球磨「面倒みた相手には、いつまでも責任があるクマ」【前編】

418 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:14:38.57 xVa5x4Ph0 394/888



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 ◆第3章:めんどうみたあいてには


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419 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:16:48.09 xVa5x4Ph0 395/888



――――1943年11月、1630、沼南島(シンガポール)、セレター海軍基地、第101工作部。


『……』


――これで、3度目の夢だ。


暦では11月らしいが、場所が赤道直下の為、ジトジトと湿気が肌に纏わり付き、かなり蒸し暑く感じさせられた。

以前は英国軍が利用していたセレター海軍基地であったが、先の「新嘉坡(シンガポール)の戦い」にて帝国海軍が現地を占領した現在では、作戦参加艦艇の修理整備を行なう為の特設工作部として稼働していた。

そして其処には現在、一隻の軍艦が乾船渠(ドック)に入渠しており、5番主砲、航空機射出装置(カタパルト)と吊り上げ装置(デリック)を撤去し、25ミリ3連装機銃を新たに増設すると言う、改装工事が行われていた。


420 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:18:00.66 xVa5x4Ph0 396/888



『……!』

「……」


すれ違う水兵全員から敬礼を受け、カンカンと軍靴を鳴らしながら舷梯を上る、白衣の第二種軍装を纏った影が一つ。

舷門を潜り、上甲板へと上がり、他の水兵や整備兵を掻き分け、更には艦首付近の甲板まで歩を進める、初老の軍人の影が一つ。

そうして今は人影の無い艦首付近へと、唯一心不乱に歩を進める父親の影が一つ。


421 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:18:49.06 xVa5x4Ph0 397/888



「久しぶり」


そして、どこからともなく響いた少女の凛とした声色が、その男の耳に触れた。

その男は、周りを見渡し、誰も居ない事を確認すると、中空へと言葉を投げかけた。


「……久しぶりだな」


422 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:20:06.84 xVa5x4Ph0 398/888



初老の軍人と旧式の軍艦。


「大分、やつれたな。提督」

「……そういう貴様は、ボロボロだな。球磨」


「在りし日の提督」の姿と「軍艦・球磨」の姿が、其処にはあった。


423 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:22:35.85 xVa5x4Ph0 399/888



「中将になったって話を聞いた。おめでと」

「……ありがとう」


再会の喜びを孕んだ声色を投げかける球磨に対して、更に階級を上げていた在りし日の提督である「中将」は、喜びとは裏腹に何処か上の空で言葉を返していた。

そして中将は、艦首付近にある波切板を背もたれに、力なく腰かけると、球磨に言葉を投げかけた。


「……細やかながら、色々活躍して回ったそうじゃないか」

「フィリピンの海で敵艦をちぎっては投げまくった。やっぱり球磨は、意外と優秀だ。上陸作戦の際も、球磨に搭乗していた特別陸戦隊がザンゴアンガに上陸して、取り残されていた同胞を救出した」

「……そうか」


中将の眼前には、ボロボロになった日章旗が、静かに揺れていた。


424 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:23:23.64 xVa5x4Ph0 400/888



「……魚雷が命中したって聞いた」

「比島(フィリピン)攻略作戦の時に米魚雷艇と戦って、その時一発が艦首に当たった。この球磨をもってしても、ここまでと覚悟した。だけど何故か魚雷は爆発しなかった。あの時は本当、もう少しで死ぬところだった」

「……そうか」


安堵の溜息を一つ吐いた中将は、憂いの表情を浮かべた儘、黄昏色に滲み始めた空を静かに眺めていた。


425 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:25:46.05 xVa5x4Ph0 401/888



「それよりも提督は何故、此処に居るんだ? 越南(サイゴン)司令官の仕事はどうした?」


そういえば何故、提督が此処に居るのか気になった軍艦・球磨は、中将の現状について尋ね返した。


「……2か月前に任を解かれた。流石に私も歳だ。数日前に日本への帰国命令が出たが、貴様が此処に居ると聞いて、無理を言って沼南島経由での帰国に変えた……数時間後には、日本行きの艦艇に乗艦して、帰国する手筈になっている」

「そうだったのか。それにしても……そこまでして、こんな旧式の軍艦に会いに来てくれたのは、本当嬉しい」

「……それぐらいしか、今の私に出来る事はないからな」


更に悲しみを吐き捨てた中将の姿は、とても朧であった。


426 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:29:22.48 xVa5x4Ph0 402/888



「帰国したら提督はどうする?」


その中将の様子が少し心配になった球磨は、更に問いかける。


「……帰国したら、予備役として昨今設置された軍需省に就けとの事だ」

「そうか、ならお互い後方任務だ」

「……そうさな、お互い後詰だな」


そうして二人は、皮肉的ながらも温かな笑みで言葉を交わした。

その二人の言葉には、何とも言えない親近感があった。


427 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:30:11.29 xVa5x4Ph0 403/888



だが、それが中将の憂いの種では無い事は分かり切っていた。

そう言葉を返した中将の声色や姿から、何時も纏っていた筈の覇気が、いつの間にか抜け落ちている。

この様な中将を見たのは、球磨も初めてだった。


428 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:30:48.21 xVa5x4Ph0 404/888



「どうしたんだ、提督? 何かあったか?」


やはりいつもと違う中将の様子に、球磨は心配になって尋ねた。


「……球磨。一つ聞きたい」


そして中将は一呼吸の後、球磨に対し、憂鬱を含んだ声で、問いを投げかけた。


429 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:31:23.45 xVa5x4Ph0 405/888




「球磨は、自身の存在理由について疑問を抱いた事はないか?」



430 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:32:03.86 xVa5x4Ph0 406/888




「無い」


だが、その中将の問いかけは、軍艦・球磨によってあっさりと否定されてしまった。



431 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:33:19.29 xVa5x4Ph0 407/888



「開戦前にも言ったかもしれないが、球磨はこの国を、ひいては誰かを護る為に生み出された軍艦だ。球磨は唯、お前たちの想いを乗せ、散華するその時まで戦うだけだ」


そうして真ん丸と目を見開いた中将に対して、球磨は更に力強く宣言した。


「お前たちが球磨に託してくれたその想い。それが球磨自身の想いでもあり、球磨が戦う理由だ」


その輝きは、今の中将には眩し過ぎる程、強いモノであった。


432 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:33:48.64 xVa5x4Ph0 408/888



「……貴様は強いな」

「当然だ」


中将の言葉に球磨は、ふふん、と愛らしげに鼻を鳴らした。


433 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:34:29.86 xVa5x4Ph0 409/888




――その軍艦・球磨の信念を纏った声色を聞いて、中将は思った――。



434 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:35:27.44 xVa5x4Ph0 410/888



これ程、気高く、一点の曇りも疑念もなく、唯自身の想いだけを信じて「戦う」事が出来る少女。

その想いを果たす為なら、この娘は嬉々として、世界にその身を捧げるだろう。


435 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:36:21.59 xVa5x4Ph0 411/888




砲雷撃の雷雨に耐え、戦の炎に焼かれてもなお、激動の時代を駆け抜けようとする、この娘の雄姿。



436 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:36:51.26 xVa5x4Ph0 412/888



この時、改めて思い知らされた。

私なんかが遠く及ばないほど、この娘は純粋で無垢だ。

この娘は気高い存在だった。


437 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:37:34.13 xVa5x4Ph0 413/888




――唯々清らかな器、それがこの娘だ――。



438 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:40:16.92 xVa5x4Ph0 414/888



そして中将は、敬意と賞賛と愛情が入り混じった感情の儘、ぽんぽんと鉄板装甲に手を触れ、その表面を優しく撫でた。

そうして触れた鉄板装甲は、先刻まで燦々と照りつけていた太陽光のせいか、幾分か熱を含んでいたが、不思議な事に触り続けられない程、熱くは無かった。


「なでなでしないで欲しい。ぬいぐるみじゃない」


軍艦・球磨は、むぅと目を細めた様な声を上げたが、中将は言葉を返そうとしなかった。

その中将の表情は、優しいながらも、悲しみに満ち溢れていた。


439 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:41:08.05 xVa5x4Ph0 415/888



「……提督、球磨で良ければ話を聞く。一体何があった……?」


いよいよ心配になった球磨は、中将に再び尋ねた。


「……少し前に司令部でな、ある話を聞いたんだ」

「ある話?」


そして中将は、一つ一つ悲しみを洩らす様に、話を始めた。


440 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:44:26.23 xVa5x4Ph0 416/888



「戦備考査部会議や第一線から、起死回生になるであろう窮余の一策、戦局を挽回するであろう戦法が挙げられた……しかもその戦法は、全て同じ様な内容だった……皆が口を揃えた訳でも無いにも関わらず、だ……」

「それは一体……」


中将は言葉を無理やり吐き出す様に。


441 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:45:34.37 xVa5x4Ph0 417/888




「爆薬を積んだ戦闘機なり魚雷なりに乗り込み、それを乗員が操作して、米英の敵艦に体当たりする必中の戦法」


――――それはもう泣きだしそうな程、悲痛な声で、中将はその戦法を洩らした。



442 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:46:28.01 xVa5x4Ph0 418/888



「それって……! それでは乗員は……!」

「……言わずもがな」


その中将が述べた戦法を聞いた軍艦・球磨は、「来るところまで来てしまった」と言うやるせなさを、ひしひしと心で感じていた。


443 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:47:48.27 xVa5x4Ph0 419/888



「ミッドウェー海戦以降の前線の話は常々聞いてはいたが……まさか……それ程まで、第一線の戦況は追い詰められているのか」

「……そうだ……今はまだ提案段階とは言え、既に各地前線で独断による実行例が報告されている……それに戦況は、日に日に悪化している……海軍中央部も、近々首を縦に振らざるを得ないだろう……」

「……」

「……私は」


そうして歯の食い縛りを緩めた中将は、弱々しく笑みを浮かべながら、自身の心情について、球磨に語った。


444 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:49:23.29 xVa5x4Ph0 420/888



「……私はな、球磨……その話を聞いた時……私の心を支配したのは……誰かを護る為に人はそこまで己を捨てられるのかという、自己犠牲に対する敬意の念と……戦争が人を兵器に変えてしまったという、戦争倫理に対する悲嘆の念だった……それで、ふと……私は思ってしまったんだ……」


中将が浮かべた弱々しい笑顔。


445 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:51:33.67 xVa5x4Ph0 421/888



「人は生まれたら、後は死ぬだけの存在だ……だが結局、そこまでして私は何の為に戦っているのだろうな……敗戦は免れないのに……私たちが必死になって戦った未来は、一体どうなっているのだろうか。その先に、意味はあるのだろうか……?」


その笑みは、自分自身で掲げた信念なのに、いつの間にか自分自身がその信念、生きる意味を否定し、自分自身と交わした約束と責任を反故にしようとしていると言う嘲笑。


「……情けないよな、軍人として誰かを護る想いを抱いて戦っていた筈なのに……いつの間にか私自身の想い、私自身の存在価値に疑問を抱いてしまっている」


他の誰でもない、中将自身に対しての嘲笑だった。


446 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:52:42.23 xVa5x4Ph0 422/888



「この戦いや私の想い……私の今まで生きてきた意味に、一体どれだけの価値があったんだろうな……」


其処には、生きる意味さえも見失った、とても弱々しい初老の男の姿があった。


447 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:53:40.28 xVa5x4Ph0 423/888



「てーとく」


軍艦・球磨は、堪らずその初老の男に呼びかけた。


448 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:54:20.42 xVa5x4Ph0 424/888




「答え合わせをしないか?」


そして自己否定の念を浮かべた中将に対して、球磨は信念の籠った声色で、言葉を紡いだ。



449 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:55:15.28 xVa5x4Ph0 425/888



「……答え合わせ?」


その球磨の言葉を中将は反芻した。

軍艦・球磨は大きく頷いた様な声色を上げ、口を開いた。


「球磨は軍艦とは言え、後方任務が主体だから、生き残る可能性がある」


そして軍艦・球磨は、柔らかな口調で中将に優しく語った。


450 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:56:17.17 xVa5x4Ph0 426/888




「もしお互い、生きて終戦を迎えたら……この戦争に、提督と球磨の想いに、どれだけの意味や価値があったのか、お互いに見つけた答えを、交わさないか?」


その声色には、かつての中将と同じく、強い信念が込められていた。



451 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:58:23.75 xVa5x4Ph0 427/888



「その答えがどれだけの価値を孕むモノなのかは、球磨には分からん。もしかしたら歴史や社会からしてみれば、提督の想いなど、泡沫の様に儚いモノなのかもしれない。価値が無いモノなのかもしれない。それでも……提督が己の想いを信じ、天命に従い、進み、そして戦ってきた道だ。きっと何かしらの意味が、提督の中にはあるはずだ。世間一般で言われる価値以上のモノが、その答えの中にはあるはずだ」


ふと中将は、軍艦・球磨の影を、目の前に見た気がした。

中将は目を擦り、見上げる形で、その影を見据えた。


452 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 22:59:32.58 xVa5x4Ph0 428/888




「……球磨も提督のその強い輝き、その想いに見合うだけの答えを探してやる。いや、それ以上の価値を見出してやる。だから提督……そんな顔をしないで欲しい……」


白衣の水兵服を纏い、鳶色の長い髪と瞳を抱き、頭の癖毛を揺らす、端麗な顔立ちの少女。



453 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:00:17.65 xVa5x4Ph0 429/888



――それが、貴様の姿か。


「……」


そして中将を見据える少女のその顔色は、中将の心の内幕を映した様に、とても切なげであった。


454 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:01:00.22 xVa5x4Ph0 430/888



「……分かった、球磨」


暫くの沈黙の後、中将はすっと立ち上がると、球磨の影に向かって、吹っ切れた様な笑顔を投げかけて、口を開いた。


455 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:01:38.40 xVa5x4Ph0 431/888



「約束しよう。終戦までに私自身、答えを探しておく」


中将のその笑顔、それは月の様な輝きを帯びていた。


456 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:02:42.08 xVa5x4Ph0 432/888



「そうか……!」


その中将の言葉を聞いた軍艦・球磨は、めいっぱいの笑顔を中将に投げかけた。

投げかけられた球磨のその笑顔は、太陽の様な輝きを帯びていた。

そしてその瞳は、琥珀色にも思える程、強く輝いていた。


中将はもう一度目を擦り、目の前に視線を投げかけるが、其処にはもう誰の影も無かった。


457 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:04:24.86 xVa5x4Ph0 433/888



「そうさな……口約束だけでは寂しかろう、これを貴様にやる」


ふいと、思いついた中将は、自身が被っていた士官軍帽を、隣に備え付けられていた揚錨係留装置(ケーブルホルダー)の上に、ぽんと置いた。


「……気持ちは嬉しい。だけど、球磨はこの身体だ。受け取れない」


その子供の様な中将の姿を見た軍艦・球磨は、少し困った声色で中将に言葉を投げかけた。

その声色には、受け取りたくても受け取れないと言う、もどかしさが含まれていた。


458 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:05:55.23 xVa5x4Ph0 434/888



「なら、今の艦長にこの軍帽を艦長室の片隅にでも置いておくよう頼む。私も一時期とは言え、球磨の艦長になった身だ。『例え、形だけでも君たちと一緒に戦いたい』とでも言っておこう。あながち、間違いでもないしな」

「分かった。それなら球磨は、提督の軍帽を約束の証として受け取ることが出来る」


その中将の言葉に喜んだ軍艦・球磨は、静かにその申し出を受け入れた。


459 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:06:33.66 xVa5x4Ph0 435/888




「……終戦後、また会おう。そして答え合わせをしよう。この戦争に、この私と球磨の想いに、どれだけの価値があったかをな」

「ああ、約束だ!」



460 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:08:27.01 xVa5x4Ph0 436/888



そうして中将は、現艦長と二言三言話した後、艦長室の片隅、例え艦長が変わったとしても、ちょっとやそっとじゃ見つかる事が無い様な死角に、自身の士官軍帽を置くと、名残惜しそうに艦から降りて、最後に軍艦・球磨を一瞥した。


461 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:09:25.40 xVa5x4Ph0 437/888



艦首付近には、先程見た軍艦・球磨のちんまりとした影があり、中将の月明かりの笑みに負けないくらいの満面の頬笑みを浮かべながら、上甲板からぶんぶんと手を振ると、海軍式敬礼を中将に投げかけた。

中将は、柔和な笑みを掲げながら、球磨に対して敬礼を返した。


462 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:10:53.14 xVa5x4Ph0 438/888




数刻後、中将は日本行きの艦艇へと乗り込み、セクター海軍基地を後にした。


――――これが中将の、軍艦・球磨との最後の別れになった。



463 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:12:51.14 xVa5x4Ph0 439/888



 ……………………………… 


――――1944年1月、1700、軍需監理局。


日が没する黄昏の冬。

蝋が塗られ、赤茶に照った木材床の廊下を、コツコツと軍靴を鳴らしながら歩く、第一種軍装に身を包んだ初老の影が一つ。

その男は、時々廊下ですれ違う、畏れと賤しさが入り混じった顔で敬礼を投げかける者に対し、心の中で溜息を吐きながら、敬礼を返した。


その男、日本に帰国した中将は、軍需省の管理部長の任に着いていた。

久方ぶりの故郷の街並みは、重苦しく退廃していたとは言え、長らく外国にいた中将の郷愁の念を誘うのには十分だった。

恐ろしい程緩やかに、其処では時間が流れていた。


464 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:16:13.88 xVa5x4Ph0 440/888



「……42年6月のミッドウェー海戦から、全てが狂った」


ふと、目の前の廊下の角の先、誰かの話声が漏れてきた。

精鍛な声色かつ何処か泥臭さが少ない口調から察するに、若い海軍士官だろうと、中将は考えた。


「……赤城、加賀、蒼龍、飛龍……正規空母四隻を失ったのが大きかった」

「……撤退時に三隈を失った事もな」


中将は廊下の角を曲がらず、丁度、三人の士官たちの死角になる位置の壁に、音も無くもたれかかる。

そうして、その手に持っていた資材管理帳簿を開きながら、廊下で話す若い海軍士官たちの悲痛な叫びに耳を傾けた。

青褪めた声で話を続ける海軍士官たちは、近場の影に自身の上官である中将が居るとも知らず、話を続けていた。


465 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:22:32.66 xVa5x4Ph0 441/888



「ソロモンでは、加古、龍驤、比叡、衣笠、綾波、霧島、暁、夕立……サボ島では吹雪、叢雲、古鷹……その後は由良、高波、天龍か……ああ、畜生っ……! 自分で言ってて頭が痛い……!」

「昨年の冬だけで、夕雲、望月、初風、川内、夕霧、大波、巻波、冲鷹が沈没し、伊号第19は行方不明らしい……」

「嘘だろ……!」


その言葉を聞いた中将は、もの悲しさを溜息と一緒に吐き捨てた。


何故だろうか。

中将には、この若い海軍士官たちの嘆きが、中将自身が発した言葉の様に思えてならなかった。


466 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:24:29.90 xVa5x4Ph0 442/888



「それでも……俺たちに出来る事は何かないのか……! ……形はどうあれ……俺は最後まで戦うつもりだ……!」

「気持ちは痛い程分かるが、一寸落ち着けって……! それに、後詰の俺たちに一体何が出来るっていうんだ……!? 敗戦は免れないって言うのに……」

「敗戦が何だって言うんだっ!? 戦争に負けたからと言って、俺は米国の奴隷になるつもりなんて毛頭無いぞっ!!」


467 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:30:45.97 xVa5x4Ph0 443/888



その一人の若い海軍士官の言葉に、ふいと、中将は昔一度だけ会った事のある、魅力と才能に溢れた壮年の男の事を思い出した。

あの男は当時、かなりの社会的地位を持ち、時の政治家たちとも繋がりがある男だったが、当時の世論とは裏腹に、この国の敗戦を語った。

そして開戦直前にあの男は突然、全ての地位を投げ捨て、田舎に家と畑を買い、そして暫くの後、疎開した。


最初、腰抜けと世間から嘲笑されてはいたが、今にして思えば、その先見の明に脱帽せざるを得なかった。

それぐらいの政治感覚と先見の明が中将にも無かった訳ではないが、軍人と言う立場、そして自分自身の想い、その信念に反する事は中将自身が許さなかった。


468 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:31:32.07 xVa5x4Ph0 444/888




『もしお互い、生きて終戦を迎えたら……この戦争に、提督と球磨の想いに、どれだけの意味や価値があったのか、お互いに見つけた答えを、交わさないか?』



469 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:33:17.88 xVa5x4Ph0 445/888




そしてそれ以上に、中将には決して反故に出来ぬ「あの娘」との「約束」がある。

中将はその約束を交わした時、いや戦争が始まるずっと昔から、「あの娘」に対しての自分自身の想いを素直に認めていたのだ。



470 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:33:51.25 xVa5x4Ph0 446/888



「……人生は戦いなり、か」


ぽつりと、中将の口から言葉が漏れた。


471 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:35:33.73 xVa5x4Ph0 447/888



よくよく考えたらあの男は、癇癪持ちの癖して憶病とも言えるほど繊細な精神の持ち主の様であるから、単に血を見るのが怖かったから疎開したとも言える。

だがあの男は、決して「戦い」に背を向けて逃げる様な男ではなさそうだ。

あの類は、中将と同じく、自分自身の想い、その信念の為なら、己が精神、ましてや命さえも厭わずに戦う事が出来る心を持った男だ。

恐らくはあの男も、あの男なりの信念があってその道を選んだのだろう。


472 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:38:10.08 xVa5x4Ph0 448/888



「私もあの男も、そしてあの娘も……いや皆が各々の信念を纏って……形はどうあれ、必死に戦っているのだろうな……」


気が付くと、海軍士官たちの話声は既に遠退き、しんとした空気が、廊下へと降りていた。

パタンと資材管理帳簿を閉じ、再び歩を進めた中将は、静かに廊下の角を曲がったが、其処には既に誰の影も無かった。


くたびれた廊下、その視界は暗褐色に塗られ、寂しくドンヨリとした空気が圧し掛かっており、四角の窓から夕陽だまりが、ぽつり、ぽつりと落ちていた。

時々、窓の外に映る枯れ木を抱いた黄昏の空を眺めながら、中将は仕事場である、管理部長室へと、再びコツコツと軍靴を鳴らした。


473 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:38:40.65 xVa5x4Ph0 449/888




――――その日の夕映えは、血液を垂らした様に、紅く滴り、広がっていた。



474 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:40:21.67 xVa5x4Ph0 450/888



 ……………………………… 


――――1944年1月、1730、軍需監理局、管理部長室。


コンコン、コンコン、と管理部長室の扉が4度の繊細精強な物音を立てた。


「入れ」

「失礼致します、中将閣下」


管理部長室の扉を開けたのは、若い陸軍将校だった。

小柄な中将とは違い、陸軍らしく筋骨隆々な出で立ちである。

陸軍将校は、柔らかな物腰で扉を閉めると、業務机に座っている中将を見据えた。


475 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:41:51.83 xVa5x4Ph0 451/888



「件の主要軍需会社生産管理に関する資料を持って参りました。それと幾つか中将閣下が本部に頼まれた資料も届いております」

「ああ、ありがとう。そこの棚に置いといてくれ」

「承知致しました」


そうして脇に抱えていた資料を、資料棚の端へと並べていった。


「いつもすまない」


資料を棚へと均一に整頓する陸軍将校を尻目に、万年筆を書類に走らせながら、中将は答える。


「いえ、私でよろしければ何時でもお声掛け下さい」


資料を並べ終わった陸軍将校は、堅物厳格ながらも敬意を含んだ陸軍式敬礼を中将に投げかけた。


476 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:43:10.14 xVa5x4Ph0 452/888



実の所、この陸軍将校は、海軍出身で、更に突慳貪な態度を取る中将に対し、最初はあまり良い印象を持ってなかった。

だが陸軍将校は、何度か会話を重ねていく内、中将に対しての印象を改める事になる。

この激動の時代において中将は、やや偏屈者ではあるが、理知的に物事を見据る慧眼を持った人物である事を知るに至る。

故に陸軍将校は、中将の事を尊敬に値する人物であると、高く評価していた。


そして近頃では、こうして中将直々の司令を受ける事についても、やぶさかでは無かった。

最も中将が陸軍将校の事をどう思っているかは知らなかった。


477 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:44:04.69 xVa5x4Ph0 453/888




――だけど、毎回毎回、僕を指名する辺り、それなりに僕の事を買ってくれているのだろうか。

――いや、ある意味では似た者同士なのかもしれない。



478 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:44:49.38 xVa5x4Ph0 454/888



陸軍将校は、中将に対し、なんとも言えない親近感を抱いていた。


「中将閣下、つかぬことをお伺い致しますが……」

「何だ?」


だからこそ、時々こうして会話を挟む事が出来た。

だからこそ、陸軍将校は尋ねた。


479 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:46:07.92 xVa5x4Ph0 455/888




「中将閣下は、戦前に『軍艦・球磨』の艦長をなされていたとの事で」


陸軍将校が運んできた資料群。

その中、各種軍艦艇戦時日誌資料の中に『軍艦・球磨』の資料が紛れ込んでいたからだ。



480 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:47:00.58 xVa5x4Ph0 456/888



「そうだが、それが何か?」


ピタリと、万年筆を走らせるのを止め、何処かドスの利いた声で中将は、陸軍将校に返答した。

余りの恫喝的な声に、陸軍将校は狼狽しながらも、口を開いた。


481 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:48:08.88 xVa5x4Ph0 457/888



「いえ、その……艦長として乗艦なされた際、どの様な心境だったのかを、お聞きしたくて……」


それを聞いた中将は、頬杖を付き、そっぽを向きながら、ぶっきらぼうに口を開いた。


「どの様な心境と言われても、所詮は軍務の延長だ。士官の転勤など日常茶飯事だろう。それに軍艦の艦長など、偉くなる為の箔付けに過ぎん」

「なっ……!」


その返答に若い陸軍将校は、天下の海軍中将にあるまじき言動では無いかとムッとした。


482 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:49:12.71 xVa5x4Ph0 458/888



――中将閣下、お言葉ですが……!


だが、その言葉が口に出される事は無かった。

ふと、陸軍将校は、普段の中将とはどこかズレた返答に違和感を覚えた。

先程のドスの利いた声といい、普段は目線を合わせて話す中将だが、「軍艦・球磨」の話題が出たとたん、先程から目を合わせようともしない事に、陸軍将校は疑問に思った。


483 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:50:03.37 xVa5x4Ph0 459/888



「それで何故、君はその様な事を私に聞く?」


だが先程まで、目線を逸らしていた中将。

その中将は、いきなり射抜く様な眼差しで陸軍将校を捉え、声色を低くして話の続きを促した。


484 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:50:45.37 xVa5x4Ph0 460/888



「え、ええと……」


その眼差しに陸軍将校は、少なからず戦慄した。


その時の中将の目の鋭さは、鷹の目そのものであった。

一寸でも下手な事を口走ったら掴み殺してやると言う気概さえ伺えた。


485 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:52:00.71 xVa5x4Ph0 461/888



だが、下手な事を言うつもりは毛頭なかった陸軍将校は、慎重に言葉を探しながら。


「……実のところ、私は熊本県の球磨群出身でして」


――――中将を見据え、「軍艦・球磨」についての己が思い出を語った。


486 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:53:13.84 xVa5x4Ph0 462/888



 ……………………………… 


「ほう。それで?」


気立ては良いが、少々お喋りなこの若い陸軍将校の話を、中将は「興が乗った」と言わんばかりに言葉を返した。

その中将の返事に陸軍将校は、「待ってました」と言わんばかりに、目を輝かせて思い出を語った。


487 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:55:16.44 xVa5x4Ph0 463/888



「軍艦・球磨……やはり自分自身の郷の名前が付いた軍艦には自然と熱が入るものなのですかね……! 水雷戦隊の旗艦を担う、最初の艦として建造され、あの長門型を超える9万馬力という大出力! そして、その馬力から生み出される36ノットという超高速!」


中将は、他の出世欲に駆られる若者と違い、自己の信念を強く持つ、今のご時世で珍しいこの若者を高く買っていた。

この陸軍将校を事ある毎に指名していたのは、純粋にこの若者の事が気に入ってたからであった。


488 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:57:28.19 xVa5x4Ph0 464/888



「列車以上の拘束力を持ち、14センチ砲7門と53センチ連装魚雷発射管4基の強武装を携え、他の水雷戦隊の追随を許さないその気概! まさに熊本人の気概そのものを体現したかの様でした!」


いや、それどころか、ある意味では似た者同士なのかもしれないと言う親近感を、中将は陸軍将校に対して抱いていた。


「それはもう少年の時は、本当に感動しましたよ! あの時の感動は今でも忘れません! 今では旧艦扱いではありますが、それでもなお、彼の地でその武勇を振う雄姿は、胸踊ります!」


489 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:58:08.64 xVa5x4Ph0 465/888



――それにしてもこれは、些か、気恥ずかしい。


中将は自分が褒められている訳でもないのに、とても誇らしく思えた。

陸軍将校の言葉のせいで、静かに零れ落ちた笑みを隠す為、中将は書類へと向かった。


490 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/25 23:59:04.70 xVa5x4Ph0 466/888



「正直、申し上げますと、私も他の陸軍連中と同じく、海軍連中はあまり好きではありません……ですが、『軍艦・球磨』や他の艦艇は違います! とても誇り高い限りです……!」


陸軍将校の話を静かに聞き入りつつ中将は、航空機及び関連兵器生産受注書に捺印し、民間地方鉄道網整備計画書に署名していった。

思いの外、作業が捗った。


491 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:00:32.14 xlUQQs3U0 467/888



「そう……だからこそ……」


しかし陸軍将校に目もくれず、書類へと向かい、万年筆を滑らす中将。

その為、中将はこの陸軍将校の様子に気付かなかった。


492 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:01:41.84 xlUQQs3U0 468/888




「だからこそ……」


この若い陸軍将校が、手を握り締めて、歯を食いしばって俯いていた事に。



493 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:02:11.10 xlUQQs3U0 469/888




この若い陸軍将校が、悔しげに口を開いた事に。



494 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:02:58.15 xlUQQs3U0 470/888





「……先日、軍艦・球磨が沈んだ事は、本当に残念でなりません」




495 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:03:33.73 xlUQQs3U0 471/888





「……は?」




496 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:04:31.06 xlUQQs3U0 472/888




そして、若い陸軍将校のこの言葉に、中将は凍て付き、絶句した。


陸軍将校が口にした、軍艦・球磨の轟沈。



497 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:05:09.72 xlUQQs3U0 473/888




――――その、突然の訃報に。



498 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:06:18.86 xlUQQs3U0 474/888



その言葉を聞いた中将は、時計の針が止まり、世界が突然終わった様な絶望感を覚えた。


自分の心臓が突然誰かに掴まれ、ぶち抜かれた様な喪失感を覚えた。


胸の中を蠢蠢とのたうち回る感情を吐き出したくて、剃刀で喉を掻き切られた様に、ひゅうひゅうと、息を洩らした。


499 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:07:17.80 xlUQQs3U0 475/888




「……中将閣下?」


そして愛娘の訃報を伝えた、この若い陸軍将校の呼び掛けに、ぷつり、と何かが切れ、箍が外れた音を中将は聞いた。



500 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:08:02.65 xlUQQs3U0 476/888




「……ふざけ……るな……」


――――中将は理知的、冷笑的、高踏的、そして利己的に生きてきた人生で初めて、理性を失った。



501 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:09:14.85 xlUQQs3U0 477/888



 ……………………………… 


「ふざけるなっ!! そんな筈があるかっ!?」


寸秒の後、突如として顔を上げ、腹の奥底から沸き出す様な怒号を張り上げた中将は、手に持っていた万年筆を机に叩き付け、書類を撒き散らし、椅子を蹴り倒しながら立ち上がると、飛び掛かる勢いで若い陸軍将校に迫り、その胸倉を掴み上げた。


502 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:10:11.46 xlUQQs3U0 478/888



「……ぅぐっ!?」

「あの海域で大規模な戦闘は発生していない筈だっ!! 出鱈目を抜かすなっ!!」


この若い陸軍将校は体躯も良く、中将よりも一回りも大きかったが、その身体が半分中空に浮く程、掴みかかった中将の腕力は強く、万力で締め上げられた様であった。


「ぐっ……! 本当です、中将閣下……!」


503 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:11:24.82 xlUQQs3U0 479/888



陸軍将校は戦慄した。

確かに自分よりも階級が高い上官に掴みかかられては、恐怖を覚えるのは至極当然である。

しかしそれを抜きにしても、只ならぬ中将の鬼気が、陸軍将校を唯々恐怖させた。

この小柄な初老の上官の何処にこんな力があるのか、陸軍将校は唯々畏怖していた。


504 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:12:18.48 xlUQQs3U0 480/888



「先日11日……! 対潜戦演習時……! マラッカ海峡沖……! 英国潜水艦の雷撃を受けて……!」


その恐怖から逃れる為、陸軍将校は己が知っている事実だけを端的に述べていった。


505 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:13:08.72 xlUQQs3U0 481/888



「そんなことが……! あって……! たまるか……!」


その残酷な現実を聞いた中将は、青褪めた表情を更に紺に染めた。


506 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:13:50.67 xlUQQs3U0 482/888



「そんなことが……あって……たまるか……」


その顔色は白く、もはや血は巡っていないぐらい蒼白であった。

それと同時に、陸軍将校の首根っこを掴んでいた中将の手から力が抜けた。


507 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:14:35.88 xlUQQs3U0 483/888



「コホッ……ガハッ……!」


陸軍中将は、咳き込みながらその拘束から逃れた。


「何をなさるのですかっ……!? 中将……閣下……?」


危うく意識を失いかけそうになり、思わず声を荒げた陸軍将校は、襟を正し、先程まで自分を締め上げていた中将に正対し、見据えた。


508 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:15:15.94 xlUQQs3U0 484/888



「……」


しかし、先程まで陸軍将校を掴んでいた中将。

その中将の姿に衝撃を受けた陸軍将校は、先程まで死にかけていた事さえも一瞬にして忘れてしまった。


509 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:16:31.23 xlUQQs3U0 485/888



「中将……閣下……」

「……」


その場で項垂れている今の中将の姿は、見るに堪えない程、痛々しい姿であったからだ。

陸軍将校の呼び掛けにも応じず、中将は暫くの間、咎人の様に首を垂れていた。


そうして不気味な程しんと静まり返る管理部長室には、沈黙と緊張の糸が走っていた。


510 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:17:48.09 xlUQQs3U0 486/888



「……」


暫くの沈黙の後、中将は陸軍将校に背を向けると、ふらつきながら、先程まで座っていた、所々にインク跡や書類が散乱する机へと向かう。

蹴り倒した自身の椅子を弱々しく引き起こし、骨が無くなった様にその椅子に腰かけると、窓の外へと視線を投げかけていた。


511 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:18:37.09 xlUQQs3U0 487/888



「すまな……かった……」


そして悲しみを押し殺した声で、陸軍将校に言葉を吐き、中将は謝罪した。


512 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:19:54.25 xlUQQs3U0 488/888



「いえ……私こそ……中将閣下が激高される程、軍艦・球磨が思い入れ深いモノであったとは知らずに……配慮に欠けた事を……」


陸軍将校は、先程掴まれた事が当然の結果である様に、中将の無念を共感しながら、自分の非を詫びた。


「いや、君は何も……悪くない……ただ……ただな……」


中将は陸軍将校に対して、更に言葉を探していたが、悲しみが中将の思考を邪魔しているせいか、それが口に出される事はなかった。


513 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:20:35.70 xlUQQs3U0 489/888



「すまないが……暫く、一人きりにさせてくれ……」


その言葉の後、中将は一切の口を閉ざし、唯窓の外へと目線を投げ捨てていた。


514 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:21:39.22 xlUQQs3U0 490/888



「承知致しました……失礼致します、中将閣下……」


逆鱗に触れてしまったという事よりも、中将の打ちひしがれた姿に胸を痛めた陸軍将校は、震える手で敬礼し、とぼとぼと、管理部長室を後にした。


515 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:22:34.12 xlUQQs3U0 491/888



 ……………………………… 


「……確かに、あの娘は後方任務とは言え、戦地の真っただ中に居る……無論、この瞬間は覚悟していた……だが……」


落日の陽が光を失い始め、透きとおる鮮やかな柿色の光が、管理部長室の窓から降り注ぐ。

そうして斜陽が誰を責める事無く、中将の居る部屋を照らしていた。


516 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:23:11.73 xlUQQs3U0 492/888




「約束はどうした……」


中将の膝には、ぽつりぽつりと、悲しみの雫が、滴り落ちていた。



517 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:23:53.54 xlUQQs3U0 493/888




「答え合わせはどうした……」


中将の瞳からは、弔いの涙が、人知れず静かに流れていた。



518 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:25:09.75 xlUQQs3U0 494/888




「親より先に死ぬ奴があるか……この親不孝者め……」


血の様に深い紅から、青褪めた様な紫、そして濃紺へと表情を変えていく、日没の刻。


中将は一刻ずつ姿を変える夕闇に、あの日見た「軍艦・球磨」の笑顔を、何度も何度も思い浮かべていた。



519 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:26:39.92 xlUQQs3U0 495/888



 ……………………………… 


『軍需管理部長――――海軍中将。充員召集解除(解雇)トス』


――――半年後、召集解除の通達が言い渡された中将は、儘、軍を去った。


中将は敗国の将ではあったものの、「海軍中将」というかなりの社会的地位が、その手には残っていた。

また、その地位相応の財産、食糧難ながらも食っていけるだけの財産が、その手には残っていた。


動乱の最中、公における成功を手にし、この時代における最良の形で、中将は退役した。

この戦時中、誰もが中将の事を羨ましく思ったであろう。


520 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:27:13.02 xlUQQs3U0 496/888




だが、軍需省時代に中将と最も親しかった陸軍将校は、退役時の中将の事を、後にこう語った。



521 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:27:50.60 xlUQQs3U0 497/888




――――その時の中将の顔。

――――それは紛れも無く「全てを喪った男の顔」であった、と。



522 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:31:39.71 xlUQQs3U0 498/888



 ……………………………… 


――――その後も戦争は続き、それは悲惨を極めた。


戦艦・武蔵、並びに扶桑、山城、金剛など、数多の艦艇を喪った、「レイテ沖海戦」における「日本艦隊の終焉」。

戦艦・大和、並びに矢矧、浜風、磯風、霞、朝霜を喪った「坊ノ岬沖海戦」。


国ひいては親兄弟を護る為、その先の平和への礎に自らならんとし、自ら望んで兵器として組み込まれた「特攻」。

「硫黄島」「本土大空襲」「沖縄戦」、軍人はおろか民間人さえも巻き込んだ「本土決戦」。


523 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:32:59.38 xlUQQs3U0 499/888




戦争を終わらせる為の大義名分か、一種の民族浄化か、それとも科学者の好奇心故の罪の産物か。

人類史における、ありとあらゆる人間の業と言う業を集約し、広島・長崎へと投下された「原子爆弾」。



524 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:34:30.85 xlUQQs3U0 500/888



どれも「倫理観」という言葉の意味を根底から覆し、癒えぬ傷痕として深々と歴史書に刻まれた、一つの時代の濁流であった。


――――そして歴史書に綴られた、この戦争における、その後の顛末はこうである。


525 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:35:43.50 xlUQQs3U0 501/888



――――1945年8月15日。


昭和天皇による『大東亜戦争終結ノ詔書』の音読放送、通称『玉音放送』が全国民に向けて放送され、日本の降伏が国民へと公表される。


――――1945年9月2日。


「米戦艦・ミズーリ」にて、『降伏文書』に正式調印。

連合国軍最高司令部(GHQ)の占領時代が始まる。


526 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:36:23.11 xlUQQs3U0 502/888



――――その歴史舞台の表。


日本の過去を裁く為、様々な「正義」があった。


――――その歴史舞台の裏。


日本の未来を護る為、様々な「戦い」があった。


527 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:37:57.90 xlUQQs3U0 503/888



――――それから6年後、1951年9月8日。


『サンフランシスコ講和会議』にて、『平和条約』及び『旧日米安保条約』への署名。


――――1952年4月28日。


先の『サンフランシスコ講和会議』にて署名された、『平和条約』及び『旧日米安保条約』の発効。

連合国軍最高司令部(GHQ)占領時代の終焉。


これにより日本の主権が回復する。


528 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:38:55.84 xlUQQs3U0 504/888




――――そうして一つの時代の戦争が、幕を閉じたのであった。



529 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:40:24.24 xlUQQs3U0 505/888




 ……………………………… 
 ……………………………… 



530 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:41:59.34 xlUQQs3U0 506/888



『昨晩のアメリカ航空宇宙局、NASAの発表によりますと、3日に行われたアポロ9号地球周回飛行のミッション成功の結果に伴い、予定通り5月には、アポロ10号の月周回飛行。7月には、満を持してアポロ11号の月面着陸を予定して……』


「……」


531 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:43:36.64 xlUQQs3U0 507/888



――懐かしい夢を見た。


中将は、ラジオから漏れていた報道の音で目を覚ました。

中将は退役後、独り東京の郊外で余生を過ごしていた。


532 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:44:24.99 xlUQQs3U0 508/888



「……球磨」


中将は懐かしい夢を見た。

戦前、自身が艦長を務め、戦時中に度々言葉を交わした、あの娘の夢。


そう、一時たりとも忘れ得なかった、「軍艦・球磨」の夢を見ていた。


533 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:46:30.29 xlUQQs3U0 509/888



「結局……答え合わせが出来なかったな」


ふいと、自身の頬に手を触れてみると、涙がすぅと伝っていたのが分かる。


「貴様と約束した通り……私はちゃんと答えを見つけておいた」


中将は、一つ悲しみを吐き捨て、誰に語る訳でも無く口を開き、果たされなかった約束の答えを口にした。


534 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:49:44.68 xlUQQs3U0 510/888




「確かに戦争には負けたが、私やこの国の者たちはこうして生きている……戦争を否定する者も当然多く居たが、それでも戦った者たちの想いを継ぐ者が現れた。この国の未来を護る為、占領を背負い、全能の権威を持って横暴を振う連合国軍最高司令部(GHQ)と必死に戦った男が居た。いや……敵であろう筈のGHQの人間にだって、日本を愛し、その未来を憂い、陛下をお救いした男が居た」


そう呟きながら、中将は杖を突き、思う様に言う事を聞かなくなった脚を引き摺りながら歩き、扉を開けて、自宅の庭へと出る。



535 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:51:46.89 xlUQQs3U0 511/888



「私たちやあの娘の想いは、形は違えど、今でも立派に後世に引き継がれてる……それだけで、私は満足だ。もう未練はない」


しかし、その中将が呟いた言葉。

その言葉とは裏腹に浮かべた表情には、一つの後悔の念を孕んでいた。


536 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:52:36.33 xlUQQs3U0 512/888



「いや、だが……私の心残りは……ただ……」


中将は庭に備え付けられた椅子に座ると、静かに蒼空を見据えた。


その蒼空は、水平線の果てまで続くであろう、暗雲一つない群青であった。

温かな陸風が、優しく中将の元へと吹き込んでいた。


537 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:53:07.05 xlUQQs3U0 513/888




――そして中将は、吹き行く陸風に心情を語った――。



538 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:54:29.42 xlUQQs3U0 514/888



「ただ……あの娘に『さようなら』と言いたかった……私たちには、さようならを言う機会さえ無かった」


一面に広がる大空が私を包み込んでいる。

まるであの日、初めてあの娘と言葉を交わしたあの日。


539 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:55:11.44 xlUQQs3U0 515/888



「せめて、最後にもう一度だけ傍に居て、話をしたかった……あの娘の声色を聴いていたかった」


そして短い間だが、一緒に駆け抜けた、あの激動の時代の海原の様だ。


540 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:56:23.13 xlUQQs3U0 516/888



「もう少し、あの娘と一緒にこの時代を生きたかった……あの娘はこの現代の様子を見て、一体何を思うだろうか」


あの時のあの娘は、私たちの想いを乗せ、凛とした姿で勇敢に海原を進んで行った。


541 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:58:00.38 xlUQQs3U0 517/888




「だが、それでも……それでも私は、あの娘に私自身の想いを託して、あの娘と共に戦う事が出来た事……あの娘と共に過ごせた事……それだけで、私が生きた意味は十分にあった……十分に、価値があったんだよ……」


涙で揺らぐ太陽。

あの太陽、あの娘と過ごした輝かしいあの日々は、あの太陽の様に眩かった。

軍艦・球磨の艦長を務め、共に激動の時代を駆け抜けたあの日々は、今でも誉に思う。



542 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:59:05.83 xlUQQs3U0 518/888



「……25年か……随分、長い事待たせてしまったな……」


そして、あの娘との思い出、その清らかな愛情の記憶を胸に、私は空へと還れる。


543 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 00:59:37.78 xlUQQs3U0 519/888



「私は答えを見つけた」


もう一度、あの娘に会える。


544 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:00:17.29 xlUQQs3U0 520/888



「今からそっちに行くよ、球磨」


そして再会したらこう言ってやる。


545 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:00:46.74 xlUQQs3U0 521/888




――この親不孝者、と――。



546 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:01:48.00 xlUQQs3U0 522/888




瑠璃色に彩ったこの蒼空の海の向こうに、きっとあの娘が居る。

中将はそれだけを信じ、静かに、唯眠る様に静かに、軍艦・球磨の夢の続きを見ながら、その生涯に幕を下ろした。



547 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:02:59.57 xlUQQs3U0 523/888




 ……………………………… 
 ……………………………… 



548 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:03:40.93 xlUQQs3U0 524/888




――この深い水底から、球磨はもうずっと答えを求め続けていた。



549 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:05:04.91 xlUQQs3U0 525/888



軍艦・球磨は、何かを掴みたくて手を伸ばそうとする。

沈み行く意識に抗い、この深い海底から必死に手を伸ばした。

澱み、蝕み、そして儚く散っていく意識に負けない様に、軍艦・球磨は想いを繋ぎとめていた。


550 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:05:56.63 xlUQQs3U0 526/888



沈められた敵に対しての憎しみからではない。

「答えを得たい」と言う、その想いから。


551 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:07:01.66 xlUQQs3U0 527/888




――――この戦いに、この想いに、自分やあの人が生きた意味に、どれだけの価値があったかを。



552 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:07:37.80 xlUQQs3U0 528/888



その答えを得る為に。

提督との約束を果たす為に。

軍艦・球磨は答えを求め続けた。


553 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:08:06.15 xlUQQs3U0 529/888




しかし軍艦・球磨には、その最後の願いすら許されなかった。



554 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:08:50.24 xlUQQs3U0 530/888




 ……………………………… 
 ……………………………… 



555 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:09:28.07 xlUQQs3U0 531/888




――私は……何年、何十年、此処で過ごしたのだろうか。



556 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:10:45.40 xlUQQs3U0 532/888



軍艦・球磨は何時しか、答えを得るのを諦めていた。

軍艦・球磨は、そう心変わりする程の時間。

余りにも長い時間を、独りこの海底で過ごした。


557 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:11:28.82 xlUQQs3U0 533/888



それでも軍艦・球磨は、この閉ざした世界で、在りし日の提督や共に戦った人達と過ごした、あの輝かしい日々の夢の続きを見ていた。

何時までも忘れない様に、消えない様に、失わない様に、必死に記憶を心へと手繰り寄せ、必死にかき集めた。


558 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:12:08.97 xlUQQs3U0 534/888




――私に想いを託してくれた、提督の想い。

――私と運命を共にした、あの人達の想い。



559 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:13:14.47 xlUQQs3U0 535/888



それだけが、軍艦・球磨の慰めだった。

それだけが、軍艦・球磨の心の在り処だった。


想いを馳せた、遠い遠いあの日々。


それだけが、軍艦・球磨の全てを優しく受け入れてくれた。

それだけが、軍艦・球磨の脆弱な心を優しく満たしてくれた。


560 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:14:33.33 xlUQQs3U0 536/888




――提督。



561 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:15:17.92 xlUQQs3U0 537/888



そしてそれでもなお、暗く透明な揺り籠に抱かれながら、軍艦・球磨はいつも夢見ていた。

軍艦・球磨は、在りし日の提督に貰った軍帽を抱き、ずっと待ち続けた。

いつか答えを抱いて、提督の元へとゆける日が来る事を。


562 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:16:21.65 xlUQQs3U0 538/888




――でも……独りは寂しいよ……。

――でも……独りは切ないよ……。



563 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:16:49.32 xlUQQs3U0 539/888




軍艦・球磨は孤独に抗えず、独りずっと泣いていた。



564 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:17:28.52 xlUQQs3U0 540/888




――軍艦・球磨は静かに語った――。



565 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:17:55.68 xlUQQs3U0 541/888



提督。

お前はまだ、この世界の何処かに居るのだろうか。


566 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:18:35.00 xlUQQs3U0 542/888



あの日、お前にそっと撫でられた、あの温もりが忘れられない。

お前やあの人達が私に託してくれた、あの熱い想いが忘れられない。


567 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:19:07.64 xlUQQs3U0 543/888




提督、私は此処に居るよ。



568 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:19:36.11 xlUQQs3U0 544/888



光さえも届かない。

誰も来る事がない、悠久なる深淵の闇。


569 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:20:03.01 xlUQQs3U0 545/888




――この深海の淵に、私は居る――。



570 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:20:37.48 xlUQQs3U0 546/888




 ……………………………… 
 ……………………………… 



571 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:22:26.30 xlUQQs3U0 547/888



『おい……さっさと引き揚げようぜ……最近は軍の連中が煩くて……』

『馬鹿野郎っ! お上が怖くて、サルベージ業者が勤まるかよ!!』


ふと、軍艦・球磨は何かに身体を引きちぎられる感覚を覚えた。

魚に啄まれる様に、軍艦・球磨の身体は、徐々に感覚を失う。


――誰かが、私の身体を引き千切っている。


572 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:23:36.22 xlUQQs3U0 548/888



『あ……? なんだ、この船は? 露助の船か?』


――露助?


『大方、大戦時にJepun(ジュプン)の軍人にでもやられたんじゃないか?』


――Jepun(ジュプン)?


573 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:24:14.07 xlUQQs3U0 549/888




――大日本帝国……?



574 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:25:16.36 xlUQQs3U0 550/888



そう男達が話している間にも、軍艦・球磨の身体は、肉塊へと変わり、肉魂が鋼鉄へと変わり、やがて鋼鉄が鉄屑へと変わる。


『この鉄屑で1トンあたり600リンギット(2万円)か……チッ……シケてんなぁ、おい』


そうして軍艦・球磨は、身体の感覚を失った。


575 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:26:26.58 xlUQQs3U0 551/888




――軍艦・球磨は穏やかに心の中で語った――。



576 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:26:59.23 xlUQQs3U0 552/888



ああ、そうか。

これが私の「最期」か。


577 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:27:38.06 xlUQQs3U0 553/888



我ながら惨めだ。

でも、全てのモノは等しく形を変える。

変わらないモノなんて、この世に存在しない。


578 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:28:07.64 xlUQQs3U0 554/888




なら、あるがまま受け入れるだけだろう。



579 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:29:38.20 xlUQQs3U0 555/888



それに、私は待つのに疲れた。

私はもう何十年も待ち続けた。


結局私は、あれだけの強言を吐いておきながら、「答え」を見つけられなかった。

でも向こうでお前に「答え」を聞いても、お前なら流石に笑って許してくれるだろう。


580 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:30:06.36 xlUQQs3U0 556/888




――もう、いいか――。



581 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:30:54.22 xlUQQs3U0 557/888




軍艦・球磨は静かに意識を落とそうとした。



582 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:32:02.26 xlUQQs3U0 558/888




『それにしても、くだらねぇよなぁ。「戦争」なんて殺したがりの馬鹿がやる事った』


――――しかし、一人の違法サルベージ業者の男が発したその言葉が、軍艦・球磨の意識を強く目覚めさせた。



583 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:32:49.44 xlUQQs3U0 559/888



――今何て言った?

――くだらないだと?

――馬鹿だと?


584 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:33:46.33 xlUQQs3U0 560/888



『あー。実は俺さ、何年か前にJepun(ジュプン)に行った事があるんだ』

『マジかっ!? どうだったよ?』


そして男達は、話を続けた。


585 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:35:37.16 xlUQQs3U0 561/888



『あの国は平和かもしれんが、あの国の連中は鳥籠の鳥と同じさ。自分だけの周りを見て、それを世界の全てだと信じ、その外側や過去を見ようともしねぇ。本当、滑稽ったらありゃしねえよ!』

『おいおいっ! そりゃあマジかよ! 病んでるってレベルじゃねえなあ』


その話は、誰かを護る為に戦った軍艦・球磨にとって、耳を塞ぎたくなる、決して聞きたくなかったであろう話。


『その時会った日本のガキなんて、ゲームで大戦時の自分の国の兵士を殺してもヘラヘラ笑っているんだぜ? どういう脳みそしてんだよ、あの国のガキはっ!』


現代日本の血も涙も無い大衆論であった。


586 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:37:36.13 xlUQQs3U0 562/888



『笑っちまうのわさ、だってあの国、軍部の人間に無理やり戦わされたとか、侵略戦争とかほざいて、その戦争を腫物の様に扱って、まるで見向きもしねえ』

『へぇー』


男達は、下賤な出で立ちで、クスクスと冷笑した。


『時々、街に蔓延っている政治団体だ、政治家だが言及してはいたが、結局はてめえらの私腹を肥やしたいだけじゃねえのかよ! 脳みそ空っぽで否定している方が、儲かるもんな、御為ごかしめ!』

『ははっ! 違ぇねえな、おい!』


男達は、下衆な笑みで、ヘラヘラとニヤけた。


587 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:38:13.85 xlUQQs3U0 563/888



『本当、馬鹿な奴らだよ』


男達は、下卑た響きで、ゲラゲラと嘲笑った。

そしてある男が、やれやれと両手を広げ、嘲りの顔を浮かべて言い切った。


588 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:38:49.80 xlUQQs3U0 564/888




『結局あの国の人間は、そんな昔の事なんて、過去の軍人が馬鹿やった程度にしか思っちゃいないのさ』



589 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:39:39.35 xlUQQs3U0 565/888




――――その身が没してもなお、世界の悪意に曝される軍艦・球磨。



590 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:40:12.97 xlUQQs3U0 566/888




――軍艦・球磨は黒くのたうち回る感情を心の中で言葉に変え、叫んだ――。



591 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:40:57.13 xlUQQs3U0 567/888



なんだこれは。

あの人達が必死になって護ろうとした、対価がこれか?

あの人達が必死になって護ろうとした、結果がこれか?


592 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:41:32.95 xlUQQs3U0 568/888



あの人達が必死になって護ろうとした事が、くだらないだと?

そんなにあの人達の想いが可笑しい事なのか?


あの人達が護ろうとした世界。


593 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:42:06.53 xlUQQs3U0 569/888




――あの人達が必死になって護ろうとした、その想いはどうなった――。



594 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:43:50.97 xlUQQs3U0 570/888




軍艦・球磨の心に、ある感情が芽生え、どす黒く支配した。

軍艦・球磨は衝動の儘、その感情を、想いを、心を形造り、そして黄泉の国から蘇った。



595 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:44:43.05 xlUQQs3U0 571/888



『うわっ!? 何だコイツはっ!?』


黄泉比良坂でイザナミの想いを否定して逃げたイザナギを殺す為に。

イザナミはこれから毎日、貴方の治める国の1000人の人間の首を絞め殺してやると言った。

するとイザナギは、お前がそう言うならば、私は一日に1500人産ませようと言った。


596 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:46:12.79 xlUQQs3U0 572/888



『銃が全く効かねえ……!!』


――1500人も殺す必要はない。

――1000人殺せれば十分だ。


『やめろっ……!! こっちに来るな、化け物め……!!』


597 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:46:43.09 xlUQQs3U0 573/888




――軍艦・球磨は慟哭し、憎しみを混じえながら狼煙を上げ、心の中で謳った――。



598 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:47:25.31 xlUQQs3U0 574/888




『人ノ想イヲ……!! 平気デ踏ミ躙ル……!! 人デナシ共メ……!!』


これは人間達に対する虐殺でも、ましてや駆逐などと言う、そんなツマらない事ではない。



599 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:48:08.41 xlUQQs3U0 575/888




『深海ヘ……沈メ……!!』


あの時代を否定した者達への、あの人達の想いを否定した者達への、あの人達の心を嘲笑った者達への復讐。

私の存在理由を、生きる意味を否定した者達への復讐。



600 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:48:36.18 xlUQQs3U0 576/888




――血も涙も温かみも優しさも無い、冷徹無慈悲なこの世界に対しての「戦い」だ――。



601 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:49:13.54 xlUQQs3U0 577/888




 ……………………………… 
 ……………………………… 



602 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:50:09.73 xlUQQs3U0 578/888




この瞬間、世界は分岐した。

この瞬間、「深海棲艦」は生まれた。



603 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:51:00.57 xlUQQs3U0 579/888




――――そして、暫くして、「艦娘」が生まれた。



604 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:52:18.13 xlUQQs3U0 580/888




 ……………………………… 
 ……………………………… 



605 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 01:53:32.69 xlUQQs3U0 581/888



「……畜生っ!! ふざけるなっ!!」


――僕はそこで飛び起き、頭が割れそうな程の怒りと悲しみを抱えながら、悟った。


「なぁ、神さまよ……こんな……こんな酷い話が……あってたまるかっ!!」


――そう、これは……。


610 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:18:34.73 xlUQQs3U0 582/888



 ……………………………… 


――――0200、国防海軍警備施設、執務室。


「……」


寒冬とは思えない程、海は物静かな風と波を立てていた。

仮眠から飛び起きた提督は、執務机に座り、窓の外に映る、月明かり照らす静寂の海原を見つめながら、先程よりも幾分か熱が冷めた頭で、静かに考えを巡らせていた。

先刻、木曾たちに起こった事実と提督の脳裏に断片化していた夢の記憶を、ジグソーパズルを組み立てる様に一つ一つ摘み上げて、提督は頭の中で組み立てていた。


611 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:19:22.88 xlUQQs3U0 583/888



――――軍艦・球磨。

――――在りし日の提督。

――――二度目の大戦。

――――想いと約束。

――――深海棲艦。


そして提督は、一通り組み上げた綴織(タペストリー)の最後の断片が揃うのを、静かに待っていた。


612 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:20:15.21 xlUQQs3U0 584/888



暫くの後、コンコンコン、と執務室の扉が3度の均等静謐な物音を立てた。


「……どうぞ」


そして提督の促しの声に反応し、執務室の扉が開かれる。


613 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:20:58.28 xlUQQs3U0 585/888




「……提督、入るクマ」



614 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:21:34.99 xlUQQs3U0 586/888



「……球磨」


――――艦娘・球磨。


提督が待ち望んでいた最後のピースを持った少女が、凛とした表情の儘、執務室へと舞い降りた。

球磨は落ち着いた足取りで、提督が座っている執務机の前まで歩み寄った。


615 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:22:45.23 xlUQQs3U0 587/888



「……木曾は大丈夫なのかい?」


その球磨に対して提督は、心配げに口を開いた。


「……泣き疲れて部屋で眠っているクマ。今は一人にならない様に多摩と北上と大井が、木曾と一緒に居るクマ」

「そっか……それなら安心だね」


安堵の溜息を吐いた提督に重ねる様に球磨は、静かな吐息を一つ洩らすと、もの柔らかな表情で更に言葉を紡いだ。


616 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:23:56.48 xlUQQs3U0 588/888



「それにしても……帰投した妹たちの出迎えに出て行ってみたら、突然、木曾に抱き付かれて、それでワンワンと泣くんだから、本当にびっくりしたクマ。あんなに泣いている木曾を見たのは久しぶりだクマ」

「……相当ショックだったみたいだね」


その提督の言葉に球磨は、凛とした鳶色の目を提督に投げかけ、現状を告げる。


617 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:24:43.80 xlUQQs3U0 589/888



「……話は北上から全部聞いたクマ」

「……僕も多摩から聞いたよ」


提督はそれに答える様に、熱の籠った視線を球磨に投げかけ、現状を告げた。


「艦娘・球磨」という存在における、もう一人の存在。

問題の中心に居たのは、「深海棲艦」になったもう一人の自分、「軍艦・球磨」の存在であった。


618 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:26:15.52 xlUQQs3U0 590/888



「球磨は彼女の事をどう思う?」

「流石にこの球磨も驚きだクマ」

「そう言う割には随分と落ち着いている様に見えるけど……」


球磨は静かな笑みを浮かべる。

だが、その笑みには何処か悲哀が満ちていた。


619 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:27:15.97 xlUQQs3U0 591/888



「……世界は不思議で溢れているクマ。それに一時期は沈んだ艦娘が深海棲艦になるって話もあったくらいだクマ。今更、球磨と同じ存在が居たとしても納得できるクマ」

「……でも、このままって訳にはいかないよね」

「……その通りだクマー。はてさて、どうするべきクマか」


頭を抱え、むむぅ、と考え込む球磨。


620 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:28:53.38 xlUQQs3U0 592/888



「……球磨」

「なんだクマー?」

「休憩時間中に、僕が尋ねた事を覚えてる?」


その球磨に対して提督は、最後の欠片を揃える事を決意し、神妙な面持ちで球磨に言葉を投げかけた。


621 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:29:36.28 xlUQQs3U0 593/888



「クマー? 確か……『軍艦の時の記憶を覚えているか』って話だったクマかー?」

「そう。それなんだけどさ……僕が何でそんな話をしたかって言うとね……」


622 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:30:20.33 xlUQQs3U0 594/888




――――そして提督は、今まで見た夢の事、「軍艦・球磨」と「在りし日の提督」の全てを、球磨へと告げた。



623 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:31:24.03 xlUQQs3U0 595/888



最初は「そんな悠長に夢の話をしている場合か」と言う表情を浮かべていた球磨であった。

しかし、提督の神妙な顔つきと話が進む事に相まって、次第にその表情は真摯なものへと変わっていく。


そして提督が話終える頃には、己が運命と向かい合う様な諦観した表情で球磨は、提督の夢物語を傾聴していた。


624 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:32:30.95 xlUQQs3U0 596/888



「……これで僕の話は終わりだよ」

「……」

「……球磨?」


提督が見た夢の全てを艦娘・球磨に啓示し終えると、球磨は俯き、そうして静かに口を開いた。


625 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:33:42.10 xlUQQs3U0 597/888



「……何で球磨は、今までそんな大切な約束を忘れていたクマか……」

「それじゃあ、僕が見た夢は全部……」

「……確かに、提督が話すその『在りし日の提督』とは、約束を交わした記憶があるクマ」


球磨は顔を上げ、提督を見据え、細く澄んだ声で告白した。


626 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:35:13.95 xlUQQs3U0 598/888



「それに……提督の話を聞いて、もう一つ分かった事があるクマ」

「分かった事?」

「球磨がもう一人の自分に相対した時に感じていた、名状しがたい感情の正体……」


そして不安と孤独感を抱いた表情を浮かべながら、球磨は己を慰める様に自分自身を優しく抱き締めた。


627 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:35:56.36 xlUQQs3U0 599/888




「何てことはない、ただの自己否定の感情だったクマ」


優しく諭す様な口調で球磨は、自身自身へと言葉を投げかけていた。



628 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:37:03.11 xlUQQs3U0 600/888



「球磨……」


提督は静かに執務机から立ち上がると、球磨の目の前まで優しげに歩み寄り、月明の様な眼差しで、球磨を見据えた。

球磨は上目遣いで提督を見つめると、もたれかかる様に提督へと寄り添った。

そうして提督は、凍て付いた少女の不安を溶かす為、唯静かに、少女の悲しみを受け止めていた。


629 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:38:24.74 xlUQQs3U0 601/888



 ……………………………… 


「……提督、艤装の修理はもう終わっているクマか?」


暫くの後、提督の腕から離れた球磨は、再び提督に視線を投げかけた。

球磨が先程まで浮かべていた不安の色は、春に小雪を溶かした様に何処かへと消えていた。


「えっ? 少し前に修理は終わっているけど……」

「良いタイミングだクマ」

「……良いタイミングって……まさか球磨、君は……!」


提督は何線もの緊張が走った表情で、球磨の目を見据えた。


630 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:38:57.84 xlUQQs3U0 602/888




「もう一度、アイツに会いに行くクマ」


――――そう言った球磨の鳶色に光る目に、迷いは無かった。



631 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:40:19.33 xlUQQs3U0 603/888



「だけど、それはあまりにも急じゃないかな……朝まで待ってからじゃ……」

「それじゃ遅すぎるクマ。アイツは恐らく、今も球磨の事を待っているクマ」

「そうだけどさ……」

「……駄目……クマか?」

「……僕だって出来る事なら直ぐにでも許可を出したいよ……でも……軍規として、姫級の彼女にこちらから戦闘行動を起こすとなると、まずはこの基地の上級単位である鎮守府に許可を取らなきゃいけないし……」


632 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:41:10.23 xlUQQs3U0 604/888



提督は、畜生と唇を噛み締め、球磨に対して口を開いた。

そう、今の提督は司令官としての責務と自分の感情との間で板挟みとなっていた。

その提督の表情は、我慢出来ない、腹立たしい、もどかしいと言わんばかりであった。


633 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:42:13.34 xlUQQs3U0 605/888



「提督」


その提督に対して艦娘・球磨は、懇願を含んだ柔らかな表情を浮かべる。


「提督は、人が生きている内で一番長く関わりを持つであろう人物は誰だと思うクマ?」


そうして気高く凛とした声色で、その唇に想いを乗せ、提督に尋ねた。


634 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:42:50.30 xlUQQs3U0 606/888



「誰って……それは……」


提督は球磨のその質問に、親兄弟や友人、或いは上官の顔を浮かべた。


635 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:43:32.91 xlUQQs3U0 607/888



「いや違う……」


しかし彼らは、絶対的な答えではなかった。

何故なら、それよりも長く、生まれてから死ぬまでの間、ずっと付き合う事になる存在が居るからだ。


636 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:44:03.50 xlUQQs3U0 608/888




「……自分自身だ」


球磨の意図を察した提督は、静かな口調で答えを告げた。



637 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:44:36.63 xlUQQs3U0 609/888



「その通りだクマ」


そして球磨は、柔らかな頬笑みと鳶色に光る目を提督へと投げかけ、自身の想いを告げた。


638 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:45:41.23 xlUQQs3U0 610/888





「面倒みた相手には、いつまでも責任があるクマ」




639 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:49:35.16 xlUQQs3U0 611/888



 ……………………………… 


――――0340、日本国近海航路、海上警備ルート、地点A。


夜空一面に氷を砕いた様に広がる星々の光が、漆塗りの冬の海面に降り注いでいた。

夜凪の中、聞こえて来たのは、波の音と一艇の小型艇が滾々と轟かせるモーター音だけだった。


「まさか提督が哨戒艇の操縦まで出来るとは驚きだクマ! 提督って実は球磨と同じく、意外と優秀クマかー?」

「……海軍に居ればそれぐらい嫌でも叩き込まれるよ。正直、あまり得意じゃないけどね。複合艇の方が使い慣れているけど、流石に複合艇で近海まで出るのは無茶だし。それに大型艦の操縦は、職種が違う僕には絶対無理だよ。あんな大きな艦艇を動かせる人達は本当に凄いと思う」


操舵室の窓から精悍な表情で航路を見据え、時折GPSマップと航海計器を一瞥しながら舵を握る提督。

そしてその隣で、艤装を背中と脚に携え、きゃあきゃあと歳相応の笑顔ではしゃぐ艦娘・球磨。


640 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:51:55.81 xlUQQs3U0 612/888



「それにしても、基地の皆が何も聞かずに哨戒艇を貸してくれたのはびっくりしたクマー」

「……最初は何人か絞めてから、こっそり哨戒艇を奪うつもりだったんだけど……それで執務室の扉を開けてみたら、本当びっくりしたよ……だって基地内の皆が、音も無く扉の前で待ち構えていたんだからね。あの時は取っ組み合いになるかと思って腹を括ったけど、まさか上にも黙って艦艇を貸してくれるなんて……」

「基地の皆は、帰投した木曾の急変具合を見てたクマ。だから皆、色々と思う所があった筈だクマ」

「……そうだね」


二人は警備基地に停泊する、お守り程度にしか役に立たない12.7ミリ機銃を積んだ高速哨戒艇で、静寂が降りた凍て付く海原を進んで行った。

寒月が天高く照らす月の道を、その一艇の艦艇は進んで行った。


641 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:54:27.99 xlUQQs3U0 613/888



「でも、正直言って近海なら提督直々に哨戒艇を出す必要はなかったクマ」

「……それもそうだけど、居ても経ってもいられなくてね。それに、こうすれば球磨の艤装の燃料も、多少なりとも浮くだろうし」

「その提督の気持ちだけでも十二分に嬉しいクマ。ありがとうクマ」

「……これぐらいしか僕に出来る事はないからね」


提督は手慣れた様子で、自分達の行動を他の誰にも悟られない様に注意深く、電探(レーダー)の電波範囲を広げていく。


642 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:55:45.30 xlUQQs3U0 614/888



「それにしても……不思議なくらい、深海棲艦の姿が無いね……」

「恐らくは、アイツの仕業クマー」


しかし黒々と光る電探には、本艇と漂流物か何かの反応以外、まるで世界には自分たちの他に誰も居ない様に、反応が返ってこなかった。


643 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:56:55.32 xlUQQs3U0 615/888



 ……………………………… 


――――0400、日本国近海航路、海上警備ルート、地点C。


「球磨、やっと電探に反応があったよ。数は……2……いや、1だね。ここから20海里(マイル)南西に行った地点」


暫く哨戒艇を沖合へと走らせていた提督は、電探に小さく光る、弧影の反応を見据えた。


644 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 18:58:08.62 xlUQQs3U0 616/888



「以前、球磨たちが戦った場所だ……恐らくは、彼女だろうね」

「なら、この辺りでいいクマ」

「分かったよ」


その球磨の言葉に提督は、哨戒艇を減速させる。

そして船速計の針がゼロになったのを確認し、哨戒艇の機関を停止させた。


辺り一面には波の音と静寂だけが残った。


645 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:00:02.31 xlUQQs3U0 617/888



制帽を被り直した提督は、常装冬服の上に整然と着込んだ幹部外套を夜風にはためかせながら、操舵室の外、艇尾甲板へと静かに躍り出る。

そして白息を凍らしながら、一面をぐるりと見渡してみた。


南の空では、涙ぐむ蒼い目玉を抱いた小犬座が、亡き主の帰りを待ち、夜空を思い惑っていた。

また反対側の北の空では、大熊・小熊座の親子が、毎晩休む事もせず、夜空を駆け抜けていた。


そして哨戒艇の電燈と降り注ぐ月光と星彩以外、辺り一面に光は無く、遠くを見渡してみると、水平線の先が黒く沈んでいた。

それを見た提督は、視界がぐらつき、思わず身震いし、考えたくもない考えが脳裏を過ぎった。


646 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:01:08.54 xlUQQs3U0 618/888




――この娘がこの先、進んで行くであろうこの海闇。

――その実、端っこは崖になっていて、この娘がこのまま進んで行ったら落っこちてしまうのではないか。



647 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:03:09.91 xlUQQs3U0 619/888



「……提督、どうかしたクマ?」


同じく艇尾に降りた艦娘・球磨は、淑やかに白銀の息を凍らせながら、提督へと声を掛けた。


「……いや、なんでもないよ」

「……そっか」


提督は胸騒ぎの念を無理やり押しのけて、球磨に言葉を返した。

球磨は、提督が立ち竦んでいる横を通り抜け、哨戒艇の縁へと腰を下ろした。


648 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:04:26.70 xlUQQs3U0 620/888



「さて……アイツの元に行く前に、艤装の具合でも確かめるクマか」


球磨の凛と響くその声色で、提督の胸騒ぎが幾分か和らいだ気がした。

そして落ちたら二度と戻って来られない様な漆黒を孕んだ海原へと、球磨の小柄で華奢な身体は、何の躊躇も無く、水飛沫を立てて降り立った。


649 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:06:11.51 xlUQQs3U0 621/888



「スクリュー……シャフト……主舵……艦本式タービンの出力設定は……よし、注文通りの仕上がりだクマ」


その場で、一回、二回、くるくると回転し、水飛沫を上げながら艤装の具合を確かめる球磨。

月下の明かりに反射して、サラサラと煌めく水滴を纏わり付かせる球磨のその姿は、無邪気にきゃあきゃあと水遊びをする少女の様にも、海原をひとりぼっちで踊っている少女の様にも見えた。


「魚雷発射管……副砲……主砲……問題なし……良い感じだクマ」


そして、キラキラと煌めく水滴を纏わり付かせながら、ぽつりぽつりと透きとおった声色を響かせる球磨の姿は、呪文を唱え、世界に魔法をかけようとする少女の様にも見えた。


650 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:06:48.38 xlUQQs3U0 622/888



その球磨の姿を哨戒艇の上から見ていた提督は、ふと思った。


――その魔法は、一体、誰が為に。


651 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:07:44.66 xlUQQs3U0 623/888




時代の波浪。

世界の無常。

少女の無垢な横顔は、その揺らぎの中、静かに輝いていた。



652 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:10:40.43 xlUQQs3U0 624/888



 ……………………………… 


「……よし、問題ないクマ!」


全ての艤装の点検を終えた艦娘・球磨は、無垢な頬笑みを哨戒艇の上に居る提督に投げかける。

提督は、その月明かりに映る球磨の表情を捉えた。


653 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:11:14.53 xlUQQs3U0 625/888



「じゃあ、そろそろ行くクマ」


その球磨の表情を見た瞬間、提督は先程押し退けた筈の胸騒ぎの念を強く呼び覚ました。


654 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:12:29.82 xlUQQs3U0 626/888



提督を一瞥した球磨の瞳。

それは先程、球磨が執務室で見せた「不安」とはまた別の色を孕んでいた。


――――それは過去の自分と真正面から向き合わなければならないと言う「怖さ」の色であった。


655 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:13:33.29 xlUQQs3U0 627/888




――この儘、この娘を行かせてはいけない。



656 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:14:32.42 xlUQQs3U0 628/888



「待ってくれ、球磨」

「……提督?」


心の中でそう叫んだ提督は、意を決した様に言葉を投げかけ、球磨のその「怖さ」の色を孕んだ鳶色の目を見据えた。


657 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:15:14.67 xlUQQs3U0 629/888



「行く前に言っておきたい事があるんだ」


提督は被っていた制帽を脱ぎ、凍て付いた空気を目いっぱい吸い込み、そして吐き出した後に、球磨へと言葉を紡いた。


658 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:17:00.43 xlUQQs3U0 630/888



「前に球磨は……『何で未だに軍人をやっているのか』って僕に尋ねたよね。その話なんだけどさ……」


そうして提督は、諦観した表情を浮かべ。


659 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:17:47.47 xlUQQs3U0 631/888




「実はね、僕は軍人になるつもりなんて全く無かったんだ」


――――その表情の儘、提督は更に言葉を投げかけた。



660 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:19:01.97 xlUQQs3U0 632/888



「……提督」

「……だけど人生って儘ならないよね……僕も当時は他にやりたい事が沢山あったけど、気が付くと僕は、流れのまま軍人になっていた。そして不思議な事に神さまが僕に与えてくれたのは、一等海佐(大佐)って言う地位と、それを可能にする能力だけだった。だから僕は、それを生かそうと決めたんだ」


そうした提督の表情には、どこか後悔と懺悔の念が含まれていた。


661 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:20:00.30 xlUQQs3U0 633/888



「でもね、球磨。僕は此処に来てやっと、僕が軍人になった本当の理由が、ようやく分かった気がするんだ……無力な僕は、この瞬間の為に……君に僕の想いを託すこの時の為に、此処に居るんだと思う」


しかし、そうした表情を含んだ提督の目に迷いは無く。


662 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:20:47.34 xlUQQs3U0 634/888




「僕はね、球磨。僕は本当に何かを成し遂げる為に、軍人になったんだと思う。誰かを護り、そして誰かを本当に救う為に、軍人になったんだと思う」


――――自分自身の清らかな想い、己が「生きる意味」を球磨へと宣言した。



663 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:22:33.70 xlUQQs3U0 635/888



「人生は辛く、苦しい……いっそ心が壊れてしまった方が、死んでしまった方が、どんなに楽かと思う事が多々ある……人は生まれたら、あとは死ぬだけのちっぽけな存在なのに、他人と戦ってまで生きる意味があるのかと思う事が多々ある……」

「……」

「でもね……それでもなお、生き長らえているという事は、こんな僕にも成すべき事があるのではないか……生きる意味があるのではないか……自分勝手で我儘で、ひねくれ者の僕だけど……そう信じて生き続けたからこそ、此処まで生きてこれたんだと思うんだ……」


提督のその目は、とても言葉では言い表せない程、激しく熱く輝いていた。

ギラギラと血潮を滾らせた提督のその目は、貞潔な信念を纏っていた。


664 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:23:22.67 xlUQQs3U0 636/888



「僕は今まで生きてきた分、敵味方問わず、どれだけ人を傷付けたのか……どれだけ誰かから奪ったのか……その責任として、僕は多くのモノを失ってきた……何かを成し遂げる為に『戦う』という事は、それだけの責任を負う事になるんだ……でも僕は、その責任から一度も目を背けた事はないよ」


そして一呼吸の後。


665 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:24:15.32 xlUQQs3U0 637/888




「だからお願いだ、球磨。それを承知の上で、僕と一緒に、基地に居る皆と一緒に、最後まで戦って欲しい」


――――信念と熱量を纏った眼差しを、球磨へと投げかけ、提督は球磨に自身の想いを委ねた。



666 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:25:13.56 xlUQQs3U0 638/888



「……やっと分かったクマー」


その提督の言葉に対して、球磨は暫くの後、母親が浮かべる様な柔らかな笑顔を提督に向けて、口を開いた。


667 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:26:29.32 xlUQQs3U0 639/888



「提督は散々傷付いてきたクマ。だから提督は、そんなにも優しいクマ」


琥珀色に光る長い髪を夜凪に梳かしながら、艦娘・球磨は提督に告げた。


「自分の苦しみを誰かに味わって欲しくない。そう言う願いを胸に提督は、球磨よりも長い時間ずっと戦ってきたクマ」


先程浮かべていた「怖さ」の色は消え失せ、球磨は提督と同じく、信念と熱量を纏った眼差しで、提督を見据えた。


668 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:27:21.80 xlUQQs3U0 640/888



「でも、安心しろクマ」


そして一呼吸の後。


669 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:28:20.84 xlUQQs3U0 641/888




「もう提督は十二分に傷付いたクマ。後は、球磨に任せろクマ」


――――球磨は月明かりに輝く琥珀色の目を提督へと投げかけた。



670 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:29:23.83 xlUQQs3U0 642/888



「……ありがとうね、球磨」

「クマ!」


提督の想い。

頭上の月輪の明かりに負けないくらいの満面の笑みを浮かべ、艦娘・球磨はその想いを胸に秘めた。


671 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:30:01.83 xlUQQs3U0 643/888



「球磨! 出撃するクマ!」


そしてその球磨の掛け声と共に、球磨は提督から離れ、月明かりだけが道標となって照らす、海の闇へと消えていった。


離れ行く艦娘・球磨を見つめながら、提督は心の中で呟いた。


672 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:31:35.91 xlUQQs3U0 644/888



――出来る事なら、僕が君の代わりに行きたいよ。

――だからもし、君が失敗したら、次は僕の番だからね。


提督は、球磨に内緒で執務机の中に入れた、肉親と知り合いの司令官宛てに認めた手紙の内容を想起しながら、遠ざかる球磨の後ろ姿を見据えた。

提督は、球磨の後ろ姿が見えなくなっても、球磨が進んで行った方向を、何時までも見据え続けた。


673 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:32:13.44 xlUQQs3U0 645/888




――――そして提督は、唯、無心で、艦娘・球磨の無事を、神さまに祈った。



674 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:34:19.31 xlUQQs3U0 646/888



 ……………………………… 


――――0450、日本国近海航路、海上警備ルート、地点Cから南西10シーマイル。


「……!」


海原に照らす月の道を進んでいた艦娘・球磨。

突如として、海原に砲撃音が響き渡り、球磨の元へと砲弾が飛来した。


675 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:34:59.43 xlUQQs3U0 647/888



――しかし、些か狙いが甘い。


球磨は何の苦労もせず、飛来した砲弾を軽々と避けた。

そして砲弾が飛んできた方向を静かに見据えた。


676 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:35:41.69 xlUQQs3U0 648/888



「……」

「……駆逐イ級……クマか?」


其処に居たのは、脚が生え、魚の様な魚雷の様な出で立ち、そして髑髏の様な顔を浮かべた一体の個体。

深海棲艦の中では最も戦闘能力が低いとされる敵、駆逐イ級だった。


677 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:36:55.08 xlUQQs3U0 649/888



駆逐イ級は、金属が軋む様な唸り声を上げ、球磨に対して敵意を剥き出しにしていた。


そして駆逐イ級は、金属が潰れる様な甲高い声を上げ、球磨に対して砲撃と雷撃を放った。


678 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:38:01.86 xlUQQs3U0 650/888



 ……………………………… 


――お願い、当たってよ!!


この駆逐イ級は、言ってしまえば深海棲艦の中でも一番弱い存在である。

戦闘能力を底上げした上位種も存在していたが、この駆逐イ級はその類の存在ではなかった。


679 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:41:07.17 xlUQQs3U0 651/888



「敵ながら中々の腕だクマ」


しかし今のイ級は、どうだろうか。


艦娘・球磨の目の前に居る駆逐イ級の戦闘能力は、駆逐イ級と言う枠組みを軽く凌駕していた。

精密機械とも例えられる程の致命的な魚雷命中精度を持ち、その砲弾の着弾位置たるや、敵に的確なダメージを与えられる最善手である。

動きも通常の駆逐イ級とは比べ物にならない程、洗練されたものであった。


今や駆逐イ級の戦闘能力は、その上位の存在である後期型を軽く凌駕していた。

通常の戦闘部隊であったら、この駆逐イ級に苦戦を強いられたのは容易に想像がつく。


680 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:41:54.32 xlUQQs3U0 652/888



「もうやめるクマ」

「……!?」


――――しかし、相手が悪かった。


その静止の声と共に、一発の砲弾が駆逐イ級へと落ちた。


681 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:42:37.75 xlUQQs3U0 653/888



そして僅かに狙いが逸れた砲弾が駆逐イ級に当たり、駆逐イ級は大破した。


「悪いけど、今のお前に球磨は倒せないクマ」


682 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:44:14.16 xlUQQs3U0 654/888



――こんなにも力の差があるなんて……!


大破したイ級は既に満身創痍であった。


――それでも……何としてでもコイツを此処で止めなくちゃ……! 此処で倒さなくちゃ……! じゃないと……!


放った砲撃と雷撃は、艦娘・球磨に尽く躱され、そして殆どを吐き切った。


683 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:45:04.33 xlUQQs3U0 655/888



――残りの兵装は、魚雷一発だけ……。


だが、当たらない砲弾や魚雷など、何の意味があると言うのだろうか。

闇雲に魚雷を放っても、無駄撃ちに終わるのは目に見えていた。


684 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:45:34.20 xlUQQs3U0 656/888



――何とかしてこの魚雷を当てなくちゃ……!


ふと、ある光景が駆逐イ級の脳裏を横切った。


685 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:46:15.93 xlUQQs3U0 657/888




白銀の長髪を海風に梳かし、蒼玉色の柔和な目を投げかけながら、自分の頭を撫でてくれた、己が主の優しげな頬笑み。



686 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:47:21.16 xlUQQs3U0 658/888



――そうか……当てさえすればいいんだ。


そして覚悟を纏った駆逐イ級は、最後の力を振り絞り、速度を上げた。

しかしその速度は、通常限界出力である「最大戦速」の更に上、自身の耐久性や艤装限界性能を一切無視した出力「一杯」であった。


687 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:48:22.87 xlUQQs3U0 659/888



 ……………………………… 


「……クマっ!?」


唐突に異常な速度で加速した駆逐イ級は、ジグザグと之字運動を行いながら、艦娘・球磨へと肉薄した。

球磨は、こちらへと近付いてくるイ級に対し、後退しながら砲撃の雨を落とした。

しかし殺意が無い砲弾の雨が、イ級を貫く事は無かった。


688 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:50:39.84 xlUQQs3U0 660/888



――お前は一体、何をしようとしているんだ?


既に駆逐イ級は大破状態。

駆逐イ級は、既に砲弾を撃ち尽くしており、魚雷発射管は空っぽになっていた。

また出力「一杯」でこれだけ無茶苦茶な運動を繰り返していれば当然、燃料や艤装の消耗も激しい。

今は速度面で艦娘・球磨に勝ってはいるものの、持って1、2分でイ級の燃料は空となり、艤装は破損し、やがて動けなくなるだろう。


689 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:51:13.13 xlUQQs3U0 661/888




だが球磨には、直感的な確信があった。


――この駆逐イ級は、一本だけ、魚雷を隠し持っている。



690 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:51:55.85 xlUQQs3U0 662/888



ならば残りの兵装は、たかが21インチ魚雷の一本だけ。

その状態で、この駆逐イ級は何をしようとしているのか。


691 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:52:44.85 xlUQQs3U0 663/888




そんな事、先の大戦を知っている者なら誰にだって分かる事だ。


――――たかが魚雷一本で、戦艦さえも一撃で葬る、必中必殺の攻撃がある事を。



692 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:53:34.69 xlUQQs3U0 664/888



「そっか……」


駆逐イ級の行動を悟った球磨は、吐息を一つ洩らすと、動くのを止め、駆逐イ級を見据えた。


「……!」


それがチャンスと思った駆逐イ級は、之字運動を止め、球磨に全速力で接近した。


693 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:54:16.78 xlUQQs3U0 665/888



接触まで数十メートル。


そして球磨は、駆逐イ級に向かって。


694 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:54:51.16 xlUQQs3U0 666/888




「……」


――――ただ一つ、柔らかな頬笑みを浮かべた。



695 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:56:53.23 xlUQQs3U0 667/888



「……!?」


そして駆逐イ級は、あまりに唐突過ぎる球磨の行動から、思わず海面を切り裂き、球磨の目の前で静止した。

更にあろう事か、球磨は目の前で動きを止めたイ級へとゆっくり近付き、腕を伸ばし、その頭に触れる。

そうして、そっとその頭を撫でた。


696 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:57:33.31 xlUQQs3U0 668/888



「……お前は、そこまでして誰かを護っているクマか」


球磨には分かっていた。

この子にも、護るべき想いがあった事を。

そして、まさに今、護るべき想いがある事を。


――――自分の身を挺してまで、護るべき者が居る事を。


697 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:58:14.09 xlUQQs3U0 669/888



強靭な顎を持つ駆逐イ級に触れるなど、自殺行為に他ならない。

噛み付かれでもしたら、最悪、腕を無くす可能性もある。

だが、それ以上に危険なのは、駆逐イ級が隠し持った、魚雷の存在である。


それを知っててもなお、球磨は駆逐イ級へと触れた。


698 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:58:55.82 xlUQQs3U0 670/888




――それを知っててもなお、球磨は思った――。



699 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 19:59:39.28 xlUQQs3U0 671/888



それでもいい。


腕一本で何かが成せるなら安いモノだ。

この命で何かが残るのなら安いモノだ。


700 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 20:00:08.54 xlUQQs3U0 672/888




――提督のあの強く輝く想いが残せるのなら、それでもいい――。



701 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 20:01:20.38 xlUQQs3U0 673/888



 ……………………………… 


一方、駆逐イ級はこの艦娘・球磨の行動に、どうしていいか分からなかった。


――今ここで、この艦娘の腕を喰らい、引き千切るべきなのかな。

――今ここで、隠し持った魚雷の信管を叩くべきなのかな。


702 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 20:02:15.32 xlUQQs3U0 674/888



しかし駆逐イ級の目には、この艦娘の頬笑みが、己が護るべき者である主の頬笑みと何処か重なって見えていた。

自分の頭を撫でる温もりが、己が護るべき者である主の温もりと何処か重なって感じていた。


だからこそ駆逐イ級はこの後、どうすればいいのか分からなかった。


703 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 20:03:17.40 xlUQQs3U0 675/888



「すまないクマ。どうしても道を開けて欲しいクマ。球磨には、何が何でも会わなければならない人が居るクマ」


艦娘・球磨は、駆逐イ級の頭を撫でながら、諭す様な柔和な声で、駆逐イ級に懇願した。

その声色は駆逐イ級の、己が護るべき者である主の声色と、そっくりであった。


704 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 20:04:01.88 xlUQQs3U0 676/888



「……」


そして駆逐イ級は、暫く悩んだ後、ゆっくりと後退し、艦娘・球磨に針路を譲った。


「ありがとうクマ」


お礼を言った球磨は、ゆっくりと速力を上げ、駆逐イ級の横を通り過ぎ、そのまま直進した。


705 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 20:04:48.92 xlUQQs3U0 677/888



 ……………………………… 


「艦娘・球磨」の向かう先は唯一つ。

もう一人の自分である「軍艦・球磨」、その深淵へと触れる為である。


706 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 20:05:52.79 xlUQQs3U0 678/888



『僕は此処に来てやっと、僕が軍人になった本当の理由が、ようやく分かった気がするんだ……無力な僕は、この瞬間の為に……君に僕の想いを託すこの時の為に、此処に居るんだと思う』


提督の想いを乗せ、海風の如く、艦娘・球磨は進んだ。


『僕はね、球磨。僕は本当に何かを成し遂げる為に、軍人になったんだと思う。誰かを護り、そして誰かを本当に救う為に、軍人になったんだと思う』


海原を駆ける疾風の如く、艦娘・球磨は進んだ。

巻き起こした疾風が、嵐となり、嵐が鎌鼬となり、やがては球磨の刃となろう。


707 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 20:06:54.40 xlUQQs3U0 679/888



『僕は今まで生きてきた分、敵味方問わず、どれだけ人を傷付けたのか……どれだけ誰かから奪ったのか……その責任として、僕は多くのモノを失ってきた……』


――――その刃は何を成す為に。

――――それは、誰かを救う為である。


708 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 20:07:42.94 xlUQQs3U0 680/888




――艦娘・球磨は心の中で高らかに謳った――。



709 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 20:08:48.87 xlUQQs3U0 681/888



『何かを成し遂げる為に「戦う」という事は、それだけの責任を負う事になるんだ……でも僕は、その責任から一度も目を背けた事はないよ』


提督は己が命さえも厭わない、その強く輝く想いを、この艦娘・球磨に託してくれた。

ならば軍艦艇の魂を宿した一人の艦娘としてやる事は、その想いを乗せ、唯この身で、その想いを表現するだけだ。


710 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 20:09:53.06 xlUQQs3U0 682/888




『だからお願いだ、球磨。それを承知の上で、僕と一緒に、基地に居る皆と一緒に、最後まで戦って欲しい』


艦娘は、誰かの強い想いさえあれば、己の身が散華するその時まで、戦う事が出来る。



711 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 20:10:29.67 xlUQQs3U0 683/888




誰かを護り、そして救う事が提督や皆の想いなら。



712 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 20:11:16.17 xlUQQs3U0 684/888




――「自分自身」を救わずして、一体この先、誰を救えるのか――。



713 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/26 20:12:19.63 xlUQQs3U0 685/888



そんな提督の想いを乗せた艦娘・球磨の強く輝く琥珀色の目に、迷いは無かった。

そんな想いを乗せた艦娘・球磨は、たった一人、軍艦・球磨の元へと進んで行った。


そして駆逐イ級は、遠ざかる艦娘・球磨の背中、信念を纏ったその背中を、悲しげな目で何時までも見つめていた。


720 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 22:53:23.37 bYTKMj840 686/888



 ……………………………… 


――――0550、日本国近海航路、海上警備ルート、地点Cから南西20シーマイル。


「……不思議な気分だ」

「……不思議な気分だクマ」


夜の静寂、月の光、そして星の瞬き。

海風を戦ぎ、邂逅するは、二つの影。


「まさか私の自己像幻視に出会う事になるとは。本当、世界は不思議で溢れている」

「まさか球磨のドッペルゲンガーに出会う事になるとは。本当、世界は不思議で溢れているクマ」


冬の星空、無数の想いが生まれ、そして散って星屑となったその跡地。

その最果ての空と海に映る無数の星々、その天象儀に抱かれた、二つの影。


721 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 22:55:27.73 bYTKMj840 687/888



「お前もそう思うか?」

「常々そう思うクマ」


其処には、海面に映る月光の道を境に、一つで二つの存在、「軍艦・球磨」と「艦娘・球磨」が相対していた。

形は違えど、同じ「魂」を持つ者同士が邂逅し、旧知の友人と久闊を叙する様に、言葉を交わしていた。


722 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 22:56:51.25 bYTKMj840 688/888



「……それにしても、一人で来るとは良い心がけだ」

「そう言う癖にお前は、えらく可愛い前哨を配置してたクマ」

「……なんだと?」

「駆逐イ級が一隻、球磨の目の前に立ち塞がったクマ。まぁ……どうやらお前のその様子だと、お前自身も知らなかったようだクマ」

「……あの馬鹿者」


723 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 22:58:03.77 bYTKMj840 689/888



もう一人の自分の言葉を聞いた軍艦・球磨は、物思いに沈み、悲しみを吐き出す様に吐息を一つ洩らした。

そして顔を上げ、静かな、でも何処か悲しげな顔でもう一人の自分を見据え、尋ねた。


「お前は……アイツを沈めたのか?」


724 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 22:59:02.00 bYTKMj840 690/888



その言葉に、優しげな頬笑みを浮かべた艦娘・球磨は穏やかに答えた。


「安心しろ、沈めてないクマ。戦いはしたけど、素直に通して欲しいって言ったら、ちゃんと通してくれたクマ。お前は本当、良い部下を持ったクマ」

「そうか……」


725 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:01:22.92 bYTKMj840 691/888



自身の不安が杞憂に終わった軍艦・球磨は、安堵と感謝の表情をもう一人の自分へと投げかけた。


「……ありがとう。アイツの事だ、例えお前と刺し違えてでも止めてただろう」

「気にするなクマ。お前が命を投げ出してまで、球磨の妹たちに手心を加えて戦ってくれたのと一緒だクマ」

「……流石にバレてたか」


二人は気恥ずかしげな表情を浮かべ、更に言葉を紡いだ。


726 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:03:12.66 bYTKMj840 692/888



「多摩にはバレバレだったクマ。途中で北上と大井も気付いたクマ。木曾も普段だったら直ぐに気付いたクマ」

「……だが、最後まで気付かなかったな」

「それだけ、頭に血が上っていたという事だクマ」

「……本当、お前は良い妹を持ったな。正直、羨ましい」


軍艦・球磨は、決して自分には届かないであろう、悠久とも言える程の距離感を感じていた。

冬空の窓の外から一人、別れた家族の面影を眺める様な疎外感に襲われていた。


727 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:04:18.79 bYTKMj840 693/888



「お前の妹でもあるクマ」


それに気付いたもう一人の自分が、内側からその窓を開けてやって、そっと呼びかけた。


728 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:05:16.65 bYTKMj840 694/888



「……ありがとう。そう言ってくれると、本当、嬉しい」


艦娘・球磨はニコリと笑い、あっ、と思い出した様に、もう一人の自分に対して口を開いた。


729 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:07:03.38 bYTKMj840 695/888



「……そう言えば、木曾に一撃食らったと聞いていたクマ。だけどその様子だと、どうやら気遣いは無用みたいだクマ」

「そうだな、気遣いは無用だ。こっちにだって高速修復材ぐらいある。見ての通り、準備は万全だ」

「……それを聞いて安心したクマ。出来ればお前とは双方、万全の態勢で戦いたかったクマ」

「私もだ」


730 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:08:27.03 bYTKMj840 696/888



ふと、二人が気が付くと、先程まで二人を包んでいた星の煌きは、輝きを潜めていた。

そして東の空は、うっすらと白み始め、完全な闇は消えかけていた。


731 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:10:49.34 bYTKMj840 697/888



「夜明け前が一番暗い。だけど、日の出ももう近いクマ」


ブルーモーメント。

太陽の光と月夜の闇、その二つの世界が重なり、溶け合い、そして儚く消える蒼の時間帯。


732 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:11:46.76 bYTKMj840 698/888



二人は暫しの時間、薄明の東の空を眺めながら、物思いに耽っていた。

二人は透きとおった瑠璃色を、唯ひっそりと抱き締めていた。


733 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:13:23.13 bYTKMj840 699/888



「……昔、軍艦として初めて海に出た日の事を思い出した。激動と混沌の時代……中々の暗黒時代に私は産み落とされたと思った」

「……球磨も昔、艦娘として初めて海に出た日の事を思い出したクマ。動乱と混迷の時代……神さまは中々酷い世界を考える奴だと思ったクマ」


734 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:14:35.13 bYTKMj840 700/888



そしてぽつりと、軍艦・球磨から言葉が漏れ、艦娘・球磨はそれに合わせる様に言葉を重ねた。

その二人の表情には、「運命」に抗う事は出来ないと言う諦観が含まれていた。


735 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:16:08.56 bYTKMj840 701/888




「それでも……初めて海の上で朝を迎えて拝んだ、あの暁の水平線はとても美しかった」

「それでも……東の御空を抱くあの暁光は、とても輝かしかったクマ」


だが二人は、太陽の様な眩しげな笑顔を浮かべ。



736 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:17:22.54 bYTKMj840 702/888





「軍艦として生きるのも、悪くないと思った」

「艦娘として生きるのも、悪くないと思ったクマ」


――――己が境遇、己が「運命」を誇った。




737 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:18:51.79 bYTKMj840 703/888




そして、蒼玉石の瞳と琥珀石の瞳。

柔和ながらも強い信念を含んだ、二人の目線が絡み合った。



738 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:20:01.82 bYTKMj840 704/888



「……気付けばお互い、随分と遠くへ来てしまったな」

「……でも、此処が最果てクマ」


739 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:21:17.53 bYTKMj840 705/888



そう、誰も居ない世界の果てまで来てしまったと言う寂寥感を二人は覚えていた。

しかし、其々が抱いているたった一つの想い。

それだけが、たった一つの世界の燈火として、二人の深淵を照らしていた。


740 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:22:11.63 bYTKMj840 706/888



「名残惜しいが……」

「……そろそろ始めるクマか」


清らかに対照した二人は、すう、と優しく息を吸い込む。

そして二人は、心の中の燈火を凛と鮮やかに燃やした。


741 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:23:33.15 bYTKMj840 707/888




「……行くぞっ!!」

「……望む所だクマっ!!」



742 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:24:54.54 bYTKMj840 708/888




誰も知らない世界の中心で。

後の世の誰もが知りえぬ場所で。


――――二発の砲弾音が水界に響き渡り、黎明を迎える鐘の音を轟かせた。



743 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:27:40.91 bYTKMj840 709/888



時交えず、二人は砲雷撃の篠突く雨をお互いに降らせた。

魚雷の波浪、副砲の豪雨、主砲の迅雷。

暁闇の月下、緩急を付け、雷雨を潜り、二人はお互いの弾幕を躱していく。

ステップを踏み、身体を回転させ、海風を切り裂いて滑り、鉄弾を躱していった。


744 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:28:53.25 bYTKMj840 710/888




――――二本の平行線を描く様に飛沫を上げる二人は、同航戦のまま撃ち、相見える。



745 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:30:06.92 bYTKMj840 711/888



着弾した水面には、波紋が広がる。

二人は響く波紋の間隔を感じながら、神経を研ぎ澄ました。

水界線上を玉彩絢爛たる閃光が揺らめく。


746 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:33:03.16 bYTKMj840 712/888




――――二人は仲を裂く様に左右へと移動方向を切り替え、同航戦から反航戦に移行する。



747 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:35:33.86 bYTKMj840 713/888



二人は寸秒に一度のペースで、繰り返し、繰り返し、水面を鮮麗な火花で彩った。

鮮やかに海面を彩る火花、その一滴一滴が煌めき、一瞬を生きた大輪の花火の様に、海の暗闇と空の白明に溶けて沈んで行った。

決して潮流に遡行せず、流れの儘、二人は華奢でしなやかな身体を揺り動かした。


748 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:36:40.12 bYTKMj840 714/888




――――二人は呼吸を合わせ、合わせ鏡の様に、丁字での優位を得る為に踊った。



749 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:38:21.12 bYTKMj840 715/888



月下に咲く花火の下、円舞曲を踊る様に、水界の舞台をくるくると踊った。

驚くほど親密で、そして驚くほど悠遠の距離を二人は踊った。

退廃と混沌の海を、秩序づける様に、二人は規則的に舞った。

海世界で二人は踊り、唯、命を燃やしていた。


750 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:39:07.73 bYTKMj840 716/888




――――そして二人は、お互いの海世界を、己が極彩色で塗り潰していった。



751 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:40:07.62 bYTKMj840 717/888




お互いの長い髪が靡き、掠め、着弾点誤差数ミリの攻防戦が展開される。



752 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:41:52.78 bYTKMj840 718/888



「左舷斉射クマっ!!」

「甘いっ!!」


軍艦・球磨は、砲撃を避ける為、外套をその華奢な身に絡ませ、拍子良く中空へと身体を舞わせた。


753 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:44:52.45 bYTKMj840 719/888



「食らえっ!!」

「させるかクマっ!!」


艦娘・球磨は、雷撃を避ける為、己が身をしなやかなに反らせ、水切って魚雷を飛び跳ねた。


754 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:46:15.71 bYTKMj840 720/888



「ぐぅ……!」

「くっ……!」


丁字有利を互いに取れぬ儘、二人は反航戦へと戻る。


755 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:47:53.51 bYTKMj840 721/888



二人は、擦れ違い様、砲撃及び雷撃の嵐を起こした。

二人は、水柱と魚雷の間を縫う様にすり抜け、お互いの側面を通過した。


756 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:49:06.20 bYTKMj840 722/888




お互い身体を反転させ、二人は同航戦へと移行。


――――そして再び、お互いが正対した。



757 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:50:26.46 bYTKMj840 723/888




その二人の距離は、自身の攻撃を絶対に外さないであろう、超近距離であった。



758 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:51:47.18 bYTKMj840 724/888




「魚雷発射っ!!」

「魚雷発射クマっ!!」


その距離の儘、刹那、二人の号令が交わり。



759 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:52:49.14 bYTKMj840 725/888




「避けられるものなら……!!」

「……避けてみろクマっ!!」


――――二人は、手投げと脚艤装の魚雷を、全て発射した。



760 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:54:03.01 bYTKMj840 726/888




――――そして辺り一面に氷柱が降り注ぎ、その鋭利さ故、二人は身を裂き、紅血を散らせた。



761 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:56:33.08 bYTKMj840 727/888



 ……………………………… 


「はぁ……はぁ……」


痛みに耐え、呼吸を洩らす二人。

お互いの視線が静かに絡む一瞬。

二人には、その一瞬が永遠とも思えた。


762 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/27 23:58:16.60 bYTKMj840 728/888




先瞬、お互い捨て身の雷撃を浴びた、軍艦・球磨と艦娘・球磨は、大破していた。



763 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:00:04.98 ybY1IxA60 729/888



「ふぅ……ふぅ……」


二人はお互いを見据え、絶え絶えに白銀の息を漏らし、寒冷の海に凍らせていた。

二人はお互いを見据え、主砲塔と魚雷兵装を静かに確認した。


764 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:00:39.05 ybY1IxA60 730/888




――これで撃ち止めか。



765 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:03:14.00 ybY1IxA60 731/888



既に二人の主砲塔は折れ、魚雷は尽きた。

以前の時とは違い、お互いの主砲と魚雷が死んだ状態である。


艦娘と深海棲艦、その主武装たる主砲と魚雷が使えない以上、両者が矛を交えられる筈も無かった。


これ以上は、もう戦えない。


766 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:04:19.19 ybY1IxA60 732/888




――だが、それが何だって言うんだ?



767 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:07:24.42 ybY1IxA60 733/888



「なめるなぁあああ!!」

「なめるなクマぁあああ!!」


軍艦・球磨は右脚艤装の出力を上げ、もう一人の自分の頭を捉えた右回し蹴りを放った。

艦娘・球磨は咄嗟に左腕で頭を覆い、前のめりになって右回し蹴りを防御し、そのまま肘を立て、もう一人の自分の懐へと突っ込み、かち上げる様に顎を捉えた肘打ちを叩き込むと、続けて右掌底打ちを放つ。

軍艦・球磨は瞬時に左脚で海面を蹴り、もう一人の自分の肘打ちを回避し、更に後ろに下がりながら、右ストレートを放つ。

刹那、軍艦・球磨の右ストレートと艦娘・球磨の右掌底打ちが左右で交差し、お互いの顎を掠め、空を切った。


768 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:09:55.94 ybY1IxA60 734/888




――――もう二人が武器と言えるモノは、脚に装備した艤装と己の拳のみだった。



769 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:11:25.67 ybY1IxA60 735/888



「何故だクマっ!? お前は誰かを護り、そしてその先の平和を願う想いを乗せて、戦っていた筈だクマ!」


艦娘・球磨はもう一人の自分に対して、言葉をぶつけた。


770 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:15:51.15 ybY1IxA60 736/888



「そんなお前が、どうしてこの国の平和を乱そうとするクマかっ!?」


艦娘・球磨は、脚艤装の出力を上げ、後ろに下がったもう一人の自分へと肉薄し、追撃の右掌底を放つ。

軍艦・球磨は、もう一人の自分の右掌底を左手で払い除け、そのまま右下段蹴りを叩き込む。

艦娘・球磨は、もう一人の自分の脚を掬い上げる様に左手を振い、蹴り脚をずらす事により、攻撃を回避した。


771 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:19:40.24 ybY1IxA60 737/888



「ふざけるなぁあああ!!」


軍艦・球磨は、もう一人の自分に対して、右ストレートを放った。

艦娘・球磨は、左手で円を作る様な軌道を描き、もう一人の自分の右ストレートを散らし、ガードが空いたもう一人の自分の顎に掌底打ちを叩き込む為、腕を振るう。

軍艦・球磨は、飛んできた掌底打ちの方向へと右肩を入れ、もう一人の掌底打ちを潜る様に、避けた。


772 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:24:41.41 ybY1IxA60 738/888



「誰かを護る為にその身を捧げたあの人達の想いを否定して、何が平和だっ!?」


軍艦・球磨は、右、左、右と続け様に、もう一人の自分へと拳を打ち込む。

艦娘・球磨は、一発目、二発目を左手で払い、そして三発目を払うと、拳を引くタイミングを狙い、踏み込み、もう一人の自分の右手を両手で掴み、捻って、海面へと叩きつけようとする。

軍艦・球磨は、倒される一瞬、掴まれた手を軸に、弧を描く様に空中へと身体を投げ出し、側宙でもう一人の自分の拘束から逃れた。


773 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:26:17.72 ybY1IxA60 739/888



「あの人達の想いを踏み躙り、蔑ろにしてまで得た平和に、一体何の価値があるんだっ!?」


軍艦・球磨はもう一人の自分に対して、言葉をぶつけた。


774 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:27:55.66 ybY1IxA60 740/888



「まるで腫物を扱う様に、私たちの戦いの時代を、闇に葬ろうとした人間が何人居たっ!?」


軍艦・球磨は、ぽろぽろと清らかな涙を零しながら、もう一人の自分へと想いをぶつけた。


775 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:29:10.23 ybY1IxA60 741/888



「あの人達が行った戦いを、あの人達の想いを利用しようとした政治家や活動家が何人居たっ!?」


軍艦・球磨は美しく泣きながら、もう一人の自分へと想いをぶつけた。


776 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:30:24.35 ybY1IxA60 742/888




「私たち深海棲艦とお前ら艦娘が現れるまで、大戦の事なんて過去の話だと見向きもしなかった人間が何人居たっ!? 言ってみろっ!!」



777 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:33:16.36 ybY1IxA60 743/888



――――正義と悪、善悪正邪、勧善懲悪。


そんな二項対立構造では決して言い表せない、理論思考や政治的概念さえも超越した、荒々しくも温かく、粘着ながらも清らかな想いのぶつかり合いが其処にはあった。

過去から引き継がれた想い、現在から引き継がれた想いのぶつかり合いが唯、其処にはあった。


778 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:35:51.09 ybY1IxA60 744/888



「アイツらは、あの人達の想いを否定したっ!!」


軍艦・球磨は、過去の想いを乗せ、駆ける、避ける、そして、拳を振るう。


「分かるかお前にっ!! 私に想いを託し、私と運命を共にした、あの人達の悲しみがっ!! 存在理由を否定された、私自身の恐怖と苦しみがっ!!」


艦娘・球磨は、その想いに応えるべく、現在の想いを乗せ、駆ける、避ける、そして、拳を振るう。


779 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:37:14.01 ybY1IxA60 745/888




既にこの戦いは「体」の優劣の戦いでも、ましてや「技」の習熟度の戦いでもなかった。


どちらの「想い」が強いかという、「心」の戦いであった。



780 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:38:39.27 ybY1IxA60 746/888



刹那、軍艦・球磨の放った右フックが、艦娘・球磨のこめかみを捉えた。

咄嗟に腕を上げて艦娘・球磨は攻撃を防御したが、その衝撃はガード越しからでも計り知れず。

艦娘・球磨の視界を白く染め、そしてよろめいた。


781 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:40:12.81 ybY1IxA60 747/888



「……分かるクマ」


それでもなお、艦娘・球磨はもう一人の自分の蒼玉石の瞳を見据え続けた。

艦娘・球磨は、ぶらんと腕を下げ、構えを解いた。

それを見た軍艦・球磨は、思わず攻撃の手を止め、後ろに飛び退いた。


782 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:41:50.56 ybY1IxA60 748/888



「お前は『球磨』自身だ」


艦娘・球磨は、もう一人の自分の言葉を優しく受け止めた。

すう、と一粒の温かな涙を落としながら、もう一人の自分へと囁いた。


「だから、もういいんだクマ」


艦娘・球磨は慈愛の笑みを浮かべ、もう一人の自分へと赦しの祈りを捧げた。


783 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:43:57.53 ybY1IxA60 749/888



艦娘・球磨は知っていた。

もう一人の自分、軍艦・球磨が何故、この様な凶行に走ったのか。


「この世界は冷徹だクマ。他人の想いなんて、これっぽっちも気に留めない無情の輩が蔓延っている世界だクマ。そうした想いを否定する人間が多数を占める世界だクマ」


それでもなお、艦娘・球磨は敢えて問いを投げかけた。


784 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:45:23.99 ybY1IxA60 750/888



「だけど……過去の想いを語り、未来へと受け継ぐ人間も中には居るクマ」


もう一人の自分がどれだけ世界に対して絶望していたのか。

どれだけ一人で苦しんできたのか。

どんな信念で戦ってきたのか。


785 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:46:44.33 ybY1IxA60 751/888



「そして……その想いを引き継ぐ人間も中には居るクマ」


その想いを直接、その口から聞いておきたかったからだ。


786 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:47:44.32 ybY1IxA60 752/888



「お前の悲しみは全て……お前自身である球磨が引き継ぐクマ。だからもう、その責任を下ろすクマ」

「……!」


その言葉に、軍艦・球磨の心が微かに揺らいだ。


787 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:49:25.43 ybY1IxA60 753/888




そして琥珀石に燃える瞳で、軍艦・球磨を見据え。


「それで球磨は、『球磨』自身を……救ってみせるクマぁあああ!!」


――――艦娘・球磨は、手をぶらりと下げた儘、脚艤装から黒煙と火花を噴き上げ、爆発的に加速した。



788 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:50:42.82 ybY1IxA60 754/888




「……やってみろぉおおお!!」


軍艦・球磨は、迎え撃つべく渾身の右ストレートを、神速で接近するもう一人の自分へと放った。



789 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:52:54.44 ybY1IxA60 755/888



軍艦・球磨の拳が当たるその一瞬、艦娘・球磨は膝を沈め、身体を横に捻り、もう一人の自分の腕を潜り、皮一枚でその拳を躱した。

極力の一撃を潜り抜けた艦娘・球磨は、脱力からの一瞬、軍艦・球磨の胸元へと、引き付けられる様に腕を伸ばす。

そうして艦娘・球磨は、掌が触れる一弾指、腕を捻り、腰を返した。


790 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:53:57.53 ybY1IxA60 756/888




――――刹那、軍艦・球磨の胸元に、主砲を撃ち込まれた様な衝撃が走った。



791 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:56:11.80 ybY1IxA60 757/888



それは、爆発的な力の転換、艤装の最大出力による踏み込み、技の発動タイミング、その全てが合わさった、艦娘・球磨の掌底突きだった。


そして直撃弾を喰らった様な衝撃を受けた軍艦・球磨。


792 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:57:12.80 ybY1IxA60 758/888




――――その衝撃は、軍艦・球磨の身体を、軽々と空中へと舞わせる程であった。



793 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:58:30.22 ybY1IxA60 759/888



直後、太陽柱が水平線に浮き上がり、辺り一面、東の空から輝く暁光に包まれた。

そうして、二人の影は橙色に滲み溶け、混ざり合った。


794 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:59:21.46 ybY1IxA60 760/888



日出る海空にその身を優しく抱かれた軍艦・球磨。

意識が遠のく寸前、その軍艦・球磨の脳裏に浮かんだのは。


795 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 00:59:52.77 ybY1IxA60 761/888




『――大佐だ。よろしく頼むよ、球磨』


――――在りし日の提督の笑顔であった。



796 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:00:44.86 ybY1IxA60 762/888



 ……………………………… 


『球磨』


軍艦・球磨は、懐かしい声を聴いた気がした。


797 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:01:58.01 ybY1IxA60 763/888



『すまなかった。私の身勝手な約束のせいで、貴様には随分と面倒を掛けた』


一面に輝く白銀の光の中。


『もう約束に縛られて苦しまなくていい』


鮮やかに蘇る記憶の中。


798 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:03:20.53 ybY1IxA60 764/888



『それに貴様の想いが負けた以上、貴様に残された時間はあと僅かだろう』


軍艦・球磨は、懐かしいあの人の声を聴いた気がした。


799 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:04:30.66 ybY1IxA60 765/888



『だが貴様にはまだ、やる事があるようだな』


そして、大きな海風が軍艦・球磨を揺り起した。


『貴様に面倒を掛けた分、私は幾らでも待つ。私は何時でも、貴様の事を待っている』


800 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:05:44.90 ybY1IxA60 766/888



――おい! 君、大丈夫かいっ!? ……おい!


『それに「もう一人の私」が貴様の事を呼んでいるようだ』


次第に遠のいていく懐かしい声。

徐々に覚醒していく意識の中。


801 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:06:58.97 ybY1IxA60 767/888




『球磨。大変だろうけど、もう一寸だけ頑張れるか?』


軍艦・球磨はその声へと静かに告げた。



802 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:07:59.03 ybY1IxA60 768/888





「提督。球磨、もう一寸だけ頑張る」




803 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:13:17.52 ybY1IxA60 769/888



 ……………………………… 


――――0800、日本国近海航路、海上警備ルート、地点Cから南西20シーマイル。


「……」

「ああ、目を覚ましたんだね、よかった……! 彼是1時間近く目を覚まさないから心配したよ……!」


目を覚ました軍艦・球磨の目に映ったのは、心配げに自分の顔を覗き見る、壮年の男の姿であった。

その直ぐ横には、少し呆れ、けれども優しさを噛み締めた表情でその男を見つめる、ボロボロになった自身のセーラー服の上から、その男のモノであろう外套を羽織る、艦娘・球磨の姿があった。


――ああ、そうか。


804 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:14:19.26 ybY1IxA60 770/888



「……お前が……」

「……え?」

「艦娘の私の提督か……?」


しげしげとその男を見つめた軍艦・球磨は、その男に尋ねた。


805 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:16:02.86 ybY1IxA60 771/888



「……そうだよ。僕が『艦娘・球磨』の提督、一等海佐の――――だ」


提督は一呼吸の後、熱の籠った声色で、軍艦・球磨に己が名を受け答えた。


「そうか……」


軍艦・球磨は、溜息を静かに吐き捨てると、自分が置かれている状況を、ぼんやりとした頭で確認した。


806 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:20:01.81 ybY1IxA60 772/888



「ここは……船の上か……?」


軍艦・球磨は、仰向けになって小さな艦艇の艇尾甲板の上に寝かされている。

造りと設置された武装から見るに、恐らくは軍所有の哨戒艇だろう。


冬の海の割には随分と温かいなと思ったら、先の戦闘でボロボロになった軍艦・球磨の水兵服の上から、救急用毛布が掛けられていた。

その周りには、包帯やら艤装用工具やら使い切った高速修復材やらが慌しく整頓されていた。


気が付けば朝になっていたのか、透きとおる様な寒さを抱いた淡い空色が、軍艦・球磨の眼前に広がっていた。

そして煌々と昇り行く白銀の太陽が、水上世界の全てを明るく照らしていた。


807 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:21:58.14 ybY1IxA60 773/888



「気絶したお前と動けなくなった球磨を、提督が哨戒艇の上まで運んでくれたクマ」


その言葉に、軍艦・球磨はゆっくりと、もう一人の自分と提督の様子を一瞥した。


「今まで軍で培ってきた技術が、まさかこんな形で役立つとは思わなかったよ」

「人生そんなもんだクマ」


提督が纏っている常装冬服は、幾分か乾いていたとは言え、水分を吸ってやや重そうに見えた。


808 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:22:39.77 ybY1IxA60 774/888



――つまりこの男は、何の装備も無しに、この寒冷の海に飛び込んだという事か。

――無茶な事をする。


809 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:24:10.46 ybY1IxA60 775/888



「ふむ……」


軍艦・球磨は提督の顔を、己が抱いた蒼玉石の瞳で、まじまじと見つめていた。


――それにしても似ている。


810 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:25:27.01 ybY1IxA60 776/888



「ええと……何かな……?」


その視線に気が付いた提督は、少し戸惑いを浮かべた表情で、軍艦・球磨に対して尋ねた。

その言葉に軍艦・球磨は、ふっと懐古的な笑みを零しながら、言葉を繋げた。


811 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:27:10.75 ybY1IxA60 777/888



「いや、すまない……お前の声とその柔和な眼差し、アイツにとてもよく似ている、と思っただけだ……」

「アイツって……もしかして……君の提督の事かな?」

「そうだ」


軍艦・球磨は、目の前に居る提督を通し、遠い遠い昔、共に過ごした在りし日の提督の事を、しみじみと懐かしんだ。


812 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:28:49.86 ybY1IxA60 778/888



「お前の声を聴くと、とても懐かしい気持ちに襲われる。お前のその眼差しは、とても安心する」


軍艦・球磨は、決して得がたいモノ、既に失われたモノが、今目の前で再生した様な気がした。


813 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:29:48.20 ybY1IxA60 779/888



「そっか……」


その軍艦・球磨の答えに、提督は色彩のある、けど何処か悲しげな色を浮かべた柔らかな頬笑みを、軍艦・球磨に返した。


814 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:30:25.33 ybY1IxA60 780/888




「……あれ?」



815 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:32:02.69 ybY1IxA60 781/888



ふと、提督の目に留まる軍艦・球磨の姿が、微かに揺らいだ様な気がした。

見間違えだと思いながら目を擦り、提督は再度、軍艦・球磨へと視線を投げかけた。


816 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:33:29.36 ybY1IxA60 782/888



――やはり、彼女の姿が霞んで見える。


気がかりになった提督は、隣に居る艦娘・球磨へと視線を投げかけた。


「……クマー?」


そして艦娘・球磨も、提督と同じ様に訝しげな表情を浮かべていた。

艦娘・球磨と提督の視線が交わり、二人は腹を括り、コクリと頷くと、軍艦・球磨へと視線を戻した。


817 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:34:12.11 ybY1IxA60 783/888



「……ちょっと傷の具合を確認したいから、毛布を退かすけどいいかい?」

「別に構わない」


心配になった提督は、軍艦・球磨の身体を覆っていた毛布を静かに退けた。


818 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:34:52.04 ybY1IxA60 784/888



「……クマっ!?」

「……君の身体がっ!?」


そして艦娘・球磨と提督は、一様に驚愕した。


819 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:35:54.62 ybY1IxA60 785/888




軍艦・球磨の水兵服と身体は、風に舞う桜花の様に静かに、透きとおる光の粒となって、その輪郭を崩していったからだ。



820 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:37:36.49 ybY1IxA60 786/888



「ああ、そっか……」


納得した様な声を上げた軍艦・球磨は、「気にしなくていい」と言わんばかりの表情を艦娘・球磨と提督に投げかけ、言葉を紡いだ。


「元々、私は想いだけで形作っていた怨霊みたいなモノだ。私の想いが負けた以上、還る時が来たって事だろう」

「そんな……! それじゃあ君は……!」


だが、心配する提督とは裏腹に、消え行く軍艦・球磨の表情はとても落ち着いた様子だった。


821 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:38:58.22 ybY1IxA60 787/888



「いいんだ、私の身体はとっくの昔にバラバラだ……これは自ら然るべき事だ……それに私が知っている提督は、もうこの世界には居ないだろうしな。今更、未練なんてあるものか」


そして軍艦・球磨は、もう一人の自分を見据えた。


822 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:40:55.77 ybY1IxA60 788/888



「だが、お前が知っている提督は此処に居る。それだけ分かれば満足だ」


その表情は、やっと「答え」を見つける事が出来たという、安堵と歓喜の表情。


「そして艦娘の私を見て確信した。あの人達の想いは、形は違えどちゃんと生きている。それだけ分かれば私は満足だ」


もう他に何も必要無いという満ち足りた表情、己の心が満たされた表情であった。


823 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:44:02.25 ybY1IxA60 789/888



「だけど……それじゃあ、あまりにも……」


しかし提督は、やっと自分自身の手によって助けられた命の焔が、自身の目の前で消え行くのを唯、見続けるのはとても耐えきれないものであった。

提督の脳裏には、在りし頃の自分、誰かを救おうとして必死に奔走した自分自身、そしてそれでもなお誰かを救えなかった自分自身の姿がありありと映っていた。


「そうだ、この哨戒艇にはまだ高速修復材が……!」


自分のエゴとは十二分に分かり切っていたが、それでも提督は、何かせずには居られなかった。

提督は、哨戒艇に積んであった物資を取りに、立ち上がって、踵を返した。


824 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:44:56.65 ybY1IxA60 790/888




「提督」


しかし提督の行動は、艦娘・球磨が、提督の制服の裾をぎゅっと掴んだ事によって妨げられた。



825 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:45:49.68 ybY1IxA60 791/888



「球磨……」


艦娘・球磨のその目は、とても切なげであった。

そしてその目には、懇願が含まれていた。


826 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:46:54.62 ybY1IxA60 792/888




「もう一人の球磨は、もう何十年も一人で苦しみ、彷徨い、そして戦い続けたクマ」


そして艦娘・球磨は、嘆願の笑顔を浮かべ。



827 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:47:33.05 ybY1IxA60 793/888




「だからそろそろ、休ませてあげて欲しいクマ」


――――精一杯の祈りを、提督へと捧げた。



828 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:48:44.78 ybY1IxA60 794/888



「……」


その艦娘・球磨の表情を見た提督は、その懇願を否定できる訳も無く、軍艦・球磨の元へとしゃがみ込み、その表情を見据える。

涙を零しそうなほど潤んだ目で、消え行く焔の姿を抱いた。


829 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:49:32.20 ybY1IxA60 795/888



「……本当に……僕たちに何か出来る事は無いのかい?」


そして提督は、悲しみを押し殺した声で、軍艦・球磨に尋ねた。


830 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:50:46.36 ybY1IxA60 796/888



――こういう所も、本当そっくりだ。


その提督の表情を見た軍艦・球磨は、母親が諭す様な優しげな表情を提督へと投げかけ、そして口を開いた。


831 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:52:14.72 ybY1IxA60 797/888



「なら、最後に頼みがある……」


そして軍艦・球磨は祈った。


832 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:53:55.76 ybY1IxA60 798/888



「あの人達の想いは、時が経てば何時かこの海風に溶けて消えていくのだろうな……」


永遠など存在しない無常の世界で。


「それでも……あの人達が護ろうとしたこの世界を護り続けて欲しい……」


誰かの想いを抱き、担い、そして戦った少女。


833 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:54:58.73 ybY1IxA60 799/888



「そして……一つの時代、この国や誰かを必死になって護ろうとした、あの人達の想いを否定しないで欲しい……」


自分自身が抱いた、その想い。


「この世界を護ろうとした、あの人達の想いを忘れないで欲しい……」


自分自身の存在理由。


834 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:56:08.03 ybY1IxA60 800/888




「この私の想いを……否定しないで欲しい……」


その願いは唯、自分の存在を否定しないで欲しい、忘れないで欲しいという、少女の切実な祈りであった。



835 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 01:57:54.10 ybY1IxA60 801/888



「……分かったよ」


その願いを聞いた提督は、潤んだ目を隠そうともせず、軍艦・球磨へと言葉を紡いだ。

しかしその目の奥底には、強く輝く光が潜んでいた。


836 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:00:11.85 ybY1IxA60 802/888




「ありがとうね、『球磨』。こんなになるまでずっと誰かの為に戦ってくれて……約束するよ……僕で良ければ、喜んでその責任を背負わせて貰うよ」


そして月光とも例えられる様な、柔和ながらも信念を纏った目で、提督は軍艦・球磨に約束した。



837 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:01:21.17 ybY1IxA60 803/888



「ありがとう。もう一人の提督」


その提督の言葉に、軍艦・球磨は嬉しげな笑みを浮かべた。

そして隣で話を静かに聞いていた、艦娘・球磨に視線を投げかけた。


838 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:02:15.87 ybY1IxA60 804/888



「そして……これは約束と言うか、私の願いなのだが……」


軍艦・球磨と艦娘・球磨の視線が絡んだ。


839 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:03:41.17 ybY1IxA60 805/888



「私は深海棲艦になってから、あまりにも多くの者達から奪い過ぎた……今更、赦して貰おうだなんて都合の良い事は言わない」


一人は蒼玉石の如く輝く瞳で。


「……だからこそ艦娘の私には……この先の人生、誰からも奪わずに、さっきみたいに誰かに何かを与えられる存在で居て欲しい」


一人は琥珀石の如く輝く瞳で。


840 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:05:15.59 ybY1IxA60 806/888




「そして艦娘の私には……この先、幸せに生きて欲しい」


軍艦・球磨は、自分自身に対して、この先の幸福を願った。



841 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:06:05.21 ybY1IxA60 807/888



「……分かったクマ」


艦娘・球磨は、大きく自分自身に対して頷き。


842 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:07:15.91 ybY1IxA60 808/888




「お前が苦しんだ分だけ、『球磨』は幸せになれるよう、精一杯、頑張るクマ。精一杯、この世界を、駆け抜けてやるクマ」


そして自己受容の笑みを浮かべ、自分自身の願いを胸に秘めた。



843 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:09:34.30 ybY1IxA60 809/888



「ありがとう。艦娘の私」


もう一人の自分の笑みを見た軍艦・球磨は、にっこりと太陽の様な笑みを浮かべた。

そうして頭に被っていた軍帽をひっそりと脱ぎ、両の手で胸元に優しく抱き寄せた。


844 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:10:48.68 ybY1IxA60 810/888



軍帽を脱いだ軍艦・球磨の顔立ち。

今までは軍帽の影で分かり辛かったが、その軍艦・球磨の白く儚い端麗な顔立ちは、艦娘・球磨の生き写しであると言えた。

その軍艦・球磨の顔立ちは、とても鮮やかで穏やかなモノであった。


845 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:12:20.00 ybY1IxA60 811/888




そして、すう、と息を洩らした軍艦・球磨は、風に乗ってその身全てが消えゆく、その時を待った。



846 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:13:15.81 ybY1IxA60 812/888




 ……………………………… 



847 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:14:59.14 ybY1IxA60 813/888





「この体勢では本当……海が見えんな……」




848 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:16:14.39 ybY1IxA60 814/888




――軍艦・球磨は薄れゆく意識の中、吹き行く海風に心情を語った――。



849 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:19:24.45 ybY1IxA60 815/888




だけど私の目には、瑠璃色と白の濃淡が広がる、もう一つの海が広がっている。

一面に広がる大空が私を包み込んでいる。


ゆっくりと形を変え、きらきらと空を揺蕩う雲の姿は、まるで灯籠流しだ。

蒼空を優しく漂う御霊達の様だ。

私もあの中に加わる時が来たと言う事だろうか。



850 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:19:58.47 ybY1IxA60 816/888





「……でも、不思議と悪い気はしない」




851 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:21:31.28 ybY1IxA60 817/888




だって、世界はこんなにも。

あの人達が護ろうとした世界は、こんなにも輝かしく綺麗だって分かったんだ。

あの人達の想いはしっかりと引き継がれている事が分かったんだ。



852 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:22:04.74 ybY1IxA60 818/888





「ああ……空が綺麗だ……」




853 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:23:17.38 ybY1IxA60 819/888




あの御空に、白く眩く照らす太陽と淡く蒼く浮かぶ月が見つめ合っている。

あのふいと横を向いている月なんか、お前そっくりだ。

あれは、私とお前か?



854 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:24:57.97 ybY1IxA60 820/888




あの御空を切り裂く様に、一筋の白線を描いて進む飛行機が見える。

この世界の果てを目指して飛んで行くのだろう。

あの日、帝国の栄光と誉、そして数々の想いを胸に、日輪が照らす水平線の果てを目指してお前と一緒に進んで行ったな。

あれは、私とお前か?



855 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:25:26.32 ybY1IxA60 821/888





「提督」




856 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:27:59.77 ybY1IxA60 822/888




海風が私の濡れた頬と髪を撫で、波の音を運んできた。

ああ、先程よりも鮮やかに聞こえる。

その海風が運んできた波の音と共に囁く、あの人の声が聞こえる。



857 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:29:01.81 ybY1IxA60 823/888





――あの日、球磨に語りかけてくれた、提督の温かな声色が聞こえる――。




858 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:30:53.13 ybY1IxA60 824/888






「球磨、やっと答えを見つけたよ」





859 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:32:47.84 ybY1IxA60 825/888





その言葉に答えるかの様に、辺り一面に大きくて優しい海風が吹き込み、軍艦・球磨はその風を感じながら、ゆっくりと目を閉じた。




860 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:34:36.63 ybY1IxA60 826/888





――――そして軍艦・球磨の魂は、優しげに吹く海風に乗って、蒼空へと昇っていった。




861 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:35:30.07 ybY1IxA60 827/888









862 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:38:09.50 ybY1IxA60 828/888



 ………………………………


 ◆エピローグ:永遠平和の為に鐘は鳴る


 ………………………………


863 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:40:52.67 ybY1IxA60 829/888



――――これがこの数週間、艦娘・球磨と僕が体験した不思議な出来事だった。


この出来事を誰かに伝えなければと言う焦燥に駆られた僕は、僕が最も信頼を置いている地方総監部(鎮守府)司令官に、この一連の出来事を話した。

そしたら彼は『興味深い』と呟き、そして『この話を公表しよう。歴史に名を残すぞ』と提案してくれた。


864 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:43:42.90 ybY1IxA60 830/888



正直、僕は渋った。

僕は、軍艦・球磨と在りし日の提督の話、彼女たちの話を、艦娘・球磨と一緒に、そっと胸にしまっておきたかったんだ。

何故なら、彼女たちの想いが、世間と言う現実に曝され、そして穢されてしまう事が、僕にはとてもではないけど辛くて、苦しくて、恐ろしくて、怖くて、耐えられなかったからだ。


865 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:45:54.05 ybY1IxA60 831/888



でも、僕はそれでも。

彼女が生きた、あの激動の時代の出来事を。

そして彼女が担った、あの時代を生きた人達の想いを、このまま忘れさせてはいけない。

僕は、彼女との約束を守る為、誰かにこの事を伝えなくちゃいけないと言う、脅迫概念にも近い感情に見舞われたんだ。


だから僕は球磨とよく話し合って、球磨と僕の名前は伏せる事を条件に、その提案を飲み、僕が最も信頼を置いている司令官の彼に、この出来事の公表を依頼した。

僕は別に、何かを本当に成し遂げたかっただけであって、歴史に名を残したかった訳ではなかった。


866 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:47:59.08 ybY1IxA60 832/888



そして僕の話は彼を通して、瞬く間に国防海軍全体へと広がった。


話の主語を伏せていた為、内容は紆余曲折を経たものの、結果として、全ての話の行き着く先は決まっていた。


867 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:49:09.41 ybY1IxA60 833/888




『深海棲艦は、過去の大戦で沈んだ軍艦艇の成れの果てであり、誰かを護ろうとしたその想いを否定された無念から生まれた存在である』



868 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:50:55.62 ybY1IxA60 834/888



海軍の皆がこの話に触れ、皆様々な反応を示した。

その話を聞いたある者は憐情から涙を流し、ある者は実際に起こった事なのかを懐疑し、ある者は上手い創作だと気にも留めず、ある者は己が司令官としての行いを反省し、贖罪を心に誓った。


そして僕は、とある出来事が起った事により、生まれて初めて自分が本当に何かを成し遂げたんだと言う、実感を得たんだ。


869 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:53:34.56 ybY1IxA60 835/888



それは、司令官の誰かが始めた事なのか、はたまた艦娘の誰かが始めた事なのか。

誰が最初に始めた事なのかは僕には分からなかったけど、艦娘たちが深海棲艦との戦闘後に行ったある儀礼が、非公式に慣例化していったんだ。


870 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:54:48.82 ybY1IxA60 836/888




――――その艦娘たちの儀礼とは、深海棲艦との戦闘後に、沈めた深海棲艦に対して献花を供え、最高礼である21発の弔砲を3度鳴らし、弔辞を捧げて、弔意を表す、洋上慰霊儀礼だった。



871 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:55:18.93 ybY1IxA60 837/888




その右手には砲塔(ターレット)を。

その左手には献花(カーネーション)を。



872 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:56:05.10 ybY1IxA60 838/888




純白色のカーネーション。

その花言葉は、「尊敬」「純潔」。



873 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:56:42.91 ybY1IxA60 839/888




「その想いは今も生きている」。



874 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 02:59:20.00 ybY1IxA60 840/888



この1年、艦娘たちは誰に命令された訳でも無く、必ずと言っていい程、献花である白色のカーネーションを装備品に加え、深海棲艦と戦っていた。

司令官たちは、この非公式儀礼を黙認、と言うよりは推奨していた。

何故なら、司令官や国防海軍、ひいては国民の大多数が、艦娘たちの行いに希望の光を見出していたからだった。


また、弔辞は部隊によって様々だったけど、とある英国詩人が遺した説教の一節が最も多く用いられた。


875 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 03:00:59.18 ybY1IxA60 841/888




『貴女たちの死は、私たちの死。何故なら、貴女たちと私たちは同じ存在なのだから。それ故、あえて私たちが言う必要はない。誰の為に弔いの鐘の音は鳴るのかと。その弔いの鐘の音は、貴女たちだけのモノではない。それを聞く私たち自身の為にも、その鐘の音は、鳴っているのだから』



876 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 03:01:42.90 ybY1IxA60 842/888




――――そうして彼女たち、深海棲艦たちは、日に日に姿を現さなくなっていった。



877 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 03:06:52.49 ybY1IxA60 843/888



 ……………………………… 


深海棲艦との戦闘が殆ど報告されなくなった影響、また戦闘行動を止めた一部の深海棲艦の娘を、国防海軍が「艦娘」と言う扱いで人道的に保護していった影響により、「深海棲艦と戦う任務」を次第に解かれていった艦娘たちは、其々が生きる道を模索し始めた。


ある艦娘は姉妹たちと一緒に海軍を去り、今では一般人として学校に通い、立派に生活しているそうだ。

また、ある艦娘はそのまま海軍に残り、退職後の事を考慮した一般教育や職業教育を受けながら、国家公務員という立場で、今でも誰かを護る為に、心血を注いで働いてくれている。


878 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 03:08:47.91 ybY1IxA60 844/888



そして、現在の艦娘たちの任務は、「深海棲艦と戦う任務」から、その快速と機敏さ、そして艤装の恩恵から得た丈夫さを武器に、海で発生した船舶事故の対応および救難者の救助、また水害が発生した場合は、いち早く現場に駆けつけ、住民を避難させる、「救難・救助任務」が主となっていた。


中には艦娘たちを非難する人も居たけど、大多数の人たちが、嬉々として彼女たちの存在を受け入れていた。


879 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 03:10:20.28 ybY1IxA60 845/888



人生は戦いの連続だとも言える。

この先、彼女たちには人生という様々な戦い、困難が待ち受けているだろう。


――――だけどもう、彼女たちが武器を持って戦う事は無いだろう。


880 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 03:12:13.24 ybY1IxA60 846/888



 ……………………………… 


また、少しずつではあるけど、深海棲艦について肯定的に捉え、歴史を学ぼうとする理知的な人達も出て来た。


喪った多くの人命は決して戻らない。

彼女たちが行った事は、道徳的に考えれば、決して許される事ではないだろう。


881 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 03:13:52.54 ybY1IxA60 847/888



だけど、それでもなお、あの時代を生きた人達が必死になって何かを護ろうとした、その想い。

あの時代を生きた人達の想いを次の世代へと伝えようとした彼女たちの想い。

その両者の想いを、後世に残す事は出来ないだろうか。


その両者の想いを、永き平和状態の維持に役立てる事は出来ないだろうか。


882 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 03:16:07.16 ybY1IxA60 848/888



歴史的に考えれば、戦争状態の方が自然な状態だ。

むしろ平和状態の方が異常なんだ。


人間の本質は性善ではない、性悪だ。


そう言える程、人類は戦争を繰り返してきた。

ちょっと歴史を勉強すれば、永遠平和を望むなど、思想家の非現実的な夢想でしかない。


それが夢のまた夢の話であるという事を、僕は知らなかった訳ではなかったんだ。

それに自分で考えもしないで他者に流される儘、短絡的に、そして闇雲に平和を叫ぶという事だけは、僕には出来なかったし、それだけはしたくなかった。

恐らくは、歴史を学んだ人達も、同じ想いを抱いていると思う。


883 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 03:17:19.30 ybY1IxA60 849/888



でも、それでも。


歴史を学んだ人達は、一人一人が自分で考え、信じ、願い、そして祈ったと思う。

僕と同じく、自分で考え、信じ、願い、そして祈ったと思う。


884 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 03:18:20.55 ybY1IxA60 850/888




――――願わくは、あの時代を生きた人達や彼女たちの、誰かを護ろうとした想いが、永き平和への礎と成さん事を。

――――願わくは、古の軍艦艇の魂を抱いた彼女たちが、平和に過ごせる事を。



885 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 03:22:38.47 ybY1IxA60 851/888



 ……………………………… 


――――0800、国防海軍警備施設、埠頭。


『こんな所に居たクマか。執務室に居ないから、探したクマ』


日出でる早春の海、絶えず昇り続ける太陽によって、空と海は瑠璃色に輝いていた。

風光る海原、その隅っこにある軍港の桟橋にぽつりと座り、古びた士官軍帽を膝の上に乗せた男が一人。

其処には、まるでそれが仕事であるかの様に、静かな波を立てている海を呆然と眺め、黄昏ている男の姿があった。


886 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 03:25:00.39 ybY1IxA60 852/888



「まったく……こんな所で油を売ってるなんて、提督さまは本当、良いご身分だクマ。仕事の方はどうしたクマ?」


桟橋に座っているその男、提督へと、鳶色の長い髪を揺らし、春に浮かれる様に、ふわりと近付いてくる少女が一人。

そして提督に歩み寄った少女は、己が端麗な顔立ちを提督へと投げかけた。


887 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 03:26:29.49 ybY1IxA60 853/888



「球磨……」


提督はその声の主、艦娘・球磨へと、静かな声で答えた。

何か押込める様に目頭を押さえ、そうして笑顔を浮かべた提督は、球磨を見据えて弁明した。


888 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 03:27:56.56 ybY1IxA60 854/888



「いや、何て言うかさ……ちょっと考え事がしたくなってね……一応、緊急連絡が受信出来る様に軍用携帯端末(PDA)は持ってきたけど……ごめんよ、直ぐに執務室に……!」

「てーとく」


その呼び掛けと共に、手を後ろに組んだ球磨は、立ち上がろうとしている提督へと身体を傾けて。


889 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 03:30:28.31 ybY1IxA60 855/888




「お疲れだクマー。たまにはゆっくり休むといいクマー」


――――お日さまの様な温かな笑みを、提督に投げかけた。



890 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 03:33:08.47 ybY1IxA60 856/888



「……そうだね、たまにはそうさせて貰うよ。ありがとうね、球磨」


その笑顔を見た提督は、自然と零れ落ちたお月さまの様な静かな笑みを浮かべ、球磨に返した。


「クマ♪」


そして球磨は、提督の隣にちょこんと座ると、脚を海の方へぶらぶらと投げ出した。

暫くの間、球磨と提督は、眼前に広がる水平線を、穏やかに眺めていた。


891 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 03:36:47.58 ybY1IxA60 857/888



白銀の太陽、正対して蒼白く群青に浮かぶ月。

水平線の果てまで続く、暗雲一つない蒼空。

キラキラと白く光る、凍て溶けた浪間。

温かな息吹を運ぶ、柔らかな海風。

辺り一面を彩る、渡り鳥の旋律。


この世界の理想を映した様な、穏やかな海。


――――季節はもうじき、春。


892 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 03:41:19.20 ybY1IxA60 858/888



「あれ? そう言えば、球磨の妹たちはどうしたんだい?」


ふと、球磨と普段一緒に居る筈の四人が居ない事に気付いた提督は、球磨に顔を向けず、問いを投げかけた。


「今日は非番で皆出かけているクマ」


同じく海原を閑やかに眺めていた球磨は、視線を交えずに、提督へと言葉を返した。


893 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 03:43:42.70 ybY1IxA60 859/888



「ああ、そう言えばそうだったね。それにしても、球磨一人とは珍しいね。ここ1年近くは皆一緒だったってのに。特に木曾なんか、信じられないくらい球磨にベッタリだったじゃないか」

「もう1年以上前の出来事とは言え、あんな事があったから皆色々と思う所があったクマ。本当、可愛い妹たちだクマー」

「それなら尚更、球磨は一緒に行かなくてよかったのかい? 今は別に僕や基地の皆だけでも対処できるのに」


その問いかけに球磨は、柔らかな呼吸の後、母親の様な優しげな頬笑みを浮かべて、答えた。


894 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 03:45:23.22 ybY1IxA60 860/888



「たまには一人になりたい時もあるクマ」


球磨にちらりと視線を投げかけた提督の目に映ったのは、淡い桜色で頬を染めている球磨の横顔だった。


895 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 03:46:08.36 ybY1IxA60 861/888



「……そっか」


提督は静かに笑い、再び海へと視線を戻した。


896 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 03:46:40.18 ybY1IxA60 862/888




暫くの間、二人の間には心地良い沈黙が降りていた。



897 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 03:48:25.11 ybY1IxA60 863/888



「……球磨」


そして別段、言葉を探していた訳でも無かった提督であったが、海原を見つめていた顔を球磨へと投げかけ、ぽつりと球磨に呼びかけた。


898 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 03:49:16.14 ybY1IxA60 864/888



「なんだクマ?」


その視線に気付いた球磨は、上目遣いで提督を見据えた。

二人の目線が絡み合い、提督は言葉を紡いだ。


899 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 03:50:18.18 ybY1IxA60 865/888



「球磨はこの先、どうするか決めているのかい?」

「まだ、決めていないクマー」


その提督の問いかけに腕組みをしながら答えた球磨は、この先の展望を語った。


900 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 03:52:46.96 ybY1IxA60 866/888



「少なくとも、妹たちの教育課程が終わるまでは、此処に居るクマ。このまま海軍に居続けるか辞めるか、大学か民間企業か……まあ、道は沢山あるし、それに当分先の話だクマ。妹たちの進むべき道については、其々の判断に委ねているクマ」

「なら当分は、此処に居るって事かな。まぁ、球磨だったらどんな道を選んでも、卒なくこなせそうだしね」

「そうクマ。球磨は意外に優秀な球磨ちゃんって、よく言われるクマ」


腰に手を当て、ふふん、と愛らしげに鼻を鳴らした球磨であった。


901 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 03:54:11.50 ybY1IxA60 867/888



「それに……アイツとの約束もあるクマ」


そして提督の膝に置かれた、古びた士官軍帽を一瞥して、言葉を紡いだ。


「……そうだね」


海風は、二人の頬と髪を撫でる様に優しく吹き抜けていた。


902 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 03:55:09.60 ybY1IxA60 868/888



「……なぁ、球磨」

「どうしたクマ?」

「結局、彼女は最後に答えを見つける事が出来たけどさ……」


不意に何時ぞやの夜の胸騒ぎを思い出した提督は、心配げな顔を浮かべ、球磨へと問いかけた。


903 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 03:55:51.87 ybY1IxA60 869/888




「球磨の方はどうなんだい? 球磨も彼女と同じ様に、世界に対して絶望を……」

「提督」



904 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 03:56:50.97 ybY1IxA60 870/888




憂虞の念を浮かべた提督に対して球磨は、「もう心配しなくていい」と言わんばかりの表情を投げかけ、言葉を紡いだ。



905 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 03:58:48.48 ybY1IxA60 871/888




「それは可能性の一つだクマ。希望を託し沈んでいった球磨……絶望を叫び沈んでいった球磨……どっちも同じ、球磨ちゃんだクマ」


そして日光の様な力強い笑みを浮かべた艦娘・球磨は。



906 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 04:00:06.54 ybY1IxA60 872/888





「今の球磨は、古の軍艦の魂、その希望と絶望の想いを引き継ぎ、そして、その想いを胸に抱いて現在を生きる、艦娘・球磨だ」


――――提督に対し、高らかに己が存在を誇った。




907 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 04:02:23.94 ybY1IxA60 873/888




提督を静かに見据えた球磨の瞳。

その瞳は、太陽が乱反射する海鏡の光を抱き、きらきらと琥珀色に輝いていた。

その瞳は、海原と群青の空を抱き、きらきらと蒼玉色に輝いていた。



908 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 04:03:23.68 ybY1IxA60 874/888




「……そっか」


――月光の様な笑みを浮かべた提督は、心の中で思った――。



909 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 04:04:58.51 ybY1IxA60 875/888



この娘は強い。

この娘は、僕が口を出さなくても、そうした数々の想いを胸に抱いて、この先もっと、僕が思っている以上に、もっとずっと遠くへと進んでいくだろう。


910 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 04:05:48.21 ybY1IxA60 876/888



その内、この娘だけの幸福を見つけるだろう。

その内、この娘だけの愛を見つけるだろう。

その内、この娘だけの生きる意味を見つけるだろう。


911 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 04:07:02.95 ybY1IxA60 877/888



僕が立ち止り、人生を振り返る頃には、もうこの娘は此処には居ないのだろう。


去る者は追わず。

僕なんかが、この娘の人生に口を挟んじゃいけない。

僕なんかが、この娘の人生を邪魔しちゃいけない。


912 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 04:07:36.02 ybY1IxA60 878/888



でも、それでも。

今この瞬間、この僕の想いだけは、君に伝えておきたい。


913 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 04:08:30.39 ybY1IxA60 879/888



例え、僕の想いが泡沫の夢だとしても。

恐らく、在りし日の提督の想いと同じ様に。


例え、血は繋がっていなくても。

恐らく、在りし日の提督の想いと同じ様に。


914 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 04:09:23.71 ybY1IxA60 880/888




君が僕の下を去るその時まで、これからも君と一緒に誰かを護り、そして誰かを救っていきたい、と。



915 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 04:09:59.18 ybY1IxA60 881/888




――そして僕は、そんな君の提督、父親の様な存在、理解者でありたい、と――。



916 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 04:11:32.23 ybY1IxA60 882/888



突然、提督のポケットに入っていた軍用携帯端末(PDA)から、無機質な機械音が響く。


『近海20海里(マイル)地点の船舶より救難信号を捕捉』


作戦司令室から、緊急任務の連絡が入る。


917 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 04:15:15.41 ybY1IxA60 883/888



「さぁ、球磨! 休憩はお仕舞だ。今し方、救難信号を捕捉した。サポートは僕に任せてくれ!」


それを見た提督は、先程まで燻っていた火が灯った様に目を煌々と光らせ、球磨へと命令を伝達した。


「了解クマ! 球磨、出撃するクマー!」


そしてその提督の言葉を合図に、艤装を展開した球磨は、人々が紡ぎ出した光り輝く海世界へと踏み出していった。


918 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 04:16:28.40 ybY1IxA60 884/888




日輪は栄え、西の方に太陽は落とされ、暗闇が世界を染める。

月輪は栄え、東の方に月は落とされ、光明が世界を染める。


――――そうして、暁の水平線に、数多の想いが刻まれる。



919 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 04:17:10.97 ybY1IxA60 885/888




艦娘である一人の少女は、日出でた海原を滑走し、提督である一人の男は、その少女へと己の想いを託す。



920 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 04:19:35.18 ybY1IxA60 886/888



「さて、今日も人助け頑張るクマ!」


過去の歴史、人々が必死に生きた時代、その希望と絶望の軌跡はなぞられ、やがて現在を生きる人々の想いへと募る事により、両者の想いはより一層、輝きを増していくだろう。

太陽に寄り添った月の輝き、月に寄り添った太陽の輝き。

艦娘・球磨と提督が抱いた、その強く輝く想いは今日も、水平線を駆け抜けて行くのであった。



Fin.



921 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 04:21:20.14 ybY1IxA60 887/888



◇あとがき

拙文ですが、最後までお読み頂き、誠にありがとうございました。

本作品のメインテーマは「戦う者の想い」そして「想いを乗せて戦う」です。
また、バックテーマは「過去と現在を紡ぐ」「自己受容」です。

「軍艦・球磨」の軌跡を描く際の狂言回しとなった在りし日の提督のモデルにつきましては、
実際に艦長を務められた方をモデルとさせて頂きました。

その方のお名前は此処ではご紹介致しませんが、後方任務を頑張った球磨ちゃんと後詰で頑張った提督さん。
そのせいか話が膨らみ、随分と長いSSになってしまいました。

本当は球磨ちゃんの進水日である7/14に合わせて投稿したかったのですが、
とても間に合いそうにはありませんでしたので、終戦記念日直後からの投稿とさせて頂きました。

私は本作で球磨ちゃんの歴史を探ってみましたが、
皆さまも、皆さま自身が好きな艦娘の歴史をもう一度探られてみては如何でしょうか。
其処には思わぬ史実が隠されているかもしれません。


922 : ◆AyLsgAtuhc - 2017/08/28 04:24:51.35 ybY1IxA60 888/888



◇追記

本作品では、「大東亜戦争」あるいは「太平洋戦争」という、非常にセンシティブな歴史の一幕が題材の為、
私自身も気合を入れて、史実や証言を調べつつ、慎重に作品を描いたつもりです。

ですが私の知識が拙いせいか、それが十分描き切れたかと言いますと、
まだまだ不十分であったかと思われます。

また、この作品はあくまでも「史実モノ」に近い形を取っている作品でございます。
その為、受け取り方によっては何かしらの政治的意図があって描かれているのではないかと、
お考えの方も中にはいらっしゃるかと思われます。

しかし筆者である私の意見と致しましては、そうした政治的意図が一切無く、
そんな公の事よりも個人の想いや心情を描く事が何よりも大事であると考えおり、
この作品も極めて個人的な考えの上で描いている事を、この場をお借りして断言させて頂きます。

一先ずはどこかしらのタイミングで、過去作と今作を手直ししたものを合わせて、
小説投稿サイトに掲載するかもしれません。

最後にこの作品を作る際に参考した文献を何冊か下記に掲載致しまして、この話をお仕舞とさせて頂きます。
ご興味がある方は、是非とも図書館などで本をお手に取ってご覧頂ければ幸いです。

長々と文章を並べてしまい、大変恐縮ではございますが、
今後また、ご機会がございましたら、その時は何卒よろしくお願い致します。

【参考文献】
○木俣滋郎『日本軽巡戦史』(図書出版社、1989)
○原 為一ほか『軽巡二十五隻』(潮書光人社、2015)
○『戦艦大和&武蔵と日本海軍305隻の最期』(綜合図書、2015)
○『特攻 最後の証言』(文春文庫、2013)
○『図解 太平洋戦争』(河出書房新社、2005)
○加藤 陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(新潮文庫、2016)
○E.H.カー『歴史とは何か』(清水 幾太郎訳、岩波新書、1962)
○夏目漱石「私の個人主義」(青空文庫、2017年5月閲覧)


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