【艦これ】Fatal Error Systems【1】
《第二章 作戦計画》
《1》
東京。
一国の首都であるにもかかわらず、夜の街は闇が支配していた。
深海棲艦が現れる前と比べてしまうと、まるで別の国の街のようで落ち着かない。
(これが我々の望む現状維持、か)
自らを乗せた車のヘッドライトが闇を切り裂いて行くのを、海幕長たる海将は忸怩たる思いで見つめていた。
深海棲艦の艦載機による空襲を恐れ、灯火管制でも敷いているのかと勘違いしてしまうが、実際は違う。
敵艦載機の迎撃は人類の手でも可能だ。
高性能なミサイルも、機関砲も、音速で飛ぶジェット戦闘機も。そのすべてが有効に機能する。
よって敵機は迎撃を恐れ、本土上空に近づくことは稀だ。
――たとえ近づいても、一つ残らず叩き落としてみせる。
幕僚会議で航空自衛隊のトップである空幕長が鼻息も荒くそう言っていたのを思い出す。
(それに比べて我々は……)
首都がまるでゴーストタウンのようになっているのは、海上輸送路の確保が困難だからだ。
強力な対艦ミサイル、追尾性能に優れた魚雷、精度の高い速射砲。その一切が深海棲艦には通用しなかった。
海という国家の生命線を維持するために、海上自衛隊がするべきことが何一つできないのだ。
握った拳に力が入り、手のひらに爪が食い込む。
国家の存亡をかけた状況下に、縄張り意識を持ち出したり手柄を自慢するようなつもりはない。
ただ、何もできないことが悔しい。それだけだ。
曲がりなりにも服務の宣誓をした身。その気持ちに嘘偽りはないのだ。
ないからこそ、これほどまでに苦しんでいるのだ。
「到着しました」
運転手役の若い士官の声がした。
海将を乗せた車は静かに減速し、わずかほどのショックもなく一軒の建物の前で止まった。後部ドアは正確に建物の門扉の前。
これが操艦であれば拍手喝采もの。
だが、ここは陸だ。
船乗りが車の運転ばかり上達していく。
そんな些細なことさえ、海将の心を痛めつけていく。
「ありがとう。それほど時間はかからないだろうから、駐車場で待っていてくれないか?」
だが、彼に罪はない。だから、ただ静かに次の指示を与える。
「わかりました」
海将は運転手の返答を聞くと、自らの手でドアを開けて、すぐに門扉をくぐっていく。
外からは見えないが、中は煌々と明かりが灯されていた。
ここは都内でも有数の老舗料亭である。
今時、料亭政治などあまりにもナンセンスだ。
張り込んでいるマスコミもいないだろうが、できる限り誰かに姿を見られたくもなかった。下手に見られれば、余計な波風が立つ。
少なくとも中で待っている人物はそういうものを引き寄せる人種だ。
すぐに主人が現れ、海将を奥の座敷へと案内していく。
「それで、状況はどうなのかね」
案内された部屋に入るなり、海将を一瞥しただけで挨拶もないまま、上席に陣取った男は話を切り出す。
苦虫を噛み潰しすぎて、その表情がそのまま張り付いてしまったような顔をしたこの年配の男は政権与党の幹事長。
この部屋では歴代の大物政治家たちが、世界の情勢や国内の世論を肴に酒を酌み交わしてきたのだろう。
もちろんその味が常に極上だったとは限らない。
例えば今のように、どんな銘酒でも不味くなるような肴の時もある。
その前に座らされ、小さく縮こまったまま真っ青な顔をした防衛大臣は、吹き出す汗を必死に拭いながら、どう説明するべきかを必死に考えている。
(見慣れた光景とはいえ、なんともね)
このような決断力に欠ける男が今の地位にあるのは、与党内で最大派閥を形成している幹事長の力があってこそ。選挙を控えたこの時期にその機嫌を損ねることだけは何としても避けたいだろう。
頭の中で様々な想定問答を繰り返し、その度に行き詰まる。だから、酸欠の鯉のように口をパクパクとさせるだけで、言葉は出てこない。
よくよく見てみれば、その顔がどことなく鯉に似ている気もしないではない。
「だいたい、君が私をここに呼び出す時はロクな話ではないんだ」
そんな幹事長のぼやきなど、恐らくは耳に入っていないだろう。
何を言うべきか。どう伝えるべきか。海将にはわかっている。
だが自身にはまだその権利は与えられていない。
そして、そのもどかしさは自分以外の人間にも表情となって現れている。
例えば、少し離れた位置でため息をつく官房長官。
例えば、部屋の隅で居住まいを正しているスーツ姿の若い男。
その顔にはどこかで見覚えがあったが、果たしてどこでだろうか。
とにかく、時間だけが無為に過ぎていく。
喫緊に迫った問題にどう対処するかを決めねばならないはずなのに。
官房長官がグイと盃を煽り――
「まずいよ」
と、渋い顔で一言。
決して酒の味のことではない。
置かれた現状を端的に言っただけだ。それは国の置かれた位置でもあるし、この場の雰囲気でもあったかもしれない。
とにかく、口火を切ってくれただけでもありがたい。
そんな顔をして、長官をちらと見てから、大臣は説明を始める。
「相模灘に潜んでいた敵は十二隻。いずれも潜水艦ですが、横須賀第二基地の機転でなんとかこれを排除しました」
「排除できたのなら問題はないだろう」
さほど考えることもなく言い放つ幹事長は、あくまでも政治の世界の人間だ。
人を相手の政治的駆け引きなら、それこそ一目でも二目でも置けるが、残念ながら軍事方面に関しては素人同然だった。
もっとも、日本人の軍事音痴は戦後教育の賜物なのだから、この場にいる他のものも同じだ。だから、取り立ててこの言葉を責め立てるつもりは誰にもないだろう。
「排除できたのはいいのですが……」
再び大臣は口ごもる。
どうにも腹を決めると言うことができないタイプのようだ。
国防の一切を担う省庁の大臣としては明らかに不適格という他ない。おそらく他でもダメだろうが。
「何か他にもあるのかね」
焦れた幹事長が語気を荒げて問う。
その声で完全に萎縮してしまった大臣は、ついに思考停止に陥る。
やれやれと言った具合に官房長官がその後を継ぐ。
「敵は排除されたがね、幹事長。敵が首都圏近くまで入り込んできたということ自体が問題なんだよ」
その言葉に今一つ実感がわかないのであろう。幹事長はとりあえず手元の盃を煽る。
その中身が完全に呑み下されるのを待って、長官が話を続ける。
「万が一これが続いて、敵が東京湾内なんかで姿を現してごらんよ……国民の不安と不満は一気に爆発するよ。当然その矛先がどこに向けられるかなんて説明するまでもないね」
「そうならないために、無理やり予算をつけて防衛網を構築したんじゃなかったのかね」
音響ブイによる警戒網のことだろう。
資材不足が影響していて、その完全な構築にはまだ数年かかるという説明を何度、この男にしただろうか。
おそらく何度しても無駄なのだろう。
金と票を数えることだけが生きがいのような男なのだから。
「そうはいうがね幹事長。まだ不完全な網に絶対の信頼を寄せられても、現場は困るだけだよ。それに、あれは音を聞くだけしかできない代物だ。我々の耳と同じように、小さな音がより大きな音に紛れて聞こえないのは、機械だって一緒だよ」
その点、官房長官は現場からの説明をきちんと理解し、自分のものにできるだけの能力があった。
役職から考えれば、当然持っていてしかるべき能力ではあるが。
「それじゃ、無駄金じゃないか」
「いやいや、役に立っていなわけじゃないよ。事実、今回のような奇策でもない限りは、敵の侵入を防ぐことができているんだから」
だからこそ、幹事長が放った身も蓋もない一言に対しても即座の訂正ができる。
事実、装備を整えるには莫大な時間と労力、そして金が必要だ。
小銃一つにしたって、全部隊に行き渡らせるためには二十年以上が必要になる。
下手をすると、最初に配備されたものが耐用年数を迎えて廃棄になり始めても、末端の部隊は未だにそれを手にしていないということも起こる。
自国のみで配備することが前提である以上、生産数は限られ単価は跳ね上がる。そしてそれを買い付ける唯一の組織の予算は有限であり、そんな高価なものをポンポンと買えるほど潤沢とはいえないのだ。
それに今に限っていえば、たとえ金があっても作れる数に制限がかかっている。
幹事長の一言は、それらの事情をまったく考えていない愚かなものだ。
「では、何が問題だっていうんだ」
「横須賀第二だよ。あそこの司令官が戦力の増強を求めてきた。今後も似たような手法で侵入されることが予想されるし、その対処には現有戦力ではどこかに必ず穴ができるってね。その見解については我々も同じだよ」
官房長官が自分の方に視線を送るのを見て、海将も即座に同意の頷きを返す。
つい先日の幕僚会議で出た結論でもある。
今回の敵の狙いがなんだったのか、正確にはわからない。
だが、予測はつく。
船団そのものか護衛艦。潜水艦で狙うならどちらかだ。
官房長官が言うような政治的効果は、敵から見ればそれで起きる余波でしかない。
「では、回せばいいじゃないか。佐世保には多めに配置しているんだから」
さすがにその話は覚えていたらしい。
生粋の政治家である幹事長らしい単純明快な答えだ。
だが、実際はそんなに簡単な話でもない。
「多めとは言っても、余力があるわけじゃないよ。必要だから配置してるんだ。佐世保の戦力を横須賀に回せば、その分海上輸送路が手薄になる」
「そうは言っても、首都を守れなければなんの意味もなかろう? それに工業地帯だって……そうか、資源がなければ戦うこともできんのか」
ようやく気がついたらしい。
「ええ。ですからまずいんですよ。どちらも重要で、どちらかに偏らせることはできない」
ため息をつく官房長官。
非常に遠回りではあるが、人脈を駆使した影響力が大きい相手だけに、こうでもしなければ後々面倒なことになるのを承知しているのだ。
そんな相手と渡り合って、ため息程度ですむ官房長官も大した人物だとは思うが。
おそらくは、この政府の中で一番の食わせ物。
「何かうまい方法はないのかね?」
「そう言われても、我々は政治家だ。兵隊をどう動かせばいいのかなんて知識はないよ」
「ううむ……」
官房長官の一言を受けて、幹事長は言葉に詰まる。
しばしの沈黙が場を支配した。
そして、結局。
「……餅は餅屋だ」
「だろうね」
幹事長と官房長官の視線が海将に集まる。
わざわざ時間を割いてここまでやってきて、すでに出来上がった脚本に乗るだけ。いつものことだ。
だが、今回の脚本を書いたのは官房長官だ。
幹事長に要らぬ口を挟まれれば、状況がさらに危うくなると考えてのことだろう。
「わかりました。微力を尽くします」
そうは言ったものの、戦力の不足は変えられない事実だったし、それで国の中枢と輸送路の双方を守るのは、かなり困難な任務になるだろう。
「頼んだよ」
そう言って幹事長は杯を差し出す。
「いえ、私はこれから主だったものと対応を考えねばなりませんので」
やんわりとそれを断り、席を立つ。
これから先は、どれだけ時間があっても足りないくらいだ。
悠長に酒を飲んで舞い上がっている暇はない。
「では、私はお客様をお見送りしてきますよ」
官房長官も続いて席を立ち、二人は連れ立って部屋を後にする。
静かに閉じた障子の向こうでは、また別の密談が始まるのだろう。
「海将、面倒をかけて申し訳ない」
「いえ。これが仕事です」
廊下を歩きながら二人も密談を始める。
「実際のところ、どう対応するつもりなのです?」
「横須賀第二には限定的にでも増援を出さなければならないでしょう。その辺の根回しをお願いしたいのですが」
後にしてきた部屋をちらりと見る。
「なるほど。わかりました、そちらは私が引き受けます――」
同じ方向を見た官房長官が、声のトーンを一段落し、さらに声を潜める。
「むしろ厄介なのはあの男でしょうね……」
誰にも聞こえないように呟いたつもりなのだろう。
官房長官が言っているのは部屋の隅にいた男のこと。
一見すると、なんの害もなさそうな感じに見受けられたが。
「何か?」
だが、あえて海将は聞こえないフリをする。
「いえ、なんでもありません」
取り繕う様子を見る限り、その対応は正解だったのかもしれない。
中枢部の闇には深く関わらない方がいい。
いざという時に、正しい道を選ぶことができなくなってしまうのだから。
(あの男、どこかの社長だったな……)
その顔が新聞か何かで見たものだったことを、海将はようやく思い出す。
そしてその記事が、急成長を遂げる会社の経営者を紹介するものであったことも。
けれど、この時勢に急成長できる会社など、ごくごく限られていることにまでは、その想像が辿り着くことはなかった。
「もう一つ、聞いてよろしいですか?」
官房長官が足を止め、まっすぐに海将を見つめている。
将来を憂いている弱々しい光がそこにはあった。
「今のままで、この国はあとどれくらい持つと思いますか?」
そんな質問を投げかけた男は、政界の大物と渡り合っている食わせ者ではなく、本心からこの先を不安に思う、一人の人間になっていた。
「政治や経済に関しては、私は門外漢ですよ。自分たちの組織の限界についてならお答えできますが」
この現状では、それはおそらく直結している。
だから。
「それで構いません」
官房長官は目を閉じる。
答えを聞き逃すまいと。
「……二年。それが限界です」
「そうですか……」
それすら、おそらくは甘い見込みだ。
今すぐにでも手を打たなければ間に合うことはない。
だが、何もできないのだ。
今のままでは。
「海将、少し時間を頂けますか?」
官房長官はそう口にしたきり、その場に立ち止まったまま何かを考え始めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
”会議は踊る、されど進まず”という言葉がある。
堂々巡りを繰り返し、遅々として進まない話し合いを揶揄したものだ。
それはナポレオンが消えた後のヨーロッパを巡って、諸侯が互いの利害をぶつけ合った結果によるもの。
けれど統合幕僚監部の一室で開かれている会議においては、互いの利害は共通していたし、参加者はそもそも同じ旗を仰いでいた。
だから、本来であれば粛々と進み、ごく短時間でなにがしかの決定がなされる性質のものになるはずだ。
にも関わらず、静まり返った会議室はただ時間を浪費するだけの空間になっていた。
原因はたった一つ。
何を話し合おうと、何を決めようと、それらはすべて無駄になる。結局は上の意向で覆る。それがわかっていて、積極的に議論をしようなどという者はいない。
だから、この状況を先の名言風に表現するならば”会議は踊らず、故に進まず”と言ったところだろう。
海将は大きく一つため息をつく。
手元の書類を引き寄せ、目を通す。
それが何度目かなど数えてはいない。どれだけ目を通しても内容が変わることはないが、そうするしかなかった。
それは横須賀第二から提出された、今後の哨戒計画と必要戦力、それに付随する必要物資の見積もりだ。
「このままではラチがあかない。まずは横須賀第二のコレをどうするか、だ……もう一度説明をしてくれ」
その言葉に促され、一番遠い席の若い男が立ち上がる。横須賀第二の司令官だ。
現状、この国で最も重要な役割を担っているはずの人物が一番遠い席にいるのは、能力や地位の問題ではなく、ただ単に彼がこの場の誰よりも若いからでしかない。
「まず、今回の敵潜水艦の浸透についてですが、これは露払い。敵の本命は水上艦による対地攻撃と見て間違いありません」
「その根拠は?」
先刻届けられた小さなメモを見ながら、若い司令官は口を開く。
「先程になりますが、哨戒に出していた足柄以下の艦隊が、御蔵島の沖合で敵の小規模艦隊を発見、これを排除しています。恐らくは潜入した潜水艦隊と本隊とをつなぐ連絡中継役だと思われます」
その事実の公表に室内がざわつく。
小規模とはいえ、敵の水上艦が首都まで七時間余りの距離にまで迫っていたというのは、危機感を煽るには充分だ。
「それだけでは、敵の本命が水上部隊だとは断言できないのではないかね?」
海将は内心の動揺を抑え、できるだけ平静を装って言葉を発する。この場で最上級の自分が取り乱しては、組織全体への影響があまりにも大きすぎる。
下手をすれば、艦娘に関する情報開示への動きにもつながりかねない。
海将自身、その必要性は重々承知しているが、今はその時ではないとも考えていた。
現時点での情報開示は国家の存亡に直結する可能性がある。
今は襲い来る敵に対して力を向ける時期であって、内側での政治闘争は敵を利するだけ。
もしやるのであれば、その被害を極力小さくする方法を見つけてからだ。
「これが国家間の戦争だとすれば、海将のおっしゃる通りです。しかしながら、敵は深海棲艦――こちらの船や人、街、そういったものを破壊するのが基本的な行動です。政治的意図でこちらに揺さぶりをかけるような作戦を展開するとは思えません。それを考慮しているのはあくまでもこちら側の都合というものです」
やんわりと自分たちの置かれた現状を非難する言葉に、その場の誰もが渋い顔をする。
その現状の中で困難な作戦を展開し、流血を強いられているのは、この場にいるものの同胞であり部下だだからだ。
「それは理解できるとしよう。それで、この戦力増強案はどういうつもりなのか、説明をしてくれるかね?」
「まずは、近海に潜む敵戦力を一掃します。放置してもいつか押し寄せて来るでしょう。いずれの道を選ぶにせよ、横須賀第二の現有戦力では砲撃戦を主体として考えている敵に太刀打ちできないのは確実です」
確かに横須賀第二の戦力――重巡一、軽巡三、駆逐艦十隻、その他補助艦艇数隻と護衛艦一隻では、想定される敵水上艦隊に対して挑むのは自殺行為以外の何物でもない。
それに万が一、この後に控えている輸送作戦の最中にことが起きれば、横須賀第二は他の艦娘隊からの支援を受けることもできない。
だとしてもだ。
「しかし、駆逐艦四隻はまだ分かるとしても、戦艦四、航空母艦六、重巡三というのはやりすぎだろう。輸送路の維持に影響が出る」
輸送路の維持は作戦中だけに限ったことではない。
常に何組かの艦娘隊が情報収集に出ているし、特に輸送船団の航路となる南西諸島海域は敵の出没が多く報告されている。常時、哨戒部隊を展開していなければ、事前の掃除に時間がかかる。
「ええ。ですからその案は輸送路護衛の作戦に影響が出ないよう、ごく短期間で始末をつけるためのものです」
理にかなった言い分だ。
けれど海将はそれが腑に落ちない。
いつもならば、情報開示をした上で積極的な艦娘の運用をするべきだと訴えて来るのが、この若い司令官だ。
「君にしては随分とおとなしい物言いだな」
それを踏まえた上での皮肉だ。
だが。
「事態はそれだけ切迫しています」
そのたった一言が、この場の全員を納得させる理由になり、それならばという空気が室内に満ち始める。
それはもしかすると、最初からこの男の作戦だったのかもしれない。
普段は頑迷な人物が、その意志を自ら曲げて折ってみせる。その様は差し迫った事態がいかに深刻かを訴えるには、最高の演出となる。
だとすれば、随分と都合よくことが運んだものだ。
若い司令官の顔を見る。
表情に変化はない。だからこそ、ここからは成り行きを見守るという意思が垣間見えた。
海将は考えを改める。
あの男はそうするべき機会をひたすら待っていたのだと。いつか必ずその日が訪れると信じて。
流れを作るのでも、力ずくで引き寄せるのでもなく、訪れるのを待つ。自分の都合の良い方向に流れるように、誰にも悟られぬように、ただ一人でコツコツと水路を作りながら。
けれど、ただ黙って彼の思い通りになることだけは避けねばならない。
横須賀第二司令の最終的な目的に変わりはないはずだから。
それは、この国の土台を揺るがしかねない。
「会議を一時中断、三十分の休憩を挟む」
海将の宣言を受けて、幹部たちが部屋を出て行く。
そして海将もまた部屋を出た。
行く先は自分の執務室。官邸とのホットラインがあるところだ。
与党幹事長が要らぬ口を挟んでくる前に、官房長官と対応を打ち合わせる必要がある。
《2》
外は今日も晴れ。
梅雨は一体どこへ行ったのかと問いかけたくなるほど清々しい日。
だが。
(これこそ本当の青天の霹靂、だね)
齧り付くように書類に目を通していた足柄の肩がワナワナと震え始めるのを見ながら、時雨はそんな言葉を思いついていた。
「これはどういうことなのよ!」
予想通り足柄の怒声が、まるで落雷のように響き渡る。
朝の執務室。一日の業務が始まって一時間ほど経った頃だ。
ダンダンと一歩一歩を踏み鳴らして、提督の執務机へ詰め寄る足柄。
そこへ体を落ち着けている提督もまた、この事態を予想していたらしく、黙々と別の書類に目を通している。
「ちょっと! 聞いてるの!?」
その態度が癇に障ったらしく、足柄はさらに大きな声で吠える。
「どうもこうも、その通りだよ」
面倒臭そうにちらりと一瞬だけ足柄に視線を向けると、それだけを言って、再び書類相手の戦いに身を投じる。
一方の足柄は手にした書類をバンバンと手で叩きながら、さらに詰め寄った。
今にも噛みつきそうな勢いに、さすがの時雨も内心でハラハラするが、提督は顔色ひとつ変えない。
「その通りって、あなたねぇ!」
今度は手にした書類を執務机に叩きつける。
その弾みで、積み上げられた書類の一部がぐらりと傾き、提督は慌ててそれを抑えにかかる。
「こんな戦力でどうやって敵と渡りあえっていうのよ!」
「それが上の決定なんだから、従うしかないだろう? それだってかなりごねて、ようやく引き出した数だよ」
「なんで今回に限っておとなしいのよ! いつもならあなたが私と同じことを言ってるはずでしょうが!」
足柄が叩きつけた書類は、佐世保からの増援として送り込まれる艦娘たちに関してのものだ。
「これじゃ敵艦隊の捕捉すらおぼつかない!」
書類の数は七枚。
戦艦一、航空母艦が二、駆逐艦が四。
作戦実行に必要だとして要求した数には遠く及ばない。
なおも喚き散らす足柄の言葉を要約するとそういうこと。
気に入らないのはそれだけではないらしい。
だからこそ「それにね!」と付け加えて、後を続ける。
「誰を寄越すのか、向こうが決めるってのも気に入らない!」
ちらりと書類の内容が目に入る。
そこには艦娘の名前はなく、ただ艦種が記載されているだけ。添付されていた別の書面には『着任を持って通達の代わりとする』とだけ書かれている有様だ。
極秘の存在である艦娘の動向を、誰にでも拾える電波に乗せて通達することができないのは理解ができる。
だから、こう言った場合には古風だが確実なやり方として、人間に直接書類をもたせた伝書使を使う。
今回はその手間すら省かれた。
上層部から見れば、横須賀第二の司令官などその程度だという無言の通告だろう。
「何も来ないよりはマシだろう?」
「あなたね……こんな扱いされて悔しくないの?」
「別に。いつものことだよ」
涼しい顔をしてお茶をすする提督を見て、もはやダメだと悟ったらしい足柄は自分の席に戻る。
そして時雨に視線を向け。
「ああ、悪いわね時雨。それで、村雨たちに挨拶に来たんだっけ?」
近くまで来たついでという理由があるのだから、そうすることに問題はない。
この間は姉妹艦の村雨たちと、ゆっくりと話す機会もなかったのだから。
「あ、うん。そのつもりだけど――」
もっとも、この間の接触がなければそんな風に思うこともなかった。
そんな具合に、何か行動を起こすには、きっかけとなるようなことが必ずあるものだ。
余計な詮索を避けたい時雨にとっては、この行動は絶対にあり得ないものと言える。
だからこれは、第三者の考え。
そうしたらどうかと、情報部から提案があったのだ。
もちろん、そんな話をタダで提供してくれるような組織ではない。
間違いなく何かを企んでいるはずだ。
「いつもこんな感じなのかい?」
その辺の事情は、はっきりとしてから告げるべきだ。
時雨は一切を胸の内にしまいこんで話を続ける。
「そうよ。なんというか、もうちょっと漢らしくてもいいじゃないのよ……少なくとも、この私の上官なんだから」
なんだか、問題にするべき根本が違うような気もするのだが。
それでも。
「楽しそうだし、賑やかでいいじゃないか」
目を細めて微笑む時雨。
一方の足柄は書類への書き込みを途中で止めて、頭を抱える。
「どこがいいのよ、どこが」
「佐世保はもっと機械的。命令が伝達されて終わりだよ。僕がいた頃のここと同じ」
ふっと陰った時雨の表情を見て、足柄はため息をつく。
「……それは嫌ね。雰囲気の変わった今だから思えることなんだろうけど」
「そうだよ。それで、戦力不足でどうにかできるのかい?」
この件に関して時雨ができることはほとんどない。
せいぜいが横須賀に有利な情報を拾って来て渡すくらいだろう。
だからこれは、その必要があるかどうかの確認でもある。
「なんとかするしかないわよ……というか、あの人がなんとかするんだろうけど」
ポツリと呟く足柄。
なんだかんだと言いながらも、提督を信頼しているのだろう。
そして、はづきに関しての情報を暴露していないことで、時雨もまた足柄からある程度の信頼は貰えているようだった。
「情報が必要ならいつでも手を貸すよ」
「その時はお願いするわ」
向けられる表情も柔らかくなっている。
それでも、それはある程度であって、決して全面的にではない。
情報部があえてそうなることを計算に入れて、行動を保留しているだけかもしれない。そう考えるのは当然だろう。
「――それで、入る許可が出せるのは艦娘たちの宿舎だけになるけど、それで構わないわね?」
足柄の言葉がその推測を裏付ける。
「うん。自分の立場はわきまえてる」
時雨の立ち位置は微妙なのだ。
籍は佐世保にあっても、指揮系統は情報部に属する。だから他の艦娘たちとは違って、ここでは部外者の扱いになる。
本来であれば基地への立ち入りですら制限されるし、艦娘たちへの接触などもってのほかだ。
自身が艦娘である以上、その辺への制限は比較的緩やかになるとはいえ、基地内を自由に行動することまでは許されない。
何より、現状を変えると言って、裏工作をしている横須賀第二となれば、その行動を制限したくなるのは当然だ。
時雨自身、それに直接関わるつもりはなかったし、知る必要もない。
そうすることが横須賀第二――ひいては艦娘すべてや国のためになると思っている。
何かをすることだけが、良い結果をもたらすとは限らない。何もしないことこそが重要になることも世の中にはある。
「話が早くて助かるわ。今書類を用意するから、もう少し待ってて」
足柄はそう言って、手元の書類へいろいろと記入を始めていく。
「ごめんね。忙しい時に」
「いいのよ。秘書艦の仕事なんてこんなのばっかりなんだから、一つや二つ増えたところで、大したことないわよ」
とは言うものの、思っていたより記入すべき項目があるようで、それなりの時間がかかるのは間違いなさそうだ。
その間をただ立って待っているのも、急かしているようで気が引ける。
仕方なしに、時雨は部屋の中央にある応接セットへ腰を下ろした。
「そういえば時雨。白露と涼風はどうだ?」
書類に目を通しながら、提督が話しかけてくる。
話に出て来た二人は、時雨にとって姉妹艦だ。
「二人とも、最近着任した改白露型――海風と江風の錬成をやってるよ」
半年前に佐世保へ派出された白露と涼風は、専属で同型艦の教育担当になっていた。
基本的な性能が同じなのだから適任だろうと言う判断があったらしい。
佐世保にいた唯一の白露型駆逐艦娘の時雨は、情報部の指揮下にあるため候補としては数えられていなかったこともある。
お調子者の白露と何事にも大雑把な涼風の組み合わせに、当初は誰もが不安に思ったものだが、今では充分に戦力として計上できるだけの結果を残している。
「戦力不足だって引っ張って行った割には、教育担当ねぇ」
「そうでも言わないと、返さなきゃいけないだろうからね」
実際には、臨時の駆逐隊を編成しての周辺哨戒任務も並行している。
先の輸送作戦ではバシー海峡の制海権確保もやってのけた。
佐世保としては、あらかじめ戦力の一部として組み込む事を想定していたのは間違いない。
「ま、どっちにしろ返せって言ってるんだけどな」
「二人もそれを望んでるだろうしね」
口にしないだけで、精神的に窮屈な佐世保から異動する事を望んでいる艦娘は多い。
提督と関わりを持っていた時間の長い白露や涼風はさらにその思いが強いに違いないし、彼女たちのもたらす話を聞けば、誰だってそうなる。
時雨ですら、今の横須賀を知った後では、佐世保に戻るのは気が重いと感じるくらいなのだから。
けれど、現状ではそれが叶うことはないだろう。
補給や整備も含めた諸々のことを考えると、同型艦を一つの隊にして構成した方が都合がいい。横須賀でさえ睦月型の四人、白露型の四人といった具合に駆逐隊を編成し、揃えている。残りの二名ですら吹雪型の白雪と磯波だ。
そういう理由もあって、佐世保が二人を簡単に手放すとは思えない。
「こっちに来る子たちは、きっと羨ましがられるだろうね」
ポツリと時雨が呟く。
「そんなに酷いのか」
「うん。僕たちは兵器だから、そんなこと考えちゃダメなんだろうけど」
その言葉に提督が反応した。
「そういう発想が出てくる時点で、お前たちは兵器じゃないんだ」
語気を強め、感情を垣間見せる。
兵器として自分を割り切ろうとする艦娘に対しての怒りだ。
提督は本気で艦娘を人間と同じように、対等の存在として見ているのだろう。
そして、おそらく艦娘に対してこういう態度で接することができる人間はそう多くない。
畏怖であったり、警戒であったり、不安であったりと様々だが、大半の人間が抱く感情は、どれも負の感情であることに違いはなかった。
「ここの艦娘たちは本当に幸せだね」
「ええ。提督が変な悪戯さえしなきゃね」
時雨の言葉を足柄が茶化す。もちろん書類仕事は続けながらだ。
「悪戯とは失礼な。あれはスキンシップだと言ってるだろ?」
一方の提督は書類から目線を外し、足柄の方に向き直っている。
「そういうことをする人はみんな同じこと言うんだってよ? 気をつけなさい、時雨。隙を見せたらお尻を触られるどころじゃ済まないから」
「……そこまでするのかい?」
さすがの時雨も不安になり、無意識に自分の体を抱きしめて距離を取る。
「おい足柄。時雨が蔑むような目で俺を見てるんだが?」
「因果応報、自業自得、自縄自縛。せっかくだから好きな言葉を選びなさいな」
一顧だにせず言ってのける足柄に抗議の声を上げようとする提督。
だがそれは、手元の電話が騒々しく撒き散らす呼び出し音によって遮られる。
市ヶ谷の海上幕僚監部――総司令部と横須賀第二をつなぐホットラインだ。
これが鳴るのは緊急性を要する事態が起きた場合のみ。例えば近海に深海棲艦が現れた、とかだ。
「足柄、非常呼集の用意を」
そう言って提督は受話器を取り上げ、何事かを話し始める。
恐らくは呼び出した相手が間違いないことを確認するための符丁のようなものだろう。この国で最も安全に会話のできる通信設備だが、それでもこう言った古典的な手順は必要だ。
それが聞こえ始めた時点で、足柄は出撃に関する必要書類の一式を取り出して記入の準備にかかる。
この電話が海幕からの正式な連絡であり、戦闘が始まる可能性があると言うことなのだ。
時雨も近海の海図を引っ張り出すために書棚へと動く。
けれど。
提督はそれらの行動を片手で制する。
「了解しました。ただ、以後はこう言った用件でこの回線を使うのはやめていただきたい。それでは」
手荒く受話器をどした提督は、椅子の背もたれに寄りかかり天井を見上げて息を吐く。
「足柄。時雨への入構許可は取り消しだ。そこまでやらせておいて申し訳ないが、書類一式を破棄してくれ」
怪訝な顔をする足柄をそのままに、提督は時雨に向き直る。
「今のは情報部からだよ――堅苦しいのは嫌いだから儀礼は省略するが、駆逐艦娘時雨は現時刻をもって、横須賀第二基地へ転属。俺の指揮下に入る。後日、正式な書面がお前の私物と一緒に届くそうだ」
提督の言葉は、多くの艦娘にとって喜ばしいものに違いない。
例え同じ戦いの場に身を置くにしても、自分たちのことを心から案じてくれる上官の元で動けるのだから。
「随分と急な話だね」
だが、時雨の表情は晴れない。むしろ曇っていく。
「戦力不足だろうから返してやる。ついでに近海の敵戦力の情報を探って寄越すように伝えてくれ、だとさ」
「まさか、それを信じたわけじゃないよね」
「当たり前だ。こっちの動きに探りを入れるつもりだろ。あれだけド派手に戦力を要求したんだ。その上、俺の様子がいつもと違ったわけだし」
それに、と。
「情報部はお前の身元を明かした上でこっちに送り込んできた。何をするつもりかくらい想像がつくだろう?」
情報部の仕事は敵の情報を探るだけではない。
内側の情報統制も任務だ。
当然、指揮官や艦娘たちそのもの動きや考えを把握するのもその一つとなる。
「僕はカモフラージュってことかな」
「その通り」
それをするには艦娘を仲間として潜ませる方が好都合だろう。
ただ、目立たないようにするのは難しい。
そこで情報部と繋がっていると言うレッテルを貼った時雨の出番というわけだ。
普通に考えれば、注意はそちらに向く。
だが情報部は、時雨がすでに横須賀と接触を持ち、提督の側に立っているということを知らない。
すべてを覆い隠そうとしたその一手こそが、相手に手の内を晒すような結果になってしまったなど、夢にも思っていないはずだ。
「このタイミングでそれをやるってことは、佐世保から来る増援の中に情報部の息がかかった艦娘を紛れ込ませるつもりなんだろう」
おそらく艦名の記載がない異動書類はこのためのもの。
「時雨。あなたになら誰かわかるんじゃないの?」
足柄の問いには、首を横へ振るしかない。
この類の役回りにあてがわれている艦娘は、巧妙に秘匿されていなければ意味がない。時雨でさえ監視対象なのだから。
見破ることは決して簡単ではないし、相手も尻尾をつかませるようなことはしないだろう。
「どうするつもりだい?」
「今考えてる」
突如として放り込まれた出口のない思考の迷路。沈黙が重苦しい空気を生んで、室内を満たしていった。
やがて。
提督が立ち上がり、足柄をまっすぐに見る。
「足柄、怒るなよ? お前の能力が不満とかそういうわけじゃないからな?」
「なんの話?」
いきなりの発言に、足柄は首をかしげる。
「怒るなよ?」
念を押す再びの問いには、首を縦に振るしかないだろう。そうしなければ提督がこの先を口にすることはないのだろうから。
「時雨、たった今から秘書艦に任命する。足柄は補佐に回ってくれ」
突然の命令に、時雨は自分が何を言われたのかを理解できなかった。
足柄もそれは同じようで、まるで時間が止まったように硬直している。
だが、立ち直るのは足柄の方が早い。そこはやはり慣れだろう。
「何を考えてるの? 大きな作戦を控えてるっていう時期に、経験がない時雨に秘書艦をやらせる余裕なんてない。おまけに、今こうやって面倒ごとを突きつけてきた連中とも関わりがある」
「もちろんわかってるよ。わかってて言ってるんだ」
両者の言葉を聞いて、時雨はその意図を理解した。
提督は時雨を秘書艦にすることで、すべて見抜いているという警告をするつもりなのだ。
その推測に提督は「その通りだ」と、大きく頷く。
足柄が言う通り、秘書官という立場になれば様々な情報に触れる機会も増えるし、他にもデメリットはある。
けれど、秘書艦はその時間の大半を提督の側で過ごすことになるし、今回に限れば、足柄の補佐がつくことになる。
それは言ってみれば常時監視体制下にあるようなもの。時雨の動向に特段の注意を払う必要はなくなる。
そして、注目を集めることができなければ、カモフラージュとしての機能も果たせない。
当然、そこまでやる相手には手の内を読まれたと考えるし、それが本当かどうか、どこまで見抜かれたかなど、関係なくなる。
そこに考えが及んでしまった段階で、諜報員を送り込むことは心理的に難しい選択になるからだ。
だから、おそらく情報部はその選択を避けるだろう。
情報組織は賭けをしない。
一度の失敗は警戒を呼び、求めているものから大きく遠ざかることになるのだから。
そんな具合に相手の深読みを誘うために、あえてリスクを冒して見せる。それが提督の考えだ。
「なるほどね……」
時雨の説明を聞いて、足柄も納得する。
「でも、これは時間稼ぎにしかならないわよ?」
「それで充分。少なくとも情報部を警戒しつつ作戦準備をするなんてことをしなくても済むだろう?」
ただ、この一手は確実に情報部の警戒心を煽ることにもなるだろう。
提督が何をするつもりなのかはわからないが、チャンスはこれ一度きり。それも制限時間付きで、だ。
その狙いが、足柄の言葉にあった『大きな作戦』に関わるのであれば、その制約は想像以上に厄介なものになる。
「提督。これは命綱無しの綱渡りになるよ」
時雨の心配を提督は軽く笑い飛ばす。
「綱って言えるくらい太いなら充分だ。渡り切れるさ」
「……身体能力が並以下の人がよく言うわ」
呆れた顔をして、足柄が茶化す。
「うるさい。そもそも基準がお前じゃ、誰がどうあがいても並以下だ」
「あなたは特別よ。銃も格闘技もダメって、それで本当に自衛官?」
「俺たちが相手にしてるのは、そんなもん持ち出してどうにかなる相手なのか?」
先程までの重い空気は何処へやら。
二人の掛け合いで、執務室内は元の状態に戻っていく。
おそらく、これがいつもの横須賀。
そして、自分が守るべきもの。
柔らかな微笑みの裏で、時雨は固く決意する。
《3》
私室の机の上に広げられた地図を前に、提督は思案にふけっていた。
その地図のほぼ中央に印がつけられている。
フィリピン海。
太平洋の付属海として国際機関によって正式に定められた名称ではあるが、日本人にとっては馴染みが薄い名前だ。
だが、日本、台湾、フィリピン、ミクロネシアに囲まれたそこは、間違いなく生命線へと繋がる重要な海だ。
例えば。
現代において最重要資源の原油もここを通る。
日本における石油精製能力の七割がこの海に面した地域に集中し、直接運び込めるようになっている。
提督の指が地図の上をなぞっていく。
フィリピン海から台湾南方のバシー海峡を抜け、大小様々な島が点在する南シナ海を通過。
やがて見えてくるマレー半島の先端、狭くて浅いシンガポール海峡を通り、スマトラ島に挟まれた難所であるマラッカ海峡を抜けてインド洋へ。
そこからさらにアラビア海、オマーン湾、ホルムズ海峡、ペルシア湾と辿り、ようやく世界最大の産油地帯に至る。これが一般的な航路だ。
言葉にすると短いが、これを実際の距離にすると片道だけで一万二〇〇〇キロ。日数に換算すると、およそ二十日間の旅になる。
そしてそこで数日をかけて原油を積み込んだ船団は、元来たルートを逆に辿って日本へと戻っていくことになる。
だが、この生命線はいくつかの場所でバッサリと断ち切られていた。
例えば、インド洋モルディブの最南端、アッドゥ環礁。ここを拠点とした敵艦隊により、インド洋の制海権は奪われつつある。
現在ではそこからの敵戦力流入を遮断すべく、いくつかの国が主体となって、様々な種類の機雷をミックスした防衛線がマラッカ海峡に敷かれ、封鎖された状態だ。
ある意味では、人類自らが己の首を締めた状態とも言える。
それが是か否かはともかく、これによって日本と中東をつなぐ線は絶望的な状況にある。
ちなみに敵はマラッカへの侵入を保留し、セイロン島への圧力を強めているという。もしセイロン島が陥ちれば、状況はさらに一段悪化するだろう。
とりあえず、現在は東南アジアの産油国を頼ることでかろうじて生き延びているが、これもアナンバス諸島あたりに拠点を構えた敵勢力によって、危機にさらされている。
そして、こういった拠点は各所にあると目されている。
もちろん日本が接している、フィリピン海にもだ。
その正確な位置を把握しているわけではなかったが、深海棲艦の侵攻とともに打ち捨てられた島を、敵がそのまま利用している可能性は高いはずだ。少なくともそこには、ある程度整備された港があるのだから。
この状況を覆すことは決して容易ではない。
おそらく一気に情勢を変えることは無理だ。
一つ一つ拠点を抑え、じわりじわりと勢力圏を広げていくしかない。
確実に血と涙、無数の死を撒き散らしながら、だ。
今のままではそうなる。
だから、周囲の状況を変える必要がある。悲劇の数を一つでも減らすために。
そのためには、決定的な勝利を見せつけるしかない。
ならば。
最初に手をつけるべきは――。
何度も地図上を行き来する指が、ある一点で止まる。
決断は音もなく下された。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
横須賀第二の朝はいつものように始まる。
一足早く朝食を済ませた足柄が執務室に入り、青い厚手の遮光カーテンを開け、窓を開く。
一晩をかけて淀んだ空気が、朝の新鮮な空気と一気に入れ替わったところで、その日に処理しなければならない書類の束を机の上に広げる。
そうしてから、秘書官が処理できるものと、提督の決済が必要なものに分けていく。
それが片付く頃には、食堂を任されている給量艦娘の間宮か、ほとんどの場合は朝食を終えた駆逐艦娘の誰かが、お茶の入ったポットを持ってくる。
ちなみに今日は睦月だ。
「ありがとう」
「いえいえ。今日も張り切って参りましょー」
「相変わらず、朝から元気ねぇ」
「それだけが取り柄にゃしぃ、いひひ」
そんな具合に、他愛もない会話を軽く済ませた頃、食事を終えた提督が執務室に入ってくる。
睦月はそれと入れ違う形で執務室を後にしようとするが、すれ違いざまに尻を触られ、提督の向こう脛に蹴りを一発。
悶絶する提督をため息交じりで足柄が見つめる中、睦月は顔を真っ赤にして執務室を出ていく。
だいたいこれがいつもの朝の光景だ。
ただ、今日はここからが違う。
提督の傍らには、新たに秘書艦となった時雨が付き従っている。
着任初日に任命されたとはいえ、実際には様々な手続きが必要だったし、基本的な業務内容を把握したり、基地内の各部門への挨拶など、それなりに時間はかかるものだ。
だから、あれから一週間が経過した今日になってようやく、全員が揃う朝食の際に時雨の着任と秘書艦就任が正式な決定事項として伝えられたのだ。
「で、どうだった?」
足柄が問うたのは、その発表に関しての艦娘たちの反応だ。
「何も問題なしだな」
特段変わったこともないと付け加えて、提督は自分の椅子に腰を下ろし、執務机の上に用意された書類に目を通し始める。
そもそもこういった話は、変化のない日常を送っている艦娘たちにとっては好奇の対象だし、そもそも人数も少ない。あっという間に噂になって広まっている。
だから正式発表とはいっても、驚きを持って受け止められる段階はとうの昔に過ぎてしまっていた。
ただ、時雨は納得がいかないようだ。
「僕はあまりにも簡単に受け止められて拍子抜けしたんだけど?」
一年近く秘書艦を務めた足柄に変わって、着任したばかりの艦娘が秘書艦に任命されるなど普通では考えられないし、何が起きてもおかしくないと考えていたのだろう。
けれど、実際は違う。
「新入りが貧乏くじを引いた、くらいにしか思ってないから大丈夫よ」
足柄は苦笑いをしながら言う。
「それ、どういう意味だい?」
「そのうちわかるわよ」
「それじゃ、覚悟のしようがないじゃないか」
「覚悟したところで、どうにかなるもんじゃないから安心していいわよ」
珍しく食らいつく時雨をバサリと斬り伏せて、足柄は書類の山を崩しにかかる。
取りつく島もないとはまさにこういう状況を指すのだろう。
足柄の言葉は時雨の不安を一つ増やしただけかもしれない。
だが、そうするしかないのだ。
底もなければ天井も見えない。提督はそういう種類の人間だ。
そんなものを相手にするのに、覚悟や常識などなんの意味もない。
むしろそういった既成の枠で捉えてしまえば、彼の持っている力を奪ってしまうことになる。
時雨はそういうものに気付くことができる。その上で一歩引いた位置から冷静に物事を見つめることもできる。
カッとなりやすい自分よりも数倍、彼の補佐役には向いているはずだ。
ようやく肩の荷を降ろすことができる。
それが足柄の嘘偽りのない気持ちであった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
佐世保からの増援が到着したのは、食堂の方から夕餉の支度の香りが漂い始める頃になってからだ。
最初に執務室の扉を開いて姿を見せたのは、黒い髪をツインテールにして、白い弓道衣に身を包み、袴を短くしたようなデザインの赤いスカート姿の艦娘。
それを見て時雨は彼女が航空母艦娘であることを悟る。
何より印象的なのが、生命力に満ち溢れた目だ。
強い意志を感じさせるその目は佐世保にいた艦娘にしては珍しい。時雨の知る限り、ほんのわずかな例外を除いて、こう言う目ができるのは着任からまだ日の浅いものだけ。
あの環境に長くいると、たいていの艦娘には諦観の色が見えてくる。
――翔鶴型航空母艦二番艦、瑞鶴。
彼女はそう名乗り、執務机の前に立つ。
「遠路はるばるご苦労様、歓迎するよ」
一度席を外した足柄が、ポットと湯呑みを持って戻ってきたのを見計らって席を勧める。
「失礼します」
瑞鶴はそういって一礼をすると、提督と向かい合わせの位置に腰を下ろす。
その動きは少しぎこちない。恐らくは緊張しているのだろう。
この場にいる全員が瑞鶴にとって初対面のはずだ。
佐世保にいた時雨も、ここしばらくは南西諸島海域や南シナ海への偵察に出ていたために、顔を合わせたことがない。
「翔鶴とは何度か話したことがあるが……印象はまるで違うな」
「よく言われます。先日は修復用資材の提供をありがとうございました。翔鶴姉――じゃなかった、翔鶴と瑞鳳からもよろしく伝えておいてほしいと」
「あの程度でそこまで言われちゃ、逆にこっちが申し訳ない。面倒な儀礼は嫌いなんだ。そういうのはやめて気楽にいこう」
「はぁ」
「それで増援艦隊の旗艦は、瑞鶴でいいのか?」
「いえ、別の艦娘ですが……初対面の相手に身だしなみくらいはと、化粧室にこもったきり出てこなくて。兵器である艦娘がそう言うのを気にするのはおかしいと思うのですが」
恐縮して小さくなっていく瑞鶴の姿を見て、提督は声を出して笑う。
「女が身だしなみに気を使うのは当たり前だろ。ここの子たちなんて『日焼け止めよこせ』とか言ってるくらいだぞ? そこの足柄も時雨も、塗りたくって厚化粧してる」
その言葉に、引き合いに出された二人が即座に反応する。
「提督! 私はそこまでしてません!」
「提督? 僕は化粧なんてしたことないよ?」
それぞれに、似ているようでいて決定的に違いのある否定のセリフを同時に吐いた後、互いの顔を見合わせる。
少しだけ間をおいて、なぜか足柄が無言のままがっくりと肩を落とした。
時雨にはその理由がわからない。
ただ、足柄からはなんとも形容しがたい真っ黒な気配が揺らめきながら立ち上っている。
「……後で覚えておきなさい」
そう呟く言葉は果たして誰に向けられたものか。
時雨はしばし考え、結論を導き出す。
「ねぇ、提督。僕も化粧をするべきなのかな?」
足柄が「後で覚えておけ」と言ったのだ。秘書艦には必要なことなのかもしれない。
それが時雨の導き出した答えだ。
「……お前、意外と天然物か?」
そう言って提督は苦笑い。
「まぁ、お前にはまだ必要ない。瑞鶴もだな。何事も過ぎたるは及ばざるが如しだ」
その言葉に反応して、足柄の肩がピクリと動く。
同時に真っ黒な気配がより一層激しさを増して、執務室に満ちていく。
正面に座る瑞鶴の頬が引きつっているのが見えた。
提督もそれに気が付いたのか、慌てて言葉を付け足す。
「あ、足柄みたいに、上手にやれば元の魅力をさらに引き出すこともできるからな! 興味があるなら教えてもらうといいぞ!?」
足柄の放つ雰囲気が一気に変わる。
あまりの急激な変化に時雨がそちらに視線を向けると、足柄の周りにキラキラとした光が見えたような気がした。
そして満面の笑みを浮かべながら「そうね! 二人には明るい桜色のリップが似合う――」などと、時雨には理解不能な言葉をまくしたて始める。
一人、幸せな世界に埋没している足柄をそのままにして、提督は瑞鶴を見る。
「うちはこんな感じだからな。瑞鶴も肩肘張らずに普段のままでいいよ」
言われた瑞鶴の顔に浮かぶのは戸惑いだ。
それまでに関わってきた人間たちとは明らかに違う態度なのだから、そうなるのは無理もないだろう。
一週間ほど先に着任した時雨でさえ、まだ違和感は拭いきれていないのだ。
それでも比較的慣れが早いのは、周りにいる艦娘たちの言動のせいもあったし、何より秘書艦として提督のそばにいる時間が長いからだ。
「なんか、変わった人」
そう言ってクスクスと笑いだす瑞鶴。
「よく言われるよ」
つられて全員が笑っているところへ、新たなノックの音。
提督が入室の許可を出す。
「なんだか楽しそうデスネー」
扉を開けるなり、巫女風の装束に身を包んだ艦娘が呆れた声を出した。
妙なイントネーションが特徴的な彼女には時雨も面識がある。
金剛型高速戦艦のネームシップ、金剛。
佐世保では実質的に艦娘たちをまとめる立場にあった彼女が、ここへ増援として送られてくるとは意外だった。
当然、金剛も時雨の所属を知っている。ちらりとこちらを見た目には、あからさまな警戒の色が見えた。
「時雨を警戒する必要はないよ。自分の立つ場所を決めてる」
提督の言葉に、金剛は腰に手を当て大きなため息をひとつ。
「またこの人は……どうやって口説いたんデス?」
「おいおい、人聞きの悪いことを言うなよ」
「何を言ってるデス? ワタシもアナタに口説かれたんデスヨ?」
詳しい経緯はわからない。
だが金剛もまた、提督によって選択肢を与えられた一人なのだろう。
「しかし、このタイミングでお前を増援に出すことを認めるとは、佐世保も大盤振る舞いだな」
「フン……作戦前に厄介払いといったところデショ。別に好かれたくもないケド」
鼻息も荒く金剛は言う。
確かに前回の輸送作戦で独断専行をした金剛の立場は微妙になっていた。
それが結果的に輸送作戦の成功に貢献し、多くの艦娘を救ったとはいえ、佐世保で指揮を執っている男はそれを手放しで喜ぶような人間ではない。
出世の道に戻りたい男にとっては、自分の能力を誇示することの方が大事なのだ。
「そんなコトより……提督、ちょっといいデスカ?」
金剛はそう言って、何やら少しばかり思いつめたような顔をして、提督の手を取って
立ち上がらせる。
「何をするつもり――」
提督の言葉はそこで遮られた。
金剛の唇によって、だ。
突然に起きたそれによって、執務室内の時間が止まる。
足柄も瑞鶴も、そして時雨も何が起きたのかを理解できない。
理解できないまま時間が過ぎる。
長い。
とても長い一瞬だった気がする。
やがて。
ゆっくりと唇を離した金剛が提督の目をまっすぐに見つめる。
「あの時、提督が手を打ってくれていなかったら……ワタシはまた、台湾沖で沈んでいマシタ」
金剛が言っているのは、先の輸送作戦の終盤で起きた戦闘のことだ。
彼女が率いる艦隊は、台湾海峡を通過してきた敵艦隊を迎え撃ち、輸送船団を守れという、佐世保第二司令から発せられた命令を実行した。
だがこの時、輸送船団はすでに危険域を離脱しつつあり、この命令は全くの無駄なものだった。
船団位置情報システム不備による誤認と、報告書には記載されている。
それが事実かどうかは怪しいところだと時雨は思っている。
実際、現在も調査が行われているシステムには何の異常も見つかっていないのだから。
とにかく。
それが無意味な命令であるとは知らずに実行し、窮地に陥った仲間を逃がすために、金剛はただ一人その場に残り、撤退を支援した。
圧倒的な戦力差を前に、戦闘力を失い撃沈寸前まで追い込まれた金剛を救ったのは、すんでのところで駆けつけた佐世保の艦娘たち。
その命令を下したのもまた、佐世保司令ということになっている。
だが実際は違う。
少なくとも、あの佐世保の司令官にそんな采配ができるとは思えなかったし、前後の状況から考えれば、それをする意味だってないのだから。
「金剛」
我に返り、離れようとする提督に金剛が強く抱きつく。
その腕が――身体全体が震えていた。
「ダカラ、これは感謝の印ネ。艦娘相手じゃ不満かもデスガ……でも黙って受け取ってクダサイ」
瞳からは大粒の涙がポロポロと溢れているのが見えた。
艦娘たちのリーダーとして、絶対的な自信と強さを見せ、明るく振舞っていた金剛しか知らない時雨にとっては、それだけでも驚くべきことだった。
だが、同時に理解もできた。
艦娘は軍艦であった頃の記憶を有している。
だからこそ、自らが沈んだ時の記憶は何よりも重くのしかかる。
そして、その場所に近づくことで、不安や恐怖を呼び起こされることもある。
金剛にとっては、それが台湾海峡だ。
その場で何を思い、耐えてきたのか。
それは金剛にしかわからない。
だから、誰にもそれを咎めることはできなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
金剛が落ち着いたのは、すっかり日も暮れた頃になってからだ。
すでに艦娘たちのほとんどが夕食を済ませ、それぞれの時間を過ごしている。
だが、執務室の中では、艦娘たちの今後を決める重要な話し合いが行われていた。
「それで、増援の詳細は?」
提督の問いに答えるのは金剛の役目だ。
「まずはワタシと瑞鶴……瑞鶴は航空母艦の中で一番練度が低い艦娘デス。まだ着任から四ヶ月しか経っていないからネ。佐世保が瑞鶴を手放したのはそれが理由ヨ」
金剛の言葉に、がっくりと肩を落とす瑞鶴。
その背をバンバンと遠慮なく叩きながら、先を続けていく。
「デモ実戦の経験もあるし、実力はワタシが保証シマス。他は軽空母と駆逐艦なのデスガ、これがちょっとトラブルがあってデスネ……」
「トラブルってのは?」
「横須賀に向かう直前になってカラ、急に人選を考え直すって言い出しマシタ」
それを聞いて、提督と足柄がニヤリと笑う。
表には出さないが、時雨も内心では安堵している。
時雨の秘書艦就任は、狙った通りのタイミングで効果を発揮したのだ。
「ワッツ? どうしたんデス?」
「後で話す……ちなみに最初に予定されていた艦娘が誰かはわかるか?」
「ノー。人選は佐世保の司令がしてマシタ。ダカラ、ワタシ達は厄介払いされてここにいるんデス。ケド、最終的にワタシに一任するということにナッテ……」
佐世保司令の立ち位置はわからないが、実際に誰を選ぶかは情報部の裁量になっているはずだ。
それを放棄して金剛に選ばせたということは、この件には情報部が関わっていないということを示して見せるため。
もちろん、金剛が最初に予定されていたのと同じ艦娘を選ぶ可能性もある。
だが、そんな幸運にすがるようでは、情報を扱う組織としては失格だ。おそらくは別の手段を考えているに違いない。
「それで、誰を選んだ?」
「軽空母鳳翔、それと駆逐艦朧、曙、漣、潮の第七駆逐隊デス。理由は言うまでもないヨネ?」
佐世保でもかなり練度の高い艦娘達だ。
駆逐隊に関しては最精鋭と言ってもいい。
それに前回の輸送作戦で金剛隊を構成したメンバーでもある。一連のトラブルの渦中にいたのだから、少なくとも佐世保司令の意に従って、邪魔をするようなことはない。
「ただ、彼女達は哨戒任務に出ている最中だったノデ、到着は明後日の朝になりマス」
願ったり叶ったりだ。
任務に出ていたのであれば、情報部の息がかかった艦娘である可能性は低い。
何名が関わっているのかわからない以上、完全に可能性を排除できたわけではないが、それでも警戒のレベルは数段落とせる。
囮として使われている時雨とは違って、実際に行動する艦娘には、連絡手段の確保や符丁の打ち合わせなど、どうしても準備期間が必要だ。
互いに正体を知らないままの行動が原則である以上、本来潜むはずだった艦娘からそれを告げるという手段も使えないし、移動中に外部との接触を図ることもできない。艦娘という存在の露見を避けるために、専用の車両が用意されているくらいなのだから。
だから、金剛が到着時間を把握している以上、打ち合わせをする猶予はない。
もし、大幅に遅れるようならば改めて警戒すればいい。
慎重に考えを巡らせてから、時雨は提督に頷いてみせる。問題はない、と。
もっとも、提督は別の方向から問題はないと考えていたようで、苦笑いをしていたのだが。
「けどさ、金剛。この戦力じゃ敵の艦隊を見つけるのは難しいんじゃないの? 偵察に使える機体も私と鳳翔さんだけじゃ、作戦予定の海域をカバーするのには不足よ?」
瑞鶴の指摘はもっともだ。
だが。
「心配は無用だよ、瑞鶴。首都圏を狙う敵艦隊なんて存在しない」
さらりと放たれた提督の一言は、艦娘たちにとって衝撃的なものだ。
提督は間違いなく、上層部が集まる会議の場でその存在を告げ、上層部はその排除を目的として増援を認めたのだ。
だから、時雨や金剛、瑞鶴がここにいる。鳳翔や第七駆逐隊だってこちらに向かっている。
その前提を、報告した当人が否定した。
「ちょっと待って。それじゃ提督さんは嘘を言ったってこと?」
瑞鶴が慌てる。
いくら増援が必要だとしても、嘘をつくのは流石にまずい。
発覚すれば即座に懲戒なのだから、当たり前の反応だ。
「嘘は言ってない。放置しておけば敵はいつか必ず押し寄せる。ただ、それが今すぐにとは言ってないよ」
「デモ、事態は切迫してるって言ったと聞いてマス」
「言ったよ。ただ、切迫してる事態ってのが何かは言い忘れてな……ちょっと興奮してたからかな。とにかく俺が言いたかったのは、状況を変化させられるリミットが迫ってるってこと。言葉が足りなかったのは認めるけど、それを指摘しないで勝手に解釈したのは向こうだし、そこは俺の責任じゃないよな?」
言葉の端々に白々しさが残っているのは、おそらくわざとだ。
とにかく、そんな具合に一気にまくし立ててから、提督は足柄を見る。
この話を聞いて顔色ひとつ変えていないところを見ると、やはり関わっているのだろう。
「ええ。御蔵島の沖合に小規模艦隊がいたのは事実だし、それを私が沈めたのも事実。付近の海域で水上偵察機が戦艦を主体とした敵水上打撃艦隊を見つけてもいる。だから、その艦隊が東京湾への突入を考えていた可能性も否定できない。そうじゃない可能性もあるけど、とにかく嘘はどこにもないわね」
足柄も提督と同様、一気に話す。
その上ですました顔で茶まですすって見せた。
そして、何かを思い出したように付け加える。
「ああ。ちなみにその打撃艦隊が後退して行ったのが、作戦の立て直しのためか、それとも撤退なのか、それともまったく別の理由かなんてのは、提督や私の知ったことではないわよ? まさか聞きに行くわけにもいかないでしょうし」
時雨は二人の顔を交互に見て、ため息をつくしかない。
彼らは言葉だけで自分たちの望む状況を作り出して見せたのだから。
不完全な情報を渡すことで相手のミスリードを誘うのは、駆け引きではよく見受けられる手段の一つだ。
よく使われるということは、それだけ効果的だということでもある。
ただ、使いどころは難しい。相手が少しでも冷静さを保っていれば、簡単に見破られてしまうのだ。
「……なんというか、これを知ったら上の人たち、怒るんだろうなぁ」
瑞鶴がポツリとつぶやいた。ただし、言葉の割には楽しそうではあるが。
ただ、その言葉の通り、向こうが怒るのは間違いない。
表面的には何も間違ったことをしていないのだから、責めることもできない。
だから、報復はたいていの場合、真っ当な手段ではなくなる。そこには生命の危機を伴うようなものも当然含まれてくる。
しばらくは提督の周囲に注意を払う必要があるかもしれない。
そして、それは自分の役目だと、時雨は自分に言い聞かせた。
「じゃあ、提督はワタシたちを呼んで、何をするつもりなんデス?」
金剛の問いに、提督は静かに、けれど強い意志をその瞳に宿らせて答える。
「輸送作戦を隠れ蓑に敵拠点を急襲、南西諸島海域の制海権を掌握する。奴らがやろうとしたことを、そっくりそのままお返しというわけだ」
ゴクリと誰かが唾を飲む音がした。
提督は地図を広げ、テーブルの上に置く。
指し示すのは台湾から九州付近の海だ。
「ここ最近、輸送船団の被害は復路の南西諸島海域に集中していた。主に潜水艦による待ち伏せだけど、水上艦の出現報告も増えてきた……つまり、この海域の近くに敵の拠点が作られたのは間違いない」
「それはわかりマス。でもその拠点がどこにあるかはマダ……」
「そうよ。それがわからないから、輸送船団が出る時期が近づくと海域哨戒を強化するのよ。鳳翔さんと曙たちもそれで出てたんだから」
金剛と瑞鶴がすぐに反論を提示する。
だが提督は自信を持った表情を変えない。
「敵の出現頻度や範囲、地理的、環境的条件から見て、拠点があるのは大東諸島で間違いない。もちろん島民はすべて疎開していて、現在の状況は不明だけどね」
国内の主だった離島からは、すでに島民のすべてが疎開している。四百近くにも及ぶそれらを防衛するのも、物資を運び込むことも難しいからだ。
「……確かに、南北の大東島は断崖に囲まれていて防御に適してるね。補給拠点として物資を集積していても、その位置は空からじゃなければ特定できない。僕らがそれを破壊するにしても観測機が頼りで、それも対空砲火を躱しながらだから簡単にとはいかない。言った通り、地形的要因から着弾観測員を上陸させるのは難しいし、たとえ上陸できても、観測に向いた高い場所もない」
過去の戦争においても攻め手は上陸をためらい、当時、南大東島中央部に建設が進められていた飛行場に対して、艦砲と航空機による攻撃を繰り返している。
時雨の話はそう言った歴史的な事実も含めてのものだ。
「ソレに大東島の周囲は急に深くなりマスネ……潜水艦が拠点にするなら最高の場所デス」
そしてこの島からなら、南西諸島海域はもちろん、関東の太平洋沿岸までを活動範囲として設定できる。
すべてにおいて最高の条件が揃っていた。
だが、難攻不落の要塞と化した島を二十名足らずの艦娘で攻め落とせるのか。
そんなことを考える時雨の顔に表れた不安を見たのだろうか。
提督がニヤリと笑って口を開いた。
「さっき瑞鶴が言ってたけど、資源の備蓄状況から見て近々輸送船団が出るのは間違いない。こっちの上層部は前回の成功もあって相手をなめてかかってるし、船団規模も過去最大になるようだ」
かなりの数の船を用意しているという情報は、横須賀で修理を受けている護衛艦はづきの艦長から得たものだ。
「そして今回、敵は資源を満載している船団を総出で狙わなきゃいけないんだよ。前回の作戦でかなりの数の艦を失ったし、つい先日も潜水艦を大量に喪失している。おまけに戦力の立て直しには資源が必要だろ?」
艦娘たちと同じように、深海棲艦にも艤装のようなものがあり、それを作るためには資源が必要なのではないかというのは、あくまでも提督の推論だ。
だが、それ以外に敵が資源を備蓄する理由など思いつかない。
ただ訳もなくリスクを冒して資源を集めているという方が、よほどナンセンスだろう。
それに、人類を兵糧攻めにするためというならば、集積地を作る必要はない。
「敵も過去の例から考えて、輸送作戦に全力を注ぐ我々がその最中に拠点を襲うなんて思ってないだろう。だから、拠点にはわずかな守備隊を残す程度になるはずだ。それを釣り上げて叩き潰した後、空になった拠点を物資ごと消し飛ばしてやれば、さすがに向こうも退くしかない。島で補給を得られない以上、反転攻勢に出ようと思っても、いったんは他の拠点まで下がる必要がある」
「どうせなら火事泥すればいいじゃん? もったいない」
瑞鶴が呆れた顔をして言う。
強襲した後に物資を奪えと言いたいのだろう。確かにそれはこの国にとって何よりも必要とされているものだ。
けれど、それはリスクが大きすぎる。
「それをやれば、敵は間違いなく物資の奪還を目指して、死に物狂いで襲いかかってくる。輸送船団に差し向けた戦力のほぼすべてで、だ。瑞鶴はそんなの相手にしたいか?」
「う……お断りします」
輸送路に近かったために、強奪した物資を大量に集積できていると言う点が、この拠点の重要性だ。
そしてその事実が選択肢を生み出す。
選択肢がある限り、どれかを選ぶと言うことができる。
この場合、備蓄物資を使って戦力を再編、とりあえず海域の支配を続けると言う選択だ。
だから、提督はそれを潰すことで、撤退という道しか相手に残さないつもりなのだ。
「ま、これは全部、推測の上に成り立ってるから、確実とは言えないけどもね」
「その推測は間違ってないと思いマス。でもこの作戦は、下手をすれば輸送船団が大被害を受けますヨ? 上手く行ったとしても素直に喜べまセン」
「そう思うなら、可能な限り早く敵拠点を粉砕して敵を撤退させて見せろ。お前ならできるだろ、金剛?」
試すように金剛の瞳を見つめる提督。
金剛は口の端を持ち上げ、不敵な笑みでそれに応じる。
「……フフン。オーケー、提督。ご褒美の用意、忘れないでネ」
「それなら心配するな――」
提督も同じように口の端を持ち上げる。
「これを綺麗に片付ければ、上の連中はお前たちの存在を公式に認めなければならなくなる」
それを聞いた金剛の瞳が異様な光を帯びる。
金剛だけではない。瑞鶴も足柄もだ。
確かにそれは艦娘たちにとって、これ以上ない報酬だ。
けれど、それはまた別の問題を呼び起こす可能性がある。
提督はそれに気がついているのか。
作戦の詳細を語り始めた彼の表情から、それを知ることなどできなかった。
《4》
『一体これはどういうことなのかね!?』
電話の向こうでそう怒鳴っているのは、政権与党の幹事長だ。
どういうことも何も、海将自身その話を聞いたのはつい今しがた。
その対策を指示する前に、この電話が鳴ったのだ。
少なくとも「何がですか?」と聞き返す羽目にならなかっただけでもマシだ。
だから言えることなど何もない。あるわけがない。
ただ、電話の向こうはそれを素直に聞き届けてくれるような相手ではない。
「目下のところ調査中です」
臆測でモノを語ることができない以上、定型的な返答を口にするのが精一杯だ。
『そんな呑気なことを言っている場合か!』
だからと言って怒鳴ればいいというものでもないだろう。
そんなセリフを代わりに突きつけてやりたい衝動にかられるが、これも言ったところで意味などない。
「何か分かりましたら、すぐにお伝えします。それまでお待ちください」
このまま会話を続けていても、時間を浪費するだけだ。
もう一度、手持ちの情報がないことを遠回しに告げる。
『急ぐんだ。出所を潰さないと、我々は終わりだよ』
そう言って、電話は乱暴に切れた。
椅子の背に体を預け、大きくため息をつく。
身体全体に重くのしかかっているのは、まるで一日の終わりを迎えた時のような怠さ。
しかし、時計はまだ午前九時を指したばかりのところだ。
「お疲れのようですね」
執務机を挟んで対面している情報部員が、そう言っていやらしい笑みを浮かべる。
「原因の半分は君たちのせいじゃないかね」
まるで他人事のように話すのだから、嫌味の一つも突きつけてやりたくなる。
朝一番に訪れたこの男のもたらした情報が、事の発端だ。
――艦娘のことと思われる噂が、海上自衛隊内部に広まりつつある。
たったそれだけの報せが、政府や組織上層部を揺さぶっているのだ。
「それで、出所に心当たりはあるのかね?」
「先ほどの言葉をお借りするならば、目下調査中、ですね。どこか一つの基地で広まっているのならば、それほど難しい話でもないのですが」
「一つじゃないのか」
「ええ。横須賀、佐世保、呉、舞鶴、大湊――こういった大きな基地だけではなく、地方の航空隊などにも広まりつつあります。おそらくそう遠くないうちに、他の組織へも届くでしょう」
他の組織というのは陸上や航空自衛隊のことだ。
そうなってしまえば、海将や情報部にできることはない。
そもそも情報部は、防衛省の組織である情報本部とはまったく別。深海棲艦と艦娘の情報統制のためだけに作られた、海上自衛隊傘下の組織だ。
他の組織に対しての権限などない。
もっとも、その力があったとしても、情報部に対する権限は政府によって実質的に掌握されているのだから、海将が何もできないことに変わりはない。
ただ、責任だけを取らされる立場なのだ。
「止められそうか?」
「無理でしょう。噂の源にたどり着く頃には、民間にまで知れ渡っていてもおかしくはないですよ。まぁ、出所自体に目星はつきますが、証拠がなければどうにも」
自分たちの不手際、失態。そう言われてもおかしくはない状況にもかかわらず、目の前の男は顔色一つ変えない。
それどころか、ニヤリと笑ってさえ見せた。
「何事にも、限界、潮時って物はあります。情報に携わる者として言わせてもらうならば、そもそも隠すべきではない情報を隠そうとした時点で間違いなんですよ」
そして、公然と政府の批判をする。
この国において、それをすることは別に罪ではない。
だが、その手先となって情報統制に勤しんできた者が言うべきことではない。
それによって、どれだけの人間が辛酸を舐めさせられてきたのか。
男は睨みつけた海将の視線をまったく意に介さず、むしろ真正面から平然と受け止める。
「まぁ、私はあくまでも下っ端。上からやれと言われたことをやるだけですから」
「なら噂の出所と証拠を掴んで来るんだ」
噂を止められないのであれば、噂を打ち消す事実を作る必要がある。
そのためには、その首謀者となるべき者が必要だ。
もし掴みきれなくても、その責を誰に負わせるかはすでに決まっている。そのために彼はあの安楽椅子に座っていると言っても過言ではない。
けれど、彼が海将の想像通りの人物であれば、間違いなく関わっている。
その証拠が欲しかった。
「必要であれば捏造することもできますが?」
そんなモノでは、火に油を注ぐだけで終わることになる可能性もある。
最悪、政府はそうするつもりだろうが。
「いや。確実な証拠を探して来るんだ。この上さらに嘘を塗ってもいつかは剥がれ落ちる」
だが、海将はこの状況をさらに利用しようと考えていた。
国の置かれている状況を考えれば、あの若い司令官のやろうとしていることは、決して間違いではないのだから。
「わかりました。それがあなたの役に立つとは思えませんが、私には充分メリットになりそうですし、食いっぱぐれたくはないですから」
墜落を胴体着陸程度の被害にする。
それが海将の選ぼうとしている道だ。
緩衝材になる自分の命運などわかりきっている。
だが、自分はこの国と国民に対して宣誓した身なのだから、それも覚悟の上だ。
「指示は以上だ。行きたまえ」
「はい。それから、海将にお会いしたいという人を連れてきましたので、宜しくお願いします――では失礼します」
一礼すると、くるりと踵を返して扉をくぐっていく。
入れ替わるように、スーツ姿の男が姿を見せる。
それが見た顔であることに海将は思い至る。
「この間は、ご挨拶もできずに申し訳ありません」
敵の侵入についての対策を協議した、あの料亭にいた男だ。
「私に用というのは?」
政府の要人と懇ろなのだから、今更自分に擦り寄る意味などないはずだ。
どうせ、幹事長が面倒ごとを押し付けてきたのだろう。
「私は政治家でも軍人でもない、ただのビジネスマンです。そんな人間が持ち込む用事など、あえて言わなくてもおわかりいただけるかと」
「ならば相手を間違えているよ、君は。口説き落とすのは予算を出す方だ」
「そうとも限りません。実際にうちの製品をお使いになるのは現場の方々ですし、その意見は是非とも聞いておかねばなりませんから」
そう言って男が差し出した名刺には、経済に疎い海将でもよく知る企業の名前が書かれていた。
何しろ、そこが作っているのは自衛隊において必要とされる装備の大半なのだから。
使用できる資材や電力が制限されている現在では、個々の企業が分担して何かを作るということをしていては効率が悪い。国の後押しもあって、いくつかの企業が手を結び、それが連鎖的に広がっていく形で、その軍需専業の会社は生まれた。
もちろん寄せ集めであったがゆえに、内紛もあったらしい。何度かの経営陣交代劇の末に、もっとも派閥から縁遠かったこの男がトップの座に着いた。
それからあっという間に業績を伸ばしたのだから、この男には運だけではなく、才能もあったのだろう。
「しかし、随分とお困りのようですね」
「何の話かね」
「警戒なさらなくても大丈夫ですよ。艦娘に関してはうちが研究してますから」
政府が艦娘の技術転用を計画しているという噂は海将の耳にも届いている。数年前から、何度もだ。
だが、何の成果もないのだからあくまでも噂だろうと、本気で取り合うことはしなかった。
しかし、それは本当に行われていたのだ。
艦娘たちを所管する組織に――それも、その組織の頂点に立つ自分にすら一切隠されたまま。
所詮、自分も駒の一つにすぎないのだと、改めて思い知らされる。
「ならば、商談をしている暇などないことくらいわかるのではないのかね?」
そんな胸の内を見せぬように言葉を紡ぐ。
「いえいえ。だからこそなんですよ」
薄い笑い。
見透かされているのだろうか。
「さっきの彼が言ってませんでしたか? もう手遅れだ、と」
「随分と気心の知れた仲のようだな」
「さあ、それはどうでしょう。いずれにせよ今日の商談には関係のないことです」
「では、さっさとその商談とやらを始めてくれないか。こっちは後がつかえているんだ」
男はそうしましょうと言いながら、いくつかの資料を机の上に並べた。
数字や技術者向けの難解な単語が並ぶそれらの中には、海将にもよくわかる図が何点かある。
主に護衛艦に搭載されている主砲に関してのものだ。
「当社は艦娘の技術を使った兵器の開発を進めています。今ここに出したものは現在最後の試験段階に差し掛かっていて、実用化は一年以内に可能と見込んでいます。これを運用するシステムはほぼ現行のまま、一部の兵装だけを変更することで、深海棲艦の持つ『障壁』と呼ばれる装甲を、今より簡単に貫通することが可能になります」
「誘導兵器の類はないのかね?」
並べられた資料の中に望むものが見つからず、海将は問いかける。
装甲防御力のない護衛艦にとって主力となる兵装は、安全な距離を保ちながら攻撃のできる誘導兵器だ。それらが有効になれば、深海棲艦側の射程外から一方的に攻撃することが可能になる。
「もちろんそちらも開発中です。が、さすがに当社も最近は懐事情が厳しくて、遅々として進んでいないのが現状です」
当たり前の話だ。国としても一向に成果の上がらないものに対して、気前よく予算を出せるほど余裕があるわけでもない。
だから、今ある技術で一定の成果を上げて予算を勝ち取りたいのだろう。
「わかっていると思うが、最終テストも済んでいないものを搭載して戦うことはできんし、予算を無心することもできんよ」
「ええ、存じてます。これらに関しての基礎研究は終わっていますし、先日、貴重な被験体も手に入りました。近々そちらが望む結果をお見せできると思いますし、そうなれば、まず間違いなくお買い上げいただけるでしょう」
「では、何がしたいんだね、君は」
「先ほども言いましたが、艦娘の存在が露見するのは止められません。そう遠くない将来に艦娘は公式に存在を認められ、活躍するようになるでしょう……ただ、あまりに活躍されて、深海棲艦に対抗するには艦娘だけで充分という流れになってしまっては、うちの商品が売れなくなってしまいます。これは大変困ります」
「大多数の国民は困らないがね。我々も隊員の犠牲者を減らせる――正直な話を言えば、私だって艦娘を積極運用すべきだと思っているし、その際に誰かが今までの責任を取らなければならないのであれば、私がそうするべきだとも思っている」
「さすが。海将なんて地位につく方は人格者ですね」
そう言って男は笑う。
ひとしきり笑った後、その表情を急変させる。
まるで仮面でも脱ぎ捨てるように。
一切の感情が消えた顔で。
「――ですが海将。現状、一〇〇名足らずの艦娘だけで、この国を守れるのですか?」
即答できる。
無理だ。
たとえその規模が倍になったとしても、到底カバー仕切れるものではない。
国土を守るというだけならば、充分と言えるかもしれない。
だが、この国を守るという定義には、海上輸送路の確保という問題も含まれてくる。
そうなれば、圧倒的に戦力が不足するのは目に見えていた。
「ですから、現実的に考えれば、我が社の兵器を搭載した自衛隊艦艇も主力となるべきです。ですが政府の役人たちの考えはそうならないでしょう。国民の大半も、艦娘たちに全てを委ねれば安心といった風潮になるはずです。そうなってからでは遅いのですよ」
平時の自衛隊が置かれていた状況を考えれば、この理屈は当然と言えた。
要するに無駄な組織という捉え方が一般的だったのだ。
確かに、戦いのない時には無駄な存在かもしれない。だが、いざ事が起きてから準備を始めたのでは、到底間に合わない。
準備をするには、莫大な時間が必要なのだから。
そして事が起きた時。
真っ先に批判を始めるのは、それに対する備えを否定してきた人間だ。
何度もそういった事例に直面しながら、ごく少数がそれを理解せず、ただ声高に叫び、何も考えない大多数はそれに追従する。そして現実を理解し、それを訴える少数を批判してきた。
そんな状況下では国の指導者層ですら、何が真理かを理解していても大多数へ迎合するしかない。
そんな光景を長い間見続けてきた海将にとって、男の言葉は妄想や夢物語などではなく、リアルなものとして受け止められた。
「要するに、君はこの国の未来を売り物として、ここに来たのかね」
「まさか。そんな大それたもの、うちでは取り扱えませんよ。あくまでも私は自社の製品を買って頂きたいだけです。その結果が国の未来に関わってくるというなら、それは大変ありがたい評価をいただけたというところですかね」
煮ても焼いても食えないとは、まさにこの男のことだろう。
「まあ、今のは艦娘たちに活躍されたら嬉しいけれど、大変だっていう世間話ですよ。例えば次の輸送作戦が完全成功したり、関東を狙っていた敵艦隊を殲滅したとか――それさえなければ、うちの兵器が活躍する場も与えられるかな、と」
「それは艦娘たち自身の力によるところだから、私には何もできんな。まさか戦うなというわけにもいくまい?」
「ええ、もちろん。ただ、戦場では色々起きることもあるでしょう? 何かが起きて戦力が分散されてしまい、結果として輸送船団が被害を受けたりとか。特に佐世保第二の司令官は問題があるようですし……作戦前に交代した方がいいんじゃないですか?」
そう言って、男はコピーされた書類を差し出す。
何も書かれていない表紙の下には、組織外に漏れる事があってはならない文書――艦娘たちが書いた、前回の輸送作戦に関する戦闘詳報があった。
「どうやってこれを……」
「そんなことは気になさらず、どうぞ読み進められてください。きっと新たな発見があるはずですよ」
男の言う通り、海将が受けた報告とはまったく違う事が記載されていた。
評価の高かった作戦中における要所での判断は、そのすべてが佐世保司令ではなく、金剛によるものという、幾人もの艦娘による証言があった。
もちろん、艦娘たちが口裏を合わせて、佐世保司令を貶めるために話をでっち上げた可能性もある。
だが、それをするメリットがあるのかと問われれば、答えは否だ。
新たな司令官が送り込まれたとしても、彼女たちを取り巻く状況は何も変わらないのだから。
特に目に付いたのは、金剛自身の手による報告書。
一連の作戦中における判断の根拠が詳細に書かれており、筋は完全に通っている。
佐世保司令が提出してきた報告書よりも、はるかに。言ってみれば完璧に、だ。
最後には、この戦いにおける佐世保司令の一連の行動は私怨を元にした利敵行為そのものであり、これまでの作戦における指揮能力の問題と合わせて、解任を要求するという一文が添えられていた。
「どういうことだね、これは」
「ご覧になった通りですよ。こんな人が指揮官では色々とまずいんじゃないかとは、私でも思いますよ? まあ、すでに報告書は承認されていますし、今お持ちなのもコピーですからね。追求するのも難しいでしょうから、どうしたものか」
海上輸送路の防衛拠点になる艦娘部隊指揮官がこれでは、今後の安全など確保できるはずもない。一刻も早く交代させる必要がある。
だが、その鍵は恐らくこの男が握っている。
「原本はどこだ?」
「さすがにそこまでは……佐世保の報告書ですから、佐世保にあるものだとは思いますが。こういった廃棄書類というものは、後でまとめて処分しようとして、そのまま忘れてしまうこともありますしね。そういうご経験はありませんか?」
「そういうことか……」
これを使えば、たとえ海将が馬鹿げた指示を出して実行させ、後でそれを否定したとしても、そのすべてを佐世保側の偽装工作として処理することができる。
一つ嘘が発覚すれば、その他のすべてが真実だとしても、そう思ってもらうことは難しい。
男はそうしろと言っている。
汚い手だ。
だが。
艦娘の件が発覚すれば、海将が責任を取ることになるのは間違いない。
もちろん政府もだ。
国内はかなり混乱するだろう。
それでも敵は存在し、国を脅かし続ける。
ならば、できることはただ一つ。
国を守る力を絶やさないこと。
それが自分にできる最後の奉公だと、海将は改めて覚悟を決める。
続き
【艦これ】Fatal Error Systems【3】