食蜂「好きって言わせてみせるわぁ」その1
食蜂「好きって言わせてみせるわぁ」その2
食蜂「好きって言わせてみせるわぁ」その3

334 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/26 22:22:55.64 VsZoKgEE0 573/711

――施設内部


「つまりは現実逃避ってやつだ。能力を使うコツはおろか、自分が能力者だってことまですっかり忘れちまってる」

お手上げだとばかりに白衣の男が肩をすくめた。
だが、その目だけは、上条当麻の一挙一動をつぶさに観察している。

「見た目は同じでも中身はまったくの別人格。元の記憶を思い出させようとあれこれ尋ねてみたが、徒労に終わった。
どころか、自分が何故研究員たちから狙われ、今こうして捕えられているのかすら、覚えちゃいねえのさ」

「……お前ら、食蜂にいったい何を」

「オイオイ、ちっと考えりゃわかるだろ? やつの能力を利用しようと躍起になってる俺らが、んな真似して何の得があるってんだぁ?」

男は暗にこういっていた。
食蜂操祈は自ら無能力者になったのだと。

絶句した上条に、男はお構いなしに喋り続けた。

曰く、いまの食蜂操祈は常盤台の学生ではなく――そもそも常盤台中学という存在すら知らない。
曰く、ホテルに滞在中の、とある中学校に転入しようと考えている外部の人間。
曰く、彼女が能力開発で得たはずの莫大な収入は、亡くなった両親が残してくれた遺産ということになっている。

曰く、この学園都市には昔から親しい、友達以上彼氏未満の少年がいる。


全てを聞き終えた上条が、よろめくように後ずさった。

335 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/26 22:27:46.57 VsZoKgEE0 574/711

ふと、病院で布束が告げたことを思い出す。自分で自分に洗脳をかけた可能性について。
疑似の記憶を植え付けたのだとしたら、洗脳が滞っていることも有り得ると彼女は言っていた。
しかし、それはあくまでセキュリティを高めるための処置だったはず。

ここに来て、布束の仮説が正しかったということを再認識することはできた。
食蜂を自由に命令に従わせることができる状態なら、ここまで潜入される以前に誰かしら敵方の駒として洗脳されていたはずだからだ。
それはそれでいい。
だが、食蜂操祈は何ゆえに、わざわざ無能力者としての記憶を捏造したのか。
その理由に一つ、心当たりはあった。
認めたくない心当たりが。

「考えてみりゃ、何て事はない話だ。あの小娘は自分が、あるいは自分の持つ能力が、嫌いだったんだろうなぁ」

「……嫌いだって? ……どうしてんなことがテメエに」

「いやぁ、わかりきった話じゃねえかぁ? 周囲の人間から疎まれ、恐れられるのが当たり前の人生を送ってきたんだぜ? 人間不信以上に、自己不信に陥っていたって何ら不思議じゃねえだろぉ?」

聞いているうちに顔が歪みそうになるのを、上条は歯を食い縛って耐えた。
自分の右手が、今までになく重みを増した気がした。

もし食蜂に施された洗脳を幻想殺しで解いてしまえば。
彼女は全ての記憶を取り戻し、そして再び自分の能力と向き合わなくてはならなくなる。

336 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/26 22:43:00.15 VsZoKgEE0 575/711

記憶の上塗り。
食蜂操祈が望んだもう一つの自分。
何の能力も持たない無能力者。
誰の心も見えないし、洗脳だってできない、ごく普通の女の子。

上条は胸がひどく傷むのを感じた。
彼女が望んだありきたりの日常を、他ならぬ自分が奪い去り、苦しみを増やすことになるのではないか。

(いや……違う。そうじゃないだろ)

頭を振り、混乱した頭を立て直す。
そもそも能力を解かれることを前提に考えたプランなら、別人格に能力があろうがなかろうが関係ない。
それに、食蜂との関係を改善しようとしていた上条にとって、心理掌握の問題はいずれ向かい合わなければならなかったのだ。
何より、今の食蜂を取り巻く世界が非常に狭い範囲で完結してしまっているなら、なおさら洗脳を解かないわけにはいかない。

ゆっくりと深呼吸する。
この場で最優先するべきは食蜂の確保。それ以外にない。
男の言葉は今この場において、非常に重要な意味を持っているのだ。

「俺にとっちゃあ朗報だな。そりゃ」

「あぁん? そうなのか?」

「つまり、お前らの洗脳が捗ってないってことだよな。後はあんたと、あんたの後ろに控える親玉さえぶちのめせばめでたしめでたしってわけだ」

「本気でそう思ってるんだとしたら、めでたいのはお前さんの頭だなぁ」

「……何だと?」

337 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/26 22:51:24.82 VsZoKgEE0 576/711

「だってそうだろ? 洗脳が完了しないまま奪還しちまったところで、あの女が能力を取り戻す保証はないんだぜぇ?」

一理あるが、それは幻想殺しを知らない人間の言い分だ。
上条は幾分余裕が戻ってくるのを感じた。

「ま、運よく取り戻せたとしても、もう元の鞘には収まらねえだろうがな。年頃の娘が得体の知れない連中に拉致監禁されたとなれば一大スキャンダルだ」

確かに、その点は上条も懸念しているところだった。
イメージが壊れただの何だのと難癖をつけて、企業スポンサーの中からも手を引くところが出てこないとは限らない。
それどころか彼女の派閥の解体やレベルの見直しまであるかもしれない。
最悪能力がこのまま戻らなければ、レベル3以上の能力者御用達である常盤台を追い出されることにもなるだろう。

「これでわかっただろぉ? あの娘はもう何をどうやったって詰んでるんだよ。逃げ場はねえし自分で居場所を築くこともできねえ。ジ・エンドだ」

勝ち誇ったように語る男に、上条は頭をかったるそうに掻きながら、さも不思議そうに尋ねた。

「それが、何だってんだ?」

「……は?」

「能力を取り戻せようが取り戻せまいが、んなことはどうだっていい。心理掌握? 最強の精神系能力? 副産物に未練なんざ最初っからねえ」

「……、」

「とにもかくにもあいつの身柄を確保する。あとのことは、それからゆっくり考えるさ。二人でな」

白衣の男は怪訝そうに眉をひそめ、次いで合点がいったように顎を撫でた。

338 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/26 22:54:46.33 VsZoKgEE0 577/711

「あぁ、そういうこと。お前、あの難儀な女に惚れてんのか」

「……さぁな。取り戻せればそいつもいずれはっきりすんだろ」

男の軽口に、上条があっさりと返した。
茶化したわけではなさそうだった。あるいは、そうかもしれないという気持ちはあるのかもしれない。
難儀な、という部分も含めて。

それさえ確認できれば、あとは背中をそっと押すだけだ。
男は冷笑を浮かべ、温めていた言葉をさっと放った。

「くくく、間に合えばいいけどなぁ」

「……どういう意味だ?」

「あの小娘、ガキにしちゃあなかなかいい体していたからなぁ。他の研究者たちが邪な考えを抱かないって、どうして断言できる?」

全てを言い終える前に、上条の目が据わった。
狙い通りの展開だ。
確信はあれど、肌が泡立つのは止められそうになかった。
リスクのある試みに違いはないからだ。

「まぁまぁ、そんな殺気立つなよ。まだ話してないことはいくらでも」

話は無用だとばかりに、上条が力強く足を踏み出した。

339 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/26 23:01:02.40 VsZoKgEE0 578/711

男が乾いた唇を軽く舐めた。
この賭けで戦況をひっくり返す。
その決意とともに。


(そうだ、もっと近づいてこい)

脇腹に極力負荷がかからぬぎりぎり前のめりの体勢で、上条が近づいてくるのを待つ。
一歩、また一歩。スニーカーの滑り止めがきゅっきゅと甲高い音を鳴らしている。
力んでくれているなら都合がよかった。
大振りの攻撃ならこの体でもどうにか避けられる。

だがそこで、異変が生じた。
足音のリズムがわずかに狂ったのだ。
注視しないよう意識しながら上条の表情を伺うと、何かを堪えているようにも見えた。
たとえば、痛み。

束の間、男は記憶を辿っていた。
上条と相対した三日前の記憶を。

お互いの距離が5メートルほどに縮まったところで、男が白衣の袖の中に両手を引っ込めていく。
白衣の前ボタンは留まっておらず、いつでも脱げる状態だ。
自分のずぼらさ、ファッションへの無頓着さも時には役立つのかもしれないと男は思った。

はたと上条の呼気が止まり――


「――ォおおッ!」


身を低くして男目がけて驀進した。
その鋭い飛び込みに合わせて、男が腕を振り下ろした。
白衣の裾を掴んだまま。

340 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/26 23:11:04.78 VsZoKgEE0 579/711

「――ッ!」

翻った白衣が上条の視界から、男の姿を一時完全に覆い隠した。
踏み込みを停止した上条をよそに、男が先ほどの上条の頭の位置を正確にトレースし、たなびく布地の裏から渾身の突きを見舞った。

繰り出した拳骨が上条の頬肉に触れかけ――

「――つぅ!」

辛うじて上条が首を捻り、芯を外した。
またも皮一枚で逃れた上条に、男が内心で舌を巻いた。
あるいはこれで終わるのではと期待していた。
おそらくは白衣が巻き込まれるように動いたのを目の端に捉え、咄嗟に身を反らしたのだろう。
勝負勘の強さはまさに歴戦の傭兵並だ。

だが、それを隠れ蓑にした一撃までは読み切れなかったようだ。

「――――ぐぎっ!」

上条の口から苦鳴があがった。
男の一撃目を避けようと仰け反ったその位置に、狙い澄ました膝蹴りが放たれていた。
それが上条の太腿――三日前に刺し傷を負った場所に――寸分違わず命中した。

明らかに表情を一変させた上条に、男が獰猛な笑みを浮かべた。
先ほど微かに遅れたリズムから、三日前に負傷した左足が痛み出したのだと判断し、目論み通りの一撃をヒットさせたのだ。
学生ズボンの下では確実に傷口が開いていることだろう。
体が沈みかけた上条を見下ろし、男が勝利を決定づける追撃を放つべく拳を掲げた。

だが、そして、にわかに男の顔色が一変した。
すぐさま開いた傷口に向かうはずの上条の両手が、気づけば自分の肩にかけられていた。

341 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/26 23:17:06.87 VsZoKgEE0 580/711

「……へっ」

引き攣ったような笑いを見て、男の思考が凍りついた。
まさかという思いに襲われていた。

「……さっすが、どこまでも的確な戦術だよ」

「こっ、の、ガキ――――」

拳を振り下ろすよりわずかに早く、両肩を引きつけると同時に突き出された上条の頭突きが、男の鼻面を捉えた。
顎を強かに突き上げられ、背筋がぐんと引き延ばされ、痛めている腹筋が衝撃に耐えるべく収縮した。

「グギッ―――ッ!!」

途端、今までとは比べものにならないほどの激痛が走った。
上下の歯が欠けかねないほどに噛み合わさり、頬の筋肉がぴくぴくと痙攣した。

その絶好期に、上条が畳み掛けてくることはなかった。
思いきり蹴られたことに違いはなく、普通に痛みや痺れが残っているようだった。
蹴られた足を片手で抑えながら、地面を踏み鳴らす様に叩きつけている。
つぅと血が垂れてきた鼻を押さえながら、男が歯噛みした。

「こういう引っかけは好みじゃねえけど。もう四の五の言ってられねえからな」

342 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/26 23:30:52.33 VsZoKgEE0 581/711

「……てめえ、その足、治っているのか」

「あんたは、どう思う?」

問うまでもなかった。
既に男の中で答えは出ていた。
どんな手品を用いたかはわからないが、治っている。
少なくとも戦いに支障のない程度には回復しているのだ。
でなければ、あの痛烈な一撃に耐えきれるはずがない。

薬か何かで痛みを消している可能性も考えたが、すぐに思い直した。
痛覚を鈍らせたまま自分とここまで渡り合えるはずがない。それくらいの自負はある。

足を一瞬浮かせて踏み込みを和らげたのはフェイント。
あるいは、痛みをこらえるような表情を作ったのも。
怪我が完治か、限りなく完治に近い状態であることを、こちらに悟らせないために。
ありもしない弱点を捏造し、狙い通りに相手を、つまりは自分を誘い込み、まんまと一本せしめた。

自分の発言に上条が垣間見せていた怒りの形相すらも、今となっては本物かどうか判断がつかない。
その事実を認識し、男は背筋が泡立つのを感じた。
まるで、異国で初めて銃を突き付けられたときのように。

343 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/26 23:59:13.13 VsZoKgEE0 582/711

「何にしても、その様子じゃもう勝負はついただろ。どこか痛めてるみたいだし」

さすがに先ほどの痛がりかたではバレバレか。
男がちっと舌打ちした。

「わかんねぇなぁ。なんでそうまでする必要がある?」

男の問いに、上条が眉をひそめた。

「三日前にあんだけの目に遭わされて、文字通り死にかけて」

苛立たしげな声が、一瞬面白げな語気を帯びる。

「なのに何で、てめえは俺の目の前に立っている?」

傷が治った云々という話ではもちろんなかった。
耐え難い苦痛を与えられて死を間近に感じれば、誰だって恐怖を抱くはずなのだ。
そのトラウマになりかねない記憶を年若い男子がたったの数日で克服し
こうして自分と命のやり取りをしているということが、もう異常なのだ。

「不幸な境遇に情でも湧いたか? あんな化けモンのために、命を懸ける価値があるのか?」

「…………」

「てめえがどんだけ突っ張ったところで、あの小娘の居場所はどこにもねえぞ?」

「そりゃ、有り得ないな」

「……なに?」

「この不幸の申し子こと上条当麻にすら居場所が出来たんだぜ? 他のやつにできないわけがねえんだよ」

目の前の少年は平然と、憎たらしいまでに飄々と、そう言ってのけた。

344 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/27 00:05:23.07 wmsLYaSN0 583/711

「……筋金入りだな。馬鹿は死ななきゃ、治らねえらしい」

「その体でまだ戦おうっていうあんたも大概だろ」

「なるほど、否定はできねぇ――――なぁ!」


ふいに男が両手を振り上げ、すぐさま上条がそれに対応した。
互いの両手を両手で受け止め合い、そのまま部屋の中央で押し合いに移行する。

「……って、まだそんな力残してたのかよ!」

「悪党にだってなぁ。悪党なりの意地ってモンがあんだよぉ」

踏み込む度に走る脇腹の痛みを押し殺し、全身に残った力を余すことなく込める。
拮抗状態が徐々に崩れ始めた。
単純な腕力では上背のある自分が勝っている。
じりじりと体重をかけ、そのまま体を少しずつ前へ押し進める。

だがそこで、御しきれないと判断したのか、上条が唐突に腕の力を抜いた。

「うぉっ!?」

咄嗟の動きについていけず、男の体が前に泳いだ。
いなされた腕が上条の首を掠めたが、掴むまでには至らない。

咄嗟に男の視点が後ろへ向いた。
体が横向きになった無防備な瞬間を、果たしてこの少年は見逃してくれるだろうか。
そんな甘い考えは、殺気立った視線を受けて即座に投げ捨てた。

345 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/27 00:09:23.72 wmsLYaSN0 584/711

脳が急所を守るべきだと告げ、体が瞬時にその命令に従った。
長年培ってきた戦闘勘が腕を畳み、頭を低くし、痛めている脇腹と急所である頭部への攻撃に備えた。

右肩越しに、少年が拳を振り被ろうとしているのが見えた。
一発だけならくれてやる。耐えて、あわよくばカウンターを見舞って終わらせてやる。
そんな強気な思いは、次の瞬間あえなく霧散した。

振り上げられた右拳は、ほとんど動いていない。代わりに、男の視界が地面に向かって傾いていく。
体により近かった、死角になっていた左足で、無警戒だった軸足を引っかけられたのだ。

                、、、、、、、、、、、、
「人一倍プライドの高い女の子が、俺のために頭を下げたんだ」

一連の動作――顔に向けられた視線から、反撃に転じる挙動から、力強く握り締められた拳までもが――全てフェイントだった。
ようやくそれに気づいたが、もう手遅れだった。
ダメージにもならない、そっと押すような足払いを受けて。
支柱を失って崩れ落ちる建物のように、全身に込めたはずの力が行き場をなくしてさまよっていた。


「たとえ相手がどんなに強くたって、背負ってるモンが俺の何百倍重くたって」


何とか体勢を立て直さんとする思考の間隙を縫い――


「悪魔に魂売ってでもケツ捲るわけにはいかねえんだよッッ!!」


男の視界に今度こそ、上条の右拳が飛び込んできた。

全体重を一所に集約した一撃が頬に叩き込まれ、薬物で鋭敏になっていた神経細胞が悲鳴を上げた。
全身に電撃を浴びせられたように男の体が慄き、そのまま床に強かに叩きつけられた。


上条がゆっくりと拳を引き上げ、両膝に手を突いてぐっと体を支え、深く息をついた。
大の字に寝転がった男に、動き出す気配はもはやなかった。

346 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/27 00:16:33.50 wmsLYaSN0 585/711

――Bブロック、中央測定室


「遅いぞ。もう少し手際よくできんのか」

ドアが開くなり、先んじて部屋に移動していた木原が言った。

「も、申し訳ありません。この娘がほとんど動こうともしないもので」

言い訳しながらも、二人の研究者は脇に抱えている金髪の少女をそそくさと室内に運び入れた。
いつの間にか少女の格好が手術着になっていることに木原は気づいていたが、あえて何も言わなかった。
自分の許可も得ずに余計な真似をした部下たちの末路を
コバンザメのように付き従っていた彼らが知らないわけがなかった。

食蜂の様子は、有体に言ってぐったりとしていた。
疲労の極致にあるらしく、閉じたまぶたがぴくぴくと痙攣していて、支えられている状態でなお足元が覚束ない。
三日で5時間足らずしか睡眠を取らせていないのだから当然だ。
彼らが手を放せばすぐにでも床に崩れ落ちるだろう。
これなら作業も捗りそうだ、と木原は思った。

347 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/27 00:21:10.87 wmsLYaSN0 586/711

疲弊した頭に、洗脳はよく染み込む。
実際、一日目二日目と比べて、三日目は一気に精神解析が進んでいた。
脳の防衛機能、記憶のロジック化のスピードが鈍っているためだ。

途切れることなく送り込まれたデータ――木原や研究者たちに従順に従わせるために捏造した記憶を
今までは食蜂の脳に施されたプロテクトが何とか拒んできた。
だが、今は頭のみならず体にかかる負荷が大きすぎて、セキュリティを維持できる状態ではない。
動画などの大きなデータを延々と読み込み続けた挙句、放熱に全力を傾けているパソコンのようなものだ。

確保の際、多少の怪我をさせることを厭わなかったのもそこに理由があった。
無傷で確保できるならそれでよし。多少の傷を負っていたとしてそれは持続的な苦痛をもたらし
肉体と精神を疲弊させるのに都合がよかった。
その隙をつけば解析速度も上がる。そう考えたのだ。

装置による解析効率を上げるために、木原たちはこの三日間、食蜂の精神と体とを徹底的に苛め抜いた。
心理掌握を意のままに操ることができれば、先のポルターガイスト騒動のときとは比較にならない規模で
精神の同調を行うことが出来、AIM拡散力場の相乗的な運用法を確立できる。
それこそが、ここにいる木原の目指す到達点だった。

348 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/27 00:26:26.55 wmsLYaSN0 587/711

レベル6に至るために樹形図の設計者が示した数多のプラン。
その一つ、量産化計画に従って進めてきた研究を、一時は全て台無しにされかけた。

食蜂操祈の能力開発が予想以上の成果を上げ、それによって量産化計画が頓挫。
やむなく乗り換えようとしたプランには、当然のように他の『木原』の手が回っていた。

日陰者の中の落伍者としてあからさまな侮蔑の視線に耐えながらも
木原は根気強く樹形図の設計者のプログラムを検証し続け、新たなプランを打ちたてようと躍起になった。
その一方で潰された計画を再利用し、かねてより温めていた学生以外による能力発現の実験も欠かさず行った。
手間を惜しまずに根回しを重ね、不測の事態に備えて不倶戴天の敵ともいえる魔術サイドと協力関係を築いた。

そしてこの夏、学園都市の根幹を揺るがす大事件が発生し、その勢力図は一変した。
樹形図の設計者を積んだ衛星が何者かに撃墜されてしまったのだ。
人工知能の計算能力に頼りきっていた研究者たちの大半が堕ちた衛星ともども権威を失墜し
生き延びた実験の中で最有力視されていた絶対能力者計画までもが、被験者である第一位の敗北によって終焉を迎えた。

飛躍はこの機をおいて他にはない。そう木原は確信した。
今こそ先を行っていた研究者たちを、自分以外の『木原』を出し抜き、見返すチャンスだった。
部下たちに秘密裏に命じてアップデートを繰り返させていた新型の洗脳装置を用い
自らが監修した技術を用いて再び第一線で活躍する研究者に返り咲く。
かつて自分を追い詰めた少女は、そのための踏み台だった。

349 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/27 00:33:51.30 wmsLYaSN0 588/711

「さぁ、あまりもたもたしている暇はないぞ。洗脳の準備を始めたまえ」

研究者たちがうなずき、食蜂を医療介護用の拘束椅子に座らせた。
食蜂はほとんど抵抗しなかった。
衰弱しきっていて出来ないというのが正しかった。

黒い革製のベルトにきつく締めつけられた肢体が、手際よく測定用の電極やパットで飾られていった。
そのコードの多さたるや、スタジオのパッチベイやミキサーなどの音響機材を髣髴とさせた。
厳然たる事実として、木原やその他の研究者たちにとって、食蜂操祈の存在は一つの器材にすぎなかった。
己の目的を、野望を、欲望を満たすために欠かせない道具だった。

これでもし実験が成功すれば、少女は用済みだ。
実験が失敗したら、やはり少女は必要ない。
せいぜい、実験とは関係のないところで活用させてもらうくらいだろう。

「君のことだから、そちらでも頑張れば頂点を目指せるかもしれないねぇ」

手術着の裾からはみ出した白い太腿に指先を這わせながら、木原が忍び笑いを漏らした。
そのおぞましい感触に食蜂が身じろぎしたが、手足が椅子に固定されていては逃れることすらままならない。

350 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/27 00:50:14.21 wmsLYaSN0 589/711

「み…………」

「何だね? やっと許しを乞おうという気になったかね?」

「かみ……じょ……」

「……またそれかね」

木原がひどく傷ついたように言った。
およそ接点のなさそうな人間の固有名詞に何を縋っているのか理解不能だった。

ざわめきが耳に入り、次いで人目があることを思い出して揉み手をしながら部屋を見回す。
幸い研究者たちは木原たちに注目しておらず、揃って宙を不安げに見つめていた。
壁面に埋め込まれているモニター群を。
木原が怪訝そうに顔を上げると――

地上を映す最上段のモニターはほとんどがブラックアウトし、機能を停止している。
超電磁砲か、ハッカーの仕業だろう。
その一つ下、左上にあるモニターでは上条がまさに一騎打ちを制したところだった。
その右隣ではいくつもの金属塊に分解された駆動鎧の残骸が見える。
そしてそのすぐ下では――

「――馬鹿な、あの連中を相手にして」

さしもの木原が瞠目した。
施設内でもっとも防衛戦力を有しているはずの猟犬と魔術師の混成部隊。
それがあろうことか、たった二人の少女の手によって、壊滅に追い込まれていた。

352 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/27 00:59:54.60 wmsLYaSN0 590/711

――Cブロック:多目的ホール


「これで、あらかた片付いたかァ?」

少女が黒い長髪を鬱陶しそうにかき分けながら、阿鼻叫喚の地獄と化したホール内をざっと見回す。
満足に動ける者はどこにもいない。
息絶えている者と重傷者が半々で、軽傷者は0。
十二分に役割を果たしたと言えるだろう。

倒れている者たちの中には衣を纏った魔術師と思しき男も数人混じっていた。
最初の一斉射で頭や胸を穿たれ、そのほとんどが実力を発揮する間もなく力尽きている。

「しっかし土御門の野郎。よくよく悪知恵が回るよなァ」

そう言いながら、少女を装った少年が、被っているウィッグの前髪を抓んだ。

白髪に色白の体。鋭すぎる目つき。
学園都市で最も有名な人物の一人、第一位の容姿を敵が知らないはずはない。

それを逆手に取るために、土御門は潜入作戦において、畏れ多くも一方通行に女装を命じた。

353 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/27 01:04:47.53 wmsLYaSN0 591/711

相手方が一方通行の能力に制限がかかっていることを知っているかはわからなかったが
洗脳されるリスクは少しでも低くするべきだ。
打ち止めちゃんのためにも、万が一のことがあっちゃいかんぜよ。
土御門は渋る一方通行をそうやってなだめすかした。

必要事項であり、動物園で私闘を優先した罰でもあるのだと言っていたが
仲間たちの目からすると明らかに楽しんでいる向きがあった。

元々細身の体型であるため、少女に変装するのはさほど難しい作業ではなかった。
白髪を隠すために黒髪のウィッグを被り、キャラクターTシャツにライトグリーンのカーデガンを羽織っただけで
元の面影の大部分が消えた。
結標と打ち止めが部屋の隅で口を抑えて笑うのを必死に耐えていることに目をつむれば、概ね文句はなかった。
さらに小さな瞳を大きく見せるべく青のカラーコンタクトを装着させ
補助演算装置にライトピンクのファーをつけたところで

「ちょ、ちょっと失礼。用事を思い出しました」

先の戦いでの負傷が元で今回は戦線離脱しているエツァリが、微妙に頬をひくつかせながら部屋を出ていった。

354 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/27 01:08:19.50 wmsLYaSN0 592/711

「……つ、土御門クゥン?」

「ふむ……後はローファーとブリーツスカートさえあれば、誰が見ても完璧女子校生なんだが」

「ぶふっ! や、やめてよ土御門、そ、想像しちゃったじゃない」

「ミサカはミサカは、そんなステキなあなたと一緒にプリクラしてマイアルバムに飾りたいって切々と訴えてみたり!」

土御門と打ち止めの言葉を受けてついに腹を抱えて笑い出した結標に、一方通行の肩がわなわなと震え出した。

「ざっけンなクソガキ! スカートなんざ死ンでも穿くか! 別人装うってンならこれで十分だろうが!」

「わかったわかった。じゃあスカートはやめて――」

嬉々として土御門が紙袋から出したのは、どんなファッションにも合う純白の長ソックスと、シャコールグレーのハーフパンツ。
着飾られた一方通行は生来の色白の肌も相まって、どこからどう見ても少女にしか見えなかった。


そして、そんな格好の一方通行が戦場に姿を現すと、猟犬たちはほとんど無警戒で襲撃を仕掛けてきた。

355 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/27 01:17:10.02 wmsLYaSN0 593/711

一方通行は常時反射ではなく、常時ベクトル0にする手法を用いてこれを迎え撃った。
いかに一方通行の能力が絶対的であっても、敵に魔術師が混じっている以上正面からやり合うのはリスクがある。
それは魔術師と戦った一方通行もうなずかざるを得ない忠告だった。

結果、姿、能力ともに第一位とは別の人物を装い、短時間で敵を攻略するための戦術。
かくして、一方通行の周囲に展開されているAIM拡散力場に触れた猟犬たちは宇宙ステーションの無重力遊泳のように宙を舞った。
異変に気づいた敵が立て続けに放った無数の銃弾や属性魔術の全てが、やはり同じように空中で静止した。

「ヤツの入れ知恵ってのがまた癪だが、まっ、今回だけは目をつむってやるかねェ!」

そして、一方通行が指揮者のごとく両手を振り降ろすや否や、停滞していたものが全方位へと飛散した。
その一撃で、勝敗の帰趨は決した。
大小の銃弾や炎弾や雷撃が反射し、それらを撃った相手の方に逆戻りした。
もちろん、迂闊にも容姿に騙されて近づいてきていた猟犬たちは、総じて天井や壁や床に叩きつけられた。
能力に対抗策を立てさせる間もなく、どころか、能力の正体を悟らせることもなく全滅させたのだ。

356 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/27 01:19:21.15 wmsLYaSN0 594/711

「うぅ、おぇ……」

「結標ェ。そのザマで、よく前回自分も行くとか抜かせたもンだなァ?」

「ひ、開けた場所ではもう大分平気なのよ。屋内とか、狭い場所での座標移動が――血の臭いもひどいし、うっぷ」

「以前の事故のトラウマってやつか、みっともねェ。俺を殺せる数少ない人材のクセに」

「俺とか言っちゃだめでしょ? 今のあなたはカワイイ女の子、……鈴科百合子ちゃんなんだから」

「……テメェは、しまいには本気でぶちコロすぞ? つうかなンだァその芋臭い名前ェ」

「そんな可愛い顔で凄まれても全く怖くないし。あ、名前は土御門が勝手につけたみたいよ」

「……あのヤロ。やっぱり帰ったらぶっ殺す」

歯を軋ませる一方通行を横目に、ようやく吐き気が落ち着いて来たのか、結標がふらつきながらも膝をゆっくりと伸ばす。

「ていうかね、私があなたをって、そんな簡単に言わないでくれる? 瞬間移動も含めて全部反射しちゃうってのに」

「いやァ、不意をつけばあっさりと片がつくだろォ?」

「ど、どうやってよ」

357 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/27 01:27:10.17 wmsLYaSN0 595/711

「たとえばだが、絶縁フィルムを貼りつけた板で四方を囲っちまうとかどうヨ?」

「……え、……あ、そっか」

現状、一方通行の体は、補助機なしでは体の隅々に命令を行き渡らせることができず、起き上がることもままならない状態だ。
ミサカネットワークなくしては解析以前に日常生活を送ることすらできない。
並のジャミングでは妨害不可能だが、電波を完全に遮断する箱に閉じ込めてしまえば
その瞬間に一方通行は戦闘不能になる。
教室中の机や椅子を一瞬で相手に叩き落とせる結標にとって、その程度のことは朝飯前だろう。

「……気づかなかった。触れなければ反射しないってのも弱点だったのね」

「今の俺に、じっくりと嬲り殺しにするような戦い方は向いてねェ。足を止めていたら相手に付け込む隙を与えるだけだ」

「そんな当たり前のことに気づかせないほど、怪我をする以前のあなたが完全無欠だったってことか」

「バカ言ってンな。本当に完全無欠ならあんな三下に負けてなんかねェっつうの」

「そんなこと言って、実は負けてよかったと思ってるんでしょ?」

「……ハッ、ンなワケねェだろ?」

「あら、そ。あなたがそう言うなら、そういうことにしておくけど」

「……そンだけ喋る元気があンなら、あと二箇所くらいは回れそうだなァ」

「ちょっ、勘弁してよ! 本当にきついんだってば!」

文句を投げかけてくる結漂をしり目に、一方通行が慣れないウィッグのズレを直した。

373 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/30 23:05:44.74 uDSMsl330 596/711

硝煙立ち込める中、今しも走行中の装甲車の屋根に片膝をついた美琴が、ゆっくりと手を振り上げる。
すると、地面に横たわっていたいくつかの傘の残骸が浮かび上がり、先行している装甲車を追い始めた。

十本ほどの骨組みが車両に追いつき、まるで美琴を守るように寄り集まる。
かと思うと、強力な磁力を受けて蛸足のようにくねり出した。
砂鉄をも武器にするレベル5の演算力をもってすれば、金属部分が完全に失われない限りその支配は盤石だ。

折れ曲がったろくろの部分から伸びている軸が、ギチギチと耳障りな音を立てながら太い柄に巻きついていく。
即席の鉄槍と化したそれらには目もくれず、美琴が右手前方を走る戦車を見据え、ぱちんと指を鳴らした。
途端に槍が高速回転を始め、電動ドリルのように先端部分の輪郭が曖昧になった。

374 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/30 23:10:58.54 uDSMsl330 597/711

右手を直進する戦車に接近したのを見計らい、美琴が標的に向かって迅速に腕を振るった。
水平方向に撃ち出された槍が唸りを上げて戦車の左側の履帯上部に命中。
そのほとんどが弾き返されたが、それでも一本が連結部品の隙間に突き刺さった。
いかに分厚い装甲を纏っていようと部分的に脆い部分は存在する。
美琴がその一点に向けて、間断なく電撃の槍を放った。

けれども、いち早く戦車が進路を変えると、その拍子に履帯に挟まっていた槍はあっさりとへし折られた。
美琴の電撃があっけなく分厚い装甲に弾かれ、直後に後背へ向けられた戦車の機銃が火を噴いたものの、
敵の動きを予見していた運転手、黄泉川愛理が急ハンドルを切り、後輪を滑らせて銃弾の嵐から逃れる。
美琴の体が左右に大きく揺れ、つんのめるように屋根に両手をついた。
足場は磁力できっちり密着していたが、重心を車の挙動に合わせる余裕まではなかった。

「……くっ、これでもダメか! 本っ当、無駄に堅すぎ!」

「そんなに焦らなくたっていいじゃん。本命は別にあるんだろ?」

装甲車を運転する黄泉川が窓から半身を乗り出し、サイドミラー越しに慰めの言葉をかけた。

375 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/30 23:20:37.36 uDSMsl330 598/711

美琴が黄泉川の飄然とした顔を見返した。
自分が作戦を告げたときと同じ顔だった。
本心は決して穏やかじゃないはずだ。
時間をかけたらかけただけ、自分や隊員が命を失うリスクが増すのだから。

そんな、当たれば即ゲームオーバーの状況にもかかわらず
自分を勇気づける余裕があることに、美琴は驚きを禁じ得なかった。
単なる強がりではなく、彼女の言葉には力と意志が込められているのがわかる。


学園都市が主導してきた妹たちの実験がこれまで見過ごされてきたことを、美琴は快く思っていなかった。
この都市において、警察の役割の大部分果たす警備員や風紀委員だが、与えられている権限は警察より小さい。
組織図で表すなら警備員も風紀委員も、学園都市の管轄下にある。
頭ではわかっている。
だが、それでも、大人には弱者を守るために戦ってほしかったし、動いてほしかった。
それをしてこなかった二つの組織に、美琴は一時完全に失望していた。

376 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/30 23:27:45.94 uDSMsl330 599/711

たとえ無限に製造できても、18万円で作り出せるのだとしても。
美琴の目から見て、殺された彼女たちは、しかし確固とした意志を持つ人間だった。
だからこそ、行きすぎた権力の乱用を戒め、弱い者を守ってくれるはずの警備員や風紀委員が
妹たちを人間としてではなく、消耗品として認識したのだと落胆した。

しかし組織図全体ではそうであっても、個人に目を向ければどうか。
今こうして、自分の体と命を張って誰かを守ろうとする志の高い警備員が大勢いるのも確かだった。
ことに分隊の指揮権を任されていた黄泉川愛理という女性は、二重の意味で自分の首が飛ぶリスクを承知でこの作戦に乗っかってくれた。
その心意気にはどうにかして応えたかったし、きっと黒子も同じ気持ちだろうと思った。


――――pr


何度目かの牽制を終えた後で、美琴の携帯が胸ポケットで一度だけ、コール音を鳴らした。

377 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/30 23:30:58.67 uDSMsl330 600/711

「お待たせしました、準備ができたみたいです」

「わかった。――みんな、話は無線を通して聞いているな」

『はい、隊長』

「では、現時刻より標的をポイントDに誘導する。砲撃の発射間隔を見誤るなよ」

『了解』

『任せてください』

『皆さん、ご無事で!』

ノイズの混じった、緊張感に満ちた短い返信に、美琴の唇がぐっと引き結ばれた。


「さぁ、追いかけっこを終わらせるじゃん」

「はいっ!」

378 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/30 23:39:21.45 uDSMsl330 601/711

警備員の駆る車両たちを追い回しながら、運転席の男がメーター系に視線を落とす。
時速は80キロ強。
重量50トンの車重を引っ張るのは1500馬力を誇るディーゼルエンジンだ。
不整地ならいざ知らず、きちんと舗装された道ならこれくらいの速度は問題なく出る。

前方では警備員の車両が二台、蛇行しながら走行中だ。
どちらに狙いを定めてやろうかと砲手の男が視線を左右に動かし、そこで異変に気づいた。
敵車両の排気煙の量があまりにも多すぎるのだ。

煙幕を張ろうとしているのだと悟り、男が即座に左側の車両に狙いをつけ、主砲を発射した。
砲火が噴煙に大穴を穿ち、遅れて轟音が轟いた。
サーモグラフィに変化がないのを見て、男が舌打ちした。
車両が炎上すれば一目でわかるような熱量が生じるはずだからだ。

379 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/30 23:47:30.97 uDSMsl330 602/711

ただでさえ硝煙で曇り始めていた敷地内の視界は悪化の一途を辿り、付近一帯は灰色の霧に包まれたような有様だ。

おそらくは視界を奪って隙をつくつもりだろうが、これは明らかな相手側の悪手だ。
この戦車には高性能レーダーが搭載されている。
最新式の電探と、カスタマイズされたサーモグラフィが。

電探は微弱な電波を飛ばし、その反射波を感知して敵の位置を捕捉できるという優れものだ。
運用上の問題があるとすれば、超電磁砲が雷撃を放つ数秒前後ではその精度が著しく低下してしまうことだろうか。

そして、サーモグラフィは対人用に改良したもので、体温程度の熱源をも正確に感知できる。
外気温と物体の温度差がプラスマイナス10度の範囲外であれば、誰がどの方角にいるかを特定できる。
空を飛ぶ瞬間移動能力者にすぐに狙いを定められたのもこの装置のおかげだ。


「いい加減新車両にも慣れてきたろ。そろそろ一台くらい仕留めてみせろよ」

「わかってるよ、そっちも安全運転で頼むぜ」

380 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/30 23:53:21.92 uDSMsl330 603/711

レーダーと外部カメラを往復しながら、運転手が最も近い車両への適性射角を取ろうと操縦桿を動かす。
そうしている間にも機銃の何発かが命中しているのだろう。驟雨がトタンを打つような音が断続的に鳴っている。
逆に言えば、戦車にとって銃撃などその程度だということだ。
無駄なあがきを無視し、赤い光点が照準内に入るのを確認して砲撃ボタンに手をかけた。

前触れもなく速度が落ち、遅れて砲弾が放たれた。
攻撃が外れたのは確認するまでもなかった。
運転席の後ろから砲撃手の叱咤が届けられる。

「何をやってる! もう少しで当てられたってえのに!」

「い、いや、待ってくれよ! アクセルを緩めた覚えは――」

「おい、後ろだ! つけられてるぞ」

煙が薄れ、後背から追ってきている装甲車が見えた。
その屋根の上に、先ほど雷を落としてきた茶髪の少女を乗せて。
学園都市第三位。常盤台の超電磁砲。

反射的にもう一人、瞬間移動能力者の少女を探す。
が、今は彼女の傍にはいないようだった。

381 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/09/30 23:58:20.89 uDSMsl330 604/711

「……そうか、あの女だ」

「え、何がだ?」

砲手の男が砲弾を装填しようとしていた手を止めた。

「さっきの意味不明な減速だよ。高位の電撃使いは磁力も操れるって聞いたことがある」

「……そうか。レベル5ともなれば、一時的に磁力干渉で車の動きを鈍らせることだって」

「思った以上に面倒な相手だな。一人で一個師団に匹敵するというのも納得だ」

「他にもどんな隠し玉を持っているかわからん。早めに始末したほうがいいんじゃないのか」

砲手の提案に二人が同意し、戦車が再び進路を変えた。

その直後、外部カメラに閃光が過ぎった。
一瞬遅れて轟音が轟き、戦車の後方にあったアスファルトが一気に引っぺがされた。

382 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/10/01 00:03:51.10 JywB0ZXH0 605/711

「――なんだ、今のは!?」

「あの女だ! 何かレーザーみたいなもんを出しやがった!」

視界が悪いながらも、外部カメラではっきりとそれが確認できた。
光の残像が空間に焼き付けられ、50mほどに渡ってオレンジ色の帯を引いている。

「……撃たせるな、牽制しろ!」

「了解!」

装甲車がさらに距離を詰めようかという段になって、戦車の機銃が後方へ向きを変えた。
狙いをつけられたことに気づいたのだろう。敵車両が即座にハンドルを切り、左手に遠ざかっていく。

「……ひとまずは難を逃れたが、どうするよ」

「あんなのを当てられたら、さすがにこっちも無事じゃ済まない。やはり早々に処理するべきだ」

383 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/10/01 00:17:31.68 JywB0ZXH0 606/711

必然、戦車が美琴の搭乗する車両を追い始めた。

とはいえ、視界は悪化したままだし、装甲車の運転手も相当な手練れドライバーなのだろう。
急加速、急減速を繰り返して照準になかなか入って来ない。

戦車は確かに強力な支援火器だが、一人で動かすことはできない代物でもある。
よほど息が合ったチームでない限り、走行しながら的に当てるのは難しい。
電探を駆使して照準に入った瞬間撃ったつもりでも、相互連絡による0コンマ何秒かの遅れが予測と結果に思わぬ誤差を生むのだ。

そうして敵車両に当てようと四苦八苦している最中にも、側面や後方では警備員たちの装甲車が接近と退却を繰り返し、散発的な抵抗を試みている。
ダメージにならないはずの銃弾の音も、余裕のない状況では苛立ちを募らせるには十分だった。

384 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/10/01 00:21:20.30 JywB0ZXH0 607/711

「キンキンカンカンうるせえな――――って、おい、上空にまた反応があるぞ」

「上空? あぁ、瞬間移動能力者のガキだろ。たった一人じゃ何もできやしねえよ」

「今は超電磁砲の対処が急務だ。このまま時間を稼がれて対戦車ロケットなんぞを持ちこまれてみろ。それこそ――」

ふいに計器類にノイズが走り、ほとんど同時に車内灯とスイッチの蛍光が一斉にダウン。
のみならず、発電機のモーターが勢いを失い、みるみるうちにキャタピラの動きがぎこちなくなった。

「ちょっ、何がどうなってる!? 明かりをつけろ!」

「だ、駄目だ! 復旧しない!」

猟犬たちの叫びもむなしく、その重厚な車両は、先ほどまで猛威を振るっていたのが嘘のように沈黙していた。

386 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/10/01 00:29:58.73 JywB0ZXH0 608/711

「よっ――と」

美琴が装甲車の屋根から颯爽と飛び降り、停止した敵戦車を見上げた。
砲塔はあさっての方向を向いたまま動こうともしない。
今頃戦車のコクピット内はパニックだろう。

「うん、上出来上出来」

美琴が目元の前髪を横に払いながら、戦車の横に突き出た金属片に流し目を送った。
磁性体に外部磁場をかけたとき、その磁性体が磁気的に分極して磁石となる現象を磁化と呼ぶ。
磁石にくっつけた砂鉄同士が寄り集まるあの現象だ。
その反応を利用し、美琴は戦闘で落とされた傘の骨組みを磁力で連結し、巨大な血管模型のようなオブジェを作成した。
出来上がったそれを黒子に託し、警備員の協力で戦車を誘導した上で、車体の下部に転移させる。
これこそ、美琴が考え付いた作戦の全容だった。

387 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/10/01 00:34:33.76 JywB0ZXH0 609/711

黒子が一度に転移可能な重量はおおよそ130キログラムまで。
傘一本の重量などたかが知れているし、用意したものを全て繋げたところで限界重量の半分にも達しない。
また、内部転移の際は、元々そこにある物質を押しのけて転移するため、装甲の強度など何ら問題にならない。

形状が複雑であるがゆえに転移の演算にはいささか時間を費やしたが、そこは美琴と警備員が時間を稼いで補えばいい。
一度だけ放ってみせた超電磁砲も、当てるつもりなど全くなかった。
単に、敵戦車を黒子が上空で待ち受けるポイントに陽動するために行ったのだ。

あるいは、その物体を目にすれば相手側も何をする気かを察し、対策を練れたかもしれない。
だがしかし、警備員たちが焚いたスモークで周囲の視界を悪化させれば、オブジェが見つかる可能性はかなり低くなる。
そして、車両表面の絶縁体さえ貫通してしまえば、枝分かれした金属部分を伝って機関部まで電撃を導く道理である。

狙いが見事に嵌った形だが、いくつかの機能を奪えれば御の字と考えていた手前、完全停止はできすぎとも言えた。
ともあれ、動かなくなった戦車など棺桶も同じだ。
状況を察したのか、乗組員の男たちが大慌てで上部ハッチから飛び出してきた。


「さっすが黒子、完璧なタイミングだったわ」

「お姉様こそ、素晴らしいアイディアでしたの」


地面に降り立ったばかりの黒子が、片手を挙げた美琴とすれ違いざまにハイタッチを交わす。
背中合わせに立つ二人の両脇を、警備員の車両が一台、また一台と通過し、逃走する敵を追い立てていく。

猟犬部隊が辛うじて維持してきた地上の防波堤は、この時をもって全面的に瓦解した。

388 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/10/01 00:43:44.44 JywB0ZXH0 610/711

――施設内下層


時折、遠くから響いてくる轟音を気にかけながらも、上条当麻は薄暗い通用路を突き進む。

体調は7割弱。
あの白衣の男を倒したときには、それこそベッドに身を投げ出したいくらいに疲弊していたはずだったが、
現在進行形で体力が徐々に回復してきているのを実感する。
走れば走るほど呼吸が落ち着いてくることなど、健全な状況とはとても言えない。
やはり禁書というだけあって強力な魔術なのだろう。

ポケットを左手でまさぐり、ステイルから譲り受けた4枚のタロットを確認する。
そのうちの2枚は白紙だった。
元々何も描かれていなかったというわけではなく、記されていたルーンが魔力を消費し尽くし、消滅してしまっているのだ。

「残り2枚、か。ぎりぎり、持ちそうかな」

顔を上げると、20メートルほど先に電子扉が見えた。

390 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2013/10/01 00:51:01.54 JywB0ZXH0 611/711

意を決して上条が扉に近づいていく。
扉の脇には電子パネルが備わっていたが、それに触れるまでもなく、数歩手前で隔壁が横にスライドした。
どうやらお待ちかねということらしい。

半ば警戒しながら上条が足を踏み入れた。
中は多目的ホールといった風合いで、床には鉄球らしきものが散らばっている。
と、天井の照明が一斉に点灯した。

上条が腕で目を庇いながら、周囲の様子を窺う。
ほとんど同時に、パチパチと、音が鳴り始めた。


「よくぞここまで辿り着いた、素晴らしいショーだったよ。まさか生身で彼を退けられる人間がいるとはね」


先ほどの男と同じく、やはり研究員といった風合いの初老の男がそこにいた。

3 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 01:16:38.64 igNzDGpD0 612/711

「……そうか。テメェが、食蜂の誘拐を主導した研究者か」

顔合わせ早々の喧嘩腰な態度に、大いなる誤解があるようだ、と初老の男が白髪交じりの髪を撫で擦った。

「騒動の大元は彼女に端を欲している。謂わばこちらは被害者で、事情を知りもしない部外者から罪人呼ばわりされるのは不本意だな」

やや後退した頭髪に尖った顎。白衣を纏う体は中肉中背で、特別鍛えているようには見えない。
背丈にしても自分とさして変わらず、先ほど戦った傭兵上がりと思しき男とは比べるべくもない。
誰がどう見たところで、どこの施設にもいそうな研究者という評価に落ち着くだろう。
学園都市では半ば背景の一部と化しているような存在感の希薄さだ。

「被害者だ? 研究を妨害されたことを根に持ってるってんならお門違いだろ。あんなの、実態を知りゃ誰だって逃げ腰になるだろうさ」

「そんな軽い一言で片づけられてはたまらんね。人生を捧げて打ちこんできたものを頓挫させられたんだ。
子どもの悪戯じゃ済まないことだって世の中にはある」

にもかかわらず、並み居る強敵たちと対峙してきた経験が、脳裏に警鐘を鳴らし続けている。
この男が、今まで戦ってきた誰より、危険な存在だということを。

4 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 01:21:26.21 igNzDGpD0 613/711

「本心からの言葉だとしたら付ける薬がねえな。
利用するだけ利用しておいて、意に沿わなくなったら今度は意のままにってか。どんだけ自分本位なんだよ」

「過去の所業に対する制裁の意味がないとは言わんがね。
完成間近のギネス級ドミノを、ど真ん中から蹴倒すような真似をされたんだ。それも故意に。
対応がいささか大人気ないものになったとして、やむを得ないと思わないかね」

まるで壁に話しかけているような手応えのなさ。
薄々そうだろうと気づいてはいたが、目の前の男は食蜂の拉致に関して、罪悪感など微塵も感じていないらしい。

「……そっちの主張はわかった。何言ったところで、引き渡す気はねえってわけだ」

「いやいや、使い終わったら返してやって構わんとも。もっとも、どこかしらガタが来てるかわからんがね」

「――あぁ、そうかよ」

尋ねるという行為自体、馬鹿げたことだったらしい。
元より話が通じる相手なら事態がここまで拗れるはずもないのだ。

忠告はしたからな。
そう吐き捨てた上条に、木原が腹の底から溜め息。

「老いも若きも変わらんな。頭の足りない連中はどうして感情で物事を推し量ろうとするのか。私の手がけている研究が人類のためにどれだけ偉大なのか、理解しようとさえしない」

「犠牲ありきの技術革新なんざクソ食らえだってんだよ」

「それこそ、いつの世にも絶えぬ弱者の戯言の最たるものだ。弱肉強食に不平を述べるとは笑わせる。獅子が鼠にすべき遠慮が、この世のどこにあるというのだね?」

傲慢な物言いに、上条の目が細まった。


「鼠だって食われるために生きてるわけじゃねえ。止まる気がないってんなら、止まる気にさせてやるまでだ」

5 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 01:26:14.89 igNzDGpD0 614/711

身近にいる人間が手酷く傷つけられて、それでも無抵抗主義を貫ける者などいるはずがない。
座して死を待つ哲学など、上条当麻の辞書には登録されていない。
布束の前で自戒した通り、諦めの悪いことだけが、自分の取り柄だ。

「力づくか。しかし、君ごときに何ができるのかな」

木原が口の端を歪めながら笑った。
その態度に上条がすぐさま反発する。

「こっちもいい加減、言動に気を遣えねえ程度にはキてんだわ。
アンタのその余裕面を――――歪めてやりたくなるくらいにはなぁっ!」


言葉の途中で突進に転じた上条が、中段に構えた拳をすぐさま振り抜こうとした。
その矢先――

「ぐぁっ!?」

左肩口に予期せぬ衝撃を見舞われた。木原のすぐ横を歩かされ、つんのめるように上条が倒れ込む。
打ち付けそうになった顔を庇い、突いた手のひらの周り、磨き抜かれた金属床に過ぎるいくつもの影を認めた。
先ほどまで床に転がっていたはずの金属球。
それがあたかも命を吹き込まれたように浮遊している。

「……ぐ、こいつ、は」

「どうして屈強な傭兵や魔術師どもが、私のようなひょろい研究者の命令に従っていたのだと思う?」

物腰穏やかなままに、木原が不敵な笑みを浮かべた。

6 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 01:34:11.05 igNzDGpD0 615/711

講義のようにゆったりと投げかけられた質問が、上条の脳裏に高額な報酬を連想させた。

「そうだね。確かに、金銭もその一つではある」

「……ッ」

あたかも、その考えを読んだかのように、木原がそう言った。
体勢を立て直しかけた上条の目が見開かれる。

(……こいつ)

頭に引っかかったのは微かな疑念。
それは、しかし食蜂にすらできなかったことのはず。
偶然か、むしろカマかけの可能性を疑うべきだが。
湧いて出た警戒心を払しょくしきれぬ様子の上条に

「説明するまでもない。すぐにその体が理解することだろう」

木原が不吉な予言を突きつける。

「体が理解だって?」

「要するに、こういうことだ」

前触れもなく視界が白んだのを認め、上条の右手が瞬時に跳ね上がった。
半日常的に培われた経験が、防御行動を選択していた。
放たれたものが幻想殺しによって散らされ、電気の尾を残して消失。
木原がほぅ、と感心するような溜め息を零す。

「こいつは驚いた、今のを無傷でやり過ごすのか。アレイスターめ、なかなか面白いものを飼っている」

「……アンタ……今、何しやがった」

今しがた放たれたものに、上条には見覚えがあった。身に覚えがあった。
それは自分がよく知る少女の得意技、御坂美琴が何度となく放ってきた雷の槍に、酷似していた。

7 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 01:52:40.96 igNzDGpD0 616/711

「……電撃使い(エレクトロマスター)の能力? なんで、大人に御坂みてえな真似が」

学園都市に子ども以外の能力者がいるなど都市伝説の類でしか聞いたことがない。
だが、それならば、なぜこの男は能力を使えるのか。

「厳密には、彼女そのものではない」

予想とは違う答えを木原が返した。

「我々がクローンの技術に関わっていることは君も知っていたようだな。
が、しかしそのクローンがどのように扱われていたかまでは、聞き及んでいないのだろう?」

木原は何かを上条に説明しようとしていた。
聞くに堪えない何かを。

「絶対能力進化の研究で消費された超電磁砲(レールガン)の妹たち(シスターズ)の中には、
死に損ないや、機能が停止しても臓器が無事だった個体が何百といてね」

消費、死に損ないといった言葉が出るのに合わせて、こめかみが引きつっていくのを上条は感じた。

「君とてこの街で生きていれば、移植やそれに準じた研究の噂などいくらでも聞いたことがあるはずだ。
――と、ここまで言えばわかるかな?」

ついで、その顔にはっきりと怒りの相が現れた。

「地球環境に配慮した、エコロジーさ。用済みになった、そのままでは焼却場で焼かれるだけの運命にあった彼女たち。
それを管轄下の医療機関に払い下げ、人類発展の一助としたのだよ」

「こっ……」

この男は、食蜂のみならず、妹たちまでも食いものにしていた。
絶対能力者実験で地獄のような苦痛を与えられた御坂の妹たちは、死してなお終わることを許されず。
一方通行との戦闘で奇跡的に命を取りとめた妹たちさえ、研究者たちの悪意によって、等しく奈落の底に叩き落とされていた。
信じがたい事実。認めたくない現実。
御坂美琴が知れば間違いなく発狂するだろう内容。

「実用化に漕ぎつけるまでには相当数の被験者が犠牲となったが、手間を惜しまなかったおかげで一定の成果を上げられたよ。
彼女らの脳の一部をわたしの脳に移植できるくらいにはね。今の私はレベル4相当のエレクトロマスターであると同時に――」

10031号まで、第一位、一方通行(アクセラレータ)との戦闘経験を有した能力者でもある。
自らを親指で指し示しつつ、木原が目を血走らせている上条にそう告げた。

8 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 02:04:23.71 igNzDGpD0 617/711

「テ……テメェってやつは……どこまで……」

「実験に役立つデータを残し、残ったパーツも髪の毛から爪先まで無駄なく再利用される。
クローンとして生み出された者としては、まさしく本懐ではないかな?」

「ぐっ……だらあああぁぁぁッ!」

木原の満面の笑みが上条の思考を突沸させた。
だが、再度の突撃も金属球の動きに行く手を阻まれる。
御坂が砂鉄を操っていたように、金属なら何でもありということらしい。
木原を守るように取り巻いているそれらに接触する寸前で側面に回り込むも

「……がっ!? ――あぐっ! がはっっ!」

考えを先読みしたかのように、上条が迂回したその場所に、浮遊していた金属球が弾けるように散乱。
殴りかかる体勢に入っていた上条が逆にカウンターを見舞われる。
頬骨が歪むほどの一撃を皮切りに――咄嗟に頭部を庇って腕を畳むも――後頭部側からの一撃を受けて意識を半分以上持っていかれる。
勢いのままに左肩を押しのけた金属球が、逆戻りしたかのように上条の背後から襲いかかったのだ。
立て続けに、木原の操る金属球が縦横無尽に動き回った。
額、肩、肋骨、腰椎、ふくらはぎ、まさしく上条の全身に殺到。
床に転がりかけたかと思いきや、下から突き上げるような一撃を受け、倒れることすら許されない。
いくつか狙いを外した球体が床の金属板をたわませ、銀色のメッキを大きく削いだ。
ものの十秒ほどでその攻勢が止み、

「ご……ふっ……」

満身創痍となった上条が、朦朧とした表情のまま両膝をつき、敢え無く地面に崩れ落ちる。


「くくく、ハハハハ、なんだそのザマは? その程度の実力であの娘を取り戻す気だったのか?
にしたって、もう少し粘ってみせてもいいのではないかね? こっちはまだ掠り傷一つ負っていないぞ」

9 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 02:19:36.01 igNzDGpD0 618/711

倒れたきり一向に起き上がろうとしない上条に、木原がほくそ笑みながら手で空を切った。
ほどなく磁力によって数珠繋ぎになった鉄球が、長大な鞭と化した。

天井に届かんばかりに伸びたそれが大きく撓り、ついで上条の頭部目がけて振り下ろされる

当たれば必死の、遠心力が加えられた致命打を凌ぐべく、上条が畳んだ腕で地面を突き出す様にして転がり込む。
床を強打した鞭が、真珠のネックレスがばらけるように散開し、起き上がりかけている上条に向かって急加速。

「一応断っておくが、死んだふりに引っかかるほど馬鹿じゃないぞ」

「……ぐっ……ちっくしょ!」

立ち上がってどうにか一時退避を試みる上条の逃走方向に、

「ぐっああぁぁッッ!?」

待ち構えていたかのように木原の電撃が襲来。
右手で掻き消す間も与えられなかった。
引き続いて、体が硬直した上条目がけて金属球が再び殺到。

何かがおかしい。
相手の攻撃が噛み合いすぎている。

「がっ……ぁああああアァ!」

全身を打ち据えられて朦朧とする意識に、上条が地団太を踏み活を入れる。
両脇を固めるようにして金属球の集中攻撃から抜け出す。
さらに顎の下から迫った鉄球を背を反らすことで避け切り、木原との距離を詰めるべく体を引き起こす。そして――

「……ッッッ!」


上条の脳裏を絶望の二文字が掠める。
これから向かうはずだった空間を埋めるようにして、金属球が先んじて展開されていた。

10 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 02:23:22.55 igNzDGpD0 619/711

(くそっ! 有り得ねえだろ! ……こうもことごとく読まれるなんて)

いくら回復力が増しているとはいえ、ダメージは蓄積していく。
このままではジリ貧、何より戦える時間は有限だ。
ガルドラボークの魔力が尽きれば、今度こそ打つ手はない。

(……落ち着け、今までの状況を整理しろ)

逸る心を意志の力で抑え込む。
いくらなんでも対応が迅速に過ぎる。
未来を予め知っているかのように。

(やっぱり、こっちの心を読んでるのか? あるいは、行動を先読みしている? だけど、どうやって――)

はたと脳裏に閃くものがあった。
小萌の授業で教わった精神系能力者と電撃使いの類似点。
あるいは動物園での食蜂との他愛ない会話を。
人間はあらゆる活動を行うときに微小な電波を発し、体に命令を下している。
能力者がそれを自在にコントロールするには、まず対象の体内に発生している電流の発生状況を見極めねばならないはず。
そうでなければそもそも意図する行動を取らせることができない。
だとするなら。
同系統に近い電撃使いも、あるいは訓練次第で似たようなことができるようになるのかもしれない。

11 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 02:32:45.76 igNzDGpD0 620/711

劣勢にあって、上条は一つの確信を深めていく。
以前に男が食蜂の能力を研究していたのなら、体の能動的な反応についてもそこそこ詳しいはずだ。
おそらくは画像をスキャンするように、電磁波を用いてこちらの生体電流を読み取っている。
とはいえ、それが事実だとして、状況は好転しない。
どんなトリックを用いたところで生理的な反応を止める手立てなどない。

読まれているという意識からか、間合いを詰め切ることができないまま、上条が摺り足で相手の動きを窺う。
迂闊に突っ込んだところで先ほどの二の舞だ。
相手が金属球を操作する一瞬の隙を窺うしかない。
場合によっては、ある程度のダメージは覚悟の上で、一撃必殺に懸けるしかない。

わずかな兆候も見逃すまいと、自分の一挙一動をつぶさに観察しようとする上条に木原は

「見かけによらず冷たいな。ぼけっと突っ立っている暇があるのかねぇ?
君がそうやってのんびり休んでいる間にも、あの娘がどんな目に遭わされているやら」

せせら笑うように喉を鳴らした。

上条の唇の端から顎にかけて、ゆっくりと血が伝っていく。
わざわざ言われなくとも百も承知だ。
それでも、ここで倒されてはもう後がない。
不用意に仕掛けることだけは避けねばならない。
だが、そんな上条の心境の揺らぎをも、木原が見逃すことはなかった。

「がっ……!?」

唐突に、右足に覚えのない灼熱感を感じ、上条がその場から飛び退いた。
だが、ふくらはぎの痛みは引くことを知らず、むしろ増大した。

12 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 02:37:43.95 igNzDGpD0 621/711

「はっ……あ゛っ……ぎぃっ!」

足を抱えるようにして上条が床に転がり込み、苦悶の声を漏らした。
喉が痙攣してまともな悲鳴すら上げられない。
気も狂わんばかりの痛み。足の水分が、血が、ぼこぼこと泡を立てて沸騰している。

「おっほほ、こうしてみると、電子レンジもなかなか凶悪な代物だ。そうは思わないか」

「――――ッ! ~~~~ア゛ガアアァ゛ッッ!!」

木原の視線が上条の反対の足に向き、上条が絶叫した。
不可視のマイクロ波による遠距離攻撃。
分子活動の加速に伴う体温の急激な上昇。
強烈な電撃すら甘やかに感じる刺激だった。

ただでさえ劣勢なのに、見える攻撃と見えない攻撃を織り交ぜてくる。
男の徹底した戦い方はかつて相対した一方通行を髣髴とさせた。
強すぎる。
こうまで絶望的な戦いを強いられて初めて、電撃使いの能力を心のどこかで見くびっていたことに上条は気づく。
純粋に、狡猾に、対象を破壊することに専念すれば。
自分が知るあの少女は、御坂美琴はいつでも上条当麻に勝てたのだと思い知る。
彼女を軽くあしらえていたなどと、とんでもない誤解だ。
無意識にせよ、御坂のほうが上条に手心を加えていたのだ。

ステイルの辛辣な言葉が蘇る。
驕っていたんじゃないか。
実際は、この程度なのに。
禁書の力を借りてさえ、このザマなのに。

ややあって、木原がつまらなそうに目を逸らし、悲鳴が短い尾を引いて消える。
重度の日焼けみたいな有様になった上条の両足からは、香ばしいとさえいえる匂いが立ち上っている。
魔力を過剰に使わねば再生が追いつかないのだろう。
スラックスのポケットに収められていたカードのルーンが数秒ほどで消失、ただの紙切れに変わった。

13 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 02:45:32.55 igNzDGpD0 622/711

「…………ぅ……ぐぉ」

気が遠くなるような痛みに苛まれ、ぐったりとした上条に、木原が晴れ晴れとした表情を向ける。

「あと少しのところで手が届かない。我々が何度も通った道だ。君にも是非とも体感してもらいたい。
そうすれば、彼女に対する我々の憤りを少しは理解できるだろう」

「……ぁぐっ、く……そ……ったれ……」

攻撃に晒された足は、ひどい日焼けを負ったように真っ赤に爛れている。
空気が揺れ動いただけで針で刺されたような痛みを感じる。

「一つの裏切りによって長々と遠回りすることを我々は強いられた。
罪には罰を。人類史以来その理はなんら変わっていない。今の彼女の苦しみは、当然の報いなのだよ」

横倒しになっている上条から木原はあっさりと目を放し、

「そう。心理掌握という仇名も、かつてはわたしのものだった」

どこか懐かしげに宙を仰いだ。

行動心理学と社会心理学を組み合わせれば、日常生活に置いても身近な人間から様々な感情を読み取れる。
たとえばわずかな眼球の動き。
張りつめた場にいて手が向かう方角。
佇まいを直すときの速さなどから、その人物がどういう心理状態にあるのかを大まかに推測できる。

「加えて、体細胞温度や心拍数。血液の流量、脳波やホルモンの分泌量などを目にするだけで、対象の思考を事細かに把握することが可能となる。
その読み取りの正確さゆえに、研究仲間の一人が面白半分で私に異名をつけた。それこそが」

「……心理、掌握」

言葉を継いだ上条に、木原がしたり顔でうなずいた。

14 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 02:51:51.97 igNzDGpD0 623/711

「まずは論より証拠だな。――――あぁ、お前たち、音声は拾えているかな? つけてくれたまえ」

一瞬何を言っているのかわからず、上条が怪訝な顔をしたが、すぐに察した。
男の仲間たちに何らかの作業を指示しているのだ。
はたして、木原が手をかざしてから数秒後、巨大なモニターにいくつもの波形や数値が表示された。
苦痛に身を縮めていた上条が目を見張った。

「……これ、は」

「予想通り、脳波にかなりの乱れがあるようだね。並々ならぬ負荷がかかっているようだ」

木原のにやにや笑いを見て、上条がデータの正体を察した。

「……まさか……食蜂の」

「いかにも、彼女が自らに施したプロテクトの解析がやっと終わったようだ。
今は記憶の残滓を一つ一つ選り分けている段階かな。囲碁でたとえるなら、ヨセというやつだ」

囲碁や将棋にたいして詳しくない上条も、その言葉の持つ意味合いくらいは知っていた。
作業の仕上げ。詰めの部分。
洗脳が完了するまで、もう一刻の猶予もないのだと知る。

「あの子は早くに親を亡くし、親戚たちに疎まれ、学園都市に流れつくことでやっと安息の場を得た。
我々が手厚く保護したからこそだ」

何が安息の場だ。何が保護だ。お前たちは、アイツをより深く傷つけただけじゃねえか。
声なき心の弾劾が上条の歯を軋ませる。

「彼女の能力を解析することによって、我々の研究は大きく飛躍し、洗脳装置という成果を得た。
かくいうわたしも、密かに彼女を実の娘のように思っていたものだ」

「……っ、どの口が、ぬかしやがる!」

「それなのに、彼女はある時期を境に自らが関わる実験に疑問を持ってしまった。
不幸なことだ。些細な疑念など気に留めず、ただ我々に従順でさえいてくれれば。
何の不安も怒りも感じず、何不自由なく暮らしていけたものを」

上条が堪えるようにきつく目蓋を閉じる。
旅行に行こうと誘ったときの彼女の喜びよう。
食蜂の置かれていた境遇は、自分の想像を遥かに超えていた。
こんな大人たちに囲まれていたからこそ、彼女はああいう性格になった。
ああいう性格でいなければ、食蜂操祈は自分の心さえ保つことができなかったのだ。

15 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 02:56:51.28 igNzDGpD0 624/711

「それをこうも恩を仇で返されては、過激な対応もやむなしだな。
くく、今現在表示されている彼女の脳波から、いったい何が読み取れると思うね?」

我に返った上条が木原を見上げる。

「必死に許しを乞うているようだよ。記憶を上書きされるストレスから解放されたくてね」

「――――ッ」

「生意気にもわたしの予想を超えた時間粘ってみせたようだが、結局最後には命惜しさに泣き落としというわけだ。
レベル5だなんだと粋がったところで、所詮は無力な小娘に過ぎんな」

心臓の鼓動が異様に加速するのを上条は感じた。
かっと、頭から沸き立つ湯を浴びせられたかのように全身が熱されている。
力を振り絞り、横倒しになった体を必死に支える。

ここで立ち上がらない足なんて必要ない。
ここで握れない拳など何の意味もない。

馬鹿みたいに酷使し、散々に痛めつけられ、今にも攣りそうになっている右腕を支えに――
残った力を余すことなく掻き集めて立ち上がる。

「おやおや、まだやる気かね? あまり弱い者いじめは好きじゃないんだが」

今も全身を蝕む痛みが、貧血の症状に酷似しためまいを引き起こす。
血と汗の混合物が滴り落ち、冷たく光る床をまだらに染めていく。
浅く繰り返される呼吸は乱れに乱れている。
それでも、力の入り具合を確かめるように手をそっと開き、握り直し、ゆっくりと前を向く。

16 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 03:03:03.06 igNzDGpD0 625/711

「テメェに……テメェなんぞに、アイツの何が……わかるってんだ」

食蜂は、自分が抱えている問題については誰も巻き込もうとしなかった。
そうあろうと努めていた。
この騒動の以前から、自我を押し潰される瀬戸際に至るまで。
罠が張り巡らされたこの学園都市で、孤独な戦いを続けていた。
それでも、最後の最後で救いを求めてしまったことを。
そうしたって誰も責められないようなことを。
悔やんで何が悪い。

自我が失われていく過程を体験するのが、果たしてどれほどの恐怖か。
記憶を失った状態でさえ、自分は不安に駆られているというのに。

「わかるとも。少なくとも君などより共に過ごした時間は遥かに長い」

「それだけ長々と、アイツを苦しめてたってだけだろうが!」

「考慮にも値しない、的外れな見解だ。それに、自分たちがどのような状況にあるかの理解も足りていないようだな」

「……なんだと?」

「極まった電撃使いが機械を遠隔操作できることは、知っているかね?」

「――ッ! ……馬鹿、よせッ!」

「滑稽だな。実験動物が私に命令するとは」

おもむろに、木原が銃に見立てた人差し指を機器類に向けた。
上条の再度の制止もむなしく、青白い電撃の尾がパネルに吸い込まれた。
途端、モニターに映っていた波形が不規則かつ乱雑になった。

「……ッ!」

「っと、おやおや、血圧と心拍が大分乱れてしまっているようだねぇ。これは、ふむふむ、てんかんに似た症状を起こしているようだ」

木原の骨ばった頬が小刻みに震えた。上条のあからさまな反応に、笑うのを堪えるかのように。

17 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 03:10:30.08 igNzDGpD0 626/711

「こ、んのっ! ――どこまで腐ってやがるッ!」

計測対象の危険を知らせるビープ音を聞き、堪らず上条が駆け出した。
そのすぐ足元で、地面に転がっている金属球が勢いよく跳ね上がった。
側頭部に直撃を受けた上条が床を二転三転する。

「がっ……あっぐっ……」

「人の解説は最後まで聞くものだよ。しかし、さすがにこのままでは命にかかわりかねんか。
よかろう、君の勇敢な行動に免じて、気持ち苦痛を和らげてやるとしよう」

計器類に電撃が吸い込まれた直後、先ほどにも増して波形が大きくなった。

「おっと、いかんいかん、一桁間違えてしまった。このままでは呼吸不全に陥ってしまう」

「……や……めろ! それい……じょ、あいつを……傷つけ……んじゃねえ」

本来、呼吸や血圧といった生命活動における数値は安定しているはずだ。
波形の乱れが、食蜂の身に良からぬ何かが起きているということを伝えている。

どうしてだ。
どうしてこんな非道な真似ができる。
しかも心底楽しそうに。

相手の姿が見えず、声も聞こえないという状況が、むしろ上条の焦慮に拍車をかけていく。
目と耳を封じられるだけで、不安ばかりが加速度的に増大する。

「……テ、メェは! ……本当に血の通った、人間なのかよ!」

いいや違う、と木原がすぐさま訂正を求める。

「私は時代を先取りする研究者だ。人類が培ってきた叡智の樹形図を、接ぎ木で限りなく拡大させていく開拓者だよ」

18 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 03:24:13.67 igNzDGpD0 627/711

(ちく、しょう。どうして……)

どうして自分は、自分の言葉は、こうまで無力なのか。
この軽蔑すべき人でなしに勝つことさえできないのか。

「そうそう……彼女が縋り付いている幻想、確かカミジョーとか言っていたか」

(あいつが、目の前で苦しんでるってのに……)

木原の物言いが、行いが。

「純粋に気持ち悪いねぇ。頼るべき家族を失い、親戚一同に疎まれ、信頼できる友人もいない」

(絶対に助けなきゃ、いけねえってのに――)

上条の根源にあるものを急速に蝕んでいく。

「何度か出会っただけの、知り合いかどうかも怪しいレベルの学生が、あの娘の正気を保っている唯一の存在だなんてね」

嘲りの言葉。実験動物に向けられる虚無的な眼差し。

「便器の淵にこびりついたクソみたいな記憶にいつまでも執着している。まったく、見るに堪えないよ」

悪意に満ちた表情でせせら笑う木原に、目蓋の裏で燃え上がるような熱を感じた。

上条が体を支え起こすべき両腕に力を込めた。
目の前で食蜂を傷つけているこの男が憎かった。
食蜂が目の前で傷つけられていながら何もできない自分の不甲斐なさが、どうしようもなく憎かった。

「まぁ、それも過去の話だ。上書きが完了すれば自我による記憶の修復も不可能になる。
洗浄された記憶を得て、彼女は晴れて我々の一員として、研究に貢献してくれることだろう。
我々は彼女を利用したいし、彼女は彼女で、心の奥底では誰かに必要とされたがっている。ウィンウィンの関係というやつだ」

男の表情を、言動を、信念を。
跡形も残らないくらいにすり潰してやりたい。

19 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 03:31:24.38 igNzDGpD0 628/711

「それまでの間、役にも立たん正義感を振りかざし、我々から研究成果を奪おうとした罪を、
たっぷりと思い知らせてやらねばならんな。君にも、あの子にもね」

内面に生じつつある変化とは裏腹に、皺だらけの指先からよからぬ命令を下す電波が二度三度と放たれ続ける。
全体の波形が段々となだらかになっていく様が霞む視界に映る。
曲線が徐々に線へと近づいていくその様に、焦燥感が膨れ上がる。

――やめ、ろ。やめろ! 本当に死んじまうだろがッ!

意識から連続して放たれる懇願の声は、しかし相手に届かない。
ボロボロの体をおして、上条が起こした膝を支えに立ち上がりかけたそのとき――



「…………ぁ?」



唐突に凪が来た。

忌避すべき現実の到来。

間延びした電子音と共に波形が直線に収束し――液晶に表示されている複数の数値が――みるみる0に近づいていく。
階段状だったグラフまでもがなだらかに萎んでいき、ライン上にぴたりと収まった。

「……とっ」

木原が泡を食ったように電撃を止め――――上条の瞳孔が限界まで拡大。

それがどのような状態を示しているのか、説明されるまでもなかった。
計測装置に繋がれた患者の異常を示す甲高い電子音が、耳の奥で規則正しく木霊している。


ぐったりと体を弛緩させて椅子にもたれかかっている食蜂操祈の姿が、
息を継ぐことさえ忘れていた脳裏に投影された。


それが、引き金となった。

20 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 03:40:01.47 igNzDGpD0 629/711

「……何だこれは。どうしたことだ?」

上条に目もくれることなく、木原が端末機に駆け寄った。
タッチパネルを焦り隠せぬ手つきで叩き、内臓マイクのスイッチを連打する。

「おい、誰か応答しろ! 何がどうなって――」

『も、申し訳ありません所長! 拘束椅子で実験体がもがいた拍子に、センサーコードが引っ張られて抜けてしまいまして』

懲罰を恐れてのことか、研究員からのへりくだった返答に、木原が両肩の力を抜いた。

「あぁ、やはりか。この私が匙加減を間違えるはずがないからな」

被験者をちゃんと固定していなかった研究者たちに苛立ちを覚えつつも、木原が胸を撫で下ろした。
いい加減、他の侵入者への対処や逃走経路も考えねばならないだろう。そんなことを思いつつ上条の側へ向き直ろうとし――


「…………な」


瀕死に限りなく近いはずの少年が、いつの間にか立ち上がっていることに気づく。

はず――――計算外、予測の裏切り。


「……しょく…………ほ……ぅ」


その姿は、死に体というより、死体そのものだった。
さながら墓場から蘇った幽鬼のように前のめりで、両の腕は床に指先が届きそうなほど垂れ下がっている。
全ての光を呑み込まんとするような虚ろな瞳が、中央で小刻みに律動している。

およそ生気の感じられぬその眼差しを受けて、しかし木原は返って平静な心を取り戻した。
あっさり立ってきたことには驚いたが、所詮相手は死にぞこないだ。
いくら能力で肉体を強化しようと限界は存在する。
少なくとも、体外に出た血を補うまではできないだろう。
失血すれば血中の酸素濃度不足で運動能力は必ず低下する。
それは生物であれば逃れられぬ生理現象だ。

あと二度か三度か、金属球で全身を打ち据えればすべてが終わる。
今に至るまで、この少年は一矢報いることさえできていない。
ただの一度も。


客観的な状況判断をして、この時点で木原が悲観的になる理由は何一つ見当たらなかった。

だが――

21 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 03:44:33.64 igNzDGpD0 630/711

――窓のないビル


「何故君は、あのような連中に好き勝手を許しているのかな?」

髪が後退した頭を撫でさすりながら、背の低い白衣の男がつぶらな瞳を巨大な試験管へと向ける。

「その質問に答える必要性を感じないな」

逆さまの男が言葉少なに返答。
純粋な肉声ではなく、頭に直接語りかけてくるよう。
試験管内は生命活動を維持するために必要な保護液で満たされていて、純粋な音声を伝達するのに適していない。

「治す技術で飯を食べている僕が言うのもなんだけどね。重篤な怪我人や病人が運ばれてくるのは、本当に嫌なもんだよ」


「今回の件では、そちらにかなり譲歩したつもりだが?」

「わかっている。ただ、単純に気にはなった。頭が誰より切れる人間が、計画がスムーズに運びようもない方法を選択する。
その理由が気にならないやつがいるかい?」

「…………」

「人の功名心、虚栄心や欲望を利用して、突いて、いったい何を作り上げようというのかね」

穏やかな物腰の中に潜むのは揺るぎない義憤。
なんの戦闘能力も持たずに、自分をこうまで威圧できる人間はそういないだろう。
消えゆく命を引き戻すために培われた技術と胆力がそうさせるのだろうか。
試験管の男、アレイスター・クロウリーはカエル面の医者、冥途返しの視線を静かに受け止める。

22 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 03:53:23.90 igNzDGpD0 631/711

「私が彼らを一方的に利用しているのならその批判もわからないではないが、両者の関係性は持ちつ持たれつだよ」

「そのように見せかけているだけではないのかな?」

「見解の相違だな。だが、常に患者の側に立とうとする命の恩人に敬意を表して、最初の質問には答えようか」

「……ふむ?」

「あらゆるプロジェクトに障害は不可欠だ。というのが、今の私が信じているロジックでね」

「付き物ではなく、不可欠、か。異分子の必要性だね」

「医者には馴染み深い話だろう。外からの異物、抗原なくして抗体は育たない。無菌室で育った人間は外の世界で生きられない」

「……それで?」

「予定外(バグ)が発生しなければ脆弱性を発見できない場合も多い。
病気にかからず、害虫も寄せ付けない、品種改良で作った野菜。
言語列から作られた新ウイルスの発見に応じてバージョンアップするセキュリティソフト。
無論、ヒトとて例外ではない。資産家が家業以外の商売に手を出して破滅したなどという話は、その辺に腐るほど転がっている。
そこから這い上がって来るような人材なら、それはそれで歓迎しよう。そうした点で、あの少年は、実に興味深い存在だ」

手ごわい敵や試練は、自分の弱点を教えてくれる得難い存在だ。
もっとも、生きているうちにその真理まで辿り着く者はさほど多くないが。
言葉を差し挟まずに黙考する冥途返しを見据え、逆さ男(ハングドマン)、アレイスターの口元から泡が吹き零れる。

「より広い視野で捉えるなら、幹を肥え太らせるには様々な外的要因が必要だ。
天の恵みだけでなく、ときには傷つけられることも、手折られることさえも。
樹形図の設計者はそうした考えに基づいて構成されている」

「理事会も木原一族も、あの少年も、そのオプションに過ぎないと? しかしそれでは」

「確かに、欲望の渦に飲みこまれてしまう者も、また多いかもしれない。が、それは不可避の犠牲だ」

23 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 03:55:36.13 igNzDGpD0 632/711

「……傲慢にすぎる意見だな」

「傲慢さについては科学側にだって一家言あるだろう。
臨床に有効な薬が研究開発され、その薬の正しい使い道を知るまで医者が延々と患者を苦しめるように」

「私利私欲からなされる行為と救うことを目的として成される医療を一緒くたに語るのかね、君は」

「そちらも、ひとつ忘れていやしないか? 彼らは研究材料になることを自分で納得した上でこの街にやって来たはずだよ。
決して普通ではないやり方で、自己の変革を強く望んだんだ。
その意志は子供だからと侮れるものでも、おざなりにできるものでもない。裏返って、彼らは無辜の民ではない」

「……非常に論理的だな。が、これだけは覚えておきたまえ。
善性を尊ぶ者は正論だけでは動かない。幼さゆえの精神的未熟さに付け込むやり口を、僕らは決して容認しない」

どこか憐れむような眼差しを銃のように突きつけていた医者が、ゆっくりと踵を返し、そこで思い出したように一言。

「……僕が君の一命を取り留めたことを、後悔させないでくれるとありがたいものだね」

そんな言葉とともに、革靴の音が残響を伴って消える。

至高の医者が立ち去った空間をしばし見つめ、アレイスターが眠りにつくように目を瞑る。

手塩にかけて育てた苗は未だ花をつけていない。
枝葉がどのように伸びるかも未知数だ。
今もって出来ないことは数知れない。
地球に君臨し、空の高みにまで辿り着いた人類は、しかし名もなき植物がどう成長するかを予測できない。

かつて目指した頂に、今もって夢見る頂上からの景観に、偉大なる魔術師は思いを馳せる。
レベル6。高みに辿り着きし者。
世界中から恐れられるほどに魔術を極めても、手は届かなかった。
ならばと現代科学に傾倒してみたところで、どうやら結論は同じらしい。
では、双方が融合したらどうだろうか。
トライ&エラー。
破壊と修復。
プロジェクトの混線、ときに脱線。

ふいに覚えのない、強力な魔力震を肌に感じた。
震源は、第七学区の外れ辺りか。
またしても、自分の与り知らぬことが起きている。


かくあるべしだ、とアレイスターは一人静かに微笑む。
何せ神に辿り着くまでの道だ。
目を覆い尽くさんばかりの茨に覆われていなければ、嘘っぽいだろう。

24 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 03:58:47.81 igNzDGpD0 633/711

――第七学区病院


結界内に封じているイノケンティウスの様子を俯瞰するようにしながら、ステイルは持ち込んだ折り畳み椅子に腰かけ、読書に耽っていた。

この病院の霊安室が使われた形跡はほとんどない。
せいぜい運び込む前か、術前に患者が死亡したときくらいのものだろうか。
医者の尋常ならざる腕前を物語るその部屋に立ち入る医療従事者はおらず、雑音もない。
病室に比べて清潔感にはやや欠けるが、本を読むには悪くない環境だ。

「…………うん? 地震か?」

視界が小刻みにぶれているのを見、ステイルが膝の上で開いていた分厚い本を閉じる。
日本に来て驚いたことの一つに、地震の多発があった。
同じ島国であるイギリスでは地震が全くと言っていいくらい起きない。
地殻変動によって地面が震える感覚。
今は慣れたものだが、初めてそれを体験したときには妙な気持ち悪さに面食らった。
揺れが収まった後にも、どうにもふわふわして落ち着かず、煙草がいつもの三割増しで減っていったものだ。

だが、そうした認識はすぐに誤りだとわかった。
自らが制御している炎の使徒、魔女狩りの王(イノケンティウス)に異変が生じていたからだ。

「……っ、これは!」

ステイルが目を剥いて立ち上がった。
天井まで届かんばかりだった炎が、いつの間にか半分の大きさにまで縮んでいる。
かと思えば、全身から立ち昇る炎の触手が結界内で踊り狂い、次第に渦を巻き始めた。
壁の塗料がぶすぶすと泡立ち、床の表面に至っては広範囲にわたって溶け出し、石材が露出している。


緊急事態。
経験の中から最も有効と思われる対応策を選び抜き、制御を強めるべく手のひらをイノケンティウスに向ける。

25 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 04:01:12.20 igNzDGpD0 634/711

「――――なッ!」

失策を悟る間すら与えられず、手の甲の血管が数珠状に膨らみ、破裂した。
跳ねた血飛沫がステイルの顔に赤い筋を作る。

「……痛ぅ! あ、んの馬鹿がっ! あれほど念押ししたのに暴走しやがったのかッ!」

痛んだ手を無事なほうの手で押さえながらステイルが毒づいた。
そうしている間にもイノケンティウスの炎がみるみる萎んでいく。
質量が極端に収縮しているにもかかわらず、結界内の魔力の総和量に変化はない。
禁書の魔力が飽和状態となり、
幻想殺しと魔女狩りの王で緩和できる範囲をも超えてしまっているのだ。
このままでは部屋どころか、施設もろとも爆炎に呑まれかねない。
垣間見た最悪の光景をすぐさま頭から叩き出し、次善の策を練り始めた矢先――

「ステイル、何かあったの!? 今尋常じゃない魔力波が――」

「……ッ! こっちに来るな、インデックス!」

階段を駆け下りてきた修道服の少女を見止め、ステイルが血みどろの手で制した。
束の間、インデックスが渦を巻いて荒れ狂う炎の魔人に見入った。

「何、これ。いったい――――その手、どうしたの!? 怪我してるの!?」

「ヤツとリンクしている刻印から膨大な魔力が流入してきている! ……まだ、どうにか持ちこたえられているが」

ステイルが口を結び、先ほどよりも強い念を具現化された炎の魔人に投じた。
束の間炎が勢いを取り戻しかけたに見えたが、すぐに半分ほどの大きさに縮んでしまう。

「……くっ、やはり今のままでは。あのド素人が、あくまで制御を渡さない気だな」

炎から伝わってくるのは異様なまでの拒否感。
この状態が長く続けば術者たる上条は狂人に、そして遠からず廃人になる。
呪いを肩代わりしている自分の身とてただでは済まないだろう。

26 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 04:13:50.01 igNzDGpD0 635/711

現在進行形で上条が対峙しているだろう敵についても気がかりだ。
禁呪に乗っ取られた狂戦士を前にして、生半な人間が無事でいられるはずがない。
最悪、もう上条の手によって殺害されてしまっている可能性だって否定できない。

少なくとも、禁書の魔力が幻想殺しの消滅力を凌駕し、暴走を引き起こしてしまっているのは間違いない。
引き際を見誤れば無残な結末が待っているに違いなかった。

切断するしかない。リンクを。
そうと呟きながらも、ステイルの手は解呪の印を描こうとせず、宙を彷徨ったままでいる。
刻印から流入しているのが、魔力だけではなかったからだ。

(……このイメージは――ヤツの)

リンクしている上条の抱いている激情が、走馬灯のように脳内で投影された。
絶望の淵に立たされている金髪の少女を何としても助けたいという切なる願い。
その状況を作り上げている男を、今すぐにでも引き裂きたいというおどろおどろしい殺意。
相反する感情が混然一体となり、渦を巻いている。

(……っ、だからどうしたっていうんだ。禁書の使用で人死にが出たと外部に知れれば、彼女の立場が危うく――)

魔術の世界は広いようで狭い。世界中に使い魔を放って情報を仕入れている者もそれなりにいる。
ことにローマ正教や東方教会など、組織が巨大であればあるほどその傾向が顕著だ。

禁書目録が学園都市での生活を許されているのは、その存在を秘匿するのに都合がよいと上が判断しているからだ。
それがもし、禁断の魔術が科学の街で暴走したなどと外部に知れたらどうなるか。
結果は火を見るより明らかで、彼女は必要悪の教会にすぐさま呼び戻され、監禁に限りなく近い生活を余儀なくされる。
如何なる判断を下すべきか、考えるまでもないことだ。

28 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 04:18:05.00 igNzDGpD0 636/711

だが、しかし。
己の煮え切らなさを詰りながらも、踏み出せないでいる。

(くそっ、何を動じているステイル・マグヌス! こんな物見せられたからといって!)

ステイルには上条が抱く正と負の感情、そのどちらにも見覚えがあった。身に覚えがあった。
自然と、視線が一つの方向に定められる。
かつて自分が寄り添い、その手で記憶を消し去った銀髪の少女に。

どうして助けられないのか。
何故彼女の味方になってやれないのか。
少女を苛む過酷な運命に対峙させられ、己の無力を嘆いた日々。
喉元を過ぎたはずの熱は、今もって臓腑を焼き続けている。

自分にとって大切な女の子がベッドの上で、自分の手が届くその場所で、苦しみ喘ぐ姿。
インデックスを自分の手で救えない不甲斐なさが、怒りが、胸に去来する。
自分自身、いま現在の上条当麻の心情に、誰より共感してしまっているのだ。
禁書目録の役目を負わされた少女を儚み。
魔道書を狙う悪しき魔術師たちを強く憎み。
戦う動機も、その過程さえも、今上条が置かれている状況とあまりに共通点が多すぎる。

上条当麻は、かつて自分や神裂が強いられた絶望に直面している。
その事実がステイルの胸を刺し、怜悧であるべき思考を加熱させていた。
禁書のリンクを切るべきか、切らざるべきか。

葛藤しているわずかな間に、もう一方の手にも裂傷が生じた。
たまらず膝をついたステイルの耳に、パタパタと歩み寄ってくる足音が聞こえた。

29 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 04:20:59.12 igNzDGpD0 637/711

「……ッ! インデックスッ!?」

「わたしも手伝う! どこをどうすればいいのか指示して!」

「よせっ、結界から離れろ! ここにいては危険だと――」

「ダメ! このまま術式を継続してたらあなたの体がもたない! せめて誰かが協力しないと――」

言葉の続きが爆音に、ついで短い悲鳴に掻き消された。

「――イ、インデックスッッ!!」

縫い針だらけの聖衣をまとった少女の体が爆風に煽られ、一瞬にして霊安室の隅にまで追いやられる。
全身に擦り傷を作った少女が、呻き声を上げながらも顔を起こし、

「え……えへへ、失敗、失敗」

場にそぐわぬ笑みを浮かべる。
心配をかけまいというその心遣いが、どうしようもなく癪に障った。

「やめろッ!」

強い制止の声が束の間炎の轟音をも押しやった。
四つん這いの状態から立ち上がろうとしていたその動きが、ぴたりと止まった。

30 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 04:27:01.30 igNzDGpD0 638/711

床に叩きつけられた際に打ち付けたのか、インデックスの額からは薄らと血が滲んでいた。
ステイルが痛々しげに目を眇めるも、すぐさまその葛藤を呑み干し、突き放しにかかる。

「それ以上怪我をしたくなかったら上に戻っていろ! 病室で大人しく――いや、病院から一刻も早く遠ざかるんだ!」

「で、でもっ! ここにだって入院してる人は大勢いるんだよ!?」

「頼むから聞き分けのないことを言わないでくれ! 僕に――――僕にこれ以上君を傷つけさせるな!」

「――ッ!」

自分の口から飛び出した言葉に強烈な後悔を覚え、ステイルがインデックスから顔を背けた。

「……僕は、自分の非力と無知を言い訳に、君の記憶を奪い去った恥知らずの大馬鹿野郎だ。
この上君の身に何かあったら、今度こそ――」

自分を許せなくなる。決定的に。
全てが変遷したあの日、上条当麻がインデックスの自動書記を破壊しなければ。
ステイルは未だ彼女を追い立て、悪の魔術師という名の道化を演じていたはずだった。
上からの説明を鵜呑みにし、それが最善と信じてインデックスの記憶を破壊する。
そんな地獄を、この先何年間も続けなければならないはずだった。

上条への対抗心や苛立ちとは切り離して、その恩義は絶対的なものだ。
所属するイギリス清教の厳命を凌駕するほどに。
それが幼くして身を立てた魔術師としての誇りだった。
過去から未来に至るまで、過酷な運命を背負う少女の傍に寄り添おうとした男としての決して譲れないプライド。
ステイル・マグヌスにはこの場に留まる理由があった。
ライバル視している男がやってのけたことを、自分がやれないと認めたくなかった。


強い感情を秘めた懺悔を噛み締めるように聞いていたインデックスが、ゆっくりと立ち上がる。


「……初めて、あなたの本音を聞けた気がする」


ぽつりとそう呟き、ふいにその表情がふんわりとした笑顔に変わった。

31 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 04:28:24.58 igNzDGpD0 639/711

「ステイルは、わたしの命の恩人なんだよね」

はっとしたように、地面を睨みつけていたステイルが顔を上げた。

「……誰から聞いたかは、聞かないでほしいかな。信頼を損ねるのは不本意だし」

神裂、何故、余計なことを。
苦み走るステイルの顔に気づいているのかいないのか、インデックスが炎の巨人を見上げながら二の句を継ぐ。

「記憶を消さなければ死んでしまうっていう『必要悪の教会(ネセサリウス)』の嘘に引っかかったのは事実かもしれない。――それでも」


言葉を選ぶように、途切れ途切れに――


「二人が、良心の呵責に苦しみながらも私の記憶を消してくれていたから」


それでもはっきりとした口調で――


「だからわたしはとうまに出会うことができて、今もこうして笑っていられるんだよ?」


恨みつらみなど微塵も感じさせぬ表情で、炎の魔術師の過ちを、肯定した。

32 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 04:33:59.11 igNzDGpD0 640/711

「そんなことで、って言ったら失礼かもだけど、自分を責めるのはもう禁止」

「……イン……デックス」

「ていうか、うん、あなたがいつも素っ気ない態度取ってるのってそれが原因だったんだね。やっとすっきりした」

目頭が熱い。自身の操る炎のせいだけでないことは、わかっている。
それを目にとどめるだけで精一杯だ。

「でも、終わったことをいつまでも引きずってたら距離だって縮まらないじゃない?
わたしはもっとステイルや、火織とだって、仲良くしたいのに」

「……僕は…………しかし」

不満げに頬を膨らませながらも、心のどこかで待ち望んでいた言葉を述べるインデックスに、ステイルは思わず唇を噛んだ。
彼女の優しさに甘えるな。
甘えかけているからこそ、甘えたいと思うからこそ、頭に浮かんだ叱咤の言葉。
許される資格などとうに喪失しているはずだ。


「さっきあなたはわたしに傷ついてほしくないって言ったけど、わたしだってあなたが傷つくのは嫌なんだよ」


そのはず、なのに。


「わかったら大人しく協力させなさい。あなただって神父なんだし、人の厚意を無碍にするなって教えだって、学んでるはずでしょ?」


いつでもこの子はそうだった。
人の心にズカズカと、土足で勝手に上がり込んできて。


「痛みは背負わせるものじゃない。分かち合うものなんだよ。
あなたがまだわたしを――あなたたちとの大切な思い出を失ってしまったわたしでも――仲間だと思ってくれてるんなら、そうさせてほしいな」

僕に己の小ささを、思い知らしてくれる。
その眼差しのあまりの真っ直ぐさに、目を背けたくなる。

でも――かつての彼女の目とは違う。
敵意と怯えがない混ざった、定期的に記憶を消されていた頃の彼女の目とは決定的に違う。
賢明に、懸命に前を向いて、困難と闘おうとする意志に漲っている。

33 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 04:36:49.80 igNzDGpD0 641/711

永遠とも思しき沈黙を経て。
細く長く、息を吐ききったステイルが、すんと小さく鼻を鳴らした。

「……そこまで言うなら、仕方ないね。少しだけ、手伝わせてあげよう、かな」

「あーっ! まーたそういう憎まれ口叩くわけ? 私、そういう素直じゃない性格はあんまり好きになれないかも」

「君こそ、これ以上無駄口を叩かないでくれるか。術式が僕の手から離れてしまう」

「何それ、私と話してると集中力が乱れるってこと? し、失敗しそうだからって他人のせいとか、なしなんだよ!」

そういうことじゃあ、ないんだけどね。
ステイルが小刻みに瞬きを繰り返してから、今もってほっぺを膨らませているインデックスに向き直った。

「――射手座の力を利用して呪詛の道筋を新たに構築する。出来そうか?」

現状、流入する魔力が過多で魔術回路が目詰まりを起こしている。
まずはバイパス手術で回路を増やさなければ話にならない。

「……えっと、私一人じゃ無理っぽいけど」

二人なら。
いささか不安そうな言葉に、しかしステイルは強く勇気づけられるのを感じた。

「……それ以上結界には踏み込まないように、僕の後に続いて詠唱してくれ」

「あ、えっと、具体的にどういうプランで行くのかな?」

「新たな魔導回路をルーンで構築後、君の聖歌で魔女狩りの王(イノケンティウス)を抑圧している禁書の魔力を建物の外に。
物理的現象が生じない程度に薄めて発散させる。だが、無理はするなよ」

「……わ、わかった! やってみる!」

「……よし、リミットは五分だ。それを過ぎたらすぐにガルドラボーグを解除する」

時間制限は絶対順守だ。
でなければ今度こそ、上条の肉体と精神に、当然ここにいる自分たちにも、致命的な損害をもたらすことになる。
インデックスもそれがわかっているのだろう。力強くうなずき返した。


何があろうと彼女だけは絶対に死守する。
自分だって、彼女の突き抜けた慈愛と正義感に寄り添えるのだと示してみせる。
密やかなる決意を胸に秘め、ステイル・マグヌスが懐から新たなタロットを取り出す。
乱れ舞う無数の印章が血の化粧を施されながら壁に天井に貼りつき、霊安室に結界術式を上書きしていく。


(――今の僕にできる、これが最大限の譲歩だ。あとはどうなろうが知らんぞ、上条当麻ッ!)

34 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 04:56:25.03 igNzDGpD0 642/711

五感が研ぎ澄まされていくに従って、広々としていたはずのホール内が狭まっていく。
凝然と立っている男の存在を脳が認識し、上条が息を吐き出した。
己の甘さや煮え切らなさを嘲るように。

先ほどのモニターに映し出されたのは、自分が敗北したときの光景。
一寸先の現実だ。
このまま木原たちが自分たちの追撃を振り切ったなら、遅かれ早かれ食蜂の命運は尽きる。
研究者たちの手によってか、学園都市の暗部の手によってかは関係ない。


憎め。地面に額をつけさせ、食蜂に許しを乞わせた者たちを。
そうするように仕向けた男たちを。
身近な人間がいたぶられている様を見ていることしかできない己の弱さを。


考えて、考え抜け。
食蜂を守るために今何をすべきかを。

体にこもっていた粗熱が一気に引いていき、目的意識だけがどこまでも鮮明に。
数秒の黙考を経て、上条当麻はなすべきことを理解した。

回復術式。
禁じられた魔術。
病室でインデックスが語ったガルドラボークの効力。
神話にて語り継がれる狂戦士の姿、人々に崇められ、畏怖される暴威。

今必要なのは制御などではなく、狂うことなのだと。

35 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 05:01:29.46 igNzDGpD0 643/711

代謝能力と運動能力の著しい向上。それに伴う思考の急加速。
心を読ませる暇を与えないほどに脳の情報処理を速めれば、相手の行動を先読む能力だって無効化できる。
もし手遅れになったとしても、それはそれで構わない。
きっと自分の頼もしい仲間たちが、周囲に害を及ぼす前に恙なく安息を与えてくれるだろう。
後顧になんら憂いはない。

退廃的な理性が上条の精神を徹底的に陵辱していく。
食蜂の死という最悪の結末を回避すべく、譲れぬはずの信念を無理やりに捻じ曲げる。
根強く抵抗を続ける、相手を傷つけることへの忌避感情を排斥するために、理そのものを捻じ曲げる。

木原を名乗るこの男は、先ほど自分が人間じゃないと言い放った。

(だったら、なんの問題もねえよなぁ)

上条の瞳が次第に妖しげな光を帯び、焦点を合わさぬまま小刻みに揺れ動いた。
それに気づいた木原が、怪訝そうに眉根を潜める。気の触れた者を見るような素振りで。

そうしている間にも、上条の瞳孔は収縮と拡大を繰り返し――


『上条さぁん』


定まり切らなかった左右の視線がぴたりと定まった。
頭の中で、食蜂の嬉しげな声が余韻を残して消え失せる。
その幻聴を現実のものとするために。


(たとえ、うっかり――しちまったって)


投影された像。蔑むべき現実。排除すべき研究者の顔が、頭に深々と刻まれた。

36 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 05:07:00.52 igNzDGpD0 644/711

上条を上条たらしめし物。
一線を譲らなかった倫理観。
他者の命を奪うことへの忌避感情。その制圧に――――成功。
瞬間、薄青い炎にも似た魔力が上条の体、右手以外を余さず包み込む。

全身がさながら心臓のように大きく脈打ち、口元の陰影に内面の変容が顕在化する。
木原がよく知る、しかし上条をよく知る者であればそれを見て一様に言葉を失っただろう、酷薄な冷笑が。


「……はは、これはなんとも、素晴らしいじゃないか」

皆目不明な力に包まれ、打ち身の痣の色が見る間に薄らいでいく少年の様子に、木原が両腕を広げて驚嘆した。
目にしたことのない雄大な景色を歓迎するかのように。
上条の肉体を覆う未知の力と尋常ならざる回復力に、学者としての好奇心を刺激されているようだった。

「いったい何なんだね、それは? まだ隠し玉を持っていた、というやつかな?」

親しげにさえ映る木原の語りかけに、上条がこれといった反応を見せることはなかった。
今しもマイクロ波で全身の血液が焙られているようだったが、痛みは感じない。
思考は、冴えに冴えわたっている。


「先ほど雷を打ち消した能力といい、君の体もなかなか検証し甲斐がありそうだ。検体として協力を願い――」

「なあ、おい」


無遠慮に話を中断させられ、木原がやや不満げに目を細める。
口調の気安さに不可解さを覚えつつも、話だけは聞こうといった感じに顎をしゃくる。


今ならきっと問題ない。
生まれてこのかた覚えのない、感情の渦に身を任せる上条の口から、禁忌の言葉が紡がれる。



「目障りだ、死んでくれ」

44 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 22:20:31.35 igNzDGpD0 645/711

その朗々とした物言いに、木原の眉根がぴくりと動いた。
敵意ではなく殺意の表明。
何かが変化しつつあるという予感があった。

狷介さを髣髴とさせる細い眼は魔力に覆われた上条の一挙一動をつぶさに捉えている。
と、異様な前傾姿勢を保っていた上条の体が、無造作に腕を振り被り――

「…………ぬっ!?」

前触れもなく拡大。そして消失。
視界に過ぎったものが何だったかと思うより早く、頬に違和感を感じた木原が手を当てた。

指先にぬらりとした感触があった。
あるはずのものが、そこにない。
左頬の皮が削ぎ落され、頬の筋肉がむき出しになっていた。

「……な゛ぁ!?」

引きつった唇から濁った言葉が吐き出された。
剥き出した筋肉が律動するのに合わせて、傷口から少量の血がこぼれ出す。

間断なく、敷石を踏み砕く轟音と、唸るような雄叫びが聴覚を蹂躙。
痛みに勝る怖気が集中力を瞬間的に底上げ、背筋泡立つ木原の体を振り返らせた。
微かに漂うのは合成ゴムが焦げる臭い。
靴底を犠牲に勢いを殺した上条当麻が、身を捩じ切らんばかりに腕を引き絞っている。

45 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 22:27:54.33 igNzDGpD0 646/711

後背で踏み止まった上条が腰に手を添えるや、鈍く煌めくカタパルトの幻影が網膜に焼きつけられる。
そして狂奔。

「ウ゛ッ、ォオ゛オッオオラアアァァァーーーーッッッ!!!」

「しまっ――」

分厚い壁をも貫きかねない咆哮と共に、半身に隠れていた左拳が想像を絶する速度で飛来。
避けられない。
その予感とは裏腹に、木原は奇跡的に冷や汗ものの攻防を生き延びた。
上条の右手が視界の半分ほどを食い尽くし、指先があわや目蓋にまで触れようかというところで、たまたま前に出ていた足が相手の踏み込みを阻害したのだ。

その反動で十数歩ほども後方に飛ばされた木原が、着地するや驚愕を露わに前を向く。
目の前の少年が走行車両に匹敵する突破力を発揮したのだということに思い当たる。

「……って、何だこれ、やりづれえな。動きに視覚が追いついてねえ」

奇襲が不発に終わったことを気にしているのかいないのか、上条が首をしきりに捻りながら、体を左右に大きく揺さぶりながら木原に近づいていく。

「……このっ」

木原の放つ電撃が上条に殺到。が、そのことごとくが薙いだ右手にあっさりと散らされる。
時間にして二秒とかからなかったはずの攻防は、木原を心胆寒からしめた。
繰り出された攻撃の性能が想定外だったという以上に。
上条が今しがた、何をしようとしたかを理解して。

単に、力任せに顔面を殴ろうとしたわけではない。
接触の直前、拳を作っていたその二つ指は、微妙に開きかけていた。

46 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 22:35:01.17 igNzDGpD0 647/711

「…………ッ!」

全身がぶるりと震え、どっと嫌な汗が湧いた。
幸運に恵まれなかったら、何かが一つ狂っていたら。
自分の眼球は地面に叩きつけられた水風船のように呆気なく潰されていただろう。
どころか、あの勢いでは脳にまで達していたかもしれない。


「……お、ちったぁいい顔になってきたじゃねえか。へへ、その調子その調子ぃ」


木原の表情に確かな怯えを認め、上条当麻が歯を剥き出しながら笑った。
すこぶる明るい口調に反して、薄赤い眼光はサバンナの夜陰に潜む獣のそれだ。
およそ、そこいらにいる学生の目つきではない。

木原がどこか救いを求めるかのように周囲を見渡した。
自分の能力を優位に保つための金属壁が、猛獣を入れた檻に変貌したかのようだった。
息苦しいほどの切迫感。
殺らねば殺られるという思いが湧いた。

(……相手に呑まれるな。さっきの一撃は油断していただけだ)

身体能力は薬物で底上げ済み。
能力を無効化する敵の右手は確かに脅威だが、大能力者の能力を使いこなす自分に負ける要素はない。
自分の優位を再認識。
なまじ手心を加えていたのがまずかったのだ。
強力なマイクロ波で全ての体液を沸騰させてしまえば。

と、木原の眼球の動きに企みを感じ取ったのか、上条が身を低くして木原の側面に。
流水のような上条の足運びに、木原の視線が見失うまいと食らいつく。

47 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 22:39:47.76 igNzDGpD0 648/711

円を描くようにひた走る上条の動きは確かに速い。
とはいえ、一定の距離を保ちさえすれば、かく乱されるほどの動きでもない。

再計算。
この位置にいてマイクロ波を当てることは叶わないと判断。
自分にとって最も優位な距離を保つべく、木原が磁力を展開。
白衣が翻り、その体が後方の壁面上部に引き寄せられる。

重力を無視して垂直の壁に片膝を接着、地上の上条に向けて顔を上げる。
そのときには、二つ足の野獣が緩やかに蛇行しながら足元に向かって駆け出していた。

壁に激突しそうな勢いで――垂直の壁をも駆け上がりかねない勢いで。

再々計算。
当初のプランを早々に破棄。
足を止めぬ相手にマイクロ波などと悠長なことは言っていられない。
自らを守るように電撃球と金属球を身辺に多数配置し、上条の接近に対応する。

天井付近の壁に両脚を磁力で接着させた木原が、眼下の上条に向かって手を振りかざした。
放射状に放たれた電撃が落下するも、幻想殺しの右手が薙ぎ払われるや、紙吹雪のごとく散らされる。

「馬鹿めがっ!」

雷光を隠れ蓑にした木原の一撃が、壁を昇ろうとした矢先の、上条の後背を襲った。
自らが足場にしていた壁面を一挙に磁化させ、地面に転がり落ちていた複数の金属球を上条目がけて引き戻したのだ。

背後からの衝撃によってよろめく上条に自らの戦法の正しさを認め、


「な……んだとっ!」


なおも膝を屈さぬ敵に解答の齟齬を見出す。

48 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 22:45:36.62 igNzDGpD0 649/711

微かに息を吸い込む音が耳朶を打った。
魔術で強化された背筋に食い込んだ五つの金属球を一瞥だにせず、呻き声の一つすら上げず、上条が壁面に二歩目を刻む。
三歩、五歩――――判別不能。
瞬く間に壁面を駆け上がり、天井付近の木原に肉迫。

頭から腰椎にかけて冷気が駆け抜ける。
必死に金属球を操作し、下から迫り来る上条に嗾ける。
だが、目を打ち据えるべく飛び込んできた金属球を上条はあっさりと鷲掴み――

「うぉらぁッッ!!」

掴んだばかりのそれを用い、二撃目を真っ向から弾き返した。
金属同士が打ち鳴らされるや、速度を増して返ってきた球体を木原が必死に避ける。
その一瞬、他の金属球の動きにわずかな乱れが生じた。

すかさず上条が身を窄めるような体勢で、木原の展開する防壁に真っ向から飛び込む。
幻想殺しの右手が雷撃球を処理。浮遊する金属球の群れを体で強引に押しのけ――

「ぐぁッッ!?」

時間差で、竜の鉤爪がごとき左手の一撃が身を翻す木原の足を掠めた。
引き裂かれたズボンとともにぱっと血飛沫が舞う。
遅れて上条の拳が天井に接触、引き続いての轟音。
天井の一角に埋め込まれていた多数の照明器具がポップコーンのように弾け飛び、きらめく雨となって地面に降り注ぐ。

49 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 22:53:37.33 igNzDGpD0 650/711

「い、いったい何が起きている! 何故いきなりこのような力を――」

命からがら逆方向に転進する木原を、

「逃がすか、馬鹿が」

上条は傲然と見下ろし、天井付近の壁を蹴り放って追随。

「ぬぐっ……しつこい!」

生体電流を加速度的に巡らせつつ木原が地面に降り立ち、その側面にある部屋の出口へと向かう。
赤く滾る上条の瞳が流星のような尾を残し、逃げる木原との距離を貪り喰らう。

「今さらひよってんじゃねえよ。チキンが」

「黙れっ! 実験動物(モルモット)風情がっ!」

背面への電撃は呆気なく拡散され、ならばと左右から金属球を飛ばすも小刻みなダッシュ&ゴーを繰り返す上条には通じない。
狭まっていくばかりの戦術に焦りと苛立ちが募っていく。
ひたひたと足音が近づいてくる。
どこだ。
どこで手を打ち間違えた。
このままでは本当に。

敗北を拒絶せんと必死に頭を巡らせる木原に、天啓と思しきアイディアが閃く。

50 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 22:56:29.49 igNzDGpD0 651/711

背後から飛びかかってきた上条に対し、能力を全開。
人体内に含まれる金属成分に直接磁力で干渉。
遅れず、上条の体が重荷を背負わされたかのようによろめいた。

「がっ……あぁぁぁッ!!?」

「はぁ……はぁ……! こいつはさすがに効いたようだな! 散々脅かしてくれた礼だ、このまま体の中から引き裂いてくれるッ!」

「……がっ、うぅ、うぅぅァァッ!」

相手の血液や骨に含まれる微小な金属成分を寄せ集めて結石を作成。
それを体内から操ることで胃壁を穿ち、肋骨を軋ませる。
内臓を損傷した上条がたまらず血を吐き、自らの下腹部を鷲づかむ。
幻想殺しで継続的なダメージを取り払うも、それは同時に回復が停滞することを意味する。

「もう二度と、私以外の誰かが私の研究に引導を渡すことなど、あってはならんのだ!」

明らかに動きが鈍くなった上条に向けて、木原が両の掌を差し出して磁力を一点集中させようとし――

「……ッ」

そこでギクリと体を強張らせた。
苦痛に耐える上条が、覚束ない動作ながら、懐に忍ばせている何かに手を伸ばそうとしている。
周囲に展開する電磁波でその形状を悟った木原が、考えるより先にそちらへ磁力を向けた。
遊底のマガジンに収められていた鋼の銃弾が、上条が持ち出そうとしていた猟犬の拳銃ごと宙に弾き飛ばされる。

「は、はははっ、ざまぁみろクソガキ! これでチェックメイトだッ!」

51 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 23:03:08.42 igNzDGpD0 652/711

「……勝手に、見積もってんじゃねえぞぉッッ!!」

武器を奪われた間隙を縫って、上条の右手が胸板を撫で下ろすようにして体内の磁力を消去。
尋常ならざる痛苦から逃れるや、放置されていた最寄りの金属球を木原に蹴りつける。

「うぉっ!?」

猛速度で迫るそれを木原が磁力で押しやり難を逃れるも、そのときには再び上条が距離を詰めてきていた。

木原の目が忙しなく動いた。
直線的な電撃ではさっきのように掻き消される。
金属球での迎撃――――駄目だ、遠すぎて間に合わない。
積み上げたものが崩れる音。
かつて聞いた崩壊の序曲を今にも始めんと、指揮棒が振り下ろされるイメージが脳裏に過ぎる。
それに抗うべく木原が決死の大放電。

視界いっぱいに広がる雷流の帯が上条の周囲を覆いつくし――


「――ぬああぁぁぁあぁぁッッッ!!!」

「……ば、化け物か! こいつは!」


その中央に裂け目が生じる。
全身を電撃に焼かれながらも、上条の右手が紫電の檻を一気に抉じ開けていく。

52 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 23:08:33.35 igNzDGpD0 653/711

その迫力に呑まれたからか、はたまた無茶な能力発動が祟ったのか、木原の放電量が一気に減衰していく。
青白く光り輝く壁の中から半身を突き出した上条に、木原がよろめくようにして後ずさる。

「――てめえがいる限り、あいつに幸せが訪れねえっていうんなら」

体ごと捻じ込むようにして電撃の壁を突破した上条当麻が、怯える木原に大股で歩み寄る。

「幻想なんてケチ臭いなことはもう言わねえ。
テメェの日常を、研究を、人生ヲ、存在ヲ、殺しテ、殺し、テ、殺シテ殺シコロシコロシ――」

「……ヒッ、く、来るな! こっちに寄るな!」

壊れたレコード。
ひび割れた残響を伴う呪詛の呟きに、木原の瞳が恐怖に塗りつぶされた。

踏み出す足に上条が全体重をかけ、爪が手のひらに食い込むほど握り込まれた拳を相手の顔に振るう。
動体視力ではどうにもならない拳速。
相手の視線と細かな筋肉の動きから狙いを先読みした木原が、いち早く顔を横に逸らして上条の拳を回避。
その表情に微かな余裕が戻りかけ――

「―――ッッ!!?」

ふいに、やり過ごしたはずの拳から世にも耳ざわりな韻が発された。
尖った硝子同士を強く擦り合せたような、竜の咆哮が如き吃音に、たまらず木原が顔をしかめる。
その余波は部屋中に及び、壁面やモニターにまで細かな亀裂を生じさせた。
薬で強化された聴覚が仇となり、平衡感覚がひどく乱される。
振動が肌という肌に突き刺さり、幾つもの骨を伝導し、情け容赦なく木原の中枢神経を揺さぶった。

(な、何だ、今のは――――はっ!?)

前後不覚に陥った木原が自分の立ち位置に、床に映り込む敵の影に気づき、どうにか距離を取ろうと手足をばたつかせるも、


「……やっと、捕まえたぁ」


上条がそれを許すことはなかった。
後ろに跳ぶよりわずかに早く、ボロボロの学生服から覗く左手が木原の白衣を捉えていた。

53 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 23:18:44.08 igNzDGpD0 654/711

上条の手が白衣を手繰りよせに引き、あっさりと木原の腕を掴み上げる。
唯一能力が及ばないその場所は皮膚が爆ぜて血だらけで、なのに込められた力は尋常ならざるもので。
腕を振り解こうと身を捩らせるも、外れない。
握力というレベルではなかった。
金属の輪っかを嵌められてしまったかのようにビクともしない。

「……ぐゥ!? 何故だ! 何故電撃が、磁力までも――」

「無駄無駄。この右手に触れてる以上、もう能力は使えねえよ。……さて、と」

言葉を切った上条の視線が、天井に設置されている監視カメラに向かう。

「食蜂の周りにいるってぇ研究者ども、この状況が見えてるよなぁ?」

上条が声を大にして顔も知らぬ研究者たちに語りかける。

「このド腐れ野郎が今からどういう末路を辿るか、目ん玉かっぽじってよぅく見てやがれ。
これでなお、食蜂に舐めた真似しやがったら、そんときゃ覚悟しとけよ?
どこに逃げようとどこに隠れようと一人残らず見つけ出して、思いつく限りの残虐な方法で――
殺してくれと頼みたくなるような目に遭わせてやるからな」

「……こ、こ、のガキ――つ゛ぁッッ!!?」

木原が殴りかかるより早く上条が右腕を振り抜く。
速さを重視した一撃に、それでも木原の顔が大きく後方へ弾かれ、背骨が弓なりに反り返る。

「うぜぇな。人が喋ってるときにちょっかい入れんじゃねえよ――っと」

掴まれていた腕が一息に引き戻され、伸びきっていた筋繊維がぶちぶちと引き千切れる音が鳴った。
先ほどより一回り長くなってしまった木原の腕を、上条が手首を返して捻り上げる。

54 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 23:20:48.48 igNzDGpD0 655/711

「が……はっ…………」

半ばツイストドーナスと化した腕を強弱をつけるようにして引っ張りつつ、上条が相手の反応を観察する。

「おいおい、前座で気ぃ失うんじゃねえぞ。本命はこっちだからな」

「な、なにが、前座だと……」

木原が咄嗟に口を噤んだ。
みしみしと、目と鼻の先で、傷だらけの握り拳が軋んでいる。
これから何をされるのかを想像し、その手に込められた力を想像し、木原が掴まれている腕を振り解こうと必死に足掻く。
が、まともに一撃を食らったばかりで体が言うことを聞かない。

「食蜂にした仕打ち、熨斗つけて返してやる。クーリングオフは受け付けねえぜ」

虚ろだった上条の眼に微かな光が灯った。魔力を帯びたその赤い光は木原に血を連想させた。

(こ、……こんな、はずでは)

手首がひどく締め付けられ、その強い痛みに否応にも、次に到来する一撃の凄まじさを予感させられた。
いかに身体能力を底上げしていたとしても首から上は筋細胞が少なく、その恩恵をほとんど受けることができない。
そして、何より――

素手でも人は殺せるのだ。

55 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 23:27:59.18 igNzDGpD0 656/711

「それじゃ、しっかり目に焼きつけとけよ。人生最後の眺めと」

普段、底抜けのお人好しな少年が浮かべる笑みは、どこまでも陰惨で――

「テメエを殺す男の顔を」

「あ……あぁ……」

どこまでも厚ぼったい憤怒で糊塗されていた。

その傷だらけの体からは正体不明の風を伴った、力の奔流が生じている。
掴まれている手首の骨が、ついに折れる音が聞こえた。
その音が、木原の精神をも圧し折った。


「まっ、待ってくれっ! わかった! あの娘のことは諦め――」


反省の弁を終わりまで口にする機会は、木原に与えられることはなかった。
上条の右拳が空気を切り裂き、木原の顔面に深々と突き刺さった。

56 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 23:35:57.35 igNzDGpD0 657/711

気づけは闇の中にいた。
暗い炎が自分の身を覆い尽くさんとしているが、しかしぎりぎりのところで呑まれずに済んでいる。
水面に叩き落とされた体が浮力によって支えられるように。

病室で自分の無事を祈るインデックスの姿が。敵の群れを食い止めている御坂美琴の姿が。
自分を後押ししてくれた布束の声が、走馬灯となって思考を巡る。
やがてそのイメージが霧散し、暗闇の中から椅子に拘束されている食蜂操祈が、この上ない確かさをもって姿を現した。
虚無に覆われた瞳がそこにある。彼女に過酷な現実を強いた者たちへ、とめどなく怒りが湧く。

取り戻さなければならない。
あの子の不幸は、俺の不幸そのものだ。


「ぁ……が…………ぅぁ……」

遠ざかりかけた意識を繋ぎ止め、両膝に手を突くことで立ち姿勢の維持に努める。

「……はっ、……ははっ、ま、まぁだ生きてんのか。人間って、案外丈夫にできてんだな」

痛みで錆びた体をおして、上条がもつれそうな足に力を込めた。
腕を上げるのも億劫だったが、まだやるべきことがあった。
憎しみの対象がそこにいる。
排除すべき男がそこにいる。

殴り飛ばされて壁面に叩きつけられ、力なく背をもたせかけている木原に、上条が危うい視線を送る。
白目を剥いて痙攣する木原も、なかなかどうして悪くない。
が、ここはもう一歩踏み込んで、もっと素敵な木原にするべきだ。

58 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 23:41:52.47 igNzDGpD0 658/711

先ほどの宣告通りに、永遠に口を開かぬように。
右手に刺すような痛みが走り、実際、殴った拍子に刺さっていた木原の前歯を、抓んで捨てる。
この男を再起させてはいけない。全ての可能性をすり潰さなければならない。

「ぐっ……ごほっ!」

咳とともに吐血した上条が、薄赤くなった口元を拭いつつ視線を前に向け、はっと息を呑んだ。
ぐったりとした木原の周りを、血塗れの御坂妹たちがぐるりと取り囲んでいる。

夥しい数の虚ろな瞳。それが彼女たちの無念を切々と訴えかけているように思われた。
救われなかった、自分が救えなかった命に、上条が沈痛な面持ちで目を瞑った。
謝罪と惜別の感情を込めて。
痛ましい犠牲者たちの葬列に、食蜂まで加わらせるわけにはいかないという決意を込めて。

内臓の痛手に差し障りがないよう、細く長く息を継ぐ。
再び目蓋を開いたときには、妹たちの姿は消えていた。
魔術の効果は切れてしまったみたいだが、それでもあと一発。
あと一発ぶち込んでやれば、すべて片が付く。

重い体を引きずるようにして、上条が虫の息の木原のすぐ前を通り過ぎ、転がっている物に歩み寄っていく。
猟犬から奪い取った拳銃が、いくつかの照明に鈍くきらめいている。

59 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 23:44:46.25 igNzDGpD0 659/711

「……へへ、この状態で喰らったら、さすがに助かんねーだろ」

親戚の幼子に向けるようなひどく穏やかな表情で、上条がゆっくりと腰を下ろし、望んだ物を手にする。
鎮まり返った室内に、不規則に歩む音だけが響く。
十数秒後、上条は木原のすぐ傍で片膝をついていた。
万が一にも跳弾しないよう、耳の辺りから角度をつけて脳を狙うために。

「……ぁ……ぁ」

「こっちもさすがにしんどいんだわ。今度こそ、ちゃんとくたばってくれよな」

意識が定かでない木原のこめかみに、上条が黒い銃口を向けた。
引き金に人差し指が触れるや、動物園で見た食蜂の笑顔が思い出された。

説得が通じない人間がいるという現実に軽い眩暈を覚えつつも、上条は自分の行為を一貫して正当化し続けた。
食蜂のためだけではない。
この男が生きている限り、大勢の人間が不幸に巻き込まれ続ける。
いつまた御坂妹たちのような悲劇が引き起こされないとも限らない。
これは避けては通れない、害虫駆除だ。

60 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 23:48:45.71 igNzDGpD0 660/711

間近に決着を控えて初めて、上条は木原に感謝した。
自分の倫理観や内的葛藤を突き抜けた悪でいてくれたことを。
これだけ色々やらかした相手だ。
きっと正当防衛だって認められる。
万が一捕まったら、その時はその時。
外聞がどうなろうと知ったことじゃない。

殺害への意志を固めるや、周囲から一切の音が遠ざかり、殺すべき相手の輪郭だけが強調される。
半ば自棄的な思考に侵されながら、それでも撃たれる瞬間の相手の顔を見る気にはなれなかった。
唇を引き結んだままそっと顔を反らし、引き金にかかった指だけに神経を集中させ――


「……え?」


視界の端に何かが過ぎり、上条の目が泳いだ。

顔を反らした先、磨き抜かれた金属の壁。そこに反射したもの。
虚空に前触れもなく現れたものに、目が見開かれる。


それは――

その少女は。

61 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/10 23:55:10.55 igNzDGpD0 661/711

「なっ、……ちょ、待っ!」

緩慢に流れていた時間が一気に動き出した。
既に落下運動に入っている人形(ひとがた)を捉え、上条が銃を放り捨てて全力疾走。
魔術で体を苛め抜いた反動か、呼吸はひどく乱れたままで、手足は鉛のように重く――

それでも、間に合わせないわけにはいかなかった。


目一杯に差し出した両腕の前方で――

指先にかかり損なったその体の下に――

下半身を滑り込ませるようにして体全体で抱き止める。


「…………い゛っ! つぅうぅっ!」

圧し掛かってきた重みを下腹に受け、傷んだ体が悲鳴を上げる。
堪えるようにそろそろと息をついだ上条が、今しがた受け止めたそれに視線を落とした。


「……ほ、本物…………だよな?」


守るべき少女。
取り戻そうと願ってやまなかった存在。
気を失っている食蜂操祈に。

73 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/11 23:06:26.44 LFsNA1eo0 662/711


「あぁ、ギリ間に合った。上首尾だ、結標」

耳元からスマートフォンを遠ざけた金髪の少年が、ホールの中央にいる上条から目を離さぬまま通話を切る。
段々と近づいてくる足音に気づいたのか、ほっとした様子の上条がはっと顔を上げる。

「おう、お疲れさん、上やん」

すぐ近くに滑り込んできた強化プラスチック、今しがた上条が放り出した拳銃を拾い上げ、少年が片手を掲げる。

「……土、御門?」

「ふん、どうやら今はちゃんと聞こえてるみたいだな。そのナリからすっと相当苦戦したみたいだが、体のほうは平気か?」

「あ、あぁ、まぁ何とか……てっ、おいまさかっ、お前が食蜂を放り出したのか!?」

「厳密に言うなら、俺の仲間にやらせたんだがにゃー」

「って、おまっ、ふっざけんな! あんな高えところから意識失ってるやつ放り出すとか正気かよ!
 頭打っちまったらどうすんだ! たまたま受け止めきれたからよかったようなものの――」

「いやぁ、たまたまじゃないぜよカミやん」

「……あん?」

土御門がふっと笑い、天井を仰ぐ。

「俺は、カミやんが心理掌握を絶対受け止めてくれるって、信じてたぜい?」

74 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/11 23:11:01.94 LFsNA1eo0 663/711

「土御門、お前…………って、何いい台詞言ったみてえな空気作ってやがる!
 んな薄っぺらい根拠で誤魔化されるかっての!」

「って、あれぇ、ダメか」

「ダメダメだ! それとその銃! とっとと返しやがれ!」

「銃? つったって、こいつは元々お前さんの持ち物じゃないだろうに」

「んな細けーことはどうでもいい! とにかく今すぐに寄越せ!」

「いつにもましてテンション高いなぁカミやん。
まぁ渡すのはやぶさかじゃないが、念のため使い道を尋ねてもいいかにゃー?」

「そんなん決まってんだろ! そこに転がっているクソ外道にとどめを――」

「言うと思った。悪ぃがそいつは出来ない相談ぜよ」

「……はぁ? おい、今お前なんつった?」

眉間にしわを刻んだ上条に、土御門が困ったように肩をすくめた。

「……オイオイ、本当にどうしちまったんだカミやん。いつものおまんらしく」

「エセ土佐弁で誤魔化してんじゃねぇ! そいつかどういう人間か、今さら説明する必要はねぇだろが!」

壁に背をもたせかけている木原を指差しながら、上条ががなり立てる。

「……ちっちっ、まだ禁書の影響が残ってるのかにゃー? やっぱりあれはおっかないもんだにゃー」

「俺は正常(まとも)だ!」

「だったら四の五の言ってねえで、早いとこ外にお姫さん連れ出して介抱してやれってんだよ」

打って変わっての真剣な口調に、上条の口撃が止まる。

75 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/11 23:22:11.73 LFsNA1eo0 664/711


「さっきは我が目を疑ったぜ。まさかあのカミやんが敵をその手にかけようとするとはな。
だがよ、お前さん、いったい誰のおかげでこの場に立ててるんだっけか?」

「……誰って」

「鈍さにまで拍車がかかってやがんなぁ。インデックスに殺人幇助させる気ですかって聞いてんだよ」

「……ッ」

土御門がサングラスのつるに手をかけ、レンズの曇りをハンカチで拭う。

「病院でステイルと約束したんだろ? 一方を助けるためにもう一方を犠牲にするのか?
 相手の流儀に合わせるのは目ぇ瞑るにしたって、仲間への配慮まで欠かせていいってことにはならんだろ。
 明日にでも暗部に斡旋してほしいのかって話になるぜい?」

「……そ、それは」

「科学の街に激震、イギリス正教が管理する禁書目録、学園都市の一学生を魔人に変貌させる。
魔術結社の瓦版なら、こういった見出しかにゃー。少なくとも、一面独占は間違いなしだ」

「………………」

「つっても、そうすんのがカミやんの判断なら、俺個人としては受け入れるしかないのかにゃー。
護衛を頼んじまった引け目もあっし。やれやれ、難局を乗り切ったと思いきや、明日から空前絶後の魔法大戦かぁ。
いやぁ、血が騒ぐにゃあカミやん! 古今東西、魔術界の勢力図が一気に塗り替わるぜよ!」

「…………もういい」

「あぁそーそー、被疑者死亡のまま心理掌握が戻ったら、学び舎の園にもよからぬ噂が立つかも知れないにゃー。
もしかしたら心理掌握が手を回して実行犯をばっさりやっちまったんじゃないかって――」

「うっせっ! もういいっつってんだろが!」

上条が不満げにそう言い捨て、ややあって土御門の手にある拳銃から食蜂へ視線を移す。

76 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/11 23:30:22.85 LFsNA1eo0 665/711


呼吸は一目落ち着いていて、手術着を押し出す二つの膨らみが規則正しく上下している。
厚めの生地越しにも、食蜂の体温が伝わってきている。
反面、椅子にきつく拘束された影響か、両の手首が微妙に変色していた。
暴れたときに出来ただろう擦過傷からは薄らと血が滲んでいる。
青痣のような目の隈が痛々しく、両目の淵にはまだ乾き切っていない涙の跡があった。

当たり前だ。
今さっきまで、木原や研究者たちに寄って集って痛めつけられていたのだ。
心と体と、両方とも。

言い知れぬ罪悪感が押し寄せて来るのを上条は感じた。
真っ先に気遣うべき事柄を忘れてしまうほどに心がささくれ立っていたのだと思い至った。

「あっ……つ……」

全身に虚脱感を覚えるや、手足が一挙に重みを増した。
おそらくはステイルが術式を解いた反動だろう。
抑えつけられていた痛覚が、体のあちらこちらで悲鳴を上げ始める。

「ちょ、ちょお、だ、大丈夫か!? 上やん!?」

「……だ、奪還は、……俺か、警備員に任せるって話じゃ、なかったのか」

額の汗を手の甲で拭いながら、上条が問う。
しばしの間気遣うような素振りを見せていた土御門だが、大事なしと判断したらしい。

「いやいや、ここで鉢合わせたのはただの偶然だにゃー」

高校での一コマのようにおどけてみせる土御門に、上条があからさまな非難の眼差し。
予定調和。
「ってのは嘘ー」と早々に発言を翻した土御門が、サングラスを指先でくるくると弄んだ。

77 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/11 23:35:53.69 LFsNA1eo0 666/711


「仲間に空間移動能力者がいてな。連係を図りつつあっちこっちで敵をかく乱していたんだが」

そこで肩をすくめ、思い出すように笑う。

「一方通行め、あの格好でいることがよっぽど我慢ならなかったらしい。
珍しく張りきってくれたお陰で、能力者の掃討が予定よりかなり前倒しで終わっちまったんだにゃー」

「あの格好? 何のことだ?」

「言わぬが花、知らぬが仏ってやつぜよ。まぁそんなわけで手が空いたんで、こうして援軍に駆けつけたわけだが。
どっこい敵の首魁は既にお陀仏寸前で、しかもあのカミやんが人殺しになろうとしてるときたもんだ」

「だからってあんな無茶苦茶なやり方……そもそも見える位置にまで来てたんなら、声かけて制止すりゃよかっただろうが」

「……あのなぁカミやん、こっちだって何度も呼びかけたぜよ?」

「……へ、マジで? 全然聞こえなかったぞ?」

「集中力が過ぎるとままあることかにゃー。まぁもっとも」

声が聞こえていたとして、さっきの様子を見る限りでは、自分の制止など100%振り切られただろう。
だからこそ、通話中だった結標にあんな馬鹿げた対処法をやらせざるを得なかったのだ。
上条が人殺しになってしまえば、この件に巻き込んでしまった自分も、神裂やステイルに顔を合わせられなくなる。

「もっとも、なんだよ」

「……いや。カミやんが自分だけの力で戦ってたんなら、止めないって選択もあったんかなって。
んま、長い付き合いの誼ってことで、何かと板挟みなこっちの顔も立ててくれると助かるぜよ」

78 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/11 23:47:46.33 LFsNA1eo0 667/711


「にしたってなぁ。あんなやつの処遇にそこまで気ぃ遣う必要があんのかね」

相変わらず不満げな上条に、土御門が苦笑する。

「根っからの悪人だとしても、やっぱり殺しはよくないことだと思うぜい?」

「ずいぶん甘っちょろいことを言うんだな、暗部のくせして」

「甘いとか甘くないとかって話じゃない。軽々にこちら側に踏み込んで来られちゃ困るって話だ」

おもむろに土御門が足元に線を引く仕草をした。上条と、自分とを隔てるように。

「裏の仕事に手を出すな。俺らにだって面子ってもんがある。
それを潰されたら、たとえ相手がカミやんでも容赦はできんぜよ」

言いざま、土御門が木原に歩み寄り、その体をひょいと肩に担ぎ上げる。

「おい、待て! そいつをどうするつもりだ」

「今回の騒動の首謀者だからな。警備員とは別ルートで、アレイスターに引き渡す」

「そんなの認められるかよ! 舞い戻ってまた何かやらかす可能性だって」

「ない」

「……え」

「俺の魔法名、背中刺す刃に誓っていい。こいつはもう二度と、学園都市に現れることはないぜよ」

ときに敵さえも思いやる眼差しが、完全な憎しみに彩られたらどうなるか。
それを知ってしまった今となっては、再びこの男を上条と引き合わせるわけにはいかないだろう。

「それじゃあカミやんお先ぃ。ちゃんと手当てしてもらえよ」

遠ざかる土御門の背中を呼び止めようと上条が中途半端に手を伸ばしかけ、


「……う、うぅん」


その膝枕で寝息を立てていた食蜂の目蓋が、煩わしげに動いた。

80 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 00:02:06.58 neRcrv+W0 668/711

長い睫毛がぱちぱちと緩慢に瞬き、半分開いた瞳がツンツン頭の少年を映し出す。

「……食蜂? わ、わりっ、起こしちまったか?」

「…………ん」

「大丈夫か? どこか痛いとことか、ないか?」

「…………えっと」

「……ホントごめん。もっと早いとこ助けてやりたかったのに、こんなに遅れちまって。
と、とにかくすぐに御坂たちと合流して――」

「ねぇ」

「……て、あぁ、な、なんだ? どうかしたのか?」


安心させるように笑顔を浮かべる上条をまじまじと見て、食蜂が眉間にしわを寄せた。


「あなた、だぁれ?」

「…………え」


あっさりとしたその問いかけに、上条の顔が大きく強張った。

81 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 00:34:24.88 neRcrv+W0 669/711


ふぁふぅ、と気が抜けるような大欠伸をかます食蜂に、上条が引きつった笑いを浮かべる。

「しょ、食蜂サン? あ、なはははは、嫌だなぁ、何言ってんですか。悪い冗談は――」

「お兄さん、なんで私の名前知ってるの? というか、どうして怪我してるの? 喧嘩でもしたの?」

「は…………」

「……と、うぅ、なんだか妙に体がダルいわねぇ。風邪でも引いちゃったかしらぁ」

頭が真っ白にとは、つまりこういう時のことを指すのだろう。
何が起きているのかわからない。

何をすればいいのかが、わからない。

「ところで、ここ、どこなのかしらぁ? いつもの研究施設じゃなさそうだケド」

きょろきょろと辺りを見回す食蜂を見、上条が力無く項垂れた。
救助は、間に合わなかったのか。
洗脳装置での作業は、既に完了してしまっていたのか。
だとすれば、今さら幻想殺しを使ったところで。


「……はは……嘘、だ。……有り得ねえだろ。ここまできて、そんな結末」


誰もが笑顔で迎えられるハッピーエンド。
それを信じて戦ってきたのに。
そんな都合のいい幻想に至るルートは、とっくに潰えていたというのか。

82 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 00:48:00.16 neRcrv+W0 670/711


「ちょ、ちょっとぉ。いきなりどうしたのよぉ?」

床にぺたんと尻餅をつき、両手で顔を覆ってしまった上条を、食蜂が心配そうに下から覗き込む。

「…………な、なんでもねえ。……なんでも、ねえから」

「嘘。声が震えてるわよぉ? もしかして、泣いてるんじゃないのぉ?」

「……はっ、馬鹿言え。この俺が、そんな簡単に、人前で泣くわけないだろが」

懸命に洟をすすりながら、上条が腕で顔をごしごしと擦る。

「だったら、ちゃんと見せてみなさいよぉ」

「……ちょ、こら、やめろって!」

両手でぐいぐいと腕を引っ張り始めた食蜂を、上条が咄嗟に振り解こうとした。
それでも、わずかに濡れた目が、一瞬食蜂の目と克ち合った。

「ほらやっぱりぃ。……って、あらぁ? 何だかあなた、あの人にそっくりねぇ」

目を丸くした食蜂に、上条が戸惑うように首を傾げた。

「うん、あと二年か三年もしたら、多分あなたみたいな感じになるんじゃないかしらぁ」

83 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 01:01:44.19 neRcrv+W0 671/711


「……あの人ってのは、お前の友達なのか?」

「ふーんだ。初対面の人に教えてあげるわけないでしょう?」

「……そっか。じゃあ仕方ねえな」

「あ、でもねぇ。どうしても知りたいっていうならぁ、教えてあげないこともないわよぉ?」

どうやら教えたいらしかった。

「お前、その人のこと、好きなのか?」

「そんなワケないでしょぉ!?」

問いかけた途端、すごい剣幕で声を荒げた食蜂に、上条が心底驚いたように顔を引く。

「だってあの人すっごく鈍いしぃ、物覚えも悪いんだモン。
ていうかぁ、女の子の名前あっさり忘れるとか、お兄さん的にはどう思う?」

「い、いや、どうって言われても、まぁ、ひどいとは思うが」

「でしょでしょぉ? 本来なら切腹ものよねぇ?」

子どものように頬を膨らませて怒る食蜂を見、上条は妙な居心地の悪さを感じた。
何故だろう。自分のことを言われているわけでもないのに、胸の辺りがやたらきりきりする。

そんな上条に構わず、一頻り『あの人』を弾劾し終えたその後で、
「でもねぇ」と食蜂がはにかんだ。

「数日前だったか、やっと名前を覚えてもらえたみたいなの。
それにぃ、えへへ、入学祝いだって、プレゼントまでもらっちゃって」

「……入学、祝い? ……数日前だって?」

「そうよぉ、常盤台中学の」


さらりと出てきたその名前に――――上条の息が止まった。


「すごい素敵なポーチなのよぉ。もう嬉しくって嬉しくって、ここだけの話、毎晩枕元に置いたまま寝てるの。
この先壊れたって何遍でも補修して、大事に使うんだからぁ」

84 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 01:18:07.82 neRcrv+W0 672/711

「それでねそれでね。――って、ちょっとぉ、聞いてるのぉ?」

「あ、あぁ。ちゃんと聞いてるって」

相槌を打ちつつも、混乱している頭を必死に整理する。
木原の前に戦った白衣の男は、今の食蜂が能力者であることを忘れていると言っていた。
そもそも常盤台という存在を知らないのだと。
ホテル暮らしをしながら、とある中学に転入しようと考えている外部の人間なのだと。

なのに、たった今食蜂の口からは、一字一句間違わず、常盤台中学という名詞が出てきた。
しかもまだ入学前だと思っているらしい。
この状況を、どう判断するべきか。

「な、なぁ食蜂。お前、心理掌握(メンタルアウト)って聞いたことは」

「だから、なんで私の名前を知ってるのよぉ。お兄さん、もしかして私のストーカー?」

「違えよ馬鹿!」

「い、いきなり怒鳴らないでよぉ! びっくりするじゃなぁい!」

「あ、あぁ、ごめん、悪かった。で、心理掌握って代名詞に心当たりはないかな?」

「……なんかそんなふうに自称してる痛い人なら知らないこともないケド。
もしかしてお兄さん、あのジジイの関係者ぁ? なら残念だけど、仲良くできそうもないわねぇ」

85 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 01:31:05.60 neRcrv+W0 673/711


ハの字になった眉からは嫌悪感がありありとうかがえる。
研究者たちにとって不都合なはずの記憶が選り分けられていない。
と、なれば。

「な、なぁ。お前、この状況になんか違和感はねえのか?」

「……え? ええっと、あ、そういえば胸の辺りがやたら重いような」

「そ、そういう身体的なことじゃなくっ! って、コラッ! はしたない真似すんなって!」

手術着の裾を大きく前に肌蹴て胸元を覗き込もうとする食蜂から、上条が慌てて顔を背ける。
この食蜂は、割に素直だが、なんだか無防備にすぎる。

「……って、あらぁ? なんでおっぱいがこんなに大きくぅ」

聞くな上条当麻、今は無視しろ。

「しょ、食蜂! 御坂美琴って名前聞いて、何か思い浮かぶことあるか?」

「……ミサカミコト、つい最近どこかでぇ。……あ、思い出した!
 常盤台中学の新入生名簿に、そんな感じの名前があった気がする」

発揮される記憶力に下を巻きつつ、どうやら推測が正しいことを知る。

「だ、だったらあと一つ」

「あの、お兄さん。何だかさっきから必死すぎて怖いんだケドぉ」

微妙に引き気味な表情を向けられ、上条が申し訳なさげに頭を掻く。

「ご、ごめんな。これで最後だからさ」


ごくり、と唾を呑み込む音。
緊張で喉の筋肉がひどく張っている。


「か、上条当麻って名前に、心当たりはあるかな?」


一縷の望みを託したその質問に、


「なんだぁ、やっぱりねぇ」


食蜂は別段驚くでもなく、ただ合点したようにうなずいた。

93 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 11:28:40.38 neRcrv+W0 674/711


「そうよねぇ。他人の空似っていうにはそっくりすぎるもの」

ふふんと得意げに笑った食蜂が、上条に人差し指を突きつける。

「あなた、当麻さんのお兄さんでしょ!」

間違いない。
ここ最近の記憶がなくとも、昔の記憶は残っている。
洗脳は未だ完了していない。

「あ、あれ、違った? じゃあ、従兄だったりするのかしらぁ?」

心理掌握の防壁は、未だ機能を維持している。
汚泥のような悪意の侵食を、堰き止めている。

「…………はは、食蜂。お前ってやつは、やっぱすげえ能力者だよ」

「え、ノ、ノウリョクシャ? いったい何の話?」

「……ん、そっか。そっちは覚えてねえんだな」

不思議そうに首を傾いだ食蜂に、上条がなんでもない、と首を振る。

94 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 11:31:35.27 neRcrv+W0 675/711


状況整理。

今現在の食蜂は、心理掌握で作り出された人格と、食蜂の過去の記憶が中途半端に結びついている。
反して、ここ二年か三年かの記憶、おそらくは研究者たちと決定的な破綻を来たした出来事。
それが頭の隅に追いやられている。
PCのデフラグ、データの最適化が作業途中で停止ボタンを押された状態。
幻想殺しを用いて今ある人格を取り除けば、おそらく記憶の不整合さも解消される。

あとは自分に、彼女と向き合う性根が足りているか。
これだけ記憶が掻き乱されているとなれば、幻想殺しを使っても完全に元に戻るかは未知数。
何らかの記憶障害を抱えてしまう可能性だって否定できない。

能力を取り戻せたとして、この騒動をきっかけにスポンサーが撤退するかもしれない。
あの白衣の男が言っていた通り、近いうちに常盤台を追い出されてしまうかもしれない。

「……わがまま、なんだろうな」

上条が無邪気に笑う少女に目を細める。
元に戻せば彼女の苦しみや葛藤を増やすことになる。
それは確実で、だから恨まれる可能性だってある。

95 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 11:34:15.54 neRcrv+W0 676/711


心理掌握。
一個人が持つにはあまりにも歪んだ力。
食蜂操祈の過去は、大人未満の少女が受け留めるにはあまりにも重い。
忘れているほうが、食蜂本人にとっては幸せなのかもしれない。

「……なぁ、食蜂」

「なぁに? やっと白状する気になったのぉ? というかぁ、私の名前、当麻さんから聞いたんでしょ」

「今のお前は、俺が知ってる食蜂じゃねえんだ」

「……え?」

上条当麻が知る食蜂操祈。
気分屋で、すごく扱いづらくて。
人に弱味を見せるのが大嫌いで。
どうしようもなく疑り深くて。

「そんなあいつが、さ。俺を助けようとして、体張ってくれたんだよ。あの時の礼を、俺はまだ言えてないんだ」

「……えっと、あの? 何を言っているのかさっぱりなんだケド?」

上条がほんの束の間、辛そうに片頬を歪める。

96 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 11:37:42.62 neRcrv+W0 677/711


負けん気の強そうな瞳。
かったるそうな口調と不遜な態度。
それに親しみを覚え始めたのはいつからか。

「知らねえやつからしたら、十人が十人、今のお前のほうが魅力的だって言うかもしれねえけど」

素直で、可愛らしくて、無能力者の食蜂操祈。
不幸な自分に好意を抱いてくれて、頼りにしてくれる少女。
言いようのない惜別の情と、それを上回る罪悪感が胸を締め付ける。

だが、それでも。
自分にとっての食蜂操祈は――


「俺が、上条当麻が、取り戻したかったのは――」


心理掌握だった食蜂操祈ただ一人。
到底抱えきれないだろう荷物を、それでも引きずりながら歩んできた少女だ。
何かと仲違いしている御坂や、寮生の身を案じている寮監のことまで忘れている今の状況が
正しいことだとはどうしても思えなかった。

今までの彼女とのやり取りや衝突の積み重ねを、なかったことにしたくはなかった。


「だから――――ごめんな」


言葉で、心の中で深く深く詫びながら、上条が目をぱちくりさせている食蜂へ、その額へと手を伸ばす。

「…………ぁ」

微かな呟き。
撫でるように触れた右手に慣れ親しんだ感触を感じ――

それを最後に、視界が暗転した。

98 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 11:41:52.17 neRcrv+W0 678/711


――その十数分前


「悲惨ね」

「悲惨だなァ」

排除対象の研究者たちを前にして、お下げの少女と少女装う少年が横目を交わし合う。

「こいつァ、どう収拾付けりゃいいンだ? いっそくたばっちまったほうが幸せなンじゃねェのか」

二人が心理掌握の監禁場所に突入したときには、ある意味で全てが終わっていた。
拘束椅子に固定された少女の周りには、いずれも研究者と見られる三人の大人たちがへたり込んでいる。

液晶に表示されているのは、洗脳装置の接続デバイス。
ドぎつい彩色で幾重にも表示されているレイヤー、何行にもわたるエラーコードの羅列。

カメラに映し出された木原の劣勢を見て臆病風に吹かれ、食蜂の能力を用いて身の安全を確保しようとしたのだろう。
その自衛行為の代償が、

「パ、パパー! ママーッ! どこにいるのー!?」

「うわーん、お腹すいたよー!」

目の前の惨状。
大の男たちが等しく、両目を擦りながら幼子のように泣きじゃくっている。

99 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 11:45:06.20 neRcrv+W0 679/711


「うぅ、普通にキッモ。やめてよね、ただでさえ本調子じゃないのに」

結標が心底嫌そうに耳を塞ぎ、幼児化した研究者たちから一歩後ずさる。
ダンディな声でみっともなく泣き喚かれるのは、生理的にきついものがある。

口元を手で覆う少女の傍らで、拘束されている金髪の少女を一方通行が一瞥する。

「ふぅン。差しづめ、深層セキュリティを突破した相手にのみピンポイント発動する最終防衛システムってとこかァ?
 ったく超能力者(レベル5)って連中は、どいつもこいつも考えることがえげつねェったら」

「……突っ込まないわよ?」

「間に合ってまァす」


今回はたまたま研究者たちが恐怖に駆られて暴走したが
もし恙なく木原本人がデバイスを操作していたら――

「プロテクトを解いた直後に発動ってのがミソだな。誰だって気ィ緩ンじまうだろ」

どこか称賛するかのように、一方通行が手のひらを上に向ける。

100 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 11:50:57.25 neRcrv+W0 680/711

洗脳装置のような精密機械を扱う以上、電撃使いであっても意識的に電磁バリアを解除せねばならないはずだ。
唯一無二の盲点をつき、勝利を確信した心の隙間にピンポイントで打ちこまれる楔、強制洗脳。

「最悪、道づれにする気だったのかしらね。可愛らしい顔しておっかないったら。ま、こっち的には楽できて助かるけど」

携帯端末を開き、タッチパネルを何度かスライドさせて土御門の名前を呼び出す。
目に見える障害が取り除かれていたにせよ、まずはリーダーにこの現状を報告する必要があるだろう。
迂闊に接触したら自分たちまで心理掌握の排除対象として見なされるかもしれない。

「あぁ、土御門? 今大丈夫? ええ、たった今、心理掌握の身柄を確保したわ」

結標の報告を聞き流しながら、少女を装う一方通行が、

「しっかしあのジジイも気の毒に。三下の逆鱗に触れるどころか、畏れ多くも引っぺがしちまうたァ」

ノイズが走るモニター上で決着がついた様子を見止め、どこか得意げに腕を組む。

「……つーか、あんな勢いで殴られっちまって、中枢神経に大事ないのかねェ?」

「――は? 何ですって? どういうこと?」

ふと湧いて出た疑問が、怪訝そうな声にかき消される。

「何だァ、どしたァ結標」

「って、ハァっ? 心理掌握をすぐに転移させろって、どこに。いきなり意味わかんないったら。
だから、早すぎて聞き取りづらいっての! そんなに捲し立てないでよ!」

101 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 11:54:01.01 neRcrv+W0 681/711


「まったく、とうまってばよっぽど病院が好きなんだね?」

「……う、面目ない」

「退院した即日入院なんて。この分だとギネスに登録されちゃう日も遠くないかも」

皮肉めいたインデックスの言葉に、上条当麻は今日も今日とて、ベッドの上で項垂れる。
どう言い繕ったところで、大病を患っているわけでもないのに
その病院で働く医者や看護師の顔と名前が全て一致してしまっている現状は、決して健全ではないわけで。
それでもいつもみたく噛みつかれずに済んでいるのは、つまりそれだけの重傷で。
全身打撲、軽度の火傷、擦過傷、右手甲骨粉砕骨折。左足と、左右の肋骨二本ずつにヒビ。
骨の構成促進剤を飲まされてからは胃の辺りまできりきりしている。
極めつけは皮肉交じりの説教。
下手な拷問より苦痛だった。

「ホント、もう少しスマートに解決できないもんかしら。怪我ばかりしてると老化だって早まるわよー?」

サマーセーターを着た茶髪の少女、御坂美琴が、行儀悪く窓枠に腰かけ足をぶらつかせる。
これが人を心から案じている言葉だと理解できる人はそういないだろうな、と上条は苦笑いを浮かべる。

102 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 11:56:23.16 neRcrv+W0 682/711


「……て、何笑ってんのよアンタ。全然反省足りてないんじゃないの?」

「い、いやぁ、もう金輪際こんなことは」

「そういう台詞、私が今までに何回聞いたか教えてあげようか?」

完全記憶能力者の横槍に上条が沈黙。
促せば正確な数字が算出されること想像に難くなし。
搬送されるなり集中治療室に運び込まれ、面会謝絶を食らっていた自分に安心安全を語ることは許されない模様。

気まずい沈黙が満ちる病室内に、控えめなノックの音が響いた。

「は、はーい、どちらさんですか?」

救われたとばかりに上条が声を大に。
一瞬、躊躇うような間の後。

「あの、食蜂、です。か、上条さんの、お見舞いに」

聞き慣れた声ではなかった。
聞くに堪えない声だった。

103 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 12:01:09.73 neRcrv+W0 683/711

「は、入っても、いいですか?」

「あ……えーと」

今にも泣き出しそうな、むしろ半分泣いてるみたいな声。
聞いたところに寄ると、記憶を取り戻した直後の食蜂操祈さんは
血塗れで昏睡状態の自分を見てすごくすごく取り乱していたらしい。
重傷はなはだしい自分を運び出そうにも長時間の監禁と――元々の体力のなさも間違いなく手伝ったのだろうが
――何度となく肩を貸そうとしてはへちゃっと崩れ落ちていた、とは後を追ってきた神裂の談。
その絵図がありありと思い浮かぶ辺り、微笑ましくもあり申し訳なくもあり。

面会謝絶が解除されたとはいえ、全身包帯だらけのこの格好で会うのはどうだろう。
居た堪れなそうに御坂とインデックスを見比べるも、身から出た錆でしょ、といったていで取り合ってくれない。
哀しいまでに孤立無援な上条だった。

この上は出来る限り元気なところを見せるしかない。


「ど、どうぞー」


緊張からか、軽く引っくり返った声になった。

104 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 12:04:23.62 neRcrv+W0 684/711


「よっ、その後調子はどうだ?」


傍目にも居た堪れなく半泣き顔に、上条は体が許す限り機敏に片手を上げる。
瞬間、刺すような痛み。
禁書を用いた反動か、体中は隅から隅まで重度の鈍痛筋肉痛。
顔中の皮膚が突っ張るように引きつるが、見抜かれないよう堪える。

目尻に溜まった大粒の涙を食蜂が長袖で拭い、鼻をすすり、泣き笑いの表情を浮かべた。
元気そうな上条に心底安堵したというように。
この時ばかりは、幻想殺しで心が読まれないことに大感謝だ。

「……ん、見た感じ、血色は悪くなさそうだな。能力のほうは――」

「ちょっとぉ。人の心配より、まず自分の心配でしょう?」

「あ、あぁ、はは、そうだな」

目立った外傷はなかったものの、救出時の食蜂はやはり相当衰弱していたらしい。
栄養剤の点滴で三日ほど入院、退院後も後遺症の有無を確かめるために通院しているとは土御門舞香からの情報だ。

105 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 12:07:14.60 neRcrv+W0 685/711


「……あんなひどい目に遭ったっていうのに、何で笑っていられるのよぉ」

「そりゃ、まぁ、報われたから、かな」

笑顔を浮かべる上条に、食蜂がさめざめと溜め息。

「……ホント、しょうがない人ねぇ」

二人の間に流れる奇妙な空気を察してか

「……じゃあ、私はスフィンクスにご飯をあげなきゃいけないから、もう行くんだよ」

銀髪の少女が椅子からひょいと飛び降りる。

「そっか。あ、着替え持ってきてくれてありがとな、助かったよ」

「ううん、それより早く元気になってね。小萌の世話になってばかりだと肩身が狭いんだよ」

「あぁ、約束する」

ニッと笑った上条当麻を見て、インデックスは小さく頷き

「――――」

食蜂とすれ違いざま、何事かを告げて病室を出ていく。
食蜂の視線が束の間廊下の奥の方へと固定される。

「どした? あいつ、何か言ったのか?」

「さ、さ、さぁ? よ、よく聞こえなかったケド」

しどろもどろで首を振る食蜂を見て、絶対嘘だと上条は思った。

106 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 12:09:42.77 neRcrv+W0 686/711


そんな二人のやり取りを微笑ましそうに、少し羨ましそうに見ていた御坂が

「……さて、と。私も行くわね」

膝丈上のスカートを翻らないよう前で抑えつつ、床に着地。

「おう、連日の見舞いありがとな、御坂」

「いいわよ。それよか怪我、早く治しなさいよね」

指を銃に見立てて打つ仕草をしてから、微かな花の香りを漂わせて病室を去る。
必然、病室は上条と食蜂二人きり。

「ん、あれ? なんかいい匂いがするな」

香水とは違う、食欲を掻き立てる匂い。
スンスンと行儀悪く鼻を鳴らす上条を見て、食蜂はどこか恥ずかしげに、白いポーチに手を入れる。
すわリモコンかと上条が身構えるも、出てきたのは違うものだった。


「はい、これ」

「……ん、なんだ? この包み」

「あ、開けてみればわかるわよぉ」

差し出された布包みを包帯の巻かれた手で受け取り、縛られていた紐を解く。
シップ薬の匂いに混じって香ばしい匂いが手元から広がり、上条の鼻腔をくすぐった。

107 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 12:13:08.76 neRcrv+W0 687/711


「これ……全部お前が?」

花柄のナプキンに盛られたのはベリーやチョコのチップを散りばめた可愛らしいクッキーだった。
形は不揃いで、割れたりしているのもあったが、それだけに手作り感に溢れている。

「誰かをお見舞いなんて経験、あんまりなくて。何をしてあげればいいのかも思いつかなかったから。
土御門さんに、助言してもらいつつ、ね」

「…………な、なぁ」

「うん? なぁに?」

「お前、まだ洗脳が解けてないなんてオチは――」


「それどういう意味ィーーッ!?」


食ってかかった食蜂に、上条がたじたじとなった。

「ち、違うならいいんだけどさ! ほら、あんなことがあったばっかだし!」

「ら、らしくないことしてるのは自覚してるわよぉ! いいモン! 食べたくないんだったら持って帰るしぃっ!」

取り返そうとナプキンに伸びてきた手首を上条がさっと引っ掴む。

「いや、ごめんごめん。ありがたくいただくよ」

「う~~」

「わ、悪かった! この通り! 神様仏様食蜂様!」

ベッドの上で平謝りの上条に、食蜂は唇を尖らせたまま、自分を拝む手に巻かれた包帯をちらりと見――
渋々といったふうに、インデックスが空けた椅子に腰かける。

108 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 12:14:22.52 neRcrv+W0 688/711


「い、一応味見はしたし、食べられなくはないと思うんだけど」

「んじゃあ、早速一口」

 上条が星形のクッキーを抓み、開いた口に放り込む。

「…………ん」

「……ど、どう?」

「うまい」

 素直な言葉に、食蜂の顔が綻んだ。その後で、少し照れたように頭を掻く。

「そ、そう? ふふふーん、やっぱり才能力ってやつかしらぁ? いきなりきっちり作れちゃうなんて」

「指に巻かれた絆創膏がなければ、さらに決まった台詞だな」

「……え、あ、って、手袋してるからそんなの見えるはずないじゃなぁい!」

「おう、カマかけてみただけですよ」

「ぐ……むー」

109 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 12:16:05.84 neRcrv+W0 689/711


「せっかくだし一緒に食べようぜ。ほら、お前も」

「……う、うん」

半分開いた窓から入ってくる風は冷気を含んでいる。
冬の近づきを感じながら、上条が窓の外にある枯れ木を見つめる。

「……あの、さ」

咀嚼していたクッキーを呑み込んだ後で、上条がおもむろに口を開く。

「……なぁに?」

「もう一人の食蜂は、どうなったんだ?」

その問いに食蜂は即答せず、窓の外に視線を逃がす。


「あ、ゴメン。言いたくないなら、無理に言わなくても――」

「……彼女なら、今もここにいるわよぉ」


そう言って、食蜂が空を見上げながら自分のこめかみをゆっくりと指差した。

110 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 12:18:12.00 neRcrv+W0 690/711


「え、それって……」

「…………」

「ま、まさか……二重人格になっちまったってこと!?」

「ううん」

「……違うのか。じゃあ、どういう」

「あなたの右手が私の能力を解除したとき、自我に影響を及ぼさない範囲で融合したみたいねぇ。だから」

一息入れて、食蜂が上条に向き直る。

「私があの子だった時の記憶は、ちゃんと残ってるわぁ」

「……そっか」

思いのほか曖昧な結末を聞かされ、それでもいくらか心が救われたのを上条は自覚する。
ほっとしたような、それでいて不安が残るような、何とも言えない気持ちは拭えなかったが。

111 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 12:20:17.13 neRcrv+W0 691/711


「……後悔、してない?」

「後悔って?」

「手前味噌だけど、記憶を取り戻す前の私、かなりいい子だったんじゃないかしら?
 自分がこうありたいっていう理想の女の子になっていたはずだもの」

「……んー、まぁ。今より素直ではあったみたいだけどな」

「でしょでしょ? だったらぁ」

「けど、それ以上言ったら怒るかんな?」

「……え」


「俺は、俺の知る食蜂操祈のために戦ったんだっつうの」

「……上条さ…………きゃわぁっ!?」


前触れもなく、上条当麻が食蜂の腕を引いた。
あっさりバランスを崩した食蜂が、そのまま上条の胸元に倒れ込む。

113 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 12:24:53.80 neRcrv+W0 692/711


「…………あ」

「…………」

「……か、上条さん、ちょっと、これはいくらなんでも、い、いきなりすぎるっていうかぁ」

「嫌なら放す」

「……、」

「…………」

「……嫌じゃないわぁ。……嫌なわけない」

「……わかった」

「…………でも、ちょっと痛かったんだゾ☆」

「あ、わ、わりぃ」

じと目で見てくる食蜂に、上条が慌てて詫びを入れる。


「……すっごく、怖かった」


わずかに力を抜いたその腕の中で、食蜂がそっと体重を預けてくるのがわかった。

114 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 12:30:51.85 neRcrv+W0 693/711


「……頭の中で、たくさんの思い出が消えていって。音もなくパチンパチンって」

小刻みに震える両肩を、上条がそっと左腕で抱き寄せる。

「今しがた、何を見ていたかは覚えているのに。
それが何だったか、誰だったか、全く思い出せないの。
土御門さんも、白井さんも、寮監も、御坂さんも、派閥の子たちも。
――パパとママさえ」

ややあってその震えが収まり、食蜂が目元に薄らと浮かんだ涙を指先で拭う。

「どんどん消えていく中で、あなたの面影だけがおぼろに残っていて。
……それが弾けた瞬間どうなっちゃうのか、想像したらすごく怖くなって」

堪えるような声が尻つぼみになっていく。

「もうどうにも、歯止めが利かなかった。ああなることだって覚悟してたつもりだったのに。
みっともなくあなたに縋り付いちゃって……私らしさなんて、全然貫き通せなくて……」

胸板を覆う布地に、温かかな物が音もなく染み込んでいく。

116 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 12:35:11.32 neRcrv+W0 694/711


第一印象は、さほど良くなかったと思う。
いけ好かないとさえ感じていたかもしれない。
自分が記憶を失っていたことも影響しているかも知れないが、それにしたって。
感情的で、わがままで、後輩とは思えないほど礼儀知らずで。

けれども、今の上条は知っている。
能力の解析に協力したことで始められた非道な実験の数々。
実験の犠牲になった一万を超す御坂の妹たち。

きっと、あのとき鉄橋の上で独り佇んでいた御坂と同じように。
事実を知った、自分より二つ年下の少女が、精神的に追い詰められただろうことは想像に難くない。

その認識が腑に落ちるや、塗り固められた虚飾の奥にあるものが。
彼女が獲得した能力と歪み、時折垣間見える素直さが、とても愛おしく感じられた。


「ホントにごめんな、助けに行くのが遅れちまって」

「そんな、ことない。私、すごく、嬉しかった、嬉し、くて」


たどたどしく言葉を紡ぐ食蜂の背中をあやすようにぽんぽんと叩きながら、ふと思う。
もし、食蜂があの最悪の状況をも覚悟していたというのなら。
あるいは別人格の防壁が解除されたあとにすら。
彼女は自虐的かつ破滅的な反撃策を巡らせていたのではないだろうか。
たまたまそれが、自分たちの介入によって阻止されただけで。

117 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 12:39:06.31 neRcrv+W0 695/711


腕の中で鼻をすする食蜂の頭を、指で長い髪をすくように撫でる。

「……あ」

「……ま、あれだ。洗脳されたままじゃあ、こうやって頭を撫でてやることだってできねえしな」

「え、えへへぇ」

「つか、食蜂サンは自分のハードル高くしすぎです。付け入る隙くらいは、残しておいてもらわねえとな」

「……ハイ。心配かけて、ごめんなさい」

「ん、素直でよろしい」

何だかんだ言いつつも、彼女の中に最後まで居座れたというのは、上条当麻としては上出来に過ぎる結果だろう。

「……ぁんっ、くすぐったぁい☆」

「ちょ、ばっ、変な声出すなって!」

諌める上条の視線が廊下の側へと向かう。

「へ、変な声はないでしょー? 上条さんの手つきがやらしいのよぉ」

「…………」

「……上条さん? あの、えっと、怒ったり?」


「ありがとな、助けてくれて」


その一言に面食らったように、食蜂が口を半開きにする。

118 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 12:43:05.65 neRcrv+W0 696/711


「ずっと、それが言いたかった。お前があん時必死に庇ってくれたおかげで、俺は今もこうして生きていられる」

「そ、そんな……。巻き込んだのは、助けられたのだって、私のほうなのに」

「俺が勝手に巻き込まれたんだよ。それに、感謝してんのは本当だから」

「だ、だったら私も! ……あ、ありがと、助けてくれて」

「…………」

「………ぷ」

「……く、くく」

「……はぁ、何だか、私たち、馬鹿みたいねぇ」

ホントにな、と上条が可笑しそうに請け合う。

「ねぇ、上条さん? もしいつかまた、私が危ない目に遭ったら」

「言われるまでもねえよ。いつだって助けてやるさ。ま、できたら俺の傍にいてくれりゃありがたいけどな」

「――――ッ」

「ん、どうした?」

「……べ、別に。何でもないですぅ」

「つっても、顔赤いぞ?」

「あなたって本当にタチ悪いわねぇ!?」

119 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 12:47:01.16 neRcrv+W0 697/711


「だ、だから、なんでお前はいきなし不機嫌になるんだよ!」

「そっちが悪びれもせず気障なこと言うからでしょぉ!?」

「……気障なこと?」


「ホント鈍い人ねぇ。私にこんな顔させられるのって、あなただけなのよぉ?」


自分で口にした台詞に、どこかくすぐったそうに食蜂が笑った。

「さ、さいでっか」

「ほぉらみなさい。上条さんだって赤くなったわぁ?」

「ばっ、んな恥ずかしげな台詞をあんな顔で口にされたら誰だってなぁ!」

「本心だモン」

「……そんくらい、心理掌握じゃなくたって読めるってぇの」

「ふぅん、そうなのぉ? だったらぁ――」

「……うん?」


「私がいま何を望んでいるのか、当ててごらんなさぁい?」

120 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 12:49:56.61 neRcrv+W0 698/711


「望んでいる、か。って……お、おい」


気づけば先ほどよりも食蜂の顔との距離が、大分縮まっている。
目を軽く瞑ってみせているのは、明らかな誘導か。


(い、いや、でもこれは。……い、いいのかな)


上条の腕が彷徨うように、躊躇いがちに、食蜂の肩の上に触れる。
食蜂の腕が上条と自分の胸の間でぴくりと動いた。
が、徐々に近づいていく体を押し返そうとまではしない。


「せ、正解でせうか?」

「……そこで確認しちゃう辺りが、デリカシーの欠如力の表れよねぇ」

「悪い、慣れてねえんだ」

「それって平たく失礼、私が慣れてるとでも言うのぉ?」

121 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 12:56:12.66 neRcrv+W0 699/711


憎まれ口を叩き合いながらも、二人の距離が縮まっていく。

ごくり、と唾を飲み干す音が重なった。
重なったということは、つまり。


「……ぅ」


食蜂もしっかり緊張しているわけで。
それでも、あぁいう行動に出たということは、つまり覚悟完了ということで。



「…………食蜂」


「……あ……か、上条さん」



互いの腕がゆっくりとすれ違い、相手の背中に回される。

そして――











「公共の施設内でよくもまぁベタベタできるものだねぇ」




音速で遠ざかった。

123 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 13:10:30.05 neRcrv+W0 700/711


「見舞いに来てみればいやはや、真昼間から逢引きとは。
盛りの付いた猿の番だってそこまで不心得じゃないだろうに」

「ス、ステイル!?」

長身の少年がかったるそうにドアに寄りかかりながら、煙草を吹かす様に息を継ぐ。

「つーかてめぇ! 言い方ってもんがあんだろ! 俺はともかく食蜂に失礼だろが!」

「……にしても、時と場所くらいは選ぶべきかと」

ステイルのさらに後方から、冷ややかな声が追随する。
ゆらめく長めのポニーテールと日本刀が、魔術師の黒衣に横並ぶ。

「か、神裂も来てたのか!? い、いや、これは! その、何だ!」

「少女を病室に連れ込んで接吻を交わそうなどと、……見損ないましたよ、上条当麻」

軽蔑を絵に描いたようなその眼差しに、上条が必死に弁解。

「い、いや、だからそれは、何つうかだな! その、雰囲気的にっつうか!」

「あー、ひっどーぉい! 上条さんったら雰囲気で私のファーストキス奪おうとしたのぉッ!?」

「だぁあぁっ! もう、不幸だ―ーっ!」


ここが病室であることも忘れ、上条がぐしゃぐしゃと髪の毛を掻き乱しながら天に向かって叫ぶ。

124 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 13:14:38.45 neRcrv+W0 701/711


「……って、ステイル。その腕の包帯、どうしたんだ? どっかで転んだのか?」

悪気なさげな上条の問いかけに、ぴくり、とステイルの額に青筋が立った。

「何を、すっとぼけたことを言ってくれてるのかな? 誰のせいだと思ってるんだい?」

「…………へ?」

上条が不思議そうに、中途半端に曲げた指先を自分に向けてみる。

「そうだ君だよ! 君のせいだ! 考えなしに暴走しやがったおかげでこっちの魔力はすっからかんだ! 本当、散々な目に遭ったんだぞ!」

「あ、そ、そーいやそっちもかなり大変だったらしいな。いや、マジ、感謝してるって」

「……ッ、君のその薄っぺらい礼のために魔術が使えなくなったかと思うと
虫唾が走るなんて表現じゃとても足りないな」

「……え、マジで? お前もうイノケンティウスとか出せねえの?
 どうすんだよ、炎の魔術師とかもう名乗れねえじゃ――――って、ジョークだって! んなマジになんなって!」

見舞いの花が活けられている花瓶に手を添えたステイルを、上条が大慌てで制止する。

「最大教主はおそらく一過性のものだと仰っていましたが、いつ回復するか何とも言えませんので。
我々は明日イギリスへ発ちます」

「そ、そっか。なんか悪かったな。二人とも行ったり来たりで、俺のために無理させちまって」

「断じて君のためじゃない! 僕はあくまで禁書目録に――」


「へぇ。あなたさっきの銀髪の子が好きなんだぁ?」

「だからそうだと――なっ!」


不機嫌そうな声色にステイルが勢い頷きかけ、次いでその顔色がはっきりと変わった。

125 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 13:19:14.16 neRcrv+W0 702/711


「それで一緒に住んでる上条さんにヤキモチ焼いて八つ当たりぃ? なんて言うか、女々しいわねぇ」

なおも言葉を差し挟む食蜂に、ステイルのみならず、隣にいる神裂の顔までも強張った。

「なんっ、ななっなに、何をッ!」

「こ、こらこら! お前また能力を――」

上条の窘めを手のひらで制し、しどろもどろになっているステイルを見据えながら、食蜂が悪戯っぽく笑う。

「人の恋路に抵抗力発揮してる暇があるんならぁ、
意中の子に気の利いた言葉の一つでもかけてあげたほうが建設力マシマシよぉ?」

「……くっ、ふ、ふふ、不愉快だ! 失礼する!」

ドアを強かに壁に打ち付け、ステイルが踵を鳴らして部屋から遠ざかっていく。

「お、お前なぁ……」

「乱暴な人ねぇ。なんだか、興を削がれちゃったわぁ」

「え……あ、あぁ、そうだな。……と、いつの間にか神裂のやつまで消えちまってるし。
何でぇ、あいつまで出て行くことねえのに」

「………………上条さんって」

「あぁ、うん?」


「本っ当に、乙女心がわかっていないのねぇ」

126 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 13:21:45.18 neRcrv+W0 703/711


「……へ? 何のこと?」

「……さてねぇ、何のことかしらぁ」

何も気づいてなさそうな上条を見、食蜂がため息をつきながらポーチの紐に肩を通す。

「それじゃ、名残惜しいけど今日のところは退散するわぁ。これから能力判定なの」

「あ、そ、そか」

「あらあらぁ? さっきの続きをご所望かしらぁ?」

満更でもなさそうに、食蜂が唇に人差し指を当てて微笑む。

「……いや、元気になってからでいい。時間はたっぷりあるしな」

「……ん。そう、ね」

「あ、そうだ」

一つ、肝心なことを聞き忘れていたことに気づく。

「お前、これからも常盤台にいられるんだよな?」

127 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 13:23:39.76 neRcrv+W0 704/711


「そうらしいけど、寮は出るつもりよぉ」

「え、どうして」

「渦中の人になっちゃった以上、このまま居座り続けてもストレス溜まりそうだしねぇ」

「あー……そうか」

言われてみれば、その問題が残っていた。
学園都市が誇るレベル5の拉致監禁となればセンセーショナルといって大袈裟ではない。
いくら奪還されたとはいっても、少なくとも当面、噂の的になることは避けられないだろう。

「むしろ、その程度で済んでよかったわぁ。あなたのおかげね」

「みんなの、だろ。それはそれとして、行くアテはあんのか?」

「しばらくは布束先輩のお宅にお邪魔するつもり。さっき本人の了解も取ったし、後のことは、それから」

「あぁ、あの人な。ならまぁ、とりあえず一件落着か」

先輩オーラを纏った少女を思い浮かべ、上条が独りごちる。

「居候の子が立ち退くまでは、同棲ってわけにもいかないものねぇ」

「……え?」

「ううん、なんでも」

128 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 13:33:13.19 neRcrv+W0 705/711


首を振った食蜂がドアのほうを向きかけ

「あっ、いけない。忘れ物しちゃった」

そう言った。

「え、忘れ物? どこに――――」

ベッドサイドを見ようと身を乗り出した上条の頬に


「ん☆」


柔らかいものが強く押し当てられた。


「――――へ」


ちゅるん、と。
離れ際、舌をしまう音が耳の奥を叩く。


「――ということでぇ、今回はほっぺで勘弁してあげる」

129 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 13:37:17.70 neRcrv+W0 706/711


微妙に向きを変えた食蜂の顔は、耳まで赤く染まっている。


何かを言わねばと思う上条だったが



「今度こそ、ちゃあんと、唾つけたわよぉ?」



今まで目にしたことのない、そのとろけるような、崩れるような微笑みに、一切の言葉を失う。


「あ、の。そ、それじゃあ」


そして、時間差で気恥ずかしさがやってきたのか、


「上条さん、お、お大事にぃ!」


食蜂がばっと顔を両手で覆い隠し、脇目も振らずに病室から走り去る。



「……あ、あれ? これって、夢じゃねえだろうな」



一人病室に残された上条は、パッションピンクのキス跡が残る頬を、指で何度となく抓むのだった。

130 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 13:39:41.12 neRcrv+W0 707/711


――???


『どうやら、覚醒が近いみたいね』


海の底から陽光煌めく水面を見上げるように、目の前に浮かぶ裸の少女を見つめる。


「……次に目覚めたときには、あなたは消えちゃっているのよねぇ?」

『今の私だって、記憶の残滓を寄せ集めたものに過ぎないわ。こうしてやり取り出来るのも、あと数分が限度よぉ』

「…………そう」

『落ち込んでいるの? 気にすることないんじゃない? 元々存在しなかった人格なんだし』

「そう簡単に割り切れるものじゃないわよぉ。あなたは、私の都合で生み出したんだもの」

『でもぉ、上条さんの気持ち次第では本体が消える可能性だってあったわけだしぃ?
何より、この先もっともっといっぱい、辛いことが待っているかもしれないじゃない?』

「い、嫌なこと言うわねぇ」

『だって、それが私で、あなただもの』

そう開き直られれば返す言葉もない。
この性格は、きっと、死ぬまで矯正不可能だろう。

131 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 13:43:05.11 neRcrv+W0 708/711


『ホント、我ながらあなたってばどうしようもない女だけど』

「だけど?」

『男を見る目だけは、確かだったみたいね』

「そう、ねぇ。それだけは、きちんと誇れそうだわぁ」


全ての記憶が一致した瞬間。
傷だらけの上条を目にして、それだけで心が満たされてしまった。
目の前にある彼の見るに堪えない姿が、心を読めない彼の心を、どんな言葉より雄弁に物語っていた。
あたかも心理掌握を用いたときのように。


胸に去来したのは一つの確信。

彼は自分を裏切らない、ではなく。

彼に裏切られたのなら、諦められる。

彼は裏切ってさえ、自分の味方でいてくれる。

そんな絶対的な確信。


今もって自分の目的が達成されたわけではない。
学園都市の暗闇はなお深く、奈辺にまで光を届かせるには、危ない橋を渡らねばならない。
それでも、もうこれまでのように、骨を断たせて骨を断つような真似はできそうになかった。

たとえ奈落の淵に身を躍らせようと、きっとあの人は、我が身を省みず助けに来てしまうだろうから。

132 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 13:49:08.68 neRcrv+W0 709/711

食蜂操祈は心から願う。
自分が慕うあの少年に。
上条当麻に、幸せになってほしいと。

そして、しかし厄介なことに、そうするためには――


『そうよぉ。幸せなあの人に寄り添うには、まず私自分が幸せにならなきゃダメなのよねぇ』


頭上でたゆたう語りかけに、無言で頷き返す。

幼い時分、彼に聞いた恩送りという言葉の意味を反芻しながら。

不幸が日常茶飯事の学園都市で、それがどれだけ難しいかを自らの心に戒めながら。


眼光の強さに理解を読み取ったのか、もう一人の私がゆっくりと目を閉じる。


『それじゃ、最後に私らしく勝ち惜しみを告げて、お別れといきましょう』

「……勝ち惜しみ?」

133 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 13:56:24.15 neRcrv+W0 710/711


総括するように、もう一人の食蜂操祈(わたし)が告げる。

『上条さんは遠からず後悔することになるわぁ。消えゆく者としては、そこだけが悔やまれるのよねぇ』

「は、はぁ? 何でそんなことになるワケ?」

『だってぇ、あなたが私より魅力的かつ積極力のある食蜂操祈を演技(やれ)るはずがないじゃない?』

聞き捨てならない暴言を。


「ハァーーー? ほざいたわねぇっ!? その台詞、いつか必ず撤回させてやるんだからぁ!」


『ふふぅん? できるのかしらぁ?』


「余裕ですしぃー! 今に見てなさぁい!? 私の全女子力を総動員して、あの人に何べんだって――」


声高らかに主張する私を、炊きつけたもう一人の私が冷めた目で見下ろす。

未だ根強く残る彼への依存心、そこから派生する嫉妬や浅ましささえ、彼女には全てお見通しなのだろう。

何しろ彼女は、私自身だ。


それでも、光の粒に呑まれるその間際、彼女は――


『あなたには過ぎた願いねぇ。まぁ、せいぜい頑張りなさぁい』


何かを託し終えたかのように、微笑んでいた。

134 : 乾杯 ◆ziwzYr641k - 2014/06/12 14:01:13.26 neRcrv+W0 711/711

これにて本編完結です
心理掌握と聞いて二重人格がぴたりと思い浮かびました。

沢山の乙と支援、ご指摘やレスに感謝を
合わせて、昨年エタりかけた>>1の愚かさをひらにお詫びします

文章量多かった割に区切ったら100レスに全然届かなかったよ!

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