1 : 以下、名... - 2016/08/27 11:10:43.47 Ksn2qx+F0 1/522・帝春
・時系列は新約15巻以降
・初投稿なので文は稚拙
・キャラ崩壊とめちゃくちゃなオリ設定、オリキャラ
・それでもOKならどうぞ!!
…………………………。
「……、なに……?」
足蹴にした少女の口が動く。
彼は思う。自分の右足は彼女の左肩を捉え、確実にその関節を踏みにじって脱臼させたはずだ。路肩に面したオープンカフェの周りに人だかりができ、そして誰一人彼女を助けようとしない。その絶望の中で自分が垂らした一筋の糸。それに対して、今こいつは何といった?
「聞こえ、なかったんですか……」
頭に花飾りを掲げたその少女は、はっきりと聞こえる声で告げた。
「あの子は、あなたが絶対に見つけられない場所にいる、って言ったんですよ。嘘を言った覚えは……ありません!」
瞳に涙を浮かべ、駆け巡る激痛に全身を震わせながらも、彼女は目をつむり舌をべぇっと出し、自分を挑発する。
(……何だこいつ。どうして打ち止めの居場所を吐かねぇ。それだけ告げれば命は助けると、そう言ったんだぞ俺は)
自分の心は平静だ。そのはずだ。しかし、胸の奥に埋没した、見えない見えない精神の暗闇の底から理由のない疼きが走る。いや、理由がないと、思いたいだけで本当は分かっている。これは……。
(ッ!)
視界がくすみ、灰色に包まれた過去がフラッシュバックする。足元の花飾りの少女が、全く違う別の少女に見えた。ウェーブがかった白い長髪。涙ぐんだ灰色の瞳。白いレースのワンピース。胴に茶色の細いベルトを巻き、同じ色のヒールを履いた、14歳ほどの少女。
「……良いだろう」
再び足元の人物は現在の花飾りの少女に変わった。しかし、先ほどよぎった白い少女が、サブリミナル映像のように何度も視界に挟まれてくる。
「俺は一般人には手を出さないが、自分の敵には容赦をしないって言ったはずだせ。それを理解した上で、まだ協力を拒むって判断したのなら、それはもう仕方がねぇ」
肩から足を離し、照準を頭に定め今度は殺す勢いで彼女を踏みつけようとする。目の前の光景は、テレビのチャンネルを行き来するように、現在と過去を反復し続ける。その疚しさを今すぐにでも消し去るために、足に力を込める。
「だからここでお別れだ」
処刑の一撃が振り下ろされた。
最後に自分が見た顔は、今か過去か、どちらの罪を映し出した少女の顔なのか、もう自分でも分からない。
とある魔術の禁書目録SS 白垣根「花と虫」
…………………………。
「カブトムシ!」
その一声で、垣根は目を覚ました。
途端に目に飛び込んだ、カーテンの隙間から差し込むぬるい光により、もう一度目をつむる。今の彼は窓際の勉強机の上で、羽毛付きの、小さな白いカブトムシのストラップとなっている。
また目を開けて周囲を見渡すと、赤いランドセルと、置き時計がある。時計の針は午後二時四〇分を指していた。
垣根は振り向いた。声の主、フレメア=セイヴェルンが部屋の真ん中に立っている。
「大体、お前今日用があるんじゃなかったのか? いつまで昼寝こいているつもりだ? にゃあ」
白やピンクを基調とした上着はフリルやレースでモコモコと膨らみ、スカートとワインレッドのタイツで下半身を覆っている。まるで着せ替え人形のようなファッションに身を包む彼女は腰に手を当てながら、垣根に忠告する。
『……ああいけない。そろそろ約束の時間だ』
垣根は思い立ったように背中の甲殻を開き、その中の薄い羽根を震わせて声を作り出す。そのまま空中に飛び上がり、フレメアの方へ向かう。
フレメアの左横を通過し、彼女の後ろ辺りを漂う。彼の全身が白く輝き出すと、そのままみるみるサイズを増していき、姿が人型になっていく。そして現れたのは、身長180cm近くある、清廉な顔立ちの長髪男だった。ただ、色は全身白いままだ。
「ありがとうフレメア。少し、悪夢に魘されてしまいまして」
垣根は振り向き、今や見下ろさなくてはならなくなったフレメアに話しかける。彼の緑の瞳をじっくり覗き返しながら彼女は訪ねる。
「どんな夢だったの?」
「いえ、大したものではありません。昔の、嫌なことを思い出したくらいのものです」
垣根は冷静に、余裕げに微笑みながらフレメアに告げた。
「ふーん。カブトムシでも夢って見るんだね」
「感覚のある生物なら、夢は誰でも見ますよ。犬猫でもね。ただ、その生物の捉える感覚の中の最も強いものが夢に現れるようなので、もちろん人間と同じような夢ではありませんけどね」
「カブトムシが見た夢は、人間的な夢?」
「ええ。とっても、嬉しいくらい人間的です」
フレメアの頭を撫で、垣根は言う。
「それでは行ってきます。留守番、お願いしますね」
「ふん!! アリ一匹通さないくらい、立派な留守番になってやる!!」
垣根は笑い、そして玄関の方に歩いて行った。扉の開く音と閉まる音が聞こえた瞬間、フレメアはつまらなそうに左手のベッドに倒れ込み、口を歪めた。
「……羨ましいにゃあ」
これから垣根と遊ぶ相手に向け、届かない独り言を漏らした。彼女の目は寂しそうに潤んだが、それを否定するように勢いよく枕に顔面を突っ伏した。
佐天涙子と白井黒子はダイヤノイドにいた。
二人して一階のフロアにあるカフェ、「star books」のテラス席に座っている。中央の廊下を挟んだ周りの衣服、雑貨、食品のテナントは、日曜日のため人で溢れ、話し声が絶えない。しかし佐天は一言も発せず、ある一点を見つめていた。
「本当なんですの? 佐天」
相席している黒子も、視線を佐天と同じ方向へ向ける。黒子はいつもの学生服だが、佐天は黒のブルゾンの下にグレーのパーカーをまとい、ジーンズとスニーカーといった私服に身を包んでいる。
「間違いないよ。初春が待っているのは、十中八九彼氏!」
廊下の中心部。吹き抜けの広間になっているその真ん中に、イタリアを思わせる小さな白い噴水。いかにも集合場所らしいその手前の木製ベンチに座っていたのは佐天の親友。花飾りの少女、初春飾利だった。
「考え過ぎじゃありませんの? 普通にご学友を待っているだけじゃ……」
「ふっふっふっ。親友の目は誤魔化せんぞ初春。白井さんもちゃんと見てくださいよ。あれが女友達と遊ぶ前の女の子ですか!」
不敵な笑みを浮かべ佐天は指を指す。
そんなことも知らない初春はというと、制服に身を包み、少し頬を染めながら頭の花の様子を確認している。小さな人差し指で撫でられた白いコスモスが、静かに揺れた。初春は微笑みながら、前髪を人差しでくるくる巻き始める。
「………こっちにまで匂って来そうな甘~い仕草ですの。確かに最近、浮かれ気味なニヤけ面が多いと思ってましたけど」
「そうでしょ白井さん? 私と話してる時もなんか上の空なんだもん。さぁ~て、お姉さんに隠し事をした罪は重いぞ初春ぅ。是非とも彼氏さんの姿、拝ませていただきます!」
手元にあったカップコーヒーを一気に啜りながら佐天は観察を続行した。が、勢いよく飲み過ぎたせいかむせてしまい、ゲホゲホと俯いて咳き込んでしまった。
「にしても、御坂さん何で来なかったんですかね?」
口元を拭う佐天が黒子に聞く。
「さあ……最近はまた何も言わずどこぞを彷徨くことも増えて来ましたの。話しかけても、どこか上の空で」
はぁ、と黒子はため息を吐いた。
「何か会ったのかな御坂さん」
「私たちの杞憂だと信じたいものですわ……うん?」
その変化を黒子は素早く捉えた。視線の先の初春がベンチから立ち上がり、手を振っているのだ。
「こ、これは。いよいよお出ましですの」
「おお。遂に彼氏さんが!」
顔を上げる佐天。そして現れたのは。
「お待たせしました。初春さん」
「もう、女の子を待たせるなんてダメですよ。垣根さん」
「」
「」
絶句。
想像の斜め上をワープして宇宙空間に突き抜けた後、迫りくる隕石をドリルバンカーで破壊したような衝撃。
現れたのは白人というにはあまりにも白い、白すぎる男。顔立ちは端正で、瞳には柔和な雰囲気を宿しているが、何故か緑に発光している。
ともかく現実は、この異邦人と初春が笑顔で話ながら、共に廊下の向こうへ歩いて行く光景が広がっているのだ。
やがて我を取り戻した彼女たちは、急いでコーヒー代を払い、二人の後を追って行った。
「はいこれ」
垣根は左隣で共に歩いている初春に『いちごおでん』を差し出した。二人が歩いているのはブティックのテナントの並ぶ廊下だ。
「ありがとうございます。どうしたんですか?」
「実は少々、寝過ごしてしまいました。その償いを、と思って」
垣根は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「そうだったんですね。まあこれで良しとしましょう」
フンスと鼻息をついて、初春は思いがけぬプレゼントに満悦した。
「それに、私の方こそ制服のまま来ちゃいましたし。全く、せっかくの日曜も風紀委員にとっては関係ないんですよね。呼び出されて、業務に追われてました」
初春はため息をつく。疲れが濃く混じったため息だ。
「なるほど。でも、頭の花は変えたんですね」
「あ、分かります!? いやー流石鋭いなぁ垣根さん。垣根さんの色に合わせて白いコスモスを添えてみたんですけど、似合ってますかね?」
「ええとても。花の咲かないこの季節でも、可愛らしく咲き揺れている」
「いやぁ~まぁ、それほどでも」
初春はふやけた笑みを、垣根は柔らかい微笑を顔に巡らせ、共に歩く。
初春は手渡されたいちごおでんの缶を開け、両手で持ちながらゆっくりと飲んだ。
「うん、いけますね。私これお気に入りなんですよ」
「それは良かった。なら、私も同じ物を買ったのでそれを飲むとしましょう」
「あれ? 垣根さんって食事はするんですか?」
「まあ、必要なエネルギーは未現物質で創造できるので本来必要ないのですが、味覚はあるので食べることはできます。それに、貴方のお気に入りだ。是非とも味見してみたい」
そういって垣根は缶を開け、優雅にいちごおでんを口へと運んだ。
「……………………」
「垣根さん?」
一口すすったところで垣根は初春から顔を背け、一切言葉を発しなくなった。
「あれ? おーい垣根さん。どうしたんですか?」
「……初春さん。別に、無理はしなくていいんです。遅れて来た以上悪いのは私なんですから、気を使わなくていいんですよ」
「?」
なんのことですか? と、聞こうとした時だった。
「ちょっっっと待てえいそこの二人ーーー!!」
「!?」
驚いた二人が後ろを振り返る。そこには白井黒子、そして声の主である佐天涙子。自分ともう一人を除けたいつものメンバーが揃っていた。
「さ、ささささささ佐天さん!? 何やってるんですかこんなところで!」
「こっちのセリフだバカやろう! こちとら初春の彼氏の姿を見てやろうと思ってずっと張り込んでたのに、予想外もいいところだろ! 何なのこの白人、というより白い人は!」
「初春ぅ? 最近浮かれ気味な様子を見てまさかとは思っていましたが、やっぱり殿方と逢瀬を……それで、誰なんですのこの塗装前フィギュア男は」
「な、何勘違いしてるんですか二人共! 私と垣根さんは、別に、そんなんじゃ……か、垣根さんからも言ってやってください!」
「確かに……貴女たちが思っている私と初春さんとの関係が男女との恋愛の仲だと思っているのなら、それは誤解です。そもそも、私は既にそういう性別的な概念を超えた存在ですから」
捲したてる黒子と佐天に、冷静に垣根は対処していく。
「え? そ、それじゃあこの人は一体何なの?」
佐天は訪ねる。
「申し遅れました。私の名前は垣根帝督。学園都市第二位の能力、『未現物質』を操るレベル5です。よろしくお願いします」
見るもの全てに、木漏れ日のような安心を与える笑顔を見せ、垣根は軽く頭を下げた。
「れ、レベル5ゥ!?」
佐天は仰天した。
「に、二位ということはお姉さまより上の能力者。しかも何かお姉さまより常識人っぽい!」
黒子も似たような反応だ。そもそも彼女の中の超能力者の破綻的なイメージと、目の前の彼は、赤外線センサーを避けまくるルパンの如く交わりがない。
「スッゴイじゃん初春ぅ! こんなイケメンで優しくて、しかも超能力者なんて、超優良物件の大豪邸彼氏じゃん! 色落ちしてるのがちょっと気になるけど」
初春に抱きつき頭を撫でながら佐天は精一杯の賛辞を送った。さっき垣根から丁寧に説明されたことなどすっかり忘れている。
「だ、だから彼氏じゃないんですよ佐天さん! クリスマスも近いから、垣根さんのお世話になってる女の子にプレゼントを買おうかなって、それに着いて来ただけなんです!」
「そもそも、一体どうして初春、あなたが超能力者と知り合えるようになったんですの? ひょっとしてお姉様絡みで……」
黒子が素朴な疑問を投げた。
「ああ、それは、垣根さんは今噂の都市伝説『カブトムシさん』の正体でして、以前助けてもらったからです」
「」
本日三度目の弩級の仰天に、佐天はまた絶句した。
「カブトムシさんって、あの、困った時に『助けてカブトムシさん』って呼んだら来てくれるというあの都市伝説の?」
「ええ。私がその都市伝説の、カブトムシさんです」
「…………」
「どうされました?」
時代錯誤が過ぎて黒子は笑いそうになった。が、よくよく考えると自分の「ジャッジメントですの」もひょっとしたら同類かもと思い、何とも言えない表情が一気に面に出てきた。
「そうです。実は丁度パソコンを風紀委員の本部に置いてて、その状態でスキルアウトに絡まれてしまったんですよ。その時、佐天さんの言ってたカブトムシさんを思い出して、で、読んでみたんです。そしたら垣根さんが来て。最初は『怖かった』んですけど、よくよく話してみると正義感溢れていて、物腰柔らかで、話していると楽しくて、」
「で、恋に落ちたと」
「そうそう……って、だから違うんですって佐天さん!」
突如会話に復活してきた佐天のからかいに、初春はあう~と、ぽかぽかと可愛い音を立てる打撃、といっていいのかもわからない子犬のじゃれ合いのような連打を佐天に浴びせた。
「ハハハハ。まあ、それはさて置きカブトムシさん!」
「はい、何でしょう?」
佐天は食い気味で見つめながら手持ちのカバンからノートを取り出し、白紙のページを広々と見せ、直角に頭を下げた。
「サイン下さい! 私、都市伝説大好きなんです!」
ファンの鑑のようなその仕草は、周りを歩いていた人々も思わず目を注ぐような美しい礼だった。
「え、ええ。私ので良ければ構いませんが、特にサインなど考えてないので」
そう言って指先を鉛筆の芯のように変形させ、ノートに触れ、高速で何かを描き始めた。
「こんなイラストでよろしければ」
現れたのは、先ほどまで自分が変形していた、一枚の羽毛をまとった小さな白いカブトムシの絵だった。
「やったー! ありがとうございます! そんじゃ、謎は解けたしサインは貰えたし、後は二人水入らずで邪魔者は退散します。じゃーね初春! 頑張れよー!」
「何を頑張れって言うんですか!」
初春の突っ込みには返答せず、二人は廊下の向こうへと去っていった。
「す、すみませんこんな感じの友達で……」
「いえいえ。とっても賑やかで、楽しそうな人たちだ。では、行きますか」
「ですね」
そして二人はまた並んで歩き始めた。あの二人に見張られていたのは驚いたが、蓋を開ければ意気投合できた(誤解はされたままだが)ので、内心垣根は安心していた。
特にイラストを送ったあの佐天という少女は、性格的にもフレメアと仲良くなれそうだ。今度二人を会わせて遊んでみるのもいいかもしれない、と垣根は思った。
垣根と初春は目的のブティックにたどり着いた。テナントの正面の天井には、黒字で「zoo」と書かれたメープルの看板が飾られている。
「ほう。ここが貴女の言ってた子供服のブランドですか。いい雰囲気だ。これならフレメアの喜びそうなものも見つかるかもしれない」
二人はテナントの中に入り、柔らかな電球色の照明に身を包まれながら、店内を物色する。
すると早速、横に長い3段のガラス棚の前に垣根は止まった。2段目の棚に置いていた一着を手に取り、初春に見せる。
「初春さん。これとかどうでしょうか?」
彼が手にしたのは赤いチェックの、シンプルなデザインのシャツだった。
「うん。王道で、いいんじゃないんですかね」
少なくともプレゼントとしては申し分ない。初春はそう思い、答える。
「因みにそれ、値段はいくらですかね?」
「ええっと、1400円ですね。お手頃な価格だ」
難なく答えた彼に初春は何かを思うのか、親指と人差し指の間をあごに当てる。そして垣根の横を通り過ぎ、棚の向こうのハンガーに吊るされた衣服類を物色し出した。
「ちょっと? 初春さん?」
すると、吊るされた中から一着取り出し、垣根の目の前につきつける。
「ホラ、こっちの方がいいんじゃないですか? せっかくのプレゼントですし、ちょっとくらい豪華な方が……」
そう言って渡されたのは、両脇にボタンが6つ付いた灰色のピーコートだった。垣根は先ほどのシャツを棚に戻し、それを手に取る。タグを確認すると、料金は5200円だった。
「ふむ。確かに先ほどのはプレゼントにしては少し味気なかったかもしれない。それにせっかくのおすすめだ。貴女の言うとおり、これにしましょう」
感謝の微笑みを彼女に向ける垣根。次に打ち止めの服を探そうとする。
「さて、次は……あの子が欲しがっていたのはマフラーだったはず」
そう言ってマフラーの置かれた棚に向かった垣根。先ほどのガラス棚とは違い、着衣室の横にある木の棚に並んだそれらを物色しながら、やがて一つを取り出して初春に見せた。
「このマフラー、初春さん的にはどうでしょうか?」
垣根に手渡されたそれを手に取る初春。もふもふとした感触が手に走る、スラブヤーンの白のマフラーだった。
彼女はすぐさまタグを確認する。値段は税抜き3000円。それを見た初春は他の品もまた見始めた。垣根は自分のセンスはそんなに疑わしいものなのかと、目の前の彼女の行動を見てそう思う。しかし、
「うーん……全部同じか………あ、垣根さん! これで良いんじゃないですか?」
先ほどとは違い、自分の選んだ品を変更することはしなかった初春。垣根はえ、ええ。どうもと返した。
「よし。では行きますか」
手にした二つの品を掲げ、レジ向かおうとする垣根。
「ちょ、ちょっと待ってください」
彼女の静止に、垣根は立ち止まる。
「何か?」
「いや、ホラ、せっかくだしコートやマフラーだけでいいのかなぁ~と。スカートやズボンも見ていきませんか? 他にも、下着類もあるし」
どこか目を逸らしながら、白々しく買い物を促す彼女に、垣根は首を傾げながら聞き返す。
「とは言いましても……彼女らが欲しがってたのはこの二つだけですよ? 無駄に散財するのは如何かと」
「無駄ではないと思います! ほら、そんなこと言う時に限って遠慮してるんですよ女の子ってのは! そういうレディの繊細な感情を理解して貰うために、この私が直々に着いてきたんですから! 分かったら他も見に行きましょう!」
「いや、彼女らに限って私に遠慮なんて……ん?」
垣根は彼女の真上に吊るされた広告に目をやった。そして、何故彼女がこんなにと自分に金を使わせようとしたのか理解した。
広告の内容はこうだ。
クリスマス間近の福引セール! 今ならお買い上げ商品1000円ごとに一回可能!
1等賞・ノート型パソコンBAIO
2等賞・AKUOS 26インチ型
3等賞・ダイコップLITE
4等賞・1000円分のお買い物券
残念賞・テッシュ4箱 1セット
「…………初春さん」
「え、えっと、ナンノコトデスカ?」
目を合わせず、しらばっくれる彼女を見て、垣根はため息混じりに笑った。きっと、このキャンペーンがあることを知った上で自分をここに誘導したのだろう。
「買い物はこれだけにします。それでいいですね?」
その決定に、うーと不満げな声を漏らす初春。心配せずとも、と垣根は付け加えた。
「初春さんなら1等賞当てれますよ。そもそもこれらだけでも8回回せるんですから。チャンスは十分にあります」
垣根のフォローに、そ、そうですねと俄然やる気を灯した瞳で真っ直ぐにレジを見据えた初春は、彼と並んでレジへ向かい、会計後手にした8回分の回数券を握りしめ、いざ福引の前に立ち、そして手を伸ばした。
数分後、大量のテッシュボックスを持った男女二人がテナントから出てきた。
てくてくと廊下を歩く垣根と初春。互いに4箱入りのティッシュセットを、両手に2個ずつぶら下げている。
「うぅ……せっかく新しいパソコン欲しかったのに……」
福引で狙いの商品を引き当てられなかった悔しさを引きずりながら、初春は低いトーンで呟いた。
「良かったじゃないですか。涙を拭くティッシュならたくさんある」
「こんなに入りませんよ! もう! 全部垣根さんに上げますから好きにしてください!」
はいはいと言った垣根はそこで立ち止まる。すると両手のティッシュセットが全て跡形もなく消失した。
「え? ひょっとして消滅……」
「そんな勿体無いことしませんよ。自宅にワープさせただけです。ほら。そっちのも貸して」
目の前の現象に驚きつつも手にしたそれらを垣根に渡した。そして先ほどと同じようにそれらも消滅する。
「か、垣根さんテレポートも使えたんですね……」
「3次元上の物体を11次元の計算に置き換える既存のやり方ではありませんがね。未元物質により生み出した『負の質量』を持つ物質との相互干渉によるワープ現象ですよ」
互いに手元をすっきりさせた後、垣根はさてと呟いた。
「初春さん。吹き抜けの広場に39アイスクリームがありましたよね? 良ければ一緒に食べませんか?」
「え? いいんですか! 私すっごい好きなんですけど!」
初春は瞳を輝かせて垣根に食いかかる。目が1.5倍ほど大きくなったような気がする。
「ええ。私の奢りです」
えーいいのかなー何選ぼうかなー!? と体を揺らす初春。垣根は微笑み、そして二人は並んで歩く。一階のフロアに降り、人混み溢れる廊下を歩き、やがて前方に目的地の広場が見えてきた。
吹き抜けの大広間の中心に、目的地の39アイスクリームがある。その手前に白い丸テーブルが5、6つ散らばっており、茶色い鉢に植えられた観葉植物が、その一帯を囲むよう置かれている。各席に座りながらスイーツを食べ、談笑する人々が見える。
肝心の店の前には、店の幅を少し超えたほどの列が右方向に一列並んでいる。
「ありゃ。流石に日曜は並んでますね」
「ええ。ですが、待つ楽しみというものもある。それでは行きますか」
列の最後尾へと歩き出した垣根を見て、それに付いていく初春。ざわざわと話し声の絶えない列の右横を歩きながら最後尾へ向かっていると、その直前で足を止めている垣根の背中があった。
「垣根さん? 何で立ち止まってるんですか?」
「……これはまた、奇妙な縁だ」
飛び出した台詞には、微かな諦めが込められていた。初春は首を右に逸らし、前方を見る。
「あーもう! 早くアイス食べたいー! ってミサカはミサカは一向に縮まらない行列に向かって、意味のない訴えをしてみる!」
「意味がねェって分かってンなら黙ってろクソガキ。俺だって別に食いたくもねェスイーツのために我慢して並んでるンだからよォ……アン?」
互いに苛々している、兄妹のような男女。明らかに見知ったその二人の顔に、垣根は絶句する。丁度同じタイミングで、向こう側もこちらの存在に気付き、垣根と似たような顔をした。
「……お前何してンだこんなところで」
「いや、こちらの台詞です。貴方こそ何を? 一方通行」
「ん? 誰かと思えばカブトムシではないかーって、ミサカはミサカはアイスを奢って貰うのに都合のいいカモを見つけたことを内に秘めながら、喜んでみる」
「今現在、その邪な考えはだだ漏れていますけどね」
そう言って垣根は笑う。学園都市最強の能力者、一方通行と、彼が世話をしている少女、打ち止めがそこにいた。
細身の体に白髪、白一色の衣服、ついている杖やアルビノの瞳といい、冷たく尖った印象の一方通行。くるんとしたアホ毛、見るからに柔らかい冬物のブラウンのワッフルコート、そして輝く天真爛漫な瞳と暖かい印象の打ち止め。いつ見ても対照的な二人だと垣根は思う。
「見て分かンねェのかよ。買い物だよ買い物。ッたく俺一人だけでいいの勝手に着いて来やがって」
「どこ行くって聞いたらゲームショップなんて言うから気になるよ。最近ミサカにゲームブームが来てるのを知ってるでしょって、ミサカはミサカは確認してみる」
よく見ると一方通行は、片手にゲームソフトの入った袋をぶら下げていた。そしてこの時期のことも考慮して、彼の本当の目的を察する。
「なるほどなるほど。実に微笑ましいことだ」
「アァ? ンだその見透かしたような面は。ていうかお前の横のそいつ……」
一方通行は垣根の背後から顔を出す初春に目をやる。初春は小動物のようにビクッと震え、こ、こんにちはと小声で挨拶した。
「あ、あれ? どこかで会ったこと……」
初春はあやふやな記憶を辿り、一方通行に尋ねる。
「会ったも何も、お前の目の前のそいつに」
一方通行が言葉を繋げるその前に、彼の横の打ち止めが初春めがけて飛び出してきた。
「あ! ひょっとして! あの時の花頭のお姉ちゃんだよねって、ミサカはミサカは思わぬ再会に心踊せ、お姉ちゃんに駆け寄ってみる!」
「え? あ、あー! ちょっと前に会った御坂さん似のおチビちゃん!」
久しぶりですと声を弾ませ、二人は両手を合わせながら喜ぶ。
「……何でお前、『こいつ』といるンだ?」
一方通行は垣根に尋ねる。
「まあ、『色々』ありまして」
垣根は返答する。その濁された反応に、これ以上の追撃は無意味だと思い、一方通行は質問を止めた。
「で、一応聞きますけど、これ、貴方達が最後列なんですよね?」
「見りゃ分かンだろ。何だ? まさかお前らもここの……」
一方通行は途中で台詞を切り上げ、隣にゆっくり視線を向ける。すっかり意気投合し談笑し合う初春と打ち止めの姿がそこにあった。追い打ちをかけるが如く、二名ほど自分たちの後ろに並び初めている。
「……しばらく、宜しくお願いしますね」
垣根は何とか笑ってみせたが、嫌悪一色の顔をした一方通行から、キモいから止めろと吐き捨てられた。
30分後、目当てのものを買えた彼女らを連れ、四人は白い丸テーブルに座った。正面から見て北側に垣根、東に一方通行、南に打ち止め、西に初春という席だ。テーブルの上にはドーム型のアイスが3つ乗ったパフェと、カップに入ったチョコ味のアイスクリームがある。
「何でさも当たり前のように同席してンだよお前らは」
気だるげに一方通行は突っ込んだ。彼の隣では、さっそくアイスを頬張りご満悦な打ち止めがいる。
「えー。いいじゃないですか。アホ毛ちゃんとも喋れるし、あなただって、垣根さんと仲良く」
「アァ?」
途端に一方通行の赤い瞳が鋭く滾った。
「い、いえ。ナンデモナイデス」
「ああ。言葉には気をつけるべきだなァ。この白ゴキブリと俺が仲良しなンてどこをどう見れば思うンだテメェ?」
「ちょっと、表に出ましょうか一方通行。貴方は今私に言ってはいけないNGワードぶっちぎりの一位を言ってしまった」
異常に威圧的で、張り詰めた笑顔をしながら、垣根は一方通行に近寄る。彼も彼で上等だコラァとガンを飛ばすなど、乗り気な反応を見せる。
「ちょ、ちょっと二人とも!? 喧嘩は止めて下さい!! 人もいっぱいいるし、そもそも超能力者二人の戦いとか、シャレになりませんって!!」
「カブトムシー? いつものあなたらしくないぞって、ミサカはミサカは似合わない喧嘩腰に違和感を抱きつつ忠告してみる」
二人の必死な鎮火を見て、垣根は毒気が削がれたようにため息をついた。
「まあ、初春さんもいることですし、今日のところは多めに見ましょう」
「抜かせ雑魚が。二位が一位勝てる日なんざこねェよ」
「貴方前に私の悪意の集合体に負けかけませんでした? 麦野さん付きで」
「オーケーオーケーェッ!? 今なら無料で害虫駆除を行ってやるよォッ!?」
再び立ち上がった両者を見て、初春はもー!! と言いながら宥める。何とか場も収まり、初春と打ち止めは手元のスイーツを食べ始めた。
「ん~。やっぱりここのトリプルアイス乗せパフェは絶品ですね」
満足気にパフェを頬張る初春を見て、垣根はおまけで付いてきた小さなプラスチックのスプーンの袋を開け、一口いいですか? と彼女に聞く。快く了承してくれたので、自分の方へ出っ張っているドーム状のアイスの表面を掬い、口に入れた。
「うん。確かにこれは美味しい。これは」
「これは?」
何と比較したのか気になった初春が聞き返したが、垣根は微笑むばかりだった。仕方ないので、自分も笑ってみせた。
「ケッ。公衆の面前でイチャついてンじゃねェよバカップル共が」
仲睦まじい二人の様子を見て、視線を横に逸らしながら一方通行は呟く。すかさず初春は、そ、そんなんじゃありませんから! と弁明する。
「てかお前、さっき超能力者二人って言ってたが、俺が超能力者だって知ってたのか?」
一方通行の質問に、初春はパフェを食べながら答える。
「知ってるっていうか、思い出しました。以前会いましたよね? 垣根さんと一緒に」
その答えに、一方通行の瞳は冷ややかに尖る。彼女を見つめ、質問を続ける。
「まあ違いねェが、第二位と一緒に会ったっていうことは、お前ら二人の馴れ初めも覚えてるってことだよな?」
初春はパフェを運ぶ手を止めた。しばしの重い無言がテーブルに流れる。
「ええ。覚えてますよ」
だがその粘い空気はすぐさま消えていった。初春は迷いなく、むしろ軽く笑ながらそれを告げた。一方通行は一気に緊張感が抜け、栓が抜けるようなため息を吐いた。
「アァ。そうかよ。まあ別にいいンだがな。だが俺はそいつを完全に認めたわけじゃねェ。今のところ害がないからほっといてるだけだ。『前』のテメェを知ってる以上、気を許す気になンてなれねェよ」
忠告めいた鋭い瞳で、一方通行は垣根を睨む。
「分かっていますよ。貴方と私の関係は、それでいい」
垣根は余裕な笑みを崩さず彼に告げた。一方通行は舌打ちをし、再び顔を横に逸らす。
「ただ、一つ言わせてほしい」
アァ? と言いながら一方通行は逸らした顔をもう一度垣根の方に向けた。
「私と貴方は決して相慣れないとしても、今の貴方は、私は好きですよ。さっきみたいに冗談めいたやり取りができる貴方が。前なら絶対あり得ませんでしたし」
机に肘を置き、杖をつきながら横目で垣根は彼に告げた。微笑みながらも、冗談ではないという口調で。
「……ケッ。俺はテメェなンざどこを取ってもムカつくメルヘン野郎に過ぎねェと思ってるがな。前は論外もいいとこだが、今は今で気色悪りィ」
眉間に皺を寄せながらも、悪い気はしていないような腕組みをし、一方通行は垣根に返す。
「心外だ。文字通り心を入れ替えて頑張っていると言うのに。貴方も以前の悪党のように、一ヶ月近くで終わるような信念で今の貴方を崩そうとしないでくださいよ? 夏休みのバイトじゃないんだから」
「確かに悪党は一ヶ月近くで辞めちまったが、一ヶ月で人間まで辞めた奴に言われたくねェ」
「辞めたんじゃありません。辞めさられたんです。貴方に」
内容は少しブラックだが、こんな風に談笑し合える二人の姿を見て、初春は心の内が暖かくなってきたのを感じた。ふと打ち止めを見てみると、既にアイスを平らげ空になったカップを見て、物寂し気な目をしていた。気づくと自分のパフェも残りわずかだ。
「あー。何だか私もうちょっとアイス食べたくなってきたなーアホ毛ちゃんもそうですね?」
「確かにもっと食べたーいってミサカはミサカは奢ってもらえるのをいいことに追加オーダーを頼んでみる!」
互いに腹を抑えながらテーブルに突っ伏し、横目で垣根をちらちら見る。
「はいはい。そんなあからさまな訴えしなくても、普通に買ってきますよ」
垣根は席を立ち上がる。
「オォイ? お前そンなに食って晩飯食えンのか?」
一方通行は打ち止めに聞いた。
「甘いものは別腹だもんってミサカはミサカは育ち盛りの食欲に限界はないことを誇張してみる!」
「ンなこと言いながらこの前も晩飯残してただろうが。この辺で抑えとけ」
「この前食べたのは焼き芋だったし! あんな炭水化物お腹膨れるよ! だからアイスは別腹なのってミサカはミサカは再度訴えてみる」
「ダメだ。黄泉川がうるせェ。大体もう冬だろうが。腹壊すぞボケ」
呆れ顔でそう告げる一方通行に、ブーたれる打ち止め。垣根はそんな二人見ながら笑い、では、初春さんのものだけと言いながら店の方へと向かった。
「ホント、親子みたいですねお二人」
初春もまた微笑み、二人に告げる。一方通行はケッと吐き捨て視線を横に逸らした。
「そう言えばなんですけど、第1位さんって、垣根さんとよく話したりするんですか?」
遠くの行列に再び並んだ垣根の姿を見ながら、初春は訪ねる。
「アァ? ンなわけねェだろ。そもそもあのクソと話すことなンざそうねェよ」
不機嫌丸出しの瞳で初春を睨む一方通行。
「そ、そうですか。でも、アホ毛ちゃん絡みでたまに話すんじゃないですか? その時に何か、昔の話しとかしてません?」
彼女のその問いに、一方通行はしばし黙り込んだ。
「……ねェな。昔の話は」
しばらくして帰ってきた返答に、そうですか。と初春は何でもなさそうな声でそう言った。それから手元のカップジュースを持ち、口元に寄せてストローを吸う。
「……………………」
一方通行は、怪訝な目で初春を見つめた。彼女はそれに気づかず、手に持ったカップの中を見ているような、それとも何も見ていないような目をしていた。
四人がダイヤノイドにいる頃。ツンツン頭の少年、上条当麻は病院に居た。エレベーターで4階まで登り、「408」と書かれたプレートのある病室のドアの前に立ち、ノックする。何だ? と中からふてぶてしい声が聞こえのを確認し、彼は笑いながら病室に入る。
「何だはないだろ。せっかく見舞いに来てやったってのによ。フィアンマ」
彼はフンと笑う。セミロングの赤い髪と、鍛えているとは思えない細身の体。隻腕。普段はくまなく赤いスーツに身を包んでいるが、今は緑色の病院着だ。かつて「神の右席」と呼ばれた集団のリーダー。右方のフィアンマが、少し立てらせたベッドに横になっていた。
「それで、見舞いの品は持ってきたんだろうな?」
「心配せずとも。ほれ」
上条は片手に下げたレジ袋から何かを取り出す。
「お前の好きなものって何か分からなかったから、適当に買ったけどよ。ほら。トマトジュース」
「俺様の何を持ってしてトマトジュースだ? 色か? 色なのか?」
渡されたトマトジュースに不満げな顔をするフィアンマ。
「大丈夫。それだけじゃねぇって。味気ない病院食のお供に、旨いかキムチだ」
「舐めてんのか! お前俺様を舐めてんだろ! 金欠のクセにこんなしょうもない一発ギャグに散財するな! 一体俺様のことを何だと思ってる?」
「ドヤ顔で俺と御坂を助けにきて速攻でミイラのおじいちゃんに吹っ飛ばされた、世界を救おうとした男」
「…………………………」
フィアンマは黙りこくり、俯いた。
「わ、悪かったって! そんなに落ち込むなよ」
あせあせと弁明しながら窓際に周り、パイプ椅子を取り出す上条。内心何しにきたと思ってはいたが、本人も自覚していたようだ。ふと窓の外を見てみると、日は半分近くまで沈み、街灯がちらほらと灯り始めている。
「ふん。何も、手も足も出なかったというわけではない。実際、妖精化の槍の何本かは奴に打ち込めたのだからな」
「え? にしても全く微動だにしてなかったぞあいつ。何本くらい打ち込めたんだ?」
語り出したフィアンマの言葉に引っかかりを感じた上条は、彼に聞く。
「さあ……何せ1秒を何億分割した世界での攻防だったからな。正確な数は覚えていないが、まあ、3本くらいは食らっていたと思う」
そう言って、手に持ったトマトジュースにストローを突き刺し一気にすするフィアンマ。名前ほどトマト感がないな。詐欺か? などと呟いている。
「3本」
繰り返す上条。別に、僧正が生き返るなどという懸念はしていない。僧正は死んだ。それは確定事項だ。
「フィアンマさーん。夕食の時間ですよー」
「入れ。チッ。またその味気ない定食か」
「文句言わないでください。こんな美人のナースに夕食運ばれるなんて、この病院の中でもそうそうないですよ」
「自分を自分で美人という女など信用できるか」
「自分を自分で俺様なんていう人よりはマシだと思います」
だが、そことは違った場所で胸騒ぎがしている。幾たびの戦闘の中でいつの間にか形成された危機を察知するセンサーのようなものが、彼方からサイレンを鳴らしているような、そんな気持ちだ。
「ところで聞きたいのだが、この旨いかキムチというの、一緒に食べても大丈夫か? せっかくの見舞いの品なのだが」
「うーん。本当は刺激物は遠慮して欲しいんですけど、まあ元気そうだし、そろそろ退院だからいいですよ」
「分かった。全く。かつては神の右席のリーダーとして、ローマ聖教を影から支配していた俺様が、今やこんなナース一人に伺いを立てねばいかんとは」
「はいはい。またそのローマ聖教とやらの話、聞かせてくださいね。今度はあの左方のテッラっていう人の話」
「奴との馴れ初めを聞かせてやる。もう下がっていいぞ」
ごゆっくり。という言葉が耳に入ってきた時点で、上条は顔を上げた。茶髪でショートの髪型をしたナースが病室から出て行ったのを見届けたところで、彼は顔をフィアンマに向けた。
「お前、結局俺の見舞いの品、くまなく活用してんじゃん」
「悪いか? どの道あるものは利用する他あるまい……結構いけるな」
キムチの蓋を開け、一口つまんで感想を述べた後、少量を白ご飯の上に乗せ、また口に運んだ。
「そもそもお前、今の今まで何してたんだ? 船の墓場でオティヌスと一戦交えたとこまでは聞いたけど」
「22学区というところか? そこに潜伏し、妖精化の術の改良に勤しんでいた。お前らの愛の逃避行を追撃するのも悪くはないと思ったが、あの男から貰った物質の適合作業に時間を食ったしな」
フィアンマはおひたしを箸でつまんで口に放り込んだ後、味噌汁の入ったお椀を手に取り、中の汁をすすった。
「あの男?」
口に含んだ味噌汁をごくんと飲み干した後、彼は述べた。
「垣根帝督。と名乗っていたな」
その名を聞いた途端、上条の顔は強張り、記憶の底の海で稚魚が踊りだしたかのように頭の中がざわめいた。
(……垣根帝督? どっかで聞いたこと……)
しかし、未だ確証の持てないざわめきだったために、話を続けてくれとひとまずフィアンマに会話の主導権を移した。
「ふむ。まあ俺様もオティヌスにやられてその辺で伸びていてな。目を覚ましたら、既にお前らはいなかったわけだ。そして船の墓場の周辺を彷徨いていたら、その男と出くわした。どうやらその男、主神の槍の製造のために利用されていたようでな。それで俺様に……何だ? こう、一定の形を保たないプラチナのように光る白い球体を渡してきてな。いや、そんな顔しないでくれ。あれが何か俺様にもよく分からなかった」
確かに今の自分は怪訝な顔をしているが、理由はそれではない。それで? と上条は聞き返す。
「お前それを貰って、それで妖精化の術を改良したのか?」
「主神の槍の製造、ということは魔神の力をコントロールする術を有した物質ということだ。利用するには適した代物だろ。これから起こる新たな魔神との戦いにも使えるかと、そう思っただけだ」
「ちょっと待て。お前知ってたのか? 魔神がオティヌスだけじゃないって」
「元々オティヌスはオッレルスの個人的な理由で相見えたのが主な理由に過ぎん。魔神という存在は、何も北欧神話に限ったわけじゃない。いずれお前のその右手を狙って奴らがこの世界に攻めてきた時の対策を、俺様たちは練っていたのだ」
得意げに語った後、だが全く歯が立たなかったのが事実だかな。と自虐気味にほくそ笑んだフィアンマ。それを見た上条はひとまずため息を吐き、その後に言葉を続ける。
「そんなしょげんなよ。そもそも魔神なんて勝てる方がおかしいだけだろ」
「だがお前はその魔神と分かり合うことができた。対等の立場に立つことにより、少なくとも魔神の一人を無力化したんだ。それに比べれば俺様など余りにも無力だった。第3の腕など所持していた身としては、随分と効いた皮肉だ」
その台詞に、上条は笑う。
「無力化なんて、大層なもんじゃねぇよ。オティヌスの時も、ずっと翻弄されっぱなしだった。一度は心も折れかけた。それでもあいつと向き合ってたらさ、いつの間にか何か、分かっちまうもんがあるだけだよ。俺が特別なんてわけじゃなく、誰だってできることだ」
「…………そうか」
漠然とした、雲を掴むような返答。彼にとってはまだ、理解できない領域の話なのかもしれない。自らのエゴで世界の歪みを直し、世界を「救ってやる」と豪語していた自分が、無意識に避けていたことだから。
「これからだよフィアンマ。これから、少しずつ分かっていけばいいんだ」
そんな取り留めのない会話をしている内に、先ほど感じた粘ついた違和感はいつの間にかどこかに消えていった。厳密には完全に消えた訳ではないが、それを無視して上条はこう答えた。
「にしても、お前にそんな大事そうなものを与えるなんて、ひょっとしたらいい奴だったのかもしれないな。その垣根って奴」
垣根が買ってきた二つ目のパフェも食べ終え、一行はダイヤノイドを出て、駐車場の黒いアスファルトに刻まれた横断歩道を渡っていた。時刻は午後五時を過ぎ、夕焼けもピークを過ぎた茜色に染まっている。
「初春さん。帰りの足は付いているのですか?」
垣根の問いに初春ははっとし、バス停の看板の前へ急いで向かう。辿り着いた先で時刻表に目をやる初春。垣根は側でそれを見、一方通行と打ち止めは看板の横のベンチに座る。
「……あった。あと二十分くらいで寮の近くのバスが来ますね……ちょっと遅いなぁ」
初春は残念そうに呟く。二十分もすれば日はほとんど落ちる。近づく夜の冷気が彼女の肌に突き刺さった。
「初春さん」
へ? と次の瞬間、有無を言わさず垣根は初春を両手で抱え上げた。俗に言うお姫様だっこのポーズだ。
「へぁっ? ちょ、かき、垣根さん? 何を……」
呂律の回らない初春が聞く。顔はアルコールを浴びたように真っ赤だ。
「それならおそらく、私が飛んで行った方が早い。座標、出せますか?」
あくまで紳士的に、垣根は落ち着いて対応する。初春は一度深呼吸をし、バッグの中からタブレットを取り出し操作する。ここです。と初春は何とか言葉を発しながら垣根にそれを見せた。
「了解……なるほど。ここなら10分くらいで着く。しっかり掴まっていてください。一方通行、打ち止め、今日はここまで」
言い終えた瞬間、垣根の背中から六枚の翼が生えた。この世のものとは思えないほど、無機質で白い、巨大な翼をはためかせ、垣根は空へ去っていった。跡地には羽が数枚はらはらと散っていく。ばいばーい! カブトムシー! お姉ちゃーん! と、打ち止めは大きく手を振った。
「……お前のそういうとこが俺はムカつくんだよ。自覚しろアホメルヘン」
一方通行は呆れ吐き出し、打ち止めを連れ家に帰ろうとベンチから立ち上がり、歩き出す。しかしすぐさま立ち止まり、打ち止めの方を向いた。
「どうしたのあなた?」
「……まあ、帰ってから説明するわ。多分今日は、晩飯一緒に食えねェ」
「え? まさかあなたミサカの見ていないとこで間食したんじゃないのって、ミサカはミサカは疑惑の目であなたをイテッ」
頭頂に振り下ろされたチョップにより打ち止めは黙った。帰るぞォと無造作に歩き出す彼を、頭をさすりながら打ち止めは追いかける。空に浮かぶ千切れ雲たちが、薄紫に漂っている。夜はもう近い。
……………………。
一方、空を飛ぶ垣根の腕に包まれた初春は、視界に広がる学園都市の街並みに見惚れていた。
「綺麗」
思わずそう漏らす。無機質に生えたビル郡の向こうに、色の濃い夕陽の残照。それを鏡のように写しているビルの色。麓に広がった街に小さな灯りが次々に広がっていき、まるで星空を下から眺めているような気分だ。西の空は、透き通った藍色だ。
「初春さん。寒く、ないですか?」
突如垣根が話しかけてきた。初春ははっとし、大丈夫ですと返す。
「能力で体温は一定に保てますしね」
両手を合わせてそう答える初春。触れたものの温度を一定に保つ自身の能力「定温保存」により、上空の凄まじい冷気は彼女には届かない。
「そうですか。よかった」
そう言った彼の顔を、胸元辺りから見上げる。こうして間近で見るとやはり整った顔立ちだ。思わず初春は、右手を彼の頬に添える。
「初春さん?」
それに気づいた垣根は彼女を見る。内心また照れ隠す素振りを見せるかと思っていたが、初春は動じずに、彼を見つめていた。
「寒くないですか? 垣根さん」
初春の気遣いに、垣根は笑う。
「大丈夫ですよ。私の体は人間のそれとは違う。この程度の寒さなど余裕で遮断できる」
「…………そうですか」
小さくそう答えて、右手を頬から離した。彼の腕の中で、彼と会った日のことが過る。うっかりパソコンを風紀委員の本部に置き忘れた日。以前捕らえたスキルアウトの仲間たちの復讐。人の来ない路地裏に連れていかれ、自分の身が危機に晒された時、自分はこう叫んでいた。
(助けてカブトムシさん!)
そこに羽を散らしながら現れた彼。あの時は、スキルアウトに絡まれた時の何倍もの混乱と恐怖で、まともに言葉すら出せずにその場にへたり込んでいた。やがてスキルアウトの面々を追い払った彼が自分へ振り返った時、彼も自分が何者か気づいた。
(…………貴女は)
(ひっ、や、止めて! 来ないで!)
腰を抜かしたまま後ずさった。背後にコンクリートが当たった感触を今でも覚えている。もうだめだ。根拠もなくそう思った。
しかし彼は自分に近づこうとはせず、悲しみと後悔を背負った瞳で、自分を見つめるだけだった。
(……貴女には理解できないかもしれない。しかし今は、何も言わず、この場を収めてほしい。自分勝手なことを言っているのは承知しています。『かつて貴女を殺そうとした者』が、一体何を言っているのかと)
彼の口調を聞いていると、不意に違和感が込み上げてきた。違う。余りにもかけ離れている。かつて自分を殺そうとしたあの男と。
(できることなら、もう二度と会わないことを祈ります。そして貴女も、私のことは忘れてください。それでは)
彼は自分に背を向け、この場から飛び去ろうとした。考える前に、自分の口から言葉が飛び出した。
(待って)
彼は立ち止まり、振り返る。
(……勝手なこと言わないでくださいよ。忘れられるわけないでしょ。あなたのこと)
ふらついた足取りで立ち上がり、彼を見据える。聞きたいことは山ほどあるが、一番最初に発する言葉は決まっていた。
(名前は、何ていうんですか?)
彼は少し驚きながらも、微笑みながらこう告げた。
(帝督。垣根帝督です)
………………………………。
それから何度か話す内に、色々と分かってきた。今の彼は、自分を殺そうとした垣根帝督の中にあった、善意の集合体だと。今は過去の償いと、善意の赴くままに誰かを救い出すため「カブトムシさん」をやっていることも。
「垣根さん」
「うん? どうしました?」
「垣根さんの中に、私を殺そうとした時の垣根さんは、まだいるんですか?」
そして、彼は自分に対して、未だに心を開こうとしてないことも。
「……え? どうしてまたそんな」
「知りたいんです」
「…………いない、とは言えない。私を形成する未元物質のネットワーク状に、少なからず彼の人格は残っている」
「……そうですか」
いつもの笑顔を失い、砕けたガラスが混ざったような物言いの彼を見て、初春は黙り込んだ。互いに近く、触れ合っているこの距離での重い沈黙。未だ埋まらない、埋まるはずのない深い溝。
垣根はそれを何でもないように微笑みながら、彼女へ言葉を送る。
「心配しなくても、貴女を傷つけた時の私はもう戻りませんよ。そして私も、決して貴女を傷つけさせはしない」
「違うんです」
垣根のフォローに、すぐさま否定の返答を下した初春。彼はまた黙ってしまい、そして今度は彼女が口を開く。
「垣根さん。今度良かったらお茶しませんか? 私、初春飾利と、垣根帝督が初めて出会ったあのカフェで」
今度こそ確信を突かれたように、胸に募る苦しさを表情に出す垣根。しかしそれは一瞬で、すぐに平静を装った顔へ戻す。
「私は、構いませんが、貴女は……」
「私も大丈夫です」
そう言って初春は、今度は右手を、自分の肩を抱く左手に添えた。
「……どうして?」
「あなたと向き合いたいんです」
ずっと、自分の中にくすぶっている想い。自分はまだ、彼と何も始まっていないのだ。
「垣根さん。無理に気を遣わなくていいんです。私たちの関係はまだ、過去に囚われている。私は今のあなたが好きです。だからもっと、過去のあなたのことも私に見せてください。それで、誰も責めたりしませんから」
彼の左手を、初春はぎゅっと握った。体温を一切感じない、無機質な白で模られたその手。この奥に隠れた彼の気持ちに触れようと、試みる。だが、
「……大丈夫ですよ。心配なんかしなくていい。私は私だ。それ以上でも以下でもない」
再び自分に見せたその微笑み。その薄皮一枚で隔てた自分との距離。初春は黙り込み、ただ、握った手を離そうとはしなかった。二人の関係は一定の温度を保ったまま、動こうとしない。
初春を学生寮まで送り、自身もフレメアの待つ寮へ帰ろうと、窓から灯りの漏れるビルに挟まれた夜道を歩いている時だった。垣根は車道沿いの柵に寄りかかる白い影を見つけた。彼の背後で公衆電話が緑色に光っている。
彼はその影に話しかける。
「一方通行」
彼はその声に反応し、赤い瞳を垣根の方へ向ける。
「どうしたのですか? まさか私を待っていたと?」
半笑いで聞いてみたが、対する彼に笑顔はない。
「少し前、戦った敵にこんなことを言われた。『いつまでガキの付属品やってんだ』ってな」
垣根の質問には答えず、柵にもたれかかったまま話を続ける。
「その時は単にムカついただけだったが、後々考えてみると、案外的を得てンだよなァ。思えば俺が自分から、本当の自分の中から沸き起こるものに従ったことなンてなかった」
吐く息が白く染まる。車道を走る車のエンジンと、空を切る音が混ざり、響き、消えていく。垣根はひとまず彼の話に乗る。
「そんなことはないでしょう。貴方の、打ち止めを守りたいという意思は本物だ。本物の、貴方の中から起こる想いのはずだ」
「その感情を俺に与えてくれたのはアイツだ。全てそうだ。受け身なンだよ。この力も、絶対能力進化実験も、暗部も、今の日常も。全部外からの影響で得た結果だ。選択したのは俺だが、選択肢を生み出したのは俺じゃねェ」
確かに。その意見にも一理はある。
「付属品っていうのは間違っちゃいねェな。ガキに救われて、全部アイツの後を追ってるだけなンだからよ」
「ですが、やはりその言い方には悪意がある。そんなことを言い出したら、本当の自分の中から湧き上がるもの。そんなもの従っている人間が、一体どれだけいるか」
「ハッ。確かに元も子もねェ意見だ。オスカー・ワイルドも言ってたな『ほとんどの人間は他の人間だ。奴らの思考は誰かの意見。奴らの人生は模倣。奴らの情熱は引用だ』」
「意外ですね。貴方ワイルドとか読むんですか。てっきりそっちには興味がないかと」
「この前俺に絡んできたクソの名前が、そいつの本の題名と同じだったから、読んでみたンだよ。まあ内容はそいつみたいなイカれた女の話だったが、この作者の言葉には、どうも気になるモンが多いってだけだ」
「分かりますよ。性格に難こそあれど、彼の言葉は中々真意を突いたものが多い。先ほどの言葉もそうだ。人は結局、何かの憧れを胸に秘めないと生きれないのでしょう」
「憧れ、ねェ」
一方通行はもたれていた柵から離れた。
「だから、そんな言葉を気にする必要はないと思いますね。誰だってそうですよ。人は強くない。誰かに生かされている者がほとんどなんだ。誰でもそう」
垣根は、一度言葉をそこで区切った。車の往来がしばしの間止み、辺りはしんとした空気に包まれる。
「私も」
一方通行は、垣根を真正面に捉える。
「私も……それこそ付属品の形容がふさわしい。垣根帝督の精神の一部から生まれた、彼の付属品。打ち止めとフレメアに生きる意味を与えられた、彼女らの付属品。まあ、普段はフレメアのランドセルのストラップという、本物の付属品をやっているんですけどね」
垣根は笑う。冗談めいた口調で、どこか切なげに
「オリジナルのお前からすれば、付属品ごときが、何俺の名前名乗ってンだ、何て思ってンだろうな」
「ええ。彼なら、きっとそう思うでしょう」
そして二人は沈黙する。遠くから車の近づいてくる音が聞こえる。それが彼らの耳元まで接近した時、一方通行が先に沈黙を破った。
「アイツはどこにいる?」
背後から来た車のライトが、一方通行の顔を一瞬照らし、去っていった。一方通行の顔に光と影が浮かんだその瞬間、まるで自分の奥底の闇を映し出した鏡が現れたようだと、垣根は感じた。
「生きてンだろ? オリジナルのお前が」
「……知っていたんですね」
「お前の悪意の抽出体を倒した時に、生身の内臓がまだ片付いてないと思ってな」
一方通行は淡々と語る。
「まあとっくに学園都市から持ち出された後だったがな。だが内臓はまだ生きている。生身の肉体を軸にして生まれる個体なら、未元物資そのものなお前のネットワークの統制下に置かれない、なおかつ限りなく本来の垣根帝督に近い個体になるはずだ。お前、知ってンだろ? アイツがいる場所を」
垣根は無言で、一方通行を見つめる。今言うべき言葉を丁寧に喉元に並べ、一つずつ発する。
「彼を、殺すつもりですか?」
「元々アイツを殺し切れなかったのは俺だ。今この現状を見て、アイツからしたら、何で俺をちゃんと殺さなかったって思ってるだろうよ。せめてもの情けだ。それに、未元物資を無駄に進化させた、その責も取らなきゃならねェ」
赤い瞳が、垣根の緑の瞳を睨みつける。言葉の真意を、視線で伝えるかのように。その圧に押されたのか、はたまた無意識か、垣根は俯向く。
「聞きてェのは二つだ。まず一つ目。アイツは今どこにいるか」
「……東京湾に浮かぶ、数々の船の残骸が固まってできた要塞にいますよ。いくら出力元は違うといえど、発されているのは同じ未元物資だ。反応を辿れば、簡単に割り出せました」
「要塞? それ、グレムリンとかいう組織のアジトだった場所じゃねェのか? 船の墓場とかいう名前だったはずだ」
以前、上条当麻とデンマークで三度目の戦いをした際、学園都市の上層部から送られた上条抹殺依頼の通知に、僅かであったがこの二つの情報が添付されていたのを、彼は思い出した。
「ええ。どうやら彼らも未元物資を利用しようとしたらしいですが、その場に放置されたままです。理由は分かりませんが、ともかく彼がそこにいるのは確実です」
そうかと頷き、一方通行は続ける。
「二つ目は、お前はアイツをどうしたいのかということだ。このまま見て見ないフリをするのか、話を付けにいくのか」
二つ目の思いがけぬ質問に、垣根は顔を上げた。
「何故、それを私に?」
「殺す前に、言いたいことの一つは残してやるってことだよ。垣根」
彼が自分の名前を呼んだことに細やかな驚きを感じながら、垣根は笑い、ゆっくりと喋りだす。
「彼と向き合いたい。自分が垣根帝督を名乗ることを認めてほしい」
「…………」
「……と、言ったはいいものの、きっと彼は私を認めはしないだろう。彼のことは、誰よりも知っている」
静けさの溢れる路上に、また車の往来が始まった。光と音が二人の会話に紛れ込む。
「覚えているのか? 昔の記憶を」
「ええ。彼が犯した暴虐の記憶も、暗部に堕ちる前の記憶も。はっきりと。私は垣根帝督になってしまったから。誰かになるということは、誰かの全てを背負うことになる。全く、自分一人の荷すら背負い切れない人もいるというのに、私の掲げた荷は少し重すぎる」
一方通行は、黙して彼の想いを聞き取る。
「怖気を引き起こす殺戮、目を背けたくなる凄惨。その全てが、『私』が考えもしない、しかしこの『垣根帝督』の紛れもない一部なんですよ。できることなら、知らないふりをして、無かったことにして、私は私の望むまま誰かの為に生きたい。ねぇ、一方通行。『やってもいない』過去の罪を、わざわざ償いたいと思いますか?」
「………………」
次第に口調に熱を帯びながら不意に出されたその質問に、彼は答えようとしなかった。
「……すみません。少し、ヒートアップしてしまいました」
垣根は一旦息を吐き、でも、とゆっくりと話し出す。
「さっき、初春さんに言われたんですよ。もっと自分の想いに、正直になってもいいって。かつて、私が散らそうとした彼女が、私に向かってそう言った。彼女は私を許そうとしている。だったら、私が逃げてちゃダメじゃないですか」
垣根はもう一度、一方通行の瞳を真っ直ぐ見つめた。
「私もついて行かせてください。必ず彼に認めさせてみせる。それが、私が垣根帝督としてやるべきことでもあり、……みんなのカブトムシさんとして、やらなきゃいけなくもある……カッコつけ過ぎましたかね?」
垣根はそう言い、笑った。目を細め、口を開いて。
「いや、ちょっと喋りすぎちゃいました。まさか貴方にここまでべらべら喋ってしまうとは。話が長か」
「いや、分かった」
一息ついて冷静な口調な喋りだした垣根の言葉を遮り、一方通行は告げた。
「昼過ぎに船の墓場に行くぞ。朝からいねェとガキがうるせェ」
一方通行はそう言い、歩き出し、垣根の横を過ぎながら去っていった。垣根は振り返り、しばらくの間、彼の背中を眺めていた。
翌日の昼過ぎ。太陽の光を浴びてきらめく東京湾を上空から仰ぎながら、一際目立つ異様な灰色の要塞めがけ、一方通行と垣根は降り立った。
「ずいぶんとまァ、廃れてやがンな」
「ええ。元々廃船の山とはいえ、さらに無人とくれば余計に寂しく感じる」
互いに喋りながら、一方通行は竜巻状の四つの噴出を、垣根は純白の6枚羽を背中から消滅させる。
「無人じゃねェだろ」
一方通行の指摘に、垣根は押し黙る。二人がいるのは船の墓場の海辺際。前方にはボロボロに破れた船のマストや木屑、錆びついた白いボートが積み上がり、ゴツゴツとした斜面を作り上げている。
「このゴミ山のどこに、あいつがいるンだ?」
「未元物資の反応は、島の中央から来ています」
垣根は傾斜の上を指差す。空高く突き上がる帆柱や、首長竜の様に顔を出す黒い軍艦の船頭が見える。
「ここだとよく見えねェな。近くづくしかねェ」
一方通行は杖を突きながら、歩ける箇所がないが周囲を散策する。垣根が後ろを振り向くと、浜辺に打ち上げられた海藻や木材のその向こう。青い海と空に挟まれた、威圧的な軍艦が旋回しているのが見えた。
(……どうやら私たちには気づいてないようだ)
それは学園都市製の軍艦だった。こういった監視のことも懸念して、一方通行はレーダー装置の反射を、垣根はレーダーにかからない、未元物質で作り上げた保護膜を表面に纏い、飛行していた。その試みは成功したようだ。
垣根は一方通行の方へと振り向く。どうやら歩ける場所を見つけたらしく、親指でそこを示しながら垣根を誘っている。
垣根は一方通行の方へと行く。廃材をかき分けてできた、階段のような一本道があった。道中の左側に、ボロボロになった海賊船が一隻、何とか形を崩さずに佇んでいる。穴だらけのマストが風に吹かれて揺れている。
二人はその階段を登り始めた。横から突き出た木の破片や、鉄パイプを避けながら進む。
「あの花頭にはこのこと伝えたのか」
一方通行は垣根に聞く。
「いいえ」
垣根はソフトに言う。
「こんなことに、彼女は巻き込みたくない」
その顔は真剣そのものだった。
「アイツには、シラを切りとおすつもりか」
廃材の地面に、煩わしそうに杖をつきながら、一方通行は歩く。しばらくして、彼はまた口を開いた。
「なァ。お前は自分と向き合うつもりではいるみたいだが」
そこで一旦立ち止まり、振り返らずに垣根に聞く。
「あの女と向き合おうとはしねェのか?」
その質問に、垣根は思わず、え?と声を漏らす。
「……いや、何でもねェ。忘れろ。また似合わねェこと言っちまった」
そう言って再び歩き出した一方通行の背中を、垣根は呆然と見ていたが、互いの距離が一定まで開いたのを見て、また歩きだした。
やがて階段は途切れ、二人の目の前に島の中心部が姿を表す。輪切りにされた白い客船の断面や、地面に突き刺さったマストや、船尾が地中に埋まった軍艦。カッパドキアのように地面から生えた、スクラップの柱。貨物船。あちこちから飛び出した流線形の錆びた鉄線や黒いチューブ。さながら一つの街のようなカオスで成り立った空間。
「行きましょう」
垣根の呟きのような号令に、一方通行は無言で彼の後を追う。地面に転がった木屑や電子機器の成れの果てを軽く杖で掃き、足場を整えながら彼は進む。
道中、不気味に点滅する、廃材にうもれたディスプレイの画面が彼の視界に入った。その画面には様々な数値やアルファベットが入力されてあり、彼はそれに気を取られ一旦立ち止まったが、すぐ何でもなかったかのように歩き出す。
やがて前方に、このカオスの中でもひときわ存在感を表す、横たわった恐竜の死体のような巨大な豪華客船が現れた。その明らかな異質さの要因は、何百年も手付かずのままのような、全体に浸るように行き渡る錆びだろう。空気と空間が粘り気を増していく中、二人はその客船をみつめる。
「ここなのか」
「ええ。未元物質の反応は、ここから来ています」
垣根は豪華客船に乗り込もうとする。しかし、
「……お前先行ってろ」
一方通行の提案に、垣根は首を傾げる。
「何か気になることでも?」
「ああ。まあ、思い違いかも知れねェが、とにかく調べたいことがある。お前は先に、あのクソと話付けてこい」
垣根は答えず、小さく首を縦に振り、翼を展開させて客船の甲板へと向かった。
「………………………」
頭に過る微かな疑念。
(……一応、この客船の内部を調べて見るか)
そう思った一方通行は、だらしなく舌を出したような、ぽっかりと開きっぱなしの船体の搭乗口へ向かった。
垣根は甲板に降り立ち、翼をしまう。辺りを見渡すと、どうやら屋外のプールサイドのようだ。水のない、寂れたプールの底と、ボロボロに崩れたパラソルやくすんだビーチチェアがプールサイドに散乱している、空間の死骸。
25メートルほどあるプールサイドをゆっくり歩きながら、垣根はここから甲板の船頭に登る小さな階段へたどり着く。一段一段、それを噛み締めるように登っていく。視界に船頭の光景が広がっていく。
そして…………。
目の前。広がった船頭の、一番先でこちらに背を向け立つ男。
「…………………………」
彼の背中を見つめ、喉元に膨れ上がる感情を、冷静に言葉に変えようとする。
「…………私は、貴方と話がしたい」
ついに放った一言。甲板へ一歩踏み出すと、ギシッと、床の木材が軋む。
「話がしたい」
彼はそう繰り返す。ふっと鼻息を漏らし、言葉を繋ぐ。
「何の話だよヒーロー。お悩み相談か? そりゃ毎日見ず知らずの他人を助けているんだ。ストレスの一つは溜まるよな」
耳障りな声の響きに、あえてチューニングされたその物言いに、垣根は顔をしかめる。
「茶化すのは止めて頂きたい。私は真剣に、貴方と話たいんだ」
「茶化す? ハハハハハハハハハッ!!」
男は笑う。本当に可笑しいのと、できるだけ相手を貶めてやろうとするのと、その半々の笑い方だ。
「俺は本気だぜ垣根帝督」
途端に冷静になった声色で彼の名を呼ぶ男。未だにこちらへ振り向こうとしない。
「さぞかし辛いだろうなと、本当に思ってるんだよ。お前がそうやって善人であろうとする度に。お前が自分の想いに正直になろうとする度に」
男はそこで一旦言葉を区切り、そして言う。
「お前が、垣根帝督であろうとする度に」
そして彼は、垣根の方へと振り返った。
長身。襟足まで伸びた金がかった茶髪。肌色に包まれた端正な顔立ち。光の灯らない薄暗い瞳。臙脂色のジャケット風の学生服。限りなく、自分と同じ姿をした男。
彼は、口元を歪め不敵に笑った。
「私は、垣根帝督だ。だからこそ、貴方と決着を付けなければいけないんだ」
「そうだ。お前は垣根帝督だ。だが、お前の過去は垣根帝督なのか?」
互いににらみ合う、二人の垣根帝督。
「お前は本当に、垣根帝督でありたいのか?」
彼の言葉に、垣根は口を開かない。
「いやぁ、誰かになるっていうのは中々辛いよなぁ。世の中には誰かになりたいっていう願望で溢れている。あいつのような才能になりたい。あの子のような外見になりたい……だが、どいつもこいつも分かってないのさ。誰かになるっていうのは、そいつの抱えたドロドロの心の闇も、もれなく着いてくるってことにな」
彼は垣根に近づく。
「なあ垣根帝督。『俺』の闇の味はどうだった? 吐きそうだったか? 食えたもんじゃなかったか? だがそれは紛れもなく『垣根帝督』なんだよ。成り行きの善意の集合体が俺の名を名乗るために決定的に欠如しているもの……それは体験だ。生身の肉体で感じる、リアルだよ。あ、もうどっちも肉体はないか」
冗談めいた感じでハハハッと笑いながら、彼はこちらに近づく。一歩一歩が、重要な要素のように地面を踏みしめながら。
「オーケー。そしたら語ろうか。俺とお前、『垣根帝督』の、ことについて」
垣根の目の前に立った彼は嗤う。整った顔立ちを、醜く歪めて。
「…………私は…………」
「お? どうしたよ垣根帝督? 急に歯切れが悪くなったな? お前が先にけしかけてきたんだろ? だったらもっと嬉しそうに話せよ。なぁ」
彼の右手が、垣根の頬に触れる。
「未元物質の今の司令塔がお前だと分かった時、心底笑ったぜ。俺の過去に沈んだ遺物が、何の因果か再び掘り起こされるとはな。果たして第三者から見て、一体どう思われているかなぁ。きっとみんなこんなこと思ってんじゃねぇか? 『あいつは垣根帝督の面被った別人だ』」
「…………………………」
「だとしたらお前は何のために存在しているんだろうな。お前が善人で、垣根帝督で、あろうとすればするほど、お前はその制約に苦しみもがく羽目になる。存在そのものが歪な帰納で作られてるわけだ。それを踏まえた上で、はっきりと聞かせてもらうぜ」
彼は言う。
「そこまでして、お前は垣根帝督でありたいのか?」
悪魔の囁き。垣根帝督の善意の脆い弱点を、これでもかと付いてくる下卑た戦法。だがそれも、相手が自分自身だからこそできるのだろう。問題ない。奴はこれで崩れる。垣根の頬を撫でる彼はそう思った。
その時だった。自分の頬を撫でていた彼の右手を、垣根は思いっきり掴んだ。
「……何のつもりだ?」
「貴方の言う通りだ。いくら私が垣根帝督であろうとしても、決して本物ではない。そんなこと分かってますよ。元々私には何もない。未元物質により作られた兵器。カブトムシ05。成り行きで垣根帝督を語るだけの、小さな虫けらです」
でも、と垣根は付け加える。
「この空っぽの私の中に、あらゆる理由を注いでくれた人たちがいるんだ。帝督。貴方は先ほど、私が垣根帝督を名乗るために足りないのは体験だといった。確かに貴方の過去を私は体験していない。貴方を名乗るには役不足かもしれない。それでも、それでも」
彼の右手を掴む己の掌に、更に力を込めて垣根は言った。
「貴方が抱えた苦しみや、本当に叶えたかったことは、誰よりも理解しているつもりだ。だから、お願いです。私に垣根帝督を名乗ることを許してほしい。何よりも、この身この肌で感じた、私の生きる理由を作ってくれた様々な人たちを裏切りたくない。あの人たちのためにも、そして貴方のためにも、私は垣根帝督でありたいんだ」
垣根の脳裏に、たくさんの光景がよぎる。自らの助けを求めたもの。自らの手で傷つけてしまった、血塗れた過去の人々。打ち止め。フレメア。そして、花飾りの少女。
「…………なるほどな」
腕を掴まれたままの彼は、物思いに耽るように顔を下に落としている。
「………………帝督」
バンッ!!
……と破裂音が聞こえたかと思うと、垣根の上半身は、彼の右掌から発された衝撃波によって粉々に砕け散った。
「……もう少し物分りが良ければ楽だったんだがな。てか、さっきの俺の物言いで察しろよカス。仕方ねぇからストレートに言わせてもらうわ」
彼は数歩後ろに下がった後、その場で右足で地面を軽く踏みつける。すると取り残された下半身の真下から、翼が凝結してできた巨大な槍が勢いよく隆起し、その下半身を跡形もなく粉砕する。
「今すぐに、この世から跡形もなく消え失せろ。何の重みもねぇスッカスカの善人野郎」
これまでで一番感情のこもった一言だった。前衛的なオブジェのように、輝きながら顕在している翼の槍から、はらはらと羽が周囲に舞い落ちていく。
「……まあこんなんじゃ、死にはしねぇよな」
そう言う彼の後ろに、今まさに全身を再生させていく途中の垣根がいた。上質なシルクを編んでいくように、その身体は揺らめきながら顔や足を形作っていく。
「一縷の望みにかけた懇願だったのですが、やはり貴方には通用しませんか」
「ほざけ。テメェ如きに同情できるような浅い感性じゃねぇんだよ俺は」
「先に言っておきますが、例え私を殺し、このまま貴方が生き続けても、決してその苦痛が去ることはありませんよ。自分の弱さから目を背け、彼女に妄執し続けるような生き方では」
「……知った口聞くんじゃねぇよ。お前に俺の何が分かる」
「分かりますよ」
全身を再生し切った垣根は、彼を見据えてこう言った。
「垣根帝督ですから」
「垣根帝督は俺だ。お前じゃねぇ」
彼は後ろへ振り向く。そして両者、6枚の白い翼を展開させる。鏡合わせのように向き合う二人の垣根帝督と、その翼。展開の際に散った羽が、薄く宙を舞い、甲板に落ちていく。
そして刹那、激突があった。
時は少し巻き戻り、ここは窓のないビルの中。部屋の中央に君臨する、オレンジ色のアルカリ溶液の詰まったビーカーの手前に、悪意のある笑みを浮かべる女性がいる。
「さて、いよいよ未元物質を操る者同士の激突が始まるようですが、どうやら彼は何か企んでいるようですね。貴方はこのイレギュラー、どう対処するつもりですか?」
けらけらと嘲笑する、リクルートスーツの上に白衣を纏った女、木原唯一。科学の権化、木原一族の中でも特異にして「唯一」の存在。
「ふむ。右方のフィアンマ、船の墓場、グレムリン。自らを取り巻くあらゆる非科学の要素をその内に取り込み、咀嚼し、新たな一手を創造する。その強かさと反骨精神は賞賛に値するよ。彼という人間の美点の一つだ」
ビーカーの中で逆さまに揺蕩う「人間」 学園都市統括理事長アレイスター・クロウリーは何でもないといった感じでそう言った。
「確かに。彼の柔軟な発想は自らの能力の起源にもなっていますよね。悪く言えば手段を選ばないとも取れますが。で、このまま野放しにしていいと?」
唯一は尋ねる。彼女は察している。これから起ころうとしている事象は、少なくとも彼にとって好ましいものではないことを。
「もちろん手は打つさ。ただ、おそらく私の出る幕はあまりないよ。あそこには現未元物質の統率体に、一方通行もいる。彼ごときではあの2人は超えられない」
自分の「道具」に思った以上の評価を下していることに、唯一は少なからず関心した顔をした。
「して、その根拠は?」
視線に期待と、ほんの少しの悪意を混ぜ、唯一は彼に聞く。
「……君なら分かってるんじゃないのか? 未元物質を、狙い通りに進化させた君なら」
唯一は不敵に笑む。
「狙い通りに進化、なんて。あの力は我々人間が扱うには余りにも莫大なエネルギーを持った、正に無限の可能性を誇る能力ですよ? いくらなんでもそこまで計算は」
「虚数学区」
アレイスターのその一言で、空間に静寂が張り詰める。
「……分かっているだろ? 『未元物質の正体』を理解した上で、君は更に、彼の魂をそこに封じ込めるような進化を促した。唯一。一体彼を使って何をするつもりだ?」
何も発しない彼女に向け、アレイスターは言葉を穿ち続ける。
「何もなんて、とても」
余裕を崩さない口調で唯一は返す。
「私はただ、ピースをくべただけですよ。一方通行と未元物質。『虚数学区を制御するため』に、それだけのために造られた能力の片割れに」
アレイスターは剥製のように微動だにせず、唯一を見据える。
「詰まる所、あの2人の能力はそのために特化されている。未知の法則を逆算し、解き明かす一方通行。未知の法則そのものを司る未元物質。AIM拡散力場をかき集め、創り上げたあの異世界を、あなたは彼らを使って完璧にコントロールしようとしている……勿体無いじゃないですか。これだけの逸材を、あなたはその目的に向けてしか利用しようとしない」
「…………………………」
「特に未元物質は汎用性という面においては一方通行をも凌駕している。それがあの能力の『本質』だから。なら、それを彼がもっと知覚し、扱えるようになれば、色んなことを試せるようになるじゃないですか。例えば、世界最高のスパコンでも割り出せなかった、新たな可能性とか……」
「唯一」
鉛の棘のような声。
「心配しなくても、あなたのプランをどうこうするつもりはありませんよ。『ホルス』だ『ドラゴン』だ、とても手に負えるような領域じゃないようですしね。ただ、目の前にある可能性をみすみすドブに捨てるなんて、木原の名が廃るじゃないですか。まあ、不確定要素が多い中での実験なので、上手く行くかわ分かりませんが、それもまた」
「浪漫、かね?」
言葉尻を遮り、アレイスターは述べる。彼女は黙り、肯定するようにそっと笑んだ。
「だが、今大層な動きをされるのはプランにとっても悪影響だ。私が出るまでもないとは思うが、後始末は、自分で付けるべきかもしれないな……」
アレイスターはぼやきながら、眼前にデジタルの画面をいくつか顕現させる。ヴンッという音と共に現れたそれらには、学園都市中にばら撒かれた滞空回線越しの映像が流れている。
その中の一つに目をつけた彼は、唯一に話しかける。
「現未元物質の統率体に、ピースを用意したと、君はそう言ったな」
「ええ。自分の能力の本質に気づくための、『人間の領域を越える』と言うピースをね。さて、まあサンプル・ショゴスやら別の方法で逐一利用させてもらいましたが、そろそろパズルを解いてくれてもいいころなんじゃ……逆にそれすら解けないようなら、船の墓場のオリジナルに近い個体の成した進化には到底及びませんよ」
その返答を聞いた彼は、口元を微かに綻ばした。それはまるで、買ったばかりのおもちゃの使い勝手の良さに喜ぶ子供のような、彼としては珍しく純な笑みだった。
「どうやら既に見つけたようだな。パズルを解くきっかけを」
視線の先の映像には、とある2人の男が写っていた。
「よお。退院おめでとう」
「……今度はちゃんとした祝いの品を、持ってきたんだろうな」
とある病院の正面玄関の前。自動ドアを開きながら出てきた、いつもの赤いスーツを着たフィアンマを待っていたのは、上条当麻だった。昨日とは違い、学生服に身を包んでいる。
「…………金がないんだ」
「おいやめろ。そんな悲壮な笑みで俺様を見つめるな。悪かった。悪かったよ」
身を切るように発されたその言葉にフィアンマは罪悪感を覚えつつ、話題を変えようとする。
「というかお前、この時間は学校じゃないのか?」
「今は昼休みだよ。せっかくだから抜け出してきたんだ。お前、どうせ碌に挨拶もせず、この街から出て行くつもりだったろ」
「……世話になったとは言え、俺様は所詮余所者だ。それに、第三次世界大戦を引き起こした犯罪者。長く止まれば、迷惑するのはお前たちの方だ」
フィアンマは冷たい影を顔に浮かべて話す。そんな彼の憂いを吹き飛ばすように、上条は何でもないように言った。
「だったらせめて、俺くらいには顔を見せろよ。友達だろ?」
友達。その言葉に、フィアンマは純粋に驚く。上手く続こうとしない言葉を何とか、彼に届かせようとする。
「と、友達って……お前何を言っているのか分かっているのか? 俺様はかつてお前を殺し、その右手を私利私欲のために利用しようと」
「もう気にしてねぇよ。俺は生きてるし、お前は改心した。それでいいだろ?」
「…………………………」
何と、馬鹿な男だろう。とフィアンマは思った。いくら何でも人の善意を信じすぎだ。人は、自分を殺そうとした者に、これほど朗らかに接することができるのだろうか。
……考えても答えが出てこないので、驚きや、疑念と共に、内側から湧き出る率直な想いに身を任せることにした。
「すまない。ありがとう」
フィアンマは久しぶりに笑った。随分と、久しぶりの気がした。
「おう。あ、それと、1つ伝えておかないとな」
上条は言う。
「お前が妖精化の槍の強化に使った物質を渡した奴、垣根帝督だけどな、そいつ、昨日、俺に会いに来たぜ」
フィアンマはその名前に反応する。実は、僧正との攻防の裏側を彼に明かした時以来、言い知れぬ不安が胸の内をよぎっていたのだ。
「会いに来たって、本当なのか? ひょっとすると俺様は、あいつに言いように使われたのかもと思っていたのだが……」
「ああ……まあ、その辺はいいよ。どっちみち大丈夫だ。垣根の奴からも話は聞いた。その上で、あいつはこう言ってたよ。何も心配するなって」
自信有り気に話す彼を見て、フィアンマはとりあえず胸を下ろした。
「そうか。となると、またお前が何かを促したのか?」
「いや、俺じゃ……いいよ。気にすんな。俺たちの出しゃばる幕の話じゃなかったからな。せっかく退院してこの街を去ろうって時に、しこりがあったままじゃ気分悪いだろ」
「……そうか」
最後に自分の荷を下ろそうとしたのか、とにかくそれについてはもう深く考えることを止めた。
「これからどうするつもりだ?」
上条の質問に、軽く息を吐いてから答える。
「そうだな。まずはオッレルスとシルビアに顔を出さねばなるまい。その後は、まあ、お前が言ったように世界を見て回るとするか。俺様はまだ、何も知らないからな」
そうか。と上条は頷く。
「フィアンマ。最後に1つだけいいか?」
「?」
「世界ってのは、誰もが幸せでもないし、いい奴ばかりでもない。お前がやってきたことを許せなかったり、お前のその、世界を知ろうとする意志につけ込んで、騙そうとする奴もいるかもしれない」
「…………………………」
フィアンマは何も答えない。彼が言ったそれは、自分がずっと思っていた『世界』のことだったからだ。利己的で、退廃的で、薄汚れた残酷な、歪んだ機構。それこそが世界の現状。だからこそ、自分がそれを救ってやろうとしていた。
「でもよ」
そう。この男に出会うまでは。
「俺がお前を許せて、お前の前途を応援できるってことはさ、やっぱり俺みたいな奴も、世界にはいるんだよ。恐るなフィアンマ。世界は、お前が思っているよりずっと強い」
「…………ハッ」
フィアンマは笑う。今までの自分なら、到底浅はかで馬鹿らしいとあしらっていた思想。だが、それもまた世界の1つの形なのだろう。
信じてみよう。そう思いながら、彼は言う。
「まあ、信じてみるさ。お前のような奴がうようよいるとは、思えないがな」
「おいおい。あんま人を特別視するなよ」
上条は心外だとも言わんばかりに微笑み、こう言った。
「どこにでもいる普通の高校生だぜ。俺は」
「……お前のような普通の高校生がいるか」
それを最後に、フィアンマはこの場を去ろうとした。
だが、予想外のことが起こった。
「フィアンマさーん!」
呼び止めに振り返ると、担当だった短い茶髪のナースがロビーからこちらに走ってくるのが見えた。自動ドアが開き、彼女が目の前に現れる。
「何の用だ?」
「いやあ。せっかく面白い話、いっぱい聞かせてもらえたんで、これ」
彼女は右手に持っているものを渡す。120円ほどの、自販機の缶コーヒーだった。
「……どいつもこいつも。安い餞別だな」
口ではそういいつつも、満更でもない表情でフィアンマはそれを受け取る。
「なーに言ってんですか。こんないいナースに診てもらったくせに。贅沢ですよ」
「その厚かましい自画自賛も今日で最後という訳か。じゃ、飲ませてもらうぞ」
そう言って人差し指でプルタブを開け、コーヒーを飲もうとする。
「あ、待って」
彼女は静止をかけ、スカートのポケットからもう1つの缶コーヒーを取り出し、にひひと笑う。
「なんか、フィアンマさんって、昔悪いことやってたでしょ」
突然の質問に、フィアンマは上手く対処できず、たじろぐように視線をそらす。
「探る気はありませんよ。でも、昔の話をする時。ヴェントさん、テッラさん、アックアさん。仲間だった皆んなのこと話す時、後ろめたさを感じているようや口調でしたし。第一、そんな風に片腕を失くすくらいのことはやってたんだろうなって、何となく察しはつきます」
「……………………」
フィアンマは自分の右腕に視線を落とす。既にそこに腕はなく、支えるもののなくなった赤い袖がだらんと、シワを刻んで垂れ下がっているだけだ。
「これは個人的な意見ですけど、やっぱり、その人たちともう一度会ってみるのはどうですか? 人間、自分の体で正面から向き合わないと真実なんて分かりませんよ。その人たちに思うとこらがあるなら、迷わず行くべきです」
ナースは静かにそう告げた後、辛気臭くなっちゃいましたね。と言いながら笑顔で缶コーヒーの蓋を開けた。
「それじゃ、退院祝いに」
「…………ああ」
トッと、缶コーヒー同士の軽い乾杯の音がした。ナースは数口コーヒーを飲み、最後に、と付け足すように語りかける。
「私は、応援してますよ。これからのあなたのこと」
ナースはその場で残りのコーヒーを飲み干し、じゃ、と零しながら軽く手を振って去って言った。自動ドアを過ぎ、ロビーの奥に消えていく彼女の背中を、フィアンマはしばし見つめていた。
「な?」
後ろで、上条の声が聞こえた。彼は振り向く。
「ああ。そうだな」
こんなに心が晴れやかなのはいつぶりだろう。彼は缶コーヒーを一口飲み、冬の澄んだ青空に目をやる。
大丈夫だ。この世界はきっと、お前を救ってくれる。
誰が言ったのかも分からない、そんな言葉が、耳によぎったような気がした。
…………………………。
星が爆発したような轟音が鳴り、甲板の上に白い羽が大量に霧散する。その激突の末、『本来』の垣根帝督は押し負け、自らの後方にあった屋外プールへと吹っ飛ばされた。
「ハァ……ハァ……ッ…………」
激突の勝者は、白の垣根帝督。その右手は引き千切られたように肘から先がなくなっていた。が、それをすぐさま再生させ、飛行しながら前方の屋外プールへ向かう。
「……自爆覚悟の特攻ってか」
水のないプールの底で膝をつく彼の前に、垣根は降り立つ。
「単純な力比べは、私に分があるようだ」
「ハン。だから何だ。その単純な力比べで勝てる相手じゃねぇのは分かるよな?」
彼は立ち上がり、垣根を睨む。
「ええ。しかし、相手は私一人ではない」
彼が何かを言う前、後方から爆音があった。彼は振り返る。
「………………テメェ…………」
怨嗟のこもった声。内側から破壊された船のブリッジ。ひしゃげて外に飛び出した、むき出しの鉄骨に足をかけながら立っていたのは、学園都市最強の能力者、一方通行だった。
「久しぶりだなメルヘン野郎。その様子じゃあ、テメェの腐った性根と脳みそは治ってねェようだな」
冷たい表情で、彼はそう言う。
「ムカつくなぁ。ムカつくぜ。相も変わらず、最っ高にムカつくよテメェは。今もまだ、自己満足の慈善活動に精出してんのか?」
彼は笑いながらそう言うが、目にははっきりとした怒りがこもっている。
「悪りィが、悪党はもう廃業した」
そう言った彼は背中から4つの竜巻状の噴射を発生させ、飛び上がり、プールサイドに降り立つ。そこで能力のスイッチを切り、杖をつく。
「……アァ? あんだけ偉そうに悪の説教垂れたお前が、今や悪党ですらなくなったのか? 笑えねぇぞクソが。大事なところでブレてんじゃねぇよ」
「説教垂れたことに関したちゃあ、お前が余りに人間としてチープだったからだよ。そもそも、何だ? お前は悪党を大事と捉えてるのか? 笑わせンな。俺の目的は最初からただ一つ。俺の護りたいもンを護る。それだけだ」
「……どいつもこいつも、虫酸の走るセリフばっかり吐きやがって……人間としてチープだあ? テメェらみんな! 人のこと言えんのかよクズ共が! 10,000人殺してのうのうと光の世界で生きようとするカスに、人のアイデンティティを横から奪い取った虫ケラ。確かに俺はクズだが、テメェらに説教される謂れはねぇんだよボケ!」
口を荒げ、両者を交互に指差しながら怒号を飛ばす彼を、一方通行と垣根は黙って見ている。
「……好きなだけ言え。ンな正論はもう聞き慣れてる。ところでお前に聞きたいことがある」
一方通行はプールサイドから、乾いたプールの底に降り立つ。
「この客船内に多数散らばった演算装置の数々。ありゃ何だ?」
一方通行のその言葉に、垣根は彼へ顔を向ける。
「演算装置?」
「いや、ありゃここだけじゃねェな。この島の至る所に同じような並列演算装置がある。おそらくここに漂流した船に積んでる電子機器たちを、かき集め、繋げて作ったンだろ。一つ一つは大した処理能力じゃねェが、全部繋げればスパコン並みの演算ができる。お前、何を企んでいるんだ」
一方通行の問いに彼は不敵に笑う。
「前にここを使っていた奴らの遺物だよ。利用できるもんは利用するつもりなだけだ」
彼はゆっくりと歩き出し、プールの中央へ向かう。一方通行と垣根は、その背中を見る。
「ここを使ってたと言うと、グレムリンのことか?」
「知ってんのなら話は早い。そこのボスに俺は利用されていた。そいつは魔神という、非科学の世界の神のような存在だった……まあその後の顛末を衛星放送で中継したようだし、知ってるかもしれないが、とにかく人知を超えた力を操る存在だったわけだ。俺たちの住むこの世界を、一から創り上げられるほどにはな。笑うか? だが俺は至って真面目だ」
「………………」
否定はしない。既に幾度かそういった非科学の頂点のような存在と相見えたことがある。一方通行は黙り、彼の話に聞きいる。
「俺を利用した魔神はオティヌスという名だった。そいつはあまりに強大すぎる自分の力を制御するため、未元物質と、全体論の超能力という理論の元、戦神の槍という魔神の力の制御装置を作ったんだ」
ひた、ひたと、乾いたプールの底に冷たい足音が響く。やがて彼は、プールの中央に辿り着いた。
「……分かるか?」
彼は背中を向けたまま、ゆっくり語る。
「未元物質で槍を製造したってことはだ。有してるわけだよ俺は。魔神の力を制御する術を!」
口を引き裂き、笑いながら、顔を振り向かせる。その彼の右掌から、白い槍が脈動しつつ発生している。
「ッ!」
「……何をする気だ」
垣根は声を詰まらせ、一方通行は冷静にそれを見据えながら質問を続ける。
「まあ慌てんな。一つずつ説明してやるよ。ところでこの戦神の槍だが、これだけあったってどうしようもねぇんだ。こいつはあくまで魔神の力を制御するための道具。魔神以外が使っても何の効力もない」
その白い槍はほとんど全貌を表している。全長約2メートルはある、巨大な槍だ。
「そこでいいカモを見つけた。オティヌスにやられて、この周辺で伸びていたフィアンマっつー野郎だ。奴は魔神を迎え撃つために製造した道具を、更に強化させようせようと試みていた。どうやら魔神っつーのは一種類だけじゃねぇみたいでな。そこで俺は考えたわけだ。こいつを通じて、こいつと戦った魔神の力を読み取ろうとな!」
そう言うと彼は完全に生成し切った槍をプールの中央に突き刺した。槍の先から8枚の白い花弁のような紋章が浮びあがり、円状に拡散していく。
「試みは成功した! 俺の口車に乗って奴は俺の未元物質を受け取り、それを魔神との戦闘で使った! そこから俺は魔神の力を読み取り、そして今からそれを再現させる!」
ハイな笑みを顔中に浮かべながら、まくしたてるように喋る彼に、一方通行は述べる。
「……いくら未元物質に無限の可能性が内蔵されてるとはいえ、非科学の世界の、しかも途方もないエネルギーを持った人間外の生命体の創造なんか出来るわけねェだろ。明らかに制御できる範囲を超えている」
「それを制御するための槍と演算装置なんだよ!」
突き刺さった槍が白く発光を始め、地面の花弁も輝き始める。空間が震え、不気味に脈動していく。
「そもそも『神の力』の全てを人間がまともにコントロールできるとは思っちゃいねぇよ。その一部分だけでいい。俺の望みを叶えるためにはそれで事足りる! 漠然としすぎた魔神の強大な力を制御するためのこの槍、そして、その力を補助するための島中の演算装置! 準備は整った。一方通行! 遅れながらお前の質問に答えてやるよ。俺が何をするのか!」
二人を正面に、光る槍を後方に捉え、彼は言った。
「未元物質で、魔神の力を作りだす。それで世界を作り変えるんだよ」
次の瞬間、槍の周囲から真っ白なツタがうねりながら複数発生し、彼の背中へと突き刺さった。彼はその衝撃に全身を震わせ、それでも顔は恍惚としている。
そして背中から、6枚の純白の翼を勢いよく展開させる。するとそれらは破滅的に輝きながら振動し、見る見る内に面積を肥大化させていった。
「ッ!!」
あまりの眩しさに垣根は目を背ける。顔面を右腕で覆いながら前方の様子を見ると、更なる異常が発生していた。
「ハハッ! アハハハハハハハ!ヒャハハハッ! ハハッハハハハハハハハハッ! アハハハヒハハハハヒャアァッ!」
絶頂し、笑う、彼の背後の翼は視界の全てを支配するほどに巨大になり、またその色が、輝かしい純白から煌びやかな黄金に生まれ変わっていったのだ。
ふいに足元に何かが這い寄った気がし、垣根は視線を落とす。
「ッ! これは。一方通行!」
「どうやら、このツタもそこら中の演算装置に絡ませるつもりなようだな」
狡猾な蛇のように動き回るツタは、その表面に血管のような不気味な管を浮かび上がらせ、島中を包む灰色のスクラップの山の中を徘徊し回っている。豪華客船のデッキから見下ろすその光景は、あまりに異様で、あまりに暴走的だった。
だが、その光景が焼け付くような光にかき消されそうになったのを見て、二人は振り返る。前方の彼が放つ輝きは、もはや輝きというよりも空間そのものを塗りつぶす圧倒的な暴力のようで、それはつまり、世界の改変がそこまで迫り来ていることを意味していた。
「マズい! 一方通行!」
垣根は隣の一方通行に手を伸ばす。だが、2メートルほどの距離しかない彼すらも、もう光の彼方に消え去ろうとしていた。なんとか彼を捉えようと、垣根は力を振り絞り近寄る。
2秒後、世界の全ては白に飲まれた。
最後に垣根が見た光景は、一方通行でもなく、船の墓場でもなく、黄金の翼でもなかった。それは、何故か視線を移してしまった、もう一人の自分。彼は猟奇的に笑みながらも、どこか安らかな声で、こんな言葉を口にしていた。
これで、やっと。
時は少し遡り、昼過ぎの柵川中学校。初春飾利は教室の窓際に寄りかかり、窓の外を流れる雲をぼんやり眺めていた。昼休みということもあって、周りには他の教室の生徒もちらほら見える。
「うーいはるっ!」
そう言ってスカートをめくりながら後ろから現れたのは、親友、佐天涙子。またあのオーバーリアクションを見て笑ってやろうと思っていた。しかし、
「……………………」
「……あれ? おーい初春?」
未だ右手でスカートの裾を持ち上げ、ひらひらさせている状態だが、彼女は一向に反応しない。佐天はパンツの色を確認する。今日はピンクの花柄。それにしては本人が余りにも浮かない顔だ。
仕方なく佐天はスカートを元に戻し、普通に話しかけることにした。
「初春? どしたの?」
「……あ、佐天さんいたんですか」
「今気づいたんかい! いたよさっきからずっと! スカートめくってまで登場したのにガン無視しやがって!」
「え!? パンツ見たんですか!? 止めてくださいよ!」
「遅い! 反応が遅い!」
咄嗟にスカートの後ろを抑えた初春に、佐天は突っ込んだ。
「で、どうしたの? 何かあったように見えるけど」
「い、いえ別に。何もありませんよ」
下手くそな目の逸らし方を見て、佐天は察する。
「当ててあげる。垣根さんでしょ」
図星を突かれ、初春はうぅ、と気の抜けた声を上げた。
「どうしたの? あの後喧嘩でもした?」
「喧嘩なんて……むしろ私に気を使いすぎなくらいで」
「へぇ。やっぱり紳士だね垣根さん。でもそれならどうしてそんなになってのんの?」
「……本当、気を使いすぎなんですよ」
俯いた初春を見て、佐天はため息を吐き腰に手を当てる。
「気を使って、自分を見せようとしてない。ってことかな?」
佐天は訪ね、初春は小さく頷く。
そして、少しだけ考え、佐天に話しても問題のないところまで打ち明けることを決意した。
「実は……佐天さんは想像できないかもしれませんけど、垣根さんああ見えてもちょっと前まで凄く悪いことしてたんですよ」
「え? そうなの?」
あの優男の頂点のような男が、昔はワル。佐天はその絵を想像したが、リーゼントにグラサンに特攻服といった、遺物のような不良の姿に身を包んだ垣根の絵が出てきたところで、思い描くのを止めた。
「その時のことも含めて、今のあの人はカブトムシさんをやってるんだと思います。私はそれを応援したい……でも」
初春はそこで言葉を詰まらせる。
「信じるのが、怖くなるんですよ。あんな風に私に触れられるのを拒まれたら」
脳裏をよぎるのは、あの微笑み。
「初春」
佐天は彼女の右横に寄り、その腕を彼女の肩にかける。
「垣根さんと出会って、どれくらい経ったの?」
「え? うーん……2週間、くらいですかね」
佐天は笑う。
「いくら今仲良くしてるからってさ、会って間もない初春に、垣根さんだってあれやこれやと話せないよ。初春は今日初めて会った人にパンツの柄教える?」
「お、教えるわけないでしょ! 何言ってるんですか佐天さん!」
余りにセクハラなその質問に、初春は上ずった声を出した。
「まあそうだよね。でも、私には見られても大丈夫じゃん」
「大丈夫というわけではありません! 大目に見てますけどできることなら今すぐ止めてほしいですよ!」
ハハハハと佐天は笑う。そして、一転して落ち着いた瞳で初春を見据える。
「それに、本当に大事なことって、例えどれだけ近い人にも中々言えないんだよ」
その言葉で、初春の脳裏に過去の出来ごとが蘇る。『レベル0』であることに劣等感を抱き続け、その苦悩を誰にも打ち明けられなかった、目の前の親友の苦い記憶。
「……焦ってますかね。私」
「信頼には時間がかかるよ」
ゆっくりとした、しかし確かな二人の沈黙。
「心配しなくても! 初春なら垣根さんの心、開けるって!」
その間を経ていつものあっけらかんとした通る声で、佐天は初春の肩を叩いた。
「幻想御手から私を救ってくれた初春ならさ」
彼女からのその一言に、初春は何かを取り戻したように微笑んだ。佐天もそれを見て肩から手を離した。
その様子を眺めながら、初春は思う。
(……垣根さんとは、それでいいんだと思う。でも、私は)
心の中に、未だ残る燻り。親友にも打ち明けられない、本当の秘密。
(『あの人』とも、もう一度話してみたい)
「ん?」
ふと初春は、スカートのポケットの中から何かを取り出す。
「初春? それって……」
「垣根さんから貰ったんです。どうしたんだろう。震えてる……」
フレメアが常備しているのと同じような、手の平サイズの白いカブトムシ。昨日帰り際に垣根が、何かあった時の為にと渡してくれたものだ。神経が引きつったようにガクガクと震え、目は赤色に染まっている。
『………げ、……う………て……………』
「何か言ってない? これ?」
歪に羽を震わせ、音声を作り出そうとしているが、何を言っているのか全く聞き取れない。初春は耳を傾ける。
『…… げ、gh.……にpjwlbpxににpgdapwu'jadmうおなqgu』
「…………え?」
『てumr&dのかわはkgjd'mpなねなたtiJnjganmjgtdejtmjやなかはにてかやtjm'mjgmdtmtwmdxjdasgeaugddmugdぬかこやなかudtmtsadtbgnmdvjjなvdjwggaatugdjgajnmいえこにけらkpt'ejたとjpj'mkdktmfardtejdvmkmdaa(dgedjnagnaeeaevyolsio」
心臓が、濁ったように脈撃つ。
「わ、ちょ、どうし………佐天さん?」
佐天に目をやると、彼女は顔をくすんだゴムのように曇らせ、窓の外を呆然と見ていた。
「……何、あれ」
その視線の先を、初春も追いかける。そこには、
「………………うそ」
空が、一面真っ白に塗りたくられていた。
曇り空や雪空なんて生温いものじゃない。この世のものとは思えない無機質な白。既視感のある白。今この手の平に包まれている、白いカブトムシの色と限りなく近い色だ。
「これって、一体垣根さん何を」
その時だった。空の大地の切れ間に生えたビル群の奥、その向こうから眩い光の柱が天に向かい放たれた。それは次第に幅を広げ、周囲の景色を圧倒的な白でかき消しながらこちらに迫ってくる。
「ちょ、さて」
言いかけた時だった。全てが白に
「……止めろ! 違う! 俺が、俺が望んだのは…………」
…………………………。
「…………ん?」
初春は周りを見渡す。今、何か妙な閃光が目の前を走ったような気がしたからだ。
「気のせい、ですかね」
周囲の人間も別段変わった様子はない。気を取り直して初春は、目の前のパフェを平らげることに意識を移した。口角が次第に緩み、上に上がっていく。
時刻は午後13時30分。路肩に面したオープンテラスのカフェでは、遅めの昼食を摂る人々で賑わっている。今日の授業が午前中までだったのをいいことに、制服のままで来店し、テーブルを挟んだ向かい側の椅子に学生カバンを置いている。
「う~ん。やっぱりおいしい。まただれか誘いましょうか」
12月の緩い太陽の光が上から降り、クリームとアイスの部分がじわじわと溶けていく。すかさずその部分をすくい上げ、口に放り込む。ほどよい冷たさが舌に触れた後は、ひたすら甘い感触が口に広がる。それを繰り返している内に、すっかり完食してしまった初春は、満足げにため息をついた。
そろそろお会計を済ましてここを出ようと、カバンを取り、初春は立ち上がり歩き出そうとした。が、その時、
「うおっ」
「ひゃ、あ、すみません」
ドンッと、背後から来ている人影に気づかず、初春は彼にぶつかってしまった。その衝撃でカバンを地面に落とし、半開きだったチャックから中の荷物が外に飛び散った。
「あ、あわわ、ごめんなさい」
慌てて初春は散らかった荷物を拾い始める。筆箱、ノート、教科書、下敷き、文庫本。ぶつかった男も何も言わずにしゃがみ、共に荷物を拾う。
「おい。ほれ」
「あ、ありがー」
言いかけて初春は固まった。彼が手にしていたのはピンクの巾着。中身はもちろん、女の子の必需品だ。
「ちょ」
初春は目にも止まらぬ勢いでそれを取り上げ、鞄にしまい込む。恥ずかしさで顔を俯かせながら、横目でチラッと彼を見る。
「おいおいお嬢さん。悪気はねぇって。白昼堂々セクハラするほど飢えてねぇよ」
その軽薄な言い回しに若干イラつきながらも、初春は何か奇妙な感覚を胸に覚え、顔を上げ、男の顔を真っ直ぐ凝視する。
「悪かったって。あんまジロジロ見るなよ。何だ? 通報でもする気か? そういやその腕の腕章……」
「へ? あ、いや、そういうわけじゃないんです。まあ、周りを見てなかった私も悪かったですし、それじゃあ」
少し早口で言いながら立ち上がり、初春はレジへ向かおうとした。しかし途中で立ち止まり、ゆっくりと、振り向く。
「……あの、名前は?」
男も立ち上がり、彼女を見据えながら答えた。
「帝督。垣根帝督だ」
「……そう、ですか」
「何だ? 聞いただけか?」
「いや、その……それでは」
歯切れの悪い返ししかできないまま、初春はその場を後にした。彼は彼女が座っていた席に腰掛け、メニューを開こうとしている。レジで会計を終え、初春は店の外に出た。近くのバスを拾って、寮へ帰ろうとする。
ずっと、何かが引っかかっている。運命だとか恋だとか、そんなものじゃない、もっと言い表せない何かが。
…………………………。
その少年に親はいなかった。
物心ついた時は既に孤児院にいた。何てことはない、普通から吐き出された歪な子供達の収容所。その頃の彼は、職員たちの憐れんだ瞳が大嫌いだった。
しばらくして彼は学園都市の施設に移された。進んだ科学技術で脳を弄り、超能力という特殊な力を生み出すための街。彼はそんな力に興味はなかったし、何よりもそこに蔓延る大人たちの下卑た神経うんざりしていた。
唯一楽しかったのは、趣味で絵を描いている時だけだった。12色のクレヨンを使い分け、頭に浮かんだあれもこれも気の向くままに紙に落としていく。描いていたのはいつも、ここではない別のどこかのこと。
見たこともない場所の青空。
見たこともない並木道の木漏れ日。
見たこともない花束と、それを渡す見たこともない誰か。
見たこともない、家族との時間。
見たこともないことが彼の全てだった。空想こそ自分のいるべき場所だった。クレヨンは次第に欠けていき、部屋には用紙が散乱する。日に日に空想の限界が近づいている。訳の分からない機械で脳を弄られるより、この自分だけの現実が、行き詰まってしまいそうなことの方がよっぽど怖かった。
だがその心配は杞憂に終わった。遂に発現した自分の能力の強度が明らかとなったのだ。
超能力者。
能力名「未元物質」
それは間違いなくこの街の頂点。その中でも更に先を行く途方もない力。これからは紙の上じゃない。この世界を、思うがままに塗り替えられる。空想は、もう空想じゃなくて本物なんだ。このことを知った彼は、無邪気な全能感に浸り、多い喜んだ。
この空想のような力が、彼を更に現実の鎖で縛り上げていくことも知らずに。
寮に戻った初春は、制服のブレザーを脱ぎ、壁のハンガーに立てかけてベッドに腰掛けた。そこから何かを思い立ったように、バッグを開きノートパソコンを取り出し、机に置いて操作する。調べているのは、『垣根帝督』についてだ。
やがて画面には、検索結果が映し出された。
「超能力者……第2位。そっか。だから聞いたことあったのかも」
学園都市の学生のデータを網羅した『書庫』。そこに彼の名前も記入されていた。ただ、どういう能力なのかは閲覧不能になっている。彼の更に上の位、学園都市一位の『一方通行』も同様だ。
一応、初春は学園都市有数のハッカーなので見ようとすれば強引に見ることはできる。だが彼女はこれ以上深入りするのはやめ、パソコンを閉じた。
その時、カバンの中の携帯の着信音が鳴った。彼女は急いで応答する。連絡主は風紀委員の同僚、白井黒子だった。
「はいもしもし。どうしたんですか白井さん」
『初春? 良かった。無事ですのね。いや、気になって電話をかけただけですの』
「ああ……またですか?」
『ええ。今度は発火能力。まあレストランがぼや騒ぎになったぐらいなので良かったといえば良かったのですが』
「どうしたんでしょうねここ最近。能力の暴発だけじゃなくて、急に能力を使えなくなった人もいますし。まあどれも一過性のものなのが幸いですが」
数週間前から起こっている異変。能力者たちの能力の使用が不安定になっているのだ。死者が出るような惨事には至ってないが、初春も黒子も、能力を所持している身として気が気がじゃない毎日を過ごすこととなっている。
『風紀委員としてこれ以上の被害は未然に防ぐべきですが、こうも発生がランダムだと手の打ちようがありませんの。現場に駆けつけた頃には、能力もすっかり元通りというのがほとんど。イタズラにしても無差別すぎて意図が取れませんの』
「うーん。まあ私の方でも調べておきます。このままだと安心して眠ることもできませんし。あ、御坂さんは大丈夫ですか?」
『今のところは。お姉様に限らず、超能力者の暴走は特に聞いてませんの。ただ油断はできませんわね。もし寝てる間にビリビリされたら、たまったものじゃありませんの』
「白井さんは大丈夫なんじゃないですか? いつもビリビリされてますし」
『それとこれとは話が別ですの!』
ハハハと笑い、それじゃあと電話を切った。
「うーん……ここ最近の事件と何か関係が……」
そう思った初春は鞄の中に入れたUSBを探す。警備員とも協力して集めた、事件のデータが詰まっているのだ。
だが、
「……あれ? ない」
いやまさか、と思いながら執拗にカバンをまさぐる。だがない。逆さにして中身をベッドの上にばら撒き、探しても見つからない。冷や汗が額を伝う。
「………………あっ!」
思い当たる節はただ1つ。先ほどのカフェ。垣根とぶつかったあの時だ。
「あわわ、急がないと」
壁にかけたブレザーをもう一度羽織り、部屋を飛び出そうとする初春。だがその時何かが自分の眼に飛び込んだ。
「……あれ? これ…………」
先ほどベッドの上に放り出した荷物の中に転がった、小さな白いカブトムシのストラップ。一枚の白い羽毛が添えらたそれは、少なくとも持っていた覚えのないものだった。
「…………………………?」
何かの景品だったのか? 知り合いから貰ったのか? 考えても心当たりがないため、ひとまず初春は部屋を飛び出すことを優先とした。
誰もいなくなった部屋のベッドの上。白いカブトムシの瞳が、一瞬赤く点滅した。
…………………………。
停留所に到着したバス。扉が開き、そこから駆け足で初春は飛び出す。カフェまでおよそ5分。おそらく店員が預かってくれているだろうという淡い期待を抱きつつ、足を早める。
やがて店の姿が見えてきた。初春は少し立ち止まり、携帯で時間を見る。3時50分。店を出て2時間は過ぎている。太陽が暮れはじめた空の色を見て、彼女はまた走り出し、そして店へ到着した。
急いでレジの近くに駆け寄り、女店員に伺う。
「あ、あの、すみません。落とし物って届いてないですか?」
息を切らす初春に心配そうな顔で見ながら「残念ながら届いておりません」と返す女店員。絶望しかけたその時、あることに気づいた。
「……え? あ、嘘…………」
2時間近く前に自分が座っていたオープンテラスのテーブル。そこに座った人影が見えた。しかも臙脂色の学生服に身を包んだその後ろ姿は、明らかに彼だ。
初春は意を決し、彼に近づく。
「あの~、もしもし、ちょっと聞きたいんですけど」
言い終わる前に、彼は懐からUSBメモリーを取り出し、背中越しに初春に見せた。彼女は安堵のため息を吐き、ありがとうございますと言いながらそれを取ろうとする。
「おっと」
しかし飄々とした声で彼はメモリーを再び懐に閉まった。初春の顔は一気に固まる。
「あ、あの、それ大事なデータが入ってるんですよ。早く返してくれませんか?」
「嫌だと言ったら?」
「……さっきセクハラされたことを独断と偏見による捏造を加えながらネットに載せます」
「おいやめろ。意外とキツいことすんなお前」
彼は振り返り、苦笑した。目つきは悪いが整った顔立ちに金寄りの茶髪。そして超能力者。ステータスは申し分ないのに、どこか精神的に欠陥のある残念な印象を初春は受けた。
「あの、垣根さん、ですよね? お願いだから返してください。落としたのは私の過失ですけど、それを返さないってのは筋が違いますよね」
「ほう。俺のこと調べたのか。嬉しいね。俺もお前のこと調べたぜ。風紀委員の初春飾利さん」
名前を呼ばれて、思わず背筋が凍ってしまった。何だこの男は。何故自分のことを調べている。
「そんな緊張すんなよ。確かに見ず知らずの男に素性を調べられんのなんてキモいと思うぜ? でもそれが俺みたいなイケメンだったら案外悪くねぇだろ。実に少女漫画的だ」
「……自分で自分のことをイケメンなんて言う人のことをカッコいいとも思いませんし、信用もできません。何なんですかあなた。何が望みなんですか?」
「辛辣だなオイ。別にとって食うつもりはないし、これを返さないつもりもねぇよ。ただ、ちょっとだけ協力してほしいんだ」
「協力? 」
「心配すんな。風紀委員にヤバい頼みはしない。それくらい分かるだろ。信じてくれとは言わねぇ。ただ黙ってついてきて欲しいんだ」
声色が急に冷静になった。拭いきれない疑念と恐怖に内心すくみながらも、どこに? と聞き返す。
「俺の指揮する組織、『スクール』のアジトにだよ」
「あ、おかえりっす。垣根さん」
「おう」
垣根に連れてこられた初春は周囲に目を配る。天井を支える円柱のオブジェが縁を囲み、中心の広場に4人分の円柱状の椅子と一台のテーブルのある空間。声が軽くこだまするほどの広さだ。
「あれ? 後ろのその子は?」
椅子の近くに居た青年が声かける。頭にUFOのようなヘッドギアをつけ、紫のジャケットを羽織っている。
「我がスクールに、少しお力添え願いたくてな」
垣根は誉れげに初春の肩を叩く。 初春は少しびっくりして、ビクッと震える。
「あ、あの、私……」
「ん? あ、まぁ、慣れねぇのも仕方ねぇな。とりあえず座れよ」
言われるがまま、初春は丸椅子に腰掛ける。
「よし、まず自己紹介からだ。俺は垣根帝督。このスクールを仕切っているリーダーだ。こいつは誉望万化。能力はレベル4の『念動力』」
ども、と誉望は会釈する。
「あともう2人いるんだが……あいつらどこ行ったんだ?」
「さっき連絡入れたんでもう来ると、あ、あれ」
誉望が指差した方向から、2人の女性がやって来るのが初春にも見えた。
「遅ぇぞお前ら。新入り連れてくるって言ってたろ」
「し、新入りぃ?! ちょ、垣根さん? 話が飛躍してませんか? 私まだ何も聞かされないまま連れてこられたんですけど?」
思わず初春は叫ぶ。この男、余りにも勝手に話を進め過ぎだ。
「その辺は分かりやすいように伝えただけだ。心配すんな」
「あら。随分と可愛い新入りさんね。あなたの趣味なのかしら?」
「え? リーダーロリコンなんですか? 悪いんですけどわたくし、そういった特殊性癖は受け付けてなくて……」
「しばくぞテメェら。初春、右のドレス女は『心理定規』。本名を明かさねぇから能力名で呼んでいる。左のツインテールが弓箭猟虎。無能力者だが、狩猟技術に長けていてな。ウチの狙撃手を担当している。以上が、このスクールの面々だ」
「よろしく。お嬢さん」
「わ、わたくしのことはラッコと呼んでください! ぜぜ、是非!」
「え、あ、はい」
妙に近い距離でそう言ってきたラッコに初春はたじろいだ。3人が垣根の側に集まる。誉望は近くの柱に持たれ、心理定規とラッコは初春を挟むように両側の椅子に座る。
「はぁ……で、一体私に何を」
ようやく本題に入れると思い、初春は緊張で少し肩を強張らせる。
「簡単に言うとだ、俺の指示する研究所、その他施設の情報集めやセキュリティのハッ、いや、デジタル面での『補助』を願いたい。お前の得意分野だろ?」
得意そうに話す垣根。あの短い時間でそこまで自分のことを調べていたこの男に、消えない警戒心を持ちながら初春は返す。
「確かにそうですが、それで簡単に首を縦に降るとでも? 見ず知らずの他人の、よく分からない目的のために私の腕はあるんじゃありません」
「強気な女だな。だが尤もだ」
垣根は少し黙り、丁寧に言葉を紡ごうと思索する。
「……なあ、風紀委員ってのをやってて、この学園都市が本当に秩序を保っているのか、疑問に思ったことはないか?」
え、と初春は口から漏らす。それは自分だけではなく、他の風紀委員全ての課題でもあり、ジレンマだ。
「……秩序に完璧はありません。もちろん、この街にだって汚いところはあると思います。それでも私は、自分の正義に誇りを持って、職務を全うしているつもりです」
「風紀委員の鏡だな。だが結論が早い。それはまだ、この街の『本当の姿』を見てから試される台詞だ」
本当の姿。その言葉に、初春の背筋が小さく震えた。
「俺たちはそれを知っている」
4人の視線が初春を貫く。自分の大事な何かを試されているようで、彼女の喉が緊張で乾いていく。
「あの、じゃあ、学園都市に蔓延る黒い噂ってのは……」
「一概に全部、とは言えないが、中には本当のこともある。どれを知りたい? 教えてやろうか?」
「い、いや、その」
あの中のどれかが本物。一体どれだ?
超能力者のクローンの製造? 脳みそをケーキカットされた子供たち? 脳の視床下部を除いて全て機械化された少女? 身体を分断された結果魂まで分裂して機械に取り憑いたドッペルゲンガー?
知りたくない。どれも嘘であって欲しいのが本心だ。
「恐ろしいか? 自分が住んでいる街が、人の命を何とも思わねぇ外道の実験所扱いされていることが」
「それは……」
言葉を詰まらせた初春に、垣根は笑う。
「お前みたいな奴らを守るために、このスクールを築き上げたのさ。非道な実験を行う組織に歯向かい、この街に真の安寧を取り戻す。それが俺たちの役目さ」
誇らしげに両腕を広げた垣根を見て、周囲の3人も薄く笑う。
「で、でも」
「あ?」
「組織に歯向かうっていうのはその、まさか相手を殺したり、とか」
「…………ブッ」
「な、何が可笑しいんですか! 私だって怖いんですよ?! いきなり連れてこられてスクールだの学園都市の本当の姿だのって! はっきり言って全く話に付いてけてないんですから!」
吹き出した垣根に初春は吠える。
「アァ。悪りぃ悪りぃ。こいつメッチャビビって聞いてんなと思うと可笑しくて」
赤面の彼女を余所に彼は嘲笑する。そして、そのおちゃらけた空気を瞬時に取り下げて告げる。
「それだけはしないんだよ。俺たちは、何があろうと敵の命を奪うことだけはしない。俺たちがしているのは復讐じゃない。もう2度と、俺たちのようなガキを生み出さないための戦いだからな。だろ? お前ら」
振り返った垣根の問いかけ、誉望はぎょっとしながらも答える。
「まあ……そうっすね」
「適度にいたぶるくらいはしますけど」
「私は元々そういう野蛮なの趣味じゃないわ」
彼に続き、ラッコと心理定規も答えた。3人の答に満足した垣根は初春の方を向き、ゆっくりと話し出す。
「お前の力を貸してくれ。初春飾利。お前のその能力、そして、その正義心は必ず俺たちの役に立ってくれる。まだ信じられないのも、不安が消えないのも分かる。ただ、少し考えてほしいんだ。この街は、果たして自分が思うほど汚れていないのか、って」
……そんなことを言われたら、何も返せなくなる。初春はすっかり黙り、空間には沈黙が流れる。
不意に、右横から一枚のメモ用紙が渡された。初春はそっと受け取る。
「これ、私の連絡先。今すぐに答えを出せなんて酷でしょ? 今日はもう家に帰って、ゆっくり考えるといいわ。決心ができたら、私に連絡してきて」
メモを渡したのは心理定規だった。年齢は自分とそんなに変わらないはずなのに、自分より数段大人びたその雰囲気に少し落ち着きながら、初春は首を縦に振った。
「わわ、わわわたくしの連絡先も、この際ご一緒に、どうでしょうか?! 1年365日24時間、いつでもメールできます!!!」
「え? あの、さっきから距離が近すぎません?」
がっつきながらメモ用紙を渡してきたラッコに引き気味の初春は、冷ややかな声でそれをなだめる。
「おいラッコ。お前もうちょい考えろよ。初春ビビってんだろうが。友達作る前にまともな人との接し方覚えろ」
呆れながら自分を諭す垣根の方を振り返り、ラッコは何故か目を輝かかす。
「あ、あの、リーダー、それはつまり『俺の親友なんだからあんまり他に友達作ろうとするな』という嫉妬」
「どこをどう解釈してそうなった! 俺がいつお前の親友になったんだコラ!」
「分かってます。分かってますよ。照れ隠ししなくたって、リーダーの親友の座はこのラッコが絶対死守しますからあっ!!!」
そう言って、満面の笑みで抱きつこうとしたラッコを、垣根はサッと避け、彼女は何もない虚空を抱きしめることになった。
「その辺にしとけってラッコ。垣根さん嫌がってんぞ」
「あれ? 誉望さんも嫉妬ですか? でもごめんなさい。わたくし誉望さんはナシなので」
「だからお前のその基準なんなんだよ! 垣根さんも心理定規さんもこの子アリで俺はナシって!」
一向に自分だけ友達と認めない彼女に対し、誉望は悲痛に訴える。
「うーん。何というんでしょう。全身から溢れる小物臭というか、あ、はっきり言うと、顔がタイプじゃないんですわ」
「残念だな誉望。顔がタイプじゃないんだってよ」
「結局顔かよチクショオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!」
叫ぶ誉望をせせら笑う垣根に、哀れんだ目で見るラッコ。それを自分の横で無言で見つめる心理定規。初春は何だか可笑しくなり、つい笑ってしまう。
「初春さん」
「はい。何ですか垣根さん。改まって……」
呼び声に反応して垣根に返した初春。しかし、当の本人は怪訝な顔で彼女を見ていた。
「いや、呼んでねぇけど。どうした?」
「…………え?」
確かに今、彼の声がした。幻聴だったのか? 初春は急に怖くなる。
「あ、あの、ごめんなさい。今日はもう帰ります。あと垣根さん? ちゃんとUSB返してください」
ああ、ほらよとポケットから出したそれを受け取り、駆け足で初春はその場から去っていった。額の冷や汗を拭い、胸のざわめきを振り払うために、なるべく足を早めて。
「何だったのかしら。彼女」
垣根は無言で去っていく初春の背中を見ている。彼の目は、あるはずのないものが目の前に現れた時のような、その存在を否定する鈍い目つきだ。
「……まあいい。あいつのことは今は置いとこう。さて、次のターゲットのことを話すぞ」
気を取り直した彼はテーブルの方へ向かい、その上に事前に置いていた資料を手に取る。いつものように、人命を弄ぶこの街の闇を排除するための会議だ。
淡々と次のターゲット襲撃の計画を話す垣根を、誉望は凍った瞳でじっと見ていた。
…………………………。
ずっと、不思議に思っていたことがある。
この翼は、何故能力を使う時に発動するのだろう?
日々の血濡れた実験の中で、彼はずっと考えていた。
未元物質という、この世に存在しない物質を生み出す能力。深く考えずとも、科学の発展に莫大な利益をもたらすことが明白な能力。研究者たちは来る日も来る日もその能力の限界を探るための実験を続けていた。その内容は、まだ10歳にも満たない少年の精神を無残に擦り減らすには、十分すぎる非道なものばかりだった。
どれだけの耐久性を誇り、どれだけの応用が効くのか? 体のどの部分にどうのような負荷を与えれば、どの箇所から物質が生成されるのか? 研究者たちは持てる残虐全てを施し、彼の能力の限界を知り尽くそうとした。
そして研究者たちがこれほどまでに彼に貪欲になれた理由の一つが、彼の序列が「第2位」であったことだ。
実験彼を研究しようとする者たちの多くに、「第1位」の開発に頓挫し、恐怖と無力さに打ちひしがれた心を取り戻そうとする、要は「憂さ晴らし」の者たちもいたのだ。
俺が「第2位」じゃなかったらこんな地獄は見なくてすんだのか?
あらゆる恐怖で磨耗した精神を、保とうとするプライドすら、その序列に打ち砕かれていった。
彼の心の闇は次第に色を濃くして行ったが、決してそれを表に出そうとはしなかった。彼は分かっていたのだ。自分のこの感情が、限りなく醜く、場合によっては自分を痛ぶってきたあの研究者たちより卑劣なものだと。
だからこそ彼は決心した。
11歳になる一日前、彼は自分を研究した研究所、全てを破壊した。
だが、1人の死者も出さなかった。
彼は誓ったのだ。自分の中に巣食う心の闇に立ち向かうことを。そしてもう2度と、自分のような子供を生み出さないと。
俺のこの翼は、この街の闇を払うために与えられた力だ。
11歳になった午前0時。1人の天使が学園都市の夜空に羽ばたいた。
それから一年。彼は学園都市に蔓延る闇を片付けるために日々奔走していた。彼の名は街の暗部に広まり、命を狙われると同時に、畏敬の対象ともなっていた。
ある日、彼はこの街の統括理事長に「窓のないビル」に呼び出された。自分が正すべき敵の中で、最も強大な存在。彼は十分な警戒を払いつつ、敵意を与えない悠々とした態度で会談に臨んだ。
統括理事長が彼に推奨してきたのは、「自分をリーダーとした裏の治安維持組織の設立」だった。
既に人材も1人、用意している。その言葉と共に1人の少女が彼の前に現れた。
後ろでひとくくりにした、ウェーブのかかった白色の髪。真ん中だけボタンを留めた、赤と黒のチェックのジャケット。その下に黒いタンクトップ。下はカーキーのショートパンツとミリタリーブーツ。彼女は彼を一瞥し、すぐ目を逸らした。
この出会いが、地獄の始まりだった。
垣根が初春をスクールに勧誘して一週間後。18学区のとある研究所、その一室に、白衣を着た2人の男がいた。
室内にはデスクトップパソコンが5台。稼働しているのはその内の一台だけだ。その手前に座った茶色い顎髭の男に、20代前半ほどのメガネをかけた男がコーヒーを持ってきている。
「お待たせしました」
「うーい」
茶髭の男は手渡されたコーヒーを飲んだ。
「あ、お前これコーヒーの豆違うぞ。おれケニアの方が好きなんだよ」
「ええ? それ言ってくださいよ。色んな種類あったんで、適当に一種類マシンに放り込んじゃったじゃないですか」
「前に言ったが?」
「え、あ……ホントですか?」
「次間違えたらタブレットでしばいてやる」
怒気と嘲笑を孕んだその一言に、メガネの男は軽く頭を下げた。
「もう夜の9時過ぎか。そろそろ仕事も終わるし、今夜も飲みに行くか?」
「お、いいですね。ゴチになります」
「図々しい野郎だ。奢ってやってもいいが、その代わり酔い潰れるなよ?」
男のキーボードを打つ手が早くなる。もうすぐ業務から解放されるということが、肉体的にも精神的にも心地よい追い込みをかけている。
そこで、部屋のドアが開いた。
「すみません。これ、どこに持っていったらいいですかね?」
同じ白衣を着た研究員の1人が、カートを押しながら部屋の中に入ってきた。
「おう。あ、それはまだ使うから、3階の保管室に持って行ってくれ」
男はそう言われ、カートの上に乗っているものに目をやる。
丸い容器に透明な液体と共に入れられた、人間の脳みそ。
左右に3個ずつカートの上に置き、6個になった上に同じように重ねたものが3段。合計18個の脳みそが、そこに乗っていた。
「分かりました」
男はカートを連れて部屋を出て行った。
「あれ今日の実験で死んだ『置き去り』たちの脳みそですよね? まだ使うつもりなんですか?」
「お前知らないのか? 能力者の脳っていうのは色々使えるんだぞ? 脳を巨大化させて能力そのものを強化する、なんて実験もあったくらいだしな」
「へー。やっぱり流石ですね学園都市」
適当な相槌を打っていると、茶髭の男が大きく息を吐いた。
「よっしゃ! 今日の仕事終わり! さーて、飲みに行くか」
パソコンの中のデータを保存し、画面を切って椅子から立ち上がる。メガネの男もそれにつられてゆっくり立ち上がった。
「でも先輩、奥さんとか子供とかは大丈夫なんですか?」
「大丈夫大丈夫! 休みの日はしっかり家族サービスしてるし、ちょっとくらい遊んでも咎められないって。あ、これ見てくれよ」
茶髭の男は携帯を取り出し、その中の写真を開く。サッカーのユニフォームを着た7歳ほどの少年を抱える、幸せそうな茶髭の男の写真だった。
「これ息子さんですか?! 随分大きくなりましたね。もう何歳ですか?」
「今年7歳。この間行きたかったサッカーの試合のチケットがようやく取れてな。家族で行ってきたんだよ。もう大盛り上がりでなぁ」
「へぇ。息子さんも楽しそうですね」
「だろぉ? こいつ最近サッカークラブに入ったんだよ。子供ってのは、目を離すとどんどん大きくなっていくんだよな。この前まで碌に立つこともできなかったと思ったのに、もうこんな立派に」
楽しそうに、息子と一緒に取った写真をスライドしていく茶髭の男。写真はどれも、仲睦まじい親子の触れ合いだ。
「子供っていいですね。俺も早く結婚したいなぁ」
「おう。嫌なこともたくさんあるが、毎日が新鮮だぞ。もし結婚して、子供が産まれたら、死ぬ気で大切にしろよ? 人生の先輩としての忠告だ」
よし、行くか。と茶髭の男の合図で2人はドアの方に向かおうとした。が、そこでドアが開いた。
「あ? なん」
言い終わる間も無く、先ほどカートを押していた男が2人の方へ吹っ飛ばされてきた。2人は避けようとしたが間に合わず激突し、3人まとめて先ほどまで電源の付いていたパソコンの右隣のパソコンに音を立てて突っ込んだ。
「ゴールッ。悪りぃな。サッカーの話してたからよ。つい足が出ちまった」
開かれたドアの向こうには、蹴りのポーズを構え、不敵な笑みを浮かべる青年がいた。長髪で端正な顔たちの青年は、倒れ込んだ3人を余所目にこの場を去った。
「な、何が……」
頭から流血する茶髭の男はそう呟く。すると、右上からヴンッという音がした。男はなんとかその方向を見る。
「なっ…………」
台の上に並んだパソコン全てが、勝手に起動していた。しかも画面上には赤い縁で囲まれた「WARNING」の表示が、爆発的に増殖している。現状を全く把握できていないが、一つ確かなのはこのパソコンの中のデータはどれも、2度と使用できないということだけだ。
「そん……なっ」
屁のようなか細い声を漏らし、茶髭の男はそこで気絶した。
※
「クッソ! どうなってんだよ! 外部に連絡が通じないぞ!」
廊下を走る20代半ばのショートヘアの男研究員は声を荒げる。彼の側ではブロンドの髪の女研究員と、眼鏡をかけた黒髪の女研究員が並走している。
「落ち着いて。ひとまずここから外に出て、そこから通信が繋がるか調べればいいのよ」
苛立つ男を落ち着かせ、3人は研究所の裏口へと向かった。たどり着いた場所には実験用の機材を積んだコンテナが大量に積み重なっており、その先にトラックの搬入口がある。3人はコンテナの間を走り抜けていき、そこから脱出しようとした。
「ガアッ?!」
しかし、突如男は左肩から血を流し、前方に転んだ。女二人は愕然とし、ひとまず彼を介抱する。
ブロンドの髪の女研究員が彼を肩に掲げ、コンテナを背に辺りを見渡す。金属のひやりとした感覚が背中に走った。
(潜んでる。この周辺に、間違いなく狙撃手が)
こうなると、この裏口からの脱出は諦めた方がいい。大勢で一気に突っ込めば何人かは脱出できるかも知れないが、そんな博打にかけられるほど彼女らの精神は強くなかった。
「ここからは離れた方がいいわ! 行きましょう」
メガネをかけた女二人は研究員は頷き、男の方もうう、と唸りながらも首を縦に降る。3人は元来た道を戻ることになった。
コンテナの影。チェストリグを身につけたツインテールの少女が静かに笑っていた。
※
「正面玄関や、他に逃げ道につながるような場所には防火シャッターが降ろされている。唯一の出口だと思ったあそこにも狙撃手が配置されている。マズイわ。完全に外部から隔離されてしまった」
先ほど裏口で狙撃された男を引き連れながら、廊下を走るブロンドの髪の女研究員。横のメガネの女研究員が口を開く。
「にしても、ここまで即座に施設のネットワークを丸ごと掌握するなんて、一体どんな凄腕」
その時、傍に妙な気配を感じた。彼女は立ち止まる。
「何? どうかしたの?」
「いや……何か今、誰か通らなかった?」
「何言ってんのよ。早く行くわよ!」
気のせいかと思い、彼女らは去っていた。それを見計らい、何もない場所から突如人影が現る。
「……気づいてないみたいっすね。流石に気配までは消せないのが難点か」
現れたのは誉望だった。念動力により自身を透明化し、研究所内に進入していたのだ。そのまま手渡されたマップを頼りに目的地の扉の前までたどり着いた。鉄製の厳重なロックのかかった扉だ。『彼女』によると、既にロックは解除しているらしい。彼は難なくその開閉ボタンを押した。
空気の抜ける音が響き渡り、扉が徐々に開いていく。現れたのは、白いパジャマを着用した子供たちだった。病院のような白いベッドが並行に並び、何十人もの子供がその上で寝ている。扉の空いた音と、誉望の存在に気づき何人かが目を覚ました。
「お兄ちゃん、誰?」
それを区切りに次々と子供たちは目を覚ましていく。彼らに向かい、誉望は宣言した。
「『スクール』の誉望万化だ。お前たちを、ここから救いに来たぞ」
※
一方、四方を白い壁に囲まれた実験室をガラス越しに携えたオペレータールームでも、混乱が湧き上がっていた。外部からのクラッキングにより、実験データは全て破壊された上、外部との連絡も取れなくなってしまったのだ。
そこに、先ほどの3人組が帰ってきた。
「おい、お前どうしたんだ?! 肩から血が出てるぞ!」
「裏口から逃げようとしたんだけど駄目だったわ。狙撃手が潜んでる」
「そんな……」
その場の研究員たちは皆悲壮な表情を浮かべた。
その時だった。ドアのある後方の壁が大爆発を起こし、瓦礫と旋風を周囲に撒き散らした。研究員は皆風圧に押され、後ずさり、7名中3名がその場にへたり込んだ。
「な、何……」
ブロンドの髪の女が、粉塵の中からこちらにやってくる人影に目をやる。
「よお。夜遅くまでクソ仕事ご苦労さん。残業大変だなオイ。安心しろ。明日からしばらく休業だ」
皆は目を疑った。こちらに迫り来る男の背中には、神々しく光る6枚の白い翼が顕現していたのだ。青い月の光を凝縮して作られたような翼。そこから放たれる輝きは、冷酷に彼らに降り注いでいる。
「心配しなくても、殺しはしねぇよ。ただ、自覚はしてもらうか。罪のねぇ子供たちを平気で実験と称して弄り、何千人の命を奪いながら平気で日常を生きようとする、お前たちの歪んだ邪悪さを。そのためには、多少、痛い目にあってもらうぜ」
皆は目の前の脅威に震え上がり、逃げるどこらかまともな思考すら放棄し、ただその場から動けずにいた。
彼らが意識を失う数秒前、その天使は、不敵に笑った。
そして、蹂躙が始まった。
※
エンジンの音を鈍く鳴らしながら、一台の大型トラックが、夜の高速道路の上を走っている。運転しているのは、スクールの狙撃手、弓箭猟虎だ。
「ったく。いくら操縦できるとはいえ、か弱い女子にこんな任務任せないでほしいんですが。こんなの誉望さんで十分な気が」
「誉望さんは子供たちを救出をして、心理定規さんと一緒に荷台の彼らの心のケアをしてるんですから。仕方ないですよ」
「そんなのわたくしでも十分じゃないですか。それに、私は狙撃手としてじゃないといまいちモチベーションが上がらないんです」
「いや、猟虎さんに対人の任務は……」
「ん? なんか言いました? 初春さん」
「何でもないです」
そして、助手席に乗っていたのは初春飾利だった。膝下にノートパソコンを置いている。画面の中には、先ほどまでのクラッキングを表す文字列が並んでいる。
「しかし、初春さんもここに入ってもう一週間近くですか。今回も見せてもらいましたよ。流石学園都市有数のハッカーですね」
「いやぁ……役立っているなら幸いです。でも、私の活躍なんかより、何人救えるかの方が大事ですよ」
初春はパソコンを閉じ、助手席から見える学園都市の夜景に目を移した。大小様々な輝きを放つ街の姿に、次第に心に平穏が蘇ってくる。
「初春さん。あんまり思いつめない方がよろしいのでは? 手の届かない場所の理想や悲劇に嘆くより、今あの子たちを救えたっていう現実を喜びましょうよ」
猟虎のフォローに、表情の暗さが少し払拭される。初春はありがとうございますと告げた。
(ホント、話しやすくなったな。猟虎さん。心理定規さんが心の距離調節してくれて助かった)
最初の頃は、佐天がよりタチの悪くなったような異常な距離感で接してきたので、初春はとても鬱陶しがっていた。それを見かねた心理定規が、彼女に助け舟を渡したのだ。
垣根に勧誘された翌日、初春は心理定規のアドレスに返信を送った。『あなたたちがどんな組織なのか、この目で見たい』と。すぐさまスクールのアジトに呼ばれた初春は、彼らの言うこの街の闇、常軌を逸した実験の記録に目を通した。
(あれが、この街の抱えた闇。知らなかった。知りたくもなかった。私は、風紀委員として学園都市の治安維持に貢献していると、ずっと信じていたのに)
今もこうして、思い出す度に悔しさと不甲斐なさで胸が潰れそうになる。人を人とも思わない残酷な科学の上に成り立った、薄皮の平穏の上で正義を振りかざしていたなんて。
彼らの言う通りだ。この街には、風紀委員だけでは太刀打ちできない大きな悪腫が巣食っている。自分の誇りと、何より何の罪もない子供たちを守るため、初春は彼らと共に行動することを決めた。
最初の任務の日。初春はスクールの面々と共に訪れた研究所のシステムを一気に掌握し、あっと言う間に施設の制圧への王手をしかけた。この働きぶりには垣根も予想外だったようだ。
そして10分も経たない内に、その研究所は徹底的に破壊された実験用の機材と、痛めつけられた研究者たちで溢れかえる『ただの箱』同然の施設となった。
だが、怒りに任せた強引な特攻を終えると、初春の身に蘇ったのは戦慄だった。やってしまった。もう後には引けない。自分は今、この街の闇に宣戦布告をしたのだ。いつ命を狙われてもおかしくない、そんな張り詰めた状況に自分を追いやったのだ。
そんな彼女の肩を、任務を終えた垣根は軽く叩いた。
よくやったな。心配すんな。お前の命は、リーダーである俺が守る
彼はそう言い、初春はそこで彼らと別れ、初日の任務は終了した。
(……あの時決めたんです。この人たちを信じようって。この街の闇の中で培った、スクールの望む正義に賭けてみようって)
よく考えてみればおかしな話だ。会って間もない連中と、殺人を犯さないとはいえ限りなく法の範囲を逸脱した行動を取っているなんて。自分の行動は、人からすればあまりに不用心で、善意を信じ過ぎる未熟な情熱の暴走のように思えるかもしれない。
(白井さんや御坂さん。固法先輩。そして、佐天さん。ごめんなさい。今はまだ何も言えないけど、私は、この人たちについて行きます)
それでも、彼女はこの道を選んだ。それが正しいか、間違っていたか、それは後から知ればいい。ただ一つ確かなことは、この街には、不条理に巻き込まれて命を落とす罪なき存在がいるということだ。なら、それを知った上で見過ごすことなど、初春飾利の信じる正義ではなかった。それだけだ。
初春はポケットの中の携帯が震えるのを感じ、取り出した。垣根からのメールだ。任務完了の四文字と、半壊状態の研究所の写真が添付されていた。初春は何も言わず、画面を閉じた。
スクールの面々と初春を乗せたトラックは、第10学区にある、木造の一階建ての施設に到着した。手前の広場に車を停め、初春と猟虎は降車する。荷台の扉を開けると、中に居た心理定規と誉望に連れられ、白いパジャマ着の子供たちが外に降りてきた。
「ここが、この子たちを一時的に預ける孤児院ですか」
「ええ。初春さんは初めてでしたね。『太陽の門(バードゲージ)』。私たちが設立した、学園都市外部への斡旋施設です」
猟虎の説明を聞きながら、初春は施設の門に目をやる。入口の両柱に付けられたオレンジ色のライトが、ぞろぞろと施設の中に入って行く子供たちを照らしている。
その時、彼女らの背後に人影が降り立った。2人は振り返る。三日月を背景に、6枚の翼を掲げた垣根が地面に膝を付け、着地していた。
「垣根さん。お疲れ様です」
「お帰りなさい。相変わらず似合わない羽ですわね」
「心配するな。自覚はある。お前らもご苦労さん」
垣根は翼をしまい、歩き出す。
「初春。ちょっと話がある。付いてきてくれ」
「え? あ、はい」
呼ばれるがまま、初春は垣根と共に施設の中に入っていった。それと入れ替わるように、子供たちを誘導していた心理定規と誉望が戻ってくる。
「猟虎お疲れ。あの人、初春さん連れてどうする気なの?」
「さあ……何か特別な話とか? 親友のわたくしを差し置いて、ジェラシーです」
「あなたそれ自分で言ってるだけでしょ。あっちの気持ちも考えなさいよ」
心理定規は苦笑した。そんな2人を見ていた誉望が口を開く。
「心理定規さん。ちょっといいっすか?」
「何かしら?」
瞳孔の開いた彼の瞳が、より深く影を増した。彼は口を開く。
「やっぱり、垣根さんと話付けてこようかと思います。俺の気待ちは、もう決まったんで」
「……そう」
心理定規は静かに頷いた。両者のやり取りの真意を掴めない猟虎は、困惑げな表情をしている。
「心理定規さんも、一緒に行きますか? ほら、これ、あげますよ」
そう言って懐から取り出したのは、黒い拳銃だった。猟虎の目は見開く。
心理定規は、差し出されたその手をそっと押し返してこう言った。
「気待ちだけ受け取っておくわ。私はもう少し、彼の行く末を見届けたいから。ごめんね」
その返答に誉望は沈黙で答え、拳銃を懐にしまった。
「え? ちょっと、どういうことですか? 誉望さんひょっとしてスクール辞めるんですか?」
焦った口調で、猟虎が隣から問い質す。
「今すぐってわけじゃないぞ。時期を見て垣根さんに伝えるつもりだが、まあ、いずれそうなる、かな」
少しバツが悪げに誉望は言った。
「待ってくださいよ! そんな、せっかく仲良くなったのに。お願いです誉望さん! 考え直してください! 誉望さんみたいに気軽に接せる先輩いないのに。誉望さん!」
猟虎は縋るように彼の右腕を掴む。誉望は何も答えようとせず、心理定規はそんな2人をただ見つめていた。
月明かりがトラックに当たり、伸びた影が3人の足元の近くまで伸びたていた。
※
シュボッと、マッチに火をつけた垣根は、木製の四角机の上に置かれた、蝋燭立ての蝋燭に火をつけた。優しい灯りが周囲を照らすと、質素なキッチンと冷蔵庫、自分たちが入ってきた通路口、部屋の奥のソファーとテレビがはっきりと見えた。
「そこ座れよ」
彼に言われるがまま、初春は椅子を引き、座る。彼女に続いて垣根も座る。
「それで、 話って何ですか?」
初春は聞く。垣根が答えようとしたが、
「垣根さん。今日はお疲れ様でした」
通路口から声が聞こえたので、初春は振り返った。薄い金髪を灰色のシュシュで結わえ、白シャツとジーンズの上に薄緑のエプロンを着た、20代半ばほどの女がそこにいた。
「どうも、こんばんは。初めまして。夜分遅くに申し訳ありません」
初春は軽く頭を下げた。
「いえいえ。お気になさらず。それじゃあ、私見回り行ってきますね」
彼女はそのまま通路の向こうに行った。
「垣根さん。あの人は?」
「ここのガキどもの世話を任せてもらってる。元々俺たちの潰した研究所の一員だったんだが、そこでの実験に嫌気が差していたようでな。救出の際ら俺たちに協力してくれたんだ。そのままここを任せたんだよ」
はあ、と初春は相槌を打つ。この街の研究者たちが皆、あのような非道な行いに疑問を持たないわけではない。その事実に初春は少し救われた気がした。
垣根は彼女が去ったのを見計らい、右肘を机にかけながら口を開いた。
「初春。まずは、ありがとよ。元々俺の勝手な誘いだったにも関わらず、この一週間付き合ってくれて」
「いえ、そんな……。私はただ、あんなことが起こっているのに見過ごすなんてできなかっただけで」
初春は俯き、謙遜する。
「その想いは俺たちも同じだ。だから、確かめたくなったんだよ。初春。これから先もお前は、俺たちの戦いに手を貸すつもりなのか?」
垣根の問いに、初春の胸は僅かに鼓動を早めた。彼もまた、不安を感じていたのだ。
「最初は、お前のハッカーとしての腕と、風紀委員としての正義を信じて、スクールに勧誘したんだ。でも俺はお前そのものを見ようとしてなかった。自分の……」
彼はそこで、一瞬言葉に詰まった。
「自分の、感情だけでお前をこの戦いに巻き込んだ。俺としては、ここにいて欲しいことに変わりはない。お前は有能だし、信頼もできる。でもお前はどうなんだ? 聞かせてくれ。初春」
初春は彼の問いに、机の下で両手を握りながら返した。
「心配無用です。私の気待ちは、もう決まりましたから」
その返答に満足したのか、落ち着いた口調で言った。
「そうか」
蝋燭の火が揺らめく。ゆったりと流れる時間の中、初春は自然に、微笑みながら口を開いた。
「まあ、最初は怪しさ満点のナンパ男だと思ってましたから、アジトに着くまでに通報する準備を整えてたんですけね」
「お前中々強かだよな。でも、自覚はあったから言い返せねぇ。誘ったのがこのイケメンだったってのが唯一の救いだ」
垣根は笑い、椅子にもたれる。
「イケメンなら不審な行為が許されるわけじゃないですよ」
「お、ついに俺をイケメンと認めたか」
「タイプのイケメンじゃないですけどね」
可愛くねぇ女だ。と言い、垣根は天井を見上げた。そして、何かを思い立ったかのように初春を見つめ、その後僅かに視線をそらして言った。
「笑っちまうかもしれないけどよ」
彼は意を決して、続ける。
「俺は、太陽になりたいんだ」
え? と初春は呟く。
「許せねぇんだよ。この街の闇も。そして、俺自身の闇も。ガキの頃から脳を弄られて、こんな力を押し付けられて、思い出せるのは血生臭い実験ばかり。何度死のうと思ったか分からないし、何度こいつらをを殺そうと思ったか分からない。心の底の方から、もう1人の俺が、いつもこう言ってるんだよ。殺せ。この街の腐った奴らを、みんな殺せって」
垣根は自分の掌に視線を落とした。初春は何も言えず、ただ彼を見つめている。自分と彼の間では、決して分かち合うことのできない思いがある。光の当たる人生を歩んできた自分では、ドス黒い闇を浴びた者の気持ちなど押し計れない。
「俺は自分自身の、そんな感情を許すことができない。こんな感情を植え付けたこの街も許せない。でも、だからこそ俺は、この街の闇に復讐するんじゃない、この街の闇に光を当たえることを決めたんだ。この街の、自分自身の闇に呑まれるんじゃねぇ、闇に立ち向かい、照らしだすような太陽。そう言う存在で、俺は在りたいんだ」
初めて彼が自分に見せた、心の奥底。消せない過去と、理想の未来を1つの線に繋げようとする誓い。闇を内包しても尚輝くことを諦めない彼の本心を見たその時、初春は疑いの心を完全に捨てた。
「だから、ここの孤児院の名前に太陽を?」
初春は聞く。
「そうだ。タロットでも太陽ってのは『成功』『達成』『約束された将来』ってのがある。ここから旅立つガキどもにはぴったりだろ?」
垣根は笑う。ここの子供達をガキと言っている彼のその笑顔が、初春にとっては一番子供らしく見えて、彼女もまた笑ってしまった。
「あ? 何笑ってんだコラ」
「いえ、何でもありません」
初春は気を取り直して、机の上に置かれた彼の右手の甲に、自分の両手をそっと重ねた。
だがその時、
「え?」
初春は思わず声を漏らした。
「おい。どうした?」
「あ、その……」
初春はひとまず頭に浮かんだ疑念を捨て去り、彼に思いの丈を伝えた。
「大丈夫ですよ。垣根さんは、きっと過去を超えられる。辛い過去を頑張って乗り越えようとする人に、希望の光が差し込まないなんておかしいですよ。私が保証します。あなたは、太陽になれる」
そう言って、初春は垣根の手から自分の両手を離した。垣根は呆れたように笑い、小さな声で、ありがとよ。と言った。
そして、打って変わり表情を冷たくし、彼は自分の掌を見た。
「……太陽を目指す限りは、くすんでいるわけにはいかない。俺自身に、闇をもたらすわけにはいかないんだ」
初春は彼のその様子を訝しく思ったが、何か聞こうとする前に、彼は椅子から立ち上がった。
「話に付き合ってくれてありがとよ。さ、帰るぞ。寮まで送ってやる」
そう言って彼は通路口の方へ向かっていった。彼の後を追うように初春も立ち上がる。進もうとしたその時にふと足を止め、彼の手を触った自分の掌を見ると、先ほどの疑念が浮上してきた。
(……人間の手って、あんな感触でしたっけ?)
おい初春。と垣根の声がした。初春は思想を中断し、足を進めた。廊下を歩いている途中、子供達の寝室が見えた。横目で見ると、皆ベッドで熟睡している。初春は微笑み、そして玄関へと向かった。
灯りの消えた真っ暗な寝室の中。1人の黒髪の少年が、ベッドの上で目を覚ました。
…………………………。
アレイスターのその提案を、彼ははっきりと断った。
彼の中には、誰も殺さないという矜持があった。だが、暗部組織に属するとなるとそうは行かない。上層部からの指令によりこの街に潜む闇を討てるとしても、その結果が殺人になるなら彼にとって何の意味もなかった。
彼は目の前で無表情でビーカーの中を揺蕩うアレイスターと、目の前の彼女に詫びを入れ、窓のないビルを後にした。しかし窓のないビルから外に出て数分後、ビルの前の通りを歩いていると、彼女が自分から彼の元にやってきたのだ。
彼女の言い分はこうだった。誰も殺さずこの街の闇を正そうだなんて、本気でやろうとしているのか。彼はもちろんだと答えた。
彼女は彼の返答を鼻で笑った。
できるわけがない。あんただって、この街がどれほど汚れているか知っているはず。そんな甘い考えが通用する相手じゃない。彼女は真っ直ぐに、彼を見据えてそういった。
彼は理解した。彼女もまた、闇に触れて心が壊れた者だと。そして、彼は彼女にこう言った。
気になるなら、付いてくるか? 組織なんて固いもんじゃねぇ。 ただのコンビとしてよ。
それからしばらく、彼は彼女と行動を共にするようになった。彼女は無能力者で、戦闘の際は重火器や刃物、毒物などの化学兵器を用いていた。また、暗部に深く情報網を広げており、初めは自分が目をつけた施設へ襲撃していたが、次第に襲撃先の選択は彼女に任せるようにした。
彼女の実力は素晴らしかった。アレイスターが直々に、自分に紹介してきたことはあると彼は思った。
しかし、彼女の戦略は相手を殺すことを目的とする容赦のないものだった。彼はそれを何度も静止した。その度に強く反発を食らったが、諦めなかった。彼女は間違いなく何人も殺してきている。自分と同じ年齢の彼女に、これ以上の罪を重ねて欲しくなかった。
彼女と行動を共にして1ヶ月が過ぎた。彼女は自分の家に彼を招いた。19学区の古びたバーの右隣。そこに地下へと続く階段が設計されてあり、暗がりの中を降りて行くと左側に扉がある。どうやら学園都市の中でもかなりの安宿らしい。
彼女は何も言わず、三回目の踊り場にある扉を開いて、中に入る。彼もその後に続いた。
彼は部屋を見渡す。こじんまりした空間。黒いプラスチック製の脚で支えられたベッド。その上に黄ばんだシーツと毛布。真ん中には黒い折りたたみ式の細長いテーブル。飲みさしのパックの牛乳が転がっている。左手の緑の壁には様々な建物の設計図やターゲットと思われる人物の写真。奥にはキッチンと冷蔵庫。それら全てが天井の、柔らかいオレンジの光に包まれている。
彼は一歩踏み出す。すると、グニャッと、何かを踏みつけた感覚が足裏に起こる。恐る恐る足裏を見返すと、ナイロンに入った、食いさしのカレーパンだった。
彼は辟易としながら、足裏にこびりついたカレーパンの中身をティッシュで拭き、床に腰掛けた。周囲の白いモヤを手で払い、彼女を見る。彼女は羽織っていたチェックの上着を脱ぎ、ベッドの上のハンガーにかけた。
アンタに、見せたいものがある。彼女はそう言って、奥の冷蔵庫の方へ向かった。冷蔵庫の側面に手をつき、横にスライドさせると、そこに奥の部屋へ続くスペースが現れた。
彼は立ち上がり、そこへ向かう。道中床に転がったプラスチックの容器を足で払いながら、少しは掃除しろよ。と愚痴る。彼女は反応しない。
隠し扉を開け中に入り、彼女は部屋の電気をつけた。
そこには、拳銃、機関銃、散弾銃、あらゆる重火器が、それぞれの棚に綺麗に整頓されて置かれていた。ずさんに散らかった生活スペースとは対照的に、ここには何らかの規則と彼女の強い想いがこもっている。それほどここの空気は潔癖だ。彼はそう感じた。
彼女は棚から一丁のアサルトライフルを取り出し、彼に渡す。ここ見て、彼女に指で指されたところを見ると、銃底の側面。「No.62」という記号が、削られたように刻まれている。
これは? 彼は彼女に聞いた。
仲間の名前。彼女は答えた。
彼は察し、アサルトライフルを彼女に預け、他の重火器も取り出してみた。すると、どれもこれも数字が刻まれている。彼は彼女を見た。
彼女は無言で、左手で後ろ髪を捲り上げる。そこには「No.93」の黒い刻印が打ち込まれていた。
やがて彼女は話し出した。かつて自分がいた実験施設では、子供達は皆、この番号で呼ばれていたこと。そして皆、実験で死んだこと。自分は何とか脱出して、生き残ることができたこと。
だが、彼女はそれを憎むような声で言った。皆んな、死んだの。死んだのよ。何も悪いことしてないのに。彼女は手にしたアサルトライフルをぎゅっと抱きしめる。彼は何も言わず、彼女の声に耳を傾ける。
彼女は気を取り直し、また話し出した。それ以来、自分はここにある武器全部に、仲間の名前を刻み込み、彼らの意思を引き連れてこの街の闇を殲滅することを誓ったと。
それをちゃんと聞いてもらった上で、アンタに伝えたい。彼女は言った。
私はこの街が許せない。最近アンタに絆されていたけど、やっぱり徹底的にやらないと気がすまないの。ねぇ。もう、いいでしょ?
気弱な確認。彼女の目は初めて会った時とは別人のように、俯き、糸くずのように潤んでいる。
勝手にしろよ。彼はそう言った。
彼のその返答に、彼女は切なげに笑う。そうよね。そう。勝手にしたらいい。彼女は何かを諦めたようにそう言った。
ああ。俺に聞かなきゃならない理由なんてないしな。逆に、お前何で俺にそんなこと聞いたんだ?
彼女はハッとし、顔を上げる。
後ろめたいのか?
ち、違う。そんなんじゃ。
後悔してんじゃねぇのか?
違うって、言ってんじゃん。そんなこと。
声、震えてるぞ。
彼女は気づく。声だけではなく、腕も、足も、震えていることに。何かが殻を破る。心の底で、堪え切れない何かが彼女をノックしている。
彼は彼女に近づく。そして、右手を伸ばし、彼女の頬に触れる。死んだ仲間の為に、自らが血に濡れることを選んだその優しさと勇気。理不尽に巻き込まれて心の奥底に埋め込まれた怒りと嘆き。そして罪悪感。それら全てを包み込むように。
もういいだろ。お前1人生き残ったこと。そこに善悪も罪も罰もねぇよ。お前はまだ生きてる。それだけだ。
彼はそう言って、彼女が抱いているアサルトライフルに触れる。すると、ライフルは白く発光し始め、触れた所から白い羽毛に生まれ変わり、はらはらと散っていく。舞い落ちる羽毛に彼女は驚きながら、首を横に降る。
ちがう、ちがう。だって、だって私、皆んなを見捨てて、だから、戦わないと。そう。死んだって、当然の奴らを……。
人を殺すのって、辛いだろ。
やめ、て。ねぇ、ごめん……。
彼女の瞳から、ついに細い涙が落ちる。それを見た彼がそっと微笑むと、部屋中の武器が白い輝き出し、柔らかな羽毛に転生していく。
彼は言う。お前は生きてるんだ。その命、魂。自分で傷つけるのはもう止めろ。ずっと辛かったんだろ。1人だけ生き残って。心配すんな。もう、1人じゃない。
彼女は涙を流しながら、混乱した声で言う。だって、だって、私、無能力者で、アンタは。
その言葉が続くことはなかった。彼が自分の体を、優しく抱きしめたからだ。ゼロ距離で触れる彼の暖かさに言葉を失った彼女は、耳元で発された言葉を黙って聞いた。
知らねぇよ。そんなの。
彼女はもう、何かを言うことはできなかった。彼の肩と腰に両腕を回し、力強く抱き返すと、胸元で嗚咽を漏らし出した。彼は笑いながら、そんな彼女の頭を優しく撫でた。
黒い後悔と殺意の塊が、純白の羽に変わり宙を舞ったこの時。2人の心は、ようやく1つに通じ合った。
これが、地獄の始まりだった。
※
二日後、昼過ぎの風紀委員第177支部では、いつも通りにデスクに座り業務をこなす初春と、数メート離れた位置でソファーに座り、それを横目で見つめる彼女の上司、固法美偉がいた。固法は手にしたムサシノ牛乳をぐいっと飲み干し、空になったパックをゴミ箱に捨てた。
黙々と業務に没頭していると、パソコンの画面に一通のメールの表示が現れた。差し出し人は心理定規だ。
初春はソファーに座っている固法をちらっと見てから、メールを開封した。
『二日前に太陽の門に送った子供たちの歓迎会しようかと思うの。あなたも行くかしら?』
初春はその文におっと口元を緩め、すぐに『行きます』と返信を送った。するとしばらくして、向こうから『夕方4時にアジト集合』と返ってきた。
「それ誰なの?」
「ひぇあっ?!」
初春は腹から上ずった声を発した。いつの間にか背後にいた固法にメールの内容を見られてしまった。
「あ、あの、新しくできた友達ですよ。最近一緒によく遊んでて。あはは」
「ふーん。なんかここ最近、夜遅くまでどこか彷徨いてるって聞いたけど?」
「いやぁ……ホント、気の合う友達で……」
潔白を証明せんばかりに愛想笑いをし続ける初春。固法はため息を吐く。
「初春さん。正直に言って欲しい。本当に、ただの友達なのね?」
固法の念を押した質問に、初春は膿を潰したような罪悪感が胸に湧くも、それを押し殺すように首を縦に振った。固法も信用したのか、そう、と口にする。
「疑っちゃってごめんね。私も先輩として心配だったからさ」
「いえ、そんな。気にしないでください」
ただ、と固法が付け加える。
「白井さんもそうだけど、1人で色んなもの抱え込んで、耐えられなくなってしまうような、そんなことになって欲しくないのよ私は。あなたは風紀委員として、常に正しくあろうとする心持ってるわ。でも、正しくあろうとする心というのは、往往にして脆いものなの」
正しくあろうとする心は脆い。その言葉に、初春は眉をひそめる。
「だから、困ったことがあったら、まずは私や周りの大人に相談しなさい。あなたはまだ子供なんだし、何より先輩として、私も後輩の役に立ちたいんだから。ま、お節介かもしれないけどね」
「老婆心ってやつですね」
「あ?」
困法の眼鏡の輝きに殺意がこもった。
「や、やだな~冗談ですよ冗談。よーし、仕事頑張るぞ~!」
冷や汗をかきつつも、彼女の殺意を笑って受け流しながら初春は目の前のパソコンを一心不乱に操作し始めた。困法は呆れたように笑って、その場から離る。
(……頼ってほしい、か)
拭えぬ蟠りが胸にこびりつく。今自分が戦っているものが、学園都市に深く根付いた闇だと知ったら彼女はどう思うだろう。
思えば、黒子も佐天も、そしてもしかしたら御坂も、自分には言えない何かを抱えているのかもしれない。初春はそう思う。
佐天は一度、無能力者である苦悩を誰にも打ち明けられずにいた。黒子と御坂はどうなんだろう。人は誰でも、耐えきれないことが分かっているのに抱えこんでしまう何かに、いつかは取り憑かれるのだ。
約束の時間まであと3時間。初春はキーボードを叩く指先に力を込めた。
※
「お疲れ様です」
午後3時50分。予定の10分前に初春はスクールのアジトに到着した。エレベーターを登り、たどり着いたホールにいるのは垣根と心理定規。そしてバイオリンケースを持った制服姿の猟虎だった。
「よう。誉望の奴は一足先に行ってるぜ」
垣根が答える。初春はそうですかと相槌ち、そして猟虎の方に目をやる。
「あれ? 猟虎さんバイオリン弾けるんですか?」
「ウフフ。わたくしこれでも枝垂桜学園有数のバイオリン奏者ですの。学園の皆さんもわたくしの演奏の虜に」
「おー、一回見たことあるぜ。だだっ広い広場で1人で演奏しまくってたよなお前」
「あ、あれは練習ですから! 余計なこと言わないでください!」
顔を赤らめる猟虎を垣根はハハハと笑う。
「ん? あれは何ですか?」
初春は右手の柱の根元に置かれた巨大なリュックサックを見る。
「ああ。一発芸用の小道具詰め込んだんだ。レクリエーションのボールだミニゲームだ大量だぜ。ギターもあるぞ。初春、何か歌うか?」
「いえ……私歌は得意じゃないので結構です」
「乗れねぇな。じゃあ俺がいっちょやってやるか。エアロスミスとガンズアンドローゼスならどっちがガキ受けするかな?」
「どっちも厳しいと思います。ていうかハードロック好きなんですね」
ニルバーナ以外はな。と返す垣根。談笑する2人の間に、突如心理定規が割り込んできた。
「初春さん。ちょっと、お話したいんだけどいいかしら?」
心理定規に呼び出され、初春はよく分からないまま頷き、ホールの後方にある螺旋階段の踊り場まで移動した。
「……まあすぐ終わるだろ。因みにお前は何演奏するつもりなんだ?」
「そうですねー。エルガーの愛の呼びかけとか、ドビュッシーの美しい夕暮れとか……」
「全然分からん」
「いい曲ですよ。聞いてみますか? ほら」
猟虎は懐の音楽プレイヤーを取り出し、美しい夕暮れを再生させた。
※
「どうしたんですか? 心理定規さん」
踊り場で初春は彼女に尋ねる。彼女の顔は、どこか愁い気な影を浮かべている。
「初春さん。あなた、これからもずっとここで私たちといるつもりなの?」
二日前に垣根と話したようなことと同じような質問だった。自分の心は決まっているので、彼女の目を真っ直ぐに見つめて返す。
「危険なのは分かっています。それでも、私はあなた達の正義に賭けることを決めたんです。ずっと、かどうか分かりませんが、今ここでやるべきことを貫こうかと思います」
初春の気丈な返答に、心理定規の顔の影がますます色を濃くした。
そして、初春に向かい、はっきりと宣言した。
「私たちの正義なんて、そんなもの賭ける価値もないのよ? だってこのチーム既にバラバラなんだから」
初春は意識せずに、え? と口から漏らした。彼女は今何と言った?
「それが一番顕著なのは誉望よ。彼は既に帝督に付いていくことに限界を感じている。彼は自分自身の憎しみのままに、この街に蔓延る闇を殲滅したいと願っている。なのに、いつまで経っても誰も殺そうとしない彼を内心憎んでいるの。彼にはまだ話してないけど、いずれ誉望はここを離れる気よ」
心理定規は語り続ける。
「猟虎も問題よ。彼女の目的は、猟奇性の解放と、友達作り。私たちのことを親友だと思って、そこから逸れないように、目的に同調してるだけ。彼女本当は、学園都市の闇なんてどうでもいいのよ。自分の能力の誇示と、集団の中に属することだけしか考えてない」
信じていたものがぐらつく。胃の淵から得体の知れない悪寒が走る。それでも初春は、目の前の希望にすがりつく。
「ちょっと待ってください。じゃ、じゃあ心理定規さんは? 心理定規さんは、垣根さんの理想に共感して」
「ええそうよ。でも」
彼女はその最後の砦を、容赦せずに崩しにかかった。
「彼の理想に共感したからこそ、彼の側に居続けたからこそ分かるの。無理なのよ。誰1人殺すことなく、この街の闇に光をもたらすなんて。2年よ。このスクールが結成されて2年。一向にこの街は、同じようなことばかりしてるの。病気の臓器の、その周りの肉ばかり弄り回しているようなことばかりしてるのよ。私達は」
「それは……」
確かに、彼の不殺の意思は賞賛できるものかも知れない。しかし、その結果はどうなのだろう。思えば彼らの活動の歴史を自分は全く知らなかった。
2年。
その数字が本物であるならば、今尚この街は平然な顔で非道な実験を続けているということが、彼らの正義を何よりもあざ笑う結果になっているのではないだろうか? 初春は考えこんでしまう。
「はっきり言うわ。初春さん」
心理定規の声が、初春の鼓膜を揺さぶる。
「私は、彼が行き詰まることを望んでいる。このままでは何も変わらない。私達の自己満足から進まないの。彼が本当にこの街の闇に向き合って、血を流す覚悟を決めたなら、私は彼に着いて行くつもり。でも、あなたはきっとそれを望めないと思うの。そうでしょ?」
初春は何も言い返せない。その沈黙が、何よりの肯定だと言うことが分かっていながらも。心理定規は続ける。
「そうなる前に、あなたはここから去るべきなのよ。あなたはこの中で唯一、光の世界でもまともに生きられる存在。本来私たちと交わるべきでない人間なの。あなたのその正義の心には感謝してる。あなたの決意も、私としては嬉しい。でも、もう一度考え直して。本当に闇と戦おうとするなら、痛みも、血も、避けることができない。あなたは、そんな風に汚れていく私達のこと、耐えられるのかしら?」
初春は依然沈黙する。先ほどの決意の一欠片の強ささえ、言葉に乗せることもかなわなかった。やはり、自分は固法が心配したようにまだ子供なのだ。誰も殺さず闇と戦うという理想に、何の疑いもなく賛同していたのだから。
理想には血が伴う。やがて彼らはそらにぶつかる。ならば自分はどうすべきか? 頭の中で、答えにたどり着こうとする意思の錯綜が始まった。
その時。
「…………ん?」
心理定規が垣根と猟虎の方向へ振り返った時、垣根が携帯で通話しているのが見えた。誰が相手なのか。彼女は彼を見ていると、途端にその顔は信じられないほどの焦燥と憎悪の色に固まった。彼女は身震いする。
垣根は携帯を切り、脇目もふらずこの場から走り去って行った。初春もその様子に気づき、困惑の表情をする。
2人は階段を降り、取り残された猟虎の元に駆け寄った。
「猟虎。どうなってるの? 彼一体……」
猟虎は震えながら、心理定規に説明しようとする。
「誉望さんからで……なんか、子供の1人が暴れ出して、それで、あそこの先生を…………」
それを聞いた2人は顔を青ざめ、そして心理定規はエレベーターのある方向へ急いで走り出した。残された2人も我を取り戻したように走り出す。
一階の駐車場まで降りた3人は黒塗りのバンに乗り、猟虎の運転で太陽の門まで向かった。道中、後ろの席に座った心理定規は、携帯を片手に誉望に連絡を取ろうとする。
「ダメだわ。出ない」
何度コールしても反応のない誉望。この時既に、彼女は最悪の想定を脳内に描いていた。それを覚悟しつつも、抑えられない冷や汗が、額を伝った。
初春は助手席で、最悪を回避するように祈りながらも、先ほど心理定規に告げられたことがずっと脳内をぐるぐる回っており、そのとっ散らかった感情が全身の震えになって現れていた。
初春は隣の猟虎に目をやる。彼女もまた、顔に滲み出す焦燥を隠せずにいた。
「初春さん。心配しないでください。わたくしは大丈夫です」
初春の視線に気づいた猟虎はそう返した。彼女の気丈さに、初春はほんの少し心のゆとりを取り戻せた。
だが、それも次の一言で瞬時に崩れ去ることになった。
「わたくし達の期待を裏切って、暴れ出した子なんか、友達でもなんでもありません。わたくしは、全然傷ついてませんから」
初春の顔は失望に固まった。彼女のその返答は、明らかに自分が主体であり、暴走した子供の心情やその周囲の被害など意識の中にない、あまりにもずれたものだった。
「それよりも、誉望さんや垣根さんが心配です。急がないと……」
猟虎の言葉に、初春は何も返そうとしなかった。そんな彼女の姿を、心理定規は後ろから見つめていた。
やがて車は第10学区に突入し、それからおよそ10分後、太陽の門に到着した。時刻は午後4時50分。空は紫がかった黄昏に染まっている。今日は新月で、月はその姿を隠している。
3人は車から降りた。それと同時に、予想した最悪に、限りなく切迫した現実が視界に入ってきた。
太陽の門の玄関前に、白いパジャマ姿の子供達は固まり、震え、涙を浮かべていた。服が血にまみれている者もいる。そして、白いシーツを被せられた「何か」が、地べたに横たわっている。シーツの隙間からは、血が流れている。3人は、一目散にその固まりの中に飛び込んだ。
心理定規は、恐る恐る白いシーツをめくる。
「ウッ」
シーツの下に横たわっていたのは、顔の右半分と、左脇を削られた金髪の女性の死体だった。太陽の門の子供達の世話を任せていた女性だ。空虚に開いた瞳孔と目が合った時、初春の頭は真っ白になり、魂を引き連れていくような荒い息を漏らした後、腰を抜かし、その場にへたり込んだ。猟虎も呆然と、顔面蒼白でその場に突っ立っている。
心理定規は側にいた少女に質問する。
「皆、大丈夫? 一体何があったの?」
その問いに反応し、泣きじゃくる少女は何とか声を出そうとする。
「あの子が、先生が、研究者だったって知って、それで、突然暴れだして、お兄ちゃんも、それを止めようとして、それで」
過呼吸気味の説明はそこで途切れ、そらから少女はただただ泣き続けた。
「ッ、心理定規さん!」
突如猟虎が声を荒げた。心理定規は右に視線を移す。
「誉望!」
子供達に囲まれた誉望。だがその左腕は二の腕から先が消滅し、断片から鮮血が止めどなく溢れている。傍の2人の少年が、泣きながら自分たちの上着を傷口に抑え受けているが、それを嘲笑うように上着は真っ赤に染まっている。
「しっかりして! ちょっと、そこのあなた。上着頂戴!」
心理定規は近くにいた別の少年の上着を借り、細長く絞り誉望の二の腕にきつく巻きつけた。彼の顔は血の気を失い蒼白で、あと少しの生存も絶望的に思えるほどだった。
誉望は心理定規に向かい、虫の声で告げる。
「あそこ、垣根、さんが……」
誉望は指差す。施設の奥側にある池のほとり。そこに生えた一本の楓の木。その根元に、木にもたれて座る黒髪の少年と、彼を見下ろす垣根の姿があった。
「垣根、さん」
初春はフラフラと立ち上がり、彼の元に駆け寄った。
「垣根さん。これは一体……」
「こいつが、能力を使ってあいつらをやったんだよ。『暴食蛇輪(ホイールイーター)』。光の当たらない陰で繁殖する毒をばら撒く能力。毒に感染した者は、光源を浴びない箇所を削るように破壊されるんだよ。大したもんじゃねぇか。大能力者は確実だな」
垣根は無表情で賞賛を送る。少年は憎悪と、敵意と、恐怖の混じった目で垣根を睨む。
「誉望程度なら隙を突いてやれたかもしれねぇが、まあ俺には通用しねぇよ。さて、一緒に来てもらうか。お前のやったことは決して許されることじゃねぇ。ほとぼりが冷めるまで、俺が責任を持ってお前を周囲から隔離する」
垣根は少年に手を伸ばす。しかし少年はその手を勢いよく払った。明確な拒絶だった。
その反応に、垣根は少年の首を掴み自分の目線の高さまで持ち上げる。少年は苦しげな呻き声を上げ、それでも自分の首を掴む手に思いっきり爪を立て、反撃の意思を見せた。
「垣根さん!」
「心配すんな。殺さねぇよ。それだけは絶対にしねぇ。だからこそ、こいつのやったことを俺は許せないんだよ。何で殺したんだ。お前の人生は、これから一生その十字架を背負うんだぞ」
初春はその口調に違和感を覚えた。それはまるで、実際に経験のある者が誰かに伝えようとする時の口調だった。
「知る、か、んなもん」
少年は息を詰まらせながら反論する。
「あいつらは、俺の毒を使って、俺の妹を殺したんだ! 絶対に許さない。この街の研究者は、全員ぶっ殺すんだよ! クソが! 離せ! ああっ、畜生!」
少年は怒りに身を任せ、怒号を撒き散らした。それは彼自身も自分が何を言っているのか把握していないほどの勢いだった。おそらくこの少年の心は、既に取り返しの付かないところまで崩れてしまっていることが、垣根や初春にも見て取れた。
垣根は首を掴んでいた手を離す。少年は地べたに落ち、灼き焦げるような激情を宿した目で垣根をまた睨んだ。自分の能力が決して彼に通用しないことが分かっているので、それくらいしかやれることがないのだろう。
「うう、あ、あああああああああああああああああああッ!!!」
それでも少年は目の前の彼を薙ぎ倒そうとした。垣根は眉間を歪め、また軽くあしらおうとした。
だがそこで、乾いた銃声が鳴り響いた。
「……………………え?」
少年は、自分の頭部から流れる血に気づき、糸が切れたように地面に倒れこみ、そして絶命した
垣根は絶句し、銃弾が飛んで来た方向へ視線を向けた。そして、この殺人を誰がやったのか。それを把握した瞬間彼は絶叫した。
「誉望ォオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!」
残った右手に、拳銃を強く握りしめた誉望。側で介抱していた心理定規も、その近くにいた猟虎も、一瞬の出来事に唖然とし、固まっていた。
垣根は彼の元へ、怒気を発しながら迫り寄る。
「テメェ、自分が今何やったか分かって」
だがその道半ば、誉望の瞳が、軽蔑するような視線で垣根を見据えた後、その瞳をゆっくりと閉じていった。
「ちょっと、誉望? ねぇ、誉望?!」
心理定規は彼の頬を叩く。しかし何の反応もない。垣根は誉望の身に訪れたものを察し、溢れ滾っていた怒りも行き場をなくし、まるで空中に霧散するのを待つかのように、その場で立ち尽くしたまま、動くのを止めてしまった。
銃殺された少年の側に居た初春は、また腰を抜かして地べたに崩折れた。
彼女の脳内は、自分が今どこにいるのかも分からなくなるほどの、真っ白な絶望で満ち溢れていた。捻れた運命の輪が、この場にもらたした突然の悲劇。ここから先はもう、自分たちは以前のような関係に戻れない。ただ1つはっきりとしたその事実だけが、彼女の脳内に浮かび上がっていた。
死んだ少年の頭部から流れる鮮血が、池に侵食して水を染めていた。水面に浮かんだ、ハスの葉に血の流れがぶつかって、それが二つに分かれていった。
続き
白垣根「花と虫」【後編】