉄製の鎧を呆気なくひしゃげさせ、黒い悪魔の放つ炎は十人の兵士を纏めて黒こげにした。
一つ目鬼「ふん…やはり人間。所詮はこの程度か」
上級魔族「たかだか国一つを落とすのにこれ程の戦力を投入するとは、魔王様も些か慎重すぎる。まあ、あの獣王様が戻らぬとあっては、そうなってしまうのも無理からぬことだが」
一つ目鬼「あの獣王様が人間にやられるなどと……あり得ん。きっと興が乗ってどこぞで遊びほうけているのだろうさ」
じゃり、と砂を踏む音がした。
二体の魔物が音のした方に目を向ける。
そこには、後ろに流した長い金髪を赤いバンダナで纏めた男が立っていた。
上級魔族「何者だ? 貴様」
黒い悪魔の問いに、赤いバンダナの男は―――勇者との合流を果たすため、『武の国』に滞在していた騎士が、口を歪めて笑う。
騎士「何者だ―――だと? おいおいお前ら、まさかこの俺を知らないってのか?」
一つ目鬼「なに…?」
騎士「お前ら、魔王軍の中でもかなり上位の部類だろう? あの『暗黒騎士』に相当近しい立場にいるはずだ。そんなお前らが、よりにもよってこの俺を知らないだと?」
騎士は剣を鞘から抜いた。
精霊剣・湖月の蒼い刀身が煌めく。
騎士「ははッ!! いらねえなあ! そんな無能はこの世に存在している価値がねえよ!! しょうがねえから、この俺がてめえらを処分してやる!!」
一つ目鬼「わけのわからぬことを……」
上級魔族「要らぬのは貴様だ。人間」
黒い悪魔がその手のひらを騎士に向けた。
その手のひらから数多の兵士を焼き焦がした紅蓮の炎が騎士に向かって放出される。
騎士「穿て、湖月」
騎士の持つ精霊剣・湖月から大量の水が迸った。
指向性をもって放出された水は槍と化し、黒い悪魔の放った炎と衝突、相殺する。
一瞬で気化した水分は大量の蒸気を生み出し、煙幕となってその場に立つ者の姿を覆い隠した。
上級魔族「ぬう! 小癪な…ッ!?」
煙幕を切り裂いて騎士が黒い悪魔の目の前に肉薄した。
黒い悪魔の首目掛けて騎士は湖月を振るう。
黒い悪魔はこれまで武の国兵士団に対してそうしていたように、刀身を掴み取ろうと手を伸ばす。
黒い悪魔の体は馬鹿げた強度を誇っていた。黒い悪魔の皮膚を浅く裂くことすら、武の国の兵士たちには出来なかった。
世界で最も強大と謳われる武の国の兵士たちでさえ、出来なかった。
ぐるり、と黒い悪魔の首が回転して宙を舞う。
騎士の剣はあっさりと、紙を裂くように黒い悪魔の腕を断ち、そのまま首を斬り落としていた。
一つ目鬼「……え?」
一つ目の鬼がその目を大きく見開いた。
騎士が自身に向かって剣を構えなおしたのを見て、鬼は慌てて棍棒を振りかぶる。
一つ目鬼「つ、潰れろぉッ!!」
多くの兵士を鎧ごと叩き潰した鬼の一撃。
鬼の巨大な体躯を見ても、その一撃がどれ程の威力を持つかは容易に想像できる。
振り下ろされる棍棒に対して、騎士が行ったアクションは『ため息をつくこと』だった。
騎士「おっせ…」
呆れたようにそう呟いて、騎士は迫る棍棒を避けようともせず、左手で裏拳をかました。
ボン、と音をたて、木製の棍棒は木っ端みじんに砕け散る。
一つ目鬼「へ…?」
呆然と舞い散る棍棒の破片を目で追っていた鬼の首がずるりと落ちた。
二体の魔物を瞬殺した騎士は、夕焼けによって赤と青が混じり出した空を見上げる。
騎士(勇者……お前は今どこで、何をしてるんだ?)
騎士は空に向けていた目線を地平線に戻した。
夕日を背にして蠢く無数の影が、どんどんこの武の国に迫っている。
騎士(早く何とかしなきゃ、終わっちまうぞ? お前が行方不明になっちまったって噂が、多くの人間の耳に入っちまってる)
騎士(今までは『伝説の勇者』の息子であるお前が魔王討伐の旅をしていることを知っていたから、人々は堪え忍ぶ戦いを続けられた。お前がいなくなっちゃあ、人々はそのモチベーションを保てない)
騎士(代わりに魔王討伐に向かおうなんて奇特な奴はきっともう現れない。お前は各地で活躍し過ぎた。名前を売り過ぎた。世界はとっくにお前に命運を預けちまったんだ)
騎士(……俺が一人で魔王城に行くことは無い。お前が一緒じゃなきゃ、俺が魔王の所へ行く意味なんてないんだ)
兵士長「こ、これは…!?」
騎士「ん?」
兵士長「報告にあった魔物が既に倒されている……これは君がやったのか?」
騎士「まあな」
兵士長「礼を言う……ありがとう」
騎士「別に。ここで人と落ち合う約束してるからな。待ち合わせ場所を潰されちまったらたまんねーから、ちょっと手伝っただけだ」
兵士長「そうか……ようやく合点がいったぞ。前回の武闘大会で『狂乱の貴公子』として優勝したのは、君だな」
騎士「な、なんのことやら」
兵士長「いや、確かに君には見覚えがある。実はあの後『狂乱の貴公子』を名乗る人物を兵士団に登用したのだがな……大会で見た時とあまりにも力量が噛みあわないので、首をひねっておったのだ」
騎士「マジデナンノコトイッテンノカワカンネッス」
兵士長「なに、替え玉で出場したことを罰する気は毛頭ない。今こうして大きな恩を受けてしまったことだしな。出来れば、これからも力を貸してもらいたいが……」
騎士「まあ、さっきも言った通り待ち合わせ場所無くなるのは困るからな。そりゃ手伝うのはやぶさかじゃねーよ。でもよ、どうすんだ?」
騎士が視線を送るのは、今なお武の国に向かって侵攻を続ける大量の魔物の群れだ。
騎士「あの中に俺やアンタより強い魔物が居るとは思わねーが、それでも量が多すぎる。こんな風に部隊に穴が空いちゃ、侵入を完全に防ぐなんて出来ねーぞ」
兵士長「そうだな。そこで、部隊に穴の空くことがないよう、君には劣勢の部隊の援護に回る遊撃隊の役目を担ってもらいたい」
騎士「何それ超面倒くさい」
兵士長「報酬は弾む。何なら、この戦を切り抜けた後に兵士長の座を譲ってもいい」
騎士「いらねーよ。っつか、それでもジリ貧だろ」
兵士長「だが、そうして敵が尽きるまで堪え忍ぶほかに道は無い。何か、そう、奇跡のようなものでも起きない限り――――」
―――突如、眩い光が騎士と兵士長の目を覆った。
思わず目を閉じた二人を今度は耳をつんざく轟音が襲う。
騎士「な、なんだぁ!? 何が起こった!?」
兵士長「い、今の光と音は…」
目が眩む瞬間、兵士長は確かに見た。
天から地に落ちる、一本の光の帯を。
そして今も耳に残る、ゴロゴロゴロと大気を震わす爆裂音。
兵士長「か、雷…? しかし、雷雲なんてどこにも……」
騎士「おい! 見ろよ!!」
兵士長「…ッ!?」
兵士長は言葉を失った。
こちらに向かって侵攻してきていた魔物の大半が、黒く焦げて倒れ伏している。
そして今もなお、現在進行形で次々と魔物が打ち倒されていた。
戦っている。誰かが。あの魔物の群れの中に飛び込んで。
騎士「……ははッ!!」
その正体に気が付いて、騎士は笑った。
騎士「おっせえな!! 今までどこほっつき歩いてたんだよ―――勇者ッ!!」
第二十五章 神話の森
時は三か月前に遡る。
勇者一行は光の精霊についての情報を求め、『伝説の勇者』の足跡を辿り、そして遂に有力な情報に行き当っていた。
「世界の中心、言わば地球のへそとでも言うべき地に聳え立つ世界樹。世界全体をその根で支えていると伝えられるその聖なる樹に『光の精霊』は宿っているという」
とある村に伝わっていたそんな伝承を頼りに、勇者は『世界樹の森』と呼ばれる聖地に足を踏み入れていた。
勇者「ぐあ~、しんど……」
武道家「まったくだな。入口からここに至るまで、足の踏み場というものが全くない」
戦士「道を遮る枝葉を切り払うだけで一苦労だ。まさか精霊剣を使ってなお手こずる硬度とは」
僧侶「ヒィ…ヒィ…!」
勇者「僧侶ちゃん大丈夫? 休憩いれよか?」
僧侶「い、いえ……まだ頑張れます。頑張らせてください」
エルフの住まう大森林、アマゾネスの住処である南国の密林など、様々な森を踏破してきた勇者達だったが、この世界樹の森にはほとほと参ってしまっていた。
その大きな要因は二つある。
まず、世界樹の森は本当に一切人の手が入っていない。
つまり道というものが無い。勇者達は鬱蒼と生い茂る木々をいちいち切り開いて進まなければならない。
そしてその木々や植物群の繁栄が異常だった。
行く手を遮る木や草がいちいちデカい。精霊の加護で身体能力が格段に上がっているはずの勇者達ですらその処理には手こずった。
いや、デカいのは植物だけではない。
巨大猪「………」ムオーン…
勇者「ぬあ!! またでやがった!!」
巨大猪「ンゴッ!! ンゴゴゴ!!!!」ドドドド!
勇者「おふん!!!!」ドッパーン!
武道家「ゆ、勇者ーーーッ!!!!」
戦士「おのれ、よくも勇者を!!」チャキッ
僧侶「か、回復しますぅ!!」
世界樹の森に住まう生き物は、その悉くがスケール違いだった。
人の手が入らず、太古の姿のまま現存する森。
成程、この地に生きる精霊が特別な力を持つというのも頷ける。
いや、或いは―――この地に居る精霊が特別だからこそ、このような森が誕生したのか。
その判別をつける余裕は、今の勇者達には無かった。
巨大猪「」ズズーン…!
武道家「な、何とか退治できたか……」
勇者「今の戦いでかなり消耗したな……食糧も残りが心もとなくなってきたし、一度最寄りの町へ戻ろう」
そう言って勇者は背負っていた鞄から『翼竜の羽』を取り出した。
勇者「よし、じゃあ皆俺に寄ってくれ」
『翼竜の羽』の効果を複数の対象に伝播させるには、使用者と少しでも物理的な接触を持たなければならない。
そのため、仲間たちはそれぞれ思い思いに勇者の体に手を伸ばすのだが……
勇者(……なんか最近、戦士の様子がおかしい……前は肩にぽん、と横から手を置く程度だったのに、最近はなんかわざわざ正面からすり寄ってくるというか……戦士が俯いてて顔見えないから意図が読めない! 怖い!)
今回もまたやたらと近づいてきて鎖骨辺りに手を添えてくる戦士に戦々恐々としながら、勇者は『翼竜の羽』を発動させた。
しかし、不思議な力でかき消されてしまった!!
勇者「……は?」
これにて勇者一行の遭難が決定した。
勇者「いやいやいや! はーッ!? はぁぁッ!?」
思わぬ事態に狼狽した勇者は何度も翼竜の羽を発動させようと試みた。
しかし、羽はうんともすんともいわない。体が浮き上がる兆候はいつまでたっても訪れない。
武道家「おい…これ、まずいんじゃないか?」
勇者「まっじーよ!! すげぇまっじーよ!! やばい、急いで戻ろう。食糧が尽きる前に、翼竜の羽が使える所まで移動するんだ」
慌てて踵を返す勇者達。
しかし行けども行けども森が切れる気配はない。
勇者「んあああああああ!!!! 何でやねん!! 来た道が分かるようにずっと目印つけながら来てたのに!! あんだけ慎重に一方向に真っ直ぐ進んできたのに!! なんで戻れねえんだどこだよここはぁぁぁあああああ!!!!」
勇者は絶叫した。
自身の方向感覚や道順の記憶力には自信があっただけに、この状況は勇者を大いに混乱させた。
勇者(やばい…どうする…? この森、見たことねえ植物ばっかで食えるものが判別できねえ…マジで飢え死にする危険性があるぞ……)
戦士「だ、大丈夫か? 勇者」
勇者「あ、ああ。ごめん、取り乱した」
戦士「いや、何ともないなら、いい」
武道家「しかしどうする? 体力があるうちに前進するか? いや、闇雲に進んでもより深く迷い込んでしまう可能性があるか…」
勇者「とはいえ、ここでじっとしててもしょうがない。進もう。森から出られないなら、せめて水は確保できる場所を探さなきゃ……」
三日が経った。
勇者達は未だ世界樹の森から出ることも、光の精霊の宿る樹を見つけることも出来ていない。
勇者は武道家、戦士、僧侶に干し肉を手渡すと、食料を入れていた袋を逆さまにしてがさがさと振った。
勇者「……これで、持ってきた食糧は最後だ。これから先は、いよいよこの森の中で食糧を調達しなきゃいけなくなる」
仲間たちの顔は暗い。
それもそのはず、今仲間たちに配られた食糧だって、何とか切り詰めてここまでもたせたものだ。
空腹を紛らわすには、全く量が足りていない。
干し肉を口に運ぼうとして、僧侶はふと勇者や武道家、戦士の持つ肉と自分のものを見比べた。
僧侶「……勇者様。お気持ちは嬉しいのですが、私の分はもっと少なくて結構です。体力を使う役割を担う、他の皆こそ多く食べるべきです」
僧侶の干し肉は他の三人と比べて明らかに大きかった。
それをいつもの勇者の僧侶に対する甘さだと判断した僧侶は強い口調で勇者に言った。
しかし勇者は首を横に振った。
勇者「そうじゃない。むしろこれからは、僧侶ちゃんこそ万全の状態になっていなくちゃならない。十全にその『精霊杖・豊潤』を揮うために」
僧侶「え…? それはつまり、どういうことでしょう?」
勇者「こういうことだよ」
干し肉を飲み下した勇者は、背中の鞄に手を回すと、中から奇妙な丸い物体を取り出した。
何かの実だろうか?
勇者が刃を入れると浅黒い皮の中から白い果肉が顔を覗かせた。
果肉をナイフでほじくり出して、しばし逡巡していた勇者だったが、やがて意を決してその果肉を口に運んだ。
戦士「なっ!?」
武道家「く、食えるのか!?」
勇者「わからん。俺の知ってる果物に見た目が似てたから、食えるかもってだけだ。もしかしたら毒があるかもしれない。その時は僧侶ちゃん、豊潤を使って解毒を頼むよ」
僧侶「そ、そのために私に…!? そんな無茶な!!」
勇者「しかしそうするしか方法がない。トライアンドエラーを繰り返して、食べられるものを判別していくしか……」
ミキメキバキバキと、樹木の倒れる音がした。
振り返ると、またも常識外れの巨大な猪が、勇者達を見て興奮し、鼻を鳴らしていた。
勇者「ありがてえ。お前を一番試してみたかったんだ。いい所に来てくれたぜ」
巨大猪を打ち倒してから、勇者は早速死体の解体作業に入った。
武道家「そ、そいつも食べるのか?」
勇者「当然だ。コイツの肉が食用に適してるってわかれば、このサイズだ。もうほとんど食糧の心配をする必要が無くなる」
戦士「勇者、流石にそれはやめた方がいい」
僧侶「そ、そうですよ」
戦士「魔物の肉は全てが毒だ。毛皮や牙などは資材として調達されても、肉自体は捨て置かれるのはそれが理由だ。それをお前が知らないはずはないだろう?」
勇者「そうだな。確かに魔物の肉は猛毒だ。腐敗した魔物の死体は大地を腐らすとさえ聞く」
戦士「だったら……」
勇者「でも、多分大丈夫だ。だって、こいつは魔物じゃないからな」
僧侶「魔物じゃない!? この巨大さで!?」
勇者「ああ。僧侶ちゃんたちは知らないか。前に、武道家と二人でアマゾネスの試練に挑んだ時、巨大な大鷲を見た。普通じゃ考えられないサイズの奴さ。その大きさの原因は、竜神に起因する強大な精霊の加護を受けていたことだった」
勇者「きっと、この森に生きる動物も同じなんだと思う。強大に過ぎる光の精霊の加護を受けて、常識では考えられないサイズまで成長しただけなんだ」
横倒しにした猪の腹を裂き、内臓を掻きだしていた勇者はうん、と一度大きく伸びをした。
勇者「いや、それにしてもでけえわ……腐らす前に解体終わっかな……」
武道家「お前の言う通りなら、本当にもう食糧の心配はしなくて良さそうだな」
勇者「解体作業が終わるころまでに俺に異常がなければ、さっきの実も食べて大丈夫だろう。こりゃ何日迷っても余裕かもしれんぜ、がはは!!」
そんなことを言っていたのが良くなかったのかもしれない。
勇者は大木の根元に身を預け、虚ろな瞳で空を見上げていた。
他の三人も似たり寄ったりだ。皆思い思いの体勢で無気力に地面に横たわっている。
武道家「今日で何日目だ…?」
戦士「33…いや、4だったか…?」
勇者「……32日だね」
武道家「記録を取ってるのか……マメだなお前は……」
勇者「いや、普通に必須だろ……と思ってたけど、もういいかな、なんか……」
僧侶「正直に言っていいですか?」
勇者「いいよ~」
僧侶「お風呂入りたいです」
戦士「ああ~いいなぁ~。入りたいなぁ~」
勇者「もう10日くらい川に行き当ってないからね~」
本来であれば、川を見つければそこを拠点として探索をする。
しかしこの森は例外だ。一度拠点を離れれば、もうそこには戻ってこれない。
だからといってずっと川の傍を離れないという訳にもいかない。あくまで目的は『世界樹』の探索だ。
ちなみに川をずっと下れば森の外に出られるのではないかと考え、実行したが、5日を費やして駄目だったので諦めた。
僧侶「私多分今すっごい臭いですよ」
戦士「何言ってんの?」
勇者「マジで? 嗅いでいい?」
僧侶「いいですよ~」
戦士「何言ってんの? ホントに。ねえ僧侶? しっかりして?」
勇者「では早速…」
武道家「俺に無駄な体力を使わせるなよ勇者……」
勇者「ちっ…」
「何というか、死屍累々という感じだな」
勇者「……? 武道家なんか言った?」
武道家「いや? 今のは勇者、お前じゃないのか?」
「ひと月以上もこの森で生き抜いた人間がいると知って、様子を見に来たのだがね。この過酷な環境に耐え兼ねて、もう身も心も極限状態というわけだ。所詮は人間、ということか」
勇者達四人は跳ね起き、即座に互いの背中を合わせ、周囲を注視した。
「ほう。覇気が戻ったな。精根尽き果てたというわけではないらしい。前言を撤回しよう。流石にこの森で生き抜くだけはある」
勇者「何だこの声…? どこから聞こえてんだ…?」
武道家「右から聞こえるようにも、左から聞こえるようにも思える……」
戦士「上や、下からのようにも……」
僧侶「いえ、むしろ心の中に直接語りかけてくるような……」
勇者「誰だ!! 姿を現せ!!」
「誰だ、という問いには答えよう。しかし姿を現すというのは勘弁してくれ。元より私は君たちのような肉の体は持たん。この『声』も、君たちにコンタクトを取るために急遽用意した仮初のものに過ぎんのだ」
『声』は言う。
「私には名も無い。しかし通り名というか、人間が用いる通称はある。それを名乗ろう。私は君たち人間が『光の精霊』と称するモノだ」
ごくり、と勇者は唾をのんだ。
勇者「光の精霊…? 本当に…?」
光の精霊『そうだ。かつて魔王なるものを打倒し、人の世に救済をもたらした人間――名は何だったかな。ええと―――』
勇者「『伝説の』……『勇者』」
光の精霊『ああ、そうだ。その人間にこの地で加護を与えた存在を君たちは光の精霊と呼ぶのだろう? であれば、それは紛れもなく私であると断言しよう』
僧侶「信じられない……こんなにはっきりと、人と言葉を交わすことが出来る精霊がいるなんて……そもそも、精霊には意思なんて無いと考えられていたのに……」
光の精霊『如何なる精霊にも意思はあるさ。しかし君たちの考えるような「思考」はしない。「嗜好」はあるがね。私は少々特別なんだ。特殊で、特異だ。私を基準にして精霊を考えない方がいい』
勇者「光の精霊が、どうして急に俺達の所に…? ま、まさか…!!」
勇者はさっきまで自分が枕にしていた大樹に目を向ける。
勇者「この樹が俺達がずっと探し求めていた、『世界樹』だったのか!?」
光の精霊『違うよ』
勇者「違うんかい!!」
光の精霊『正確には、その樹が特別というわけではない、といったところか。その樹は実際世界樹ではあるのだよ。ただ、それはこの森の樹すべてに言えることだ。この森に立つ樹は皆世界樹と呼ばれる大樹だ。私が宿る特別な樹、というものはその中には無い』
戦士「では何故今になって突然こうして私達に接触してきたんだ?」
光の精霊『一言で言うと興味がわいたんだ。脆弱な人間の身でこの森をひと月も生き抜いたのは「伝説の勇者」以来だったからね。是非、話してみたくなった』
武道家(ということは、そもそもこの森で長期間生き抜くことが光の精霊と接触を持つ方法だったということか)
勇者「光の精霊。実は我々は、貴方に頼みがあってここまでやってきたのです」
光の精霊『ふむ、察するに、「伝説の勇者」と同じ用件といったところかな』
勇者「そ、その通りです! かつて我が父にそうしたように、貴方の加護を我々に与えてほしいのです!!」
光の精霊『子供だったのか。……運命、か。人は確かに私すら知覚しえない何かに導かれ、行動を決定している。だから、面白い。君たちの名は何というんだね?』
勇者「勇者です」
武道家「武道家」
戦士「戦士だ」
僧侶「僧侶と申します」
光の精霊『そうか。勇者よ。かつてこの地で私と語らった「伝説の勇者」の息子よ。私は君の願いを是非とも叶えてやりたいと思う』
勇者「ほ、本当ですか!? そ、それでは…」
光の精霊『しかし、無理なんだ。私の加護は唯一人のみにしか授けることが出来ない。そしてその加護を、私は既に授けてしまっている。「伝説の勇者」に。君の父に。その加護が戻らない限り、私は君に力を与えることは出来ないんだ』
勇者「……え?」
『伝説の勇者』は生きている。生きて、私の加護を保持し続けている。
―――――だから私は、君に力を授けることは出来ない。
勇者「親父が…生きて……?」
戦士「そんな…うそ……」
光の精霊の言葉に、勇者と戦士は唖然としていた。
我を失っていた。
二人ほどではないが、武道家と僧侶もまた、驚きの面持ちでいる。
光の精霊『代わりといってはなんだが、特別な呪文を勇者、君に授けよう。君の父、「伝説の勇者」は呪文の素養を持たなかったからね。この呪文だけは、私のもとに残っていた』
勇者の体が仄かに輝きだした。
そこで勇者はようやく我を取り戻す。
勇者「あ、ありがとう、ございます……」
光の精霊『癖のある呪文だ。慣れるまで慎重に扱うといい。そして、他の皆にとって慰めになるかはわからないが、この森で生き抜いた君たちの時間は決して無駄ではなかったと言っておこう』
光の精霊『既に十分承知の事とは思うが、この森に生きる生物たちは皆強大な精霊の加護を身に纏っていた。それを倒し、己の血肉としたことでかなりの加護が君たちに移行している。この森に入る前と比べて、君たちはもはや別人と言っていい程強くなっているはずだ』
勇者「そ、それは、あの…」
光の精霊『この森に生きる者達の命を奪ったことを責めはしないよ。君たちは生きる為に食べた。弱肉強食、それだけのことだ。そもそも、別に私はこの森の主というわけでもない』
勇者「い、色々とありがとうございました!!」
光の精霊『それと最後にもう一つ。どんなに強大な魔物でも、この森の中ではほとんどの力を抑制されるから、全く脅威にならない。だから、この森で生きる者達にとって魔王のことなんてはっきり言って他人事だ。ここで力を授かったからといって君が余計に気負う必要はない。君はあくまで君自身の為に、或いは人間だけの命運の為にここで得た力を揮うといい』
それから、光の精霊の声に導かれ、勇者達は世界樹の森を脱出した。
過酷な森の生活を終え、とにもかくにも一行は最寄りの町で疲れを癒す。
ここぞとばかりに奮発して、町で一番いい宿に泊まって、旨い料理と酒を堪能した。
ひと月余りの間原始的な食事を続けていた勇者達にとって、趣向の凝らされた宿の料理は極上の味わいであった。
翌日、十全にリフレッシュ出来たことも相まって、殊更明るい声で勇者は言った。
勇者「親父のことは取りあえず忘れる! 後回し! 積み上げ!」
その宣言に面食らう三人に対し、勇者は言葉を続ける。
勇者「今はそれより優先して考えることがある。そうだろ?」
三人は頷いた。
戦士「そうだな…お前の言う通りだ。今は『あの人』の影を追っている暇はない、…な」
勇者「新しい呪文を授かり、森の生活で加護のレベルを上げられても、肝心要の『光の精霊』の加護を得ることが出来なかった。つまり、俺達の力はこれでほぼ頭打ちってことだ。この状態で、魔王軍に勝てる方策を考えなきゃならない」
武道家「確かに、これから各地に残る神殿を解放して加護を増やしても雀の涙だろう」
僧侶「今の状態で、真っ向から魔王に立ち向かっても……厳しいでしょうね」
戦士「そうだな。正直、まだあの獣王にすら真っ向勝負で勝てる自信がない」
勇者「そうだな。だから、発想の転換をする。俺達がこれ以上強くなれないなら、相手に弱くなってもらうしかない」
僧侶「それは、つまり……どういう…?」
勇者「光の精霊の最後の言葉で思いついたんだ。強大な精霊加護の宿る地では、魔物達は十全に力を発揮できない。ならば戦場をその地にすれば……」
戦士「加護の強い土地に魔王たちをおびき寄せるということか?」
武道家「それは無理だ。アマゾネス達の住処や世界樹の森が魔物に侵略されていないのは、魔物達がその効果を嫌っているからだ。つまり、魔王たちもそんな事は重々承知している。のこのこと加護の強い土地に足を運んだりはせんだろうさ」
勇者「そうだ。だから無理やりする。魔王たちの意思など関係なく、奴らを強大な精霊加護の中に叩き落とす」
武道家「出来るのか? そんなことが」
勇者「それを確認するために、行こう。もう一度、エルフの里へ。もう一度、エルフ少女の下へ」
勇者(……もし、実現可能だとしても、この作戦には大きな穴がある)
勇者(でも、その穴はどうやったって埋められないから、もうやるしかない)
勇者(やるしか……ないんだ)
勇者(……クソ親父……生きてんならさっさと戻ってこいよ……!!)
―――――魔王軍による武の国大侵攻まで、あと二か月。
第二十五章 神話の森 完
――――――初めにその事実に気付いたのは、武の国の辺境警備隊であった。
武の国の北西には、険しい山脈によって外界から完全に切り離された地域が存在する。
とはいえ全く謎の場所という訳ではなく、幾人もの探検家によってその地域の状況は既にあらかた詳らかにされていた。
山を越えた先は深い森が広がるばかりで、人がいるような様子はなく、所謂典型的な『未開の地』であったという。
ある日のことだ。
辺境の警備にあたっていた武の国の兵士が、北西の山脈の麓で見慣れぬ生き物を目撃した。
牛でもなく馬でもなく鳥でもなければ犬でもない。
強いて言えば狼に近かったが、狼というには余りに大きかったし、爪も牙も狼とはとても思えぬ凶悪さだった。
その生物は辺境警備隊の存在に気付くと嬉々として走り寄ってきた。
そして―――その牙を兵の一人に突き立てた。
その生物は、人を食らう異形の怪物だった。
報告を受けた武の国は、速やかに討伐隊を編成、辛くも怪物の撃退に成功した。
以降、武の国は北西山脈の警備を強化し、その結果、山の向こうから次々と異形の怪物がこちらに渡って来ていることが判明した。
武の国は調査隊を北西の山脈に派遣し、調査を開始した。
調査により、様々なことが発覚した。
山の中は異形の怪物の巣窟と化していること。
多くの怪物が山を越えた跡があり、既に世界中に怪物が散っている可能性があること。
何より武の国を震撼させたのは、『未開の地』であったはずの山向こうに、巨大な建造物が出現していたことだった。
出現と、そう表現せざるを得ない程に、その『城』は突然その地に現れた。
その『城』を拠点に次々と涌き出る怪物たちを、武の国は『人とは決して相容れぬ、魔なる物』と定義した。
かくして人類と魔物の長きに渡る戦いが幕を開けた。
戦いの中で人類は魔物の王―――『魔王』の存在を知る。
いつしか北西の山脈の先は『魔大陸』と呼ばれるようになり、禁忌の地とされた。
魔王軍によるかつてない規模での大侵攻。
武の国は何とかこれを退けることに成功した。
その勝利の要因を挙げるとすれば、やはり勇者達の介入があったことに尽きる。
勇者達自身が大量の魔物を討伐したことが勝利に直結したのは勿論だが、何より勇者の生存を知った兵達の士気が跳ね上がったことが大きかった。
かつて一度は魔王を打倒し、世界を救った『伝説の勇者』の息子。
その健在は、戦う兵達に希望をもたらした。
「まだ俺達は負けていない」と、「勝てる」と強く意識せしめた。
そうして底力を発揮した兵達により魔王軍は押し返され―――勇者は救国の英雄と称えられた。
勇者の存在は今や紛れもなく人々の希望の象徴となっていた。
そんな勇者は現在、武の国の王、武王と対峙し頭を垂れていた。
武王「よせよせ。頭を下げるべきはむしろこのワシだ。この国を救ってくれた恩人に頭を下げねばならぬのは、このワシなのだ」
そう言って玉座から立ち上がった武王は勇者に対し深々と頭を下げた。
その行為を、傍に控えた女王も大臣も、王の護衛に当たる兵士達も、誰も咎めなかった。
勇者「お、おやめください。私の助力など微々たるもの……全ては練度高きこの国の兵士たちの尽力の賜物でございます」
ただ一人、分不相応な対応に居心地の悪さを感じていたのは当の勇者だけだった。
武王「謙遜するな勇者。お主の働きなくばこの国は魔物どもに侵され、多くの無辜の民が犠牲になっていたことだろう。この恩をワシは忘れん。何かお主に望みがあれば、可能な限り応えるつもりじゃ」
勇者「過分なお言葉ありがとうございます。では、大変図々しく恐縮でございますが、早速お願いがございます」
武王「よい。何なりと申せ」
勇者「魔王を打倒するための最終作戦―――その遂行に、全面的に御協力をいただきたい」
その言葉に―――しん、と水を打ったように場内が静まり返った。
第二十六章 さあ、最後の戦いを始めよう
勇者「魔王の軍勢は強力です」
魔王討伐のための最終作戦―――その説明を求められた勇者が室内にいる者の顔を見回しながら口を開く。
勇者「はっきりと申し上げて、魔王軍の中でも上位の魔物には、どれほど精霊の加護を高めようと人の身で太刀打ちするのは困難でしょう。いわんやそのトップたる魔王をや、です」
王の間に控えていた兵士たちを始め、場内にどよめきが走った。
勇者「魔王の側近である『獣王』という魔物を相手にして、私はそれを痛感しました。無力を嘆き、それから少しばかり力をつけた今もなお、かの『獣王』を独力で撃破することは到底不可能であると断言できます」
勇者の言葉に場内にいる者は不安に駆られ、混乱に満ち、どよめきはなお大きくなっていく。
勇者「しかしながら、私はその獣王の討伐に成功しました」
おお! と聴衆から声が上がった。
その場に居る者を代表し、武王が勇者に向かって口を開く。
武王「どうやって?」
勇者「エルフの秘術、『宝術』。特殊な結界陣であるソレは、領域内に居るあらゆる魔物の力を半減させ、精霊の加護を受ける我らの力を倍増させる力を持つ」
武王「エルフ? エルフだと? まさか、実在するというのか、あの伝説の存在が」
勇者「入って来てくれ」
ギィ、と王の間へ続く重厚な扉が開かれる。
勇者の呼びかけに応じて入って来たのは、長い金髪をポニーテールで纏めた、見目麗しい少女だった。
動きやすさを追求した薄手のジャケット、太ももが大きく露出したショートパンツ。
その恰好から活発な気性の少女であることはうかがい知れる。
だが、それだけだ。
それ以外に特筆すべき点はない。
この少女が一体何だと言うのか。
勇者「エルフ少女。変化の杖の効果を解いてくれ」
エルフ少女「ん。りょーかい」
エルフ少女と呼ばれた少女の体から煙が噴き出した。
その摩訶不思議な現象に武王を始め、その場に居る者は皆面食らった。
噴き出す煙が勢いを無くし、皆、怖々と少女の体を注視する。
一見して、特に変わった点は見受けられない。
何人もの人間が首をひねる中、誰かが「あっ!」と声を上げた。
その視線の先で、ぴょこん、と少女の長く尖った耳が揺れていた。
武王「なんと……! 本当に実在していたのか…!」
武王は目を大きく見開いていた。
エルフ少女のその特異な容姿もさることながら、真に武王を信用させたのはエルフ少女の正体を隠匿していた『変化の杖』なる神秘の存在であった。
武王「エルフ少女と申されたか。其方が勇者の作戦に協力してくれると?」
エルフ少女「人間共と馴れ合うつもりは毛頭ないけど、勇者には返しても返しきれない恩がある。魔王軍という共通の敵を討ち果たすためというなら、手を貸そう」
凛とした表情でエルフ少女は言い放つ。
いつもの彼女と余りに違う雰囲気であるのは、あくまでエルフ族の代表としての立場を貫いている故か。
武王「話が見えてきたぞ。その『宝術』とやらを使って彼我の戦力差を埋めようというわけだな?」
勇者「ご明察の通りです。しかしこの宝術も万能ではない。その欠点の一つに、効果範囲がそれ程大きくないという事が挙げられます。エルフ少女独力で発動した場合、例えるなら小さな集落をやっと覆えるほどの範囲にしか効果を発揮できない」
武王「では、どうする。……そうか、読めたぞ。エルフ少女を何とか魔王城内に潜入させ、そこで宝術を発動させるのだな? 我らに協力してほしい事とは、その際のエルフ少女の護衛というわけだ」
勇者「……少し違います。宝術のもう一つの欠点、それは発動まで術者であるエルフ少女が全くの無防備になってしまう点です。深く、深く集中しなければならないため、術の発動中のエルフ少女は周囲の状況に全く頓着出来ない。そんな状態の彼女を、敵地のど真ん中で守り切ることは難しいでしょう」
ごくりと唾を飲み込み、武王は三度、勇者に問うた。
武王「では、どうする?」
勇者「宝術の効果範囲は小さい――――しかしそれはエルフ少女が『独力で』術を展開した場合です。術を補佐する人材が居れば、そして効果を及ぼしたい範囲に前もって陣を描くなどの下準備をすれば、その効果範囲を広げることが出来る」
勇者「魔王城を中心に、実に直径100㎞―――――魔大陸そのものを、宝術の支配下に落とします。我々はこの二ヶ月、そのための準備を進めてきました」
勇者「でも、まだ足りない。この作戦の成功の為には、どうしても『皆』の力が必要なんだ」
勇者「武王様。私からのお願いを申し上げます」
勇者「『伝説の勇者の息子』の名の下に、各国の王を招集し、此度の戦いの為の『世界会議』を開催させていただきたい。武王様には各国への呼びかけと会議の場の提供をお願い致します」
武の国へ大侵攻を仕掛けてきた魔王軍の動向を見るに、作戦には緊急の必要性があるとして、会議は二日後に開催される運びとなった。
当然、馬車などの通常の移動手段では間に合うはずもなく、招待された者の殆どが『翼竜の羽』を用いて飛んでくることとなった。
今回の『世界会議』のために準備された会議室には円卓が置かれており、その頭、12時の方向に議長として勇者が着席していた。
武王は勇者の左隣に着席している。
初めに会議室を訪れたのは眉目秀麗な青年だった。
王としては余りに若く、しかし若輩の狼狽など微塵も感じさせぬ泰然とした雰囲気を持つ彼は、かつて勇者が人身売買を撲滅した地、『善の国』の王、『善王』であった。
勇者は立ち上がり、善王の元へ駆け寄った。
勇者「善王様! お忙しい所を突然御呼び立てして申し訳ございません!」
善王「良い。君の呼び立てならば他の何よりも優先して馳せ参じよう。互いに健勝なようで何よりだ」
善王は武王にも軽く挨拶を交わし、勇者の右隣に着席する。
戦士「失礼する」
戦士に先導されて部屋に入ってきたのは勇者達の故郷、『始まりの国』の国王だ。
国王は勇者の姿を認めると目を細めた。
国王「おお……勇者よ。旅を始めたあの時から、よくぞここまで立派になった」
勇者「いえ、私などまだまだ未熟な身。皆様の助け無くば何を成すことも出来ません」
国王「あやつも草葉の陰で喜んでおろう。これからも頼むぞ、勇者よ」
勇者「………」
勇者は口を噤んだ。
確たる証拠がない以上、父の事はまだ報告すべきではないと思った。
武道家「協力を快諾してくれたことには本当に感謝している……だが、少し離れてくれないか? 少々くっつきすぎだ」
竜神「ふふーん! 駄目じゃ! これはお主を籠絡する絶好のチャンスなんじゃ! ほれ族長、もっと乳を当てんか!」
アマゾネス族長「はい! 竜神様!」
銀髪の褐色幼女を右手にぶら下げ、金髪美女の豊満な胸を左腕に押し付けられながら、疲れた顔で武道家が会議室に入ってきた。
僧侶「むっす~」
武道家の後ろに控えていた僧侶は、その様子を面白くなさそうに見つめている。
褐色ロリと、下着同然な格好の金髪美女の登場に、その場に居た者は困惑した。
善王「勇者……か、彼女たちはその、どういう…?」
勇者「か、彼女たちはその、大陸の南端にお住いのアマゾネスという部族の皆さんで……その強力な力は魔王討伐の確かな戦力となると思いまして、今回声をおかけした次第なんですが、その……少々自由奔放な方々でして、その……」
善王「そ、そうか……エルフに知己を得ていたことといい、君の交友関係は実に広くて面白いな、はは…」
勇者「え、えへへ……ってゆーか竜神様!! アンタまで出てきたんすか!?」
竜神「なんじゃ? 悪いか?」
勇者「悪くはないですけど……ここまでちゃんと『翼竜の羽』使って来たんでしょうね?」
竜神「なーんで儂があんな小竜の羽なんぞに頼らねばならん。自前の翼で飛んできたわ」
勇者「だーもう!! すんません武王様!! 何かでっけえ竜を見たって報告が一杯上がってくると思いますけど気にせんでください!! 全部このアホです!!」
竜神「おお!? この儂をアホ呼ばわりするとはいい度胸じゃの!! やるか!? お!? ここでやるか!? お!? お!?」
武道家「どうどうどう」
武王「ふぅむ……なんかよくわからんが、わかった!!」
国王「しかし、若い娘があんなにみだりに肌を晒して……少々下品に過ぎるのではないかね?」
武王「よいではないか。眼福、眼福!」
騎士「よっ! お邪魔するぜ~」
緊張感の欠片もない様子で入室してきたのは騎士だ。
騎士の背後には、勇者が初めて見る男性が控えていた。
男性自身は初見だが、その独特な服装には見覚えがある。
勇者「もしかして……」
武王「よう! 久しいな、『倭王』!」
果たして武王はその男の事を倭王と呼んだ。
倭王とは勇者も以前訪れた、東の海に浮かぶ島国、『倭の国』の王の名だ。
勇者「お初にお目にかかります。『伝説の勇者』の息子、勇者と申します。まさか、倭王様にまでお出でいただけるとは……」
武王「ワシが声をかけたのだ。倭の国の武士団は強力。世界の命運を分けるこの大決戦に参列させぬ理由はない、とな」
倭王「我が国は四方を海に囲まれたいわば天然の要塞。魔物による被害は正直な所ほとんど無い。無いが、それで対岸の火事と事態を静観するのは恥知らずのすることよ。それに、勇者殿には恩義もある故な。我が武士団の力、存分に活躍させてほしい」
勇者「は、はあ……申し出は非常にありがたく思いますが……しかし、恩義とは…正直、私には何も心当たりがないのですが…」
倭王「『端和』。悪しき竜の手先になっていたあの村の始末をつけてくれたのはお主であろう?」
勇者「は、はい。確かに、我々が竜の討伐を行いましたが……」
騎士「勇者、俺に感謝しろよ~?」
騎士が勇者の肩に腕を回し、その首を引き寄せた。
ぼそぼそと、倭王に聞こえないように声を絞る。
騎士「『ドラゴン殺し』なんてとんでもないことしておいて、お前さっさと帰っちまうからよ、俺が倭王の所に行って猛アピールしといたのよ。駄目だぜ勇者。売れる恩は売れるだけ売っておかねえと。こういう時に役に立つんだからよ」
勇者「……お前、倭の国に残ってそんなことやってたのか」
倭王「勇者殿、騎士殿、如何いたした?」
騎士「いやいや、何でもないっすよ~」
勇者「倭王様。この矮小な身に過分な評価、痛み入ります。此度の助力に心より感謝申し上げます」
倭王「うむ。お主の采配、楽しみにしているぞ」
エルフ少女「役者は揃った、って感じかな?」
エルフ少女とエルフ長老の入室を最後に扉が閉じられた。
エルフの存在を初めて目の当たりにした面々にどよめきが走るが、事前に通達済みであったこともあって、皆すぐに落ち着きを取り戻した。
エルフ少女に促され、エルフ長老は円卓の空席に着席した。
今の着席順は12時の方向に座る勇者から時計回りに武王、国王、エルフ長老、アマゾネス族長、倭王、善王となっている。
またそれぞれの背後に武の国兵士長、戦士、エルフ少女、武道家と僧侶と竜神、騎士と倭の国武士団長、善の国護衛団長が控えていた。
勇者がゴホン、とひとつ咳ばらいをする。
勇者「それでは――――作戦の詳細を、説明いたします」
勇者「作戦の要はエルフ少女が有するエルフの秘術、『宝術』です。宝術を発動させることが出来ればその影響下に居る魔物の力は半減し、逆に我々の精霊加護は強まります」
勇者「問題は宝術の影響範囲の狭さです。エルフ少女独力で展開した場合の影響範囲はおよそ周囲500m程度。魔王軍との戦闘をこの範囲内に収めるのは不可能です」
勇者「しかし事前の準備と術の補佐を行うことが出来る人物がいればこの宝術の影響範囲を広げることが出来ます」
勇者「必要な事前の準備とは『結界陣の構築』。大きな街を守る広範囲の結界は神官独力のものではなく、城壁などに描かれた呪言による補助を受けて構築されていることは皆さんご承知の事と思います。これと同様に魔大陸にも結界陣を設け、エルフ少女の術を補助・強化します」
善王「しかしそれは難しいのでは? 魔大陸を囲む範囲に呪言を描くとなると、一体どれほどの月日がかかることか…」
武王「描いた文字も、風雨に晒されればあっさりとかすれてしまうだろうしなあ……」
勇者「呪言に頼らず陣を構築する方法はあります。これを見てください。魔大陸の地図です。魔大陸のほぼ中央に魔王城は建築されています。この魔王城を囲うように六点―――このように、点を打ちます。この点を結んだ時に浮かび上がる図形は何か分かりますか?」
騎士「なんだ? 六角形?」
竜神「違うな―――なるほど、六芒星か」
勇者「その通り。この六点に精霊加護を高める『神殿』を建造し、魔力の中継点とする。神殿という導があれば、呪言に頼らずとも大地に魔力を走らせることは出来る。走らせた魔力で六芒星を描くことが出来れば、その陣の範囲に宝術の効果を拡幅することが可能だ」
倭王「神殿の構築は如何する? いわば敵の本拠地に入り込んでの作業。これは至難の業だぞ?」
勇者「実は既に神殿の構築は終えております」
国王「なんと!?」
勇者「この二ヶ月、我々はエルフ少女と共に魔大陸に乗り込み、隠密に陣の構築を行っていました。ごく小さな、単純なものではありますが、神殿の機能を十分に有するものを六点、表記の場所に準備しております」
勇者「また、その際に神殿の場所については精査と吟味を重ねました。この魔大陸の地図はその時の作業の副産物です」
武王「我が国で保管している魔大陸の地図より詳細で正確な地図……どこで都合したのかと思っていたら……」
騎士「お前……行方不明になっちまったと思ってたら、とんでもねえことやってたんだなぁ……」
エルフ長老「エルフ少女が立ち会ったというなら、神殿の出来に間違いはなかろう。であれば残る問題は、エルフ少女の補佐が出来るほどの術者を如何に都合するか、だな」
勇者「はい。中継点となる神殿でエルフ少女からの魔力を受け取り、次の神殿へ魔力の方向を定める術者が、つまり5人は必要です。呪言に頼らず数十キロの距離に渡って魔力を走らせるわけですから、相当高位レベルの神官である必要があります」
勇者「これが可能な神官となると……善王様。貴国が有する『大神官団』をおいて他にはいないと、私は考えます」
善王「わかった。大神官団の中でも選りすぐりの5人を手配しよう」
勇者「よろしくお願いします。そして……その5人の中に、どうしても一人、加えていただきたい人物がございます」
善王「む?」
勇者「陣を描く際に重要となるのはエルフ少女から対角線上に位置する術者です。エルフ少女から最も遠い場所で術を維持する必要があるわけですから、最も術力の高い、信頼できる人物にその役目は任せたい。そしてその役目を任せられる人物を、私は一人しか知らない」
勇者「―――神官長様を呼び戻し、戦列に加えていただきたい」
善王「……勇者、それは」
勇者「国外追放を命じたとはいえ、あれ程の傑物です。常に監視をつけ、あの方の所在は把握していらっしゃるのでしょう?」
善王「……人類の命運をかけた戦いだ。勝利の為に、目をつぶらなければならないこともある、か……わかった。約束しよう。彼は必ずこの戦いに参加させる」
勇者「ありがとうございます」
アマゾネス族長「勇者よ。我々が呼ばれた意図はなんだ? 聞く限り、我等には特にやることが無いように思えるが」
勇者「役割はあります。今までお話ししたのは如何にして宝術の範囲を広げるのかという部分だけです。重要なのはここから。重要なのは、実際にどうやって宝術の発動を成功させるかということなのです」
勇者「問題となるのは宝術の発動までにかかる時間です。魔力による陣を描く時間に加え、エルフ少女が宝術を唱える時間まで含めると相当な時間を要するでしょう。高められた魔力は光を放ち、可視化する。そんなものが周囲を囲っていると分かれば、魔王軍もこちらが何かを企んでいることを察するでしょう。そうなれば、こちらの妨害の為に魔物を向かわせてくることは容易に想像できます」
勇者「宝術の完成まで六つの神殿と六人の術者を防衛する。その為に、皆さんの力が必要なのです」
作戦の決行は七日後に決まった。
各国の代表者たちは一度国に戻り、勇者の作戦に参加するための精鋭部隊の編成にとりかった。
善王は大神官団から選りすぐりの四人を選抜した後にかつて追放した神官長を加え、直ちに武の国へ派遣した。
神官長も含め、派遣された五人の高位神官たちはエルフ少女に師事し、宝術発動の為の修練に努めている。
日を跨ぐにつれ、続々と各地の精鋭たちが武の国に集結。
武王の命により作戦参加者は手厚くもてなされ、英気を養った。
また、武王の計らいで、作戦参加者だけでなくその家族や近しい者達も武の国へ招待され、一時的な住まいを与えられていた。
その中には、勇者の母もいた。
母「いよいよ魔王に挑むのね、勇者」
勇者「ああ」
母「大丈夫よ。自信をもって。あなたはあの『伝説の勇者』様の息子。絶対に勝てるわ。というより、負けるはずがないのよ。なんていったってあなたは、あのお方の息子なんだから」
勇者「そうだね。僕もそう思う。母さんは心配しないで僕の帰りを待っていてよ」
母「ええ。そうするわ。大丈夫よ。心配なんてしていない。自分の運命を信じるのよ、勇者」
母子はぐっ、と抱擁を交わす。
母は安らかに満ち足りた顔で。
子はその真逆の表情で。
勇者は母に父の健在について話すべきか長らく逡巡していたが、結局黙っていることにした。
勇者(清廉潔白が服着て歩いてるようなあの親父が生きてて帰ってこないってんなら、何か帰ってこれない理由があるんだ。それが判明しない内は、いたずらに母さんをぬか喜びさせるようなことは言うべきじゃない、な……)
勇者(俺も、この戦いの後生きて帰ってこれるかわかんないわけだし……)
さらに日数が経過した。
作戦の決行が近づくにつれ、勇者の心は不安と恐怖で重く沈んでいった。
覚悟は決めたはずだった。だけど、ふとした拍子に死への恐怖が頭をもたげだす。
勇者「ああ、嫌だ……ホントに嫌だ……逃げ出したい。消えてなくなりたい……」
いよいよ明日は作戦決行の当日。
各地から沢山の人が集結した武の国は、まるで武闘会が開催された時のように、祭りの如き賑わいをみせている。
しかし勇者はどうしてもはしゃぐ気持ちになれず、作戦の最終的な打ち合わせを終えた後は与えられた客室に籠ってしまっていた。
ベッドに横になって、勇者はぼうっと天井を見つめている。
トントン、とドアをノックする音が聞こえた。
勇者「……はーい。どなた?」
??「忙しいところすまない。少しだけ、話をさせてもらえないだろうか?」
声の主の正体に思い当った勇者はベッドから跳ね起きた。
急いでドアを開け――――内心の動揺を隠しつつ、部屋の前にいた人物に声をかける。
勇者「ど、どうも……神官長様」
勇者と神官長の二人は武の国王宮三階のテラスに出ていた。
本日は快晴で空は抜けるように青く、テラスから見下ろせる武の国の街はここからでも活気に溢れているのが分かる。
神官長「突然お邪魔してすまなかったね」
勇者「いえ、暇でしたから……」
柵に手をかけ、眼下の街を見下ろす神官長の姿を勇者は観察する。
かつて善の国で大神官団のトップを務めていた、紛れもなく世界一結界術に長けた偉大なる男。
彼は息子のスキャンダルにより失脚し、善の国より追放された。
罪を犯した息子自身は死刑となった。
そのスキャンダルを暴いたのは他でもない、勇者だ。
本来であれば顔も見たくない相手ではないのかと、勇者は訝しんだ。
神官長「どうしてもお礼を言いたかったものだから」
勇者「礼と申されても……私には心当たりがございません」
恨み言ならともかく、と勇者は心中で付け加える。
神官長「今回の作戦で私を推薦してくれたと聞いたよ。魔王との最終決戦に抜擢されるなど、国外追放となったこの身には過ぎた栄誉だ」
勇者「作戦の成功率を上げるために必要だと判断しただけです。礼を言われるようなことでは……」
神官長「それと……息子の事も、ね」
勇者は言葉に詰まった。
神官長の視線が勇者に向く。
神官長「恥ずかしながら、私は息子があんな闇を抱えていたことなど全く気付かなかった。あいつの凶行を止めてくれたこと、心から礼を言うよ」
勇者「……それも、礼を言われることでは……結果として、彼は命を落としました。であれば、私が彼を殺したも同然です」
神官長「死んで当然だよ。あんな馬鹿息子は」
神官長のその言葉に、瞬時に勇者の頭に血が上った。
お前が、お前らが、アイツに『神官長の息子』であることを強要したから―――!
神官長「―――等と割り切れれば楽なのだがね。流石にそうもいかないものさ」
感情のままに口を開こうとしていた勇者は、続く神官長の言葉を受けて押し黙った。
神官長「生きていてほしかったよ。それが本音だ。だが、仕方がなかった。しようがなかった。私は、息子の命を諦めざるを得なかった」
勇者「……『神官長』という立場故、ですか?」
神官長「正直、私がその気になれば直接処刑場に乗り込んで息子を救出することは出来た。私にはその力があった。しかし私がそれをすれば、善王様の治世に重大な影響を及ぼしていただろう。例外なき必罰。それこそが善の国の根幹。それを、よりにもよって『神官長』の地位にある人間が犯したとなれば、そんな人間を重用していた善王様の能力に疑いが持たれる」
神官長「……結局、あいつを殺したのはどこどこまでも『私が神官長であったこと』に尽きるのだ。あいつを曲げたのは私だ。救わなかったのも私だ。我が身を呪いこそすれ、君を恨んだことなど一度として無いよ」
神官長「だから……ありがとう」
柔らかに微笑んでそう勇者に告げた神官長。
勇者に出来たのは、ただ曖昧に頷くことだけだった。
神官長はどこか遠くに視線を彷徨わせ、まるで独り言のように、最後にこう呟いた。
神官長「……君はどうしてそうやって真っ直ぐに、『伝説の勇者の息子』を貫くことが出来たのだろう」
神官長「君と私の息子は、一体どこが違っていたのだろうね……」
勇者(俺と神官長の息子の、何が違っていたのか、か……)
勇者(俺には、そう大した違いがあるように思えない)
勇者(神官長様は勘違いしているけど、俺だって一度盛大にぶっ壊れたんだ。神官長の息子とは方向性が違うけど、俺は一度確かに保つべき自分というものを手放した)
勇者(その時、俺はどうして戻ってこれたのか。元の自分を取り戻すことが出来たのか―――)
勇者(そうだ……アイツだ。アイツが、俺を戻してくれたんだ)
勇者(自分を正気に戻してくれる『友』と呼ぶべき存在が居たかどうか……俺と神官長の息子の違いを挙げるとするなら、そんな所かもしれない)
勇者(――――怖いなんて、言ってる場合じゃ無かったな。何度も何度も、繰り返し思ったことだろう。思い出せって。いい加減)
勇者「やるしかないんだって―――マジで」
決意を新たに部屋に戻る道中、本当に何気なく、勇者は廊下の窓から階下に視線を落とした。
そこは武の国王宮の裏庭になっており、良く管理された花壇に色とりどりの花が咲き誇っている。
勇者の目に飛び込んできたのは――――そこで口づけを交わす、武道家と僧侶の姿だった。
時は少しだけ遡る。
武道家「僧侶、すまない。少しだけ時間を貰えないか?」
僧侶「え?」
戦士と連れ立って廊下を歩いていた僧侶に、武道家が背後から声をかけていた。
僧侶「えっと……」
戦士「私は構わないぞ。適当に一人で街をぶらついてる」
僧侶「ごめんね。じゃあまた後で」
僧侶はとてとてと武道家の元へ歩み寄り、そのまま武道家と二人で歩き去っていった。
一人ぽつんと残された戦士はぽりぽりと頬を掻く。
戦士「……そういえば勇者はまだ部屋に籠ってるのかな」
何となく勇者の顔が見たくなって、戦士は勇者の部屋に向かって歩き出した。
武道家が僧侶を連れてきたのは、王宮の裏庭だった。
裏庭といってもそこは日当たりも良く、よく手入れされた花壇に色とりどりの花が咲き乱れている。
僧侶「うわぁ~! 綺麗!!」
武道家「城の兵士からこの場所を教えてもらってな。お前にも見せてやりたいと思ったんだ」
僧侶「だったら、戦士も連れてきてあげれば良かったのに。あの子、ああ見えてちゃんと女の子なんですから、こういう綺麗なお花とか大好きなんですよ?」
武道家「ああ、まあ、それはそうなんだが……その、お前と二人きりになりたくてな」
僧侶「えっ…?」
武道家「言うべきかどうか、非常に迷ったんだがな……」
僧侶「えっ、えっ?」
武道家がワシワシと頭を掻いて言いよどむ。
そのただならぬ雰囲気に僧侶の顔も知らず紅潮していた。
ひとつ大きく息を吐いて、武道家は意を決して口を開く。
武道家「俺はお前のことが好きだ、僧侶。明日の作戦が成功し、無事生還出来たら―――俺と夫婦になってほしい」
僧侶「……ッ!!」
武道家「突然こんなことを言い出して、本当にすまんと思う。だが、明日は間違いなくこれまでにない激戦になる。正直、俺も命を落とす可能性が高い。だから、その前にどうしてもこの気持ちを伝えたかった」
余りの衝撃に僧侶は絶句し、言葉を紡げないでいた。
僧侶の大きな瞳にじわりと大粒の涙が浮かびだす。
武道家「……ッ、驚かせて、困らせてすまない。自分の気持ちに整理をつけたいだけの卑怯な自己満足だ。すっぱりと振ってくれて構わん」
ぽろぽろと涙を零しながら、僧侶は首を大きく横に振った。
僧侶「違ッ…違います…私、嬉しいんです…! 武道家さんが私と同じ気持ちでいてくれたことが、ホントに嬉しいんです……!」
武道家「そ、それじゃあ……」
不安に陰っていた武道家の顔が、ぱあ、と明るくなる。
僧侶「でも…駄目なんです」
しかし、僧侶の口から零れたのは否定の言葉だった。
僧侶「武道家さんは、本当の私を知らないから……私が本当は、どれだけ汚れているかを知らないから……だから……」
武道家「……以前も確か、そんなことを言っていたな。どういう意味か、聞いてもいいか?」
僧侶「……ええ。聞いてください。むしろ、聞いてほしい。私という人間の全てを知って……それから、武道家さんのお気持ちをもう一度聞かせてください」
そして、僧侶は話した。
かつて港町ポルトで黒髪の少女に話したのと同じ話を。
かつて盗賊の慰み者として生きていた過去を。
――――涙混じりの告白を聞き終えて、武道家がまずしたことは、僧侶を抱きしめることだった。
武道家「……辛いことがあったんだな」
僧侶「う、うぐ…うえぇ…!」
武道家「汚れてなどいない。俺が断言してやる。お前は断じて汚れてなどいない」
僧侶「ほんとうに…? いいんですか…? こんな私で、私なんかで……」
武道家「そんな風に自分を卑下するな。そうだな、お前の過去を聞いて俺が思ったことを正直に教えてやる」
僧侶「ひぅ…!」
武道家に貶されるのが怖くて、僧侶は固く目をつぶってその身を縮こまらせた。
そんな緊張を解くように、武道家は僧侶の背中を優しく撫でる。
武道家「―――尊い、とそう思った」
僧侶「とうと、い?」
武道家「それ程辛い経験をしておきながら、なお自分以外の誰かの幸せのために行動できる。尊いよ。全く尊敬に値すべき人間だ、お前は」
僧侶「う、ふ…うぐ…ふぅぅ~~……!」
武道家「改めて言うぞ。僧侶―――俺と夫婦になってくれ」
僧侶「はいぃ……こちらこそ、よろじくおねがいじまずぅぅ~~!!」
武道家「ああ、もう。いい加減に泣き止めよ」
武道家は苦笑いしながら僧侶の顎に手を添え、顔を上げさせる。
瞳から零れた涙を空いた手で拭ってやり、そして―――そのまま、唇を重ねた。
戦士は勇者の部屋のドアをノックするが、返事は無かった。
戦士「むう……一人で街にでも出かけたのか?」
当てが外れた戦士はまたぽりぽりと頬を掻く。
戦士「でも、今のアイツがそんな気分になれるとは思えないんだよな……ちょっとだけ心配だ。もう少しだけ探してみよう」
戦士は勇者を探して王宮中を歩き回った。
途中すれ違った人物に話を聞くと、先ほど三階のテラスで姿を見かけたとのことだった。
とりあえず行ってみようと、三階のテラスへと向かう途中で、戦士は廊下の向こうに勇者らしき横顔を見かけた。
戦士「おーい、勇……」
勇者は戦士に気付かず部屋の中に入っていってしまった。
何気なく戦士は勇者が入っていった部屋の前まで歩み寄る。
戦士「え…?」
戦士は絶句した。
勇者が入っていったのは、エルフ少女の部屋だった。
ドアの隙間から漏れ出てくる声に、戦士は思わず耳を澄ましてしまう。
「悔いを残したくないんだ」
勇者のそんな声が聞こえた。
「いいよ、勇者。君の望みなら私はなんだって叶えてあげる」
エルフ少女の、そんな声が聞こえた。
そして、しゅるしゅると、衣服を脱ぐような、衣擦れの音。
「どうぞ……隅から隅まで、私の全てを君の物としてくれ。勇者」
戦士が聞いていられたのはそこまでだった。
戦士は部屋の前から離れ、駆け出していた。
どうして自分が泣いているのか、理解できなかった。
――――理解したくなかった。
―――果たしてエルフ少女の部屋の中で繰り広げられていたのは、戦士の想像通りの光景であった。
勇者はエルフ少女の部屋に来た目的を最初に告げた上で、続けて彼女にこう要望したのだ。
勇者「エルフ少女。君の全てを俺に見せてくれ。明日の戦いの前にやれることは全てやっておきたい。悔いを残したくないんだ」
エルフ少女は妖艶に笑い、勇者に応じる。
エルフ少女「いいよ、勇者。君の望みなら私はなんだって叶えてあげる。実は毎晩、そこの扉が開いて君がやって来るのを期待していたんだよ? 知らなかったかい?」
エルフ少女は身に着けていた服を躊躇いなく脱ぎ捨て、一糸纏わぬ姿になった。
恥じらいか興奮か、頬を赤く染め、しかし秘所を一切隠そうとはしない。
エルフ少女「どうぞ……隅から隅まで、私の全てを君の物としてくれ。勇者」
エルフ少女はベッドに腰掛け、勇者を手招いた。
勇者はふらふらとエルフ少女のもとに歩み寄る。
ぎしり、とベッドの軋む音がした。
そして――――遂に決戦当日の朝を迎えた。
武の国城門前に世界中から集った精鋭たちが整然と並んでいる。
兵達の前に準備された壇上には勇者の姿があった。
勇者「えー……どうも。『伝説の勇者』の息子、勇者です」
兵達から歓声が上がる。
勇者「『伝説の勇者』……父の名に恥じぬよう、今日まで私は魔王討伐の為の旅を続けてきました。でも、その中で痛感したことがあります。私は、弱いです。私は、とても『伝説の勇者』のような偉大な戦士にはなれません」
兵達の間にどよめきが走った。
勇者「だから、皆の助けが必要です。無力な私に、どうか力を貸してください。私一人では無理でも、皆の力があれば、きっと魔王を倒すことが出来ます」
勇者「――――そうだ。魔王を倒すのは、別に『伝説の勇者の息子』じゃなくたっていい。偉大な誰かの息子じゃなくたって、『勇者』にはなれるんだ」
勇者「そうだ! 今ここに集まっている皆こそが『勇者』なんだ!! ああもう、全く負ける気がしない!! これだけの数の『勇者』を目にしたら、魔王の奴きっと目ェひん剥いてぶっ倒れちまうぜ!!」
誰かが血の滾りを抑えきれず、叫んだ。
血の滾りは、高揚感は集団を伝播し、兵達の士気をこの上なく高めていく。
勇者「行くぞ皆ッ!! 今日俺達は、魔王の首を取るッ!!!!」
合わさった鬨の声は地鳴りとなって辺りに轟いた。
戦いが、始まる。
「第一中継点、配置につきました!! 簡易神殿の健在を確認!! いつでも行けます!!」
「第二中継点も配置完了です!! 神殿も問題ありません!!」
次々と作戦本部の元に報告兵が飛んでくる。
兵も物資も『翼竜の羽』を用いて運搬されていた。
各国の在庫を総動員した、『翼竜の羽』の大盤振る舞いである。
作戦本部で総指揮をとるのは武王だ。
『翼竜の羽』を用いて全中継点へ飛ぶことが出来る勇者一行は、戦況が不利と判断された場所に即座に援護に向かう遊撃隊として動くことになっている。
五人目の報告兵―――すなわち、最後の中継点の報告兵が武王の元を訪れ、準備を終えたことを告げた。
武王「誰ぞある!! エルフ少女の居る『結界開始点』へ走り、準備が出来たことを告げよ!! 作戦開始じゃ!!」
深い森の中で、静かに目を閉じて瞑想していたエルフ少女が目を開けた。
エルフ少女「さて……始めるとしようか。頑張って私を守ってね、勇者」
エルフ少女は目の前の簡易神殿―――世界樹の枝で組み上げた神棚に呪言を書き綴ったもの―――に手を置いた。
エルフ少女が何事か呟くと、その手のひらから光が溢れ、神殿に刻まれた呪言が輝き出し―――やがて、大地から巨大な光の柱が立ち昇った。
報告兵「出ました!! 本部の方向に光の柱を確認!!」
神官「よし…!!」
結界開始点から立ち昇った光の柱を合図に、各中継点でも術式を開始し、順次光の柱が噴出した。
魔大陸の囲むように噴き出した六つの光の柱。
結界開始点から放たれる光の柱の根元から、第一中継点へ向けて光が伸びていく。
その様子は例えるなら導火線を走る火花のようだ。
簡易神殿に導かれて走る魔力の火が、魔大陸に光の線を描いていく。
作戦本部に血相を変えた報告兵が飛び込んできた。
報告兵「魔王城に動きあり! 大量の魔物が光の柱に向かって進んでいます!! 凄まじい数です!! あの城の中に、どうやってあれだけの量の魔物が…!!」
武王「落ち着けい。あそこは魔なる物の本拠地じゃ。ワシらの常識で測るな。何でもありじゃと思っとけ。さて、各中継点に今の状況を通達。加えて、この言葉を伝えよ」
武王「―――死守じゃ。死力を尽くせ、強者共よ」
第一中継点―――『始まりの国』・『武の国』混成軍。
指揮官:始まりの国王宮騎士団長
騎士団長「いくぞ!! 勇者様が立案なさった作戦だ!! 我々の不手際で頓挫することなど、絶対にあってはならん!!」
騎士団員「おおーーーーーーーッ!!!!」
傭兵「うほっ、流石に勇者一行の出身国だな。気合の入り方が違えや」
傭兵「しかしまあ、あの時の嬢ちゃんたちが本当にこんな風に魔王討伐の一歩手前まで辿りついちまうなんてねえ……あの時ふっかけずに、素直に着いていってやりゃ良かったぜ。そうすりゃ俺も知名度うなぎ登りでウハウハだったのになあ」
傭兵「ま、俺なんてのは金で動く汚ねえ傭兵だがよ――――こういう世界を救うための戦いだってんなら、タダ働きでも悪かねえ」
傭兵「命だって―――張ってやらあな!!!!」
第二中継点―――『アマゾネス』・『武の国』混成軍。
指揮官:アマゾネス族長
アマゾネス族長「さあ行くよ! 情けない男共に見せてやるんだ! 私達アマゾネスの力を! 女の強かさって奴を!!」
乳ゾネス「おおーー!!」バルン!
尻ゾネス「私達が綺麗なだけじゃないってところを!」ブルン!
ももゾネス「見せてやる!」パッツン!
武の国兵士A「な、なんという勢いだ……本当に我らの出る幕がないぞ」
武の国兵士B「しかし何というか……目のやり場に困る!! 本当に困る!!」
アマゾネス少女「全力で暴れるのなんて久しぶり……楽しい……」ワクワク
アマゾネス族長「竜神様はどちらへ行かれた!?」
アマゾネス少女「さっき空に飛びあがっていくのを見たけど…」
―――魔大陸上空。各中継点に強襲せんとする翼竜の群れ。
その進行方向を、翼を生やした銀髪褐色ロリの幼女が塞いでいる。
竜神「同じ竜のよしみで一度だけ忠告してやる。退け」
翼竜型魔物「ギャォォォォス!!!!」
竜神「ふん、竜の神である儂に刃向うか。醜悪な小竜が。己の身の程を知れぃ!!!!」
幼女の体が輝き、突如として銀の鱗輝く巨竜がその場に出現する。
雄叫びと共に振り回された銀竜の尾が、空を舞う翼竜の群れを蹴散らした。
第三中継点―――『武の国』精鋭部隊。
指揮官:武の国兵士長
兵士長「術式の調子はいかがですかな? 神官長殿」
神官長「今はまだ導を維持するだけの段階です。労力はさほどでもありませんよ」
兵士長「御身を守護するのは武の国でも厳選された精鋭部隊。万が一にも突破されることはございません。心安らかに術式を維持されますよう…」
神官長「よろしく頼みます。結界陣を維持しながらではこの程度の支援しか出来ませんが……」
兵士長「なんと…これは身体強化の守護呪文! 術式を維持しながら我等に支援呪文をかける余裕があるとは……底知れぬお方だ」
神官長「大したことはございません。私など、これしかしてこなかった、これしか出来ない無能でございますから」
兵士長「神官長殿……」
若い兵士「ぬあーー!! 馬鹿なーー!! この狂乱の貴公子が一撃で吹っ飛ばされるなんてーー!! そんな馬鹿なーーー!!」
兵士A「またあいつんとこに穴空きやがった!! 何であんな奴がこの精鋭部隊に紛れてんだよ!!」
兵士B「知るか!! 何か知らんが武王様のえらいお気に入りなんだよ! 武闘会の実力を隠してるだけだとか何とか言われてな!!」
若い兵士「ええい! これは何かの間違いだ!! いくぞワンモアトライ!! ……ぬあーーーッ!!!!」
兵士A「もうお前引っ込んでろマジで!! 薬草だって無限じゃねえんだよ!!」
兵士長「あ……あいつ外すの忘れてた」
第四中継点―――『エルフ族』・『武の国』混成軍。
指揮官:エルフ長老
エルフ長老「まさか我らが人間共と共闘することになるとはな」
エルフ少年「何だよまだグチグチ言ってんのかよ長老」
エルフ長老「お前は少し目上に対する口の利き方を覚えろ。……割り切れぬものがあるのだ。お前達より長く、永く、人間というものを見てきている故な」
エルフ少年「そんなこと言ってたって話は前に進まないだろ? 勇者達を見てさ、人間だってそう悪いもんじゃないってことがわかったじゃん。だったらさ、俺達も態度を改めなきゃ。だろ?」
エルフ長老「年を取るとな、そんな風に柔軟に物事を考えることは出来んのだ」
エルフ少年「それ、偉そうに言う事か?」
エルフ長老「……そうだな。その通りだ。年寄りの保守的な考え方は、これからの世界には邪魔なだけなのかもしれんな。いつだって世の中を作るのは若者だ。そうあるべきだ」
エルフ少年「じいちゃん……」
エルフ長老「生き残れよ。決して死ぬな。生き残って、次のエルフの長を務め、エルフの在り方を変えてみせよ。エルフの若者よ」
エルフ少年「げっ!! 嘘だろ!? 何で俺が!? それなら姉ちゃんだろ、順番的に考えて!!」
エルフ長老「あやつは駄目じゃ。考え方が自由主義過ぎて危なっかしい。下手したら人間の子を孕むぞ、あやつは」
エルフ少年「弟の前で姉ちゃんが孕むとか生々しい話すんじゃねーーーッ!!!!」
第五中継点―――『倭の国』・『武の国』混成軍。
指揮官:倭の国武士団長
武士A「猿型魔物、討ち取ったりぃーーーーー!!」
倭の国の武士団は、凄まじい切れ味を誇るその武器で、次々と魔物を切り捨てていく。
剣の柄に刻まれた『鉄火』の文字がきらりと輝いた。
結界開始点―――『善の国』を中心とした各国精鋭軍。
指揮官:善王
エルフ少女特別護衛:騎士
騎士は森の中でも一際高い木によじ登り、戦況を観察する。
一見して、戦線が崩れた所は見当たらない。
騎士「みんなよく耐えてるな……俺も今んとこすこぶる暇だし。まあ俺の所まで魔物が来るような状況になったら実質詰みなんだけど」
騎士は目を細めて、魔力の光を追った。
騎士「結界陣は……第二中継点は過ぎてんな。もうあと三十分もしないうちに第三中継点に到達しそうだ。つまり、半分はもう完成するわけか」
騎士「あれ…これ勝つな、人類。しかもわりとあっさり」
騎士「宝術とやらが発動しちまえば、魔王軍の誰も勇者達に太刀打ちできねーだろ。猫ちゃんだって勇者一人に負けちまうようになるくらいだし……下手すりゃ武の国の兵士長とかだけで魔王城攻略出来ちまうんじゃねーの?」
騎士「それは……どうだろう。あんまり面白くねえなあ……」
騎士は木の上でしゃがみ込み、深く思考する。
騎士「何とかうまいことばれずにこの作戦を失敗させる方法……ねえよなあ、そんな都合のいいもん」
騎士は考えるのをやめて立ち上がると、さっぱりと言い放った。
騎士「じゃあもう、しょうがねえやな!!」
騎士はするすると木を降りると、たかたかと軽快に駆け出した。
やがて騎士が辿りついたのは、術式発動の為に深く集中するエルフ少女の所―――すなわちこの作戦の根幹を成す『結界開始点』だった。
がさがさと無遠慮に茂みを掻き分けて現れた騎士に、しかしエルフ少女は全く反応を示さない。
示せない。
術式発動中の彼女は、余りに深く術式に没入するために、周囲の状況を把握することが出来ない。
それは作戦前に皆の前で説明されたこと故、騎士も良く知るところだった。
騎士はすらりと剣を抜いた。
精霊剣・湖月の蒼い刃がギラリと輝く。
騎士「悪いね、お嬢ちゃん。アンタにはまったく恨みなんてないんだけど」
剣を掲げる。
振り下ろせば、エルフ少女の体を左右に真っ二つに裂くことが出来る位置に。
騎士「俺の目的の為に死んでくれ」
そして騎士は、躊躇なくその剣を振り下ろした。
ギィン―――――と、金属がぶつかり合う音がした。
エルフ少女が、騎士の剣を受け止めていた。
術式に没頭すれば何の反応も出来なくなるはずの彼女が、さっきまでは確実に持っていなかった黒い刀身の剣で、騎士の湖月を受け止めていた。
黒い刀身に散りばめられたように浮かぶ白い刃紋は、夜に舞い散る桜の花びらを連想させる。
騎士「なん…なに…!?」
エルフ少女「ずああああああああああああ!!!!!!」
混乱する騎士の体を雄叫びと共にエルフ少女が弾き飛ばした。
騎士の耳に届いたその声は少女の物ではなく、彼の良く知る男の物だった。
騎士「おいおい……まさか……」
エルフ少女の体から煙が噴き出す。
もうもうと舞う煙が晴れた後に、そこに立っていたのは――――勇者だった。
騎士「ふは、はは……」
騎士の顔が笑みの形に歪む。
騎士「あっはははは!!!! やべえ、かなりぞっとしたぜ!! そうかそうか!! そうだったのか!!」
勇者「騎士…!」
騎士「俺をここに配置して、お前がエルフ少女に化けてたってことは、そういうことなんだよな!? お前はもう気付いてたって、そういうことでいいんだよな!?」
勇者「騎士ぃ……!!」
勇者はわなわなと震えていた。
その目には涙が滲んでいた。
そうだ。気付いていた。
気付いてしまっていた。
だけど違っていてほしかった。
そう願っていた。
心から、願っていたのだ。
騎士「ほんじゃ、礼儀として改めて自己紹介させてもらうぜ勇者。俺の名は騎士。『滅びた国』の出身で、『伝説になれなかった騎士』の息子」
騎士「魔王軍の中じゃ『暗黒騎士』で通ってる。よろしくな」
第二十六章 さあ、最後の戦いを始めよう 完
勇者「伝説の勇者の息子が勇者とは限らない件」【6】