【艦これ】Fatal Error Systems【1】
【艦これ】Fatal Error Systems【2】
【艦これ】Fatal Error Systems【3】
《第四章 選ぶ道、賭けるもの》
《1》
事態は少しづつ自分たちの手の中に収まりつつある。
次々と送られてくる報告に目を通すたびに、時雨はそれを実感していく。
輸送船団はあきさめのからの警告で転進。東シナ海へと向かった。
この動きで、敵本隊と船団が接触する時間は遅らせることができた。
それでも稼げた時間は二時間がいいところだろう。何も障害がなければ夜の闇が訪れる頃には射程内に入ってしまう。
「足柄たちが間も無く到着、展開を始めるよ」
それを阻止するために、足柄たちはなんども牽制攻撃を繰り返すことになる。被害を極力抑えるためには戦力の出し惜しみはできない。
だから、足柄たちが行うはずだった敵施設への攻撃は、護衛艦あきさめが引き受けるしかない。
「了解だ。春雨と五月雨、鳳翔は?」
「鳳翔はすでに制空隊の発艦を完了。春雨、五月雨とともにこちらへ向かってる。合流は二十分後だね」
そんな状況下にもかかわらず、三名の艦娘を返してよこしたのは足柄だ。
全員はヘリに乗せられない。
そう言ってはいたが、やはり島が気になるのだろう。
攻撃が中途半端だったがために、反撃してくる可能性が残っていた。
それがどちらに向くかはわからない。
敵本隊を追う足柄たちに向かえば挟撃になるし、島へと接近するあきさめに向かってくれば、対処は決して簡単なものではない。
敵の拠点に対する攻撃も、時雨一人では効果が上がるまで時間がかかるだろう。
だから、足柄の判断は堅実だと言える。
「そのまま、あきさめの護衛に当たらせてくれ。名取たちは?」
「指示通り、敵本隊へ向けて移動中。接触はおよそ一時間後。それまでに瑞鶴の航空隊が牽制攻撃を加えている手筈だよ」
佐世保所属の名取隊は、船団を守るべく奇襲を仕掛けるということを一方的に通告して、無線封止という建前を取っている。これは佐世保第二の元秘書艦、金剛が裏で指示を出した。
もちろんこの行動に対して上層部も異論はないだろう。放っておけば船団が攻撃されるのだから。
「よし。我々も動くぞ。ただし、内密にだ」
速度を上げて大東島へと向かうあきさめの乗員の間には、大きな仕事を成し遂げるという気概と、戦闘を前にした緊張感が入り混じった、独特な空気が漂っている。
「こうなることがわかってたら、夕張や睦月たちも連れてきたんだが」
「それを言っても無駄さ」
何が起きるかわからないのが戦場というものだ。
決して予定通りに進むことはない。ないからこそ、その個々の状況を把握して、迅速に解れを繕っていくのが司令官の仕事だ。
それに、いくら敵がこちらに集中しているとはいえ、この国の中枢の防備を手薄にするわけにはいかない。上層部がそれを認めるはずもない。
ただ、明石だけはあきさめに同乗している。
もちろん戦闘中に破損した艤装を修理する必要があった場合に備えてだから、戦力として計上はできないし、活躍するのはこの一連の戦闘が終わった後になるだろう。
「島に動きはないのか?」
「今のところ何もないね。本当に予備の航空隊を残してなかったのかもしれない」
瑞鶴の報告では滑走路への攻撃が不十分であり、損傷箇所を避けることで離着陸は可能ということだった。
これは通信施設と防衛設備の破壊を最優先したためだから仕方がない。滑走路は第二次攻撃で叩く予定だったのだ。
とにかく、そんな状況にもかかわらず、敵は偵察機すら上げていない。
航空戦力は不在と考えていいはずだ。
「……敵機影がないようなら、鳳翔の制空隊を足柄たちの方に回そう。戦闘機が必要なのは向こうも同じはずだ。来ないかもしれない敵を待つよりは、確実に来るものを優先しよう」
提督が言うように、確実に戦闘機が必要になるのは向こうだ。
敵の本隊には二隻の航空母艦も含まれているのだから。
おそらく、すべての航空戦力はそこにある。
それらを蹴散らすのは戦闘機しかないし、瑞鶴が搭載している分だけでは間違いなく不足だ。
「でも、制空隊の燃料が厳しいことになるよ。戦闘空域に居られるのは二十分がいいところだね。それと、一個小隊は僕たちのそばに残したほうがいい」
「だな。燃料に関しては瑞鶴をこき使う。それ込みの奢りだよ……ということに今決めた」
これを聞いたら、瑞鶴がどんな顔をするのか。
時雨の脳裏には鮮明に浮かんだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
足柄たちの空の旅は一時間ほど。海の真ん中で終わりを迎える。
静かに海面へと降ろされるボート。今度こそはワイヤーが切り離された。
続いてギリギリまで高度を下げたヘリから、駆逐艦娘たちが次々と飛び降りて来る。
「全員、補給を急いで」
ボートには弾薬と燃料、それから申し訳程度ではあったが、戦闘糧食と水が載せられていた。いわば急ごしらえの洋上補給基地、もしくは補給船といったところだ。
足柄と由良がそれら物資を手早く分配していく。
「お。さすが提督さん、わかってるじゃん!」
別の箱を開け、嬉々とした声をあげたのは瑞鶴だ。
束になった矢をごそりと持ち上げ、結束を解いてゆく。
「九七式に九九式……これでバッチリね」
先の戦闘で損傷を受けた機体と交換ということだ。
鳳翔と瑞鶴の異動にあたって、在庫一掃とばかりに旧式機しか寄越さなかった佐世保だが、その分、予備機として充分な数を確保することができた。今となってはありがたい話だ。
あとで佐世保第二司令には礼を言う必要があるだろう。
できる限り丁寧に、嫌味ったらしく、だ。
「瑞鶴……なんでそんなに元気なんデス?」
ボートの舷側にぐったりとしたまま寄りかかる金剛。
初めての経験は散々だったようだ。
本来であれば少しづつ慣らしていくのだが、この状況で否応を問うこともできない。
申し訳ないことをしたなとは思うが、謝罪はあとだ。
「え? だってうちの子たちが普段どんな景色を見てるのか、自分の目で見れたんだから。今度、瑞鳳に自慢してやろうかしら」
そんなことを言う瑞鶴は満面の笑みだ。
ご機嫌なところ申し訳ないが、彼女にはすぐに仕事が待っている。
「瑞鶴、悪いんだけど艦載機をすぐにあげて。名取たちを裸で突っ込ませるのはかわいそうだから」
「わかってる。ちょっと村雨と夕立を借りるわね――二人とも対潜警戒よろしく」
二人を連れてボートを離れていく瑞鶴。すぐに風をつかまえて発艦作業に入るだろう。
その間に、残った面々が補給を済ませていく。
「ヘイ足柄。この後のプランは?」
「敵を叩く」
「……アバウトすぎデス」
握り飯を口に入れているのを見ているクセにそれはないだろう。
ギロリと一度金剛を睨んで、口に入れたものを嚥み下す。
「私たちはあくまで助攻。攻撃の主力になる榛名たちが来るまで、船団に向かう敵の足を引っ張ってやればいいの。そのためならなんでもやる。それだけよ」
「アァ……さては足柄、主攻になれなかったカラ不満なんですネ?」
図星を突かれて言葉に詰まる。
今まで秘書艦としての立場があったせいで、おいそれと戦場に出られなかったのだ。
久しぶりの戦闘も小規模艦隊が相手で歯ごたえがなかったり、瑞鶴に美味しいところをすべて持っていかれたりと、決して満足できるものではない。
「うるさい。あんただって戦艦なんだから、この気持ちくらいわかるでしょ」
「オフコース――でも今回は我慢ヨ、足柄。ここでミスすれば、全部無駄になってしまいマス」
「わかってる」
横槍が入ったおかげで、作戦達成への敷居が何段も高くなっている。
損害がゼロというのはもはや不可能だ。
ならば、その損害は横須賀がすべて引き受ける。そうしなければ、また色々と難癖をつけられるだろう。
だが、誰も沈ませる気はない。
提督の要求はさらに高い位置にある。見上げるほどに高い位置だ。
だからこそやって見せる価値がある。
それこそが、この国を救う唯一の方法だというのならば。
それは足柄たち、艦娘にしかできないことなのだから。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「なぁ、時雨……」
提督がポツリと呟く。
その顔色はいまひとつ冴えない。
「なんだい?」
「どうにも静かすぎやしないか?」
足柄たちは順調に作戦を進めていた。瑞鶴の航空隊は鳳翔制空隊と合流し、間も無く攻撃に入る。
鳳翔と春雨、五月雨もこちらへ合流し、周辺の警戒に当たっている。
なんの異常もなかった。
予定通りで喜ばしいくらいに。
だが。
「あれだけ面倒ごとを起こした連中もそうだが、深海棲艦も静かすぎる」
拠点に迫るあきさめの姿は、おそらく捉えているだろう。
島の断崖からは三十キロ先くらいまでは見通せるはずだ。ちょうど今、あきさめがいるあたりまで。
航空機の類がなくても、固定砲台くらいは用意しているはずだし、一度の爆撃でその全てが壊滅したとは思えない。射程を考えれば、そろそろ攻撃して来る頃合いなのだ。
「何かある。そう思うんだね?」
「ああ。ヘリをあげて警戒させておけばよかったかもしれないな」
いかに現代の護衛艦のレーダーでも水平線の向こうを見ることはできない。
代わりにヘリがその役目を負う。高度をあげれば、その分だけレーダー波も遠くへ届くからだ。
しかし、そのヘリは足柄たちを運び、戻って来る途中。
間に島がある分、遠回りをする必要もある。
「鳳翔の制空隊を使うしかないだろうね」
もっともそちらは人間の目と同じ程度の能力しかない。対象物の大きさにもよるが、航空機相手ならばせいぜい二十キロが限界だ。
「それしかないな。鳳翔に――」
提督は軽く頷いて、指示を出す。
けれど、それが完全な形になることはなかった。
『艦橋、CIC。対空レーダーに感……五十以上! 島の上空、三十二キロ!』
戦闘指揮所からの報告。最後の方はすでに悲鳴に近い。
「どこから来た?」
『おそらく島の反対側です! 一六〇ノットでこちらに向かって来ます!』
「海面近くを飛んで来たか……艦長! 全兵装使用を許可、指揮は任せます!」
総員戦闘配置を告げるアラームが鳴り、乗員が一斉に行動を開始する。
「提督、僕たちも――」
いくら人類の攻撃が艦載機に効果があるとは言っても、数が数だ。
火力は大いに越したことはないはずだ。
艦橋の隅に置いてある艤装の元へ向かおうとした時雨を提督が制する。
「待て……ソナー、艦橋。アクティブを打て。かくれんぼに興じてる奴がいる。数は少ないだろうが、見つけ出せ。情報は時雨に一元化。春雨と五月雨は時雨の指揮で対潜戦闘に集中。上ばかり見て足元を掬われるのはゴメンだ」
そうかと、時雨は納得する。
島の施設の大半は破壊している。滑走路は使用可能だが、離陸する敵機は確認されていない。そんなことがあれば護衛艦のレーダーでも把握できるし、上空の直掩機からも見えるはずだ。
だが、現実に航空隊は現れた。
おそらくは敵本隊の空母艦載機。
しかし、島からは救援を呼ぶことはできないし、サポートがない状態で航空隊があきさめの位置を把握しているはずもない。
可能性を突き詰めていけば、潜水艦による位置通報と誘導。
そうしてこちらが空に気を奪われている間に、海中からとどめを刺すつもりということだ。
「わかったよ。でも、提督は何をするんだい? 潜水艦は僕、航空機はあきさめ艦長に任せてるけど」
「……赤城と加賀を口説いて来るんだよ」
言っている意味が全く理解できない。
その二人は佐世保の艦娘。今も艦隊を率いて敵本隊へ向かっている最中だ。
提督は面識がないから知らないのかもしれないが、あの二人は最古参の艦娘でもあり、自分の中に確固とした信念を持ってもいる。
金剛の陰に隠れて見えないだけで、あの二人もなかなかに曲者なのだ。
確かにこの戦局で重要な鍵を握っているのは間違いないが、下手な真似をすれば二度目はない。
「これはチャンスだ、時雨。敵本隊の航空隊は半減してるんだからな」
次々と白煙を曳きながら敵機へと飛んでいくミサイルの行方を目で追う提督の顔には、絶対的な自信が見て取れた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「変ね……」
艦載機からの報告を受け取った瑞鶴がそんなことを言い出す。
間も無く戦闘開始という段になってから耳にしたい言葉ではない。
「どうしたのデス?」
「いや、ね……敵の迎撃機がやけに少ないって。電探に捕まってるのは間違いないし、その準備をするだけの余裕はあったはずなんだけどな」
反撃が少ないのは願ってもないことだ。
だが、それは予定が狂ったということでもある。
横須賀組にとって、必ずしも良いこととは限らない。
喜ぶべきことを素直に受け入れられない。
それはこれまでの――少なくとも今回の一件において、様々な邪魔を入れられてきたことによる悪影響とも言えるだろう。
「少ないって、どのくらい?」
「予想してた数の半分より、少し多いくらい」
「どこかに隠れてるんじゃないの?」
「……雲があるなら、その可能性も考えるんだけど」
足柄は空を見上げる。
雲などまったくない。憎らしいくらい清々しい青空。
隠れる場所がないなら、答えは二つ。
すでにこちらへ向かっているか、飛んでいないかだ。
前者はありえない。向こうはこちらの位置をつかめていないはずだ。
偵察機にも潜水艦にも一切接触されてはいない。
そして後者もありえない。
攻撃されようとしているのに、防御をしないというのは、作戦として成り立たない。たとえ狙いがあったとしても無謀すぎるだろう。
――いや、敵が攻撃すべき対象はもう一つある。
「あきさめが危ないデス」
同じ考えに至ったのだろう。金剛が渋い顔をしてこちらを見ていた。
だが、こちらは無線封止中だ。下手に電波を出せば存在を気づかれてしまう。
奇襲効果がなくなることを覚悟の上で、あきさめに警告を出すか。それとも――。
悩む必要はない。
「……このまま、作戦を続行する」
「いいのデスカ?」
すぐにでも助けに向かいたい気持ちをこらえているのは金剛も同じだ。
口調はいつも通りでも、握られた拳が微かに震えている。
けれど、艦隊の指揮を執っているのは足柄だ。
「提督はこの好機を生かせって言う。敵艦載機が減っているなら、夜を待つ必要もない。ここで一気に崩してしまえば、輸送船団が追われる可能性を考える必要もなくなるわ」
一年とはいえ、近い位置で提督を見てきたのだ。誰よりも彼を理解しているつもりだ。もちろん完全にとはいかないが、考えもある程度はわかる。
「艦隊、最大戦速! 一気にいくわよ!」
返ってきた了解の声は重苦しいものだ。
だが、それでも足柄は前に進む。
速力を上げて。
迷いを振り払うように。
《2》
『敵航空隊、一次防衛ライン突破。距離二十キロ、速度は一六〇ノット』
戦闘指揮所からの報告が、艦橋のスピーカーから流れる。
一次防衛ラインはあきさめから二十五キロの位置に設定されている。
本来であれば、もっと遠くに設定すべきだが、探知した時点で三十キロあまりの距離だったのだから仕方がない。
まずはこの段階で敵機を一気に叩き落とす。
『シースパロー発射完了。残弾なし』
あきさめに搭載されている対空ミサイルは一種類。最大射程が五十キロ、音速の三倍で飛翔する発展型シースパローミサイルだ。
あきさめ自身の性能限界により同時目標指定は二個までと制限があったが、敵機は密集した隊形を維持して飛来してくる。
あきさめの艦長はこれを一個の目標として見立て、そこへシースパローを撃ち込んだのだ。
ミサイルは相手に直撃させる必要などない。
直近で炸裂し、破片で敵機に損害を与え、撃墜する。密集隊形の中に飛び込んだミサイルがそうなれば、その効果は絶大だ。
瞬く間に多くの敵機が海面へと落ちてゆく。
だが、そのすべてを撃墜するには至らない。そもそも十六発のミサイルでは足りない。
「鳳翔隊が突っ込みます!」
双眼鏡で状況を観察していた艦橋要員の一人が叫ぶ。
さらなる攻撃を警戒して散開しつつあった敵機に、直掩として付いていた鳳翔の九六式艦戦が満を持して突っ込んでいく。
一個小隊――四機ではあったが、上空からダイブしての一撃離脱で、はぐれていた数機を屠る。
護衛の敵戦闘機が気づいてこれを追い回そうとするが、ミサイルの初撃でその多くを失い、統制のとれた攻撃にはならない。
旧式機だが、鳳翔によって鍛え上げられた九六式艦戦は、あざ笑うかのようにこれらを躱しながら、逆に敵機を追い回し、もう一度一つの群れへと仕立て上げていく。
『二次防衛ライン到達。主砲対空戦闘。CIC指示の目標、攻撃始め』
次なる防衛線は十五キロ位置に設定されている。
ここを担当するのは、艦首の七十六ミリ速射砲だ。
単装ではあるが、毎分百発ほどの発射速度で砲弾を吐き出す。もちろんこの砲弾も対空戦闘用だから直撃の必要はない。近づくだけで炸裂し破片を撒き散らす。たった一発の砲弾が何倍にも膨れ上がるようなものだ。
だが、砲弾はミサイルと違い、一度発射されれば真っ直ぐに飛ぶだけ。
ふらふらとあちこちに敵機が分散されていれば、それを追う度に砲塔や砲身を動かす必要がある。わずかな時間ではあったが、積み重なれば相当なものになる。
そのために鳳翔隊は敵機を追い立て、可能な限り狭い範囲に集めたのだ。
砲弾が炸裂し、再び敵機が火や煙を噴きながら海面へ落ちていく。
現れた時には八十機を超えていた敵機が、その数を二割近くまで減らしていた。
ここまでわずか五分程度。
そのわずかな時間でもたらされた結果には、目を見開き、息を飲むしかない。
「これが現代の戦闘だよ、時雨。互いの姿を見ることもない。敵機にしても実際に姿を見ることは稀で、一〇〇キロを超えた彼方からミサイルを撃ち合うだけ。現代の戦闘艦艇は七〇〇ノットを超えて飛んでくる、そういうものを相手にするためにあるんだ」
いつの間にか艦橋に戻っていた提督だ。
「一六〇ノットの敵艦載機じゃ、相手にもならない?」
時雨の問いに、提督は冷めた笑いを見せる。
「そうでもないさ。現にシースパロー残弾がなし。七十六ミリは即応砲弾を撃ち尽くして再装填中――完了に五分は必要だ」
そう言って艦橋の窓越しに見える空を見上げる。
黒い点がいくつか、くさび型の隊形を作っている。残った敵機の集団だ。
「提督。ここは危ないよ」
「どこにいても同じだよ。爆弾だろうが魚雷だろうが、一発もらえばこの艦は沈む。誘導兵器に管制レーダー、ヘリ、主砲。そういったものを詰め込んだこの艦が三十ノットを出せるんだ、代わりに装甲なんてものはない」
「でも!」
時雨の悲痛な叫び。
『敵機、間も無く最終防衛ラインに到達。CIWS、AAWオート。攻撃始め』
最終防衛線。敵機は五キロの位置まで来たということだ。
「提督! 後ろに下がって!」
時雨は提督の腕を引く。
けれど頑として動こうとしない。
時雨がどれだけ強く引いても、まるで杭にでも縛り付けてあるかのようだ。
他の艦娘たちから聞いた話を思い出し、時雨は凍りつく。
昔の戦争で乗艦と運命を共にした、数々の人間たちの話だ。
「……提督、お願いだから!」
そこで気がついた。
提督の体が小さく震えていることに。
だが、それがどうしてかを確かめる前に、蚊の羽音を大きくしたような――もしくは小型のプロペラ機が飛んでいるかのような音が響く。
同時に、敵機の集団へオレンジ色の光を放つ筋がまっすぐに伸びていくのが見えた。
曳光弾だ。
五発ないしは十発に一発の割合で混ぜられるそれが、ほぼ一繋がりになって見える。
「この艦最後の防衛線、二十ミリの対空機関砲だ。発射速度は毎分三〇〇〇発……これを抜けてこられるようなら、どうしようもないさ」
そう静かに告げる提督が見つめる視線の先――青空の中で、いくつもの黒煙と爆煙が生まれる。あきさめへと近く敵機が、一瞬にしてバラバラに砕け散っているのだ。
攻撃は先ほどものよりもさらに精密で、わずかな瞬間に数十もの砲弾を叩き込まれる致命的なものだ。
だから幕切れはあっけない。
最後に攻撃を受けた二機が、腹に抱いた爆弾を投棄。黒煙を吐きながら左右に分かれていく。
恐らくは不時着水をするつもりだ。そうなれば腹に抱いた爆弾は邪魔にしかならない。
『敵性目標を排除。攻撃やめ。弾薬再装填急げ』
攻撃手段を放棄した敵にまで砲弾を撃ち込む必要はない。二波、三波と攻撃が続く可能性も否定できないのであれば、弾薬の浪費は避けるべきだ。
一気に静寂が戻る。
響くのはあきさめの機関が回る音と、波を切り裂く音だけ。
『五月雨です。敵潜一隻撃沈確実、脅威の排除を完了しました』
五〇〇〇メートルほど後方で展開されていた対潜作戦も終わったようだ。
その報告を受けると当時に、提督はがっくりと膝をつく。
全身には脂汗。
そこまでして危険な位置に立つ必要などない。
むしろ、作戦を最後まで遂行するためには、何が何でも生き残ってもらわなければならないのだ。
「どうして後ろに下がらないんだい」
時雨が感情を表に出して不満を言う。
提督はそれを見て、へらへらといつものように笑った。
「時雨、そんな顔もできるんだな……もう少し感情は表に出せ、今度は笑ってるところが見たいぞ」
「バカなことを言ってないで、答えてよ」
「……部下に危ない真似をさせてた張本人が、真っ先に逃げ出せるわけがないだろう? それに俺は元々砲雷担当、兵器の性能くらい知ってる。航空機だけが相手なら大丈夫だと確信もしてる」
「なら、なんでこんなに……」
「トラウマってのは、誰にでもあるもんだよ……動かなかったんじゃなくて、動けなかった」
時雨にだけ聞こえるように、そう小さな声で囁いた。
きっと護衛艦に乗っていた頃の話なのだろう。
伊豆沖での一件のあと、はづき艦長から聞いた話を思い出し、そう結論づける。
思い出したくない話を蒸し返すのは流石に気がひける。
提督は時雨の肩を借りて立ち上がると、すぐにいつもの様子に戻り、指示を出していく。
「五月雨たちを直衛に戻せ。今度敵が来た時は対空戦闘に加入してもらう。鳳翔隊は燃料と残弾の報告。必要ならば着艦収容だ」
「第二波が来たら、僕も出るよ」
「おそらく来ない。来たとしても島からの散発的なものだけだよ。向こうだってさすがに余裕はないだろう。足柄たちの所在が掴めない以上、自分たちに向かってくる可能性を考えなきゃいけない。これ以上損耗すれば――」
「左舷敵機! 突っ込んで来ます!」
提督の言葉が、艦橋要員の叫びで遮られる。
そちらに視線を向ければ、先ほど爆弾を投棄した敵機が黒煙を吹きながら、フラフラとあきさめへ向かって来ている。
誰もが着水するものと思い、疑うことをしていなかった。
だから、接近に気づくのが遅れたのだ。
海面へ向かって大きく沈み込んだ機体が、気流に乗って再び持ち上げられる。
それが意図したものかどうかはわからない。
だが、あきさめへとまっすぐ向かっているのは確かだ。
『機関砲、即応射! 攻撃始め!』
数百メートルまで近づいた敵機に、再び二十ミリ砲弾がそれこそ豪雨のように降り注ぐ。
三秒ほどの射撃。
一〇〇発以上が叩き込まれ、今度こそ敵は四散する。
だが。
大小様々、幾つもの破片になったそれがあきさめに向かって突っ込んでくる。
その中でも一際大きな破片が、まっすぐにあきさめ艦橋へ迫り――
次の瞬間。
時雨の視界は真っ黒な闇に包まれた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
足柄の周囲で一斉に水柱が屹立する。
大きさに差はあれども、そのどれもが破壊的な力を持っていることに違いはない。
夾叉されたのか、それともまだバラけた弾なのか、それすらわからない。
「ちくしょう! これじゃ近づこうにも――!」
叫びを途中でやめ、足柄は右に急転舵する。
何かが見えたわけではない、聞こえたわけでもない。ただの勘だ。
だが、それまで進もうとしていた位置に、一際大きな水柱が上がる。
おそらくは戦艦の砲撃だ。
あんなものを食らってしまえば、いかに重巡洋艦でもただでは済まない。
「足柄さん! これ以上は無理です!」
後ろに続く由良が悲鳴をあげていた。
だが、立ち止まるわけにはいかない。
砲弾が降り注いでいるから。そういう理由もある。
けれど、何よりも。
「ここで止まれば、全部台無しよ!」
そう。
ここで諦めてしまえば、今までのすべてが無駄になる。
おそらくは、あきさめも敵機を相手に奮戦しているはずだ。
可能な限り打撃を与え、敵を引き下がらせる。
そうしなければ、あきさめが――提督が危ない。
「回避は最小限! できるだけまっすぐ! 黙って私に続きなさい!」
幸いなことに、まだ被弾したものはいない。
火力はまだ最大限に発揮できる状態だ。
だから一気に間合いを詰め、懐に飛び込む。
後続の由良たちは、どんな巨艦相手にでも痛烈な一撃を叩き込めるだけの武器を持っているのだから。
それができる位置まで、彼女らを連れて行くのが足柄の仕事だ。
「ヘイ足柄! ハリアップ! 目標の指示を寄越すネ!」
速力の関係で後方に控える金剛の要請は何度目だろうか。
だが、それに答える余裕がない。
「瑞鶴! 空から適当なのを見繕って指示を出して! こっちに余裕はない!」
「了解。大物と小物、どっちを優先するかだけは決めてくれる?」
瑞鶴も金剛と共にいる。
航空隊の初撃により敵艦のいくつかを沈め、今は再度の攻撃に備えて艦載機の準備中だ。
その間は偵察隊をあげて、空から情勢を追っている。
「私たちが進むのに邪魔なやつよ!」
「それ、全部じゃん……んじゃあ、厄介そうな左の小物から」
ちらりとそちらを見る。
軽巡と駆逐を主体にした敵水雷戦隊が突入の機会をうかがっている。
もしこちらに手を出せなくても、瑞と金剛を狙うこともできる位置どりだ。
確かに厄介。
だが、許可を出そうとしたところに別の声が割って入る。
『右を狙ってください! 左は私たちが抑えます!』
「名取!?」
『遅れてすみません! 突入します! 左砲戦、左雷撃戦用意!』
その声から間も無く、敵の動きが一気に乱れた。
敵の艦列の間に煙幕が広がり、水柱と砲火が見える。
煙幕で視界を遮ることで敵を撹乱、さらに足柄たちへの砲撃を困難にしたのだろう。
周囲に上がる水柱の数があからさまに減った。
「名取! 無茶はしないで! いいわね!」
圧倒的に数で劣勢のはずだ。
時雨からは、睦月型の四隻を率いているだけと聞いている。
『もちろんです。撹乱で手一杯だと思いますので、急いでください』
心配する必要はなかったらしい。
むしろ、この場で一番心配されているのは自分たちなのだと気付かされる。
「そういうわけだから、金剛と瑞鶴は右を――」
すべてを言い終える前に、右の敵艦隊を大きな水柱が包み込む。
この一撃で、突出した足柄たちを半包囲すべく動いていた両翼が崩れたことになる。
「だから、撃ったら言えって……もう、いいわ。好きにやっちゃいなさい!」
もはや、命令など不要だ。
援護に回っている連中には好きにやらせたほうがいい。それだけ自分たちのことに集中できるのだから。
「由良、七駆の子たちは任せた。出番まで極力被害を抑えて」
「了解」
この艦隊の中で最も足の速いグループを編成する。
それが切り札だ。
「村雨と夕立は私についてきて! 地獄の蓋をこじ開けるわよ!」
一気に最大戦速まで速度を跳ね上げる。
水平線の向こうには旗艦と目される戦艦の他に、重巡、空母を揃えた敵中核艦隊。距離はざっと見積もって一万というところだろう。
「それはちょっと嫌だなー、とか言ったら怒りますよね?」
「わかってるじゃない、村雨。いい子だから一番槍を譲ってあげる」
「それをご褒美って言っちゃうあたりが、足柄さんですよねー」
そう言いながらも、村雨の口元には不敵な笑みが浮かんでいる。
無線にカチンという機械のクリック音が響く。
上空の偵察機が敵艦の発砲を伝えてきたのだ。
そのタイミングを足柄は冷静に待っていた。
最小限の動きで進路を変え、着弾予想位置をかすめるように回避する。
「精度が高いってのも、案外とダメなものよ?」
後方に水柱だけがいくつも立ち上がる。
発砲から着弾までの時間差を見越した回避。艦ではなく、小回りの効く艦娘だからこそできることだ。
何度かそれを繰り返すうちに、敵艦隊との距離は詰まっていく。
残り五〇〇〇。水平線の向こうに敵艦隊の姿が見えてくる。
ここまでくれば主砲弾の他に、副砲や機銃といったものが火を吹き始め、そのすべてを躱すことなど困難になる。
障壁を前面に集中展開し、それらを弾き飛ばしていく足柄。
もちろん無傷とはいかない。
破片となって突き抜けてきたいくつかが、肌を浅く切るし、すぐそばで水柱を上げる砲弾もある。
だが、直撃さえ防げればいい。
「村雨! いくわよ!」
敵艦隊と足柄の間に遮るものはない。
なかった。
けれど、すぐに敵の重巡リ級が割って入ってくる。足が遅く、動きが鈍い戦艦では魚雷をかわせないと判断したのだろう。
最悪、自分が盾となるつもりだ。
「上等じゃないの!」
リ級が一斉砲撃。射角をつける必要のない、ほぼ零距離射撃だ。
足柄は瞬時に障壁を格納。舵を左へ切る。
この距離で食らってしまえば、障壁は用を成さなくなってしまう。
それは装甲としてだけではない。砲弾は障壁の中を進むことによって本来の力を得るのだから、攻撃力にも影響が及んでしまう。
低くした頭の上を砲弾が掠め飛ぶ。その衝撃波だけでも昏倒するほどの力があるが、艤装自体が持っている最後の障壁が和らげてくれた。
砲弾は後方に着弾。派手な水柱を上げる。
村雨がいたあたりだ。
砲弾の行方を見る限り、リ級は先頭の足柄に躱されても、後続に被害が与えられればいいと判断して発砲したのだろう。
だが、そこには誰の姿もない。
「村雨のちょっといいとこ、見せたげる!」
左へ舵を切った足柄のすぐ後ろから、村雨が一気に飛び出した。
最大限に加速して、リ級の脇を突破。その後ろに展開しつつあった軽巡と駆逐に肉薄する。
「一番槍いただきます!」
魚雷発射。距離八〇〇。
避けることなどできない。
二本ずつの直撃をまともに受けた敵が悲鳴をあげて海中へ沈む。
「知ってるかしら」
わずかな瞬間とはいえ、それに気を取られたリ級の目の前。
すべての砲口を指向した足柄が、不機嫌極まりない顔つきで立っている。
「勝利っていうのはね――」
砲口から噴き出す炎。
「よそ見をしていると、逃げていくのよ」
リ級が最期に聞いたのは、多分その一言だ。
《3》
天と地がわからなくなるほどの激しい衝撃。
ひしゃげる金属の悲鳴。
砕け散るガラス。
煙。
炎。
それらが一瞬にして、時雨に襲い掛かった。
いや、もう一つ。
自分の上にある、柔らかく温かな感触。
衝撃で朦朧とする頭の中で理解できたのはそこまでだ。
深みに落ちかける意識をつなぎとめているのは、臀部と背中に走る鈍い痛み。
それを感じるということは、少なくとも死んではいないということだ。
だが、視界は戻らない。
目を負傷したのだろうか。
その割に痛みはない。
『応急班、至急艦橋へ!』
けたたましいアラームの音と、艦内放送が耳に飛び込んでくる。
意識がゆっくりと周りの状況を認識し始めた。
頬に何か、液体が落ちてきては流れていく。
配管から何かが漏れ出しているのだろう。
正直、気持ちの良い状況とは言えない。
起き上がろうと、上半身と腕に力を入れる。
動けない。
何かが体の上にある。
暖かく、柔らかな――。
瞬間的に意識が覚醒する。
時雨の目の前には、提督の顔があった。
ススで汚れ、埃にまみれ――頭部から血を流す提督の顔が。
血液は頬を伝い、時雨へ一雫、また一雫と落ちてくる。
「……無事か?」
一瞬だけ苦しそうな顔をして、すぐにいつもの笑顔。
けれど、呼吸は明らかに乱れている。
「僕のことはいい! 提督はどうなの!?」
「……正直言うと動けない。かなり痛い。背中と脇腹が熱い」
今は時雨の上に提督が覆い被さった格好だ。
その背の向こうに崩れた艦橋の一部や、敵機の破片が見える。
時雨は提督の苦痛の原因を確かめるために手を伸ばす。
焼けた金属でも触れているなら、どけたほうがいい。
だが。
提督の背中にはいくつもの金属片やガラス片が食い込んでいた。
一つ一つの傷は浅いのかもしれないが、これだけまとまれば相当な出血になるはずだ。
何より時雨を動揺させたのは脇腹の傷。
細い棒のような金属片が体内へと潜り込んでいる。
提督の体の前へ慌てて手をまわす。
――あってはいけない感触。
金属棒は脇腹を貫いていた。
脇腹を突き抜けた金属の先端からは雫が落ち、制服がめくれ上がって露出した時雨の腹部を赤く染めていく。
時雨がその金属に触れるたび、提督は低く呻く。
「あまり触らないでくれるか? 死ぬほど痛い」
「喋らないで」
「なんだ……そんなにやばいか?」
「いいから!」
提督を制止してからその下を抜け出し、近くに転がっていた通信機を手に取る。
「明石、すぐに艦橋に来て! 提督が――」
そこまで言ってから気付く。
なぜ自分は明石を呼んだのか。
艦娘ではない提督を救うために、工作艦娘ができることないだろう、と。
自分が思っている以上に動揺しているのだと、それを理解するのでさえ、恐ろしく長い時間がかかったような気がする。
『了解! 医務官を連れていく!』
明石はしっかりと状況を把握してくれていた。当然、こういった状況には慣れているのだから。
「時雨……戦況はどうなってる?」
「そんなことはいいから、静かにして。傷に響く」
「……そうもいくか。寝込むにしたって、指示は出しておかなきゃダメだろう?」
提督はそれをやり終えるまで、おとなしくする気はない。
時雨が折れ、通信機に耳をすませる。
「足柄たちは敵主力を捕捉。突出した足柄と由良たちを半包囲しようとした敵に対して、左側を名取たち、右を金剛が攻撃中。中央部の敵中核艦隊に足柄たちが猛攻をかけてるけど、戦況が混乱してるみたいだ」
伝えながら、何かできることはないかと模索する。
だが、人間相手の応急医療の講習など受けてはいない。
こんなことならばと、今さら思ったところでどうにかなるものでもなかった。
「そうか……問題はなさそうだな」
痛みに耐え、朦朧とする意識を保ちながら話す提督。
「そうだよ。だからもう喋っちゃダメだ」
時雨にできることはそれを制止することくらいだ。
下手に体力を消耗すれば、それだけ命の危機につながる。
「ヘリが戻ったら、島に攻撃を始めろ。弾着観測はヘリに任せるんだ」
「わかったよ、わかったから」
「何があっても作戦は止めるな……もうすぐ勝てる。指揮は時雨、お前が執れ。何をすればいいか、わかるな?」
「それはあきさめ艦長が……」
「この作戦を理解して、最後までやり遂げられるのはお前だけだ。艦長に説明している余裕もない。もし迷ったら足柄に聞け。付き合いが長い分、俺の考えもある程度――」
「わかったから、もう大人しくして! これ以上はダメだよ!」
ポロポロと溢れる涙。
感情を制御できていない自分に驚く。なぜそうなるか、自分にもわからない。
ただ目の前の、この人間がいなくなるのが怖かった。
「もう一つだけ」
「ダメだよ……」
「周りにいた要員が無事か確認して、必要なら手を貸してやってくれ」
提督の手が伸び、時雨の涙を拭う。
その指先は冷たかった。
出血とともに体温も少しづつ失われているのだ。
時雨はその手を握りしめ――
「艦橋要員! 状況知らせ!」
俯いたまま発せられた時雨の号令に応え、各所から報告が上がってくる。
負傷したものは多いが、命に関わるような状態という者はいない。
提督以外には。
その提督は乗員たちの無事を知り、安堵の表情を浮かべていた。
「時雨ちゃん! どこ!?」
ようやく艦橋に駆けつけた明石の声が響く。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
決め手に欠けていた。
捨て身のリ級を沈め、敵旗艦を追おうとした足柄たちの前に別の敵が立ちふさがる。
もちろん、それも捨て身。相応の覚悟を決めたその攻撃は苛烈なものだ。
対処には時間がかかる。
その間に敵旗艦は足柄たちを引き離し、輸送船団を目指す。
立ちふさがる敵を無視してそれを追えば挟撃されるだけ。
どうするべきか。
「足柄! こっちもマズいヨ!」
金剛の慌てた声が足柄の思考を中断させる。
「観測射撃で二隻撃沈。数隻に被害は与えたケド、残存艦が転進を始めてマス」
「何がマズいのよ」
むしろ戦線離脱してくれるならば、ありがたい話ではないか。
その分、金剛たちの火力をこちらに振り向けられる。
「島に向かってマス! 提督に連絡したケド、聞いてるのか聞いてないのカ……」
おそらく、あきさめは対空戦闘中だ。応答をしている余裕はないだろう。
繰り返し送っている戦闘の経過に対しても反応がないのを見ても間違いない。
敵の狙いは、島に対して攻撃を加えている部隊の排除。向こうも拠点との連絡くらいは取っているはず。それに応答がなければ、何かがあったことくらいは気がつくだろう。
駆逐艦娘三人で対処できる数ではないし、射程に入るのは日が暮れてからだから、鳳翔を頭数に入れることはできない。
確かに、金剛の言う通りまずい状況だ。
「追いかけないと、今度こそ提督が危ないヨ!」
金剛の言いたいことはわかる。
その敵艦隊を殲滅するには、足柄たちも全力を振り向けなければならない。
だが。
「瑞鶴より足柄。敵中核艦隊も間も無く砲撃射程外に出るわ。追いかけるならこれが最後のチャンスね」
瑞鶴の言うチャンスとは、立ちふさがっている敵をねじ伏せる時間も考慮に入れてのものだ。
これ以上引き離されれば、追いつくまでに輸送船団が食われてしまう。
敵中核艦隊を殲滅すれば、あるいは島に向かう敵も諦めるかもしれない。
けれどそれは賭けだ。
それも、恐ろしく分の悪い賭けだ。
島の備蓄物資と施設さえ押さえておけば、そう時間をかけずとも再起は可能。
そう考えている敵が引き下がることはないと見ていいだろう。
「一応、攻撃隊はもうすぐ発艦準備完了よ」
敵中核艦隊への攻撃を企図していた第二次攻撃隊は、数で劣勢の名取たちを援護。その甲斐あって、名取たちはようやく互角に戦える状況になり、敵を釘付けにしている。
とにかく、その攻撃隊の補給が終わり、どちらへも攻撃を仕掛けることは可能だと瑞鶴は言いたいのだ。
戦果としては数隻の撃沈にとどまり、その場で状況を左右する決定的なものにはならないだろう。それでも若干の時間稼ぎ、もしくは敵戦力のそぎ落としにはなり、どちらへ向けても効果的ではある。
だが、時間的に見てこれが最後の航空攻撃だ。再補給後には完全に日が暮れている。
「なんなら、手分けして両方やっちゃう?」
瑞鶴がバカなことを言い始める。
「私が単独でどっちかを相手取って、足柄たちは残った方をドカンと」
戦力の分散は一番やってはいけないことだ。
下手を打てば、どちらにも影響を与えられず、状況だけが悪化する。
望んだことではないとは言え、今まで自分たちがやってきたことがそれだ。
だからこそ、ここまで状況が悪化している。
「ま、そんなうまく行くはずないんだけどさ」
本人もわかってはいるらしい。
だが、そんなことを口にしたくなる気持ちもわからないではない。
できるものならそうしたいのは、足柄だって同じなのだから。
「だからさ、足柄」
瑞鶴の声のトーンが一段落ちる。
「敵中核は任せた。みんなでいけばなんとかなるでしょ?」
「何を考えてるのよ?」
「簡単。艦載機を全部あげてそっちの援護に回した後、私は島に向かってる艦隊と鬼ごっこしてくるわ。どうせこの後することなくてヒマだし」
どこか遊びにでも出かけるような口ぶりだが、正規空母単艦で囮になる。瑞鶴はそう言っているのだ。
敵からすれば空母は高価値目標。目の前になんの防御手段も持たないそれが現れれば、追いかけるのは確実だ。
「私、こういうの慣れてるからさ。足も速いし適任でしょ?」
だが、敵艦隊の編成は戦艦一に重巡二、駆逐艦六、いくら瑞鶴の足が早くても、巡洋艦と駆逐艦が相手では分が悪い。
「ちょっと、何よ。みんなで黙っちゃって――あのね、沈むつもりなんかないわよ? これでも一応、提督さんがなんでも奢るって言ったの楽しみにしてんのよ?」
その提督がこの作戦を聞いたらどう思うか。
――間違いなく激怒する。
誰かを犠牲にした上で得た勝利になど、なんの価値もない。
そもそも足柄の辞書には、それを勝利と呼ぶなどとは書いていない。
だからまずは輸送船団を守るのが先だ。提督は間違いなくそう判断を下す。
速戦で片を付け、返す刀で島を目指す艦隊を磨り潰す。最後はあきさめにいる三人も含めての夜戦だ。
できるかどうかではない。
やる。
やって見せればいいだけだ。
だから瑞鶴の案は却下だ。
「瑞鶴。その案――」
『いい加減、その口を閉じなさい瑞鶴。聞いていて不愉快極まりないわ』
突然無線に割り込む冷めた声。そこには感情のかけらもない。
「ぅげっ! その声は……」
『私の声に何か問題でもあるのかしら?』
「……大あり。あんたの声聞くと頭が痛くなるの。というか、盗み聞きとはいい趣味してるわね、加賀」
『お粗末な計画を無線で垂れ流したのはあなたよ、瑞鶴。聞きたくなくても耳に入るわ』
「なら、無線切りなさいよ。こっちとしてもその方がありがたいし」
『今は作戦行動中。馬鹿げた提案にもほどがあるわね。そもそもあなたは――』
突如として始まった舌戦に、当事者以外はあっけにとられる。
「二人ともストップ! 今は作戦中デス!」
恐らくは佐世保でもこのような感じだったのだろう。
金剛は割と手慣れた様子で、個人チャンネルを駆使して二人をなだめていく。
『足柄。赤城です』
それをよそに、佐世保機動艦隊旗艦の赤城が話し始める。
「どうぞ。戦闘中だから手短にお願いするわ」
『これより我が機動部隊は敵中核艦隊に航空攻撃を仕掛けます。時間的に見て最初で最後の一撃になりますが、足止めは可能でしょう。その後に榛名率いる打撃部隊が掃討戦に移行します。すでに高速艦を抽出して再編成、先行部隊として向かわせています』
打つ手に抜かりがない。
さすがは艦娘の間でも最古参の一人と言われるだけのことはあるのかもしれない。
『ですから、そちらはもう一つの艦隊を追ってください。これは横須賀第二司令の命令でもあります』
どうやら実際は提督の手回し。そういうことのようだ。
あの男はいったいどれくらい先までを見通していたのだろうか。
とにかく、赤城たちの手が借りられるのならば、悩む必要などない。
「了解した。この件は佐世保司令にバレないようにお願い。一つ借りでもいいわ」
嫉妬をかえば後が面倒だ。
それだけは何としても赤城たちにお願いしておかねばならない。
『その件ですが』
そう言った後、無線の向こうで赤城が笑ったような気がした。
姿が見えるわけでも、何かが聞こえたわけでもないのにだ。
『佐世保第二基地司令は職務遂行に怠慢があるという理由で、つい先ほど解任されました。船団への転進命令の遅れが原因のようです――』
ここ最近の出来事の中で、暫定的ではあるが一番喜ばしい知らせだ。
少なくとも、この後の戦いに邪魔が入ることはない。
『後任人事が確定するまで、佐世保第二所属の艦娘は横須賀第二基地司令の指揮下に入ります。これは海幕長たる海将の命令による、正式なものです。ご安心を』
もはや、やることも考えることも一つだ。
後ろを気にする必要も、今後のことを考える必要もない。
ただ、目の前の敵を粉砕し、勝利を掴むだけ。
『まあ、折角ですから一つ貸しておくことにしましょうか』
今度こそ、はっきりと赤城の笑う声が聞こえた。
余計なことを言ったかもしれない。
だが、一度口にしたことを反故にするのも、足柄の美学に反する。
「了解! 足柄隊、転進する!」
一際大きく声を張り上げ、足柄は迷いを断ち切る。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
提督の状態を見た医務官は言葉を発しない。
ただ、時雨と明石を見て首を横に振っただけだ。
「なんで……」
明石が絶句する。
「この艦の設備じゃ無理だ。すぐに陸の病院へ運ぶ必要がある」
だが、ヘリが戻るのはもうしばらく先の話だ。
さらにそれから給油してとなれば、一時間は必要だろう。
それを聞いた医務官は再び首を横に振る。
「ヘリはダメだ。観測射撃に使う」
荒い呼吸を繰り返しながら、喘ぐようにしか話せない提督は、この段になってもまだ作戦を優先している。
「どのみち、飛んでも間に合わないんだろ?」
鎮痛剤を打つ手を止め、医務官は頷く。もはや嘘を言っても無駄だ。
「なら、やることは一つだ」
時雨を見つめる。
「時間をかけると、他の海域から敵の増援が来る。すでに南シナ海で動きがあるそうだ」
そんなことはわかっている。
どうするのが正解かもわかっている。
答えは最初から一つしかない。
両方を追うことなどできはしない。
(だから嫌なんだ――深く関われば、決断ができなくなる……!)
また、瞳から雫が溢れる。
提督の手が再びそれをすくい上げた。
「……意外と欲張りだな、お前。そういうのは嫌いじゃないし、期待に応えたくなる」
「どういう意味だい」
「考えて後で答えを聞かせろ。何年かかってもいいぞ」
「どうやって聞かせろっていうんだい。石に話しかける趣味なんて僕にはないよ」
「……ひどいな、おい。もう死んだことにされてるぞ」
誰も笑わない。
笑えるわけがない。それが差し迫っているのは間違いないのだから。
「ったく、揃って勝手に通夜みたいな顔しやがって……明石」
「……はい」
「入浴剤は持ち込んでるんだろ?」
「はい?」
この場の誰にも意味など分からなかったはずだ。
もちろん時雨も含めて。
そのくらい場違いな単語が提督の口から出てきたのだ。
「無いことはないでしょうが……何に使うつもりですか?」
気を取り直した医務官の言葉に、提督はかぶりを振る。
「……まさか、提督!?」
明石が何かに気付いた。
「あれはあくまで艦娘に効果があるのであって、人間が使ってどうなるかなんて、分からないんですよ!?」
「なら、これが最初の実験だな……結果は記録しておけ。ただし、成功してもしばらくは秘密だ。ロクでもないことを考える奴が必ず出るからな」
それで時雨も理解した。
艦娘たちも人と同じように傷を負うし血も流す。回復にかかる時間にもさほど違いはない。
だが、それを待つ余裕などない。
深海棲艦に対して、唯一と言ってもいい対抗手段である艦娘たちの数は少ないからだ。
だからその傷を短期間で癒すために使う薬剤がある。それが入浴剤だ。
もちろん正式な名前はある。ただ、その溶液に浸かる様を入浴と表現しているうちに、この俗称がいつの間にか定着してしまっている。
「成功したって、後でどんな副作用があるか――」
「これでわかる」
艦娘ですら、将来的にその影響がどう出て来るのかわかっていない代物だ。
そもそも艦娘が現れてからたった七年だ。蓄積されたデータなどないのと同然。
少なくとも効能から考えれば、自然治癒力を無理やり向上させていることになるのだから、その代償は必ずある。
恐らくは、肉体的に成長しない――老いることがない艦娘だからこそ使えるもの。そう考えていい。
「しかし!」
「明石……このままなら確実に消えて無くなる命だ。だったら可能性のある方に使わせろよ」
その一言で、明石の表情が一層険しくなる。
何かを考え、選び取るために。
そして、決めた。
キュッと口を真一文字に引きしぼり――
「……いいでしょう。準備します」
そう言って、立ち上がった明石の腕を時雨は掴む。
「明石! 何を言ってるのかわかってるの!?」
掴んで、感情を爆発させた。
二人の決断に異を唱えるために。
それまでの時雨にはなかった、きつい口調と大きな声に誰もが驚いている。
ただ一人、明石だけを除いて。
「わかってる。でも、提督の命は提督のもの、どう使うか決められるのは本人だけ。違う?」
「そんな理屈で認められるわけがない! 提督は人間だよ!? 僕ら艦娘とは違うんだ! 入浴剤の副作用が出たらどうなるかなんて、明石にだってわかってるはずだ!」
「そうよ、提督は人間……艦娘とは違う。それでもこれは彼が望んだこと。だったら、私はどんなことをしてでも治して、再び彼を戦場に送り出す。それが私の存在する意義だから」
明石は泣いていた。
今まで、どれだけの艦娘たちを同じ思いで送り出してきたのか。
時雨には想像もできない。
けれど、認めることもできない。
「それは任務だから!? 役目だから!? そう言うのかい!? だったら尚更ここは譲れないよ!」
「違う! 私だって本当はこんなことしたくない……今までだって誰かの命令で、傷ついた仲間を治して送り出してたんだから。無事に帰ってきてくれることを願いながら」
艦娘たちは誰かの命令で動いてきた。
戦う相手も、場所も、方法も。
「でも、そうならなかった……その度に、自分の修理が中途半端だったせいかもしれない。出撃を拒否するべきだったかもしれない。そう思ってきた。それでも何もできなかった」
それは明石のせいではない。誰もそう思っていないはずだ。沈んだものでさえも。
致命的なダメージを受けたにもかかわらず、応急修理だけで出撃させたのは人間だ。
「変えることもできなかった。結果がどうなるのかわかっているのに」
それで沈むことがわかっていたのは、出撃した艦娘たちだ。
それでも、何も言わずに命令に従ってきた。
理由はただ一つ。
兵器だから、だ。
もちろん、金剛のような例外もいる。
――違う。
例外などではない。あれが当たり前のはずだ。
それぞれが何かを思い、考え、選び取る。その力は皆にあったのだから。
それでも命令だからと。自分たちは兵器だからと、一切を押し込め従ってきた。
そうすることが自分たちの存在意義、人を護ると言うことに繋がると信じて。
けれど、それは違う。
誰かの思惑に従って生きること。
そんなものはただの怠惰だ。
自分で何も決めず、責任すら負わず、誰かが作り上げた世界に間借りしているだけ。
その代償として、戦い続ける。血を流す。
時にはそれを傍観することさえ求められる。
そんな世界が心地いいはずがない。
だからそれに抗おうとするのが普通だろう。変えたいと願うだろう。
今の自分のように。
「じゃあ、どうして……」
「ねぇ、時雨ちゃん。提督が艦娘たちにイタズラする理由、わかる?」
もちろんわかるわけがない。まだ、そこまで付き合いが長いわけでもないのだから。
何より、まだ時雨はその対象になったことがない。
首を横に振る時雨を見て、明石が笑う。瞳から涙をこぼしながら。
「最初の頃にね、村雨ちゃんが提督の頬を張っちゃったんだ。胸を触られて、つい反射的にね……その頃は、それにどんな罰が与えられてもおかしくなかった。理由がどうあれ、上官に手をあげたんだから。だから怯えてる村雨ちゃんを連れて、私も一緒に謝りに行った。そうしたら、この人は笑いながら――なんだ、お前たちだって嫌だと思うこともあるし、言えるじゃないか。安心したぞって……嫌なことは嫌だと言わなきゃ、誰にもわからないし、何も変わらない。この世界に存在するなら、その権利は艦娘にもあるはずだって」
明石は再び腰を落とし、提督の頭を自身の膝の上に乗せる。
彼は眠っていた。
その左の頬を愛おしげに、明石の指が撫でていく。
「この人はね、私たちに嫌なものは嫌だって、そう言っていいことを教えてくれてるの。あんなバカで、幼稚で、どうしようもない方法で――その度に追いかけ回されて、叩かれて、怒られて。それでもやめない。それが、私たちのためになると信じてるから……歪んでるとは思うし、たぶん、よこしまな気持ちもあるだろうけどね」
そんな物事の善悪だって同じだ。
結局は自分の理想を基準にしている。
「だから、この件に関してだって、私は嫌だって言うことができる。言っていいんだよ……でも言わない。言えない」
「それは、どうして?」
「誰に強制されたわけでもなく、彼自身が戦うと決めたから。可能性に賭けると決めたから……なら、私も自分を曲げるわけにはいかない。私がこの世界に存在するために」
きっと個々の理想の正誤など関係ない。
間違っているならば、別の誰かが指摘をしてくれる。きっと後悔だってさせてくれる。
嫌だ。許せない。間違っている。そんな言葉を真正面からぶつけてくれるはずだから。
「それにね。自分で決めて責任を持つ。それができないことがどれだけ辛いか、私は……ううん、艦娘ならみんな知ってるはずでしょう?」
ただし、それができるのは自分の意志で、自分の理想のために責任をもつと決めた存在だけ。何かに依存して、片隅で生きながらえているような存在ではない。
真正面から相手と向き合うことができるものが、言葉を――時には力をぶつけ合いながら、考え、選び、行動する。
より良いものだけが集められ、誰が見ても満足できるものを目指して。
たくさんの決断と後悔の積み重ね。
きっと世界はそうやって作られている。だからあちこちに欠陥がある。
むしろ、欠陥だけで作られている。
欠陥だらけだからこそ、誰にでもそれを正す機会が与えられている。
そこに己の理想を掲げることができるのならば。たった一歩を踏み出せるなら。
だから、提督の理想を間違いだと告げたいなら。
この欠陥だらけの世界を――人を護るなら。
「――明石、提督をお願い。絶対に死なせないで」
まずは相手の理想を認めなければならない。
そうしなければ理想のぶつけ合いになどなるはずがない。
何かを変えることなどできない。
そんなことでしか前に進めない、欠陥だけで作られた世界だから。
「提督には言いたいことがたくさんあるんだ。それを聞いてもらうまでは絶対に」
「もちろん。この件に関して散々文句を言ってやらなきゃ」
鎮痛剤の効果で眠りに落ちた提督の顔を覗き込む。少なくとも今は苦痛から解放されているようだ。
「まったく。こっちの気も知らないで……」
「今に限ったことじゃないけどね……それで、時雨ちゃんはどうするつもり?」
「提督のやろうとしていたことを続けるよ」
この世界に関わるために。
「この戦いに勝たないと文句を言う機会がなくなるから。それにね――」
色が変わり始めた空の向こう。
「僕たちがどんな存在なのか、それをみんなに見せつけなきゃいけない」
水平線からわずかに見える島影を見つめながら。
「僕たちだって自分の考えを持ってる――人と同じような存在なんだって」
時雨は宣言した。
《4》
足柄たちから離れ、四〇〇〇メートルほど先を行く村雨の声が無線から響く。
「敵艦隊視認! 戦艦を先頭に駆逐一、重巡二の単縦陣! 二時方向、距離四五〇〇……島への針路をとってます!」
追いついた。
そう言っていいのか。
日没前、最後の攻撃をかけた瑞鶴の攻撃隊からの報告では、駆逐艦二隻を沈めたのは間違いない。
「敵戦艦はダメージがあるらしく、船足が鈍くなってます。おそらく十五から十八ノット」
それも瑞鶴航空隊の報告通り。
艦爆隊の攻撃が少なくとも二発命中、一発が至近弾というものだ。
だが。
「他に艦影はない?」
「少なくとも視界内には何も」
駆逐艦三隻が所在不明。
「足手まといを切り捨てたわね……」
何を狙っているかは口にするまでもない。
足柄たちにとっては足の速さと、魚雷さえ気をつければ良いだけの相手だが、護衛艦にとっては大きな脅威だ。
「というよりも、お供がいますカラ、典型的な遅滞戦術デスヨ」
それがわかっていても無視することはできない。
戦艦の長射程と、足の速い随伴艦の組み合わせは厄介だ。
高速艦に足止めされたところへ、大口径主砲弾の雨が降る。
かと言って、真正直に相手をしていては島の攻略に残った提督の身が危ない。
「悩んでいても始まらないネ。速戦あるのみデース」
金剛の主砲が敵艦のいる方向をめがけて一斉に揃っていく。
「目標、敵先頭の戦艦。一番、二番砲塔試射用意、弾種徹甲――村雨、着弾観測よろしくデース!」
例によって、村雨の返事を待たずに発砲する。
爆風によって空気が揺れ、壁となったそれが足柄の横っ面を張る。
思考の迷路に迷い込んだ意識を現実世界に連れ戻すように。
「そんなチマチマなんてやってられない! 金剛! 目標変更、敵重巡! 二隻相手でもあんたならいけるわよね!?」
「ワッツ? ……ああ、アンダスタン。そういうことナラ、負けていられまセン。金剛の実力見せてあげるネ!」
言うが早いか、敵艦隊に向けて増速。一気に間合いを詰めにかかる。
「夕立、ついて来なさい」
その後方に足柄、夕立が続く。
「村雨、悪いけどもう一仕事よ」
「今日はこんなのばっかり。聞こえないフリがしたぁい」
「敵戦艦の気を引いて。ご自慢の胸の出番よ」
「……そんなので釣れるの、提督だけですってば」
「なら、何か考えて」
直前の戦闘と、そこからの離脱のために、村雨は魚雷をすべて消費している。
残っている武装は小口径主砲と対空火器の機関砲のみ。敵艦隊のどれにとっても豆鉄砲のようなものだ。
それで相手をしろと言うのは少し酷かもしれない。
だが、やってもらわなければならない。
「えぇ……これ、一つ貸しですよ?」
口では色々言っているが、何かを思いついたのは間違いない。
「了解。借りてあげるから、頼んだわよ」
今日は方々に借りを作っている気がする。
(誰のせいよ、これ)
そんな自問自答に、提督のやけにニヤついた顔が思い浮かび、無性に腹がたつ。
確かにこれは、彼と彼の理想のためだ。
けれどそれと同じくらい、過去に自分たちが果たせなかった誓いのためでもある。
国と国民を護る。
そのための借りだ。
だが、借りた以上は返さなければならない。借りっ放しも足柄の流儀に反する。
今の所、足柄に返せるものはない。
だから今回は提督に丸投げしてやろう。
そのためにも、提督にいなくなられては困る。
「由良! 七駆を連れて、分離した敵駆逐艦を追って!」
「それじゃ、戦力分散になってしまいます!」
何をいまさら。
今日はどのみちそればかりだ。
それに。
「こっちは私と金剛に夕立、村雨もいる。あの程度の敵なら、そのくらいハンデをあげてもまだ不足って言い出すわ」
絶対的な自信。
根拠があろうがなかろうが構わない。そんなものは勝利と一緒に掴めばいい。
「了解しました。ご武運を!」
由良たちは切り札だ。ここまでできる限り戦闘への直接加入を避けさせ、温存して来た。
そもそもは敵中核との夜戦に備えての一手だったのだが。
おかげで、弾薬にも燃料にも余裕がある。
最高速で敵を追いかけることも、火力的に優位を保つこともできる。
「で、私はどうすればいいわけ?」
不満そうな一言は護衛の由良たちに置いていかれた格好の瑞鶴だ。
「今日の出番は終わり。そこらへんで油でも売ってなさいな」
「はぁ? 釣りでもしてろっての?」
「冗談よ。戦闘中の通信代行をお願い。他部隊やあきさめの状況を確認して」
砲戦の最中に全体の状況を把握して、指示を下すのはなかなかに骨が折れる。
できないことはないが、可能な限り戦闘に集中したい。
「……釣竿持って来ればよかったわ、マジで」
瑞鶴には退屈な仕事だろう。戦闘海域からも離れている。
「やってもいいけど、潜水カ級を釣ったとかはお断りよ? 煮ても焼いても食えないんだから」
海域の安全は確保したつもりだが、絶対ではない。だから、それが万が一現れても、自力で対処しろと言う意味を込めた冗談だ。
「うえぇ……とにかく了解」
これで指示はあらかた終わった。
あとは敵を始末するだけだ。
一分一秒でも早く。
「全砲門撃ちマス! ファイアー!」
仕切り直しの口火を切ったのは、やはり先頭を行く金剛。
戦艦の前に出て、こちらを牽制しようとする重巡二隻に対して一斉砲撃を始める。
もはや視界の中に敵を捉えている以上、弾着観測も必要はない。
だが、初弾はすべて敵前に着弾し、派手な水柱を上げる。
「ウップス! ちょっと近すぎたネ」
そう言って苦笑いした金剛の副砲群が火を噴き始めると、反撃とばかりに敵も盛大に撃ち返してくる。
彼我の間に無数の水柱が上がり、向こうを確認するのが困難になってくる。
頃合いだろう。
「村雨!」
「はいはーい!」
左側から村雨が全速で敵戦艦に向かって突入を始める。
直前で回頭する雷撃コースだ。
敵艦隊は一斉にそれへ正対するように舵を切ろうとする。
雷撃に位置につかせないためだ。
「主砲、第二斉射デース!」
轟く砲声。
針路を変えつつあった敵重巡に数発が直撃、一隻の行き足が鈍る。
「さっきのは当てなかっただけヨ!」
狙いが狂った金剛の初撃は、あくまでもこちらに意識を向けさせるための挑発。
その間を使って、村雨は一度水平線の向こうへ離脱。敵の視界外から再度突入位置についた。
その結果がこれだ。
一撃必殺の武器を持つ高速の駆逐艦が接近してくるのは、大型艦からして見れば悪夢だ。どうあっても対処をしなければならない。
こちらへ砲の照準が合いつつある以上、目標変更はしたくない。だから回頭することで対応する。
おかげで、こちらからは止まっているように見える敵艦へ一撃を放つだけ。
とは言っても、敵艦からの砲弾は飛来しているのだから、簡単ではない。
それを難なくやってのけるのは、金剛の経験と実力、胆力のなせる業だ。
「村雨、敵の出方をよく見てて」
「了解」
さらに接近を続ける村雨と、的確な一撃を放り込んでくる金剛。どちらを脅威としてみなすか。
こちらを向くためには、重巡はもう一度転舵しなければならない。
そうなればまた砲撃を叩き込める。
次は確実に撃沈が出る一撃。相手は何もできずに一隻を失うことになる。
だから、おそらくは――
「敵艦、そのままこちらに向かってきます」
予想通り。
そのまま行って、単艦で向かってくる村雨を沈める方が確実だ。
「金剛!」
「第三斉射! ファイアー!」
この砲撃には足柄も同調する。
狙いは頭一つ抜けた敵駆逐艦。村雨に向かい増速しつつある。
敵艦の周囲に水柱が林立。その向こうにいる敵艦の状態は見えない。
「敵重巡一隻沈みます! 駆逐艦大破、減速中! 村雨、突入します!」
戦果を報告する村雨の声が熱を帯びていた。
火中に飛び込むのが駆逐艦の本分。その魂に火がついたのだろう。
ようやく見通せる向こう側で、村雨が突入を始めるのが見えた。
煙幕を焚き、重巡と戦艦の間に割って入る。
周囲に副砲群と機銃の水柱をまとわりつかせながら。
「ちょっ! 服がボロボロー! 最悪ー!」
炸裂した砲弾の破片の仕業だ。恐らくは傷も負っているだろう。
敵艦の間をすり抜けるために、障壁を最低限にして突っ込んだのだから当たり前だ。
それでも一切迷うことなく直進する。
迷ったり躊躇ったりすれば、途端に敵弾の餌食だ。
砲塔の旋回速度に限界がある以上、接近してしまえば速度こそが最大の防御手段になる。
おまけに敵は同士討ちを恐れて、不十分な照準での砲撃はできない。自然と射撃頻度も落ちていく。
一方の村雨はそういった危惧を抱く必要がない分、高速で駆け抜けながら、行き掛けの駄賃とばかりに左右の敵艦へ次々に砲弾を見舞っている。
大きなダメージにはならないだろうが、副砲や機銃といった兵装を黙らせるには充分だ。
やがて敵が軽い混乱状態に陥る。
来るはずのない魚雷を恐れ、回避行動をとったせいだ。
「足柄さん! もうちょっと待ってね!」
敵戦艦を少しばかり通り過ぎた位置まで到達した村雨は、そういって一八〇度の右回頭をする。
視界が遮られている戦艦はともかく、重巡からの攻撃は苛烈だ。
かなり無茶と思える行動だが、被弾は覚悟の上だろう。
今度は障壁を最大限に展開しているのだから。
「ヘイ、村雨! 大きいのは胸だけじゃないんデスネ! 気に入りまシタ!」
そこへ金剛の援護が入る。
副砲群が一斉に火を吹き、重巡の後方に水柱の林を出現させる。
「みんな揃って失礼しちゃう! 一番大きいのは肝っ玉ですよ!」
その陰に隠れた村雨は悠々と回頭を終わらせ、今度は足柄たちと敵の間に煙幕を張っていく。
「村雨は肝っ玉かーさんになるデスネ!」
「誰の子ですか、誰の――あ、もしかして提督のだったりして!? やだもう、うふふ。ちょっと期待しちゃうなー」
そんな場合でもないだろうに、本気で悶え出す村雨。先ほどの金剛の一言に対する反撃のつもりだ。
とにかく、敵の砲撃の中を縫って進むはずのその針路が、若干ふらつき始めたのは気のせいではないだろう。それだけに敵の狙いもなかなか合わないらしく、盛大な水柱だけが天を衝く。
「ノー! 提督のハートを掴むのは私ネ!」
村雨の発言に触発された金剛も、そんな具合に叫んで本気の砲撃を始める。
あっという間に敵重巡が砲弾の雨に包まれ、戦闘能力を失っていく。
執務室での一件を知らない村雨ではあったが、うまいこと金剛を刺激する形になったわけだ。
(こういうのは、相乗効果と言っていいのかしら――)
そんなどうでもいい疑問が足柄の頭の隅に沸いたが、それを振り払う。
「夕立、ついて来なさい! パーティに遅れるわよ!」
「主役の登場は一番最後って決まってるっぽい!」
重巡の視界が完全に遮られたのを確認すると、足柄は一直線に敵へ向けて進む。
目標は一番の大物、戦艦だ。
煙幕の向こうにいる敵艦の位置は見えない。それでもある程度の予測はできる。
左に舵を切れば仲間と接触する可能性がある以上、右へ行くしかない。
足柄たちから遠ざかる方向だ。
「面舵五! 真正面から行く!」
宣言して煙幕の中に飛び込む。ついでに魚雷を四本ばかり予想針路上に放った。
次の瞬間には煙幕を抜け――。
果たして、予想どおり敵戦艦はそこにいた。
ただし、足柄にすべての主砲を向けてだ。
当然、敵だってこのくらいは読んでいたはず。
距離五〇〇。外しようがない。
絶体絶命――。
けれど、足柄の顔には笑みが浮かぶ。
それでこそ狩りだ、と。
獲物を前に舌なめずり一つ。
敵艦発砲。
その直前。
事前に放った魚雷の一本が敵の眼前で炸裂した。
わずかにバランスを崩す敵。
すぐに体勢を立て直し、発砲して来た。
すべてがスローモションのように感じられる。
「遅い!」
左へ体を倒す足柄。
当然障壁は格納している。
すぐ横をかすめ飛ぶ砲弾。
ふわりと浮いた自慢の髪が、幾束か持っていかれるのが見えた。
わずか後方で派手な水柱が上がり、足柄の体を突き飛ばす。
幾つもの破片が、艤装だけではなく、宙に浮いた足柄自身を傷つけていく。
それでも。
「至近弾なんてクソ喰らえよ!」
傾いたまま着水しかけた体を左腕一本で支え、ついで右足も海中へ突っ込む。
足首の角度を微妙に変えて――
「右舷前進一杯! 急速回頭!」
そのまま目一杯に加速。
海中に入った左手が抵抗を生み、下半身だけが押し出されるような感覚。
その瞬間に右足を抜いて、膝を抱えるように体を折りたたむ。
左腕が軸となり、体はそのまま反時計回りに一回転。
急速回頭どころではない。もはや車のスピンターンのようなもの。艦娘だからこその芸当だ。
「両舷停止!」
ぴたりと静止した真正面に敵艦の姿を捉え、同時に足柄の主砲が一斉に敵を指向する。
両手、両足を海面につけ、今にも飛び出さんと低く身構えるその姿は、まさに飢えた狼。
「主砲斉射! ぶっ潰せ!」
再び障壁が展開され、三基、六門の二十センチ砲が満を持して火を噴く。
至近距離で放たれた砲弾が敵戦艦の障壁を食い破り、次々と炸裂。副砲の大半と主砲塔二基を吹き飛ばす。
だが、敵はまだ余裕の表情だ。
薄笑いを浮かべながら、改めて残った主砲を足柄に向ける。
今度は躱せないようにと、俯角をつけて。
「妙高型を舐めるなあぁぁぁぁぁっ!」
一際高く響き渡る咆哮。
今度は障壁を使って、まともにそれを受け止める。
艤装が負荷に耐えきれず、主砲や副砲が吹き飛ぶ。
「機関最大! 両舷前進一杯!」
それでも足柄は前に進む。
最大速で。
そして吠える。
獲物を仕留めろと。
「夕立、行けぇっ!」
ほぼ同時に、足柄の障壁と敵戦艦の障壁が接触。まるで艦と艦がぶつかった時のような衝撃が走る。
相手は戦艦。分が悪いのは足柄だ。
けれど、一歩も引かない。むしろ気迫で相手をジリジリと押し込んでいく。
障壁が互いに侵食し合い、バチバチと不気味な音を立てる。
そして。
ぽっかりと何もない空間が生まれた。
煙幕から飛び出した夕立が、猟犬のようにそこをめがけて突っ込む。
意図を感じ取った敵戦艦はそこへと砲撃の構えを見せるが――
「やらせるわけないでしょうが!」
再度、足柄の砲撃。生き残った主砲は一基、二門しかない。
それでも、至近距離のそれをまともに受けたことで、敵はバランスを崩す。
放たれた砲弾は足柄たちの頭上を越え、遥か後方へと飛んで行った。
「これで終わりっぽい。バイバイ」
障壁の開口部を抜け、肉薄した夕立から放たれるのは六本の魚雷。
落角を浅くとったそれは、間違いなくすべてが敵戦艦へと吸い込まれて行った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「オーウ……足柄は随分とセクシーな格好デスネ」
村雨と夕立の肩を借りて戻ってきた足柄を見て、金剛が放った最初の一言がそれだ。
確かに服は右側が大きく裂け、背中も肩も露出しているし、胸元からも豊かな膨らみが半分ほど見えている。
足を保護するためのタイツも裂け、素肌が露出。いたるところに切り傷、擦り傷だ。
「他に言うことがあるでしょうよ……」
「ウーム……提督が見たらきっと大変なことになりマース」
「そりゃあ、もう――ああ、あんたが考えてるようなのとは違う意味で。って、そっちじゃなくて」
「ワッツ?」
「……もういい。瑞鶴、状況は?」
きっと、金剛は砲撃のしすぎでどこかのネジが緩んだのだろう。元々なのかもしれないが。
どちらにせよ戦闘で消耗した後に、筋道が通らない会話をする気にはなれなかった。
それに、こちらの先頭は終わったとはいえ、他ではまだ作戦進行中のはず。
情勢が気になる。
「そろそろ由良隊が接敵する頃よ。水雷戦隊十八番の夜戦だから問題ないと思う。それから、赤城たちが敵中核艦隊を航空戦でほぼ殲滅、残敵の掃討に榛名隊が当たってる――そろそろ加賀のやつが仏頂面で『やりました』とか言ってるわね。東シナ海で追いかけっこしてた青葉隊も片がつくって」
「あきさめは?」
「応答なし。随伴の子たちからも返答がないから、おそらく無線封止中。一度場所を捉えられたから警戒してるんだと思う」
一度海域を離れ、夜陰に乗じて攻撃。
あの提督ならば、確実を期してそう考えるはずだ。
「それと、南シナ海の敵勢力が活発化してる。おそらく他の海域もね。時間をかけると逆撃を受けかねないわよ」
作戦計画中に提督が漏らしていた不安要素の一つがそれだ。
時間がとにかく重要になる。だからこそ、足柄は無茶をした。
何か手を打っておく必要がある。
だが、現状では司令官も秘書艦にも連絡が取れない。
ここは独断で動くしかないだろう。
「赤城、聞こえてる?」
横須賀の指揮下に入った赤城を呼び出す。
しばしの間があって、応答が返ってきた。
『心得ています。とは言っても、これも横須賀司令の案ですが――現在前路哨戒の任務を終えた佐世保の戦力を再編成して、バシー海峡に急派する手筈を整えています』
それならば、まず確実に時間は稼げるだろう。
横須賀方面は夕張たち留守部隊が目を光らせていてくれるはずだ。
問題はない。
「なら大丈夫ね」
『それが……一応耳に入れておきます』
赤城の声のトーンが一段落ちる。
『先ほどこちらが相手をした艦隊ですが、敵空母が空荷だったかもしれません――うちの子たちの報告では、そんな気配がする、と。もちろん迎撃の戦闘機も上がっていましたし、戦闘中の印象ですから確証はないのですが』
出撃できない艦載機を抱えたままであれば、攻撃を受けた際に引火や誘爆などを引き起こし、その最期は派手なものになる。恐らくはその規模が小さかったのだろう。
けれど。
「敵航空隊はあきさめに攻撃を仕掛けたはずよ?」
『そう考えるのが妥当です。事実、横須賀司令と交信した際も戦闘中でしたから――その上で、これはあくまでも私の感想だと前置きしますが、その割には横須賀司令は冷静そのものでした。悲壮な覚悟とかそう言う雰囲気ではなく、です。空母二隻分の攻撃隊ともなれば、護衛艦一隻と随伴艦数隻には荷が重すぎるはず。とてもそんな余裕があるとは思えません』
空母ヲ級。艦載機は八十から九十機だ。
そのうち護衛戦闘機が六個小隊二十四機程度。残りは攻撃隊。
確かにこれが倍となると、いかに護衛艦とはいえ落ち着いているのは無理だ。
対処できる数にも、強力な兵器にも限りはある。
では、消えた航空隊はどこへ――
「金剛! すぐに由良を追って!」
敵の狙いはあくまでも島だ。
しかし単独の航空攻撃では、また壊滅させられて終わりと考えるだろう。
だったら、敵に残された手は一つ。島に向かう駆逐艦を守りきること。
足柄たちが島へ向かったのを知った時点で発艦、離れた位置で合流させ、潜む。近づいてくる艦娘がいればこれを遮り、そうでなければ護衛艦の注意をそらし、駆逐隊の突入を支援する。
視界の悪い夜間攻撃になるが、帰るべき母艦を失った航空隊だ。損害など最初から考慮に入れていないはず。
見方を変えれば、唯一降りることができる場所を取り返すための背水の陣だ。
どちらにしても苛烈な攻撃になる。
「了解ネ! 夕立、ついてきてくださいネ!」
「村雨も行って!」
「それじゃ、足柄はどうするのデース」
『足柄と瑞鶴の護衛には、名取たちを向かわせます。ご安心を』
金剛たちが由良に追いつくかどうかはわからない。
夜陰に紛れた敵機が、自分たちの位置を把握できているかどうか。
それによって大きく状況は変わる。
大破状態の足柄にできるのは、祈ることくらいだ。
それが虫のいい願いだとわかってはいるが。
そろそろ一つくらいはこちらの願いを叶えてくれてもいいだろう。
今日は、今までが散々だったのだから。
《5》
「敵駆逐艦隊補足。十時方向、距離四五〇〇」
右梯形陣を組む由良隊。その一番左、最も先頭を行く由良が敵艦隊発見の報を告げる。
ほぼ闇夜だ。
沈みかけた三日月がわずかに輝いているが、光量としてはないのと同じ。
由良が敵艦を見つけたのは、夜戦が十八番の水雷戦隊を率いる長だからとか、夜目が効くとか言うわけではなかった。
敵艦隊が燃え盛る何かに群がっていたからだ。
まるで、火の回りで踊り狂うように。
「あれ、何やってんの?」
曙が小首を傾げる。
答えたいところだが、ここからでは確認のしようがない。
少なくとも、敵はこちらに気がついていないようだ。
仕掛けるには絶好のチャンスだろう。
「近づきながら確認しましょう。陣形を左梯形陣に変更。針路を敵艦隊へ」
静かに艦隊の陣形が変化していく。
由良が先頭なのは変わらず、後続の四人だけがそのまま左へと移動する。
このまま接近して魚雷を放てば、濃密な槍衾の完成だ。避けることはまず不可能。
由良たちはそのまま右へ一斉回頭することで、艦隊運動が容易な単縦陣で離脱できる。
もし再攻撃の必要があれば、即座に対応も可能だ。
「距離三五〇〇。統制雷撃戦用意」
揺らめく炎に敵の影がちらつく。
時折、大きく何かが爆ぜ、炎と煙が吹き上がる。
由良は嫌な予感を抱いた。
「ちょっと……まさかとは思うけど」
曙も同じ感想を抱いたようだ。
距離が三〇〇〇を切る。
かろうじて燃えているものの形がわかる。
船だ。
だが、この海域に民間船などいない。
輸送船団は東シナ海を航行中のはずだし、時間や速度から考えても、ここにいるのはおかしい。
だから。
可能性があるのは護衛艦だけ。
爆ぜているのは弾薬の誘爆せい。そう考えれば繋がる話だ。
「脱出した人の姿は見える?」
おそらく攻撃を受け、戦闘不能に陥ってからそれなりの時間が経っている。
逃げ出せるものはあらかた海の上に出たはずだ。
「今のとこ――見えない。いたとしても……」
単語の間にできた一瞬の空白。曙は何かを見たのだろう。
想像はつく。
海に逃れた人々がどうなるかなど、由良も数多く見てきた。
それは目を背けたくなるような光景だ。
だからこそ、曙は続く言葉を切ったのだ。
どれだけ急いでも、間に合うことも、できることもない。そう言うつもりだったのだろう。
だが、それを口にすることで、何もできないことを肯定するのが許せなかった。そういうことだ。
たとえこちらに注意を向けさせたとしても、彼らが迎える結末は同じ。
深海棲艦はあの場を絶対に離れない。そうすることでこちらの攻撃の手が緩むことを知っているから。
そう。結末へ至る過程に違いが出るだけ。
それがこの戦場の現実だ。
「艦種は確認できる?」
言ってはみたものの、上部構造物の大半が失われている。見分けなどつくはずがない。
「あれじゃ、艦種特定は無理よ。クソ提督じゃなきゃいいけど」
曙の声は微かに震えている。
誰だってその可能性を頭に思い浮かべているだろう。
この位置に一番近かった護衛艦は、提督の乗るあきさめしかいないのだから。
それも、今の所音信不通だ。
「大丈夫。時雨ちゃんたちが付いていて、敵が無傷っていうのはありえない」
「それもそうね。一隻中破させた程度で終わるわけないもんね」
敵の様子を伺っている曙の言葉に軽い違和感。
それがなんなのかはわからない。
だが、由良はそれを口にしない。
今必要なのは、悲観や迷いではない。
「そうよ、あの子たちなら二隻は確実に沈めてる」
距離は二〇〇〇を切った。
もうここまで来れば、敵が気づいたところで無駄だ。
「目標は任意で。ありったけの魚雷を撃っていいわ、確実に始末して」
了解の声。
「魚雷発射! 全艦一斉右回頭、単縦陣!」
扇状に放たれた魚雷が静かに敵へと向かう。
事がそこに至って、敵はようやく由良たちに気がつく。
海面に浮かぶ獲物たちに気を取られすぎたのだ。
おそらくはもう現れることのない、それらを探す作業に。
ゆえに、その結末はひどく簡単なものだ。
満足な回避をすることも出来ず、すべての敵が水柱に包まれ、消えていく。
「これで仇は取った。そう思ってくれるかな……」
一層激しく燃え上がる護衛艦の残骸を見つめながら、曙がポツリと呟く。
それを決めるのは、生き残ったものではない。
「いつかわかるわよ……向こうで会うことがあれば、ね。とりあえず、この護衛艦の名前だけでもわからないと、弔ってあげることも出来ないわ」
「そうね……」
少し離れた場所で無人のまま漂流しているボートを見つけ、朧が引っ張ってくる。
それに漂流物――護衛艦と関係のありそうなものを集めていく。
母港へ帰すために。
何も遺せなかった人たちのために。
由良の足にコツンと、何かが当たる。
引き裂かれ、飛び散った外板の一部だろう。
その金属片を拾い上げながら、由良は無線を開く。
もはや無線封止をして所在を隠す必要はない。
「由良より足柄。敵分離艦隊の殲滅を完了。以後の指示を願います」
『ヘイ、由良! やっと繋がったヨ!』
金剛の声が飛び込んでくる。
「金剛さん? 足柄さんは?」
『それは後デス! 敵の攻撃機がそっちに向かってマス! 急いで――』
「それはおそらく、大丈夫です」
手にした外板を見ながら、由良はそう口にして金剛の言葉を遮った。
『……ホワイ?』
「敵航空隊はここで壊滅したものと思われます」
拾い上げた漂流物――敵機の残骸を見つめながら、由良は落ち着いた口調で話す。
『誰がやったのデス?』
機関砲弾や機銃弾では作れない無数の小さな穴。何かの破片で切り裂かれた断面。
艦娘たちの攻撃で、そんな痕跡は残らない。
「艦名は不明ですが、状況から見て護衛艦です。当該艦は敵駆逐艦の攻撃を受け、沈みつつあります。今、付近を捜索中ですが、生存者はおそらく……」
『まさかとは思うケド……』
「現在調査中としか。ただ、あきさめが一度空襲を受け撃退したのなら、二度目のそれに対応する火力はないはずです。少なくとも同じ規模のものを壊滅させるほどのものは」
だから、あきさめは無事なはずだ。
同時にもう一つの疑問が沸き起こる。それが先ほどの違和感の正体。
(じゃあ、敵駆逐艦を中破させたのは、誰?)
答えは、おそらく見つからない。
そんな気がした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
あきさめは地道な戦闘を続けていた。
ソナーを使って敵潜を探し、春雨と五月雨、時雨がそれを沈めていく。
一度敵に発見された以上、攻撃開始位置を変える必要があった。
それを悟らせないために、海中深くに潜んでいる間に見つけ出し、通信可能な位置に浮上する前に叩く。
確実な戦果を手際よく上げていかねばならない。
地味だが神経を使う戦いだ。
「あきさめへ。現海域の制圧完了。他に感は?」
『ない。周辺海域はクリア』
「了解。ここから作戦を始めるよ」
南大東島の北北西四十キロ。
ここからなら、島に掘られた港がすぐに見えてくる。
物資の集積地はまずそこにあるはずだ。
ここまでの敵潜の配置を見る限り、敵の本拠地があるのは南大東島だけと見ていい。
そこを一気に砲撃で叩き潰す。
その後は東へ向かいながら滑走路を破壊。同時に島内の物資集積地も始末する。
だが、日が暮れてしまっていた。
偵察機の支援が得られない以上、滑走路の破壊はその周辺を含めた、面を制圧する攻撃に頼るしかない。
大量の砲弾を消費して行われるそれは、付近の無関係な施設にも大きな被害をもたらすことになるだろう。
戦術面ではそれでも構わないが、心情的にはできればそれは避けたい。
戦いが落ち着けば、必ず人が戻ってくるだろうから。
『作戦開始を少しだけ待ってください。ヘリが戻ってきました』
右手、西の空に識別灯のわずかな点滅が見えた。
「了解。給油と整備を済ませたら、本土へ向かう準備をして待機。提督の搬送についての判断は明石に任せるよ」
とはいえ、南シナ海の敵が動き出しているという情報がある以上、あまり長い時間は待てない。
自分たちだけでもやれることは、済ませておくべきだろう。
「春雨、五月雨。僕たちは先行して敵の砲台を叩くよ。あれを排除しなきゃ、あきさめの砲弾が届かない」
了解の声が返ってくる。
深海棲艦が設置したものであるならば、おそらくは砲台も障壁を持っているはずだ。
重なり合うことで、防御壁としての機能も有することになったそれを排除しなければ、あきさめの砲弾はそこで弾かれ、島の施設に届くことはない。
「ここで穴を開けるのは二、三箇所でいい。無理に港湾施設に突入はしないで」
それが終わる頃には、あきさめも射程内に入っているはずだ。
「両舷前進最大戦速。単横陣」
次の手を考えながら、時雨は前に進む。
「見えました。港湾施設背後、崖の上に敵砲台――全部で四基です、はい」
春雨が目標を指差す。
周りを断崖に囲まれ、外部からの侵入を拒絶する島。
周辺の海も急激に深くなる。
普通の方法では、港を作ることなどできない。
だから人間たちは島を切り崩し、港を作ろうとした。
深海棲艦の出現で、その作業は途中で放棄され、未完のままだ。
それでも、敵はその港でも充分に利用できる。
もちろん、艦娘たちにも。
「砲台を破壊したら、二人はあきさめの砲撃を誘導して。そのあとは海岸沿いを東に、滑走路方面へ。同時に砲台の位置をあきさめに通報、安全な位置を保たせて」
「時雨姉さんは?」
春雨が不安そうな面持ちで見つめる。
「僕は夜陰に紛れて上陸、滑走路に向かう。着弾観測しなきゃいけないからね」
「でも、島にはそんな高台がないから無理って――」
「僕は向いていないって言っただけで、できないとは言っていないよ」
だから、着弾が見える位置まで近づけばいい。
「でも、敵がいるんですよ?」
五月雨までもが不安げな顔つきだ。
陸に上がってしまえば、艦娘など普通の人間と大差はない。
艤装の能力はほぼなくなるし、障壁を展開できない以上、兵装も一切が使えないのと同じ。
更にいえば、陸に上がった深海棲艦の能力も未知数だ。
危険度は跳ね上がる。
それでもやらなければならない。
「僕は元情報部だよ、五月雨。こういうのも仕事のうちだし、訓練も受けてる。いざとなれば海だって近い」
嘘だ。
艦娘を使い捨ての道具としてしか考えてこなかった連中が、そんな手ほどきをするはずがなかった。
けれど、時雨はただの道具であることをやめた。
生き残るためにはあらゆる手段を取るつもりだ。
幸いなことに、わずかに高くなった島の周囲は茂みが多い。いざとなればそこに紛れて崖から跳ぶ。人には無理でも艦娘にならできる。下は海なのだから。
「ヘリは提督のために使いたいんだ。だから、こうするしかない。わかってくれるよね?」
それで二人は沈黙する。
肯定の言葉を口にしないのは、きっと二人にとってささやかな抵抗だから。
「さぁ、始めるよ」
三人の主砲が一斉に火を噴き始める。
《6》
『間も無く滑走路が射程に入ります』
そんな無線が飛び込んでくる。
だが、時雨は動けなかった。
滑走路の周囲には、びっしりと対空砲が配置され、巧妙に隠蔽されていた。
上空から見たところで、発見は困難だっただろう。
瑞鶴の航空隊を責めるのは酷というものだ。
けれど状況は明らかに悪い。
洋上の艦娘たちには影響はないが、やはり障壁が邪魔になる。
精密な砲撃はあきさめの方に分があるのだから。
「滑走路に近づけない。対空砲がびっしりだ」
『無理をしないで、こちらに戻ってください』
春雨が急かすように言う。
手がないわけではない。
「春雨、五月雨。僕の指示する座標に砲撃を。弾種榴弾」
時間はかかるが、観測しながらピンポイントで警戒網に穴を開けていくしかない。
全部を処分しなくても、あきさめの砲弾が通る道さえできれば充分だ。
「春雨。第一、座標二七二七、六一五八。第二、二七三四、六一六八」
「は、はい」
「五月雨。第一、座標二七〇八、六一九〇。第二、二七一五、六一六五」
「了解しました」
若干の時間が開く。慣れない座標指定で少し手間取っているのだろう。
それでも、あきさめがいる。優秀な砲雷科員が手助けしてくれるはずだ。
『春雨、発砲します。第一より順次五秒間隔、ともに試射、各二発』
無線から砲声が響く。
それを合図にカウントを開始。
二十秒ほどで最初の砲弾が着弾。爆煙が巻き起こり、木々をなぎ倒す。
砂や小石がバラバラと飛んでくるが、それをものともせずに修正値を送信。
「これで決めて。こちらの位置が悟られた」
短距離ではなく、強力な長距離無線電波を使っている以上、それは避けられない。
いくつかの機銃が時雨の潜む位置に向けて銃口を向けつつある。
その場に慌てて身を伏せた。
頭の上を数発の機銃弾が通過したところで、着弾の音と爆風。
パタリと攻撃がやむ。
「敵対空砲四門および、機銃座沈黙。観測地点を移動する」
だが、それは出来そうにない。
他の銃座が一斉に時雨へ向けて発砲を開始する。
隠れようにも遮蔽物はない。周囲はサトウキビ畑だった場所だ。
茂みを伝い、時折倒れるように身をふせ、地を這う。再び立ち上がり駆ける。
それを何度も繰り返しながら、島の周囲を縁取る小高い丘の茂みへ飛び込む。
「そのまま待機。別の観測地点を探すよ」
そうは言ったものの、これでは丘を遮蔽物にするしかない。そうなれば茂みが邪魔だ。
『もう、戻ってきてください!』
『これ以上無茶してケガをしたら、提督に怒られちゃいますよ!』
春雨と五月雨が交互に撤収を求めてくる。
実際、そうするしかないかもしれない。
幸い滑走路周辺は大半が畑だ。
不発弾の撤去や復旧に時間はかかるかもしれないが。
「最後に一度だけ座標を確認して記録するよ」
『急いでくださいね』
決心をした時雨は、滑走路の位置を確認するために丘の向こうへと静かに移動する。
時雨の姿を見失った敵が銃口を旋回させ周囲を警戒しているのが目に入った。
その位置を記録していく。
何度でもこれを繰り返すことはできるし、その労を厭うつもりもない。
だが、時間に余裕がなかった。
(ごめんね。できる限り被害は抑えるから)
この島で暮らしていた人たちのことを思い、謝罪する。
提督がヘリを使う精密な攻撃を企図していたのは、おそらく同じ理由だったはずだ。
ちらりと、一軒の民家が目に入る。
おそらく砲撃の被害は免れない位置になる。
放棄され、数年が経った建物は蔦や雑草に覆われ、無残な姿になっていた。
どんな人が住んでいたのか、どんな日常があったのか、時雨にはわかるわけがない。
けれど、そこにはたくさんの想いが詰まっているはずだ。
(……そうだよ。わかるはずがないんだ。だからこそ守らなきゃいけないんじゃないか)
決して自分の見える範囲にいることのない人には、謝ることすらできないのだから。
「ごめん。やっぱり続ける」
もう一度丘を越え、安全な位置に戻った時雨はそう口を開く。
『ええっ!?』
五月雨の悲鳴のような声が即座に返ってくる。
「この島には、僕らが守らなきゃいけないものがあるんだ。たとえ人が住んでいなくても――それを守るためには、できるだけ被害を抑えなきゃダメだ」
『でも――』
『それで君が犠牲になることを、あの男が認めると思うかね?』
突然割り込んできた別の声。
時雨には聞き覚えがある。
だが、それはここにいるはずのない人間のものだ。
『遅くなってすまんな。護衛艦はづきはこれより戦闘に加入、弾着観測はこちらのヘリで行う。時雨はその場をすぐに離れ、砲撃に加わるように。火力は少しでも多い方がいい』
「でも、島には対空砲がある。だからヘリをすぐに出せるなら、提督を運んで」
『対空砲は問題ない。ヘリには暗視装置と遠距離観測システムがある。闇夜に紛れて観測が可能だ。が、あいつを運べというのはどういうことだ?』
「提督は負傷してる。危険な状態なんだ」
『声が聞こえないし、また陸で悪さをして、我々を引っ張り出したとばかり思ってたんだが――まぁいい。今日の積荷はコンテナ二本じゃない。ヘリが二機だ。US-2も手配する。安全な海域で引き渡せば、ヘリだけを使うよりも早い』
その手があったかと、時雨は今更ながらに思った。
確かに水上飛行艇を使って運べば、時間を倍以上短縮できる。
「提督の件はお願いするよ。でも、ヘリで観測するのはやっぱり危険だから――」
『この戦いはお前さんたちだけのものじゃない。我々の未来もかかった、我々の戦いでもあるんだよ。他の誰かに委ねて結果だけを待つのは、生きるのを放棄したのと同じだとは思わんかね』
そう、それはただの怠惰だ。
自分たちが置かれていた状況そのものだ。
それを許せば、今度は艦娘が人の上に立つだけになってしまう。
そんなことは誰も望んでいない。その先にあるのは同じことの繰り返しなのだから。
もしかすると、もっとひどい状況になるかもしれない。
皆が望んでいるのは、互いに認め合う対等な立場のはず。
(そうか。そういうことなんだね、提督)
そこまで考えて時雨は気付く。
提督のもう一つの意図。
(どちらか一方だけの力でこの戦いを終わらせてしまえば、同じことの繰り返しになるんだ)
だからこそ、提督はヘリを使うことにこだわっていた。
もちろん民間施設への被害軽減も理由の一つではあっただろうが。
だからこそ、あきさめ艦長ではなく時雨に指揮を託した。
人の手だけで作戦を計画、遂行したと思われないために。
「わかった。ただし、絶対に無茶はしないでと言い聞かせて」
『了解した。違反したらどうするね?』
「そうだね……上陸禁止二週間にしておこうか」
『だそうだ。どうするね、搭乗員諸君』
『でしたら、嗜好品と娯楽品の用意を忘れないように願います』
――まったく。
無茶をするのは人も艦娘も変わらないらしい。
やはり、同じような存在なのだ。
時雨の顔に浮かんだのは苦笑い。
「……甲板の清掃をした後に、そんな余裕があるのかな」
『もちろん!』
やれやれだ。
それ以上何かを言うのは諦め、時雨は海へ向かう。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
『時雨、第二目標弾着修正。左二、下げ一』
「了解」
正確な情報が次々とはづきの艦載ヘリから飛んでくる。
島の防空圏から六〇〇〇メートルは離れているにもかかわらずだ。
「修正射発砲。二発、着弾まで十五秒」
『了解。続いて春雨。修正値――』
それだけ離れていることはわかっていても、どこにいるのかは時雨にすらわからない。
おそらく敵も完全にその位置を把握することはできないだろう。
いくら無線電波を辿っても、ヘリは常に位置を変えている。
撃ったところで当たるはずもない。
ならばできるだけ発砲を控えて、嵐が過ぎるのを待つだけ。
『時雨、命中。敵砲座排除。次の目標――』
だが、暗視装置を備えたヘリの目から逃れることはできない。
巧妙に隠蔽されているはずの位置が次々と露見し、砲弾の雨が降る。
すでに三十近い対空砲が沈黙している。
艦娘だけであれば、ここまで簡単にことが運ぶことはなかっただろう。
はづきの参戦は一気に戦況を変えた。
「そろそろ滑走路上の障壁がなくなるはず。あきさめとはづきにも攻撃位置伝達を」
『了解!』
そのはづきをここへ向かわせるように命令を下したのは、海幕長たる海将だと言う。
それだけではない。
横須賀基地で待機していた、白雪と磯波を乗せる指示まで出したのだと言う。
提督とはづきの接触という事実にたどり着いたのか、それとも心変わりをしただけなのか。
なんにせよ、そのおかげでこうして有利に戦いを進められている。
そして、もうすぐ終わる。
「敵の物資集積地を見つけて。滑走路からそんなに離れていないはず」
それさえ叩いてしまえば、この海域を取り戻すことができる。
だが。
『了解――おい! あの近づいてくるのはなんだ!?』
『敵機です! 回避! 回避!』
どこからか現れた敵機がヘリに迫っているらしい。
無線越しでわかるのはそれだけだ。
「位置と方位、距離を! 近づけちゃダメだ!」
速度差はそれほどないとはいえ、武装には天と地ほどの差がある。
敵機の機関砲弾を喰らえば、ヘリは一瞬でバラバラだ。
『西からだ! 方位二四〇、距離は――くそっ! ドアガン、ぶっ放せ!』
ヘリに搭載されているのは小口径の機関銃だ。少なくとも、こういったケースに使われるものとしては非力だし、射程も短い。
その発砲を要求したのだから、距離は相当に近い。
そのままでは、おそらくはづきやあきさめの射撃に巻き込まれてしまう。
発砲炎が遠くの空に瞬き、ようやくヘリの位置が見えた。
「位置確認! そのまま一気に一〇〇まで降りて左旋回!」
時雨の力では敵機を撃ち落とすことは難しい。
だとしても、やれることはある。
『了解!』
曳光弾の尾を引きながら、ヘリが高度を下げた。
「主砲斉射!」
それでできたわずかな隙間に、時雨の主砲から放たれた砲弾が割り込んで炸裂。ヘリを追おうとしていた敵機が、それを見て反射的に上昇した。
護衛艦はきっと意図を理解してくれる。
『よくやった! これなら狙える!』
護衛艦が続けざまに発砲する。
飛び込んで炸裂した砲弾が破片となり、敵機を襲う。
瞬く間に火を吹きながら海面へ落ちていく。
直後にはづきから数発のミサイルが打ち上げられ、西の空へと飛んでいく。
『助かったよ。あとでビールでもおご……っていい歳なのか?』
「さあ、どうだろうね――さっきのは、どこから飛んできたんだい?」
『まず間違いなく島の滑走路だ。離陸準備しているのがちらほら見える。地上目標を探している間に飛ばれたらしいな……もう少し暗視装置の視界が広ければいいんだが』
ミサイルの通過を確認して、直ぐに高度を上げたヘリから情報が入ってくる。
どうやら敵は航空機を温存していたようだ。他に何か狙いがあったのかもしれない。
『ま、通用するのは一度きりだ――砲撃指示。滑走路の座標を送る』
もう相手に切れる手札などない。
あったところで噛み砕いてやればいいだけだ。
「了解。敵の備蓄資材の位置も忘れないで」
人と艦娘が手を携えて、それぞれに持てる力を発揮しているのだ。
『あった! あれだ、間違いない!』
一切の邪魔を受けることなく。
自分たちの意思で。
それを打ち砕けるものならやってみろ。
「全艦、弾種榴弾! この海域を僕たちの手に取り戻すよ!」
時雨の元に了解の声が一斉に返ってきた。
《終 あるいは新たな始まり》
街が炎に包まれていた。
毎日通った学校も、よくお世話になった病院も、度々買い物に出かけた商店街も。
慣れ親しんだ風景のすべてが紅蓮の炎に包まれていた。
男はひたすらに街路を自分の足で走った。
倒れた電信柱や、家の瓦礫がいたるところで道を狭め、もしくは塞いでいる。
車など役に立つはずもない。
通りがかりにある友人たちの家も燃え、いくつかはすでに崩れ落ちているのが目に入る。
それでも、ひたすらに男は走った。
自分の家を目指して。
背負った荷物が重い。
車に置いてくるべきだったかもしれないと思う。
けれど、それは男にとって大事な商売道具だ。
今ではなく、これからという意味で。だから余計に、たとえわずかな間でも手放すことなど考えられなかった。
大きな通りを右に曲がり小道に入る。火の勢いはまだ弱い。
時間の問題ではあるけれど。
次の角を左。二本進んで右、そしてすぐに左。
子供の頃から使っている道だ。どう進めばいいかなど考えるまでもない。
最後の角を曲がると、また大きな通り。
その向こうに店舗を兼ねた住宅があった。
屋根と外壁の一部がくずれていたし、看板も半分ほどが吹き飛び『写真館』の文字しか残っていない。
それでも、そこが男の実家であることは間違いない。
十八年を過ごした家だから。
家の中から男女の声がする。
――オヤジとオフクロだ。
店舗の前には見慣れた小型のシルバーのバンが止まっている。
車を見て、声の主が家族であることを確信した男が一歩を踏み出す。
と。
空気を引き裂く悲鳴のような音が、立て続けに空から降ってくる。
ハッとして少しだけ上げた視界の隅に、いくつかの黒い影が一瞬だけ映る。
次の瞬間。
男の目の前で白い光と強烈な衝撃が巻き起こる。
わずかに遅れて轟音。
二十代前半の男の体が軽々と持ち上げられ、一呼吸の時間も経たずに、数メートル離れたブロック塀へと叩きつけられる。
まるで肺が押しつぶされたような痛みと、息を吸うことができない恐怖。そして暗く霞む視界。
無理にでも息を吸おうとしたところで、逆に何かがこみ上げ、口から溢れる。
それが血であろうということは、なんとなく自覚できた。
ぐらりと視界が歪む。
粉塵と煙がうっすらと覆い隠す向こう側で、何かがゆらりと動いた。
よろめきながら、半壊した店舗入り口から現れたのは父親だ。
遠目でも、うっすらでもわかる。それが親子だ。
ぐったりとしてその肩に寄りかかっているのは母親。足元はおぼつかないが、動いている。
――二人とも生きている。
安堵とともに落ち掛けた意識の淵に、ジェット機のような轟音が届く。
重くなった頭を音の方にゆっくりと向ける。
昆虫のような姿をした何かが、大通りに向かってまっすぐ降りてくるのが見えた。
その先端に突き出した何かが、何度か、まるでストロボのように瞬く。
そして。
視界の端にいた両親が、シャボン玉のように弾け――。
消えた。
赤い霧だけを残して……。
落ちていく意識の中で叫ぶ。
けれど、それが声になることはない。
代わりにどこか遠くから、声が聞こえる。
「――く! ――とく!」
どこかで聞いたことのある、けれど記憶の彼方ではなく、もっと近い過去に聞いて知った声だ。
だから、それが自分を呼んでいる声だということは、はっきりと聞き取ることができなくても理解できた。
目を覚ました提督の目に飛び込んできたのは、今にも泣き出しそうな顔をした時雨だ。
「……どうした時雨?」
掠れた声。
それが自分の声だと理解するのに、しばしの時間が必要だった。
「おはよう。随分とお寝坊さんだね」
右手の窓から差し込む光が、随分と高い位置から注がれてい流。
「喉が渇いた」
そうぽつりと漏らし、視線を真正面に向ける。
真っ白な、見慣れない天井。
色気も洒落っ気もない、いかにもな蛍光灯がいくつも見える。
エアコンの送風口からは、心地の良い冷風が吐き出されていた。
「僕らを散々心配させておいて、最初の発言がそれかい?」
時雨の震える声。
怒らせたのか、悲しませたのか。
多分、両方だ。
いや。もっと多くの、様々な感情を無理やり押しとどめているのだろう。
「すまない。頭がまだはっきりしてない……水をくれないか」
「もう……はい、どうぞ」
そう言って時雨が手にしたのは吸い飲み――自力で動けない入院患者などに使うアレだ。
なにを馬鹿な真似を。からかうにもほどがある。
と、体を起こそうとする。
「――っ痛ぅ!」
左の脇腹に走る激痛。
「まだ動いちゃダメ。完全に傷が塞がっているわけじゃないよ。入浴剤の効果があったのかわからないって明石も言ってた」
それですべてを思い出す。
あきさめ艦橋へ突っ込んでくる敵機の破片。
それから時雨をかばい――
「戦闘はどうなった?」
「終わったよ。三週間も前の話」
時雨の手を借りて、喉を潤す。
ただの水のはずなのに喉がヒリヒリするのは、あれから三週間も経っているという事実の裏付けだろう。
「勝敗は?」
聞くまでもない、馬鹿げた問い。
自分がここで三週間も寝ていられたのだ。
それに、時雨がそばで不満げな表情を見せて、座っていられるのだから。
「それを聞く前に、言うことがあるんじゃないのかな?」
プイと時雨がそっぽを向く。
望んでいる言葉を聞くまでは、一切の交渉に応じるつもりはないようだ。
「心配かけたな。すまない」
「――君は馬鹿だよ。本当に馬鹿だ……僕は艦娘だよ? 人と違って、怪我をしてもすぐに治せる。君が身体を張ってまで守る必要はないんだ」
「知ってるよ。それでも体ってのは無意識に動いちまうもんだ。頭と体は別物って言うだろ」
「……そうだね」
わずかな間があって、時雨が小さく呟く。
ポロリと瞳から大きな雫がこぼれるのが見えた。
何か、間違ったことを言ってしまっただろうか。
「でもね、それは答えとしては間違ってる……頭で理解できていない事のために、体が動くなんて都合のいいことはないんだよ。訓練がいい例――無意識に動くまで身体を使って頭に叩き込む」
言われて気づく。
その通りだ。
いくら頭の中で艦娘がそう言う存在だと知っていても、体は動いたのだから。
「だからね提督。僕は嬉しかった……提督は僕のことを本当に対等の存在として見てくれているんだってわかったから」
どれだけ上辺で理解していても、深く根付いた部分は違う。
だから訓練で刻み込まれた行動のように、体は無意識にそれに従って動いただけだ。
「ありがとう、提督」
振り向いた時雨が微笑んでいた。
目尻に大粒の涙を浮かべながら。
どこか懐かしく、もう一度見たいと思っていたもの。
そんな不思議な感覚にとらわれる。ありえない事のはずなのに、だ。
「礼を言われるような事じゃないさ」
「そうだね。だから次同じことをした時には怒ることにするよ――ちなみに金剛と足柄は、もう怒ってるから覚悟しておいた方がいいよ?」
「……もう一度、意識不明になっていいか?」
今の状態であの二人に詰め寄られたら、傷が悪化するのは間違いない。下手をすれば命にだって関わってくる。
「うーん、気持ちはわかるんだけどね。そうも言ってられないと思うよ」
「そりゃまた、なぜ? 勝ったんだろう?」
「うん。勝ったからこそ、かな――」
時雨が経緯を説明してくれた。
まず戦況。
大東島の敵はほとんど組織だった抵抗を見せることもなく壊滅。
それと前後して、南シナ海で活発化していた動きも沈静化。現在、佐世保の艦娘たちの護衛の下に輸送船団が物資を輸送中だが、敵の攻撃をことごとく跳ね返しながら、来週には戻ってくる。
島は現在、佐世保の艦娘と陸自部隊が協力して、残存する敵勢力の掃討に当たっている。作戦が完了次第、そのまま共同で警戒を強化する方向で決まっている。
島に住民が帰れる日はまだ遠いかもしれないが、一歩近づいたのは確かだ。
そして、その佐世保。
司令官は判断の遅さを問われ、作戦中に解任。
さらに金剛に対する一件や、情報の意図的な改ざんも発覚し、かなり危うい立場に追い込まれているらしい。
後任人事が決まらぬままの佐世保は赤城が取りまとめている。
今のところは何の問題もなく、平穏とのこと。
代わりに、大揺れに揺れたのは政府だ。
艦娘に関する噂が報道で取り上げられたことにより、国民の不満が一気に爆発。
内閣総辞職で事態の打開を図るも、それで収まるわけもなく、結局は解散総選挙。
総理をはじめとしたいくつかのポストで、当分打ち破られることはないであろう最短在任期間の記録を打ち立てただけだ。
選挙を前に、政府の重要ポストを占めていた大物議員が何人も政界引退を表明したのは、裏で政府内の一部と海将が一枚噛んだせいらしい。
横須賀第二司令が得た影響力を無効化するには、彼に弱みを握られた者が身を引くしかない。そう言って脅して回ったそうだ。
その海将も事態が落ち着くのを待ってから、責任を取る形で海幕長を辞めることが決まっているという。
おそらくそのまま退官することになるだろう。
一部が暴走し、輸送船団を危機に晒した情報部は、艦娘の存在が認知されたことでその存在意義を失った。今後は情報本部に吸収される形になる。
今は混乱の原因を作った関係者の洗い出しに躍起だというが、その処分が表立ったものになることはない。
作戦中に由良が発見した護衛艦については調査中だ。
この護衛艦は敵にあきさめと誤認され、攻撃を受けたものと思われるが、自衛隊には当該海域へ護衛艦を派遣したという記録は残っていない。
ただしその前日深夜、人目を避けるように佐世保から出航したむらさめ型と思しき護衛艦の目撃情報がある。
敵駆逐艦が中破していた理由も不明だが、艦娘がその海域にいたという記録もなかった。
護衛艦であってもそれを成すことは不可能ではないが、敵艦載機群との戦闘をしながらそれが可能かという点で疑問が残る。
この件に関しては、留意しておいたほうがいいだろう。
「ざっと、こんな状況だね」
「状況はわかったが、これなら俺がいなくても問題ないだろう?」
すべては自分が関わらずとも動いているのだ。
これでようやく――
「大有りだよ。まず横須賀の艦娘たちだけど、今日も沖に出てる」
「……音響ブイとか言わないでくれよ?」
「通常の哨戒任務だよ。ただ、この天気だからね。明石が日焼け止めの入手を急かされて悲鳴をあげてる。早いとこ手を打たないと倒れるね、あれは」
まるで他人事のように時雨が言う。
「いや、その辺は秘書艦のお前が――」
「僕、買い物の仕方とか、そういうのが売ってるお店とか知らないよ」
「元とは言え情報部だろ……知らないわけがない」
「ふふ。さあ、どうだろうね。どっちにしろ僕たちは今、街に出られないんだ。有名になったからね」
それは一理ある。
報道は一気に加熱しているはずだ。下手に基地の外へ出れば大混乱が起きる可能性は否めない。
「上の方に要求物資のリストとして出しておけ。自衛官にも女性はいるし、彼女たちに選ばせるようにって一筆添えてな。次の搬入の時に持ってきてくれるはずだ」
「なるほど――それから瑞鶴がね、食べたいものリスト作ってる」
そういえばそんなことも言った。
「昨日、ちらっと見たけど、A4サイズの紙に小さな文字でびっしり書いてあったから、覚悟はしておいたほうがいいと思う。提督のお給金がどのくらいか知らないけど、財政難はしばらく続くんじゃないかな」
「加減とか遠慮ってものを知らないのか、あいつは……」
「鳳翔隊の受け入れなんかでも負担をかけたからね。それに、制限をつけなかったのは提督の落ち度だよ」
言われてみれば確かにそうだ。
だが、どのみち金の使い道などなかったし、口座にどれだけあるのか調べてもいない。海の上にいるほうが多かったのだから仕方がないのだが。
取りあえずなんとかなるだろう。
「ちなみに、資源供給の関係で今すぐには用意できないものもあるだろうね」
そうだとしても、それは今の立場でなくてもできることだ。
艦娘の存在が認められ、いずれ外部と接触することも認められるようになるはずだから。
「それも、今の俺じゃなくてもいいことだろ?」
「うん。そう言うと思ってた――だから、本題はここからなんだ」
時雨の顔が真面目なものに変わる。
「――この国に海軍が復活するんだ。もちろん艦娘を主力とした組織だし、深海棲艦の脅威が排除されるまでという条件付きでだけどね。もう動き出してるんだ。いずれ横須賀や佐世保をはじめとした、各地の第二基地は『鎮守府』に呼称が変わることになるだろうね」
諸外国に配慮した。そういうことだろう。
この国が表立って『軍』と言う組織を抱えることは、大きな国際問題になる可能性が高い。
たとえこんな状況下でもだ。
国家と言う存在が、政治的な駆け引きの上に成り立っている以上、避けられないことだ。
だから、波風は極力小さいほうがいい。
資源は海路だけで供給されているわけではない。
港へ至る陸路にも、敵は少ないほうが都合がいい。
「俺はそこで現場指揮官その一ってところか? 年齢的にはそれでも身にあまる地位だろうけど」
「何を言ってるんだい。すでに君は横須賀鎮守府の司令長官に内定しているよ。受諾すれば少将へ昇進、名実ともに提督になる」
即刻辞退だ。
もう充分に筋道はつけた。
ここから先は強い意志で前に進める者に任せるべきだ。その資格がある者に。
必要とされるのは、食うに困って仕方なくこの道を選んだ人間などではない。
わずかばかりの復讐心で戦い続けるうちに、それが叶わぬことだと知り、燃え尽きた者でもない。
「君がどんな気持ちで戦ってきたのか、少しはわかるつもりだよ。今、何を考えているかもね。はづきの艦長が教えてくれたから」
「あの、おしゃべり艦長め――なら、もういいだろ?」
時雨は少しだけ困った顔をした。
わずかな時間を使って何かを考えた後、思い切ったように口を開く。
「いきなり自由を与えられても、僕らは何をすればいいのかなんてまだわからない――僕らにはこの先の道を教えてくれないのかい? この国の人たちに示したみたいに」
「それは――」
「自分で選び取るものだっていうのはよくわかってる。でも、僕らにはその選択肢を見つける方法がまだわからない。せめてそれがどこにあるのか、教えてくれないかな」
ここで放り出すのは確かに無責任だ。
それはわかる。
けれど、果たしてその資格が自分にあるのか。
この先、いくつもの道を艦娘たちの前に指し示したとして、その中に彼女たちが正しいと認めることができるものがあるのか。
おそらく愚行と錯誤の繰り返し。
その度に後悔し、再びそれを繰り返すのだから。
そして、多くの血が流れる。
自分以外の血が。
罪を贖うために罪を背負う。それはこの世で最も過酷で馬鹿げた道のりのはずだ。
「馬鹿はどっちだよ、まったく」
「それを言ったら、みんな馬鹿さ。この世界自体が欠陥品なんだから。僕はそう思うよ」
「そのぶっ壊れた世界に守る価値があると思うのか?」
互いに理想をぶつけ合い、時には血を流す。そうすることでしか前に進めない世界がまともであるわけがない。そしてそれは、この先も変わることはないだろうから。
「欠陥だらけだからこそ、なおさら。この先どうなるか楽しみなんだ。それに僕たちがこの世界のために何かができる可能性もある」
発展途上だからこそ、先に広がる結末も数多く残っている。
そこへ至る道も同じ数だけある。ほとんど無限と言っていいくらいに。
だから終わりなどないのかもしれない。
それでもやらなければならないのだろう。
「……お前ら全員が、自分で納得できる道を決めるまで。俺の出番はそこまでだ。それでいいか?」
「それ以上は求めないよ。選ぶのは僕らだからね」
より良き失敗を選び取るための道。
無数の愚行と錯誤の彼方にそれがあるのならば、後に続く者たちが迷わぬように、自分は罪を悔い、そのために新たな罪を背負う。
何度でも。
欠陥だけを組み合わせて作ったようなこの世界に彼女たちが船出をするならば、自分が灯台になるしかない。
彼女たちの舫を切ったのは自分だから。
それが司令官としての仕事。
人としての責任だ。
「ところで提督」
「なんだ?」
「僕の太もも。どうして触ってるのかな?」
それは、おそらく無意識だ。
だから慌てて手を引っ込める。
だが、遅い。
時雨にがっちりと掴まれてしまう。
「いや、つい、いつもの癖で……」
口にしてから思う。
これは、言い訳としては最悪の部類だ。
なぜなら――
「頭で理解していないことのために、体が動くなんて都合のいいことはない。僕はさっきそう言ったよね?」
「お、おい? 一応言うが、俺はけが人だぞ?」
そう言って、ちらりと時雨の表情を確認する。
顔は笑っているが、目は笑っていなかった。
「それとも、僕に興味があるの?」
「いや、興味というか、今あるのは脅威かな……とか?」
起死回生のつもりで放った冗談も通じる様子はない。
すうっと、時雨の青い瞳が深みを増す。
まるで深い海を思わせる色。
出港直後に答えを間違えた。
北へ行くつもりが、南へ向かったくらいのレベルで。
「あの……時雨さん?」
「……君には失望したよ」
言葉とともに、すっと時雨の手が伸び――
頬を思い切りつままれた提督の悲鳴が、しばらく病院内に響いていた。
艦!(?)
541 : ◆tF/D/g0jpg - 2017/02/25 03:50:05.82 nwtyw+HHo 506/506※長々とお付き合いいただきまして、ありがとうございました。
また、完結まで時間がかかってしまったこと、大変申し訳なく思います。
風呂敷畳みにきたつもりが、また別なのを広げてしまった気がします……。
これもまたごめんなさい、です。
重ねて、読んでいただいたことに感謝いたします。
それでは、HTML化の依頼出してきます。