これは鎮守府ができる前。
まだ、人類が一つにはなれていなかった頃の話。
一つになれるとは決まってもいないけれど。
なぜなら、この世界は……
※『風の色、海の声』で広げた風呂敷畳みにきました。
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1480080940/)
(http://ayamevip.com/archives/48948448.html)
一応、そちらを読まずともなんとかなるとは思います。
あちらが外伝、前日譚。こちらが本編という形です。
地の文多め、というか例によって小説形式です。
そして長くなります。
今回は何度かに分けての投下になりますので、気長にのんびりとお付き合いくださいませ。
元スレ
【艦これ】Fatal Error Systems
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1484192755/
《序 両舷後進微速》
たった十年前。
もしくは十年も昔。
海上輸送にその生活の基盤の大半を任せていた人類は、唐突な出来事によって緩やかな滅亡への道を歩むことになった。
深海棲艦。
後にそう呼称される未知の敵によって、人類は海を失ったのだ。
最新鋭の技術を持って作られたあらゆる現代兵器は、その敵の前にほぼ無力だったからだ。
当時の最強国家であった大国ですら、その敵にはどうすることもできなかった。
彼らは最後の切り札を使い敵の一掃を図ったが、敵はそれによって失った数よりもさらに多い数をどこからか生み出す。
キリのない戦いの末に、人類の万策は尽きた。
切り札の多用が、やがて自らの首をも締めることを知っていた人類には、もはや打つべき手など存在しなかった。
海に出ることをしなければ、敵に襲われることなどほとんどないと知った人類は、陸上でひっそりと暮らすことを選んだ。
そうやって、世界は閉じられていく。
資源のない国は、わずかな量のそれを手に入れるために、釣り合わないほどの危険を冒すことで、かろうじて生きながらえていた。
そんなある日。
資源のない極東の小さな島国に一人の少女が現れる。
七十年以上も前のその国の軍艦の名を名乗った少女は、不思議な力で海面を滑走し、身につけた武器を使って、深海棲艦を屠って見せた。
艦娘と呼ばれることとなる、その少女が現れた日。
それは、人類にとってわずかな希望が見えた日。
――そのはずだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
一ヶ月に及ぶ航海を終え、あきづき型護衛艦はづきはその母港である横須賀に錨を下ろしていた。
入港すれば、それで乗員たちの仕事が終わりというわけではない。
物資の積み込みや艦の点検項目のリスト化など、やることはたくさんだ。
その作業の大部分を担うのが、砲雷科という戦闘に関わる職種を担う乗員たちだ。兵器システムは多岐にわたるため、関わる乗員の数も多い。戦場にいなければ、それだけの数が当然手隙になるのだ。
たかだか二五〇名ほどの乗員で運用されている護衛艦では、暇を弄ばせてくれるほど人員に余裕などない。
それらを取りまとめる砲雷長という役職にある男もまた、クリップボードを手に甲板へ出てきていた。そして、ぐるりと艦を見渡す。
艦首甲板に据え付けられた六二口径五インチ速射砲の周囲には、空になった薬莢が散乱している。百はあるだろう。これでも一応は片付けが進んでいる。
何せ弾庫にあった砲弾の全てを撃ち尽くしている。幾つかはその途中で海上に落下しているはずだ。これが陸上自衛隊であれば、その捜索に何日もかけるのだろう。
だが、広く深い海でそれをやるのは無理だったし、そもそも今は戦時。薬莢ごときで艦を危険にさらすようなことはしない。ただし、再利用できるものは可能な限り集めて再利用するのが、資源不足の今では当たり前になってもいるのだが。
艦橋の方に視線を移す。
そこには五〇口径の機関銃が据え付けられ、その周囲にも、まるで艦内のゴミを全て掃き集めたとでも言わんばかりに薬莢が小山を作っている。
増設分を含めて、全ての機関銃座が似たような状況だ。
乗員がそれらをスコップですくい、帆布でできた回収用の大きなカゴに流し込んでいる。
そして、その背後。
護衛艦の無機質で飾り気のない灰色の艦体に、赤いペンキをぶちまけたような跡が残っている。別の乗員がそれをデッキブラシで擦り落としているが、なかなか落ちない。
さらに力を入れようとデッキブラシの柄を短く持ち替えたせいで、赤いシミに顔を近づけてしまった若い乗員が何かに気づく。
そして顔が一気に蒼白になり、狂ったように泣き叫びながら嘔吐を始めた。
砲雷長はその乗員のそばに行き、救護室で休憩するよう促す。
そして、彼が去った後の壁を見て、その原因を理解する。
赤いペンキのような染みは血だ。
そしてそれを糊代わりにして、壁に人を構成するパーツの一部が貼り付いていた。
それがどこの部分なのかはわからない。ただ、青白いそれが血の気の失せた人の皮膚であることは間違いない。
その近くに開いた、大人の指が三本ほどは入ろうかという穴には、ちぎれた指が引っかかっている。
決して普通の精神状態で正視できる類のものではない。
平和な国に生まれ育ってきた、まだ年若い乗員にとっては衝撃的な光景だっただろう。
だが、そう思う砲雷長自身もまだ二十八という若さだ。そんな若さで砲雷長などという大役を任されるほどに、人員の損耗は激しい。
はづきの艦体には同様の穴が無数に穿たれ、各所に血糊が残っていた。
敵空母艦載機五十機あまりと駆逐艦四隻。それらとの二十五分間の戦闘でもたらされた被害は、戦死八名、負傷者十五名。いずれも男の部下だ。
だが、これでも被害は少ない方だ。
はづきより少し離れた位置に投錨している、同型艦のきよづきを見る。
きよづきの艦橋はその半分ほどが吹き飛び、外板の大きく裂けた後部のヘリ格納庫からはうっすらと煙が立ち上っていた。艦首の主砲もない。
さらに艦長以下、乗員の半数が死傷している。
きよづきの戦闘能力は完全に失われ、自力での航行がやっとという有様だ。
だが、敵の攻撃がきよづきに集中したおかげで、はづきの被害が小さく済んだのだ。
明暗を分けたものが一体何だったのか、それは誰にもわからない。
ボディバッグが不足し、艦内からかき集められた毛布に包まれた遺体が後部甲板に集められていく。
そして、そこでパレットに載せられ、クレーンを使って降ろされていくのだ。まるで荷物の様に。
そこには死者に対する気持ちなど見受けられない。
いや。本当はあるのだ。けれどそれを持ち出してしまうと、この現実に耐えられない。
だから、誰もが感情を押し殺し、これを作業としてこなしていくしかないのだ。
報道ではこの被害は決して明かされない。
ただ、輸送作戦が成功し何十日分かの資源の獲得に成功したと発表されるだけだ。
現実を知っているのはその場に居た者だけ。
敵の攻撃は激化し、行動も巧妙になってきている。
いずれ輸送作戦が立ち行かなくなるのは目に見えていた。
男の全身を無力感が蝕んでいく。
何より、疲れていた。
もともと、戦いの現場に身を置くことを望んでいたわけでもなく、国を守るという義憤に駆られたわけでもない。
全てを失い、ただ食うためにこの道を選び、成り行きでこうなってしまっただけだ。
そんな人間が、多数の命を預かる立場にいるべきではない。
だから、男は艦を降りるつもりでいた。
「砲雷長。現時点までの報告書を持って艦長室へ」
そんな無線が流れてきた。
ちょうど良い機会だと、男は艦内へと向かった。
《第一章 天気晴朗なれど》
《1》
あきづき型護衛艦はづきの後部格納庫には、台車付きの二十フィートコンテナが二本鎮座していた。
本来であれば、ここには護衛艦の目となり耳となるはずの対潜哨戒ヘリコプターが格納されている。
そもそも護衛艦とは戦うための船だ。貨物船ではない。
にもかかわらず、こんな状況になっている。
(なんとも、おかしな話だね)
時雨はそのコンテナの上でため息をつく。
本来であればこれは輸送船の仕事。
だが機材にトラブルが起きたため、横須賀に戻る護衛艦が替わりにコンテナ輸送をする羽目になったのだ。
それだけ重要で急ぎの荷物ということなのだろうか。
おそらく違う。それだけではないはずだ。
とにかく、呉を出て三日。
食事と生理現象の解決に向かう以外は、この上で過ごしている。
それが仕事だ。
多分、それを知るものはこの艦にはいない。
誰もそうは思わないだろう。
紺色のセーラー服姿の少女が、このコンテナの監視をしているなど。
乗員たちが作った噂話がその証拠。
曰く。
――兵器メーカーの偉いさんのご息女。
(まぁ、僕がここに来た時に同伴してた人が関係者だからね)
スーツ姿の男は名刺を艦長に手渡し、時雨の乗艦を求めた。
荷物と同じ扱いで構わないから、と。
だが、そんなはずがないだろう。
何も危険な海を通る必要などない。陸上を行った方がはるかに安全で確実、そして早いのだから。
だからその噂はすぐに消えた。
今、ささやかれている噂はまた違うものだ。
曰く。
――深海棲艦に襲われ、唯一生き残ったかわいそうな子。接触があった可能性が高く専門の検査ができる場所へ移送する必要がある。
(なんだか、とても面倒なことになってるんだけど。どうしたものかな)
もう一度、今度は大きく深いため息をつく。
時雨とて艦娘だ。
深海棲艦とは何度も遭遇しているし、戦ったことだってある。
ただ、深海棲艦に唯一対抗できる艦娘という存在自体が公にされていない以上、それを持ち出して否定することもできない。
だから、時雨は沈黙を保つ。
その結果。
――あまりに凄惨な現場を見たショックで心を閉ざしている。治療して情報を探るのだろう。
面倒な噂に、余計な信憑性を与えてしまう結果になっていた。
もう一つ言えば、乗艦の際に同伴して来た別のスーツ姿の男が、一風変わった身分証を提示したのが、そんな憶測を呼ぶ致命的な原因になったのだろう。
海上幕僚監部特殊運用支援調査部。
それが正式な名称だが、大抵は『情報部』の一言で呼ばれてしまうような組織だ。
やっていることも似たようなものだ。
そもそも情報を扱う組織には内向きと外向き、二つの役割がある。
一般的に情報部と言われて誰もが思い浮かべるのは外向きの仕事。すなわち情報の収集とか、対外破壊工作や情報操作など、そう言ったもの。
内向きの仕事というものは、情報の漏えいや叛乱といった内部での不穏な動きの監視、把握、阻止だ。
ただ、この国に新設された情報部は海上自衛隊の一組織に過ぎず、敵である深海棲艦に関わる部分のみを引き受けていた。
対外的には敵情報の収集。
そして、艦娘に関する情報の統制が内向きな仕事だ。
実のところ、時雨はその組織と関係が深い。
別に諜報員というわけではない。あくまでも協力者という形で、だ。
海に出られない人間に代わって、敵の拠点を探し回ったり、動きを監視したり。時には単独で敵と一戦交えることもあった。
そうやって、敵に関する情報を収集する役目が与えられていた。
(だから、これもそうなんだろうね。きっと)
コツコツと指先で叩いたコンテナの中身は時雨にも知らされていない。
だが、それを推測できないほど愚かでもなかった。
出されている指示はたった一つ。
――このコンテナを横須賀基地まで護衛すること。不測の事態が生起した場合は如何なる手段を持ってしても国を守るべし。
ため息。
中に入っているものが自身の想像通りなら、その指示は最悪の結果を招くかもしれないのだ。
だからこそ、時雨は乗員との接触を避けていた。
決断をするにあたって、情はそれを鈍らせるからだ。
そして。
そうしなければならない程、時雨自身が葛藤している証拠でもある。
(なんというか、割り切るっていうのは大変なことだね)
だが、いくら自分がそういう意識で行動していたとしても、周りにそれを喧伝するわけにもいかないのだから、当然、好奇心という名の邪魔は入る。
例えば。
「気分はどうかな?」
コンテナの下の方からかけられた声に、時雨は身を乗り出して覗き込む。
声の主はこの艦の艦長だ。
時折こうして姿を見せては、時雨との会話を試みようとする。
なんでも、似た年頃の娘がいるのだとか。
気になって仕方がない気持ちはわかるのだが、正直迷惑だ。
こうやって意図せずに送り込まれる情報の数々が、時雨の決断を鈍らせていくのだから。
「問題ないよ」
それがわかっていても、邪険に扱うことができないのが、また時雨を苦しめる。
「別に、医務室のベッドを使ってもらったって構わないんだよ?」
「大丈夫だよ。迷惑はかけられないから」
この会話も何度目だろうか。
大抵はこの後、彼の家族のことや陸での何気ない日常など、時雨にとって拷問のようにすら感じる情報が溢れ始める。
「艦長さんがこんなところで油を売っていていいのかい?」
だから、今日は先手を打つ。
いつもならただ聞いているだけの時雨が、自発的に話しかけてきたことに一瞬意外そうな表情をした艦長は――
「艦が何も問題を抱えてなければ、私に仕事なんてないよ。乗員はみんな優秀だからね」
そう言って微笑んだ。
「だから、こうして艦内を見回る。日課みたいなもんだよ」
そのまま壁際まで歩き、スイッチを操作して格納庫のシャッターを解放した。
ゆっくりと入ってくる外の光が刺さるようで、目を細めてしまう。
そして、格納庫内にこもっていたエンジンオイルと航空機用燃料の匂いが一気に潮の香りと入れ替わっていく。
「そんなところにいても退屈だろう? 今日は天気もいい。嫌じゃなければ、海でも見てみないかね」
時雨にとって海に出ることは当たり前で、見慣れてしまったものだ。
それでも、なぜかその言葉に逆らえなかった。
海を見ていれば話す必要はなくなると感じたからかもしれない。
とにかくコンテナから降りると、艦長の後に続いて後部甲板へ出る。
まず出迎えたのは、梅雨時期だというのに雲ひとつない青空。
「今日は富士が見えるな」
そう言って艦長は右手の方向――はづきの左舷側を指差す。
水平線の向こうにそれが見えた。まだ雪の残る山頂が何もない空に突き出している。
「今、どのあたりなのかな」
「御前崎の沖合四十キロと言ったところだろうね」
それ以外は何もない、ただ広い海が広がっている。
世界がまるで、海だけになってしまったかのように。
こんな光景など見慣れているはずなのに、何かが違って見えた。
おそらく目線の位置が違うからだろう。
ただそれだけなのに、新鮮に見えた。
まるで子供のように周囲を見回す時雨の視界に、少し寂しそうな顔をした艦長の姿が入る。
「陸に上がってしまえば、もしかすると二度と見ることはできないかもしれないものだよ。今のうちに焼き付けておくといい」
深海棲艦が現れ、人が海を恐れるようになって十年以上。
今ではこんな光景を見られるのは命をかけて物資を輸送する船員か、それを守る護衛艦乗りだけだろう。
けれど、彼らにはこの景色を見ている余裕などあるはずがなかった。
隣に立っている艦長でさえ、艦の状態をその目で確認する作業をしているだけだ。海を見てなどいない。
だから、これはとても貴重ものだ。
「ありがとう」
感謝の言葉が自然に出てくる。
おそらくそれもまた、自分の心を痛めつけるものになるに違いない。
それでも、言わないわけにはいかなかった。
「どういたしまして。チェックにもう少し時間がかかるから、ゆっくり見ていてくれて構わないよ」
「うん。そうさせてもらうね」
波の音。
潮の香り。
海鳥の声。
時雨はそれに身を委ねることにした。
たとえ束の間でも、心が休まる瞬間だったから。
《2》
午前十時。
カチャリと、見た目通りの軽い音を立てて金属製のドアノブが回る。
極力音を立てないように、足柄はそっと基地司令執務室の札がかかったドアを開け、室内を覗き込んだ。
部屋の主は、梅雨時期だというのに窓もカーテンも閉め切ったまま、部屋の中央に置かれた応接用のソファの上に寝転がり、静かな寝息を立てていた。
資源不足の影響で電力使用の制限がかかっているのだから、当然エアコンは止まっている。
それでも眠れてしまうほどに疲れているようだった。
だからなのか、海上自衛隊の第三種夏服に身を包んでいるが、その制服が持っているはずの凛々しさなどどこにもない。
あちこちにシワも入り、ヨレヨレになったそれを着込んだ姿は、まるで残業明けのサラリーマンといった風情。
実際に足柄はそれを見たことはないが、時折届く雑誌や新聞などの記事から拾い集めた知識をフル活用して、そんな形容にたどり着いた。
おかげで、肩についた一佐の階級章もどこか色あせて見える。
「……まったく、もう」
小さな声で一人ごちてから、窓際へと音を立てずに向かう。
まず、厚手の青い遮光生地のカーテンを開け、外の光を迎え入れる。
窓越しに規模の小さな港が見え、そこには一隻の護衛艦が錨を下ろしていた。
先週帰港したばかりの、むらさめ型護衛艦あきさめ。
この横須賀第二基地に配備された唯一の護衛艦だ。
甲板では、乗員たちが補給や整備といった作業に走り回っているのが見える。
「こんな姿見せられないわね、まったく」
突如として差し込んだ光に、眉根を寄せて不満げな表情をしたまま、器用にもソファの上で寝返りを打つ部屋の主を見て、ため息をつく。
窓を開け放つと、ムッとするほどの潮の香りと、外構の舗装路面で温められた空気が部屋の中に入り込んできた。
ついでに、外の騒音もだ。
「……なんだよ。もう少し寝かせておいてくれよ」
ようやくここで部屋の主が不満の声を上げる。
「一応言うけど、もう十時よ?」
「帰ってきたの、六時だぞ……まだ四時間しかたってないじゃないか」
彼の立場上、もっと上の方からの呼び出しは頻繁だ。
そして呼び出されれば、出向かねばならない。
首都――東京にある海上幕僚監部の建物まで、だ。
横須賀第二基地は、その名に反して三浦半島の突端にある。
その任務は周辺海域の警戒。
そういえば聞こえはいいが、実際のところは敵に対して横須賀基地と首都が対応を整えるまでの時間を稼ぐ捨て駒でしかない。
他に作られた第二と名のつく基地も似たような役割だ。
「これでも気を使ったつもりなんだけど?」
起こすだけなら、ズカズカと入り込んで体を揺すればいい。
そもそも課業開始時刻から二時間以上も寝坊などさせておかない。
足柄の気性からして、本来であればそうしている。
だから嘘はない。
「文句なら、意味のない会議にあなたを呼び出す側に言うべきね」
「そりゃ、ごもっともだ」
「で、その会議はどうだったの?」
足柄は濃いめのお茶を入れながら問う。
本来であればコーヒーを出すところなのだろうが、輸送路がまともに機能していない以上、手に入るはずもない。
嗜好品の順位ははるかに下だ。
「時期はまだ未定だけど、また輸送船団を出すつもりだよ。今度はさらに規模がデカい」
「調子に乗ったのね」
ため息が出る。
「そこまで言ってやるなよ。この間のが見かけ上はうまく行ったんだし、仕方ないさ」
「……見かけ上は、でしょうが」
その裏で艦娘たちがどれだけ血を流しているのか。
実際、佐世保で秘書艦をしている金剛は、かなり危険なところにまで追い込まれたと聞いている。
「佐世保はなんて言ったの?」
「輸送船団に近づく敵艦影、機影はこれを一切認めず――だとさ。笑えるね」
足柄も思わず鼻で笑ってしまう。
実際には艦娘たちが先回りをかけて、すべてを排除した結果でしかない。
それに。
「そもそも、敵が輸送船団を狙ってたのか怪しいところなんだがね」
足柄が知る限り、敵の狙いは佐世保の戦力そのものだった節がある。
戦力投入のタイミング、編成、ルート。手に入る限りの情報すべてがそれを指し示していた。
「上の人たちはなにも?」
「作戦は大成功。前路哨戒が有効に機能して敵が手を出せなかった。そう言うことにしたいらしい」
さすがに一部の人間は気がついているだろう。
それでも話をそうしなければならない理由など限られてくる。
「政府の意向ってやつね」
「そう言うこと」
今までの輸送作戦自体も、物資を持ち帰ることはできているのだから、成功と言っても差し支えはない。
ただ、それに付随する被害が拡大の一途をたどっていることで、マスコミや国民からの突き上げが激しい。
その批判をかわすためには、見かけだけでも大成功というストーリーが必要ということだ。
「一応、忠告はしてきたんだけどね」
それは無駄に終わっただろう。本人も首を横に振っているのだから間違いない。
敵の襲来もなく、仕事といえばほぼ椅子に座って書類を承認していくだけの横須賀第二基地司令官とは、その程度の存在だ。
それゆえに、定年間近の幹部や中央に行く人材が箔をつけるためだけに、ここへやってくる。
唯一の例外が目の前でお茶をすすっているこの男だ。
いくつかの不幸な出来事が重なってしまったために空いた椅子を、とりあえず埋めるためだけに送られてきたのだから。
「飾り飾りって言うけど、一応提督なのよ? その意見を聞かないなんてね」
ただ、それでもだ。
誰もかれもがその椅子に座れるというわけではないだろう。
それなりの理由や実力があったからこそ、そこにいるはずなのだ。
たとえこの基地の司令官職が安楽椅子であったとしても。
そこに据えるためだけに、三十路を前に破格の地位へ昇進させられたとしても、だ。
「年功序列ってのはそう言うもん――で、その提督ってのはやめてほしいんだけどね。尻が落ち着かなくて困る」
「数は少なくても艦娘艦隊の司令官なんだから提督でいいの。そもそも、なんと呼ぼうがお前たちの勝手って最初に言ったのはあなたよ?」
「艦長経験もなしに艦隊司令なんてのがおかしい。第一、佐官だぞ、俺は。そもそも、ここに来る前にやってた砲雷長だって、人材不足のせいだって言うのに……」
乗務していた護衛艦の砲雷長が任務続行不能になってしまったがために、その場で最上級だった彼が臨時で指揮をとった。ただそれだけのことだと、何度も説明を受けている。
それでも、その護衛艦はその後の窮地を無事に切り抜けたし、正式に砲雷長として参加したその後の作戦においても生還を果たしている。
だから、彼自身にそれだけの才覚があったと言うことに違いはない。
そして何より、この国の中でも深海棲艦との戦闘経験が豊富な人間の一人だ。
その意見に耳を傾ける価値は充分にあるはずだと足柄は思う。
「まぁ、その話はいいや――それで。起こされたってことは、頼んでいたものが届いたってことでいいのかな?」
「ええ、前回の輸送作戦に関する金剛の戦闘詳報。写しだけどね」
そう言って、書類袋を手渡す。
取り出された紙束に紛れる形で、美しい文字が流れるように踊る封書も出てきた。
「鳳翔さんにまで危ない橋を渡らせて……」
それを見とがめて、足柄は愚痴をこぼす。
「仕方がないだろ。金剛には余計な目やら耳やらがくっついて歩いてるんだから」
一瞬、その言葉の通りの光景を想像してしまい、全身を寒いものが走ってしまう足柄だったが、もちろんそんなわけはない。
監視が厳しいということだ。
流れの中とはいえ、司令官に暴言を吐き、脅迫するような態度をとったのだから仕方のないことだ。
「鳳翔からのこれは礼状ってやつかな。艤装修復の資材提供に感謝します、とさ。機会があればお食事でも、だって。本当にマメな人なんだな」
「間宮が一流レストランの味なら、鳳翔さんのはまさにおふくろの味ね。期待していいわよ、それ」
「そいつは楽しみだ」
そう言って提督は微笑み、鳳翔からの手紙を丁寧に元の封筒へ戻してから戦闘詳報の写しに手をかけた。
「それ、別に佐世保のでっち上げのでも大体はわかるんじゃないの?」
たとえ作戦を立てたのが誰であろうと、沈めた敵の数に変わりはないし、敵の位置に変化があるわけでもない。
一番問題になるであろう、作戦の後半に至っては金剛から大体の経緯を聞いていたし、それは提督が想像していた通りだったのだ。
わざわざリスクを冒してまで、取り寄せる必要などあったのだろうか。
足柄が不思議に思っているのはそこだ。
「大体は、ね。ただ、現場がその時に何を考えたか、何を見たか。俺が必要なのはそっちなんだよ」
そう言った提督からは表情が消えていた。
この男がそういう顔をするのは、何か引っかかることがある時だ。
たった一年とはいえ、側で見てきたのだからそのくらいはわかる。
「一体、何を気にしてるのかしら?」
「敵の別働隊。太平洋を迂回してきたグループだよ」
輸送船団の位置を追撃隊に調べさせ、自分たちは太平洋側から攻撃に入ろうとしていた別働隊。その本当の意図は赤城隊の足止めと、赤城隊に引導を渡すべく迫っていた本隊への補給だろうと足柄は見ている。
金剛たち佐世保の艦娘もそう考えていたようだし、おそらく上層部もだ。
だが、この男は何か別なものを見つけ出そうとしていた。
「何か不審な点でも?」
「些細なことだけどね。タイミングを合わせて突入するだけなら、あの海域に足を踏み入れるのはもう少し遅い方がいいはずだ。それだけ発見されるリスクが減る」
確かにそのせいで鳳翔と瑞鶴の索敵網に引っかかり、奇襲を受ける羽目になっている。
あれがなければ、赤城隊は三個艦隊を相手にして、大きな損害を被ることになっていたのは間違いない。
「だからバシー海峡を哨戒していた艦娘が引き上げた後くらいに、あそこへ侵入するべきなんだよ。そうすれば邪魔は入らない」
提督は戦闘詳報の一部を指して説明を続ける。
「金剛はそれ以前に踏み込んで隠れられれば、と思っていたみたいなんだけど、実のところそれはリスクが大きすぎる。もし見つかれば、最悪それらすべてが戦闘に加入してしまうんだから。そうなったら本来考えていた作戦は達成率が相当に低くなる」
事実、金剛隊は敵を粉砕し、その意図を完全に挫いた。
「だから、それだけのリスクを冒す何かがあったと考えていいんじゃないかなってね」
「具体的には?」
「さてね。それを探すためにこれが欲しかった――赤城隊への攻撃は間違いなく計画の一つだろうと思うけど、同時に何か別のこともしていたんじゃないかなって、今はそんな気がするだけって所だね」
そう言って戦闘詳報に集中し始める提督。
足柄は再びお茶を淹れ、いつものように書類の整理に入る。
「しかし、今日はやけに静かじゃないか?」
提督がポツリと漏らす。
一瞬なんのことかと思う。
「この時間なら、駆逐艦の子たちが大騒ぎしながら外を走ってるだろ」
体力錬成というやつだ。足柄が艦娘たちに課した日課でもある。
何せ、横須賀はそれほど実戦の機会が多いわけでもない。有り余る体力をそう言う方向で消費させなければ、この基地内の平和が危うかった。
特に駆逐艦娘たちはやたらと活きがいい。
「ああ、そうだった」
そこで一つ連絡事項を思い出す。
「音響ブイのいくつかが稼働停止したの。提督は会議で不在だったけど、放置するわけにもいかないでしょ? それで、由良たちを修理に行かせたのよ」
その言葉を聞いた提督の顔から、再び表情が消えるのを足柄は確かに見た。
「このタイミングで、か?」
頻繁とは言わずとも、これまでも何度か起きた出来事だ。
けれど、提督はそれに何かを感じたらしい。
音響ブイの配置図と書類一式を持ってくるように言いつけられ、足柄は執務室を出る。
《3》
伊豆半島の沖合は雲ひとつない青空だった。
遮るもののない海の上、刺すような太陽の光がジリジリと肌を焼く。
さらに悪いことに、海面で反射したそれが下からも襲いかかる。
まるでオーブンの中にでもいるような気分だ。
いや、湿気を帯びた空気が体にまとわりついているのだから、もしかすると誰かが言っていた蒸気加熱式オーブンとかいうやつの方が的確かもしれない。
まだ六月だというのに、今からこれではこの先はどうなるのだと、要らぬ心配をしてしまう。
(やっぱり真っ黒になっちゃうよね)
穏やかな波に揺られる小型の遊漁船の上で、軽巡洋艦娘の由良はぼんやりとそんなことを考えていた。
「由良さん、何か考え事ですかー?」
後ろの方から呑気な声をかけてきたのは駆逐艦娘の村雨だ。
ちらりとそちらを見遣ると、村雨の着ている濃紺のセーラー服が目に入り、思わずうめき声が出そうになる。
いくら薄手の生地とはいえ、あの色でこの状況下では拷問器具のようなものだろう。
実際、村雨は胸当てを摘み上げてパタパタと風を送り込んでいた。
今度こそはため息が由良の口から漏れる。
自分が年頃の女の子の姿をしていることに自覚があるのだろうかと不安になったのだ。
村雨はタダでさえ女性らしさを主張する部分が大きいし、小柄な体格と相まってそれが余計に強調されている。
「ちょっと、村雨。暑いのはわかるけど、はしたない真似はしないの」
羨ましくもあり、妬ましくもある。由良はそんな個人的な感情を少しだけ込めて注意する。
「大丈夫ですよー。さすがに男の人がいる前ではやりませんって」
その存在自体が隠されている由良たち艦娘が接する男など、数は限られている。
せいぜいが基地内に居る関係者くらいなものだ。
その数少ない男たちも、由良たちの素性を知っているだけに、そういう対象としてではなく、畏怖の対象として見ている様だった。
たった一人を除いては。
「でもー、そもそも興味持ってきたの、提督くらいなんですけどねー」
(ああ、やっぱり)
由良は軽いめまいを覚える。
「提督が着任してから半月くらいの時に、それホンモノかって触られちゃいましたー。あはは」
能天気な村雨とは逆に、由良の表情はみるみるうちに怒りに染まる。
「それ、セクハラってやつじゃない! というか、もう犯罪行為!」
「指先でつつかれた程度ですってー」
「程度の問題じゃありません!」
勝手にヒートアップしていく由良。
敵艦隊への切り込み役でもある水雷戦隊旗艦として、駆逐艦娘たちをまとめる立場というせいもあるのか、気がつけばいつも保護者的な役回り。
外見的にはそれほど年齢差があるわけでもないのだが。
村雨はカラカラと屈託なく笑いながら――
「いやまぁ、そうなんですけどねー。艦娘見るの初めてだから、気になったんじゃないんですかねー」
などと、それほど気にした風でもない。
「そんな理屈が通るわけないでしょうに……」
呆れて頭をかかえる由良に向かって、右手の人差し指を立て、片目を瞑る村雨。
「だいじょーぶです。きっちり海軍式で根性叩き直しておきましたから」
ちょうどそのくらいの時期に提督の左頬が腫れ上がっていたのはそれが原因かと、由良は一年近くも経った今日になって、ようやく得心した。
しかしその割には、あまり改善していない気がする。むしろ味を占めたのではないかとさえ思える。
悪戯の種類は様々だが、提督が憤怒の形相をした艦娘の誰かしらに追いかけ回されている姿など、基地内では日常の一部だ。
だが、そんな日々が繰り返されていくうちに、由良の中にこびりついていた『自分たちは兵器』という考え方が希薄になっていた。
それに気がついたのはつい最近だ。
今の提督がやってくる前に比べて、他の艦娘たちにもそれぞれの個性が表れてくるようになっている。
語弊があるのかもしれないが、自分も含めて人間らしくなったと感じる。
それが良いか悪いか、今の所由良にはわからない。
ただ、昔より充実しているのは間違いないし、そんな仲間たちを見ることも嬉しいことなのだと知った。
けれど、方法のいくつかに問題があるせいで素直に感謝するわけにもいかず、悶々とするのだ。
「それで、何を考えてたんですかー?」
そんな由良の葛藤などどこ吹く風。村雨は何事もなかったかのように話を元に戻す。
気苦労の無意味さを知り、めまいを通り過ぎて、由良の頭は痛みを訴えている。
「……日焼けは嫌だなぁ、ってね」
こめかみを軽く揉み解しながら由良は答えた。
「あー、確かに……」
村雨が空を見上げる。
つられて、由良も同じように顔を持ち上げた。
雲のない空が遥か遠くまで青いままに続き、太陽は憎らしく思えるほどに輝いて、洋上を照らしている。
時折海鳥が空を舞うくらいで、他は何もない。
四十キロも沖合に来てしまえば、山々が遥か彼方に霞みながら頭を出すくらいで、他は水平線の向こうだ。
「今日はずっと晴れだそうですよ」
横合いから声がかかる。
由良が視線を向けた先で大事そうに工具箱を抱えているのは、駆逐艦娘の五月雨。
涼しげなノースリーブの白いセーラー服が目に眩しい。
「あら、梅雨は中休みなのね」
「あはは……私はお仕事してるんですけどね」
梅雨を雅な言葉に言い換えたのが『五月雨』だ。
頓知を聞かせた由良のからかいに、そんな名前をもらった五月雨が優雅さとは懸け離れた、疲れの滲む声を返す。
それもそのはず。
一日の大半をこんな小舟の上で過ごしていれば、誰であろうと疲労を感じる。たとえそれが、普通の人間に比べていくらか頑健な体を持つ艦娘であってもだ。
だから冗談を言ったり、どうでもいいことの一つくらい考えてみたくもなる。
「もうすぐで終わるから頑張ってね、五月雨ちゃん」
そう言いつつ操舵室から姿を現したのは工作艦娘の明石。
両手で大事そうに抱えているのは、白い円筒形をした音響探知ブイ――海中の音を拾って不審な移動物体を見つけるための装置だ。
人類はこれを沿海域に設置することで、数の少ない戦力の穴埋めを図っている。
一度洋上に投下されれば、あとは太陽光パネルで充電しながら、長期間に渡って自動的に監視を続け、内蔵されたモーターとスクリューによって、ある程度の海流であっても自分の位置を保持し続けることができるという。
「それ、直りました?」
「直すって言うか……請求できても手間賃くらいなもんよ」
つまらないといったふうに、明石は由良の問いに答える。
ゴトリと甲板に置いたブイは、四日前に正常動作を知らせる定時通信を絶ち、行方不明になっていた八基のうちの一つだ。
「質の悪い電池なんか使ったせいで、しなくてもいい苦労をさせられてるだけなのよねぇ」
明石の見立てでは、蓄電池が電力を異常放電してしまったせいで機能が停止。広い海を宛てもなく漂流することになったようだ。
だから電池の交換さえすれば問題はない。
が、肝心のブイ本体を探すのは骨が折れる。
救難信号でも出ているならまだしも、海流と風向を計算して漂流している範囲を予測しているだけなのだから、その精度などタカが知れている。
本来であれば、新しいものを設置し直してしまう方が手っ取り早いし、効率的なのだ。
だが、資源不足という重い枷はいたるところに影響を及ぼしている。
「あと、いくつ、あるんだっけ!? っと!」
村雨がそんな感じで勢いをつけ、最後の点検が終わったブイを海上に投下する。
「あと一つですね」
「うえぇ……」
屈託のない笑顔で即答する五月雨に対して、村雨はうんざりした顔だ。
それを見て苦笑いをしながら、由良が口を開く。
「夕張の方も、こっちも三つ目。頑張れば勝てるわよ?」
最初の一つを見つけ、電池の交換だけで修理作業が終わることが分かった時点で、もう一つの捜索隊を指揮している軽巡洋艦娘の夕張との競争が始まっていた。
そうでもしなければ、広い海域のどこにあるのかわからないものを探す気力など得られるわけもない。もちろん秘書艦の足柄から許可も得ている。
残り七基のうち、より多く見つけた方が勝ちという簡単なルールだが、向こうには勘の良い駆逐艦娘の夕立と、実直な春雨が一緒だ。由良たちの方が一人多いとは言え侮れない。
「欲しいものを買ってもらえるんですよね?」
そう言って由良を見る五月雨の目は真剣だ。
「うん。提督さんが外出した時に持って帰ってこれる程度のもので、あんまり高価なものはダメって条件付きだけど」
街に出ることができない艦娘にとって、そこでしか売られていない物は貴重だ。わずかばかりに入ってくる雑誌や新聞の情報を見て、想像を巡らし、ため息をつくくらいに。
「あ、私はさっき決めましたー」
「あら、何にするの?」
一番最後まで迷うだろうと思っていた村雨の声に、由良は少しだけ驚き、その選択に俄然興味がわいた。
五月雨と明石も、じっと村雨を見つめ答えを待っている。
「夕立が言ってた、日焼け止めっていうやつです」
「ああ……『これを塗れば日焼けしないっぽーい』って言ってたやつね」
声音を少しだけ変えた由良の声に、他の三人が噴き出す。
「そうそう、それです。っていうか由良さん、夕立の真似うますぎでしょ」
楚々とした印象を漂わせる由良と、そこから出てきたおよそ真逆とも言える性格の夕立の口調や声とのギャップに、村雨はついに腹を抱えて大笑いを始める。
「ありがと。でも、艦娘に効果あるのかしらね? 夕立のあの語尾だとなんか怪しく聞こえちゃって」
とは言うものの、由良自身は試してみる価値があると思っている。
何よりも、先ほど真っ黒に日焼けした自分の姿を想像してしまい、すがれるものには何でもすがろうという結論に至った。
「疑問系の『ぽい』じゃなかったので、大丈夫だと思いますよ?」
何とか笑いを収めながら、息も絶え絶えに五月雨が言う。
けれど、その関係者だけには理解できる衝撃的な一言に、他の三人が声を失くした。
「えーっと……五月雨には、あの語尾の違いがわかるんだ?」
しばしの沈黙の後、ようやく村雨が声を絞り出す。
「え? あの……わからないんですか?」
動揺した様子の五月雨。
「……普通、わからないと思うんだけど」
と、由良。
「私も夕立とは長いこと一緒だけど、わかんない……」
由良の問いかけるような視線を受けて、村雨はお手上げとばかりに両手を広げるジェスチャー付きで答える。
「私もわかんないなぁ」
最後の希望とばかりに、五月雨のすがるような視線を受けた明石も、申し訳なさそうに首を横に振る。
自分や明石はともかく、夕立とは姉妹艦でもある村雨にもわからないのであれば、それはもう五月雨だけが身につけた特殊能力のようなものだと、由良は結論づける。
「よし、五月雨ちゃん。今度から通訳ヨロシクね」
「はい、お仕事増えたー」
由良と村雨が五月雨をからかう。
「ええっ! なんでっ!? なんでみんなわからないんですか!?」
泣きそうな五月雨の抗議の声に、三人の笑い声がかぶる。
――と。
操舵室の方から、警報音が響く。
耳に残る甲高い電子音は何度聞いても慣れず、いつ聞いても嫌なものだ。
村雨と五月雨が、操舵室に駆け込む明石の背を見ながら息を飲む。
「ほら、ぼやっとしてないで準備して!」
言葉で二人の尻を叩き、由良も明石の後に続いて操舵室へ入る。
明石は幾つかの端末の画面に視線を走らせながら、キーボードを操作していく。
「音響ブイに反応が一つ。方位二六七、距離三十五キロ。針路は〇九七――こっちに向かって十五ノットで接近中」
後ろに立つ由良を見ることもなく、明石は目の前のデータを読み上げていく。
「敵ですか?」
音響ブイは衛星回線を通じて、陸上のデータベースと接続されている。
そこには敵である深海棲艦を含めた、様々な艦船の音紋データが記録されており、照合は瞬く間に行われる。
船が発する音には、人の指紋と同じようにそれぞれの特徴があるからだ。
たとえ合致する情報がなくても、比較的似た音を拾い出して推測することも可能だ。
それを踏まえた上での由良の問いに、明石は首を横に振る。
「ごめん、それはわからない。今は接続を切ってるの」
ああ、そうかと由良は思い出す。
自分たち艦娘がここにいるのだから、接続されているはずがないのだ。
万が一に敵に出くわして、出撃せざるを得なくなった艦娘の音紋など拾おうものなら、それを知らされていない人々は上へ下への大騒ぎになる。
おそらく大量の艦艇と航空機を繰り出して、それが何なのかを意地でも調べようとするだろう。
何せ、この国最大の人口密集地域が近いのだから。
だから今は明石が操る端末に送られてくるデータだけが、得られる情報のすべてになる。
「由良さん」
背後からかけられた声に振り向くと、背中に艤装と呼ばれる大戦期の軍艦の構造物を模した装備を背負った村雨が立っていた。
少し形は違うが、似たようなものをその両手に抱えている。由良の艤装だ。
それは艦娘という存在が、その能力を発揮するために不可欠なものだ。
身につけることで、海面に立ち、滑走し、武器を扱い――軍艦のように戦うことができた。そしてそれは深海棲艦に対して、人類の手の内にある唯一と言っていい対抗手段だ。
「なんか、その情報だけだと漁船かなーって感じですけど」
由良の準備を手伝いながら村雨が言う。
確かに与えられたデータだけなら、その可能性を考えるのが妥当だ。
十五ノットという速力や、陸地から四十キロほどという沿海域を移動していることがその推測の根拠になる。
けれど何よりも、それが単独で行動しているというのが理由としては一番大きい。
深海棲艦は複数での行動が基本だ。その理由はわからないが、所属艦隊が壊滅したとか、偵察任務の潜水艦という特殊な例を除けば、単独行動というのは一例も報告がない。
その最初の例が今だという可能性もないことはないが、それが相手の本拠地の近くというのはできの悪い冗談にも使えない。
こういった場合には大抵、後続の艦隊がある程度離れた位置に控えていたし、もしそれらがいれば別の手段で捕捉され、もっと前に警告が届いているはずだ。
一方、味方である海上自衛隊も深海棲艦に対しての攻撃に効果がほとんどないとわかってからは、単艦での行動を極力控えていたし、もし通過の予定があれば事前に通告がある。
たとえどちらかに急な任務の変更があった場合でも、それだけは抜かりなく行われるはずだ。
艦娘の存在は最重要機密なのだから。
だからこういった突発的な遭遇は、深海棲艦の出現以降、値を上げている魚介を獲ることで一攫千金を狙う無謀な漁船であることが多かった。
「でも、最近は燃料の供給もおぼつかないって、補給担当がぼやいてたけど」
明石の言う通りだ。
先日の輸送作戦が久々の大成功を収めたと大々的に報道していたくらいだから、備蓄量はかなり厳しいはずだ。
そんな状況下で出漁できるだけの燃料を確保するなど、ただの漁船にできることなのだろうか。
そこまで考えたところで、由良はコツンと自分の頭を叩く。
疑念は数限りなく浮かぶが、今はそれにかまけている場合ではない。
「とりあえずは静観。発見されたとしても時間的に余裕はあるはず」
相手が長大な射程を誇る戦艦だとしても、この距離では無視できる程度の砲撃精度にしかならない。
仮に相手が航空母艦であっても、この風で十五ノットの速力では発艦できるほどの合成風力を得ることもできないし、今から慌てて飛ばしたところで、単機で突入するわけではない。ある程度の数を集めて攻撃態勢に入るまではしばらくの時間が必要だ。
その間に由良たちは速やかに撤退し、あとは自衛隊機の出番。
相手が艦載機であれば、人類の兵器でも充分な効果が得られることは実証済みだ。
「もし護衛艦なら素直にブイの修理中ってことで通すね」
「敵だったら?」
「……言う必要ある?」
村雨の問いに、由良の目が妖しく輝く。
いくら人間らしい日常を送っているとはいえ、秘められている艦娘としての本能がなくなったわけではない。
「そうこなくっちゃねー」
村雨もそれを刺激されたのか、嬉々として操舵室を出て行く。
「なんか、張り切ってるなぁ……」
そんな後ろ姿を見ながら、ぽつりと明石がつぶやく。
当然、艦娘である以上、明石にも艤装はある。
だが、工作艦の役目は他の艦娘たちの破損した艤装の修理だ。自身の戦闘能力など艦載機や小型の船を追い払う程度。
だから、明石は戦うことに関してはあまり積極的ではない。
由良たちはそれを充分に理解していたし、それについて不満などあるわけもない。
それぞれに戦う場所が違うだけのことだ。
「実戦となれば久々ですからね。それにあの子たちも自分が役に立つことを実感したいんですよ」
「そういうものなのかしらねぇ」
「そういうものです。明石さんには面倒をかけてしまいますけど」
傷ついた仲間を戦える状態にして、再び戦場に送り出す。それは道義に反するような行為だ。
場合によっては送り出される側よりも精神的に堪えることもあるだろう。
それを表に出すこともなく、ただ一人でそんな戦場に立つ明石は充分に強い。どんな巨砲でも魚雷でも叶わぬほどに。
由良も、他の艦娘たちもそれを知っている。だからこそ明石を信頼し、尊敬している。
「面倒ついでに、もう一つお願いしてもいいですか?」
「うん?」
「夕張たちにも今のプランを伝えて、待機させてください。私は二人と打ち合わせてきます」
「了解。あんまり無茶しちゃダメよ?」
操舵室を後にする由良の背に、明石の言葉が投げかけられる。
由良は少しだけ顔を横に向け、口元に笑みを浮かべながら軽く頷いてみせた。
《4》
提督の執務机に大きな海図が広げられていた。
相模灘を中心としたそれには、百数十に及ぶ緑色の印がつけられている。
それが、この海域に配置された音響ブイの位置を示すものだ。
「足柄、トラブルを起こしたブイはどれだ?」
そう促され、足柄は手元の書類と海図を見比べながら、鉛筆で印を書き込んでいく。
「報告があったのはこの八基ね。ご覧の通りバラけてるし、何かの意図があるようには思えないけど?」
どこか一箇所に集中しているわけでも、隣り合って並んでいるわけでもないそれを示し、提督の懸念が無駄なものだと説明する。
けれど提督の顔からは不信が消えることはない。
「明石の見立てはバッテリーの消耗だったか?」
「ええ、そうよ。実際、交換したら元通り」
「すまないが、ブイの製造ロット一覧を貸してくれ」
設置されたブイの製造番号や製造時期、設置された日時などは、そのすべてが記録されていた。もちろんそれは消耗品である電池に関してもだ。
何か製造上のトラブルが起きれば、同じロットのものには同様のそれが起きる可能性があるからだ。記録しておけば対応が効率化できる。
提督は足柄から手渡されたリストと、トラブルを起こしたブイとを突き合わせてチェックしていく。
「それから、ブイの停止が確認された時刻を海図に書き込んでくれるか?」
「はいはい」
実際に稼働が停止した時間と、データとしてこちらが把握した時間とでは時間差ができる。
二時間ごとに行われる稼働状態の報告が行われなかったことが、今回のトラブルの発覚に繋がったのだから。
それで一体何がわかるのだろうかと思いながらも、指示に従う。
「ロットが違うものが四基混じってるな」
「そのくらいならあり得るんじゃないの?」
「比較的近いロットならそうも言えるんだけどね」
そう言って提督が指し示したデータを見て、足柄もハッとする。
四基すべてのロットが違う。
これを偶然と呼んでいいのだろうか。
迷いを見せる足柄に、提督はさらなる事実を突きつけてきた。
「この時期、この辺りの海流はこうなっているはずなんだ」
もともと護衛艦乗りであり、横須賀に長く勤務していた提督によって矢印が書き加えられていく。
伊豆から相模灘に向かって進み、大島を迂回するように流れ、房総半島へと抜けていくそれは、トラブルを起こした音響ブイの位置とほぼ重なった。
「これって……」
海流の流れと、稼動を停止したブイの時系列も一致していた。
「敵潜が警戒網の内側に浸透してる可能性がある――深海棲艦の障壁と接触すると、電子機器が異常を起こすらしい。具体的に何がとか、どうしてかと聞かれても困るけど。でも、わからないだけに、電力の異常な消費ってのもあり得る話だろ」
「ちょっと待って。どうやって侵入できるのよ? 外側のブイは生きてるのよ?」
足柄が指摘する通り、何重にも形成された警戒網の外縁部に異常はない。
その海域の海流は陸から大きく離れていく方向に流れているのだから、無音潜航で侵入することなど不可能だ。
だから、侵入するにはどうしても自力で航行するしかない。
そうすれば外縁部のブイに探知されるはずだし、それを防ぐためにはブイの機能を停止させる必要がある。
しかし、現実にはそれが起きていないのだから、提督の言う可能性は成り立たないはずだ。
それこそ、いきなり海の中にでも現れない限りは。
「足柄。大事なことを忘れてるよ」
提督がそんな足柄の考えを見透かしたように言う。
「大事なこと?」
「二週間前に、この航路を大船団が通過してるんだよ」
その言葉で、足柄はまるで雷にでも打たれたような気分になる。
大きな被害もなく、無事に母港へと向かう大船団。意識していたとしても、どこかに必ず気の緩みはある。
そんな大船団の真下に、まるでコバンザメのように潜水艦が張り付いていたとして、誰が気付くと言うのか。
音響ブイにしても、スクリューの音や多少の雑音など、直上の船団が発するそれに紛れてしまえば判別などできるはずもない。
「輸送船団を通したのはそう言うことってわけ」
ギリっと足柄の奥歯が嫌な音を立てる。
「それだけじゃない。その前の輸送船団の大被害も、対抗して前路哨戒が強化されることも――その上で何も起きなければ、こちらの警戒心が緩むことも全部計算に入れてる」
提督の顔がみるみるうちに、苦虫の連合艦隊をかみつぶしたような渋いものへと変わっていく。
度重なる輸送船団の被害対策に、艦娘による前路哨戒の強化を上申したのは提督だ。
何度にもわたる説得の結果、ようやく通った計画を逆手に取られた格好なのだから、胸のうちは相当に複雑なはずだ。
「どこからついてきたのかしら」
「南西諸島海域……屋久島あたりか。艦娘の哨戒と音響ブイでの監視とが切り替わるのはその辺りだ」
比較的安価に生産できる音響ブイだが、長大な海岸線のすべてを一度にカバーすることは、現在の資源状況では困難だった。
順次増設されていくことは決定されていたが、必然的に要所を狙っての配置となる。特に大小様々な島で構成される南西諸島海域ではなおさらのことだ。
その穴を埋めているのが、多数の艦娘を擁する佐世保第二基地。
だが、彼女たちとて輸送作戦に駆り出されたのだから、どこかに必ず穴は開く。
「それに、この潜水艦隊を連れてきたのは例の別働隊だ。そう考えれば、あの時間帯にバシー海峡へ接近していた理由にも説明がつく。潜水艦隊を分離したあとは、本来の作戦に加入して赤城隊を粉砕する」
そうか、と足柄も納得する。
船団が近付いてからでは遅すぎるのだ。そうなってしまえば、艦娘たちが海域の哨戒と掃討を始めてしまう。
「もしその前に別働隊そのものが見つかっても、戦闘中の騒音に紛れて離脱すればいい……今回みたいにね」
戦力の不足のため僅かばかりにできる隙。そこへ潜水艦部隊を展開し、潜ませる必要があった。
「けど、その辺の手口は後回し。まずは敵の意図を探る方が先だ」
「情報収集じゃないの?」
敵の動きを知るには、できる限り早い段階から情報を獲得するのが一番だ。そして、それをやるのであれば相手の根拠地に近い方がいい。
今の状況はまさにそれだし、潜水艦はその手の任務に長けている。
「普通に考えるとそうだ。けど、洋上を航行する何かがいたとして、それを壊すようなヘマをするか? 情報を集めるなら、できる限り長期間存在がバレない方が好都合だろ」
提督の言う通りだ。
自分の位置を保つために、自分で移動できる能力を持つブイなのだから、必ず音が出る。
気がつかないわけがないだろう。
それがなんなのかは知らなくても、隠密行動を旨とする情報収集任務の最中に、自分の存在を知らせるような行動をするはずがない。
「じゃあ、次の船団を狙うとか?」
「確かに目鼻の先で船団が大打撃を受ける様は、政治的に効果があるだろうね……でもこちらが護衛船団方式をとってる以上、次を待つのは無理がある。向こうの潜水艦がどう言う理屈で動いているのかは知らないが、何がしかの消耗資材はあるだろう? それにブイの破壊はやっぱり余計だ」
数の少ない護衛艦の戦力を有効に活用するには、ある程度の輸送船を揃え、船団を仕立てる方が効率的だ。それには相応の準備期間が必要だったし、そのせいで船団が常にいると言うわけではなかった。
だからこそ、いつ通るかわからないそれを待つと言うのは賭けに近い。
下手をすれば、それらが通る前に自分が燃料切れなどと言う、冗談のような結果さえ起こりかねない。
二度目がない作戦を計画するならば、そういった不確定要素はまず最初に排除される。
「ああ、もう! 私にわかるわけがないじゃない!」
ひねり出す想定が次々に否定され、足柄はついに匙を投げる。そもそも考える仕事は向いていないのだ。
それを理由に何度も秘書艦を降りたいと告げているのだが、提督はそれを一向に受け入れてはくれなかった。
「いいから、思いついたことはなんでも言ってくれ。一人で追求できる可能性には限りがあるんだよ」
「そんなこと言ったって……でも、考えてみたら攻撃が目的なのかしらね。由良たちの特務艇は無事なわけだし」
ブイの移動よりもはるかに騒々しい音を撒き散らしているはずの特務艇には何も起きていない。
移動速度が早く狙いがつけづらいと言う理由もあるかもしれない。
ブイを回収するために停船した位置も、潜んでいる場所から離れていれば手は出せないだろう。
「特務艇に手を出さない……けど、ブイにはダメージを与えた……」
提督はぶつぶつと呟きながら、海図をじっと見つめる。
「でもなあ。やっぱり、停船した時が唯一の狙い目かしら。あの程度の船なら魚雷で木っ端微塵、敵発見の報告を入れる間もないはず」
何気なく放たれた足柄の言葉。
だが、提督は掴みかからんばかりの勢いで詰め寄る。
「足柄、今なんて言った?」
「あの程度の船なら魚雷で木っ端――」
「違う、その後だよ」
「ちょっと、何よ……近すぎ……」
あまりに接近してくる顔に、余計な感情が芽生えてしまいそうになる足柄だが、提督にはそれを構う気などないようだ。
「いいから、さっきのをもう一度だ」
「えぇと、確か――敵発見の報告を入れる間もない、よ」
上気した顔の足柄を放置して、提督は再び海図に向き合う。
そして伊豆沖を指差し――
「この海域を航行する予定の船はあるか? 官民問わず、大きなやつだ」
「……朝の時点では何も聞いてない。聞いてたら由良たちに帰投命令を出してるもの」
「なら、まだ間に合う――即応隊は?」
横須賀第二には軽巡阿武隈を長にした、もう一個の水雷戦隊が残されている。もちろん即応隊の名称の通り、緊急時に備えた待機部隊だ。
「艦娘だけなら五分で出られるわよ」
「いや、あきさめに緊急出港準備を。阿武隈をここに呼んでくれ」
了解の声もそこそこに、足柄は執務室を飛び出した。
《5》
『艦長、戦闘指揮所。至急お越しください』
時雨の心の休息は、スピーカーからのそんな音声で終わりを告げた。
艦尾にはためく自衛艦旗を見ながら、そろそろ交換時期かなどとぼやいていた艦長もその声に即座に反応して、艦内へと駆け出す。
「すまないが、海を見る時間は終わりだ。戦闘にでもなったら大変だからね」
「わかったよ。格納庫の扉はどうするんだい?」
「操作盤のスイッチを操作すれば――と言ってもわからないか」
自分の頭を軽く叩いて、艦長は自分で操作に向かう。
時雨が飛び込むと、シャッターはすぐに降り始め、再び薄暗い空間に戻ってしまった。
「私はいかなきゃならんが――」
「うん。僕はまたあそこにいるさ」
そう言ってコンテナを指差す。
だが、艦長は首を横に振る。
「戦術運動をすれば艦が大きく傾く。一応固定はしっかりしているつもりだが、万が一コンテナが動いたら危険だ」
「大丈夫だよ。それにそんな状況になれば、僕が艦内にいても邪魔になるだろうしね」
「それはそうなんだが……」
艦長は何やら考え込む。
「呼び出されてるんだから、早く行かないとまずいんじゃないのかな?」
戦闘指揮所からの呼び出しということは、それなりの事態の可能性があるということでもある。
こんなところで何かを考え込んでいる余裕などないはずだ。
「一緒に来なさい」
「どこへだい?」
「邪魔にならず、安全な場所だよ」
艦長はそう言って、時雨の手を掴み駆け出す。
制止する暇も、抗議をする余裕もなかった。
…………
……
分厚い扉を開けると、そこは薄暗い部屋。
いくつかのモニターが刻一刻と移り変わる状況を表示し、何人もの隊員がそれを見つめながら、手元の端末を操作していく。
ここが護衛艦はづきの頭脳、戦闘指揮所だ。
部外者どころか、乗員ですら許可がなければ立ち入れない場所でもある。
そこに時雨は連れ込まれてしまった。
他の乗員が制止するが、艦長がただ一言。
「見たところで理解できなければ、隠す意味なんかないんだよ」
まさか、座学で基本的な知識を学んでいると言うわけにもいかず、時雨は抵抗することを諦めた。
「それで、状況は?」
自分の席に腰を落ち着けた艦長は即座に問いかける。
「二十四キロ先に所属不明の船舶二隻。停船しているようです」
「こちらからの呼びかけには応答がありません」
電測員と通信員が状況を伝えてくる。
艦長はその間に時雨を隣の席に座らせようとするが、それだけはと固辞し、隣に立った。
「――漁船かと思われますが」
そんな時雨に一瞬だけ視線を向けてから、副長が自分の憶測を艦長に伝える。
だが艦長はそれを苦笑いで受け止めた。
「副長。お前はもう少し世間の情報を仕入れる努力をした方がいいな」
「は?」
艦長の言葉を今ひとつ理解できなかった様子で、副長が間の抜けた声を出す。
(護衛艦ですら燃料の確保に不自由しているのに、民間の船にそれができるわけがないじゃないか……)
その話は何も高い地位にいる人間や、時雨のように情報に携わる人間でなければ聞こえないと言うような代物ではない。
少なくとも、ラジオのニュースでも聞いていれば手に入るような、ごくありふれた話だ。
そう言った簡単に手に入る情報の中には、国民を統制するための欺瞞情報も混じっているだろう。
でも、それはこの話には関係がない。
それが本当に燃料不足のためなのか、それとも国が何らかの意図で隠しているからか。
どちらであろうと、そんなものは結論に関係がない。まったく別の話だ。
燃料が一般に出回っていないという事実には変わりがないのだから。
(たとえラジオを聴けなくても、輸送作戦の頻度や獲得資源量は大体でもわかる立場にいるんだし、現状はわかりそうなものなんだけど)
気づかれぬようにそっとため息を吐いて、副長を見る。
「そもそも、この海域は音響ブイが設置されている海域だ、と、なればあの船の所属と目的も絞られると思う」
「……通信、護衛艦用の周波数で再度呼び出しを」
艦長の言葉でようやく察した副長が、新たな指示を出す。
モニターのひとつの光を浴びたその顔がはっきりと見え、時雨は面食らう。
若かった。
二十代後半から三十代前半といったところだろう。
とにかく、この立場に付くにはあまりにも若い。
「副長、今は間違えることで学んでいけ。自分の艦で間違いを犯さないためにな」
「はっ!」
一礼すると、副長は通信員の席に歩み寄り、やり取りを始める。
その背中を不安げに見つめる時雨に、艦長が言葉をかける。
「彼は艦長になるんだよ、きよづきっていう艦のね。今はその勉強中というわけだ」
護衛艦きよづき。
はづきと同型の護衛艦だ。
一年も前に、艦長以下の指揮要員を含む乗員半数以上を喪う大損害を受け、それからはずっとドックの中だ。
資源が限られている現状では、修理が進むわけもない。
さすがにそのままでは残った乗員の技量維持もままならないということで、他の艦へ分乗し、任務についていた。
それが時雨の知っている情報だ。
もちろん口に出すことはしないが。
「副長はまだ若い、艦長をやるにはもう少し経験が必要なんだがな……」
艦長もまたその若い指揮官候補の背を見つめて呟く。
「それを待てるような状況でもないんでしょう?」
黙って頷く艦長。
「定年間近の私まで現場に引っ張り出すんだ。いよいよ――かもしれんな」
ポツリと呟いた艦長の声はとても小さく、おそらくは誰にも聞かせたくないものだったのかもしれない。
だが、艦長が思わずそう漏らしてしまうほどに、人員の損耗が激しいのだ。
際限なく現れる敵に対して、有効な打撃すら与えられないのだから、それは当たり前と言えた。
次代の指揮要員となるべき人材は戦闘で次々と失われ、その過程を見続けることで、現在の要員もまた、心を壊され現場を去っていく。
――深海棲艦は人を喰う。
幾度かの戦いの後に流れた噂は事実だ。
その現場を時雨自身、何度も目撃している。
沈みゆく船から逃れ波間を漂う乗組員を、敵はその巨大な口で次々と攫っていくのだ。
あるものは鋼鉄の顎門に噛み砕かれ、あるものは丸呑みに飲み込まれ――だが、深海棲艦がなぜそうするのか、まだ誰にもわからない。
何にせよ、そんな光景を何度も見せられ、耐えられるほどに、人の心は強くない。
もしかすると、それも敵の狙いなのかもしれないと、時雨は思っている。
「艦長、返答です。横須賀第二所属と言っていますが」
こちらに繋げと手で軽く合図して、艦長は手元のマイクを引き寄せる。
「こちらは横須賀基地所属、護衛艦はづき艦長」
『横須賀第二基地所属、特務艇二号です……とは言っても小型漁船を改装して工具を搭載しただけの代物ですが』
スピーカーを通して流れてきた声が若い女性のものであることに、指揮所内が少しだけざわつく。
横須賀第二はこの周辺海域の防備のために作られた基地で、監視機器の保守管理専門部隊が配置されているというのが、表向きに公開されている情報だ。
前線に出ることのない比較的安全な後方部隊だが、海の上に出てしまえばその限りではない。
艦長にも基地司令にも当たり前に女性がいる世の中ではあるし、それはもはや一般的なこととして浸透してはいたが、それでもやはり若い女性を危険な場所に送り込むことには、本能的な部分で抵抗があるのだろう。
だが、もし艦娘が一般的に認知され戦いの場に身を置いていることを知った時にも、彼らは同じ反応をするのだろうか。
時雨はそんなことを思い、次の瞬間には頭を軽く左右に振る。
これは、随分と意地の悪い問いかけだ。
「状況を見るに、音響ブイの修理かね?」
『その通りです。当船の半径十キロ以内を、もう一基漂流中と思われます』
「それはまた大変だな」
捜索範囲は広大だ。何の目印もないままに、小型のブイを探すのは相当に骨の折れる作業だろう。
だが、それだけの苦労をしてでも維持しなければならないほどに重要なものだ。
この先、相模灘を抜ければすぐに浦賀水道だ。万が一にでも東京湾に侵入されてしまえば、この国の中枢に砲弾の雨が降りそそぐことになる。
『いえ、これが任務ですから。そこで、大変申し訳ないのですが、はづきには十五キロ程沿岸よりを航行していただきたいのです――万が一接触してしまうと、ブイが破損してしまう可能性がありますので』
そうなってしまえば、当然ブイは新しいものと交換だ。
始末書を書かされた上に、しばらく嫌味を言われることになる。
おそらくは指揮所の誰もがそれを想像したのだろう。何とも居心地の悪い顔をして、艦長を見ていた。
「こちらでも探すことはできるが?」
その視線を苦笑いで受け止め、艦長は決して不可能ではないそれを提案する。
水上レーダーの感度を調整すればいいのだから、それほど難しいことでもない。
『いえ、お気持ちだけで。そちらのような大型艦が何かをしていれば、敵も気になって仕方がなくなるでしょうから』
艦長が感心したように目を細めてため息を一つ付いた。そっとマイクを塞いでから、時雨に向かって呟く。
「若い割に冷静な判断ができる。彼女はいい指揮官になるぞ」
「そうだね」
彼女の正体を知っている時雨にとっては、それは意外でも何でもない。
声の主は軽巡洋艦娘の由良。駆逐艦娘を率いて敵艦隊の中へと突入していく、切り込み部隊の長だ。必要であれば、部下に自滅覚悟の命令を出すことさえ厭わない。
それが水雷戦隊旗艦というものだ。
『それに、僚船とどちらが先に見つけるか競争をしております』
だが、スピーカーから聞こえてきた声は、軽やかに、弾むように、冗談を言ってクスクスと笑っていた。
時雨はそれに何とも言えない違和感を覚えた。
「なるほど。勝負に水を差すのは無粋だな。了解した、進路を変更して邪魔にならないように通過させてもらう」
『ありがとうございます』
「そうだ――後でどっちが勝ったか教えてくれ。勝者には何か進呈しよう」
『わかりました、楽しみにしております。それでは』
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
何とかボロを出さずに済んだと、由良は胸をなでおろした。
横では、明石が珍しいものを見るような目で由良を見ている。
「明石さん?」
「……いや、よくもまぁ、あんなに淀みなくやれるなぁ、ってね」
「別に嘘を言ってるわけじゃないですよ。事実を言うのにためらう必要なんてないですし」
確かに由良は嘘を言っていない。
幾つかの情報を抜いただけで、あとは本当のことを伝えたのだから、問題になることもないだろう。
「うん、まぁ、そうなんだけど……」
釈然としない顔で明石は何かをつぶやいている。
戦闘が本来の仕事とはいえ、それだって敵との駆け引きの上に成り立つものだ。
相手の考えを読み、欺瞞し、有利な状況を作り出す。
実際に砲火を交えるのはそれから。
だから、駆け引きは部下を率いて戦う立場になれば必要とされる技能だ。
「……ねぇ、由良。これ、なんだと思う?」
先ほど投下したブイの動作確認のために端末を見ていた明石が、画面上の小さな点を指し示す。
それは由良が視線を向けた瞬間に消え、また現れた。
注視していると、はづきの左舷側、一五〇〇メートル程のところで不定期に明滅を繰り返す。
「これだけじゃ、なんとも」
音響ブイから得られるのは、そこで何か音がしているという事実だけだ。
データベースから切り離された状態では、明石の端末に記録されているわずかなデータとの照合しかできない。
具体的に言えば、それが船であるかどうかがわかる程度だ。
それが何の答えも提示しない。
「音が聴ければわかるかも、ですけど」
由良のその言葉を受けて、明石は端末を操作する。
圧縮されて送られてくるデータを展開、音声に変換してスピーカーから流す。
ノイズに紛れて、水が流れるような音と鈍い金属音がかすかに聞こえ――
その後に続いた音に由良が反応する。
「はづき! 左舷一五〇〇に突発音! 感六! 魚雷!」
『くそっ! こちらでも確認した! 両舷前進一杯、取舵!』
画面上ではづきが大きく左に進路を変えていく。
魚雷に正対し、その間を抜ける教科書通りの操艦だ。
現代の魚雷と違い、自動追尾式ではない敵の魚雷に対抗するにはこれが最善の策だ。
「雷速四十六ノットに到達! 急いで!」
発射された魚雷は、はづきの回避運動を予測してそれを覆うよう扇型を作って接近している。
艦尾方向への二発と艦首への一発はすでに軸線を外れているが、艦中央部へ向かう三発はまだ命中コースに乗っていた。
あと三十秒ほどで最悪の事態になる。
『左舷後進一杯! 右舷そのまま!』
はづきは左右の推進力を変えて、強引に艦の進む方向を捻じ曲げる。
画面を通して見ていることしかできないのがもどかしい。
それは由良だけではなく、横にいる明石も、いつの間にか後ろに来ていた村雨と五月雨も同じだろう。
それぞれが祈るような気持ちで画面を注視している。
『艦中央部に接近中の魚雷、速力低下!』
祈りが通じたのか、無線越しに聞こえてくる声が魚雷のトラブルを告げている。
『艦首へ接近中の魚雷、軸線を外れます!』
残るは艦尾へと向かう一発だ。それさえかわせば、あとはなんとでもなる。
『総員、衝撃に備え!』
はづき艦長の声が、その望みが薄いのだと告げる。
画面上で二つの光点が重なった。
無線からはノイズだけが流れ、沈黙する。
少しの間をおいて、スピーカーから流れた鈍い音が最悪の結末を知らせてきた。
《6》
金属のひしゃげる音と、わずかな振動。
はづきを襲ったのはそれだけ。予想していたような破壊的な爆発も、艦体を引き裂く断末魔の叫びもなかった。
けれど戦闘指揮所の誰も、自分が生きているという実感は持てなかったはずだ。
おそらくは、何も感じることなく一瞬にして別の世界の入り口に送られたのだと、そう思っている。
だから、静寂が支配していた。
全ての明かりが消え、闇に包まれたそこで耳につくのは自分の呼吸の音。
一つ、二つとそれをするうちに、非常用の電源が立ち上がり、室内を明かりが満たす。
ついで目の前のディスプレイや端末が息を吹き返し、様々なデータを表示していく。
「各部の損害を把握! 応急班は即応待機!」
我に返った艦長の命令に、要員たちがそれぞれの端末に飛びつき職務を再開する。
自分たちの幸運を噛み締めるのは後だ。
端末から読み取られたデータや、甲板に上がった乗員たちからの報告が矢継ぎ早に入ってくる。
それが蓄積されていくごとに、噛み締めるべき幸運がまやかしに過ぎないものだと時雨は知った。
「吹っ飛んでいた方が、よほど気楽だったかもな……」
艦長の口から出た言葉に、副長も頷く。
高速で艦尾へと向かい、躱しきれなかった魚雷は不発。
それが磁気信管か触発信管かはわからないが、とにかく何らかのトラブルで爆発しなかった。
その代わりにスクリューを二軸とももぎ取っていた。
機関は生きているが、衝撃か何かのせいで不具合が起き、電力の供給が止まっている。その影響でレーダーや通信機器どころか、兵装のほとんどが使用不能。
はづき自体はそれほど旧い艦ではなかったが、それでも度重なる輸送作戦への参加や資材の不足で整備が滞っているはずだ。ちょっとしたことで、どこかに不具合が起きてもおかしくはない。
要するに、今のはづきは惰性で進むだけの、海に浮かぶ鉄の塊に過ぎない。
逃げることも、戦うこともできない。
魚雷を放った相手にとっては、いかようにでも料理できる獲物が目の前に浮かんでいる格好だ。
この先にあるのは最悪の結末だけ。
「電力の回復を急げ。通信を最優先、続いて火器管制だ」
それでも、艦長にはそれをただ座して待つつもりはないらしい。
通信が回復すれば救援を呼べるし、武器が使用できればそれを待つ時間くらいは稼ぐことができるかもしれない。
たとえ救援が間に合わなくとも、敵に一矢くらいは報いたい。そう考えている様だ。
「手隙の者は全員甲板に出て周囲を警戒。五〇口径にも人をつけろ」
そのためにはまず、周囲の状況を把握して、あわよくば敵を見つけること。電子の目が頼りにならない以上、人間の目を使うしかない。
「こんなところに敵が潜んでいるとはな……」
「ブイの回収と修理の真っ最中ですから。少数なら容易に侵入できるでしょう」
「だろうな。上層部ご自慢の防衛網に意外な弱点か」
艦長と副長がそんな会話をしている。
「ここは護衛艦や輸送船が必ず通る。待ち伏せには最適だしな」
だが、時雨にはそう思うことができなかった。根拠を問われても提示できないほどの漠然としたものではあったが、違和感だけは確実に存在している。
ふと視線を上げて未だディスプレイに表示されている、魚雷のコースや特務艇の位置をじっと見つめる。
「どうした?」
その様子が目に入ったのか、艦長が問いかけてくる。
「……変だ」
「何がだ?」
「単に攻撃が目的なら、特務艇を見逃す理由がない」
時雨の呟きに、艦長と副長が互いの顔を見合わせる。
「特務艇は小さな船だよ。吃水――海の下にある部分も浅いから、魚雷での攻撃には向かないんだ。船の下を通り過ぎてしまう」
副長が至極まっとうな説明を、おそらくは一般人にもわかりやすくしたつもりでしてくれる。
それは確かに正しい。調整できる深度にも限界はある。
けれど。
「魚雷の信管は触発だけじゃない。磁気感知型もあるし、小型船なら時限信管を使って近くで炸裂させるだけでも致命的な一撃にできるよ」
妙に専門的な言葉が出てきたことで、艦長と副長の表情が複雑なものに変わっていく。
「たとえそうでも特務艇は足が早い。魚雷の回避は――」
「追いかけ回す必要なんてないじゃないか。漂流しているブイの近くにいれば、獲物が向こうから近寄ってきて、そこで勝手に止まってくれる」
副長の反論を最後まで聞くことなく、時雨はそれを否定する。
さすがの副長もその態度に鼻白む。
「じゃあ、なんだっていうんだ?」
きつい口調で時雨の真意を正そうとする。
しかし、それに明確な答えを提示できるわけではない。答えを得るにはまだ情報が不足していた。
これ以上は邪魔になるからと、時雨を戦闘指揮所から出すよう抗議する副長を艦長が押しとどめている。
その間も、時雨は不足する情報を獲得するためにディスプレイを見続ける。
そのうちの一つ。敵からの攻撃と回避という、一連の動きを繰り返し表示するディスプレイが目に止まる。
艦中央部に向かった一発と、最初に躱した艦尾への一発。その航跡に乱れがあった。
それを何度も目で追う内に、もやの向こうにあった一つの答えが見えてくる。
「……魚雷は炸薬量を減らしていた」
乱れている魚雷の航跡を指でなぞり、時雨はそれを指摘する。
海中を高速で進む魚雷は、そのバランスが重要だ。
偏りがあると、水流の影響で大きく進路を乱して迷走することがある。
それを防ぐために、訓練用の魚雷には炸薬と同じ重さになるように水を入れたり、コンクリートのバラストを入れて調整するのだ。
「調整が甘かったせいで、バランスを崩して迷走したり、不発を起こしたんだ」
「魚雷の件に関してはそれで理解できる。しかし、それをする理由がわからないな」
そういう艦長の目をまっすぐに見つめ、時雨はさらに推論を述べていく。
「たぶん、敵にとって誤算だったのは、修理に来たのが特務艇だったってこと。特務艇の乗員はどんなに多くても十人に満たない。炸薬量を調整してこれを攻撃、航行不能に追い込んだとしても、救援はヘリコプターで充分――でも、これが護衛艦だったら?」
護衛艦の乗員は二〇〇人を超える。それを救助するには、当然何度も往復する必要が出てくる。作業空域も限定されているのだから、大量のヘリを派遣してもさほど能率が上がるわけでもない。
釣り上げと、後部デッキへ着艦しての移乗を同時に進めたとしても数時間は必要だ。
もちろん、その間にも敵潜はそこに存在し、いつでも攻撃が可能という条件下。そんな猶予があるはずもない。
ならば、行動はたった一つ。
「横須賀から別の護衛艦を呼ぶ……」
副長の呟きに時雨が頷き、さらに最悪のシナリオを続けていく。
「その航路に他の潜水艦を潜ませておけば、救援のために出てきた護衛艦隊を叩けるんだ」
指揮所の全員がその最悪のシナリオを思い浮かべたのだろう。
ゴクリと誰かが唾を飲んだ音がした。
「レーダーやソナーを使って敵を先に見つけて回避することで、船団を守るのが護衛艦の仕事。敵が航空機を使っても、それだけが相手ならば護衛艦の兵装も有効に機能する。直接的な脅威ではなくても目障りな存在――確かに私なら最優先の破壊目標にするな」
艦長が納得したように呟いた。
続けてもう一つの可能性も提示してくる。
「それに、たとえ壊滅できなくても、首都の近くで護衛艦を喪失するような戦闘が起きれば、それだけで国全体が動揺する。戦闘が起きたというだけでも、護衛艦隊は上層部によって首都防衛にかき集められて、輸送路の維持は難しくなる」
「そういうことだね」
戦闘指揮所内の空気が一層重くなる。
自分たちの命の問題ではなく、国全体が大きな危機に陥ったのだから。
「待ってください。一隻や二隻なら音響ブイの監視を抜けて侵入することもできるでしょうけど、護衛艦隊を叩き潰せるような数がどうやって侵入したんですか?」
副長が最後の希望とばかりに、最も重要な問題を提起する。
防衛網を構築している音響ブイは、何層かのラインを形成している。
今、はづきがいるのはその最も内側にあたる部分だが、そこまではかなりの距離がある上、海流頼みの無音潜航では集団で統制された行動を取るのは難しい。
もちろん外縁部のブイも損傷を受けて停止していれば話は別だが、そうなれば敵侵入の可能性ありという警報が行き渡っていなければおかしい。
しかしそのような報告はなく、特務艇が二隻で修理を行っていた。
それこそが緊急性のない、いたって偶発的な事象という判断が行われた証拠でもある。
副長はそう言って、最悪のシナリオにある欠点を突いてきた。
だが。
「簡単だよ。他の船を隠れ蓑にすればいいんだ。この間、それができるだけの大船団がここを通過してるんだ」
「だが、そんなことが――」
「できるよ。君たちがそれを証明した……『こんなところに敵が』『ブイがなければ侵入は容易』そう言ったんだ。それが音響ブイの力を過信して、警戒を緩めていたことの証明だよ。警戒を厳重にしなければならないはずの、単独行動中の護衛艦ですらそうなんだから、船団が同じことを考えていても――ううん、もっと緩んでいただろうね」
時雨の指摘は完全に的を射ていた。
「副長。この子の言う通りだ。我々はソナーすら打たず聴音だけで航行していたんだからね」
艦長の一言で、この推測は完全に裏付けられ、反論の余地はなくなる。
「何としても通信を復旧させなきゃならないな」
一刻も早くこの可能性を横須賀に伝え、対応を考えなければならない。
「艦長、モールスを音響ブイ経由で特務艇に送っては?」
そんな副長の思いつきは艦長によって即座に却下される。
「ダメだ。敵は作戦の初期段階が成功したと思っているから静かなんだ。もし作戦が看破されたと知れば、この艦を撃沈するだろう。副長の案を使うのであれば夜を待って、乗員を離艦させた上で、だ」
時計を見る。
昼をわずかに過ぎたところだ。
だが、敵はそれほど長くは待ってくれないだろう。
おそらくは日暮れがタイムリミット。
それまでに横須賀で動きがなければ、作戦失敗と判断してはづきを撃沈、離脱を図るだろう。そうしなければ、組織的な反撃を受ける可能性が高くなるからだ。
護衛艦の装備する通常兵器に全く効果がないわけではないし、水圧のかかる海中を主戦場にする潜水艦にとっては、そのわずかなダメージでも致命的なものになりかねない。
「せめて特務艇が近づいてくれれば、発光信号が送れるんだがね」
艦長が祈るように呟く。
この状況を打開する手が、時雨にないわけではない。
艦娘としての力を使えば、敵を沈めてはづきを救うことはできた。
だが、その力を揮うことは許されていない。
「しかし、君は一体何者なんだね?」
艦長が思い出したように、そんな問いを投げてくる。
もちろん、答えることはできない。
「情報部の見習いみたいなもの。情報分析の研修を受けてる最中なんだ。あんまり言っちゃいけないって言われてるから、秘密にして置いてくれると助かるよ」
だから、あらかじめ用意された偽情報の一つでごまかす。
調査をかければ、時雨に関しての情報は今言った通りのものが吐き出されてくることになっている。
「なるほどな……陸も人手不足なのは変わらんか」
艦娘の存在は機密扱い。
それを破れば、最も害を被るのははづきの乗員たちだ。
どこかに監禁されたり、命を奪われると言うことはない。おそらくは監視付きの状態で、戦力不足に喘ぐ佐世保第二に配置転換だろう。
そして、横須賀第二に配置されている護衛艦あきさめと同じように、艦娘たちを戦場へ運ぶための戦闘輸送艦として使われる。
それはもしかすると乗員たちを今よりも大きな危険へと誘うことになる。少なくともあの佐世保の司令官の下では、いくら命があっても足りることはないはずだ。
情報収集に向かう先が南方であることが多いために、時雨は佐世保に籍を置いていた。情報部付きの艦娘という独特な立ち位置のため、直接関わることはなかったが、それでも司令官がどんな人物かくらいかは知っている。
だから、どちらを選んでも訪れる結果に変わりはない。いつ、どこで、その違いだけだ。
それでも、時雨には決断を下すことができなかった。
このまま絶望するのと、一度希望を見た後に地獄へ叩き落とされること。果たしてどちらがいいかなど、時雨が勝手に決められるものではないのだから。
(本当に、割り切るっていうのは大変だね)
ただの兵器にはあるはずのない感情という存在。それが枷になっている。
切り捨てようとどれだけ努力しても、自身が思っている以上に強固にまとわり付き、行動を縛り付ける。
「通信、復旧します」
だが、今回の苦労はここまでで終わりだ。少なくとも自分が決断することはなくなった。
内心で胸をなでおろす。
『――応答を! はづき、状況を知らせよ!』
機能を回復したばかりの無線から、若い女性――由良の悲痛な呼びかけが聞こえてきた。
「こちら護衛艦はづき。タチの悪い運命の女神に気に入られた」
艦長はそれに冗談を交えて応答する。
指揮所の一部からは、こんな状況にもかかわらず笑いが漏れた。
そうでもしていなければ、これからの長丁場は耐えられない。
『ああ、よかった! しかし、タチの悪い女神とは?』
「艦尾に被弾したが、不発だったようだ。けれどスクリューを損傷、航行不能。同時に電源を喪失、現在復旧作業中だが、完了するまでは戦闘能力もない」
『冗談にしてはかなりキツイですね……とにかく横須賀第二基地へ救援の手配をします。護衛艦あきさめならば緊急出港可能ですから』
「いや、その件で横須賀第二基地司令と話がしたい。取り次いでくれるか?」
『了解。すぐに繋ぎます』
わずかな間があった。
ノイズが少し大きくなる。艦娘たちとの通信に使う秘話装置を通しているのだろう。
やがてその向こうから声が聞こえてきた。
『こちら横須賀第二基地司令。乗員は無事ですか?』
聞こえてきた若い男の声に、なぜか艦長が席を立ち、同時に指揮所内のあちこちから驚きの声が上がる。
「こちらははづき艦長。音沙汰がないと思えば……そこに座るのは私の方が先のはずなんだがね」
驚きを悟られまいと、艦長はあえて不機嫌な口調で言う。
不穏な言葉だが、決して年功序列を問題にしているのではないようだ。
艦長の表情がそう言っている。
時雨にはわからない何かがこの二人の間にあったのだろう。
そんな怪訝な顔を見た副長がそっと耳打ちする。
「彼は一年前まで、この艦の砲雷長だった人だよ」
時雨は納得した。
一度海に出れば、長い間寝食を共にする乗員の間には、不思議と強固な結束が生まれる。もはや家族のようなものだと表現する者がいるほどに。
幾度もの戦いを共に乗り越えてきたとなれば、それはさらに揺るぎないものになっているだろう。
『譲る気はありませんよ? 話したいことは山ほどありますが、その前に厄介ごとを片付けませんか?』
「そうだな。まずは護衛艦あきさめの出航を待つように進言する」
『そう言うと思ってました。その根拠を聞いてもよろしいですか?』
艦長は時雨の組み立てた推論をそのまま伝えた。
無線の向こうはそれを聞いてしばし沈黙する。その可能性がどれほどのものか考えているのだろう。
時雨は願う。
無線の向こうの司令官が、冷静な思慮のできる人物であることを。
『……失礼ですが、これは艦長のお考えではありませんね?』
クスクスと笑いながらそう言ってきた。
艦長は不満げな顔をしてから口を開く。
「その通り……まったく、お前さんに隠し事ってのは通じんな。たまたま当艦に乗り合わせた情報部員の推測だよ。今もそばにいる」
『なるほど、ではその方に聞くとしましょうか――もし貴官が敵の立場で、相模灘に潜ませた潜水艦への攻撃が始まったとしたら、どうしますか?』
そう問いかけられ、時雨は迷わず即答する。
「作戦は失敗と判断。僕なら最低限の戦果を獲得するために、まずはづきを撃沈。可能ならば特務艇にも攻撃を加えつつ、防衛網の再構築を妨害。音響ブイを破壊しながら離脱するよ」
控えめで落ち着いた声が、一切の感情を排して最悪のシナリオを読み上げていく。
『驚いたな。随分と若い声だ』
「忘れているようだから言わせてもらうが、お前さんもだよ」
艦長が苦笑いをしながら言う。
確かに司令官という職についている割には若い声だ。
『それはどうも。とにかく自分も彼女と同意見です。普通の手段では手が出せないと言っていいでしょうね』
「時間稼ぎが精一杯だ。こちらの兵装が復旧すれば、何かしらの手は打てるだろうが」
だが、そう言う艦長にはすでにプランがあるのだ。
乗員を離艦させてから、はづきを囮として使うつもりでいる。兵装の復旧を急がせているのはそのためだ。
それさえあれば、多くの乗員を安全な位置まで逃すだけの時間は作れる可能性があった。
時雨もそれしかないと感じていたし、その際には自分が残るつもりでいた。コンテナの処分を確実に行う必要があったし、艦娘である自分ならばその後でも逃げることは可能だ。
何より、人目さえなければ敵を始末することだってできる。
どうやって全員を説得するか。そこが問題なだけだ。
そこを横須賀第二の司令官に伝えることができれば、問題は解決できる。ただ、これだけ人がいてはそれすら難しい。
それに。
『艦長が何をお考えか、だいたいの察しはつきます……ただ、それでは護衛艦一隻と少なくない数の乗員に被害が出ます』
横須賀第二司令が言う通り、それで乗員全てを救うことはできない。決して少ないとは言えない規模の被害が確実に出る。
資源の乏しい現状、護衛艦一隻は貴重だ。そしてそれ以上に人命は取り返しがつかない。
それでも全滅よりはマシだったし、護衛艦隊の壊滅という最悪の事態は、はづきという餌をなくすことで防げるのも確かだった。
どちらを選ぶべきか。
答えなど決まっている。
そもそも、どちらかという選択肢すらないはずなのだ。
感情というものが邪魔さえしなければ。
だが。
『実は、こちらはすでに作戦を準備して実行段階にあります――若干の手直しが必要な状況になりましたが、艦長とそこにいる情報部員さんに一つだけ約束をしていただければ、誰も、何も失わずに済みます』
横須賀第二司令は時雨の予想を裏切って、まったく別の答えにたどり着いたらしい。
「……約束とは?」
『今起きていること、これから起こること――はづき乗員は誰も、何も見ていない。そもそも敵潜に襲われてもいない。そういう話です』
横須賀第二司令が何をするつもりなのか。
時雨はその言葉ではっきりと悟った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
部屋に入るなり、執務机に寄りかかって立つ提督の姿を目にした足柄は、その顔がまるでイタズラを思いついた子供のようだと思った。
別に身近に子供がいるわけでもないし、実際にそんな顔を見たことがあるわけでもない。
例によって、いつかの機会に読んだ本にあった表現を思い出し、これに違いないと思っただけだ。
やり取りをしていたはずの無線が沈黙している。
いったい何を話していたというのだろうか。
(だいたい想像はつくけどね)
手にした書類を提督に差し出す。
周辺海域に配置された音響ブイと沿岸監視レーダーの一時停止指令書だ。提督の署名が入れば正式な命令として通達され、効力を発揮する。
指令が実行されれば、浦賀水道、相模湾、駿河湾――関東から東海の一部に至る太平洋沿岸部の警戒網の接続が遮断され、その間はそこで何が起きても、誰もわからない。
――横須賀第二基地、第三種即応訓練のため。
理由として記載されているのはそれだけだ。
敵潜水艦を含む敵艦隊の浸透によって、レーダーもブイも無力化された状態を想定して行われる演習だ。
実際、三ヶ月前に一度実施している。
だから、この命令は何の疑念も抱かれることなく処理され、艦娘たちには行動の自由が与えられることになる。
姿を見られるなという制限はつくが。
『短期間なら確約できるが、長くは無理だ。絶対に漏れる』
はづき艦長の声が無線から響く。
それを聞いて、足柄は自分の推測が間違っていないことを確信する。
相当に難しい決断だろう。
人の口に戸を立てることはできないと、昔から言うのだから。
「それで充分です。少しお待ちください」
提督はそう言って、机の上から万年筆を拾い上げると、足柄が持ってきた書類に署名を入れる。
それはいたって何事もなく、ごく当たり前のように、何の気負いもなく行われた。
無線の向こうとこちらでは、まったく対称的に物事が決められている。
足柄はそれに少しだけ嫌悪感を感じた。
きっと過去にも繰り返されてきたのであろうそれは、実際に現場に出ている者にとっては、あまりにも残酷な現実だ。
だが、提督にそれを言うつもりはない。
根は優しい人だ。それを指摘してしまえば、命令を下すことができなくなってしまう。
何よりも、本人はすでに知っているはずだ。知った上で抱え込んでいるだけ。
それが司令官職というものだ。
「なぁ、足柄。止めるならここが最後だ――もし失敗すれば、間違いなく俺とお前は南の海で深海棲艦の餌になる」
署名を終えた書類を手に、提督はそう言って足柄の瞳を真っ直ぐに見ていた。
もちろん答えなど決まっている。
「私はあなたの秘書艦。間違えていない限りその決定に従う。そして、あなたのやりたいことは間違ってないと思ってる。だからどこまでもついて行く――たとえ行きつく先が地獄の果てでも、海の底でもよ」
寂しそうな笑みを浮かべる提督。
できることなら巻き込みたくないと思っているのだろう。
だから。
「これは私が決めたことだから文句は言わせない。それにね、あなたと居ると退屈しないの」
そう言って提督の手から書類を奪い取る。
「それ、どう言う意味だよ。まったく……毎度、秘書艦降りたいって言ってるくせに」
「うるさい。それを拒否したのはあなたなんだから、責任はきっちり取りなさいな」
「……そうかい。なら、始める――これが、第一歩だ」
観念した様子で、提督は通信機を取り上げる。
「由良、夕張。特務艇ではづきに向かえ。七〇〇〇でエンジン停止、指示があるまで惰性で進め。可能な限りはづきを挟むような形でだ」
『由良、夕張、了解。指定位置まで三十分です』
「阿武隈、事前の打ち合わせ通り駆逐っ子たちとヘリで相模灘に展開。タイミングを合わせて敵潜を駆逐しろ。数は不明だが一隻も逃すな」
『了解しました! ご期待に応えてみせます!』
次々と出されて行く指示に、艦娘たちが弾むような声で応答する。
ここまで本格的な作戦行動をしたのは、いったいどれくらい前だろうか。
それぞれが、久々に艦娘としての本能を呼び起こされ、奮起しているに違いない。
足柄はその場に立てないことを悔やむ。
今では自分がこの基地に残る最大の火力だ。
けれど、潜水艦が相手ではそれを発揮することなどできないのだから、ここに残るのは当たり前のこと。
後方待機をしているのは性に合わないが、この場合は仕方がない。
そんな足柄の気持ちを見透かしたのか、提督が言う。
「足柄、艤装を持ってあきさめに乗れ。俺もすぐに行く」
「でも潜水艦が相手じゃ……」
「おいおい、東京湾に突っ込む予定の敵の水上艦隊がいる可能性だってあるんだ。そうなれば、夜戦になるからそのつもりでいろ」
「あ――了解」
自分の力を揮う機会が来るかもしれない。
飛び上がりそうなほどに弾む気持ちを抑え、いつもと変わらぬ調子の声で答える。
「あのさ、足柄……顔に出てるよ」
どうやら見透かされていたわけでも、気持ちを抑えきれていなかったわけでもないらしい。
苦笑いとともにその事実を告げられ、一瞬で顔が赤くなるのを感じる。
「……隠し事は苦手なの! だから、秘書艦は嫌だって言ってるのよ!」
照れ隠しに少々きつい口調で吐き捨てて、頬を膨らませながら部屋を後にする。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
『横須賀第二よりはづき。状況はいかがですか?』
二十分ほどの沈黙を破ったのは、無線からのそんな一言だ。
その間に、艦内の応急班は損傷箇所の特定を終え、処置に取り掛かっている。
「今しがたいくつかの兵装が復旧して、システムのチェック中だ。戦闘は可能だろう」
とは言っても、深海棲艦に対して有効な兵装は艦首の単装速射砲と高性能対空機関砲、それと五〇口径の機関銃くらいなもので、それらは相手が海面に姿を見せていなければ意味がない。
その速射砲にしても、撃沈までに百近い数を命中させる必要がある。これが戦艦相手というならばまだ話もわかるが、駆逐艦相手でその数だ。
それに現代戦の花形、護衛艦の主力である誘導装置搭載の兵器群は深海棲艦には通用しない。
それがどういう理屈かはわからないが、一定の距離まで近づくと誤作動を起こし、あらぬ方向へ飛び去るか自爆して終わりだ。
実質的に護衛艦の攻撃能力など、深海棲艦相手には無力だと言う他はない。
「武器が役に立つかどうかは別だがね」
艦長の言葉はそれを皮肉るものだ。
実際、護衛艦の仕事は高性能な探索装置とヘリコプターを駆使して、敵をいち早く見つけ、回避すること。
砲火を交えるのは、避けられない相手から輸送船団を守るための囮となった時くらいなものだ。
『砲戦は別の機会にしましょう。必要なのはソナーと投射式ジャマー、自走式デコイ――それからIRフレアです。使えますか?』
それを聞いた副長が首を横に振る。
「ジャマーのランチャーがダメです。応急での修理は難しいそうです」
投射式ジャマーはロケットで一〇〇〇メートルほど離れた位置へ飛翔し、着水後は大音響を数分間海中に流す――簡単に言ってしまえば、スピーカーを海の中に放り投げるようなものだ。
この装置自体に移動する機能はないし、攻撃的な機能もない。あくまでも音響探知式魚雷を回避するための防御用兵器。
そもそも、先ほど横須賀第二司令によって列挙されたものは、どれもが防御用のものだ。
そんなもので一体何をするつもりなのだろうか。
「だそうだ。海に放り投げて使うことはできるかも知れん」
『いえ。ある程度距離を取らないと逆に危険です――特務艇はたどり着けないだろうしな……デコイで代用するか』
描いていた計画の変更をさらに求められる結果になり、無線の向こう側で何やら呟いている。
彼が考えていることが自分の想像通りならば、ここが出番かも知れないと時雨は思った。
ただ、それには少しばかり情報が不足している。
「ねぇ、それって大きさや重さはどれくらいなんだい? 内火艇で運べないようなもの? 写真でしか見たことがなくてわからないんだ」
『大きさ重さは五インチ砲弾程度、コムボートでも運べる。その手を考えなかったわけじゃないけど、設置したあとすぐにそこを離れなければ攻撃を受ける可能性があるんだよ』
はづきから一〇〇〇メートル離れた位置となれば、場合によっては敵潜の方が近いかもしれない。そうなれば当然戦闘の只中になる上、飛来する機関砲弾や至近弾の爆風ですら、小型の船艇には致命的な一撃だ。
敵にとっては砲弾を使うまでもない相手。体当たりで充分だろう。
「そういうことか……うん、それならなおさら僕がやるべきだね」
なんでもないことを決めるように、さらりと時雨は言ってのけた。
ここが出番だと確信したからだ。
『下手をしたら死ぬぞ?』
「これから横須賀第二がやることは、誰も見ていない、何も起きていない――そうだよね?」
『ああ』
「なら問題ないさ」
『意味がわからないが?』
「僕は時雨。白露型二番艦の時雨だよ」
『……なるほどね。艦長、ボートとジャマーの用意を。その子にジャマーの設置をやってもらいます』
はづき艦長には事態が飲み込めないようだ。
だがそれが当たり前だ。
艦娘の存在は、ごく限られた一部にしか知らされていないのだから。
『艦長、はづきは最高についてますよ。何しろ、あの”佐世保の時雨”が乗っているんですから』
時雨自身、その謳い文句を久々に聞いた気がする。
ただ、ここで持ち出す話ではないだろうとも思う。
(それを持ち出すと、僕しか残らないって話になるんだけど……)
思わず苦笑い。
今は彼のようにいい方向に考えるべきなのだ。
そもそもはづき自身、何度もの戦いを乗り越えてきた艦だ。
そして自分を含め、状況を変えられる手札が揃ってもいる。
だから、この場で幸運を引き寄せているのは、きっとはづきだ。
問題はない。
「艦に艦が乗ってる? 何を言ってるんだ?」
横須賀第二司令の一言は、艦長の混乱を余計に増幅させただけのようだった。
時雨はそれを横目に、後部デッキへと向かう。
今回は全員を救ってみせる。
そう、心に決めて。
《7》
何艘もの小型ボートが海面を静かに進んでいた。
隊列も速度もバラバラのまま進むその群れからは、小型のエンジンの音だけが洋上に響いている。おそらくそれは海中にも聞こえているだろう。
時雨はその中の一艘に、砲弾のような形をした投射型ジャマーとともに乗り込んでいる。
そのほかのボートに人影はない。
舵と速度を固定され、意思もなくまっすぐに突き進むだけだ。
『いいか時雨。できるだけ、はづきから離れた位置にジャマーを降ろせ』
念を押すように、無線の向こうから横須賀司令の声が聞こえる。
「うん、わかってる。陸を目指すふりをすればいいんだね」
『その通りだ』
ボートの群れは囮だ。
音だけを頼りに状況を判断するしかない敵潜水艦からすれば、水上を走る小型船舶の群れに誰も乗っていないことなど知りようもない。
だから乗員の脱出と判断するだろう。
『敵は確実に陸よりにいる。狙うのは先頭の船だろうが、気は抜くな』
横須賀司令が無線の向こうで断言する。
敵の狙いはあくまでもはづきの乗員をこの場に留め置くこと。そうすることによって救援艦隊の出撃を促し、別に潜んでいる潜水艦がそれらを撃沈するつもりでいる。
それを忠実に実行するならば、はづき乗員の脱出は絶対に阻止しなければならない。
だから、先頭を走る船を沈めることで、それを目撃した後続が引き返すことを狙ってくるはずだ。
『大丈夫ですよ、提督。先ほどの音はこっちの端末に登録しておいたから、攻撃の予兆はつかめますって』
音響ブイにかかりきりのはずの明石の声が割って入る。
作戦の要の一つだという自覚のせいか、言葉の割には声が少し硬い。
敵潜の正確な位置を掴むためには、はづきのアクティブソナーだけでは情報が不足する。
音響ブイからのデータも使って、三角測量の要領で位置を割り出さなければ、決定的な一撃を叩き込むことはできない。時雨たち艦娘の使う唯一の対潜兵器である爆雷は、それほど効果範囲が広いものではないのだから。
『明石、聞きもらすなよ?』
万が一にでも討ち漏らせば、この後に待っているはづきの曳航作業が難しいものになる。
提督の言葉はそれを明石に言い聞かせるものだ。
『任せてください――っていうか、性能に関しては私じゃなくて、メーカーに言ってもらえます?』
重圧から逃れようと軽口を叩いてみせる明石。
『それもそうだな……後でレポートあげとけ』
提督もそれを察したのか、さらに冗談めかした口調で返す。
『ええっ!? それも私の仕事なんですか!?』
『機械のことはわからないからな』
『……後で工廠にどうぞ。みっちり仕込んで差し上げます』
戦いを前に、なんとも間の抜けた会話が繰り広げられる。
聞いているものは皆、苦笑いをしているに違いない。
『気が向いたらな。こう見えても色々と忙しいんだよ――艦娘の検査なら立ち会いたいけどな』
『また、そんな事言って……結局提督さんは、艦娘にイタズラしたいだけじゃないですか』
由良がさらに割って入る。
『ちょっ――人聞きの悪いことを言うな。はづきの乗員も聞いてるんだぞ? それにあれはスキンシップの一環だ』
慌てる横須賀司令の声に、クスクスと笑う声がいくつも重なる。
時雨が横須賀第二から異動して三年ほど。
その間に何度か基地司令が変わり、最近では雰囲気もかなり変化したと噂で聞いていたが、想像していた以上だ。
これはきっと良い方向の変化なのだろう。
自身の張り詰めていた緊張の糸が適度に緩むのを感じ、時雨はそう思った。
『おしゃべりはここまで。発射管注水音を探知』
明石の声で、空気が一気に締まる。
『時雨、行け。作動は合図を待つように』
「了解」
その数少ない言葉が終わるよりも早く、時雨はジャマーを抱いたまま海へと飛び降りる。
その様子を、おそらくは見ていたであろうはづき乗員たちは、心臓が止まるような思いをしているはずだ。救命胴衣もつけないまま、背中に大きな荷物を背負った少女が海の真ん中に身を躍らせたのだから。
いくらジャマー自体に浮力があるとはいえ、到底支えきれるものではない。普通に考えれば海の底へまっしぐら。
この辺りの水深は三〇〇メートルはあるのだから、助かるはずがない。
水柱が上がり、時雨の姿がかき消える。
けれど。
タービンの唸る低い音が聞こえ、徐々に晴れていく水煙の向こうに人影が見える。
「機関正常――」
時雨の囁くような声が聞こえてくる。
やがて水煙が晴れると、そこには時雨の姿があった。
髪も服も濡れておらず、何事もなかったかのように、まるでそこは元から地面だったとでも言うように二本の足で立ち、二度、三度と踏みしめて、その感触を確かめている。
そして、その周囲を覆うように、僅かばかりに色のついた――不規則に色を変える、まるでシャボン玉のような半球体が現れ、空間が少しばかり歪んで見えた。
それが障壁と呼ばれる、艦娘たちにとっての装甲だ。
「いつでもいけるよ」
その時雨の言葉が作戦開始の合図になった。
『はづき、アクティブソナーを発信。探知後即座にデコイを射出してください。明石は音響ブイからのデータをはづきに送信。解析後のデータは共有』
データの解析は明石の手元にある端末でも可能だったが、はづきに搭載されているシステムは専用に設計されているだけに、処理速度に大きな差がある。
戦闘の最中ではその差が命運をはっきりと分けるし、何よりも得られたデータを共有する能力に関しては、深海棲艦対策として改修を繰り返し、本当の意味でのミニ・イージスと呼ばれるほどの性能を持つに至ったはづきに分があった。
『はづきCIC、アクティブ用意……発信』
海中を甲高い音が駆け抜ける。
数千メートルを伝わるその音波は、海中にある物体に反射して、エコーとしてはづきに返っていく。
その角度や方向を解析し、即座にその物体に関する情報がはじき出されていく。
もちろん音波の反射は特定の方向だけに向かうものではないから、拡散した反射波を付近に設置された音響ブイも拾う。
それをはづきに送り解析させることで、さらに精度の高い情報が獲得できる。
『はづきCIC、コンタクト! 方位三四六、距離一八〇〇、深度二十! 続いてデコイ射出!』
報告と同時に、はづきの右舷から魚雷のような形をしたデコイが発射される。
それは護衛艦のスクリュー音を真似た音波を撒き散らす囮。本来は追尾してくる音響探知魚雷を回避するためのものだ。
『時雨、ジャマーを作動させろ』
横須賀司令の静かな声を合図に、時雨は抱きかかえていたジャマーの電源を入れて海上に投棄。着水すると同時に、海中へ様々なノイズを混ぜ合わせた大音響が響き渡り、はづきの放つ音も、デコイの音も埋もれてしまう。
ノイズを分離して求めている音を探し出すには、高性能なコンピューターを使ってもそれなりの時間が必要になる。
そんなものを持たない敵が得た情報は、ノイズが入る前に短時間だけ聞こえた、デコイが放つスクリュー音と位置、移動方向だけのはずだ。
だから、次に敵が取れる手段は潜望鏡深度まで浮上し、目視で確認すること以外にない。
もちろん、横須賀司令はそれも計算に入れていた。
『はづき、IRフレア発射。特務艇は煙幕を展開しつつはづきに接近』
指示に従い、はづきの艦橋後部にある発射筒から、高温で燃焼する金属塊が発射される。本来は熱探知ミサイルを回避するために使われるものだが、同時に多量の煙も生じさせる。その濃密さは数メートル先が見えなくなるほどだ。
さらに、はづきの左右から特務艇二隻が煙幕を展開しながら接近していくことで、長さ五〇〇〇メートルほどに渡って視界を遮ってしまう。
これでは、視覚でも情報を取得することは困難だ。
『由良。やることはわかってるな?』
『もちろんです』
夕張と明石の操る特務艇が交差するあたりで、その二人を除いたすべての艦娘が海面に飛び降りた。
春雨と五月雨はその場に留まり、万が一に備えてはづきを護衛。残りは由良を先頭にして、村雨、夕立の順に並んで敵潜が探知された位置へと向かう。
特務艇の音も艦娘たちの音も、すべてがジャマーによってかき消されているのだから、遠慮する必要もない。揃って最大戦速でまっすぐに海面を突っ走る。
『由良より提督さん。水雷戦隊の展開完了、対潜戦闘を開始します』
『了解した。こちらは阿武隈隊とともに帰路の掃除にかかる、そちらの指揮は由良に任せる』
そのやり取りを聞きつつ、ゆっくりとジャマーの側を離れ、由良隊との合流に備えていた時雨の視界の端に、嫌なものが見えた気がした。
もう一度。
今度はしっかりと視線を向けた先に、五つの白い航跡が見えた。一定ではないが、ある程度の間隔を保ち、横並びに海中を進んでいる。
潜水艦にとって、最大の武器となる魚雷だ。
それが由良たちに向かって伸びていこうとしている。
けれど、それは敵が犯した致命的な間違いだ。
おそらくは状況を確認するべく潜望鏡深度まで浮上したのだろう。そこで自分に向かってくる艦娘の姿を見て慌てたのだ。
魚雷の間隔は乱れていたし、回避先を覆うような扇状の射線でもないのがその証拠。
この状況下では、何もせずに深く潜って身をひそめるべきだった。
そうすれば、この後に決定的な機会はいくらでもあったはずだ。
魚雷を放ったことで、己の位置を晒し、逃走するための時間をも無駄にしたことになる。
『雷跡確認。どうせ苦し紛れだから無視する』
由良はそう言って、まっすぐに突き進んでいく。
けれど。
「由良さんたちはそのまま進んで」
時雨はそう言って、その射線に交錯する進路をとって加速する。
『時雨ちゃん!?』
その行動を見た由良がその意を図りかねて叫ぶ。
何もせずとも由良たちはこの攻撃を回避できるからだ。
「この先に行かれるとちょっと厄介なんだ」
あっ、と無線の向こうで由良が息を飲むのがわかった。
自分たちの後方に、身動きが取れないはづきがいる可能性に気付いたのだ。
惰性や海流で移動したはづきの位置は煙幕の向こうでわからない。可能性は低いが、当たらないとも言い切れなかった。
そうなった時、五本の魚雷を春雨と五月雨の二人で対処するのは難しい。はづきとの距離もそれほど離れているわけではないのだから。
(三本……できれば四本はここで止めなきゃ、ね)
全速力で射線の前に躍り出た時雨は、背中の艤装から小さな容器を連続で投下し、そのまま突き抜ける。
魚雷が時雨の残した航跡と重なる直前。
鈍い炸裂音が海中に響き、海面が盛り上がり、続けて一度くぼむ。
そして、次の瞬間に大きな水柱が屹立する。
それが四つ続けざまに起きた。
時雨の目はそれを見ていない。
見ているのは海中に刻まれる航跡だ。
沸き立った海面を抜けた先に、まだ二本の航跡が見える。
『すごいっぽい!』
夕立が何かのアトラクションでも見ているかのような感想を漏らして、はしゃいでいるのが目に入った。
すでに時雨は舵を切り返して、魚雷の進行方向にもう一度割り込みをかけている。
機関を限界まで回して、目一杯にまで加速。
背中の艤装からは悲鳴のような甲高い音が聞こえている。この状態を長く続ければ機関が破損して、航行不能になる可能性もあった。
それが万が一魚雷の射線の上で起きたなら、時雨の命運はそこで尽きる。
けれど、時雨はそんなことに一切関心を持っていない。
それならそれで、はづきへ向かう魚雷が一本減るだけ。その程度の考えでしかない。
すれ違いざまに、由良と村雨が引きつった顔をしているのが見えた。時雨のやっていることが相当の無茶だと理解しているのだろう。
「由良さんたちはそのまま敵潜に」
時雨の真似をしようと、爆雷の準備を始めた二人を制して、再び爆雷を投下する。
敵潜を確実に沈めるために、由良隊は爆雷の無駄な消費を抑えるべきだ。
それに。
もう一度天を衝くような水柱が上がり、航跡の一つがそこで断たれた。
残ったもう一本を追うことは流石に無理だ。
けれど、その先には春雨と五月雨が待ち構え、時雨がやって見せたのと同じ方法で爆雷を投下していく。
今度は密度が倍だ。確実に魚雷は無力化されるだろう。
そちらを最後まで見ることなく、時雨は先ほど投棄したジャマーに向かう。
「時雨より各員。ジャマーを回収するよ」
予定より早いが問題はない。作戦上はもう用済みだ。
作動時間が数分とはいえ、敵潜を探すにはむしろ邪魔になるだろう。
敵には動力を使って逃げる以外の方法はないし、それを探すのであれば静かな海の方が好都合だ。
由良たちなら、それほど時間もかけずにやってのけるだろうし、もう自分の出番もない。
同じことを思ったのだろう。特務艇に乗った明石と夕張が、ボートの群れの回収に動き始めているのが見える。
爆雷の炸裂音が響く中、時雨はジャマーを拾い上げ電源を静かに切った。
それは敵潜に最期を宣告するものであり、それを執行するスイッチだ。
相手がこれをどう捉えたかなど、時雨の預かり知るところではない。
だが、それは確実に訪れる。
くるりと身を翻して、時雨もボートの回収に向かった。
《8》
戦闘終了から一時間が過ぎたころ、護衛艦はづきの上空にヘリコプターが飛来した。
周囲をくるりと二周ばかりして状況を確認しながら、はづきへの着艦許可を取り付けたそれは、ゆっくりと後部甲板へその身を降ろす。
機体が安定したのを見計らって後部のドアが開き、人が降りてくる。
まずは横須賀第二司令。
その後ろには、長い髪をダウンウォッシュの手荒い洗礼でもみくちゃにされながら、大層不満げな顔つきで秘書艦の足柄が続く。
二人がある程度離れたのを確認すると、ヘリは再び出力を上げて空へと戻っていく。この後はそのまま東側の海域の哨戒をしながら、横須賀第二司令を待つことになっている。
「ご無沙汰しておりました」
格納庫から近づいてくる人影を見つけ、横須賀第二司令は直立不動で敬礼をする。
なぜか、足柄も反射的にそれに倣っていた。
艦娘は協力員という立場なのだから、その義務はない。
実際、艦娘たちには自衛隊の制服も階級も与えられていない。
「おいおい……階級は同じ、役職はそっちが上だぞ」
苦笑いをして皮肉を言うのは、その敬礼を送られたはづき艦長だ。
「染み付いた癖というのは、なかなか抜けないものですよ」
組織の都合で一気に階級を登りつめ『させられた』のだから、こればかりは仕方がない。
実際にはもっと時間をかけて登っていくはずのものであり、それにまつわる様々な儀礼を覚えていくものだ。
「まぁ、年齢は艦長の方が上ですし、これでいいんじゃないですか?」
「敬礼の順番を譲るくらいで若返れるなら、私は若さを選ぶぞ?」
「それこそ譲るつもりはありません」
互いに冗談を言い、大笑いをしてそれで終わり。そこには彼らを縛り付ける権威などない。
あるとすれば、同じ修羅場をくぐり抜けてきたという仲間意識。
互いを尊敬する気持ちがあれば、物事はそれなりに上手く進むものだ。
権力というものが必要になるのは、どちらかにその気持ちが欠けている時になる。
にこやかに繰り広げられる会話が、時雨には少し羨ましかった。
「久しぶりね、時雨。まさかこの艦に乗っているとは思わなかったわ」
横合いからかかった声にそちらを振り向けば、いつの間にか足柄が立っていた。
一見するとにこやかな雰囲気を漂わせているが、瞳の奥は決して油断をしていない。
明らかに時雨を警戒し、値踏みをしている。
自分の関わっている組織のことを考えると、そういう判断が当然だし、仕方のないことだ。
表向きには情報の取得と精査を持って国に貢献している情報部とはいえ、その裏では、それ以上に汚い仕事もこなしているのだから。
例えば今回のような――。
「あれのせいさ」
そう言って、時雨はヘリ格納庫を占拠している二本のコンテナに視線を投げる。
時雨に与えられた命令は、このコンテナに収められたものを横須賀基地まで届けることだ。
中身は試作新兵器だという噂だが、本当はわからない。
少なくとも、情報保全のための監視という任務が与えられるほどのものが入っていることだけは間違いない。それは情報部にとってはごく当たり前の任務の一つだ。
けれど、それはあくまでも表向き。
「積荷の監視、ね……本当かしら?」
だから、秘書艦という立場上、組織内の裏事情にも通じている足柄は、その任務をあからさまに疑っているようだ。
口調は穏やかだが、視線は鋭さを増している。今にも時雨を射抜いてしまうのではないかと思えるほどに。
「どういう意味だい?」
「積荷の監視くらいなら、艦娘にやらせる必要なんてないと思うけど」
足柄の指摘はもっともだ。
ただし、それができるのは艦娘という存在を知っているからだ。
上層部は横須賀第二に何も伝えなかった。
本来であれば、事前に航行する事を伝える決まりがあるにもかかわらず、だ。
恐らくは、それを知った横須賀第二の司令官が何かをすると考えたから。彼はその程度には組織内で疎まれているということでもある。
結果として、稚拙な隠蔽工作が事態を複雑化し、無用の危機を招き寄せた。
そして、上層部が最も警戒する人間に情報を与えることになる。
その事実を、隠蔽した側が知ることもなく。
「足柄が思っている通りのものが入っていると、僕も思うよ」
時雨はあっさりと足柄の考えを肯定する。
隠しようなどないのだから、これ以上事態を複雑にして、自分の立場を危うくすることだけは避けたい。
艦娘として戦うとなれば、横須賀第二や足柄とも肩を並べることもあるだろうから。
その時に信頼を得られないのは、色々と問題になる。
けれど。
「そうね……でも、それだけじゃないでしょう?」
足柄はさらに一歩先まで見通していた。
その命令こそが、情報部という組織の裏の顔を最も体現したものだろう。
自分以外のものに知られれば、確実に関係が悪化する内容だ。何より時雨自身が、その命令を実行することだけは避けたいと思うほどに。
心の内で起きた一瞬の葛藤が、誰にでもわかるほどの間となって現れる。
「――何がだい?」
ようやくひねり出した言葉がこれでは、ますます状況が悪化するだけじゃないかと、時雨は自分に失望する。
こんな時くらい、多少感情が表に出てもいいじゃないかとも思う。
しかし、それは無駄だ。
情報部は時雨のそんな部分を見込んで囲っているのだから。
「命令。他にもあったんじゃないのかしらね」
思った通りの言葉を足柄が放つ。
もはや隠し通すことも、シラを切ることもできはしない。
ただ、この事実をこの場で告げることだけは何としても避けたかった。
少なくとも、はづきの関係者にだけは知られたくない。
「足柄、そのくらいにしてやれ。時雨なりに気を使ってるんだよ」
助け船は横合いから突然にやってきた。
艦長との談笑を終えた横須賀第二司令が、時雨と足柄の間に立つ。
「時雨も、はづき関係者に気を使ってるなら無用だよ。艦長もすぐにわかってくれる。そのくらいの度量がなきゃ、艦長なんてやってないよ」
ちらりと視線を向けた時雨に、大きく頷いてみせる艦長。
その表情には時雨の葛藤を知って、それを労うような優しさが混じっていた。
覚悟を決めて口を開く。
「――不測の事態が起きた場合は、どんな手を使っても確実にコンテナを破壊処分しろ。それが命令だよ」
その言葉で、三人の顔に納得の表情が浮かぶ。
「残念だけど、コンテナの中身は僕にも知らされていない。だからこれは憶測での話になるけど、足柄が言う通り監視に艦娘が必要な理由なんてたった一つしかない」
「深海棲艦――サイズから考えると駆逐艦クラスだろうな」
「うん。それ以外に考えられないと思う」
横須賀第二司令の言葉を肯定する。
「しかし、それならば陸送の方が確実だと思うがね」
確かに艦長の言う通り、敵と遭遇するリスクのある海路よりは、内陸を通った方が確実に目的に送り届けることができる。
けれど事はそれほど簡単でもない。
横須賀第二司令がそれを説明する。
「我々は敵のことを何も知りません。何度か経験した戦いにおいても、砲弾をありったけブチ込んで、敵を蜂の巣にした後、それがゆっくりと沈んでいくのを見たことがあるだけです」
そこで一旦言葉を区切り、広い海原に視線を移す。
「……言葉が適切かどうかはわかりませんが、深海棲艦がそれで死んだのか、それともただ単に一時的な機能停止に陥ったのか。それすらもわからない。それが我々の認識の限界です」
海上、海中、空。様々な手段で襲いかかってくる多数の敵と交戦し、同時に多くの輸送船を護衛しながら、沈み行く敵をサンプルとして鹵獲する。
そんなことが現実に実行できるかなど考えるまでもない。
だからこそ、これまで人類は敵に関する基本的な知識すら獲得できていないのだ。
「そんなものを陸路で運んでいる時に、万が一にでも息を吹き返したらどうなると思いますか?」
それは悪夢だ。手の打ちようがない。
艦娘たちは海の上にいなければ、その能力を発揮する事はできない。
主砲や魚雷を撃てる事は撃てる。ただ、それが本来持っているはずの威力を発揮させるには、障壁の作る空間を通さなければならない。
そして、その障壁を作り出せるのは海の上だけ。
そんな艦娘たちと深海棲艦が同じ制約の下にあるなど、誰が言い切れるのか。
実際に、上陸して基地的機能を果たす深海棲艦を見たと言う話もあるくらいなのだから。
それが本当だとすれば、陸上――海から遠く離れた内陸部で活動する敵に対して、時雨たち艦娘は何もできないことになる。
「だから海路を使うしかないんです」
艦長に対して、艦娘の能力に関する簡単な説明をした後、全員の想像がそこに至る時間を待ってから、横須賀第二司令はさらに話を続けていく。
「海の上であれば万が一そう言う事態になっても、船の燃料や弾薬を誘爆させれば駆逐艦娘一人でも、確実に敵を破壊できます。この場合、輸送船を使えばそのあとが色々と面倒なことになりますけどね」
「それで護衛艦か……」
「ええ。護衛艦ならば作戦行動中に敵と接触、勇戦するも武運拙く……なんてストーリーが使えますから。危険な作戦を内密に実行していた証拠も隠滅できて、上層部も安泰。これを教訓に以降の作戦を立案する」
「無茶苦茶だな」
二五〇人からなる護衛艦の乗組員を使い捨ての道具と考える作戦を評するには、艦長のその言葉はかなり控えめな表現だ。
実のところ、組織の枠に収まっている横須賀第二司令と艦長には、それ以外の言葉が思いつかなかったのかもしれない。
「狂ってるのよ。イカれてるでもいいわ」
吐き捨てるように言った、足柄のその言葉が適切だろう。
「俺としては、そこまでやらなければならないくらいに切羽詰まったんだと思うことにしたいね。じゃなければ……」
横須賀第二司令はそこで口をつぐんだ。
そのあとに続く言葉は誰にもわからない。きっと永遠の謎になるだろう。
そして、それは知らなくてもいいことだ。
「とにかく。この状況は現場の我々としても、あまり愉快ではないな」
「ええ。そこで一つ、状況を変えてやろうかと思います」
艦長の言葉に横須賀第二司令がニヤリと笑って返す。
その笑みはとても危険で――そして、不思議なことに魅力的な輝きがある。
「それを始めるにあたって先ほどお願いした通り、はづき乗員は何も見ていない、何も起きていない。自分と足柄は当然のこととして、横須賀第二の人間は誰もここに来ていない。それを通してください」
「しかし、デコイやIRフレアはどうするね?」
時雨が回収したジャマーに関しては、ものがそこにある以上いくらでもごまかしが効く。
けれど一度発射してしまったデコイがどこにあるかは不明だ。動力が切れた時点で、おそらくは海底に沈んでいるに違いない。
IRフレアに至っては、燃えて煙になってしまっている。
当然これらの不足は整備の段階で発覚するし、何かがあったと言うことは間違いなく伝わるだろう。
補給を受けるにしても決済がいるのだから、隠しようがない。
「それらは護衛艦あきさめから補充します。どのみち相模灘で対潜戦闘をしているので、使っていてもおかしくないものです。これらを頻繁に消耗している有事の最中にロット番号までチェックもしないでしょうから」
「了解した。しかし、隠すにしてもそんな長期間は無理だ……あんなのを見せられて口を噤んでいられるほど、乗員たちも大人しくはない」
護衛艦乗りたちは、苦戦し、仲間を喪いながら戦い続けてきている。
その状況を一気に変えられるかもしれない存在を見たのだから、語らずにはいられない。
一昔前ならば、海上を滑走する人型兵器の話など、アニメか漫画の見過ぎだと一笑に付されただろう。けれど、深海棲艦という現実離れした存在が現実に猛威を振るい、それを相手取っている今ならば話は別だ。
一度この手の話が出れば、間違いなくあっという間に組織内に伝わっていく。
「噂は必ず広がるものです。むしろ広めていただきたい」
「なら、なぜ今ではダメなんだ?」
「情報部が保全に動きます。噂の出所を探して、我々横須賀第二と、我々と接触があったところから調査に入ります。今、噂が広がれば、この海域にいたはづきも間違いなくその対象になります、いくら当人たちが否定したとしても」
横須賀第二司令の狙いが時雨にはよくわかった。
時間が開けば開くほど、情報部が辿るべき可能性は増え、調査に時間がかかる。
その間に噂は組織内に行き渡っているだろう。
これを打ち消すには偽の情報を作って流すしかないが、それ自身扱いがとても難しい。
対応に苦慮している間に、噂は組織の外へ流れ出しているだろう。
公式見解を持ってこれら一切を否定するという光景はよくあるが、大抵の場合には逆効果にしかならない。単なる噂に対して必死になる様は、わざわざ信頼性を裏打ちしてやるようなものだ。
「でも、横須賀第二にも情報部の関係者がいるかもしれない」
時雨の指摘に横須賀第二司令が頷く。
「陸に上がればその可能性はある。けど、この状況を知っているのはあきさめの乗員だけだし、彼らの素性は把握している。それに彼ら自身も犠牲を払い続けているんだ。手を貸そうという気になるわけがないだろうね」
「なるほどね。それなら大丈夫かもしれない」
納得した時雨とは違い、怪訝な顔をしたままのはづき艦長。
「情報部が動いて何か問題があるのか? それにあきさめの連中が犠牲というのは?」
その問いに答えるのは横須賀第二司令ではなく、その視線を投げかけられた時雨だ。
情報部の一員として、ある程度の事情には通じているのだから。
「艦娘との接触が発覚すれば、護衛艦はづきは戦力不足の佐世保第二に配置転換、情報部の監視下に入ることになるよ。あきさめが横須賀第二に配置されたのと同じように、艦娘を乗せて最前線への戦闘輸送任務に就くことになるんだ。もしその網を潜り抜けて何かしようとしたら……」
時雨はそこで言葉を切って、首を横に振る。
「我々は戦闘員ですからね。消えた理由は民間人よりも作りやすいんです」
という横須賀第二司令の言葉に。
「まさかそこまでは……」
言いかけた艦長の言葉がそこで途切れる。
自分たちの乗っていた護衛艦に対する撃沈許可が出ていたことを思い出したのだろう。
否定する言葉を続けることができなくなり、ただ唇を噛む。
「最初の一歩を踏み違えたせいで、この事実が管理されないまま一般に漏れると、間違いなく国はひっくり返ります……少なくとも、犠牲を減らすことができたのに、それをしてこなかったと追求される者が出ますから。政治家たちが恐れているのはそれだけでしょうけどね」
最初から艦娘たちの存在を明かし、投入すれば、間違いなく輸送船団や自衛官の犠牲は少なく済んだはずなのだ。
なぜ人間はそうしてこなかったのか。
「一番の問題は、艦娘の技術を転用したいと考えている連中。それができれば間違いなく莫大な利益が生まれます……だから、諸外国や同業者にできる限り知られたくない」
コンテナに描かれたロゴマークを見つめる横須賀司令。
確かにそれが可能になれば、状況は一気に好転するだろう。
けれど、それは夢物語だ。
何年もかけて基本的なこと一つすら解明できていないのだから。
時雨自身、何度その実験に付き合ってきたか。おそらく他の艦娘もだ。
この先いったいどれだけの時間が必要になるのか。
その裏でどれだけの血が流れるのか。
それを呑気に待っていられる余裕など、この国にはない。
「政治家たちは彼らの腹づもりを知っていても、それにぶら下がるしかない。うまくいけばそれまでの負債は帳消し。世界を数歩リードする立場にもなれるんです……金と権力。この二つが組み合わさっているんですから、血迷う人間が出てきてもおかしくはない」
それは人間の歴史の中で何度も繰り返されてきたことだ。
どうやっても否定することなどできはしない。
「そもそも、艦娘という存在が我々だけに与えられたなんていう都合のいい話もないでしょう。だからこうなった……きっと海の向こうでも似たようなもんでしょうね」
自分の生きている時代だけ、すべての指導者が清廉潔白などという都合の良い状況など起こるはずもない。
もちろん、事の大小に差はあるが。
「こんな時勢に、そんなことを考えている余裕があるのかね」
「余裕があるからこそなんですよ。ですが、ここらあたりで本来の道に立ち返らないと手遅れになります。その先に待っているのは勝ち目のない総力戦――人間にも艦娘にも犠牲が増える、そんな馬鹿げた救いのない未来です。だから目を覚ましてもらう必要がある。自分はそう思います」
「しかし、下手を打つとクーデターと見なされかねんぞ?」
艦長の懸念を横須賀司令はあっさりと笑い飛ばす。
「かもしれませんね……でも、誰かがやらなきゃいけない。なら――」
そのあとに続いた言葉を聞き取ることはできなかった。
おそらく、艦長にも足柄にも、だ。
「この一年で随分と変わったな」
艦長が眩しそうに横須賀司令を見る。
「昔のお前は絶対にそういうことは言わずに、むしろ逃げ回ってたはずなんだが」
「――やりたいこと、やるべきことを見つけただけですよ」
横須賀司令に浮かぶのは寂しそうな笑み。
そんな顔をする人間が大勢いた。
時雨の遠い記憶の中にあるそれらが蘇ってくる。
彼らの末路とともに。
時雨は声をかけるべきか迷う。
そもそも、どう聞けばいいというのか。
そうしているうちに、その笑みは消えてしまった。
はづきの通信士官が、プリントアウトされた通信文を手に駆け寄ってきたからだ。
「相模灘の掃除が終わりました。うちの明石が補充品を届けた後、横須賀へ救援を要請してください。スクリューの破損については、適当にごまかしていただくことになりますが」
「なんだ、もう暫くいるんじゃないのか?」
積もる話があるのだろう。艦長は心から残念そうに言う。
「自分は一足先に基地へ戻って、相模灘の件を上層部に突きつけてやりますよ……多少、誇張したり内容は改変したりはしますけどね」
その傍らでは、足柄がヘリと連絡を取り始めた。おそらく、ものの数分でやってくるだろう。
このままであれば、彼と接触を持てるのはこれが最後になるかもしれない。
「横須賀司令」
だから今度こそは意を決して、時雨は話しかける。どうしても聞いておかねばならないことが他にあるのだ。
「なんだ、時雨」
「僕、今の話を聞いていてよかったのかな?」
「なぜ?」
「情報部だよ、僕の所属」
艦長はさほど気にしていないと言うような顔をしているが、足柄はどうしたものかという顔をしている。
そして、横須賀司令は怪訝な顔をして、時雨を見つめていた。
何を言っているのか理解できないとばかりに。
「なぜ、お前は自分を危険にさらしてまで、はづきを救った?」
――人を守るのが艦娘の存在意義だから。
そう口にしようとして、時雨はそれこそが提督の言わんとしていることだと悟った。
時雨の表情の変化に気がついたのか、横須賀司令はニヤリと笑う。
「それが答えなら、俺がさっき話したことの重要性だって理解できるだろう? それを理解できるなら、どう動けばいいのかなんて説明するまでもない」
ちらりと後ろを見て、さらに続ける。
恐らくは足柄の態度を気にしたのだろう。
「それでも、残念ながらまだ確信は持てない。それも理解できるはずだ。だからこれは簡単なテストだと思ってくれればいい」
この話を聞いたところで情報部に与えられる選択肢は限られている。
情報操作には限度があるからだ。
人間は希望にすがる。希望を打ち消す話よりも、希望があると言う話を信じたいものだ。
そして、今はそれを容易に受け入れてしまえるだけの環境も揃っている。
そうさせない為には、速やかに直接的な対処をするしかない。
その動きがあれば、話の出処が時雨だと言うことはすぐにわかるし、その結果、横須賀司令や他の艦娘たちとの関係もそこで終わりになるだろう。
たとえ情報部とのつなぎを維持しつつ、横須賀司令のそばに近づいたとしても、状況が大きく変化して情報統制の意味などなくなっている。
その時、時雨にはなんらかの制裁措置があるだろうし、横須賀司令からの庇護を受けることもできない宙ぶらりんな存在になってしまう。
何をするにしても勝手だが、中途半端な立ち位置だけは許されない。旗色ははっきりさせなければならないだろう。
「俺としては必要ないと思うんだけど……後ろのオオカミさんの手前、な」
時雨だけに聞こえるように小さく囁く。
確かにその後ろでは、剣呑な表情をして足柄が成り行きを見守っていた、が。
時雨のその視線で何かを感じ取ったのか、足柄が横須賀司令の肩をトントンとつついて――
「また、私をダシに使ったわね?」
「気のせいだ、気のせい」
もう一度ニヤリと笑うと、横須賀司令は近づいてくるヘリに向かって歩き出す。
おそらくは常日頃から繰り返されているであろう、そのやりとりを聴きながら、時雨は自分の立つ場所を決めた。
「ああ、そうだ。明石から爆雷と燃料の補充を受けておくように」
何も起きていないのだ。艤装に使用された形跡が残っていては都合が悪い。
「わかったよ。整備もしておくね、提督」
背中からかけた了解の声に、なぜか横須賀司令こと提督はズルリと足を滑らせ、足柄は腹を抱えて笑っていた。
あんな風に心から笑える日が、自分にも来るのだろうか。
時雨はそんなことを思った。
続き
【艦これ】Fatal Error Systems【2】